担当している本が1冊、大詰めを迎えている。
この本は最近になってちょっと予定を遅れる事態があったものの、そんなに手がかかったわけでなく、
かなり順調にゴールまでこぎ着けた(こぎ着ける予定の)本である。
そしてあとほかに2冊、もうすぐそこにまでゴールが見えてきている本を担当しており、
これまで抱えていた仕事が一気に片付くと予想される状況にある。
ちなみにこれら3冊が解決すると、残るは懸案の数学史の本とこないだ入稿した4色カラーの生態学の本、
それに新規に登録された耐火建築の本の3つだけしか担当していないことになるわけで、
まあなんつーか、今後もずいぶんと平和な毎日が続きそうだなあ、なんて感じなのである。3冊の本が一気に仕上がりそうな現状を振り返って、恵まれていたなあ、と思うのは、
著者の先生方がどなたも素早い対応をしてくれる方ばかりだったということである。
そのおかげで、こちらもスピーディに仕事をすることができて、気持ちよく本をつくることができた。
そういう小さなナイスプレーの積み重ねが、残業ほぼゼロでの充実した本づくりという、しっかりとした形になっている。
「梵天丸もかくありたい」ってな心境である。いろんな面で学ぶことの多い本を担当できたことがうれしい。
買い物とか料理とかの雑感をひとつふたつ。
沖縄に行って以来、僕のつくるチャーハンにはランチョンミートが入るようになった。
これは現地で食ったスパムチャーハンの影響である(→2007.7.21)。
本物はバターの風味を効かせていてピラフに近い味つけだったので、僕がつくる純粋チャーハンとは味が違う。
でもとりあえず、ランチョンミートだけでも入れるようにしてみたのだ。
歯ごたえがまったくないのが難点であるが、オリジナリティという点では悪くない。
沖縄の影響ということではさらに、いつかゴーヤを入れたゴーヤチャーハンを実現したいと考えている。
じっくり考えてつくってみたいが、今はそういう時間的精神的金銭的余裕がない。
簡単な粗食の毎日から脱却できるのはいつの日か。で、そうやってあれこれ考えつつ買い物をするわけである。
僕はいつも会社帰りにほぼ同じ店で買い物をしているわけで、
そうするとまあ、店員さんの顔を覚える/覚えられるということになるのである。
つまり顔なじみの店員さんには僕の冷蔵庫の中身を見られているのに等しい状態にあるわけで、
それが非常に恥ずかしいのである。貧相な食生活が筒抜けなのだ。
そしてまた並んだ先のレジにいる店員さんが美人なおねーさんだったりする日には、
うわもうホントに恥ずかしいなあ、と思うわけである。あァン、そんなに見ないでェン、とか。
しかしながらそういう対人コミュニケーションを面倒くさがるから現代人はどんどん縮こまっていくのである。
多少見られたって平気だし、見られても恥ずかしくない食生活をしなくちゃいかんね、
なんて思いながら今日もレジに並ぶのであった。どうでもいいけど、スーパーの店員さんがしている三角巾って、絶対に女の人の魅力を減らす効果があると思う。
ふつーにしていればかわいい人も、三角巾のせいで絶対に損をしていると思う。
sunday(元・世界一団)『四月のさかな』のDVDが届いたので見ちゃう。
ある男(ニイ)が誘拐してきた女の子(灰かぶり)は、実は誰なのか正体がわからない。
身代金を要求しようにも何をどうすればいいかわからず、結局そのまま一緒に家で過ごしている。
その家にはさまざまな客がやってきて、それぞれ勝手にふるまっている状態。
そういうわけで、さびれきった田舎の海岸の一軒家を舞台に人物が入り乱れる話。見終わって、もう本当にがっくり。世界一団のいいところをすべて取り去ってしまっているのだ。
観客の想像力によって伸び縮みする空間も、がっちりした家のセットのせいで発揮されることがないし、
テンポの良かった会話のやり取りは、なんだか妙な間の中途半端な言葉のすれ違いになっているし、
何より以前のグイグイと惹きつけるストーリーは、誰にも統率されることなく勝手に暴れまわる印象になっている。
かつての「the original tempo」(→2004.8.3)では魅力的だったリズムとダンスも冗長に感じられる。
キャストの多さも問題で、かつてなら一人に何役も割り振ることで解決していたことを、
一人にきっちり一役担当させていて、その分スピード感がなくなっている。
総じて、褒めるところが見当たらないのだ。性と暴力はこの劇団の最も苦手とするところである(と僕は思っている)。
従来はそういう要素を一切排除したが、『世界一団の博物館』(→2005.7.11)では絶妙のバランスを見せた。
しかし以後はこの2つの要素を扱ってはストーリーの魅力を損じる、その繰り返しをしていて、
今回も踏み込む必要などないのにわざわざ踏み込んで、全体の質を大きく落としている。
劇団としてはかつての世界一団の作風が「子どもっぽい」ということでその脱却に努めてきたのかもしれないが、
つまんないオトナよりは想像力あふれるコドモのほうがよっぽど魅力的だと思うし、
そもそも演劇というのは社会においてそういう役割を担う存在だと僕は考えるのである。
ゆえに、相変わらずの考えすぎた結果の迷走ぶりを目の当たりにして、ひどく落胆しているというわけだ。そんなわけで、特典をいろいろつける以前に、もっとシンプルに原点回帰すべきではないかと思う。
このクオリティでは、僕はsundayをとても支持できない。
昼休み、この10月以降分の学費を納入する。もらった給料をそのままエイヤーと突っ込んだ。
それに加えて家賃も払わないといけないわけで、手元に残った金を数えて青くなる。
そして、来月の給料からは通勤用の定期の料金を出さないといけない。
本来なら旅行に行く計画なんて練ってる場合じゃない、とんでもない財政難の状況である。
しかしだからといって、旅行を中止するようなことはしないのである。
どこかに行っていろいろ歩きまわること。それをやめてしまったら、楽しみがなくなってしまうではないか。
晩飯の自炊を徹底したり、千代田区立図書館を活用したりで、なんとか乗り切る手段を考えてみる。◇
家に帰ったら、「教育の社会学」のリポートが返ってきていた。統廃合された後の学校跡地利用で書いたアレ。
講評を見たら絶賛の嵐で非常にいい気分になる。ここまで褒められることは久しくなかったので新鮮である。
もはや褒め殺しと言えるほどで、いやー、社会学部卒だからこれくらいできて当たり前っすよーと照れてみたり。
まあとにかく、自信を持って取り組んだものがきちんと評価されるというのはずいぶん気持ちがいい。
小さなことからコツコツと、そういうことを積み重ねて最終的にはでっかい成果を挙げたいものである。日記もね。
この土日はかなり勉強をサボったので、当初の予定よりもだいぶ遅れている状況である。
しかし、だからといってドタバタしてもしょうがないのである。どっしりと構えるべきなのである。
まずは、大学事務関係の書類の出し忘れなどがないかチェックをする。きちんとそこから始めるのである。
続いて、必要な単位をどれだけ取っているかの再確認をする。やっていることに間違いがないか確かめる。
そして、リポート課題の内容に目を通し、その先にある試験のヒントなども見てみる。
こうしてしっかりとベクトルを定めながら適度に危機感を募らせていくのである。危機の距離感をリセットするのだ。
んでもって、考えごとをしながら風呂に入り、今後1ヶ月のだいたいのスケジュールを頭の中で組む。
風呂から上がると、いざ勉強開始。まあそんな具合にやっとりますよ。
マサルと打ち合わせがあり、場所をどこにするか相談しているうちに国立の話になり、
「国立でメシが食いてえなあ」ということになったので決まり。現地集合ということになる。
しかしながらマサルはやっぱり遅刻をぶっこき、その間に僕は日記をまとめるといういつものパターンに。
やがて僕がいるカフェに到着したマサルはケーキとアイスティーを平らげると、「じゃあスタ丼食べよか!」となる。マサルはずいぶん久しぶりのスタ丼のようである。僕もかつては週に一度は必ず摂取していた食べ物なわけで、
ウヒウヒ言いながら胃袋の中にかき込んでいく。マサルは120円よけいに出して「肉増し」で注文。
「これは夢のようだわー」と繰り返し言いながら食べる。が、ケーキを食ったせいか途中で急にペースダウン。
結局「ミニスタに肉増しがいちばん理想的なメニューやね」などと言いつつどうにか完食したのであった。軟弱者め。その後はさっきと別の場所に行っていざ打ち合わせ!なのであったが、ここでいま思い出しても背筋の凍る目に遭う。
僕は自転車で国立まで来ていて、暑かったので沖縄旅行中と同じスタイル、白のタンクトップに黒い短パンだったのだが、
この恰好がいけなかったようだ。そこは××の××とウワサの店で、ウワサどおりに××は××なのであった。
「松島くん、そのカッコ……」マサルが声を発するのと同時に、僕も自分の“失敗”に気がついた。しかしもう遅い。
そして××の××がやってきて、笑いながらぺたりと僕の肩を……。ああもうこれ以上は思い出したくもない。
必死で平静を装って打ち合わせを2時間以上がんばったのだが、その間、終始なんとなく視線を感じていたのであった。
もうね、怖くてトイレに行けませんでした。かなり行きたかったんだけど、必死でガマンしました。もうホントにムリ。
まあとりあえず、打ち合わせ自体は比較的好調に進んだので、ヨシとしよ……いや、やっぱりダメだ。うう……。店を出ると、ヤなことは忘れてしまおうと大学まで歩きだす。
兼松に程近い池(池落ちの池)でベンチに座ってマサルとあれこれ雑談。
第9回一橋オープンの話題に花が咲いたり、マサルが友人関係をどのように大切にしているかの話が聞けたり。
そういえば、最近の鉄っちゃんブームの影響でそっち方面の取材を続けていたせいで、
近頃のマサルはけっこう鉄分が高めになってきているらしい。特に模型関係に興味が湧いてきたんだとか。意外だ。暗くなったので晩メシを食うぞ、と意気込んでロージナ茶房へ。
マサルは国立名物ということでザイカレーを注文、僕は好物中の好物であるスパゲティのシシリアンである。
待っている間にマサルは実はきちんとしたザイカレーを食ったことがないと判明し、
ザイカレーはかなり辛いという事実を僕から聞いてかなりの動揺を見せる。軟弱者め。
(マサルの知っているザイカレーは一橋祭期間中のもの。この期間中のザイカレーはそんなに辛くなく、すぐに出てくる。)
いざ料理が出てくると、ウホウホ言いつつシシリアンをいただく。マサルはすぐに汗びっしょりに。
あまりに辛いので途中で休憩を挟みつつ食べていくのであった。で、僕がマサルに「軟弱者」と言うのに対して反論。
「そんなんは江戸っ子が最期に『一度でいいから蕎麦をたっぷりつゆにつけて食べたかった』って言うのと同じなんよ」と。
それはまったくそのとおりなのだが、もうその江戸っ子スタイルが染み付いているので直しようがない。
ま、僕の「軟弱者」はテキトーに聞き流してくれればいいんじゃないかと。あーハイハイわかりました、って感じで。
それで休憩時間の間にまたいろいろとマサルの貴重なエピソードが聞ける。
グランドキャニオンの大自然の中、一人座ってニンテンドーDSでスーパーマリオをやって過ごした話とか、
ハワイに行って一度たりとも泳ぐことなく、しょーもない本ばかり読んで過ごした話とか、
沖縄でお土産のために買った紅芋タルトを一口食べてみたらめちゃくちゃおいしくて、気がついたらぜんぶ食ってた話とか。
お前は落語の登場人物かよ!というようなめちゃくちゃな話が次から次へと出てきて大爆笑なのであった。
で、結局マサルはザイカレーを完食。「これで辛さがふつうのカレーだったら本当においしいのにね」と言うので、
「お前ねー、ザイカレーはザイカレーだからいいんだよ。この軟弱者め」と返す僕。進歩がないのである。本日の総括としては、最低限のことはこなした。ほとんどのことがマサル任せなのだが、こればっかりは仕方がない。
僕としては、マサルの能力を最大限に引き出す方向にお手伝いをするしかないのだ。
とにかく、事態が面白い方へと転がるように、できることをやるしかないのである。いろいろあれこれ大変だ。
大森でベーグルかじりながら日記書くかなーと思ったのだが、天気が良かったので、川崎まで足をのばした。
ハンズぶらついて本屋ぶらついて喫茶店で日記を今こうして書いて。そんなふうに過ごしている。
今月は日記を比較的がんばっているわけで、なんとか現実の日付に追いつく気配がするかな、というところまで来ている。
しかし6月の日記がクセモノである。レビュー関係が多く、時間を食いそうなものが並んでいる。
それが終わったところで7月の日記もある。まあ7月は前半がすでに書けているので、そう厳しい状況ではない。
とりあえず、今の「毎週末にきっちり更新」というペースを保持できれば理想的である。将来的にはぜひそうありたい。
これから9月半ばまでは手のかかりそうなネタはないので(つまり旅行に行かないということ)、
この期間のうちにどれだけマジメにこなせるかが勝負なのである。勉強もあるけど、がんばるのである。◇
「iPod!」を上下逆にしても「iPod!」になる、というネタをYahoo!のトップページで見かけた。すげえ。
何で今まで気づかなかったんだろう!?と思うのだが、こういうことを最初に発見できるってのが賢さなんだなあ、と思う。
これってたぶんAppleも気づいてなかったよね。すげえ。
今週はなんとも面白みのない一週間なのであった。
淡々と仕事をし、休み時間にテキストを読み、家では勉強をサボってダラダラする。
かといって日記をきちんと書くわけでもなく小島よしおの動画を見て「なるほどー」とつぶやいてみたり。
オレ人生このまんまだったらものすげーヤダなあ、なんて思いつつ『タモリ倶楽部』を見て寝るナリ。
新谷かおる『エリア88』。スクーリングでストレスが溜まった結果、全巻読破。
中東・アスラン王国の内戦で戦う空軍の外人部隊・それがエリア88である。
主人公・風間真は親友だった神崎悟にはめられて入隊し、そこで生死をかけた戦いを強いられる。
やがて内戦は、戦争による利益を狙う企業体・プロジェクト4によって大規模な戦争へと進展する。
司令・サキをはじめとするエリア88の面々はそれを阻止すべく戦うが……、という話。これは戦闘機マンガである。世界各国の軍用飛行機が出てきて活躍するマンガである。
しかし新谷かおるのタッチはかなり少女マンガ寄りである。なのでけっこう、人とマシンの描写に落差を感じる。
少女マンガ寄りの線の細いキャラクター(中にはグレッグのようなヒゲダルマもいるけど)満載だし、
マンガの途中にはけっこうな頻度でポエムみたいな言葉が入るし、ということで、
ちょっとめくってみた感じではナヨナヨした話なんだと早合点してしまいそうだ。しかし。
このマンガはかなり男くさい。義理と人情だけで動いている連中が死に場所を見つけるマンガなのである。
生死をかけた戦いに魅せられてマトモな生活ができなくなった男たちが集まり、
やがてサキというカリスマの中にそれぞれ理想を見て、その理想のために殉じていく。そういうマンガなのだ。
そういうわけで出てくるキャラクターはみんな一癖あって、それでいてものすごくかっこいい。そしてまたすごいのは、そういう設定を最後の戦いでひねってみせることだ。
エリア88の男たちは、自分が死ぬ瞬間にそれが納得いくものであれば人生それでよし、という考え方をする。
しかしその最期はほとんど、(読者にとっても)とても納得できないようなあっけない終わり方なのである。
しかも、これは少々ネタバレになるが、サキは最後、みんなの理想を受け止めていることを自覚しながらも、
それとはかけ離れた選択肢をとる。あくまで個人的な選択に走って、戦争にこびりついた理想のすべてを否定する。
(サキに対して周りがいろんなものを期待して背負わせていくのだが、最後に彼はそれをうっちゃり所期の目的を遂げる。)
この瞬間、『エリア88』じたいも「カッコイイ戦争マンガ」であることをやめてしまうのだ。
戦争は英雄を求めるものだけど、そういう一切合財を捨てて、サキはただの一個人としての行動をとる。
それとまったく同じように、『エリア88』という作品も、戦争という特定のジャンルから一般的なテーマのマンガに変化する。
(クライマックスでの真のセリフ、「サキ!! やめろ! やめてくれ! おれたちは…なんのために戦ったんだ!?
なんのために…エリア88はあったんだ…サキ!?」は本当に秀逸。これはエリア88のメンバーを代弁するセリフであり、
読者たち全員のセリフでもある。作品に触れたすべての人が共有する、観客と物語が一体化するセリフだ。)
そこにはドンパチは男のロマンだーみたいな単純明快さはなく、すれすれの絶妙の位置で、
人間という存在の難しさといったらオーバーかもしれないが、人間がとらわれてしまうものすべて、
それが実はこのマンガのテーマだったのだ、という方向への視野の広げ方をして見事に終わるのである。まあいろいろ小難しいことを書いたけど、このマンガは文句なしに面白い。
義理人情で生きる凄腕の連中が活躍するという話の骨組みは、やっぱりどこまでも魅力的なのだ。
ドラマの大きさのわりに固定した登場人物が少なく、話もわりと飛び飛びで展開する印象があり、
「もうちょっと戦闘シーン以外もしっかり描いてほしかったなあ」という場面はけっこう多い。
主人公の真の描写と比べると脇役たちの扱いが少なく、せっかく濃いキャラクターが多いんだから、
そっちもいろいろ描いてほしかったのだが、それは贅沢な注文なのかもしれない。面白いゆえに注文をつけたくなる。ところでこのマンガのタイトルはどう読むべきか。作者によると「『エリアはちじゅうはち』でいいのに」とのことらしいのだが、
僕としては、これは絶対的に「エリアエイティーエイト」と読まれなければならないのである。英語でないとダメなのだ。
そうしないと雰囲気ブチ壊しじゃんか、と思うのだ。でも「エリパチ」と略すのだ。その辺は臨機応変なのである。
英語史のテキスト精読を再開しているのだが、語彙がわからないのでサッパリである。
それなら調べろよ、とツッコミが入りそうだ。実際ちょこちょこと調べてはいる。
しかしそれを反映させながら英文を読んでいくのだが、どうにも落ち着いて読めないのだ。
きちんとポイントを間違えずに理解できているかどうか、となると途端に不安になる。
何より困っているのは、きちんと内容を理解できたとしても、その内容がどうも面白くなさそうなこと。
古い英語の発音や語形の変遷を勉強したところで、それが今後に生きるとは思えない。
そういうわけでモチベーションが上がらない。上がらないからよけいにつまらなく思えてしまう。
勉強とはつらいものだなあ、なんて思いながら過ごしている。どっかで一発、気合を入れにゃなあ。
チャイナエアライン(中華航空)の爆発事故が他人事に思えない。
これはやはり、先月お世話になった那覇空港で起きたということが大きい。
旅をして訪れた場所は、以後、他人事ではなくなる。自分の中で確実に同時進行を始める。
そういう「僕が現実に触れた場所」であわや大惨事という事故が起きたわけで、
カクテルパーティー効果みたいな感じでニュースの耳への入り方が違ってくるのだ。
今回は人的被害はゼロで済んだけど、当然、荷物の被害はあったにちがいないわけで、
そういうことまで考えてしまって、なんだか他人事に思えないのである。それにしても中華航空の事故はやたらと多い気がする。
今でも記憶によく残っているのは1994年の名古屋空港での墜落事故で、
僕の育った飯田は名古屋文化圏に属するので、学校でもけっこう話題になったのを覚えている。あとあれだ、今年の日航機墜落事故(御巣鷹山のあの事故)のニュースは、
飛行機に乗るという経験をしたこともあって、やっぱりいつもと違って感じた。今まで飛行機事故は「コエーコエー」とどこか別世界の悲劇みたいにとらえていたけど、
もう今後はハッキリとその怖さを感じてしまうのである。知ってしまったら、もう戻れない。
乗る際にはとにかく無事で過ごせますようにと祈るしかないわけで、日ごろから善行を積んでおくことにするのだ。
出勤すると、机の上にゲラ・メモ・回覧の通知など、いろんなものが載っていた。
そういうわけで、この1週間の休みの間に動いていたものを処理する。そうして午前中は必死で過ごす。
午後になったらなったでやるべきことが出てくるわけで、黙々と校正を進めていく。なんだかんだで無事に社会“人”復帰できたみたいだ。
僕としてはジョージ=マロリー的に「そこにゲラがあるからだ」ってな感じでスムーズにこなせた。
決して柳沢敦的に「急にゲラが来たので」ということはないのである。いちおうはプロなのである。
スクーリング地獄も終わって、久しぶりのちゃんとした休日である。
とりあえず自転車で新宿まで出て、来月の旅行の計画についてあれこれ動いておく。
そんでもって日記を書いていく。5月分の日記を根性で書き終えることができた。それにしても、明日から会社というのが信じられない。
たっぷり休んで、その間の行動パターンは完全に学生のそれだったわけで、
きちんと社会“人”復帰できるか非常に不安である。
まあ、ダダをこねてもしょうがないのでがんばるけど、でもやっぱり、なんとも、やだなあと。
まったくわれながら困った子である。
スクーリング最終日。授業は比較的なごやかに終わったのだが、最後の総仕上げであるテストの内容が意味不明。
完全に授業の内容と関係のないところから出題。そんなもん、できるわけがない。クラスの全員が呆れかえる。結局、先生が僕らに何をさせたかったのか、最後までわからないままで終わってしまった。
これはもう僕らの能力どうのこうの以前の問題だと思う。もうホント、しょうがない。
先生が何を言っているかはきちんと聞けていたが、それが何の意図をもってのことか、誰も理解できなかった。
皆さんの反応からして、この授業については「ハズレ」のクジを引いたんじゃないのか、という感触が非常に強い。
しかし僕としては、英語をしゃべるとはどういうことかがなんとなくわかったし、
周りの皆さんを見ながらどの程度できなくちゃいけないかがわかった。それは大きな収穫だ。
幸い、しゃべる以外の部分については十分いけるだろう、という自信がちょっとついたので、
あとは明確になった弱点の補強を積極的にやっていけばいい。その方向性が見えたことだけで十分満足である。
そもそも、1週間足らずの4時間授業でしゃべる能力を劇的に改善できるなんて思っていないし。
まあ、学ぶところは非常に多かった。単位のことしか考えていない人たちと、僕は違うのだ。◇
この日は国立競技場でJリーグの甲府×浦和戦が開催されるのであった。
これは甲府のクラブ法人化10周年の記念試合である。客がたんまり入る浦和戦を聖地・国立で開催するのだ。
事前に掲示板で観戦希望者を募った結果、みやもりとリョーシ氏が参加。
言いだしっぺの僕はスクーリングのせいで遅刻という大変申し訳ない事態となったのだが、
なんとか連絡をつけて千駄ヶ谷まで急いだのであった。なぜ甲府の試合を観に行くのかというと、それは甲府のサッカーの評判が非常にいいから、である。
4-3-3の攻撃的フォーメーションで動きまわり、細かいパスをつなぎまくるサッカーを悪く言うメディアは皆無である。
「今、日本で最も面白いサッカーをする」なんて評価があちこちで見られるわけで、それはぜひ生で観たいじゃないか。
(ただしそういう評価の後には、必ずといっていいほど「決定力が課題」というコメントもついてくる。)
まああと個人的な事情としては、東京に出てきた長野県出身者としては、間をとって甲府を応援するのが適切に思えるし、
何より信州の誇る真田家は武田信玄の家臣だったわけで(譜代の家臣扱いされていたくらいなのだ)、
まあそういうことで甲府をちょっと贔屓にしているというわけ。決してサポーターと言えるほどのもんではない。やっとのことでふたりが確保してくれた席に着くと、甲府は1点ビハインド。開始6分で田中達也に決められた、とのこと。
僕が来るまでの時間帯は圧倒的に浦和ペースで、中央から両サイドから完全に突破されまくっていたらしい。
試合はここにきてやっと落ち着いてきて、甲府が突破されるのは右サイドだけ、という状況にようやくなったんだと。「じゃあ着替えます」と、あらかじめ用意しておいた甲府のシャツを着る。背番号8、茂原モデルなのだが、
肝心の茂原は唾吐きのせいで出場停止中である。なんとも悲しい。茂原が見たくて甲府戦に行く気になったっていうのに。
悪くないペースで攻撃を仕掛ける甲府だが、とにかく浦和サポーターのブーイングが尋常でない。
声が壁になって甲府をはね返すと言っても過言ではないだろう。ブーイングは徹底していて、声量がすごい。
そうしてどんどん浦和のペースに。攻撃にかける人数は少ないのだが、個人技があるので簡単に突破してくる。
甲府のDF陣はチェックが甘く、電柱のように突っ立っている場面が多い。攻撃時も選手の間隔が間延びしてしまっている。
結局、2点目と3点目を目の前で押し込まれて、本当にがっくり。そんな状況でハーフタイム。浦和といったら国内最大の予算を誇るクラブ。対する甲府はJ1で最もつつましい経営を余儀なくされているクラブである。
「格差がー! 格差社会がー!」とわめいてみても、こればっかりはどうしょうもない。かつての浦和がそうしたように、
粘り強くクラブを存続させていってじっくりと強くしていくしかないのである。企業の支援がないから大変だが、そうなのだ。
まあそんなようなことをみやもり・リョーシ氏と話しつつ(Jリーグの話だけで雑談ができるようになったんだねえ、われわれ)、
みやもりは大分×広島の試合経過を気にしつつ(彼は両方の街で育ったのだ)、後半の開始をじっくりと待つのであった。後半が始まると、甲府は前半と別のチームのような動きをした。
守備のチェックが早く、ボールを素早く拾って人数をかけて攻め込んでいく。
サイド際でのくどいほどのショートパスによって相手の守備に穴をつくり、そこから一気にゴール前に殺到する。
噂に聞いた「甲府らしいサッカー」が、目の前で展開されるようになる(後半は甲府がこっちに向かって攻める)。
浦和はもともと攻撃に人数をかけようとしていないこともあって、人が狭い範囲に集中するようになる。
そうなったらしめたもので、何度かの強引な突撃の後、キャプテンの石原がゴールを決めた。いい感じである。この後もしばらく甲府ペースとなった。藤田が柔らかいパスをポンポンと前線に送り、甲府FW陣がゴールに飛び込む。
(藤田のプレーは素人目で見ても面白かった。みやもりは甲府の選手では藤田しか印象に残らなかったようだ……。)
ところがどうしても決めることができない。これまた例のごとく、甲府名物の「決定力のなさ」である。
キーパーの鶴田がふつうじゃ考えられないところまで上がってボールをクリアし(そうしないと1対1になってやられてしまう)、
再び甲府のショートパスが始まる。そうしてチャンスはきちんとつくっている。でも入らない。
で、疲れが出てまた間延びが始まったところを田中達也に決められて1-4。勝負ありである。
最終的に甲府はFW登録の選手が4人ピッチに立っていたが、ゴール前でボールを持たない選手の動きにアイデアが乏しく、
浦和DF陣にボールを弾かれ続けて試合終了。終わってみれば、典型的な甲府の負け試合なのであった。試合が終わる前からボロボロと綻びていくように帰りだす甲府サポとは対照的に、浦和のスタンドはずーっと満員のまま。
声の統率の取れ方がすさまじく、ひとりの人間の声に聴こえるのだ。いやホントに。
そうやって応援するからビッグクラブになれるのか、それともビッグクラブだからそこまで応援する気になれるのか。
強いチームを応援して当たり前のように勝つよりは、貧乏でもやりたいことを貫くチームのほうが好きなので、
僕が浦和を応援することは性格的な問題からしてありえない(まあ、Jリーグ初年度は浦和を応援していたけど……)。
しかしサポーターの応援ということについては、マジメに考えるべきなのかもしれない。難しい。
L: 夜の国立競技場。 C: 甲府×浦和、前半の様子。田中達也は異常に速かった……。
R: 試合後の甲府イレブン。相手が相手とはいえ、もうちょっと甲府らしいプレーをする時間を長くしてほしかった。で、試合が終わって代々木まで歩く。周りは浦和サポばっかりである。
居酒屋に入って3人であれこれダベる。試合のことは悔しかったのであまり話さず、この間の沖縄旅行のことなどを。
みやもりから「マツシマはワガママ」とダメ出しされる。んなこと言ったって誰かがワガママ言わないと動かないじゃん、
と思うんだけど、しかしまあ僕がワガママな子なのは事実なので、そこは反省せざるをえない。
それから「マツシマは腹が減ると明らかに機嫌が悪くなる」と指摘される。これまた否定のしようがない。
まあ僕に言わせればみやもりの燃費が良すぎるのだ。みやもりの腹が減らなすぎるのである。
……しかしこうして文章に起こしてみると、なんだかオレずいぶんコドモみたいだなあ。……まあいいや。僕はのっけから日本酒で、そこそこなハイペースでグイグイいったのでだいぶベロベロだったのだが、
当方酔っ払っても受け答えはいたってマトモなままなので(ただし記憶力がガタ落ちになる)、
まあ、いろんな話をあれこれするのであった。詳細は覚えてませーん。
とりあえずリョーシさんはがんばって片山虎之助の孫娘にお酌をしてください。という〆でどうだ。
僕がきちんと聴けていることがわかってきたのか、変に当てられるケースが出てきた。
知識を問う系統の質問をしてほかの人がわからないと、先生は僕にふってくることがある。
しょうがないから素直に単語をつなげて答える。そんな感じだ。
どうもイギリス人の先生には、話すスキルだけが北条幻庵という状態が理解できない模様だ。
受験勉強だけで海外に行ってないと、人間こうなるのじゃ!……と説明できないこのもどかしさ。先生も強調していたのだが、英語を話すときには簡単な言葉を使うことが要求される。
専門用語をなるべく使わず、平易な表現を使って相手の理解を最優先とする。
しかしこれができないのである。まず話したい内容が頭に浮かぶと、重要な言葉を英単語に変換する。
そうして話そうとするのだが、文法的に正しい語順で話そうとしてまずつっかかり、
さらに出てきた言葉が「難しい」とダメ出し。思うに、英語を「話す」というのは、まったく別種の脳みその使い方をする。
話し言葉で使うことが好まれる簡単な言葉や表現があるので、それが口を突いて出るようにならないといけない。
頭の中で辞書をめくってあれこれ考えていると、相手がこっちの出方を想像してしゃべって、
それがこっちの考えていることとかけ離れているもんだから、それを訂正しようとしてまた時間がかかって、
相手がしゃべって、それがさらにかけ離れていて、そんな具合にどんどん溝が広がっていく。
だからまず相手の動きを止めるような第一声を発することが重要になる。それがどうにもできないのである。何ができなくちゃいけないのかは、上記のようにわかってきつつある。
しかし困ったことに、それができるようになるような授業内容ではないのである。
とにかくこの単位は意地で押さえるとして、しゃべる訓練の機会をいかにして持つか。悩ましい。
英語をしゃべるということについては相変わらずコンプレックスの塊なのだけど、
「聴く」ということに関してはクラスでもかなり上のほうにいることがわかってきた。
英語には4つのスキルがあって、「読」「書」「聴」「話」とそれぞれ漢字で表現されるけど、
このうち僕は極端に、「話」だけができなくってあとはまあまずまずのレヴェル、ということがわかってきた。
まるで北条幻庵の戦闘力程度しかしゃべることができないわけで、実にバランスが悪い。
近いうちに本腰を入れて対策を練らないとマズい。なんとかしなきゃ。みんなと雑談をしているうちに、ほかの人がどんな具合に通信教育をやっているのか判明。
けっこうベテランの人では、テストで単位が取れないからスクーリングでカバーする、という人が多い。
そうかと思うと科目履修生で単位だけ揃えてます、という人も若干名いる。
基本的には教員免許目的で単位を揃える人よりも、きちんと卒業を目指している人のほうが多いようだ。
ここまでテストを3回受けて22単位を取得している(成功率100%)僕のペースは、めちゃくちゃ早い部類に入りそう。
かといって油断できるわけがない。みんなに比べるとホントにしゃべれないので。
まあ、自分の置かれている状況を客観的に見られる機会を持てたという点では、
このスクーリングはすさまじく大きなプラスになっている。それを支えにあともう少し、がんばろう。
僕は靖国神社が嫌いだ。……というところから始めよう。本日は終戦記念日ということで、こっち系の話題を集中して書く。
僕は靖国神社が嫌いである。理由は、実際に行ってみて、その空間が居心地よくなかったからだ。
たとえば、デカすぎる大村益次郎の像の台座。たとえば、やたらと広くて見通しのよい石畳。
過剰に男性的というか、こちらを威圧してくるもので固められた空間はなんとも奇妙で、落ち着かないのである。靖国神社は、朝廷側・日本政府側で戦没した軍人・軍関係者を祀ったものであると僕は理解している。
軍だからどーこー、朝廷側だからどーこー、A級戦犯がどーこーというつもりはあんまりなくって、
単純に、「はいこの人は国のために亡くなりましたー」と判別をして祀る、その考え方そのものが好きになれないのである。
(台湾や朝鮮半島の人も日本人として合祀していて、それに対する訴訟が起きている点も問題だと思っている。
もっとも、中には李登輝のように、自分の兄が日本人として祀られていることを誇りにしている例もあるが。)
過去の日記でこの辺(→2007.7.10/2007.7.24)を見てもらえばわかると思うが、生きている人間が、
自分の都合で死者に対して意味づけをするのをアンフェアである、と僕は考えている。死人に口はないもん。
もちろん個人個人で意味づけるのは思想の自由と思っている。が、それを大規模に組織で行うことに嫌悪感がある。
もっと言っちゃえば、「国のために死んだ? ハァ? ふざけんなよ、オレは死にたくなかったんだよ。
それなのに何お前勝手にめでたしめでたしみたいにしてんだよ。ちっともよかねーよ!」と僕なら思うはずだ。
だから掃除機みたいになんでもかんでも吸い込んじゃうような靖国神社が、好きになれないのだ。
何かのために死ぬなんてことはありえない。何かのためになるには、生きて貢献するしかない。
そういう根本的なところを履き違えている場所だから、僕は靖国神社が大嫌いなのだ。いえいえ靖国神社というのは、そういう無念の死を遂げた人の霊を弔うために……って言うんだったら、
判別するなよと言いたい。そもそも国とは何なのか、きちんと考えているのかって話だ。
僕は国とは法律が及ぶ空間的な範囲を指すと思っているから、人の上に国が存在するというようなことは考えない。
何かの運でこの日本という国というか日本国憲法その他もろもろが影響力を持つ空間に生まれたと思っている。
そんでもって、その中の大多数を占める日本民族(っていうの?)とみなされている身体として生まれたと思っている。
憲法は数学でいう公理だと思っている。日本国は日本国憲法という公理系で構成された空間であると思っている。
つまり、日本という国は「前提」だと思っている。その前提は事態によってはいくらでもひっくり返ると思っている。
その前提を簡単にひっくり返すと大勢の人に迷惑がかかるから、それを考えるプロセスのひとつとして選挙がある、と考える。
第二次大戦を経て日本は公理系が一度ひっくり返っているはずなのに、靖国神社はそれと無関係でいるように見える。
ホントにきちんと考えてんのかなーって思うのである。何も考えないで戦前気分で掃除機スイッチオンされちゃたまらない。まあこういう偉そうなこと書いているわけだけど、僕はしっかり勉強したわけではないので、的外れな点もあると思う。
はっきり言って、靖国神社をフィーリングで嫌っているわけだ。食わず嫌いなだけという可能性だって否定できない。
僕は死にたくない。戦争で死ぬのなんて、まっぴらごめんだ。たとえそれが国のためと言われても、
じゃあオレ様の命を賭けるほどの価値がこの国にあんのかよ、とまず思う。日本列島という空間は好きだけどね。
その辺の問い、いい国つくってますか?という自問自答が今のおじいちゃんたちに欠けている状況で、
国のためと言われても困ってしまう。戦争に行かされるのはろくすっぽ決定権のない若い人が中心なんだし。
めっちゃくっちゃな論旨であれこれ勝手に書いたけど、最後にもう一度。組織で死者に勝手な意味づけしちゃいかんよ。◇
今日もスクーリングなのだが腹ごしらえをするべく秋葉原周辺に行ってみたら、
ものすげー行列が中央通りの歩道にできていた。なんじゃこれは?と呆れて様子を探ってみると、
それがAKB48の公演チケットを買うためにできた列だとわかった。これにはたまげた。
かつて嘉門達夫のネタで、赤穂浪士47人のグループで「ファンの人はがんばって覚えてねー」みたいなのがあった。
現実に、それを超える人数のグループが出てくるとは。もうなんでもアリなのだ。
しかしまた対照的に、千代田区内ではあちこちに重装備の警官たちが集まっていて、交通規制を敷いていた。
吠える右翼、構える警察、並ぶヲタ、そしてそれらとは一切無関係に英語を勉強する僕ら。
いつもこの時期は実家に帰っているのですべてが新鮮だった。62回目の終戦記念日は、そんな風景だった。
午前中にどこで勉強すればいいかな、と考えた結果、出てきた答えは千代田区立千代田図書館。
こないだ自転車で区役所めぐりをしたけど、そのとき行った千代田区役所と同じ建物の中にある(→2007.6.20)。
そういうわけで、さっそく自転車で乗りつけると英英辞書を借りてきてお勉強開始。けっこうはかどる。昼は区役所の食堂で食べた。定食のメニューは2種類しかなく、大学生協よりも数段落ちる感じ。
PFIでこんなレヴェルじゃ民間が運営する意味ないじゃないの、と呆れた。◇
さて、肝心のスクーリングは本日見事に轟沈。スピーチでオチのある話をしようとした僕が間違っていたのか。
先生は話の内容をあらかじめタイトルで説明するように言うが、そんなことしたらネタバレになるやんか!
大学院のときに論文が書けなくて苦しんだ記憶がよぎる。あのときも、面白くしようとしたことぜんぶが否定された。
型にはめたいのなら、先に型の例を提示してもらわないと困る。それを示さず「お前のはマズい」と言うのはいかがなものか。それにしても、自分ひとりだけ、英語をしゃべることに明らかに慣れていない。がっつりとレヴェルが低いのがわかる。
これだけの落ちこぼれ感覚を味わうのはいつ以来だろうか。まあ、覚悟の上で来ているから構わないけど。
最初っからうまくできるわけないので、今回は「だいたいこれくらいはできないといかん」というラインの把握に徹する。◇
夜は図書館から借りてきた桂文楽の落語をMP3化しつつ、「教育の社会学」のリポートを書く。
文化を通した教育と社会の関係を論じろというなかなかアバウトな課題となっているのだが、
廃止になった学校の跡地利用問題から踏み込むのはいかにも僕らしいなあ、なんて自分で思いながら書いていく。
久々に勉強になったなあ、という感じ。物事を調べて理屈をひねり出す作業を懐かしく思ったくらいだ。
本日より英会話のスクーリング開始である。
とりあえず午前中に自転車で水道橋周辺まで行き、勉強をしたりパソコンで日記を書いてみたり。14時半よりいよいよ授業開始。僕のほかに12人が履修をしている。
登場した先生はいかにも紳士なおじいちゃん。まず生徒たちと会話をしつつそれが互いの自己紹介に。
生徒はみんなかなりしゃべれる感じである。まあそれも想像のうちなので、驚くことはない。
海外に行ったことがない人は僕を含めてたったの2人ということで、
いかに海外に行く経験が英語をしゃべる力に直結しているかがわかったのであった。
これぐらいとできないといけない、というラインがわかったことが大きな収穫である。しかし授業が始まってみて、先生が僕らに何をさせたいのかがまったくわからない。
みんなもわかっていない。話がすぐに細かいところに飛ぶ。何を目的に今のことをしているかがつかめないのだ。そんな具合に非常に大きな違和感を覚えつつ初日は終了。
とにかく度胸出して、できないなりに取り組んでいかんとダメだな、と思うのであった。◇
深夜になって、家を出る。ペルセウス座流星群が見ごろということで、ちょっと見てみるのである。
場所はいいところが思いつかなかったので、相変わらずの東工大のスロープである。
来てみて東工大の明るさに困惑。ほかに選択肢が浮かばなかったからしょうがないが、
次の機会にはきちんと考えておかないといけないなあ、と反省。
国立時代には大学の東キャンパスのちょっと奥に行けばまったく問題なかったので楽だったのだが、
こっちじゃそうはいかないのだ。困ったものである。肝心の流星は、2つほどきちんとしたものを見られたのでよかった。
中学からの友人・まる様は流星群を見ながらプロポーズしたんだかなんだかという逸話をお持ちだった気がするのだが、
僕にはいつかそんな日が来るのかねえ、全然そんな気がしないねえ、などと思いつつ家に戻った。
昼にいきつけの店で髪の毛を切る。日に焼けたと言われ、沖縄へ行ったことをしゃべる。
正直に男ふたりで行ったと白状したらおねえさんが一瞬、「ありえねえ!」という表情をしたのを見逃さなかった。
やっぱりありえないのか。世間は独り者に冷たい。でもどうしょうもないんです。リポート課題があるんだけど、とりあえず昼間は部屋で日記を書いて過ごす。
異常に暑くて、ものすごい量の汗が出る。全身これ汗ダルマである。
とても服なんて着てらんねーということで、海パン一丁で日記を書く。はーい、おっぱっぴー。
われながら、変な状態である。しかしけっこう順調に書けていく。
やはり日記は早め早めに処理(というのもおかしいが)していかないといかんのである。それにしても、夏である。カットのため自由が丘まで行って帰ってくる間、
青い空と白い雲と街の緑とアスファルトと、真夏の光を受けて輝いているように見えた。
ごくふつうの、しかし実は短い本当の夏が、今ここにある。
今年は都会の夏を素直に楽しんでおこう。
本日はワカメ・子音さん・ハセガワさんと一日遊ぶ予定なのであった。
何をやるかのアウトラインはだいたい僕とワカメ間で決めていたので、それに従って動く。まずは国立新美術館である。ここでは「日展100年」という企画をやっていて、
僕もワカメも美術館は好きなので、これは絶対に行っとかなくちゃな!ということになっていたのだ。
どうせ混むから開館と同時に飛び込もうぜ、と打ち合わせしておいたのだが、
ハセガワさん宅に泊まったワカメ・子音さんたちは深夜まで盛り上がったせいでグロッキー状態。
11時集合に変更になり、僕はそのタイムラグをスタバで日記書いて過ごしたのであった。
そして沖縄日記を書きあげた。書き終わっての感触としては、十分しっかり書いているはずなのに、
文章が体感した時間よりもずいぶんあっさりなヴォリュームになっているのが気になる。
本当はもっと密度の濃い時間だったのに、書いてみると意外とあっさりなのである。
つまり、文章に起こせない「なんでもない部分」ってのがそれだけ多かったってことだろう。
学生時代が終わっているのに親しい友人とそういう時間が持てたということは、すごくうれしいことだ。さて11時。僕は新美術館に行き、今や共生新党ですっかりお馴染みの黒川紀章代表が設計した建物を撮影。
隣の政策研究大学院大学の芝生に侵入して撮ったら警備員に怒られたけど、そんなの気にしないのである。
国立新美術館は今年の1月にオープンした非常に新しい施設である。
建物についての感想は、正直あまり特にこれといってない。ガラスで曲面をつくってそれを格子状にしている。
造形がキレているということもないし、新鮮味もない。ガラスの汚れもそこそこ目立っていて掃除とか大変そうだ。
ガラスによるきれいさはあるんだけど、うわなんだこれおもしれーという要素がなく、興奮させられはしなかった。
暑いので中に入って連中を待つ。いちおう、中の様子も撮影してみるが、良くも悪くも無難にまとまっている印象。
L: 国立新美術館エントランス。ファサードの曲面が命なのだが、中に入るとその必然性は疑問である。
C: 政策研究大学院大学から見るとこう。 R: 建物の側面。ガラスがないとふつうです。
L: エントランスの奥にはデッキがあって、休憩スペースがある。ここはちょっといい感じかも。暑いが。
C: 内部の様子。コンクリの柱の上部はカフェ。アトリウムなんだけど狭苦しい印象が残る。
R: イケメン様たちのご到着なのである。みんないかにも今どきのオシャレな若者じゃのう。さっそく「日展100年」を見る。「一目でわかる!日本の美術この100年」と謳っているわけで、非常に楽しみ。
内容は、1907年の文展(文部省美術展覧会)からスタートし、帝展→新文展→日展へと至るその歴史を、
それぞれのコーナーごとにまとめて展示するというもの。日本画も洋画も彫刻も工芸も上記コーナーごとごちゃ混ぜ。
ひとりの作家につき1作品というルールがあるようで、みんな公平に展示して日展全体を強調する感じになっている。
各時代の特徴は解説しているメディアに任せるとしよう。まず僕らは日本画の色の美しさやユーモラスさに圧倒され、
洋画ではその筆遣いや構図の巧みさに圧倒され、彫刻では動きや感情をディフォルメするセンスに圧倒され、
とにかくその質と量に大いに酔いしれたのであった。もう本当に皆さん上手なんだわ、当たり前なんだけど。
「うめえなぁ……」とつぶやく僕にワカメは「そりゃそうだろ」と言うわけだけど、いやもうなんというか、
スポーツ選手の運動神経に見とれるのと一緒で、指先でこう表現すればこうなる、というのを知り尽くした痕跡に、
複雑な現実を単純化しているくせしてその本質を見落としていない精度を目の当たりにして恍惚となるのだ。
美術というのはそういう表現力の勝負と、あと物語性を詰め込む想像力の勝負と、いろいろ各作品に個性がある。
そんな個性いっぱいの結晶とハイペースで向き合う楽しさってのは、なかなかめったに味わえるものではないのだ。
でも「日展100年」にはその贅沢さが確かにあって、本当に充実した時間を過ごすことができた。
いやーさすがにすげえなこれは、と全員満足して鑑賞を終える。日記を読んでいる皆さんにもぜひ見ていただきたい。次は2階展示室でやっている「スキン+ボーンズ-1980年代以降の建築とファッション」である。
これはサブタイトルどおり、建築とファッションの関連性をテーマにした展示。
建築とファッションについては、僕も日記で引きこもりとオタクファッションの関連を考えているし(→2004.9.21)、
どっちも皮膚の延長線上として捉えられるんじゃないのと思っているので、興味津々。ドキドキして中に入る。
しかしその内容はきわめて貧弱。まず両者を結ぶはずの皮膚・さらには身体に関する意識がまるでない。
平面を折って立体構造をつくるという視点を扱っているわりには、折り紙の存在に気づいてないのも弱い。
つまり、ファッションと建築をそれぞれ提示するだけで、その両者を結ぶ本質についてまるで考えていないのだ。
ただ時代の雰囲気・嗅覚をはたらかせただけの企画で、きちんと思考するレヴェルにまったく達していないのである。
実際、みんなの評価も「ファッションは展示が充実していたけど建築の見せ方はワケがわからなかった」、
「ファッションと建築のつながりが全然見えなかった」で、完全に看板倒れなのがはっきりしていた。
ワカメは「唯一の収穫はコム・デ・ギャルソンと山本耀司の作品を見られたこと」と言っていて、
この意見は僕とまったく一緒である。見せ方が悪いせいもあって、本当にそれ以外の見どころがなかった。
僕はコム・デ・ギャルソンの服は面白くってたまんなかった。山本耀司は正直よくわからんかった。
まあそんなわけで、大いにガックリしつつ外に出る。時刻は昼過ぎ、まるで沖縄を思い出すような暑さである。急いで乃木坂駅に避難して、渋谷へ向かう。
渋谷では映画を見るのだ。僕らにふさわしい映画ということで、『キサラギ』をワカメがチョイスした。
まあ確かに、詳しいことは書けないが、僕らにふさわしい。ちなみにワカメはすでに一度見ているとのこと。わりとすんなり映画館にたどり着いたのはいいが、すでに客が並んでいる。
上映開始まであと30分。メシを食ってる余裕はないね、ということで僕らもそのまま並ぶ。
映画館はデパートの最上階にあるのだが、やがてそのデパートの階段に並ぶように指示が出る。
そして行列はさらに増殖し、結局ビルの3~4階分くらいの長さになっていた。
時間も時間だししょうがないのだが、いやホントに映画を見るのがこんなに大変なことだとは思わなかった。で、『キサラギ』。自殺したアイドル・如月ミキの一周忌に5人のヲタ(とあえて書く)が集まる。
そして彼女との思い出について語り合っているうちに、意外な事実が明らかになっていく、という話。
ひとつの場所で真相を究明していくのは『12人の優しい日本人』(→2003.11.10)を思い出す。
違うのは、彼らがハンドルネームを持ったネット上の存在と、現実に生きている存在とが重なっていること。
『12人~』では登場人物は番号で呼ばれる匿名の存在だったが、『キサラギ』ではそこに仕掛けがあるわけだ。感想は、つまらなくはなかったけど、そんなに満足するほどでもないなあ、といったところでワカメが予想していたとおり。
完璧に辻褄を合わせた話ってのは、つくってる側ほどに見ている方は楽しめないものなんだ、と実感した。
よくできているのである。細かいところまでよくできていて、ギャグも織り込んでいて、サービス精神は旺盛だ。
しかし「意外な事実」を次から次へと見せることに躍起になっているようで、そのことに途中で飽きてしまった。
香川照之演じる「イチゴ娘」の正体がわかったときには思わず隣のワカメに確認してしまった。ああ、オレ読めてるわ、と。
(ただしユースケ・サンタマリア演じる「オダ・ユージ」の正体はわからんかった。その強引さには素直に笑わされた。)
もし2回目を見たなら、すべての事実がわかっているのでむしろリラックスした態度で面白く見られるのだろう。
そういう意味では、僕みたいなタイプは、1回目だから「それほどでも……」と思った映画なのかもしれない。
最後の最後でヲタを全肯定して終わっているのがなんというか、気をつかってんなあ、という感じ。
しかしやはり、ヒロインが死んじゃっているのが痛い。結論が出ても、救われないからすっきりしない。
男たち5人は満足しても、物語の外側にいる僕にはヒロインの不在が続くわけで、それがやるせないのだ。
その点も「それほどでも……」の一因になっている。辻褄をいくらきっちり合わせたところで、彼女は戻ってこないのだ。
ところで小栗旬って宮川大輔(元チュパチャップス)に似てるよね。ザマミロ、イケメン。映画を見終わると、腹が減ったので新宿に移動してファストフードでも食うか、となる。
マクドナルドを避けてあちこちさまよった結果、ロッテリアでしばらくダベる。
その後大学院の懇親会があるというハセガワさんがいったん抜け、3人になる。
ワカメは青森に親御さんの実家があってそっちに帰省するということで新幹線のチケットを買う。
しかしこれがバカみたいに混んでいて時間がかかったこともあり、疲れもあり、次の予定である落語をパスすることに。
それで結局、マンガ喫茶でナカガキさんの仕事終わりまで粘るのであった。
子音さんは安倍なつみの写真集を真剣な眼差しで見つめて過ごす。「全然一般人じゃないじゃん!」
一方のワカメは新垣結衣の写真集を真剣な眼差しで見つめて過ごす。こっちもだいぶ狂ってきている。
僕はそういう対象がないことをちょっと悲しく思うのであった。まあ確かにすっぴんの新垣結衣はかわいかったけどね。で、『Gu-Gu ガンモ』の全巻読破をした。小学生のときに9巻まで集めて挫折したので、そのリベンジである。
今読んでみると、けっこう小学生には向かないレヴェルのセリフを平然と出してきているのが目につく。
このマンガで覚えた日本語も多かったなあ、なんて思いつつ読んでいくのであった。
細野不二彦というと『ギャラリーフェイク』(→2007.3.31)での卓越した構成力が印象的なのだが、
さすがに『ガンモ』の段階ではそこまでの領域に達していないので、ああ、若かったんだなあ、と思った。
けっこう話が強引に終わることが多いので、キャリアを積んで成長していったわけかーと思うのであった。
あと、新キャラを出してくるよりも、半平太・リンダ・サイゴー・カシオの関係をもっと扱ったほうが面白かった気がする。
キャラのインフレでそれぞれの個性が薄まってしまった印象が残るのである。もったいない。
そして『ガンモ』とえば、何よりそのラストが問題である。急にきて、急に終わる。やっぱり悲しい。
じっくり読んでみて「ガンモというキャラクターは本当にかわいいなー」とあらためて思ったわけで、
それだけに、次につながるような、いつでも復活できるような、そういう結末であってほしかった。
このマンガ、今やり直したらそうとう面白くリテイクできると思うんだけど。さてそんな具合に過ごしていたら、ナカガキさんから新宿到着の知らせ。
かなりテキトーに入った店が、これがまあ非常に料理が旨くて全員感心しつつ食べていく。
酒も僕は黒ビールと飲みやすい日本酒をいただき、非常に上機嫌になるのであった。
やがて11時半過ぎになってハセガワさんも合流。終電の都合で僕だけ早く撤退するのがすごく淋しい。
また近いうちの再会を皆さんと約束してその場を後にする。楽しい一日だったなあ。
仕事で越中島の東京海洋大学(旧商船大のほう)へ。
東京駅で京葉線に乗り換えたのだが、家族連れで足の踏み場もないほどに混んでいた。
京葉線のホームは隔離されているので異常に遠いのだが、その区間にも家族連れはつねに存在し続けていた。
越中島駅に着いたら着いたで家族連れがゾロゾロと改札を抜けていく。
こんなところ何もないじゃんよ、なんで?と思ったら、JRがポケモンのスタンプラリーをやっていて、
それでスタンプのある場所に行列ができているのである。呆れた。
そういえば去年もゲラのやりとりで移動する際にポケモン家族に圧倒された記憶がある(→2006.7.31)。
大学時代にはダニエルがピカチュウにハマっていたわけだけど、もう何年ポケモンブームが続いてんだよ、と。
このままポケモンは日本文化として定着するのか(ピチカート・ファイヴの『さ・え・ら ジャポン』参照)。
それとも、もう定着しているのか。どっちにしてもすでにすごいことには違いない。夜は飲み会の約束があるので、西新宿で沖縄日記を書いて時間をつぶす。
本日はFREITAGのWILLYにむりやりノートパソコンを詰め込んで会社に行ったのである。
で、19時半になって西口改札へ。ワカメが荷物を持って待っていたので合流。
しばらく雑談をしてイヌ女史も合流である。しかし、今日の主賓は子音さん(仮名)。
みんなで彼と5年ぶりくらいに会うことになっていたのだ。
間違えて中央西口から出てしまうなどのトラブルもあったが、なんとか合流を果たした。
子音さんの希望でイタリア料理を食べようということになっていて、西新宿の高層ビル群へ。
ちょっと待ったら席が空いたので、4人で座っていざ雑談。
子音さんは非常に典型的なイケメンの人で、外見的には一般人そのものなのに、
安倍なつみが大好きでたまらないのである。全盛期(5年前)には完全に狂っていた、と自他ともに認めるレベル。
「今はもう一般人になった」と口では言うものの、三つ子の魂百までというわけで、
その消すことのできないダメな部分がボロボロと出てくる。でも「一般人ですから」と取り繕う。しかしボロボロ。
ルックスとの落差もあって、そのボロが出るたびに大爆笑。「全然一般人じゃないじゃん!」と。
人間、ダメな部分を自分で演出できる人ほど面白い(それを自覚せずに才能だけでやる人を「天然」という)。
子音さんは作為的にそういう点を出すわけでなく、染み付いてしまったものに翻弄されているのが面白い。
途中からはナカガキさんが合流してきて、その圧倒的な勝ち組生活を茶化すなどして過ごす。
まあホントにしっかり笑わせてもらった。やっぱり人間、ダメな部分があるから愛されるのだと思ったことよ。
ゲラが遅れて出る予定だったのに、急遽出てきやがって、それでてんやわんやに。
なんせ来週は丸ごと休みをもらっているので、今日と明日で著者校正までもっていかないといけない。
幸い、企画担当者に状況は逐一説明してあるので、作業の補助をしてもらえることにはなった。
しかしだからといってその負担は極力減らしておくのが人の道ということで、猛烈な勢いで作業を進める。
気づけば沖縄出発前夜以来の残業である。まあそんなものは根性である。
それにしても、急遽ゲラを出してきたためか、初校の修正が直っていない箇所があまりに多すぎる。
こんな低いクオリティなら無理して出すなよな、と心底腹が立った。
オレは今、無理をして作業をしているけど絶対にミスしないもんね、と気合を入れてがんばったよ。
今日はネタがない。
日記の話題について考えてみる。ネタがない日というか「ふつうの一日」を過ごした日の内容は、
たいてい仕事のことだとかリポートの進捗状況の話になっている。
こういういかにもテキトーに書いた日記の話題をチェックしていけば、
そのときに一番振り回されていたものが見えてくる。最初は熱海ロマンで、その次に塾とか。
ご存知のとおり僕は今、新規に教員免許の取得に向けて必死な毎日を過ごしている。
もちろん仕事だっていちおうきちんとやっている。毎日毎日地味な校正の日々だ。
そんな毎日の中で気になったことや考えたことをちょこちょこ書き付けているわけである。さて、では来年、さらにその先、僕はこれから日記にいったい何について書いていくのだろうか。
それをあれこれ想像してみようとするのだが、どうもそれが思いつかないのだ。
もし所期の目的を達成することができれば、その内容はだいたいああなるだろうな、というのはわかる。
それは塾講師をやっていたときのものにたぶん似てくる。まあ、書けないことも多いだろうけど。
しかし、そこに至るまでの時間、それがどうにも見えてこない。名作映画のDVDのレビューになるかもしれないし、
そのときにお金を稼いでいる手段についてかもしれない。本当にわからない。まあ確実に言えるのは、今と同様に女っ気のない日記を書いているんだろうな、ということである。
僕はたまに日記を読み返すと、そのストイックといえるほどの色気のなさに苦笑いがこみ上げてくるのだが、
それだけは変わらない気がしてしょうがないのだ。情けないことだけど、これは本当にそう。
僕としては日記の内容をもうちょっとカラフルにしていきたいんだけど、こればっかりは、ねえ。
この先、僕の日記が予想もつかない方向へと変わっていくことはあるのだろうか。
書いている本人が他人事のように「どうなるかねえ」なんて思っているうちは、大差ない内容が続く気がする。
まあ所詮はしがない個人の日記だし、どうでもいいや。
昼休み、リポートを提出。今期は予定では5通提出するつもりなのだが、そのうち2/5をクリア。
さらにもう1通はいつでも書き出せるように準備ができているので、ある程度のメドがついた感じだ。
来週はスクーリング期間になるので、それを利用してなんとかさらに進めていきたいところである。
会社ではなんだか体が熱くって、なかなか思うように動けなかった。
頭が痛いこともないし体がだるいこともない。でも、確実に体から異常に熱が出ている。
こういうときは非常によろしくない。熱が出ている分だけ疲れてしまうので終盤にバテる。
原因がわからないので対処のしようがない。特に病気というわけでもないのでまた困る。
で、フラフラになって帰る。帰りの電車を寝過ごしそうになるほど。家に着いたら風呂に入る前にリポートを仕上げてしまう。
これであとは提出するだけ、という状態になった。無事に乗り切った。
リポートがピーンチ!とか言いながら、パソコンに向かうわけでもなく、ダラダラして過ごす。
昼間は『パパとムスメの7日間』の番宣ダイジェストをなんとなく見て過ごした。
このドラマは大学時代の先輩・めりこみさんと友人のワカメがオススメしていた。
なるほど確かに面白い。館ひろしのキモチワルイ感じが絶妙だ。そして西野さんこえー。
その後は『水滸伝』のゲームをやる。のんびりだらだら、なるべくじっくりと時間を体感して過ごす。
これは現実逃避とかそんなんじゃなくって、ある意味で精神統一に近い行為である。
頭と全身をリラックスさせておいて、反動をつけて、後で瞬発力が出るようにする儀式、そんな感じ。
で、夜になると一気に取りかかる。注文の細かい課題だったので先週までは長期戦を覚悟していたのだが、
ここまでちまちまと進めてみて「いけるかも」となったので、思いっきり勢いをつけて取り組む。
そしたらなんとかなっちゃうもので、無事に文章は練りあがった。あとは用紙に書くだけ。
まあそういうわけでけっこういいペースを保つことに成功。よかったよかった。
circo氏が上京して来た。来年のことを考えると頭が痛くなるのは僕だけではないようだ。
とはいえ、今の環境にこの先ずっと耐えられるとはまったく思わない。
どこかで納得のいく手段を見つけて、それを実行しないといけない。そのタイミングは早いほうがいいと思う。
しかし理想だけではご飯が食べられないのである。ご飯が食べられないとお腹がすくじゃないか。
特に突っ込んだ話をしたわけではないのだが、そういう現実にあらためて直面して、少し悩む。夕方近くになって、マサルと打ち合わせである。circo氏と一緒に電車に乗り、目黒で別れる。
マサルは現在、流行の(?)ルームシェアなるものをおっぱじめており、
板橋区は志村三丁目の住民となっているのである。僕の家からは三田線で一発なので感覚的には近いが、
いざ電車に乗ってみるとこれが1時間ぐらいかかってしまうのである。三田線は意外と長いのだ。
あらかじめ「リポートがピンチだから長居はできないよ」と告げていたので、
必要最小限の行動+1時間ほどマックでダベって過ごす。
今の僕とマサルにとってダベるという行為は、発想を広げるという点で特別な意味合いを持ちつつある。
いろいろ頭を回しながらダベる。まあまだ今は内容よりは考えることを優先させる段階だろう。
どうにかして、どうにかなりたいものだ。物事を面白く転がしていきたい。決意のほどを記録しておく。
さて、夜。メシを食って、腹を据えてじっくり考える。
というか、結論はすでに出ている。去年の5月24日に出ている。日記にも書いた(→2006.5.24)。
その結論を、何があってもブレないで信じていけるかどうかだ。今までは、信じることができている。
この先、想像をはるかに超えるキツさが待ち構えているかもしれない。
僕は「意外となんとかなる気がする」と、わざと楽観的に構えるようにしている。その楽観を貫き通せるのか。
繰り返すが、結論はすでに出ている。あとは、七難八苦を楽しんでいける覚悟を表に出せるかどうかだ。
それで結局、circo氏にメールを送って決意のほどを述べた。ややすっきりした。
僕は人から必要とされたいし、人を必要としたい。そういう毎日を送りたいと思っているうちは、ブレようがない。
これからも何度か悩んで、何度も同じ結論に至るだろう。その間も努力を続けられるなら、まったく怖くはない。
ブラックマヨネーズ吉田がフリートークで発するコメントは面白いなあ、と最近よく思う。ボケ具合のバランスが好きだ。
そういえば昨日、6月に受けた試験の結果が出た。
無事に単位を取得することができて、これでほぼ半分をクリアした感じである。
実に順調なのではあるが、来年の生活のことを考えると、とても浮かれてなんていられない。
とにかく、単位は取れて当然、その先の結果を残すべくがんばるのである。
Amazonがよくわからない。
昨日から今日にかけて日付が変わる直前に注文したものが、今日の夜に届いたのである。
いくらなんでも速すぎるだろ、と思うのである。出前迅速すぎである。
以前ボーナスが出て県庁舎建築についての専門書を思いきって買ったときには(忙しくてまったく読めていない)、
実に3週間も待たされた。それだけに、この速さはまったく想定していなかった。
メールに記載されている配送予定日がまるっきり無意味ではないか。
僕としては迅速に届けてくれるよりも、時間帯の指定をさせてもらえるほうがうれしい。
そういう方向でのサービスを充実させてほしいと思うのだが、どんなもんなんですかね。