diary 2006.2.

diary 2006.3.


2006.2.28 (Tue.)

引き続き、大長編ドラえもんVol.4『のび太の海底鬼岩城』。映画は1983年公開。

いつものメンバーで夏休みにキャンプに行こうという話になるが、海がいいか山がいいかでまとまらない。
キャスティングボートを握るドラえもんは、海底の山に行けばいいじゃん、という折衷案を提示。でも不評でお流れ。
その後ドラえもんに連れられて実際に海底を訪れたのび太は、静香も加えてあらためて、
海底のキャンプに出かける予定を立てる。そこに財宝をつんだ沈没船が発見されたというニュースが報じられ、
ジャイアンとスネ夫もそれを目的に参加する。沈没船には興味を示さないドラえもんだったが、
ふたりが勝手にバギーでキャンプを飛び出したことから、事件に巻き込まれることに。

今回の主役はなんといってもバギーちゃんである。 数あるドラえもんの道具たちの中でも、
これだけの大活躍をしてみせたものはほかにない。ふつうならばゲストである海底人のエルが目立つはずのところを、
ことごとく食ってしまっているのである。「ドラえもんの買う道具は安物」という理由づけをうまく利用して、
逆に「心という不確定要素を持ってしまった機械」という存在にしている。バギーがしゃべりだしたことで、物語は変わっていく。
ドラえもんにおいて、登場するキャラクターが死んでしまうことはありえない。
しかし、機械であるバギーはその反則をスレスレのところでかわして(犯して)、読者すべてを感動させる役を果たす。
そして、今回は“負け”てしまってしまったドラえもん一行がそれでも“勝つ”理由、本当の強さというものを示す存在、となる。
かなり強引に解釈すれば、ドラえもんは機械よりも明らかに人間の側に立っているが、バギーはあくまで機械の側にいる。
そのバギーが自分勝手な思考回路を乗り越えて、身を挺して人間の思いに応える、というストーリーは、
「人間と機械の協調」ともとれるわけだ。悪役のポセイドンが機械であることも、その点を強調していて興味深い。
人間と人間の対立・協調、人間と機械の対立・協調。『海底鬼岩城』ではバミューダトライアングルの謎をふまえつつ、
その組み合わせをすべて含んでいるのである。これは実に、深くて巧みな構成だ。

ドラえもんと地球の謎、という点では、今回も空間的な謎を扱っている。海底という、最も人類から遠い地点がテーマだ。
実際、作中で登場人物にも「うすきみ悪い」「陰気くさい」と言わせているし、僕ら読者の側も華々しい印象を受けない。
しかしドラえもんはひみつ道具を駆使することで、実際にはそこがどれだけ魅力のある場所か示してみせる。
F先生の想像力の勝利である。

でも、ひとつだけ、どうしてもひとつだけなんとかしてほしいところがある。
海底人がテキオー灯を持っていた理由、これだけはなんとかしてほしい。読むたびここで引っかかってしまう。
どうにかしてください。ホントに。


2006.2.27 (Mon.)

だいぶ間が空いてしまったが、大長編ドラえもんのレヴューの続き(前回 →2006.1.20/前々回 →2006.1.19)。

大長編ドラえもんVol.3『のび太の大魔境』。映画は1982年公開。
探検がしたい、というジャイアンにそそのかされて、のび太とドラえもんはアフリカを衛星写真で調べはじめる。
が、さっそくママからおつかいを頼まれて、そのとき通りがかった空き地で1匹の野良犬に出会う。
のび太はその犬に「ペコ」という名前をつけて飼う。そして衛星写真で謎の石像を発見し、みんなで探検の旅に出る。
(日記を書き続けて疲れると、どうもあらすじの紹介がテキトーになる……。)

大長編ではふだんの連載とうってかわってジャイアンが活躍する、というのが定説なのだが、
この『大魔境』でジャイアンはかなり重要な位置を占めている。特に「悩むジャイアン」の描写が印象に残る。
ペコの正体が明かされるあたりで少しその要素が弱くなってしまうが、クライマックスへの伏線としてうまく使われている。
(まあ、ここでジャイアンが決断しようがしまいが、大長編ドラえもん的には同じ展開になるに決まっているんだけど……。
 それでもジャイアンがペコに合流して結局仲間たちと一緒になってしまう描写は、この作品最大の見どころのひとつだ。
 しかもこのシーンだけサイレント、セリフなしで進められるあたりは、作者の力量が十分に発揮されていて美しい。)

やはり「先取り約束機」の存在は、賛否両論あるところだろう。
F先生本来の実力ならもっとうまくやれるはずでしょ、と考えてしまうのだ。
話の表面を見る限りでは、ラストの1コマにもうまくつなげているし、破綻もないんだけど、どこか釈然としない。
やっぱりジャイアンにもうひとがんばりしてもらって、それで解決へと向かわせるほうがスッキリすると思ってしまうのである。

とはいえ、地球にはまだ謎が残っていて、それにドラえもん一行が挑む、というスタイルはとても魅力的だ。
『大魔境』はそのいちばん最初の作品になるわけで、世間での評価以上に重要な位置を占める作品であると思う。


2006.2.26 (Sun.)

田中麗奈主演、『ドラッグストアガール』。脚本はクドカン。
薬学部に通うラクロス部の女子大生が、彼氏にふられてアパートを飛び出し、
行き着いてしまった先が多摩の奥地・摩狭尾(まさお)。その街にドラッグストアが開店、そこのバイトにおさまってしまう。
そうしてその街で暮らしているうちに、さびれつつある商店街のおじさんたちから好かれてしまって、
なんだかんだでラクロスチームを結成するという、なかなか自由奔放な話。

中年のクセのある俳優たち(柄本明・三宅裕司・伊武雅刀・六平直政・徳井優)がやりたい放題ということで、
田中麗奈よりはそっちのほうが好きという健全な男子大学生は、それだけで楽しめるかもしれない。
ドラッグストアも店長と副店長を篠井英介と山咲トオルが演じるというズルさで、悔しいがそれだけで面白い。
ストーリーもまったく深く考える必要のない楽しさにあふれているので、純粋にそのシーンそのシーンを味わえればよい。
気楽に見られるという点で、娯楽としての存在意義を十分にまっとうしている作品であると思う。

が、一点、どうしても納得のいかない点がある。それは三宅裕司の役の扱い。
いくらなんでもそれはムチャだろうと思う。スケジュールの都合なのか何なのかわからないけど、これはひどい。
エンディングで何事もなかったように映像がつくられているのがまた温度差で、ひどい。
竹でクロスを編む、というアイデアが極めて秀逸だったので、それだけで僕の評価はかなりいい方にいったのだが、
このひどさで大いに冷めてしまってプラスマイナスゼロというよりむしろマイナスに寄った印象。
ホントなら見た後にもっといい気分になれたんだろうに、惜しい。実にもったいない映画だった。


2006.2.25 (Sat.)

新宿へ自転車修理に出かける。

以前、自由が丘からの帰りに坂道を上っていて、思いっきりペダルを踏み込んだらギアの調整装置が壊れた。
なんとか大岡山商店街で応急処置をしてもらったのだが、早く修理しないと危ないよ、ってことで、
新宿の行きつけの店に行ってきちんと部品を取り替えてもらうことにしたのである。

部品の交換と兼ねて、全体のメンテナンスもしてもらう。タイヤが限界、チューブも限界ってことで、
なるべく早めに交換したほうがいいですね、と言われる。確かにパンク修理に次ぐパンク修理で、いいかげんヤバい。
僕の自転車の乗り方は正直かなり荒っぽいので、結局修理代がかさんでしまうのだ。
財布と相談しながら、機会をみて交換に来ます、ということに。

ちょろちょろと買い物をして家に戻ると、日記をがんばる。
日記をためるとロクなことがないってわかっちゃいるのだが、ここんとこまた不精になっちゃって(正月のせいだ)、
また苦しんでいるという悪循環。そんなにまでして書かなくてもいいんだけど、メモってある内容を覚えているから、
それをきちんと記録に残しておかないと、それはそれで気持ちが悪い。前を向いても後ろを向いても地獄って感じだ。
同じ地獄なら踊らにゃ損損ってことで(?)、なんとかふんばって書いているというしだい。
とりあえず、日記を5年書いていて、良かったことと悪かったことでは、悪かったことのほうがかなり多いので、
いつか運が向くといいなあ、なんて思いつつ、テキトーに文章をこねくりまわす。そんな感じ。


2006.2.24 (Fri.)

仕事をがんばる。重なった仕事がいよいよ正念場。おかげで毎日フラフラである。


2006.2.23 (Thu.)

『パルコフィクション』。PARCOを軸にしたオムニバス・ストーリーが展開される。

『ウォーターボーイズ』(→2005.5.22)や『スウィングガールズ』(→2005.8.10)の矢口史靖がからんでいる、
ということで少し期待したんだけど、まったくもって面白くなかった。ギャグのどれもが苦し紛れのダジャレに見える。
そもそも『パルプフィクション』(→2005.8.7)を意識しているのがいけないと思う。
元ネタがつまんないんだから、面白くなるはずがない。

もっと各話を積極的にリンクさせれば、その度合いに応じて面白さが増したのではないか。
たとえば『モンティ・パイソン』では、ひとつのスケッチをやっておいて、別のスケッチをやっている間にその続きを挟む。
(具体的には、ガス機器を取り替える役人が伝言ゲームをするスケッチが、シリーウォークの背景に再登場する。)
そういう伏線をもっと用意すれば、つまんない話を面白い話がカバーするという効果が出ると思うのだ。
まあ、一言でまとめると、他山の石って感じだった。そんだけ。


2006.2.22 (Wed.)

遠藤周作『海と毒薬』。戦時中の日本で行われた、捕虜の生体解剖について踏み込んだ作品。
詳しいあらすじは書くまでもないと思うし、かなり読みやすいので現物を読んだほうが早いと思うからパス。
日本文学において圧倒的な位置を占めている、超がつくほどの名作として知られる作品である。
が、読み終えて、ものすごく消化不良な印象しか残らなかった。恥を恐れず、それについて書いてみたい。

作品の完成度という点では、世間での評価のわりには、この作品のそれは非常に低い。
まず、冒頭に登場する「私」だが、勝呂医師に出会って診察を受ける、それだけの役割でしかない。
物語はすぐに回想というか過去の場面へと移り、そのまま現代(当時の現代)に戻ることなく終わる。
これは明らかに、物語の構成という点から見れば、重大な欠陥であると思う。
生体解剖と関係のない「私」がその過去にどう絡んでいくのか、特殊な人間が行った行為に思えることが、
実は戦時中という異常さも手伝って、一般的な人間でも行えてしまうという事実、というかむしろ特殊でないという事実、
そこに焦点を当てるべく「私」は登場したとしか考えられないのだが、結局ほったらかしのままだ。おさまりが悪い。
『海と毒薬』はあくまでシリーズの中のスタートの位置を占める作品にすぎず、この後に続編が書かれていたとすれば、
僕のこの作品への評価は大逆転する。しかしそれは書かれないままで(文庫の解説を読むにその意志はあった模様)、
結局「尻切れトンボじゃねーかバカヤロー」というところに落ち着いてしまうのである。がっくりである。

善意で解釈するなら、あまりにも重すぎるテーマを作者が消化しきれなかったということだろう。
しかし、そのテーマに取り組んだ姿勢こそがいちばん肝心なのであって、作品じたいの完成度はさておき、評価されている。
文学が社会に対して投げかける役割というものを考えた場合、実は完成度など二の次である、という真実が垣間見える。
ここにクリエイターの究極の選択がある。物語を完全に完結させるべくテーマの大きさを調整してしまうか、
それともテーマをそのままの大きさで扱うため泣く泣く物語の完成度を下げるか。遠藤周作は後者を選んだ、ということだ。
それはそれで潔い態度ではある。ある意味、フィクションよりも現実を取ったという度胸の現われなんだから。
しかしまあ、やっぱり、これだけ評価の高い作品なんだから、作者がきちんと物語を収めきったはずだと思っていたぶんだけ、
なんだか裏切られた気がしてしょうがない。この辺は個人の価値観しだいということなんだろうけど、釈然としない。

もうひとつこの作品を名作たらしめているのは、生体解剖に参加した人々の背景(過去)を生々しいまでに描いた点だろう。
トラウマというのは表現が違うだろうけど、それぞれの陰の部分、抱え込んでいるものを緻密に描いている技術はさすが。
むしろ、世間的に評価される生体解剖という重みたっぷりのテーマよりも、個人個人の抱える事情の描写のほうが、
この作品を意義のあるものにしているように思えてならない(これも結果として物語の完成度の破綻を引き起こしている)。

たとえば演劇の場合には、目の前で演じられている世界が、上演時間中は絶対的なものとなって立ちはだかる。
つまりはそれだけ、フィクション・虚構の完成度が求められるメディアだと言えるだろう。それに比べると、
小説はずいぶんと「粗く」ても許される、という実例だと思う。これは決して悪い意味だけで言っているわけではない。
裏を返せばそこには、ある種の自由さ・手軽さが存在するからだ。
そしてそういう土壌があるからこそ、この作品を確かに名作と呼ぶことができるのだ。


2006.2.21 (Tue.)

4日前の日記でも書いたけど、今回のトリノについてはカーリングにのみハマってしまった(→2006.2.17)。
いつもMessengerで雑談をしているワカメ(大阪府在住・大学生)も見事にハマってしまって、
連日ふたりで熱く語っている(ちなみに、ワカメは「マリリンは痩せたら化けるぞ!」と主張している)。
そしたらNHKでの扱いはどんどん大きくなっているし、応援FAXでも視聴率でも反響が大きいようだし、
気がつけば日本全国でかなりの人が、カーリング日本代表女子(チーム青森)にやられちゃっているという状況なのだ。
そんなわけで、なぜ「われわれ」はカーリングにここまで感動したのか?ということについて、
ワカメと話し合った内容を反映させながら徹底的に考えてみることにするのである。

1. 強豪相手に勝っていった、試合内容が白熱していた
前半調子が悪かったが、カナダ戦での勝利をきっかけにして強豪相手に対等にわたりあった。
日本の選手たちがメダルをぜんぜん取れない中、「ひょっとしたら」と思わせるような活躍を見せたことで注目が集まった。
また勝ち負けに関わらず、試合内容が白熱しており、ルールを把握すれば夢中になれる展開だった。

2. 冬季五輪では数少ないチームプレーのスポーツだった
個人競技の多い冬季五輪の中で、カーリングは4人のチームで戦うスポーツである。
ひとりのミスを別の誰かが帳消しにするなど、個人のスポーツにはない駆け引きが充実していた。
個人ではなくチーム全体が仲間、という要素が応援したくなる気持ちをくすぐった。

3. 日本代表女子チーム自体に魅力があった
ソルトレークを機に解散した「シムソンズ」のうち2人が練習環境を求めて北海道から青森に移り、
それを追うように若手選手が集まって今のチームができた、という話はとても日本人好み。
しかもみんな身近にいそうな美人で、真剣な表情と喜んだ表情が非常に魅力的だった。

4. 素朴、地味なスポーツだった
冬季五輪ではスピード感のある競技が多いが、カーリングは素朴というか地味。
しかしその分じっくりと「考える」というお茶の間向きの要素があったのは事実。
また、真剣な顔・表情をしっかりと映すことができるスポーツだったことで、選手への親しみが湧いた。
(ハーフタイムには栄養補給しながら談笑する余裕がある(「おやつタイム」なんて呼ばれた)くらいだから。)

5. 解説がわかりやすかった
頭を使うだけに複雑なルールだが、解説が視聴者に「どう見ればいいか」をわかりやすく伝えた。
カーリングでは将棋などと同様に二、三手先のことを考えないとショットの評価がわからない。
そんな中で基本的にショットを褒める、徹底したプラス思考の解説だったので、聞いていて好感を持てた。

まとめるとこんなところだろうか。以上の要因が絡み合って、「カーリングっていいじゃん!」という人が爆発的に増えたと思う。
個人的にはやっぱり、3番目の要因が大きいと思う。しかもひとりじゃダメで、みんなでいるところを見ていたい感じ。
面白いのはNHKのスタジオでのインタヴューで、それぞれの試合を振り返るというよりもむしろ、
チームのメンバーそれぞれの関係や魅力といった話に終始していた。そして視聴者もそれを望んでいたと思う。
そういう「いいチーム」「ひとつの目標に向かって努力する仲間」をほんわかと見ることができて、
今回のような、ワケがわからないけどとにかくいい!という集団感染みたいな現象になったのではないか。

それにしても気がついたらカーリングが面白くって、でももう終わってしまって、すごく物足りない感触が残っている。
来年3月には世界選手権が青森で開催されるというが、今のチームの快進撃の続きを今すぐ見たくってたまらない。

4年後にまた、同じ感動が味わえるといいなあ。心底そう思えることって、なかなかないと思う。
とりあえず映画化されて今やってる『シムソンズ』でも見に行こうかなあ。


2006.2.20 (Mon.)

うちの会社は従業員がそう多くないし、世襲だしということで、派閥争いが皆無なのである。
まあそれはそれでいろいろ面倒くさいことがないので悪いことではないのだが、面白みに欠けるのも事実である。

で、今日は現社長の息子で次期社長になるであろう上司に誘われて、われわれ同期で焼き鳥をいただいた。
同期で僕がいちばん飲めなくって、しかもそういう場でしゃべる度胸が皆さんあんまりないようで、
次期社長に対するトークは、結局僕が全体の4~6割くらいを占める結果となった。まあそんなの別にどうってことないけど。
話の内容もまだまだお互いを探り合っている感じで、僕の直接の上司がつかみづらいなんて話題がメインになってしまい、
特にこれといって衝撃的な話が展開されるわけでもなかった。要するにまったりで終始した。

そろそろお開きという頃合いになって、なんとなく僕のヒゲの話題になったところ、次期社長はけっこうな勢いで、
ヒゲを剃るべし、との主張を展開。僕は当然のように、にこにこしながら右から左へ聞き流す。

てなわけで、特にプラスにもマイナスにもならない会合は終了。とりあえずごちそうさまでした。


2006.2.19 (Sun.)

『誰も知らない』。柳楽優弥がなんか賞をもらったアレ。

実際にあった、巣鴨子ども置き去り事件をモチーフにした話。しかしドキュメンタリーではなく、あくまでフィクションの枠内。
YOU演じる母親(これがすごく秀逸!)が、柳楽演じる息子を連れて引っ越してくるシーンから始まる。
しかしその荷物の中に入っていたのは小さな子どもたち。子どもたちは外に出ないようにきつく言い渡される。
子どもたちは学校に通っていない。そもそも、戸籍すらない。中国でいうところの「黒孩子」のような存在なのだ。
そうしてその存在は隠されているが、母親はだんだんと家を空けがちになっていく。
そしてついに家に戻らなくなったとき、いないはずの子どもたちだけで生きていく生活へと切り替わっていく。

それまで隠れていたのから一転、堂々と昼間の世界へ子どもたちが踏み出していく開放感。
枷がなくなったことで荒れていく生活、そこから揺り戻してうっすらと湧き上がってくるたくましさ。
どこか一枚フィルターをかけた映像が、逆にフィクションならではのゾッとするほどのリアリティを演出している。
この作品で加味されているもうひとつのフィクションの要素が、不登校の女子高生・紗希の存在。
社会から完全にはずれているがそのシステムにぴたりと影のようにくっついている兄弟たちと、
社会からはずれかけているがその存在はしっかり肯定されている紗希との関係は実に微妙で、
言葉では表現しがたいその奇妙な連帯感が、物語に優しさを与えている。だからわりと安心して見ていられる。
(後述の観察者の視線云々にも通じるが、似ているが決して同化しない両者が心地よい関係のままでいられる、
 その点こそがこの作品を生み出している源泉だ。監督:物語∽紗希:子どもたち、なのである。
 そして観客の僕らがこの作品を眺める視線は、ある意味で無条件に監督側に加担する行為そのものである。)

140分ほどの長い話で、思い切って削れるだろうという箇所もそこそこあるのだが、とりあえず飽きない。
ラストシーンも最善の判断をしているように思う。見終わって「なるほど。」と思える、高いレヴェルのつくりだ。
ただまあ社会学をお勉強してきた経験からすると、良識のある記者やジャーナリストの視線だと感じる。
距離を置いて観察し、決して対象に踏み込まない。だから物語も精確に造形されている(という印象を受ける)が、
誰の所有物にもなっておらず、強いて言うなら主人公を演じる柳楽のものでしかない。監督が作品を所有していない。
だから柳楽は当然のように賞を取ったわけだ。もっともそこから、柳楽の今後の俳優生命が不安視されるとも思う。
この作品で演じた役が強烈すぎて、これを今後どう覆していくのかが半端でなく難しいはずだ。
(声変わりしそうな年代の男子が奇跡的に持っている、子どもゆえのたくましさと男性ゆえのたくましさの二重性。
 これが実に見事に表現されているのだ。でもそれはつまり、まさに一世一代の仕事をし終えてしまったということなのだ。)

で、僕自身の感想としては、とにかくその踏み込まないっぷりが見事なのと歯がゆいのとで、
どうにも身動きがとれない感覚になってしまう。観客に事実(とはいえフィクション)を投げつける。それで終わり。
その姿勢に賛同はできないが、それはそれでフェアに徹しているということもまたわかる。
そういう作品に対しては、決して貶める意味でなく、僕は「ずるい」という言葉を使うのだ。


2006.2.18 (Sat.)

ひょんなことから知り合いになったタメの女性・イヌ女史に誘われて、渋谷で飲むことになった。
なんで「イヌ」なのかを説明するにはそこそこ時間がかかるので、割愛。
(ちなみにイヌ女史をいじるのがいちばん上手いのが、大学生の「ワカメ」。いよいよワケがわからない世界になっている。)

イヌ女史は僕と同程度かそれ以上にモノをつくる習性がある人で、そういう人と話をするのは無条件に面白い。
今回はわりと作品というよりは作品を生み出すバックグラウンド、つまりは原風景についての話になっていた。
さらにもっというと、家族の話がわりと多かった。

僕の育った家は、世間的には非常に穏やかで平和的な部類に入る。
あまりに平和すぎて温室に近くって、それがイヤであれこれ焦っている面がいまだに僕にはある。
対するイヌ女史は父親の海外出張が長く、まあそれで愛人がいたとかなんとかで、残された女3人での生活の中、
いかに気を張って生きてきたか、そしてそれがあっけない一言でいかに崩れてしまったか、という話。
聞いていて、まるで向田邦子のドラマを見ているような錯覚に陥った。見たことないけど。
どんな家族でも悩みは尽きないもんなんだなあ、なんてあらためて実感。

お互い酔っ払うと記憶力が著しく低下するタチなので、あとの細かいところは全然覚えていない。
でもまあ美味かったし楽しかったし、いっかぁーという記憶しかない。

……ホントあと何話したっけ?


2006.2.17 (Fri.)

トリノ五輪についてはそんなに興味があるわけじゃないんだけど、気がつくと見ている競技がひとつだけある。
カーリング・女子である。なんでか、ついつい、目が離せないで見てしまうのである。

もともとカーリングにはそんなにいい印象というか、面白そうだなという印象はなくって、
必死で氷をゴシゴシこすっているのがなんだか滑稽で、「なんだそりゃ」という感じで見ていた。
しかし、メダルがとれないでいる人気競技をよそに、妙な存在感を漂わせていて、それに引っかかってしまった。

といっても良いショット、悪いショットがなかなか一目でわかるわけではないのが難しいところだ。
将棋やチェスなんかと同じで、二、三手先を読む力がないと、序盤の攻防の面白さがわからない。
ガマンしてじっと見ているうちに、なんとなくルールがわかる。そうしてだんだん慣れてくると、
実況のアナウンサーが興奮するタイミングとシンクロして、ひとつひとつのプレーの意味が見えてくる。
一連の動作が恐ろしく地味なんだけど、「おおおおすげー!」と確かに言いたくなってしまう、
そういう静が動に変わる一瞬とでも表現できそうな独特の興奮があって、それがなかなか新鮮なのだ。
あと、ハーフタイム(おやつタイム)のまるで遠足のような光景も、他の競技では絶対に見られない雰囲気で、
これもまた見ている側に妙な楽しさを感じさせる。

何より、日本代表女子の表情がいい。真剣で凛々しい顔がアップになっているのを見ると、なんだか気になるのだ。
これはけっこうそう思っている人が多いようで、僕の周囲でも地味に支持が広がっている気配がする。
正直、女子カーリング代表の美人度合いは絶妙の説得力だと思うのである。
身近に感じて応援したくなる絶妙の位置だ、というのは失礼だろうか。
カーリングは、今回のトリノで実はいちばんの見どころだったのかもしれない。

でも冷静に考えると、女子だからこそギリギリ絵になるスポーツだという気もするのである。
もうちょっとラクロス的な華やかさがあれば、もっと人気が出るのになあ、とぼんやり思う。


2006.2.16 (Thu.)

『ネバーエンディングストーリー』。
有名どころだしメタ物語だし、と思ってチャレンジしたのだが、もう本当に最低最悪。
物語を壊す、という発想は悪くないと思うんだけど、その壊す対象があまりにテキトーにつくられている。
だからただグダグダな時間を過ごした感覚になってしまい、本当に損した気分。

常田富士夫と市原悦子のネバーエンディングなストーリーのほうが、比べ物にならないほどすばらしいのである。

ムカついたのでもう1本。レマルク原作の『西部戦線異状なし』。

舞台は第1次世界大戦中のドイツ。教師に煽られて兵士となった若者たちが散っていく様子を描いた戦争映画の傑作。
1930年のアメリカ映画である。この後の世界情勢を考えると、その存在は非常に意義深い。

見ている間ずっと、『フルメタル・ジャケット』を思い出していた(→2005.12.1)。
あちらはベトナム戦争を新兵の目から徹底的にリアルに描いていった。1970年代の戦争、というリアルさである。
それに対してこちらは塹壕での白兵戦がメイン。敵味方なくなぎ倒されていく人間の、多種多様な映像が延々と続く。
しかもその間、ひとつもセリフが入らない。言葉がなく、兵器の発する破裂音だけが重ねられる。
それはやはり、この映画がつくられた当時のリアルさなんだと思う。淡々とそれらのカットがつなげられるのだ。

日本の軍隊との違いも『兵隊やくざ』(→2006.2.5)なんかと比べると興味深いところだ。
日本の場合にはひたすら先輩からのビンタの嵐なのに対し、ドイツでは先輩兵士と対等な友情が芽生えていく。
主人公は休暇で戻った故郷で自分の居場所がなくなっていることを実感し、戦地に戻ることをむしろ喜んでいた。
戦地には同じ釜の飯を食った仲間がいるわけで、身の安全よりも仲間の存在の方に価値を感じているのだ。

しかしそういったものは、戦局の悪化とともに脆く崩れていく。多感な主人公のポールも、倒れる。
(そのシーンはものすごく有名で、いろんな作品に引用されていると思う。知らないうちに刷り込まれていたシーンだ。)
そういうすべてをひっくるめて「All Quiet(異状なし)」と言い切ってしまうそのタイトルは、完璧だ。
すべてが沈黙する、というダブルミーニングになっていると思われる、その皮肉っぷりもまたすごい。

冒頭のパレードから教室での教師のアジテーションへとつながるシーン、ケメリックのブーツをめぐる悲運など、
演出面でキレているシーンがところどころで目立っていて、いま見てもそれらの点はきちんと楽しめる。
しかし残念なことに、物語が後半に進んでいくにつれ、シーンを暗転で区切るペースが早くなっていく。
暗転は物語の持続感をぶつ切りにする。結果、観客の集中力を殺ぐ。
それがどれだけこの映画の勢いを殺していることか。実にもったいない。
俳優の動かし方を見ると演劇の方法論をかなり持ち込んでいる印象があるのだが、
暗転という、安易な演劇の最も安易な解決策をそのまま持ってきているのは、大きなマイナスだ。

全体を通してみれば、やはりあの時代にこの内容ということで、文句なしに傑作だと思う。
ただ、個人的には後半に入って疲れてきたところに暗転の連続で、素直に楽しめない面もあった。


2006.2.15 (Wed.)

太宰治『人間失格』。ダザイぐらいは読んでおかないとマズいだろう、という危機意識から。
この日記を読んでくれている一部の人からは、ここんとこびゅく仙はすっかりマイナス思考にやられてる、
とのお言葉を頂戴しているわけだけど、それと太宰を読むのとは全然関係がないことをあらかじめ書いておく。

とにかく、天才ってのは恐ろしい。
自己を否定するのは、まあ簡単だが、それを克明に逐一告白していくことなど恐ろしくってできない。
しかしそれをやってしまった、これはとてつもないことだ。もう、そうとしか言いようがない。語彙が貧弱な自分ですみません。

何より衝撃的なのが締め方だ。客観→一人称→客観で終わる、という構成になっている。
最初の客観で読者に対して強烈なジャブを打っておく。続いて一人称で何ひとつ隠すことのない独白が繰り広げられる。
そして、最後。延々と続いた独白に対してまったく別の角度(客観)から「……神様みたいないい子でした」とやってのける。
読んだ瞬間にぞぞぞと背筋をのぼってくるものがあって、文庫本を持つ手が震えた。
(そしてこの作品をそのように書き終えておきながら、入水してしまったという事実。)

グダグダとあれこれ書きたくないので、なるべく簡潔にまとめたい。
やはりご多分に漏れず、自分も大いに共感できる部分があった(主人公がやたらとモテる部分を除いて)。
『人間失格』を読んだときに感じる「共感」は、自分ひとりが抱え込んでいる苦しみの精確な言語化によるものであり、
一種、太宰が「原罪」を背負い込むような形で自分の苦しみを代弁してくれた、と思えるところにあるのだろう。
ところがそれは、個人の悩み(特殊)でありつつも、それは非常に多くの個人が持っている悩み(一般)であるのだ。
つまり、悩んでいる本人には自分ひとりの特別な悩みだが、それは多かれ少なかれみんなが個別に持っている悩みなのだ。
そういう個の事情が社会の事情となる、その絶妙な結節点を提示してみせたところに、この作品の揺るぎない価値がある。
この作品が凄いのは、最後まで読んだうえでやっぱり、「それは自分だけの特別な悩みなのだ」と思える点にある。
社会学的にその悩みを統計の中へ回収することなく、個を個のままに見せかけて、集団を満足させている。離れ業である。

それにしても太宰がこの作品を書けたという事実は、才能を持つことが悲劇にもなるという事実を示しているように思える。
頭が良すぎると、見えなくてもいいものが見えてしまって、それに悩まされるようになってしまう、その典型。
それでチラッと「見えちゃった」人たちが思わず惹かれてしまう、その総本山になってしまっている、非常に危険な作品だ。

とりあえず僕は全然モテていないので、太宰ほどの才能がないことを幸せだと思っておこう。
……って、これってやっぱ、感想として間違ってる?


2006.2.14 (Tue.)

村上龍『限りなく透明に近いブルー』。

かつて論文のために市役所めぐりをしたことがあって、市役所では必ず市報のバックナンバーを読破した。
で、福生市役所に行ったときに市史を読んだら(→2002.9.26)、この話の背景になっていることにページが割かれていた。
それは今となっては、もはや人々の記憶からは消えかけていることだと思うんだけど(少なくとも僕が見るに)、
確かにそういう時代、そういう社会、そういう状況があった、ということは確かで、
その当時の「現在」を鋭く(鋭すぎるくらいだ)えぐっていたからこの作品は評価されたんだな、とあらためて思った。

いきなり思い出話と結論から書いてしまったが、あらすじというか概要は、よく知られているとおり。
セックスとドラッグ。ひたすらそばっかり。こちとらどちらもすっかり縁のないものだから、はーほーへーとため息ばかり。
しかしまた、「おーこれはしっかりブンガクだー」とも思う。興味本位では見抜けない、目的意識がしっかり根を張っている。
だから読んでいてそれほど不快感はない。むしろ、この話を最後まで書き上げた意志の強さを尊敬する。

文庫の巻末についている解説が、この作品について完璧にフォローをしているので、あまりあれこれ書く気が起きないが、
まあ自分なりの言葉で思ったことを書いておくことにする。

読んでいてまず印象に残るのが、どこか薄い膜を一枚隔てて情景を観察している、そういう感覚だ。
書かれている内容が刺激的、それもセックスもドラッグもどちらも身体という媒介を軸にするものであるから、
当然、読むにつれてこちらの皮膚に訴えかけてくるものがあるように考えてしまうのだが、実はそれがない。
ぼーっと座って眺めている、そういう感じ。決して傍観者ではないのだが、醒めた目で現実に向き合っている、そういう感じ。
現実は確かに存在していて、それは触れられる位置にあるのに、頭がその距離を正確につかめていない。
これはまさに、今の時代にも通じる「リアルとの距離感の喪失」が極めて克明に描かれているってことだろう。
だから僕としては、21世紀に入っちゃった今につながる、「現実感」の変質の始まった瞬間、
それを極限状態を舞台にすることで素早く切り取ってみせた、ものすごく敏感な作品、に見えて仕方がない。恐ろしい。

最初のほうで、当時の「現在」を鋭くえぐった、なんて書いたが、実はその「現在」は今の現在にもつながっていて、
現実に違和感のある生活を送っている僕としては、背筋が瞬間的に凍ってまた瞬間的に戻る、そういう感じを受ける。
今から見て過去に、こういうものを書ける人がいた、というのと、それをきちんと評価する人がいた、というのと、
その両方に僕は怖くなる。何も見えていないでいる自分が情けなくなってしまう。結局そこに落ち着いてしまうのが困る。

とにかく、まあ、参った。


2006.2.13 (Mon.)

TeX地獄なのである。いろいろと参考になる本を貸してもらっているので、それを見ながらコマンドを埋めこんでいく。
基本的にはふつうのテキストファイルと同じ感覚で文字が並んでいるのだが、
TeXでは「$」で挟んだ部分が数式として認識される仕組みになっている。数式なので、自動的にイタリック(斜体)になる。
それでおかしい部分を修正したり、コマンドで処理できていない部分を直したり、と地道な作業が続く。
おまけに著者の先生は英語は得意だが日本語はそんなでもない、という人なので(とんでもねー)、
文章の不自然な部分をあれこれ直していく作業も並行してやっていく。そうして時間が過ぎていく。

ああ、TeXについてきちんと説明するのを忘れていた。概略だけでも書いておこう。
TeXとは正しくは「TEX」と書いて、「E」を半分だけ下にずらす。「バッハ」「マッハ」と同じように「テッハ」と読むのが正しい。
しかしそれは日本語では不自然な発音なので、「テフ」「テック」と呼ばれるのが一般的である。
TeXってのはつまるところ、D.クヌースという数学者(プログラミング理論が専門)がつくった組版ソフトである。
この人、自分の本を出版したときにそのあまりの組版の醜さにキレちゃって、自力でプログラムをつくってしまったのだ。
以来、数式混じりの文章を整形して書くのに非常に便利なソフトとして、理系の皆さんにはおなじみになっているのである。
ちなみにTeXは、ヴァージョンアップするたびに数字が円周率に近づいていく。今のヴァージョンは「3.14159」だそうだ。
クヌース先生が亡くなったらそこでストップ、「ver. π」となる決まりなのだそうだ。
さらにこの人はTeX用のフォントもつくっており、そっちのヴァージョンは自然対数の底(e、ネイピアの数)に近づいていく。
今は「2.71828」だそうだ。なんというか、そのセンスだけで賢いのがわかる。そういう脳みそを分けてほしい。

さて、いま取り組んでいるこの本は、現代に至る数学の歴史がテーマで、オイラーからはじまってリーマンまで、
複素数やら整数論やらガンマ関数やらゼータ関数やらを順を追って解説していく内容になっている。
必然的に僕もその中身をじっくり読んでいくことになるのだが、数学も高校レベルを超えると本気でさっぱりわからない。
何を言いたいのかわかるのは最初の2ページぐらいで、それ以降は魔法の呪文を眺めている感じである。
おぼろげながら理解できたのは、オイラーは関数f (x )を足し算で書き換えようとしたらしい、ということ。
本来なら掛け算である関数を足し算で表現しようとして、指数がヒントになると気がついた、ということ。
(たとえば、2の3乗×2の4乗=2の7乗(3+4=7)である。指数部分だけ見ると本来掛け算のはずが足し算になっている。)
で、そうしているうちに1/0!+1/1!+1/2!+1/3!+1/4!+1/5!+1/6!+…とやって、e^ix = cos x + i sin x を発見したらしい、
ということ。それが限界。もうそれ以上のことはわからない。

もし高校数学で、問題を解く前に数学史を紹介するような時間があったら、どうだったろう。
微分積分についてやる前に、ニュートンとライプニッツが何を考えていたのかを教えてくれていたら、どうなっていただろう。
数学ってのはもう完全にロマンの世界だ。世界がどんな形でできているのかを純粋に考える学問だからだ。
ユークリッド幾何学の絶対性が崩壊してからはちょっと様相が変わってきているけど、その理想の高さに変わりはない。
昔の賢い人たちがなんで数学にハマっていたのか、それを面白おかしく紹介してくれれば、勉強するこっちとしては、
ずいぶんモチベーションが違ってくると思う。むしろ数学史こそ、必要とされているんじゃないか。ふとそんなことを考える。

で、できあがったものをコンパイルしてみると、エラーが出たり思いどおりの結果になっていなかったりする。
それでソースファイルを眺めてみると、「ああこりゃおかしいわ」とすぐにわかって、修正する。
そうやって試行錯誤していくうちに慣れていく。結局は、地道な努力なのである。


2006.2.12 (Sun.)

埼玉に行った。例の県庁所在地に行ってみようシリーズで、東京都に隣接しているわけだから、自転車で行った。
最初はひたすら環七を北上。練馬の辺りで道は北東を目指すように曲がり、板橋に入るとゆっくりと東向きに変わる。
すぐに国道17号(中山道)と合流するので、左折。坂道を下っていけば、荒川の土手にぶつかる。
そして埼京線と並んでいる戸田橋にあるのが、上の写真の標識というわけ。

ひたすら17号を北上し、埼玉県庁を目指す。道幅が広いのでわりと走りやすいはずなのだが、感覚的にはそうでもない。
じわじわ体力を奪われていく感じがある。風も決して弱くはないが、それだけが理由ではないはずだ。
なんなんだろう、と思いつつペダルをこぐ。そして蕨に入ってしばらく行ったところで、思わぬものを見かけてしまう。

消防署の駐車場に置いてあったのだが、ある意味悪夢としか思えない絵である。
上半分と下半分とでまったく違うものを合体させているわけで、どんな事情があったのか、知りたくないけど気になる。

気を取り直して再び走りだすと、すぐにさいたま市に入る。かつての浦和市だ。
武蔵浦和駅付近で賑やかな雰囲気になるが、すぐに旧道の空気に戻る。はっとして右手を見ると、見覚えのある風景。
これは、埼玉県庁の裏側だ。進路を変更して、県庁の正面へとまわり込む。
周囲は完全に官庁街で、地方都市のお決まりのパターンだ。

 
L: 埼玉県庁を遠景で。東の浦和駅方向から来ると、下り坂の底から見上げる感じになる。西の17号からまわり込んでも同じ。
R: 近くで見るとこんな感じ。きわめてシンプルで、コメントしがたい。建物としては、奥行きがかなりあるので意外と大きい。

埼玉県庁には大学3年のときにさいたま新都心の関係で聞き取り調査に来ているので、懐かしい気持ちになる。
周囲は全然変わっていなくて、いまいちはじけきれない商業区域が官庁のプライドと微妙に混じり合っていて、
なんだかひきつった苦笑いをしているような空間、そんな印象を受ける。それが僕の感じる「浦和らしさ」なのだ。

17号をさらにちょっと先に行くと、今度はさいたま市役所(旧浦和市役所)が見えてくる。
四角形で固めた建物と意図のよくわからない造形のオープンスペースの対比が印象的だ。

  
L: 南東側から見たさいたま市役所。事務棟部分が非常に目立っている。
C: 正面から見たさいたま市役所。エントランスは右側の議会棟と奥の事務棟をつなぐ役割になっている。
R: 交差点に面している部分はオープンスペース。が、人がたむろするのを防ぐ処置がなされており、完全に無意味な空間となっている。

国道17号については、大学時代のゼミ論文で同級生のヤスダが「ROUTE17物語」というタイトルで扱っていた。
それによると、本来は東側の旧中山道が国道17号だったが、1934年に現在の国道ができて旧中山道は県道になった。
で、現・国道17号の西側に新大宮バイパスが建設され、さらにその真上に首都高速埼玉大宮線がつくられたそうだ。
そういう歴史的な経緯があるせいか、国道17号を実際に走ってみると、なんとも奇妙な印象を受ける。
かつての農地の匂いがどことなく漂う中、新しい住宅もきちんと建っている。戸田や蕨では道は広いが何もない、
という場所も多い。でもロードサイド店もちらほら見かける。そんなふうにしてときどき思い出したように商業地になっていて、
県庁の辺りでは旧街道の雰囲気になり、市役所周辺ではまた新たに拓けたばかり、というような感触も残す。
場所によってまるっきり別の印象になってしまい、あまり道としての統一感が感じられないのだ。正直、よくわからない道だ。

さて、浦和まで来たら当然、さいたま新都心まで行ってみたくなるもの。論文で扱った対象だけに、思い入れは強いのだ。
そんなわけで、そのまままっすぐ北上して、北与野駅を目指すことにする。僕にとっては思い出の地だ。
当時、国立から新都心へ行くには、西国分寺で武蔵野線に乗り換え、武蔵浦和で埼京線に乗り換え、
北与野で降りて歩く、というルートしかなかったのだ(さいたま新都心駅がなかったわけだ)。駅前には大きな書店があって、
そこであれこれ立ち読みするのも楽しみだったのだ。いざ着いてみると書店は相変わらず健在で、少しうれしかった。

北与野駅から東に歩くと、すぐ脇を新幹線の高架が走っている、小さな神社がある。ここにも、思い出がある。
さいたま新都心をゼミ論のテーマにすると決めて、ゼミのみんなで夏休みに合宿をした。
そのとき、僕とオカザキは周辺を聞き取りしてまわった。うろうろ歩いているうちに神社を見つけ、
管理をしているおばあさんに話を聞いた。猫の背中を撫でながら聞いた話はなかなかヘヴィーで、
オカザキはそれをきっかけに、ゼミ論文のテーマを「疎開」に決めた。そして僕はそのおばあさんのことが忘れられず、
半年後にもう一度ここを訪れてさらに詳しく話をうかがい、ライフヒストリーをまとめさせていただいた。
それは「生活調査論」という授業のレポートにしたのだが、街をつくる側と街で暮らす側の双方の話をじっくり聞けた経験は、
僕の中では非常に大きな糧になっているのである。一生忘れることのない思い出だ。
そんな過去を振り返りつつ、お賽銭を入れてお参りをして、新都心へと向かう。

  
L: さいたま新都心の南側・官庁街。霞ヶ関にあった省庁が移転してきた。奥にあるのは総務省の郵政庁舎。
  なお、手前の駐車場になっているスペースは、いまだに用途の決まらない土地。東京タワーに代わる電波塔を建てる計画だったが、
  こないだ墨田区に敗れてついに正式に頓挫てしまった。これからいったいどうするつもりなんだろう……?
C: さいたまスーパーアリーナ。いかにもガラスと鉄骨の構造物なエントランス。実は、僕は中に入ったことがない。いつか入ってみたいねえ。
R: けやきひろばではフリーマーケットを開催中。冬のけやきひろばは落葉してしまってかなり淋しい印象になってしまう。

さいたま新都心はやはりアリーナの集客力が勝負になるのだが、何のイヴェントのない日でもある程度の人は集まるようだ。
個人的にはやはり、南側の官庁街が来場者からまるっきり無視されているのが気になる。もったいないと思う。
とりあえずけやきひろば1階のファストフード店で空腹を紛らわすと、地下道を通って線路を挟んだ東側へと行ってみる。
僕が論文を書いた当時、東側はイトーヨーカドーしか目玉がなかった。でもそれから7年経ち、かなり様子は変わっていた。
というのも、何ができるのかはっきりしなかったヨーカドーの南には新しく商業施設ができていて、
全体的に店の数が大幅に増えていたからだ。むしろアリーナなどのある西側よりも勢いがあって、
もともとの交通の便に加えて駅ができたことが随分大きくプラスにはたらいたようだ。意外と元気があったので、正直驚いた。

新都心を離れてからは、旧中山道を北上する。そのうち氷川神社への参道に分岐するので、当然そっちに移る。
かつてゼミの仲間と歩いた道を、あれこれ思い出しつつ軽やかに自転車で走っていく。
しかしまさか大宮まで自転車で走る日が来るなんて、当時は考えもしなかった。
まっすぐ参道を行くと、石畳に並木道という風情のある道へと変わる。鳥居の近くには露店がちょびっと並んでいた。

 
R: 氷川神社へ向かう参道。周囲はさすがに静かな住宅街。この参道がけっこう長い。さすがは氷川神社。
L: 武蔵国一宮・氷川神社。「大宮」の名の由来は当然この神社。個人的には合併後の市名は「氷川市でいーじゃん」と思っていた。

「モテますよーに」とお参りを済ませると、大宮駅周辺へと向かう。右膝の裏側に痛みがあるのが、少し気になる。

駅を目指しているうちに、道に軽く迷ってしまい、風俗店の並ぶ区域に入ってしまった。
そして、7年前にも同じように道に迷ってしまったことを思い出した。
当時、さいたま新都心についての予備調査ということで、僕とヤスダのふたりで大宮周辺を歩いたことがあった。
真昼間、日差しがけっこうきつい中、ヤスダがリストアップした宿屋(合宿で泊まるつもりだった)を探していたら、
いかにも!な、いかがわしい店の前にばったり出てしまったのだ。「ロマン風呂」なんて看板が出ている。
ふたりでバツが悪そうにその店を眺めていたら、ドアのところに貼り紙がしてあるのに気がついた。
「障害者の方もどうぞ遠慮なさらずご入店くださいませ」
見た瞬間、それまで経験したことのなかった種類の衝撃を受けた。それでいて頭を殴られたのと同じ感触がした。
それはヤスダも同じだったようで、互いに顔を見合わせて、絶句して、しばらくその場に突っ立って、
どちらからともなく「行こうか」と言って、歩きだした。そうしたら無事に旧中山道に出た。
(後日ヤスダがゼミでレポートを提出したのだが、その最後に補足としてこのことがきちんと書かれていた。)
僕はあのとき、社会学という学問がどういうものなのか、ということの一部分を確実に理解したように思う。
雑誌やテレビでは冗談混じりで扱われることが多いし、飲み会でも「社会に出て役に立たない社会学部!」なんて
からかわれ方をするわけだが、本当はどれだけ油断のならない学問なのか、身をもって体験した、貴重な記憶だ。

大宮駅に出ると、ロフト/ジュンク堂に行く。朝と昼休みに読む本が切れそうだったので、買うことにする。
なんとなくかつての日本文学、がっつりした名作を読みたくなって、あれやこれやと選んでいく。
国語の資料集に出てくるようなレヴェルの作品は、どれも文庫で安く売っているのがうれしい。
わりとしっかり買いこんで、ホクホクしながら店を出る。でも1階がロフトのバレンタインフェアで少しブルーになる。

あんまり暗くなるのもヤダし、と思って、さっさと帰ることにする。そのまま旧中山道を南下していく。
大宮駅を離れると、旧中山道は道幅が狭くてもそこそこ快適で、ずいぶんスイスイ進んでいく。
右膝の裏側が痛いんだけど、あまりにスピードが出るのでそんなに気になるほどではない。
六辻の交差点に出て国道17号に戻って、そこでようやく気がついた。
来るときに、なぜペダルをこいでもスムーズに進まない感じがしたのか。
それはものすごく微妙な上り坂になっていたせいだ。ちょっと考えれば当たり前だ。海から上流へと向かうわけだから、
東京から埼玉へ行くのは、当然、上りになるのである。あまりに角度が緩いので、走っていて気づかなかった。
でも帰りは下りになっているのが、自転車のスピードではっきりとわかる。
そうなりゃしめたもの。勢いよく走って、途中で去年さんざん本を運んだ戸田の倉庫(→2005.3.1)にまで寄り道して、
それから戸田橋を渡って東京都に入る。

東京に戻ってきた辺りで、いよいよ右膝の裏側が痛くてつらくなる。なるべく下りの多い道を行こうと頭で行程を探るが、
これといっていい答えが出ない。それはよく考えれば当たり前で、ゴール地点の標高は変わらないわけだから、
結局平坦な道を選ぶのがいちばん無難、ということになる。しかしこれもなかなか難しい。
頭を使うのも億劫になってきて、17号をまっすぐ下って水道橋まで出ると、神田周辺でうろうろ迷って、
結局何も考えないまま六本木通りへと出てしまう。そこから慣れない道に入っていったのが間違いで、
よりによって麻布という都内でも屈指の高低差の激しい地域を突っ切ってしまう。本当に足が限界。
そこからどうやって家までたどり着いたのか、ほとんど覚えていない。

結局2日ほど、右膝裏側の痛みは消えなかった。階段がつらいのなんの。


2006.2.11 (Sat.)

『続・兵隊やくざ』。前作がとても面白かったので(→2006.2.5)、当然のごとく借りてきた。

話は前作の直後からスタートする。南方へと兵士を送る列車から見事脱走に成功した有田と大宮。
しかし喜んだのも束の間、地雷で吹っ飛ばされてしまう。目が覚めるとそこは陸軍病院で、結局軍隊に戻る破目に。
その部隊には曹長として八木(いいもん)と岩波(わるもん)がいた。大宮は八木の世話をすることになるが、
恨みを抱いた岩波は敵襲に紛れて八木を撃ってしまう。で、ふたりが立ち上がるというあらすじ。

今回は陸軍病院の看護婦・恭子をヒロインに、相変わらずひ弱で芯を通す有田と自分なりの筋を通す大宮が活躍する。
もし軍隊という偶然がなければ出会うことがなかったふたりが、やはり軍隊という強力な矛盾をきっかけにして、
いつの間にかかけがえのない絆をつくっている、そういう面をしっかりと見せてくれる。
前作では軍隊の理不尽さを描くことにエネルギーが割かれていたのだが、今回はかなりエンタテインメント色が強い。
岩波に対して中国人の処刑中止を有田が訴える辺りはかなりわかりやすい勧善懲悪への伏線になっているし、
物語のクライマックスは、岩波が八木を撃ったという事実を有田が突き止める、いわばミステリ的な要素も含めている。
で、勝新演じる大宮は、不器用に優しくわがままに暴れる、という役割分担がより明確になってきている。

というわけで、結論としては十分面白かったのだが、この後に続くシリーズの展開がだいたいこんな感じだろう、と、
「読める」領域にまで達した作品だとも思うので、3作目以降はとりあえず見るのは保留しておくことにする。
きっと面白いんだろうけど、よくあるシリーズもののパターンになっていそう。
まあそれはつまり、キャラクターの魅力があればこそ、なんだけどね。


2006.2.10 (Fri.)

『ミクロの決死圏』。
以前にアシモフがノヴェライズしたものは読んだのだけど、映画はまだなのでDVDを借りてきて見た。
日記の過去ログをチェックしてみたら、ノヴェライズのほうも感想を書いていなかったので、双方を比べながら書いてみよう。

その前に共通のあらすじを少々。
東西冷戦のさなか、チェコの科学者・ベネシュがアメリカに亡命してくる。が、いきなりスパイに襲われて瀕死の重傷を負う。
彼の命を救うためには、まだ研究途中である縮小技術を使ってその体内に入り、内側から手術をするしかない。
そのプロジェクトに呼ばれた特別情報部員のグラントが、医学の専門家らとともに潜航艇プロテウス号に乗り込む。
縮小している時間は1時間。そのあいだに、手術を終えて脱出しないといけない、という話。

ちなみにオチは、『キン肉マン』の「黄金のマスク編」で悪魔騎士の4人がウォーズマンの体に入りこんだときと一緒。
ゆでたまごめ、あそこまで見事にパクる(オマージュと言えるけどね)とは。小学生だった僕はすっかりだまされていた……。

まず、A.アシモフの書いたノヴェライズ版から。

訳が非常に読みやすくって、特殊任務の重苦しさと時間に追われるスピード感とが、直に伝わってくる。
医学における専門的なことも、今ほど細かいところまでわかっていない大雑把な時代だったにしても、
専門知識の羅列で終わるようなこともなく、必要な部分をわかりやすく提示して物語の雰囲気を上手につくっている。
そのうえでグラントのイケメンぶりとデュバルのモテないっぷりとの対比をかっちり描いていて、
女の子と仲良くするにはこうだ、こう!とモテない僕には読めてしまうのが、切なかった。
んでもって、適度に現実感のあるSFをベースにミステリ(犯人は誰?)を展開するという手際の良さがすごい。
まあつまり、エンタテインメントの要素がこれでもかというほど凝縮されている、贅沢な作品である。

完成度がすごく高いので、読み終えると「ああなるほど。面白かった」で片付けてしまいそうになる。
しかし、じゃあ自分にはこのレヴェルでこれだけの要素をまとめられるかというと、絶対無理である。
職人芸というか、当たり前にするっと読めてしまうその卒のなさが、ふと振り返ったときに恐ろしい、そんな小説だ。
物語を考えてそれでメシを食うには、これだけのレヴェルでできないといけないのか、と思うとゾッとする。

次に、映画のほう。

小説のほうを先に読んでしまったからか、ずいぶんとあっさりとしたイメージだった。
たとえば、小説ではかなり緻密に書かれていた主人公とヒロインのイチャイチャっぷりが、映画ではないに等しい。
その分、テンポがいいのは評価できる。よけいなことを気にしないで(?)、緊張感を味わえるのだ。

何よりすばらしいのが、人体内の映像。もちろんセットなんだろうけど、すごくきれいにつくってある。
色づかいも形状も、幻想的な印象すら残す。1966年の映画だが、時代を感じさせないくらいに美しい。
というか、どこか映像は昔のテレビ番組みたいな鈍さがあるのだが、それが逆に雰囲気をつくっているのだ。
今の映像では決して出せない味というか、質感というか。それが全編にわたって独特の存在感を主張している。
言ってみれば人体ってのはこの世界で最後の秘境なのかもしれないけど、それをきわめて魅力的に描いている。

僕はその映像のせいもあって、ぼんやりと前に見た『猿の惑星』と同じ感覚を味わった(→2005.6.7)。
懐かしいテレビ番組(小さい頃に夕方やってたようなイメージ)を見ているかのような錯覚。
それはきっと、この時期のこの独創性のある話たちが、次の作り手の世代に多大なる影響を与えたからなんだろう。
そうして、次の世代がつくった作品を通して、そのオリジナルの匂いを「懐かしい」と僕らは感じているのだ。

だから『猿の惑星』でもそうだったけど、残念なのは、当時の独創性が僕らには「当たり前の常識」になってしまった点だ。
当時のインパクトを100%の純度で受け入れることができない。知識として知ってしまってから実際に触れる、という順序。
そのせいでこの作品のことを「正しく」評価できなくなっている、という思いが消えない。それが悔しい。

そんなわけで、まとめると、映画はミクロのサイズから見た人体の中という、誰も経験したことのないものを、
想像力ででっち上げて、しかもそれを非常に美しく幻想的な光景としてまとめた点がすばらしい。
人類がまだ見たことのないものを、映画というフィクションの中で完璧に実現してみせた最初の作品じゃないかと思う。
対するアシモフによるノヴェライズは、映画では描ききれなかった細部を、よくまあここまでというくらい丁寧に追っていて、
より楽しくもう一度映画を体験することができそうだ。見事に、一粒で二度おいしい作品にさせている。

順番としては、やはり、映画→小説という順序が良さそうだ。そうすると、映画の凄みもアシモフの凄みも十分味わえる。
映画については、この時期、つまりガチガチに古典というより、ちょっとだけ古典・古典に片足を突っ込んでいる、
そういうバランスの作品には独特の魅力がある。「古くて新しい」のではなく、「新しかったもの」。
それがゆっくりと古典へと消化されていく現在が見えてくる。逆を言えば、今だからこそそういう感覚で味わえるわけで、
それはそれで封切り当時にはなかった贅沢さ、なのかもしれない。ものは考えよう、か。


2006.2.9 (Thu.)

平野啓一郎『日蝕』。作者が京大在学中に芥川賞をとって大いに話題になった作品。
文庫本になっていたので買ったのだが、活字の字体がふつうと違う。そこまで気合が入っているとは、と思い、
負けないようにとこちらも気合を入れて読んでみたのだけど……。

結論から言っちゃうと、少しも面白くなかった。文体が凝っているのだが、一皮剥いてしまえば、あまり上手い印象はない。
逆を言えば、もともとそこまでキレていない文体を、うまく工夫して雰囲気を出している、とも考えられるのは確か。
そういう意味では、その努力を認めるべきだとは思う。しかし、決して文章が上手いとは言えないレヴェルだとも思う。

ストーリーを一言でまとめると、いわゆる「イニシエーション」。
主人公が旅をして、そこで錬金術師に出会い、従来のカトリックの世界観では理解できないものを目にする。
まあだからといって劇的に主人公は成長・変化をするわけではない。ゆっくりと、歳をとりつつ、視野を広げる。
強いて言えばその辺が比較的新しくて、この作品は評価されたのかもしれない。

なんでかわからないが、僕がこの本を読み終えて最初に思い浮かんだのは、「幼稚」という単語だ。
自分のことを棚に上げてあれこれ書くほうが幼稚なんだけど、あえてここはストレートに思ったことを書いておく。
イニシエーションという使い古されたネタに対し、凝った文体で注意深く入り込んでいく姿勢、それを僕は「幼稚」と感じた。
「若さ」ではなくて、「幼稚」だ。本当に若くてイキのいい作者なら、臆面もなく正面からぶつかっていくはずだ、と考える。
しかし、平野啓一郎はじっくりと作戦を練って、あれこれ表現を工夫して、計算をして取り組んでいった。
ところがいかんせん、この話は骨組・ベースの部分が元来、そこまで面白い話、魅力的な話ではないのだ。
もともと面白くないところに奇形的な肉付けをして満足している、そこに僕はどうしても幼稚さを感じてしまう。
本当に力のある作家の場合、話自体の魅力が文章の表現・工夫を引き出してくるものだと僕は信じているのだ。

「若さ」とは、短所を含めて自分のことを実際よりも大きく見せようと覚悟を決めること。
「幼稚」とは、短所を隠して自分のいいところだけを見せようと計算すること。

もうひとつ、この文庫本で非常にイヤなのが、四方田犬彦の解説だ。この人の文章は本当に気持ちが悪い。
知識はあるし、表現上の工夫をしているのもわかる。でも、書いている内容が実は大したことがない。
これは平野啓一郎の『日蝕』本体とまったく共通していて、僕にはお互いに傷を舐めあっているようにしか見えない。

平野啓一郎について「三島由紀夫の再来」ってな表現を見かけるけど、そりゃいくらなんでも先方に失礼だろ、と思った。


2006.2.8 (Wed.)

新しいiPodが届く。いわゆる第5世代(5G)というやつだ。ボディが薄い。前のやつをスパッと切って厚みを減らした印象だ。
そして、画面がカラーなのだ。これには驚いた。会社で使ってるMacと色づかい、デザインが一緒で、けっこうかっこいい。
でもバックライトをつけないとおそろしく見づらくなる。これはケータイの画面とまったく同じことだ。
バックライトをつけるともちろん、電池の消費が激しくなる。以前の4G(第4世代)と比べると、かなり不便な点である。

iPodの入っていた箱が、以前の1/5くらいの大きさになっているのも驚いた点だ。
すっきりしすぎている気もするんだけど、それだけ「大層な機械」から「カジュアルなアイテム」に変化したということだろう。
取扱説明書もあっさりしていて、詳しいことはPDFで確認するようになっている。たった1年なのに、時代の流れを感じる。

今度は故障させないようにと、さっそくiPod用の靴下に入れて大切に扱う。
それにしてもやっぱり、iPodがあるっていうのは本当に便利というか贅沢な生活だ。
この勢いで、世の中はどこまで進んでいくんだろう。想像がつかない。


2006.2.7 (Tue.)

『タナカヒロシのすべて』。主演があの鳥肌実ということで、そこそこ話題になった作品だ。
32歳独身、一人っ子で親と同居中、しがないカツラメーカーに勤務する冴えない男・タナカヒロシが主人公。
交互にやってくる悲しいできごととささやかな幸せとを、ソフトな視線で描いていく。

なんせ主演が鳥肌実ということで、どうなるんだこれはと思って見はじめたのだが、とってもフツーだった。
まったく違和感なく、きちんと俳優として役をこなしている。期待される役柄を、ぴったり100%でやりきっている。
だからなんというか、鳥肌実が実際には器用な役者だということは十分証明されたと思うのだが、
かといって鳥肌実じゃないと演じられない主人公だったかというと、とてもそうは感じられない。
ストーリーからすれば及第点なんだろうけど、やはり何かもったいない、そういう感触が拭えない。

全体的にこぢんまりとしていて、悪くないデキなんだけど、どこか迫力不足。
淡々と無事に日常を過ごしていく(それがいちばん難しい)ことの大切さ、それを表現したい作品なのだと思う。
でも、だからこそ逆説的に、「迫力」を持たせないといけないと思う。そういう迫力が、作品への引力になる。
鳥肌実というキャスティングはまさに、本来そのための「毒」だったはずじゃないかと思うのだが、
どうにもきれいにおさまってしまっている。良し悪しの前に、まず残念という気持ちが残る作品だった。


2006.2.6 (Mon.)

スーパーボウルについて。

今年はピッツバーグ・スティーラーズとシアトル・シーホークスの対戦。
スーパー初出場のシアトルに勝たせてあげたい気持ちもあるんだけど、今年は事情が複雑なのだ。
というのも、スティーラーズ一筋でがんばってきたRB・ジェローム=ベティスが今シーズンで引退を決めている。
(ベティスはRBだが巨漢って感じの体型で、“the Bus”というニックネームを持つ。圧倒的な突破力を誇る選手だ。)
スティーラーズは70年代にはテリー=ブラッドショーと「鉄のカーテン」で圧倒的な強さを誇ったわけだけど、
ここ最近はまったく冴えないシーズンが続いていた。だからベティスにとっては最初で最後のチャンスというわけだ。
しかも開催地がデトロイトということで、ベティスの出身地。メディアはベティス一色の報道になっているのである。
こうなるともう、どっちを応援していいのかわからない。しょうがないので「いいゲームを見せてくれー」となる。

Messengerでワカメと雑談をしつつ、中継を見る。
ワカメはNFLに詳しいわけではないのだが、スポーツを見るセンスは抜群にいいので、
ビッグプレイやしょーもないプレイをきちんと理解してくれる。で、ふたりして「冴えないゲームだなあ」と語りあう。
ベティスに注目が集まっている分、それだけマークがきつくなっているのはわかる。
そしてベティスはそのマークを引きつけるだけ引きつけて、他の味方選手のチャンスをつくろうしているのもわかる。
しかしどうにも注意力が散漫で、いまいちゲームに緊張感がない。
結局スティーラーズが勝ってベティスよかったね、という結果に終わったんだけど、
純粋に内容を楽しめたかというと、「いや……」という感触が残る。なんだか残念である。


2006.2.5 (Sun.)

『兵隊やくざ』。勝新太郎と田村高廣のコンビが軍隊という矛盾を舞台に暴れまわる。

関東軍に配属されているインテリの有田上等兵(田村高廣)は、除隊まであと少しということで気楽に過ごしている。
そこに札付きの初年兵として大宮貴三郎(勝新太郎)がやってきたことから、ドラマが始まる。
大宮は東京で用心棒として暮らしていた、まあいわゆるヤクザ者。有田は大宮のお目付け役を任されることになる。
しかし軍隊特有の上下関係が理解できない大宮は、その矛盾している部分にいちいち突っかかっていく。
表面上は事なかれ主義の有田だが、やはり軍隊という組織の持っている矛盾には納得がいっていない。
衝突を繰り返す大宮の姿に、有田は共感を覚え、あれこれと世話を焼いてやる。
そして任侠の世界に生きてきた大宮は、有田の優しさに心底惚れこむ。

まるで刑務所のような生活。古参兵のわがままは無理が通って道理が引っ込む。
そういった環境が延々と続いていく中、有田は除隊が認められないという事実に直面することで、
品行方正な兵士であることをやめ、大宮の立てた脱走計画に加担する決意をする。

植民地で兵隊相手に働く女性の悲哀をまじえつつ、男の友情と大胆な反抗を描き出すのは非常に痛快。
ひ弱だが芯の通っている田村高廣と、乱暴だが心根は優しい勝新太郎のコンビは、
そりゃあ続編をいくらでもつくりたくなるのがわかるほど、本当に魅力的だ。
軍隊という最高に規律が要求される組織、しかしその内面は矛盾だらけで成り立っている規律、
そういったものに正義感と不快感とでぶつかっていく姿は、見ていてスカッとする。
マジメに社会性だとかを考えることもできるし、単純にエンタテインメントとしても味わえるし、質の高い作品である。


2006.2.4 (Sat.)

宮藤官九郎監督、『真夜中の弥次さん喜多さん』。
期待して借りてきたんだけど、途中でウンザリ。竹内力ぐらいしか笑えなかった。コメントする気も起きない。おわり。


2006.2.3 (Fri.)

井上靖『孔子』。偶然、NHKで井上靖を扱ったミニ番組を見て、じゃあ読んでみようか、と思ったのがきっかけ。
いちばん最後の作品ということだし、諸子百家とか好きだし、ということで読んでみた。

実は、もともと僕は井上靖にいいイメージを持っていなかった。むしろ、最悪の部類の作家としてカテゴライズしていた。
というのも、学校で国語の時間に『しろばんば』なんかを読むんだけど、どうしてもその主人公が気に入らなかったのだ。
教科書や副読本や問題集には必ず、井上靖の少年時代を回想した作品が収録されている。
そして、主人公は恵まれていない状況にあるけど、とびきり賢くて、大人たちから一目置かれている。
まるで透き通った目をした主人公の澄ました顔つきが浮かんでくるようで、それが本当に嫌いだった。
子どもらしさ、子どもが吸い寄せられるように惹かれてしまうミクロの世界、そういったものが、井上靖にはなかった。
身長が130cmの大人が理想像としての少年を演じているようで、気持ち悪くて我慢がならなかった。
でもさすがにそれから15年も経つと、もうその辺のこだわりはどうでもよくなってしまっているので、
今回は、わりと純粋な、まっさらな状態で読めたと思う。

で、『孔子』。主人公は孔子ではない。歴史には登場しない架空の人物、孔子の弟子である老人が主人公である。
弟子といっても本人は謙遜して、子のそばにいさせてもらった者、なんて具合にへりくだっている。
孔子が亡くなってずいぶん経ち、弟子はもう彼しか生き残っていない。
そんな彼のもとに、中国全土から孔子研究家たちが集まる。そして彼の昔話を聞きながら、
あれこれ議論を重ねる、その様子が克明に描かれるという、ちょっと変則的な作品だ。
全編が主人公による話し言葉で書かれていて、これが遺作というのもなかなか特殊な気がする。

孔子とその弟子たちは高い(高すぎる)理想を抱いて諸国をまわったわけだが、
彼らは極めて自由な師弟関係にあり、同じ時間を過ごしていることで自然と学ぶ、という最高の関係が実現されていた。
それは井上靖が求めていたものだと解説には書かれている。井上靖は最後の小説で、それを具体的に描写したわけだ。
面白いのは、孔子と弟子たちの自由な師弟関係と、時を経て実現している主人公と孔子研究家たちという関係が、
パラレルというか相似になっているところである。つまり、何を教えていたかという問題よりも、
どのように教えていたかというスタイルの問題のほうが、実は重要であるというのが、読者にだけわかるように描かれている。
主人公も孔子研究家たちも互いに敬意をもって相手に接していて、実はそれはかつての孔子たちにも通じる姿勢である。
その関係性を保ちながら議論をすること、時間を過ごすことこそ、何にも勝ることなのだ、という主張が隠されている。

こういう変則的な作品がきちんと認められる、というのはさすがの力量だと思うんだけど、
やはりそこには評価の固まった大作家だからこそできる芸当、という気もするのである。
オレは人生をきちんとまっとうしたぜ、という自信に満ちたおじいちゃんだからこそ書くことができた作品だ。
その点をとてもうらやましく思う。


2006.2.2 (Thu.)

仕事がー

雑草の本の初校、心理言語学の本の再校、電気機器の本の再校と、仕事が立て込んでいるのである。
困ったことに、どれもだいたいやる仕事の内容が一緒なのだ。いわゆる「赤を入れる」仕事。
教科書として使うものを優先してやっていくのだが、机の周りは書類だらけで何がどこに行ったかわからない。
本当にしっちゃかめっちゃかになりながら、どうにか乗り切っている……のか?という状況である。

強制的に文章を読むというのも、かなり勉強になる。今回は「雑草の生態」について書いてみよう。

雑草なんか研究して何になるの?という疑問はすぐに浮かんでくるのだが、実はこれがなかなか奥が深い。
たとえば何かの拍子に空き地ができるとする。雑草はすぐに生えてくる。ところが、この生え方には、決まりがある。
正確には「遷移」といい、空き地になって何年目にどれが生えてくる、というのが決まっているのだ。
最初は小さいものが勢いよく広がるが、やがて背の高いものが太陽の光を独り占めするようになる。
そんな中で最強のセイタカアワダチソウがのさばったり、つる植物がずるがしこく生き残ったり。仁義なき無常の世界である。

人間の活動はつねに雑草のジャマになる。踏みつけたり、耕したり。これを「攪乱」という。
しかし、実は雑草たちは攪乱がないと生きていけない。環境が変化することで、その間に活路を見いだす植物なのだ。
だから雑草の種を播いても、店で売っている花の種なんかとは違って、すぐに芽を出さない(種子の休眠)。
そうして芽を出すタイミングをランダムにすることで、いつ攪乱が起きてもつねにどれかが生き残るようにしているのだ。
また、一見同じ種類の雑草でも、田んぼに生えているものと畑に生えているものでは、特性が異なっているのだ。
一年に一度しか稲を育てない田んぼよりも、畑のほうが耕す回数が多いため(二期作など)、違いが出る。

雑草のジャマをするのは人間だけじゃない。雑草どうし、太陽の光・水・栄養を奪い合う。
だから自分のからだのどの部分を成長させるのか、トレードオフという取捨選択の戦略がそこにはあるのだ。
しかも、アレロパシーといって、雑草自身が化学物質を分泌して、ほかの植物を枯らしてしまうことすらある。
実は僕らの目には見えないところで、とてつもなく熾烈な戦いが繰り広げられているのである。

たとえば砂漠を緑化するとき、自然な植生を考えるのに雑草の存在をはずすことなどできない。
また最近よく話題になっている帰化植物をどう抑え込んでいくかという問題では、雑草の研究はとても重要になる。
そんなわけで、雑草という研究テーマは、実は意外とマジメに考えないといけないテーマだったりするのである。

それにしても、雑草の研究と社会学は、少し似ている部分がある。
特にエスニシティの問題を考える場合、それぞれの特性が空間にどう広がるか、政治面も含めて力関係はと考えると、
どこか共通点を持っているように思えてくるのだ。ひとつの力が加わったときの反応という点で、そっくりな気がする。
いろんなヒントを与えてくれそうなことは確かだ。雑草って地味なんだけど、無視するのはもったいない存在なのだ。


2006.2.1 (Wed.)

壊れてしまってどうにもならないので、新しいiPodを注文した。
修理をしても2万円かかってしまうらしいので、じゃあ新しいのを買って容量を10GB増やしたほうがいいか、という思惑。

壊れる前、iPodのない生活というのは、想像がつかなかった。
しかしいざ壊れてみると、もう本当に、禁断症状が出まくるのである。
好きなときに好きな音楽がすぐに聴ける、というのはどれだけありがたいことか。これは一度慣れてしまったら戻れない。
あの小さな容積の中に、ありとあらゆるものが詰まっているようにすら思える。まさに文明の利器。

そんなわけで、しばらくはMDプレーヤーで毎日を過ごすことに。前はこれで十分満足していたのに……。
人間ってのは際限なく贅沢なもんだ。


diary 2006.1.

diary 2006

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