『橋爪大三郎コレクション』全3巻を読了する。
I巻「身体論」についてはすでに詳しく書いたので(→2004.11.2)、II巻「性空間論」とIII巻「制度論」について書いておく。まずはII巻「性空間論」から。レヴィ=ストロースの解説からはじまり、次いで性別についての骨太な論が提示される。
これは後に出版される『性愛論』の下敷きになったものだが、数学的な論理展開を駆使して性別を論じるのが面白い。
ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に近い、有無を言わせない迫力がある。しかもこちらの方がずっとわかりやすい。
「性別のありか」の章では、生理学的な観点からの分析が入る。現代を考えるヒントがとてつもない密度で展開される。
そして最後に「生命科学と女性の権利」「性空間論」ということで、筆者から見た性と社会の関係が描写される。
ゆっくり、綿密に進められた思索の足跡を、贅沢に追いかけることができる仕組みだ。もうひとつ重要なのは、「加工品の眩暈」と題された章だろう。
人間がなぜ、芸術という形で先人たちの想像力のリレーに魅せられてしまうのか、分厚いヒントが与えられている。
僕としては空間と権力の関わりを真っ先に思い浮かべ、建築という行為を念頭に置いて読み進めていくことになる。
だから修士論文を書く前にこの本を読んでいれば、と強く後悔した。きっと、もっと明確に目的意識を言語化できたはずだ。また、幼児が人間の顔を描いた絵から人間の発達について論じた「容貌論」も独自の面白さを持っている。
そしてIII巻「制度論」。それまでは比較的抽象的なところから見ていたのが、かなり具体的なアプローチへと変化する。
民主制や資本主義へと真っ向から切り込んでいき、情報や政治という「言説編成」の内容へも踏み込んでいく。
また、音楽を切り口に、芸術論も展開される。ここでの結論は少々悲しいものだが、説得力がありすぎて文句が出ない。
全体としては、いかにして社会学が「言説編成」の授業で扱った内容へとつながるか、が見事に示された面白さがある。全3巻を読み終えれば、その興味関心の幅広さとそれに対する鮮やかな記述の見事さに圧倒されるはずだ。
ふつう、「自分は世界をこう眺めました」という見解は、物語という形式で提示されることが多い。小説・演劇・映画……。
しかしそれをあくまでアカデミックな立場から、すべて論述という形式でやってのけていることに、この筆者の凄みがある。
本当に、おそろしいことだと思う。僕らがこれからやろうとしていることを、すでに完全に分析して言語化されてしまっている。
ただただ、凡人には、「おそろしい」と畏怖することしかできない。
(この日記は眠れなくて夜中に書いている。昼間に自由が丘のウェンディーズで流れていた
U2の『SUNDAY BLOODY SUNDAY』が、まだエンドレスで頭の中をぐるぐる回っている。)「挫折」という言葉についてずっと考えている。きっかけはおとといのすし屋の件だ。
「挫」はくじけること。問題は「折」の方で、これは人生の勢いをベクトルにたとえると、それが角度を変えることだと思う。
大学院の研究室に入り、市役所の空間制度から権力を描き出せるというアイデアを得て、それを実現しようとしてきた。
しかしそれは許されなかった。結局、僕は正直納得のいっていないものを作品として提出することになった。
もちろん、原因にはアイデアを予感のままにしておいて、具体的な言葉にできなかった自分の未熟さがある。
その一方で、大学という自由と制度の矛盾に猛烈な絶望を覚えた。だから、今も登校を拒否したままだ。すし屋で潤平が目にしたのは、以前とはベクトルを180°変えた僕の姿で、それは奇妙なものに映ったはずだ。
(「積分的思考」から、浪人中に批判していたはずの「微分的思考」への転向。自傷的な論理構成。トラウマの生産。)
しかし、老化という現象を抱えだした僕は、とりあえず今はそれでいいと思うことにしている。じっと我慢をしている。
ベクトルを変えてからの僕は、意識的に読む本の方向性を変えている。学術書から、小説へ(特に現代日本のもの)。
でも本当に面白いと思った小説にはまだ出会っていない。すべてどこかに欠陥を抱えているように僕の目には映る。
自分の傷つきやすさをショウウィンドウのように並びたてるだけの話(誰とは言わないがこういう女は大嫌いだ)。
自分の内面だけを空間化した話。その空間を出入りするのは絶対的な他者か自分と同類だけという話(つまり村上春樹)。
そんなもの、読んでいたって何の救いもくれない。いや、既存の小説に救いがないことを僕はマゾヒスティックに確かめている。
対して学術書は小説よりもリアル(現実)で、理想に満ちている。理想と現実をつなぐ試みにあふれている。
だから僕は、学術書と小説の境界線をふらついている。ストーリーの復権を真剣に考えるために。潤平の「アニキはヤバイよ」というセリフが頭の中に浮かぶたびに、怒りがこみ上げる。
自分の挫折を知ってくれとは言わない。ただ、struggleの価値をスカラーとして考えることは理解してほしい。
でもその言葉は夜中に相手にテレパシーで伝わるはずなどない。自分の内面に繰り返し語りかけることしかできない。
そしてふと思う。以前読んだ『アルジャーノンに花束を』(→2004.7.16)の、プラトンの言葉。
暗い世界に足を踏み入れて目がくらんでいる。「オレは今のうちに暗い地面の下で根を思い切り張ってやるんだ」
そう開き直ることでしか、自分を守れない。2歳も年下の若造にはわかるはずがないんだ、と言い聞かせる。
それは初めての、老化への肯定でもあるのだ。身体を劣化させるだけの時間に対して、肯定する勇気を持てるようになる。
そして、今は離れた(追い出されたわけではないのだ)研究室に、すべてを感謝するチャンスを与えられていることを知る。いずれ、挫折することに挫折する日が来る予感がする。そのときのためにできることは、ベクトルの絶対値を磨くことだ。
今のうちにめいっぱい怒っておく。めいっぱい学んでおく。めいっぱい傷ついておく。誰にも文句は、言わせない。
MP3が2000曲を超えた。これを機に、電気信号と身体について考えてみようか。
circo氏は今、持っているテープやレコードをひたすらWMAファイルにしている最中だという。
僕も必死でMP3への移行をしている真っ最中だから、知らないうちに同じ行動をとっていたことになる。移行が終わったMDを、僕はバリバリ不燃ゴミに出している。身体よ、軽くなれ。と言わんばかりに。
前に部屋の片付けと身体の軽さの関係に触れたことがあるが(→2004.7.23/2004.9.1)、これはつまり、
身体の拒否を意味するのかもしれない。MDやCDという物理的な実体をともなった存在から、
まるで幽霊のような電気信号・パルスへの移行。曲に付随する情報も紙媒体からただのインデックスデータへ。
どんどん軽くなる身体に危惧をおぼえながらも、身体を捨てる方向で行動している自分。やっていることがあやふやだ。
考える必要のない(であろう)不安を僕がおぼえている一方で、世間の皆さんはそれを自然にこなしている。
ぜんぶ、物理的実体を減らす方向にはたらいている。電気信号の音楽を、電子マネーで買うことができてしまう。
昨年末の日記にも書いたが、身体は記号化している。流行の格闘技も記号としての身体でしかない(→2003.12.31)。
身体が記号として流れ出す、ということは、物理的実体の絶対性が価値をなくしていく、ということになるはずだ。ぜんぶ、脳みそ(パルス)で処理できるという意識が、知らないうちに蔓延していないか。
秋葉原のおたくファッションも美容整形も、今ある身体を絶対的と見なさない(仮の存在と考える)点では共通している。
引きこもりなんてもっと究極のカタチで、パルスで外部と通信できるから家と一体化しちゃってる(→2004.9.21)。
それに対抗するためか、『声に出して読みたい日本語』のような、身体感覚を取り戻そうという動きも活発化している。
どっちが正しいとかそういうことはないが、今のところはどうにも脱身体の流れの方が優勢なように思える。資本主義は地球のすみずみまで征服しちゃった次に、どうやら人間の身体を新たなターゲットにしたようだ。
まさに世も末なのだが、これをチャンスと見るかピンチと尻ごみするか。
チャンスとするには、道のりはなかなか険しい。でもやりがいはありそうだ。
circo氏が上京してきた。
塾が終わって潤平をまじえた3人で食事をすることに。自由が丘をぐるぐる回った挙句、潤平の知っているすし屋に入る。
赤コーナー・就職が決まって勢いに乗る松島酸化鉄。青コーナー・就職が決まってすでにあきらめ気味のびゅく仙。
circo氏はレフリーというよりも、偶然暇つぶしに入ってきた観客のようだ。ヤジを飛ばす気すらない。
中ジョッキをぶつけてゴングが鳴ると、意外にも青コーナーからラッシュ。そんな27歳曰く「最近のお前は気に入らねえ」潤平は僕が『電車男』を読ま(め)なかったことを素材に、こちらの意識と行動が論理的に狂っていると指摘してくる。
内心「お前もオレの勧めた野田秀樹『赤鬼』(→2004.10.7)を無視じゃねーか」と思うが、若さで押し切られそうになる。
僕の不満はただ一点、潤平がこっちの話をきちんと聞かないことにある。3時間聞いてくれれば理解できるのにね、と。
対する潤平はそれを15分でプレゼンしようとしない僕の態度を責める。それこそ、聞かせる努力をしていないではないかと。
だが僕は『60分でわかるマルクス(ホントにそんな本あるかは知らん)』的な本が面白かったためしがないことを知っている。
そんな手っ取り早くわかるようなものは薄っぺらいものでしかない、という確信があるのだ。あとこっちサイドが死んでも認めるわけにはいかないのは、他人(建築家的には依頼主)に対する態度。
日々塾講師として勉強できないヤツの面倒を見ている僕には、潤平の論理はたとえ一貫していても、断固認められない。
勉強ができることがすべてではないが、勉強を第一の価値にしないといけない。この矛盾の中で僕は金を稼いでいるのだ。
潤平の論理は、強いものが勝つという当然の摂理を反映している。でも、弱いものの存在価値を見出す優しさがない。
まるで構造主義以前の人類学者と話しているような錯覚をおぼえた。「そーですか、オレは未開ですか」と言いたくなった。
別の表現をすれば、「お前の幾何学はユークリッド幾何学じゃない。曲がっている。」と言いがかりをつけられた気分だ。
きっと付き合っている連中が自信満々なんだろうな、と思う。弱い人間を見る機会に恵まれないんだろうな、と思う。
潤平は海外まで建物を見に行っていてそれはいいことだが、自分には関西へ人間を見に行ったという自信があるのだ。
大阪の街のいたるところにあるビニールシートの青さが、どれだけ僕の心をえぐったことか。今の潤平にはそれがわかるまい。弁解ばっかだな。
まあいいや。最終的には潤平も今のこっちの思考回路がそれなりに真っ当なものであることをわかってくれたようだが、
酒のせいで細部に不安を残す。でも僕としてはフラストレーションを晴らす機会になったので、満足。
ひとりよがりだが、満足。文句あっか!
1年生向けにプリントをつくることにした。
成績のいいヤツは、あとはイージーミスを抑え込むだけというレヴェルにきている。
その一方で、全然理解できていないヤツもいる。そいつらのために、英語の思考回路を文章化しないといけない。
とりあえず早めに塾に行き、コツコツとWordでプリントをつくっていく。
すごく地道な作業だが、いい置き土産になると信じてがんばる。
小倉優子がどーもイヤだ。実際に会ったらグーで殴っちゃいそうだりんこ。
おそろしくそそっかしいヤツと、その母親との面談。
僕なんかはずっと公立の学校で今まできたので、私立志向というのがイマイチわからない。人間の性格って、本当に多彩だと思う。
現実を見ろよって言いたくなるほど、根拠のない自信に溢れている人。
徹底的に努力をしていてどこから見ても万全なのに、謙遜というよりも自分を過小評価しちゃう人。
アフリカの大地溝帯で生まれた人類なのに、まるで違う。日本人なのに、まるで違う。僕にできることは、相手の見ている世界は自分の見ている世界と同じだけ真実なんだから、
できる限り相手のフィールドに立つ努力をして、そこからアドヴァイスらしきことを送り出すことだけだ。
大学時代から見たかったのになんとなく見る機会がなかった、マルクス兄弟の『我輩はカモである』を借りて見る。
凄い。これは凄い。この映画が20世紀の名作に数えられているという事実に、うれしくなる。
1933年公開というのが信じられない。これは、20世紀末のシュールギャグがパンパンに詰め込まれている作品だ。
表向きには戦争と政治を風刺した作品となっているし、実際にそういう意図があるんだろうけど、
そんなことを吹っ飛ばすくらいにギャグに対するエネルギーがあふれていて、見ていてクラクラしてしまうのだ。
感動なのは、くだらなかったりナンセンスだったりするギャグを、やたら豪華なセットで実現してしまうという贅沢さだ。
この辺はいかにもこの時代らしさが出ていて、シュールとの組み合わせが新鮮に思えてくる。手段のために目的を選ばなくなっちゃったくらいに、ギャグが飛び出しまくる。
やたらとハサミで物を切りまくるチコに、やりたい放題にしゃべりまくるグルーチョが全編暴れまくる。
あまりに勝手にやっていくので、見ているとストーリーの流れがすっかり混乱してわからなくなる。
でもつくっている側はお構いなし。むしろ、説明していたら勢いが落ちちゃうから、さらに飛ばしてくる始末。
特にひどいのがラスト。最後の最後にその仕打ちというのは、ナンセンスギャグとしては満点の選択。
それを白黒映画の時代にすでにやっちゃっているんだから、もう呆れて脱帽するしかない。
時代が50年以上経ってから追いついた、そんな時間の感覚を圧倒的に狂わされる作品を見たければ、まずコレだろう。
高校入試の内申点は2学期の成績で決まる。
ということで、本日はテストに備えて自習。質問されて数学を教えたり、いろいろ。
友人に薦められたので『セント・オヴ・ウーマン』を借りてきて見てみる。
まず第一に、冗長。話の展開は完璧に予想ができるもの。いい話であるだけに。
良く言えば丁寧に描いているんだろうけど、わかりきったことを長々とやられるのは苦痛だ。
俳優の演技に文句はないので、なんとかしてこれを90分程度に詰め込んでほしかったな、と思う。まとめると、苦学生がバイトで気難しいじいさんの相手をすることになり、結局は心が通い合う話。
旅と少年の成長とじいさんの生きる意欲を組み合わせたコテコテの展開なのだが、タイトルの意図がまったく不明。
わざわざメインタイトルにするほど大きな要素とは思わない。結果、何が言いたいのかもぼやけている印象。
薦めてくれた友人には悪いが、この作品で感動できるほど自分は素直な子ではないのだった。
テスト対策、テスト監督、作文、面談。一日中塾にいた。
一日中塾にいると、せっかくの太陽が出ている時間を建物の中で過ごすことがもったいなくて、怖くなってくる。
これが来年以降当たり前になる、という事実が本当に怖い。思わずため息が漏れた。
中島らも『今夜、すべてのバーで』。作者の実体験をもとにしたフィクション。
つまりは、アル中体験を小説という形で提示してみせた作品である。結論から言ってしまうと、ラストを医学的なレポートに託した形になっているのが大いに不満。
物語という形式で世界を描きはじめてしまったのだから、それを最後まで徹底してほしかったと感じた。
ある意味、このレポートはメタフィクションという扱いもできるのだが、それにしても、ちょっとずるい。
作者が自分を奥までさらけ出した作品、ということでは非常に生々しくてリアリティがある。
僕は酒を自主的に飲むことは本当にない人間なので、「そういう世界もあるんだ」という新鮮さが読後に残った。
逆に酒に飲まれまくってる経験がある人は、「そうなんだよな~」と思うのだろうか。むしろそっちが気になる。中島らもってことで考えてみると、いちおう、浪人中に『ガダラの豚』を読んでいる。
こっちの『今夜、すべてのバーで』は、あっちに比べると随分ストレートだ。素直に淡々と書かれている。
『ガダラの豚』は縦横無尽に想像力が飛びまわっているんだけど、こちらはじっと地面を踏みしめている。
比べてみると、一番基本的な作品ということなのかもしれない。スタートライン、というか。
だから自分の立ち位置をはっきりと示した迫力に満ちているのは確か。圧倒的な説得力を持っている作品だ。
雨の中、ひたすら関係代名詞のプリントづくり。
早くしないと中学校の期末テストが始まってしまう。それまでに完成させないと意味がないのだ。
生徒連中の内申点を少しでも上げるためにも、絶対にいいものを渡したい。そんな気持ちでつくっている。◇
関西旅行の際に大阪でお世話になったワカメが薦めてくれた、『スティング』を見た。
まずBGMを聴いてものすごくノスタルジックな気分になる。ウルトラクイズで多用されていたからだ。
しばらく「あぁ……」なんて言葉にならない思いにかられていたのだが、オープニングが終わると話に集中していく。ひらたく言うと、詐欺師が集まってギャングのボスに一泡吹かせようという話。それが非常に魅力的に描かれている。
騙し、騙され、それが観客も見事に巻き込んで、ひとつの鮮やかなエンタテインメントへと集約されていく。
(最後のどんでん返しを「なんか怪しいなあ……」と思って警戒していたとしても、面白さは揺るがないはずだ。)
まず、テンポがいい。見せるべきところはすべて見せて、ムダなところは描かない。それがラストを効果的にしている。
ピアノがフィーチャーされた音楽(スコット=ジョプリンによるラグタイム)も、1930年代シカゴの雰囲気を盛り上げる。
その軽やかさが詐欺師の手つきを思わせていい(個人的にはウルトラクイズの懐かしさも重なってよけいに沁みる)。
俳優も主役のポール=ニューマンとロバート=レッドフォードだけでなく、脇役までみんな魅力的。
ふつうならひたすら怖いだけのギャングの子分まで、その中に愛嬌を感じさせるくらいだ。全員が人間くさいのだ。
ストーリー展開も適度にあぶなっかしくて、それが見ている観客の心をくすぐる。じわじわと手に汗を握らされていく。
徹底的に丁寧につくりこまれていて、見ているこちらも詐欺師一味になった気分にさせられてしまう工夫がなされている。
おそろしく完成されている映画だ。あらゆる才能が結集してこれだけの作品ができた、という事実にまず感動する。びっくりしたのは、これが1973年の映画ということ。正直、もっとずっと新しい映画だと思っていた。
映像は少しも古びていないし、すべてがみずみずしく思える。この事実こそが、名作ということなんだろうと思う。
3年生の保護者との面談がスタートした。ウチのクラスは当落線上というか、難しい学校を受けるにはイマイチ頼りなく、
かといって無理にレヴェルを落とすにはあまりにもったいない、といった生徒が多いのである。
結果、講師にとっては非常に内容が厳しいというか難しい面談になるのだ。
自分は進学知識がゼロに等しいわけだが、なんとか過去問を研究した成果やら資料を読んだ成果をもとに話をする。そうして何件か面談をしてわかったのは、結局は生徒本人の意思が大切だということ。
本人の希望がはっきりしていれば具体的にアドバイスも出せるし、はっきりしていないとせっかくの面談もあいまいに終わる。
ウチのクラスは圧倒的にのんびり屋さんが多いので、どうも面談は暖簾に腕押しな印象。ちょっと不安が増した感じだ。
今週は諸事情により、火曜日にドラムスがあった。それにしてもドラムスの道は、長く、険しい。
この時期、塾は保護者面談に期末対策授業の準備に忙しい。
単純にレギュラー授業をやるだけなら塾の仕事もそんなに負担は多くないと言えるのだが、実際は細かい仕事が多い。
自分は下っ端だからそんなに問題なくこなしているけど、こんなの上の立場なんて絶対ムリだなあ、なんて思う。
みなとみらいに自転車で行くの巻。
第一京浜という名前がついているからには、東京から横浜に行くことができるだろうと考え、国道15号を行く。
(品川区民は第一京浜を「一国」、第二京浜を「二国」と呼ぶ。でも「二国」が国道「1」号なのでよそ者にはややこしい。)
ところがどっこい、環七からは第一京浜に出るまでが一苦労。おまけにボサッとしていたら産業道路に出てしまい、
糀谷周辺を方角がわからないままウロウロするありさま。われながら、非常に情けない。根性で六郷に出て、第一京浜を南下する。川崎に入るとすぐに川崎駅前。ここの歩道橋はいつ見ても圧巻。
それにしても第一京浜は車道の幅がやや微妙で、歩道を行くか車道を行くかの判断が難しい。よけいな時間がかかる。
横浜に入ってもその状況は変わらない。鶴見区の中心部に入ると道幅がいっそう狭くなる。なんだか、汚れた感じ。
もう無我夢中でペダルをこいでいく。道はわりとまっすぐなのに、迂回している気分になるのはなぜだろう。右手に見える横浜駅周辺の繁華街をちょいと素通りして、桜木町駅に到着。
いつもは電車なので、自転車で来た、という事実を実感して思わず笑いがこみ上げてくる。
実際にみなとみらいを自転車で走ってみると、これが実に爽快。埋立地なので自転車がちょうどいいスケールなのだ。機嫌よくぐるぐると走っているうちに、丹下健三設計の横浜美術館でふと立ち止まる。
ここは大学1年の頃、同じ授業(造形芸術論I)を取っていたダニエルと偶然出会った思い出の場所なのだ。
当時はまだあんまり親しくなくて、ちょっとよそよそしい感じで一緒に展示を見てまわったことを覚えている。
あの頃のみなとみらいはまだ美術館以外本当に何もなくって、その荒涼とした風景に山国育ちの僕はひどく驚いた。
あれから8年近くが経って、フェンスとベージュの原っぱは見事なコンクリートジャングルに変化していた。
1匹も動物のいない動物園が、観客ばかりのサファリパークになってしまった気分だ。クィーンズスクエア横浜にふらりと入って、サブウェイのサンドウィッチを頬張りながら『橋爪大三郎コレクション』を読む。
1時間ほど読むと、上の階をプラプラ歩いてみる。WORLD SPORTS PLAZAとアディダスのコンセプトショップをひやかす。天気も冴えなかったので、さっさと横浜駅方面へと移動する。でも、自転車を引いていると駅ビルを通ることができない。
とりあえず自転車を降りて迂回。そごうで文庫本を2冊買う。小川洋子と中島らもという、よくわからない組み合わせだ。
そして東急ハンズに直行。横浜ハンズはそんなに充実している印象はないが、なんとなくとっつきやすい気がする。すっかり日が暮れて疲れを感じたので、スタバで一服。軽く本を読んで過ごして、気分を新たに自転車にまたがる。
今度は第二京浜を帰る。こちらは第一とちがって山の中を突っ切っていく。あっさり帰ることができた。
都内に入ってもスピードを落とすことなく突っ走る。途中でラーメン食べて帰宅。結論:横浜に行くなら一国より二国。
『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう』。
ショートストーリーをつめこんだオムニバス形式の作品。
中世の貞操帯が登場する「媚薬の効用」、羊を愛してしまった男を描いた「ソドミーって何?」、
フランス映画っぽいのにひたすらやりまくる「エクスタシーは所を選ばず」、おじさんの女装癖を扱った「女装の歓び」、
モノクロのいかにもアメリカなテレビ・ショウでどんな変態か当てさせる「これが変態だ」、
巨大なおっぱいが攻めてくるというくだらなさNo.1の「SFボイン・パニック」、
そして精子が発射されるまでを(誰もが想像したけど誰もやらなかった形で)克明に再現した「ミクロの精子圏」の全7話。
『モンティ・パイソン』みたいな海外のクソバカコメディが好きな人は、まちがいなく笑える。個人的に完全にツボだったのが、ラストの「ミクロの精子圏」。
本当にくだらないのだが、細かいギャグがきっちり効いていて、カットが変わるたびに笑わされた。
以来、興奮するたび頭の片隅にこの映像が出てきて、どうにも冷静に戻ってしまうクセがついた気がする。
この作品については、どこが面白かったとか紹介するより、実際に見てもらう方がいいだろう。
言葉にするにはあまりにくだらないし、映像化されたバカを目にしてほしいし。基本的に、「ミクロの精子圏」に限らず、収録されているのはどれも本当にくだらない話ばかりだ。
そのくだらなさは中学生のノリに通じるものがあるので、そういう系統のギャグが好きな人なら、絶対に気に入ると思う。
男同士で見て、失笑しまくってください。
髪を切る。
わりと切られている間は雑誌を必死で読むことが多い。読むのは『AERA』か『Newsweek』か『Number』。
ふだん雑誌を読む習慣がないので、むさぼるように読む。まるで親の敵を睨むような目つきで読む。
カットしてくれるおねーさんは読んでいるこちらの迫力にいっつも圧倒されているみたい。
集中力をムダに発揮していて、なんだか申し訳ない。
『戦艦ポチョムキン』を見た。エイゼンシュタインのモンタージュということで、古典的名作に位置づけられる作品。
トーキー以前の映画なので、映像と字幕が交互に表示されるスタイルに、最初は戸惑う。
しかし慣れてくると、字幕に頼らず役者の演技だけで状況を理解する面白さが味わえるようになってくる。
前に日記で書いた笠智衆の演技と同じ。わかりやすさ、を表現することに特化した演技だ。それにしてもこの作品のモンタージュはさすがに強烈だ。
さまざまな視点を順番に組み合わせていくことで、観客に絶対的な神の視点を用意する。
そしてその神の視点は、革命の正当性をあらゆる角度を経た末にストレートに受け止めることになる。巧い。
カットの切り替えの激しさは、テレビに慣れきってしまった今では当たり前の感覚になっている。
でもそれをすべての人間に対して「当たり前」にしてしまった、そのきっかけをつくった迫力。
そこをしっかり押さえて見てみると、その斬新さに思わずため息が漏れる。話の流れとしては、反乱を起こした戦艦ポチョムキンが市民の援助を得、
それを政府が鎮圧しようとするオデッサの階段のシーンを経て、援軍がやってくるまでを描いている。
ただ事実(ソビエト的に都合のいい事実)をなぞっていくだけなので、あまり内容にまとまりはない。
しかしその描き方が今でも通用するくらいにとがっている。新鮮さを失っていない。
表現の方法だけで天下をとっちゃったという凄みを実感したければ、ぜひ見てほしい作品だ。
例のごとく、中3の補習をする。が、ふと、なんとなく置いていかれるような気分になる。
安部公房の『砂の女』の一節を思い出す。じっさい、教師くらい妬みの虫にとりつかれた存在も珍しい……
生徒たちは、年々、川の水のように自分たちを乗りこえ、流れ去って行くのに、
その流れの底で、教師だけが、深く埋もれた石のように、いつも取り残されていなけらばならないのだ。
希望は、他人に語るものであっても、自分で夢みるものではない。
彼等は、自分をぼろ屑のようだと感じ、孤独な自虐趣味におちいるか、
さもなければ、他人の無軌道を告発しつづける、疑り深い有徳の士になりはてる。
勝手な行動にあこがれるあまりに、勝手な行動を憎まずにはいられなくなるのだ。いま同じ場所で同じ時間を過ごしていても、それはまったく逆を向いた時間なのだ。そのことに突然、恐怖をおぼえる。
だが、どうしようもない。できることはその悔しさを深く自分の中に刻みつけておくことだけだから、がまんして、それをする。
今月のテスト結果はまずまずといったところか。2年生にしろ3年生にしろ英語がクラスのお家芸、
という状況ができつつあるのは好ましい。あとは1年生でもなんとかレベルを上げていきたいところだ。
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(→2004.8.31)に比べ、身体に関する記述がぐっと増えているのが目につく。
たとえば、生理と月の満ち欠けと日蝕と納屋で死んでいく馬の話。加納クレタの苦痛。「松」「竹」「梅」。
井戸の中。顔のあざ。皮剥ぎボリス。とにかく、丁寧な描写で身体についての考察が展開されていく。
この点については、『世界の終り~』よりも確実に面白い。ある意味、現象学の本を読むよりも楽しめるかもしれない。
1995年の時点でチャットの孤独感について触れている点も鋭い。さすが、と唸らされる部分は非常に多い作品である。でもやっぱり、最後まで読み終わって、「なにそれ」という読後感しか残らなかった。
すべては「僕」の想像力の中だけでしか起きていない。それが都合よく外の世界に波及しているだけだ。
皮剥ぎボリスのエピソードも中途半端。現在と同時に過去が解決されれば、もっと魅力的なストーリーになったはずだ。もうひとつ、社会学(特に都市社会学)を勉強した人間として許せないのは、空間のリアリティがまったく欠けている点だ。
たとえば、この作品では重要な舞台として新宿や赤坂などの街が登場してくる。
しかし描写はされていても、その空間である必然性、なぜ新宿なのか、なぜ赤坂なのか、という部分がないに等しい。
つまり、読者との共通理解である街の記号性(新宿・赤坂という名前から想起されるイメージ)しか相手にしていない。
想像力のたくましさ、と言えば聞こえはいいが、逆を言えば実際の空間を扱いきれずに引きこもっているだけだ。
主人公が住む世田谷区も、特に必然性がないように感じる。ただ住宅地、というだけで場所を選んでいるように思える。
やはり村上春樹は、都市や他者といったリアルな存在を扱うことができない作家のようだ。
実体を持たない主人公が実体を持たない空間を動く、幽霊のような触感の小説を連発しているからこそ、
前述のように身体への描写が深みを増したのかもしれない。でもそれはまだ、自分ひとりの感覚の羅列でしかない。僕/絶対的な他者(敵だったり完璧なシナモンだったり)/セックスさせてくれる(可能性のある)女性、
この構図は今回も同じ。想像力だけで組み上げられて実体を持たない都市に、簡単に類型化される登場人物たち。
自分は、次につながる想像力というか、想像力のリレーを生み出す作品を評価していきたいと考えている。
でも村上春樹の想像力は、他者を恐れるその作風からか、一代限りの閉鎖的なものに自分の目には映る。
いいかげん、この作家の作品に熱狂するのがいかに薄っぺらいかを自覚させる時代が来てほしいものだ。
こんなつまんない作家が売れている世の中というのは、ずいぶんとさびしい世の中じゃないか。なあ。
YMOのMP3化作業がほぼ完了する。
「YMOで一番好きな曲は?」なんて訊かれると困ってしまう。
というのも自分の場合、ほかのミュージシャンと違って、YMOの曲はランキング付けができないのだ。
どれも同率1位、というとらえ方なのだ。しかもその同率1位が2ケタある。そんなの、ほかにはない。
自分にとってYMOが特別なのは、どうもその辺に秘密がありそうだ。
作文で、いつまで経っても書き出さないでベラベラしゃべっているヤツがいる。
とにかくなんでもいいから終わりまで書かないことにはどうしょうもないのだが、それがまったく理解できないようだ。
こっちは良心でアドバイスしているのに、それを素直に受け止めず、言い訳ばかり。正直、相手にしたくない。
でもぐっとがまんして、自分がそういう人間にならないように心がける。そうするだけ。
金曜日は塾のミーティングの日なので、授業が終わってから先生方が集まる。
で、全体でのミーティングが終わると科目会ということで、各科目に分かれて先生方といろいろ話す。
今回は自分の番ということで、今までコツコツとつくっていたプリントを公開した。
結果はけっこう好評。自分が去った後でも、使えるようならぜひ利用してほしいなあ、と思う。
免許を更新するため、自転車で鮫洲に行く。まず大井町へ出て、右折。埋立地の雰囲気にだまされて、ちょっと迷った。
運転免許試験場ってのは、数あるお役所の中でも最も嫌いな場所だ。国立時代に行った府中も大嫌いだった。
量産されたモダニズム建築のまずい面しか見えない殺風景さ、乱雑で客を一切無視した部屋割り、
やる気のない売店、すべてがイヤだ。役所のくせに必死で役所じゃないふりをしているところがみっともない。
警察であることを隠しているのがいさぎよくない。中途半端に開かれているところがイヤらしくってたまらない。なんて気持ちでパイプ椅子に座っていると、見せられたビデオに出てきたのがドリーム師匠こと三笑亭夢之助。
ドリーム師匠を出されては負けだ。おとなしくビデオを堪能してしまう。なんとも単純な自分。で、なぜか新宿経由で帰る。
新宿へ自転車で。ちょいと足を伸ばして、小滝橋通りから高田馬場まで行ってみる。
そのまま特に理由もなく、明治通りの辺りまでブラブラしてみる。新宿の猥雑さと高田馬場の猥雑さの間には奇妙な静けさがあって、走っていると不思議な気分になる。
ただの住宅街の静けさではなくて、新宿という盛り場の持っているマイナスの空気と地続きになった静けさだ。
迫力、と言い換えられるかもしれない。どうしても抗えない「社会」の重さに満ちた空間の迫力。そういった街の雰囲気のプラス/マイナスは、自分の場合、空の青さで判断しているように思う。
たとえ快晴であっても、マイナスの街ではどこか空はグレーがかっている。ぼんやりとした膜に覆われている。
ことわっておきたいのは、プラス/マイナスというのはそのまま肯定的/否定的な意味ではないという点。
土地の歴史というか、それまで暮らしてきた人間の怨念というか思いというか、それが多いとマイナス、と感じるのだ。
だからプラスの土地はきまって郊外。新しく開発された街では、ウソくさいくらい空の青さを感じる。
逆を言えば、マイナスの空の下にいると、なんとなくしがらみを勝手に感じてしまい、息苦しくなる。
プラスの空の下では、自分勝手になんでもできるような気分になって、不要な開放感をおぼえるのだ。一度、自分の主観で東京のプラス/マイナスを地図に落として、局地的な歴史を調べてみようかと思う。
『橋爪大三郎コレクション I 身体論』。
この日記でも前々から書いているように、身体について考えることが自分の中でひとつの柱になっている。
で、この本はもっと深い位置からスタートして、「身体」から世界の構成のされ方をえぐり出そうとしている。
というのも、ここでの「身体」は、「自分と因果関係を持ったすべての事物」と定義されているからだ。
たとえば自分が座っている椅子も自分の「身体」であり、さらにその椅子の素材もまたすべて自分の「身体」なのである。
このポイントをしっかり理解しておかないと、この本の凄みを1ミリも味わえないで終わるだろう。
(※原文の「身体」にカギカッコはついていないが、ここでは区別するためにわざとカギカッコをつけている。)あともうひとつ、キーワードとなってくるのが「ダブル・リアリティ(二重の現実性)」という概念。
これは自分の細部の感覚(主観)について描写するのを得意とする現象学的なリアリティと、
絶対的な客観の存在を信じる唯物論的なリアリティの両方を合理的に乗り越えることを問題としている。さて、社会というものを記述するために筆者がとる方法は、性・言語・権力という3つの要素を用意して、
その3つの力が及ぶ関係の場として社会を、関係が織り上げられる舞台として身体を描き出すというものだ。
イメージ的には、α線・β線・γ線のような放射線(=性・言語・権力)が飛び交うフィールドが社会、というところか。
で、放射線が通過していくことで、人間のからだは絶え間ない変化にさらされていく、つくられていく。
本文では、ブラックホールのように3つの要素による(因果)関係を吸い込んで受け止めるものとして「身体」が描かれる。
そうして無数の関係の糸から織り上げられたもの(「身体」)として、今の自分がある、ということになる。この本の大前提となっているのは、自分と他者は互いに絶対的に隔絶された存在である、という点だ。
もっと言えば、この世界は自分が見た世界でしかなく、その各自の世界を全員が突き合わせて生きている、ということだ。
関係性の糸でつながってはいるものの、それはブラックホールのように自分の側が吸い込む(受け取る)ものでしかない。
他人に向かって糸を投げかけたとしても、結果は受け止める側如何であり、それは他者の世界に属してしまうのだ。
このように、筆者はこの世の仕組みを、ブラックホールが点在する関係性の場として描いている。
しかしあくまで、世界とその中心である「身体」は個々のブラックホールというレヴェルを超えない。読んでみた感想としては、浅田彰『構造と力』(→2004.3.21)のときと同様に、
自分の拙い脳ミソでは反論のしようのないレヴェルで話が進められている、ということだ。
社会学を勉強すると、「個人が集まって社会をつくっているが、単純に Σ個人=社会 ではない」という問題に直面する。
で、それをうまく解決できず、切り口をさまざまに設定して描写することでなんとかやりくりしていくのが一般的なスタイルだ。
この本は社会を関係の場(記号空間)とすることで、そんな従来の姿勢に真っ向から挑戦し、見事に成果をあげている。
これは数学や物理のセンスによる、自然科学のパラダイムシフトに対する社会科学のパラダイムシフトの実践と言えそうだ。
だけど筆者は、そういった新しい社会学のスタートラインをきっちり引くことしかしていない。
そこから何を描くのかについては、完全に読者の側に任せられているのだ。
読んでしまった側の責任は、けっこう重い。
もう11月になってしまった。
時間が経つのが早いというより、しっかりと毎週毎週の違いをかみ締められないまま過ぎていくのが悔しい。
かつては(学生時代は)、確かに毎週毎週が違っていて、それをきちんと認識してはいるんだけど、
でも振り返ると「標準的な日常のパターン」に収斂してしまうということが悔しかった。
しかし今は、毎週毎週の違いを理解するというレベルすら覚束ないのだ。現在進行形が同じルーチンに見えている。
あまりのスピード感に目がくらんでいる。解決策は、流される度胸を持つことなのかもしれない。