曙VSボブ=サップを通していろいろと考察してみる。
まず、曙VSボブ=サップがあれだけ盛り上がった件について。
結局日本人はどっちも好きだから、どっちもいい人だってわかっているから、悲壮な思いを胸に見ていたと思う。
「どっちもがんばれ!」って。こういうどうしょうもなくって本当はイヤで、でもやるしかないって感覚は久しぶり。
だからあの瞬間は、チャンネルをTBSに回さざるをえなかった。なんだか、切ない気持ちで。それにしてもここ最近の格闘技ブームの勢いには驚かされる。冷静に原因を探ってみたのだが、思い当たったのは2点。
ひとつには、キン肉マン世代が企画を任される年代に至ったということ。
もうひとつは、『ストリートファイターII』以来のヴァーチャルケンカ感覚の流れだ。「K-1とかPRIDEで、日本人は日本人ファイターを応援しないんだよね」
友人と話していて出たテーマ。僕はそのとき、“マイキャラ感覚”という定義をしてみた。
ゲームやマンガの感覚。お気に入りのキャラクターを選択するという感覚。
格闘技でリングに上がるファイターにはさまざまな属性が存在している。流派、人間関係など。
その属性の中で、国籍とは非常に小さなものだ。血液型ほどの意味もない。
キン肉マンに正義超人、悪魔超人というカテゴライズはあっても、国籍はないに等しかった。
問題はジェロニモが直面したのと同じで、人間なのか超人なのかということ。
超人ってのは戦うための存在として登録されたキャラクターだと考えれば、話はスムーズだ。
つまり現代の格闘技のファイターとは、観客の好みによって選ばれたキャラクターなのだ。
国籍なんかに縛られない、自分が理想とする身体のぶつかり合い。本質は、そこにある。さて、そう考えるとプロレスのショーマンシップは高度に洗練されている、という議論に戻る。
格闘技はキャラクターの演じるゲーム(それは「試合」とも訳せる言葉だ)であるわけだから、
そのキャラクターが興行の人気を決める生命線となる。つまり、演出の技術が問われてくるのだ。
格闘技の中継を見ていても、やはりプロレス出身のファイターは、その点、見ていて面白い。
この格闘技ブームが加熱していった先、強いヤツを決める価値はどうなっていくのだろう。
WWEみたいに割り切ってしまえば、プロレスは観客を魅せるためのショウとして復権するはずだ。
そういう意味で、やっぱり、プロレス最強説は間違っていない。
塾が正月休みなので、実家に帰る。
予約していたバスには乗り遅れる。午前中に起きるなんて、ムリムリ。
で、実家ではひたすらエレキドラムをたたく。狂ったようにたたく。
M-1グランプリ。フットボールアワーの優勝に特に異論はない。しょうがないでしょう、こりゃあ。
個人的にはアンタッチャブル(特に山崎)が期待以上のパフォーマンスを見せてくれてよかった。笑い飯が気に食わない点について。理由は単純で、客席を見て芝居していないから。
お前らふたりだけで楽しんでるんじゃないの、と、ついていけない違和感を覚えた。
発想が飛んでいるとかそういうレベルではなくて、すごく基本的なことができていないのでは。
(もっとも、きちんと相手の目を見て話すということについては、人のふり見て……なんだけど。)
オトナになるとクリスマスから年末にかけては全然特別な期間って感じがしなくて、
いつもとまったく同じスピードで毎日が過ぎていく。でもメディアは特別って煽っている。
なんともつまんないなあ、と思いつつ、そんなもんか、と思いつつ。
TBSで夜中に流れている『All Day and All of the Night』があまりに良かったので、
The Kinksのベスト盤を借りてきた。これと『You Really Got Me』さえあればいいんだけど。
聴いていると、独特のファズの向こうでなんとなくビートルズの匂いがしないでもない。
どこら辺が、と訊かれれば答えられないんだけど。強いて言えばコーラスのつくり方か。
にしても、『All Day and All of the Night』の「all」の使い方が本場だなあ、と思う。
形容詞と名詞ってレベルでもそうだし、言葉のニュアンスでもそうだし。
冬期講習スタート。初日は数学。連立方程式の文章題を復習する。
復習ということもあってか、いつもより1時間長いのに集中力が切れない。
途中で体調を崩すヤツも出てきたけど、それでも「勉強したいんです!」という意欲が伝わってくる。
そんなわけで非常に充実した時間を過ごすことができた。いつもこうならいいのに。
塾で保護者面談。神経を集中して、お金払ってくれている相手と話すってのは本当に疲れる。クタクタ。
NHKのドラマ、『ラストプレゼント』を見る虚しいクリスマスイヴ。
なっち主演で、共演が石川梨華。あと嶋田久作と小日向文世が脇を固める。ハンディカメラで撮った粗い画像をねじ込むのが、演出としてうまく効いている。
一人称/風景、演技/プライヴェイト。考えるきっかけになりそうでなかなか面白い。
なっちの演技は安心して見られるし、ハイテンションで極端な石川は楽しい。キャスティングもいい。
確かに話の中身はいかにもNHKって匂いはする。でもどこかちょっとキレてる感じ。悪くない。
予算や時間の制約か、こぢんまりとしているんだけど、完成度は意外と高くて素直に満足した。
それまで友人だと思っていた人から大いに嫌われた。事件の発端は確かに僕にあるが、勝手にこじらせたのは向こう。
もともとこちらは初めて会ったときから「この人とはそう遠くない将来、大きな齟齬が発生するだろう」という予感がしていた。
ただ、それが予想よりもずっと早かった。発端はこちらにあるので申し訳なく思ったのだけど、和解する気は薄れる一方。
冷静になればなるほど、これ以上関わってもこっちが損をするだけだなという確信は、より具体的なものになってきた。
だからもう、すべてを放っておくことにした。世の中には接点を切った方がいい関係もあるんだな、と勉強させてもらいました。
「『積』ってなんですか?」「『偶数』ってなんですか?」
さすがの“仏のマツシマ先生”もキレそうになった瞬間。
確かにお金もらってるけどさ、連中のだらしない部分までこっちの責任にされちゃたまらんよ。
『踊る大捜査線』の後半戦(6~11話)を見る(前半戦についてのログはこちら →2003.12.12)。
君塚良一は世間的には「すげーすげー」と扱われているみたいだけど、全然ピンとこない。
室井監理官の応援に出かけた恩田刑事が次のシーンでは湾岸署で電話に出ているなど、矛盾がいっぱい。
それでもラストで刑事全員で拳銃を突きつける見せ場をつくってる点は、やはりさすがなのか。作品を見て勉強する、参考にするものを探す、という観点からすれば、
『踊る大捜査線』から学ぶべきものは何ひとつない。本当に何ひとつない。
逆を言えば、完全に消費すべき娯楽として特化したドラマ、と表現できるのかもしれないが。ちなみに、個人的にこのドラマで一番好きなのは佐戸井けん太。いやー、いいわー。
面談などでほぼ一日中塾にいた。
仕事だからしょうがないんだけど、こうやって囲われたまま、暮れていく太陽を見るのはむなしい。
この日記の更新状況が悪くなっている原因をいろいろと考えてみたのだが、
どうも「しゃべりすぎることに対する嫌悪感」があるのではないかと思う。
他人のサイトの日記でしゃべりすぎているのを目にすると、なんとも言えない気持ち悪さを感じる。
自分の場合は身近な人への生存報告を目的としているのでそれと同列に捉えなくてもいいはずなのだが、
救われない言葉を流し続けることにかわりはない。やはり、根源的には一緒なのだ。
すべての環境を変えてしまいたいなあ、と思う今日この頃。
『マンハッタンラブストーリー』最終回。
今回のクドカンはあまり面白くなかった。確かに船越や忍くんの正体にはやられた。
でも恋愛を物語の主軸に据えた瞬間、なぜかいつもの躍動感が噛み合わなくなるのだ。
今回に限っては、細かいマニアックなギャグも空回りしている印象があったし。
これはいったいなんなんだろう。真正面から恋愛を扱う気恥ずかしさが原因なんだろうか。
難しい問題と簡単な問題。これがなかなか難しい。
英語のクラスは非常にデキがよろしくて、簡単な問題はほとんど落とさないで解けるのが大半。
しかしちょっと発展の要素が混じると、せっかく覚えていた基本ルールを忘れてしまうヤツがいる。
そうかと思うと、簡単な問題も難しい問題も7割くらいで正答率が変わらないヤツもいる。
逆に、むしろ難しい問題のときにこそ、隠し持っているセンスを存分に発揮してみせるヤツもいる。
英語の学校教育を終えた人間からすれば、基本ルールを覚え込めばオールオッケーだと思うのだが、
青春まっただ中の皆さんはそう簡単にはいかないようだ。難しい。けど、面白い。
中1にクソガキがいる。ひとりじゃ何もできないくせに、ツレがいるときだけ生意気な態度をとってくる。
本気で殴ってやろうかと思ったが、コストが合わないのでガマンする。
と同時に、そういうくだらない人間に自分がなっていないように気をつける。
数学のクラスの授業。本当にできない。
とにかく、しゃべる。授業に参加することとはしゃべることだ、と勘違いしているんじゃないのか。
面倒くさがっている奴は絶対に勉強ができない、ということで、いい反面教師ではある。
トヨタカップ。ACミラン×ボカ・ジュニアーズをテレビで見る。
オジサマ揃いのACミランは足が止まっちゃうし、ボカの若手もなんだか冴えない印象だった。
素人目にも、もうちょいなんとかならんかなあ、と思った試合展開でした。
ヤケド1周年(→2002.12.12)。皮膚のつっぱる感覚はもうなくなったけど、やっぱり痕は残った。
まあ、別に気にしていませんけど。ちょっとした珍しいマークだと思えばいいっしょー。
『踊る大捜査線』のビデオを借りてきて見る。とりあえず前半5話分。以下、見て感じたことをまとめてみる。
たとえば誰かがしゃべっているとき、何もしないで突っ立って見ている役者があまりに多い。
フジテレビのドラマ全体に言えることだが、しゃべっている主人公を特別扱いしすぎるのが気になる。
これは編集して番宣CMをつくりやすくしているため、と考えられる。必ずどこかに決めゼリフを入れておいて、
15秒の番宣CMではそこだけ見せるという手法。だからドラマの流れとしては不自然なセリフが多すぎる。
全体と部分がつながっていないシーンがとても多い。力の入ったCMっぽいシーンと手抜きのつなぎが交互にくる。時間の感覚もかなり粗い。あるシーンから次のシーンに移るときの時間経過、
その間に何があったのかを観客に想像させない。あるいは、その合間の時間の存在を考えてつくっていない。
(特に第2話がひどかった。あんなでかい荷物を長時間無視してほったらかしておくものか。)
粗探しと言われるかもしれないが、むしろこういった不自然さに気づかない方が無神経だ。
視聴率というか、商品価値しか考えていない。ドラマが商品以前に「作品」であるという意識が薄いと感じる。『踊る大捜査線』はそういった不自然な部分を、役者の演技力でムリヤリにカヴァーしている印象を受ける。
決めゼリフさえつくれば、あとは役者の力でどうにかつなげてしまえばいいのだ、というフジテレビの乱暴な手法には呆れた。
つまらなくはないのだけれど、大騒ぎするほどは面白くない。視聴者はもっと冷静になっていただきたい。
昼間ずっとNHKを見ていたのだが、日本語の間違いを指摘するコーナーが気に食わない。
正しい日本語なんて、決められてしゃべるもんじゃないだろうと思うのだ。日本文化が長らく基礎としてきた漢文をみればいい。
漢文には、発音が同じならば別の漢字を当ててもいい、という非常にいいかげんなルールがある。
たとえば「ごとし」といったとき、まったく別の字である「如」と「若」が均等に使われるのは、発音が同じだからだ。
言葉の正しさは、使う側にあるという論理。それが本質じゃないのかと考える。
だいいち、そもそも言葉のズレていき方にこそ、社会性があるはずではないのか。正しい日本語を使いましょう、と主張する人間の日本語に生気が感じられないのは気のせいだろうか。
僕は生きている日本語をしゃべりたいし、書きたいと思う。
ただ、正しい日本語を追求したいとは思わないのだが、美しい日本語は使えるようになりたい。
大切なのは、古いものであれ新しいものであれ、言葉の持つ固有の美しさについて敏感になるセンスであるはずだ。
ドラムス。非常に調子がよい。
好調の理由を考えてみる。最大の理由は、名曲に合わせていること。これは以前書いた(→2003.12.3)。最近はレッスン開始時刻の1時間くらい前にスタジオに入ってたたく習慣をつけている。これが効いている。
練習が始まる頃にはある程度疲れていて、それが肩の力が少し抜けた状態をつくっているのだと思う。
また、MDプレーヤーにイヤホンというスタイルで曲を流しながら個人練習をしているのだが、
これが意外な効果を生んでいる。イヤホンをしている分、自分のたたく音が聞こえづらくなっていて、
つまり、このスタイルが自然と大きな音を出させる訓練になっているというわけ。
個人練習をするようになってから、明らかにスネアやハイハットの音が変わってきた。
たたいたときの感触からして違ってきた。今までは「ポン」という、いかにもタイコって感触だった。
最近は「ベシャ」という感触がする。「たたく」だけでなく、微妙に「押す」ニュアンスが増えた。
今まで鬱屈としていた分、解放されて伸びているのが自分でもわかる。いやー、たまりまへんな。
『笑う犬~』が終了。
深夜枠からゴールデンに進出したばかりの頃はわりと好意的に見ていたのだが、最近はひどい状態だった。
特に「カブタン」がイヤだった。コント番組の意地を捨てて視聴者向けのゲームに走るとは。
つくり込んだ笑いを捨てて、その場しのぎのハプニングに頼ること。
末期もいいところといった感じで、いちばん嫌いなパターンに見事にハマっていった。
矢口真里の起用も延命措置なのが見え見えで、明らかに視聴者をバカにした対応だったし。にしても、後釜が『JUNK SPORTS』ってのがいかにもフジテレビだ。
また深夜の充実した番組をゴールデンにもっていってつぶすのだろうか。
メッツに松井稼頭央入団決定だそうで。しかもショートのポジションを確約だそうで。
日本人にメジャーのショートは絶対に守れない。守備を考えるとチームとしては大損だ。個人的な考えだが、メジャーにおけるショートの運動神経にはふたつの要素が必要だ。
ひとつは野球選手の運動神経。つまり純粋な球技のセンス。特に肩の強さは絶対的に必要だ。
そしてもうひとつは体操選手の運動神経。つまり身体を美しくコントロールするセンスだ。
(オジー=スミスは、1回の守備につくときには必ず宙返りのパフォーマンスをしていた!)
リトル松井がこの点で日本人選手としてはトップに位置しているのは間違いない事実だ。
しかし、メジャーでプレーするにはまだ足りないと思われる。アクロバットという意味で。
でも、打撃面では悪くない買い物なのは間違いない。いい一番打者候補になるだろう。
メッツファンとしては、正直微妙なところ。おとなしくセカンドを守ってほしい。
借りたCDの感想。つってもハロプロばっかだけど。
カントリー娘。に紺野と藤本『先輩 ~LOVE AGAIN~』。
前作ハニーパイと比べるとかなり重い。途中の藤本の声なんか特にそう。
個人的に葛根湯にはかなり期待をしているので、この程度では不満。ムリなバラードはやめようよ。後藤真希『原色GAL 派手に行くべ!』。
エア・ギターと超ミニスカというパフォーマンスが非常に印象的な作品。曲もいつもに比べてアレンジが丁寧な印象。
ズラした歌い方がきれいにハマっている。ぜひライヴで目にしたい曲だ。もっと評価されるべき、いいデキになっていると思う。
ショートのごっちんは妙にエロくていい。欲を言えば、もう少しだけぽっちゃりしていてほしいけど。ミニモニ。『CRAZY FOR YOU』。
おこちゃま路線からセクシー路線へと大胆な方向転換をしたわけで、もう戻れないのである。
高橋の声質を考えての方向転換なのかもしれない。辻も加護もパフォーマンスの幅は広い。
どうしてもコドモになりきれない高橋を全面的にフォローするため(彼女は矢口ほど器用でないのだ)、
このような形に落ち着いたと考えるとしっくりくる。なかなか面白い分析ができそうな変化だ。
曲については、サビのラストにおける声の延ばし方がすべて。本当にそれだけの曲。モーニング娘。『Go Girl ~恋のヴィクトリー~』。
聴いていて恥ずかしくなってくる。ある意味では正統派に位置づけられる曲ではあるが。
まあ、ここ最近のシングル曲の中ではかなりよくできている方なのはまちがいない。
徹底して能天気なアレンジと、いつもに比べて半音を多く使ったメロディラインがカギ。
それにしても「恋愛大臣」て。どうよ。
以前から企画していたプロジェクトが正念場を迎えている。手ごたえ半分、先行きの不透明さに不安が半分。
まあ、やると言ったからにはやるしかないのだ。
身体障害者施設のアート化プロジェクト。いつも晴れていたのに、この日だけは小雨。
今回は前回並べたレンガのスロープを完成させるのが目標。
利用者の中にかつて工事現場で働いていた方がいらして、その方の監督の下、作業を進める。まず、セメントを渡り廊下に直接ぶちまける。そこに砂と水を加えてこねていく。
いい具合に混ざったら、ゴム手袋でレンガの間にすり込んでいく。
隙間を埋めても、なお、かぶせていく。余分な部分については後で濡れ雑巾でふき取るというわけ。
ゴム手袋を通したコンクリートの感触がなんとも独特で面白い。やけにコシのある泥といった感じ。
コンクリートが大きな面積を占める箇所はコテで作業。利用者の方が慣れているところを見せる。まさか中庭の作業がここまでスピーディに進むとは思わなかった。
仕上がりもとってもきれいで、作業の中身にも完成品にも満足という非常に理想的な状態。
一緒に作業をした利用者の方が「博士さんたちを弟子に使っちゃったよー」と笑っていて、
その笑顔がまぶたに焼きついている。参加してよかった、と心から思った。
『オースティン・パワーズ』を借りてきて、見る。噂には聞いていたが、ものすごいバカ映画だ。
ちんこやおっぱいを小物で隠しまくる執念、特におっぱいを隠したカップからミルクを流してみせるバカさ加減には恐れ入る。
マイク=マイヤーズがオースティンとドクター・イーブルの二役を演じ分けているのもすごい。
正直言うと手放しで喜べるほどのデキではなかったんだけど、でもやっぱりバカでよかった。
続編を見たいと思わせるには十分。バカっていいね!一番驚いたのは、本物のバート=バカラックが出てきて車の上でピアノを弾いていたこと。
そんな、喜んでバカの一員になっちゃうなんて、やっぱアンタすげえよ!と本気で思った。
ドラムス教室でなんかえらくほめられた。秋頃にはマトモなメロディでやらせてもらえなかったのに対し、
最近はきちんと名曲に合わせてたたかせてもらっているのがその最大の理由だろう。
曲がいいと、ノらないわけにはいかないので、必然的にうまくたたける。いいサイクルだ。
日本でアスリート・フィットネス向けにプロテインを出している会社は主に2つ。「ザバス」の明治と、「ヴィダー」の森永。
両社のバニラ味を飲み比べてみたのだが、個人的にはザバスの方が好み。
ヴィダーの方はバニラ風味が強すぎて、甘すぎる。溶けやすいとはいえ、細かい粒子は残るし。
ザバスの方は「タンパク質飲んでるぜ!」って感じがする。腹持ちもいいからおやつによい。
そんなわけで夏に割れた腹筋でビーチを歩きまわりたい人はプロテインを飲みましょう。
『カルメン故郷に帰る』における笠智衆の身体論。
テレビでやっている『男はつらいよ』を見るたびに(言うほど見ていないけど)、笠智衆の演技のどこがいいのか、
何が評価されているのか理解に苦しんだ。このどうしょうもない演技のどこに味があるのだ?と。で、『カルメン故郷に帰る』のビデオを借りてきて見て、少しだけ理解ができた気がした。
この作品に笠智衆は村の校長先生役で出ている。これはなかなか重要な役どころである。
ヒントは、この作品が日本初のカラー(総天然色)映画であるという点だ。
つまり、これ以前の笠智衆はすべてモノクロの中で演技をしていたということだ。笠智衆の演技は、動きが非常に単純である。
半分静止しているような状態でしゃべる。ただし、その姿勢は驚くほどきれいである。
つまり、彼の演技は、劣化しているようなフィルムでも、モノクロでも、クッキリしている。
いや、むしろモノクロで劣化している状態を想定しての演技なのではないか。
日本全国津々浦々、わかりやすいその姿がどこでも同じようにスクリーンに映る。だから笠智衆の存在ってのは、古きよきモノクロの日本映画そのものだったのだ、と今は思う。
笠智衆の身体には日本映画のルーツが深く深く埋め込んであって、
それを知っている監督が、時代が変わっても彼を起用していたのだと、そう思う。