diary 2005.1.

diary 2005.2.


2005.1.31 (Mon.)

以前にも書いたように、洋楽のオムニバス盤を借りてきて知識量を深める努力をしている。
で、今週は1973~75年の曲が収録されたアルバムを借りてきたのだが、これがすごい。
もうほとんど「捨て曲」がないのだ。かかる曲かかる曲、すべて名曲という恵まれた年なのだ。

具体的にラインナップを挙げてみると、こんな感じ(一部を抜粋)。

M.F.S.B. 『T.S.O.P.(The Sound Of Philadelphia)』
Carl Douglas 『Kung Fu Fighting』
Grand Funk Railroad 『The Loco-Motion』
Pierre Bachelet 『Emmanuelle Song』 ※映画『エマニュエル夫人』テーマ曲
Marvin Hamlisch 『The Entertainer』 ※映画『スティング』テーマ曲
Mike Oldfield 『Tubular Bells opening theme』 ※映画『エクソシスト』テーマ曲
The Love Unlimited Orchestra 『Love's Theme』
KC&The Sunshine Band 『That's The Way (I Like It)』
The Stylistics 『Can't Give You Anything (But My Love)』

こうしてみると、映画音楽が鍵を握っていたようだ。現在ではあんまり考えられないことだ。
また、そうでないふつうの曲でも、ヴォーカル・インストを問わずキャッチーな曲が多い。
いまだにTVCMでやたらと聴く曲もある。そういう明るい雰囲気の時代だったのだろうか。
たとえばスポーツで、大リーグなら1968年がピッチャーの当たり年だったことがある。
(この年にア・リーグで首位打者になったカール=ヤストレムスキーの打率は.301。)
それと同じように、音楽の世界にも「当たり年」が存在するのだろう。調べてみると面白そうだ。


2005.1.30 (Sun.)

池袋に自転車で行くことにした。いつもは電車だけど、新宿からもうちょっとがんばって、行ってみる。

行きは山手通り。中落合で西へと曲がる地下鉄大江戸線と別れ、ひたすら北上。
椎名町の陸橋で街を見下ろしてみる。西武線沿線の地域をじっくりとまわったことはないので、なんだか新鮮だ。
要町の交差点で昼飯を食べて、そこから一気に池袋へと攻め込む。裏から行く池袋西口は、すごく斬新。
みなとみらいのときもそうだったけど(→2004.11.14)、ふだん自転車で来ないところを自転車で走りまわるのは快感だ。
意味もなくやたらとウロウロあちこち見てまわったりして、それだけでニヤニヤ笑ってしまう。まるで不審者。

スピードに物を言わせて、自動車オンリーの池袋大橋を渡り(すいません)、東口へ。
やっぱり同じようにウロウロまわるんだけど、僕の場合、基本的に池袋はハンズとベーグルで完結してしまうので、
あとはジュンク堂やPARCOや東武をテキトーにまわって時間をつぶすことになる。そしてカフェで読書。

空が暗くなってきたので、二郎でラーメン食って、今度は明治通りを帰る。
工事中で道幅の狭い山手通りよりは、明治通りの方がずっと走りやすい。
思ったよりもずっと早く新宿に着いて、そこからはいつものように家へと帰った。
池袋も意外と遠くないぞ、と思えたのが一番の収穫かな。


2005.1.29 (Sat.)

私立受験直前の特別授業も今日で終了だ。
最近は、カウントダウンが始まった中、毎日を噛み締めるようにして過ごしている。
言ってみればただの偶然で今の塾で教えるようになったわけだが、
生徒が吸収した以上のものを僕が吸収したように思うのだ。本当に貴重な時間を与えてもらった。
だから僕は与えてくれた生徒のためにまだもうひとつがんばる。そうして、無限にやりとりは続いていくのだ。


2005.1.28 (Fri.)

モーニング娘。の『マンパワー』はもう、音楽ですらないと感じる。

自転車をこいでいるときに、女の子の声はけっこう効く。軽い疲れを感じているときには、いいカンフル剤になるのだ。
ハロプロ系列は楽曲が非常に充実していたので、正直、そういう意味でとても重宝する存在だった。
しかし2001年あたりをピークに、どんどんクオリティが落ちていったように思う。だから惰性で聴いていたのは否定できない。

完全にもう聴く気ゼロ、いやマイナスになったのは『かしまし』のときで、これはもう本当にだめだと思った。
もともと僕は芸能ネタに詳しくなく、興味もない人だったので、勉強ついでにハロプロの知識を仕入れていった経緯がある。
でも『かしまし』で、もう勘弁という気持ちになってしまった。そこにこの『マンパワー』がテレビで流れて、ウンザリなのだ。

あの『LOVEマシーン』のときの衝撃はなんだったのだろう、と思う。
当時僕は全然芸能ネタに興味はなかったのに、『ASAYAN』で後藤真希を見て、おおっ!と思った。
つまりあのときは「わからない人」でも納得させちゃう、しっちゃかめっちゃかなエネルギーがあふれていた。
でも今のモーニング娘。って、「わかってる人」だけ限定でエンタテインメントを供給している感じがする。

これが、組織というものの本質なのかな、と思う。
全然完成されてなくて、いつぶっ壊れるかわからないスリルがあった『LOVEマシーン』の頃と、
4期加入で完成されてしまって、あとは確保したパイだけを相手に商売をしている現在。
組織が当初の目的を達成して、続いて自己の保存を次の目的に書き加えたとき、ゆるやかな崩壊が始まるのだろう。
当初目的だったものを安定して続けるために自己保存をする。それが、劣化をスタートさせるという逆説。
なんとも皮肉だけど、そういうものなんだろう。だから、いつでも、目的は攻撃的に設定しないといけないのだ。


2005.1.27 (Thu.)

北条司『シティーハンター』について書いてみよう。

偉大なるマンネリというか、決まったパターンが踏襲されているストーリー展開が最大の特徴。
美女からトラブルが持ち込まれ、シティーハンターこと冴羽リョウ(漢字が出ない……)がアシスタントの槇村香と解決する。
この構造に、海坊主や野上冴子らといった個性的な脇役が味付けをして、まったく飽きさせない話に仕上がっている。

この作品は、全盛期の少年ジャンプの中では珍しく、「きちんと終わること」を意識して描かれた作品である。
最初からエンジェル・ダストやユニオン・テオーペの存在が提示されていて、いつでも終われるようになっているのだ。
そのうえでじっくりと、最もドラマティックになるような設定が連載と並行して練られていて(海坊主の失明、海原神など)、
すべての主要キャラクターが、まったくムダなくラストに向けて収束する動きを見せていく。
あとがきで作者も書いているけど、キャラクターが頭の中で勝手に動いて話を進めていく、という感覚。
そうしてひとつの世界ができあがって、読者を満足させる。パフォーマーと観客が、平等に連帯感を味わっている瞬間だ。

そもそも続編的存在の『Angel Heart』の設定を考えれば、この作者の非凡さがわかる。
一度完全につくりあげたものを壊して、もっと上を狙う意欲。本当にこれはすごいことだと思う。

そういえば、一時期やたらとテレビでスペシャルアニメを放送していたことがあったけど、最近はすっかりなくなってしまった。
同じようにテレビでスペシャルをやっていたのに『ルパン三世』がある。日テレはポストルパンを意識してたのかな、と思う。
でもルパンが二枚目と三枚目がなめらかにくっついたような、一枚岩の人格をしているのに対し(さすが山田康雄!)、
アニメの冴羽は二枚目の人格と三枚目の人格があまりにかけ離れていて、そこがどうも違和感になっていた。
マンガだと脳内でうまくつなげられるのに、アニメだと難しい。想像力って、なかなか大変だ。
(ところで冴羽役の声優・神谷明は自分の事務所を「冴羽商事」と名づけたそうだ。うーむ、さすが。)


2005.1.26 (Wed.)

W.ギブスン『モナリザ・オーヴァードライヴ』。三部作(→2005.1.82005.1.14)の完結編である。

『カウント・ゼロ』が3つの視点から描かれた話であったのに対し、今回は4つである。
「ヤクザ」の娘で安全のために日本を離れることになった久美子、
ドッグ・ソリチュードと呼ばれる荒地の中の秘密基地にやってきた昏睡状態の男、
タリイ=アイシャムに代わって擬験(シムステイム)のスタアとなったアンジイ(前作のヒロイン)、
そしてアンジイにあこがれる少女・モナ。この4つのストーリーが、前作以上に絡み合って進んでいく。

感想としては『カウント・ゼロ』とほとんど同じで、「よくできている」。
まず印象に残るのは、やはりギブスンの構成力の巧みさだ。前作よりも積極的に話をクロスさせていく。
ただ、「よくできている」以上の刺激がないのも事実だとは思う。良い意味でも悪い意味でもマンネリの領域に入った。
ファンは納得できるし、そんなに好きでもない人は「へえ」で終わる。そんな印象だ。

さて、この作品で最も気になるのは、ラストだ。
『ニューロマンサー』では、基本的に主人公たちは日常生活に戻っていくことになった。
『カウント・ゼロ』では、『ニューロマンサー』以上に平和な生活を送ることになった。
両者に共通しているのは、実際の生活ということ。『ニューロマンサー』の言葉で言えば、「肉」を受け入れる生活。
ところが『モナリザ~』のラストは、それとは正反対の方向を示している。具体的には書けないけど。
婉曲に表現するなら、引きこもりというか、「肉」を捨てることで永遠を志向するというか、まあそんな感じだ。
永遠の平穏を用意することでシリーズをきっちり締めた、という考え方もできるんだろうけど、
僕個人としてはどうも気に食わない。作者はどうしてこのラストを選んだのか、もっとじっくり考えていかないといけない。

それにしてもこの三部作は最初の『ニューロマンサー』がなければ成立しなかったわけで、
この日記をチェックしている皆さんにはぜひとも『ニューロマンサー』だけでも読んでみてほしいなあ、と思う。


2005.1.25 (Tue.)

いつもの補習相手に頼まれて、面接対策ということで3時間にわたってKJ法をレクチャーする。
本当はでっかいポストイットに模造紙を使うんだけど、塾にそんなものはないので、小さいポストイットとA4の紙2枚で代用。
まずは中学1年から自分にあったできごとを時系列で思い出していって、ポストイットに書いていく。
それを3年分書き終えたら、「がんばったこと」「高校でもやりたいこと」など見出しを決め、それに沿ってグルーピングしていく。
そしてグループごとまとめたポストイットをA4の紙に貼りなおせば、自分の中学校生活の構造が見えてくるはずだ。

のんびりと話をしながら、些細なことも思い出してもらっていく。雑談を通して記憶を掘り起こしていく。
同時に僕は内心、大学で経験した聞き取り調査と大学院で勉強したアイデア整理法がここで役に立ったことに驚く。
人生どこで何が武器になるかわからないのだ。ちゃんと経験を積んでおけば、それはムダにならないな、と再認識。
少なくとも、こうして役に立っただけで、過去のハードな経験も新たな価値を持つようになる。救われるのだ。

完成したものを「自分の部屋の壁に貼って、面接で何を言えばいいか考えるべし」と言って渡す。
いつものようにニコニコして相手は受け取る。本番でもその笑顔が出せれば、絶対に大丈夫だな、と思う。
なんというか、とにかくホントにがんばってほしい。頼られた分だけ、しっかりと確実に力になりたい。
笑顔を目にするたび、ぐっと奥歯を噛み締める。前向きにさせてもらっている。
松嶋菜々子のCMじゃないけど、「ありがとう」と言われて「ありがとう」と言いたくなるのはこっちなのだ。


2005.1.24 (Mon.)

3年のクラスはメンバーの変動がけっこうあって、なんだかさみしいくらいに人数が減ってしまった。
こぢんまりとした中でむしろ結束力が高められる、という考え方もあるのかもしれないが、
僕はハイテンションで突っ走る授業が持ち味だと思っているので、規模が小さくなるのはマイナス面が大きい。
それでもメンバーは集中力を高めてがんばっている。オトナだなあ、と思いつつ僕は授業をしている。
生徒である中学生を尊敬して授業する、というのもおかしな話かもしれないが、僕はいつもそうだ。
もし彼らが同じように僕を尊敬してくれているのであれば、こんなにうれしいことはない。
そしてそういうギヴアンドテイクを、塾に限らず今後も続けられるように努力をするだけだ。


2005.1.23 (Sun.)

新宿に自転車で出かけて、明治通りを帰る途中で雨がしっかりとした降りになってきた。
うわあ参ったなあ、早く帰りたいなあと思って黙々とペダルをこぐ。

なんとか渋谷の宮下公園の辺りにまでたどり着き、信号につかまって白い息を吐く。
ふと左手を見ると、コートの男が別の男に傘をさしてもらって突っ立っている。ちょっと妙な光景だ。
それに、無線の声が騒がしい。粗っぽいスピーカーを通したしゃべり声が、辺りに響いている。
なんだろ、と思ってよく見てみたら、コートの男はSMAPの稲垣吾郎だった。これはドラマのロケなのだ。
街を行く人は全然それに気づいてない。面白いくらいに素通りしていく。
なーんだ、気づいたのはオレだけかよーと思ってニヤニヤしていたら、視線に気づいた吾郎ちゃんと目が合った。
吾郎ちゃんは興味なさそうに再び道路に背を向けると、雨降る宙を見つめて白い息を吐いた。
役づくりのせいかもしれないけど、吾郎ちゃんはふつうの30代のおっさん(失礼)、という感じだった。
そうしているうちに歩道を歩いていた女の人が、コートの男の正体に気づいて足を止める。
そこから人の輪ができるまでは、そう時間はかからなかった。
信号が青になったので、僕は帰りを急ぐ。去り際に「稲垣メンバーがんばってー!」と叫ぼうかと思ったが、
ジャニーズ事務所が本気で怒ったら恐ろしいことになりそうなので、やめた。

芸能人を肉眼で確認したのはいつ以来だろう? もはや全然思い出すことができない……。


2005.1.22 (Sat.)

勢いに乗って注文しちゃったiPodが届いた!

さっそく箱を開けてみる。というかそもそも、箱からしてオシャレ。原色で固められた立方体なのである。
各面にはCMでお馴染みの人のシルエットがでっかくトリミングされていたり、「iPod 20GB」とでっかく書いてあったり。
少しだけ頭を使って中身を取り出す。そうして出てきたiPodはまるでシガーケースみたいだった。タバコ吸わないけど。

iTunesと連動させて、さっそくiPodに曲を入れてみる。
今まで日本製のポータブルオーディオに慣れきっていたせいか、操作していても違和感があって面白い。
むしろこの違和感こそ、ただのオーディオではなく新種の機械をいじっているんだという気分にさせるものだ。
表示も日本語ではなくわざと英語にして、よけいに違和感を強くする。アメリカ製の新種の機械! 新鮮だ!

もともと持っているMP3がめちゃくちゃ節操のないジャンルに広がっているので、いざシャッフル再生してみると、
Underworldの次に『津軽海峡冬景色』が来たと思ったら『いっぽんでもニンジン』を経てMAD CAPSULE MARKETSという、
非常にスキゾな時間を体験することができてしまう。ポータブルでそんなことができるとは……。

クイックホイールも、慣れると本当に快適。音量調節にしてもスクロールにしても、気軽に動かせる仕組みなのだ。
これを考えた人はどんな脳ミソしてるんだろう、と思う。便利なものを最初に思いつくことの凄みがヒシヒシと伝わってくる。

そんな具合にiPodで一日中遊んだ。今までいろんな「遊べる」道具を手にしてきたが、これはその中でもトップクラス。
末永く楽しませてもらえそうだ。ゾクゾクする。


2005.1.21 (Fri.)

『COWBOY BEBOP』をDVDでぜんぶ見た。テーマ曲(『Tank!』)からして一世を風靡したアニメである。
ドラッグがらみの話だったせいで第1話がTVで放映されなかったらしく、以後もスカスカ。
結局TVで放映されたのは全体のうちの半分くらいだった、というめちゃくちゃなアニメでもある。
1998年にスタートしたので、もう7年も前のことになるのだ。時間の流れに愕然とする。
実際見直してみると、第8話「Waltz For Venus」のヒロインがまんま広末涼子で、それで納得する感じ。

特に面白かったのは、第19話「Wild Horses」と第23話「Brain Scratch」のふたつ。
「Wild Horses」は伏線の張り方が完璧。物語をかっちり編みあげる実力が、見ていて心地よい。
本当に細部まで考え抜かれていて、これを書いた脚本家は幸せだったろうなあと思う。うらやましくなる作品。
もし見る機会のある人は、設定や小道具の効きっぷりを堪能してほしい。思わず「うまい!」とつぶやいてしまうはずだ。
もうひとつの「Brain Scratch」はネット宗教の話で、その設定だけでもう“勝ち”だと言える。
種明かしも十分に納得いくもので、その先見性には本当にかなわないと思う。
(ちなみにこの話を書いた脚本家は、後に『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』に参加したそうだ。納得。)

このアニメが支持されたのは、誰でも楽しめる話をきちんとつくろうという強い意志があったからだろう。
マニア受けする以前に、まず話としてきちんとしていること。そこが鍵になっていたのではないか。
そのうえでSFの設定や菅野よう子のジャズからメタルまで網羅した幅広い音楽性が味付けをして、
極上のエンタテインメントとして成立している。そういう贅沢な作品なのだ。
個人的には世界観がまだ説明不足だったかなあ、という気がしないでもないんだけど、
(特にマフィアというか組織がどういった存在で、どうスパイクに圧力をかけているのか、や、
 太陽系それぞれの惑星と衛星がどういった特徴を持っているのか、など。)
そこまで細かく考えなくても楽しめるので、やはりそれだけパワーを持った作品だと言うこともできるだろう。

ちょっとうがった見方をしてみると、『COWBOY BEBOP』は第二のルパンを目指していたのではないか。
ルパンが現代なのに対し、こちらはSF。そこに差異を出そうとした、という気がするのだ。
でもその設定面でのこだわりが、薄いファンへの吸引力を弱らせた印象がなくもない。
ルパンは新作がつくられるたびに設定が足されていったわけで、そういう設定を足せる隙間が小さかった。
古典の領域に達するには、適度に力を抜くことも必要なのだ。難しいもんだなあと思う。


2005.1.20 (Thu.)

先週(→2005.1.13)の続きで、まあここでは書けないような英語を教えたら、すげー伝染力。まいったまいった。


2005.1.19 (Wed.)

英文法のプリントをようやくつくり終える。全12回のシリーズがついに完結したのだ。
大学時代のレジュメ感覚でつくったわけだけど、レイアウトにこだわるクセは相変わらずで、結局今の時期までズレこんだ。
まあしかしきちんと努力してつくったからかけっこう好評で、正月に配ったら非常に評判が良かったのはうれしいことだ。
塾講師の仕事が終わっても、このプリントに託した役目は終わらない。そう考えると、なかなか感慨深いものがある。
この「作品」が、末永く使われますよーに。

(ちなみに、このファイルの作成者は「東京工業大学大学院 構造言語学研究室」にしたけど、もちろん実在しない。)


2005.1.18 (Tue.)

なんとなく、『池袋ウェストゲートパーク』のDVDをぶっ通しで見てしまった。
そういえばこのドラマについてちゃんと書いたことがなかったので、いい機会なので書いてみよう。

イチゴの回:ストラングラー(前編)
ニンジンの回:ストラングラー(後編)
みかんの回:組長の娘が失踪
しいたけの回:麻薬密売とイラン人
ゴリラの回:ネットアイドルとストーカー
TBS(6チャンネル)の回:少年計数器
洋七の回:ネズミ講
洋八の回:ブラックエンジェルズ動き出す、マサの妊娠騒動
九州の回:池袋の緊張が高まる、シュンが殺される
十手の回:ヒカルのトラウマと両グループの衝突
士(サムライ)の回:リカ殺害の真相と抗争の決着
(スープの回(スペシャル)のログはこちら →2003.11.25

どれも面白いが、「しいたけの回」の集団で頭脳を駆使するワクワク感と、「洋七の回」のギリギリの緊迫感が特に好きだ。
前半は社会問題をうまく取り入れて、それを一話完結できちんとまとめ上げていくのが特徴だ。
後半はラストに向けじっくりと確実にテンションを上げていくのが巧い。その中でのクボヅカのキレ方は非常に秀逸だ。

ただのカラーギャング抗争ならバイオレンスなだけだし、トラブルシューターなだけじゃ面白味がない。
そこをくだらないギャグをうまく混ぜながら娯楽として楽しめるように工夫しているのが、人気の秘密ということになる。
もうひとつ、短いカットによるこまめな場面転換でスピード感を演出し、なおかつうまく伏線を混ぜる。
その辺のやり方がこれまでの予定調和的なドラマにはなくって、新鮮味があったのだと思う。

若者たちの青春群像、みたいな紹介がよくされる作品だが、まあ確かにそうなんだけど、
その一言でまとめられてしまうのがすごくもったいない。 若さと仲間とのエネルギーが直接描かれた貴重な作品。
今の時代に、少しもひねくれもせずに、エンタテインメントとして完成させている。非常に元気づけられるドラマだ。


2005.1.17 (Mon.)

今日の補習はとても幸せな補習だった。「幸せ」ってのもヘンな表現だけど、事実だからしょうがない。
本来なら補習とは勉強なのでとてもつらいもののはずだが、僕の場合は補習で精神的なバランスを保っている面がある。
昼間キツいことや凹むようなことがあっても、補習があるから一日を気持ちよく終わることができるのだ。
にこにこ笑って僕のアドバイスを聞いている生徒の姿を見ると、頼られていることを実感できて、それだけでがんばれる。
生徒には本当に感謝している。助けられているのは僕の方だからこそ、全力でそいつの力になりたいと思っている。


2005.1.16 (Sun.)

それにしても、日記をつけるって大変なことだ。ちょっとサボるとすぐにたまる。
野田秀樹は戯曲集のあとがきで「人生とは皿洗いの皿のようなものだ」と書いていたが、まさにそれを感じる。
きちんと食べた後に洗わないと、すぐに台所は汚れた皿でいっぱいになってしまうのである。

毎日メモはしているが、すぐに書いたものと思い出して書いたものとでは、やはり細かい点の気の配り方が明らかに異なる。
なんとかムラのないものにしようとは心がけているが、どうしてもダイジェスト版という印象は残ってしまう。

浪人中、僕はよく名古屋の街に出かけていたが、寮に戻って目を閉じると、その一部始終を頭の中で再生できた。
2~3倍速ほどのなめらかな早送りで、見かけたビルのファサードからすれ違った人まで、ほぼ完全に思い返すことができた。
当時は人生で一番頭が冴えていた時期だったし、今はだいぶ性格がテキトーになったうえに頭も衰えたので、
再生能力は鈍った。それでもふつうの人に比べれば、ある程度は鮮明に光景を記憶することができる自信がいちおうある。

しかし、すぐにメモを残さないと記憶に対する考え方、とらえ方が変化してしまうのだ。
最初のうちは細かい点に興味が惹かれることが多いが、時間が経つと全体をまとめて一般論にしたがるクセがある。
それが「ダイジェスト風の日記」という形になって現れている。そしてそればっかり続くと、同じことの繰り返しになってしまう。
少しでも読みごたえのある日記にするために、なんとかその日のうちに書けるだけは書いておきたい。
まとめて日記を書くたび、そんなふうに反省してみる。いちおう。


2005.1.15 (Sat.)

ゆうきまさみ『究極超人あ~る』。文化系の部活をやっていた人なら、必ず一度は通った道。
文化系なのに妙に野球が好きだったり、「光画部時間」が存在していたり、身に覚えがあるはずだ。
弱小文化系クラブと生徒会の熱い戦い、仲間と常識はずれな行動をとる楽しみ、そこには青春の一類型がある。

ただ、先に紹介した『奇面組』(→2005.1.12)と比較すると「おたくの自己肯定」のニュアンスが強いので、
人によっては受けつけないかもしれない。同じキャラの繰り広げるドタバタでも、その違いが興味深い。
その原因はやはり、部活を中心に据えているかどうかによるのだと考える。
奇面組がどこにも属さずクラブ活動を冷やかし続けていたのに対し、『あ~る』にはまず光画部がある。
特に光画部は写真という専門知識を必要とする、まあマニアックな部活なので、そこがハードルになる。
マニアックな集団に耐性があるのなら、このマンガは十分なエンタテインメントになりうる。
体育会系と文化系を分けるポイントとして、『あ~る』はとても面白い存在であると思う。
でも意外と、体育会系の人でもこういうマンガが好きだったりするから、なかなか難しいのだが。


2005.1.14 (Fri.)

W.ギブスン『カウント・ゼロ』。こないだ読んだ『ニューロマンサー』(→2005.1.8)の続編に当たる。

今回は「カウント(伯爵)・ゼロ」の異名を持つカウボーイの卵・ボビイが主人公。
なのだが、ほかに美術品の作者を探す元画商のマルリイ、企業傭兵のターナーが登場する。
この作品は、この3人をそれぞれ中心とする3つのストーリーが絡み合って複雑に構成されているのだ。
最初は関係のなかったストーリーが、ラストに向けてゆっくりと三つ編みにされていくのは、本当に壮観だ。
『ニューロマンサー』におけるギブスンは、スピード感というか圧倒的な攻撃力というか、
とにかくすべてを突き抜けるような貫通力、その一本槍で話を進めていったわけだが、
この作品ではそのようなトゲトゲしさはまったく表に出てきておらず、本当に読みやすくなっている。
小説家として熟練の域に達した、極上のストーリーテラーとしての実力をしっかり見せつけてくれる。
だからクリエイターとしてのキレ具合には不満のある人もいるはずだ。パワー落ちてんじゃん、と。
でもその分、伏線の醍醐味だとか、前作で無視していた人間関係の必要性だとかはきっちり描かれている。

個人的な感想を書くと、きわめて「演劇的だ」と思った。それはまず、ストーリーの三つ編み具合からだが。
前作では主人公たちのグループが、仲間を少しずつ増やしながら旅をしていく、という形をとっていた。
しかしこの作品では、バラバラの三者が、ひとつの結論へとゆっくりと近づいていく姿が俯瞰で描かれる。
つまり一人称的な『ニューロマンサー』と三人称的な『カウント・ゼロ』ということで、この差はかなり大きい。
うがった見方をすれば、『ニューロマンサー』で「発見」した世界観(サイバーパンク)に自信を深めた作者は、
いよいよその世界の持ち主として、続編を送り出した。それはストーリー性・ドラマ性の復権と考えられるのが興味深い。
確かに新領域を切り開くエッジの鋭さに欠けてはいるが、それ以上に読者を納得させる構成力がこの作品にはある。
だからエンタテインメントとして、この作品は楽しみたい。前作で世界観に馴染めた人なら、大丈夫のはずだ。


2005.1.13 (Thu.)

私立の入試直前、ということで特別講座を担当する。
さあ授業だ、と思って教室の中に入ってみると、見事に男子オンリー。高校3年の頃をちょっと思い出した。

いつものように、「演習」+「気をつけるポイントの徹底」というスタイルで進めていく。
でも当然男子オンリーということは、バカトークが炸裂するということである。
気がつけば放送禁止用語の単語を教えていた。その瞬間、いつもとは違う感じで目を輝かせる男子たち。……しまった。

授業が終わって、教えた単語をブツブツつぶやきながら帰る連中。きっと明日のこの地域の中学校は、どこも大騒ぎだ。


2005.1.12 (Wed.)

新沢基栄『ハイスクール!奇面組』について。

アニメ化されたのを潤平が見て「おもしろかった」と言ってたので、とりあえず単行本を買ってみることにした。
でも1・2巻が置いていなかったので、しょうがないから3巻を買ったのがきっかけ、と記憶している。
そこから全巻そろえるまでは本当に速かった。少年ギャグマンガの王道中の王道である。

思えば一堂零になりたい子どもだった。周りから「変態」と呼ばれ慕われたい、と思う子どもであった。
そんでもって同じような「変態」の友達と一緒になって周囲に笑いを巻き起こしたい、と思う子どもであった。
それぞれに特徴のある性格の連中が集まって、日常生活を震わせることで楽しくなる、という構図。
それが、いつのまにか僕らには刷り込まれている。そしてこのマンガは、その主犯格のひとつなのだ。

このマンガ、後半になってくると、もう職人芸の世界といえるくらいに安定したエンタテインメントとして完成される。
読んでみると奇面組の前にゲストが登場し、それぞれ意外な面を見せることで話が進んでいくパターンが圧倒的に多い。
つまり新キャラやイベントを投入して、奇面組の面々に化学反応を起こさせて、楽しい展開を実現させる。これが基本だ。
定期的にクラブに挑戦することが、このマンガにおいてはその原動力になっていた。特に格闘になると読みごたえがあった。
その辺は少年マンガらしい熱さを上品にというかうまくギャグとして採り入れていて、古典として大いに参考になるはずだ。

奇面組はメンバー5人の個性もさることながら、登場人物がそれぞれ(名前からして)一癖ある人ばかりで、
マトモそうな人でもやっぱりちょっとどこかおかしい、そのバランスがすごくいい。僕らのふだんの生活を見回してみても、
このバランスはリアルなバランスだと思う。パッと見てマトモそうな人なんだけど、実はすごい個性があって、
そしてちょっとおかしい面も持っている。大小さまざまなツッコミどころを持った人たちが、リアルなバランスで登場する。
だからこのマンガを読んでから日常生活に戻ってみると、「あれ似てるかも?」と思うことがある。
なにげない日常生活の中に、マンガみたいに面白い一瞬が潜んでいることに気がつくのだ。

しかし考えてみれば、一時期のモーニング娘。の面白さも、このマンガと共通項を持っていたのではないか。
奇面組の場合には一堂零・冷越豪・出瀬潔・大間仁・物星大というバラバラの個性を持った5人が騒動を起こしたが、
モーニング娘。についても似たような構造があった。よくメンバーの入れ替わりがクローズアップされたけど、
本当は確固たる特徴を持ったキャラクターが集まって、予測のつかない事件を起こしていたから面白かったのだ。
そしてそれを応用すると、仲間がひとりひとり自分の役どころをきちんと理解して集まること、
それが日常生活を面白いものに変えていくヒントだ、という結論が出てくると思う。
毎日を楽しむ秘訣は奇面組にあり。


2005.1.11 (Tue.)

僕は『セサミストリート』が大好きで、その中でも特に「エルモ」というキャラクターが大好きだ。
全身が真っ赤で、甲高い声でしゃべる、元気のありあまっているあいつ、と言えばわかってもらえると思う。
確か小学校5~6年くらいからNHKで『セサミストリート』の放送が始まったんだけど、そのときからずっとエルモが好きだ。
どうしてそんなに好きなのか考えてみたことがあって、出た結論は、「とても他人に思えないから」というものだった。

エルモは自分の周りで起こっているあらゆることに首を突っ込まないと気がすまない性格で、好奇心がやたらと強い。
だからしばしば、他人の迷惑をかえりみずに自分の好奇心を満足させるべくあれこれ動きまわって、
「あちゃー」と反省することになる。でもエルモはどこか憎めなくて、みんなからかわいがられている。そういうキャラクターだ。

「セサミストリート」には他にも魅力的なキャラクターがいっぱいいる。
クッキーが好きで好きでたまらないクッキーモンスターもかなり好きだ。嫌いなものが「最後のクッキー」とは非常に哲学的だ。
アーニーとバートのコンビもいい。僕の携帯ストラップはずっとこのコンビのものだが、もう売っていないのがとても残念だ。
玄人好みなのはグローバー。長い手足はどんなアクションをやってもきまる、最も「かっこいい」キャラクターかもしれない。

でもやっぱり、エルモがいちばん好きなのだ。エルモを見ているとちっちゃかった頃の自分を勝手に思い出して、
なんだか「負けないようにがんばらなきゃ!」という気分になってくるのだ。
そんなわけで皆さんも、エルモのように(エルモのような)僕をかわいがってください。


2005.1.10 (Mon.)

ハロルド作石『ストッパー毒島』について、あらためて語ってみるのだ。

実はこのマンガ、プロ野球版の『SLAM DUNK』と呼べる構造を持っている。毒島・斉木・清水のキャラクターは、
そのまま桜木・宮城・流川と重なる。彼らはケンカしつつも「チームのため」という点でつながっている。
『SLAM DUNK』の場合には試合を通した桜木の成長を中心にしてドラマをつくり上げていくのに対して、
『ストッパー毒島』は他にもっと多くの魅力的なキャラクターを出していくことで、少年マンガ的な盛り上げを実現している。
特にこっちは現実にプロ野球でプレーしている選手が登場してとんでもなくシビアな対決を繰り広げるということと、
チックくんの正体探しというラインも埋め込んで、より物語の幅を広げようという努力が見られる。

『ストッパー毒島』が連載されていたのは、1996~1998年の3年間。
この時期は、野茂がメジャーリーグで活躍し、日本球界ではオリックスのイチローがブレイクしていた頃だ。
今ほどピンチの予感はなかったが、メジャーリーグという「ひとつ上の存在」が急に現実味を帯びて僕らの前に現れた時期。
かつて野武士が暴れまくったパ・リーグはすっかりおとなしくなり、魅せる野球の意義がいよいよ問われだすことになった時期。
そういう状況の中、このマンガはイチローをはじめとするトップ選手との対決を脚色のない等身大の迫力で描き出す。
さらにフィッシュバーンらオリジナルキャラクターを登場させることで、物語の緊迫感はさらに強いものとなってくる。
このフィッシュバーンと毒島の対決は要所要所で話を盛り上げ、読者をグイグイと引きつける。

ある程度野球に詳しい人なら、「おおっ」と思わずうなってしまうようなマニアックなギャグがあちこちに散りばめられている。
でもそこまでわからない人でも、確実に純粋にストーリーを楽しめるようにもなっている。そこが凄い。
プロスポーツのライヴ映像を見ていると、身体の圧倒的な説得力でうならされるプレーに出くわすことがよくある。
このマンガでは、それが1コマとして写実的かつ洗練されたデザインのように、丁寧に描かれている。
だからマンガなのに、ある意味で本物の映像よりも迫力のある身体のワンシーンを目にすることができる。
誰でもため息を漏らすような一番のシーンは、病院から抜け出してきた佐世保が、最終戦のダブルヘッダー第1戦で、
小宮山からサヨナラホームランを打つシーンだろう(11巻86~87ページ)。あまりの美しさにもう言葉も出ない。

「あまりにご都合主義な展開」とか「こんなにうまくいくような話にはリアリティがない」という的外れな批判がありそうだ。
そんなことを言うやつは、マンガを楽しむ才能か野球を楽しむ才能のどちらかが確実に欠けている。
少しでもセンスのある人なら、文句を言えずにストーリーを享受することしかできないはずだ。
それくらい、このマンガの迫力は凄い。これを超える野球マンガが今後現れる気がしない。
僕の中では究極のマンガのひとつなのだ。


2005.1.9 (Sun.)

ふと思いついて、谷保天神へ行ってくる。自転車で行ったらかなり寒くって、鼻水が止まらない。
でもこれもかわいい生徒のためなのだ、ティッシュでこまめに鼻をかみつつ、目的地へ向かう。

谷保天では生徒の合格を祈ってギザジューのお賽銭を入れる。それからお守りを買った。
せっかく国立に来たんだからと、ロージナでシシリアンを食べる。国立時代の究極のぜいたくのひとつだ。
帰りは暗くなった中を、シシリアンの味を反芻しながらペダルをこぐ。こういうのを、なにげない幸せって言うんだなあ。


2005.1.8 (Sat.)

W.ギブスン『ニューロマンサー』。いわゆる「サイバーパンク」と呼ばれるSF作品のはしり。
コンピューターやバイオテクノロジーが高度に発達した未来の世界を舞台にしているわけだが、
この作品が発表されたのは1984年のことで、21世紀入りたての現在を考えると、非常に先見性のある設定になっている。
(『マトリックス』(→2004.12.7)は、この作品をかなり下敷きにしている。用語がそのまま引用されている箇所も多い。)
主人公・ケイスは「カウボーイ」と呼ばれるハッカー(こんな陳腐な言葉で表現したくなかった……)で、
電脳空間に対して現実の身体を「肉」と蔑視している。しかし今はその自由を奪われ、千葉の街で沈み込んでいる。
そこに両眼にレンズを埋め込んだアウトローの女・モリイが現れ、物語は加速度をつけて動き出す。

正直言うと、第一部を読み終えて、まったく理解できなくて、しょうがないのでもう一度最初から読み直した。
するとだいぶ独特の文章や設定に慣れてきて、そのままラストまで突っ走ることができたのだ。
そう、とにかく未来には当たり前になっているであろう設定や専門用語を、解説もないまま雪崩のように書きつけていく。
表現上特に強調されているのは次の2点だろう。コンピューターとネットワークの高度の発達、変容しきった身体感覚。
それがスピード感むき出しの文体に乗っているから、読者は振り落とされまいと必死でしがみつくしかないのだ。
(訳した文でコレなのだから、原文はもう想像がつかない。というか、訳者・黒丸尚のセンスがまた抜群なのだろう。)
コンピューター・ネットの発達については細かい注釈をすっ飛ばしているからこそ、成功している。
もしここで詳しい説明が入ってしまえば、それに伴ってネットも重い存在になってしまうのだ。リアルになると、軽さを失う。
また、この世界では身体は積極的に改造すべきものだ。細胞組織は培養され、整形技術は日常に溶け込んでいる。
汚らしいものの上に成り立つきわめて人工的な美しさ、それが『ニューロマンサー』の世界の基本的な形である。
一度文体に慣れてしまえば、読み手も書き手と同じようにスピード感をもって突っ走ればいいことに気がつく。
つまり、細かいところにこだわって読むのではなく、まずは荒っぽくても展開をつかめれば、それでいいのだ。
そうしてまずは乱暴にこの世界を駆け抜けることが、楽しむための一番のコツであるように思った。

話の展開が理解できるようになると、ようやくこの作品の面白さがわかるようになる。
ひとつひとつ手順を追って、主人公たちは核心へと近づいていく。それも自力というよりは、巻き込まれっぱなしで近づく。
ひたすら翻弄されながら、正義のためでもなんでもなく、ただ求められているからやっている、その感覚が面白い。
僕の大好きな水滸伝的ライトスタッフな話には、自主的に、意欲的に、目的に向かって力を集める話が多い。
しかしこの話は違う。そういう意味では完全に、未来における(ちょっとだけ希望的で頼りない)ピカレスクであると思う。
そしてピカレスクということはつまり、つまらない正義感に左右されず、キャラクターの能力だけで物語が進むということだ。
シビアな駆け引きと戦いが繰り広げられ、物語は手綱を少しも緩めることなく進んでいく。

読み終えると、確かに目的は達成したが、大きく世界が変化したわけではないことがわかる。
しかし主人公たちは燃え尽きたエネルギーを充電するかのように、しばらくは静かに暮らしを続けることになる。
純粋に未来とそれを舞台にした冒険だけが描かれている。見事なまでにその冒険の部分だけが抜き出されているのだ。
こういう言い方もできるかもしれない。ある(傍目には)静かな冒険を通してのみ、未来の姿を提示した作品。
ドラマなんてとうの昔にくたばってしまった未来の、一瞬だけのドラマ。
その一瞬だけの火花が、人工的な美しさと根っこの醜さとを同時に見せつけながら、はじける。
そしてその後に残る焦げた匂いは、未来の側からすでにいま現在の空気の中に漂い込んでいるのだ。


2005.1.7 (Fri.)

月イチでテストをやっているわけだが、3年生にとっては最後のテストが終わった。
「有終の美を飾れ!」とハッパをかけたわけだが、結局、最後までそそっかしい感触を残した。
まあそれもあいつららしいかな、と思う。

そして冬期講習が終了。いよいよ受験が近づいてくる。
終わりははじまりなのだ。あと少し、こっちも全力でスパートをかける。


2005.1.6 (Thu.)

1年生にひとり、鬼がいる。
英語的センスの塊のような生徒で、完全に満点を取る方法を理解している。
宿題のノートを見ると取り組み方がとんでもなく丁寧で、まったくもって非の打ち所がない。
性格も素直なうえに謙虚で、できなかったときには人一倍悔しがる。人間ができているのだ。
自分が同じくらいの歳にどんな具合だったかを考えると、本気で恥ずかしくなってしまう。

「出藍の誉れ」なんて言葉があるわけだけど、こういうきちんとした子どもが自分を踏み台にしてくれるのであれば、
自分の存在意義を確実に確かめることができるわけで、非常にうれしいことだ。
と同時に、自分が今まで踏み台にしてきたものたちを考えて、奥歯をきゅっと噛み締めてみる。


2005.1.5 (Wed.)

英語の問題を解くのは、事件の犯人を推理するのに似ている。
あらゆる状況証拠が周囲から提示されていて、もっともぴったりくるピースを埋める。
確実に犯人を推理しなくちゃいけないから、ミスはできない。そんなところも似ているように思う。

それにしても、3年生の英語の強さは本物になりつつある。
演習をやるたびに確実にセンスが良くなってきていて、ミスをきちんと悔しがることができている。
ミスを悔しがるということは、「本来ならできていたはずの自分」がいることが前提だ。
ベストが尽くせていなかったからこそ、悔しがれる。これは大きな成長だ。
そうやって褒めると、こぞって「や、油断したくないからそんな持ち上げないで」という反応を返してくる。
もう本当に、お前らサイコー。こんな連中と一緒に過ごせて、自分は幸せだよ。


2005.1.4 (Tue.)

1年生のクラスもだいぶ固まってきた感じがする。
冬期講習ではひたすら、めちゃくちゃ難度の高い問題の演習をやっている。
できなくてもしょうがない問題はできなくていい(ただし次回はできるようにしておけ)、というスタンスを貫いている。
そうなると必然的に、取らなくてはいけない問題を落とさないことの重要性が見えてくるようになる。
たとえどんなに難しいテストでも、ミスをしないことの重要性は簡単なテストと変わらないのである。
このことに気がつきだしたようで、どうすれば高い点が取れるのか、方法論が理解できてきたようなのだ。
一度それが身についてしまえば、あとはどうってことない。2年後には確実に、結果を残してくれるはずだ。


2005.1.3 (Mon.)

正月特訓最終日。もはや体力の限界にきているのだが、そんなのは表に出さないでがんばる。

日本語と英語の違いにgoとcomeの違いがあるんだけど、同じようにtakeとbringにも違いがある。
会話では、「行く」なのにcomeになったり、「持っていく」なのにbringになるというアレだ。

このことを説明するのに、ホワイトボードにジャイアンとスネ夫を描いてみた。
ジャイアンには「やいスネ夫、ニンテンドーDSを持って来い! しかも英語で返事しないとギッタギタだぞ!」と言わせる。
するとスネ夫はニューヨークにいるスネツグに相談した結果、「I'll bring it.」と返事をする、という設定である。

最初ジャイアンとスネ夫を描いてみせたとき、生徒は全員口を開けて唖然としていた。
そして(なんだコイツ!?)という一瞬の戸惑いの後、ほぼ一斉にジャイアンとスネ夫をそのままノートに描き写しだした。
「勝った」と思った瞬間であった。


2005.1.2 (Sun.)

正月に英語を教える立場になって思い出す、玉置先生の話。

玉置先生というのは予備校の講師で、「名古屋のエース」と呼ばれるほどの超人気講師だった人だ。
予備校の入学式(そんなのがあった)のスピーチで、「受験なんて軽々と乗り越えてしまうべきものです」と言っていた。

英語は短くて半年、長くて一年努力していれば必ず急に成績が伸びる科目、と言われている。
しかし浪人時代の僕は全然英語が伸びてくる気配がなくて、「そこそこ」の状態がずーっと続いていた。

正月になり特別なカリキュラムが組まれた。そして僕は講師の中に玉置先生の名を見つけ、試しに受講することにした。
そんなに人気があるんならいっぺん受けてみたい、と親に頼むと、喜んで承諾してくれたのを覚えている。

いざ授業がはじまると、けっこうな広さの教室は満杯だった。「へえ、さすがだ」と僕は周りを見回して感心した。
玉置先生の授業はおそろしいほどオーソドクスなスタイルで、まったく目新しい要素がなかった。
しかし非常にテンポがよく、時間いっぱい集中させるということについては、まさに完璧だった。
そして、授業中にところどころで、「受験なんてものは、鮮やかにかっこよく飛び越えちゃうもんだ」と言っていた。
玉置先生は授業が終わると、ものすごい速さで控え室へと戻っていったのも印象に残っている。
トロトロしていて生徒に捕まるヒマなんてなかったのだろう。さすが超人気講師、と思ったものだ。

それからしばらくして、あることに気がついた。英語が確実にわかるようになっていたのだ。
自分の中で急に視界が開けたというか、悟りを開いたというか、一段階レヴェルアップしたのがわかった。
原因をあれこれ考えてみたのだが、ひとつしか思い当たらなかった。玉置先生だ。
彼の授業を受けたことで、なんでなのかまったく全然わからないのだけど、でも確かに壁を突き抜けたのである。
そんな魔法みたいな、と疑ってはみるんだけど、でもそれは事実なのだ。

それから何年も経って、僕は英語を教える立場になっている。
そしてふと思うのだ。自分はきちんと玉置先生のように教えられているか、生徒に魔法をかけられているか、と。


2005.1.1 (Sat.)

正月早々、なぜか、本当になぜか、ヒロシのモノマネをさせられまくっている。
全然似ていないのに、ちょっと髪の毛を立てているだけで、ちょっと自虐コメントをこぼすだけで、ヒロシ扱い。
しかも、それが別のクラスにも飛び火して、結局そっちでもマネさせられる始末。
これはいいことなのか。それともよくない兆候なのか。微妙だ。

(そりゃ確かに保田圭じゃなくて吉澤ひとみならなんとかなるかと思ってましたよ。ええ。)


diary 2004.12.

diary 2005

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