diary 2004.3.

diary 2004.4.


2004.3.31 (Wed.)

引き続き、筆記対策。時事を詰め込んでいく。


2004.3.30 (Tue.)

休日なので筆記試験対策をしてみる。
ネットで情報を集めて自己採点してみたところ、時事問題がまったく取れていない。
でも一般常識の方はほぼ完璧。この差はいったいなんなんだ。


2004.3.29 (Mon.)

塾の授業とクルーの理論について。
クルーの理論ってのはつねづね書いているが、それぞれの人がそれぞれの個性を発揮して、
ひとつの作品をつくりあげる、あるいは問題を対処するということは、ひとりでやるより満足が大きいって理論。

塾で授業をしていて、ふと似ているな、と思ったのだ。
僕の場合は生徒にツッコミを入れつつ入れさせつつ、クラスに一体感を持たせるようにしているつもり。
そうやって雰囲気をつくっていくことで、クルーの一員という意識を植え付けているのかな、と思った。


2004.3.28 (Sun.)

塾を抜け出して、鴻上尚史の最新戯曲『ハルシオン・デイズ』を観に行く。
フライヤーにしっかりと「もうひとつのトランス(→2003.5.26)」と書かれているからには期待が高まる。

ネット心中をしようと公園に集まる登場人物。
中年の隠れゲイ、実は二重人格の若者、正体を偽り心中を止めようとするカウンセラー。
『泣いた赤鬼』のストーリーを、登場人物が演じるという形で劇中に引き込みながら、
カウンセラーのトラウマからの解放を平行させつつ“自殺”の重さを確かめる。
『トランス』ほどミニマルな設定ではないので、比べると話は拡散してしまいがち。
中年男もゲイである必要性をいまいち感じさせないほど踏み込みが甘かった。
デビュー作でストーリーの放棄を宣言した人が(→2003.5.8)、ストーリーによる救いを描いたという事実が、
僕にとっては最も興味深い点だった。アンケートにもそう書いておいた。
あと、一番後ろで観たので、高い金を払ってでも芝居は前の席を確保しないといかん!と痛感した。

辺見えみりはふつうにかわいかった。遠くから見ただけだが。


2004.3.27 (Sat.)

NHKジュニアスペシャルの再放送をぼんやり見ているのだが、これが意外と面白い。
今やってるシリーズのテーマは「海」で、いろんな研究所で最先端の話を聞いてまわる。
「そんなん知ってるぜー」と思っていたら、次の展開で「え? そうだったの?」となってしまう新鮮な内容がいっぱい。
一番感動したのは、深海の独特な生物の映像。生命という単位は、極限の世界では常識と異なっているのだ。
それぞれが個別の生命で、でも集団でひとつの身体をつくっている姿。実際に映像で目にすると、圧倒される。
やはりNHKの番組は面白い。歳をとるほどに民放がつまらなく思えてくるのはなぜだろう。


2004.3.26 (Fri.)

塾の春期講習初日。朝から夜までほとんど一日中塾にいた。
午後に休みをもらい、戸越銀座のドトールで新聞社の試験の過去問を解く。
時事問題が全然わからない。1年以上前の重箱の隅をつっつくような問題、わかんないよ。
で、夜の授業は集中力が切れてしまい、調子が完全におかしくなった。
「やべー、仙ちゃんが壊れたー(生徒談)」


2004.3.25 (Thu.)

いろいろとやることいっぱいのときに限って、ふつふつと読書欲が湧いてくる。
とりあえず今は、小説より社会学とか現代思想とか、そっちを読みたい。
ぐいぐい読んで、ぐいぐい知識をつけていきたい。この焦りにも近い感じは何なんだろう。


2004.3.24 (Wed.)

夜中に潤平宅へ。ヨーロッパに旅行するそうで、その前に貸してるものと借りてるものを整理。

当然ながら夜中の雑談はあらゆる方向へとズレていく。
『おかあさんといっしょ』で昔やっていた 『こんなこいるかな』の話になった。
僕の骨折&自宅療養をきっかけにマツシマ家で大ブームになったのだが、現在ほとんど評価されていない。
オリメンが「やだもん」「たずら」「もぐもぐ」で、「やだもん」のデザインが秀逸だったとか、話が弾む。
話しているうちに、ここにもモーニング娘。の構造が!という話になる。
ちなみに当時、僕は「ぴかっと(3期メン)」派で、潤平は「ぽっけ(2期メン)」派だった。

あとはプロ意識、お金をもらうという意識の話について少々。


2004.3.23 (Tue.)

たまに、本当にたまに、残酷な気持ちになりたいときがある。
サディスティックといえば、まあそうなんだけど、もっと突き抜けている感じがしないでもない。
そういうときは音楽を聴く。それも、できるだけハードなやつ。
ディストーションがガチガチに入ったギターの圧倒的な音色を聴いていると、
自分の中の憎悪をなりかわってもらった気がして、救われる。
そういう曲も、1曲でいいから、いつか書いてみたい。


2004.3.22 (Mon.)

現在担当している英語のクラス(3年)は、去年のクラスの成績的に上半分のメンバーを集めたものだ。
見ていると、基本的なことはバッチリ理解できているけど、どうも難しめの問題が苦手なようだ。
自校作成の都立やいいところの私立を狙うにしては、正直心もとない。
しかしながら生徒を鍛える前に自分自身を鍛えなければならないところが、しんどい。


2004.3.21 (Sun.)

浅田彰『構造と力』を読了する。読み終えて、思わず「やったあ!」と叫びたくなる本だった。こういうのは、久しぶりだ。

内容としては、ドゥルーズ&ガタリやラカンを解説しつつ、構造主義の限界を明らかにしていくもの。
橋爪大三郎の『はじめての構造主義』と合わせて読むと、壮大な思想の世界がかなりわかりやすくなってくる。
未熟な生物として生まれる人間(生まれてすぐに立ち上がることのできる動物とは対照的だ)は、
知覚に遅れて脳が爆発的に発達するため根源的に「狂って」しまっていることからはじまり(この辺ラカン)、
その混乱を収拾するために構造が突然変異的に一気に編み出される(クリステヴァを通過)。
その後はドゥルーズ&ガタリのコード化の話(その最前線として資本主義がある)に接続される。

これ一冊あればもう宗教なんて必要ないんじゃないの、というくらいに整理されている。
奥付を見て、これを書いた当時の浅田彰の年齢と今の自分を比べてひどくブルーになった。


2004.3.20 (Sat.)

研究室で伊集院のラジオを編集しながら塾用のプリントづくりをする。
尋常じゃない量のテープを尋常じゃない量のMDに録音し直していく。いつこの作業が終わるのか、見当もつかない。


2004.3.19 (Fri.)

落ち着いて考えてみると、編み物ってのは1次元の物体を3次元にする行為なわけだ。それってけっこう、すごいことだ。


2004.3.18 (Thu.)

ふつうに起きたのだが、なんかヘンな感じがする。
アナログの針を見ると一直線になっている。部屋の中は薄暗い。どっちの6時なのかわからない。
ベッドに突っ伏したままリモコンでテレビの電源を入れると、ニュース。雰囲気で夕方であることをようやく悟る。

久々に時間の感覚が完全に狂ってしまった体験だった。


2004.3.17 (Wed.)

ドラムスの練習。なんだかよくわからないけど、ほめられまくる。本当にそうか?と自分では思っているのだが。

それにしても先生がたたくたび、プロってのはすげえと思わされる。想像力が違う。
どこをたたくかえーとえーとって悩むより前に身体が動いている。見ていると「自由」という言葉が頭の中に浮かぶ。
想像力。自由。そういうとてつもなく抽象的なものを表現してしまっている身体。アーティストって、そういうことなのか。


2004.3.16 (Tue.)

吉田修一『パーク・ライフ』を読む。芥川賞をとった作品。

おそらく一般的な評としては「日比谷公園を舞台にした日常の描写がどーこー」なんだろうけど、
自分にとって強く印象に残ったのは、身体感覚をえぐり出そうという意欲だ。
作者が描こうとしたのは、公園という空間を舞台にした時間などではないのだ。
日常生活における身体の位置を、周囲の時間・空間との対比で探ろうとしているのだ。

まず、ストーリーは「臓器提供」からはじまる。自分の中に埋め込まれている、(可能性としての)他人の身体。
それと他人のマンションで寝泊りしている主人公とのアナロジー。これについては直接的な描写も存在している。
そして、人体模型・人体解剖図。さらにフィットネスクラブ。同級生の妊娠。ミュートにしたテレビのニュース映像。
(さらには、主人公の勤務する会社。ボディケアというかなんというか、シャンプーなどをつくっている会社。)
ここにあるのは、現代における身体性の確認だ。私たちの身体が、世界とどのようにつながっているのか。
さまざまな角度から断片的に、自分の身体に忍び込む他者と、自己という認識の立つ地点の曖昧さが描かれる。
そして最終的には、日比谷公園を直接、身体とのアナロジーで描いてみせる。

公園という空間は、近代(明治)に入って成立した。これは、公共性という概念の日本での成立と重なる。
作者が『パーク・ライフ』において描き出しているのは、極限まで公共性にさらされている現代人の身体だ。
それを公園という空間との対比の中で、実に平穏な温度(平熱)で紹介していく。
この作品に登場する公園は日比谷公園と駒沢公園なのだが、両者のつくられた経緯を考えると実に鋭い選択だ。
近代日本最初の公園として整備された日比谷公園、東京オリンピックという国家事業のために開園した駒沢公園。
駒沢公園は今もスポーツのための場所。オリンピック=運動=身体という面からも、作者の徹底した視線がうかがえる。
個人的には、もう少しメディアの影響下における身体に踏み込んでもよさそうな気がしないでもなかったが、
そうすると公園という隠れ蓑を完全に捨て去ることにもなりかねない。それでは物語としておもしろくない。
逆を言えば社会学的な関心と小説との境界線というかバランスというか、その力加減が絶妙な作品ということだ。

ちなみにカップリングで収録されていた『flowers』は全然おもしろくなかった。
作者は『パーク・ライフ』を、上述したような意義をわかって書いていたのかなあと不安になるほど、おもしろくなかった。


2004.3.15 (Mon.)

英語のクラスが中3になって、初めての全校舎統一テスト。
解いているところを見てまわったけど、あまりの基本のできなさにキレた。
採点してみたら、こないだ分かれたばかりの下のクラスに平均点で抜かれてやがる。
昨年1年間で自分が十分にボトムアップした結果だ、と言えなくもないんだけど、
やはり現在担当しているクラスで負けたというのは本当に悔しい。


2004.3.14 (Sun.)

塾で飲み会。
レギュラークラスから早慶を出せるか。日比谷を出せるか。
連中が持っている能力をフルに引き出すべく、決意を新たにするのであった。


2004.3.13 (Sat.)

エルセーヌのCMを見た。石川と辻と加護の3人が出てるやつ。
4期で吉澤だけ出ていないのは、イジメだろうか。4期は4人でしっくりくるだけに、なんか悲しくなってくる。

いい機会なので、モーニング娘。のそれぞれのメンバー加入の傾向についてまとめておく。

★オリメン……ヴィジュアル優先
周知のごとくモーニング娘。はシャ乱Qロックヴォーカリストオーディションの落選組で結成したんだけど、
『愛の種』や『モーニングコーヒー』のPVを見る限り、オリメンは歌唱力よりもヴィジュアル優先で選ばれている。
特になっち。あと、飯田も非常に高いレベルを期待されている。福田・石黒・中澤は身近にいそうな感じか。

★2期……コーラス専門部隊
5人から8人になったわけだが、福田が卒業するまで2期にはまったくと言っていいほど陽が当たらなかった。
8人になったのは『サマーナイトタウン』からだが、このシングルから明らかにコーラスの重要性が増している。
ヴィジュアルのいいオリメンがメインで歌い、バックの2期(+飯田)がコーラスで支えるという構図が成立するのだ。
つんくは特に高い方の音でハーモニーを合わせることを好んだが、これは2期が入らなければ実現できなかった。

★3期(後藤)……なっち独裁体制の解体に対する保険
3期に選ばれたのは後藤のみ。同時にリリースされた『LOVEマシーン』で一気にブレイクすることになる。
ラブマ以前の娘。はなっちの独裁体制と言ってよかった。「モーニング娘。=なっち」と表現できる状態だった。
そこに後藤が加入したことの意味は、なっちに並ぶもうひとつの頂点を用意したということだけに限らない。
なっちの独裁を崩壊させ、他のメンバーのファンが成立する契機をつくったことこそが最大のポイントだ。
つまり、モーニング娘。における「誰がいい」という派閥は、この瞬間に初めて生まれたというわけだ。
そういう意味では、後藤の加入はポストなっちの娘。を維持するための保険と言えるだろう。

★4期……ヴァラエティ路線
モーニング娘。は4期の加入で完成された。それは歌からヴァラエティに軸足をシフトすることを意味していた。
定員3人にもかかわらず、辻と加護、石川と吉澤という4人が新たに加えられた。
これはつまり、モーニング娘。内におけるキャラづけの強化、多数の派閥による体制を強化するものだ。
そして実際、辻と加護は予想以上の破壊力でヴァラエティ化を押し進めていったし、
歌唱力よりも「テレビで面白い」ことの価値が最優先される事態を生んでいった。

★結論
モーニング娘。の新メンバー加入は、その都度、確実に革命を宣言していた。
直接に言うわけではないものの、加入と同時に方針転換がなされていたのである。
さて、5期・6期の加入に際して革命はあったか? ……ない。4期加入以降、ヴァラエティ路線は変わっていない。
4期が即戦力として娘。を変化させていったのに対し、5期と6期は成長するまでの猶予期間さえ与えられた。
それまでの加入に伴うダイナミズムは失われてしまったわけで、これでは「迷走」と言われるのも仕方ないだろう。


2004.3.12 (Fri.)

大学生協で安く本でも買おうかなと思い、国立へ行く。
例の狛江通りに旧甲州街道というルートを自転車で走るのは久しぶりだ。
で、大学に着いてみてびっくり。後期の入試で入れなかった。愕然とする。
しょうがないので近くの書店で浅田彰の『構造と力』を買う。
ドトールでちょこちょこと読んで、スタ丼の中盛を食べて、帰る。
中盛は並盛と具の量がいっしょで、メシの量が7割増しくらい。
大盛ほどの冒険じゃないし、並盛ほど具とのバランスがよくないしで、中途半端。


2004.3.11 (Thu.)

『セサミストリート』が4月で終わるそうだ。
その理由がよくわからない。記事によると、アメリカのセサミ・ワークショップは日本語での放送を推奨したが、
NHKは英語で放送しなければ意味がないとして拒否し、結局放送終了ということになったんだそうだ。
英語での放送を副音声に追いやったくせにそれって何よ?って疑問が浮かぶ。まったくわからない。
確実に言えることは、日本の田舎でセサミに触れる機会はもう奪われてしまったということ。
いろいろと可能性がいっぱいあったと思うのに、それを完全につぶしてしまうNHKの対応。
公共放送を名乗るのであれば、この件についてもっときちんと説明をすべきだと思う。


2004.3.10 (Wed.)

今週はドラムス教室が休みだったんだけど、勝手にスタジオに入って練習しちゃう。
それくらい、最近はドラムスが楽しくってしょうがないのだ。
で、いくつか熱海ロマンのレパートリーをやってみるけど、全然できなくなってしまっている。
我流が抜けてきているのはいい兆候なのだが、たたけないのはそれはそれで困ったことだ。
気がついたのだが、そもそも熱海ロマンの曲はどれもテンポが速すぎるからめちゃくちゃ難しいのだ。
もうちょっとゆっくり演奏しても大丈夫とは思うんだけど、ライヴじゃテンションが上がっちゃうからなあ……。


2004.3.9 (Tue.)

劇団☆世界一団の『スペースラブ』(→2002.4.292002.6.30)のビデオがようやく届いた。
もうちょっと時間に余裕のあるときに見ようとガマンしていたのだが、結局、夜中に見ちゃう。
音量バランスが悪いのが気になる。おそらく、劇場に行かなかった人は途中で飽きてしまうだろう。
でも、ライヴで目にした僕は、そのときのことを思い出しながら見ることができる。楽しむことができる。

時間と場所を共有しなければ、演劇の魅力は半減してしまう。
そのことはものすごく残酷な事実なんだけど、だからこそ演劇は十分なメッセージを伝えられるのだ。
そういうメディアなんだから、しょうがない。本当に、しょうがない。


2004.3.8 (Mon.)

大塚愛『さくらんぼ』に関する考察をしておく。

正直を言うと、伊集院光のラジオで流れた時点で、「これはある程度売れる」と直感した。
でもああいう、テストのときアタマの中で勝手にぐるぐる回り出す系の曲は好きじゃないので、一切発言しなかった。
今さらこんなこと書くのは格好悪すぎるんだけど、恥を忍んで書いておく。
(ちなみに伊集院で流れた関係では、t.A.T.uの『All The Things She Said』も売れると思った。)

「なぜ売れたのか」の分析は苦手なので、「なぜ売れると思ったのか」を振り返って書いてみたい。
まず、和音。エフェクタは通してあるが(通しているために)、サビでの力強い和音がその最大の要因。
現在の歌手の多くは、正確な音程を一発で出したり、維持したりすることができない。
その点、この曲ではきわめて正確な音程をエフェクタの力を借りて出している。
そして高低2つの音程のみで和音をつくり、最大限印象に残るように工夫をしている。
構成も単純で、このサビをくどいほどに繰り返して誰でもメロディを覚えられるようにしているのだ。
もし仮に生の声なら、これほど印象に残る和音にはならなかっただろう。
機械の匂いがすることも効果になるという計算の上で、この曲のヴォーカルはつくられている。
さらによく聴くと、バックの演奏もシンプルにつくられている。すべては、和音をジャマしないためだ。
ラジオで1回耳にしただけで、きちんとCDを借りて聴いたわけじゃないんだけど、
そのときの印象では、ずるいくらいに演奏は抑えめで、すべてをサビの和音に集中させていた。

記憶に残るメロディと心に残るメロディは違う、というのが僕の持論なので、この方法論が「正しい」とは思わない。
しかし、音楽を「売る」という観点からすれば、ものすごくよくつくられている曲であることは確かだ。


2004.3.7 (Sun.)

キーボードがいなくてギターが作詞作曲する3もしくは4ピースバンドが使い捨てられている件について。

あくまで個人的な印象にすぎないのだが、上記の形態をとるバンドは絶対数が多いこともあり、
他の形態に比べると非常にライフサイクルが短いように思うのだ。
ヴィジュアル系やラウドロックを除いた、ギターでヴォーカルの人が作詞作曲をするバンド。
Mr.Children、スピッツ、……。後が続かない。次に思いつくのは、どれも決め手に欠けるバンドばかりだ。
レミオロメンを聴いていて考えたことだ。このバンド、テクニックはめちゃくちゃ上手いが、どこか薄い。
トライセラトップスやBUMP OF CHICKENでも似ているこの感じは何なんだろう?

結論から言うと、メロディラインが極めて魅力に乏しい点にあると考える。
ギターがヴォーカルを兼ねて作詞作曲をするということは、つまり、全権がギターの人間に委ねられるということだ。
そこで生まれるメロディは、つねに作曲者本人のギターに対する「クセ」の影響を受けることになる。
その結果、つくった本人にのみは都合がいいが、聴き手にとっては窮屈なメロディラインが生まれやすい。
厳しい言い方をすれば、気まぐれな使い捨てのメロディ。その「クセ」を好む人間のみがファンとなる。
すると、絶対数の多いこの形態のバンドたちの中で、パイの奪い合いが発生する。
傍から見れば大差のないバンドたちが、限られた個性を出し合い、しのぎを削っている。
見分けのつかない人間からすれば、どれも同じ。戦略としてあまり賢明であるように思えないのだ。

もうひとつ、ヴォーカルに専念しない分だけ歌のクオリティが下がるという問題もある。
いや、むしろ、そういうバンドに限って「ヴォーカリスト」の存在価値をナメているのだ。
楽器が弾けなくても、作曲ができなくても、作詞ができなくても、歌が上手ければすべては許されるのだ。
だから「つくった本人にのみ都合のいいメロディ」というのは、二重の意味で間違っている。
(ポルノグラフティの成功が示唆するところは、かなり大きいと考える。個人的には好きじゃないバンドだが。)

さっき、レミオロメンを「薄い」と表現した。多様性に欠けるということだ。
ではキーボードがいれば多様性は確保されるということなのか。単純にそうはいかないだろうが、
やはりヒントはそこにあると考える。多様な音色、複雑なコードを表現できるキーボードの存在が軽視されすぎていまいか。
(その点、やはりユニコーンは偉大なのだ。阿部義晴加入後、どれだけクオリティが爆発的に上がったことか。)
いま一度、「キーボードの理屈」による作曲、さらにアレンジについて見直すべきだろう。


2004.3.6 (Sat.)

サッカー・U-23日本代表のサッカーが面白い。A代表よりも面白い。

田中達也は素人目にも凄いのがわかる。スピードだけじゃなくて、クロスの正確さ、何かやりそうな期待感。
そういうFWって、今までなかなかいなかったんじゃないか。周りに協力してもらう運のいいFWはいくらでもいた。
でも、自分の力をゴールのために臨機応変で活用しようという意志がすごく強いFWは初めて見る。

U-23を一番面白くした張本人は、やはり田中マルクス闘莉王だと思う。
3バックなのにDFがあそこまで勝手に攻め上がっちゃうなんて、常識じゃ考えられない。
逆を言えばそれは日本人の固定観念で、ブラジル出身の人には常識なんてもどかしいだけのものなんだろう。

高いレヴェルで各ポジションの争いがあるっていうことも大きいのだろうけど、それよりはやはり、
目的のためなら手段を選ばない(選ぶのではなく、その場で考える)のが強さの秘訣だと思う。
何をするか、何が出るかは選手の身体だけが知っている、そしてそれが周囲を黙らせる解法になっている、
そんなサッカーが実現される限り、U-23の快進撃は続くのだろう。


2004.3.5 (Fri.)

なんとなーく『ミュージックステーション』を見ていたら、Berryz工房が出ていた。
当方、ハロプロキッズはもう死ぬほど嫌いなので、「うえー」と思いつつ観察してみる。

まず思ったのは、訓練された子どもの気持ち悪さ。あるいは、子どもが訓練されていることの気持ち悪さ。
北朝鮮の律動体操が典型的だと思うのだが、ある「理想像」があって、そのイマージュに向けてなされる訓練。
制度を守りたい大人によってなされる、理想的な身体に近づける教育。なんかフーコー的な視点だけど。
そこには子どもの不確定性というか、コードを踏み外す意外性をいかに殺すかというテーマが存在している。
Berryz工房の動きにもその匂いがなんとなくする。主体性はどこにあるんだろう?という問い。
まあ所詮はショウビジネスだから主体性なんかなくてもいいんだろうけど(ステージに存在することこそが主体性だから)、
キャラづけにしても何にしてもモーニング娘。を参考に周りの大人から与えられていて、
子ども本来に備わっているはずの、見えない未来に向けての物語性が感じられないのが怖い。
この子たちは本当に自分の力で考えてしゃべっているんだろうか?
いや、そもそも自分で考えているつもりが考えさせられているだけなんじゃないか?という恐怖感が漂う。
キッズを見ると、あんな小さいうちから動かしがたい社会のルール/コードが人間本来の自由さを制約している、
そんな瞬間が映っているように思えてならない。考えすぎなのかもしれないけど、でも、確かに感じる。
大人の都合のいいようにつくり変えられる子どもの身体。それは、見えないけれどこの世界を支配している。

ちなみに、Berryz工房の歌については特に見るべきところはないと思う。使い捨てレヴェルのクオリティの曲だね。


2004.3.4 (Thu.)

一部では『マリア様がみてる』ブームなのである。深夜にはアニメもやっている。
モーニング娘。が好きな人たちは、女子高での百合なやりとりといろいろ重ねながら見ているとかなんとか。

そんなわけで、怖いもの見たさで自分もちょこっとだけのってみることに。
文庫の一番最初のやつを買ってきて、読んでみる。コバルト文庫なんて買うのは初めてだ。

話としては、まあ、なるほどなるほど、女子高の世界を純化して突きつめるとこんなんなるんか、という感じ。
はははと笑いながらスイスイ読み進めていく。「おおー、これが百合かー」などとつぶやきつつ。
知らない世界ということもあってか、意外と楽しむことができた。正統派(何のかは知らんが)を踏み外してない印象。
もしかしたら、何かの参考になるかもとも思う。キャラクターのつくり方と「萌え」の生み出し方という意味で。

ちなみに個人的にはロサギガンティアが好きです。吉澤っぽくて。


2004.3.3 (Wed.)

わがホームページのリニューアル作業を実施する。
現行のデザインがシンプルなわりになんとなくダサかったので、もっとシンプルにいくことにする。
(ちなみに潤平はこの点について非常に厳しかった。そりゃお前に比べりゃオレのセンスなんざイモの極致さ。)

とにかく横のスクロールバーを変化させたかったので、あれこれ調べてみる。
と、スタイルシートというものがどうやら関係しているらしい、とわかる。
運良くコピー&ペーストで自在にできるサイトを見つけたので、やってみる。うまくいった。
ついでにリンクの部分もちょこっとこだわってみる。なんだか、前よりはずっとオシャレになった感じ。

基本的に、グレーとブルーの2色しか使わない。画像もバナーのみにして、フォントはUIゴシックを2ポイントで。
そうやって決めたら、今のような感じになった。前よりもずっとシック。よかったよかった。

(※現在はさらにリニューアルを進めたため、この日のログにあるような仕様にはなっていません。)


2004.3.2 (Tue.)

『エンデの遺言』(→2004.2.17)ブームということで、ミヒャエル=エンデ『モモ』を読む。
何を今さら、なのだが、やはり一般教養として読んでおかないといかんだろうという危機感から、読む。

『エンデの遺言』ではお金が一貫したテーマとなっていたが、『モモ』のテーマは当然、時間。
ただ、どちらもともに「人間にとっての価値」という観点から徹底して対象が描かれている点が共通している。
そこには、「価値が一人歩きしているのではないか?」という厳しい問いかけが存在している。
「物を支配しているつもりが、いつのまにかその価値に支配されているのではないか?」という問題意識。
こういったことを意見として表明していくのは簡単なことだ。実際、僕も今、ここでそうしている。
しかしそれを物語として提示し、子どもをターゲットに理解を広めていくという戦略が美しい。
ただの論述ではなく、作品として昇華させているところに意義がある。それゆえ、古典になりうる。
カギになるのはおそらく想像力で、それを磨く訓練をしないといけない。それを痛感させられる作品だった。


2004.3.1 (Mon.)

3月ということで、塾では今日から新学年。今までのクラスが2分割されて、新たなクラスが立ち上がった。
僕はその成績的に上の方のクラスで英語を担当。少人数になったのが、なんとなくさびしい。


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