diary 2007.6.

diary 2007.7.


2007.6.30 (Sat.)

MQC(みんなのクイズサークル)が開催されるってことで、みやもりと一緒に参加する。
下関の件を調整できればいいな、あわよくば沖縄旅行の参加者が増えればいいな、という淡い期待とともに。

少し早めに国立入りして、ノートパソコンを引っぱり出してこないだの「東京23区一筆書き」の日記を書いていく。
僕はいつどこで何をしたかを覚えているのがかなり得意なので、そのときの情景を鮮明に思い出せる。
(以前マサルに「マツシマ君は覚えすぎていて気持ちが悪い」と言われたことがある。ただし短期記憶は脆い。)
……のはいいんだが、それを逐一文章に起こしていく作業が非常に手間がかかって困るのである。
一筆書きに挑戦したときには14時間自転車にほとんど乗りっぱなしだったのだが、
まあハッキリ言って、日記を書く方が自転車乗りっぱなしよりキツいくらいだ。
それでもきちんと記録に残しておかないともったいないので、ガマンしてキーをたたいていく。

約束の13時近くになってみやもりから連絡が入る。「今から家を出ます……」
アナタハ、グンマケンニ、スンデイマスヨネ?
ありとあらゆる罵詈雑言が頭の中を駆け巡るが、呆れ果てて「おう」としか返事できない。
しょうがないので気を取り直して日記執筆を再開。集中していれば時間とか関係ねーよ、とがんばる。

後ろから肩をたたかれたのが14時前。誰やねんオラ、と思って振り返ったらみやもりだった。
群馬から1時間で来たの? どこでもドア? 手をつないで倍のスピード? テレポーテーション? 科法?と、
ありとあらゆるSF(すこしふしぎ)の可能性が一瞬、頭の中を駆け巡る。
そしたら「実家にいた」とのことで、ああそうだったのね、そうかそうかと納得。
で、僕らにとって国立の大部分はスタ丼(→2005.9.19)が占めているわけで、さっそくスタ丼屋でスタ丼をいただく。
かつての荒々しい感じがかなり薄れてしまっているのが、なんとも切ない。でもまあ、しょうがない。時代の流れだ。

大学に入ると第一講義棟へ。どこでMQCをやっているのかまったく知らないが、まあなんとかなるさ、と。
そしたら問い読みをしているっぽい話し声が聞こえたので、中を覗いたらめちゃくちゃ人がいる。
なんだなんだ、と焦りつつ中に入る。少年ジャンプ編集部のアイダさんが漫画家さんと同僚さんを連れてきていたり、
現役のHQS会員がけっこう集まっていたりで賑わっていた。さっそく仲間に入れてもらう。
この日の企画者はマッキーと能勢さんで、マッキーのつくった問題はみんながスルーするやつに限って僕にはわかる。
そんなにオレの守備範囲は特殊なのかなと首をひねりつつ聞いていたのであった。
工夫したルールにみんなでクイズをするのにいい感じの問題で、公私ともに充実している人は違うね、と思ったナリ。
能勢さんの企画もみんなが楽しめる早押しクイズというコンセプトを見事に実現していて、
ゲストの多い今日みたいな日には最高ですなあ、と思った。ホンワカと盛り上がって楽しかった。

帰りはちょうど中央線が大規模な工事中で、あの中央線が単線で運転するという珍しい機会に出くわした。
みやもり曰く、鉄っちゃんがカメラを構えてあちこちにいたとのこと。そんなわけで近年の鉄ブームについて雑談したり、
アイダさんからジャンプの裏話を聞いたりして、のんびりと過ごした。意外とスムーズに新宿まで行けた。

家に着いてからは、みやもりと沖縄旅行についての作戦会議。
あらかじめ下調べしておいた旅行会社のプランをチェックしたり、行ってみたい場所をリストアップしたりする。
僕としては名護市庁舎が有名なので、沖縄に行くからにはぜひ見てみたいなーと思っているのだが、
那覇から名護まではけっこうな距離があるわけで、車を運転するみやもりは「ヤダ。」という返事。
「沖縄美ら海水族館は名護よりも先にあるねー。これは名護市庁舎に寄るしかないねー」「ヤダ」
そんなやりとりが深夜まで繰り返されましたとさ。


2007.6.29 (Fri.)

今日は書くネタもないし、せっかくなので僕の人生に多大なる影響を与えた地理論述の話でも書いておくか。

僕はもともと理系で、浪人と同時に一橋を目指すために文系に移った、という話は前に書いている(→2007.1.24)。
そのために、理科は物理、社会は地理という、完全に理系崩れの科目を選択することになったのである。
(ちなみに、社会を地理で受けられる私立大学の文系学部は限られてくる。やっぱりけっこうな賭けなのである。)
そういうわけで、高校時代には未経験だった(確か科目じたいが存在しなかった)地理の論述講座を受けることになった。
これはつまり、2次試験(センター試験後の各大学の試験のことね)で出る地理の問題を専門にやる科目である。
受講生は東大クラスの連中ばかり(東大の文系は社会科が2科目必要なため)。一橋志望は僕くらいなものだった。

出てきた先生は還暦ちょい手前という人だった。今にしてみれば、ジェフ千葉のアマル=オシム監督を老けさせると激似。
何が始まるんだろうと思ったら、先生はいきなり、フリーハンドで、メルカトル図法の地球を黒板に描いてみせた。
それは細部まで徹底的に正確で、見ているこっちは完全に度肝を抜かれた。チョークで世界地図を完璧に描けるなんて!
地図を描き終えると先生はくるりと振り返ってこっちを向き、全員に立つように指示。そしてストレッチを始めた。
浪人してプロの講師の授業を受けて目からウロコが落ちることはそれこそ数え切れないほどあったが、
ここまで鮮烈に印象に残ったのは、さすがにほかにない。この先生、森本先生は毎回、
授業が始まる少し前にやってきては、黒板にその日扱う内容の地域の地図を描き、ストレッチで授業を始めた。

地理論述の授業内容は、完全に僕の趣味嗜好にフィットしていた。
世界のあちこち、日本のあちこち、あるいは地球の一般的な特性について、すべて言葉で説明をつける。
そこには明快な論理があり、与えられたヒントからルールを見つけ出せば、自然と解答へとつながるルートが見えた。
時には、まるっきり知らないことについても解答を出さねばならないケースにも出くわした。
その場合には、自分の知っていることから想像して類推することで解答が出るものなのだと教わった。
新聞やニュースで仕入れる知識が確実に入試問題へと接続していて、自分のやっていることの意味が明確に理解できた。
地理という科目が現在進行形の多様な知識とつながり、それが日常生活へと還元できることが実感できた結果、
僕はこの科目に心から魅了されてしまったのである。本当に、森本先生のいい弟子になっていた。
で、結局僕はなんとか無事に大学に合格し、森本先生にも電話でお礼を言うことができた。よかったよかった。

さて、それから3年と少し経った後、僕は母校である飯田高校の教壇に立っていた。教育実習である。
教育実習ではケッペンの気候区分という、地理を習ったことのある人には超お馴染みの部分を教えた。
僕が森本先生からもらった気候区分のフローチャートを改造したものは、たぶん今でも飯田高校で使われているはずだ。
で、教育実習では最後に担当科目の先生方がみんな授業を見学する、研究授業というものがある。
僕は弥七さん(高校在学中からお世話になった地理の先生)に相談して、論述の内容を少し混ぜることにした。
ふつうの授業であれば論述のようなハイレヴェルな内容を扱う必要などないのだが、
こういうことを受験でやる連中もいるって生徒に知っておいてほしかったし、何より森本先生への敬意もあった。

それで、2つのテーマを用意した。Q1. なぜDw(亜寒帯冬季少雨)気候はユーラシア大陸の東側にしか存在しないのか?
Q2. なぜ南半球にはD気候が存在しないのか? D気候ばかりだけど、このレヴェルならいい頭の訓練になると思ったのだ。
この2つを出題し、考えてみる時間をとった。もちろん、黒板には世界地図を(ぜんぶではないけど)描いて。

Q1.の答え。Dwってのは気温の年較差が大きく降水量が少なめの大陸性の気候である。
つまり、海というか温暖な海流が近くにあると発生しない気候なのだ。海から離れた陸地で発生する気候である。
地球では、卓越する偏西風の影響でつねに西から東へ風が吹いている。これがけっこう強い。
だから、暖流である北大西洋海流と偏西風の影響を受けるヨーロッパには存在しない。
広大なユーラシア大陸の東側まできて、ようやく現れるのがDw気候というわけなのである。
東西幅が小さく、すぐ東側を北大西洋海流が流れる北アメリカ大陸にはDw気候は存在しない。

Q2.の答え。
北半球でD気候が分布するのは北緯40~70°である。そして南半球のこの緯度を見てみると、陸地が極めて少ない。
水は温まりにくいが冷めにくいので、海に近いと比較的温暖な気候になる(対照的に内陸は放射冷却で冷える)。
で、南半球の島や大陸の南端は海の影響で温暖になっているので、D気候にならない。

つまり、「教科書でこうなっている」というのではなく、多数の事実から、時には理系の知識も総合して答えを出す、
それが地理の論述なのである。そうしてあれこれ理由を探しては論理的な説明を引き出すクセがついたのかもしれない。
まあともかく、そういう内容の授業を無事にやり通したわけで、一定の成果にはなったなあ、と思っているわけである。
「地理は新聞を読むだけで点が取れる唯一の科目だ」と常日頃から言っているわけだが、
僕の中に“向いている”という要素もあって、地理は非常に大切にしている科目なのだ。


2007.6.28 (Thu.)

試験が終わってさっさと勉強を再開すればいいものの、そこはスローペース。
いちおう、教職に関する科目系統のテキストを読んではいるのだけど。
まあ人間、メリハリが重要なのである。一息入れないですぐにまた物事を始められる人なんて、そうそういないのだ。

それにしても、よくまあ次から次へとくるなあ、と呆れる。
よく考えてみたらそういうスケジュールを組んだのは紛れもなく僕自身であり、呆れてもしょうがないのだが、
最短ペースで目標を達成するにはこうするしかないわけで、「がんばる」以外の選択肢など存在しないのである。
次のテストは10月ということでそこそこ余裕がある。しかしその分、手のかかる科目を履修することになっている。
これからまた4ヶ月、ヒーヒー言いながら勉強して日記にグチをいろいろ書いていくんだろうなあ、なんて思う。
まあとりあえず、しばらくは休ませてくれ。どうせまたすぐに、なんだかんだ言いながらリスタートするんだから。


2007.6.27 (Wed.)

鼻が高くなったのかもしれん、という話。

僕の母親はひどい人で、昔っから僕の顔を眺めては「あんたの鼻は低いなあ。ウチ(母方)の家系だでなあ」と、
ため息をつくとはいかないまでも、ある種の諦観の念を表明してはばからない態度を、ことあるごとにとるのであった。
なんだかよくわからない婉曲な日本語を使ってしまったが、要するに、ブサイクだと同類相憐れまれていたのである。
でもまあ僕は、自分自身の顔にはまったく興味がなかったので(高校時代に「少しはヒゲを剃れよ」と何度も言われた)、
別に鼻が低かろうが高かろうが何か変わるわけでもなし、と気にせずバットを左打席で素振りしていたのであった。
そういう10代を過ごしていたわけで、「僕の鼻は低いものなのだ」と刷り込まれたまま、20代に突入した。
で、20代も後半になって、なんだかどうも、鼻がジャマになる機会が少しずつ増えてきたのである。

一番最初のきっかけは、今の会社に就職して、電車での通勤をするようになったことである。
僕はいつもドアのすぐ近くのポジションを確保して乗っているのだが、やたらと鼻の頭がガラスに当たる。
ちょっと油断してガラスの窓に顔を近づけるとペタッと当たって慌ててのけぞる、その繰り返し。
あれ? オレの鼻ならもっと近くまでいっても当たらないだろ?と思ってまたペタッ。間合いがおかしくなった。
それから雨の日、職場で昼休みに寝るとき。腕を組んでハンカチを敷いてそこに突っ伏して寝るのだが、
起きるとハクビシンならぬセキビシン状態である。鼻筋のところが見事に赤い縦線となってしまう。
ほかにも、汗をかいたとき、やたらと鼻の頭に汗が集まってそこからポタポタ落ちるようになってきたり、
缶ジュースを飲もうとすると、飲み口の上の部分に鼻がつっかかって最後の一滴を飲むのにやたら苦労したり、
視線を下にやったときに鼻が視界に入って邪魔に思えたり。以前となんだか勝手が違ってきている。

そういうわけで、どうやら僕の鼻は以前よりも高くなったのかもしれないのである。
遅えよ! 高くなるんなら10代のうちになってくれよ!と思ってみるが、当時のことを考えると大して人生に変化はなさそう。
まあいろいろと苦労の多い20代だったわけなので、これくらいのいいことがあってもいいよなあ、なんて思う。
今後も「鼻たーかだか!」(←これ流行るよ!)な人生を歩んでいきたいものである。おわり。


2007.6.26 (Tue.)

NODA・MAP番外公演『THE BEE』。日本ヴァージョンを観てきた。

原作は筒井康隆の『毟りあい』。しがない会社員の井戸は、息子の誕生日にプレゼントを買って帰宅しようとする。
しかし自宅には殺人犯・小古呂(おごろ)が立て篭もっていた。平凡な日常が一転して不幸のどん底となった井戸は、
警官とともに小古呂の家を訪ね、彼の内縁の妻に説得を依頼しようとする。しかし、妻はそれに応じない。
井戸は被害者の立場を捨てることを決意し、小古呂の妻のアパートに立て篭もる。そうして「毟りあい」が始まる。

野田秀樹の舞台を観に行くたびに毎回、その舞台美術の見事さに呆れるのだが、今回もやられた。
舞台には一枚の大きな紙が敷かれ、その一辺は奥のほうで壁のように吊り上げられている。
その紙を破ることで窓がつくられる。扉がつくられる。なにより、敷かれた紙が破られることで、演技の空間が狭くなる。
つまり、紙をちぎって演技のできる空間を狭くすることで、じわじわと追い詰められる状況が表現されているのだ。
この発想には参った。小さい頃に横断歩道の白い部分だけを歩いて渡った記憶があるのだが、
紙の存在はあのときの白い部分と同じなのだ。残った紙が小さくなっていくと、立場がどんどん悪くなる。

しかしながら、話の内容についての感想は正直なところ、「野田秀樹も失敗することがあるんだなー」というもの。
序盤の井戸が被害者としてうまく振舞えないことから加害者に転じる、という辺りのキレ具合はさすがで、
舞台の使い方の見事さもあってひたすら夢中で話の展開を眺めていたのだが、
中盤からは話が動かしようのない方向に進んでいって、結局は処理しきれずに終わってしまう。
これは筒井康隆の原作をもってきたことが悪く影響している。
筒井は設定の発想は独創的でも、それを転がすのが本当にヘタクソで、決まって暴力的な方向に迷い込んで、
最終的には破綻して、物語としての完成度が最初の期待からは著しく下がったところに着地してしまう。
この『THE BEE』もその筒井の悪い癖を改善することができないまま終わってしまう。
何より、タイトルにもなっている蜂がまったく生きていない。平穏な日常への侵入者ということでの蜂だろうけど、
最後まで話の中で重要な位置を占めることができないまま、暴力による破綻に巻き込まれてしまった。

客席はとても正直で、いつものNODA・MAP公演とは明らかに温度が違っていた。
生意気だけど、こういう雰囲気のカーテンコールを何日も続けるなんてつらい商売なんだなあ、と思ってしまった。
まあ名人でも失敗することがあるとわかり、ちょっとホッとしたというのが正直な気持ちである。
次回の公演『キル』には大いに期待しよう。


2007.6.25 (Mon.)

みやもりと電話で沖縄旅行についての計画を練った。
でもやっぱり、あれこれ実際に資料を見ながら話をしてみないと、どうもイメージがつかめない。
そんなわけで今週末にMQCがてら集合して、具体的に計画を詰めていくことにした。

それにしても、あまりに毎日の生活が単調なので、もう旅行のプランを練るくらいしか楽しみがない。
集団での旅行計画はこの沖縄と、あと下関の話が持ち上がっている。いいことだ。
そして恒例の一人旅としては、四国一周を計画中である。
理論上では、5日間で僕が見たいポイントを押さえての一周が可能なはずなのである。理論上は。
相変わらずのとんでもなくタイトなスケジューリングなんだけど、ぜひ実現させてみたい。
そしてこれはあくまで計画段階なのだが、裏日本界のツートップである鳥取と島根にも行ってみたい。
島根に行くならぜひ出雲大社にも寄ってみたい。そして鳥取まで行くならぜひ天橋立も見てみたい。
これをどれだけコンパクトな日程に詰め込めるか。腕の見せ所だぜと思いつつプランを練ってみる。
県庁所在地シリーズでは東海地方がノータッチになっているので、それもなんとかしたい。
岐阜は愛知とセットにするのが妥当だろう。となると、静岡が行程から独立することになる。
まあ浜松も政令指定都市になったし、静岡県専門で旅をするのも悪くないかな、と思ってみたり。

実はそうやってあれこれ計画を練るのが一番楽しいのである。
経済的な都合と仕事の都合とで思うように動けない毎日だからこそ楽しい。
地図と一緒に夢が無限に広がっていく。Googleマップを眺めながら、ムフフとあれこれ考えてみる。


2007.6.24 (Sun.)

テスト。今シーズンは午後に教職科目が2つあるだけということで、ずいぶんと軽めのメニューである。
余裕をもって電車に乗り込み飯田橋まで出ると、そこから自転車に乗る。10分しないうちに到着。
近くのメシ屋で昼ご飯をいただくと、試験場に入る。前もって要点をまとめておいたルーズリーフを読み込み、本番。
いつものごとくインチキ文章をこねくりまわして解答用紙を真っ黒にする。問題なく終了。
正念場は夏休みのスクーリングと、この次のテストなのである。明日からはまた、新しいテキストと格闘だ。


2007.6.23 (Sat.)

青木琴美『僕は妹に恋をする』。映画化もされているし、なかなか個人的に気になるテーマを扱っているので、
大森でベーグル食いながら日記を書いた帰りにマンガ喫茶に寄って読んでみた。

感想は、まあ、ストレートに書くけど、これだけくだらないマンガを読んだのは初めてだ。
何から何まで褒めるところがない。「くだらない」以外に出てくる言葉がない。いやもう本当にひどい。
すべてにおいて完璧な兄と、ドジで何をやってもうまくいかない妹。まあその設定は許すとしよう。
その二人が恋愛状態に陥り、兄は家を出て全寮制の学校に入る。会いたいけど会えないけど会っちゃう。
兄の親友で同級生からのアプローチをかわしつつ、あれやこれやと時間が経っていく。
唯一話にアクセントをつけていたのが兄の元カノである楠友華。まあこれも有効に機能していたとはいえないが。

ラストシーンまで読んで、そのあまりにもアクロバットというかムチャなハッピーエンドぶりに思わずずっこけた。
こんなにどうしょうもなくつまんないのはなんでだろうと考えてみたのだが、結論としてはリアリティの欠如。
マンガの中でしかありえない、現実には存在できない論理と世界のオンパレード。リアリティが徹底的に欠如している。
二人をつないだ絆については絶対的なもの、アンタッチャブルなもの、議論不要なものとして扱う。まあしょうがない。
その一方、引き裂く障害については次から次へと出してくるけど、それがどうにも迫力不足というかピンとこないのだ。
リアリティがないのでキャラクターがキャラクター止まりになっていて、こっちの頭の中で動き出すことがない。
だから読者として話を受け止めても、それを自分のものとして解釈することができないのである。

すべてが拙いにもかかわらず、兄と妹というショッキングな設定だけでお金を稼いじゃったわけである。
そういうものが世の中に堂々と出回っているというのは、非常に残念なことなのである。


2007.6.22 (Fri.)

『機動警察パトレイバー2 the Movie』。前に見たことあるんだけど、あらためて見てみるのである。

パトレイバーの劇場版第1作(1989年)は、非常に思い入れの強い作品である(→2003.6.8)。
で、その前作から5年後の1993年に公開されたのがこの作品。もちろん監督は押井守。

2002年冬、謎の軍用機から発射された一発のミサイルが、ベイブリッジを破壊する。
突然のテロに政府の対応は後手後手にまわり、さまざまなところで責任のなすりつけあいが展開される。
そして気づけば東京に戒厳令が敷かれたような状態になってしまう。
敵が何者なのかはわからない。しかし東京は現実に、戦争に巻き込まれてしまった。
独自に動いていた後藤隊長はこの状態に収拾をつけるべく、かつての仲間を呼び寄せる、というのが話の筋。

結論から書いてしまえば、僕はこの作品をまったく好きになることができない。
というのも、あまりにも後藤隊長を矮小化というか、監督の都合のいいように扱いすぎているからである。
しかもいつもの面々(かつての第2小隊)の活躍は、最後の最後でほんのちょこっとだけ、となっている。
マンガから入ってじっくりファンになっていった身としては、これは納得できない。
特に後藤隊長のカミソリっぷりを大いに気に入っていた僕にとって、最初から最後まで押井監督の分身のように行動し、
さらには南雲隊長との関係性に振り回されている姿は大いに違和感がある。違うよーと言いたくなる。
警察の上層部に三行半を突きつけるシーンはその最たるもので、こんなにカッコ悪くないでしょうに、と思えてならない。

話の内容じたいは確かに興味深いものだ。1993年の段階でテロが都市を襲う、というテーマを用意している。
そして、オウム真理教が事件を起こすよりも先に、破壊活動防止法によるテロ関係者の逮捕を描いている。
その嗅覚の鋭さにはただただ脱帽するしかない。時代の最先端のさらにその先を、確実に見つめているからだ。
自衛隊(まあ要するに軍)がどのような正当性をもって東京に展開したのか、少々わかりづらかったところがあった。
その辺は僕が平和ボケしているからなのかもしれない。とにかく、この点の論理をもっとわかりやすく展開してほしかった。

まとめると、この作品は押井監督の興味・関心を形にするためにパトレイバーの世界を利用した、と言えると思う。
極端な表現をすれば、押井監督によるパトレイバーの2次作品なのである。限りなく同人誌的な、公的作品。
押井監督はパトレイバーを立ち上げたオリジナルのメンバーなのでそっちに正統性があるのは当然なのだが、
ふと「パトレイバーは誰のものか」という言葉が頭の中をよぎった。さまざまなメディアで展開された副作用が出ている。
もっとも、こういう疑問が浮かぶことじたい、パトレイバーという作品の先見性・現代性を示しているとも考えられるだろう。


2007.6.21 (Thu.)

『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』。これまたDVDを借りてきたのだ。

……やっぱり、マンガ(→2006.3.7)の完成度が高いので、映画はマンガ+細部の補足シーンという印象。
マンガでは区切られてしまうコマとコマの間を忠実に埋めたらこうなった、って感触がするのだ。
前作同様、原作に忠実すぎる映画なのである。まあでもこの作品は主題歌が『少年期』なので、それだけで大満足。

特筆すべきは予告編。いくつかヴァージョンがあるのだが、その中でも特に、
いかにもハリウッド映画っぽく、英語でナレーションが入るやつが自由奔放で楽しい。
(ドラえもんが「やることがオーバーだ」とツッコミを入れるヴァージョン。ずいぶん思い切った予告編だ。)
実際、ドラマニアからの評価もダントツに高いようだ。映画ドラえもん25周年公式サイトでは見られないのが残念。


2007.6.20 (Wed.)

過去の日記を見てもらえばわかるように、僕はかつて多摩地区26市の市役所を自転車で訪れている。
(面倒くさいので個別のリンクは貼らない。2002年9月~11月のログを参照のこと。 ⇒9月10月11月
しかも、実は2回それをやっている。大学院在学中のチャレンジは通算2回目になるのだ。
最初のチャレンジは国立時代にやっているのである。大学4年でヒマだったから実行したのだ。

さて、そんな僕の話を聞いた人はたいてい、「23区はやらないの?」という反応をする。
もともと僕の興味は政治とデザインの関係性にあり、多摩地区の市役所を調べたのには、
市の政治体制(保守か革新か)と市庁舎建築の関係性を探るという目的があったのだ。
ところが東京都特別区は区長公選制が復活したのが1975年になってからなのである。
これじゃ、政治とデザインの関係を探るのにはあまり都合がよくない。遅すぎる。
そういうわけで今に至るまで、区役所についてはスルーしてきたのだ。
しかしいつまでもスルーしているわけにはいかんだろ、きちんと見なきゃな、という気になったので、
「おーじゃあ23区の区役所見てやるよ! 自転車で! 一日で!」
と叫んで有給を取ってチャレンジすることにしたのである。デジカメも新調したことだし。

ちなみにこの日を選んだのは、夏至に近くて雨が降りそうにないから、という単純な理由。
本当は夏至である22日にやってみたかったのだが、夏至の予報は雨なのであきらめた。
(一日で23ヶ所もまわって撮影するわけだから、昼間の時間が最も長い夏至が理想的なのだ。)
予報では、20日は「曇りときどき晴れ」。撮影のことを考えると晴天のほうがいいが、
あんまり晴れすぎてもフィジカル的にしんどい。とりあえず降らなきゃヨシ、ということで決定。

ちなみに今回、ただ区役所をまわるだけでは芸がないので、「東京23区一筆書き計画」と題し、
コース選択に以下のような条件をつけることにした。
 ● 次の区へ移動する際には、隣接している別の区に入らないようにする。
 ● 移動はつねに一方通行とし、同じ道を引き返すことはしない。
この条件を入れるとコース選択が飛躍的に難しくなる。
まずはチャレンジ前夜、単純に全23区を一筆書きすることを考えるところから始める。
この問題は、数学的に解決することができると思う。
これは「巡回セールスマン問題」ということで、オペレーションズリサーチの手法なんかでできちゃいそうだ。
しかし僕はそこまで賢くないので、とりあえず幹線道路をもとにして線を引いてみる。
僕が住んでいる大田区を起点に、皇居を中心に右回りの円を描く感じで概要が決まる。
次に別の区に侵入しないように、走るコースを決めていく。駒沢通や環八が思うように使えない。
複雑極まりないのが板橋区・北区・豊島区の入りくんだ辺り。これがもう本当にシビアだ。
まあそうして2時間くらい悪戦苦闘していたらコースが確定。奥の深い問題である。

朝4時に起きる。まずはテレビで天気予報のチェック。曇りときどき晴れの予報は相変わらず。
日の出時刻は4時25分である。日の出直後だと光の具合が撮影に向かないので、しばらく待つ。
ゆっくりのんびりと支度をととのえて、5時ジャストに家を出る。

 いざ行かん!

まずは僕の住んでいる大田区からスタートするのである。23区の南端に位置する区である。
区役所があるのは蒲田。僕の家は大田区の本当に北端にあるので、かなり遠い。
昔は大森と蒲田の真ん中くらいにあったのだが(→2006.6.25)、まあしょうがない。行くしかない。

蒲田に行くいちばんの近道は、呑川沿いに下っていくことだ。そして国道1号に出たところで、
道路を渡ってそのまま呑川を行くか、環八を行くか、選択することになる。
今回は環八を行った。早朝の環八は閑散としていて気分がいい。グングンとスピードが出る。
あれ、こんなにあっけなかったっけ?と思うほど簡単に蒲田に到着。陸橋から区役所が見える。
朝日を浴びる姿を撮影すると、駅の東口に出て区役所の前へ。撮影開始である。

  
L: JRの線路をまたぐ陸橋から見た大田区役所。カマボコ状の最上階が議会になっているのだ。
C: 大田区役所正面。金色の大田区マークが輝く。周囲のビルに囲まれて圧迫感がすごい。
R: 角度を変えて撮影。駅前通りから奥に入ったところにあるのでどうにも狭くて落ち着かない。

 
L: こんな感じでビルとビルの合間にひっそりとたたずんでおります。
R: いちおうセットバックしてオープンスペースをつくってはいるものの……。あんまり意味がない。

大田区役所のあるこの場所はもともと、国鉄時代には荷物を扱う場所だった。
それが国鉄清算事業団によって桃源社に売却され、商業ビルの建設が計画される。
ところがバブル崩壊によって桃源社は倒産し、できあがったビルはそのまま放置されていた。
それで結局、大田区がこのビルを購入して大幅に改修して庁舎として利用している、という経緯がある。
この件については、大学院時代に実際に聞き取り調査もしている(→2002.8.15)。
民が官のものを再利用するのと逆のコースということで、珍しいし参考になる事例である。

さて大田区役所に別れを告げると国道15号・第一京浜へ。
やはり朝が早いので、交通量はいつもに比べると格段に少ない。快適に飛ばして品川区内に入る。
車のための道路という印象だった大田区と違い、品川区内の第一京浜はどこか街道っぽさが残る。
道幅の広さは変わらないが、もとあった道を拡張した、という感触が強いのだ。根拠はわからないけど。
京浜急行の赤い電車を横目で見つつ、仙台坂のところで左折。朝日を背中に浴びつつヒイヒイ上って、
そのまま大井町駅へ。品川区は塾講師時代にお世話になった場所なので妙にセンチになる。
そんな複雑な思いを振り切って東急大井町線のガードをくぐると、すぐに品川区役所である。

  
L: 品川区役所。正面にあるのは議会棟。  C: オープンスペースと議会棟。し、シンプルだ。
R: こちらは向かって左手の本庁舎。時計のてっぺんが品川区マークになっているのがわかるかな?

 アジサイがキレイだったので思わず撮影。

品川区役所は非常にシンプルなオフィス建築である。無彩色でファサードは統一されていて、
本庁舎と議会棟を分けて配置して中央にオープンスペースをつくる構図は、やや珍しいかもしれない。
というのも、こういうケースではたいてい、オープンスペースではなく駐車場がつくられるからだ。
敷地が大きくないために、建物は地上、駐車場は地下、と完全に分けた結果なのだろうか。
まあとにかく、こういったいかにもな庁舎建築は減っていく傾向にあるので、今後は貴重な存在になるかもしれない。

区役所の撮影を終えると、一方通行がダメなルールなので、そのまままっすぐ北へ抜ける。
道なりに進んでいくと大崎駅まで流される。さらに大崎広小路まで行って五反田を抜け、ようやく山手線内へ。
北品川のソニー地帯から『幕末太陽傳』(→2005.10.22)の舞台にもなった八ツ山を越え、第一京浜にやっと復帰。
高輪から札の辻を通り、三田で日比谷通に入る。そのまままっすぐ行くと芝公園、港区役所に到着。

  
L: 港区役所。港区といえば大都会なのだが、行ってみると区役所はかなり小さい。
C: 正面から撮影。やっぱりコンパクトである。  R: 建物の前にある車止め。オープンスペースがない。

  
L: 道を挟んで隣に港区議会がある。周囲の建物に囲まれて、本当に土地に余裕がない。
C: 港区役所のすぐ手前にある芝公園の様子。  R: これも芝公園。役所のオープンスペース代わりなのだ。

港区役所は区の規模のわりにずいぶんと小さい印象を受ける。
港区は区内を「赤坂」「麻布」「高輪」「芝」「芝浦港南」の5つに分け、それぞれに総合支所を置いている。
そして港区役所は芝地区の総合支所を兼ねている。道を挟んで隣には、周りのビルに埋もれて区議会がある。
この区議会がくっついていることでやっとこさ区役所本庁舎としての存在感が保たれている、そんな感じだ。
港区役所は都立芝公園の範囲に入っており、目の前には増上寺を源にした緑が広がっている。
敷地が狭くてかなり窮屈な施設ではあるが、芝公園の一部になることでその印象を緩和しようとしている、
なんてふうに考えられなくもない。緑とビルに囲まれた、非常に港区らしい区役所、と言えそうだ。

港区の次は渋谷区に移動するのである。芝公園を西に抜けて赤羽橋まで戻る。
そこからまっすぐ麻布十番まで行くと、さらに進んで六本木通へ。
途中で六本木ヒルズの脇を通ったのだが、朝日を浴びる毛利庭園はなかなかよろしい。
六本木通からはまっすぐ渋谷駅へと走るのだが、途中で猛烈に腹が減って動きが鈍くなる。
結局、駅近くの定食屋に入ってカツ丼を食べる。朝の7時からカツ丼とはまた、われながらパワフルである。
食べ終わると意気揚々と渋谷駅の西口へ。道玄坂を下って行ったのだが、渋谷のクセに緑が多くて新鮮だった。

 
L: 六本木ヒルズ、テレビ朝日の脇にある毛利庭園。ガラスとの対比がなかなか。
R: 平日朝7時過ぎの渋谷センター街。ちょぼちょぼと人がいるのはさすが。

それから公園通の坂道をうんしょうんしょとのぼっていって、NHKが見えたところでストップ。渋谷区役所である。

  
L: 渋谷区役所。この建物はゆるく左にカーヴしているのだ。新デジカメの広角レンズの威力が出ている一枚。
C: 正面側にまわり込んで撮影。地味なレンガの側面とサッシュの対比がかっこいい。
R: オープンスペースと正面玄関。右手には渋谷公会堂(渋谷C.C.レモンホール)がある。

  
L: 渋谷公会堂側からオープンスペースを撮影。けっこう広い。
C: 裏手にまわってみたところ。外の階段もこうなりゃファッションだなあ。
R: 一周してさっきと逆側からカーブを撮影。こちら側は純粋に駐車場になっている。

 
L: 渋谷公会堂はネーミングライツ売却で、今は渋谷C.C.レモンホールと呼ばれている。がっくりだ。
R: 自販機はこんな感じに。まあ、そうなるわな。

渋谷区役所は1964年、渋谷公会堂・国立代々木競技場とともにワシントンハイツ跡地につくられた。
1964年といえば東京オリンピックである。渋谷公会堂は重量挙げ会場、代々木競技場は競泳会場としてつくられた。
実際に空間配置を見てみると、渋谷区役所を南端に、公会堂がその西隣に位置してオープンスペースがつくられ、
そのオープンスペースがNHK・代々木公園方向へと広がるような構成になっている。壮観で気持ちがいい。
1960年代半ばにこのような凝った庁舎がつくられるケースはそう多くない(と個人的には思う)。
その後の革新行政の空間デザインにけっこう影響を与えた先駆的存在だったのではないか、と僕は考える。
大胆なサッシュにモダニズムの雰囲気を残しつつ、建物をカーヴさせることで新鮮さを際立たせる。
これはなかなかタダモノではない建物だなあ、と思う。詳しく調べる価値がありそうな感触がする。

次は目黒区である。東急ハンズの手前を通って右に曲がり、Bunkamuraに出る。
そこから山手通へと抜ける(前日に松涛の温泉施設で爆発事故があり、規制線が張られマスコミが待機していた……)。
山手通を一気に下って中目黒駅を越えると、駒沢通へ。するとすぐに目黒区役所が見えてくる。

  
L: 目黒区役所を正面より撮影。広角レンズの影響で右手の建物が大いに傾いているが、気にしないでください。
C: 少し斜めの角度から見たところ。うーん、やはり実物の迫力とは比べ物にならないなあ……。
R: ファサードを拡大するとこう。これが索子(ソーズ)に見えた人は麻雀のやりすぎです。

  
L: 駐車場と、敷地の端にある緑。  C: 建物のすぐ目の前にはこんな具合に水が張られている。
R: ファサードを真下から見てみるとこうなる。建物じたいはシンプルだが、こうも優雅に化粧をするとは。

国立からこっちに引っ越してきて、まあ当然のようにあちこち自転車で動きまわったんだけど、
一番最初に圧倒されたのがこの建物だった。潤平と「あれすごいよな!」と盛り上がった記憶がある。
当時はまだこの建物は「旧千代田生命本社」だったのだが、今は「目黒区総合庁舎」となっているのである。
つまり、これもやはり2000年に千代田生命が破綻した後、目黒区が買い取って庁舎とした「民→官」ケースなのだ。
前の目黒区庁舎は狭隘・分散がひどいうえに耐震性に問題を抱えていて、移転が急務となっていたわけで、
日本を代表する建築家である村野藤吾が設計した名作を残す観点からも再利用が決められたのである。
(移転についての詳しい経緯は以前に聞き取り調査をしている。過去ログを参照。→2002.9.18
実際に行ってみれば、とにかくその問答無用の美しさに圧倒される。「きれい」なのである。
ほかの建物とはまったく別種の説得力があって、巨匠のセンスに何も言えなくなってしまう。

 目黒銀座より目黒区役所の裏手を眺める。

そんなわけでいつ見てもシビれる目黒区役所をあとにすると、次に目指すのは世田谷区である。
このまままっすぐ駒沢通を西に行けばよさそうなものだが、どっこいそうはいかないのだ。
というのも、目黒区が「M」字型をしているせいで、世田谷区に入ってからしばらくするとまた目黒区になってしまう。
今回のルールではそれはアウトなので、五本木から北上していったん三軒茶屋まで出て、
そこから世田谷通で世田谷区役所を目指すのである。本当に変なルールをつくったもんだ。自分で呆れる。
五本木から下馬に入る。小学生が親と一緒に集団で登校している。物騒な時代になったなあ、とため息が出る。
少なくとも僕らが小学生の頃には、登下校は非常に気楽なものだった。変質者とか気にしたことないもの。
さらに三宿中学校の脇を抜けるとき、登校する中学生が警備員に挨拶をしていた。区立中学校に警備員とは。
時代は変わったんだな、と実感。たまに平日朝に走ると妙な発見があるものだ。
さて、そんなふうにいろいろ考えつつ世田谷通を進んで案内板を見て右折。ちょっと奥へ入ると世田谷区役所である。

  
L: 世田谷区役所。たぶんこれは正面と言っていいと思う東南側からの撮影。左手には区民会館を併設。
C: 国士舘大学(北)側から撮影。こっちからの方がファサードがよくわかる。
R: 一周して裏側にまわり込むとオープンスペースになっている。区役所は左手。その向かい側には区民会館。

 
L: オープンスペースから見た世田谷区役所。  R: 世田谷区役所入口。区役所と区民会館を結ぶ通路の下にあるのだ。

  
L: 世田谷区役所第二庁舎。右隣には第三庁舎もある。これまた見事なコンクリート製。
C: 区役所手前から見た、お隣の区民会館。こちらももちろんコンクリート製である。
R: 区民会館をオープンスペースより撮影。コンクリートの力強い造形。うーん、いかにも前川だぜ。

世田谷区役所・世田谷区民会館は前川國男の設計による(1959年)。
日本におけるモダニズムの巨匠中の巨匠の、素人にもわかりやすい作品例と言えそうだ。
役所と公共施設を並べてオープンスペースをつくるという手法については何度も言及しているけど、
政治と建築の両方における「近代/モダン」という点で、この空間はかなり貴重な価値を持っている。
敷地内には木をとにかくたくさん植えていて、それがコンクリートとマッチしているのが面白い。
コンクリートには無機質な印象はなく、むしろコンクリートという素材によるオプティミスティックな感じ、
戦後ニッポンの「これからバリバリやってくでー」という気概、それがなんとなく漂っているように思える。

来た道を戻らないように遠回りして、世田谷通に戻る。東急世田谷線に別れを告げて、なおも西へ。
しかし環八の手前、東京農業大学の脇で千歳烏山方面に針路変更。
これは杉並と世田谷の区境が環八の部分で少々入り組んでいるための措置である。
一筆書きを採用している今回のルールでは、環八は使える箇所が限られているのだ。
そこで環八ではなく「荒玉水道通」というなんともマニアックな道で杉並区に入るつもりでいた。
しかし案の定、世田谷区はすさまじい迷路っぷりを発揮してくれて、気づけば迷って地図を広げる、その繰り返しに。
(カーナビを発明する際、世田谷の住宅街を迷わず抜けることがテストの基準になったという逸話があるほどで。)
結局、いかにも体育会系なチャリンコ大学生の後ろをついていって日大文理学部にたどり着くことができた。
そうして桜上水経由で甲州街道へ。めちゃくちゃ細いくせして交通量の異常な荒玉水道通を北上する。
しかし知らないうちに松ノ木八幡通にスイッチ。五日市街道でまた迷ってしまう。
(世田谷区も杉並区も住宅街で、地図上の道路は実際の道路に比べて幅が太めに示されているのが原因。)
結局、世田谷-杉並間を抜けるのに、実に1時間以上かかってしまった。これは大きなロスだ。
悔しさを抱えつつ青梅街道沿いの杉並区役所に到着。交通量が多くて思うように撮影できない。

  
L: ひっきりなしに前を車が通る杉並区役所。青梅街道から見えるのは、中棟(左)と東棟(右)。
C: 近づいてみて撮影したところ。なんだか大田区役所と似た感じで余裕のない前庭である。
R: こちらはちょっと奥まった西棟、阿佐ヶ谷駅方面の入口。こっちは木陰になっていて、今日のような天気には助かる。

 杉並区役所裏手(隣は阿佐ヶ谷中学校)は緑の多い通路となっている。

杉並区役所は、その名前のイメージからか、うっすらと青緑がかった配色がなされている。
僕がいつもこの日記で書いている「平成オフィス建築」の典型のような外観である。
敷地が少し複雑なことで、建物が3つに分かれているのかもしれない。
阿佐ヶ谷の並木と青梅街道に囲まれて、あまり存在感のないように仕上がっている。

さて、世田谷~杉並の迷路で思いのほか手間取ってしまい、けっこう時間的にキツい感触がしだす。
単純計算で考えてみる。日の出が4時半、日の入りが19時。ただ写真撮影に適した明るさということを考えると、
実質は5時~18時というのが行動できる時間ということになるだろう。それで実際、家を5時に出ている。
東京23区の区役所をすべてまわるには、13時間÷23区=0.565…ということで、つまり、
1つの区あたり30分の時間しかかけられないことになるのである。しかも、ただ区役所に行けばいいわけではない。
建物をぐるっとまわって撮影しなければならないのだ。なんだかんだで撮影に10分かかるとすれば、移動時間は20分!
これはとんでもない事実である。朝のうちならまだしも、時間的にこれからどんどん交通量は増えていく。
そんな中で30分ごとにタスクをクリアしていくというのは、まあハッキリ言ってそうとう厳しい。
しかしやると決めたからには挑戦するのが男の子である。夢中でペダルをこぐしかないのである。
幸い、杉並区役所から次の中野区役所まではあっという間である。青梅街道をそのまま東に行き、中野通を北上。
中野駅のガードを抜けてサンプラザのお隣が中野区役所なのだ。これでロスがそこそこ縮まった。

  
L: 中野区役所は非常にシンプルな庁舎建築。手前にあるのが議会棟。右手にはちょっとしたオープンスペース。
C: オープンスペース側から撮影。周辺には妙に緑が多い。中野サンプラザとオープンスペースの接続はない。
R: 裏手はこんな具合。正面からの視点に特化した建物だなあ、と思う。

 
L: 中野区役所と中野サンプラザの間にある道路。区役所とサンプラザとの接続を断っているが、緑が実に見事。
R: 隣の中野サンプラザ(旧・全国勤労青少年会館)。この建物がフレームに入りきるってことに、広角の威力を実感。

中野区役所は特に巨大という印象もない、ごくふつうのオフィス建築。
1フロアを強調するような横縞ファサードが印象的だが、近くで見るとそんなに特別きれいというわけでもない。
裏手にまわると実に地味で、庁舎らしいといえば庁舎らしいのだが、少しさびしい。
特筆すべきは隣の中野サンプラザとの間にある道路だろうか。緑に厚く覆われているのだ。
今日のような暑い日にこういうところを通るのはなかなか気持ちがいい。
ただ、この道路が区役所とサンプラザとの接続を断っているという側面もある。
サンプラザはもともと旧労働省の外郭団体がつくった施設なので、しょうがないと言えばしょうがない。

撮影を終えると早稲田通から環七へ。環七は僕にとってホームグラウンドのようなものだ。どこか落ち着く。
途中の野方駅でジャマをされながらも北上(歩行者・自転車は西武新宿線で引っかかって回り道をする)。
そのまま勢いよく突っ走って、ゆっくり北東へと舵を切る環七からも脱出。ひたすらまっすぐ北へ行く。
目白通で左折すればすぐにドデカい練馬区役所がお目見えである。とりあえず一発撮影しておく。
そしてするすると近づいていき、正面からまた撮影。本庁舎も西庁舎もどっちも大きい。

  
L: 道を行くとぬっと現れる練馬区役所。  C: 本庁舎を正面より撮影。ガラス窓が青い空を映している。
R: これは裏側から撮影したところ。正面とまったくデザインが変わらない。戦隊ヒーローの顔っぽいな、なんか。

  
L: 練馬区役所正面入口はこんな感じ。デカいくせに(デカいせいで?)スペースにぜんぜん余裕がない。
C: 練馬区役所の西庁舎。もともとはこっちが本庁舎だったのかな。
R: 西庁舎の側面にはタイルでこのような絵が描かれているのであった。いまいち意図がわからん。

練馬区は今年で生誕60周年である。23区で2番目の人口、5番目の面積を誇る練馬区だが、
実は1947年に板橋区から分離・独立する形で誕生した、23区で最も新しい区なのである。
そんな練馬区役所の本庁舎は1996年竣工。非常によく目立つ高層建築、いかにもな平成オフィスだ。
裏手に申し訳程度の緑があるくらいで、空いている空間がほとんどない窮屈な場所である。

千川通に出ると、勢いよく東へ進んで再び環七に合流。
しかし江古田駅の西側でまた西武線にジャマをされて(今後は池袋線)、迂回を余儀なくされる。
武蔵学園をちょっと行って商店街を突っ切り、なんとかもう一度環七に復帰。板橋区に入る。
そろそろ自転車のタイヤの空気圧が心配になってきたので、空気を入れることにする。
僕くらいのレヴェルになると、自転車の空気は交番で入れるものなのである。
中の警官に「空気入れ貸してください」と言えば、タダで空気を入れたい放題なのである。
そんなわけで街の平和を守る警官のおっさんと軽く雑談をしつつ空気を入れる。交番には毎回助けられている。
で、環七をズンズン突き進む。気づいたら日陰に入っていて、空を見上げたらちょうど太陽のところにだけ、
小さなクッキーみたいな雲がかかって日差しを遮っていた。しかし目の前を見るとまたアスファルトが輝いている。
これが自然の日なたと日陰の境目かーと思いつつ日なたに出る。短い安息の時間であった。
ちなみにこの日、太陽が雲に隠れたのはこの一瞬だけだった。
まあそんなふうに炎天下の中を走っていく。国道17号・中山道で右折し、首都高5号池袋線の真下を突き進む。
しばらく行くと中央環状線との板橋ジャンクションが見えてくる。そのど真ん中にあるのが板橋区役所である。

  
L: 板橋区役所、正面の様子。上のほうにチラッと見えるのは首都高5号線。これがジャマで全景が撮れない。
C: 正面を角度を変えて撮影。左にあるパブリックアートの周囲は水が張ってあって少しだけ涼しい。
R: 反対側から撮影した板橋区役所。地下鉄三田線の板橋区役所前駅からそのまま来られる。

 
L: 板橋区役所裏手の駐車場付近。板橋区役所は駐輪にうるさく、見張るじいちゃんが何人もいた。
R: 首都高5号線に合流する中央環状線。この辺はもう、高速道路が景観を完全に支配している。

板橋区役所は十分大きい建物なのだが、それを高速道路が完全に取り囲んでしまっているので、
なかなか思うように撮影ができない。それはつまり、うまくファサードを眺めることができない建物ということである。
ある意味これは機能に特化した状態と考えられなくもない。もっとも、高速道路上から見ればまた違うだろうけど。
トイレ&血糖値調整休憩ということで(甘いものを摂取して血糖値を上げないとエネルギーが出ない)、
駐輪場でじいちゃんから紙をもらって区役所内に入る。最近の建物っぽい外見とは対照的に、
中はけっこう昭和末期の香りが漂ういかにもな庁舎空間。地下の売店なんかホントに昭和の雰囲気である。
で、自販機の紙コップのアイスココア(70円)を飲んで一休み。紙コップを返却したら10円戻るという仕組み。
役所の中で売っているものは、外にあるものよりも物価が安いので助かるのである。
外に出るとじいちゃんに紙を渡す。そしたら「あれ? 何も書いてないですね?」と言われる。
どうやら板橋区役所では、自転車で来た人は窓口に行った際に紙にチェックを入れてもらう決まりのようだ。
そうして違法駐輪を防ごうというのである。細かい話である。でも「トイレ借りたんですけど」と言ったら、
ああそうですかと納得してくれたんで、ヨシ。本当に短い時間しか駐輪してなかったしね。
そんなわけで、スッキリしつつ、日差しにフラフラになりつつ、ペダルをこぎ出す。

これでようやく、2ケタ達成である。しかし残りの道のりのことを考えると、まったく喜ぶ気になれない。
だいぶ正午が近づいている状況で、まだ半分クリアしていないという焦りのほうが大きい。
しかしその焦りを運転に出すわけにはいかないので、できるだけ冷静に、しかしちょっと急いで走る。
次は北区。単純に走るだけなら何も難しくないコースなのだが、なんせ今回は一筆書きルールがある。
この板橋から北・豊島という3連コンボが今回のルート上で最も複雑な箇所なのだ。地図とにらめっこして慎重に進む。
とりあえず頭上の中央環状線に沿って東に進み、明治通へ。でもそのまま進むわけにはいかない。
八千代銀行を目印に左折し、王子工業高校の脇を北上する。そうして紅葉橋を渡ったらぐるっと時計回りに進む。
油断すると通り過ぎてしまいそうになるが、そこはきちんと停車。北区役所に到着なのである。

  
L: 北区役所。端っこが高くて意外と横の長さがある建物なので、全景が撮影できないのであった。
C: 正面入口はこんな感じ。いかにも庁舎っぽい。にしても、この庇は違和感がある。
R: 建物の奥のほうはこんな具合になっている。細長い敷地っぷりがわかる。

  
L: 上の一番右の写真を逆側から見たところ、つまり中庭。ツタが見事で、こっちを正面に出したほうがいい気がする。
C: 北区役所は道路から奥まった位置にあるのでどこにあるのかわかりづらい。そのためか、全力でアピールしている。
R: こちらは第二庁舎。このほかに北区では第五庁舎+別館まで施設が分散している。

北区役所は上述のようにかなり分散化している状況にある。
メインである第一庁舎は、敷地の形に合わせて非常に横幅のある建物となっている。
表の道路に面した部分のみ突起があり、そこにでっかく「北区役所」と文字が貼りつけられている。
そうしないと気がつかないくらい、入口が狭く地味なのである。これがなかったら間違いなく迷ってしまうだろう。
そんな細長い敷地内は、けっこう緑が多い。庁舎のすぐ前に竹を植えてあるのが目を引く。
中庭にまわってみると、壁一面をもっさりとツタが覆っている。なかなかの迫力である。
地味な面だけ正面に出していて、モダンな飾りやツタが中に隠れているのがもったいない。

さあ、いよいよ今回のチャレンジにおける最大の難所である。道がわかりづらいという意味での難所。
油断すると板橋区に戻ってしまう。そうならないように気をつけながら、うまく豊島区に入らないといけない。
豊島区に入ってからがまた大変だ。ちょっと道を間違えると北区に戻ってしまう。ヒントは都電荒川線。
こいつを見ながら自分の現在位置を把握して走る。目指すは池袋東口。ううむ、近いのに、遠い。
まず明治通だが、すぐに一本東側の道へと分岐する。そこから都電を目印にしながら豊島区に入り、
文京高校の辺りで右折、都電の線路を渡る。そこから空蝉橋通に入らないようにして、上池袋へ。
(空蝉橋通を行くと国道254号に出る。これは後で通る予定なのでアウト。豊島区の道は意外と複雑なのだ。)
上池袋で明治通に合流すると、ほっと一安心である。あとはまっすぐ、南西へと針路をとるだけ。
六ツ又陸橋を越えればすぐに豊島区役所に到着である。

  
L: 豊島区役所本庁舎。色づかいが……。うわあ……。  C: 本庁舎と、奥に見えるのは豊島公会堂。
R: 中池袋公園から見た本庁舎。建物じたいは徹底したモダンスタイルなのだが、色づかいが……。うわあ……。

  
L: 豊島区役所本庁舎は裏手もまったく印象が変わらない。  C: 豊島公会堂。左隣には区役所分庁舎が貼りついている。
R: 中池袋公園。区役所・公会堂に挟まれたオープンスペースとして機能している空間。コンクリートジャングルのオアシス。

豊島区役所の本庁舎は1961年に竣工したとのことで、確かにデザインじたいはコテコテのモダンスタイルである。
2000年に大幅な耐震工事を行って移転しなくて済むようにしたとのことで、この配色はそのときからと思われる。
区役所の道を挟んで隣には分庁舎があり、そのすぐ脇に豊島公会堂がある。
豊島公会堂の目の前には中池袋公園。この公園は周囲の建物に囲まれた印象を残す、
騒がしい池袋東口の喧騒からちょこっと離れたのんびりした空間となっている。
大都会の中心ではなく、微妙に外れた立地がいいバランスを保っている気がする。そんな一帯である。

いつも池袋に来たらまず東急ハンズなのだが、今回はそんな余裕などないのである。
目の前を通り過ぎるのは後ろ髪を引かれる思いで非常に切ないのだが、いたしかたないのだ。
サンシャインの手前を横切り、春日通は国道254号に出る。そこから一気に南へと突き進んでいく。
住宅街ながら大きな道路が引っ掻き傷のように走る文京区に突入。坂をグイグイ下っていくと、すぐにあいつが見えてくる。
文京区役所である(正しくは「文京シビックセンター」内に文京区役所が入っている、ようだ)。
とにかく遠くからでもその姿はよく見える。ほかに肩を並べる規模の建物がないからだ。
まるで街に現れた巨大怪獣のようにさえ見える。そのうちウルトラマンでも降りてくるんじゃないかって思う。
それくらい常軌を逸したスケールをしているのだ。近づいていくと、さっそく撮影。
職場が近いので建物の規模についてはよく知っているのだが、それにしても呆れるほどの大きさだ。
そしてそれをきちんと撮影できてしまうデジカメの広角機能にも舌を巻くのであった。

  
L: 文京区役所(文京シビックセンター)。今にもウルトラマンがこいつと戦うために降りてきそうな気がしませんか。
C: 近くの交差点から撮影した文京区役所。かつて大学でお世話になった恩師もこのサイズには呆れていたっけなあ。
R: 別の角度から撮影。反対側を撮影するのは東京ドームシティを挟んで大変になるのでやらなかった。

 区役所の近く、地下鉄後楽園駅手前にはこんなオープンスペースが。

文京シビックセンターとは何かというと、要するに、文京区役所+ホール+αということのようだ。
ほかの自治体が役所とホールを横に並べて配置して間にオープンスペースをとるという選択をしたのに対し、
文京区ではそれを縦に、同じ建物の中に積み上げたということなのである。
ではオープンスペース的な空間はどうなるのかというと、レストランつきの展望ラウンジになったのである。
その豪華さに賛否両論があるのはわかるが、敷地に余裕のないケースでは当然、有力な選択肢となる。
まあ23個も区があるわけだから、いろいろ個性がある方がいいんじゃない、と僕はお気楽に思ってしまう。
行って楽しい場所になっているのであればそれは成功と言えるだろうし、そうでなければただのムダ、
結局は空間がうまく使われているかどうかなんだよな、と思うのである。いずれ会社帰りに寄ってみよう。

豊島区から文京区までかなり速く移動することができたのは非常に満足。
そしてここからしばらく、わりと簡単にまわれる区役所が多いのがうれしい。
先ほどのロスを挽回すべく、気合を入れてペダルを踏み出す。が、いきなり坂(真砂坂)に出くわすのであった。
長い距離を走るよりも坂道のほうがずっとキツい。上りきってヒーヒー言いながら、先を急ぐ。
春日通をさらに進んでいく。針路はいつのまにかきっちり東へと向いている。湯島天神の脇を抜ける。
このまままっすぐ行ったところにあるのは御徒町駅。人通りを縫うように抜けると昭和通に出て、そこからちょっと北へ。
上野駅から少し離れたここからは、もう「台東区役所」という文字が見えるのである。
浅草通から上野警察署の脇を通ってちょっと奥に入れば、その台東区役所。

  
L: 台東区役所の側面。  C: 上野警察署の敷地から撮影。下の方にパトカーの屋根が見えちゃってる……。
R: 台東区役所正面入口。循環バス「めぐりん」がけっこうな頻度で豪快に停まる。しかしまあ質素なこと。

 
L: 台東区役所の裏手はこんな感じ。見事に表も裏もデザインが一緒。
R: 北隣の旧台東区立下谷小学校。1928年の建物で、ツタがすげー。使われていないとこうなっちゃうのね。

白を基調に全身でオレはオフィスだと自己主張している台東区役所。横幅に対して非常に厚みがない。
オープンスペースは敷地の東端に申し訳程度にあるのだが、所在なさげなおじさんたちが占拠していて、
これも土地柄なのかーと思わされた。なんというか、目をそむけてはいけない問題なのであります。
台東区役所の北側には旧下谷小学校がツタに覆われながらもそびえている。
建物は使わないと老け込むのである。なんだかこっちまで切なくなってくる。

軽く一休みしてから浅草通に戻る。東へ走って、テキトーなところで北上。
雷門では修学旅行と思われる中学生たちがワンサカと列をつくって歩いていた。
いいなあ、教師って旅行ができる商売なんだなあ、などと思う。まあ、一人旅の気軽さとは正反対とは思うが。
平日だってのに浅草は人でウジャウジャである。日本人も外国人もみんなたくさんはしゃいでいる。
さらに隅田川のたもとまで行くと、「悪ふざけ」としか形容しようのないアサヒビール本社が見えてくる。
そしてその左隣が、墨田区役所なのである。ほとんどの人にはアサヒビールのおまけみたいに見えるはず。

 
L: 雷門。寄っている暇なんてねえよ、ちくしょう。  R: アサヒビール本社(右)と、墨田区役所(左)。

吾妻橋を渡る。アサヒビール本社前の階段のところで、中学生たちが記念撮影をしている。
思えば自分にも修学旅行でウハウハしていた時期があったわけだけど、最近はそんなことを思い出すこともない。
下関旅行では「旅のしおり」とかラビーにつくらせるかーなどと悪知恵がはたらくのであったことよ。
まあ、そんなバカなことを考えているあいだに墨田区役所前に到着(以前来たときのログはこちら →2005.5.5)。

  
L: 墨田区役所を南側より撮影。1990年竣工。ガラス面積の多いタイプの建物である。
C: 正面入口はこんな感じ。ガラスが多くて派手なイメージだが、色調はかなり地味めに抑えている。
R: 隅田川側より見たところ。川に面してけっこうな規模のオープンスペースとなっている。

 墨田区役所側から見た隅田川。首都高がジャマ!

写真を見てのとおり、墨田区役所は隣のアサヒビールとセットで並んでいる。
実はもともと、この場所にはアサヒビールの工場があって、それを再開発する過程で区役所もつくられたようだ。
当時はアサヒビールが創業100周年の時期で、この一帯を「川の手」として整備したみたい。
しかし当然、地理的には墨田区の端っこに位置しているわけで、区民の利便性という点では微妙なところもある。
現代では庁舎の建設用地を確保することが非常に難しいわけで(23区の庁舎は基本的にどこも敷地に余裕がない)、
再開発で土地ができたから渡りに船って感じで飛びついた状況が、なんとなく想像できる。
さすがに隅田川を挟んでしまうと、浅草の賑わいはずいぶん遠く感じられる。
アサヒビール本社は純粋にオフィスの機能が強く、活気のある空間になっていないのがどうにももったいない。

撮影を終えるとそのまま水戸街道へ。すぐに明治通に出るので、そちらにスイッチ。
ふつうは言問橋を渡って隅田川の右岸に戻るのだろうが、そうはいかない。一筆書きするからだ。
わざわざ白鬚橋を渡って荒川区に入る。泪橋で右折すると南千住駅を抜ける。まったく、面倒くさいルールだ。
雑然とした住宅地を西へと進んでいくと道はちょこっと広くなり、そのまま都電の荒川区役所前駅に出る。
そうして再び明治通に戻ると、あっという間に荒川区役所に到着なのである。
周辺の荒川公園は、平日にもかかわらず、なぜか賑わっていたのであった。

  
L: 荒川区役所。明治通に面して荒川公園があり、その西隣にそびえている。非常に和やかなムードの場所である。
C: 荒川区役所は、正面が微妙に凹面カーブになっている。それがなんとなく迫力を生み出している。
R: やはりカーブしている。建物じたいはシンプル庁舎なので、この一工夫がなかなかかっこいい。

  
L: 「区」でなく旧字体の「區」になっている。いまだにこのままにしているのは、23区ではここだけではなかろうか。
C: カーブの裏側はこんな感じ。建物の背後は意外と厚みがあるのだった。
R: 荒川公園入口。明治通に面しているのはここだけで、隣の区役所は道路からは少し奥まった位置にあるのだ。

 荒川公園で将棋をさす人々。おじさんたち、仕事は……?

実は荒川区役所には以前も来ている(→2005.7.16)。相変わらずのがっちりとした姿がなんだか頼もしい。
さて荒川区の名前の由来は当然、荒川なのだが、実は荒川区は荒川に面していない(隅田川に面している)。
これはどういうことかというと、実は隅田川がもともと荒川だったことが原因なのだ。
ややこしいので順を追って書いていく。かつて江戸にはよく洪水を起こす川があり、「荒川」と呼ばれていた。
それで治水対策として明治~昭和にかけて、荒川に放水路がつくられた。これが今の荒川なのである。
つまり放水路が本流になったのだ。で、もともと荒川だった川は隅田川と呼ばれることになった。これが1965年のこと。
(ちなみに、荒川区誕生は1932年。墨田区は1947年。墨田区の由来は隅田川の堤防「墨堤」から。)
建物に関する情報が少ないので(耐震強度に問題ありという情報ばかり)、区名の話でお茶を濁すのであった。

荒川区役所に別れを告げ、明治通をさらに進むと宮地の交差点。この五叉路は土地勘がないとけっこうわかりづらい。
僕は大田区在住のくせしてこの交差点を自転車で何度も通っているので、迷わず町屋方面に進む。
それほど空腹感は強くなかったものの、血糖値が下がっているのがはっきりとわかっていたので、
思い切ってここで昼メシにする。朝は肉だったので昼は魚だ、とチェーン店のマグロ丼をいただく。
ガッツリと食べて元気が出たのも大きいが、お茶が飲み放題で水分をきちんと補給できたことが何よりよかった。
快晴ですぐに水分が足りなくなるが、ホイホイとコンビニに寄るわけにもいかない。
そういう状況の中、ここでしっかりと調子を整えることができたのは、非常にいい判断だったと思う。
で、そのまま北上して尾竹橋を渡ると足立区である。東に進んで日光街道に出ると、また北上。
するとわりとすぐに足立区役所である。歩道橋を渡って敷地内に入る。

  
L: 足立区役所を歩道橋の上から撮影。ロードサイド型の役所、とでも形容できようか。
C: 北館。  R: こちらはオープンスペースを挟んだ向かい側にある中央館。アトリウム内でコンサートもやるみたい。

 
L: 日光街道を南から進んでいくと、足立区役所(南館)はこんな感じで視界に飛び込んでくる。デカい。
R: 南館のふもとにあるオープンスペース。木陰は周辺にしかないので、居心地はそんなによろしくない。

やはり足立区役所は以前にも来たことがある(→2005.7.16)。
そのときに足立区をいろいろまわって、北千住(商業地区)とそれ以外の住宅地との落差に驚いたものだ。
もともと足立区役所も北千住にあったらしいのだが、1996年に現在地に移転。
足立区は全体的に交通の便が極めて悪いため、どこに移ろうとそんなに差がない気もする。
実際に訪れてみると、国道に面している点やこぎれいさなど、本当にロードサイド型店舗のような感触がする。
でもその一方で、提供するサービスの違い(物を売らず、手続きをするための空間)についても考える。
居心地のいい役所ってのは、日本においては成立しないものなのかねえ、なんてあらためて思ってしまう。

さて、日光街道をさらにちょっと行ったら環七である。僕にとって馴染み深い環七は南北方向に走っているが、
ここの環七は完全に東西方向に走っている。いっぺん、環七完全走破にもチャレンジしてみたいなあ、と思う。
それにしてもさすがにここまで来ると少し、心理的に余裕ができてくる。
葛飾・江戸川・江東はそれぞれ距離があるものの、道に迷うことはなさそうだ。
そしてその先、中央・千代田・新宿は距離が短く、一気にまわれそうな気がする。
最大の問題は体調の維持。とにかく気を抜かないで走るしかないのである。

 首都高6号線、加平のランプを眺める。なんだか昭和メトロポリスな感触。

足立区の東南端で環七はググッとカーブする。そして葛飾区へと入るのである。
亀有駅を抜けて青戸の交差点で右折。墨田区以来の水戸街道に戻る。一筆書きルールのせいである。
水戸街道もこの辺まで来ると、かなり郊外型の景観になっている。東京というよりも「首都近郊」というイメージだ。
道幅は広く、歩道を並走するコンクリートにはプラスチックの車止めが置かれ、その足元に雑草が侵入してきている。
地方都市であればそのうちこういう空間はきちんと片付けられそうな気もするのだが、
ここが東京の範囲に入ってしまっているがゆえに、この雑然とした感触が永遠に消えない、そんなことをふと思う。
東京に含まれているから開発が終わらない、そういう数学でいう極限みたいな感じというかなんというか、
最も遠いところにある東京の、果てしないスプロールの出現というもぐらたたき。なんて考えている間に葛飾区役所。
水戸街道から少し奥まった位置にあるのだが、区役所に至る道は並木になっている。
隣の都立南葛飾高校(高橋陽一の出身校で「南葛」の由来だそうだ)から生徒が溢れ出ている。

  
L: 水戸街道と区役所を結ぶ並木道。水戸街道の郊外型景とは対照的だが、人工的な印象の絶対値は変わらない。
C: 葛飾区役所の正面はこんな感じ。建物じたいがオフィスへの入口に特化したようなイメージをおぼえてしまう。
R: 区役所の側面はこうなっている。特にこれといってツッコミどころのないオフィス。

  
L: むしろ目立っているのが区議会。道路に面して堂々としている。さっきの区役所入口は、この左奥になる。
C: 区役所の敷地からちょっと離れると、新館が見えてくる。不思議なことに、近くにいると目に入らない。
R: 新館へは職員以外に直接アクセスができない模様。なんだか、「奥の院」という印象がするのは気のせいか。

 そんなわけで、ちょっと距離をおいて眺めた新館。

葛飾区役所は、4階建ての本館と7階建ての新館からなる。本館が「コ」の字になっていて、
空いている一辺に新館がズドンと構えている、そういう平面構成になっている。
本館は1962年竣工とけっこう古いが、色を塗って見栄えを良くしている。新館も1978年と、意外と年数が経っている。
ここもやはり、耐震工事でどうにかやりくりをする方針のようだ(前に来たときのログはこちら →2005.5.5)。

水戸街道に戻ると少し進んで左折し、平和橋通を南下する。この道をそのまま行くと新小岩駅を抜けていく。
ちなみに新小岩駅周辺にいた若い人は、高校生もオーヴァーエイジもなぜかみんなヤンキーっぽい感じだった。
そんなふうに書くとなんだかすごく失礼な気もするのだが、でもそう思っちゃったんだからしょうがない。
あらためてもう一度、きちんと見てまわってみようと思いましたとさ。
さて江戸川区役所は、この平和橋通をそのまま行ったところにある。
やっぱり前にも一度来ているのだが(→2005.5.5)、そのときとまったく違う印象の建物になっていてたまげた。
そのあまりの変化に圧倒されつつ、とりあえず自転車を停めて中に入ってみるのであった。

  
L: 江戸川区役所を正面より。オープンスペースをきちんととったことでずいぶん印象が変わった。
C: オープンスペースを撮影してみる。歩道の幅をここだけ広げ、バス停と組み合わせて居場所をつくった、ってな感じ。
R: 区役所の側面。正面とは対照的に、お役所っぽいとっつきづらさが全開。まあそんなもんでしょう。

  
L: 江戸川区役所の中庭。こうして見ると、複数の建物を増築していることがはっきりとわかる。
C: 区役所の北側にある通路。一面が緑の壁で、なんだか異世界。面白い。
R: こちらは江戸川区役所の北棟庁舎。こちらも前庭&バス停になっている。でもこっちのほうが人が多かった。

江戸川区役所は東西南北と4つの棟があるうえに第二・第三庁舎が点在しているという状況。
東西南の建物はくっついてひとつの庁舎を形成していて、中庭から見るとそのファサードの違いがよくわかる。
それにしてもこのオープンスペースの変化にはびっくりである。コンクリートを新しくして花を置いただけ、
と言ってしまえばそれまでなのだが、それだけでもかなり雰囲気が変わる。うまいことやったなあ、と思う。

京葉道路まで出ると荒川を渡り、亀戸駅を合図に南下する。
走っている最中、脱水症状で軽く頭がボーッとして判断力が鈍った瞬間があった。危なくはないが、マズいと反省。
こうして炎天下の中を走っていると、コンディション面では2つの問題に悩まされる。
ひとつは上記のように脱水症状。水分がなくなると、明らかに判断力が落ちてくるのである。
理由はよくわからないのだが、頭も体も動きが悪くなる。できる/できないの判断が甘くなる。
それだけに長丁場ではかなり危険になる。今回はこまめにペットボトルのお茶を飲んでやり過ごしている。
そしてもうひとつが、血糖値の低下。血糖値が下がると、モチベーションが落ちてくる。
脱水症状は体の動きが悪くなることで自覚できるのだが、血糖値のほうは自覚症状が出ない。
なんとなく意欲的にペダルがこげなくなっているかも、と思ったら甘いものを摂る。
するとがぜん力が湧いてくるわけで、人体の神秘を感じる瞬間である。
逆をいえばこの2つの問題さえクリアできるようなら、いつまでも自転車に乗っていられる自信がある。
さすがに眠くなったらこげなくなるが、ペダルをこぐという行為じたいの負荷はそれほど大きいものではない。
いやー、23区めぐりってのは、もう完全にスポーツだなあ、なんて思っているうちに江東区役所に到着である。

  
L: 江東区役所。なんだかどっかの中堅ホテルっぽい外観な気がしなくもないが、区役所である。
C: 角度を変えて撮影。区役所の入口はこの階段を上がったところにあるのだ。やや変則的な構成かも。
R: 敷地の南西側から見た江東区役所。オープンスペースの先には駐車場があるのだ。

  
L: 2階エントランスである。  C: 上記のように、1階レヴェルは駐車場。対比を撮影してみたの図。
R: 区役所の隣にある文化センター。周辺には西友があったりマツキヨがあったり。

江東区役所は1973年竣工のもよう。それにしてはやけに新しい印象があるが、改装でもしたのだろうか。
建物じたいの特徴としては、入口が複雑なことが挙げられそうだ。1階が駐車場なので、歩行者はそのまま2階へ。
ピロティのところから階段を上ってさらに奥、というのは、なかなかほかで見かけないパターンである。
東陽町駅から近く、周辺には西友などの商業施設もあり、夕方という時間帯の影響もあってけっこう賑わっていた。
役所らしくない賑わいが役所を圧倒してしまっているというのは、なかなか痛快なものである。
ちなみにこの江東区東陽は僕が2歳ごろに暮らしていた街で、今でもほんの少ーしだけ記憶に残っている部分がある。
本当にわずかなんだけど、でもこの辺りには確かに懐かしいという感触がして、それがなんだか微笑ましい。

いよいよあと3つである! ここまで来たらもう、カウントダウン気分なのである。
永代橋を渡って中央区に入ると、いかにも中央区らしいなんとなく薄暗ったい碁盤目の街路となる。
原因・理由がさっぱりわからないのだが、どうも僕は中央区に対して明るい印象を持ったことがない(→2007.2.3)。
かつてあったはずの江戸時代(~明治時代)の風情をまったく残さずに「近代」で塗りこめてしまっていて、
その「近代」が別の場所を開発していったために取り残されてしまって、ということで、
そういう粗製濫造された「近代」の残骸が見えてしまっているためなのか。
一言で表現するなら、「生活がいなくなった感じ」である。僕はどうしてもそういう印象を受けてしまうのだ。
まあそれはいいとして、茅場町から新大橋通を下り、新富町駅へとまわり込む。
中央分離帯代わりに高速道路が地下を走っている複雑な地形の一角に出て、驚いた。
なんと、中央区役所が、すっぽりとグレーの布をかぶっていたのである。
以前、国立にいたときに多摩地区の市役所を制覇したときもそうだった(稲城市役所が布をかぶっていた)。
県庁所在地めぐりで宇都宮に行ったときもそうだった(栃木県庁の完成予想図しか見られなかった →2005.11.13)。
いっつもそんな感じで、どこか1つだけピースが欠けるのである。まあこればっかりはしょうがない。

 
L: 中央区役所、を包んでいるモノ。  R: きちんと「中央区役所」と貼りつけられてはいたのだが。

中央区役所は1969年竣工で、昨年7月から20ヶ月にわたる改修工事を実施中とのこと。
工事が終わるのはまだまだ先のことである。きちんと覚えておいて、リヴェンジせねばなるまい。
ホームページでは写真を見ることができて(⇒こちら)、それによると全身こげ茶色のシンプルな建物。
現在ちょうど「中央区役所」という看板が貼りつけられている辺りに、白字で「中央区役所」と書かれている。
この建物最大の特徴はやはりこの外形で、それがそのままきちんとわかるようになっているのはうれしい。
上記の看板も含め、中央区役所事情に詳しい人なら現在のこの姿は「世を忍ぶ仮の姿」みたいな感じなんだろう。

それにしても、もうこりゃしょうがねえよな、と笑いがこみ上げてきて、それが築地のビル街に響きわたる。
閑散としていて誰も僕の声を気にする人がいないのもまた中央区、という感じだ。
とりあえずデジカメで証拠を保存しておくと、次の目的地へと向かう。
だいぶ日が傾いてきている。余裕ぶっこいてなんていられないのだ。
銀座を突き抜けると有楽町。帰りはじめるサラリーマンたちの脇を自転車で駆け抜け、大手町を北上。
同じ東京なんだけど、台東区や荒川区なんかとは別世界の光景だ、なんて思いつつ、
途中で内堀通に出てパレスサイドビルの横を通る。そしてまっすぐ九段下へ抜ければ千代田区役所、
のはずなのだが、どうも様子がおかしい。建物を使っている様子がまるっきりないのだ。
千代田区役所には昼休みに自転車の駐輪の許可をもらいに行って慣れているので、その異変に大いに戸惑う。
ついこないだの昼休みにも許可をもらいに行ったのに、はて?……なんて首をひねっていたのだが、
斜め向かいにある大きなビルを見て謎が解けた。そんでもってびっくりした。
そう、千代田区役所は5月7日をもって斜め向かいの新築のビルに移転していたのである。
こういう情報を知らないで何が庁舎建築マニアだ、と恥ずかしくなる。まあとりあえず撮影開始。

  
L: 千代田区役所。この建物は国合同庁舎と千代田区新庁舎の複合施設で、PFIでつくられた。
C: オープンスペースはこんな感じ。江戸時代の米蔵の礎石が発掘されたとかで、そのまま再現されている。
R: 首都高5号線を挟んで眺める。さすがに大きいですな。

  
L: こちらは千代田公会堂(手前)と、旧千代田区役所(奥・1970年竣工)。
C: 旧千代田区役所。なんだかんだでちょこちょこ来ていたので、もう使っていないとはさびしい。
R: 正面より旧千代田区役所を見る。ちなみに建物の右側奥は区立図書館になっていた。図書館も移転。

千代田区役所の建物は、実は国の合同庁舎との複合施設となっている。
1階から10階までが千代田区の確保している部分で、このうち9階と10階の一部が千代田区立図書館である。
残りの11階から23階までは国の合同庁舎。国の機関と同じ建物に入るうえにPFIで建設という、非常に珍しい事例だ。
平日は夜7時、土曜も夕方5時まで開いているとのこと。図書館も平日22時まで開館と、かなりの気合が入っている。
職場から近いし、ちょっと利用してみたいなあなんて気がしてくる。都心の区らしいサービスである。
来庁者を拒むような国の合同庁舎らしいデザインと、来庁者を望む施設との融合。そしてサービスの展開。
現場がどういう状況になっているのか、あらためて見に来ることにしよう。

さあ、いよいよ、残すところはあと1つである。長かった旅もこれで終わりかと思うと感慨も深い……なんて余裕はない。
なぜなら、最後に残った新宿区役所は、歌舞伎町にあるのだ。あんまり遅くなると、撮影しづらい場所じゃないか。
きちんとそこんとこ考えてルートを決めなかったのかオレは~~なんて後悔しても遅いのだ。
千代田区役所の撮影を済ませると、そこそこ急いで靖国通を西へとひた走る。
それにしてもこの辺の場所についても、職場が近いせいで以前に比べてずいぶん馴染んだ感じがする。
こうして頭の中でどんな感じなのか想像のつく空間が増えていくのは、正直かなり気分がいい。
本当はもっと都市ということをきちんと考えて東京を走るべきなんだろうなあ、と反省する。
やはりせっかくこの街で暮らしているわけだから、きちんとこの街の現実を知っておきたい。
区役所ってのはそのためのほんの入口なのだ。そこんとこ、きちんと再認識しておかないといけない。
なんて考えながら曙橋を駆け抜け、富久町の坂を上れば、そこはもう新宿。
いまだに妖しげな盛り場の雰囲気を残している1丁目・2丁目を抜けるとネオンのお出迎えである。
時刻は17時30分ちょっと過ぎ。12時間半にわたる長旅が今、終わろうとしている。

  
L: 新宿区役所。モダンながらちょっと威厳を感じさせるデザインなのだが、周囲に埋没しているのが惜しい。
C: ここのオープンスペースは土地柄のせいで非常に微妙な存在のような気がする。うかつに公開できない空間。
R: 歌舞伎町のディープなゾーンに入り込んで側面を撮影。まったく同じ形状のファサードが誇らしげ。

 靖国通に面している新宿区役所第一分庁舎。こちらは1991年竣工と新しい。

新宿区役所は1966年に竣工。なんてったって歌舞伎町という立地が印象的だ。これについてちょっと歴史を見てみる。
新宿区は1947年に四谷・牛込・淀橋の3区が合併して誕生した区である。3区合併はほかに例がなく、難航したようだ。
当時は戦後の復興期。旧淀橋区の東端に歌舞伎の演舞場を建設し、それを核に復興を進める計画案が浮上した。
こうして「歌舞伎町」という地名が生まれる。復興計画じたいは新宿コマ劇場がつくられた程度で頓挫するが、
盛り場としては大賑わいとなり、現在に至る。新宿区役所が歌舞伎町にやってきたのは1950年とのことだから、
官民一体となった復興を目指していたのだろう(それ以前の区役所は旧牛込区役所だった)。
そういう経緯でいまだに区役所は歌舞伎町に存在している、というわけなのだ。
今となってはなんとなくアンバランスな印象がしてしまうが、それがまた新宿らしいという気もする。
個人的には、新宿区役所はいつまでも歌舞伎町の中に存在していてほしいと思う。わがままか。

さあこれで終わった。あとはテキトーに紀伊国屋書店や東急ハンズでもブラついて帰るかな、と思った瞬間、
頭の中で記憶が弾けた。本当に弾けるように、突然思い出してしまったのだ。
「あっ、通信教育のスクーリング申込み、忘れてた!」
千代田区役所から新宿区役所に移動する際、大学に寄って出そうと思っていた書類があったことを完全に忘れていた。
それを今のタイミングで思い出したのである。忘れていたことを後悔するなんてことは全然なくって、
むしろ家に帰る前に思い出せたことを感謝する。こういうギリギリの運には恵まれているのだ。
もしこのまま忘れていたらと思うと背筋がゾッとする。腹の底から安堵のため息をつく。
「よし、それじゃ、行くかー!」
てなわけで、旅はもうちょっとだけ続く。靖国通を引き返して水道橋まで一気に突撃。
もし宮藤官九郎が脚本にしたらこのシーンはものすごい早送り映像になるだろうな、と思いつつ15分ほどで到着。
電車より速いよ。

無事に提出すると、そのまま晩メシをかっ食らい、すっかり暗くなった中を家まで帰る。
結局、14時間以上自転車に乗っていたことになる。われながら、とんでもない一日だった。

東京23区すべての区役所をまわってみての感想。
とにかくどこも、敷地が狭くて苦しんでいる模様。23区内はどこも都会化しきっていて、土地がないのだ。
だから支所などを積極的に設置して対応するケースが目立っている。まあ無理もない。
さてそうなると、区という行政単位の意味じたいが各区によって違ってくる。分散型か、集中型か。
でも区議会や区長室は1ヶ所にしておかないといけない。そう考えたとき、小さな民主主義の姿が見えてくる。
政治に対する理念(=立法)と現実に向き合う行政と、複雑に絡み合いながら今日も役所は仕事をしている。
23の区役所たちからは、そういう地元への密着というレヴェルと三権分立という壮大なレヴェルの狭間にいながら、
都会であるがゆえ、首都であるがゆえのやりくりが垣間見えて、なかなか新鮮な視点を与えてもらったように思う。

家に着いてからニュースを見たら、あまりの快晴ぶりに、気象庁が予報をはずしたことを謝罪していた。いやキツかった。


2007.6.19 (Tue.)

『ドラえもん のび太の魔界大冒険』。前の劇場版(1984年)がDVD化されたものを借りてきた。

マンガ(→2006.3.2)は何度も読み返していて、映像で見るのは本当に久しぶりになる。
実際に見てみると、あんまりマンガと変わらない。マンガがやるべきことをぜんぶやりきっていて、
映画のほうではちょこちょことシーンを足すぐらいしかできなかったのだと思う。
味気ない感想なのだが、そうとしか言いようがないのでしょうがない。

一番驚いたのが、ジャイアンの前髪が丸い(温暖前線みたい)ということ。
そんなに昔の作品だったっけ?と、そればっかずーっと気になっていた。


2007.6.18 (Mon.)

朝、出勤したら、なぜか僕の机の上に蛯原友里と押切もえのクリアファイルが置いてあった。
H.I.S.の海外旅行の販促品なのだが、それがなぜ僕の机の上にあるのか、誰に訊いてもわからないという返事。
まあ、もらえるものはもらっておくのである。クリアファイルは持っていて損はしないものなのだ。
正直、押切もえは「なんで?」と言いたくなるのだが、エビちゃんは実はどちらかというと嫌いではない。
髪の毛を短めにして化粧を薄めにしてかわいかったら好きになるぞなもし、というくらいなところである。
まあ、絶対に実現しないだろうから、それはもったいないなあと思っているしだい。
(ぜったいに髪の毛を短くして化粧を抑える方がエビちゃんはきれいだと思うのだが。モデルとは不自由じゃのう。)

昼休み、意気揚々とリポートを提出。大学の近所で海鮮丼を食う。以前に比べて魚を食べるようになってきている。
で、たっぷり時間があったので、自転車でどこまで行けるかチャレンジしようと思って走りだす。
神保町を抜け、秋葉原を抜け、上野の手前の御徒町まで来たところでギブアップ。
午後の仕事に遅刻しないようにと慌てて引き返す。汗をかきつつエッサホイサと走っていたら、
九段下付近でチェーンがはずれた。困ったことにカバーがジャマな、前のギアのところではずれてしまった。
10分ほど両手を真っ黒にして格闘するが、結局元に戻せず。遅刻が確定。
しょうがないので片足をペダルに乗せ、もう片方の足で地面を蹴って駐輪場まで戻る。
トイレで必死に手を洗いながら、調子に乗るとろくなことがないなあ、としみじみ思うのであった。

家に帰ってきたら、前に提出した「教育の思想」のリポートが戻ってきていた。結果は合格。
添削担当者がやたらと腰の低い人で、ものすごく内容と文章を褒められる。
それだけなら良かったのだが、「全体がよくできているだけに、弱いところが目立った」と書かれる。
なんだよそれーと思ったのも束の間、それってオレが日記でよく書いているフレーズだよな、と思い当たった。
あらためて「荘子、畜類の所行を見て走り逃げたる語」(→2006.11.29)を思い出す。まあそんなもんである。


2007.6.17 (Sun.)

毎年恒例、バレー大会である。いつもとあまり変わらない時間に起きて、支度して出かける。
会場が意外と遠い。電車に揺られて1時間弱、そこから歩きで30分。ギリギリに到着。
おととしも去年も雨に降られたのだが、今年は快晴。自転車の方が早かったんじゃねーの、と思う。

着替えると早速練習である。同期のシモーヌやO田氏とレシーブの練習をするが、これがうまくできない。
バレーにはバレー独特の身体の使い方があって、それが日常生活とはかけ離れているので、
思うようにボールを扱うことができないのである。結局、フットサル風味にじゃれ合う我々であった。

試合が始まると黙って見ているのもつまらないのでひたすらシモーヌをヤジって過ごす。
ヤジってヤジってヤジり倒していたら、なんだか変にテンションが上がってきた。
つっても学生時代を基準にすれば「ふつう」くらいなもの。日ごろもっと元気出していかんとなあ、と反省。

接戦の末、試合には負ける。今年は負けたらこれでおしまいなんだそうで、あっさり駅に出て昼メシタイム。
昼間からビールで飲んだくれる。20代~30代、みんなでマンガの話をいろいろとして盛り上がる。

その後は池袋に出て解散。僕はビックカメラでデジカメをチェックする。まったく安くない。
これで決まったな、と思い、池袋を後にする。本当はもうちょっと遊びたかったけど、リポートがあるので。

そんなわけで、家にたどり着いたらまず自転車でデジカメを買いに出かける。
この週末限定で、ポイント還元による値引き扱いとはいえこの機種をこの値段で売るのは異常、という安さだ。
相変わらず大きな買い物をするときには緊張で震えてしまうのだが、
今回はあまりの安さに気が動転したのか、かえってそんなにあたふたすることはなかった。

しかし帰宅してもデジカメには触らないのである。リポートを書きあげねばならないからだ。
英作文系統の課題で、ネットの辞書と格闘しつつ、ちまちまと会話文を仕上げていく。
かつて読んだ平田オリザの『演劇入門』(→2002.6.23)には確か、
「日本語は会話向けにはできていない言語である」みたいなことが書いてあったような気がする。
こうやって会話文をつくっていると、なるほど確かにそうだなあ、と思えてくる。
たとえば基礎教育を比べてみる。中学校の英語の教科書はひたすら会話の連続だったが、
小学校の国語の教科書は独白とも言えるような、主語の曖昧な文章から入っていった記憶がある。
(英語と比べると、日本語は主語を省略しても成り立つ。むしろ主語を削るほうが読みやすくなる。)
そういう構造からしてもう違うんだよなあ、なんて思いながら必死で会話をつくっていく。

リポートが終わったのが22時ごろ。慣れてない作業だったこともあってか、意外と手間がかかった。
予想どおり、デジカメをいじることなく眠りにつく。それでも枕元にしっかりと置いておく。
元をとってお釣りがくるほど使い込んでやるぜーと意気込みながら寝る。


2007.6.16 (Sat.)

髪の毛を切る。今回はわりと短めになった。
カット見習いと思われるおねーさんに「お久しぶりです」と言われたが当方ほとんど覚えておらず、テキトーに返答。
こういうところがイカンのだよなあ、と大いに反省して、今さら人の顔を覚える努力をする。
(漢字でフルネームじゃないと顔と名前が覚えられない、というのは以前書いたとおり。→2007.2.6
それにしても美容院というところはオシャレ軍の大本営もいいところなわけで、
われわれ(と複数形にしてみる)ブサイク軍としてはそれだけで萎縮してしまう。
何をどうしても借りてきた猫状態になってしまう。堂々と振舞える人がうらやましい。

帰りに交差点でおばあさんに呼び止められ、道を訊かれる。
店名を言われてわからなかったので「わからないですね、すいません」と言い残し、走り去る。
が、横断歩道を渡ったところで記憶の扉が少ーしだけコンニチワと開いたので、慌てて戻る。
「それってスーパーの名前ですか?」「はい」「じゃあ、この先をまっすぐ行ったところにあると思います」
自転車の人がわざわざ戻ってきて教えてくれた、ってことだからか、ものすごく感謝をされる。
それほどのもんでもねーだろーと内心ツッコミつつ、とりあえずこれで一日一善完了、と思うのであった。

梅雨に入ったはずなのに快晴極まりなかったので、リポート課題そっちのけで街に出る。
そういえば県庁所在地めぐりをやっているけど、都庁ってまだだよなあ。天気いいし、いい写真が撮れそうだと思い、
デジカメを持って新宿まで行くことにした。再び自転車にまたがって勢いよく飛び出す。
いつものように甲州街道の一本北のルートから西新宿に入る。角筈の市民センターからまず一発。
そうして新宿副都心をぐるぐると回るようにして都庁を撮影していく。実に快調。
ところが自転車を駐輪した際にデジカメの液晶ディスプレイをギアにぶつけてしまったらしく、
完全におかしくなってしまった。撮影じたいはできるのだが、画面に一切何も映らない。
よく考えたらそれはふつうのカメラと同じ状態と言えるわけだけど、さすがにこれは困る。
なんだよーさっき一日一善したのに、ぜんぜん報われてないじゃん、と悲しくなる。
オレは新宿までわざわざデジカメを壊しに来たのか?という疑問にさいなまれる。

しょうがないので都庁の撮影を中止。メシを食いつつデジカメの処遇を考える。
このデジカメは2年前に、お年玉つき年賀ハガキで当たったということで親からもらったもの。
思い出深い仲間であり、スペック的にガマンならないほど不満というわけでもなかったので、
買い換える必要性はそんなに感じない。でもそろそろ便利な新品を持ってもいい気もする。葛藤する。
その後は新宿西口の家電量販店を見てまわり、現代のデジカメ事情について勉強をする。
当方、今は何万画素くらいが主流なのかとかまったくわからない浦島太郎なので、
所狭しと並んでいるデジカメのどれがいいのか判断基準が全然わからず、そのうちクラクラしだす。
結局、置いてあったパンフレットをぜんぶ持って帰った。その種類の多いこと多いこと。

家に戻ってくると汗をダラダラ流しながらパンフをチェックしつつネットでいろいろ検索。
僕が撮影する対象なんて、建物か道路か岩崎マサルくらいなものなので、どの機能にも惹かれない。
が、広角で撮れる機種があることを知り、急に選択肢が狭まって現実的に候補が絞られてくる。
そのうち候補が確定。いくらボーナス直後とはいえ、こんなに簡単に物が欲しくなっていいのだろうか。
倫理的に悩む。でもやはり、今まで庁舎を撮影するときにいろいろ不満を抑えてきたのも事実なので、
気持ちは徐々に買う方向に。内心「止めてくんないかなあ」と弱気になりつつオヤジに「デジカメ買う!」とメール。
ところがオヤジは「頑張ってちょ」と返信してきて、こちらも「止めないなら本当に買うぞ」と送信し、
「しょうがないでしょうが」と返ってきたのでもうこりゃ決まりですな、となるのであった。

じゃあとりあえず下見だ、と三たび自転車にまたがって、また自由が丘方面へ。
休日の家電量販店は家族連れでとんでもない人口密度になっていた。それに対応してか店員の数も異常に多い。
人の波をかきわけて、デジカメコーナーで現物を見る。値段をチェックし、ふむふむとあれこれ考えてみる。
さすがに壊れて3時間後に新品購入という行動をとれるほどの度胸はない。見て、触るだけ。
それにしても家電量販店というところを久々にじっくりと歩きまわってみると、ひどく新鮮に感じることが多い。
欲しい物があってこういうところに来ると、店内はいろんな夢が詰まった空間に映るのが面白い。
液晶テレビを中心に、家電はすさまじい勢いで進化しているのだが、家庭を持たない人間には関係のないことだ。
しかし家族連れにとっては進化する家電を追いかけて、展示された商品を見てウットリするのが娯楽になっている。
なるほど確かにそういう目で見たとき、休日の家電量販店が人でごった返しているのは、なんとなく納得がいく。
日本人は「三種の神器」なんて言ってた時代から本質的な部分を少しも変えていないのかもしれないな、と思った。

下見を完了すると、家に戻る。リポート課題に向けて最後の下準備を進めておく。
根性で粘りに粘って下ごしらえを終えると、サッカー番組をチェックして寝る。
何もないような毎日も、きちんと書いていくとけっこういろいろあるんだな、と思った。


2007.6.15 (Fri.)

新しい東京都区分地図を買ってきた。
東京の地図はだいたい4~5年に一度くらいのペースで買っていることになる。
新たな道路が開通したり、地下鉄を中心に鉄道の路線が変化したりと、けっこう大きく変わっていくものだ。

いちばん最初に買ったのは国立に引っ越したときで、多摩地区をメインにかなり使った。
その次は今の場所に引っ越したときで、これは23区をメインにして、やっぱりかなり使った。
それでこのたび新たに地図を買ったのは、ある計画を練るためなのである。
その計画とは、東京23区の区役所を自転車でまわれないか、というものだ。
その実現の可能性と経路のチェックをするのを主な目的として、このたび地図を買ったのである。

新しい地図を眺めていると、さまざまな発見がある。地図は年々、繊細に、でも見やすくなっているように思う。
飽きることなく何時間でもボーッと見ていられる。知っている場所も知らない場所も、地図は均等に面白い。
地図を見ていると、自転車であちこち走ってやろうという意欲が湧いてくる。
しかしまあなんというか、われながら安上がりな娯楽である。


2007.6.14 (Thu.)

30歳になるということは、どういうことだろうと考えてみる。

今どきはハタチだってそうかもしれないけど、30歳とは、「なってしまう」ものである。
20代前半を満喫し、後半に入って少々ペースが落ちてきて、その下り坂のまま転がり込む、それが30歳なのだ。
こう書くと30歳とはまったくもってありがたくないものであるわけで、事実迎える身としてはそうなのだが、
見方を変えれば悲観すべきものでもないように思えなくもないこともないわけでもない。
30歳というとある種の落ち着きを備えているイメージが僕にはあったのだが、
その落ち着きをどれだけマスターしているかによって、だいぶ違ってくるように思えるのだ。
僕の周りにはのんびりしているというか、いい具合に幼稚な部分(遊び心)を残している人が多い。
だから30歳といって、そんなに急激に変わるもんでもないよなあ、と思う。
そもそも30歳をどっしり構えて迎えられるようなやつは、最初っからどっしりしているに決まっているのだ。

書いてていよいよワケがわからなくなってきたのだが、まあ要するに、
同級生が30歳になっていくからって僕はどうすることもできないし、今までどおりに対応するだけだし、
当事者としては、柔軟に老けていくための軟着陸というか落としどころを探る意識を持ってみようと思うだけだし、
何かがガラリと変化するわけではないのである。不安になるだけ損だと思っておこう。

30歳が近くなって思うのは、シブい食べ物がだいぶ好きになってきたということ。
かといって昔から食っているものもまだまだ好きなので、味覚の好みが広がったことは素直に歓迎している。


2007.6.13 (Wed.)

T.フジタニ『天皇のページェント』。日系二世の日本研究者による、近代日本を焦点にした日本論。
実はこの本、大学1年のときの「社会学概論」で扱ったテキストである。しかし当然、僕は1行も読んでいなくて、
そのまま卒業してしまったのだが(概論を担当していたのはその後ゼミでお世話になった先生であるにもかかわらず)、
やっぱきちんと読んでおかんといかんなーと思ったので、読んでみた。結果、当時読まなかったことを後悔。

「ページェント(pageant)」を辞書で調べると、1. 祝祭日に行われる大規模な仮装行列やショー。2. 野外劇。とのこと。
ものすごくかいつまんで言ってしまえば、この本は天皇制が近代の産物である、ということを証明する類の本である。
(余談だが、大学院のときゼミで「天皇制は近代でしょ」と発言したらみんな狐につままれたような顔をしていて困った。)
天皇という制度じたいはそりゃまあ古くから続いてきているわけだけど、人々の天皇観は大きく変化して現在に至っている。
奈良時代の天皇と平安時代の天皇と室町時代の天皇と江戸時代の天皇は、それぞれ異なる扱いをされているはずだ。
そして明治維新を経て日本が「近代」と分類される時代に移ると、天皇制は「再生産」されることになる。
その再生産の過程について、演劇的というか、“視線”という要素をもとにして分析を加えた本なのである。

江戸時代には各藩による地方分権型の政治体制だったのが、明治に入って中央集権体制へと変わる。
そんな国家の象徴的存在として中心に据えられたのが天皇だったが、民衆にとって天皇とはよくわからない存在だった。
偉いことはわかるけど、具体的なことは一切わからない。中には現世利益をもたらす信仰対象というケースもあったくらい。
そこで行われたのが、天皇が全国を旅してまわるという、いわゆる「巡幸」である。
言ってみれば天皇の全国公演ツアーが開催されたわけで、そうやって政府は日本全国を天皇を見つめる客席に変えた。
天皇が日本全国に広くあまねく可視化されることで、その天皇の実際の身体を通して、
近代が具体的なイメージをもって日本全国に広がっていくという演劇的な現象が展開されたのだ。
西洋の権威を汲んだ公的な儀礼は徐々に全国に浸透していく。そうして日本全体が「近代」へ突入する姿が描かれる。
空間面では江戸が東京と名前を変え、近代化の中心地点として国家儀礼に応じた大幅な改造がなされていく。
その一方で京都は過去の伝統を想起させる場所とされ、明治天皇が崩御すると京都に陵墓がつくられた。
つまり東京は未来へ向けて力強く突き進む現在そのものであり、京都は過去つまり根拠という意味を持つこととなる。
そうやってさまざまなイメージを巧みにつくりあげ、日本の近代化が進められていったことが示される。

さらに面白いのが昭和天皇の崩御についても、ほぼリアルタイムで扱っていることだ。
前半で扱った明治天皇をめぐる演劇性をふまえたうえで、昭和天皇の崩御をめぐるメディアの動きを見つめることで、
現代における「日本の伝統」あるいは「伝統的な日本」の再生産についても分析を加えているのだ。
筆者は現代の情報空間の特性から天皇制というものを描き出そうとしていて、その発想の鋭さにはたまげた。
(僕としては天皇制を手がかりに、メディア・身体・情報化社会を考えるヒントが提示されて非常に興味深かった、となる。)

というわけでまとめると、読みやすいが、扱っているテーマは非常に濃い。
正直、250ページを切って1000円未満の本ではなく、もっと分厚い徹底した内容で読みたい。
天皇制と近代に関しては、鋭い分析を加えた本が多数あり、それを不勉強な僕が知らないでいるだけ、のはずである。
まあそういうズボラな人間が目を覚ますには最適の一冊で、あらためて大学時代の恩師の凄さを実感したのであった。


2007.6.12 (Tue.)

インターネットってすげえなあ、とあらためて思う。

いま、あれこれ旅行を計画しているわけだけど、これはすべて、インターネットを情報源としている。
たとえば日記で旅行の記録を書く際にはあちこちのページを参考に文章を書くのだが、
これは本当に、パソコンを介して自宅が図書館につながっているようなもので、
ディスプレイという小さな窓の向こう側に広がる情報の海を眺めては、その利便性に驚いている。
調べられる内容も実に多様で、様々な交通機関の時刻表を同時に調べることも簡単である。
僕みたいに時刻表が読めない人間には、インターネットのない旅行が想像できないところまできている。

だが、インターネットはそれだけではない。調べるだけでなく、各種の予約もできる。これがまたデカい。
インターネットは窓口にもなっていて、手続きを直接自宅で済ませることができるのだ。
時間や距離の制約を完全に飛び越えて、自分のやりたいことができる。能動的に動けてしまうのだ。
少なくとも僕が大学生のときには考えられなかったことで、どこまで便利になるんだ、と呆れている。

もし僕が10年若く生まれていたら、「何当たり前のことに感心してんだバカ」なんて思うかもしれない。
しかしそういう「当たり前」を逆算して考えてみると、当たり前が当たり前になるまでの苦労があるわけで、
よくもここまできたもんだ、という感慨を覚えてしまうのである。ジジくさいけど。

終戦わりと直後生まれのウチのオヤジもネットにデジカメ、iPodを使いこなしている。
僕もなんだかんだで一応は使いこなしているわけで(いちばん使いこなせてないのがケータイだったりして)、
今後起きる技術革新というか革命の波にもまれながらも、僕らはそれに乗っていくのだろう。
この先、そういう革命を通して僕らはどこまで行ってしまうのだろうか。
ぜんぜん想像がつかないけど、きっと、何十年後かも「○○ってすげー」とか言いながら使いこなしていると思う。


2007.6.11 (Mon.)

昼休み、いつものように自転車でメシを食いに出る。が、帰りに雨に降られてしまう。
しょうがないのでFREITAGのWILYを傘の代わりに頭上にかざして会社まで戻る。参った。

雨が降ると、とたんに覇気がなくなってしまう。
特に梅雨の時期にはそれが顕著で、セルフコントロールの難しさに非常に苦労する。
テメエのことなんだからそんなもんテメエでなんとかできなくてどうすんだ、と自分でも思うのだが、
これがなかなかどうして、なかなか思うようにいかないのである。
せめて天気くらいで気分が左右されないようになりたいと思うのだが、そうなる日は来るのだろうか。
正直、自信がないのが困ったもんである。


2007.6.10 (Sun.)

午前中の雨につられてインドアに過ごす。久々の「まんが祭り」で過ごす。
家には文庫のマンガがけっこうな量あるので、それをひたすら読んで過ごすのであった。

午後になって日差しが部屋の中を柔らかく照らすようになったけど、そのまま動かずに過ごす。
というのも午後からだと行けるところも限られてくるわけで、そういうマンネリがちょっとイヤに思えたから。
たまーにはこういうのもいいさ、とインドアで通した。


2007.6.9 (Sat.)

自転車で近場をプラプラ走って、今ひとつ気が晴れないのでそのままDVD鑑賞に。

『タイガー&ドラゴン 三枚起請の回』。さんざんハマったドラマである(→2006.5.102006.5.17)。
まず単発スペシャルドラマとして制作され、その後連続ドラマ化されたという珍しい手順を踏んでいる。
その最初のスペシャルのDVDを見たのである。だいぶ前に買ったのだが、ようやく見たのだ。

連続ドラマではダイジェストだった最初の設定のシーンが、まず丁寧に描かれる。
その後はいつものクドカンペースで話が進んでいく。久々だが、テンポが良くって面白い。
で、見ているうちに引き込まれていって最後には画面にかじりつく。
キャスティングなど、連続ドラマは見事にいろいろ伏線を回収していたんだなあ、とうならされる。
個人的な感想としては、連続ドラマは回を重ねるごとにぐんぐん面白くなっていったわけで、
この「三枚起請の回」は『マンハッタンラブストーリー』からのリハビリ中、と思えてしまう。やや粗い。
でもここで実際に役者が役に命を吹き込んだことで、すべてがスタートしていったのである。
連続ドラマのあの感動を考えると、そんなふうに思えるのだ。

あらためて連続ドラマの方も見たくなった。やめられない止まらないとはこのことである。


2007.6.8 (Fri.)

ボーナス!

……しかし男の独り暮らしでそんなに喜び勇んでボーナスを使う機会などない。
来年に備えてガッチリと貯金をしないといけない身分ということもある。
そういうわけで、何を買うということもなく、とりあえず銀行に預ける(ウチの会社は手渡し)。

とはいえ、さすがに景気づけになんか買わなきゃな、という気持ちもあるのだ。
てなわけで、前々から欲しかった『ハートで感じる英文法』のDVDを注文したのだ。
これをしっかり見ておいて、将来また英語を教えることになったときに備えておくのだ。バッチリなのだ。


2007.6.7 (Thu.)

ヴィンフリート=レシュブルク『旅行の進化論』。潤平から借りている旅行シリーズの一冊。

著者は図書館に勤務していた歴史家ということで、アカデミズムに偏った内容でなく、読み物として楽しめる。
西洋史を中心に据え、ローマ帝国時代における旅の様子、中世の貴族の贅沢な旅の様子、
さまざまな事例について、具体的な描写をたっぷり盛り込んで紹介してくれる。本当に細かい点まで書いてある。
まるで実物を見ていたかのように詳しく書いてあるうえに図版も非常に豊富なので、
それぞれの時代の旅がどのようなものだったのか、とてもよくわかるのだ。
志が高かろうが低かろうがそれはどれも旅で、人間は各種の好奇心にかられていつの時代も旅をしてきた。
昔っからやっていることは本質的に少しも変わっていないわけで、面白おかしく事例を紹介しながらも、
そういう人間の性質を絶対的に肯定する態度を貫いていて、結果、とても優しい視線を投げかけている。
読んでいるこっちにもそういう著者のあたたかい姿勢が伝わってきて、本当に楽しく読むことができる。

東洋からの視点が完全に欠けているのは、まあしょうがないことだろう。
むしろこれだけ読みやすく、かつ詳しく西洋の旅行史を扱っていることを賞賛すべきだと思う。
旅行は時代や場所によってさまざまに形を変えながら現代にまで続いているわけだけど、
それぞれの旅について雰囲気をしっかりとつかむことのできる、良い本だと思う。


2007.6.6 (Wed.)

マサルと電話で話していて、ふと「松島くんの日記は新書みたいなんよね」なんてことを言われる。
これは僕にとってかなりうれしい褒め言葉である。この日記の目指す一部分が達成できているってことなので。
確かにreference/thinkingの項目を眺めていると、新書のタイトル一覧に似ている気がしなくもない(⇒これ)。

僕が自分の書く文章についてコンプレックスを持っているのは以前にも書いたとおり(→2006.6.29)。
書きたいことと書いている内容がマッチせず、言葉足らずになったり饒舌になったり。
10代の頃は文章の精度をコントロールすることがまったくできずにもがいてばかりいた。
そしてHQSで会報の記事を書くようになってから、猛烈に訓練されて少しはマトモになった、というわけ。

この日記の文体は、自分で言うのもなんだが、そうとう崩している。
マジメに書けばもっと硬い文章も書けるのだが、そんなんで日記を書いてもつまらない。
基本的に日記を書く際には、なるべく話し言葉に近い形を心がけている。
かといって完全に話し言葉になるとウザいだけなので(ウェブにはそういう文章がやたらと多い)、
適度なバランスをいちおう考えながら書いてはいるのである。
落語なんかの「相手に聴かせるしゃべり」、それを参考にリズムを埋め込んで書いている、つもり。

僕の文体に決定的な影響を残した作家がいる。椎名誠である。
「昭和軽薄体」と形容される彼の文体が、僕の文章の原点になっているのだ。(←この文末とかもそう)
椎名誠を読んだのは浪人のときで、文春文庫のエッセイを中心にそこそこな量を読んだ。
受験勉強で疲れた頭には、椎名誠のむき出しで何も隠していない感じがとても心地よかった。
深くあれこれ考えて書くよりもとにかく踏み出す、そういう点がカタルシスだったのだ。
シンプルに書いていくことを積み上げることで言いたいことを伝える、その方法論をそうして覚えた。
できることならここでいわゆる文豪でも例に挙げてカッコをつけてみたいところなのだが、
実際のところ、僕が最も影響を受けたのは昭和軽薄体なのだからしょうがないのだ。
(あとやっぱり東海林さだおの影響も大きい。そういうわけで浪人中は文春文庫をよく読んだ。)

個人的に椎名誠で一番のオススメは、集英社文庫の『全日本食えばわかる図鑑』である。
グルメからいいかげんなブサイクメシまで、食べ物に関することをあれこれ書いたエッセイである。
男くさいアウトドア料理の話が印象的で、独り暮らしの僕の晩ご飯に多くのヒントを与えてくれた。
沢野ひとしのイラストがまた脱力しまくっている。肩肘張らずに読む/書く基礎になった本なのだ。
読んでもらえれば、僕の文体がどれくらい強い影響を受けているかわかると思う。

ちなみにこの本は現在、人に貸したまま返ってこないでいる。返ってくる気配がまるでない。
貸した相手はきちんと読んだのかどうかわからないが、いずれぜひ感想が聞きたいなあと思っている。


2007.6.5 (Tue.)

昨日読んだ大長編ドラえもんのレビューを簡単に書いていく。

『のび太とアニマル惑星(プラネット)』。動物たちの惑星にワープして助ける話。
まず「どこでもガス」で、大昔に産経新聞で連載されていた『夢トンネル』を思い出す(藤子不二雄A作品)。
僕が小学校に入る前後のマンガなので超うろ覚えだが、あれをF先生がひみつ道具にして蘇らせるとは!な感じ。
さて話の内容は、動物たちが二足歩行で進化したファンタジーな世界に行ったのび太一行が、
その惑星を狙う人間たち(ニムゲ同盟)を撃退するという話である。動物側に加担して人間を倒すのだ。
もともと動物たちはニムゲたちに飼われていたが、環境が悪化しきったニムゲの星からどこでもガスで解放され、
現在の星に移って繁栄したという設定。ここに環境問題への強い意識があるのは言うまでもない。
ストーリー展開では「ゴツゴーシュンギク」というどう考えても反則なひみつ道具が登場してしまい、
目を覆いたくなるほどの惨状である。そういうわけで僕にとっては「大長編が変質した」第一作という感覚である。
なお、この映画版は実際に劇場で見たのだが、ラストでニムゲ同盟の親玉が漏らすセリフが実に美しかった。
後日あらためて、ぜひもう一度映画版のほうもチェックしておきたい作品である。

『のび太のドラビアンナイト』。物語の世界に迷い込んだ静香を助ける話。
大長編のドラえもんは科学からスタートして『日本誕生』を最後にファンタジーに変質する、
と毎回書いているが(→2006.3.16)、この作品はそのファンタジー路線の初期のものである。
そのためか、「千夜一夜物語に実在の人物が登場するエピソードがある」という事実を手がかりにして、
ファンタジー路線へと踏み込んでいる。つまり、科学(歴史)を媒介にフィクションへと入っていくわけ。
話じたいはふつうの勧善懲悪。構成も全盛期と比べて凡庸でキレがない。感想は特にない。

『のび太と雲の王国』。地球の環境をめぐって天上人と戦う話。
この話のテーマは環境問題ということで、作中でのその扱いはかなり直接的である。
そしてこの作品では、本編にかつて出てきたキー坊とドンジャラ村のホイが再登場する。
人によって印象はさまざまだと思うが、僕はこの点については完全に否定派である。
なぜ大長編の枠の中だけで解決しないのか。今までそうして傑作をつくり続けてきたのに、なぜ本編に頼るのか。
僕みたいなドラマニアの要素を持った人間なら「懐かしい!」という感情になるのはまちがいない。
しかし、そういう特定のファンだけを優遇(?)するような展開は避けてほしかった。

『のび太とブリキの迷宮』。虚弱なブリキ世界の人たちを救う話。
この話では機械に頼りきった人間が虚弱になり、機械の反乱に遭うという設定が用意されている。
機械の反乱といえば『海底鬼岩城』(→2006.2.28)だが、こちらには地理的なミステリーは含まれていない。
物語の展開だけを見ると『のび太の大魔境』にけっこう似ているような印象がある。
そういうわけで、過去にやったパターンをファンタジー路線で焼き直した作品、というふうに受け止めている。
キツいことばっかり書いてて申し訳ないんだけど、そう思っちゃったんだからしょうがないじゃん!

『のび太と夢幻三剣士』。話はすべて、のび太の夢の中だけで完結。いよいよここまで来たか。
この話はのび太の想像(創造)した世界が舞台という点で、『魔界大冒険』(→2006.3.2)に近い。
「死→復活」という設定もやはり、魔法で石に変えられてからドラミに助けてもらった『魔界大冒険』を彷彿とさせる。
『魔界大冒険』が面白かったのはその構成と、実はそんなに現実の科学世界と大差のない魔法世界という設定で、
その辺の切れ味がない分だけ、この作品は凡庸なコピーという印象になってしまう。残念である。

『のび太の創世日記』はなぜか置いていなかった。
これはたまたま映画をリアルタイムで見たけど、面白かった印象はなかったなあ。

『のび太と銀河超特急』。銀河鉄道でテーマパークと思ったら宇宙の平和のために戦う話。
この話は結局、のび太を存分に活躍させるための話、というふうに思える。
まあそれはそれでいいのだが(西部劇のび太は好きなので)、それ以外の点にどうも魅力を感じられない。
敵がヤドリという寄生生物だったせいなのか、どこか小ぢんまりとしたまま終わった感じがしてしまう。

『のび太のねじ巻き都市冒険記』。のび太たちが育てる「ねじ巻き星」に犯罪者が忍び込む話。
ねじ巻きをした動くぬいぐるみたちVSコピーミラーで増殖した前科100犯・熊虎鬼五郎の戦いである。
話の設定は『アニマル惑星』に似ている印象。しかしこっちのほうがさらにスケールが小っちゃい。
クローンのエラーが良心を持ってどーのこーのというのは、『火の鳥・生命編』を思い出す。
つまりはオリジナリティが足りないわけである。それにしても「種まく者」は出しちゃダメでしょうに。

全体を通してのまとめ。『アニマル惑星』以降の大長編ドラえもんはファンタジーだ、というのが僕の持論である。
しかし、こうしてじっくり読んでみると、もうひとつの表現ができることに気がつく。
それは、『アニマル惑星』以降の大長編は、実は未来の地球を舞台にしているのである、ということだ。
『アニマル惑星』以降の作品はすべて、現実からは距離を置いた別の世界を舞台としているのだが、
その舞台は、一部を除いてほとんどすべて、「もしかしたら未来の地球はこうなっているかも」という世界なのだ。
そしてそこでの冒険は、現在の人類が抱えている問題の延長線上にあるととらえることができるのである。
(『ドラビアンナイト』だってよく考えれば、「結局は機械を使う人間の問題」というテーマを描いているのだ。)
そういうわけで、「科学がもたらす地理的・歴史的な関心」というところからスタートした大長編ドラえもんは、
「未来の地球を投影した実験室(ファンタジー世界)での問題解決」という方向性へとシフトしたのである。
いわばベクトルがそれまで過去に向いていたのが、『アニマル惑星』で未来へと向いたわけで、
F先生の意識としてはそれほど大きな転換ではなかったのかもしれない。
そう考えると納得がいく部分が非常に多いのだが、でもやはり、物語の構成力は急激に落ちている。
人それぞれなんだろうけど、僕はそのように思っているわけである。残念なのである。


2007.6.4 (Mon.)

超プライベートな話なので誰にもわからないように書く。

ここ3ヶ月くらい、どうもイヤな流れが急激に漂ってきていた。
そしてそれは、僕が大切にしていたものを次から次へと、容赦なくガツンガツンと削り取っていった。
この5月下旬くらいからがその最高潮で、なす術もなくついに本丸までさらわれていってしまった。
一言でまとめると、かねてから想定していた最悪の事態が現実のものになってしまったのである。
カラ元気が一番の取り柄である僕もさすがにこれにはガックリときて、昨日の夜はあまり眠れなかった。

で、起きたら妙に目覚めがすっきりしていた。午前中は無言でトレースの仕事。
昼休みになったがまったく食欲がなかったので、音楽を聴きながら自転車で神保町界隈を散歩して過ごした。
午後も淡々と仕事をして、定時に会社を出る。でも帰る気にならない。もちろん勉強する気など起きない。

渋谷に行ってマンガ喫茶でマンガを読むことにした。僕は酒を飲まないかわりに物語を消費するので。
それで気になっていた、まだ読んだことのない大長編ドラえもんを猛スピードで読破し、
ほかにもチェックしていなかったマンガをできるだけ速いスピードで読んでいった。

読み終えると腹が減っていた。兆楽で炒飯の大盛を食べる。渋谷に来たときのご馳走といったらこれだ。
中華料理の厨房を眺めているうちに、なんとなく客観的に物事が見えてきた気がした。
食ったらようやくカラ元気が出てきたので、その感触を忘れないように気をつけながら帰る。

猛スピードでマンガを読んだら、その速度につられて現実の時間がずいぶん経った気になった。
そうして今の状況が、タイムマシンで過去に戻った状態、あるいは未来にやってきた状態であるように思えた。
おかげで今まで必死になって守ろうとしていたものが急に「虚」というか「空」になってしまったんだけど、
その「虚」「空」の中には他にも別のいろんなものを詰め込める可能性がある、ということがわかった。
先人は言った、「頭カラッポの方が夢詰め込める」と。
まあ実際のところはそんなにきれいに片づくわけではないのだが、
「虚」だとか「空」だとかをうまく熟成させていきたいものだと思った。


2007.6.3 (Sun.)

ようやくゴールデンウィークの東北南部旅行の日記を書き終えた。しんどかった。
いいかげん英語の勉強をやんないとピンチな状況なわけで、やっとこれで肩の荷が下りたというかなんというか。
今月前半はリポート提出に向けて全力を傾けることにしているので、特にこれといって派手に動くつもりはないけど、
後半からは自転車であれこれ思いつく限りのバカをやってみたいな、というつもりでいる。
ヒントとしては、東京。東京について自転車であれこれやってやろうと企んでいる。
都道府県をいろいろまわるのもいいけど、やっぱ自分の足元についても考えなくちゃね、と。
まあ正直、健康診断でなぜか体重が恐ろしいことになっていたからというのも、その発想の遠因にはなっている。
これから梅雨に突入するけど、隙あらばゴリゴリと自転車をこいでやるのである。とりあえず宣言。


2007.6.2 (Sat.)

今日は英語の勉強そっちのけで日記を書いた。
勉強は完全に自己責任で、日記だって自己責任なんだけど、期待してくれている人がいるのが違う。
僕はその人のためにがんばるという義務的な感情がないとサボるので、
そうやって自分を追い込んでいくのが、そんなにイヤではない。期待のないほうがイヤだし。
特に「県庁所在地ひとり合宿」はこの日記で唯一の(?)安定した人気を誇る(?)コンテンツなので、
書いてるこっちも自然と気合が入るのだ。そうして文章を書くスキルが上達すれば言うことなしなのだ。
もしかしたら、今、僕はきちんと努力をしているのかもしれない。
しかしそれが努力だと思えるうちは自己満足でしかなく、そうなるとそれが努力と呼べるかどうかも怪しくなる。
そういうわけで、努力とは何ぞやという哲学的な疑問を抱えながら、努力を求めて努力を続けるのである。
わけがわかんないね。


2007.6.1 (Fri.)

ここんとこ残業しない連続記録が、交流戦における日本ハムの連勝記録と同じくらいの奇跡となっている。
やっぱり残業すると必要以上に疲れるし(残業の疲れは時間に比例しないで等比数列的だと思う)、
毎日の生活が無彩色な印象になってしまう。マツシマ家には仕事だけに一生を捧げられるような血は流れていないのだ。
とにかく今の状況でベストをつくすことを考えるのだ。仕事だけじゃなくて、すべてにおけるベストな解決を。


diary 2007.5.

diary 2007

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