diary 2008.2.

diary 2008.3.


2008.2.29 (Fri.)

本日をもって同期の一人が会社を辞めた。
冗談めかして「マツシマ先生はいつ辞めるんですか」と訊かれたので、こっちも冗談めかして「近々辞めます」と答えた。

春は出会いと別れの季節というけど、別れはあっても出会いは全然ないね!


2008.2.28 (Thu.)

数学の本、下巻の図を描き終える。正確に言うと、印刷所向けの下描きの図を描き終える。
ペンと定規と色鉛筆とマーカーと修正液をフル活用して細かい指示もビッチリ書き込んでつくった。
もう本当に疲れた。これで前のときのような誤解の要素はずいぶんつぶしたぞ、と思うが、油断はできないものである。
しばらく自分の机で呆けて過ごす。それはもう、真っ白に燃え尽きていたとさ。

で、会社が終わると「リフレッシュだ!」ということで、勉強しないで秋葉原で晩飯を食った。
ここんとこ体調を崩していたせいもあって、なかなか思うように勉強を進めることができなかったわけで、
それならいっそ、今日はやんなきゃいけないことを完全にサボってダラけるのだ!と心に決めたのであった。
家に帰ってからも、ダラダラとDVDを見たり音楽を聴いたりして過ごした。すべてを忘れて時間を流していく。
おかげでこの日を境に調子がわりかし上向いた。やっぱたまには徹底的に休まないとダメだ。中途半端はよくないのだ。


2008.2.27 (Wed.)

M.フーコー『監獄の誕生』。現代社会を考えるうえでは絶対にはずすことのできない本。
大学院在学中に買ったにもかかわらず、きちんと通して読んだのはこれが初めてというだらしなさ。

この本は、第一部「身体刑」、第二部「処罰」、第三部「規律・訓練」、第四部「監獄」の四部構成である。
まずは口絵で豊富な図版が並べられ、本文はかつてフランスで行われていた“残酷な”死刑の描写から始まる。
国王に対する殺人を企てて捕まった犯人が、いかに苦しみを与えられた末にその生命を奪われるかが克明に描かれる。
その後すぐに、約80年後の少年感化院の日課が紹介される。そこにあるのは規則正しい生活であり、残酷さはない。
このわずかな期間に何が起きたのか。何が身体刑を消滅させて、規則正しさを導入させたのか。
そこにフーコーは注目することで、現代社会に至る「近代」の浸透ぶりと露わにしてみせるのだ。
抽象的な内容を扱っているうえに内容がけっこう飛ぶ(次の話題が前の部分に頻繁に顔を出す)ので非常に読みづらい。
そんなわけで、誤読はもう絶対に避けられない、と覚悟を決めたうえで、自分なりに内容を要約してみる。

まず身体刑について。身体刑は、生命を苦痛の中にとどめる技術であり、犯罪者に対して多様な死に様が用意される。
打撃の型・苦痛の強さや時間は、犯罪の軽重・犯罪者の地位・犠牲者の地位などを考慮した綿密な計算で決定される。
そして身体刑は華々しい儀式を伴い、司法権力を明示する機会とされる(つまり民衆への「見世物」となる)。
(拷問も同様に時間・道具・重量などがコード化されていて、それを耐え抜いて自白しなければ、それが無罪の証明となる。
 熱湯に手を入れて無事なら無罪、という神明裁判もその一環。なお、フーコーは自白をめぐる言説を重要視している。)
国王の身体はただの身体ではない。それは、法により規定された権力、いや法そのものを体現した存在であるのだ。
封建制度においては国王自身が社会そのものであり、国王を殺害することはそのまま社会そのものへの反逆となる。
それゆえに国王の権力にもとづき、社会への反逆を体現している犯罪者に対して、残酷な死刑という演出がなされる。
死刑が見世物となるのは、犯罪者の消滅させられる身体を通じて国王の権力を可視化させ、民衆に知らしめるためだ。
逆に死刑に失敗した場合、また執行人の手際が悪く予定より過度の苦痛を犯罪者に与えた場合、民衆は暴動を起こす。
非常にまれな例だが、死刑を免れた犯罪者は手厚く保護されたという(これは法を超えた存在となってしまったからだろう)。
だがその「危険性」は犯罪文学の発達とともに物語の世界へと取り込まれ、現実世界からは消えていった、と論じられる。
身体刑は、国王の暴力と民衆の暴力が互いに反目する支点という性質を帯びる、危険な舞台だったと指摘される。

続いて処罰について。
17世紀末以降は犯罪の傾向が、身体への危害から財産の詐取へと移る。大規模な犯罪集団もなくなる。
そうしてそれまでの懲罰が過度に感じられるようになり、「人間性」の観点から身体刑が批判されるようになってくる。
また旧体制では下層民の違法行為が黙認されており、そうすることで彼らの生存が保証されていた。
つまり、違法行為は生存権と関係しているとみなされていたのだ。
しかし18世紀後半には、富の一般的な増加と人口の急増に伴い、民衆の違法行為の標的が権利から財産へと移る。
やがてブルジョアジーの所有権が大きな影響力を持つようになると、下層民の違法行為は取り締まりの対象となった。
フーコーはそれを、「違法行為をめぐる経済策が、資本主義社会の発達につれて再構造化された」と表現している。
刑罰の改革は、君主の超権力との戦いと、違法行為の黙認につけこむ下層権力に対する戦いとの接合点で誕生した。
犯罪に対する処罰は、犯された罪そのものに対応したものではなく、将来及ぼす効果との調整により定められるようになる。
つまり、犯罪により得られる利益よりも不利益の方がやや大きい、そう人々が信じる状況をつくりあげることが目指された。
身体ではなく精神に刻印を与えること、犯罪の内容と処罰の内容が直に結びついて人々の心に共有されること、
それが達成されることにより犯罪が抑止できるという、処罰が「経済的」に行われる社会の仕組みづくりが目指されたのだ。
そして、誰もが納得できる、理性によって透明なプロセスを経て真実を証明する司法制度・裁判がつくられることにより、
人々の心の中にある犯罪と処罰の関係性は新しいものへと置き換えられていったのだという。

第三部の「規律・訓練」は、現代社会について考えるうえで最も重要な部分であると思われる。
フーコーはまず、17~18世紀に政治・技術論のレベルで「規律・訓練」が一般的な方式として確立された、と述べる。
権力側の定める速度・効用性に基づく形で、望みどおりに行動させられる「従順な身体」が生み出されるようになった。
(これは微積分や微生物学とも軌を一にする、些細なものへの注目、細部の重視を通して達成されていったという。)
人々は交換可能とされ、規律・訓練の階層的な秩序で満たされた空間の中で、機能の点から評価されることになる。
次に、人々は時間という共通の尺度で活動を規定される。時間を正しく使用できる、身体の正しい使用が定められる。
こうして身体は、新しい権力機構の下で自らを律するシステムとなり、それをめぐる技術の蓄積は、知の形式となる。
(新しい権力は、ムダの多かった身体・力を、規律・訓練を通じた形式により、個人でうまく制御できるようにつくり変える。
 しかしこの便利な形式を受け入れて順応するということは、その個人が新しい権力に盲目的に服従することを伴う。)
さらに規律・訓練は、空間を分析して人々の活動を分解し再編するだけでなく、時間に基づいて資本化まで推し進める。
個人の時間を管理・活用し、利益・効用がつねに増大するようにする。そして線型な進化・発展という時間観が生まれる。
この規律・訓練的な権力の成功は、[1]監視、[2]制裁、[3]試験の3つの要素によるところが大きい、とフーコーは述べる。
[1] 従来の権力は見てもらう(誇る)ものだったが、規律・訓練は人々の治療・訓育・違法行為へ視線を移す(監視する)。
この監視は階層秩序化され、つねに誰もが取り締まられる、統合的なひとつの組織へとまとめあげられることになる。
[2] 規律・訓練は秩序からの逸脱・不適合を処罰対象とする。それは遅刻や態度の悪さなど些細なことにも適用される。
アメとムチ、序列化を伴う処罰は違反への報復ではなく、人々を同一のモデルへと導く義務の強要である。
[3] 監視の技術と制裁の技術を結び合わせるのが、試験である。権力関係と知の重ね合わせが、試験を儀式化する。
また試験結果は個人の特徴として記録されるが、それを扱う技術も知として蓄積される。そして個人はひとつの事例となる。
ここでフーコーは、ベンサムの一望監視施設(パノプティコン)を、上記3要素の建築的な実体として提示する。
中心に監視のための塔を配置し、その周囲に独房を並べる。囚人はつねに監視されうるが、その監視者の姿は見えない。
(テストでカンニングを防ぐ最良の方法は、試験官が教室の後ろの壁を背にしてずっと立っていること。それとまったく同じ。)
最小限の行為で最大の効果を得ることのできる「経済的な」権力作用のモデルがここに完成されているのである。
これは国王が反逆者の身体に行使する権力とは正反対の、各個人の精神に浸透する権力だ(「見る」から「見られる」へ)。
当初はペストからの隔離にみられたこの規律・訓練的権力は、徐々に有用なものとして積極的に社会全体へ広がっていく。
(その転回点に位置づけられているのがナポレオンである。ナポレオン帝政期からこの権力は一気にヨーロッパを席巻した。)
こうして人間の多様性を秩序化する仕組みが、監獄的な工場・兵営・学校・病院を通して定着したのだという。

第四部ではこれまでの議論を総括する空間として、「監獄」について述べられる。
監獄は、「自由の剥奪」と「受刑者の矯正・更正」という二重のはたらきを持っている。
自由の剥奪はあらゆる人間に対して効果を持ち、時間(=刑期)による明確な数量化に基づいて処罰を与えられる。
また監獄は、受刑者に対して徹底的な規律・訓練(労働も含む)を施し、道徳性の獲得・改心を求める施設でもある。
しかし監獄は、現実には非行・再犯を増加させているとして、つねに批判にさらされてきた。でも、今も生き延びている。
それは監獄が、法律違反という「行為」を除去するのではなく、「非行性を有するタイプの人間」そのものを取り出すからだ。
(言い換えれば、「反社会的な人々」という対象領域を生み出すことで、効率的に監視・取り締まりできるようにしている。)
そしてフーコーは、監獄的な制度の完成した日として、1840年1月22日を挙げている。
これは僧院・監獄・学校・兵営などの各要素からなる規律・訓練の技術が集約された、メトレー少年施設の開設日だ。
それ以降、反規律・訓練に対処する技術(監禁的なるもの)は病院・学校・官公庁・私企業などへ広がっていったという。
フーコーは「監禁都市」という表現を用いて、監獄に象徴されるような規律・訓練の権力装置(監禁的なるもの)が、
(近代を経た)現代社会のあらゆるところで効率よく(慣性に従い自律的に)自己の再生産を続けているのを見抜いたのだ。

以上、誤読覚悟で内容を要約してみた(僕は法律方面に弱いので、司法権力についての記述はすっ飛ばし気味だ)。
フーコーは規律・訓練による近代化(この本に近代化という表現は登場しないが、こう書いてしまってもいいだろう)について、
結果の実例は挙げてもその原因について具体的に指摘することはしない。そもそも指摘が不可能と見ている、と思われる。
産業革命を経て封建的社会から近代社会へと変化していく中で、それは必要とされたから洗練されていっただけのことだ。
政治レベル、経済レベル、教育レベル、医療レベル、あらゆる領域で、圧倒的な効率性・経済性を持つ規律・訓練が
ひとつの技術として浸透していき、社会の姿を変化させていったのだが、そこには時代の要請があった、そう見ているようだ。
誰かが革命を起こしたのではなく、それは多くの人々が鋭い嗅覚から選びとっていった無数の流れだった、と見ていたと思う。
そしてフーコーはこの新しい形の権力による社会(近代)を象徴するものとして、監獄を挙げたわけだ。
つまり『監獄の誕生』というタイトルの“監獄”が意味するのは、監獄に象徴されている近代の権力構造そのものなのだ。
(実は原題と邦題でメインとサブのタイトルが入れ替わっている。邦題サブタイトルの「監視と処罰」が原題のメインタイトル。)
読み終えると、規律・訓練の経済性が資本主義と結びつき、より強固にその権力システムを再生産する姿が想像される。
今も監獄的な社会は資本主義をフル回転させて、行き先が見えないままで突っ走っている。
(個人的には、資本主義の現在~未来を描いている(と思う)ドゥルーズ/ガタリの『アンチ・オイディプス』(→2004.7.1)と
 資本主義が現れはじめる過去を描いている『監獄の誕生』は、非常に興味深い接点を持っているように思う。)

なお、訳者によるあとがきのすばらしさは特筆に値する。今では常識となっているフーコーのこの議論も、
出版された当時(原著1975年、日本語訳は1977年。意外と最近なのだ)は視点が新しく、非常にややこしかったはずだ。
本文がまわりくどいうえに要点もつかみづらく、素人としてはフーコーが相手にしているものを見誤ってしまいそうになるが、
あとがきはその点、少しも惑わされることなく見事に食らいついているのだ。おかげでずいぶん助けられた感じがする。

総括。やっぱり古典にはきちんと目を通しておかないと話にならないなーと思った。きちんと読んでよかった。


2008.2.26 (Tue.)

最近のストレスのたまりっぷりときたら、自分でも末期的だとどこか他人事のように傍観してしまえるくらいひどい。
オレには今どれくらいのストレスが、なんてマジメに考えてしまうと自分で自分がいたたまれなくなってしまう。
それで半ば幽体離脱したような感覚で「オレ、キてますわー」とおどけてふるまっている、そんな状態である。

そうなってしまうともう、現実逃避であるところの旅行の計画づくりだけが楽しみなのである。
恒例の県庁所在地ひとり合宿は、近場をあらかた制覇してしまったので、今後は遠くの地方都市がターゲットになる。
知識として知ってはいても、材料が乏しくて想像することがうまくできない街をネットで調べてはニタニタしている有様。
興味のある場所を寄り道しつつも、金と時間をできるだけムダにしないルートを考える。それが楽しくてたまらないのだ。

今後のチャレンジを大まかに分けると、以下のような感じにまとまりそうだ。
 ★ 山陰~北近畿を一直線に突っ切る「裏日本弾丸ツアー」。【島根・鳥取】
 ★ 山陽~北九州を一直線に突っ切る「瀬戸内弾丸ツアー」。【岡山・広島・山口】
 ★ JRのフリーパスをフル活用せざるをえない「北東北&青函トンネル弾丸ツアー」。【岩手・秋田・青森】
 ★ 海と山が満載で意外とスムーズにまわれる「九州西海岸弾丸ツアー」。【福岡・佐賀・長崎・熊本】
 ★ 青春18きっぷに頼らないと経済的に不可能な「九州東海岸弾丸ツアー」。【鹿児島・宮崎・大分】
 ★ できれば秋に行きたいけどそんなヒマがあるのかわからない「近畿内陸弾丸ツアー」。【滋賀・京都・奈良】
 ★ プランの立て方しだいでどんな旅にでもなりうる「北海道弾丸ツアー」。【北海道】

とりあえず今のところはこんな感じで、大物の旅行をあと7回こなせば終わりが見えてくるってな具合である。
どんなに順調でも達成できるのはおそらく2010年。先の長い話だ。でもそれだけ楽しみが続くということでもある。
しかし不安もある。もし全都道府県を制覇してしまったら、僕は次にどんな目標を設定してしまうのだろうか……。
まあ、そのときはそのとき。なんでも楽しんでしまえればそれでいいのだ。経済的な不安はあるけれども。


2008.2.25 (Mon.)

『ウゴウゴルーガ』の不完全復刻DVDを見た。あまりにも不完全すぎて泣けた。

中3のある朝、「なんかおもしれえテレビがあるらしいよ」という噂を聞いたので、眠い目をこすって6時10分に起きてみた。
その翌日からは、6時10分には完全に覚醒した状態でテレビの前に正座するようになっていた。それくらい面白かった。
子ども番組ということだったが、特に中高生から絶大な支持を集めており、勘のいいヤツは一人残らず全員見ていたのだ。
高校に入学したら、新入生勧誘のポスターにはトマトちゃんが描かれ、シュールくんが描かれ、ロボットくんが描かれていた。
街のおもちゃ屋はみかん星人の人形を仕入れ、それは飛ぶように売れていった。あれはひとつのムーブメントだった。

『ウゴウゴルーガ』の特徴はなんといってもテンポの良さ。数秒単位のCGアニメを息もつかせぬ勢いで連発する。
シュールなギャグとやたらと高いテンションで30分を一気に走り抜ける構成は、視聴者に大きな衝撃を与えたのだ。
僕のお気に入りはやっぱり、みかん星人。みかん星人がただ体を上下させてケタケタ笑うだけなのだが、妙に面白かった。
後期では「あにき」「しかと」「くろたま」も好きだった(「しかと」が、おしりかじり虫のうるまでるび作だったのはちょっとショック)。
「ちなつのシュート」は、なでしこジャパンのはるか先を行く名作アニメ(というか紙芝居)で、circo氏も妙に気に入っていた。
驚いたのは「あさのぶんがく」。古今東西の古典文学をあれだけの短い時間に編集してしまうセンスに鳥肌が立った。
あと「おしえて!えらいひと」で、旧ソ連時代、ゴルバチョフにクーデターを仕掛けたヤナーエフが出たときも本気で驚いた。
そんな具合に1992年から1年半、平日に毎朝、問答無用のお祭り騒ぎが展開されていたのである。
今思えば、それはバブルが崩壊したことに気がつかなかった人々、気づきたくなかった人々による、
最後の祭りだったようにも感じられる。お祭り大好きなフジテレビが、子ども番組という最後に残された枠で暴れた祭り。
でもまあしかし、見ていたこっちとしては、新しい価値観というかやり口を提示されて、つねに興奮させられていたのだった。
僕もマサルも飛びついて不完全復刻DVDを買ったわけで、いまだに『ウゴウゴルーガ』の遺伝子が僕らには息づいている。

で、その不完全復刻DVDは、放送された中の何日分かを抜き出してそのまま収録したものになっている。
でも肝心のCGアニメは、ほんの一にぎりしか収録されていないのだ。おそらく、収録されていないものの方が多い。
あの膨大なCGアニメをぜんぶぶっ通しで見る、その究極の贅沢を味わいたくって買ったというのに。
レギュラーのやりとり(ウゴウゴくんとルーガちゃんがCGキャラクターと掛け合いをするコーナー)も、
生放送の回ばかり収録されている。個人的には生放送は面白くなかったので、つまらない回だけを集めた印象で悲しい。
これはこれでいいとして、それぞれのCGアニメだけを完全にパッケージングしたDVDを出してほしい。
そうすれば喜んで「がんばれまさおくん」も「どなたですか」も「おやじむし」も買う(でも「ぶるたぶちゃん」は絶対買わない)。

『カリキュラマシーン』(→2004.6.262004.7.14)に代表されるように、日本の子ども番組は定期的に、
キレまくった作品を輩出している。NHKだとか民放だとか関係なく、実験的な作品が数多く生まれている。
(わかりきった話だが、『よいこっち』(→2004.7.31)は子ども番組の体裁をした、別種の番組である。
 けど、これまたキレている。DVD化は……さすがにムリかなあ。まともな人間は買わないもんなあ。)
今はもちろん『ピタゴラスイッチ』だ。ピタゴラ装置以外にも、さすがに見るべきものがかなり多い。
子どもの(そしてもちろん大人の)中枢神経を刺激して面白がらせる番組をつくる、
それが究極だなあ、とつねづね思っている。『ウゴウゴルーガ』の衝撃に、今も僕はやられちゃっているのだ。


2008.2.24 (Sun.)

自由が丘まで髪の毛を切りに行くが、まあ風の強いこと強いこと。吹っ飛ばされそうになりながら、どうにかたどり着く。
カットしてくれるおねーさんとは花粉症がどーだの風が強くってこーだのと、どうでもいいことをちょこちょこと話す。
僕はそういう、会話をすること自体が目的化した会話というのがものすごく苦手なのだが、
それを面倒くさがらずにきちんとすることが社会性なのだということは理解しているつもりなので、
口から出る言葉の数十倍くらい頭を回転させながらとりとめのないことを話すのであった。自分、不器用ですから。
で、今回はいつもよりも髪の毛の伸びるペースが速かったそうで、「睡眠時間が少なくなったりしてません?」と訊かれた。
なんでも髪の毛というものは起きている時間に伸びるんだそうで、忙しくてあまり寝てない場合にはけっこう差が出るという。
まあ確かにここんとこ仕事が詰まっていてぼんやりしているヒマはないけど、睡眠時間については特に変化はないはずだ。
なんでだろ、と思うのであった。そんでもって雑談はムダ知識が増えて楽しいなあ、とも思うのであった。

さてその後は久々に学芸大学に行って日記を書いたり日用品を買ったりメシを食ったりして過ごす。
学芸大学は知らないうちにマイナーチェンジが進んでいて、ドトールが3つに増えたり本屋がTSUTAYAになったりと、
その微妙な変化に驚かされた。そんでもって鯛焼きを売っていたので買って帰る。

家に戻ると通信教育のリポートに向けて気合を入れなければならないのだが、どうにも面倒くさくなってしまう。
しかしいいかげん奮起しないと本物のダメ人間になってしまう。というわけで、ここで強制未来日記の刑なのだ。

「昼間はのんびり過ごして夜はきちんと勉強して、非常に充実した一日でした。」


2008.2.23 (Sat.)

正午少し前に家を出たときにはけっこう暖かくて、ああもう春だなあ、と思うのであった。
で、川崎でメシを食い日記を書く。何時間もアイスココア1杯で粘って今月の日記を中心に仕上げていく。
もう今日はこれくらいでいいかな、と外に出てみたら空は暗くなっていて、ものすごい風が吹いていた。
異常気象でも春一番はしっかりと吹くんだなあ、と思いつつ帰ろうとするが、この風がホントに強いのなんの。
多摩川付近だけでなく、どこまで行っても風の強さは変わらない。フラフラしながら家に戻る。

家に戻ってネットをあれこれチェック。iPod shuffleが値下げ&2GBモデル登場というニュースを知る。
今まで1GBをちまちまと使ってきた身にはたいへんショックな話である。
しょうがないことだとは思うのだが、なんか納得がいかない。


2008.2.22 (Fri.)

相変わらず佳境の仕事に振り回される。手がける本は自分にとってどれも特別な存在には違いないのだが、
配慮しなくちゃいけない点がそれぞれ一気に降りかかってきているので、その個別の対処に追われる。
途中で頭の中が完全に飽和状態になったので、キレて突如お片付けをおっぱじめる。
そうして現実の物を整理していくことで、自分の頭の中も同時に整理していくのであった。

で、仕事が終わると英会話スクール。中3日空いてしまったので気合を入れて臨んだのだが、
昨日おじゃました先生の研究室が異常に乾燥していた影響が一気に出てきて、調子が狂い出す。
喉が痛くて風邪気味だったのは多少自覚していたのだが、それが頭の方にまで響いてきた。
おかげで頭がまったく回らない。体調じたいはなんともないのに、とにかく頭がうまく働かないのだ。
結局、メタメタのヨタヨタになって本日のレッスンは終了。ネイティヴから見ても明らかにおかしかったようで、
おだいじに的な声をかけられて教室を後にするのであった。こんなんなってる場合じゃないんだけどなあ。


2008.2.21 (Thu.)

以前担当した数学の本の続編というか下巻がついに、編集作業に入る段階まできた。
それでまだ正式には担当者にはなっていないにもかかわらず、なぜかご指名を頂戴してしまったので、
先生の研究室に企画担当の方と一緒におじゃましたのであった。

今回の打ち合わせでは、図についての説明を受けることになっている。
上巻では図の仕上げに非常に苦労をしており、その苦い経験を繰り返さないために、
わざわざ先生の手描きの図を事前に送ってもらい、それに目を通したうえであれこれやりとりをするのだ。
で、先生は前回すべてをフリーハンドで済ませて大いに誤解を招いた反省から、
今回は定規・コンパスを使って非常にわかりやすく図を描いてくれていてずいぶん助かった。
しかし中には概念じたいが難しい図もあって、それについての念入りな解説が入る。

まず平面を内側に丸めて円筒状にし、さらにその両端をつなげてトーラス(ドーナツやベーグルみたいな形)をつくる。
これが基本のようだ。そうやって貼り合わせてつくられていくリーマン面の基礎的な部分について教えてもらった。
今回いちばん難しいのが、球を3つ用意し、それぞれに切れ目を入れ、その切れ目どうしを交互に三すくみで貼り合わせ、
三重の被覆を持った1つの球にしてしまうというもの。文章で書くとシンプルに思えるが、これを図示するのは本当に難しい。
いわば立体的にメビウスの輪をつくっているようなもので、クラインの壺に近い感覚である。
いや、まだクラインの壺のほうが描きやすくて単純だ。こっちは球という閉じた空間をムリヤリ開いて1ヶ所でつなげているのだ。
先生のおっしゃることはいちおうは理解できるのだが、そういうそもそも3次元空間ではとうてい足りない話を、
どうやって2次元の図で表現すりゃいいのよ、と苦悶する。3人で頭を突き合わせてウンウンうなりながら考えるのだが、
これがどうしても明快な図にならないのであった。とりあえず、これについては今後も打ち合わせを継続することに。

これは、冷静に考えればこれはとんでもなく貴重な体験である。
リーマンが新たに切り開いた数学の地平、その最初の部分に触れることができたのだから。
そんでもって先生はなんと、御年80歳。歳をとっても頭はバリバリに冴えていて、
こっちが生まれたときからもう乗り越えることのできないレベルに、今もずーっとい続けているのである。悲しくなってくる。
でもまた、頭がいいっていうのはキリのないことだし、また無限に種類があることなんだなあとも思う。
(先生は紀元前を平然とマイナスを使って表現する。「B.C. 300」は「-300」。数学者って世界をそう眺めているのか。)
まあとにかく、自分の力を存分に信じて、また発揮できるということをとてもうらやましく思った。


2008.2.20 (Wed.)

『ふしぎの海のナディア』の全39話を見終えたのでレビューを書く。

その前に今となってはこのアニメについても軽い説明が必要だろうから、ちょろっと書いておく。
1990年4月から1年間、NHKで放送されたアニメである。今やエヴァでお馴染みのガイナックスが、NHKでやっていたのだ。
金曜の夜7時半からということもあり、クラスでも見ている人は多かった。天井にポスター貼ってたヤツもいたっけな……。
主人公は14歳で発明好きの少年・ジャンで、サーカス団員で褐色の肌をした少女・ナディアに一目ぼれ。
ナディアは青い宝石・ブルーウォーターを持っており、それを狙う三人組から逃げながら冒険の旅に出る、という話。
J.ヴェルヌの『海底2万マイル』を下敷きにしつつもスタッフがやりたい放題を繰り広げ、まったくオリジナルな仕上がりである。

まず結論から。意外と粗かった。リアルタイムで見ていたときには気づかなかった「粗さ」が、今は妙に目につく。
そういう印象になったのは、いわゆる「島編」が意外と長かったことが原因のように思う。
「島編」とは、大破したノーチラス号から脱出したジャンとナディア一行が、漂着した無人島で生活をする辺りのこと。
ここは庵野監督の休養期間だったらしいのだが、まあ、やっぱり、ふざけすぎだと思う。
確かにキャストは少ないし、ネオ・アトランティスもノーチラス号もクライマックスに向けて充電するので話は地味になるが、
それにしてもやっぱり、テンションを変な方向に上げすぎているかなあ、という感じがしてしまう。
当時のスタッフが置かれた状況はとても言葉では表現しがたいくらいの修羅場だったらしいのでムチャな要求なんだけど、
全39話の構成が最初のうちからもうちょっと丁寧に決められていればどうだったんだろ?と思ってしまうのだ。

このアニメ最大の魅力は、なんといってもグランディス・サンソン・ハンソンの三人組だ。
タイムボカンシリーズの三人組をヒントにキャラクターがつくられたといい、ブルーウォーターを狙う悪役として登場する。
でももっととんでもなく悪い連中(ネオ・アトランティス)が出てきてしまったので、ノーチラス号と手を組んで活躍する。
もともと純粋な仲間ではなく、どこかジャンたちとは距離があって、でもその距離ゆえにお互いに客観的に認め合える、
そういう人間関係の距離が理想的なものへと収束していく様子が丁寧に描かれているのが、けっこう新しいのである。
積極的な14歳の男の子、内向的な14歳の女の子、そこにキャラ爆発の三人組が絡むことで、
ただのエンタテインメントではない、深みを持たせた娯楽作品として成立している(トリックスターのマリーとキングも面白い)。
そう考えると基本的な設定の部分は本当によくできているなあ、と感心させられる。

ストーリー展開についてはトンデモ科学のオンパレードだが、ここまで徹底してまとめれば、むしろ立派に思えてしまう。
ネモ船長の行き当たりばったりぶりとガーゴイルのワンマンぶりが、話が広がりすぎないようにする効果を生み出していて、
物語を進めていくバランス感覚が実に絶妙なのである。壮大なレベルで奮闘する大人と、自分の悩みと向き合う子ども。
それだけで十分な話ができる2つのテーマを、前者で盛り上げつつ後者をきっちり描く、かなりいいバランスで実現している。
「あれ、『ナディア』ってこんなんだったっけ?」という微妙な感じが残ったのは、きっと僕が大人の側に移ったからなのだ。
そしてまた、上記の「粗さ」が「若さ」の持つ特権であったことを知り、そういうメルクマールになりうる作品をつくった人々が、
ものすごくうらやましく思えるのもまた確かなのだ。

ラストシーンでマリーが飛行機を飛ばしてエンディングへとつながるのがめちゃくちゃカッコいい。
そしてそのままエンディングテーマを聴いていると、物語が終わったことに対する淋しさが強烈にこみ上げてくる。
いい作品には感情移入ができる。そして現実に戻ったときに、淋しさを覚えることになる。
物語の主人公たちが冒険していた時間と、DVDを再生して再びジャンたちと一緒に冒険していた時間と、
この作品をテレビで見ていたリアルタイムの時間と、そのときに僕が中学校で暴れまわっていた当時の時間と、
そんな何重にも重なった時間に別れを告げた瞬間、気の合う連中と時間を共有することのすばらしさをはっきりと自覚する。
そのことに気がついて、ああこの作品は僕にとってかけがえのないものだったんだな、と思った。理屈を超えて。


2008.2.19 (Tue.)

建築関係の本の編集会議。木を見て森を見ない皆様方のご意見を頂戴するわけである。

やはり建築の皆さんらしく、デザインの注文が相次ぐ。そして、その気持ちはよくわかる。
自分もウチの会社のデザインセンスには苛立ちを覚えているわけで、むしろ先生方と同じ側にいる気分である。
しかしながら、それに対する対処というものがまるっきりわかっていないので困る。
最終的に美しい仕上がりを目指すのであれば、Illustratorを使って図版を描くなどの事前の努力が必要だ。
しかし「僕らはWindowsだからPower Pointのほうが簡単なんだよね」と言ってクオリティの低い図版を平然と渡し、
それでいて「仕上がりが悪い」と言ってのけるのは、あまりにも勉強不足がひどいのではないかと思っちゃうのである。
「昔は建築の図版については専門のイラストレーターがいてねー」なんて話をされたところでタイムスリップなどできない。
現状に即したベターな解決というものを理解する姿勢を持ってもらわないことには、一向にいいものなんてできやしない。
あなた方はそれでもモノをつくる人間ですか、本をつくるプロセスをもう少し興味をもって知ろうという気にならないんですか、
そんな言葉が気管支の辺りまで上ってきたが、ガマンして呑み込んだ。まあ言ったところで状況が改善するわけもないし。
改善するなら言うが、言っても相手が不快に思って終わり、むしろ状況は悪くなるのが目に見えているから、僕は言わない。

会議が終わって企画担当の方と今後の見通しについて軽く話すが、僕の口からは前向きな言葉が出てこなかった。
解決の方法なんて瞬間的に思いついているんだけど、それが採用されるかどうかは上の判断。コストとの相談。
問題に直面した瞬間にモアベターな対処を思いつくのは僕が自慢できる数少ない点だが、
(ベターの上、モアベター。文法的にはおかしいが、ベストと言うのは傲慢だと思うので、モアベターって表現にしておく。)
何をもってベターとするのか判断は人それぞれなのだ。その判断基準があまりに統一されていないことにグチが出る。
結局、先生方は議論をしているのが好きなのだ。議論をしている時間を持つこと、そのことじたいで満足している感じだ。
それは決して悪いことではないのだ。議論の時間を共有することで、信じられないくらい視野が広がる経験は多い。
でも。果たして今はそのときなのか。僕らがつくるのは商業出版物であり、限られた時間・費用の中で対処することだ。
建築畑の人間に多いことだが、彼らは時間を費やせば費やした分だけクオリティが上がると錯覚しているところがある。
僕が大学院時代に研究室で一番辟易した点はここだ。時間を費やして議論することそのものに満足して終わっている。
しかし長引きすぎて旬を逃した議論は時間のムダになりうるし、議論を実践にフィードバックしなければ意味はない。
実践にも時間・費用というコストは均等にかかってくるわけで、その適切なバランスをとらないといけないのだ。
結論・実践を求めない議論など自己満足にすぎない。誰かを満足させることなどできない。そういうことだ。
そんでもってまた、彼らとの議論はあまりに一方通行的すぎる。先生と編集者の関係に嫌気がさす。
こういう調子で僕があまりにグチを連発していたせいか、企画者の方にはだいぶ僕がテンパっている印象が残ったようだ。
まあテンパっているのは事実だし、いろいろ今年は気合を入れなきゃいけないわけだし。まったく困ったものだ。

家に帰っても気が晴れないので外でメシを食べることにした。
近所のおかわり自由の中華定食屋でニンニクの芽と豚肉を炒めた料理で腹いっぱいになる。幸せ。
やはり生活を充実させるためには、食べることを充実させることが近道なのだ。
誰かオレのためにうまいメシをつくってくれませんかねえ。


2008.2.18 (Mon.)

長らく手こずってきた数学史の本の一部抜き(ゲラでなく実際の紙に印刷した最終チェック用のもののこと)が出た。
感慨深くページを数えていったのだが、3の倍数と3のつくページのときだけアホになって困った。


2008.2.17 (Sun.)

今日は久しぶりに大森へ行ってベーグルを食いつつ日記を書いた。
大森アトレはエスカレーターの向きがおかしい。1→2階、2→3階のエスカレーターの向きを変えた関係で、
3階で反対側に回り込まないといけない構造になっている。なんでこんなことになっているのかわからない。
そしてそれが改善される気配が今のところないのが、なんとも疑問である。
で、1階の鯛焼き屋で鯛焼きを2つ買って帰る。R-1ぐらんぷりを見つつ食べよう、と画策したのだ。
鯛焼き屋は絶対数がそんなに多くないせいか、いつどこへ行っても行列ができているように思う。
下高井戸もそうだし、神保町もそうだ。4月から小麦の価格が30%高くなるという恐ろしいニュースが報じられたが、
そうなると鯛焼きも値上げされることになるのではないか。ショックである。
そんなことを考えながら帰宅してテレビにかぶりつく。世界のナベアツのパフォーマンスをチェックする。
こないだの姉歯祭りではYouTubeの動画を見てみやもりとさんざん笑ったものだ。
シチュエーションコントではなく漫談の形でやる点を評価したい(クィーンのモノマネのネタも好きだが)。
が、優勝はなだぎ武。なんだかちょっと残念である。前評判が高すぎたか。

そんなこんなで、いっこうに通信教育の方の英語の勉強が進まない。
やる気を出していかないといけないのだが、どうも気分が乗らない。
いいかげん直前になって慌てるクセを直していく必要があるのに、わかっているのに、できない。ダメ人間である。
そろそろ一発、どこかで気合を入れなければなるまい。どうしてくれよう、自分。


2008.2.16 (Sat.)

新宿へ自転車で出かける。昼メシ食ってガッツリ日記書いてそんでもって英語の勉強。
晩メシ食って家に帰ってからもやはり日記を書いていく。けっこう進んだが、まだ残っている分量が多い。自業自得。


2008.2.15 (Fri.)

昨日ケータイを新しくしたのだが、僕の知らない間に技術ははるかに進歩していた。

僕はケータイについてはまったく疎い人間で、応対してくれた店員さんに
「ケータイでテレビ見るのってけっこうお金かかっちゃうんですか?」
なんて質問をぶつけてしまうレベルなのである。メールと電話があればそれで十分、という古典的なタイプなのだ。
で、タダで替えられる機種を並べてもらってそれぞれの特徴を説明してもらったにもかかわらず、
「黒が好きだからコレでいいです」「こちらの機種も黒いカラーはありますよ?」「めんどくさいんでコレでいいです」
そんな具合に今後2年間お世話になるケータイを決めてしまうようなテキトーな人間なのだ。

さて家に戻ると、取扱説明書を傍らに置いて(基本的には読まない)、いろいろといじくりまわしてみる。
最初のうちは保護フィルムをはがさないままカメラで撮影してみたり、というおサルさんレベルだったのだが、
2時間後にはぜんぶ設定も終えてワンセグについても確認して、パソコンにつないで音楽をダウンロードしていたのであった。
自分がケータイを使う能力のない人間ではなくって、ケータイを使いこなす気にならない人間だったことに少し安心。

今度のケータイは、電話とメールのほかに、テレビが見られるようになった。
それからWMAファイルをパソコンで変換する形で、音楽も何十曲か入れられるようになった。FMも聴ける。
もちろんカメラもついている。その気になれば、おサイフケータイにもなるようだ(その設定はしていない)。
「ケータイでできること」がここまで広がってきたのか、と驚く。
そのうちケータイは指紋認証システムを利用してハンコの代わりになる日も来るんじゃないかと思う。
シャア専用じゃなけど、量産型でない個人仕様カスタムメイドのものもすぐに一般化する気もしてくる。
そうして個人を識別するすべての要素はケータイに集約されるだろう。パスポートも免許証もケータイに集約される。
冗談じゃなく、子どもが生まれたら名前とともにオリジナルなケータイを贈る風習ができると思う。
究極的には、ケータイは人間をサイボーグと同等の存在にする、第二の身体という扱いになるだろう。

話がそれた。時代を現代に戻そう。
現時点でのケータイは、きわめて器用貧乏なアイテムだと思う。
すべての機器をそこそこの性能で済ませておける人が便利に使いこなす、というレベルのアイテムだ。
僕は音楽はiPod、デジタルカメラはIXY 900IS、ネットはパソコンのみ、各種支払いはクレジットカードとEdyカードとSuica、
そういうふうにすべてを使い分けている。でも機械をいちいち使い分けるのが面倒くさい人は、すべてをケータイで済ませる。
もちろんケータイだからそれぞれの性能は特化した機械に勝てない。でもそれで満足できる人は、そっちを選ぶだけの話。
(iPodやデジカメなどに対して「特化した機械」というケータイの側から眺めた表現を使っているのが、
 自分で書いていて示唆的だ。歴史的経緯をみれば当然、ケータイが各種の機能を便利に取り込んでいっているのだが、
 将来はそれが逆転し、たぶんケータイを中心に「それぞれの機能がかつては特化していた」という視点にまとまると思う。)
まあ何にせよ、こんな遊べるオモチャは、なかなかないのは確かだ。
未来についてあれこれ想像を膨らませながらいじくりまわしてみることにしよう。


2008.2.14 (Thu.)

二度寝しているところを迷惑メールの着信音に起こされて、会社に遅刻しないで済んだ。そんなバレンタインデー。


2008.2.13 (Wed.)

しばらく天気が悪かったこともあってか、今日の日差しはとても美しく感じられた。
あまりに魅力的だったので、いつもの読書の予定を返上して、昼休みをまるまるサイクリングに充てることにした。
iPodで好みの音楽を再生して自転車にまたがると、のんびりと神保町方面へと繰り出す。

「冬来たりなば春遠からじ」と昔の人は言ったが、まだまだ寒い日が続いている。
しかしこうして青空の下で日差しをめいっぱい浴びていると、季節の変化の兆しをなんとなく感じることができて、
それだけで気分が良くなってくる。澄みきった空を映して背の高い建物は青く染まっている。いいもんだ。

あれこれ思い悩んでいることややらなきゃいけないこと、すべてを忘れて頭の中を空っぽにして過ごす。
日常の中には、たまにこういう時間が転がっていることがある。いいもんだ。


2008.2.12 (Tue.)

三度の飯より飯が好き。


2008.2.11 (Mon.)

capsule『FLASH BACK』を借りてきたので感想を書くのだ。

capsuleの新作ということで多大なる期待を持って聴きはじめたのだが、結論としてはパンチ不足かな、と。
といってもこれは前作・前々作と比べての話である。比べるのは明らかに酷なことなのだが、どうしてもそう思う。
『FRUITS CLiPPER』(→2006.9.6)ではかわいらしくも踊れる「5iVE STAR」がcapsuleの方向性を高らかに宣言し、
『Sugarless GiRL』(→2007.5.28)ではバケモノとしか形容できないキレキレの「Starry Sky」が圧倒的に立ちふさがる。
対する『FLASH BACK』では、おそらく「Eternity」が核になっていると思うのだが、ややパンチ不足。
悪くはないが、アルバム3つを三部作として捉えた場合、上記の2曲と比べてちょっとデキがおとなしいのだ。
もちろん受け手であるこちら側が、『FRUITS CLiPPER』以降のcapsuleに慣れていることが大きいとは思われる。
だからある意味では期待どおりなのも確かだ。そんなわけで十分及第点だが物足りなさが残る、という感想になる。

アルバム全体についてもそれと同じ感触がする。
個人的には大胆な路線変更の印象もあって、『FRUITS CLiPPER』が最も全体のインパクトの強い作品と捉えている。
capsuleは初期のいかにも女性的なポップさから徐々にテクノ方面へとアルバムごとに試行錯誤を続けていたのだが、
完全に機械重視のサウンドで両者を飛び越え、まったく別の軸を提示したところに『FRUITS CLiPPER』の凄みがある。
(しかしよく聴くと、『FRUITS CLiPPER』は過去の否定ではなく、過去の財産が形を変えて生きているのがわかる。)
そのためか『FRUITS CLiPPER』収録曲は全体を通してバランスがいい。統一感のある中にも各曲の個性が生きている。
それまでじっくりと培ってきたものを新しい方向で再解釈しているような楽しさ、喜びが垣間見えるのだ。
『Sugarless GiRL』になると、一言で表現すればポップからロックへ、という舵の切り方になる。
ディストーションギターが要所要所でダンスミュージックを引き締める。これが極めて効果的に使われている。
全体の印象は硬質になり、緊張感が増している。前作の開拓したフィールドから一点を選び、集中的に攻めた感じだ。
そういう経緯をたどった次の作品になるので、『FLASH BACK』がいまひとつパンチに欠ける印象になるのは無理もない。
尖った『Sugarless GiRL』からいったん戻ってくる役割を持っており、また『FRUITS CLiPPER』のようにそれまでとは
まったく別のフィールドへ飛ぶ必要性は今のところないわけで、必然的にこのアルバムは漠然としたものにならざるをえない。

個人的な希望的観測をまじえつつ今後のcapsuleについて書いてみよう。『FRUITS CLiPPER』で一気に飛び出し、
『Sugarless GiRL』でその強度を固めたcapsuleは、『FLASH BACK』でようやく新しい安定ぶりを見せた。
これまで放浪の旅を続けてきたcapsuleは、いったん安住の地を見つけたようだ。『FLASH BACK』はその証拠となろう。
そして『FRUITS CLiPPER』と『FLASH BACK』のような安定、『Sugarless GiRL』のような先鋭、それを繰り返しながら、
もしかしたら音楽性をゆっくりと変化させていくかもしれない。でもこれまでの経緯を考えれば、好ましい変化になるだろう。
capsuleが崩壊する瞬間が来るとすれば、それは間違いなく、音楽性での失敗ではなくコンビ解消が原因となるはずだ。
かつて小西康陽が野宮真貴を手放したように、中田ヤスタカがこしじまとしこを手放すときにのみ、capsuleは終わる。
小西がPizzicato Fiveという枠を不要としたのと同様、中田がcapsuleという枠を不要とするかどうか。そこにかかっている。
つまりcapsuleは21世紀におけるPizzicato Fiveの正当な継承者であり、中田ヤスタカは小西康陽の正当な継承者だ。
そういう考え方に立つ限り、もうしばらくはcapsuleと中田ヤスタカの活躍は続くと見ていいだろう。
今後とも長らく楽しませてもらいたい、と心から思っていく。


2008.2.10 (Sun.)

朝からウダウダして過ごす。昼になってメシを買いに出る。戻ったところでえんだうさんから連絡が入った。
そしてメシを食い終わってダラダラしているところにえんだうさんが合流。まあ仕事が忙しそうだからしょうがない。

で、参加者が揃ったところでやっぱり「たほいや」。僕らがやり慣れている広辞苑は第三版なのだが、
どうも第六版は文体が今風の、ふつうっぽい説明が多いんじゃないか、なんて話になる。
あの文語っぽい独特の文体じゃないとちょっとなあ、なんて言いつつもゲームは進行。
文体よりもぶっ飛んだ発想を重視する方がいいらしい、とわかってきて、各人だいぶおかしなことを書くようになっていく。
「じんごいずむ」……[1]好戦的な愛国主義。
            [2]島根県東部に伝わる伝統舞踊。太鼓と鐘の音に合わせて「むい」「むい」と掛け声を出して踊る。
            [3]明治初期の洋画家。パリ国立美術学院で学ぶ。代表作に『川』『祈る人』。
            [4]大正時代の洋画家。東京生まれ。二科展の選考委員の一人。代表作に『犬と童女』『月』。
            [5]イギリスの植民地政策。ヒンドゥー階級に間接統治させた。東インド領事ジンゴイにちなむ。
なぜ洋画家がかぶるんだ、と苦笑いが起きる。インチキのでっち上げテクニックにどんどん磨きがかかるのであった。
(正解は[1]。[2]は僕、[3]はみやもり、[4]はニシマッキー、[5]はえんだうのでっち上げ。)
最終戦ではマサル入魂のお題「せめねんぶつ」で勝負。こんなのどうすりゃいいんだ、と悲鳴があがる。
 [1]高い声で急調子に繰り返す念仏。
 [2]平安期にみられた山岳信仰で、狭隘な谷間で祈祷を行う。
 [3]禅問答に勝った僧のこと。
 [4]奈良県の方西寺で行われる修行のひとつ。行者の周りを数人で取り囲み、念仏を唱える。まわり念仏。
 [5]浄土真宗仏光寺派の寺院で毎年3月9日に行われる仏事。責めるような抑揚で念仏を唱え、五穀豊穣を祈願する。
(正解は[1]。[2]はえんだう、[3]は僕、[4]はみやもり、[5]はニシマッキーの作品。もはや作品。)
いやー、久しぶりに頭を使ったので疲れた疲れた。

夕方になりマサルとみやもりが仕事やら用事やらがあるということで解散モードに。
しかし今回の姉歯祭りは本来、桜鍋を食べることが目的だったわけで、ニシマッキー・えんだうと僕は三ノ輪へ向かう。
新宿で2人と別れると秋葉原で地下鉄日比谷線に乗り換える。「行くぞ、吉原ー!」なんて叫びつつ三ノ輪に到着。
三ノ輪からしばらく広い道を歩いて行くと、突如さびれかけのアーケード商店街が現れる。
そこからさらに進んでいったところに、目的の店があった。関東大震災の翌年に建てたという木造の店内は雰囲気満点。
なんだか僕らのような若造が予約なしでふらっと入るのは気が引けるくらい。少し緊張する。

メニューを見てみるとコースがけっこういいお値段。ランチに来るべきだったなーと言いつつ、あれこれ考える。
コースよりは安く抑えるようにどうにか配慮しながら注文していくことにした。小市民である。
片手をいっぱいに広げた程度の小さな鍋(あくまで僕の手のデカさの感覚で)に割下がなみなみと張られ、
きれいに並べられた桜肉が顔を出している。中には味噌が入っているそうで、それを混ぜていただくという。
桜肉はウェルダンにしちゃうと硬くなってしまうので、レアでさっさと食べるものらしい。
鍋に火が入ると、あっという間に桜肉は色が変わっていく。3人とも慌てて肉をすくい上げ、卵につけて食べる。
桜肉、要するに馬の肉は真空パックの馬刺しで食べたことはあったのだが、こうして鍋で食べるとそれとはまったく違う。
臭みもないしものすごく柔らかい。肉なんだけど、肉らしくないというか。拍子抜けするほど、するっと食えちゃう。
さらにバラも注文してみた。バラとは脂身のことで、これがロースより高い値段なのだが、食ってみると納得できる。
しっかり煮るとプルプルしたコラーゲンの塊に変化してしまい、やっぱりまったく臭みがなくっておいしいのである。
また刺身もとろけるように柔らかく、生姜との相性が実にすばらしい。そんでもって日本酒ともよく合うのだ。
桜肉がこんなに旨いものだったとは、と3人とも目からウロコをボロボロ落としながら夢中になって食べるのであった。
鍋の残り汁に玉子を入れてつくる「あとご飯」まで非常においしかった。

 ちょっとオトナな贅沢ですな、これは。

どうにかコースよりは安く抑えることに成功し、満足しながら来た道を戻る。
まあ今年もこんな具合にいろいろなことに挑戦していけるといいなあ、としみじみ思うのであった。


2008.2.9 (Sat.)

姉歯祭りなんだけど、例のごとく集まりはグダグダ。僕は朝7時には起きていてみやもりに連絡を入れるが反応なし。
しょうがないので日記を書いたりゲームしたりで過ごしていたら、午後になってようやく電話がかかってきた。
みやもりは「今起きた」とのことで、結局夕方16時に集合ということになるのであった。

16時に間に合うように電車に乗って祭りの会場である多摩方面・中央線沿線へと向かうが、ここでトラブル。
ケータイの調子が悪く、どこに行っても電波の受信状況が圏外のままなのだ。
しょうがないので公衆電話からニシマッキーに連絡を入れて待ち合わせ場所を確認。波乱の幕開けなのであった。

吉祥寺駅にどうにか3人集合したのだが、やたらめったら寒い。先週の彦根なんか比べ物にならないくらい寒い。
どうかしとるぜ地球、と思いつつ、ニシマッキーの先導により中心から少しはずれた位置のホテルへ。
ホテルのくせして地下がボウリング場になっているということで、今回の姉歯祭りはボウリングでスタートなのである。

ふつうにボウリングをしても面白くないので、僕の提案で「英語禁止ボウリング」をやることに(モリマンはいないよ)。
英語1回につき罰金100円、集まった金はニシマッキー邸で飲んだくれるときのおやつ代にする、ということに決定。
ちなみにそれぞれの名前は、日本相撲協会に怒られそうな名前で登録。当然、ニシマッキーの趣味である。
僕はボウリングをやるのがこないだの会社帰り以来、ニシマッキーもずいぶんと久しぶり、
みやもりに至っては前にいつやったのかをまったく覚えていないという有様。学生時代は遠い昔、である。
自分の好みの球の重さは覚えているものの、肝心のボウリングのフォームをみんなすっかり忘れてしまっていた。
3人とも「100に届くかなあ」「だといいね」というレベルで醜い小競り合いをするのであった。

メインであるボウリングは僕が比較的好調で、2人に比べて少し抜け出した格好になったが(2人がひどすぎるんだ)、
英語禁止ルールのほうは僕が圧倒的に引っかかりまくる。言いだしっぺなのに、次から次へと英語が口を突いて出る。
いかにふだん、きちんと考えてからしゃべるということをしていないかが露わになるのであった。
みやもりがうっかり「オーケー」って口走り、それに応じて「オーケーオーケー」と言ってしまう僕。もうこれだけで200円だよ!
いちばんひどかったのが、ガーターと言わせようとしてスコア画面の「G」を指し、「ねえねえあのマークなんて読むの?」
「はいマツシマさん、罰金ですよ」「……。」もう自分アホかと。お笑い芸人ならオイシイかもしれないけどなー。
2ゲーム目ではそれまで冷静を保っていたニシマッキーのタガが突如はずれる。まず第一投を終えた時点で、
「冴えないスタートだな……あっ!」とその場にしゃがみ込む。さらに場内に中島美嘉の曲が流れて、
「マツシマさん、このBGM平気ですか? ……くぅー!」と悔しがるのであった。でもみやもりは最後まで落ち着いて対処した。
そんなわけでスコア的には僕が優勝したのだが、英語禁止の罰金のほうはぶっちぎりで負け。
これ、たぶん次回もやるんだろうなあ……。

ボウリング場から地上に戻ると大粒の雪が舞っていた。東京では先週に続いての雪になる。
寒くて寒くてたまらなかったので、さっさと晩飯をいただくことに。中央線のガード下にある台湾料理店に入りいろいろ注文。
台湾ビールをあおっていい気分になる間にも雪は街を真っ白に染めていく。ドア1枚隔てた外は東京とは思えない景色に。
料理はどれも独特のエスニックな香りづけがしてあって非常によろしかった。もうちょい安けりゃ言うことないんだけど。
で、お腹いっぱい幸せいっぱい胸いっぱいになって雪景色の中に飛び込む。
ニシマッキーがヨドバシカメラでWii用のプリペイドカードを買うと言うので、ついでにいろいろ見てまわる。
みやもりはいまだにパソコンを持っていないということで、パソコン売り場で軽くあれこれチェックを入れていく。
Mac売り場にも行ってみる。発売されたばかりのMacBookAirが展示されていて、いいなあいいなあ!とヨダレを垂らす僕。
みやもりが「YOU買っちゃいなよ」とジャニさん口調で言ってくるが、使い道もお金もないから買うわけないに決まってんだろ。
ただ、将来お金に余裕のあるオトナになったら、オモチャとして手軽なMacを持ってみたいのは事実である。
まあうちのオヤジはお金に余裕がないのにオモチャとしてMacを買った過去があるので、これも血だな、と思うのであった。

そんな具合に酔いざましを済ませると、電車に乗って武蔵境へ。雪の中を歩く気がしなかったのでバスに乗る。
ニシマッキー邸の近くのバス停で降りるとスーパーで買い出し。あれこれお菓子をたっぷりと買い込む。
そしてニシマッキー邸に着くとWiiを起動。懐かしのゲームのタイトル数は、思っていたよりも少なくややガックリ。
でもFC・SFCだけでなく、PCエンジンにメガドライブ、さらにはなんとNEOGEOまでラインナップに入っていて激しく驚いた。
で、集団でプレーするのが熱い『ダウンタウン熱血行進曲 それゆけ大運動会』を購入してプレー。
しかしあまりに操作性が悪く、なんだかよくわからないうちにコンピュータの圧勝で幕を閉じた。
消化不良のわれわれ、続いて『マリオパーティ8』を始める。この手のゲームはニシマッキーの得意分野で(持ち主だし)、
容赦なくプレーしてぶっちぎりのトップになるのであった。2位争いは最後猛烈に追い上げたみやもりに軍配が上がった。
リズムに合わせて岩を割るゲームで圧勝したのが僕の唯一の見せ所。まあ、ドラマーですしね。

夜遅くになり、やっとこさマサルが登場。もちろん買ったばかりの広辞苑第六版を持参して、である。
広辞苑の使い道はもちろん「たほいや」。われわれ大学1年~2年ごろは、ヒマさえあれば「たほいや」ばかりやっていたのだ。
「たほいや」とはかつてフジテレビで深夜に放送されていた番組、またその番組で行われていたゲームである。
広辞苑には僕らが日常決して触れることのないような言葉も収録されている。それを利用して遊ぶのだ。
まず「親」を決める。「親」は広辞苑から意味のわかりそうにない言葉をお題としてひとつ選び、それをひらがなで書き出す。
「子」はその言葉の意味をでっち上げて紙に書く。「親」はその紙を集めて正解とともに混ぜ、番号をつけて読みあげる。
そして「子」はいくつもでっち上げられたウソの中に紛れ込んだ正解を当てる。「親」は「子」をだましきれば勝ちとなる。
(ちなみに、「たほいや」の本来の意味は、イノシシを追うための小屋のこと。)
ポイントは、広辞苑の独特の文体。体言止めが多く、「○○のひとつ。」ではなく「○○の一。」と説明することが多い。
われわれ大学1年のときにはさんざんカナタニさんにしぼられたもんである。そうやって広辞苑っぽく書く技術を高めたものだ。
そして「親」になったときにはお題の選択もセンスの見せ所となる。無国籍な響きの言葉の方が「親」に有利になるからだ。
特にマサルは「親」として、今まで伝説的なチョイスを何度かしている。
「みんごうにっそ」では全員が日本とソ連の関係を想像して完敗し(正解は源氏物語の注釈書で「岷江入楚」と書く)、
「でろれんさいもん」ではあまりに言葉の響きが特殊すぎてウソがでっち上げられず、全員が正解を選びマサル一人負け。

今回のゲームで出てきた例を少し紹介すると、こんな感じ。
「ぼつじかん」……[1]中国の古戦場の一。韓信の股くぐりの逸話で有名。[2]文字を知らない人。
          [3]江戸時代後期の俳人。九州地方を旅し、句集『没庵集』を著した。[4]日没から日の出までの時間。
この4つの中から正解を探すのだ。残りの3つは参加者がでっち上げたものである。
(正解は[2]。[1]は僕、[3]はニシマッキー、[4]はマサルが考えたウソの意味。)
「のめんぴ」……[1]庄内地方の方言の一。道がぬかるんでいるさま。[2]バラ科の常緑樹。能面の材料となる。
          [3]ずうずうしいこと。厚かましいこと。[4]バングラデシュの都市の一。ジュート麻の産地。ノメンプ。
(こちらの正解は[3]。[1]はみやもり、[2]はニシマッキー、[4]は僕がでっち上げた意味。)

久しぶりの「たほいや」なので、どうもみんないまいち感覚がつかめない。僕なんか眠くてどんどんテキトーになっていくし。
「とぼかしい」というお題で「とぼけて、おかしい。」と書いたら、「少しは考えて書け!」とみんなから責められるのであった。
その後さんざん、マサルとみやもりから「とぼかしいヤツめ!」「とぼかしいこと言ってんなよ」とバカにされた。
(「とぼかしい」……不確かで疑わしい。気がかりである。というのが正しい意味。)


2008.2.8 (Fri.)

今日は妙に忙しかった。4つの仕事を同時並行でこなしたからだ。
なんでかわからないが、まあそういうもんだとも思うのだが、僕の担当する仕事はピークが妙に重なる。
先週まではスッカスカだったのに、今週はびっちりみっちりとやるべきことが詰まっている。
落ち着いて優先順位をつけるヒマもないくらいで、直感的に次から次へと作業を進めていく。
うっかりミスがないように、企画担当の方と逐一確認しながらひとつひとつつぶしていく。
残業が可能であれば多少は余裕をもって作業ができるのだが、そうもいかない。
なんだかなあ、と思いつつ、休むことなく次の仕事に取りかかるのであったことよ。


2008.2.7 (Thu.)

建築学会でお偉い先生方とお仕事。今回もやっぱり、細かい部分にばかり着目して全体を見ようとしない感じに終始。
……なのだが、あれこれやりとりをしているうちに、その細かい部分での問題を確実に拾っていく点に感心させられた。
僕は根がテキトーな人間なのでけっこう物事の進め方が粗っぽい。そのせいでうっかりミスがやたらと多い。
でも先生方は、小さな疑問をひとつひとつ丁寧につぶしていくのだ。なるほど言われてみれば確かにそうだ、の繰り返し。
総括としては、もっときちんとまとめてから原稿の引継ぎをしやがれコンチクショーと思ったのだが、
人には得意不得意があるわけで、それをうまくやりくりして作品をつくっていくことが極意なんだな、と思い知った。
文句を言うのは簡単だが、本当に頭がいいんなら、文句を言う前にうまく相手のいい部分を引き出して、
それぞれの得意な部分をうまくつなげて仕上げてしまうもんだろう。そういう人間になりたいな、と思うのであった。

この日は午前中に会議があったので、会社には昼過ぎに出社というスタイルだった。
なかなかないことなので、それだけで楽しくなってしまうではないか。やはりこういう非日常が適度にないとつまらない。
で、昼飯は企画担当の方と一緒に建築学会近くの天ぷら屋に入った。いつもの3倍近い値段のランチである。
ご馳走していただいたのだが、いやもうそれだけで緊張するのであった。
いわゆる天ぷら屋の天ぷら、塩でいただく天ぷら、「てんや」でない天ぷらは初めて。
食ってみると食材のぷりぷり感がまったく違う。そんでもって味噌汁がとんでもなく旨い。その味の深みにたまげる。
企画担当の方とは最初は他愛もない話をチラホラしていたのだが、そのうち僕の同期が近々辞めるらしいという話になる。
まあ確かに彼は野心家なので、さもありなん、という感じ。しかし自分の状況とあわせて考えるとなかなかハードである。
豪華な天ぷらと同期の会社辞める話のダブルパンチで意識は朦朧。言葉では形容しがたいランチなのであった。


2008.2.6 (Wed.)

(この日の日記は、実際には姉歯祭りの朝、2月10日に書かれたものである。
 マサルが「僕がマツシマくんの日記を代わりに書くよ!」と言うので、任せてみたら以下のようになった。
 なお、不適切な表現には僕の方で伏字をしてある。)

お●こすべえ(庄内地方の挨拶の一)!
今朝起きたら妙に喉が渇いたので、手元にあったポカリスウェット(腐った●水)を飲んでいたら、
枕元に夏みかんが三つおいてありました。「ということは、吉となる方角は南南東だコパね」と思い、
会社を休んで、南南東に向けて自転車でひとり旅行に出かけた。

きりきり舞いといえば℃-uteの舞美なわけだが、ペ●フィリアかつネ●ロフィリアの私としては、
ほんとに困ったンガー(庄内地方の魔法使いを呼び出す呪文の一)!


●●● きもちわるい

ここまで書いた時点で「もう飽きた」とのことなので、マサルの書くびゅくびゅく日記はこの辺でおしまい。
ひでえなあ、相変わらず。いくらネタに困っていたからとはいえ、書かせなきゃよかった。


2008.2.5 (Tue.)

旅行の疲れが抜けるわけもなく、仕事のデキが非常に低調なのであった。悔しい。
でもその分、英語の勉強は比較的好調なのであった。ムラがないようにしていかないといかんなあ。


2008.2.4 (Mon.)

朝起きてなんとなくテレビをつけると、昨日の東京はたいへんな大雪になっていたとのこと。
岐阜では雨だったけど雪の「ゆ」の字もなかったわけで、そう考えると運がよかったのかもしれない。
そして窓の外を見ると、今日は青空の広がる非常にいい天気。気持ちよく名古屋の街を歩けそうだ。

飯田で育った僕にとって、名古屋とは最も身近な都会である。小さい頃からしょっちゅう来ていて、
あまり新鮮味のない場所である。そして高校卒業後には浪人ぶっこいていた場所でもある。
県庁所在地ひとり合宿で今まで名古屋を避けていたのは、その新鮮味のなさが理由だ。
でも今回はほかの初めての街と同じように、いかにも「名古屋らしい」場所をあちこち歩いてみることにした。

とはいってもまずは県庁と市役所。名古屋駅から地下鉄の桜通線に乗ると(これを「チェリーする」という)、
途中で名城線に乗り換えて市役所駅へ。市役所駅なんていかにも市営地下鉄だなあ、なんて思いつつ出口を目指す。
市役所駅は直接市役所の地下につながっているようで、案内板を見ながらそっちへと進んでみる。
そしたら出たのがまさしく役所といった感じの地下通路。軽く迷いながらもどうにか地上へ出ると、
そこは名古屋市役所の正面入口だった。交差点の方へと歩いていって、その全体像を撮影してみる。
が、午前中の東の空を背景にするので、どうしても逆光がきつい。道路も交通量が多く、撮りづらい。
のんびりぐるぐる歩きまわりながら、なんとかマシな画像になるように考えつつシャッターを切っていく。

  
L: 市役所駅から名古屋市役所に出たところ。薄暗い通路には何もなく、けっこう怖い。
C: 名古屋市役所本庁舎。鉄筋コンクリートのガッチリした胴体と中央にある塔は、建てられた当時の流行のスタイル。
R: 角度を変えてもう一枚。こういう建物が誇らしげに現役でがんばっているというのが、いかにも名古屋的に思える。

名古屋市役所の次は愛知県庁。昨日の岐阜ではさんざん歩かされてしまったが、
今日はそんなことにはならない。というのも、名古屋市役所と愛知県庁はお隣どうしだからだ。
そしてその愛知県庁もかなり独特な建築である。建物の本体は近代的な四角形のシンプルな形をしているのだが、
いかにも和風な屋根がその上に乗っているのだ。名古屋城を模したからこのような屋根を乗せた形になったのではなく、
戦前のナショナリズムとモダニズムが結びついたのがこの結果なのである。これは「帝冠様式」と呼ばれる。
名古屋市役所も愛知県庁も、どちらも帝冠様式の代表的な例として知られている。
(名古屋市役所は1933年竣工、愛知県庁は1938年竣工。)

  
L: 愛知県庁。これまた帝冠様式の代表例である。逆光に苦労しつつムリヤリ撮影したのであった。
C: 正面玄関から屋根を見上げるアングルで撮影。入口のところが工事中で少し残念。
R: 裏手にある県議会。県庁舎と同じような形の屋根を乗せているが、ファサードじたいは最近のもの。

さて、名古屋市役所と愛知県庁の位置関係はかなり象徴的である。
南北に走る大津通りを挟んで東側のブロックには、北に名古屋市役所本庁舎、南に愛知県庁本庁舎が並んでいる。
そして西側にはそれに対応し、北に名古屋市役所の西庁舎、南に愛知県庁の西庁舎が並んでいるのだ。
どちらの本庁舎もいかにも戦前からの歴史の厚みを感じさせるのに対し、西庁舎の方は純粋なオフィスという印象。
大津通りを挟んで古い建物と新しい建物を対峙させる構成には、名古屋人のプライドが垣間見えると思うがどうだろう。

 
L: 名古屋市役所の新しい方の庁舎、西庁舎。  R: 愛知県庁の新しい方の庁舎、やっぱり西庁舎。

名古屋市役所・愛知県庁の周辺には「遺構」がちらほら存在している。
大津通りの真ん中にはかつて路面電車の駅があったと思われるバス停がある。
道の真ん中でバスに乗り降りするというのは、かなり珍しいことではないかと思う。
また、市役所の北東には清水橋という橋が架かっているのだが、その下は堀の跡であり、石垣が今も残っている。
名古屋城は二の丸までが公園化していて、市役所・県庁があるのは三の丸である(住所も中区三の丸)。
辺りを歩くと、そういう重層化している土地の歴史に触れることができて、なかなか面白い。
さらに少し東へ行くと、名古屋市市政資料館という建物がある。1922年竣工の、かつての名古屋高裁・地裁である。
けっこう積極的な復元がなされていて、なんとなく外側には「リニューアル」という雰囲気が漂う。
この日は休館日だったが、中に入ってみれば当時の面影がけっこう残っているのかもしれない。
(名古屋市の施設は月曜日に一斉に休む。白川公園の名古屋市科学館もそうで、行けなかったのが残念。)

  
L: 大津通りのど真ん中にあるバス停。見るからに路面電車の跡って感じがするが、どんなもんだろうか。
C: 清水橋と石垣。ここから奥(名古屋市役所の塔が見える)は名古屋城の旧三の丸になるのだ。
R: 名古屋市市政資料館。取り壊し予定から一転、市民の要望で重要文化財になった。留置場にも入れるらしい。

そんなわけでお目当ての建物をひととおり見終わったので、いよいよ名古屋観光をスタート。
まずはやっぱり名古屋城である。小さい頃にも行っていて、中にエレベーターがあるのに驚いた記憶がある。
上記のように名古屋城は二の丸から公園化しており、入るのに500円かかる。
中に入るとあちこちから韓国語が聞こえる。韓国からの観光客が多いようで、なるほどねえ、と妙に納得。
天気に恵まれたこともあり、緑の多い広々とした砂利道は歩いていて気持ちがいい。
二の丸庭園を軽くかすめて天守へと向かう。金の鯱でお馴染みの、尾張徳川家の城である。

 名古屋城天守。

現在の名古屋城は1959年に再建されたものである。かつては1609年に建てられた天守が残っていたのだが、
戦時中の空襲によって全焼してしまったのだ。城内にはそのときの燃えさかる天守の写真も展示されている。
名古屋城の中に入ってみると、城というよりも博物館という印象がする。
各階には名古屋城や江戸期の名古屋についての展示がなされていて、これがけっこう見やすい。
中には江戸時代の名古屋の街の一日を明かりを調節して再現したコーナーまであった。
城としての価値という点では今ひとつかもしれないが、展示の仕方はとても丁寧で好感が持てた。
最上階は例のごとく展望台と売店になっていた。金の鯱グッズが非常に目立っていた。

さて時刻は正午ということで腹が減った。名古屋でのメシといえば、いろいろ名物がある。
しかし僕にとっての筆頭格は寿がきやラーメン。地下鉄に乗って大須に行き、食べることにする。
それにしても名古屋に来るたびに大須に行っている。かつてはパソコン関係の店が充実していてそれが目的だったが、
Windowsの時代になってどうでもよくなった(そして大須のパソコン関係の店も完全に衰退してしまった)。
でも大須には行っている。結局、大須の下町アーケードの賑やかさが楽しいのだ。
さまざまな路地とアーケードが組み合わさって、洗練されすぎないどこか懐かしい街並みが面的に活発に動いている。
そういう要素は、たぶん東京にはない。大阪ほど激しくなく、名古屋独特のとっつきやすさとプライドが同居している。
名古屋に来るたびに大須に行ってしまうのは、きっとその辺の魅力に逆らえないからなのだろう。

  
L: 寿がきやラーメン。ラーメンフォークが新型に変わった(以前のラーメンフォークはこちら →2006.11.5)。けっこうショックだ。
C: 大須・仁王門通の入口。いかにも大須って感じが漂う。「大須」と書いてある提灯がいいですな!
R: こちらはその先にある東仁王門通。街並みの雰囲気に統一感を持たせていてかっこいい。

東仁王門通ではFREITAGの店を発見。大須でもFREITAGに会えるとは。
店の1階はFREITAG一色で、種類もかなり充実していた。東京にある店よりも品数は多かったかもしれない。
地方でFREITAGを見かけるたび、「地元のやる気」を見せられていると思うのは極端だろうか。
東京一極集中と地方の衰退が懸念されている一方で、情報の空間による格差が減っていることもまた感じるのだが。

メシを食って元気になると、名古屋の観光地ということでテレビ塔を目指す。
地下鉄の一日乗車券を買っていたので、そのときの気分によって行きたい場所へ行けるのだ。順序を考えなくていいのだ。
栄まで地下鉄に乗って、そこから歩く。久屋大通公園をのんびり北上していくと、すぐにテレビ塔が現れる。
テレビ塔の目の前はセントラルパークという名前の一角で、栄の地下街と接続している場所である。
そこから見上げる感じでテレビ塔を撮ると、流れる川に沿って中へと入る。それにしても大きくて見事な公園だ。

テレビ塔の中は以前に来たとき(確か小学生)と違い、ずいぶんオトナ向けな小じゃれた雰囲気にリニューアルされていた。
受付のおねーさんに案内されるがままに入場料を支払い、エレベーターに乗り込む。
四面ガラス張りのエレベーターはスイスイ昇っていき、途中で案の定、高所恐怖症が出た。
彦根城でも岐阜城でもそうだったけど、僕はいつも「観光名所だし」ってことで気軽に行って、
いざ風景を目にして「しまったー」となってばかりいる。毎日それを繰り返すなんてどれだけ鳥頭なんだ、と自分でも呆れる。

地上90mの「スカイデッキ」に到着。歩いてみると、なんだかフワフワした感触がする。風で揺れているのだ。
本気で怖くなって、ガニ股でそろりそろりと窓へと近づいていく。なんとか、ひととおり景色を撮影。
スカイデッキにはソファーが置いてあるので、そでに座って深く深呼吸する。手のひらには汗がしっかりにじんでいる。
呼吸を整えると立ち上がり、スカイデッキを一周しようと一歩踏み出す。すると、
「スカイウォーク降り口 こちらから4Fまでお出口はございません。」という文字が飛び込んできた。
おそるおそるドアを開ける。金網越しの冷たい風が吹き上げてくる。ギャー!
つまりこの「スカイウォーク」というのは、この展望台から地上まで下りていく階段のことなのだ。
こんなんムリだ。1億もらってもイヤだ。2億なら考える。3億ならやるかもしれん。でもとにかくイヤだ。
生唾を呑み込んでドアを閉め、再びヨタヨタした足取りでスカイデッキを歩きだす。
そしたら今度は地上100mの「スカイバルコニー」に出る階段が目に入る。とりあえず上ってみる。
やっぱりおそるおそるドアを開けると、まるで鳥カゴのようになったむき出しの展望台に出た。ギャー!
これもムリだ。もうヤダ、ホントヤダ。そういうわけで、一歩右足を踏み出しただけでギブアップして階段を下りて戻る。
ソファーに座って一服して落ち着きを取り戻すと、エレベーターで地上に戻る。
錯乱するとわかっていて高いところに上っちゃう習性を、いいかげんなんとかしていかないといかんなあ、と思うのであった。

  
L: 久屋大通公園・セントラルパークより眺める名古屋テレビ塔。1954年竣工で東京タワーよりも古い。
C: スカイデッキから足元のオアシス21を見下ろしたところ。なんだか模型みたいだ。
R: スカイウォーク降り口。こんなん降りたらぜったいに気が狂って死ぬわ。

  
L: 久屋大通公園・テレビ塔の南側はこんな感じ。近くには商業施設が多数あり、名古屋でいちばんの繁華街になっている。
C: さっきまでいた名古屋城方面を眺める。右端に愛知県庁・名古屋市役所があり、左端には名古屋城が見える。
R: 名駅方面。悪のツインタワーことJRセントラルタワーズと、それに重なってミッドランドスクエアもそびえる。

半ば虚脱状態になってテレビ塔から出てくる。まだ帰りのバスの時刻までには余裕があるので、
「どこかに行かなければ!」という強迫観念がはたらく。のんびりまったり一休みという発想はない。
そうなりゃ当然、東急ハンズなのである。セントラルタワーズの貧弱な品揃えとは一味も二味も違う名古屋ANNEX店へ。
かつて飯田にいたときには名古屋のハンズ(ANNEX店)が目的地となることも多かったのだ。思い出の地である。
店内ではバレンタイン特集に「関係ないもんにー」と心の中でアッカンベーをしつつ、各フロアをのんびり見てまわる。
東急ハンズはその場にいるだけで楽しい。珍しい商品を見ては、その使い道をあれこれ想像して過ごすのである。
やっぱりFREITAG売り場は健在で、小さいながらもたっぷりといろんなバッグが置いてあった。
中に「おお!」と思わず声が出てしまうようなデザイン・色合いのものがあったが、使い道もお金もないので買わない。

いつ来てもANNEXハンズはいいなあ、と思いつつ店を出ると、また地下鉄に乗る。
なんとなくナディアパークに行きたくなったので移動。一日乗車券バンザイなのである。
で、ナディアパークでは何をするということもなく、CDやDVDやLOFTを見てまわる。
秋葉原と同様、ヤマギワがソフマップになっていたのに驚いた。でも品揃えの強烈さは変わっていないので安心する。
紀伊国屋書店が撤退したようで本屋がなくなったのは非常に残念である。ちょっと来ないうちにいろいろ変化がある。

やっぱり栄まで歩いて地下鉄東山線に乗って名駅まで帰る。
晩メシにはちょっと時間が早いのだが、名古屋名物ということで地下街で味噌カツをいただく。

 味噌カツ。ふつうに、トンカツに味噌だれなのであった。うまかったけどね。

名古屋駅コンコースの土産物屋でういろうをしっかりと買い込むと、バスに乗り込む。
今回の旅も歩き倒して足がぐちゃぐちゃなのであった。日ごろの運動不足を考えれば、まだまだ不十分なのだが。
なぜか音楽を聴きたい気分にならなかったので、車内では何も聴かないまま日記を書いて過ごす。
途中で電源が切れてしまうまで書いて書いて書きまくる。でもたまっている分を消化することはできなかった。
パソコンの電源が落ちてしまうと、やることがないので音楽を聴いて過ごす。
相変わらずの突発的な旅行で、今後の財政を考えると非常に頭が痛いのだが、でもいい気分転換にはなった。

途中の足柄サービスエリアで休憩している間、ライトアップが非常にきれいだったので撮影。
岐阜や名古屋ではまったくお目にかからなかった雪を目にして、東京ではホントに降ったんだな、と実感。

 思わず撮っちゃったよ。

やがてバスは、ほぼ定刻どおりに東京駅に着いた。さっさと電車に乗り込んで帰る。
洗足駅から地上に出たら、道端のあちこちに雪が残っていてあらためて驚いた。

家に着いて風呂に入るが、もうクタクタ。
楽しみにしていたはずのスーパーボウルは結局、途中で寝てしまって、起きたらいつもの朝だった。


2008.2.3 (Sun.)

今回の旅行を決行するかしないかギリギリまで迷っていた最大の理由は天気。
1週間前の予報の時点からずっと、「2月3日は全国的に天気が崩れる」なんてことが言われていた。
旅行に行かないとストレス解消の機会がずっとないままになるし、かといって雨もなあ……。
そんな葛藤を長らく続けていたわけだけど、まあ結局「なんとかなるべ」と荷物をまとめて家を出たのだ。

たかが天気のことでそんなにナーバスになるなよ、というツッコミが入るかもしれないが、
やっぱり青空の下を歩くのと薄暗い中で傘をさして歩くのとでは天と地ほどの違いがある。
しかも今回、特に岐阜の場合には、気持ちよく歩けるかどうかがかなり重要なポイントになるのだ。
というのも、地図を見てもらえばわかるのだが、岐阜県庁は異様に遠い場所にあるのだ。
当時の知事がモータリゼーション社会を見越して郊外に移転させたらしいのだが、半端なく遠い。
そんでもって岐阜市役所はJRの線路を挟んで反対側にある。県庁ほどではないが、やはりこれも距離がある。
さらにその先、岐阜市内でほぼ唯一の観光名所・岐阜城に行こうとすると、県庁と同じくらい歩くことになる。
そういうわけで、岐阜駅をスタートして岐阜県庁から岐阜城まで歩き倒すとメチャクチャな距離になるのだ。
すべての行程を徒歩で済ませる僕としては、岐阜観光中はぜひ晴れてほしいのである。

朝、6時半に起きて外を見たら大粒の雨。「やられたー」と声をあげてそのままベッドに倒れ込む。
だがボサッとしてもいられない。すぐに起き上がるとノートパソコンの電源を入れ、リポートと日記の続きを書く。
本日の予定としては岐阜市内を歩いた後には名古屋に移動するだけなので、時間的余裕は十分にある。
(というか、最近はあまりにスケジュールに余裕のない旅行ばかりしているのだ。本来ならかくあるべきなのだ。)
9時ごろにチェックアウトして県庁を目指すかな、と頭の中で予定を立てつつキーボードをバシバシたたいていく。
で、9時。宿を出たときにはほとんど霧雨。傘をさしていない人も多い。「やったー!」と大いに喜んで歩きだす。
まずは岐阜駅に到着。岐阜駅(北口)は現在、大規模な再開発の真っ最中。
おかげで地下通路かできかけのペデストリアンデッキを通らないと駅まで行けない。

 大規模再開発中の岐阜駅北口。工事が終わるのは来年だとか。

駅を抜けて南口へ出る。そのまままっすぐ、県道187号を南下。ごくふつうの住宅地という雰囲気である。
やがて東西に走る県道1号にぶつかるので右折。今度はまっすぐ西へと針路をとる。ここからが長い。
県道1号は旧街道で、並行して国道が走っているため交通量は少ない。でも中途半端に郊外化していて単調だ。
途中で雨が降ってきて、ポケットに入れていた折りたたみ傘を広げる。「降っちゃったかー」とうなる。
同じような風景の中をダラダラ歩くこと1時間弱。国道21号との合流地点に差しかかる。
地図の上ではここから県庁まであまり距離がないように思えるが、歩いてみるとけっこう遠い。
茨城県庁もこんなんだったなー(→2006.8.27)なんて考えているうちに、やっとこさ岐阜県庁に到着。
着いたときには雨はほぼあがっている状態で、雲の隙間からは太陽がうっすらとのぞいていた。
だだっ広い県庁の敷地を一周しつつ、1966年竣工にしては巨大なその姿を撮影していく。

  
L: 岐阜県庁。手前にあるのは議会棟だが、なぜか同じデザインで東棟と西棟が2つ並んでいる。
C: スロープでエントランスへとつながるようになっている。車での利便性が追求されている感じ。
R: こちらはお隣の岐阜県警本部。JRからは県庁と一緒にそびえ立っているのがよく見える。手前はもう片方の議会棟。

  
L: 岐阜県庁の裏手。デザインは正面とほぼ同じ。  C: 横から見たところ。岐阜県庁は前後にオプションを持っている。
R: この日は名岐駅伝が開催され、岐阜県庁は高校の部のスタート地点である。陸上部員がワンサカいたのであった。

中学時代に駅伝がんばったことを思い出しつつ、駅伝関係者の中に紛れ込みながら県庁を撮影していく。
建物じたいは郊外のオフィスということで、娯楽的な要素は一切ない。そしてとにかく駐車場がデカい。
岐阜県庁は旧庁舎が狭くて古くなって移転する、その先駆的なケースだったのだ。
そう考えれば、殺風景な景色も少しは面白いものに思えてくる。

帰りも同じように1時間かけて来た道を戻る。途中から雨が降り出して、「まいったなー」なんて言いながらただ歩く。
とりあえず駅前で朝メシ兼昼メシをいただくと、今度はそのまま北へと歩きだす。
岐阜市内で最も華やかな商店街である長良橋通りをまっすぐに歩いていくと、道が途中から駅伝のコースになっていた。
中日新聞の関係者と思われる人が何人も、応援の旗をくれようとする。でも荷物を増やしたくないので丁重に断る。
ちょうどトップのチームが中継所でタスキを渡す場面に出くわした。わざわざ長野県から佐久長聖高校が出場していて、
優勝候補として熾烈なトップ争いをしていた。実際、ものすごく速かった。よかったね、えんだうさん(佐久長聖OB)。

ところで岐阜といえば、かつては路面電車が走る街だった。しかし利用者の減少などの理由によって2005年に廃止。
今は軌道はきれいに片付けられており、名残を感じることはほどんどできなくなっている。
必死に県庁から岐阜城まで歩いていく身としては、路面電車がなくなったことが非常に恨めしいのであった。

 いかにも駅伝開催中な長良橋通り。かつてはここを路面電車が走っていた。

岐阜市の中心街の北側を長良川が流れているのだが、それに向かって緩やかな上り坂が続いていく。
勾配はそんなにキツくないものの、とにかく距離があるので、自転車に乗っていたらちょっとイヤな感じだろう。
城下町らしいこまごまとした雰囲気を残す住宅街を歩いていくと、左手に香川県庁のコピーっぽい建物が現れる。
岐阜市役所である。正面に大きく「祝 Jリーグ入会 がんばれ!FC GIFU」と横断幕が張られている。
この街もまた、新たにサッカーに呑み込まれた街なのだ。名古屋の陰から抜け出すべく、岐阜が立ち上がろうとしている。
岐阜市役所の敷地を一周してみる。後ろに駐車場が広がっているが、前面はそれほど広くない。
広くない中で池をつくり、そこに鵜の像を立たせている。また長良川の水位を知らせる装置もある。

  
L: 岐阜市役所。「高層部」はパッと見、香川県庁東館(→2007.10.6)のデザインをもとに無難につくったという印象を受ける。
C: 脇にくっついている「低層部」。それにしても「高層部/低層部」とはユニークな区別の仕方だ。
R: 南側の道から見上げた「高層部」。足元はちょっと石垣を思わせるつくりになっている。城下町の意地?

 
L: 池の中に立っている鵜の像。なるほどいかにも岐阜らしいや、と納得させられた。
R: 長良川の水位を知らせる装置。確かに川に向かって上り坂になっており、それだけ洪水の危険があるってことなのだろう。

ここでもやっぱり、市役所を撮影している間だけ雨が完全にあがった。
なんなんだろうか。少し怖い気もするが、まあ悪運の強いことの証明さ、なんて思いつつさらに北上していく。

岐阜市役所からさらに北に少し行くと、「岐阜県岐阜総合庁舎」という建物がある。
これは要するに旧県庁で、1924年に建てられた。今も岐阜市周辺部に関係する岐阜県の出先機関などが入っている。
時期が時期だけに、関東大震災の影響による鉄筋コンクリートのモダンスタイルの典型といえる建物となっている。
ただ、やはり十分な予算がまわされていないせいなのか、細かいところでの老朽化が目立つ。サビが多い。
この時期の建築は、保存して観光資源にするには少し難しいところがある。一般人にはありがたみがあまりないからだ。
まあ、施設として今でも有効活用している分だけ偉い、というのが正直なところだろう。
近代遺産は全般的にもっと注目されていいよなあ、なんて思いつつ撮影。

  
L: 岐阜県岐阜総合庁舎にして旧岐阜県庁舎。四角、四角!って感じのモダニズムでございます。
C: もうちょっと近づいてみた。前庭的なスペースがなくて、すぐ道路になっているのは珍しいかも。
R: 建物の側面はこんな感じでやっぱり質実剛健。汚れが目立っていたのが残念。

ところで写真を見てもらえばわかるように、この日はやたらと付近に車が停まっていた。それも運転席に人が乗っている。
車だけではない。親子連れがやたらと多く徘徊していた。子どもは制服姿の中学生、親は父親もしくは母親が1人。
なんずらこれ、と考えて思い当たったのは「ああ、高校入試!」。近くに高校があるのか、いい停車スペースと化していた。
面白いのは当事者の中学生よりも親の方がすべからくソワソワしていたことで、そういうもんなのかね、と思った。
生徒みんなで集まって歩いて高校受験に行った自分のケースとは違うなあ、と昔を思い出したことよ。
まあとりあえず、受験生はがんばれ。

総合庁舎の撮影を終えるとさらに北上、岐阜城を目指す。
せっかく岐阜に来ているわけだから岐阜城まで行ってみたいのだが、あいにくの天気で金華山はもやに包まれている。
これじゃあ城からの眺めは良くないだろうなあ、なんて溜め息をつきながら進んでいく。

 
L: もやに包まれる金華山山頂付近。  R: うっすらと姿を見せる岐阜城天守。こりゃキツい。

テキトーなところで用水路を越え、川原町に入る。この「川原町」とは今でも古い街並みを残している一角なのである。
(岐阜市に「川原町」という地名はない点に注意。湊町・玉井町・元浜町が総称として「川原町」と呼ばれているのだ。)
もともと長良川の水運拠点だった場所で、材木や和紙の問屋が多く存在した(付近には材木町という地名が残る)。
ついに雨がきっちりと降り出してうなだれつつ傘を広げると、気を取り直して川原町をのんびりと歩いてみることにした。

 
L: 今も残る古い街並み。  R: 建物はどれもきれいにしてある。円柱型ポストがいい感じに溶け込んでいる。

昨日は彦根の夢京橋キャッスルロードを歩いた。今は全国的に、古い街並みの保存・再現が行われているのである。
彦根の場合にはあまりにも道幅が広く、それで街並みの親近感というか緊密感が失われている感触がした。
対照的にこの岐阜・川原町はもともとの状態をそのまま生かしているだけあり、道幅は適度に狭い。
でも市の中心部からずいぶん遠くに位置するためか、商売っ気がほとんどない。まだまだ物好きしか来ない場所なのだ。
そのために、せっかくの財産を十分に活用できていない印象が強く残った。岐阜は名所がそれぞれ離れすぎている。
川原町で特徴的だったのは、建築事務所がわりと多く入居していた点である。商売っ気が少ないと、そうなるのだろうか。
(ところで松島家の屋号は「義富屋(ぎふや)」といった。「ぎふ」、つまり「岐阜」がその名の由来と考えられる。
 そんなわけで、もしかしたら僕のご先祖さんは、この街の一角で暮らしていたのかもしれない。)

致し方ないとはいえ消化不良な気分で、そのまま長良川に出る。長良橋の途中まで行くが、高所恐怖症を発症。
ぎこちない動きで長良川と長良川球場を撮影すると、結局そのまま引き返すのであった。
長良川は天井川である。そのため、周囲には氾濫に備えるものがチラホラ見かけられた。
金華山トンネルの入口付近にある大宮陸閘はその代表的なもので(陸閘のレールにつまずいてその存在に気がついた)、
洪水時にはこれが閉まることでその被害を食い止めるのだ。これは怖いなあ、と思いつつ南下。

 
L: 長良川。きれい。右端には長良川球場。こうして見ると、周りが川よりも低いのがよくわかる。
R: お城をイメージしたデザインの大宮陸閘。洪水時にはここに巨大な壁ができるわけで、想像すると怖い。

そのまま南に行くと、すぐに岐阜公園に到着である。ここには岐阜市歴史博物館のほか、さまざまな施設がある。
雨は少しも止む気配がない。柔らかく降っているだけに、なんだか逆に悔しくなってくる。
まあせっかく岐阜に来たんだし、行くだけ行ってみようと思い、金華山山頂行きのロープウェイに乗り込んだ。
そしたら意外と観光客がいたので、なんだかほっとした。オレひとりだけかと思ったよ。

ちょっとした間ロープウェイに揺られると、すぐに山頂駅に着く。まずは入場料200円のリス村がお出迎え。
小さなリスと遊べるということで家族連れにはそこそこ魅力的な施設かもしれないが、一人旅の自分には関係ない。
ロープウェイから岐阜城天守まではちょっとした山道になっている。岐阜城は完全に山城である。
本来は軽い登山感覚で登るような場所で、ロープウェイを使うとその上澄み2%くらいを味わうことになるって感じだ。
明け方までは雪が降っていたようで、ところどころで木々の枝からボトッと雪の落ちる音がする。
天守行きの順路を歩いていく途中で、秀吉の千成瓢箪発祥の地を見かける。
秀吉は木下藤吉郎時代、稲葉山城(岐阜城の旧名。岐阜は中国の岐山にあやかって信長がつけた名前)に侵入し、
手柄を立てたという。その際、空の瓢箪を槍にくくりつけて「天狗岩」の上で鬨の声をあげたんだそうで、
それが千成瓢箪のきっかけになったんだとか。「千成」好きのcircoさん、この豆知識はいかがでしょうか。

  
L: 岐阜城天守へと向かう道はこんなん。  C: 秀吉の千成瓢箪発祥の地である「天狗岩」。確かに天狗って感じだ。
R: 岐阜城天守。再建されたものだが、こんな山の中まで攻め込むのにどれだけの手間がかかるか想像を絶する。

岐阜城の天守の中には刀やら鎧やらが展示されている。てっぺんからはバルコニーに出て景色を眺めることもできる。
近くには小さな博物館や展望台もあるが、基本的には山の上だけあって狭苦しい場所である。
予想どおり雨の影響で景色はまったく楽しむことができず。ただ高い場所で怖いだけ、で終わってしまった。
15分間隔で往復しているロープウェイに乗り遅れないように戻る。市街地を望む南向きはもやが厚かったが、
長良川を望む西向きは比較的もやの影響が少なめで、深い緑色の長良川がきれいだった。

 
L: 岐阜城天守の近くから眺める岐阜市街。ほとんど何も見えない。天気のバカー
R: こちらはロープウェイの中から眺めた長良川・岐阜市北西部。

地上に戻ると中心市街地を目指してさらに南下。途中で岐阜市の有名な繁華街である柳ヶ瀬(やながせ)に寄る。
美川憲一の『柳ヶ瀬ブルース』で知られる柳ヶ瀬は、アーケードで覆われた一帯の総称である。
地方都市の繁華街にしては珍しく、線ではなく面的に成立していて、けっこう広い。
でも、衰退している通りと元気な通りとの差がそこそこ激しい。高島屋周辺部はかなり元気な印象である。
通行人の年齢層はやや高め。やはり若者は名古屋まで出かけてしまうのであろう。
かつては逆に名古屋から客を集めていたというが、街の大規模な飾りを見るに、その矜持は健在といったところ。
FC岐阜と絡んで盛り上がったら楽しいことになるかもしれない。ぜひそんな展開に期待したい。

 
L: 柳ヶ瀬中心部。飾りつけがとにかく派手だ。  R: 活気あふれる高島屋付近。

そんな具合にたっぷりと岐阜を歩き回ると、電車で名古屋へと移動する。
名古屋に着いたときには暗くなっていたので、例のごとく名古屋駅太閤口のライオンで少し豪華なメシを食い、
黒ビールを堪能すると、さっさと宿にチェックイン。去年もお世話になった宿である。
風呂に入り、書けるだけ日記を書いて過ごす。なぜかやたらと腹が減って、夜食をバカ食いするのであった。
まあ、それだけ岐阜で歩かされたということだ。いやホント参った。


2008.2.2 (Sat.)

ムーンライトながらに乗ったということでお察しのとおり、今回の旅の目的地のひとつは岐阜である。
県庁所在地ひとり合宿の2008年一発目は、岐阜なのである。天下布武である。
しかしながら、ただ岐阜に行くのも芸のない話で、せっかくそっち方面に行くのであれば、
岐阜から比較的近くて話題になっている街に寄り道しなくちゃ面白くない。
そういうわけで、まずは岐阜を素通りし、そのままムーンライトながらの終点である大垣まで列車に乗り続ける。
そこから普通列車に乗り換えると、まださらに西へと向かうのであった。
天下分け目の関ヶ原を越えると滋賀県。交通の要衝ということでしか有名でない米原(まいばら)を過ぎ、次の駅。
そこが今回の最初の目的地、彦根である。

彦根といえば徳川幕府の譜代大名・井伊家の街である。
長篠の合戦で山県昌景から赤備えをかっぱらった(真田的視点)井伊直政が初代藩主となった。
昨年は彦根城築城400年祭が開催され、マスコット「ひこにゃん」が爆発的人気を得てゆるキャラ界のトップスターとなった。
出るところに出ちゃうような紆余曲折を経て、ひこにゃんは無事に現在も彦根を象徴するマスコットとして活躍中である。
そんなわけで、県庁所在地ではないけどちょろっと寄り道して、ひこにゃんに会いに行ってみることにしたのであった。

彦根駅に着いたのが7時半少し前。予想どおり非常に寒い。腹が減っているからなおさらだ。
駅前かそこらに立ち食いそばか何かがあるだろう、という僕の読みはまるっきりはずれて、周囲にメシを食える店はなかった。
となるとマトモなあったかいメシにはしばらくありつけないことになる。店が開く10時まで、あてもなく辺りをうろつく破目に。
とりあえず駅から彦根城方面へと歩いてみることにした。とにかく歩きださないことには寒くて寒くてやってられないのだ。
そうして彦根城へとまっすぐつながっている大通りをしばらく進んで行くと、彦根市役所が見えてくる。
特に風情があるというわけでもないが、撮ってしまうのが習性なのである。

 
L: 彦根駅。ロータリーには井伊直政の像がある。思っていたよりも小規模な駅前でびっくり。
R: 彦根市役所。いろいろ大変ですね。

彦根城に着いたのが7時55分、開門まであと5分である。でも中に入るのに料金がかかるとわかったので、ひとまず撤退。
全国の城は、天守に入るときだけ料金をとるタイプと、敷地に入るところから料金をとるタイプに分かれる。
彦根城は後者で、しかもひこにゃんは城内にしか現れない。うまい商売をしているのである。
今のタイミングで城内に入ってしまうと、ひこにゃん登場まで何時間も中で待ち続けないといけなくなる。それはつらい。
というわけで、彦根城のすぐ南側にある「夢京橋キャッスルロード」を歩いてみることにする。
ここは和風な街並みを再現したエリアになっており、城とともに彦根観光の中心を形成している場所だ。
時間が早いのでほかに客なんて全然いないのだが、朝の光を味わいながら、のんびりプラプラしてみる。

  
L: 彦根城の石垣の上から眺めた夢京橋キャッスルロード。道幅が広すぎるのが非常に残念。
C: 店先はこんな感じ。開店前なので閑散としているが、10時以降は店ののぼりなどが出て元気になる。
R: トイレも雰囲気満点につくってある。暖簾の真ん中には「厠」と白抜きの文字が描かれていて潔い。

開店前の店先にもあちこちにひこにゃんがいた。有名なキャラクターがいるってことは本当に強いなあ、と思う。
以下、街角で見かけたひこにゃん。

 
L: 「生茶」の自販機はひこにゃん一色。なぜ「生茶」なのかはわからない。
R: 落ち着いた街路に飲食店が点在する四番町スクエアにあった、ひこにゃん顔出しパネル。

夢京橋キャッスルロード、四番町スクエアを隅々まで歩いても、まだヒマ。
それで彦根のアーケード商店街も歩いてみる。いかにも地方にある旧来の商店街という雰囲気に懐かしさを覚えた。
地方都市を旅しているとその中心市街地の壊滅ぶりに悲しくなってしまうことも多いのだが、
彦根の場合にはダメージはあるものの、落ち着いている印象。慌てず騒がず、穏やかに受け止めている感じが漂う。

さて、せっかく岐阜に行くなら彦根へ、という発想で彦根に来ているのだが、そこからさらにもう一歩、
せっかく彦根に来たんなら、行ってみましょう琵琶湖の名所ということで、彦根港まで歩いていく。
冬期には1日2便しかないけど、観光船に乗って竹生島(ちくぶしま)へ行ってみるのである。

彦根城からさらにそこそこな距離をトボトボと歩いていき、彦根港に到着。
竹生島行きの船は10時半に出航するのだが、まだ時刻は9時半という有様。
しょうがないので鳥人間コンテストの舞台としてお馴染みの松原水泳場(湖なので海水浴場ではない)まで散歩するが、
ボクシングの練習をしている父親と小学生の息子がいるだけで、すぐに飽きて港に戻る。ヒマだ。ヒマすぎる。

 東工大は鳥人間コンテストをけっこうがんばってたっけ。

途方に暮れていた僕の前に、1匹の猫が現れた。首輪をしていないので野良かなと思ったが、近づいても平然としている。
寒くて丸まっている猫を撮ってみる。猫を飼ったことのない僕には「ホントに丸くなるんだなー」と実に新鮮。
そしたら猫はデジカメを構えている僕の膝の間に入ってきて毛づくろいを始める。
デジカメについているヒモに飛びかかってきたり、本当にかわいい。しばし猫とじゃれ合って過ごした。
僕があぐらをかいて座り込んだらその真ん中に入ってくる。寒い中、お互いの体温であっため合うのであった。
去年沖縄で魚類にモテたが(→2007.7.23)、ついに今年は一気に哺乳類まで来た。ホモサピエンスにモテる日も近い?
(三毛猫は確率的にほぼ100%メス。染色体がXXのときだけ発現する可能性を持つ毛色なのだ。メスにモテたー)

  
L: 「ちょっとあんた、なに撮ってんのよ!」  C: 「か、勘違いしないでよね! 寒いからそばにいるだけなんだから!」
R: 気がつけばお互いこんな関係に。けっこうツンデレな猫だなお前。

彦根で会った猫なので、勝手に「ひこにゅん」と名づけたのであった。
実はひこにゅん、彦根観光に来ていた夫婦の飼い猫で、主人が車で戻ってくるとダッシュでそちらへと行ってしまった。
やはり家族の意向で引き裂かれてしまうのね、とロミジュリ気分(ロミオとジュリエット気分のこと)を味わうのであったことよ。

10時半になって竹生島行きの観光船が出航。乗り込んだのは僕を含めて10人ほど。シーズンオフだからだろうか。
いかにも子どもが大学生になって私たちの手を離れました、という感じの夫婦が多く、関西弁比率が高い。
(なお、観光船の待合室ではペギー葉山『琵琶湖周航の歌』が延々とかかっていた。さすがだが、飽きないのか……?)
40分ほどだだっ広い湖面を突っ切っていくので風景は非常に退屈で、気がつけば寝ていた。
琵琶湖は日本一の面積を誇るが、周囲を山に囲まれているので湖の範囲を容易につかむことができる。
そのせいかそんなに大きいという印象は受けなかった。実際には圧倒的な広さの湖なのだが。
なお、琵琶湖はバイカル湖・カスピ海に次いで世界で3番目に古い湖とのこと。どうやってそんなの調べるんだろ。

あいにくの曇り空のせいか(天気予報じゃ雪だったからそれに比べりゃはるかにマシだ)、竹生島はうっすらと姿を現す。
ひょっこりひょうたん島のような、フタコブラクダの背中のような、そんな緑一色の島がぽっこりと湖面に浮かんでいる。
しかしよく見るとその足元は断崖絶壁の岩になっていて、来訪者を撥ねつけるような印象すら与える。
小さな船着場に着くと、そこには緑の中に埋もれるようにしてへばりついている建物たちが待ち構えていた。

 いざ、竹生島へ!

帰りの船が出るまでは70分。竹生島に滞在できるのはそれだけということになる。
実際に行ってみるとわかるのだが、竹生島はお寺と神社があるだけで、ほかには何もないのだ。
のんびりまわればこの時間は実に適正。飽きたら1軒だけやっている土産物屋で一服するのみである。
で、上記のように竹生島は聖地以外の何もないので、上陸するとすぐに入場料400円をとられる仕組みになっている。
料金を払えばお寺も神社もお祈りし放題。ただしてっぺんにある宝物殿は別料金(300円)。

急な石段をガンガン上っていった先にあるのが宝厳寺本堂。弁財天を祀っているお寺である。
竹生島の弁財天は非常に有名(日本三大弁財天の一つ)。戦中に再建された朱塗りの建物はいい具合に古びていた。
嫉妬深くてカップルでお参りすると別れさせちゃうと評判の弁天様に、「モテますよーに」とお祈り。
そこからさらに高いところにある宝物殿の脇から船着場を見下ろす。高い。怖い。そんでもって寒い。
滋賀県は内陸性の気候なので雪が多く、寒い。竹生島は遮る物が何もない中で浮かんでいて、半端でなく寒い。
宝物殿の中も暖房も何もなくって寒い。展示物もお寒い。信心深くなきゃ来る意味ない場所だなあ、なんて思った。

 
L: 宝厳寺の本堂。弁財天が祀られている。中ではありがたいアイテムが所狭しと並んで売られていたよ。
R: 宝物殿の脇から船着場・琵琶湖を見下ろす。正直、高所恐怖症にはけっこうキツい島なのであった。

やっぱり急な石段を今度は下っていくと、宝厳寺の唐門と観音堂が見えてくる。
でもこの建物、さっきの本堂とは離れていて、都久夫須麻(つくぶすま)神社(竹生島神社ともいう)とくっついている。
竹生島はかつては完全な神仏習合の聖地であり、もともとは宝厳寺も都久夫須麻神社も一体だった。
それを明治以降にムリヤリふたつに分けたということで、実際には両者の境界は曖昧。それでこうなっているのだ。
唐門は朱塗りの宝厳寺本堂とは対照的に、緑の苔が生した木造の美しさにあふれている。さすが国宝。
寒いし娯楽の要素はまったくないが、さすがに建物は見事だなあ、と感心しながら中に入る。
唐門から観音堂の中に入ったら、これまた古びて黒光りしている。
そして船廊下を抜けると都久夫須麻神社の本殿。これまた国宝である。お賽銭を入れてお参り。
それにしても宝厳寺といい都久夫須麻神社といい、欄間の彫刻が美しい。
古い木造建築は中に入って見上げたとき、その天井の趣向の凝らし方に圧倒されることが多い。
その点で竹生島の建物は、歴史を感じさせる迫力満載でとても見ごたえがあった。

神社本殿のすぐ手前にある竜神拝所は「かわらけ投げ」といって、素焼きの皿に願いを書いて投げる場所になっている。
そこから眺める琵琶湖の景色はなかなか絶景なのであった。天気が良ければなお素晴らしかったのだが。
で、せっかく来ているわけだからとおみくじを引いてみた。そしたら大吉で、いいことしか書いてなかった。
特に恋愛方面が充実しているみたい。実現するといいですな。

  
L: 宝厳寺・唐門。でも観音堂と船廊下を通じて都久夫須麻神社とくっついている。
C: 都久夫須麻神社・本殿。  R: 竜神拝所。鳥居のふもとの茶色はぜんぶ、かわらけのカケラ。

そんなこんなで比較的まったりとあちこちまわっていたら、出航予定の時刻となった。
建築物をきちんと見ていくと、70分という時間はそんなに退屈することなく過ごすことができる。
まあよっぽどのことがない限りもう来ないかもしんないけど、とりあえずきちんと来たぜ、竹生島。
なんて思っているうちに、船は出発して島はどんどん遠ざかっていくのであった。

 さらば竹生島。また会う日まで。

やっぱり40分の退屈な船旅を終えると、再び本州の土を踏む。時刻は午後1時。
何も食っていないので、空腹で冷静に物事を考えることができない状態になっていた。
とにかくメシだメシ、それも朝メシ抜いちゃってるから豪華なメシだ!ということで、
夢京橋キャッスルロードの中でも燦然と輝いていた「ステーキ重」の文字を目指して歩いていく。
ほとんど競歩の選手かというようなフォームで激歩。いやもうホントに腹が減ってたまらなかった。

 わーい。

本音を言えば、やはり近江牛のステーキ重をいただきたかったのだが、そこだけは冷静。
でもまあ黒毛和牛ということで十分贅沢なのである。大葉と胡椒の使い方も勉強になった。
自宅で安い牛肉をバターと醤油で焼いて丼をつくることはそこそこあるので、
次にそれをつくることを考えると、ここでの贅沢はいい経験になったと思う(自己正当化)。

さて、腹もいっぱいになったところでいよいよ彦根城でひこにゃんとのご対面なのである。
ひこにゃんは現在、土日祝の決まった時間に決まった場所に現れる。
入場料を払って中に入ると、勢いよく石段を上っていって本丸前広場へ。そしたら黒山の人だかりを発見。

 
L: 彦根城本丸への道。彦根城は本丸だけが城として残っていて、周りは都市化しているのだ。
R: 国宝・彦根城(1622年築)と黒山の人だかり。その中心にいるのはもちろん……

  
L: メガホン片手にポーズをとるひこにゃん。メガホンをバットに見立ててスイングしてみたり。
C: 踊るひこにゃん。ひとつひとつの動作が愛嬌にあふれていて、確かにかわいい。
R: ひこにゃん得意のポーズ。これで腰を前後にくねくね動かすのだが、その動きはけっこう独特なのだ。

ひこにゃんの登場時間は30分間なのだが、最初の10分はひこにゃんがやりたい放題に踊る。
ただひこにゃんの好き放題にポーズをつけていくだけなのだが、まあこれが実に多彩なポーズでどれもかわいい。
なるほど、こりゃ人気出るのも当然だわ、と思うのであった。グラビアアイドル並みに撮られ慣れている。
そして残りの20分間は握手会。ぐるっと丸く列をつくって、順番にひとりひとりと握手をしていく。
これがまたものすごく丁寧で、ひとりあたりまるまる30秒は相手する。ただ握手するだけじゃくって一緒に踊ったり。
いかにも「名残惜しいよー」と言わんばかりのアクションもとるし、すごく仕草の引き出しが多いのだ。
ひこにゃんは単純にかわいいイラストからスタートしたのかもしれないが、こうして現実に動きまわるキャラクターになって、
その魅力は飛躍的に増している。これはもう、街の立派な、いや立派すぎる財産だわ、と感心しきり。

せっかくなので、高所恐怖症だけど彦根城の中にも入ってみる。
さすがに江戸時代初期の建物ということで、階段が異常に急。しかも踏み面の面積が狭い。
上るのはまだいいのだが、下りが本当に怖かった。手すりがあっても怖かった。
木材はむき出しになっており、明かりもほとんどない。建物にはこれといって特別に手を加えておらず、
純粋に往時の雰囲気を味わえるようになっている点は好感が持てるのであった。
天守のてっぺんはとてもコンパクトで、なんとなく水戸・偕楽園の好文亭を思い出す(→2006.8.27)。
晴れていれば琵琶湖もまた美しいのだろうけど、曇っていたので「そこそこ」という感触だったのがちょっと残念。

 彦根城の天守から琵琶湖を眺める。

城内では係のおじいちゃんがヒマそうにしていて、窓の外で観光客と握手をするひこにゃんを見て笑みを浮かべていた。
そういうさりげないというか、なんでもないというか、まあ日常の一コマに小さな笑みの要素があるってことは、
それはとても幸せなことなんじゃないかなあ、なんて哲学的に考えてみたりみなかったり。

ひこにゃんもたっぷり堪能したので(ぬいぐるみ買っちゃったよ)、駅に戻って本日の宿泊地である岐阜へと向かう。
しかしJR西日本とJR東海の接続はなんだかチグハグで、思ったよりも到着するまで時間がかかってしまった。
宿にチェックインするとメシを食いに出る。すっかり暗くなってしまった。なんとなく柳ヶ瀬までブラブラと歩いていき、
小さな定食屋でひっそりと晩メシをいただく。舞茸の天ぷらに山椒をかけた風味が独特なのであった。
宿に戻るとノートパソコンでネットをつなぎ、書ける分だけ通信教育のリポートと日記を書いていく。
われながらストイックである。


2008.2.1 (Fri.)

うわーオレもう限界だー! もうガマンできねー!ということで、いつものごとく発作的に旅に出る。
この週末、天気予報によると全国的に荒れるという。さすがに自分も「降るだろうなあ……」と思ったのだが、
しかしこれから仕事が込み入ってくることを考えると、ここで一丁、旅に出ておかないともたないのだ。
で、ムリを承知で突撃することにした。どうせ東京で雨の日には部屋の中で体育座りなので、
多少コンディションが悪くても、強制的にアクティヴになる方がいいや、という判断。

でもあまりに突発的だったので、いつものパターンである深夜バスはすでに満席。
仕方がないので鉄道のお世話になることにした。深夜バスとメシ1食分ほどしか値段が変わらないし。
そんなわけで東京駅へ行って電車を待つ。ホームには大阪行きの寝台急行「銀河」が止まっていて、
ウキウキしている鉄っちゃんでいっぱい。列車だけじゃなく電光掲示板の案内までカメラで撮っている始末。
Wikipediaで調べてみたら、今年の3月にあるダイヤ改正を機に廃止になってしまうらしい。
だから乗客にも見送る鉄っちゃんにも、どことなくお祭りのような雰囲気が漂っていたのだ。
日記を書いている今では納得がいくが、何も知らない時点での僕にとってはウザいだけなのであった。

銀河が行ってしまうとかわりにホームに入ってくるのがムーンライトながら。今回はこれに乗るのだ。
ムーンライトながらに乗るのは初めてではない。大学1年のとき「ルーキー合宿」を僕の地元でやったのだが、
そのときにみんなでムーンライトながらに乗ったのである。席がダブルブッキングで妙なことになった記憶がある。
怖かったですね、宗教の勧誘。

 ムーンライトながら。

席についてしばらくすると、列車は快調に走り出す。そしてふと会社でのやりとりを思い出す。
なんでも今度の社内報から社内の鉄道ファン2名による連載企画が始まるのだそうだ。
その片方の人が僕の隣にいる先輩で、「なぜか交互に記事を書くことになりそうです」と言うので、
「いいじゃないですか、スイッチバック連載」と返したらバカウケ。
こういうギャグをサッと言えるってことは、オレは鉄になってしまったということなのだろうか?
なんて具合に自問しつつも列車は西へと走っていく。

名古屋までは空いているので隣の席も占領して横になって眠る。
しかし席2つ分というのは横になるには狭い。結果、駅に停車するたびに起きて体勢を変えて過ごす。
寝台急行が少しうらやましかった夜。


diary 2008.1.

diary 2008

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