diary 2006.1.

diary 2006.2.


2006.1.31 (Tue.)

ティム=バートン監督でジョニー=デップ主演の『シザーハンズ』。なんとなく借りて見てみた。

いかにもな郊外の住宅地の近所に、なぜか幽霊屋敷がある。
そこに化粧品のセールスをしているペグが行ってみると、両手がハサミの人造人間・エドワードが隠れ住んでいた。
エドワードはペグの家で暮らすうち、ハサミで庭の植木や髪の毛を芸術的に刈り込む技術を披露するようになる。
そうして街での生活になじんでいこうとする中、誤解に誤解が重なっていき、やがて悲劇が訪れる、と。

メイクによる影響なのだが、エドワードの表情がわかりやすくマンガ風になっているので、
ふつうの娯楽映画よりもさらになんとなく「つくられた話」っていう印象を受ける。
それはオープニングからしてそうで、つまり現代を舞台におとぎ話をやりきっているわけなのだ。

話としては、まあなるほどね、可もなく不可もないなあ、といったところ。本当に平均的な作品という印象。
ただ、続編も何もつくりようがなくって、これ以上話が続きようがない作品というのは、少し珍しい感じがしなくもない。


2006.1.30 (Mon.)

地獄の4連発に引き続いて、休む暇もなく次の課題が与えられた。
現代数学に至る系譜を振り返る本で、TeX(「テフ」と読む。正式には「TEX」と書いて「E」だけ下にずらす)で組む。
こちとら20代後半にもなってタグも打てない原始人なので、話を聞くだけで眩暈がしてくる。
とりあえず、詳しい先輩(年下)に基本的な準備をぜんぶやってもらった。しかも雛型までつくってもらった。
おかげで、いつもの調子で画面上で文章のミスをつぶしながらいろいろと覚えることができる仕組みになった。
まあ何事も経験なので、いつもどおりに試行錯誤をしながら慣れていくことにする。

帰りに渋谷に寄って、光デジタルのケーブルを買う。ぼちぼち新調した方が良さそうな気配がしたので。

買い物が終わって帰ろうと思ったのだが、なんとなくこのまま帰るのがつまらない。
かといって東急ハンズも閉まる時間だし、夜の渋谷はやることがない(つまんないくらい健全な渋谷しか知らない)。
なんだかなあ、と思って気まぐれに東横線に乗って帰ろうと東口に出てみたら、いいものを発見した。バスである。
前にcirco氏が上京したとき、洗足駅からバスで渋谷に出てみたら非常に面白かったと言っていたのだが、
それを思い出し、じゃあ今日はバスで帰ってみようか、と思いついたわけだ。

迷うことなく列に並んで、乗り込もうとした瞬間に頭の中が真っ白になる。……料金の払い方がわからない。
路線バス慣れしている人ならなんでもないことなのだが、僕は地元にいるときからバスにまったく乗ったことがない。
つくばに行ったときには乗客を観察していても払い方がわからなくて、それで多めに払って降りたくらいなのだ。
頭をフル回転させて、あらん限りの路線バスの記憶をさぐる。

小学生くらいのころ、乗り込む際に数字が印字された紙を取り、目的地でそれと一緒に料金を払って降りた記憶がある。
数字は乗った停留所を意味していて、それによっていくら払えばいいかがフロントガラスの上に表示される仕組みだっけ。
でも僕がこれから乗ろうとしている洗足駅行きは先払いだ。つーかここが出発地だし。数字の紙なんてないし。ピンチ。
早稲田を受けたときには……あれは大隈講堂から新宿に出る特別便だったから、参考にならない。ピンチ。
去年の7月、地震の日にcirco氏と品川駅に行ったけど……あのときはcirco氏が2人分払ったから覚えてない。ピンチ。
ああ、そういえば去年の3月、戸田の倉庫でひたすら本を運んでいたのだが、雨の日には帰りにバスに乗った。
料金を支払う箱の横に両替機がついていて、それで小銭に崩して支払った記憶がある。よっしゃ、それだ!

で、「いざ両替!」と思ってバスに乗り込んでみると……両替機がない。
オレの28年間の経験ってこんなものだったのかーと途方に暮れていたら、運転手が一言、「お釣りが出ますから」。
……バスは着実に進化していたようだ。

洗足までの道のりは、まず並木橋から代官山を経由し、駒沢通りに出て目黒区役所を抜け、
そこから目黒区の住宅街を突き進み、最後は武蔵小山に行くと見せかけて右折、というルートだ。
個人的には並木橋から代官山というのがすごく新鮮だった。いつも自転車では恵比寿経由で渋谷に出るから。
慣れている道のお馴染みの風景からちょっと奥にはそれとはまったく別の風景があって、
いつもそっちの可能性をつぶして決まりきったパターンにはまっている、ということが少し悔しく思えた。
それから、駒沢通りの広さと目黒区内の住宅街における道の狭さとのギャップがなかなかすばらしい。
特に目黒区内ではグネグネ曲がって、方向感覚が狂ってしまうこと請け合い。
ルートの選択に「わかりやすさ」を優先する通行人と地元住民とでは、利便性の基準が違うのだ。面白い。

後日渋谷から洗足まで同じルートを自転車で、昼間に帰ったのだが、正直ちょっと迷った。
そしてバスに乗っていたときにはただの新築マンションだと思っていたのが、実は旧目黒区役所跡地だったと知って、
非常に驚いた(目黒区役所がまだ建っていたころに、聞き取りに行ったのだ →2002.9.18)。

あまりにグネグネなので少々車酔いしてしまったが、こうやっていかにも地元色の強い交通機関に触れるというのも、
なかなかに乙なものだ。意外な発見は近くに転がっているもんだなあ、とあらためて思ったのであった。


2006.1.29 (Sun.)

みうらじゅん原作で田口トモロヲ監督、『アイデン&ティティ』。

バンドブームの中でデビュー曲をヒットさせたロックバンド「SPEED WAY」のギター・中島が主人公。
しかしすぐにブームは去り、なかなか次の一手を打てないでいる状況。
デビューしたものの苦しい生活は変わらないし、やりたい音楽をやろうとしても世間の壁が厚い。
そんな状況でもがていると、中島だけに見えるロックの神様がやってきて、中島の部屋に居候をする。

わりと平凡な部類に入る話の展開だと思うのだが、決してつまらなく感じさせないのは、
主演の峯田和伸の魅力だろうか(調べてみたら自分とタメでなんかガックリ)。
逆を言うと、そうでなかったら恐ろしいデキになっていたように思える。主演に頼りきりの映画だ。

内容については「なるほど、青春だ。迫りくるモラトリアムの終焉(おなじみのテーマ)に対する不安が、
なかなか軽やかに描かれている点は好感が持てる」とかいろいろ言えるんだけど、個人的にはやはり結局、
そりゃあんなすばらしい彼女がいりゃいーだろーよ、なんだってできる気になれるだろーよ、というのが結論。
それしか言えることがない。


2006.1.28 (Sat.)

天気が良かったので、まだ本調子じゃないんだけど、自転車でのん気に二子玉川へ。
ニコタマというのに特に意味はなく、ちょうどいいくらいの距離だし、ベーグル食べられるし、という感覚。
でも行ってみるとやっぱり男ひとりのニコタマには見るべきものが何にもなくって、
高島屋はひととおり揃っているけどなんか物足りないし、東急ハンズの品揃えは貧弱だしで、
結局読書をしながらベーグルをかじり、土産にできたてのベーグルを選んで買って帰るお約束のパターンに。

帰ろうとしたらiPodのイヤホンからバリッ!という音が聞こえて、それきり動かなくなってしまった。
しばらくいろいろ操作してみたものの、結局ダメで、画面には「サッドiPod」が表示されてしまう。
家に届いてからちょうど1年と5日。保証期間をほぼぴったり過ぎたところでの見事な故障。泣きたい。

circo氏がまたしても上京。今回は風邪を引いてもいないのに、マスクをして登場。
なんでも僕がノロウイルスに感染しているのを知り、その対策なのだという。
マスクでウイルスが防げるんなら誰も風邪引かねーよ、そのマスクで泥水ろ過して飲んでみろ、と思ったけど、
僕はオトナなのでもちろん言うのはやめた。

話を聞くに、母も実家でノロっているらしい。潤平も牡蠣によるノロの真っ最中ということで、
circo氏はつまり、マツシマ家における最後の牙城となっているのである。というか牙城を気取っているのである。
もちろん経験者の僕からすれば、不公平とは解消されるべきものである。無駄な抵抗が醜くさえ見えるのである。
そもそもノロウイルスへの感染は不注意が引き起こすものではなく、これはもう運の問題なのだ。
そこはオトナの男として、ぜひとも堂々と達観していただきたいところなのだが、どうにも往生際が悪いんでやんの。

口のわりには行動が徹底していないのがなんともで、
僕がいつもラッパ飲みしているウーロン茶をなんの気なしにラッパ飲みしてみたり、
トイレを使ってもハンドソープで手を洗わなかったりと、まあ詰めが甘い。
ひとつひとつ指摘していったら、あきらめてようやく覚悟を決めたのであった。
還暦の男が覚悟を決めるわりにはちっちぇーなーと思ったのだが、それは明日はわが身、
きっと自分もいくつになってもちっちぇー覚悟で一進一退してるんだろうな、と思ったなぜか偉そうな休日の夜。


2006.1.27 (Fri.)

会社に復帰する。雑草についての本の校正作業をスタートする。

ジョン=ウェイン製作・主演、『拳銃無宿』。

J.ウェイン演じる西部の無法者・クワート=エヴァンスがクェーカー教徒の家で介抱されることから話は始まる。
まあだいたいお決まりのパターンで、一緒にいるうちに、そこの娘と相思相愛になる。
しかしやはり敵に命を狙われており、銃を捨てて娘と生きるか、敵を倒すかの決断を迫られる。

作品を見てから日記を書くまでかなり間隔が空いてしまっていることもあってか、正直あまり印象がない。
ひとつには登場人物、特に脇役があまり魅力的でなかったからだと思う。思い出せるだけの要素が少ないのだ。
また、これといってクセのあるというか、いい引っかかりのあるキャラクターがいないので、どうしても話は広がらない。
その分、銃を捨てるか、無法者として生き続けるかというテーマが強調されていると言えなくもないけど、
それなら主人公の今の状況と好対照になる人物が必要になると思う。ラストで重要になる役人はその点、不十分。

ネタバレになるけど、この話はガンマンをやめる男の話の標準形なのかもしれない。見事にコテコテである。
この日記で何度も書いているけど、西部劇はたいていの場合、結局社会に馴染めなくて、
一瞬の輝きを見せた後に永遠の苦難の旅へと踏み出していくその悲哀を描く作品が多いし、名作は特にそうだ。
それに対してこの作品は、「定番」に対する正反対の解決を提示している。その意欲は買いたい。
でも意地悪く言えば、それは非日常が日常に取り込まれていく最後の瞬間を描いているということであり、
その非日常も日常も描写がうすっぺらいわけで、どうにも「めでたしめでたし」以上の迫力が感じられないのだ。
非日常は放っておいてもドラマだし、もちろん日常にもドラマはいくらでも転がっている。
どういう立場から日常へと切り込んでいくかが曖昧なせいで、日常の退屈さの方に飲み込まれてしまった印象だ。


2006.1.26 (Thu.)

腹痛がいっこうに収まらないので思いきって会社を休む。病院に行って診てもらったところ、ノロウイルス感染症とのこと。
治りかけのところまできているので、とにかく脱水症状に気をつけるようにと言われたノロ。

家に帰って薬を飲んだらだいぶ具合がよくなったので、ネットでノロウイルスについて調べてみたノロ。
冬場によくある「下痢・腹痛を伴う風邪」とは、実はこのノロウイルスが原因なのだノロ。
牡蠣が原因の食中毒が最も典型的なパターンのようだが、それ以外の感染経路もあるノロ。
衛生的に気をつけるしか予防する方法がなく、かかったら症状が収まるのを待つしかないノロ。
そこまでひどい症状にはならないものの、いろいろと厄介なウイルスのようだノロ。

思えば小さいころには自家中毒にばかりなっていて、つらかった記憶がいまだにあるノロ。
そのときのつらさが久しぶりに戻ってきた感じがして、懐かしいっつーか困ったっつーか、そんな感じノロ。
なんにせよ、健康が一番だノロ。


2006.1.25 (Wed.)

まだまだ腹痛が続いている。ほぼ1時間ごとにトイレに行っている状態。
いつも風邪を引いた場合には、無理して食べて栄養つけて治す、というスタイルをとっているのだが、
それが上から下へまっすぐに出てしまうとなると、もうどうすればいいのかわからない。
まあ、昨日よりはコンディションが少しはマシで、17時までもっただけよかった、ってところ。
腹痛はすべてにおいてモチベーションを著しく下げるからきつい。


2006.1.24 (Tue.)

風邪を引いたのか、朝からなんだか腹が痛い。
いつもならカフェで読書をしつつ朝飯をいただくのだが、その気力がなかったので早めに会社に行って、
コンビニで買ったゼリータイプの食べ物をチューチュー吸って、あとは9時になるまで机に突っ伏していた。

昼になっても飯を食えるほどの元気がないので、薬局に行って薬を買い、
やっぱりゼリー的なものをチューチュー吸って机に突っ伏す。

午後になったらいよいよ気持ちが悪くなってきて、仕事が手につかない。
重要な仕事はなんとか午前中に終わって雑務をこなすだけの状態になっていたので、結局、早退させてもらった。
家に着いてから4時間ほど、倒れるように寝る。

むっくり起きて『Ns'あおい』を見て、また寝る。


2006.1.23 (Mon.)

ジェイムズ=エルロイ『ブラック・ダリア』。友人であるイヌ女史に薦められて読んだ。
「暗黒のLA四部作」の1作目、らしい(ほかには『LAコンフィデンシャル』などがあるそうだ)。

第2次大戦が終わった後のアメリカ、ロサンゼルスが舞台。市内の空き地で女性の惨殺死体が発見される。
彼女が黒い服をいつも着ていたことから、この事件は「ブラック・ダリア」事件と呼ばれるようになる。
そこに元ボクサーの警官が関わって捜査を進めていくが、事件はどんどん意外な展開を見せていく。

とにかく話が二転三転する。主要な登場人物までもがあーなったりこーなったりで、
読む側としてはあちこちに引きずり回されっぱなし。その辺はさすがミステリ、ということになるのかも。
それはつまり、この小説は捜査する側もあちこちに引きずり回された記録でもあるのだから、
主人公と一緒になって巨大な迷宮に放り込まれた感覚にさせるのは、作者の実力のなせるわざなのだ。
この文庫本の厚さはそのまま、社会(この場合は1940年代後半のロサンゼルス)の厚さである。
ひとつの殺人事件が一気にその厚みを突き抜けているのだけど、それはつまり、「意味のある厚さ」なのだ。
これだけたっぷりの描写があるから読者は世界観に十分入っていくことができるし、
そもそもこの描写がミステリであることの意義を支えている。そういう根本的なところがしっかりしているから、
残酷な事件で読んでて顔をしかめてしまうのだけれども、最後まで興味を持って読んでいける。

それにしても、海外の小説ってのは翻訳するかどうか判断する時点で選別があるからなのか、
日本の小説に比べると、そんなにハズレがないような気がする。
この『ブラック・ダリア』なんて他人から薦められなきゃ絶対に読まない種類の小説なのだが、
それでも読み終えて「うーん、金を出しただけのことはあったなあ」と思えたわけだから、
やっぱりレヴェルが安定しているというか、しっかりしているというか、そういう安心感がある。
逆に日本の小説が海外に翻訳されるという状況を考えると、なんだか壮大なことのように思えて、
想像しているだけで気が遠くなってくる。

どうでもいいが、「ゴキブリ」を意味する虫のことを「油虫」としているのはわざとなんだろうか。
個人的には「ゴキブリ」の方がしっくりくるので、そうしてくれた方がよかったなあ、というのが気になった点。


2006.1.22 (Sun.)

寝床のノートパソコン、今まではマウスだったのだが、ちょっと奮発してトラックボールにしてみた。
というのも、去年の沼モゲ(→2005.10.8)でバヒサシさんの部屋におじゃました際、バヒさんが使っているのを見て、
「ああ、これだわ」とひらめいてしまったからだ。腕を派手に動かさなくて済むからいいじゃないか、と。

で、いざ使ってみるとやっぱり寝床では圧倒的に便利。いちいちマウスを持ち上げて位置を修正する必要がないし、
ボールの転がり具合が悪くてイラつくこともない。強いて言うならデジカメの画像を加工するときは少し不便になった。
あと、この日記で日付のところだけフォントを変更するのも、ちょっと難しい。
つまり、細かくドラッグするという動きに弱点があるのだ。でも慣れてくれば苦にならなくなる予感がある。
それに、本当に細かい作業が要求される場合には、今まで使っていたマウスをつなげばいいだけの話だ。

人間、便利なものには弱いのだ。そして、だらけた環境を加速させるものには特に弱いのだ。
そんなことを実感しながら親指でボールを転がしているしだい。


2006.1.21 (Sat.)

とんでもない大雪の中、でも予約をしてあったので歯医者に行き、スリープスプリントの調整。
いつもなら余裕で自転車で行く距離なのだが、とてもじゃないがそんな気なんてしないので、当然電車。
家を出たらおなじみの環七がすっかり真っ白で、いつもなら汚れて灰色がかっているのでいーじゃんコレ、と思う。
駅に着いてもさすがに出歩いている人はほとんどいなくて、ひと気のなさがなんだか少し怖い。
核戦争後の灰の降る東京ってこんな印象なのかもしれない、なんてことをふと考えてみる。

虫歯の治療もあわせて軽くやってもらって、終わったら午後。腹が減った。
近くになんかあったっけ?と思った次の瞬間、ひらめいた。二郎の三田本店に行ってみよう!

まったくやむ気配のない大雪の中、行列は相変わらずで呆れた。最後尾に並んでiPodを再生しつつ待つ。
30分弱ほど突っ立って、ようやく番が来た。奥の席が空いたので店内に入る。本当に狭い。
絵に描いたように頑固そうというか個性むき出しの店主と、非常に溌剌としてソフトな物腰のアシスタント。
絶妙のコンビネーションで、かつ予想以上の大胆さ(かなり抑えた表現である)でラーメンがつくられる。
外の気温など関係なし。気合を入れて、脂の利いているスープから顔を出している太麺をいただく。
結論から言うと、ちょっと麺が柔らかかったかな、という印象。ともかく、三田本店もついに制覇した。

電車内にニンニクの匂いを漂わせて帰る。でも人が少なかったから問題ないのだ。

夜になって潤平が家にやってきた。なんでか知らんが、突然エルモのクッションをプレゼントされる。
まあエルモは大好きなので、ありがたく頂戴する。しかしなんでだ?

 エルモーぉぉぅ!

熱海ロマンをきちんと復活させたいねえ、という雑談を軽くする。
メンバー全員にその意志があるのはいいことだ。でもやるんなら、負担の少ない形にせざるをえない。
いろいろ試行錯誤していかないといけないな、とは思う。思ってはいるのだ、いちおう。
あと、2ndアルバムはマサルのキテレツな歌詞がある程度揃っている状態なので、ぜひ出したい、という話。
定期的にレコーディングをする機会が持てればいいのだが。とにかく、モチベーションが必要だ。


2006.1.20 (Fri.)

引き続き、大長編ドラえもんVol.2『のび太の宇宙開拓史』。映画は1981年公開。

さんざん書いているけど、『日本誕生』まではドラえもんという科学が切り込むから面白くって、
『アニマル惑星』以降はただのファンタジーになる、というのが僕の持論である。
で、この『宇宙開拓史』は2作目にしてそのファンタジー路線への布石になっているという点と、
ワープやら重力やら、SFや科学の素養がきちんと生きている点とが両方指摘できて、
大長編を語るうえでは非常に重要なポイントになる作品だと思う。

偶然空間がねじれてしまった影響で、のび太の部屋の床下がまったく別の星につながってしまう。
その星・コーヤコーヤ星の住人であるロップルくんと仲良くなる。が、コーヤコーヤ星は貴重な鉱石が採れるために、
住人たちが巨大企業のガルタイト鉱業からのしつこい嫌がらせを受けていた。
コーヤコーヤ星は地球よりも重力が小さいので、のび太はスーパーマンとして活躍。
そして住人たちのピンチを救うために立ち上がる。

この作品で、いよいよのび太が彼にしかできない方法で大活躍をする。
むしろのび太に活躍させるためにあつらえられたストーリーであるように思える。
通常の連載でものび太の特技は射撃とあやとりという設定が生きている話はあるが、
ここまで大々的にクローズアップされたことはないはずである。
『宇宙開拓史』のクライマックスを見ても、『のび太の恐竜』(→2006.1.20)の悪役のインディアンっぽいデザインを見ても、
どこか西部劇の影響があるように思う。藤子・F・不二雄は西部劇が好きだったりしたのだろうか。
西部劇へのオマージュを含みつつ、それをSFをベースに味付けして、主人公に最大限の活躍をさせる。
『のび太の恐竜』とはまた違った方向で、作者のやりたいことがはっきりと示されている作品、という印象。


2006.1.19 (Thu.)

ちびちびと大長編ドラえもんの単行本を集めている。
ここ10年ほどはすっかりどーでもいいやーって感じのファンタジーになってしまっているが、
『のび太の日本誕生』までは確実に楽しめる内容なので、そこまでは全巻集めようと思っている。
(ドラえもんという「科学」が地球や歴史に切り込んでいくという楽しみ。→2002.4.1
そんなわけで、読んでいった分だけレヴューを書いていってみたい。

大長編ドラえもんVol.1『のび太の恐竜』。映画の公開は1980年。
のび太が根性で見つけてきた卵をかえしたら、生まれたのはフタバスズキリュウだった。
「ピー助」と名づけてのび太は飼うが、人目につくためタイムマシンで結局過去に戻すことにする。
しかしピー助を狙う謎の男に襲われてタイムマシンが故障、のび太一行は白亜紀の世界を旅することになる。

さすがに第1作だけあって、地味というか、いつもの連載の延長線上にある印象。
しかし日常とはまったく異なる世界をドラえもんが道具と勇気を頼りに突き進んでいく構成は、すでに完成されている。
ある意味この作品は、連載されていたギャグの世界と年1回の冒険の世界をつなぐ絶妙の位置にいるわけで、
この『のび太の恐竜』がなかったら、連載と大長編が完全にパラレルな存在になってしまっていたかもしれない。
むしろ、これだけ完成度の高い作品が1作目にあったから、その後に自由な想像力がガンガン続いていったのだろう。
(調べてみたら、もともとは読み切りだった作品を、それから5年後に連載して長編にした、らしい。)

「恐竜」というテーマでスタートするのは、いかにも藤子・F・不二雄らしい趣味である。
(SFを「すこしふしぎ」と解釈してドラえもんなどの作品に反映させていたのは有名な話。
 でもそのSFは本来「science fiction」であり、やはり根底にあるのは科学なのだ。)
今でも『Newton』のような科学雑誌を見れば、年に1回は恐竜が出てくると思う。
かつて確かにあった、今とはまったく様相の異なっていた地球。ドラえもんという科学が現在と過去をつないでみせる。
子どもと同じ目線で、同じように純粋に興味を持ってテーマに接している。
そんなベースを舞台にして魅力的なキャラクターが動くわけだから、成功する要素だらけなのだ。

話としては、ドラえもん一行が守備的というか、受身に徹しているので、その点でも地味な印象が残る。
また、敵もわりとみみっちい(未来の金持ち・恐竜ハンター)ので正直、派手さに欠ける面がある。
でもそれだけに味があるというか、玄人好みというか、そういうじんわりとした魅力があるのだ。
骨の髄までドラ好きかどうかが試される名作、ということになるのかもしれない。


2006.1.18 (Wed.)

スリープスプリント(無呼吸対策のマウスピースね)をつけないと全然ダメだな!という話。
最近はつけて寝る状態に慣れていたので、うっかりつけ忘れてしまうと、翌日の朝、あまりの違いに驚くことがある。

まず、朝起きたときの体の軽さ/重さがまるで違う。
目覚ましが鳴って、しばらく布団の中でうにゃうにゃして、6時50分になるとベッドから降りる。
このときの体の軽さ/重さが、つけて寝たときと忘れたときとでは、本当にまったく違うのである。
つけて起きるとスイスイ動ける。でも忘れたときは、本人はがんばっているつもりでも、のそのそといった感じになる。
ふだんはスイスイに慣れているので、思うように体が動かないことに愕然とするのだ。

それから、記憶力にも差が出るような気がする。
なんだかんだ朝っぱらなのでそんなに頭が冴えているはずなどないのだが、
それでもつけたときはどんな経路を歩いてきたかぐらいは思い出せる。しかし忘れたときは、思い出す気すら起きない。
どこに何があったか、どんな人がいたか、街を歩く中で目にした光景を細かく記憶して後から早送りで再生できる、
というのが僕の脳みその得意技なのだが(いちばん冴えていたのが浪人時代。当時は一日を完全に再生できた)、
つけて寝たときとそうでないときとでは、かなり大きな差があると思う。

あとは日中の傾眠、いわゆる「居眠り」があるわけだけど、
これは正直なところ前日の夜更かしの有無も関係するのできちんと調べないとわからない。
ただ、つけて寝なかった翌日は、眠気のコントロールが非常に難しくなってくるのは確かだとは思う。

そんなわけで、つけないと身にしみるというネガティヴな実感で、効果がなんとなくわかってきた。
やっぱりやらないでいるよりは、いろいろ動いてみないといけないんだな、とあらためて痛感している。


2006.1.17 (Tue.)

前々から唱えている「島田紳助最強説」について、あらためてきちんと書いてみよう。

テレビ番組の司会者として、島田紳助は超売れっ子、引っぱりダコである。
どうしてそんなに人気があるのか考えているうちに、ひとつの真実にたどり着いたのである。
それは、島田紳助のトークは相手に敬意を払いつつ笑いの種にする、ということだ。
島田紳助は、並んでいるタレントたちにつねに気を配り、キャラクターを引き出すことで笑いを取る。
ここでこいつをもってくれば話が広がる、ということを丁寧に考えているのがわかる。
その姿はさながら絶妙のパスで試合をコントロールするサッカーのMFのようだ。

塾講師をやっていたときは、生徒にはただ勉強を教わるだけじゃなくって、やはり授業を楽しんでほしい、と思っていた。
自分の場合は特に、楽しい環境で勉強をするほうが身につくという考えがあるので、授業の進め方にかなり気をつかった。
積極的にからんでくるやつをイジるのは簡単だが、当然、中にはおとなしい生徒もいるわけで、
そういう連中を平等に関わらせて笑わせながら惹きつけていくというのが課題になってくるのである。

そこで、島田紳助のトークがめちゃくちゃ参考になるのだ。
生徒に不快感を与えない程度に勝手にキャラクターをつけて笑いの中に引き込んでいく。
そうすると生徒は強制的に、授業の中心に位置させられることになる。その生徒が主人公になるのである。
あんまり不名誉なキャラを喜ばない人もいるので、その場合には自分がそれより不名誉なボケを披露してオチをつける。
そうしてなるべく不快感を残さないようにする。授業が終わったときには、「授業に参加したぜ!」という感覚が残るはずだ。
そんなふうに、集団をいい雰囲気にコントロールしなければならない場合、
落ち着いて島田紳助の番組を見てみると、ものすごく勉強になるのである。
誰にも不快感を与えることなくゲストに笑いを取らせる技術がケタはずれに上手いのだ。

なお、同じ人気司会者として明石家さんまもいるが、さんまはそれほど参考にならない。
さんまの場合には、いかにして自分がゴールを決めるか、ということしか考えていないのだ。
周りにいる人間たちは、自分にとって話題を引き出すためのきっかけでしかない。
だから、誰とトークしても自分の話で終わる。そして、いちばん多いのは大竹しのぶとの離婚の話。たいていそれで締める。
だから僕はさんまのトークで笑ったためしがない。まったくない。あの話のどこが面白いのかいまだにわからない。
自分の場合にはどう応用できるのか、という視点で見た場合、さんまのトークはほとんど役に立たないのである。

そんなわけで、機会があったらじっくりと島田紳助のトークを観察してみてほしい。
日常生活への応用を考えた場合、目からウロコがボロボロ落ちるほど発見があるはずだ。


2006.1.16 (Mon.)

若林幹夫『都市のアレゴリー』。僕は大学時代に都市社会学のゼミに所属していて、
この本がゼミの課題本になりかけたことがあった。でも結局読まなかったので、あらためて読んでみることにした。

都市論の本ではあるものの、通読してみると、どちらかというと現代社会の方がターゲットになっているように思う。
都市や都市論という形あるものを扱うことで、筆者はそこから形の見えないもの――都市の本質、都市性、
そしてそれは現代社会をもたらす――を描き出そうとしているように見受けられる。……って、社会学ならそりゃ当然か。

数々の先行する研究・文献を引用していくことで、自分の見解を提示していくスタイルである。
読んでいて思ったのは、「当たり前のことしか書いてないじゃん」ということ。
われわれがいつもうっすらと感覚的に感じていることが、文献を参照しつつ述べられていくのだ。
でも落ち着いてよく考えると、その感覚的な「当たり前のこと」をわざわざ言葉にする機会など、僕らにはない。
それを丁寧に文章という形にしているのが、この本なのである。
地味だが、なかなかできないことをやってのけているという意味で、よくやった本だと思う。

大学時代に思ったことだが、理系の学者は未来を向いて立っていて、文系の学者は過去を向いて立っている。
理系での基礎研究が将来のテクノロジーの変化、ひいては社会の変化を生む。
それに対して文系での研究が、そういった変化の意味を考える。――かつて僕はそんなことを考えていた。
で、この本は後者、文系での研究として、一定の成果をわかりやすくまとめたものだと思う。
おそらく筆者はこの本を書いたことで大きな満足をしているだろう。確かに、それだけのデキだ。
でも、またもう一方で、じゃあこの本が未来に向けて何を生むのだ?という疑問も正直残る。
その答えはつねに現場にあるのだ。この本は現場から離れているからこそ凄みを持っているし、
またそれだけに欠けた要素も大きい。大学とか学問とか、それらの可能性と限界が見えてくる一冊、かもしれない。


2006.1.15 (Sun.)

メガネをはずした姿が常態化して以来、「モテそう」と言われる機会が増えた。
けれども、「モテそう」で終わってしまう。だから差し引き、状況はまったく変わっていない。
ゆえに問題は、モテそうかどうか、ということにあるのではなく、モテようとしているかどうか、ということにある。
モテようという意志を表面に出している人間にしか結果はついてこないということなのだ。
つまりは、がっつかないとダメだ、ということになるのだ。
しかしモテないのが染みついた人間には、正しいがっつき方がわからない。
そもそもがっつき方に正しい正しくないを考えている時点で、一歩出遅れている。
それに気づいたところで、じゃあいきなりがっつけますかというと、そんなに簡単にがっつけない。
結局、状況は変わらない。

何を当たり前のこと書いてんだ、と思った人はモテる人。そうなんだよねえ、と反省してしまった人はモテない人。
僕は当然、後者。


2006.1.14 (Sat.)

伝説の番組・『お笑いウルトラクイズ』のDVDを買ったので、ドキドキしながら見る。
前にビデオを借りてきて見たことはあったけど(→2003.11.12)、それがDVDになって手元にある、という状態にまず興奮。
部屋にひとりっきり、それはもうニヤニヤしながら画面にかじりつく。

内容は非常に丁寧に編集してあって、まずそれぞれの回について、優勝者に焦点を当てつつ総括する。
次いで反響の大きかったクイズ(クイズ……? いや、クイズでいいのだ)をオンエアと同じ状態で丸ごと収録という贅沢さ。
洗練されまくった「お約束」と奇跡のような素人いじりと芸人同士のシナジー効果で、僕はただ口を開けて見ていた。

この番組がオンエアされていた当時、僕はガチガチのクイズキッズで、毎年10月になると血圧が1ケタ上がる子どもだった。
なぜって、10月には『アメリカ横断ウルトラクイズ』が放送されるからだ。これがもう、小学生の僕には究極の娯楽で、
どれくらい狂っていたかを示す例は枚挙に暇がないし、それを逐一書き出すのは死ぬほど恥ずかしいので割愛する。
とにかくウルトラクイズのためなら死ねる、と本気で言い切れるくらいに大好きだったのである。

さてそんな中、ビートたけしが『お笑いウルトラクイズ』をやるってんで、僕は当然のごとくテレビの前に正座した。
ところが放送されたのはとてもクイズなどと呼べるシロモノではなく、芸人の芸人による芸人のためのオリンピックだったのだ。
開いた口が塞がらなかった。特に呆れたのが人間性クイズで、まったく理解できなかった(理解できる小学生がいたらイヤだ)。
だから第1回目の放送を見た時点で僕の『お笑いウルトラクイズ』に対する印象は最悪で、
「ウルトラクイズ」の名を騙って本家を貶めるんじゃねえ!とまで思っていたわけである。

しかし不思議なことに、我が家では毎回欠かすことなく、この特番を見たのである。
ウルトラクイズ親衛隊の僕も、いざこの番組が始まると、従順にきちんと最後まで見たのである。
そのうちだんだん正しい楽しみ方がわかってきて、素直にこの番組の凄みを受け止められるようになったのであった。
だからDVDを見ていると、当時この凄さをきちんと最初から受け止められなかったことが悔しく、また恥ずかしくなるのだ。

そしてもうひとつ思うのは、ガチガチのクイズキッズだった自分のような人間を笑うためにこの番組があったんじゃないか、
ってことだ。ご存知のように、本家の『ウルトラクイズ』では第13回あたりを境にクイズマニアはどんどん我が道を突き進み、
やがてそれは視聴者参加型のクイズ番組をほぼ壊滅させる状況を生み出すことになる。
(かといって第13回ウルトラを否定するつもりはまったくない。あれは最高のエンタテインメントだったといまだに思っている。
 問題は、クイズをテレビでやるからには、マニアな知識の凄みよりもショウとしての面白みを重視するべきだということを、
 まったく理解していない連中がいたことだ。HQSはショウを追求できたから、第9回一橋オープンを大成功させられた。)
で、『お笑いウルトラクイズ』は、そういうつまんない流れに対する超・正反対の位置にある「クイズ番組」だったと思うのだ。
テレビ番組なんてしょせんはお遊び、それなら芸人たちによる究極のお遊びをやってみせましょう、と。
まあそのターゲットというか舞台がたまたまクイズだったってわけで、それはむしろクイズ本来の持っている度量の広さが、
お笑い芸人たちにやりたい放題のフィールドを提供していた、と僕は考えたいのである。
要するに、「クイズは楽しいものだ」という事実を、お笑い芸人たちの手によって、ある意味で芸術まで高めてしまったのが、
『お笑いウルトラクイズ』だと僕は思っているのだ。もし、クイズでなく別の『お笑いウルトラ○○』だったとしたら?
……たぶんこれだけの奇跡的な内容にはなっていなかったんじゃないかと思うのである。

なんかムダにクイズ論が混じっちゃったけど、僕はあらためて、『お笑いウルトラクイズ』は奇跡の塊だと思う。
純粋に、実力のある芸人がたくさん集まって己の能力を最大限に発揮しているわけだから、それだけで十分。
むしろこの「クイズ」を楽しめるかどうかでギャグセンスのバロメーターになっちゃうほどの番組なのだ。
元クイズキッズとしては、それをきちんと味わうことのできる自分がいることにホッとするのである。あー幸せ。


2006.1.13 (Fri.)

電話が嫌いだ。

一番の被害者はたぶんマサルで、僕に電話をかけるたびに不機嫌な声を聞かされていたはずだ。
最近はそんなでもないと思うのだが、2~3年前まではかなりひどい状況だっただろう。
決して話し相手が嫌いなわけではなくて、電話で話している間に身体的な制限が加わることが嫌いだったのだ。
つまり、つねに片手は受話器を持っていないといけなくて、しかも耳を離すわけにいかない、
そういう不自然な姿勢を強要されながらもなおかつ、きちんと話さないといけないという状況が嫌いだったのだ。
結果、電話に出るたびに不機嫌な声になってしまい、皆さんにご迷惑をかけたように思う。

ふだんは話しやすいのに、電話になると急に話しづらくなる人がいる。
会話のときに丁寧に相手の話を聞こうとする人ほど、その傾向が強くなるように感じている。
具体名は挙げないけど、大学の先輩にそんな人がいて、そのふだんとの落差、話しづらさに驚いたことがある。
電話になった瞬間に、ノリだとか間合いだとかが急になくなってしまって、リズムがとりづらくなるのだ。
だいたい電話なんてそんなもの、と割り切れれば問題ないのかもしれないが、
あれ今なんか失礼な対応をしちゃったかな、とよけいなことを思ってしまって会話が固まってしまう。
その不自然な感触がひどく苦手で、これもまた電話嫌いの一因となっているのである。

携帯電話でのメールという手段が生まれてから、電話の意味合いは少し変化したと思う。
電話の場合、どうしても「声」という身体を思わせる要素が「重さ」へとつながる。
だから隠せない表情(正確にいうと口調・気配)を伴う電話は、敬遠されると同時に、特別さもまた獲得する。
そしてメールとちがって相手の時間を拘束することも、同じ方向で電話の意味合いを変化させている。

そんなわけで、今こそ電話の意義を見つめ直すときなのかもしれない。
電話が存在しているということを、僕らは生まれたときから当然のものとして受け止めている。
そんなメディアのことをよく知らないまま、上手く扱えないまま、メールやチャットという新しいメディアに手を伸ばしている。
まず電話からきちんと考えていかなきゃいけない、そんな気がする。


2006.1.12 (Thu.)

日記を更新する気が起きない……。
理由は簡単で、でもここに書くとトラブルの元になるから書けない。書く必要もないだろう。
そもそも、親しい人への生存報告と不快感を与えない文章の練習という目的でしかないのだから、
本来はそんなに真剣に日記を書くことなどないのだ。でも手が抜けない。だから書けない。困った。

最近、この日記について考えていることがある。
生存報告、不快感を与えない文章の練習に加えて、小説やDVDのレヴューを積極的に書くようになってきた。
これは、自分が何かを企んだときのための備忘録としての位置づけである。
何が参考になった、どこが参考になった、あるいは、つまらないものに接したときになぜ怒ったか、
そういったものをきちんとまとめておけば、困ることがないんじゃないかと考えたわけだ。
そして、以前の日記にも似たようなことを書いたときにはリンクを張るようになって、
そのリンクがあちこちに埋め込まれているのを見ているうちに、この日記が自分の脳みその再現に思えてきたのだ。
現実の身体としての脳みそを、ログという後追いの形で情報空間にコピーする行為、それがこの日記だ。
時間軸が一方通行の関係で、リンクは未来から過去にしか張れないけど、
それもある意味では正確に脳みそを造形していることになるんだろうから、よしとしよう。
そうやっていろいろやっているうちに、自分の構造が見えてきそうな気がしている。
で、最終的にはそれを踏み台にしてまた自分の枠を広げていきたい、なんて理想がある。

そんなびゅく仙のびゅく仙によるびゅく仙のための日記でしかないのだから、
もうちょっと軽い気分でポイポイ書いていくべきなのだ。他人の視線を気にしているわけでもなし。
しかし他人の視線を気にしないと何ごとにおいてもクオリティが落ちるのも、また確かなのだ。
そのバランスが非常に難しい。こういう難しさを楽しめるようになるには、いったいどれくらいの時間と努力が必要なんだろう。


2006.1.11 (Wed.)

友達には恵まれているんですよ、という話。

僕にはとりたてて能力があるわけでもなく、それでもまあなんとかやっていけているのは、友達のおかげであると思っている。
知ってのとおり僕はキツめの性格をしているので、わりと人と衝突することが多めの人生を歩んでいる(気がする)。
そんなわけでか僕と仲良くしてくれている人には、一言で簡単にまとめてしまえば、懐の深い人が多いように思う。
たとえば腹の立つことがあっても、ちょっとぐっとガマンをして、冷静に対処できるオトナが多いように思うのだ。
だから僕としては、僕には相手が必要だが、向こうからはどうなんだろう?という疑問がたまに頭に浮かんでくるので、
そのたびに自己嫌悪と「これじゃいかん!」という改悛の情とが猛スピードで体を駆けめぐるのである。
でも翌日にはすっかり忘れていつもどおりなので、困った根性が染みついたもんだ、と反省しているのである。

落ち着いてそんなことを考えられるようになったのがだいたい中2のときで、
以来なんとかして友達に「プラス」を返せるような人間にならねば、と四苦八苦している。
もらえるもんばかりもらっていて、ちっともお返ししていないんじゃないか、という強迫観念が抜けない。
たぶん「そんな努力したってお前には限度があるんだから、あんまり深く悩むな」とか友達は言ってくれるんだろう。
けれどもそういう努力をやめたらオシマイだ、という信念があるので、やっぱり考えないわけにはいかないのだ。
それが僕なりの誠意であるんだから、心配をさせない程度に適度に真剣に考えていきたい。

いきなりこういうことを日記に書くのは自分でも気持ち悪いんだけど、
でも、年に一度はそういう特別な日があってもいいだろう。


2006.1.10 (Tue.)

昨日の高校サッカーについて書いてみる。

今年の高校サッカーの決勝は、ガチガチに堅いサッカーの鹿児島実業と個人技で客席を沸かせる野洲という、
かなり対照的なチーム同士の組み合わせになった。一部では、今後の高校サッカーの方向性を決める戦い、
なんていう報道もされていて、詳しい人にとってはそうとう意義深い試合だったようだ。
ただ、僕は完全にドシロートなので、単純に「野洲のサッカーは面白いなあ」ってぐらいなスタンス。
下馬評では鹿実の堅実さの方が上、という見方が一般的だったようだ。それらの理由で野洲を応援しつつ見ていた。

野洲は後ろ向きでボールをもらってから、反転しつつマークしている相手を抜くのがやたらと上手い。
そうやって抜け出してはチャンスをつくっていくシーンが見られて、思わず「おお」とうなってしまう。
やはり圧巻だったのは、延長戦で得点したシーン。疲れているだろうに、流れるようにパスが決まっていって、
まるでプロの試合(それもどちらかというと、手数の多さという点でJリーグよりヨーロッパ風だ)を見ているかのよう。
実際、有料の試合だったということで、舞台裏で野洲の生徒たちは客を喜ばせるプレーを心がけていたらしい。
そんなことまで考えるレヴェルでやっている、というのが凄い。

野洲が優勝したことで高校サッカーもいろいろと変わっていくんじゃないか、という期待があるようだ。
まあドシロートのこちらとしては、とにかく今後、楽しい試合を見られる可能性が広がったようだから、それで満足なのだ。


2006.1.9 (Mon.)

髪を切る。

切ってくれるおねーさんは、いきなり僕がヒゲ面だったのでびっくりしていた。
が、すぐに気を取り直して(?)、どうデザインしていくかを考えていくのがさすがプロフェッショナル。
それで「今回はヒゲに合わせて切ってみました」なんて言われちゃった日には、ヒゲを当分剃れないじゃん。
そんなわけで、ヒゲの日々はもうしばらく続くのである。とりあえず、春まで伸ばしてみようかな、とテキトーに考える。


2006.1.8 (Sun.)

池袋へ。なんとなく。自転車で。行きは山手通り、帰りは明治通りというのが、なぜか定番のコース。

池袋は前にも日記に書いたように、どうしても不気味な感じが漂っているので苦手だ(→2003.4.20)。
でもだからといって嫌いなわけではない。東急ハンズもあるし、東武の地下にはベーグル&ベーグルもある。
大きなジュンク堂は便利だし、LOFTもPARCOもある。目的もなくウロウロするのにいい、いろんな店が揃っている。
腹が減ったら二郎で満腹になれるし(ここの大盛だけはチャレンジする気にならない)、混んでれば隣の大勝軒もいい。
まあだいたい、僕の行動パターンが上の文から読み取ってもらえると思う。そんなもんだ。

マサルが引っ越してしまってから来る機会がぐっと減ってしまったのだが、
その分、自転車で来れる場所なんだとわかって、たまに気合を入れて訪れるのが楽しみになった。
帰るときにはジュンク堂で買い込んだ本が2~3冊とベーグルが4個、FREITAGの中に入っているのがお約束。
ベーグルがつぶれちゃっていないか不安になりつつ明治通りを南下する。道のりは長いけど、なぜかそんなに疲れない。

家に着いてFREITAGを開けると、やっぱりベーグルはちょっとつぶれてしまっている。
とりあえずいちばん柔らかいやつをかじって、「やあまいったまいった」と思う。それがすっかり池袋の味である。


2006.1.7 (Sat.)

ファッションセンスがなってねえ、と注意を受ける。ごもっとも。

ファッションとはつまり自分の表皮をどうデザインするかという話で、それは、自分とはこうである!という、
アイデンティティの問題と直結する。理想的な自分をいかに演出するか、ということだと思うのね。
女性なんか化粧している顔が本来の顔、みたくなっているわけだし。僕は化粧薄いほうがいいけど。自然な眉毛が好き。

話題がズレた。
僕が着るものを選ぶ根拠はただひとつ、動きやすいかどうかの一点による。
靴は必ずどこまでも全速力で走れるものにするし、長袖なら腕まくりがきちんとできるものでないと気持ちが悪い。
ジーンズも足首が広がっているものは大嫌い。おかげで押入れの中には足元がタイトなものしか残っていない。
だから僕が服を買うのは、もうほとんどスポーツ用品店ばかりなのだ。自分でもどうかと思うくらい選択肢が狭い。

つまるところファッションにこだわらない自分というのは、そうとうに自信過剰な状態にあるのかもしれない。
外面よりも、自分の内側が心地よいと判断したものを選ぶ。それは身体について行動的という点のみを基準にしている。
けれども、まあいつまでもそればっかりでいるのもどうずら、と思わないでもない。
じゃあ、理想的な自分の外面をどうデザインしましょう!?となると、途端に困ってしまうのだ。
いや、どうせブサイク軍としてはたかが知れてるし……と考えて込んでしまい、結局考えるのに疲れて現状維持となる。
その繰り返しで今まで来ているのだ。

結局、こうなりたいっていう理想像がないのが問題なんだよね。

しょうがないので、僕は将来お金持ちになって、スタイリストに考えてもらうことにします。


2006.1.6 (Fri.)

実は、漢文や漢詩が好きだ。

こういうことを書くといかにもうるさそうなじいさんの社長とか経営者みたいに見えちゃってイヤなんだけど、でも好きだ。
高校時代は漢文の時間がかなり楽しみで、テキストをあれこれ読んでは「しみるねぇ~」なんて言っていた。
今でも枕元には岩波文庫の『中国名詩選』の上中下巻が揃って並んでいる。たまにしか開かないけど。
大学時代にはサークルでよく行ったトンカツ屋の壁に王翰の『涼州詞』が額入りで掛かっていて、
ひとり「おお」なんて反応してみたり、いまだに学校や予備校でやった漢詩をそらで言えたり、
いちおうそれなりにそこそこ最低限の素養はあるつもりである。最近は全然勉強していないので衰える一方だが。

そんな僕が『論語』の中で今のところいちばん好きなのは、
「子曰。學而不思則罔。思而不學則殆。」(論語・為政第二)
ってやつ。書き下すと「子曰く、学んで思わざれば罔(くら)し。思ひて学ばざれば殆(あや)うし。」となる。
ひらたく言うと、「勉強して外から知識を取り入れても、きちんと自分で考えないと愚かなままだ。
かといって自分の考えだけを頼りにして外から取り入れるものがないと、危険である。」といったところ。
たとえば本を読んだにしても、ただ読むだけではダメで、少なくとも読んだのと同じ時間だけ、
その内容について自分で考えないといけない。自分なりに消化して、自分の言葉で再生できないといけない。
それが相手の意図するところを的確に押さえているかどうかはとりあえず別にして、
とにかく自分にとっての具体的な体験と結びつけて、自分のものにしなければいけない、そう考えているのである。
しかもそれだけじゃなくって、自分の中だけで考えて済ませるのではなく、外からも取り入れないといけないのだ。
そうして双方向から切磋琢磨していかないとダメよ、と孔子は言っているのである。きっと。

そんなわけでこの言葉は、自戒を込めてしっかり肝に銘じているつもり。でも現実にそれを貫き通すのは、なかなか難しい。
もっとも、漢文は暗唱しやすい分だけ、身につきやすい気はするんだけどね。


2006.1.5 (Thu.)

出社する。
伸ばしっぱなしのヒゲを見た先輩から、「マツシマくん、逆さ絵(上下ひっくり返しても顔に見える絵)みたい」と言われる。


2006.1.4 (Wed.)

父親とともに諏訪湖へ。岡谷から特急で東京に帰るので、そのついでに寄ってみたのだ。

 

諏訪湖はすっかり凍っていて、湖面の上にポンと乗ることができる。
凍ってないのはわずかに水門のところだけで、見渡す限り氷の世界となっている。
けっこう氷は厚さがあるので大丈夫とはわかっているんだけど、乗ってみるとやっぱり少し怖い。
僕はもともと高所恐怖症なのだが、凍った湖面はまさにその独特の恐怖感を引き起こす。
そう考えてみると、高所恐怖症ってのは面白いものだ。どこから恐怖感が作動するのか、
いろいろ線引きを調べてみると、意外なことがわかるのかもしれない。

電車の発車時刻になるまで岡谷のデパートをウロウロしてみたのだが、どうにも面白いところがない。
理由は簡単で、本屋がないからだ。これはデパートに限らず、商店街でも言えることだ。
本屋のない街でどうやって暮らすんだろう、って思う。逆を考えると、本屋の危機は街の危機だ。
岡谷に来るたびに、そんなことを実感してさびしい気持ちになってしまう。

夜は『古畑任三郎』のスペシャルを見る。犯人役がイチローということで、すごく楽しみにしていたのだ。
こんなキャスティングは提案する方もする方で、引き受ける方も引き受ける方だ。すごいことだと思う。

感想としては、その強烈な個性で最後まで演じきったのがすごいなあ、と。
ふつうの人なら途中で「あらあらあら……グダグダ」になりそうなのに、それをさせなかった。
イジワルな見方としては、さすがにセリフのあるところでは物語としゃべり方のズレが出ていた。
フィクションの中ではフィクションの中のしゃべり方というのがあって、
それは俳優として訓練をしていないとできない、ということをむしろ実感させてくれた演技だった。
前にも演劇を見たときに「声」の問題が実はいちばん大切なんじゃないかと書いたが(→2005.12.8)、
今回、テレビの画面を通してあらためてそれを確認した、という印象だ。
とはいっても、決してイチローがダメだったってことではなくって、
そういう「声」でのハンデを覆すほどの存在感があったってことで、これはとんでもないことだと思うのだ。
イチローは当初、本人をモデルにした「ハチロー」という名前の役を演じる予定だったが、
しかし「他の人間のふりをしたくない」というイチロー自身の希望によって「イチロー」本人として出演したという。
確固たる自分を持っている、ということが演技にもそのまま出ていて、そういう「強さ」をうらやましいと心底思った。


2006.1.3 (Tue.)

椎名高志『GS美神 極楽大作戦!!』。実家に30巻ぐらいまであるので、久々に読んでみた。

若干おたく好みなマンガなので、食わず嫌いしている人も多いんじゃないかと思うんだけど、
じっくり読んでみると、このマンガは非常に高いレベルで描かれているのがわかる。
キャラクターというものをまずしっかりとつくっておいてから、やりたい放題にさせている。
特定のキャラが作者のコントロールを離れて暴れていく、というのとは正反対で、
すべてのキャラがきちんとポジションをわきまえたうえで、節度をもって(横島さえも)暴れるのだ。
だから読んでいて、読者が作者やキャラと同じタイミングでギャグを味わうことができる。
たとえば見ていると横島が本能のままにありとあらゆる脱線をしていくのだが、
それはすべて計算されているから、話の本筋を見失わせることが絶対にない。
また、作者が細かいところまで各キャラの性格や能力をきちんと覚えているので、
ボケているやつに誰がツッコミを入れるのか、の部分が非常に魅力的なものになっているのである。
そういう点で、このマンガは物語を魅力的にするヒントが詰まった教科書として使えるレヴェルにあると思う。

『GS美神』で僕がもうひとつ評価しているのは、とにかく作者が研究熱心な点だ。
それはこのマンガのテーマであるオカルト方面・歴史方面の知識という点でもそうだし、
この世に存在している先行するあらゆる作品たちに対する敬意、という点でもそうなのだ。
特に後者は特筆すべきレヴェルにある。たとえばタイガー寅吉が初登場の回は「虎よ、虎よ!!」というタイトルで、
これはA.ベスターの作品のタイトルをそのままもってきているし、横島の父親が飛ばされた国はナルニア国だったりするし、
ナイトメアの話にはじまりたびたび登場する「白井総合病院」は『タッチ』で新田や柏葉監督が入院した病院だし、
そんな具合に先行する作品に対するオマージュを挙げていったらキリがない。

キャラクターの魅力と作品への敬意が見事にブレンドされていて、読んでいて気持ちのいいマンガである。
決して横島が暴れているから面白い、だけの作品ではないのだ。
早く文庫化されないかなーと切に願っている、数少ないマンガのうちのひとつである。


2006.1.2 (Mon.)

僕と潤平が上京してから、親はふたりでのん気に暮らしている。
車でどっかに出かけては、あれこれ買ったり買わなかったりの、なかなか優雅な生活のようだ(傍目から見るには)。
僕が大学に入った年に、車は2ドアのROVER MINIになった。それがこないだブレーキが壊れたということで、
「見た中でいちばん小さいやつにした」という右ハンドルのワーゲンに買い替えとなった。

そのワーゲンに乗せられて、家族4人で土岐市にあるアウトレットモールに出かけた。
親はよく来るようで、実に慣れたものだ。それに対して僕は何もかもが初めてなので、目に映るものすべてが新鮮だ。
思えば僕らが子どものころには、アウトレットモールなどという施設はなかった。
せいぜい郊外の大型店がいくつか並んでいるのがいいところで、ちょっとした街をつくってしまうという、
そういう構想でつくられた商業施設を訪れるのは、生まれて初めてのことなのである。

そのアウトレットにあるのは衣類や靴ばかりで、全然興味がわいてこない。
しかし、山の中にそういうものをつくってあって、正月ということもありかなりの人出で賑わっているのを見ると、
それだけで都市社会学的に面白くなってくる。家族と郊外、テーマパークの関係が見えてくるのだ。
昼にはフードコートでうどんとハンバーグを食べる。エントランスから入ると広い空間の両側に店が連続している。
その中のひとつに並んで食べ物を受け取ると、真ん中一帯に広がるテーブル席について食べる。
食べ終わったらセルフサービスで食器を返す。これは小さいころによく行ったデパートの最上階と同じ構造だ。
だからまあ、アウトレットモールといっても、やっていることは20年前と全然変わっていないのである。
ただ、そういう気軽さが空間的に県を越えるレヴェルまで広がったというのは、驚くべきことではある。
地元商店街やデパートの衰退なんかと重ねて見ると、客である僕らの側で何が変わったのかについて、
もっとしっかり考えてみなくちゃいけないな、という気にさせられる。

この正月は、『もんじろう』ブームである。年末の姉歯祭りでハマったと書いたが(→2005.12.24)、
そのときにダニエルが2セットくれたので、実家に持ち帰ったのだ。
うちは母親が保育士をやっていることもあり、こういう知育玩具には目がない。
案の定、非常に高い評価を得て、コタツの上に転がって定位置を占めている状態になっている。
(つまり、暇があれば誰かが『もんじろう』で遊んでいるということだ。)

ところが、である。潤平も書いているが(⇒こちら)、うちの家族は遊びすぎて脱線をするケがある。

 上から:「すねかじりん」「ひきこもりん」「ごくつぶしん」「ずっと寝巻き」

お題:「ニート」ということで、できあがったのがこの作品。
語尾に「ん」をつけることで、社会問題をオブラートに包んでかわいらしく味付けが施されております。
思えば、ひとつのことに家族一丸となって取り組んだのは、何年ぶりだろう。ずいぶん久々の協力の結果が、コレ。
まあいかにも我が家という感じ満載である。

余談だが、(そして潤平も日記で書いているが)マツシマ家では車で出かけると、必ずやるゲームがある。
対向車線を走る車のナンバープレートから、語呂合わせでギャグを言う、というものである。
最初はわりとマジメに考えるのだが、そのうちに破壊の美学とでもいえばいいのか、
少し逸脱していないと面白くなくなってしまうのである(まあ、それが笑いの本質だとは思うんだけど)。

たとえば、「6733」。これを「胸毛スリスリ」と読んだのは僕の作品である。
しかし家族によれば、「これはキレイすぎるな~」となるのである。全然キレイな題材ではないというのに。
その点、「6735」を見た潤平の「胸毛がさごい」はバカウケになるのだ。
ここに、 「すごい」を「さごい」とするバカバカしさ、破壊の美学があるというわけだ。
1文字ズレたときのバカバカしさが持っている破壊力は、これは実際に試してみるとわかるのだが、
かなり強いものがある。暗黙のルールとかコードちょっと壊してみせること、それがギャグの本質なのだ。

ほかに、形式美という概念も生まれてくる。「24」という数字の入ったナンバーを見た場合、
なぜか潤平の小学校時代の同級生である「ニシベくん」がテーマとなるのである。
「8124」=「灰になったニシベ」とか、「2409」=「ニシベは奥手」とか、そんなんばっかりで、
必ずニシベくんがひどい目に遭うような作品をつくる、という暗黙の了解がある。
これもギャグの本質(トリックスター)とは思うが、毎回ひどい目に遭わされるニシベくんは今どうしているんだろう。

まあそんなわけで、マツシマ家では『もんじろう』でも1文字ズレた美学が健在なのであった。
「バイキンさん」とか「えなりかずお」とか「ぬしょうがつ」とか、そんなんばかりつくっては喜んでいた。

ちなみに、塾講師時代に同僚だった人で、開成高校→東大法学部という超エリートコースの人がいた。
その人によると、開成高校ではナンバープレートを見るたびに、いかに計算して「10」にするかを競っていたそうだ。
つまり、4ケタの数字の間にどんな記号(+,-,×,÷)を入れれば「10」になるかを考えていたというのだ。
その話を聞いて、もうこの点からしてエリートさんとの違いがあるし、ギャグセンスの違いもあると思った。
僕はギャグ志向の環境に育ってよかった、と思っている。いちおう。

夜になって例のモゲメンバーで忘年会があった。
忘年会である。決して新年会ではない。今年も残すところあと364日となったところで、1年を反省する会なのである。

リンゴ並木と中央通りの交差点で待ち合わせたのだが、そこにあったオブジェにびっくり。

 
L: 遠くから見たところ。新年だというのに、どっからどう見てもクリスマスの飾りつけそのまんまじゃないか!
R: 近くで見ると、「迎春」の凧がくくりつけてあった。見ていて頭が痛くなってきた……。

トシユキ氏がやってきて、ふたりでなんだこれは、と呆れる。
呆れているうちにバヒサシ氏がやってきて、近くの炉端焼きの店に入る。

  まあこんな感じ。

いろいろと食事を持ってきてくれたのがいい感じのおねーさんで、
「こいつぁー新年早々縁起がいいぜ、今年はいいことありそーだ」なんて言っている時点ですでにダメ。
バヒさんが「でもあんまり胸はなかったな」と言ってる時点でもっとダメ。
でもダメ人間って楽しいんだよねー


2006.1.1 (Sun.)

ついに2006年になってしまった。
僕らの意識としては、1990年代のカウントダウン感覚やら2000年問題やらの印象が強くって、
2001年を過ぎてからは随分と“雑”に新年を迎えているような気がする。
そんなことでいいのか!?と自問自答してみるのだが、その次の瞬間にはあっさりと、
まあでも節目になるようなこともないし、しょうがないよね、なんて結論が出てしまうのだ。

一年の計は元旦にありとは言うものの、忘れっぽい自分はあんまり今までそういうことは考えたことがなかった。
でもまあいいかげん、だらしない生活をあらためなくちゃいかんのは確かなので、
とりあえずここに、「今年はきちんと今現在を大切にして、日々ていねいに生きていきます」と宣言しておく。がんばる。


diary 2005.12.

diary 2006

index