diary 2005.10.

diary 2005.11.


2005.10.31 (Mon.)

横山秀夫『半落ち』。直木賞が取れなくって作者がキレちゃった作品。映画化もされるくらい人気があるのだが。

現職警官・梶がアルツハイマーの妻に頼まれ彼女を殺害、自首してきた。犯行については包み隠さず素直に話すが、
なぜか犯行後の2日間については黙秘を続ける。いったい何があったのか、日本の法制度を通しながら追究していく。

視点が巧い。刑事からはじまって、取調べの進行とともに検察官、新聞記者、弁護士、裁判官……と視点が移っていく。
作者の新聞記者としての経験が存分に生きていて、人物の背景のつくりこみ方がとにかく徹底している。凄い。
三人称なんだけど実質は一人称になっていて、その視点の違いから立体的に真相に切り込んでいく構成が面白い。
しかし、それでも梶は「半落ち」を続ける。登場する男たちは皆、すっかり硬直した日常・仕事と理想の板ばさみである。
その奥に秘めたプライドで2日間の真相を明らかにしようとするのだが、梶の黙秘は徹底していてどうしてもうまくいかない。
そうしてベルトコンベア式に時間は過ぎていき、お決まりの一連の儀式を経て梶の刑が確定してしまう。
男のロマンとその挫折ということで、そこまで隠し続ける事実って何なの?と、読者の興味はどんどん惹きつけられるのだ。

どこまでいっても真相は解明されないで、男たちのもどかしさが募っていく。
手がかりがほとんどないままで話が進んでいくわけで、読者は推理ができない状況が続いていく。
そういう意味では、この作品はまったくミステリではない。むしろ男における仕事のロマンと挫折がテーマに思えるほどだ。
結局最後には、それまでの悪戦苦闘に比べると、ずいぶんあっさり真実が披露される。拍子抜けしてしまうくらいに。
でもその結果は、個人的には十分納得のいくものだった。確かに筋は通っているし、そういう人もいるでしょねと思えるから。
実にうまく感動的にまとめあげたもんだなあと、その手腕には感心させられた。

さて。この小説はミステリとして致命的な欠陥があるんだそうで、それが原因で直木賞の選考から落とされたのだという。
仮にその「欠陥」が事実だとしても、もし実際にそういう状況になった場合、人道的処置で許可が出るもんだと僕は思う。
(最後の最後のところでのネタバレと関係しているので、こういう表現で許してほしい。気になった人は作品を読むべきだ。)
その可能性すら信じて梶は待っていた、という解釈ができる限り、そんなものは瑕瑾のうちにも入らないだろ、と思うのだ。
まあむしろ僕は、読者に推理させないで物語それ自体を楽しませる、という点でミステリを超えていると思うわけで、
ミステリなんてつまんなくて小さい枠組みでこの作品をとらえてほしくないなあ、とすら思う。つまり、無意味な批判だと思う。

「受賞してもいいはずのに落とされたなんて、まさに『半落ち』やね!」なんてマサルが言いそうだ。や、言わないかな。


2005.10.30 (Sun.)

「神保町ブックフェスティバル」というイヴェントがあり、下っ端の僕は駆り出されてワゴンで本を売ることになった。
10時スタートなのだが、その1時間くらい前に現地へ行って、準備をする。で、準備が完了したら本を売る。

おとといのログでも書いたように、僕はぶっちゃけ、そこまで極端に本が好きな人間ではない(→2005.10.28)。
暇なときに手に取る本があれば目を通す、あとは興味のある内容であればチェックしてみる、そんな程度のものなのだ。
だから古かったり傷んでいたりで特売になっている本を嬉々として買いあさる人というのは、まるっきり異次元の存在だ。
そんなに必死で本を買ってどうすんだろう、と思ってしまう。僕にとって読書とは積極的にこなしていく時間ではなく、
あくまで他の予定との隙間に費やす消極的な時間の過ごし方なのだ。 読書を最優先にする姿勢が、理解できない。
それは僕が、本を読んで得たものを「使う時間」を第一に考えているからだ。知識を得るより、どう使うかが重要だ、と。
大学のクイズ研究会時代からこれは変わっていない。知識をどう利用して作品に昇華させるかにこだわるべきだと思うのだ。
だから他人の行動についてもそういう理屈を勝手に当てはめて、よけいな心配をしてしまうのである。

ウチの会社の本は意外と売れた。飛ぶように、というわけにはいかないけど、けっこう意識して見に来るお客さんがいた。

後ろの天ぷら屋からごま油のいい匂いが容赦なく漂ってきたので、昼飯は「いもや」の天丼にしようと心に決めていたのだが、
あちこちまわってみたけどことごとく休みだった。それにしても神保町の界隈に「いもや」はいったい合計で何軒あるんだ?

ワゴンの前でふつーに「いらっしゃいませー」と言っていてもぜんぜん面白くないので、
次長課長・河本のおばちゃんのマネをマネして「いらっしゃいいらっしゃいあんたよーきたねーほらいらっしゃい」と声をかけたら、
急に客が遠ざかっていった。東大出の同期に「やめて」と言われてやめた。チェッ。

休みを30分ほどもらったので、その間に会場であるすずらん通りを一周する。
途中で大学時代に生協で立ち読みしていた『デジタル・マクルーハン』という本を半額で売っていたので、まあ、
いい機会だしーと衝動買い。上に書いたことと矛盾している気もするが、ミイラ取りがミイラ、ということで、しょうがないのだ。

18時に勤務終了となったのだが、とにかくすごい人出だった。特に午後は身動きが取れないくらい。
出版社に勤めているくせに「書を捨てて町に出ろよ!」と心の中でツッコミを入れている僕のカバンの中にも本が入っている。
うーむ。

この日は死ぬほど見たかった三谷幸喜の舞台、『12人の優しい日本人』のチケット発売日(映画のログ →2003.11.10)。
家に帰ってチャレンジしようとしたけど、結局取れなかった。わかっちゃいたが、ガックリ。

吉永小百合主演、『キューポラのある街』。
キューポラとは鋳物工場の煙突のこと。舞台は鋳物工場が並ぶ埼玉県川口市。
高度経済成長期、社会・生活の変化と変わらない貧困とをベースに、まっすぐに生きるヒロインの姿を描いた青春映画だ。
当時のアイドル映画と思って見ると、とんでもない。この作品はめちゃくちゃレヴェルが高い。本当に次元が高いのだ。
10代をメインのターゲットに制作したんだろうけど、扱っている内容はむしろ完全に大人向けといった感じ。
大人が真摯だった10代を思い返して現状を反省するのにちょうどいいくらい。それゆえまた、10代にも見るべき価値がある。
また、21世紀になっちゃった現代だからこそ、こういう過去があったということを見つめる必要もあるだろう。とにかく必見。

中学3年のジュン(吉永小百合)が主人公。成績優秀だが家が貧しく、県立高校に進学できるかわからない状況。
ケガで思うように動けない父親(東野英治郎)は工場を解雇され、しかも母親は子どもを出産と、一家は苦境に陥る。
そういった日々の一喜一憂を、素直にありのままに描いていっている。

この映画で重要なポイントとなっているのが、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国である。
ジュンや弟のタカユキの友人として在日朝鮮人が登場するのだが、彼女/彼らとの友情が、大きな鍵となっている。
月並みな言葉で言えば、差別するということは、大切な視点の可能性を捨ててしまうということだ。
大人たちが無意識に選択肢から排除している可能性を、きちんと手にして一回り大きく成長してみせるジュンの姿は、
まあ確かに模範的すぎるわけだけれども、見ていて心地よい。フィクションだから与えられる勇気がある、と思う。
さらに言えば、帰国した彼らのその後がニュースで連日報道されている今だからこそ、別れのシーンが一段と切ない。
そういう意味では、戦後はまだ現在も脈々と続いているわけで、そこにもハッとさせられるのだ。

もうひとつ、ジュンの生理が始まる描写も、子どもと大人の間で揺れる姿を描くうえで大きな効果をあげている。
女性を子ども/大人と区切る身体的な意味をもってくることで、将来に向けて悩むヒロインの姿がよりはっきりとしてくる。
人間の「成長」という事実において、これはどうしても避けては通れないことだ(特に女性の身体は欲望される側なので)。
それに直面させられて、ただでさえ貧乏で進学できるか困っているのに、さらにもうひとつの問題をいきなり投げつけられる。
女性であることの哀しみ、と表現するのは変かもしれないが、気楽な男にはない種類の戸惑いであることは確かだ。
(この映画ではその点の婉曲表現が実に巧い。母に投げつける口紅、赤ん坊と一緒に泣く=ジュンの中の子どもが泣く。)
そういう問題を一気に背負いながらも、悩んでいるのは自分ひとりではない(そのヒントをくれるのが朝鮮人の友達なのだ)、
その事実に気がつくことで、前向きに自分の姿を見つめなおして再び希望を手にするようになる。美しい流れになっている。

これはあくまでフィクションなので、ジュンのようなヒロインがいて彼女の希望が描かれているわけだけど、
もし、家庭にいるのがジュン(そして実はきちんと考えているタカユキ)のような強い意志を持つ子どもではない場合は……?
想像するのが恐ろしいが、それが現実だったのだ。希望を手にすることの難しさが、逆説的に見えてくる。

アイドル的人気の女優を起用してここまで質の高い映画をつくっていたのだから、日本映画の底力ってのは本当に凄い。
昔が良くって今はダメ、なんてのは、野蛮だった昔から進歩・発展して今がある、って発想と同じくらいくだらないことだから、
そんなことを主張するつもりはさらさらない。でも、かつてこういう力が確実に存在していたんだ、って事実は直視すべきだ。
日本人がまだ貧困に苦しんでいた時代の、本当に豊かな映画。


2005.10.29 (Sat.)

例の睡眠時無呼吸症候群の疑いがあるわけで、病院に行ってみることにした。
どうせなら専門の病院で診てもらう方がいいだろうと思い、ネットで調べて予約した病院へと地下鉄で向かう。

会社勤めでも気軽に通えるようにと午後から夜にかけてやっている病院で、中ではそこそこ人が待っていた。
ざっと見ると、30~40代男性が多い印象。肥満と関連することの多い症状だからなのか。

しばらく待って、問診。やはり患者はちょっと太めの中年男性が多いようで、僕みたいな20代ふつう体型は珍しいみたい。
酒もタバコもやんないのにねえ、と不思議がられる。とりあえず2週間後に検査の予約を入れてもらった。

関連する症状との関係で、心電図と脈拍・肺活量の検査をした。
検査技師のおねえさんによると、僕の心臓は体格のわりに大きいらしい。ホントかよ、と思う。
脈拍は50で、平均よりも少なかった。この辺は元・長距離選手の矜持である。
肺活量は5800cc。平均の約1.5倍の数値だという。自転車に乗りまくっているせいだろうか。
そんな具合にムダ健康体であることが発覚した。おねえさんに「せっかくだからスポーツしろよ」と暗につっこまれた気がする。

表面上は健康なだけに、落とし穴が怖い。これからどんな結果が出てくるか、しっかり受け止めないといけないのである。


2005.10.28 (Fri.)

宮部みゆき『R.P.G.』。ネット上での擬似家族がどーのこーのでこのタイトルなのでネットゲームを想像したが、全然違った。
オチがオチなので、あらすじをここで書く気がしない。気になる人は各自でチェックしてください。読みやすいので大丈夫。

宮部みゆきという作家は非常に多作で、そのどれもが人気で、あちこちで各作品のあらすじを目にするんだけど、
『火車』(→2004.8.1)に続いて今回もまた、世間一般で語られるあらすじは、作品をきちんと消化したものではなかった。
『火車』では「カード破産」がキーワードのように語られていたが、実際のところは純粋な借金苦がメインの背景だった。
そしてこの『R.P.G.』では真新しい響きを持った「擬似家族」がキーワードで、確かに重要なポイントになってはいるが、
しかしそれはあくまでツールにすぎず、テーマではなかった。『はだしのゲン』の方がよほど「擬似家族」に踏み込んでいる。
ミステリ的な視点よりも社会学的な勘で面白さを判断する僕としては、せっかくの素材に深く切り込まなかったので、不満。
裏を返せば、社会学的なわけのわかんない抽象性をうまく避けて、きちんと正統派にミステリしているってことだろうけど。

宮部みゆきという作家は、そのトリックに使うツール選びが巧みなので前述のようなあらすじ紹介をされがちなのだが、
実際のところはクソマジメなまでに正統派のミステリ作家で、現代性をえぐり出す、という要素には乏しいと思う。
言い換えると、文学ではなく、読み物。現代社会を描くのではなく、娯楽として読者を楽しませる、それだけの作家なのだ。
別にそれ自体は悪いことでもなんでもないが、そんな作家が現代の社会性に挑戦しているように紹介するのは、おかしい。

『R.P.G.』を読んで、最初っから「犯人はコイツだろうなー」となんとなくあたりをつけていて、それは結局当たったんだけど、
その後のトリックにはまったく気がつかなくって、見事にやられてしまった。この点については「参りました。」と言うほかはない。
読み返してみると辻褄もきっちり合っていて、その手腕にさすがだと舌を巻くしかなかった。そこはもう、認めざるをえない。
でも読んでいる間、文章というよりもあらすじを読んでいる感覚になったのが、すごく気になった。
ミステリがすべてそうだとは言わないが、この作品は特に、トリックをわかりやすく読者に理解させるための文章という感触だ。
(個人的にいちばんイヤだったのは、途中に入るメール的文章だ。これが挿入される意味がわからない。かなり萎えた。)
あなたは何のために文章を書くのか、という根源的な部分で、「トリックのためです」と開き直られているような、
そういう気持ちの悪さがする。確かに、ムダを省いて読者の要求にストレートに応えているのだ、と言うこともできる。
が、そんなやりとりを僕は楽しいとは思わない。やはり自分としては、そういう「擬似家族」の誕生と、
そこから「排除」されたリアルな家族の葛藤にこそドラマがあると思うから。最初から興味の焦点が噛み合っていないのだ。
一言でまとめれば、熟練の作家による、かなり高いレヴェルでの箱庭(取調室)遊び、といったところだ。社会性はゼロだ。

かつて「読書家」とカテゴライズされた人々は、どんどんミステリとライトノベルに流れているのではないか、と思う。
それは作家もそうだし、読者もそうだ。本に関わる度合いの濃い少数派が、「好ましい本」を決めてしまっている。
そうして「読書家」のサークル・仲間内だけで、現在流通している本の種類をどんどん淘汰していっている気がする。
だから僕みたいに「実は本はそれほど好きじゃないけど、とりあえず読んでいる」という位置の人間には、面白い本がない。
そうしてどんどん悪循環が続いている。今の本屋で平積みになっているハードカヴァーは、眺めていても全然ワクワクしない。
状況を打開するには、本が好きじゃない人間を振り向かせるような本を生み出すこと、それしかない。
すっかり固定化している枠を壊すこと、異質なものを取り入れての活性化、そういうことをもっと真剣に考えるべきだろう。
さて、果たして未来はそうなりますかね。そしてそうなるとしたら、そのとき僕はいったいどこにいますやら。


2005.10.27 (Thu.)

A.ヒッチコック監督、『サイコ』。この映画の性質上、ネタバレを含めて感想を書いていく。
なお、今回のヒッチコックはヒロインの勤めるオフィスの前で車か何かを待っている。

この映画で最も感動したのはオープニング。ソウル=バスのデザインとバーナード=ハーマンの音楽が完璧に融合している。
ヒッチコックのオープニングには毎回うならされるんだけど、この『サイコ』のそれについては、サスペンスというジャンルにおいて、
もうこれを超えるものはできないだろうと思わされるくらいに凄みがある。不安感をあおる音楽に不気味に踊る文字たち。
こういうものは、たとえばちょっとアール・ヌーヴォー風に崩せば気持ち悪さが簡単に演出できるものだ。曲線の気持ち悪さ。
しかしソウル=バスは直線的なモダン風味を基調にしつつ、観客に不安感を見事に与える。これはとんでもない偉業だ。
ヒッチコックのオープニングだけを編集したDVDとか発売されていないんだろうか。あれば迷わず買いに走るんだけど。

出来心で4万ドルを着服してしまったOLのマリオンが、車でアリゾナから彼氏のいるカリフォルニアへ逃げることで話は始まる。
途中で上司に怪しまれたり警官に目をつけられたりと、どうしてもマリオンの幼稚な犯行に対する緊張感がかき立てられる。
やがて大雨の中、身動きのとれなくなったマリオンは、ノーマン=ベイツという若い男が経営しているモーテルにたどり着く。
ノーマンはまあ、かなりのマザコンで、家の中でひっそりと暮らす母親の言いなりになってしまっている。
そして有名なシャワーシーンでの殺人により、マリオンは何者かに殺されてしまう。ヒロインがいきなり舞台から消えるのだ。
すると今度は、金を持ったまま失踪したマリオンを探すために雇われた私立探偵・アーボガストに視点が移る。
アーボガストは目撃証言を追ってベイツ・モーテルにやってくるが、彼もまた消息を絶ってしまう。
それで、マリオンの姉・ライラとマリオンの彼氏・サムが夫婦を演じてベイツのモーテルに入り、真相を究明しようとする。
この映画には元ネタの小説と、その小説が題材とした実際の猟奇的な殺人事件があり、事件から3年後の公開とのこと。
そういった背景も勘案しないと、この映画が支持されたという事実について中途半端な解釈をしてしまいそうだ。

まずヒロインのマリオンが、信じられないほどあっさりとストーリーから消えてしまうことに驚いた。
それまで非常に丁寧に描写がなされており、そうして観客の意識を高めておいてサッと引くのが当時、斬新だったのだろう。
彼女の犯罪はバレちゃうの? 4万ドルはどうなっちゃうの?という方向に観客の意識は惹きつけられる。それがふつうだ。
しかしこの映画では、そんなチャチな問題よりももっと大きな枠組みをいきなり出してきて、観客の裏をかいてくるのである。
ふつうの感覚に慣れていた僕としては、途中で主人公を入れ替えるのなら、わかりやすく準備してくれよ、と思ってしまう。
でもまあヒッチコックが、正常な感覚から出来心をきっかけに異常な世界に足を踏み入れてしまう人物を前半で描き、
後半からは一気に異常な人間による恐怖の世界を広げていくことを狙っているとすれば、ああそうか、と納得はできる。
何度か見ればそれなりに理由がわかるんだろうけど、初めて見た感触としては、とにかく戸惑いが非常に大きかった。

ラストでは精神分析医による種明かしが延々と繰り返されて、ここは賛否両論あるところだと思う。
テーマが当時としては複雑だっただろうから、そういう説明ゼリフは避けられなかったのかもしれない。難しいところだ。
でもむしろ、今ではお馴染みとは言わないまでも、すっかり実在する症状として定着しているものを、
この時代にしっかりと描きこんでいるのは立派なんじゃないか、と思う(具体的に書くと興ざめなので、この表現で勘弁)。
先見の明が十分すぎるほどあるので、やはりその点においてもこの映画は名作なんだなあ、と思う。

でもやっぱり、いちばん凄みを感じさせる部分は、オープニングだよなあ。


2005.10.26 (Wed.)

4連勝という圧倒的な強さで千葉ロッテマリーンズが日本一になった。
1995年、広岡のバカがバレンタイン監督を解任した際、高校の友人と「来年は優勝だったのにね」なんて言っていたけど、
それが10年越しで現実になったのだ。今年のロッテは本当に強かった。交流戦なんか特に、いつもと感じが違っていた。
投手も野手もちょっと地味だけど実力のある選手が揃っていて、数人だけのスター選手ではなくチーム全員で戦っている、
そんな雰囲気なのが見ていてわかる。球団もファンサービスに懸命なのがわかる。誰もが一生懸命なチームなのがわかる。
テレビ東京がプレーオフを中継して世間から拍手喝采ってのも、プロ野球全体にとってどれだけプラスになることか。
いろんな意味で、千葉ロッテってのは、現代のプロ野球が必要としているものを的確に追っている球団だと思う。
そういう球団が日本一になるってことは、いいことだ。素直におめでとうございます、なのである。

ジョン=ウェイン主演でハワード=ホークス監督、『赤い河』。

ジョン=ウェイン演じるトム=ダンソンは、グルートとともに牧場をつくるべくテキサスにやってくる。
途中で別れた隊列はインディアンに襲われ、そこから命からがら逃げ出してきたマットをトムは養子にする。
14年後、牧場はテキサスで最も大きなものとなった。が、それに見合う需要がなかったので、ミズーリまで売りに行く。
インディアンに襲われるおそれがある中、1万頭近い牛を移動させようとするが、トムの厳しさに仲間はついていけなくなる。
そしてついにマットがトムを追放し、行き先をカンザスに変更する。トムはマットを必ず殺すと誓い、復讐を計画する。

しっかりとお金を使っているのはわかる。画面を埋め尽くす牛の量は半端ではなく、本当に波のようにうねっている。
それ以外のところでもきちんきちんと場面を撮っていて、さすがは有名監督だなあと思わされる。
が、その反面、奇抜な演出は一切ない。これといってキレている部分がないので、やや退屈な気分になってしまう。
最初から最後までだいたい同じペース配分で進んでいくので、山場も身を乗り出す感じにならない。
ストーリーとして決してつまらないわけではないんだけど、なんかこう、盛り上がりに欠けるのである。
踏みはずさない確かさはあるが、それだけ。まあ、それだけでもすごいことなんだけどね。


2005.10.25 (Tue.)

ウィリアム=ゴールディング『蠅の王』。ノーベル賞作家による問題作。
大学時代、1年次に「英語I」の授業が必修で、前期と後期の授業のほかに1冊のペーパーバックが課題図書だった。
年度の最後にその本から出題される「統一テスト」というものがあり、これをクリアしないと単位が取れなかったのだ。
1997年の課題図書はG.オーウェル『1984』で、生協にはそのハヤカワ文庫版がいっぱい積まれていた。のん気な大学だ。
『蠅の王』はその翌年の課題図書で、『1984』が面白かったので、単位はクリアしたけど、ちょっと買ってみたわけだ。
で、ご想像のとおり、それ以来僕は7年間この本をほったらかしにしていた。だけどこのたび、覚悟を決めて読んだ。

非常に短絡的にまとめると、無人島に不時着した少年たちが殺し合いをする、という話である。
問題は、そういった状況に至るまでの心理的な動きと、大人ではなく純粋な(と信じられている)子どもが主役であること。
理性がどのように崩れていくのか、人間の内なる悪(性悪説の悪)はどう表に現れてくるのかを、真摯に描いた作品だ。
タイトルになっている「蠅の王」とは、それを生み出した象徴としての存在のことである。

残念ながら、読んでいてもその光景がうまく浮かんでこない。ぜんぜん上手い訳じゃないよコレ、と思う。ストレスだ。
人間関係が物語の基本にあるので、セリフや表情、しぐさの描写が重要になるのは当たり前のことだ。
しかし、大人がいない、人工的な明かりがない、自力で飢えをしのぐ、そういう生活が人間性を削ろうと迫ってくるわけで、
無人島についての情景描写にもうちょっとわかりやすさが欲しかった。また、作中には「獣」が登場するのだが、
これも訳者は「正体」を知っているゆえの訳し方をしているように感じられる。おかげでむしろ、かえって、
子どもたちが「獣」におびえることの意味がぼやけてしまっている。この辺は読んでいて腹が立ったというか、もう困った。

作品じたいはすごく興味深いものだ。子どもたちは最初、自力で照らすことのできない森や夜の闇を恐れているが、
それが「獣」への恐れにつながる。ところがその「獣」こそ、「自分たちの恐れる心そのもの」であることがはっきりとする。
恐れる心が「獣」を生む。そうして理性は崩れ、悪意が身体を支配する(少年たちは顔に色を塗って残酷な存在となる)。
対する主人公・ラーフが守ろうとする火とは、つまりプロメテウスによってもたらされて以来の理性そのものなのである。
「蠅の王」にしても、それは単に、「獣」に捧げられた豚の頭にびっちりと蝿がたかったものでしかない。
しかし敏感な少年・サイモンは「蠅の王」と会話をする。それは、自分の内なる悪に正面から向き合うという行為だった。
誰しもが心の中に持っている悪が島を支配し、事態が決定的になったところで急激に話は収束して終わる。
描きたいことを描ききったから終わる、そういう作者の意図が見えるから、この終わり方はベストだと思う。

表面的には社会的にきちんとした受け応えや行動ができているけど、ごくたまに驚くほど残酷なことを想像してしまう……。
そういう人はけっこういっぱいいるというか、実際には別にそんなに珍しいことではなく、みんなそうなんだと思う。
だからこそ、この作品を一度きちんと読んでおけば、逆説的に、そんな自分に対して安心感が持てるように思う。
大切なのは、何事も恐れないこと。そうして理性の火を絶やさないことだ、という真実を雄弁に示された気がする。


2005.10.24 (Mon.)

僕はいつも、自転車に乗りながら考えごとをする。テーマはそのときの気分によって決まるのだが、とにかく「飛ぶ」。
考えていることがあちこちに飛んで、運が良ければ一周して戻ってきたり、違う角度から見えてきたり。
自分が日記に書いたこと、他の人がウェブで書いていたこと、ニュースで知ったこと、そういったものを総合しているうち、
最近、ひとつのキーワードが見えてきた。「ボクはキミと一緒に時間を過ごしたいんだ」という言葉だ(→2005.10.12)。
これについて、久々に思考の軌跡を日記にたたきつけてみたい。頭の中身そのままに、つれづれなるままにいってみよう。

最近の僕の日記は生意気だ、自分でそう思っている。小説や映画のレヴューが圧倒的に多くなってきているが、
基本的には「どんな作品でもいいところを見つけて褒める」というスタンスを取ろうと努力をしているつもりである。
しかし、偉そうにビシビシ勝手なことを書く日も多くて、なかなか当初の思いどおりになっていないのが現状だ。
もっとひどいのは美術館に行った記録で、かなりキツいことを平然と書いている。いったい何様のつもりなんだ。自分で思う。
昨日の横浜トリエンナーレだってひどいものだ。「ほとんど大したものがない」なんて、何が基準なんだ。
だいたい、オレは美術ってものをきちんとわかっているのか。10年前には美術館に行く習慣などまったくなかったくせに。
そんなわけで、まず僕の考えている美術の良し悪しの基準、というところからスタートしてみることにする。

僕の美術に対する評価は、面白いと感じられるかどうかで決まる。「面白い」ってのも、実にいいかげんな表現だ。
言い換えれば、興奮するかどうかだ。アーティストが実現したアイデアに興味をそそられ、自分も!とウズウズするかどうか。
だから僕が「いい美術展だった」と言ったら、それは「ああ、こんなアイデアがあったんだ!」とワクワクさせられたってことだし、
「つまんない!」と言ったら、アーティストの美学と僕の問題意識が一致しなかったってことだ。それ以上でも以下でもない。
きちんと芸術を勉強している人のことはよくわからない。でも、自分の場合は、勘を第一にして美術展を評価している。
何があろうとこの姿勢は変わらないという確信がある。僕は今後も、自分の興奮度合いをもとに美術を眺めるだろう。

では、僕はどんな作品に興奮させられるのか。昨日の日記で書いた内容がそのヒントになるのだが、
アーティスト自身が「自分の中にある美意識を投影してみました」という作品に対しては、どうも評価が辛くなる。
一番困るのが色彩にこだわった抽象画。絵の具を無造作に垂らしたり偏ったコンポジションに熱中したりな作品は苦手だ。
それに対して、アーティスト自身の意向はともかく、こちら側である程度勝手に解釈できるものは、見ていて楽しくなる。
あるいは社会に対してメッセージを投げかける作品。でも饒舌なのはダメで、未来への予感を先取りする程度がいい。
あとはバカバカしいもの。前に僕は「役に立てばデザイン、役に立たないと芸術」と定義したことがあるのだが、
役に立たない方向性を徹底的に突き詰め、でもその作品でしかありえない存在感があると、僕はそれを高く評価する。

まとめると、他者を意識した作品は楽しく、自分の中だけで解決を図ろうとする作品はつまらない、そう判断している。
作品を生み出すという行為について、鴻上尚史『プロパガンダ・デイドリーム』の「あとがきにかえて」では(→2005.3.19)、
「表出」と「表現」という言葉で区別する。「表出」とは自分ひとりでもできるが、「表現」は作品を受け取る相手が必要だ。
自分が満足する状態が「表出」、他者を満足させる状態が「表現」。両者の間には、非常に大きな差があるのだ。
美術展で僕は自分を完全に他者として、アーティストが僕の存在を意識しているかどうかを判断基準にしている、と思う。
自分が作品に無視されれば悲しいし、「オレってどう?」と語りかけられればうれしい。ただそれだけのことなのである。

つまるところ、「作品」と呼ぶことのできるあらゆるものは、この要素で成り立っているものだと思う。
「作品」とは、人間の想像力によって生み出されたもの全般を指す。形はあってもなくても構わない。
想像力というと、心理学における「心の理論」について扱った(→2005.7.28)。あれこそ、他者に対する想像力そのものだ。
自分が考えふるまうのと同じように、他者も他者なりの考えでふるまっている。そこに自分と同じだけの価値を見出すこと。
(仕事中に回覧でまわってきた『日経サイエンス』に、「心の理論」についてのわかりやすい例が載っていた。
 退治しようとしたゴキブリが自分めがけて飛んでくるのを「ゴキブリの逆ギレ」ととらえるのは、「心の理論」によるという。
 ゴキブリはムダが一切ない、生存と増殖に特化した生物で、感情という“余分なもの”を持っているはずがないのだ。
 しかしそこに人間と同じ理屈で「逆ギレ」を見出すのは、他者にも自分と同じ価値を見出す「心の理論」のなせるわざだ。)
美術における作品も想像力、「心の理論」も想像力である。そこから、僕の評価する美術をまとめてみると、
絶対的な美なんてものは最初から存在しておらず、他者との関係性の中で美の価値が上がったり下がったりする、となる。
そこにあるのは、結局は、関係性だけなのだ。物との関係、人間との関係。そして、その関係性をよりよくしようという努力。
(この考え方は、橋爪大三郎の社会学に通じる。『橋爪大三郎コレクション』にはこのことがたっぷり詰め込まれている。
 そこでは自分に加え、自分と関係したもの、さらにその関係そのものを、すべて「自分の身体」と定義する。→2004.11.2

もう少し、自分という存在・考え方と、他者という存在・考え方の独立性と関係性について、踏み込んでみよう。
ヒントになるのは庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(→2005.3.21)。これについて書いたログが、ベースに使えそうだ。
「人間誰しも、生きていくうえでどんなことにでも適用できる解の公式を探している。
さらには、人類全体で使える公式を探したくなる。ところがその公式は、どうも個人個人によって微妙に異なっているようだ。
自分の公式の仮説を他人に適用するどころか、うまく説明することすらできない。
しょうがないから、それぞれの解の公式どうし、どうやって折り合いをつけていくかが焦点になっていく。
また、自分の中での公式をつねに更新してヴァージョンアップする必要もある。人間たちはそんな状況で生きているわけだ。」
……こんなことを書いた。ここでは解の公式と表現したけど、さらに広げて「幾何学」という比喩もできそうな気がする。
高校までの数学では、ユークリッド幾何学の1種類だけが対象になっている。ユークリッド空間の枠内だけで考えている。
そのせいか、僕らはその延長線上で、思考の枠組みというものが人類全員で共通していると思っているところがある。
(これは日本人が、ふだん宗教を意識する機会、宗教の違いを肌で感じる機会が少ないことも大きく影響していそうだ。)
でも実際には、そもそも公理の段階で、人によって持っているものはまったく違っているのだ。厳密に言えば、
ひとつとして同じ幾何学(それは物の見方、世界の眺め方)は存在していないのだ。人の数だけ幾何学がある。
たまに別々の幾何学どうし共通する部分があって、そういう箇所でわかり合うことができている。そんなふうに思えるのだ。
すべての公理が一致するわけじゃないけど、それでも幾何学どうし共有できるものを探して、作品が生み出されていく。
そこで相手の幾何学を(無意識のうちに、生まれついての能力として)探っていくのが「心の理論」の役割、となる。
今のところ、僕の中ではこういうイメージで、各種のキーワードを結ぶ一本の線が引かれているのだ。

ところで、ある時期から、僕の日記には「一人はさみしいなあ」という記述が増えてきている。
今まではわりとそれを当たり前の状態として平然と過ごしていたのだが、最近はそう思えなくなってきている。
一人で本を読んだりDVDを見たりしていると、それは確かに「ムダ」のない時間なのだが、でもやっぱり味気ない。
対して、親しい友人や気の置けない人と一緒にいると、時間のロスはあっても、それだけで楽しいから気にならない。
もともと僕は時間というものに対する恐怖感が人一倍強い。時間を憎んでさえいる時期があったくらいだ(今もそうだけど)。
人間は本能的に時間に恐怖感を抱いていて、それをどう有効に消費していくかを考えることのできる生き物だと思う。
裏を返せば、覚悟を決めて「ムダ」のある時間を使うことで、そこに価値を表明することができる、ということにならないか。
だから友人たちと過ごす時間は、「ムダ」な要素があるほど楽しい。自分も相手も、互いに価値を表明しているのだから。
……まあこれは20歳を過ぎてから言えることかもしれない。10代の頃は時間がありすぎて、もうちょっと違っていた気がする。

「ボクはキミと一緒に時間を過ごしたいんだ」。すべてはこの言葉に帰するんじゃないか、と思っている。
美術の作品に触れることはつまり、その作品をつくった相手と、目の前の作品を通して同じ時間を過ごすということだ。
逆にこちらが作品を送り出す場合には、どれだけ受け手が作品を味わう時間を喜んでくれるのかが勝負になる。
その時間を「楽しかった」と言ってもらえれば、それはこの上なく幸せなことになるわけだ。
これは何も美術に限ったことではない。音楽でも小説でも演劇でも映画でも、同じことだ。
そしてこれは作品という物と人の関係だけじゃなく、人と人との関係にもそのまま用いることができる。
家族だろうが友情だろうが恋愛だろうがゲイだろうが、この表現なら、ある程度広い範囲をカヴァーできるんじゃないか。
時間を一緒に消費することで表現される価値、一緒に過ごす時間をより楽しくしようとする努力の価値、
そういった目に見えにくい事実について、もっと敏感にならなきゃな、と今さらながら痛感しているところだ。

逆を考えれば/裏を返せば、一緒にいられないということは、それはかなり厳しい結果が突きつけられるということだ。
もちろん、距離を置いて冷静になるというプラスをもたらす場合もある(特に家族という関係性の場合にはそうだ)。
しかし一般的には、関係性が更新されない不安感が想像を悪い方へともっていき、マイナスへと動いてしまうことが多い。
実際には不可抗力で離れざるをえないケースもあるだろうし、そもそもそこまで考えて行動していないケースもあるだろう。
だから数学的に「ボクはキミと一緒に時間を過ごしたいんだ」の逆だの裏だのを考えるのは、あまり有意義ではなさそうだ。
(これは、最近のネガティヴになりがちな自分に対するヒントである。念のためしっかりと書いておく。)

そんなわけで、今のところとりあえず、「ボクはキミと一緒に時間を過ごしたいんだ」というのがキーワードになっている。
潤平の場合なら一休宗純や谷川俊太郎のエロスを援用するだろうが、僕はそういうどぎつい言葉は使いたくない。
引用は極力しないで、自分の中に取り込んだものは自力で咀嚼して自分の言葉にして吐き出す。
そのための日々の訓練が、この日記なのだ。まだまだ努力の余地だらけだけどね。


2005.10.23 (Sun.)

ついに28歳である。なっちまったもんはしょうがないので、30までの下地をがんばってつくっていく。努力!

横浜へ行くことにした。横浜駅~みなとみらい間を一人でトボトボ歩くのはイヤだという理由で、すべて自転車で行くのだ。
国道1号(第二京浜)を行く。入試応援で来たこと(→2005.2.12)を思い出す。でも今回はさらにその先へグイグイ進む。
東神奈川駅を突っ切って横浜駅を通過するまでがだいたい1時間強。走っている際の感覚に比べ、横浜は意外と近い。

今回の目的は、横浜トリエンナーレを見に行くこと。で、僕はてっきり横浜美術館が会場だと思っていたので、
建物の中に入ってから唖然とする。「あれ? どこ?」……まあでもせっかく来たので、コレクション展を見ることにした。
横浜美術館のラインナップは、なんだか今ひとつ冴えない。ある程度いいとこ取りをしていると言えなくもないが。
目立っているのは順路のいちばん最後、現代美術の海外作品ぐらい。あとはどうにも、パッとしない印象が残る。
「パッとしない」という表現もいろいろと失礼とは思うが、そう思っちゃったんだからしょうがない。
テーマの絞り方もはっきりしていないし、作品も、客に感情をぶつけるより、自分の意識を形にしました的なものが多い。
芸術ってのは難しいもので、芸術家の問題意識が社会の雰囲気とマッチするタイミングでないと最大級の評価が来ない。
その気長な博打に耐えられるかどうかが、勝負なのである。展示を見ながら、そんなことを考えていた。

さて、肝心の横浜トリエンナーレは山下公園の先でやっているということで、自転車で移動する。
(ちなみにトリエンナーレは3年に一度の美術展。2年に一度はビエンナーレで、毎年やるのはアニュアル。クイズに出るよ!)
作品についての詳しいコメント・美術論・芸術論等は潤平の日記の方が充実していると思うので、そちらを参照のこと。
そのかわりこっちでは、僕なりに思ったことをいいかげんに書きつけていくことにするのである。ホントにいいかげんだよ。

まず結論から。この美術展は、ディレクターである川俣正の一人勝ちである。圧勝。
展示されている作品は、まあはっきり言ってほとんど大したものがない。どれもほとんど、2秒見れば十分なものばかり。
しかしながら、会場を歩きまわること自体は楽しい。子どもが笑顔であちこち行ったり来たりしているのが何よりの証拠だ。
つまり、倉庫という会場に大雑把なコンテナを一見無造作に並べ、「秘密基地のワクワク感」を演出したのが巧いのだ。
さらに、混乱しまくってまるで迷路のような動線が、来場者たちの空間認識能力を思いっきり揺さぶる。
作品を味わいながら歩く会場の空間は、実際の大きさよりもはるかに膨張しているように感じられるのである。
ひとつひとつのアトラクションの面白みは小さいが、美術をキーワードにテーマパークを創り上げたと言ってもいいだろう。
作品のレヴェルが高くない分、そしてもともと何もなかった倉庫が会場である分、来場者たちは自力で想像力を足す。
きちんと「参加型」のテーマパークになっているのだ。 だから川俣氏の目指す「アートサーカス(日常からの跳躍)」は、
完全に成功している。僕にとっていちばん魅力的だったのは、その会場の空間じたいだったのだ。
それだけに、一人で行くのはおそろしく虚しい。僕はずーっと、「アイツと来たかった……」なんて思いながら会場をまわった。
横浜トリエンナーレは、仲間や親しい人と来てワイワイやりつつテキトーに時間をつぶす、というのが正しい味わい方なのだ。

この日は久しぶりのすっきりとした秋晴れで、入ってすぐのストライプ・フラッグが青空に映えて、とんでもなく美しい。
地面を見れば、三角形の影がコンクリートにゆらめき、もうひとつの海面のようだ(通路のすぐ横が青い海)。いい発想だ。
この会場の魅力は天気によって大きく左右されそうだ。たとえばカモメが数十匹かたまってひなたぼっこしていたり、
中庭では来場者は椅子に腰掛けてぼーっと過ごしていたり、そういう余裕のある姿を見るのも楽しいものだ。
会場のコンテナは真っ青に塗られていて、それと空の青、海の青という3種類の青が溶け合って(=「天・地・人」?)、
なかなか贅沢に「青」という色を味わうことができるようになっている。倉庫のくすんだグレーが、それを邪魔しない。

気になる作品を挙げてコメントをつける。本当は気が進まないけど、このイヴェントの正しい楽しみ方だと思うので、あえて。
タニシK。会場を車で乗りまわす彼女は、ミッキーマウスと同じくらい会場に必要な存在に思えた。テーマパークの楽しみだ。
ピュ~ぴる。服を着た人形のとっているポーズがよかった。『よいこっち』で見た際の氏のコスチュームは本気で怖かったけど。
KOSUGE 1-16+アトリエ・ワン+ヨココム。今回、子どもがいちばん喜んでいたのはコレ。それを見ている大人も楽しそう。
とりあえず作品と作家名が一致したのはこれくらい。なんせ量が多くて100点満点中55点くらいの作品ばっかなんで……。
まとめると、映像作品に魅力のあるものはほとんどなく、観客に自由に遊ばせるオブジェに楽しい作品が目立っていた。

あと、七夕の笹みたいに来場者がなんでもいいから書いて貼る、みたいな作品があったんだけど、
その中に「2005/10/23」とだけ書いてある紙があったので、その下に「↑ボクのたんじょうびなんですケド」と足しておいた。
ぜんぶ見終わった後でもう一度その場所に行ったら(僕は美術館に行くと必ず、最後に会場をもう一周して総括する)、
青いFREITAGの女の子とその友達がそれを発見して「あ、そうなんだ。おめでとーだねー」と言っていたのに偶然出くわした。
横でその言葉を聞いていた僕は、もしかしたらこんな具合に無数の知らない人から誕生日を祝われていたのかも、と思う。
この事実は、会場内にあったどの作品よりも、横浜トリエンナーレらしく人のつながりを示唆する現象だったのではないか。
偶然にも、僕がトリエンナーレに作品を出品していた気がして、なんだかそれだけでヒッヒッヒと笑いたくなるできごとだった。

最後は、バスに乗ってエントランスまで戻る。ふだん絶対に通らない倉庫の裏側を存分に見せながら、バスはゆっくり行く。
公園から800mもの距離があるから、日常から飛躍できる。埋立地には地霊がいないから、幻を生むことができる。

横浜駅に移動する。横浜駅の東口と西口は、地上からだとおそろしく複雑なルートを通らないといけない。絶対に迷う。
だから先に線路の西側に出て、裏側から駅へとアプローチすることにした。そうすると真っ先に東急ハンズがお出迎えだ。
1階のバッグ売り場を何気なくぷらぷらしていたら、やっぱりあったよFREITAG。コンセプトが圧倒的にハンズ向きなので、
ハンズで売りだすのは時間の問題だろうと思っていたが、いざ本当に置いてあるのを目にすると、なんだか残念な気分。
品揃えは少なかったが、僕のDRAGNETとほぼ同じ柄(白と青)のKNIGHT RIDERを発見。欲しい。金がない。ガマン。
サウダージな思い出に浸りつつ店内をまわる。僕はもう、一生これを抱えていくんだろーなと思う。まあ、そういう人間だし。

駅ビルに入ると、そごうに行く。本屋で文庫本を3冊ほど買う。僕はいつもその場で読みたい本をテキトーに決めて買う。
地下2階に戻ってエスカレーターを降りた瞬間、子どもが鯛焼きをかじっているのが目に入った。「そうだ! 鯛焼きだ!」
実は、僕は鯛焼きに目がないのだ。見るとついつい買ってしまう。大判焼きではダメで、鯛焼きじゃないと絶対にいけない。
大学4年のとき、夢の中で鯛焼きを探しに長野県内を自転車で走りまわったことすらあるほどなのだ。
で、フロアを歩きまわって鯛焼き屋を発見。2枚買うと、かじりながら駅のコンコースを行く。あんこの甘さが疲れを癒す。
なんでかわかんないのだが、僕は歩きながら鯛焼きをかじるという行為に無上の喜びを感じる人なのだ。カックイー。

そうして血糖値を上げておいて、帰りは国道15号(第一京浜)を走る。いくらでもスピードが出る。
太ももがパンパンに膨らんでいるけど、ぜんぜん気にならない。勢いあまって大井町まで出て、旗の台ルートで帰った。
最初っから最後までいかにも僕らしい一日で、まあ、人間そんな簡単に変われないってことさね。


2005.10.22 (Sat.)

休日の私。

2ヶ月ぶりに髪の毛を切った。最近はけっこうほったらかしのボサボサだったのだ。
「いつものように短くします?」と訊かれるが、「や、せっかくだから長くしましょう」ということで、久々に長めにすることに。
「長さはそのままで全体的にボリュームを落として、自然にしますね」と、おねーさん。なんだかいつもよりうれしそう。
言葉どおり、おねーさんはハサミを縦にして丁寧に丁寧に髪の毛を切っていく。なんだか“削っている”感じがする。
根気がいるよなあ、なんて感心しながら眺める。でもおねーさんの頭の中ではイメージができあがっているようで、
そのイメージに着実に近づけていくのが楽しいというか、たまらない喜びのようだ。
それぞれの客に応じてベストの解決を図っていく。想像力を発揮して仕事をしている。かっこいいのである。
カットが終わって、おねーさんはいつもよりもなんだか満足そうにしていた。
そんなにオレの髪を長めにしたかったのか。それともブサイクを一時的にでも矯正したことで喜んでいるのか。

GAギャラリーの「隈研吾展―モックアップス」を見に行く。潤平が関わっているというので。(この辺参照: A B C
あらかじめ書いておくが、僕は隈研吾にいい印象を持っていない。理由は、「M2」をつくったから。あれは犯罪に等しい。
もう許してやれよ、と言われそうだが、その後の変わり身にも、建築家というより広告代理店的な匂いを感じてしまう。
でもそれはあくまで僕の抱いている勝手なイメージにすぎないわけで、きちんと実際を把握しようと思って行ったわけである。

モックアップとは、デザイン・構造をチェックするために試作された原寸模型のこと。
なるほど、確かにどれも面白い。よく見つけてきたものだと思わず感心してしまうような素材が並んでいる。
バラしてあちこちに運んで組み立てられることを強く意識しているようだ。どれも面白みがあって、いいんじゃないかと思う。

図面もある程度展示されていたが、見ていてどれも、建物じたいの造形にはほとんどこだわりがないように感じた。
どれも異常にシンプルで、自己主張があまりない。素材で差をつけているが、それがなければおそろしくシンプルだ。
建物の内側も外側も極力単純な形にしている印象である。その分だけ素材が生きる、ということだろうか。
これについて、あえて、ちょっとイジワルに書いてみよう(僕は建築の専門家じゃないから、憶測を勝手に書いちゃうのだ)。
隈研吾は、「M2」の失敗もあってか、いわゆる設計を拒否しているように思う。デザインセンスのなさを自覚して、
やめちゃった感じ。だから他者がつくる素材をコーディネイトする方向性に活路を見出して、とりあえず成功を確保した。
そういう意味では、彼は狭義の建築家ではないと思う。まあ建築じたい、どんどんと新しいものに変化しているだろうから、
彼が“広告代理店的に”素材を集めて提示するのは、そういう定義を書き換えていく建築の現代性に即しているとは思う。

しかしながら、展示に関して絶対に許せないことがあった。それは、モックアップに触れない、触ってはいけない、ということ。
せっかく面白みのある素材を展示しているのに、まして建築とは本来、触れることのできる表現メディアであるはずなのに、
その作家の核心に文字どおり触れられないとはどういうことだろうか? いったい、何を客に示したいんだろう。
この一点において、展示の本来の目的がぶち壊しになっていると思うのは、僕がおかしいのか? 理解に苦しむ。

川島雄三監督、フランキー堺主演『幕末太陽傳』。
大学時代からこの作品にかなり興味はあったのだが、当時はビデオを借りるという習慣がなかった。
TSUTAYAで時代劇の棚を見るたび『幕末純情伝』が目に入り、「沖田総司は実は女で、牧瀬里穂だったのかよっ!」
とツッコミを入れる、そんな生活が続いていたが、日活の作品が集中してDVDになったコーナーでようやく見つけて、借りた。

舞台は幕末の品川宿(今の品川駅の南側、タイトルとともに昭和32年のその場所が映る)、そこの遊郭・相模屋である。
主人公・佐平次(フランキー堺)は、長州の武士が落としていった外国製の懐中時計を拾う。すべてはそこから始まる。
佐平次は仲間と相模屋で豪遊を続けるが、実は無一文。それがバレると、相模屋で働いてその分を返すことになる。
口八丁手八丁の佐平次は次第に相模屋に欠かせない存在となっていき、またその抜け目のなさで着実に金を貯め込む。

佐平次の拾った時計は、実は高杉晋作(石原裕次郎)のものだった。高杉は相模屋を拠点に尊皇攘夷の活動中。
高杉は志道聞多(二谷英明)・久坂玄瑞(小林旭)らと、御殿山(八ツ山)に建設中である異人館の焼き討ちを企てる。
ところで相模屋では、女郎こはる(南田洋子)と女郎おそめ(左幸子)が板頭(要するに指名No.1)を争う関係にあった。
こはるは次から次へと客をとりまくり、後にそれが原因でトラブルに見舞われる。しかし窮地を佐平次に救われて惚れ込む。
対するおそめは客を選ぶので落ち目になりつつある。それで貸本屋金造(小沢昭一)を相手に心中を企てる。
しかしこちらもトラブルになったのを佐平次に解決してもらい、結果、佐平次はふたりから結婚を迫られる。
もうひとつ、相模屋では大工の娘・おひさが女中として働いていたが、父の借金の形としていつ売られるかわからない状態。
相模屋の跡取り息子・徳三郎はそれを不憫に思うが、彼は典型的なドラ息子かつダメ人間で、今にも勘当されそう。
そんなふたりが窮地に立たされるが、ここでも佐平次が活躍してふたりを逃がすのに協力することになる。

以上、3つのストーリーが並行して進んでいく。それらを佐平次が実に軽やかな足取りで駆け抜ける様子は本当に痛快だ。
3つのストーリーは懐中時計を軸にしつつ、見事に絡み合って伏線を生んでは回収し、ラストへと向かっていく。
呆れるほど鮮やかで、ひとつのムダもなく完璧につくり込まれた物語である。映画というより演劇を観ているみたいに美しい。
僕は複数のストーリーを交差させる伏線張りまくりの作品に弱い。だからこそ、それなりに厳しい見方をしているつもりだが、
この作品はひとりの主人公だけですべてを解決するというやり口が突出している。ここまでやられちゃ、ぐうの音も出ない。

役者の演技もすばらしい。特にフランキー堺はもう、彼以外に佐平次を演じられる人はいないだろう、そう思えるほど見事。
石原裕次郎が生まれついての大根というのは周知の事実なので、特に言うことはない。でもそれも愛嬌だと思う。本当に。
けっこうビッグネームが揃っていて、中でも岡田眞澄の役どころがなかなか面白い。若き日のファンファンにはびっくりだ。

たくましく自分だけを頼りに生きていく佐平次の姿は実に頼もしく、心の底からうらやましくなる。
そんな彼を物語が最高の完成度でバックアップして、何度も見たくなる。見るたびその鮮やかな展開にため息が漏れる。
これ以上グダグダ言うのは野暮というもの。ただひたすら、作り手の才能と努力に酔いしれるだけで幸せになれる傑作だ。
参りました。


2005.10.21 (Fri.)

ある作品について感じたことをまとめるとき、意識することもしないこともあるが、必ずある一定の評価軸に沿うことになる。
つまり、作品の良し悪しというものは、各人に固有の基準でしか判断できない、ということだ。あくまで相対的なものなのだ。
それぞれの人は、自分の視野からはずれた部分については評価対象としない。人によって見え方は異なるのである。
言い換えれば、人にはそれぞれ固有のテーマ(それが評価軸になり、視野の範囲になる)が存在している、ということだ。
僕の場合はもっぱら、物語と現実の関係性だ。フィクションがリアルな社会とどうインタラクティヴにつながるか、という視点だ。

『ニューシネマパラダイス』(完全版)を見た。この映画は、映画というメディアが物語の中心に据えられた作品である。
でも僕は映画というメディアが好きじゃない。演劇に比べるとライヴの迫力に欠ける、つまり生きていない、というのが理由だ。
映画に対して批判的な態度をとる自分は、この映画をどういう切り口で見るのか、そこまで客観的に考えつつ感想を書く。

主人公・サルバトーレ(通称「トト」)は、アルフレードという人物の死を知らされる。そこから回想に入る。
舞台はシチリアの村。終戦直後の村では映画が唯一の娯楽で、映写技師・アルフレードのもとでトトは遊んでいた。
しかしフィルムが発火して劇場が焼ける事故が発生、アルフレードは視力を失う。そして、トトが新たな映写技師となる。
トトは仕事をこなす一方で、恋をする。しかしアルフレードはトトの未来をつねに案じていて、そのことに批判的だ。
やがてトトは徴兵され、ローマへと向かうことになる。彼が村に戻ってきたとき、彼を残して周囲の状況は変化していた。
アルフレードはトトに村にいるべきではないと諭し、トトは村を離れる。そして30年後、彼はアルフレードの葬式に出席する。

まず序盤。少年時代のトトがすごくイヤだ。賢い目をしていて、そのまっすぐさがものすごく模範生的で、気持ちが悪い。
頭のいいやつは映画が好きだ、と主張しているかのよう。なんだか宗教じみてすらいる映画への思いが透けていて、困った。
また、全編を通して言えることだが、この映画は観客を感動させよう感動させようという姿勢がとても強くて、鼻息が荒い。
特に序盤はそれが本当にしつこくって、かなりウンザリさせられた。エンニオ=モリコーネの音楽も威力全開で、困った。

村人のキャラクターは非常に魅力的だ。トトの子ども時代、青年時代を経て現在へと至る物語の中で、
どの場面でも存在感を発揮して話に厚みを持たせている。「近所のおっちゃん」がいかに楽しい存在か再認識させられる。
しかしながら、この映画はトトの一人称が徹底されているので、村人の描写はどうしても二の次でしかない。
もったいないなあと思う反面、でも映画のテーマ性を考えれば仕方のないことなので、うーんと唸りながらあきらめる。

この映画にはいろんなメッセージが詰め込まれているのだが、とりあえず僕の視野に食い込んできたのは2つだった。
ひとつは、田舎を捨てて都会に出るということ。そしてもうひとつが、どうしょうもなくすれ違ってしまった失恋、である。
20代前半の僕なら、たぶんきちんと味わえなかったと思う。いいところ、「ふーん」とか「へえ」どまりだろう。
でもさすがに上京して9年目ともなると、田舎の引力と平穏さと退屈さ、そして都会の厳しさと環境の多様さが身にしみる。
アルフレードは「二度とオレに会うな。連絡も取るな」とまで言って、トトを都会へと送り出す。
そうすることでトトは失うものがなくなり、結果、成功をおさめる(いかに成功したかを描かないのがこの映画の巧さだ)。
そしてトトはアルフレードの死をきっかけに村に戻るが、そこにいた人々は、昔と変わらない表情で彼を迎えた。
兵役から戻ってきたときには確かに変化していたが、大切な部分は決して変化していなかったわけで、
そういう「居場所」の微妙な変化が若者には牙をむき、ある程度歳をとった者には安心感を与える。
それを(盲目の)アルフレードは知っていて、トトが決して見ることのできないチャンスの流れをコントロールしたのだ。
もうひとつの恋愛も、村に戻ったことで再燃する。わずかな手がかりからトトはかつての恋人を探り当てる。
あまりに遅すぎた再会を果たすが、それはアルフレードがトトを成功させるため、田舎で映画技師を一生続けさせないため、
手を回した結果でもあった。やっぱり男にはどうしても捨てられない感情があるわけで、その辺がグサグサ痛いのなんの。
何が幸せなのか、成功とは何か、いろいろな結論があるが、それを徹頭徹尾自力で思いどおりにすることなどできない。
どこかで妥協したり納得したりすることが必要になってくるのだが、難しいのはそのタイミングだ。
こればっかりはどうすることもできないのだが、そういう「流れ」が存在しているということを、あらためて実感させられる。

アルフレードの遺したフィルムを見るラストシーンはけっこう有名だが、それは「完全版」だけのラストであるらしい。
さっきも書いたが、とにかく観客を感動させようという仕掛けがものすごくいっぱいあって、それに辟易させられる。
しかし、アルフレードの存在、村人の表情、そういったものが本当にあたたかく、結局は僕も強引ながら感動させられた。
感動させようさせようという姿勢が鼻につくんだけど、描いているテーマが身にしみるものだから、心を動かされてしまうのだ。
ここはもう素直に、「僕の原点は映画とはまったく違うものだが、これと同じような何かがあると思う」と言うほかない。

さて最後に、いかにも僕の問題意識から、この映画を読んでみたい。
アルフレードは「映画と現実は違う」という事実を知り尽くしている。だからこそ、冷徹なくらいにトトを送り出すことができる。
この物語には、やっぱり、メタレヴェルで、フィクションとリアルな現実の戦いが表現されていると思うのだ。
たとえば、燃えてしまう映画館。そして火傷を負ってしまうアルフレード。フィクションは焼け落ち、身体も現実に焼かれる。
再建された映画館も、トトや村人たちの前で爆破解体される。フィクションが、音を立てて崩れる。
だが、人間は想像力で物語を生み出す行為をやめようとしない。それは、最後に明かされるトトの職業をみればわかる。
ここには、フィクションの敗北と現実の勝利と、それでもやっぱり物語が生み出される、という構造が埋め込まれている。
この点において、この作品は非常にデキがいいというか、表面的でない仕掛けがきちんと効いている。

なんだかんだで、いい映画であるのは間違いない。ある意味、見る人のそれまでの経験が試される映画だ。


2005.10.20 (Thu.)

会社のU-40のメンバーで飲み会があった。まあ最初は純粋に飲み会の予定だったらしいのだが、
結婚した人、する予定の人がそれぞれ1名ずついることがわかり、急遽そのお祝いを兼ねる内容になった。
ウチの会社は独身の人がやたらと多くて、僕としては将来への漠然とした不安をどうしても感じてしまうわけだが、
そこからの脱出を無事に果たしたということで、それは快挙だと思いつつ、地ビールをちびちび飲む。

で、その「結婚する予定の人」というのが、僕の隣の席に座っている2歳年下の先輩(ややこしい)なのである。
もうなんというか、何を食ったら結婚とかそういうシチュエーションになるのかわからない。ありえない。
深夜に腹が減って、太るのがイヤだからともやしをゆでているような男には、理解できない世界なのである。

あ り え な い !


2005.10.19 (Wed.)

会社帰りに自転車で末広町へ。「D-秋葉原テンポラリー」で企画が開催されていると知ったので、行ってみた。
この「D-秋葉原テンポラリー」とは何か。答えは、旧千代田区立練成中学校。期間限定でミュージアムになっているのだ。
学校の教室をほとんどそのまま利用して、いくつかの展示を並行してやっている。

いちばんの目玉は「ジャン・プルーヴェ展」。フランスのデザイナーが残した作品が、あれこれ展示されている。
プルーヴェの特徴は、鉄という素材をモダニズムの職人としての視線から扱うところにある。
細長い鉄の板を三角形にして、細い方を下にして支える構造がすごく多い。家具でも建築でも、それが目立つ。
プルーヴェ自身の作品もさることながら、彼の残した建築を模型にしたものが、非常に充実していた。
模型を見るに、屋根に対するこだわりがものすごく強い。まず屋根をかけて、その中で建築をつくる、という印象。
だから屋根のディテールが面白い。ひとつひとつの部品からデザインをして組み上げているので、
細かいところまで見てみると、彼の独創性が徹底しているのがわかるのだ。

見ていて、プルーヴェの作品はそこまででもないが、モダニズムのデザインでは「キュートさ」がキーワードになると思った。
シンプルさで一世を風靡したモダニズムだったが、それが広く受け入れられるにしたがい、だんだんと魅力を失っていった。
しかしモダニズムの巨匠の作品を見てみると、ただ退屈なだけの後発とは明らかに違い、独創性のあるシンプルさなのだ。
その差はどこにあるんだ? それを一言でまとめたらどうなるんだ? ずっと考えていて、出てきたのが、「キュート」って言葉。
具体的にどうこうとは言いづらいのだが、「キュートなモダニズム」ってのが究極なんじゃないかって、ふと思いついたのである。
まあ、この件については、いずれ本腰を入れてじっくりと考えてみたい。

さてもうひとつ、「スモール&ビューティフル展」も見所満載である。これはスイスの各種デザインを集めたものだ。
スイスは職人の国であり、あらゆる道具が実にオシャレなデザインを施されて世界へと送り出されている。
今回は、FREITAG(リサイクルバッグ)、VICTORINOX(アーミーナイフ)、Naef(おもちゃ)などがクローズアップされている。
どれも大好きなものばかりである。ウキウキしながら教室に入る。するとそこは、色鮮やかな世界。
まずはFREITAG。原料のトラックの幌が積まれている。材料と工具と紙製のポップで、製作工程が紹介されている。
(まあ要するにお察しのとおり、FREITAGがきっかけでD-秋葉原テンポラリーで開催されているこの企画を知ったわけだ。)
次はVICTORINOX。こちらは6~7種類ほどのナイフを完全に分解して展示している。純粋にきれいだ。
そしてNaef。ネフのおもちゃは超ハイセンスで想像力をかきたてられるものばかり。ウチの家族はずっと憧れている。
木の親しみやすさを残しつつ、原色で鮮やかに塗り分けた積木は、横から見ると蝶々型。積み方が工夫できるわけだ。
ほかにもてっぺんからビー玉を転がして遊べるようになっている積木の城があった。なんて想像力なんだろう、と呆れる。
こういうおもちゃで育ったら、絶対に幸せだと思う。ただ、ネフはとにかく値段が高くって、そこが難点なんだよなあ。

夜の教室というものは、明かりが点いていて人が行き来していても、やっぱりどこか怖い感触がうっすらと残る。
いつも人で満たされている空間だから(だったから)、闇の側の逆襲がそれだけキツそうな気が、無意識のうちにするのだ。
社会人になって学校という空間からはだいぶ離れてしまったけど、機会があればじっくり考えてみたい対象である。

それにしてもこの「D-秋葉原テンポラリー」という企画、期間限定ではもったいなさすぎる。
大変だとは思うけど、こういうものを恒常的に維持していくことが、今後の何かを熱く刺激するいいチャンスを生むと思う。


2005.10.18 (Tue.)

アルフレッド=ベスター『分解された男』。第1回ヒューゴー賞を受賞した作品として、クイズの世界では有名。
でも知識として知っているだけじゃつまんないので、実際に読んでみたというわけ。

24世紀の地球が舞台。人類の進化の結果、人の心を読めるエスパーが社会で活躍している。
そのため、犯罪を実行することはおろか、犯罪を想像することすらできなくなっている。
しかし、大企業の社長・ベン=ライクはライバルの暗殺を計画する。もし捕まったら、《分解》されてしまう。
それを承知のうえで全力で計画を進めるライクと、犯罪を暴こうとする刑事部長パウエルを描く。

実に面白かった。エスパー同士の会話表現がまず凄い。言葉というのは線的、1次元的な性質を持っているが、
(それを利用したものに、クロスワードパズルがある。これは言葉を縦軸と横軸の平面上でクロスさせる遊びなのだ。)
図形を描くように文字を平面的に並べたり、会話のシーンでは複数のセリフを並べてエスパーの特殊さを演出したりと、
設定の想像力もさることながら、その世界に読者を引き込む工夫が存分になされている。これには唸らされた。
ふつうの会話・地の文もかなりノリがよく、どんどん読み進めていくことができる。

話じたいも面白い。無尽蔵の財力であの手この手を駆使するライクと、エスパーで切れ者のパウエルがしのぎを削る。
証人や物的証拠といった、裁判で必要なものをめぐって追いかけっこがなされるわけだが、心理の描き方が細かい。
特にライクが必死にエスパーの能力を避けようとするのに対し、パウエルはライクに共感と反感の両方を抱いている。
そういう複雑な心情が、この話に厚みを持たせている。エスパーと心の関係を、実にいいバランスで扱っているわけだ。

クライマックスに近づき、作者はとんでもない仕掛けを動かす。最初から伏線はあったのだが、ここまで大がかりだとびっくり。
ラストではすべての種明かしが説明ゼリフで丁寧になされるので、そこに違和感を感じる人がいるかもしれない。
でもそこに至るまでの過程だけで存分に楽しめたので、僕としては許容範囲内だった。ここは人によって差がありそうだ。
最後の最後でまたもうひとつ、作者は仕掛けを残す。独特な世界観ならではの鮮やかな結論を読者に提示してみせる。

僕がSFを(たまにだけど)読む理由は、作者のめちゃくちゃな想像力に揺られてみたい、踊らされたい、と思うからだ。
さすがはヒューゴー賞の第1回受賞作だけあって、その欲求はたっぷり満たされた。いや、満足満足。


2005.10.17 (Mon.)

サンマを焼いてみた。
夕方のニュース番組で、フライパンで手軽にサンマを焼く方法を紹介していたので、試してみたくなったのだ。
家族がいるんならいいが、一人暮らしでそういう手間のかかることって、なかなかやる気にならない。
でも今年のサンマは安くておいしいって話だし、やらないであれこれ想像で済ませるよりは、やってみて困るほうがずっといい。
そんなわけで会社帰りに108円のサンマを尾頭付きで買ってきて、部屋着に着替えると、いざ挑戦してみる。
(ちなみに、新鮮なサンマほど目がきれいでくちばしが黄色いそうだ。脂が乗っているやつほど体が丸っこいんだって。)

まず、サンマの頭と尾を取る。買ってくるときに「よく見るとけっこうカワイイ顔してんなコイツ」と思ったので、ちょっとかわいそう。
でも、しっかり食べて供養してやるべきなのだ。そんなわけで、まな板の上でちょっと力を入れて切る。
今回はフライパンで焼くのが前提なので、残った身をさらに半分に切って、ハーフサイズの二切れにする。
切ると赤い血がうっすらと広がり、内臓が出てくる。ここで本格的に生臭い匂いが辺りに漂いだす。
そういえば、僕が小学生のときにcirco氏がかなりアウトドアに凝っていて、毎月『BE-PAL』を買っていた。
で、僕もマンガを中心にちょこちょこ読んでいた。そこには「魚の内臓は包丁の先でこすって取る」、
みたいなことが書いてあったのを思い出した。そんなわけで、サンマの腹に包丁を入れて、ぐっと裂く。
(どーでもいいが、浦沢直樹の名前は『BE-PAL』のマンガで覚えた。ここまで有名なマンガ家になるとは想像できんかった。)
かき出した内臓は床に置いた新聞紙の上に捨てる。水で流しながら、見た目がきれいになるまで削いで削いで削ぎまくる。

フライパンの代わりに、いつも使っているチタンの中華鍋をコンロの上に置く。
換気扇を目一杯回したら、まずサンマの断面を30秒ずつ焼く。こうすることで、旨味を閉じ込めるんだそうだ。
それが終わると、一度くしゃくしゃに丸めたクッキングペーパーを広げ、鍋の上に敷く。その凹凸が熱を均等に伝えるらしい。
中火にしてサンマをクッキングペーパーの上に乗せる。しばらくすると、サンマ自身の脂で勢いよく焼けはじめる。
その間、新聞紙ごとサンマの頭・尾・内臓を片付ける。こうして自分で内臓などを処理すると、命を食べることがよくわかる。
片面を6分ほど焼いて、ひっくり返す。オーブンで焼いたのとまったく変わらない、いかにもな「焼き魚」の姿になっている。
もういいかな、と皿にとる。クッキングペーパーを菜箸で丸めて捨てる。確かに、驚くほどきれいにサンマが焼けてしまった。

白いご飯と一緒にサンマで晩飯をいただく。実家で食べるときとまったく変わらない味がした。
ひとりで凝ったメシを食べることほど虚しいことはないのだが(僕が昼をファストフードで済ませる理由はそこにもある)、
あれこれ試せるのもやはり、ひとりだからこそなのだ。失敗しそうなことは、失敗できるうちにやっておくべきなのだ。
サンマに限らず、最低限の料理ができるようにまたいろいろ試してみよう、なんて思った。


2005.10.16 (Sun.)

東京都現代美術館、「イサム・ノグチ展」。行かなきゃダメでしょ、ってことで行ってきた。
いちおう、イサム=ノグチ(1904-1988)についての説明を軽く入れておこう。一般には照明具のデザインで有名な人。
詩人・野口米次郎とアメリカ人の母親の間に生まれたハーフで、彫刻から空間デザインまでこなした世界的アーティストだ。

イサム=ノグチの作品のテーマ性は、時期によって明確に分けることができる。展示もだいたいそれに沿ったものになっている。
まず中に入ると、いきなり「2mのあかり」がお出迎え。見慣れている照明具だが、さすがにこのサイズだと迫力満点。
しかし「あかり」があるのは、ここともう1ヶ所だけ。基本的に、デザイナーではなくアーティストとしての作品しか置いていない。
序盤は彫刻・彫像が並ぶ。見ていると、平面の部品をまっすぐ立てて組み立てる、そういう立体の作品が多い。
平面を折り曲げて重ねることで3次元の物体となる、そういう作品を1940年代と1980年代に制作しているのだ。
40年代は有機的な形の平面だが、80年代には直線と曲線がより強調されるようになっている。心境の変化が知りたい。
続いては、石を素材にした彫刻。この差は、垂直方向から水平方向への関心の変化と言えるかもしれない。
石の彫刻を地面に置くことで、自然と人工の境目が見えてくる。見つめていると、彫刻がミニチュア化した大地に思えてくる。
そしてアトリウムには高さ3.6m、重さ17tの「エナジー・ヴォイド」。この作品については、僕はどちらかというと形そのものより、
継ぎ目から想像できる組み立て方のほうに興味がいった。あと、極力単純化した筆跡の、イサム=ノグチのサイン。
この日は雨が降っていたのだが、傘を借りて中庭に出て、イサム=ノグチがデザインした子ども向けの遊具に触ってみる。
叩いてみると鉄の音。足をぶつけて痛かった。子どもの想像力を喚起する遊具という印象は、正直あんまりなかった。
その次の展示は、空間デザインのコーナーである。さっき見た石の彫刻の上を実際に歩けるようにしたような作品が並ぶ。
ラストには遺作となった札幌市の「モエレ沼公園」の模型があった。スケール感が異常で、やたらと広くて大きい印象。
芝生の面積がとにかく広くて、けっこう来場者を野放しにしているんじゃないかって気がする空間だった。

総括すると、あまり面白くない内容だった。「あかり」シリーズをおそらく意図的にはずしていて、そのせいで魅力に欠けた。
こう書くと乱暴かもしれないが、イサム=ノグチは「あかり」をデザインしなければ、平凡な彫刻家にすぎなかったと思う。
展示されている本業の美術作品たちを見る限りでは、そういう印象をどうしても受けてしまうのである。
むしろ「あかり」シリーズの全製品だけを並べたほうが、彼の偉大さを知らしめるには良かったのではないか。
そんなわけで、もし「イサム・ノグチ展」に行くつもりの人は、過度な期待はしないほうがいいですよ、と書いておく。

ところで美術館に行くたびに思うのだが、音声ガイドを借りる人の神経がわからない。
肝心なのは耳で聞くことではなく、自分の目で作品を見ることだ。解説を聞く前に、まず自分で感じて考えるべきだろう。
確かに作品にまつわる知識は大切だが、それだけを家に持って帰るのは、あまりに虚しい。
少なくとも僕がアーティストなら、説明なんてどうでもいいから、自分の作品と対峙して想像力に刺激を受けてほしいと思う。
どうせウンチクなんか3日も経てば忘れちゃうんだから、それよりはお気に入りを探して気ままにフラフラするほうが健全だ。

この日はお隣の木場公園で区民祭りだかなんだかをやっていて、それに連動してか入場料が安くなっていた。
だからもうひとつの企画展「東京府美術館の時代 1926~1970」も見なきゃ、という気持ちになっていた。中に入る。

東京都現代美術館は1995年の開館だが、かつて東京府美術館が持っていたコレクションが引き継がれている。
(ちなみに東京府美術館は1943年の都制施行で東京都美術館になった。今の都美術館はその新館だったのだ。
 府美術館の設計は岡田信一郎で、モダンを意識しつつ部分的に西洋古典を採り入れた、なかなか面白い建築だった。)
展示は2部構成で、第1部は府美術館のコレクション、第2部が府(都)美術館で企画された展覧会の再現である。

まず第1部について。現美の常設展は1945年以降の作品に限られているので(「現代美術」の美術館だから)、
東京府美術館時代のコレクションが表に出ることはめったにない。今回は本当に貴重な機会なのだ。
今となっては古く感じる作品も、収集された当時は「現代美術」だった……そう考えると、作品がちょっと違って見えてくる。
ただ、現在の都美術館もそうだけど、府美術館は常設展示をしない美術館だった。そのせいで品揃えはわりと貧弱。

第2部はすばらしい。戦前の「第一回聖徳太子奉讃美術展(1926年)」「紀元二千六百年奉祝美術展(1940年)」と、
戦後の「日本(読売)アンデパンダン展(1949~63年)」「第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ、1970年)」を再現。
戦前の2つは日本画と洋画がごっちゃになっていて、それがコンテンポラリーな美術の状況だったってことにあらためて驚いた。
どちらかというと日本画の方にポップな作品が多くて、軽やかな後味を残す作品が目立つ。一見の価値は絶対にある。
もともと日本画はマンガに近いという印象を僕は持っていたのだが、そういう「革新的な伝統」が実体化していて面白い。
戦後の「読売アンデパンダン展」なんてもう、面白いに決まっているわけで、その期待どおりの作品が並んでいた。
この展覧会は無審査で、出品料さえ払えば誰でも参加可能だった。だから当時のアーティストがやりたい放題を繰り広げ、
結果として会場はしっちゃかめっちゃかになってしまい、主催者お手上げでいきなり終了、そんな伝説の展覧会なのだ。
詳しい記述は赤瀬川原平『東京ミキサー計画』(→2004.12.20)にあるので、興味のある人はぜひ読んでみてほしい。
赤瀬川の模写した千円札、中西夏之の「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」も展示。これを生で見られるとは……!
本当は洗濯バサミは床に落ちていないとダメで、それが蹴飛ばされてあちこちに行っちゃうべきなんだけど。まあでも満足。
「第10回東京ビエンナーレ」は、「人間と物質」というテーマで行われた、当時あまりに前衛でぶっ飛んでいた展覧会。
こちらは当時の資料が写真で並んでいるという展示方法だったが、これはもう本腰入れて本格的に再現すべきだと思う。
きっとめちゃくちゃ面白かっただろう当時の迫力を感じることができなくって、残念だった。

まとめると、イサム・ノグチ展とは比べ物にならないくらいこちらの方が面白かった。こっちだけでも見ておかないと損だ。
絵とは構図で8割方デキが決まってしまうことが再認識できた。絵の上手さは、視点をどこからとるかが鍵を握っているのだ。
筆づかいはその次で、いかに魅力的に世界を切り取るか、その立ち位置が大切だと教えてくれる作品が多くてうれしかった。

やはり現美には定期的に来ないといけない。ここに来るたび、東京に住んでいてよかったーって思うのだ。


2005.10.15 (Sat.)

ジョン=フォード監督でジョン=ウェイン主演、『捜索者』。
インディアンを完全に敵役として描いた西部劇は初めて見た。別に有色人種差別がどーのこーのというつもりはない。
そういうふうにしか作品を味わえないというのは、きわめて貧しい視点だと僕は思うので、別に興味がないのである。

今回のJ.ウェインは、コマンチ族を徹底的に憎んでいる南北戦争帰りのガンマン・イーサンを演じる。
(これまで見てきたJ.ウェインはなんだかんだ品行方正なヒーローが多かったと思うが、今回は本当にアウトローな印象。)
彼が3年ぶりに弟の家族を訪れたその翌日、家族はコマンチ族に襲撃され、姪が連れ去られてしまう。
血のつながりはないが家族に育てられていた混血児のマーティンとともに、イーサンは復讐の旅に出る、という筋。

見ていて非常に退屈だった。時間経過が全然つかめないので、話の持っている(時間的な)重みがまるで伝わってこない。
話の流れもけっこう粗っぽい印象を受ける。手紙を通した回想シーンなんて、この監督が使う手法なんかじゃないはずだ。
前に『明日に向って撃て!』について「追われる側しか描いてなくて物足りない」って書いたと思うのだが(→2005.7.4)、
この作品はその逆で、ただ漠然とした相手、ひたすらあちこちに逃げまくる相手を追いかけているだけなのである。
客観的にイーサンたちを描くだけでなく、もっと心情描写に踏み込んでいたなら、その歯がゆさも違って見えたのだろうけど。

とはいえ、見るべきシーンがなかったわけではない。狂気を感じさせるほどの、イーサンのコマンチに対する憎しみ。
完全に道化に徹してドラマに独特のリズムを与えているモーズ、非常に魅力的に描かれているローリイなど。
ラストシーンの直前に至るまで、どう考えても悲惨な結末しか想像できそうにない展開をずっと続けていながら、
強引ながらも最後には完全にぴったりとストーリーという箱・缶詰のフタを閉めてしまうその手腕には呆れてしまう。

でもまあ、総合的に見て、やっぱりこの作品は退屈だ。連れ去られたデビーに出会うまでの間延びがひどい。
あまり気合を入れてつくっていない感じ。巨匠と大物俳優がちょっと試しにやってみました、っていう感触がした。


2005.10.14 (Fri.)

買ってしまった、FREITAGのWILLY。神楽坂の店で会社帰りにえいやーと買ってしまった。おかげで今月は本当に金欠だ。

 
L,R: WILLYである。色に特にこだわりはなかった。こぎれいで、まあ地味で仕事場に持って行っても変じゃないよな、ということで購入。

いつも遊びに行くときにしょっているDRAGNET(→2005.3.31)はバカみたいになんでも入っちゃうんだけど、
WILLYはあんまり容量が大きくない。ペットボトルを1本入れたら、かなりパンパンになってしまう。とにかく幅がないのだ。
僕としてはハードカヴァーの本とiPodが入れば用が足りるのでそんなに困らないが、買い物には不便なサイズだとは思う。
でも電車に乗ると満員のときでもそんなに邪魔にならないし、これを背にしたままで座れてしまうのはすばらしい。

バックパックタイプのBONANZAがあったら、実家に帰ったり泊まりになったりしたときに便利だなあ、なんて思ってしまう。
さらに、KNIGHT RIDERを自転車につけてみたいなあ、盗まれたらイヤだけど、かっこいいだろうなあ、なんて考えてしまう。
FREITAGを集めだしたらお金がいくらあっても足りない。困った。なんとか理性でガマンするしかないのである。


2005.10.13 (Thu.)

脳神経心理学の本の校正が完全に戻ってきていないけど、続いて心理言語学の本の編集を担当することになった。
心理学と言語学の接点というとあまり想像がつかないかもしれないが、中身を読んでみるとけっこう納得がいく。
国語のテストは他者の心理・思考を想像する力が試されているのだ、と前に日記で書いたが(→2004.4.30)、
この本はまさにその内容を扱っている。他者とのコミュニケーションツールとして言語を使う際の、心のはたらきがテーマだ。

7章はジェスチャーについて書かれている章なのだが、そこでいきなり写真が手渡された。
「マツシマくん、これをもとに絵を描いてね」「は?」
編集の仕事ってのは雑用の連続なのだが、本に載る図をトレースするのも仕事のうちなのだ(すべて描くわけではない)。
前にMacとIllustratorで図をつくったことはあるが、写真をトレースするのは初めてだ。試しにチャレンジしてみることにした。

Macを長時間占領することになるので、あえて残業して作業する。何時まで残業できるかチェックしたかった、ってのもある。
ベジエ曲線を引く要領をすっかり忘れていたので、序盤はけっこう苦労する。でもそのうち、パスの動かし方がわかってきた。
思えば僕は、写真をトレースして描くイラストというのは、得意中の得意なのだった。作業していて思い出したわ。
高校時代にはそれで担任の似顔絵を描き、校内のコンテストで優勝したことだってあるくらいなのだ(これはちょっと自慢)。
今はそれがマウスを動かすだけでできる。便利な世の中になったもんだなあ、という感慨にふけりつつ、線を引いていく。
19時半になって上司から「もうやめたらどうでしょう……」と声がかかる。見ると、社内には5人くらいしか残っていない。わお。

 
とりあえずデキのいい方から2つ。クリックするとフルサイズが見られます。大して上手くないけど。

いや、ベジエ曲線というのは慣れてくると面白い。ちょっと工夫すると、あっさりとしたアート風になるし。
僕が手描きでやると、線の強弱のせいでどうしてもある種の泥臭さが出てしまうので、これは助かる。
こういう仕事が多いとどんどん上達できるんだろうけど、めったにないのが残念である。


2005.10.12 (Wed.)

萩尾望都『スター・レッド』。潤平がオススメしていたので、読んだ。やっぱり萩尾望都は読んでおかないといかんでしょう。

暴走族の女ボス(でも15歳)・星(セイ)がヒロイン。星は火星人でその事実を隠していたが、エルグという男に見破られる。
火星は地球の植民地だったが、子どもが生まれないため見捨てられた。しかし、特殊な進化をした人間が生き残っていた。
そこで地球政府は火星に攻め込み、植民地化を再び進める。そしてエルグに連れられて、星が火星へと戻る。
……といったところから始まる。(ああ、この話のあらすじをまとめるのは本当に大変だった。疲れたからこれで勘弁。)

潤平は日記で手塚治虫『火の鳥』を思わせる壮大さ、と書いていたが、まさにそのとおり。そんな印象だ。
ただ、『火の鳥』が過去と未来をつなげて時間的に幅を持たせた複数の世界であるのに対し、こちらは話の筋が一本。
でもひとつの星の終わり(火星)と、もうひとつの星の再生(ネクラ・パスタ)が描かれて、ぐるっと一周する構造になっている。

作者の頭の中が最初からトップスピードで物語を紡ぎ出していて、非常にジェットコースター的な速さで話が進んでいく。
ついていくのが精一杯、いや正直、ついていけなくなってページを戻ることしばしば。次から次へと圧倒的な飛び方をする。
ふつうのマンガの2~3倍以上のスピードでコマが進んでいく感じ。でもコマ間のつながり方はわりとふつうなのだ。
実に不思議だ。おそらくその原因は、設定がめまぐるしく書き換えられていくところにあるんじゃないかと思う。
まるで、乾ききらないうちに次の設定を盛っていって、どんどんうず高く積み上げられていく感じである。
だから僕には落ち着いて脳みそを乾かす時間が必要だった。おかげで読み終わるまでけっこうかかってしまった。

結論から言ってしまうと、僕は潤平ほどにこの作品をベタ褒めするつもりはない。理由は、「引っかからない」からだ。
「引っかかる」とはつまり、読み手の側が勝手に想像力を広げていくことができるような手がかりがある、ということ。
この作品は、あまりに作者の想像力がキレすぎていて、読者に有無を言わせない。そこが、どうにも困る。
言い換えれば、感想を書きづらいということだ。作者の意見に圧倒されてしまい、こちらが口を挟む余地がないのだ。
あまりに見事に物語が包み込まれており、摩擦がない。だからうまくつかめない。クラインの壷の中に手が入らない感じ。
たとえば音楽であれば、聴き手に「一緒に歌おう、踊ろう」と呼びかける要素が重要になってくる。
たとえば小説であれば、読者にサイドストーリーを想起させるような、そういう要素が魅力につながりやすい。
(建築だって、住む人や訪れる人がいて、それで初めて完成するわけだ。つくった家に誰も入れない、なんてイヤでしょ。
 あるいは住む人・訪れる人がいることを前提にしていても、どんな人かをあらかじめ決めてしまう建築は楽しくない。)
ではこの作品を読んでみて、作者と一緒に踊れるかというと、それは無理だ。そのステップがあまりに超人的だから。
キツい言い方をすれば、この作品に読者は必要ない。作者が物語を紡いだ、それだけで存在意義を持ってしまったから。
天才の技を遠巻きに眺めるしかない歯がゆさをおぼえる。たぶん、クオリティのわりに売れ行きは良くなかったんじゃないか。
名選手が必ずしも名監督になるのではないわけで、この作品が次の作品を生み出す契機になるかは、ちょっと疑問だ。

と、まるで潤平に対抗するように厳しいことを書いてきたわけだが、それは純粋に好みの問題なので、他意はない。
潤平の感想にある「異様に示唆的だが ただ純粋な寓話として受け取ればいい」という姿勢は、間違いなく“正解”だ。
確かに「預言」であり、それ以上でも以下でもない。問題は、それをどういう立場から受け止めるか、である。
ひとりの表現者が、確実に頂点を極めた作品であるわけだから、読まなければなるまい。必須レヴェルの作品だ。
そしてそこからどういう一歩を踏み出すか。ここからはもう、こちら側の力量を発揮する場面なのだ。


2005.10.11 (Tue.)

レイ=ブラッドベリ『華氏451度』。しっかりしたSFが読みたい気分だったので、読んでみた。

狭い。世界が狭い。それは主人公が狭い世界に住んでいるからかもしれないが、それにしても狭さをやたらと感じる。
知性が否定され、本を手にすることが禁止されている世界が舞台である。主人公のモンターグは焚書官として働いている。
しかしモンターグは徐々に自分のいる社会に疑問を持ち、やがて本を手にして逃げまわる。

設定の核の部分が、ジョージ=オーウェルの『1984』に似ている。そのため、どうしても二番煎じのイメージが残ってしまう。
しかも、あっちの方がエッジが効いている。こちらはふにゃふにゃと、まるっきりすっきりしないラストになっている。
本を禁止した社会を描くことよりモンターグの逃走劇に重きを置いていて、そんなに衝撃を与える内容にはなっていない。
つまりモンターグの視点にこだわっていて、彼が戦う相手の姿がまったく見えてこないわけだ。だから魅力を感じなかった。

感心した点はひとつだけ。モンターグの妻・ミルドレッドについての描写だ。
家にはテレビ室があり、壁の三面に画面が埋め込まれている。そこで番組を見る(参加する)ことが彼女の最大の娯楽だ。
夜、寝るときには《海の貝》というラジオを耳に詰める。そうして睡眠薬を飲んで眠るのである。
これって、現代社会にすでに存在していないか。供給されてくる仮想の世界に浸り、できる限り現実から距離を置く姿勢。
この作品の中ではそれが当たり前になっている(さらに人々は、子どもを生みたいとすら思わないようになっている)。
モンターグが枕の下に本を隠す場面がある。ミルドレッドは何度もモンターグに「やめろ」と言われるのに、枕を直そうとする。
ミルドレッドはモンターグの言葉を聞いているが、聞こえていない。自分の関心のあることだけにこだわっている。
何度もしつこく枕を直そうとするミルドレッドの描写は、そこだけものすごくリアリティを持っていて、背筋がゾッとした。
でもそれ以外には、特にこれといって凄みは感じなかった。

活字文化が危機にさらされている、という問題意識が強かった時代の影響で高く評価されている作品だと思うが、
正直、あまりよくできた話だとは思わなかった。先行した『1984』を読んでいると、なおさら社会の描き方を甘く感じる。
作者は設定を思いついて猛スピードで書いていったのだろうが、その分、粗くなっている面がある気がする。
敏感な嗅覚で時代の匂いを嗅ぎつけてはいるんだけど、どうにも中途半端で後味が悪い。これは名作ではないです。


2005.10.10 (Mon.)

ぬまモゲ最終日である。明日から仕事ってことで、もはやあまり無茶する気のない辺りが社会人である。
そんなわけで、とにかく最後はしっかり沼津のうまいもんを食おう、ということで、沼津港へ。

沼津港に着いたら、やたらと人がいっぱいいた。中には行列がみっちりできている店もある。
さすがにそれだけうまいもんがゴロゴロしているってわけなのである。そういう街って、本当にうらやましい。
バヒさん曰く、「なんだかんだで沼津の店は最低ラインが高い位置にある」。それは誇れることだ。

 人だらけ。

バヒさんは人ごみからちょっと離れた、いかにも通好みっぽい位置にある店に連れて行ってくれた。
コストと味のバランスが非常にいい寿司屋ということだ。回転していない寿司屋になんて、入った記憶がない。緊張する。

3で割ればいいや!ということで、上寿司3人前セットを注文する。しばらく待って出てきた寿司に、思わず目がくらむ。
確かに3人前なのだが、各ネタが均等に3個あるわけではない。エビが2つ、中トロが4つ。あとはすべて1つずつ。これは困る。
ケンカになるといけないので、ドラフト会議で食べたいものを指名していく方式をとる。納得のうえでおいしくいただく。
それにしても、どのネタも味が濃い。ネタ自体が大きいし、米の炊き方もいい。粒がはっきりしている。
3人とも無言のままひたりながら、しっかりとひとつひとつを味わっていくのであった。

これだけじゃまだ足りないので、イクラとシラスと上赤を追加した(本当は中トロにしたかったのだが、半額なので上赤に)。
上赤は赤身にちょっとトロが混じったもので、食べてみるとどっちも味わえてすごくお得。文句のつけようのない味である。
店を出てから、「次回はもっと贅沢にいってみよう!」なんてバヒさんとトシユキさんは言っていた。
いいんだけど……まあ、いいんだけど……ま、いいか。

その後は沼津駅に戻って解散。僕とトシユキさんは東海道線で帰る。帰りはずっと寝っこけていた。
振り返ってみると、非常に充実したグルメツアーだった。食った記憶と寝た記憶しかない、とても幸せな3日間だったとさ。


2005.10.9 (Sun.)

朝起きたら、トシユキ氏から、お前らは重度の睡眠時無呼吸症候群だ、と指摘された。

レンタカーで寮を出る。目的地は、伊那である。わざわざ静岡県沼津市から長野県伊那市へ移動するのにはワケがある。
それは「オレは、お前らと、ピザを食いたいんだー!」と僕が強硬に主張したからである。
毎度毎度の無茶な要求にイヤな顔ひとつしないで乗ってくれるふたりは、非常にありがたい存在である。

高速道路で富士市に出て、そこから国道139号で富士山の脇を通って、とりあえず甲府へと向かう。
山梨県との県境がすぐそこの、朝霧高原の道の駅に寄ったのだが、その名に違わず見事に霧だらけ。

 
L: あまりに霧が深くて、ちょっと先ですらまるで見えない。  R: 男3人、ソフトクリームをペロペロ。

富士の樹海を切り開いた道を行くと、山梨県は上九一色村。精進湖を左手に見ながら国道358号を行く。
山道をつらつらと行くと、いきなり中央道の甲府南インターに出るので、そこからは快適に飛ばす。
で、起きたら伊那インターだった。車に揺られると寝ちゃう子なの、ボク。

伊那に入ってからは僕がナビ役なのだが、「とりあえずこっち」とか「この辺この辺」とか、アバウトな指示を連発して困られる。
まあそのうちに無事に伊那市駅を発見し、ぐるっとまわって市立図書館の方向を指示したら、目的地に着いた。
男3人ということで、ラージ3枚+レギュラー1枚という強気のラインナップに決定。ピザのみ注文、飲み物は水だけ。
やはり今回も「量、けっこうありますよ」と店の人に言われる。「大丈夫です!」と返事をして、それから雑談をしつつ待つ。

  
L: ベルディ外観。この緑の螺旋階段がいいんですよ。白い外壁、窓ガラスの黒さとの対比も好きだ。
C: バジリコ。バジルとかハーブ好きな人にはオススメの逸品。  R: ガーリック。最初は強烈だが食べ出したら止まらない。

ピザの持ち方を軽くレクチャーすると、いざスタート。3人ともわき目もふらずに食いまくる。
バヒさんは「こういうピザは初めてだ」としきりに言っていた。まあ、一般的なピザのイメージに比べるとかなりジューシーだろう。
たまにここのピザを食べていると、「食べている」のではなく「飲んでいる」と錯覚することがある。それくらいジューシーなのだ。
バヒさんは特にジューシーなフレッシュトマトをいたく気に入ったようだ。実際、この日のフレッシュトマトのデキは最高だった。
あと、今回はレギュラーでイカのピザを注文した。感想としては、イカだけじゃなくてシーフードで贅沢に食べたいわ、である。

  
L: 欠食児童×2。  C: 余は満足じゃ。  R: ごちそうさまでした。

その後は時間的に少し余裕があったので、諏訪大社の下社秋宮へ行ってみた。目的はもちろん、おみくじを引くためだ。
すっかりダメ人間のわれわれ、おみくじを引いては「まだじっとしとらんとダメだな」と確認するのが恒例行事になっているのだ。
さて、諏訪大社は御柱祭りでとても有名な神社だが、実際にはちょっと複雑で、ぜんぶで4つの神社に分かれているのだ。
上社(かみしゃ)は「本宮(ほんみや・諏訪市)」と「前宮(まえみや・茅野市)」の2つで、
下社(しもしゃ)は「春宮(はるみや・下諏訪町)」と「秋宮(あきみや・下諏訪町)」の2つ。ぜんぶ合わせて諏訪大社だ。

下社秋宮は、行ってみるとけっこうな人出。全体的には年齢層は高めだった。
バヒさんは巫女さんに癒されていた。「今のオレは7割がピザ、3割が巫女でできとるで」とのこと(飯田弁丸出しだでなー)。
ここではバヒさん・トシユキさんともに大吉。久々に大吉が出たことで、バヒさんは心底ほっとした様子。よかったよかった。
僕は吉だったが、「短気をいましめよ」という文言が5つもあった。そんなにオレって短気なのか……?なんて悩んでみる。
参拝を終えると向かいの土産店で諏訪の地ビール「諏訪浪漫」を購入。3種類のセットで、後で回し飲みすることにした。

  
L: 色づきはじめた緑がなんだかきれい。  C: 下社秋宮の鳥居。  R: 秋宮の神楽殿。見事なもんです。

さらに上社本宮まで足を伸ばす。ここでもバヒさんは大吉を出して2連勝。バヒさんはやっぱりこっちでも、
巫女を発見して癒されていた。「今のオレは5割がピザ、もう半分が巫女でできとるで」。……パワーアップしたね!

 
L: こちらは上社本宮の鳥居。  R: 境内の様子。神前で結婚式を挙げていた。もうちょっと晴れていればよかったのにねえ。

中央道に戻って、来た道を帰る。その間、やはり僕は寝てしまう。車に揺られるリズムって、ホントに眠くなる……。
朝霧高原はやっぱり霧に包まれたままで、晴れていれば富士山がきれいなはずだったのだが、まるっきり見えず。

 がっくり。

途中、富士宮市でアクシデント。詳しくは書かないけど、まあ、自分がきちんと運転できるようにならなきゃなあ、と思った。

結局、寮に戻ったのは22時近く。テレビをつけたら偶然、キアヌ=リーブス主演の『スピード』をやっていて、
ついついつられて最後まで見ちゃう。で、見終わって、3人そろってすごくモテたくなる。3人そろってのた打ち回る。
その後、地ビール「諏訪浪漫」で乾杯。「しらかば(ケルシュ)」「りんどう(アルト)」「くろゆり(スタウト)」の3種類で、
それぞれどれもきちんと深い味がして、酒を飲まない僕でも「ああ、これはおいしいわ」とわかるくらい。
馬刺しの燻製をつまみに3人でちびちびと回し飲みをしているうちに、みんないい気分で寝ちゃう。


2005.10.8 (Sat.)

この3連休は沼津でモゲの会、通称「ぬまモゲ」である。非常に発音しづらい。
昼過ぎに家を出ると、沼津へ向かうべく電車に乗る。が、目黒駅で突如血迷って、地下鉄で東京駅に行くことに。
結果、かなり迷った末に溜池山王から赤坂見附を経由して東京駅に到着した。東京の地下鉄は迷路そのものだ。

東京駅からは東海道線でまず熱海へ。東海道線に乗るのは、大学のゼミの卒業旅行で熱海に行って以来じゃないか?
で、熱海で浜松行きに乗り換え。車内はそれなりに混んでいて、さすが連休、と思うのであった。

沼津へ着いたのが17時くらい。沼津はバヒサシ氏が暮らす街である。さっそく連絡を取り、駅まで来てもらう。
ホームの上にある通路を歩いていると、窓の隙間から潮の匂いがした。僕ら海なし県育ちには、異質に感じられる匂いだ。
初めて海に行ったとき、海から匂いがして、それが辺りいっぱいに広がっているってことにひどくびっくりした記憶がある。
山にはそういう匂いってものが存在しないので、潮の匂いを嗅ぐと「ちょっと特別な旅をしているぜ」という気分になるのだ。
(もっとも、そういう環境で暮らしているバヒさんは、匂いを感じるたびにイヤな気分になるそうな。まあそんなもんだろう。)

 沼津駅北口。整備されてきれいなのはいいが、何もない。繁華街は南口にあるのだ。

バヒさん合流後は、ひたすら南へと歩いて沼津港へ向かう。歩いて行けばちょうど晩ご飯の時間だ、ということで。
市内で一番賑やかなアーケードを行く。雰囲気はなんだか武蔵小山商店街に似ていた。あそこまで長くはなかったけど。

 そっくりじゃないですかね。

まっすぐまっすぐ、もういいかげんにしてくれ!と叫びたくなるほど歩いた先にあるのが沼津港。
いい具合に腹も減っていたので、さっそくバヒさんオススメの定食屋に入ってディナーをいただく。
今年はサンマが大漁でおいしいというニュースが記憶にあって、無性にサンマが食べたくなる。どうしても食べたい。
というわけで、刺身の盛り合わせとともに新サンマ定食を注文。沼津には全然関係ない魚だけど(サンマは北で獲れる)。
しばらくしてサンマが出てきたのだが、匂いがすごく食欲をそそる。焦げた皮がとても魅力的な匂いを漂わせているのだ。
かつて実家で食ったサンマではありえなかった事態。皮ごと夢中で口の中へと放り込んでいく。メシの炊き方もすばらしい!
おかわりを繰り返す僕を、バヒさんは呆れて眺める。でもそんなのお構いなしに、ひたすら食べて食べて満足するのであった。

「魚……ああ……」などと意味不明のつぶやきを漏らしつつ、来た道を戻る。今度はバカ話をして狩野川沿いの道を歩く。
途中でレンタカーを借りると、バヒさんオススメの喫茶店へ。マスターのこだわりがなかなかのものなんだそうだ。

店内は、ありとあらゆる一昔前のものが揃えられている印象。木製のテーブルと椅子に、レコードでクラシックが流れる。
アンプにいたっては真空管なのだそうだ。こういう空間を自力でつくりあげるってのは、すばらしいエネルギーだと思う。
キーコーヒーの缶を見ているうちに、喫茶店の店内の印象が、父親の以前の仕事部屋に似ていることに気がついた。
まだ僕が小学生のとき、父親はタバコを吸っていて、仕事部屋にはピー缶(ピースの缶)が置いてあった。
僕はタバコは大嫌いなのだがピー缶の匂いは大好きで、図面やトレーシングペーパーで散らかった中、よく嗅いだものだ。
日が入らず暗ったいその部屋と喫茶店は同じ感触がした。時間を止める、適度な暗さと静けさが共通しているのだろう。
僕らはコーヒー代とともに、その時間と空間を味わうことにお金を払っているわけで、いわばそうして居場所を確保している。
喫茶店っていうのは、なかなか奥の深い意味を持った場所なんだなあ、なんてぼんやり思いながら過ごした。
(そういう意味では、メイド喫茶の「お帰りなさいませ、ご主人様」も、実はそう見当違いな言葉ではないのかも、と思った。
 その場所が本当にくつろげる場所で、お金を払うことでその場所をいくらか自分の場所と感じられるのであれば、だが。)
あとは缶という容器の魅力についても、なんとなくいろいろ思索をめぐらせてみた。

寮に戻って大浴場に入って一日の疲れをとる。で、深夜にトシユキ氏が合流ということで、沼津駅へ迎えに出る。
そんなこんなでこの日はおしまい。

 
試してみたが、ぜんぜんハードに見えないふたり。


2005.10.7 (Fri.)

マリリン=モンローが西部劇のヒロインになる、『帰らざる河』。
見てみると、ひたすらマリリン=モンローである。当方、モンローさんにはぜんぜん興味がないので、「へえ」どまり。

父親が、ある事情で知人に預けていた息子を迎えに、ゴールドラッシュで沸くキャンプへとやってくるところから話は始まる。
そこでモンロー演じる酒場の歌手・ケイと知り合う。が、ケイはろくでもない男・ハリーとくっついているのだった。
親子は畑を耕して暮らしていたが、ハリーに馬と銃を奪われる。しかもすぐにインディアンの襲撃を受け、ケイと逃げることに。
インディアンから逃げつつハリーを追いかけて川を下るが、途中で息子に父が姿を消していた理由を知られてしまう。
そしてさまざまな困難の末、3人は街にたどりついてハリーを発見するが……。という筋である。

父親が姿を消していた理由を伏線にしておいて、クライマックスでそれを出すやり方が上手かった。
でも正直それくらいで、あとはあまりこれといって見どころはなかったように思う。モンローさんに興味のある人はどうぞ。


2005.10.6 (Thu.)

『ベニイ・グッドマン物語』。スウィングの黄金時代をつくったミュージシャンの伝記映画。

ストーリーは『グレン・ミラー物語』と違って、初めてクラリネットを手にしたベニーの幼少期から始まる。
偶然手にしたクラリネットの練習をするが、クラシックよりもジャズへと傾倒し、早くからプロとして生きる決意を固める。
決して豊かではないものの、クラリネット奏者としての腕は認められ、音楽にひたすら没頭する毎日を送る。
やがてベニーは従来のスタイルにとらわれない新しい音楽を思う存分やるため、自分の楽団を結成する。

この映画においては音楽だけでなく、恋愛も重要な要素となっている。
ベニーの場合、はじめはジャズ嫌いだったセレブな女性・アリスと、非常にゆっくり、でも確実に心を通わせあっていく。
アリスはベニーの行く先々の公演に顔を出し、ベニーを勇気づける。そしてベニーはその気持ちに演奏で応えるのだ。

この映画でそれ以外に注目したいのは、仲間に恵まれることの大切さだろう。
一番面白いのが本人出演のライオネル=ハンプトン。彼がヴィブラフォンを演奏し、カルテットのジャムになるシーンは必見。
そのほかにも才能あるミュージシャンがベニーの周りに集まり、より演奏の幅が広がっていく様子は見ていて痛快である。
それに比例して、観客が演奏に興奮するようになっていく様子もきちんと描かれる。音楽の輪が無限に広がっていくのだ。

『グレン・ミラー物語』との最大の違いは、ベニーの音楽を純粋に「楽しいもの」として表現する傾向が強いことだ。
クラシックの殿堂であるカーネギー・ホールでジャズを演奏する、という快挙をクライマックスにもってきている。
ベニーの音楽に対するどこまでも真摯な姿勢とともに、ミュージシャンがまず真っ先に音楽を楽しむ姿が強調されている。
そうして、ひとつひとつの曲よりも、観客の内側にあるものに火をつけてスウィングさせる喜びの方に主眼を置いているのだ。
アメリカの4つの標準時を利用し、ラジオで同時に全米の人々に演奏が聴かれる様子を表現した演出が特に良かった。

音楽を映画で扱うことは、本質的に難しいことなのかもしれない。音楽は時間の関係で途中でカットせざるをえないし、
演奏シーンが挟まることでそれ以外のシーンも時間的制約を受ける。だから話の展開はどうしても粗いものになってしまう。
それを覚悟のうえで、新しい音楽を創るという意志と、音楽を演奏する意義の両方に焦点を絞ってがんばっている。

ちなみにドラマーのベン=ポラックは、『グレン・ミラー物語』と『ベニイ・グッドマン物語』の両方に本人役で出演している。
これはとんでもないことだ。現実でもふたつの圧倒的な才能に対峙し、フィクションでもそれを実現した。かっこよすぎる。


2005.10.5 (Wed.)

『グレン・ミラー物語』。スウィングの黄金時代をつくったミュージシャンの伝記映画。

ストーリーは『ベニイ・グッドマン物語』と違って、売れないトロンボーン奏者であるグレンの日々から始まる。
毎度質屋にトロンボーンを預け、公演前にアルバイトで得た金で取り戻すという生活を送る姿が描かれる。
やがてオーディションでアレンジャーとしての腕を認められ、各地を巡業するようになる。
しかしグレンはそれに満足せず、自分のサウンドを追求しようと、挫折しそうになりながらも模索を続ける。

この映画においては音楽だけでなく、恋愛も重要な要素となっている。
グレンの場合、大学の同級生だったヘレンに一方的に迫り、渋られても勢いで結婚を申し込み、そのまま押し切る。
結婚したヘレンは凄まじい内助の功でグレンを支える。そのひたむきさが結果的に、成功をつかむチャンスをもたらすのだ。

この映画でそれ以外に注目したいのは、仲間に恵まれることの大切さだろう。
苦労していた頃からの仲間がずっとグレンのそばにいて、そのまま最後までグレンを支え続ける。
そうして、音楽と友情を通して互いに幸せな生活をつかむ姿が描かれる。「良きアメリカ」が音楽を通して描かれいている。
苦難を乗り越えた末に物質的にも精神的にも豊かな生活を送る姿は、努力は必ず報われるという倫理観の賜物だ。

『ベニイ・グッドマン物語』との最大の違いは、グレンの音楽を「メッセージを伝える手段」として表現する傾向が強いことだ。
グレンは軍隊を慰問する楽団を組織する。戦争という騒音に対するものとしての音楽、という位置づけが与えられている。
実際、劇中でグレンの曲は、さまざまな騒音と重なって演奏される。飛行機が落ちても演奏を続けるシーンが印象的だ。
最後、グレンは事故により不慮の死を遂げる。しかし彼の死後も楽団は残り、演奏を続け、家族にメッセージを伝える。
演奏じたいより、曲が生まれるまでの経緯と、その過程で込められた思いの再現に力を入れているのも、その現れだ。

音楽を映画で扱うことは、本質的に難しいことなのかもしれない。音楽は時間の関係で途中でカットせざるをえないし、
演奏シーンが挟まることでそれ以外のシーンも時間的制約を受ける。だから話の展開はどうしても粗いものになってしまう。
それを覚悟のうえで、新しい音楽を創るという意志と、音楽を演奏する意義の両方に焦点を絞ってがんばっている。

ちなみにドラマーのベン=ポラックは、『グレン・ミラー物語』と『ベニイ・グッドマン物語』の両方に本人役で出演している。
これはとんでもないことだ。現実でもふたつの圧倒的な才能に対峙し、フィクションでもそれを実現した。かっこよすぎる。


2005.10.4 (Tue.)

野沢尚『破線のマリス』。テレビドラマの脚本家であった作者が本格的に小説に踏み込んだ作品。
それだけに、テレビ業界についての深い知識をバックボーンにして、見事に設定を組み上げている。

ニュース番組の特集コーナーを編集する女性が主人公。彼女の映像編集のテクニックは、番組の生命線となっている。
そんな彼女が郵政省をめぐるスクープ映像を編集したことで、自分も事件の渦中へとゆっくり巻き込まれていく、という話。
全編を通して徹底されているのは、報道が視聴者に見せているものが客観的であることなどありえない、という開き直り。
そこから、映像という素材を集めてそれをまとめて物語をつくるという行為の威力と脆さを描いている。

映像を編集するということはつまり、自分の目にした世界の断片から、それを他人に説明する物語をつくるということだ。
主人公はその物語性を視聴者に巧みに喚起させることで、自分の存在価値を確かなものにしている。
そしてまた、そこに盲点があるわけで、その部分がミステリの舞台となっていくわけだ。

面白いのは、よくあるメディアの議論では、他人に説明される物語が公正であるか、客観的であるかが問題視されるが、
この作品ではさらに踏み込み、まず自分が見ている世界がきちんと存在しているのか、という問いにまで至っている点。
情報の送り手側にいる人間は、自分のもとに集まってくる素材をリアルなものと無意識のうちに思い込んでしまいがちだが、
実はそれどころか、自分がいま実際に目にしている光景すらフィクションであるかもしれず、非常に危ういものである。
この作品はそこにギミックを仕掛けることで、メディア云々という単純で古びた議論からひとつ次元を超えたものになりうる。
ビデオカメラという道具を逆説的に用いることで、そういう現象学レヴェルでの問題意識に新しい視角を提示していると思う。

正直、主人公が誤解する(そして深い穴へと落ちていく)きっかけとなる部分については釈然としない気持ちも残るのだが、
それ以上に設定の緻密さが魅力的で、まあいいか、と思えてしまう。思考の入り口としてもなかなかしっかりした作品だ。


2005.10.3 (Mon.)

『伊集院光・深夜の馬鹿力』が10周年を迎えた。いい機会なので、このラジオ番組についての思い出を書いてみるのだ。

放送開始が1995年10月。当時僕は高校生。長野県じゃ東京のラジオはかなり聞きづらい。朝鮮語が妨害するからだ。
だから90分(当時)の番組を雑音に耐えて聞く集中力なんてなくって(つーか受験だし)、チェックすることはまったくなかった。

そして浪人。何かの機会にトシユキ氏から番組を録音したテープをもらい、名古屋の寮で聞いて死ぬほど笑った。
敬老の日できんさん&ぎんさんをテーマにしたトークで、テープの長さが足りずに途中で切れてしまっていたのだけど、
これは本当にテープがすり切れるまで聞いた。それで気分転換して受験を切り抜けた、とも言えるのだ。

大学入学で東京に引っ越すと、完全にヘヴィリスナーに。以後、東京にいなかった週を除けばほぼ完全に毎回聞いている。
MDで録音したものをテープで保存するようになったのが通算100回記念辺りのころ。そのテープは今も押入れの中にある。
後にこれをすべてMDに戻す作業をしたのだが、その量のめちゃくちゃなことといったら!
しかも50回分ほど紛失していることが判明。脂の乗りきっている時期のテープだったので、これには本気でへこんだ。
現在はタイマーでMDに録音したものを、その翌朝に通勤電車の中でCMをカットして編集しつつ聞く。そんな生活。
ちなみに、この番組は唯一、今も聞いているラジオ番組である。これ以外は聞かない。

古今東西、好きだったコーナーを挙げていってみる。

まずは「ツヨイロボ」。ラジオアニメと称してドラマをやっており、マジンガーZのテーマを毎回バカ歌にして歌うのが凄かった。
「マジンガーZ」を「ツヨイロボ」にして「パイルダーオン」を残せばOKで、数々の名作が生まれた。(こんなサイトを発見
ドラマの内容じたいも実にすばらしくいい加減で、予算を無視してやりたい放題やっていたのが今となっては信じられない。

「三行革命」。三行(60字)で書いた珍文を送るというお手軽なコーナーだが、このラジオのリスナーのレヴェルは高すぎる。
あまりの飛びっぷりに毎週笑い転げた。最近はこういう電波系コーナーがめっきり少なくなったので、ぜひ復活してほしい。
一番ツボったフレーズは、「キテレツぅ~、製鉄株が暴落したナリー!」だ。これだけで2週間くらい笑い続けた記憶がある。

「勝ち抜き森進一選手権」。リスナーがさまざまな有名人になりきって勝ち抜き選手権をやるコーナー。
10個の質問がチャンピオンと挑戦者に出題され、より面白い回答の方が勝ちというルールで、毎回腹をよじっていた。
森進一から松任谷由実、桑田佳祐、谷村新司、長嶋茂雄、古畑任三郎、薬師丸ひろ子、ドラえもん……と続いた。

「早押しクイズQQQのQのQのQ」。出題される1週間前に伊集院が早押しクイズに答え(つまりお題の発表)、
リスナーがそれに合わせて問題を送るコーナー。解答(お題)も解答なら問題も問題で、非常に無茶な問題が目白押し。
やはりリスナーのキレ具合が凄くて、クイズ研究会だった僕は「こんなバカクイズつくりてえ!」とムダな戦慄をおぼえていた。

「クイズ・ズルオネア」。その名のとおり『ミリオネア』のパクリで、鈴木順アナが出題して伊集院が答える演出がなされた。
四択のAが必ず正解になるように問題をつくるのだが、ほかの選択肢がバカなものばかり。いかにDで落とすかが熱かった。
そのうちリスナーはライフラインを工夫しはじめ、最終的にはいい意味でメチャクチャになった。好きだったなあ、これも。

まあ最強なのは「豚頭麗香の少しだけメランコリー」なんだけどね。

思えば僕が塾講師をしていたとき、男子バカ受け女子ドン引きの授業になった原因は、間違いなくこのラジオ番組だ。
あのトークを10年近く聞き続ければ、そりゃあ男子はグイグイ食らいつき、女子は下を向いて嵐が過ぎ去るのを待つのみ、
そんな授業になっちゃうはずだ。でも、すっかり染みついてしまっていてもう手遅れだ。治せない。

昔の伊集院は頻繁にゲストを呼び、無茶が多くて面白かった。シガニー=ウィーバーに「コンバンワ、エンクミデス」と言わせ、
安部譲二にも「エンクミで~す」と言わせ、当の遠藤久美子には「加・賀・谷で~す!」と言わせてしまう。
そんな「エンクミスペシャル」にはどれだけ笑わされたことか(エンクミ大好きなカナタニさんはそのテープを家宝にしておった)。
最近はゲストを呼ばないし、お気に入りの若手で周りを固める傾向があるのが不満。もう少し外向きにがんばってほしい。
伊集院の面白さはトークだけでなく、鈴木順アナもその典型だけど、他人のしゃべった言葉をイジる上手さにもあるから。

※この日記を読んだからって、女子は「深夜の馬鹿力」を聞かないように。僕が今以上にモテなくなってしまう!


2005.10.2 (Sun.)

マサルと約束して、FREITAG展(→2005.8.27)を見に行くことに。朝11時集合だが、今回のマサルは遅刻をしなかった!

まず腹が減ったということで、一緒に赤坂見附のファーストキッチンでメシを食う。
メシを食いつつ、他愛もない話をする。まあ内容としては、片手間お笑いコンビを結成してM-1グランプリに出ようとか、
僕らは28歳児になるんよね、だから大学生のときのカナタニさんの歳を超えちゃったんよね、僕らカナタニ派やもんね、とか。
それから外苑前に移動して、ワタリウム美術館に行く。展示は見ないで、直接地下のショップへ。

マサルは当初FREITAGの財布を買うつもりだったのだが、いろんなバッグが展示されているのを見て、興味がそっちに移る。
好きな色である黄緑(もうマサルとは8年遊んでいるがそんな事実初めて知った)の手提げバッグにしばらくご執心だったが、
やがて興味は使われている素材に移って、結局青のWILLYを購入。きちんと使うことを切に願っている。
で、僕も仕事用にWILLYが欲しかったのだが、明るい色ばかりでちょっと派手に感じたので、とりあえず保留。
でもそのうち、結局衝動に負けて買うかもしれない。スーツ姿でFREITAGを使うなんて、自由な感じでいいじゃないか!

暑いね、とマサルが言い出して、近くのハーゲンダッツでアイスを食べる。アイスを店内で食べるなんて経験は初めてだ。
でもやっぱり会話の内容はくだらないことばかりで、青山という土地に似つかわしくないものばかり。
「みやもりくんは相変わらずド変態なん?」「今は18連休でブーブー(と言ってハンドルを回す仕草)の合宿に行ってるよ」
「! ええねえ『ブーブーさん』。僕、『ブーブーさん』って言うためだけに車ほしいわ。国産車やなくて外車で言いたいんよね」
以降、マサルはずっと「ブーブーさん」と言っていた。この人がひとつのことにこだわりだすと、すごい。

僕の希望で池袋に移動。「東京よさこい」という祭りが開催されるので、それをどうしても見たかったからだ。
とりあえず、まずはジュンク堂でマサルが欲しがっていた高校数学の参考書を買った。
マサルは最近、カリスマ予備校講師の数学の授業を受けたくって仕方がないらしい。本人曰く「一種の退行」だそうだが。
それから東急ハンズに行くが、人ごみでヤんなっちゃってふたりともやたら眠くなったこともあって、あえなく解散。

ひとりになって、池袋駅西口駅前に移動する。とりあえず、ここが「東京よさこい」のメイン会場だからだ。
駅前の南側、銀行の前の位置に陣取って、次から次へと登場するチームのパフォーマンスをじっくり観察。
(「よさこい(YOSAKOI)」に関する過去のログはこちらを参照。→2005.7.9

「よさこい」は当然、もともと高知の祭りである。しかしそのわずかな制約を逆手にとって自由に踊るスタイルが人気を呼び、
全国各地でそのヴァリアントがわさわさと数多く生まれているのだ。札幌の「YOSAKOIソーラン」は、その最も有名な例。
ところが札幌があまりに有名になってしまい、ソーラン節も入れて当たり前、と認識している人も多くなってしまっている。
でもあくまでよさこいはよさこいだ、と考える人もいるわけで、その辺がどうもイマイチ、いろいろ混乱の元になっているようだ。

おお、これはやるなあ!と思うチームがあると、それはほとんどが埼玉県、それも朝霞か坂戸のチームである。
これは朝霞も坂戸もよさこい祭りを夏に開催する都市なわけで、しっかりとそれが地域に根づいている証拠なのだ。
自分の街によさこいがあるチームのパフォーマンスは、切れ味がすごく鋭い。客を魅せる動きをしっかり追求している。
男の力強さと女の華やかさを巧みに組み合わせ、あるいはわざと入れ替えて、さまざまな表現をしてみせる。
中には男なのに実にしなやかに踊ってみせる人もいて、そんなのを目の当たりにすると思わずため息が出てしまう。
そして都内の学生チームだって元気では負けていない。特に印象深かったのが東京農業大学のチーム。
農大には2つのチームがあったのだが、どちらもコミカルな動きを徹底していて、踊る楽しさがストレートに伝わってくる。
名物である大根踊りも取り入れて、アイデンティティ込みでひとつのエンタテインメントとして完成させているのはすばらしい。

そんな中、踊りが始まる前の構えの段階からすでにこちらの鳥肌を立たせてしまうチームもあった。
北海道のチームと青森のチームで、北海道は複雑な隊形からの動きを一糸乱れずにやってみせていて、
これがもうとんでもなくかっこいい。たくさんの旗を後ろで振っているのがまた効いていて、迫力がとにかく違った。
青森の方は全員女性。鳴子のほか、傘を取り出したり衣装の色を鮮やかに変えたりと、とにかく、やることすべてが美しい。
次から次へと、想像力の産物である美しさを提示してみせる。観客は完全に圧倒されてしまい、みんな息を呑んでいた。
北海道と青森は近いからなんだろうけど、どちらもソーラン節を混ぜていた。が、観客にはそんなこと関係ない。
もう言葉もないくらいに見事なパフォーマンスを見せつけられて、気がつけば拍手の渦が駅前を包んでいた。

高知スタイルと札幌スタイルには、ソーラン節の有無のほか、実はもうひとつの違いがある。
高知の場合には、道路を前進しながら踊るのが基本。しかし札幌ではステージでの踊りに対する意識が強い。
東京よさこいは高知スタイルに沿っており、前進して踊るチームが多い。よって客に対して横向きのパフォーマンスが基本。
しかし札幌スタイルを貫くチームは、沿道の客と向き合いパフォーマンスをする。したがって、2つの選択肢が存在する。
前進しないで客の方を向いてやるか、覚悟を決めて前進して客には横向きの姿を見せるか。
北海道は前者を選び、青森は後者を選んだが、結局はどちらもそんな差異など関係なしに観客を魅了してしまったのだ。
で、僕なりに感じたのは、「ステージで踊ることを意識するチームの方が、ショウとしての完成度は高くなる」ということだ。
正直言って、僕は札幌スタイルの方が好きだ。ソーラン節がどうこうということではなく、ショウとして見たいという理由で。

人がけっこう多いし距離の問題もあるしで、なかなか思うように見ることは難しい。でも、実際に目にする迫力は違う。
本当にキレているチームは、見ないと損!と言い切れるだけの価値がある。皆さんにもぜひ体験していただきたい。


2005.10.1 (Sat.)

大学時代にお世話になった先輩・めりこみさんが企画をするというので、MQCにお邪魔する。
ちなみにMQCとは「みんなのクイズサークル」の略で、HQSのOBもOGも現役生もみんなが参加できるようになっている。
めりこみさんに会うのは3年ぶりくらいになるだろうか。まったく変わっていない。
その後、現在週刊少年ジャンプ編集部勤務の少年マンガ王先輩も登場。こちらも、まったく変わっていない。
そんなわけで、現役生とOBの比率がだいたい半々という状況でMQCはスタート。クイズをやるのは本当に久々だ。

クイズ自体は比較的のんびりペースで進んでいく。現役時代には早押し中心の真剣勝負なルールが多かったので、
時間の流れを感じると同時に、やっぱり懐かしさも覚える、不思議な感覚になる。でもまあ、懐かしさの方が強い。
ああ、僕はこういう時間を過ごしていたんだなあ、という気持ちが湧いてくる。なんだか穏やかな気分になる。
正直もう一度あんな感じの時間が体験できるとは思っていなかったので、それだけで十分満足だった。

具体的な中身としては、めりこみさんとしみちょくさんが交代で企画を進めていく。
めりこみさん企画は全員正解当たり前風クイズ、くりいむナントカ風ヒントでヒント、キーワード検索ギリギリマスター。
しみちょくさんは英単語書き取り早押し、たほいや等。非常に盛りだくさんの内容だった。
テレビの影響の強いエンタメ系が多かったけど、僕はそういうのは大歓迎なので、しっかり楽しむことができたのであった。
(今の大学生には『稲村ジェーン』も『キン肉マン』もまったくもってベタではない、という事実は、やっぱりちょっとショック。)

自転車で帰るのに時間がかかるため、ボウリング以降は不参加ということで、スタ丼食って帰る。
現在と過去は完全に分断されたものじゃなくって、その気になれば現在に過去を持ち込むことができる、それが新鮮だった。
要するに、贅沢な時間を過ごさせてもらったということである。どうもありがとうございました。

 MQC、フォ~ッ!


diary 2005.9.

diary 2005

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