diary 2005.4.

diary 2005.5.


2005.4.30 (Sat.)

マサルと池袋で遊ぶ。

例のごとく遅れてきやがったので、昼メシ代を割り勘ではなく多めに出してもらうことに。
正直、僕がマサルと会うときにはこれでけっこうメシ代を浮かせている。まあこれはもはや、一種の共犯関係だ。
マサルの希望により、お好み焼きともんじゃ焼きの店に入る。それぞれお好み焼きを注文して半分こ。
でもマサルは食費をまったくケチらない人なので、足りないと感じたらすぐに追加注文。
「れいなちゃんモチ肌」ってことで、明太子(福岡出身ね)&モチのもんじゃをマサルが焼いていく。
僕は「アナタつくる人。ボク食べる人。」なんて言いながら焼いてもらったもんじゃを一緒に食べる。
返すマサルは当然、「それはまさに『おいしい生活』やね」。

それからカラオケ。お互いに今までで「ひどい」と思った曲をラインナップに歌う。
どっちもそれなりに音楽を聴いている人間なので、非常に「ひどい」内容のカラオケで楽しかった。

その後、ゲーセンに寄ってマサルオススメのネットクイズゲーム『クイズマジックアカデミーII』をやることに。
これが実に興味深かった。 まずキャラクターを選んで、クイズを通してそれを育成していくのだが(カードに記録)、
4台機械があって、それでも待っている人がつねにいるくらい人気がある。「ほお」と思う。
アーケードゲームをまったくやらない自分には、ゲームの進め方がとても印象に残った。
全国の機械をネットで結び、12人のプレーヤーがオンラインで対戦することになるのだ。
格闘ゲームで通信対戦していたのは知っていたが、こうしてクイズゲームでも他者と対戦できるようになっていたのには、
正直なところ目からウロコである。時代遅れだとか言われてしまうかもしれないが、ホントにそうなんだからしょうがない。
「クリトリン」といういかにもマサルらしい名前のキャラをつくり(外見は田中れいなをちょっと意識)、いざ対戦。
最初は感じがつかめなくて2位に終わったが、続く2回はどちらもトップで終了。
僕にとっては、コインを入れてオールクリアを目指す、という従来の構図がまったくなくなっていて、
あくまで育成を目的にして対戦の1ラウンドごとに100円が消費される、という点が斬新だった。
知らないうちに世間の価値観が変わっていたようで、浦島太郎気分になってしまった。

そんな感じでいちおう、楽しいGWを過ごせている。やっぱりひとりでいるのはよくないね。


2005.4.29 (Fri.)

昨日、circo氏といろんな話をした。
話の内容はとんでもなく多岐に渡ってるんだけど、それぞれが関連性を持っているので、その内容を一気に書いてみる。
本気で書くとすごいことになってしまうので、無理がない程度に、断片的に記録してみよう。

1. 法言語/生活言語、公共性をめぐるふたつの言語

修士論文を書くことになって、直面したふたつの経験から考えるようになったことだ。
この世界における言語は、大きく2種類に分類できる(本当はそれ以上かもしれないが便宜上2種類、二項対立とする)。
論理的(数学的、縦割り的)な「法言語」と、感情的?(芸術的、分野横断的)な「生活言語」である。
書き言葉は法言語と相性が良く、話し言葉は生活言語と相性が良い。
論文は完全に法言語によるもので、生活言語によるブレインストーミングを反映させるのにはそもそも少々無理がある。
個人的な経験では、論文がどうしても生きている日本語に思えなくて、酒を飲んで無理して書いた。つらい経験だ。
また、「公共性」で考えると、行政は法言語の世界でのみ生きている。対してNPOは生活言語の領域で力を発揮する。
だから行政はNPOを100%信頼できない(評価する基準がもともとない)。そしてNPOとは本来、
行政の存在に関係なく活動できる。明治以前の日本には法言語が存在しなかった(あったとしても非常に弱かった)ので、
当時は住民主体のNPOが当たり前だった、と考えている。つまり現状は、その資産の再発見でしかない。
(1960~70年代の革新勢力の台頭は、法言語の立場から生活言語を規定しようとする試みだった。失敗に終わったが。)
日本語は法言語と生活言語の齟齬が極めて大きい言語であり、その乖離が大きな問題となる。
そして双方を結びつけるヒントは、演劇にある(ギリシアの古代民主制と現代演劇が融合できる可能性?)。
(また、ネットやケータイのメールにおける書き言葉も、双方の対立を新しい次元に昇華する可能性を持っている。)

2. 学校と役所=公共性

現在「平成の大合併」が財源拡充を目的に進められているが、「明治の大合併」の目的は小学校の設立にあった。
それぞれの村は自前の小学校をつくるために、近くの村と合併して財政規模を拡大していったという歴史があるのだ。
(ちなみに「昭和の大合併」は中学校を運営する財政規模が基準になっていた。うーん、教育熱心な国だなあ。)
面白いのは近隣の村と仲が悪いけど学校はつくりたい、という場合(東京都では東大和・武蔵村山がそうだった気がする)。
この場合は「組合立」という形で学校を設立したのである。学校についてだけの特別なグループからはじめようというわけだ。
このように、明治に入って「近代」が浸透していくうえで、公立の学校という制度が非常に大きな役割を果たした。
調べてみると、学校用地を市役所の建設用地に転用するという例は、とんでもなく多い(飯田市役所もまさにそうだ)。
まとまった土地を確保しやすい、公共施設同士だから手続きが楽、周辺地域が格式のある地区になっている……など。
近代になって公共性の名のもとに法言語が正統性を再生産した空間として、学校と役所の関係を問い直す必要がある。
(そして僕はこれを、建築史の視点から博士論文のテーマにしたいと考えていたが、結局あきらめるはめになった……。)

3. “世界の痛み”という想像力

電車の中でブツブツ独り言をつぶやいているおっさんと、横断歩道の白い部分だけを踏んで渡る小学生の共通項は何か。
それは、現実世界をそのままではなく、本人にしか通用しない、ある特定のフィルターを通して眺めている、という点である。
おっさんには独り言を聞いてくれる相手が自分の中に他者として存在していて、それに対して実際に口を動かしている。
小学生の場合には、横断歩道がRPGやアクションのステージに見えている。黒い部分はダメージを受けるエリアなのだ。
これは程度の問題で、一般的な社会生活を送る能力のある人の場合には、特に顕在化することがないものだ。
たとえば、話している相手が本音と建前を使い分けているらしいとき。僕たちは相手の頭の中を想像して受け答えをする。
これもおっさんや小学生と同じ質の想像力を使っている。自分を取り巻く世界について、仮定を与える。そんな想像力だ。
世界平和を祈るのも、神頼みするのも同じ。自分の行動が他者・外的なものに影響を与えるように願う。これも想像力。
劇団☆世界一団の『世界一団の博物館』(→2003.8.22)では、これを「“世界の痛み”を引き受ける」と表現していた。
物語性・ストーリー性というものは、この“世界の痛み”を主人公が引き受けるところからスタートすることになる。
対テロの軍事力や異性との恋愛は、非常にリアルなものだ。突き詰めると生きるか死ぬか、のサバイバルでしかない。
そのサバイバルに味をつけるものが、ストーリーだ。つまり“世界の痛み”を引き受けられるという幻想・想像力の行使だ。
現実は徹底してリアルでしかないのだ。しかし、夢も理想もない世の中は、地獄そのものである。
人類の歴史の中で、今ほど想像力が求められている時代はない、と僕は考えている。

4. 人間とは統計的世界の存在にすぎない

以前は動物の顔の区別がつかないのと同じように、人間ひとりひとりは差異はあっても等質でしかなかった。
しかし物語・ストーリーがあまりに甘美だったためか、人間はいつしか、「オレは主人公なのだ」と考えるクセがついてしまった。
『グーテンベルクの銀河系』(→2004.12.17)の最後、「再編成された銀河系」という文章で、鋭い指摘がなされている。
芸術(小説)がパトロンから大衆へと対象を移したことで、主人公の行動を自分とは別個の存在として楽しんでいたのが、
自分も同じ状況に置かれたら同じように“演じたい”、と読み手が考えるようになっていった、というのだ。
恋愛小説は特に顕著で、他者の恋愛を眺めることから、自分の恋愛への応用へと比重が移った、と言えるはずだ。
戦後の民主化・個人主義の浸透・核家族化もあいまって、「特別な存在としての自分」がクローズアップされるようになる。
しかし前に日記に書いたように(「髪」を「切る」話 →2004.12.21)、人間は本来、一山いくらの存在でしかないのだ。
問題は、ひとりひとりは確かに特別なのだが、でも同時に統計的世界の存在にすぎないという両面性を認識することだ。
光が波だったり粒子だったりするのをうまく使い分けるように、この両面性を巧みに使い分けないと、
アドルフ=アイヒマンのような大量虐殺の肯定につながったり、現在世界中にあるいびつなナショナリズムが増長したりする。
他人の痛みを自分の痛みに読み替える想像力、他者(統計)を自己(主人公)の経験で読む想像力が求められている。

5. iPodにおけるパラダイム・シフト

僕もcirco氏も潤平も、MP3プレーヤーだったりWMAプレーヤーだったり、とにかく新種のオーディオプレーヤーを持っている。
かつてはSONYの「ウォークマン」が爆発的な人気となり、また、個人空間の創出など社会的にも大きな影響を与えた。
マクルーハンっぽく表現するなら、ウォークマンは人間の身体を更新する役割を果たした、と言えるだろう。
最近のiPodについても、これと同じことが指摘できる。僕もcirco氏も「世界観が変わった」という見解で一致しているのだ。
ごくわずかな容積(空間)に圧倒的な量の情報(時間)が収容されてしまう現象。それまでのサイズの感覚が変革される。
もうひとつ注目しておきたいのは、あまりに大容量なので人間が一生で聴ける音楽の量を記憶装置が凌駕するということ。
だから葬式で霊前にiPodが置かれ、弔問客はそれを聴くことで故人を偲ぶ、ということすら実際に起こりうるのだ。
人間が身体的に、また一生の間に引き連れることができる情報量が飛躍的に伸びたこと。これは、急激な革命だ。
もしかしたら、いよいよ、人間が情報を載せるメディアとして認識される時代が本格的にやってきたのかもしれない。
つまり、主体はあくまで情報そのものであって、人間はその伝達を引き受ける「足」のような存在ということだ。
そうだとすると、社会言語学的な考え方(間主観性、だっけ?)が世間一般のレヴェルで実証されることになる。
そしたら僕らはいったい、どうなってしまうんだろう。ドキドキする気持ちもあるし、怖い気もある。

6. 歴史という幻想、痛みを与えないと痛みはわからない?

中国の反日デモを見ていると、関東大震災の際に朝鮮人に対して日本人が行った残虐行為を見ているような気になる。
もちろん当時のそんな映像なんてないし、全然状況は違うはずなんだけど、直感的に似ているのが感じ取れる。
靖国問題だとか教科書問題だとかが直接的な引き金になっていると思うので、それについての意見を述べよう。
まず靖国問題は、嫌がっている人がいる以上、A級戦犯の合祀はすべきでないし、公式参拝もすべきでない。
ただ、戦勝国がつけた戦犯の等級は、あくまで目安でしかないとも考える。A級とかB級とか、ランク付けは安易すぎる。
それでもA級戦犯は「良かれと思って他人に迷惑をかけた人たち」だから、とりあえず合祀を避ける方が国際的にはお得だ。
教科書問題。というか、歴史認識の問題。歴史は幻想、物語でしかない。そこをはっきり認識しないとまずいだろう。
男子高校生がかっこつけて自分の中学時代を美化するのと一緒。歴史は自分たちの存在を正当化するフィクションだ。
だから歴史認識は食い違って当然だ。無理に統一見解を持たせようとするから、現在が犠牲になってしまうのだ。
さて、日本は近隣諸国に迷惑かけて原爆落とされて負けた国、である。痛みを与えた/与えられた両方の経験がある。
中国の反日デモを見ていて思うのは、痛みを与えた経験がないと、痛みの重さはわからないということだ。
痛みを与えられた側が痛みの重さを知るのではない。与えた側が知るのである。ここがポイントになる。
他者から痛めつけられても怒りしか湧いてこない。しかし他者を痛めつける側には、後で振り返ったときの哀しみがある。
その「自分はこんなことをしてしまったのか」という哀しみが、痛みを客観的に知る想像力につながると思う。
イスラエルが切ないのは、この哀しみを知らないからだ。アメリカが鈍いのは、まだ痛みを与え終わっていないからだ。

7. ミニサイズの「宗教」をつくれ

宗教というと特殊なイメージが日本では根強いが、宗教とは単純に言えば、日常生活を規定するスタイル、ということだ。
イスラムでは日に5回メッカに向かって礼拝をするし、キリスト教では日曜日にミサがある。日本人は正月にお参りする。
そんな感じで日常生活に一定のリズムを与えるルールを共有すること。それが宗教なのである。
これがちょっと深化すると、世界観の共有というレヴェルに進むことになる。歴史の共有という言い方もできるかもしれない。
この表現がまだ大げさなのであれば、話を早く進めるために互いの思考回路のベースを統一すること、と理解してほしい。
だから僕が「宗教」という言葉を使う場合、自分の考えと相手の考えをスムーズに共有する行為、という意味が多い。
こうやって日記でグダグダとどーでもいーことを書いているのはなんでだろう?と、ときどき自問することがある。
それで出てくる結論は、僕は不特定多数の皆さんと一緒に「宗教」をつくってみたいのだ、というものだ。
養老孟司にしろ齋藤孝にしろ、彼らは自分たちを支持する層を持っていて、その皆さんを確実に満足させている。
作家の場合にはもっと露骨で、どんなにつまんない話を書いてもネームバリューで買ってくれちゃう層がいる。
そう考えたらミュージシャンだって宝塚だってジャニーズだって、みんな「宗教」を確立している、ってことになる。
究極的には、自分はそういうことをやってみたい。だって楽しいじゃないか、僕の考えをベースに皆さんも考えるようになる。
そうして先が見えちゃってつまらない世の中に対し、少しでも面白みを持って臨めるようになれば、こんな素敵なことはない。
他人に極力迷惑をかけないミニサイズの「宗教」をつくること。今後しばらく、それをキーワードにがんばってみたいもんだ。

8. 正社員廃止論

今の会社に入って初めて「正社員」という立場を経験しているわけだが、なんとも不可解な気持ちでいっぱいだ。
僕は父親が自営業だったし、自身は塾講師で働いた時間の分だけお金がもらえるという生活をしてきたので、
9時~17時の拘束やボーナスといった制度、そして保険やら有給やらといったサービスについていざ直面してみると、
そんなに守られないと生活できないのか、と思ってしまう。そう、正社員に対する制度やサービスは、あまりに手厚すぎる。
本来なら必要のないことまで会社は福利厚生という名目で面倒をみてくれる、過保護の世界なのである。
実力や働いた時間に比例して給料が支払われる方が単純でいい。つねに真剣勝負で、仕事に対する誇りも湧いてくる。
「自立した社会人」とは言うが、そんな人に限ってベッタリ会社って制度に守られている、甘えているのではないのか。
こうなったら全員アルバイトにしてしまった方が、社会的には充実するんじゃないか。労働時間で給料が決まる社会。
社長もアルバイト。そうなると会社のネームバリューではなく、働いている人間自身を頼るように社会は変化するはずだ。
会社という人格のない法人に支配されるより、契約という対等な立場で法人と連携する方が何でもスムーズにいくだろう。
安定を求めるから、不安定なものが疎外される。そうして制度は際限なく硬直化する。人間は制度を守る人柱になる。
それなら、不安定な状態で安定(固定)させるべきだ。だって、人間って本来、成長する=不安定な存在じゃないか。
──でもこれって共産主義の変種なんじゃないか、と不安になる。福祉国家の失敗と同じ轍を踏みそうな気がする。
しかしcirco氏によると、むしろリバタリアニズムに近いらしい。まあどちらにしろ課題が山積みの考え方には違いないけど。
とりあえず手始めに、共済にも労組にも入らないで、会社という存在と1対1で向き合う姿勢を貫きたいと考えている。

9. 頭の良さとは文脈を埋める想像力

「頭の良さ」とは何か。この日記でもちょくちょく書いていることだし、いろんな種類が存在することもわかっている。
けれども、あらためて、一言でスパッとまとめる場合、「頭の良さ」とはどのように定義できるものなのだろう?
結論から言ってしまえば、それは想像力である!と考える。それも、自分と異なる他者の事情を推し量る想像力だ。
たとえば僕らには僕らの生活があり、それが当たり前になっている。同じように、他人にも他人の数だけそれぞれ生活がある。
この「他人の生活の当たり前」を、いかにわずかなヒントから再構成して、自分の生活と対比して客観化できるか。
──これが、僕の考える「頭の良さ」である。他者の思考回路になりかわって再現する能力、と言い換えてもよい。
世の中、ジグソーパズルみたいなことがよくある。自分の周りは埋まっていても、遠くなればなるほど空白の領域が増える。
転がっているピースのかけらをよーく見つめて、自分の遠くにある景色を頭の中で完成させてやること、これが必要だ。
ミステリや探偵ものの物語などでは、主人公がもっともらしい解釈を見つけて穴を埋めようとする。
でもその能力は本来そんな大げさなものではなくて、日常生活においてけっこう重要だし、気軽に使っている能力なのだ。
それをきちんと鍛えれば、学校や職場でケンカすることはぐっと減るだろうし、最終的には外交問題も解決に近づくはずだ。
自分とはまったく異なる論理で動く相手を理解すること。言葉で言うのは簡単だけど、本当に難しいことだ。
でもだからこそ、やりがいのあることでもある。終わることのない永遠の課題である。

10. 遺伝子の橋渡し

前に書いたが、僕は浪人中にいきなり悟りを開いてしまい、英語の成績が急激に伸びた経験を持っている(→2005.1.2)。
高校時代に国語の教師で強烈な人がいて、その人の飄々としたやり口は、僕の授業に完全に染み付いてしまった。
そしてまあ他にも断片的にさまざまな影響を受けてきて、塾講師としての僕ができあがっていったのである。
振り返ってみると、今の自分があるのは核としての自己が細胞分裂してできていったということは決してなくて、
むしろ他の人たちからいいとこ取りしながら、自分という骨組みに他人という肉をつけていったからじゃないかと思う。
要するに、他人なしでは今の自分はありえないということだ。尊敬する相手の部分をコピーして、今の自分をつくりあげた。
そして僕は塾で中学生を教えた。思うのは、僕は今までに習ったことを凝縮・濃縮して、自分の生徒に伝えたということ。
もし将来あいつらが教壇に立つ機会があるとしたら、多分に僕のクセが伝染してしまっているのではないか。
けっこうその確信はある。……それはつまり、僕が先輩たちから受け取った遺伝子を、次の世代へと橋渡ししたということだ。
遺伝子に、僕という新しい要素もちょっとだけ混ぜて。現実の遺伝子と同じように、学習行為にも遺伝子は存在している。
そしてこのことは、何も授業に限らない。小さいころに読んだ絵本だってそうだし、ずっと暮らしてきた家だってそうだし、
好きで聴き続けている音楽だってそうだし、スポーツだってお笑いだってアートだってそうだ。
前の人が残した遺伝子で自分のカタチをつくり、そうしてまた遺伝子を次の世代へと投げ返す。
世の中に関わってしまっている時点で、僕らはすでに遺伝子を放出してしまっている。
だから、より素敵な遺伝子を残すために、たくさんの遺伝子を受け止める必要があるし、残し方を洗練しなくちゃいけない。
そうして、より鮮やかに自分が存在した痕跡を残したい、と思うのだ。

11. 若さをコントロールする技術

夜にNHKで柳家花緑の落語をやっていた。祖父の故・柳家小さんの映像をバックに、ふたりで『粗忽長屋』を演っていた。
ぼーっと見ながら、まったくタイプの異なる2種類の落語が同時に存在していることに、なんだか変な気持ちになる。
花緑の持ち味はその新しいことをやろうという革新性ということになるだろう。若いからこそ、挑戦してみるっていう意欲。
でも小さんに期待されていたのは、安定した芸だ。完成された落語の解釈と実演。踏みはずさない魅力とも言える。
もし両者が逆の落語を演じたら? 小さんが「挑戦」すれば前衛だろう。でも残念ながら、花緑が「安定」って感じはしない。
ここまで考えて出た結論は、完成された芸はジジイにしかできない、というなかなか悲観的かつ楽観的なものだ。
若いうちはどうしてもまだ未来が見えてしまい、本人は完成させたと思っても周りが納得してくれない。まだまだできるよ、と。
一方で歳をとると、どうしてもムダな力が抜けちゃうから、仮に本人の中では完成度が低くても、完成品に見えてしまうのだ。
だから落語の名人はつねにジジイでしかありえない。名人とは、長く続けることのできたジジイだけに与えられる称号なのだ。
さて、この考え方を落語から一般論にもってくるとどうなるか。そこには、「歳相応」というなかなかシビアな言葉が存在する。
自分がいくら年齢だとかそういうカテゴライズから自由だと思っていても、自分を眺める周囲の目はそう思ってくれない。
その状況を冷静に把握し、自分にできることを選択しなくてはいけない。言ってみれば、若さをコントロールする技術、だ。
考えようによっては、これは幸せな結論でもある。歳をとれば、若い頃より選択肢が増えるということを意味するのだから。
つまり究極の若さのコントロールとは、「歳相応の安定」と「前衛」を自在に操ることのできる力ということになるのだ。
そう思えば、老化していく自分の身体についても少しは肯定的にとらえられるチャンスが生まれてくるはずだ。

12. ネットと引きこもり的自己中心性

僕の持論は、「ネットには『自分』しか存在しない」である。
チャットをしていてまず感じるのは、キーを打つもどかしさだ。じゃあ実際にしゃべればいいのかというと、それはテレビ電話だ。
あくまで筆跡の残らない書き言葉で電話線の向こうにいる相手とコミュニケーションをとること。この点が、第一の鍵になる。
チャットが終わった後でログを眺めていると、会話だったはずなのに、自問自答が書き連ねられたメモに見えることがある。
僕は小さい頃、自分ひとりで物事を決断する自信の持てない子どもだった。自分勝手に動いては迷惑をかけていたので。
だから行動を了承してくれる年上の存在を自分の中につくることで対処した。そうして14歳くらいまで、彼の世話になった。
チャットのログは、そのときの自分の会話に本当にそっくりなのだ。他者に見えて自分の一部。それと黙って繰り広げる会話。
チャットとは、相手が他者とはわかっているが、それを「可能性としての別の自分の言葉」として解釈することができるのだ。
筆跡も声もないために、この種類のコミュニケーションは、他者に見せかけた自己との対話=自問自答の様相を帯びる。
相手の言葉をすべて自己の中で解釈しているという点で、チャットとはまず精神面において引きこもり的なのだ。
メル友も、これと同じことだ。メールだけの友達は、つねに文面で自分にヒントをくれる。わずらわしいことなど、一切ない。
そうすると、そこにいるのはもうひとりの自分でしかなく、自分の都合のいいようにメールを解釈してそれでおしまい、となる。
もし自分の考えと合わないメールがきたら、削除すればいい。そうして複数の自己を情報空間に埋め込んで、満足する。
ネットで出会った人たちによる集団自殺が問題になるけど、これも今までの話から考えれば簡単なことだ。
彼らは自殺を認めてくれる、背中を押してくれる、自分にとって都合のいい「もうひとりの自分」を求めている。
そうしてネットを介して増幅した「自分」が集まって、肯定し合って、自殺するのだ。ただそれだけのことにすぎない。
ポイントは、初対面だからこそ相手を自分とみなせる点。よく知らないからこそ、他者の中に自分を見出すことができる。
自分という存在がカテゴリーに変化しているのだ。カテゴリーの共有により、自分が複数に散らばったものとして認識される。
その舞台となる空間がネットであり、そこで複数の自分をバラまいて悦に入っているとすれば、これはなかなか倒錯的だ。
(自分を受身的にバラまくのだ。ネットのあちこちに自分を見出すという受身の形をとる。「この人、僕と同じだ。」)
ネットでは自分だけの都合のよい解釈が許される。そしてそれが、ネットから現実の社会に飛び出しつつある気がする。
本来自分の思い通りにならない現実と、ネットを温床に増殖する新手の自己中心性はどう折り合いをつけていくのか。
現代はそれがシビアに試されている時代だと思う。

以上。われながらなげーよ!


2005.4.28 (Thu.)

circo氏が上京。仕事終わりに新宿で合流して、メシを食う。仕事の都合でこれからちょくちょく上京するそうだ。
東口のライオンでビールを飲みつつ、まとまらない話をする。詳しい内容は、明日の日記に書いておく。
食べ終わると、なんとなくジュンク堂に行ってみた。circo氏は書店というより図書館のようなその中身に少し驚いていた。

で、circo氏はわがアパートに泊まる。「あなたの人生を聴かせてちょうだいよ」と言われたので、iPodを貸す。
感想を聞いたら、「Jazzが足りない」と指摘される。これはもう、おっしゃるとおりなので、「じゃあ聴く」と答える。
今年還暦のcirco氏に比べれば、まだまだヒヨッコ。勉強しなくちゃいけないことは、本当にたくさんあるのだ。


2005.4.27 (Wed.)

昨日に引き続いて、戸田で棚卸の作業を手伝っている。在庫の数が合うまでひたすら数える。つらい。

その後、池袋にて営業の皆さん主催の歓迎会があった。戸田のおじいちゃんたちも一緒に参加。
ビールのピッチャーを持ってあちこちに自己紹介に出かける。社会人の飲みはどうにも神経を使う。
まあ、今までが使わなすぎだったし、そういった作法をきちんと学ぶために就職したから、いいんだけど。

戸田のおじいちゃんたちは、社会人は優秀な上司に恵まれることが大切だ、とさかんに強調していた。
修羅場をくぐり抜けたおじいちゃんが言うと、本当に説得力がある。でも上司が優秀かどうかは運しだい。
なんとかなりますよーに、と願うしかないのだった。

さて、この飲み会でひとつ勉強というか、いい経験をさせてもらったと思っているのが、次のことだ。

飲んでてある程度空気がやわらかくなってくると、おばちゃんが全力でやりたい放題やるようになってくる。
これがもう強烈で、世話を焼くことで自己満足してしまう。相手が本当に望んでいることなんてちっとも考えていない。
自分の理屈しか持っていなくて、しかもそれを他人も従って当然、なんて思って行動しているのがすごい。
最初は、「障らぬ神にたたりなし。イヤだなーああいうの」なんて思いながら、遠巻きにそれを眺めていた。
でも見ているうちに、おばちゃんがその“迷惑”を、善意でやっていることに気がつく。そう、まったくの善意だ。
せっかく相手が善意でやっているのだ、僕らもそれをあくまで善意として受け止めないと、それは失礼になる。
純粋な善意を勝手に悪意と読み取られて、本当に厭な気分にさせられた経験が、僕にはあるからだ。
だから僕はそんな人間にならないように、心の中でひっそり苦笑いをしながらおばちゃんの相手をした。
ああ、オトナになるってこういうことなんだ、と思った。それなら、オトナになるのも悪いことじゃない。

総じて非常に楽しい飲み会でした。


2005.4.26 (Tue.)

『ウェストサイド・ストーリー』を見る。
この映画、実は高校2年のときに音楽の授業でちょこっと見て、歌よし踊りよし顔よしな俳優が次々と出てくるので、
同じ人間なのにこんなに格差があるなんて神様ってひどい、と勝手にひねくれてしまった記憶がある。
まあそんな具合に軽度の挫折をしてしまい、何かしらのチャンスをつぶしてしまったように思う。間抜けである。

どんな映画であれ、どこか気をふっと抜くことのできる瞬間がふつうはあるものだが、この作品にはそれがない。
すべての瞬間が目を凝らして見ていないといけない、そんな気にさせる完成度を持っているのだ。
それは身体のすみずみまで意識されている演技のせいだろう。舞台の緊張感がフィルムを通しても持続している。
ダンスが重要なこの作品では、逆説的にダンス以外の部分でも身体の動きに注目が集まる。
そこがしっかりとつくられていて、その集中力の集合が、全体の迫力をもたらす最大の要因であると感じた。

ジェッツにしろシャークスにしろ、非行少年の振る舞いをこういう美しいダンスで解釈する、という発想がすごい。
ダーティなかっこよさで描くのは簡単だが、こうしたストレートな美で攻められると、とても新鮮に思える。
ここには、非行とはいえ若さの持つかけがえのない美しさが、伝統的なダンスによって表現されているのだ。
正しい正しくないという判断基準より前に、まずその若さが美しい。そんなメッセージが込められているように思う。

この作品が『ロミオとジュリエット』を下敷きに、1950年代の移民でごった返すアメリカを舞台にしているのは有名な話。
見ると細かい点まできちんとつくられている。たとえば、シャークスのラテン系訛りが自分たちを誇るセリフで効いているし、
シュランク警部は有色人種のシャークスよりはジェッツの肩をなんとなく持っているのもわかる。
目立つダンスに注意がいってしまいがちだが、ドラマの下地も徹底しているのである。

そして、この作品での最大の目玉のひとつがレナード=バーンスタインによる音楽だろう。
「クィンテット」では希望あふれる夜、また対決の夜、それぞれの「今夜(tonight)」をあらゆる角度から、あらゆる歌声で、
あらゆる思いを乗せてひとつの曲としてまとめ上げている。こんなのがつくれるなんて、どんな脳みそをしてるんだろう。
ほかに「マリア」もまじりっけのない美しさを持っているし、「アメリカ」のコミカルさもたまらない。
「クール」なんてもう、かっこよすぎてシビレてしまう。気がつけば軽く口ずさんでしまっている。
クラシックでジャズで映画音楽。すべてが高いレヴェルで融合しているこの音楽は、もはやひとつの世界として成立している。

さてこの作品では、オープニングからケンカで始まり、ラストもケンカで終わる。
しかし、オープニングのケンカが前述のような美しさをたたえているのに対し、ラストの方は醜いのである。
自分たちの誇りをかけて戦っていた以前のケンカとは違い、ラストのケンカはただの憎しみ合い、殺し合いとなるからだ。
そういったニュアンスの違いまでもダンスによって観客に訴えかけているこの作品のレヴェルは、本当に高い。
ただ奇抜な方法論でこの作品はつくられたのではない。必然性がそこにはあったのだ。
そこまで考えると、この作品はある頂点を極めてしまったようにすら思える。間違いなく、究極の芸術のひとつだ。


2005.4.25 (Mon.)

昨日、古田が2000本安打を達成した。
中学のとき学校の図書館に名球会のメンバーをひとりひとり扱ったマンガがあって、それで野球の基礎知識をつけた。
だから当時の僕は、古田と広沢と池山には、どうしても揃って2000本安打を達成してほしかったのだ。
1992年ヤクルトの快進撃が、マンガになって広く読まれたら、さぞすばらしいだろう……。
しかしながら本当に、大学と社会人を経由した古田がやってくれたとは信じられない。途中で大きなケガもしているのに。
マスコミが騒いでくれるおかげで、ちょこちょこと興味深い周辺情報もいろいろ入ってきてうれしいんだけど、
僕の中での古田の活躍はもうちょっと単純で、僕に野球の面白さを一番最初に見せてくれた選手の快挙、なのだ。
だから選手会会長がどーだとか、そういうことは抜きにして(あってもいいんだけど)、純粋にうれしいのだ。

JR福知山線で脱線事故が起きた。といっても会社の中にいたので、詳細は家に帰ってから知った。
情報が錯綜しているけど、とにかく、21世紀になって列車事故で100人以上が亡くなるということの異常さが際立つ。
美談や企業体質の問題や、いろんなことがこれからはっきりとしてくるんだろうけど、
当たり前の日常はなかなか崩れないんだけど、ここまでひどく崩れることもあるんだ、と再確認してため息が出た。
事故に限らず地震などの災害のニュースを見るたびに、そのことを実感させられる。なんだか、うまくコメントしようがない。


2005.4.24 (Sun.)

『オズの魔法使い』を見る。ジュディ=ガーランド主演のミュージカル映画。
細部まで丁寧につくられていて、話の展開が非常にわかりやすい作品だ。テンポもいい。
モノクロの現実(カンザス)場面とカラーのオズの対比、そしてその両方にまたがるキャスティングの重ね方。
演技をよく見ると、アメリカ仕込みのヴォードヴィルらしい表情と動きがとても特徴的で(これは日本にないものだと思う)、
基礎を大切にして、子どもだけでなく広い年齢層に受け入れられる作品づくりを徹底していることがわかる。
今の映画やテレビからすっかり失われてしまったものが、そこには残っている。
また、かなり聞き取りやすい英語をしゃべっているのも特徴的だ。単語のレヴェルも中学生にぴったり。
わかりやすい演技と聞き取りやすいセリフと、見る人に優しい名作である。

MXテレビで20時から、夏目雅子が三蔵法師で一世を風靡した『西遊記』の再放送をやっている。
堺正章が孫悟空、西田敏行が猪八戒、岸部シローが沙悟浄というキャスティング。いまだに存在感のあるドラマだ。
夏目雅子の三蔵法師は、頼りない感じとほっとけない感じと凛々しい感じが絶妙で、企画者の慧眼に恐れ入る。
堺正章は動きと表情にきっちりメリハリをつけていて、さぞ子どもに人気があっただろうな、と思う。
個人的には岸部シローの、関西弁ですっとぼけたところがいい。演技ができすぎる西田敏行よりもむしろ自然に見える。
映像全体はどこかボヤけた印象がして、そこが懐かしさを感じさせる。1980年代まであった柔らかさ、とでも言おうか。
特殊効果も当時はコンピューターが発達してないから手作り感覚あふれていて、それがなんとなく安心感につながる。
エッジの効きすぎた今の映像と比べると、いろいろと考えさせられる点が多いのでは。

東西の「女の子ひとりに男3人旅」を見比べたわけだが、これはなかなか王道の構造と言えるかもしれない。


2005.4.23 (Sat.)

先月末(→2005.3.30)に捻挫した左足首が一向に良くならないので、午前中に医者に行ってチェックしてもらう。
レントゲンを撮って診察した結果、けっこうひどいひねり方をしていたようで、それでもだいぶ回復しているんだそうだ。
完全に腫れが退くまでは3ヶ月くらいかかるんだそうで、もっと早く診てもらうべきだったと激しく後悔した。

で、夕方になって新宿に移動。本を読んで時間をつぶすと、19時に合流してトシユキさんと飲む。
トシユキさんとは小学校1年からの付き合いでありながら、会うのがなんと1年以上ぶりという状態。
会わないでも大丈夫、連絡がないってことは無事だという信頼感があるとはいえ、会わなさすぎだよな、と話す。

週末の新宿はやたらと混んでいて、西口の裏っ側でようやく席の空いている店を見つける。
ビールを頼んで、そしてゆっくりと、僕の大学~大学院時代のちょっとした話から入っていく。
すごくまわりくどいんだけど、でも全体をつかむためには回り道は絶対に必要で、ゆっくりと話がロールしていく。
あれこれとりとめもなく話は進んでいき、一息ついたときにはそれぞれの話の関係性がうまく見えてきている感じになった。
ひとつひとつの話はそれ自身で完結しているのだが、別の話と並べると、思わぬ構造の対称性が見えてくる。
それぞれのタテのつながりとヨコのつながりを味わいながら、20代後半の世界の見え方を自分たちの言葉でまとめていく。
トシユキさんは穏やかに話を受け止めていて、僕は最近読んでいる庄司薫とまったく一緒だなあと内心苦笑いしながら、
「本来考えなくても済むことを考えちゃうから大変なんだよね」「でもぼくたちは人に優しくしたいんだ」ってな結論を得た。

話は何もそういうきれいなレヴェルのものだけじゃなくって、共通の親友が本当につらい目に遭った話だとか、
伊集院のトークがなぜ面白いのかというくだらない分析にまで広がっていった。そのすべてが、ぼくたちには必要だった。
そんな感じで23時過ぎまで飲んで、近いうちに会う約束をして、別れた。僕はいつものように自転車をこいで帰った。


2005.4.22 (Fri.)

庄司薫『白鳥の歌なんか聞えない』。『赤頭巾ちゃん気をつけて』(→2005.3.21)の続編。四部作の2番目。

たとえば今の高校生は中島敦の『山月記』を授業で読むことでまず鼻っ柱を折られる儀式があるわけだが、
それをもっと具体的な形で、生活の中で体験する話、とまとめることができるように思う。
読めばわかるのだからダラダラとその内容をここで書くのは非常に気がひける。
何より、ここでまとめるよりも作品を実際に読んでもらう方が新鮮で的確に違いないからだ。
自分よりもずっと巨大で偉大なものを前にして、若さと自信だけが武器の人間が追い詰められる(気持ちになる)。
そのときの絶望感というかやりきれなさとどう折り合いをつけて、自分らしさを見つけ出していくのか。
この作品ではそこに「死」という(「若さ」に対置されると思われる言葉)メスを用意して切り込んでいく。

「若さ」は、形而上的な永遠のテーマだ。しかもそれを恐ろしいほどに真正面から受け止めて読者にぶん投げる。
高校生のうちに読んでおきたかったし、高校生にはぜひ読んでほしい作品だ。時代が変化した今もまったく古くない。
むしろ、「若さ」というつかみどころがなくて、もてあまして、過ぎ去ってからでないとコントロールできない厄介なものを、
ここまでしっかりと描ききったという凄みだけが希望として残るはずだ。自分と同じように悩んだ主人公がやってくれた、と。
焦って自分を見失う必要はまったくないんだ、と、天才になれないふつうの人に優しく語りかける作品。
ぜひぜひ早いうちに一読をオススメしておきたい。

(ただし一番のヤマ場については、今となっては通用しないかも、という気もしなくはない。
 ほかはいいけどここの場面についてだけは納得いかない、という人もいるのでは。それだけデリケートな問題なんだけど。)


2005.4.21 (Thu.)

仕事の真っ只中にいた15時半、ふと思いついてしまって、ウズウズする。
17時に解放されると、総武線に飛び乗って、千駄ヶ谷で降りて南へと走る。
神宮球場に着いてみるとチケット売り場は意外に空いていて、ちょっと並んだら外野指定席の券がすぐ買えた。
軽く周囲を一周して中に入って、夕暮れを待とうとしている青いプラスチックの席に腰を下ろした。

古田が、2000本安打を打つかもしれない。
1992年にヤクルトのファンになった僕にとって古田はもう神様でしかないくらいな存在なので、
会社帰りにその現場を見に行く、というアイデアを思いついた瞬間、そのことで頭の中がいっぱいになってしまった。

空がだんだんと色を落としていく中で、試合が始まる。
自分のいるライトスタンドは自由席を中心によく埋まっていたけど、レフトは横浜の応援団以外、見事にスカスカ。
そこに宮出が先制のソロホームランをたたきこむ。攻撃が終わってライトの守備位置に戻ってくると特大のエール。
帽子を取って挨拶する宮出を見て、子どものファンはめちゃくちゃ喜んでいた。

ヤクルト先発の藤井は要所は締めているのだが、どうにも被安打が多い。
非常にテンポのいい投手戦だったが、4回に追いつかれると7回には逆転を許してしまう。
(横浜の打線はとても打率がよいので、冷静に考えれば当然のことなのかもしれないが。)

古田の調子もサッパリで、打席に入るたびに球場が大歓声に包まれるのだが、次の瞬間に気の抜けたため息に変わる。
横浜先発のセドリックは本当に打ちづらい球を投げているようで、古田に限らず中途半端なバッティングが目立った。
ライトスタンドには「古田の記録は無理だろうけど、せめて勝ってくれよ~」という思いが充満していた。

9回表に投手交代で左の佐藤賢が出るが、ヒットを打たれる。しかし代わった河端がしっかりとピンチを抑えて、
流れをちょこっと引き寄せる。これで1999本目の安打が見られるかも、という空気ががぜん漂い出す。

その裏、大魔神佐々木が出てくると、ライトスタンド自由席から歓声があがった。というか、僕も「やった!」って口走った。
そしてまるっきりタイミングが合っていなかったラミレスが、打った瞬間にそれとわかるホームランをレフトに放った。
佐々木は古田を三振に仕留めたものの(みんなでガックリ)、ランナーをためこみ、打席には土橋が入った。
僕の後ろに2人組のおねーちゃんが座っていたのだが、そのうち片方が熱狂的な土橋のファンで、本当に土橋のファンで、
ことあるごとに「土橋さんが最高」と繰り返していた。そして最高の場面で土橋に出番が回ってきて興奮状態になる。

土橋は佐々木のフォーク(だと思う)をしぶとーくレフトの前に落とした。ねーちゃんの執念を、神は見ていた。

感動して涙をにじませるおねーちゃんに、周りの皆さんとともに「おめでとうございますー」と笑顔で声をかける。
ノーヒットに終わった古田にエールを送り、お立ち台から帰っていく土橋にエールを送り、席を立つ。
自由席では応援団がいつまでも東京音頭を歌っていて、僕も今度は歌ってみたいな、と少しだけ思った。


2005.4.20 (Wed.)

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』。

話としては『Z』や『ZZ』をすっ飛ばして、純粋にファーストガンダムの続き。ファーストガンダムの流れに終止符を打つ内容。
絶望したシャアが地球にアクシズをぶつけようとし、それをアムロやブライトらロンド・ベル隊が阻止する、というのが話の柱。
そこにクェスをめぐる動きやらララァを引きずっている思いやらが交錯し、話が進んでいく。

ファーストガンダムに詳しい人なら、より楽しめる内容だと思う。絵も映画だけに、TVのものよりずっと丁寧な印象を受ける。
ただ、最後のところはドラゴンボール的みんなの力をオラに分けてくれという安直さがどうしてもぬぐえず、うなってしまう。
まあ、これ以降ザクが出てこないガンダムが当たり前になっていく中で、ひとつのピリオドにふさわしいのは確か。


2005.4.19 (Tue.)

『大人は判ってくれない』を見る。
ヌーヴェル・ヴァーグの代表的作品で、F.トリュフォーの自伝的作品で、アントワーヌ=ドワネル物第1作だ。

まずとにかく、主演のジャン=ピエール・レオーの目が強い。少年の生々しい意志の強さがはっきり出ている。
つくりとしてはゴダール(→2005.4.16)と違い、手順をしっかり踏んでいく感じ。それだけに少年の感受性の強さが痛々しい。
社会という不可解な(ように見える)ルールでガチガチに固められて生気を失った(ように見える)大人たちによって、
「更正」「矯正」させられる苦しみ。自分の中の大切なものを殺される、という苛立ちが直接的に表現されている。

たいていの人はそれがつらくて、忘れたりごまかしたりしてやりくりしていくのだが、それにきっちり向き合っているのが、
この作品の第一の価値ということになるのだろうか。大げさなフィクションのストーリーとかそういうものでなくて、
自分の身近に転がっているドラマへの注目、それをしっかりと映画というメディアで実現したから評価されているということか。


2005.4.18 (Mon.)

『オースティン・パワーズ ゴールドメンバー』。シリーズ第3作で、これで完結。
(ちなみに1作目と2作目の感想はこちら →2003.12.42004.4.18

くだらない。実にくだらない。今までもくだらなかったが、今回は特にくだらない。
まずのっけからムダに有名人を出してくる。完結作とはいえ、ちょっと出しすぎな気もするが。
『That's The Way』やら『Mr.Robot』など、70年代ディスコブームや洋楽の知識があると、より楽しめる工夫もある。
この点については日ごろきちんと勉強しといてよかった、なんてちょっと思った。

あとは「空耳アワー」の逆で、英語だと変に聞こえる日本語をさんざん言わせるのに笑った。
文脈を無視してあれこれやりたい放題で、やっぱりくだらない。ここまで徹していると気持ちがいい。
全体としていかにも洋モノのノリなんだけど、それはそれで参考になるギャグが多いのも確かだ。
男たちの胸に「おっぱい」って書いてあるのが実はTITANSの応援だったり、濡れているアフロが一瞬で乾いたり、
くだらない一工夫があちこちにあって、いつかどこかで使えそうな気がしてくるのが楽しい。

にしても今回のオチというか種明かしは、最後だからできることで、このシリーズだからサマになるのかもしれない。
それも含めて最後の最後まで本当にくだらなくて、それはそれで心底楽しめるので、ヨシ。


2005.4.17 (Sun.)

フリッツ=ラング監督、『メトロポリス』。

大変申し訳ないのだが、途中で寝てしまった。でもまた見直す時間がなくって、結局そのまま返却。

印象に残っているのは、序盤のところで労働者がびっしりと並んで地下へと入っていくシーン。
平日朝の飯田橋でも、まったく同じ光景を見ることができるからだ。ただしこちらは地下から地上へと出てくる。
歩道橋を見上げたときの印象は、この映画のそのシーンと、本当にまったく一緒なのだ。


2005.4.16 (Sat.)

ジャン=リュック・ゴダール監督でジャン=ポール・ベルモンド主演、『勝手にしやがれ』。
ヌーヴェル・ヴァーグの代表的存在であり、この作品がありとあらゆる方面に多大なる影響を与えたのは周知の事実。
一般教養として見ておかなくちゃと思ったわけだが、なんというか、自分の拙い脳みそではおっつかなかった部分が多かった。

とにかく既成概念を壊す映画であるのはわかる。映画の様式がすっかり確立されていたところに風穴を開けた作品だ。
丁寧に順を追ったストーリー、観客の倫理観を踏みはずすことのない正義感あふれる主人公、貞淑なヒロイン、
どっしりと構えてすべてを見渡すカメラ、――そういったものを、この作品はすべて捨ててしまっているのだ。

ジャン=ポール・ベルモンドの唇が野生味にあふれていて、思うがままに行動する役柄とぴったりマッチしている。
驚いたのはカットの切り方とつなげ方で、セリフは続いているけど映像はブツ切りになっている点にひどく興味を惹かれた。
つまり、キュビズムっぽくカメラの位置をずらしながらひとつのシーンを撮っているのだが、音声はなめらかに連続していて、
視覚と聴覚の間にある差を「発見」するセンスに驚いたわけだ。これはものすごく面白い演出だった。

とはいえ、僕はやっぱりきちんとしていて安心して見られる作品の方が好きだ。所詮は平凡な一市民なのである。
しかし落ち着いて考えた場合、やはりこの映画は、当時の状況をきちんと想像したうえで見ないといけないと思わされる。
この作品は、映画というメディアに新しい可能性を与えて、映画の寿命を延ばすという奇跡を成功させたのだ。
そう書くと簡単そうだが、完全に完成されて重く頑丈に立ちはだかっている壁に対し、誰もが常識に絡め取られている中で、
計算し尽した不完全さをぶつけて新たな地平を切り拓くということは、ふつうでは絶対にできないことであるはずだ。
それを実現してみせたって偉業を、じっくり想像してみること。そこがこの映画を見るときの一番のポイントである気がする。


2005.4.15 (Fri.)

保坂和志『プレーンソング』。芥川賞作家のデビュー作。作者の写真を見ると、なんとなく、大学の恩師に似てた。

文体がまわりくどいわりに大したことを扱っていなくて、読んでいて「はっきりしねえなあ!」なんて思っちゃうわけだが、
それはつまり、日常のささいなことがテーマだからだ。はっきりしないふつうの日常を描いているからなのだ。

誤解をおそれず、僕なりの言葉でバリバリ書いていってみよう。
どうでもいいことってのはどうでもいいことなので、たいていの場合は意識することなんてないし、無視されることが多い。
小説とか物語でサマになるのは、やっぱり世界を揺るがすような大規模な設定と展開であって、
主人公が常人離れした能力を最大限に発揮して、ラストは大団円。……そういうものが好まれがちだと思う。
じゃあそれとは対照的な、「ハレとケ」の「ケ」の方は、ドラマにならないのかというと、実はそんなことなくって、
やる気さえあれば物語としてきちんと成立する。ただ、あまりにすぐ近くに転がっているので、その事実に気づきづらいだけだ。
しかし最近の小説は、そういった日常性をかっちり切り取ろう、それぞれの日常性の差異から世界を立体的に描こう、
そんな作品が多くなってきている。この作品は、その流れの中で独特のふわふわ感を持っていて、読後感が妙に爽やかだ。

主人公が広めの部屋に引っ越したことがきっかけで、ふらふらと人が集まってくるようになる。猫も来る。
そうして、なんでもないんだけど、振り返ればかけがえのないであろう時間(それを作中で想像することはない)が描かれる。
仲間とただぼんやり過ごす時間の、軽やかな気配。ひたすらそれが続く。ラストの海のシーンなんか、地の文が溶けている。
読んでいるうちに、読者もその空気の中に引き込まれる。その雰囲気がフィットすれば、この作品は好みになるのだろう。

誰しも、そういう時間は持っているものだと思う。大学時代のモラトリアムなんかは、それが顕著なわけだ。
だからこの手の作品は無数に存在しうるはずだ。それだけに、どこを売りにするのかがシヴィアに問われるとも思う。
自分としては、「うん。」とうなずくぐらいしかできない。「なるほど。あなたの場合はそうでしたか。」と。
作者の視点からすれば、自分の描いた世界でお客さんをふんわり満足させられるなら、そりゃ幸せだろう。

まあ、うまいタイトルをつけたもんだなあ、と。


2005.4.14 (Thu.)

本日は書協研修なのであった。出版社の新入社員が一堂に会して偉い人の話を聞くというイベントである。
神楽坂のビルで飲み物もらって席について、90分講演×4。講師は書店の方だったり編集者だったりライターだったり。
話が面白い人ほど、事前に何を話すか決めてなくてテキトーにしゃべる。事前準備と内容の充実度は反比例するのだ。
でも正直きわめて退屈で、こっそり文庫本を持ち込みひたすら読書。周りに合わせてテキトーに拍手するアウトローっぷり。

そんなわけで読んだ本の感想。W.ギブスン『クローム襲撃』。
短編集だが、『ニューロマンサー』 (→2005.1.8)の設定の母体となる話が収録されていて、なかなか興味深い。

その『ニューロマンサー』とほぼ同じ設定なのが、トップの「記憶屋ジョニイ」とラストの「クローム襲撃」。
「記憶屋ジョニイ」にはモリイがキーパーソンとして登場するが、『ニューロマンサー』以前の作品で描写がすごくわかりづらい。
「クローム襲撃」は『ニューロマンサー』の原点となった作品。プロトタイプと呼べるかもしれない。
『ニューロマンサー』ではケイスがハッキング担当、モリイがリアルファイト担当と割り切っていたわけだが、
この作品はハッキングだけで話が進むので、描写から映像をイメージするのがちょっとつらい。
逆を言えばそれだけ作者の想像力はたくましい、ということにもなるとは思う。

合作もけっこう収録されている。出色なのは、「ドッグファイト」。ゲームセンターの飛行機対戦ゲームが物語の軸である。
頂点に君臨するタイニーに挑むディークという男が主人公。勝負の激しさと虚しさががっちり描かれていて、存分に楽しめた。

長編だったらただエッジが利いているだけではダメで、きちんとストーリーとしての完成度がないと「もたない」。
しかし短編の場合、その勢いだけで突っ切ることが許されるわけで、そういう作品が目立った、というかそんなんばかりだった。
自分はストーリーがしっかりできているうえでのエッジ、という立場をとっているので、正直なところそんなに満足できなかった。
ギブスンという作家が好きで好きでたまんない人にならオススメできるけど、一般市民に積極的には薦められないかな。


2005.4.13 (Wed.)

「job」と「joy」は1文字違うだけなんだけど、アルファベットでBとYくらいの開きがある(AからZほどは離れていない)。


2005.4.12 (Tue.)

書店研修が本日で終了。仕事が終わってから、相手方主催による飲み会があった。
詳しく説明するのは非常に面倒くさいのだが、その書店は取引先が経営しているわけで、つまりそういう飲み会。

最初はやっぱり硬かった飲み会だが、酒が進むとちょうどいい感じのくだけ方になってきて、いろんな話が出てくる。
店長さんは僕が自転車で店に来たのがそうとう衝撃的だったようで、それについて「すげえ」を連発していた。
その勢いのままあちこちに報告をされたようで、どうやら僕は自分の会社よりも先に取引先で有名になってしまったようだ。
正直そこまでウワサにされることでもないと思うのだが、まあ、面白がってもらえたんであればオーケーである。

「これからは取引先という関係ですけど、何か困ったことがあったら純粋に知人として連絡ください。相談とか乗りますから」
そんな言葉とともに名刺を渡される。そういう柔軟な人間関係ってすばらしい。へへーっと平伏して名刺を受け取った。
すべからく、今後もそういう出会いに恵まれるといいんだけど。
……なんてことを考えながら、ほろ酔い気分で地下鉄に揺られて帰る。


2005.4.11 (Mon.)

書店研修で、ある意味いちばんのハイライトになっていた、ポップづくりをする。
本屋に行くと店員手書きのポップが平積みの本の上に置いてあったりなんかするわけで、それをつくるのだ。
ここは読みたい本・雑誌がすぐに手に入るコンビニエンスさを売りにしているので、需要を喚起するポップってのは、
ホントのことを言ってしまうと必要のないアイテムである。でもみんなつくりたがるそうで、僕もつくってみる。

いざ画用紙とペンを渡されても、どう紙を切ればいいのかがまずわからない。適切なサイズがわからないのだ。
僕がモノをつくるときには、まず完成品のヴィジュアル/イメージを頭の中に思い浮かべるのが第一歩。
そうすると、その完成品に向けての最短距離が見えてくる。あとはそれに従って、部品を揃えていけばいい。
ところが今回は完成品のサイズが見えてこない。のた打ちまわった挙句、店長さんが助け舟を出してくれてようやくスタート。
なお、何もできずに固まっていた時間は実に2時間。ここまで最初の一歩に手間取ったのは初めてのことだ。

正直、僕の読書量なんて大したことないし、店のラインナップは古典・名作よりも話題作に偏っているので、
これといったオススメのものがない。なんとか選んだのが『パーク・ライフ』の文庫と、東海林さだおの丸かじり最新刊だった。
『パーク・ライフ』は日記で書いた内容(→2004.3.16)を要約して、「公私混在小説」なんてキャッチコピーをつけてみた。
あと、カヴァーを見てみるとわかるが、ケムール人みたいな怪しいヤツがいたので、そいつの絵を右下に描いて、

読んでみれ>

とフキダシをつけて一丁上がり。パーク=公園を意識して緑を多めに使ったのだが、まあ、こんなもんだなってデキ。
そしたら意外と店長さんがそれを気に入ってしまって、「僕が見てきた新人の作品ではベスト」とまで褒めてくれた。
うれしいんだけど、過大評価な気がする。いや、まあ、うれしいんだけど。

翌日の飲み会で店長さんはかつて芸大志望だったとわかったので、まあやっぱりそれなりによくできてたんだろな、と思った。


2005.4.10 (Sun.)

ウディ=アレン監督・主演、『アニー・ホール』。

演出があの手この手でどんどん新しいことをしてくる。とりあえずそれらを列挙してみよう。
まず、小学校の子どもたちの中にひとりだけ大人のウディ=アレンがいるシーン。子どもには大人のセリフを言わせる。
「自分は現在こうなっている」というのを回想シーンで子どもに言わせるって発想がすごい。
セリフの応酬では二言めの巧さが圧倒的で、気の利いた切り返しが満載だ。さすがはウディ=アレン。
また、無関係な通行人に突然インタヴューしはじめるシーンも興味深かった。演劇のセンスを映画に応用していると思う。
びっくりしたのは、登場人物がマクルーハンについて語ったとき、マクルーハン本人が出てきてそれを否定するシーン。
このためだけにマクルーハンは出ているのだ。こんなやり方をふつうに通用させるなんて、いやはや。

シーンは次々にどんどん切り替わっていく。時間軸なんか無視して、ストーリーでいちばんの最短距離をたどっていく。
だから何を言いたいのかがすごくはっきりしている。必然的に、テンポもよくなる。
ここまでそれを徹底している作品は、なかなかない。
心ここにあらず、というシーンでは、実際に心が体から離れて幽体離脱してしまう加工がなされるし、
アニメを大胆に挿入もする(白雪姫の魔女が出てくる)。思いつく限りのポップな仕掛けが施されている。

ストーリーは、冴えないコメディアンのアルビーがアニー=ホールと知り合い、一緒に暮らし、やがて別れるまでを描く。
やたらキレている演出とは対照的に、内容はきわめてシンプル。コメディの手法でちょっとしんみりする話をつくったわけだ。
小さなボタンのかけ違いから別れへと至るそのやるせなさが存分に描写されていて、切なくなること請け合い。
好きなんだけど、どうにもタイミングが合わない、そうしてあきらめざるをえない、そういう悲しさがしっかり詰め込まれている。
僕は恋愛映画ってのはほとんど見ないわけだけど、これはウディ=アレンにしかできない芸当なのはわかる。
自分らしさを全開にしつつ、きちんと恋愛の持っている悲しさ・やるせなさを扱っていて、うらやましい人だとあらためて思った。


2005.4.9 (Sat.)

黒澤明監督、『七人の侍』。名作中の名作で、さすがに見てないのはまずいだろう、と思ったので借りた。
まとまらないと思うけど、とにかく思いついたことを順番にあれこれ書いていく。

黒澤明は完璧主義者だと聞く。映画を見てなるほど、と思った。確かに、自分の想定したイメージについて、妥協がない。
冷静に考えると、この話の設定はおかしい。野武士が暴れまわっているわけだから、江戸時代ではなく戦国時代だろう。
しかし刀狩以前の戦国時代であるならば、農民と武士という階級差はここまで厳しく横たわっているものではないはずだ。
農民と武士の間に絶対的な違いがあって、戦国時代。つまりこの話の舞台は、かつての日本のどの時代でもないのだ。
しかしその設定で黒澤明は映画を撮った。それはつまり、彼の頭の中の世界ということだ。
彼の頭の中にある世界を映像として再現することを最大の目的とする完璧主義者。そういうことなのだと思う。

3時間以上にわたる超大作である。モンタージュもまじえつつ、最初からいちいち丁寧に撮っていく。
モノクロの映画なんだけど、特に白と黒のコントラストが強い印象がした。それだけ、話がギラギラして見える。
そうして、農民には貧しさを、武士には迫力を強調させているように思う。あくまで、僕の印象の話だけど。
それにしても本当に丁寧というか、ひとつもプロセスを軽んじることなく描いていく。
最近の映画では、いかに簡単に鮮やかに手続きを済ませるかという競争になっている面があると思う。
でもそういうのは、きちんと描いていく作品が古典としてあるから成り立っているのだと痛感した。

黒澤明は何ひとつ洩らすことなく描いていく。野武士との戦いにしても、省略することなく場面を描いていく。
おそらくふつうなら「冗長だなあ」と思うであろうその長さも、角度を変えて迫力ある映像をつなぐから、まったく飽きない。
なぜかはうまく言葉で表現できないけど、白黒だからいい、という気もする。
カラーじゃないからこそ、雨の中での泥まみれの戦いが、本物以上に映えている。

役者たちにも目を向けてみる。この作品では特に『水滸伝』的キャラクターが重要な要素になっているわけで。
勘兵衛(志村喬)の落ち着いた雰囲気、久蔵(宮口精二)の極限まで不要なものを削ぎ落としたような凄味、
この辺は初心者にもわかりやすくて好きだ。五郎兵衛・平八・七郎次の区別は最後まで自信が持てなかったのが悲しい。
菊千代を演じる三船敏郎は、ふつうなら照れが残りそうなものだが、それを一切感じさせない。まさに「板に付いている」。
(飛んでくる矢をギリギリでかわす久蔵の表情が面白い。実際に勝四郎役の木村功が至近距離から撃ったそうだ……。)

ここまでいろいろグダグダ書いてきたのだが、とにかく、この作品を見るしかないことは確かだ。
もうこれ以上、自分が何を書いてもムダなような気がする。感想はあちこちで書かれていて、特に目新しいこともないし。
日本人が誇るべき古典中の古典として、知っておかないと恥ずかしい。3時間という時間もあっという間に過ぎ去ってしまう。
しっかりと見て、「やっぱさすがだね」とため息をつく。そうするしかないくらいにすべてをやり尽くしてしまっているのだ。
最高峰の完成品でありスタートライン。物語との格闘は、ここからまたはじまる。その予習のための、必須教材である。


2005.4.8 (Fri.)

書店の商品搬入は早朝である。というわけで、6時に店に着くように、と言われていた。
こないだの集団研修でお世話になった皆様と夜に飲み会があるということで、なんとなく自転車で出勤してみることにした。
スーツ姿とはいえそんなものは入試応援で慣れていたので、さっさと新宿経由で曙橋へ。
着いたら外でタバコを喫っていた店長さんに見つかる。僕の自転車姿を見て「え!」と目を丸くしていた。

今日もまたレジに立ったりマンガにフィルムかけたり返品の選び出しをしたり、である。
昼~夕方になると、近くのハンバーガーショップでお茶を飲みつつ講義&ディスカッションで書店経営を学ぶ。
テーマはいろいろで、店内の管理やら書店経営の一般的課題やら、ひいては出版界の活性化まで、
現場から見た視線という軸足をしっかりとったうえで、話が進んでいく。非常にためになる。

今日は朝早かったので、その分だけ解放されるのも早い。自転車で来たのはこのためだ。
神保町やらいろいろまわって、飲み会までの時間をできるだけ有効に使ってみる。

で、飯田橋と神楽坂の中間地点で飲み会スタート。研修のときはお互いに緊張しまくっていたのだが、
だいぶいい感じに打ち解けることができた。先方にひとり強烈なキャラの新入社員がいて、そうとう笑わせてもらった。
いやー、泣く子と天然には勝てない。

帰り道、市ヶ谷の夜桜がとても美しかったことよ。


2005.4.7 (Thu.)

集団による研修は昨日までで終わりということで、今日からは書店研修である。実際に書店の店員になるのだ。
僕が派遣されることになったのは、曙橋にある書店。そんなのひとつだけだからバレちゃうけど。

基本はとにかくレジ。いつなんどきでもお客様の相手ができないと、話にならないってわけだ。
空いてる時間を見計らって、陳列の方法論だとか返品の取捨選択とか、細かい点を教えてもらう。

この書店のスタイルは徹底している。地下鉄の駅のすぐ近くなので、立地は最高にいい。
しかもここはかつてフジテレビがあった場所で、制作会社がまだけっこう残っている。客の感度もいいってわけだ。
大型書店が対決している新宿からは靖国通でそのまま来られる場所。だから、品揃えには工夫が必要になる。
それは、「徹底して利便性を追求した街の本屋であること」である。手軽に本を買える、コレなのだそうだ。
専門書や珍しい本なら、新宿に行けばいい。そうじゃなくって、ちょっと立ち寄って目についたものを買おうかな、
そういう客を逃さないために、ありとあらゆる工夫をしているのだ。狭い店内いっぱいに並ぶ本が、まずそうだ。
そして、とにかく扱う本の回転をよくすること。新刊と定番の超ロングセラー以外は、ほとんど置かないようにしている。
客の回転もいい。さっと入ってさっと買って出る。そうしやすいように、雑誌・地図・テキストが動きやすい場所に陳列される。
単行本・文庫・マンガは奥。そうして客の流れをうまく分けているのである。
さらには朝の7時から店を開けていて(陳列が終わっていなくても気にしないで営業する。客も納得しているから大丈夫)、
出勤する人が本を買えるように、という配慮もしているのだ。もちろん、夜も10時まで営業。

経営面では、ひたすら店員がアルバイト。副店長格のみ契約社員ということで、人件費を極力浮かせる工夫をしている。
書店では品物の搬入が早朝である。そのときにきちんと対応ができる人がいて、閉店時にも対応できる人がいればいい。
ということで、2人の責任者がやりくりすれば、あとはなんとかなる、という実に合理的なことをやっているわけだ。

もともとこの書店がはじまったのは、「街の書店をつぶさずに活気を保っていくにはどうすべきか」という問題意識からだ。
確かに書店のない商店街なんて、何の魅力もない。その書店がつぶれまくっている今、これは真剣に考えるべき問題だ。
この書店はその理想的な書店経営のテストケースとして営業している、という。別の意味でのアンテナショップというわけだ。
売り上げの大まかな話を店長さんから聞いたのだが、「そりゃすごい」とため息が出るほどうまくいっている。
もっとも、「立地がすべて」と店長さんが結論づけていたように、結局は人の流れをつかまえられることが絶対条件なのだが。

現場はやっぱり、ものすごく勉強になる。それに楽しい。学生時代にもっといろいろバイトしておけばよかった。


2005.4.6 (Wed.)

白幡洋三郎『旅行のススメ』。潤平に旅行に関する本を大量に借りたのだが、その第1弾。

この本では、あくまでターゲットを「旅行」に絞っている。さまざまなデータから「旅行」を見ることで、文化史が見えてくる。
江戸時代までは「旅」であり、それはどこか苦しさ、悲しさというニュアンスの混じったものである。
しかし「旅行」となると、それは娯楽だったり経験を得る手段だったりで、新しいニュアンスを持つようになる。
そこから、それぞれの時代における「旅行」を見ることで、時代や文化の変化を読み解いていく、という試みである。

章立てが問題意識をはっきりさせるものになっていて、興味のあるところから読めるようにもなっている。
2章では、日本がいかに観光資源として日本を再発見していったかが、きわめて丁寧に紹介されているし、
4章の修学旅行や5章の新婚旅行も、通過儀礼としての「旅」が抜け落ちていない感じが面白く読める。
新書という手軽なサイズで、資料を中心にしっかり中身のつまった記述になっている。とてもよろしい。

ちょっと難しいところとしては、「旅」「旅行」は個人の経験という側面がどうしても強いわけだ。
この本で扱っているのは、その個人の経験を数量データを中心にまとめた一般論だ。だから細かい描写は登場しない。
それだけに読み終えてから自分の中で、一般論と経験という特殊性とをうまく融合させる必要があるように思う。
もっとも、旅行記なんて世の中にこれでもか!というほどたくさん出まわっているわけだから(名作もいっぱいある)、
一般論側からの回答、という意味では非常に意義のある本だと思う。知識が身につくだけでも、読んで損はない一冊。


2005.4.5 (Tue.)

今日も近所の会社で研修。どうにもよそよそしい感じが、なんともやりづらい。


2005.4.4 (Mon.)

職場の近所にある取次会社でも新入社員研修が行われている。で、今年はそれに混ぜてもらうことになった。
というわけで、午後からその近所の会社のホールに移動して、一緒にマナーやらなんやらを勉強することに。
僕らの職場はマナーだとかルールだとかとはほど遠い世界にあるわけで、非常に新鮮な体験である。
分厚いファイルを渡されて、そこにプリントされている文章をみんなで読み合わせてみたり、
リクルートだかコーエーだかがつくったそれ用のビデオを見てみたり、純粋にためになったし、意義のある時間だったと思う。
知らない人たちの場所に知らない僕らが無理やり入っていくのはなかなか微妙な感触もあったが、そのうち慣れるだろう。
とにかく、いま置かれている状況をできる限り楽しまなければ。


2005.4.3 (Sun.)

TSUTAYAが半額だったので一気に借りた、『機動戦士ガンダムZZ』について。

『Zガンダム』(→2004.7.32004.7.4)とは対照的にひたすら明るい、というよりひたすらバカバカしい。
とにかく、登場人物がハマーン=カーン以外全員バカ。ヤザンまで見事にバカになっている。
序盤はマシュマーにしろキャラにしろ、その頭の悪さが笑いに直結している。これは『Z』にはまったくなかった要素。
ところが後半になると(ガンダム・チームが地球から帰ってくると)、ふたりとも強化人間になることでバカを卒業。
気がつけば、物語は完全にシリアスなものになっていた。

物語を大きく分けると三部構成になる。
(1) シャングリラを出てアーガマのクルーになり、地球に降下するまで。
(2) ダカールから地球の大西洋岸を北上、砂漠を縦断した後にダブリンでコロニー落としに遭い、宇宙に出るまで。
(3) 宇宙に戻ってからネオ・ジオンやグレミーの反乱軍と戦って決着をつけるまで。
一気に通して見るとわかるが、地球でアーガマと別行動をとっているうちにクルーが成長していく。
このアニメのテーマである(と思う)「少年たちの成長」が、責任を与えられることで実現していく姿が描かれている。
ゆっくりと、しかし確実に、ジャンク屋の少年たちは一人前の人間になっていくのはなかなか痛快だ。
ある意味、『あしたのジョー』(→2002.9.7)における矢吹丈の描き分けに近い丁寧さがある。

面白いのは、誰がどのモビルスーツに乗るかが固定されていない点。
メインはZZがジュドー、Zがルー、Mk-IIがエル、百式がビーチャなのだが、その入れ替わりがひとつの見所になっている。
気心の知れたクルーが集まってシナジー効果が生まれる、少年マンガ特有のやんちゃさがあふれているのがすがすがしい。
やっぱりテレビならではの粗さ(展開の速さ、入り組んだ関係を説明する言葉が足りない、など)があるけど、
実は正統派のエンタテインメントなのだ、と認識しておきたい作品である。

個人的に一番ツボに入ったのはエル=ビアンノ。プルよりはプルツー、でもやっぱりエルが一番。
おてんばで意地っ張りでカンが鋭くてそのくせ素直になれなくて。もーたまらん。エルサイコー。


2005.4.2 (Sat.)

国立で桜を見ようとしたんだけど、今年はやたらと開花が遅くって、ことごとくつぼみだった。
しょうがないのでちょっと大学に寄って中を見てまわって、それから昼飯を食べてから、衝動的に横浜に行った。
横浜はみなとみらいをぶらついて、赤レンガの雑貨屋を抜けて、大桟橋で風を受ける。まだまだ風は冷たい。
歩いて横浜駅まで行って、そのまま東急ハンズまで行って、小さな白いテーブルを買った。
そうしているうちにすっかり暗くなったので、大岡山に戻った。

詳しいことはここじゃ書きたくない。そっと大切にしておきたい記憶なので。
レミオロメンの『南風』を聴くたびに、僕はこの日のことを思い出すのだろう。


20000005.4.1 (Fri.)  ←エイプリル・フール特別仕様。

飯田橋デビュー、である。
とりあえずは編集の仕事を手伝うことになる。といっても、やるのは雑用ばかり。
これは下っぱだから雑用をやらされるのではなく、編集が雑用の組み合わせで成り立っているからだ。
新刊の献本を執筆者の先生方に送ったり、印税の配分をコンピューターに入力していったり。
一番それらしい仕事は原稿・ゲラの校正なのだが、これはJISで決まったルールがあるので、それを覚えつつ進める。
いちおう、編集の仕事の流れをまとめたプリントをもらい、今やった仕事がどの工程に当たるのか説明を受ける。
とてもじゃないけどそんな一発で覚えられるほど種類が少ないわけじゃない。いっぱいいっぱいだ。
本当にこの仕事に慣れるまでは年単位の時間がかかるだろうと思う。いろいろ、考えてみる。

エイプリルフールということで、ホームページのトップをウソのものにしたら、マサルが心配してか、電話かけてきた。
ありえない冗談に素早く反応するのがマサルらしい。とりあえず大丈夫ですよ、僕は。


diary 2005.3.

diary 2005

index