diary 2007.11.

diary 2007.12.


2007.11.30 (Fri.)

新しい本を担当することになり、原稿の整理をスタート。
今度の本は、「色」の本である。色についてのテクノロジーを扱う本。
内容としては「特に問題はない」と聞いていたものの、けっこうなブロークンジャパニーズの先生がいたり、
図が古くて新たにトレースをしなくちゃいけないものが多数あったりで、やはりそこそこ手がかかる。
今月より9時~17時の勤務時間を徹底するように(つまり残業はしないようにと)決められているので、
それまで気に入らない図はぜんぶ自力でリニューアルしていたのだが、それがたぶんできなくなる。
時計やカレンダーとにらめっこしながら、また一方で客に売っても恥ずかしくないきれいな本を目指しつつ、
自分にできる範囲のことをするというマネジメント能力がいっそう問われることになるのである。
仕事、リポート、テスト対策、英語、日記と、いよいよもって忙しさがピークになる。
でもまあ「忙しいときほど充実したものができる」が持論なので、すべてを全力で乗り切るべく気合を入れる。
やりますよー


2007.11.29 (Thu.)

仲本秀四郎『知・記号・コンピューター』。扱っているテーマに惹かれてずいぶん前に買った本で、やっとこさ読んだ。
内容はだいたいタイトルのとおり。人間と機械の関係を、言語や数字などの記号を扱うという視点から考える。
キーになるのが、言語(読み書き)を扱う能力・リテラシーと、数を扱う能力・ニュメラシー。
言語・数のどちらも現実を抽象して記号化したものだが、数には計算という手続きが存在する。
その計算を利用することで、言語を数学的に置き換えてコンピューターは成り立っているのだ、ということ。
指から始まる計算の方法が高度化した結果としてコンピューターがある、という歴史を追っていく。

最初はフンフンなるほどと読んでいたが、中盤で何が言いたいのかわからなくなり、終盤はウンザリ。
つまるところ、機械を人間と一緒にするな、ということしか言いたくない感じ。あとは知識の披露。
しかし視野が狭いこともあり、それが体系だっていない。知識がつながらず、世界観の構築に至っていない。
数を扱う道具の歴史に関する部分は確かに面白いのである。なるほど、そう進化してきたのね、と。
でも肝心の、その歴史をまとめる視野が非常に狭いのだ。自分好みの事実だけを選んで紹介している感じ。
全体にそういうアクの強さが漂っていて、最後はウンザリ。

特に象徴的だったのが、マクルーハン(→2004.12.172005.3.17)の解釈である。
僕がマクルーハンを読んだ限りでは、表音文字の表意文字に対する優位性という議論はそれほど感じなかった。
むしろ表意文字の世界に次世代のメディアを使いこなす可能性を見ていたように思うのだが、
この本の著者は「マクルーハンは表意文字を使う人々を未開な存在と論じている」と断定する。なんか変だ。
上でも書いたけど、この人は情報を自分の好みや都合で選別する態度が目立つ。イヤな感じである。
そしてマクルーハンはメディアによって身体感覚が革新されていくことを見抜いているのだが、
この本の著者は人間と機械はまったく別物であると、ことあるごとに主張してみせる。
僕の感覚からすれば、それは機械を怖がっている超保守的な視野の狭い年寄りのグチにしか思えない。
機械に接近しながら、最後のところでそれをうまく利用しちゃう人間性の可能性ってのを信じられていないのだ。
読んでいて最後はもう、この著者がかわいそうに思えてきたくらい。あんた絶対、この先の未来を生きていけないよ、と。

そういうわけで、扱っているテーマは面白いんだけど、それを時代の流れと真逆に解釈している困った本である。
人間と機械は違うんだ、と主張するのは、すでにもう遅い。両者の区別を解消する方向で世界は進んでいくはずだ。
問題はそういう流れの中でどのように人間性を定義し直すかである。従来の定義を更新しないといけないのだ。
人間性というものの構造を見抜き、それを時代に合わせてフルに活躍させること、それが僕らに求められていることだ。

この著者は『攻殻機動隊』(→2005.8.19)がどれだけとんでもない作品なのか絶対に理解できないんだろうな、と思った。


2007.11.28 (Wed.)

あまりに疲れていたせいか、久々にマウスピースをつけ忘れて寝てしまった。
そのせいで、会社でやたらと体が重くて苦しかった。社会人1年目は毎日こんなんだったのか!と驚いた。
それにしても睡眠時無呼吸症候群とは、難儀な病気に生まれてしまったものだ。
ホント、気づいてもらえてよかったなーと思う。何も知らないままでいたら、大変なことになっていたに違いない。
よかったよかった、と思っておく。


2007.11.27 (Tue.)

もう一丁、見学に行ってみる。本日おじゃましたのは、昨日に比べるとずいぶんまっとうなスクール。
いかにもそれっぽい雰囲気が漂っていて、生徒たちからはとにかくしゃべりまくるぞーという気合が感じられる。

まずはネイティヴによるチェック。1対1で会話をするのだが、これがまあとにかくしゃべれない。
相手の言ってることはわかるのに、返答が頭の中に浮かんで、それを正確に英語にするのに手間がかかる。
正しい文法なども知っているはずなのに、しゃべるといっぱいいっぱいで、気づけば間違っている始末。
なんでここまで北条幻庵(→2007.8.16)なんだと自分でも呆れるほど。本当に、しゃべることだけができない。
「fluencyに大きな問題あり」と診断されて終了。わかっちゃいるけど、そのひどさにあらためて自分で背筋が凍った。

その後はスクールの特徴についての説明。途中で担当のおねーさんの上司と思われるおばちゃんも登場。
とにかく勧誘が積極的で、圧倒される。どうも英語がしゃべるようになるには、ある種の厚かましさが必要なようだ。
かなり長時間の説明を受け、本当にヘトヘトになりやっと解放される。当初の予定の2倍以上の時間がかかるとは……。
「説明を受けられるのはn 時までです」って期限を決めないとダメだったな、これは……と反省しつつ帰宅。即寝る。


2007.11.26 (Mon.)

今日は上司のお手伝い。ゲラに蛍光マーカーで線を7時間引き続けるという、
鳥肌実も真っ青の「単純作業のお出ましだ!」状態なのであった。たぶん明日も同じ作業を丸一日やると思う。

そんなインチキ仕事が終わると新宿へ。
通信教育の単位取得にある程度の見通しが立ったので、次の段階に進む準備をするのである。
思えば今年のスクーリングではまったく英語をしゃべれない苦痛を味わった(→2007.8.17)。
それを改善しないことには、お話にならない。そういうわけで、今週はアクティヴに動くのである。

で、英会話スクールの見学に行く。事前にネットの比較サイトなんぞを参照して候補を絞っておいた。
今日見学に行ったのは、かなり特殊な方法論を採用している学校。まずは方針について話を聞く。
要は日本人は英語をいちいち日本語経由で考えるからいかんのだ、という話。
確かにスクーリングのとき、言いたいことが日本語ではスカッと出るのに英語に直すのに時間がかかってしまい、
結局意思疎通ができないままで終わる、ということをイヤというほど経験しているので、納得はできる。
ただ、このスクールは今ある受験英語の知識を全否定するところからスタートするので、
それを受け入れるだけの度胸が必要になる(時間的余裕がないので)。経済的な問題が比較的少ないのは魅力。
僕の今までの経験とここでの勉強をうまく止揚できると面白いことになるかもしれないなあ、とは思う。
その後、実際に教室の様子を見学させてもらったが、完全に図書館の自習室って雰囲気。
応対してくれた人は「英語を使いこなすための“訓練”」と割り切っていて、その潔さが徹底されている。
このシステムと自分の努力でどこまで行けるものなのか。もうしばらく様子を見ながらじっくり考えることにする。

家に帰ってからは、次回の科目修得試験に向けて過去問の傾向分析。

ゆっくりとだが、確実に事態は動きはじめている。それは、長い目で見ればこっちにとって都合のいい方向に動いている。
チャンスというほどにはまだはっきりしていないけど、チャンスの萌芽を感じる。ならばそれを早いうちにつかむしかない。
日々孤独感に苛まれたり、甲府が降格したり、ヤクルト最下位、オシム倒れるなど、精神的にはズンドコの状態である。
(今年は自分の好きなもの、気に入っているものがことごとく振るわなかったり結果的に裏切られたりということが続いて、
 本来自分の力ではどうにもならない事態を、まるで自分の責任のように感じるという誇大妄想にやられかけている。)
まあでも今の自分に直接的にかかわっている状況について冷静に見てみれば、ほぼ完全に僕の読みが当たっている。
やっていることは間違っていないし、またそれが着実に結果となっている。ミクロな部分では順調極まりないのだ。
とにかく、あともうひと踏ん張りして、事態をこっちの思いどおりに一気に持っていく手立てを完成させないといけない。
客観的に見れば、自分が思っているよりは悪くない。なんとか前向きにがんばろう、と思いを新たにする。ホント毎日必死。


2007.11.25 (Sun.)

日記書いたどー。


2007.11.24 (Sat.)

「フランサのプレーを生で見てみたいな……」
そんなささいな考えがきっかけで、衝撃的な場面に立ち会うことになるとはちっとも想像していなかった。

Jリーグ・柏レイソルにフランサという選手がいる。「魔術師」と呼ばれ、トリッキーで独創的なプレーが人気で、
サッカー通というかJリーグをきちんと見ている人なら、たぶん必ず評価している選手である。
この人、かつてはブンデスリーガのレバークーゼンでポンテ(現・浦和)と一緒にプレーしていた。
2005年のシーズンに、J2降格を逃れるべく柏が獲得したことで来日。
柏は結局J2に降格してしまうが、なんとフランサはそのままJ2でプレーした。漢(おとこ)である。
そしてJ1に復帰した現在の柏では、1トップとして若手のストライカーたちを動かしまくっているのだ。
で、僕はそのフランサのプレーをどうしても見たくって、それで柏×甲府のチケットを取ったのである。
ところがその肝心のフランサは、練習中に骨折して今季絶望。ついてない。

さて、チケットを買ったのはいいが、甲府はなかなか思うように勝ち点をあげることができず、
ついにこの日、「負けたら降格決定、勝ってもJ1残留は他クラブ次第」という状況に陥ってしまった。
ヤバい。非常にヤバい。チケットを買ったときには「のんびり観戦モードで楽しむべ」と思っていたのだが、
もはやそんなヌルいことを言っていられないのである。初観戦から3ヶ月ちょっと、もうほとんどサポだ。

朝9時。自転車に乗り、いつもの東京駅~秋葉原ルートへと出発。そうなのだ、柏まで自転車で行くのだ。
かなりの小春日和でサイクリングにはもってこいの晴天である。こうなったらガッツリ乗ってやる、と気合十分。
柏まで行く道順は非常に単純。上野まで出たら浅草方面に東へ進み、そのまま国道6号の水戸街道を行けばいい。
ずっと広い道を行けるので特に困ることもない(千葉行きには歩行者・自転車に不利な道がけっこうあるのだ)。
確かに距離はあるけど、着実に行けば問題ないわけで、まだ見ぬ街に心躍らせつつ走る。

非常にいいペースで秋葉原周辺を通過すると、御徒町でメシを食う。それから言問通りで墨田区へ。
今年の6月には東京23区を走っているので、少し懐かしい気分になる(→2007.6.20)。でも季節はもう冬だ。
やがて葛飾区を抜け、千葉県に入る。本格的にこのルートで千葉県を走るのは初めて。新鮮である。
まずは松戸市。千葉大の園芸学部がお出迎え。走っても走っても松戸市で、市域の広さに呆れた。
ずーっと進んでいくと、武蔵野線が頭上の高架を行く。府中本町からここまで、よう走るなあ、なんて眺める。
そして流山市。起伏がけっこうあるけど、勢いで難なくクリア。するとすぐに柏市に入る。
水戸街道の車道は、さすがにかなりの交通量である。大型車もふつうの乗用車も、上りも下りも、どっちも多い。
でもきちんと幅のある歩道があるので非常に気分良く走ることができた。快適である。

正午のちょっと前に柏駅西口に到着。キックオフは14時だからまだ時間的な余裕はある。
「柏っつったら茨城の属国だよなあ!」なんて言葉が頭の隅っこに浮かんできて、それがぐるぐる回りだす。
で、次の瞬間には水戸街道をさらに北東へと進んでいくのであった。ネタにもなるし、利根川渡ったれ、と。

柏の先は我孫子。落ち着いた旧宅や農地や工場やスーパーマーケットや研究施設が混在する郊外の風景を抜ける。
そして平野の先に利根川が見えてくる。この平野が一面の農地で、「うわ、千葉だぁ!」と思った。
前につくばエクスプレスに乗ったときも、この利根川流域の平野の風景に圧倒された(→2006.8.26)。
農地以外には何もなく、だだっ広くって雄大。地平線なんて見るの、いつ以来だろう。
そしてそのまま利根川を渡る。流域面積では日本一の川は、まったく流れているように見えないくらい静か。
橋の真ん中で写真を撮ってたら行き来する車のせいで橋がちょっと揺れて、高所恐怖症が少し出た。
なんとかガマンして渡りきる。そして茨城県に上陸。まさか自転車でここまで来るとは。笑えてくる。

  
L: いかにも千葉っぽい農地が広がる景色。  C: 利根川。深い青緑色で静かに流れる。
R: 茨城県突入記念写真。東京の南端からここまで来るとは、われながら本当に物好きだなあと思う。

とりあえず取手駅まで行って茨城気分を満喫すると、来た道を戻って柏へ。
柏駅周辺の道路は東西の連絡が悪く(歩行者は駅ビルを通って簡単に行き来できるのに)、自転車は苦労する。
それで柏市役所のところで常磐線の東側に移動。そのまま日立柏サッカー場(日立台)を目指すことにした。

 
L: 柏市役所の第一庁舎。これは古い! いいとこ昭和30年代前半と見た。
R: 奥には第二庁舎。第一庁舎とは連絡通路でつながっていて、メインの機能はこっちに移っている。

大きな運動施設なら郊外につくって国道のバイパスみたいな広い道路でアクセスする、なんて光景が想像できる。
しかし日立台は違う。交通量はあるが狭い地元の街道をサポーターはトボトボと歩いていく。
すると突然、日立台公園という緑に包まれた空間が現れる。ホントに地元の公園って感じなのだ。
自転車で来た人はみんな公園の隅っこに規則正しく駐輪している。見習って僕もそうする。
人の流れに沿ってスタジアムへ向かう。すると、小さな神社のすぐ脇を抜ける。ものすごく身近なスケール感だ。
さらにちょっと歩くとサッカー場の入口。そこでチケットを提示して中に入る。
そしたら両チームがピッチ上で練習をしているところ。甲府サポも柏サポも気合十分。

ところで、この日記では表立って書かなかったけど、一時期、僕は柏レイソルを非常に嫌っている時期があった。
理由はあまりにも下らないことなので書かないが、まあともかく、J2降格を「ザマミロ!」と思っていたのは事実だ。
ところが柏はJ2で蘇った。それまでトラブル続きだったクラブとサポーターの関係が、180°変化したのだ。
「岡山、柏に家買っちゃえ」(レンタル移籍中の岡山一成に完全移籍での加入を望むゲームフラッグ。
その後「岡山、柏に犬飼っちゃえ」「岡山、3LDK」「岡山、庭には芝生」へと発展した)をはじめとする、
さまざまな魅力ある仕掛けをサポーターは展開し、クラブも腰を据えて改革を断行、その結果1年でJ1に復帰した。
戻ってきた柏はもはやケチのつけどころがない。たった1年でここまで魅力的なクラブになるとは。御見逸れしました。
そしてこの日立台はピッチと客席が非常に近いのだ。実際、来てみて僕も「これはいいスタジアムだ!」と思った。
日立台は選手とサポーターが互いに盛り上げあう空間となっていて、“日立台劇場”と呼ばれている。

 
L: もうあとがない。山梨県から駆けつけて必死の応援をする甲府サポ。
R: こちらはいつもどおりに日立台劇場を展開する柏サポ。演出上手すぎ。

試合開始前、どちらのサポーターも気勢をあげるのだが、まあ柏サポの演出の上手いこと上手いこと。
ここまでエンタテインメントのツボを押さえたものをサポーターが提供するとは。これには素直に尊敬する。
選手紹介が終わると、まずは『空手バカ一代』の替え歌『柏バカ一代』を斉唱。電光掲示板に歌詞が出る。
そして最後に『機動戦士ガンダム』のタイトルコール(各話の最初に入るアレ)をパロディ。
あの特徴的なBGM(というかSE?)をバックに、「宿命の出会い」とこの一戦のタイトルを読み上げる。
そう、2005年の入れ替え戦で柏をJ2に叩き落したのは、ほかでもないこのヴァンフォーレ甲府なのだ。
だからそのときと同じ日立台で、今度は立場が逆転してこの戦いを迎えるというのは、本当に宿命なのである。
さすがにこれには事情をよくわかっている甲府サポからも笑いが漏れる。日立台劇場、噂以上に面白い。
そして「俺たちゃ裸がユニフォーム!」と『アパッチ野球軍』のワンフレーズが流れると、
ゴール裏に陣取る野郎どもが名物の上半身裸になるのであった。つーかどんだけ懐かしのアニメが好きなんだ。

14時ちょい過ぎ、キックオフ。甲府は立ち上がりから攻めまくる。
まずは左サイドで茂原がドリブル。めちゃくちゃ上手い。スタジアム全体から感嘆の声が漏れる。
甲府はいつも以上に人を密集させてのショートパスを徹底。DFもセンターラインを越えてパス回しに参加する。
対する柏は、甲府対策でお馴染みとなったパスカット→カウンターを狙うべく、選手を分散させて配置。
柏は甲府のパスが切れると素早く展開して攻めに転じるが、甲府のDFが全力で追いつくのでチャンスを生かせない。
前半はしばらく、拮抗した試合展開となる。しかしややホーム有利なファウルの判定からFKが柏に与えられ、
そこから押し込んだ柏が先制。どうもこの一年、甲府は自陣ゴール前が混雑すると脆い場面が目立つ。

後半。甲府は攻める姿勢を強める。ハーフウェーラインより手前のフィールドプレーヤーは多くて2人、あとは攻撃参加。
GKは空いているスペースを埋めるためペナルティエリアより前に出ているという、超攻撃的な態勢である。
甲府に独特なのは、ボールを保持している味方選手と接触して走り抜けるというプレー。
ボールが走り抜ける選手に渡されているときもあれば、そのまま止まっている選手の足元に残っていることもある。
まるでアメフトのQBとRBのプレーを見ているようだ。そうして狭い空間内で圧倒的な数的優位をつくり、
相手の守備を崩していく。その足元の技術は本当にレヴェルが高い。こういうサッカーもあるのか、とあらためて感心した。
んでもってCKから押し込んで甲府が同点に追いつく。ゴール裏のヴォルテージは最高潮。完全に勢いづいた。
そこから選手交替でアルベルトが入ったときには、「これはもう絶対に勝った!」と思ったんだけどなあ。

ところがここからなかなかゴールを決められない。ポストに当たる惜しい場面もあったのだが、
甲府を勝たせない何か(審判以外で。この試合の審判はフェア……いやむしろどっちかっていうと甲府寄りだった)が
はたらいているような気がした。とにかく、本当についてないのだ。今シーズンずっとだけど、とにかくついてない。
そして84分、疲れて足の鈍ったDFが振り切られ、柏のカウンターが決まる。甲府側のスタンドが凍りついた。
今年僕の見た甲府は、積極的な攻撃参加の代償として、終盤にサイドバックが振り切られる場面がやたらとあった。
この試合は、華麗なショートパス、決定力不足、足が止まってカウンターを決められる、という、
今年の甲府を見事なまでに象徴する内容だった。そしてタイムアップの笛が鳴り、甲府のJ2降格が確定。
柏は2年前に自分たちを奈落の底に突き落とした相手を、同じ場所で奈落へと送り返した。

茫然とする甲府サポを尻目に、今期ホームでの最終戦だった柏は、戦力外が通告された佐藤由紀彦のセレモニー。
降格が決まったからには常識的には監督交代である。現在の大木監督は甲府サポから絶大な支持を得ているが、
さすがに辞任は避けられないかもしれない。そうなるとこのとんでもなく前衛的だけど魅力的なサッカーは、
もう二度と目にすることができなくなってしまうかもしれない。それは非常に悲しいことである。
J2で上位に行くには守備的にしてカウンターを狙う、というのが定説である。今の甲府のスタイルの真逆だ。
攻撃を貫いたままでJ1に復帰することはできるのか。守備重視に方針転換なんてそんなの到底納得できないし。
夕暮れの中、うーむとうなりながら自転車にまたがると、柏駅前に移動。

柏駅の東口に到着。実は柏駅は、日本で初めてペデストリアンデッキ(歩行者用の高架の通路)が設置された場所だ。
ペデストリアンデッキマニアには聖地なのだ。まあ、そんな人がいるかどうかは知らないが。
(Wikipediaには「日本のペデストリアンデッキ一覧」があって大いにたまげた。なんでも載ってるな、ホントに!)
で、駅ビルの中に入って驚いた。東急ハンズがあるのだ。「柏のくせに生意気だ!」とジャイアンっぽく思ってしまう。
それでしばらくプラプラしてみる。やはり素材などは弱いものの、2フロアあることもあり、品揃えは悪くない印象。
日立台劇場はあるし、ハンズもあるし、いろいろあっていいですな! ああもう悔しい!と思いつつ水戸街道を帰る。

 柏駅のペデストリアンデッキ。1973年、日本で初めてつくられたそうな。

うー悔しい。


2007.11.23 (Fri.)

久しぶりに大森でベーグルを食べながら日記を書いた。
先週はリポート提出強化週間だった関係でほとんど日記が進まなかったので、それを取り返さないといけない。
四国旅行があともう少しで終わる!というところまでこぎ着けていたので、そこを重点的にがんばる。

日記の内容には大物と小物があって、大物は旅行記やマンガ・DVDなどのレヴュー、
小物は仕事や勉強の雑記、あとは本当にどうでもいい一行コメントなどである。
大物に時間がかかるのはしょうがないので、覚悟を決めてしまえばそんなに苦痛ではない。
正確に言えば、苦痛なんだけどガマンできるというか。テンションで乗り切ってしまう、そういうものである。
しかし小物が積もってくると大変なのである。日ごろどれだけ小物をこまめに処理できているか、
それが日記をまとめていくうえで一番のカギなのである。「気が乗らねー」などと言っていてはいけないのだ。

あともう一歩で日記が実際の日付に到達する、そういう状況が長らく続いている。
一時期のことを考えれば、よくここまで盛り返してきたなあ、と自分で自分に感心してしまわないでもないのだが、
そんな暇があったらまだ書いていない分をなんとかしないといけない。ボサッとしていられない。
なんとかして今年じゅうに実際の日付に追いつきたい。勉強もあるけど、なんとかがんばりたい。


2007.11.22 (Thu.)

昨日レビューを書いた『都道府県庁舎』をふまえたうえでの、現時点での県庁舎についての総括をしてみたい。
実際に現地に行ってみて、そして本を読んでみて、「ああなるほど!」と思ったことを、気ままに列挙してみるのだ。

福島県庁舎(→2007.4.30)。実際に建物を目にして気になったのは、まず、取ってつけたようなモダニズム要素。
正面入口にはピロティが据えつけられ、向かって左側の偏った位置に時計の貼りついた塔が伸びている。
どうしてこんなふうになったんだろ、と思いつつ読んでみて納得。実際に見てみるとその経緯が実感できる。
福島県庁舎は昭和12年に着工するが、1階までつくったところで戦争の影響により中断することになった。
それで2階部分を木造でその上に載せる、というやり方で戦後までしのいだという。
そして工事を再開する際に県から「民主政治にふさわしく」という注文があり、従来の歴史的な様式を取りやめ、
現状のようなピロティにしたというのだ。塔ももともと中央につくる予定だったが、権威的にならないようにと端っこに移した。
それで今のような姿ができあがったのだそうだ。戦後の価値観の変化が直接ファサードに出た事例なのだ。

香川県庁舎(→2007.10.6)。昭和33年竣工で、この庁舎は前年に竣工した旧東京都庁舎が伏線になっているという。
旧都庁舎の設計ももちろん丹下健三で、「シティ・ホール」という概念を導入して庁舎建築にモニュメント性を持たせた。
このモニュメント性は、従来の庁舎建築が古典的な様式によって威厳を持たせたのとは対照的に、
モダニズムを下敷きに民主主義における社会性を大いに取り入れることで建物に意義を持たせた点が革新的だったのだ。
そういう事実をふまえると、その後の丹下が新都庁舎で提起したモニュメント性とはなんぞや、と考えるのもまた一興。
とりあえず、香川県庁舎は旧東京都庁舎をさらに絞り込んだ完成形とみることができるようだ。
この一連の庁舎建築が与えた影響というのも、もうちょっとマジメに勉強していかないといけないところではある。

高知県庁舎(→2007.10.8)。岸田日出刀による設計で昭和37年竣工。
倉吉市庁舎(丹下健三と共同で設計)での木造を連想させるやり方を継承している、とのこと。
行政棟の延長線上の位置に議会棟が似たファサードで建てられていたのだが、これには理由があるという。
それは広小路から高知城の天守を見たとき、建物が邪魔にならないように、議会を離してあるのだそうだ。
現地で実物を見た際にはそっちの工夫にまったく気づかなかった。まだまだ修行が足りないなあ、と思わされたエピソードだ。

沖縄県庁舎(→2007.7.22)。設計したのは黒川紀章だそうで、言われて初めて「へえーなるほど」と思った。
竣工時期は宮城(平成に入って初の県庁舎)と新都庁舎の間ということで、かなり新しい部類に入る。
単純オフィスとモニュメント性のちょうど中間のバランスを保っている印象の建物になっている。
今後の庁舎建築の行く末を占ううえで、平成初期の事例としてけっこう重要な存在となるのかもしれない。

あとは千葉県庁舎(→2005.11.3)が、僕の日記ではろくすっぽ調べもせずに写真を2枚撮っておしまい、となっているので、
近いうちにきちんとしたリベンジが必要かな、と思っている。行くのが大変だけど、運動がてらがんばるとしよう。
そして、ぼちぼち栃木県庁舎(→2005.11.13)の新しい建物ができあがる頃だと思うので、こちらもリベンジしたい。
山梨県庁舎(→2005.9.24)も、ヴァンフォーレ甲府の応援がてら再チェックに行きそうな気がする。それもまたよし、だ。

まあそんなわけで、マジメに勉強すればするほど、まだまだ自分に足りない点があるのを痛感させられる。
この本を読んで新たに得た知識を確実に消化するように心がけつつ、次の旅を準備するとしましょう。


2007.11.21 (Wed.)

石田潤一郎『都道府県庁舎 その建築史的考察』。通信の勉強も一段落ついてやっと読み終えた。

建築史の博士論文をもとにした本なのだが、建築そのものと同等に、それが建設された経緯を追っている。
こういうのを見ると「なんだよ、オレが学生時代にやってたことって建築学科でもできたんか」と思う。
しかし内容は実に深いところまで調べられている。江戸時代が終わって明治になるまでのその隙間から始まり、
その後の中央政府と地方自治体との関係性を背景にしながら、すべての都道府県庁舎を扱っているのだ。
どれだけ膨大な量の資料を相手にしたのか、あるいはどれだけ資料の欠如に泣かされてきたのか、
想像することすらできない。まあとにかく、まさしく「都道府県庁舎研究の決定版」と呼べる内容になっている。

本の内容と同じように、こちらも時代の順を追っていろいろ書いていきたいのだが、
まず最初のところでややこしくってつっかかる。廃藩置県の前後のややこしさである。
注意しておきたいのは、スパッときれいに江戸時代の藩から県へ切り替わったのではなく、段階を経ている点。
明治になっても初めのうちは藩という単位は残っていて、廃藩置県直前で3府45県261藩という数字になっている。
そういうドタバタの中でも庁舎は建設されている。政府は費用の1/3を出し、残りは「民費(府県もちということ)」と決めた。
その後は財政再建と中央集権化促進のために政府の締め付けが厳しくなっていく。
そして明治4年、廃藩置県と「県庁建坪規則」の制定があり、以後はこれをもとに庁舎が建設されることになる。
面白いのは「規則」制定前の庁舎である。完全に和風建築であり、平面図も立面の写真も「奉行所」のイメージだ。
平面図では、「訴所」と白洲(砂利間)がセットでつくられているのが目を引く。『大岡越前』の世界を引きずっているのだ。
考えてみれば当時の日本に「三権分立」という概念は存在しない。つまり、司法と行政が一体となっていたのだ。
その後、庁舎建築は立法を内部に盛り込みながら、司法を独立させることとなる。
その前の段階が実際に空間として現れていたのを見て、なるほど!と思わされた。

「県庁建坪規則」以後の庁舎建築は、和風建築と擬洋風建築のせめぎあいとなる。
その中で筆者は、椅子の普及が決定打となって庁舎の洋風化を促進した、と主張する。面白いが、納得できる視点だ。
そして和風でないこと(≒擬洋風建築)は、新しい政治のイメージとその建物の堅牢さにより、港町から全国へと広がる。
明治7年以降は、地方行政の進展にともない人員が増えたことで庁舎建築は大規模になり、「規則」が空文化。
そして明治9年に「府県庁舎一切新営費標準例」が制定されて、洋風志向が一気に強まることになる。
明治10年代の庁舎はほとんどが2階建てとなり、これもまた洋風化の影響を指摘することができるという。
また特にこの時期、明治12年竣工の内務省寮局庁舎がその完成度の高さからあちこちの庁舎で参考にされている。
しかしその一方で坪単価の工費を指示する「標準例」を意識しつつ、自由な擬洋風建築も建てられていった。

明治20年代に入ると、専門の教育を受けた建築家が庁舎建築に参加していく。
明治27年には妻木頼黄による東京府庁舎が完成し、以後の庁舎のモデルケース扱いをされるようになる。
さらに兵庫・京都の庁舎(どっちも現存、兵庫の事例はこちら →2007.2.13)で、その手法が一般化された。
ここに、僕らが「明治期の古い庁舎建築」というフレーズで想像するような煉瓦造りの建物のパターンが確立されたのだ。
そして日露戦争から第二次大戦に至るまでにはほぼ1年に1件のペースで庁舎が建設されていく。
この時期のものは現存しているものがけっこうある。実際に現役の庁舎のままでがんばっている建物も多い。

戦後の庁舎建築は、昭和30年代まではコンクリートによるモダニズムが日本中を席巻する。
しかし昭和40年代以降は新規の建設が急激に減り、またいかにもオフィスらしい建築となっていく。
そしてこの本が出版された1993年以降は、また少しずつ新規の県庁舎が建設されてきているが、
僕が実際に訪れて見た限りでは、「組織事務所が無難につくりました」的なものばかりとなっている。
もっとも、丹下健三が新宿で巨匠の執念を見せつけたり、黒川紀章が沖縄でちょっと大胆にやってみたりという例もある。

この本(論文)は、それまでの研究があまり見てこなかった、明治期の庁舎建築について掘り下げている。
それは徹底していて、主に予算面からのアプローチが効いていて、独特な説得力を持った内容になっている。
とはいえ、対象が広いだけに、どうやってもわかりやすくまとまったものにはならないのも確かで、
個人的な欲を言えば、もうちょっとパンフレット的というか図鑑的なまとめ方にチャレンジしてほしかった気もする。
先行研究があるからという理由で昭和以降はかなりの駆け足となっているのが少々残念。欲を言えばキリがないが。
まあとにかく、これだけの内容をやりきっただけでもすごいことである。拍手拍手。


2007.11.20 (Tue.)

今日はフル回転で仕事をした。
そう書くと、普段がフル回転でないような印象を与えるかもしれないが、いつも以上に超フル回転だった。
データが膨大で整理に手間取っていた建築の本を完全に印刷所送りにし、
さらに半年ぐらい進んでいなかった数学の本を、ついに印刷所に戻した。どっちも大仕事が完了したのだ。
これだけみっちり仕事したんだからご褒美に早退してよし!とかならんかなあ、なんて思いつつ次の仕事。
今週は勤労に感謝しなければならない日があるので、平日が4つしかない。ラッキーである。
あと2日、どうにか乗り切ってのんびりと休みを満喫させていただくとするかね。


2007.11.19 (Mon.)

前回のテストを受験した4科目とも、無事に単位が取れたことが確認できた。
ただ成績的に納得のいかない科目もあった。単位が来たからいいじゃんと思う反面、やはり釈然としない。
ともかく、これで必要な単位の大部分を確保したことになる。油断はできないが、ヤマ場は越えた。

昼休みに今期最後のリポートを提出したこともあり、本日は超だらけるのである。
家に帰ってくると、さっそくゲーム。昨日、新宿で『カプコン クラシックス コレクション』というソフトを買った。
これは以前PS1で出ていたCAPCOMの名作ゲーム集(1~5)をひとつにまとめただけでなく、
新たに6タイトルを追加してPS2で発売したというシロモノなのである。今頃その存在に気がついた。
で、その追加されたものの中に『フォゴットンワールド』とか『ファイナルファイト』があるのだ。
そんなゲームを2000円足らずで楽しめるというのは、いい世の中になったというか、むしろ切ないというか。
まあそういうわけで、さっそく遊んでみるのである。

まず『フォゴットンワールド』。これはCPシステム第1弾の『ロストワールド』を家庭用に移植したもの。
業務用ではローリングスイッチという特殊な操作系が用意されていたが、PS2ではLボタンRボタンを使う。
内容としてはシューティングゲームなのだが、主人公の名無しの超戦士がデカく、当たり判定がきつい。
そして何より360°あらゆる方向から敵が攻めてくるのでぐるぐる回転しながら攻撃しないといけない。
慣れないとこれがもう本当に難しい。マトモにクリアできる気がしない。コンティニューの繰り返し。
でも独特の世界観が興味深い。ステージグラフィック、音楽、そしてボスが雰囲気たっぷり。
それを見ているだけでも十分面白い。ただ、クリアデモでの名無しの超戦士のセリフは腰くだけ。

そして『ファイナルファイト』。CPシステム第7弾のアーケードゲームだが、爆発的な人気を博した。
それでカプコンがSFCに参入する際の目玉タイトルとなった(ちなみにコナミは『グラディウスIII』だった)。
SFCではガイと4面が削られて2人同時プレイもできなくなるという縮小ぶりを余儀なくされたが、
さすがにPS2では完全移植されているので、ものすごくノスタルジックな気分になりつつプレー。
ソドムを倒したところでとりあえずやめる。もうあれから20年近く経っているというのが怖い。

その後はこないだ潤平からもらったものをパソコンで起動してしばし楽しむ。
操作するときに微妙なズレを感じるのは気のせいか。まあ贅沢言っちゃいけないやね。遊べるだけ幸せ。

ゲームに飽きたので借りてきたCDを聴きまくる。聖飢魔IIの最後の黒ミサ音源を聴いたのだが、
2枚目のディスクのテンションが凄いのなんの。難しい曲をめちゃくちゃ速いテンポで演奏する。
各構成員の演奏がキレているのはもちろんのこと、サポートのキーボードが絶妙な盛り上げ方を見せていて、
スタジオ録音とはまた違う完成度の高い曲を聴かせてくれてたまらない。聴いているだけで体温が1~2℃上がる感じ。

あとはFantastic Plastic Machineをチェック。FPMについてはいちおう、アルバムを押さえている。
ただ全面的に支持というわけでなく、比率としては各アルバム収録曲のうち半分くらいが「いいねえ」といったところ。
その辺の取捨選択をあれこれ考えてみる。iPodが飽和状態だからなんでもかんでも入れられるわけではないので。

そんでもって音楽を聴きながら風呂に入り、風呂上りにはおやつをいただく。
これで旅行の計画でも練れば最高に楽しいところだが、さすがにそれは自粛。

久しぶりにのんびりまったりした夜である。たまっている日記を書いていくのは明日以降ってことで。


2007.11.18 (Sun.)

僕も潤平も小学校の頃からロックマンが好きで好きで大好きで、いまだに大好きっ子なのである。
(詳しい話は何度か日記に書いている。→2001.5.92002.10.302007.7.11
そしてロックマンシリーズは今年で20周年を迎えるということで(つまり初代ロックマンから20年。ひえー)、
その記念イベントが池袋のサンシャインシティで開催されたのである。
私が長男ということで、マツシマ家を代表して謝罪会見……じゃなかったイベントに行ってまいりました。

朝9時、自転車にまたがって家を出る。背中にはFREITAGのBONANZAを背負う。
山ほどグッズを買い込んでやるぜ、と鼻息荒く環七と山手通りを突き進んで池袋へ。
椎名町の高架が相変わらず工事中でムカつきつつも、10時ちょい過ぎくらいには会場に到着。
予想よりも人が多くいて、ロックマンの人気を実感。世代は僕らと同じくらい~大学生くらいが多い。

  
L: ロックマン20周年記念イベント会場入口。  C: ケースに入って展示されるFCソフトのパッケージ。
R:展示会場はわりと混んでいた。写真はグッズを買うために並ぶ人々。これでもだいぶ減ってきた状況と思われる。

展示されていたものの内容は大したことがなく、見ても見なくても一緒なようなものばかり。
それをケータイのカメラで必死に撮影している来場者の姿を見て、自分の冷め具合について考える。詳しくは後述。

さてこのイベント最大の目玉は、たぶんみんなそうだったと思うが、ロックマン20周年記念グッズの販売である。
タオルマフラーにウィンドブレーカーにマグカップにぬいぐるみに、さまざまな新製品が会場限定で売られるというのだ。
それでグッズ販売スペースに行ったらすごい行列。あらためてロックマン人気に閉口。
そしたら係員が「本日のグッズ販売の受付は終了しています!」と拡声器で叫ぶ。はぁ?
まだ10時半にもなっていない。開場は9時で16時くらいまでイベントをやるはずなのに、なんだそれは?
様子を探ると、いま並んでいる行列のさらに奥に、もっとすごい行列があるという。
別の係員の話では、開場前にとんでもない人数が並んだとか。それで早くもこの時間に販売終了宣言。
「予想を上回る集まりようで……」という、絵に描いたようなかっこ悪い大人の言い訳が聞こえてくる。
結局、BONANZAの中にグッズが入ることはないのだった。潤平にお使いを頼まれていたけど、釈明のメールを送る。
楽しみにしていたグッズが買えないとなると、一気にモチベーションが下がる。
あらためて会場をひとまわりすると、さっさと撤退。いったい何のために来たんだかわかりゃしない。

僕のようなオールドファンにしてみれば、エグゼだとかゼクスだとか流星のロックマンだとかは邪道もいいところだ。
ロックマンといえば青と水色でロックバスターでDr.ワイリーなのだ。
しかし現在のカプコンでは、上記のような派生シリーズが主力と位置づけられており、そこに大きな齟齬がある。
例えてみれば、シーア派とスンナ派以上の差がある感じ。「ロックマンに似て非なる物」が大きな顔をしているので困る。
このイベントでは元祖ロックマンに関する展示は極めて少なかったし、派生シリーズばかりが目立っていた。
派生シリーズを正当化するために、本来別モノのはずの元祖をダシにしている……っていう表現が言い過ぎに思えない。
オレが祝いたいのはFCのロックマンなんだよ! 変なの混ぜんなよ! 原理主義者ナメんじゃねーぞ!

まあそういうわけで、ひとつも満足感を覚えることなく15分ほどで会場を後にした。

池袋をブラつき新宿をブラつき日記を書き、家に帰る。
ところで本日は甲府の小瀬陸上競技場で甲府×大宮というJ1残留を賭けた裏天王山とも言うべき試合があった。
結果はスコアレスドローということで、どうせ大宮がガチガチに守った試合だったんだろうと思う。がっくりだ。
攻撃サッカーを貫くクラブがJ1から消えて、個性というものをあまり感じさせないクラブがJ1に残るのは納得いかない。
甲府は本気で後がない状況になってしまった。ああもう本当にきつい。どうにかなってくれよ、もう。


2007.11.17 (Sat.)

久しぶりに自転車をこぐ。

朝のうちに自由が丘にCDを返しに行って、そのまままた新たにCDを借りてくる。
そんでもってその間に洗濯を済ませておくと、パソコンとテキストを持って再び自転車にまたがる。

まず都立中央図書館でテキストの参考図書をチェックする。
テキストの内容はまったくまとまっていなくて何が言いたいのかまるで理解できなかったのだが、
参考図書と記述が重複している箇所があり、なるほどなるほど、となる。
おかげで当初の予想よりも多少はマシなリポートになりそうだ。

今日はめちゃくちゃ寒かった。ブルゾンをぴっちり閉じて、2月に江坂ハンズで買った帽子をかぶって走る。
久しぶりに秋葉原でゲームミュージックCDでも見てみるかーと思って自転車をこいでいく。
東京は、次から次へと街が連続していて面白い。走っていて本当に飽きない。

秋葉原に到着するとメシを食らい、CDを見る。
掘り出し物なんて滅多にあるわけじゃないから、様子を探っておしまい。でもやっぱりお金持ちになりたい。
それから近くの喫茶店で日記を書く。四国日記、ようやく1日分だけ進む。すっかり時間が経ってしまった。
その後、貯まっていたポイントを使って『幕末太陽傳』(→2005.10.22)のDVDを購入。ついに買ってしまった……。

帰りは目黒通りを行き、久々に二郎でラーメンを食べる。開店前に並んだのは初めてだった。
で、家に戻ると借りてきたCDをMP3化しつつ日記の内容にチェックを入れていく。
一段落ついたところで勉強にスイッチする予定。さっさとリポートを書き終えようっと。


2007.11.16 (Fri.)

オシムが倒れたとは、信じたくないニュースだ。いったい代表はこれからどうなってしまうのか。
代わりのいない存在だけに、これは本当に困ったことだ。ああもう、本当にイヤだ。運命は残酷すぎる。


2007.11.15 (Thu.)

仕事をしていて、ふと卓上カレンダーをめくってみて唖然とした。
あまりに驚いたのでカレンダーを家に持ち帰って撮影してみる。

 
L: 今年1月の仕事の状況。  R: 今月の仕事の状況。

それぞれの本ごとに色分けして書き込んでいるわけだけど、ここまではっきりと差が出ているとは。
思えば今年の初めには極端にてんてこ舞いになっていたんで、比べる相手が悪いのかもしれないけど、それにしても。
勉強のことを考えると非常にいいことではある。でも、こんなにもハッキリと形になって現れると、
それはそれでどうよ、と思ってしまうのである。


2007.11.14 (Wed.)

17時も過ぎてさあ帰ろうかと思ったら、「マツシマさん、給湯室にうなぎがいますよ」。……うなぎ?

行ってみたら、ホントにうなぎがいた。
といっても生きているわけじゃなくて、うな重の残り物が今まさに捨てられんとす、というところ。
「もったいないから食べて。みんな晩ご飯にはまだ早いって言って食べないの。捨てるのももったいないでしょ?」
はいそうです、もったいないです。ということでガッツリいただいた。
マジメに仕事をすれば腹が減るに決まってるじゃないか。食えないなんてありえないぜ、軟弱者どもめ。
そういうわけで、うなぎはおいしゅうございました。今後とも食料の処理係はこのマツシマにお任せを。


2007.11.13 (Tue.)

マンガって面白いなあ、とつくづく思う。
日本人は、マンガの民族だと思う。3年前に京都国立博物館に行って絵巻物を見て、そう思った(→2004.8.6)。
映画だとか小説だとか、ストーリーを伝えるメディアはいろいろあるけど、日本において最も活発で、
なおかつ最先端の内容を扱っているのは、まちがいなくマンガだと思う。
実際、ほかのメディアに展開しているものでも、マンガが原作のものがどれだけ多いことか。
一時期、日本において「マンガは悪である」と決めつけられていたのは、その破壊力を恐れてのことではなかったか。
すべてのほかのメディアを駆逐してしまうことが恐れられ、不当な差別を受けていたのではないか。
……なんてことを考えてしまうほどに、現代の日本においてマンガっていうものは大きな存在となっている。
というわけで、今日は会社帰りに喜び勇んでマンガを買ってきたので、そのレヴューを少々。

『のだめカンタービレ』。発売日に買ったよ19巻。ここんとこ禁断症状が出ていて大変だった。
潤平がオススメしてくれて、ソッコーで既刊をぜんぶそろえて、そしたらあっという間に社会現象になってしまっていた。
キャラクターにしても扱ってるテーマにしてもその描写にしても、ここまで見事にツボを押さえられたらぐうの音も出ない。
今回は久しく出番のなかった人物が登場し、初期のドタバタな雰囲気を持ち込んでくれて非常に楽しい。
ああもう本当にこのマンガいいわ。たまらんわ。

綱本将也/ツジトモ『GIANT KILLING』。
本屋のマンガコーナーで平積みになっていて、1巻が立ち読めるようになっていた。
「あ、サッカーマンガか」と思って手に取ったら、これが面白かったので衝動買い。僕には非常に珍しいことだ。
かつて名選手と活躍し、現役引退後はイングランド5部のアマチュアチームの指揮を執っていた男・達海猛(35)。
古巣である弱小クラブでGMを務める友人に請われて帰国し、監督に就任してはてさて、という話。
キレ者が奇策を打ってビッグクラブを倒していく、というのがおそらくストーリーの基本線になると思われる。
現段階ではまだまだ序盤。これからの魅力ある展開が大いに期待されるところである。
感心したのがその奇策(実際には極めて論理的に感じられるのがよい)の面白さと、絵の上手さ。
特に後者はかなりのものだと思う。やや太めの線で描かれた絵は、マンガというよりもイラストのそれである。
しかし構図をきれいにとっていることで、ものすごく見やすくなっているのだ。コマの流れとして違和感がない。
特徴的なのは広角の視野を大胆に取り入れているところ。ピッチやスタジアムの地面が凹面に曲がっていて、
それが空間の広さを自然に感じさせてくれる工夫になっている。これはけっこう、新鮮なやり方だと思う。
ストーリーは少年マンガ的な単純さを抱えていて、もしかしたら今後、その単調さがネックになるかもしれない。
その懸念をどうやって覆していくか、非常に気になる作品だ。どんどん面白くなっていってほしい作品。

じっくりといろんなマンガに目を通す時間がほしい。面白いマンガを読みまくってもっと賢くなりたい。


2007.11.12 (Mon.)

ネタがない。
最近、ネタがない日の日記は、「人生がんばるぜ」系か昔話の二択になっている。引き出しの少ない男である。
でもいつまでもそればっかりじゃつまんないので、そのどっちにも属さない内容でなんか書いてみることにする。

大学で都市社会学を専攻していた者としての視点から、サッカーについて書いてみることにしよう。
こないだマサルから「最近になってマツシマくんの日記にはサッカーの話題が増えた」と指摘されたけど、
それはしょうがないことだと思っている。だって、今、日本はゆっくりと、でも確実にサッカーに包まれているから。
この列島は徐々に、サッカーから逃げられなくなってきている。大げさな表現だけど。

僕はもともとサッカーに興味のない人間で、『キャプテン翼』は読んでいるぞ、という程度のお付き合いなのであった。
1993年のJリーグ開幕は、かなり冷めた目で見ていた。流行に乗ってオーレーオレオレオレーってのがみっともなかったし、
このとき、僕の興味は完全にプロ野球・ヤクルトスワローズに集中していたから、というのもその理由である。
でもサッカー日本代表への注目も集まっており(なんせ「ドーハの悲劇」の翌年だし)、ノーチェックというわけではなかった。
で、ひねくれ者の僕はサッカーに対してどういう興味の持ち方をしていたのかというと、
Jリーグに入れずにJFL(当時はJFLが2部に相当した)でがんばっていたヤマハ発動機をちょっと応援していたのだ。
(なお、Jリーグのチームでは、あまりに弱かったんで判官びいきで浦和を応援していた。消去法である。
 初勝利した日のニュースで安藤優子に「あの浦和レッズが勝ちました」と言われたのを今でも覚えている。)
当時のヤマハ発動機はJFLながら日本代表の選手を2名出していた。中山と吉田である。中山は……そう、ゴン中山。
だから今も現役でふんばっている中山には、少々特別な思い入れがあるのだ。
で、その後「ジュビロ磐田」と名前を変えたヤマハ発動機の快進撃は知ってのとおりである。
それでひねくれ者の僕は、あまりにジュビロが強すぎるんで、やっぱりサッカーへの興味が薄れていったわけだ。
おかげでいまだに僕の中での「ジュビロの10番」は、藤田俊哉でも成岡翔でもなく、ファネンブルグなのだ。参ったか。
(飯田市にわりと近い駒ヶ根市は磐田市と友好都市にある関係でジュビロを応援していた。少しうらやましかった。)

1996年。僕は名古屋で浪人生をやっていた。当時は「ピクシー」ことストイコビッチの全盛期で、
そりゃもう名古屋でのピクシー人気はたいへんなものがあり、あちこちで関係する記事なんかを見かけたものだ。
しかもまた当時の監督はアーセン=ヴェンゲル。低迷を続けていた名古屋を前年の天皇杯で優勝させ、
「知将」として日本国内でその存在が大いにクローズアップされはじめた時期でもあった。
そういうわけで、サッカー音痴の僕でもさすがに街に漂う情報量に圧倒されていたのである。
しかしながら、何もない田舎に越境して進出してくる名古屋文化に小さい頃から辟易していたこともあり、
中日ドラゴンズ同様、名古屋グランパスのファンになるということはまったくなかった。

そしてここから本題に入る。浪人中、地理論述にハマっていたことは以前にも日記に書いたけど(→2007.6.29)、
その中の練習問題のひとつに、日本の工業地帯とJリーグのクラブ(オリジナル10)の位置関係を扱ったものがあったのだ。
プロ野球は基本的に企業の持ち物で大都市にフランチャイズが置かれる、という構造しかないのだが、
Jリーグの場合、そういうケースにあてはまらないクラブが多く存在している。
オリジナル10(Jリーグ開幕時・1993年シーズンの10チーム)を見てみると、

鹿島アントラーズ……住友金属
浦和レッドダイヤモンズ……三菱自動車
ジェフユナイテッド市原……古河電気工業+JR東日本
ヴェルディ川崎……読売クラブ
横浜マリノス……日産自動車
横浜フリューゲルス……全日空+佐藤工業
清水エスパルス……なし(母体のない純粋市民参加クラブとして発足)
名古屋グランパスエイト……トヨタ自動車
ガンバ大阪……松下電器
サンフレッチェ広島……マツダ

ということで、当時「読売ヴェルディ」と名乗りたくて仕方のなかった川崎と新たに創設された清水以外は見事に、
メーカー企業のサッカー部を母体とするクラブなのである(よく考えたら全日空も違うが、機械いじるし、まあいいや)。
そして肝心の立地をみても、茨城から東京湾沿岸~東海~大阪と、太平洋ベルトとの関連が深い。
鹿島・市原など、規模が大きくて知名度の高い都市を必ずしも本拠地としていない点も目立つ。
ポイントとしては、首都・東京に本拠地を置くクラブが存在しなかったことが挙げられる。
東京の郊外にある工場、そこのサッカー部がプロ化したことが、事態の本質というわけである。
論述の問題ではこれらの点を突いて書いていけばよかったわけだ。
本場イギリスでもそうだが、サッカーは労働者階級のスポーツなのである。そしてこの傾向はしばらく続く。

1994年 ベルマーレ平塚……フジタ工業  ジュビロ磐田……ヤマハ発動機
1995年 セレッソ大阪……ヤンマーディーゼル  柏レイソル……日立製作所
1996年 アビスパ福岡……中央防犯  京都パープルサンガ……京都紫光クラブ
1997年 ヴィッセル神戸……川崎製鉄
1998年 コンサドーレ札幌……東芝

京都を除けばどこも企業のサッカー部が母体である。特筆すべきは福岡と札幌で、自治体の誘致に応じて移転した。
つまり「地元の工業都市でプロ化するサッカー部」のほかに、「大都市に移転してプロ化するサッカー部」が出てきたのだ。
この背景にはもちろんJリーグの人気定着がある。もっともこれには「Jリーグバブル」と形容される側面もあり、
横浜フリューゲルスの合併消滅という悲しい事件も発生している(1998年)。
そして1999年にはJリーグが2部制に移行。新たなクラブが大量にJ2に参入した。

ベガルタ仙台……東北電力
モンテディオ山形……NEC山形
大宮アルディージャ……NTT関東
FC東京……東京ガス
川崎フロンターレ……富士通
ヴァンフォーレ甲府……甲府サッカークラブ
アルビレックス新潟……新潟イレブンSC
サガン鳥栖……PJMフューチャーズ
大分トリニータ……大分フットボールクラブ

Jリーグは地域密着・親会社からの脱却を旗印に運営を続けていたのだが、
甲府・新潟・大分の存在から、ここにきてそれが非常に明確に形になってきているのがわかる。
山形の場合は、もともと企業のサッカー部だったチームを社団法人によって運営するという特殊なスタイルをとっている。
これもまた、自治体側が積極的になってきたことの現れと考えることもできるだろう。

2000年 水戸ホーリーホック……プリマハム+フットボールクラブ水戸
2001年 横浜FC……なし(横浜フリューゲルスのサポーターにより創設)
2005年 ザスパ草津……リエゾン草津フットボールクラブ  徳島ヴォルティス……大塚製薬
2006年 愛媛FC……松山サッカークラブ

水戸では廃部される企業チームがアマチュアと合併してプロ化。
徳島や愛媛の例では、企業がプロクラブ化に応じないことで自治体・市民が動く、というパターンがみられる。
(徳島は最終的に企業がクラブ化し、愛媛ではアマチュアクラブがそのままプロ化に突っ切った。)
そして岐阜と熊本にも来年からJ2に参加するクラブがあり、今やクラブの存在意義は15年前から明らかに変化している。
この日記は正月休みに実家で書いたのだが、長野県のスポーツニュースを見ると、松本山雅FCの記事が目立つ。
サッカー不毛地帯の長野県ですらJリーグ入りを目指すクラブに注目が集まってきているわけで、
全国的な目で見れば、本当にものすごい勢いで「地域のクラブ」が増加しているのだ。

企業の部活からはじまったサッカーは、今は地域振興の目玉となって全国各地で活発化している。
リョーシ氏は岡山に帰省した際、ファジアーノ岡山の盛り上がりぶりに驚いたという(来期からJFL入り)。
実際にあちこち旅をしてみると、地元にクラブをもっている街には独特の活気があるのだ。
まだ盛り上がりが不十分な街もあるが、「ネタ」があること、「材料」があることはそれだけで武器になる。
そしてもし一度、最高峰であるJ1の味を覚えてしまうと、J1から降格することの恐ろしさを痛感することになる。
そうやって「熱」は伝播していく。それぞれの地域で昇格を目指す争いが本格化していったとき、
どれだけ全国の街は熱くなっていくのだろう。そしてそれぞれの街はどれだけ個性を深めていくのだろう。
繰り返すが、この列島は徐々に、サッカーから逃げられなくなってきている。


2007.11.11 (Sun.)

circo氏が上京してきた。酒に酔って転んで手を骨折したということで、いまだに包帯が痛々しい。
昼メシを潤平と3人で食べることになり、大岡山でちょっと奥まった位置にある中華料理屋へ。
潤平からは、いろいろとオススメのマンガの情報を仕入れる。なんとか暇を見つけて読んでみたいものばかり。
あとは「X(X JAPAN)聴いとけ」と言われる。僕はTOSHIの声が異常に苦手なので避けていたのだが、
まあ人から薦められたものは極力味わうことをポリシーにしているので、いずれがんばることにする。

食べ終わるとcirco氏は友人に会いに行くということで、すぐに解散。
そのまま僕はリポート対策の勉強になだれ込むのであった。あともう少し、がんばらんとね。


2007.11.10 (Sat.)

床屋行って下関の日記書き終えてこれから勉強しまーす。

下関旅行中に「ぼくはみんなの書記係!」と言ったら、みやもりに「ホントにそうだ」と認定された。
みんなで過ごした報告・公式記録という要素があるので、四国よりも下関を優先して書いたのであった。
おかげで四国日記まで手がまわらない。旅行記はなるべく間隔を空けたくないのだが、思うようにいかない。
旅行記をいかにスムーズに素早く書きあげられるかは、今後もついてまわることになる課題である。
いいかげんスパッと書けるようになれよ自分、と思うけど、まだまだダメである。精進あるのみ。


2007.11.9 (Fri.)

二次創作としての大長編ドラえもん(というテーマで書こうと思ったのにあらぬレヴェルまで話が進んだの巻)。

まず最初に、「創作」という行為について思うところを書いておく。
「創作」とは、世界観の構築である。自分がこの世界をいったいどのようなものとして眺めているか。
それをひとつの完結したパッケージとして提示したものが、「作品」である。「創作」の結果、「作品」が生まれる。
ややこしいけど、「作品」とはあくまで、作者が自らの世界観(=現実の眺め方)をミニチュアにして提示したものである。
だから現実はひとつしかないけど、それを手頃なサイズで再現した「作品」は複数生まれうるのだ。
現実と同じサイズでつくられて、実際に現実に干渉するようになると、それは「宗教」と呼ばれる。
だから「宗教」には「創作」の匂いが残っているけど、それはもはや「創作」ではなくなる。「生活」になってしまう。
「創作」された「作品」は手軽に楽しまれるものだ。一瞬だけ自己の現実から離れることのできる時間・空間が与えられる。
しかし優れた「作品」は、自己の現実へと戻ってきたとき、それを切り開く武器をお土産にくれる。
そのお土産の切れ味によって、「作品」の価値が決まる。――以上が僕の基本的な考え方になる。

「二次創作」というのも不思議な言葉である。「創作」についてはすでに書いた。では「二次」とは?
それは、すでに創作されたもの(=「一次」)をベースに、さらに「創作」を加えたもの、ということになる。
すでに誰かが創作したところに勝手に継ぎ足すわけだから、「二次創作」は基本的に高い評価を得られない存在である。
逆を言えば、「二次創作」が生まれるということは、「一次」の「創作」が成功していることが必要になる。
それゆえ、「二次創作」を観察することでオリジナルの「作品」を評価するということは、まちがいなく可能である。
現代においてそれがシビアに現れる場として、たとえば同人誌の販売会場やネットなんかが存在していると思われる。
そしてこのような「二次」の特性は、もうひとつ、公的な「一次」と私的な「二次」という境界線が引かれることを意味する。
公的な「一次」に飽き足らない人々がそれぞれ、私的な「二次」で補完を試みるという構図がそこにはある。
もちろん、高い評価が得られないことは最初からわかっている。しかしそれでも、「二次創作」は生まれてしまう。
「一次」の「作品」が構築した世界があまりに居心地が良いため、それが仮想現実となってしまう。

実は「二次創作」は身近なところにいくらでも存在している。「待望の映画化!」「アニメ化決定!」まさにこれである。
最も馴染み深い例はマンガに対するアニメ(あるいはゲームでもいい)のオリジナルストーリー、オリジナルキャラなどで、
それらはマンガ本体にはまったく影響を与えないのに、公的な設定としての立場を与えられている。
ややこしいことに「公的な二次創作」という存在が発生し、「私的な二次」はまたそれすらも貪欲に取り込んでいく。
この公的/私的という区分は、知的所有権の影響する範囲、ということになるのだろうか。
法的に認められた手続きがとられていれば公的、そうでないならば私的。現代の「作品」は法律によりカテゴライズされる。
「作品」の所有権は当然作者にあるとして、ではその「作品」に描かれた世界は誰のものか?
「作品」は当然、送り手だけでは成り立たない。必ず受け手が存在する。受け手がその世界を受容するから成立する。
現代では、この送り手と受け手の区別が法律で峻別される。そして送り手は公的、受け手は私的な領域に留められる。

この「二次創作」の公的/私的の関係を最も先鋭的に扱った作品が、『ドン・キホーテ』(→2005.7.132005.8.2)だ。
前篇で、主人公ドン・キホーテは、騎士道物語を読み漁っているうちに現実と妄想の区別がつかなくなって旅に出る。
言ってみれば自分の人生を二次創作の舞台にしてしまったわけだ。そしてひたすら現実に痛めつけられる。
ところが後篇では、事態はかなりややこしくなる。セルバンテス以外の別人の手によって勝手に前篇の続編が書かれ、
後篇ではそれに対する否定がなされる。否定するのは主人公であるドン・キホーテ自身だ。
しかも後篇のドン・キホーテは、前篇の自分の冒険について誰もが知っている、という状況に直面している。
「創作」された騎士道物語から「二次創作」した冒険が現実のものとなっていて、新たに世界を冒険して「創作」していく。
舞台はもはや現実と「創作」の区別がつかないレヴェルになっていて、ドン・キホーテは結論を下すために旅に出る。
ドン・キホーテが泳ぐ境界線上にあるのは、そもそも「作品」は無名の作者たちによってつくられてきた、という事実である。
最古の「作品」である神話は、作者名がわからないこそ神話になりえた。しかし時を経て、著作権が保護されるようになる。
うなぎの蒲焼のタレは注ぎ足していくから旨くなるのと同じで、「二次創作」が混じることで神話は洗練されていった。
(いや、そもそもそこに「創作」と「二次創作」の区別はなかった。著作権がないところに、この区別は生まれない。)
しかしドン・キホーテは迫りくる近代を背景にして、その公的/私的の境界線上を踊って、自身が「作品」になったのだ。
これは想像力を駆使する動物である人類の歴史上、空前絶後の快挙である。

ややこしくなってきたので、いいかげん話を元に戻そう。今までに、「作品」について3つの類型が登場した。
「一次創作」、「公的な二次創作」、そして「私的な二次創作」である(最後のやつは便宜上「二次」に次数をとどめる)。
注目しておきたいのは、「公的な二次創作」はほとんど成功することがないという点だ。
成功しているのは『クレヨンしんちゃん』の映画くらいなものではないか。あとはつねに惨憺たる状況である。
「公的な二次創作」が受け入れられるかどうかは、「私的な二次創作」との相性で決まる。
「一次」をもとにしてすでに勝手に想像力を広げている受け手を肯定する内容でなければ、拒絶されて終わってしまう。
つまりここには、法律とは裏腹に、「作品」は受け手のものである、という結論が潜んでいるのである。

さていよいよ本題。二次創作としての大長編ドラえもん、である。
ふだんの連載では、のび太が調子に乗ってひみつ道具を使ってしっぺ返しを食らってチャンチャン、なのだが、
大長編ではまったく異なった展開を見せる。非日常の冒険をくぐり抜けるためにひみつ道具が使われる。
舞台はいつもの練馬区から地球規模、さらには宇宙規模へと広がる。のび太もそれに合わせてかっこよくなる。
基本的な登場人物は同じなのに、まるで別の作品と呼べるほどにスケールが変化する。ここに、ポイントがある。
のび太たち5人組という関係性を維持したまま、バックグラウンドを変化させることで新しい「作品」を生み出しているのだ。
これはつまり、連載(テレビ)という「一次」をベースにして、大長編(映画)という「二次」を「創作」することである。
舞台はあまりにも急激に変化をしているため、受け手である読者に介入する余地は与えられない。
言い換えれば、F先生は「私的な二次」の領域までも、自力で生み出してしまったのだ。
F先生の中で『ドラえもん』が突出した人気を誇っているのは、この「私的な二次」までも自力で生み出す仕組みが、
『ドラえもん』で完成されたからにほかならない。みんなみんなみんな叶えてくれるのはドラえもんでなく、F先生だったのだ。
人気があるから映画化したのではない。映画化(私的な二次創作)のサイクルが確立されたから人気があるのだ。

この『ドラえもん』の大成功を示唆するものが、方倉陽二『ドラえもん百科』である。
『ドラえもん百科』の内容は、本家である『ドラえもん』の設定の解説が主体となっている。
しかしその中には方倉陽二が勝手に考えた設定が多く存在しており、かなり「私的な二次創作」に近いものとなっている。
ところがそれらの設定は、F先生本人によってほぼすべてが大胆に肯定され、後に映画化された部分すらある。
このようにF先生以外の人間によって生み出された設定を大胆に肯定していった、その柔軟な姿勢が、
『ドラえもん』が非常に幅広い支持を集めている要因の現れなのである。

『ドラえもん』についてはこれでだいたい結論が出たので、おまけとしてそれ以外の作品についてもふれてみよう。

まず『ルパン三世』。これはもう、限りなく私的である「公的な二次創作」だけが残った、という珍しい例である。
もともとのマンガのことはほとんど誰も覚えておらず、繰り返し再放送されたテレビアニメの影響で、
もはやそちらが「一次」と呼べるほどの存在になっている。そしてそれをもとに、定期的に2時間スペシャルが放映される。
象徴的なのはテレビアニメの最終回と『カリオストロの城』が完全に宮崎駿のものになってしまっている点である。
何より、今でも監督の好みによって峰不二子の顔が変わってしまうではないか。まあそれもまた味ではあるのだが。

次に、同じようにスペシャルをやっていたマンガ原作のアニメとして、『シティーハンター』(→2005.1.27)を考える。
『シティーハンター』は、「一次」の原作マンガと、限りなく「一次」に近い「公的な二次」のアニメだけの作品である。
これは定番のパターン、困った美女を助けて解決、が完全に確立されているためである。定番の型を踏みはずせない。
また、もともとマンガで、何話か連続することでひとつのストーリーが完結する、というスタイルをとっていることが大きい。
つまりマンガでの連載の時点で、すでにアニメのスペシャルをやっているのと同じことになっているのである。

最後にディズニー。これは、「二次創作」を一切許さない例である。
で、結局受け手の欲望をどう処理しているかというと、ディズニーランドである。「作品」を現実世界につくってしまったのだ。
受け手の想像力を完全にコントロールすることに成功している究極の例であると言えよう。

以上、まとまらないままに「二次創作」についてあれこれと思いついたことを書き出してみた。
やっぱり人間、想像力を持っている生き物なので、「作品」に触れると触発されていろいろ考える。
カンのいいやつならそれをヒントに自力で別の「一次」の「創作」を始めてしまうものだろうが、
ほとんどは「二次」レヴェルでサイドストーリーをちょこちょこ想像してニヤニヤ笑う、そんな感じになると思う。
マンガ・アニメに話を限定して書いてきたけど、小説・美術・演劇・ファッション・ダンスなどでも本質は変わらないだろう。
そうやって受け手を興奮させる、相手の想像力をくすぐるアクションで世の中が埋め尽くされれば、それはとても素敵だ。


2007.11.8 (Thu.)

以前数学の本でたいへんお世話になった先生から続編を書き終える目処が立ったと連絡が入ったそうな。
そんでもって、「できれば前と同じ方に担当していただきたい」ということで、先生からご指名があったそうな。これは困った。
担当した当時はルーキーだったこともあってかなりのご迷惑をかけており、続編からは外されるだろーなーと思っていたので、
この要望には本当に驚いた。まあ確かに、今度は絶対に同じヘマはしないけど。ヘマのしようがないけど。
しかしまあこの先生は校正にたっぷりと時間をかけるわけで、たぶん僕がお相手できるのは入稿までになる。
それはそれでしょうがない。全力で、カンペキな割付をするのだ。そうして前回かけた迷惑を少しでもカヴァーするのだ。
まだ先の話だけど、今から決意を固める。そうして張り合いが出てくると、むしろうれしい話に思えてきた。うん、悪くない。


2007.11.7 (Wed.)

毎度この話題ばかりで申し訳ないんだけど、今の僕が直面している勉強と努力の関係を書き残しておく。

まあ僕は小さい頃から大の勉強嫌いで有名だった。学校は楽しいから好きで授業も面白いから好きで、
宿題もやらないと怒られるからテキトーに済ませてて、まあそれでなんとかやりくりしていたわけだ。
(数学の宿題で、2週間連続で同じ問題をやっていたら参観日にクラス全員保護者全員の前で吊るし上げられた。)
学校が好きだったから成績的になんとかなっていたのかな、と思う。とにかく家での勉強は本当にイヤだった。

さて浪人ぶっこくと、講義がないときはヒマとなる。ヒマというと聞こえが悪いが、要するに自主性に任させる時間となる。
もう何もやることがないわけで、「しょうがねえなあ、勉強でもするか……」となる。ヒマより勉強の方がずっとマシなのだ。
今にして思えば、そうしてヒマつぶしに勉強していたのがジャブのように効いて、無事に大学に受かった感じである。
僕が大学に合格した後で潤平が当時の僕の様子を知り、「ちゃんと勉強してたんだなあ」と意外そうに言ったらしいが、
まあ確かに、ちゃんと勉強していたと言えるであろうレベルの努力はしていた。結果的に。

そして現在。勉強がイヤでイヤでしょうがないはずの僕は、なんだかんだでちまちまと勉強をしている。
社会人にもなって。30歳にもなって。何がどうしてわざわざ、そんな好き好んで?と自分でも思うが、勉強をしている。
その背景にあるのは浪人時代よりもさらに切実な、ネガティヴな圧迫感である。
「今ここで勉強して結果を残さないと、オレに明日はない!」本気で、そう思っている。
ブラックホールは光すら吸収してしまう。だから黒いのだ。
そして今、僕の背後のずっと向こうに、ブラックホールがあるのが見えている。モタモタしていたら、やられる。
抜け出せない奈落の底に吸い込まれるのがイヤなら、光よりも速く勉強せにゃならんのだ。
このままで終わるわけにはいかない、とにかくその思いだけで毎日を過ごしている。

歳をとると運動能力が落ちる。それを避けるべくベテランのアスリートは努力をしている。
僕はアスリートではないので、運動に関する努力はサイクリングによる体型維持の程度で済ませている。
でも、「努力をする」ということそれ自体については、アスリートのレヴェルでなければならないと思っている。
その努力のベクトルは、僕のいいかげんな性格を反映して、実にさまざまな方向を向いている。
日記を書いて文章を磨け、物語に触れて想像力を磨け、街を歩いて観察力を磨け、他人と接して笑顔を磨け、
実にさまざまな方向で、努力をしなくちゃいけない必要性をヒシヒシと感じている。
それでやたらめったらいろんなものに手を出してみようともがいている。そのみっともない記録がこの日記だ。
今からさらに歳をとって努力の能力が落ちてきても俊敏なジジイでいられるために、今こそ必死にもがくのである。
毎日の勉強はそのことと見事に利害が一致しているので、僕は素直にこういう状況を受け入れているのだろう。
レーニンは「勉強して、勉強して、勉強しろ」と言った(らしい)。イヴィツァ=オシムは「走って、走って、走れ」と言った。
月並みだけど、今の僕は「努力して、努力して、努力しろ」ってなところになるだろう。
何について勉強しなくちゃいけないのか、どこに向かって走らなくちゃいけないかが問われていないのはこれ幸い。
今のうちにやたらめったらとにかく努力をするクセをつけておけば、その方向なんて後からついてくるさ。

前も日記にこんなようなこと書いたけど、定期的に書いておかないといけないのだ。自分に言い聞かせるために書く。


2007.11.6 (Tue.)

ラビー邸で読んだ大長編ドラえもんの感想を書いておくなり。

『ドラえもん のび太の創世日記』。前にマンガ喫茶で大長編ドラえもんを一気読みした際(→2007.6.5)、
なぜかこれだけ置いていなかったので、ラビー邸でリベンジしたのである。
話は、ひみつ道具「創世セット」でのび太が夏休みの自由研究を始めることから展開していく。
「創世セット」でつくった小さな地球にはのび太そっくりの人類がおり、それをあれこれ手助けしてやることに。
しかしのび太が脊椎動物を進化させた一方で、昆虫たちも独自に進化を遂げていた。
そして小さな地球の空洞の中に追いやられていた昆虫たちは地上に出ようとする。人類大ピンチ、という話。
舞台が現実の地球ではなく、のび太が創った地球ということで、話のスケールは小さめ。
のび太が直接冒険するのではなく、のび太そっくりな「野美」を見守るというスタンスが独特。
この作品で、F先生の「パラレルワールドで表現した地球」は究極の形をとった。
そういう意味で、F先生の持っている世界観を知るにはいい作品。それ以上の価値はというと、個人的には疑問。

『ドラえもん のび太の南海大冒険』。F先生が亡くなったことで、マンガの中の一話をもとに藤子・F・不二雄プロが制作。
スティーヴンソンの『宝島』を読んだのがきっかけで、のび太は現実に存在する宝島のありかを突き止め、冒険に出る。
そしたら時空の乱れに巻き込まれてタイムスリップ。出会ったカリブの海賊と一緒に謎の島を探検することになる。
それまでの大長編の要素を咀嚼して話を組み立てている、とは思うけど、話のスケールが小さい印象。
F先生の中には明確に「地球」というテーマ対象があったのだが、それがひとつの島に限定されていることが原因だろう。
手頃な冒険活劇になっているけど、アニメの「○○だ!一番 ドラえもん祭り」とあまり変わらない内容である。

『ドラえもん のび太の宇宙漂流記』。藤子・F・不二雄プロの2作目。
最新版の宇宙探検ゲーム「スタークラッシュゲーム」で遊んでいたドラえもん一行だが、ジャイアンとスネ夫が行方不明に。
2人を探しているうちになんだかんだで銀河漂流船団と合流、そこでの謀略に巻き込まれることになる。
読んでいてなんとなく、銀河漂流船団という設定に、ハインラインの『銀河市民』を思い出すのであった(→2006.8.1)。
しょうがないことなんだけど、やっぱり以前の大長編の内容を再編集してつくりました、という印象を受ける。
スタッフ側に「はみ出してはいけないコード」ができていて、その枠はF先生しか破ることが許されないのである。
(言い方を変えれば、その「はみ出してはいけないコード」はF先生により毎年更新されるものだったということ。)
キツい表現をするなら、もう「大長編」を名乗るのをやめて、はっきり「公認されたサイドストーリー」と銘打ってほしい。
この際、「ドラえもんはみんなのもの、もはや日本の文化」ということにしちゃって、そのうえで明確に区別をつけてほしい。
すごく微妙な書き方をしているからわかりづらいけど、つまりは、F先生以前/以後でもっとはっきり分断してよ、ということ。
まあそう考えれば声優陣の交替は極めて妥当なことだったのかもしれないなーと、いま書いていて思った。

そんなわけで、大長編ドラえもんをがっつりと読んで、オリジナルと二次創作の関係性について考えることがあったので、
後日あらためてそれについてしっかりと書きたい。時間かかりそうだけど、がんばって書くナリよ。


2007.11.5 (Mon.)

めちゃくちゃ中身の濃い2日間を過ごしてフラフラになっていたこともあり、朝になってもみんな寝ている。
それでも僕は9時半くらいには目が覚めて、iPodで音楽を聴きながらマンガを読んで過ごす。だうさんも起きていた。
で、10時半になったのでいいかげん起きろやコラ、とラビーさん・みやもりを叩き起こす。
今思えば、もっと早くに支度を始めておくべきだったのだ。

羽田行きの飛行機の時刻は13時である。急げー!と慌てて支度を済ませるとラビー邸を出る。
みんなでラビーさんの車に乗り込み、まずは北九州の小倉を目指す。
車内では相変わらず僕の支離滅裂iPodが炸裂。ヴォーカル限定のプレイリストを用意したが、まだ改善の余地がある。

門司経由で小倉へ。せっかくだから、と急いでいる中でも観光は忘れないのである。
時間があればのんびり北九州の中心を堪能できたのだが、最低限ということでここはガマン。
近くの商業施設にラビさんが駐車している間に、われわれ3人は小倉城址へ。
八坂神社でラビさんを待ってお参りをすると、そのまま小倉城の天守を目指す。
ちなみに小倉城が歴史に登場するのは豊臣秀吉の命で森勝信が入城してからのようだ。
このときに森の名字を毛利に改めたとのこと。ちなみに勝信の息子は、大阪夏の陣で活躍した毛利勝永である。
毛利家が関ヶ原の戦いで西軍について改易された後は細川忠興が入り、その後は小笠原氏。

  
L: 八坂神社への入口。  C: 天守の脇から北を眺めるとリバーウォーク北九州が目の前に迫ってくる。妙に面白い。
R: 小倉城天守。姫路城を参考に1959年再建。街中の観光地らしく手頃なサイズで訪れやすい。

小倉城の隣にあるのが北九州市役所である。まあ正直、僕のワガママで来たわけだが、これがけっこういい。
1972年竣工というこの建物は、見るからにミース(=ファン=デル=ローエ)の影響受けまくりで全面ガラス張り。
隣の議会と思われる建物もそれに合わせている。工業都市のイメージを上品に出してきたな、という感じ。
「おおーいいねいいねー」なんて言いながら撮影。「ふーん」レヴェルのみやもりたちと温度差を感じるが気にしない。

 
L: 北九州市役所。久米設計だそうで、確かに組織事務所らしい堅実さもみられる。
R: こちらは議会棟(だと思う)。本体と同じイメージになるようにつくっている。

撮影も終わって「よし、急ぐぞ!」となる。時計を見るが、正直これはヤバいと思う。
もうあとはラビーさん任せなのである。ラビーさんは強気の運転で少しでも早く着けるようにとがんばってくれる。
しかし助手席の僕は車酔いでフラフラ。それでも飛行機に乗り遅れるよりは酔う方がはるかにマシなので、
弱々しく「がんばれラビさん~」と応援をするのであった。そしてどんどん空港へと近づいていく。
道路は混んでいる。それでも必死の運転でベストと思われるペースで走るラビさん。
一刻一秒を争う運転に当方ヘロヘロ。今朝のんびりと寝床で音楽を聴いていたことを本気で後悔する。

やがて国道10号と県道との交差点を左折して、いよいよ空港への連絡道路へと入る。
北九州空港は海の中に浮かんでいるので、道路は橋になっているのだが、
まあ正直、僕は車がこのまま離陸して羽田まで飛んでいけるんじゃないかと思いましたね。ええ、察してください。

そういうわけで、ラビさんの奇跡のような運転によって、どうにかギリギリ出発時刻には間に合った。
フラ~リフラ~リしながら金属チェック。ポケットの中身を完全に出し、パソコンも取り出して万全、と思ったら鳴った。
シャツの胸ポケットに入れていたiPodのせいなのであった。こんなことも忘れるほど憔悴していたのだ。
無事に車を停めて最後の見送りに来てくれたラビさんへの挨拶もそこそこに、急いで飛行機へ。
(ここでもやっぱり、なぜかえんだうさんがやたらと時間がかかっていた。もう、テロだなあ)
離陸するときにはどうしても声が出てしまうもので、やっぱり「うわー」と言ってしまった。

高度を上げていく飛行機はぐるっと回って空港を眼下にし、針路を東へと固定する。
予報では雨だったけど天気は曇りで、その厚い雲を抜けるときの窓外の景色が、まるでアニメのようだった。
そういえば『紅の豚』でこんなようなシーンがあったけど、ホントにこんなふうになっているんだなあ、と思う。
あまりの疲れに軽く眠ったが、ふと目が覚めたら飛行機は雲の上を飛んでいて、
それがなんというか、銀色の草原のように見えた。本当に天国みたいに見えたのだ。

 本当にこういう景色が存在するのね。

帰りの飛行機はきわめて順調で、あっという間に関西の都市から名古屋・浜松・静岡と通過していき、
高度を落として雲の中を抜けると富士山が見えた。マンガのようだが、本物の景色なのだ。
やがて飛行機は地図そのまんまの形の三浦半島を通過して着陸態勢に入り、房総半島の上空を旋回する。
ずーっと奥の方にはうっすらと横浜のランドマークタワーが見えた。もうスケール感がわからない。
そして気がつけば高度は限りなくゼロに近づき、無事に羽田空港に着陸。大きく安堵の息を吐く。

羽田空港ではレストランでメシを食い(本日初のメシだよ)、かなり長時間ダベって過ごす。
そんでもってこれから後楽園ホールでプロレスを見るという元気いっぱいのだうさんと別れると、
みやもりとふたりで赤い電車に乗って品川へ。そこで群馬に帰るみやもりと別れる。

家に着いて、風呂に入る。あまりに疲れていて、気がつけば湯船の中で寝ていた。

それにしても、何から何までもが本当に楽しい旅だった。旅の間、みんなずっと笑っていた気がする。
これは抜群のコーディネートをしてくれたラビーさんのおかげだ。学生時代にはやや頼りない後輩なんて思っていて、
その当時の感覚のまま「おいあいつ大丈夫かよー」と内心ハラハラしていた部分もあったのだが、
そういう気持ちは途中から完全に吹っ飛んでいた。「ラビさんに任せておけば大丈夫だわ」に変わっていた。
本当に頼もしくなったなあ、と思う。偉そうだけど。自分だったらあんなにきちんとできそうもないところが恥ずかしい。
まあとにかく、ラビさんには心の底からお礼を言いたい。すてきな旅行を味わわせてくれて本当にありがとうございました。
そして一緒に楽しい時間を過ごさせてくれた参加者の皆さんにもお礼を言いたい。本当にどうもありがとうございました。


2007.11.4 (Sun.)

本日もラビさんコーディネートによる観光プランを実行するのである。
ラビさん本人は所属するサッカーチームのリーグ戦があるので同行はできなかったが、地図をもらう。
これをもとにラビさんオススメの場所を歩きまわるというわけである。

まずはワゴンで各メンバーを招集していくと、下関市役所の駐車場へ。
ここでラビさんとは別行動になる。みんなは最初の目的地である旧下関英国領事館に向かうが、
僕だけは下関市役所の敷地内を撮影してまわる。みんなとの間にものすごい温度差を感じる。

  
L: 下関市役所の正面。入口の前に駐車場が広がっていることといい、けっこう古い保守庁舎。
C: 角度を変えて撮影。実はこっちが本庁舎のようだ。  R: 県道に向けてでっかくアピール。真ん中はふぐ型に刈った木。

下関市は2005年2月に大規模に合併し(菊川町・豊田町・豊浦町・豊北町と合併)、市域をかなり大きく広げた。
そのこともあり、下関市庁舎の移転問題はかなり熱くなっているようだ。確かに、今のままではあまりにバランスが悪い。
市役所の真向かいにある商店街が移転反対の横断幕を派手に広げているのが、非常に印象的だった。

できるだけ速やかに撮影を済ませると、赤信号を待っていてくれたみなさんと合流。
そのまま海・国道9号方面に歩いていくとあるのが、旧下関英国領事館。小ぎれいな歴史的建造物である。
日本で3番目のイギリスの領事館なんだそうだ。赤レンガの建物で、国道に面した側面がコロニアル的。
でも植えられているのは松なのだ。建物の奥というか裏手には喫茶店があり、けっこう本格的なメイドさんがいたよ!

  
L: 旧下関英国領事館。1906年につくられたんだそうだ。  C: 建築は洋風でも植えられているのは松。対比が面白い。
R: 内部の様子。このように当時の内装が再現されている部屋と、市民ギャラリーとして利用される部屋とある。

 英国領事の席で碇ゲンドウのポーズをとるマサル。その気持ちはよくわかる。

旧下関英国領事館だって庁舎建築の一種なのである。でもちょっと広めの住宅といった感じのスケールだ。
明治~大正期の庁舎建築は、西洋建築の豪華な面を「権威を感じさせる空間」として採用していったわけだが、
そういうものの源流にあるんだけど、どこか家庭的というか質素に済ませている印象がして面白かった。
たぶんこれはイギリスの住宅に毛が生えたか生えないか程度のものだからで、逆にそれがかわいらしくていい。

さて旧下関英国領事館を後にすると、国道9号を東へ行く。すぐに見えてくるのが唐戸市場(からとしじょう)。
ここは関門地区でもかなり大きな市場なのだが観光地化していて、一般客も出入りが可能なのだ。
ラビーさんはここで朝メシを食うことをオススメしてくれたので、それに従うのである。
唐戸市場の建物はけっこう新しく、どこから入ればいいのかイマイチわからなかったが、とりあえず2階へ入る。
すると市場の様子がよく見える見学デッキに出た。中は活気にあふれている。威勢のいい声が響いている。
下におりて各自食べたいものを勝手に買い、外で海を眺めながら食べよう、と決まる。
それでみやもりとあちこちを歩きまわってみる。観光客を対象にした海鮮丼に寿司などがあちこちで売られている。
さらに奥に行くとふつうに魚介類を売っている。当然ながら、ふぐも多い。
なるたけたくさんの種類の具を乗せた海鮮丼がいいなあ、なんて思うのだが、店の数が多くって目移りしてしまう。
海鮮丼800円というのがだいたいの相場のようだ。気がつけばみんなもう買い物を済ませていたので、
エイヤーと勢いにまかせて選ぶと、ふぐの寿司とサンマの寿司(どっちも100円)を買って外に出る。しめて1000円。

みなさん思い思いのメニューで朝メシをいただく。マサルからはクジラの揚げ物を分けてもらった。
天気がいいこともあり、またやっぱり本場の海鮮丼がやたらとおいしかったこともあり、非常に幸せな気分になる。
海を挟んだ向こうには九州・門司が見える。本当にすぐそこで、関門海峡の狭さを体感。

  
L: 唐戸市場の様子。市街地よりも活気があるかもしれない。建物も新しくてきれいだし。
C: 実際に1階に下りてみる。観光客でいっぱい! 地元での年末の買い物を思い出すほどの混雑ぶり。
R: 関門海峡を眺めながらの食事である。見事なまでに爽やかな朝なのである。

「こりゃええわ~」と感嘆の声を漏らしつつ食べ終わる。実にすてきな朝食であった。
その後は海に沿って東へ進んでいく。遊歩道が終わるところがちょうど春帆楼のある辺り。
広場にあったタイルの世界地図にツッコミを入れつつ(四国がタイル11個で表現されてしまうことをめりこみさんが嘆いた)、
春帆楼へと行ってみる。もともとはここでふぐを食べたかったのだが、あまりに値段が高いので断念したのである。

春帆楼は割烹旅館なのだが、その外見は屋根が金色であるなど、まるでどっかの宗教団体の本部といったたたずまい。
ここは日清戦争の講和条約・下関条約が結ばれた場所である。だからもうちょっと歴史を感じさせる建物と思っていたが、
実際にはふつうに敷居の高いお店だったのでガックリというかなんというか。ああ別にいいや、と思ってしまった。
春帆楼の隣には日清講和記念館があり、当時の資料がいろいろと展示されている。こっちは無料で、覗いてみる。
李鴻章の書などが飾ってあって「昔の政治家は字がうめえなー」なんて言いつつひとまわり。

 
L: 春帆楼。日本史大好きなニシマッキーはここで下関条約ごっこをしたかったらしいが。
R: 隣にある日清講和記念館。日清戦争についてはほとんど触れず、下関条約に特化した内容なのであった。

春帆楼の東側にあるのは赤間神宮。ここは壇ノ浦の戦いにより8歳で亡くなった安徳天皇を祀った神社である。
安徳天皇の祖父は平清盛で、母親は建礼門院。でも僕はいまだに安徳天皇の性別を知らない。どっちなんだ。
なお、ここには平家一門も祀られており、『耳なし芳一』の舞台にもなっている場所である。
それはさておき、赤間神宮はその名のせいか、赤色がやたらと目立っている。水天門も拝殿も真っ赤な印象。
この日は七五三ということで千歳飴を持った子どもがあちこちにいた。お父さんお母さんは大変だねえ、と思う。
みんなで「下関にはどんだけ史跡がいっぱいあるんだ」なんて話になる。時代を問わず、本当にあちこちにある。

  
L: 赤間神宮の水天門。青い空、緑の木、赤い門と原色だらけ。  C: 安徳天皇陵。「波の下にも都がございます」とは悲しい。
R: 赤間神宮拝殿。七五三の参拝客がワンサカ。菊の品評会みたいなのも開催されていて賑やかだった。

さてここまで来ると、ずいぶん関門橋が近くに見えてくる。しかし高層マンションに邪魔されて美しくは見えない。
ラビさんによれば、関門海峡には地下トンネルがあり、歩いて渡れるという(関門橋は高速道路なので歩いちゃダメ)。
そういうわけで、われわれは歩いて対岸の福岡県・門司まで行くことになったのであった。
橋は大きいから遠近感の関係で近くに感じてしまうのだが、実際に歩いてみると、これがけっこう距離がある。
途中から左手は崖、右手は海なんて極端な風景になる。で、狭い歩道を歩いて行くと、関門橋の真下を通過。
よく見てみると、関門橋は海の部分に一切橋脚がなく、見事に関門海峡をまたいでいるのである。
それだけ本州と九州の間は狭いということなのだ。うーんなるほど、と思いつつ撮影。

  
L: 関門橋。マンションがなければ、赤間神宮からけっこうきれいに見えると思うのだが。実にもったいない。
C: 真下から門司側を見たところ。橋の下にある無数のトラス構造が印象的。
R: この関門橋のある辺りが壇ノ浦である。今はまったく古戦場という面影がない、コンクリート主体の空間。

関門橋からちょっと行ったところに、壇ノ浦古戦場を示す源義経と平知盛の像を置いた公園がある。
2005年の大河ドラマ『義経』を機に置いたものらしい。近くではボランティアによる紙芝居も行われていた。
さて関門トンネルの入口は岩肌にくっついて側面を向いていることもあってやや地味。
エレベーターに乗り込むと30秒ほどの時間をかけて地下にもぐる。当たり前だが地下はかなり殺風景な場所で、
閉所恐怖症にはややキツいかもしれない。距離は約800m。さっそく門司に向けて歩きだす。

 
L: 関門トンネル人道入口(下関側)。人間は無料だが、自転車を連れていると20円とられる。
R: いざ門司に向けてゴーである。海の下をもぐるトンネル、閉所恐怖症だったらイヤなんだろうなあ……。

トンネルの壁には魚や海草の絵なんかが描かれていて、さらにブラックライトを使って発光させている箇所もあった。
飽きさせない工夫をしてんだなあ、と妙に感心しながら進んでいくと、見えてきました県境。

 
L: 本州と九州の境目で記念撮影をする夫婦。妬けるねえ、クーッ!  R: なかなか九州に入ろうとしない人。

トンネルは緩やかなV字になっており、最初は下りだったのが最後は軽い上りになる。
トンネル内を走って往復する親子がいて、そうやってトレーニングする方法もあんのか、と驚いた。

地上に出るとそこは福岡県北九州市門司区。いちおう人生初九州は北九州空港で済ませているが、
こうやって青空の下で九州の風景を眺めるのは初めてである。沖縄・四国に続いての本州脱出に、
今年は本当にあちこち行ってるなあ、と自分でも呆れつつニヤニヤしてしまうのであった。

さて門司の観光の目玉といったら、「門司港レトロ」である。
これはJR門司港駅周辺にある建物や商業施設などを大正レトロ調に整備したものなんだそうだ。
とりあえずそれを目指して歩いていく。和布刈(めかり)神社経由でノーフォーク広場まで行く。
えんだうさんがわざわざ海岸の岩場の上を歩いていく。僕とミユミユさんもなんとなく元気に歩いていく。
「海だからって長野閥はしゃぎすぎ」と言われる(僕・えんだう・ミユミユさんは南信・東信・北信と地域は違えど長野県人)。
ノーフォーク広場ではバスも停車していたが、発車時刻を確認して、結局最後まで歩くことに。
冷静に考えるとかなりの距離を歩いているわけで、実に健康にいい旅行プランである。
廃線になった貨物線の脇をいくぶんかスタンド・バイ・ミー気分で歩きながら南へ。
正面には大きな建物がチラホラ見えてきたが、門司港レトロの中心はそこからさらにちょっと先。歩く。

やがて門司港レトロハイマートのふもとの辺りに来たところで、めりこみさんとお別れ。
急に誘ってそれでも来ていただいてなんだかただ歩かせただけになっちゃった格好で非常に申し訳がない。
昨日の夜は異常な盛り上がりだったし重大な話も聞けたしで、本当に楽しませていただいたのである。
みんなで「どうもありがとうございました」とお礼を言って門司港駅へと向かうめりこみさんを見送る。

そして「とにかく休もう」ということになり、門司港レトロハイマートの展望室に行く。
この建物は下関の海峡ゆめタワーと張り合っているように見えるのだが、展望室の下は住宅なのだ。
マンションの上に展望室があるのだ。そういう組み合わせもあるんだなあ、と思いつつエレベーターに乗る。

エレベーターが31階に着くと、料金300円を払って景色を眺めるという仕組みになっている。
中にはカフェというかオープンテラスの室内版といった形になっていて、勝手に席を占領して注文しに行くスタイル。
甘いもので疲れを癒しつつ(食うものに金を惜しまないマサルは2品食べていた)、しばし呆ける。
でっかいガラス窓からは関門海峡が一望できる。対岸の下関の様子もよく見える。
南西には巌流島が見える。下関は本当に史跡だらけだ。そして唐戸市場も春帆楼も赤間神宮もよく見える。
関門橋も全景をやっと見ることができた。そのふもとの壇ノ浦も見える。天気がいいと見える景色も楽しげだ。

  
L: 門司港レトロハイマート。  C: 展望室から眺める下関市街。ゆめタワーが屹立していますな。
R: 関門橋。それにしてもよくまあ歩いてきたもんだ、とみんなであらためて呆れた。

 
L,R: 門司港レトロはこんな感じで眼下に広がっている。それにしても九州の山はけっこう急峻。

しばらくのんびりと過ごすと、メシを食いたいねということで展望室をあとにし、門司港レトロを歩くことに。
途中でパンフレットをもらって「そうだ、焼きカレーだ!」とメニューは即決。どこがいいかなあ、なんて話をしつつさまよう。
その間も僕はあちこちでシャッター切りまくり。撮影に夢中になりすぎて交差点で後ろ向きに転んだ。恥ずかしかった。

  
L: 文化広場ではイベントを開催中。とても賑わっているのであった。  C: 親水広場から船だまりを眺める。
R: 旧門司三井倶楽部。1921年竣工の三井物産の社交クラブで、門司港レトロに移築・復元したんだって。

  
L: 国際友好記念図書館の裏側。大連にあった帝政ロシアの建物を復元。  C: 旧門司税関。1912(明治45)年の建物。
R: ブルーウィングもじ。歩行者専用の跳ね橋で、船の航行とは関係なく、決まった時間に跳ね上がる。

でも肝心のJR門司港駅駅舎は見ていない。駅では全国初の国の重要文化財だったのに……。オレのバカー!
地図を見てみると全体の東半分くらいしか動きまわっていない。つくづくもったいなかったなあと思う。
まあとりあえず、西半分は次来たときの課題ということにしましょう。最近そんなこと書いてばっかだな。

で、船だまりに浮かんでいる船の中がレストランになっていたので、そこで焼きカレーをいただく。
船は予想外に揺れて、全員微妙に船酔い。まあそんなこともあるさ、と気を取り直していただくのであった。
焼きカレーは、カレーにチーズを溶け込ませ、最後にオーブントースターで焼き上げるという料理である。
食ってみたら「カレードリア」って感じなのであった。確かにつくり方から考えればそうなるわなあ、と納得。

 ひき肉とナスの焼きカレー。けっこうトマトの存在感があった。

考えてみればずいぶん遅いメシだったわけで、これでまた元気が出た。
お土産買わなきゃね、ということで海峡プラザの土産物屋をいろいろ見てまわる。
そしたら『バナナの叩き売り名演集』ってな類のCDを発見してしまった。
おいマサル見てみろと渡したら、「なんだもう、マツシマくんはこんなん見つけよって。買ってしまうわ、もう」と、
なぜか半分怒ったような口調で購入を決意。即決である。さすがはマサルだ。

  
L: バナナマン像。門司港レトロにはバナナ関係の土産物がめちゃくちゃいっぱいあって黄色一色。
C: というのも、門司港がバナナの叩き売りの発祥の地だからだ。この日もバナナの叩き売り研究会の人が活躍。
R: 壇ノ浦の戦いで義経が八艘跳びをしたので記念撮影パネルが。義経(びゅく仙)、弁慶(ニシマッキー)のほか、真ん中の人に注目。

門司港を歩いてみると、やはり横浜や神戸と同じように港の匂いが非常に強く漂っているのが印象に残った。
歴史的建造物と新しい施設を組み合わせる港町のオシャレな再開発のパターンに乗っているわけだ。
やはりきちんとした歴史を持っていないとそういうことはできない。それをうまく演出してるなあ、と感心。
東京者にとっては、それを目的にして行くわけではないが、近くまで来たらぜひ行きたい、そういう場所である。

さて僕らがのんびりしていたら、サッカーの終わったラビーさんが車で門司港まで来てくれた。
ラビーさんは地元の名所にあちこち連れて行きたくてたまらないわけだが、僕らはのんびりまったり。
それで痺れを切らしたというわけではないんだろうけど、迎えに来てくれたんだからうれしいものだ。
全員車に乗るとトンネルを抜けて下関に戻り、そのまま長府の功山寺まで行く。
このお寺、ただのお寺ではない。長府毛利家の菩提寺であり、大内義長が自害した場所であり、
何より高杉晋作が挙兵した場所なのだ。境内には下関市立長府博物館があり、主に毛利家の史料が展示されている。
さっそくみんなで国宝の仏殿を見て、大内義長の墓をお参りし、長府博物館に入ってみる。

  
L: 功山寺仏殿。鎌倉時代の建築で国宝なのだが、正直、ほったらかしという印象が。
C: 戦国大名・大内義長の墓。大内義隆を謀叛で倒した陶晴賢によって当主に据えられたが毛利家に攻められて滅亡。
R: 『信長の野望・武将風雲録』の大内義長。自分を擁立したはずの陶晴賢にすぐに謀叛を起こされてしまう人。

 
L: 高杉晋作挙兵像。高杉晋作は要するに、幕末の長州をやる気のある藩にした人、という理解でよろしいか?
R: 下関市立長府博物館。鎖国時代に伝聞した海外の人々の暮らしを描いた絵などが面白かった。

長府博物館でたっぷりと時間をとりすぎたおかげで、次の目的地である長府毛利邸に行くのが遅くなった。
特にマサルとみやもりがスローで、ニシマッキーとワンセグで小沢一郎の民主党代表辞任騒動のニュースを見て過ごす。
それで結局、毛利邸の中には入れず。庭園が見ものらしかったので、けっこう残念なのであった。

それから旧乃木希典邸のある乃木神社へ。学習院の院長ということで学問の神様扱いだったが、それはどうだろう、と。
やはり軍事面でのアレがアレなので、全員これといって参拝する気が起こらず。
そして近くの忌宮(いみのみや)神社へ。「忌」とは「斎」のことで、仲哀天皇が熊襲討伐のために政治をした場所だとか。
下関には本当に史跡が多いなあ、と呆れているうちに日が暮れた。

 長府の街並みは独特。土壁のベージュ色が落ち着いた雰囲気を生み出している。

ちなみに上の写真を撮った直後に手がすべってデジカメを側溝にぶん投げてしまった。傷がついて本気で悔しい。

下関市中心部に戻る途中、ラビさんの機転で「火の山公園」という場所に寄る。
展望台があって、関門海峡の両サイドを一望できる名所なのである。車でウネウネと山を登っていき、展望台に入る。

 右手が下関、左手が門司。真ん中の橋はもちろん関門橋。

展望台内の売店などはぜんぶ閉まっていてさみしい雰囲気だったが、観光客はけっこういた。
なぜか火の山公園への行き帰りの間、ずっと「飯田りんごん」の話題になって、マサル大興奮。
大学時代にたまたまマサルが僕の実家に来たことがあって、その日がちょうど飯田りんごんの日で、
マサルはそのりんごんのメロディを異常に気に入ってしまい、いまだにやたらと口ずさむ。
音源のCD化を熱望してやまないので、誰かマサルのためになんとかしてあげてください。僕はイヤです。

さて夜景を存分に堪能すると、下関駅でニシマッキー夫妻とお別れである。
ふたりとも明日仕事なので、バスに乗って北九州空港に行き、東京に戻るのである。
ニシマッキーもミユミユさんも思いっきりこの下関旅行を満喫したようで、満足げにバス停へと消えていった。
残った僕らは晩メシとワゴンの返却をどうするかで紛糾。というか、疲れて頭がうまく回らなくてアイデアがまとまらない。
噛みあっているんだかいないんだかよくわからない議論の末、行動の計画が決まる。

いったんワゴンでラビー邸に行き、僕とみやもりとマサルが残る。
ラビーはワゴン、えんだうさんはラビーの車を運転してレンタカー屋まで返却に行く。
やっぱ車が運転できるとちがうなーと、頼もしい後輩にすべてを任せっきりにして、僕らはマンガ三昧。
その後はマサルが持参した『ウゴウゴルーガ』のDVDを堪能して過ごす。
そして腹が減ったので、ラビーが「安くてうまい」と聞いたという焼肉屋まで歩いていく。

焼肉屋では座敷に通された。僕は地元で行きつけの店を思い出す。ううむ、雰囲気うまそうだ。
そこからは欠食児童がやたらめったら注文、そしてバカ話。火が通るのが早く、みんな必死で食べていく。
僕はだいたいご飯大盛を5杯食って、しかもそれに見合うだけの肉も食っている。
みんなもだいぶ限界に近いところまで食べている。それにしてもまあ肉の柔らかくて食べやすいこと。

 
だうさん写ってないね。すまん。

もう食えねえ、ということで会計を確認したら、1人あたりの金額が予想外に安かった。なんだこれ、と思うくらい。
さすがに地元に戻ってきて実家に顔を出さないわけにはいかんでしょ、というマサルが途中で抜ける。
マサルの実家はどんなんなのか、どんな会話が繰り広げられているのか、どんな家族会議だったのか気になる。
まあともかく全員心の底から満足して一日を終えたのであった。


2007.11.3 (Sat.)

今回の旅については、ラビーさんがあれこれアイデアを出してくれたので、われわれは素直にそれに乗っかるのである。
で、本日は「せっかく山口県に来たんだから秋芳洞を見ましょう」ということで、いざ出発なのである。
なお、その前に朝食を買い込もうということでコンビニに寄ったのだが、マサルは何も買わずにどこかへ消える。
そんでもって戻ってきてから「ご飯買ったの? 僕買ってないよ! 私に3分間時間をください」と鈴木健二ばりに主張。
しかしこの3分間は非常に長く、以後マサルは「私に3分間時間をください」と言ってはみんなを待たせるのであった。

 下関・海峡ゆめタワー。「地元ではみんな、ち○ぽタワーって呼んどるんよ!」

下関を出発すると、ラビーさん運転の車は東へ進む。
そして宇部市で、われわれの先輩、シノザキ(旧姓)さんと合流する。
シノザキさんはかつて、どんどん男ばっかりになっていくHQSで、女性部長を務めていた。
卒論のタイトルは「となりのSMAP」で、福山雅治が大好き。そんでもってみやもりも大好きという方である。
現在は結婚されて宇部市在住。絶好の機会ということで、本日のみだがわざわざ合流していただいたのだ。
久々のシノザキさんは完全なる山口弁で、下関出身のはずのラビーとマサルよりもはるかに自然な話しっぷりだった。
もはやすっかり、シノザキさんは山口のベテランといった風格を漂わせているのであった。
そんなわけで車内では山口弁と広島弁と博多弁の違いについて研究してみたり、
あとはシノザキさんによる山口県講座を聞いてみたり。これが非常に興味深く、かなり勉強になった。

秋芳洞に到着すると、土産物屋の通りを抜けて、さっそく中へと入る。
ちなみに秋芳洞は「あきよしどう」と読む。これはかつて昭和天皇(当時は皇太子)が訓読みしたからだとかなんとか。
所在地は音読みで秋芳町(しゅうほうちょう)なので、ややこしくってたまらない。

 秋芳洞へと向かう道には土産物屋がびっしり。

秋芳洞の入口でまず「おおっ」と思うのは、その水の青さ。驚くほど透き通った青色をしているのだ。
これが天井に反射して「青天井」と言われるわけだ。どうしたらこんな色になるのか実に不思議だ。

  
L: 入口のところに溜まる水の青さにまず驚かされる。  C: 秋芳洞の入口。この裂け目のところから中に入っていくのだ。
R: 洞窟の内側から外を見たところ。「出口」って感じですなあ。ここから奥は、地上とはまったく別の世界だ。

最初のうちは、言われてみればまあ確かに天井が青みがかって見えるなあ、くらいのもので、
あまり鍾乳洞という感じのない、単なる洞窟である。ところが進んでいくにつれて、奇妙な光景が目に入ってくる。

  
L: 百枚皿。壁のようになった石のところに水が静かに流れ込んで、皿のように見えているのだ。
C: 洞内富士。やたらと大きい石筍が富士山のように見えることから。こんなふうにうまい名前をつけたものがいっぱい。
R: 千畳敷から秋芳洞の内部を眺める。非常に大きな空間で、人間として入り込んだことに不思議さを覚える。

テーマパークなんかでは、人工的にこういう洞窟の空間をつくってしまう。そしてそれに僕らは慣れているところがある。
しかし、この秋芳洞をつくったのは自然の力なのだ。しかも億単位の時間をかけてこんなふうになっているのだ。
(かつてこの辺りはサンゴ礁で、それによって石灰岩がつくられた。そして地上に出て侵食され、このようになった。)
そこんところをしっかり認識しておかないともったいないのである。なんて考えながら進んでいく。
そしてまた一方で、こういう施設ではライティングが重要だよなあ、とも思う。
専門家がきちんと考えてやっているのかどうかは知らないが、もうちょっと魅力的に改善できなくもない気がした。
ひんやりとした空気に包まれ、明かりが非常に少ない中、目を凝らして自然の造形を味わう。
それは絶対に現地を訪れないとできないことで、空間を楽しむ貴重な経験をさせてもらったのであった。

 
L: 秋芳洞の奥にある黄金柱。大きくて美しい。非常に迫力がある。
R: アップで見るとこのような感じ。うまく形容できる言葉がない。

千畳敷の雄大な虚の空間に続いて黄金柱という巨大なオブジェが現れるわけで、この構成が面白い。
黄金柱は秋芳洞の一番の見ものになっていて、記念撮影する人たちが後を絶たないのであった。
そしてさらに奥にある黒谷支洞へ進んでいく。それまでは広々としていた洞窟が、急に狭まる。
でも僕としてはこうなったほうがむしろ本格的な鍾乳洞っぽく思えて、それもまた楽しめるのであった。

 
L: 「くらげの滝のぼり」と題された岩壁。うまい名前をつけるなあ。
R: かつてくっついていたのが地殻変動で離れてしまったとのこと。割れても末に逢はむとぞ思ふ。

秋芳洞の鍾乳洞ぶりは大味といえば大味なのだが、それだけにデカい部分での迫力は満点。
洞窟の大きさにしろ鍾乳石の柱にしろスケールがデカいので、そこは素直に楽しめる。
黒谷支洞に行けばインディ・ジョーンズ気分も味わえ、一同十分満足したのであった。

帰りには300円の別料金を支払って冒険コースにチャレンジ。シノザキさんを残し、みんなで洞窟を登る。
真っ暗な中を懐中電灯だけを頼りに進んでいくので、確かにけっこう冒険気分になる。
足場が滑って思わず手をついたら泥がついた。うーんリアルだ、なんて思いながらも先へ進む。

  
L: フラッシュを使わないととてもじゃないけど撮影できない。実際には真っ暗な中、こういう足場を歩くわけで。
C: インディ・ジョーンズ気分になれること請け合い。  R: 岩壁に挟まってみる人。

そんなわけで、文字どおり隅から隅まで秋芳洞を堪能したのであった。
シノザキさんから「こんなにたっぷり時間かけて秋芳洞を歩きまわった人たちは初めて」と言われたとさ。
ちなみにマサルは土産物屋を見ているうちに、置いてあったきれいな石を欲しくなっちゃって、真剣に悩む。
僕らが今後のスケジュールの確認などをしている間も土産物屋で悩む。
それで結局、トルコ石(とはいうけど実際にはターコイズの色を塗ったた石)を買ってしまった。
「マサルさん、地元出身なのにいちばん観光客っぽい行動をしてますよ」と言われ、「うん、そうなんよね」と返事。
地元に帰ってきて観光地の土産物屋で石を買うって、やっぱコイツすげーなーと思ったのであった。今月30歳。

さて秋芳洞を見た次は、当然、その地上部分にあたる秋吉台を見なければならないのである。
なんてったって日本を代表するカルスト地形(石灰岩が侵食された結果できた地形)なのだ。
そんなわけで、ラビーさんが車をちょろっと走らせて、展望台に到着。そしてその景色に圧倒される。

 一面の草原と、その間に顔を出す無数の岩。

長野県などの高い山のふもとにある草原に印象は近い。だが、点在する岩と侵食による複雑な高低差が独特だ。
大地は果てしなく広がっていて、まるで日本ではないどこか別の国に来たような錯覚をおぼえる。
見渡す限り同じ光景が繰り返されている。なるほど、これがカルストってことなのだ。
展望台からしばらく景色を眺めると、実際に地上を歩いてみる。
さっきの秋芳洞みたいにのんびり歩いてもキリがないので、まあ適度な範囲で歩きましょうか、となる。

  
L: こうして見ると、ややアフリカ風。どこまで行っても大地。  C: こちらがカルスト地形でございま~す。
R: 草原の間で露出している岩を撮影。こんなんがあちこちにゴロゴロしているわけです。

地下も地上もどこか異世界の風景。秋吉台・秋芳洞は非常にスケールの大きな空間で、
実際に訪れて体験してよかったーと思わせてくれる場所なのであった。

その後はラビーさんコーディネイトによる名所めぐりということで、車を日本海側に向けて走らせる。
途中でPFIで運営する初の刑務所である美祢社会復帰促進センターの脇を通る。
そうして走っていった先にあったのは、角島大橋という2000年竣工の橋である。
本当はまだ太陽が高いうちに来たかったようなのだが、それでも海の色は南国の明るい緑をまだまだ含んでいた。
ワゴン車を飛ばして橋を渡る。渡った先は角島という島で、実はここも下関市に属する。
平成の大合併で下関市は大幅にその面積を拡大し、山口県の西端をすっかり占領してしまっているのである。
さて車は勢いよく島の北側に出るが、駐車禁止と有料駐車場で停車するタイミングをつかめず、そのまま戻る。
結局、角島大橋のたもとにある展望台からみんなで夕日を眺めるのであった。なかなかきれいなのであった。

  
L: 美祢社会復帰促進センター。ちょっと中を覗いてみたい気もするが、そのために捕まるわけにもいかないし。
C: 角島大橋。かなり快適。晴れている昼間は、海がとてもきれいだと思う。まあ、またいずれ。
R: 展望台より眺める夕日。美しい景色にみんな見とれて過ごすのであった。

あとは暗くなっていく一方。少し急いで、下関の市街地へと戻る。
けっこう時間がかかって、これは行政区域広すぎだろーというツッコミを各自内心抱えつつ。

下関に着くと、これまたHQSの偉大なる先輩・めりこみさんと合流。
めりこみさんは香川在住で、僕が四国一周で高松を訪れた際に結局会えずご迷惑をおかけしている(→2007.10.7)。
それで今回、下関旅行をしますということでお誘いしてみたところ、スケジュールを空けてくださり参加が実現したのだ。
総勢9名とけっこう大規模にサークルOBが集合することができたわけで、それだけでもう大盛り上がりである。

ラビーさんが前もってチョイスしておいてくれたふぐ料理店に入る。
もともとはニシマッキーが、オレの結婚を祝え! 下関でふぐなんていいなあ!と言い出したことがきっかけで、
みんなでやーめでたいめでたいモードになっていたところ、めりこみさんから超・重大発表が。
これは日記で書いていいのかどうなのかちょっとわからないので婉曲な表現にしておくけど、
こういうおめでたい話を「実は来月……」という形でこうして聞くとはまったく想像していなかったので、全員たまげる。
それからはもう、そのめでたい話を中心にあれこれ盛り上がる。ふぐ料理もまた、刺身に鍋に雑炊と半端でない量。
メシも会話も存分に楽しませていただいたのであった。いやー、まあ、本当にとにかくよかったよかった。

下関駅で宇部へと帰るシノザキさんを見送ると、みんなで二次会へなだれ込む。
通された部屋がカラオケ可能な部屋だったので、めりこみさん得意のdeepsやらmoveやらをリクエストして盛り上がる。
そして年ごとのヒット曲をまとめたメドレーをみんなで交替で歌っていってさらに盛り上がる。
本当に久しぶりにサークルの飲み会のノリで、全員思う存分はじけたのであった。
やっぱりめりこみさんがいると違うなあ。いやー楽しかった。

  
L: 人生初ふぐ。歯ごたえがすごい。鍋はけっこう骨が多くて食べるのは大変。でもおいしかった。特に雑炊には感動したなあ。
C: ふぐ部の様子。ふぐに夢中になりつつ、めりこみさんの話にも夢中になりつつ。しかし本当に驚いたなあ。来月って。
R: カラオケで盛り上がるみなさん。これだけのバカ騒ぎは久々。57 MOVEサイコー!

宿をとっているめりこみさん・ニシマッキー夫妻と別れると、われわれは車でラビー邸へ。
ラビー邸ではそれぞれテレビを見たりマンガ読んだりして過ごす。まったりラビホで。


2007.11.2 (Fri.)

下関旅行に出発なのだ!

仕事を終えると家に戻って風呂入って片づけして準備して20時半過ぎに家を出る。
あらかじめ22時に羽田空港のスターフライヤー受付集合と決まっていたので、
早めに行って空港内でメシを食うつもりでいた。順調に電車を乗り継ぐが、意外と時間がかかる。
それで羽田空港の出発ロビーに着いたのが、なぜか21時55分。もちろん、店はどこも閉まっている。
オレは大田区に住んでいるのになんで1時間半近くかかるんだ、と憤るのだがどうしょうもない。

 閑散。

スターフライヤーの受付の職員以外はほとんど人がいない状況。
とりあえず自販機でパックの牛乳を買って飲んでいたら、みやもり登場。
しばらくしてニシマッキー夫妻も登場。ニシマッキー曰く「集合時間は22時から22時半の間ですよ」。ふーん。
西武線のえんだうも無事に到着。この旅行で世話になるラビー(だうさんとは同級生)へのお土産持参である。
そしてみんなで“地図が読めない男、話も聞かない男”こと岩崎マサルを待つ態勢に。
「あいつ大丈夫かよ……」と戦々恐々としていたのだが、驚くほどあっさりとマサルは到着。
偉いなあとみんなから褒められているマサルは今月30歳になる。

いざ受付で手続きをしたら、チケット購入に使ったクレジットカードを持ってくるのを忘れていた。
金はろくすっぽ持たないしカードも持たない、非常にオトナっぽくない生活習慣が仇となるのであった。
で、その次は危険物チェックである。みんながあっさりと通過する中、えんだうさんだけがやたらと引っかかる。
なんでも話によると、ハサミ(しかも2丁)とスプレー缶を持っているのを忘れていたそうで、
さっそくテロリストキャラ=「テロキャラ」がついてしまった。
この旅行中、えんだうさんはみんなからやたらと「だってえんだうさんテロだし」と言われるのであった。

小さめの機体は乗客でいっぱい。みんなで固まって座ると、離陸に備えてベルトを締める。
やがて飛行機が滑走路に向けて動き出す。じんわりと汗が出てくる。でもみんなは余裕の表情。
ジェットの加速がついて、飛行機はふわりと浮き上がり、慣性で斜め下に落ちていく感触がする。
顔をしかめながら「うわー」と思わず言っていたようで、後でみんなから、
「マツシマさん、注射の番を待つ子どものような顔はやめてください」
「ホントに『うわー』なんて言うの、マツシマくんだけやったよ。まわりに丸聞こえで恥ずかしいんよ」
「後ろから見ていて面白かったですよ」
と集中砲火を浴びたのであった。僕にはなんでみんなが平気でいられるのかがわからない。

とはいえ、いざ飛んでしまえばこっちのもの。パソコンを取り出して日記を書きはじめる。
ちなみにマサルは『ぜんまいざむらい』のアニメに夢中で、北九州に着いてからもテーマ曲を歌っていた。
そんでもって地方都市の上空では、夜景が実にきれい。シートについている画面で地図を出し、
それを見ながらえんだうさんと「今どこの街だ」「あれがそうだ」みたいな話に夢中。
バスや電車だと遠い街も、飛行機だと本当にあっという間。反則だぜ、と思う。
四国上空を飛んでいるときには、つい先月旅した記憶が鮮やかに蘇る。
また行きたいなあ、と思う街のはるか上空を素通りするのは、なんだか切ない気分になる。

  
L: 奈良の夜景。  C: 大阪の夜景。  R: 関西国際空港と、その先に和歌山市街が見える。

 高松の夜景。

徳島の夜景は悲しくなるほど弱々しい。高松は城下町らしい碁盤目がよく見えた。
燧灘(ひうちなだ、香川~愛媛の湾)の海岸線がとてもきれいで、なんと、そのずっと奥には高知の灯まで見えた。
丸い地球を県レベルで実感できたわけで、どんだけ高いとこ飛んでんだ、とあらためて驚かされる。
デジカメでいちおうは撮ってみたけど残念ながらうまくは写らない。肉眼の優秀さを実感。

あっさりと四国を抜けると中国地方に接近。広島をちょっと過ぎた辺りでもう着陸準備。
県という行政単位の持つ広さを無視するように、飛行機はどんどん高度を下げていく。
そしてきれいに着陸。当たり前のことが当たり前であることに感謝する一瞬である。

北九州空港に到着すると、コンビニで夜食を買い込む。それでラビーの車が来るのを待とうとするが、
空港を閉めるから残っているヤツは早く出て行きやがれ、という内容のアナウンスが流れる。しょうがないので外へ。
九州のくせして意外と寒い(11月の夜なんだから当たり前だろ、とみやもりにつっこまれた)。
しばらくバカ話をしたり記念撮影をしたりして過ごす。えんだうさんは持ってきた土産を取り出して撮影しようとするが、
その様子が爆弾を仕掛けようとするテロリストにあまりにもそっくりなためにみんなで爆笑。
あとはマサルが着ていたピッコロ大魔王Tシャツを自分の顔に見立てて暴れまくるなど、みんなやりたい放題だった。

 
L: 空港に爆弾を仕掛けるテロリスト的な人。これは本当に怪しい!
R: フリースをかぶって上の顔を隠し、ポーズをとるピッコロ大魔王。後ろでテロリストが直立不動。

しかしラビーは一向に来ない。「なんでみんなラビーのこと信用しとるの? ラビーなんよ?」とマサルが言い出す。ひどい。
そしたらレンタカーのワゴン車でラビーが到着。「実はドッキリで、みんな来ないんじゃないかって気もしました」とのこと。
まあどっちもどっちってことなのか。ひどいなあ。

ラビーさんの同僚で一緒にM-1予選に出たという深ちゃん氏(午前2時なのにありがとうございました)の運転で下関へ。
宿でニシマッキー夫妻を降ろすと、ラビー邸へと向かう。残った野郎4人がお世話になるというわけである。
ラビー邸に着くと、まずえんだうが用意したお土産を贈呈。なんと、国立名物のスタ丼である。
えんだうさんはこれを冷めないようにわざわざ保温しながら下関まで来たというわけなのだ。
(スタ丼をスターフライヤーで運ぶ、ということでさっき空港で記念撮影していたわけ。
 スタ丼が九州まで飛んだというのは、おそらくスタ丼配達の史上最長距離と思われる。)
ラビーはかつて国立に住んでいた。国立市民にとってスタ丼とは特別な食べ物・ソウルフードなのである。
そういうわけで、まさかスタ丼を食えるとは、と大喜びのラビーさんなのであった。よかったよかった。

 
L: あたたかい拍手の中、スタ丼贈呈式が執り行われた。  R: 久々の味を堪能するラビー氏。うれしそうだ。

ラビーさんの部屋はけっこうきれいに片づいていた。ドラえもん大好きっ子なのは昔からだが、
本棚をドラえもん関係の本がびっしりと埋め尽くしていたのには圧倒された。
さすがは富山で開催されたドラえもんオープンの優勝者である。
アクティヴにいろんなスポーツに手を出しているようで、あちこちにグッズが置かれていた。
そしてマサルは自転車のヘルメットを見つけて最低な行動をとるのであった。

こうして夜は更けていきましたとさ。


2007.11.1 (Thu.)

本日より仕事の進め方に変化が生じることとなった。詳しくは書けないが、なんだかなあ、と思う。
その関係もあって、仕事が終わって先輩方と情報交換の機会を持つことになった。
それで初めて聞くさまざまな話に、もうなんというか、あーもーどうにでもしてくだせえ、と投げやりな気分になる。
昼休みには無事にリポートを2本提出したのだが、今後は今まで以上に着実に計画を進めなければ、と思う。
自分の意志を貫いてコケるんであれば、それは納得がいくし、至らない点を改善するチャンスと前向きに捉えられる。
しかし、他人の無謀さに巻き込まれてコケるのは、何のプラスも生み出せない。途方に暮れるしかなくなる。
とにかく、自分の意志で自分の責任で行動をとらないといけないのだ。そうすることでしか、事態は改善できないのだ。
自分のためになることは、自分から動かないと訪れてくれない。帰りの電車内で音楽を聴きつつ、そんな基本を再確認。

日本シリーズは中日が優勝。強い日本ハムを押さえ込んでの優勝である。
名古屋文化圏に育った反動で、正直なところ、中日はどちらかというと好きではないチームだ。
でも、シーズン2位だけど53年ぶりだっていうし、もういいかげん日本一になっていいんじゃないか、と思って見ていた。
それにしても落合采配はブレない。8回までパーフェクトの山井を岩瀬に代えて勝つという采配は、妥当と思う。
これまた正直、落合はあまり好きではないのだが、やっていることはとっても正しいと思うので、文句はない。
落合采配で最も印象に残っているのは、今年のオールスターで9人の投手を1回ずつ登板させたことだ。
球場に来たファンにとってこれほど贅沢なことはない。那覇空港でみやもりと「落合やるねー」と感心したもんだ。
悔しいが(?)、いい監督だ。そういうわけで、中日は勝つべくして勝ったという気がするのである。
一方の日本ハムも本当に強いチームで、もし日本ハムが勝ったとしても、それはそれで納得がいっただろう。
つまり、本当に強いチームどうしが対戦し、激戦が繰り広げられたすばらしい日本シリーズだったということだ。
近鉄消滅やスト騒動といったピンチを経て、日本のプロ野球は着実に成長していると思わされるのであった。


diary 2007.10.

diary 2007

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