小学生を教えている先生の代打で、算数を教える。ついに4科目。
教えた範囲は逆比と立体図形。逆比はxなどのパラメータを使わないで、計算だけで2つのものの比を出す。
立体図形は知能テストっぽく積まれた立方体の数を把握して全体の体積と表面積を求める問題が中心。1週間前からプリントをもらって予習していたのだが、都会の子どもはこんなんやるんか、と目からウロコ。
中学生以上で習う解き方のほうが簡単に思えるのだが、学習指導要領だかなんだかでやらないように決まっているのか、
明らかに高度な問題をまわりくどく解いていく不思議。中学受験、おそるべし。こんなんやってりゃ、そりゃあマセるわ。立体図形を教えていて気がついたのは、小学生どもは立体の見取り図を描くのが苦手らしいことだ。
3次元のものを2次元で表したときどういうふうに見えるのか、が自力ではなかなかうまく表現できないみたい。
これは小学生の知能の発達度合いがそんなもんなのか、空間把握能力が並だとそんなもんなのか。
「おいおい、そんなんじゃ建築家になれねーぞ」って言ったら「そんなの、ならないよー」と返される。
思わず反射的に「なれよ!」と口走っていた。建築バンザイ。
研究室で鍋。おいしい。たくさん取ったらマークされた。どうせ食いきれなくて、残りを処理するのはオレなのに……。
伊藤智仁が引退した。
ルーキーシーズンに規定投球回数に到達しなかったことが、僕は今でも悔しくてしょうがない。
よく「記憶に残る選手」というけど、その記憶が記録に刻みつけられないで風化することが、悔しくてしょうがない。
『スペーストラベラーズ』も借りてきていたので、見る。
途中で本気でムカついてPS2の電源を落としそうになるが、なんとか理性でこらえる。本広克行は無能だ。これを見ただけで、『踊る大捜査線』の映画がつまらないことがわかる。
制作サイドはこれをよく恥ずかしげもなく宣伝できたものだ。むしろ、その面の皮の厚さがうらやましい。
誰もがつまらないと思う作品を平気で世に出せるフジテレビには、ドラマをつくるセンスがない。
『踊る大捜査線』のTVシリーズをぜひ見なければと思う。気合を入れて見なければと思う。
このドラマは世間の人気に見合う内容になっているのか? それとも、映画というメディアが悪いのか?
映画というメディアにもはや死しか感じない人間としては、それを考えずにはいられない。
『たそがれ清兵衛』をDVDで見る。めちゃくちゃ評判になっていたので、今さらながら。
時代劇ではあるが、扱われているテーマは現代のもの。というより、普遍的なものと言うべきか。
江戸末期という時代を通して、現代でも話題になっている問題を取りあげている。まずここでうならされる。
僕は正直山田洋次監督をナメていて、決まったパターンを踏襲してりゃ売れるもんなあ、なんて思っていたのだが、
そういう古典になってしまうものを創り上げる能力、というものをあらためて突きつけられた感じを受けた。
とにかく丁寧。順を踏んで、誰もが理解できるように、ソツなく話を積み上げていく。
清兵衛が藩命を果たすために家を出た後、朋江がボケた清兵衛の母親にあなたは誰かと尋ねられるシーンがある。
このタイミングでこのシーンが入ることで別れが強調され、決闘に向けて話が引き締まる。こういうところが巧い。
どうすれば作品づくりにおいて広い支持を集めることができるのか、それを考えるには最高の教材だ。
これを繰り返し何度も真剣に見れば、話をつくる技術が間違いなく上達すると思う。ただ、あのラストは問題だよなあ。
『underworld 1992-2002』を購入。潤平が「有名なのばっかだよ」とオススメしていたので。
実際に聴いてみて、1曲の長さにちょっと驚く。聴くのが目的というよりもBGMが目的という印象。
確かに悪くはないが、The Chemical Brothersほどキャッチーではないので本当にBGMとしてしか聴かなさそう。
逆を言えば、聴きながら作業するにはけっこういい。聴いていても意外と疲れないし。
個人的な好みとしては、『Rez』が高く評価されているのがイマイチわからない。可もなく不可もない曲だ。
それに対して『Two Months Off』はヘヴィローテーション。ボーッと聴いていると最高に心地よい。
全体を通して、Underworldは聴き込んでいくとまた違う面が見える音楽かもしれない、と思う。
ただ、聴き込むにはどの曲も長すぎるので、自分がその境地に到達できるかどうかは、正直かなり難しそうだ。(後日、潤平から「オレがすすめたのはケミカルのベストだ」という訂正の指摘を受けましたが、
両者勘違いをした結果として僕がUnderworldを買ったので、両成敗ということでなんとなくそのままログを残します。)
もし、未来の人々や宇宙人向けの図鑑に現代の日本人を載せるとする。そのサンプルになるのは誰だろうか?
この疑問を考えたとき、自分としては、♀では仲間由紀恵が図鑑っぽい、と思う。これは自信がある。
♂については難しいところだ。妻夫木聡がいいセンいっているが、♀の仲間とは釣り合わない感は否めない。
まあ、しょせん♂は♀に勝てない、といったところか。悔しい。
身体障害者施設のアート化プロジェクトが再開された。自分は中庭の改造担当に振り分けられた。
中庭は今まで良く言えば花壇、悪く言えば放置の状態にあったのだが、夏休み中にデッキがつくられた。
ただ、そのデッキは中庭全体の1/4程度の面積しかなく、段差の問題もあって十分に利用されていない。
そこでスロープで通路と直接つなげて、デッキを全体の半分まで拡張してベンチも設置しよう、ということになった。話し合いの段階ではどこまでできるかわからなくて、けっこう狭い範囲での活動に終わりそうだったのだが、
施設長さんと研修に来ていた方が土木・木工が専門ということで、あれよあれよと話が進んでいく。
熱き男のモノづくり精神に火がついてしまったようで、ウキウキしてるのが見て取れる。親近感。
やっぱいくつになっても男のつくりたがりは変わらないんだなあ、と思って、こっちまで楽しくなってしまった。
僕の修論のテーマはいちおう、府中市の行政組織と公共施設の関係、である。
が、調べている間にいろいろ寄り道をしたおかげで、論文の本筋以外のこと(PFI)についてもそれなりに知識がついた。
で、それを修論のテーマに決めた後輩から個ゼミにつきあってほしい、と頼まれたので、参加する。
いっぺん修論を書いちゃうと、論文を書く理想と現実、自分の興味と他人(ゼミのメンバー、先生方)の興味、
それぞれの齟齬が客観的に見えてきて面白い。面白い、と言えてしまうのは喉元を過ぎたから。
ともかく、気持ちはわかるけどそこをなんとかお互い歩み寄らんといかんよ、という境界線がぼんやり見えてくる。それはゼミでも同じ。
発表を聞いていると、前はまったく理解できなかった良い発表と悪い発表の違いをなんとなく感じられるのだ。
ただ、一橋にいた頃から変わっていない根幹の部分が自分にはあって、これは今後も持ち続けるだろうと思う。
それは「現場の話を聞いてきた分だけ、自分の話も面白くなる」ということ。これだけは少しもブレない。
できるだけたくさん現場の話を聞いて、一定の様式にのっとったフィクションをノンフィクションっぽく組み立てる。
社会学的な、フィクションでいいやという“あきらめ”が通用しない点が、個人的に引っかかる論文の難しさ。
人それぞれの得意・不得意も垣間見えて、そこもまた、喉元過ぎた的に面白いところだ。で、ゼミが終わった後は、飲み。年上の少ない環境の方がのびのびできる自分が、なんか恥ずかしい。
天才・オーソン=ウェルズ先生が『市民ケーン』を撮ったのは、25歳のときだったそうだ。
そんなわけで25歳の最後の日、その『市民ケーン』のビデオを借りてきて、見ることにした。イントロのケーンの死、そして記者の取材を入り口にした回想で物語は進んでいく。
驚くほどテンポがよく、わかりやすい。観客は提示されたその断片を想像でつないでいくことになるのだが、
きわめて丁寧につくってあるので、どこがどういう関係だったのかが見ているうちにすぐ理解できるのだ。
カメラはほとんど動かない。必要な情報を必要なだけ映すと次に切り替わる。
それが過不足なく、バランスがいい。テンポのよさにつながっているのだ。飽きさせない。
ラストではすべての謎が観客にのみ明かされる。しかしそれは物語の中では誰にも知られることなく、
なにごともなかったように歴史は続いていく。真実を求める人の汗(湿り気)とリアルの乾き。見終わって、なんと言えばいいのか、天才はレヴェルが違うということをイヤというほど思い知らされた。
演じるウェルズの圧倒的な存在感。そこに存在することの厚み、迫力がすでに違うのだ。
そしてラストで「人生をまとめる一言なんてあるものか」と言い切ってしまう事実。25歳なのに、この説得力。
自分なんかよりも何倍も厚い時間を生きていて、それでも若さは失われていない。
同じ人間なのか、恐ろしさすら感じる。ビデオを巻き戻している間、笑いがこみ上げてきた。あまりに違いすぎて。
それでも背伸びした自分の背丈と比べることで、少しは爪の垢をもらえたかな、と信じてみる。
何歳になるかわからないけど、25歳のウェルズの影を踏むために。
中島美嘉が本気でむちゃくちゃ史上最大にカンペキに絶対的に、大っ嫌い。もう言葉で言い表せないくらい嫌い。
あのツラも気に食わないのだが、何が許せないって、とにかくあの声。歌声とは言わない。歌じゃないから。
たとえば店内のBGMとして流れているとする。即、店を出る。食事していたとしても。それくらい耐えられないのだ。
あの音波が耳に入っても平然としていられる人が信じられない。音感ゼロなんじゃないかって、本気で思う。
2秒とガマンできない。自分の中の音楽についてのセンスがすべて狂わされる。
あの音波をこれ以上野放しにするのは、危険だ。政府は即刻、中島美嘉を非合法化すべきだ。
これを提案してくれた政党には、どこであれ喜んで入党するよ、オレ。
数学。解くのが本気で面倒くさいよう。
塾の研修。なんとかがんばって朝起きて、自転車で池上へ。
今回の研修は3本立てで、まず「生徒を褒める/叱るポイントについて」。
自分は怒ることがまったくできず、なんとかして褒めてもっていくタイプ。それなりに参考になる。
その次は「進路指導のポイント」。都立高校でもいいところに行くのはとっても大変なのだ、と実感。
最後に「各科目での指導内容について」。国語で参加したのだが、研修のわりにはなんだかユルい。
でもその分リラックスして話を聞くことができたので、そういうユルさも必要なんだな、と思う。帰りに近所のこだわりラーメン屋で食べる。支那そば風で確かに旨いが、値段は高い。
近くでボヤがあって、食っている最中に店ごと消防隊に封鎖されてしまった。ものすごく貴重な体験だ!
中3作文の添削がだいぶ楽になってきている。
それはつまり、直すところが少なくなってきたということで、歓迎すべき事態なのである。
慣れてくると基本的な書式・原稿用紙の使い方のミスは減ってきて(でも送りがなのミスは非常に多い)、
かわりに段落ごとに求められている内容をきちんと押さえているかどうかが最大のポイントになってくる。
つまり、出題者の要求にかなったことを書けているかどうか。空気が読めているかどうかと言ってもいい。
採点しながら、これはけっこういろんなことに通じるなあ、なんて素直に思う。他山の石。学ぶべきことはなかなか多い。
金曜日は休日感覚、とは前にも書いたとおりである(→2003.10.10)。
ではその休日にやることといえばなんだろうか、と考えてみる。
基本的には音楽を聴いて自転車をこいで、行った先で本を読んでみる、ということが多い。
もう少しモノをつくる方に力を入れた方が健全なのだが、どうもまだ身体は雌伏期間を望んでいるみたい。
あともうちょっとだけガマンしてみようと思う。今の自分に必要なのは養分だと信じて。
ゼミ。人数が少ないと、こうも自分はマジメになるのか、なんて思う。
自分はどうも人に甘えたところがあって、昔っから「ああ大丈夫だ」と思うと、とことん他人に頼る傾向がある。
人数が少なく、上から数えて3番目ということで、今のゼミはとても甘えられない状況になっている。
もっと積極的に責任を抱え込んでいくようになんないとダメだなあ、と自覚。
「カゴメデリ」のCMに出てくるねーちゃん、なんかかわいいな。
相変わらず腰の状態がキツい。タオルがあれば気にならないが、ないと本当に動きが悪くなる。歳のせいとは思いたくない。
昨日の続きで、午後に集まって再びアイデアを出しまくる。
タオルを1枚腰に巻いたら痛みはほとんど消えた。おかげで、アイデアを出すのも好調。
それにしても人間の頭ってのは面白いもので、3人以上になると飛躍的に発想が広がる。
「こことここがつながるから、こういうことができる」という部分が格段に見えてくるようになるのだ。
もちろんそれはカンのいい人たちと話しているから成立することで、
そういう意味では、つねに仲間に恵まれる人生を歩んでいるのは間違いない。なんてふと思った。
ちょっとした企画を一緒にやる仲間と4人で集まり、新宿で飲む。
といっても、酒を飲んで陽気にやってたのはほんの2時間ほどで、それ以降は徹夜で真剣に話し合い。
ものすごい密度の濃い打ち合わせができたのはよかったんだけど、途中から冷えた腰が痛くて痛くて。
いったん家に帰ってぶっ倒れるように眠って、また起きる。
塾では毎月初めにテストがある。授業で解説をするため、毎回担当学年の担当科目については自分で解いている。
毎回100点が取れるのは当然としても、3科目ぜんぶやることになるので、これがなかなか面倒くさい。
特に面倒くさいのが数学。時間を食う問題が必ず入っているし、選択問題もぜんぶ解かないといけない。
これと添削がかぶると地獄を見る。苦しい中、なんとかやりくりをしていくのであった。
塾もゼミもない金曜日は、今の自分には休日なのである。
休みってのは、ぜいたくでいいもんだなあ、なんて実感をしているしだい。
後期のゼミがスタートする。だいたい1人あたり1時間で、3人。いざやってみると、とにかく長い!
だけど、一橋からこっちに来た当初に比べれば明らかにカラダは慣れているのだ。
それに修論を書いたことで、なんとなく以前よりもマシなことをしゃべることができている実感がある。
なんか視界が開けたような感覚。今さらそういういい状態になるってのも遅すぎるのだが、まあ、よしとしよう。
ドラムス。機械の音には違いないんだけど、曲を決めてたたくようになった。
やっぱり、メロディがあるだけで楽しくなる。ノらずにはいられない。身体が動いてしまう。
本当は細かい基礎を考えなくちゃいけない段階なんだけど、まあ、よしとしよう。
塾のミーティング終了後、講師陣全員が校長にステーキをごちそうしてもらう。
思えば5月には寿司を食い損ねたわけで、約束がようやく実現したのである。
食べている間に、専任の先生が前に勤めていた職場の話を聞く。
保険会社だそうだが、そりゃあ辞めるよなあ、と思わずうなずいてしまうくらいに過酷。
本当に人生はいろいろで、価値観もいろいろで、満足のいく答えなんてものは本人が決めるもので、
どれだけ自分のことをわかっているのか、他人のことをわかっているのか、なんて幻想でしかなくて、
それでもなんとかしないといけないところを楽しくやっていければいいのだ、そう素直に思った。
中3の中間テスト対策授業を頼まれる。数学で、訊かれたらそこを教える、という気楽なサービス授業。
テスト範囲は1次関数ということで、用意されたプリントを眺めてみる。
すると中に「物体を真上に投げたとき、t秒後の高さをvt-5tと表す」なんて問題があった。
これはもう、数学というよりは物理の問題。こんなんやるんかー、とちょっと感心。
と同時に、自分は勉強のできる子だったんだなー、なんてぼんやりと実感。
忘れていたことをちょっと思い出せばスンナリ解けるってことは、いまだに勉強ができる子ってことだ。
勉強だけがとりえの人間になりたくない、と思いつつ、突き出たモノがないままここまで来てしまった……。
運悪くサンダルを履いていて、運悪くペダルをこぎ出した瞬間にギアが空回りして、
アスファルトで思い切り足の指を擦りむいてしまう。やっぱり左足(→2003.9.15)。
ちょうど第一関節のところで、肉が削れてしまっている。足の指が曲げられない苦しみ。
こういうケガが多すぎる。なんとかならんもんか。
作文講座。今週は定型文ということで、時候の挨拶や手紙の書き方を教える。
内容はもう、就職活動そのもの。ここに来てもそれかよ……ってな気分だ。
作文講座、毎月最終週は業者が添削をすることになっている。
自分がやらないで済むのは、本当に気が楽だ。自由ってステキって、心の底から思う。
研究室で机を移動した。メンバーの半分近くが留学しているので、使わない机がいっぱい。ちょっとセンチになる。
自分の席は以前に比べると奥まった位置に移った。おかげで、光の入りが悪く、やや暗め。
でも卒業している自分に机があるだけでも奇跡なのである。本棚を整理しつつ、音楽を聴きつつ、ネットサーフィン。
『火の鳥』(→2003.9.4)が本当にすごすぎる。毎晩寝る前に読んでいるのだが、完全に睡眠時間に悪影響が出ている。
でもちっとも後悔はしていない。それだけ時間を忘れて引き込ませる作品、仕方がないのだ。
これをまとめて買った潤平は、さすがいい買い物したなあと思うのであった。