diary 2005.12.

diary 2006.1.


2005.12.31 (Sat.)

PRIDEとK-1とかDynamite!!とかを見る。
↑この1行目の表現からしてはっきりしていると思うのだが、僕は格闘技のことがまったくわからない。
わかるのは、インリン様がHGにM字フォール負けしてタマゴを生んでマットから去ってしまった、ということだけだ。
どーせ僕は、相変わらずヒマでモテない人間ですから。

兄の僕がこの体たらくなのに対し、弟の潤平はきちんと格闘技についての情報を仕入れていて、詳しい。
だから潤平にあれこれ解説してもらいながら、それぞれの試合を見ていくことになる。

今年はどの試合をザッピングしてみても、マットに転がって組み合ってばっかりだったのは気のせいだろうか。
全試合の2/3以上で、男ふたりが脚を絡ませてくんずほぐれつしていたように思う。曙までしていたし。

格闘技については以前の日記でも書いているけど(→2003.12.31)、
自分にできない身体の動きへの憧れとか、(テレビに映せるレヴェルだけど)人間が気絶する瞬間の怖いもの見たさとか、
そういった要素が今の人気の根底にある、と僕は考えているわけだ。
もうちょっと真剣に、この点について言語化してみたいなあ、とは思っている。なかなかそんな暇ないけど。


2005.12.30 (Fri.)

実家はサボってしまっていけない。何をサボるというわけではなく、全般的にサボりぐせがついてしまう。
なんとなーくテレビを見ていたり、なんとなーくマンガを読んでいたり。とにかく、時間をムダに消費してしまう。
たまっている日記をなんとかして書かねば、という思いでパソコンをBONANZAに入れて持ってきているというのに、
日記を書く気なんてぜんぜん起きやしない。時間の有効活用で日記更新という皮算用は、あえなく撃沈。

僕は高校まで実家暮らしで、浪人するにあたって名古屋の寮に入って、それ以来一人暮らしである。
こうして実家で「穏やかな波」とでも形容できそうな、ゆるーいサボりぐせの海に浸っていると、
いかに家族というか家庭環境というかが、実力を発揮させない方向で作用していたのかがわかる。
(もっともこれは一般論ではなくて、あくまで僕個人の場合でしかない。要注意。)
一人暮らしだとサボるのもがんばるのも自由なので、気が向いたらがんばる/休むのリズムがとりやすい。
でも家族といると、家族と一緒に時間を過ごさないと残酷なように思えてしまうし、サボっている姿を見せておかないと、
「無理しないで休んだらー」なんて勝手に言われてしまいそうだ。いらぬお節介が容赦なく飛んでくる。

そりゃ大学落ちて浪人するわ、と今になって思う。サボらないといけない空気が存在しているからだ。
いや、もちろん、サボるというのはつまり、気の置けない自分の居場所だからできるということでもあるわけで、
本来は決してマイナスになる要素ではないのだ。そのバランスが保てないのは本人の問題だ。
親がそういうバランスを意識させて育てたかどうか、という問題もあるかもしれないが、
まあとにかく、メリハリをつけないとアリ地獄なループになってしまう、そういう恐ろしさがある。

『ニューシネマパラダイス』(→2005.10.20)でアルフレードが「帰ってくんな!」と言ったのも、妥当なことだなーと思う。
なんかやんなきゃいかん!と思っているアンビシャスな男には、そういうサボる環境が大いに毒になることもあるのだ。
そんなことをベッドで寝転がってマンガ読みながら考えているオレは、もう終わってんな!


2005.12.29 (Thu.)

親知らずを抜くのである。これこそ、今回の帰省した最大の目的である。

僕の顎は小さめで、特に下の親知らずがめちゃくちゃな生え方をしていた。
左下のやつは前に抜いてもらったのだが(→2002.3.29)、右下はまだで、今回これを抜くのである。
ちなみにレントゲン写真を見たのだが、右下の親知らずは後ろから前という方向に生えていた。
ふつう下の歯は下から上に生えるはずなのだが、完全に寝ている状態で生えてきたのだ。
食べるたびに物が挟まるといった具合で、このたび長年の懸案事項がついに解決されるというわけなのだ。

麻酔の注射を打ってもらうと、さっそく作業開始。メリ、メリと音をたてて親知らずが離されようとしていく。
けっこう厄介なケースだったようで、顎の肉も一部切り取るというちょっとした事態に。
それでもムダな不死身っぷりには定評のある僕にしてみれば、あまり特に痛いということもなかった。
むしろ舌の根っこの方に打たれた麻酔注射の痛みの方が強くて、飯を食べるときに引っかかった。

翌日、あらためて様子を診てもらったのだが、先生は顔の形が変わるほどひどく腫れることを予想していたようで、
ちょっと膨らんでいるかも、という程度でケロッとしている僕に呆れていた。これぐらいふつーふつー。


2005.12.28 (Wed.)

会社で納会。15時くらいから会議室に集まって、食べたり飲んだり。

いったんアパートに戻ってから、帰省する準備を完了させる。BONANZAにはなんでも入っちゃうぜ。

飯田に着いたのは日付が変わるくらい。ふと空を見上げると、とにかくやたらと星がきれい。
6等星までわかる。きちんと見えるというわけではなく、その存在がわかる、そういう輝き方。
星と星の間には見えないけど星がいくつもあって、そうして隙間を無限に埋めているのだ、なんて考える。
後ろを振り返って歩いてきた道を見ると、北斗七星がまっすぐに縦に鎮座していた。
東京暮らしが長いせいだとは思わないのだが、実家ってこんなに星がきれいだったっけか、と意外に思う。
いくら寒い冬で空気が澄んでいるからとはいえ、見とれてしまうほどに細かい光の粒がいっぱい。
しばらく黙って真上を眺めて、目にした光景をしっかり覚えてから、家に入って、寝た。


2005.12.27 (Tue.)

NHK教育『ハートで感じる英文法』について書く。冬休みということで再放送をしているのだが、これが凄い。
去年まで僕がちょうど塾で教えていた中学生レヴェルの英文法を、完璧にマスターできる内容なのだ。
今日の内容はto不定詞の名詞的用法と動名詞(~ing)の違いで、中2で苦労した人も多い山場のひとつなんだけど、
日本語にはない英語固有の感覚・イメージから入っていくことで、違いを理解させていく。

僕は名古屋で浪人して、1月になってから英語の成績が飛躍的に伸びたという経験の持ち主だ(→2005.1.2)。
その原因は、英語を日本語に戻してから文の意味を考えるのではなく、英語を英語のままニュアンスで理解する、
そういう手順を踏めるようになったことにあると思う。不定詞の名詞的用法と動名詞で言えば、いちおう書き換えできるが、
不定詞の名詞的用法じたいはどんなニュアンスを持つのか、動名詞じたいはどんなニュアンスを持つのかが重要だ。
この場合、不定詞の名詞的用法は堅苦しいイメージ、形式ばったイメージ、頭の中で「~すること」と想像するイメージ。
動名詞は実際に動いているイメージ、気さくなイメージ、今まさにそれがすぐそこで行われているというイメージ。
「こういう文脈ではこっちの言葉を使ったほうが英語っぽい」という差が感覚的にわかるようになって、成績が急に伸びた。

『ハートで感じる英文法』では、そういう英語らしい/英語らしくないという感覚をつかむためのイメージを大切にする。
英語固有の感覚を、なるべくやわらかい日本語でつかませようとするのだ。僕が塾でうまく伝えられなくて苦しんだ、
そういうアルファベットの隙間にしかない微妙な空気を、実に的確に紹介してくれる。シビレるほどにわかりやすい。
こんなことされたら、もう僕の出る幕がない。僕が中学生にしゃべりたかったことをぜんぶ、いやそれ以上にやってのけている。

そう、内容が中学生レヴェルなのがまたいい。きちんとマスターすれば、高校レヴェルにもすぐに対応できるようになるからだ。
一度イメージを理解できれば、大学入試の際に勝負を分けることになる、ニュアンスの把握が完全にできるようになる。
浪人中に僕は「英語ってのはつくづく、センスなんだなあ」と思った。英語らしさのセンスを磨けば、それだけでいいのだ。
(塾で教えてからは、序盤はとにかくミスをなくすことが大切だと思った。公立高校の入試レヴェルまではそれで対応できる。
 で、有名私立高校や大学受験のレヴェルになると、ここでようやくセンスの勝負になるのだ。念のために書いておく。)

これはぜひDVDで発売すべきだと思う。かなり売れ行きはいいだろうと思うし、英語教育全般にとってもとんでもなく有益だ。
とりあえず正月にまた再放送があるらしいので、興味のある人はぜひチェックしてみてほしい。目からウロコ落ちるよ。


2005.12.26 (Mon.)

J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』。野崎孝による訳。白水社のお馴染みの版。

巻末の訳者の解説を読めばもうそこにバッチリと書かれているのだが、
大人の現実・常識・行動に対して、多感な子どもが抱く嫌悪感・焦燥感がたっぷり描かれている。
それに今ごろになって大いに共感している28歳の自分というのは、マズいのかもしれない、と思って読んだ。
でもそういう感覚を失ったらオシマイよ、とも強く感じているわけで、いまだに板挟み感覚が続いている。

この作品は、読んでいる本人の年齢、それは精神的な年齢や肉体的な年齢、さらに社会的な年齢によって、
大きく見え方が異なってくるように思える。主人公・ホールデン=コールフィールドをどういう視線で眺めるか。
同じ「共感する」にしても、ホールデンとの距離をどの程度に感じるかで違うだろうし、そういう意味において、
読むことでむしろ自分が見えてくるタイプの傑作の典型、と表現できるだろう。
ちなみに僕の場合には、やはりどこか未来から過去を眺める感じになった。同じ高さの立ち位置ではなくて、
少し上から、彼を背中から眺める感じ。そうして距離をおいて(いちおう優しく)見つめている。つもり。

しかしやはり、こういう作品を書ける作者の能力ってものには、あらためて脱帽である。
こういう作品を読むと、優れた作者ってのは優秀な役者なんじゃないかって思わされる。
本当は32歳(当時)のおっさんが、16歳の視線で演じきって、しかも観客にはそれぞれ独自の余韻を残させる。
もろくて強い子どもという存在をパフォーマンスしてしまう大人、そういう自由さの秘訣をぜひ知りたい。
これは村上龍の『69 sixty nine』(→2005.9.21)ともまたちょっと違っていて、
なんというか、扱っている対象が現在であることに、難しさと可能性の両方を感じる。

最後にちょこっと書いておくが、いちばん衝撃なのはやはりアントリーニ先生だ。
安易な救いなんてない、ということだな、やはり。


2005.12.25 (Sun.)

いい加減けりをつけなければ、ということで、今日は一日おとなしくしていた。おかげでずいぶん体調は良くなった気がする。

夜になって、『M-1グランプリ』を見る。最近はお笑いを特にチェックしていなかったからか、知らない名前がいっぱい。
最初のラウンドの結果は、まあ順当かなという程度。例年僕は笑い飯を批判しているが(→2002.12.292003.12.29)、
今年は良かったと思う。観客の存在を意識して、余裕をもってスピードを上げていた感じ。納得の決勝ラウンド進出。
南海キャンディーズのテンポの悪さもきちんと辛い評価になっていて、ええんやないのーと思いつつ見ていた。
ただ、品川庄司の演技をもうひとつ見てみたかった、という気はする。

全体的に中くらいの粒ぞろいだなあ、というのが今年の感想。
ほとんどが一定のレヴェルに達していて、それがだいたい順当に点数がつけられていたように感じる。
個人的に、いちばんのびのびやっていたのは麒麟だと思った。決勝ラウンドの「麒麟です」もきれいに決まったし。
そういう最初のラウンドとのコンビネーションの面白さが発揮されていたので、ポイントがとれなかったのは疑問。

正直、優勝したブラックマヨネーズについては、明らかに過大評価だと思う。
どんぐりの背比べ的なところがあったので「ムカつく!」というほど納得がいかないわけではないのだが、
関西方面の迫力で押し切る芸風が、そんなに長持ちというか、幅広い支持を得るようには思えない。
「話芸ではなくテンションでやりとおす人が増えている」とはトシユキ氏の指摘だが、まったくそのとおりだと思う。
ハリガネロックが本選に進めなかったことが、それを象徴している気がする。
来年以降、なんとかなるといいなーと思うのである。


2005.12.24 (Sat.)

無呼吸対策のスリープスプリントをつけて寝たところ、「いびきは相変わらずだが無呼吸はなくなった」
との報告をみやもり・リョーシ両氏から受けたのであった。もうちょっと下の歯を出すように調整してもらおうか、と思う。

さて、姉歯祭り2日目。ニシマッキーはデートなので帰宅。それ以外は全員独り者なので暇。そんなイヴ。
みんな元気なのだが僕だけ39℃の熱が下がらない。それでも意識はいつもどおりなので、みんなと一緒に行動する。
昼メシを食べた後は家で『M-1グランプリ』の番宣番組を見て過ごす。「鼻エンジン」の存在に驚く。

14時くらいになってダニエルから連絡が入り、秋葉原に集合することになった。
ダニエルは千葉県在住なので、東京に出てくるのにちょうどいい場所、ということでそうなったのだ。
が、懸案のメイドカフェの件もあるので(ニシマッキー&リョーシ氏は結局、前回行けずじまい →2005.9.17)、
そうなるであろう予感はあった。姉歯仲間ではダニエルがそっち方面にいちばん詳しいので、
これはもう、案内してもらうことになるんだろうなーという雰囲気に。そうして電車に乗り込む。

秋葉原に着くとマサルがアキハバラデパート前の実演販売に釘付け。
マサルは知恵の輪に代表されるキャストパズルが大好きで、それを売るカリスマおじさんがいるというのだ。
しばらくそのカリスマぶりをみんなで眺めているうちに、ダニエル合流。

ダニエルの指揮下、メイドカフェを求めて旅に出る。到着した先では行列ができていて「うわぁー」と思う。
が、「空いているから並ぼう」という隊長の判断で、寒空の中、じっと待つ。なんだか情けない行列だなあ、と思いつつ。
結局30分くらい待って、店の中に入ることができた。なお、マサルはメイドマッサージの店に単独行動で突撃していった。
イヴということでメイドの皆さんはサンタルックに身を包んでいた。だからってどうってこともなく、ケーキと飲み物を注文。

するとダニエルが「もんじろう」というおもちゃを取り出した。立方体の6面にひらがなの文字が書いてある。
立方体はぜんぶで24個。これを12個ずつに分けて、ふたりでゲームができるという。面白そうなのでやってみることにする。
手元にある12個の立方体を使い、6文字の言葉を2つつくる。早くできた方の勝ち。ルールはそれだけ。
こう書くと簡単そうだが、意外と難しい。1つ目は難なくできても、残りの6個できちんとした言葉をつくるのが、大変なのだ。
人名もOKなので、「なかまゆきえ」「たんけんたい」という組み合わせが5分弱で完成。これはそうとう運がいいケースだった。
ほかにも「あんとうみき」「まなへかをり」が完成(濁点の有無は自由、拗音・促音は大きな文字で代用可能なのだ)。
女性タレント大好きなHQSらしい対処をする。どんな言葉を思いつくかは、けっこうその人の性格が出るのも面白い。

まあそんな感じで、ミニスカサンタメイドそっちのけでひらがなを並べまくっていたとさ。

ところで秋葉原には懐かしのファミコン専門店がある。マサルに連れて行ってもらって以来、僕は秋葉原に行くと必ず寄る。
みんなでそこになだれ込んでみた。やっぱり商売繁盛しているようで、ちょっと前まで1フロアだった店は、上の階にも進出。
そこにはゲームミュージックの中古CDがロックされたガラスケースの中に陳列されており、それがなかなか衝撃的だった。
というのも、大阪の日本橋で中古ゲームミュージックCDを見たときは、そのあまりの高額ぶりに呆れたが(→2004.8.10)、
それとまったく同じ状況になっていたのだ。10年前に買っていたかもしれないCDが、定価の5割増しぐらいで売られている。
中には僕が今でも持っているCDもあった。その資産価値(?)に、思わずうなり声が出た。時間の流れに愕然とした。

マサルが体調不良っぽい、と訴えてメイドマッサージ店からそのまま帰ったので、残った4人でヨドバシカメラの飲み屋に入る。
ここでもダニエルがリーダーシップを発揮して、お得なメニューをあれこれ注文。おいしゅうございました。
他愛もないことをあれこれダベって時間が過ぎる。非常に有効なイヴの過ごし方だと個人的には確信しております。

飲み屋を出ると、カフェベローチェで4人、クリスマスのつもりケーキを食べて、それで解散。
熱がぜんぜん下がらないので(いつもと同じように街を練り歩いてりゃ当たり前なのだが)どうにも調子が冴えなくって困った。
もし僕の体調が良ければまだもうちょっといろいろできただろうから、申し訳ない気持ちでいっぱい。


2005.12.23 (Fri.)

HQS同期によるOB会「姉歯祭り」がスタート。しかし開始時刻に間に合ったのはリョーシ氏一人だけという、
相変わらずのだらしなさ。しょうがないので家でふたりでしばらくダベって過ごす。
その後、立て続けにニシマッキーとみやもりが合流。メンツがそろったのでクイズを始める。

われわれはクイズ研究会のOBなのだが、クイズをやるのは本当に久しぶりで、年単位の懐かしさ。
ニシマッキーが『アタック25』のパネル操作をパソコンの画面上でできるソフトをダウンロードして、いざクイズ開始。
早押し機だけでなく問題集までニシマッキーが用意してくれて、まさに至れり尽くせりのサーヴィス。
「おーおークイズってこんなんだったわー」なんて久々の感覚に浸りつつ、熱い戦いを繰り広げた。

そのうち、ふつうのルールじゃ飽きてきて、パネルの形をおかしな形にして遊びだす。
7×7の『アタック49』に始まり、X型にパネルを配置した『アタックX』、十字型の『アタック+』で遊ぶ。
『アタックX』はパネルが派手にめくられることもなく波乱は起きなかったのだが、
『アタック+』は大きくめくられるのを防ぐ戦いが非常に熱く、変にやりごたえのあるルールだった。

晩メシは大岡山の商店街に出て、ヤマダモンゴルのジンギスカンをいただく。
BGMが見事に90年代ヒットパレードで、みやもりが1曲ごとに反応していて面白かった。
それにしてもヤマダモンゴルの「ヤマダ」の理由はわからずじまい。

部屋に戻ると、仕事中に暇をみてつくったという(いい生活してやがんな)、みやもりの自作問題でもう一戦。
2005年を振り返る内容の問題で、微妙に黒さがブレンドされているのがみやもり流。
僕はそういうみやもりの出題とは抜群に相性が良いので、草一本残らないほどの一人勝ちをさせてもらった。
本当に久しぶりのクイズで、知識量は全盛期に比べれば絶対に落ちていると思うんだけど、
その分「読み」で押すプレーが存分にできて楽しかった。おーオレもまだ捨てたもんじゃねーやーと思えてよかった。

日付が変わる頃になってマサルが登場。iPodを使ったイントロクイズを出してくれたのだが、これが異常。
落語を流して誰が演じているか当てさせたり、アカペラで歌うゲームミュージックを当てさせたりと、やりたい放題。
一味違うエンタテイメントの「マサルクイズ」を、これまた久しぶりに堪能させてもらった。
僕はその後、風邪が完治していないこともあり、ぐったり状態になってギブアップしたのだが、
マサルはふつうに早押しクイズに参加して、けっこう切れ味鋭い押しを見せていた。やるぅ!と思いつつ寝る。


2005.12.22 (Thu.)

スリープスプリントのおかげで寝覚めはよかったのだが、どうにも体がつらかったので、午後だけ出社にしてもらう。
「無理しなくてもいいですよ」とのことだが、雑草の生態についての本が山場なので、少しでも進めることにした。年末だし。

午前中は風呂に入ってのんびり過ごす。去年まではこんな生活だったなあ、などと思いつつ。

正午くらいに家を出る。飯田橋に着いてから昼飯を食べたのだが、体温が上がって汗が吹き出る。

会社ではマスクを装着して淡々と仕事をこなしていく。17時になって帰る。帰ったらメシを食ってすぐに寝る。
明日から姉歯祭りだというのに、こんなんで大丈夫かよ、と不安を感じつつぐっすり。


2005.12.21 (Wed.)

会社にいる間に風邪を引く、という珍しい現象に遭遇する。

朝のうちは別にどうということはなくて、ちょっと体の調子がいまひとつかな、という程度だったのだが、
仕事をしているうちに、なんだか体に熱さを感じるようになる。足元がちょっとゆらっとする感じもした。
こりゃ変だぞ、と思って昼は弁当を食べることにして、仕事を進める。どんどん体が熱っぽくなっていく。
弁当食ったら即、寝る。途中で2回ほど起こされて、起きるたびにちょっとつらい。
午後になるともう完全におかしくて、衣擦れがやたらと気になる。つねに誰かに触れられている感じ。
荒い呼吸でうつむきながら、校正を進めていく。17時になったときには、明らかにどっから見ても風邪。

この日は歯医者でスリープスプリント(マウスピース)を組み立てる予約をしていたので、根性で三田まで行く。
マウスピースをつくるのはけっこう珍しい部類に入る仕事のようで、スタッフの人がいつもよりちょっと多くて、
皆さん僕の様子をそれとなく見学していたような気がする。それとも風邪のせいでそう思えたのか。

スリープスプリントの上下を接着するやつがものすげー苦かった。

この日、もうスリープスプリントがもらえると思っていなかったので、お金を用意していなかった。
しょうがないのでとりあえず1万円だけ払って、あとは年明けということに。大変申し訳ない。

帰りの三田駅ではもう立っているのもつらくって、電車を待っている間、座り込んでいた。
家に着いたら即、風呂に入り、できたてホヤホヤのスリープスプリントを装着して就寝。


2005.12.20 (Tue.)

会社で忘年会があった。例年どおり中華料理屋であれこれいただく。
1週間前に幹事グループに任命されたのだが、荷物を運んで酒を注文するくらいしか仕事をしていない。
デザートのマンゴープリンが非常においしかったのと、生まれて初めて紹興酒というものを飲んだのだが、
面白い風味なんだけど後味がしっかりアルコールでまいった、ということぐらいか。

解散となってから、なんとなく帰りたくないなあ、という若手に巻き込まれて、そのままダーツになだれ込む。
ダーツなんてものをやるのはこれまた生まれて初めてで、序盤はひたすらテキトーに的に向かって投げつけていく。
「301」というゲームをやったのだが、後半に入るにつれ、なんとなくルールがわかってきて勝負が熱くなる。
ダーツはそれぞれ区切られた部分で点数が決まっていて、その分だけ持ち点から引かれていく。
「301」の場合、最初の持ち点が301点あるわけで、そこからガンガン減点していって、最後にゼロにするゲームなのだ。
1巡で3回投げられるのだが、マイナスになってしまうとその時点で次の人にターンが回ってしまう。
で、誰かがゼロにした時点でゲームは終了。けっこう先攻有利なルールなのである。

先輩&同期2人とやったのだが、なんと、最初は誰もルールを把握していなかった。
そのうちにうろ覚えだった同期が思い出してきて、「あーなるほど」なんて具合にテキトーにやっていく。
ルールがわかればしめたもの。酔っ払って頭の状態はよくないのだが(いつもよくないけどな)、
なんとか狙いどおりにダーツを投げて、わりとあっさり勝ってしまった。勝つとゲームって楽しく思えるのね。
ダーツってけっこう楽しいなあ!とすっかり上機嫌なのであった。われながら単純である。
そしてお酒をおごってくれたベテランの方に、レイザーラモンHGばりに土下寝(土下座の最上級)して、解散。

振り返ってみると、ダーツってオトナの遊びなんだけど、遊んでいるこっちがガキだとガキのゲームなのだ。
これでいいのだ。


2005.12.19 (Mon.)

森博嗣『すべてがFになる』。名古屋の大学助教授が書いて話題になった作品の、いちおう1作目。
孤島で隔離されている天才の博士と密室殺人という組み合わせに、大学助教授の犀川と学生の西之園が挑む。

読んでいてやはり、瀬名秀明『パラサイト・イヴ』(→2005.2.3)に似ているなあ、という感覚をおぼえる。
それは理系ならではの語彙や展開、あと本の厚さが共通しているからなのだと思う。
しかしこちらは純粋にミステリになっていて、話の時間軸を未来に向けて進めていく『パラサイト・イヴ』と、
過去の時間軸を丁寧になぞっていく『すべてがFになる』を一緒にくくるのは、やっぱり乱暴だ。

よくできている。伏線もがっつり張られているし、論理的な矛盾もないように思える。本当によくできている。
でも、好みからはまったくはずれてしまっていて、細かいことでいちいち突っかかってしまった。
象牙の塔の中で煙草を吸って満足するようなスタイルを全力で肯定する感じ、もっとわかりやすく言えば、
理系による開き直ったおたくくささ、おたく的理想の世界が、気持ち悪くてしょうがなかった。
やたらと分厚いこの本だが、削る気になれば2/3程度に圧縮できそうな気がする。
その、圧縮できるであろう1/3の部分が、どうにも鼻についてならないのだ。

よくできている、と書いたが、それはつまり、登場人物を作者が思いどおりに動かした結果である。
どんな脇役も、少しも作者の意図からはずれることなく動いた結果として、完全なパッケージができあがる。
しかし、それには限界があると僕は思うのだ。キャラクターの側が、作者の邪魔をするように動きだすことがあるはずだ。
ギャグマンガなどで、登場人物が作者の意図からはみ出して動き出してしまうこと。それが、面白さの根拠になる。
(そういうキャラクターを挙げればキリがない。牛バカ丸&坂田鋼鉄郎、白鳥沢レイ子、横島忠夫、などなど……。)
演劇だって、役者が演出家の意図を超えて、予想以上の効果をあげることだって往々にしてあるだろう。
現実の生活では、誰一人として自分の思いどおりに動いてくれる人なんていない。だから困るし、また、面白い。
そういう要素にまったく欠けるこの作品は、僕からすれば、まったく魅力的に映らないのだ。

巻末にある瀬名秀明の解説を読むかぎり、このシリーズのその後の展開は大いに気になるところだ。
しかし上に挙げたような「リスク」を考えると、正直読むのはもうウンザリ。心に余裕があれば、ゆっくりチャレンジするかもね。


2005.12.18 (Sun.)

チャールトン=ヘストン主演、『ウィル・ペニー』。ネタバレありで書く。

西部劇でドンパチもあるのだが、主人公・ウィルはガンマンというわけではない。カウボーイである。
カウボーイといっても、牛の扱い以外は知らないおっさんで、風呂も1ヶ月に一度入らない、字も書けない、
牛を運んで金をもらってそのシーズンを乗り切る生活、当然のごとく独身という、超ブルーカラーな面が描かれる。
牧場に向かう途中、クイントという無法者たちと獲物をめぐって争う。そしてウィルは、クイント一家に執拗に追われる。
それでも牧場で仕事を始めたのだが、息子を連れて旅をしているカザリンという女性が敷地内の小屋に居ついてしまう。
ウィルがクイントに襲われたところをカザリンが救い、一緒に暮らすうちにウィルは家族というもののあたたかさを知る。
しかし、ウィルが生きていることに気づいたクイントは、小屋を襲って占領してしまう……。という話。

ガンマンは完全に社会からとっぱずれた存在だが、こうして見ると、カウボーイもけっこうはずれてしまっている。
現代で言えば日雇いの労働者とだいたい同じ状況にあるわけで、そういう意味では確かにきちんと西部劇なのだ。
しかしこの映画では、50を過ぎて孤独なカウボーイの生活しか知らなかったおっさんが、
家族というものに戸惑い、結局あきらめることで、西部劇らしい哀しみを実現しているわけだ。

特別面白くはなかったが、見て時間のムダとかそんな感じにはならなかった。「ま、いいんじゃないの」ってくらい。
それは結局、クイント役のD.プレゼンスの怪演によるところが大きい。やっぱり悪役がキレていると、何倍も面白く感じる。


2005.12.17 (Sat.)

大学時代のゼミのOB会に参加する。前に参加したときは左足にヤケドをしていた(→2002.12.14)ので、久々になる。
最近はすっかり先生にもご無沙汰していたので、いいかげんきちんと顔を出さにゃなあ、と思ったわけだ。

新宿まで自転車で行ったのだが、微妙に遅れる。開始時刻を間違ってしまい、慌てて家を出たのだが遅かった。
現役の皆さんに連れて行ってもらって、会場に着く。そこには同期のヤスダがすでにいい気分で酔っ払っていた。
ヤスダに会うのは5年ぶりくらいなのだが、気持ち悪いくらいまったく変わっていない。5年前そのままの姿でいる。
首筋から注射器でちゅーっとエキスを吸い取ったら不老不死の薬ができるんじゃないかってくらい変わっていない。
一方、ヤスダはこちらにまったく気がつかない。先生も気がつかない。面白いのでしばらく黙っている。
ようやく気がついて、やあやあやあ、となる。メガネはずして髪の毛立てただけなのに別人扱い。
でもまあ、つまりそれだけ月日が経っていたということなのだ。なんだかしんみりしてしまう。

先生は僕が軽く消息不明状態になっていたのをそこそこ心配していたようだ。名刺を渡して安心してもらう。
ヤスダは何もかも相変わらずだったのだが、1コ下のミタニさんがなかなか衝撃的だった。
高校時代には演劇部だったというミタニさん、戯曲を書いて文化庁から賞をもらったというのだ。
こないだ観た『トランス』(→2005.11.10)や『贋作・罪と罰』(→2005.12.8)の話で盛り上がったのだが、
こっちは内心「ハァーすげー」でいっぱい。やっぱ人間、創造的にいかなきゃいかんなーと痛感する。
同期ではオカザキが小説を書いているのだが、僕もなんかせねばいかん、という気にさせられた。
いつまでも部屋の中で体育座りして過ごしているわけにはいかないのだ。クリエイティヴな人生を歩まんとなあ。
ミタニさんには後日メールで戯曲をもらう約束をしたので、読んでこっちもやる気を出すことにします。

ウチのゼミの飲み会では、3年生のときに書くゼミ論がどうしても話題の中心になる。
僕が書いたさいたま新都心のゼミ論(→2005.11.8)についての話にもなったのだが、初対面の後輩から、
「あれすごいですよ! 徹底的に読ませてもらいました」ってな感じで、すごい勢いで褒められてしまったので、
なんだかすごく恥ずかしくなる。周りの人間にも、過去の自分にも、負けてられないのである。

結局3次会までヤスダ&ミタニさんたちと一緒に飲んだ。自転車をこいで帰る午前3時。
頭が痛くなるまで飲んだのは、ずいぶん久しぶりのことだった。まあまた来年もこんな具合で楽しいんだろうな。

このやる気をなんとかして持続させないとねー。


2005.12.16 (Fri.)

今までに書いた論文を振り返るシリーズ第3弾、修士論文編である。
(第1弾のゼミ論文はこちら(→2005.11.8)、第2弾の卒業論文はこちら(→2005.11.23)。)
……が、なんというか、修士論文は紆余曲折を経て書いただけあって、ここで紹介するには微妙な要素がある。
ひらたく言うと、「書いたもの」と「書きたかったもの」の間には、とんでもなく大きな乖離があった、ということだ。
面倒を見てくれた先輩・夏休みを返上して手伝ってくれた後輩に対して本当に失礼になるので、多くは語らない。
でも、ウソはつけないので、この日記では、「書きたかったもの」の方だけを取り上げることにしたい。
とりあえず今回はその前哨戦ということで、僕が修士論文に書きたかった内容がどのようにシェイプされていったか、
その思い出をとりとめもなく書いてみることにする。それがたぶん、重要だと思うからである。根拠はないが。

※ここで断っておくが、僕がここでテキトーに使っている「市役所」という言葉は、市町村レヴェルでの自治体庁舎を指す。
 別に「市」に限らず「町」や「村」でもいいのだが、「市」しか調べたことがないのでそうなっている。
 (それに、「町」や「村」はやっぱり「市」とは違うんじゃないか?という予感もしている。)
 とにかく、国や都道府県レヴェルよりももっと身近な基礎自治体の庁舎一般の話として理解してほしい。

修士論文を仕上げたのは2003年8月のことで、つまり僕は修論が書けなくて半年留年したというわけである。
その「よけいな半年」を生み出す結果となった聞き取り調査が、今の僕にとっては決定的に重要なものになっている。
学部の卒業論文では公共建築をテーマにしたが、その具体例として市役所について書きたい、と思うようになった。
理由はいくつかあって、卑近なレヴェルでは飯田市役所のまさに隣で生まれ育ったことが起因していると思うし、
もっとちゃんとしたレヴェルでは、権力を色濃く反映した空間として市役所が最も扱いやすいスケールだと考えたからだ。
それで、具体的に市役所のどこに注目するのかということをまとめるため、下準備として僕は2件の聞き取り調査をした。
ひとつは僕のホームグラウンド、大田区役所(→2002.8.15)。バブルでつぶれた桃源社の建物を引き取った経緯がある。
もうひとつは当時、移転計画の真っ只中だった目黒区役所(→2002.9.18)。こちらもかつては千代田生命の本社だった。
どちらもつぶれてしまった民間の建物を庁舎として利用している点が共通している。珍しいが、先進的な例だった。
そして行ってみて直接肌で感じたのだが、最初は別の建物として建てられたとしても、庁舎として利用していれば、
その空間は公の権力を帯びるようになるのである。柔軟性を失うというか、味気なくなるというか。
「役所は役所に生まれない。役所になるのだ。」
公の権力は後天的に生み出されうる。それを生み出す人間・社会の無意識な構造(お上意識もそのひとつ)とは……?
そしてその構造がどのように空間上に投影されて、市役所のデザインへと結実するのか。
さらにそのデザインがどのようにして、訪れた人たちに対して権力を再生産していくのか。
……それをなんとか解明したい、というのが、僕が本当にやりたかったことだ。

しかしながら、そういう目に見えないものを精確に描写するってのは、実際にはとんでもなく難しい。
どういう方法論があるのか、あれこれ考えてはみたのだが、どうにも「論文」として成り立たないのだ。
僕の勘では、市役所という空間には確実に何かがある。人を退屈させる、でも無意識に従ってしまう、そんな何かが。
その「何か」を言語化しないと、「論文」にならない。それもきちんと順序を踏んで、論理的に結論を導かないといけない。

それでもどうにかして市役所について修士論文を書きたい!勘を証明したい!と主張していた僕に対し、
大学院の先生は「じゃあお前にとって理想の市役所像を見せてみろ」と言った。
これは工学の発想からすれば当然のことだ。ゴールとなるモデルがなければ、第一歩を踏み出せない。
結果として目的とは別のゴールにいっちゃってもいいから、とにかくまず設定すること。それが肝心なのである。
そもそも、ゴールを想定しないで研究をするのは、趣味で気の向くまま対象を調べているのと何ひとつ変わらないのだ。
役に立たないと研究とは呼べないわけで、市役所の研究が今後どう役に立つのか説明してみろ、というわけだ。
理想の市役所。
……これはなかなか難しい。だって、日本人にとって市役所は、理想云々以前に、まず存在しちゃっているものだから。
だいいち市役所なんて、「理想」って言葉から遠い位置にある。役所とは堅苦しくってつまらない空間でしかないから、
今さら理想とか語ったところでどうにかなるとは到底思えない場所No.1である、と言ってもいいだろう。

しかしこれが海外になると、ちょっと様子が違ってくる。市役所という空間の性質が、日本とは異なっているのだ。
たとえばストックホルム市庁舎。ここはノーベル賞の授賞式が行われる、非常に威厳のある空間になっている。
パリの市庁舎だって、その前でキスしているカップルの写真が有名な芸術作品として認知されているくらいだ。
それ以外にも観光名所になっている市庁舎はいくつも存在している。でも日本に名所の市庁舎なんて、ひとっつもない。
僕はこれを「city hall」と「city office」の違い、と説明している。市役所を英訳したとき「cty hall」と表記する市は多い。
しかし実際の機能を見た場合、本当に「city hall」となっている庁舎はほとんどない。たいていは「city office」なのだ。
市ではないが東京都のケースを見ても、新宿の都庁舎に「hall」の機能はほとんど存在していない。
前に庁舎が建っていた土地に東京国際フォーラムが建設されて、「hall」の機能がそちらに完全に分けられているのだ。
(ところで僕は「市役所」という語を「市庁舎」とまったく同じ意味合いの言葉として使っております。申し訳ない。
 「市庁舎」は建築物のみを指す語だが、それだと何かがつかみきれていない気がして、無理に「市役所」を使っています。
 「役所」という言葉の持つ意味合いが、日本人特有の公共性に応じた特別な響きを持っていると思うのだけど……。)

「office」とは仕事をするための空間であり、娯楽だとか祭りだとか、そういう要素とはまったく無縁である。
日本の場合、特にそういう意識が強い。よけいなことをしないで仕事に集中してくれ、そういう気風が存在している。
こうなった経緯を「公」という漢字が中国でどのように生まれたか、日本でどのように解釈したかを通して論じた本があり、
それを前に都立中央図書館で立ち読みしたことがあるんだけど、具体的なタイトルや著者名を一切忘れてしまった。
そこに書かれていた内容が「hall」の拒絶と「office」の肯定を説明するのに一役買ってくれるはずなのだが、
今となってはどうしょうもない。何か情報をご存知の方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いいたします。

で。そのゼミのときの「理想の市役所」に対する僕の答えは、「江川達也『BE FREE!』の最終巻に出てくる学校」だった。
そして「そんなん知らねーよ」と一蹴された。「読めよ!」と思ったが、ケンカになっても損するだけなので言わなかった。
(僕が指導する側の人間だったら、絶対に読む。そういう確信があるから、退けないのだ。まったく困ったものだ。)

この「『BE FREE!』の最終巻に出てくる学校」という答えは今でも変わっていない。
市役所という空間がより親しみを持てるものになり、その空間を通して「市民」が主体的にアクションを起こす存在になる、
そういう理想が実現する日はまあ来ないとはわかっちゃいるんだけど、でもやっぱりそれが理想でしょ、と思うのだ。

(「『BE FREE!』の最終巻に出てくる学校」と「市民が主体的にアクションを起こす空間としての市役所」。
 これが似通ってくる理由が、僕が3年前にぼんやりと「博士論文で書くかもしんないなあ」と思っていたことにつながる。
 近代とは何か? それを学校と役所という空間を通して描き出すこと。その結果として、脱近代が見えてくる――。
 それが僕なりの、社会学と工学の融合による成果……だったわけだ。このままじゃ未遂で終わるが。)

あとゼミの際、「議会は青空の下、オープンスペースで開催されるべきだ」と発言して、理解不能ってリアクションをもらった。
民主主義と演劇の関係とか、情報公開とか、そういう面から見ても、きわめて本質的な意見だと僕は信じているのだが。
もっとも、オープンスペース議会は現代社会において、セキュリティ面で大きな課題を抱えているのは確かだ。

脱線ばっかりで何が主張したいのか自分でもサッパリの文章になってしまったが、強引にまとめると以下のとおり。

1. 市役所の権力性は、後天的に成立しうる。が、多くの例では先天的に権力性を持たせて建設している(政治性)。
2. その権力性の根源は、個人・社会のレヴェルで内在している。それが無意識のうちに市役所という形を生み出す。
3. 市役所の空間デザインには、建設した当時の権力性・政治性が造形として埋め込まれる。【ここが修論のテーマ】
4. 市役所という空間は、デザインされた装置として権力を再生産する。
5. ゆえに、空間を操作することにより、権力性・政治性を操作することが可能になる。

前例主義というか、今までのやり方にとにかく従う、その考え方によって市役所・公共空間はつくられ続けている。
でもそうしてできた空間が魅力的に思えたことはあるだろうか? そういう制度・生活が魅力的に思えたことはあるだろうか?
言語化されたことのないそういう「空気」をえぐり出すことで、空間を、さらに生活を変える第一歩を踏み出したい。
そういう思いで、僕は市役所を修士論文のテーマに据えようと考えた。
しかし「論文」という形式では実現できない、ということで、結局あきらめざるをえなかった。
(その結果、僕は法言語と生活言語の差異という考えに至ることになったわけだ。→2005.4.29

以上で準備運動ができたと思うので、とりあえず次回、その本当に書きたかったことについて、きちんと書くことにする。


2005.12.15 (Thu.)

『ロボコン』。高専のダメな4人が集まって、ロボコンの全国制覇を目指す話。

高専にこんなかわいい子がいるわけねーだろ!というツッコミはさておき、長澤まさみが主人公。
他人のことを何とも思っちゃいない天才肌の設計担当に小栗旬(メガネはずすとイケメン、にしたかった模様)。
どうしょうもなく気弱で自分に自信の持てない作戦担当の部長に伊藤敦史。
いっつも仲間と遊び歩いて真剣にロボコンに取り組もうとしないメカニック担当に塚本高史。
可もなく不可もないキャスティングだなあ、という感じで、お決まりのシンデレラストーリーが始まる。

話の展開は『ウォーターボーイズ』的な青春モノ(→2005.5.222005.8.10)の流れのど真ん中なので、
そうなるとキャラクターの魅力が勝負になるのである。この点、少し弱かったような気がする。
長澤まさみはどこにでもいそうな感じ(高専以外で)のかわいさで、十分いいと思うのであった。
でも小栗に描写のウェイトがいった分、部長の葛藤が薄くなってしまったように思うのである。
存在感のない役とはいえ、実際に存在感がなくなってしまったのはちょっと悲しい。
むしろキャラの濃さという点では、ライバル役の荒川良々の一人勝ちな気もする。

特筆すべきは実際のロボコンの対決シーンだろう。めちゃくちゃ熱い。
実際に高専の生徒たちがつくったロボットが主人公たちの前に立ちはだかるのだが、この戦いが本当に面白い。
運の要素もうまく取り入れていて、とてもフィクションとは思えない戦いを演じるのだ。
デッキブラシからベルトに代わる装置を思いついたり、ケータイに穴を空けて部品にしたりという演出もかっこいいが、
肝心のロボコン対戦シーンがよくできているので、それがきちんと生きている。
本物のロボコンが好きな人なら、この対戦シーンを見るためだけにこの映画をチェックしてみてもいいと思う。

そんなわけで、対戦シーンがよくできていたので、個人的にこの映画は十分及第点。
それ以外の部分では、『ウォーターボーイズ』的なお約束をどう斬新に乗り越えていくかの課題が気になった。
まあそれはこの映画に限らないことだと思う。 がんばってほしいなあ、とのん気に思うのであった。


2005.12.14 (Wed.)

睡眠時無呼吸症候群治療日記。

今日は歯型をとった。ポリパテみたいなのを歯に当ててしばらく待って、ごぼっと抜く。
そうしてできた型をもとにして、プラスチックでマウスピース(スリープスプリントというのだ)をつくるのである。

いちおう、マウスピース(スリープスプリント)についての解説をしておこう。
無呼吸が軽~中症だと、前歯を固定するマウスピースを装着することで窒息を防ぐ処置がとられる。
人間の歯の噛み合わせというものは、奥歯はぴったり上下が対応するようにできているのだが、
前歯は上の方が前に出て、下の前歯とズレて重なる位置関係になるようになっている。
(縄文時代くらい昔には、前歯も上下がぴったり重なるようになっていたみたいだけど。)
で、マウスピースはこの下の前歯を受け口気味に前に出して固定してしまうのである。
下顎全体を前に出した状態にして、寝ている最中に下顎が重力で落ちないようにする。
これで気道が確保できて、無呼吸状態になるのを防げる、というわけだ。

とにかく20年来苦しんできた無呼吸なので、なんとかここでけりをつけたい。
過度な期待は禁物とはいうのだけど、やっぱり期待せずにはいられない。マウスピース、できあがるのが楽しみだ。


2005.12.13 (Tue.)

舞城王太郎『阿修羅ガール』。

まーなんというか、まあ、こういうのも文学なのか、というのが第一印象。いや、決して悪い意味ではなく。
こういう文体がきちんと認められているということに安心する。……と同時に、ホントにいいのか?
なんて疑問がやっぱり頭の中をチラつくのだ。いや、まあ、いいんだろうけどさ。

話の内容としては、主張したいこと・書くべきことを最後できっちり(とってつけたように?)まとめていて、
だからそれまでのぶっ飛ばし方も肯定できる。むしろわりとありきたりな結論を、斬新な回路を通過することで、
一味違う作品へとうまく昇華させている、ってことになるんだろう。上手いがゆえの崩し方ってわけだ。

個人的にそれはちょっとなあ、と思った点は2つで、まず分量の問題。
これは文体が文体なので当然なのだが、単純にまとまる主張のわりには文の分量がやたらと多い。
好みの問題なので気にならない人もいるだろうけど、僕はもっとスマートにいく方が好きなのだ。
しかしあちこちに脱線しそうな感覚こそがこの作品の味であり、本質であるのも確かだと思うので、どうにも困った。
で、もうひとつが「それで、佐野は……?」ということ。まあ、関係ないことは切り捨てちゃうというこの潔さは、
細かいことにばかり目がいってしまう、それで本筋を見落としてしまう人に対する強烈な皮肉にも見える。
ミステリ好きに向けておしりペンペンしているように思えたのは僕だけだろうか。

善意で解釈すれば、この文体はメールによるコミュニケーション時代の、
話し言葉が混入しまくっている新しい書き言葉を、文学というフィールドで提示しているのかもしれない。
そういえばメールを打つときの「ニチニチニチニチ」という表現が好きだった。

文庫には『川を泳いで渡る蛇』という作品が巻末におまけで収録されていたのだが、
こちらを読むに、まるっきり面白みに欠ける。やはり『阿修羅ガール』のスタイルが正解なのだ、この作者には。


2005.12.12 (Mon.)

風呂に入ってぼーっとしてたら思い出した。合唱について考えたことがあったのだ。
前にNHKで高校生の合唱コンクールをやっていて、それをぼーっと見ていたらいろいろと思うことがあって、
日記に書こうと思いつつ、すっかりそれを忘れていたのだ。というわけで、思い出したので書いてみる。

合唱ってのはレヴェルが高くなると、独自の世界観を持つようになってくる。
学校のクラス対抗合唱コンクールというレヴェルではなかなかそこまでいかないので見落としていたのだが、
ひとりひとりが本気で声と向かい合って「表現」を意識して歌い出すと、独特の説得力を持つようになるのだ。
番組を見ながら、うーんなるほど、なんてひとりでうなって納得してしまった。

中学3年生のとき、『十字架(クルス)の島 かくれ切支丹によせて』という曲を学年の合唱曲として歌った。
途中で転調があったり拍子が変わったりと、それなりに難しさを持った、本格的な合唱曲だった。
当時は僕も大きな声を出してきちんと歌うマジメな生徒だったので、けっこう真剣に取り組んでいた。
(高校時代にもクラス対抗の合唱コンクールがあったが、曲が気に入らず、練習も本番もすべてボイコットした……。)
音楽の時間には先生がシンセサイザーを持ってきて、プログラミングした曲でパート別練習をしたのも楽しかった。
特に大会に参加したとかそういうことはないんだけど、けっこう評判が良くって、ことあるごとに歌った記憶がある。
学校の音楽会のラストで歌ったときには、保護者を中心になかなか熱狂的な拍手をいただいた。

ところが、である。後になってそのときのパフォーマンスを録音したテープを聴いたのだが、めちゃくちゃだったのだ。
音程が完全にズレている。ちょっとこれは聴き続けるのがつらいなあと思ってしまうくらい、高い方にズレていたのだ。
合唱曲なのでリズムの方の揺れは多少は許されると思うのだが、こっちもあんまり安定していない印象がした。
声量のバランスもぜんぜんとれていなくて、各パートのやりたい放題といってもいいくらいのデキだった。
そんなわけで、歌った側としても十分満足のいくパフォーマンスだったし、客も満足してくれたはずだったのに、
テープで客観的に聴いてみるとまったくもってめちゃくちゃのぐちゃぐちゃで、あれはなんだったんだろう?と首をひねった。

結局のところ、それはいつも日記で演劇の感想などで書いている、「観客を惹きつける力」が起こした錯覚だと思う。
パフォーマンスする側の迫力が観客を呑んじゃって、それで互いにテンションが上がっていった結果、
客観的な判断をする能力が麻痺してしまい、主観的な体験が「すばらしいパフォーマンス」という記憶を残したのだ。
こう書くとマイナスなイメージに受け取られるかもしれないが、僕はテープに録音された客観的な磁気のデータよりも、
観客の頭に残ったコンテンポラリーな記憶の方が「正しい」と思っているので、別にそういうつもりはない。
時間と空間を共有できた人だけに許される特典は、決して他の誰も貶めることのできない貴重なものなのだ。

で、話は元に戻る。
NHKでやっていた高校生たちのパフォーマンスは、録画・録音されたうえできちんと視聴者を満足させているのだから、
当然、中学校の体育館で歌っていた僕たちなんかよりもはるか上をいっている。見ていて感心させられてしまった。

そして、生徒たちが必死になって構築・実現している合唱曲それぞれの世界観がまた面白かった。
合唱曲ってのは本当に独特なもので、オリコンのチャートに載ることもなければ、鼻歌なんかで口ずさむこともない。
つまり、合唱を専門でやっている人たちのパフォーマンスを聴くことがなければ、一生出会うことのない曲たちなのだ。
これはそうとう特殊な状況に追いやられていると思う。ここまで「限られている」曲ってのは、他にないのではないか。
しかしその分、曲に仕掛けられたギミックは非常に多彩で興味深いものになっている。
まず曲にはテーマ(つまり主題=題、タイトル)があって、それを実現するためにあれこれ仕掛けが施されているのだ。
前述の転調や拍子の変化もそうだが、そうして平然と曲調を完全に別物にしてしまい、テーマを多角的に捉えている。
そこには、1番と2番のメロディが同じ、サビを模した前奏が入る、みたいな決まりきった様式などなくって、
とにかくひとつの小宇宙を完結させるための、つくった側の意識と歌う側の意識の追いかけっこがあるだけなのだ。
そう考えると、合唱ってのはただきれいな声で歌うだけではなくって、観客にひとつの世界を提示してみせる試みであり、
その巧拙ってのは、実はとんでもなく高いレヴェルで判断されているのだ。妥協のない、とても厳しい戦いなのだ。
もちろんそれは合唱に限った話ではないだろうが、合唱の扱う曲が「特殊」であるゆえ気づきやすかったのかな、とは思う。

合唱コンクールにも課題曲と自由曲があって、やっぱり自由曲でもちゃんとつくられた合唱曲じゃないと面白くないのだ。
ふつうの歌を歌ったところで、むしろその曲の持つ世界観を表現するのが難しくなってしまい、消化不良になってしまう。
合唱曲が特殊なのは、それが強烈に自分の世界を持っているからなのだろう。歌うこと=どう解釈するか、となる。
ただきれいに歌えばいいだけの曲と違い、何かしらの意志を持って歌わないといけない。きっとそこが面白いのだと思う。

そんなことを考えたのだが、ここでふと気がついた。世の中にはいろんな種類のパフォーマンスがあって、
それぞれにアーティストの皆さんが自分の生きた痕跡を残そうと必死になっているわけだけど、
「合唱曲を残す」ということは、実はいちばんカンペキな「自分の痕跡」なのではないか。
ひとつの世界をつくって、それを子どもたちが未来永劫とは言わないまでも、それにほぼ近い形で全国各地で歌う。
制作者の意図と戦いながら彼らなりの表現を模索していくことが、ずっとずっと繰り返される。……カンペキじゃないか。

ということを、風呂に入りながら思い出した。


2005.12.11 (Sun.)

代官山インスタレーションはもう終わっちゃったんだけど、『Blowin' Wind』はまだ残ってる、という情報を潤平からもらい、
自転車で見に行く。産能大の建物を借りてやっているようで、ちょっと渋谷寄りの位置にあった。

 
L: 外観。無数の矢印を規則正しく配列している。  R: 正面より。風の流れがよくわかる。

  角度を変えて撮影してみる。

さて、感想。風が強ければ、この試みはけっこう興味深い。
風とともにサーッと矢印が向きを変えていく様子は、すごく鮮やかでかっこいいだろうと思う。
僕が見に行ったときはそれほど風がなかったのが残念だけど、ちょこちょこ向きを変えるところが見られたのはよかった。

で、こっからは僕のワガママ。
風ってのは3次元の空気の塊なので、それを可視化する、というレヴェルまで踏み込めたら最高に好みだった。
たとえば向かいにある都立一商でも同じように矢印を用意できれば、通りを抜ける風をよりはっきり見ることができたのでは。
もっとも、2次元で風の断面を見る、と割り切れば、今のままで十分なのだけど。

見終わった後は、そのまま神保町まで行ってしまう。あれこれいっぱい買い込んでやろう、と思ったからだ。
まずはこないだ出たボーナスで、手塚治虫『火の鳥』の全巻セットを買う。ついに買ってしまった……。
そして、親からもらった図書カードで宮崎駿『風の谷のナウシカ』のマンガをこれまた全巻買う。
『ナウシカ』については大学院時代の先生も、大阪でお世話になったワカメも「映画とは別物」と熱烈にオススメしていた。
まったく接点のない人がふたり、同じように褒めているんだから、読まないわけにはいかない。じっくり読んでみたい。

かなりのヴォリュームの買い物をしたところで、BONANZAの出番である。
今回、こいつがどれだけ入るかを試すためにいろいろ買い込んだようなものなのだ。
さっそくホイホイと詰め込んでみるが、まだまだ余裕がある。恐ろしい。

帰り道、背中がやたらと重くてペダルをこぐのがつらいのだが、カバンの方は平然としている。
持ち主よりも頼もしいカバンってのも、なんというか、本末転倒な感じ。負けないようにがんばらねば。


2005.12.10 (Sat.)

FREITAG、BONANZAをついに買ってしまった……。
店頭のガラスケースの中にあったのを目にして、これは!と思ってしまったのだ。こうなるともう負け。

 まいった。

購入する際、お札を持つ手が震えた。なんだか、一線を超えてしまったような気がした。
店員さん(彼は13個もFREITAGを持っているという)に「もうこれでFREITAG貧乏まっしぐらですよ」と言われてしまった。
否定できないのがなんともだ。もうこれで買うのをやめるように、全力で心がけたい。そうしないともたない。

ところでこのたび、上下2つのバッグに分割できるRENEGADEというシリーズが発売になったそうだ。
実物が置いてあったのだが、バカでかい。しかも値段が通常のものの倍。これはもう、マニア向けでしかない。
それよりは取扱店を地道に増やして、いろんなデザインに触れるチャンスを広げてほしいなあと思うんだけど。

で、家に帰ってネットをつないでみたら、「甲府が柏に大勝でJ1昇格」というニュースが飛び込んできた。
スコアは実に6-2ということで、柏は緊張の糸が完全に切れてしまったのだろう。想像できない、恐ろしい結果だ。
個人的にはアンチ柏だし、J2のチームが下克上を起こすというのは好きなので、けっこう興奮するニュースである。

僕は今年甲府に行ったので(→2005.9.24)、なんだか感慨深い。
街はあんまり元気がなかったけど、ポスターがあちこちにあり、ヴァンフォーレを応援する雰囲気は確かにあった。
もしユニフォームがかっこよかったら喜んでサポーターになってしまうのだが、正直あんまりそういう感じではない。
でもまあ長野の隣だし、来期以降、かなり贔屓していきたいチームである。ぜひJ1に定着してほしい。


2005.12.9 (Fri.)

TSUTAYAが半額なので、がっつりとテレビドラマを借りてきた。そんなわけで、『高校教師』を見る。
真田広之と桜井幸子の、昔(1992年)やっていた方。社会問題になった方。ソニンが出ていない方。
念のため書いておくけど、借りてきたのに、別に他意はない。……ないんだってば!

バブルの匂いがするなーってのがまず第一印象なんだけど、それ以外にもいろいろと些細なことを思った。
とりあえず3つほど、書き出してみることにする。

まず、持田真樹の演技があまりに壊滅的なこと。「しゃべらせるな!」と何度叫びたくなったことか……。
なんというか、近年まれに見る凄さだった。シリアスなシーンでずっこけること必至。

繭のキャラクターから感じるのは、野島伸司的都合のいいヒロインの代表例だなあ、ということ。
そんなんいるわけねえじゃんかよ!と何度叫びたくなったことか……。
連ドラのバカ受けヒロインを生み出すコツは、こういうところにあるのかもしれない。

で、いちばん強く感じたこと。このドラマは、社会問題化することそれ自体を目的につくっているように思う。
教師と生徒という関係にはじまって、同性愛だとかレイプだとか、そういう表面的に食いつかせるキーワードが満載だ。
まあそれはそれでいいとして、問題はよりドラマティックな展開にするべく、「待ち」の姿勢をとっている点。
登場人物が何かしらの行動をとり、何かしらの考えに至る。……はずなのだが、その考えがコロコロ変わる。
行動に一貫性がないように思えるのだ。より波乱を起こす展開になるように、すぐに熱くなったり冷たくなったり。
あるいは、どっちともとれるような中途半端なところで不自然に止まったり。そこがどうにも気持ち悪い。
まるで世間の反響を見てから展開を決めているようだ。まあテレビドラマは本質的にそんなもんなんだろうけど。

最後まで見て、なんというか、より大きくてショッキングな事件を用意することで、本来テーマとして扱える内容を、
単純にスタートラインという位置に落としてしまった印象を受ける。すごく残念だ。

……だから別に他意はないんだってば!


2005.12.8 (Thu.)

NODA・MAPの『贋作・罪と罰』を観に行く。10年前に初演された作品の再演。

僕の『罪と罰』の知識は、ラスコリーニコフが金貸しの老婆を殺して大地に接吻して謝る、ぐらいなもの。お恥ずかしい。
この『贋作・罪と罰』では、その核となる部分を残しつつ、幕末の江戸を舞台とすることで物語を複層化している。
主人公は非常に優秀な江戸開成所の塾生・三条英(はなぶさ)。彼女が金貸しの老婆を殺す。
江戸では志士たちが「理想のためには殺人もいとわない」という思想を持ち(あくまで持っているだけ)、
幕府転覆をちまちま企んでいる。そんな背景で、目的を達成するために許される殺人は存在するのか、という問いを描く。

舞台は正方形で、それが向かい合った客席の中心に置かれている。正方形のそれぞれの辺には椅子が並べられ、
そこに出番のない待機中の役者が座って舞台をじっと見つめている。あるいは、効果音をそこから出す。
今回は椅子をメインの小道具としているようで、さまざまな種類の椅子が登場し、さまざまなものに変化する。
特に、学校の図工室にあるような木製の小さなスツールが大活躍する。提灯、金庫、手錠、とにかくあらゆるものになる。
ラストシーンではエアキャップ(物を梱包するときに使う、プチプチしているアレ)を敷いて雪を表現する。
踏んだときにプチッとつぶれる音を、雪を踏むときの音に見立てているわけで、そこまで計算しているのが凄い。
日常で見慣れた物が、まったく別の物に変化してしまうというのは演劇ならでは。この点だけで圧倒されてしまった。

才谷梅太郎(=坂本龍馬)を演じる古田新太がめちゃくちゃかっこいい。
才谷はやたらと金にこだわり、そのこだわり方が観客の笑いを誘うように演出もなされているのだが(バカバカしく面白い)、
将軍をぬかづかせて「血ではなく金を流して新しい時代の扉を開く」という理想を最後の最後で実現してみせるのである。
龍馬は日本で初めて会社を設立した人物だ。近代化と資本主義を背景に、ジャブのような笑いを史実に接続して、
物語が終わったときにはすべてがつながるようにまとめてしまう野田秀樹の手腕は、もはや恐ろしいとしか言いようがない。
古田新太はそういう二面性をきれいに体現している。だからラストシーンが本当に切ない。思わず涙ぐんでしまった。

ほかにもテレビで見かける役者がけっこういたが(マギーや宇梶剛士や段田安則など)、皆さん舞台出身だけあってうまい。
でも英を演じる松たか子がいっぱいいっぱいで、英の若さと危うさを感じさせるのはすごくいいんだが、やっぱり迫力不足。
舞台で演じるってことはいろいろ難しいことがあるんだろうけど、半分以上は「声」で決まってしまうのだ、と直感した。
舞台向きの声、舞台で出すべき声、舞台での声の出し方、そういったものが訓練されているかどうかが生命線に思えた。
ヒロインが松たか子じゃなかったら、カーテンコールでたぶん僕はボロボロに泣いていたと思う。

野田秀樹は、序盤から中盤ではギャグを入れたりハイテンションな演技で突っ走ったりと、やりたい放題を繰り広げる。
しかし残り30分(体感時間なのでテキトー)辺りから、急速にシリアスにもっていくのだ。言葉を猛スピードで並べることで、
世界を変化させる。観客がゆったりとした空気に慣れたところで、一気に変化をつけて物語の核心へと巻き込んでいく。
たいていの物語にはテーマが設定されているのだが、野田の場合は、このラスト30分で一気にそれを片付けてしまう。
それまで繰り広げていた「遊び」を利用しつつもひっくり返し、この時間帯だけを重くすることで全体のバランスをとっている。
だからエンタテインメントの要素と真剣なテーマとが融合していて、観客は非常に贅沢な体験を持ち帰ることができるのだ。

そういう演劇の吸引力というものは、客席が近いほど効果が強い。クーロンの法則みたいに数式化できるかもしれない。
今回、僕は前から5列目ほどの位置で観ることができたのだが、それでも、最前列で観たくて仕方がなかった。
僕は映画にしろ演劇にしろパンフレットというものを絶対に買わない主義で、それが誇りですらある頑固な人間なのだが、
観終わってから結局買ってしまった。で、今後もパンフレットという断片を通してあの時間を思い出すのだろう。

決して緻密に完璧につくられているわけではない。しかし、それも魅力になってしまう、それだけの説得力・迫力があった。
本当にいい演劇を観た後の感覚は、絶対に他のメディアでは味わうことができないものだ。
そんな余韻を久々に、心ゆくまで楽しむことができた。とても幸せだった。


2005.12.7 (Wed.)

滝本竜彦『NHKにようこそ!』。引きこもりの側からの、わりと自虐的なライトノベル。
この話が書かれたのは2001年(発表は2002年)ということで、時期としてはまずまず早いように思う。
「引きこもり」に対する世間の認識が今ほど明確になっていない時期に、この問題をエンタテインメントとして扱っている。

ダメ人間のもとに天使のような女の子がやってくる。そうしないと、物語は始まらないのである。
そうやってフィクションが成立することから、逆に浮世の世知辛さを実感する。現実にそんな都合のいいことなんてないのだ。
この小説は、そういう都合のよさを楽しむ要素と、ダメ人間に共感する自虐的な要素と、勢いだけのバカバカしさとを、
だいたい同じくらいの割合でミックスしたものになっている。個人的には、読んでいてドラッグが頻繁に出てくるのに引いた。

で。特に感想はない。
とりたてて面白い部分もないし、かといって引きこもりの側からのアクションとしては十分意義のある作品だと思うから、
徹底的にこき下ろしてやるぜ!という気にもならない。どうということはない。
ダメ人間にも公平に時間は過ぎていき、ダメなりになんとかやりくりしていって、そうして日常が行き過ぎる。それだけ。
「とくにない」という言葉がこれだけしっくりくる小説も、めったにないんじゃないかと思う。


2005.12.6 (Tue.)

先輩に連れられて東大に行く。担当している心理学の本について、編者の先生に直接会って話をするためだ。

行くまでに先輩といろいろ話をする。先輩は東大の大学院を博士課程まで行った人で、専門知識がかなりある。
「この辺は丘になっていて、日の当たる南向きの方は前田家が上屋敷として取っちゃって(今は東大のキャンパス)、
残った北向きにはあんまり身分のよろしくない人たちが住んでいたんだよ。樋口一葉もいた。」なんて話を聞く。
勉強になるなーなんて思っている僕はやっぱり、マジメな学生生活を送っていなかったんだなあ、と痛感する。

で、編者の先生はいかにも頭の切れそうな女性で、人名索引の取り方について注文があった。
おっしゃることは至極もっともで、この分野のいま現在の動きの激しさ、活発さを実感する。
と同時に、頭のいい人特有の油断のならない感じに「はぁ~」などと感心する。
東大にはワンサカ賢い先生と生徒がいるわけで、その量は、総合大学を知らない僕には想像がつかない。
こんなに頭のいい人がいっぱいいてどうすんだろう、なんて思ってしまった。まったく、まいったもんだ。

仕事が終わってちょっと余裕ができたので、先輩が本郷キャンパスの中を少し案内してくれた。
やたらと建物がいっぱいある。建物・イチョウ・アスファルトで東大はできてるんじゃないかってくらいだ。
サークル関係のものがあまり目立っていなくて、勉学に集中した空間って感じ。さすがだわ、と思うのであった。


2005.12.5 (Mon.)

R.ハインライン『夏への扉』。SFの名作中の名作。
小説というジャンルでは、久々に全面降伏、白旗をあげるしかない作品に出くわした。
何から何まで完璧にできていて(男にとって都合のいいヒロインがいるところまで)、読者はただ読めばいいだけ。
そうして物語に揺られて終点までたどり着けば、「うおぉぉすげー!」と思わず唸ってしまう仕組みになっている。

オス猫・ピートを飼っている技術者・ダン=デイヴィスが主人公。失意の中、彼はコールドスリープの申込みをする。
コールドスリープとタイムマシンによる大胆な時間旅行がテーマ。といっても難しい論理的な記述はあんまりなく、
主人公の行く先々での活躍を楽しめばいいだけである。しっかりとエンタテインメントなのだ。
文章ってのはベクトル、一本の糸と針のようなもので、それはあらゆるものを突き抜けて縫い合わせることができる、
というのは僕の持論だが(→2005.10.18)、この作品ではまさに、一本の文章で4次元の時空をつなぎ合わせているのだ。
天衣無縫。あまりに鮮やかで、もうため息しか出ない。伏線と辻褄合わせもここまでくると、まさに神業。

本当に面白い作品に出くわした場合、とやかく言ってもムダで、もうこれは読んでもらうしかないなー……となる。
そんなわけで、まともなことが少しもここで書けていない。悔しいが、そういうレヴェルの作品なんだから仕方がない。
こういう本物の娯楽をつくり出せるってのは、いったいどういう脳みそをしているんだろう。
爪の垢がほしい。煎じて飲みたい。何を食ったらこんなことのできる人間になれるのか知りたい。もーダメ。


2005.12.4 (Sun.)

スタジオジブリ作品、『もののけ姫』。いつものあらすじは面倒くさいのでパス。

話の流れはけっこう映画の方の『ナウシカ』に似ているという印象。が、レヴェルが格段にアップしている印象もある。
面白いのは「神」の扱い方というか、当時の「神」に対する見方で、単純に「人間より上の存在」でない点。
ありがちな「人間が近代的な武器を手にすることで、『神』(=自然)を打ち負かす」という図式ではないのである。
では「神」とはどういう存在かというと、人間以外の領域全般を指しているように思う。
人間のいないところにはそれぞれに「神」が棲んでいて、人間は敬意を持ってその存在を認めているという関係がある。
しかしその敬意が剥ぎ取られたことで、「神」が「獣」(さらには、畜生)へと引きずり下ろされる。
この映画ではその瞬間が描かれていて、それが「自然」と決裂した現代に至っている、ということだろうか。

もうひとつ衝撃を受けたのは、ハンセン病患者の扱い方。
当時の時代背景を考えれば、エボシ御前の慈悲深さを表現するのにこれ以上のものはない。
(そしてそれだけの慈悲深い人がシシ神の首を狙うというところに、この話のやりきれない悲しさがある。)

話の展開はスピーディだし、もちろん絵はすごくきれいだし、一瞬たりとも目が離せない魅力に満ちている。
あっという間の2時間ちょいで、人を惹きつけるというか集中させてしまうというか、そういう点でもトップクラス。
昼/夜/森の暗さ、人の賑やかさ/森の静けさ、そういった対立軸がいくつも複雑に用意されていて、
そのメリハリをうまく提示して(実際には空間的にはそんなに広くないのだが)、世界観を広く見せている。上手い。

で、見終わったところで、ふと思う。この話って、イケメンと美人さんとじゃないと成立しないなあ、と。
どっちか片方でもブサイク様だった場合には、その時点でアウトになってしまう。ブサイクが無視されてハイおしまい。
そんなわけで、この話本来のテーマよりも、「イケメンって得でいいなあ」ってな考えの方が頭の中に残った。
この映画が世間で大いに受けた本当の理由って、そういうところなんじゃないか……なんて思ってしまったのであった。


2005.12.3 (Sat.)

J1最終戦、優勝争いがとんでもなく熱い。可能性があるのはC大阪、G大阪、浦和、鹿島、千葉の実に5チーム。
14時、すべての試合がキックオフする。テレビ中継を見ていると、複数のドラマが同じ時間に展開しているのがわかる。
だからあっちで起きたことがこっちに影響して、こっちで起きたことがあっちではああなる、というのがリアルタイムで楽しめる。

前半終了時点では、浦和が得失点差で首位に立つ状況。しかし後半が始まると、ドラマはどんどん動いていく。
C大阪がリードして、優勝をつかんだ……と思ったら、FC東京に同点ゴールを決められて引き分けに終わってしまう。
最後は分厚い攻撃力で川崎を寄り切ったG大阪が大逆転で優勝をかっさらった。

何が面白かったって、5チーム分の一喜一憂が秒単位で入れ替わる現場を見ることができた、ということだ。
スタジアムではあまりに複雑すぎて、もうワケわかんなくてひたすら攻めるしかない、応援するしかない状況なんだけど、
テレビでは同時に何が起きているのかが簡単にわかる。ひとつのプレーの意味が何倍にもなるのが目に見えるわけで、
そういう贅沢な視点で複数のドラマが交差する様子を楽しんだしだい。心の底から楽しませてもらったよ。

グレゴリー=ペック主演、『拳銃王』。

早撃ちでその名を轟かせるジミー=リンゴが、かつて一緒に暮らした妻と子のいる街へとやってくる。
妻に会おうとするリンゴだが、教師である彼女は拒否。自分を殺すべく後を追う男たちを気にしつつ、リンゴは酒場で待つ。
リンゴは超有名人であり、子どもたちは彼の一挙手一投足を観察するため酒場にはりつき、ついに休校になってしまう。
しかもリンゴを殺して名をあげようとするハントという若造が絡んできて、リンゴの親友である保安官の手を焼かせる。
ラストを書いてしまうのは興ざめだと思うので書かないが、衝撃的かつ、よくつくられている話。

ガンマンとして生きること、ガンマンの業がテーマで、それがラストのショックへときれいにつながっている。
保安官はもともとリンゴと同じように無法者だったが、うまく足を洗って今の地位についた。
しかしリンゴは有名になりすぎてしまい、いつどこに行っても安心することができない。つねに誰かがくっついてくる。
そういう差をわかりやすく提示しながら、社会・世間の側にたどり着けない哀しみを描いている。

モノクロの西部劇には名作がゴロゴロあって、その多くがアウトローの一瞬の輝きと永い苦しみを描いているのだけど、
本当に、よくまあそういう構造をあの手この手で描けるものだなあと感心する。よくネタが尽きなかったな、と。
それぞれに個性的で、でも一定の様式美も保ちながら、西部劇というジャンルでまとまっている。実に奥が深い世界だ。


2005.12.2 (Fri.)

脳神経心理学の本ができあがらないうちに、心理言語学の本が要再校にもなってないうちに、
電気機器の本を入稿したばかりなのに、また新しく本を担当することになった。
ひとっつもできあがっていないのにもう4冊目ってペースは、異常だと思う。そういうもんなんですかね?

で、このたび新たに担当することになった本は、雑草の生態についてのもの。雑草博士になれちゃう本である。
昭和天皇はかつて「雑草という草はない。すべての草には名前がある。」というようなことを言ったそうな(うろ覚え)。
ちらっと原稿に目を通してみたが、どこかで見たことのある草が初めて見る名前で紹介されているなどして、実に面白い。
「雑草」と一括りにしても、生態系の観点から見るとかなり奥が深いようだ。砂漠の緑化にだって絡んでくる。
そんなわけで、校正しながら考えたことを、またいずれここで書いてみることにする。

会社帰り、東京国立博物館の「北斎展」を見に行った。次の土日で終わってしまうためか、金曜夜にも関わらず満員。
国立博物館の企画展は、以前「雪舟展」を見に来てやっぱり人ばっかりでウンザリしたわけで(→2002.5.18)、
もっと謙虚に、ゆったり見せる努力をしてほしい。「国立」だからか殿様商売をしているように感じるのは僕だけじゃあるまい。
たとえば夜間開館を週2回にするだけでも違うと思う。「混んでいるのがステータス」みたいな考えは早く捨ててほしい。

葛飾北斎は90歳で亡くなるまでに改名と引越しを繰り返したことで知られるわけだが、その名前を軸に6つの時期に分け、
それぞれのエリアで作品を展示している。初期はいかにも教科書どおりというか、お手本どおりというか、そんな印象。
大胆さがないけど、踏みはずさない。そんなイメージ。ところが洋風の版画にも手を出したりと、徐々に表現を広げていく。
やがて「葛飾北斎」を名乗る時期になると、これはさすが!と思うような絵をどんどん描くようになっていく。
そうかと思うと『北斎漫画』に代表されるような飄々とした作品も増えてくる。とにかく、表現の引き出しがすごく幅広い。
めちゃくちゃ絵が上手いからこそ崩せる、というレヴェルだ。それが90歳まで衰えることなく続くのが信じられない。
たとえば「百物語・お岩さん」は、提灯の破けた部分がお岩さんの口になっているという有名な浮世絵なんだけど、
当然これは、破けた提灯が人の顔に見えたことから着想を得たのだろう。まず、世界が目に映る段階からして違うのだ。
そういう、本来見えないものが見えてしまう、物の本質が見えてしまう、そんな北斎の鋭さがフルコースで展示されている。

北斎が生きていた当時は、挿絵画家として人気を誇ったという。今でも北斎というとやはり浮世絵、つまり版画が有名だ。
(『富嶽三十六景』には猛烈な人だかり。オレはオバハンの後頭部を見に来たんじゃねー!と何度叫びたくなったことか。)
言ってみれば、直接本人が描いた作品よりも、他人が刷ってできあがった作品の方がよく知られている、そんな画家だ。
ところが実際に北斎の肉筆画を見てみると、そのあまりの緻密さと見事さに、言葉も出なくなってしまう。
正直言って、版画の作品で「まいった!」と思った作品はほとんどない。構図の見事さはさすが北斎、と思う程度である。
でも実際に北斎が絵筆をとった作品は、対象の細部を科学者のように観察する緻密さで本質を再現しているし、
そのうえで女性ならゆったりした表情、動物なら人間の論理から少しはずれた野性の目つきを脚色たっぷりに描いている。
北斎の肉筆画は、浮世絵とは比べ物にならないほど美しい。特に掛け軸になっている絵はどれも文句なしに美しい。

もうひとつため息が出たのは、トリミングの鮮やかさだ。構図・構成で描く/描かない部分の選び方が、突出している。
掛け軸の場合、ほとんどのキャンバスは縦長になるわけだが、その縦長で切り取る世界が、本当に魅力的に映るのだ。
大黒様を描くのに、彼の持っている袋とその脇にいる鼠だけで表現してみせる。そうして物語が周囲にあふれだすのだ。
桜も、太陽も、一部分だけを残してバッサリ切り取ってしまう。残りはきっと、観客の心の中にあるのだ。
北斎によって切り取られた断片から、観客たちは想像力をはたらかせて残りを補い、完全な像を頭の中に結ぶ。
こうして絵が「完成」するというわけだ。縦長の窓から無限に広がる世界を覗き見しているかのよう。

さすがに中身は充実している。でも人が多すぎて、それをじっくり味わうのはちょっと難しい。なんとかならんもんか。


2005.12.1 (Thu.)

スタンリー=キューブリック監督、『フルメタル・ジャケット』。
これまでキューブリックの作品についてはさんざん文句を言ってきたが(→2004.12.232005.5.31)、
この作品については文句をつける気が起きない。物語性というかフィクションの想像力は抑えめにしておいて、
戦争という現実をきわめて精確に描いた(ように感じることのできる)貴重な作品だと思う。

前半は、サウスカロライナにある海兵隊の新兵訓練基地、そこにやってきた若者が兵士に鍛え上げられていく姿を描く。
とにかく四文字言葉の連発で、それを字幕がすべてバカ丁寧なくらいにきちんと訳しているので、眩暈がした。
しかしそれはリアルなものだとも思う。軍隊という、究極的に身体と思考を訓練する場所と、そこで使われる言葉。
僕は以前から法言語と生活言語というカテゴライズで言葉を考えているけど(→2005.4.29)、軍隊は当然、法言語だ。
そこでの言葉がこのようにきわめて「汚い」言葉になってしまう、というのはどういうことか。きちんと考える必要がありそうだ。
作品としては、なんでもない人間が軍人に育て上げられる、その育成の密度と狂気が中心となっていると思う。
まあ、なるほどね、という感じ。極端な例を扱っているように思えるのは、後半のリアリティのせいかもしれない。

後半は、ベトナム戦争に送り込まれてからの彼らを描く。主人公のジョーカーは報道セクションでわりと楽に過ごしていたが、
取材で前線に行ったことをきっかけにして、泥沼状態に放り込まれる。どこに敵がいるのかわからない状況の中、
全身の神経を集中させながら前へと進んでいく。敵をバリバリ倒していく英雄的なシーンなんてまったくなくって、
やるかやられるかの緊張感だけが漂う。生と死の境目ギリギリを綱渡りしていく中で、前半に出てきたような狂気が、
現状のつらさから目をそむけさせるためにチラチラと顔をのぞかせる。その繰り返しが戦争、というわけだ。

僕らはすっかり、アメリカから提供される映像をとおして戦争というものを頭の中で認識しているわけだけど、
この作品はそれを前提にしたうえで、あらためて新鮮に「本当の戦争らしさ」を見る側に提示していると思う。
かっこよさも愛国心も何もなくって、純粋に戦争状態のつらさが描かれていて、見て勉強になった。
しかも落ち着いて考えれば、現代の戦争は、この映画よりもさらに進んだ戦争になっているわけだ。
もっと効率的に敵を掃討できるようになっている。それを想像してみる。すぐにイヤになる。

で、余談。
日本で改憲を叫ぶ人はたいてい、徴兵される年齢を過ぎている。安倍晋三がいくら若くても、徴兵される年齢ではない。
そういう人たちの都合によって戦争に行かされるのは、自分はゴメンだ。まず隗よりはじめよ、ってやつだ。お前らが行け。
歴史ってのはつねに、ジジイが若者を食い物にすることで成立しているような気がする。
改憲して9条を変えたいのなら、現場に出る20代限定で国民投票してみるべきだろう。それがフェアってもんだと思う。


diary 2005.11.

diary 2005

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