いよいよ文化祭当日である。午前中は文化系部活の発表。
発表の間、僕はプロジェクターの手伝いをしたりデジカメでステージを撮ったりして過ごした。
美術部のアニメーションは無事に完成したのであった。正直、なかなか面白かった。実は昨日の夜、寝ている間にかなり熱が出て、夜中に5回ほど起きた。
体温を測るのが面倒くさかったのでそのまま寝たのだが、まあ確実に38.5~39℃くらいの熱さだった。
起きても体が妙に重いので、まさかなあと思いつつ出勤。念のため、学校ではずっとマスクをつけて過ごす。
で、昼休みになって弁当型の給食をいただくと、体の重さが抜けないので体温を測らせてもらった。
出てきた結果が37.8℃。そのまま自宅へと強制送還させられるのであった。
生徒たちの合唱をじっくりと聴きたかったのだが、昨夜のこともあるししょうがないかと納得して帰宅。帰宅すると、ネットで調べて土曜の午後もやっている医者に診てもらうことにする。
受付でインフルエンザかもと言ったら、後で電話で呼び出すからそれまで自宅で待機しろと指示が出た。
電話がかかってきたのが夕方になってから。行くと、2階の別室で待っているように言われる。
どうやらふだんならプライベートな部屋も、インフルエンザ診療用の隔離診察室として使われているようだ。
僕が行くように言われたのは院長室で、そこには先生の蔵書がびっしり。
他人の本棚を眺めるのは面白い。先生はなかなか多趣味な人のようで、なかなかやるなあと思っていたら、
中に開成高校の卒業アルバムがあって「ひゃー」ってなったよ。さてしばらく待っていたら先生が登場。問診されるが、咳もなく食欲もあり、発熱・発汗以外はいつもどおり。
鼻にやわらか綿棒みたいなのを突っ込む検査でインフルエンザかどうかを判定する。これが苦しい。
10分くらい経ってから出てきた結果は「やっぱりインフル」ということで、タミフルを出してもらうのであった。土曜日ということでほとんどの病院は午前中のみの診察となっているが、
表向きの診療時間が終わってもこうやってインフル疑惑の患者の診察を延々と続けているとしたら大変だ。
感染が広がらないように気をつかわなくちゃいけないし、おまけに子どもは泣き叫ぶ(隣の部屋が凄かった)。
あらためて医者の大変さってのを実感した。伊達にいい家に住んでいるわけじゃないんだなあ。
文化祭前日ということでゲネプロなのである。まずは午後に行われる合唱コンクールの通し練習をして、
放課後になってから午前に行われる文化系部活動の発表の練習をやる。合唱では実際に1分半だけ声を出して練習したのだが、上級生の歌はちゃんとしていてうらやましい。
でもまだ迫力不足かな、という印象もする。歌はきちんと歌えて当然という校風にもまれて育ったので、
その辺の評価は辛いのである。それにしても1年生の歌のレベルの低さには泣けてくる。文化系部活の発表練習では、実際に生徒たちと大道具の動かし方を確認しながら参加。
美術部のアニメーションは今も必死で制作中ということで、間に合うか心配しつつ確認作業を進めていく。
吹奏楽部の演奏では体が動いてしょうがなかった。オレにドラムスをたたかせろー!と血が騒いだ。明日の本番に向けて、ギリギリまで練習や作業は続いた。活気があってよいなあと思う。
がむしゃらに本番に向かって突っ走ることのできる立場が、ちょっと……いや、けっこううらやましかった。
文化祭前ということで、授業の時間がいつもより5分短い短縮授業になっている。
これっていかがなものかと思う。自分の中学時代の記憶はあやふやなので何とも言えない部分もあるが、
塾講師で時間を厳守していた経験からすると、5分の短縮とはいえ非常に気分がよくない。
そもそも、デキの悪いやつは動きが鈍い。指示を出してもノロノロノロノロ、よけいな時間がかかって困る。
そういうノロノロが積み重なると、5分なんて時間はあっという間だ。5分の差の大きさを実感させられている。授業を大切にしなくて何が学校だ、と思う。そして5分の質にこだわることが、授業を大切にすることだと思う。
元気に部活をやってりゃいいんだ、という雰囲気がなんとなくあって、それが非常に腹立たしい。
世界初のフルデジタルアニメ『青の6号』。村田蓮爾のキャラクターデザインが話題になったりしたっけか。
原作は小澤さとるが1967年に連載していたマンガ。それを大胆にアレンジして映像作品化したわけだ。東西冷戦下では潜水艦同士の戦いというのはリアリティを持った設定として成り立っていた。
現在では軍事面での焦点はテロと国家の戦いに移っており、潜水艦が表立って戦う感じはやや弱まった。
潜水艦同士で戦うためには、相手も潜水艦を持っていないといけない。潜水艦を持つには、まず海が必要だ。
領海を持たなければ潜水艦は泳げない。そしてそれを維持する財政も必要になる。制御する知性も必要になる。
こういった前提を考えると、かなり規模の大きいテロ組織を想定しないと潜水艦ものは成り立たないのだ。さてこの『青の6号』では、天才・ゾーンダイク博士がミュータントを生み出して人類を絶滅寸前に追い込む、
という設定を用意している。6号と戦う敵は、正確には潜水艦というよりミュータントの生物兵器である。
上記のような潜水艦ものの難しさをふまえた上での設定なのかはわからないが、とにかくそうなっている。
おかげでストーリーの焦点は完全に潜水艦からはズレてしまった。迫力あるシーンは抑えめになってしまい、
その分だけ人類とミュータントの共存だとかそっちの方に話が引きずられていってしまっているのだ。
「もはや同じ人類と戦う時代じゃない」→「知性を持ったミュータントと戦う」という構図でスタートしたのが、
「知性を持っている以上、あんまりいじめるのもよくないよな」→「じゃあ人類と共存できるの?」ということで、
潜水艦を操れるほどの知性を持っている敵を用意したため、当然の論理的帰結に巻き込まれているのである。単なるバトルものではつまらない。敵に戦う理由がないといけない。それは切ない理由であるほどよい。
そういう時代なのである。この点についての考察が中途半端に足りなかったために、
何をしたいのかわからない内容の話になってしまった。原作をわざわざいじった甲斐がまったくない。
台風20号が日本列島の東側を通り抜けていったおかげで今日は非常にいい天気だ。
雨が風がギャー!ということがないままで台風一過というのは、今ひとつピンとこない。でも快晴だ。
1週間ほど前(→2009.10.19)には夕焼け空を背景に影をつくる富士山の写真を撮影したが、
今日は朝から太陽の光を存分に浴びた富士山がものすごく美しい。
備品のデジカメじゃダメだと思って今回は撮影しなかったが、本当に美しかった。あまりに富士山がきれいだったので、1時間目の授業が始まってすぐ、
「おいお前ら富士山見ろや!」と生徒たちを廊下に出す。「ホントだ!」と歓声があがる。
2~3分ほどそうしたところで教室に戻る。たまにはそういう日があってもいいんじゃないでしょうか。
寒い。急に寒くなりやがった。
10月下旬なんだからそんなものかもしれないが、フォークボール並みの落差で急にカクッと寒くなった。
当方、寒くなると急激に動きが鈍くなるので、いよいよ困った季節になったなあ、という感じである。
寒さによるタイムロスを計算に入れた生活をしなくちゃいけないなあとしみじみ思うのであった。
偶然、なんとなく眠る気になれなくて、ナイジェリアでやっているサッカー・U-17W杯の試合を見た。
日本は「プラチナ世代」なんて言われているが、相手は天下のブラジル。どこまで耐えられるものなのか。
そう思っていたら、けっこうやれている。甲府ユースの期待の星・堀米を中心になんとなく応援しながら見たのだが、
悪くない戦いぶりなのである。ブラジルの個の突破力は脅威だが、日本もパスでうまく攻め込んでいるのだ。
風間八宏の解説がものすごく的確で、惚れ惚れしつつ試合にのめり込んでいくのであった。先制したのはブラジルで、そりゃあねえだろと言いたくなるようなとんでもないシュートをSBが突き刺す。
しかし日本も、こぼれ球をしっかり決めて追いつく。そこからは、日本は対等以上の戦いぶりを見せる。
オフサイドっぽい2点目をブラジルが入れると、日本もロングパスから飛び出して2点目を入れる。
高木豊の次男が(息子を3人とも年代別代表に送り込んでいるだけでも高木豊は偉大だ)巧いシュートを放つなど、
日本のこの世代の攻撃は見ていて本当に面白い。このセンスのまま成長してほしいもんだ。
観客席から日本へ向けて歓声、ブラジルへ向けてブーイングが浴びせられている。それがとても心地いい。
しかし最後はGKがFKをはじききれずにあっさりと失点。テレビの前の全国民がずっこけたと思われる。
完全に、勝てる試合を落とした格好になってしまった。これほどもったいない試合はなかなかない。
そのまま不貞寝したのであった。
正式に合格したことで責任感に伴うストレスが発生したのか、妙になんだか機嫌が良くない。自分でわかる。
そういうときには買い物でストレス解消だぜ、ということで自転車にまたがって街へ出る。
実は前々から、英語の授業で使うものを入れるバッグが欲しかったのである。トートバッグ的なものがいい。
合格記念ということで買っちゃおうかな、FREITAG! ということで、あれこれ見てみることにした。あらかじめ下調べしたのだが、ちょっと見ない間にFREITAGはいろいろと動きがあったようだ。
BONANZAの製造終了(本気で悲しい!)、やたら高い新メッセンジャーバッグの発売、そして取扱店の大幅増。
これまでは都内でも4軒くらい巡ればそれで終わっていたのが、倍くらいに増えている。
というわけで今日の日記では、積極的に取り扱っていた店の紹介をメインに据えたいと思う。▼URBAN RESEARCH 渋谷店
渋谷の宮下公園の向かいにある店。奥にFREITAGが置いてあるのだが、かなりの量がある。
店員のおねえさんはブサイク軍の僕にも気さくに話しかけてくれてよかったです。▼SFT by cibone (国立新美術館)
国立新美術館の地下にあるミュージアムショップ。こちらもまずまずの量が置いてある。
個人的に国立新美術館はイベントスタッフ時代の最後の職場ということで(→2009.2.15)、
訪れてみるとなんだかセンチな気分になるのであった。ああ、青春だったなあ。▼伊東屋 銀座本店
なんと、今や銀座の伊東屋でもFREITAGを扱っているのだ。フロアのど真ん中を占領していてなかなか圧巻。
土曜日午後の伊東屋は大変混みあっていたのだが、FREITAG近辺はそれほど客が溜まっている感じがせず。▼STEPS 下北沢店
前から量が充実していた店。現在も相変わらずの扱いぶりで非常にうれしい。
自由が丘店もできたのだが、こちらはそれほど量がない。規模の拡大に期待したい。あちこちまわってみたのだが、ビビビと来るものがなかったので今回はスルーすることにした。
ただ、前よりも取扱店が増えたことは純粋に喜ばしい。今後もチラチラ寄ってチェックを入れることにしよう。その後は文具を中心にあれこれ買い込んでストレス解消。しかし帰るときになって雨に降られてガックリ。
誕生日である。そんでもって今年の採用試験の発表日でもある。
朝の10時にホームページに結果がアップされるのだが、とてもそれを見るヒマなんてない。
文化祭前で短縮授業になっているのだが、僕の場合、それは授業の延長を意味する(延長してトントン)。
しわ寄せが休み時間に来る。今日は午前中にめいっぱい授業が入っていたので、職員室に戻れない。
昼休みが終わって職員室に戻り一息ついていたら、痺れを切らしたほかの先生方に「見れ!」と言われた。
そこで初めて確認する。番号はきちんとあって(前後10人くらいも無事当選)、ほっと一安心。
「心配していた人がいっぱいいるんだからもっと早く見なきゃ」と諭される僕はまだまだ甘ちゃんである。夜には祝賀会を開催していただいた。飲めないやつは食え、というのが基本的なウチの方針なので、
あれこれめいっぱい食わされる。かといって、まあせっかくの機会に飲まないのもアレなので飲めるだけ飲む。
そういうわけで久々に、落ち着いて座っていることのできない飲み会なのであった。
変わり映えせんなあ。
本日は研修である。お題はストレスとセルフケアについて。
授業をやっていた関係で僕ひとりだけ5分遅刻で入場。恥ずかしがっているヒマもなく最前列に着席。
で、話を聞いているふりをしながら次の授業のためのアイデアを練って過ごす。
隣の人は僕が猛烈な勢いでメモをとっていると思いきや、書いてあるのは英文ばかりで驚いていたとさ。後半はテレビ番組を録画したものを見させられる。ここで寝た。
起きたら牛の出産シーンで大いにたじろぐ。ビデオが終わるとグループごと輪になって話し合い。
今のビデオにタイトルとサブタイトルをつけてくださいときたもんだ。いつもどおりの昼行灯でうなずき通す。
そしたら「グループの中で誕生日がいちばん今日に近い人が発表してください」との言葉。
そんなのオレが勝つに決まってんじゃん! なんだよその狙い撃ち! ホント自分はこういうのが多くて困る。
しょうがないのでそのことをネタにして軽くトークをかましつつ発表をするのであった。帰りしな、やっぱりマツシマさんはしゃべりが上手ですねえとあちこちで言われる。
ここまでの31年間を口先だけで生きてきた男であることにはちがいない。上手いかどうかは別にして。
(まあ、僕の感覚としては、みんなより「素早く面白がる」ことにちょっとだけ長けているというだけのことだ。)
それにしても、目立ちたくない局面でも人目についてしまう性質が直らなくて困る。この先もずっとそうなのか。
朝の4時に起きて話題のオリオン座流星群を見ようとしたのだが、東京の夜空はダメだな!
例のごとく東工大の敷地に入って寝転がってみたのだが、23区内の空は明るすぎて見えやしない。
中学生のときには天竜川の川原に車を停め、家族でボンネットに背を乗せて流星群を眺めた。
小さなものがけっこう見えて、じゃあそろそろ帰るかというときになってドデカい一発が流れた。
あのときの強烈な光はいまだに鮮明に覚えている。でも東京の夜空じゃそういう感動が味わえない。
機会があれば田舎に行ってイヤというほど流星群を眺めてみたいものだ。
本日の夜も合唱の練習。大声を出すのは純粋に気持ちがいい。
最近は怒鳴る以外に大声を出す機会なんてなかったから、これはこれでいいストレス解消になっていると思う。
あとは歌詞やメロディを早いところしっかりと覚えなければいけない。がんばらねば。
すっかり宅地化が進んでしまった東京、ふだんは意識しないのだが、学校は高台にある。
それで運がいいと富士山を眺めることができる。夕焼けと重なると非常に幻想的な姿を見せてくれる。備品のデジカメで撮影してみた。やっぱり肉眼には劣ってしまう。
まあ、今後とも素直ないい気分でこうして富士山を眺めていきたいものです。
まあ、詳しいことは一切書けないのだが、これだけは書かせてもらおう。ポリスつえー!
自転車のスポークに警棒ねじ込んで相手の動きを止めたときは、こりゃもう逆らっちゃいけないと心底思ったね。
午後になってPTA主催の講演会が学校であったので出席。某有名芸能人の母親が講師。
終わってから、かなり若く見えるけど歳いくつだ? あのしゃべりや立ち居振る舞いはかなりトレーニングしてる、
なんて話になるのであった。内容はまあ、妥当なところでよかったんじゃないでしょうかと。夜はそのまま祭りのパトロールに参加する。ああなるほどこういうものなのかと思いつつ歩きまわる。
特にこれといって問題もなく終了し、そのまま近くの駅まで行って飲む。休みなんだか仕事なんだか。
以前、ログで藤原正彦『祖国とは国語』の「国語教育絶対論」を紹介したが(→2009.8.5)、
今日はそれとは違う理由を挙げて、自分なりに現在の会話重視の英語教育を大批判してみたい。「4技能」という言葉がある。これは「読む」「書く」「聞く」「話す」という4つの技能のことである。
現在の英語教育では、この4技能をバランスよく使えるようにすることが求められている。
従来の教育では読み書き中心だから会話力もつけろ、文科省がそう方針を決めたのである。
「バランスよく」というのはずいぶんと聞こえのいい要求だ。人生、偏っていては困ることが多い。
しかしながら、(英語に限らず)外国語教育においては、バランスへのこだわりが弊害をもたらすケースがありうる。僕は、小学校では英語教育を行う必要がないと考える。理由は、それよりも日本語を固めるべきだからだ。
今の中学生たちを見ていると、満足に日本語を使いこなせる者が少ないことに危機感を覚える。
言葉を自分の手足よりも繊細に使いこなせるようになることこそ、小学校のうちにやっておくべきことだ。
そういう基礎をおろそかにして外国語でゲームをやらせても、それは時間のムダでしかない。
また、中学校でも4技能のバランスなど求める必要はないと考える。必要なのは、教養だ。
会話など度胸があればできる。度胸は授業の中で教えるものではないし、そもそも教わるものではない。
相手とマトモな会話を成り立たせるための教養こそが、基礎として必要なものなのだ。ヒントになるのは、漢文である。かつて日本では、基礎的な教養として漢文を学んだものだ。
漢文は現代の中国語から見れば、古典文学もいいところである。今を生きている言葉ではない。
しかしそれを教養として学んだ。レ点を入れ、書き下し文にし、暗誦した。それが知識、そのものだった。
決して通じることのない言葉を何度も繰り返し口ずさんだ。なぜなら、それが教養だからだ。
同じように、かつての西洋ではラテン語が学ばれた。これまた今を生きることのない言葉だ。
しかしラテン語は教養として学ばれた(イギリスのグラマー・スクールはラテン語の文法を習う場所だった)。
結論を述べる。日本人が習うべき(習っていた)英語は、教養としての英語だ(いわゆる受験英語も含まれる)。
かつての漢文と同様に、学校で扱う英語は教養としての英語であるべきなのである。
(漢文に親しんだ夏目漱石が英語を学んだことは決して偶然ではないと僕は考える。)
それは現実に会話として生きている英語とはまったく別物である。知識としての英語である。
小難しい教養としての英語の向こう側には、ヨーロッパ圏の歴史が広がっている。ラテン語へもつながる。
そういうもっと広い知の世界を示すこと、そのためだけに学校での英語教育は存在すべきなのだ。
究極的には、われわれ多神教の文化の人間が、一神教の文化について理解する土台として英語は教えられるべきだ。
この目的と比べれば、4技能のバランスなどという問題が、どれだけ視野の狭いことかわかるだろう。
そういう狭い視野に子どもを押しとどめるべきではない。彼らが本当に必要としているのは、教養なのだ。
「詰め込み教育」は批判の的となっているが、乾いたスポンジに水を与えないことは罪であると認識すべきだ。そもそも、4技能のバランスを主張する人は、文語と口語の違いについて考えたことがあるのだろうか。
教養としての言葉は、文語である。漢文もラテン語も使われることのない言葉、文語だ。
そんな文語をみっちりと勉強することで、そこにたっぷりと込められた知を味わうことができる。
それに対して会話で使われるのは、口語である。口語は軽い。軽いからこそ迅速に伝わる。しかし軽薄だ。
今の学校で使われている教科書を見ると、短縮形を徹底しているのがわかる。短縮形は口語にしか存在しない。
そういう口語漬けの中で、果たして十分な教養は身につくだろうか? 答えは否、である。
英会話を実際にやってみるとわかるが、勝負はどれだけよけいな表現を削ることができるか、にある。
どれだけシンプルな言葉で自分の意思を伝えるか、それが英語における会話の焦点である。
それは言葉の持つ重みをどれだけ削ぎ落としていくかということなのだ。細やかなニュアンスの否定、
そう言い換えても差し支えあるまい。その姿勢は文語、つまり教養の詰まった言葉の面を捨てることにつながる。小さいうちから英語を話せると便利、そういう短絡極まりない発想が、教養の芽を踏みにじっている。
中身の薄っぺらい口語表現の中に子どもを留めておくことが、どれだけ精神の成長に寄与するというのだろう。
学校教育における英語で、英語の会話ができるようには決してならない。時間が足りないし、環境も足りない。
どうしても英語を話せるようにしたいのなら、もっと気軽に海外へ行けるように助成すればいいだけのことだ。
本物の外国に身を置く経験をさせること、これが本物の教育だろう。偽物をいくら与えてもコストのムダになる。
力点の置き方が完全におかしいのだ。教養のない人間が英語を話しても、醜い英語しか吐けまい。
そういう本質を見抜く力のない人間があまりに多すぎる。日本人全員を、醜い英語を吐く民族にするつもりか?もう議論は尽きている。
本日は中間テストなのであった。終わってさっそく採点してみたが、見事にガッタガタ。
なんとか0点を取らせないようにする作戦は功を奏したが、全体的にはまったくもって低調だった。
特に、それまでできていたやつがイージーミスを繰り返して10点ほど損をするという事例が続出。
予想外にそそっかしく育ってしまい、これまでのオレのやってきたことは何だったんだとガックリである。全体を眺めてみて思ったのは、連中は英作文の能力がかなり弱いということ。
まず何が主語なのかを見抜くことができない。そして、be動詞を使うか一般動詞を使うかの判断もできない。
さらに英語の語順で考えることもできない。その三重苦が重くのしかかっている状態なのである。
しょうがないのでさっそく対策用のプリントをつくってやる。でもあいつら真剣に読まないんだよなあ。
読んでもわかった気になってすぐに忘れちゃうんだよなあ。まったくどうすりゃいいんだか。
Wordはレイアウトにこだわった文書をつくるのには恐ろしく向いていない。線も自由に引けない。
だから今回のテストの解答用紙はExcelでつくった。ちょっと前では考えられない使いこなしっぷりだ。
セルの単位を細かくして好きに結合させていくほうが思いどおりに仕上がるのである。
間に細いセルを挟めば文字の間隔も好きにコントロールできる。線も好きに引ける。
グラフィックの配置、拡大縮小も思いどおりだ。というわけで、最近ではExcelに頼る機会が多くなっている。出版社にいたせいか、Illustratorのあの自由なドローイングが恋しくってたまらない。
何から何まで好きな位置にポンポンとオブジェクトを置けることが本当にうらやましいのである。
こうなったらアカデミック版でIllustratorを買ってしまおうかと思う。Excelだと細かい作業に時間をとられるが、
Illustratorならきっちりやる部分といいかげんな部分を自分で決められるので、結果、早く仕上げられる。
今度の給料が出たら思わず買ってしまいそうだ。まちがいなく有効活用できるから、ホントに買っちゃおうか。
昨日、「飛騨高山へ行く」という今回の旅の目的を無事に達成したわけだが、ただ帰るのはつまらない。
せっかく岐阜・名古屋圏に来ているので、いろいろと寄り道をしてから帰ることにした。まずは大垣である。岐阜県における交通の要衝であり、大垣城の城下町。
岐阜市からはちょっと西に行ったところにあるので、朝のうちにちょっくら行ってみるのである。
ちなみに大垣市は平成の大合併により、飛び地を2つ持つ奇妙な形になってしまっている。大垣駅に着くとまず観光案内所へ行き地図をもらう。そして駅ビルのファストフード店で朝メシを食いつつ読み込む。
そうしてだいたいのルートを考えて、落ち着いたところでいざ出発。ロータリーから大通りを南下していく。
道幅が広い。西側の堀を構成していた水門川と東側の堀を構成していた牛屋川が今も悠々と流れており、
大垣の街は今も城下町の構造を色濃く残しているのだが、それを大胆に否定するように広々と道が引かれている。
せっかくなので堀に沿って歩いてみた。水門川に沿って歩いて、城下町のイメージをつかんでいく。
L: 大垣駅から伸びる道が堀の上を行く新大橋。 R: 水門川が流れる。水草が生えまくり。水門川が南へと曲がるところにあるのが八幡神社。境内には「大垣の湧水」があり、地下水の豊富さがうかがえる。
ボケーッと湧き水を眺めていたのだが、その間も入れ替わり立ち代わりで地元の人が水を汲みに来る。
3日連続で水がきれいなことを見せつけられて、岐阜県のイメージが大きく変わったのであった。
L: 大垣の八幡神社。 R: 境内にある「大垣の湧水」。見事なものです。大垣市役所は水門川の大垣城側のほとり、かつて武士の屋敷があった場所にある。
1964年竣工というその建物は、なんだかものすごく格好いい。思わずドキリとしてしまった。
青い空を背景に従え、遮るものがまったくない。波型の屋根がモダニズムの意地を感じさせる。
大垣市役所は上から見るとH字型をしているのだが、その凹凸が外見にリズムを与えていて、
また、ベランダに植木を置きまくって緑の印象を必死で強めているのも面白い。大垣市役所。ジャマするものが何もないので見栄えがすごくいい。
L: 大垣市役所の側面、H字部分の凹凸(南側)。植木を置きまくって殺風景さがけっこう解消されていると思う。
C: 背面。手前が大垣城の堀である水門川。 R: 一周してみた。大垣市役所はなんでかわからないが妙に魅力的だ。市役所の撮影を終えると大垣城を目指す。大垣城はかつては国宝に指定された天守を残していたのだが、
戦争中の空襲によって焼失してしまった。でも全国的には珍しいことではなく、戦争の愚かさを痛感させられる。
今の復元天守は1959年に鉄筋でつくられたもの。祝日の翌日ということで本日はお休みなのであった。街のど真ん中にあるお城、大垣城。
まだ時間も早いので、商店街はシャッターが閉まってばかり。淡々と駅まで戻って電車に乗り込む。
大垣から岐阜まで戻ると、今日も太多線に乗って東へ。3日連続で、もういいかげん飽き飽きである。
しかし今日は美濃太田までは行かず、途中の鵜沼で降りる。そして名鉄に乗り換えた。
後で考えたら「歩いた方が得じゃん!」となるほど近い距離なのだが、ともかく名鉄で木曽川を渡る。
木曽川を越えた地点は愛知県犬山市。そう、国宝・犬山城に行ってみるのだ。
かつては日本で唯一の個人所有の天守ということがクイズの常識だった犬山城だが、財団法人に譲渡された。木曽川と犬山城。
駅で入手した犬山市の地図を片手に城を目指すが、途中でもうひとつの国宝に寄ってみる。
名鉄犬山ホテルの敷地内に有楽苑という場所があるのだが、そこに「如庵」という茶室があるのだ。
織田有楽斎がつくったもので、自身のクリスチャンネーム「ジョアン」ともかけているんだとか。
ちなみに「国宝二ツ巡り」ということで、犬山城とセットのチケットだと入場料が合計300円安くなる。気持ちよく晴れた日なので、緑が鮮やかに映える。いいときに来たもんだと思う。
旧正伝院書院(重要文化財)、徳源寺唐門とまわって見ていく。さすがはホテルの敷地内というか、
集められた貴重な文化財がきっちりと配置されているなあ、という感じを受ける。
L: 徳源寺唐門。 C: 接近して門のギザギザ部分を眺める。 R: 旧正伝院書院。如庵はこの右側にくっついている。さていよいよ国宝・如庵だ。旧正伝院書院の端っこに貼りついて建っている。
Wikipediaの解説によれば「『武家の節度』を感じさせる名席中の名席」とのことだが、
侘び寂びのなんたるかがまったくもってわからない僕にはどの辺が物凄いのかさっぱり理解できず。それが悔しい。
まあ中に入れば少しはわかるのかもしれないなあ、なんて思いつつ中を覗き込むのであった。
茶室ってのは身体的なサイズで考えたら住宅などに近い存在で、しかも演劇的な空間なんだろうから、
建築としてかなり奥の深そうな対象である。わかるようになるには、お茶の席に出てみないとダメだろうな。
L: 如庵。木々に埋もれて正直よくわかりませんごめんなさい。 C: 正面より撮影したところ。
R: 如庵の内部。ものすごく簡素な印象を受ける。これが名席中の名席なのか……。まだまだ自分の理解が及ばない恐ろしい世界があることを実感しつつ有楽苑を後にする。
坂を上って三光稲荷神社の境内を抜けると(もちろんお参りした)、犬山城天守へと続く石段に出る。
入口で「国宝二ツ巡り」のチケットを見せて門をくぐると目の前に天守が現れる。
靴を脱いでビニール袋に入れ、中に入ろうとするといきなり階段が急! ものすごく急なのだ。
昔の人にはバリアフリーやらユニバーサルデザインやらという言葉がないにしても、これは急だ。
当時の日本人は今よりもずっと小さかっただろうに、こういうふうにつくるのが不思議である。天守の中はお決まりの博物館的展示と全国各地の城の紹介がメイン。
できるだけあちこちに触って、昔の人と同じ感覚を共有しようとするのであった。
で、最上階は北と南にだけ出入口が開いていた。そこから回廊に出られるのだが、これが怖い。
金網など一切なく、そのままむき出しになっているのだ。ほかの観光客が平然と歩いているのが信じられない。
いちおう僕も回廊に出てみることは出てみたのだが、もう怖くて怖くてロボットダンス状態でしか歩けない。
つくられて何百年も経っているので板はツルツル、僕は靴下履き、おまけに背中に重いBONANZAを背負っている。
よけいなことを考えないようにしようとしても、ツルリとすべってアギャー!なんてことを想像せずにはいられない。
結局残念ながら一周するのは断念し、半周でギブアップとなるのであった。いやもう本当に怖かった。
この日記を書いている今も、手のひら足のひらともに汗びっしょりである。それぐらい怖かった。
L: 犬山城天守。1620年代にほぼ今の形になった模様。ど真ん中にある唐破風が印象的だ。
C: やたらと急な犬山城の階段。上るときはまだいい。下りるのが大変。
R: 回廊を歩く。高所恐怖症の僕はこの写真を見るだけで脂汗が出る。木曽川がきれいなんだけどね。半ば放心状態で犬山城を出る。そのまままっすぐ南下して本町通りに入る。
この一帯は今も城下町らしい建物をいくつも残しており、独特な雰囲気を漂わせている。
天気が良すぎたせいか建物たちは妙に小ぎれいに見え、どことなくつくりものめいた生活感がする。
きっと犬山の街はゆっくりとこの通りが熟成されていくのを根気よく待つのだろう。そんな気がした。
何十年か経ったとき、この通りは犬山城と一体となってもっとちゃんと観光地化するのだろう。
なんだかそこに名古屋圏特有の周到さを感じてしまった。焦らずやるべきことをじっくりやっている感じだ。
L,C,R: 犬山城のお膝元、本町通り。古い建物をしっかりと修復していて、本格的な観光地化を待っている印象。次は犬山市役所だ。犬山駅のすぐ近くなのだが、まず駅にマンションが隣接していて驚いた。
で、犬山市役所は駅から見ると広大な駐車場空間のずっと奥にある。それに比べると道が細く、
なんとなく不安な気分になりつつ市役所の入口に到着したのであった。
するとまさに犬山市役所は新庁舎の工事の真っ最中。駅から見えていたガラス張りの建物は新庁舎だったのだ。
新庁舎が完成すれば今の庁舎は取り壊されて駐車場かオープンスペースか道路になるわな、と思いつつ撮影。2009年10月時点での犬山市役所。1955年竣工とのこと。古いなあ。
後で犬山市のホームページで調べてみたら、新庁舎は当初、今年の8月に竣工予定だったようだ。
この10月末にいよいよホントに竣工を迎えるようで、なんとも微妙な時期に訪れたもんだなあと思う。
まわり込んで新庁舎を撮影しようとしたのだが、周囲は住宅地で入り組んでおり、なかなか大変だった。
L,C: 犬山市役所の新庁舎。切妻屋根の2つの棟をガラスのアトリウムでつないだってところか。犬の耳をイメージ?
R: 駐車場から眺めた現庁舎(右側)と新庁舎(左側)。いずれ右側は消える運命にある。しょうがないか。というわけで犬山観光は終了。名鉄で鵜沼に戻ってやっぱり太多線で岐阜まで戻る。もうウンザリだ!
で、岐阜からはチマチマと東海道線に乗って東京を目指すのであった。ここからまた7時間近く。もうウンザリだ!
それでも電車内ではパソコンを引っぱり出して、明日から始まる中間テストの問題をバリバリつくり込んでいく。
しっかり遊んだ分だけしっかり働かないといけないのだ。おかげでけっこういい問題ができたと思う。いやしかし、もう鉄道には乗り飽きた。しばらく乗りたくない。でもまた旅行には行きたい。ニンともカンとも。
本日はいよいよ高山へのチャレンジである。昨日も書いたように、新幹線と特急なら楽に行けるであろう場所だが、
鈍行限定の切符で旅行をするとなると3日がかりなのである。6時54分岐阜発の列車に乗って、高山着が9時51分。
同じ岐阜県なのだが、往復で6時間ものグランツーリスモっぷりを強いられることになるのだ。
しかも特急の本数はあるのに、各駅停車となると実にまばら。丸一日、高山にかかりっきりにならざるをえない。岐阜駅を出ると、昨日と同じ太多線で美濃太田まで。そこから列車は直に高山本線に入っていく。
高山本線は、長良川鉄道と同じように川沿いを行く。でもこっちの飛騨川の方が、より清流ぶりの印象が深い。
列車は飛騨川の右岸と左岸を交互にホイホイ走っていくが、橋を渡るたびに川の美しい碧色が目に飛び込んでくる。
これだけ見事なのは高知の四万十川を訪れたとき(→2007.10.7)以来のように思える。
さて、飛騨金山駅のホームには「美濃国←→飛騨国」という案内板があり、いよいよ飛騨に入ったことを実感する。
飛騨といえば『信長の野望』などでは姉小路家が治める最も国力の弱い場所、というイメージが個人的には強い。
(余談だが、ちゃんと姉小路を「あねがこうじ」と読めなきゃ戦国時代マニア失格である。)
実際に訪れてみても、やはり木々が生い茂った険しい地形が印象に残る。昔の人は大変だったろう。片道3時間というのはなかなかにハードである。その中間地点よりちょっと先にあるのが有名な下呂温泉だ。
列車がしばらく停車してホームに降りる余裕があったので、デジカメ片手にウロウロしてみる。
ホームには下呂温泉のお湯を引いた手湯があり、手を突っ込んでみたらこれが非常に気持ちいい。
こんなんに全身浸かっちゃったらどうなるんだオイ、とちょっと興奮。いずれぜひ下呂温泉に入ってみたい。
L: 飛騨川。ちょっとだけ窓ガラスに車内の様子が映り込んじゃっているが、清流ぶりがわかる。岐阜県は水がきれい?
C: 下呂駅ホームにて。下呂の前の駅は焼石駅という。「焼け石にゲロ」……。
R: 下呂駅のホームにある手湯。ちょっと手を入れただけで下呂温泉の威力が体感できる。下呂駅を出て列車はさらに北上していく。やがていきなり開けた街に出て(といっても都会というほどではないが)、
列車は広々とした駅へとすべり込む。時計を見れば10時ちょっと前、高山駅に到着である。
改札を抜けると真向かいに観光案内所。さっそく各種パンフレットを入手しようと意気込むが、地図があるだけ。
有名な観光地なんだからもっといろいろあるかと思ったのだが、見事に肩透かしを食った気分である。
ただ、地図はさまざまな言語のものが用意されていて、高山が国際的に人気であることはよくわかる。高山市は平成の大合併により、現在、日本で最も面積の広い市町村となった。
その広さは常軌を逸しており、香川県や大阪府よりも広いのである。島嶼部を除いた東京都と同じくらいとのこと。
県の面積よりも広い市町村は全国でこの高山市だけだそうで、そんなことが許されるのか?と思ってしまう。
とりあえず、そんな高山市の市役所を目指して歩いていく。10時を過ぎ、街は活気を帯びてきた。
それにしても寒い。秋というのはなかなか厄介な季節で、昼間は暑いが朝と夜は寒い。
だから旅行をするときには着るものが1枚増えたり減ったりでそのバランスが難しいのだ。
高山はさすがに標高が高いだけあり、ハッキリと寒い。ちょこっと震えながら市役所を目指すのであった。
L: 何の変哲もない高山駅。しかし著名な観光地だけあり、多くの人が集まっていた。外国人も多い。
C: 高山市役所。いかにも平成オフィス建築である。 R: 角度を変えて撮影。それにしてもやはりデカい。高山市役所は広い駐車場の奥にでっかく建っている。休日だが、中では最低限のサービスが行われている。
アトリウムは上にいくにしたがって狭くなるデザインになっている。こういうのはあまり見かけない。
エレベーター部分の窓ガラスを命綱をつけた人が掃除しており、アトリウムってのも大変だなあと思う。
L: 高山市役所内のアトリウム。上にいくと狭まる。 R: お掃除中。市役所の撮影を終えると、いよいよ飛騨高山の中心部へと向かう。駅からはそこそこ距離がある。
まずは高山陣屋を目指して歩くが、その手前の広場では朝市の真っ最中なのであった。
観光客でごった返す中へ僕も入っていく。今年の夏に村上市を訪れたときも市に出くわしたが(→2009.8.12)、
あっちの市が地元の住民向けだったのに対し、こちらはけっこう観光客相手という印象がする。
飛騨名物のさるぼぼや袋入りのお手玉のほか、漬物や鷹の爪など実にさまざまな品物が並んでいる。
せっかくだからと、適当な大きさのさるぼぼを買ってみたのであった。
L: 陣屋前朝市。年中無休で午前中にやっている。観光客が密集していて、中を歩くのがけっこう大変だった。
R: こんな感じで売っている。右端にあるのがご存知さるぼぼ。色といい大きさといいヴァリエーション豊かである。ひととおり朝市をまわってみると、高山陣屋に入ってみる。陣屋とは代官所、つまり江戸時代のお役所だ。
もともと高山は高山城の城下町だったが(城主は金森長近)、幕府が飛騨の森林資源に目をつけて天領となる。
(天領時代には大量の樹木が伐採されて「もう切る木がありません」という手紙まで送られたそうだ。)
天領になってからもしばらく高山城の天守は残されていたが、膨大な維持費がかかったらしく、
管理者である加賀藩前田家から泣きが入って破却が許されたそうである。陣屋はそれ以来の事務所なのだ。
L: 高山陣屋。 C: 陣屋内の見事なお座敷。 R: 時代劇でおなじみのお白州。拷問道具もセットで展示されている。江戸時代に三権分立なんて言葉はなかったので、陣屋は「司法」と「行政」が一体化した建物となっている。
罪人が裁かれるお白州には当時の拷問道具が並べられている。なるほど、このギザギザか!と思うのであった。
江戸から明治に切り替わった直後の県庁舎ははっきりと和風建築であるのだが(『都道府県庁舎』 →2007.11.21)、
これはそういう前近代の役所なのだ、という目で眺めてみると、近代との差異が確認できて実に興味深い。
なお、この高山陣屋は実に1969年まで県の事務所として利用されていたという。これはすごい。
L: 陣屋の隣には1695年に高山城から移築したという土蔵がある。屋根を葺くための板の量が膨大だ。
R: 板葺きの屋根を見上げる。飛騨は雪が多く木が豊富なので板葺きになっているそうだ。高山陣屋から宮川を渡って少し行ったところが三町(さんまち)である。その南端が高山市政記念館。
これは1895(明治28)年築で、高山の旧町役場だった建物だ(1968年までは市役所で、その後は公民館になった)。
中に入ってみると、1階は飛騨名物である春慶塗の紹介、2階は議場跡と古い備品の展示が行われていた。
役所なのに畳敷きではっきりと和風な1階と、椅子と机が並ぶ議場の2階の対比がひどく面白い。
そして2階に展示されていた役所の備品はどれも古いガラクタばかりで、よくとっておいているなあと感心。
今やすっかり見かけなくなってしまった昭和テイストが全開なのであった。PC-9801UVも置いてあったよ。
捨て去ってしまうのは簡単だが、こういう何気ない日常をきちんと残すことは大切なことだと僕は考えるのだ。
L: 高山市政記念館。素人にはつまらないかもしれないが、建築史的・民俗学的にはかなり価値があると思う。
C: 1階の和室。春慶塗の漆器がPRとして並べられている。畳敷きだけど役所だったんですよ、これ。
R: 2階の議場。今は豪華な議場が多いけど、昔はこんな感じだったのだ。ぜひ今後も末永く残してほしい。議場の反対側にはこのように市の備品が並べられている。ガラクタ万歳!
そんなわけで市政記念館では思いのほか和んでしまった。
次はいよいよ高山城址に登ってみる。二の丸公園から搦手を登っていくこと10分足らずで本丸跡に到着。
さっきの高山陣屋には破却前の天守の模型があったが、天守というより櫓と一体化した屋敷という印象だった。
今の本丸跡はそんな建物があった気配をほとんど感じさせない緑に覆われていた。おかげで街も見えない。
ふもとの二の丸公園に戻ってみてもやっぱり周囲は木々で覆われており、街を見下ろすことはできなかった。
L: 高山城址・本丸跡の石垣。 C: 本丸跡はこんな感じ。静かである。 R: 二の丸公園の金森長近像。これで行政関係はクリアしたぞ、ということで、いよいよ本格的に高山の街をターゲットにして歩きだす。
とりあえず桜山八幡宮まで行ってみようと北上していたら、高山昭和館なるものを発見。
超ちっちゃいテーマパークみたいなものだ。せっかくなので物は試しと入ってみることにした。
この手の施設はまあよくあるが、徹底して本物を置いてあるので数が集まるとさすがに迫力がある。
昔の医院を再現した部屋では実際にクレゾールの匂いをうっすらと漂わせる凝り方で感心したのであった。
ここはひとりで来るよりも集団で来てツッコミを入れながら見ていくとかなり楽しいと思う。
特にクイズ研究会みたいなよけいな知識のいっぱいある人は、ツッコミどころ満載でたまらないはず。
L: 高山昭和館内部。それほど広くはないが、昭和のアイテムたちに彩られて実ににぎやか。
R: 2階にはかつての学校の教室を再現した部屋も。本物の生物標本があってびっくりした。高山には歴史を感じさせる古い街並みが2つ存在する。南にあるのが三町伝統的建造物群保存地区で、
北にあるのが下二之町大新町伝統的建造物群保存地区である。桜山八幡は後者のすぐ東側にある。
駅や安川通りのアーケードから離れる分、下二之町や大新町は静かで落ち着いている。
その分だけじっくりと建物の感触を味わうことができる。のんびりと観察しながら歩いてみた。
L,C: 重要文化財の旧住宅が並ぶ大新町(おおじんまち)。 R: 日下部民藝館の外観。きれいにしてあるなあ。桜山八幡宮にもお参りしてみた。すぐ脇には高山祭屋台会館がある。前に家族で来たときに入った記憶がある。
なので今回はパス。ドデカい屋台がいくつも並んでいて圧倒された記憶があるので、それでよし。
宮川に出ると、ゆったりと美しい水が流れていく。小さな川魚が無数に泳いでいる。岐阜県の水はきれいなのか。
そのまま宮川沿いの道を行く。この道も午前中は宮川朝市の会場となる。20年ぐらい前の記憶がまた蘇る。
秋晴れの穏やかな日差しの中、時間はゆっくりと流れていく。
L: 高山祭屋台会館。巫女さんがいたよ! C: 宮川。魚も鳥もいっぱい。 R: 宮川朝市の通り。午後は穏やかな雰囲気。でも腹は減る。「飛騨牛」という文字を街のあちこちで見かけたのだがそんなものを食えるような身分ではない。
というわけで、手ごろな価格の高山名物ということで高山ラーメンを食べることにした。
高山ラーメンといえばとにかく醤油味。寸胴でスープを煮込む段階から醤油の味をつけているのが特徴とのこと。
実際に食べてみると、確かにまっすぐに濃い醤油の風味がする。質実剛健という印象である。高山ラーメン。富山ブラック(→2006.11.2)に少し近い感じがする、かな?
満腹になると安川通りの商店街と三町をふらつく。大新町とちがって三町は店がずらっと並んでいる。
春慶塗を中心とした民芸品、さるぼぼなどの土産物、飛騨牛のコロッケ、煎餅、小物、そして日本酒。
日本酒の店は非常に多かった。やはり水がきれいな土地ということなのだろうが、それにしても多い。
飲めない僕でも、思わず自分用の土産に買って帰ってみようかという気もしたくらいだ。
でもあまりに種類が多すぎて、どれがいいのかさっぱりわからずさっさと断念。
あと人気だったのが飛騨牛の握り寿司。ソフトクリームなどと同じ感覚でその場で食べるのだが、長い行列だった。
世間では3連休の最終日ということで、とにかくものすごい人の波。店から出たり入ったりが本当に大変。
L,C: 三町の様子。これはどっちも人の波が落ち着いたところでシャッターを切っている。本当はもっとぐちゃぐちゃ。
R: 日本酒の蔵元が多い。あちこちに一升瓶が並んでいる。高山にはどれだけの銘柄があるのかわからん。各駅停車の本数が少ない関係上、15時前には高山を出たい。名残惜しいがしょうがない。
最後にもう一回、三町の人ごみの中を往復すると、駅へ向かって歩き出す。
宮川を挟んだ左岸にある本町通りの商店街を少し歩き、駅前に戻る。右岸の古い街並みに比べて閑散としている本町通り。がんばれ。
高山は、岐阜県ではなく飛騨国だった。県の区域としては岐阜県に属しているものの、
訪れてみると「岐阜」という意識は非常に希薄に感じた。ここは今も誇りを持って「飛騨国」なのだ。
地元を誇ることができるということは、その土地が物理的な意味を超えて豊かなものを持っているということだ。
飛騨はそういうプライドがあちこちに感じられて、心地よい場所だった。
3連休である。昨日が学校公開日だったため、世間の3連休とは1日分のズレがあるが、でも3連休である。
今回の3連休はテスト前なので確実に3つとも休むことができる。というわけで、旅行に飛び出すのであった。
今は青春18きっぷの季節ではないが、「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」の期間の真っただ中。
青春18きっぷと比べると1回あたり700円ほど割高になるが、それでも格安の旅行ができることにかわりはない。さて、3日間まるごと使える。どこへ行こうか。
本来の最重要課題である県庁所在地めぐりがすっかりおろそかになっているので、それに使うべきか。
そう思ってとりあえず滋賀県に狙いをつけていろいろ調べてみたのだが、地味な印象のわりに(失礼)、
意外と見どころが多いことが発覚。滋賀は京都・奈良とセットで旅行することを以前から考えていたのだが、
これはきちんと独立させて滋賀県だけをしっかり見に行くべきだ、と思い直したのであった。
で、その場合には深夜バスで2日間と自分なりに答えが出たので(ムーンライトながらの臨時列車化が惜しまれる)、
今回の3連休のターゲットからははずすことにした。まあまた近いうちにチャンスはあるだろう。じゃあどこに行くべきか。鈍行で3日間、県庁所在地じゃなくても有名な街。
あれこれ考えつつネットを駆使して調べた結果、出てきた答えは「飛騨高山」なのであった。
高山には小さい頃に家族で行っているが、けっこう昔のことなので記憶もわりとあいまいになっている。
歳をくってあちこちに行ってそれなりに肥えた目で再訪するにはもってこいのターゲットである。
さて、高山へ行くにはいったん名古屋・岐阜まで行って、そこから高山本線に揺られることになる。
新幹線と特急を組み合わせれば東京からでも十分日帰りは可能なのだが、鈍行だと絶対に無理。
1日目で岐阜まで行って、2日目に高山に行って戻って、3日目に帰る、というプランになるのである。
そして岐阜を拠点にして1日目に行ける場所ということで、郡上八幡にも行ってみることにした。
そんなわけで今回は岐阜県の古都めぐりである。郡上八幡と飛騨高山とは自分でも渋すぎる選択だと思う。
でもまあ、修理されてキレイになって戻ってきたデジカメの復帰戦としては十分な相手である。目黒線の始発、5時10分発の日吉行に乗り込んで旅は始まる。日吉で東横線に乗り換えて横浜へ。
横浜駅で「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」にスタンプを押してもらうと、東海道線のホームに向かう。
やってきたのは各駅停車なんだけど特急の車両っぽい。ムーンライトながらに使っていたやつだろうか。
座り心地のよいシートに腰を下ろしてコンビニで買ったメシを食うと、うつらうつらしながら音楽を聴く。
列車はそのまま快調に静岡駅まで行く。静岡駅に到着したのが8時43分。ここまでですでに3時間半が経過した。
さらに静岡から浜松、浜松から豊橋まで各駅停車に揺られる。豊橋から岐阜までは特別快速で快調きわまりない。
岐阜駅の改札をくぐったのが正午過ぎ。なんだかもう、一日が終わりそうな気分である。でもまだまだ続く。岐阜駅のコインロッカーに、FREITAGのBONANZAの中身だけを取り出して預ける。
そして時間がないので素早くキオスクでパンとおにぎりを買い込むと、太多線のホームに出る。
さっきまで乗っていた東海道線と比べると恐ろしくひなびている太多線に揺られること30分ほどで美濃太田に到着。
郡上八幡へ行くためには、ここで長良川鉄道に乗り換える。かつては国鉄の越美南線として運行しており、
福井から出ている九頭竜線(越美北線)とつなげる計画だったとか。でもわりと惜しいところまでいって頓挫。
土日祝日にだけ発売されるフリーきっぷをホームにある事務所で購入すると、1両だけの列車に乗り込む。
車内は満員だった。これだけの人数が郡上八幡まで行くのか?とびっくりしたが、実際にはそうではなく、
関市周辺の駅でどんどん降りていった(ちなみにこの日、関では祭りがあったようだ)。地元密着の路線なのだ。
列車は長良川に沿ってウネウネと走る。周囲は緑がほとんど。美濃市を抜ける頃には客は数えるほどになっていた。郡上八幡駅に到着したのは14時25分。家を出てからここまで来るのに、実に9時間以上を要したのである。
その間、ほとんどの時間を列車の中で過ごしていたわけで、久々の開放感にしばし呆けるのであった。ついに郡上八幡駅に到着。ここにいる観光客の姿はチラホラ程度。
郡上八幡の市街地は駅から遠い。空が暗くなってしまっては淋しいので、早足で市街地を目指す。
が、駅にパンフレットなどの資料は置いておらず、案内の地図もまったく見かけない。カンを頼りに歩いたのだが、
つまりはそれだけ長良川鉄道は郡上八幡へのアクセスとしては力を持っていないということになる。
高速道路のインターがすぐ近くにあり、基本的には郡上八幡は車で来るところとなっているようだ。さて郡上八幡について少し書いておこう。2004年に郡上郡の7つの町村が合併して「郡上市」になった。
旧美濃国の北端に位置する市である。中心部はかつての八幡町で、市役所もここにある。
郡上八幡城の城下町で今も古い街並みが残るほか、街のあちこちを美しい水が流れていることでも知られる。
また、日本三大盆踊りのひとつであるという「郡上おどり」も有名である。国道256号の郡上街道を歩いていく。途中で古い街並みに寄り道しながらも、まずは市役所を目指す。
郡上市役所はやや街はずれの位置にある。新しくって味気ないが、とりあえず撮影。
L: 郡上市役所。 C: エントランス部分を拡大。 R: 隣にある郡上市総合文化センター。中身は図書館など。市役所を撮影し終えて一息つくと、今は観光案内所としてフル活用されている郡上八幡旧庁舎記念館を目指す。
1936年竣工の旧八幡町役場で、1994年まで現役だったそうだ。吉田川のほとり、まさに街の中心部にある。
3連休ということでこの日はイベントがあったようで、ずいぶんと大賑わいである。駅の静けさとは対照的だ。
記念館の中に入ってみたら、郡上乳社のビン牛乳を売っていたので迷わず購入して一気飲み。
低温殺菌で非常にいい風味なのであった。やはり地方の牛乳を飲むのは面白い。
L: 郡上八幡旧庁舎記念館(旧八幡町役場)。中は地元の名産品が所狭しと並べられていて大賑わいである。
C: 吉田川の方から見た記念館の側面。 R: 近所にある郡上八幡樂藝館。もとは1904年開業の医院。お次は郡上八幡の名のもとになった八幡神社を訪れてみることにした。郡上八幡城のある山のふもとを、
吉田川の川上へと向かってしばらく歩いていくと、左手がちょっと開けた神社になっている。
これがその八幡神社なのだが、街の名の由来になったというわりには簡素というかおとなしいというか、
ごくふつうのよくある田舎の神社なのであった。思わず拍子抜けしてしまった。八幡と天満宮が合体しており、境内には牛の像があった。
ある程度街の雰囲気がつかめたところで、いよいよ郡上八幡城に行ってみることにした。
吉田川側の入口からショートカットの道を登っていく。穏やかな田舎の山の住宅を抜けると、
つづら折のアスファルトの道に出た。これにてショートカット終了である。
そのつづら折のアスファルトをさらに細かく突っ切っていく土の道があったので、そっちを行く。
そんな調子でいくつか道路を貫通していくと、城への入口に出た。青い空を背景に、模擬天守が美しい。
L: 曲輪から眺める郡上八幡城天守。1933年に大垣城(当時、大垣城天守は現存していて国宝)を参考に復元。
C: 角度を変えて眺めたところ。郡上八幡城の模擬天守は木造で、けっこう貴重なのである。
R: 天守入口前の売店のところから眺めた郡上八幡の街。山に囲まれた狭い範囲に屋根がびっしり。天守の中に入ってみる。最上階から周囲を眺めてみたのだが、高さもあるしそれぞれの建物も大きくないのに、
妙に街が近くにあるように思えた。360°見回して、ほぼすべて山のふもとに貼りついた街ばかりということで、
それほど特別な絶景という印象はないのであった。でも地理的な街の特徴はすごくよくつかめる。郡上市総合スポーツセンター。落ち着いた街の中で異彩を放っている。
あとはもう、古い街並みを歩いて歩いて歩きまくるだけである。
街の中心部に出ると、あてもなく歩く。途中で「郡上八幡天然水サイダー」なるものを見つけたので購入。
味はサイダーというよりもラムネという感じだが、郡上おどりをイメージしたラベルが懐かしさを感じさせてよい。
郡上八幡の街は、高度経済成長の波に取り残された山間部の姿が現代に生き延びている、といったところ。
だからとりたてて歴史を強調するということはない。ただ、かつてのたたずまいを残しているというだけ。
しかし吉田川をはじめとして街のあちこちに流れる清流とともに、強烈な「日本人の原風景」を提示してみせている。
そういう素朴さを目の当たりにしてほっと安心できる、それが郡上八幡の最大の魅力であると思う。
L,C,R: 郡上八幡の街並み。2階でせり出して屋根を支える板壁は豪雪対策か。街全体がこの雰囲気をきれいに保っている。
L: 郡上八幡博覧館。大正期の旧税務署とのこと。 R: 郡上おどりの像。街の誇りがうかがえる。それにしても郡上八幡の水は本当にきれいだ。中心部を流れる吉田川はもちろん、街のあちこちを清流が走る。
その周辺は落ち着いた雰囲気で整備されていて、観光客にはいい憩いの場となっているのだ。
都会では川や水路は汚れているのが常識だが、ここでは生活に密着した存在として生きている。
当たり前だったものが今も当たり前のものとして成り立っている。それはうらやましいことだと思う。
L: 吉田川。子どもがここに飛び込む川遊びが有名だそうで。 C: 宗祇水。名水百選第一号だと。
R: やなか水のこみち。レトロな雰囲気を漂わせる観光名所の中心にある。夕暮れも近くなってきたので、郡上八幡駅へと戻ることにする。
途中で食品サンプルの土産物店があったので、大好物である鯛焼きのストラップを買った。
郡上八幡は日本の誇る食品サンプル(まあこんなもんをつくるのは日本人だけだな)の発祥の地なのである。
知ってのとおり僕はそういうものが大好きでたまらない子なので、置いてあるものにけっこう興奮するのであった。帰り道も懐かしい街並みはしばらく続いた。今も昭和の匂いを色濃く残す商店街を歩いていく。
昭和という時代がどんどん遠ざかっていく中で、これからこの街はどのようになるのだろう、なんて思いつつ。
まあ、大して変わらないのかもしれない。今までどおり細々と、しかし確実に魅力を保って観光客を呼び込む。
その気になればもうちょっと盛大に売り出せそうな街なんだけど、あえて穏やかさを守っている感触もする。
そこに郡上八幡の強さがあるように感じた。
L: 名物の鮎を焼いて売っている。清流ぶりがうかがえる。 C: 新町通を行く。昭和の匂いが漂っている。
R: 新町通のアーチ。ここからもまた、郡上おどりについてのプライドを見ることができる。岐阜駅に戻ったのが19時半。今日は半日近く鉄道に揺られていたという事実に愕然とするのであった。
本日は学校公開日(参観日も兼ねている)ということで、いつもとは違うスペシャルなメニューを用意した。
ちょうど「who」の使い方について勉強をしたところなので、英語でヒントを出して誰か当てるクイズをやったのだ。
単純なルールだとやってる僕がつまんないので、ヒントを出身地・年齢・職業・特徴・写真の5段階にして言う。
2チームの対抗戦にして、交互に回答権が移るという仕組みだ。ヒントの難度で得点に差がつくようになっている。
ヒントはぜんぶ英語で言うわけで、この準備にそこそこ時間がかかった。いやあ、Wikipedia英語版は使えるなあ。
ちなみに当てる対象はぜんぶで20人。中には人間以外のキャラクターも混ぜてある。親が見に来ることも想定し、
「平成生まれにゃキツいが親は爆笑」というものも混ぜるサービスの良さ(たとえば年齢が「10万46歳」とか)。
オバマ大統領と見せかけてデンジャラスのノッチの画像を仕込むというギャグまで披露したのであった。気合を入れすぎたせいか、終わったら異様に疲れた。でも校長には褒めてもらったし、手間をかけてよかった。
思ったのは、これはクイズ研究会時代の例会の企画と同じようなものかもしれないということ。
というか、完全にそのときのノウハウだけでやりきった。鍛えられていたんだなあ、としみじみ思う。
今後もあのときにやらかしていたことをいろいろ思い出して授業に組み込んでいきたいものだ。
しかしまあ、そう考えると英語の授業ってのはけっこう気楽にアイデアを練っていけるものなのかもしれないなー。
『未来少年コナン』。宮崎駿の初監督作品ということで知られるテレビアニメである。
超磁力兵器による最終戦争でそれまでの文明が失われてしまった世界が舞台。
コナンは孤島・のこされ島で、おじいとふたりで暮らしていたが、ある日そこにラナという少女が漂着する。
地球上で生き残っているのは自分たちだけだと思っていたふたりが喜んでいるのも束の間、
科学都市インダストリアからやってきた兵士にラナがさらわれ、その際の戦闘でおじいは死んでしまう。
コナンはラナを救い出すべく、冒険の旅に出るのであった(ちなみにここまでがだいたい第2話)。まず、すごく『ラピュタ』っぽい。順番でいえばこっちが先なのだが、基本的な構造がすごく近い。
どこかから不思議な力を持つ女の子がやってくる、冒険の旅に出る、仲間と助け合う、高所でのアクション、
何より悪役のレプカが外見こそ異なるものの、雰囲気がものすごくムスカにそっくりなのだ。
その一方でモンスリーは『ナウシカ』のクシャナ的な、これまた宮崎アニメの典型的悪(?)役。
やはり『コナン』は宮崎駿の原点なんだなあと見れば見るほど実感できる作品である。肝心の中身はどうかというと、ものすごく面白い。30分が非常に短く感じられる作品だ。
ムダなシーンがほとんどなく、細かい流れがきれいにストーリー全体に直結しているのは特筆すべき点だ。
コナンのしぶとい活躍が中心に据えられるものの、ジムシィやダイスの存在感も適度にちりばめられる。
敵にまわすとイヤでたまらないモンスリーも最終的には非常に頼れる存在となる(やべえ、ネタバレだ!)。
最終話のサブタイトルが堂々と「大団円」なのだが、それにふさわしいカタルシスのある結末を迎える。
(ところでモンスリーの「バカねぇ」は、アスカの「あんたバカぁ?」やホシノ・ルリの「バカばっか」を生み出した?)
崩壊するインダストリア(描写はほとんど屋内・地下ばかり)、地道な繁栄を続けるハイハーバー(野外)、
そして生まれ変わるのこされ島(きわめて限られている空間からの解放)と、
それぞれの舞台空間をうまく特徴づけつつキャラクターを目いっぱい暴れさせており、
キャラクターの魅力を描くのに空間との関係性を非常にうまく生かしている点が僕には印象に残った。
(手ごわい敵であるモンスリーが戦争孤児としての立場からおじいに食って掛かるシーンの説得力もすごい。)細かい部分もものすごく巧い。育てている豚にジムシィが「うまそう」と名前をつけるセンスもさることながら、
見ているこっちも思わず体が動いてしまうような極限でのアクションの演出(これは『ラピュタ』でも顕著)など、
テレビアニメとしては今でも珍しいくらいのていねいさがあちこちに見られる。
さすがに冒険活劇として教科書的な存在である。観客のハートをつかむ演出にあふれているのだ。
宮崎アニメというとめちゃくちゃな労力をかけた絵の美しさがクローズアップされることが多いが、
ご都合主義や予定調和を観客の望む形で、しかも違和感を感じさせずにやってのける技術、そこに真骨頂がある。さて主人公のコナンを演じるのは、かつて『ドラえもん』でのび太を演じた小原乃梨子である。
のび太とまったく正反対の運動神経を持つ役ということで、冷静に考えるとその振り幅がすごく面白い。
(ちなみに親友ジムシィはジャイアンの母ちゃん&ジャイ子、ロリコン船長ダイスは磯野波平である。)
台風18号がやってきたのは深夜から明け方にかけてのようで、出勤する時間帯にも影響は残っていた。
電車に乗るまでにけっこう濡れ、電車を降りてからもかなり濡れてしまった。とにかく風が強かった。
しかし子どもたちがやってくる頃にはだいぶ状況は良くなり、なんだか悔しい気分になる。
その後は午前中から空が明るくなりだし、午後にはすっかり台風一過の空模様となった。
テレビにはさんざん脅されたのだが、過ぎてしまえばそれほど強烈な台風という感じはなかった。
日本全国大騒ぎということにならないでよかったよかった。
家に帰ると自由が丘へ。まずは修理に出しておいたデジカメの回収をする。
そんなつもりはないのに結果的に手荒く扱っていたため、無料で修理できないかもと言われていたのだが、
ありがたいことに無料できれいになって帰ってきた。でも確かに修理で、取替えではない。それがうれしい。
さすがキヤノン、ありがとう!と思うのであった。今度こそ優しく優しく扱おうと誓う。次は髪の毛を切ってもらう。テキトーに着ていったボーダーの長袖を「似合う似合う」と妙に大絶賛される。
何年も前になぜか潤平が僕のところに置いていったもので、そこまで褒められるとは思わなかった。
曖昧に笑って礼を言いつつ、褒められてもオレにはセンスがないから次が続かないんだよね……と複雑な心境。
とりあえず、いつも切ってくれるおねーさん曰く僕は明るい色が似合うそうなので、
気長にそっち方面へとコーディネートしてくれる人を待とうと思うしかないのであった。夜になって街へ出ることは僕には非常に珍しいのだが、それでもこの夜が異様な雰囲気なのは察知できた。
明日には過去最大級の台風が日本列島をきれいに串刺しにするとニュースでは盛んに繰り返しているのだが、
まさに嵐の前の静けさに街は包まれている。音がしないし、風もない。感じる「動き」がほとんどないのだ。
空気も地面も生き物たちも、何もかもが静まり返って息を潜めている。それが無意識に予感をかき立てる。
こりゃ明日はいったいどういうことになるんだろう……背筋に冷たいものを感じつつ家に戻った。
今月末には文化祭というか学芸会的な行事が行われるのだが、メインになるのは各クラスの合唱。
自分たちのときにはどうだったかもう忘れてしまったが、こっちにはPTAによる合唱があるので、その練習をする。
夜になってから、音楽の講師の先生に教わって練習である。みんなで音楽室に集合する。講師の先生はかなり気合が入ってらっしゃる。それはそれでいいのだが、楽曲が思っていたより難しい。
練習する機会が生徒たちと比べると圧倒的に少ないのに、混声三部合唱を要求するのはかなり厳しいと思う。
おまけにやたらめったら音があちこちに飛ぶのでメロディを覚えづらいことこの上ない。
ホントにこんなんで大丈夫なんか、間に合うんか、とかなり不安になるのであった。
最近は本を読む暇がなくて困る。正確に言うと、本を読む気がイマイチ起きなくて困る。
やはりきちんと本を読まないと教養は増えない。今のうちに教養を増やしておかないと将来困る。
どうすりゃいいのかと対策を考える。出版社時代には早めに家を出て朝飯を食いつつ本を読んだ。
思えばこの時間が効いていたのだ。だから同じことをやればいいのである。
というわけで、ちょっと早めに職場に行って本を読む時間をムリヤリつくることにしようかと思う。
思うだけではダメなので、確実に実行するようにここにわざわざ書いておくのだ。
昼過ぎに自転車で家を出ると秋葉原へ。でも何もやることがなく、ひたすら日記を書いて過ごす。
そして晩メシを食ってから国立競技場へ移動。今日は東京V×甲府の試合があるのだ。
ヴァンフォーレが東京に来るわけだから、観に行かないわけにはいくまい。意気揚々と乗り込む僕であった。
なお、いつものデジカメは現在修理中なので、職場の備品を拝借。慣れてないのでブレまくる……。途中で通りがかった夜の聖徳(せいとく)記念絵画館。思わず撮影。
J1に昇格できる3つの椅子をめぐって上位4チームがしのぎを削る、J2の構図は相変わらずである。
しかし前回の観戦(→2009.8.29)と比べて変化した点は、甲府が3位となり昇格圏内に入ったことだ。
とはいっても4位の湘南との勝ち点差はわずかに1しかないので、負けられない状況であるのに変わりはない。国立競技場でサッカー観戦するのは、人生初観戦となった浦和戦(→2007.8.18)以来である。
あのときの舞台はJ1であり、甲府がホームとして戦った。でも今回は甲府にとってはアウェイゲームである。
とはいえやはり、甲府サポーターの勢いはすさまじい。明らかに東京V側よりも多くの観客が座席を埋めていた。
東京Vは経営問題で大揺れの真っ最中である。J2降格や現場の混乱など、サポーターが離れる要因は多い。
Jリーグ開幕当時、リーグの盟主とも言える存在であったのが信じられない現状だ。
日本のサッカー全体の盛り上がりという点でも、東京Vは復活しなければならないクラブである。
この日、国立競技場を訪れた7850人(1万人いないのだ!)の観客は、みんなそう思っていたに違いない。スタンドのサポーターに挨拶する甲府の佐久間GMと海野社長。大人気。
さて今回は久しぶりにゴール裏ではなく、バックスタンドでの観戦にしてみた。
たまには応援ばかりじゃなくのんびりとプロのサッカーをじっくり見たいなあと思ったわけである。
最前列に陣取ってみたが、とにかくピッチが近い! まずGKの選手がスタンドに挨拶しに来るのだが、
細かい表情がはっきりとわかる。荻(今シーズンの正GK、ベビーフェイスだが実力もある)が大人気だ。
その後、GKに続いてフィールドプレーヤーも練習を始めるが、すぐそこでやっているわけでもう迫力満点。
キックオフまでの時間、まったく退屈することなく過ごした。いやー、バックスタンド最前列ってすばらしいね。東京Vはやたらと前フリの長い選手紹介をやるくせに、アウェイの甲府のメンバー紹介はナシ。納得いかない。
そんな不満がどうでもよくなってしまったのが、前半6分。右サイドの杉山からロングボールが出て、
走り込んだ大西がそれにダイレクトに触って軌道を変える形で東京Vのゴールを割る。あっけない先制点だ。
ポーンと飛んでいったボールが白いユニフォームに当たってそのままネットが揺れたので、最初は何だかわからず。
でもすべてのプレーがゴールに向かって一直線上につながっていったので、ゴールだというのは理解できた。
幸先のいい展開だ。ゴール裏も無数のフラッグが揺れて大騒ぎである。
L: キックオフ前の練習。バックスタンドからだとすぐ目の前で、けっこう興奮したのであった。
C: 右SB杉山が復帰したが、本日の甲府は前節と同じく3バック。でも斜め後ろから見ていると正直よくわからん。
R: 後半、目の前のゴールに向かって甲府が攻める。コーナーキックに飛び込む選手たちの図。早いうちに点が入ったせいか、その後はなんとなく膠着状態に。前半は無難にそのまま折り返す。
後半に入ると安間監督からの檄が飛んだのか、甲府はしっかり守りつつも果敢にカウンターを展開する。
目の前で甲府らしい足元の技術を生かしたパス回しが飛び出したり、鋭いドリブルでの切り込みが見られたり、
非常に見ごたえのあるプレーがどんどん出てきて大満足。でも惜しいシーンの連発で、肝心の追加点が取れない。
東京VのCB土屋が出色のデキで、ことごとくいい位置にいてボールを押さえるのだ。悔しいけど、お見事。
前半にはやはり目の前で「オミ」こと甲府のCB山本が抜群の強さと的確な判断を見せていて感動したのだが、
そういう意味では両チームのキレキレのCBのプレーを堪能することができた、やはり絶好の座席だったのかも。1-0で試合終了。土屋がいなけりゃ3-0くらいで勝ったと思う。それくらい敵ながらあっぱれなプレーだった。
でも甲府のディフェンスもまったく点を取られる気がしなかったので、まあ勝つべくして勝ったゲームだと思う。
選手たちはバックスタンド前に挨拶に来た。長身FW森田とGK荻がスタンドから手を伸ばす子どもたちと握手。
上から見下ろしても森田はデカい。子どもたちは大興奮。そして荻にはやっぱり黄色い声援が飛ぶ。
ここまで近い位置で甲府の選手たちを見たのは熊本空港(→2008.4.29)以来である。オミはがんばってくれている。
L: バックスタンドのサポーターに挨拶する甲府の選手。近い! C: 子どもたちと握手する森田(14)と荻(ピンク)。
R: ゴール裏に挨拶する選手たち。ライバルチームはすべて勝利しており、この試合に勝って3位を守ることができ一安心。しっかりと勝てたことがいちばん良かったのだが、迫力のあるプレーを90分間味わうことができて本当に満足。
やっぱり生のサッカーを目の前で見るのはいいなあ、とあらためて思うのであった。
暴力と都市空間の問題を、2016年開催のオリンピックで東京が落選した件から考えてみる。
……と書くと大げさなのだが、まあテキトーにあれこれ想像をしてみる。2016年のオリンピックの開催地は大方の予想どおりブラジルのリオデジャネイロに決まった。
南米で初の開催という、まあある意味での「公平性」が発揮された結果である。
2008年にアジアの北京で開催されたことを考えても、東京に決まる可能性はきわめて薄かった。
それを承知で金銭・人材を無理に投入していった石原慎太郎の姿勢はもっと批判されるべきだ。
(自分の都知事としての業績づくりのためにここまで税金を平然とつぎ込める神経が理解できない。)さて本題。リオで最も不安視されているのは治安の問題である。
悪名高いスラムを抱えていることもあり、観光客の安全を保証できる雰囲気がいまひとつ弱い。
そして考えてみると、これは来年開催予定のサッカーW杯でもまったく同様なのである。
CBD(Central Business District)がめちゃくちゃ危険な状態にある南アフリカの各都市で試合は行われる。
しかもスタジアムの建設はギリギリ間に合うかどうか。でもすでに後戻りできないところまで来た。
「その大陸で初の開催」という絶対的な事実を治安よりも優先させる姿勢、それが国際的なトレンドのようだ。そのトレンドを生み出した源流はどこか。僕は昨年の北京オリンピックにあると考える。
中国の治安は南米やアフリカのそれに比べればまだ対処のしやすいレベルにあると思う。
民主化を求めて起きる暴動にさえ気をつければ、ひとつの都市を制御することはたやすいという程度である。
そして中国は必死で都市の体裁を整え、あらゆる面で対外的なメンツを保つことを徹底しつつ、
オリンピックの1ヶ月間を見事に抑えきって無事に次のロンドンへと引き継いだ(裏ではどうだったか知らないが)。
この「成功」が南アフリカやリオに門戸を開いた。都市の暴力は1ヶ月であれば抑えることができる、と証明された。
(南アが開催地に決まったのは北京オリンピックが行われるよりも前だったが、開催地変更の可能性があった。)かつてオリンピックは万博と同じで都市の整備・再開発の契機としての役割を果たしていた。
イベントに向けて工事が行われ、イベントが終わると姿を変えた都市が残る、そういう傾向があった。
しかし21世紀に入って、この手の大規模イベントはよりマクロな政治に関係するようになってきた。
直接的に言えば、発展途上国に対してよりはっきりと恩を売る機会となってきているように思う。
都市の暴力を1ヶ月抑えればいいだけのこと、それを中国が証明したことで可能性が広がった。
そのことで得をするのは誰なのか。仕掛け人が多すぎて僕にはよくわからないが、
確かなことは、工事とはちがって、イベントが終わった後にも都市に暴力は残り続けるという事実である。
学級閉鎖から生徒たちが戻ってきて、ウチの学年にいつもの活気が戻ってきた。
しかし喜んでいるのも束の間、2週間後には中間テストがあるのだ。冷静に考えると、これはかなりヤバい。
詳しいことを書くとややこしいので簡単な程度にとどめておくが、再来週には英語の授業がないのである。
だから来週のうちにテスト範囲をやらないといけない。片方のクラスはどうにかなるだろうと思っているが、
問題は学級閉鎖になっていた方のクラス。かなり進度に差がついてしまっているのだ。そんなわけで、今日の授業はかなりハイペースでやることに。
でも生徒たちは、運動会&9月の連休ボケから立ち直っていないところに学級閉鎖があったせいで、
まるっきり頭が勉強モードになっていない。2週間後の惨状を想像して背筋が凍った。下校時刻が過ぎてからも、来週の予定を細かく考えて過ごすのであった。
ここまで半年間の経験が試される一週間になりそうだ。本気で乗り切らないといかん。
今日は都民の日ということで生徒たちは休み。ほとんどの先生方も休みをとったので職場は非常に寂しい。
各種プランを練ってみたり、プリントをつくり直してみたり、今度のテストの構成を考えてみたりして過ごした。
天気もよかったし、ひどく平和な一日なのであった。で、仕事が終わると川崎に出て、東急ハンズで買い物。
授業で使えそうなアイテムをいくつか購入。いろいろと幅が広がりそうだ。
ま、たまにはこういう日もなくっちゃね。◇
授業中に豆知識として使えるかなと思って調べてみたこと。
英語で「1」を意味する接頭辞にはラテン語系の「uni-」とギリシャ語系の「mono-」があるんだけど、
「uni」は三菱鉛筆で、「MONO」はトンボ鉛筆なのな。どっちも「唯一の・無類の・比類なき品質」ということで、
そういう名前がついているようだ。なかなかに美しいライバル関係である。