今日はネクタイをし忘れて会社へ行ったよ。
塾講師時代に国語の古典で、今昔物語集に載っている荘子の話を教えたことがある。
「今昔、震旦に荘子と云ふ人有けり。」で始まる話である。
最近、この話の内容を実感させられることが非常に多くなってきた。ちょっとあらすじを書いてみる。今昔物語集・第10巻第13話「荘子、畜類の所行を見て走り逃げたる語」。
荘子が道を歩いていると、水辺に1羽の鷺がいた。荘子は手に持っていた杖で鷺を打とうとして近づいたが、
鷺はこちらに気づかない。それでよく見てみると、鷺は1匹の蝦を狙っているところだった。
さらにその蝦のことをよく見てみると、蝦は小さい虫を食べようと狙っているところだった。蝦は鷺に狙われていることを知らず、鷺は荘子に狙われていることを知らない。
そのことに気がついた荘子は、急いでその場から逃げ出した。
「みんな自分が狙われていることを知らないで、それぞれ他のものを狙うことしか頭にない。」
鷺を狙う自分よりも強いものがいて、自分を狙っているかもしれない。だから荘子は逃げ出したというわけである。それぞれの状況に合わせていろんな解釈が可能だと思う。
今の僕の場合、自分が他人に対して「全然なってねえなあ!」と思うときには、
同じように自分の気づかないところで他人から「全然なってねえなあ!」と思われているってことだと解釈している。
「偉そうなことを言ってるお前が、全然できてねーじゃねーか!」ということなのである。
自分のことでも他人のことでも、最近、そういうことが本当に多いのだ。とりあえず僕にできることとしては、他人に不満を感じたときには、まず自分がそのことをできているのか考える。
そうして、ゆっくりながらも着実に、足元をすくわれることがないようにしていくことである。
circo氏のサイトを褒めたけど(→2006.11.24)、潤平のサイト「studio lithium」の写真についても褒めるのを忘れていた。
潤平の写真の切り取り方には、「オレにはできん」と感心させられることがある。
集合写真よりは、誰かひとりを撮った写真。それを大きめのサイズで仕上げた写真のデキが、実にいい。
背景にある風景をうまく取り込みながらトリミングをするセンス、それには何があってもかなわない、と思わされる。
特に8月、風越登山のときの写真はどれも秀逸。やはり平面を扱うセンス(立体を平面で表現するセンス)が優れている。
それに、建物など空間を扱った写真も、僕がなるたけ平均的に、一般的に、帰納したものを表現しようとするのに対し、
潤平はきちんと帰納と演繹のバランスをとろうとしている印象がある。
これを都市社会学と建築学の差異、という言葉でまとめてしまうのは乱暴。
写真で「がんばった」と言えるのが杖突峠のパノラマ(→2006.8.16)くらいな自分としては、
きちんと、個人のセンスとして反省しなきゃいかんなーと痛感させられているのである。そんなわけで、当面は更新頻度で勝負するしかないのだが、最近それすらあやしい。反省しきりでございます。
(※studio lithiumは「松島潤平建築設計事務所 / JP architects」へ発展的解消となった模様。)
深夜になって劇団☆世界一団の『645』のビデオを見た。
手軽にストーリーを味わいたくって、そうしていたら最近まったく世界一団関係の演劇を観られないでいることに気づいて、
急にうおお観てえええ!と発作が起きたので、たまらずビデオを再生したのである。ログを見る限り、きちんと『645』のあらすじを書いたことがないようなので(→2003.4.13)、書いておこう。
時は645年、中臣鎌足と中大兄皇子を中心とした5人の男は、蘇我入鹿の暗殺を企んでいた。
決行するのは夕方ということで練習をするのだが、うまくいくのかどうにも不安である。
一方その頃、蘇我氏の屋敷では盗賊の「影」と「鏡」が、世界を支配することができるという“時計”を奪う。
その際、未来を見ることができるという女性・「未来」を助け出す。影と未来は互いに運命を感じるものの、
離れ離れとなってしまう。結局、未来は5人組と行動を共にすることとなる。登場するキャラクターが総勢40人以上で、それを11人で演じきるというのがひとつのトピックではあるのだが、
実際に見てみるとそれはそんなに重要な要素ではない。むしろ、おまけにすぎない。
圧倒的な時間・時代の流れに対して、自分たちが生きていたという証拠を刻みつけたい、
そんな思いから5人が革命(入鹿の暗殺)を企てる。そういう現代にも共通しているものを上手くアレンジして、
しかもとても賑やかな展開にして、ポップに味わえるものにしているのである。で、話としては正直荒削りなんだけど、感動させる強制力にあふれていて、見ていて本当に悔しくなった。
登場人物を間引いていけば、よりクオリティを上げることはできると思う。
そして僕は最初のうち、どこをどう切ってつなげたらいいか、ということを考えながら見ていた。
でも結局ラストシーン近くになって、ああやっぱええわあ、と話の本筋に集中させられてしまったのである。
まったくの創作でもって、そのつくり込んだ世界に他人を引きずりこんでしまうということ。
そういうことを(傍目には)あっさりやってのける、という力が本当にうらやましい。
なんだかマンガを徹底的に読みたくなったので、マンガ喫茶にこもる。
そういえば以前ワカメに「『涼風』と『女子大生家庭教師濱中アイ』の感想聞きたい」と言われたな、と思い出し、
『涼風』を読んでみた。ちなみに、13巻までしか置いてなかったので、第2部のことは知らない。でも書く。瀬尾公治『涼風』。高校入学と同時に広島から上京してきた秋月大和が主人公。
彼が入居した銭湯兼女性専用マンションで、隣に住む朝比奈涼風(すずか)がヒロイン。
走り高跳びの選手である涼風に大和は一目ぼれ。そこにさまざまな人物が絡んでくるラブコメ。読みはじめて、絵柄や女性専用マンションという設定から、マガジンはこういう系統のマンガをいくつ連載してんだ、と思う。
僕は週刊で連載を追うようなことはしていないのでわからないが、ここ何年かのマガジンにはそんなのが多そうな気がする。
でもまあ、読んでいくうちに設定よりも話の展開で勝負する方向にシフトしてきたので、そこまで気にはならなくなった。
おたく好みのマンガながら、まあなんとかがんばって持ちこたえたな、とちょっと感心(偉そう)。しかしまあどうしてマンガの主人公はモテるのか。これがいまだにわからない。
いや、モテないと話がはじまらないわけだが、しかし現実には人間、そんなにモテるわけがないのであって、
どうにも何かと理由もなくモテる主人公、というものに違和感を覚えてしまう。モテませんって、そんなに。と思ってしまう。
このマンガの場合には、主人公に「足が速い」という武器がある(明らかになるのは途中からだが)。
そうしてごまかされてしまっているような気もする。まあとにかく、なんだかんだで結局は主人公がモテるマンガなのだ。作者が明らかに、「モテない側」にいる。モテない側からがんばってモテている人を描いているので、なんとなくほほえましい。
厳しい表現に思われるかもしれないが、モテない側からそーっと出された、モテない人への恋愛の教科書、という印象。
男女双方での思考回路を丁寧に追っているので、そのときどきでの正しい判断とは?という点でお勉強にはなるのかも。
自分の理屈と相手の理屈、自分の都合と相手の都合を緻密に描いており、『電影少女』(→2005.8.17)を思い出した。キャラクターについて書くと、序盤の涼風と萌果の二択は、活発ショート対清楚ロングという典型的な構図に見える。
この第1ラウンドは、まあ結局、少年マンガらしく初志貫徹となるが、これは作者の好みが出るところなのかな、と思った。
読んでいる僕としては、「おう、どっちでも(どっちも)いいじゃん」となるわけで、その辺はそれぞれの性格だからしょうがない。
続く第2ラウンドでは結衣が登場し、ツンデレショート対かまってショートとなる。ショートは好きだがまあどうでもいいや、と。
結局付き合うといちばん楽しいタイプは美紀だろよ、と思うのだが、そこは少年マンガの常、ヒロインにはなれないのである。演出面では、2巻に1回ぐらいのペースでキレてるコマが出てくる、という感じ。この回数が増えれば面白いのにな、と思う。
(個人的に一番は、8巻ラスト近くの、涼風の「あんたにはわかんないでしょ、好きな人が死んじゃった人の気持ちは!」
みたいなセリフに対する萌果の「あんたにだってわかんないでしょ、好きな人を取られた人の気持ちは!」みたいなセリフ。
死という絶対性に対して「奪われる」ことを等価に置いたのはすごい。しかし喪失の痛みって点では確かに等価なわけで、
そういう主観的な感情を前面に押し出したセリフは、少年マンガには珍しい視点だと思う。でもそれってけっこうリアル。)
あと、僕は巻末のおまけマンガ「涼風もん」の絵のほうが本編よりも好き。本編の絵はかっちり描かれすぎていると感じる。
もっと力を抜いたほうが読みやすいし、ギャグの幅も広がってくるだろうに、と思うのだが。好みの問題と言えばそれまでだが。最初はなんだよこれーと思ったが、『電影少女』を思わせる“分析”によって、独自の位置を確立するのに成功した感じ。
僕は恋愛についての一般論というものが大っ嫌いで(帰納できるほどの経験やセンスがないせい、ってのは否定できない)、
『涼風』の見せるモテない人のための教科書的な一面は、なるほどねと思う反面、違うだろ、と思わなくもない。
あと、登場する女の子たちは皆さん魅力的な性格をしているので、「もー誰だっていいよーめんどくせー」となってしまう。
笑ったところがかわいくてこっちを好きでいてくれりゃー文句は言いません、バッチコーイ!という自分にとっては、
主人公に対する違和感がそのままマンガ全体に対する違和感になってしまうので、その点で冷めてしまうのである。
でもまあ、中盤以降での成長ぶりからして、次回作はけっこう面白そうな作品を描いてくれそうな気がする。
第2部やめてさっさと新作描いてほしいな、と思うのだが、いかがなもんだろうか。
HQSのOB会である。1週間ほど前にみやもりから電話があり、「びゅくさん行くー?」と訊かれたので、「じゃあ行く」と返事。
それで参加。場所は新宿で、早めに着いて日記を書いて集合時間になるのを待つ。10分前になって東口に移動。改札前には背の高いえんだうさんがいたので、それを目印に合流。
雑談をしているうちにサッカーの話になる。オレなんか全然詳しくないのに、なんでか盛り上がる。
(めりこみさんを囲む会でも盛り上がった(→2006.6.17)。その際に名前が出た選手は、みんな代表入りした気がする。
あの時点でジェフ千葉の山岸、大分トリニータの梅崎まで話題にしていたこの先見性! 振り返ってみてびっくりだ。
いずれサッカー関連の話題限定飲み会(勉強会)を開催しても面白いかもしれん。参加者少ないかもしれんが。)
あとは日記で北陸旅行を書いたことから、住居表示変更や自治体の合併がいかに地名を記憶から消しているか、
という硬めの話題にもなる。東京では新宿区だけが地名の歴史を頑なに守っているのだが(地図を見ると一目瞭然)、
都市社会学を専門としている者として、いずれきちんとその辺の知識を得よう、と密かに心に誓う。さて、飲み屋に移動すると、みやもり・ニシマッキー・だうといういつもお馴染みの面々に加えて、
少年ジャンプ編集部のアイダさんと鍋を囲む。アイダさんの結婚式に呼ばれたことは、以前日記に書いた(→2002.10.12)。
話題はとりとめもないのだが、やはりどうしてもジャンプの裏話が聞きたくなるもの。
アイダさんは話せる範囲でいろいろ教えてくれて、これが実に面白い。一番凄かったのが、某人気マンガについての話。
これは絶対外に漏らしちゃダメ、と言われたので書けないが、いやー、マジで驚いたね。
聞き間違えたと思ってスルーしかけたら本当の話で、これにはもう、ため息しかつけなくなるほど。
つーかぜひこの秘密はいずれ公開して、そっちヴァージョンを売り出してほしい。そしたらオレは買うかもしれん。まあそんな感じでうちあけ話ありーのバカ話ありーので、1次会は楽しく終了。
それからニシマッキー主導で2次会に移動するが、手違いでなかなか中に入れない。
そのうちアイダさんがウズウズしだして、気がつけば僕もメンツに入って先に麻雀に行くことに。
(HQSは麻雀大好きサークルで、OB会の3次会はいつも徹夜の麻雀大会(通称「Jリーグ」)なのだ。)
そんなわけで高田馬場に移動して、卓を囲むのであった。麻雀をやるのは、ものすごく久しぶりだ。
たぶん大学2年以来なので、なんと8年ぶりということになる。われながらびっくりである。
(僕がいちばん麻雀をやっていたのは小中学生のときで、暇があれば家族で打つ、そんな家で育ったのだ。
中学の担任は「5科目で475点以上ならパソコンの麻雀ゲームをやろう」とエサを用意して僕に勉強させようとしたくらい。
でも結局、ゲームはほしいが勉強については最後までやる気にならなかった。担任には申し訳ない気持ちでいっぱい。)東1局でいきなり、みやもりに跳満を振り込む。攻める感覚がつかめないまま無理をするので、終盤でピンチになるのだ。
その後もガンガンと点棒を削られていって、ひとり陥没したまま東風戦の第1戦が終了。いやー、お弱い。
第2戦になって、チャンスになるまでひたすら逃げて、タイミングを待って攻め込むという感覚をようやく思い出す。
それでなんとか満貫を和了り、親のまま4本場とか持ちこたえて点数を稼ぐ。情けないけど生まれて初めて、
流局でのテンパイとノーテンの差を実感した気がする。ちょっとオトナになった気分(でも点数計算できない……)。
しかし調子のいいときに限って水を差されるもの。日付が変わって終電がなくなりそうになり、帰ることに。
鉄研OB会から直接雀荘に移動してきたしみちょくさんに後を任せて帰宅したのであった。まあ僕としては、鍋のときも麻雀のときもアイダさんがものすごく楽しそうにしていたので、よかったなあ、と。
凄い話も聞けたし。やっぱり、自分が参加している場で他の人が楽しんでいる姿を見るのって、うれしいことです。
わが父・circo氏のサイト「circo camera」について、日ごろ思っていることをちょびっと書いてみる。
最初のうちは毎日更新の読書日記だけだったのだが、いつのまにやらブログまで取り扱いはじめて、
そしてそのブログには毎日1枚の写真がつくようになった。この写真が、う~ん、やるなあ、という感じなのである。
写真の多くは遠近法に影響されている風景の切り取り方をしていて、そこに遺伝を感じる。
僕も日記でたまに写真を載せるのだが、なんとなく共通項があるように思うのだ。
ただやはりシャッターを切るのは休日が中心にならざるをえない。そしてあてもなく何枚も撮る。
その点、毎日自分の住む街を一発勝負で切り取るcirco氏のやり方は、度胸満点だと変に感心しているのだ。
街という多次元な存在を、定期的に2次元で切り取っていく。それを重ねていくという日常性への関心・観察眼に、
実は密かに恐れ入っているのである。きちんと毎日やっているところなんか最大限に偉い。そもそも、サイトの名前が秀逸なのだ。circoでcamera。その名がすべてをあらわしている。
そういう肩の力を抜いて(本人がどうだかは知らないが、少なくとも傍目から見る限りは)、
負担にならず消化不良にもならないジャストサイズのことをやっている、というところがうらやましい。
当方はまだまだ、若さのコントロールが利かないで日記に振り回される毎日を送っている。
見習いたいものである。(※現在、circo cameraではブログを休止中。「智留彦・デジカメ徒然草」は健在である。)
雨が降らなかったので池袋まで行ってみた。いつもどおり山手通りのルートで北上。
地下鉄13号線の工事が本格化してきているなあ、なんて思いながら快調に飛ばしていくと、
途中でいつもなら難なく渡れた陸橋がなくなっているのに出くわした。
ちょうど西武線の椎名町駅の辺りで、こりゃいい機会だと思い、商店街へと針路を変える。椎名町については、名前だけは知っている、というレヴェル。確か帝銀事件の舞台になった場所で、
そして何よりトキワ荘である。手塚治虫のほか藤子不二雄も石ノ森正太郎も赤塚不二夫も暮らしたという、
伝説のアパートがあった場所である。といっても、今はもうその建物はなくなってしまっていて、跡地見学はしなかった。
そもそも最初から椎名町に来るつもりでいたわけではないし。そんなわけで、駅周辺をちょっとだけブラブラした程度。椎名町はいかにも、住宅街の中に駅ができてそれにつられて商店街ができました、という印象。
碁盤目のような街区に埋め込まれるようにして、商店が道路に面している。
この辺りの地名は豊島区長崎となっていて、「椎名町」という名前は存在していないのである。
駅名になってうっすら残っているだけ幸せと言えそうだが、なんともさみしい。
いかにも穏やかで小ぢんまりとした私鉄の駅で、騒がしそうな施設が全然ない。
地元住民の「椎名町愛」はけっこう強そうだなあ、なんて思いつつ、山手通りに戻る。で、池袋ではハンズをうろついてユニクロで下着買って、それから渋谷に行って日記書いて帰った。
特別にやることなんかないんだけど、でもまあ運動になるしってことで、なぜか池袋にはよく行っている。不思議。
うちの通信教育では、年4回試験がある。1回の試験は一日で行われ、最大4つまで受けることができる。
とりあえず今シーズンは4つぜんぶ試験を受けるつもりでいるのだが、なんとかその最後の1つのリポートを提出した。
とにかく勝手がわからないので、慎重にいくしかない。やっていくうちに、たぶんコツがつかめてくるだろう。
つまりは、手加減の仕方がさっぱりわからない。つねに全力で……なんて言えるほどの余裕は、僕にはないのだ。
バランスを考えながら要領よく。それが実現できることこそ、僕の理想なのだ。
そんなわけで、微妙に気合を入れて書いたリポート、どういった結果となって返ってくるか。
それによって今後のやり方が変わってくるので、けっこう不安である。なんとかなっているといいんだけど。
環境心理学の本のゲラと格闘である。年末も近くなってきているので、できるだけ早く著者の先生方に送りたい。
しかし当然、「ここはどうしましょう?」「表記をこちらに統一できませんか?」みたいな指示書きをしておかないといけない。
それで中身を読みつつチェックをしつつ、と忙しい。心理学のシリーズは今まで2つ担当しているので、ある程度要領がつかめているのが大きい。
それに、内容もまさに現在進行形の学問であるため(→2006.10.25)、ライヴの面白さに満ちている。やっていて楽しい。
しかし編集の仕事はやたらと手間がかかるわけで、しかも僕の場合にはつねにうっかりミスがつきまとって油断ができない。
とにかく必死。がんばるしかないのである。
修理した自転車を取りに上野まで行ったのだが、帰りに見事に雨にやられた。
この日の天気は非常に微妙で、昼間会社にいる間だけ雨が降って、帰る時間になってやむ、という感じだったのだ。
それで電車に揺られて上野に行って、自転車を受け取ってよかったよかったと思いつつ、
ぷらっとラーメン屋に寄って店から出たら、雨。いちおう折りたたみの傘を持ってはいるのだが、
飯田橋の駅に着いたときには胸から下はぐっしょり。無印良品の紙袋もベロベロに破れてしまった。
しょうがないので買った物を腕で抱えて電車に乗って帰る。いつも座って帰れるのは、非常にありがたい。
晴れている日は調子がいいのだけど、雨が降ると途端に引きこもって『信長の野望・武将風雲録』である。
このゲームにハマったのは中1からなのでもういいかげんに飽きていいはずなのだが、これが飽きない。とりあえず現在は、全大名クリアを目指してコツコツといろんな地方の大名を巡回している状況である。
ちなみに本能寺の変を出すと遊べる「シナリオ3」で登場する大名は、すでにぜんぶクリアしている。
(真田家でプレーできることがどんなにうれしかったか! 上野の大名となっている点がちょっと不満だが。)
しかも、ESC(エスケープ)キーを押しているとコンピューターのプレーを見守っていても乱入できるという裏技があるので、
それを使って謀叛を起こした大名でプレーすることができるのだが、それももう7番目の謀叛大名までクリアしている。
(つまり、あらかじめ忠誠度を下げておいて、城主が謀叛を起こすのを待つのだ。謀叛が起きるかどうかはランダムで、
謀叛が成功するとその国の色が初期設定にはない色に変化する。この色を見たいがために謀叛を起こさせているのだ。
ちなみに7番目の色を出すためには、6番目までの謀叛大名がすべて現存していないといけない。かなりハードである。)
しかも僕は政治力が70以上ないと城主にはしない、というポリシーがあるため、「教育」にやたら時間がかかる。
それでも茶器を奪って内政コマンドで「無礼講じゃ、近う寄れ」で「いつぞやの恨み」を起こして大名を暗殺して、
そうして朝倉宗滴を大名にして寿命で死んじゃう前に全国統一とかやっているのである。もはやマニアックにしか遊べない。
(もちろん結城家は晴朝ではなく政勝でクリアする。相良は晴広、尼子は晴久。寿命で当主交代は屈辱なのだ。)国・大名・武将・シナリオの数がもっと増えれば、間違いなくそれに比例してハマってしまうだろう。
同じシステムでグレードアップ版をつくってほしいけど、そしたら人生の貴重な時間を今以上に浪費するのは明らかだ。
でも蠣崎家とか武将風雲録のシステムでプレーしたいのー。いやしかしよくできたゲームだよホントコレ。
昨日の夜、久々にMessengerをつないだら(最近は通信教育の勉強でご無沙汰だったのだ)、
ワカメとふぐさんと「モテたい」という話になった。まあこれは毎度のことで、いかにもダメな20代っぽいトークで、
その時間の浪費っぷりが楽しいのだが、好きになった女の子にことごとく彼氏がいて厄払いを希望しているワカメと、
mixiで知り合った女の子とデートするのだ!と鼻息を荒くしているふぐさんとに囲まれ、集中砲火を浴びた。
まあ僕としてはモテる以前に磨かなくてはいけない中身の問題があるわけで(この発想がいいかげん中二病なのだが)、
そのことを主張したら、男は中身どうこう以前にまず外見からだ!つーか外見磨くのも中身を磨くうちだ!と諭された。
そりゃそうだ、と思ったわけで、しかもちょうど翌日(つまり今日だ)髪を切る予約を入れていたので、
じゃあ明日イケメンになるぜ、と。(オレは美容院に行った日だけはイケメンだぜ。翌日からブサイクに戻るけど。)
そしたら、社会人なんだから服を買う余裕ぐらいあるだろ!と言われたので、おうじゃあいいよ、買えばいいんだろ、買えば!――そんな感じのやりとりがあって、髪を切ってから、服を買いに出かけた。
……といっても、服なんざマトモに買ったことないから、どこへ行けばいいのかわからないという有様。
(いつもはスポーツ用品店で買ったシャツで済ませている。だからこの季節は毎年着る物に困っているのである。)
とりあえず「ユニクロに行けばいいんだろ!」「待て! 無印良品のほうがオシャレだ!」ということで、無印良品へ。
そういえば何年か前にも潤平と同じようなやりとりをしてなんかオススメのファッションを教えてもらったけどすっかり忘れた。で、無印。店には頭のない人形が服を着ているようなのが置いてあって、なるほどこういう組み合わせにするのか、と。
コーディネートとか生まれてこの方、一度も考えたことがないので、要するにシャツを着てジャケット羽織ればいいんだろ、と。
とりあえずカジュアルなワイシャツを選ぶ。少しだけ大きめなワイシャツをだらっと着るのは好きなのだ。
でも大きめのワイシャツを相手に着せるのはもっと好きです。したことないけど。
そんなわけで白い無地のワイシャツと、自転車に乗っていてもあったかそうな黒いブルゾン(という名前のもの)を買った。
あと、ワカメがカーディガンを着る人なので、じゃあ僕も!ってことでカーディガンも買った。けっこうな額が吹っ飛んだ。家に戻って着てみる。ブルゾンを羽織ってみて、そういえばオレって黒い服を着ていることが圧倒的に多いな、と気づいた。
でも黒は締まって見えそうな印象があるからいいや、と思う。つまり僕は黒い服が好きってことなのだな。
29歳にしてようやく自覚したわ。それからワイシャツの上にカーディガンを着たら、なんとなくナースになった気分がした。金とやる気があればファッションは面白い、ということがちらっとだけわかった気がする。
本ができあがって、先生に本を届けに行く。
文章にはまったく狂いがないし、対応も極めて丁寧にしてくださり、非常にスムーズにできあがった本である。
そんなわけでいつも以上に非常になごやかなムードで雑談などが繰り広げられる。
反面、やはり売り物をつくっているという緊張感をあらためて実感する。
去年、右も左も完全にわからないまま作業をしていたことが、ちょっと怖くなる。
(今だって十分わかっているわけではないのだ。それだけに、よけいに背筋がぞくっとした。)
その一方で、責任ばかり感じては自由に動けなくなってしまうわけで、まあ、いかにしてバランスをとっていくか、
結局、経験ってのはそれを知っているかどうかなのかな、と考えてみる。
小松左京『日本沈没』。
まず最初のところを読んでみて思ったこと。「なんだコイツ文章めちゃくちゃヘタじゃん!」
とにかく、読点が、多すぎる。やたらと、読点が入ってくるので、ものすごく、読みづらい。
僕の感覚では、読点というのは自分で自分に相槌を打つようなものである。
自分がいま書いている文を客観的に聞いているつもりになって、もし自分が聞き手だったらここでうなずきたい、
というタイミングで読点を入れている。それが読みやすい文章につながる、そう信じているところがある。
しかし小松左京は完全に、書き言葉のひとつのグループ、日本語の文節のひとつ上の単位として読点を使う。
それがどうにもぎこちない印象につながっていて、上記のようなことになるわけである。しかし読みはじめてしばらくすると、その圧倒的なリアリティというかリアリティの感じさせ方というか、
まあつまり世界観の構築ぶりにグイグイ引きこまれていく。要は「どう書くか」ではなく、「何を書くか」なのだ。
この「何を書くか」という点において、この『日本沈没』のやっていることは、今の時代もまったく古びていない。
1973年に発表された作品であるが(東京オリンピックの1964年から9年がかりで書かれたというから凄い)、
むしろ今の時代だからこそリアリティをもって読めるようになってきている部分がある。深海潜水艇のパイロット・小野寺を軸に、田所博士や現場で動く幸長・中田といった面々の活躍を描いていく。
その背景にあるものは、最初は明らかにされない。あくまで、田所博士のイヤな予感としてしか存在していない。
しかしそれは急激に姿かたちを現してくる。科学とセンスで現状を把握し、事態を見極めようとする、それが前半。
後半は、いよいよ危機が目前に迫り、舞台を政治的な関係性に移しながら“最小限で”乗り切ろうとする姿が描かれる。
まず現実と同じ現在からスタートして、枝分かれして、パラレルワールドとして物語は進んでいく。
だから、無数の「本当」の中にたったひとつだけフィクションが混ぜられている、という形になっている。
最も優れたウソには本当のことが混じっていないといけない、まさにそれ。
読者は、現実と平行に走っている世界のできごとを、猛スピードで目撃することになるのだ。
それが上で述べた「世界観の構築ぶり」だ。まさに対岸(平行する場所)の火事では済まされないぞ、と背筋が寒くなる。おおまかに、前半は科学、後半は政治、と内容をカテゴライズすることができる。
両者に共通しているのは、現実をどう認識し、どう扱うか、というセンスの問題ということ。
科学は人間とそれを取り巻く環境との関係性の問題だし、政治は人間と他者としての別の人間との関係性の問題だ。
この小説では、個人という単位を描きながら日本人という単位を見つめていて、
そのうえで上記のような現実の扱い方という複雑な関係性を幅広い視野から描き出している。
壮大なウソで枝分かれしたパラレルワールド内で完結する話のため、作者も読者も客観的に受け止めることができる。
しかしどうしても、実はまだその枝分かれが始まっていないんじゃないか、という怖さが消えることはない。
舞台のスケールの大きさといい、描ききったふたつの対象(科学と政治)といい、非常にレヴェルの高い小説だ。
文章はアレだけど。そういえばかつてラジオで伊集院が、『日本沈没』のドラマシリーズを絶賛していた。
小説がいわばトップダウン的な、権力(≒知、科学と政治の結びつき)を有するサイドから事態を描いていったのに対し、
こちらはボトムアップ的な、翻弄される一般市民の姿の中にあるドラマを描いていったものであるそうだ。それはぜひ見たい。
DVD化されているらしいので、なんとかして機会をつくって目にしたいと思う(古いほうの映画も見なきゃ)。
頭が痛い。理由がわからないだけに困る。
こうしてたまに急に調子が悪くなると、普段の健康のありがたさがしみじみわかる。
でもまあ、そんなに頻繁に調子が悪くなるわけでもないので、頑丈な体に育ったことは素直にうれしい。思えば、小学校低学年のときにはかなりひ弱な子どもであった。
しかし中学も後半になると、「象が踏んでも壊れない」と言われるくらいにタフになった。
おかげで調子が悪くてもそのことに気づかない、そんなふうになってしまった面がある。
これからじわじわ、体のあちこちにガタがくるようになるんだろう。非常に恐ろしい。
まあ、調子が悪いと気づいたらそれなりに対処をしていくことを、なんとか心がけるとしましょう。
昼休み、リポートを提出してきた。毎朝昼にテキストを読み、都立中央図書館で文献をあさり、毎晩帰宅してからまとめ、
北陸旅行の間にもパソコンを引っぱり出してえっちらおっちら書いてきたリポートを、やっとこさ提出したのである。
どんな評価が下されるか知らないが、これでダメと言われてもちっとやそっとじゃ書き直せないぞ、という程度にはがんばった。
大学時代にどんな感じで提出課題をこねくりまわしていたか、すっぱり忘れてしまったため、ゼロからがんばり直した感覚だ。
やっていくうちに要領がつかめて慣れていくんだろうけど、慣れないうちは手間がかかるし不安だ。まあ、耐えていくしかない。
とりあえず、まだ1本残っているので、それを全力で片づける。そうしたら、試験に向けてコツコツ準備をしていくのだ。
僕は、小・中・高を通して、ずーーーーーーーーーーーーーーーーーっと、勉強嫌いの子だった。
あまりに勉強をしないために浪人ぶっこき、勉強しないと暇で暇で死んでしまうという予備校での寮生活を送ることになり、
ここでようやく受験に臨む者として最低限の勉強をやるようになった。12年間充電したものを1年間で放出した感じだ。
本当にそれくらい勉強をしなかった。なんでそんなに勉強が嫌いだったのか、ちょっと考えてみる。なぜ勉強をしないのか。勉強をしなくてもテストができるから? いや、それなら浪人することなどありえない。
高校に入ってズルズルと成績が落ちていく中でも、決して勉強をしなかった。そしてそれを気にすることがなかった。
つまりはまあ、勉強というものを、何かヨソの星でやっているものくらいにしか思っていなかったのだ。
僕にはそれよりももっとやりたいことがいっぱいあったので、勉強は授業の時間に集中させて、あとは極力控えていたのだ。なんで勉強を面白く感じなかったのか、という視点で考える。成績を褒められてうれしかった記憶などただの一度もないし、
できなかった問題ができるようになって充実感をおぼえた、ということも一度もなかった。
(高校の合格発表を見に行って、自分の番号を見て「ああ、あるね」とだけつぶやいて顔色ひとつ変えなかった様子が、
潤平にはけっこう印象的だったらしい。確かそんな話を昔聞いたような気がする。まあそれくらい勉強に関心がなかった。)
親や友人や先生に悪いので、成績が良かったときには表面上喜んではいたけど、何点を取ろうが別にどうでもよかった。
さすがに5科目合計401点で踏みとどまったときには焦ったが、勉強については本当に興味が持てないままで過ごした。
友人と一緒にいることが純粋に面白かった僕にとって、勉強とは、学校生活におけるおまけの要素にすぎなかったのだ。
勉強がメインでなかった分、作曲やらクイズやら左打席でのバッティングやらに熱中していたわけである。
要するに、他人ができないこと、やろうとしないことについては熱中したが、みんながやることについては興味がなかった。
自分の周りに、作曲するやつ、クイズに強いやつ、左打席に立つやつがいなかったから、僕はそれに熱中していた。
勉強なんて誰でもやっていることだし、やれば公平に結果がついてくるものだから、僕にはまったくやる気がしなかった。
どうも、そういう結論に落ち着きそうだ。われながら、なんて生意気なやつなんだ。しかし当然、そういうやつには罰が当たるように世の中はできている。
それで僕は今、こうして毎晩、ヒーヒー言いながら英語の辞書をめくっているのだ。
10代の頃に勉強をとことん拒否した分、今、こうして20代の終わりになって、勉強をよけいにやる破目になっているのだ。
だから僕は、素直にそのことを受け止めている。ザマミロ自分、これでおあいこだコンチクショーと思いつつ辞書を引いている。
しょうがないのだ。だって僕は、他人ができないこと、やろうとしないことについてはやる気が出てくるタチなんだから。
circo氏が上京してきたので、どこに行こうかとちょっと考えて、「ららぽーとへ行きめえ」と提案する。
先月オープンに立ち会ったららぽーと豊洲だが、circo氏の反応を見てみたくなったことを思い出したのだ(→2006.10.7)。
「ららぽーとって、船橋じゃなかったっけ?」「や、豊洲にもできた」というやりとりをしつつ駅まで歩く。
(circo氏は長野県在住だが、深夜でやっている『アド街ック天国』はしっかりチェックしており、こういう情報に比較的強い。)
ああそうだ、船橋のららぽーとにもいつか行ってみたいものだ。自転車だとちょっと気合が必要だな……とチラッと考える。地下鉄有楽町線に乗り換えて豊洲まで向かう。豊洲ってのは、有楽町線のほかはゆりかもめしかないわけで、
アクセスはお世辞にもいいとは言えない。しかし、広大な空間を利用して開発熱が盛り上がっているのだ。
地下鉄でのアクセスになるということで、circo氏は「『ぬかてつ』しかないわけ?」と訊いてきた。
そうなのだ。我が家ではなぜか地下鉄を「ぬかてつ」と呼ぶ。マツシマ家では1文字ずらしが標準形なのだ(→2006.1.2)。
circo氏が学生時代にふざけてそう呼んでいたのが由来らしいのだが、この突飛な1文字ずらしのセンスには脱帽である。
おかげで「ぬかてつ」と会社で言ったら同僚に「この人はどういう育ちをしてきたんだ」という目で見られた(気がする)。豊洲で降りると、人の流れに沿って地上に出る。そのまま、ららぽーとへと吸い込まれるようにして入っていく。
中はさすがにオープン時ほど混んではいなかったが、それでもかなりの人出だ。各フロアをぐるぐるくまなくまわっていく。
circo氏はさまざまなブランドが出店している様子を見て、アウトレットと同じ匂いを感じたようだ。
売り場については、趣味・仕事柄、家具の店を重点的に観察していく感じ。特に椅子をきっちりと見ていた。
安アパートでいかに物を置かないかをテーマに生きる僕と違い、circo氏にとって家具は仕事上のセンスの見せ所になる。
そんな立場の違いを感じつつ、僕もcirco氏に倣ってあれこれ眺める。まあ正直、あまり僕の好みに合うものはなかった。スタバで飲み物を買うと、中庭に出て座り、軽くあれこれと話す。
僕はキッザニアを例に引きつつ、前に来たときに感じた商業施設の変容なんかを少々。
考えてみればcirco氏が上京するたび、都内のあちこちの商業施設を歩きまわっているわけで、
きちんとそれらの感想をまとめてみると面白い気もする。田舎のアウトレットが大好きなcirco氏の視点と、
都会で独り暮らしの自分の視点。どちらも客としてはあまり「標準的な存在」ではないのだが、
だからこそ踊らされずに見えてくるものもあると思うわけだ。ある意味、他者として冷静に分析できるのではないか、と。
各施設の違いは、いかに「虚」をあれこれ演出していくか、という点の差異だ、という意見はふたりに共通している。
ただ、僕はその「虚」をそれほどネガティヴなものとして捉えてはいない。念のため。ららぽーと内のfood circusで晩メシを食べる。ここは他のレストランとは一風変わっている。
アメリカやアジアの料理が食べられるのだが、国別に屋台のような調理場が独立していて、そこに並んで注文するのだ。
つまりは完全にテーマパークのスタイルになっているのである。テーマパークでの食事、あるいは料理のテーマパーク。
circo氏はカプサイシンの摂取に余念がないヒトなので、タイ料理のカレーを食べるのであった。
僕はアジアンを扱っているならそれを食うしかないだろうということで、海南(ハイナン)チキンライス。
まあそこはやっぱり本格的なものではなく、わりとレトルト的な味だったが、香菜がそこそこ効いていたので満足はした。そんな具合に都会の商業施設の最新事情を味わい、circo氏は飯田へと帰っていった。
豊洲から新宿に連絡する「ぬかてつ」経路がイマイチわからなかったが、恐怖の永田町~赤坂見附歩きは無事に避けて、
市ヶ谷でさっさと都営線かJRに乗り換えた模様。「ぬかてつ」を使いこなしていますな。
せっかくの土曜日なのに、雨のせいでろくすっぽ何もできず。
いつも日記に書いているように、僕はその日の天気に精神状態が左右されやすくて、雨が降るとかなりネガティヴになる。
逆に天気がいいときには自動的に躁状態になって特に何も考えないまま自転車で家を飛び出してしまうわけで、
こういう両極端なスタイルはどうにも健全ではないように感じられて、少し不安になってくる。
そう理屈では考えているのだけど、雨が降ると思うように体が動かなくなるのである。ここんとこ、休日の片方を雨にやられるパターンが多いように思えて、リカヴァーもいつもの半分って感じになってしまう。
もうちょっとちゃんとした趣味を持たないといけないのかねえ、とボンヤリ考えるが、いいアイデアは浮かばない。
それで結局、堕落したまま時間をつぶしてしまう。なんとか、気分転換の方法を見つけないといかん。
今さら書くのもナンなのだが、クリップ型になったiPod shuffleがめちゃくちゃかっこいい。
以前のiPod shuffleは板ガムのパッケージのサイズと比較されていて、つまりはただの棒という印象だったのだが、
radio remoteとまったく同じクリップ型のデザインになって、ぐっと魅力的になった。
1GBなんて自分にとっては水たまりくらいの容量にしか感じられないんだけど、絶対に必要のないものなんだけど、
でもそのデザインを目にするたび、ものすごく欲しくなってしまう。ひょいっとポケットに入れておきたい、そういうアイテム。
僕にはデザインで衝動買いをしたくなるということが、めったにない。しかし、このiPod shuffleには強い引力を感じてしまう。
誰かに「買っちゃえばー?」と言われれば誘惑に負けてしまいそうだ。必要性がないとわかりきっているのに。
他にそういう存在がないだけに、いっそう輝かしく見えてしまう。まったく困ったもんだ。
室積光『都立水商!』。
一言でまとめれば、上手い。物語の見せ方、読ませ方をきちんと知っている。
作者はもともと俳優だったそうなので、そういう現場での経験が作品に十分に生かされているのがわかる。
物語は回想を中心に展開される。都立水商業高校の教員、田辺圭介が教師を辞めて実家に帰るところから始まる。
それで最後に校内をまわっていく中で、思い出話として水商にまつわるエピソードがひとつひとつ披露されていく。
つまり最初から回想と割り切ってしまうことで、各エピソードを手際よく描いていくことができる。
そしてクライマックスにスムーズにつなげる効果も持たせている。これは物語に触れる経験が豊富でないとできない。とにかくバカバカしい設定でまず、勝ち。バカバカしさの中に一粒真剣さを混ぜておくことで、
気軽に読める中にたまにきちんと考える、というバランスをうまく成り立たせている。
まず面白いことが大切。それでいて、マジメに考えることもできればなおさらよい。
そういうエンタテインメント的精神が存分にあふれていて、逆もまた真なり、なんて言葉を思い出させられる。
また、登場人物をじっくり描いていくようなことをせず、読者の頭の中に浮かんだ姿を優先させるのも特徴的だ。
これは「キャラさえ確立できればそれでいい」という極めて現代的な姿勢と言えるかもしれないし、
「誰もがその役を演じられる」ということにもつながるだろう。やはりこの辺も、俳優としての経験を感じさせる。問題点を挙げるとすれば、やはり後半、野球で熱くなりすぎちゃっているところか。
スポーツ、特に野球に詳しい作者で、それはそれで確かにきちんとよくできていて面白いのだが、
作品本来のテーマからすればけっこう脱線が激しい。ややバランスを欠いている印象は否めないのである。
その辺りの反省は、猪熊しのぶのマンガ版のほうでやっているわけで、まあ、それぞれと。まあそういうわけで、何の苦痛もなくスイスイ読めるうえにバカバカしくてちょっとマジメ、という話なので、
娯楽としてはうってつけ。やっぱりこういう作品にはきちんと評価を与えていかないといけないよなあ、と思った。
今日はフォントについて少しだけ賢くなったので、そのことを日記に記録しておこう。
いつも僕がこの日記で使っている書体は、UIゴシックである。
かつては等幅のゴシックを使っていたのだが、幅をとるのでリニューアルした際にPゴシックにしようかと考えた。
この「P」は「propotional」という意味のP。文字の間隔を均等にするのではなく、見やすいように詰めたフォントだ。
(ちなみに、たいていのパソコンの初期設定では、フォントを無指定にしていると、Pゴシックになるようだ。)
で、それならいっそのこと、スマートに見えるようにもっと詰めちゃえ、ということでUIゴシックにしているのだ。
本文中のローマ字・数字についても、同じようにUIゴシックにしている。ただしこの日記の日付の部分のフォントには、Arialを使っている。これはパソコンでは典型的なサンセリフのフォントである。
「サンセリフ(sans-serif)」というのは、「セリフがない」という意味。「セリフ」とは「台詞」のことではない。
ローマ字についてくる飾りのことだ。日本語では「ウロコ」なんて表現をすることもある。
たとえば、最も標準的な欧文フォントのひとつであるTimes(上)と、サンセリフのArial(下)を比較してみよう。ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZ abcdefghijklmnopqrstuvwxyz
ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZ abcdefghijklmnopqrstuvwxyz
上のTimesでは、文字の端っこのところに飾りがついているのがわかるはずだ。これが、セリフ。
一方、下のArialでは文字に飾りがない。これが「サンセリフ」なのである。ちなみに、Times(正式にはTimes New Roman)はイギリスの新聞「Times」のためにつくられた文字である。
ではArialとはなんぞやと思って調べてみたら、これがよくわからない。Helveticaから派生したものらしいのだが……。
それじゃあHelveticaとは何か。これは実際の組版でもかなりよく使う、サンセリフの代表的な書体である。
1957年にマックス=ミーディンガーという人がデザインした。Helveticaとは彼の母国・スイスのラテン語名なのだ。
スイスは多言語国家だからどの言語でも違和感のない優れたデザインが生まれたのだとかなんとか。まあそんなわけで、調べていったらキリがない。たかが書体、されど書体という奥の深さなのである。
とりあえず、いざってときにきちんとしたものがつくれるように、最低限の知識を身につけておかなければ。
そのための備忘録として、とりあえず日記に書いておくのだった。
旅行中に早寝の習慣がついてしまったためか、東京に帰ってきて以来、朝が妙に快適である。
とにかく、頭の中がすっきりしている。視界がすっと晴れやかな印象で、ベッドから飛び降りるとすぐに軽快に動ける。
そういう状態がいつ以来なのか思い出せない。それくらい、最近はすっかり重苦しい朝ばかりを過ごしていたのだ。
いつまでもこれが続けばいいのだが、と思う。この早寝早起きのサイクルを、なんとかして保持したい。
仕事終わって家帰ってメシ食って風呂入ってデジカメで撮った画像のサイズ調整やってたらもう寝る時間。
いつになったら日記を書き出せるやら、である。かなりの分量を書かなきゃいけないというのに。
ここまでなんとかコツコツ負債を返してきたのだが、また借金生活に逆戻りするのが目に見えている状況である。
なんとか、早く、とりかからないと。しかも、通信の勉強ともバランスをとっていかないと。いやはや、大変だ。
朝、むっくり起きると支度をととのえて、宿を出る。体調は小康状態といった感じ。
福井から直接東京に帰ることは考えていない。バスでいったん名古屋に出ることに決めていたのだ。
電車での移動も考えなくはなかったのだが、そうするとけっこうルートが複雑に思えた。
それに乗り換えの時間も見当がつかなかったので(僕は時刻表が読めない)、バスにしたのである。さて、高速バスに乗るにはバスターミナルを探す必要がある。たいていの場合は駅前にあるので、
福井駅までてくてくと歩いていく。この旅行の間は雨が降ることがなくてよかったなあ、なんてのん気に考える。
で、駅に来て辺りをウロウロと歩きまわってみるが、バスという文字がどこにも出ていない。
あれ? おっかしーなーと思って地図をベロベロと舐めるように見まわしてみると、「京福バスターミナル」の文字を発見。
所在地は……なんと、いま歩いてきた中央大通りとフェニックス通りの交差点なのである。
昨日から何度もその前を行ったり来たりしているのに、全然気がつかなかった。自分の間の抜け方に呆れる。来た道を戻ってバスターミナルへ。名古屋行きの切符を買おうとするが、10時半の便まで空席はないとおねーさんは言う。
とりあえず9時半の便をキャンセル待ちして、再び福井の商店街へと向かうことにした。
(ちなみに、東京への直行便は7時半の1本のみ。あとは夜行になってしまう。体調が悪いのに7時半発なんて無理。)
ファストフードの店に入って、パソコンを取り出しここでもリポートを書く。あれこれインチキ文章をこねくりまわす。9時15分くらいにバスターミナルに戻ると、おねーさんに名前を呼ばれた。予約が取れたとのこと。
これ以上福井で暇をつぶすのはつらかったので、ほっと一安心。それからバスが出るまで、辺りをウロつきまわる。
まだ佐桂枝廼社(すぐそこにあるのだ)にお参りをしていなかったので、いつものように二礼二拍手一礼。京福バスターミナル内の店。この「空」のデザイン、意外とすごいと思うんですが。
当然のごとくバスの中では熟睡。僕の記憶は、バスが発車してから5秒後には賤ヶ岳SAに降り立った形に編集されている。
僕は鉄分が少ないかわりに高速道路がわりと好きで、初めて走る高速道路の景色は覚えておきたいと思っていたのだが、
強力な眠気にあっさり降参。同じように、再び気がついたときには名古屋駅前からバスターミナルに入っていくところだった。今年、名古屋に来たのは4月(→2006.4.11)、8月(→2006.8.15)以来。でも印象はそのときと大きく違っている。
そう、トヨタが全力をかけてつくったビル、ミッドランドスクエアが竣工しているからだ。でけー
とはいっても中はオフィスばかりで商業施設がまだオープンしていないので、行く場所が増えたわけではないのだ。
今回はできるだけ早く東京に帰りたかったので、大須・栄には行かないことにした。
せっかく来たのにもったいない気がするが、キリがないからしょうがないのだ。昼メシは当然、寿がきやラーメンである。
名駅周辺で寿がきやラーメンは予備校地帯(太閤口の北側)のはずれにある一軒しか知らないので、直行。
休日なのでひと気は少なかったが、それでもまあ品のよろしくない連中がいるのが名古屋の駅裏。
10年前(もう10年にもなりますかね)には僕もその一員だったので、彼らのことを白い目で見られないのである。
L: 寿がきやラーメン。これを食べないと名古屋に来た気がしない。こういうチープなメシもおいしいものなのだ。
R: これがラーメンフォークだ! 寿がきやラーメンといえば、コレですよコレ!久々の寿がきやラーメンを堪能すると、名鉄メルサの中にあるCD屋を目指して再び桜通口へ。
とにかく掘り出し物が多い店で、浪人中にはさんざんお世話になった。
どう考えても、もうこの世には存在していないだろう……というようなプレミアものが平然と置いてある、そういう店なのだ。
が。
行ってみたら、どこにも見当たらない。エスカレーターの位置は変わっていないのに、店がなくなっている。
茫然とするのを通り越して、現実を受け入れられなくて、右往左往して歩きまわる。しかし、店はない。
オレの中で名古屋に来る意味が半分近くなくなったー! 心の中で叫ぶ。もうどうしょうもない気分になって、バスに乗り込む。そしたら東名高速が超渋滞。ノロノロしながらバスは行く。
結局、予定よりも2時間ほど遅れて東京駅に着いた。風邪がぶり返してきた感じで、力が出ない。
それでもなんとか家まで戻って、風呂に入って寝る。明日から仕事だなんて、信じられない。
宿を出ると、体の調子を見つつ、駅へと歩く。香林坊のわりに単調なオフィス街を抜けるとさびれた武蔵ヶ辻、
そこから駅までもおとなしい空間が続く。それでも金沢駅に着くと人口密度が上がるので、なんとなくほっとする。さて、北陸本線のホームまで来てがっくり。福井に行く次の普通列車まで1時間待ちなのだ。
大阪まで行く特急はけっこう充実しているのだが、普通列車はまったくそうでないのである。
しょうがないのでベンチに座ってノートパソコンを引っぱり出し、リポートの続きを書いていく。
そんな感じで必死になってあれこれ文章を練っているうちに、福井行きの列車がホームに入ってきた。普通列車はのん気なもので、特急の待ち合わせがあったりなかったりで、ゆっくりと南進していく。
その間iPodでビル=エヴァンスなんぞを聴きつつ窓外の景色を眺めたり眺めなかったり。
福井は県庁も市役所も街の中心部にあるので、そんなに焦る必要はない。
そんなわけで、優雅にピアノトリオの演奏を楽しみつつ、のんびりと揺られる。福井駅に着いたのが、午前10時半ごろ。まずは観光案内所で地図とビジネスホテルのリストをゲットするのである。が。
係のおねえさんに訊いてみたら、「今日は『うたごえ』というイベントがあるので、どこも宿泊施設がいっぱいなんですよ」。
なんとかなりませんかねえ、と食い下がったら、「福井の後どこか行かれます?」「まあ、名古屋まで出ようかなと」
「それなら今日のうちに名古屋まで行って泊まられたほうがいいと思います」って、オイ。
言葉の裏には、福井の名所なんてほとんどないしソースカツ丼食べたらおしまいですよ、って雰囲気が漂っている。
これは困った。もうちょっとなんとかコンスタントに観光収入を上げようとしてくださいよ、福井市の皆さん。とりあえず足羽(あすわ)山方面に行けば宿が確保できるかもしれない、ということで、まずは市役所を目指す。
駅の東口は見事なまでに開発中で何もなく、西口に出たら中央大通りが大規模な工事中。
観光で福井に来るタイミングとしては最悪だったのかもしれないなーと思いつつ、大通りを西へ進む。
大通りはフェニックス通りとの交差点に出るまで、ずーっと工事中だった。
L: 福井駅。これは西口だけど、東口もまったく同じデザインなのであった。
R: 福井駅から見た、中央大通り。中央分離帯のところを非常に大規模に工事していて、人通りはあまりなかった。とりあえずフェニックス通りとの交差点まで進む。京福バスターミナルのところで右折。
目の前を路面電車が通っていく。うーむ、これは乗らなければ、と思いつつ、また右折して中央公園へ。福井市役所は、岡倉天心の像が目立っている中央公園の南側にある。
佐桂枝廼社(さかえのやしろ)という神社が隣接していて、そちらの方からまわり込んで正面に出た。
建物としては非常にオーソドクスで特にコメントしようがない。周辺の建物との距離が近く、撮影に苦労した。
そういう点では、周りの建物に埋没気味の地味な存在ってことが言えると思う。
L: 福井市役所を正面から。全体像を撮ろうとすると、周りの建物がどうしても入ってきてしまう。
R: これは中央公園から撮影した市役所。つまり裏側から見たところ。市役所からちょっと東に行けば、水がたっぷり張られた堀と見事な石垣、そして堂々とした建物が見える。
これが、福井県庁と福井県警本部である。見てのとおり、福井城址につくられているのである。
福井城自体は結城秀康(家康の次男)がつくった。秀康の後は松平氏が治めている。
(福井藩主でいちばんの有名どころといえば、なんといっても松平春嶽だろう。)
L: 正面の御本城橋より眺めた福井県庁。石垣は当時からのものだが、上物がオフィス建築ってのがなんとも。
R: この角度から見ると、県庁が現代の城郭に思えてくる。そういう意味では歴史的に面白い場所なのかも。厳密に言うと、県庁は天守閣の跡地に建っているわけではない。
天守閣の跡地は県庁の裏手に位置しており、石垣と芝でできた公園となっていて、自由に出入りできる。
ちょっと奥まっているしこれといって何もない場所なので、ひと気はほとんどないのだが、まあ確かに憩いの場ではある。
「福井」の名のもとになった福の井という井戸がありベンチが置いてあるくらいだが、呆けて過ごすにはいいのだろう。
L: こちらが福の井。天守台のすぐ下にある。こんなちっこいのが県の名前にまでなったってのに正直びっくり。
C: 福の井の中には、ちゃんと水が溜まっていた。 R: 天守の跡。かなりコンパクトな印象のする空間。よく考えたら、今回の旅で訪れている富山・金沢・福井の北陸3都市は、どこも街の真ん中に城址がしっかり残っている。
東京に長くいると城下町にいるんだという感覚が麻痺してしまうのだが、久々にそういうものを確認した気がする。
(現在の東京は江戸の範囲をはるかに超えて広がっている。そして横浜も千葉も浦和・大宮も城下町ではない。)
なんというか、市街地が空間的に「城下町」と呼べる最適なサイズで、そういう歴史的経緯を実感しやすいのである。
だから旧令制国でいちばん大きな城下町がそのまま県庁の所在地になる、その感じがつかめた気がして面白いのだ。さて県庁から福井駅前に戻る。中央大通りの一本南には路面電車の終点(始点)になっている通りがあって、
これをまっすぐ西へ進むと、さっきのフェニックス通りとの交差点に出るようになっている。
(つまり、この通りと中央大通りが鋭角をつくり、東端で駅前商店街がフタをして三角形をつくっている。後述。)
ここが福井市内ではいちばんの商店街である。中央大通りは通りの両側が一帯感を持つには広すぎるが、
こちらの通りはちょうどいい広さになっている。女子高生をはじめとする若い世代の姿がよく目立っている。
さっそく路面電車に乗る。北のほうにある田原町駅止まりなので、そこから西へ歩いて福井大学に行ってみることにした。福井市街では路面電車なのだが、南へ行くとふつうの電車に切り替わるっぽい。
電車はフェニックス通りを進む。そもそも「フェニックス」とは福井市が宣言している「不死鳥のまち福井」からとられている。
福井市は1945年7月に空襲に遭い、1948年6月には福井地震によって壊滅的な打撃を受けている。
(特に福井地震の死者数は、阪神大震災に次いで戦後2番目を記録しているのだ。)
そのためか、福井市内の主要な道路は道幅が非常に広い。東西南北にほぼまっすぐ、碁盤目のように道が通っている。
さまざまな災害によってかつての街並みが失われてしまったわけで、そういう歴史的な経緯を知ると、なるほどと納得がいく。田原町駅で降りると、住宅街を西へと歩いていく。
手元の乱雑な地図だけを頼りに知らない道を行くことに、もうずいぶんと慣れてしまった。
傍から見れば、さもこの土地を知っているような歩きぶりなんだろうけど、全然そんなことはないのだ。
だけど歩いている中で、どこか心の奥底に「きっと大丈夫」という安心感があるのは確か。
それが僕が日本人なのだ、ということなのかもしれない。strangerという言葉の意味を逆説的に実感しつつ歩く。で、そのうち芦原(あわら)街道に出て、福井大学に到着。
高校時代にクラスのソフトボールチームで4番・キャッチャーだった友人の母校である。
彼とは浪人ぶっこいて一緒に名古屋で過ごしていたので、なんとなく感慨深いものがある。
(センター試験の数学が旧課程だけ難しくて大失敗して、ふたりで気晴らしにバッティングセンターに行ったのはいい思い出。)
今は元気にエンジニアやっとるんだろうなあ、なんて思いつつ学生のふりしてキャンパスの中に入る。まずなんといっても、「福井大学」と堂々と書かれたやたら背の高いビルが目立つ。
福井市内にある建物としては異様に高さがあるので、これはかなりの広告になってるんだろうなあ、と思う。
しかしそれ以外の建物はちんまりしていて、しかもキャンパスも広くないので、なんだかちょっと消化不良。
そもそも福井大学は教育地域科学部と工学部しかないという、言っては悪いがけっこう“いびつな”大学なのだ。
(2003年に福井医科大学と合体して医学部ができた。でも当然、医学部のキャンパスはそのまま別の場所にある。)
だから印象としても、確かに大学なのだが、どこか物足りない感じが漂っている。
考えてみれば僕も文系の学部しかない大学と理系の学部しかない大学の大学院しか知らないので、
きちんとした総合大学というものを経験してはいないのだ。おとといの富山大学は小さかったが、なんとなくカラフルだった。
学部の数だけ色の数が増えて鮮やかになるような、そういう要素は確かに存在している。
不思議なもんだと思いつつ福井大学を後にする。福井大学。南側(右)の工学部と北側(左)の教育地域科学部のみで小規模。
芦原街道を南に戻り、「福井の大仏」があるお寺を目印に左折する。
そうしてまっすぐ行ったら福井地方裁判所の脇に出た。さっき路面電車に乗っていて圧倒された建物だ。
近づいてみると、新しく建てられたもののように見える。窓ガラスのサッシュが特にきれいだ。
後で調べてみたら、1953年の竣工。これはどういうことなのかと思ったら、2001年になって、ファサードの修復をしたとのこと。
福井復興のシンボル的存在の建物なのだそうだ。道幅の広さが、この建物の風格を強めている。
L: 芦原街道から北を眺める。福井市内の道は本当に幅が広い。ちなみに真ん中にあるベージュのビルは福井大学のアレ。でかすぎ。
C: 福井地方裁判所。遠くから見ると古い建物に見えるのだが、実際にはそんなでもなかった。
R: フェニックス通りから福井駅を眺める。左側が中央大通りで、右側が路面電車の走る商店街。五叉路になっているのだ。今度はもうちょっと福井市街の中心をぐるぐるまわってみようと思い、中央大通りの南側を重点的に歩いていく。
福井西武の南側には歩道に沿って小さな店が集まっていて、この密着感が楽しい。
と、鳥居を発見。行ってみると、そこには「柴田神社」とある。そう、柴田勝家を祀った神社なのだ。
ここはまさに北ノ庄城の跡地。こんな商店街の端っこにあるとは思わなかったので、ちょっと驚いた。
城の橋通りに対面して柴田勝家の像が座っている。その裏側にはお市の方の像もあった。
整備工事が完了していないのか、めぐらせてある堀と思われる溝に水は張られていなかった。
まあとにかく、当然お参りするのである。お賽銭を入れて二礼二拍手一礼。
L: 北ノ庄城址・柴田神社。この神社がなかったら、この辺が城だったとはとても思えない。商店街の一角にある。
C: 角度を変えて城の橋通り側から撮影。通りが工事中でうるさかった。
R: 柴田勝家像。福井市内では福井城をつくった結城秀康のほうが存在感が強い印象。もっとクローズアップしてあげようよ。そのまま、幸橋まで行ってみる。足羽川に架かるこの橋を渡ると足羽山へと至る道へと続く。
坂道を上っていくと足羽神社やあじさいロードなどがあるとのことだが、体調が万全でないので断念。
あじさいのシーズンなら無理したかもしれないが、さすがにこの時期、そこまでの元気はなかった。けっこう悔しい。日本一の長さを誇る足羽川の桜並木。さすがにシーズンオフはさびしい。
さっき地裁の近くをウロついているとき、昨日お世話になった系列のビジネスホテルを見つけたので、電話をかけたらOK。
宿が確保できたので、安心して再び街をウロつく。西武やLOFTなんぞを中心にひたすら歩いて歩いて時間を過ごす。夕方になってミスドで女子高生の群れに囲まれつつパソコンを引っぱり出してリポートを書く。
別に聞き耳を立てているわけではないのだが、地方に来たときには、けっこう人々の会話には注意をする。
その土地の方言の特徴をきちんとつかむことも、僕にとっては旅行の目的のひとつなのである。
何かを買ったり食べ物を注文したりする際に店員さんがポロッと出す方言が、旅行に来ているという感覚を刺激するのだ。
富山では特にこれといって印象に残るようなことはなかったが、金沢では軽めの関西弁が目立った。
語尾のところにきてちょっと関西の柔らかな感じが出る、そういう話しぶりをする人が多かったように思う。
で、福井はというと、見事に福井弁である。あのベタベタっとした感じの、語尾の上がるイントネーションが炸裂している。
女子高生なんかが平然と福井弁のイントネーションで話しているのを聞くと、なんとなく安心してしまう。まあそんな感じでリポートをある程度書き終えたところで、再び商店街へと繰り出す。
なんとなく顔が熱くて「こりゃまた今夜風邪がぶり返すな」と思い、薬局に入った(福井市街にはドラッグストアがなかった)。
風邪薬をください、となるのだが、当然いろんな会社から何種類も発売されているわけで、どれにするのか訊かれて困る。
家族総出で風邪を引いていて回し飲みするわけではないので、「いちばん量の少ないやつください」と言ったら、
そんなこと言う客初めてだ、といった感じでおばちゃんが迷い出す。そりゃそうだろうなあ、と僕も内心思う。
とりあえずコストパフォーマンス(価格÷錠剤の数)の面から候補をいくつか出してくれるおばちゃん。
旅の身である僕としては値段よりもかさばることのほうがイヤなので、単純に錠剤の数の少ないやつでいいと主張する。
しかしよく考えてみたら、1日に何回服用するか、それぞれの薬によって違うのである。
しかも、1回あたり何錠服用するのかも、薬によって違う。つまり、きちんと比較しようとするとめちゃくちゃ手間がかかるのだ。
だから結局どうでもよくなって、素直におばちゃんの勧めてくれたやつにしたのであった。だいぶ空も暗くなってきた。もう一度西武やLOFTをブラついて腹を減らすと、いったん宿に入って荷物を置く。
そうして再び外に出る。晩ご飯をいただくのである。北陸名物紀行も今日で最後だと思うとちょっと悲しい。
福井名物といったら、最近では完全に「ヨーロッパ軒のソースカツ丼」が定着している。それを食べるのである。店内は思ったほど混んでなくて、注文したら呆れるほどの速さでソースカツ丼が出てきた。たまげた。
肝心のソースカツ丼は、本当にカツとご飯のみ。伊那・駒ヶ根のように下にキャベツが敷かれているなんてことはない。
このソースカツ丼は90年以上の歴史を誇っているのだが、当時のつくり方を今も完全にそのまま受け継いでいるみたい。
カツは薄くスライスされていて、僕らがふだんとんかつ屋で慣れているものとは少し雰囲気が異なるのだ。
また、揚げる油も動物性のものを使っているためか、非常に脂っぽいのが気になった。
まあ個人的な感覚では、大正期の「洋食」が今も味わえるという点ではすごく興味深いんだけど、
果たしてそれが現代の食べ物としてマッチしているかどうかは正直ビミョーってところ。うーん、オブラートに包んだ表現だ。
とにかく食べてみないことには話にならないわけで、皆さんそれぞれに機会を見て味わってほしいな、と。
L: ヨーロッパ軒総本店。昼間に撮影しておいたのだが、実にモダン。
C: こちらがヨーロッパ軒のカツ丼セット(\1020)。もはや全国的に有名なのだが、うーむ。
R: 紙ナプキンが面白かったので撮ってみた。こういうところに老舗の実力って出るよね。宿に戻ると、大浴場にしっかり浸かって薬を飲んで、すぐにぐっすり。
ホント、旅先で風邪を引くなんて不覚。お恥ずかしい。そんでもって悔しい。
朝、宿を出ると富山の街を路面電車の軌道に沿って歩いていく。目に映るものを頭の中に焼きつけつつ、駅へと向かう。
NTTのフレッツ光の広告が出ていて、気がついた。富山はNTT西日本の管轄なのだ。
長野県出身としては「お隣さん」という感覚でいたけど、これを見て異文化圏であることを再認識した。
富山は飛騨(岐阜県北部)を抜けて名古屋へのアクセスが盛んだ。やはり、西側という感覚が強いのだろう。駅で切符を買うと、北陸本線に乗り込む。寒い地方だからか、車両のドアが非常に小さい。
iPodで音楽を聴いていたら、やたらと高校生が乗り込んでくる。高校生には祝日も関係がないらしい。
女子高生が力の限りおしゃべりをしているのに対し、男子はだるそうに目を閉じている。とても対照的だ。
やがて列車は動き出す。しばらく賑やかな時間が続くが、高岡を過ぎると高校生集団は一気に姿を消してしまう。
そうして、倶利伽羅峠をトンネルで抜けると、石川県に入る。電車に揺られている間、なぜかやたらとセイタカアワダチソウが気になった。帰化植物で、成長すると2mほどにもなる。
根っこは丈夫だわ背を伸ばして太陽光を独占するわ化学物質で他の雑草を邪魔するわで、最強の雑草と言われている。
線路近くの空き地にはやたらとセイタカアワダチソウが繁殖していた。なんとなく切ない。金沢に到着した。まずは石川県庁を目指すため、西口を出る。なんかわけのわからん巨大なオブジェがお出迎え。
そこからまっすぐ伸びている「50m道路」を行く。周辺は空き地とオフィスビルが交互にあるような感じで、
駅裏なのに郊外という不思議な印象。北陸の中心部の裏側に、これだけ広大な空間が残っているのがすごく意外だ。
昨日、富山で買っておいたVAAMゼリーを朝食がわりに胃に流し込むと、VAAMウォーター片手に歩いていく。
今回の旅行はダイエットも兼ねてしまうのである。運動不足の体には滅多にないチャンスなのだ。あらかじめ地図で調べておいたのでわかりきっていたことなのだが、しかしそれにしても石川県庁は遠い。
50m道路をまっすぐ行けばOKなので道に迷うことがないのはよしとして、まるで人間向けのスケールではない距離だ。
広い歩道も歩いている人なんてほとんどいなくって、ときたま自転車がすいーっと僕を追い抜いていく。
日差しに照らされて汗をかきかき、ただ黙々と歩き続けていったら、能登有料道路が見えてきた。一安心。
L: 50m道路(能登有料道路を抜けた辺り)。広くて長くて単調。開発もあんまり進んでいない。
R: 空き地で見かけたセイタカアワダチソウ。後ろにあるのもみんなそう。北陸本線といい金沢駅西口といい、やたらと目についた。しばらく行くと、巨大な石川県庁がお目見え。まずは隣に同じようなデザインで並んでいる県警本部が見えて、
石川県庁舎はその西側でさらに高くそびえている。この辺りは道も建物もデカくて非常に大味なのであった。
さて困ったことに、ここには横断歩道がない。地下道で道の向こう側に出るのだ。敷地の西端には横断歩道があったけど、
けっこう離れた位置にある。50m道路は見た目は立派だが、利用者としては不便を強いられるってな印象だ。
L: 石川県庁(右)と石川県警本部(左)。周囲は空き地が多いので、ちょっと異様な印象がする。 R: 石川県庁を正面より撮影。裏手にまわり込んでみる。「森の中の県庁」を目指し、周辺に「県民の杜」を整備しているんだそうだが、
実際に見てみるとまだまだつくりかけ、という印象がした。とにかくひと気がないので、わびしいばかり。
街中にあるならまだしも、駅からかなり離れたところにあるので、つくった意図がうまく機能しているとはとても言えない。
もしこの駅西口の空き地がすっかり埋まるような日が来たら、この県庁もより魅力的に映るのだろう。
しかしそれがいつになるのやら、まったく想像がつかない。
L: 整備が終わってるんだか終わってないんだかよくわからない芝生のオープンスペースより県庁舎を眺める。左手は議会棟。
R: 庁舎裏手の県民の杜はこんな感じ。それにしてもひと気が全然ない!県庁の向かいにある県立中央病院はおそらく昭和50年代の建物だろうから(文字のデザインでわかる)、
その頃からこの一帯について開発計画があったんだろうな、と想像する。それから30年近い年月を経てもなお、
計画は半ばである。石川県が今後どこまで意地を通していくのか、ちょっと見ものだな、なんて意地悪く思う。50m道路の反対側を帰る。行きと同じように呆けて足を動かしていたら、駅に着いた。今度は東口に出るのだ。
まずはコンコース内にある観光案内所で地図とビジネスホテルのリストをもらう。で、いざ行かんと思って駅を出ると、
なんだかよくわからないアルミとガラスの建築構造物が頭上に広がっている。「もてなしドーム」である。
訪れた人々が雨や雪に濡れないようにそっと傘を差し出す金沢人の「もてなしの心」を表しているとかなんとか。
中はバスターミナルになっていて、バスを待つ人々でごった返していた。確かに、寒い冬場にはありがたい存在かもしれない。
L: もてなしドーム内部。後述するが、金沢はバスの街なのだ。とにかくバスを待つ人でいっぱい。
R: 外から見るとこんな感じ。ドームを支える木製の門には、「鼓門」という名前がついている。近くで見るとなかなかの迫力。さあいよいよ金沢の街へと踏み出す。気合が入るが、目に入る建物はホテルが多く、商業施設が全然ない。
実は昨日、駅のすぐ脇にイオン系の「金沢フォーラス」がオープンしたのだが、それと駅ビル内の金沢百番街くらいなもの。
フォーラスには後で来るとして、とりあえず武蔵ヶ辻を目指して歩いていくものの、大雑把な景色は全然変わらない。
しかもこれがけっこう長い。広い道がまっすぐなので迷いようがないのだが、なんだか不安になってくる。そうして10分くらい足を動かしていたら、「武蔵ヶ辻」の文字が目に入った。道の向こうに「近江町市場」の小さな入口が。
めいてつエムザ脇の地下道を通って近江町市場に行ってみることにする。が、軽く迷いかける。
というのも、この辻は90°で交差せず、鋭角と鈍角が偏った形になっているからだ。それで感覚が狂ってしまう。
かつてこの武蔵ヶ辻は近江町市場・めいてつエムザ・ダイエーがそれぞれの角を占めており、金沢屈指の繁華街だった。
しかしダイエーが撤退したことで、かなり寂しい印象の場所になってしまっているのである。近江町市場の入口に到着。ここはアーケードの中に鮮魚店や料理店がひしめいているところ。アメ横的存在である。
要するに、金沢に来た観光客が、北陸土産の海産物を買い込むところなのである。
いざ中に入ってみると、シャッターを閉めてしまっている店がかなり多かった。午前中だからかもしれない、と思う。
イキのいい店は非常に活気があるのだが、いかんせん開いている絶対数が少なかったので、なんだか虚しい。
ダイエー撤退のあおりを食っているとしたら実に残念なんだが、真相はいかに?と考え込みつつ、東のほうに抜ける。
L: 午前中の近江町市場。さすがにこの時間帯だからか、客もそんなに多くはなかった。
R: こちらは夕方に再び来たときの近江町市場。祝日で開いている店が少なかったためか、やはり活気はイマイチ。金沢城公園を目指して歩いていると、地面に妙なものが埋め込まれているのに気がついた。
というか、昨日富山で見かけたときには別に気にも留めなかったのだが、それがここ金沢にもあったので、
急に気になったのだ。しゃがみ込んで観察してみる。こんな感じ(下の写真参照)。
左の写真のようなものが、右の写真のように点々と。是は何ぞ、と考えてみて、すぐに答えが出た。そういえば昔、社会の授業かなんかでやった記憶がある。
雪の多い地方には地面から水を出して道路に積もった雪を融かす仕組みがあるという。これはまさに、その装置なのだ。
その気になって観察してみると、こいつはけっこうあちこちに埋め込まれている。翌日に訪れた福井でも頻繁に見かけた。
長野県南部育ちの僕にはまるっきり縁のないものなので、やはりそれだけ北陸ってのは雪が降るんだなあ、と実感。
金沢城公園には黒門口から入ったのだが、そこに至る坂道にもずっとこいつは埋め込まれていた。というわけで、金沢城公園である。黒門口はいちばん端っこで、ぐるっと歩いて石川門方向までまわり込まないといけない。
しかし目の前に広がる新丸広場の芝の鮮やかさといったら! 芝生の緑がいっぱいに広がっている光景は、ただただ壮観。
一歩踏み出せば、芝の柔らかな感触が歩き疲れた足を優しくほぐしてくれるよう。おーこりゃええわーと、しばらく歩きまわる。石段を上って二の丸へ。右手に新丸広場を、左手に鉛が溶け込んでいるという石垣を眺めつつ、緑の茂るほうへと歩く。
坂をちょっと上ると砂利が敷かれた二の丸広場へと至る。奥では復元された五十間長屋が観光客を飲み込んでいる。
復元されて中が資料館になっているような施設にはあまり興味がないので、素通りして本丸を目指す。
L: 新丸広場の芝生。とにかくだだっ広くってステキ。 C: 新丸広場を俯瞰で眺める。ええ眺めじゃのう。
R: 二の丸広場。奥にあるのが五十間長屋。15年前に完成したそうな。けっこう最近なのね。途中で三十間長屋だとか鶴丸倉庫だとかを横目で眺めつつ、さらにきつい坂を上っていく。その先にあるのが本丸跡地。
たいていの場合、古い城の本丸は神社になっていたり憩いの場になっていたり、というパターンが多いように思うが、
金沢城の場合はなかなか凄い。ほぼ野放しなのである。「本丸園地」という名称にはなっているのだが、
ほとんど山の中と変わらない。それまでの二の丸・三の丸などがきれいに整備されている分、このギャップはかなり強烈だ。本丸から下りてくると、鶴の丸広場の休憩所に入る。中には加賀藩についての資料が現代風に展示されている。
そして休憩所のすぐ脇には池があり、さまざまな草花越しに五十間長屋が見えるようになっている。なかなか壮観。
三の丸広場をまわって石川門へ。三の丸広場にも芝生が敷き詰められていて、大勢の人がのんびりと過ごしていた。
L: 金沢城本丸。深緑一色である。 C: 鶴の丸広場の休憩所より池を眺める。落ち着いていい感じの場所。
R: 石川橋より金沢城石川門を撮影。この下はお堀通りという名前の道が通っている。ちなみに、撮っているすぐ後ろには兼六園。石川門から架かる石川橋を渡ると、すぐに兼六園・桂坂口である。この日は文化の日だったからか、
運よく無料開園なのであった(石川県民はふつうの土日にも無料で入れるみたい)。
とりあえずすぐに園内に入るようなことはせず、茶店が並ぶ一角を歩いて、瓢池を見て、真弓坂口から入る。兼六園は言わずと知れた、日本三名園のひとつだ(あとは、こないだの水戸の偕楽園(→2006.8.27)と岡山の後楽園)。
こちらは歴代の加賀藩主がちょこちょこと造り足していったもの。確かに、これといった核を持たない構造はそれらしい。
名前の由来は宋代の『洛陽名園記』から。あっちを立てればこっちが立たずで、すべてを実現するのが難しいという
六つの優れた景観、「六勝」を兼ね備えた庭園という意味で、松平定信が名づけたという。実際に歩いてみると、標準的な日本庭園がただただ続いていく、という印象を受ける。
どうしても偕楽園との比較をしてしまうのだが、偕楽園には好文亭という核があったが、しかし兼六園にはそれがない。
いちおう、成巽閣という建物はあるのだが、奥まっていてどうにも地味なのだ。庭が主役という意味では正しいとは思う。
名の付けられた空間が散りばめられているが、案内板はまったく立っておらず、行かなきゃと義務感をあおられることがない。
来園者はただただ、次から次へと行き過ぎるさまざまな庭たちを、まったく無秩序な順路で巡っていくだけなのである。
しかもそれぞれの庭には、これといった特徴がない。偕楽園では区画によってまったく異なる景色が用意されていたが、
兼六園で見る風景は、どこでもあまり差異がないように思えるのだ。つかみどころのない印象が、どうしても残る。
L: 兼六園・桂坂口。石川門を渡るとすぐ。 C: 桂坂口からまっすぐに伸びる江戸町通り。茶店が並んでいて活気がある。
R: 兼六園内部の様子。標準的な日本庭園、とは思うのだが、どうにも特徴に欠ける感じがしてしまう(舟之御亭付近)。
L: 兼六園内部(南側)。通路は曲がりくねり、幅も一定ではない。ある種、見通しのよい迷路に入り込んだような感覚になる。
C: 園内には池があちこちにめぐらされている。カモなどがウロチョロしていることもある。
R: 敷地の北側は、写真のように比較的すっきりした場所が多い。対する南側には木々がよく茂っている。特に順路があるわけではない。来園者は勝手気ままに気に入った場所を求めて歩きまわればいい。
そんなわけで軽い腹痛をおぼえつつウロウロしていたら、ふとわかってしまった。この兼六園は、実に日本的なのである。
偕楽園は区画ごとに性格がはっきりしていて、それらはなんとなく、中国の影響を多分に受けているように思える。
しかし兼六園は、いちおう通路で区切られて区画は存在しているが、その通路が実に曖昧なのだ。
どこへ通じるのか明確な目的が設定されておらず、幅は一定せず、やたらと曲がりくねっている。
似たような差のない風景が続き、これといった核を持たない。さっき来た場所にまた来ても、角度が違うから気づかない。
歩くたびに違う表情を見せる空間は多層的で、それぞれ一言でまとめられるような特徴を持たないのだけれども、
個ではなく総体としては、きちんとした何かを来園者に残す。そういう複雑さ、カオスな印象が、実に日本的なのだ。
そう考えると、兼六園は、時間というものがあまり意味をなさない空間と言えるのかもしれない。
短時間しか訪れなくてもいいし、たっぷりあちこち歩いてみてもいい。そうして兼六園の空気の味を覚えることさえできれば、
それは「兼六園を体験した」ということになり、これで初めて、訪れた意味が来園者たちの中に生まれる。
総体として体験する。僕たちがすでに慣れきっている近代という要素がまったく欠けている、不思議な空間である。根上松。正面でなく横から撮ったら、思いのほか存在感のある写真になった。
そんな具合になんだかだまされたようなそうでないような妙な後味を残しつつ、兼六園を後にする。
小立野口から出たので、ぐるっとまわって坂道を下っていく。車がかなり激しく行き来していて、観光地金沢の底力を見た。
そのまま広坂の下に出る。この一角はオープンスペースとなっている。右手の金沢城の石垣が壁のようで見事だ。
そしてこのオープンスペースを進んだすぐ先にあるのが、石川県の旧県庁舎(1924年竣工、大正時代!)である。
駅西口のはるか遠くに移転した後も、旧庁舎はそのまま保存されているのだ。
(現存する鉄筋コンクリート構造の県庁舎建築としては最古のものになるらしい。)
正面には樹齢300年と言われる「堂形のシイノキ」がこの木なんの木って感じで並んでいる。
現在は特に有効活用しているようには見えなかったが、周辺に文化施設が多いこともあり、
おそらく現在のファサードが保存されていくのは間違いないだろう。だとしたらすごくうれしい。
L: 旧石川県庁舎。オープンスペースより撮影。 C: 正面から撮影。シイノキの存在感すごすぎ。
R: 堂形のシイノキを撮影してみた。いや、見事なもんです。旧県庁をちょっと行った先には金沢市役所。こちらはサッシュが特徴的なインターナショナルスタイル風。
色が鮮やかなレンガ色ってことで、1970年代の建物という印象。実際のところはよくわからないけど。
旧県庁舎との対比という意味では、新旧のモダンということで、それなりにけっこう面白い組み合わせにはなっていると思う。
L: 金沢市役所。周辺の建物が美術館だったり博物館だったりするので、それに比べると見劣りしてしまう。しょうがないか。
R: ファサードを拡大して撮影してみた。サッシュはこんな感じでくっついております。さて、金沢市役所を西に抜けると、いよいよ本格的に金沢の繁華街、香林坊・片町へと入る。
ここであらためて、金沢の都市構造を確認しておこう。
金沢には3つの核がある、と言われる(3極構造)。金沢駅周辺、武蔵ヶ辻、そして香林坊・片町である。
これら3つの地点は、歩くとかなり長い距離がある。金沢駅から武蔵ヶ辻までふつうの人の徒歩でだいたい20~30分、
そして武蔵ヶ辻から香林坊までが同様に20~30分である(僕の歩くペースを常人の2倍近くとして換算した、念のため)。
おかげでバスがひっきりなしに走り、またつねに満員である(もてなしドーム内が混雑していたのはこれが原因である)。
金沢駅前では大規模なホテル戦争が繰り広げられていたが、特にこれといった商業施設はなかった。
それで昨日、金沢フォーラスという商業施設がオープンしたことで大きな注目を集めているという状況である。
では武蔵ヶ辻はというと、ダイエーの撤退によって地盤沈下が著しい。人の流れを見ていると明らかに、
目的地というよりも通過ポイントとなってしまっている。かく言う僕も、武蔵ヶ辻で立ち止まることはなかった。
そして香林坊・片町は、金沢市内最大の繁華街。香林坊にはオフィスが多く、小売店が片町にひしめく、という形である。
香林坊の109(金沢にも109があるのだ!)からタテマチ(竪町)商店街をウロウロしている若い連中がやたらと多い。北陸で最も地価が高いという香林坊の交差点(109前)を左折し、片町の商店街へと入る。
さすがに富山と違って、アーケード内の人口密度が高い。片町は南に行くにつれ、なんとなく夜の店が多くなっていく。
そして歩いていて、車道を走るバスがほかの街よりも妙に近い距離に感じられることに気がついた。
疑問に思って体を乗り出してみて、驚いた。路側帯がまったくないのである。車道と歩道と間の白線が、ないのだ。
いつも自転車で走りまわっている自分には考えられない世界である。途端になんだか恐ろしくなってくる。
L: 香林坊の109。 C: 片町商店街。路側帯がねえ! R: こちらはタテマチ商店街。歩行者天国で非常に賑わっている。
おまけ:香林坊109は坂に立地しているので、1FとB1Fの間にGF(ground floor)がある。これはその貴重な画像(ブレているけど)。いいかげん腹が減っていたので(VAAMゼリー以来何も食べていないのだ)、うまそうなランチを食えそうな店を探して歩く。
夜は北陸グルメツアーってことで食べるものが決まっているので、昼のうちにオシャレそうな洋食屋を見つけて入ろうと思う。
わりとすぐ、片町でピンときた店を見つけたので、入る。僕はブサイク軍に属しているけど、たまの旅行だからいいのだ。ごく標準的なランチを頼んで、今夜はどこの宿を確保すべきか考えつつ地図・リストとにらめっこしていたら、
女性の店員さん(笑顔かわいい系)に「旅行で来られたんですか?」と話しかけられた。「そうです」と僕(無精ヒゲ)。
「金沢は名所が散らばっているからあちこちまわるのって大変でしょう」「ぜんぶ歩いてるんで、よけいにそうですね」
石川県庁まで歩いた話は当然、伏せておく。そんなこと話したら、呆れられるに決まってる。
「これからどちらに行かれるご予定なんですか?」「いや、特にないですね。商店街をぶらつきたいとは思ってるんですけど」
「もし余裕があったら、オススメのコースがあるんですよ」「へえ」
「泉鏡花記念館の脇にある道から、川に向かって歩いていくんです。すごく狭いところで、迷路みたいになってるんですけど、
それをずーっと川のほうに歩いていくと、突然パッと視界が開けて、目の前に川が現れるんです。それがすごく面白いですよ。
私は地元の、金沢の出身ですけど、これはオススメですよ」「なるほど。じゃ、時間があったら行ってみますね」
まあそんな具合にブサイク軍にあらざる会話を繰り広げつつ、ランチをおいしくいただいたのであった。でも頭の中は宿のことでいっぱい! 宿を確保できているかいないかで、街歩きの楽しさはまったく違ってくる。
なんとか早めに宿を確保して、のんびり金沢を歩きまわりたいなあ、と心の底から思う。
それで値段の安いところから(金沢はどこも全般的に高かった)直接アタックしてみるが、ことごとく断られる。
片町にある安めの宿を徹底的にあたっていくが、ひとつとして泊めてくれるところはない。
打ちひしがれて犀川を渡る。渡ったところで「ビジネスホテル」の看板を見つけて走り寄るが、すでに廃業済み。愕然とする。
茫然と犀川を眺めながら、どのように次の手を打つか思案する。もうこうなったら、ある程度の出費を覚悟するしかない。
L: 犀川。 R: 犀川大橋。1924年に架けられ、文化財にもなっている。大胆な台形が非常にかっこいい。それで結局どうなったかというと、女社長さんでおなじみのビジネスタイプのホテルに泊まった。というか、泊めてくれた。
もうこれで社長さんの悪口は言えないのである。本当に、一時はどうなるかと思った。助かった。
祝日ってことで料金も思ったより安くなったし。感謝感激なのである。宿のロビーでなんとなくボンヤリしていたら、新聞が置いてあるのが目に入った。
そうか、旅行したらその街の地方新聞を土産にするってのもオシャレだよなあ、なんて思う。
どれどれ、と手にしたのは、金沢を中心に富山にまで影響力を持っている北國(ほっこく)新聞。
ふむふむ、と読み進めていくうちに、四コママンガを目にして驚愕する。なんと! 『ヒラリ君』を連載しているのである!
『ヒラリ君』はかつて僕の地元である長野県の信濃毎日新聞で長く連載されていたのだ。
5~6年前に連載を終了してしまったのだが、まさか別の地方紙に移籍していたとは……。しかも関西弁をしゃべって……。
後で調べてみたら(⇒このサイトとか)、地方紙の4コマってのは、けっこうかけもちが多いみたい。
信毎で連載が終わってもまだまだ健在ってのはうれしいんだけど、素直に喜べない。実にフクザツな気分である。まあとりあえずなんとか無事に宿を確保できたので、荷物を軽くすると、再び街へと繰り出す。
現金なもので、そうなるといきなりまた元気いっぱい。走ったりなんかして、百万石通りを東へと戻る。
再び金沢市役所・旧石川県庁を通り過ぎると、広坂下を左折、金沢城公園と兼六園に挟まれたお堀通り経由で北へ。
宿を確保して時間が読めるようになったので、さっき洋食屋のおねえさんが言っていた、泉鏡花記念館の奥の風景を見る。まずは言われたとおり、菓子文化会館の裏手にある泉鏡花記念館へ。そこから川を目指すってことで、地図を広げると、
北に浅野川という川がある。これに向かって歩けばいい。しばらく周辺をウロウロしていたら、北に抜ける路地を発見。
写真のように石段になっていて、その先はおそろしく狭い住宅がひしめいている。たぶん、これでいいのだ。
そうして進んでいくが、路地の両側には年季の入った木造住宅が立ちふさがる。幼い頃の記憶が蘇ってくる気がした。
木造だから全然違うんだけど、ふと「カスバ」なんて言葉を思い浮かべる。
L: 石段を下りると…… C: そこは別世界。木造の家々が細い路地を囲んでいる。 R: 光の差すほうへと歩いていくと……突如、視界に川が広がる。浅野川だ。
しばらく、今来た路地と浅野川とを見比べて、ぼーっとその場に立ち尽くす。なるほど、この感じか。
そして振り返って、川沿いに並ぶ家並みにさらに驚く。今はもうどこにも目にすることがなくなった木造住宅たちが、
びっしりと並んでいるのだ。さすがは、金沢。思わずうなってしまった。
L: 上の写真の位置からすぐ右を向いたところ。 C: 浅野川に架かる中の橋から家並みを撮影。見事なものだ。
R: 浅野川大橋のたもとから見たらこんな感じ。なんとなく京都の先斗町を思い出すけど、こちらはぐっと落ち着いている。この一帯は、「主計町(かずえまち)」という。茶屋町としての風情を今も残している場所だ。
かつて金沢は1962年の「住居表示に関する法律」のモデル都市に指定されたため、
歴史ある名前を積極的に新しいものに変えていったらしい。実に520の旧町名が消滅したとか。しかし1999年、
尾張町2丁目となっていた主計町は復活を果たす。これは旧町名を復活させた全国初の事例なのだそうだ。
やはり地名ってのは土地の記憶と密接に結びついているんだなーなんて思いつつ、現在の尾張町方面にまわり込む。尾張町から武蔵ヶ辻に至るまでの道には、今も利用されている歴史的な建築がゴロゴロしている。
単純に木造の商店が残っているだけでなく、鉄筋コンクリートのモダンスタイルも残っている点が、金沢の凄みである。
鉄筋黎明期の建物が残っているということはつまり、昭和初期にこの土地が強い力を持っていた何よりの証拠なのだ。
そんな鉄筋が木造と共存しているっていう姿こそ、歴史を貫く都市の力を示しているように僕は感じるのだ。
木造の商店建築は、こんな感じで今も残っている。営業が続けられているからこそ意義がある。
こちらは鉄筋コンクリ黎明期のもの。ただし修復をしてある。左は金沢文芸館(建てられた当時は銀行)、右は三田商店。金沢という街の特徴は、とにかくなんでも点在していること。名所も点在、繁華街も点在。移動するのがすごく大変だ。
しかし逆に考えれば、それだけ街としての範囲が広かったということにほかならないわけだ。
そういう点からも、歴史的に力を持ってきた街という事実に触れることができる。なんて考えながら、再び金沢駅へ。金沢フォーラスに入ってみる。
オープン初日の昨日よりも、祝日の今日のほうが人出がすごいらしい。そんな話し声を耳にした。
1階から順繰りに上がっていくが、正直言って、僕には全然見るところがない。
しかし、ゲームコーナーに『AFTER BURNER』の最新作である『AFTER BURNER CLIMAX』が置いてあって、
僕は前作(1987年)にハマりまくった世代なので(すいません、校則違反だったけどよその街に行くたびにやってました)、
子どもたちがプレーするのをつられて体を動かしながら眺めるのであった。そんな具合に過ごしていたら、ゲームコーナーにリラックマがやってきた!
子どもたちに大モテのリラックマ。オレもこれくらい人気者になりたいなーと思ったとさ。僕もこれくらいモテたいです。
最上階は映画館になっていて、お馴染みのパターン。建物としての映画館はバタバタ消えていく中、
こうして商業施設に付随する映画館はどんどん増えていく。映画というメディアの変質が、
ハード面から今まさに進行しているわけで、いずれこれはきちんと考えるべきことだろう。
で、その最上階のところから、外のテラスに出られるようになっていた。金沢の夜景というか金沢駅周辺の夜景は、
呆れてしまうほどに、ホテルの明かりばかりなのであった。そんな中、空に浮かんでいるのは十三夜の月、栗名月。
肉眼で見る栗名月はウサギの形まで実に鮮やかに見えるのに、デジカメだとこんなん(↓)なのが悲しい。結局、金沢フォーラスは僕にとってまったく魅力的ではなかった。
本屋のない商業施設なんて、1ミリも存在価値なんてない、と思うのである。それから再び武蔵ヶ辻を経由して、香林坊まで歩いて戻る。
歩いている間、だいぶ肌寒さが気になる。これは気温が低いのではなく、風邪を引きかけた悪寒だ、と感じる。
旅先で体調を崩しかけるなんて、しまったなあ、と思う。でも、どうにもならない。よく寝るしかない。
そしていいかげん、足がボロボロ。足首がひどく痛かった。バスが何台も走っていく脇を、トボトボ歩く。109の地下にある本屋をぷらっと一回りしてから、最後の目的地へと向かう。金沢名物を食べるのだ。
金沢名物――そう言われて思いつくものはあるだろうか。たぶん、ほとんどの人はないはずである。
とりあえずネットで「金沢」「名物」と入れて検索してみたら、「ハントンライス」なるものがちらちら見つかった。
知名度というか認知度というか、金沢名物と認識している人がどれだけいるかは正直わからない。
しかしまあ、じゃあほかにもっと大々的に知られているものはあるのかというと、なさそうだ。
そんなわけで、ハントンライスを食べるのである。109からちょっと奥に入っていったところに、「グリルオーツカ」なる店がある。ハントンといえばここなのだとか。
ただ、メニューは「ハントン風ライス」となっている。なぜか「風」が入っているのである。
そもそもハントンとは何か。調べてみると、「ハンガリーの“ハン”とフランス語のマグロの“トン”を合わせた造語」。
しかし出てきたものは見てのとおり、オムライスの親戚にほかならないわけで、今となっては歴史の謎、である。ハントン風ライスは650円。ただし僕が注文したのは大盛。
ぶっちゃけ、オムライスの上に各種フライが載っている、そういう食べ物である。食べていて、ほぼ完全にオムライス。
写真ではわかりづらいが、基本的に量が多い。大盛は確実に、丼に山盛り一杯ほどの分量がある。
食べ終えてレジで、「量多かったでしょ」「2食分、しっかり食いだめた感じですよー」
「だからお客さんによっては『大盛はやめたほうがいいですよ』って言うこともあるのよー」などと会話。
体調のことを勘案しても、本当に量が多かった。そして宿に戻る。宿には大浴場がついていたので、迷わずそこでじっくり温まる。
上がると、パソコンを引っぱり出してネットをつなぎ、掲示板に書き込みをしておく。
こういうきちんとした宿に泊まれたのは、体調を考えればベストな選択だったんだろうな、社長ありがとう、と思いつつ寝る。
バス内に明かりがつき、「おはようございます」とアナウンスが入ったのが、午前5時50分ごろ。
乗客のだいたい1/3が降りて、残りは終点までそのまま。僕も、ここで降りる。
地面に降りて、FREITAGのBONANZAを背負う。薄暗い中を、バスは走り抜けていった。時計を見ると、6時ちょい過ぎ。
駅前に立てられた案内板の地図を眺める。薄暗いのと目が半開きなのとで、あまりよく見えない。
でも、これでようやく目的地に着いたことを実感して、ワクワクしてくる。ここは、富山である。日本海側に来たことはあまりないので、今回の代休と連休を利用して、やってきたのだ。
僕の生まれた長野県は富山県と接している。しかし南信から距離的にかなり遠く、僕には想像のつかない場所なのだ。
今回の県庁所在地ひとり合宿は、ここ富山からスタートして、北陸を一気にまわる予定である。
もしかしたら、もう二度と来る機会がないかもしれない街。ちょっと、気合が入る。それにしても、富山市の地図を見てみて驚いた。実に、富山県の真ん中1/3を富山市が占めているのだ。
これは昨年4月に周辺の自治体と大規模に合併したためなのだが、それにしても大きすぎる。
後で調べたら、全国の県庁所在地で2番目に広く、また2番目に人口密度が低いとのこと。当然だろう。さて、駅の構内をウロウロしていたら、いきなり腹痛に襲われた。
原因はよくわからないが、いつもなら実家から送られてくるハイチオールCを飲んで治している程度の腹痛である。
富山といったら薬どころなので、いくらでも薬が手に入るだろうと思うわけだが、さすがに午前6時に開いている薬屋はない。
(越中富山の薬売りは有名だが、家庭の常備薬、いわゆる置き薬で知られているのだ。
富山の街のあちこちにドラッグストアがあるというわけではない。念のため。)
どうしょうもないので、駅前のオープンスペースでじっと座って様子をみる。
脇を路面電車が通っていく。路面電車が走っている街に、僕はほとんど来たことがない。いいなあ、なんて思う。
そんな具合に30分近くうなっていたら、少しだけ状態がよくなった。せっかくだから日本海を見たいなあ、と考えていたわけで、富山湾へ出るには富山駅から電車に乗ればいいらしい。
ところがどれに乗ればいいのかわからず、腹痛のままで南口を右往左往。そのうち北口への地下通路を見つけて、移動。
北口のすぐ脇には、南口とはまるっきり別の、近未来的デザインの路面電車が停まっていた。これで行くのか!と納得。
とりあえずトイレに寄ったら腹痛はおさまった。コンタクトにして髪の毛を立てると、いざ旅の始まりである。富山駅北口から富山湾(岩瀬浜)までを結ぶ「ポートラム」。
ポートラムに乗り込む。これから登校する富山の女子高生たちがいっぱい乗り込んでくる(男子もいたけど)。
ああそうか、今日って平日だったっけ、とあらためて思い出す。実に贅沢な時間だ。
ポートラムは広い道路から住宅街へと入り込み、一路北へ。終点の岩瀬浜まで30分弱。けっこう距離がある。岩瀬浜駅に着くと、富山湾を目指して歩きだす。地図を持っているわけではないので、湾に出られそうな道を探して歩く。
海水浴場を示す案内板が出ていたので、その方向に歩いていくと、松林の群れがあった。そこを抜けると……海だ! 朝早いし日本海だしで、あまり感動的な美しさというわけではないが、やはり茫洋とした海ってのはさすがなのだ。
砂浜に踏み出すと、ビーチバレーのコートをガニ股で抜け、フォークボールのような角度がついた波打ち際まで行ってみる。
しばらくそのままぼーっと眺めてデジカメで写真を撮っていたら、急にきた勢いのいい波に足元をすくわれた。や、やられた!
旅が始まって1時間ちょっとで足元ビショビショである。この後に街を歩きまくることを考えると、ややブルーになる。砂浜の西の端にはコンクリートの堤防があり、漁港との間を隔てている。その壁にはテトラポッドがたっぷり積まれている。
まあ、当然のごとく、そのテトラポッドによじ登る29歳。そのままコンクリートの堤防の上に寝転がって、空を眺める。
ピーヒョロロとトンビが鳴きながら真上を通過していく。周りには人っ子ひとりいない。
再びテトラポッドの先っぽまで行き、日本海を眺める。この向こうには中国だの韓国だの北朝鮮だのがあるわけだけど、
何も支えるものがない空間が見えない先まで続いていて水平線になっている、というのは、やはり少し怖さを感じる。
そのうち、その怖さが足下のテトラポッドに移る。テトラポッドの上で身動きがとれなくなる高所恐怖症の29歳。
誰も助けてくれる人はいない。なんとか這いつくばってコンクリートの堤防まで戻ると、靴を乾かしながら空を見て過ごす。
L: 岩瀬浜にて波に襲われるの図。この直後、両足ともに海水にたっぷり浸った。
R: テトラポッドから眺めた日本海。11月の日本海は、やはりわびしかった。8時半を過ぎたくらいで、もういいや、と砂浜を後にする。そのままぐるっと港をまわって、展望台の方へ。
途中でロシア人を見かけたりロシア語の看板を見かけたり。どうもこの周辺の第2外国語はロシア語で決まりのようだ。
L: 富山港の展望台。 C: 展望台からは日本車を積み込んでいる光景が丸見えでしたぜ。
R: 富山における第2外国語はロシア語のようです。一橋では絶滅寸前だったなあ……。富山港からは、岩瀬の住宅街を抜けてポートラムの駅を目指す。岩瀬はかつて北前船で栄えた地域。
けっこう古い街並みがいまだに生きてる場所があって、歩いていてなかなか面白かった。
L: 岩瀬地区の住宅街。画面右側の杉玉は、ここいらを本拠地とする桝田酒造のもの。 C: 改装してきれいにしている例。
R: 桝田酒造の工場。見学コースにもなっているようだ。酒に強かったら、地酒めぐりって楽しみ方もあるんだろうなあ、と思う。帰りは平日昼間限定のタイムサービスのおかげで、ポートラムに半額の100円で乗れた。
うつらうつらしながら揺られて富山駅に戻ってきても、まだ9時台。じゃあ今度は路面電車に乗ってみることにする。
行き先は、終点の富山大学まで。別に用があるわけではないのだが、行ってみるのだ。
L: 路面電車より眺める神通川。イタイイタイ病で有名だが、今はごくふつうの川。
R: 富山大学。人文学部、経済学部、人間発達科学部(旧教育学部)、理学部、工学部がひしめくわりにコンパクトな印象。終点からちょっと歩くと富山大学である。ここはドラえもん好きにはある意味聖地である。
というのも、富山は藤子不二雄の出身地であり、「ドラえもん学」を提唱している研究者がこの大学にいるため。
(単位取得を目的としないゼミ「コロキアム」で実際に授業というか演習というかをやっているらしい。)
大学に行ったら何かドラえもん的なものがあったりするのかな?と思ったのだが、実際に来てみるとふつうの地方大学だった。
キャンパスをしばらくプラプラして生協に行ってみたりして時間をつぶすも、これといって特に収穫なし。
L: 路面電車の終点は、このようになってました。路面電車のない環境で育った僕には何もかもが新鮮だ。
R: 富山市内を走る路面電車。中は路線バスのような感じ。ハイテク丸出しなポートラムとはまったく違う。またまた富山駅前に戻ってきたら、だいぶいい時間になってきていた。
立ち食い的なそば屋に入って月見を注文。そしたら店のおばちゃんに「高校生?」と訊かれた。
今日は思いっきり平日やん! なぜにオレが高校生?と思いつつ「ちがいますよ、会社員です」と答えたら、
「高校生だったら50円にしてやろうと思ったんだけどね」とのお返事。よくわからん。
高校生に見えたんだとしたら、まあ、素直に喜んでおくべきか。さすが富山駅の2階にはドラッグストアがあり、そこでハイチオールCを購入。やっぱ富山に来たら薬を買わなきゃね。
ローカル薬のパッケージデザインにちょっと心惹かれつつ、いよいよ本題である市役所&県庁めぐりをスタート。
富山の場合、駅からまっすぐ南に行ったところに市役所も県庁も集中している。かなり楽ちんなパターンである。まず、イヤでも目に入ってくるのが富山市役所。新しくて、でかい。色づかいが、やや濁った黄色中心なのがちょっと困る。
てっぺんには展望塔がついているのだが、駅の方向から見ると、それがかなりアンバランスな印象を残す。
そして市役所の向かい側、県民会館を挟んで富山県庁である。こちらは対照的に、古い建物のままでいる。
ちょうど新しい議員でも決まったのか、正面の階段のところで記念撮影をやっていた。
ひと気がなくなってから、とりあえず撮影。県庁前公園と連続性のある敷地の設計になっていないのが残念である。富山県庁。小ぢんまりとしていて、この規模で間に合っているのがすごい。
もう一度富山市役所に戻り、中に入ってみる。展望塔に上るのだ。ちょうど昼休みの時間で、ロビーは人がいっぱい。
エレベーターで一番上まで行くと、そこは地上70mである。名古屋から来ていたと思われるおばあちゃん2人組と僕だけ。
まずは富山駅方面を眺めてみるが、さすがに海までは見えないのがちょっと残念。
でも、南西を向くとすぐ近くの県庁や富山城址公園を上から見下ろせるのは、なかなか面白い。
東では、条件がいいと立山連峰が見えるらしい。が、空気がそこまで透きとおっていなかったためか、見えなかった。
おばあちゃん2人組とちょっと雑談をする。東京から来たと言うと、なんで富山に?と不思議そうな顔をしていた。
これからどちらへ?と訊かれたので、富山城址を抜けて街をひたすら歩きます、と答える。
そしたら「いいわねえ。若いうちじゃないとできませんもんねえ」と返された。いやオレは歳とってもやってるでしょうけど、
と思うが言わないでおく。おばあちゃんたちは立山方面へ行くそうだ。やはり富山の観光名所は、山しかないのだろうか。
L: 富山市役所。デカい建物に塔が突き刺さってる感じ。右手の県民会館がジャマで撮りづらい。
C: 富山市役所の玄関はこんなん。 R: 展望塔より眺めた富山駅方面。残念ながら海までは見えず。市役所を出ると、富山城址公園へと歩きだす。神保長職が築城したという富山城だが、今の姿は戦後に造られたもの。
中身は定番の郷土資料館である。この日は遠足か何かで来ていたらしい小学生たちが、広場で弁当を食べていた。
西半分が石垣の整備をしているようで、けっこう狭かった印象。脇を流れる松川の風景はなかなかよろしかった。
L: これは富山城側から見た富山市役所。真ん中のアトリウムの存在がよくわかる。それにしてもこの色はなんとかならんか。
C: 城址公園の北を流れる松川。街中にある川にしては非常に緑が多い。 R: 郷土資料館(模擬天守)。小さいです。さあ、いよいよ富山市の中心部を歩きまわる。富山城址からまっすぐ南に進んでいくと、商店街の入口が見えてくる。
ここからまっすぐ東に伸びているアーケードが、総曲輪(そうがわ)商店街である。道幅は広くないが、小ぎれい。
現在、再開発が進められていて、その様子を透明な窓から見ることができるようになっている。
東端にある富山西武は撤退してしまったが、わりにアットホームな雰囲気で静かなやる気を感じさせる商店街だ。
とりあえず定食屋に入って胃袋を満たすと、また歩きだす。
L: 城址公園からまっすぐ南下すると、このきれいな通りになる(奥に富山城が見える)。もう少し店があれば活気が出るのだが。
C: 総曲輪商店街。この写真を撮ったすぐ右側では、かつて富山西武が営業していた。撤退が実に惜しまれる。
R: 再開発の様子をこうして眺められるようにするってのは、けっこう楽しい工夫だと思うのである。さらに東へ進むと、そのまま中央通り商店街へと接続する。こちらは総曲輪商店街よりちょっと広い。
しかしシャッターを閉じている箇所が多いため、閑散とした印象がより強くなってしまっている。
平日の昼間だから客足がそんなにないのかな、と思ったのだが、夕方以降も大して変わらなかった。
L: 富山県警のマスコット、立山くん。デザインは富山県出身の藤子不二雄(A)先生だそうで。
R: 越中富山の薬を売ってる店。いまだにこういう建物でがんばっていると、観光客はうれしいです。次はデパートを探検である。といっても、西武撤退後にこの周辺に残っているのは、大和(だいわ)1軒のみ。
ファサードはなかなか歴史を感じさせて、老舗の風格にあふれる印象。デパートというより、百貨店と表現したくなる感じ。
中に入ってみると、品揃えはあんまり若者向けではないし、充実もそれほどしていない感じがする。客足はそこそこ。
かつてこの大和の前はスクランブル交差点だったようだ。でもスクランブルが廃止された(斜め横断ができなくなった)らしく、
「だから注意してください」という看板が立てられていた。地面を見ると確かに、アスファルトを削った跡もあった。
スクランブルが廃止になるなんて考えたこともない。商店街としては、かなり深刻な事態だろう。
富山の街は逆風が吹き荒れているようだが、それでもなんとか大和には街の核としてがんばってほしいところだ。1932年開店の大和富山店。大和は石川・富山・新潟に展開しているデパート。
大和の1階の脇に入っている店で鯛焼きを売っていたので、迷うことなく買う。
前も書いたが、僕は鯛焼き大好きっ子なのだ(→2005.10.23)。鯛焼きを買い食いすることに無上の幸せを感じるのだ。
しっぽまでたっぷり詰まったあんこが疲れた体にエネルギーをくれる。いくらでも歩いていける気になってくる。
そうして富山の街をぐるぐるぐるぐる、回遊魚のごとく歩きまわる。そのうち、頭の中に地図が完全にできてくる。
道を訊かれてもバッチリ答えられる、そのレヴェルまで歩き続けるのだ。目を閉じれば街の光景が3Dで完全に再現できる。
そこまでできれば、僕としてはこの街を自分の中で「消化」したことになる。街が僕の栄養になるのだ。日枝神社の近くに笑えるほど簡単に宿が取れた。荷物を軽くしてから再度街へと繰り出す。
富山駅前まで行って、カフェで日記を書いて、また総曲輪商店街と中央通り商店街を往復して、腹を減らす。今回の旅は、実はグルメの旅でもあるのだ。それぞれの県の名物を食べる、という目的もあるのだ。
さて富山名物は、以前テレビでやっていたラーメンである。ネットでチェックしてみても、けっこう有名みたいだ。
富山には「富山ブラック」と呼ばれるご当地ラーメンが存在するのである。今夜は、これをいただくのだ。
「富山ブラック」は大和のすぐ近くに本店のある「大喜」という店で食べられる(支店もいくつかある)。
このラーメンの最大の特徴は、なんといってもスープが抜群に濃い色をしていること。「ブラック」の名の由来である。
なんでも戦後の復興の時期、濃い味付けが好きな作業員の皆さんにウケるラーメンってことでこうなったとか。いざ大喜本店に行ってみると、客は常時3~4人くらいで、全然混んでいないのであった。
けっこう狭い店内の壁に沿ってカウンター席が並べられている。店内には演歌のラジオが流れ続ける。
なんだかんだで結局、地元のお年寄りが常連の店という印象である。メニューは小・大・特大とある。大を注文。
L: 富山ブラック(大)、\900。チャーシューが多いので妥当な値段です。 R: 食ったどー! でもとてもスープを飲み干せない……。出てきたのは写真のとおり、真っ黒に近い色のスープを除けばわりに正統派の中華そば。
味の濃いチャーシューがたっぷり入っていて、ふつうの店ならチャーシューメンといっていいくらい。
見てのとおり、メンマにもがっちり胡椒が振りかけられている。ぶつ切りのネギがいいアクセントになっている。
いざ食ってみると、かなり中華そば。なのだが、とにかくスープの味が濃い! しょっぱいというよりも、もはや辛いに近い。
食べ始めと食べ終わりで明らかに麺の色が違っていた。麺が茶色に染まってしまうくらいの濃さなのだ。
スープを飲んでみるが、一口でギブアップ。こんなんマトモに飲めるの、神かクラウザーさんくらいだ(たぶん)。
まあそんなわけで、中華そばなんだけど味だけが異常に濃いという不思議な体験をしたのであった。
仕事が終わっていったん家に戻ると、あれこれ準備を始める。
渋谷に行ってCDを返して兆楽で炒飯の大盛を食べると、東京駅へ。夜行バスに乗り込んで、いざ出発。今回はとにかく、これまで一度も行ってみようと思ったことのないところに行ってみたいと思ったからそうした。
名前は知っているけど、どんな具合になっているのかよくわからない街を歩いてみようと思ったのだ。
よく「なんでそんなところへ」なんて言う人がいるけど、「行ったことがないから」というのは理由にならないのだろうか。
いろんな街の“ふつう”を目にするため、僕は旅に出るのだ。夜行バスは今年の春に大阪に行って以来(→2006.4.7)なのだが、やっぱり寝心地はまったくよろしくない。
首が殺人的に痛くなって二、三度目が覚めた。まあ、寝心地なんて二の次だから仕方ないか。