『荒野の七人』。自分の中ではすっかり西部劇ブームで、どうしてもはずせない名作である。
この作品が『七人の侍』(→2005.4.9)のリメイクなのは常識だが、それにしてもクライマックスまではほとんど完全に一緒。
ただ、非常に細かい伏線を実にうまいこと入れていて、ラストの違いに独自の美しさを持たせているのが目立つ。
確かに『七人の侍』は西部劇らしさが存分に含まれた映画だ。これを西部劇でリメイクするという発想はまさに正しい思う。
冗長とは言わないが、元ネタのちょっとこだわって丁寧すぎるかなあという場面を、思い切って簡潔にまとめてくる。
もちろんじっくり描いた方がよかったのに、という部分もなくはないが、全体的に見事に娯楽になっているのはすばらしい。ユル=ブリンナーは、勘兵衛(志村喬)にしてはちょっとかっこよすぎるんじゃないのか。なんでもできすぎる感じ。
対して、どうもマックィーンが地味。リメイク権を買ったのがブリンナーだから「目立つな!」と発言権を持っているのはわかる。
しかしマックィーンをもう少し目立たせた方が、むしろユルの印象に深みが出たんじゃないかって気がするのである。
結局、ユルのタフな強さを前面に出した演技のせいか、久蔵(宮口精二)がふたりいる印象になってしまっている。
あの役が人気があるのはわかるけど、リーダーがやっちゃうのはズルいよう、と思う。そしてキャラという点で最大の難点は、一番の若手であるチコことホルスト=ブッフホルツ。
これは菊千代(三船敏郎)と勝四郎(木村功)のミックスキャラと言える存在なのだが、
型破りな菊千代と品行方正な勝四郎を混ぜよう、という発想じたいにそもそも大きな無理がある。
その結果どうしても、どっちつかずになってしまって、三船ほどの圧倒的な存在感が出てこないのだ。
いや、むしろ、逆に三船の凄さがわかる。あのギラギラとした迫力は、並の人間には到底出せるものではないのだ。
さらに言うと、『七人の侍』では身分制つまり農民と武士という階級の差が、菊千代の存在にうまく味付けをしている。
しかし西部劇では身分制は存在せず、アウトロー/堅気という職業(?)選択の自由があるわけで、
やはりその辺は元ネタほどの「農民=平凡な日常生活の強さ」というテーマ性につなげる引力はない。
そんな苦難を一手に引き受けることになってしまったブッフホルツだが、アドリブだという闘牛のマネのシーンはとてもよろしい。『OK牧場の決斗』(→2005.6.26)でもそうだが、西部劇の名作ではガンマンの自己の生き方への苦悩が描かれると思う。
つまり西部劇とは、社会からはずれた人間による社会制度への挑戦だ。家庭とか組織とか、そういう安定に背を向ける。
彼らはことごとく勝つものの、すぐに舞台を去っていく。そこには彼らの一瞬の栄光と、永遠の敗北が描かれているのだ。
元ネタの『七人の侍』にもそういう要素はあった。しかし『荒野の七人』では、その事実にきちんとセリフで言及している。
僕はここに、どうしてもストーリー(理想)のリアル(現実)に対する敗北を見てしまうのだ。
平凡な日常の頑丈さは、ほんの一瞬しか崩すことができない。その一瞬を求めてガンマンは戦いを挑み、倒れていく。
その哀しみを描き出すことこそが、実は西部劇の本質なんじゃないかって気がする。それにしてもエルマー=バーンスタインのテーマ曲はすばらしい。ウルトラクイズのBGMでよくかかっていたし、
YMOが『マルティプライズ』のイントロでパロディしてたりとわりとお馴染みなのだが、あらためてじんわり感動。
調子の悪い日、というのがある。
そんな日も、朝から調子が悪いのならまだいい。「ああ、今日はマズイな」と自覚できるからだ。
問題は今日のように、時間が経つにしたがって調子の悪さがゆっくりと露呈していく日だ。
こういう日には、気がつけばひどく疲れてしまっていて、そのくせ自己嫌悪で頭がいっぱいになって、
もうどうにもならない気持ちになって、家に帰る頃にはただ呼吸をするだけの機械になってしまう。
自分の身体ほど自分から最も遠いものはない、なんて言葉を聞いたことがある。
ふだんはまったく意識しない、自分の思うとおりに身体が動いてくれるという幸せを、身にしみて感じる。
『死亡遊戯』。ブルース=リー主演。
この映画の本質は、ストーリー云々というよりも、ブルース=リーを堪能することにあると思う。
というわけで、考えたことを気の向くままに、書いていってみよう。ブルース=リーの動きは軽い。「軽い」という表現は妥当でないのかもしれないが、そういう印象を受けたのだ。
それも、身体じたいが軽い(体重が軽い)ので、末端がハチドリの羽ばたきのようにすばやい動きをすることができる。
二段蹴りや一度相手にタッチしてからの続くアクションなど、“もうひとつよけいな動き”ができている。
実際、ブルース=リーの体型は徹底的にスリムだ。彼の「ぅアチョッ!」という叫び声は怪鳥音と呼ばれているけど、
そのとおり、彼は鳥なのである。人間を超えて、鳥になろうとしている感じがわかるのだ。この映画で最も特徴的なのは、戦闘シーンにおけるアップの使い方だと思う。
敵とブルース=リーのふたりが対峙しているシーンでは、ごくふつうの映画と同じく緊張感がみなぎっているのだが、
途中でブルース=リーのアップがブツ切りで挿入される。そのときの彼は、その場と関係なくリラックスしているように見える。
まるで、アップのときには彼の心の中を直接映したように見えるのだ。戦いにおける平常心の直接的表現と言えそうだ。
これは面白い。ふつう戦っているときのアップは、観客にその緊張感を伝えるために汗がタラリと垂れるのが常套手段だ。
しかし、ブルース=リーは本当に汗ひとつかいていない。冷静に状況を見つめる目をしている。すごく斬新に感じた。また、ヌンチャクを使うブルース=リーもなかなか面白い。自分の腕を自慢するのと敵への攻撃とが一体となっているからだ。
「やあやあ、遠からん者は音にも聞け」というような武士の名乗りをなんとなく思い起こさせる、優雅な戦い。
ヌンチャクが上手いやつ=強いという単純な構図がそこにはある。そりゃあ子どもはもう喜んでマネをしたわな、と思わされる。そしてなんといっても、ゲスト出演しているカリーム=アブドゥル=ジャバーである。
NBA通算最多得点記録保持者でレイカーズの33番が永久欠番という超スタープレイヤーが、ブルース=リーと戦う。
どちらもムダな筋肉が一切ないのだが、手足のとんでもなく長いジャバーとの戦いは、まるで異次元。
ある意味、人間を超えた者どうしの戦いである。身体というものを知り尽くしている者どうしの、最高にぜいたくな舞い。
これだけでも、一度は目にしておく価値はあるはずだ。
絵本作家の長新太氏が亡くなったそうだ。
実母が保母をしていることもあり、実家の本棚には膨大な量の絵本が並んでいる。
幼稚園児の頃はもちろん読みあさったし、中学・高校時代にもちょこちょこ読んでいた。
絵本の世界は、僕の原点である。むき出しの想像力の勝負を繰り広げては、喜んでいたのだ。数年前に池袋の東武美術館でアフリカ美術をテーマにした展示をやっていて、それを見に行ったことがある。
そのときの第一印象が、「長新太に似ている。……いや、長新太の感性がアフリカ的なんだ!」というものだった。
鮮やかな原色、大胆な構図、コミカルな表情。日本人離れした狩猟民族のグルーヴが、長新太の作品にはあった。そういえば図工や美術の時間に絵を描くとき、まずパレットにさまざまな色の絵の具を出した。
そうして白いパレットに並んだ原色の塊たちを見ていると、不思議と長新太の絵を見ているような気分になったものだ。
こういう形で自分のオリジナリティを子どもの脳みそに焼きつけてしまうなんて、まさにアーティストのなせるわざだ。本当に稀有な存在だったと思う。実家に帰ったら、これでもか!というほど、彼の絵本を読みたい。
『OK牧場の決斗』。ワイアット=アープとクラントン一家の対決を描いた映画で、西部劇の超有名作品。
序盤はドク=ホリデイを中心に話が進められる。ドクがワイアットに借りをつくったのがきっかけで、
ふたりに奇妙な連帯感が生まれるところが丁寧に描かれる。言葉ではない、本能レヴェルで認め合っている感じ。
彼を殺して名をあげようとする者があまりにも多いため、ドクは超トラブルメーカーとなってしまっている。
そんな彼が、借りだなんだかんだと言いながら保安官のワイアットと行動を共にするその関係が、なかなか熱い。この映画は、もう本当に純粋に、男(「漢」という字を使いたくなるくらいに)同士の友情を真正面から扱った作品だ。
隅から隅まで男くさい。女と家庭は男のロマンの邪魔!という主張が、全編を通して繰り返されているのだ。
ワイアットは女より兄弟の絆をとるし、ドクは女に翻弄される。保安官の仕事に家庭は足かせ、というシーンもある。
西部劇は勧善懲悪で、クラントン一家にしてみたら牛泥棒で金を稼ぐのが男のロマンになるわけなんだけど、
そのクラントン一家においても、女性は男のロマンに噛みつく存在。この視点がとにかく徹底している。
そんなわけで、女性の扱いが実に悪い。フェミニストは絶対に見ない方がよろしい。それくらい、男の世界なのである。この決闘じたいは実話であり、アメリカ国民なら知っていて当たり前、という認識があるのかもしれない。
そのためか、話の進み方は淡々としていて、もうちょっと盛り上げる工夫をすればいいのに、という箇所がいくつかあった。
まあそれは時代の違いによる感覚の違いなのかもしれない。奇をてらうことのない王道のつくり、という表現もできるだろう。
(途中でいかにも西部劇っぽく、主人公たちを勇気づけるような挿入歌が入るように、もうコテコテのつくりなのだ。)
そう考えれば確かに、ムダのないオーソドクスな仕上がりになっていることがわかるのである。さて、ワイアットとドクは貸し借りの関係でつながったが、OK牧場での決闘の段階ではその貸し借りは清算されていた。
しかしワイアットはドクの腕を必要とし、ドクは「唯一の友のそばで死にたいんだ」と結核で瀕死の体をおして仲間に加わる。
ここには貸し借りではなく、純粋な友情、信頼関係がある。監督が描きたかったのは実はここであって、
序盤からのやりとりはこのための布石だったのかな、と思う。だとすれば、恐ろしく計算しつくされた展開である。さすがだ。全体を通して、善悪ははっきりしているし主人公たちはかっこいいしで、古き良き時代の物語の典型である。
小難しいことを考えずに、少年マンガ的な熱さを楽しみたいのであれば、ぜひ体験していただきたい作品。
circo氏が上京してきた。外苑前で待ち合わせのつもりを「表参道」と勘違いしたメールが来たので、炎天下を歩くことに。
途中でとんでもなく脚が長くてとんでもなく美人の女子高生を目にして息が一瞬止まった。ハーフだかクォーターだかっぽい。
眼福じゃのう、回り道も悪くないのう、などと思いつつ大股で青山通りを東へ行ったらスタバの前にcirco氏がいた。潤平が合流して近所のカフェに入ってダベる。時間がないせいもあって、なんとなく散漫な会話。なんだかもったいない。
それからcirco氏とふたりで渋谷に行って、フォーマルな靴を買う。
その後、新宿に移動して紀伊国屋で『ドン・キホーテ』の文庫本ボックスセットを予約する。
で、思い出横丁でいかにも思い出横丁風なうなぎ丼をいただく。そして解散。今回はわりと軽めでしたな。
『バトル・ロワイアル 特別編』。深作欣二監督の遺作だかなんだかよくわかんないけど、かつての話題作。
本当に、始まって最初の5秒でイヤ~な予感がしたのだが、その予感は見事に当たってしまった。
今までそれなりにつまらない映画を見てきたけど、文句なしでトップを更新。これは本当につまらない。
深作欣二には映画監督の才能がないんじゃないかとすら思う。これを見る限り、世間での評価がまったく理解できない。小説の方を読んでいないのでなんとも言えない面もあるんだけど、見せ方がものすごくヘタクソ。
オープニングを見て、「あれ? オレは間違えてメイキングを借りてきたんかな?」と思うくらい。雑なダイジェストみたい。
クラス全員で殺し合い、というアイデアについてはいずれ小説を読んで感想を書いてみたい。だからそこについてはパス。
にしても、まるで暴力という行為だけをとってつけて切り貼りしたようだ。ストーリーのことなんて少しも考えていない。
ではその純粋な暴力の描写が目的だとしたら? だったら、2時間の映画をつくるべきではない。映画をナメてるんとちゃう?中でも一番ひどいのはセリフのクオリティだろう。それぞれのキャラに印象的な言葉を言わせようとして見事に空回り。
見ているこっちが逆に冷めちゃうような、まったく「生きている感じ」のしないセリフばかり。少しもリアルではないのだ。
しかも役者の演技力に問題があるので、そのセリフの気持ち悪さが倍増している。もう、目も当てられない。この世界ではBR法が数学でいう公理のようなものになっていて、まずこれをきちんと説明しないと話が成り立たないはず。
そしてそのプロセスをすっ飛ばしたツケが、ラストにきていると思う。誰もが思いつく安直なラストでごまかしている印象。
結局この作品は、臆病な大人の作品だと思う。子どもが理解できなくて(理解できるとナメて勘違いしていて)、怖くなって、
逆に子どもを遠いところに追いやることで安穏としている。それは子どもに対する敬意を欠いた、最悪のやり口だと思う。
もともと他人をきちんとぜんぶ理解できるなんて幻想なんだから、子どもだけを遠くに追いやるのはフェアじゃない。
朝起きてテレビを見て愕然とする。タイマー録画をしておいたはずなのに、録れていない!
ビデオテープが寿命だったようで、1秒たりとも録れてなかった。肝心の日本×ブラジル戦、見事に見逃してしまった。それからもう悔しくて悔しくて、できるだけスポーツニュースをチェック。そのたび、見られなかったことがさらに悔しくなる。
中村俊輔のミドルにしろ大黒のシュートにしろ、生で見ていたら興奮して血管が切れるんじゃないかってくらい迫力がある。
得点シーン以外もかなり白熱した展開だったようで、それを90分間じっくり見られなかったことを、心底後悔するハメに。しかしこの置いてけぼりの感覚、疎外感はなんなんだろう。いつもなら周囲が盛り上がっていても、
「大したことないじゃん」なんて無理に思ってごまかして済ませることが多いんだけど、
今回はそうはいかないのが、もう肌でわかるのだ。逃した魚の大きさに、地団太を踏む。でもどうしょうもない。
来年の今ごろこんな思いをしないように、きちんと設備投資すべきなんだろうか。お金ないのに。
川崎美羽『.hack// ANOTHER BIRTH Vol.1 感染拡大』。
ゲームをやっていないからよくわからないんだけど、サブタイトルが一緒なので、話はだいたい一緒と思われる。
設定を見てまず愕然。みんな考えることは一緒なんやなあ……と思う。まあそんなもんだ、と思いつつ読み進めた。
とにかく、めちゃくちゃテンポがいい。ややあっさりか、という気もするが、読むのが苦にならないのはいいことだ。
もうひとつ、この話ではリアルの方も重要性を持っているのがいい(設定上、当たり前なんだけど)。
リアルでの葛藤がゲームで影響するといった相関性がきちんと扱われていて、そこは好感が持てる。
ただ、テンポのよさが重要な場面の掘り下げの浅さとなってしまっている印象もある。
ゲームをやった人なら自分の記憶とミックスして読めるわけで、端折られた部分を補うことができる。
だからこの小説は、ゲーム経験者向けなのかもしれない。小説単独では、正直物足りない。川崎美羽『.hack// ANOTHER BIRTH Vol.2 悪性変異』。
前巻からあまり話が進んでいないように思えてしまうのは、スイスイ読めてしまうからだろう。テンポのよさも良し悪しだ。
ゲームの管理者側から任務を与えられる形で真相を追求できるようになった主人公たちだが、事態はどんどん悪化する。
そしてゲームでの汚染が現実にも飛び火したのか……?と思わせるところで終わる。この引き方は緊張感を持続させる。
ゲーム内容に忠実なためか、このシリーズは番外編よりも登場人物が多い。メインの3人以外はわずかずつの登場だが、
この手の冒険モノは、人数が少ないよりは多い方が話が充実する、という事実が確かめられる。
おそらくVol.4まで出るのであろう続編で、うまくまとめてくれることを期待したい。「やはり」なのか「なぜか」なのか、昨日の日記で扱った番外編より、メインのストーリーを描いたこちらの方がまだ楽しめる。
書いた人が1982年生まれというのを見て、思わず顔をしかめてしまったわけだけど。
シリーズをある程度読み終えたので、ひとつひとつ検証していくことにしてみよう。
浜崎達也『.hack// AI Buster』。ゲームを中心に考えると、かなり番外編に位置する話、のようだ。
ネタばらしになってしまうので詳しくは書かないが、それまでの主人公たちとは逆側の視点から書かれている。
そのことがラストで一気に暴かれるのだが、特にどうということはない。特別巧いわけでもないし。
登場人物が少ないので、どうしても中身が薄い印象を受けてしまう。逆を言えば必要最小限のドラマにとどめている。
ゲームだとかこのシリーズの世界観が好きな人ならヴァリアントのひとつとして受け入れられるレヴェルなんだろうけど、
そうでない人は「ふーん」で終わってしまう。一見さんを引き込むほどのものではまったくない。横手美智子『.hack// ZERO Vol.1 ファントム・ペイン』。
アニメの脚本で見かけたことのある名前なのでちょっと期待していたけど、まるっきりハズレ。
まずリアルでクセのある設定を用意したにもかかわらず、それをゲームの方で全然活用できていない。
ふたつの世界がプレイヤーの身体を通してつながっているところが面白いのに、そこを一切扱わないで、
リアルでは摂食障害(厳密には違うかもしれないが)、ゲームではPK(プレイヤーキラー)と問題が別々のまま横たわる。
文章もどうもピントがズレている。一定の表現力はあるのかもしれないが、何を表現するための文章か、目的が見えない。
まあそれもまだ「Vol.1」だからかもしれないが、この進度ではラストが駆け足になって消化不良になりそうな予感がする。
とにかく、自分で書いて自分でそれに酔っているようなこの手の文章は、まったくもって好きになれない。角川のスニーカー文庫って、こういうレヴェルなのか。スルスルと読めるけど、まるで中身がない。
眠い。眠いのはいつものことだが、今日の眠さは格別だ。
というのも、試合終了までしっかりと、コンフェデ杯のギリシャ戦を見てしまったからだ。ヨーロッパとの時差は深刻だ。
だけど少しも後悔していない。久しぶりに、本当にいい試合というものを見せてもらったような気がする。この日の日本代表は、いつになく凄みがあった。とにかくシュート、シュート。ひたすら打ちまくる。
いつもならゴール前でフリーになってもパスを出しちゃうくらいに消極的なのに、そんな迷いなど一切ない。
また、選手と選手の間のスペースが小さく抑えられているように見えた。均等なごま塩みたいに詰まっている。
DFへのバックパスもまったくなかった。とにかく攻める姿勢が前面に出ていて、見ていて気持ちがいい。
あれだけ攻めておいて点が取れないのか、という指摘も当然あるだろうけど、その「あれだけ攻める」ができたのは大きい。
カードもほとんど出なかった。終始クリーンなゲームで、観客が退屈することはなかったはずだ。
僕はサッカーについては完全に素人なのだが、それでも最近のJリーグは面白いと思うし、
そうした中で代表が守備だけでなく、攻撃のレヴェルをメキメキ上げてきたのも直感的にわかる。
日本のサッカーは、素人も納得させられる見ていて愉快なサッカーができるところまで、ついに来たということなのだ。去年のEURO2004はわりと丁寧に見ていたので、ギリシャの集中力についてはわかっていたつもりだ。
いまだに、CKから空中で一瞬、完全に静止してヘディングを決めたあのシーン(→2004.7.5)が脳裏に焼きついている。
そのヘディングとセットプレーに関する技術の精密さは健在で、見ていて何度もヒヤヒヤした。
それでも4バックがサイドを抑えているので決定機は与えない。僕はパスをもらうと止まってしまう加地が好きじゃないのだが、
この日はのっけからシュートを狙っていってかっこよかった。昨日で初めて加地の存在を認めた。偉そうな書き方だけど。日本のサッカーは素人でも面白いレヴェルに来た、と書いたけど、それを象徴しているのが大黒だと思う。
味方がお膳立てしないと決められないFWと違い、大黒は自分の力でゴールをこじ開ける。
ついにこういう選手が日本に現れたかー、としみじみしてしまう。本当に、サッカーが面白い。
『アンタッチャブル』。禁酒法下のシカゴを舞台に、アル=カポネをしょっぴくべく奮闘する連邦調査官たちの活躍を描く。
僕らが小学生のときにかなり流行していた記憶がある。TSUTAYAで目に入ったので、迷わず借りてきたのだ。大まかな点では、非常に熱い作品だ。友情・努力・勝利という少年マンガの方程式に完全に乗った作品である。
「アンタッチャブル」のメンバーは4人だが、それぞれに個性が強調されていて、キャラごとの魅力がある。
郵便局に乗り込んだ最初の捜査の後にレストランで撮った4人の写真が本当にかっこいい。
それだけに残念なのは、4人が集まるまでの経緯がちょっと簡単すぎるかな、ということ。
ベテランのマローンとの出会いはしっかり描いているからいいとして、
カポネと同じイタリア系だけど自分なりに正義を貫く若手のストーンについてはちょっとあっさりだし、
脱税で告訴するというアイデアを出す文化系のウォレスに至ってはいつの間にか応援で来てた、という扱い。
主役のエリオット=ネスだけでなく、メンバーにもうちょっと焦点を当てた方が、より熱く仕上がったはずだ。
(やはり『水滸伝』の構造は永遠なのだなあと思う。映画を見れば見るほど、マンガを読めば読むほど。)
まあとにかく、熱い少年マンガが好きな人なら間違いなく気に入る作品だ。良質のエンタテインメントである。気に入らないのは、駅での銃撃戦(『戦艦ポチョムキン』(→2004.11.11)をオマージュして乳母車を転がすシーン)。
ストーンがめちゃくちゃかっこいいし、最後の切り札を確保する重要なシーンなのはわかるんだけど、いかんせん長い。
スローモーションでじっくりやるので、飽きがくる。この場面で必要なのは、むしろスピード感だ。
見せ場だからといってそこだけに力を入れるのは、フジテレビのやり口だ。他の部分とのバランスが欲しい。
特に重要な人物が殺された直後のシーンなのだから、それを引き受けたうえでの表現であってほしかった。
ここのシーンだけクローズアップされるのは、それ以外のシーンがないがしろにされているようで、残念。あと、エンニオ=モリオーネの音楽も、喜怒哀楽を直接的に表現しすぎているような気がする。
もうちょっと複雑な感情の絡み合いを誘発するような、多元的な展開をしてほしかった。偉そうな書き方だけど。ともあれ、エンタテインメントとしての面を離れても、法と正義の関係をきちんと描いている点で好感が持てる。
法を守る立場からカポネ逮捕を目指すネスだが、非人道的な「捜査」(つまり殺人)をしないとカポネは捕らえられない。
そしてネスは法よりも正義の追求を優先する。正義とは、無事に家に帰ること、つまり街の不安を取り除くことだ。
ラストでは、禁酒法の廃止が記者から告げられる。だが法に縛られない正義を見つけていたネスは、
自分を見失うようなことなど微塵もなく、ふつうに家へと帰っていった。なるほど、よくできている。結論としては、2時間では短すぎるのだ。もっとじっくり、できれば連続テレビドラマがいい。
そうして仲間が集まるのをじっくり描き、カポネをじわじわいぶり出すのも丁寧に追っていってほしい。
それぞれの脇役にも焦点を当てて、仲間が殺されたときの悲しさをもっと観客に味わわせるべきだ。
1時間×1クールのドラマだったら、本当に面白いものができあがるはずだ。
映画という限定されたサイズなのが、めちゃくちゃもったいない作品だと思った。
……と思って調べてみたら、アメリカでは4年にわたってドラマが放映されていたようだ。むしろそっちが映画の元ネタ。
いったいどんな展開をして、どんなデキだったのか。けっこう気になる。
新宿に出かけて買い物をする。最近はすっかり、ひとりでのお出かけがさびしい。
原因はわかっちゃいるけど、こればっかりはどうしょうもないのでガマンするしかない。そう、耐えるしかないのだ。がっつりといろいろ買ってきて、ノートパソコンに接続する。もうほとんどデスクトップVAIOと遜色のない設備になる。
ネットもできるし、ゲームミュージックを中心にMP3もしっかり入っているし、「satellite-2」という名前をつけたけど、
全然「衛星」って感じじゃない。ここまで充実していると、VAIOがかわいそうになってくる(そういえば、まだ名前もつけてない)。考えてみればこっちに引っ越して以来、デスクトップVAIOは現役のままなので、もう5年目になる。
買った直後に製造終了になったモデルだが、一度も修理に出すことなく、いまだに健在なのはうれしい限りだ。
そんなベテランをベンチウォーマーにするようなマネをして非常に申し訳のない気持ちもあるのだが、
こうでもして気分転換ができるようにしないと日記が書けない、という末期的状況なのもまた確かなのだ。しかし携帯電話にしてもノートパソコンにしても、「動けるもの」が優位になってきているような気がする。
どっしりと重量と体積をもって空間を占めるものが取り残され、軽くて移動するものにとって代わられる。
そしてそれは人間にも言えることなのかもしれない。もっと軽くならなくちゃ、と思ってみる。それにしてもまとまりのない日記だな!
なんとなく、「サテライト構想」というものを練ってみた。「サテライト」なんていうと大げさ大袈裟だけど、
その実態はなんのことはない、セカンドマシンを購入していく計画だ。目的は、日常生活を少しでも快適にしていくため。
第1弾は自転車で、これはもう飯田橋でバリバリ活躍している(→2005.5.1)。おかげで、予想以上に快適。さて今日はその第2弾ということで、ノートパソコンを購入してきた。
帰りに秋葉原に寄って、アウトレットの品を買った。性能は、いま使っているデスクトップのVAIOとだいたい同じ。
別に本格的に持ち運ぶわけでもないし、寝床で日記が書ければそれでいいのだ。
新しいオモチャが増えて、またひとつ僕の部屋はにぎやかになってしまった。とりあえず最低限のアプリケーションをインストールしていく。そして、デスクトップからiPodを使ってデータを移す。
そうしてこうやってノートの方で日記を書いていく。ああ、なんと優雅な生活だろう!
これでマウスやらLANケーブルやらを買い足していけば、完全にデスクトップと同等の機能になってしまう。
そうなったらVAIOの存在意義も揺らいでしまうのだが、そこはうまく使い分ける工夫を考えるのも楽しいのだ。1ヶ月後、どういう状態になってるんだろう。想像がつかない。ああ、楽しい。
『駅馬車』。ジョン=フォード監督でジョン=ウェイン主演のやつ。
西部開拓時代、偶然に1台の駅馬車に乗り合わせて街へと向かう人々の姿を描いた名作中の名作。序盤はカットを変えて駅馬車に乗る面々を紹介していくので、『グランドホテル』(→2003.11.30)を見ている気分。
そうやってじっくりとドラマの下ごしらえをしているわけで、期待感がぐんぐん高まっていくのだ。いざ駅馬車に乗り出してからは、会話劇の様相を呈してくる。これがすごく巧みだ。
南北戦争をめぐる言葉の表現から登場人物の性格を描く、彼らの親しさの差を生かして観客に状況を知らせる、
当たり前のように見えて実はけっこう難しい基本事項を、さも平然とやってのけている。
話が進んでいくと、乗客たちの関係はしだいに変化を見せてくる。そのなめらかさも、実に上手い。
さすがはオーソン=ウェルズ先生が『市民ケーン』(→2003.10.22)を撮るために、狂ったように何度も見たという作品だ。
そしてこの作品が本当にすごいのは、会話が観客に情報を与えつつ、新たな謎を提示する点だ。
会話の内容が深くなるにつれて、「実は……」という意外性がどんどん示されて、物語に引きつけられてしまう。
平田オリザ『演劇入門』(→2002.6.23)の立場からすれば、これは究極の作品ということになるだろう。
それくらいリアルで、緻密。徹底的につくり込まれた「当たり前」は、見ていて美しさすら覚える。さらに恐ろしいのは、モニュメントバレーの雄大な風景だったり軽快な音楽だったり、娯楽としての完成度も高い点だ。
ただすばらしい会話劇、で終わるのではなく、観客が素直に喜べる工夫をきちんとしっかり盛り込んでいる。
このバランスがとてもすばらしい。ヒントとなる会話とエンタテインメントの両方の要素だけで構成されていて、
本当にムダなくつくられていることがわかる。90分という時間にセリフと景色と達成感が凝縮されている。ぜひとも、今の時代だからこそ見てほしい作品。極限まで贅肉がそぎ落とされ、
なおかつギッチリと中身が詰まっており、一瞬たりとも目が離せない。スポーツ選手の身体のように美しい作品だ。
『ウェストサイド・ストーリー』(→2005.4.26)のサウンドトラックCDを借りてきた。
映画のDVDを見ていて特に圧倒されたのが、『Quintet』と『Cool』である。『Quintet』は、登場人物それぞれに特別な意味を持つ「tonight」を、それぞれの立場から多角的に歌ったもの。
まったく別の場所で別の人物がそれぞれ別のフレーズを歌っているのが、まず順番に示されていく。
でもそれは同じ時間に起きているということで、別々だった歌が最終的に直接ひとつになって、終わりへと向かうのだ。
同じ時刻にまったく別々の気持ちで別々のことをしていても、それがひとつに集約される、という事実を、
本当に見事に音楽という芸術を使って表現してしまっているのだ。こんなのをサラリとやられちゃ、ぐうの音も出ない。もうひとつの『Cool』は、純粋に楽曲として有名なので、知っている人も多いかもしれない。
ガレージでこれを踊りながら歌うシーンもよくパロディされている。素直にかっこいいシーンだ。
そして「熱くなるな、クールにいけ」という歌詞。よくすぐにテンパってしまう自分には、ぐっとくるものがある。際限がないからなあ、と今まで食わず嫌いでいたのだが、こういったミュージカルの音楽についての知識も欲しくなってきた。
ホント、世の中には勉強しなくちゃいけないことが多すぎて困る。
雨の日には、昼休みのお出かけはしないで、弁当を社内で食べることにしている。
で、その注文をしようと紙に日付と名前を書こうとして、気がつく。
僕にとっては、この6月14日というのは、ちょっと特別な日なのだ。理由は、小・中が一緒だった仲間は知っていると思う。
自分の誕生日よりもだいたい半年早いこの日は、自分の立ち位置について一種の確認をする日になってしまっている。
なんとなく、今年は「ちょっと信じられないなあ」という感覚だ。そう、信じられない。
僕らが着実に歳をとっていって、何かから遠ざかって何かへと近づいているのが、信じられない。
10月まであと半年ほど。何に対してかはわからないが、とにかく「負けないぞ!」と叫びたい気分になった。
最近、軍とヤクザの違いについて考えている。
もうちょっと詳しくいうと、法律で規定される正規の軍隊と、私兵組織・暴力組織との違いについて考えている。
(※これから書いていくことは、すべて勘・思い込みで書いている。きちんと勉強したわけではないので留意してほしい。)「ヤクザとは何か?」という疑問に対する答えは、さまざまなものが存在すると思う。
とりあえず僕が注目しておきたいのは、「既得権益の維持を最優先とする、家父長制度による組織」という側面だ。
実際に関わったことがないので、あくまで予測というか予感でしかないのだが、ヤクザというものは、
既得権益の維持という点については相当敏感である。既得権益を守るために、非常に強力な暴力を保持・発揮する。
さらに、組織は家父長制度により成り立っている。もちろん多数決で意思決定をする場合もあるのかもしれないけど、
組織のトップは構成員の内部から選出され、ひとつの家族の長としてふるまうことが一般的であるように思う。対して、軍隊は法律により規定された、国家による暴力の独占を具体化した組織である。
国民国家においてはシヴィリアン・コントロール(文民統制)が実現されており、軍をまとめるポストには非軍人が就く。
軍隊は法律にもとづく以上、自らの権益のためには動かない。法律の拠って立つところの国家という上位の組織のために、
暴力を保持・発揮する。つまり、自己(組織)の目的のために手段としての暴力を保持・発揮するのがヤクザであるなら、
軍隊は自己の外(国家)にある目的のために手段として暴力を保持・発揮する。暴力の目的に決定的な違いがある。歴史的な面から考えると、国民国家成立以前はどこまでが軍で、どこからが私的な暴力組織なのか、という問題がある。
たとえば封建制では国王・領主が軍隊を保持した。当時の法律と照らし合わせて、その正統性は考えられるべきだろう。
ヨーロッパでは永く王の軍隊が衝突を繰り返した。やがて王の権威を拠りどころとする軍隊は、「公」の位相がズレて、
国民国家が成立するとともに、多数の国民のために暴力を保持する組織としての軍隊へと変質を遂げる。
軍隊という存在は、暴力という直接的な力を持っているがゆえに、なめらかに着実に、近代化とともにその姿を変えたのだ。
(『水滸伝』を読むと、梁山泊の頭領・宋江は、最終的に朝廷の軍隊に帰属して賊軍の討伐へと向かうことになる。
山賊から私兵組織、そして正規軍へという流れは、暴力の位置と軍隊という存在について考えるうえで参考になるはず。)
また現代の問題としては、軍事力と国家の関係を問い直すことで、国民国家・民主主義について考えることもできる。
たとえば南米やアフリカやアジアの一部でおなじみの「軍事政権」「私兵組織」という語彙は、どのような意味を持つのか。
そもそも法律より先に軍隊があるのか、軍隊より先に法律があるのか、どちらの認識を重視していくのか。
もし後者が「正しい」のなら、それはいつから自明のこととなったのか。そういうレヴェルから解きほぐして考える必要を感じる。日本で考えてみた場合、鎌倉幕府の成立がひとつのキーになりうると思う。
天皇から征夷大将軍という役職をもらった源頼朝が、鎌倉を首都とする軍事政権を成立させた、と考えられるからだ。
この武士による軍事政権という流れは約700年続く。この期間は、いわば軍事が先導して法律を後づけしていった時代だ。
明治維新になると、政権は天皇のもとに戻る。階級を否定するという手段によって武士たちから暴力は取り上げられ、
国家による管理が徹底されることになる(それへの反発が、西南戦争をはじめとする士族の反乱だったわけだ)。
並行して徴兵制度が採用されたことで、暴力に対する文脈は近代化とともに大幅に形を変えることになる。
しかし軍隊が政治を動かす軍事政権的な流れが再び日本を包み込み、数々の戦争を経て第二次世界大戦に向かう。
そして敗戦によって軍隊が放棄され、かつ自衛のための暴力は憲法に正式には規定されないままで存在し続けている。改憲だの護憲だの言う前に、まず軍隊と国家と法律の関係を整理することが急務だ。
これをスルーしたままでは、同じことの繰り返しになる。それも、ただの軍事オタク的な視野でなく、
法学・政治学からの視野による暴力の位置づけを、きちんとまとめないといけない。そうして軍隊とはそもそも何なのか、
暴力を法律を通して独占することの意味をはっきりさせておかないと、議論のベースがまったく成り立たない。
どうも今の風潮を見ていると、こういった基本的な部分を考えず、好き嫌いで軍事力の位置づけを語る傾向が目立つ。
ヨーロッパやアジアの歴史における政治体制と軍事力の位置関係の変化、それをじっくり見つめないで済ませるのは、
非常に危険なことだ。法学・政治学から見た軍事の歴史を真剣に論じることが、タブーであってはならない。
危険な暴力を扱うからこそ、理性を最大限に発揮する必要がある。見て見ぬふりは、最も理性的でない対処なのだ。とはいえ、そういった「政治がいかに暴力をコントロールしようとしてきたか」の歴史は、扱う対象が無限に広くなることもあり、
なかなかこれだー!というような決定打になるような本が一般向けに出ていないジャンルでもあると思う。
誰か頭のいい人に書いてもらいたい。右翼だろうと左翼だろうと保守だろうと革新だろうとじーちゃんだろうと子どもだろうと、
どんな人でも読めば自分なりの立場を自信を持って示すことができるようになる、そんな本を書いてほしい。他力本願。
そんなわけで今日こそが本物のバレーボール大会。遅刻しないように余裕をもって会場入りできた。
バレーボールはベテラン社員の方が非常にやる気で、それに対して僕らはバレーボールは学校の授業以来、という有様。
いちおう練習をしてみるが、レシーブってこんなんだっけ、サーブってこんなんだっけ、の確認で終わってしまう。いざ試合が始まってみると、まるで思うように動けない。身体がバレーボールの感覚を、すっかり忘れてしまっているのだ。
バレーボールは上手い人になると、まずサーブの軌道からして違う。ボールがまったく落ちないのだ。
だから上でレシーブするのか下でレシーブするのか、そもそもどの位置でレシーブするのか、
距離感がまったくつかめないまま中途半端なミスをして、相手のポイントになってしまう。
おまけにやる気いっぱいのベテランの方がコート全域を走りまわって拾おうとする。
「ジャマ!」ってそんな、ポジション割り込まんでください……。
そんなわけで慣れないままで試合終了。勝ったけど。2回戦もまったく同じ具合で、すっかりバレーの感覚を忘れてしまい、いいところがひとつもないまま終了。
相手のサーブをまともに拾うことすらできなかった。こんなに感覚が衰えていたのかと、ただ茫然。結局、2回戦敗退で大会は終了。昼だってのに駅前の中華料理屋でビールをいただく。
でも1勝したのは8年ぶりくらいということで、皆さんけっこう喜んでらっしゃる。
なんつーか、まあ、よかったですねえ、といったところである。
出版健康組合だかなんだかのバレーボール大会ということで、僕ら1年生は選手として駆り出されることになった。
会場の体育館が板橋区ということで、三田線の駅から30分ほど歩いていくルートをとることにした。
ところが電車に揺られる時間を甘く見ていたせいで、駅から体育館まで全速力で走らないと間に合わない。
必死で走るが梅雨の湿り気とちょっと複雑な道のせいで、結局タイムオーヴァー。土下座するつもりで体育館に飛び込む。
と、そこでやっていたのは卓球。バレーではなく、卓球の試合が行われていたのだ。ようやく気がついた。僕は日程を間違えていたのだ。
つまり、バレーボール大会が行われるのは明日なのだ。汗びっしょりになりながら、しばらく愕然として立ち尽くす。しょうがないので池袋で本を買って帰る。家に着いてもまだ昼前。
休日を有効活用できたような、そうでないような、複雑な気分になりながら一日は過ぎていった。
『バックドラフト』。テーマ音楽が『料理の鉄人』に使われて有名なアレ。
決してつまらないわけではないのだが、面白いとは言えない映画だった。
犯人探しのミステリなのか、火と戦うアクションなのか、それとも家族がテーマのドラマなのか。いろんな要素が混じっている。
速い展開の中で、火との格闘を中心に、見せるべきところは過剰なくらいしっかり見せて、犯人探しを淡々と進めていく。
いろんな問題を散りばめつつ火災現場のシーンをひたすらフォトジェニックにやるもんだから、すごく中途半端な印象が残る。
そんな具合に、結局どこに焦点を当てて見ればいいのかわかんないまま、クライマックスに突入していった。
好意的に解釈すれば、あらゆるエンタテインメントがてんこ盛り、というように考えられなくもないのだけれど。
でもやっぱり、欲張りすぎだと思う。足りない要素は、仲間との絆か。ここが割を食った分、個人的に感動は薄かった。
主人公の友人がひとりいて、彼がバックドラフトに巻き込まれる。それが主人公の怒りの根源になっているのはわかる。
でも消火作業ってのは本来チームプレーであって、個人の活躍はあくまでその中の一部にすぎないものだろう。
チーム全員が怒る描写が足りないため、どうにも見ていて薄っぺらい。主人公に的を絞りすぎて、視野狭窄な印象だ。
全体を通して、視野狭窄なくせに無理やり幅広く感動させようという演出が目立っていて、違和感があるのだ。何をやっても中途半端な主人公が挫折を突き抜けて、父や兄とは違ったタイプのプロになる、という点は評価したい。
父や兄はストレートに火災現場にぶつかっていくタイプ。それゆえ、いつも死の危険と隣り合わせにある。
しかし主人公は現場から鑑識にまわされ、外から消防士の仕事を冷静に見つめる機会を得る。
そこでの経験を持ち帰った彼は、自分の身を削るだけではない、決して死なないで任務をこなすタイプの消防士となる。
「臆病」ゆえにできること、「臆病」ゆえにたくましいこと、「臆病」ゆえに強いことを描くのに、しっかりと成功している。
この点はハリウッドにありがちな短絡さとは一線を画していて、見ていて深く納得できるところだ。ただやはり総合的にみて、この映画の展開の速さと要素の盛り込みすぎな点とのバランスは、致命的なレヴェルだと思う。
もっと要素を削り、何を描きたいのか焦点を絞るべきだったのではないか、と僕は考える。
具体的には、自分の好みで言わせてもらえば、兄の家庭については思いきって削ってしまってかまわないと思う。
その分、消防隊のチームについて深く描写をした方が、より感動的な話に仕上がったのではないか。
あともうひとつ、火災現場の火との格闘も冗長なので削ってしまっていいと思う。
「フジテレビ的」というか、宣伝で使える部分ばかり力を入れている感じがした。ぜひ改善していただきたい。
ソフォクレス『オイディプス王』。
去年の関西旅行のときに読んで(→2004.8.5)、そのまま感想を書いていなかったので、今さら書いてみる。
僕が読んだのは岩波文庫版なのだが、解説がシンプルによくできているのであんまりいろいろ書く気がしないんだけど、
個人的に興味のある部分だけをかいつまんで書いてみよう。オイディプスが自分の父親を殺し母親を妻とするという筋は、非常に無理があるわけだ。現代の感覚では。
しかし古代ギリシャでは、当時の感覚で最もむごいことをすべてオイディプスにやらせてみた、というところだったのではないか。
でもそれをオイディプス本人が知っていてやらかしたのでは、悲劇でもなんでもなく、ただの変質的な凶悪犯になってしまう。
スフィンクスの謎を解いた英雄が逆らうことのできない運命に翻弄され、知らず知らず罪を犯すから、物語として成立する。
だからその事実が露見するのを、できる限りショッキングに描いていくことが、そのすべてということになる。
そういう観点からこの作品を読まないと、きちんと味わったことにならないと考えるのである。では、この作品はどんなふうにつくられているのか。
発端は、先代の王・ライオス(オイディプスの父)を殺した犯人を徹底的に捜そうとオイディプスが躍起になること。
何も知らないでいればよかったのかもしれないが、人間、そうはいかない。真相を追究すべく、オイディプスは動く。
やがて連れられてきた証人は、何も知らずに善意で事実を語る。あるいは、オイディプスに迫られて仕方なく語る。
そうしてオイディプスこそがライオス殺しの真犯人であると明らかになり、妻のイオカステが実の母であることも明らかになる。
衝撃的な事実が明らかになる、そのショックをできるだけまっさらな状態からリアルに再現してみせるところが、
この作品が傑作と呼ばれる一番の理由であると思う。古代ギリシャにおける人気ミステリというわけだ。何より最も悲しいのは、「善意が事態を悪化させる」という構造が貫かれている点だ。
オイディプスの善意(ライオス殺しの犯人捜し)、証人の善意、あるいはオイディプスを守ろうとする家来の善意。
みんなが善かれと思ってやっていることが、どんどん事態を悪化させるというか、おぞましい事実を証明していくのがつらい。
そもそもオイディプスは生まれたときに「この子は将来、父親を殺す」という宣託があったことで殺されるところだったのだが、
それを預かった牧人が善意でそのまま育ててしまったことにすべてが起因しているわけだ。これはもう、どうしょうもない。
絶対に逆らうことのできない非情な運命があって、そこでは善意が悪意よりも不幸な結果をもたらす、というやりきれなさ。
だからこそ、『オイディプス王』は絶対的な悲劇として観客たちを泣かせ続けてきたわけなのだ。現代においては、そういう壮大な運命論ってのはあんまり目立たなくなってきてはいるんだけど、
悪意よりも善意の方がより深く人を傷つける、というケースが往々にしてある、という真実は少しも変化していないと思う。
この作品は2400年ほど前に書かれた作品なのだが、そういう点がまったく変わらないでいるということはつまり、
人間とはそういう悲しさをずっと背負っていくものなんだということで、本質をしっかり描ききっている、ということなんだろう。
本当は北朝鮮に行くつもりだった。
だって、初めての海外旅行が北朝鮮だなんて、最高にバカバカしくって面白いじゃないか。
まさに絶好の機会だと思って情報をチェックしていたのだが、タイで戦うというニュースを聞いてガックリした。というわけで、サッカーW杯アジア予選・北朝鮮戦である。
無観客試合ということで応援のない試合はどんなもんだろう、と期待して中継を見ていたのだが、
会場の外から声援を送る日本サポーターの出す音があまりに大きくて、いつもと変わらない感じだった。
こういうときには経済的に強い国の方が有利で、それはそれでまったく問題のないことではあるんだけど、
でも正直、釈然としない気持ちがないこともない。ジャパンマネー。
もっとぶっちゃけちゃうと、応援する気持ちはわかるが、スタジアム外で中と同じようにふるまうのには疑問を感じる。
いいのかなあ、タイの人に迷惑じゃないのかなあ、なんて思ってしまうのだ。
まあ日本代表はタイでも人気があるらしいし、ほとんど問題ないんだろうけど、僕としては釈然としないのだ。そんだけ。しかし日本代表はかっこいいなあ。本当にかっこいい。
一度でいいから、きちんとスタジアムに足を運んで、その姿を見てみたい。
『猿の惑星』。
まず思ったのが、猿と人間が英語でコミュニケーションをとるという違和感。
なぜ英語なのだ?という疑問である。猿が使うのはフランス語でもドイツ語でも日本語でもいいじゃん、と思ったわけだ。
しかも作中で猿は英語を話すだけでなく、英語を読み書きする。主人公のテイラー(C.ヘストン)は筆談で、
自分に知能があることを訴える。僕はなんで英語なんだろう?という疑問をずーっと持ったまま見ていたのだが、
見終わってしばらくしてからようやく気がついた。結末から遡ってよく考えると、「英語が通じることの必然性」は、
ラストへと至る重要な伏線になっていたのだ。しまった。やられた。映像を見ていると、映画というよりテレビドラマ的な印象を受ける。画面がなんとなく軽く、映画特有の重厚さを感じない。
それはいい意味で、だ。もし壮大にやれば、重いところに重いものということで、ラストの破壊力はそこまでなかっただろう。
気軽に見られるSF映画だと思ったらラストですべてが明かされる、という引っ掛けが、軽い画面だからこそ効いているのだ。それにしてもメイクにしろ設定にしろ、ここまで徹底的にやるとは、すごい。
猿が人間を嫌う理由が最後の最後で完璧に一本、筋が通る。それは人間が直接危害を加える存在だからじゃなくて、
自分たちに「失敗」の記憶を持ち込む存在だから。猿の方が絶滅を巧みに避けている分、賢い。というのも皮肉でいい。
そうしてゼイウスの心情やセリフをメインに据えてもう一度見ると、ものすごく深いレヴェルで物語がつくられているのがわかる。
人間側の主人公がテイラーなら、猿側の主人公は間違いなくゼイウス。2回目はゼイウスを中心に見なければなるまい。僕らの世代はもう結末が常識としてまかり通っている時代に生まれてしまっているわけで、どうしてもそこを原点に見てしまう。
これは仕方がないことなんだけど、作品を十二分に味わうという点においては、とても不幸なことだと思う。
人間(テイラー)の視点でショックを受け、ゼイウスの視点でより深く哀しみを味わうのが、この映画の正しい鑑賞法だ。
そのうちの最初の方のショックが、半減どころかほぼゼロになってしまっているわけで、これはものすごくもったいない。
せめてゼイウスの心情をしっかりと慮りながら見るのが、現在における最もフェアな鑑賞法だろう。というわけで、2回見れ!
サン=テグジュペリ『夜間飛行』。読んだのだが、なんだかまとまらない。けど、いちおう書いておく。
南米で郵便飛行会社の支配人をしているリヴィエールと、操縦士ファビアンの姿が描かれる。
主人公はどちらかというとリヴィエールで、ファビアンは彼の下で働く人間の一部を代表した存在だろう。
南米の荒野を飛ぶ仕事は当時、冒険だった。その危険性を承知で、ビジネスとして全力を尽くすリヴィエール。
彼は部下に対して必要以上に厳しく接することで、ビジネスの障害になりうる油断の芽を摘んでいるフシがあるわけだ。
一方でファビアンは、悪天候の中、消息を絶つ。ファビアンを詳しく描くことで、リヴィエールのたゆまぬ姿勢が強調される。正直、「なんともいえない」という感想である。僕は命を懸けて仕事したこともなければ、冒険に居場所を求めたこともない。
淡々とオフィスと機内の状況が細かく描かれるだけのこの作品を、きちんと理解できるほどの経験が僕にはないのだ。
また、ロマンだなあとも思う。登場人物は仕事や冒険に対して絶対的なプライドがあり、それにすべてを捧げている。
これはアイデンティティ(私は○○をする人間である、出自ではなく何をするかというアイデンティティ)に対する賛歌だ。
それをきちんと読めないってのは、自覚が足りないことの証拠であるように思えて、なんだかさみしい。カップリングになっているのは『南方郵便機』。サン=テグジュペリの処女作。
こちらは恋愛の話なのだが、どうにもやっぱり、表現がなんだかロマンチストだ。
冒険と恋愛がバラバラに存在して、その両方をひとりの人間がするわけで、そのまとまらない感じは『夜間飛行』と一緒。
こっちも、なんとも感想が書きづらい。まあ、僕にはまだ面白いと思えない、とだけまとめておこう。
そういえば昨日、神田明神に行く前にふたりから「就職祝い」なるものをいただいた。
銀座は伊東屋の包みだったので中身がものすごく気になって、それで開けてみたら、コレ。
わざわざ入学祝いでやっているサービスに便乗して、つくってくれたのだそうだ。いや、すばらしいセンスだ。
こんなの、もったいなくって使えないよ。一生の宝物にします。
L: 一見すると何の変哲もない鉛筆だが……。 R: 1ダース分きっちり名前入り。すばらしいです。で、朝起きて、「さあ今日はどこの神社にお参りに行こう?」となる僕らはすっかりダメ人間だ。
昨日のおみくじがなかなか楽しい体験だったので、今日はいろいろと数をまわってみよう、ということになった。
天気もすっかり回復して、日差しがまぶしい。晴れてくれたよかった、と思う。
L,R: テキトー会議中。僕らはテキトーなので、行く先を決めるのもテキトーなのだ。なんとなく、という理由で新大久保まで行く。
まず本日の一発目は、百人町の皆中稲荷神社。百人町は鉄砲隊のいた街で、弾が「みんなあたる」、で「皆中」。
そんな由来があるためか、ギャンブル運という面でも人気があるという神社。でも行ってみると、すごく小規模。
実家の近所の愛宕神社の方が大きい。それでもさすがに、閑静な緑に包まれた神社独特の雰囲気は素敵である。
おみくじを引いてみたら、僕だけ「大吉」だった。一時の不運に慌てず静かに時が来るのを待て、とある。ありがたや。
肝心の恋愛運は「あわてず心をつかめ」だそうだ。全般的に「待っとけ」ばかり。まあ、そういうもんなのだろう。そのまま新大久保を歩く。大久保通は都内でもトップクラスのコリアンタウンになっているのは周知の事実。
実際に歩いてみると、日本なんだけど韓国風にアレンジされている様子が、ものすごく面白い。
天気も良かったせいか、街並みの活気が歩いていてすごく心地よくて、また今度、じっくり歩いてみたくなった。次は赤坂の豊川稲荷に行こうぜ、ということで、ワケもなく新宿に戻って丸の内線に乗る。
「赤坂フォ~ッ!」とレイザーラモン住谷のマネをしながら豊川稲荷へ。飾ってある提灯にジャニーズの名前が。
森光子の提灯もジャニーズに並んである。うーん、港区だなあ……などと思いつつ、お参りしておみくじを引く。
ここではトシユキ氏が大吉を出した。が、書いてあることがやたらと厳しい。末吉くらいの調子でビシビシ書いてある。
でもしっかりと大吉なわけで、豊川稲荷のおみくじは非常にアドヴァイスが辛いことが判明。皆さん、注意しましょう。本日のラストは日枝神社。外堀通からエスカレーターでてっぺんまで行けちゃうのは、神社としてちょっと複雑な気分。
神前で結婚式を挙げている夫婦が2組いて、レイザーラモン住谷のマネして邪魔しようかと思ったらふたりに止められた。
「あんた、これ以上カルマを増やしちゃいかんよ!」……ごもっとも。おとなしくお参りしておみくじを引く。
出たのは「吉」。みんなそんなもんだったが、バヒ氏は自分だけ大吉が出なかったのをちょっと気にしていた様子。
「なんか、おみくじってデートに使えるなあ!」なんてセリフを今さら吐いている27歳がモテるはずなんてない。おみくじの結果を総括すると、3人そろって「待っとけ」ばかりだった。
バヒ氏もトシユキ氏も納得していたようだが、僕は逆になんだかジタバタしてしまう。「本当にそれでいいのか?」と思うのだ。
ただ待つだけじゃダメで、もっと攻撃的に待ちたい。必死であれこれ身につけて、時が来るのを待ちたいものだ。東京駅に移動して、ドトールで軽くダベって、バヒ氏は帰った。トシユキ氏ともそのまま別れる。
こういうなんでもない休日の過ごし方ってのは、すごく楽しい。でも社会人になると、それが思うようにできなくなる。
なんとかして、柔軟なまま、歳をとりたいと思った。がんばらなきゃね。
バヒさんが上京してきた。中学・高校からの仲間であるトシユキ氏とともに迎え撃つ。
あらかじめトシユキ氏とは「どこ行こうか?」と相談をしていたのだが、まあ全員モテないということで、
ここはひとつ、縁結びにご利益のある神社に行ってお参りしよう、ということになった。頭弱い。ワレワレ、頭弱いです。
集まる直前にいろいろネットで検索してみた結果、どうも神田明神がいいらしい。じゃ、行ってみましょう、ということに。
御茶ノ水駅に集合。3人そろうのは久しぶりだ。でもそんなの関係なくって、会えばいつもの感覚に戻る。駅からちょっと歩けば神田明神。ビルに埋もれて神社、という印象。天気が冴えなかったので、よけいにそう思ったのかも。
お賽銭を入れて二礼二拍手一礼して、「モテますよーに」とお願いする。3人とも事態は深刻である。真剣にお願いする。
その後はおみくじを引いてみる。実はなんと、僕は人生でこれがおみくじ初体験なのである。ちょっとドキドキする。
箱から出てきた番号を巫女のおねーさんに告げて、紙をもらう。運勢は「中吉」。可もなく不可もない。
バヒ氏もトシユキ氏も冴えない結果で、「今はまだ待て」ってお言葉が。3人とも変に納得しながら、神社を後にする。といっても行くところなんてあんまりなくって、神田なので、結局秋葉原に移動するのであった。
一度はメイドカフェに行ってみたいなあ、話のタネに。なんて話題になる。バヒさんは行ったことがある人なのだ。
そんな会話をしているうちに、新作落語『メイドさん怖い』ができあがってしまう。
長屋の仲間内で何が怖いかなんて話になって、男は「いやー、オレが怖いのはメイドだな。メイドさんが怖い」と言う。
そんなある日、主人公が家に帰ると、知らないメイドさんが三つ指ついて「お帰りなさいませ、ご主人様」。
「ははーん、さてはあいつら、オレを怖がらせる気だな? そんなこともあろうかと、わざとメイドって言ったのによ……」
ところが実はそのメイド、空き巣に入った女盗賊だったのだが、そうと知らない男は怖い怖いと言いながら近くに寄る。
しかしメイド(女盗賊)にしてみれば、怖い怖いって言われるってことは、正体がバレてるのかもしれない……となるわけだ。
まあそんな具合にいろいろあって、結局サゲは、「ここらでもうひとり、ナースが怖い」なんだけど。
あ、もちろん江戸時代の話ですよ、ええ。そんなバカ話をしていたら、急に雨になった。天気予報を見て傘を持ってきた僕は平気だが、ふたりはドンキで傘を購入。
せっかく秋葉原に来たのにほとんど店に入らないで、そのまま御茶ノ水に戻ることに。
地下鉄の方の御茶ノ水駅周辺を歩いていると、いよいよ本降りに。なんとかディスクユニオンまでたどり着き、中に入る。
バヒさんは鳥肌実のCDを買ってホクホクするのであった。上京してよかったね。ロッテリアでダベりつつ、特に行きたいところもないのでさっさと晩飯を食べることに。
まったく主体性の発揮されることのない話し合いの末、中目黒辺りで飲みつつ食べましょう、と決定。
中目黒では小さなモツ煮込みの店に入り、客が僕ら3人だけという状況の中で、とりとめもないことを話す。
ある程度お腹もいっぱいになったところで店を出て、僕の家に移動して、また飲んだり話したりして過ごした。
そして眠くなったら眠る、というテキトーなスタイルで、夜は更けていった。
今日の仕事はずーっと封筒の宛名書き。僕は読みやすい字を書く人、という評判ができてしまったので、仕方ないのだ。
宛名を書いていて気づいたのだが、いつのまにか静岡市が政令指定都市になっていた。
清水市と合併して申請するという話は知っていたが、政令市になったという事実をいきなり突きつけられると戸惑ってしまう。
しかも区の数はわずか3つ(葵区・駿河区・清水区)。将来的に区の数を増やす計画はあるようだが、それにしても少ない。
地図をチェックすると、葵区だけがやたらとバカでかい(なぜ「葵」なのか調べたら、徳川家の家紋からとったらしい)。
いわき市を抜いて、日本一面積の広い市になったはずなので、これはかえって行政サービスの低下につながりそうに思える。そんなことを考えつつ、写経のごとくひたすら字を書いていった。手が痛え!
◇
『タイガー&ドラゴン』が面白くなってきている。なんだかよくわかんないんだけど友情!という展開は、やっぱり熱くていい。
最近はそういう少年マンガ的な娯楽が少ないから、ぜひともガンガン突っ走ってほしいなあ、と思うのである。
ダスティン=ホフマンとメリル=ストリープが夫婦ゲンカ。『クレイマー、クレイマー』。
全編にわたり丁寧な表現がなされている。わかりやすいところでは結婚指輪を光らせて始まるオープニングが印象的だ。
そこから物語は一気に走り出すわけで、その一番最初にもってくるのにふさわしい演出である。
ガジェットとしては、フレンチトーストの存在が生活の様子を代弁する役割を果たしている。
最初はめちゃくちゃだったフレンチトーストづくりが、ラストではすっかりきれいにつくれるようになっている、など。
誰にでもわかる形で隠喩を繰り返す手法は、生々しいだけになりそうなこの話に、とても上品な印象を与えていると思う。内容を要約すると、仕事優先でやってきた夫が妻に出て行かれ、息子とふたりだけの生活をすることになる話。
中盤では、いろんな災難に遭いながらも一番大切なものを見つけていく父親の姿が丁寧に描かれる。
本当に淡々と、絆がはっきりしていく様子を描いていくので、すごく自然というか、「いつのまにか」に見える。
時間の経過を明確に示さないで進めていくのだが、かえってその方がリアリティがあるのかもしれない、と考えさせられた。家庭に押し込められている状況から突然脱却を目指す妻。離婚、そして裁判。それはアメリカの姿をとらえている。
この映画は1979年の作品であり、そういう社会状況に素早く反応している点が注目すべきところだろう。
しかも、それを社会問題として告発するのではなく、そういう状況から生まれるドラマを前向きに描いたところに価値がある。
起こっちゃったことはしょうがないんだから、そこからどうがんばるか。けっこうこれは示唆に富んだ視線ではないか。ところが、最後がなんだか腰砕け。理由が十分に説明されていなくて、どうにも腑に落ちない。
じゃあ腑に落ちるような説明があればいいのかというと、それも饒舌で、それまでとのバランスを崩してしまいそうだ。
結末をハッピーエンドにするためには仕方のない選択だったのか、ということで、なかなか落としどころが難しいのは事実だ。
子役のがんばりがすばらしいし、振り回されるホフマンの演技も、まるで実際の父親の困惑を見せつけられているかのよう。
それに免じて納得しておくかー、という感じ。ラストにもうちょっと厚みがほしいが、見て損はない映画だと思う。
ここんとこ、ユニコーンの『すばらしい日々』がヘヴィローテーションである。
曲がいいので、自転車に乗るたび口ずさんでいる。さらに、この歳になると、その歌詞がビシビシくる。
しかも終わり方が希望があって悲しくって美しくって、なんともいえない気持ちになる。
あのラストを聴いていると、他のどの曲でも味わえない、不思議な感覚がするのだ。ユニコーンというと初期はいかにも一般受けを狙ったロック、という印象がするが、『服部』以降のキレ具合は異常だ。
めちゃくちゃにクオリティが高く、しかも適度にバカで、かつ泣かせることもできる。すべてをこなすことができたのだ。
ベスト盤の『ベリーベストオブユニコーン』の収録曲以外にも、聴くべき名曲がいっぱい存在しているってのはすごい。個人的にユニコーンで大好きなのが『自転車泥棒』で、イントロのある種の不気味さとラストの感触との落差に驚かされる。
歌詞もいい。この曲を書いたというだけで、僕はテッシーを全面的に尊敬できる。それくらい好き。『ヒゲとボイン』では、曲間のヴォコーダーによる「ヒゲとボイン僕はボインの方が好きです、ハイ」が最高に好き。
なんでかはわからないのだが、あの部分にやたらと興味が惹かれる。終わり方の複雑な和音もたまらない。『ニッポンへ行くの巻』『開店休業』『車も電話もないけれど』の3曲は、僕が浪人中に出会ったこともあって、
聴くと今も名古屋の街を思い出してしまう。中村区の下町の様子が、曲とともに頭の中によみがえる。『看護婦ロック』のバカバカしさも好きだ。「イーコイーコしてやる」という言語感覚はふつうじゃないと思う。
『デーゲーム』も、牧歌的な感じが好き。ジョー=ディマジオを引き合いに出してくるセンスもよければ、
夢と現実がごっちゃになったような心地のよいアレンジも効いている。マジメなところでは『雪が降る町』も捨てがたい。ユニコーンの曲はだいたいが4分を切っていて短いものが多いが、
(逆を言うと、ムダな要素がないからそれだけの時間にまとまっているわけだ。クオリティの高い証拠である。)
この曲は例外的にちょっと長さがある。といっても間延びしているようなことは決してなくって、
その分たっぷりと気持ちがこもっている。傑作だなあ、と聴くたびに心底感心する。それにしても『自転車泥棒』も『ヒゲとボイン』もそうだが、ユニコーンの曲の終わり方は秀逸なものが多い。
僕はフェードアウトする終わり方がとにかく大っ嫌いで、自分で曲をつくるときは絶対にフェードアウトはしないと決めている。
しかしユニコーンのフェードアウトは、あれこれ工夫をしたり、あるいはフェードアウトでしか終われない空気をつくったり、
独特の個性を持っているのである。だからフェードアウト嫌いの僕でも、黙って耳を傾けることしかできない。
なんというか、ユニコーンってのは、本当に稀有な才能の集まりだったと思う。過去形なのが、しょうがないんだけど、残念だ。