diary 2004.12.

diary 2005.1.


2004.12.31 (Fri.)

もう、めいっぱい働いているせいなのか、年末って感じが全然しない。まったくしない。
TV番組だけが正月気分満載なのだが、もはや全然TVなんて楽しくないので、気にしなければ、完全にふつうの日。
でもよく考えてみれば、塾に来ている生徒は(おそらくほとんど)年末年始無関係モードでいるはずなのだ。
全力で努力しているヤツには、こっちも全力で返す。それがルールだから、喜んでがんばるだけさ。


2004.12.30 (Thu.)

正月の特別講習会がスタートした。午前中4時間教えっぱなし、かつ午後も4時間教えっぱなしである。
用意してある都立高校入試を意識したテキストにしたがって、授業は演習形式で進んでいく。
例のごとく、解かせて(その間に全員の英作文をチェック)、終わったら気をつけるポイントを解説して、というスタイル。
さすがに中3のこの時期は皆さんすばらしい集中力で臨んでくれる。こっちも教えていて気持ちがいいもんだ。
確かにつらいんだけど、そのつらさを超えてがんばれる時間ってのは、つらいんだけど、悪くない。

それにしても正月の特別講習会では他校舎の生徒も来るので、名前を覚えるのがけっこう大変。
5日間しかないから覚えたころには会わなくなっちゃうしね……。


2004.12.29 (Wed.)

Underworld『EVERYTHING, EVERYTHING』。あちこちでのライヴ映像を編集したDVD。
これがもう、とんでもなくいい。……というのは前にも書いた(→2004.10.28)。じゃあ具体的にどういいのかを書いてみる。

YMOには『アフター・サーヴィス』というライヴ盤がある。散開ライヴの音源をまとめたものだ。
このときの演奏はどれもきれいにまとまっていて、オリジナルの難解な部分をすべて聴きやすく再構成した印象になっている。
そしてこのUnderworld『EVERYTHING, EVERYTHING』も、それと同じ匂いがするのだ。
どこをとってもオリジナル曲よりもずっとレヴェルアップしている音源が、ほぼノンストップで駆けめぐる快感がそこにはある。

そもそもUnderworldのオリジナルアルバムを聴いていると、どこか冷ややかというか冷静な印象が残る。
一定のスピードの乗り物に連れて行かれる感覚とでも言おうか。まったく揺れのない快適な車内(機内)。
でもこの『EVERYTHING, EVERYTHING』は、その安定感をもったままで、新しくグルーヴが生まれている。
理屈じゃなくって身体で、ダンスのレヴェルで、純粋に楽しむことができるのだ。

2000年発売の作品だから何をいまさら、と思われてしまうかもしれないが、文句なしに「今年いちばんの当たり」に決定。
いやー、これだけ狂わされる音楽に出会えるとは。うれしいことだ。


2004.12.28 (Tue.)

冬期講習中の3年生の英語の授業は、まあやっぱり4時間ある。
調子のいいときにはなんでもないんだけど、リズムのおかしいときにはこれがかなりつらい展開になってしまう。
そのコンディションが自分できっちり管理できるようなものならば問題はない。
しかし困ったことに、調子の良し悪しは授業をやってみるまでわからない。だから対策の練りようがない。

この日の前半は問題なく進めることができたのだが、後半に入ってしばらくして、急にガタガタになった。
前にも一度やらかしているので(→2004.3.26)、「また先生ぶっ壊れたよー」なんてツッコミが入る。お恥ずかしい限り。

4時間の授業ということで気合を入れすぎたのがまずかったようだ。
やはり、ある程度よけいな力を抜いてがんばらないと、逆に無理がきてしまうのだ。


2004.12.27 (Mon.)

小2の国語を担当することになる。いざやってみると、「あーそうだった!」と再認識させられることでいっぱいだ。

基本は声を出して読むこと。声を出して感情を込めて、物語の世界に深く入っていくこと。
当然地の文だけではなくて、セリフも登場する。子どもにしてみれば、ここが腕の見せどころだ。
たっぷりと、そのキャラクターのつもりになって、表現をする。見ているこっちはまるで演出家になった気分だ。

子どもたちがそうやって一生懸命声を出して読み上げる姿を見ていると、人間は本質的に役者なんじゃないかって思う。
演じるということが実はものすごく基礎の部分にあって、歳をとっていくたびにそれを剥ぎ捨てて社会へと引き込まれる。
でも子どもはまだ純粋な世界にいるから、演技を通して自分をさまざまな形に変えていくことができる。
かつては自分もそうだった。いろんな物語に触れるたび、自分の形を変えることでその中へ入り込んでいったのを思い出す。
子どもたちは文章に触れた瞬間、顔つきが変わって、登場人物そのものの表情になる。
そのスイッチの切り替わり方が実に見事で、その柔軟さが何か大きなヒントであるように思えてならないのだ。

確か「言説編成」の授業で橋爪先生は、演技を商売とする役者は社会では絶対に認められない、食えない職業で、
それは未来永劫変わることのない構図である、ということをおっしゃっていた記憶がある。それが社会の本質なのだとか。
でもこうやって子どもの演技を見ていると、社会の側が頑として認めないものの大切さが、なんとなく実感できる。
この無邪気な要素にどうやって社会は居場所を与えていくべきか。そうして社会はどう柔らかくなっていくべきか。
小学校低学年の国語は、きわめて奥の深い問題をはらんでいる。


2004.12.26 (Sun.)

冬期講習がスタートする。だいたい毎日朝に授業があって、昼がなくて、夕方から夜にある。
じゃあその間どうしているのかといえば、ファストフード店をハシゴして読書、というのが標準的なスタイルになる。
幸いにして読みたい本はいっぱいある。問題は集中力が続くかどうか、だけだ。
今のうちにできることを全力でしておく。本当はもうちょっとマシなことができるのかもしれないけど、
思いつかないから、とりあえず、読書を全力でがんばってみるのだ。


2004.12.25 (Sat.)

クイス大会開催である。この「クイス」というのはマサルの思いついた言葉で、まあ要するにHQSの同期会。
今回は特に、非モテ軍のクリスマス会という意味合いもある。どのみちやることは変わらないのだが。

作文講座が終わって合流する。んで、飲む。そしてカラオケ。学生時代と同じスタイル。

家に到着するとマサルがDVD-Rを取り出す。『二人ゴト』を編集して焼いたものだ。
マサルは田中れいながメンバーのモノマネしながら肉サラダをつくる姿や逆立ちする姿に興奮をしている。
まあ確かにかわいいのだが、「れいなちゃんいいわ~」と何度も何度もつぶやく背中は少し危険な香りもする。
それが終わると今度はダニエルさんがDVDを取り出す。何かと思えばBerryz工房のプロモ集。
明け方までエンドレスでベリ工の歌が部屋に響いた。こんなの、モテるわけがない!


2004.12.24 (Fri.)

一日中、塾で面談。まあ3年生の進路相談に比べれば楽勝というか、非常にやりやすい。
つまり、なんだかんだ言ってそれなりに修羅場はくぐってきたってことになるのかな。

冬期講習の準備を軽くやって、帰る。クリスマスイヴ? なにそれ。


2004.12.23 (Thu.)

『2001年宇宙の旅』。言わずと知れた超有名な映画をまだを見ていないことに気づいて、借りてみた。

まず冒頭でサルが登場して、しばらくしてようやくモノリスが出てきて、サルがそれに触れる。
宙に投げられた骨が宇宙船へと変化するシーンを経て、そのモノリスが月面で発見されたという話が提示される。
この辺の時間のすっ飛ばし方はかなり大胆で好きだ。なるほどなるほど、と感心する。

どうやら木星にヒントがあるようだ、ということになり、調査船が木星へと向かう。そのコンピューターがHAL。
ところがHALが「狂って」、生き残った主人公はひとりで戦うことになる。
勝利してたどり着いた先、主人公は多彩な幾何学模様やら未来の孤独な自分やら、さまざまな映像を目にする。
それがダラーッと続いて赤ちゃんが地球に戻っていくような映像になって、おしまい。

はっきり言って退屈きわまりなかった。自分の考えたことを純粋に映像で伝えようとしたキューブリックの努力はわかるが、
解釈を観客に完全に投げてしまっていて、それはクリエイターとして卑怯な姿であるように思えてならない。
伝わらない覚悟をもって、それでもあえて言葉で切り込んでいくという真摯さに欠けていると僕は感じた。

さて、世間一般ではHAL-9000というコンピューターが狂ってピンチになる映画、というのが大方の認識だと思う。
全然違うじゃんと僕は思ったので、ではこの話をどう解釈したのか、書いてみたい。

モノリスの見せる真理に触れられるのがただひとりだけ、だとしたらどうだろう?
木星へと向かう宇宙船の中で、そのひとりになるための殺し合いが展開される。
そしてその真ん中にいるのがHALだ。彼は自我を持ち、自分も人間と同等の存在であることを自覚している。
だから乗員を殺し、自分がモノリスに触れて真理を得ようとする。主人公を殺そうとする。
結論から言えば、HALは狂っていない。人間と同じものを与えられた結果、人間としてふるまっただけのことだ。
で、よくわからないグラフィック映像(たぶんモノリスが見せた真理)を目にして覚醒した新しい人類が生まれる、みたいなー。
(まあ、機械を倒す/乗り越えることで人類は新しいステージに進む、みたいな解釈は可能かもしれんが。)

この映画が巧いのは、ミッドセンチュリーのちょい先、サイケにまで至らないポップなデザインを大胆に持ち込んだ点だ。
宇宙船やステーションの空間内、インテリアとしてそれらが当たり前のように置かれている光景が、きっと斬新さを感じさせた。
プラスチックのイメージ。「宇宙」から連想される金属のイメージではなく、プラスチックのイメージが徹底されている。
それは原色を用いているということと、可塑性を感じさせる曲線からきている。無重力の「軽さ」も一役買っている。
ふつうだったらSF映画にそこまで過剰なオシャレさは必要ない。でもそれをやっちゃったから、広く受け入れられたように思う。
きっと当時は、CGやポップなデザインに圧倒されていたんだろう。それは当時の最先端であり、意義のあったことだ。
でも時代を切り取った、未来の予感を提示したという事実以上の感動はない(それだけでも十分のはずなんだけど)。
自分にとっては、騒がれているわりには物足りなさばかりが募る映画だった。


2004.12.22 (Wed.)

南伸坊『笑う街角』。もともとは『路上観察ファイル』という名でハードカバーで出ていた本。
circo氏が図書館から借りてきて、もうめちゃくちゃに笑った記憶がある。それがちくま文庫で出ているのだ。

内容としては、おなじみの人にはおなじみの「路上観察学」で、街中のおかしなものを紹介していくスタイル。
それがさすがはイラストライター、トボケた文と非常に丁寧なイラストで読ませてくれるのである。
ちょっとオモシロ好きの人なら、扱っている物件を見て「なんだVOWみたいじゃん」と思うかもしれない。
しかしこちらの方は、もうちょっと好奇心が強いというか、「なぜそうなった?」という想像力をはたらかせるのが特徴。
だから単純に面白がるだけでは終わっていない。その辺はさすがに路上観察「学」なのである。
一度この本を読んでしまえば、もう街中をぼんやりと歩くことなどできない。
何か笑える物件は転がっていないか、あちこちチェックをして歩くという習性ができてしまうのだ。

そして南伸坊のすごいところは、ふつうなら何気なく見落としてしまうようなものでも、
拡大解釈というか大胆に解釈してしまい、それを面白い物件として提示することができる点だ。
この本ではその観察力と解釈力が思う存分に発揮されていて、感心させられることしきり。
読み終えれば、日常生活をちょっとでも鮮やかに切り抜けるセンスの大切さを実感することができる。
なんでもいいから面白いことに飢えている、という人は、視野を広げるためにもぜひ読んでほしい一冊。


2004.12.21 (Tue.)

髪を切る。

常日頃、僕はあちらこちらでぼーっと物事を考えているわけだ。それをオモテに出すことはめったにない。
理由は、単純に、面倒くさいからだ。面倒くさいことは極力したくない。最近特にその傾向がひどい。
でも今月の日記はどこをとっても面倒くさいので、面倒くさいついでに、考えてみたことを素直に書いてみたいと思う。

僕はいつも、自由が丘のオシャレ軍本拠地のような美容院で髪を切っている。
床屋と美容院の違いはいろいろあるけど、ハサミの使い方ひとつとってみても、けっこう興味深いものがある。
たとえば、髪の長さを維持したままで量を減らしたいときには、ハサミを縦にして(鉛直方向に立てて)切る。
床屋ではハサミを横にして長さを均一に切るアクションが当たり前だが、美容院では必要なときにそうするだけだ。

おねーさんがハサミを縦にして髪を切る姿を見て、ふと思った。人生とは縦に切られる髪の毛のごとくなり。
ハサミを横に寝かせて切るなら、一本一本どれをとっても同じ長さになる。どの髪の毛も平等に切られるのである。
しかしハサミを縦にして切る場合、切られる髪と切られない髪とが出てくる。しかもそれは理由もなく、運で決まる。
自分が切られる髪なのか、切られない髪なのか。それはカットが終わるまでわからない。
確率論の世界。これってなんだか、人生っぽいって言えまいか。
ちょっとサルトルっぽい気もするんだけど、切られるか切られないかが運しだいだと割り切れるのであれば、
すべてを運に任せてがんばってみようか、という気になってくる。なるべく切られないようにと努力するのではなく、
切られるか切られないかは運なんだから、その努力を別のことに使ってみようか、という視点が生まれてくるのだ。

それにしても、「切られる」かもしれない、ということに臆病になっているよなあ、と反省してみる。
思えば僕らの世代というか最近の人たちは、みんな「切られる」ことをひどく恐れているように思う。
戦争が終わって高度経済成長があって。この時代には「切られる」とか「切られない」とか考える余裕もなかっただろう。
でも気がつけば、「切られる」ことがすごく残酷なこととして認識される時代になっているような印象があるのだ。
たとえば、いい大学に行っていい会社に就職する、という考え方(幻想と言ってしまいたいもんだが)がある。
ここではいかにして「切られない」ままゴール(と想定している位置)までたどり着くか、ということだけが問題になる。
でも、いい大学を出たからってきちんと就職できるとは限らないわけだし、就職してからがまた大変なのだ。
それまで高度経済成長以来、家族ぐるみで信じてきた幻想がガラガラと崩れて、でもどうすることもできなくて。

要するに引きこもりというものは、そういう「切られる」痛みに耐えかねるという状態なのではないのか。
人生は本来確率論の世界なのに、「切られない」ように努力していれば「切られない」で済むという幻想が支配的なのだ。
親の言うことをよく聞いて、先生にも従順で、カルマなんてないはずなのに、なぜか「切られ」てしまう。
この状態を克服する方法論なんて今まで考えたこともなかったから、選択肢も何もない。ただ沈んでいくしかない。
だから引きこもりを偉そうに誰かが叱ったとしても、ムダだ。お前らが「切られないように生きろ」って教えたんだから、と。
強いて改善策を考えるとすれば、「運が悪かったね」と言いつつ確率論の次のチャンスを提示してみせることぐらいだろうか。

ここでまた思考が飛ぶ。おそらく近いうちに、中国が引きこもり大国になる(もうなってたりして)。
一人っ子政策でぬくぬく育った連中が、これからことごとく挫折に直面していくからだ。
しかも中国はプライドの高そうな国だから、日本人以上に「切られる」ことをダメージとして受け止めそうに思う。

でも結局、髪の毛なんて何もしなくても伸びてくるものだから(ハゲなければね)、「切られ」ても平然とするべきなのだろう。
運よく「切られないで済む」ときを待って、今の自分にできることをコツコツしておくのが一番って気がする。

そんな結論にいちおうたどり着いたところで、「お疲れ様でした」と声がかかる。いつものこと。


2004.12.20 (Mon.)

赤瀬川原平『東京ミキサー計画』。1960年代に活躍した前衛芸術集団「ハイレッド・センター」の活動記録である。
「ハイレッド・センター」のメンバーは、主に高松次郎・赤瀬川原平・中西夏之。
3人の名前からそれぞれの最初の1文字をとって英語にしたから、そんな名前になっている、というのが定説。

彼らは、素人なら「これのどこが芸術なの?」と言いたくなるようなこと/物を芸術として提示する。
あるいは、面白そうなことを見つけ出してきては、「これ、芸術です」と言い張って提示する。そういう集団なのだ。
こう書いてしまうと単なるひねくれ者たちのように思われてしまうかもしれないが、決してそうではない。
芸術が日常生活の側にヒントを求めはじめた時代、「芸術ではない」とレッテルを貼られてしまっていたものたちの中に
まぎれもない芸術の要素を見出して、それを再構成して観客に提示する、ということを彼らは真摯にやっていたのだ。
つまり、日常生活に隠れている芸術へとつながる要素を、しっかりと芸術へと還元していたのだ。
だから、もし現代美術に興味のある人なら、この本を絶対に読んでおかなければいけないと思う。
ハイレッド・センターは現代につながる問題に、最も面白おかしく、かつ真剣に取り組んでいたグループだからだ。
彼らの軌跡をしっかりとチェックしておかないと、芸術になりうるギリギリのラインを見失ってしまうかもしれない。
(実際、メンバーの赤瀬川は千円札事件で裁判沙汰になり、法廷で芸術なのか論争が繰り広げられたのだ。)

あるいは芸術やら美術やらにまったく興味のない人でも、間違いなくこの本は楽しく読める。
感性の鋭すぎる20代の青年たちが自分たちのやりたいことをまっすぐな信念を持ってやりぬいていく姿が、
バカバカしいと言っては失礼だが、写真もまじえつつ軽やか~な調子で描かれていくのだ。
芸術をめぐる真剣な取り組みに「面白ければ勝ち」という身軽さがブレンドされたその一瞬の奇跡を、
ここまでリラックスして楽しめる作品はそう多くないはずだ。

何かしたいんだけど何ができるのかわかんなくて、でも身体がうずうずして困る、という人はぜひ。
今は当時と違ってそんな簡単に何でも芸術にはならないかもしれないけど、この本を読めば、
「芸術的な領域になるまでやってしまえば、それがいつのまにか芸術になっている」ことがなんとなく理解できるはずだ。


2004.12.19 (Sun.)

津田雅美『彼氏彼女の事情』10巻まで。とりあえず、ここまでで感想を書いてみたい。
なお、10巻までの動きをまとめておくと、以下のようになる。
 1巻 有馬と宮沢が出会う
 2巻 有馬と宮沢が付き合いはじめる
 3巻 先生に呼び出しくらったりシカトされたり
 4巻 つばさ・椿たちと友だちになり、シカト首謀者の真秀と仲直り
 5巻 つばさが家出、両親の昔話
 6巻 両親の昔話、有馬と宮沢がセックス
 7巻 十波登場、芝居の話がスタート
 8巻 十波と椿の微妙な関係が続く、芝居の計画が進む
 9巻 芝居本番
 10巻 真秀と12コ上の彼氏、修学旅行、入試の思い出

ここまで、文句がつけようがないほど面白い。読み返すたびにニンマリしてしまう。
「教室の扉の中には すべての感情がつまっている」とは4巻に登場する真秀のモノローグだが、
僕にはむしろ、このマンガの中にはすべての感情がつまっているんじゃないかな、って思える。
潤平は「いい面だけを都合よく描いてるだけ」と厳しいが、僕は逆に、だからこそエンタテインメントとして成立していると思う。

1巻と2巻における繊細さは、読んでいると10年前の記憶が蘇ってきて、思わず「くぅ~」っと唸ってしまう。
今にしてみれば幼稚かもしれないああいう駆け引きが、実は一番楽しいと思うのだ。
むしろ幼稚だからこそ本質を貫いているようにさえ感じる。オトナになりたくない言い訳に過ぎないのかもしれないけど。

4~5巻で友情ができていく過程は、たまらなくワクワクする。
大学を出て以来、素直に友達をつくるということができなくなっているように感じている。
利害関係だとか、見栄や虚勢だとか、そういう要素がどうしても頭の片隅をちらついているのが自分でもわかる。
この辺りの話を読んでいると、ゆっくりと、固まった考え方をほぐしてもらっているような気分になるのだ。
あと、両親の昔話も、「幼馴染みがいればなあ……」というダメ人間のハートを絶妙にくすぐる。サイコー。

7~9巻ではみんなでひとつの作品をつくる、という楽しみがそのまま伝わってきていい。
何度も日記で書いたように、僕には「第9回一橋オープン」がひとつのマイルストーンとして立ちはだかっているのだが、
いつまでも過去にすがってないで、もう一度あのときのような祭りを起こさないと、という気にさせられる。

あとはつばさの家出なんか、家族の問題を考えるすごくいいきっかけになると思うし、
真秀と彼氏の話なんて、ううむなるほどと思わず感心してしまうし、
修学旅行は105ページで「やれば?」って迫力満点のりかちゃんが非常にかっこいいし、やっぱり細かいところまで楽しめる。

11巻以降はちょっとついていけないかなあ……という部分も出てくるのだけど、とりあえずここまでは完全に脱帽。
タイムスリップして高校時代に戻って、このマンガみたいながんばり方もしてみたいな、という思いに駆られるのだ。


2004.12.18 (Sat.)

かつて『同級生2』というゲームがあった。僕が高校生のときに爆発的に流行したゲームだ。
潤平ともよく話すんだけど、これは間違いなく、「究極のゲーム」という呼び方のできる作品のひとつだと思うのだ。
エロゲーなのだが、ジャンル分けが難しい。僕はよく、「時間と空間を組み合わせてフラグを立てるゲーム」と表現する。
まあ要するに、街のあちこちでいろんな人に会って話を進めていく、というゲームだ。条件をクリアすればエロがある。

潤平はまず、このゲームで繰り広げられるあの手この手の会話が面白い、と言う。
しかしそれ以上に、このゲームであちこちの場所へ移動していると、本当に街を歩いているような気分になると言うのだ。
ゲームの中の世界だが、当時のリアルな思い出の場所として、その街が自分の中に刻み込まれている、とまで言っている。
僕はRPGができないので想像だが、潤平がファミコンの『ファイナルファンタジーIII』を語るときも、似た感覚があるはずだ。
実際に旅行して訪れることができるわけじゃないのだが、画面の中に確実に「思い出の場所」がある──。
これは、新しくて僕らに共通している感覚だと思う。

物理班でもみんな狂ったようにやったし(篠原いずみが大好きで目つきの危なかったヤツ、ボツ子に興奮する女子……)、
キャラクターにまったく魅力を感じていなかった僕も、なんとなく『同級生2』で時間をつぶしていることがかなり多かった。
なんだかんだ言いながらありとあらゆるパターンを研究してみてはウハっていたわけだから、やっぱりきちんとハマっていたのだ。

僕らにはもともと、旅に出るにしても自転車で近所へ買い物に行くにしても、向こうで何かが待っている、という感覚がある。
その確実に待ってくれている「何か」があったから、僕らはあれだけこのゲームに狂うことができたんだと思う。
そういう意味で、訪れて心地の良い「場所」っていうのは決してリアルな空間だけを指すものじゃなくて、
僕らを大きく包み込むようなストーリー(=待っている「何か」)が存在していること、
それが一番大切なことなんじゃないかな、そう考えた。


2004.12.17 (Fri.)

M.マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』を読み終える。

この本では徹底して、活字印刷の誕生が当時の人間に与えたショックが描かれている。
アルファベットという表音文字を通して、いかに人間の思考回路がシェイプされていったのか、がテーマだ。
均一な文字によって国の中央集権化が開始され、統一された世界観としての歴史がまとめられ、
そしてナショナリズムへとつながっていく姿が、ストレートな順ではなく、つぎはぎの順番で描かれる。
これは歴史の教科書としてなかなか斬新で興味深い。いかに啓蒙思想・モダニズムが胚胎したかの記録としても読める。
だからドゥルーズ/ガタリの『アンチ・オイディプス』あたりと並行して読めば、ひとつの立場が見えてくるのかもしれない。

それにしても引用の多い本だ。ここまで引用の多い本は、なかなかない。
つまりそれだけマクルーハンの英文学者としてのきちんとしたキャリアが効いているということだし、
また、活字印刷(という当時新しかったメディア)が人間像をつくり変えていく姿を実況中継している、ということでもある。
むしろマクルーハンは自分の意見を主張するというよりも、圧倒的な量の資料を読者たちに突きつけて、
「こういうことだからおとなしく納得しなさい」と言っているように思えてくる。

さて、そうなると気になるのは、今まさに現代で起こっているのはどういうことなのか、である。
冷戦が終わってナショナリズムが追求される一方、ネットを中心にして新しく書き言葉が飛び交っている。
『グーテンベルクの銀河系』では、それを考えるにはちょっと荷が重い。これは過去のことを精確に描いた歴史の本だから。
ということで、続く『メディア論』に挑戦してみることにするのだ。


2004.12.16 (Thu.)

Bunkamura『ポップアート・ヘラルドコレクション』を見に行く。
正直、ポップアートの歴史をじっくりと概観できるようなのがそろっているのかな、と期待して行ったのだが、がっくり。
ポルトガルの美術館のコレクションをそのままもってきて展示したもので、パッとしない作品が多かった。
リキテンスタイン、バスキア、ウォーホル……。確かに一流どころの名前が並んではいるのだ。
でも作品そのものよりもアーティストの名前で買ったんじゃないかって思えるものばかり。
むしろ無名(と言っては失礼だけど)の作者の作品に、なかなか熱いものを感じた。それは収穫。
あと超リアルな全裸の男女がそれはもうしっかりと抱き合っているという人形が作品として展示してあって(すべて丸出し)、
それを2人の女子高生がどういう反応をするか興味シンシンでそっと後ろから観察していたのだが、
ありえないくらい冷静にスルーしていたので、それはそれでお兄さんはショックだった。

そこから原宿に移動して、来年からお世話になる会社の忘年会に参加する。
新人4名はカラオケで「なんでもいいからおじいちゃんが喜ぶやつ」という課題を出された。いきなりかよ、と困惑しつつ、
おじいちゃん相手なら美空ひばりだな、と思って『真赤な太陽』を歌ったら、賞品としてバームクーヘンをいただいた。
まあ、その日のうちに夜食としていただきました。うまかった!


2004.12.15 (Wed.)

ゆうきまさみ『機動警察パトレイバー』。
単行本をリアルタイムで途中まで集めていたのだが、当時はそれほど深く読み込めていなかった。
今になってあらためて読み返してみると、ホントに少年マンガか?と思うほどに渋い面を持っているのが気にかかる。
ある意味、オトナ向けのマンガであるのは間違いないと思うのだ。

それにしてもじっくり読んでみると、このマンガはすさまじく面白い。
レイバーというロボット、そういう非現実を現実の中にひとつだけ差し込む。
そこの差異から現実を横目で眺めながら、フィクションのストーリーが進んでいく。
社会(それも舞台は一番強烈な権力を持っている警察だ)の中で翻弄されながら個人がそれぞれに正義を貫く姿。
そのサイズがものすごくリアリティを持っていて、緻密な描写に圧倒されてしまう。

たとえばキャラクターひとつとってみても、それぞれの性格を完全に描き分けているのがこのマンガの凄み。
相性の良し悪しと言ってしまえば簡単だが、そういう「ここが合う」「ここが合わない」を徹底的に描くことから始めている。
読んでみると本当に、それぞれのキャラクターがそれぞれに特徴のある性格をしているのだ。きちんと生きている。
合わない者同士が(それでも正義という目的のために)どうバランスをとっていくのか。
そういう人間関係の妙こそ、このマンガの本当のテーマだと思うのである。
むしろレイバーという特殊な世界観を用意したことで、人間関係のリアリティがより目立っている。
人それぞれによって異なる正義、それを貫くということの脆さと希望が真摯に描かれている作品なのである。

もっとも、優れているのは人間関係の描写だけではない。未来になっても変わっていない社会の側面、
つまり普遍的な社会の姿をここまでしっかりと描き出そうとした少年マンガはそうそうあるまい。
縦社会の警察、外国人に冷たい日本人たち、企業による犯罪……。やはり、そこも渋くて格好いいのだ。

それにしても、中学生の頃にこのマンガを読んで「後藤隊長みたいになりてー!」と思ったのが運の尽き。
けっこうそういう人は多いのでは。


2004.12.14 (Tue.)

あだち充『タッチ』をあらためて評価してみよう。とりあえず、箇条書きでいってみる。

●タイトルが残酷
和也の死は最初から予定されていて、少なくとも第1部の展開は連載前にできあがっていたのだと思う。
弟を思うがゆえにグータラを決め込む達也。和也は本気になった兄と勝負したいと望んでいるが、それをさせない。
印象的なのは、単純に和也の死が達也が表舞台へと上がるきっかけになっていないこと。
本当のスタートラインは南が新体操で活躍し、達也が「置いていかれる」と感じたことで引かれる。
南の姿を通して初めて和也の存在が客観的に見えてくる、という構図がリアリティを感じさせる。

●出てくるキャラクターがこぞって天才
『タッチ』に登場するキャラクターは、平凡に暮らしているんだけど、どこかに必ず一瞬の冴えを持っている。
自分の周りにもいる友人や近所の人が実はすごい面を持っている、というのはよくあることで、
それをさらりと描いてみせてしまうところがいい。現実でも、なにげないけど誰もが天才的な一面をどこかで持っている、
その事実に気づかせてくれる作品だと思うのだ。こういうのは、少年マンガではなかなか見かけない要素だ。
まあ、原田だけはストレートに天才(というか超人かな)だが。

●どこまでも作者が冷静
マンガに限らず物語を創造する作品では、俗に作者が「キレている」状態になることがある。
頭の中の物語の方が作者をヨリシロのように扱って、勝手に動き出してしまうような状態のことだ(→2004.9.19)。
そういう作品を読むのは楽しい。最後の最後に作者が理性をふりしぼって完結させたときの感動は言葉では表現できない。
しかしながら『タッチ』では、作者はどこまでも冷静で、おそろしいほど淡々と、しかし確実に話が進んでいくのだ。
他の少年マンガと比べてみても、『タッチ』の場合には明確なヤマ場が用意されていないのが特徴と言えるだろう。
細かいコマ割りでぴっちり描いて、でっかくブチ抜くようなことはめったにない。すべてが均等に、時間も均等に流れていく。
だから読んでいる側は、試合でのテンションも学校での生活も同じリズムで通り抜けることになる。
それは高校生活のような「振り返ってみれば特別な時間」を、未来の側から過去に向けて見つめた視線だと思う。
あのときああだったのは、きっとこういう背景があったからだ。といういわば優しい神様の視点から、物語は描かれているのだ。

さらっと読んでしまえばそれまでなのだが、これは本当に細部の細部まで丁寧につくられているマンガだ。
でも読者にその苦労をまったく感じさせず、さらっと読ませてしまうところに、このマンガ(作者)の本当の恐ろしさがあるのだ。
その事実に一度気がついてしまうと、もうこのマンガは二度とぞんざいに読めなくなってしまう。


2004.12.13 (Mon.)

『マトリックス・リローデッド』を見る。言わずと知れたシリーズ第2弾(第1弾はこちら →2004.12.7)。

序盤で気になるシーンがふたつあった。ひとつはエージェント・スミスの増殖、もうひとつがネオとトリニティのラヴシーン。
これはつまり、生殖・増殖という行為がプログラムと人間でパラレルに提示されている部分である。
スミスの方はオリジナルのコピーということで、これは無性生殖である。それに対して人間の方は当然、有性生殖である。
無性生殖の問題点は、遺伝子のミスがそのまま保持されて増殖していく点にある。
プログラムで言うと、致命的なバグが生まれた場合、それがすべての個体に伝えられる。だから、絶滅の可能性が高まる。
有性生殖の場合は優性と劣性という形で、ミス(と否定的に表現すると差別に通じちゃうな)を持たない個体も生まれる。
生物の時間に勉強した致死遺伝子の話は、その典型。絶滅の危険を確率論を通して低く抑えることができるのだ。
そういう論点に突っ込むのかな、と思いきや、映画はあくまで娯楽レベルで話が進んでいく。ちょっとがっかり。

それ以外で目についたのはやはり、ハイウェイでのアクションシーン。これは純粋に面白い。
今まで映画ではさまざまな場所がアクションシーンの舞台となったが、この映画では撮影技術とのバランスが取れていて、
猛スピードで走る車の上でのアクションが、がっちりハマっている。次から次へと繰り出される動きを文句なしに楽しめる。

でもそれだけ。その2点以外は、あまり見るべきところはなかった。
個人的にはその2点だけでも見る価値はあったのだが、世間一般での盛り上がり方を考えると、少々物足りない。
プログラムを徹底的に擬人化して登場させるのはなかなか斬新な気もするけど、その分ついていけなかった人も出たはず。
すべてはアクションシーンのため、というつくり方なのかな、と思う。そうなってしまうと、正直興ざめ。


2004.12.12 (Sun.)

劇団6番シード『TRUSH!』を観に行く。友人に薦められたので。

ゴミに埋もれた西部の街が舞台。そこに住む3人の未亡人が主人公。
そこにお金持ちのお嬢さんと駆け落ちしてきた男がやってきたことから物語が動き出す。
まあジャンルとしては西部劇になるのだが、派手なガンアクションはなく、キャラクターの会話で勝負する話。
話の流れをみるに、最初から脚本ができていたというよりは、演出をしていく中でストーリーが固まっていった印象。
だからスタート地点からゴールに向かうルートを考えてみると、若干意外な方面で話が膨らんでいった感触はある。
でもそれが演劇の魅力でもあるわけで、そこは素直に「メンバーが楽しんでつくっているんだなあ」とおこぼれをあずかる。

演劇というのは観客と体験を共有できれば“勝ち”なのであるが、その勝ち方にもいろいろある。
脚本の圧倒的な説得力でぶっちぎるという手もあるだろうし、個々の俳優の魅力で有無を言わせず感動させる手もある。
この劇団は明らかに後者であると思う。一生懸命さが役柄を通してストレートに伝わってくる、まっすぐな芝居だと感じた。
ただ、個人的には強烈なストーリーの引力があっての役者の魅力、というスタンスをとっているので、
その点ではまだもうちょい、役者を十二分に活かすためのダイナミックな動きが脚本に欲しかったかな、というところ。
もっと端的に言うと、毒が足りない。どうにもいい人ばかりでホンワカした分、いい感じのぬるま湯のままで終わった。
観ていて疲れなかったのは、人によっては大きなプラスなんだろうけど。

あともうひとつ感じたのは、登場人物をもう少し削って、その分それぞれの密度を濃くするべきだったのでは、ということ。
そうしないと、たとえば今回では保安官なんかいい例だろうが、唐突にかっこいいところを見せられて、面食らってしまう。
劇団には人がいっぱい在籍しているから、無理にでも役をつくらなくちゃいけない面もあるとは思う。
そこは本当に難しいだろうが、一味違う芝居をするのであれば、適切なバランスを探る必要があるように勝手に感じた。


2004.12.11 (Sat.)

冨樫義博『レベルE』。

世間で冨樫義博というと、まず『幽遊白書』か『HUNTER×HUNTER』である。まあそうだわな、と思う。
しかしながら僕とマサルの間では、まず『てんで性悪キューピッド』なのである。中二病はそうあるべきだ。
でも本当に好きなのは、この『レベルE』なのだ。連載作品のクセしてとても完成されていて、
全3巻なのも(もっと読みたいのに)残念ながら手ごろなのだ。

設定の想像力がまず桁外れだが、それ以上にバカ王子に不幸にさせられる人々が魅力的で、何度読んでも飽きない。
基本的に僕は頭の切れる人ががんばる話が好きなので、『レベルE』はどこを読んでもハズレなし、という感覚だ。
一番好きなのはラス前のバカ王子が結婚を迫られる話で、天才を切り返すその一瞬だけの迫力が、かっこよくていい。

こういう頭の切れる人の話がきちんと客観的に書ける、というのは、相当難しいことだ。
主観的になら、ミステリや探偵小説で、偶然の力や運の良さという要素も借りながらいくらでも書ける。
でも人類に属する作者が、人類よりもずっと頭の切れるバカ王子をきちんと他者として描ききっている芸当は、
なかなかお目にかかれるもんじゃないと思うのだ。こういうのは、「あいつすげー」と素直に感心して楽しむのが一番。


2004.12.10 (Fri.)

一般教養として聴いておかなければならない洋楽というものが存在すると思う(→2004.9.23)。
それはCMで耳にする曲だったり(→2004.10.22)、社会的に大きな影響を与えたと言われている曲だったりするのだが、
そういうものを今、必死でリストアップして借りてきているところなのである。

ところがこれがなかなか、うまい具合にチェックできない。というのも、まず曲数が膨大であるうえに、
メロディはわかるけど歌手もタイトルも知らない、というものがかなりあるからだ。
調べてみようにも洋楽は個人のこだわりがえてして強いジャンルなので、「これじゃない……」と空振りすることもしばしば。
そんなわけで紆余曲折を経ながら、ちまちまと知っている曲を増やしていく努力をしている。
まとめた結果をどこかで発表したら、喜ばれるだろうか。


2004.12.9 (Thu.)

NODA・MAP第10回公演『走れメルス 少女の唇からはダイナマイト!』を観に行く。

まずチケットを取るのが大変で、自力でなんとかなったのが、2階の奥の席。イヤな予感。
中に入ると70年代末から80年代の男性アイドルの歌が次から次へと流されている。
見下ろした先にある舞台には、戦争や震災の後のような灰色と茶色の混じった瓦礫がいっぱいに敷き詰められていた。
いざ開演すると、まずその瓦礫のセットがそのまま上へと持ち上がり、板張りの舞台が現れる、という仕掛け。
いくらかかってんだろうと圧倒されているうちに、映像をまじえたアイドル・メルスのステージがはじまる。

鏡を挟んだ向こうとこちらで話は展開するのだけど、いかんせんその内容はよくわからない。
というのも、席が舞台から離れすぎていて求心力が落ちているし、野田秀樹が20歳の頃の作品だから展開が粗いしで、
猛スピードで進んでいくストーリーから完全に置いてけぼりをくらった状態になってしまった。
もともと夢の遊眠社時代の作品は3つほどビデオで見てはいたのだが(→2003.11.142003.11.24)、
残念なことにそのどれとも相性は良くなくて、やっぱり『走れメルス』もそれは結局同じで、
興奮している演劇部OGらしき皆さんを眺めているうちによけいに冷めてしまった。

教訓としてはやはり、演劇はできるだけ前で観ること、だ。それができなきゃ、話にならない。


2004.12.8 (Wed.)

今まで語っていそうで全然語っていない、東京スカパラダイスオーケストラについて書いてみる。

僕のスカパラとの出会いは、浪人時代になる。高校のときはなんとなくクリーンヘッド・ギムラが怖くて近づけなかったが、
浪人すると気分転換に音楽を大量消費する必要が出てきて、それで聴くようになったというわけ。

最初はそのギムラが亡くなった『GRANDPRIX』から入った。そこから遡って『FANTASIA』『ワールドフェイマス』を聴いた。
この辺はもともとフュージョン好きの僕にはかなり趣味が合った。『PIONEERS』『トーキョー・ストラット』もツボだった。
スカといっても歌謡曲のセンスが多分に混じったトーキョー・スカを標榜していて、これが完全に僕の嗜好に合致していた。

スカパラの特徴をいくつか挙げると、まずはやっぱりカヴァー曲のセンスが抜群にいい点だ。
『The Look of Love』や『燃えよドラゴン』、さらに『ルパン三世'78』や「セサミストリート」のテーマ曲(Sunny Day)もある。
とにかく、スカパラなりの解釈が楽しい。個人的には『秘密諜報員ジョン・ドレイク』や『チャーリーズエンジェル』のような、
昔のアメリカのTVドラマのテーマ曲をカヴァーしてほしいのだが、最近のスカパラはすっかりカヴァーをしないのでけっこう残念。
ぜひカヴァーアルバムを企画してほしい、と熱望しているのだけど。スカパラだったら絶対に傑作が生まれるはずなのに。
あと、シングルを出した場合には、そのカップリングのインストゥルメンタル曲はかなりデキがいいのも特徴。
『愛と欲望の惑星』『国境の北、オーロラの果て』『睡蓮の舟』などなど、わりと見逃されてしまいやすい名曲が多いのだ。

ところで前にドラムスをたたいていた青木達之が亡くなったときは、正直ショックだった。
竹中直人とスカパラが組んだ深夜番組『デカメロン』では、高橋幸宏と「どらむ寿司」というシュールなコントをやっていた。
(あの番組がめちゃくちゃ好きで、いまだにDVD化を望んでいるのだが、さすがに無理だろうなあという気がしているしだい。)
テクニックの凄さで勝負するタイプではないのだが、すぐにそれとわかるクセのあるフィルをたたく人で、
「これもひとつの個性なんだよな」と思いながら聴いていた。そういう何かと特徴のあるドラマーが僕は好きなのだ。
亡くなったことを知って、大学のパソコンから衝動的にスカパラのHPに「ドラムス始めます」とお悔やみの言葉を書き込んだ。
まあそれ以来、へたっぴなりにちょぼちょぼとドラムスを続けているわけだ。

スカパラ自体に話を戻すと、2001年の歌モノ3連発(『めくれたオレンジ』『カナリヤ鳴く空』『美しく燃える森』)をきっかけに、
方向性がだいぶ渋いものへと変化してきている。これ以降、かつてのトーキョー・スカで見せたごった煮の雰囲気は弱まり、
純粋にオトナの音楽といった曲が多くなる。せっかくメジャーなグループでは珍しい10人のメンバーがいるのだから、
あまり空気を統一するよりももっと雑多な協調性を出してほしいなあ、とは思っているけど、
きちんと歳をとるということの美学を見せられている気もして、特にファンをやめようとかそういう気にはならない。
僕がMP3化した最多曲数を誇るアーティストという記録は、おそらく破られることはないだろう。


2004.12.7 (Tue.)

『マトリックス』を見た。これは20世紀末から21世紀初頭の社会状況を代表する作品であると僕は思う。

序盤は「夢と現実の区別」が問題となるが、ベースにあるのは今ある現実を仮想空間として、信じないという発想。
単純にヴァーチャルな世界を真実と信じるのではなく、リアルの世界を仮想のもの、one of themと考える。
これは、現実を肯定できない引きこもりやおたくの側にいる発想と言える(その破壊的な例がオウム真理教だった)。

この映画では、空が一度も描写されない。建物のガラスに映った空はあっても、空そのものを映したシーンはない。
そのため、物語全体が強い閉塞感を感じさせるものとなっている。これは引きこもりによる現実の否定、
「外の世界のほうがむしろ閉鎖されている」という感覚を代弁している。そしてこの物語は、大胆に言えば、
おたくや引きこもりが散らかっている自分の部屋に帰る話、と要約できよう。モーフィアスの母船はデザインに無頓着であり、
機能に特化している。これはつまり、おたくの部屋以外の何物でもない(ついでに言えば、メシもまずい)。

トリニティをエージェントが追いかけるシーンで物語は始まる。
エージェントが背広を着ているのは偶然ではない。背広が示唆するのは現実の「社会」そのものだ。
社会が攻めてくる、現実世界のほかの誰にでもなりかわって、みんなで自分を無限に攻撃してくる、という構図。
(エージェントは「諜報部員」と訳すよりも「代理人」、つまり「社会の代理人」と訳すべきである。
 エージェントは制服姿の警察官=国家権力よりもずっと速く、強い存在なのだ!)

ネットとの関連で指摘できるのは、ハンドルネームの位置づけだろう。
主人公はアンダーソンという名前を拒否し、「ネオ」というニックネームを自分の本当の名前とする。
ウソくさい親や家族の痕跡が残る名前よりも、後天的で軽さのあるハンドルネームの優越を暗に示している。
(ちなみに「ネオ=NEO」というのは、劇中で「救世主」を意味する単語「one」のアナグラムからつくられているだろう。)

身体との関係から考えるなら、ここにも、すべては脳みそで解決できるという発想が色濃く反映されている。
すべてはプログラム(脳の命令)を通過している。本来脳を経由しない反射さえも、プログラムにより加速されている。

この映画は、表面的に楽しむならアクションシーンの斬新さが堪能できる。
ちょっと皮肉って見るなら、おたく/引きこもりの文化的な反乱という要素が指摘できる。
だがもう一歩踏み込んで、現代社会の胡散臭さというか薄っぺらさをマジメに読むこともできる。
それらができるという点で、素直に評価をしておきたい作品である。


2004.12.6 (Mon.)

小川洋子『妊娠カレンダー』の感想。芥川賞受賞作品だってさ。

読み終えて一番最初にこみあげてきた気持ちは、まず怒り。ふざけるな、と怒鳴りそうになった。
なるほど、感性が鋭いことは認める。そしてそれを的確に表現する技術も持っていることも認める。
しかしながら、これは小説家の作品と言えるのだろうか? この内容でメシを食ってることが許せない。
「私は(姉は)傷つきやすいんです、でも身体はそれよりももっと丈夫で頑丈で、そこのバランスが保てないんです。」
言いたいことはそんなところだろう。他者の妊娠という、自分には客観的に観察できる事態を借りて、
心と身体の微妙な乖離を描き出した話、となるのだろう。それはどこか安全地帯から見下ろす、ずるい視線だ。
描かれた対象は本当は自分であるくせに、いいえちがいますよ、と他者のことにして逃げている。
カップリングの2作品(『ドミトリイ』『夕暮れの給食室と雨のプール』)についてもそれは同じ。
対象となっているのは、身体。それを食べ物(栄養・あるいは毒物)を通して迫る構造はまったく一緒。
そしてどっちも中途半端な読後感しか残さない。食べかけの皿をもっていかれた気持ちになる。

問題なのは、ただ傷つきやすい自分(読者)を提示するまではいいとして、そのまま解決を放棄している点。
「そもそも解決する必要なんてあるの?」と問われれば、「それは人による」としか答えようがないんだけど、
哀れみを頂戴するのなんか、誰にでもできることだ。そのやり口に巧拙こそあれ。
小説書いてメシを食う人間なら、なんらかのメッセージは込めるべきだと思う。せめて匂いだけでも。
「どう? わたしって傷つきやすいでしょ。みんなそうなのを代弁してあげたの。」ってレヴェルじゃ、
永遠に終わらない傷の舐め合いにムリヤリ参加させられただけで、明日への希望すら残されていない。
延々と続く自己弁護。この人と、この人の本を好んで読む人たちが、とっても気持ち悪い。

傷つきやすいことなんて、わかりきっているんだ。みんながどう回復して戻ってきたのか、そこを知りたいんだ。


2004.12.5 (Sun.)

TSUTAYAで『つばさ』を借りてくる。
第1回アカデミー賞作品賞・技術効果賞を受賞している、飛行機映画の古典中の古典。

感想を一言で表現するなら、「超アメリカ」。第2次世界大戦前のアメリカらしさがストーリーの中に詰め込まれている。
要するにコテコテなのだ。まるっきり一昔前の少年マンガのノリ。主人公が完全に、そういうキャラクターなのだ。
だからストーリー全体も、思いっきりかっこよくて、思いっきり悲しくて、思いっきり笑う、そういう振り幅の大きいノリだ。

だが、撮影技術のレヴェルはさすがに高い。サイレントにもかかわらず、カメラワークは現代の感覚とほとんど変わらない。
視点がくるくると変わるドッグファイトの映像は、もうそれだけで迫力がある(調べてみると、本物を飛ばして撮ったらしい)。
この日記ではお馴染みのフレーズになりつつあるが、やはり、「当たり前」をつくり出す凄みがある作品だ。
それは話の筋が徹底して少年マンガ的という意味でもそうだし、観客への映像の見せ方という意味でもそう。
僕らの中に知らないうちに刷り込まれている「お約束」を確認できる、非常にいい作品である。


2004.12.4 (Sat.)

近江榮『建築設計競技 コンペティションの系譜と展望』。
これは大学で卒論を書くときに買った本。薦めてくれた恩師の読書量のすさまじさを感じる。

卒論で最初やりたかったのは、文系の立場から見た「コンペで勝てる建築の秘訣」みたいなもん。
ところがいろいろインタヴューしてみると、「こっちだって必死なんだ甘えたことぬかしてんじゃねー」的雰囲気を感じ取り、
しかも、自治体主催のコンペで勝ったということは公共性を保証された・公権力のお墨付きをもらったと考えていいわけで、
そうなるとデザイン自体もさることながら、そのコンペで作品が選ばれるプロセスをもっと重視すべきだな、と思うようになり、
まあ結局は透明化を推進してできる限り入札からコンペに切り替えていくのがいいよね、という内容に落ち着いたのだ。

そもそもコンペは明治30年代半ばから星の数ほど行われてきていて、しかも不透明な審査がまかりとおっていた。
それをきちんとした歴史として誰にもわかるカタチでまとめていくのは、絶対に不可能な作業なのである。
そんな中で主要なものをできる限りでまとめているこの本は、不可能に挑戦したという意味だけでも価値がある。

公共建築は芸術品であると同時に当然、公共性を有する。「誰にでもわかる」ことが必要となるのだ。
ところが時代が後から追いついてくるような前衛的な作品は、市民の理解が得られないで問題化することも多々ある。
経済的な問題だってある(建設費だけでなく維持費も問題だ)。そこのバランスを、どう民主主義の中でとっていくのか。
建築史家の本らしく、そこまでは踏み込めていない。しかし考えるヒントとして、これは最も優れた教材のひとつなのだ。


2004.12.3 (Fri.)

さんりゅうくんからメールがきた。
リンク依頼のメールなのだが、眺めているうちになんとなく、サイトを改善しなければ!という義務感に襲われる。

じゃあ具体的にどうすればいいのか考えているうちに、「reference」というページをつくってみようと思い立った。
いつもいいかげんなことをつらつらと書いているが、これを時間軸を無視して一気にまとめたらどうなるか見てみたかったのだ。
かっこよく言えば2次元のHTMLファイルをタテ方向に並べることで、僕の脳みその中身を立体化できるのではないか、
僕という人間の「構造」をわかりやすく提示できるのではないか、という発想だ(CTスキャンの逆をやろうってことだ)。

とりあえず1年分、アンカーを埋め込んでリンクを貼ってみる。自分で言うのもなんだけど、これはかなりイイ。
昔の日記はすごく恥ずかしいが、過去の自分もごちゃまぜで「自分!」と割り切ってしまう。それも素直に自分だから。
最終的にはこのHPで自分の脳みその立体化という可能性を実現できるかもしれない、なんて考えると、
「logistics 443013」というHPのタイトルも、考え付いたときの予想以上に適切なものに思えてくる。

logistics :
1. 兵站学。兵員・軍需品の輸送・補給を考察する。
2. 企業における原材料の調達から生産・在庫・販売に至る物的流通の管理活動。 【大辞林】

そんなわけで「reference」の設置をきっかけに、この日記はびゅく仙の活動をフォローする役割を担わされるのであった。


2004.12.2 (Thu.)

吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』。
これは自分の大学時代に恩師が薦めてくれたので、読んでみたらたまげた本なのである。
詳しく説明すると、現在はカルチュラル・スタディーズで知られる吉見俊哉が自身の修士論文をベースに書いた本。
1980年代には都市論/東京論が一大ブームとなっていたが、それはカタログ的というか、軽さに満ちていた。
その中でこの本は、近代という巨大な力をバックボーンにしている江戸から東京への変遷を描き出した内容となっている。

前半のI章は、戦前のものを中心に従来の「盛り場」研究をまとめている。内容はきわめて専門的。
II章では博覧会や勧工場を通じて近代の視線が伝統的な江戸の街・住民を解体していく様子が描かれる。
両方の章に共通しているのは、古い汚れた(江戸の)匂いをキレイにすることで都市を「発展させる」という思想の紹介だ。

後半に入るとぐっと面白くなってくる。というのも、時間軸に沿って具体的に「盛り場」の変遷を紹介するからだ。
III章では1910年代~1930年代における、江戸の情緒を残す「浅草」からモダンな「銀座」への変遷を、
IV章では1960年代~1980年代における、アングラな「新宿」からポストモダンな「渋谷」への変遷を描く。
特に、「浅草」と「新宿」では〈触れる=群れる〉、「銀座」と「渋谷」では〈眺める=演じる〉というキーワードを用いている。
〈触れる=群れる〉「浅草」と「新宿」は、共同体の一員としてふるまいつつ異界に踏み込む身体感覚が共通する。
これは浅草六区の歴史やかつての新宿騒乱・現在の歌舞伎町や新大久保といった実例を見れば実感できることだろう。
そして「浅草」は近代の浸透とともに、距離を置いてショーウィンドウを〈眺める〉「盛り場」である「銀座」に主役を譲り、
「新宿」はパルコ文化やファッション誌により自分がモデルとして〈演じる〉「盛り場」である「渋谷」へと主役を譲る。

筆者は学生時代に演劇活動をしていたのだが、その経験が見事なまでに学術的な視線へと活用されている点がすごい。
時間を柱に、それぞれの空間について身体感覚を手掛かりに分析をくわえる手際のよさは、とてもマネできるものではない。
しかも、その視線の奥には近代という社会科学上における最大の難敵が、しっかりと見据えられているのだ。

この本が世に出て20年近くが経った。その間に情報空間は飛躍的に発展し、リアルな都市を凌駕する面を見せつつある。
そしてケータイなどに代表されるように、身体感覚の側も急速な変化を続けている。
その変化する身体は、都市や情報空間でどうふるまっているのか。
今だからこそ、われわれはこの本の続きを考えなければならないと思う。そういう気にさせる偉大な本なのだ。


2004.12.1 (Wed.)

今月の日記は、できる限り、まだ書いていないお気に入りのものについて、いろいろと扱ってみることにする。
(理由は……記録しておいた日記のメモを誤って消してしまったから。どうせ変わり映えのしない毎日なのだが、ショック。)
まずは、20歳以降の自分にとって原点となっている本から。

橋爪大三郎『はじめての構造主義』。大学で社会学概論の講義をとったとき、推薦図書になっていたのがきっかけ。
東工大の橋爪教授という存在は、浪人中にcirco氏がVALDESの新聞記事を送ってくれていたので知っていた。
で、読んでみようと買ってみた。アタマがぶっ飛んだ。いちおうそれなりに本は読んできたつもりだったが、
それまでにはまったくなかった衝撃を本当に受けた。読むだけで頭の良くなる本、というものに初めて出会ったのだ。
学問のジャンルを横断して、ひとつの世界を提示する迫力の塊。視野が圧倒的に広いのに、おそろしくコンパクトだ。
凄いのは、ひとつひとつの文がきわめて単純明快なこと。それを抜群のセンスで、傍目にはごく自然に、積み重ねていく。
シンプルなことをテンポよくつなげていき、ふと振り返ってみると、現代思想の最高レヴェルの部分が完璧に説明されている。
すんなりと理解ができてしまっている。しかも、読み進めるほどに知識欲が刺激されていく。ページをめくる手が止まらない。

いちおう本の中身を書いておくと、まず構造主義の世間での扱われ方について述べているのが第一章。
続いてソシュールの言語学をふまえながら、レヴィ=ストロースの人類学~神話学の軌跡を追いかけていく。
そして構造主義のルーツとして数学と遠近法を取り上げ、そこから構造主義を客観的に描写していく。
あとはフーコーやらバルトやら構造主義の周辺人物について紹介とブックガイドがついて、読者にハッパをかけて終わる。
一見すると脱線に思えるくらいあちこちへ話が広がるが、読み終えるとまったくムダのない構成になっていることに驚かされる。

本来なら気絶しそうな難しいことを、これだけソフトに、これだけ的確に、これだけ魅力的に描いたものは初めて体験した。
以来僕は、人から「何か1冊オススメの本を」と言われるたびに、この本を推している。
そしてそれはたぶん、今後も変わらないはずだ。


diary 2004.11.

diary 2004

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