diary 2006.8.

diary 2006.9.


2006.8.31 (Thu.)

著者の先生にゲラをいただくため、先輩と電車に乗る。
あれこれと雑談をしているうちに、その先輩も父親が設計の仕事をしている、ということがわかった。
そんなことがきっかけで、建築士の子どもというものについて考える。

士農工商の身分制度が長く続いていたことは別にして、親の職業が子どもの思考の枠組みを決める側面は確実にある。
たとえば僕の場合、自分の腕で金を稼ぎ、時間を思い通りにコントロールしている父親を長く見ているため、
サラリーマン家庭に育った友人なんかとは、会社だとか職業に対する見方というかスタンスが、恐ろしいほど異なっている。
そのせいで今現在苦労していることも多いのだが、むしろ多様な価値観を持てたことを感謝する気持ちが大きい。
まあこれは職業云々というよりは、ウチの家庭の事情の範疇か。

とりわけ世間でよく言われるのが、医者の子どもというスタンスである。
賢くって金があるわけで、やはり周囲のガキんちょどもと比べると、独特の物の見方が染み付いているのは確かだ。
あとは一昔前の田舎を舞台にした小説やら映画やらでは、たまに教師の息子のスタンスが独特なものとして扱われる。
共通するのは「先生」と呼ばれる職業ということか。本人は意識せずとも周囲が意識するためか、毛色が違ってしまうのだ。

さあそうなると、建築士の子どもというのはなかなか微妙なものとなってくる。
建築士は作品をつくっているわけだから「先生」と呼ばれておかしくないが、日本でそういうことはなかなか稀なケースだ。
でもやっぱり確実に、「先生の子ども」なのである。キャラとしては勉強は一定レヴェルできて、細かい絵を描くのが得意、
ってなところだ。じゃあそうなった原因はいったいどこにあったのか。かつて遊んだ父親の仕事部屋を思い出してみる。

仕事部屋の机の上には無数の紙が積まれている。それも、薄くて半透明のトレーシングペーパーや、
酸っぱい匂いのする青焼き、まああとはたまに画用紙のようなものも。どれも直線が引いてある。
その近くには定規や筆記用具がやたらとたくさん散らばっている。本棚には本が並んでいる。
きれいな風景とセットになっている建築物の写真がたくさん収められており、サイズはけっこう大きめだ。
机の下には現場に行く際に着る作業着があり、ペンチやニッパーやカナヅチやドライバーなどの工具が箱に入っている。
手、それも指先で使うような、いろんな道具が部屋のあちこちに転がっている。そういうものを観察して子どもは育っていく。
だから建築士の子どもは、ほかの子どもよりも圧倒的に「デザイン」という言葉に近い場所で育つ。
きれいで使いやすく「デザイン」された道具たちに囲まれた世界で時間を過ごす。そうして、知らず知らずのうちに、
ちょいと賢くて手先が器用で身のまわりにあるあらゆる道具が好きな人間になるのである。

かつて日本では設計は大工がやっていて、建築士って役割は文明開化とともに定着したものである。
そのせいか、どうも田舎では馴染みのうすい職業なのだが、その子どもには確実に特性が染み込んでいくのである。
さらに言えば外見的にも、メガネが代表的な例なのだが、着ているカジュアルの一部分だけがきちんと凝っている人などは、
建築士の子どもである可能性が高い。あれ? ここちょっとふつうと違うな、という人から
「親が建築やってまして」と言われると、すごく納得がいくのである。

考え出すと止まらない。誰か「あなたの建築士のDNAチェック」なんてやってみると、意外とウケるかもしれない。


2006.8.30 (Wed.)

神崎宣武『江戸の旅文化』。岩波新書で、潤平に借りた。

当時の文献を参照しつつ、かつて盛んだったお伊勢参りと温泉旅行の実態について、わかりやすく説明した本である。
1章はお伊勢参り、2章はそれ以外の参拝旅行、3章は温泉旅行。だいたい1章が総論の役割になっていて、
つまりそれだけ日本人にとってお伊勢参りが重要であったことがわかる。「講」や「御師」についても詳しい内容である。

あれこれ論じる本というよりは、当時の様子を紹介する内容に徹している。
だから同じルートを現代で旅した場合との違いを想像するのが面白い。
当時の旅の実情がいきいきと目に浮かぶようにわかるのは、この本のすばらしい点。
これを1冊読んでおけば、江戸時代にはこんなんだったんだぞ、なんて、まるで見てきたようにしゃべれそうだ。


2006.8.29 (Tue.)

なんかまた仕事が増えるらしい。

編集の仕事をものすごく大雑把に一言でまとめてしまえば、著者の先生と印刷所との仲介をやる、ということである。
初校、再校とゲラが先生と印刷所との間を行ったり来たりする。三校以降になると印刷所との一騎打ちだが、
その分スケジュールがギッチギチになってきて、遅れることは許されないのである。
で、編集としては各段階ごとにやるべきことがあるわけで、うっかりしているとその段取りを忘れてしまう、
というヒヨッコの状態が今の僕なのである。今、この本はどの段階だったっけ、ってことが、忙しいとこんがらかる。

当方、そういう段取りの得意な脳みそのつくりにはなっていないわけで、まあ本当にややこしい。
(自力で段取りをつけるんならまだしも、慣習に従って段取りをつけるってのが、どうにも苦手なのだ。)
序盤のゲラのやりとりは3週間~1ヶ月単位なので、その間に別の仕事をしていると、細かいところを忘れてしまうのだ。
しかも、仕事が増えると当然それだけ同時並行する段取りがこんがらかりやすくなるので、もう大変である。
まあ、仕事をくれるってことは、会社がとりあえず今の状況をある程度容認しているということと取れなくもないので、
ダメダメながらも地道にやるしかないのである。


2006.8.28 (Mon.)

遠出をしてきたので、ここいらでさらにもうちょい休憩入れておくかな、ということで有給を取った。
毎回毎回同じ行動パターンで日記に書くのも申し訳ないのだが、自転車でブラブラである。

やはり自転車が最強なのである。まずはとりあえずの行き先を決めておいて、その場所をウロウロして気が済んだら、
テキトーに次の場所へまた向かう。電車の乗り継ぎだとか交通費だとかを考えなくていいので、自転車は本当にすばらしい。
いい天気の中、大好きな音楽を聴きながら、あてもなくぷら~りぷら~りとしているうちに、リフレッシュ完了、となる。

それにしても、本来平日であるはずの祝日に休むのと、平日に有給取って休むのとでは、充実感がまったく違う。
やはり本来は与えられていない休みをわざわざもらう、ということは大きいのだ。2年前には理解できなかった感覚。
うれしいやら、うれしくないやら。正直言うと後者。


2006.8.27 (Sun.)

さて、本日はいよいよ茨城県の県庁所在地である水戸の街を行くのである。

宿を出ると、すぐ近くにある水戸駅に向かう。まだ店が開いている時間ではないのだが、周辺をあちこち歩いてみる。
水戸駅はペデストリアンデッキがよほど大好きと見えて、北口と南口の両方に、けっこう大規模なデッキが造られている。
北口は、地上のロータリーを回る車とデパートに行く人の動線を分ける意図がはっきりとしている、よくあるタイプのものだ。
対する南口のデッキは非常に広く、ちょっとした駅前広場ってくらいのスケールだ。でもただ平面になっているだけなので、
なんだか空間の使い方がもったいなく思えてしまう。今後開発が進んでいけば、また様子が変わってくるのかもしれない。

 
L: 北口デッキのシンボル的存在、からくり時計。でもどの辺が「からくり」なのか、まったくわからないのであった。
R: 北口のデッキはこんな感じ。階段など起伏でリズムをつけている。奥にあるのは黄門様一行の像。

  
L: こちらは南口のデッキ。本当に広くて、何もない。なんだかもったいない空間である。
C: デッキを行った先は、大通りをまたぐ歩道橋のようになっている。そこから、駅側(北)を眺めたところ。
R: その反対側(南)。まっすぐ伸びた駅南中央通りは広くて立派だけど、あまりこれといった名所がない。

いったん駅に戻り、カフェでフレンチトーストを食べてから、水戸市役所目指して南口デッキを降りる。
北口の商店街に比べると本当に「駅裏」って印象の、少しさびれた雰囲気の道を歩いていく。
中華に韓国など、妙に多国籍な料理屋が点在している中、現れたのが白くて大きな建物。水戸市役所である。
敷地の北側は広い駐車場で、東側には市民会館が隣接。水戸ホーリーホックを応援する垂れ幕が下がっている。
市役所のファサードは格子状の窓が印象的だ。かなりきれいな白は、何年か前に塗り替えられたからなのかもしれない。
隣の市民会館もほぼ同じ雰囲気で真っ白に塗られていて、周囲の風景に溶け込んであんまり目立たない印象だ。

  
L: 水戸市役所のファサード。東京都でいえば東村山市役所や羽村市役所に似ているかも。
C: 同じ向きを遠景で。こちらが市役所の正面にあたると思うのだが、とにかく駐車場が広い。
R: そのまま左を向くと市民会館。周囲に駐車場以外のオープンスペースがない市民会館も珍しい気がする。

 裏側。手前(右)が市民会館で、奥(左)が市役所。デザインを統一している。

水戸で元気があるのは北口(昨日歩いてみた辺り)で、なぜこんな地味な場所に市役所があるのか、よくわからない。
隣に市民会館が建っている事実も含めて、調べてみたら意外な理由がありそうな予感がする。

さて、市役所の次は茨城県庁に行ってみる。地図を見るに、県庁はさらにずっと南に行った国道のバイパスの近くだ。
銀行や新聞社・放送局といったマスコミは水戸駅北口に集中しているので、これは郊外に移転したんだな、とわかる。
簡単な地図でもけっこう距離がありそうなのだが、とりあえず歩いてみることにする。
逆川沿いのさくら通りを歩いていく。風景はすぐに、いかにものんびりした田舎っぽいものへと変化する。
それも県庁所在地であるという事実を忘れてしまいそうな、かすかな山道の雰囲気だ。飯田で言うと、伊賀良っぽい。
まあつまり、国道とそのバイパスに挟まれた未開発の地域、起伏の残った地域、そういう感じ。

ぼんやり考えごとをしつつ歩いていくのだが、これが一向に「県庁に行く」という気配がしない。
このまま歩いていったら別の自治体の市街地に出ちゃうんじゃないのかと不安になって地図を取り出して眺めるが、
道を間違えているわけではない。街はずれの緑の中に点々と住宅があったりなかったりという光景がずっと続く。
僕が持っているのは駅の観光案内所で昨日もらった略地図なので、距離の表現はいいかげんなのである。
実際の縮尺だったら相当なものがありそうだ。困ったもんだ、などと思いつつ足は同じペースで動いていく。

やがてようやく、国道50号のバイパスに出た。アスファルトがまだ欠けたり削れたりしていない、広い道路。
ひっきりなしに青い看板が出ていて、近くの街までの距離が何kmあるか示している。両脇には大規模店が並んでいる。
僕の田舎と全然変わらない、そして日本全国どこに行っても全然変わらない、国道のお馴染みの光景だ。
(※後述するが、「国道50号」は旧市街の商店街であり、郊外を走るこちらは「国道50号バイパス」である。)
つまんないのでバイパスからさらにちょっとだけ南に入った細い道を西へ行ってみようとするが、すぐに迷ってバイパスに戻る。
あきらめて、車が途切れることなく流れる国道の歩道を素直に歩く。すると、遠くにやたら大きくて新しいビルが見えた。
窓ガラスが目立つグレーのそのファサードは、どう考えても庁舎建築。あれが、茨城県庁なのだ。
建物のスケール感は、何もない郊外ではひどく浮いている。でも小さく見える。これから歩かされる距離に、悲しくなる。

そこから黙々と歩いていって県庁の前に出たときには、時刻は11時半をまわっていた。
駅をスタートしたときには9時ちょっと過ぎだったわけで、自分の歩いた距離を想像するのが怖い。

 
L: 茨城県庁。これは北東側から撮影したもので、建物からすれば裏手。国道のバイパスに背を向けて建っていることになる。
R: 正面(南側)を撮影。周囲は空き地ばかりで、これから大規模に開発が進んでいく予定になっているのだろう。

茨城県庁の正面、つまり南側にまわりこむ。歩行者はゆるやかなスロープを上っていくような感じで、建物に入ることになる。
その途中で周囲のオープンスペースをあちこち眺めてみる。実にきれいにつくっていて、とても手が込んでいるのがわかる。
確かに庁舎建築にくっついている憩いの場としては高いレヴェルだとは思うが、これだけ郊外にあると効果ははなはだ疑問。
それでも親子連れとおばあさんたち二組が過ごしていた様子を見るに、いずれ名所になる可能性がないわけではなさそう。

  
L: まるで城を囲むお堀のように、県庁の前には池がつくられている。これは旧県庁のイメージを踏襲したものかもしれない(後述)。
C: エントランスの手前にある広場とベンチ。  R:採光しているってことは、この下には部屋があるということか。なんかラピュタ的光景。

茨城県庁は休日にも入ることができる。上に展望台があり、そこから辺りの景色を眺められるようになっているのだ。
迷わずエレベーターに乗り込んで、25階を目指す。僕以外には二、三組のグループがいた、という程度。
やはり市街地から遠いこともあり、わざわざ県庁に来て景色を眺めようなんて人は少ないのだ。
しかし実際に展望台に行ってみると、これがなかなか絶景。高所恐怖症なのでおそるおそる窓ガラスに近づき、眺める。
北側には水戸の中心市街地が広がり、南側にはいかにも茨城県らしい田園風景が広がる。
両者の差がすごくはっきりしているのが興味深い。これは市街地から離れていることがもたらすメリットなのかもしれない。

  
L: 北側の水戸市街を眺める。高層ビルの目立たない、地方中心都市の一般的風景って印象である。
C: こちらは東側。ちょっと拡大してみた画像なのだが、水平線が見える。
R: 南側。昨日の日記でも書いたが、茨城県の原風景と言えそうな、田んぼと林と住宅という組み合わせがはっきりわかる。

なるほど都市社会学的には面白いな、なんて思いつつ茨城県庁を出る。が、市街地までまた歩く距離を想像してへこむ。
しかしへこんでいても距離は縮まらないのだ。足を動かし続けるしかないのだ。がんばるのだ。
なんて思っていたら、目の前のバス停に「県庁前」と行き先を表示したバスが停まった。軽く愕然とする。
そうだ、バスという交通手段の存在をすっかり忘れていた(昨日、つくばから土浦までお世話になったのに……)。
まあでも同じ市内を行き来するのにバスを使う気なんてさらさらない。歩く距離感を体に刻むのが、面白いのだ。
気持ち胸を張って、北へと歩き出す。目指すは水戸随一の名所・偕楽園である。

旧国道6号(県道50号)を行く。いかにも旧道らしく、そんなに広くない道幅に、ちょっとした交通量。
両側には昔からの商店が点在し、たまに新しい飲食店がある。これまた、日本全国どこに行っても変わらない光景だ。
道にはわずかな起伏とカーヴがあって、今日はいろんな種類の道を歩いているなあ、と実感する。
ぐいぐいぐい、と歩き続けていくと、道はまた田舎というか、緑の気配を濃くしていく。
そして行った先に、小さな「←偕楽園」という看板を発見。入ってみる。

かつて大学時代、HQSの合宿で訪れた高原のような、そんな印象の道を進んでいくと、視界が開けた。
そこは一面の芝生で、人々が座っていたり子どもが走りまわっていたり、のんびりと時間を過ごしている。
街中にこれだけの広くて邪魔のない芝生があるってのは、珍しいかもしれないなあ、と思いつつ踏みしめていく。
これが偕楽園なのか、と思いつつ、さらに奥へと進む(正確にはここは偕楽園公園であり、いわゆる「偕楽園」ではない)。

偕楽園公園は芝生だけではない。コスモスの花畑もあるし、梅の林も池もある。川も流れている。実に広い。
「中心市街地に位置する都市公園では、ニューヨークのセントラルパークに次ぐ世界第2位の広さ」
後でもらったパンフレットにはそう書いてあった。視界をさえぎるものがほとんどないのが、その広い印象をさらに深める。

  
L: 偕楽園公園の「四季の原」。一面の芝生はすごく贅沢な空間。  C: コスモス畑。秋にはめちゃくちゃきれいなんだろうなあ、と思う。
R: 月池越しに本家の偕楽園を眺める。中央やや左寄りにある建物が好文亭。池の中にあるのは風車的なオブジェ。鳥ではないです。

 
L: こちらはマリーゴールド畑。  R: 公園内を流れる沢渡川。

偕楽園公園の東側には、千波湖という湖がある。これがまた中心市街地にある湖としてはけっこう大きい。
ここまで歩いたら徹底的に歩き通してやる!と決意し、湖に沿って歩きだす。

この一周コースはランニングコースにもなっているようで、おじさんやおばさんが走ったり歩いたりしている姿が目立った。
また、千波湖には水鳥がやたらといっぱいいて、そこらじゅうでひなたぼっこをしている。ものすごい水鳥密度なのだ。
白鳥や黒鳥たちはすごく優雅で、カルガモやらが目の前をよちよち歩いているのはとってもかわいい。
1羽くらい捕まえて持ち帰ってもわからんだろ、と不謹慎なことを思うが、近づいてみると意外とすばしっこい。
デジカメの視線にも敏感で、全然目を合わせてくれない。うーん、どいつもこいつも照れ屋さんめ、と思いつつ歩き続ける。

  
L: やっぱりありました、記念写真用のパネル(顔ハメ)。3人で来たらぜひどうぞ。
C: 鳥にポテトチップをあげる子ども。千波湖の水はあんまりきれいじゃないので、落っこちないようにご注意。
R: 半周したくらいで、湖越しに好文亭を眺める。しかし歴史ある街ってのはフォトジェニックなもんですな。

 目の前をウロウロするのは本当にかわいいけど、全然こっち向いてくれなくて切ない。

千波湖の南側は砂利道で、ちょっと踏み外せば湖にドボンとなってしまうが、北側の道は湖面から離れて舗装されている。
そのアスファルトにはゴム素材が混ぜてあるのか、歩くと反動がある。さすがはランニングコースである。
これが歩き疲れた足にはとてもありがたい。地面がショックを吸収してくれるおかげで、かなり楽に一周することができた。

無事に一周を終えると、いよいよ偕楽園へ。陸橋を渡って曲がりくねった坂道を上っていく。
東門にたどり着くと、そこには土産物屋が固まっていた。中をざっと見て、血糖値を上げるためにアイスクリームを舐めて、
すぐ隣の常磐神社にお参りする。巫女さんが3人もいて、「規模のわりにはやるねえ、黄門様」と思ったよ、バヒさん!

水戸に来たからにはぜひ行っておかないとな、ということでやってきた偕楽園。東門から中に入る。
するとすぐ入口のところで猫がうにゃうにゃと転がってひなたぼっこしていた。その様子がかわいかったんで、思わず撮影。
偕楽園の中はさすがに落ち着いた庭園の雰囲気そのもの。敷地の南側は芝生と木々という構成で、その先は崖になり、
左手に千波湖、右手に偕楽園公園が一望できる。水戸家のご主人は実に贅沢な景色を味わっていたんだなあ、と思う。
偕楽園のランドマーク・好文亭は、そんな景色を眺めつつ徳川斉昭(烈公)が詩作に没頭するためにつくったんだそうだ。
敷地の北側には梅林が無限に広がっている。今はシーズンではないので「ふーん」どまりの印象なのだが、
春がそろそろ来るぞ、という時期に真っ先に咲きはじめる梅のシーズンには、それはもう夢のような景色になるのだろう。

  
L: アクロバット猫。  C: 偕楽園で東門から好文亭へと向かう道。  R: 芝生の先に好文亭。

  
L: 偕楽園より眺める千波湖。  C: こちらは右手、偕楽園公園。  R: 偕楽園内の梅林。春には人出がすごそうだ。

さて、せっかく来たわけだから、好文亭に入ってみる。偕楽園はタダで入れるが、好文亭は入場料が190円かかる。
事務所に「お釣りのないようにお願いします」とやたらと貼り紙があったのだが、それなら200円にしろよ!と僕は言いたい。
(でも「すみません……」って言って200円出したら、「あ、いいんですよ、ええ、どうぞ」とすごい低姿勢でお釣りをくれた。)

好文亭は外観どおり、けっこうこぢんまりとしている印象。徳川家御三家の別荘にしてはずいぶん質素だ。
当然ながら木造で風通しがよい。反面、明かりがない箇所は真っ暗で、日ごろ電気に慣れきっていることを実感する。
けっこうあちこち入っていいので、トイレにまたがって当時のことをしのんでみるなどして過ごす。
3階建ての3階は楽寿楼と呼ばれているのだが、ここに正座してみると非常に心地よい。正しい日本の夏、という印象だ。
僕は高所恐怖症なので、おそるおそる外の景色を眺める(昔の人の身体スケールなので、つくりがちょっと小さめなのだ)。
眼下に広がるのは偕楽園公園と千波湖。いやはや、なんともうらやましい生活スタイルだなあ、と思いつつ好文亭を出る。

好文亭の裏側は竹林と杉林になっている。坂を下って行った先には吐玉泉と太郎杉なるものがあるそうで、見に行く。
吐玉泉は白い石の井筒に水が湧いたもの。その向かい側にある太郎杉はなかなかの大木で、見ごたえがあった。
まあそんな感じでウロウロしながら表門から偕楽園を出る。周囲は閑静な住宅街で、観光スポットと思えないほど静か。

  
L: 吐玉泉・太郎杉へと向かう道。なんとなく嵯峨野(→2004.8.8)を思い出した。  C: 太郎杉。実際にはけっこうな迫力がある。
R: 偕楽園表門。土産物屋があるのは東門のほうで、こちら側は本当にひっそりとしている。外に出ると見事に住宅街。

住宅街を突っ切ると、大工町という名の一帯に出る。昨日、晩飯を求めて歩いた商店街(国道50号)の西端だ。
駅に向かって歩いているうちに、なんとも由緒のありそうな建築がポツポツ、がんばって建っているのが見えてきた。

 
L: 東京三菱UFJ銀行水戸支店。  R: 泉町会館。実にモダンである。いいなあ。

左の銀行は、明らかに戦前に建てられたものだ。この風格からして、地域にとってそうとう重要な銀行だったはずだ。
また、その近くにある泉町会館は、非常にわかりやすい鉄筋コンクリート黎明期のモダニズム。
これらの両者から、この国道50号が、かつては非常に人の往来が盛んな商業の中心地域だったことがわかる。
ここからまっすぐ東に行った水戸駅前は「三の丸」という地名で、周辺に役所・公的機関や企業の事務所が多くある。
この三の丸と大工町の間が、江戸期には大規模な商業空間になっていた、と想像ができるわけだ。
さらに歩いていくと、看板を白く塗りつぶされた、かつてデパートだったであろうビルが複数あった。
ダイエーと、地元資本のデパート跡である。駅前のデパートは健在なのだが、奥(西側)のほうは廃業しているわけだ。
交通の便が良くなって簡単に東京に行けるようになったことで、やはり地元の商店街はダメージを受けているのだ。
人の流れが国道50号の奥まで来なくなったことで、商店街は大きく姿を変えていった、と想像がつく。
もはや現在の姿に変わる前のことがイメージとして浮かんでこない。それには、残された建築があまりに少ないのだ。
閑散とした建物を眺めながらうーんとうなって歩いていたら、昨日の夜に見た京成のところまで来た。
デパートがバタバタつぶれた跡を見てきたので、新しい建物で元気に営業している京成が、すごくかっこよく見えた。
昨日の日記で、京成を「水戸の街で輝き続ける灯火に見えた」と表現したのは、そういうことだ。
駅から離れていながら、周囲の商店を元気づけるように照らす京成のアトリウムが、僕の記憶の中でさらに美しく輝いた。

 
L: 水戸の商店街(国道50号)。これは比較的駅に近いところ。アーケードを半分だけかけているのがなんかオシャレ。
R: 左の写真よりはもうちょっとさらに駅に近づいたところを車道から。休日なのだが人出はそんなになかった。

さて、再び駅前に戻ってきたので、今度は旧茨城県庁舎へと行ってみる。
駅から銀杏坂という坂を上っていけば、すぐそこである。まず水戸城址の堀が見えるのだが、今は整備中で空堀。
城址の中へと入ってまず最初に目に入るのは、茨城県立図書館。真っ白なモダンの建物である。
そしてその左手にあるのが、旧県庁舎(現在は「茨城県三の丸庁舎」って扱いになっているようだ)。
この日はちょうど何かのドラマのロケをやってて、旧県庁舎を学校に見立てていた。女子生徒役と先生役がなんかしていた。
邪魔にならないタイミングで横切ると、右折して奥のほうへと進んでいく。その先にあるのは、弘道館である。

  
L: 茨城県立図書館。よく考えたら僕は南信出身なので、県立レヴェルの図書館には縁のない生活をしてきたのだ。ちょっと興味あり。
C: 旧茨城県庁舎を遠景で。この日は環境を守ろう系のイベントが開催されていた。
R: 旧茨城県庁舎の正面。確かにまあ、大学っぽい。なんとなく津田塾に似てるかなあ、なんてうろ覚えで思ったのだが、はてさて。

歩いていくと、鹿島神社という神社があった。軽くお参りして、弘道館の正門にまわる。
実は、この県立図書館・旧県庁舎の一帯は、かつては弘道館の敷地だったのである。
県立図書館は厩舎、旧県庁舎は調練場ということで、現存している弘道館はその一部分、建物の部分なのである。

 弘道館正門。

弘道館の入場料も好文亭と同じく190円なのであった。10円お釣りをもらって中に入る。
江戸時代には全国各地に藩校がつくられたのだが、弘道館は徳川斉昭が天保年間の1841年に創設。
やはりこの中も好文亭と同じように、けっこうあちこちに入ることができる。
それでトイレだの浴室だのまで見てみる。浴室の床は、ゆるやかなV字になっていて、真ん中に溝がある。
つまりそうして水を流す仕組みになっていて、おおーなるほどなるほどと、変なところで感心するのであった。
まあそんな感じで、自分の高校生活と弘道館の空間を置き換えながら、あれこれ想像してみて過ごした。

さて、帰ってきて、つくばで買ったお土産をさっそく広げてみる。

まずは「地球ゴマ」。これはいわゆるジャイロの仕組みを理解できるというおもちゃである。
ジャイロってのはこんなん、と絵では描けるものの、具体的にどういう理屈ですごいのかはわからない。そういう人は多そうだ。
で、この「地球ゴマ」は、まず軸の真ん中に空いている穴に凧糸を通し、ぐるぐると巻いていく。これで準備完了。
そうして、糸を引っぱって回すのだ。上下のでっぱりは固定されており、中の軸だけがぐるぐる回るのである。
(下の写真では、糸を巻いている黒い軸が下の円盤と一体になっており回る。その上のステンレスのでっぱりは動かない。)
糸を引っぱると中の軸と円盤が回転し、何があろうとつねに、軸は一定の方向を保つようになる。
何もしないとコマはバランスを崩して倒れてしまうのに、中身を回転させているとコマはピタリと立つのだ。不思議だ。

 
L: 「地球ゴマ」の軸に糸を巻いたところ。  R: そのまま糸を引っぱって中身を回転させると、不安定なコマがまっすぐに立つ。

そして宇宙食である。「たこやき」を開けてみる。いわゆるフリーズドライでカチカチに固い。

 
L: 宇宙のたこやき。なんだか小惑星みたいに見えるぜ。  R: かじってみるとこんなん。

中のタコの風味がなかなかリアルだった。やっぱたこやきは熱くてやわらかいからおいしいんだなあ、と思った。


2006.8.26 (Sat.)

最近はすっかり「県庁所在地でひとり合宿」をサボっているので、久々にやってみることにしたのである。
前回は群馬・栃木の旅だったのだが(→2005.11.2)、そのときに行けなかった関東最後の砦・茨城県に行くのである。
ちなみに自分、「いばらき」なのか「いばらぎ」なのかよくわかっていない。「いばらき」だと大阪府茨木市を指すはずである。
だから茨城は「いばらぎ」だと思っていたのだが、テレビで磯山さやかが「いばらき」と主張していたような気がする。
で、茨城県のホームページを見てみたら、「http://www.pref.ibaraki.jp/」。「いばらき」なのだ。かぶってんじゃん、と。
じゃあなんで「いばらぎ」で変換したらきちんと「茨城」が出てくんだよ、と。ワケがわからない。
さらにいろいろ検索して調べたら、「茨城弁」という単語に限って「いばらぎべん」と濁るらしい。もう本当に混乱してきた。

家を出る準備をしている間、なんとなくチャンネルをNHKに合わせていたら、中継でつくば市の映像が流れた。
なんでも今日は祭りが開催されるらしい。つくばエクスプレスの開業1周年ということもあり、けっこう盛大なようだ。
これから行こうとしている場所が偶然、あらかじめテレビ中継で紹介されるのって、なんか変な感じがする。
そんなに近くない場所なので、なおさらである。画面を見るに、雨があがったばかりって様子。悪くない。

秋葉原まで行って、そこからつくばエクスプレス(TX)に乗り込む。これで終点のつくばまで行ってしまうのだ。
TXに乗るのは姉歯落語祭り以来(→2005.9.17)。あのまったく揺れない電車がどこまで揺れないままか、確かめるのだ。
秋葉原を出ると、そのままずっと、水平を保つ感じで地下を進んでいく。北千住でいったん地上に出る。
曇り空が心なしかまぶしい。でもまたすぐに地下に潜り、青井・六町と足立区のど真ん中を突き進んでいく。
そして再び地上に出ると、そこは埼玉県。八潮からは見渡す限りの住宅地を行く。いかに東京のベッドタウンとはいえ、
あまりにできすぎな風景ってくらい、地上一面を一戸建ての屋根が視界を埋め尽くしている。
TXは、幾何学模様の波間を快適に泳いでいく。外環道の下をくぐり抜けて江戸川を渡ると今度は千葉県。
流山は打って変わってのんびりとした風景になる。けっこう緑が多い。柏に入り、利根川付近は一面の水田地帯。
そしてついに茨城は守谷へ。駅周辺はいかにも新興の街だが、ちょっと奥は田舎の風景である。
広々とした水田に包まれた一角に住宅が固まり、そこから離れたところに林か小さな森といった程度の緑が残っている。
翌日、茨城県庁から眺めた光景もそうで、この水田と林という取り合わせが茨城の原風景なのかな、と思った。
(ちなみに群馬は周囲を山に囲まれた風景、栃木はなだらかな平野に畑が広がる風景。同じ北関東でも全然違う。)

終点のつくばに到着。まずは改札を出てすぐにある観光案内所でパンフレットをいくつか入手。
市内の地図を見ることで、目的地を探すのである。今日中に水戸に移動したいので、夕方までにはつくばを離れるつもり。
だからそんなにあちこちをまわるわけではない。まあ、つくばもそんなに見るところがある街でもないので、別に気にしないが。
つくばに来るのは筑波大学を受験して以来か、見事に落ちたなあ、今となっては落ちて良かったなあ、なんて思いつつ歩く。
(後になって大学院時代に調査の手伝いで来たことを思い出した。すっかり忘れていたわ……。→2002.11.28
やはりつくばの道路のスケール感は異常で、歩いていると埋立地にいるような錯覚をおぼえる。さすがは陸の孤島である。

 
L: 歩道橋から撮影した、つくば市中心部の道路。とにかく幅がやたらと広いのだ。
R: これは別の通り。やはり広い。つくば市は歩道橋が大好きだ。筑波大学内にもたくさん。たぶん日本一歩道橋の多い街。

まずは久々にプラネタリウムでも見ようかな、と思い、中央公園を突っ切ってつくばエキスポセンターへ。
中央公園内は「まつりつくば」の準備で人がいっぱいいた。さっきテレビで中継されていたアレである。
どうでもいいが、「つくばまつり」ではなく「まつりつくば」という語順が、いかにもつくばくさいセンスをしている。あーやだやだ。

  
L: 「まつりつくば」、駅に面した辺りは「アートタウンつくば」ってことで、アートをテーマにしているみたい。
C: こちらがエキスポセンター。建物自体はつくば万博'85のものをそのまま使用している。画面には入ってないが、左側にプラネタリウム。
R: 施設の目印であるH-2ロケット。つくばを象徴するオブジェとして扱われている模様。でも国産ロケットって迫力不足なんだよなー。

プラネタリウムの時間になるまで30分ほど、エキスポセンター内を見てまわる。
1階はつくばに研究施設のある機関が扱う科学技術を総合的に展示、2階はJAXAのショールーム的宇宙関連の展示。
正直、どちらも見るべきものがほとんどなかった。僕のお気に入りである名古屋市科学館とは比べ物にならないほど貧弱。
科学技術を売りにしている街にある、科学技術を紹介する施設にしては、話にならないほどお粗末。
いかにもお役所の外郭団体くさいやる気のなさしか感じられない場所だった(運営は財団法人)。
唯一面白かったのはショップで、全体としては今ひとつ目新しさには欠けるが、それなりにツボを押さえていたのが好印象。
アルミパウチの宇宙食を売っていたので、とりあえず「たこやき」を買ってみた。あとは「地球ゴマ」、いわゆるジャイロ。
筑波大学グッズの隣にあったお菓子、「つくばロマン」は衝撃的だった。かさばるので買わなかったが、そんなのがあるとは。
マサルが知ったら間違いなく、バンド名が変わるな、と思った。変わったところでどうせやることは一緒なんだけどね。

肝心のプラネタリウムは、つくば万博で初登場した一球一光源式の流れを汲むもの。
ふつうのプラネタリウムの投影機は、球が2個ついている。でもここの投影機は、球が1個だけなのだ。
で、ドーム内は高低差をつけて客席を斜めに配置。つまりドームをスクリーンにした映画を見るようなものだ。
似たようなものは中学んとき、まる氏に中部電力の浜岡原発見学ツアーに連れて行かれた際に見た記憶がある。
(ちなみにその翌日に原因不明の熱が出て学校を休み、「マツシマが放射能にやられた」という噂が流れた。)
まあ正直、ふつうのプラネタリウムと比べてメリットがあるとは思えなかった。単に球が1個で珍しいってだけでしかない。
番組の内容もこれといってキレがあるわけでもなく、消化不良な気分でエキスポセンターを出た。

お昼の時間で、まつりつくばが大賑わい。中華の屋台で韓国名物だというジャージャー麺をいただき、植物園を目指す。
国立科学博物館の附属施設である植物園があるんだそうで、まあ行ってみるかな、と思ったのだが、これが大変。
つくば市は広い。基本的に車のスケールですべてがつくられている。だから地図では近そうでも、歩くとかなり距離がある。
それでも時間に余裕はあるので、のんびりぷらぷら歩いていく。と、歩いている道と周りとの間に段差があるのに気がついた。
つくば市中心部の道は車のスケールだが、一歩中心から出ると、きちんと人間のスケールの道、曲がった道が残っている。
どういうことだ、とちょっと考える。出てきた答えは、中心部は後からつくられた街だということ。その露骨な証拠だということ。
つまり、それまであった人間のスケールの上に、車のスケールの都市を新たにかぶせることで中心部がつくられたということだ。
その証拠が、下の真ん中の写真である。市内には広い道路が走っているが、左の少し高い位置にあるのはその歩道だ。
車道はこの写真のさらに左側を走っている。植えられた木で歩道と車道が区切られているのである。
で、右の低い位置にあるのが、昔からある道路。車のスケールでつくられた空間は、まさに従来の土地の「上」にあるのだ。
それまでの生活の痕跡を埋めて一段高く街をつくる。そりゃあ埋立地のような感触になるはずだ。陸の孤島になるはずだ。
つくば市の中心部は、土地の歴史と縁を切って「浮かんでいる」。わずかな高低差が人工と自然の対比をはっきり物語る。

  
L: まつりつくば。午後になると人出も多くにぎやかだ。  C: 「つくば」と「筑波」を分ける高低差。新旧の街の差はこれ以上に大きい。
R: こちらが国立科学博物館つくば植物園。写真は入口付近の教育棟で、施設じたいはこの後ろに大きく広がっている。

かなり歩いてやっと植物園に到着。入場料を払って中に入る。荷物をロッカーに預けた際、デジカメを持ってくるのを忘れた。
おかげで施設内の写真を撮ることができなかった。きちんと撮ったら面白いものが多かったので非常に残念。
つーか取りに帰るずく出せよ自分。

植物園というと、どうしても地味な印象がしてしまう。実際、花が咲いている季節でないと地味そのものである。
しかしじっくり歩くと、実はこれがなかなか面白い。お得なのだ。きちんとした心構えで行ってみると、けっこう楽しめる場所だ。
というのもつまり、ここではその広い敷地を利用して、日本中の植生を再現しているのである。針葉樹林に広葉樹林、
高山、海辺、湿地、人里。だから、あちこち歩いて見ていくと、ミニチュアの日本一周旅行ができることになるのだ。
この事実に気がつくと、植物園がかなり面白く見えてくる。高山の植生を再現したすぐ隣に海辺の植生ってな具合で、
現実には決してありえない取り合わせを眺めることができる。こういう経験を簡単にできるというのは、非常に興味深い。
さらに、自分にとって最も落ち着くというか見覚えがあるというか、そういう場所はどこか、を考えてみるといっそう面白い。
僕なんか海なし県の山国育ちだから、針葉樹林や高山に懐かしさを感じる。逆に海辺の風景にはやはり珍しさを感じる。
湿地を再現した場所なんかもう異世界。尾瀬に一度でいいから行ってみないとなあ、なんて思った。
さらに温室では、世界の熱帯・乾燥帯から植物をもってきている。歩いてみるとやっぱり不思議な感じがする。
さっきは野外でミニチュア日本一周だったが、今度は室内で低緯度地方の旅行感覚になれるので、やっぱりお得である。
さて、植物園を訪れる際に注意しておきたいことも書いておこう。それは、けっこう積極的に蜂が飛んでいるってこと。
よく考えれば当たり前だが、人の管理のもとに自然環境を再現しているわけだから、その両方に強い蜂がいるのは当然。
だからサンダルに半ズボンという服装は控えたほうがいい。色の濃い服を着るのも危険。できれば帽子があるほうがいい。
てなわけでそうなると、軽い山歩きをする恰好がベスト、ということになる。まあそれだけ真剣に自然を再現してるってことだ。

植物園が意外とヒットだったので、さっきの消化不良はどこへやら、なかなかいい気分で歩きだす。
せっかくここまで来たんだから、入れてくれなかった筑波大学の敷地に入っちゃえ!と思う。
キャンパス目指して歩いていたら、手をつないだ買い物帰りのカップルとすれ違った。
そうかあ、ツクバだもんなあ、そうだよなあ、としみじみ思う。もし僕が間違って筑波大学に入っていたらモテてたかねえ、
と思うが、ぜったいこの特殊すぎる環境に4年間も耐えることなどできないとも思うので、現状でヨシなのである。
そういえば大学で語学のクラスが一緒だった水戸一高出身の女の子が、「筑波に行くのもつまんないから一橋受けたの」
なんて言ってたな、僕の一生のうちで返事に困るトップ5に入る発言だったな、まあいいや、落ちてよかったよかった、
と走馬灯のようにあれこれ頭の中を駆けめぐるものがあったのであった。

筑波大学は非常に危険な場所である。というのも、キャンパスがでかくて建物が学群ごとに集中して建っているため、
デッドゾーンがとても多いからだ。たとえば酔っ払って寝ちゃったりなんかすると、数年経ってから運よく発見されるか、
発見されないままか……ということが起きかねない。ホントにシャレにならない。実際に敷地を歩いていると、
この辺には街灯がないので夜は歩かないでください、というような看板を見かける。真空地帯である。
(大学時代の恩師が以前、筑波大学に勤めており、この話を教えてくれた。筑波に落ちてよかったと本気で思うわー。)

 
L: 筑波大学の敷地の端っこ。画面右側の鬱蒼とした森林の方が大学側である。魔女がいそうな森である。
R: キャンパスの中心を貫く、かえで通り。ところどころにバス停があり、学生はバスで目的地へと向かうわけだ。

ふつう大学には、シンボルとなる場所があるものだ。東大なら安田講堂だったり、京大なら百周年記念時計台だったり、
一橋なら兼松講堂だし、東工大なら本館(百年記念館は認めん)。しかし筑波にはそれがない。本当に、何もない。
どこに行っても同じように茶色の機能的な建物が並んでいる。時計塔がないのだ(兼松に時計はないが、図書館にある)。
その核のない感じが、ツクバ独特のあのつかみづらい感じを生み出しているように感じる。
あらゆる意味で特殊な大学だ、とあらためて思うのであった。

  
さてここでクイズです。上の写真はそれぞれ「第一学群」「第二学群」「第三学群」を撮影したものですが、どれがどれでしょう?
……正解は、左:第一学群、中:第三学群、右:第二学群。キャンパスの南から北へと撮影したのだ。

大学内ではランニングしている学生が目立つ。さすが体育学群は多くのスポーツ選手を生み出しているだけのことはある。
しかし学生たちが集まる場所がないためか、小さなグループをチラホラ見かけるって程度。サークルとかどうしているんだろう。
学生運動を阻止する目的でキャンパスが設計されたという噂を聞いたことがあるけど、それが変に機能している印象だ。
林の中に突如として建物の群れが現れる。そのどれもが同じような色・形をしている。歩いているとなんだか怖くなってくる。

 
L: 正門に到着。TSUKUBAの「T」をかたどったと思われるオブジェ発見。筑波の校章である桐の葉が彫られている。
R: 正門からちょっと奥に入ったところにバスの待機所がある。そんな大学、ここだけだろう。で、バスに乗って来た道を戻る。快適!

いいかげん歩き疲れたので、バスに乗ってそのまま終点の土浦駅まで行くことにする。受験のときも、そうしたっけ。
さんざん苦労して歩いてきたキャンパスも、バスだとあっという間。すぐにつくば駅前に到着。そしてそのまま土浦へ。
僕は土浦までの運賃をまったく覚えてなくって、表示金額が上がっていくたびに戦々恐々。チキンである。

土浦駅に着く。受験ではこの辺りに泊まったのだが、特に思い入れがあるわけでもないのでそのまま常磐線に乗る。
どうでもいいが、受験のとき(10年前)もそうだったけど、土浦って妙に女子高生が目立ってないか。なんかやたらと目につく。

常磐線には意外と長く揺られ、半分寝ながら水戸に着いたらもう夕方になっていた。
改札を出てすぐ右手に観光案内所があり、そこで宿の予約をとることができた。しかも割引価格。しかも超駅前。
夕方にふらっと来てそのまま5000円以内で宿を確保してくれるのである。こんな親切なサービス、なかなかない。いい街。
やはりここでも目についたパンフレットやらマップやらをもらっておく。今夜はこれを眺めながら明日のルートを練るのだ。

荷物を宿に置くと、空っぽにしたFREITAG一丁で街に出る。まずは駅前の商業施設を見てまわる。
これはもう習性になっている。そうして街のデパートを歩きまわることで、その街の現在の勢いを探るってわけだ。
前橋はかなり衰退していた印象だったが(→2005.11.12)、宇都宮はやたら元気だった(→2005.11.13)。
そして水戸は、まずまず元気。西武系のLIVINは明らかに衰退傾向で、前橋で西武が撤退したことも考えると不安だ。
でも丸井とエクセルは非常に活気がある。エクセルでは『オシャレ魔女ラブandベリー』のイベントがあったようで、
ピンク一色の特設会場が印象的だった。それだけ人気があるってことに、思わずうなってしまう。
『ムシキング』(→2006.5.27)と同じチームが開発したって話だが、男の子相手も女の子相手も独り勝ちじゃないのか。

それはさておき、デパートを一巡すると晩飯を求めて商店街(国道50号)へと移動。ウロウロ歩いてみるが、
なかなか決定打がない。前橋ほど店じたいが少ないわけではないが、なんかこう、男一人が入りづらい感じなのだ。
それでも京成の脇に西洋料理の店を見つけて、逡巡の末、入る。スキンヘッドのおじさんがいかにも料理上手そう。
外からメニューを見て、あんまり「食事」って感じのものがなかったので不安だったが、パスタがあるってことで、それにする。
一緒に黒ビールも注文。酒をたのまないと格好がつかない感じがしたので。こういうときに黒ビールにするのはウチの伝統。
キーンと音が聞こえてきそうなほどに冷えたグラスに黒ビールを注いで飲む。その焦げた風味がとても心地よい。
そのうち「トマトとエビのパスタ」がやってきた。トマトピューレにクリームを混ぜたそのソースは「なるほど!」と思う工夫で、
こういうやり方もあったかーと感心してペロリ。しっとり落ち着いた店内を眺めてぼんやり一日を回想しつつ、黒ビールを飲む。
酒がまったく得意でない僕なのだが、この日飲んだ黒ビールは、確かにおいしいと思ったのである。
生まれて初めて、酒が幸福感を増幅する効果を持っているってことを体感したように思う。

店を出て酔い醒ましにもうちょっとフラフラ歩いてみる。そしたらアトリウムを光で満たした京成の建物が本当にきれいだった。
詳しいことは明日の分の日記で書くが、この京成の光が水戸の街で輝き続ける灯火に見えたってのは言いすぎだろうか。

 建築に興味があって水戸に用のある人は、ぜひ夜に見に行ってみてください。

夜、寝ていたらマサルから電話。「松島くん、明日遊びませんか」「ごめん、今オレ水戸……」
どうにも最近タイミングが悪い。ごめんなあ。


2006.8.25 (Fri.)

J.ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』。長らく潤平に借りっぱなしの本である。いつ借りたのか、まったく思い出せない。

で、感想。面白くない、退屈。借りておいて非常に失礼なコメントだとは思うが、事実そうだったのだ。
総論と各論で、各論に終始している。知識量は非常に豊富なのだが、ひたすらその羅列で、読んでいて飽きる。
肝心の主張がどうにもボヤけている中で、ただ知識が繰り広げられていくので、何が目的の文章なのかわからなくなる。
厳しい表現をするならば、知識に振り回されて自分の意見が埋没している感じ。手段と目的の逆転。主客の転倒。

発達研究をふまえることなく真面目と遊びの二項対立をひたすら論じるのもいかがなものか、と思う。
この場合の発達はふたつの意味合いを持っている。ひとつはいかに人類まで進化したか、の発達。
もうひとつは子どもが大人になっていくという点での発達。この両方での研究にまったく触れないのは、疑問が残る。

ホイジンガは人間以外の動物も遊ぶわけで、遊びは生物が生まれ持っているもの、と見ているフシがある。
ではその遊びというものを人類がどう社会的に取り込んできたのか、そこを考えるべきではないのか。
ホイジンガは語学を武器にそれに切り込もうというフリをする。でも実はまったく切り込んでいない。
彼が相手にしているのは共時態であって、通時態ではない。だからどうしても、現代のことだけしか焦点にならない。
内容を見るに、ホイジンガは語学の系統的な歴史(=通時態)を知っている。
でもそれを文章にしないから、読者にはブラックボックスのままとなってしまっている。
つまり、順序が逆なのだ。この本では現在→過去という順序で言葉の生成を扱っているが、それは違うと思うのだ。
そうではなく、過去→現在という順序にすることにより、言語が分化したことと遊びの変質とが統一的にとらえられるだろう。
そうして社会学的に人類がいかに遊びを制度化してきたか書くことで、はじめて本来のテーマに取り組んだことになるはずだ。

で、子どもから大人への発達については、これは書いてなくてもしょうがないかな、という気もする。
1938年という時代も考慮すべきかと思うのだ。しかしやはり、ぜひともそこに気づいてほしかったように思う。
子どもの遊びと大人の遊びの間には、いったいどのような断絶が横たわっているのか。
たとえば宮本常一のようなフォークロアの研究が、そのいい参考になるだろう(西洋と東洋の違いという難しさが混じるけど)。
遊びをキーワードにして、そういう子ども/大人の境界にまで切り込んだ瞬間、この研究はきわめて有効な角度から、
とんでもない成果を残した傑作になっただろう。しかし残念ながら、それは少しも果たされることはなかった。

ホイジンガがここで見つめているのは言語学と民俗学と文化人類学がクロスした非常に面白い領域だと思うのだが、
いかんせんやり方がよろしくない。語学の勉強の成果を発揮しているだけであって、決してフィールドには出ていない。
結局は安楽椅子に座っているだけ。答えはつねに現場にあるわけで、偉いおじいちゃんにはその辺がわかってないようだ。


2006.8.24 (Thu.)

冥王星が正式に惑星でなくなってしまった。しょうがないことかもしれないが、正直本当に残念だ。

僕は小学生のときは天文少年で、飯田図書館で宇宙に関する本を読んだり借りたりして過ごしていた。
当然のごとく、アメリカ人のクライド=トンボーが根性で写真をチェックしまくって冥王星を発見した、って事実は知っていた。
だからそういう昔の記憶で冥王星には思い入れがあるので、トンボーの努力が否定されちゃったみたいな気がちょっとして、
なんとかもうちょい義理人情チックな解決はできないもんですかね、と思ってしまうわけだ。
それに天王星・海王星・冥王星で1セット、はい順子ができあがり、みたいな感覚が染みついちゃってることもあって、
(ウラニウム・ネプツニウム・プルトニウムだってその流れできてるわけだし。そういう人はそうとう多いでしょう。)
なんかどうもすっきりしないのだ。正確に言うと、すっきりさせたくないのだ。非科学的だけどそうなのだ。

「9」ってのがよかったのかな、と思う。2ケタになる直前の、「9」。あの、次を待つ感じ。誰もが次を期待する数字。
太陽系の惑星はぜんぶで9個だったから、その1ケタの感覚が、はいここまで/はいこれから、
という境界線になっていた気がするのだ。それが8になるってのは、なんかこう動かしがたい事実だけが残されて、
いらん想像・妄想をするチャンスがガクッと減ったように思う。
つまりは物語を生み出す想像力をはたらかせる素材が減ってしまって、そういう点でも残念なのだ。

まあでも冥王星って名前は残り続けるわけで、それについての逸話も消えてしまうわけではない。
「なんで惑星からはずされちゃったのか」を足がかりにみんなが興味を持つきっかけになりゃいいね、と前向きにとらえてみる。


2006.8.23 (Wed.)

CASIOPEAについて書いておいて(→2006.6.3)、スクェアについて書かないのも不公平なので、書いてみるのだ。

スクェアは正式には「T-SQUARE」という。デビュー時には「THE SQUARE」という名前だった。
これはメンバーが4人だったかららしいが、1stアルバムの『Lucky Summer Lady』に載っているメンバーの名はすでに8人。
まあとにかく脱退・加入が非常に激しいグループで、基本的にはリーダーの安藤まさひろ(ギター)のいるバンド、である。
その安藤とのツートップだった伊東たけし(サックスとか)が脱退するちょっと前に、「T-SQUARE」に改名(1989年のこと)。
現在は伊東が復帰してその他のメンバーが入れ替わっている状態。在籍した人の名前が全員言えたらかなりのマニアだ。
まあだいたい、「THE SQUARE」では安藤・伊東・和泉宏隆(キーボード)・則竹裕之(ドラムス)・須藤満(ベース)の5人、
「T-SQUARE」では安藤・和泉・則竹・須藤・本田雅人(サックスとか)の5人が黄金時代、ととらえてよいと思う。

素人にとってスクェアといえばF1のテーマ曲になった『TRUTH』なのだが、僕はこの曲をまったく評価していない。
「T-SQUARE」名義で出たベスト盤『F-1 GRAND PRIX』は、内容的には「THE SQUARE」時代のものを網羅していて、
これが初心者にはハズレのない非常にいいものになっている。これを聴けば、スクェアのレヴェルの高さを実感できるはずだ。
だからまずは『F-1 GRAND PRIX』を聴いてみて、スクェアとの相性を確かめてみる、というのがいいだろう。

「THE SQUARE」時代のアルバムを通して聴いていくと、フュージョンとしての形式美が徐々に固まっていくのがわかる。
6th『脚線美の誘惑』あたりから安定してくる。しかし4th『Rockoon』収録の『Tomorrow's Affair』も押さえておきたい。
8th『ADVENTURES』、9th『Stars and the Moon』といった実験期間を経て、
10th『R・E・S・O・R・T』でスタイルが完成する。11th『S・P・O・R・T・S』は独特の音をした名曲ぞろいのアルバムで、
12th『TRUTH』はむしろタイトル曲以外の完成度が高い。で、方向性がしっかりと定まったところで、
「THE SQUARE」名義では最後のアルバム『YES, NO.』が出るのである。
上述の『F-1 GRAND PRIX』はまさに、『R・E・S・O・R・T』以降のスクェアのいいところだけを集めた作品になっているのだ。

14th『WAVE』より「T-SQUARE」名義となる。これ以降、単純なフュージョンというより、音にスクェア独自の味が出てくる。
初期とはまた違った形でのポップさ、聴きやすさが加味されて、インストゥルメンタルとしての完成度は高くなる(と僕は思う)。
16th『NEW-S』で管楽器が伊東から本田に交代すると、よりメロディラインへのこだわりが追求されるようになってくる。
18th『HUMAN』、19th『夏の惑星』、20th『Welcome to the Rose Garden』あたりは、もう完全にキレキレ。
これらのアルバムの完成度の高さ(フレーズの親しみやすさ)は、もう何をやっても一定以上の曲ができあがる、
という領域に達した凄みが感じられる。インスト好きにはたまらない作品たちだ。高校時代は本当に聴きまくったわ。
ところが21st『B.C. A.D.』、22nd『BLUE IN RED』でマンネリの風が吹き、無理して立て直そうとしたためかスクェアは分解。
以降はメンバーチェンジを繰り返し、さらには伊東を迎えて安藤とのコンビになる、という激変にまで至る。
ちなみに、僕は和泉・則竹・須藤が抜けた23rd『GRAVITY』を最後にスクェアは聴いていない。
いずれチェックしよう、という気はあるのだが。

スクェアを総括すると、このバンドはメロディのバンドである。
リーダーの安藤まさひろを中心に、魅力的なメロディメーカーが揃っていて、各アルバムが高いレヴェルに仕上がっていた。
カシオペアの場合にはライヴで披露されるテクニックで曲の構成の未熟さを押し切る面が目立っていたが、
スクェアは対照的に、徹底したスタジオ録音から生み出す曲の完成度で、アルバムごとの世界観をきれいに表現していた。
ただ、ライヴ盤での迫力がいまひとつなのもまた事実。客を惹きつける演奏となると、文句なしにカシオペアに軍配が上がる。
とはいえ、フュージョンがジャズとロックのクロスオーヴァーからスタートして混沌としていた状況で、
起承転結がしっかりしている物語性のある曲で人気を二分した実力はさすがなのだ。
スクェアの曲はTVのBGMを中心に末永く、人々の耳にスイスイと侵入していくのだろう。


2006.8.22 (Tue.)

デモ論。

僕は川淵三郎が日本サッカー協会の会長職に留まり続けていることに反対している(→2006.6.24)。
そして「川淵会長にレッドカードを!」という、川淵三郎の辞任を求めるイベントが開催されることを知っていた。
しかし参加する気はまったくなかった。理由はただひとつ。それがデモだからだ。
デモはつねに敗北する。敗北するための手段である。だから僕はいかなるデモにも決して参加しない。

なぜ僕がデモというものに対して決定的な嫌悪感を抱いているのか、それについて書いてみる。

そもそも、デモとは「デモンストレーション(demonstration)」の略語だ。ネット上の辞書から該当する説明をコピペすると、
「政治的意思表示の一つとして行われる大衆的示威行動。特に、要求実現の圧力を加えるために行われる集団的街頭行進。デモ。」(大辞林)
「抗議や要求の主張を掲げて集会や行進を行い、団結の威力を示すこと。示威運動。デモ。」(大辞泉) ――とある。
共通するのは「示威行動」ということ。まず要求・目的があり、それを求める人々が多数いることをアピールする行為、だ。

僕はこの「示威行動」である点に、デモの限界を見る。
これは「威力を示すこと」であり、あくまで他者に訴えかけるというレヴェルの行為であるからだ。
つまり、要求(目的)に向けてアピールはするものの、自らが要求を果たすべく具体的行動をとるというレヴェルではない。
アピールしておしまい、なのだ。ルートを設定し、ゴールに到達すればおしまい。
それ以降は何ごともなかったように日常に戻る。つまりデモとは、「エネルギーの使い捨て」でしかない。

デモをやる際、要求される側以外の全員が参加するということはまずありえない。
つまり、デモにはつねに関与することのない第三者が存在する。そしてデモでは、要求される側に対するアピールだけでなく、
その第三者に対してもアピールがなされる。いや、むしろ後者のほうが重要である。
ところがそのためには、そのデモをたくさんの人に目にしてもらうことが必要になってくる。
そこで現代社会では、メディアを利用することになる。いや、むしろ実際のところは逆だろう。
メディアが発達してその重要度が増したことで、デモという手段が第三者を意識したものに変質したのだ。
だからデモは、本質的にアピール以上の力を持たない。「見られる対象」でとどまらないといけないわけだ。
それ以上の勢いを持つと、観客(第三者)は逃げてしまうし、要求される側が権力を行使してデモは強制終了となる。
つまりは、要求する側とされる側、双方合意の上の予定調和でしかない。その共犯関係により、デモは成り立っている。

歴史を見て、デモが成功した例はあるだろうか。もちろんここでの成功とは、
「当初の予定どおりに終了したうえで要求を通した」という意味である。結論から言えば、ひとつもないはずだ。
デモが成功する(要求を通す)ためには、デモが“失敗”しないといけないというパラドックスが存在する。
歴史を見てデモが要求を通すきっかけとなる場合は、必ず、暴力による弾圧を受ける。
それがメディアに提示されて、第三者の賛同を得て革命となる。そうでないデモ(無事に予定を終了したデモ)は、
第三者を巻き込むことなく収束する。そして忘れ去られる。デモにはそのどちらかしかない。
だから、デモというのは相手の暴力を誘うことによってしか同情を得られない、非常にネガティヴなアピールということになる。
第三者に恐怖感を与えない程度に妥協するか、相手の暴力を誘うかのどちらかしかない。
だから僕は、デモとは参加者の身体をあえて危険にさらすことで同情を引く、極めて卑怯な手段ととらえている。
(いちおう念のため、デモと無血革命の違いも扱っておこう。デモと違い、革命は他者へのアピールを目的としない。以上。)

じゃあどうすればいいのか。デモという自己満足にしかならない手段を使わずに、要求を通すには、どうすればいいのか。
僕は、地道なことだけど、きちんと自分の言葉でつづった自分の意見を提示すること、それしかないと思う。
だから僕はデモに参加せず、日記に意見を書いた。それしか正しいやり方が思いつかなかったからだ。
デモなんかしたら、川淵の思う壺だ。なぜなら本来、川淵を引きずり下ろすために正当に使われるはずのエネルギーが、
完全にムダに浪費されてしまうからだ。参加者は、デモに参加したという満足感・安心感で充足してしまい、
目的を達するために必要なエネルギーを見当違いの方向に発散してしまうことになるのだ。今回の件については特に、
デモの映像がすべてのテレビ局から無視されていたという現状を冷静に見つめる必要があるだろう。

まあ結局のところ、デモってのは手段が目的にすり替わってしまうから無力なのだ。
大切なのはデモをやることではなく、要求を通すことだ。どっかの国の政府が主催する反米デモなんかを見れば、
いかにデモというものが無意味なことか、すぐにわかるはずだ。デモなんて自己満足の遊びにすぎないんですよ。

蛇足ながら、デモついでに。日本人は決してどの国の国旗も焼かない。それは誇るべきことだと思う。


2006.8.21 (Mon.)

突然だけど、昨日の続きってことで、このサイトについて考えていることをきちんと書いてみることにする。

元来僕は、個人のホームページというものは、人間関係のターミナル的存在の人が持つべきものだと考えている。
だから僕はホームページを持つ気なんてさらさらなかった。世間に対して訴えたいこともないし。
ただまあ、親や兄弟、友人たちに「生きてるぞー」と報告したり、「姉歯祭りの記録つくったぞー」と報告したり、
そういう用途で使うのに効果があるのでなんとなく開設しているだけだ。つまりは、親しい人への近況報告ってこと。

もうひとつ、日ごろ自分が考えていることをきちんと残しておいたほうがよさそうだ、ということも理由ではある。
僕は起きている間はつねに何か物事を考えている人間なので、くだらないことばかり考えているわけだけど、
まあそれなりの分野・分量になる。でも10代の頃には考えていたことを一切記録しないできた。
だからいつなんどきに何を考えてきたのか、今となってはそれを確かめることができない。
それがどうにももったいない感じがして、とりあえずできる範囲で記録を残していこう、という気になったのだ。
現実空間における脳みその中身を、逐一情報空間にバックアップをとっているようなものだ(→2004.12.32006.1.12)。
かつそれを公開することで、公開SM(Sentaraw Matsushima)ショウとして楽しんでもらおう、ということなのである。

それならブログにすればいい、という意見もあるだろう。でも日記を始めた2001年4月には、そんな便利なものはなかった。
日付とか変更できるよ、けっこうその辺自由が利くよ、という指摘もあるだろう。でも、やっぱり僕はブログの制約が嫌いだ。
ブログはあれこれ、サイトの側が用意をしてくれる。その、向こうから提示されたものを選ぶという仕組みが気に入らない。
拙くても自分で何もかもやる、そうでないと本当に自分の作品を残している、という気になれないのだ。
自分できちんと管理したい。そのシステムには他者の要素を混入させたくない。すべて自分の考えたとおりで済ませたい。
そもそも、ブログはなんで更新するたびにタイトルをつけなきゃならんのだ、と思う。
なぜ一日のできごとを簡単にまとめてしまう一言から始めないといかんのだ。僕の場合、referenceのthinkingでは
便宜上タイトルのようなものをつけているけど(⇒その一覧)、あくまでそれは検索の利便性を考えてのこと。
日記にタイトルをつけるのであれば、そもそもその日記に本文なんて書く必要ねーだろと思うのだ。
本文がタイトルそのものじゃないのか、と。
さらに言うと、mixiなんぞとんでもないということになるわけだ。
理由は面倒くさいので書かない。この辺(→2006.5.3)を参照してくれ。

さて、まあなんだかんだでそれなりにこの日記は力を入れて書いているわけだ。
けっこうタダ働きのレヴェルに近いものになってきているわけで、つらいと言えばつらい。
だから究極的には、金を取れるレヴェルで日記を書くのが理想なのである。密かにそれを目標に努力を続けつつ、
書いているのである。で、論理的な帰結からして当然(?)、金を取るのはアレなのでもうちょっとゆるいレヴェルってことで、
もしこの日記を娯楽として享受してくれるのであれば、引き換えにメシをおごってくれってことになるのだ(昨日の日記参照)。

ではなぜメシなのか。理由はいくつかある。
1. 自分の好物を食べさせてもらえる:
もし自分の好物を食べさせてもらえるのであれば、それは幸せなことだ。食べることは幸せなのだ。
2. 相手のオススメの店・オススメの食べ物を体験することができる:
メシを食べさせてもらうのであれば、別に僕の好物でなくてもかまわない。オススメの店にでも連れていってもらって、
僕の引き出しを広げることができるなら、それは書いてる僕も読んでるアナタも得することだろう。そうでしょ。
僕としては自分のまったく知らない世界を教えてもらえるのはとても楽しいことなので、連れて行かれるのは大歓迎だ。
3. 食べている間に顔をあわせて直接的に、いろいろとじっくり話ができる:
メシの間の話題はまあたぶん、僕の日記についてだろう。直接に顔を合わせていろいろ率直な意見をもらえるのであれば、
これほど有益なことはない。直接顔を合わせて時間を過ごすってのがポイントなのだ。
――そんなわけで、「メシおごって」ってのは単純な思いつきではなく、これでもいちおうそこまで考えての結果なのである。

勢いに任せてあれこれ一気に書いてきたわけだけど、まあ僕が考えているのはだいたいこんなところだ。
別に他人に強制する気はなくって、これはあくまで僕の日記に対するスタンスの確認。
世の中にはこんな変人もいるぞ、って自己紹介だな。どこまで続けられるかわからないけど、
日記を書く限りはこの考えを変えるつもりはないわけで、まあ今後とも生暖かい目で見守ってやってください。


2006.8.20 (Sun.)

今までずっと黙っていたけど、カフェ・ベローチェのアイスココアが大好物なのだ。
ココアも好きなのだが、上に乗っているソフトクリームも好きなのだ。だから大好物なのだ。

さて、日記が溜まりに溜まっているわけで、なんとかして負債を返済していかないといけない。
今日は暑くなりそうだ。部屋の中で書いていると死んじゃうから、大好物のアイスココアを飲みつつ書いてやろう、と思いつく。
そんなわけでFREITAGに「なまえ」(VAIOノートのことね)と文庫本を詰め込んで、自転車をこぎ出す。目指すは新宿。
なぜ文庫本を大量に背負って行ったかというと、まだ感想を書いていない小説を重点的に片付けていくつもりでいたから。
おかげでバッグがクソ重い。でもガマンして、環七を北へひた走る。

西新宿にたどり着くと、小滝橋通りと靖国通りの交差点付近でベローチェを発見。
さっそく入ってアイスココアを注文し、ノートの電源を入れて日記を書く。これがなかなか思うように進まない。
しかし暑い中を走ってきたので喉は乾いているのである。あっという間にアイスココアはなくなってしまう。
なんとか根性で2冊分の感想を書き上げる。30分強の時間がかかってしまった。

続いて小滝橋通りを北上し、2軒目のベローチェへ。もちろんアイスココアを注文してノートの電源を入れる。
しかしいくら好物とはいえ、間をほとんど空けずに同じものを飲むのはさすがに飽きてしまう。
粘りに粘って3冊分の感想を書き上げる。1時間弱かかった。そしたら空はすっかり曇っていた。

もーいいかーと思ってベローチェめぐりはここで終了。しかし背中の荷物が重くって、せっかく新宿に出てきたのに、
どこにも寄ることなくそのまま帰宅することに。なんかもったいないなーという気持ちがどうしても消えない。

帰り道、なんでこんな苦労をしてまで日記書いてんだろーとあらためて思う。
過去に何度か「日記やめる宣言」をして、そのたび掲示板の書き込みで慰留されて宣言を撤回して、ということがあった。
ここ何年かはどうにかこうにか平穏無事に続けているけど、そこまで必死になるほどのものではないので、どうだろう、と思う。
いっそ閲覧を有料化しちゃおうかなんて考えるが、そんなことしたらお金を払ってくれるのはcirco氏と潤平だけになるだろう。
それはそれで本来の目的に適っていないことはないんだけど、僕が読んでほしいと思っている相手はもうちょっと多い。
だから有料化はありえない。しかし有料化すれば責任が発生するわけで、それはそれでフェアなことだとも思う。

いろいろ考えた結果、こうすることにした。
  □ このサイトをブックマークのリストに入れている人
  □ ネットをつなぐたび、日記が更新されていないかチェックを入れている人
  □ 一度でも「この日記が役に立ったなー」と思ったことがある人
  □ 連日更新されていると、ちょっといいことがあったような気分になってくれる人
  □ 1週間以上更新がないと、なにモタモタしてんだこの野郎、SATSUGAIしてやる!と思ってしまう人
以上のすべてに該当する人は、いつでもいいので、いずれ僕にメシをおごってください。
おごってくれれば責任を感じて日記をがんばって書くし、僕としても読んでくれてるのがわかるのはうれしいので。
別に催促はしないし、黙っていればわかんないことなんだけど、心と財布に余裕のある人はお願いします。
まあ正直、おごってくれなくてもいいんですけどね。その場合には気持ちだけもらっておきます。よろしく。


2006.8.19 (Sat.)

今日はのんびり川崎やら蒲田やらに行ってみた。

川崎では久々に『10+1』なんぞを買ってみる。創刊40号記念特集「神経系都市論」ってやつ。去年発行された巻だ。
大学を卒業して以来、こういうものに触れる機会がぐっと減ったように思う。対照的に潤平はわりと真っ只中にいる。
こりゃいかんなーと危機感を覚える。ここんとこすっかり「面倒くさい」という言葉に自分が操られていると感じた。
ずく出さにゃなーと思いつつ自転車をこぐ。

日差しがきつくって、蒲田で一服。サンマルクカフェでゆずちゃスムージーを注文するが、これがうまく言えない。
「ゆじゅ……、ゆじゅちゃスムージー」ってな具合に、どうしても「ゆじゅちゃ」と発音してしまうのである。
前に環八チャレンジの後、赤羽のサンマルクに入ったときもそうだった(→2006.7.15)。これがけっこう恥ずかしい。
で、ゆずちゃスムージーをいただきつつ解決策を練ってみたのだが、わりと早く結論が出た。
「ゆづちゃ」と発音すればいいのである。[d]音を強調して「づ」にすることで、拗音が消える。これは意外な発見だった。
そんな大したことでもないのに、オレってすげーと自己満足にひたりつつ、家に帰る。

家に帰ってからは、ひたすら過去の分の日記を書く。6月のW杯の分を重点的に書いていく。
なんだかもう最近は、日記がきちんと追いつく日が来る気がしない。そんな弱気なこと書いてるようじゃいけないのだが。
各所の情報から判断するに、この日記はどうやら2ケタ以上の人がチェックしているらしいので、まあなんとかがんばるナリ。


2006.8.18 (Fri.)

池澤夏樹『マシアス・ギリの失脚』。新潮文庫にしてはなかなか異様な分厚さを誇る長編小説。

南太平洋に浮かぶ島国・ナビダード民主共和国のマシアス・ギリ大統領が主人公。
彼は先を読む力に優れた人物で、かつての宗主国である日本に渡り、ほかの島民とは異なる経験を得る。
そして帰国後に商売で成功を収め、やがて政治の世界へと足を踏み入れたという経歴を持っている。
その後いわば公認の独裁者となったマシアスだが、日本からの慰霊団を乗せたバスが消息を絶ち、
彼を取り巻く環境が少しずつ変化をしていく。そして最終的に彼が「失脚」するまでが描かれる。

南の島が大好きな作者の力作であるわけで、全編にのどかな南洋への敬意があふれている。
それも観光客的な視線での好意ではなく、南洋独特の生活リズムや価値観、国際情勢も含めての好意がうかがえる。
つまりは島で暮らす人の側にきちんと立っているわけで、その分だけ小説の内容に迫力がある。
マシアスは日本とのパイプを武器に大統領としてがんばっているが、その南洋と日本との距離感がきわめてリアルに映る。
架空の国を舞台にしているのだが、現実を研究し尽くして設定をつくっているので、まったく違和感なく読める。

特徴的なのは、霊をはじめとする人間の及ばないレヴェルの力の存在をきちんと描いていることだ。
そのような非科学的なものを積極的に物語に採り入れている。そうして南洋において優先されるべき価値観が示される。
そういう力の存在を信じることで本当に実在するようになる、つまり島民が生きている彼ら独特の世界を見せてくれるのだ。
われわれ日本、先進国が切り捨てた要素を今でも大切に保っている社会の姿を、尊重すべきものとして描いている。
消えたバスがさまざまな場所で顔を出す様子を報告した「バス・リポート」の持つ感触は、それをダイレクトに伝えてくれる。

最初、この小説を政治の小説だと思っていた。交渉やスピーチなど、政治における言葉について非常に敏感だったからだ。
しかし読み進めると、それはひとつの要素にすぎなかった。むしろ僕らとは別の価値観なのでまるでおとぎ話のように映る、
そういう南の島の感覚を強調する手段のように感じた。リアル・政治を相手にする言葉と、祝祭・霊を相手にする言葉。
ある意味でマシアスの「失脚」は、前者の限界と後者の存在の肯定を高らかに宣言しているように思えてくる。

物語全体を包む時間的な感覚は、完全に南の島のリズムになっている。
物語に読者を引き込む効果という点でも、これは面白い工夫だ。そのためか因果関係の紹介の順序もバラバラで、
時間が戻ったり進んだり、まるで船に揺られているような感覚になる。つまりは文体が南洋のリズムということ。
それが作品に強い個性を与えていて、「物語の書き方」という点で非常に勉強になったように思う。


2006.8.17 (Thu.)

会社にて飲み会。座った席が偶然、愛知出身の先輩方が近い席で、さらに大学時代を京都で過ごした方も複数いて、
なんとなく名古屋と京都についてのトークになる。「登頂してきましたよーマウンテン」「おおそれはすばらしい」ってな会話。
僕の生まれ育った飯田市は名古屋文化圏に属するし、京都は2年前に歩き倒しているし(→2004.8.6)で、
どちらの話にも対応できるのが非常に楽しかった。やはり積極的にあちこちに旅行しておくものだと思ったのであった。


2006.8.16 (Wed.)

東京に戻るにあたり、ちょうど途中にあるから寄っていけばいーじゃん、という親からの提案で、リゾナーレに行くことになった。
リゾナーレとは、小淵沢にあるリゾート施設。宿泊施設もあるが、いろいろ売っていてぜひ見るといい、とのこと。
circo氏の運転する車に揺られて、混んでいる高速を使うことなく、のんびりと小淵沢へ向かう。

まずは伊那市に出る。天竜川を渡って東へと進路をとる。そして高遠の街に入る。
最近までは高遠町だったのだが、今年の3月に伊那市と合併してその一部となった(長谷村も伊那市と合併している)。
高遠は桜の名所として全国的に有名である。高遠藩の城下町なのだが、これがなかなか独特の景観をしている。
高遠湖~三峰川に面した丘に高遠城跡はあるのだが、その斜面にびっしりと家々が並んでいる。
ふつうこのような城下町は、城から水面までを石垣で覆ってしまう。そうして街は水場と反対側につくられるのが一般的だ。
しかし高遠では水面にかなり近いところまで、家々が丘の斜面を埋め尽くしているのだ。これは海外の景観を思わせる。
circo氏と「この景観は日本では本当に珍しいよなあ」なんて話しながら、国道152号を北へ。

高遠における国道152号も、じっと見ていると土地の歴史が見えてくる、非常に面白い道だ。
道は川と並行して走っている。両側は山に囲まれており、狭い河岸段丘は田んぼになっている。
田んぼの中に点々と、5~6軒ほど集まって住宅が建っている。かつての日本の農村を思わせる家の立地。
アスファルトの道を眺めつつ、この道がもう少し細い土の道だったらと想像する。風景は簡単に、近代以前へと戻っていく。
circo氏が「この辺りの家は板葺きの屋根が特徴だ」と指摘する。家の壁面には縦横に黒い柱がむき出しになっている。
これまた、かつて僕らが当然のものとしていたであろう生活が透けて見えてきて、とても興味深い。
モーフィングみたいにして、現代が過去とつながっているのが見えてくるのだ。

やがてひと気のない山道へと変化し、峠へと至る。杖突峠といい、ここは伊那市と茅野市の境になっている。
峠を少しだけ下ったところで、ドライブインの並んでいる光景が目に入る。ちょっと景色を見よう、ということで車を止める。
ドライブインには展望台があって、行ってみると天気に恵まれたこともあり、これが実にすばらしい景色だった。
左は諏訪湖、中央は茅野の街、そして右には富士見高原が広がっている。まさに大パノラマである。


デジカメで撮った画像を調整してつなげてみた。意外とうまくいった感じ。本物はこれが視界いっぱいに広がるわけで、ぜひそれを想像してみてください。

これは絶景だわーと一同感動しつつ、茅野の街に出る。そして混みっぱなしの中央道を左手に眺めて国道20号を行く。
山梨県に入った瞬間に、周りを囲む山との距離感が変化するのが面白い。長野県での山との距離感は、
山梨県のそれと比べればそれほど近くない。さすが「甲斐国」は、山がほとんど壁のようにして目の前に迫ってくるのだ。
盆地も長野県ほど広くない印象がある。そして山梨県に入るとすぐに小淵沢だ。坂道に一気に上ると小淵沢駅に到着。
電車の時刻を確認すると、目的地であるリゾナーレを目指す。

小淵沢駅からさらに少し上ったところにあるのがリゾナーレ。周辺には別荘や研修施設、商業施設などが点在しているが、
リゾナーレでは一味違った味つけというか、端的に言えばオシャレさ、センスの良さを前面に押し出しているのが特徴的だ。
たとえば雑貨でも、海外からの輸入モノが目立つ。デザイン上の工夫がされている商品が非常に多いのだ。
雑誌の『Lapita』が店を出しているあたりから、まあだいたい想像していただきたい。

  
L: リゾナーレ入口。マリオ=ベリーニの設計による。暗くて狭いエントランスを抜けると、次の写真のような光景に。
C: 街路は完全にヨーロッパのイメージ。1階はセットバックして店舗になっている。2階は宿泊施設。
R: 建物の足元を打ち放しのコンクリートにして模様をつけている。庇の出し方がやはりヨーロッパ風。

  
L: ところどころにこのような、自由に休憩できるベンチ(と呼んでいいものか)がある。ここだけ和風にするのもニクい。
C: 奥へ進んだところから振り返るとこんな感じ。打ち放しにツタを生やしているのがオシャレですな。
R: 打ち放しの柱をクローズアップ。周囲は画面左のように緑でいっぱい。人工と自然の対比も強烈。

ショッピングゾーンを抜けると、レストラン・チャペル・プールなどの複合施設に。こちらは色が鮮やか。

  
L: 2つの建物が平行に並ぶところにコンクリート打ち放しの柱を配置。  C: 逆側。ひと気がない。
R: 建物の2階部分は木でグリッドがつくられていて、なかなか壮観。circo氏曰く「隈(研吾)風じゃない?」

雑貨は「ふーん」と思うものは高いし、特に欲しいものもないので、僕はホントに見てまわるだけ。
全体的になんつーかセレブ感というか、セレブ演じてる感というか、「気取っている」のではなくて、
「気取ることを意識している」感じがそれはもうブンブン漂っていて、遠目で見るぶんにはいいんじゃないでしょうかってところ。
空間的には面白い点が多いし(諸手を挙げて賛成ではないけど)、売ってるものもいいものはいいものなんだけど、
オシャレ気取りの自己満足みたいな印象を僕は持ってしまうのだ。「どうだ!」に対して「そうか?」と言いたくなる感じ。
昼メシの際に対応がよくなかったのが象徴的で、circo氏の言うとおり「全体的に客商売という意識に欠ける」雰囲気だ。
まあ、好みの問題なんでしょうけどね。

小淵沢から各駅停車の電車に揺られて帰る。その間ずっと寝ていた。
オシム率いる日本代表のイエメン戦が見られるか非常に微妙なタイミングだったが(各駅停車は4時間近くかかる……)、
家に着いてテレビの電源を入れたらちょうどキックオフしたところだった。まるでマンガみたい。

そうそう、東京ではおととい(14日)に大規模な停電が起きて、大きなニュースになっていた。
やられた地域が新聞などで地図に示されていて、「あーこりゃアウトだわ」と思っていたのだが、
冷蔵庫も無事ならテレビやコンポの時刻も無事。なんと奇跡的に、わがアパートはあの大停電からまぬがれていたのだ!
なんでかわかんないけど、まあとにかくよかったよかった、である。


2006.8.15 (Tue.)

モゲの会である。今回のテーマは名古屋。名古屋へ行っていろいろやってみよう、というコンセプトなのである。

朝9時ちょい過ぎに、まるカーが我が家にお出迎え。6人以上乗りのゆったりとした車内にお邪魔する。
と、いきなりバヒサシさん持参のCDが鳴っているのに気がつく。ひたすら「お兄ちゃん♪」を連呼している。
なんでも合計1300回、ありとあらゆるヴァリエーションの「お兄ちゃん♪」を収録したCDなのだという。世も末だと思う。
呆れ果てて「『せんせー♪』って呼んでくれるCDはないのか?」と聞いたら「『たのみこむ』で実現してもらうべし」との返事。
需要があれば供給があるということか。恐ろしい世の中である。

車内では、ご結婚あそばされたまる様(→2006.4.16)をイジり倒すトークが炸裂。
まる様は「相手を見つけようとしないお前らが悪い」という(冷静に考えれば極めてまっとうなのだが)勝ち組からのご意見。
こちらは旗色が悪くなると「また上から言われちゃったよー」とクリンチで逃げるズルっこい戦法を繰り広げるのが精一杯。
それでも面白おかしくトークは進んで、無事に名古屋に着いた。

名古屋市内に入ると、だいたい11時。名古屋大学の脇をかすめて最初の目的地へと向かう。
そう、それは「マウンテン」。よくテレビで紹介されるのでその名を聞いたことのある人は多いであろう、有名な喫茶店だ。
この店、量がやたら多いことと常軌を逸したメニューで知られている。特に「甘味スパ」シリーズが名物になっているのだ。
(「マウンテン」「名古屋」で検索すればかなりのページがヒットするので、詳しく知りたい人はそちらを参照してください。)
もともと愛知で学生生活を送っていたバヒさんがこの店をよく知っていて、大食いの僕はいずれ挑戦するもの、と思っていた。
しかし意外とその機会に恵まれずに時間が経ってしまったが、今回ようやくマウンテン登頂に初挑戦と相成ったわけである。

 マウンテン外観。これは店を出る際に撮影したものだが、行列ができていた……。

昼には少し早いかな、という時間だったが、それでも店内はかなりの繁盛ぶりだった。学生らしい若者の姿が目立つ。
マウンテン事情を知っているのはバヒさんのみ。あとの3人(まる・トシユキ・僕)は初めてということで、
バヒサシ監督の指示に従ってメニューを決める。ここに来たからには名物に挑戦しなきゃダメでしょーってことで、
バヒ監督・トシユキ氏・僕はそれぞれに甘味スパを注文。それに対して、まる氏は「大人のお子様ランチ」。
唯一の既婚者はここでも「守りに入っとるヤツがおるなー」と飯田弁でイジられるのであった。まあしょうがねえやな。
そしてここで何を血迷ったか、監督は「納豆サボテン玉子とじスパ」を追加注文。曰く、「気になった」。
すでにこの時点でなんとなくイヤな予感がした。さらに、特大サイズのかき氷も注文することに。
あれこれ迷った末、まる氏が気になっていたイカスミ味に決定。ここに至って僕はもう本気で逃げたくなった。

30分くらい待ってから、ハシバJAPANの絶対に負けられない戦いは始まった。

 
L: 甘味スパの筆頭・「おしるこスパ」。土鍋いっぱいにおしるこ。中には餅3個が浮かび、たっぷりのスパゲティ(太麺)が沈んでいる。
R: おしるこスパに挑戦するのは日本代表FW(最初に食う人)・竹内トシユキ(28)。笑顔がまぶしい。隣のまる氏は早くも呆れ顔。

まず最初にやってきたのは「おしるこスパ」。一見、特大サイズのおしるこなのだが、中にはきちんとスパゲティが入っている。
真ん中にはつぶあんの塊があり、これを溶かしたのが失敗。麺を食べた後もめちゃくちゃ甘いあんこと格闘する破目に。

しばらくして今度は「甘口バナナスパ」が登場。これに挑むのは監督兼選手のバヒさん。
マウンテンに関してベテランだけあって、余裕の表情でこの難敵に立ち向かうのであった。
すぐに「甘口抹茶小倉スパ」もやってきた。これは僕の分。いかにも「マウンテン」らしい一品ってことで、これを選んだのだ。

 
L: 「甘口バナナスパ」。黄色い麺の色に注目。これはバナナが練りこんであるからで、ものすごく強い匂いがする。これはヤバイ。
R: バナナスパに挑む日本代表MF(次に食う人)兼監督・バヒサシ(28)。余裕の表情だが、このときすでに匂いにやられていた。

  
L: 「甘口抹茶小倉スパ」。抹茶とは言いながら、実際はかき氷の抹茶シロップがかかっている感じ。どこを食ってもベタ甘。
C: 抹茶小倉スパとマッチアップする日本代表DF(ラス前)・びゅく仙(28)。序盤の勢いは良かったのだが……。
R: 試合開始後、すぐにピンチに陥る両名。「90分間走れない選手がいた」――走れるかっての。

バヒさんはさすがに慣れているだけあって、甘味スパを要領よく「処理」するコツを知っている。
でもこちらは勢いにまかせてかき込んでいくしかなく、食っても食っても減らないうえに甘い味という未経験の領域に大苦戦。
そんなふたりの様子を見て、まる氏は甘味スパを注文しなかったことで内心ほくそえんでいたに違いない。
……しかし、マウンテンは甘くない(料理はベタ甘だが)。

 
L: 「大人のお子様ランチ」。量が多いのと油っこいのとでダブルパンチ。もはやお子様ランチの面影は、フランスの国旗にしかない。
R: 未曾有の危機に直面した日本代表GK(最後に食う人)・まる(28)。そうだよなあ、こうなったらもはや笑うしかないよなあ。

僕が食べた「甘口抹茶小倉スパ」の感想をきちんと書いておくことにしよう。一言で表現するなら、
「朝ごはんも昼ごはんも晩ごはんもみーんなお菓子だったらいいのにな!」なんて言っている子どもに食わせると最適。
間違いなく、「ごめんなさい、ぼく今度からきちんとごはん食べるからゆるして!」って泣いて謝ると思う。本当にそんな感想。
ほかの味に比べると甘味ってのは単調だ。というか、苦味やしょっぱさなど、ほかの要素と絡むことが圧倒的に少ないと思う。
だから食べていると口の中に広がる味がものすごく一様で、甘味それ自体が苦痛になってくるのだ。
それでもあんこは上品というかおとなしくて、いい口直しになる。ホイップクリームも実はそんなに甘味が強いものではない。
つまり、抹茶シロップがキツいのである。この人工的でほかの味の要素を一切そぎ落とした甘さが、本当につらいのだ。
腹にはまだ余裕があるのに、喉が飲み込むことを拒否する、というのは初めて体験した。
一様な甘さがただただ続くのは、もはや苦痛でしかないのだ。

それでもどうにか完食。もう二度とメシで甘いものは食わねえ、菓子パンも1ヶ月くらい食いたくない!
と思った矢先、ハシバJAPANの前に新たな刺客が登場してしまう……。

  
L: 「甘口抹茶小倉スパ」、完食! どんなもんでい! もう二度とメシで甘いものは食わねえぜ!
C: ……と思ったら、「かき氷・イカスミ味」の登場。なんスかこの量は……。しかもしっかり黒いし……。
R: さらに「納豆サボテン玉子とじスパ」が登場。ちなみにサボテンは店の前に植えてあるものを使用。本気で呆れた一品。

われわれが必死になっていた試合は、まだ前半終了したにすぎなかったのである。
後半に入り敵は新たに2名の選手を入れてきた。そうだ、さっき追加注文しておいたじゃないか!
誰も口にはしないものの、さすがに全員が「これは負けた……(マウンテン用語で『遭難』)」と思ったのであった。
それでもこのままでいるわけにはいかないので、とりあえず納豆サボテン玉子とじスパにフォークを差し込む。
しかしその次の瞬間、「くせえっ!」ひきわり納豆の匂いが全員の鼻を直撃する。
まるで納豆のまずいところだけを選んで出してきたような(失礼だけど事実)その風味に、一同のけぞる。
しかもおそるおそる口にしたサボテンは、キクラゲの食感に酸っぱいフレーバー。戦意を喪失しつつも、意地だけで口に運ぶ。

それに対してイカスミ味のかき氷は意外と紳士的だった。凍っているため、イカスミ独特の匂いがないに等しい状態だった。
とりあえずバヒ監督&トシユキのコンビが納豆サボテン玉子とじスパとマッチアップ。量をコツコツと減らしていく。
そしてまる&僕のコンビでかき氷を片付ける。まるがイカスミの染み込んだ黒い部分、僕が味の薄い白い部分を主に担当。
まる氏はここで伝家の宝刀とばかりに、大人のお子様ランチ戦で温存していた大スプーンを使用。大胆に削っていく。
もともとの量が異常なのでゆっくりのペースに見えるものの、確実にかき氷は小さくなっていくのであった。

地道な戦いの末、かき氷はようやくふつうの1杯の大きさになる。
ここで僕がオーバーラップして、納豆サボテン玉子とじスパとぶつかる。バヒさんの援護を受けつつ、
熱が冷めてきて納豆の匂いが弱くなった納豆サボテン玉子とじスパを攻略すると、まる氏もかき氷を平らげていた。
一時は逆転不可能と思われたが、ロスタイムでひっくり返した劇的な勝利である。ハシバJAPANが、奇跡を起こした。

  
L: 8月の勝利の歌を忘れない。  C,R: 試合後、茫然とする選手たち。バーンアウト症候群が懸念される。

しかし、勝利の代償はあまりに大きかった。
戦いを終えたハシバJAPANは大須へと向かったが、車内での選手たちの口数は極端に減っていた。
トシユキ氏・まる氏・僕は代表引退を宣言。そしてバヒ氏も監督を辞任すると表明。
しかしバヒ氏は「選手としては現役を続ける」と力強く言い切ったのであった。まあがんばれ。

大須に着いてふだんならあちこちの店に入ってあれこれ物色するものだが、この日はどの店に寄る気力も出ず、
無言で大須観音へと歩くのがやっと。到着したら、毎度おなじみ、お参りしておみくじである。
僕だけ大吉、あとの皆さんは小吉だったり末吉だったりで、やっぱり消化不良。
その後は万松寺でモテますよーにと神頼みしてみたり第1アメ横ビルを徘徊してみたりと動いてみるが、どうにも覇気がない。
さっき食べたマウンテンのフルコースがいまだに尾を引いているのである。結局、何も買わずに30分ほどで大須を後にした。

 
L: 大須観音。商店街にいきなりお寺ってのも珍しいかも。  R: 大須商店街・万松寺通りを撮影。活気にあふれていた。

おみくじでいい結果が出るまで粘るってことで、続いての目的地は熱田神宮である。ここは三種の神器のひとつ、
草薙剣(正式名は「天叢雲剣」)があることで知られる(八咫鏡は伊勢神宮、八尺瓊勾玉は皇居にある)。
世間では首相の靖国神社公式参拝が取り沙汰されているが、われわれモゲの会はおみくじを求めて、
熱田神宮を知らないうちに公式参拝なのである。バヒさんは例のごとく、巫女チェックに余念がなかった。
まあその元気がありゃー大丈夫だよなーと思いつつ本宮へ。

 
L: 熱田神宮の鳥居。色が塗ってないのがすごく新鮮だった。さすがの貫禄である。
R: こちらは本宮。個人的には神社には慣れていても「神宮」のサイズには慣れていないので、なんだか勝手が違う感じ。

こちらのおみくじも皆さんさっきと似たような結果。僕は「半吉」で、そんなの初めて。内容は大須の真逆で解釈に困った。
気力があればここから伊勢まで行っちゃうところだったのだが、とてもそんなエネルギーは残っちゃいなかった。
すべてはマウンテンでの勝利の代償である。ここまで尾を引き続けるとは予想ができなかった。

で、結局飯田に帰ることに。途中、高速に乗ってから僕もバヒさんもトシユキ氏も車内で寝てしまう。
運転しているまる氏までフラフラの状態で、恵那峡SAで全員仮眠をとった。こんなことは初めてだった。
あらためて、マウンテンのとんでもない破壊力に驚かされるのであった。
(「もう若くないんだ」という意見もあったが、やはり僕はマウンテンの破壊力を最大の要因としたい。)
それからタイヤを交換したいというまる氏の希望で座光寺に行き、そのまま和食のファミレスで晩メシをいただく。
……話題はやっぱりマウンテン。
その後、高速バスで飯田に来る嫁さんを迎えるため撤退したまる氏を除く3人で居酒屋に入る。
……が、ここでも話題はやっぱりマウンテン。
久々のモゲの会だったが、すっかりマウンテン一色に染め上げられてしまい、みんなビミョーな感触。
とりあえず、諏訪湖でリベンジといきましょう。

ちなみに翌朝、中学校の卒業式で大盛の激辛料理を食わされる夢を見た。うなされた。


2006.8.14 (Mon.)

本日は伊那にてピザデーである。

ピザが来るまでの間、潤平がポン、とテーブルの上に1冊のマンガを置いた。読みなさい、とのこと。読む。

若杉公徳『デトロイト・メタル・シティ』。流行に敏感な人は惜しみなく購入していると思われるマンガ。
心優しい主人公・根岸崇一の本業は、デスメタルバンド「デトロイト・メタル・シティ(DMC)」のギタリスト「クラウザーII世」。
このクラウザーII世は悪魔のようなメイクと言動・行動で、危なげなファンを熱狂させているのである。
しかしながら本人は、本当はカヒミ・カリィのようなオシャレな曲が大好きで、方向性のギャップに大いに悩んでいる。
やることなすことすべて裏目に出てしまい、結果としてDMCやクラウザーの評判がうなぎ上り、そんなギャグマンガ。

今までこういう設定のマンガがなかったことにまず驚いた。いい意味で、マンガが面白かった時期を思わせる作品だ。
主人公の抱えるギャップ、それがとことん裏目に出るというお決まりの展開は、100%安心して楽しめるのだ。
本人の意志とはまったく正反対に物事が推移していって、結果としてDMCがより魅力的になっていく。素直に楽しい。
さらにはクラウザーのメイクをすることで、根岸青年は実際に「変身」してしまう。そうして他人のトラブルまで解決してしまう。
つまりはヒーローものとしての要素も多分に含んでいるわけで、それがこのマンガの面白さをさらに増幅しているわけだ。
また、潤平はこのマンガの特徴に言語感覚を挙げていたけど、確かにそう。
どうしょうもない下品な言葉がDMCのフィルターを通すと、どこか愛せる響きに思えてしまうのだ。
日常生活で使ってしまいそうになる。「SATSUGAI」ってローマ字表記の発明はノーベル賞ものだと思う。もちろん平和賞。

そんなわけで、久しぶりに心の底から「これはいい話だなー」と思えるマンガに出会った気がする。
こういう安心できるバカバカしさが満載のマンガが、今後どんどん増えていくとすばらしいと思うのである。
個人的には社長にいつもくっついている屈強な二人組の「グリとグラ」がツボ。

そうこうしている間にピザ到着。やはり今回もフレッシュトマトが猛烈においしかった。もう本当に幸せである。

 
L: レギュラーサイズ。  R: ラージサイズ。いつも4人でレギュラー1枚+ラージ4枚を食べる。ほかに口にするのは水だけ。

おいしゅうございました!


2006.8.13 (Sun.)

ママチャリで飯田市内をぐるぐるまわってみる。せっかくのいい機会なので、デジカメでいろいろ撮ってみた。
よく考えたらこの日記で飯田の街をきちんと扱ったことがなかったので、僕の通った学校を中心に紹介してみよう。

(今日の日記は地図を用意したほうがわかりやすいと思う。とりあえず国土地理院GoogleYahoo!にリンクを張るので、
 気に入ったサイトの地図を見ながら読んでもらうといいでしょう。それにしても便利な世の中になったもんだ。)

僕の実家は飯田市役所から非常に近い。高校まではまさに市役所の隣だったが、今は少し離れた場所に移った。
かつての実家の向かいは源長川公園という、扇状地特有の伏流水が下を流れる公園である。ここが僕らの庭だった。
そんな懐かしい風景を見つつ、大久保町から知久町に出る。知久町はのんびりとした商店街で、小学校の通学路だ。

 
L: 源長川公園。遊具がそこそこ充実しているが、僕らが大きくなってからは、あんまり利用されているのを見かけない。まさに庭だった。
R: 知久町2丁目の風景。僕にとって「飯田の商店街」というと、なんとなくここの光景が浮かぶのだ。近年はやや衰退気味かも。

飯田の街は城下町なのだが、ほぼ完全に碁盤目になっていて、「小京都」と呼ばれる(特に橋南地区)。
ふつう日本の都市は、道に囲まれた“島”を単位とすることが多い。道で四辺を切り取られた四角形が、ひとつのかたまり。
そのため道を挟んだ右と左で別の町になることがほとんどだ。つまり、道は町と町を分ける境界線の役割を果たすわけだ。
しかし碁盤目状の小京都では、道を挟んだ両側をひとつの単位とすることが多い。町の境界線は“島”を半分に切る。
これは碁盤目の街ではまず道に名前がつけられ、それがそのままそれぞれの町の名前になっていることによる。
(槇文彦ほか『見えがくれする都市』(鹿島出版会)に詳しい。なお、Yahoo!の地図だとそれが非常にわかりやすい。
 知久町・本町・通町・松尾町・中央通りなど「縦」の町と、「横」の町の銀座、それぞれ境界線と道の関係を見るべし。
 この「縦」と「横」の感覚だが、飯田駅と旧飯田城を結んだ線を「縦」としている。多くの市民はそう感じているはず。)
知久町を3丁目から1丁目に進み銀座を突き抜けると、常盤町に入る。そのまままっすぐ行けば追手町小学校に到着だ。

飯田市立追手町小学校は、旧飯田城の三の丸にあたる場所に建っている。1929年竣工の校舎はいまだに健在。
かつて関東大震災(1923年)からの復興の際、災害に強い新しい素材として鉄筋コンクリートに注目が集まった。
当時は大正~昭和のモダニズム全盛の時期で、建築でも鉄筋コンクリートの普及によって優れた作品が多く生まれた。
DOCOMOMOなんかはその点をけっこう熱心に扱っている。ぜひとも追手町小学校をリストに加えていただきたいわー。)
そして東京ではほかの公共施設よりも優先して、鉄筋コンクリートの学校を建てていったという歴史があるのだ。
これは僕の個人的な推測だが、追手町小学校はそのムーヴメントの一環として建てられたのではないか、と思っている。
小学校をつくるのに、都会からノウハウを取り入れて当時最先端の建築に仕上げた、そんな意気をこの建物から感じる。
地方都市が初等教育にどれだけ力を入れていたかを知る点でも重要な文化遺産だ(しかも現役だから意味がある!)。

(僕には野望があって、行政(市役所)・教育(学校)と日本における近代の関係性を建築を通して考える、ってなことを、
 なんとかして博士論文でやってみたいのだ。そしてこの追手町小学校は、そんな僕にとっての象徴的な存在なのだ。)

  
L: 追手町小学校を正面より撮影。circo氏によると尺貫法で建てられているそうだ。尺貫法のモダニズムってかっこいい。
C: 校庭側から校舎を撮影。かつてはネットなんて張られてなかったんだけどな。手前の変なベンチ?もなかったんだけどな。
R: 校庭に生えている桜の木。今にしてみれば、この桜は絶妙なポイントに位置している。通っていた当時はそんなこと考えなかったけど。

 
L: 小学生のとき、トシユキ氏とともにさんざんお世話になった鉄棒。ひたすらこれで遊んでいた。奥にあるのは講堂。これまたすばらしい。
R: もとはお城なので校庭の端は崖である。そこから水の手~鼎を一望したところ。中央を流れるのは松川。天竜川へと注ぐ支流だ。

道を挟んだ追手町小学校の向かいには、飯田市立中央図書館がある。僕の感覚では追手町小学校の「飛び地」。
1階の天井は高くつくられている。2階との間に中2階がとられていて、そこから1階の様子を眺めることができる。
個人的にはかなり好きな構成だ。以来、中2階のない図書館をつまんなく思ってしまう変なクセがついてしまっている。

 
L: 図書館のすぐ脇にある旧飯田城の赤門。日本で「赤門」が現存しているのはここと東大(旧加賀藩上屋敷)だけってホント?
R: 飯田市立中央図書館の外観。小学生のころは毎日のように入りびたっては学研マンガを読んでいた。

旧飯田城をもうちょっとまわってみよう。追手町小学校の東側、二の丸にあたるのが飯田市立美術博物館。
これは僕が小学校5~6年のころにできた建物で、飯田高校OBの原広司が下伊那の山並みをイメージして設計。
屋上が体力を使ったかくれんぼ・鬼ごっこに適している以外は特に褒めるところがない建築。
ただし、裏手にある崖からの眺めはやはり最高。桜もきれい。

そして本丸の跡はご多分に漏れず、神社になっている。長姫神社である。
境内には石碑があって、けっこう歴史的に意義のあるものもあるらしいけど、正直よくわからないのであった。
ちなみに、circo氏はここの氏子である。これはマツシマ家が以前、現在の長野銀行(銀座)の場所にあったため。

飯田城・飯田藩の歴史についてちょこっと書いておこう。
かつて飯田周辺は小笠原氏が治めていたが、戦国時代に入って武田信玄の勢力下となる。
江戸時代になると、飯田城は脇坂氏の居城となる。脇坂氏が移った後は堀氏。で、明治維新を迎える。以上。

 
L: 飯田市立美術博物館。一見して原広司とわかるカッコ悪さ。疎開してきたとはいえ飯田高校のOBだからしょうがないのか……。
R: 長姫神社。かつての本丸跡地のわりには地味というかおとなしい印象の神社。こぎれいで品がいい、とも形容できるかな。

さて、旧飯田城をめぐることで飯田市の歴史の一端に触れたわけだが、現代史についても書いてみよう。
飯田市の歴史を語るうえで絶対に無視できないのが、1947年の飯田大火だ。
扇町から出た火は瞬く間に広がったそうで、これで市街地(いわゆる「丘の上」)の2/3以上が焼けてしまったのだ。
circo氏が調査して論文(ボリューム的には「報告」かな)を書いている。その内容を軽く押さえることにしよう。
(なお、「丘の上」とは橋南と橋北、つまり飯田城の城下町にあたるいわゆる山の手の地域を指すものとする。)

飯田大火の後、当然ながら防災を最重要課題として復興計画が立てられた。
その結果、市街地を4つに分けるようにして、大きな防火帯となる公園や道路が建設されたのである。
これはつまり、大規模な火事が起きたら最大でも市街地の1/4で被害を済ませる、という発想によるものだ。
まず、だいたい東西の軸(「縦」の軸)として、中央公園がつくられた。中央公園といっても、飯田の場合は特殊だ。
前述のように飯田市は碁盤目状の構造なのだが、そのブロック(上述の表現では“島”)をまるごと公園にしたものを、
まっすぐ街を貫通するように、一列に並べたのである。だから飯田市には中央公園が複数、まっすぐ東西に並んでいる。
「丘の上」住民で中央公園というと、銀座・中央通り1丁目に隣接した「赤土公園」を指すことが多いと思われる。
その名のとおり、ここは赤い土が撒かれた公園である。同じ中央公園でも、ブロックごとに雰囲気はそれぞれ異なる。
赤土公園のすぐ西側は市営プール。街のど真ん中のプールは非常に珍しいらしい。防火用水の意味合いもあったようだ。
そして南北の軸(「横」の軸)は25m道路となった。橋北部分は「桜並木」、橋南部分は「りんご並木」となっている。
(要するに、中央公園を境にして橋南地区と橋北地区に分かれているわけだ。中心市街地の大部分は橋南に属する。)
地元の中学生によってりんごが植えられ、「りんご並木」となったことは、以前に書いたとおり(→2006.6.27)。
詳しい話は後述。とりあえず、そんな具合に飯田市を象徴する街並みが生まれたってことはご理解いただけたかな。

 
L: 中央公園(赤土公園)。ちょっとアスレチックなすべり台が人気。僕らは飲んだくれた後よくここに来る。地下は駐車場。
R: 市営プール。赤土公園のすぐ西隣にある。現在は奥にある子ども用プールのみの営業で、50mプールはこの有様。

今度は、飯田市を貫く「縦」(東西)の軸を形成しているもう一方の極、飯田駅に行ってみよう。
飯田駅の駅舎は、かつては木造の風情ある建物だったのだが、現在はセンスゼロの駅舎となってしまっている。
以前の飯田駅を見てみたい、という奇特な人は、『究極超人あ~る』のOVAでも借りてくるといいでしょう。

 僕が中学生くらいに今の駅舎になったのだが、こんなの幼稚園にしか見えない。

飯田駅まで来たので、そのまま線路を渡って飯田市立飯田東中学校へ。
ここは「丘の上」の子どもたちが通う中学校で、りんご並木の世話が3年間義務づけられる場所でもある。
(りんご並木の作業についてはいろいろ書いているけど、実際には全然苦痛じゃないです、念のため。)
当然、僕もここの卒業生である。建築時期がまったく一緒の2つの棟に分かれていて、それを昇降口がつないでいる。
その2階は図書館になっていて、屋根は学友会役員室・放送室から下りることができる。潤平はやたらと下りたみたいだ。
だだっ広いグラウンドがあったりプールが地下トンネルを通った向かいにあったりと、施設が充実していた印象がある。
戻れるもんならここで過ごした日々に戻りたいもんですな、まったく。

  
L: 飯田市立東中学校正面玄関。正面2階が上述の図書館になる。左手のでかいのは体育館。
C: だだっ広いグラウンド。長距離の選手だった僕はひたすら走った。炎天下の中やたら走った。楽しかったなー。
R: お世話になった校舎を撮影。思い出がいっぱいですよ。大人の階段のぼるですよ。うあータイムマシーンほしいー

なんとなく外周(体育系の部活では東中の敷地をぐるぐる回るのが基本、1周約800m)をひとまわりしてから大宮神社へ。
大宮神社は飯田市内最大の神社。石段の数は、市街地の中にある神社にしてはかなりのものである。
境内には小さな滝があって、そこは年始のお参りに行ったときに凍っていることもある。そんときはけっこうきれい。

  
L: 大宮神社。東中からすぐ近く。でも東中の部活はゆるいので、ここの石段をのぼらされるようなことはありません。
C: 桜並木。春はとてもきれいで写生大会も開かれる。つーか毎年母親に連行されてイヤだった。でも超きれいだった。でもイヤだった。
R: 市営プールのところから撮影した桜並木。ここまでが橋北で、桜並木。ここから後ろ(南側)は橋南で、りんご並木になる。

桜並木は大宮神社からずっと下り坂になっている。その途中でちょっと東側に曲がると、僕が通った幼稚園があるのだ。
ちなみにかつて母親はここで働いていた。「カミナリ先生」と呼ばれ、園児に対して恐怖政治を敷いていたそうな(本人談)。

 慈光幼稚園。真宗のお寺。当時の記憶は飛び飛びだけど、どれも楽しいものばかり。

この通りをさらにまっすぐ行くと、ちょっと奥まった位置に正永寺という曹洞宗のお寺がある。ウチはここの檀家なのだ。
正永寺は特別に有名なお寺というわけではないと思うのだが、行ってみるとなかなかけっこうな場所である。
まず本堂がすごい。写真ではこぢんまりとしているように見えるが、実際にはけっこう大きくて立派。
木造建築としてなかなかの迫力を持っている。機会があればぜひ一度どうぞ。飯田市を訪れたら、見て損はしない建築。
また、境内にある百日紅も見事だ。枝垂桜はちょっと衰えが目立ってきているが、それでもやはり見事。

  
L: 円悟山正永寺・本堂。晴れた日に映える建物だと思う。つーか快晴の日にしか来たことない気がするなあ。
C: 枝垂桜をアップで。がんばれー  R: ウチの墓です。画像を通して念仏唱えたらなんかいいことあるかもしれません。

さてこの正永寺の通りからもう一本北に行って、そのまままっすぐ東へ進むと、「丘の上」の丘から一気に下り坂になる。
そうしていったん下がってまた坂を上ると、かつては飯田市とは別の自治体だった上郷に入る(旧上郷町)。
するとすぐに、長野県飯田高校のお出ましだ。いちおう地元では名門扱いされているが、全国的にはごくふつうの県立校。
その辺のプライドとギャップが、学校関係者はよくわかっていなかった気がする。まあ田舎にはありがちなことです。

  
L: 長野県飯田高校を正面から。といっても、僕らが通っていたころには建設中だったんだけど。だからこの建物には思い入れゼロ。
C: 東館。生徒はこっちが昇降口で、思い入れがたっぷりだ。飯田高校クイズ研究愛好会はここで活動していたことも(→2006.7.13)。
  あと、ペットボトルロケットをガンガン飛ばして迷惑がられたことも。ここでは本当にいろいろ悪さをしました。すいません。
R: 班室棟。2階中央に見えるのが物理班の班室。当時はここでろくでもないことばっかしてました。『同級生2』(→2004.12.18)とか。

飯田高校の脇には「タツ坂(漢字不明、誰か教えて)」や御殿山の坂など、とんでもない傾斜の坂がある。
タツ坂は根性があれば自転車で上れるが、御殿山は不可能。それが定説である。
で、そのタツ坂を下って、高校時代によくモゲの会のメンバーでうろついた座光寺のロードサイド店をぶらつき、
それから上郷別府から江戸町へと至る坂道をヒーヒー言いながら上ると(もうこの辺は飯田市民にしかわからんな)、
「丘の上」へと戻る。乗っていた自転車が半分ガタガタのママチャリだったせいで意識が朦朧。

最後に、飯田市のシンボルということになっている「りんご並木」を紹介しよう。
これは前述のとおり、飯田大火からの復興でできた道路の中央分離帯に、中学生がりんごの木を植えてできたものだ。
かつては4車線道路の真ん中にポンとりんごの並木があるだけという、あまり景観上の工夫がない道路だったのだが、
僕らが中3のときに並木をリニューアルする計画があるとかで、アイデアを無理やり出させられた記憶がある。
そのとき車道を2車線に減らしてその分だけ憩いのスペースを増やす、という案をみんなで(わりと)テキトーに出したのだが、
どういう紆余曲折があったのかはまったく知らないけど、現在は当時の案が比較的反映された姿になっている。
ただし、おかげで一本西側にある国道153号線の混雑ぶりが以前よりもかなり悪化したのも事実だし、
並木が人の訪れる空間として十分に機能していないのも事実。つまり、結果としては中途半端なものになってしまっている。
それでも以前に比べれば周辺にオシャレな飲み屋が増えたこともあり、ポテンシャルは十分ありそう。
オープンスペースをうまく活用しつつ、まだまだ面白いことができそうな余地があると思う。

  
L: りんご並木の北端。かつてクリスマスツリー的な年始の飾りがあったのはここである(→2006.1.2)。
C: りんご並木の平均的風景。車道はスラロームになっていてスピードが出せないようになっているのだ。
R: りんごの木を1本、クローズアップしてみた。まあ見てのとおり、りんごの木はそんなにフォトジェニックじゃないのが難点。

おっと、わが地元・大久保町の愛宕神社を紹介し忘れていた。なんたって僕はここの氏子なのだ。
ここはなんといっても、境内の清秀桜が有名。この神社の祭りのたびにお菓子を大量にもらってウハウハしたのが懐かしい。
愛宕神社はもともと飯坂城(愛宕城)という城で、三方は崖になっている。境内で遊んでいてボールを落とすと大変。

  
L: 愛宕神社入口。  C: 清秀桜。樹齢750年で市内では最も古い桜の木である。そのスジではかなり有名とのこと。
R: 境内の様子。今も毎年お参りする、僕にはお馴染みの光景である。

おしまい。


2006.8.12 (Sat.)

実家に帰ってきたのはいいんだけど、天気があんまりよくなくって、どっかに行くかーという気分になるわけでもなし。
そしたらcirco氏が、こないだ(→2006.8.5)の貧乏神神社に連れてってやろうか、と提案。ホイホイとついていく。

車に揺られて飯田インターの少し先へ。そこからちょっと山のほうに入っていったら、だだっ広い駐車場が。
そして駐車場の脇に入口があり、「入場料100円」と看板が出ている。……怪しい。怪しさ満開である。

車を降りると、circo氏と一緒に中に入る。小雨まじりの天気のせいもあってか、周囲にはひと気がない。
本殿の内側には絵馬が飾ってあったり熨斗袋が飾ってあったり。新聞記事もあれば色紙もある。全力のアピールである。
口を半開きにしてしばらくあれこれ眺めていると、さっきまで社務所でテレビを見ていたと思われる神主登場。

  
L: 遠景はこんな感じ。ふつーに掘っ立て小屋じゃねーの。  C: circo氏が神主を待つの図。  R: これが本殿内部。怪しさ満開。

賽銭を払うと神主のありがたいお説教がスタート。
しきりに「雑誌に載った」と繰り返していたが、その雑誌が『ムー』ではなんとも……。
5分くらい続いた話の後、バットみたいな棒(意外と重い)で「心」と書かれた柱を3回叩く。その間、神主は掛け声で応援。
そして柱の下の部分をこれまた3回蹴る。サンダルなので足の裏で蹴る。その間も神主が「そうだ! そうだ!」と応援。
それが終わると奥にある的に向かって「貧乏神出てけー」と豆を投げてぶつける。以上で厄除け完了という仕組み。
まあ、いい商売ですよね、ホント。

 びゅく仙、ありがたいご祈祷を受けるの図。

そのまま車で駒ヶ根まで行ってしまう。ぜひともソースカツ丼を食べよう、とのこと。
長野県ではソースカツ丼の本家争いを伊那と駒ヶ根がやっていて、『噂の東京マガジン』でも取り上げられていた。
でも福井もソースカツ丼を地元の名物ってことで売り出しているのはけっこう有名な話である。
それに、小学生の頃には家族でわざわざ甲府へソースカツ丼を食べに行った記憶が今でもきちんと残っている。
つまり、ソースカツ丼による街おこしは日本全国でやられているわけで、どうにもオリジナリティがないんだよなあ、
なんて思いつつ、駒ヶ根インターにほど近い店に入る。駐車場に停まっている車のナンバーがすごいのなんの。
松本ナンバーは全体の半分程度。関西・東海方面からかなり押し寄せている。帰省シーズンとはいえ、本当に驚いた。

で、肝心のソースカツ丼は大変おいしゅうございました。
お父様が残した天丼の天ぷら、おいしゅうございました。
お母様が残した鉄火丼のマグロ、おいしゅうございました。
つーか相変わらず僕は片付け役なのね。まあ、大食いだししょうがないけど。
逆を言えばつまり、量が充実していて味もよく、値段もリーズナブルなわけで、そりゃあ繁盛するよな、と。

帰りの車内ではcirco氏が、「つまりファミレスが専門店化しているわけよ」なんて話をした。納得である。
そして僕はうなずきつつ、潤平の不在に、男の一人っ子ってのはキツいものがあるんだろうなあ……なんて想像をしていた。
女の子の一人っ子ならまだしも(それでも「ぜったいに自分の子どもは一人っ子にはさせたくない」なんて言ってたっけなあ)、
つねに男一人で両親と対峙するのは厳しいものがある。子どもから親への視線がそれぞれ1人あたり1/2になるのに対し、
こちらに向かってくる視線は2倍のままなのだ。単純計算で、2人兄弟なら2/2、3人兄弟なら2/3になるのに、
それが200%こっちに向かってくるのはつらい。女性は見られる性だからそんなに苦痛じゃないだろうけど(偏見)、
男は見る性なので、24時間見られ続けるのが延々と続く日々は、とても大変だと思う。
自転車で走ったら気持ちよさそうだけど坂道がいっぱいな夕方の下伊那の農道で揺られつつ、そんなことをぼんやり考える。

家に帰ってテレビを見ると、長野県のCMは、どれもパチンコ屋のものばかり。
昔は製造業のCMが圧倒的に多かったんだけど……。だいじょうぶかよ長野県、と思ってしまう。なんだか本気で心配だ。


2006.8.11 (Fri.)

ちょいとしたゴタゴタで、いま進めている仕事のひとつが凍結となる。
今までちまちまやってきたことが、ある程度確実にムダになってしまうわけで、ショックである。
事前に防げたような気もするのだが、それにうすうす感づいていながら踏み出さなかった自分にも責任はあると思う。
だから今回の件については、ほとんどまったく腹が立っていない。むしろ僕も悪かったなあ、と思っているくらいで。
しばらくすれば、また作業を再開できるときが来るだろう。そしたらまた、粛々とやればよいのである。泰然自若にいくのだ。

夜になって新宿から高速バスに乗り込んで、帰省。さすがに人でいっぱいで、飯田行きはなんと、5号車まで出ていた。
のんびりと音楽を聴いたり落語を聴いたり寝たりして、飯田駅前で降りる。以前よりも通りが広くなった気がする。
気がするだけで、実際には10年前からさして変わっていないのだが、不思議とそう思った。あんまりいい感触じゃなかった。


2006.8.10 (Thu.)

禍福は糾える縄の如しということか。
めちゃくちゃ調子の悪かった日の翌日に、拍子抜けするほどうまくいくってことがある。
慣れている人なら前日のうちにモヤモヤを吹っ切って、また新たな気分で一日ガンバローってな具合にできるんだろうけど、
当方なかなかそう切り替えが上手いほうではない。なるべく平静を装って、低調なままで一日をスタートさせてしまう。
まあそれでも前の日と次の日ってのはやっぱり別の日なわけで、こりゃ引きずっていると損だなと思って初めて切り替える。
そうするとなんとかなって、で、禍福は糾える縄の如しってか、なんて感じで家の風呂に浸かっているわけだ。

以前ヤケドしたときなんかは(→2002.12.12)、かなり精神的にまいっていた時期で、
毎日ただひたすらため息をついているだけだった。そしたらケータイをトイレに落とすわ左足をヤケドするわ、
悪いことに悪いことがガンガン重なっていって、底の見えない穴に落ちていく感覚がした。
結局、足を引きずりながら塾講師を始めて、その勢いで論文も乗り切ってと、歯を食いしばって動くことで解決ができた。
その経験があるから、ピンチなときこそ無理してでも前向きにならないと状況はどんどん悪くなるってわかっている。
つねに今を楽しむしかないのだ。そうすることしかできないのだ。がんばるのだ。


2006.8.9 (Wed.)

そんなわけで、昨日の日記を書いたらムクムクと頭の中にもたげてくるものがあったので、
今日は選挙権というものについてテキトーに書き散らしてみることにしよう。

合併の是非について、中学生までを対象に含めて住民投票した、ってことが長野県のある自治体であったわけで、
そんな具合に選挙権が与えられる年齢について、世間では地味ながらも議論があることにはある。
僕なんかは、老い先短いジイサンが自分のやりたいようにやって子どもの世代に無茶を押し付けていると感じているので、
選挙権に下の年齢制限があるんなら上もあってしかるべきだろー!と考えないこともない。しかし、かといって、
年齢で一律に排除するのは愚の骨頂、という事実は就職活動でイヤというほど実感しているので、賛成はできない。

だから必然的に、僕の考え方はこうなる。「免許と同じで、お年寄りが自分で選挙権を返上しちゃう制度をつくろう!」
まあある意味、車の運転と国家の運営は、ねえねえ似ていないこともないよね?という程度にアナロジーが可能に思える。
ゆえに、自分の判断力が鈍っていることを自覚していない人が国家の運転に参加するのは、危険な行為なのだ。
そういうわけで、選挙権を返上したら「お疲れさん」みたいな感じで、なんかボーナスをあげてもいいと考えているのである。

そしてもうひとつ、「0歳児にも選挙権をあげよう!」
20歳未満だから責任能力がどーのこーのとか判断力がどーのこーのとか、そういう発想はまったくもってバカげている。
子どものほうが大人よりも真剣に物事を考えていることなんて、いくらでもあるっていうのに。もちろん、政治だってそうだ。
しかしながら、何がなんだかよくわかんないまま、テキトーな思いつきで空欄に○をつけられては困るのである。
そこで、0歳児にも選挙権を与えるかわりに、戸籍に載っている自分の名前を正確に書けないとダメ、という条件をつける。
だから、漢字の名前をひらがなで書くのは禁止。丁寧な字で読みやすく書けてはじめて投票OKとするのだ。
(なんらかの障害を持つ人については、適宜なんとかするってことでよろしくお願いしたい。賛成の人、誰かきちんと考えて。
 あ、でもよく考えたら今の選挙制度って候補者の名前を書く仕組みになっているから、考慮できなくはないわな。)

こういう意見を出すと、「名前が書ける=自己の判断できちんと投票できる」ってことにはならない、と反論があるだろう。
でもそれは、発想が逆なのだ。自分の名前を書くことをきっかけに、自己の判断や責任についてより深く考えていけばいい。
名前を持った一個人(市民)としてふるまうことの意味を通過することで、投じられる一票により重みが増すはずなのだ。
日本では普通選挙制度が後から採用されたせいか、投票は「結果」である。民主主義の「結果」として獲得された制度。
しかし本来、民主主義国家であれば、この権利は先天的に有しているものだ、と僕は思うのである。
つまり参政権とは、生まれる/存在すること(be)と同レヴェルの、民主主義の「原因」でなくてはならないはずなのだ。
そういうわけで、選挙ってのは、人間が一個人(市民)としてきちんと成長するための経験として、
失敗も込みで(!)、早いうちから体験されなければならないという発想に至る。
繰り返すけど、投票する権利とは、人間が一定の時間を経て成長したことで自動的に得られるものではないのだ。
人間が市民として成長し続けていくためのツールのひとつにすぎないのだ。そういう発想こそ民主主義の根幹だろ、と思う。

ただ、問題もある。どっかの政党で考えられるように、「お父さんがこの党に入れろって言ったからそうした」となる可能性だ。
この「0歳児から選挙権を与える」という制度を導入するためには、一個人(市民)としての十分な成熟をどうとらえるのか、
という論点を、あらためてきちんと整理しておく必要がある(20歳以上で自動的に、というのは完全に思考停止ですよ)。
注意したいのは、人間が何歳で一個人として成熟するのか、という議論ではない点だ。
僕の発想は、人間が成熟に向けて努力するための一助として選挙を活用しよう、という発想なのだ。民主主義でしょ。

実現は絶対しないだろうけど、理想としてはそういうところにあると確信している。


2006.8.8 (Tue.)

2日前に投開票があった長野県知事選について、ちょっと書いておきましょうか。

結果は現職の田中康夫が元国会議員の村井仁に敗れる、というもので、長野県以外の人には少し意外だった印象だ。
まあ現地では実際のところ、ここ何年かヤッシーの繰り広げるドタバタ劇で食傷気味になっていたのは否定できないだろう。
そこに反田中勢力が打倒ヤッシーだけを目的に一本化して国会議員OBを担ぎ出して組織を固めて勝っちゃったわけで、
世間的に見れば、長野県がただの田舎であることを証明してしまった、その程度の価値しか持たない。

それにしても、これは相当にみっともない。
田中康夫については台風のタイミングが悪かったこともあるし、ここんとこ新党日本なんかで迷走していたしで、
まあ確かにマイナスの要素は前回、前々回の選挙に比べると圧倒的に大きかった。
しかしながら、僕が「みっともない」と思っているのはヤッシーが負けたことではなく、村井仁が勝ったことに対してなのである。

というのも、そもそも村井仁という人は、自民党の議席を長年無難に守りきったご褒美として、
毒にも薬にもならない国家公安委員長というポストを最後の花道として与えてもらって表舞台からすでに消えた人なのだ。
はっきり言っちゃえば、無能なままで「終わった人」である。そういう役立たずを知事選に立候補させること自体、
長野県政をナメてるってことじゃないのか。組織選挙をして田中康夫を県庁から追い出す、そのためだけの人選であって、
その先の4年間を一切考えていない。未来を何ひとつ感じることのできない、あまりにも愚かな選択がまかり通った。
まあつまり、田舎のおっさん集団である県議会の傀儡を4年間確保したっていうことで、長野県は昔に戻ってしまったのだ。
いや、これは恥ずかしい。恥の極致である。

都会からは「おっ、なんか面白いことやってんなー」ってことで、長野県はちょっと期待を持って見られていたのだが、
それは結局一時的なものとなり、完全に「その他大勢」扱いに戻ってしまった。県の内側にいたら、この喪失感の大きさは、
絶対に理解できないだろう。県知事選にも海外在住有権者の投票みたいなものがあれば面白いのに、と思う。
故郷を誇れるかどうかは重要な問題だ。この4年間で存在感は消え、長野県の外からの評価は「無」となるだろう。


2006.8.7 (Mon.)

会社帰り、ワカメがブログ(⇒こちら)で大絶賛していた、『時をかける少女』を見に行く。
いま、世間でいちばん客の入っているアニメ映画といえば『ゲド戦記』である。あちらがあちこちで上映されているのに対し、
こちらは新宿で単館上映。いちおう池袋でもレイトショーが始まったらしいが、まあそんな程度。
しかし評価は抜群に高い。ワカメがあれだけ褒めているのも凄いことだが、ネットでの評価も軒並み高得点。
こりゃ行くしかないな!と思い、残業もせずにさっさと新宿へ。花園神社を軽く散歩して時間調整してから映画館に入る。

今までに映画化されたりTVドラマ化されたりした『時をかける少女』は、すべて筒井康隆原作のものがベース。
原田知世主演で大林宣彦監督作品のものはビデオで見たことはあるが、これは最悪のデキで褒めるところが皆無。
で、なっちこと安倍なつみがクリスマスのドラマでやってたものは、まずまずのデキという印象がある(→2002.1.18)。
原作も文庫本を買って読んだことがあって、こちらはあっさりしすぎ。発想が奇抜で、文章がその説明に終始していた。
ゆえに紙芝居的だった、という感想。「有名なわりには実際読むと肩透かし」の典型扱い、そんな作品である。

今回の映画はオリジナル色が強い。主人公は高校2年生・紺野真琴。理科準備室で偶然、タイムリープの能力を得る。
真琴がその能力を自覚したのは、ブレーキの利かない自転車で踏切に突っ込んだとき。そうして過去に戻れるようになる。
クラスメイトの間宮千昭・津田功介とは野球仲間でのんびりと過ごしていたが、ひょんなことから千昭に告白され、
対処に困った真琴は過去に戻って告白をなかったことにしてしまう。すると千昭は真琴の友人・友梨と仲良くなっていく。
自分への告白は何だったの?と思う真琴。また一方で、下級生の果穂が功介に告白しようと迫る。
3人でのんびり野球をやるぬるま湯の毎日が終わろうとしているのを悟った真琴は、果穂と功介をくっつけようとするが……。
ちなみに真琴に助言を与える役どころとして、原作のヒロインである芳山和子が登場。ホロリとさせるシーンもアリ。

序盤はまったく話に入っていくことができず、違和感をおぼえるばかり。タイムリープでの過剰なCGやら何やらで少々辟易。
絵もそんなにきれいには思えない。ガッチリ描き込まれた背景とは対照的に、キャラクターが粗い。アンバランスなのだ。
いちばん困ったのは音響で、そんなに設備の充実した映画館ではなかったので、客席とスクリーンに一体感がなかった。
これは展開が「3人のぬるま湯が続けられない、どうしよう」というありきたりなものをそのまま出してきたことによる、と思う。
この段階での僕としての評価は、「あっそー勝手にすればー」って感じでしかない、そういうごくフツーのアニメ、だった。

やがて功介が果穂を介抱して自転車に乗せるシーン、その辺りからドラマは急激に動き出す。
ピンチ、そしてその後に来る急展開。原作を知っている人ならこの辺の設定は「当然でしょう!」ということになるわけで、
そういうリスペクトを重ねながら独自の味を加えているのには好感が持てる。ただ、ここまでが少々退屈だった。

この映画で気になった点を今のタイミングで挙げておこう。最大の疑問点は、なぜアニメなのか、である。
どうしてこの話をアニメなんかにしちゃうの!?と声を大にして言いたい。もったいなさすぎる! これは実写でやるべきだった。
実写で無名でも演技力のある俳優たちを起用してつくったほうが絶対に良かった。僕の感覚ではアニメのせいで3割引だ。
また千昭役・石田卓也の演技も物足りない。千昭は外見の軽さと背負っているものの深さのアンバランスが最大の魅力。
肝心のモノローグの部分でまったく説得力のあるしゃべりができておらず、それで存分に楽しむことができなかった。
脚本もそんなに魅力的に思えなかった。テンポの良さに欠ける。映像でスピード感の必要な部分では速さは出ているが、
会話やキャラクターの心情の変化の部分でスピードというか勢いが足りないように思う。メリハリがあまりないのだ。
おかげで見ているこっちはどこに焦点が置かれているのかわかりづらく、投げられたメッセージを受け取るのに少し戸惑った。

……と、悪い部分をぜんぶ出しきったところで、最大限に褒めていく。
この映画のいいところは、「告白」というレヴェルに重きを置いている点だ。付き合う/付き合わない、は扱わない。
「自分はキミのことが好きだ」と、自分の思っていることを正直に相手に伝えること、その価値を最大にしているのが正しい。
正しいというのは手法として正しいということ。結果を描くことはしない。深入りするとドロドロして焦点がズレていくだけだから。
「告白」を「ハートの中身を相手に見せる行為」と定義することで、観客に対して健全で非常に広い間口を用意している。
そのことが、クライマックスにおける真琴の最後のジャンプがかけがえのないものであることを、全員に理解させているわけだ。
書き方が抽象的になってしまって申し訳ないが(端的に書くこともできるけど究極的なネタバレになってしまうのだ)、
告白=相手を大切に思うことの宣言、とすることで、誰が見ても共感できるようにしているってことだ。

で、正直なところ、僕は年甲斐もなくボロボロと泣いた。たかがアニメで泣かされるのは悔しいけど、でもやっぱり泣いた。
思うに、僕が中学生~高校生くらいだったら、たぶん泣けない。そういう人生だったから。
28歳なりに、多少なりともいろいろあったから泣けた、っていう気がするんだな。
この辺、僕の個人的な感情も混じってくるんだけど、真琴がタイムリープを繰り返す理由は「失いたくないこと」にある。
何を失いたくないかはそれぞれ。プリンにはじまり3人の時間、告白のチャンス、功介と果穂の命、そして大切な人の存在。
ただ失いたくないことで、真琴は過去に戻ってやり直し続ける。でもその対象はどんどん重くなる。残り回数が減るとともに。
そして取り返しのつかない喪失とともに、タイムリープの能力は消える。
だがそのときには、失うことを前向きにとらえる勇気が残っていた。
そんなわけで、僕がこの映画で不覚にも泣いてしまった理由は、高校生くらいからはっきりと(でもうっすらと)悟るようになった
「失うこと」が、どんな意味を持っているのかが克明に描かれているからだ、と僕は自分で考えている。
それでも、失うことと涙を流すことの間にはどんなつながりがあるか、まではわかっていない。でも涙はこぼれてきてしまう。

上で述べたように、粗を探せばいくらでも出てくるように思う。そしてそういう粗には目をつぶるのが粋、とは思わない。
ところがこの作品は、そういう粗さを引っくるめたうえで、なおかつガツンとくるだけの力を持っている。
ワカメは「見る人によっては佳作だったり良作だったりするだろう」「誰が見ても損はしないと豪語できる。その自信がある」と
ブログで書いているが、本当にそのとおりだと思う。十人十色で、しかしその誰もが、ガツンとやられると思う。
見ないとあなた自身が損をするよ、と僕はここに書いておこう。


2006.8.6 (Sun.)

今週の「ぶらり全部下車の旅」は、JR鶴見線の旅です。
おやおや松島さん、自転車でお出かけですか? 炎天下の中、お元気ですねえ。(ナレーション:滝口順平)

本日は川崎~鶴見の工業地帯を自転車で走ってみるのである。
JRの電車に乗って広域路線図を見るたび、川崎の南側でとぐろを巻くようにしている黄色い路線がどうしても気になる。
鉄分の少ない僕でも気になってしまう、いかにも臨海工業地帯って感じの埋立地を行く路線。それが鶴見線なのだ。
当然、実際に乗ってみる機会なんてないわけで、今回気が向いたので自転車ですべての駅をまわってみることにした。

 コレよ、コレ。

……なのだが、とりあえず鶴見線にたどり着くまでもチラッと書いておく。
環七から産業道路に出て、妙に豪華な大師橋を渡ると川崎市。神奈川県に入っても産業道路の名前は変わらない。
しかし、道の雰囲気はずいぶん変わる。東京都内では住宅や人の気配がチラホラとあったものの、
神奈川に入ると途端に工業の匂いが強くなるのだ。産業道路が境界となり、北の住宅と南の工業用地に分かれる。
道路の北側には「セメント通り」とも呼ばれる川崎のコリアンタウンがある。しかし韓国料理店がちょこちょこある程度。
一方で南側はコンクリートと無造作に木々が植えられている場所で、そこに青いビニールシートが張られている。
ものすごく異質な印象の空間だ。川崎らしい、といえば川崎らしいのだが、ここまで直接的だと、ただ驚くしかない。

産業道路を左折し、川崎港郵便局の通りから南下する。ひび割れた道路といっぱいに背を伸ばした雑草たち。
運河は深緑色に澱んでいる。うっすらと硫化物のような匂いが漂う。工業地帯である。
そこから先へ進むと、今度は巨大な建造物が目立ってくる。ペンキが塗られた何かのタンクに、
むき出しのパイプが絡みついている。それらはすべて高い塀に囲まれている。道はやたらとホコリっぽく、
周囲はグレー一色。空も心なしかくすんで見えてしまう。それにしても匂いがきつい。

  
L: 運河の向こうに見える工場。ディズニーシーの対極な風景なんだけど、なぜかテーマパークっぽく映った。
C: ガスタンクが並ぶ。『ウルトラマン』で怪獣が暴れるのはこんなところなのかな。  R: 工業!

日陰がまったくないので、走っていてフラフラしてきた。工業地帯の道はどこへ行っても工場の敷地で行き止まりになる。
手当たりしだいにウロウロしていたら、小さな商店がシャッターを閉じているのを発見。おや、と思ってその先に行くと、
ついに鶴見線の駅を発見。神奈川県の地図を持っていなかったのでかなりロスが多かったが、ようやくたどり着いた。
そんなわけでスタートである。

「ぶらり全部下車の旅 ~JR鶴見線~」

まずは鶴見線の終点である扇町駅。周囲は石油会社の精油所である。
気のせいか周辺の道路はタールっぽい汚れが積もっていて、走っていると自転車のタイヤが焦茶色になった。
この日は夏祭りの日だったようで、3人ほどおじさんが法被を着てしゃべっていた。でも、ほかに人の気配はない。
人が来る予定があるんだろうか、この人たちはどこに住んでるんだろうか、そもそもホントに祭りなのか。謎は深まるばかりだ。

  
L: 扇町駅入口。鶴見線は鶴見駅以外すべて無人駅なのである。入口から入っても券売機とSuicaの機械があるだけ。
C: 扇町駅ホームの様子。客かと思ったら運転手がベンチで休んでいた。まあ、それくらいのん気な路線。終点だし。
R: 線路を撮影してみる。右側にあるのが扇町駅のホーム。東京湾岸の埋立地の最果ては田舎とあんまり変わらない。

来た道を戻って昭和電工の工場入口前に差し掛かったところで気がついた。「駅があんじゃん」
踏切を渡るが、これがホントにボコボコ。レールの合間に木が並べられていて、線路で遊んだ幼稚園時代を思い出す。
そんなわけで昭和駅。昭和電工ということでこの名前になったのだろう。
……なんて思っていたらさっき扇町駅を出た電車が来て、踏切の警報が鳴ってめちゃくちゃ驚いた。
っていうか、鶴見線のこの辺りは工場しかないけど、休日も動いているんだ、とあらためて思う。

 
L: 昭和駅。このすぐ左側は昭和電工の工場。ホームがめちゃくちゃきついカーブで、入口から見えない。
R: ちなみに無人駅の改札はこんな感じ。Suicaの機械と切符入れが置いてある。

産業道路に戻ると西へ。しばらく進むと浜川崎駅への入口が開いている。それをくぐるとすぐに浜川崎駅。
しかしなんと、浜川崎駅は道路の両側に改札があるのだ。こんな駅初めて見た。
まあそれも当然で、浜川崎駅は南武線(支線)と鶴見線の両方が通っている。道路の北側にあるのが南武線の改札で、
南側にあるのが鶴見線の改札。南武線改札がわりと駅っぽい外観をしているのに対して鶴見線側はスカスカで、
歩道橋に屋根と入口をくっつけた程度、という印象がする。まあいかにも鶴見線らしい、ということなんだろう。
駅の周辺には商店が1軒あったけど閉まっていた。あとは無造作な緑だけ。

  
L: こちらは南武線(支線)の浜川崎駅。  C: こちらは鶴見線の浜川崎駅。南武線から徒歩15秒。
R: 鶴見線浜川崎駅ホームを眺める。やっぱり田舎の駅って感じ。妙に親近感が湧く。

さらに西へ進むが、なんだかんだで産業道路に戻る。そこから次の武蔵白石駅を目指すが、工事中という看板が。
でも交通整理をしているおっちゃんが「自転車は大丈夫ですよ」と言ってくれたので突き進む。
浜川崎駅周辺はまだまだ工場のはずれ、という印象が強かったが、武蔵白石駅の周辺は住宅地になってきている。
マンション、公園を通ってしばらく行くと、それでもやっぱり工場の向かいに駅はあった。
駐輪してある自転車が、地元住民が仕事以外でも利用していることを物語っているように思えた。ちなみに「白石」は、
JFEスチール(日本鋼管)創業者の白石元次郎が由来。確かにこの辺はJFEスチールの工場がやたら多い。

 武蔵白石駅。鶴見線でホームに利用客が複数いるのを見たのはここが初めて。

工事中なので公園の敷地を突っ切って次の安善駅を目指すことに。
寛政町という地名のこの辺りは、埋立地とは思えないほど落ち着いている印象の下町で、住宅ばかり。
ふと油断すると、中原街道と第二京浜に挟まれた辺りの品川区の街を走っている気にならなくもない。
でも北の産業道路と南の工場を目にすると、ああここは川崎だった、と現実に引き戻される。

さて安善駅。安善とは安田財閥の創業者・安田善次郎のこと。鶴見線の前身である鶴見臨港鉄道を創設したそうな。
この駅は貨物の拠点にもなっているようで、ちょっと立派。踏切を渡って駅舎の裏を見ると、その広さにちょっと驚く。

  
L: 安善駅を正面から撮影。ここも住宅が多めなので自転車が目立つ。  C: 角度を変えて撮影してみた。
R: 駅舎の裏はこんな感じ。貨物列車が数台止まって出番を待っていた。さすがは工業地帯。

お次は安善駅から分岐している大川駅を目指そうと思い、安善駅からそのまま南下する。
しかし線路沿いに走っていくものの、一向に駅の気配がない。それでも線路があるから何かあるはず、と進んでいく。
道は広くてまっすぐ、まるで北海道みたいなのかもしれん、と思うが、両手に広がる光景は全然違う。
工場とあとはアメリカ海軍の燃料保管地。それだけである。というか、この辺りに米軍がいるとは知らなんだ。

  
L: ウォーターワールド。  C: ♪何もないな、誰もいなーいなー、快適なスピードでぇー
R: 京浜運河。これにて行き止まり。隣の工場から人が出てきて「敷地は撮らないでください」と声をかけられる。人がいたことにびっくり。

けっきょく大川駅はなかった。ここで初めて、神奈川県の地図を買って持ってこなかったことを後悔する。
やはり地図なしで埋立地の工場地帯を走るというのは無謀なのである。案内板などどこにも出ていないのだから。
それでも面白いものを発見。JRの路線図には載っていなかった「浜安善駅」 である。
後で調べてわかったのだが、これは1986年までは利用されていたが、現在は廃駅となったらしい。
この最果て感もなんとなく北海道なのだが、それは僕が北海道に行ったことがないからそう思うだけなのだろう。

  
L: 浜安善駅舎。放置されていてボロボロである。  C: 廃線となった線路。スタンドバイミー的風景(見たことないけど)。
R: 線路の終わりって印。大学時代に国分寺駅(西武多摩湖線)で見て以来な気がする。駅舎のせいで墓標に見えた。

しょうがないので来た道を戻る。で、気がついた。埋立地は海に向かって軽く上り坂になっているのである。
だから行きでは地味に体力を削り取られるのだが、帰りはらくちん。本当に行きの3倍くらいのスピードが出る。

さて、安善駅に戻ってきてから再び西へと進路をとる。しょうがないので大川駅は行方不明、ってことにしておくのだ。
次に向かうのは浅野駅。やはり大規模な工場と小さな住宅が混在している中を走る。
やたらと釣り船が浮かんでいるところを橋で渡ると、入船公園というけっこうきれいな公園がある。そのすぐ南が浅野駅。
浅野駅は安善駅に向かうホームと新芝浦駅・海芝浦駅に向かうホームが45°の角度をつくっており、ちょっと広い印象。
やはりこの駅も人名が由来で、浅野財閥の創設者・浅野総一郎からきているとのこと。

 浅野駅。入船公園が休日で繁盛しているせいか、乗降客はそこそこ。

ここで再び海へと南下。新芝浦駅と海芝浦駅を目指すのである。鶴見線は分岐が多いので、こっちも寄り道が多くなる。
大して変わり映えのしない同じような工場地帯をあちこち走りまわるのは、精神的にもなかなかキツいのである。
運河沿いに線路はまっすぐ南下し、道路もそれにきっちり並行(平行)して走る。
そしてここから先は東芝の敷地です――というところで、新芝浦駅。それで川崎なのに「芝浦」なのか、と納得。

で、駅舎を撮影していて気がついた。こっから先が東芝の関係者以外立入禁止ってことは、海芝浦駅に行けない!
そんなわけで全駅制覇は不可能ということが判明。仕方なく線路の写真を撮ってガマンする。
海芝浦駅は駅舎から出られないが東芝が公園をつくってくれているらしいので、いずれヒマなときに電車で行ってみます。

 
L: 新芝浦駅。東芝関係者以外が来られるのは、残念ながらここまで。
R: 新芝浦駅から海芝浦駅へと向かう線路を撮る。この先に何があるのかめちゃくちゃ気になるんですけど。

残念な気持ちを残しつつ、来た道を戻って浅野駅に到着。草野球で盛り上がる入船公園を抜けて、
鶴見線の線路の方向に走る。するともういくつ目なのかわからないJFEスチールの工場の隣に、弁天橋駅を発見。
弁天橋駅は工場に囲まれているわりには一般の客が多く、ここまでで最も乗降客が多いように見受けられた。

 弁天橋駅。周囲はJFEスチールと旭硝子が固めている。でも客が多い。不思議。

さて、産業道路と鶴見線が並行して走っているのもここまで。ここから先、鶴見線は一気に北上するのだ。
それに合わせて産業道路を渡ってから住宅地を縫うように走っていくと、いきなりポン、と鶴見小野駅に到着。
鶴見小野駅は上りと下りで駅舎がふたつある。そういう駅は東急にもあって珍しくないのだが、鶴見線では唯一だ。
東口(扇町・大川・海芝浦方面)は商店街になっていて、鶴見工業高校のグラウンドから野球部の声が聞こえてくる。
ちなみに駅名は地元の大地主だった小野さんからついたそうな。鶴見線はそんなんばっかりだ。

  
L: 鶴見方面(上り)の駅舎。  C: いろいろ方面(下り)の駅舎。  R: 踏切からホームを撮影してみる。

ここまで来ると、鶴見線もだいぶ最初のころと印象が異なってくる。
周囲は完全に住宅街で、工業の「こ」の字もない(工業高校はあるけど)。またそれだけに、道も少し迷いやすくなる。
鶴見線が鶴見川に架かる橋を渡っていくのを見る。こちらは臨港鶴見橋まで出て、それから川を渡る(本日1回目)。

 右岸には法被姿の人たちが固まっていた。今日は夏祭りがあちこちであるようだ。

橋を渡ると国道15号、いわゆる第一京浜に出る。見慣れた風景にほっと安心をする。
それからちょっと行ったところで、JRの「国道駅」という看板を見つける。これも鶴見線の駅である。が、雰囲気が異質だ。
駅、という感じではない。古びた大学の校舎、あるいはもっと違う、何か別の……。ちょっと言葉にならない。
入口はまるで洞窟のようで、中に入るとそれがタイムトンネルのように思える。昭和初期、それくらいの印象だ。
とにかく暗い。入ってすぐに券売機があるが、そのすぐ向かいは飲み屋になっている(さすがに休日の昼間は閉まっていた)。
奥には人が住んでいて、扉を開いておじいちゃんが外の様子を覗いていた。貸しボートの事務所もあった。
この日は祭りだったので、ガードを抜けた先には神輿があり、子どもが大勢いて華やかな感じがした。
ふだんを想像してみるが、とにかくこの異質さが信じられない。鶴見川の川沿いという土地柄だからにせよ、信じがたい。

  
L: 国道駅入口。数ある日本の駅でも、ここの雰囲気は本当に独特。大戦中に米軍機から受けた機銃掃射の跡があるという。
C: ガード下の様子。デジカメが自動調整してしまっているので明るく見えるが、実際はもっと暗い。
R: 本来の雰囲気に近づけてみた。これでもまだクッキリハッキリしている印象。まあ体験するには現場に行くしかないでしょう。

あとはゴールである鶴見駅を目指すのみである。やけにガタガタのブロックが敷かれた商店街を行く。
途中でコンビニを見かけて、「そういや大川駅ってどこだったんだろ」と思い、中に入って地図を立ち読み。そしてびっくり。
僕はJRの路線図を見て、大川駅行きは安善駅から分岐していたので、安善駅の周辺から南下すればいいと思っていた。
しかし実際にはそうではなく、ひとつ東の武蔵白石駅の隣を走る道を南下しないといけなかったのだ。
これも地図を買わずに頭の中にある路線図だけで走っていたことが原因。後悔先に立たず、である。
それでも行くルートがわかってしまえば現金なもので、結局ここでも地図を買わずに鶴見駅を目指すのであった。

 鶴見駅。京浜東北線らしいサイズ。ほかの鶴見線と落差ありすぎ。

午後2時である。遅い昼メシをかき込むと、今度こそ大川駅を目指すのである。
まっすぐに産業道路を目指す。途中、さすがに鶴見区だけあって沖縄料理店が非常に多い。
いっぺんきちんと食ってみないといかんなーと思いつつ産業道路に出て、来た道を戻る。
途中で鶴見川を渡ったが、これが本日2回目。橋の上で、なんだかエネルギーのムダ使いをしている気分になってしまった。

武蔵白石駅付近の工事現場では、さっき来た自転車のヘンなヤツがまた来た、なんて感じに見られていそうで、
ちょっと恥ずかしい。でもそんなことを気にしていては鶴見線ぶらり全部下車の旅ができないのである。突撃あるのみ。
道を南下してしばらくすると、案の定、周囲は工場だらけ。日清製粉の工場へ向かう矢印が出ていたのでそっちに行くと、
途中にあったのが大川駅。安善から出ている線路はここが終点ということで、やっぱりここも最果て感が満載である。
ちょうどJRの人が車で集金に来ていて、ジャラジャラと小銭の音がしていた。こんな最果てでもけっこうもうかってまんな。

  
L: 大川駅。大川とは大川栄策のことではなく、製紙王と呼ばれた大川平三郎から。タンスはかつぎません。
C: 駅舎の横に通路があって、そこから線路に出られる。武蔵白石方面を撮ってみた。
R: こちらは反対側。客車はここで終点だが、貨物で使うらしく線路は延びている。奥にあるのは日清製粉の工場。

というわけで、これにて無事にぶらり全部下車の旅はおしまい。海芝浦についてはまたいずれ、ということで勘弁。

さて鶴見まで来ちゃったら、当然横浜にも行かなければならないのである。気分的に、もったいなく思えるのだ。
前に横浜に行ったときには、横浜という街についてずいぶんと褒めたもんだけど(→2006.5.21)、
今日はthe other side of Yokohamaというか、「横浜が大阪に似ている」もうひとつの理由である部分を見るのだ。

国道15号に戻る。また鶴見川を渡る。本日3回目。もういいかげん、渡り飽きた。でもそうしないと横浜には着かない。
それから子安だの東神奈川だのを抜けて横浜駅へ。しかしここは素通り。みなとみらいも素通り。
そのままさらに行って桜木町も素通り。関内も通過して石川町に至る前でストップ。

横浜スタジアムのわりとすぐ南にある地域、寿町をぐるぐるとまわる。
ここは東京の山谷、大阪のあいりん(→2006.4.9)とともに、「日本三大ドヤ街」に数えられる街である。
周囲はごくふつうに横浜らしいのだが、この中に入ると確かに雰囲気が変わる。道路に落ちているゴミの量がまず違う。
大学院では社会が空間をつくり空間が社会をつくる、ということをさんざん議論してきたわけだが、
そういう理屈がすぐにぺしゃんこになり、またゆっくりと膨らんでくる、そういう街並みは大阪と変わらない。
おじいちゃんやおじさんがきつい日差しを避けるように休んでいる。あいりんよりは韓国料理の店が目立つ。
高齢化の進行とともに街の勢いが弱まっている、そんな印象をはっきり受ける。ではこの先、この街はどんな姿になるのか。
都市社会学を勉強していたくせに、それがうまく想像できないのが悲しい。ここの風景はどこまでもリアルなのだ。

で、今度は北西に進路をとって、伊勢佐木長者町を突っ切る。突っ切った先は福富町。いわゆる歓楽街。
ビルの前には「入浴料」と書かれたプレートが貼ってあり、蝶ネクタイのおじさんがただ立っている。
ここもまた、韓国料理店がやたらと多い。中華街は完全にブランドイメージとして定着しているのにこの差はなんだ、と思う。
そして寿町と福富町に挟まれながら、健全な地元密着型商店街になっている伊勢佐木町の存在が奇跡に思える。
本当に、横浜にはすべてが詰まっているように思うのである。この街には想像を超える何かがあるのだろう、きっと。

横浜駅前に戻ってヨドバシカメラへ。例のごとくガチャガチャコーナーにフラフラと吸い寄せられる。
「セサミー、エルモー」などと心の中で叫びつつ並んでいるガチャガチャを見てまわるものの、どこにもない。
どうやら別のものと入れ替えられてしまったらしい。心底がっくり。来た意味ないじゃん、と思う。
結局、何もやることがなくなって、さっさと国道1号で帰るのであった。
鶴見川を渡るのは本日4回目。2往復と書くとなんともないようだが、4回目となるとさすがに……もういいよ、って感じ。
まあ多摩川で見た夕日がけっこうきれいだったから、ヨシとしようか。


2006.8.5 (Sat.)

circo氏が上京してきて、潤平と3人で昼メシを食う。メシ屋については潤平が詳しいということで完全にお任せモード。
それで以前に来たことがあるという、大岡山商店街の奥にある韓国家庭料理の店に入る。
2階の座敷がいいんだよ、なんて言うもんだから、わざわざ上がらせてもらう。ちょっと広めの畳の感触が心地よい。
メニューを見るに、純粋な韓国料理というよりは、丼物などのアレンジが目立っている。それぞれ気になった丼を注文。
潤平はこれから仕事ってことで飲まなかったが、僕とcirco氏は酒も頼む。僕はマッコリを混ぜた「バクダンビール」にしてみる。
しばらく話をしていると、酒とお通しが到着。飲んでみたらとてもマイルドな口当たり。でも喉越しはビール。うまいブレンドだ。
そして丼もいただく。腹が減っているので何も考えずにガツガツ食っていたのだが、ふと気がついた。
韓国では器を持ち上げて食べてはいけないのである。潤平によると、これはかなりのマナー違反に当たるのだという。
そうだった、と思い直して器をテーブルに置く。なるほどそりゃ確かに箸よりもスプーンのほうが発達するよなあ、なんて思う。
しかし左手に茶碗を持つ生活に慣れているため、どうにも食べづらい。circo氏は気にせず丼を持ち上げて食べていた。

さて、circo氏は最終である夜9時のバスを予約しているという。それまで何も予定がない。
予定がないのは僕も一緒なので、じゃあどっか行きますか、ということになる。毎度のことである。
僕は前に自転車で国道14号を走って(→2005.11.3)、亀戸駅近くのアウトレットモールっぽい施設が気になっていたので、
行ってみませんかね、と提案してみた。「いいら、行くかな」ということで電車に乗り込む。

秋葉原で京浜東北線から総武線に乗り換えると、いきなり浴衣姿の女の子が目立つようになる。
どこでどんな祭りがあるのか全然わからないのだが、これだけの数が浴衣になっているというのはタダゴトではない。
何なんずら、と思いつつ満員電車に揺られていると、英語での会話が耳に入った。ちらっと見てみると、
どっからどう見ても日本人の顔立ちをした浴衣の女の子3人が、英語で話をしているのである。状況が理解できない。
1. 日系人の子が留学で来た、2. TOEIC対策の自主トレ、3. 「タモリ・たけし・さんまのビッグ3ゴルフ」の
英語禁止ホールの逆パターン、などといろいろ考えてみるのだが、どうにもよくわからない。
世の中わからないことだらけだ、と思っているうちに亀戸に到着。

亀戸駅で軽く迷ってから国道14号に出て、例の施設へと向かう。正式名は「サンストリート亀戸」だった。
けっこう期待して中に入ったのだが、あちこち歩きまわってみて「なんじゃこりゃ」と呆れる。
もっとアウトレット的なものを想像していたのに、全然違う。いかにも江東区らしい感じの、いかにも下町感覚全開の、
ディスカウントストアがそれぞれ気ままに営業している感じ。所変われば品変わるとはいうものの、
ここまで江東区・下町テイストだったのには思わず閉口。circo氏は「まあこんなもんでしょ」。

それでも少しも立ち止まることなく、すべての店をくまなく見てまわる。と、意外な文字が目に飛び込んできた。
そこにはこうあったのだ。――「長野県飯田市」。こんなところでそんなものに出くわすとはびっくり。
飯田の何があるんだ、と思ってよく見てさらにびっくり。そこには「貧乏神神社」という文字が続いていたのだ。
思わず「なんじゃこりゃあ!」と叫んでしまったら、circo氏が「あれ? 知らないの?」と言う。そんなの初めて聞いた。
なんでも旭が丘中学校から少し行ったところにその神社はあり、妙なおっさんが神主で、豆を的にぶつけて厄を祓うそうだ。
けっこう有名になっているらしい。で、サンストリート亀戸ではその神社の初の分社ってことで、それなりに目玉みたいだ。
地元のそんな怪しいものをわざわざ花の東京にまで持ってきて恥さらしせんでも……と思う。困ったものだ。

サンストリート亀戸は、正直まったく見るところがなく、あっさりそのまま総武線で新宿へ。
新宿でも特にやることがなく、ディスクユニオンでジャズのCDを見たり、高島屋でIVYのシャツやジャケットを眺めたり。
これはcirco氏の趣味が全開で、父親の趣味をきちんと知るというのも、考えてみれば貴重な機会だと思うのであった。

メシを食わねばってことで、駅ビルの蕎麦屋に入って酒を飲みつつ蕎麦を手繰る(←この表現が使いたかったのね)。
これがなかなかのヒットで、山葵を自分で擦るスタイルが非常によろしかった。やはり本物の山葵の風味はたまらない。
日本酒も蕎麦と一緒だとまったく酔わないで飲める。のん気に飲んだり食べたりして過ごした。
僕らの隣では小説を書いているとおぼしきおっさんが若手を連れて、何やら熱く語っていた。
「こないだ『すばる』に書いたのは……」なーんて具合。正直おっさんの話の内容は大したことがなかったが、
話を聞く若手の姿勢がなかなか鋭い感じで、彼の書いたものはちょっと読んでみたいと思った。

まあそんな感じで生山葵の蕎麦と日本酒っていいですな、と言いつつ解散。乙なもんでした。


2006.8.4 (Fri.)

占いというものが苦手だ。昔っからそうで、どうしても結果を覚えることができないのだ。
テレビにしても雑誌にしても、画面や誌面から目を離した瞬間、さっきまで見ていたその内容を完全に忘れてしまうのだ。
神社に行くたびに引いているおみくじもそうで、何をどうすれば運勢が良くなるのか、何をしては良くないのか、
おみくじをたたんだ瞬間にはすっぱり忘れてしまっている。自分でも呆れるくらい、きれいさっぱり記憶から消えてしまうのだ。
辛うじて覚えているのは「運勢は良かったような気がする」「悪かったような気がする」という程度。細部が覚えられない。
「オレは占いなんぞを信じない。信じるのは自分だけだ」なんてことを言えればかっこいいのかもしれないが、
実際には情報が入った先から忘れてしまう、この手の短期記憶がすこぶる苦手な人、というだけのことなのだ。

それでもここ最近は、朝起きて決まった時間に家を出て決まった時間の電車に乗る生活をしているわけで、
毎朝『めざましテレビ』の占いを見るのが日課になってしまっている。まあ毎日低調だし、景気づけに見ているのである。
他局では金運だの恋愛運だのが☆いくつ、みたいな形で出てくるのもあって、そんなの覚えきれねーよ、と思ってしまうが、
(まず細かく運をジャンル分けすることで覚えられなくなる。そこに☆の数がそれぞれ違ってくることでもうアウトになる。)
『めざましテレビ』にはそういう細かいものがない。てんびん座の順位をチェックして景気づけとすればいいので、気楽なのだ。
(それでもその順位すら覚えられないことがけっこう多くて、上中下というアバウトなカテゴライズで把握することがしばしば。)

それはそうとしてひとつ、気になるというか申し訳ないというか、そういうことがある。てんびん座だけ毎朝必ず、
高島彩だか中野美奈子だか(←女子アナに興味がないので区別がイマイチつかんのだ)が読み上げてくれることだ。
どうもメインキャスターの大塚さんがてんびん座らしく、そのせいで特別扱いをしているものと思われる。
おかげで毎朝、海外の事故のニュースで「日本人の安否は……」というフレーズを聞くときのあの感じ、
信濃毎日新聞のスポーツ欄でマリノスの田中隼磨の名前に必ず「(松本市出身)」とくっついているのを見るあの感じ、
そんなよけいなお世話な感じをどうしても味わってしまう。同じてんびん座として、なんとか公平にやってほしいと思うのだ。
とりあえず今は大塚さんが夏休みなので、てんびん座は特別扱いされないで済んでいる。いつもこれでいいのに。

話題がズレた。とにかく、運勢はつねに変化していると思っているせいか、占いというものをどうしても覚えられない。
これって実際には悪いことでもなんでもないだろうけど、日常を楽しむポイントを見逃しているような気がして、
ちょっと残念に思っているしだい。


2006.8.3 (Thu.)

金原ひとみ『蛇にピアス』。綿矢りさ(→2006.3.10)と一緒に芥川賞で話題になったアレ。

まず最初からピアッシングで、読んでいて「痛い痛い」という感覚になる。痛いのは苦手なのだ。
だがそれも作者にとっては計算のうちってことだろう。そういう意味では上手い導入ではあると思う。
主な登場人物はたった3人。ヒロインのルイにその相手・アマ、そして彫り師のシバさん。
ピアスにタトゥーといった身体改造と今どきの恋愛(なのかよくわからんけど)を組み合わせて話は進んでいく。

まあこれは面白い面白くないという部類の話ではないので、感想としては「へえ」どまり。
自分にとっては別世界のできごとなので、あんまりリアリティを感じることができないわけだけど、
その辺は文学だからってことで割り切って読んだ。それだけ。
正直言ってこの作品にどれだけの文学的な価値があるのかはよくわからない。
あると言われればあるんだろうし、そんなもんねえよと言われればそうかもしれない、そんな感じだ。

特徴としては、ものすごく一人称の文章だなあってことか。
ヒロインのいるシーンだけが描かれて、ほかの人物や空間は、すべてヒロインとの関係において語られる。
そういう視野の狭さというかはっきりとした中心を持っているということが、
ピアスやタトゥーという身体改造をモチーフにしたとき、極めてうまく効いているのは確かだと思う。
つまり、この小説で絶対的な存在はヒロインの身体のみっていう状況がつくられていて、
その身体に穴が開いたり絵が描かれたりすることで、読者に高い効率(少ないロス)でショックを与えているということ。
もっとも、そのことを作者自身がどれだけ自覚して書いたのかは定かではないが。

今回はうまくいっただろうけど、この芸風を続けてしまってはつまんないわけで、
作者はなかなかに難しい状況に立っちゃったなあ、と他人事で思うのであった。


2006.8.2 (Wed.)

ジイサンが亡くなった。ジイサンといっても本物のおじいちゃんのことではない。「松沢ジジイ」と呼ばれた男のことだ。
高校時代に僕は物理班とクイズ研究愛好会というところで暴れていたわけだが、ジジイはその両方で僕の後輩だった。
この男、高校生であるにもかかわらず、どうにも若さが足りなかった。本人曰く、「“老獪”と言ってくださいよ」
なーんて感じで、扇子をひらひら、少しも気にしちゃいない。まあそれも個性ということで、僕らは面白がっていたわけだ。

物理班のOB会は何年か前にちょこちょこと開催されて、そのときにはごくふつうに顔を合わせていた(→2002.4.28)。
でもみんな就職していくにつれてなかなかスケジュールの調整がつかなかったりいろいろで、最近はそういう機会がなかった。
そして今年の4月、まる氏が結婚したことで、その二次会で本当に久しぶりに顔を合わせたのである(→2006.4.16)。
驚いた。それなりに歳をとって貫禄が出だした人、気持ち悪いくらい全然変わってない人、まあ半々ぐらいだったんだけど、
ジイサンは恐ろしいほどに貫禄たっぷりになっていたのだ。まさに、40代半ばのIT関連企業経営者(独身)って感じだった。
まあもともと若さを感じさせない男だったが、さすがにこれには驚いた。トシユキ氏やバヒ氏と「うわー」なんてうなっていた。

あれこれ考え出すとキリがない。そしてジイサンが亡くなったという圧倒的な事実がそこにはあって、
所詮どんなに考えてみたところで、その事実を少しでも揺るがすようなことは不可能だ。
つまり、考えるだけ無意味な現実しか存在しないのだ。しかし、それでも考えることは止まらない。

高校時代に同じクラスだった女の子が別の高校に移って、大学に入学した後、病気で亡くなってしまったことがあった。
夏休みの同級会、昼間に僕らは担任と一緒に飯田線に揺られてその子の家を訪れた。そうしてご家族と話をした。
夜に飯田に戻り、居酒屋で飲んだ。めちゃくちゃに盛り上がって家に帰ってからも笑いが止まらないくらい楽しい時間だった。
奇跡的に人がいっぱい集まって奇跡的に楽しかった。すごく勝手で申し訳ない考え方だけど、そこに僕はどうしても、
亡くなった女の子が何かをくれたような、そういうものを感じてしまう。

ジイサンが亡くなった、それは僕にとって初めて、直接の後輩が亡くなったという経験だ。
同級生は同い歳だからまだわかるというか、理不尽とはいえどこかほんの少しだけ納得がいくというか、そういうところがある。
でも、自分より年下の人間が先にいなくなったことは、それとは別の種類のショック、怒りに近い感情が確かにあった。
僕はトシユキ氏からの電話でこのことを知ったのだが、話している間ずっと、「なんとかならんかったのか」と繰り返していた。

まあふだんはいろいろイジっているわけだけど、正直なことを書いておくと、まる氏があのタイミングで結婚してくれてよかった、
と思っている。縁が縁を連れてくるというか、まる氏の縁がなかったら、僕らはジイサンの最近の姿を知る機会を
永遠に失っていただろうから。ずっと会えないままで彼の存在のリアリティが薄れてしまったところでそういう話を聞くのと、
きちんと会って彼の存在を確かめてからそういう話を聞くのとでは、やはり受け止め方が違ってくる。
そういう意味では僕らはきちんとつながっていたんだな、と確認することができて、
うまく言えないけどまる氏にはとにかく感謝したいのだ。

今、僕の手元には、高校時代にジイサンと一緒になって写った写真がある。
僕はバーコードハゲのカツラをかぶり、ジイサンはサルの着ぐるみ+マッドサイエンティストの白髪カツラで扇子を持っている。
もう二度と、以前のような感触でこの写真を眺められなくなるのが悔しい。
写真を見るたび、別のことを考えざるをえなくなってしまうのが悔しい。


2006.8.1 (Tue.)

R.ハインライン『銀河市民』。
ハインラインは『夏への扉』(→2005.12.5)があまりに良かったので、多大なる期待をして読みはじめる。

場面はいきなり、惑星サーゴンの奴隷売り場で始まる。主人公はそこで売りに出されていた少年・ソービー。
買い手のつかない彼をわずか9ミニムで引き取ったのは、片足・片目が不自由な乞食のバスリムだった。
バスリムはソービーに自分のことを「父ちゃん」と呼ばせる。 そしてゆっくりと、知性を持った一人前の人間へと育てていく。
やがてただの乞食ではないバスリムの行動に焦点は移るが、突然、バスリムは捕まり、ソービーも追われる立場となる。
命からがら逃げ出すと、バスリムを恩人とする宇宙船シス号の船長・クラウスに保護されて宇宙へと飛び出す。
ソービーは船長の養子となって、一族の生活やルールを覚えていく。そうしてまた一歩、自立した人間へと近づいていく。
そんな具合に、彼の出自をめぐる謎を追いかけながら、少年が成長していく様子を克明に描いていった作品。

結論から言ってしまうと、あんまり面白くなかったのである。
この作品の最大のテーマは当然、ソービーの成長だ。しかしそのバックグラウンドに用意しているものがあまりに大きい。
バスリムが打倒しようとしていた奴隷制度、独自の生活文化を形成してたくましく生きていく宇宙船の一族、
報われない切ない恋、バスリムの意志を継ぎ正義を貫こうとする宇宙軍、それらのひとつひとつがメインのテーマとなりうる。
しかしソービーの成長を最優先にして、すべてを犠牲にしてしまう。つまり、上記のすべてをただの通過点としてしまうのだ。
だから読んでいて一期一会の印象がすごく強い。広い宇宙を舞台にしているのだからそれは真実に近いのだろうけど、
魅力的なキャラクターが次から次へと「使い捨て」されていく感じがしてしまうのだ。読んでいて、とてももったいなく思える。
長編シリーズの第一作としてはいいだろうけど、続編が存在せずここで終わられてしまっては、ものすごく中途半端なのだ。
そういう「語られなかったほうのドラマ」を僕は想像してしまうわけで、その分だけ残念な気持ちが強くなるのである。

圧倒的な主人公(ある意味では完全に一人称である)、ただ彼の成長のためだけに流れていく世界。
それはむしろ少女マンガ的な要素なのだが、内容は完全に少年向けなのである。男が書いた、男の子向けの話だ。


diary 2006.7.

diary 2006

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