diary 2009.2.

diary 2009.3.


2009.2.28 (Sat.)

症状は以前に比べれば明らかに改善しているのだが、なかなかその速度が上がらない。
いつも体調を崩してから回復するまでにはウワッと勢いで戻すことができるような、そういう感触があるもんだが、
それがなかなか来ないのである。思うように勢いをつけてものごとをこなせない、そんなもどかしさがある。
3歩進んで2歩退がる、本当にそんな具合のゆったりとした改善具合なのである。
まあつまり、それだけややこしい病気をややこしくこじらせていたということなんだろうから、
しばらくは慎重にやっていくべきってことだろう。毎日、気だけが焦ってひどくもどかしい。
とりあえず、日記がまた書けるようになってきただけ回復したってことで、当面は満足しておこうか。


2009.2.27 (Fri.)

高橋留美子『めぞん一刻』を久しぶりに読み返してみたのだが、まあすごいったらありゃしない。
特に後半~終盤の勢いというか読者を惹きつける力は半端ではない。圧倒されっぱなしで読んだ。
響子さんの絶対的な魅力、一刻館住人の究極的なトリックスターぶり、五代の徹底的な運の悪さ、
そういった要素がトップスピードで絡み合って物語ができあがっているのだ。

一刻館住人といえばまず四谷さんが強烈なのだが、話をねじ曲げつつ進めていく一の瀬夫人もすごい。
登場人物のすべてがまったくバラバラに動いている。それぞれがそれぞれの視点と信念で動いていく。
そのバラバラな縦横無尽の動きが、セリフだけでなく、コマの隅っこの細かいところにまで反映されている。
まったく違った性格をしている登場人物たちが勝手に動いて、動きまくって、物語は進んでいく。
これだけしっかりと登場人物が生活をしている(生きている)マンガというのは、ちょっとほかにないんじゃないか。
そして、登場人物が自分なりに考えて動く姿がここまで客観的に描き込まれているマンガは珍しいんじゃないか。
読んでいても、ストーリーが作者の思惑どおりに動いている、という感触がまったくないのである。
そのおかげで、リアリティから逸脱する登場人物が出てくるにもかかわらず、読む側は確かにリアリティを感じている。

生活環境としては最低最悪な一刻館が、実はかけがえのない場所になっている。
常識の範疇から飛び出している住人たちを収納できる空間は、一刻館しかありえないのである。
物語を進めていくうえで舞台となる場所の魅力というものはけっこう重要なものなのだが、
冷静に考えてみれば、一刻館ほど優れた名脇役もなかなかあるまい。あのオンボロアパートでないとダメなのだ。
四谷さんが勝手に穴を開けてしまったり窓枠が壊れてしまったり、一刻館だからこそ許される場面は多い。
リアリティを逸脱する人たちをギリギリのところで受け止めているのは、まさに一刻館という空間なのだ。

こんな感じであれこれ考えてみると、このマンガは奇跡的な存在に思えてくる。
当初作者は単なるドタバタコメディを想定していたというが、そのテイストをしっかりと保ったままで、
1980年代を代表するラブコメへと進化していった。後半から終盤にかけての完成度は神懸りに思えるほどだ。
そこでは、公私がぐちゃぐちゃに入り混じった舞台で性格のまったく異なる人物たちを完璧に描ききるという、
とんでもない偉業が達成されているのである。これはもう、「作者の才能」という言葉で片付けるしかないのだろうか。
トリックスターをここまで鮮やかに制御してシリアスもやりきるのは、マネしようと思っても、とてもマネのできない芸当だ。


2009.2.26 (Thu.)

体感的には昨日の夜からだいぶ体調が改善している印象である。
まだ違和感は残っているものの、とりあえず腹痛はぐっと減った。体の動きの細かい部分にキレが戻ってきつつある。
しかし病院で検査をしてみたら、白血球の数は少なくなっているものの、炎症の度合いを示す数値はむしろ上がっていた。
医者の予想ほどは回復していなかったようで、触診してみても状況はそんなに変わっていないらしい。
引き続き「悪化したら即入院」ということで、食事を制限した生活を続けて様子を見ることになるのであった。
この病状は複雑な要因で引き起こされたもののようなので、粘り強く取り組んでいくしかない。


2009.2.25 (Wed.)

昼過ぎに髪を切りに行ったら、おねえさんに一目で具合の悪さを見抜かれる。
いつもより痩せてて顔色が悪いとのこと。さすが客商売だなあと感心しつつもがっくり。
病気になんてなっているヒマなどないのだが、どうにもならないのがもどかしい。


2009.2.24 (Tue.)

薬を飲み、一日中おとなしく寝て過ごす。メシは永谷園のお茶漬けのみ。う~む。


2009.2.23 (Mon.)

実はここ1週間ほどずっと腹痛が続いており(37℃の微熱のおまけつき)、なかなか思うように動けないでいた。
最初はイベントスタッフの疲れが出たのかと思ったのだが、さすがにこれだけ腹痛が続くのは異常事態だということで、
病院に行って診てもらったのであった。で、虫垂炎(いわゆる盲腸)の疑いがあるということで各種検査をする。
CTスキャンなんて人生初である。「こ、これは細川たかし的に言えば『輪切りの私~♪』ってか」なんて具合に、
腹痛に苦しみながらもバカなことを考える余裕があったのも束の間、結果は想像よりもはるかに悪いものだった。
盲腸にはまったく問題がないが、大腸の1/3がかなり腫れているそうで、「そうとうガマンしてましたね、コレ」と言われる。
さらに「本来ならこれは入院するレベルです」との言葉に唖然とする。とりあえず薬は処方してもらったが、
症状が悪くなったら即来院、そして場合によっては即入院するようにと言われるのであった。これには参った。
そういうわけで、しばらくおとなしくせざるをえない。本当に困ったもんだ。


2009.2.22 (Sun.)

「ておやんせんてんにいきませんか」「ハァ? 日本語しゃべれ」
相変わらずマサルからの電話は唐突なのである。そしていきなり理解不明な言葉を投げつけられるのである。
まったくまとまっていないマサルの説明を聞いて、「ておやんせん」がどうも人名であることがおぼろげにわかってくる。
それでネットで検索したら、日比谷でテオ=ヤンセン展なるものをやっていることがわかり、そういうことか、となる。
そのまま概要・料金・会場へのアクセスなどをあらかた確認したところで、ちょうどマサルの説明が終わる。
お前は本当に説明がヘタクソだな!と悪態をついたのち、とりあえず11時に現地集合ということで約束をした。

で、翌朝(つまり今日)10時50分に日比谷パティオに到着。ケータイの履歴を見たらマサルからの着信があった。
電話をかけてみたら案の定マサルはまだ自宅。こっちにしてみれば完全に予想どおりの事態である。
近くのファストフード店に入ってコーヒーを飲みつつパソコンで日記を書いて待つのであった。
正午をまわったところでマサルが到着。「メシが先だな!」ということでしばらく辺りをウロウロ。
するとマサルがタイ料理店の看板を発見。これは面白そうだ、ということで入ってみた。

タイ料理店のランチメニューは充実しており、通常ではありえないほど迷いに迷った末、グリーンカレーを注文。
マサルはタイ風焼きそばを注文したが、グリーンカレーが大好物なんだそうで、
「グリーンカレーはリリンが生み出した文化の極みなんよ」と何度も繰り返していた。
食ってみたらこれが確かにとんでもなくうまく、いい歳こいて感動しつつ平らげるのであった。
「もしかしたらテオ=ヤンセン展は全然大したことなくて、今日一番の収穫はこのタイ料理ってことになるかもしれんよ」
「まったくだ。タイ料理なんてひとりじゃ絶対食わねーしなあ」なんて話をしつつバリバリおいしくいただいたのであった。

満足して店を出ると日比谷パティオに戻る。背の高いオフィス街にできた空地というのはずいぶん気持ちのいいものだ。
(日比谷パティオは、三井不動産が三信ビルの跡地につくった約2年間の暫定的な多目的オープンスペース。)
しかし置かれているコンテナの施設はいいとして、なんとなく足元の素材が安っぽいのが気になる。
人々が気ままに過ごせるスペースをつくるという発想は好きなだけに、その点が非常にもったいなく思えた。

 
L: 日比谷パティオ。こちらのプレハブのテント内でテオ=ヤンセン展を開催中なのだ。
R: 敷地内には単色のコンテナがいくつも置いてある。休憩スペースだったり店舗だったり、用途はいろいろで面白い。

さて、テオ=ヤンセン展である。テオ=ヤンセンとはオランダのおっさんで、
ストランドビースト(オランダ語で「砂浜生物」という意味)と呼ばれている作品をつくっている。
無数のプラスティックチューブをつないでつくった構造体は、風を受けて勝手に動く仕組みになっている。
それを生物とみなしているわけだ。現代アートとしてはけっこう有名な作品であり、
プラスティックの巨大な構造体が浜辺で風を受けて、ワサワサと歩いている映像を見たことがある人がいるかもしれない。
今回のテオ=ヤンセン展では、それらを10体くらいもってきて展示しているのである。

  
L: 実際に作品を動かすマサル。  C: 巨大な作品に興味津々のマサル。  R: 空気を注入して実際に動かしているところ。

 
L: 初期の作品は歩くのではなく、ウネウネしながら跳ねるものだったらしい。  R: 「進化」の途上の作品。

作品を見ての僕の第一印象は、「汚えなあ」というものである。
映像や写真では遠目から見たものがほとんどなのでそんなに気にならないが、近くで見ると、どれも「汚い」のである。
マサルは「浜辺を歩かせるんだから汚れてしまうんよ」と言うが、僕にはつくっている段階からすでにある汚さ、
言い換えれば美しく仕上げようという意識の欠如が気になってしょうがないのだ。

  
L: 作品をクローズアップしたところ。非常に複雑なメカニズムをしている。
C,R: しかし作品たちは見てのとおり汚いのだ。正直、小学生の工作と同程度の美意識しか感じられない。

以下、僕が感じたこと、考えたことを包み隠さず脱線も含めて書いていく。

もしこれを日本人がつくったらどうなるか。まず、細部に至るまで非常にきめ細かく、繊細なほど美しくつくるはずだ。
このテオ=ヤンセン展では照明にもかなり気をつかっているようで、ふつうに撮影すればそんなにアラが目立たない。
しかし顔を近づけて覗き込んでみると、まるで使い込んだ化学の実験道具のような大雑把な汚さが満載なのである。
日本人なら絶対にそんなふうにはつくらない。劣化することを見越したうえで、汚れに耐えるデザインを施すだろう。
そして間違いなく、日本人ならおみやげとして作品のミニチュアを売り出すだろう。ストローで吹けば歩く、そんな感じの。
つまり一言でまとめると、日本人ならこの手の作品に「かわいさ」(漢字で「可愛さ」と書いた方がいいかも)を加えるのだ。
無機質なメカニズムについても思わず手を触れたくなるような「かわいさ」を求めてしまう連中、それが日本人なのだ。
だから僕は日本人として、このかわいくない作品たちに、イマイチ愛情を持てないのである。

しかしこの作品の作者はオランダ人である。ヨーロッパの人だ。
キリスト教的な欧米には、メカニズムに「かわいさ」を求めるという発想がない。
まず人間は神によってつくられたcreatureであり、そんな人間がつくるものも同じくcreatureであると考えるだろう。
かつてチェコの作家・カレル=チャペックは、労働の概念から「ロボット」という言葉を生み出した。
欧米ではロボットとはまず、人間が神から与えられた役割である労働、それを奪う可能性を持つ危険な存在なのだ。
だから産業革命のときにはラッダイト運動のようなことも起きた。欧米からは『鉄腕アトム』は生まれない。
でもそう考えていくと、果たして日本人からこういうテオ=ヤンセンのような作品が生まれただろうか、という疑問について、
否定的な見解が出てくるのが悲しい。日本人はかわいい機械をつくることができるとしても、
こういう目的のない、しかし豪快な面白さを持った作品をつくることができないんじゃないか、と思ってしまうのだ。

そこからさらにもう一歩。テオ=ヤンセンは自分のつくった作品を明確に生命体とみなしている。
風という唯一の「栄養」を受けて、完全に自律的に動く「生命体」をつくろうとしているのである。
すべての作品には学名を意識した名前がつけられており、その解説も「~まで生きた。」という文体で書かれている。
制作した作品の数々は、「○○紀」「△△紀」という独自の時代区分の中におさめられ、それが堂々と展示されている。
そのこだわり方は、正直言ってちょっと異様だ。作品をいくつも制作していく過程を生物の進化の過程と捉えているが、
もう完全に自分の世界に入り込んでしまっていて、芸術作品ではなく生命のごっこ遊びに熱中しているようにみえるのだ。
展示からはそれがチラチラ垣間見えて、そのcreatureごっこに僕は猛烈な気持ち悪さを感じるのである。
本当に芸術であるなら、作品を介して作者と客の間にコミュニケーションが存在するものである。
でもテオ=ヤンセンの場合、あまりに独り遊びへの欲望が強すぎて、他者からの声に耳を傾ける余地がなくなっている。
「かわいくない」ままでい続けるテオ=ヤンセンの生命体に愛が感じられないのは、僕が日本人だからだろうか?
(それは逆に、かわいくないと愛を感じないのか?という自らへの問いへとはね返ってくる疑問でもある。)
テオ=ヤンセンがやっていることは、確かに面白い。風だけで多足歩行するさまは、本当にユーモラスだ。
でも、それを生み出すに至るテオ=ヤンセンの世界観は、僕にはまったく認めることのできないものなのである。

……ということを考えていて、僕は会場で非常に不機嫌なのであった(腹痛の影響もあったが)。

テオ=ヤンセン展を見終わると、マサルが「僕はTBSで売ってる若槻千夏のセミヌードTシャツが欲しいんよ」と言い出す。
そんなわけで赤坂へ移動することに。僕は自転車、マサルは地下鉄。いったん二手に分かれるのであった。
港区が苦手な僕は途中で東京ミッドタウンに迷い込みつつも、どうにか赤坂に到着。残念ながらマサルの方が早かった。
で、マサルは無事に若槻千夏セミヌードTシャツを2枚購入して満足そうにするのであった。

その後はふたりで置いてあった椅子に腰掛けながらぼんやり雑談をして過ごす。
『古畑任三郎』の話をしていたら、そのうちなぜか、かつて放送していた堂本剛主演のドラマ『33分探偵』の話になる。
尊敬するコメディアンにレスリー=ニールセンと堂本剛の名を躊躇なく挙げるマサルが、
「あのドラマは確かにめちゃくちゃなんやけど、コメディアン・堂本剛のすべてを発揮させた作品なんよ!」と熱く語る。
「『裸の銃を持つ男』の元になったテレビドラマの『フライング・コップ』を徹底的にパクっとんのよ!」
「要するに、『33分探偵』は『フライング・コップ』をオマージュしているわけか」「いや、もう、パクっとるんよ!」
「そうか。で、マサル的には、レスリー=ニールセンに源流を持つ堂本剛の作品ってことで重要なんだな」「そうなんよ!」
マサルはしゃべっているうちにそのDVD-BOXが欲しくなっちゃって、地下のTSUTAYAで結局買っちゃう。下巻だけ。
ええー!? 上巻持ってないのに下巻だけー!?と呆れている僕とは対照的に、やはりマサルは満足そうなのであった。

それからマサルは「マツシマくん、僕にはどうしても理解できないことがあるんよ」と聞いてきたので、
「よし、オレがなんでも答えてやろう。オレが神様に教わった宇宙の真理を教えてやろう」と言ったら、
「なんで世間は映画を特別扱いしているのかわからんのよ。どうせDVDになるし、昔みたいな名作なんてもう出ないし、
どうして今もテレビや雑誌ではいっぱい宣伝をして映画ばっかり特別扱いしているのか全然わからんのよ」とのこと。
僕が「そりゃおめえ、映画だと人目を気にせずチューできるからに決まってんだろ」と即答したら、マサルは呆れてしまった。
で、「なにそれ? それのどこが宇宙の真理なんよ?」と言ってきたので、面倒くさがりつつも以下のように解説。
1. 上映開始までは、映画館は公共の空間である。だからデートコースとしての垣根は低い。
(でも照明が落とされると暗くなり、隣の席どうしで人目を気にすることなくイチャイチャできる。)
2. 映画は上映されている作品を集中して見るもよし、無視してイチャつくもよし、どっちでも自由。
(これが演劇だと作品に集中して役者と一緒に物語をつくっていかないといけない。チケットの値段も高いし。)
3. もしマジメに映画を見てそれがつまんなかったら、「でもキミと一緒だとなんでも楽しいね」とか言っておけばいいのだ。
(間違っても、「この作品、女性とお年寄りを泣かせることを目的につくっていませんか?」などと言ってはいけない。)
4. 重要なのは体験を共有できる時間と場所を提供しているということであり、もはや作品はその一要素でしかないのだ。
(共通の話題が用意され、それで間をもたせることができるということが、とにもかくにも大切なのだ。)
5. そしてメディアは次から次へと注目の話題作を紹介し続ける。そうすることでお金が回る、世の中が動く。
(だから興行収入はチューの回数の目安であり、経済効果の指標ということであり、面白さを反映するわけじゃないのだ。)
まあ要するに、映画の価値ってのはもはや作品そのものにはなく、どれだけ多くの人たちに間をもたせられるかにあるのだ。
そんなわけでマサルは「そういうことこそ日記に書くべきなんよ」と言い、上記の理論に納得したのであった。

夕方になってマサルと別れる。池袋に出店予定だというボーイズラブ専門の執事喫茶のプロジェクトに参加しているそうで、
なんつーか、まあ、元気があってよろしいですな、と思うのであったことよ。


2009.2.21 (Sat.)

自転車の修理に神保町まで出かける。なるべく早い時間にさっさと帰ってきたかったので、午前中に到着。
いつものように、はなまるのかけうどんで安くメシを済ませてさっそく自転車を店に預ける。

修理中は喫茶店で日記をボリボリ書いていく。メディア芸術祭での仕事中には書くヒマがなく、
(いま仕事している真っ最中のイベントについて厳しいことを書くのも問題だと思ったので控えていた側面もある)
仕事が終わったら終わったでまったくモチベーションの上がらない事態が発生してしまったので、
3週間ほど放置が続いてしまっている。なんとか集中力にモノを言わせて書き進めていくのであった。

修理はわりとすぐに終わった。日記をある程度のところまで書くと、自転車を回収して帰宅。以上。


2009.2.20 (Fri.)

夜にぼんやりテレビを見ていても、どうにもつまらない。それでザッピングしていたらNHK教育でクラシックをやっていた。
いつもならここで別の局へとスルーするのだが、画面に映った管楽器奏者の頭には「一番」という鉢巻。
呆気にとられて見ていたら、オーケストラのメンバーはみんなラテン系の顔つきをしており、それはもうノリノリなのである。
立って踊りながら『ウェストサイド・ストーリー』の「マンボ」を演奏しているのだ。なんなんだ、これは。

ネットで調べたら、グスターボ=ドゥダメル指揮、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラの演奏とのこと。
昨年の12月に来日して公演したそうで、それを収録したようなのだ。ラテン系なのは、ベネズエラの人たちだからなのだ。
南米でクラシックをやると、こういうことになるのか!と驚きながら見るのであった。
ちょうど『のだめカンタービレ』における「Sオケ」を思わせる破天荒なラテンのノリが満載なのだが、
恐ろしいことに演奏のレベルはめちゃくちゃに高い。グルーヴではなく、昂揚感のあふれるステージだ。
クラシックの誇り、そして音楽を思いどおりに演奏しているという喜びが、会場全体を猛烈な勢いで巻き込んでいる。
「しまった! きちんと知っていれば最初から見たのに! オレのバカ!」と思うが、後の祭り。

そういうわけで、再放送される機会を根気よく待つことにする。とりあえず備忘録ということで日記に書いたのだ。
それにしても、歳をとればとるほどに、自分の無知を痛感する機会が増えていくように思う。
ドゥダメルについてもシモン・ボリバル・ユース・オーケストラについても、ちゃんと情報を知っていればよかったのに。
幅広くアンテナを張っていかにゃあダメだわ、とあらためて思うのであった。


2009.2.19 (Thu.)

昨日の日記に引き続き、本日も僕の頭の中身を提示してみるのである。
今回はそれを中央線にたとえることで、昨日の環形の話題に別の話題がぶっ刺さるさまを表現してみたい。
とりあえず本日は世界規模から身近なレベルまでを包括する人間の想像力について、
現段階で考えてみることを書き出してみることにする。過去ログの繰り返しもあるけど、そこは勘弁なのである。

★【青梅駅】: 宗教をあらためて考える(世界規模の話)
この日記では何度も宗教について言及しているけど(→2005.4.29)、あらためてこの場を借りてまとめておこうと思う。
僕が言うところの「宗教」とは、「世界の眺め方の基本的な枠組み」といった程度の意味合いであることが多い。
どのように神様を信じるかではなく、この世をどんなデザインと把握しているか、ということで「宗教」という言葉を使っている。
(そのため厄介なことに、僕の定義だと正確には個人レベルから集団レベルまでさまざまな「宗教」が存在することになる。)
これはきわめてアフォーダンス的な考え方だと思う。まず万物が目の前に転がっている姿を目にした人間が、
想像力を駆使してそこに意味の体系を見出そうとする。自分を取り巻くもののうち、重要と思われるものを取捨選択する。
(ただし、その取捨選択は意識的だったり無意識だったりする。木を見て森を見ないように、認識されないものが出てくる。
 それは言語の恣意性と同じくらいの偶然性かもしれない。たまたま目に入ったことで認識された、という程度の偶然。)
そして自分の目に映った世界を肯定するための論理的な手段として、世間一般でいうところの宗教が発生する。
それは共同体の中でさらに論理的に磨き上げられていき、行動様式として確立されて宗教の体裁が成り立つ、
と考えているのだ。つまりこの日記における「宗教」は、宗教が宗教になるその前段階を含めてしまっているわけである。
(だから信仰と「宗教」は切り離して考えられる。信仰とは「宗教」ができあがった後に発生する、それぞれの方法のこと。)

★【立川駅】: 神話とか物語とか
神話とは、宗教がそれを信じる人間を正当化(正統化)するための根拠として機能する物語である、と僕は考える。
誰か個人が紡ぎ出したものではなく、宗教という集団間の合意が歴史を決めていってできたもの、と考えるのである。
(逆を言うと、歴史とはつねに「色」がついているものだ。ニュートラルな歴史など存在しない。事実はつねに解釈を伴う。)
では物語とは何かというと、なんらかのキャラクターが登場(be)・行動(do)する様子を描いたものである。
始まりと終わりがあるのが特徴で、きちんと完結していることが望ましい。この完結性こそが重要なのである。
神話を信じる人々は、その完結した大きな物語(神話)の中と同じ世界を生きる。完結しているから、安住できる。
ところが現代では神話の記憶は薄れ、そこらじゅうに小さな物語たちが本やマンガやDVDやゲームの形で転がっている。
「神話:宗教=現代のさまざまな物語:○○」と考えた場合、この「○○」に入るのは何なのか。
僕なりの答えでは、「個人の世界観(世界の眺め方)」となる(ちなみにそれは、この日記で言う「宗教」に含まれる)。
野生の食物連鎖から抜け出した人間は、想像力をはたらかせてあちらこちらに意味のつながりという糸を張り、
それを体系だててフィクションの網目を仕立て、自分の周りを覆う。そして行動様式である宗教をつくり、生活を規定する。
やがて宗教は論理的に逆算していく形で神話を組み立てていき、人間の存在を(そしてその生活を)肯定する。
そうして自分たちを取り巻いていた野生の世界は、人間にとって生きていきやすい土壌へと再構成される。
それに対し、現代のあちこちにあふれる小さな物語たちは、個人から発信された世界観がパッケージングされたものだ。
受け手はさまざまなそれらを組み合わせて蓄積しながら、摩擦ばかりの世知辛い浮世を生き抜いていく助けにする。
(現代においては、ファンタジー(神話を模している!)など、ストレス解消に特化した物語も少なくない。→2008.5.31
人間は、かつて人類という種全体で自分たちの属していた野生の食物連鎖とうまく折り合いをつけようとしたが、
今度は個人という単位で自分の属している社会とうまく折り合いをつけようとしているのかもしれない。
共通しているのは、想像力を使って現状をどうにかしようという意欲だ。そこが人間の人間らしい点ということになるだろう。

★【国立駅】: 想像力の森
オリジナルな一次の創作と、それをベースにしたコピーといえる二次の創作の違いについては以前述べた(→2007.11.9)。
その際に、神話についても軽く触れている。神話の存在の仕方は、現代の視点からすれば、かなり奇妙なものである。
古すぎて誰がつくったのかわからない。そもそも、誰がつくったのかなんて、昔の人は気にしなかった。
一人で考えた部分もあるだろうし、みんなで考えた部分もあるだろうし、後から勝手に尾ひれがついた部分もあるだろう。
つまり神話というものは本質的に、共同体の合意形成による二次創作なのだ。一次の部分なんてすでに消えている。
二次創作が次から次へと継ぎ足されて洗練されていくことで、より大きな影響力を持つようになっていったと思われるのだ。
(ネットでのコミュニケーションを意識しつつ、「オリジナルのないコピー」というテーマを正面に据えている
 『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 2nd GIG』(→2005.9.6)の視点はさすがに鋭い。)
二次創作とは、すでにある世界観(一次創作)への共感なしには成り立たない。
一次の世界観に寄生して、新たな芽を伸ばす。そうやってより大きな森が形成されていき、
さまざまな種類の生物(つまり物語の受け手)を呼び込んで、森はさらに多様化しながら栄えていく。
でも、森が生まれるきっかけをつくった最初の木はその中に埋もれていく(名札をつけておけばそれは簡単に見つかるが)。
そこにあるのは、世界観を構築する想像力が次の想像力を呼び込むという妙な引力である。
人間は、野生の世界から抜け出した際に手にした想像力を、さらなる想像力の上乗せのために使っているのである。
もはや地球上で生き抜いていくこととはまったく別のレベルで想像力を磨き続けているわけだ。なんとも贅沢な存在である。

★【国分寺駅】: 物語の文法と、ウソをつくこと
言語には文法がある。このルールを守らないとただの単語の羅列になってしまい、コミュニケーションが成り立たなくなる。
それと同じように、物語にも文法がある。相手に物語を伝えるためのよりよい手段が存在するのである。
かつて出版社に勤めていたころ、この「物語の文法」について書かれた文章を扱ったことがある(→2005.11.24)。
それによれば、子どもは5歳後半になると空想的な展開を織り込んだフィクションを構成できるようになるそうだ。
また、結末から逆算して筋の通った展開を考えたり、他人と協力して話を考えたりできるようになる。
つまり、人間は成長するにつれ、現実に存在しないものについて具体的な形で表現をつくる能力が洗練されてくる。
「想像した世界観」を「創造した実体」へと引き上げる能力・テクニックであり、これを「物語の文法」と呼んでいるわけだ。
さて、それをふまえたうえで僕が個人的に気になるのは、ウソをつくという行為である。
子どもがウソをつくときには、相手をだますという要素に加え、「こうだったらよかったのに」という願望が混じるように思う。
そこに、物語の文法とウソをつくことが、フィクションの想像/創造という点において確実に交差すると考えるのである。
大小の差はあれど、ウソをつくことは自分の生み出したフィクションに相手を引き込もうとすることに違いはないのだ。
子どもだけでなく、大人になっても、「こうだったらよかったのに」という願望は衝動となって存在しつづける。
そうして人間は現実を巧みに織り込みながら、壮大な神話や小さな物語たちをつくりあげてきた。
元はウソだったことも、信じていて問題がなければ真実になりうる。そんなふうに生きている動物は人間だけだろう。

★【三鷹駅】: 感動とはなにか
感動するということがずいぶんと安っぽくなったもんだと前に述べたことがある(→2008.9.42009.2.17)。
そこでは自動詞と他動詞の違いを持ち出して、感動について考えた。感動とはあくまで自動詞である、と主張した。
ところが世間一般の人をみてみると、自主的に「感動させて」という姿勢が目立つように思う。どうも、ハードルが低い。
ハードルの低い感動は、ストレス解消以上の何かにはなりえないのではないか、と僕は考える。
物語に感動した人が現実に戻ったとき、物語での感動を糧に行動するレベルでなければ意味がない、と信じている。
何度か書いているが(→2007.11.92008.9.42009.1.23)、僕のこのスタンスは変わらない。
そして物語に対する感動には、勇気をもらったり、一緒に泣いたりなど、いくつかの種類が存在する。
感動を、「観客の感情が一定の方向へ巻き込まれること」と定義すれば、喜怒哀楽で考えることができるかもしれない。
(その場合、怒と楽は世間的には感動という言葉を使うにはふさわしくないとみなされている可能性が高そうだ。)
感動するためには条件がある。物語に登場するキャラクターに、観客が自己を投影できること、である。
多種多様な観客たちがさまざまな角度から1枚の鏡を眺めるが、誰もが自分の姿を認められる、そういう鏡をつくること。
あるいは、誰が着ても問題のないサイズのシャツのように、ひとりひとりが着心地良く感じる物語を用意すること。
(この、ひとりひとりは個の問題として感じているけど実際にはみんな同じように悩んでいる問題を、
作品の形で提示してのけた天才が、三島由紀夫だったり太宰治だったりするわけだ。)
感動はあちこちで量産されているけど、安っぽくない感動を誘発するということは、実はかなり難しい。
戦略的に「お約束」を押さえていくのではなく、さまざまな他者を自分の中に受け容れることができなければいけないのだ。

★【吉祥寺駅】: 感情移入する動物、他者を自分の中に飼う
僕は幼少期に『ごんぎつね』に徹底的に泣かされたという過去を持っている。本当に、死ぬほど泣かされた。
フィクションなんだとわかっちゃいるけど、読むたびに顔がぐちゃぐちゃになるほど泣いたもんである。今でもたぶん泣く。
実在しない対象についてもそこに人格を認めて、その行動に一喜一憂するのは、僕らが感情移入をするからだ。
『ごんぎつね』で泣くのは、作品の受け手としての感情移入である。では送り手からすると、どうなるか。
作品の送り手における感情移入は、個人的な見解だが、随意と不随意の2種類があるように思う。
随意の場合、作者の意思を登場人物に明確に反映させて物語を動かすことができる。意図的ということだ。
しかし不随意では、登場人物は作者の意思を超えて動き出す。まるで自ら物語を紡ぎだすかのように。
『シティーハンター』(→2005.1.27)や『THE MOMOTAROH』(→2004.9.19)でのキャラクターたちの活躍がその例だ。
ほかにも『トイレット博士』におけるスナミ先生、『ツルモク独身寮』における白鳥沢レイ子もそうだ。
(そういった不随意の動きと格闘しながら、作者は自分という理性で物語を完結させる。その瞬間、名作が生まれる。)
僕らが対象に感情移入するということは、自分の頭の中に他者の存在・共存を認めるということである。
いわば、自分の中に別の人間を飼うことができるのだ(そう考えると統合失調症はけっこう身近な感触がする)。
野生動物にはそんな優雅な余裕なんてないわけで、人間とは実にややこしい生き物である。

★【中野駅】: 善意が人を傷つける/コミュニケーションの不完全性というか不可能性
僕は本当に人を傷つけるのは悪意ではなく善意だと思っている。
悪意なんかよりも、責めることのできない善意の行き違い、齟齬、そういったものがより深く人を傷つけると思うのだ。
前述の『ごんぎつね』は善意が伝わらなかった悲しさを描いているし(兵十が鉄砲を落とすラストの描写はすげえ)、
『オイディプス王』(→2005.6.9)は善意がことごとく裏目に出る、逆らえない運命に翻弄される悲しさを描いている。
『エデンの東』(→2006.10.1)ではJ.ディーンが性悪説に苛まれる中で善意を発揮しようとする繊細な青年を演じている。
正負の掛け算(マイナス×マイナス=プラス)ではないが、人が傷ついてしまったときの善意の位置というかあり方、
そこを焦点にして深く探っていく作品が、「名作」と呼ばれる作品には多いように思うのである。
その根底にあるのは、コミュニケーションの不完全性というか不可能性だ。
どこまでいっても結局は他者は他者のままであり、完全に自分に同化させることはできない(結婚も、植民地も)。
それでも人間は、善意を通じて他者とつながろうとする。その善意が意図しない結果をもたらすにしても、やめられない。
そこに人間が物語を生み出してしまう本質が隠れていると、僕は思っているのだ。
世知辛い現実を自分の味方につけるべく、人間はさまざまなサイズの物語を用意して思考実験を繰り返す。
実験は無数の失敗を生みつつも、世代を超えて延々と続けられている。そしてこれからも続いていく。

★【新宿駅】: 「見えない暴投」
「コミュニケーションの不完全性というか不可能性」と書いたが、身近なレベルでは「誤読」を挙げることができる。
僕らはふだん日本語を使ってコミュニケーションをとっているわけだが、冷静に考えてみるとけっこう怪しいもんだ。
たとえば、僕の考える「鉛筆」とほかの人が考える「鉛筆」が同じだとは限らない。
僕はトンボのHBを想像して「鉛筆」という言葉を発しても、受け手は三菱鉛筆のFを想像するかもしれないのだ。
(ちなみに英語では、代名詞itとoneや冠詞theとaの使い分けで、多少ではあるが誤差が修正可能になっている。)
このような双方の誤差が支障をきたすレベルで顕在化する場面はあまり多くない。たいていは問題なくやりすごしている。
でも、たまたま運悪く、この小さな差異が命取りになることがまったくないとは言えない。
そして送り手と受け手の誤差は、抽象的な言葉(たとえば「自由」とかそんなの)になるとさらに広がることになる。
抽象的な言葉はだいたいみんな自分の経験をよりどころにして定義づけているから、
表面上には納得していても、お互いの頭の中ではかなり違ったことを考えているってことも十分ありうるのだ。
外交の場面では、共同声明なんかでどんな単語を使うのかで駆け引きが発生する。
本来なら、それと同じくらい慎重に言葉を選んで日常生活を送らないといけないのである。
想像力をめいっぱいに膨らませて、自分の頭の中にいる他者をフル活用して、精度を上げていかないといけない。

★【お茶の水駅】: コミュニケーション力がどうのこうの言うのはそろそろやめませんか
就職などの面接では、二言目には「コミュニケーション力が……」なんてことばっかりになっていると思う。
そりゃまあ確かに大切なことだとは思うが、何も考えることなく(馬鹿の考え休むに似たり)この言葉を持ち出す場面が、
そもそもまっとうなコミュニケーションとして成立しているようには思えないのである。うわべばっかりで、ウソくさい。
コミュニケーションの力という観点からすれば、学校でやる国語のテストだってかなりいい素材だと思う(→2005.7.28)。
テストだから正解がないと困る。そういうわけで、大多数の賛成が得られる選択肢が正解として存在することになる。
生徒たちは文中のヒントをよく読んで筆者や登場人物の心の中を必死で追いかける。
答える際にも、「どんなこと」と訊かれれば「~こと」と返し、「なぜですか」と訊かれれば「~だから」と返す。
想像力を駆使して相手の考えを読み取り、期待されるやり方で反応を示す。これだって立派なコミュニケーションだ。
コミュニケーション力というものは、グイッとつかんで取り出してハイこれですと示すことのできないものである。
そこにあるのは、人々がそれぞれ得意とするコミュニケーションの形式・強弱(濃淡)・クセで、想像力の使い方の差異だ。
そういった配慮とでも呼べる要素をすっ飛ばしてコミュニケーション力という乱暴な言葉で一種類にまとめる動きは、
それこそコミュニケーション力が欠如しているように、僕には思えてならないのである。

★【東京駅】: 裏を返せばどういうことか=想像力の問題(身近な話)
ここで述べることは、個人レベルの想像力の使い方で、もうちょっとうまくできるようになりたいことである。
自分の中に他者を共存させることを考えるのであれば、同様に他者の中に共存する自分について考えなくてはならない。
つまり、自分が他人にどう見られているかを正確に把握したうえで、最善の対応をしていくことが望ましいのだ。
いつも自分の好き放題に動くのではなく相手に合わせて、全体として最も好ましい状況をつくっていけるとすばらしい。
でもやはりお互いに頭の中に他者を飼っているとはいえ、それはあくまで仮想の他者であり、生の他者ではない。
自分がやっているのと同じように他者もやっている。そういう自分にとって裏の部分まで考えを及ばせることが大切なのだ。
想像力の範囲を広げ、精度を上げていくことで、もっと愉快な毎日が過ごせるようにしていきたいものである。

昨日・今日とそれぞれの話題を路線と駅でたとえてみたが、実際の各トピックの位置関係は僕の中ではもっと立体的で、
さまざまな都市に旗が立ってる地球儀に近い感じだ。近い都市もあれば遠い都市もあるけど、すべてはつながっている。
いろんなことを考えていって、最終的にはこの日記が、僕の脳ミソの地球儀になればいいなあ、と思っているわけである。


2009.2.18 (Wed.)

これから書いていくことは、その混乱具合も含めて、僕の頭の中身をある程度提示するものになる。
次から次へと話が飛ぶけど、終わったときには立体的な内容になっていると思うので、それを丸ごと味わっていただきたい。
(常々主張しているように、言葉は1次元だが「言いたいこと」「表現したいこと」は3次元なのだ。→2004.3.19
とりあえずは、全体的にこういうことが言いたいんだな、という環形のカタマリが読み終わって思い浮かべば、それは成功だ。
そのためには根気よくお付き合いしていただくことが必要なので、大らかな心で臨んでいただければ、と思う。
今回は実験的に、環形の話題であることを理解してもらうため、各トピックを山手線の駅にたとえてみることにした。
どれだけうまくいくかはわからないが、まずは山手線に入る前の段階、さりげない話題からスタートしてみたいと思う。

★山手線じゃないけど今回の入口――【自由が丘駅】: 英会話におけるコツ
このたび美術館でイベントの仕事をやったわけだが、とにかくやたらめったら外国人に英語で話しかけられた。
そして毎回、思うように言葉を返せず、「オレってこんなに話せなかったのか……」とヘコむのであった。
英会話のコツはなんといっても、シンプルな言葉を使うように心がけること、これに尽きる。
いろいろと複雑なことを言おうとすると、頭の中で和訳が始まって時間がかかり、とても「会話」とは言えない状態になる。
誰でも知っているシンプルな単語で簡単に答える。それを繰り返せば、いつの間にかコミュニケーションは進んでいる。
重要なのは会話をしている状況にあるわけで、会話を交わす状況が成立していること自体が信頼関係の証拠なのだ。
簡単な言葉を積み上げていけば、内容は深まる。それに会話が続けば、内容を修正するチャンスはいくらでもある。
そういうわけで、どんなに中身のないことでもかまわないから、言葉のキャッチボールをしようとする意欲が大切になってくる。
(そうやって場数を踏んでいくうちに、どうにかなってくるものである。逆を言えば、場数を踏まないとなかなか難しい。)

★まだ東急東横線――【中目黒駅】: 英語でニュアンスが削られるもどかしさ
ところが、僕は英語で会話をする際に、言葉がいわば「削られる」ことに違和感を覚える。
日本語だと細かいニュアンスを込めてあれこれ表現することができるけど、英語を使いこなせない自分には、
簡単な反応をする程度しかできず、「本当はここまで考えているのに、ここまで伝えたいのに」という領域まで行けない。
それがとにかくもどかしい。向こうが振ってくる言葉もなんとなくジャブ感覚で、やりとりをしてもどこか空疎に感じてしまう。
思っていること、考えていることの細部をどんどん削っていって、残ったシンプルな部分だけで返す。
なんだか上っ面だけのコミュニケーションに終始しているようで、虚しい気分になってしまう。
リンゴをガンガンむいていって、芯だけを相手に投げているような気分がするのである。

★やっと山手線に入った――【渋谷駅】: 立体的な内容をほどいて言葉という線にする
このように思えてしまう大きな原因のひとつに、僕の言葉に対する性質が挙げられる。
僕は人にしゃべって言葉を返す際、その内容が一気に頭の中で殺到するクセというか特徴があるのだ。
頭の中に「伝えたいこと」が立体で殺到し、それを必死でほどきながら1次元の言葉に直してしゃべっていく(→2007.2.6)。
だから突っ込んだ話をすると急にどもり、身振り手振りがすごく増える。物理のたとえ話がやたらと多くなる(→2002.5.24)。
どもるのは立体をほどくのに手間取るから。身振り手振りは頭の中の立体を無意識にそのまま形で表そうとしているから。
物理のたとえ話は頭の中に浮かんでいる物事の位置関係を相手にも想像してもらうことで理解を早めたいからだ。
そういう細かい部分、ニュアンスまでもしっかりと伝えることで、より高いレベルで理解を得たいと思っているのである。
(上で「考えていること」をリンゴという物体にたとえたのも、考えていることが立体であることを暗に示しているわけだ。)
英会話で難しい表現をガンガン削っていくことを虚しく感じるのは、その点に理由がある。

★【新宿駅】: 「見えない暴投」
そもそも、言葉で言いたいことが100%伝わるということはありえないのだ。そのことをつねに理解しておかないといけない。
(コミュニケーションの不完全性/不可能性については、物語を生み出す想像力と合わせ明日の「中央線編」で述べる。
 今回の「山手線編」とはまた別の「路線」がいくつもあって、それらは複雑に交差しながら立体的に共存しているのだ。)
僕らは言葉の定義を自明としているが、そこをあらためてすり合わせておかないと大きな齟齬を生む場面はいくらでもある。
また、受け止める側の持っている経験により、同じ言葉でも受け止め方が変化することだって大いにあるのだ。
たとえば僕の日記で考えてみても、潤平やマサルといった「僕をよく知る人」の「誤読」は挙げればキリがない。
その辺、賢い人は80%程度の理解をしてもらえばいいと割り切り、「誤読」を減らす工夫をしていくだろう(→2008.1.1)。
でもそれをすっぽり忘れ、相手につねに90%以上の理解を強制する僕の態度はあまりよろしいものではないのだ。
たとえばみやもり・トシユキあたりの柔軟な人は、コイツはこうだから、とうまくキャッチする方法を心得てくれている。
だが、すべての受け手がそうであるわけではないのである。言葉には「見えない暴投」がつねに隠れている。

★【池袋駅】: 話が飛ぶ人たち
「頭の中でしゃべりたいことが立体になっている」と書いたが、具体的にそのことについて書いてみよう。
ひとつのトピック(命題と表現してもいい)について、似ていること、似て非なること、正反対に思えるが真であること、
そういったそれぞれの派生的なトピックがまとわりついてくるのである。話が飛ぶ人は、たいていこのタイプだと思う。
話している最中で上記のような派生的なトピックを思いついてしまい、ついついそっちを出してしまうので話が飛ぶのだ。
僕の場合は、相手の理解を深めてもらおうとして飛ばし(でもたいてい相手はよけいに混乱してしまう……)、
マサルの場合は、単純にそっちに興味が移ってガマンできなくなって飛ばす(そして困ったことに、この飛距離が大きい)。
僕はしゃべりたいことが立体で、最初っから形になっているので、飛ばしても最終的には戻ってくる地点が見えている。
だからすべての会話は、僕にとっては伏線を張る作業になっているのだ。すべてはつながっているのである。
でも当然、相手にはそれが見えていない。会話でいきなり伏線を張られても困ってしまう、ということなのだ。
そういうつながっている部分が見えないため、「話が飛ぶ」と言われる。僕もマサルも、「消える魔球」を投げるのである。

★【日暮里駅】: 話が飛ぶのをリンクでごまかす
話をしているうちに別の話題が頭の中に浮かんできて、そっちの方が面白そうだということで飛ばす人もいるし、
先にそっちを説明しておく方が後で理解が早まるだろうということであえて飛ばす人もいる。マサルは前者で僕は後者だ。
僕の場合には日記でもそのような事態がよく起きる。前に同じ内容のことを日記で書いたっけな、と思い出す。
そういうときには過去ログにリンクを張って解決させるようにしている。書く方にしてみれば、これはかなり便利である。
読み手に選択権を与えて別のページに飛ばすことで、1次元の言葉をうまく分岐させることができるのだ。
僕のようにまどろっこしいことが基本になっている人間には、これは非常にありがたい仕組みなのである。
そんなわけで僕の日記では、過去ログがたまっていくにつれ、飛躍的にリンクの頻度が高くなっている。
あちこちリンクだらけになってしまっているのだが、便利だからしょうがないのである。
(なお当然だが、時間の不可逆性と、キリがなくなるという理由から、過去から未来方向へのリンクは一切やっていない。)

★【上野駅】: ディクシー・フラットライン/びゅくびゅく日記の目指すところ
この日記は「情報空間における自分の脳ミソのコピー」である(→2006.1.122006.8.212008.1.2)。
具体的には『ニューロマンサー』(→2005.1.8)に登場するディクシー・フラットラインが、僕にとってのこの日記の究極形だ。
ディクシーは物語中ではすでに死んでいるが、妄想や無意識の反応まで模した結線ROMカセットである「構造物」として、
主人公のケイスとともに作戦に参加する。いわば「この人ならこうする」のカタマリとして保存されている存在といったところだ。
(ちなみに、シリーズ3作目の『モナリザ・オーヴァードライヴ』(→2005.1.26)では、別の人物も構造物として登場する。)
おかげさまでこの日記も9シーズン目に突入しており、だいぶ僕のクセやら何やらがハッキリしてきていると思う。
日記中のリンクもだいぶ増えてきたことで、「びゅく仙らしさ」がよりいっそうわかりやすくなってきているはずだ。
いつも「だいたい30年くらい続けばこの日記もひとつの芸になるんじゃないか」なんて具合におどけて言っているわけだが、
脳内であれこれこんがらかっていることをゆっくりと整理しながら、気ままにのんびり日記を続けていき、
僕の構造物的なものが情報空間に転がっている状況をつくってみたいものだ(「ビュクシー・フラットライン」と名づけようか)。

★【秋葉原駅】: 最近の日記におけるクセ
それにしても、僕の日記は実にさまざまなクセのオンパレードである。この「である」という文末がやたら多いところもそうだ。
最近の日記では、カッコを使って最後に(……だが。)(……けど。)と逆接の言葉で締めるパターンが非常によく目立つ。
個人的にはこのクセを良いものだとは思っていない。読んでいて気持ちが悪くなる表現で、できれば避けたいと考えている。
しかしいざインチキ文章をひねり出してみると、(……だが。)や(……けど。)といった逆接の言葉をつけたくなるような、
そういう反論の余地が自分で見えてしまうのだ。そうなると、それも書き足しておかないとフェアじゃない気がしてくる。
昔はもっと堂々と断定した表現で済ませていたのに、最近はもっぱら逆接の補足ばっかりになってしまっている。
このことを好意的に解釈するなら、以前よりは多少は客観的に事態を眺められるようになってきた、ってことかもしれない。
(そういえば、この「……かもしれない。」という表現も最近よく見かける。われながら、なんとも中途半端なもんだ。)
ひとつのことを主張した場合、必ずその逆のこと、裏返しの事態も指摘できるものだ。
結論を述べたつもりでも、それは別のことのスタート地点になっているってことも少なくない。
最近は特に、そういう「別の立場から見れば、また違った姿で映ること」を結論として言っている気がするのだ。
それで、逆から見たらこうなる可能性もある、ということを書き残しておきたくて、逆接の表現が増えているのだと思う。
そういうことにしておくのである。

★【東京駅】: 裏を返せばどういうことか=想像力の問題
ひとつの事態を目にしたとき、その事態に至った原因を考える。また、その事態がもたらす結果を考える。
あるいは、その事態が持つ意味について考える。そういったことを僕は常日頃から頼まれもせず無意識にやっている。
最近になって、逆接の言葉を使ってほかの見方を示唆することが増えてきた、と書いた。
つまりは、いろいろな方向へと転がりだす「裏を返せばどういうことか」に気づけるようになってきた、ということだ。
これは想像力がはたらいていないとできないことなので、そういう点では良いことではないかと思える。
しかしまた一方で、全然できていないことに愕然とすることも多い。特に身近なレベルでのしょんぼりが多いのである。
最もシンプルなところでは、「自分が他人にどう見られているかを正確に把握して対応する」ということが挙げられる。
自分が他人に対して何かしら印象を抱いたのを言語化するのは実に簡単だが、その裏返しは本当に難しいのだ。
外見も含め、自分が他人にどういう印象を与えているか。これを想像してコントロールできるようになるのが理想である。
でも残念ながら今の僕にはそこから程遠い状況にある。30年間、自分という人間をやってきているが、まだダメなままだ。
かつて日記で「荘子、畜類の所行を見て走り逃げたる語」について書いたが(→2006.11.29)、
それと同じように想像力を高められるまで、まだまだ道のりは長い。

★【品川駅】: ホームページやブログを持つということ、他人から見られるということ
インターネットでホームページを開設するという行為が僕の周りで急激に増えていったのは、
だいたい2000年ごろのことだったと思う。大学のパソコンルームであれこれ閲覧した記憶が今も残っている。
(マサルは大学のパソコンを利用して、タグだけで「月経エンタテインメント!!」のホームページをつくっていた!)
そのときの僕のホームページというものに対するスタンスはいたって明快だった。
「ホームページとは、何か世間に向けて発信したいものがある人や人間関係のターミナルになる人が持つものである。」
つまり他人から見られる必要のある人こそが持つべきものだ、と考えていたのである(ブログにしても同じ →2006.8.21)。
だから僕は熱海ロマンの活動を本格化させるまでホームページを持つということをしなかったし、
この日記だってスタート時には熱海ロマンのページに寄生する程度のものでしかなかった。
僕個人としては、発信したいこともないし、人間関係のターミナルであるという自覚もなかったのだ。
で、それから10年近く経った(10年も経ったのか……)今も、その考え方はまったく変わっていない。
変わっていないのに、こうしてシコシコと日記を書いて、掲示板で同期の飲み会の算段を練っているのである。
発信したいことなんてなく、人間関係のターミナルのつもりもないまま、なぜかホームページを持っているのだ。
妙なものである。なんでこんなことになってしまっているのだろう。自分でもよくわからない。でも更新は続いている。
いちおう日記を書くにあたっての名目としては、当たり障りのない文章を書く練習ということになっている(→2003.3.1)。
でもやっていることはご覧のとおり、お客さんの存在を無視した当たり障りありまくりのレビューばっかりなのである。
それでいて居直って、「オレはディクシー・フラットラインを目指すんじゃー!」などと主張している。
いいいかげんそろそろ、他人からの視線ということを意識してこの日記を見直す時期が来ているように思う。

★【大崎駅】: 建築的なホームページ
潤平が大学生になってSTUDIO LITHIUMを開設したのを、僕は「へぇー」と感嘆まじりな感じで受け止めていた。
「訴えたいことがないんです!」な僕としては、ホームページを持つ必然性がまったくもって皆無なわけで、
いろんなコンテンツを用意してリンクを張りまくる潤平を、すげえなあ。なんて思いつつ眺めていたのである。
しかしあるとき、「もし自分がホームページを持ったらどんなふうにするか」という話を潤平としたことがある。
そのときに僕が提示したのは、「建築的なホームページ」だった。パソコンの画面で見るホームページは2次元だから、
それを積み重ねて3次元的なイメージを出したページにしたい、ということを言ったのである。
難しいことを言ったように聞こえるかもしれないが、要するに僕はデパートを想定していたのだ。
各フロアによって品物は異なるが、基本的なレイアウトは一緒。エレベーターで好きな階に行くことができ、
気ままに買い物をするようにあちこちのコンテンツを閲覧することができる。といった感じである。
よく考えれば、すでにほとんどのホームページではそれができているわけで、僕は当たり前のことを言っていただけだ。
(でもウチのオヤジのcirco cameraに関しては、完全に要塞化しているように思う。そして昔はそういうページが多かった。)
ただ僕の場合、その建築(デパート)とのアナロジーをもっと徹底して出してみたい、という考えがあったのだ。
建物の平面図を積み重ねて示すことで、ホームページ全体が建築的な存在であることを示してみたかったのである。
さてそんな僕がホームページをつくるようになり、どんなものができあがったのかというと、
建築の「け」の字もない、青とライトグレーのページなのであった。ろくすっぽコンテンツがないのでしょうがないのである。
ただ、過去ログの時系列による並べ方だけは、辛うじて建物っぽいと言える……かもしれない。
もし「オレのページは建築だぜ」と主張するのであれば、4次元な抜け道(内部リンク)がいっぱいあって、
まるで忍者屋敷のようなデキになっている、ということになろうか。この際、クラインの壺とかカッコつけてみようか。

★【目黒駅】: 言葉を立体に近づけるreferenceという試み
僕のホームページでは、referenceというページを用意して日記を話題別に検証できるようにしている。
このreferenceを始めたのは、日記の過去ログによれば2004年12月のことである(→2004.12.3)。
カテゴリで記事を分けるブログの存在を知らなかったのに、自力でそれをやりだしたことは、僕のちょっとした自慢である。
僕は自分のホームページを持つより前からサイトを建築的につくることを考えていたわけだが、
ある意味でreferenceというのは、建築物としてのホームページに通常と違う角度から柱をぶっ刺す行為のように思える。
日記は通常、時系列に沿ってまとめるものだが、それをまったく無視して似ている話題どうしをつなげてしまう。
そうすることで、1次元だった言葉がさまざまなベクトルを持ったまま集まり、そこで立体を形成しはじめる。
僕はものごとを考えるとき、まず全体像が立体となって頭の中に浮かんできて、それを1次元の言葉にほどいているのだが、
referenceという手間をかけることで、分散していた言葉がもとの立体へと復元されていくように捉えているのである。
あえて時間軸を無視することで、それまで見えなかったものがぼんやりと見えてくるようになる。
referenceも始めた当初は貧相だったが、さすがに8年も続けていると、それなりの分量になって意義もはっきりしてくる。
今後どこまでいってどうなるのか想像がつかないけど、無欲のままでチョボチョボと積み足していきたいものだ。

これでいちおう、山手線を一周したのである。書くのが非常に面倒くさかった。
次回(明日の日記)は山手線と交差する中央線ということで、また別の話題群について考えてみることにする。


2009.2.17 (Tue.)

文化庁メディア芸術祭では『つみきのいえ』というアニメーション作品が大きな話題になっていた。
この作品、ぶっちぎりで大賞に選ばれたそうで、さらにアカデミー賞にもノミネートされたという(※後日受賞)。
これを見るために会場に来るお客さんもいたほどで、上映していたスペースはいつも人でいっぱいなのであった。
中には目をウルウル、いや泣いている人もチラホラ。休憩時間に見たスタッフは、ほとんどみんなが絶賛していた。
そんなにすげえんなら見に行かなきゃな、と思って僕も平日午前中の空いている時間帯に見てみたのである。
で、結論。「この作品、女性とお年寄りを泣かせることを目的につくっていませんか?」

この作品にはセリフはない。絵本のようなタッチで描かれた、独り暮らしのおじいちゃんが主人公である。
人々は温暖化により海面が年々上昇していく街で暮らしている。海面に呑み込まれてしまわないように、
家はレンガを高く高く積み上げてつくられている。部屋が浸水したら、屋上にまたレンガを積んで新しい部屋をつくるのだ。
「つみきのいえ」とは、レンガづくりの部屋が積み木のようにどんどん積み上げられていくさまを指しているわけだ。
ある日、おじいちゃんはお気に入りのパイプを下の階の海に落としてしまう。そこで潜水具を身につけ、パイプを探しに潜る。
そして、今ではすっかり海中に沈んでしまったかつての部屋で、おじいちゃんは過去の生活を思い出す。
(海中を潜る現在は鮮やかな青で描かれるのに対し、過去の記憶はセピア色である。ここの対比がまた「巧い」。)
どんどん深く潜れば潜るほど昔の記憶が蘇ってくる。病気の妻をの世話した部屋、娘が嫁に行く際に記念撮影した部屋、
生まれたばかりの娘を見守っていた部屋、妻と新婚生活を過ごした部屋……。過去へと過去へと記憶は遡っていく。
やがておじいちゃんは海の底に立ち、そこがかつて一面の野原だったときのことを思い出す。
それは子どものころ、妻と出会い、一緒に過ごした場所でもあった(この辺、BGMがすごく最高潮)。
海中の部屋に戻ったおじいちゃんは、床の砂に埋もれたワイングラスを拾い上げる。
かつて妻とふたりで食卓を囲んだ際に使っていたもので、おじいちゃんはそれを持って自分の今の部屋に戻る。
そして独り暮らしの食卓に自分の分とそのグラスの2つを置いて、両方にワインを注いで乾杯をした瞬間にスタッフロール。
……まあそんなあらすじである。ここまで書いてきて、正直いま、僕もけっこう目頭が熱い状態である。

しかし冷静に考えてみると、確かに泣けるけど、どうも納得できないのだ(「納得したくない」の方が正確かもしれない)。
それは、上記のように、「泣かせること」を目的につくっているんじゃねえの、という疑念による。
以前の日記で映画と感動の関係性について書いたが(→2008.9.4)、それとまったく同じことである。
『つみきのいえ』を見ていると、作者の「泣きなさい、さあ泣きなさい」というささやき声が聞こえてくる気がしてならないのだ。
そしてそこに、ある種の「安易さ」を感じてしまうのである。果たしてオレは、こんなに安易に泣かされていいものか?と。
人間とは、感情移入する動物だ。人間のすごいところは、想像上の存在に対しても勝手に感情移入できる点にある。
それで『つみきのいえ』の観客はどこに感情移入をするのかを考えてみた場合、ちょっと妙な感触がするのだ。
まずある程度の女性は、おじいちゃんに愛された「今は亡き妻」に感情移入をすると思うのである。
そこに「かつて愛された私→今も愛されている私」を見る。私を包む愛が続いていることに泣くという要素、
これはまあいいだろう。気になるのは、もうひとつの要素である。それは、男女を問わずに感情移入をするであろう部分、
「愛する相手との幸せな記憶それ自体」、言い換えれば「誰もが持っている理想」に感情移入するという点である。
作中で過去へ潜っていくにしたがい、おじいちゃんの今は亡き妻との記憶が強調されていく仕組みになっているのだが、
なんだかどうにも、そこのふたりの絆の描き方がステレオタイプ的というか理想主義的というか、要するに安易なのである。
短編アニメだから時間をかけられないという理由よりは、この部分を安易にすることでよりイージーに泣かせにいっている、
そういう感触がしてならないのだ。この作品は、細かい演出がすべて徹底的に泣かせるための「正解」を踏んでいっている。
その積み重ねぶりが、どうにも安易に思えて仕方がない。客が泣くまでのハードルの低さに、安さ・底の浅さを感じるのだ。
この疑念がどうしても消えなくて、「この作品、女性とお年寄りを泣かせることを目的につくっていませんか?」と思うのだ。

つねづね書いているが、本当に物語に感動するのは日常生活との関係性においてだ!と僕は信じている。
(物語独自の世界(フィクション)と普遍的なテーマ(ノンフィクション)という、物語における二重構造(→2009.1.23)。)
そして『つみきのいえ』を見終わったとき、心に残る感動はどんな質なのかと考えてみた場合、
それは僕には、さっきまで見ていた作品の中にとどまってしまっているのである。僕の日常の方まで染み出してこないのだ。
作品が自己完結してしまっているということだ。それはそれで、美しい宝石がきちんとした宝石箱に納められているような、
そういう種類の価値は感じるが、ではその宝石を毎日生きていく中でどのように活用すればいいのかというと、
僕にはそれがまったく想像もつかないのである。

ここまで書いてきたことは、すべて僕の価値観というバイアスをかけたものだ(だから上記のあらすじもそのクセが出ている)。
もちろん、宝石箱のような「丁寧に閉じられた感動」に価値を見出す人もいるだろう(特に女性はそうだって気がする)。
感動の押し売りに嫌悪感を示す人がいるように、価値観の押し付けに嫌悪感を示す人もいるだろうから、
これ以上あれこれ書くのはやめる。とりあえず、「泣かせる姿勢が安易じゃないか?」という問いかけは強調しておきたい。


2009.2.16 (Mon.)

スタッフの一員といえども、休憩時間には客として会場に入ることもあるのだ(けっこうそういう人は多かった)。
そんなわけで、ひとりの客としての立場から眺めた「文化庁メディア芸術祭」について、あれこれ書いてみたい。

アート部門の大賞・『Oups!』。「フランス語を話す陽気なブラジル人(スタッフ談)」による作品。
スクリーンの前に立つと自分の姿がそこに映る仕掛けになっているのだが、ランダムでさまざまな効果が現れる。
テレビのフレームが登場し、マイクが現れ、音符があふれ出す。映っている人は即席の歌手にされてしまうのだ。
ほかにもいきなりギターが現れたり、顔だけ別の人物になってしまったり、全身から野菜がブリブリ出てきたり……。
外国人(と関西人)は即座に画面の効果に合わせて陽気に踊り出す。リアクションのセンスを競うかのようである。
しかしシャイな日本人(関西人は除く)は戸惑って突っ立っているだけ、ってことがしばしば。
集団でチャレンジすれば、これは非常に楽しい作品である。実際、会場でもトップクラスの混雑ぶりだった。

エンターテインメント部門の大賞・『TENORI-ON』。ヤマハはくだらないおもちゃをつくったもんだ。
有名ミュージシャンに楽器として使わせることで知名度を上げようということもやっていたようだが、
ちょっとでも音楽をかじった人なら、とても「使える道具」とは思えないだろう。こんなガラクタに12万円とか、アホか。

エンターテインメント部門優秀賞『Wii Fit』。正直、僕はWiiが好きではない。
理由はどうしてもフワフワしてしまうその操作性と、輪郭のハッキリしていない効果音が気持ち悪い点である。
まあ要するに、個人的な好みに合わないだけのことだ。客観的に見れば、Wiiの意義はとてつもなく大きい。
それは、ゲーム業界に身体性の概念を見事に持ち込んでユーザーに身体を再確認させているからだ。
(従来あったアーケードの体感ゲームとは一線を画していると思う。家庭用という汎用性がキーなのか。)
Wii Fitはその点をさらに強化しているところが興味深い。まあ、まったく欲しくはないんですけど。

エンターテインメント部門優秀賞『FONTPARK 2.0』。これはすごい。
今回、個人的には『Oups!』と並んで衝撃を受けた作品である。百聞は一見に如かずってことで、
とりあえず「フォントパーク」で検索してみて、ヒマがあったら芸術にチャレンジしてみてください。
(モリサワのホームページ内のコンテンツとして稼動中。一見の価値あり。)

エンターテインメント部門奨励賞『Gyorol』。ケータイを釣竿にして魚を釣るゲーム。
会場の楽しい雰囲気を増幅する、非常にいい内容だったと思う。制作者の作品への愛も感じた。

同時開催の「先端技術ショーケース'09」では、1つの点から見た上下左右前後360°すべての映像を投影してしまう、
球面のディスプレイが強烈だった。この技術はまだ誰も有効活用できる場面を思いついていないわけだが、
将来とんでもない発想をするやつがとんでもない使い方を提案するんじゃないかって気がする。未来はすぐそこ、って感じ。

全体を通して、平日午前中に来てじっくり見ることのできた人なら、まずまず楽しめる内容だったんじゃないでしょうか。


2009.2.15 (Sun.)

最終日である。運営側の皆さんは史上最凶の混み具合になると予想していたのだが、
現場の僕らとしては一定量を超えちゃうとあとはもう意識ではなく体の問題となってしまうので、
ただひたすらに展示の説明とスムーズな通行を呼びかけるのみなのである。
そんなわけで、特に最終日であることを意識する間もなく閉館時間となった感じだ。

閉館時刻になりお客さんの退出が終わると、すぐさま展示の片付けが始まる。
なんでも48時間ぶっ通しで撤収作業を行うんだそうで、世の中にはいろんな価値観があるもんだと呆れた。
さて誘導スタッフとして働いた僕らも、パソコンやゲーム機、マンガなどの片付けを手伝う。そういうもんなのだ。
みんなそれぞれ、上から割り振られた仕事をこなしていく。イベントスタッフとしての経験をきちんと積んだ人は、
こういう作業がものすごく素早い。一般人と大きく差の出るところだよなあと思いつつ僕も手早く片付けていく。

PS3だのWiiだのという高級品にふだん触ることがないので少々戸惑いながらも、どうにか片付け終了。
会場内は工具を持ったヘルメット姿のゴツいサムライたちが歩きまわり、どんどん展示スペースの解体が進んでいく。
もはや僕らの存在は作業のジャマでしかないところまできているので、点呼して解散となるのであった。
運が良かったらまたどこかの現場でお会いしましょう、なんて挨拶を皆さんと交わして帰る。

イベントスタッフの仕事ってのは、つねに「使える人間」でなければならないのでなかなか大変である。
しかし控室なんかではどこか学生のノリが漂い、そこに違和感なく溶け込める自分の姿に少しホッとしたりもする。
イベントを無事に終わらせるというベクトルは全員に共通しており、みんなで一緒になってそこに全力を注ぐというのは、
正直なかなか気持ちのいいものである。そしてその喜びを知っていることも、全員を結ぶ理由になっている。
いろいろと大切なことを再確認することのできた、非常に充実していた2週間だった。ありがとうございました。

 See you, my favorite crew.

ちくしょーやっぱおもしれーわ。


2009.2.14 (Sat.)

2月14日! バレンタインデー!
疲れる現場ということで、控室のお菓子の量は日に日に増えていき、今や机の上いっぱいに広がっている。
もちろんその中にはチョコレートだってある。ちょっと高級なこだわりチョコがいくつも置いてあるのである!
……が、そのほぼすべては男性が用意したものなのだ。男性スタッフが気を利かせて買ってきてくれたものばかりなのだ。

そういうわけで、今年は男からのチョコしか食ってねえです。なんだこのいびつな人生!


2009.2.13 (Fri.)

どうも美術館という施設は館内のネットワーク環境をさほど重視していないようで、
今回のようにインターネットブラウザを積極的に使う展示が多いと、もう笑えてくるほど立ち往生しまくりなのである。
あちこちのパソコンでネットワークが落ちてしまい、まともに展示できているものが片手で足りるほどという状況なのだ。
結局、人の流れを整理しつつヒマを見てはネットワークをつなぐ作業をあちこちでやる、という仕事に追われた。
中には業を煮やした出品者が自主的に無線LANを用意してまともに展示できるようになったものもあるくらいで、
お客さんには本当に迷惑をおかけしました、と自分には責任がないのに心からお詫びしたくなるほどの惨状だったのだ。

逆を言えば、ネットワークの環境さえ整っていれば、自宅でもチェックできる内容の展示が多いということでもある。
出品される「作品」を味わう方法は確実に変化しているというわけなのだ。なかなかユビキタスな世の中である。


2009.2.12 (Thu.)

休憩中、ふとしたことから落書き合戦が勃発した。
控室の机にはペットボトルのお茶が置かれ、それを紙コップで自由に飲んでいいようになっているのだが、
自分のものだとわかるように紙コップに名前を書く人もいれば、絵を描く人もいる。それがエスカレートしたのだ。
で、例のごとく僕はコロ助を描いたわけだが、そしたらいつのまにか、机の上でコロ助が増殖していたのだ。
僕のを見て「あれ? コロ助ってどんなだっけ?」ということで自分で描いてみた人が続出したってことだろうが、
それにしても10体近くのオリジナルコロ助が生産されるとは思わなかった。

日々そんな具合なので、休憩中の控室ではあっという間に落書きがブームとなった。
誰かがどこからか紙を引っ張り込み、そこにありとあらゆる落書きが繰り広げられる。いかにも学生のノリである。
で、そのうちに誰かが出したお題でお絵描き合戦が始まる。そうなるとこっちのもんである。
「ガンダムのハロ」というお題でボールを描いたり「ドラゴンボールのプーアル」というお題でニャロメを描いたりとボケつつ、
余裕でインチキな絵をあれこれ描いて連戦連勝なのであった。やはり藤子不二雄系が描けると強いのである。


2009.2.11 (Wed.)

休み明けが祝日ということで、案の定猛烈な人ごみの中、お仕事。

さて家に帰ってくると、サッカー日本代表のオーストラリア戦をテレビ観戦である。
世間では単なるW杯予選ではなく、岡田ジャパンの今後を占う一戦という見方がなされている。
オーストラリア的にはアウェイで引き分け狙いだとしても、見逃すことのできない試合なのである。

それにしても岡ちゃんの支持率は低い。何かと批判にさらされまくっているように思う。
とはいえ僕としては、決定までに不透明な経緯があったにせよ、前任者であるあのオシムが倒れた後という、
史上最もやりづらい状況で監督を引き受けた時点で岡ちゃんに対する評価はブレさせないことにしているので、
こうなったらとことん自分の意志を貫いて南アフリカまで行ってほしいと思っているのである。
協会から圧力があったのかもしれないが、縁もゆかりもなかった存在である大木さんをコーチに呼び、
(個人的にはまだ足りないとは思っているが)一定の効果を出している点は評価すべきだと思うのである。

で、試合内容はとにかく惜しいシーンの連続。マスコミからは「決定力不足」の一言で片付けられそうだが、
守備でも攻撃でもいつもの代表とは明らかに違う気合が画面からヒシヒシと伝わってくる、そんな試合だった。
しかしオーストラリアを崩しきれずにスコアレスドローということで、全体的には大きな失望感が残った。

面白いのは試合後の監督・選手のコメントで、みんなこの試合についての悔いや反省だけではなく、
今のスタイルを継続することの重要性について話していた。それはまるで宗教を思わせるくらいに徹底していた。
途中で監督を更迭しても、残された時間を考えるともはやこれ以上面白いことはできないだろう。
選手たちが今のスタイルを信じられるのであれば、頑固にそれを貫いてとことん高めてみるのもまた一興。
彼らの信じているものが正解であるならば、それが今の時点で完成しているはずがない。
(ジーコのときの代表が、本番前のコンフェデ杯やドイツとの親善試合で「完成」してしまった苦い教訓もある。)
選手もスタッフも全員が試行錯誤しながらもがいている今の代表が、僕は嫌いではない。
どんどん悩んでどんどん大きくなっていってほしいし、広い心でそのためのチャンスを与えてほしいもんだと思う。


2009.2.10 (Tue.)

本日は美術館が休館日ということでお休み。大森近辺をフラフラしてリラックスして過ごした。


2009.2.9 (Mon.)

土日のラッシュを経験すると、もはや平日はなんだか余裕である。でも疲れは確実にたまっている。

さて、今回の仕事で最も印象的といっても過言ではないことについて書こう。それは弁当についてである。
派遣された仕事先で出てくる弁当、これによってやる気はいくらでも上下するものである。
おいしい弁当が出てくればよしやるぞ!という気がみなぎってくるし、まずければゲンナリしたまま一日が終わる。
そして今回の弁当は、とんでもなく不評なのであった。みんながみんなそろって文句を言うなんてことは、実に珍しい。
まず初日には正体不明の魚が登場し、その大雑把な調理ぶりに全員が唖然となった。昼も晩も、2食ともである。
2日目はハローワークに行っていたので僕は知らないが、やはり評判は良くなかったようだ。
何より3日目に出てきた「たぶんブリ大根」のクオリティが半端でなかった。ブリらしき魚はまだなんとか食えたが、
大根の方に生臭い汁がしっかりと染み込んでおり、吐き気をもよおす人が続出するという有様だったのである。
出された物は文句を言わずにいただく主義の僕でも、「あれはナシ」と公言するほどにひどいメシが続いたのであった。

もはや話のタネ、怖い物見たさのレベルになっていた弁当なのだが、日が進むにつれて確実な改善を見せていた。
まず、弁当屋は起死回生の一発ということで、カキフライ4個の入った(値段のわりに)豪華な弁当を用意したのである。
しかし残念ながら若いスタッフにはカキを苦手をする人が多く、信頼を完全に勝ち取ることはできなかった。
(しかしカキフライ自体はまずまずの味で、僕は食えない人たちから大量にもらって満腹になったのであった。)
そして次の一手として、肉か魚かが選べるようになった。さらに魚についても食べやすい味付けへと変化したのだ。
そういうわけでスタッフ一同、弁当屋の努力を肌で感じ、急速に弁当に対する苦情は消えていったのであった。
まあ客観的に見れば、まずいのがふつうのレベルになっただけ、といったところではあるのだが、
やっぱり努力の跡が見えると人間好意的な評価になるよね、といういい話。


2009.2.8 (Sun.)

休日ということで、今日も会場はぐちゃぐちゃなのであった。
昨日もそうだったのだが、あまりに人が多いので入場を規制するほどの混雑ぶり。
テレビの情報番組でもチラホラ紹介されているんだそうで、マスコミってすげえなあ、なんて言いつつ必死で仕事。

それにしても、来場者のFREITAG人口が非常に多い! スタッフでFREITAGを使っているのは僕だけだが、
お客さんを眺めていると、ものすごく頻繁にFREITAGを見かけるのだ。taggerやKULTBAGのような「ニセモン」もいるが、
とにかく圧倒的に「本家の」FREITAGが多いのである。30分立っててコンスタントに2~3回は見るくらいの多さなのだ。
やっぱりこの手のアーティスティックなイベントは、FREITAGの好きな層、自称デザインに敏感な層が飛びつくものなのだ。
逆を言えば、外から見れば僕もそっちにカテゴライズされかねないのだ。もっとアンテナを張らないといけないのだ。


2009.2.7 (Sat.)

会期で初めての休日ということで、思わずギャーと叫びたくなる、いや実は叫んでいたのかもしれない、
それくらいのすさまじい人ごみなのであった。人ばっかりでどこもかしこも大渋滞、である。
会場内にはいくつも目玉の作品が散らばっているのだが、その各所で渋滞が発生してしまい、
結果として入口から出口まで均等に混みまくり、という状況なのであった。スタッフですら身動きとれないくらいなのだ。
僕の配属先であるエンターテインメント部門は、事前に最も混む箇所と予想されていたんだそうで、
途中で何度かワケがわかんなくなるほどの混み具合だった。

そんな中、肩を叩かれたので振り返ったらなんとビックリ、昨年4月まで会社で隣の机にいた先輩がいらっしゃるではないか。
向こうも僕がこんなところで働いているなんて想像していなかっただろうから、お互いに大いにビックリしたのであった。
こんなところでこんな形でお会いするとはいやいやいや相変わらずお元気ですかそうですか、とご挨拶。
別に社内の人間関係のもつれで辞めたわけではないので、にこやかに会話が弾むのであった。
いやーお元気そうでよかったよかった。また偶然どこかで会えるといいもんですな。


2009.2.6 (Fri.)

金曜日は美術館が20時まで開いているということで、当然仕事の時間もそこまで延長。
担当している仕事についてはだいぶ慣れてきたのでいいのだが、2時間の延長戦はさすがにちとキツい。
控室の外には2つほど豪華な椅子が置いてあるので、胡坐をかいてそれに座って体力回復を図る。
基本的に立ちっぱなしなので、膝をじっくりと曲げて過ごすのである。ニンともカンとも。

それにしてもあらためて、イベントスタッフはサムライの世界だなあと思う。
完全なる上意下達の指揮系統に入り、与えられた領域から逸脱することなく任務をこなす。
そして、経験を積んだ人は非常にバランス感覚が鋭い。自由でない分だけ選択肢は限られているので、
瞬時にその中から解を探し出して対応する。上の立場の人は権限と自由が増すものの、
下での経験が生きているから複雑な問いを簡単な解の積み重ねでこなすのだ。
迷うということがほとんどない、そういう経験に裏打ちされた確かさというものを目の当たりにすると、
それは自分の人生においては非常に稀な要素であるので、正直なんだか悲しい気分になる。
まず迷って、次にありえない解とありえない解を結びつけることで新しい解をひねり出そうとする、
そういう趣向のある自分には、認めたくない、しかし認めざるをえない、そういう方法論なのである。
僕を使っている側の人もそこのところはたぶん十分承知の上だろう。心の奥底に迷いを抱える僕に対し、
「でもまあアイツ一生懸命にやってるし」という部分で認めてくれているんだろうな、と思う。
客観的には一生懸命さだけを売りにして生きていくわけにはいかない年齢に差し掛かってきているので、
その辺はどうにか美しい折り合いをつけにゃならんぞ、と思っている今日このごろなのである。


2009.2.5 (Thu.)

現場に復帰。同僚の皆さんから「久しぶり」とからかわれたのであった。参った参った。

着替えの際、上着を脱いで肌シャツ姿になっていたら、胸板厚めで筋肉質と言われて大いに戸惑う。
イベントスタッフはいつも気を張って動きまわる商売なので、痩せている人が多い(もちろん例外もいるが)。
だから痩せている人から見れば、僕はよけいなお肉がついている方に分類されてもやむなしとは思うのだが、
「筋肉質」という言葉は違うと思うのである。ふだんは自転車移動以外に運動をしていないわけで、
胸板を厚くする機会なんてないのだ。よくわからないもんである。


2009.2.4 (Wed.)

本日は運営スタッフの仕事をお休みし、ハローワークで座学なのである。
内容は就職活動をするにあたっての心構えといったところで、あらためて基本的な部分を確認。
自分のことを他人ごとのように捉えるのは僕の悪い癖なのだが、これは中高生向きの内容かなあと思う。
教育実習の際、今の中学校では子どもに仕事・職業を意識させる機会が多くなっていることに驚いたのだが、
そこでやるとぴったり、という感じの内容なのであった。まあ、やっているところはやっていると思うけど。


2009.2.3 (Tue.)

本日から2週間ほど、某メディア芸術祭の運営スタッフとして働くのである。久々の現場である。
主な仕事の内容は、誘導。来場者に作品を紹介したり、スムーズな通行を呼びかけたり、である。
で、会期は明日からなのだが、今日はメディアや関係者を対象に公開するのである。

午前中はとにかく会場内を歩きまわるのが仕事。まずは雰囲気をつかみましょう、というわけだ。
大まかにどこに何があるのかを記憶しつつ、イベント全体の概要を把握していく。
そして午後になり、自分の担当エリアについて試行錯誤をする。
展示されているものについてとにかく触り、お客さんに紹介できるレベルまでもっていかないといけないのだ。
僕が配属されたのは「エンターテインメント部門」ということで、まずは遊びまくることが仕事になるのだ。
隣は任天堂のWii Fitのコーナーになっており、スタッフは真剣に遊んでいるのであった。
オトナが仕事でゲームを真剣に遊ぶのって、なんだかバツが悪い。でも堂々とやるべきなのである。ニンニン。
スタッフの立場であれこれ書くのはまずそうなので、展示内容についての詳しいレビューは後日書くことにする。
したがって僕が担当することになったものについても現段階では詳しく書くことはしない。
元来飽きっぽい性格なので苦労したけど、まあどうにか一定の理解はできたと思うことにする、そんな具合。

夕方になってメディア・関係者が来場。ホントに試行錯誤しながら説明。
ついさっき初めて触ったばかりなのでなかなかうまくいかないが、そこはスタッフ間で相談しつつ質を上げていく感じ。

というわけで、何がなんだか、という状態で初日は終わったのであった。
久々の現場は……入る前にはあれこれ不安があるけど、必死でやっているうちになんとか終わるもんだなあと、
あらためて思うのであった。まあ何ごとも実際はそんなもんである。


2009.2.2 (Mon.)

お世話になったコンビニへ軽くご挨拶に行く。いつまたお世話になるかもわからないと思っているので、
丁重にお礼を言って手続きを済ませるのであった。気さくでいい人ばかりだったなあとあらためて思う。

さて夜になってスーパーボウル観戦である。久しぶりにMessengerをつなぎ、ワカメとあれこれ言いつつ見る。
今年のスーパーはアリゾナ・カーディナルスとピッツバーグ・スティーラーズの対戦である。
スティーラーズは「ザ・バス」ことジェローム=ベティスの引退したシーズン以来の出場だが(→2006.2.6)、
対するカーディナルスはNFLで最も古いチームのくせしてスーパー初出場なのである。
元ラムズのカート=ワーナーがQBだったり元コルツのエジャリン=ジェームズがRBだったりで、
中心選手があんまり生え抜きじゃねーなーという印象もあるのだが、とりあえずはカーディナルスを応援である。

試合が始まるも、まったくスッキリしない展開が続く。ビデオ判定でじらされる時間が長いのだ。
アリゾナ贔屓の立場からすると、とにかく守備がザル。見ていて情けなくなるほどだらしない守備なのだ。
こんな弱っちい守備でよくスーパーまで来れたもんだと呆れていると、なんだかよくわからないうちに逆転。
そしたらスティーラーズが再逆転と、スコアとしては白熱した戦いとなったのだが、どうもあまり気分が盛り上がらない。
締まった展開の中でビッグプレイが出るのは非常にうれしいことだが、締まらない展開で難しいTDが決まっても、
見ている方としてはそのプレイをきちんと評価する気にはなれないのだ。
おまけにビデオ判定の時間も長いし。日テレは編集しまくるし。

結果としては、最後のチャンスをフイにしたカーディナルスがそのままスティーラーズに時間をつぶされて負けた。
スーパーボウルは究極の大舞台だから緊張するのはわかるんだけど、だからこそ締まった試合にしてほしいのだ。
相手の鉄壁の守備に対し死力を尽くして攻めていく、そういうスーパーボウルをいいかげん見たいもんである。


2009.2.1 (Sun.)

寒くて風の強い朝は、空気の澄み方が違っている。
仕事から帰る途中、北千束の五叉路のところでふと見たら、富士山が実に美しい。
東京の23区でもここまで見事に見えるもんなのか!と思い、急いで帰ってデジカメを取り出し撮影。
さらに、高いところからだともっとよく見えるかなと思い、潤平のアパートの屋上に侵入して撮影。

 
L: 北千束五叉路より眺める富士山。ここまできれいに見えるとは。写真下の部分には東急目黒線が通っている。
R: 潤平のアパート屋上より眺める富士山。東京の住宅地は電線とアンテナが死ぬほどジャマなのであった。

しかしまあこうしてあらためて眺めてみると、富士山ってのはすごい存在だ。完全に別格だもの。

さて、本日でコンビニ仕事は終了。2月に入って、また新しい段階に入ることになる。
ビシッといくぞビシッとー!


diary 2009.1.

diary 2009

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