diary 2006.9.

diary 2006.10.


2006.9.30 (Sat.)

昨日、昼休みにいつも乗ってる自転車・「satellite-1」号の後輪がパンクした。
交番で訊いてみても修理してくれる店がなかなかなくって、しょうがないので神保町まで引っぱって行ったのだ。
(水道橋に出てもダメで春日に行ってもダメで、もうどれほどムカついたことか。半ばキレかけて神保町まで行った。)
それで本日は電車で御茶ノ水まで出て、自転車を修理するのである。

神保町周辺にはスポーツ用品店がワンサカあるわけで、わりとすぐに自転車修理のできる店は見つかった。
しばらく待たされている間、今日は家に置いてきた自転車の、最新モデルを眺めて過ごす。
修理が終わって「劣化したタイヤにヒビが入り、そこにチューブが巻き込まれて穴が開いた」と説明を受ける。
ゆえに、タイヤを交換しないと同じことの繰り返しになるという。また金がかかるなあ、と思いつつ店を出る。

せっかくここまで来たんだから、買うもんないけどメシでも食いに秋葉原まで足を伸ばしてみるかなーと思う。
もしかしたら、中古のゲームミュージックCDで掘り出し物があるかもしれないのだ。チェックしておかないと。
さて何食べよう、秋葉原もアキハバラデパートのカツ丼くらいしか食うもん開拓してねーんだよなーなんて考えていたら、
後輪の空気が明らかに抜けているのに気づいた。さっき修理したばっかりなのに!?と驚くが、手遅れ。
結局末広町の辺りで自転車を降りて途方に暮れてしまう。後輪にはこれっぽっちも空気が残っちゃいない。

秋葉原まで出てきたんだ、この自転車を買った上野の無印良品でタイヤ交換をお願いするか、と素早く判断。
歩いて御徒町駅を抜け、上野の丸井まで自転車を引いて歩く。歩いているあいだ、今回の件について考えてみる。
神保町の店で修理した分の代金はムダになったように思えるが、そこで原因を教えてもらったのはラッキー。
その後、上野に近づく方向の秋葉原まで行ったのもラッキーなのだ。だってそのまま飯田橋に戻り、
月曜に出勤してみたら後輪ペチャンコ、という最悪の事態だって考えられたわけだから。
そうやって冷静に眺めてみれば、今の状況は、実はかなりいい方に転がっているのだ。

上野に着いたら無印で修理を依頼。なんだかんだで1時間ほどでできますって話になって、
上のフロアのスタバで日記を書いて過ごす。すぐにケータイが鳴って呼び出されて、後輪のタイヤは無事に新品になった。
これがすごく調子がいい。結局、物事の良し悪しは捉え方しだいなんだなあ、と思った。


2006.9.29 (Fri.)

山田洋次監督、ハナ肇主演で『馬鹿が戦車(タンク)でやって来る』。

海釣りに来た男2人が、船頭から「タンク根」についての話を聞かされるところからスタート。
日永村には変人ばかりが住んでいたが、その中で最も貧しい暮らしをしていたのがサブ(ハナ肇)の一家。
母のとみは耳が遠く、弟の兵六は自分を鳥だと思い込んでいる。そんな2人を支えてサブは暮らしていた。
サブは、農地解放でサブに分けられた土地を取り戻そうとする村の有力者・仁右衛門とケンカをしている。
仁右衛門の娘・紀子は病弱だが、サブのことをまったく差別しない唯一の人間。
その紀子の快気祝いに行ったサブが追い返されたことがきっかけとなり、事件が起きる。

序盤、回想シーンで日永村の紹介へと移っていくのだが、ここがまず上手い。
この土地のまったくのよそ者である警官が新しく赴任してきて挨拶にまわるところを追いかけることで、
村の様子を手際よく紹介していくのだ。そして紹介がひととおり終わったところで、話が本題に入っていく。

また、キャストもなかなか強烈。常田富士男の九作、小沢昭一の郵便配達、何よりヒロインの紀子は岩下志麻なのだ。
極妻からは想像できない病弱なヒロインぶりに、へえーと思わずうなってしまった。

話としては、田舎で差別されていた人間がタンクという究極の武器で暴れ出す、
そういう力関係の逆転から、日本人のしみったれた部分を悲哀をもって描く、ってなところだと思う。
怒ってタンクに乗り込んだサブの目の前で九作たちが責任をなすりつけ合う姿は、かなり身に迫ってくる。
村人たちは主義も主張もなく、ただ眼前にある問題を回避する小手先の言葉を吐くだけで、
誰一人根本的な解決を図ろうとする者がいない。そしてこのタンクの事件は、結局そのまま風化する。
この作品が描くドタバタは、そういう旧来の日本的なかっこ悪さが永遠に生き続けることを示しているようで、
見終わって村人側にいる自分ってのを想像してみて、うーんとうなるしかなかったのであった。


2006.9.28 (Thu.)

「細かすぎて伝わらないものまね選手権」についてちょこっと。

以前、偶然チャンネルを合わせていたときに、アントニオ小猪木がドロップキックの体勢のまま音もなく消えた映像を見て、
本当に腹がよじれるほどの大笑いをした。それで「なんだこれは!?」となり、その存在を知ったのである。
もともと『おかげでした』を見る習慣がないので、うっかりしていると忘れてしまうのだが、今回の第9回はきちんと見た。

潤平曰く、「出演者を穴から落とすことで、オチが成立する」とのこと。
本来モノマネってのはレパートリーをいくつかやって、はいおしまいです、となるものだ。
しかし「細かすぎて伝わらないものまね選手権」では強制的に穴から落とすことで、笑うタイミングをつくる。
言ってみれば、出演者の素顔という日常(変身前)とモノマネしている姿という非日常(変身後)を、
非日常(変身後の姿)のままで強制的にぶった切ることで、より強烈な印象・後味を残すことに成功している。恐るべし。
確かに、ひとつのネタが終わって次に行くまでの微妙な間を、うまく封じ込めているのである。

さらに言えば、「細かすぎて伝わらないものまね選手権」は、新手のシチュエーションコントなのだ。
今まではコンビのお笑い芸人がやっていたシチュエーションコントを、さらにトリミングしてしまったものなのだ。
モノマネという芸に属させることで、独りでのやりとりが成立するようになる。
(たとえば、会話などで相手がいなくても、うなずく動作をすればそれがマネということで、芸として成立する。)
そうして物語性を持たせることで、より客が楽しめる要素を増やしている。

扱っているネタがマニアックなものに集中しているだけに、これが爆発的なブームとなるとは考えづらいんだけど、
今まであったものをうまく組み合わせて新しいものをつくったという点では、特筆に値する企画である。
今後も面白いネタが出てくることを大いに期待したい。要チェックである。


2006.9.27 (Wed.)

牧秀彦『剣豪 その流派と名刀』。光文社新書。
この筆者については、以前NHKの番組で、柳家花緑と一緒に刀剣の店を巡っていたのを見たことがある。
時代小説を書きたくて居合の道場に通ったのがきっかけだそうだ。刀剣に詳しい若手の人、という位置にいるのだろう。

内容は二部構成になっている。
第一部では剣術の流派について概説。一流派につき、だいたい4ページ以内に収めていて、非常にコンパクト。
図版として映画のポスターや小説のカヴァーをもってくるなどして、入門書としての体裁を徹底している。
で、ところどころのコラムで、われわれが剣術について持っている誤解について説明が入る。
第二部では日本刀の名刀について、刀工別に解説。やはりこちらも、それぞれがだいたい4ページ以内となっている。
全体を通して、手元に置いておくリファレンス用としての内容という性格が強い。

興味ある人向けの入門書としては非常によくまとまっていて、この本を片手にあれこれチェックしていけばいい。
薀蓄のあるものを短く簡潔にまとめるという点については、すばらしいデキであると思うのである。
しかし、第二部の名刀編については、大和・山城・相州・備前・美濃の五か伝があり、
それぞれのやり方が全国を行ったりきたりしながら新しい作風が生まれる、その様子が少しわかりづらかった。
せめてそれぞれの刀の特徴を示したイラストくらいは欲しかったかなあ、という気がする。

まあとりあえず、手元に置いておくと、時代小説を読む際にはかなり役に立つ本なのは確かだ。
刀ってのもやっぱりキリのない世界だなあ、ということもよくわかったのであった。


2006.9.26 (Tue.)

ダイヤ改正された目黒線・南北線が不便だ。以前は白金高輪で始発の南北線に接続する本数が多くて楽だったのだが、
改正されてからは後から来る電車を待って乗らないといけない。座れないし、待たされるしで、まったくいいことがない。
仕方がないので、10分早い電車に乗ることにする。快速を走らせる意味が本当にわからない。

「ヤンキースの誇り」と呼ばれたルー=ゲーリッグの生涯を描いた映画、『打撃王』。
主演はゲーリー=クーパーだが、ベーブ=ルース役を本人が演じていることもかなり有名。

序盤がかなり粗っぽい。ヤンキースに入団してからが重要だとはいえ、
ホームランでガラスを割って怒られる少年がいきなりゲーリー=クーパーになるのは、やはり違和感が大きい。
そもそもゲーリー=クーパーがおっさんすぎるのだ。当時41歳、それが「コロンビア大学入学おめでとう」と言われても……。
しかも、きもち女投げである。いかにも右利きらしい不自然な左利きのアクションで、野球映画としてそれでいいのか疑問。
さらに言えば、字幕の「ゲーリック」はなんとかならんかと思う。いちいち「ゲーリッ!」とツッコミを入れたくなってしまう。

むしろ最大の見ものは、動いているベーブ=ルースではないか。
ヤンキースのユニフォームを身にまとった写真はよく見かけるけど、私服で歩いている姿を目にする機会はかなり珍しい。
動くベーブ=ルースは伊集院光にとてもよく似ている。これだけでも一見の価値がありそうだ。
本人が出演しているのは、ビル=ディッキー(ヤンキースの捕手で、背番号8はヨギ=ベラとともに永久欠番)もそう。
晩年のゲーリッグをかばう、けっこうかっこいい役どころで出ていて、印象的である。

現実のゲーリッグはマザコンとまでは言わないまでも、母親の影響を強く受けていた面があるわけで、
そういう困った母親の姿を正直に描いているのはなかなか。また、ベーブ=ルースの扱いもかなり現実的だ。
本人が出演しているだけに、そのセリフ大丈夫?というものもあった。

試合のシーンはかなり粗雑なんだけど、引退後のやりとりはきちんとしている。
むしろ引退を表明してからを克明に描いてほしかったくらいだ。それくらい、試合の場面の再現はひどい。
連続試合出場の記録を持つ選手が一転、残された日々を数える生活をすることになるわけで、
その「数え方」の差、足し算から引き算への変化を描くほうが、より焦点が明確なドラマになったかな、と思う。


2006.9.25 (Mon.)

本日は有給を取ったのである。
仕事がじわじわ立て込んできているので、本来であればあんまりそういうタイミングではない。
しかし、平日でないとできないことがあるのだ。それは、大学に書類を申請する、ということである。
このためだけにわざわざ一日かけるわけで、その分しっかり楽しんでやろうと思いつつ、ペダルをこぐ。

まずは東工大で大学院の修了証明書をもらう。東工大の敷地に入ったこと自体がえらく久しぶりだ。
2年ほど前にスロープで寝転がって流星群を眺めたことがあったが、もしかしたらそれ以来かもしれない。
本館へと至る桜並木を見て驚いた。それまで土とアスファルトだったところを、木製のデッキが覆っているのだ。
こんなに近くに住んでいて、このような大きな変化を知らないでいたとは……。いや、たまげた。

西8号館で申請を済ませると、大岡山商店街を抜けて環七に出る。
環七を北上して、世田谷通で左折。あとは狛江通まで出て、旧甲州街道を西へ行くいつものパターン。
いつものパターンなのだが、このルートを走るのもけっこう久しぶりなのだ。
狛江通は相変わらずの走りづらさだったが、国領駅前がかなり開発されていて驚いた。
でも踏切はやっぱり混雑していて、先にこっちをなんとかしろよ、とぼやきつつ走る。

旧甲州街道もやっぱり相変わらずの落ち着きぶり。午前中に走ることは少ないので、よけいにいい気分。
そうして日差しがまぶしい中を甲州街道に合流。さらに先に行って中央道のインターを抜ける。
自転車で国立に来たときには必ず谷保天に寄ってお参りである。これからは神頼みする機会が増えるなあ、と思う。

さて大学通りを北へ。街はちょっとずつ変化している。以前よりは変化の度合いがゆっくりになった気がする。
昼休みがちょうど明けたタイミングで、学務課へ。学務課も今はリフォームされた本館のど真ん中を占めている。
かつて薄暗かった廊下が小ぎれいなスペースになっているのが、なんとなく違和感である。
一橋では卒業証明書と成績証明書(Bがいっぱい)ともうひとつ、新課程での教員免許に関する成績証明書を申請。
どれだけ使える単位が取れているか、今後を微妙に左右するのでちょっとドキドキである。

これにて本日のやらなきゃいけないことは終了である。

トイレに行きたくなって、図書館に寄る。薄暗い中をふらふら歩いているうちに、ふと気づいた。
一橋の建物のひとつひとつが、すごく居心地がいいのだ。過ごしたのは人生の1/7で、今はほとんど来ない場所なのに、
なぜか穏やかな気持ちになる。落ち着いた気分になってしまう。なんだかんだでやっぱオレって一橋っ子なんだなーと実感。

せっかくここまで来たんだから、藤乃木でふぶきロースを食べようと思い、小平へと向かう。
かつてはおなじみだった国立~小平の道も、ずいぶんと久々に走る。でも風景はほとんど変わっていない。
一橋学園駅に近づくにしたがって大規模に開発された場所が目立ってくるが、
以前みんなで歩いたとき(→2006.3.25)からはまったく変化していない。平和ですなあ、と思いつつ走る。

一橋学園駅が見えてくると、コンビニに自転車を止めて藤乃木へ。
お昼のピークはとうに過ぎている時間で、僕以外に客はひとりしかいなかった。
あこがれのふぶきロースを注文してしばし待つと、出てきた。昼からとんでもない贅沢である。
ふぶきロースってのはつまり、ロースのとんかつの上に一面、大根おろしが乗せてあるのだ。
これにたっぷりとあっさり醤油系のたれをかけていただく。とんかつの脂っぽさを中和して、非常においしい。
それはもうガツガツと勢いよく口の中へと放り込んでいく。食べ終わると砂糖だけ入れた紅茶が出るので、いただく。
熱い紅茶をちびちび飲みつつ、ぼんやりと考えてみる。
学生街の飲食店というのは、今の学生だけでなく、将来の社会人も客層としているってわけなのだ。
近くまで来る機会があったら、ふらっと寄って懐かしいメニューを注文する、なんてことが、今こうして現実にあるわけだし。
僕らは国立・一橋学園周辺にそういう店がかなりあるわけで、訪れるたび何かしら必ず食べている。
「地域密着」って言葉が盛んに使われている昨今だけど、その言葉の意味の一部は、きっとこういうことなのだろう。

食べ終わると満足感にひたりつつ、小平市役所を眺めながら青梅街道まで出る。
こうなったらとことん行ってやるーと青梅街道をひたすら東へ。結局新宿まで出て、日記を書いて帰る。
青梅街道を小平から新宿までぶっ通しで行くのは、なかなか興味深かった。
かつての農村の匂いを残した多摩地区から、住宅地の杉並・中野を抜けてすっかり都市化した新宿へ。
新宿も西側のはずれはゆっくりと開発している真っ最中で、どこもそれぞれに楽しい風景だった。


2006.9.24 (Sun.)

さて、毎年恒例の引退するプロ野球選手に思いをはせるシリーズ。本日はロッテの諸積。

諸積がプロ入りしたのは僕がいちばんプロ野球に興味のあった頃なので、よく記憶に残っている。
大学を経由して社会人から入団したってことで、それがまた印象的だった。
打球を追いかけてフェンスにぶつかったんだかなんだかで鼻が曲がっちゃった映像とかあったはずだ。
ユニフォームが汚れるプレーを好んでする、気合の入った外野手の典型だと僕は思っている。

諸積というのは、ロッテの変化を象徴する選手だった。
1995年にヴァレンタインを招聘してからのロッテは、それまでのロッテとは大きく変化した。
ヴァレンタイン後のロッテは、その後のプロ野球人気の凋落をまるで見越していたかのように、
ファンサーヴィスを充実させることでチームを存続させていくことを意識した先進的な球団だと僕は認識している。
そして、選手の側でいちばん最初に、そういうムードをつくることに大きく貢献したのが諸積、そう思っている。
彼の代名詞になっている、雨天中止でのヘッドスライディング芸(あえて「芸」と呼びたい)は、
本当にいいところに目をつけたなあと感心する。ただのファンサーヴィスではない。
これは、彼のプレースタイルだからこそ成立した芸なのだ。

さてその引退セレモニーでは、晴れたにもかかわらずわざわざビニールシートに水を撒いて、
諸積が最後のヘッドスライディング芸を披露した。そして各局のスポーツニュースがその様子を流した。
こういう粋な計らいが増えてきてうれしいものである。以前のプロ野球なら、たぶんこういうことはなかった。
プロ野球を楽しい方向に変えた選手が、楽しい方法で引退を祝福されるという、実に幸せな光景なのであった。


2006.9.23 (Sat.)

役所広司と稲垣メンバーで『笑の大学』。脚本は三谷幸喜なのだが、監督は別の人なので注意。

まず警視庁として出てくる建物が思いっきり神奈川県庁(→2006.5.21)で(庁舎建築マニアの僕にはすぐわかるのだ)、
その辺でどうも素直になれない。警察の建物はそれはそれで独特だと思うんだけどなーなんて考えているうちに話が進む。

時は、第二次大戦に突入しそうな時期。浅草で活動する劇団・「笑の大学」の座付き作家・椿一(稲垣メンバー)は、
上演に不適切な台本を修正する検閲を受けるため、警視庁に来る。そこで新たに検閲を担当するようになったのが、
喜劇の舞台なんて一度も観たことがないと豪語するカタブツ・向坂(役所広司)。
向坂は椿の台本を上演中止とすべくあれこれ無理難題をふっかけるが、椿はそのたびに抜け道を考えて警視庁に来る。
そんな毎日を過ごしているうちに、向坂も台本の修正に加わるようになり、なぜか台本はどんどん面白くなっていく……。
この話はもともと、ラジオドラマとして、さらにその後は二人芝居(西村雅彦・近藤芳正)としてつくられているそうだ。
僕がここから書いていくのは、あくまで映画についての感想。舞台で観たら、また違う印象を持つと思う。

見ていてまったく話に入り込めない。二人が扱っているのはこれから上演される予定の台本なので、
現物がすぐそこにあるというわけではない。言い換えれば、形而上的なものをあれこれこねくりまわしているわけだ。
だからそういうものの形が変化していく様子を、たった二人の役者で体現しなくてはいけない。これはとんでもない難題だ。
しかしそのことをきちんと把握していないのか、会話(言葉)だけですべてを解決しようとしているのがどうにももどかしい。
三谷幸喜の悪い面が思いっきり出ている話だなあ、なんて思いつつ、稲垣メンバーと役所広司のやりとりを眺める。
たとえば『12人の優しい日本人』(→2003.11.10)もそうだ。この話では、言葉の後追いで、事件の真相を暴こうとする。
本人が監督した『ラヂオの時間』(→2005.7.17)もそう。この話も、スタジオ内の現実を言葉(声だけのドラマ)で焼き直す。
この2作品は役者が多い分、言葉の種類も豊富なので描写が的確になるが、この話は二人だけなので「見えづらい」。

うーん、なんてうなりながら見ているうちに、気がついた。三谷幸喜最大の弱点は、室内の話しか書けないことなのだ、と。
もっと正確に言うと、極めて限定された空間、丈夫な壁と天井が周囲を塞いでいる密室を舞台に設定しないと、
三谷は話が書けないのだ。そうやってまず空間を閉じておいて、その中に何人かの登場人物を放り込んで、
限られた空間の中での言葉のやりとりだけで話を進めていく。外部との連絡は一切許さない。
そういう、本来なら極めて特殊な状況を用意しておかないと、三谷は話を書くことができないのだ。
個人的な見解としては、これは本当に致命的なものに思える。街や公園を舞台にした話を書くことができないなんて!
「引きこもり」とまでは言わないが、これは前に伊坂幸太郎で感じた気持ち悪さ(→2005.8.18)に微妙に通じている。

というわけで、僕にはまったく楽しめない映画だった。
だいたい、なんで映画館という密室で、密室の話を見なきゃいけないのだ。映画館という密室は、密室だからこそ、
無限に広がる空間を観客の想像力の中に広げないと意味がない!と僕は思っているのである。
(演劇の場合はまた違う。それは役者の身体がそこにあるからで、観客の身体と直接絡むので、演劇は密室ではない。)
三谷のファンなら面白く感じられるのかもしれないけど、そうじゃないなら納得できない話だ。まあそれだけに、
舞台で観たときにどれくらい違うのか、非常に気になる。演じる身体がそこにある、ということで、かなり違ってくるはずだ。
映画と舞台の、メディアとしての性質の違いを肌で感じるのに最適な作品、ってことは言えるんじゃないかな、って思う。


2006.9.22 (Fri.)

気がついたら仕事が山積みである。数えてみたら同時並行で抱えているのが5冊。
しかもまた新しい本を担当することになった。Texで手がほとんどかからない内容とはいえ、これで6冊めである。

仕事の手順に慣れているのであれば、6冊同時並行でもなんとかなるのかもしれないが、
こちとらいまだにまったくコツがつかめていない。ゆえに、自分がいま何をやっているのか、たまに混乱する。
上司からは「仕事の効率」についてもっと意識を持つようにと言われているのだが、
自分のやり方が効率が悪いことはわかっても、じゃあどう改善すればいいのかが全然見えないでいるので、
結局のところ、いっぱいいっぱいの度合いが増しているように思う。

複数のものを同時に操るという点では、ドラムスのほうがはるかに楽だ。
あっちはリズムに合わせてカラダを動かせばいいので、考えたことが瞬時にカタチ(音)になる。
でもこっちはそうはいかない。基本であるところのリズムが見えないという段階で苦しんでいる。
どうしたものか。


2006.9.21 (Thu.)

ジーン=ケリー主演のミュージカル、『巴里のアメリカ人』。

これは、パリにいるアメリカ人の話である。

……というのも芸がないので、軽くあらすじを書く。兵隊として来たパリに画家として留まるアメリカ人・ムリガンが主人公。
ムリガンの絵はさっぱり評価されないのだが、バツイチの資産家の女性・ミロと出会い、経済的に援助を受けるようになる。
ミロは絵よりはムリガン自身を気に入っているのだが、ムリガンは連れて行かれた飲み屋でリズという女の子に一目ぼれ。
しかしリズは、友人の売れないピアニスト・アダムを通して知り合ったフランス人歌手・アンリと婚約していたのだった、って話。

G.ケリーの一人舞台にアダム役のピアニスト・オスカー=レヴァントが華を添える。
レヴァントのピアノにケリーのタップが重なる歌は軽快でとても心地よい。あらためてヴォードヴィルの底力を実感。
しかし、やはりG.ケリーが主演する『雨に唄えば』(→2005.5.16)と同じで、最後のダンスが非常に冗長。
『雨に唄えば』と比べて何を表現しているのかがかなりわかりづらく、見ていてとてもキツかった。
また、ストーリー自体も単純であるため、時間のわりに起伏が小さいミュージカルの特性が、いっそう強くなっている。
でもG.ケリーのパフォーマンスはそれを補って余りあるものだ。これだけ動けたらいいよなあ、とうらやましく思う。


2006.9.20 (Wed.)

勝新太郎×田宮二郎、『悪名』。直木賞作家で国会議員で坊さんの今東光の原作を映画化した人気シリーズ。
ちなみにこれと『兵隊やくざ』(→2006.2.5)と『座頭市物語』(→2005.9.20)が、勝新のシリーズもの三部作である。

序盤はテンポが早い。朝吉(勝新太郎)がモートルの貞(田宮二郎)と出会うまでは、少々粗っぽい。
田舎の暴れん坊が大阪に出てきてやくざの世界へと入っていく、その導入にすぎないので、仕方がないのかもしれない。
貞が朝吉について吉岡の親分のもとから去ってからが、いよいよ本題。
松島遊郭からの足抜けに失敗した女・琴糸を救うべく、因島へと渡って策を練る。

勝新睫毛長えなーと思いつつ、吉岡の親分のお隣さんで琴糸をかくまったお絹を見てびっくり。
若き日の中村玉緒なのである。今やすっかりバラエティの人だが、現在とほぼまったく同じ顔でヒロインをやっているのに、
なんだか妙な違和感を感じてしまう。中村玉緒はあまり変わらないまま、映画界の仕組みは大きく変わった、そんな感じ。

話としては勝新の魅力に頼りきりな印象で、主演がほかの俳優ならそんなに面白い内容じゃないと思う。
作中で朝吉は不思議な魅力で男も女も惹きつけるのだが、それがうまく勝新の存在感で表現されているのだ。
それに比べると田宮二郎は明らかに割を食っているのがもったいない。

ところでこの映画では、お伊勢参り帰りの朝吉の友人たちが松島遊郭でモートルの貞と一悶着を起こすわけだが、
現代ではお伊勢参りがかつてほどの意味合いを持っていないわけで、その辺の感覚が、
潤平から借りた新書・神崎宣武『江戸の旅文化』(→2006.8.30)を読んでいたおかげで少しつかめていた。
さらに有馬温泉も登場するが、関西における有馬の存在感も、上記の本のおかげですんなり受け止められた。
古い映画を見る際には、きちんと知識をつけておかないと十分楽しめないものなんだな、とあらためて実感したしだい。


2006.9.19 (Tue.)

今和次郎『考現学入門』。

今和次郎という人は、最初は柳田國男のもとで民俗学をやっていて、その後「考現学」という言葉を生み出した人だ。
関東大震災後の東京でバラック住宅の装飾をしたり、文化人類学の精神で現代人を観察・記録をしたりと、
実にさまざまな活動を行っている。この本は、その今さんの(「こん・わじろう」と読む。念のため)作品たち、
具体的には描き残したスケッチと文章を収録した文庫本である。編集したのはさすがの藤森照信。

「路上観察学会」の本については以前の日記で書いているけど(→2006.9.14)、今和次郎はそれよりずっと早い時期に、
ひたすら路上の人々や無名の作品・物体を観察し続けていたのだ。その対象はありとあらゆる分野・領域に広がっている。
田舎の民家を行けば雨どいを観察し、都会を行けばすれ違った人々の服装から行動パターンまですべてを記録する。
日常のほんのささいなことばかりをこれでもか!というほど細かく観察してスケッチに残していくのである。
興味関心があちこちに移っていって落ち着きのない人は僕の周りにもそこそこいるが(僕自身もそっち側の人間だが)、
ここまで徹底されるともはや言葉が出てこない。やはり世の中、上には上がいるのだ。

人類学が「未開の人々」を対象にやっているフィールドワークを現代に持ち込み、「文明人」について考察する。
今さんはその姿勢を高らかに宣言しているわけだが、むしろそのような学術的な言葉に隠された裏には、
自分たちがまさにいま生きている現在が好きで好きでしょうがない、そんな感じがうっすら漂っている。
現在が大好きで、あらゆるものが大好きで、自力で記録できるものを手当たりしだいになんとか必死で記録する。
だから読んでいると、ものすごく楽天的というか、全力で楽しみながらやっているのがわかる。それがうらやましい。
後になって評価されるかどうかなんて打算は一切なしで、とにかく今を楽しんでいる。
僕には、スケッチに記録された対象よりも、そういう今さんの姿勢のほうが強く印象に残った。


2006.9.18 (Mon.)

羽海野チカ『ハチミツとクローバー』。以前潤平もオススメしていて、読むべきだと思ったので今さらながら読んでみた。

美大を舞台にしたラヴストーリー。潤平が言っていたように、登場人物全員が片思いというなかなかヴァイタリティのある話。
明確な目標もなく美大に通う竹本祐太、あふれる才能を持つ天才肌の変人・森田忍、良識のある建築の人・真山巧、
天性の才能を持つが人付き合いの苦手な花本はぐみ、報われないけどそれでも真山が好きな山田あゆみ、
そして彼らを暖かく見守る助教授の竹本修司といった辺りが主な面々。後半からは真山の先輩である野宮匠も登場。

山田さんがかわいすぎます……。

美大が舞台ということで、恋愛のほかに、才能の扱い方、学生という時間の価値などが絶妙に織り交ぜられている。
才能については、天才は天才なりに別次元でがんばるし、そうでない人はそうでない人なりに、
自分なりのものを見つけようとしている。そして「自分にできること」を探す様子が描かれる。
これについては、それぞれのキャラクターがそれぞれのレヴェルで悩む、個人差があるところがまたリアル。
学生という時間の価値については、毎年同じイベントをするが、それに出てこないメンバーがいることで徐々に露呈していく。
それは社会人と学生の差にはじまり、最終的には修ちゃんが教師を辞めるの辞めないの、というところでも出てくる。
現在の当たり前がいずれ当たり前でなくなってしまうわけで、そういう近い将来失われてしまう時間の美しさが描かれる。
むしろどうにもならない膠着状態の片思いに全員が陥っている状況だからこそ、それらのことがはっきりと見えてくる構図だ。

そんな要素を背景に、それぞれの片思いは次々と変化する現実に翻弄されながら近づいたり離れたりを繰り返す。
竹本はおそらく男子読者に最も近いキャラだろうが、彼の「分不相応な」片思いは作者にもなかなか扱いづらかったようだ。
結果、自分の現状を冷静に見つめ、そこからとにかく全力でダッシュして成長する姿が最大のハイライトとなっている。
強烈なキャラクターに囲まれ存在感の薄い時期もあったが、すべてを肯定的に受け止めていく姿は主人公にふさわしい。
もう一方の一般的なキャラは真山だろう。こちらはもう、徹底的に一途。彼はそんなに悩まなくても成長ができるタイプで、
その分、片思いを貫く姿勢が強調される。だから竹本と真山でこの作品のテーマを補完し合っている、と指摘できよう。

読んでいて僕が引っかかるのは当然、真山と山田さんの関係ということになるわけだけど、
マンガを読むぶんには「山田さんガンバレ」なのだが、現実には僕は真山のスタンスに近いわけで、少し考えさせられた。
まあ実際のところは、誰かがエゴを通さないと進展はしないし、エゴを通した者勝ちだし(あくまで今の僕の考え方では)。
その点で山田さんはあまりにも優しすぎるし、真山はまったく妥協がない。だから結論はリアルで、納得せざるをえない。
そうして現実に戻ってみると、うーんしまった、という覚えがあまりに多くてジタバタしてしまう。もうどうにもならんが。

以前、映画の『時をかける少女』の感想で「失うこと」がどーのこーのと書いたのだが(→2006.8.7)、
このマンガを読んで、その辺のことがさらに深く言語化できたような気がしている。
人はかけがえのないものを「失うこと」で成長する、その「失う」痛みで優しくなれる(他人が「失う」痛みを共感できる)、
あるいはまた、「失った」ことを知って再びそれを新しい形で手に入れようと歩きだす、それらのことが描かれたマンガだと思う。
「失うこと」それはつまり、恋愛を失う(片思いがついえる)、才能を失っていることを知る(天性のものがないと自覚する)、
価値のある時間を失う(学生という特別な時間から卒業する)、それらすべてのテーマに共通した要素なのである。
失わないと次に進むことができない、人間のそういう不器用な真実をとてもソフトに描いていて、感心させられた作品だ。


2006.9.17 (Sun.)

小林尽『スクールランブル』。なんかわからんが人気があるようなので、渋谷に行ったついでに読んでみた。

同じクラスの烏丸大路(♂)が大好きな塚本天満(♀)と、その天満が大好きな播磨拳児(♂・不良)を軸にしたラブコメ。
女子ではお嬢様・沢近愛理、運動神経抜群・周防美琴、無口な策士・高野晶、アマレスで歌姫・一条かれん、
男子では仕切り屋・花井春樹、スケベな遊び人・今鳥恭介、クールな実力者・麻生広義といった多数のキャラが登場。
そして天満の妹である塚本八雲もそのドタバタの中心に。まあとにかくにぎやかなマンガである。

結論から言ってしまうと、このマンガの構造は『エヴァンゲリオン』と一緒なのだ。
シンジと播磨の間には天と地ほどの差があるが、「レイ(=八雲)なの? アスカ(=沢近)なの?」という究極の二者択一。
……って書くと、あれ、ヒロインの天満は?って疑問が出てくるものと思うが、このマンガを読んだ人ならわかるだろうけど、
烏丸の存在感は薄いし(キャラが特殊すぎて出てくると話の勢いがそがれてしまう)、天満はボケ倒すだけで話が進まない。
結果としてメインであるはずの烏丸と天満そっちのけで、天満しか見ていない播磨を八雲と沢近がじわじわ追いかける、
そういう「脱線」をしているのがこのマンガだ。でも「脱線」のほうが圧倒的に魅力があるので、話がそっちにいってるわけだ。
とまあそんなこんなで、10年前と同じ構造を新しい設定でやり直しているようなものなのである。

ワカメによると沢近が播磨を気にするようになって(つまり沢近のツンデレキャラが確定して)人気が出た、とのことだが、
それはつまり、天満を絶対的なヒロインから引きずり下ろしたことで、キャラを楽しむマンガへと移行したのが成功したわけだ。
ある意味これは、『LOVEマシーン』でなっち一党独裁から後藤との両頭体制へとシフトさせることで、
市井・矢口・飯田といったそれ以外のメンバーにも人気が広がったどっかのアイドルグループの成功にそっくりだと言えよう。
こちらの『スクラン』もやはり、女子のキャラは充実している。それぞれ独特の魅力があり、思い入れを持たせる部分がある。
対して男子は魅力が明らかに不足している。たいていの読者は播磨に自分を重ねるしかなく、それが少々さびしい。
麻生は表に出てくると播磨を食ってしまうので控えめにせざるをえない。花井はキャラがウザすぎて人気が出ない。
結局のところ、男子に気を遣うヒマがあったら女子を充実させるべきってことで、女高男低の傾向は動かせないのだ。
まあ、エロソムリエの西本願司をはじめとする強烈なサブキャラもいて、バランスをギリギリのところで保っているとは思う。

このマンガで好感の持てる最大のポイントは、2-Cというクラスを舞台にしていることだ。
部活をテーマにしたマンガは腐るほどあるけど、クラスを単位にしてここまでかっちり描いたマンガは数えるほどではないか。
クラスってのは偶然集まった連中の集合体なわけで、それぞれにグループはあるけど、基本的にはベクトルがバラバラ。
しかし体育祭や文化祭といったイベントでは一致団結してしまう、そういう魅力を最大限に引き出しているのは非常によい。
たとえば所属している部活がそれぞれのキャラになるということで、こうなると登場人物は多ければ多いほどいい。
言葉足らずになっている部分はけっこう多いが、上記のメリットでうまくカヴァーしている印象は残るのである。

あと、このマンガはとにかく片思いとすれ違いのオンパレードで、うまくくっつく例がほとんどない。自転車操業が延々と続く。
自転車は止まったら転んでしまう。ストーリーが続くためには、すれ違いというマクロのぬるま湯が継続されないといけない。
だから終わるときには一気に終わることになる。椅子取りゲームと同じ感覚で、このマンガの連載は終わるものと思われる。
音楽が鳴り終わったとき、誰と誰が同じ椅子に座っているのか。八雲なのか沢近なのか、それとも大逆転で天満なのか。
きちんとした終わり方に期待したい。

序盤は泣けてくるほど絵が下手だったが、連載を重ねるにつれて見られるようになってくる。
たぶん学生時代にはマンガ大好きな美術部員だったんだろうなあ、というタッチで、馴染むのにけっこう苦労した。
まあおたく好みなマンガなのは間違いない。サイドストーリーの展開やページ端のコメントなど、ついていけない部分も多い。
でも素直に楽しめる要素も多いので、この経験を生かして楽しい次回作を描いてほしいなあ、と今から思っているのだ。


2006.9.16 (Sat.)

今日は天気がよくって明日からは悪くなるようなので、自転車に乗っておくことにする。
VAIOノートをFREITAGに入れて飛び出す。秋葉原へ行ってみる。モンティ・パイソンの映画のDVDでも買おうかと企む。

秋葉原は今日もけっこうな人出だった。もうすっかり、メイドコスに身を包んだ女の子の存在にも慣れてしまった。
冷静に考えるとやっぱり、これって特殊なことであるように思うのだが、それを思考停止させる力が秋葉原にはある。
で、目的のDVDを探すが、ない。売れてしまったとは考えづらいので、古くなったので棚から下げられてしまったのだろう。
次にいつ店頭に並ぶようになるのか見当がつかない。ちょっと前にはあったのに。後悔先に立たずである。

近くのベローチェで日記を書く。5月はネットでのチェックやDVDのチェックが必要な内容なので手がつけられず。
そのかわり6月と7月を書ける分だけ書いていく。だいぶ外で日記を書くコツがつかめてきてしまったのか、けっこう進んだ。
帰るのがもったいなく思えたので、靖国通りで新宿に移動。やはり途中で喫茶店に入り、日記を書く。これまた好調。
一時はほとんどあきらめかけていた日記の借金返済だが、ここにきて終わりが見えてきたような気がする。
誰も褒めてくれないけど、完済した日には何かうまいもんでも食べよう、と密かに考える。

歌舞伎町の二郎で大盛を食べて帰る。ノートパソコンってのは強力な武器だなあ、とあらためて実感しつつペダルをこぐ。


2006.9.15 (Fri.)

今、真剣に考えていることがひとつあって、その関係の説明会に行ってきた。
内容はだいたい予想どおり。ただ、年齢制限に引っかかる可能性のあるものがひとつあって、それでかなりへこんだ。
今まで何度も何度も年齢制限に泣かされてきたが、ここでもまたそれが出てくるとは……。
実際のところは調べてみないとわからないのだが、ホントに、いいかげんにしてほしい。
年齢で線引きすることがいかにナンセンスかみんな知っているはずなのに、どうしてそんな「解決法」をとってしまうのだろう。
人間って、自分と無関係だと判断したときには、平然と残酷なことを認めてしまう。納得がいかない。


2006.9.14 (Thu.)

赤瀬川原平・藤森照信・南伸坊 編『路上観察学入門』。
1980年代半ばに(一部で)巻き起こった路上観察学ブームを概観できる内容。

路上観察というのは、ひらたく言うと「VOW」のようなものだ。
ただし、「VOW」が面白がってそれで終わりなのに対し、路上観察ではきちんと考察が入る。そこの想像力が楽しいのだ。
街中を歩いていて、建築や街頭の器物から、なぜか無用の長物となってしまったものや意味不明なものを見つけ出し、
観察し、それをメモにとって「物件」として採集する。そして、その「物件」が生まれた過程を想像する。
以前日記で書いた南伸坊『笑う街角』(→2004.12.22)は、ハリガミ観察の経験もあってか「VOW」寄りなのだが、
路上観察学会となると、もうちょっとメンバーのバックグランドが色濃く反映されている感じだ。
たとえば物件を「意図せず生まれてしまった超芸術」とする態度なんて、赤瀬川氏らしい。

基本的に、この「学」を生まれついてやってしまう人間と、まったくその要素を持たないで生きている人間とに二分できる。
で、この本では前者の皆さんの特別に徹底した生き様を紹介しているのだ。これがすさまじい。
特に凄いのが建物のカケラを拾い集める人と、マンホールのふたをはじめ目にした対象すべてを記録してしまう人。
こういった究極的な例を見てしまうと、「自分も路上観察的人間かなあ」なんて安閑として思ってはいられないのだ。
上には上がいる、その突出ぶりにあらためて呆れてしまうのである。

日常における些細なこと、どうでもいいことに目を向けて、それを徹底的に記録する。
決して日の当たる作業ではないのだが、とにかくそれをしてしまう。別に褒められたくてやっているわけではない。
そういう特殊な才能(いや、宿命?)を持った人々の生き様を見て、こりゃあ大変だなあと思うわけだけど、
やっていることは違うが通じるところは微妙にあるので、この日記を書いていることを考えると、ううむ、とうなってしまうのだ。


2006.9.13 (Wed.)

『女王の教室』。去年の今ごろ、日テレで土曜夜9時にやっていたドラマ。スペシャルも2作つくられている人気作。

4月、神田和美のクラスである6年3組の担任として、全身黒ずくめの女教師・阿久津真矢がやってきた。
彼女はテストの成績を基準にアメとムチ(ほとんどムチ)でクラスをコントロールする。成績の悪い児童・逆らう児童には、
容赦なく罰を与える。あまりにも厳しいので児童たちは親を引っぱり出すが、逆にあっさり説得されてしまう。
クーデターもことごとく芽を摘まれて失敗。クラスは私立中学を目指す児童と公立志向の児童に分裂し、
また財布が盗まれたことから和美がイジメに遭うようになる。それでもとことん前向きな性格の和美はあきらめず、
真鍋由介や進藤ひかる、馬場久子といった友達との絆を深めながら真矢に立ち向かう。
そのうち、「実は真矢はイヤな教師を演じているだけなんじゃないの……?」と児童たちは気づきはじめる。が。

とにかく役者がすごいことすごいこと。阿久津真矢を演じる天海祐希だが、ここまで完璧にやられるとため息しか出ない。
初めて見たときには鉄仮面の悪魔のような鬼教師って印象を視聴者に確実に残すだろうし、
最終回まで見た後にもう一度見れば、それが信念を貫き通す意志の強さに見えてくる。
しかも言葉の節々に児童に対するヒントを混ぜてあるわけで、そうなるともう、完全に制作サイドの思う壺。
それを実現しっかりと再現してみせる才能にはまいった。これはもちろん天海祐希本人の能力もすごいのだが、
その女優としてのセンスをつくり上げた宝塚の凄みも感じずにはいられない。あらためて恐ろしい世界だ、と思う。
子役もこれまたすばらしい。わざとらしいしゃべりはほとんどなく、自然さを感じさせる演技をする子どもが多数。
よくこれだけ大人たちが無茶な演出をしてくるのに、しっかりと返すことができるよなあ、と心底感心。

話じたいはあくまでフィクション。フィクションだからこそできることだし、フィクションだからこその結論。素直に楽しめばいい。
上記のあらすじみたいにまとめると、非常にシンプルな形のストーリーなのがわかる。『泣いた赤鬼』みたいなの。
しかしとにかくすべてを極端にやってくるので、放映時にかなり激しい賛否両論が巻き起こったのもやむをえないだろう。
でもラストに向けてきっちりと収束させてきているので、それまでの不快感をきっちり取り返すデキになっている。
逆を言えば、スタッフ側は信念を持って、ものすごく丁寧につくっているから、きちんと終わらせることができているのだ。
このドラマは見ていてそういう丁寧さ、真剣さを常に感じさせる。よく他の連ドラにあるような、
脇役を一人ずつ目立たせて話を水増しする安易さは一切ない。最も極端なものばかりを用意して、
そうして日常で見えにくくなっている事実を浮き彫りにしていく、その手法がしっかり効いている。

僕はこういうベタに分類される話がけっこう好きなので、変にひねくれることなく素直に受け止めさせてもらった。
子どもどころか大人にだって必要な、「強さ」。真矢はどんなにひどい目に遭っても決してめげない和美を軸に据え、
それを子どもに伝えた。こちら受け手としては、じゃあそれを自分たちはどうやって自力で手に入れていけばいいのか、と
なかなか真剣に考えてしまうのである。やはり丁寧につくってあるだけに、自然とこっちも考えるようになるのだ。
だからこのドラマは最終的に高い評価を得たのだと思う。ただセンセーショナルなだけじゃなくって、中身があるのだ。
冷静に考えて何より驚くのは、このドラマに込められたメッセージを、直接的にほとんど真矢がセリフとして言っている点だ。
ふつうのドラマならそんなのくさくて耐えられない。でも『女王の教室』に限っては、なぜかするりと素直に受け止められる。
その理由は上述のように役者の演技力であり、スタッフの真剣さであり、込められたメッセージ自体の必要性にあるだろう。
だからこのドラマは、潜在的な需要に対してものすごく的確に応えたドラマだと思う。これは最大級の褒め言葉だ。

あと、すごく印象的だったのがエンディング。話の本編が暗いというか重いので、それを中和すべく全力で明るくつくっている。
無表情の真矢がカットの声がかかると同時に天海祐希に戻る、というところからスタートするのがものすごく意図的で、
そこまでしないとこのドラマはお茶の間に受け入れられなかったのかーと、妙に感心してしまった。


2006.9.12 (Tue.)

こないだ定期券を落としたわけだが、実は先週、コンタクトレンズを片方、ユニットバス内で紛失した。
そんなんすぐに見つかるだろう、と思われるだろうけど、これが本当に見つからない!
しかも実は、3日連続で落としているのである。最初の日と2日目は運よく見つかったが、ついに消えた。
予備の使い捨てレンズがあるので会社に行くのに困ることはないが(会社にはメガネでは行かないと決めている)、
腹が立ってしょうがない。補償期間はとっくに過ぎており、痛い出費になる。定期といいレンズといい、本当についていない。

そしてふと思う。どうも今は、人生においてやたらと物をなくす時期に入っているのではないか、と。それも高価な物を。
運勢だとかそういうものにあまり興味はないが、さすがにこれは気をつけたほうがいいな、という流れをヒシヒシと感じるのだ。
そんなわけでしばらくの間、注意深く生きていくことにするのである。まあ、根がそそっかしいので知れてるけど。

会社では現在、統計物理学の本をつくる手伝いをしている。手伝いといってもほとんど僕がメインでやっている感じ。
それで、Texで組む本のはずなのに、手書きの原稿を渡されて開いた口がふさがらなくなる。理系の本の手書き原稿は、
異常に手がかかるのだ。まず、数式内のローマ字は変数や定数であるため、イタリック(斜体)にする必要がある。
これをいちいち赤ペンで線を引いて指定するのは面倒なので、逆にローマン(立体)にするところを指定することになる。
でもそうすると、「問題A」などの部分もうっかりイタリックのまま、というミスが出やすい。いつもよりもチェックに手間がかかる。
さらに、数式中にギリシャ文字が登場することが非常に多い。これもそれとわかるようにいちいち指定しないといけない。
丸にギリシャの「ギ」を入れた「“まるギ”マーク」をつけるのだ。机に向かってひたすら「ギ」「ギ」「ギ」と書いていると、
思わず「『はだしのゲン』かよっ!」とツッコミを入れたくなってしまう。そんな毎日である。

『学校へ行こう!』を見ていたら、エアボ(エアボーカル、洋楽に合わせて口パクして歌っているように見せる)のコーナーが。
飲み会で会社の先輩がオススメしていたのだが、確かにこれはバカバカしくって面白い。
中学生~大学生くらいの(主に)男子特有の、頭の悪いくだらなさが全開で楽しい。
よくまあ次から次へとこんなくだらないこと思いつくものだ。うらやましい。そういう脳みそを少し分けてほしいと本気で思う。


2006.9.11 (Mon.)

湿っぽくって寝苦しそうだってことで窓を開けっぱなしにして寝た。
そしたら夜中に突然大雨が降り出して、その音にムックリと起きる。ベッドから飛び降りて窓を閉めようとすると、
近年稀にみる光と轟音が襲ってきた。雷である。「太い」と表現できそうな雷が、ひっきりなしに鳴り響く。

大学在学中、教育実習で授業をやっているときに突然雷が鳴り出して、高校の校庭に落ちたことがあった。
HQSの会報に書いた教育実習日記にそのときのことが書かれているので、それをそのまま書き出してみる。
「一瞬、辺りが紫がかった白い光に包まれ、それと同時になんとも形容し難い巨大な爆発音が落ちた。」
昼間だったのでよけいに視界が真っ白になったと思うのだが、僕の人生で最も近い距離に雷が落ちたのはこのとき。

で、この真夜中の雷は、それに次ぐ迫力があった。正直、怖かった。
近くに落ちていたのではないだろうが、こないだ諏訪湖で見てきた花火よりも大きくて広い衝撃があったような気さえする。
最盛期には本当にひっきりなしで、寝ようとしても寝られない。汗をかいて、よけいに不快で眠りづらくなる。
「あー」とか「うー」とかうなって寝返りを打っている間にも、光と轟音が休むことなく空を占領し続けている。
光ってから音がするまでの間隔が非常に短い特大の雷が落ちるたび、背筋がそっと縮む気持ちがした。
うーん、オレって小心者だなーと思う。でも怖いものは怖いのだ。というか、これだけ怖い雷ってのが珍しいのだ。
でもなんだかんだで好奇心が勝ってしまうのが自分という人間。カーテンを開けると、窓ガラス越しにしばらく稲光を眺める。
やはり6年前と同じように、紫がかった白い光が10秒おきくらいのペースで部屋の中をストロボライトのように照らす。
僕の部屋の窓は西向きで、この夜の雷は主に逆方向に落ちていたようだ。それでもいつもと光の迫力が違う。
30分ほどだろうか、徐々に雷は遠くなっていき、やがておさまった。安心したところでベッドに戻り、すぐに寝た気がする。

しかしながらやはり、途中で邪魔が入ったせいで安眠・快眠とはいかなかった。
おかげで夕方に一気にスタミナが切れて、残業していないのにフラフラになって帰った。


2006.9.10 (Sun.)

今、渋谷のベローチェでアイスココアを飲みつつこの日記を書いている。

天気がいいのでなんとなく池袋まで行ってハンズをぶらぶらするなどして過ごしていたのだが、
ジュンク堂の近くで会社の新人・モリカワくんとバッタリ出会ってびっくりした。ホントにびっくりした。
「マツシマさん、本当に自転車で池袋まで来るんですね」「くるよー」ってな具合。
「じゃあ明日、会社で」「はいよー」ってな具合。まあ池袋在住なのは知っていたけど、ホントに遭遇するとは。びっくりだ。

それにしても、持ち運びの簡単なノートパソコンになったおかげで、休日のサイクリングで、
「ついでに日記でも書くかな」ができるようになった。なんとかこの勢いで、残っている日記を確実に片付けていきたいものだ。


2006.9.9 (Sat.)

自由が丘にて髪の毛を切る。
切ってくれるおねーさんは「長めにしてください」と言わないとちょっと機嫌が悪くなるので、「長めでお願いします」と言う。
別にご機嫌をうかがっているわけではないが、当方長さに特にこだわりがあるわけでもないので、
おねーさんのやりたいようにやってもらうのがいちばんだろーと思っているのである。つまりそれだけ信頼しているってことだ。

男の髪なんざテキトーにエイヤー!と刈っちゃえばいいようなもんだと思うのだが、おねーさんは非常に丁寧にカットする。
ふと疑問に思い、「女性と男性なら男性客のほうがエイヤーって切っちゃえばいいような気がするんで楽だと思うんですけど、
そういうもんでもないんですかねー」って訊いてみたら、「全然そんなことはないですよ」とのお答え。
「短いほうが、(髪が)伸びてきたときに粗が目立っちゃうから、女性も男性もおんなじくらいです」だそうだ。なるほど。
確かに僕は仕上がりだけでなく、髪が伸びてきたときのクオリティでいつものおねーさんを信頼している。
プロってすげーなーと感心しきりなのであった。

ふと思いついて、自由が丘のTSUTAYAでDVDを借りることにする。念願の『女王の教室』を借りる。
大岡山店が閉店して以来、どうも日常的に映画やドラマを見る習慣がなくなりつつあるので、これを機にがんばろうと思う。

家に帰ると枝雀の落語をMP3に変換しながら5月の日記を書き始める。
6月・7月はわりとがんばっていて、書いてない分がまずまず少ないのだが、5月はけっこう残っている部分が多い。
小説と映画(DVD)がしっかりと残っているのが、なかなか苦しいところだ。レヴュー系は手間がかかるのだ。
とりあえず小説をつぶしていこうということで、本棚から本を引っぱり出してひとつひとつ書いていく。
いい機会なので読み終えて手元に残さなくってもいいや、という本をまとめてみる。1枚の紙袋がパンパンに膨らんだ。
根性で感想を書き終えると、それを古本屋に持っていくことにする。経済的には効率の悪い生活だが、しょうがない。

夕方になって、古本屋に本を持っていく。泣きたくなるほどわずかな買い取り価格。でもしょうがないのだ。
のんびりそのまま第二京浜に出て、川崎まで行ってしまう。どうも最近は川崎まで夕涼み、がパターンになっているかも。
ハンズをプラプラして、本屋をプラプラして、結局何も買わず。まあ金欠だから仕方ない。今月は本当にピンチになりそうだ。
定食屋で3杯飯を食い、落語を聴きながら帰る。こういうのんびりとした時間が、実はとても幸せなんだろうなと思ってみる。

戻るといよいよ『女王の教室』のDVDを見はじめる。これを土曜9時にやっていたのか!と思わず驚いてしまう内容。
でもすごく見ごたえがある。あらためて、神田さん(志田未来)はカナタニさんの超ウルトラスーパーストライクなんだろうなー
と思いつつ見る。アップになるたびそう思ってしまう。いや、それにしてもこのドラマは面白い。
天海祐希の演技が凄いが、それはつまり、宝塚が凄いのだ。天海祐希を生み出した宝塚の身体性の教育が凄いのだ。
ヅカおそるべし、と思いつつ、日付が変わってからはスーパーサッカー。清水つえー


2006.9.8 (Fri.)

仕事ぶりも多少はマシになってきているなあと思う今日このごろなのであるが、いまだに苦しんでいる面も大きい。

今週は体の熱を逃がす作戦が功を奏してか、比較的効率よく動くことができた。
日中の傾眠はいつ出てくるのかわからないのが正直なところなので、なんとか今の調子が維持できればいいのだが。
まあとりあえず、好調を保てるように、いろいろ努力をしていきたいところである。

逆に今週「しまったなぁ~」と思った点は、やはり、自分で積極的に出る/出ないのバランスだ。
善かれと思ってやったことが裏目に出ることはよくあるが、裏目に出ることを恐れていたらもっとひどくなった、ということもある。
今週はその後者が目立ったように思う。その辺の流れを読む力がまだまだ不足しているので、そこが大きな課題である。
思えば塾で英語を教えていたときには、面白いくらい相手(生徒)の調子・弱点が簡単にわかって、
何をどうするという対策を立てるのが非常に小さな負担で済んでいた気がする。今の仕事と比べると、
塾での仕事は長期的な視野に立った場合にいま何をすればいいのかが、笑えてくるくらい簡単につかめたのだ。
この差はなんなんだろうと考えてみると、結局は向き/不向きということになるのかもしれない。
だからって現状を「苦手だから」という言い訳で放っておくわけにもいかないので、限られた時間で努力をしないといけない。
いま苦しんでおけば、その経験が後でどこかで役に立つかもしれないし、ということで、なんとか前向きにとらえているしだい。


2006.9.7 (Thu.)

陣内秀信『東京 世界の都市の物語』。バブル崩壊後に出た東京論の本で、文庫化されたもの。

文庫でこれなら及第点、って気がする。でももともとはハードカヴァーだったわけで、それだとちょっとイマイチな気もする。
この広い東京という街を、街歩き精神をもって紹介する内容だが、今ひとつ焦点が絞りきれていない印象だからだ。
たとえば水路から東京を眺める章があって、それが他の都市論の本に比べて独自性を感じさせる根拠となっているのだが、
それならもっと水だけに視点を絞ってもよかったように思う。水から見た東京・江戸ってことで完全に徹底すればよかった。

逆を言えば東京という街は、それだけたくさんの切り口を持った広い対象ってことなのだ。
たとえば僕はこないだ環八をひたすら走ったわけだが(→2006.7.15)、そんなふうにいろんな要素から眺めていけばいい。
で、この本はもっと水という要素を徹底してしまえば、それだけ新しい内容になったのに、と思うわけだ。
1980年代後半には東京論ブームが起きて、この本はそれが静まった後の1992年に出ている。
やはり時期的なことを考えてみても、もっと明確な軸、ひとつの大きなテーマがあるほうがよかったように思う。
水だったら、川もいけるし海もいけるし地下の暗渠もいけるし玉川上水もいけるし水道もいけるし、無限に広がる。

とはいえ、街歩きの経験を十分に持っている筆者だけあって、ルートの選択などは非常に興味深いものがそろっている。
これならいっそのこと、街歩きオススメルートマップって形で書いて出版したほうがウケた気もするのだ。
そういうわけで、文庫としては及第点の内容だけど、改善の余地がたくさんある本だと感じた。

写真や図版の選択には疑問あり。地図は本文の内容を補足するのに適したものを選んでいるようには思えないし、
街路や建築の写真も量が足りない。江戸期の絵画やその他イラストを豊富に盛り込んでいるのはいいのだが、
それも本文との関係から考えると、焦点がズレているものが多いように感じる。ただ見た目を派手にしただけ、という印象。
つまるところ、読者に何かを与えるために書かれた本というよりは、筆者の満足を第一に書かれた本と言えてしまいそうだ。
(そういう意味ではこの日記もそうなんだけど、本はタダじゃないからね。)


2006.9.6 (Wed.)

最近iPodでよく聴いているのは、落語では桂枝雀、音楽ではcapsule。
TSUTAYAの半額に乗じて大量に借り込んで、毎日聴いているというわけである。

上方落語もチェックせんといかんなあと思って手を出したのが枝雀。
ほとんど雑談のまくらから入り、早口の関西弁でテンポのいい展開をする。聴いているだけで関西弁が上達しそうだ。
しかしながら、映像なら簡単にわかるだろうけど、音声だけなのでわかりづらくもったいない、というシーンがしばしば。
崩したしゃべり方で笑いを取るのがものすごく上手く、聴いていると声のトーンで相手を引きつける技術の勉強になる。
このしゃべりをきちんとマスターすれば、塾でもっと上手く教えられたのになあ、と今さらながら悔しくなる。
単純に落語のストーリーだけでなく、演じ手の魅力で笑わされる。単なる「名人芸」ではない領域が見えてくる。
つまり、ただしっかり芸を聴かせる名人ってだけでなくって、もって生まれたセンスを存分に発揮しているってこと。
だから正統派の落語を土台に、それをある意味で壊してさらなる大きな笑いを追求しようとしている。
ライヴでこそ、その魅力を最大限に共有できるって印象。決まった内容の映画よりも毎回違う演劇に近い、そういう魅力。

capsuleは聴いていて、プログラミングが上手いので、「さぞ学校に友達がいなかったんだろうなあ」なんて思ってしまう。
個人的な経験だが、学生時分に友人のいる奴はバンドを組む。そうでない奴はシンセやDTMでのプログラミングに走る。
(僕の場合は中1でバンドが空中分解してトラウマになった経験があるので、熱海を結成するまでずっと独りでやっていた。)
ここまで独りでしっかりとできるってことは、ずいぶんネクラな10代だったんだろうなあ、なんて勝手に想像してしまう。失礼。
通して聴いていくと、純粋なポップ志向からクラブ方面へと舵を切っていくのが面白い。僕の好みの方向に来ているから。
ピチカート・ファイヴで頂点を迎えた「ポップさ」(これは具体的にどんな単語で説明すればいいのかよくわからない)が、
また新しい解釈で繰り返されている、そんな印象がある。capsuleとピチカート・ファイヴは、失礼ながら、
今ひとつ絶対的な実力に欠ける女性ヴォーカルとのユニット、という面でもかなり似ているのだ。
(ピチカート・ファイヴの『さ・え・ら ジャポン』では完全に野宮真貴の存在意義がかすんでしまい、解散も当然に思えた。)
独りでなんでもやっちゃう男性アーティストと、そのセンスを壊さない程度の魅力を持った女性ヴォーカルのせめぎあい、
それは永遠の組み合わせなのかもしれない。そしてそんな男になんとなく肩入れしたい気持ちの僕は、
capsuleを喜んで聴いているってわけだ。現時点で最新のアルバム『FRUITS CLiPPER』は、抜群によくできている。
だらーっとBGMで聴くにはかなり良い。


2006.9.5 (Tue.)

諸悪の根源はネクタイである。
じっと椅子に座ってちまちまと校正作業をしていると、ずっと同じ姿勢をとっているせいで体温が上がってくる。
そこでネクタイが首を絞めるから、頭にたまった熱が逃げていかず、意識が朦朧としてくるのだ。やっと気がついた。
今日、あまりにつらくってネクタイをはずして作業をしたら、これが思いのほか好調で、最後までいいペースを保てた。
「ネクタイは社会の首輪だ!」と主張する気はないが、今までネクタイという不合理をすんなり受け入れていたことに気づく。
やはり日本人は通気性のいいものを身に着けなくちゃね、とあらためて思った。まずはネクタイをはずすことから始めよう。

帰りの電車に乗ってMDに録音しておいた伊集院のラジオを編集していると、ふと目が合った。「あ。」
毎朝同じ電車の同じ車両、同じドアの近くにいる人と、偶然帰りのタイミングが重なったのだ。
けっこうこれって、珍しい確率だと思う。……まあこんなこと書くと、なんだ、通勤電車で運命の出会いか!?
なーんて鼻息を荒くする人がいるかもしれないが、残念ながらそんなことはない。HQSの偉大な先輩、
カナタニさんに激似の男性だ。大学卒業以来カナタニさんにはお会いしていないが、おかげで懐かしいって感じがしない。

目黒線では近々、ダイヤ改正をして快速電車を走らせるらしい。個人的には快速を走らせる必要性を感じないので、
ただただ、いい迷惑である。今はどの時間の電車に乗れば最も楽に飯田橋に着けるか、というパターンが確定しており、
それをまた試行錯誤するのは非常に面倒だ。これはたぶん、目の前にいるカナタニサンモドキさんも同じだろう。
いつも同じ電車に乗っている人たちの顔をなんとなく思い浮かべる。

ダイヤが改正されて(これも実に不思議な言葉だ。ダイヤ改悪かもしれないだろと思ってしまう。憲法なんてなおさらだ)、
おなじみの面々と離れ離れになってしまう。それってなんだか、学校でのクラス替えに似ている気がする。
皆さんと直接話したことはないけど、やっぱりどこか「戦友」じみた共感を覚えているので、今からちょびっとセンチな気分だ。


2006.9.4 (Mon.)

なんだか3日連続で画像を貼り付けた日記になっているわけで、じゃあ4日連続にしてみようかってことで、
帰省したときにアルバムから直接デジカメで撮影した懐かしい写真なんぞを引っぱり出してみる。

これは小学校の運動会の写真である。学年はよくわかんないけど、たぶん2年生か3年生くらい。
後ろで僕に襲いかかっているのはトシユキ氏。彼とはもうずいぶん長い付き合いだ。
んでもって、昔っからこんな感じのままの関係である。いやー、それにしてもトシユキさんいい表情しとるわー。

中学1年のときの写真である。僕が中学3年間でいちばん気に入っている写真だ。
まあこんな感じで中学校生活を過ごしていたわけで、そりゃいまだに夢に出てくるくらいに楽しいわな、と。
ホントに万事こんな感じだったなあ。こういうふざけた雰囲気のままでクラスマッチを圧勝とかしてたし。

これは高校2年。当時はプレハブ校舎だったのだ。僕らはある意味、飯田高校史上最も悲惨な学年で、
1年生のときは冬には鬼のように寒い旧館で過ごし、2年生のときには校舎建て替えの影響でプレハブで過ごし、
3年生になるときちんとした東館に移ったけど最後まで新しい本館に入ること能はずという、流浪の3年間だったのだ。
でも「校舎がボロいほうが思い出は楽しくなる」が持論だったので、そんなの全然気にはならなかった。
実際、プレハブで過ごした2年目は、どこか秘密基地的な感覚があって、何から何まで楽しかったような気がする。
昼間、あまりに暑すぎて、数学の時間に隣の奴がいきなり鼻血を噴き出したのが今でも忘れられない。

記念の写真はいろんな機会に撮るわけだけど、日常生活を撮った写真ってのは、なかなかないものだ(特に男子は)。
僕は昔っから、一日一日違っていたはずの毎日が、覚えきれなくなってひとつのパターンに自動的に編集してしまう、
そういう記憶の仕組みが悔しくって悔しくってしょうがなかった。それでたまに「写ルンです」でパシャパシャやっていたのだ。
窓から見た風景を撮ってみたり、友人にカメラを渡してみたり、ちょいと見かけた先生の背中を隠し撮りしてみたり。
そうして切り取ったなんでもない記憶ってのが、実はとても大切なものだったりするわけだな。
今でも旅行してやたらと風景の写真を撮ってみたり、友人と集まるたびに妙なタイミングでやたらとシャッターを切ってみたり、
「なんでもないこと」をカタチにして残そうとする癖がついている(こうして日記を書いているのもその意識によるものだと思う)。

まあ、そうやってちょこちょこと積み重ねている毎日が、振り返ってみると面白くてたまらなかった、ってなるように、
地道にがんばっていくとしよう、と決意を新たにするのであった。


2006.9.3 (Sun.)

朝起きて布団を片付けて風呂に入ってしばらくぼーっとする。まる夫妻は近所の草むしり参加のため、朝早くに帰った。
暇な男3人で呆けていたら、トシユキ氏が冷蔵庫から1本のジュースを取り出してきた。「バブルロケット」なのだが……。

  
L: バブルロケット。パッと見はこんな感じ。でも……  C: 「宇宙味」! そんなん初めてだ! ずいぶんと大きく出たな。
R: 表面にプリントされている図柄は完全におかしい。「あそんでくれよ」って、そんなに繰り返し全力で強調せんでも。

紙コップに注いで、3人で飲む。肝心の宇宙味だが、比較的マスカットに近い味だった。宇宙とはマスカットなのか?
なんて思いつつ飲む。「5月に発売されたけど売ってるところ全然見ねえ」そうなので、見かけたらぜひ味わってくださいな。

さて、われわれモテない3人組としてはとりあえず、まる様のように特にこれといってやらなきゃいかんこともないので、
諏訪大社を4ヶ所ぜんぶまわってみようかーということになった。で、当然のごとく4回おみくじを引いてみるのである。
御柱祭りで知られる諏訪大社が4ヶ所に分かれている件については以前書いたとおり(→2005.10.9)。

ホントはここで諏訪大社について詳しく書きたかったのだが、僕の生半可な知識をはるかに超えるような事実があるらしい。
以前、潤平が詳しく教えてくれた内容を、かなりかいつまんで紹介してみると、以下のような感じになる。
諏訪湖周辺では縄文時代より土着の神への信仰があった。ミシャグジ様という蛇の神様で、男性器の意味合いもある。
この神様に獣を串刺しにしてお供えする習慣があり、守矢資料館(→2005.5.15)ではその複製の剥製を見学できる。
(かつては小学生くらいの男児をいけにえにする習慣もあったらしいが、戦国時代に統治者によって禁止されたとか……。)
で、神道が勢力を拡大していく中、諏訪地方でもそれを受け入れるものの、ミシャグジ信仰の儀式じたいは残された。
全国的に有名な御柱祭りの御柱は諏訪大社に現在も立っているが、これはもともと、串刺しの串の意味があったそうだ。
そんなわけで、諏訪大社は信濃国一宮の地位を得たが、その周辺には今も縄文からの土着信仰の要素が残っている、
そういうなかなか独特の背景を持っているのだ。ちなみに東京・練馬区の石神井は、ミシャグジが地名の由来なんだとか。

まずはいかにも観光地らしくてフォトジェニックな、下社秋宮から。
ここは去年も来ているのだが、やはり観光客がいっぱいいた。交通アクセスが良いためだろうか、観光バスが目立っている。

  
L: 去年も撮った下社秋宮の鳥居。境内に入るとすぐある巨木「根入りの杉」はなかなか見事。
C: 非常によく目立つ神楽殿を正面から。  R: 神楽殿を斜め横から。中では結婚式が行われていた。いい日和で何より。

 神楽殿の奥の幣拝殿。神楽殿の迫力に押され気味だが、神様がいるのはこっち側。

ひととおりお参りを済ませると、いざ1回戦。全員吉だったり末吉だったりと冴えない結果だった。リベンジを誓う。

次は下社春宮である。こちらは道幅の狭い住宅街を抜けて軽く坂を上った先ということで、少しわかりづらい位置にある。
秋宮と比べるとずいぶんと静か。その分、いかにも土地の神社という印象を残す。穏やかでいい空間だ。
しかしバヒ氏は巫女さんがいなかったためか、今ひとつ充電不足といった表情なのだった。

  
L: 下社春宮の鳥居。秋宮と違い、周囲にお土産屋はゼロ。その分、通好みな空間という感じで、参拝者も落ち着いた人ばかり。
C: 春宮の神楽殿。境内の空間構成は秋宮とほとんど一緒。  L: 神楽殿の奥には拝殿という配置も一緒である。

 境内はこのように、周囲を林に囲まれている。本当に緑が多い印象だ。

さておみくじである。社務所の規模が秋宮と全然違うのが、なんとなく切ない。
結果は僕だけ大吉ということでまず1勝。ここんとこしばらく、おみくじの内容はいいものが多い。
あとは実現させるだけだが、いつになるやら。

諏訪湖を南下、諏訪市方向に戻って、上社本宮を目指す。
中央道と並んで走る道を行くと、ふっと右手からにぎやかな雰囲気が漂っている。曲がってみるとそれが参道で、
土産物屋から威勢のいい声。同じように観光客の多い場所でも、さっきの下社秋宮は車向きにできている。
しかしこちらはあくまで歩行者が相手のスケール感だ。やはりここには去年も来ているんだけど、あらためてさっそく参拝。

  
L: 上社本宮の鳥居。交通安全祈願の車のみ、境内に入れるという仕組み。
C: 本宮の幣拝殿。本宮の空間配置は独特で、正面から入ると幣拝殿は横向きになっている。一度右に曲がってから参拝するのだ。
R: こちらは神楽殿。現在は使われていないが、その歴史を感じさせる風格はさすがである。

 
L: 神楽殿の中に鎮座している大太鼓。本当に大きい。  R: 東側から本殿に至る通路。けっこう立派でけっこう長い。

前回来たときと同じく、今回も結婚式が行われていた。神楽殿の隣では奉納相撲が行われるようで、土俵があった。
魁皇と千代大海ののぼり(?)がはためいていたけど、わざわざ来るのだろうか。だとしたらなかなかすごいもんだ。

おみくじの3回戦、僕はまた大吉で2連勝。やたらといいことばかり書いてあるので逆に不安になってしまうくらいだ。
バヒさんはやはり、巫女さんに目を奪われていた。境内を林に囲まれた神社は日差しのわりに非常に涼しく、
「神社で昼寝して過ごしたいなあ。(巫女さんの)ひざまくら付きで。」と発言。
冷静に考えると、これはかなり難度の高い贅沢である。

さて、4ヶ所ある諏訪大社のラストを飾るのは、上社前宮である。諏訪市から茅野市に入ってすぐの場所にあるのだが、
ほかと比べるとかなりマイナーというか、そんな感じ。案内板も目立たないしでどこに行けばいいかわからない。
とりあえず僕が自転車で東京を脱出したときによくやっている、コンビニで地図を立ち読み作戦で場所を把握。
本宮からそのまままっすぐ南下していけば大丈夫のようだ。空いている道を様子を見ながらゆっくり進んでいく。
見たことがある風景だな、と思ったら、前述の守矢資料館の近所だったからで、そこから少し南に行ったら看板が出ていた。
すぐに右手に鳥居が見える。左手はけっこうな広さの駐車場になっていた。でも車はあんまりいない。
やはり前宮は、4ヶ所制覇してやる!って人じゃないと来ないところなのだ。

  
L: 上社前宮の鳥居。鳥居がないとただの森にしか見えない。  C: 鳥居から中に入ったところ。細い石段を上る。
R: 石段を上った先にあるのが、こちらの鳥居。社務所はこの右手。奥には右側に内御玉(うちみたま)殿、左側に十間廊。

  
L: 本殿はさらにその先、坂道を上ったところにある。いかにも茅野の森って感じ。守矢資料館周辺もこんな感じだった。
C: これが前宮の本殿。木々に囲まれて静かにたたずんでいる。坂を上るのに気づかないで本殿にお参りし忘れてる人、多そう。
R: 周辺は「日本の森と里」というイメージそのままの空間。木々の根元を草が覆い、清流が流れる。木陰で休む人は気持ちよさそう。

 本殿の森から茅野の街を眺める。『もののけ姫』(→2005.12.4)を思い出させる光景。

茅野の森から里を眺めるのは、独特の印象がある。ミシャグジ様の話もあってか、縄文時代から続く緑とその記憶が、
ふと頭の中の懐かしい部分を揺すぶるような感触があるのだ。僕らの祖先が獲物を追っかけていた時代が、
すぐそこにあるように思える。もともとあった諏訪地方独特の信仰の匂いが、とても強く漂っている。

で、占いの結果は中吉だった。でも内容はけっこうよくって、気持ち大吉´(ダッシュ)といったところか。
トシユキ氏はここで大吉で、残念ながらバヒさんは今回勝ち星なし。次回のリベンジに期待である。

あ、当然ながら、ここには巫女さんはいなかった。

諏訪ICから高速道路に乗り、沼津を目指す。突然の第2回ぬまモゲである(前回はこちら →2005.10.8)。
八ヶ岳PAで遅い昼食をとる。3人揃って八ヶ岳高原の生乳を使ったというホワイトカレーを注文するが、
そこまで白くはなかった。しかしカレーについてきたヨーグルトが思いのほかうまく、そこそこ満足。

甲府南ICで降りると朝霧高原を突っ切ったらしいが、記憶にございません。例のごとく爆睡していたのだ。
富士市内を快調に飛ばしていたのは覚えている。視界が工場と道路とでいっぱいで、この街での生活が想像できなかった。

沼津に着くと、バヒさんが愛鷹山水神社に連れて行ってくれた。
ゴルフ場がめちゃくちゃいっぱいある山の中へと入っていく。海が近いのでさぞかし絶景だろうと思ったのだが、
飛んでくるボールを食い止める関係か、道は見晴らしが非常に悪い。逆にゴルフコースからは絶景丸見えってことで、
景色の良さもゴルフ場の大きなセールスポイントになっているわけだ。贅沢な話である。

山の中を走り続けてちょっと心細くなってきたところで、水神社の入口が見えた。車を停めると奥へと入っていく。
水神社とはなんともシンプルな名前だが、そのとおり水をつかさどる竜神をまつっている。ところがこの神社、
日蓮宗の僧侶がつくったんだそうで、神社ということになってはいるものの、見事なまでに神仏習合なのである。

 
L: 水神社のすぐ脇を流れる清流。  R: 本当に水がきれい。水底がすぐ近くに見える。

 
L: 水神社を側面から撮影してみる。神社とはいうものの、地蔵が並んでいるのがわかると思う。
R: 本殿。でも完全にお寺のスタイル。バヒさんは二礼二拍一礼をしている人を見たことないそうで、僕らもお寺スタイルでお参り。

バヒさんは持ってきたペットボトルにガンガン水を詰めていく。ちょっと硬めだが、クセになるほどおいしいとのこと。
山の中を流れる水のもたらすひんやりとした空気を味わいつつ、神社を後にする。

さて、いよいよ本題、沼津で晩御飯においしい魚をいただくのである。
沼津港へ行き、そこでおいしそうな店をチェックする。時刻は17時ちょっと前、店がそろそろ始まるかな、といったところ。
バヒさんが「この店気になる」ってことで、ちょっと新しそうな印象の、いくつか並んだ店の中のひとつに入る。
海鮮丼と焼きサンマ、生サクラエビなどを注文する。内装がわりとキレイなので、ホントにおいしいのかなあ、
なんて僕はちょっと疑っていた。しかし出てきたお通しの豆腐を食べて評価は一変。
今までこんな濃い味の豆腐食ったことない!ってくらいにおいしい。出されたお茶も、とても濃い味の抹茶。
魚料理を食べた後にはさっぱりする、絶妙の濃さだ。当然のごとく出てきた料理はどれも無言でむしゃぶりつくほどおいしく、
ただただ本場の魚の味にノックアウトされるのみなのであった。この店は、すげえ!と感心しきり。
空腹のせいでがっついてしまい、十分に落ち着いて味わうことができなかったのが非常に残念。
八ヶ岳で何かひとつ食べて空腹感を紛らわせておけば、もっと魚本来の味を楽しむことができたのに、と悔しく思ったくらい。

食べ終わると、バヒさん行きつけの喫茶店でのんびりダベる。ここは、前回も来た店だ。
circo氏は十字屋という喫茶店に行くたびにロシアンティー(紅茶にジャムを入れる)を注文することを思い出して、
いい機会だからとロシアンティーを飲んでみた。お茶をカップに注いで、ジャムを落としてかき混ぜる。バランスに気をつける。
カップに口をつけてすすれば、甘さが一日の疲れをとる。どうということのないゆる~い話題。とても贅沢な時間である。

1時間ほどそうして過ごすと、沼津駅へ。バヒさんと別れて電車に乗って、東京へと帰る。
疲れているのでトシユキ氏も僕もろくすっぽ話すことなく過ごす。小田原で小田急線に乗り換えるトシユキ氏と別れる。
横浜で東急に乗り換えて、僕も自宅へ。非常に贅沢な時間が過ごせてとても愉快だった。

風呂上がり、大吉のおみくじの内容をじっくりと読んだのだが、「待人」の項目で矛盾が。
片方には「来る旨連絡あり」、もう片方は「連絡なしに来る」。どっちだ。
連絡じたいはあるけど、来る際には連絡なしなのか。よくわからない。
ところで諏訪大社のおみくじには「養蚕」という項目がある。地域性を感じさせてすごく面白いと思う。


2006.9.2 (Sat.)

諏訪湖新作花火大会合宿である。去年はトシユキ・バヒサシ両氏と行ったが(→2005.9.3)、今年はまる夫妻も参加。
で、まる氏の運転する車に尾山台駅から乗っけてもらって、途中調布でトシユキ氏を拾って、諏訪湖へと向かう。
しかしながら都内はことごとく渋滞で、本当にノロノロとしか進まない。渋滞の道だけ選んで走ってる錯覚をおぼえるくらい。
夏休みはもう終わったというのに、なんでこんなに人出があるのか不思議。なんとか八王子のインターから高速に乗る。
談合坂SAで昼メシでも食べようかと思ったのだが、ここもやはりものすごい人出。あきらめてソフトクリームをペロペロする。
空腹のまましばらくがんばって双葉SAに到着、軽くおにぎりなんぞを買い込んで、車内でパクつく。

途中で見事に寝っこけ、気がついたら宿に着いていた。一足先に到着していたバヒさんとようやく合流。このとき16時くらい。
晩メシが17時半で、それまでの時間がおそろしく暇だ。とりあえず『アンゲーム(→2006.7.30)』を持って行っていたので、
「やってみる?」と訊いてみるが、質問カードを2、3枚読み上げたら「シラフでできるかー!」と集中砲火を浴びた。
しょうがないので僕が日ごろ持ち歩いているメモ帳を破って紙片をつくり、面雀(おもじゃん)を始める。
面雀は以前、松本人志が深夜番組でやっていたゲームで、脈絡のない単語を2つくっつけていちばん面白くした人が勝ち。
あれこれ考えつつ3ゲームほどやったら見事に時間をつぶすことができて、無事にメシタイムとなった。

晩メシをきっちり3杯いただくと、ちょっと食休みしてから花火を見に出かける。宿は諏訪湖からちょっと入った位置にあり、
散策感覚で歩けばすぐに湖が見えるのだ。そこから、花火が見えそうな位置を探し、陣取る。
バヒさんが用意したシートを敷くが、斜面だったのでなんとなく体勢がつらい。寝転がってもそのまま溝に落ちてしまいそうだ。
シートを動かす際にジャンプしたら胸ポケットからデジカメが飛び出し、そのまま転がってコンクリに激突。少し形がゆがんだ。
悲しかった。そんな具合に間の抜けた時間を過ごしていたら、空も暗くなってきて、新作花火大会のスタートである。

「諏訪湖の花火大会」というと、ふつうは8月15日に開催されるものを指す。これは非常に有名で、
中央道から諏訪湖まで人でいっぱいになる。それがイヤで、あえてちょっと遅れてやる「新作花火大会」に来ているわけだ。
こちらはその名のとおり、わりと前衛的な意欲作が見られる。ふつうと違う形にこだわった作品、色にこだわった作品、
構成にこだわった作品、とにかくどこかいつもと違う美意識が面白い。今回は、一度広がった花火がスッと動くもの、
消える直前に小さな花火と入れ替わるもの、長い時間輝き続けて見事な放物線を描くもの、そんな作品が目立っていた。
特に、広がった光が放物線を描いて落ちていく、その途中で鮮やかな光を一瞬放つ作品が人気だった。
観客ってのは残酷なくらい正直で、見事だと思えば歓声があがるし、心底感心したら拍手が出る。
その反応ひとつひとつが的確(っていうのも変だが)で、面白いもんだと他人事のように思う。自分だってうなっているくせに。
作品がいくつか披露される合間にはスターマインの出番。小さな花火が徐々に大きく広がっていく光景は実に美しかった。

花火大会のラストは、諏訪湖の湖面で半円形に広がる花火で盛り上がる。今回はそれまでちょっと時間が空いて、
早とちりした人がちょろちょろと帰ってしまった。その隙を見て、見晴らしのいい場所に入り込む。

 湖面の花火自体はこんな感じ。

間近で見る花火は視覚や聴覚だけじゃなく、触覚にまで衝撃を与える。爆発による空気の振動が体をずんと駆け抜ける。
こうなるともう評論家気取りでさっきのはよかった、なんて客観的に花火を味わうことなどできない。
ただひたすら、間をおかずに襲ってくる光と振動を受け止めながら、ぼーっとするしかないのだった。
そして最近iPodで落語をよく聴くせいか、「こういうことを日本人は江戸期からやってたんだよな、すげえなあ」なんて考える。
今、自分の目に映っている光を見ながら、その先に300年くらい前の日本の姿を想像してみる。
何百年も経っているのに、花火を見ている僕らの気持ちが全然変わっていないのが面白い。
未来が過去からずーっと続いている感じか。

さて部屋に戻ると酒宴が始まる。そんでもって昼間の勢いそのままに面雀スタート。
まる夫人も面雀経験者ということで、非常にスムーズにゲームは進んでいく。

 面雀部活動中。

今回の優秀作品はこんな感じでした。

「プラ/侍」 「タイツ/病」 「巫女/オヤジ」 「オヤジ/ガンダム」 「重婚/社長」 「スナック/パロマ」 「嫁/ドリンク」
「初恋/スープレックス」 「大長編ドラえもん・のび太の/やおい」 「汁/博士」 「新党/ブラジャー」 「酒と泪と/薬」

まる氏が「ジャム/プレイ」を出したところ、すかさず夫人が「嫁/的指導」を出す。
そんなおもろい夫婦に幸あれ、と思いましたとさ。


2006.9.1 (Fri.)

今日は「防災の日」である。そして、8月30日から9月5日までは防災週間なのである。
そして今年の防災週間のポスターは、なんと、消防士の恰好をしたエルモなのだ。

知ってのとおり、僕はエルモ大好きっ子なのである。駅なんかでこのポスターを見かけるたび、
「うおっ、かわいいっ!」
なんて思わずつぶやいてしまうのである。いや、このエルモは本当にかわいい。実にいいポスターをつくったなって思う。
もしこの消防士エルモの人形が発売されたら、間違いなく買ってしまう。というか、ぜひ発売してほしい。
ホントにほしい。本気でほしい。誰かつくってくれー


diary 2006.8.

diary 2006

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