diary 2006.7.

diary 2006.8.


2006.7.31 (Mon.)

企画担当の先輩と一緒に、著者の先生のお宅へお邪魔する。初校の校正をお願いするのだ。
先生のお住まいは大森駅からちょっと歩いたところなので、僕のアパートから自転車で簡単に来られる距離だ。
わざわざ会社から電車を乗り継いで行くのがなんとなくもったいなく思えてしまう。しょうがないことではあるが。

中央線は夏休みの小学生たちでいっぱいだった。チラホラと、ピカチュウのお面をつけている姿が目立つ。
ポケモンのスタンプラリーをやっているようで、相変わらずのポケモン人気にあらためて驚いた。
確か電のうせんしポリゴンの一件は僕が国立にいた頃の話だから、もう6~7年くらい経っているはずなのだ。
お母さんに連れられてスタンプを探しまわる子どもたちを見て、その勢いが衰えていないことに呆れる。

大森には意外と早く着いてしまい、しばらく蘇峰公園で時間をつぶす。
蘇峰公園はその名のとおり、徳富蘇峰の家が公園になった場所である。蘇峰を記念する展示もある。
世田谷区にある芦花公園は都立公園で、もっと大きい。弟(蘆花)のほうが兄(蘇峰)よりでかいとは生意気な、と
ちょっと思う。それにしてもここにいた蚊が非常に強烈で、後でわかったのだが両足ともふくらはぎをたっぷり刺された。
刺された痕が5~6個ほど集中していて、それが何か悪い病気の斑点みたいに見えて気持ちが悪い。これには参った。

時間になったので先生のお宅にお邪魔する。先生は学会からは完全に引退されており、悠々とした生活をしてらっしゃる。
この初校も田舎にある別荘で野生の生活を楽しみつつチェックします、とのこと。うらやましいものである。

会社帰りにふらっと神保町~秋葉原周辺を自転車でまわってみる。どうやらそのときに定期を落としてしまったようだ。
急いで交番に届け出る。人生で初めての経験だ。でも定期は半年で買っていたので、とてもこの事態を面白がれない。
なんとなく、出てきそうな予感はするんだけど、出てくるまでの経済的なことを考えると頭が痛い。非常に困った。
まあ授業料だと思ってあきらめるしかない。人はこうして痛い経験をすることでより賢くなっていくのね……。


2006.7.30 (Sun.)

姉歯祭りである。今回はみやもりが群馬に転勤ということで、突発的に集合となった。

家でダラダラしていたら思いのほか出かける時間が遅くなってしまって、国立に着いたのが午後3時くらい。
部室に着いたらニシマッキーがまさに部室に入らんとす、ってところ。ナイスタイミングである。
中に入ったら湿っぽくって暑くてたまらない。窓を開けようにも蚊がいるので開けられない。困った。
ふたりでしばらく久々の部室内を物色して過ごす。『さよなら絶望先生』はいいが、その他アキバ方面のマンガを発見。
なんかよくわからんがフィギュアまで置いてあったので、これは会長OBの特権を発動して捨ててしまおうかと思う。
でも大人げないのでやめた。しかし部室にそういうものを置いたらオシマイ、という意識は持ってほしいと思うのである。

しばらくうだっていたらリョーシ氏到着。じゃあ始めるか、ってことで、FREITAGから『アンゲーム』を取り出す。
今回の姉歯祭りのために、僕はわざわざ都内の東急ハンズをまわって「一般向け」と「カップル向け」を買っておいたのだ。
(『アンゲーム』についての詳しい説明は、過去ログを参照するのだ。→2006.7.22
ボードゲーム版とちがってカード版は単純明快、文が書かれたカードを順番に一枚一枚引いていくだけ。
そうして同じように文の内容に応えるのだ。が、この書かれている文がクセモノなのである。
どれもが見事に、答えづらかったりトラウマをほじくり返したりするものばかりなのだ。例をいくつか挙げていくと、
「家から閉め出されてしまったときのことを話してください。」「何かを『やりたくない!』と思ったときあなたはどうしますか?」
「転職について、あなたの気持ちを教えてください。」「あなたなら人生最後の一年間をどのように過ごしたいですか?」
「次の文章を完成させてください。『……を分かち合える誰かがいたらいいのになぁ』」
「誰も知らないあなたについて、教えてください。」もう、そんなんばっか。

順繰りにカードを引いて、答えていく。だいたい3分くらいしゃべればよいので、しゃべりのトレーニングになるなあ、なんて思う。
それに性格も出る。ニシマッキーはなるべくトラウマをほじくらないようにあっさり終わらせようとするし、
リョーシ氏はマジメなのでしゃべっていくうちに内面に向き合ってしまう。僕はヘヴィなものも面白おかしく話そうとするし。
そんな具合に、「これはメンツによって面白くなるんだなー」と思っていたら、えんだう氏が到着。姉歯祭り初参戦である。
だうは僕らの2個下で、佐久長聖から学芸大に来た長野県出身の千原ジュニア似。クイ研らしくこだわりの多い男だ。
先日はめりこみ祭りで僕らとJリーグ・日本代表トークで盛り上がった(→2006.6.17)。ジェフ千葉と日本ハムのマジファン。
だうも交えて『アンゲーム』再開。NPOでカウンセラーをやっているせいか、わりと『アンゲーム』に客観的に取り組んでいた。
そしてみやもりも到着。さっそく『アンゲーム』の輪に入れる。以前僕らに話してくれなかったあれこれを少し話してくれたので、
僕としてはまあ満足。みやもりは人格ができているので、この手のゲームには素直に取り組んでくれる。総じて面白かった。
なお、残念ながらダニエルは病欠。藤乃木のふぶきロースを食べる日はいったいいつになるのだろうか……。

日が暮れて腹が減って国立駅前に出る。居酒屋に入って乾杯である。
まず話題は群馬について。群馬がどういうところか、全員が持っている知識を総動員してあれこれ想像する。
まあだいたい、前橋なんにもないよとか、自民党強すぎとか、風が強いとか、やっぱ車で通勤するしかないのかなとか。
群馬にはどんな市があったっけ、って話題になって考えてみるんだけど、これがあんまり出てこない。
隣の栃木はけっこうポンポン出てきたのに。でも温泉あるからいいじゃん、なんてことで話題が移ったり。

で、しばらくしてマサルが登場。第一声が「みやもりくん、左遷おめでとう!」
久々に顔を合わせたためか、マサルのテンションは今日も変に高くて面白かった。
僕のことを「イ=ビュクホン」って呼ぶし。「アナタがーチュキだかラー」とCMのマネで叫ぶし。それチャン=ドンゴンだし。

まあそんな感じでいつもどおりに楽しい酒なのであった。
店を出てゲーセンに行ってみるが、『クイズマジックアカデミーIII』は置いてなくってやや興ざめ。
とりあえずいずれ群馬の温泉で姉歯祭りやろうぜ!ってことで、オプティミスティックに約束して解散したのであった。


2006.7.29 (Sat.)

朝、今までさんざん世話になってきたRX51(→2006.5.122006.7.8)を回収してもらう。
なんせ重いのでそれなりにドタバタして、あんまり感慨に浸っているヒマはなかった。
「いなくなっちゃったなあ……」なんてわざと声に出してつぶやいてみる。そうしてみないと申し訳ない気がした。
愛着のある道具ってのは、今まで確実に自分の中の一部分として機能してきたわけだから、
もっと大きな喪失感ってのがあってほしかったんだけど、正直それをあんまり感じられなくって、悔しかった。
使う頻度は減っていて、それでも使った記憶は鮮明に残っているから、リアリティとして迫ってこないのかもしれない。
コンポの両脇に置いてあるRX51のスピーカーは健在で、毎日しっかりと使っている。だから手元に残した。
これを捨てることになったとき、本当に淋しい気持ちになるのかもしれない。

夕方、ぷらぷら自転車散歩がしたいなあ、なんて思ってあてもなくこぎ出して、目黒通りを行く。
そこからなんとなく武蔵小山に行く。ラーメン屋で晩メシを食うと、駅の中に入ってみる。
目黒線が地下にもぐってから、来るのは初めて。駅の入口が巨大な洞窟みたいで、変な気分だ。
同じように西小山にも行ってみる。こちらは改札が入口すぐ近くにあるので、ろくに中には入れなかった。
(定期を持ってきていれば、中に入ってあちこち探検できたのだが。まあ、気づかなかったのだからしょうがない。)

まだまだ帰るのがもったいなく思えて、落語を聴きつつ立会川緑道をふらふら走ってみる。
ふだんまったく縁のない住宅街。街灯に照らされた家々はとても落ち着いた姿をしている。
しばらく行ったら碑文谷の辺りに出たので、ダイエー方面へ。そこから目黒通りに戻ると、山手通りで南下してみる。
なんとなく、ふと、第二京浜に曲がって戸越の周辺へ行ってみる。戸越銀座を東へ進んでみる。
東端まで行くと新幹線の線路の下、込み入った辺りをぐるぐる。半分わざと道に迷い、どこに出るかを楽しむ。
やがて見慣れた四間通りに出て、戸越公園駅へ。そこで右折して少し進んで、かつての仕事場を眺める。
さらにまっすぐ進んでみる。郵便局がスーパーのオオゼキになっていて驚いた。さらに突き進む。
さっき通った戸越銀座を突き抜けて、住宅地へ。もういいか、と思って引き返す。かつての仕事帰りコースを行く。
途中で旗の台のTSUTAYAに寄って、2階のレンタルのフロアをひとまわりしてみる。意外と充実していた。
古典の映画のコーナーで立ち止まる。まだまだ見ていない名作は多いのだ。がんばって見ていかないとな、という気になる。
そして家に戻る。

ちょっと行ってない間に、けっこう街は変わっていた。でも実際は、僕が通っていた間も街は変化していて、
それに気づかなかっただけなのだ。久しぶりだから目につく。それだけのことにすぎない。
すべてのものはつねに変化しつづける。変わらないのは、「変化する」という事実だけだ、なんて考えてみる。
別に変化することは悪いことではない。僕は素直にそれを、肯定的に受け止めるだけなのだ。


2006.7.28 (Fri.)

タモリ倶楽部でGoogle Earthをテーマにいろいろやっていた。それを見ていて、僕もいろいろやってみたくなった。
しかし、Google Earthをインストールするのはなんとなく気が引けたので、とりあえずGoogleマップで遊んでみることにした。
(後日、きちんとインストールをした。航空写真を見るぶんにはだいたい一緒のようだ。)

まずは航空写真で今、自分が住んでいるアパートを見てみる。
東京は家だらけなので、マップと写真を交互に確認しながらアップにする。
ギリギリまで拡大してみて、たまげた。ここまでモロ見えになってしまうとは! 衛星写真おそるべしである。
ほかにも都内の気になるところをあちこち見ていく。こんなんいいの?と思ってしまうくらい、細かいところまで見える。
調子に乗って長野県のほうも見てみる。が、こちらはそこまで縮尺が対応していなかったので、
大雑把なところまでしかわからなかった。将来的には田舎の何もない森林までどアップになるようになるのかもしれない。
ネットでどこにでも行った気分になれる時代がすぐそこまで来ている。

続いて、航空写真で離島を見てみる。前にも書いたが、僕は離島の地図を見ていると怖くなる(→2002.8.27)。
海なし県に生まれた人間としては、離島はポツンとさみしげで怖くなるのだ。だからこれは、怖いもの見たさで見ているのだ。
やはり縮尺が対応しておらず、細かいところまでは見られない。しかし、真っ青な中に毅然と浮かぶ緑の姿は鮮明に見える。
周囲の青さはやはり圧倒的で、その広さに今にも呑み込まれそうになっているさまは、背筋にぞっとくるものがある。
伊豆諸島はそこそこ大きいのでまだいいが、小笠原諸島になるともうダメ。硫黄島とか、もう、見てらんない。
沖縄のほうはむしろ台湾や中国大陸が近くなるのでそんなに怖くない。やっぱり東京都の離島が怖い。
ミクロネシアとかポリネシアとかメラネシアに暮らす人なんてもう想像できない。根っからの山国育ちだな、と実感する瞬間だ。
(もしかしたら、これは僕が高所恐怖症であることと関係しているかもしれない。高いところでの周りに支えのない感じと、
 広い海に囲まれて周りに陸がない感じとは、実はけっこう似ているんじゃないかと思う。それで怖いのかと思う。)

今度はマップに切り替えてみる。都内の地図は見慣れているので、あらためて飯田市のマップを最大に拡大して見てみる。
すると、それぞれ店の名前が表示されるのに気がついた。大きな商店は当然のように出ているが、小さな店もちゃんとある。
飯田高校脇のバイク屋・今井商会の名前が出ていて驚く。どういう基準で名前を表示しているのかわからなくって面白い。
もっと驚いたのが、箕瀬のラーメン店「ちんや食堂」。木造の店舗は右半分が傾いている有様で、ビールを「麦のジュース」、
日本酒を「米のジュース」と店内に貼り紙しているあの「ちんや」が、天下のGoogleマップで表示されているのである!
これには心底たまげた。Googleの社員はちんやでラーメンを食ったことなんてないだろうに。あー、ちんや懐かしい。

しかし地図を眺めていると時間はいくらでもつぶせますな。WikipediaとGoogleマップは非常に危険な娯楽だわ。


2006.7.27 (Thu.)

編集の仕事をしていると、つくづくこの仕事は数学だなあ、と実感する。

編集の仕事は印刷所との二人三脚であるから、印刷所の人にわかりやすく指示書きをしないといけない。
それであれこれ赤ペンで原稿に書き込みをするわけだが、なかなかこれがうまくいかない。
僕の場合は上司にいちいちチェックをしてもらっている。そうして、詰めの甘い箇所を指摘してもらっているのだ。
そして毎回毎回、不備を指摘されまくっているのである。自分ひとりでは気づかないが、言われて納得。その繰り返し。
この様子は、プログラムを組むもののエラーが出てうまく動かず、いちいちバグをチェックしていく感覚にとてもよく似ている。
そしてそのたび、これは数学だなあ、と実感するわけだ。

考えてみればそれも当然のことなのだ。
だって数学とは言語だから。言語とはコミュニケーションのツールであるから、上手く伝えることが必要になる。
(だから僕にしてみれば、学校で習う主要3科目はすべて語学、つまりコミュニケーションの勉強ということになるのだ。)
数学における巧拙と、コミュニケーションにおける巧拙。それが仕事の巧拙から、すべて重なって見えてくる。
矛盾なく論理的に相手に意図を伝えること。それを実現するべく地道な作業をする様子は、まさに数学なのである。

よく「数学なんて生きていくうえで必要ない」とか「人の心は数学ではとらえられない」なんてことを言う人がいるけど、
それは自分はまったく数学を理解していないってことを全力でアピールしているようなものだ。とてもかっこ悪い。
僕は数学の必要性について、塾講師のときには「物事を解決する手順をトレーニングする科目」と説明していたけど、
こうして毎日数学の要素を持った仕事をしていると、もう一歩踏み込んで、こう思う。
数学とは、「自分の考えていることを手際よく正確に相手に伝えるためのトレーニング/実践」である、と。
実はこのふたつの解釈は同じものを別の面から見ただけなのだが、つまりそれだけ僕の語彙が増えた、ってことだろう。
とにかく、「オッカムの剃刀」ほど極端ではないけど、なるべくバグ(誤解)のない美しい解答で相手に伝えること、
それが数学だし、それが数学的な今の仕事なのである。数学的センスが今ひとつの僕は、毎日苦労をしている。

幸か不幸か、見ていると上司は多分に数学的センスを持っているように思う(むしろ数学的にすぎるきらいもあるが)。
もっと日常における数学というものを深く自覚したうえで今の仕事に取り組めば、知見が広がるように考えているしだい。


2006.7.26 (Wed.)

高橋源一郎『優雅で感傷的な日本野球』。

野球が消えてしまった世界で、さまざまな断片から野球が追究される。本の中にある野球に関する記述を書き写す男、
野球を突き詰めて考えすぎた打者、日本野球の起源を語る監督などなど、さまざまな人物、さまざまな舞台から、
日本野球についての見解が多様に提示されていく。最終章では1985年の阪神タイガースの優勝を再検証することで、
それまでのさまざまな描写が総括されたりされなかったりする。まあつまりは、ありとあらゆるパラレルワールドから、
日本野球というキーワードへと集中していくことで、僕らが想像するよりもずっとたくさんの軸をもった次元から、
日本野球というひとつの本質をつかもうとしている……のかもしれない。

1988年にこの作品で第1回三島由紀夫賞を受賞。こういう悪ふざけが文学として許されるのってがステキである。
しかしながら、この芸風には途中で飽きた。
善意で表現すれば、「日本野球」というわれわれが自明のものとしている独特の文化を徹底的に茶化していくことで、
ひとつの言葉(「日本野球」)でまとめられている無限のドラマを描こうと試みているってことかもしれない。
でもそれが延々と繰り返されていく様子は、何十球もファウルやファウルチップで粘るのをずっと見ているような気分になり、
どうしても本末転倒になっている印象がぬぐえないのである。確かにボールをカットするのに技術は必要ではあるのだけど。

結局はタイトルで勝負あり、ということだったかな、と思う。書いた心意気は上記のようにわからないでもないんだけど、
芸風が単調なので、実はそれほど次元の軸が多いとは思えない。つまり面白がっているのは作者だけって気がする。
やるんならもっと多彩に、徹底的に分裂症的にやったほうがよかったんではないのか。はじけ足りない感触が残る。


2006.7.25 (Tue.)

ふと思ったのだが、人と会うことで都道府県を制覇する、ということにこだわってみるのも、面白いかもしれない。

この日記で書いているとおり、僕は「県庁所在地ひとり合宿」なるものをやっている。
各県の県庁所在地を訪れて、県庁と市役所の写真を撮って、街中を徹底的に歩きまわって、泊まる。それだけのことだ。
今はまだ関東近郊をちまちまとまわっている段階なのだが、なんとかがんばって今後もあちこち行ってみたいと考えている。

しかしまあそれには時間とお金という両方のコストがけっこうかかってしまって大変だ。
もうちょっと楽になんとかならんかな、と思っているうちに出てきたのが、上記のアイデア。
自分が直接会って話した人から、その人の地元についての話を聞く。それでクリアとする。
そうして最終的に47都道府県を制覇できないか、という発想である。
これを数えてみるのは、なかなか楽しい。地図を見ながらひとつひとつチェックしていくと、意外な記憶がポロリと出る。
大学のサークルやゼミで貯金がそこそこあるのだが、まだ見たことも聞いたこともない県というのは、やはり存在する。
その県をどうやって攻略するか。ある程度運しだいではあるものの、意識してみると日常が面白くなるかもしれない。

まあ、そんだけ。


2006.7.24 (Mon.)

さて休日も終わって今日もまた仕事なのであるが、いいかげん雨がうざい。
僕はいつも昼休みに自転車で出かけてメシを食いつつ読書をしているわけだが、
雨の日にはそれができないので、社内で弁当を食って寝るしかないのだ。きわめて退屈。
今年は梅雨がはっきり明けないまま来ている感じだ。どうにも、気分がいまひとつ乗らないので困る。


2006.7.23 (Sun.)

池袋へ行ってみる。
目的は昨日と同じで『アンゲーム』なのだが、まあ余裕があったらフラフラ周辺をまわってみようと思いつつ。

池袋はビックカメラの本拠地であるわけで、まずそのおもちゃ売り場に行ってみる。
けっこう無造作におもちゃが並んでいる印象。やっぱり子どもを連れたお父さんが多い。
自分がいることがすごく場違いに思えてしまって、なんとも居づらいのはどこでも一緒だ。
まあ、将来、おもちゃ売り場をハシゴするような日が来ることになるのかもわからんのだけど。
今んとこ全然そういう気配などないわけだが、来たら来たで怖いし、来なけりゃ来ないで怖い。うーん、逃げ道がない。

収穫なしってことで、今度は池袋の東急ハンズへ。1階ではキャラクターグッズを扱っているのだが、
やはりここでもケロロ軍曹がけっこうなスペースを占めていた。なんかどうも、気になってしまう。
2階でウロウロしていたら、ついに隅っこで『アンゲーム』のカップル向けヴァージョンを発見。
姉歯祭りのメンツでカップル向けが必要なやつなんて数えるのが虚しくなるほどなのだが、
今回の目的としては非常によろしいアイテムということになる。即、購入する。

買い物も終わったということで、周辺をフラフラしてみる。
考えてみれば、池袋の周りを自転車でまわったことなんて、めったにない。
ジュンク堂のほうからゆっくりと東へ進んでいったら、前方にこんもりと緑が見える。行ってみる。
すると都電の線路にぶつかった。さらに先に行ってみたら、そこは雑司が谷霊園だった。
なるほど、言われてみれば確かに、霊園っぽい落ち着きを持った緑だった。
池袋の怪しげな雰囲気をそのままに、どことなく漂っている暗さがさらに重なってしっくりきている。

霊園をぐるっと一周してみようと思う。途中で別の道路に出たので、左折。
すると霊園の事務所に出た。霊園内も舗装されている道は自転車で走ることができる。しばらくウロついてみる。
するとかなり大きな石碑の背中に、見慣れた文字が刻まれているのが目に入った。
戒名なのだが、その中に「漱石」と入っている。これが夏目漱石の墓かーとびっくり。思わずお参り。
「頭がよくなりますよーに。文章が上手くなりますよーに」とお願いしたのだが、まあ先方もいい迷惑だろう。
さらにふらついていると、島村抱月がいたり竹久夢二がいたり小泉八雲がいたり。
「偉人たちの玉手箱やー」なんて彦麻呂っぽくつぶやいてみる。

そんなこんなしている間に、すっかり辺りは夕方の風景に。二郎でラーメン食って帰った。


2006.7.22 (Sat.)

姉歯祭りに備えて、新宿まで『アンゲーム』を探しに出かける。
『アンゲーム』というのは、以前伊集院のラジオで紹介されていたボードゲームで、
すごろくのようなものなのだがそのマスひとつひとつに、参加者のトラウマをえぐるような質問が書かれていて、
それに答えなければいけないというルールなのである。勝ち負けを競わずただトークをするということで、『アンゲーム』。
いちおう事前にネットで調べてみたのだが、ボードゲームになっているのは最も標準的な「一般向け」のみのようで、
ほかの「ティーン向け」「子ども向け」「カップル向け」などはカードゲームとして発売されているようだ。
まあ金もないし、自転車で持ち運びやすいほうがいいなあってことで、カードのほうを探してみることにしたのである。

まずは西口・ヨドバシカメラのおもちゃ売り場に行ってみる。ふだん行きつけのおもちゃ屋なんてないので、
都会へおもちゃを探しに来るというのがすごく新鮮なことに感じられる。
小さい頃にはけっこう興味を持ってまわったおもちゃ売り場も、最近ではまったくご無沙汰なのだとあらためて再認識。
実際、客層は子どもとその親ばかりなのである。見事に10代前と30代ばかりで空間が占められているのだ。
そして久々のおもちゃ屋では、女の子向け売り場に圧倒されてしまった。その一角だけ、ピンク一色なのである。
女の子ってのはそんなにピンクが好きなもんなのかねえ、と少し不思議に思った。
で、肝心の『アンゲーム』はなかった。

次は小田急のビックカメラ。ここにも『アンゲーム』はなし。まあマニアックなものだし、しょうがない。

東口に出てみる。さくらやのホビー館。ゲームに模型にDVDと細かいところは充実しているのだが、
いわゆるおもちゃは扱っていなかった。ふだん気にも留めていなかったので、それがちょっと意外だった。

最後に東急ハンズに行ってみる。人でごったがえす中、ボードゲーム売り場に行くと、あった。
1個だけだが、置いてあったのだ。それをカップルが興味ありげに手に取って眺めている。
買え! 買っちゃえ!と心の中で強く念じたのだが、結局買わず。舌打ちしつつ、カード版を探す。
しかしこちらでも見つからず。残念である。

そんなわけで僕の乏しい活動範囲では、新宿で『アンゲーム』を発見することができなかった。
いま考えてみりゃLOFTとか行ってみりゃよかったのに。
まあそれよりも、『ケロロ軍曹』(→2006.7.7)がプラモ化されてたという事実に驚いた。
まるでかつてのガンプラのような感じで、棚にプラモが積まれていたのだ。そこまでの人気なのか、とびっくり。


2006.7.21 (Fri.)

夜、11時ころ、なんとなしーにテレビを見ているとつまんなくって、それでNHKにチャンネルを変えて、ぶったまげる。
そんなのがきっかけで、結局きちんと毎日見ているのが、『サラリーマンNEO』なのである。

生瀬勝久が大活躍し、田口浩正とマギーと田中要次といった辺りがそれに続く。実にずるい。
そういうバイプレイヤーを並べることで、ターゲットであるサラリーマンの主役になれない感をくすぐっているようだ。
コントの内容としては、きちんとつくり込んだものと俳優のキャラ(ほとんど生瀬)に任せるものとが半々といった印象。
僕としてはつくり込んだものがあるのがうれしい。その辺がなんとなく、NHKであることのメリットとなっている気がするのだ。

ターゲットをサラリーマンにしているわけで、そういう番組が「わかる」というところに歳をとったなあ、と思う。
学生なら学生なりに楽しむことができる番組だと思うんだけど、明らかに僕はサラリーマンとして楽しんでいるからだ。
見ていると、つくり方は子ども番組の要領と一緒だ。NHK教育の子ども向けの要素を「サラリーマン」に置き換えただけ。
特にコント以外の場面でそれは顕著で、「世界の社食から」なんかいい例だ。ノウハウがあるからパロディが真剣にできる。
だから、NHK教育の安定した面白さとコントという異色の組み合わせが「サラリーマン」の旗の下に実現しているわけで、
それがなんとも不思議なんだけどしっくりきていて、つい夢中で見てしまうのである。

こういう元気なNHKを見ていると、うれしいんだけど悔しい、複雑な気分になる。
僕は「モンティ・パイソンくらい狂った“教育番組”を国営放送としてのNHKでやること」が将来の夢なのだ。
この『サラリーマンNEO』は確実のその一端を実現してくれちゃっているわけで、地団駄を踏むしかないのだ。困った困った。


2006.7.20 (Thu.)

乙一『ZOO』。(正確には、『ZOO1』と『ZOO2』。集英社文庫版。)
本屋で平積みになっていたので、迷わず買った。大いに期待をして読みはじめる。
が、すぐに期待は裏切られてしまった。これほどつまらないものだとは思わなかった。本当にがっくりした。

まあよしとしましょう、という作品は「カザリとヨーコ」「陽だまりの詩」と最後に収録された「むかし夕日の公園で」くらい。
あとはどれも自分の基準からすれば読む価値なし、というレヴェル。乙一と信じて金を払って損した。
「陽だまりの詩」も、ほぼ同じネタをすでにアシモフが『われはロボット』でやっていて(→2005.5.18)、
雰囲気がよくなきゃ評価したくないところだ。

全体的に、ミステリであるがゆえのトリックの優先、読者をだますことの優先によって話がつまらなくなっているのが目立つ。
読者にとっての意外性を追求しすぎて、どれも話に無理がある。もちろん、無理のない話ばかりが面白いわけではない。
しかし、この『ZOO』に収録されている作品は、意外性で驚かせてひねってオチをつける、その繰り返しが延々と続くだけ。
もはや初期の冴えは微塵も感じられない。残酷で残念なことだが、乙一の才能が枯渇した、そんな話ばかりだった。
変な例えかもしれないが、左利きの天才プレーヤーがトリックプレーにこだわりすぎてDFに完全に抑えられて精彩を欠く、
そんな光景を思い浮かべた。あるいは左足をケガして右足でのプレーがまったくできずにあえいでいる、そんな感じ。

世間では「とりあえず乙一だから褒めておけば安全」なんて流れになっているのかもしれないけど、
とてもじゃないけどそんなことが許されるような作品群ではないと思う。僕ははっきり言うよ。乙一、お前つまんないよ。
もし、作者本人が「乙一であることに飽きている」とすれば、救いはある。しかしそうでないならば、乙一はオシマイだ。
これって言いすぎ?


2006.7.19 (Wed.)

『PUNCH THE MONKEY!!』のベスト盤を借りてきた。というのも、このアルバムには従来の曲のほかに、
スカパラの新しい曲も収録されていると知ったから。ぜひとも聴いてみたいと思い、そのためだけにわざわざ借りたというわけ。
何を今さらとつっこまれるかもしれないが(2001年のアルバムなので)、僕のアンテナなんてそんなもんである。

で、スカパラの「ルパン三世主題歌 I 」を聴く。これがもうとんでもなくすばらしいデキだった。
原曲は4拍子なのだが、これを6拍子にしているのがまず凄い。この解釈には顎がはずれるかってくらい驚いた。
当時のスカパラはクラブミュージックの影響が強く出ていた時期で、その方向性を存分に発揮している。
鍵盤でミニマルなリフを敷いておいて、そこに生のホーンを重ねる。そしてパーカッションをたっぷり利かせたところに、
青木達之が歯切れのよいドラムスを刻んでいく。そうなのだ! この曲は、青木達之が叩いているのだ!
変拍子でクラブミュージックってのは完全に青木の土俵で、ふだん地味な印象のある青木のドラムスが、
この曲では絶対に欠かせない要素として君臨している。まるでメロディのようなドラミングだ。本当に感動した。
(青木がドラムスを叩く新曲を聴けるなんて思ってなかったので。と同時に、もう聴けないという思いもあってよけいに。)

このベスト盤は新たに収録されたのがこのスカパラの「ルパン三世主題歌 I 」だけ、ということで、
それってつまり、この曲だけを目当てに買う層を想定しているってことやん!と思う。
だけどこの曲にはそれだけの価値があるのだ。久々に「うおおおおお!」と思わず声に出ちゃった名曲なのだ。


2006.7.18 (Tue.)

あらためて、ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』をじっくり聴いてみたのだが、これがすごい。
関西弁の神様のセリフのバック、そこだけギターが運動会でお馴染みのオッフェンバック『天国と地獄』になっている。
そして最後に流れるお経だが、途中からビートルズの『A Hard Day's Night』になっている。
そこに『エリーゼのために』を重ねてフェードアウトするなんて、いったいどういう発想をしているんだろう。
これらのことはもうすでに常識になっているんだろうけど、あらためて聴いてみると、すごすぎる。

この曲にはちょっとした思い入れがあるので、ちらっと書いてみる。

僕が小学校低学年のとき、circo氏からテープレコーダーをもらった。といっても、ただのテープレコーダーではない。
なんと、マイクロカセットのレコーダーだったのである。今では留守番電話でしか使われることのないアレである。
なんでか知らないけど我が家にはこのレコーダーがいくつかあって、僕も潤平も、circo氏からそれぞれ譲ってもらったのだ。
これで曲を聴くのが楽しくて楽しくてたまらなかった。マイクロカセットの手乗り感覚が、またよかったのだ。
テープはデカければデカいほど音質が良くなるので、当然、マイクロカセットの音質は悪い。
でもマイクロカセットのメタルテープ(!)があったりして、心意気では負けていなかったのである。

で、潤平のレコーダーにはテープを遅く再生する機能がついていて、これで『帰って来たヨッパライ』を再生すると、
大人の男の声で「おらーは死んじまっただー」とゆっくり歌っているのが、見事に聞こえるのだ。
そんな具合に早回しで録音ってのがどういうことなのかを身をもって体験したわけで、
僕が音楽ってすげーなー自由だなーと思ったいちばん最初の記憶が、この『帰って来たヨッパライ』なのであった。


2006.7.17 (Mon.)

天気予報がまったく信用できない日が続く。「今日の天気」はまあともかく、「明日の天気」がどうも信用できない。
僕のように休日には気晴らしに自転車で走らないと死んじゃう人間には、「明日の天気」はかなり重要である。
土曜日に走り溜めておくか、それとも日曜日に一気に走るか。天気によって、走る配分を決めるからだ。
この3連休は、できれば3連発で走ろう、と決めていた。でも梅雨なので、無理はできない。
それで天気予報と相談しつつ、3日間のうちいつ走るかのアイデアを練ることになる。

まずは初日の7/15(おととい)。日記にも書いたとおり、午前中は晴天。それで思いきって環八にチャレンジする。
しかし正午過ぎから天気は急激に悪化、午後1~2時までかなりな勢いの雨が降った。これには正直、ちょっと懲りた。

そして2日目の7/16(昨日)。午前中、少し雨がパラついていた。ちょっと迷った末、お出かけをしないことにする。
ネットの天気予報を見るに、明日(7/17)のほうが天気が安定しているっぽいのがその根拠だ。
今日走れなかった分は明日たっぷり走ろう、そう決めて一日がかりで日記をまとめていくことにした。
で、午後になると日差しがチラホラ。一方で明日の天気予報はどこを見ても傘マークに修正されていく。よくない流れだ。

そして3日目の7/17(今日)。前日の僕の読みは完全にはずれた。朝からの雨。
昼ごろに少し雨がやんだので食料品と昼飯を買いに出かけたが、その後は予報どおりにしっかりと雨が降った。
それなら昨日の朝の時点で変に曇りマークなんか出しとくなよ! 最初っから雨の予報にしとけよ!とキレる。
自転車のためだけに猛勉強して気象予報士の資格を取ってやろうか、とすら思う。思うだけで実行はしないのだが。

梅雨どきなんだから基本的に雨は降るもの、と思わなければいけないのかもしれないが、それにしてもやっぱり、
納得がいかないのである。最新の予報に更新されるたび、後出しジャンケンをされているように思える。
せめて「降水確率は何%か」ではなく、「どんな降り方をするのか」を研究してくれる予報があればなあ、と思う。
他力本願で申し訳ないんだけど、誰かやってくれませんか?


2006.7.16 (Sun.)

で、今日は一日かかって環八日記を書いていた。自転車で走るよりずっと時間がかかった……。
天気がよければまた自転車でどこかに出かけたのだが。どうも行動パターンが極端でいけないなあ。


2006.7.15 (Sat.)

このニュースを覚えているだろうか。

環八、50年がかりで全線開通……28日正午から通行可能

東京23区西部の大動脈「環状八号線」(環八通り)の未開通区間約4.4キロの工事が完了し、
28日正午から通行できるようになる。これにより、着工から50年を経て、
総事業費約5000億円を投じた環八通りは全線開通する。
渋滞緩和や大地震の際に延焼を遮断する効果が期待されている。

環八通りは大田区羽田空港-北区岩淵町を結ぶ全長44.2キロ。
都心に向かう交通量の分散を目的に、8本の環状道路の1つとして計画された。
終戦直後の1946年、都が都市計画決定し、56年に着工したが、用地買収は難航を重ねた。

最後に残っていた未開通区間は、南田中地区(杉並-練馬区)と、北町・若木地区(練馬-板橋区)。
ともに住宅密集地で用地買収を最小限にしようと一部を半地下構造にした。
軟弱な地盤を補強する必要もあり、両区間だけで都庁舎の建設費並みの約1400億円がつぎ込まれた。
また、1日約6万台が通過する井荻トンネル(練馬、杉並区)を通行止めにしないまま、
新設のトンネルを接続する工法を採用したため、94年の事業開始から完成までに12年かかった。

杉並区の四面道交差点-北区岩淵町間は現在、
環八に接続している笹目通りなどを経由して約1時間かかっているが、開通で30分程度に短縮されるという。

【読売新聞 5/27】

そんなわけで、ようやく挑戦できそうな天気になったこともあり、走ってきました、環八。

 びゅく仙、環八を行くの巻。

その前に予備知識として、環八通り(正式名:都道311号環状八号線)を含めた東京の環状線について確認をしよう。

東京の環状線が最初に構想にのぼったのは、関東大震災後に内務大臣に就任した後藤新平の震災復興計画である。
これは東京に放射状と環状の幹線道路を走らせて、1000万人都市を目指すというものだった。
計画は当初の予定を縮小しながらも1927年に正式に決まり、東京の中心部から四方向に延びる放射状の道路と、
皇居を中心にした環状道路が整備されることになった。このときに環状1号線から8号線までの名称が登場する。
しかし、財政上の問題やら用地確保の問題やらで、完全に計画が実施されることはなかった。
(東京への往来を便利にする放射状の道路がまず優先され、都内の移動を便利にする環状線は後回しになったのだ。)

戦後には都の戦災復興区画整理事業が1947年より開始。これは1927年の計画を受け継ぐ内容になっていた。
しかしこちらもシャウプ勧告やらドッジラインやらで計画は縮小、実施はどんどん遅れていき、
けっきょく現在、その名のとおり環状の道路となっているのは5号線(明治通り)と7号線(環七通り)だけである。
計画どおりに全通したのは環七だけだったが(1985年)、このたびついに(環状ではないが)環八も全通したというわけだ。

番号 通称名(主なもの) 正式名(主なもの)
環状1号線 内堀通り(部分) 東京都道401号麹町竹平線
環状2号線 外堀通り(部分) 東京都道405号外濠環状線
環状3号線 外苑東通り(部分)・三ツ目通り(部分) 東京都道319号環状三号線
環状4号線 外苑西通り 東京都道418号北品川四谷線
不忍通り(部分) 東京都道437号秋葉原雑司ヶ谷線
丸八通り 東京都道476号南砂町吾嬬町線
環状5号線 明治通り (西側)東京都道305号芝新宿王子線
(東側)東京都道306号王子千住南砂町線
環状6号線 山手通り 東京都道317号環状六号線
環状7号線 環七通り 東京都道318号環状七号線
環状8号線 環八通り 東京都道311号環状八号線

(参考ページ:東京発展裏話 #6 東京放射環状道路網の夢 ~文京区小石川の環3通り~

さて、午前10時に家を出ると、まず向かったのは羽田空港。やはりやるからには、起点である羽田まで行かなくては。
でもホントに空港まで行くのはつらいので(風が強いうえにやたらと遠い。→2001.4.3)、天空橋駅からのスタート。
ここまで来るだけでも1時間かかるので、すいませんがそれで勘弁してください。

  
L: 天空橋駅周辺より眺める環八。周囲は雑草の生い茂って閑散とした場所。さすがに空港だからか。
C: 左の写真、環八の看板を拡大してみたところ。いよいよスタート。  R: 右手の空港の様子。プロペラプロペラ。

大田区の南端である羽田空港からしばらくは、大型のトラックが似合う大雑把な景観が続く。
緑が植えられてはいるものの、どこかスケールが大きくて人影は少ない。ベージュのブロックがウソ臭く敷かれている。
しかし高速のランプを抜けると、一気に大田区らしい猥雑な街並みへと変化する。糀谷から蒲田へ。
この辺りは人の往来も盛んで、環八とはいえ、どこかのどかな印象を与える。

  
L: 空港から穴守橋を渡ったところ。周囲には工業地帯らしい空気が漂っている。この時点ではとんでもない炎天下だったのだが……。
C: 大鳥居の交差点を抜けたところ。道路はそんなに混んでいない。むしろ交差していた産業道路のほうが交通量は多かった。
R: 蒲田。第一京浜との交差点である。京急が工事中で落ち着かない。この辺までは京急文化圏。♪赤い電車に~乗っかって~

環八のJR京浜東北線との交差はとても大きな陸橋になっている。うんせうんせとのぼって、勢いよく下る。
が、すぐに東急多摩川線に邪魔されて、電車の通過待ち。車は地下でスイスイなのに、この差別はなんとかならんか。
その多摩川線や多摩川と沿うようにして、環八はゆっくりと針路を北西へととる。周囲は緑の多い住宅街。
あまり元気がないというか、くすんだ色の住宅が多く(失礼)、なぜか正直イマイチ明るい印象のない地域である。
田園調布付近ではそれがカラッと晴れるように垢抜ける感じがある。この差はなんなのか、いずれきちんと考えたいところだ。
大田区田園調布と世田谷区東玉川に挟まれた辺りからは、さらに第三京浜の気配が漂い出して、交通量も増してくる。

  
L: 第二京浜との交差点からちょっと進んだところ。  C: こちらは中原街道との交差点をちょっと進んだところ。右側は世田谷区。
R: 田園調布を抜けて目黒通りとの交差点付近。右手の緑は等々力渓谷。第三京浜が近づき交通量がかなり増えてきた。

 世田谷の誇るオアシス・等々力渓谷公園を見下ろす。ここだけ抜群に涼しい!

第三京浜は高速道路なので、スピードにモノを言わせて突っ切るのも危ない。しょうがないので歩道橋を使う。
狭くて急な階段の歩道橋だったので、自転車を引いて上り下りするのはかなり気をつかった。改善していただきたい。
そうして上野毛・瀬田へ。いかにも世田谷南部らしい光景が続く。世田谷南部は大きな道路に区切られているんだけど、
うまく緑を使って落ち着いた住宅街にしている印象があるのだ。交通量の多さに慣れている、というイメージがある。

そして用賀・東名高速の東京インターを突っ切ると、砧公園である。世田谷区では駒沢公園と並ぶ、大規模な公園だ。
ここは本当に緑が多い。公園の脇を通るだけなのだが、涼しさがまるで違うのだ。大げさでなく、冷たいとすら感じるくらい。
環八もこの辺になると非常に交通量が多くなる。アスファルトの熱と車の出す熱とで、道路の上は眩暈がするほど暑い。
しかしここは本当に走りやすい。等々力渓谷公園もそうだったけど、緑がいかに大切なのか、身をもって実感した。
なお、この辺りから環八は南北にまっすぐ走るようになる。

世田谷の緑の多さはまだ続く。世田谷通りとの交差点を抜け、小田急線のガードをくぐり、区の北半分に入っても同じ。
街路樹はしっかりと茂っている。さらに先には芦花公園があり、ここも緑が豊富。いいところだなあ、と思いつつ走る。

  
L: 国道246号を進んだ先、瀬田周辺。この先には東名高速。  C: 砧公園入口前。ここだけ5℃くらい低いんじゃないかって涼しさ。
R: 世田谷通りのとの交差点、三本杉陸橋を少し進んだところ。陸橋は車には便利だけど、歩行者にとっては景観を壊す存在と思う。

甲州街道を越え、中央道の下をくぐると杉並区に入る。杉並も緑が多いが、世田谷に比べると落ち着いているというか、
やや明るさに欠けるというか、そんな印象がある。でも、僕はかつて多摩地区で暮らしていたこともあり、
多摩でお馴染みの街道がいくつも通っている杉並にはどこか親しみを感じるのだ。
走っていて、都心から多摩へと接続していく、そのなだらかな中間点という感触が確かにある。

まっすぐ走っていくと、南から人見街道・井ノ頭通り・五日市街道と交差する。そのうち後ろの2つとは陸橋で交差。
やはり陸橋は好きになれない。向こう側が見えないことで、広い道路で分断されている感覚が、さらに強まる。
車の場合には一時的に高いところから見下ろすので、街の様子がよくわかって楽しいのだが、
この絶対的な強者と弱者の関係(ってのも大げさな表現だが)はなんとかならんもんかと考えるが、
どうしょうもないので、考えるのをほったらかして先へと進む。

 
L: 甲州街道の先、中央道の下をくぐったところ。やはり高速道路のあるせいか、交通量が多い。
R: 高井戸周辺、3つの街道と交差した辺り。杉並はやっぱりどこか落ち着いている。

しばらく快適に行くが、いきなり歩道は行き止まり。JR中央線である。車は快調にその下をくぐっていく。
右手を見ると、荻窪駅。気のせいか、僕がかつて中央線に乗っていたときよりも、新しい建物に囲まれている印象がある。
しょうがないので、ちょっと西に移動して中央線をくぐる。そうして環八に戻ると、道は何ごともなかったかのように走っていた。

そしてすぐに、青梅街道・天沼本通との交差点である四面道。環八でも屈指の複雑な交差点だ。広い。
この辺は(環八が地下にもぐっていることもあり)環八よりも青梅街道のほうが活気がある。
ちょっと後ろ髪を引かれる思いを感じつつ、環八を北へとひた走る。

  
L: JR中央線。この先には荻窪駅がある。  C: 住宅街を抜けて環八に復帰。広々と走りやがってこんちくしょー
R: 四面道の交差点。以前、修士論文の調査で青梅街道で多摩地区から帰るとき、ここに来ると23区に戻った気がした。

四面道の先は完全に住宅地で、急に環八が静かになった印象を受ける。
そして車道が井荻トンネルへと入っていくことで、その印象はさらに強いものになるのだ。

  
L: 杉並区桃井にて。井荻トンネルの案内板が出る。  C: 案内板を拡大。井荻トンネル内でも交差するのである。
R: 井荻トンネル入口。ここから環八は地下に潜る。地上はあくまで側道となるため、電柱にも「環八通り」という表示は一切なくなる。

かつて西武新宿線と環八は、井荻駅のすぐ隣で平面交差をしていた。ここは開かずの踏切として有名だったそうだ。
その問題解消と早稲田通り・新青梅街道・千川通りとの立体交差を一発で実現したのが、この井荻トンネルなのだ。
開通したのは1997年。これにより渋滞が大幅に緩和され、その経済効果は年間200億円に相当するとかしないとか。
なお、環八は正式には井荻トンネル内の道路であり、その真上を走る車道は環八の側道扱いとなっている。
おかげで上の道路の交通量はそれほど激しくはなく、走っていてまずまず気持ちがよかった。

 
L,R: 井荻トンネルの真上の換気塔。ただ建っているだけなので、せっかくだからカフェにしちゃうとかそういう発想はないのかな。

現在、井荻駅の隣に踏切は存在しない。道はしっかりと線路で区切られ、地下道を通らないといけなくなっている。
この地下道がけっこう大規模なのだが、入口が少々わかりづらかった。歩行者は階段でそのまままっすぐ下りられるが、
自転車用のスロープは逆側が入口で、振り返らないと気づかない。商店街でちょっとまごついてから、北口に出る。
(ちなみにこの周辺に「井荻」という地名はなく、上井草・井草・下井草となっている。井荻駅は井草3丁目。
 駅名が上井草駅-井荻駅-下井草駅なので、どうして井草駅じゃないのか? 井荻って何だ?と思って調べたら、
 かつては井荻村→井荻町という自治体があった。井草+荻窪=井荻だったのだ。今は元に戻ったということ。
 井草・荻窪・井荻の詳しい歴史についてはこちらを参照するのだ。 ⇒西武井荻商店街HPより井荻の歴史

さて、八成橋の交差点(環八と千川通り・旧早稲田通り)を越えると練馬区に入る。
この辺りは練馬区南田中といい、今回環八が全通するにあたって大規模な工事が行われた場所である。
八成橋の交差点の先をちょっと行くと右手に、車は入れないが歩行者は行ける、工事中の道がある。
その真下ではトンネルがそれと並行して右折している。ここからが、今回新しくできた環八なのだ。
正確に言うと井荻トンネルはここで終わり。井荻トンネルから右折で接続する練馬トンネルが、これ以降の環八ということ。
実は走っていて環八がここで大きく右(北東)に曲がるのに気づかず、そのままずっと北上して笹目通りに入ってしまった。
都道443号という表示が見えて慌てて引き返したしだい。これは環八=井荻トンネルが地下にあった影響で、
地上に「環八はここで右折」という表示が出ていなかったせいだ。あくまで地上は側道という扱いを実感。
(車道が工事中だから表示していなかったのもあるだろう。そうしないと混乱して工事中を突っ切ろうとする車が出そうだ。)

 
L: 八成橋交差点より南田中を眺める。正面に見えるのが井荻トンネルの出口。環八はこのまま地下を右折して練馬トンネルへ。
R: 南田中の交差点を逆側から撮影。奥から手前(左)が環八となる。金網&コンクリの下が練馬トンネル。右は笹目通りに接続。

練馬トンネル(環八)の地上、工事中の道を行く。車が通れないようにしているだけで、歩行者は通れるのだ。
だからもう99%完成していると言っていいだろう。未完成だけど通行可能な道を走るのは、なんだか変な感じだ。
いかにも練馬区らしい住宅&生産緑地(都市計画区域内にある農地のこと)の中をドカンと突っ切っていく道路。
走っているこっちには便利だが、地元の皆さんにしてみればたまらなくイヤな存在だろう。難しい問題だ。

さて、ここまで快適に走ってきたものの、ついにポツリポツリと雨が降り出した。
スタートしたときには超がつくほどの快晴だったのだが、そこそこな大きさの雨粒が落ちてきた。
(天気が徐々に悪くなっていく様子は写真を見るとよくわかると思う。意外なところで面白い記録になってしまった。)
目白通りまで出て、そこで地図を開いて雨宿りができそうな場所を確認。この先、練馬春日町に大江戸線の駅がある。
なんとかそこまでふんばって走る。駅の真上にある商業施設のカフェに飛び込んでしばらくしたら、
雨はかなり強烈な勢いで地面をたたきだした。いくらなんでも夕立には早すぎる。参った。

  
L: まだ工事が終わっていない道を行く。青い看板にはまだ何も書かれていないのが新鮮。
C: 車止めを撮影。車がいないのはいい気分。車はみんな地下の練馬トンネル内を走っているのだ。
R: 目白通りを越えた辺り。車道はスピードを出せないようにくねくねと曲げてある。なお、雨の勢いはだいぶ増している。ピンチ。

ここまででだいたい2/3。このまま雨がやまなかったらどうすりゃいいんじゃ、と思いつつサンドイッチをかじる。
雨は相変わらずの勢いで、やることがない。パソコン持ってくりゃ日記書けたのになーと後悔。
なんか書き物でもしようか、とペンを手に取るが、紙がない。いつもはルーズリーフやメモ帳を持っているのに。
しょうがないのでケータイを取り出し、メールを打ちはじめる。でも書いている中身は関西旅行などの日記。
ケータイで文章を書き出しておいて、自分宛てにメールを送って後で編集しよう、という算段なのだ。
これが思いのほかうまくいって、1時間くらいニチニチと文章を書いたころには雨がやんでくれた。

カフェを出ると、練馬区北部を行く。春日町~北町間はすでに開通している区間なので、車も地上を行く。
すっかり街に馴染んだ環八の姿がずいぶん久しぶりに思えてくる。自衛隊の敷地では特殊車両が並んでいた。

  
L: 練馬春日町の交差点にて。ここで練馬トンネルは終わり、環八は地上へ。  C: 有楽町線の平和台駅前。
R: 陸上自衛隊・練馬駐屯地の脇を通る。この頃になるとすっかり晴れ上がって、また日差しがきつい。

川越街道との交差点を越えると、環八はまたしても地下にもぐる。北町若木トンネルである。
その脇を進んでいくと、またしても通行ストップ。しかも今度は歩行者も通ることができない。無念である。
しょうがないので北町商店街に曲がって北上してみると、踏切を通って線路の北側に出られた。
東武東上線・東武練馬駅のすぐ近くで、ついに板橋区に突入なのである。

  
L: 北町若木トンネル。このまままっすぐ行くと……  C: このように行き止まり。残念無念である。
R: 踏切を渡れば簡単に環八の真上に戻ってこれた。これは逆側から撮影した東武東上線。

 先ほどの写真にも写っていた、北町若木トンネルの換気塔。住宅街ではけっこう異質な印象。

しかし、ここからがまたクセモノ。この辺りは高低差がけっこうあり(だから「○○台」という地名が多い)、
トンネルで地下を行く環八はそれを気にせず走っているものの、歩道は整備がまだまだなされていない。
だから環八を目指して複雑な住宅街をふらふらとさまようことになる。ゆっくり走りつつ、なぜかデジャヴを感じる。
しばらくこの板橋区若木の辺りをうろついていて、見覚えがある理由をようやく思い出した。
この一帯は、先月のバレーボール大会(→2006.6.18)の会場から東武練馬の駅までの順路なのである。
今回は環八を起点から終点に向かって(つまり時計回り)いるので一瞬わからなかったが、
思い出してみればこの緑の多い入り組んだ住宅地は、先月来ていた場所なのだ。少し驚いた。

 
L: 東西の住宅地をつなぐように橋が架かっていて、そこから工事中の車道・換気塔を見る(逆側から撮影)。
R: 同じ橋の上で北を向くと、眼下に北町若木トンネルから出てきたばかりの環八が走っている。絶景。

坂を下ってやっと環八に再合流。右を向いても左を向いても高低差の中に住宅が広がる。
用地の取得が本当に大変だったんだろうなあ、と思いつつ走っていく。

 
L: 環八に下りたところ。高速道路と見まごうばかりの光景。
R: こちらは道路工事の生々しさを示す光景。静かな住宅や緑を切り取って、道路はつくられるのである。

やがて首都高5号線が見えてきた。それを越えると地上に出てきた地下鉄・都営三田線。
そして中山道である国道17号線。これらと交差しつつ、環八はいよいよ最後の地・北区へと向かう。
首都高を越えた辺りから環八はピカピカのできたてから、周囲に馴染んだ姿に戻る。
板橋区における環八は交通量がそれほど多くなく、ずいぶんと穏やかな印象になる。
道幅が広いわりには車の往来がそう激しくない。だからけっこう走りやすい。

  
L: 頭上を首都高5号線が走る交差点。右上にあるのは環八の陸橋。頭上を二重にふさがれて、閉塞感がいっぱい。
C: 交差点を抜けたところ。環八の上を横切っているのは都営三田線。それにしても交通量が少ない。
R: こちらは中山道との交差点。やはり中山道のほうが圧倒的に交通量が多い。環八もここで曲がる車多し。

さあ、いよいよ北区に入る。北区の岩淵町(地下鉄南北線の終点・赤羽岩淵駅がある辺り)が環八の終点である。
旅もついにラストということで、ペダルをこぐ足にも自然と力が入る。勢いよく北区の中を駆け抜けていく。
北区における環八は、周囲にマンションやら団地やらが目立つようになる。でもやはり、交通量は多くない。
北赤羽駅前はいかにも埼京線らしい印象。北与野駅前を思い出した(→2006.2.12)。兄弟か!ってくらい似てる。

 
L: 北区に突入である。入ったとたんに団地が目立つ。
R: 北赤羽駅を越えたところ。環八もここまで来ると、一時の混雑ぶりがウソのようだ。

JR京浜東北線のガードをくぐると、やがて道がパッと開けた印象になる。
交差点で信号待ちしているうちに、気がついた。「あれ、環八って表示がないぞ……」
道路の先を見ると、「この先は北本通り、国道122号線」と案内が出ているが、環八という表示はない。
変だな、と思って辺りを見回して、気がついた。「ここで環八は終わりなんだ!」目の前には赤羽岩淵駅の出口がある。
あまりにあっけなさすぎる。勢いこんでスタートしたわりには、ゴールはあまりに地味だ。本当にあっけなさすぎ。

  
L: 環八のつもりが、国道122号。いきなり道幅が広くなって、おかしいとは思ったのだ。
C: 振り返って環八を眺める。これにて環八の旅は終了なのである。中断時間を除いて3時間くらいかかった計算。
R: 赤羽岩淵駅入口にて。ゴール!

カンカン照りの中、ゴール地点の撮影を済ませると、特にとどまっている理由もないので、赤羽駅へと向かう。
スズラン通りのサンマルクカフェでゆずちゃスムージーをちゅーちゅー吸いつつ(うまかった)、疲れを癒す。

さて、旅はこれで終わりではないのだ。せっかく東京の北側にまで来たわけで、もうちょっと足を延ばす気でいたのだ。
先週の『アド街ック天国』は竹ノ塚特集で、そこで鳶職人がヘルメットの下にかぶるという「海賊帽子」を紹介していた。
僕みたいに炎天下で自転車をこぐ人間にはぴったりのアイテムだ。というわけで、それを買いに足立区まで行ってしまう。
赤羽から南下して、環七まで出ると左折。鹿浜橋を渡ってまっすぐ東へ。
するとすぐに西新井大師にぶつかる。せっかくなので、お参りすることに。

西新井大師にはすぐ近くに大師前駅という駅がある。
東武伊勢崎線の西新井駅からわざわざこの駅のためだけに大師線という路線が出ているのだ。
(このように主要路線にくっついている短い区間の路線を、専門用語で「盲腸線」というらしい。)
そんなことわざわざするくらいなんだから、さぞかし大規模な寺なんだろうなあと思ったら、川崎大師より小規模だった。
これは東武が西新井駅と上板橋駅をつなぐ計画を考えていたそうで、その名残だったのだ。
今でもそんな駅をきちんと営業しているのが、なんとものんびりしていて楽しい。

この時期、西新井大師では「風鈴祭り」というものを開催している。
北海道から沖縄まで30都道府県・300種類の風鈴が、境内で澄んだ音色を響かせている。
これがすごくいい。夕涼みというには早い時間に訪れたのだが、日が沈む頃合いにはきっと雰囲気たっぷり、
聞いているだけで思わず長椅子を引っ張り出して将棋を打ちたくなるような、そんな気分になること間違いなし。
アパート暮らしじゃなけりゃ風鈴をひとつくらい買って帰るところなのだが、断腸の思いで断念。
お参りしつつ風鈴の音色を聞きつつ、しばらく境内と仲見世をうろついて過ごす。

 
L: 西新井大師・大本堂。左手に見えるテントの下で風鈴を売っております。
R: 風鈴祭り会場。大量の風鈴が吊り下げられ、風を受けて共鳴していた。いやあ、夏ですなあ。

尾竹橋通りを北上して目的地の竹ノ塚へ。例の開かずの踏切では係員のおじさんがつきっきり。
5分ほど待って踏切が開くと、「はい、お待たせしましたー」と愛想よく頭を下げて歩行者を誘導。
便利になること、安全になること、利用者が心地よく感じること、の関係をしばし考えてみる。
それにしても竹ノ塚駅の東側は見事に怪しげな飲み屋ばっかりだな!
で、駅からしばらく行った鳶職人向け作業着の店で海賊帽子を無事に購入。
circo氏もこういうものが好きそうだ、ということで、自分用のほかにもう1枚買ったのであった。

そんな具合に今回の目的を2つとも達成したので、あとは帰るだけ。
日光街道で上野まで出て、秋葉原でちょっと早い晩飯を食べると、さっさと帰る。
途中でまた雨が降り出して、いいかげん泣きそうになるが、本格的な降りになることはなかった。
家に着いたら本当にクタクタ。ぬるい風呂に浸かってぼーっとする。いやー、強烈な運動だった。


2006.7.14 (Fri.)

やはり今日もネタがないので、第9回一橋オープンについて覚えていることを書き出してみよう。

「一橋オープン」というのは、HQS(一橋大学クイズ研究会)が主催する、自由参加のクイズ大会である。
余談だが第1回は「一橋オープン」ではなく「一橋オープソ」が正確な表記で、まあその辺はさすがわれらの先輩である。
参加者側の視点からすれば3月に開催されて年度末を締めくくる由緒ある大会ということになるだろうし、
スタッフ側の視点からすれば4年生が中心となって企画・運営するサークル活動の総仕上げということになる大会である。

さて、われわれが3年生のときには、5年生だっためりこみさんの指揮のもと、第8回一橋オープンが開催された。
小平で開催された最後の大会であり、室内であるにもかかわらず「寒い」とコメント連発の大会だった(→2006.3.25)。
(内容じたいは非常に充実したものだった分、文句をつけるポイントとして気温がやたら出てきたのだ。念のため。)
そしてわれわれが4年生になり、無事に卒業できることになったカナタニ先輩(当時8年生)を中心に企画をしたのが、
第9回一橋オープンなのである。「極彩色の世代」と呼ばれたわれわれの面目を躍如するときが来たのである。

まず企画を練るにあたって、全体を通じたコンセプトを考えることになる。
HQSでは例会でマサルが発案した「クイズ・罪と罰」という傑作ルールがあり、これを決勝でやろうということになった。
あと、準決勝ではカナタニさんが全問パラレルでいくと決めていて、それが『輪廻ハイライト』でいけそうだ、ってことで、
椎名林檎の曲名を各コーナーのタイトルに使用する、という大胆なコンセプトが完成したのだ。
(パラレル……「~は~ですが、~は何?」「~は~。では、~は何?」というような形の前フリのある問題のこと。)
だからホームページでコーナータイトルを発表したときにはそれがぜんぶ椎名林檎ってことで、けっこうな反響があった。

カナタニさんがリーダーならその補佐はそうり、という感じで、数学専攻のそうりが次から次へとクイズのルールを考え出す。
一方で法学部のリョーシ氏を中心とする面々が決勝の「罪と罰」のルールを整理していく。
僕は僕で美術・音響担当なので、MDを編集したりオスカー像という名のいかがわしいトロフィーをつくったりで大忙し。
ダニエルやみやもりは誘導の手順の確認に問題の管理と自分の持ち場を丁寧にチェック。
それ以外の面々も小道具づくりや問題作成やらに追われていて、大変なんだけどそれがたまらなく楽しかった。
僕なんか大学のすぐ近所に住んでいたにもかかわらず、わざわざ泊まり込んで作業をしていたものである。
リサイクルショップで大きなスピーカーを購入したのはいいが、それを立川から持ってくるのに時間がかかるので、
「荷物が来たら受け取ってくれー」とラビーにお願いして留守番してもらったり、
巣鴨に帰るのが面倒くさいマサルが家に泊まって『ときめきメモリアル』で朝日奈夕子をクリアしたり、
(あだ名を「巨根伝説♂」に設定して、朝日奈が「ねえねえ、巨根伝説♂」と呼びかけるたび大笑いしていたなあ。)
いろいろあったもんだ。一橋祭のたびに僕の家が冷蔵庫になっていたのもそうだが、こういうのは本当にいい思い出だ。

  

  

2001年3月3日、本番。ニシマッキーとマサルの司会で大会は始まった。
クイズっ子は自己主張の強い皆さんが多いのだが、マサルはテキトーだったりおちょくったりで、抜群にうまくイジっていく。
カナタニさんの問読みは絶品で、密かにその技術にあこがれていたのだが、少しも近づけなかったなあ、なんて思っていた。
ダニエルの指揮する誘導はまったく混乱がなく、これで時間的に厳しいスケジュールをずいぶん楽にしてくれていたはずだ。
リョーシ氏も得点係をミスなくこなすうえに、山田君役で「はい、かしこまりましたー」を披露。
こっちはこっちで、イントロクイズの際には3つの機械を2本の腕で同時に操作していたわけで、
無事にやりきったときには周りの連中の立派な仕事にひけをとらなかった、よかった、と安堵したのであった。
演出でも、誤答したらブリーフをかぶせるわ、椎名林檎と思わせて矢井田瞳を流すわと、やりたい放題のオンパレード。
まあそんな具合にそれぞれがそれぞれのポジションでベストを尽くし、大会は大好評のうちに終了したのである。

特に人気だったのは敗者復活戦の事後出題○×クイズで、先に回答者が○か×かを決めてから問題を発表するのだ。
そしてマサルが問題作成で大活躍。午後の紅茶の空き缶を見て「午後の紅茶を午前中に飲むと死ぬ。○か×か」を、
自動車教習所の学科試験問題集を見て「なんでも酒のせいにしてはいけない。○か×か」を考案。
こいつは天才だ!と心底思わされた瞬間だった。どうにもならない天性のものってあるのね、と大笑いしながら痛感したわ。
ちなみにこの敗者復活のコーナータイトルは『やっつけ仕事』。全然やっつけ仕事ではないのだが、その辺はご愛嬌。

そして後日、問題集を出すときには、潤平にたのんで表紙に椎名林檎のナース姿を描いてもらった。
「9th Hitotsubashi Open」と白抜きにした目線を入れて一丁上がり。今までのクイズ本では考えられない仕上がりだった。
本番から問題集までこれだけのことをやりきった例はほかにないだろう、と今でも満足している。

さて、僕やマサルの間では、むろんそれ以外のメンバーもそうなんだろうけど、この第9回一橋オープンというのが、
ひとつのマイルストーンとして心の中に刻み込まれているのである。そしてそれは、乗り越えるべき巨大な壁でもある。
「あれだけのことができたんだから、もっとすごいことだってできるはずなんだ」そういう意志の根拠になっているのだ。
ひとつのことをやるのに、実力を持ったひとりひとりが自分の持ち場でベストを尽くして最大の成果を得る、
そういう経験の最大のものになっているのだ。過去の自分が尊敬できる壁になっているってのは、幸せだとも思っている。


2006.7.13 (Thu.)

ネタもないので、突如、飯田高校クイズ研究愛好会について覚えていることを書き出してみよう。

僕が入学する前年に、飯田高校にはクイズ研究会ができたらしい。創立者に直接会ったことはないけど、
ノリコさんは「おたっきい先輩」とか「やたらマニアックな先輩」と言っていたから、そういう人だったのだろう。

飯田高校に入って、コンピューターミュージックがやりたくって物理班に入ってしまったわけだが、
僕にはもうひとつ、クイズ研究会に入りたい、という希望があった。
やはり高校生クイズ(以下、高クイと略したり略さなかったり)に出たかったわけで。
ところがどっこい、入学してからしばらく経っても、クイ研がいつどこで活動しているのか、とんと噂を聞かない。
飯田高校の部活には序列があり、「班」だと部費も部室ももらえる。「同好会」だと部室がもらえる。
でも最低ランクに位置する「愛好会」は何ももらえないのである。ただ存在するだけ。これでは空気のようなもんだ。
しかしクイ研の話は風の噂にも聞かないわけで、どうしたもんだろうなあ、と思っていたら、意外なところに会長がいた。
物理班のてるちゃん先輩が会長だったのだ。こうして無事に、僕はクイ研に入ることができたわけである。

文字どおりのクイズキチガイだった僕は興奮で鼻息を荒くしていたわけだが、活動場所を聞いてたまげた。
活動場所が決まっていないので昇降口に集合、なのである。昇降口で立ち話をする。それがクイ研の活動だったのだ。
じゃあ備品はというと、物理班の班室の隅に置かれたダンボールが1個。それだけである。
中身はクイズ本だったりクイズで使うパーティグッズだったりしたのだが、まあこれらの実態には開いた口がふさがらなかった。
活動する曜日になると、昇降口に行って、てるちゃん先輩とその他女子と、高クイ参加について打ち合わせをする。
これは部活なのだろうか?という疑問を持ちつつ、高クイ参加でテンションは上がる、というワケのわからん心理状態だった。

まあそんな具合に1年目の高クイは物好きな同級生の女子と参加。2問目で敗退。
てるちゃん先輩はチームを組んでいないにもかかわらず、一緒に矢作川の河川敷に来て様子を眺めていた。いい人だった。

さて2年生になると、なんだか知らない女子の先輩が会長になっていた。これが、ノリコさんである。
ノリコさんは外見はマトモだし性格もしっかりしているのだが、クイ研に入っちゃうくらいだからやっぱりどっか変で、
某河田町のテレビ局(当時)の若手(当時)アナウンサーにバレンタインのチョコを送っちゃうほどの人なのだった。
クイズは参加するより見るのが好きという穏やかな人で、この年、なぜか10人以上の新入部員が入ってしまったこともあり、
飯田高校クイズ研究愛好会には平和な時代が訪れたのである。これをパックス・ノリーナという(いま考えた)。

ノリコ会長率いるクイ研は大所帯になったこともあり、なかなかにぎやかに活動することができた。
場所はノリコさんのHRである教室を確保して、そこに市販の早押し機を用意して、クイズができるようになったのである!
4月からはプレハブ校舎の僕の教室で活動をするようになる。これが非常に楽しい時間なのであった。
クイズをマトモにやったら僕が圧勝してしまうので(当時はホントにクイズバカだった)、手を抜かないとゲームにならない。
それで「面白いことを言ったらポイントになるクイズ~」とかやっていたので、強くなることはないのであった。
まあ要するに、高校生クイズに参加したいヤツが週1で集まってバカやって楽しむ、という部活だったのである。

3代目会長・ノリコさんの時代になり、ついにクイ研で合宿が催された。前年のことを考えると信じられない進歩である。
といっても、高校生クイズの中部大会は必ず名鉄でないと行けないところで開催されるので(この年は常滑だった)、
それに泊まりがけで参加するってことなのである。ノリコさんの尽力で、総勢20名ほどがかんぽの宿に泊まったのであった。
まくらを投げたりクイズしたりゲームしたりと、非常に楽しい一夜であったことよ(でも肝心の高クイは1問目敗退)。

ちなみにノリコさんは卒業後にはイギリスに留学。「電車で行けるイギリスですか?」などと揶揄されていたが、
現地より年下の少年を連れて帰るという伝説を残した。本当のところはよく知らないけど、まあ、よかったですね。

そんなノリコさんから会長職を引き継いだのが、何を隠そう、この僕なのである。
そしてろくでもないことばっか発案する会長を見事な手綱さばきでコントロールしていたのが、トシユキ氏である。
自前の早押し機がほしいねってことで話をしていたら、トシユキ氏が自腹で「クリスチーネ」というマシンを製作。
100円ショップで売っている道具箱に基盤を仕込み、ボタンも本体に収納できるという優れものだったのだが、
音が鳴らないので問読みを止められない。発光ダイオードのランプも昼間だとかなり見づらい。
早押し機ってのは、つくってみると意外と難しいものなのだと実感したのであった。

4代目会長はあちこちからやたらとガラクタを拾ってくるのが趣味だったので、クイ研の備品が一気に増えた。
たとえば、迷彩塗装の学童用自転車ヘルメット。おでこの部分に「Q」とあるが、これを使う機会はついになかった。
そして何より、巨大なダルマである。これは僕が2年生まで通っていた塾のもので(高3になって塾をやめるというこの潔さ)、
捨てるのはもったいない!ということで、タダでもらってきたのだ。で、ただ置いておくのもジャマなので、思案の結果、
底をくりぬいて頭からかぶれるようにしたのである。これをかぶるとダルマ人間に変身することができるのだ。
ただひとつ問題があって、くさいのだ。内側は紙と膠がむき出しで、これがけっこうくさいのである。
だからダルマ人間には3分間しかなれないのだ。3分経ったら人間に戻らないと大変なことになってしまうのだ。

そんな具合にガラクタを集めては校内でバカなことを言ってダルマをかぶって闊歩していたわけで、
クイ研の認知度もこの2年で大幅に上昇したと思われる。ノリコさんと僕の時代のクイ研は、良くも悪くも、
飯田高校史上で最も暴れた愛好会だったと言えるだろう。あんな愛好会、後にも先にももうあるまい。

さてこの年の高クイでは、おそろいのシャツを注文して参加。別にデザインに凝ったわけではなく、
もうちょっといろいろできたかなあ、と今でも思うところではある。まあ予算がなかったからしょうがないんだけど。
正式なクイ研以外の人も「クイ研のヤツとチームを組んだらみんなクイ研」の精神のもと、
さらに大規模な人数で合宿をしたのであった。3人いるのにベッドが2つなのでクイズで場所決め、みたいなこともした。
そしてこの年の会場は江南市。駅から無料のバスで移動するのだが、なんだか少年十字軍みたいでイヤな気分がした。
炎天下の会場ではコカコーラが飲み物を専売していて、オトナってずるい、オトナって汚い、と思いましたとさ。
2問目で負けたし。

さらに「長野県学生クイズ」なる大会が開催されるってことで、こちらも松本まで参加してきた。
「天晴ダンディーズ」というチーム名で例のダルマをかぶって走りまわったものの、なんだかよくわからないまま負けてしまった。
潤平の代になって(「ピンクダンディーズ」)テレビに映るという快挙を果たしたのだが、これはまた別の話。

まあそんな具合に、クイズの猛特訓をして強くなって全国制覇だ!……なんてことはあんまり考えてなくって、
みんなでネタを持ち寄ってワイワイ騒げばそれでいーやという方針を貫いたのだった。3年間、存分に楽しんだ。
この後、飯田高校クイズ研究会はゆるやかに衰退していったらしいのだが(オレたちに勢いがありすぎたのだ)、
少なくとも僕が教育実習をした時点(2000年)では弥七さんが顧問で高クイに出る気があったようなので、
まあクイズを口実に高校生活を楽しんでいるんなら十分それでいいんじゃねーの?と思っているのである。

あ、そうだ。高松祭(文化祭)では毎年クイズ大会を企画。先生をゲストに引っぱり出したりあれこれ考えて、
けっこう好評をいただいていた気がする。文化祭と高クイがありゃ、クイ研は成立するのだ。いい部活だったなーと思う。

  
※真ん中の写真の右端に写っている風呂敷包みの中身はダルマです。

こんなことばっかしとった。


2006.7.12 (Wed.)

山本周五郎『さぶ』。

僕が初めて山本周五郎の作品に触れたのは、中学校の教科書に載っていた『内蔵允留守』だった。
この作品が群を抜いて面白くって、いずれきちんと山本周五郎を読まなくちゃと思いつつ、結局この歳になってしまった。
(教科書では三浦哲郎の『盆土産』もめちゃくちゃ面白くって、読まなきゃいけないと思っている。そんなんばっかりだ。)

江戸の下町で表具・経師を扱う芳古堂で働く職人、栄二が主人公。同僚・さぶとの友情を軸にして、
無実の罪という大きな困難にぶつかりながらも成長していく栄二の姿を描いた名作である。

とにかく文章が読み手を惹きつける。生き生きとしたセリフもさることながら、必要なところで必要なだけ、
リズムよく情報を伝える地の文もまた見事。舞台は今の東京ではなく江戸ということで時代物ではあるのだが、
テレビでやっている時代劇のような陳腐さは少しもなく、現代と何らかわりない、みずみずしい人物像が浮かんでくる。

栄二は無実の罪を着せられ、平穏な芳古堂での生活から一変、人足寄場での暮らしが始まる。
そこは社会(というより「世間」か)からドロップアウトした人間たちが集まり、自分たちの居場所を確保していた。
そんな“弱い”人々と触れることで、栄二は自分がいまだに“強さ”、社会(世間)における可能性を残していることを知る。
また寄場では、“弱者”に無言で圧力をかける社会(世間)の強大さを客観視する機会を得る。
作者は栄二の姿を通して、心の傷や体の傷を乗り越える若者の力、それをありのままに描き出しているのだ。

その一方で、栄二を取り巻く人々の優しさもきちんと描かれている。さぶの友情、おのぶとおすえ、さらに寄場の人々。
栄二は罪を着せられたことで人間不信に陥るものの、周囲から支えられ続けていることを理解して感謝を口にする。
利害によらない信頼関係がどこからともなく自然と生まれる、そしてそのことで人はいつでも救われうる、
そういう事実がはっきりと示されているのだ。現代文学にありがちな自己を肯定できないで悩む、というレヴェルではない。
人間とはまずつねに複数からスタートし、その関係の中でのみ自己を確立しうる、肯定しうる、という主張が読み取れる。

それだけに、「この話はできすぎている」「道徳的すぎる」というような批判は、おそらくありうる。
でも、いわゆるベタであるからこそ、永く通用する威力を持っているのは間違いない事実なのだ。

ところで文庫では池上遼一がカバーの絵を描いているのだが、このインパクトはすごい。個人的にはいいアイデアだと思う。


2006.7.11 (Tue.)

編集部にて新人歓迎会。隣が多趣味で知られる上司だったので、いろんなジャンルの話を聞くことに。
大学時代にはクイ研にいたわけで、まあ入学当初から周りの皆さんの知識の豊富さには舌を巻きっぱなしだったのだが、
今の環境になってからもそういう状況はまったく変わっていないように思う。
つくづく、自分が無趣味だなあ、と思ってしまうのである。これは本当に。
唯一これだけは負けない、というものがあるとしたら、それは自転車による東京徘徊くらいしかないのだが、
走った記憶をそのまま言葉にしても面白くもなんともないのである。面白おかしく話す技術が必要になるわけだ。
うーん、自分はまだまだ足りない、そんなことを思い知らされた時間であったことよ。


2006.7.10 (Mon.)

W杯が終わった。

朝起きてニュースを見て、結果やらなんやら、すべてを知る。信じられなかった。
今大会を最後に現役引退を表明している、歴史に名を残すであろう名選手が、決勝戦に頭突きで退場。
僕が寝ぼけてるのかと思った。でもそれは現実に起こったことで、そういう後味の悪さを残して、
イタリアがフランスを下して優勝したのである。

イタリアが勝ったってのは、セリエAのことを考えれば、とてもいいことなんだろうと思う。
でも僕はイタリアのサッカーが好きではないので、なんとなく面白くない。理由は今まで書いてきたとおりだ(→2006.6.26)。
確かに強いし、選手たちは優勝にふさわしいプレーをしていたこともわかってはいるつもりだ。でも、なんか、スッキリしない。
ジダンのありえない頭突きの件がその思いをいっそう強くする。

大会じたいを振り返ってみれば、実に見どころの多い、充実した内容だった。
強いチームが存分に実力を発揮し、そうでないチームも粘りを見せて盛り上げた。見ていてワクワクする試合が多かった。
僕がいちばん感動したのは、やはりチェコ×アメリカである(→2006.6.12)。相手の強さを100%受け止めつつも、
それ以上の実力を出して勝つ。そういう試合をしっかりと見られたことは、とてもうれしいことだと思うのである。
(もっとも結果としてみれば、それはチェコにとっては一瞬のはかない輝きだったわけだけど……。)
今大会はそれだけじゃなくって、アルゼンチンはどの試合も呆れるほどキレていて世界レヴェルの恐ろしさを教えてくれたし、
ドイツは印象的なゴールが多くって見ていて純粋に楽しかったし、コートジボワールは最後もう泣けるほどかっこよかったし、
それぞれにそれぞれの魅力をきちんと振りまいていたのがよかった。国ごとにキャラを出し切った、そんな感じを受けたのだ。
2010年、日本代表はオシムが指揮を執っているだろうけど、そのときには世界に負けない魅力を出してほしいなあと思う。


2006.7.9 (Sun.)

今日は一日、必死になって3月の日記を書いていた。
どうせ雨になるし、ということで遠出もせず、ただ黙々と書いていったのであった。

マンガや小説のレビューは作品を軽く読み返しつつあれこれ書いていくので、まあ簡単だ。
しかし映画・DVDのレビューは印象に残ったシーンだけで書いていくことになるのがほとんどなので、少しキツい。
まあそれも結局は、きちんとすぐに日記を書かない自分のせいで自業自得だからしょうがないのだけど。

白テーブルを引っ張り出し、その上に新ノートパソコンを置いて、オレンジ座椅子に座りながら書いていく。
これが非常に快適で、もういくらでも書いていけそうな気分になるのだが、目が悲鳴をあげて、結局ギブアップ。
疲れ目には勝てない。やっぱり日記はためずに、すぐに書くクセをつけないと、後がつらいのだった。


2006.7.8 (Sat.)

天気の悪い週末が続いて、行動が制限されてムカつく。それでも、なんとなく新宿へ。
別に用があるわけでもなし、純粋にただ行っただけ。金欠なこともあって、本屋に行くぐらいしか行動パターンがない。
なんとも冴えないなーと思いつつ、しかしどうすることもできないので、雨が降らないうちにさっさと帰る。

新パソコンも買ってちょうどいい機会なので、突然だが、僕のパソコン生活を振り返ってみることにしよう。

まず最初に触ったパソコンは、SHARPのMZ-2000。当時は「マイコン」という呼び方のほうが一般的だった。
黒い画面を背景に、緑色の文字が表示される。それがいかにもコンピューターぽくって、大好きだった。
このマシンでBASICを覚えた。いろいろとプログラムをつくっては自己満足していた。
小学生の後半は、BEEP音で曲をプログラミングして遊ぶ、という使い方が主だった。
基本的にはパソコン本体についてきた冊子に載っていたプログラムをそのとおりに組んでみて、飽きたら改造。
このマシンの記録媒体はなんと、テープで(市販されてるミュージックテープを使うのだ)、
バカ長いプログラムを組んだらそれだけセーブもロードも時間がかかる。待っていた時間が懐かしい。
プログラムを呼び出すのにテープを早送りしたり巻き戻したり。メーターがついていて、それでプログラムの位置を記録する。
ああ、書いていて懐かしくなってきた。もう壊れちゃって実家にもないんだけど、あのマシンにもう一度触りたい。
(そういえば中学時代、バヒサシ氏の家にはMZ-2000の先代にあたるMZ-80Bがあってたまげたが、今も健在なのかなあ。)

 ウェブで拾ったMZ-2000の写真。うわー懐かしい! またこいつで遊びたいなあ……。

次にPC-9801RA21。8ビットからいきなり32ビットマシン。circo氏の仕事の都合で買ったものだ。中学入学とほぼ同時。
これはもう、本当に遊び倒した。BASICでのプログラミングもやったが、便利なソフトが多かったので、
いろいろと幅広く遊ばせてもらった。まず、本体を買った1ヶ月後にサウンドボードをくっつけた。
これはFM音源×3音とSSG音源×3音という今にしてみれば単純なものだが、当時は大いに夢が広がった。
FM音源用のシーケンスソフトを購入して、あれこれ曲を鳴らして遊んだ(主にCAPCOMとKONAMIのゲームミュージック)。
ゲームでは光栄(当時)の『水滸伝』と『信長の野望・武将風雲録』にハマり、勉強そっちのけでゲームを極めていた。
スペックとしては、なんといっても記録媒体が5インチのフロッピーってことで、もう今じゃすっかり見かけなくなってしまった。
ちなみに当時はHDやハードディスクなんて言い方はしていなくって、「固定ディスク」と呼んでいた。
20MBの固定ディスクがついているだけで10万ぐらい値段が違ったのだ。時代は進化するものだなあ、としみじみ思う。

 
L: 今も実家にあるPC-9801RA21。FDドライブが壊れてしまって遊べなくなっちゃったのが残念である。
R: RA21本体をアップで。今のパソコンのサイズから考えると、意外とでかい。ディスプレイが21インチほどあるから目立たないけど。

高校時代もRA21は健在。circo氏の仕事を手伝って小遣いを貯め、ついにMIDIに手を出した。
RolandのSC-55mk-IIで、これで自作のバカ歌をたくさんつくって深夜の高校の放送室でレコーディングをしたものだ。
あとはT-SQUAREやYMOのコピーをひたすらして、それでMIDIにおけるプログラミングのテクニックを覚えた。
また、外付けHDをくっつけて、『同級生2』(→2004.12.18)をインストールしてバカハマり。やっていることは成長してない。
ちなみに、MIDIはRS232Cという端子で接続していた。当時はUSBなんて便利なものが生まれる気配すらない時代だった。
後年、USBでなんでも接続できるようになって、iPodに至ってはUSBでパソコンから充電までできると知り、大いにたまげた。

で、大学に入学するとPC-9821V13。上京してわりとすぐ、秋葉原でトシユキ氏と一緒に徹夜して並んで買った。
当時T-ZONEの開店セールで(今はそのままドンキホーテになっている)、新聞にくるまって地べたに寝ていたのが懐かしい。
ここからWindowsマシンである。ゲームと作曲と授業のレポートとHQSの会報の記事を書くのにしか使わなかった。
でも4年間使い倒したから、いいマシンだった。Windows95を動かしている分には、全然不満なんてなかったし。
(なお、1997年~2000年というのはそこまでインターネットが家庭に普及していなくって、
 メールやWWWの閲覧は、大学のパソコンルームで済ませていたのだ。もう今では考えられないスタイルだけど。)
いちおうMIDIについても書いておくと、PC-9821V13を買って2~3ヶ月経ってから、SC-88Proを買った。
これがまたとんでもない名機で、55mkIIに比べると飛躍的に音色の数が増えて、いろいろとやりたい放題に遊んだ。
熱海ロマンも初期の曲は、実は88Proでつくっている(『ドラゴン、ソケットを買いに行くの巻』『暴走青梅特快』など)。
極限まで使いこなした、と言っていいくらい。間違いなく、僕が今まで一番徹底的に研究した「楽器」である。

 
L: PC-9821V13。こちらも実家に残っている。でももう起動することはほとんどなくなってしまった。
R: V13本体をアップで。この時期のNECは似たようなデザインばかりで特徴があまりないのがちょっと残念。

そして大学院入院と同時に今の部屋に引っ越して、パソコンはVAIOのRX51、MIDIはSC-D70を買ったのである。
RX51を買ったのは、タワー型のパソコンを使ってみたかったのと、SONYなら音楽をやるのに強そう、というイメージから。
しかし、タワー型のせいかドデカいディスプレイがジャマ、音楽やるのにSONYだからってメリットはなかった、という結果だった。
とはいえ、故障することなど一度もなく(ソフト面が原因で不調になったことはあったが、ハードが原因ってのはゼロ)、
無事これ名馬という印象だった。1年前からは持ち運びに便利なノートと使い分けたが、それでもメインのマシンだった。
(RX51についての詳しい思い出話は、こちらを参照してくださいな。→2006.5.12
ちなみに、SC-D70のほうはいまだにバリバリの現役で、これを使ってMP3データをつくっている。なくてはならない機械。

20年以上に及ぶパソコンライフを振り返ってみたわけだが、つねに音楽を用途としているのにあらためて驚いた。
かつてネットが普及していない時代には、「何のためにパソコンを使うの?」という疑問が僕らの前に大きく横たわっていたが、
僕の場合は音楽というものがあったから、そういうレヴェルの疑問を軽々と超えることができていたのだ。
今では曲をつくることなど全然なくなってしまったが、でもやっぱり、どこか奥底に染み付いている。
出会ったときからずっと今まで、パソコン自体を目的にするのではなく、パソコンで何をするか、パソコンでどうするか、
そこにこだわってこれたのは、ちょっと自信。

(その後トシユキ氏から連絡があり、MZ-2000は現在、トシユキ氏の実家にまだあるとのこと。よかったよかった。)


2006.7.7 (Fri.)

吉崎観音『ケロロ軍曹』。マサルが姉歯祭りをほったらかしてまで読んでいた(→2006.5.28)というので、チェックしてみた。

吉祥寺で暮らす日向夏美・冬樹姉弟のもとに、地球(と書いて「ポコペン」と読む)征服を企む宇宙人がやってくる。
彼の名前はケロロ軍曹。ケロン軍の先行部隊として地球に潜入したものの、ふたりにあっさりと捕まってしまう。
それからは捕虜(居候)として、日向家の家事全般を引き受けつつ、趣味のガンプラづくりにどっぷりハマる生活が続く。
やがて先行部隊の仲間のタママ・ギロロ・クルルなどがそろっていくのだが、一向に地球征服は進む気配がないのであった、
ってな感じのギャグマンガ。今年の春には映画化もされてお子様にも大人気、らしいが、わりと30代向けのギャグ多し。
(ちなみに作者の吉崎観音は、昔ゲーメスト増刊の「オールカプコン1991」でやたらと上手いイラストを投稿していたので、
 それで知っていた。やがてマンガ家としてがんばっていることを知り、なんだかがんばれーという気分になった記憶がある。)

まー結論から言っちゃうと、80%面白くって20%ついていけない。要するに、基本的には僕の好みということである。
とてもケロロ軍曹が他人に思えない面がある。バカバカしさやらガンプラ狂いやら、思い当たるフシがいくつもあるのだ。
(姉歯祭りの集合写真が、たまに作戦会議をするケロロ小隊の姿にかぶって見えてしまう。)
キャラクターではほかにギロロ伍長も好き。まあシブいし、人気あるんだろうけど、やっぱりそこはご多分に漏れず。
なお、ついていけない部分としては、わりとありきたりなめでたしめでたしにもっていく流れだとか、
いかにもアニメとかそっち方面からもってきたようなセンスだとか、秋さんだとか、623だとか、その辺。
でもやはり、読んでいて思わず鼻から吹き出すように笑ってしまう場面も多いので、これはきちんと面白いマンガだと思う。

キャラクターの動かし方について、特に書いておこう。
構造としては、『ハイスクール!奇面組』(→2005.1.12)に似ている。奇面組=ケロロ小隊、唯と千絵=冬樹と夏美。
『奇面組』では、抜けているけど本当はすごいかもしれない奇面組が暴れて、それをフォローしたりしなかったりのふたり。
『ケロロ軍曹』では、冬樹と夏美が積極的にケロロ小隊を止めに入る。しかし地球征服という目的が挟まるので、
距離感は異なる。だからケロロ小隊内でのボケとツッコミ、また外(地球人)からケロロ小隊へのツッコミは、かなり激しい。
ドタバタの密度が非常に濃いが、絵柄がそれをわかりやすくしているし、ネームでのツッコミでバランスをうまくとっている。
そのため1コマあたりの書き込みは非常に多いが、その分、作者のキャラへの愛情やらギャグやらがたっぷり伝わってくる。

読んでいてふと、ながいけん『神聖モテモテ王国』を思い出すようなノリのシーンも多い。
まあつまり、そういう系統のギャグもふんだんに盛り込まれているということで、ギャグの幅は広いと思う。
すぐに腐ってしまいそうな時事を堂々と扱ったり、「くだらないこと」に全力を注いだりする姿勢は潔い。
とりあえず、文庫になったら買ってもいいかな、という位置にはあるマンガである。


2006.7.6 (Thu.)

谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』。売れているらしいので、読んでみたのである。人気ライトノベルのシリーズ1作目。

スニーカー文庫編集部の「解説」によると、この作品は第8回スニーカー大賞の〈大賞〉を受賞したんだそうだ。
なんでも〈大賞〉が出たのは過去、第2回と第3回だけなんだそうで、そっちの世界ではかなり高い評価がされたらしい。
しかしながら読んでみた感想としては、「どこが?」って感じで、そっちの世界に縁遠い僕には評価の基準がわからない。
とりあえず、シリーズ化できそうないい感じのキャラクターが出てきたから、〈大賞〉をあげて箔をつけて、
たっぷりとライトノベル購買層からお金をちょうだいしましょうか、ってな思惑が見え見えに思える。これが正直なところ。

物語は、「キョン」というニックネームの男子高校生の一人称。
彼が高校入学と同時に出会ってしまった超トラブルメーカーのクラスメイト・涼宮ハルヒが巻き起こす騒動が描かれる。
ハルヒは「ただの人間には興味ありません。宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい」
と宣言、そうして新たに自分のための部活・SOS団を設立してしまうってなあらすじ。

こういったフィクションでは、クライマックスにおける非日常的な世界を成立させるための理屈ってのが重要になってくる。
しかし現実には、そういうネタはあらかた出し尽くされちゃって、新しいものを提示するのは非常に難しい状況であるわけだ。
この作品はヒロインのハルヒを徹底的に絶対化することで反論の余地をなくすという、なかなか思いきった仕掛けをしている。
逆を言えばハルヒさえ存在すれば何でもできてしまうという設定なのであって、これはつまり、
まずキャラクターが先にあって、その後でできごとやら何やらが追いついてくるということになるのだ。
わかりやすく言うと、人物が舞台よりも優先されているということ。だから人物さえ固定すれば、どんな世界観でもOKとなる。
(たとえば陸上部を舞台にした話なら、人物のほかに陸上競技自体の魅力やそれぞれの陸上への思いってのが描かれる。
 しかしこの話では人物が拠って立つ舞台・背景が存在しない。それでワケのわからないSOS団をつくるってことになる。)
〈大賞〉受賞の理由はその辺にあるのかもしれない。ヒロインさえいれば、理屈を一切気にせずエピソードを無限につくれる。
そういう打出の小槌状態の発明に対して〈大賞〉という評価がなされた、と考えれば、苦笑いしてうなずくことができる。

そんなわけで要するに、ハルヒやらキョンやらみくるさんやら長門有希やらのキャラクターに魅力を感じるかどうかが、
この作品に対する評価を決めることになる。この作品はほかとは比べ物にならないほど、キャラクター依存の作品なのだ。
で、僕にしてみれば、どうにも登場人物のパターンが稚拙に思えて、「どこが?」という結論に落ち着くのである。

僕にとってライトノベル案内人であるイヌ女史によると、「涼宮ハルヒ」シリーズは4作目から面白くなってくるんだそうだ。
でもそういうのを面白いと感じられるようなアンテナが僕にはないような気がするので、パスなのである。


2006.7.5 (Wed.)

東京国際ブックフェアの搬入手伝い。去年も手伝ったのだが(→2005.7.6)、去年も雨だったような気がする。
というか、本を大量に売るフェアをなんでわざわざこの梅雨どきにやるのか理解に苦しむ。

去年懲りたので、酔い止めを持参して車に乗ったのだが、それでも酔った。運転荒すぎ!


2006.7.4 (Tue.)

『水滸伝』。岩波文庫版(清水茂訳)。作者は施耐庵もしくは羅貫中とされるが、よくわかっていない。
最近日記に小説の感想がないなあ、と思った人がいたかもしれないが、全十巻に及ぶコレを読んでいたのがその理由。

まず個人的な『水滸伝』の思い出を書くと、光栄(現・コーエー)のゲームにハマったのがきっかけ。PC-9801版である。
難易度がやたら高かったが、それでも羅真人を仲間にしてみたり、李逵で中国統一してみたりとマニアックな遊び方もした。
で、中学校の図書館で本を借りてみて、徐々に知識をつけていったというわけ。

訳に気合が入っているのがよくわかる。『水滸伝』は食人・殺人シーンがかなり残酷であり、
以前の版では配慮が加えられていたが、この完訳版では真正面からそれに挑戦し、一歩も退かずにきちんと訳している。
全体を通して口語的であり、読んでいて他人が話しているのを聞いているような気分になる。
もともと『水滸伝』は講談だったわけで、それを施耐庵もしくは羅貫中が編集して小説にしたことを意識しているのだろう。
そのため、長い内容ではあるんだけどものすごくスピーディに読むことができる。本当に読みやすい。
特にそれぞれの人物のセリフが非常に生き生きとしているのがよい。

読んでいるうえで、「ああ、これが中国の習慣なんだな」と思ったことがひとつあるので、書いておこう。
それは、偉い立場にいる人間が、自分よりも下の人にアドバイスを求めるシーンで見られる。
偉い人が「どうしたらよいか」と尋ねると、「これこれこうするとよろしいでしょう」と下の人が答える。
すると偉い人は必ず、「その考えは私の考えとぴったり同じだ」と言ってからその意見を受け入れるのである。
これはおそらく、儒教の精神によるものだろう。目上の人(=偉い人)のほうが知識があり、正しい判断ができる。
そういう発想があるから、実際には目上の人はアドバイスを求めているのにもかかわらず、
形式的に自分のアイデアが正しいことを目下の人に確認するというスタイルをわざわざとっているのである。
このやりとりをいちいちきちんと訳していて、それがいかにも中国っぽくて、なるほどと思いつつ読んだ。

表現のうえでもうひとついかにも中国らしく感じたのは、途中で詩が入ってくることだ。
ある人物の紹介や活躍を描いたり、見事な景色を説明する場面で、どんどん漢詩の書き下し文が入る。
これもやはり、もともと講談として聞かせるものだった影響によるものだと思う。
全編を通してそういうリズムのよさが徹底されていて、それは現代の小説がそぎ落としていった要素なので、
ああ、こういうものの効果ってのも見直さないといけないなあ、としみじみ思った。

物語を進めていく技術という点でもひとつ、大いになるほどと思った点がある。それは視点の移し方だ。
知ってのとおり、一〇八星は史進からスタートして魯智深、林冲、楊志と、どんどん主役級の人物が登場してくる。
この視点の移し方が非常に巧みというか、実にスムーズで、まるで陸上競技のリレーを見ているようなのだ。
史進が魯智深と出会い、魯智深に視点が移る。魯智深が林冲と出会い、林冲に視点が移る。
そして林冲は楊志と戦い、林冲は梁山泊に残って楊志は旅を続ける。こうして物語は滞りなく進んでいく。
これが晁蓋らの生辰綱強奪まで続く。つまり、生辰綱強奪で初めて、楊志の視点と晁蓋の視点が交わることになる。
それまで注意深く主要人物を紹介・配置しておいて、ここで一気に物語を立体的に組み上げるのだ。
気がついてみると、この技術はけっこう鮮やか。そうして物語は急激にスピード感をもって動き出すのである。

さて、この岩波版は百回本を訳したものである。日本では従来、王慶・田虎討伐を加えた百二十回本が定着していた。
そのため遼国を打倒してからすぐに梁山泊の崩壊が始まってしまって、非常に悲しくなってしまう。
どのみち、方臘討伐でそれまで丹念に築いてきたものが信じられないほど一気に崩れていくのには違いないのだが。
その崩れ方は、好きだったバンドの解散にも似ていて、目的が達成された後の集団を維持することがいかに難しいか、
そしてまた、そういう奇跡のような集団の一瞬だからこその美しさも感じさせて、すごく切なくなる。
『水滸伝』が長く読み継がれてきたのは、単純に、運命づけられた仲間が集まってやあやあやあという魅力だけではなくて、
失われてしまうからこそ過去が美しい、そういう真実が劇的に描かれているからなのか、とあらためて感じた。

編集部の同じ島(机が島状に配置されているのでそういう単位なのだ)による飲み会。
始まってしばらくして、なんであんなに飲めるんだ、と呆れながら眺める感じになる。本当に底がないように見える。
飲める人がうらやましいなあと思ってそんなことをポロッと口に出したら、「いや、飲めないほうがいいよ」と言われた。
冷酒をグイグイあおりながらそう言われてもなあ……。でも実際そうなんだろうけどなあ……。
(『水滸伝』を読むと酒が飲めないと好漢じゃない、みたいな印象もあるのでよけいに。)


2006.7.3 (Mon.)

朝起きて、ヒゲを剃って歯を磨いて髪型ととのえてネクタイ締めて、家を出る。
iPodに入れた曲を聴きつつ駅に到着、電車が来るのを待つ。決められた時刻きっちりに電車はやってくる。
いつも決まったドアから乗り込む。そうしてあー今日も今日とて仕事だなーと思いつつ、窓から外の景色を眺める。
西小山駅は高架化されているので、街の様子がよく見える……はずなのだが、あれ? 目の前が真っ暗だ。

一瞬、何が起きたのかわからなかった。蛍光灯がついているから車内の明るさは変わらない。
しかし、窓の外は黒一色。なんだなんなんだ、と動揺していたら電車が停まった。よく見ると、「西小山」と表示が出ている。
状況を理解したのは、西小山駅を出てしばらくしてから。ああそうだ、ついに目黒線が地下にもぐったのだ!
いつだったか『タモリ倶楽部』でタモリ一行が探検をしていたけど、西小山駅・武蔵小山駅が地下にもぐったのだ!
まさか今日からだったとは(正確に言うと7月1日からかもしれないけど、この日は7月最初の平日だったので、念のため)。

もうすっかり通勤電車というものに慣れてきていて、毎朝、窓外の光景を目にするのが日課になっていた。
西小山の商店街や小山台高校野球班(飯田高校と同じで「班活」だと聞いた)の朝練を見るのが日課だったのだ。
そういう当たり前だったものが一切目の前から消えてしまうってのは、これはけっこうショックである。

まあそんなこんなで複雑な気持ちになるものの、電車はそこ以外、いつもと同じように走り続ける。
感傷にひたる間もなく、今日も今日とて仕事なのであった。


2006.7.2 (Sun.)

2台のパソコンから新しいパソコンへ、データを移動する。
RX51からは大量のMP3データを、satellite-2(HPノート)からは現行の各種データを。

  
L: 3台のマシンが並んだところ。本棚の奥に隠れているのがRX51。テーブルの上は、奥がsatellite-2、手前が新パソコン。
C: RX51の雄姿。壁紙はベルディのピザ。  R: satellite-2と新パソコンが並ぶ光景。それにしても自己満足な写真だな!

そういえば新パソコンの名前なのだが、Windowsを最初に立ち上げたときに、名前を入力する画面がある。
凝ったものを考えるのが面倒くさかったので、「なまえ(NAMAE)」という名前をつけた。単純明快なのである。
僕の知る限り、「なまえ」という名前は絵本作家の「エム・ナマエ」ぐらいなもの。どんなもんでい、という気分だ。

NHKスペシャルの「シリーズ同時3点ドキュメント」を見た。おお!と思ったので、日記に書いておく。

このシリーズは、ひとつのできごとについて、3ヶ所で取材をした内容を編集してつくっている。
もともとNHKのドキュメンタリーはレヴェルが高いが、同時性をテーマに物語を視聴者に想像させる。つまらないはずがない。
今回はW杯のブラジル×日本戦(→2006.6.22)をテーマにしていた。愛知在住の中村俊輔が大好きな白血病の少年、
ブラジル・サンパウロで観戦する日系人たち、そして日本人選手をチェックする海外移籍交渉をまとめるマドリードの会社。
さらにサイドストーリーの形で、耳の聞こえない少女とロナウジーニョの約束、オーストラリアのクロアチア移民も扱う。

愛知の少年は、白血病ながらサッカーに夢中。憧れの中村俊輔にも会うことができ、ゴールを約束してもらう。
サンパウロの日系1世のおじいちゃんは、移民してから苦労した。しかしブラジル人に親切にされて、ブラジルを熱烈に応援。
そしてもうひとり、サントスで10番をつけている日系3世のサッカー選手・ロドリゴ=タバタ。
彼は層の厚いブラジル代表に入れる可能性は低いということで、日本に帰化を希望(どこまで本気かは不明だが)。
マドリードの会社では、タマダとナカムラに注目して電話が飛び交う。選手の人形をつくりたい、という電話までかかってくる。
やがて玉田がゴールを決める。悲喜こもごもの姿が並行して映される。しかし前半終了間際、ロナウドがゴールを決める。
愛知の少年は中村俊輔のゴールを期待する。ロドリゴ=タバタは地元への配慮から中立の姿勢に転じる。
やがてジュニーニョ・ペルナンブカーノがゴールを決め、ジウベルトがゴールを決める。日本はなす術がない。
愛知の少年は骨髄移植が難しく、厳しい手術を受けるしかない。ピンチでも、中村俊輔が勇気をくれると信じる。
日系1世のおじいちゃんは、ボコボコにやられる日本の姿を見て、日本を応援する態度へと変わる。
(対照的に奥さんは徹頭徹尾ブラジルを応援しており、その差がなんとも切ない。)
ロドリゴ=タバタはこっそりと、日本を応援するスタンスに戻る。マドリードの会社は日本の弱さで失望感に包まれている。
そしてロナウドがまたゴールを決めて、4-1で試合は終わる。ゆっくりと、無念さを引きずりながら、また日常へと戻っていく。

構成としては、試合の進行の中で、回想を挟むように、それぞれの過去・応援する理由を紹介していく。
時間の飛ばし方と空間の飛ばし方が手際よく、ドキュメンタリーの中心にある試合の流れを中断することがない。
同時にある現在とそれぞれのまったく違う過去、それが一瞬だけ交差している瞬間を、実に多彩に描いていて面白い。
もちろん、このドキュメンタリーを見ているこっちにも現在と過去がある。それを思い起こしていけば、さらに味わい深くなる。

扱っている三者のバランスも実に適切だと思う。ヒューマニズムあふれる少年の話に、
まったくこれまでの状況が違うけど同じ「日系人」として同じ場所にいるふたり(これもかなりヒューマニズム方面)、
しかしマドリードでは、あくまでビジネス。損得勘定にちょっとだけ贔屓目が入るが、基本的にはドライな姿勢。
そうしてドキュメンタリーらしく現実を見せる。それぞれにそれぞれ生きていて、どれもが公平に現実、という真実味がある。

まるで質の高い演劇を見ているようだが、これはTVのドキュメンタリー。それぞれ自分に見えないところにも世界はある。
そしてそれぞれに、気づかないままで同じことに関わっている。そういう「知らないうちにつながっている」という面白さ。
またそれでいて、同じ結果が片方には喜びを与え、もう片方には悲しみをもたらす。そういうどうにもならない切なさ。
見えない糸での綱引き(しかも、それはほんの一部にすぎないと視聴者は知っている)が、あくまで主観として描かれる。
それを目にした後では、自分なりの日常を続けるということが、ちょっと違って見えてくる。いやはや、まいったまいった。


2006.7.1 (Sat.)

注文していた新しいパソコンが、ついに届いた。ノートパソコン。VAIOのSタイプで、自分でスペックを設定できるモデル。
「FREITAGのDRAGNETにすっぽり入るサイズ」「できるだけHDの容量を多くする」の2点を条件にした結果である。

 SZ91というモデル。いや、もう、かわいいのなんの。

さっそく電源を入れて、いろいろと設定をしていく。いつも使っているソフトをインストールもする。
そうして悪戦苦闘しているうちに、あっという間に夕方に。こういう作業って、意外と時間がかかるものだ。

インストールするソフトは従来使っているものばかりなので、デスクトップにどんどん見慣れたアイコンが増えていく。
そうするとなんだか、あまり新しいマシン、という印象がしない。こういうことで新鮮さがなくなっていくのは、ちょっと切ない。
パソコンってのは外見が違っていても、結局は使っている人によって染まっていくものなんだなあ、と思う。
そういう意味ではそれぞれのデスクトップってのは、最も個人の性格がよく出るところなんだろう。
こればっかりは、まあ、しょうがない。とりあえず、マンネリにならないように気をつかおう、とは思うのであった。

ポルトガル×イングランド。冴えない展開という点ではイングランドのペース。
今回、イングランドが絡む試合はことごとく内容が締まらない。あれだけ豪華な中盤だと言われているのに、なぜだろう。

対するポルトガルは、デコがいないマイナスが本当にはっきりと出ていた。昨日のアルゼンチンのリケルメもそうだけど、
トップ下に力のある選手がいないと、中盤以降とFWの間にくっきりと断絶が見えて、攻撃がちぐはぐになってしまう。
デコがいないことで今ひとつチーム全体が攻める雰囲気にならない、それがまた冴えない試合の一因になったように思う。
そしてポルトガルは、チャンスをつくるもののことごとくマニシェがシュートをはずすという展開。やっぱり締まらない。

そんな中でワカメがオススメしていたミゲルが目立った活躍をみせていた。守備では敵のチャンスをつぶし、
攻めてはサイドで味方が準備を整えるのを待っている。素人目にもレヴェルの高いプレーをしているのがよくわかった。

最後はEURO2004のときと同じくPK戦。あのときにはポルトガルのキーパー・リカルドが素手でセーブしてみせたうえに、
自分で蹴って勝利を決めるという役者ぶりだったのだが、この日も健在。神がかったとしか表現しようのないセーブを連発。
PK戦なんだけど誰もが納得するだろう圧倒的なパフォーマンスで、ポルトガルが勝った。よかったよかった。

それにしても、日テレの実況のレヴェルが低すぎる。ただ騒いでいるだけで、視聴者が得するようなことをひとつも言わない。
本人は気の利いたことを言っているつもりかもしれないけど、聞いているこっちは真剣さをそがれてウンザリ。
本当に勘弁してほしい。

続いて、4時だけど週末ということで張り切って見ちゃう、フランス×ブラジル。
最初からどっちも全力のスピード感。レヴェルが高い。というか、フランスがいきなり強くなってびっくり。
不自然といってもいいくらい急に強くなった。もともとセンターバックを中心に守備は堅実だったのだが、
そこに中盤を抑える迫力が加わったというかなんというか。勢いが出てきたのだ。

ブラジルはロナウジーニョが不調だったのか、ジダンと対照的。
フランスがいざボールを持つと、ジダンがどこにいるのかはすぐわかる。でもブラジルのボールになっても、
ロナウジーニョがどこにいるのか、ふとわからなくなることがある。存在感が信じられないくらい薄かった。
ブラジルは当然「オレたちは強い!」っていう自信を持ったサッカーを身上としていたんだろうけど、
予想外にフランスが強くなっていて戸惑っていたような印象だ。あれ? こんなはずじゃないぞ?
なんて思っているうちに、ジダンのFKからあっさりアンリに点を取られた、そういうように見えた。

結局、どこかブラジルは空回りなままで試合は終わってしまった。これがヨーロッパ開催の魔力なんだろうか。
フランスが勝つとはまったく思っていなかったので、フランスには悪いけど、かなり大会じたいに拍子抜けしちゃった感じだ。


diary 2006.6.

diary 2006

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