diary 2005.8.

diary 2005.9.


2005.8.31 (Wed.)

会社のことでも書いてみましょうか。

ここまでほとんど会社のことについて書いてこなかったのは、ひとえに大学院のときの痛い経験による。
まあでもだいぶ慣れてきたし、うまくオブラートに包む技術もそれなりについてきただろうという希望的観測から、書いてみる。

まず第一に、頭のいい人が多いなあ、ということ。そつがないというか、きちんと落ち着いている人が多い。
僕は「人生コレそつ!そつだらけ!」という人間なので、その点は非常にうらやましく思っている。
ただその分、いまいち元気に欠ける印象があるのも確かで、そこはなんとかがんばらねば、とつねに思っている。
昼休みに自転車乗りまわして外へメシを食いに出る、右のポケットに文庫本、左のポケットにエルモ、というのは僕ひとり。
自分としてはどれも当然の発想なのだが、そういう行動が奇異に映ってしまっている環境は、ちょっと残念だ。

職場の雰囲気はとっても緩やかである。残業なしでがんばろうと思えばがんばれる、そういう職場だ(今のところは)。
編集の若手はいちおう徒弟制度で育成しているわけだけど、無理強いなんかはホントになくって、わりと気長だ。
こっちがいろいろフルパワーでいこうとすると、肩の力抜けばいいのになあ、という目で見られている気がする。
前に仕事を言いつかって飲み会の時刻ギリギリまで残業をしていたら、皆さまに気をつかわせてしまったことすらあった。

メガネ人口の多さも特徴的。中には「それは『プロジェクトX』で田口トモロヲがナレーションを入れるときにしか見ねえ!」と、
思わずツッコミを入れたくなるようなメガネをかけてらっしゃる御仁も多い。ついでに、独身の男性も多いようだ。
このままいったら……キャー!という思いがあるので、メガネではなくコンタクトで仕事をすることにこだわっている。
まずはそこから、という意識だ。たとえドライアイで仕事中に殺人的に目がシバシバすることがあっても、
目にゴミが入って思わず転げ回ってしまうほど痛くっても、そこはもう根性である。

なんだかんだ言って、非常にありがたい環境にいるのは確かだと思う。
いつどこでどう活用できるのかはわからないが、ムダ知識がいろいろと身につくし(今は心理学系統の知識が増殖中)、
仕事以外のことに時間をかける余裕もあるし、何より通勤が乗り換えなしで済むのもけっこう大きい。

最大の問題は、室内に一日中閉じこもっていることが多いので、気分転換が難しいことと、人付き合いが限られる点。
特に後者は深刻である。なんとかしなければいかん。20代後半は切羽詰まっているのである。


2005.8.30 (Tue.)

わりとネガティヴな話題が続いちゃって申し訳ないんだけど、会社にいるときからなんだか頭が重くって、
家に帰ってみたら、頭の中がぐるぐるぐるぐる、史上最悪の眩暈に見舞われてしまった。ホントに地球って回ってやんの。
なんとかメシをつくろうとするのだが、部屋の中でぐるぐる感覚がすごくって、あちこちの壁にぶつかる始末。
意地で麻婆茄子をつくってメシをかっこんで(密かに減量中)、ぐるぐるに耐えられなかったので寝ちゃうことにした。
23時になってトシユキ氏から電話。今週末の花火に関する打ち合わせ。しかし頭ぐるぐるの僕は非常に不機嫌。すまん。
で、電話が終わってむっくり起き上がると、風呂に入ってまたすぐに寝る。何もできない一日なのであった。参った。


2005.8.29 (Mon.)

勘のいい方はお気づきかもしれないが、先週はDVDで映画を見るのをお休みして、日記の過去ログを書いていた。
それでもやっぱり思うように作業は進まなくて、3月分の前半を書ききったところであえなくエネルギー切れとなった。
毎日日記を書いていくというのは、本当にキツいことだ。書きたくない日だってあるってのに。それが続くこともあるってのに。
しかも、書いたところでそんなに褒めてもらえない。ましてや、お金がもらえるわけでもない。

以前はけっこう「もう日記やめる!」と宣言して、そしたら掲示板に「まーまーまー」って書き込みをいくつか頂戴して、
それで結局「じゃあ続ける……」となって、それでここまで来ているわけだが、最近はそういう騒ぎも起こしていない。
このサイトにはアクセス解析とかカウンターとかそういった類のものを一切取り付けていないので、
どんなお客さんがどの程度の興味でこの日記を読んでいるのか、まったくもっていまだにわからないままなのである。
そういう状況で、もし今「もう日記やめる!」となったら、果たしてどれくらいの慰留があるのか、正直気にはなるところだ。
潤平のところほどの支持はないだろーなーと思いつつ、でもこっちはいちおう毎日書いてるわけだし……というプライドもある。
circo氏のところはアレはアレで固定ファンがいるだろうし、きちんと毎日更新しているからその点も負けているな……とか、
せっかく気合入れて「妻籠VS馬籠」(→2005.8.16)を書いたのに、見事に反響ゼロだったもんなーとか、
まあそういう小さなことでクヨクヨしているっちゃあしているのである。意外と(?)小心者なんですよ、自分。

でも、この日記はあくまで自分による自分のためのものなので(それに近況報告を兼ねているだけなのだ)、
まだまだ続けるつもりではいる。ただ、もっと読んでくれるお客さんの存在を意識せにゃならんのかな、と思うようにはなった。
そんなわけで、何か気になることがあったら、気軽に掲示板に書き込んでほしいと思うのであります。
別にHQSの同期会のアポ取りのためだけに掲示板があるわけではないので。
いつもどおり、慇懃無礼に対応しますんで、気にせずかかってこいやコラ、と思います。どしどしどうぞ。


2005.8.28 (Sun.)

実家に帰ったときにcirco氏がやけに薦めていたので、東京国立博物館に行ってみることにした。上野フォ~ッ!
思えば「雪舟展」(→2002.5.18)以来なので、3年ぶりである。しかも、常設展を見るのはなんだかんだで初めて。
日本人だというのに、お恥ずかしい。

東京国立博物館は広い。真正面に帝冠様式の本館(設計:渡辺仁)、右手にピロティの東洋館(設計:谷口吉郎)、
奥には平成館と法隆寺宝物館(設計:谷口吉生)がある。正面左手の表慶館はお休み。

まずは本館から。順路としては2階からなのだが、それに気づかず1階から見てまわってしまう。まあ、大して困らないけど。
反時計回りに見ていくと、彫刻→陶磁→漆工→刀剣と工芸作品が続く。頭の中の『ギャラリーフェイク』知識がうずくぜ。
彫刻はとにかく仏像。でもやっぱり、仏像は寺で拝まないとダメだと思う。なんというか、博物館だと生きている感じがしない。
陶磁は良し悪しがサッパリわからない。でも白地に原色を鮮やかに使った柿右衛門様式の特徴はなんとなくつかめた。
漆工は蒔絵が抜群に目立っている。陶磁器が「china」であるように、漆工は「japan」として一般名詞化しているというが、
純金の派手さと漆の落ち着きが見事にマッチしていて、これは確かに日本代表だろう、と深く納得した。いや、すばらしい。
刀剣は透明さを感じさせる鋼に鈍い波が乗り、すぐに鋭い刃となるその緊張感がなんともいえない。これは道楽だ、と思う。
あとは刀にいろいろくっついてくる装飾がまた見事で、まったく現代との時間の隔たりを感じさせない新鮮味にあふれていた。
近代美術では黒田清輝の『読書』が一番の見物か。美術館ではなく博物館であるためか、こちらはやや力不足な印象。
個人的には平櫛田中の作品が見られてよかった(一橋大学小平キャンパス近くに平櫛田中記念館があるけど行ってない)。

2階は歴史的に美術や民芸を追っていく構成。どの時代もそれぞれに面白いものが置いてあるが、スペースの関係もあり、
広く浅くになってしまっている。だから各時代のそれぞれほんの一部分しか展示されてなくって、消化不良になってしまう。
贅沢な望みだとは思うんだけど、もっと量があれば「うわっ、日本ってすげえ!」って圧倒されちゃうのに、と残念に思った。
展示物では、絵巻物が気になった。去年京都でも感じたが、やはり、日本人とマンガの深い関係を思う(→2004.8.6)。
また、視点が1ヶ所に固定されている西洋の絵画と比べると、絵巻物は三人称的であると感じた。
絵巻物では、それぞれの場所でそれぞれ事件が起きている。移動していちいち見ていく視点は複数だから、三人称的だ。
一神教と多神教の違いなのかな、などとぼんやり考えてみる。いくらでも深く読みとることのできる世界である。

で、2階から降りてくると、芸大の学生による雅楽の演奏が大階段を使って行われていた。
音の概念が西洋のクラシックとはまるで違っていて面白い。まず笙による長い音の安定した流れが底にあって、
その上を篳篥が踊るように歌う。横笛の動きはよく見えなかったのが残念だったが、雅楽はわりと即興のジャム向きに思う。
メロディは溶けちゃっていてそんなに大切じゃなく、演奏者も客も同じ音楽の空間の中にいることを重視していると感じた。

平成館に入ってみたら、縄文・弥生特集になっていた。ずーっと昔、当時のものがいまだに残っているという事実がすごい。
大昔の人間たちが、展示物を通して現代の僕らを観察していたら(つまり逆に僕らが見られていたら)どうだろうと想像する。
同じ土地で暮らしていたのに、けっこう姿かたちも身に着けているものも変わっていて、でもやっぱり同じ土地にいた。
昔のものが当たり前だった昔の生活と、今のものが当たり前の今の生活を、相似の記号(∽)で結んで思索にふける。

東洋館は中東・エジプトにはじまり、階を上がるごとにだんだんと東アジアに近づいていく構成になっている。
ただ正直、外国のものを日本で見ることにあまり面白みを感じなかった。現地で展示された方がいいんじゃないのかな、と。
きちんとした説明がほとんどないままで外国産の歴史的な遺物が並べられているのは、ちょっと乱暴な気がした。
もう少し、地域的なつながりや時代的なつながりをしっかり説明した展示にしないともったいない、と思ったのであった。

展示の面白さという点においては、文句なしに法隆寺宝物館。こいつは異世界だ。
宝物殿というと、まず正倉院を思い浮かべるわけだ。有名な校倉造は、いわば横の直線を積み上げた建築様式である。
でもこちらの建築のファサードは、縦方向の直線を意識しているようだ。コンクリート・鉄骨・ガラスという素材も対照的。
中に入るとこれがすごい。1階にはひたすら、ガラスケースに包まれた小型の仏像が均等なグリッド状に並べられている。
照明は暗く抑えられ、真ん中は明るいが、周辺は黒。まるで彼岸の世界としか思えない、異様な空間になっている。
温度も低く、ちょっとした臨死体験のようだ。こういう展示を思いつき、実現するのは快挙だと思う。それくらい迫力がある。
2階もやはり暗めに抑えてあり、静かで、時間が完全に止まってしまった錯覚に陥る。ぜひこれは体験していただきたい。

やはり敷地が広いので、思った以上に時間がかかってしまった。おかげで、かなり早足で見てまわる破目になってしまった。
全体的には、「参りました!」となってしまう超弩級の逸品は意外と少ない。けっこう展示を入れ替えているのかもしれない。
しかし、空間を体験するという点では興味深い場所が多い。一日かけて隅々までまわる方が楽しめたと思う。残念だわ。


2005.8.27 (Sat.)

青山通をまっすぐ行って、ベルコモンズを合図に北へ曲がると、ワタリウム美術館という施設がある。
美術館ですよ!というような目立つ看板は出ていないんだけど、建物がちょっと凝っているので、すぐにわかる。
青山というオシャレ空間にシックにたたずむ、美術館というよりは充実したアートスペース、といった場所である。
ではなぜそんなオシャレ空間に行ったのかというと、そこで「FREITAG展」をやっている、という情報を潤平がくれたからだ。
とりあえず、現在のメインの企画展である「テンポラリー・イミグレーション展」から見ていく。

「テンポラリー・イミグレーション展」は、ヨーロッパで活動しているアーティスト3人の作品展だ(スイスが国として噛んでいる)。
それぞれの作品は、テクノロジーの発展などでずいぶんと軽やかになった現代の日常の断片として提示されている。
2階、ベアート=ゾデラーの作品は、素材をそのまま活かす作風。この人は東急ハンズで興奮しまくる人だろうな、と思う。
個人的には、3人の中ではいちばん面白かった。文房具屋の商品をアートに変換する、という軽さが気に入った。
3階はラーズ=ミュラー。凝って装丁された本が並ぶ。本の表紙は、手づくりなので凹凸を持っている。ふーん、どまり。
4階はシルビア=ベッヒュリ。ドローイングの作品が展示されている。僕にはその魅力があんまりわからなかった。

総括。3人とも、作品に迫力はほとんど感じられない。正直、アーティストとしての凄みに欠ける。
わずかにゾデラーが面白かったが、たとえば東京都現代美術館の常設展と比べると、数段落ちると言わざるをえない。
3人とも50歳前後で、アーティストとして生活できていると考えると、ヨーロッパっていいね、と思うのみ。レヴェルは高くない。
むしろ展示されている作品よりも、美術館の建築それ自体の方に魅力を感じた。外よりも、内側の方がいい。
なんというか、想像力を生むのにいい隙間を多く持った内装だと思う。いろいろやってやろう、という気になる空間だ。

そこから考えてみる。僕らが作品をつくるときは、つくりたい!という衝動に押されて、無我夢中でつくるってことがほとんどだ。
そうしてできた作品は周囲から見て稚拙であっても、本人が一定の納得をできるものなら、その価値は尊重されるべきだ。
しかし今回の作品に僕は満足できなかった。その差異が、いたしかたないものとはいえ、他人事とはいえ、なんだか悲しい。
また、彼らの作品を「ああ、昔あったあの作品に似てるわ」と解釈する自分がいるのである。これは、なかなか重い問題だ。
先人たちがいろいろやり尽くしちゃった結果、僕らにはオリジナルなんてもう残されていない。それが現代という時代なのだ。
そんな時代に、「昔のあの作品に比べると迫力がないからダメだ」と目の前のものを簡単に切り捨ててしまっていいものか。
彼らは彼らなりに作品に達したのであり、模倣の結果では決してない。それを模倣のように解釈するのは、フェアではない。
前に潤平の掲示板で交わした議論にも通じることだ。美術出身の潤平はまず作品をつくる意欲の存在を重要視するし、
社会学出身の僕は作品に社会的文脈をブレンドして読まないと気が済まない。その差が、3人の作品で露呈したのだ。
このことに気づいて愕然としたけど、まあでもやっぱり、ここにあるものは絶対的な迫力不足には違いないよな、と思った。
それにしても、僕たちはいつのまにか頭を固くしてしまっていないか? ……難しい問題である。

さて、ワタリウム美術館の地下には「ON SUNDAYS」というショップ&カフェがあって、そこで「FREITAG展」をやっているのだ。
日曜日に金曜日ってなんだかオシャレだなあと思いつつ、行ってみる(「FREITAG」フライタークとは、ドイツ語で「金曜日」)。
壁には一面にFREITAGのバッグが掛けてある。色が鮮やかで、楽しい。僕はああいう原色が大好きなのだ。
「うわぁ~」と呆気にとられて眺めていると、店の人が声をかけてくる。「FREITAGはいくつお持ちですか?」「ほぇ?」
僕は自分のFREITAGを肩からさげているわけで、そりゃまあ好き者に見えたんだろう。「ひ、ひとつです」
「こちら新作ですよ」と見せてくれたのは、エアバッグの素材も使っているという「DERRICK」。
「なんだか女性用っぽいっすね」「でもGENTLEMAN ONLYって、まあ冗談だと思うんですけど、それで売ってるんです」
そんな具合にメガネをかけたえなりかずきみたいな店の人と話しているうちに、昨日から引きずっていた暗い気分は消えた。
金があればDERRICKも仕事向けに手を出してみたかったが、断念。でもせっかくだから、と、財布をFREITAGに新調した。

 
L: DALLASという型。閉じていると全面ブルー。黒いゴムに白い字が浮いてるのは、自転車のチューブをリサイクルしたものだから。
R: 開くと白い箇所が出てくる。そこが気に入った。僕のDRAGNETは白地にブルーなので(→2005.3.31)、まさに対照的なのだ。

高いんだけど、コンセプトがいいし、いかにもヨーロッパのオモチャ感覚で楽しいし、好きなんだよなあ、FREITAG。


2005.8.26 (Fri.)

なかなかけっこう記録的に沈んだ気分になる。

きっかけはたったひとつのメールで、その内容じたいは別にどうということはない。ただの事務的なものだ。
しかし、そのアドレスに刻まれた単語を眺めているうちに、無数の解釈にからみ取られて身動きが取れなくなる。
しかもタイミングが悪いことに、それとはまったく別のことをいろいろ調べていたら、なかなかショックな現実にぶち当たった。
それで結局、オレは今、何をしてるんだろう……?というお決まりの迷路に深く入り込んでしまって、どうしょうもなくなる。

特に潤平は僕のそういうところを非常に嫌っているわけだが、こればっかりは好きでそうなるわけではない。
だから自分でもなんとかして避けたい事態なのだが、そういう気持ちとは裏腹に、どんどん気分は沈んでいく。
こういうときに一人暮らしは本当に不利だ。自分の身体が思いどおりにならない苦しみってのは往々にしてあるが、
物事を良い方向に解釈しようとする心をつねにひっくり返すような思考回路がフルスピードで動き出して、
頭の中を乗っ取ってしまう。そんな具合に反証、反証の繰り返しで身体がストップしてしまう時間は本当につらい。

結局、マイナスからの脱出は、グダグダ考えずに無心で何かを積み上げていくしかないわけで、
(その積み上げていくものの中身にこだわりすぎるとまた反証に遭ってしまう。ここはワガママに振る舞うしかない。)
見切り発車してしまうことにした。そんなわけで、眠くなるギリギリまで、とりあえず、吐き出してみる。
ここにはぜんぜん具体的でないことしか書いてないので「わけわかんねーよ」とツッコミが入っているんだろうけど、
要するに、僕はこの個人的な日記を使って宣言と記録をしておくわけだ。ここままじゃいないぞチキショー、と。

がんばれ、オレ。


2005.8.25 (Thu.)

けっこう前に読んだのにぜんぜん書いていなかったので、今さらレヴュー。辻仁成『ピアニシモ』。デビュー作。

素直ですがすがしい、と書くと誤解を招くだろうか。デビュー作らしく、ストレートで、純朴な印象がする。
変にテクニックに走っていなくって、書きたいテーマだけを存分に書いている。そういう喜びがあると思う。
ただその分、まだまだ書き慣れていない感じもある。総合的にみて、この作品は「ふつう」。騒ぐほどのものではない。
(まあやっぱり、デビュー作で「ふつう」に読ませるというのは、きちんとすごいことなんだろうけどね。)

秀逸なのは、伝言ダイヤルの相手である「サキ」の扱い方だろう。
詳しく書くとネタバレになっちゃうのだが、サキの正体については、きわめて正しい判断をしていると思う。
それをきっかけにラスト(主人公の確かな成長というか脱皮)にもっていくのも、うまく話をまとめている。
やや安直な気もしないでもないが、そこはデビュー作なので大目にみることができると思うのである。
逆に気に入らないのは、学校でのイジメの描写。ステレオタイプ的でリアリティが僕には感じられなかった。
現実はそんなにドラマティックなイジメではない、と思う。気の利いたセリフもなく、とうてい物語にもならないような、
幼稚で美学のカケラも存在しないものだと思う。だいたい、イジメなんてする程度の連中がピストルズなんて聴くかよ。

考えてみれば、この主人公ほど強烈な形ではないけど、僕も似たようなことをして少年時代をすごしていた。
特別親しい人にはすでに話していることなのだが、僕は小さい頃に自分の行動に自信が持てない子どもだったので、
自分の意識の中に年上の存在を設定して、いちいち彼に承認してもらっていたのだ。いま考えると危ないことだ。
その後、僕がどうしたかというと、ハタチを過ぎた現在において語られる自分の正しい“歴史”としては、こうなっている。
「14歳のときに父親に幻滅してすべてが面倒くさくなって、彼の存在も面倒くさかったから削除しました。」
『ピアニシモ』では父親に幻滅しきっていて、そこからさらに恋愛に対する幻滅を根拠に独り立ちを果たすわけだが、
僕の場合にはそれよりやや遅く、父親への幻滅から性格を現在のピエロ型に変更していったわけだ。
(もともと母親のことは完全に否定しており、父親だけが僕の才能の拠りどころだったのだ。
 しかし父親にも幻滅したことで、「こんな両親の間に生まれた僕など大した人間になれるわけがない」と確信した。
 結果、少なくとも僕の周りの人たちには笑って過ごしてもらえるといいなあと思い、現在のピエロ型の性格に移行したのだ。)
誰しもそういう、頼れる人間への幻滅という形の挫折を味わうもんだと思うわけで、
それを辻仁成は、いかにも現代的に切り取ってみせた。そこにこの作品の価値があるのだろう。


2005.8.24 (Wed.)

乙一『GOTH』。「夜の章」と「僕の章」、それぞれ読了。
あらかじめ書いておくけど、文庫化する際に2分割したのはいただけない。よけいに金がかかるし、
何よりどっちを先に読めばいいかわからなかったじゃないか。僕は間違って「僕の章」から読んでしまった。
そういうバカも世の中にはいるわけで、きちんと配慮してほしかったと思うのである。

『GOTH』の特徴は、ミステリなんだけど、犯罪者をつるし上げる姿勢がまったくもって消極的である点だ。
むしろ主人公は犯人側にいて、自分と同じ種類の人間を観察する、という視点によってミステリを成立させている。
それが最終話「声」でのトリックへとつながっているわけで、つくづく乙一の新たな視点を見つける才能には脱帽である。

収録されている話の中で抜群に好きなのは、「リストカット事件」だ。
この話は時系列でいうと一番最初にくる話なのだが、それまでに過去のこととして設定されたすべてのものが、
非常にうまく収められていて、広げた風呂敷の見事なたたみ方という点においてとてもすばらしい。
何度も書いているけど、僕はそういう、辻褄を高いレヴェルで合わせた話が大好きなので、文句なしにこれが一番好きだ。

逆に、これ以外の話はどれも、ミステリゆえに無理をしている感触があるように思えてならない。
たとえば「犬」なら「ユカ」のトリック、「記憶」なら納屋でのまわりくどい叙述、「土」のストーリーの着地点など。
ミステリであるがゆえに、客の裏をかくことが最優先になっていて、その点に納得できるかどうかが大きい。
納得できる人なら絶賛なんだろうな、と思う。僕はミステリというジャンルに興味がないので、「へえ」止まりだ。
それでも「声」におけるひっくり返し方は、まったく僕の想像していなかった(怪しいと思っていただけに悔しい)やり口で、
234ページ目の森野のセリフに思わず鼻から「はッ」と息が漏れてしまった。まあ、ホント、うまいことやるわ。
総じて面白かった。主人公と森野の距離感や、主人公みたいな仮面をかぶっているヤツが実はけっこういそうな感じとか、
そういうところがやっぱり非凡だし、なんだかんだ言ってるけど、必ずきちんとひっくり返す姿勢はやはりかっこいいと思うのだ。
お金を出した分、きちんと楽しめた。この作家になら次もお金払ってもいいなあ、という気持ちになる。

いい機会なので、なぜ僕がミステリにハマらないのか、ミステリに群がる読書好きを斜めで見ているのか、考えてみる。
ミステリを読んでいると、トリックを仕掛ける作者の向こうに、「もっと私をだまして!」という読者の叫びが透けて見える。
どれだけ手際よく相手をだますか、その一点に目的が収斂されているように思う。それはそれで潔いのは確かだけど。
でもだます手法の進化が加速度的に進んでいくと、偶然性に頼ったり、リアルには実現不可能になったりしそうだ。
その結果、そういう方向についていける人とそうでない人とで二極化していくような印象があるのだ。
僕の場合には、あくまでミステリは要素として、手段として、という程度で楽しみたい。
やっぱり犯罪を扱うのであれば、その背景にある動機やら社会性やらを掘り下げてしかるべきだと思う。
もっとも『GOTH』の場合はそこのところを、「説明しがたい生まれつきの感覚」としてうっちゃっていて、
しかもそれが現代性をえぐる根源になっているという点で、抜群のセンスを見せてくれているわけだ。さすがなのである。


2005.8.23 (Tue.)

大学時代には狂ったように見ていた深夜番組も、最近はほとんど見なくなっている。
深夜に弱くなったのも確かだし、深夜番組じたいがつまらなくなったのも確かだと思う。
だいたい、テレビ番組が面白くないのだ。見る価値があるのは、『クローズアップ現代』と『タモリ倶楽部』ぐらいだ。
あとはニュース番組だけで十分。スポーツも、サッカーの日本代表戦は見る。まあだいたいそれくらいなもんだ。

『タモリ倶楽部』はバケモノだ。目のつけどころがとにかく天才な番組。
やる気があるわけではなく、かといってグダグダではない。タモリのいい加減さとスタッフのキレ具合が奇跡を生んでいる。
そういう理想的な肩の力の抜け方が、ゴールデンではありえない余裕となり、本当に面白い番組づくりにつながっている。
内容も本当に知的なときもあれば、深夜ならではのくだらないものもある。全編を通してバカバカしい風味を徹底している。
今年やったもので、個人的にいまだに感動しているのが、芸大の青山先生が出てきてジョン=ケージを演奏した回だ。
ふだんなかなか注目されない現代音楽を初心者にわかるようにやっていて、冗談抜きで、かなりレヴェルが高かった。
そうかと思えば鴻上尚史が風俗の歴史を振り返った回もあった。まあそれはそれで社会学的に有意義な内容だったけど。
あとはタモリ・山本益博・田山涼成のおっさん3人がひたすらあぶった魚の皮を味わう回も、奥が深くてよかった。
とにかく守備範囲が広く、スタッフの敏感なアンテナに引っかかったものは、なんでもかんでも片っ端から扱っていく。
そうして現場でタモリの好きなようにさせておいて、結果として番組ができあがってしまう。まさに最強、である。

『タモリ倶楽部』が最強で、もうあと深夜番組で面白いものはないなーと思っていたら、なかなかすごいのがあった。
ダウンタウンにケンドーコバヤシ・中川翔子(あとゲストも1名ほど出る)による『考えるヒトコマ』(火曜・フジ)である。
ひらたく言うと、20分で2本、4コママンガをつくる番組。決められたテーマについて、1コマ目からパネラーが絵を描いていく。
中でいちばん面白いものをダウンタウン浜田が選んでいき、4コマ目までやることでマンガができあがる、という仕組みだ。
やたらとやおいにもっていくしょこたん(中川翔子)、とにかくアイデアで転がすケンコバ、松本人志もさすがの冴えを見せる。
パネラーの発想が命なので人選が難しかったと思うが、慣れてきた今のフォーメーションは安定して楽しめる。
無理をしないで、今のままで末永くがんばってほしい番組である。

見ていて楽しいのが、『Matthew's Best Hit TV』の「なまり亭」。地方出身タレントのなまりまくる姿がいい。
ふつうにしゃべりたいのに、どうしてもなまってしまう。意識をすると、いよいよわけがわからなくなってしまう。
いろんなタレントがなまりに苦しむわけだけど、それを見ていると、そのタレントに対して自然と好感を持ってしまうのだ。

あと最近は見かけないけど、『「ぷっ」すま』なら「ビビリ王決定戦」。トラップを考えるスタッフの想像力に拍手である。

面白い番組をつくるうえで、出演者の持っている力は非常に大きい。特に『考えるヒトコマ』はそれだけで成立している。
それに比べると、『タモリ倶楽部』のバランス感覚は興味深い。テーマをもってくるスタッフと、気まぐれに料理するタモリ。
双方の信頼感というと変かもしれないけど、アットホームなお互いの奇妙な関係が、唯一無二の存在感になっている。
ユルユルなやりとりが面白い作品になってしまう、そんな魔法のつくり方、ぜひともマスターしたいもんだ。


2005.8.22 (Mon.)

駒大苫小牧が夏の甲子園を連覇した。去年スタンドで偶然応援していた(→2004.8.12)僕としては、ただびっくりだ。
ここまでくると神通力なんじゃないの、なんて妄想をしてしまう。オレ様のおかげだぜ!と言ってみたくなる。
……なんて思っていたら、暴力事件で見事に優勝に泥を塗る格好になってしまった。
今年は明徳義塾にはじまって、こういうくだらないことで大会全体が塗りつぶされてしまったような印象だ。

そもそも、今の甲子園ってそんなに魅力的なんだろうか。
わけのわからない創部何年目って学校が、有名になるためだけに無理をしている姿がすごく目立つ。
甲子園を目標に高校生ががんばるのはかまわない。けど、甲子園を目標に大人ががんばると、すごく醜くなる。
確かに甲子園の雰囲気ってのは特別で、真剣に野球をやっている人なら聖地そのものだろう。去年そう思った。
しかしだからといって、高校生にとっての聖地を、大人たちが必死になって追いかけているのはなんだかとても恥ずかしい。

あだち充の『タッチ』(→2004.12.14)に、印象的なセリフがある。
明青学園に負けた須見工の上村監督は「甲子園なんてものは、ただ副賞だったんだよな。」と言うのである。
そこまでとは思わないけど、甲子園は目的じゃなくて、チームががんばった結果であるとは思う。
目的ではなく結果なわけで、そこんとこをはっきりさせなければ、野球を心から楽しむなんてことはありえないんじゃないか。
楽しくない野球なんて、そんなものにどれほどの価値があるんだろうか。僕にはわからない。


2005.8.21 (Sun.)

なんだか、選挙が完全にエンタテインメント化している気がする。
原因は小泉首相の郵政反対派に刺客を送り込む手法にある。誰が、誰の敵になるのか。
ニュース番組を見る人は、K-1などの格闘技やサッカーW杯、甲子園の組み合わせ抽選会を見る気分になっていそうだ。
完全にゲーム感覚である。きちんと選挙後の国会をイメージしている人は、果たしてどれくらいいるもんだろうか。

参議院での法案否決を受けて衆議院を解散する、というのは、とてもややこしい話だ。
「選挙後の衆議院で2/3以上の賛成により法案成立を目指す」のであれば、それは戦略として正しいと言えよう。
ところが小泉首相は「自民(郵政賛成派)と公明で過半数」を目標にしている。これでは、まったく筋が通らない。

じゃあ結局、何が狙いなのか。おそらく、自民党の議席数は極力確保したうえで、議員の顔ぶれの刷新を目指している。
もっと具体的に言ってしまえば、小泉首相は清和会・森派を最大派閥にしようとしているのだ。
自民党が勝った場合、当選した1年生議員の多くは森派に入ればしばらく安泰、となるわけで、それが狙いと考える。
小選挙区制で派閥は無意味になった、という意見があるかもしれない。でもどのみち、影響力が強まることは確かなのだ。

小泉首相・自民党は郵政民営化に賛成かどうかを争点にしている。確かに、それは間違いなく争点のひとつである。
しかし、その一点だけで有権者の判断を仰ごうという姿勢は、明らかに政治家としておかしい。狭量である。
衆議院の任期は4年あるのだ。いくら衆議院は解散するものだとはいえ、4年間で何をするかが本来の争点ではないのか。
選挙後、郵政法案を処理して、それから何をするのか。そのヴィジョンを積極的に示さない姿勢は、まったく信頼できない。

対して棚からぼたもちを狙う民主党だが、相変わらずつまらないことばかりやっている。
国民は小泉主導のエンタテインメントに引っ張られている。これに勝つには、もっと面白いことをやってみせるしかない。
じゃあ「面白い」とは何か。それはプロレスだ。今の自民はプロレス状態であり、それなら民主はもっとプロレスでいくべきだ。
派閥全盛期の自民は完全にプロレスだった。繰り広げられる内部抗争と予定調和。対して社会党にはドラマがなかった。
自民党が今もしぶといのは、個性の見える政党だからだ。キャラの個性だけで政策論争を封じ込めてしまう上手さがある。
今の民主党議員はかつての社会党と同程度の存在感しかない。政策だけでなく、人間くさいやりとりでのドラマがほしい。
政策と芝居のバランス、あくまで政治は「まつりごと」の要素を持ったものだ、という認識が必要である。

郵政反対派による新党2つも、打算が透けてみえて予想以上にみっともない。
それまでさんざん自民党というブランドに寄りかかっていたツケだろう。どこも新しくないのに新党というのもおかしなものだ。
彼らの話を聞いていると、有権者に対して恨みがましいセリフが出てくることがよくある(特に亀井静香)。
しかし政治家にとって、有権者はお客様。お客様は神様だ。商品を買ってもらいたいなら、正しいアピール方法をすべきだ。
それにしても今回いちばんピンチなのは、田中康夫だろう。このままでは、次の県知事選で長野県はまたつまらなくなる。
田舎者ばかりの県議会にまた県政を牛耳られたくない人たちは、今から後釜をしっかり探しておく必要があるだろう。

最後に、個人的なことをちょこっとだけ書いておく。
「今まで自民はなんだかんだ正しかったから、これからも自民にしておけばいい」という意見を聞いたときはショックだった。
それは、言葉は悪いが、歳をとってこれから死んでいく人の意見だと思う。将来を見据えた人の持つ意見ではない。
国債に依存する財政を確立し、既得権益を守るためにずっと見て見ぬふりをしてきた政党の、どこが正しいというのだろう?
無理なものはすべて次の世代に丸投げしている現行の制度を肯定するのは、無責任極まりない年寄りの態度だ。
自分にとって都合の悪いものは無視して、周囲にいる人のことを考えない姿勢は、醜い。僕は絶対にそうなりたくない。


2005.8.20 (Sat.)

二ノ宮知子『のだめカンタービレ』。ぎゃぼー
やっとこさ12巻まで揃えることができたので、好きなシーンを中心に気合を入れてレヴューを書いてみる。ぎゃぼー

まずは千秋とのだめの出会いのシーン。「片付けられない女」がヒロイン、ってのはなかなか見ないように思う。
この段階でのだめはただのヘンなヤツだが、出会ってしまったが最期、という発端にふさわしい面白さがある。
まあ自分が、世話が焼けて、でも一瞬の冴えが確かにあって、それでなついてくる、というパターンに弱いこともあるが。
しかもなついていたのが急に素っ気なくなると、すごくやきもきさせられるわけだ。結局またなついてくるくせに。
そんなふうにいいようにやられているうちに……って、オレはなんの話をしてるんだ。

まず峰が登場し、次いで真澄が現れて、前半のパターンが確立される。完全にドタバタのギャグマンガである。
それぞれ個性(担当楽器)を持ったキャラクターが、それぞれ全力を出してひとつの結果を得る、という王道の路線だ。
選抜メンバーだったはずのSオケは、いつのまにか落ちこぼれ集団となってしまう。いかにも少年マンガ的な逆境だ。
才能があるせいで周りの見えない千秋の葛藤と成長を絡めて解決する展開は、読んでいてとても気持ちがいい。

最大のターニングポイントは5巻である。マングースに扮したのだめたちSオケが、『ラプソディ・イン・ブルー』を演奏する話だ。
少年マンガ的盛り上がりという点においても、Sオケは頂点を極める。今のところ僕が最も好きなのは、ここだ。
しかしそんなSオケの前に千秋が立ちはだかる。面白おかしいSオケに対し、千秋は真剣勝負で彼らを圧倒する。
のだめを含めSオケの面々は負けを認め、結果、才能はそのままに正統派のR☆Sオーケストラへと物語は大きく舵を切る。
ここにはもうひとつ、学生とプロの境界線という意味もある。特に音楽業界では、その意味は大きい。
学生気分のSオケと、プロへの第一歩であるR☆S。メンバーが卒業する以上、それは当然の選択と言えなくもないのだ。

そしてのだめはマラドーナ・ピアノ・コンクールに参加、それがきっかけとなって10巻からはパリ編がスタートする。
ここではまるで追いかけっこをするように、千秋とのだめが互いに成長をみせる。うっすら見える頂点への挑戦が描かれる。
そこにはもはや、序盤にあったような種類のバカバカしさはない(といっても、ギャグがなくなったという意味ではない)。
「音楽しかない」という前提が完全にできあがった中で、音楽界の頂点へ向かう物語というベクトルが完全に定まった中で、
のだめと千秋に置かれた比重が飛躍的に高まり、それにつれて作中で演奏される曲の迫力も増す仕組みになっている。

こうしてみると、このマンガは多彩なキャラとギャグを抱えながらも、見事なまでに鮮やかな足取りで話を進めている。
千秋・のだめ・峰・真澄の4人で動いていたSオケの辺りまでが第1期、ということになるだろう。
まずここで男女問わず客をつかんでおくわけだ。続いて、R☆Sでより高いレヴェルにいるキャラを提示する第2期。
そして第3期では、のだめと千秋を中心に、世界を舞台にして着実に成長していく姿が描かれる。
おそらく、この後にくる第4期では、第2期のキャラが成長した姿を目にすることだろう。そして話はクライマックスに向かう。
(これがスポ根マンガなら、第1期は部活、第2期は日本国内のプロ、第3期は世界での下積みという構図に対応する。)
そういう長い目で見た場合、このマンガは本当に着実にやるべきことをやっている、安心して読めるマンガなのだ。

キャラクターについてみていくと、ほとんどがきちんと才能を持っている。いってみれば、天才ばかりのマンガである。
といっても彼らは誰一人、最初から天才なわけではない。努力して苦悩して成長する姿がきちんと描かれている。
ただ、このマンガの登場人物は、努力するべきベクトルが最初からわかっている。スタートラインがきちんと保証されている。
その辺が、評価の分かれるところとなるかもしれない。マンガである以上、それは当然の設定だと僕は思うが。
そして何より重要なのが、どのキャラも、必ず、取り返す点だ。ミスをしたり格好悪いところがあったりしても、必ず取り返す。
だから完全な悪役というか、イヤなヤツのまま終わるということが、まったくないのである。誰ひとりとしていない。
ここまで『のだめ』を少年マンガ的と表現してきたが、この点において明らかに、従来の少年マンガよりひとつ次元が高い。

最後に、読んでいる間つねに感じていることを書いておく。それは、「悔しい」という感情である。
さまざまな曲が登場するが、知っているのはあんまりなくって、わからない曲ばかりだ。音楽に詳しくない自分が悔しくなる。
クラシックにきちんと興味を持って、本当にすごい演奏というのを知っていれば、もっと楽しめるのだろうに、そう思ってしまう。
マンガを読んで「悔しい」という思いに駆られたのは初めてのことだ。それって、本当にすごいことじゃないか。
『のだめ』を読んでついついEMIの『BEST CLASSICS 100』を買っちゃった人は、決して僕だけではないはずだ。
以前に比べると、夢中になって読むマンガってのは本当に減ってしまった、というか、ゼロになってしまっていた。
そこに現れた『のだめ』、いやはや、存在してくれてありがとうって気持ちである(もちろん、紹介してくれた潤平にも感謝)。


2005.8.19 (Fri.)

押井守監督、『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』。
以前TSUTAYAで借りて潤平と一緒に見て、そしたらすぐに潤平がDVDを買っちゃって、それがなぜか今、僕の手元にある。
久々に見てみたのだが、いやもう、なんというか、どうなってるんだこれは!?と叫びそうになった。
おそらく、この作品は日本人でないとつくれない。というか、これを見た外国人は、日本人の恐ろしさを実感したはずだ。
それは都市のアジア的描写とかそんなチンケなレヴェルじゃなくって、現代に潜む未来の断片に対する嗅覚の鋭さと、
アニメーションとCGの技術と、ガンアクションと、とにかくあらゆる要素がごっちゃになっているそのごった煮ぶりによる。

「ネットは広大だわ」というラストの素子のセリフによって、だいたいこの作品の一般的な見方は決まっていると思う。
1995年の作品で、その後のインターネットの爆発的な普及を考えれば、先見性あふれる作品という評価で妥当だろう。
でもそれは、この作品が前提としているもののたったひとつにすぎないように、自分には感じられた。
いや、確かにネットという新しい空間(=情報空間)の浸透により現実の空間が変容していく描写は説得力に満ちている。
上のセリフには、ネットも現実の空間の一種として居場所を得て、義体というメディアで双方を行き来するようになるという、
そういう時代への予見がたっぷり詰め込まれていて、そこに注目が集まるのは当然のことだとは思う。

しかし自分にとっていちばん興味深かったのは、プログラムが「自分は生命体である」と主張する点だ。
人間などの現実の生物とプログラムとを生物/非生物として分ける境界線は、とりあえずまず身体の有無で判断される。
しかし電脳化と義体が一般化した環境では、DNAもプログラムも、情報の流れの中の結節点という意味では同等になる。
(以前iPodについて書いたところと、ここの議論は重なる。人間が情報を運ぶ「足」になる、というくだり。→2005.4.29
物語ではプログラムである「人形使い」が、自分が生命体であることを主張して、素子と「交配」することを希望する。
ひらたく言えば機械と人間の結婚ということになるわけで(そういえばマクルーハンは『機械の花嫁』って本を書いてたっけ)、
カタいアタマでは理解できない、でも確かにベクトルはそういう方向に向いている、そんなレヴェルのことが堂々と描かれる。

もうひとつ、あまり踏み込まれていなかったが注目しておきたい箇所がある。清掃車でゴミを回収する男についての場面だ。
彼は「人形使い」によってつくられた偽物の記憶を挿入されていて、公安9課に保護されたことでようやくその事実を知る。
しかし、彼は偽物の記憶に対し、とても深い喪失感をおぼえる。また、9課で最も「生身」な人間であるトグサは、
偽物であるその心地のよい記憶が、永遠に取り去ることができないまま彼の心の中に残り続けることに、深く同情する。
この物語では、記憶というものが非常に価値を持っているというか、人間性にとって重要なものとして描かれている。
人間も情報そのものとして扱われるような情報化が進みきった社会において、記憶がアイデンティティそのものとなっている。
身体という物理的存在によるアンデンティファイから、記憶という形而上の存在によるアンデンティファイへ。
この辺は、上に述べた情報と生命の関係性と絡めて、もっと議論されてもいい箇所だと僕は思うのだ。
(素子はボートで、バトーにその点についての不安を語る。話がやや抽象的だったのか、それ以上踏み込まなかったが。)

そんな具合に、次から次へと思考のヒントになるような断片が出てくる。その密度といったら、もう半端ではない。
この作品は娯楽を目的につくられていることもあり、ひとつのテーマに絞り込んで深く追求していくようなことはしない。
その分、アクションシーンやきな臭い駆け引きをたっぷり持ち込んで、誰でも楽しめるような配慮がなされているわけだ。
いや、確かにそういった娯楽の部分も十分すぎるほどに面白いのである。本当に高いレヴェルの娯楽に仕上がっている。
でも、もしそういう細かいところをさらに切り出していって、しっかりとしたドラマに仕立てていったらどうなるか、と考えると、
TVシリーズ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』(→2005.3.6)が生まれた理由に納得がいく。

SFってのは、現代の延長線上にあるわけだから、当然、現代に対する嗅覚が鍵を握ってくる。
どれだけ正確に、この情報があまりに多くて錯綜している現代から、未来に向けて残るベクトルだけを拾い上げられるか。
そのシヴィアな戦いに耐え抜いたものでないと、通用しない。これは現代アートの厳しさをより純粋に煮詰めたようなものだ。
それだけに、鍛え抜かれた「勝者」の世界を味わうのは、最高の贅沢であるといえるだろう。
この映画は劇場公開から10年になるのに、いまだに新鮮な切り口をたくさん持っているのである。バケモノだ。


2005.8.18 (Thu.)

伊坂幸太郎『オーデュボンの祈り』。直木賞候補に何度もなっている人気作家で、特に構成力が評価されているようだ。
著者近影はいかにも「ボクはよい子のおぼっちゃんです」って感じ。そんなにこの人は賢いのかね、と思いつつ読んだ。

おそらく著者自身を投影したと思われる主人公・伊藤が東北の孤島・荻島に連れてこられたところから話が始まる。
この荻島は日本とはほぼ完全に断絶した環境を保っていて、支倉常長が開発して以来、独自の文化を持っている。
そこで伊藤はしゃべるカカシ・優午に出会う。そうして他にも不思議な島の住民たちと過ごす時間が描かれる。
さらに伊藤がいなくなった後の仙台、カカシがつくられた150年前、伊藤の祖母の思い出がそれぞれパラレルに挿入される。

結論から言おう。つまらない。というか、スケールが小さい。
島という空間的な広がり、150年という時間的な広がりを用意しているから、ふつうなら逆だろうけど、この話はちっちゃい。
この作者が描きたかったのは、因果であると思う。原因と結果、その妙を、ひたすら読者の裏をかくことで提示していく。
そういう因果の連鎖と伏線とは、まあ確かによくまとまっているんだけど、こぢんまりとしていてまったく迫力に欠ける。
作者の影響が確実に及ぶ世界を確保しておき(それが荻島と鎖国状態の150年という、隔離された空間・時間なのだ)、
その中でおもちゃの人形で遊んでいる、神様になったつもりの子どもの考えた話、そういう印象を受けた。
一言で表現するなら、「きわめて臆病な作品」だろう。自分のフィールド(=荻島)から出ると「逮捕される」っていうんだし。
ミステリ作家としての才能は乙一に遠く及ばず、想像力のたくましさも村上春樹とは比べ物にならないほど貧弱である。

世の中は自分の思いどおりにならないわけで、そこでの葛藤が物語を生み出す原動力になってほしい、と僕は思っている。
他者や自然や社会との摩擦・衝突が、物語を研磨する。美しく彫琢する。そうして初めて、作品として認められる。
そもそも想像力とは、他者や自然や社会との融和のために発揮されてきた人間固有の力のはずだ。
でもこんなふうに完全にパッケージングされた世界の中であれこれやられても、感動のしようがないじゃないか。
逆を言えば、自分にとって都合のいい世界で暮らしたいという願望のある人なら、この話を心地よく思えるのかもしれない。

この話の舞台となっているのは「音楽の存在しない島」なのだが(すいません、それがラストのいちばんのキモです)、
それじゃあ果たして、そこの住人たちは「生きている」と言えるのか。登場人物たちは「生きている」と言えるのか。
人間は、生きている。それは心臓が動いているから。心臓が動くということは、脈拍を打つということだ。
それはリズムにほかならない。人間が生きるということは、心臓の打つリズムに生かされるということにほかならない。
生きると同時にリズムは刻まれる。そして言葉を発すると同時に音階が認識され、それはメロディーへと昇華する。
つまり、人間が(生物学的にも社会的にも)生きるということは、音楽を奏でるということとまさに同義なのである。
そう考えた場合、「音楽の存在しない島」で暮らす登場人物たちは、決して「生きている」とは言えない存在なのだ。
伊坂はあくまで、生命のリズムのないおもちゃの人形を弄んで喜んでいるにすぎないのである。以上、証明おわり。

こんなくだらないものを評価している連中は、恥を知るべきだ。僕は何ひとつ、この本の存在価値を認めることができない。
ただただ、怒りをおぼえるのみ。


2005.8.17 (Wed.)

歯医者に行って親知らず周辺をチェックしてもらい、それから岡谷まで親に車で乗せていってもらう。
途中にあるうなぎが有名な店で昼メシ。蒸さないで直接焼くんだそうで、今まで食べた中でいちばん脂が乗っていた。
そんでもって、スーパーあずさにて東京に戻る。やっぱり車内ではノートパソコンでたまっている日記を書いていく。

実家ではほとんどマンガを読む暇がなかった。そんな中でひとつだけ、意地で読んだのでレヴュー。
桂正和『電影少女』。われわれは「ジャンプでやってたちょっとエロなマンガだワッショイ」と認識してしまいがちだが、
いい機会なのでこのマンガの意義をきちんと考えてみたい。

それこそ古代ローマ、オウィディウスの時代からピグマリオン・ストーリーは語られてきているわけだが、
この『電影少女』ではビデオテープを再生すると画面から女の子が飛び出してくる、という方式が考案されている。
主人公・弄内洋太が再生したときにはデッキが故障していて、出てきた「天野あい」は「心」を持ってしまう、という設定だ。

多感な高校生の傷つきやすい思考回路が徹底的に描写されていて、そのリアリティというか緻密さは特筆すべきレヴェル。
一歩踏みとどまってウジウジしている、そのときの心理を、キャラクターのセリフを通して確実に言語化しているのだ。
優しさが人を傷つけてしまう。中途半端が一番よくないのに、徹底できるだけの自信がなく、優しさがまた人を傷つける。
そのため、恋愛という状況に慣れていない序盤では、好きだから距離を置く=遠ざけるという姿勢が目につく。
しかし後半になると、それぞれが誰かを傷つけることを覚悟したうえで動くようになる。ここの変化もまた緻密に描かれる。
知らず知らずのうちに「相手のため」から「自分のため」に目的がすりかわっている、でももう止まれない、というリアルさ。
ビデオガールというフィクションの存在を混ぜることで、嫉妬の構造がより複雑になり、話に深みが増しているように思うのだ。
本当はその人を嫌いたくないのに嫌ってしまう、そういう状況に置かれる恋愛の難しさに翻弄される姿がとても生々しい。

さらに話が進んでいくと、今度は仕事(絵本づくり)という特別な関係と、それに対する嫉妬が描かれるようになってくる。
これはある意味、学生から社会人に進んだ段階での問題にまで踏み込んでいる、と指摘できるだろう。
弄内・あい・もえみのほぼ3人だけという、きわめて少ない登場人物で話が進んでいくのは、そのあらわれであると考える。
それにしても主人公たちのとる行動がことごとく裏目に出てしまう展開は、読んでいて胃が痛くなる。わかっちゃいるけど。
読者を安心させないその姿勢が、陳腐になりがちなピグマリオン・ストーリーの中でこの作品を異色の存在にしているのだ。

注目すべきキャラクターは主人公の親友である新舞貴志だろう。モテまくりのイケメンのくせして、女にはとんと興味がない。
というのも、彼は非常に自虐的な性格をしており、モテる(=他者からの肯定)のに自分で自分を肯定できていないから。
その原因として小さい頃のトラウマがある、とは弄内のセリフだが、それについて詳しい描写がすっぽり抜けているのが痛い。
おそらく作者の頭の中でヒロイン・天野あいが動きまわりすぎたために割を食ってしまったんじゃないかと思うのだが、
新舞から見たドラマが欠けてしまっているために、読者は状況を客観的に把握することができない(特にレイプ未遂の辺り)。
彼がどのようにして失ったものを取り戻していくのか、そこをきちんと描いてほしかった、というのは贅沢な望みだろうか。
(実は、『電影少女』の登場人物の中で僕が最も深く感情移入したのは、この新舞なのだ。彼のドラマが欲しかった!)
また、夏美をめぐるドラマも簡単に済まされてしまったような印象がある。週刊ペースであの集中力では無茶だろうけど、
せっかくの魅力的なキャラクターなのだから、ぜひとももうちょいなんとか、と思ってしまうのである。

では、このマンガにおける最大の問題点は何か。それは、親の影がまったく、誰ひとりとしてないことだ。
自分にしろ相手にしろ、親の影響がいろんな角度から染み込んできて失望させられた経験を持つ僕としては、
親の存在抜きで恋愛をしている主人公たちを見て、それを純粋な姿と捉えることもできるし、絵空事と感じることもできる。
まあこれ以上事態をややこしくしたら話が成り立たないから、それはそれでしょうがないかな、と納得はしている。いちおう。

それにしても主人公はモテナイモテナイ言われてるけどきちんとモテとるやないけ、と言いたい。
もえみちゃんの「あたし別れないわよ」とか、そんなん一度でいいから言われてみたいわ。あーあ。

さて、『電影少女』にはもうひとつ、原点回帰というか、ビデオガール本来の仕事にこだわった「恋」編もある。
「あい」編に比べれば非常にシンプルになっていて、その分読みやすく、気軽に話を楽しめてよい。
よく考えれば、何人ものビデオガールがそれぞれに問題を解決していくオムニバス形式、という方向性もあったわけだ。
それはそれで大いに受けたかもしれない。一歩間違えると『BOYS BE…』になっちゃうけどね。
小沢梢子はけっこうファンが多いと思う。でも僕は白川さんがいちばん好きです。
弄内=ヒロム、新舞=トシキ、あい≒梢子、もえみ=白川さんという形で「あい」編を再構成した、と考えられなくもない。
そうして読むと、「恋」編はまた特別な風味を帯びてくるから面白い。


2005.8.16 (Tue.)

昨日に引き続き巨木シリーズである。本日のターゲットは清内路村にあるミズナラ。
日本で最も大きいミズナラなんだそうで、下呂温泉へと向かう潤平を送るついでに見に行くことに。

清内路村じたいが山の中なのだが、国道から目的地へと分岐する道は、もう完全に登山道としか思えない。
それでもそのミズナラを見に来る観光客はけっこういるようで、道案内の立て札が出ていた。
矢印の方向に車で進んでいくと、すぐに一本道になる。迷いっこないのでもう立て札はないんだけど、
3kmも放置されるとさすがに不安になってしまう。このまま頂上まで行っちゃうんじゃないかと思ったそのとき、視界が開ける。

林道の中、急に平らな土地がある。その奥に、思いきり腕を空へと伸ばすようにして立つミズナラが目に入る。
まるで腰をひねるようにぐるっと上半身を右に回して、ミズナラは優雅にその姿を誇示していた。
ミズナラに近寄っていった潤平は、たくさんの虫が集まってきていることに感動していた。
さすがにいいところを見ているなあと思う。母親は母親で、「私これが気に入ったー」を連発。
circo氏は遠くから、無数の木々を背景に巨木が世界の中心を独り占めしているのを眺めている。
村上春樹は鳥が世界のねじを巻いている、と書いたが、このミズナラ自身が世界のねじなんじゃないか、と僕には思えた。

 
L: 清内路のミズナラ。幹のすぐ脇に祠が建てられている。  R: 角度を変えて撮影。ミズナラが体をひねっているさまがよくわかる。

帰り道がまた感動の嵐だった。木々に囲まれた緑の中、黒い影の中に鮮やかな青を光らせる大きな蝶が舞っていたのだ。
コケの生した道路脇のコンクリートには蝶が3頭並んで止まり、水分を吸っている(蝶を数える単位は「頭」がふつうらしい)。
車が近づくと彼らは一斉に飛び立って、入れかわり立ちかわり蝶が舞い続ける。こりゃタダゴトじゃないぞ、と直感する。
ついに家族全員車外に出て、頭上をかすめていく蝶に見入る。黒い影と一面の青とが目の前をすり抜けていく。
先日国立科学博物館で見たオオルリアゲハか?と思う。目の前を飛ぶ蝶は、今まで見たものとは別格の美しさだった。
デジカメでなんとかその姿を撮ろうとしたが、素早くて結局撮れなかった。悔しいけど、それはそれでいいような気もする。
(後できちんと調べたら、「ミヤマカラスアゲハ」らしい。日本で最も美しい蝶、と主張する人も多いようで、納得。)

巨木と蝶の幻想としか思えない世界を堪能した後は、国道に戻って木曽に出て、そのまま岐阜県に入る。
今は合併して中津川市になってしまった旧・坂下町の坂下駅で、下呂に向かう潤平とはお別れ。
しばらく中津川市北部をまわってみたのだが、なかなかこれといったメシ屋が見つからず、気がつけば坂下駅に戻っていた。
結局そこの道の駅で蕎麦をいただく。内心、蕎麦はものすごく食べたかったので、なんだかんだ幸せであった。

昼メシを食べ終わると、特に予定がない。まあせっかく近くまで来たんだし、ということで、妻籠に行ってみることにした。
妻籠といえば、伝統的な街並みを残している宿場町だ。でも、僕は長野県出身でありながらたいへん恥ずかしいことに、
同じく伝統的な街並みの宿場町である馬籠と区別がつかない。どっちも木曽の宿場じゃん、くらいの認識なのだ。
小さい頃からどちらもよく訪れたけど、両方をハシゴしてじっくり比較してみるってのは、やったことがない。これはチャンスだ!

というわけで、特別企画・「妻籠VS馬籠」。これでもう、どっちがどっちなのかわかんなくて困ることはないよ!


「妻籠VS馬籠」、イメージ画像。「縄文VS弥生」(→2005.8.6)と違って、どっちかが圧勝ってことはないと思う。

最初にそれぞれの宿場について、軽く説明をしておこう。
どちらも中山道の宿場であり、馬籠峠を挟んで北東が妻籠、南西が馬籠という位置関係になっている。
かつてはどちらも長野県木曽郡に属していたが、馬籠は今年2月に越県合併して岐阜県中津川市に編入された。
(したがって現在は、馬籠峠が長野と岐阜の県境となっている。峠が生活圏の境だったから無理のないことだ。)
妻籠も馬籠も高度経済成長を機に観光地として認知されるようになり、街並みの保存に力を入れている。

では、まずは妻籠から。妻籠宿は、川を挟んで国道256号線と並行するような立地となっている。
美しく古びた木の格子が印象的な建物のファサードが並んでいる。まさに伝統的な和の雰囲気を感じさせる場所だ。

  
L: 妻籠の高札場(こうさつば)。幕府による庶民へ向けての掲示板である。見下ろす/見上げるという視線の関係が興味深い。
C: 高札場から見下ろす妻籠の街並み。この場所は高くなっているけど、基本的に妻籠は平ら。  R: 高札場の向かいの水車小屋。

  
L: 妻籠宿本陣。どっかの夫婦が記念撮影しているのをそのまま撮っちゃったのであった。
C: 妻籠郵便局。いかにも、正統派の妻籠の建物という感じが漂う。中央やや左に立っている黒い物体は、昔のポスト。
R: 妻籠の観光案内所。ここだけ急に大正・昭和モダン。和風とモダンのマッチも楽しくて趣深いものがある。

  
L: 観光案内所を少し離れて撮ってみる。せっかくいい建物なのに、木がちょっと邪魔である。もったいない。
C: さらに離れて、観光案内所は右手奥へ。妻籠の中で、坂はこことさっきの高札場の2ヶ所だけなのだ。
R: 標準的な妻籠の風景。背景の緑が、山の近さを感じさせる。観光客がけっこういて、落ち着いた活気にあふれていた。

  
L: さらに先へ進むと、片側は山、もう片側は建物、という状態なる。木曽が山がちであることがよくわかる。
C: 1934年に建てられた、関西電力・妻籠発電所。こちらも実にモダンなつくりである。妻籠ってことで、この色調になったそうな。
R: 発電所の塗装は徹底しており、木塀以外はすべて同じ色。山の斜面の大きなパイプから水を施設に引き、使用後の水は蘭川へ。

 
L: 妻籠宿のすぐ隣りを流れているのが、蘭川。そこにかかる石橋。  R: 違う角度から撮ってみた。川の石はけっこう大きい。

続いては馬籠。馬籠宿は完全に山の尾根にあり、坂を下りながらまっすぐ中津川の市街地を見下ろすことができる。
街並みは古い建物をそのまま保存したというよりは、現代的なオシャレさを多少ミックスして演出している傾向がみられる。

  
L: 馬籠の高札場。道行く人を見下ろす姿は妻籠のそれとほぼ一緒。馬籠宿の坂の上、つまりいちばん高いところに立っている。
C: 高札場とは反対側の、馬籠宿の坂を下ったいちばん低いところ。かつてはこの道が県境で、右が岐阜県、左が長野県だったそうな。
R: というわけで、いちばん低い旧県境から馬籠宿を見上げる。それにしても高低差があるなあ……。

  
L: 曲がりくねった馬籠の坂道。石畳が風情いっぱい。「手すりがオシャレ」とはcirco氏。確かに軽くミース(=ファン=デル=ローエ)風。
C: 左の写真の石段を上がると水車小屋の脇を通ることに。  R: 馬籠の街並み。こちらも観光客がいっぱい。国際的に有名みたい。

  
L: 馬籠郵便局。妻籠と違ってこちらはきわめて簡素。  C: 馬籠は基本的に、昔の建築を現代風に利用する、という姿勢が目立つ。
R: 島崎藤村記念館。「博物館相当施設」という肩書きが謎だが、これのおかげで馬籠は飛躍的に知名度を高めた、らしい。

  
L: 馬籠の街並みは緑が多いため、観光客がたくさんいても、どこか静けさを感じさせる。全体的に上品なのである。
C: ホントに緑が多いのだ。妻籠の家々の黒いファサードとは実に対照的である。  R: 緑一色(リューイーソー)。

 
L: 馬籠宿の真ん中から中津川市街を望む。山の麓の白っぽいのが中津川市街。馬籠峠を越えてこれを見ると、越県合併に納得。
R: あれ? この人たち、妻籠でも見かけたぞ? ……そうです、ウチの父(circo氏)と母であります。

そんなわけで、両者の特徴をそれぞれまとめてみた。

  妻籠 つまご 馬籠 まごめ
所在地 長野県木曽郡南木曽町吾妻 岐阜県中津川市馬籠(旧長野県木曽郡山口村神坂)
地名の由来 遠山氏の領地の端(つま→妻)+籠もるような土地 ? あまりに険しいので馬を置いて(籠めて)来る峠(→馬籠峠)の宿場
中山道69次のうち、 江戸から数えて42番目の宿場 江戸から数えて43番目の宿場
地勢 山と川に挟まれた間の土地 山の尾根
土地の勾配 ほぼ平ら、坂はあっても緩やか ずっときつい坂道
路面 ほとんどアスファルト 石畳
街並み 木造建築のファサードが中心 木造建築のファサード+植物の緑
無料駐車場 ×
自動販売機 ×(宿場内にはない)
×
発電所 ×
島崎藤村 ×

とにかく現地に行ってみれば、妻籠馬籠もそれぞれに特徴を持っているのがわかり、区別がつかない、
なんてことはなくなるはず。どちらも、ぜひ一度は実際に訪れてみることをオススメします。

★おまけというか蛇足。

 
L: 飯田と木曽を結ぶ大平街道には、このような放送禁止用語が地名になった場所があり、案内板が立っている。
R: というわけで、記念撮影。道路標識にも書かれているんだけど、正式な地名ではないので注意。

本ホームページには差別的表現ととられかねない表現が出てきますが、管理者の意図が差別を助長するものではないことはあきらかです。
したがって、言葉の言い替え、削除等はあえて行っておりません。皆さんのご賢察をお願いいたします。

↑まあ、まるでとってつけたようだわ。


2005.8.15 (Mon.)

巨木マニアの世界に片足を突っ込んでいる潤平たっての希望で、根羽村・月瀬の大杉を見に行く。
根羽村は、南に向かって車で1時間ほど。川がくるっと曲がったその内側に、大杉は他の杉たちから少し離れて立っている。
なんでも長野県で一番の巨木として認定されているという。おそらくもともと2本の木が合体して生長したのだろう。
まっすぐに伸びる幹と、少し横に出っぱってから真上に向かう幹とに分かれている。その先には鮮やかな緑。
何百年も前に、土地の人が「どうもこの木はちょっとすごいぞ」と感じて、そこに神を見るようになる。
そうしてしめ縄が巻かれ、すぐ横に祠が建てられる。木は生長を続けていく。……そんな風景を想像してみる。
巨木ってのは、ただそこに圧倒的に存在していることで、力を知らず知らずのうちに誇示している。
人間でも植物でも、そんなことは本当にまれだ。見ている間ずっと、この木は偉大なんだなあ、と心から感心していた。

北に向かって戻る途中で「ネバーランド」という根羽村の道の駅のような場所に寄る。人と車でいっぱいだった。
セルフサービス1杯100円の牛乳を売っていて、迷わず飲む。低温殺菌の濃い味で、本物ならではの風味がたまらない。
それならソフトクリームもおいしいはずだ、と買ってみる。果たして、鼻に抜ける香りが全然違う。それだけで幸せになれる。
同じ牛乳を使ったシュークリームも買って車に再び乗り込んだのだが、こちらはクリームに比べシューの味が強すぎた印象。

そのまままっすぐ飯田市を突っ切って、駒ヶ根も伊那も突っ切って、箕輪町へ。ここにもケヤキの巨木があるという。
その名もJR木ノ下駅からまっすぐ行った神社に、背の高いケヤキが何本も立っていた。親玉格にはしめ縄が巻いてある。
先ほどの大杉に比べるとフレンドリーな印象を受けた。柵もなく、境内が子どもの遊び場になっていたからかもしれない。

伊那市内のデパートに寄って時間をつぶすと、ベルディのピザをいただく。
何度も日記で書いているけど、ここのピザってのは特別で、僕は「世界一うまいピザ」と公言している。
一緒にここのピザを食べたい人がたくさんいる。でもその機会がなかなかないのである。
ここはひとつ、無理にでも「ベルディのピザを食べる会」をつくるべきなのか。そうしてピザ人脈を広げていくべきなのか。

今回は「フレッシュトマト」「ガーリック」「バジリコ」「ベーコンマッシュ」をそれぞれラージで食べた。あとは水だけ。
食べていて、いろいろある種類の中でどれが好きか、という話題になった。「バジリコ」という意見を両親は出してきた。
潤平は「ガーリック」と主張する。なるほど、どちらももっともである。しかしここはあえて、僕は「フレッシュトマト」を推したい。
「フレッシュトマト」は素材のトマトのデキにより、味がけっこう変わる。酸味の強いトマトの方が、味がくっきりしておいしい。
そんな“当たり”の「フレッシュトマト」を食べられたときは、本当に幸せなのである(最近は当たりばかりで非常にうれしい)。
そう、「フレッシュトマト」は最もシンプルなピザであるがゆえに、また奥も深いのだ。
究極の中の基本ということで、ベルディに行く機会のある方は、ぜひ「フレッシュトマト」をじっくりと味わっていただきたい。
……もっともウチの家族の場合、じっくり味わう余裕なんてなくて、気がつけば胃袋に詰め込んでいる、という具合だけど。


2005.8.14 (Sun.)

トシユキ・バヒサシ両氏に呼び出される。久々の「モゲの会」開催である。今回はバヒ氏の提案で風越山に登ることに。
風越山というのは飯田市の西側にそびえる山で、気軽に登ることのできる山として、市民にはお馴染みの山なのである。

今宮球場の坂を上って登山口へ。3人並んで山の中へと入る。……が、500mもしないうちにすっかり弱音モードに。
坂道を上るという行為は日常生活では使わない筋肉を使うのだが、それがつらい。最初のうちは、
「ハードゲイプレイ」→「いかプレイ」→「猪木プレイ」→「井手らっきょプレイ」→「いもプレイ」
といった調子で「プレイしりとり」なんぞをしていたのだが、それも束の間。
汗びっしょりで無言のまま脚を動かすのがやっとという状態になる。あまりに坂道がつらいので、
「もう坂道に飽きた!」と叫ぶと、トシユキ氏が「じゃ、『坂』じゃなくて『板』だと思えば」とコメント。
その次の瞬間、目の前に現れたのが下の光景である。笑いの神が光臨したことで、腹がよじれるほど笑い転げる。

 板。

風越山にはいくつかのチェックポイントがある。まずは石灯籠、虚空蔵(こくぞう)山への分岐点となる秋葉大権現、
でっかい矢がふたつ並んで立っている矢立木、頂上の直前にある白山神社奥宮、などである。
3人のうち誰かひとりでも弱音を吐けば、その瞬間に目的地が頂上から手頃などこかになってしまうというギリギリの状況。
もうほとんど意地だけで、ひたすら上へ上へと登っていく。

夢中で脚を動かしていたら、行く先に鳥居が見えた。こうなれば白山神社まではもうちょっとで、俄然やる気が出てくる。
そうして標準的なペースよりもかなり速い時間で、頂上までたどり着いてしまった。

 頂上でコンビニのおにぎりをいただく。手前にあるのは三角点。標高1535mなり。

行きは写真を撮る余裕なんてまったくなかったのだが、メシを食ったら3人そろって急に元気がありあまってしまったので、
ようやく写真を撮ることができた。というわけで、フツーとは逆に、山を下りながら風越山の紹介をしていくことにするのだ。

  
L: 風越山山頂付近の登山道。こんな感じの中をひたすら歩く。  C: 風越山で一番の難所を下りるトシユキ&バヒサシ両氏。
R: 下から見上げるとこんな場所なのであった。あらためて見ると、ロープがなんだか心細いわ……。

山頂~白山神社奥宮間は、いったん下ってそれから上るという形になっている。フタコブラクダの背中を想像してもらうとよい。

 
L: 白山神社奥宮。現在修復中で、建築資材やポリタンクがいっぱい置いてあった。ヘリでここまで運んだとしたら、ズルい。
R: 白山神社の鳥居。かつて殿様はここに馬をつないでお参りしたそうな。実際に登ると、この場所まで馬が来たってことにびっくり。

しばらく下りると展望台。標高1410mで、飯田の街がよく見える。非常に気持ちのいい場所。

 
L: 展望台から見た飯田の街。手前の右側の山は虚空蔵山。  R: 眺めに見入るバヒ氏(左)とトシユキ氏(右)。

見晴らしがいいのはここだけ。あとは虚空蔵山まで森の中という感じ。そんな中、突如現れるのが、これだ。

 
L: 矢立木(やたてぎ)。由来は忘れたが、登るときにこいつが見えると「あともうひとふんばり」という合図。
R: 標準的な風越山への登山道。だいたいはこんな感じの山道を登っていく。まあどの山も似たようなもんだわな。

もうほとんど走りながら下山していく。途中で虚空蔵山に寄ってみる。この山は風越山への登山ルートの途中にあり、
風越山よりももっと手頃な山として親しまれている。地元の小学生は低学年のうちに登る、通過儀礼の山なのだ。

  
L: 虚空蔵山山頂を示す標識。  C: 山頂はとても見晴らしがよく、ここから見える南アルプスの山々を紹介したレリーフがあるのだ。
R: くつろぐトシ&バヒの両氏。5年前の正月は彼らとここで御来光を見たもんだ。あんときはけっこう寒かったなあ。

  
L: 虚空蔵山から見た飯田市街。  C: ほとんど走って山を下るわれわれ。昼メシを食って以降は元気がありあまっとる。
R: 観音様。登山ルートにはそれぞれ番号のふってある観音様が何体もいて、それをチェックしていく楽しみもあるのだ。

延命水という湧き水の脇を通る。小学生のときにはありがたがってみんな必死に飲んだもんよ。
そして風越山へ直接向かうルートと虚空蔵山を経由するルートと分岐する場所にあるのが秋葉大権現。
火除けでたいへんお馴染みの神様であり、アキバ系の人から信仰されている、というわけではない。念のため。

 
L: 石灯籠。写真ではひとつだけだが、実際は対になっている。風越山登山ルートにおける最初のチェックポイント。
R: 登山口。今回はこちらから登ったのだ。近くにはその名も「風越山麓公園」があり、市民にはお馴染みだな。

そんなわけで苦しかった登山も、喉元過ぎればなんとやら、だった。
その後は車で高森まで行って温泉に入って、飯田市内に戻ってくるとオシャレな居酒屋で飲んだ。
料理は素材がいいし、日本酒は冷たくっておいしいで、たまらなかったですな。

まあ、こんなもんでしょう。


2005.8.13 (Sat.)

実家に戻る。

バスの中ではノートパソコンを引っぱり出して、まだまだ書きかけになっている3月の日記を書いていく。
iPodでジャズを聴きながら日記を書いていると、あまりに贅沢な時間の使い方にクラクラする。
キーをたたく指先も軽やかに、ホイホイと調子よく、たまっている分を片付けていく。
ところがバッテリーが2時間で切れてしまったため、残った時間は結局寝ることに。
よりカンペキを目指して、まだまだ改善点はあるようだ。ニンともカンとも。

実家に着いたら母親から「面白いお笑いの人がいる」という言葉が。
ところが名前をよく覚えてないようで、どこが面白いのか具体的に訊いていくと、
「勝手に人助けしてフォ~ッ!って叫んでムキムキ」との答え。
「ハードゲイ?」「そうそう、それそれ。」
というわけで、母親のお気に入りはレイザーラモン住谷と判明。これも血か……。


2005.8.12 (Fri.)

ブルース=リー主演、『燃えよドラゴン』。

少林寺拳法の使い手であるリーが、流派を裏切った男が支配する要塞のような島に潜入する、というストーリー。
島は丸ごと格闘技道場になっているが、リーはその中で行われている犯罪を暴く、という任務を与えられている。
この映画を一言でまとめるなら、「銃を使わない格闘アクションによるスパイ映画」と表現できると思う。
『スパイ大作戦』のラロ=シフリンが担当している音楽を聴いていると、そのことがはっきりしてくるのだ。

ブルース=リーの遺作である『死亡遊戯』(→2005.6.28)より、ずっときれいで見やすい。
これは制作した映画会社の規模の差、予算の差なんだろう。だから『死亡遊戯』ほどのB級感がない。
その分、アクション以外の部分も丁寧で、アクションよりはストーリーを重視している印象も残る。
見ていて、ふだん僕らが見慣れている香港アクション映画のルーツがこの作品にあるように感じた。
一度、その辺の事実についてきちんと調べてみる必要があると思った。

話の展開では、無頼漢たちの正義感が熱い。それぞれの理由で島に潜入する男がリーのほかにふたりいるのだが、
彼らが自分なりに信念を貫いてボスと戦うのが、リーの行動と重なり、クライマックスの見せ場へと突入する。
最初から正義を背負っているのはリーだけなんだけど、たまたまベクトルが合致して協力して敵を倒す、という感覚がいい。

演出面では、モブシーンと1対1との対比が非常に印象的だ。クライマックスでは島で修行しているボスの生徒たちと、
牢から脱出した男たちとが画面いっぱいで戦うのだ。白と黒のコントラストも鮮やかで、黒が正義で白が悪なのも面白い。
そんなモブシーンから逃げ出したボスとリーが、鏡張りの部屋で1対1で戦う。この数の対比がしっかり効いていて、
量における頂点での戦いから、質における頂点での戦いへの移行、という含意が読み取れる。この点は非常に巧い。

それにしてもブルース=リーは、魅力あふれるキャラクターだ。
極限までムダを削いだような鍛え抜いた身体に強い視線、それだけで画面の中での存在感を際立たせている。
そういう「存在の強さ」こそが、ブルース=リーが伝説になる理由なのかな、と思った。


2005.8.11 (Thu.)

リュック=ベッソン監督でジャン=レノ主演の『レオン』。

序盤でいきなりジャン=レノの見せ場。従来のアクションものなら無骨な面ばかりが強調されるように思うのだが、
この映画はどこかオシャレ。暴力性よりも体の動きとか服装とか、アクションの動きそれ自体に注目しているように見える。
派手にドンパチかましているのは一緒なのに、どこか違う。そんな空気が最後までこの作品を包み込んでいる。

とにかく、悲しい映画だ。客観的に見ればどう考えても救われない状況で、かすかな希望を見て、打ちのめされる。
殺し屋という仕事、あまりに年齢差のありすぎるふたり、政府の機関を敵にまわす展開。どれもが、絶望的だ。
ヒロインであるナタリー=ポートマンの華奢な身体がそのイメージを加速する。音楽もそれを盛り上げるように響く。
今となってはありふれているストーリーかもしれないが、全体を包む悲しい空気が、独特の印象を持たせるのだ。

よくフランス映画は悲劇だっていうんだけど、この作品を見ればその辺が納得できるように感じた。
舞台は徹底してニューヨークだし、ドンパチは完全にアメリカの映画。でも、フランス映画の風味が漂いまくっているのだ。
それは、中年のハゲかけたおっさんとティーンエイジャー未満のロリな娘というのもフランスなら、
悲劇的な結末へと向かうレールから見える光景を、できる限り感傷的なニュアンスで描いているのもフランスだ。
単なるドンパチ、娯楽であれば感じなくてもいいことを、あえて感じさせるようにしている。
そういうものの積み重ねがこの映画に独自性を持たせ、結果、名作として知られることになっているのだろう。
(個人的にはナタリー=ポートマンの造形がいかにもフランス的だと思った。歳相応でない生意気さ、アンバランスな印象、
 線の細さ、鼻筋、目つき、セリフ。そういうひねくれ方を「フランス的」の一言で片付けるのはきっと誤解もあるだろうけど。)


2005.8.10 (Wed.)

矢口史靖監督作品、『スウィングガールズ』。こんな設定、面白いに決まってるじゃん、と思いつつ見る。

見事なまでに、前作『ウォーターボーイズ』(→2005.5.22)とは対称形だ。パフォーマンスで観客を魅了する構造は一緒。
でも主人公は女子高生で、クライマックスは冬。メインの5人は♀:♂が4:1(前作はサオトメが女子?なので正反対)。
前作は戦隊モノの構成を踏襲しているわけで、気弱な男子と元気な女子でそれをひっくり返して面白おかしくみせている。
あとは女の子のグループ(派閥)がよりクローズアップされていて、人間関係をちょっと複雑かつリアルにしているのが改善点。

方言がちょっと気になる。この話は監督が取材をしたうえでつくっている(と記憶している)ので、はずせない要素なのだろう。
しかしその影響で、役者の演技力に支障が出てしまっているように感じる。そこは残念な部分であると思う。
観客はこのサクセスストーリーがフィクションであることを知っているわけだから、そこも徹底しちゃっていいような気がした。
あるいは、訛れる役者は訛って、訛るのが不自然なら標準語に近い形で通す、などの工夫があればよかった。

とはいえ、前作と同じように、クライマックスのパフォーマンスの説得力はケタはずれだ。
マンガと比べれば(たとえば『のだめカンタービレ』(→2005.7.24)とか)、映画ってのはずいぶん有利なメディアだと思う。
猛特訓して本当にキャストに演奏をさせているが、それを素直にストレートに撮る。フィクションの中のリアルが効いている。
あの場面でスウィングしない人間はいないんじゃないか。つまらない批判をねじ伏せるだけの力が心地よい。

本筋に関係ないところでは、『What a Wonderful World』をバックにイノシシに追いかけられるシーンがキレまくり。
なんなんだこれは。なんでこんな演出を思いつくんだ。他がこぢんまりとしている分、やりたい放題ですがすがしい。
もうひとつ感心したのは、信号機から流れる『故郷の空(麦畑の歌)』のメロディをヒントにジャズを理解する、というくだり。
確かによく聴いてみると、これはウラでリズムをとっている曲だ。これは素直に、ものすごくうまい発見だと納得させられた。

キャストについては、上野樹里が「平均的女子高生」って感じでいい。あくまでステレオタイプ的という点で、しっくり。
世間的には上野派と本仮屋派に分かれていたりするのだろうか。僕はメガネが好きじゃないので、断然上野派なのだが。
ピアノの平岡祐太がアンガールズ田中に見えてしまうのが悲しい。現実だったら最高にオイシイポジションですなあ。
それにしても、日本映画の竹中直人依存症には深刻なものがある。早急に新しい役者を開拓する必要があるだろう。
あとは谷啓のトロンボーン、やるなあと思った。さすがによくわかってらっしゃるなあ、と唸ってしまった。

ご都合主義な運の良さ、カット重視のブツ切りな展開、先の読めるストーリー。難癖をつけようと思えばいくらでもできる。
でもそれ以上に、そういう理屈を置いてけぼりにするだけのパワーを持っている。純粋に、きちんと楽しめる映画だ。
前作同様、見ていてカラダがうずうずする。そういう作品に触れられるってのは、とても幸せなことである。


2005.8.9 (Tue.)

昼休みの行動範囲はだいたい決まっており、飯田橋を中心に、西は神楽坂、東は水道橋、
南は九段下まで自転車で動く。しかし北はぜんぜん開拓していなかったので、とりあえず行ってみることにした。
ぼくは、北へ行こう。(小学校の国語でお世話になったジョーン=エイキン『三人の旅人たち』を思い出す。)

そこにあるのは江戸川橋という駅。周囲は高層住宅が中心で、かなり地味な印象だ。道幅はやけに広い。
それでも地蔵通り商店街は独特の親密さがたっぷり漂っているし、山吹町から早稲田に至る辺りも個性的な印象だ。
こんな街を見落としていたなんて、と反省する。新宿区と文京区の境目、歴史ある土地はいくらでもあるというわけか。

まだまだ、東京は広い。いろいろまわったつもりでも、見落としている街はたっぷり残っているのだ。
地名になっている街もあれば、駅名でしか呼ばれない街もある。あるいは、商店街の名前でしか呼ばれない街もある。
そういう多層的な街を含んで、東京は広がっているのだ。本当に底の知れない、魅力的な都市だ。

テレビで横浜ベイスターズ・佐々木主浩の最後のピッチングを見た。
打席に入った清原の方が明らかに目を潤ませていて、それがこの登板の意味を如実に伝えている。
世間では「シーズン中の地元での引退登板」ということで、佐々木への特別扱いに対する疑問が根強いようだ。
くだらない意見だな、と思う。1998年の優勝のときあれだけ佐々木を持ち上げておいて、最後はそれかよ、と思う。
もう彼に投げる力がないのは、この日のストレートを見れば明らか。ならば最後の1打席くらい気持ちよく投げさせるべきだ。
清原が泣いたのは、佐々木の球威のなさに愕然としたからじゃないか。そして無茶なスイングで三振してうつむいた。
優勝の可能性が残るチームがシーズン中にすべき対応ではない、という意見は、明らかにプロ野球の本質を忘れている。
プロ野球は「興行」なのだ。上に書いたような意見の人は甲子園に行けばいい。僕らはプロならではの「粋」を見たいんだ。
この日佐々木が投げるのも「粋」なら、力のない佐々木のボール球に対する清原の全力のスイングも、まさに「粋」だった。
清原と佐々木、正直どちらも好きな選手ではない。しかし、彼らは間違いなく、プロ野球の選手だと思った。


2005.8.8 (Mon.)

阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』。
後藤真希が死ぬほど好きな芥川賞作家の、ターニングポイントになったという作品。

この人は本当に、自分のことにしか興味がないんだな、と思う。……もしかしたらこの表現は正確でないかもしれない。
徹底して一人称、徹底して自分からの視点でしか物語をつくれないんだなあ、と同情に近い感情をおぼえた。
すごく不器用だ。自分というフィルターを通さないと、どうしても話をつくり出すことができないのだ。
それでも評価されているというのは、運のいい人だと思うし、その運を手繰り寄せる嗅覚があるのだとも思う。
そもそも、『インディヴィジュアル・プロジェクション』というタイトルからして、自己を投影しまくるぞ、という宣言なのだ。
つまりは自分の特性をちゃんとわかってやっている確信犯なわけだから、支持を集めることができるのだろう。
(「インディヴィデュアル」でなく「インディ『ヴィジュアル』」と表記する点に、映画好きの矜持が垣間見える。)

スパイ養成塾で訓練を積んだ映写技師・オヌマが主人公。かつての塾生やヤクザが絡んで、不穏な空気が漂いだす。
復讐と粛清とプルトニウムとが主人公の身に迫る(ように感じている)。それを日記形式で「報告」していくわけだ。

物語の大まかな筋を考えた場合、とてもそれに適した視点・文体とは思えない。自分の眼だけで語っているので、
全容が見えないのだ。逆に、全容がつかめないから漠然とした不安が描けているという評価も、もちろんできる。
これはもう、好みで分かれるところだ。作者のことが好きか嫌いか、あるいは、作者の問題意識が好きか嫌いか。
まとめると、もう僕たちが慣れきってしまったスパイの話を、一人称という視野と渋谷という舞台で置き換えた作品である。
視野は狭く(一人分だから)、舞台も狭い(渋谷だけだから)。そういう強い閉塞感が、全編にわたって読者を押さえ込む。
自分以外のキャラクターだって恋愛の対象(?)であるアヤコとキョウコがそこそこ掘り下げられている程度で、
いちばん重要なイノウエにしても「ぼくがイノウエだ」と錯乱した主人公に言わせているくらいだ。具体像すら浮かんでこない。
自分があちこちにいる、というネット的コミュニケーションという点では、リアリティに欠ける皮膚感覚がベースになっている。
そこにリアルな世界を生き抜く究極の存在であるスパイを掛け合わせる斬新さで、この作品は存在意義を得たのだろう。

個人的な好みでいえば、ほとんど面白くなかった。とはいえ、この作品の持つ意義はわかる。
『アメリカの夜』(→2005.5.27)で物語性を否定した阿部和重は、この作品では同じ姿勢のまま、物語の構築を始める。
人間にとって物語の構築(つまり想像力の行使)は、いくら否定しても捨てることのできない能力だと僕は信じている。
そういう意味で、面白い面白くないにかかわらず、この作家の行く末には注目しなくてはなるまい。

衆院が解散した。自民党の自己保存へのこだわりはとんでもなく強いわけで、まさか本当に解散になるとは思わなかった。
選挙が大切、というよりも、選挙後に自民党を名乗る勢力がどんな動きをするのかを見極めることが大切であると思う。
自民党はしつこく、しつこく、自己保存だけを目的にして復活する(社会党と組んでまで復活したことがあったくらいだ)。
選挙がどんな結果であれ、彼らは必死で権力にしがみついてくるだろう。有権者はそこまで考えておかないといけない。
難しい。


2005.8.7 (Sun.)

クエンティン=タランティーノ監督、『パルプ・フィクション』。

やたらと評価が高い作品なのだが、自分としては今ひとつ。決してつまらなくはないのだが、
面白い面白いと大騒ぎするレヴェルではまったくない。まあ、たぶん好みの問題だとは思う。
まず、全体を通してなんとなくネクラ。扱っているネタがマニアックで、一般受けを狙っていない印象。
ヤクやら血しぶきやら全身レザータイツの変態さんやら、そういう方向性で受けを狙うタランティーノの趣味は合わなかった。
時間も長くて冗長。ダラダラしたセリフが楽しいという人もいるだろうが、個人的に短く鮮やかにまとめる方が好みなのだ。
それでも豪華なキャストが存分に魅力を発揮しているし、音楽もキャッチーなものが多い。
結果、長い映画を苦手にしている僕でも、最後まできちんと飽きずに見ることができたのは確かだから、
まあその点についてはやっぱり、非凡な映画と言えるのかもしれない。

この映画の最大の見どころとして、複数の主人公による交差するストーリーがあるんだけど、
これも特筆すべきレヴェルではないと思う。オープニングへのもっていき方は素直にかっこいいと思うし、
それがラストへきれいにまとまっているのも認めるけど、こういうストーリーの交差は映画というメディアでは珍しいというだけで、
演劇を観に行けばこの程度のものはいくらでも存在している。そこを斬新だと感じた人は、
映画以外のメディアについてもっと興味を持った方が楽しいのに、もったいないな、と思うわけだ。

タランティーノはいろいろな映画からエッセンスを吸収してきたんだろうな、というのはよくわかる。
とても勉強熱心で、その成果を、照れくさいのか好みなのか、わざとマニアックな味つけで観客に提示している。
じゃあタランティーノが次の世代の古典になるのかというと、とてもそうは思えない、というのがこの映画を見ての印象。
そのマニアックさが、タランティーノを終点にしてしまうのではないか。遺伝子の流れはここでおしまい、という感じ。
もっとも、本人も自分の作品を末永く残そうなんてまるっきり考えてなくて、きっと消費されることを前提にしてつくっている。
そう割り切っている潔さを感じる。だったら、まあいっか。……と思えるから、この監督の作品は世間で受けているのだろう。


2005.8.6 (Sat.)

こないだの同期会でニシマッキーが「三河島はコリアンタウンですよ」と言っていたので、行ってみることにした。
それにしても最近の自転車でのお出かけは東京23区の北部方面が多い。
今までぜんぜん行ったことがなかった分、興味が湧いているのだ。

上野の先、昭和通と明治通の交差点を左折して、荒川区に入る。三河島駅から荒川区荒川の辺りを走る。
いかにも下町な住宅街の中、確かにあちこちでハングルが目立っている。キリスト教の教会もちらほら。
しかし何より驚いたのは、住宅街なのに、こぢんまりとした商店街がいまだに成立しているという点だ。
個人経営の八百屋・肉屋・魚屋がきちんと賑わっている。それもすべて複数で。複数の同業店が共存共栄している。
コリアンパワーと古きよき商店が、相乗効果で活気を生んでいる。このスケール感は都内でも珍しいと思う。

日暮里に出ると、特になんにもなかったので、西日暮里に行ってみた。開成高校の脇を通って千駄木へ。
そこから谷中を突っ切ってみる。谷中は走っていて、雰囲気が他の街とまったく異なっている。上品に落ち着いている。
一言で表現するなら「江戸セレブ」といったところか。和風がしっかりと歴史的な根拠をもって残っている印象。
時間があったらじっくり見てまわりたい気もするんだけど、なんだか敷居が高そうな気がしないでもない。

上野公園に出ると、今回のもうひとつの目的地である国立科学博物館へ。
今やっている企画展「縄文VS弥生」のタダ券を会社でもらったので、見てみることにしたのである。
中に入ると小学生でごった返している。それで世間が夏休みであることにようやく気がつく。

「縄文VS弥生」は、かなり気合が入っている。およそ博物館らしくない「ガチンコ対決!!」なんてキャッチコピーに、
縄文時代をイメージした衣装の女の子と弥生時代の衣装をイメージした女の子が並んで立っている写真を使っている。
さらには、ふたりが軽く取っ組みあっている写真まである。そのポップというか、バカバカしい解釈が楽しい。
展示じたいは非常にマジメかつ多彩。弥生時代の始まりは従来の説よりも500年早かったらしい、というのが基本線で、
そこから、縄文と弥生にまつわるありとあらゆるものを集めて展示しているのだ。人骨が特に充実していた。
昔の人の生活を探る考古学と、昔の人の身体を探る人類学の両方の視線をクロスさせた内容になっているのだ。
見ていると、学校の課題だから来ている小学生も多いようだ。熱心にメモをとる姿が目立っていた。
でも決して子ども向けってことで変にレヴェルを落とすようなことはしていない。大人でも十分楽しめる。
博物館は美術館に比べてどうしても迫力不足なものが多いけど(展示品が「死んでいる」から無理もない →2004.8.6)、
この「縄文VS弥生」に関してはそれがまったく当てはまらない。この夏にオススメしておきたい企画展である。

見終わって、そのまま常設展を見に行く。こちらは小学校の修学旅行で来たことがあって、そのときは本当にウキウキした。
大学時代にも一度来たが、そのときは新館が建設中だった。今はその新館がオープンしているが、本館の方が改築中。

そんなわけで新館をくまなく見てまわることに。まずは1F:現在地球上に暮らす生物を扱ったフロアから。
あまりの情報量に圧倒される。とんでもない量の剥製やら模型やらが展示されていて、クラクラ眩暈がしてくるぐらい。
フロア自体もけっこう広いのだが、そこに360°ぐるりと必ず何かが置いてある。丁寧にまわるとかなり時間がかかりそうだ。
B1は恐竜、B2はそれ以外を扱った進化の歴史。B3は宇宙と物理・化学の分野。音響に凝っているのが地味に斬新。
2Fでは日本の工学技術を扱い、3Fでは哺乳類と鳥類がテーマ。ウキウキしながらあちこち見てまわる。まったく飽きない。
特に化石が充実している。恐竜にしてもマンモスにしても、ドデカいのが堂々と展示されていて、迫力があって素敵。
そんな新館の建物じたいは徹底的にシンプル。外がスマートな分、中の展示方法に猛烈なこだわりがある。
情報と建築の関係を考えるうえでなかなか示唆的だし、箱の中に広大な世界をパックしてあるようで、かっこいい。
結論としては、グループで見に行くと絶対に楽しめるはず。ひとりだとけっこう途方に暮れてしまうので要注意。

さて、小学生でいっぱいの博物館の中で、27歳お一人様がいったい何に興奮していたのかというと、
博物館に展示されているものが自分にどう関係しているのか、現代にどう関係しているのかを考えて興奮していたのだ。
たとえば「縄文VS弥生」で、もし貝塚と夢の島のゴミの層(現代アートに似たような作品があるよね)が並んでいたら。
弥生時代のご馳走の展示があったけど、これがまるで居酒屋のメニュー。もし弥生人が現代の居酒屋でダベっていたら。
マンモスにしても三葉虫の化石にしても、現代にもしそれが動いていたらどうなってるんだろう、なんて考えていた。
こんなことは昔の自分には決してなかった。展示物を過去のものとしてしか見ていなかった。まあそれがふつうの視線だろう。
でもその時間軸がぐちゃぐちゃになって、現代の自分と共通項を持っている部分が入れ替わったら。
これは物語を書く人なんか、かなりいい想像力の源泉になりそうだと思う。世界一団的発想かもしれないけど。
時間軸を飛び超えて、同じ舞台に立ってしまう。そういう引力あふれる展示になっているのは確かだ。すばらしい空間だ。
土器に縄で模様をつけるという革命的な発想をしたアーティストがいて、でも若手がその様子を見て、
「ケッ、これからはモダニズムの時代だぜ。ミニマルミニマル」とか言って弥生式土器をつくっちゃう。
そういう、やわらかい時間の飛び超え方があってもいいと思う。展示を見ながら、そんなことばっかり考えていた。

(そんな具合にかなり興奮していたんだけど、きっとマサルなんかはこの展示を見るよりも、
 疲れてベンチで寝っこけてる父親たちの方を観察して、面白がるんだろうなあ……。)

とても楽しい休日だったことよ。


2005.8.5 (Fri.)

妻夫木聡主演、『69 sixty nine』。映画のデキとしては、ふつう。及第点ではあるが、ハマるほどではない。
これは原作がいいから映画もそれにつられた、というパターンのような気がする。ぜひとも、小説を読まねば。

序盤で少し引き気味になる。基地の金網をバックに、カメラを前に主人公たちが弧を描くような位置で会話をするシーン。
ここの会話がすごく不自然なのだ。相手がしっかりセリフをしゃべり終わってから次のセリフが出る、という間合い。
高校生の親しい会話なら、もっとスピードがあるはず。いかにも観客に説明をしているようで、かなりやる気がそがれた。
全体的にテンポが悪かった。それぞれのエピソードが均等に紹介される感じで、見ていてなんだかメリハリに欠ける。
原作にのっとって、 ひとつひとつチェックポイントをクリアしている印象。丁寧さがアダになってしまったようだ。
脚本の宮藤官九郎は『GO』(→2002.8.15)でも同じミスをしているわけで、小説の映画化特有の難しさを感じる。
そんな感じで序盤はつまんないかもな~と思っていたのだが、そこはさすがにクドカンで、細かいくだらなさをフル活用。
「バカだなー」という笑いを通して観客が楽しめるようになっている。ラストの落とし方もなかなか鮮やか。
面白いのは、「フェスティバルを開催しよう!」と主人公が奮闘するわけだが、その前に経験するドタバタだけを描いた点。
こんなドタバタをやってきたヤツなんだから成功して当たり前でしょ、という説得力が残る仕掛けになっているのだ。

毎回毎回こればっかりで申し訳ないんだけど、この映画もやはり、現実と物語の戦いを扱ったものだと思う。
1969年という今となっては牧歌的な過去を舞台に、物語側の視点から現実への「闘争」を描いている作品だ。
そして注意したいのは、物語陣営は2種類あるということだ。全共闘に代表されるマルクス主義的な物語がまずひとつ。
もうひとつは主人公の矢崎剣介(ケン:妻夫木)。彼はマスゲームに代表されるような体制/日常性に疑問を投げかける。
実は制度の強要という点で、学校だろうが全共闘だろうが構造は一緒である、という事実に敏感なケンは、
ただ面白いことをやろう!という意志だけをもって、山田正(アダマ:安藤正信)ら仲間を惹きつけて動きまわる。
バリケード封鎖も、フェスティバルも、彼にとってはお祭り。お祭りを通して楽しむこと。そこに価値を置いているのだ。
政治(革命)によるトップダウンの満足ではなく、日常生活にリズムをつけることによるボトムアップの満足。
前者がポッキリ折れてしまった現代だが、後者の立場はまだまだ可能性をもってくすぶっている、というメッセージだろう。

さてそうなると、特にこの映画では男子高校生特有のリビドーのかたまりが行動力の原点にもなっているわけだが、
そこから、日常生活にリズムをつけるお祭りは若者の特権なのか?という疑問が出てくるのだ。
歳相応だとか世間体だとかに縛られてしまう、卒業して社会人になってしまった人間には、許されることではないのか?
若さはそれだけで価値だから、それを武器とするのは、わりとたやすい(きちんと自覚ができていればの話だが)。
果たしておっさんは分厚い日常性にどう対抗しうるのか。あるいは、あきらめるしかないのか。

そんなことをつらつらと考えるには、十分ヒントになる映画だったと思う。ただの娯楽レヴェルで終わらせちゃもったいない。


2005.8.4 (Thu.)

角田光代『キッドナップ・ツアー』。話題の作家のようなので、とりあえず薄い文庫本を選んで買ってみた。

で、読んでいて非常にムカついた。子どもの視線による父親と娘の物語なのだが、本当に子どもの視線なのか?と思う。
どうにも、読書好きな成人女性の視線としか思えない。オトナのくせして、子どものふりをしている。
子どもってのは、もっと世界をわがままに見つめていると思う。そんなのお前だけだろ、と言われれば、そうなのかもしれない。
でも、ものすごく自分勝手に、都合よく身の周りのものごとを解釈して、行く手をバラ色に染める生き物だと思うのだ。
そういう子どもの特性をまったく踏まえることなく、作者の都合のいいようにオトナをミニチュア化しただけで済ませている。
その態度が気に食わなくって、読んでいる間ずっと腹の底がムカムカしていた。子どもの想像力への否定だよ、これは。
(でももしかしたら、同じ子どもでも女の子はバカな男子とは違うのかもしれない。その可能性は否定できないのだ。)

文章表現も鼻につく。子どもらしい平坦な表現に、ときおりいかにも気を利かせました的な表現を混ぜており、気持ち悪い。
地の文を通して、オトナになった現在から考える「自分の理想像としての子ども像」を押しつけられている感じだ。

こういう作家の作品を読んで思うのは、本がそれほど好きでない人と読書好きの差は広がる一方だな、ということだ。
読書好きの自己弁護のような話ばかりが出版界では評価されて、本がそれほど好きでない人をますます本から遠ざける。
本をたまにしか読まない人間をガッチリ惹きつけてこそ、本当に価値のある作品ではないかと思うのだ。
内輪(=読書好き)受けだけの作品なんてもうたくさん。もっとハイブリッドにいこうぜ、世間よ。


2005.8.3 (Wed.)

「ゲーム脳」って言葉があるみたいなんだけど、別にそんなものに興味はない。
ただ、確実に、ゲームは僕らの世界観にとんでもなく大きな影響を与えていると思う。それについて掘り下げて考えてみる。

たとえば日常生活で何かしらトラブルに直面した場合。これを僕らは無意識に、そういう「ステージ」として捉えていないか。
ステージをクリアすれば次の面が始まる。そういうふうに、世の中をゲームのように眺める思考回路ができあがっていないか。
少なくとも自分にはそういうクセがついてしまっている。ひとつひとつステージをクリアして、先の面へと進んでいく。
短絡的に、人生におけるステージを全面クリアすればエンディングにたどり着ける、そう考えているフシがあるのだ。
このことは、この日記でも何度か触れている少年マンガと少女マンガの違いと共通性を持っているかもしれない。
「レベルアップ」や「パワーアップ」など、そういうゲーム特有の概念は、成長する主人公を扱う少年マンガと相性がいい。
成長するキャラクターになりきって日常生活のステージをクリアしていく。とても馴染みやすい考え方である。

しかしマンガがあくまでマンガ家主体の時間であるのに対し、ゲームはプレーヤー主体の時間である。
1冊で完結するマンガはきわめて少ないが、たいていのゲームは1個のROMか1枚のディスクに収まる。
1冊のマンガを読み終えるまでの時間差と比べれば、1本のゲームをクリアするまでの時間差は人により大きく異なる。
マンガは読む時間が決められていないけど、ゲームは1日何時間以内って親と約束をした記憶がある人は多いはずだ。

横断歩道を渡る小学生が白い部分しか踏まないのは、「遊び」と定義することができよう。
もともと子どもの世界にあった「遊び」の中にゲームが加わり、それが時間を占めていくにしたがって、
「遊び」の中で存在感を増していく。そして僕らは日常生活の中に、昨日やったゲームの続きの匂いを見つける。
さらに、実際に目にした風景が、ゲームの中のワンシーンに似ているという感覚を持つようになる。
逆ではない。日常がゲームに似ている、と感じるようになるのだ。結果、日常はタダで遊べる新しいゲームとなる。
(それぞれの個人の優先度により、日常とゲームと重要性のバランスが入れ替わってしまう、という事態ももちろんありうる。
 ただこの場合、あくまで日常は日常のままで、ゲームはゲームのままだ。ゲームが最優先で日常はオマケという価値観。)

このように、日常がゲームに似る、という事態を悪いことだとは決して思わない。
きちんと今の自分の状況を客観視できないとトラブルになる、とは思っているけれども。
確かに人生はゲームをクリアするようには簡単にやっていけない。美しくノーミスでクリアするなんて、ありえない。
ゲームなら次のステージに進めば風景が劇的に変わることが多い。でも日常の風景なんて、めったに変わるもんじゃない。
やはり、日常生活とゲームはまったく別物なのだ。多少は似ている面もあるんだけど、本質的に異なっている。
だから日常生活をゲームの一種と捉える感覚は、リアルな現実を甘く見て、足元をすくわれる危険性をはらんでいる。
でも考え方によっては、日常生活を重苦しくなく、軽やかなものとして読み取ることができる可能性も持っている。
何より、ちっとやそっとの失敗をしたところでコンティニューが利く、という発想ができることは大きいんじゃないかと思うのだ。
結局はバランス感覚で、場面に応じてそういう感覚を使い分けることができればいいってわけだ。そう思っておこうじゃないか。


2005.8.2 (Tue.)

セルバンテス『ドン・キホーテ 後篇』。やっぱり、岩波文庫で全3巻。
(各種ネタバレありでレヴューを書く。ネタバレしないと何も書けなくなってしまうので。)

後篇を読むうえで、予備知識として知っておかねばならないことが、いくつかある。
まず、後篇が出版されたのは、前篇(→2005.7.13)が出版されてから10年後ということである。
その間に何があったのか。セルバンテスとはまったく別人のアベリャネーダという男により、続編が勝手に書かれていたのだ。
当然、セルバンテスとしてはそんなものは許せないわけで、後篇の中でたびたびその続編の存在が否定されている。
わざわざその続編の内容を否定するためだけに、ドン・キホーテは旅の目的地すら変えてしまうのである。
さらに、ニセモノの方を印刷している場所にドン・キホーテ本人が見学に行き、不満を漏らすシーンまである。
驚くべきことに、後篇の物語の世界でも『ドン・キホーテ 前篇』が出版されており、みんながそれを読んでいる、という設定。
それほどセルバンテスのメタフィクションは徹底している。物語の主人公は、自分が物語となったことを自覚しているのだ。

前篇と後篇の違いについて、少し突っ込んでみよう。
前篇ではみんながドン・キホーテを狂人扱いして終わっていた。しかし後篇では、ある種のタレント扱いを受けることになる。
といっても、ただひたすらからかわれることに変わりはない。前篇では登場人物の身の上話が大きな分量を占めていたが、
後篇ではそれもなく、とにかくずっと、ドン・キホーテとサンチョ=パンサがからかわれまくるのだ。ドン・キホーテは相変わらず、
騎士としての使命をまっとうしようと躍起になる。自分の置かれた状況を、騎士道物語の論理で勝手に解釈する。
しかし後篇では、みすぼらしい現実を目にすると必ず、魔法使いにかけられた魔法のせいにして自己を正当化する。
そうして無意識に現実との距離感を測ろうとする姿が描かれる。正気と狂気を行き来する姿が強調されているのだ。
もう一方のサンチョ=パンサも、公爵夫妻によって島の領主(実際は島ではなく陸続きの村なのだが)に任命される。
そこでサンチョは意外な才能を発揮する。裁判官として理知的な判決を下し、為政者として優れた法律を制定するのだ。
前篇では欲張っていてよくしゃべるだけの男だったのが、後篇では諺・格言を連発するなど、一味違うところを見せる。
やがて彼は、従者としての生活、農民としての生活、つまり日常に戻ることを決意する。そうしてドン・キホーテのもとに戻る。

最後、正気に戻ったドン・キホーテは騎士道物語と徹底的に決別し、死を迎える。ここにはふたつの意味がある。
ひとつは、二度と勝手に続編を書く人間が現れないように、ストーリーを完全に終わらせること。
そしてもうひとつは、現実に対するフィクションの敗北を、物語に魅せられた男の変心と死という最も強い形で宣言すること。
特に後者は、自分にしてみれば衝撃的な結論だった。大阪夏の陣があった年に、フィクションの死が宣言されたのだ。

だが、こうも考えられないか。セルバンテスが批判の対象としたのは、騎士道物語である。
決まりきった展開、現実から離れて自分たちの世界だけに固執する姿勢、硬直化した様式。
それが、批判の対象だったのではないか。ドン・キホーテはそこに現れた最後の騎士として、
徹底的にたたきのめされながら、物語の主人公としての自覚を得る。現実とフィクション、狂気と正気、
さらにはホンモノとニセモノの間まで行き来しながら彼は、実は物語の可能性を「開拓」していたのだ。
物語とは、もっと身近に、もっと多様に、もっと自由に成立するのだ!という作者の意志が込められている、かもしれない。
騎士から郷士に戻った主人公は、古い物語とともに死んだ。
そこからの新しい再生が読者に投げかけられた、と考えられなくもないのだ。

前篇のところでも書いたが、とにかく多重になったフィクションを鮮やかに乗り越えていくその発想の柔らかさはとんでもない。
本当に懐が深いというか、なんでもありの迫力に満ちているというか、とにかく、レヴェルが違う。やっていることがでっけえ。
まいった。


2005.8.1 (Mon.)

小学校からの知り合いであるトシユキ氏から電話があった。今年のモゲの会について、日程が決まったという連絡である。
用件が伝わって、それでもなんとなく電話を切りたくないなあ、という雰囲気で、そのまま軽く雑談をする。
そのうち、ふと、数学の話になった。高校数学に対する違和感が、その切り口。

「線形代数」というのがわからない。いったい何が、「線形」をしているのか。
微分・積分はある程度ヴィジュアルで説明されるから感覚的につかむことはできたが、こちらはただ式を動かすだけだった。
これは、数学と国語の問題である。数学とはひとつの言語であり、僕らはそれを日本語を介して理解しているわけだから、
教える側も教わる側も、もっと数学で使われる言葉の問題について敏感にならないといけない、という話になった。
むしろ数学用語は英語と日本語で比較しながら説明する方が、概要を理解するのにいいかもしれない、という結論に。

もうひとつ最後まで苦手だったのが、行列。「数学は生きていくのに必要がないじゃん」というのは最低の言い訳だが、
この行列に関しては、どう“使える”のかがサッパリわからず、自分が何をしているのかさえ全然わからなかった。
ケーリー・ハミルトンとかもう、ただ丸暗記するだけで、出題されたら機械的に使うだけ、という悲しい状況だった。

トシユキ氏は数学の教員免許を持っているので、僕のこういった疑問や苦しみについて非常に真摯に受け止めてくれる。
行列はつまり、多次元の座標をそのまま別の多次方程式にぶちこめるようなもので、使いこなせれば有用であるそうだ。
高校数学では写像との関連で使うことになる。で、この写像ってのがまた厄介で、当時はもうなにがなんやらだったのだが、
写像とは簡単に考えると、「関数の関数」と表現できるそうだ。そう言われると、確かにそんな感覚で捉えられる気がする。
そこからさらに進めば、写像は図形(座標)の形を保ったまま移動・回転させるもの、となる。
そんな説明を聞いているうちに、パソコンのグラフィックツールと合わせて説明をしていけば、ぐっととっつきやすくなる気がした。

いつかそういう数学の疑問と解決をまとめて、きちんとした形にできるといいね、という話になった。
とりあえず高校数学のテキストを買ってきて、読んで、いろいろ質問してみようかな、と思う。
いろいろやっているうちに、話が具体化していくことを期待しよう。


diary 2005.7.

diary 2005

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