部屋の片付けを継続中(→2004.7.23/2004.7.28)。
正体不明のビデオテープ(と書くと怪しいが)が何本か転がっていたので、中身を確認してみることに。
2本ほど、本来なら潤平が所有しているはずのボキャ天やらK-1やらが見つかる。
あとは1999年の復活したウルトラクイズ。ハワイとニューヨークしか見どころのないアレ。そして、あの伝説の番組、『よいこっち』が延々と録画されたテープも見つけた。国立時代に録ったものだ。
懐かしく思ってずーっと再生していたのだが、見ているうちにだんだん呼吸が荒くなってくる。
じっと見ていると、とにかく疲れるのだ。身体というよりも頭が疲れる。あまりにめちゃくちゃで混乱してくる。
今は亡きマッスル北村が「モーニング娘。は……、どこで拾ってきたん~~~ダァー!」と叫ぶ。時代を感じる。『よいこっち』が最終回を迎えると、今度は後番組の『へなちょこパンチ』がスタート。
これは僕が初めて「山口もえ」という存在を知った番組でもある。あそこまで有名になるとは夢にも思わなかった。
そしてこれがまた疲れる内容の番組。プリンス・トンガの「へなちょこリミックス」は、いま聴いても秀逸なのだが。最後にはHQSの先輩・めりこみさんが出演した『アタック25』と、マサルが映っていた『ラドルヤ』の最終回。
こいつはスゲエ一本だ。次に見るのはいつになるかわからないが、大切に棚に戻しておいたのであった。
今シーズンの古田がすごい。すごすぎる。
プロ野球選手会会長としての仕事も立派だが、それ以上に立派なのが成績。
39歳になる選手が、堂々と首位打者争いの中心にいる。
本塁打も30本いくんじゃないかって勢いだし、通算2000本安打も射程圏内。おそろしい。
野球がわかる人に会うたびに、「やべえよ、古田やべえよ」と言い続けている。
世の中にはすごい人がいるもんだよなあ、なんて毎日呆れて新聞を読んでいるのである。
あまりに確認テストの成績が悪いので、新たに罰ゲームを導入しようかと考えている。
それは「母をたたえる3分間スピーチ」というもので、その名のとおり3分間、自分の母を褒めちぎり続けるというものだ。
ただし、これにはルールがあり、すべてのセンテンスを「ぼくのママンは……」という言葉で始めないといけない。
これなら中学生男子はマジメに勉強せざるをえないはずだ。クレームも来ないだろうし。
われながら、なかなかいいアイデアを思いついたもんだ。ヒッヒッヒ。
部屋の片付けを進行中(開始当初の様子はこちら →2004.7.23)。
頭の中では完成図とまでは言わないが、片付け後のイメージがしっかりとできている。
片付け途中の散らかり具合がイメージから遠ざかっていればいるほど、逆に燃えるのである。
カオス状態から一気にイメージどおりにまとまる瞬間が楽しみで、作業を続ける。
友人のワカメから、カチカチ山の話を聞いた。童話ではなく、太宰治が『御伽草子』で書いたカチカチ山だ。
なんでもそこに出てくる狸は40近い男で、兎は16歳の女の子(アルテミス型)なのだそうだ。
狸は兎に惚れていて、兎のやることなすことをなんでも好意的に解釈して喜んでいる。
でも兎は相手の気を引くようなことをするくせに、残酷で無慈悲な行動ばかり。最後はやっぱり狸が殺される。
狸の最期の言葉は、「惚れたが悪いか。」
それに対して兎は、狸が沈んだところで「おお、ひどい汗。」
太宰は(たぶん自分の経験もふまえつつ)男は誰でも心の中に狸がいるし、女の心には兎がいる、と書く。まあ要するに、塾講師は気をつけろ、という話だ。きゃー
なんとなく、「終わる」感触がする。僕の好きだったものたちが、ことごとく「終わっていく」感触がするのだ。
まずはモーニング娘。だ。かつてあれだけみんなで盛り上がれたという事実が信じられない。
こっちのせいなのか、あっちのせいなのか、ともかく、猛スピードで遠ざかっている。次に、プロ野球。中3のときからずっと興味を持ってきたのだが、シーズン中のこの騒ぎに、嫌気がさしてきた。
来シーズンが無事に始まる気がしない。このまますべて終わってしまうんじゃないか、という予感すらする。最後に、世界一団。第1期活動終了ということで、今まで確実に楽しめた娯楽がこれからは減ってしまう。
ビデオを見返して演劇を観た気になってとりあえず満足するなんて、悲しすぎる。ここまで見事に「終わる」感触が続くと、もうどうでもよくなってくる。次の時代はもうそこに来ているのか?
中1相手に少々ハイテンションな授業をやっていたら、「将軍様」「総書記」などと呼ばれた。コノヤロウ。
夏期講習、4時間ぶっ通しの授業はマジきつい。でもそれを乗り切るためにか、脳みそは勝手にハイになる。もうノリノリ。
部屋の片付けをやっている。
本棚を見ればその人の頭の中がだいたい把握できるとは言うが、部屋はもっと直接的だと思う。
僕の部屋はあまりに物が多すぎるように、突然、見えた。それで片付けをスタートしたのだ。まずは、見えないところから片付けていく。物置の中にあるものを、どんどん捨てていく。
だから表面的には全然片付けているように見えない。むしろ散らかっていく。でも構わない。物置がスカスカになったら、次は本棚。「将来読み返す機会のある可能性30%」未満の本は捨てる。
本は重い。アパートの門まで出しに行き、部屋に戻ると身体が軽くなった感じがする。
ゴミ袋いっぱいに古くなった物が詰められていく。そしてその分、僕の身体が軽くなる。高校時代に書き残した物もガンガン捨てていく。
そうして、恥ずかしい記憶が次から次へと闇に葬られていく。いい気味だ、とひとりほくそ笑む。引越しのことを考えるのがいちばんリアリティのある説明になるのだが、片付けとは、身体と記憶を軽くすることだ。
自分についてまわるすべての物(過去も、未来も)を軽くシェイプしていくことこそが、片付けなのだ。
ゴミを出すたび、僕の心と身体はどんどん軽くなっていく。そしてそのことに、浮遊感に近い快感を覚える。
そして、その先にあるのは自由だ。必要な物と不要な物を選り分けることで、どんどん身軽になっていける。
夏期講習がスタート。といっても、昼間にプリントをつくる生活は変わらない。
授業中にやる小テストをバリバリつくっていく。特に熟語は今回の大きな課題。気合を入れてつくる。
しかし途中でバカ例文をつくるのが楽しくなってしまい、よけいに時間がかかる。
でもふつうにやってもつくっているこっちが面白くないわけで、ウンウンうなりながらつくる。
わかっちゃいるけどやめられない。
塾で保護者との個別面談。本日は、朝の9時からほとんど切れ目なく続くというかなりのハードスケジュール。
午前の部が終わると、用意してもらった弁当をかっ込んで、午後の面談に臨む。
しかしながら僕は燃費が悪いので、夕方になるとかなりガス欠気味になる。
18時を過ぎると気力だけでやりとりをしている状態に。二、三度、気が遠くなりかける。
すべての予定が終わったのは、21時。単純に考えても12時間。こんなの初めてだ。
家に帰ってメシを食い、倒れるように寝た、はず。面談が終わってからの記憶はほとんど残っていなかった。
『世界一団の博物館』のビデオを見る。
初めて観たとき(→2003.8.22)と印象がまったくいっしょだった。一言で言えば、「なんだか、納得がいかない」。
きっとこれから、何度も見返すことになるのだろうと思う。そしてそのたび、ちがう印象を深めていくのだと思う。
この演劇が、そういうことができる作品なのは確かだ。それにしても落ち着いて見ていると、その選曲センスの素晴らしさに圧倒される。
世界一団の選曲センスは観に行くたびにどんどんよくなっていくなあと思っていたのだけど、
この『博物館』で頂点を迎えたように思う。すべてのピースがぴったりはまっている、どころのデキではない。
だってピースの継ぎ目さえも見えないくらいのカンペキさなんだから。
頭の中ではまったく考えていないことを、口が勝手に言い間違えている瞬間はないだろうか。
困ったことに自分にはよくある。ドトールで間違ったミラノサンドを注文して、後で気づくことが本当によくあるのだ。その症状は塾でも容赦なく出てくる。「daughterを漢字で書けるかー?」と口走っていたらしい。
ホントはもちろん、「daughterをミスなく書けるかー?」と言うつもりだったのだ。「漢字で」なんて……恐ろしい。
オレは老後どうなっちゃうんだろう……と心配はするんだけど、よく考えたら子どものころからのクセなので、
まあそんなに深刻になることでもないような気もする。自覚症状あるしね。
えんどコイチ『ついでにとんちんかん』が文庫化されたので、速攻で買う。
読んでみると傑作選というカタチなのか、ずいぶんと内容が減らされていてすごく残念。
いちばん脂の乗っていた時期(ずばり、タカハシさんが担当の時期)がかなりはずされているみたいだ。
理由は最後の作者コメントで書かれているけど、僕はそれでも収録してほしかった。それにしても『とんちんかん』は、抜作と天地くんを発明しただけでも“勝ち”だったと思う。
特に抜作の単純明快さがいい。誰にでも書けるキャラクターというのは本当に大きな武器だ。
それに対して天地くんは、どの学校にもひとりはいそうなバカ面をうまくディフォルメしていた。
当時のジャンプの勢いを思い出しつつ、のんびりとギャグを堪能する。
塾で保護者との個別面談。人と会ってマジメに話をするのは本当に疲れることだ。
15分ごとの面談が各クラスの人数分続く。ボディブローのようにゆっくり確実に体力を削られていく感覚がする。
毎回、授業が終わるたびにヘトヘトになるのだが、面談はやはりそれ以上に疲れる。
フラフラになって自転車こいで帰る。
今さら『アルジャーノンに花束を』を読む。
「あなたはどうやってこの物語を書いたのですか?」とアイザック=アシモフに訊かれて、
ダニエル=キイスは「こっちが教えてもらいたいくらいですよ!」と答えたというのは有名な話だ。
俗な表現になるが、明らかに作者がキレている作品だ。ストーリーと作者が格闘した痕跡をなぞる快感。メインテーマである知能と優しさについては特に語る必要はないだろう。
すべては冒頭のプラトンの言葉に集約されている。それは永遠に人間にまとわりつく課題だと僕は考えている。
(そして、今後しばらく僕が直面していく問題を先んじてカタチにされた悔しさと憧れを同時におぼえる。)どちらかというと、ストーリーの記述方法や展開について語ってみたい。
翻訳者の努力が冒頭からしばらく続く。異論はない。すばらしいアイデアだと素直に思う。
主人公の知能が高くなるにつれ、回想が登場する。それは一人称から解き放たれた三人称の獲得とも言えるだろう。
三人称が一人称よりも優れている、なんて言う気はさらさらない。どちらも本質的には等しい行為だから。
ただ、他者になりかわる能力(他者の思考を演じよう、他者の思惑を理解しようという意欲)として三人称を考えた場合、
この作品は三人称の限界(それが知能と優しさというテーマそのもの!)を柔らかく示したものだと読みとれる。
自分は高い知能によってより高い視点を得た、という錯覚を突き崩す可能性を秘めている。おそらくは、衝撃的な(そして巧妙に組み立てられた)ラストがこの作品を世間一般において名作たらしめていると思う。
だが、別の視点から見ても、この作品は一貫したテーマをすべてにおいて実現した、本当に質の高い作品なのだ。
セ・リーグ5球団が2リーグ制維持を表明したところで、この件について考える。
10球団で1リーグ、というアイデアには反対だ。特に1992年の日本シリーズで野球に狂った人間としては。
ただ、1リーグというのも実際にやってみれば案外ステキなのかもしれない。やってみないとわからないのは確かだ。
それでも僕はリスクを負ってまでチャレンジする必要はないと考える。野球の2リーグ制は、かなり完成されていると思う。
根本的な問題は、その手続きにある。オリックスと近鉄の来期からの合併を、今の時期に発表する。非常識だ。
ファンが関われば民主的とは決して思わないが、オーナーのみの会議では手続き自体が正統性を持たないだろう。むかし、ホントに小さいころ、僕には阪急と近鉄の区別がつかない時期があった。
どっちも鉄道が親会社で、名前が「ブ」で始まる、ユニフォームが赤と黒(紺)、関西。違いがわからない子どもだった。
地名ならまだしも、企業名ではお手上げ。西宮球場と藤井寺球場だって、ナイターだったらほとんど一緒に見えた。
メジャーリーグならユニフォームは色鮮やかだし、球場だって一目瞭然な特徴が多い。つまり、個性が子どもでもわかる。
もともと似たような球団をくっつけてひとつにしたところで、目新しさなんて何もない。地味が染み付いている。
そんな5球団でチマチマやっていても、むしろパ・リーグはよけいに人気をしぼませるだけだろう。
解決法はひとつだけ。思わず目移りしちゃうような選択肢をたくさん用意することだろう?あと、今のうちに発言しておくけど、僕はアテネ五輪の野球日本代表を一切支持しない。むしろ、アンチ。
理由は簡単で、アマチュア選手がいないからだ。プロ選手だけで代表を構成するなんて、恥知らずもはなはだしい。
五輪で活躍するアマチュア選手を見ることこそが、将来のプロ野球への豊かな視線を養うはずだ。
渡辺俊介(現ロッテ)が紺色のユニフォームで投げる姿を見て、僕はその後のプロ野球をまた少し好きになることができた。
試合に勝つことなんて、次の試合を見に来る客を増やすことよりずっとたやすい。大切なのはどっちに払われる努力だ?
『カリキュラマシーン』(→2003.11.5/2004.6.26)のDVDをぜんぶ見終わった。
僕が子どものころには、ここまでハートを激しくかき混ぜるような幼児番組は存在しただろうか?
……残念ながら、なかった。『セサミストリート(英語メイン時代)』(→2002.5.19/2004.3.11)、
『ウゴウゴルーガ』、『ピタゴラスイッチ』(→2003.9.16)。思い浮かぶキレてた(る)幼児番組はすべて、
僕が一番幼児番組を欲しかった時代には存在していなかった。
尊敬できる幼児番組をリアルタイムで体験・共有できなかったという事実は、ちょっと悲しいことだと思う。強いて言うなら、僕にとって理想の幼児番組は『アメリカ横断ウルトラクイズ』(→2003.11.11)だった。
全然幼児番組じゃないよ、と言われそうだが、僕はそれで育った。良くも悪くも。
臨時で頼まれて、小6公立クラスの算数をみる。速さ・単位の換算が見事にできない。
これはもう、頭だけで考えてできるヤツなんてほとんどいないから、とにかく手を動かすことから始めないとダメ。
手で計算・思考の記録を残しながら数字を変化させていかないと、この類の問題は絶対に混乱する。
勉強のできない人はたいてい、手を動かすことを面倒くさがるわけで、このクラスもご多分に漏れずそう。
「手ェ動かせー!」と絶叫しているうちに授業は終わった。疲れた。
演劇関係で金が飛んでいく。でも是が非でも観たいやつだからしょうがない。でもおかげで生活費が苦しい。
ふと、昔に社会の時間で勉強した「最低限度の文化的な生活」とはなんなんだろう、と考える。
削ろうと思えば削られる、でも削ったら確実に日常生活がしぼんでいく。そう思うと「最低限度」のハードルが非常に難しい。
自治体の福祉や教育に対する予算も、似たようなものかもしれない。
カタチにならないものは、どこまでいっても満足できない。結局は不満と満足の均衡点を探るしかないのだろう。
ドリフのDVD『8時だョ! 全員集合』を買っておいたので、見てみる。
『8時だョ! 全員集合』のリアルタイムの記憶は、今でも片隅にこびりついている。
僕の小さい頃の記憶は、幾何学的な図形に象徴されることが多い。
2歳のとき住んでいた東陽町のマンションも、床のタイルの模様がすべてだった。円形に並んだタイルと7という数字が。
で、『8時だョ! 全員集合』については、正方形の一辺と同じ半径の扇形を交差させた模様が象徴している。
円周率を勉強したときに面積を求めさせられるあの図形。正方形の対角線上に、斜めに置かれた凸レンズのような形。
舞台がコントから変わるたび、懐かしい模様が目に入る。なんともいえない気分がよみがえる。肝心のコントは、見ているうちに、ある種の決まった型が存在するのがわかってくる。
いかりや長介という権威(=社会性)を、志村けんという「(社会の)外側」の存在が突き崩してみせる、という構図だ。
たまに加藤茶が志村と組んでその“コード”をはずしにかかるが、社会のコードから本質的に「はずれている」のは志村だけ。
加藤はその点、機を見るに敏なだけであり、お調子者なだけなのだ。すばやく社会の側に戻って、残った志村を笑う。
つまり、ドリフが属しているのは、日本における古典的な笑いだ。家父長的な制度=日本の社会性をいかりやが体現し、
志村が見世物的にそれを崩して笑いをとる。社会と反社会的存在のいたちごっこが、ドリフの本質なのだ。
当時は舞台で演じているのを生放送していたが、それはテレビが共時的な空間として成立していた時代の最後の名残だ。
そんな社会学的な視点からも、この『8時だョ! 全員集合』は楽しむことができる。純粋に当時の視聴者と同じ感覚で楽しむなら、とんでもなく金がかかったセットでアイデアが実現されている点に目がいく。
生の舞台、生中継であるにもかかわらず、やたらめったら水が流れ出てくるのだ。命を懸けている、といっていいくらい。
本来避けるべきリスクを、あえて積極的にとっていく姿勢がすさまじい。観客と視聴者をしっかりと楽しませつつも、
実は一番、キャストとスタッフが楽しんでいる。予想を裏切る楽しみと、裏切られる楽しみの同居。
笑いの基本が詰め込まれている、という点で、非常に貴重な資料。これは学ぶべき古典だ。
何もしないで過ごす。休みのありがたみをゆっくりと感じる。
塾と面接のダブルパンチが終わった安心感は、言葉では表しようがない。本当に、本当に久しぶりの、心からの安堵。
来年からお世話になる会社で内定者の集まりがあった。
内容としては単純に、話を聞いて昼飯食って帰るだけ。自分を入れて内定者が5人。全社員で50人ほどなのに、5人。
まあ同期が多いのは楽しいことなので、最大限に喜んでおく。少ないよりは、ずっといい。
来年からよろしくです、なんてちょっとよそよそしくてほほえましい挨拶を交わしつつ、解散。
きたるべき夏期講習に向けて、ひたすらプリントづくりを進める。何時間もじーっと座って、
MP3をランダムで再生してお仕事。もう塾が完全に生活の中心にきているなあ、と思いつつ、キーをたたく。
某会社の面接。書類選考で絞ったのか、いきなり取締役クラス。1対1。
しかしその内容は圧迫とはいかないまでも、こちらに対して非常に失礼な感触。なんとかこらえる。ムカついた気分のままで塾に行く。平静を装って授業と恒例の補習を済ませる。
中3コンビといろいろ話をしているうちに、なんとか救われた気分になる。
修論のときもそうだったが(→2003.8.17)、塾のおかげで助けられている部分は半端でなく大きい。素直に感謝。
野田秀樹の講演会が東工大社会工学科棟のホールであったので、行ってみた。
ホール内は満席。隅っこに空席をやっと見つけて、座る。飄々と野田氏は登場。昨日海外から戻ってきたばかりなんだそうだ。
演題はあってないようなものだったので、大学入学から遊眠社初期のことをつらつら語っていく。
途中で宇宙空間の演技など、『野獣降臨』(→2003.11.14)でやっていたことがちらほら出てきた。ざっくばらんな雰囲気・内容だったが、印象に残ったのは生来のプロ根性と、観客との関係の話。
特に観客との関係については、個々のレベルでは「このおばちゃん大丈夫かよ」と思っても、
それがマスのレベルになると、良い/悪いという(こちらへの)評価が確かになる、というのだ。
さらに、同じ空間で同じ体験を共有する感動があまりに素晴らしくてやめられないのだ、と彼は言った。
道を極めた人が確信を持って語っているのがわかった。大いに刺激を受けた。講演が終わって、「とにかくがんばるぞー!」という気になって、そのまま塾に直行。
EURO2004の決勝戦。ギリシャが優勝するなんて、地球上の誰も予想していなかっただろう。
専門家がやれフランスだ、やれイタリアだ、と言っていたのをみると、なんだかホッとするというか、気が楽になる。
個人的にはオレンジ色の鮮やかなオランダ代表が気になってきているんだが、ダーヴィッツ以外よくわからんという状況。
どの試合も見事だったし、これを機にサッカーというものをきちんと勉強してみようと思った。それにしても、フランス戦でギリシャの選手がCKからヘディングを決めたあの動きが、まだ残像として目に焼きついている。
完全に彼は空中で止まっていた。明らかにあの一瞬、重力から別の次元にいた。そしてゴールを決めた。
ああいう動きを人間ができる、というのがわかってうれしい。自分にはできっこないけど、でもうれしい。
『機動戦士Zガンダム』を2日で見るプロジェクト、後半。
「ゼータは根暗」という話はどっかで聞いていたが、確かに根暗だった。
ラストに近づくにつれてバタバタ人が死んでいくし、重たい痛みを抱えた頭では納得いかないことも多々。
とりあえず内容を要約すると、カミーユがコロニーから宇宙に出て、地球に下りてあちこち移動して、
なんとか宇宙に戻ってシロッコと戦っておかしくなっちゃう話、というところか。
あとは女性キャラが次から次へと出てきて「ときメモじゃん」と思った。
ロザミアのブラコンぶりがなんとも狙いすぎで本気で引いた。印象に残ったのはそんくらい。
『機動戦士Zガンダム』を2日で見るプロジェクト、前半。
思えばゼータのガンプラは本当に狂ったようにつくりまくった。本当に。
でも肝心の話の方はてんで覚えていない状況だったので、なんとなく見てみようと考えたわけだ。ビデオ8巻分、15時間ほどぶっ通しで見たら本気で気持ち悪くなった。
それでも誰がどうして裏切ったのかといった経緯はわかったので、まあ、よし。
気がつけば、なぜか塾の皆さんと一緒に飲んでいた。
なんとなく、「晩飯食いましょうよ」というところから、校長も遅れてやってきて、6人ほどで飲んでいた。
話題はやはり、生徒の成績の話。どんなに別の話をしていても、結局はどうしてもこの話になってしまう。
皆さん本当にマジメだ。ギリギリ最後のところでどうしてもマジメだ。そういえば、塾のメンツで以前飲んだときに、同僚の先生(同い歳だがキャリアは僕より2年上、東大法学部卒)から
「マツシマ先生は別のことしてても最終的には教育に戻る人、そういう匂いがするんですよね」
と言われた。それは僕もうすうす感じていることで、さすがに見抜かれているなあ、と思った。
互いにあるラインは踏み越えないようにして、でもそこから観察しあう。もちろん、踏み込む踏み込まないは自由。
そんなふうに相手を尊重しあって過ごしている。そして、職人根性。居心地の良さ。信頼関係。リスペクト。
ずっと研究室にいたら絶対に体験できなかったバランス感覚だと、心底感謝した。
ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』をようやく読み終えた。
あまりに内容が抽象的というか話題が飛ぶので、1日15ページずつという進度だったのだが、なんとか読みきる。酔っ払って書いたんじゃないかと思うくらい話が前後するうえに飛ぶのだが、それはつまりヒント集として扱えばいいのだ。
そう考えれば、なかなか示唆に富んでいる内容が多かった、と言えなくもないように思う。
個人的に考えている部分とマッチして一番シビレたのが、「ひとつの性が存在するのでもなければ、
二つの性が存在するのでさえもない。そうではなくて、n……個の性が存在するのだ。」という部分。
ここはかなりステキなヒントなのではないか。一度読んでしまえば、二度目以降はだいぶ楽になるはず。とりあえず、それだけでヨシとする。