ケータイの機種変更をした。折りたたみ式の軸の部分にヒビが入って、にっちもさっちもいかなくなったからだ。
なんつーか、まあ、思い出のいろいろとつまったケータイだったので、けっこう本気でしょんぼり。
さらにしょんぼりだったのは、アーニーとバートがぶら下がっている超お気に入りのストラップのヒモが切れたことだ。
ケータイを手にしてからそのストラップしか使っていないくらいこだわっていたので、ショックだ。もう売ってないし。というわけで、本体もストラップも新調することになった。
機種変更できるのがこれしかなかったので、本体はオレンジ色のTalby。まあ、薄いのはいいことだ。
ストラップはエルモの人形。10cm弱あって、けっこうデカい。ぶら下げていると、オレは女子高生か?と錯覚してしまう。
でもポケットに入れるとなかなかかわいいので、気に入っている。
それにしても、右のポケットに文庫本、左のポケットにエルモというのは、社会人としては余裕がありすぎるだろうか。ポケットにいるエルモは、こんな感じ。
久々のクイス大会、いわゆるHQSの同期会である。今回はリョーシ・ダニエル両名が不参加のため、ちょっと小規模。
とりあえずニシマッキー・みやもりと大岡山駅で合流し、お好み焼き屋でダベる。マサルは遅刻。話はどうでもいいことから始まって、どうでもいいことが続く。ロッテが強いだのソフトバンク強すぎだの。
喫茶店に移動してもそれは同じで、思いつくままに雑談を続ける。そういう「なんでもない時間」がなんと楽しいことか。東急ストアで酒と食料をたっぷり買い込むと、早めに僕の家に入る。今回は居酒屋には行かないスタイルにしてみた。
テレビとマンガとお菓子とインターネットとダベリという、最高にインドアな時間を過ごす。友人と一緒だと全然ちがう。まずはニシマッキー持参のドリフDVDを鑑賞。一番興味深かったのは、荒井注時代のコントが収録されていること。
信じられないことに、全員の動きがめちゃくちゃいいのだ。素早い高木ブーなんて想像できないけど、現実にそうなのだ。
また、志村けん加入後はボケが志村に集中していくけど、この時期にはボケがメンバーに均等に振り分けられている。
ボケ倒す仲本工事が新鮮で面白い。これだけでも十分「買い」だと思う。まったく二番煎じではない内容なのだ。びっくり。19時からは『バク天!』を見る。レイザーラモンがめちゃくちゃ大暴れして爆笑。腹がよじれるほど笑った。
マサルが合流したのは20時で、実に7時間の遅刻。また記録を更新しやがった。
大量のDVDを持参してきたので、それをちょこちょこと見ていくことに。まずはファミコンのソフトベスト100。
僕は『ロックマン2』の順位が不当に低いことに激怒。みんなは子ども時代の原風景を思い出してトリップ。
高橋名人と毛利名人の対決する映画も収録されていたので見る。16連射でスイカを割る高橋名人。アホや。
次のDVDは教育テレビの懐かしい番組をまとめたもの。これは前にマサルの家で見せられて欲しくなってしまった逸品。
それから小倉優子の自己啓発DVDを見る。コスプレしたゆうこりんが、テレビの前のお友達を慰めてくれる、というシロモノ。
たとえば保母さんなら「おともだちにイタズラをして怒られちゃったキミへ」ってな具合。コスプレでイメージプレイなのだ。
マサル一番のオススメは「今はもういなくなってしまったアナタへ」で、これは僕らがバイク事故で死んだという設定らしい。
そのあまりにシュールな設定と展開に、全員で口を開けてぼーっと見ているしかなかった。
その後は着エロDVDの2本立て。眠そうにしていたらマサルに叱られたよ!
増田ジゴロウ&木村カエラでおなじみの『saku saku』はあんまり面白くなかった。スタッフの内輪受け感覚がつらい……。
『水曜どうでしょう』と視聴者層・購買層がかぶっている予感というか確信がある。僕のお口には合わないです。
最後に『ガキの使いやあらへんで!』の「絶対笑ってはいけない温泉宿」を見ているうちに僕は爆睡。あと、HQS会報のバックナンバーを4人で黙々と読んだ。当時の状況が生々しく蘇ってくる。
こだわりの記事は、いま読んでも新鮮で面白い。会報にはいろいろと鍛えられたなあ、としみじみする。みやもりの仕事の都合もあり、今回は日曜早朝に解散。
マサルのDVD番長っぷりにはあらためて感心させられたことよ。(詠嘆)
うっかり、ベルトをするのを忘れたままで出勤してしまった。
そんなバカなことあるかよ、とツッコミが入りそうだが、本当にすっかり忘れていたんだから、しょうがない。
しかもスーツの上着を家に置きっぱなしで出勤してしまった。だからベルトをしていないのが丸見えのままで一日を過ごした。ところが皆さん、僕がベルトをしていないことに、見事なまでに気づかない。
少しでも腰周りを気にする素振りを見せたらバレるだろうなと思い、あえて堂々といつもどおりにふるまう。
そしたら結局、誰ひとりベルトのことを指摘しないままで終わった(バカらしくて指摘するまでもないと思ったのかもしれないが)。駅でも会社でも、男という男は全員、きちんとベルトをしていた。僕にはそれがちょっと意外だった。
もしかしたら今、地球上でベルトを締め忘れた男はオレひとりだけか?と思う。だとするとなかなか気持ちの悪い事態だ。
すれ違う人はひとりとして、僕の腰を見て「おや?」という表情をすることがない。無表情のまま歩いていく。
そもそもベルトを締め忘れる、という発想が存在しないのだろう。だからベルトがない、という絶対的な事実が見えないのだ。それはつまり、もしベルトを忘れることがなかったら、僕もベルトの有無に気づかないひとりでしかない、ということでもある。
ベルトを忘れることで初めて、ベルトのない人間のいる可能性が頭の中に登場してくる。世界がいつもと違って見えてくる。今回はたまたまベルトだったが、これがまったく別のもので、同じような事態になることはいくらでもあるだろう。
当然のように持っているはずのものをなくしてしまったら。あるいは、誰も手にしたことがないものを手に入れていたら。
ケンカ中だったら。宝くじが当たったら。ケガをしていたら。別れた相手とヨリが戻ったら。世界はそれぞれに、違って見える。
もっと極端には、戦争みたいな事件に巻き込まれていたら。自分の仕事・存在をしっかりと認めて褒めてもらっていたら。
実は自分の知らないところで、世界は驚くような動き方をしている。
すべての人に対して、同時に、それぞれ世界が勝手に動いている。大切なのは、そういう無数にある世界の違いを把握する想像力と、少しでも今いる世界をいいものと考える想像力だ。
裏側に隠れている「実は……」をひとつでも多く見つけて、それを自分にフィードバックして立ち位置を考えてみること。
そういう想像力があれば、ムダなトラブルは避けることができるだろうし、他人に親切にできるだろう。
昨日の「心の理論」が発揮される点は、まさにここだ。人間らしくあるためには、つねに想像力を磨いていないといけない。
つねに外に向けて観察をして、手にしたヒントからできる限りの可能性を拾って、世界のかたちを想像しなければならない。ベルト1本でここまで妄想のできる僕を誰か、褒めてくれ。
いま僕が会社で担当している仕事は、「脳神経心理学」という分野の本の編集だ。孫請けでやっている。
脳みその構造の話と心理学をつなぐという、冷静に考えると複合的な内容になっていて、読んでいてなかなか面白い。
ペンフィールドのホムンクルス(身体の感覚を脳のどの部分で捉えているかを描くと、逆立ちした小人みたいになるアレ)や、
失語症の話、痴呆症の話などが出てくる。広く浅い知識を仕入れるには、なかなか適した本になると思う。その中で特に引っかかったのが、自閉症の話だ。
前にどこかのニュース番組の特集で、自閉症の子どもを扱ったものがあった。これがなかなか衝撃的な内容だった。
その子どもはあらかじめ教えてもらった段取りにない事態が発生すると、混乱して自分を傷つけようとしてしまうのだ。
それはつまり、自分の中に「全体」という概念がないということだ。断片的な「部分」だけしか理解できないということ。
行動(部分)を効率よく並べることで結果(全体)を得る、ということが理解できない。
この行動が次にどうつながるのか、がわからない。だからいつまでも同じことを繰り返すことを好む。
自分の満足する「部分」以外は、際限のない宇宙のような、恐怖の世界でしかないのである。
また、順序を入れ替えることで自分の満足する秩序が乱れることを嫌がる。
「全体」が見えていれば、1+2も2+1も同じことなのに。ここでいう「全体」は、宗教ともストーリーとも言い換えることができるだろう(→2005.4.29(7.)参照、(3.)と(9.)も参考になる)。
つまり、自分を取り巻いている世界に対する視線が、完全に欠けているということだ。
極端に言えば、自分以外がいない世界を生きている。僕らは、たとえば誰かとしゃべっているとき、
相手の言葉の内容・使い方を聞いて、さらにそのときの口調・声色・表情・身振り手振りをヒントにするなどして、
できる限り相手の考えていることを正確に理解しようとする。そうして、この世界における自分以外の部分を知ろうとする。
宗教はそれをコンパクトにまとめた様式だし、ストーリーとはそういう人間の性質を利用して生み出された娯楽である。
この、自分以外の論理を自分の中に取り入れよう、また自分の論理を自分以外の世界にアピールしよう、という性質は、
数ある動物の中で人間だけに備わっている性質なのである。これをわれわれは端的に「想像力」と呼んでいるわけだ。では。自閉症とは何か? それは、人間だけが許された「想像力」を奪われてしまった症状だと言えるかもしれない。
(だからって自閉症の人が人間じゃないとか主張するつもりは毛頭ないけど、念のためいちおう「ちがうぞ!」と書いておく。)
他者がいないから想像力が生まれないのか、想像力を奪われているから他者が見えないのか、
それがどっちなのかはわからない。とにかく、絶対的な孤独の世界を生きるしかない状態というのは、
それこそ「想像のつかない世界」だとしか言いようがない。想像力では、想像力のない状況を想像できない。
僕が関わっている脳神経心理学の本には、「心の理論」という言葉が登場する。
これは他者の意図・知識・信念などの、心的状態を推測する能力のことを指す。
脳で前頭前野と辺縁系皮質の神経連絡がよくないと、この「心の理論」に障害が生じてしまうのだという。
そして自閉症の症状をもつ人は、「心の理論」課題に問題を抱えているそうだ。
この点で、医学と心理学での知見がつながる。他者、つまりは自分以外のものすべてに対して想像力をはたらかせて、そのかたちを自分なりに確かめること。
そうして「全体」を想定し、そのためにどんな「部分」をこなしていくのかを考えることが、必要になってくる。
……なんて書いてしまうのは簡単だけど、意識して実践していくのは面倒くさくて大変だ。
けれども、それを積極的にやっていく努力が今の自分には欠けているように思う。
プリントアウトした原稿を校正しながら、ふと、そんなことを考えていた。(ちょっと脱線。学校でやる国語のテストは、まさに「心の理論」が試されているのだと思う(→2004.4.30)。
そこには限りなくそれらしい“正解”が存在していて、僕らは文中に埋め込まれたヒントをもとにそれを探した。
国語のテストでは「自分はこう思う」というアピールは邪魔でしかない。相手を理解する努力のアピールが求められる。)
なんとなく昔話をしてみよう。大学の恩師の話。
大学の恩師は親戚に知事がいたり外務大臣がいたりする、いわばサラブレッドな育ちの人だ。
そのせいかどうかは知らないが、とにかく物腰がソフトというか、丁寧な応対をする人だ。
だからって厳しい面を持っていないわけではない。ただ、怒ることで安直に発揮される種類の厳しさは持たない人なのだ。あるとき酒の席で、「先生は怒ることってないんですか?」ってな話題になったことがある。そしたら先生はこう答えた。
「怒るエネルギーがもったいないからねー」
要するに、怒るということはエネルギーを消費する行為であるから、そういうムダは極力避けたい、ということ。
逆を言えば、そのエネルギーを消費するに値する相手でないと怒らない、という宣言なのである。これには衝撃を受けた。当時僕はサークルの会長で、ことあるごとにキレていたのだが、大いに考えさせられた。
怒ることを面倒くさがる、しかもそういう姿勢を貫いて日常生活をやっていけるという、その能力の高さにうならされたのだ。
ちょいとばかり、いや、けっこう生意気だった僕は、恩師の「怒らない」発言をそういう方向で受け止めて感心したのである。さて、それから3年ほど経って、僕は塾講師として中学生を教えてお金をもらう立場になった。
塾ってのは、聞き分けのいい生徒よりもクソガキが多い。校長はたまに本気で怒ってみせて、うまくメリハリをつけていた。
ところが僕は、自分でも信じられないことに、いつのまにか怒ることを面倒くさがる人間になっていたのだ。
(正直なところ、怒るべき対象にかつての自分を見てイヤな気分になって怒る気をなくしていた、という面も多少はある。)
校長はそんな僕を「仏のマツシマ先生」と形容したことすらあったのだが、実際のところは本当に、面倒くさかっただけである。怒ったところで対象が賢くなけりゃ同じことを繰り返すわけで、そんなのを相手するのは損。そう考えている自分がいた。
校長は宿題をやってこない生徒にはペナルティを課していたけど、僕は一切そういうことをしなかった。その代わり、
努力の方向(何をすべきか)をオレは示したから、その後で泣くのは自分の責任だからな、オレは知らん。と突き放した。
ふつうの先生なら怒鳴ることでも、僕は白い目を向け「未来の自分が後悔しないように今を考えてふるまえ」と言うだけ。
そうすると子どもたちは怒られないことに気持ち悪さ・居心地の悪さをおぼえる。そして自分の行動を冷静に見つめなおす。
それは当然のことで、やはり怒られるということは、自己の存在を肯定されるということなのだ。
怒られない、つまり相手にされないということは、自己の存在の否定なのだ。きちんとかまってもらうためには、
どのように正しく気を惹けばいいのか。それがわかるようになったときに、きちんと相手をしてやればいい。
(お金をもらうならちゃんと生徒を叱ることが必要だ、しっかり善悪の判断をつけさせるべきだ、という指摘もあるだろうが、
「怒られることで禊が済んだ」という男子小中学生にありそうな考え方を根っこから壊すことが効果的だ、と僕は考える。
また、この考え方を大学生当時の自分が十分理解できなかったのも当然だろう。怒る相手は同級生ばっかりだったから。
ずっと年下を相手に人生の先輩としてふるまうときの「怒る(→叱る)」とは、そもそも質が違ったのである。
なお、言葉の定義として「怒る」と「叱る」には区別がある。僕は怒るのを面倒くさがったが、いちおう叱ってはいたつもり。)そんなわけで年々、恩師の姿勢が僕の中に深く染み込んでいくような気がしている。
自分は恩師ほどの能力のある人間ではないが、それでも、恩師のようなやり方だからこそできることがあるのはわかる。
これはものすごくシヴィアな考え方で、ことによっては究極的に生意気で残酷な姿勢である。すなわち「バカお断り」だから。
しかしその根底には、たとえ子どもであっても、相手をまずひとりの意思を持った主体とみなす敬意があふれているのだ。
他人から言われて強制的に直すよりは、自発的に気づく機会を与えること。自分で自分を変える経験こそが、
人を成長させる。僕は恩師に会うことで、そういう人の育て方があることを知った。そう育てられたかったと思った。
だから、そうしたまでのことだ。
多木浩二『戦争論』。軍隊と政治・法律の関係がわかる本が読みたいと思っていたわけだが(→2005.6.13)、
一番読みやすくて強烈で中身のある本の存在をスッパリ忘れていたので、あらためてレヴューを書いてみる。
ちなみにこの本は国立時代に買った。つまり9.11以前の内容ということで、その辺は注意が必要かもしれない。この本は「戦争についての総論」ではなく、「それぞれの戦争を通して暴力のメカニズムを探る各論」だ。
1章で方向性を提示、2章で旧日本軍の誕生とその本質について扱う。3章はナチス。
4章はジェノサイドと内戦をキーワードにルワンダ・カンボジア・旧ユーゴ(コソヴォ)の例を紹介。
5章ではその旧ユーゴの紛争にEUではなくNATOが参加した点から、現代の戦争について分析をしている。特に秀逸(って表現をするとなんか偉そうだけど)なのが2章。重要なのは、徴兵制の存在である。
徴兵制とはつまり、成熟した市民の存在を前提とする。軍隊という最高に組織化された制度の構成員なのだから。
理性と暴力がせめぎあう現場であるだけに、主体性を持った市民としての意識がなければ動物以下になってしまうわけだ。
ところが明治が始まったばかりの日本では、真っ先に徴兵制をスタートさせる。普通選挙制の導入よりはるかに前のことだ。
フーコーの『監獄の誕生』における「規律・訓練による身体の近代化」論を通じ、旧日本軍がいかにして、
精神的に成熟していない軍隊として育っていったのか、そして国家が軍隊の暴力に取り込まれていったのかを描いている。
フーコーと近代の身体性の問題については本当にあちこちでいろいろと言及されているんだけど、
日本人にとってきちんとわかりやすい形でそれを応用しており、この本はそれだけですでに読むべき価値を持っている。それに比べると3・4・5章は今ひとつピンとこない感じが残ってしまう。これは本文で提示された情報量の問題だと思う。
新書なので前提となる知識をすべて書くわけにはいかない。だから読む側が知識不足だと、中途半端に感じてしまうのだ。
それぞれの戦争で実際に起きたことを書いた本のガイドでも巻末に載せてあれば、その点はかなり違ったと思うのだが。
ともかく、戦争を切り口に現代史と現代の言説を読み解く試みは必要なことであり、それを実践しているのは大きい。9.11以降はまた状況が大きく異なってくる。そうなった場合、この本の立場からすると現代はどのような位相にあるのか。
僕のつたない脳みそでは想像がつかないので、ぜひその部分を扱った続編的存在がほしいと思う。
窪塚洋介主演、曽利文彦監督、『ピンポン』。すごいね、これ。褒めるところが1箇所もないや。
circo氏・潤平と一緒に昼メシを食うことになった。
駅に向かう途中で、昨日見た大岡山建築賞の話をする。どうしてか、最初はケンカ腰になってしまう。
学部4年生の卒業制作の金賞作品は、潤平に言わせればなかなかの傑作らしいのだが、
僕からすればまったく建築とは呼べないのでアウト。潤平とも話していてそうなのだが、
どうも建築をやっている人にしかわからない語彙で満足している感じがしてイヤなのだ。
公共建築を専門に社会学をやってきた人間としては、パンピー(可能性としての顧客)への責任をもっと意識してほしい。
グダグダ言わねーでみんなを唸らせる作品をつくってみろ、理屈じゃなくて体感させてみろ、
と言いたい(もちろん、潤平の修士制作は及第点である)。まあ潤平にしてみれば、
今の僕のマイナス思考が見ていて本気でムカつくレヴェルらしいので、その点については素直に申し訳ない。自由が丘のお好み焼き屋で、さらにその辺の話をする。僕は言いたいことを言ってすっきり。
最終的には潤平もわかってくれたようだ。でもcirco氏は遠巻きに僕らを眺めている感じ。
年寄りにとってどーでもいいことに熱くなれるのが若さの特権、とちょっと思った。その後、circo氏は飯田に戻る。僕と潤平は、なんとなく大岡山のTSUTAYAでマンガの話をする。
前にも日記に書いているけど、潤平のマンガを選ぶセンスは群を抜いている(→2002.1.1/2003.10.1)。
潤平が面白いと言ったマンガには本当にハズレがない。のび太のマンガセンスに対するジャイアンの評価と同じくらい、
いやそれ以上に、僕は潤平のマンガセンスを全面的に信頼しているのである。で、潤平がかなり強く勧めてくれたので、二ノ宮知子『のだめカンタービレ』を大量に買い込んで、家で読んでみる。
これがめちゃくちゃ面白い。「死んじゃえ委員会」みたいな小ネタもいいが、全体的に真剣さとギャグのバランス感覚が鋭い。
ニヤニヤ笑いながら「おおー」とつぶやき、一気に読んでしまった。実に至福の時間であった。
『のだめ』については後日しっかりとレヴューを書くことにする。けっこうじっくり、いろいろ書けそうだ。僕はもうすっかり、収納スペースの関係もあって、文庫サイズの名作マンガ以外に食指が伸びないようになってしまっている。
たまにはマンガ喫茶にでもムリヤリ行って、新規開拓をもっと積極的にやっていかないといけないのかなあ、とちょっと反省。
circo氏が上京してきた。今回の目的は、潤平の修士制作の展示を見ること。僕も一緒に百年記念館に行って拝見。
今回、潤平は「エマージェンシー・デザイン」をテーマに、防災を発想の根幹に据えて東京都庁舎を設計したのだ。
みんなが確実に安全に逃げられる建築という発想は、なんでもありの学生時代を締めくくるにふさわしいテーマだと思う。
(link: STUDIO LITHIUM 『emergency designing in architecture』 A B C D)で、会場に行って展示を見て愕然とした。レヴェルが違う。潤平以外の作品はガキの遊びにすら見えない。
コイツはいつ、オレの知らないうちにこんな技術を勉強したんだろう、と唖然とした。とにかく、見せ方が圧倒的。
非常口のデザイン借用は僕でも可能としても、フォント、写真、文章の引用(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)、
すべてにおいて見る人の心を惹きつけるものを選んでいる。視線を引きつける、重力レンズのような存在感がある。
しかも、軽い。軽やかなステップを見るようだ。しかも軽いのに引力がある。「チタンのような軽さと丈夫さ」と形容できよう。
誰が見ても、建築に興味のない人間が見ても、納得させられるプレゼンになっている。センスが周りとは別の次元にある。肝心の、作品のコンセプトについて触れるとしよう。まず、きちんと建築している点が評価できる。
前も書いたが、建築と呼べないものが増えてきている印象がある。大岡山「建築」賞って名前のクセして(→2003.6.17)。
今回の卒業制作(学部4年)でも修士制作でもその傾向は顕著で、見るべきものはほとんどなかった。本当に少なかった。
そんな中できちんと建物をつくっている。現代の最大の課題を的確に見据え、本気で格闘しているのは潤平の作品だけ。
防災という制約をプラスに捉える発想と、 世界を騒がせる問題に建築を武器としてぶつける勇気、どちらも賞賛に値する。
これ以外のものが金賞を受賞するなど考えられない。周りがかわいそうに見えるほどに、残酷なほどレヴェルに差があった。僕はこの展示を見て、自分自身のことが本当に悲しくなってしまった。目指すべきものを見つけてそれに全力を傾ける弟と、
いまだに迷走を続けている兄。いったいどこでこんな大きな差がついてしまったのか。内心、自分が情けなくて仕方なかった。
修士課程の女の子に「マツシマさんのお父さんとお兄さんですか?」と声をかけられた。父親には「ダンディーですね」と、
僕には「弟さんにそっくりですね」と言った。僕は自分の外見は潤平には全然似ていないと思っているわけで、
(相手は当然そんなこと考えているはずがないけど)中身の違いを皮肉られたように勝手に受け止めて、勝手にへこんだ。
まあそれくらい、圧倒的な迫力と説得力を持った作品だったということだ。久々に、潤平相手に「勝てない!」と思った。◇
それからcirco氏と部屋で布団の交換などをしてから、晩飯を食べるためにどこかに出かけることにした。
そういえば品川駅周辺には行ったことがないなあ、という話になり、目的地が決まった。大岡山駅で切符を買ったとき、足元に揺れを感じた。電車が通過したときより大きかったので「地震みたいだわ」と言った。
ホームでは電車が止まったままで動き出さない。それで「やっぱり地震だ」と話した。3分ぐらい後に徐行運転で動き出した。
下神明まで徐行で、やっとのことで大井町に到着。JRに乗り換えようとしたら切符の販売機がすべて準備中になっている。
「バスで行こうか」というcirco氏の言葉にうなずき、バス停に移動。品川駅行きのバスを待つことに。ところがバスは一向に来ない。一緒に並んだおばちゃんは「今まで50何年生きてきて、一番の揺れだった」と興奮していた。
でも大岡山は震度2~3程度の揺れだったので、「おばちゃんって大袈裟な生き物だなあ」と思いつつ聞き流していた。
バスは来ない。駅周辺は人でいっぱい、それはつまり、電車が動かないからみんなそこにいるしかない、ということ。
のんびりと漂う異常な気配を感じること30分、ようやくバスが来た。が、完全に満員で乗れない。さらに待つことに。
その後15分ほど突っ立ってから、ギュウギュウ詰めの中になんとか乗れた。こんな体験初めてだ、なんて話しつつ品川駅へ。駅も人でごった返していた。改札を見ると、運転しているんだか止まっているんだか、はっきりしない状況。
晩飯を食い終わった頃には元どおりになってんじゃないの、ってことで、港南口周辺を軽く散策してみる。
品川駅港南口周辺は、わりと大規模な企業のビルが多い。土曜日のせいか、人通りは少ない。見たくなる店もない。
もし近くにある東京海洋大学と連携し、海をテーマにしたちょっと知的なテーマパークみたいな味付けができたらどうだろう。
ありふれた再開発ではなく、ここでしかできない街づくり。それを実現しないと、気まぐれな一見の客は捕まえられない。早々にアトレに戻って、4階の洋食屋に入ることにした。ここでもしばらく待たされてから、ようやく店内へ。
こだわりの手づくりハンバーグを食べる。これがすごく旨かった。付け合せのふかしたジャガイモも自然な素材の風味がいい。
ちょっと値は張ったけど、それにふさわしい味で、ふたりともおいしくいただいた。いい食事だったなあ、としみじみする。で、駅に戻る。人だかりは消えていない。券売機の列も動かない。駅員に訊くと、京浜東北線しか動いていないという。
地震発生時からまったく事態は改善していないようで、circo氏は新宿に向かうことをほぼ諦め、
とりあえず僕と五反田駅まで歩くことに。品川から五反田まで歩くのは、7年前に(もうそんなになるのか!)、
クイズ研究会の新入生歓迎クイズでマサルと山手線に始発から終電まで乗るというバカをやって以来だ(→2001.4.26)。
こんなことって実際にあるんだなあ、と話しつつ五反田駅に到着。歩道橋からJRのホームを見るが、電車は止まったまま。
circo氏は僕の部屋に泊まる覚悟を決め、東急池上線に乗り込む。こちらは比較的順調で、旗の台で乗り換えて帰宅。
途中で「もしテロで同じようなことが起きたらって、想像したくないねえ」なんて話をした。シャレにならないのが悲しい。家に戻ってテレビをつけて驚いた。足立区で震度5強だという。
新宿駅の人の波も中継されて、それを見て僕もcirco氏も「うわ」とため息を漏らした。
知らず知らず、僕らは最善のルートを選んでいたのだ。なんだかんだで大井町に、品川駅に着くことができて、
おいしいご飯を食べることができて、あらゆる交通手段が混乱していた中できちんと家に帰ることができた。
結果を見れば、ベストの選択をしていたのだ。こういう不測の事態を軽やかに楽しみたい、という話はしていたけど、
振り返ってみればそれを実践していたわけで、最後には前向きに一日を終えることができた。
きっと、すごく意義の深い一日だったのだと思う。
それじゃ、おやすみなさい。
僕は「料理は食わせる相手がいないと上手くならない」が持論なのだが、最近は以前に比べて料理をすることが多い。
もっとも、料理をするなんてきちんと言えるレヴェルではなく、中華の即席材料を買ってきてはチタンの鍋を振るだけだが。卵が値上がりしたときに「こうなりゃ安物を買うのも贅沢をするのも一緒だ」と思って、以来ちょっといい卵を買い続けている。
やはり値段の高い卵の方が味が濃く、焼いても色が鮮やかだ。その差が値段という形ではっきり出るのはシヴィアだと思う。
まあでもそれはそれで、やる気のある卵を相手にするとこっちもできるだけ上手くつくろう、という気になるのだ。
そんなわけで、まず卵の段階から充実した炒飯づくりをこまめに追求しているところである。あと登場頻度が高いのは、麻婆豆腐。つくるのが簡単だから、よく食べる。
こっちは特に高級な豆腐にしようとかそういうこだわりはないんだけど、余裕があったらいっぺん試してみたい。麻婆茄子が大好きで、機会を見つけてはよくつくる。茄子はなかなか安くならないので、いつもつくれるわけではないのだ。
やる気のある茄子を見つけるコツは、正直まだよくわからない。噛んだときにジューシーなやつの方がおいしいので、
触ったり軽くたたいたりして水分の多そうなものを選べばいいのだろうか。ヘタの部分が元気かどうかも基準になるのかな。もうひとつのご馳走が、青椒肉絲。新鮮で張りのあるピーマンを使うと、感動するほどおいしくなる。
小さい頃はピーマンをそれほどおいしい食材とは思っていなかったが、最近になりその苦味をおいしく感じるようになってきた。
苦味を味わいつつバリバリと新鮮なピーマンをいただく。たまらない、至福の瞬間である。そして今日は回鍋肉をつくってみた。肉を買うとコストがかかってしまうので、今後もそうめったにはできないとは思うが、
晩飯のラインナップが確実にひとつ増えた。食事にヴァラエティがあると、やる気が出るもんだ。
今度は何をつくってみようか。エビチリとかやってみようか。エビが安売りになるといいなあ。中華料理ばっかりだな、と思われるかもしれないが、その通り中華料理ばっかりの生活である。
やっぱり中華料理は世界最強じゃないかと思う。だって厨房を見ていると、いちばん面白いから。
「中国人は四本足のもので食べないのは机だけ(二本足のもので食べないのは両親だけ)」という言葉があるが、
多彩な食材を中華鍋ひとつでおいしくまとめてしまう中華料理、本格的に料理を勉強するならそれしかないと思っている。
いろいろと研究する時間的余裕と金銭的余裕と、物を置ける広いキッチンが欲しい。それより先に、食わせる相手か。
A.ヒッチコック監督作品、『めまい』。
ソウル=バスによるオープニングの映像が終わって話が始まるのだが、いきなり最初からスピード全開。
……と思ったのだが、どうにも後が続かない。ヒッチコックの特徴はそのテンポの良さにあるはずなのだが、冴えないのだ。
主人公の気を惹こうとする女性が自分のしたイタズラを後悔するシーンで、暗転させてから「Stupid!」と声だけ残す。
そこがかっこよかったぐらいで、あとは特にこれといったものがない。映画というよりもテレビ的な演出が目立つ。今回は「めまい」ということで、その言葉を意識した映像が目白押しだ。
アニメーションあり、特殊効果ありで攻めてくる。これを当時の時代との関係で考えると、映画よりはむしろ、
テレビ番組の方に強く影響を与えたのではないか。そういう斬新さは盛り込まれていた。しかしながらあまりにもテンポが悪すぎる! 話じたいはつまらなくはないのだ。ミステリ/サスペンス好き向けにできてる。
でも、観客を惹きつけるためにはその謎を提示するリズムが重要なのに、それがまるっきりちぐはぐ。
今回は恋愛が中心に据えられていて、「惚れた方が負け(相手の言いなり)」といった様子が徹底的に描かれている。
そっちを描くならそれだけを描けばいのに、ミステリ/サスペンスへの志向のせいで結局どっちつかず。
説明すべきことへの説明が薄っぺらいままで、ダラダラとムダに長い描写が多い。そりゃ、テンポが犠牲になるはず。いちおうここで念のためにストーリーを押さえておきたいのだが、この作品はネタバレが特にご法度だと思うので、大雑把に。
J.スチュアート演じる元刑事は、犯人を追いかける最中のミスで警官を事故死させてしまい、高所恐怖症になる。
新聞でそのことを知った旧友が、元刑事に妻の尾行を依頼する。なんでも妻は、死者にとりつかれているのだという。
サンフランシスコを舞台にその妻の謎に迫る主人公だが、高所恐怖症によって再びつらい目に遭うことになる。
そして後半、物語は大きく変化する。観客にはトリックが明かされ、恋愛模様を中心に据えて話は進んでいく。
でもクライマックスは二転三転させてトリック重視に戻るので、ラストがあまりにひどすぎ。そんなアウトライン。映画が大好きな人なら耐えられるけど、映画が数ある娯楽のひとつにすぎない人なら途中で飽きてしまうと思う。
これをヒッチコックの最高傑作と言い切る人は、映画にばかりこだわりすぎて、バランス感覚を失っているのではないか。
エンタテインメントの巨匠が恋愛に踏み込んだ作品だから傑作だ、という安直な評価が世間に広がっているようで残念だ。
個人的な印象を正直に書いておくと、「ああ、ヒッチコックでも失敗することってあるんだ。」である。
いつものヒッチコックだったら、観客の数歩先を行く。それも、きちんと観客がついて来られる絶妙のペース配分で。
でも今回に限っては、立ち止まったり走ったり、観客との距離を測らないまま勝手に歩いている。そんな気がした。さて、今回のヒッチコックは、単なる通行人として画面を横切る。
ちょっと曲がった円錐状の黒いバッグ(管楽器? 蓄音機?)をぶら下げている。中身は何なんだろう?
A.ギデンズ『国民国家と暴力』。タイトルに惹かれて買ってみた。ギデンズは読みやすい、という印象もあったので。
しかし、期待は見事に裏切られた。この本を読んでいても、一文たりとも頭の中に染み込んでこないのだ。
「言いたいことをまとめた文章」ではなく、「この文章を書くことで言いたいことをまとめる作業をしている」という感じ。
つまり、メモが活字になっただけ、という印象を持った。各章の関係性が見えないままで話があちこちに飛ぶ。
海外の社会学の本でよく指摘できることだと思うのが、図や表の少なさだ。あったとしても、ただのデータでしかない。
国内の本で図や表は内容の理解を助けるために掲載されるが、どうにも海外ではそういう意識は薄いようだ。
もし各章の関係性を示す図がひとつでもあれば、読み方はずいぶん変わって自由になったと思うのだが。もったいない。この本のどこがまずかったのかをもう少し具体的に、つらつらと書いてみたい。
まず、言葉の定義がすべてにおいて甘いこと。本文中に登場してくるキーワードについて1章分をまるまる割くぐらいして、
最初にきちんと定義をまとめておいてほしい。歴史をもとに国家の形態がそれぞれいくつか論じられているが、
その特徴をまとめた一覧表さえもないわけで、読者に対して自分の考えを伝える意思があるとは到底思えない。
だから「国民国家」という言葉についても、最後まで具体的な姿が見えないままで終わった。そんなんじゃ読む意味がない。次に章立てのまずさ。政治と経済が切っても切れない関係になっているのはわかる。
が、そこをあえて切って、そのうえで両者をまとめる章を用意しておく方が、はるかに読者の理解は進んだはずだ。
政治・経済・法制度という3つの切り口を、それぞれの国家形態に応じてマトリクス状に説明してくれれば、
筆者の言いたいことはずいぶんと整理されたと思う。縦割りがイヤでも、最後に総括の章を入れればカヴァーできる。
それができていない、つまりあらゆる事象が渾然一体となったまま話が続いていくわけだから、
ほとんどの読者は今の自分がどの位置にいるのかが把握できなかったんじゃないか。筆者のエゴに振り回された感じ。もうひとつ、『国民国家と暴力』というわりには、「暴力」に対する考察があまりに少なかった。
それこそハンムラビ法典だとか古代社会の法律なんかも引っ張り出して、暴力を法律がどう正当化しているのか、
それを現在の国民国家がどのように文民統制(シヴィリアン・コントロール)という形に落ち着けたのか、そこを知りたい。
いちおう文中では国際戦争における軍事力についてある程度の分量を割いているんだけど、これではまだ不十分。
問題は、国内での暴力の管理にある。警察権力の正当化、軍事政権の問題点と民政移行の可能性について、など。
これは政情不安な発展途上国や改憲の動きが強まっている今の日本など、世界中で考えなければならない問題のはず。
そこを見事にスルーしてマルクス主義と国家形態のことばっかり扱ってるわけで、そんな本が面白いはずがないのだ。それでも個人的に一番の見所だったのは、近代以前の国家において、国境と法が統治する空間とが一致しなかった点。
よく考えれば当たり前のことだけど、僕らにとっては今の国家のスタイル(=「国民国家」)がデフォルトになっているから、
あらためて言及されないと忘れちゃうことだと思う。まあそれだけにやはり、国家がいかにして「国民国家」になっていったのか、
ここをもっと精密に説明してもらわないと、読者たちはこの本のテーマを追いかけるスタートラインに立てない。総括すると、この本はすっかり金のムダだった。がっかり。
『リオ・ブラボー』。ハワード=ホークス監督、ジョン=ウェイン主演。
サイレント映画をそのままカラーにしたかのようなオープニング。効果音に合わせて音楽を乗せる手法もそう。
明らかに古き良き時代の映画を意識している。「これが正統派の西部劇だ!」と言わんばかりに気合が入っている。保安官チャンスは殺人犯ジョーを捕らえるが、ジョーの兄・ネイサン=バーディットが街を封鎖したために窮地に陥っている。
バーディットに背くことは死を意味し、チャンスの味方はアル中リハビリ中のデュードと足を傷めた老人のスタンパーだけ。
そこに若くて頭の切れるコロラド、指名手配されてしまっていた美女フェザーズ、宿屋の主人カルロスらが関わってきて、
弟の解放を求めてあの手この手を使ってくるバーディットと戦うことになる、という話。
もうコテコテに正統派の展開で、仲間4人が保安官の詰所で歌うシーンなどは、かなりいい雰囲気だ。
安心して見ることのできる娯楽の西部劇ということで、初心者向きというか、代表的な作品というか、そんな感じ。一番の見所というかポイントは、『皆殺しの歌』の存在だろう。この曲がストーリーにいい味付けをしている。
音楽が話の鍵を握る、というのはよくあるけど、テレビドラマなんかじゃ主題歌のアレンジ曲だったりしてけっこう萎える。
『皆殺しの歌』の場合、バーディットが街の楽団にリクエストして延々と演奏させることで宣戦布告の意味を持たせていて、
このメロディが聞こえることで主人公たちがナーヴァスになる場面もある。哀愁あふれるウェスタンで、うまく効果が出ている。少年マンガそのまんまな話の展開、モテない男の欲望をそのまま抜き出してきたような恋愛模様、
みんなが活躍する決闘シーンと、完全に王道のつくり。どこかひねくれた現代ではストレートに通用しないかもしれないが、
いかにもそれらしい西部劇を見たいのであれば、これはオススメできる。141分と長いが、ちっとも疲れないで見られる作品。
女子バレーのワールドグランプリが終わった。見る番組が他にないこともあって、そこそこチェックしていたのである。
アテネのときはメグカナで大騒ぎだったが、今回はふたりがいなかったので、すっかりかおる姫ブームだった印象。
確かに色白の凛々しい美人で、レシーブは拾いまくるわ身長もそんなにないのにアタックを決めまくるわで、目立っていた。
世の中には才色兼備な人っているんだなあ、なんてため息をつきながらその活躍を見ていた。バレーボールってのは、世界でもトップクラスのレヴェルになると、一瞬の判断力が恐ろしく的確なことがわかる。
サッカーの場合には11人いるのとピッチの広さで、ボールのある場所とない場所でどうしても温度差があるように思うのだが、
バレーボールの場合は6人がまるでひとつの生き物のように、人体の器官のように動く。拾って、つないで、打つ。
この「拾って」がまずすごい。猛スピードのボールをきちんと撥ね返す。人のいるところにきちんとボールを送れるのがすごい。
「つないで」がさらにすごい。無茶なレシーブで飛んできたボールを驚くほど優しく指ではじき、丁寧なトスに変化させる。
最後に「打つ」のだが、カメラに映らないそこに至るまでの神経の細やかさを想像し、その反射神経と判断力に舌を巻く。
手首だとか指先だとか、柔らかさが特に求められるスポーツだと思う。その上に、アタックやブロックの強さが成り立っている。そんなマジメなことを考えながら見るのが半分、もう半分は「かおる姫ステキだわ~」とか、そんなん。
宝来はブレイク前の矢口みたいだなあとか、これって結局は北京に向けての大友の成長物語じゃん、とか。
あと、いろんな意味でNEWSはよけいな気がする。純粋に選手たちの魅力でアピールする方がいいと思うんだけどなあ。
『ラヂオの時間』。三谷幸喜が脚本と監督をした作品。
主婦の書いた脚本がコンクールで優勝、その作品を生放送のラジオドラマでオンエアすることに。
しかし役者のワガママやもろもろの事情から、ラジオドラマはどんどん姿を変えていってしまう。
ついに放送ははじまってしまうが、ドタバタは収まらない。そんな様子をグランドホテル形式で描いていく。僕は『アポロ13』(→2003.5.24)のような、クルーがそれぞれに実力を発揮して成功する話が好きだ。
そんな性格からすると、この作品は各人の困った面ばかりが強調されて、あまりかっこいい感じがしない。
確かにそういう困った面が物語を生み出すのは事実だと思うのだが、そればっかりのせいでクライマックスがウソくさい。
ここにきて何いきなりいい人になってんの?という違和感がどうしても拭えないのだ。結局それは、キャラクターに対する掘り下げの甘さに起因すると思う。
三谷&東京サンシャインボーイズ脚本・中原俊監督『12人の優しい日本人』(→2003.11.10)と比べ、それは明らか。
あっちでは役者のセリフに重みを持たせて人物をきれいに造形できていた。ひとりひとりを丁寧に追っていたのである。
ところがこっちでは、次々と起きる事件に振り回されて、キャラクターの描写が甘い。もうひとつ深く突っ込んでほしいのに。
役者ががんばっていたのはわかるのだが、脚本じたいのデキはそれほど良くはない、という感触だった。
『12人~』では裁判所で素性も性格もわからない人々が一堂に会するところからスタートするが(ゆえにお互い探りあう)、
こっちではプロデューサーやらディレクターやら、役職が最初からはっきりしている。それが弊害になってしまったのだろう。それでも細かい点のクオリティはさすがで、ナレーターが渡された夫の名刺をキャストで読み上げるのなんかとても巧いし、
トラックの運ちゃんをうまく使ってリスナーの存在を明示しているのも、ラストになかなかきれいなオチをつけている。
(『24』にこういう「外部での同時性」を示す工夫があればよかったのに、というのは以前書いたとおり。→2004.6.13)
この辺は貫禄。舞台演劇での細やかさが生きていて、素直にかっこいいなあと思わされる。しかし僕にとって最も致命的に思えたのは、オンエアされたラジオドラマが本当にリスナーを感動させた感じが残らない点だ。
確かにスタッフの側の充実感はわかるけど、果たしてそのドタバタを聞いていたリスナーは本当に満足したの?という疑問。
服部隆之の音楽と運ちゃんである渡辺謙の演技で無理やり観客を納得させようとしているが、
劇中の断片的なものを見る限りでは、とても魅力的なラジオドラマが放送されたようには思えなかった。
本当に実力のある脚本家だったら、ドタバタをうまく利用して、劇中のラジオドラマのほうも魅力的にできたのではないか。
そこまでできていなければ、グランドホテル形式を持ち出してまでつくったこの作品のリアリティはウソになる。
というわけで、全体としては不満の残る内容だった。三谷幸喜は波のある作家だな、という印象はだけより深まった。
突然だが、足立区と荒川区に行ってみようと思った。というのも、この両方の区にはまだ行ったことがなかったから。
逆に考えれば、この両方の区に行けば、自転車で東京23区を制覇したことになるのである。これはもう、行くしかない。まずはいつものルートで上野へ。そのまま昭和通(国道4号)で北上。三ノ輪の交差点で左折すると、そこは荒川区。
公共建築マニアとすれば、まずは迷うことなく荒川区役所に行ってみる。やはり最初は区役所から入らねば。
前庭のような荒川公園を見下ろして、荒川区役所は建っていた。いかにも昭和30年代風なモダニズム庁舎。
面白いのは、公園に面してファサードが緩やかな凹型カーヴになっている点。そうすることで、ただまっすぐなのに比べて、
迫力というか権威性というかが生まれているのだ。建物じたいはシンプルなので、この工夫がうまく生きている。国道4号に戻ると、また北上。道の雰囲気はなんとなく粗雑で、大阪に行ったときのこと(→2004.8.10)をふと思い出した。
そして千住大橋を渡ると足立区。千住は川に挟まれた島なので、社会学的になかなか過酷な歴史がありそうな気がする。
いつのまにか道は日光街道と名前が変わっていた。途中で右折して、北千住駅で昼メシをいただくことにする。北千住駅西口は、もともと小さなスケールだった駅前を無理やり再開発した感じがする。
2階レヴェルにペデストリアンデッキがつくられているが、なんだか窮屈なのだ。周囲のサイズに似合わない大きさ。
丸井の中の1フロアに東急ハンズが入っていたので行ってみる。どうやら、文房具が主力になっているようだ。
来週からの編集作業に向けて、必要な文具をいくつか買っておく。こういう小規模ハンズが増えるといいのに。
ルミネの方にも行ってみる。建物じたいはそんなに広くないが、さまざまなタイプの店が入っていてなかなか元気がありそう。日光街道に戻ってまた北上。千住新橋で振り返り、千住の街を眺める。マンションばかりで土地の歴史なんてわからない。
で、まっすぐ行ったら足立区役所。こちらは間違いなく平成に入って新築されたと思われる、とても規模の大きい建物だ。
北館・中央館(議会棟)・南館と揃っていて、オープンスペースも用意されている。でも周囲が住宅だったり道路だったりで、
ボランティア活動中とおぼしき学生と高齢者の集団以外は人影はまばら。自転車でウロウロ探索をしていたら、
正面玄関前でダベっていた女子高生らしい2人組にジロジロ見られた。そんなに怪しい人物に見えたのだろうか。さて、これでとりあえず目的は達成したわけだが、せっかくここまで来たんだからと埼玉県まで出てみることにした。
日光街道をさらにまっすぐ北上していくと、そこは埼玉県草加市谷塚。潤平が浪人ぶっこいていた街である。
埼玉に出るまでは、いかにも住宅地を切り開いた郊外という印象で、江戸川区のそれ(→2005.5.5)に似ていなくもない。
左へカーヴする日光街道から分かれて小さなドブ川を渡ると埼玉県。ちょっと走ると見覚えのある地域に。
左折して、かつて潤平が暮らしていた辺りを走りまわってみる。ついに自転車でここまで来たか、と感慨にひたる。駅構内を通り抜けて西口に出ると、西へと針路をとる。日光街道から一本先を行った道を南下。
この道は本当に田舎の道で、幼稚園の頃に暮らしていた上飯田のことをちょっとだけ思い出した。なんだか懐かしい感覚。
東京都に戻ってくると、どうせなら舎人まで行ってみるか、という気になる。で、県境の毛長川(小川だ……)沿いに西へ。
まるで国分寺かそこらのような住宅街の中を突っ切る。車も少ないし、平和そのものの光景。やがて尾久橋通に出る。
右を見ると、埼玉県の看板が再び現れていた。ちょっと走って埼玉県にもう一度入ると、すぐに東京都側に戻る。で、舎人。舎人は足立区北西部に位置し、最寄駅が存在しない。鉄道の「て」の字もないほど交通の便の悪い場所だ。
さすがにそれはイカンと思ったのか、日暮里からの路線を東京都が建設中。尾久橋通の真上に線路がつくられている。
周辺は完全に車ばっかりで、ほとんど歩行者がいない。こういう東京もあるのかーと思いつつ南下。その後は環七を西へ。いま住んでいる家の近くを走る環七がここまでつながっている、という事実がなんとなく信じられない。
鹿浜橋を渡ると足立区新田。伊集院光の母校である都立足立新田高校に行く気力はなかったので、スルー。北区に入ると王子駅を通過、北区役所を目指す。この辺りは仕事でちょこちょこ来たので、自転車で走るのが痛快。
北区役所も、典型的な昭和30年代タイプの庁舎建築。土地が入り組んでいて狭いのが、なかなか大変そうな印象だ。明治通で池袋へ。でも特に用事もないのでスルーして新宿へ。ベローチェで一服して店を出ると、歌舞伎町方面へ。
そのまま歌舞伎町の二郎でラーメンを食って帰った。……のだが、旅はこれで終わりではない。
田園調布郵便局に用があったので、家をスルーしてそこまで行くことにした、そのとき。
「埼玉に行ったんだ、どうせなら東京を貫通して神奈川まで出ちゃえ!」という声がどこからか聞こえてきたのであった。で、丸子橋を渡って川崎は新丸子まで行ってしまった。埼玉から神奈川へ。う~ん、ムダ冒険。
今日で研修が終わりということで、正式に配属が発表された。来週からは編集部でひたすら編集作業である。
うちの会社では徒弟制度をとっているということで、直接師匠に弟子入りしていろいろ教わることになるそうだ。
僕の師匠は4月から5月にかけてお世話になった、松任谷正隆に激似な浦和レッズサポーターの人だ。
デジタルな編集作業についてはかなり深い知識のある方らしいので、しっかりと勉強していい経験を積みたいものだ。引越し作業が済んで退社すると、新人4人+たまたま帰りに会ったベテラン社員の方とで飲んだ。
この業界についての話や会社内のつれづれ話をいろいろする。肩の力を抜いた飲みだったので、とてもいい時間だった。
ベテランの方が1万円を置いて帰った後、4人になったところで仲間2人から衝撃の事実を教えてもらう。
職場の○○さんが××で、△△△△に連れて行かれた、という話。伏字にするのが惜しいくらいに面白い。
「うわーなにそれ、オイシイなあ! 知ってりゃオレも行きたかったなあ! ひとりじゃ絶対イヤだけど!」と言うしかない。今いる環境が充実しているかどうかは、もちろん外的要因が大きいんだけど、受け止める自分しだいという側面も大きい。
前向きにがんばろう、とあらためて思える飲み会だった。よかったよかった。
『おねがいティーチャー』。5月以来へこんでいるんだけど、そんな僕にバヒサシ氏が貸してくれたアニメ。
宇宙からやってきた女性教師とひょんなことから結婚することになる男子高校生が主人公。
その設定に思わず「アホか!」とツッコミを入れてしまう。バヒ氏にもそう言ったら、「とりあえず、最後までどうぞ」と。
しょうがないのでガマンして見続けると、中盤以降はまあ確かに、まじめに問題を設定して取り組んでいる印象。
あと、バヒ氏は登場人物の「森野苺」がホシノ・ルリっぽいから気に入っていたのかな、とも思った。
で、ラスト近くになってバヒ氏が景気づけにと薦めてきた理由がわかった。なるほど。まあ、ねえ。アニメで山田先生が救われてもですね、現実の自分はちっとも救われないわけですよ。
だからそんなにいい慰めにはなりませんでした、残念ながら。いい気分転換にはなったけどね。最近はこういういかにもなアニメはまったく見ていなかったんだけど、見ないうちに自分も変わったんだなあ、と思った。
高校時代の自分ならそこそこついていけたのかもしれないけど、ついていく気がもう全然起きないのだ。
でもまあ、たまには、いいかな。
セルバンテス『ドン・キホーテ 前篇』。岩波文庫で3巻。
古典的名作ではあるが、訳がとても軽いタッチでがんばっているためか、非常に読みやすい。すばらしい。知ってそうで知らないのがドン・キホーテ。風車に突撃するシーンが有名だけど、読んでみるとそれはたったの8ページ。
挿絵抜きだと6ページ。けっこうな厚さの文庫本3巻分の中の、たったそれだけにすぎないのである。
では物語の大半は何なのか。それはドン・キホーテのかける迷惑が半分、その他の登場人物の身の上話が半分である。その昔、スペインのラ・マンチャ地方に、騎士道物語が大好きでその手の本を大量に集めてむさぼり読んでいる男がいた。
彼は睡眠不足と度を超した読書の結果、フィクションであるその騎士道の世界こそが正しい世界観だと信じ込んでしまい、
この世を正義で満たすために、自ら遍歴の騎士「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」として旅立ってしまったのである。
ドン・キホーテは狂ってはいるものの、受け応えはふつうにできる。しかし物事をすべて騎士道に結びつけて解釈してしまう。
どんなことでも自分の中の理屈で辻褄を合わせて、他の人の話にはまったく耳を傾けない。
従者のサンチョ・パンサは、思考回路はまともだが、「わしが姫と結ばれたら褒美に島をやるぞ」という言葉につられる。
その強欲さはドン・キホーテの狂気を目にしても少しも揺るがない。そんなふたりがひたすら現実に痛い目に遭わされる話。身の程知らずな生徒と母親がほとんど妄想にやられている状態で受験したことを前に書いたが(→2005.2.4)、まさにそれ。
横断歩道の白い部分だけ踏んで渡る子どもや、電車でブツブツつぶやいているオジサンもそうだ(→2005.4.29)。
これらは極端な例にしても、たとえば宗教、たとえばユークリッド幾何学、たとえば親しい友人とのなんでもない会話も、そう。
自分ひとりだけならいいが、他者という存在が現れた瞬間、お互いに共通の理解=世界観を用意する必要に迫られる。
そういう客観的な状態というものをそれぞれの人間が仮組みしていくことで、この世は成り立っているのである。
しかしドン・キホーテにはそれが通用しない。「世界は騎士道物語のようにできている」と信じて疑わない。
だから風車は巨人に見えるし床屋の金だらいは伝説の兜に見える。自分の都合・論理で世界が動くと信じきっているのだ。
果たしてそんな彼を笑うことができるだろうか? 完全に客観的な状態なんてありうるわけがなく、どうしても主観が混じる。
その主観の食い違いがひどければ、人は簡単にドン・キホーテになる。読んでいて何度も身につまされる思いがした。世間一般で語られるこの話の魅力のひとつがドン・キホーテのトラブルを「バカだなー」と笑うことなのであれば、
もうひとつの魅力はさまざまな状況にある登場人物たちが、自分の身の上話をしながら集まってくるところにあるだろう。
不幸な身の上を嘆く人が、ドン・キホーテを通した偶然によって探していた相手に会う。そんな基本形がある。
だからドン・キホーテはトラブルメーカーでありながら、本人の知らないうちに実は幸福の仲介者にもなっている。
その辺の(若干ご都合主義的な)ストーリー展開が、エンタテインメントとしてのバランスをうまく保っていると感じる。セルバンテスは、物語とは何か、物語性と日常の関係というものについて、本当に強く意識している。
そもそもこの『ドン・キホーテ』は、イスラム教徒のシデ・ハメーテ・ベネンヘーリが書いた、という体裁をとっている。
司祭がドン・キホーテの蔵書を燃やす場面では、それぞれの騎士道物語について司祭の口を通してのコメントが出される。
かなりモンティ・パイソンっぽいギャグセンスでドン・キホーテを讃えるソネットが書かれる。
そういった一連の流れが、フィクションとリアルの絶妙な位置関係を探る実験のように思えてくる。
そんな具合に緻密にバランスを測った結果、いくらでもメタレヴェルで読むことができるタフなストーリーとして、
従来の物語性の世界から脱皮をするような、大きな理性的な革命を起こしたのだ。この話が書かれたとき、日本では徳川家康が江戸幕府を開くか開かないか、という時代だった。
その時代にすでに、物語性をめぐる格闘は行われていたし、現実に対する理想の敗北はすでに語られていたのだ。
表面的にドン・キホーテの狂気を笑って楽しむこともできるし、一歩踏み込めばとても深い思考の世界が口を開けている。
だからこの話は、いまだに、そしてこれからも、古典として読まれていくのだ。まさに怪物のような作品だ。
深田恭子・土屋アンナ主演『下妻物語』。意外とイケる、という評判をどこかで聞いたので。
ど~だろなぁ~と半信半疑で見はじめた。で、結論。これはきちんと面白い作品です。皆さん、必ず一度は見ましょう。まず最初に「おお」と思ったのは、土屋アンナの声。しゃべりは稚拙な箇所があるが、声がとても役にマッチしている。
外見もさすがに人の視線を引きつける力があるけど、それ以上に声の引力がある。これはキャスティングの勝利だ。
そう、キャスティング。とってもズルい。クドカン作品でお馴染みの面々を中心に、実に適材適所で個性派を配置してくる。
宮迫博之、篠原涼子、樹木希林、阿部サダヲ、岡田義徳、小池栄子、矢沢心、生瀬勝久、荒川良々、本田博太郎。
時には役者の幅広い資質に頼り、時には役者の得意技で勝負させる。ひとつの計算違いもなく脇役は完璧に演技する。キャスティングだけでなく、演出もあざとい。いきなり「下妻物語。 終」でスタートして一気に巻き戻し。
さらにヴェ○サーチにことごとくピー音をかぶせるわ、セリフの節々に「ねるねるねるね」などマニアックな固有名詞を入れるわ、
アニメはぶち込んでくるわ、「御意見無様」だわ、水野晴郎だわ。あらゆるパターンを用意して観客を惹きつけようとする。
また、田舎の情景を強調する場合には(それがほとんどなのだが)、必ずオレンジ・黄色を強調した配色にしてくる。
代官山で伝説の刺繍屋を探すシーンも徹底的に効果を狙っている。映像のメリハリ、わかりやすさへの意識が強い。特徴を一言でまとめると「CM的」。観客の目を惹くポイントを非常に短い間隔で入れる。テンポがいいので目が離せない。
序盤のジャスコをめぐる演出なんか、まさにCMそのもの。何百ものCMを連発して、映画の長さまで引っ張る感覚と言える。肝心のストーリーについて触れると、この映画は、完全に少年マンガの構造を持っている。友情・努力・勝利。
それをあの手この手の演出のオブラートで包んで、21世紀の現在でもまったく臭みがなく見られるようにしている。
不思議な感覚だ。少女(将来妻となり男を家庭に縛りつける存在、リアルを先天的に知っている存在)を主人公にして、
一見すると少女マンガのような設定で、バリバリの少年マンガをやってのけている。無邪気なコドモたちのリアルへの抵抗。
だからクライマックスはかなりコテコテになっているのだが、まあこれはそうせざるをえないだろう。しょうがない。スタッフロールを見て驚いた。監督・脚本は中島哲也だったのだ。そりゃ面白いはずだわ。そしてCMっぽいはずだ。
中島哲也は豊川悦司と山崎努がスローモーションで卓球したり雪合戦したりするビールのCMを撮った人。
『私立探偵 濱マイク』で殺し屋の松方弘樹(あと林家ぺーも)を出し、抜群に面白い回を監督した人(→2002.8.26)。
あと、『世にも奇妙な物語』では「ママ新発売!」というぶっ飛んだ作品もつくっている。僕はこのときに彼の名前を覚えた。
彼の繰り出すズルいキャスティング、ズルい演出に一度でもやられた記憶のある人は、見ないと絶対に損をする作品だ。
劇団☆世界一団『世界一団の博物館』のビデオを見る。無性に見たくなったからだ。
過去の日記を読み返すと、この作品についてまともな感想を一度も書いていない(→2003.8.22/2004.7.20)。
われながら、なんてこった。いい機会なので、今回はきちんと書いてみよう。世界一団の最高傑作のひとつなんだから。物語は1988年の東京・国立科学博物館、1995年の長野・夢の博物館、2003年のドイツ・人体切断博物館という、
3つの時間と空間を舞台にして進められていく。それぞれでどの役者がどの役を演じるかが非常に緻密に考えられている。1988年。東京に修学旅行でやってきたハリガイ・オサムムシ・テッチャンは、いじめっ子・ヤーマンから「ゲーム」と称して、
国立科学博物館から恐竜の化石を盗むように言われる。深夜にホテルを飛び出した3人は、東京の街をさまよう。1995年。大学4年生の「僕」は、カンガルーを追いかけて不思議な博物館へと迷い込む。
追いかけっこをするうちに何者かに追われ、インディ・ジョーンズと助手のマミッチに助けられ、そのまま冒険に巻き込まれる。2003年。ブルンスウィック城/人体切断博物館で暮らす作家・木野千賀子のもとをフリーライター・若宮早紀が訪れる。
ところが木野はおかしな人物・K(シャウエッセン)と同居しており、若宮は奇妙な晩餐に付き合わされることになる。1988年では中学生たちが現実の中を「冒険」する。拾ったタクシーで痛い目に遭い、虚しさを紛らわすために釣りをし、
タバコを吸い、警官を襲撃して強盗をし、性欲を満たす(余談だがここのBGM『ワルキューレの騎行』のマッチぶりが凄い)。
そしてたどり着いた博物館で、彼らは鍵となる恐竜の化石を手にする。ある犠牲(と表現すべきかどうか……)を払いつつ。1995年がこの作品の話の中心かな、という印象。「僕」は夢の世界でインディ&マミッチとともにヤーマン王国の謎に迫る。
ヤーマン王国とは恐竜人間の国で、その恐竜の化石を探し出すことで人類の記憶をたどることができる、というのだ。
「僕」は夢の中で冒険を続けながら、自分の過去の記憶を整理していく。いやむしろインディにヒントをもらいながら、
自分の過去の記憶を整理するために、学校みたいなヤーマン王国の宮殿を冒険する。
その中で、カンガルーの謎も暴かれる。これがラストに、実にホロリとくる仕掛けへとつながっている。2003年では若宮が、なんとなーく木野に迫られる怪しげな空気の中で、話が展開していく。
やがてK(シャウエッセン)の正体がわかり、彼女にそそのかされた若宮は木野にポーカーを挑む。賭けるのは自分の身体。
シャウエッセンのイカサマによって木野は負け、親指を切断する。そして、博物館/古城の呪われた過去が露わになる。
そこで木野は、具体的な痛みを通して抽象レヴェルに踏み込んだ「世界の痛み」を知る。感想というか勝手な解説。1988年と1995年は意識の深いところでつながっており、1988年に失ったものを取り戻すため、
1995年に冒険をすることになる(ただし舞台では同時進行で進められるので、観客は劇が終わってから気づく仕組み)。
それに対して2003年の位置づけは少々微妙だ。1995年のその後の世界だが、1988年の人物の成長後の姿でもある。
1988年には、「痛み」とはやがて思い出へと還元されてしまうものだった。いじめの記憶、失踪の記憶。
1995年には、「痛み」は冒険を経て解放される対象となる。封じ込めていた痛い記憶(いつも見る悪夢)が、昇華される。
(1988年でヤーマンを、タクシードライバーを演じる役者が、1995年では主人公を徹底的に助けるインディを演じる!)
そして2003年、「痛み」は個人のレヴェルから、「世界の痛み」というレヴェルまで引き上げられる。
2003年だけハリガイではなく他人の話なのがポイント。それこそ、個別の痛みを世界の痛みに引き上げる視点なのだ。
ラストシーンに登場するのはインディ・ジョーンズ。彼は世界のひとりひとりを助けるために再び冒険に出て、物語は終わる。この作品があまりに凄すぎて、以後世界一団は大スランプに陥ってしまった(と僕は勝手に分析している)。
でも人を迷走させるほどに圧倒的な魅力を持った作品、という表現は絶対に間違っていないと思う。
見終わって何が残るのかはそれぞれの観客しだい。上演から2年経った今だからこそ、もう一度見たい。
そしてありとあらゆる知り合い全員をこの演劇に誘って、その知り合い全員からすべからく感想を聞きたい。そんな作品。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』。わりと評判がよかったような記憶があったので、見てみた。
ものすごい駄作。ただビョークが動きまわっているだけで、ほかのものが一切粗雑につくられている。
話の概要も粗雑なら、役者の演技も粗雑。わざと不連続にしたカット割りのせいもあるんだけど、
演技のポイントに至る過程を一切無視しているので、そう見えてしまう。出ている役者は長所を殺されている印象。それにしてもカットの切り替えがものすごく細かくて、必要のないところまで切り貼りしているため、見ていて酔いそう。
たとえばゴダールの『勝手にしやがれ』(→2005.4.16)の場合、つねにセリフをしゃべりながらカットを切り替えていたし、
それは効果的なところだけに限っての演出だった。だから見ていて素直に惹きつけられたんだけど、
こっちは無意味なところでもカットを積極的に替えて、本来なめらかに流れているはずの時間まで編集してくる。
見ていてフラストレーションがたまるし、ストーリーに対する集中力をそがれてしまう。
まあそのストーリーじたいも、まったく面白みがないのだが。何を表現したいのやら、さっぱり。結論。ビョークが好きなら耐えられるかもしれないが、それ以外の人にはまったく見る価値なし。見るだけ時間の無駄だ。
深夜にNHKでYOSAKOIソーラン祭りの特番をやっていた。もう見るしかないって感じでテレビにかじりつく。
そもそもなんでこの祭りに興味を持ったのかというと、去年8月に帰省した際、実家で親にビデオを見せられたからだ。
なぜあのタイミングでわざわざ見せてくれたのかはいまだに疑問なのだが、映像を見てとにかく圧倒された。
「すごい、すごい」とつぶやきながら終わりまで見て、いやーいいもん見せてもらったよ、と深く感謝したもんだ。確か北大の学生が高知のよさこい祭りと北海道のソーラン節を合体させて踊れば可、というルールで始めたと聞いた。
だからいくらでもアレンジが可能になるわけで、そこでの創造性がこの祭りの大きな魅力になっている。僕は映像を見ていて、かつて『天才たけしの元気が出るTV』で開催された「ダンス甲子園」の匂いを感じるのだ。
何かをしたいんだという気持ちがまずあって、それを一番原始的に表現するのが身体の動きつまりダンスで、
やっているうちにそれがどんどん洗練されていって、やがて見ている周囲の人たちを納得させる力を持っていく。
そういう力強いベクトルが日本を席巻していた記憶が、僕にとっての「ダンス甲子園」という存在だった。
あのとき目にしたエネルギーが確実にYOSAKOIソーラン祭りにはあって、その香りにたまらなく魅力を感じるのだ。
踊っている人たちの表情は真剣そのもの。その真剣さの中に喜びが含まれている姿が本当にかっこよくって、
人前でパフォーマンスすることの意味や価値をダイレクトに教えてくれる。それが感動の共有へとつながっていく。
(軍隊の一糸乱れぬ行進も見事なものかもしれないが、そこには喜びがない。だから僕たちはあんまり魅了されない。)面白いもので、YOSAKOIソーラン祭りでかっこいいのは、ほとんど例外なく、多分に「ヤンキーくささ」を含んだグループだ。
ヤンキーくさい名前、ヤンキーくさい恰好、ヤンキーくさい心意気。それが、かっこよさの源泉になっているのが興味深い。
一見、和風を勘違いしちゃったようなギラギラに派手な衣装で、途中でそれを脱いで裸を見せつけちゃって、
ラストはしっかりと見得を切って、というスタイルが抜群にきまる。むしろ、そういう方向にはじけていないとかっこ悪い。
そういうことをまったく照れないで真剣にやっているグループは、観客を圧倒する迫力を持っている。もうちょっと難しい言葉で美しい踊りの秘訣を考えてみよう。2点ある。
まず、統制。何十人もの集団で踊るのだが、細かいところまでぴたりと統制のとれているグループほど美しい。
これは本当にシヴィアで、少しでも乱れが目につくと説得力が欠ける。観客を惹きつけるにはわずかなブレも許されない。
妥協は一切許されない。呼吸のすべてが統一されている領域まできているのといないのとでは、天と地ほどの差がある。
そしてもうひとつは、躍動感。具体的に言うと、いかに身体を大きく見せるか、という問題だ。
人間の身体にはあらかじめ決められたスケールがあるわけだが(僕の場合ならそれは「172cm/59kg」と表現される)、
それを実際よりも大きく、しかも身体という具体的な存在以外の抽象的なもの(精神力とか気合とか)を上乗せして、
できるだけ自分を大きな存在に見せること。これを実現することが必要になる。メリハリのついた、素早くて大胆な動きだ。
この2つの要素・技術をそれぞれの踊り手が極限まで磨いていった結果、最高のパフォーマンスが生まれる、というわけだ。上位にくるチームは、この点が本当に完璧にできていて、見ていて鳥肌が立つくらいだ。
百聞は一見に如かず。まだ見たことのない人は、ぜひ機会を見つけてください。ってか、いつか北海道へ見に行きたい。
A.ヒッチコック監督作品、『裏窓』。
設定がとにかく魅力的だ。主人公(J.スチュアート)は世界中を飛びまわるカメラマンだが、左脚を骨折して自宅療養中。
6週間にわたって狭い家に閉じこもらねばならず、暇つぶしに裏窓から周囲のアパートメントの生活を眺めて過ごす。
この裏窓から見える生活感がものすごく面白い。バレエダンサーに新婚夫婦、孤独な女性にケンカばかりの夫婦。
それぞれの悲喜こもごもの生活を眺める主人公だが、グレース=ケリー演じるセレブに結婚を迫られて困惑気味。今まで見た作品に比べると、『裏窓』は「仕掛ける」のが遅い。もちろん謎解きにまつわるドラマも充実しているんだけど、
それ以上にアパートメントの生活感や主人公とヒロインの距離感といった細部へのこだわりが強い。
しかしヒッチコックはカメラマン(ファインダーを「覗く」職業)が距離を隔てて周囲に関わるという原点を大切にして話を進める。
そこには都会における、お隣さんが他者であるというよそよそしい距離感の再発見もあるように思う。なかなか深い。
(そしてこの映画は一種のパノプティコンという指摘もできると思う。知らず知らず監視される現代の都市生活……。)主人公は部屋から一歩も出ることができないため、ドラマにはヒロインのG.ケリーが積極的に関わることになる。
この直接関われない距離感は時に快適で、時にもどかしい。この感覚は21世紀の今も十分に通用するものだ。
それにしてもヒッチコックは空間を限定して、それを恐ろしいまでに自然に表現してドラマをつくるのが上手い。
ハプニングを期待するのではなく、徹底的につくり込んで作品を完成させるタイプで、この人の右に出る者はいないだろう。
(アパートメントはスタジオ内につくられた超大規模なセットで、朝・昼・夕方・夜と4段階の照明が用意されていた。
主人公と一緒にそのセットを見ていると、まるで自分がつくった箱庭をいとおしく眺めているような気分になるのだ。)
『裏窓』は他の作品に比べて地味な印象を持ったが、それは逆を言えば、シンプルでムダのないことの証拠だとも思う。クライマックスで主人公は部屋から出そうになる。その瞬間に近所の皆さんが一斉に彼に関わってくるのが楽しい。
ラストも非常にヒッチコック流の皮肉が効いていて、主人公の状態にしろケリーのふるまいにしろ、文句のつけようがない。
ヒッチコックにはハズレがないというか、とにかく安心して見られる。ヒッチコックだから大丈夫、という安心感だ。
彼は娯楽のツボを知り尽くしているので、期待に沿わないってことがない。客にしてみれば、実にありがたい存在だ。
そしてもうひとつ、ヒッチコックは男にとって都合のよい、理想的な女性を描くことを、とても得意にしているようにも感じる。
このグレース=ケリーなんかその典型で、モテない男のハートをくすぐる最高の存在だ。ここら辺も、娯楽としてのツボだろう。なお、今回のヒッチコックは、売れない音楽家の部屋に登場。ピアノを弾く音楽家の後ろで何かを回しているのであった。
朝、歯を磨いてシャツを着て、コンタクトをつけようとしたら、いきなりパリッと割れた。
ハードレンズだし、おかしな使い方はしていなかったはずなので、けっこうビックリした。
有明で国際ブックフェアだかなんだかというイベントがあって、ウチの会社も出展するので、その準備に出かける。
車に乗せられてビッグサイトまで行ったのだが、ふだん自転車の目線で眺める街を首都高から眺めるのは実に新鮮。
建物にしても東京という街そのものにしても、まったく違う様相に見えて、いかにふだんの視線が一元的だったかを実感。
車があれば、ぜひ首都高も極めてみたいと思う。そうして、いろんな角度からこの街を知ってみたい。到着したのはいいが、どうにも車酔い気味でなかなか思うように動けない。それでも本をひたすら陳列。
休み時間には必死で準備している周囲を見てまわったり、隣でやっている文具の展示会の準備まで見てまわったり。
「準備を見るのは面白いけど、ぼくらけっこう邪魔ですよね」という同僚のセリフにそりゃそうだ、と同意して退散。作業が終わって車で帰る。帰りは酔いがもっとひどくなって、街を眺める余裕なんて全然なかった。
会社に戻っても酔いは続いて、結局その日は調子が悪いままで終了。こればっかりはしょうがないやね。
職場での雑感を少し。
昼休み、僕は基本的に外に出て、読書をしながら過ごすことにしている。
今日は水道橋のサブウェイでメシを食った。サブウェイは野菜が新鮮でおいしい。ベジーデライトなら安く済むのもいい。
外のテーブルで本を読んでいたら、1羽のスズメが足元に寄ってきた。やけに人に馴れている。
僕が知っている限り、世界で一番人に馴れているスズメは、ディズニーランドのスズメだ。その次くらいに馴れている。
なんとなく足元をウロウロしているので、パンをちぎって放ってみた。素早くくちばしで拾い上げると、せわしなく飲み込む。
しばらくして、スズメはまた足元に寄ってきた。パンをやると、やっぱり素早く拾い上げてたいらげる。
4回ぐらいそんなことを繰り返しているうちに僕は食べ終わってしまって、あげるものがなくなった。
「もうねえよ」と顔を近づけてスズメに言ったら、スズメはどこかに行ってしまった。また会えるだろうか。職場に戻ると、大学の先生方のデータ入力を続ける。
その間、おばちゃんたちの会話に辟易。本人がいる目の前で、コソコソと噂話をするのだ。
それがウザくって無視していると、「若い人は集中力があるのねえ」などといらない茶々を入れてくる。
この時点でそうとうキレかかっていて、関わりたくないのでさらに無視して作業を続けていると、
「ほら、あたしたちの話が聞こえないくらい集中してるんだわ」などと言ってきやがる。
「聞こえてますけど、大して面白くない話だから入っていかないんですよ。今は仕事中ですしね」と返すと、
「あら、口と頭は別で動くのよ。あたしたちも仕事してますよー」との答え。
「なるほど、それで中身のない(頭を使わない)話をしてるんですねえ」と言わなかった自分は成長したと思う。
おばちゃんは「あーあ嫌われちゃったわあ」と本当にしつこく繰り返しつぶやきながら、でもさすがにその後は黙って作業をした。
つくづくイヤになる。
『明日に向って撃て!』。実話をもとに、ふたりのアウトローが破滅するまでを描いた作品。
主人公・ブッチ=キャシディをポール=ニューマン、サンダンス=キッドをロバート=レッドフォードが演じる。
が、ヒゲのレッドフォードにどうにも違和感。先に『スティング』(→2004.11.18)を見たからか。馴染むまで時間がかかった。この映画は、純粋な西部劇とは言えないと思う。確かに社会からはずれて破滅するガンマンを描いてはいる。
しかし破滅するふたりの姿は、この映画が公開された当時の別のものを映した偶像である、という気がしてならないのだ。
ニューマンとレッドフォードはそれぞれの役ではない別のものを背負っていて、それが破滅に向かっているように見えるのだ。
それはカメラが徹底してふたりだけを映しているからかもしれない。列車強盗の後にしつこく追跡を受けるシーンが続くが、
追いかける側の詳細な描写は一切なされない。ただただ、追われる側の恐怖だけが描かれている。
そういった「ちょっとふつうではない」演出が、西部劇らしくない印象へとつながっている。ラストシーンは確かに美しいのだが、でもやっぱり、それほど面白い作品とは感じなかった。
主人公たちに感情移入するには、あまりにカメラの位置が近すぎたのかもしれない。
笑えるシーンもふんだんに用意されているし、ふたりの友情はすごく感動的ではあるんだけど、もうひとつ何かが足りない。
それが何なのかうまく表現できないのが悔しい。何か引っかかりに欠けるというか、なんというか。4年後に同じ監督、同じ主演コンビで『スティング』という大傑作がつくられる。
この作品は、そのための布石であるように思えるのだ。それ以上のものはちょっと感じられない……。
『東京物語』。小津安二郎監督作品。
いろんなことを思ったのだが、まとまらないので、とりあえず思いついたままに書き出してみることにする。まずとにかく、昭和の雰囲気、それも戦後が色濃く残る時代の雰囲気に圧倒される。
見ていて、昔の実家の物置からたまにとんでもない過去の遺物が発掘されたことを、ふと思い出した。
これは初期の『サザエさん』でも味わうことのできる感覚だ。あれこそが、戦後の昭和の感覚だったのだ。
言語感覚でいうと、わざわざ促音を「ッ」とカタカナにしたり、「~だョ」「~だネ」と語尾をカタカナ表記する感じ。
そういう、今となっては忘れ去られてしまったものが、言葉や物の中にはっきりと息づいているのがわかって面白い。続いて思い出すのが、今じゃめったになくなってしまった親戚づきあいの記憶である。
母親の実家が大町にあり、それがまたけっこう豪華な家で、中学までは祖母が健在だったこともあってよく泊まった。
そのときの親戚特有の親しさと距離感とが、ものすごいリアリティをもって僕の中に戻ってきたのだ。
そういえば大町に行くたび(国立の親戚が来るたび)、親の兄弟と自分の兄弟の質の違いに首をひねったもんだ。
そしてそこに対する疑問が、この映画を味わうひとつのポイントを提供することになる。映画じたいについて書くと、会話のシーンにまず強烈な印象を受ける。
しゃべっている姿を遠景から撮るのではなく、ひとりひとりのセリフでいちいちカットを替えて、真正面から撮るのだ。
そうじゃないシーンもあるが、ほとんどはこのやり方。そしてカメラマンは一度たりともカメラを移動させない。定点観測だ。
卓球の審判をやるようなもんで、首をいちいち動かして、今しゃべっている人を見て、次はこっちで、という感覚になる。
これはつまり、日本語は英語などとは違い、不特定多数の聞き手に呼びかけるのには本質的に向かなくて、
1対1あるいは親しい限定された人との談話に向いている、ということを示しているのだろうか。気になる点である。さて、そろそろ本題。この映画が描こうとしたんじゃないのか、と思ったことについて。
家族の距離あるいは他人の距離というものは、僕らはある程度先天的に捉えているけど、本来は後天的なのではないか。
たとえば家族につけられている名前、家族の属性を示す名詞(「父」とか「兄」とか「娘」とか)は便宜上のものであって、
決して親しさのレヴェルを示すものではない。父と子だからこれくらい親しいとか、そういう先入観は間違っている。ひとつ印象的だったのは、自分の息子や娘に対して親が敬語を使っている点だ。
敬語を使うと非常によそよそしい印象を受ける。実際、親は子どもたちに対して一定の距離を置いているのだ。
これはつまり、自分の家から離れたら、ひとりの大人として扱う態度の現われであると思う。すでにまず、もう、他者なのだ。
だから最近はよく、世間では大人が幼児化している、みたいな指摘をされているけれども、
実際にはその真相は、むしろ親が子どもに対して距離を置こうとしないことが原因ではないのか。
いつまで経っても「私の子ども」という態度が抜けきらない側に問題がある、と僕は思う。親が子から巣立っていないのだ。さて、家族を中心に個人の距離を描いているこの作品だが、ラスト近くの紀子と京子の会話がすべてを象徴している。
人間は生きているから、たとえ家族の間でも、つねに関係性は変化する。しかしそのことにはなかなか気づかないものだ。
ときには自分でも自分の変化に気づかないことさえある。それを冷静に見つめることで、優しくあろうという姿勢が美しい。若い人なら若い人なりの見え方があるだろうし、おばさんにはおばさんの見え方があるだろうし、
おじいちゃんならおじいちゃんなりの見え方があるだろう、いろんな切り口を持った映画。
戦後わりとすぐに日本人がこういう映画を撮っていたという事実に、本当に驚かされる名作だ。
ふらっと秋葉原に行ったら、『アポロ13』のDVDと『カリキュラマシーン』のCDを発見。即、買う。
どちらもずーっと探していて、ずーっと見つからなかったものだ。それがふたつ同時に見つかるなんて!家に帰ってさっそく『カリキュラマシーン』のCDを聴く。オープニング曲を聴いて、もう涙がちょちょぎれる。
このオープニング曲、あまりにデキがすばらしいのでマサルが何度も「熱海でこんなんやろうよ」と言ってきた。
でも「絶対ムリ……」と答えるしかない、ホントにめちゃくちゃでシュールでかっこいい曲なのだ。
こんなの、ぜったいにマネできない。バックボーンになっているものがいろいろありすぎて、それも深く研究されていて、
とても一朝一夕でできるもんじゃない。巧みな引用から生み出されるオリジナリティの好例なのである。そしてもうひとつ、赤塚不二夫の絵をバックに♪あいつのあたまはあいうえお~と歌う『行の唄』という名曲があるのだが、
データを見てびっくり。作曲者である宮川泰本人が歌っているというのだ。デモのできばえが良かったので採用したらしい。
一見テキトーに歌っているように思えて、実際にはその計算されたギリギリの乱暴さがいい味になっている。
作曲だけでなく、歌のパフォーマンスもここまでやるとは……。脱帽である。宮川泰の音楽性には本当にもう、参りました、と降参するしかない。
ジャズのセンスをベースに、ありとあらゆる遊び心をミックスしていくやり方。基本がしっかりしているからこそできる芸当だ。
職業で音楽を書ける人って凄いとつねづね思っているんだけど、宮川泰はその中でも特に尊敬している人だ。
何を食ったらああいうことができるようになるんだろう。本気でそんな疑問を持ってしまう。
庄司薫『ぼくの大好きな青髭』。
赤(→2005.3.21)・白(→2005.4.22)・黒(→2005.5.2)ときた四部作の完結編となる作品である。あらかじめ書いてしまうが、シリーズ中で一番「よくできている」と思う。話として一番面白いのは、間違いなく今作だ。
その要因は、主人公・庄司薫が徹底して真相解明に向けて行動をする点にある。「黒」の逆である。
ミステリ的要素を多分に含んでいる。まず主人公が本来彼にありえない恰好をして新宿に現れるところからしてキレている。
しかもその一因として、それほど親しいつもりじゃなかった友人の自殺という衝撃的な事実が語られる。
らしくないのだ。このシリーズらしくない。今までの3作を読んだ人なら、いきなりの変貌に面食らってしまう。しかし話はひとつのムダもなく進んでいく。1960年代最後の新宿という熱気あふれる空間を舞台に語られるのは、
若者特有の情熱と、それを外部から眺める視線と、そして社会という分厚い壁の最終的な勝利である。
四部作のテーマは一貫している。学園紛争からスタートし、さまざまな角度からさまざまなスケールの若さが描かれる。
そしてこの「青」では、最後の理想が永遠の現実の法則によってゆっくりと引きつぶされていく姿が検証されるのである。
ここんとこ僕は物語がどーのこーのと書いているが(→2005.6.30)、それはすでに1970年代を待たずに殺されていたのだ。僕はそういった話の流れを満足して楽しむことができたわけだが、そういう問題意識があんまりない人にはどうか。
おそらく、テーマ性をしっかりと煮詰めてあるだけに、内容をちょっと抽象的すぎると感じてしまうのではないか。
でもだからといって簡単にこの本を手放してしまうのはもったいない。それだけ、本当によく書けているのだ。
これだけの集中力で、少しも本題から逃げることなく、的確に言葉をぶつけていく作品には、ちょっとお目にかかれない。
ラストで主人公が感じるものは、おそらく「主人公と同じ名前を名乗っている作者」というフィルターを通して、
主人公と一体化して話の中に入り込んでいる読者たちにも向けられているのだと思う。
その「主人公の感じるもの」を言語化・具体化するのは各自読者の役目だ、と言わんばかりに。それにしてもこのシリーズにおける小林というキャラが、非常にいい。こういうタイプの友達もほしかった/ほしい。