diary 2005.5.

diary 2005.6.


2005.5.31 (Tue.)

S.キューブリック監督、『時計じかけのオレンジ』。

訳が荒っぽすぎ。確かにスラングとか韻とか訳しづらいんだろうけど、カタカナでアンダーラインはあまりにひどい。
「ホラー・ショー」と「ハラショー」をかけているのしかわからなかった。すごくもったいなく思う。
そしてやはり、建築やインテリアのおしゃまなデザインが目をひく。そういう演出で物語性を強調するという手法なのか。
あとは序盤での主人公の目つきの不敵さが、音楽室でお馴染みのベートーベンの肖像とうまく重なって、印象的である。

話の内容としては、元祖・暴力とセックスといった感じ。チームを組んでやりたい放題の主人公だが、運が尽きて捕まる。
そこで施設に入るのだが、新しく導入されたというルドビゴ療法の被験者に選ばれる。治療が成功すれば、自由になれる。
治療を受けて釈放された主人公だが、そこで待っていたのは、見事なまでに自分の居場所を奪われた世界だった。
やがて彼の悲惨な状況は政治に利用され、表面的には救われて終わる。
主人公はしたたかに、とりあえず置かれた状況を甘受する。

勧善懲悪に見せて、実はどこにも善は存在しない。主人公も自分の意思で動いているように見えて、実は主体性がない。
その点では現代の一面を確実にえぐってはいるんだけど、それだけで、どうにも話として面白くは感じられない。
キューブリックはきちんと物語をつくるのが下手な人なのかもしれない、と思う。
好意的に解釈すれば、あまりに現代を理解するヒントの断片について敏感すぎて、まとめきれないと言えるのかもしれない。
だからそういう感性を重視する人は受け入れるのだろうし、娯楽としての物語を優先する人なら今ひとつに思えるだろう。


2005.5.30 (Mon.)

R.バック『カモメのジョナサン』。

翻訳した五木寛之がこの作品にまつわる疑問やらなんやらを、すべて巻末の解説で語ってくれている。
まことにフェアで、かつきちんとすべてを書いてしまっているので、僕が特にここで書くべきこともないように思える。
それくらいすばらしい解説文ということになるし、僕が「足りない」ということでもあると思う。
でも僕のこの日記は備忘録も兼ねている。だからみっともないのは覚悟の上で、感じたことを素直に書いてみよう。

僕はこの本を、教育をテーマにした話として読んだ。オウム真理教の某が宗教に走るきっかけになったと聞いたことがあるが、
それはあえて誤読であると言いたい。青は藍より出でて藍より青し? ……いや、師匠も弟子と同じだけ成長するのだ。
よけいなものは一切排除して、教育の持っているそういう面だけを純粋に取り出した作品である、と僕は思った。

リアリティの追求とは正反対で、ある特定の要素だけを抽出して描き倒した作品なので、宗教というか気持ち悪さが残る。
だから読者は各自できちんと物語に肉づけすることが必要で、これをそのまま受け止めるのは危険であるし、不毛だ。
僕の場合はそれを教育という言葉で肉づけしたわけで、これは人によって変わるものだと思う。
そういう意味では、自分は何を一番大切に思っているのかを自分で知ることができる、
ということで読まれている本なのかもしれない。


2005.5.29 (Sun.)

黒澤明監督・志村喬主演、『生きる』。オープニングとかブランコとか、よくネタになる部分は知っていたけど、
「胃がんで死ぬことをさとった男が公園をつくる話」という程度の認識しかなかったので、きちんと見ることにした。
見終わって、これはとんでもなく名作、本当に名作と思った。

まず市役所マニアとしては、昭和20年代後半の役所の姿に感動してしまう。今の一見清潔でソフトな印象の庁舎と違い、
ストレートに退屈な空間。事務のためだけの空間。そんな役所の本質が露わになっていて、そのほうが潔くっていい。
たらい回しにされる姿もコミカルに描かれる。そうしてヒドラみたいな行政の体質が、この段階できちんと提示されるのだ。

あとは野球のバットにしろ『Happy Birthday』の歌にしろ、小道具にまつわる物語や偶然に意味を持たせるのが上手い。
それは徹底的につくり込む作風のなせるわざだと思う。小さな自分の世界を完全につくって、他者に提示する技術。
黒澤明の場合、特にそういうことにこだわりがあるように思う。自分の中でのハードルを、まずものすごく高く設定している。
話はすべてフィクションで、そのフィクションが自分の中で完全に結球しないと出荷しませんよ、みたいな。

物語じたいについてふれてみる。まず前半は死に直面して今までの生を問い直す姿が描かれる。
主人公はさまざまな場所を訪れるのだが、それらはことごとく、自分のずっと生きていた役所とは正反対の世界。
自分の外にある世界の存在・可能性を、ここで主人公は初めて現実のものとして知ることになるのだ。
無言で目を見開いて、ただ何もできずにもうひとつの現実の世界を見つめ続ける志村喬の演技が異様だ。
そしてそのあまりにもさえない姿の描写も容赦がない。コミュニケーション不全なウジウジ感が見ていてイラつくほどだ。
『七人の侍』(→2005.4.9)の彼とは完全に別人。それぞれにああいう演技ができるっていうのは、とんでもないことだと思う。
また、自分とは正反対の若さを持った女性にこだわる姿が、諸事情によりいろいろ考えさせられ、見ていてブルーになった。

後半は志村喬が死んだ後。通夜の席で回想が繰り広げられる。エピソードの断片をつないで話が進んでいくのだ。
視線のベクトルが錯綜して主人公の立体像が浮かび上がってくるわけだが、語っているのが全員酔っ払いなのがポイント。
強弱がつけられないからありのままに、あるいは虚実ないまぜで語られる。あえてバイアスをかけての描写をしているのだ。
しかしシラフの警官によって語られる彼の死の直前の姿、ブランコで歌う姿が挿入されて、全員が真相をさとる。
酒の席では「彼と同じように自分たちもがんばろう!」なんて熱くなる。でも日常に戻ってしまえば、意志を持つこと、
押し通すことはやはり難しい。志村喬の信念に徹底的に心服していた男がひとり、仕事帰りに公園を眺める。
そこで彼のした偉大な仕事を思い、物語は終わる。

本当に解決すべきことや命を懸けて取り組むことは、なにもそんな大げさなものではなくって、
実は意外と近くに転がっているものなのかもしれない。でもそれは比較的簡単に発見できるかもしれないが、
いざ動かすとなると、非常に大きな力を必要とするのだ。この作品では死という絶対的なものを契機にして、
平凡な男が実際には非凡なことを実現する姿を描いているわけで、本当は誰だってできる、
というメッセージが込められているのだろう。それを口で言うなら簡単だが、こうきちんと作品にするって実力には、脱帽だ。


2005.5.28 (Sat.)

北野武監督作品『座頭市』。

以前テレビでやっていた『みんな~やってるか!』を見て、あまりの救いがたさに茫然としつつ、
「ああ、この人はヤクザ映画を撮りたいだけなんだな」と“わかって”しまった。
で、この『座頭市』は時代劇におけるヤクザ映画になるわけで、やりたいことをどう実現しているのかを意識して見た。

序盤で強調されるのは、主要人物のアウトローっぷり。説明なしでそれぞれの殺しのシーンが回想として展開される。
じっくりと観客にわからせることを一切放棄していて、まず殺人者であることを示し、説明はその後に会話の中で示される。
これは盲点。僕らはまず最初に言葉で説明してしまいがちだが、人物の属性を先に示すことが大事だと気づかされる。

クセの強い脇役をこれでもか!というほど揃えた役者陣、そしてその頂点にビートたけしが君臨する。
いつもビートたけしの演技は「照れ」が邪魔に思えるのだが、今回は違う。完全に座頭市そのものなのだ。
しゃべり方、声、クセ、すべてがマッチしていて、その演技には圧倒されるばかり。これは生涯最高の役なのではないか。

物語は進んでいくにつれ、姉弟の復讐劇へと収斂されていく。アウトローを倒すのは、本物のアウトローにしかできない。
そして嗅覚の鋭い座頭市だけは、本当の黒幕を見抜き、刀を振るう。アウトローなりの正義の貫き方、ということだろう。
この黒幕のギミックがただのどんでん返しになっていないのは、やはり役者陣(主にたけし)の演技力の賜物なのだろう。

ラストやところどころで挿入されるリズムとダンスは、それはそれとして面白すぎるので、無理に入れなくても……という気分。
このリズムとダンスを時代劇の中で再構成するというアイデアは、もっと本格的にひとつの作品として扱ってほしかった。
殺陣のシーンばかりの「純粋なヤクザ映画」になってしまうことを北野監督は危惧したのかもしれない。
無理にでもエンタテインメントの要素を入れることで、一般受けという保険を確保したのかもしれない。
もちろん真剣勝負の殺陣とはかなり落差のある楽しさを、対比の効果を狙ったという側面もあると思う。
でもそれが、どこか照れ隠しというか、冷静な映画監督になりきれていない天才の哀しみが垣間見えた気がした。
全体を通してどこか映画というよりはテレビ的な匂いが漂う。どことなく、いい意味で、軽い気配、とっつきやすさを感じた。

とにかくビートたけしの演技が迫力満点で、それをあらゆる役者の力を使って引き立たせている。
監督をしている北野武はきっと、最高の満足感を得ながらフィルムを編集していたんじゃないかと思う。
自分による自分のための映画が、きちんと他人に見せられるだけの作品として成立している。うらやましい限りだ。


2005.5.27 (Fri.)

阿部和重『アメリカの夜』。後藤真希のことが好きで好きでしょうがない芥川賞作家のデビュー作だ。

一言で言うと、うまい。テクニックが巧いというわけではなく、きちんと考えて書ききっているという点で、うまい。
たとえば一番最初に長々とブルース=リーについての見解が述べられるわけだが、確かにここから入らないといけない。
ちょっとしつこめの表現が続いて読みづらいというか読むのに腹筋に力を入れないといけない部分もあるが、
そもそもそういうまわりくどさがこの小説を書かせる原動力になっているのだから、納得して読める。
非常に強い意志を持って描くべきものを描いたら必然的にこうなったのだ、と言われたら、そのとおりとうなずくしかない。

この小説では自分自身にしか焦点が当てられていない。おそろしく他者に無関心と、言えなくもないくらいに。
ただそれを一人称でやるのはクラインの壺くらい難しいので、分裂症的に三人称を使うというウルトラCで解決している。
このやり口も、文体のくどさを誘発する一因にはなっているんだけど、それ以上に正確に描写する効果をあげている。
そうして自分が抱えた問題(自分は特別な存在であるのか、自分を取り巻いているはずの物語をどう解釈すべきか)を、
正確な距離感で読者に伝えることに成功している。口で言うのは簡単だが、これを冷静にやりきるのは至難のわざだ。
特にこの小説の場合には、映画という、すべてをやりきって残りカスしかないようなメディアを通して、
ポスト「物語の時代」(神は死にバブルもはじけた、すべての事象がリアルに尖っている、グランジ)である現代を、
うまく切り取っている。その中で、なお物語に固執せざるをえない(=自分を特別な存在だと信じざるをえない)主人公を、
三人称で観察する。もしすべてを計算し尽くしてこれを書いたのだとしたら、これは本当に凄みのあるデビュー作だ。

僕は、今は物語を擁護する側に立ちたいと考えている。それも従来のような「真理を帰納していく形」ではなく、
日常の中の小さな物語(=毎日、というサイズ)をヒントに「演繹していく形」で、物語の復権を企みたいという野心がある。
だからこの小説は僕にとって、ある意味敵だしある意味味方のような微妙な位置づけにくる作品だ。
リアルの勝利(つまり、特別な存在の否定)を告げる一方で、そういった枠組みが古くなりつつあることも告げている。
話としての面白みがまったくないのは、物語というものが本質的に抱えている問題そのものが作品のテーマであるからで、
そういったテーマに関心のある人なら興味深く読める。そうじゃなければサッパリ、ということになるだろう。
つまり小説というよりは社会学・哲学に近いけど、それは本来小説が担っていた役割をきちんと取り戻している、
とも言えるわけで、そういうメタな部分に耐性をつけるためには手ごろの作品であるのでは。


2005.5.26 (Thu.)

『ダイヤルMを廻せ!』。A.ヒッチコック監督作品。

妻の殺害を計画する元テニス選手の夫は、大学時代の知り合いを脅して犯行を実行させようとする。
が、妻の不倫相手でミステリ作家の「完全犯罪は現実には不可能」との言葉どおり、男は妻にハサミで刺されて死ぬ。
仕方なく夫は、妻が男に不倫の件で脅されていたので殺した、という筋書きを用意する。
夫の計画はうまくいくと思えたが、事件を丹念に調査していた警視が鍵をめぐるトリックに気づき、真実をつかむ、という話。
書いてみるとややこしいが、これがヒッチコックの演出した映像だとすんなり理解できてしまうから不思議だ。

見終わって「なるほど。まあまあかなぁ」と思ったのだが、DVDについていた解説映像を見て、ああ、そうか!と驚いた。
この作品は、密室劇だったのだ。物語のうちのほとんどが、家の一部屋だけで展開されているのだ。
そもそもこれは舞台演劇で、それを映画化したものなのだ。なるほど、そう説明されればすごく納得がいく。
さらに、実は赤青のメガネをかけて見る3D(飛び出して見える)映画として撮影されていたという事実にもびっくり。
しかしこの作品は、そういった背景をまったく感じさせなかった。言われて初めて気づくくらいに、自然。
これは多彩なカメラワークと綿密につくった会話のやりとりのなせるわざだろう。

もともと舞台劇ということもあり、人物設定の説明と実際の犯行と真相の究明がスムーズにつながって進行する。
こういうミステリではトリックを考えるだけでも一苦労なのに、そこにさらにトラブルを絡めてドラマを生み出す手腕が凄い。
特に今回は殺害と冤罪が計画されるわけだが、ふつうのミステリならそのプロセスに焦点が当たることはないだろう。
しかしヒッチコックはむしろ、不確定要素にめげずに計画を進めていく姿を描いてドラマをつくり出している。
そのうえでラストをきちんと謎解きでまとめているんだから、いやはやまったく恐れ入る。

そこまで考えてみれば、一番最初の「なるほど。まあまあかなぁ」という感想がいかに未熟であるかがわかる。
ヒッチコックの凄いところは、ふつうなら絶対に入れたくない困っちゃう事態や「もうやめてー」と言いたくなるトラブルを、
好んで採り入れて主人公と観客をどんどんピンチにさせておいて、後でそれをきちんと解決してみせるところだ。
こんなの、実際にやろうとしてみても、とてもできるもんじゃない。この辺が、巨匠の巨匠たる所以なのだろう。

ところで今回のヒッチコックは同窓会のシーンで写真だけの出演なんだけど、よく見るとそのシーンで、
「(入場料を盗んだのは)アルフレッドだ。競馬でスッたから」というセリフがちゃんと出てくる。うーん、さすがだ。


2005.5.25 (Wed.)

人前では極力弱気にならないようにしているわけだけど、一人暮らしだと、家に帰ってから気が沈むことがある。
ひどいときには本当に指一本動かせなくなって、時間をつぶすこと以外に何もできなくなってしまう。
それでも「いかんいかん」と思えるのが救いで、わずかなやる気を寄せ集めて立ち上がると、風呂にお湯を入れる。
そうしてぬるい湯につかりながらカラダを洗っているうちに、さっき動かなかった指が今は動いていることに気づくのだ。

「喜怒哀楽」とはいうが、僕の場合、他人に対して「哀」を出すことが他の3つに比べると極端に少ないと思う。
そりゃあブルーになってため息をつくことはあるが、泣いたり、立っていられなくなって座り込んだり、そういう姿は見せない。
逆を言えばそんな僕を見たことがある人は、かなり僕に信頼されているということだ。
別にそうやって人を区別しているわけじゃないが、負の感情を恥も外聞もなくなすりつけられるというのは、
間違いなく、一定の何かがある証拠だ。特に僕は親に対して相談ごとをすることがめったにないし、
親の前で弱気になったことなんてハタチ過ぎてからは記憶にない。不器用なだけかもしれないけど、そう生きている。
(大学院の修了を延ばすのも相談ではなくお願いだったし、就職活動なんか親に一切進行状況を知らせなかった。
 左足にヤケドをしたとき(→2002.12.12)が一番弱気だった。あのときは翌朝になって親に相談の電話を入れた。)
僕にそういう類の迷惑をかけられた経験のある人は、ある意味で親よりも深く信頼されている、と考えていいと思う。

甘えたいなあ、と思う。でも、甘えちゃいけないという意識が絶対に抜けることはないし、そもそもうまく甘えられない。
長男に生まれたし、委員会やサークルの責任者をずっとやってきたし、そういう経験が人格を固めてしまったのかもしれない。
つらいときは甘い飲み物を買ってきてやり過ごす。僕が自主的に甘い物を口にするのは、疲れたときか甘えたいときだけだ。
「甘い」と「甘える」は違うでしょ、とツッコミが入るだろうけど、なぜか僕の中ではつながっている気がしてならない。
ジュースを飲みながら「太るなあ……」なんて考えているうちに、なんかもうどーでもいいや、と思えて気分がほぐれる。

一度ドカンと壊してみたいと思わないでもないが、でもそれは怖いし、後悔するだろうしで、できない。
そうなるともうひとつ、甘えることの実現という方法もあるわけだが、こちらも寄りかかるだけの度胸がない。
結局消去法で、僕は発散してんだか溜め込んでいるんだかよくわからないままに、寝て起きて生活を続けている。
それで今までなんとかなってきているのだから、これからもこのスタイルでなんとかなっていくんだろうって気がする。
でもいつかそれに飽きて、誰か特別な相手にきちんと迷惑を受け入れてもらいたいなあ、という希望を持ちながら。


2005.5.24 (Tue.)

江國香織『間宮兄弟』。これもバヒサシ氏が貸してくれた。
おたくというか、まったくもって冴えなくて全然女にモテない30代の兄弟ふたりが主人公。
そのふたりが恋愛の対象にされないままでしょっぱく過ごす時間を落ち着いて描いた作品。

作者がなぜこの話を書いたのかがそもそも理解できない。
クリエイターとして作品をつくるからには、何かしらの衝動がそこになければなるまい。
そしてその衝動は、娯楽にしろ芸術性の高いものにしろ、「世界を変える」とまでは言わないまでも、
硬直しきった日常に対する投げかけ/挑戦が企図されてしかるべきもの、と僕は考える。
この作品で描かれているのは、世間に置いていかれている兄弟の姿。つまり硬直しきった日常。
それをさらしただけで終わるというのは、この本は作者が印税を確保するための手段でしかないように思える。
読んでも、毒にも薬にもならない。ただ時間を消費させるだけ。読んで何が残ったか、ではなく、どう過ごしたか、だ。
その消費のスタイルにお金を出せるかどうか、それが本を読む人とそうでない人を分ける分水嶺なのだろう。

昨日書いた『僕のなかの壊れていない部分』と共通しているのは、日常生活をさらしたままの作品ということ。
フィクションなし脚色なしに見えるように、他人(あるいは読者自身)の日常の一例を提示してみせるという特徴がある。
もちろん、ドラマティックな展開がないことを批判しているのではない。「神は死んだ」じゃないけど、
何か大きな事件が巻き起こった末に僕らは救われる、なんてムシのいい話はもう成立しない時代なのだ。
そうじゃなくて、日常の中の小粒なできごとがどんな意味を持っているのか、それをつぶさに検証するのが、
現代における物語の役割なのではないか、と僕は考えている。
表面上は今の文学もそれをやっているように見えるかもしれないけど、存在してもしなくても一緒、という気がする。
つまり読んだ人にだけ恩恵を与えるような存在意義を持てていない。それじゃ、ダメだ。

20世紀末(1980年代頃からかな)に、物語(ドラマ)は現実(リアル)に敗北した。すべてにおいてリアルが勝つようになった。
そしてリアルが突きつけられるばかりの社会は、硬直化してきている。まるで夢のない社会。
だからこそ、物語の側は逆襲をしなければならない。負けるとわかっていても、リアルにひとつ風穴を開けるだけでいいんだ。
想像力の使い方、それが問題だ。


2005.5.23 (Mon.)

白石一文『僕のなかの壊れていない部分』。バヒサシ氏が貸してくれたので、読んだ。

貸してくれた作品についてこういう感想も失礼だとは思うが、正直に書く。
「くだらない。」──その一言に尽きる。この本を読んでいる最中も、読み終えた後も、その言葉しか出てこなかった。
こんなくだらないものを読んで時間をつぶすよりは、きちんと現実の時間を生きたほうがマシ、そう思わされる。
そういう意味では価値を持っている作品なのかもしれない。書を捨てよ、町へ出よという意味で。

ここまで酷評する理由として、主人公の思考回路がまったくもって好きになれない、という点が大きい。
中途半端に頭のいい人間特有の始末の悪い行動を見せつけられて、ひどくイヤな気分にさせられるのだ。
僕は登場人物では枝里子に近い考え方をする(と思う)。だからそこに主人公に対する愛が存在しなければ、
まったくもって相性が悪いままだというのは当然のことだろう。ゆえに僕はこの本が嫌いだ。

こんなものが評価されているようじゃ文学はヤバイぞ、と思う。これじゃ本を読む人間が少なくなるはずだ、と思うのだ。
でもそんな状況に対案を提示できない自分が一番嫌いだい。


2005.5.22 (Sun.)

『ウォーターボーイズ』を見てみる。

これは純粋に楽しめる娯楽作品。単純に男子高校生がシンクロをやる、というだけなら「ふーん」で終わるのだが、
その男子高校生特有のバカバカしさへの志向というか、若さのコミカルな浪費という要素で絶妙に味付けをしていて、
結果、誰が見ても笑える作品になっている。内側からあふれてくるエネルギーをストレートに表に出すんじゃなくて、
「ダメ」とか「ドジ」とか「バカ」とか、そういうフィルターを通すことで見守っている周りも楽しめてしまう、あの感じ。

表現・演出で気がついたのは、きわめてマンガ的であるということ。
シンクロを見たスズキが鼻栓を飛ばす、サトウの頭が燃える、カナザワがプールに突き刺さる……。どれもマンガみたいだ。
マンガのワンシーン(オチの部分)を素直に映像化することで笑いをとる、そんな手法が目立っている。
逆にそのせいか、各カットごとにきちんと笑いをとっていくことが徹底されているのに対し、カット間のつながりは悪い。
全体のストーリーは「だいたいわかっちゃっているでしょ」って感じでほとんど観客まかせになっていて、
部分部分の課題をクリアしたら一息ついて、また次のカットへ、というブツ切りの印象が残るのである。
それはもしかしたら、テレビで放送するときに編集しやすいように、という配慮なのかもしれない。
まあこの手の映画では、物語の全体性ってのはそんなに重要じゃないのも確かだから、
ここでこういうお約束のギャグをやって……、ってひとつひとつクリアしていくのを優先してもまったく問題ないわけだ。
むしろ観客は印象に残る一コマ一コマに反応するだろうから(マンガ的なのだ)、やはりこれが正解なのだろう。
(もちろんブツ切りだからこそ面白いシーンもある。佐久間先生が赴任した直後に満員のプールが映るシーンとか。)

それにしても、竹中直人と柄本明のせいで『Shall we ダンス?』にとてもよく似ている印象を受ける。
冴えない主人公が熱心に取り組める対象を見つけ、若干の後ろめたさを感じつつも打ち込む、という構造も共通している。
『ウォーターボーイズ』の場合には、主人公が男子高校生なので、若さゆえのエネルギー(の持て余し)が問題になる。
『Shall we ダンス?』では社交ダンスというルールの中での努力だったわけだが、こちらにはルールが存在しない。
むしろ自分勝手にルール(ダンスのパターン)を生み出すところまで努力の範囲に入っているわけで、
その分ラストでの盛り上がりが抜群に痛快なものになっている。

ダンスの選曲もいい。男子高校生がやるともはや間抜けさしか感じさせない『伊勢佐木町ブルース』にはじまり、
ベンチャーズにシルヴィ=ヴァルタン、『Only You』、Puffy、そして締めはフィンガー5の『学園天国』。
誰もが知っている曲を、自由に思うままに踊る、そんな躍動感がどの曲にもあるのだ。
それが高校生のワケもなく踊りだしちゃうエネルギー感とマッチして、相乗効果を生んでいる。

主人公たち5人組を見ていると、『ハイスクール!奇面組』(→2005.1.12)を思い出す。
特に金子貴俊演じるサオトメが強烈で、物星大にしか見えない。ここまでやられるとすばらしい、というレヴェル。
そんな視点で見てみると、グループとキャラクターの関係こそが楽しいストーリーを生む秘訣って気がしてくる。
この映画は、かつてジャンプで全盛を誇った少年ギャグマンガの王道をしっかりと継いでいる、と言えるだろう。

よくこの日記で書く表現だけど、スタッフが楽しみながらつくっている作品を味わうのは最高の幸せだ。
でも一番楽しかったのは、間違いなく、出演した俳優たちだろう。彼らは一生モノの経験をしたに違いない。
そして観た側も、これから同じような一生モノの経験をしたくなる、そういう映画だ。


2005.5.21 (Sat.)

『欲望という名の電車』。テネシー=ウィリアムズの戯曲を映画化した作品だ。

演技では舞台での「メソッド」を応用した点が一世を風靡したというが、やはり現代ではふつうに思えてしまう。
とにかく役者が怒鳴りまくる映画、と総括できてしまいそう。逆を言えば、そういう迫力は確かに斬新だったかもしれない。
情念むき出しのドラマであるだけに、上品ではなくリアルに汚い印象を与える、ということにおいて成功している。

「汚い印象」と書いたが、この映画は本当に救いがない。人間の汚らしさを極限まで描いているからだ。
最後の最後までいいところがない。だからスカッとするようなことなんて絶対ないし、かといって、
悲劇で一緒になって涙を流してカタルシス、ということもない。いやーな気分になるしかないのだ。

僕はやっぱり、物語は娯楽であってほしいと信じているところがある。
でもこの作品は、日常で思わず目をそむけているようなリアルな痛みをえぐり出したことを認められた初期の作品である。
物語とは楽天的なものばかりではないんだ、という、「モダンの終焉」がこの作品でも告げられているのだ。
だから、嫌いだと言ってしまうのは簡単だけど、そうしないできちんと向き合いたい作品ではある。


2005.5.20 (Fri.)

とりあえず編集部での研修が終了した。ひたすら校正、校正の毎日だった。おかげで目が痛い。
しかしながら扱っている原稿が原稿なので、どうしょうもないムダ知識もそこそこ増えた。門前の小僧である。
でも今後何年もこういうじっとしている生活、というのはちょっと滅入ってしまうかもしれない。
なんとか、うまい気分転換の方法を考えないといけないなあと思う。


2005.5.19 (Thu.)

内藤遊人『はじめてのジャズ』。講談社現代新書の「はじめて」シリーズ。

circo氏にジャズが足りないと指摘されて以来、ベスト盤を毎週借りてきてはチェックしている。
でもまだ全然、誰がいいとか誰が嫌いとか言えるレヴェルじゃなくって、プレーヤーの特徴を感じることで精一杯だ。
で、今回実家に帰るにあたってバスの中で読めるものを、と思って買い込んだのである。

内容はそのタイトルにふさわしいもので、前半が偉大なプレーヤーの紹介、後半が時代の総括である。
プレーヤーに関しては不満を覚悟で「ベストナイン」を設定して、彼らを中心に紹介していく。
そしてそこで漏れた事柄を、後半の時系列で補足していくのだ。巻末にはアルバム50作のリストがついている。

こう書いただけでもわかるように、右も左もわからない初心者にはなかなかありがたい構成だ。
「おとめ座のプレーヤーは偉大だ」みたいな気持ちの悪い表現も出てくるが、平易な文章もわかりやすい。
さすがに定評のある講談社現代新書だけのことはある。十分及第点のデキなんじゃないかと思う。
今後ジャズをあれこれと聴いていく中で、こまめに参照することになると思う。
そういう点では、索引や系統図のようなものがついていれば完璧だったかなあ、という気がする。ぜいたくだけど。


2005.5.18 (Wed.)

A.アシモフ『われはロボット』。有名な「ロボット工学の三原則」が冒頭に飾られた短編集だ。

僕はこの「ロボット工学三原則」が大嫌いだ。こんなの守っていたら、なんにもできないじゃん。と思っているからだ。
そしたら、やはりアシモフは僕なんかより何枚も上手だった。この三原則が巻き起こす混乱をテーマにしていたからだ。

全体はロボット心理学者のスーザン=キャルヴィンへのインタビューという体裁をとっている。
その中で昔話として、ロボット三原則によってトラブルに見舞われたロボットとそれに対処する人間が描かれる。
だからこの作品は、数学的な論理の世界で発生するバグを人間があれこれ行動を起こして解決するという、
まことにヒューマニズム(とでも表現すればいいのか)あふれる物語なのである。実に人間くさい内容なのだ。
また、この作品はミステリ的な要素を多分に含んでいる。正直、SFな部分よりも推理の方が面白い。
事件と憶測の原因となる数学的・論理的な三原則は、事実に迫ろうとする探偵にとってきわめて妥当なルールとなるから。
つまり、スポーツと同様に、よくできたルール(三原則)にのっとってプレー(読書)を楽しむことができるというわけだ。

やはり一番の目玉は、ロボットと疑わしき人物が市長選に立候補する「証拠」だろう。
その男は人間なのかロボットなのかわからない。見破る手段は、例の三原則しかない。
そういう状況に読者を放り込んでおき、ラストでああそんな手があったなんて!と思わせる。
……やはり、この短編集はSFとしてというよりも、ミステリとして楽しめる作品なのだ。そのことを教えてくれる好例だ。

世間的には「ロボット工学三原則」が独り歩きしてしまっているが、実際にこの作品を読んでみると、
三原則は話を面白くするための前提でしかないことがわかる。内容は、高度に数学的な論理のストーリーなのだ。
だからSF的な側面は本来二の次なんじゃないかと思う。ミステリ好きに古典としてオススメしておきたい。


2005.5.17 (Tue.)

バヒサシさんから電話があって、「せんたが企んでることは『.hack』がもうやってる!」と助言があった。
それなら研究だ、と思って、ブックオフに行って古本のマンガを買ってきた。新品を買うのがシャクだったから。
というわけで、浜崎達也/依澄れい『.hack//黄昏の腕輪伝説』。

これは読んだ後でわかったのだが、マンガは完全に番外編で、本編の後日談のようだ。
だからストーリーはざっと押さえる程度にして、世界観を注意深くチェックしていくことにした。
とはいえ自分はRPGがサッパリできない人間なので(FF3ではジンと戦う前に挫折した)、正直、読むのはつらかった。
世の中には2種類の人間がいると思う。ファンタジックな設定についていける人と、ついていけない人。
僕はバリバリの後者なので、ホントに途中で何度も泣きが入った。気持ち悪くって。

SFのW.ギブスン『ニューロマンサー』(→2005.1.8)なんかと比較してどこがどう違うからダメなんだろう、と考えてみた。
ファンタジックな世界では独自の神様が設定されていて、それが主人公に対して祝福をする。
それもなんだか半端に古典の文法を意識したような言葉で、もったいぶったことを言う。たぶん、それがダメなのだ。
SFの場合、どうしても現代を通過した未来ということになるから、そういう気取った言葉づかいが出てくる心配は少ない。
だから、まだなんとかついていくことができるのだろうと思った。あくまで直感だが。

マンガの内容について触れると、もう本当に本編のおまけといった感じで、特に言うべきこともない。
そういう世界観に慣れのある人なら平気なんだろうけど、自分にはRPG設定が気持ち悪くてしょうがなかった。
まあこれは純粋に好みの問題でしかないので、これはつまりまだまだ僕が「足りない」ということなのだろう。
自分が違和感を覚えるからこそ、知っていかなくてはいけないこともあると思う。
ということで、しばらくお勉強を続けてみることにする。


2005.5.16 (Mon.)

『雨に唄えば』。

非常にいい映画。というのも、アメリカのいい部分が凝縮されていて、素直に楽しむことができる映画だからだ。
日本にはないヴォードヴィルの魅力を前面に押し出してあるうえ、安心して見られる話の展開。痛快な娯楽映画である。

設定のつくり方がまた非常にいい。無声映画からトーキーへと移行する時代のドタバタを軸に、
ショウとは、ショウビジネスとは、映画とは、という実は根深い問題を、とても軽快なタッチでまとめているのだ。
この映画では映画スターのリナが、しゃべると実はキンキン声でトーキーに対応できない、というトラブルが持ち上がる。
そこを機転で切り抜ける、そこがいかにもアメリカのいい部分って感じで、見ていて楽しい。

ヴォードヴィリアンのコンビだったドンとコズモー。そのうちドンが殴られ役からスタントマンへと転身し、スターになっていく。
コズモーは根っからの芸人なので表に出ないが、あふれる才能と明るい性格でつねにドンを支えている。
で、そこに舞台で下積みしているキャシーと偶然出会って(この出会い方もまた楽しい)、
それぞれの力で、あるいは集まって問題を解決していく。つまりこれは純粋に、ライトスタッフが活躍する話なのだ。
そして暗に、下積みがあればその経験で人間なんとかなる、と言われた気がする。

ところどころで見せるヴォードヴィル仕込みのダンスもすばらしい。
これが映画のキーポイントになっている点も、ムダがなくって美しい。
雨の中でドン役・ジーン=ケリーが踊るシーンが特に有名なんだけど、それ以外の部分もきれいにつくり込まれている。
もはやミュージカルという要素は古き良き時代のものになってしまっているけど、きっと新しく蘇る可能性があると感じる。
ラスト前のダンスがちょっと長すぎる気もするが、それは冒頭で示された主人公たちの下積み~現在を、
ミュージカルで描き直している部分なのでしょうがないのかな、とも思う。

ストーリーはわかりやすくてきちんとしてるし、歌や踊りも完璧。映画史の資料としても価値がありそう。
そして「万人受け」という点では、あらゆる映画の中でもまちがいなくトップクラス中のトップに位置する作品だ。
途中のコズモー役・ドナルド=オコナーの見せ場なんか、絶対に子どものハートをわしづかみにするはず。

そういえば、デパートでは雨が降り出すと『Singin' in the Rain』をかけて客に知らせるわけだけど、
そんなセンスのある人間になりたいものだ。元ネタになった映画も、気の利くデパートも、どっちもかっこいいと思う。


2005.5.15 (Sun.)

朝起きた。バヒ氏と電話で話して、10時半に集合することにした。
それで、集合してからは昨日の続き。話し終えて、あらためてお互いスッキリした。
なんでもない話を延々としていただけなんだけど、それができることの大切さを心底実感した。
部屋の中だけで過ごしてしまう一人暮らしは危険なのだ、とあらためて思う。

それから両親と伊那に行ってピザを食べた。よく考えたら、僕がピザを食べるときは必ず親と一緒だ。
友達を連れてきて食べる、という積極性が足りないなあ、とまた反省。

諏訪湖まで出ると、茅野へと向かう。藤森照信設計の茅野市神長守矢史料館に入る。
中には神社の祭りで使われた鹿や熊の剥製、それから企画展として鎌倉時代の書簡が並べられていた。
書簡は鎌倉時代のくせしてものすごく保存状態が良く、筆跡から筆を持つ当時の人の指先が見えるよう。
そして建物の中は蔵特有の涼しさに包まれている。忘れてしまった和の風味を、一気に思い出す涼しさだった。

それから、以前に潤平も来たという、これまた藤森照信設計の高過庵を見る。要するに建築家の秘密基地。
潤平はさすがに建築物本体に興味がいっていたようだが、自分の場合は周囲の風景が気になった。
神社があり、墓があり、森があり、遠くに街が見える、そんな山の麓。地元の家族が新入りの仏様を墓に迎え入れている。
風に乗って漂ってくる線香の香りを感じながら、これが日本の「歴史的」なんだな、と思う。むかしの風景。
夕方になりかけた光のせいもあり、既視感というより既居感というような、いつか知っていた空気の味を思い出していた。

茅野駅に隣接した商業施設(いつのまにか大手が撤退して小規模な店の集合体になっていた)を歩いて時間をつぶすと、
特急あずさに乗って東京へ戻る。ゆっくり、ゆっくり、この週末のすべてを思いながら窓外の景色を眺める。
そして列車は新宿に着いた。

さあ、明日からまた仕事だ。


2005.5.14 (Sat.)

いきなりだが、実家に帰ることにした。バヒサシ氏と話しているうちに、「じゃ、帰って話そうか」となったからだ。
自由が丘の美容院でおねーさんに髪の毛を切ってもらってから、新宿に移動して高速バスに乗ることに。
切ってもらっている間の雑談で、おねーさんが長野県出身とわかってお互いびっくり。妙な連帯感が急に漂う。
というか、切ってもらって3年目になるのに今ごろわかってどーすんの、という気分。会話の少なさが身にしみる。

以前circo氏に「あなたのiPodにはJazzが足りないんじゃないの?」と言われて確かにその通りだ、と納得した。
それでここ最近は集中してJazzの勉強を進めている。バスの中でも、有名なナンバーたちを聴いて過ごす。

飯田に着いたのが20時過ぎで、家で一息つくと、まる(バヒ氏の親友で僕と中学以来の仲間)宅で一緒に晩飯を食べる。
バヒサシ氏はすでに食べ終えていて、謝りつつバジリコのパスタを注文する。バジリコが好きなのだ。
僕がメガネをしていないことにバヒ氏はちょっと意外そうな声をもらした。そんなに会うの久しぶりだっけ、と思う。
今回の件について話したり、歳をとったことのグチを言ってみたりして過ごす。そして、デザートのサービスをいただく。
考えてみればけっこう会ってないのだ。その間、バヒ氏がさらに車に熱中するようになったことが、僕には意外な感じがした。
やっぱり僕の意識の中では、高校の放課後に自転車で座光寺の本屋に出かけた思い出が大きくて、
オトナになった僕たち、というものが現実として横たわっているのに、それをうまく想像できないでいる。不思議だ。
僕の中では自分は変わっていないし、たぶんバヒ氏もみんなも実際には変わっていないのだ。
でも変わってしまっている現実も同時に存在する。現実というものが二重になっていて、僕はその片面しか見ていない。
もう片方のうすい膜を、会話をヒントに透明に洗っていく。

食べ終わると店にいる、まるの両親にお礼を言って、バヒさん宅に寄って部屋の魔窟ちゃんぶりを見学して、
市営プールの西にあるビオトープに忍び込んで「ホタルを育てるんだってさ」という話を聞いて、それから僕の家に行った。
2台の自転車が夜の街を切り裂いて走る。やっぱり、飯田市内をあちこちまわるには、自転車がいちばんいい。

3階の部屋には両親の趣味である椅子が並べられていて、バヒ氏はそれに見入っていた。
軽く20世紀初頭とミッドセンチュリーにおける椅子デザインの極点について講釈をたれてみせると、熱心に聴いてくれた。
バヒさんは(不本意にせよなんにせよ)車に金をかけているが、こういうものに金をかけるというスタイルもあるのだ。
(椅子の話はまたの機会にしっかりと書いてみたいと思う。すべては僕が上京して、一脚の椅子を見たことから始まった。)

バヒさんはニイチェアにゆったりと座って、僕はザ・低座椅子にあぐらをかいて、お互いの話をイチからした。
高校のところが終わったところで、眠くなったバヒさんは帰った。僕も疲れていたので、見送ってからすぐに眠った。


2005.5.13 (Fri.)

「サウダージ、サウダーデ(saudade)」という言葉がある。もとはポルトガル語だ。
今はもう遠くに離れてしまった人や物に対しての想いや憧れ、郷愁を指す言葉なんだそうで、日本語にはない概念だ。
これは時間的にも空間的にも距離のある状態が前提になっていて、もう戻ってこないことがポイントになっているみたい。
しかも哀しいだけじゃなくって、懐かしさ、心地よさのニュアンスも混じっているという。

朝にメールを送ったらわりとすぐに返ってきて、仕事の休憩中に読んで凹んだ。
視界が急に狭まって、可聴範囲が急に狭まって、頭がまるっきり回らなくなった。
メシをなんとか詰め込んでチラシ取りの仕事を終わらせて返品のカバー替えをして定時になったので帰る。
帰ってぬるくした風呂に入ってバヒサシ氏と電話で話したら、ずいぶんと糸口が見えた気がした。そこでやっと救われた。
ようやく中華鍋を振る元気が出て、晩飯をつくる。そうして、深夜に入りかけたところでまたメールを返した。

そんな便利な一言で簡単にまとめられてたまるかよ、という気持ちがある。
でもその、日本語では見えない襞のようなところが確実に事実をえぐっていることもわかる。
まあ、今の自分にできることは、できるだけ前を向いてふんばることだけだ。結果は後からついてくるもんだ。そうだろ?


2005.5.12 (Thu.)

circo氏が上京してきて、ちょっとだけ時間が取れそうだと言うので、一緒にメシを食う。
話の内容は、仕事をできるだけさっさと片付けてしまうのが一番という考えがなぜ認められないかについてだとか、
早めに飯田橋に行って朝飯食いながら読書して昼は自転車でランチに出て夜はDVDを見る優雅な生活についてだとか、
「仕事ができるってのはどういうことなんだろう?」「それは想像力だな」といったことについて。まあ、仕事とは、という話。

僕が塾講師としてそれなりに仕事をこなせるようになった辺りから、父親であるcirco氏の会話は明らかに変わったと思う。
ある意味オトナの会話が成立し出したということだし、またある意味では尖っていたものが丸くなったということでもある。
ただ、尖っていた頃よりは確実に楽しい会話ができている。相手の意見からプラスを拾えるようになっている、と信じている。

circo氏を見送って帰ってきたら、療養中(という表現でいいのかな?)のバヒサシ氏から電話がかかってきた。
今日はよく突っ込んだ話をする日だな、と少しだけ笑ってみる。気のおけない相手との突っ込んだ話は大歓迎だから。

話し終わって、ほっとした。おかげで凝りがほぐれた感じ。最近、ホントに、そういうことが多くてうれしい。


2005.5.11 (Wed.)

朝、戸田公園駅に着いたら妙に若い学生たちであふれていた。
まさかと思ったらやっぱりそうで、一橋大学名物・クラチャンレースの日だったのだ。
しかし連中、通勤・通学客のことをまるで考えていないで、改札のすぐ前でたむろして集合時間を待っているという状況。
OBとして本当に恥ずかしかった。オレらもあんなんだったんかと思うと、顔から火が出る思いだ。

家に帰ってからは、優雅にDVD鑑賞。『北北西に進路を取れ』。言わずと知れた、アルフレッド=ヒッチコック監督の作品。

まずソウル=バスによるオープニングからすごい。無数の斜線と垂直線が交差した平行四辺形にスタッフロールが浮かぶ。
そして線はミース風モダニズム建築(具体名を知りたい)のサッシュへと変化し、スタッフロールはガラスのファサードに浮かぶ。
もうこのセンスだけで圧倒されてしまう。いきなりこんなもん出されたら、参りました、と脱帽するしかない。
(『ウェストサイド・ストーリー』(→2005.4.26)のマンハッタン遠景へと変化する無数の縦線もソウル=バス。すごい……。)

内容も、ひたすらヒッチコックの安定したオヤジ芸を見せ続けられるもの。とにかく、手慣れていてそつがないのだ。
運の悪い主人公(ケーリー=グラント)がひたすら不幸に巻き込まれる。見ているこっちも「ああ、もう!」と、じれったくなる。
そんなふうに観客を煽っておいて、ギリギリのところで回避する。見事にヒッチコックの手のひらで遊ばされてしまっている。
人違いで殺されかけるところからはじまり、国連本部で濡れ衣を着せられ、駅から20世紀号に乗り込んでラブシーン。
速いテンポでムダなく密度の濃い展開が進む。目が離せない。この辺はさすがにヒッチコックの「慣れ」というか貫禄というか。
飛行機に追われるシーンもヤマ場のラシュモア山も、「こうすれば見せ場になる」という計算の末の産物。さすがだ。
しかも途中(飛行機から逃れた後あたり)から、それまで不運でしかなかった主人公が急に主導権を握りはじめる。
この辺になると観客は十分に感情移入ができているから、主人公の活躍は見ていて非常に爽快なのだ。
そしてラストシーンではとんでもなく鮮やかにきめてくれる。ここまで大胆にやらかしてくれた作品は、他に見たことがない。

「名作」と呼ばれる作品にも何種類かあり、その中でも大きく、「若き天才型」と「老練な熟成型」に分けられる気がする。
邦画での黒澤明や山田洋次なんかは後者の典型だと思うのだが、ヒッチコックは洋画におけるそれだと思った。
こんな映画、若いヤツには絶対に撮れない。これこそ、十分に経験を積んだ海千山千のオヤジだからできる名人芸だ。
時間いっぱい、無数のお約束と本当に休みなく繰り出されるどんでん返しに、最後まで飽きることはなかった。
「参った。そういうオトナに僕はなりたい。」と言うしかなかった。


2005.5.10 (Tue.)

またまた戸田の倉庫、である。今回の仕事は宣伝チラシをまとめて送付するのだが、そのチラシをまとめる作業。
しかしながらチラシはぜんぶで9種類あり、それぞれが5200部ずつあるという状況なのだ。仲間と一緒に、黙々とやる。
指サックを左手親指につけ、積んであるチラシを撥ねる。それを右手でキャッチしていく、という動作をリズムに乗ってやる。
チラシの補充やゴミの片付けは相棒にやってもらって、労働時間内ひたすら同じ作業だけをやる。猛スピードでやる。
自分の異常な手先の器用さと集中力とをあらためて認識した。認識したところで、どうもないのだが。

この5200部が終わったら、19種類の3000部というセットが待っている。ひぃ……。


2005.5.9 (Mon.)

会社にて健康診断である。
まだ若いので、レントゲン→尿検査→身長・体重・血圧→問診→血液検査→指導という単純なルート。
これから歳をとっていくとバリウムだとか眼底検査だとかいろいろと面倒くさいことになるのがイヤだ。
いつまでも健康でいたいものだ。


2005.5.8 (Sun.)

マサルに誘われて、部屋の中にいるよりはどう考えてもマシなので、外に出る。ゴールデンウィーク最終日。
集合場所は秋葉原。なんでも、ものすごいマニアックなファミコン専門店があるという。

約束の時間に遅れてマサル登場。連れて行かれたのは雑居ビルの3階にある店。人でいっぱい。
売られている商品もめちゃくちゃな量があって、ほとんどすべてのコンシューマソフトを網羅している。
さらに、壁を埋め尽くすような攻略本に圧倒される。これは貴重だ!と、ちょっと感動。
マサルは完全にファミコン世代のど真ん中で、目を輝かせて店内をうろつき、高橋名人と毛利名人の対決ビデオに夢中。
でも僕はファミコン禁止令の家庭に育ったので、それほどこの原体験を共有できない。悔しい。
「僕は高橋名人のビデオ見たいから、それでもやっとればええやん」とマサルが指差す先にあったのは、バーチャルボーイ。
しょうがないのでしばらくやってみたのだが、もう目がチカチカする。これはものの30分で近視のできあがり、って感じに強烈。
「ソフトを今頃そろえたって、あの頃の情熱は戻ってこないんだよなあ」と悲しい事実を胸にしまいつつ店を出た。

店を出ちゃうと、もうほとんどやることがないという悲しい状態になってしまう。
とりあえずマサルオススメの「着エロ」DVDを見るためにヤマギワソフトに行く。
そこで目にしたものはハッキリ言って異世界のもの。モザイクは出ないけど、エロさを感じさせる映像の数々が並んでいる。
陳列されている商品が、ゆる~い感じのアイドルDVDから着エロを経てなめらかにAVへと連続していくのが興味深い。
世の中にはいろんな世界があるもんだ。

それからミスドでダベる。千葉で有名なジャガーの話とか、変な地名の土地にばっかり行っている人の話で盛り上がる。
その後いくつかゲーセンをまわって太鼓の達人をちょっとやり(マサルが『青い珊瑚礁』をたたきたがった)、飽きたので解散。
「なんでオレ、ゴールデンウィーク最終日にマサルとデート的なことをしてるんだろう?」
という疑問を胸の奥にしまいつづけた一日だったとさ!


2005.5.7 (Sat.)

奥田英朗『東京物語』。ワカメが大いに薦めていたので読んでみた。
が、結論から言ってしまうと、自分には合わなかった。その理由は、おそらく、年齢的なものだと思う。
ワカメはまだハタチそこそこなのでツボだったのだろうが、20代後半の自分には、ちょっとキツい面があった。

話は名古屋出身の主人公(作者の過去の姿、と考えられる)が東京でたくましく成長していくというもの。
大学を中退して働く21歳、上京したての18歳、大学に入ってしばらくした19歳、仕事に慣れてきた23歳、
見合いさせられた25歳、仲間が結婚していく28歳、それぞれを歴史的な出来事のあった一日で切り取っていく。
大学中退をめぐる葛藤は一切描かず(短編集という形では描き切れないのか)、そこで前半と後半が分かれる印象だ。
そこでは、「仕事」というものがひとつのターニングポイントとして立ちはだかっている。少なくとも、今の僕にはそう感じられた。

この話の要素は主に2つあって、「仕事で成長する主人公」と「恋で成長する主人公」ということになるだろう。
個人的に、仕事のパートを読めば周りの使えないっぷりに共感してイラつくうえ、今の自分自身と比べちゃって憂鬱になるし、
恋のパートを読めばほうほうそんなにホイホイ出会いがあってイイデスナーなんてひがんでしまう、という悪循環。
つまりは、作品以前にこちらの側が問題を抱えているわけで、それでは楽しめなくても当然なのである。
そういう意味では今の自分を反省するいい材料である。これは素直にそう思う。
それをしっかり自覚できるだけでも、この作品には価値がある。

それでもできるだけ客観的に感想を書くと、作者と同世代以外の読者を疎外しているのではないか、という点が気になる。
歴史的な出来事のあった一日を描いているのだから、当然その一日を体験していない人には、リアリティが伝わりづらい。
しかも70年代末から80年代ど真ん中へと至るあの時代の雰囲気を、流行曲や生活スタイルを軸に描写しているのだが、
それがどうにも手ぬるい。同世代にはそれで十分かもしれないが、それ以外の世代にはあっさりしていて物足りないと思う。
特に気になったのは街の描写で、変わりすぎてしまった今の印象にかき消されてしまって、当時の情景が浮かんでこない。
確かに作者を同心円の中心として、確実に青春の記録をカタチにして残した作品であるのは間違いないと思う。
しかし、それに普遍性を持たせることの難しさ(円の中心から離れている読者への求心力)を、あらためて考えさせられた。


2005.5.6 (Fri.)

『サタデーナイト・フィーバー』。ジョン=トラボルタ主演の、(ポーズからして)あまりにも有名なダンス映画。

トラボルタの踊りは確かに凄い。余裕のある学生時代のうちに一度、ダンスを真剣にやってみたかったなあ、と思わされる。
身体をどう使うか、そしてどう表現するかという問題の、そのもっとも原始的かつ本質的なカタチこそがダンスである。
音楽が流れて身体が自然と動いてしまうわけだが、それを極限まで洗練するという技術の恐ろしさが垣間見えてくる。
おそらくかなりの数の人がこのトラボルタの踊りをマスターしようとしたんだろうな、と想像する。
これだけ踊れたら絶対に、日常生活からひとつ、自由になれそうな気がする。

さて、映画のストーリー自体については、おそろしくまとまりの悪い感じがまず気になった。
それぞれのシーン、部分部分が強く主張していて、全体としてのおさまりが悪い。足し算した先の答えが見えてこない感じ。
かといってそれぞれの部分の間をダンスがつないでいるというわけではない。ダンスは重要な要素として、やっぱりそこにある。
だからダンスはダンスで浮いている(というより絶対的な存在として主張しちゃっている)。話の方が呑まれちゃっている印象。

テーマはすごく鋭い。自分のことだけで精一杯の人間たちが、知らずに、あるいは不満のはけ口として人を傷つける現実。
トラボルタ演じるトニーはその事実にとても敏感で、でもどうにもできず、ダンスの腕を磨いてモラトリアムの時間を過ごす。
そして終盤、トニーは怒りを爆発させる。が、そんな彼も同じく人を傷つけてしまう(しまっていた)、という構図はすごく巧い。
けれども、監督の才能のせいか、完成度(おさまり)が悪いせいで、トニーの葛藤はダンスの陰に隠れてしまっているのだ。
まあだからといって、トニーの悩みをストレートに描いていれば、これほどのヒットになっていなかったのも事実だろう。
テーマ性が薄れてダンスの魅力に寄った分、観客はイヤなものを直視しないで済み、グルーヴに集中できたってことだろう。

結論として言えることは、この映画はトラボルタの一人勝ちで、それ以上でも以下でもないってことだ。
ひとりの俳優が世界をその手のひらにつかんだ瞬間が克明に刻まれている映画、という点で、非常に興味深い作品。


2005.5.5 (Thu.)

今日は江戸川区に行ってみることにした。せっかくのゴールデンウィーク、東京の東端まで行ってみようという気になったのだ。

最近は東方面へ出るのに目黒通の白金台周辺を走るのがイヤなので(交通量のわりに道幅が狭いし歩道がない)、
前の職場の近くまで行ってから、国道1号(いわゆる二国)でずっと北上していくスタイルをとっている。
そうして慶応大学の脇を抜け、都営三田線と浅草線のちょうど真ん中にある道を通るのだ。これが一番安全だ。

今回は前に両国高校に行ったときと同じルート、国道14号を東へ行く。まっすぐ、まっすぐ走って墨田区を突き抜ける。
荒川に架かる小松川橋を渡るといよいよ江戸川区だ。東京都の一番東にあるところまで、ついに来てしまった。

特別に目的地を設定しているわけじゃないんだけど、習性ってことで、まずは区役所に寄ってみる。
船堀街道沿いにこぢんまりとたたずむ江戸川区役所は、昔からのいかにもお役所風建物。
典型的な狭隘庁舎って感じだ。それでもきれいにファサードを塗ってあるので、辛気臭いイメージはあまりない。

国道14号に戻って、さらに東へ進む。粗雑なコンクリートとアスファルトの地面というイメージが墨田区よりさらに強烈。
いちおう格子状になっている街区とそれをなぎ倒すような大規模な国道。東京というより千葉の郊外に近い印象すらする。

「瑞江」という文字が見えたので、なんとなく周辺をうろついてみる。後藤真希の地元ということで、マサル的には聖地だ。
いざ走りまわってみると、区画整理が進んでいて、本当に郊外の住宅地。道もこぎれいで、歩道が広い。
遠くに見えるのも、規模の少し大きな更地が点在しているのが目立っている。昔の風景がちょっと想像つかなかった。

めいっぱい東まで来ると、江戸川の河川敷を走る。スポーツをする人、犬を連れてきている人、いっぱいいる。
そんなのどかな光景を眺めながら、風を全身に受けて北上。橋にたどり着いたので、渡ってみる。

市川橋を渡ったら、そこは千葉県。市川駅の周辺は駐輪禁止が徹底されていて、なんとか銀行にごまかして停める。
素早く駅ビルで1.5リットルのペットボトル飲料を買って水分を確保すると、もう一度江戸川区へと戻る。

柴又街道を北に行く。葛飾区に入ると道幅も含めて、江戸川区よりちょっとスケールが小さくなった印象。
途中、柴又帝釈天に寄ってみる。寅さんの街だ。浅草仲見世をぎゅっとコンパクトにした感じの店が並ぶ。
お土産アイテムが所狭しと並べられている浅草とは違い、こちらは漬物や煎餅など食べ物が目立つ。
長時間滞在するのはちょっと難しいかもしれないけど、ぷらっと寄るにはすごくいいサイズの街だ。

それから京成線に沿って金町へ。柏レイソルのサポーターが「金町はもらった」という横断幕を掲げたことから、
FC東京と柏の試合は「金町ダービー」と呼ばれるようになったそうだが、当方アンチ柏なので金町にはがんばってもらいたい。
金町じたいはあまり印象に残らない街だ。三菱製紙の工場跡地が広大で、今後どうなるのか気になるところだ。

国道6号・水戸街道を西へ帰る。葛飾区役所に寄ってみたけど、古い庁舎に1970年代風の庁舎を付け足した感じ。
江戸川区と違って敷地は余裕があったし周囲も静かなので、うまく工夫すれば面白い空間になるのかもしれない。

四つ木橋で荒川を渡ると墨田区。格子状の南側は東京都現代美術館に行くこともあってよく歩くのだが、
この水戸街道沿いの北側に来るのは初めて。でもあまり脇目をふらないで、墨田区役所に向けて走る。

墨田区役所は、悪名高いフィリップ=スタルクのアサヒビールのお隣さん。
江戸川・葛飾のような庁舎とは違い、とても近代的な高層ビル。この差はどこから出るんだろう、と思う。
一度徹底的に調べてみたい気もするが、そのためには学生に戻らないと暇がない。難しい問題だ。

秋葉原にちょっと寄って、イヤな思いをさせられるトラブルに軽く巻き込まれて、帰る。
その相手の怒りは理解できるのだが、それをものすごく慇懃無礼な態度で示してくるので、心底辟易した。
でも警察の方はすごく親切に、かつ冷静に対応してくれたので、わりと落ち着いて家まで帰ることができた。
他人に不快感を与えないことを考えるためのヒントをもらったと思えば、まあいいんだけど。


2005.5.4 (Wed.)

ゴールデンウィーク、このまま終わっていいものだろうか? いいや、よくない!
そんな反語を心の中で反芻しつつ、自転車にまたがって環七を北へと走り出した。
行き先は、地図帳のページを「えいっ!」と開いてみたら練馬区のページだったので、それで決定。

久しぶりに思いきりこぐペダルは、信じられないほど軽い。ぐんぐんスピードが出る。
最高に気持ちがいい。まるで自分が一陣の風にでもなったかのような感覚すらおぼえる。
身体の内側からエネルギーが染み出してきて、それが100%ギアとタイヤに伝達されているのがわかる走り。
──って具合に調子に乗っていたのがまずかった。方南町に出る直前、排水溝のコンクリートのフタが欠けていた。
それにまったく気づかないまま猛スピードでタイヤがぶつかる。当然、ガツッ!とパンッ!の和音が響いて、
一瞬で後輪の空気は抜け出してしまった。つまりパンクだ。
連休のせいで方南町にある2軒の自転車屋はどちらもお休み。仕方なく、店を探しながら環七を歩くことに。
しばらくして和田の商店街で修理。「超」がつくほど大規模なパンクで、ムリヤリ空気漏れをふさいでもらった。

そこからはまた快適な旅に戻る。ほどなくして練馬区に入り、まっすぐ突き進むと練馬駅に到着。
でも特に見たいものもなかったので、そのままフラリと先に進んで、としまえんに行ってみる。
さすがにとしまえんの入り口は人が多かった。でもゴールデンウィークでめちゃくちゃな人出、というわけではない。
今度クイス研究会(要するにHQSの同期)でムダに来てみるのもいいかもなーとなんとなく思った。

そのまま都営大江戸線とほぼ同じルートで光が丘団地に行ってみる。
光が丘団地は多摩ニュータンに雰囲気が似ている。巨大な住宅地というのは、同じような匂いがするものなんだろう。
商業施設のケンタッキーでちょっと遅めのメシを食いつつ読書をして過ごし、キリのいいところで店を出た。
それから光が丘公園に行ってみる。パルテノン多摩の裏山(多摩中央公園)よりは運動施設が充実。
でも全体があまり管理されている感じのない緑で包まれているところは似ている。
くつろいでいる家族連れが非常にいっぱいいて、ゴールデンウィーク中の団地は空っぽだと思っていたからちょっと意外。

都立光が丘高校から西へ進路をとる。途中でちょっと笹目通を北上して、意味もなく埼玉県和光市に入ってみる。
「わあ、埼玉県に入っちゃったよー」と言えば、話を聞いた人は目を丸くするもんだ。そのためだけに寄り道するようなもの。
そして畑とアパートと駐車場が点在するいかにも練馬の風景の中を、走り抜けていく。

西武池袋線の踏切を渡ってしばらく行くと、石神井公園にぶつかる。自転車を降りて、三宝寺池の周りを歩いてみる。
家族連れや熟年夫婦など人出が多く、ここでも都市近郊でのゴールデンウィークの過ごし方が垣間見えた気がした。
それからボートでいっぱいの東側の石神井池を眺めつつ、公園を東へ抜ける。

そこから、こないだ読んだ『プレーンソング』(→2005.4.15)の舞台にもなっていた中村橋に行ってみる。
いかにも私鉄の商店街という雰囲気で、どことなく世田谷区の印象がダブった。
こういう感覚はなかなか言葉にしづらいんだけど、でも確かに感じるわけで、いつかきちんと表現をできるようになりたい。

中杉通を南下して早稲田通に出ると、なぜかまっすぐ帰りたくなくなって、そこから東へと走る。
中野を抜けて新宿区に入ると小滝橋。そこから新宿に向かう途中の二郎で晩ご飯。
小滝橋通の二郎は麺がやわらかめな印象。次に食べるときは「かため」にしようと思った。

練馬まで行っちゃえば埼玉県まで出るのはふつう。練馬まで行っちゃえば新宿経由で帰るのもふつう。


2005.5.3 (Tue.)

『マトリックス レヴォリューションズ』。これでシリーズが完結(前々作・前作のレヴューはこちら →2004.12.72004.12.13)。

今回いちばんの見せ場は間違いなく、ザイオンでの機械とマシンガンロボットの格闘だろう。
CGのヌルヌルした機械を生身の人間が叫びながら迎撃する姿は、まるで未来のゲームのようだ。
ロボットを操る「ミフネ」という人物はどう考えても三船敏郎で、海外から見たたくましいアジア系の象徴に思えて興味深い。

この作品を見てまず思ったのは、「『ドラえもん・のび太の魔界大冒険』を読みたいっ!」というもの。
人間ではない敵の大軍が攻めてくる、その状況から抜け出した主人公は敵の本拠地にイチかバチかの奇襲をかける。
敵の本拠地の光景はまさに、大長編ドラえもんにおける魔界の光景そのものに見えた。
というわけで、この作品は『魔界大冒険』とまったく同じ構造を持っている点が指摘できるだろう。
そして伏線の張り方や途中で話が終わりかけるギミックからして、どう考えても『魔界大冒険』の方がレヴェルが上。
だから『魔界大冒険』を読み直すことで本家の凄みを確認したい、という気持ちにさせられたのだと思う。
(『鉄人兵団』も構造は似ているが、解決の方法がちょっと違う点が別モノだ。やっぱりF先生の作品は奥が深いなあ。)

よくある感想だとは思うが、やはり『マトリックス』は1作目だけでよかった。というのも2作目と3作目は、
世界観が合う人向けの続編なのか一般向けアクション映画なのか、よくヴィジョンが見えないままつくられた。
だから非常に中途半端な感じで、話が広がらない、考える足がかりがとても少ない、そんな印象ばかりになってしまった。

続編映画というのは難しいなあと思う。世界観を壊しちゃいけないし、かといって何かプラスアルファを加えないと飽きられる。
『マトリックス』シリーズではCGだらけのアクションシーンという強みがあったんだけど、2作目でやりつくした分、
3作目では叫ぶアジア系のおっさんしか見せ場がなくなってしまった。スタッフは終わってホッとしているんだろうな。
そう考えると、『ポリスアカデミー』にしろ『男はつらいよ』にしろ、マンネリ(と呼べる領域)を続けられるということは、
やはり偉大なのだ。観客の中にそのドラマが日常として刻み込まれていないと、そういうシリーズものは成立しない。
これは凄いことだ。他者の頭の中に、当たり前のものとして自分の物語を存在させてしまっているのだから。
……『マトリックス』のことを考えたくても、どうしても脱線してしまう。3作目は、それだけ魅力のない作品だったということか。


2005.5.2 (Mon.)

昼休み、千代田区役所で駐輪場の使用許可をもらう。
千代田区豆知識としては、その1:都の特別区であるのをやめて市になりたいと区長が考えている。
その2:役所広司は昔、千代田区役所の職員だったので「役所」という芸名になった。……といったところ。
省エネのためか薄暗い建物の中、椅子に座ってぼんやりそんなことを考えていると、許可証を渡された。
これで本格的に飯田橋での生活が始まる気がした。できるだけ地道に毎日を楽しむ努力をする、その第一歩。

庄司薫『さよなら快傑黒頭巾』。赤・白・青とくる3番目の物語になるのだが、書かれた順としては2作目になるらしい。
その辺はややこしいのだが、まったく気にしないで『白鳥の歌なんか聞えない』(→2005.4.22)の次という感覚で読んだ。

まず、前の2つに比べると今作はやや落ちる、という印象。テーマ性が「ちっちゃく」感じられたからだ。
大学紛争が背景にあり、それをめぐる若者の挫折をそれより下の世代から眺める。
なおかつ、その挫折が自分の未来に訪れることを予感しつつ、上の世代にささやかなエールを送って終わる。

僕が「ちっちゃい」と感じたのは、今回の主人公が傍観者・観察者だったからだと思う。
ドラマのいちばん真っ只中にいるのは上の世代(山中さん・主人公の兄たちのグループ)なのだ。
そこでの力学がまったく描かれず(それを主人公はもどかしく感じる面もあるわけで、さすがそこは巧いのだが)、
主人公は未成年らしいレヴェルで、まるでドラマに巻き込まれないように注意深く、女の子ふたりとデートをして過ごす。
だからちょうどエアポケットというか、最もおとなしい場面を物語は追いかけていくわけで、
それが物足りなさとして感じられたということになるのだと思う。

逆を言えばそれだけ「事件のないこと」「当事者じゃないこと」が日常性としてリアリティがある、という見方もできるだろうし、
主人公が脇役になっている番外編として、彼らの未来が描かれた部分として読むこともできるだろう。
そう考えれば“アリ”かな、という気もする。でも前2作の行動的な主人公が好きな人には、今作はつまらないかもしれない。


2005.5.1 (Sun.)

注文していた自転車を取りに行く。これがあるとどれくらい毎日が広がるんだろう?と思いつつ、上野から飯田橋までこぐ。
タイヤが小さいせいか、けっこう回転数は必要だ。でも街中で乗りまわしているんだ、という感覚がすごく強い。
毎日を少しでも楽しくする、ちっちゃいけど強い味方。これからよろしく、とサドルをポンとたたいて会社の前に置いてきた。

『マルコヴィッチの穴』。公開当時は相当な話題になったし、熱海ロマンでもギャグとして引用したことのある作品。
やっぱきちんと見ておかないとね、と思って今さらだけど借りてきたのだ。

序盤はやはり、その特異な設定が観客を惹きつける。7と1/2階、なんでマルコヴィッチよ?という疑問。
しかし物語が核心へと進んでいくにつれ、それらのツッコミどころは一切の意味をなくしてしまう。
見終わって、開いた口がふさがらなかった。まさか、こんな作品だったとは! 設定だけが見事に独り歩きしていたのだ。

主人公は人形師(としては世間に認められていない)の男。そいつがマルコヴィッチになれる穴を発見するわけだが、
最初は15分だけだったのが、繰り返すうちどんどん時間が延びていく。つまり、マルコヴィッチ自身を演じられるようになる。
この「人形」としてのマルコヴィッチをめぐり、女と、男の妻と、男の会社の社長たちが関わり、物語は新たな展開をみせる。
これは決してコメディなんかじゃない。紛れもなくホラー。現実にはありえないホラーだが、見終わっても気持ち悪さが残る。
でも世間一般ではその側面をまったく無視している。この気持ち悪さに、わざと集団で目をそむけているとしか思えない。

感想は、とにかく気持ち悪い映画。映像じたいも閉塞感たっぷりにつくっていて、こちらがレンズを覗いている感覚になる。
それが「他者の頭の中に入り込んだ感覚」を忠実に表現していて、その面では非常によくできているのは確かだ。
登場人物も、主人公の人形師というのが最高に示唆的で、よくできている。細かい点までしっかり考え抜いてつくっている。
でもだからこそ、見終わったとき、完璧に、監督の意図した100%に気持ち悪くてイヤで怖い、そういう気にさせられる。
そういうブラックなものに耐性のある人には薦められるし、耐性のない人は見ない方がいい、そんな映画だ。


diary 2005.4.

diary 2005

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