diary 2008.4.

diary 2008.5.


2008.4.30 (Wed.)

本日はさんざんお世話になった職場での最終日、なのである。
ほぼ一日を片付けに費やした。黙々と机や棚を整理し、必要なものだけ残していらないものを捨てる。
机の上にはうず高くゲラなどが積まれたものの、作業が終わったときには何もない状態になった。
17時近くなって、お世話になった皆様方に挨拶をしていく。中には「残念だ」を繰り返しおっしゃる方もいて、
僕が決心を固めたことを今後どれだけ貫けるかがいかに大切になるか、あらためて実感させられた。
後になって振り返ったとき、この3年間はきっと大きな意味を持ってくることになるだろう。
ここでの経験をプラスにできるか、ムダにするかは自分しだいなのだ。とにかく、がんばろうと思う。


2008.4.29 (Tue.)

旅行の最終日、朝の4時に起床である。素早く支度を済ませると、無人のフロントにキーを置いて宿を出た。
白川沿いに歩いて熊本駅へと向かう。当然、空は真っ暗である。人も車もごくわずかな中、大股で歩いていく。

駅に着くと、まずコンビニに入る。そしてレジに背負っていたBONANZAを置き、自宅へ送ってもらうように手続きをする。
最終日の今日は、せっかく熊本に来たんだからということで、思いきって阿蘇山に登ることにしたのだ。
登山するのにクソ重いパソコンなんて背負うわけにいかないので、持ち主とは別行動で東京に戻ってもらうことにした。
われながら大胆な作戦だなあと思うけど、ほかに方法がないのである。ホント世の中便利になったもんだ。

5時9分、乗り込んだ始発列車は熊本駅を出発。市街地からだんだんと山の中へと入っていく。
やがて阿蘇カルデラの外輪山のふもとに位置する立野駅に到着。すると列車は逆方向に発車して坂を上る。
そしてしばらく行ったら元どおり東へと動き出す。このスイッチバックはかなり有名なのである。
阿蘇の外輪山はこの1箇所だけ穴が空いている状況なのだが、それでもスイッチバックで越えることになるのだ。
列車は阿蘇カルデラの中にある平原を走る。阿蘇カルデラは東西が約18km、南北が約25kmというとんでもない大きさ。
Googleマップの地形モードで見てみると、九州のほぼ真ん中に巨大なクレーターがあるが、これが阿蘇カルデラ。
そしてそのカルデラの中には人が住んでいて、農業が営まれている。火山の真ん中で暮らすというのも凄いことだ。
車窓から北を眺めれば、平らな緑の大地とそれを壁のように取り囲む外輪山の姿が見える。
一見すると何気ない高原の風景も、外輪山の存在でここが火山の中であることを思い知らされる。不思議な光景だ。
遠くにある壁が、自分の生殺与奪が自然によって握られていることを明確に示している。人生観が変わってしまいそうだ。

  
L: 立野駅のスイッチバック。ホームから坂を上っていったん停止したところ。これから左側の線路で阿蘇の高原に出るのだ。
C: 目の前に広がる緑の阿蘇谷。北は外輪山がずっと取り囲み、南は中央火口丘がそびえるので、高原なのに谷なのだ。
R: 朝もやに霞む大地。火山の中とは思えない、気持ちのいい静かな朝である。

7時少し前に宮地駅に着いた。まずはここから阿蘇山を目指すことになるのだが、さすがに時間が早すぎる。
時間つぶしの散歩がてら、せっかくなので阿蘇神社まで行ってみることにした。阿蘇神社は肥後国一宮なのである。

 神社っぽいデザインの宮地駅。本日は気持ちのいい快晴。天気に恵まれて何より。

ここで、阿蘇山観光についての基本的なことを確認しておこう。
まず、阿蘇山の火口にアクセスするには、2つの方法がある。それは、東から行くか、それとも西から行くか、である。
メジャーなのは西からのアプローチ。JR阿蘇駅からバスが出ており、それで阿蘇山ロープウェイまで行き、火口を目指す。
それに対してマイナーなのは東からのアプローチ。かつてはJR宮地駅からバスが出ていたが、今はもうない。
しょうがないので宮地駅からタクシーで行くことになる。で、こちらには仙酔峡ロープウェイがあり、それで火口まで行ける。
(東ルートはハイキングというか歩きでの登山コースとして人気があるようだ。ロープウェイで帰るもよし、みたいな。)
阿蘇山の現役の火口に近いのは西側で、東側は少し距離を置いて火口の全貌を楽しむ、といった感じになっている。
さて今回僕が挑戦するのは、宮地駅に来ていることからもわかるように、東からのアプローチである。
ただ、行って火口を眺めてそのまま帰ってくるなんて芸のないことを僕がやるわけないのだ。
「東側から阿蘇山に行き、そのまま阿蘇山の中を歩いて西側に抜ける」という行動をとるのだ。
これをやる観光客はほとんどいないようだが、体力バカというかバカ体力の僕としては、やらないわけにはいかない。
なぜなら、そこに山があるからだ。

しかし仙酔峡ロープウェイは9時にならないと動かないので、それまでの時間調整を兼ねて阿蘇神社まで散歩。
宮地駅からまっすぐ北へ行く。阿蘇の中央火口丘から離れる方向になるので、地形は緩やかな下り。
駅に掲示されていた地図を見るにわりと近いのかなと思っていたのだが、意外と距離があった。
ひたすらまっすぐ、だいたい15分くらい歩いて阿蘇神社に到着である。

さてこの阿蘇神社、全国でも極めて珍しい「横参道」の神社なのである。
ふつう神社の参道は、本殿に向かって縦方向にまっすぐ進んでいくものだ。しかし阿蘇神社は、参道が横向きなのだ。
鳥居をくぐってしばらく行くと、横に楼門が建っている。回れ右して楼門をくぐると、そこには拝殿がある。

  
L: 阿蘇神社・北の鳥居と参道。右手に楼門がある。こういう「横参道」の神社に来るのは初めてだ。
C: 阿蘇神社の楼門。屋根が二層。日本三大楼門のひとつ(あとは茨城県の鹿島神宮(→2007.12.8)と福岡県の筥崎宮)。
R: 阿蘇神社の拝殿。それにしても阿蘇神社は、何から何まで珍しい神社だなあと思う。

お賽銭をあげると、旅行が無事に終わりますように、東京に戻ってからもなんとかなりますように、とお祈り。
おみくじをやってみたら大吉だった。旅行の締めにふさわしい。境内をしばらく散策すると、気分よく神社をあとにする。
帰りは一本西側の道を歩いて戻る。田舎らしいのんびりとした住宅地は朝の空気に包まれて、とても心地よい。
やはり同じように15分ほどまっすぐ緩やかな上り坂を行くと、国道57号(豊後街道)に出た。東に戻ると宮地駅である。

駅に戻ったら、タクシーが1台停車していた。ちょうどいいやと思い、「すいませーん」と声をかけ、乗り込む。
なお、一人でタクシーに乗るのは人生でこれが初めて。タクシーなんてそんな非経済的な乗り物、恐ろしくって乗れない。
しかしながら今回ばかりはどうしょうもないのだ。「仙酔峡ロープウェイまでお願いします」「定番だねえ」「そうですか」
車内では阿蘇山についての基本的な話をあれこれ聞く。タクシーはどんどん山の中へと入っていき、
やがて視界が開けると、その景色に思わず息を呑んだ。運転手のおっちゃんも自慢げである。
窓の外にはあまりにスケールの大きいカルデラの大地。底に人里が広がり、それを壁のごとく外輪山が覆う。
外輪山はまるで定規で引いた線のように、見渡す限り水平に延びて世界を取り囲んでいる。
仙酔峡ロープウェイに着き、タクシーを降りるとあらためて目の前の光景を眺め、しばし呆ける。

  
L: 仙酔峡ロープウェイの駐車場から眺めたカルデラ北側の様子。朝もやがかかっているが、箱庭のような景色にびっくり。
C: 仙酔峡ロープウェイ・仙酔峡駅。この辺りを境にして、景色は火山らしい赤い岩肌へと変わるのである。
R: 尖っているのは阿蘇五岳のひとつ、根子(ねこ)岳。手前には仙酔峡名物であるミヤマキリシマが広がっている。

景色を眺めて呆けていたが、ロープウェイが動くまでまだ40分ほどある。
しょうがないので、駐車場で大の字になって寝る。青空とカルデラに包まれて眠るのはなかなかオツな体験だった。
で、9時の少し前になってあと5分でロープウェイが動きますよーとアナウンス。むっくり起き上がると駅の中へ。
東側からのアプローチは西側に比べるとかなりマイナーなためか、始発の客は僕を入れて5人だけ。
ロープウェイはゆっくり動き出すと、仙人も思わず酔いしれるという仙酔峡から遠ざかってグイグイ上っていく。
仙酔峡は5月から6月にかけてミヤマキリシマが咲き、一面がピンクに染まるという。
その時期に来れば特別にすばらしい眺めが楽しめたのかもしれないが、新緑の今の季節だってなかなかのものだ。

ロープウェイは火口東駅に到着。建物の外に出ると、そこはすっかり荒々しい火山の姿になっていた。
ほかの観光客の皆さんは駅からすぐ近くにある火口の展望所まで歩いていくが、周りの景色に僕の足はすくむ。
「しまった! オレ、高所恐怖症だったじゃないか!」と、ここまで来たところでようやく気がつく僕は本物のアホだと思う。
旅行の計画を練る段階では具体的にその場所がどんな景色なのか想像つかないから、
特に気にしないまま阿蘇山に登ることを決めてしまった。でもよく考えれば、これは当然の事態だったじゃないか。
ロボットダンス状態でカクカクと展望所へと歩いていく。すでに手のひらは汗でぐっしょりしている。
きれいに舗装された道は展望所のすぐ近くで終わっていて、その先を見ると茶色の岩肌が延々と続いている。
「あれに……登る……のか?」上目づかいになって思わずつぶやく。ウソだろ、と思ってみても現実は変わらない。
正直、西側へ抜けることなく引き返すことも一瞬考えたのだが、やっぱり好奇心の方が勝った。歩いてみよう、と決心。

  
L: 火口東展望所へと向かう道。右手に見えますのは非常時用のシェルターでございまーす。ヒー
C: 火口東展望所より眺める阿蘇山の火口。噴煙があがっております。いやー怖い。
R: 「この山道を……行く……のか?」 ♪君のー行くー道はー果てーしなくー遠いー。なのにーなーぜー歯を食ーいしーばーりー……

そうと決めたらモタモタしているわけにはいかないのだ。
火口の写真を一発撮ると、ほかの観光客の皆さんがじっくり火口観察をしているのを尻目に、さっさと歩きだす。
というのも、今日の午後にはロアッソ熊本×ヴァンフォーレ甲府の試合を観戦するつもりなのである。
この試合に間に合うためには、10時50分に阿蘇山西駅を出発するバスに乗る必要があるのだ。
今はもうすでに9時10分ほど。ロープウェイに乗る時間を考えると、今から1時間半以内で西側に着かないといけない。
西側へ抜けるルートはどっからどう見ても完全に山道、そして岩山。そんでもって僕は高所恐怖症。
冷静に考えるとこれはムリなチャレンジだ。今回ばかりは完全に失敗した。しくじった。参った。
でもまあ、せっかくここまで来ているんだから、話のタネ、日記のネタとして登ってやろうじゃないか。
というわけで、腕時計をジーンズのポケットにしまって尾根を歩いていくのであった。
(こう書くとカッコよく思われちゃうかもしれんが、実際にはうつむいて足元5mくらい先に視線を固定して荒い息で歩く、
 挙動不審な人物でしかないのである。景色を見るときは必ず立ち止まり、腰だけ回転させて眺める。ホントにロボット。)

  
L: 道はずっとこんな感じ。尾根は右も左も支えてくれるものがないから、ものすごく怖い。
C: 下半身はそのまま、上半身が固まったまま腰の回転で振り向いて景色を見る。そんでもって撮影。
R: 後ろを見ると、カルデラの外輪山に囲まれた世界。手塚治虫『火の鳥』の黎明編を思い出す。「世界だ」

風がなかったのは不幸中の幸い。もし少しでも風が吹いていたら、怖くてとても登れなかったと思う。
とにかく一歩一歩先へと確実に進んでいくことを心がけて進んでいく。で、たまに思い出したように撮影。
それを繰り返していくのだが、気がつけばどんどん標高が上がっていって、足がすくんでしまう。
一緒に登る仲間がいれば冗談を言って恐怖心を紛らわすこともできるんだろうけど、一人旅ではそれもできない。
左手のお茶のペットボトルと右手のデジカメだけが友だちさ~♪という状態で、黙々と歩いていく。

  
L: 仙酔峡ロープウェイ・火口東駅がこんなに小さく見える。思えば遠くに来たもんだ、なんて言ってる余裕はない。
C: 中岳頂上(1506m)。360°見渡す限り崖のようなものなので、とにかく怖い。ホント怖い。
R: 中岳の頂上付近より見た阿蘇山の火口。あそこまで歩くのか……。遠いなあ……。

どうにか中岳頂上に到着。だいたいこれで行程の40%くらいである。
ポケットからおそるおそる時計を取り出し時刻を確認すると9時40分。火口東展望所から20分足らずで着いたことになる。
さて、山頂ってのは当然、周りの中で一番高いところにある。つまりどっちを向いても下りなのである。
落ちたら一巻の終わりじゃー!という強迫観念があるので景色を楽しむどころではない。
転ばないようにしゃがんで手をついて歩き(常識的には転びようがないのだが……)、もとのルートに戻る。
さて、ここからまっすぐ東へ行けば、30分ほどで阿蘇山の最高峰である高岳の頂上に着くという。
しかし時間の都合もあるし、何よりここよりもさらに高いところに行くなんてそんなの死んじゃうじゃないか!と思うので、
高岳は無視してそのまま西側へ抜けるルートを進んでいくことにした。脂汗でびっしょりだよ、もう。

  
L: 阿蘇五岳の最高峰である高岳(1592m)を眺める。もうこれ以上高いところはイヤです。
C: 今まで歩いてきた尾根を振り返ってみたところ。オレはこんなところを綱渡りみたいに歩いてきたのか、と呆れる。
R: 中岳を越えると下りながら進むことになる。勢いがつかないように尾根を下っていくのは、けっこう疲れる。

 左手にカルデラの南側、南郷谷が見えるようになった。雄大。本当に雄大な景色。

やがて尾根づたいの針路が南から西へと曲がる辺りで地面は岩が目立つようになり、ゴツゴツとした谷を下りるようになる。
こうなると本格的に登山という感じがしてくる。軽装でスニーカーの僕はなんだか場違いな気がしてくる。
山の中を歩いている間、2人ほどの登山客とすれ違ったのだが、どちらもリュックを背負っていたし。まあしょうがない。
デジカメを岩にぶつけないように慎重に下りていく。黄色いカラースプレーで岩にルートが示されているので、
それに従って下りていく。岩をつたって下りることに集中していたら、慣れてきたのか、だいぶ高所恐怖症がおさまってきた。
そうなるともうこっちのものだ。半ば駆け下りるようにして、グイグイと先へと進んでいく。

  
L: 岩にある黄色い丸は「ここから眺めると絶景だよ」という合図。見てみると、これが確かに見事なんだわ。ハズレなし。
C: 真ん中の平らなところが砂千里ヶ浜である。月面の「海」もこんな感じなのかなあ、なんて考えてみる。
R: 岩だらけの中を登るときにはこの矢印に従う。僕は下っていくので、矢印のある場所を逆向きに下りていくわけだ。

気づけば砂千里ヶ浜がかなり近づいてきた。ほっと安心するが、最後まで気を抜かないように下りていく。
やがて岩場を抜けて、砂千里ヶ浜の中へ。色の濃い火山灰が一面を覆っている。
見通しが利くように、少し高いところを歩いて火口の西側を目指して歩いていく。
すると遊歩道がつくられていたので、そちらを歩いていくことにする。もう少しでゴールだ、そう思ったそのとき、
「ガスが発生しましたので速やかに退避してください」とアナウンスが。えー!?

  
L: 駆け下りてきた岩場を振り返る。落ち着いて見てみると、絶景に思えてくる。人間って慣れる生き物だなあ。
C: 砂千里ヶ浜に到着。これで大変だった阿蘇登山もおしまい。ほっとする反面、少しだけ残念な気も。
R: 遊歩道が砂千里ヶ浜の中にあるので、これで火口西口まで行く。しかし途中で退避勧告のアナウンスが。

遊歩道を抜けると阿蘇山公園道路に出る。そこから右手へと坂道を上っていけば火口西展望所なのだが、
ガスの発生によって退避命令が出たので通行禁止となってしまった。あともうちょっとだったのに……。
複数の火口から噴煙があがる様子や、湯釜(→2007.5.5)みたいな色の火口湖をぜひ見てみたかったのに。
まあこれも運だ。しょうがない。残念な気持ちを抑えてあきらめる。が、困ったことに、火口西展望所が封鎖されたせいで、
阿蘇山ロープウェイに乗って下りることができないのである。ロープウェイを横目で見つつ、阿蘇山公園道路を歩いて下る。
大勢の観光客と一緒に坂道をトボトボ歩いていったのだが、聞こえてくるのは韓国語ばかり。
昨日の熊本城でもそうだったけど、なんで韓国の観光客のおばちゃんは蛍光ピンクのジャンパーを着るのか。不思議だ。

ロープウェイの阿蘇山西駅に着く。観光客が全員ここで足止めを食らっているので人でいっぱいである。
せっかく阿蘇高原に来たんだからと、ソフトクリームを舐めてバスを待つ。おいしかったのでやや機嫌が戻る。
程なくしてバスが到着。もしガスが発生せず、のんびり展望所にいたら間に合わなかったかもしれない、と思うことにする。

バスは県道111号となっている阿蘇パノラマラインを行く。この道はその名のとおり、景色を存分に楽しめる道なのだ。
まずは草千里ヶ浜。烏帽子岳の中腹にあり、見事な緑が広がっている場所である。
時間があれば、ぜひバスを下りてのんびりしてみたかった。でも今回はあきらめ、車窓から写真を撮影してガマン。

  
L: 草千里ヶ浜。奥には烏帽子岳がそびえる。反対側にはレストハウスがあり、観光客多数。
C: 草千里ヶ浜には2つ池があり、冬には天然のアイススケート場となるんだとか。
R: いかにも阿蘇らしい景観である。いいなあ、また来てのんびりしたいなあ。

バスはさらに下っていき、右手に杵島(きじま)岳、左手に米塚が見えてくる。
米塚は山頂のへこみを見てわかるように、かつて火口丘だった。非常にかわいらしいが、環境保全のため登山禁止。

 
L: 杵島岳。山全体が緑の草に包まれていて、登るとすごく気持ちのいい場所らしい。
R: 米塚。見事な円錐形をしているところに、ぽっかりと真ん中に穴が空いている。自然の不思議。

阿蘇山の中央火口丘から北側の斜面は放牧地帯になっていて、草原の中に牛がいる。
そんな穏やかな光景を堪能しているうちに、バスは阿蘇駅に到着。
阿蘇駅では列車が来るまで1時間ほど余裕があったので、メシを食い、近くの土産物屋を眺める。
頂上でのガス発生もこの辺ではまったく関係のないことで、のんびりしたお昼休みになるのであった。
やがて列車が来たので乗り込み、阿蘇カルデラの外輪山と中央火口丘の姿を目に焼き付けて過ごした。

  
L: バスの車窓から見た阿蘇山中央火口丘北側の放牧地帯。奥には外輪山が広がる。  C: 放し飼いされている牛たち。
R: 列車の車窓から眺める中央火口丘。阿蘇ってのは独特な場所だなあと思うのであった。

阿蘇山観光も終わって、いよいよ本日のもうひとつの目的地である熊本県民総合運動公園陸上競技場、
通称・KK WINGに行くのである。ここは今シーズンからJ2に加入したロアッソ熊本が本拠地としている場所である。
光の森駅で降りるとシャトルバスに乗ってKK WINGへ。10分ほど揺られてバスを降りると大きなスタジアムが目に入る。
キックオフまでそれほど余裕があるわけではないので、急いで当日券を買って中に入る。
どっちがアウェイのスタンドなのかよくわからないままに動きまわり、ようやくゴール裏へとたどり着いた。
Jリーグとしては最果ての地である熊本だが、それでもやはり熱狂的な甲府サポが合計100人近くはいたかなあ。

  
L: KK WING外観。高さはないが、スタンドにかかっているテフロン製の屋根が特徴的。  C: 内側から見るとこんな感じ。
R: ホームの熊本サポの皆さん。スタジアムの規模と比べると数が少ないが、まだJリーグ1年目だからこんなもんだよね、と思う。

さあいよいよ熊本×甲府の試合がキックオフなのである。まさか熊本まで来るとは……われながら呆れてしまうが、
あくまで県庁所在地めぐりの日程とうまくぶつかったので来ただけさ、と自分で自分に言い訳。
で、シャツを脱いで着込んでおいたユニ姿になると(つまりユニを下に着た状態で山に登っていたのだ)、応援開始。

最初のうちはわりと甲府の攻める姿勢が目立つ展開だったのだが、前半26分にFKを決められて先制される。
攻めるんだけど最後のところでつぶされる、というパターンを繰り返しているうちに前半終了、ハーフタイムに入る。
で、後半開始早々に藤田がPKを決めて追いつくのだが、その4分後にこれまたFKから頭で合わされて再びリードを許す。
GK桜井がこういう形で2点を奪われるというのは、これまでの甲府の試合からは予想できなかったので驚いた。
やがて終盤に差しかかったところで熊本の選手がイエロー2枚で退場し、甲府はパワープレーに出る。
しかし最後まで熊本守備陣の集中力は切れず、甲府の攻撃はゴール前に迫るところではね返され続けた。
結局そのままタイムアップとなり、1-2で甲府は敗れてしまったのであった。
試合終了後に選手たちがスタンドまで挨拶に来るのだが、「わざわざ熊本まで来てくれたのに……」というオーラが漂っていて、
なんというかいたたまれない雰囲気になるのだった。なんとかなりませんかね、この“反省会”って感じ。

 
L: わざわざ熊本までやって来た甲府サポの皆さん。すげえなあと心から思うよ。
R: 試合終了後、サポーターに挨拶する選手たち。本当に申し訳なさそうにしていて、こっちも切なくなる。

ところでKK WINGでは熊本らしい食べ物もいくつか売っていた。
ハーフタイムにはのどが渇いたのでマンゴージュースを飲んだのだが、タピオカ入りで非常においしかった。
太めのストローで底に沈んだタピオカパールごと吸い込むスタイルなのだが、これは台湾発祥らしく、
そういうのがサラッと出てくるあたり、いかにもアジア諸国に近い九州ならではだなあと思った。
あとは熊本名物・いきなり団子も当然のごとく売っているのであった。
いきなり団子とは、来客がいきなり来ても簡単につくることができる団子、ということでそういう名前なのだ。
輪切りにしたサツマイモに餡を乗せて、小麦粉を練った生地で包んで蒸すのだ(かつては餡は入らなかった)。
こういう地方色豊かなものが味わえるのも、地方でのスポーツ観戦の醍醐味なのである。

さて試合が終わるとタクシーが長々と行列をつくっているのが目に入る。
ほかに移動手段がないので仕方なくその中の1台に乗り込むと、「熊本空港までお願いします」と告げる。
手ぶらで一人ということで「報道関係者の方ですか?」と訊かれた。そうか、そういうもんなのか、と変に納得。
「いえいえ休みでふらっと旅行していたサラリーマンです」と返事。「どちらから?」「東京です」
そんな具合に運転手のおっさんと雑談をしながらも、ガンガン上がっていく料金メーターに戦々恐々。
どうもタクシーって乗り物は苦手である。

で、熊本空港に到着。帰りの便まではかなり時間があったので、あちこち歩きまわって過ごす。
疲れたのでロビーの椅子に座って仮眠をとってみたり、KK WINGで買っておいたいきなり団子を食べてみたり。
売店で弁当を安く売っていたので、晩飯は機内で食べようとあれこれ迷ってみたり。

 
L: 熊本空港。タクシー運転手のおっさんに話によれば、阿蘇の山麓にあるために霧のトラブルが多いそうだ。
R: KK WINGで買った、ラップに包まれたいきなり団子である。おいしくいただいたのであった。

ウロウロしていたら、日に焼けたスーツ姿の集団が現れた。みんな青いネクタイをしていて背が高く、目立っている。
なんずら、と思って眺めていると、その中に見覚えのある顔がチラホラ。あ、秋本だ。保坂もいる。
というわけで、ヴァンフォーレ甲府の選手たちなのであった。なんだか出待ちをしていたみたいな気分になる。
選手たちは同じく羽田に帰ろうとするサポーターたちからあれこれ激励されているのであった。
まあ冷静に考えれば空港でニアミスするのも当然だわなあと思っていたら、目の前にオミこと山本英臣が現れた。
オミは今シーズン主にアンカーとして活躍中である。序盤で負けなかったのはオミ(とGK桜井)のおかげ、と僕は思っている。
目が合ってしまったので、思わず「がんばってください」と言ったら「はい」と返ってきた。うーん、照れるぜ。
まあとにかく、甲府にはもっと活躍してもらわないと日本のサッカーが面白くならないのだ。期待しているのだ。

甲府の選手の皆さんは一足先にJALの便で羽田へと帰っていった。僕はその次のANAで帰るのだ。
スキップサービスでさっさと手続きを済ませて飛行機に乗り込んだ。すっかり飛行機にも慣れたなあ、と油断していたら、
やっぱり離陸するときになって汗びっしょりに。これは高所恐怖症と同じで直らないだろうなあ、と思うのであった。

1時間半のフライトで羽田空港に到着。飛行機ってのは規格外の速さだ。
で、今回は京急蒲田から東急の蒲田駅まで歩いてみたのだが、これが意外と距離があった。
東京に着いたことで安心すると、一気に疲れが出た。さすがに1週間以上ぶっ通しでの旅行だから半端な疲れではない。
家にたどり着くとすぐに風呂に入り、一休みしてさっさと寝る。今回の旅行は本当にいろんなことがあった。
それをあれこれ思い返す間もなく、ただただぐっすりと眠るのであった。


2008.4.28 (Mon.)

ね、ね、寝坊したぁー!!

あろうことか、旅先で寝坊をしてしまった! 県庁所在地めぐりをやるようになってから初めての屈辱である。
鳴り出したケータイのアラームを切った直後にまた眠りに落ちてしまったようで、ハッと目が覚めた瞬間に血の気が引いた。
6時4分に長崎を出発する電車に乗る予定だったのだが、時計を見たらすでに7時15分を過ぎているではないか!
たかが1時間ちょいの遅れじゃんガタガタぬかすな、と思う人もいるかもしれんが、分刻みでスケジュールを組んでいるのだ。
田舎の鉄道に頼る旅をしているわけで、ひとつ予定が狂えばどんどん遅れは広がっていく。せっかくの寄り道もできなくなる。

5分で支度を済ませると、宿を飛び出して長崎駅へと走る。
僕は時刻表が読めない。ネットに対応していない部屋に泊まったので、情報が何ひとつ確認できない。
とにかく、行き当たりばったりでスケジュールを修正しながら移動していかなくてはならないのだ。
行きたいところがいっぱいあって、ピッチピチの計画を立てていた僕には、これはつらい状況である。
長崎駅に到着すると時刻表を確認。読めない時刻表をムリして読んで(なんだか「飲めない酒をムリして飲んで」みたい)、
どのホームのどの列車に乗ればいいか確かめる。幸い10分ほど時間があったので、朝食を買い込み改札を抜ける。

結局、乗り込んだ列車が長崎駅を出たのが7時44分。1時間半以上の遅れとなってしまった。
車内で焦ってもしょうがないので、そこは落ち着いてメシを食いつつ景色を眺めながら過ごす。
諫早駅に着いたのが8時半少し前。0番ホームに移動して島原鉄道に乗り換える。8時半過ぎに発車。
やっぱり焦ってもしょうがないので、海側の景色を眺めて過ごす。気になった景色はデジカメで撮影。

  
L: 干拓された真っ平らな土地で育つ稲。この地域には「干拓の里」という名前の施設があり、「干拓の里駅」もある。
C: ニュースでも採り上げられた諫早湾干拓事業の堤防を越えると姿を現す有明海。
R: 旧・国見町(現・雲仙市)の多比良町駅ホームにはこんなオブジェが。国見高校の影響力の大きさがわかる。

天気がよければ、有明海越しに対岸も見えただろうし、島原半島の中央に位置する雲仙もはっきり見えただろう。
連日あちこちを飛びまわる旅行をしているわけだから贅沢は言えないが、それにしてももったいない。
島原半島の景色は、のんびりした田舎のそれである。島原半島の東側は雲仙を頂点にした円錐型の地形になっている。
うっすらと見える山から非常に緩やかな傾斜が続いていて、それは田んぼの緑と点在する家々で埋め尽くされている。
かつての噴火で大きな被害が出たのがウソのように、落ち着いて静かな朝である。
(後述する「島原大変肥後迷惑」によってこのような地形になった側面もあるだろう。自然と比べると人間はちっぽけだ。)

 1990~95年の噴火で大きな被害を出した雲仙普賢岳(右)と平成新山(左)。

やはり1時間半以上の遅れで島原駅に到着。当初の予定では島原に1時間半滞在するつもりだったが、
事情が事情なので1時間に短縮することにした。島原では島原城・武家屋敷跡を見ることにしていたので、
かなり慌しく走りまわることになってしまった。正直言って、これはもう旅行というよりもスポーツ気分である。

 
L: 島原駅は島原城の大手門をモチーフにしている。無人駅ばかりの島原鉄道ではものすごく豪華に思える。
R: 駅舎にはツバメの巣があちこちにあった。昨日の佐世保でもいっぱいいて、九州は完全にツバメの季節だなあ、としみじみ。

駅からまっすぐ行くと島原城の堀にぶつかる。そこからぐるっと正面にまわり込むと、入口である。
いきなり本丸に乗り込む格好になるためか、これがけっこう急な坂道になっていて、走って上がるのがなかなかつらい。
入館料520円で天守だけでなく観光復興記念館・西望記念館にも入れるが、時間の都合で天守のみ。もったいない。

 
L: 島原駅前から眺める島原城天守。現在のものは1964年に復元されたもの。
R: 島原城では子どもの名前を書いた幟がやたらめったら立っていた。子どもの日向けの何かだろうか。

島原といえば、1637年の「島原の乱」が有名である。
現在、島原城の中はキリシタンの資料などが展示されている歴史資料館となっている。
この展示をじっくり見て、あらためて島原の乱の凄まじさに驚かされた。

当時の島原藩主である松倉重政・勝家親子はかなりの重税を課し、従わない者に対して残酷な仕打ちをしていた。
実際、島原城は4万石の石高の割には非常に立派なもので、それだけの圧政を行っていたことを示している。
それで農民たちが蜂起し、島原の乱が勃発する(なお、島原城は一揆軍の攻撃を受けたが撃退している)。
また、肥後の天草でも寺沢広高・堅高親子の圧政(唐津藩主で、天草は飛び地 →2008.4.26)に対して反乱が発生。
天草の一揆軍は天草四郎こと益田四郎時貞を総大将にし、島原の一揆軍と合流して原城跡に籠城した。
島原・天草はもともとキリシタン大名が治めていた土地であり(島原は有馬晴信、天草は小西行長)、
関が原の合戦後にやってきた領主が猛烈なキリシタン弾圧と土地の実情を無視した圧政を行った点が共通していた。
最終的には兵糧攻めの末に総攻撃が行われ、内通者の山田右衛門作を除いた総勢3万7000人全員が死亡。
島原半島の南半分は住民全員が一揆に参加していたため、これによって完全に無人化してしまったそうだ。
(どの村でどれだけ生き残ったか数値を示した展示があったが、南半分はどこも「0」となっていて、背筋がゾッとした。)
その後に島原を治めた高力忠房は、積極的に移民を募って復興に努めた。その影響で新しい方言が生まれたという。

島原城天守の最上階はご多分に漏れず展望台になっている。天気が良くなかったのが本当に残念。
本来であれば、東を向けば有明海、西を向けば眉山(まゆやま)と平成新山が見える、なかなかの景観ポイントなのだ。
ちなみに眉山は1792年に、日本で最大の火山災害ともいわれる「島原大変肥後迷惑」を引き起こしている。
雲仙岳の火山活動や火山性地震により眉山が山体崩壊し、大量の土砂が島原の街を埋め尽くした(「島原大変」)。
そして土砂はそのまま有明海になだれ込み、対岸の肥後国では高波が発生して甚大な被害が出た(「肥後迷惑」)。
肥後迷惑の高波はさらに撥ね返って島原半島に襲いかかるというひどさで、死者は合計1万5000人にものぼったという。
表面的には穏やかに見える街も、凄まじいとしか形容しようのない悲しい歴史を持っているのだ。
気ままな観光客の僕は、ただその歴史にぽかんと口を開けてため息をつくしかない。

 
L: 島原城天守より眺める有明海。天気が良ければ対岸の熊本県が見える……かな?
R: こちらは反対側の眉山と平成新山。手前の眉山が崩れて街を呑み込んだわけだけど、想像したくない怖さだ。

時間がないので大雑把に島原についてのお勉強を済ませると、島原城をあとにする。
そして島原商業高校の脇を抜けて武家屋敷跡へ。道路の中央には水路が引かれ、石垣が今もきれいに残っている。
武家屋敷として観光客に公開されている屋敷は北側にある3軒だけで、あとはごくふつうの住居。
しかし街並みは見事に保存されていて、歩いているとタイムスリップしたような、不思議な感覚になる。

  
L: 武家屋敷跡の通り。石垣だけ残してふつうの住宅になっている箇所も多いが、やっぱり風情が違う。
C: このような光景がまっすぐ400mほど続く。時間をすっ飛ばしたような、空間をすっ飛ばしたような、不思議な感じがする。
R: 公開されている武家屋敷。当時の生活が人形などでの再現によって展示してある。

さあこれでいちおう島原観光は終了。本当はもっといろいろ見るべきものもあるのだろうが、
残念ながら必要最小限ということになってしまった。時計を見ると列車の発車時刻まで残り10分を切っている。
必死で走って島原駅まで戻ると、預けていた荷物を取り出して切符を買う。
やがて列車はやって来て、無事に乗り込むことができた。余裕のない旅はイヤなものだ。わかっちゃいるけどなんとやら。

実は、島原鉄道はこの3月いっぱいで島原外港駅~加津佐駅を廃止してしまったのだ。
鉄っちゃんなら常識で、そのためにわざわざ乗りに来る人もいたのだろうけど、そんなものは僕には関係ないのだ。
終点となってしまった島原外港駅で降りると、そのまま歩いて島原港のフェリーターミナルビルへと直行。
というのも、今回の九州西海岸旅行では、ここ島原から海を渡って対岸の熊本県入りをするのである。
最果ての長崎県から海路で熊本県へ。これを思いついたときには「オレすげー」と思ったもんだ(幸せな脳みそである)。
ネットで調べてみると島原-熊本というのはフェリーが何本も出ているメジャーな航路で、
これはぜひチャレンジしてみよう!と楽しみにしていたのである。

しかしまあ寝坊で遅刻をぶっこいたわけで、当初立てていた計画は変更しなくちゃいけない。
フェリーターミナルビルに入ると、さっそく島原-熊本間の運行ダイヤをチェックする。
まるで数学の文章題みたいなんだけど、熊本フェリーの「オーシャンアロー」は所要時間30分で運賃800円。
九商フェリーだと所要時間60分で運賃680円。さあ、どうする? と、このデータだけ見ると悩ましいところなのだが、
運行ダイヤを見て到着時刻の早い方を割り出したら、今回は九商フェリーに軍配が上がったのであった。
そんなわけで11時10分、フェリーは出航。島原外港駅では数人程度しか列車を降りる人がいなかったが、
熊本行きのフェリーの中はなかなかの繁盛ぶり。それだけ島原-熊本間の往来は、地元では当たり前のことなのだろう。
「さらば長崎県」と思いつつ船尾で島原半島・雲仙岳を撮影していたら、カモメの群れがすごいのなんの。
船内で売っているスナック菓子を乗客がくれるのを知っていて、いつまでもいつまでもフェリーを追いかけてくる。
そしてヒラヒラ飛びながら、与えられた菓子を器用に食べる。それが延々と続くのであった。

  
L: 島原外港駅ホームから眺める加津佐駅方面の線路。ここを列車が通ることはもうないわけで、なんだかおセンチ。
C: フェリーの船尾から島原半島・雲仙岳を眺める。長崎県は面積のわりに見どころいっぱいなのであった。
R: いつまでもフェリーにくっついて飛ぶカモメたち。そのあまりのしつこさに、食い物の恨みは恐ろしいなあ、と思う。

所要時間60分ということで、ここまでずっと気を張って動いていたこともあり、席に着くとそのまま寝てしまう。
気づけば熊本港にまさに着岸せんとス、ということで、陸地を眺めて「おーこれが熊本県かー」と感動する余裕は一切なく、
さっさと下船して市街地行きのバスの時刻表探しとなるのだった。時刻は12時10分過ぎ。やっぱり予定の1時間半遅れ。
バス停で確認したところ、20分ほどの時間があることがわかった。猛烈に腹が減っていたのでメシを食うことも考えたが、
値段がやや高めでそれほど魅力的なメニューもなかったので、市街地に着くまでガマンすることにした。
天気はすっかりよくなっていて、なかなかの日差しである。外の日陰や土産物売り場をウロウロしながら時間をつぶす。
やがてバスがやってきたので乗り込む。大雑把な郊外の風景の中をひた走ること30分ほどで熊本駅に到着した。

なんでかはわからないのだが、実は熊本駅は中心市街地からかなり離れた場所にある。
(蒸気機関車の煙が嫌がられたとか、市街地は地価が高く広い土地を得るのが難しかったとか、諸説あるようだ。)
駅舎は九州新幹線の開業に合わせて改築される予定だが、大胆なバルコニーが印象的でなかなか面白い。
で、駅舎を撮影したらさっそく本日の宿へ行き、荷物を預かってもらうことにする。
熊本のビジネスホテルは駅の南東に集中している。というのも、この一帯はもともと風俗街として栄えていたが、
それらの店が軒並み健全な宿屋に業務転換したため、と思われる。おかげで、歩いてみると独特な雰囲気がする。
パソコンの画面で見たホテルの地図の記憶を頼りに歩いて探す。そしたら偶然、熊本ラーメンの有名店を発見。
行列ができているが、せっかくだし昼メシはここにするか!と心に決めて、さらに歩く。
そしたらそこからすぐ北に行ったところで本日の宿を発見した。無事に荷物を預けることができた。

宿から出ると、さっそくラーメン店に並ぶ。意外とあっさりと店内に入れたものの、席に着いてからとにかく待たされた。
客の回転を良くしようという積極的な姿勢がまったく見られないのである。参った。
で、出てきたラーメンはそれなりにおいしかったんだけど、待ち時間のことを考えるとどうかなあ、というのが正直なところ。

  
L: バルコニー(屋根があるからベランダ?)が目立つ熊本駅。街はずれにあるため、都市の規模に比べると非常におとなしい。
C: 熊本の路面電車は、こんな感じの風情ある車両が多く走っていた。ライトレール型の車両もある。
R: 熊本ラーメン。ニンニクが効いていてうまかったのは確かなんだけどね。写真は大盛。

食べ終わると、うおー歩きまわったるでー!という元気が湧いてくる。
路面電車に乗り込むと、そのまま熊本県庁まで行ってしまうことにした。
実は事前に熊本県庁の位置を調べたのだが、これがものすごく遠いのだ。
JRでは熊本駅から3駅目の新水前寺駅で降りて、そこから歩く。路面電車なら16駅目、市立体育館前で降りて歩く。
かつては市街地の真ん中、今の熊本交通センターの位置にあったのだが、1967年に移転したのである。
いつもなら意地でも歩いていくところなのだが、モタモタしていても時間がもったいないし、
正直疲れもあるのでおとなしく路面電車に揺られることに。熊本城前で東へ曲がると、あとはまっすぐ。

路面電車を降りると、しばらく南下してから左に曲がる。そうして歩いていると、左手にイチョウがびっしり植わっている。
その奥にチラッと、規模の大きそうな建物が見える。これが熊本県庁である。
イチョウ並木を抜けると建物の前にあるオープンスペースへと出る。そして県庁舎本館を撮影しようとする。
しかし幅が広いので、カメラの視野にうまく収まらない。しょうがないので角度を変えていろいろ撮影してお茶を濁す。

  
L: 県庁通りに面したイチョウ並木と、その奥にそびえる熊本県庁舎本館。秋には落ち葉がものすごいらしい。
C: オープンスペースから撮影した本館。13階建てで幅が広い。1967年に竣工したというわりにはずいぶんきれいである。
R: というのも、2002年に改修しているから。ユニバーサルデザインに対応させる大規模な改修だったようだ。

  
L: 本館前にはこのようなサンクンガーデンがある。かつては水を張っていたようだが、今は何もなし。
C: 隣に建っている県議会棟。こちらも1967年に本館と一緒につくられた。
R: 裏手にまわったところ。右にあるのは、1997年に竣工した新館。

  
L: 新館をクローズアップ。隣にはほぼ同じデザインで熊本県警本部が並んでいる。
C: 新館前のオープンスペースはこんな感じ。  R: 敷地の西側から撮影。右が本館、左が県警本部と新館。

熊本県庁舎は、本館も新館もおまけに県警本部まで縞々模様で統一されており、それはそれで独特の雰囲気だった。
こうなると県議会の独立ぶりが際立つのだが、そこはあまり気にしていないようだ。

次は市役所だ、ということで、路面電車で熊本市役所まで戻る。
熊本県庁に比べると、熊本市役所は市街地の真ん中、熊本城の真ん前というとっても良心的な位置にある。
で、現地に着いていざデジカメを構えてみて、困る。そんなに大きい建物には思えないのだが、
こちらもなかなかうまく視野の中に収まらないのだ。敷地を一周してみるが、道も狭くてまともに撮影できない。
しょうがないので堀を渡って、熊本城の塀に寄りかかるようにしたら、どうにか撮影することができた。

  
L: 熊本市役所の入口はこんなん。政令指定都市を目指しているようで横断幕が張られている。
C: 市役所前のオープンスペースに置かれたオブジェ。加藤清正の兜をモチーフにしているようだ。
R: 議会棟の入口はこちら。この角度から見ると、なんだかネコっぽい気がするニャー。

 
L: 熊本城の堀を挟んで撮影した熊本市役所行政棟。撮影してその大きさに気がついた、というのも変な話である。
R: 行政棟と議会棟が仲良く並んでいるところを撮影。市役所前の通りは交通量が非常に多い。

県庁と市役所の撮影を終えたので、熊本で最も有名な観光スポットであろう熊本城の中に入る。
熊本は細川家が長く治めてきた土地である。細川家の末裔でありかつて日本新党を率いた細川護煕は、
首相になる前には熊本県知事だった。やっぱりそれだけ細川家の影響力は大きいってことなのだろう。
が、実際に熊本に来てみると、街で見かけるのは熊本城をつくった加藤清正関係のものばかり。
もともと肥後国(熊本県)は独立志向の強い国衆(その土地の豪族)が多い場所で、
最初に肥後を治めた佐々成政は検地を強行して肥後国人一揆を引き起こし、秀吉に切腹させられた。
その後釜に大抜擢されたのが、当時26歳の加藤清正。治水政策や南蛮貿易などで肥後を豊かにした。
清正の没後に加藤家は改易されるが、代わって熊本入りした細川忠利(藤孝の孫で忠興の子)は、
清正を尊敬する態度を徹底的に示すことで肥後を安定させたという。それが清正人気が今も続く理由だとか。

加藤清正は築城の名手として非常に有名である。特に熊本城は、その石垣の美しさで知られている。
この独特の反り返り方は「武者返し」と呼ばれ、西南戦争のときにも威力を発揮したという。

 
L: 熊本城内はこんな感じ。石垣がやたらめったら美しく、その中を歩いていると外国にいるような気分になるくらい。
R: 武者返し。熊本城を訪れて実際に見てみると、これが確かに見事なのである。

熊本城の天守は大小2つある。どちらも西南戦争の際に原因不明の出火で焼失してしまった。
その後は陸軍第6師団の司令部が置かれるなどしたが、1960年になって国体開催に合わせて復元され、今に至る。
天守の東西両側は広場になっており、どちらからも大小の天守の姿を楽しむことができる。
とにかく外国人観光客が多く、中国語や韓国語、あるいはそれ以外の東南アジアっぽい響きまで、
さまざまな言語がひっきりなしにあちこちから聞こえてくる。熊本城はアジア諸国にとって絶好の観光地のようだ。
天守の中に入るとそこは熊本博物館分館となっていて、加藤家・細川家・西南戦争の資料が並んでいた。
最上階は展望台となっていて、街の様子がよく見える。ビルが多く、もう少し城が高けりゃいいのに、と贅沢なことを思った。

  
L: 熊本城天守を西側から撮影した。2つの天守があるのは珍しいと思う。小天守は大天守より後に増築されたそうだ。
C: 左の写真とは反対の東側から撮影。広場は外国人観光客であふれていた。九州はアジア諸国から近いんだなあと実感。
R: 天守より眺めた熊本の街。手前にあるのは本丸御殿。条件しだいでは阿蘇も見えるとか。

天守東側の広場には行列ができていた。今月20日に公開されたばかりの本丸御殿を見ようとする人たちだ。
40億円以上をかけて復元されたという本丸御殿は、障壁画のある大広間や地下通路が見ものだそうだ。
疲れている中、お仲間どうしで勢いよくしゃべりまくっている外国人観光客の中に混じるのはさすがにもたない。
そんなわけで本丸御殿はスルーして、熊本城をあとにする。少し残念な気もするけど、きっとまたチャンスがあるだろう。

 行幸橋(みゆきばし)にある加藤清正の像。

県庁が遠かった影響なのか、熊本城を出て市街地に戻った頃には空が暗くなりはじめていた。
しょうがないので残った時間は徹底的に街を歩いて過ごすことにした。
熊本の市街地は、かなり華やかである。幅の広いアーケードが強烈な軸をつくっていて、人が絶えない。
九州一の都会といえば福岡だが、かつては熊本がその地位にあったのだ(旧制五高があったのも熊本)。
とにかく若い人たちの姿が目立っていて、高齢化に苦しむ地方の姿とは正反対の光景に思える。
こりゃあ見事なもんだわ、と思いながらデジカメ片手に歩きまわった。

  
L: 辛島公園から東へと伸びるサンロード新市街。その幅の広さに熊本の勢いを感じる。
C: 下通(しもとおり)。西日本最大規模のアーケードとか。アーケードなのに街路樹があるのがすごい。
R: 上通(かみとおり)。下通よりは狭いが、その分人口密度が上がっている。若者多し。

ちなみに熊本といえばスザンヌだが、スザンヌの母親・キャサリンの「キャサリン's BAR」は下通の一本西側・栄通りにある。
立ち飲みバーで酒を飲むという習慣がないので行かなかったが、今にしてみれば一杯だけ飲んでみても面白かったかなと。
とりあえずスザンヌはもっと化粧を薄くするべきだと思います。

アーケードを歩きまわった後は、かつて熊本県庁があった場所である熊本交通センターに行ってみる。
隣の「くまもと阪神」がやたらめったらデカい。でもあまりに大きすぎるせいか、中は人がいるけどやや寂しく感じられた。

  
L: 熊本城の入口のところから撮影した県道28号。市役所はこの右手。商業施設が並ぶ、熊本で一番の中心である道だ。
C: 熊本交通センター。日本でも最大級のバスターミナルで、高速バスや路線バスが集まる。熊本駅とは比べ物にならない規模。
R: とっても大きいくまもと阪神。運営するのは株式会社県民百貨店で、地元企業のがんばりが感じられる。

藤崎八旛宮の方まで歩きまわっていたら腹が減ったので、18時になると同時に晩メシを食べることにした。
お昼が熊本ラーメンだったので、晩は……やっぱり熊本ラーメンなのである。
熊本ラーメンの元祖と言われる店に入っていただくことに。マイルドだけど今ひとつパンチがないなあ、と思った。
豚骨醤油系統のご当地ラーメンは和歌山や徳島など全国各地にあるけど、熊本は薄味というか味が穏やかな印象。
それだけにきっと、各店でのオリジナルな一工夫が効いてくるという面白さがあるのだろう。

 元祖の店はその一工夫が入る前って感じで、やや物足りなかったかなあ。

食べ終わってもしばらく熊本の街をフラフラして過ごす。鯛焼きを売っている店があったので、かじりながら徘徊。
それにしてもやはり、熊本は活気がある。熊本県は南北にやや長く、東には阿蘇山が控えている。
熊本は外に出にくいというか、他県の都会まで距離がある街なので、これだけの活気につながっているように思う。

帰りは路面電車を使わずに、中心市街地から宿まで歩いてみる。駅と市街地の距離を体感してみたかったのだ。
路面電車の軌道に沿って歩いていったのだが、まあこれが遠いこと遠いこと。途中で嫌気が差してきたが、がまんして歩く。
空はすっかり暗くなってしまって、熊本駅の明かりが見えてきたときには本当にほっとしたくらい。
宿に着いたら風呂に入ってすぐに寝る。旅は明日で最終日。疲れはピークに達していたのであった。


2008.4.27 (Sun.)

今回の旅行前にあちこちの街の情報をネットやら何やらで仕入れたのだが、
県庁所在地の中でいちばん観光名所が多かったというか、まあ僕の行ってみたい名所が多かったのが、長崎なのである。
長崎での時間はできるだけたっぷりとりたい。でも寄り道もしたい。佐世保で佐世保バーガーを食いたい。
そんなわけで店が始まる時間などを考慮に入れて、本日もキツキツのスケジュールで動くことになるのであった。

朝7時に佐賀駅を出た電車が佐世保に着いたのが8時半ごろ。ここからだいたい3時間ほどの佐世保滞在となる。
佐世保は言わずもがな、港湾都市である。明治時代に軍港となり、自衛隊や米軍が今でも拠点としている。
平らな土地は非常に狭く、中心市街地のすぐ東側は山、西側は佐世保港となっている。
九十九島(くじゅうくしま)があることからもわかるように、この一帯は典型的なリアス式海岸の土地なのである。
そんなわけで、中心市街地は見事に山と海に囲まれた格好になっている。ちょっと市街地の外に出るとけっこう山がち。

まずはお決まりの街歩き&市役所めぐりなのだが、佐世保市役所は駅からかなり遠い。だいたい3kmくらいある。
往路は国道35号をそのまままっすぐ歩いていく。道幅はとても広く、朝だが交通量はそこそこある。
佐世保は那覇を除けば、日本で最も西にある都会(ある程度の規模を持った街)だと個人的にはとらえている。
その地理的な条件からして、けっこうさびれ気味になっているのかなあと思いきや、これがかなり元気なのだ。
米軍やら自衛隊やらの基地があるということで一定の若年層が存在していることも大きいだろうが、非常に活気がある。
歩いていても、管理する人がいなくなって汚れ放題の建物はまったくなく、街には人の気配があふれている。
そのおかげか、市役所までの道のりは、当初予想していたよりもずっと短く感じられた。
地図を見て「ウエーどんだけ歩かされるんだコレ」と思っていたのだが、実際に歩くと「え? こんなもん?」という感じである。
腕時計を見てもそんなに時間が経っていない。そんなわけで、のんびりゆったり、敷地を一周しつつ撮影してみる。

  
L: 佐世保駅。観光客が多いようで、さすがにけっこう規模の大きい駅である。市街地はここから北側に、縦長に広がる。
C: 国道35号の歩道橋から眺める佐世保市役所。道の幅が広くてまっすぐなので、遠くからでも非常によく目立っている。
R: 正面より見た佐世保市役所。敷地は意外と狭い。こうして見ると、窓の面積をかなり多めにとっているのがわかる。

 
L: 佐世保市役所の側面。厚みがあんまりない。  R: こちらは脇にくっついている議会棟。

市役所を思いのほか早い時間に撮り終えてしまったので、軽く途方に暮れつつ来た道を戻る。
すると途中でT字路に差しかかった。西側の自衛隊基地方面へ行く、県道26号をフラフラと行ってみることにする。
そしたら消防署の向かいにあるちょっと規模の大きめの建物が、海上自衛隊の史料館だったことに気がついた。
こりゃ面白いかも、と思って中に入ってみることにする。入口で名前を記帳するのには驚いたが、気にせず見学。

中は外国の観光客ばかりで、けっこう繁盛していた。冗談ではなく日本人は僕ひとりといった程度だった。
この施設、エレベーターでいったん最上階に上がってから、だんだん下りていくようになっている。
長崎海軍伝習所から始まり、日清・日露戦争を経て太平洋戦争、そして海上自衛隊の紹介といった内容である。
艦船の模型だけでなく、海軍関係者の写真やら当時の世界情勢の説明など、丁寧な展示がなされていた。
外国人観光客の中にはこういう施設をあんまり快く思わない人もいるだろうになあ、と思うのだが、
しかも日本語の説明しか書かれていないのに、皆さんわりかし興味津々とそれぞれの展示を見ていくのであった。
1階には売店があり、ものすごく狭いスペースにものすごい密度でありとあらゆるグッズが置かれていて、
これがなかなか面白い。部隊識別帽・ジッポー・アクセサリー・レトルトカレーと、とにかく種類が豊富なのである。
そっち方面に興味のある人ならこれはたまらないだろう。自衛隊のフレンドリーな一面が垣間見えてほほえましい。

 
L: 海上自衛隊佐世保史料館。足元はかつて旧海軍士官の集会所だった佐世保水交社のデザインを意識。
R: 最上階から眺める自衛隊基地の様子。よーく見ると、港の方では何隻も自衛隊の艦船が停泊していた。

おかげでいい具合に時間調整ができた。ちょうど10時に史料館を出ると、
すぐ近くにある佐世保バーガーの店へと入る。佐世保市内には何軒も佐世保バーガーの店があるが、
事前のリサーチでうまそうだったのと開店時間との関係から、その中の一軒を狙い撃ちしたのであった。
隣にはもう一軒佐世保バーガーの店が並んでおり、辺りはバーガー目当てにやって来た客でけっこう混雑していた。
まだ朝の10時だというのに。またしてもB級グルメの強さが確認できた感じである。

さて、ここでいちおう佐世保バーガーについての説明をしておこう。佐世保バーガーとは、Wikipediaによれば、
「佐世保市内の店で提供される『手作りで』『注文に応じて作り始める(作り置きをしない)』こだわりのハンバーガーの総称」
とのことである。味も見た目も店によって千差万別。あれこれ食べてお気に入りを見つければいいのである。
戦後、佐世保はアメリカ海軍が進駐したことでアメリカ文化に触れる機会が多くなり、
アメリカ生まれの手作りハンバーガーが日本人向けにアレンジされて独自のバーガー文化ができたのだ。
しかし佐世保のハンバーガーは10年ほど前まではまったく注目されておらず、
B級グルメとして広く認知されるようになったのは、ここ5年くらいのことなのだそうだ。
佐世保バーガー認定制度で認められた店には、やなせたかしデザインの「佐世保バーガーボーイ」の看板が置かれる。
実際に佐世保市内を歩いてみると、わりとあちこちに佐世保バーガーボーイがいて、その人気ぶりを実感できる。
(佐世保バーガーについての公式なサイトにリンクを貼っておくので、これを見てヨダレを垂らしてください。⇒こちら

で、今回入った店はアメリカンテイスト満載な「ログキット」。飲み物のサイズもきちんとアメリカンサイズ(セルフサービス)で、
実に雰囲気満点。肝心の味もすばらしい。手作りということで、肉も玉子もベーコンもその場で焼くので風味が違う。
ヴォリュームもかなりある。バンズ(上下のパンのこと)はふつうの人の手のひらサイズなのだ。
それをぎゅっと押しつぶしてから豪快にかぶりつく。しつこくないので量があってもどんどん食べられる。

  
L: 店の外には佐世保バーガーをPRするさまざまな工夫が。佐世保バーガーボーイがこんなふうに店を紹介。
C: 今回バーガーをいただいたログキット店内。これでもかってほどアメリカっぽい演出がなされている。店員はテンガロンハット着用。
R: ログキットの佐世保バーガー。写真ではそんなに大きく見えないが、しっかりデカい。かぶりついたらホントに幸せな気分。

オレの空腹は半端じゃないぜーということで必死で佐世保バーガーにむしゃぶりついたのだが、
食べ終わったらさすがに「む、そこそこ満腹じゃ」というレベルにまで到達したのであった。
機会があればぜひ、ほかの店の佐世保バーガーと食べ比べをしてみたいところである。いやーうまかった。

これで一番の目的は達成できたので、あとは気楽に佐世保市街のアーケードをブラブラ歩いて駅に戻るだけである。
佐世保の三ヶ町商店街・四ヶ町商店街はあわせて960mにもなり、直線のアーケード街としては日本一の長さだそうだ。
時間的な余裕はそこそこあるので、のんびり気ままにデジカメのシャッターを切りつつ駅へと南下していくことにする。
市役所に向かって国道35号を歩いているときから佐世保の街は活気のある印象がしたのだが、
アーケードを歩いてみると、それはさらにはっきりとしたものになる。駅から離れた三ヶ町商店街は少しおとなしいものの、
四ヶ町商店街に入るとそのエネルギーに圧倒される。人通りが激しく、店はほとんどすべてが営業中。
壊滅的な状況の地方都市は今までいくらでも見てきたが、佐世保の街は昭和の頃からの活気をいまだに保っている。
軍事基地があり一定数の若年層が存在すること、地理的に大都市の影響を受けづらいこと、理由はいろいろあるだろう。
それにしてもやはり、こういう商店街を歩くのはそれだけで楽しい。思う存分あちこちを見てまわるのであった。

  
L: 三ヶ町商店街。駅から離れた分だけ人通りが少なくなるが、それでも雰囲気は明るい。
C: 四ヶ町商店街。ヘタな県庁所在地とは比べ物にならないくらい元気。客層は各年代とも均等に多い。
R: ドコモショップの前ではウサギが『Night of Fire』をバックにパラパラを踊っていたよ。けっこう上手だった。

四ヶ町商店街の一本西側は夜店通りという名前で、その名のとおり飲食店が軒を連ねている。
通りはスピードが出せないように緩やかに蛇行している。夜にはまた違った表情になるはずだ。
時間の都合で午前中しか佐世保に滞在できないのが実に残念である。
ハウステンボスも佐世保なわけだし、九十九島だってあるわけだし、観光地として非常に魅力的な街だとあらためて思った。

 夜店通り。やっぱ夜に来ないとダメかな。

時間いっぱい佐世保の街を堪能すると、快速電車に乗り込んで長崎を目指す。
本日の日記の冒頭でも書いているように、長崎も観光名所が目白押しなのである。
ハウステンボスを横目で見つつ、ケータイ片手に午後のスケジュールを再確認(いつもケータイに予定を入れているのだ)。

 ハウステンボス。興味がないわけではないが、男一人で行く場所ではないのだ。

長崎駅に着いたのが午後1時過ぎ。ホームは並行して5つあるのだが、改札はそれらの南端に一箇所だけ。
まるでフォークの先っちょの形のようで、最果て感の強い場所である。いかにも遠くに来たぜ、という気分になる。
少しの時間もムダにしたくないので急いで駅を出ると、まずは本日の宿を探すことからスタート。
長崎の街は、路面電車が走っている道は広くていいのだが、そこから一歩奥に入るとけっこう複雑なのだ。
きちんと見つかるか心配だったが、運よくすぐに発見、荷物を預かってもらうことができた。
そして長崎の路面電車の一日乗車券は、ホテルで売っているのだ。フロントで購入すると、意気揚々と街へ繰り出す。
(一日乗車券を車内で買えないのは不便。一日乗車券は500円だが、運賃が一律100円なので元をとるのは大変。)

 
L: 長崎駅。右手が駅舎で、改札の奥にホームが平行に並んでいる。トラス構造の屋根がいいですね。
R: 長崎の路面電車はこのカラーリングが標準のようだ。ゴールデンウィーク真っ最中で、東京の通勤電車並みの乗車率……。

まずはメシだ! 長崎でメシといえば中華街だ! ということで、長崎新地中華街へ行くべく路面電車に乗り込む。
しかしこれがまあとんでもない混雑ぶり。よく考えれば世間はゴールデンウィークの真っ最中。
長崎は観光名所だらけの街なので、全国から観光客が押し寄せているわけなのだ。そりゃ混んでいて当たり前だ。
だからといって路面電車は特に増発されているわけではないようで、車内はけっこう阿鼻叫喚の地獄絵図なのであった。
家族連れの子どもたちが足元でギューギューやられているわけで、これはさすがにかわいそう。参った。
(ちなみに長崎の路面電車はそんなに速く走っているわけでもないし、駅の間隔もそんなに空いているわけではない。
 乗り過ごした電車を追いかけて走り、次の駅で乗り込むという間抜けな事態が二度ほどあった。なんだかなあ、と思う。
 市内ではバスも頻繁に走っているので、もしかしたら路面電車にこだわるよりバスを使いこなす方がいいかも。)

で、中華街に到着。お昼どきでどこも混雑しているが、わりとすぐに食べられそうな店を調べながら歩きまわる。
そしたらすぐに中華街の外に出てしまった。中華街の面積の小ささに、思わず拍子抜けしてしまう。
長崎新地中華街は横浜・神戸の南京町(→2007.2.13)とともに日本三大中華街として知られるが、まるっきり小さい。
横浜中華街に慣れている身としては南京町もずいぶん小さく感じたが(横浜がデカすぎるのである)、
長崎はそれよりさらに小さく、本当に街の一角といった程度である。でもまあこれで3箇所すべてを制覇したことになる。
それで気分よく店の列に並んで待っていたら、お一人様ということですんなり中へと通されたのであった。ラッキーだ。

  
L: 長崎新地中華街、中華門の北門。橋を渡ると周辺とは雰囲気がガラリと変わる。いかにも中華街らしい光景。
C: 中華街の内部、南北の通りはこんな感じ。原色の紅色が鮮やか。  R: 東西の通りは少しおとなしめなのである。

長崎名物の中華料理といえば、皿うどんとちゃんぽんである。とりあえず昼メシは皿うどんでいくことにした。
皿うどんもパリパリの細麺とごくふつうの中華麺である太麺の2種類があるのだが、標準的と思われる細麺をいただく。
で、いざ食べてみると、とにかく麺が細い。細麺なんだから当たり前だろとつっこまれそうだが、それにしても細いのだ。
そんでもって、かかっている餡の味がまろやかでたまらない。夢中でぜんぶ平らげる。いやー、中華料理ってステキですな!

 特製皿うどん。カキが入って贅沢でございます。

食べ終えて幸せな気分にひたりつつ、路面電車に乗り込む。いよいよ本格的な長崎観光をスタートさせるのである。
最初は国宝・大浦天主堂。なんか今回の旅ではやたら教会にばかり行っている気がするが、気にしない。
まずは坂の下から見上げるようにして撮影。天主堂をきれいに眺められるスポットはほかにないようで、やや混雑気味。
拝観料は300円、石段を上っていくとすぐ入口なのである。中に入るが、木でつくられた部分が多いのが印象的だ。
観光客の出入りはあるものの全体的に落ち着いた雰囲気が漂っており、どこか懐かしさを感じさせる。
やっぱりキリスト教的な演出には違和感があるのだが、内装がなんとなく親しみを持たせるのである。
しばらく呆けてから外に出る。敷地内には旧ラテン神学校などがあり、これまたなんとなく和の混じった印象なのであった。

西隣のグラバー園に移動する。大浦天主堂からグラバー園に抜ける道があるのでそれを行く。
入口から動く歩道で一気に丘の上へとのぼっていくのだが、途中で大浦天主堂の屋根が見えた。
よく見たら、大浦天主堂は瓦葺きなのである。ああそれでどことなく和風な印象がしたのか、と納得。

 
L: 大浦天主堂。現存する日本最古のキリスト教建築物であり、国宝としては唯一の洋風建築だそうだ。
R: グラバー園の動く歩道から見た大浦天主堂。こうしてみると、確かに「フランス“寺”」って感じ。

グラバー園は、旧グラバー邸を中心に、長崎市内の歴史的建造物を集めた施設である。
いちおう順路が決まっていて、最初は旧三菱第2ドックハウスから見ることになる。
この建物は敷地の最も高いところにあり、非常に眺めがいい。池もつくられ、かなり居心地のいい場所である。
そしてここからゆっくりと坂を下っていくのだ。グラバー園のそれぞれの建物には飽きさせない工夫がなされていて、
たとえば旧長崎地方裁判所庁舎はレトロ写真館として営業しており、衣装の貸し出しもしている。
ほかにも旧自由亭の2階が喫茶室となっているなど、ただ建物を眺めるだけにならないようにしているのだ。

  
L: 旧三菱第2ドックハウス。建物の中は特にこれといって面白くはないが、とにかく眺めがいい。
C: こんなふうに、長崎港と稲佐山が見られる。天気がもう少し良ければ言うことなかったのだが。
R: 旧ウォーカー邸。もともとは大浦天主堂の隣にあったんだそうな。

  
L: 旧オルト邸。周りの植物たちがいかにもコロニアルな雰囲気を漂わせているのである。
C: 旧オルト邸の中にいた猫。首輪をつけているので、グラバー園で飼っている猫なんだろう。三毛なのでメスだ。
R: 彦根(→2008.2.2)に引き続き、なぜか猫にモテるの図。いいかげん霊長類にモテたいです。

あちこち歩きまわって、いよいよ親玉である旧グラバー邸の登場である。
グラバーはもともとは武器商人だったが、明治以降は炭鉱開発などで日本の近代化に貢献した人物だ。
で、実際に旧グラバー邸に来てみたら、どこが正面なのかわからなくて非常に困る。撮影がとってもやりづらい。
あえて正面玄関を設けていないんだそうで、いかにも敷地の広い植民地の豪邸という印象である。
中に入っても実に開放的にできていて、あっちこっちの部屋に出られるため、自分の居場所がなかなかつかみづらい。
まあその分、用途をいろいろと変えられるアレンジしがいのある家だってことは言えると思う。
そんなわけで、旧グラバー邸は金持ちの余裕を存分に感じさせる建築なのであった。

 
L: 旧グラバー邸。正面がないので、これといった定番の撮影ポイントがない感じ。それはそれでやりづらい。
R: 花壇を手前にしたアングル。記念撮影をしてくれる人がいて、この角度が一番人気の模様。

グラバー園の最後は長崎くんちの展示をしている長崎伝統芸能館。ここを抜けると出口である。
土産物屋が軒を連ねる坂道を下っていくと、やっぱり路面電車に乗り込む。
(ちなみにグラバー園にはハート型の敷石が2つあり、それを踏むと幸せになれるとかなんとか。東京に戻ってから知った。
 片方は偶然「あーこれハート型になっとるわー」と気づいたのだが、もう片方はどこにあるかわからんかったなあ。
 まあ、仮にそのことを知っている状態でグラバー園を訪れたとしても、僕にはどうしょうもないんですけどね。)

さて、県庁所在めぐりの本来の目的地は、県庁と市役所なのである。
乗り込んだ路面電車がたまたま蛍茶屋行きだったので、公会堂前まで行って長崎市役所から攻めることにした。
長崎は坂が多い。進行方向は同じだが、路面電車はトンネルへと入っていき、僕は坂を上っていく。
上りきると国道34号とぶつかる。すると左手に、似たような建物が国道を挟んで互い違いになるように建っている。
北側にあるのが長崎市役所本館。南側にあるのが別館。ふたつの建物は歩道橋でつながっている。
建物としてはあんまり面白みはないのだが、そっくりな姿で道を挟んでいるのは珍しい。鏡に映っているかのようだ。

  
L: 長崎市役所本館。歩道橋から撮影。  R: 本館を別の角度から撮影してみた。やっぱり面白みに欠ける。
R: こちらは市役所別館。歩道橋から撮影。知らないとどっちが本館でどっちが別館だかわからない。

  
L: ふたつの建物をつなぐ歩道橋。右手が本館で左手が別館。両者は地下道でもつながっているそうな。
C: 本館の隣にある市議会。手前に描かれている五芒星は長崎市の市章なのだ。  R: 市役所本館の側面。

長崎市は観光都市なので、市役所ももっと凝った建物かと思っていたら、ぜんぜんそんなことはないのであった。
そのまま国道34号を南下していき、今度はそのつきあたりにある長崎県庁に行ってみる。

  
L: 国道34号から眺める長崎県庁。こうして見ると、時計塔がよく目立っている。
C: 長崎県庁。時計塔が端にあり、敷地も高低差が大きいため、なんだか形のはっきりしない建物という印象を受けてしまう。
R: 正面玄関をクローズアップ。ふつうにお役所ですね。この角度から見ると、なんだか全然凝っていないなあ。

  
L: 長崎県庁の側面。けっこう急な坂道にあるので、正面玄関は2階になるのだ。
C: 坂を下ったところにある第三別館の入口。オシャレである。  R: 江戸町通りに面した第一別館。長崎県庁はけっこう複雑。

長崎県庁は1953年の竣工。『都道府県庁舎』(→2007.11.21)によれば、「初めての非対称形の府県庁舎」とのこと。
敷地が川に面した丘の端といった場所であり、国道のつきあたりというロケーションから考えても、
その気があればかなり華々しい建物にしてランドマークにすることもできたと思うのだが、そういう要素はほとんどない。
むしろ目立たないようにと気をつかっている印象である。時計塔の位置も中央ではなく端っこにずらしてあって、
近くで見れば重要な建物とわかる程度に抑えている。戦後すぐの庁舎、観光施設の多い街ゆえに、地味めになったのか。

市役所と県庁の撮影を終えたので、今度は北側の重要な観光スポットへと向かう。
1945年8月9日、2発目の原子爆弾が長崎に投下された。爆心地は中心市街地から離れていたが、甚大な被害が出た。
現在、その爆心地周辺は平和公園として整備されている。長崎に来たなら、行かなくちゃいけない場所だ。

路面電車にしばらく揺られ、松山町で降りる。そして横断歩道を渡った先に平和公園がある。
平和公園は、国道206号・JRの線路・路面電車の軌道を挟んで、東西5つのゾーンに分かれている。
西側は運動施設で、原爆に関する施設は東側の「願いのゾーン」「祈りのゾーン」「学びのゾーン」に集中している。
今回の旅行では広島にも行っている(→2008.4.23)わけで、一度の旅行で被爆地を両方とも訪れることになった。
歴史は厳然とした事実として僕らの前に立ちはだかっている。残された者たちは、それを解釈してつなげていくしかないのだ。

  
L: 平和公園・願いのゾーン入口。中州で平らな広島の平和記念公園と違い、こちらは小高い丘となっている。
C: 平和の泉。水を求めて亡くなった人々の冥福を祈るもの。まっすぐ奥に平和祈念像が見える。
R: 長崎刑務所浦上刑務支所の基礎部分の遺構。地上にあるものはすべて消滅したということ。

 
L: 北村西望による平和祈念像。近くで見たらけっこう大雑把だなあと思ってしまいましたスイマセン。
R: 平和祈念像前の式典広場。すっかり復興した周りに対し、何もない姿を残しているのはこの部分だけだ。

近くに「被爆者の店」があり、土産物などを売っていた。荷物になるので、僕は旅行中には買い物をしない主義である。
それでもやはり、少しばかりの志を捧げないといけないと思ったので、被爆者の店でソフトクリームを買った。
そしてそれを店の前のベンチで思いっきりうまそうに食べた。まあ、非力な僕にできることはこれくらいだ。
僕がソフトクリームを食べている間、10人ほどの観光客がつられてソフトクリームを買っていったので、
少しは貢献できたかな、と思うことにする。中華街の影響なのか、杏仁豆腐味のソフトクリームはおいしかった。

広島にしろ長崎にしろ沖縄(→2007.7.24)にしろ、こういう施設はまず訪れることが肝心で、
それをきっかけにしてそれぞれに考える時間を持つこと、それが一番大切であると思う。
誰かの都合で勝手に殺されてしまった人がいる、それも大量にいる、という現実がある。
僕は、そういう人々に対して「かわいそう」とは思わないことにしている。なんだか上から目線に思えるから。
もし自分がその中に数えられたとしたら、どんな気分がするだろう? そう考えるようにしている。
そして、もし自分がその中から運良く逃れてきた存在だったら、どうふるまうべきだろう? そう考えるようにしている。
それだけ。

さて、時刻は17時。ずーっと西の、日がなかなか沈まない県に来ているとはいえ、だいぶ夕方の雰囲気が漂ってきた。
調子に乗って写真を撮りまくっていたせいで、デジカメが電池切れ寸前になってしまった。
間抜けなことに、今回の旅行ではスペアの電池を持ってき忘れたので、いったん宿に戻って1時間だけ充電する。
本日の部屋は「ミニシングル」で、ベッドとユニットバス以外の部分がたぶん1畳ないくらいの脅威の狭さ。
しかしこのゴールデンウィークの真っ只中に安く泊まれるだけ幸せなのだ。宇宙旅行だと思えばそれもまた楽し。
テレビを見ながら足をほぐして1時間の休憩とする。

 オモロー!

18時。街へと繰り出す。長崎の観光名所ばっかりまわっていて、市街地の様子をまだ全然見ていないのだ。
まずは万橋に面した「万屋通り商店街」。入口のところにある顔が謎である。メガネ屋のご主人なのだろうか。
そこから南、路面電車の西浜町駅のすぐ近くにあるのが「浜市商店街」。アーケードで、活気がある。
この一帯は「浜町(はまのまち、はまんまち?)」と呼ばれ、長崎市街の中心部として認知されているようだ。
そして路面電車の軌道に沿って東に曲がると観光通りの入口である。さらに先に行くと歓楽街の思案橋。
(ちなみに思案橋は、ここが花街だった頃、遊廓へ「行こか戻ろか」と思案したのでそういう名前になったんだと。)
さすがに歴史のある街だけあって、アーケード以外の通りがそれぞれに特徴を持っていて面白い。

  
L: 万屋通り。謎の人面アーチがお出迎え。  C: 浜市商店街アーケード。狭いけど、人通りが多くて賑やか。
R: 観光通りの入口。浜市商店街と観光通りのアーケードが十字型に交わって核をつくっている感じ。

おっとっと、長崎といったら、日本初の石造りアーチ橋といわれている眼鏡橋を忘れてはいけないのだ。
浜町一帯から少しはずれたところにある。中島川に架かっているが、この川、けっこうきれいで鯉も泳いでいる。
川の中に置かれている石を渡って対岸にも行ける(たぶん眼鏡橋を真ん中から撮影できるようにする工夫だと思う)。
穏やかで雰囲気がいいので、長崎に来たらのんびり散策するのがオススメな場所である。
(これまたちなみに、眼鏡橋近辺の石垣にはハート型の石が7つ埋め込んであり、ぜんぶ見つけると幸せになれるんだと。
 そんなん言われなきゃ気づかねえよ。グラバー園といい、長崎市はいろいろ考えるなあ。うーん、さすが観光都市だ。)

 
L: 中島川。手前では鯉が泳ぎ、奥では眼鏡橋が架かっている。散策しがいのある場所。
R: 眼鏡橋。なるほど、これは見事にメガネである。やはりどこか異国情緒が漂っている。

フラフラ歩きまわって猛烈に腹が減ってきたので、中華街に行って晩飯とする。
昼は皿うどんにチャレンジしたので、今度はもうひとつの長崎名物であるちゃんぽんをいただくのだ。
どこも行列ができていたけど、きれいなおねえさん店員が多い店に入ったら、お一人様ということですんなりカウンター席へ。
大盛を注文したところ、威勢のいいおばちゃんが「おいしいよ~」と持ってきてくれた。正直、おねえさんの方がよかったです。

 スープは濃いけどグイグイ飲める。無我夢中で平らげた。

鶏ガラと豚骨のスープに豊富な具材がたまらない。いろんな店のちゃんぽんを食べ比べするのも絶対に楽しいはずだ。

店を出たら、すっかり暗くなっていた。長崎のラストは稲佐山からの夜景を眺めることにするのだ。
男一人で夜景を楽しむというのも問題のある行動だとは思うが、そんなことを気にしていたらつまらないのだ。
なんてったって、日本三大夜景のひとつに数えられているわけだし(函館・神戸・長崎なんだって)。
で、長崎駅前から路線バスに乗り込むと、ロープウェイ前のバス停で下車。淵神社の鳥居をくぐって乗り場へと進む。
ロープウェイに揺られること5分で稲佐岳駅に着き、そこから少し歩いていくと、円柱型の稲佐山展望台に到着。
中のスロープをぐるぐる上がっていくと屋上に出るのだが、なるほど確かに見事な夜景が広がっている。

写真左側は北部の浦上地区(原爆の爆心地)、中ほどが長崎駅~中心市街地の明かり、右側は南部の山手地区だ。
デジカメで撮影したものをムリヤリ加工したこの画像でも十分きれいなのだが、本物の夜景はこれよりはるかに美しい。
本物では、山腹に広がる無数の住宅の明かりが立体的に輝いているのだ。ジュースを飲みつつぼーっと見とれてしまった。
旅行ってすごく贅沢な楽しみだなあ、と思うのであった。


2008.4.26 (Sat.)

昨日の日記で書き忘れていたのだが、福岡の地下鉄には面白い特徴がある。
今にしてみれば、「そういえば三省堂の『記号の事典』にも出てたっけな」と思うのだが、すっかり忘れていた。
それは、各駅にシンボルマークがあるということ。原色に近い鮮やかな色を使い、単色で描かれている。
そういう工夫は、ほかの都市の交通機関ではまったく見たことがない。珍しいけど、面白い。
(『記号の事典』によれば、メキシコの鉄道だか地下鉄だかにも同じように絵で駅を表現した事例があるそうだ。)
で、福岡市営地下鉄がさらに独特なのは、路線のイメージカラーとシンボルマークで使う色が一致していない点だ。
東京なら丸の内線が赤で銀座線がオレンジ、名古屋なら東山線が黄色でチェリー(桜通線)が赤、
大阪なら御堂筋線が赤で四つ橋線が青、まあそんな具合に路線のイメージカラーが頑として存在している。
福岡にもイメージカラーはあるのだが(空港線はオレンジ、箱崎線は青、七隈線は緑)、
それよりも駅のシンボルマークで使う色の方を優先させているのである。これには少し驚いた。

 
L: 福岡市営地下鉄空港線・室見駅。このようにシンボルマークが表示されている(室見駅のマークは室見川が由来)。
R: ホーム脇の待合スペースにもマークが描かれている。路線のイメージカラーはオレンジだが、シンボルマークの青を優先。

そんな具合に、朝の7時前に「おーそうだったそうだった。地下鉄のシンボルマークの写真を撮っておくんだったわ」なんて、
デジカメ構えつつおでこに手を当ててアチャーとやっていたわけだが、肝心の本日の目的地は、佐賀県なのである。

佐賀県。かつて佐賀県をネタに一世を風靡した芸人・はなわが言うように、佐賀というのもなかなか地味な土地である。
明治維新で活躍した薩長土肥の一角に入り込んだことで長崎県からの独立を維持した、なんて噂話もあるくらいで、
はて何が名所で何が名物なんだろか?と思わず首を傾げてしまう場所である。失礼だけど、本当にそうなのだ。
姉歯前夜にみやもりが家に泊まりに来て佐賀の話になったときには(もちろんサガマサシの話も出たけど)、
みやもりは「吉野ヶ里遺跡には行くでしょ」と言っていた。確かにそこは公園になっていて、そこそこ客も来るようだ。
あとはサガン鳥栖である。かつてはぶっつぶれそうなJリーグクラブNo.1の座をほしいままにしていたサガン鳥栖だが、
今は営業努力を粘り強くやっていることで有名で、地方のJ2クラブとしてはかなりの入場者数を誇るまでになっている。
でも、今回僕はそのどちらにも行かないのである。確かに福岡から鳥栖・吉野ヶ里経由で佐賀入りするのは非常に楽だ。
だけど僕には佐賀県で、遠回りになるけど行ってみたい場所があったのだ。それは、唐津市である。
そんなわけで唐津を目指して、JRに直通する地下鉄空港線に乗り込んだというわけである。

唐津といえばまず唐津焼。あとは唐津くんち。有名なものは多いけど、名所となると少し微妙な気がしないでもない街。
しかし唐津には、「虹の松原」があるのだ。日本三大松原(誰が決めたのかは知らない)のひとつである。
先月には三保の松原に行っているわけで(→2008.3.21)、いっちょチャレンジしてみましょうということなのだ。
(さらにもうひとつ、戦国時代が好きなら豊臣秀吉の朝鮮出兵時に拠点となった名護屋城址も唐津の名所である。
 唐津はその名のとおり、中国大陸と行き来する際の港として栄えた街だ。なお、名護屋城址はかなり遠いのでパス。)

西へと進んで地下鉄は地上に出て、姪浜からはJRとなる。そこからしばらく行って、肥前前原で乗り換え。
無人駅が続く田舎の景色の中を、電車はゆったりと行く。そうして唐津の少し手前、その名も虹ノ松原駅で降りた。
しかしながら、虹ノ松原駅で降りたからといって、いきなり目の前に松原が開けてうわあ壮観、ということはまったくない。
まるでどこかの高原の別荘地のような、ひと気のない針葉樹林の中にひとりぼっちとなる。とりあえず道なりに進んでいくと、
唐津街道(国道202号)に出た。でも交通量が多いわりに歩行者向けのスペースは実に狭い。
体のすぐそばを車が勢いよく走り抜けていく中、オドオドしながら唐津街道を西へ行く。しかし一向に海に出る道がない。
街道のもうすぐ北側には砂浜があることは気配でわかっているのだが、林が続くばかりで抜け出せないのだ。
まいったなあ、と15分ほど進んでいったら、一軒の土産屋というか休憩所というか海の家というか、
そんな雰囲気のしょぼくれた(失礼)家があり、その庭先をムリヤリ通っていったらやっと砂浜に出た。振り返ると松原。
なるほど、これが虹の松原か!と一安心。あとは気ままに砂浜を歩いていけばいい。

 これが虹の松原。

時刻はだいたい8時半。朝の爽やかな空気を残しつつ、あらゆるものが少しずつ目を覚ましていく時間帯。
鳥の鳴き声と波の音しか聞こえない。頭上には青、下界には松と砂と海のストライプ。
本当に世界が自分ひとりになってしまったような錯覚がするくらいに、静かな風景が広がっている。

  
L: 砂浜には海藻か何かが打ち上げられていてあまりきれいではないのだが、まあでも、気持ちのよい風景である。
C: 唐津城方面を眺めたところ。  R: 沖のほうでは高島・鳥島という2つの島が見える。その奥は陸繋島となっている大島。

ゆっくりと、西にある唐津城に向かって歩いていく。ランニングしているおっさんとすれ違って挨拶したくらいで、
あとはまったくひと気がない。砂浜には鳥のほかにも犬の足跡が残っていたので、散歩コースになっていると思うのだが、
人間の姿が全然見えないのである。虹の松原は観光地としてはそれほど特別にメジャーというわけではないようだ。
でもまあそれはそれとして幸い、雄大な景色を独り占めして優雅に時間が流れるのを楽しむことができるのだ。
朝の光をめいっぱいに浴びて、海やら松林やら空やらを眺めながら、ふらりふらりと波打ち際を行くのであった。

やがてはっきりと唐津城の姿が見えるようになると、松林が宿泊施設の裏手に変わる。
そうなると一気に風情がなくなってしまい、どこにでもあるようなお粗末な砂浜、という印象になってしまった。
さらに進んでいくとコンクリートで行き止まり。漁船が停泊していて大きく様変わりとなる。その先は松浦川の河口となる。

 並ぶ漁船、松浦川の河口越しに見える唐津城。

海岸から住宅地を抜けて県道に出ると、唐津城へと向かう。松浦川の河口に架かる橋を渡ればすぐそこである。
唐津城は寺沢(てらざわ)広高が築城(ちなみに、虹の松原をつくったのも寺沢広高である)。
現在の天守は、慶長年間にあったと思われるものを想像した上で1966年に再現したものとか。
広高の子・堅高の代には島原の乱が勃発。天草諸島に飛地を持つ堅高は責任を問われ、天草の領地を没収される。
堅高はそのことで精神的に追い詰められて自害してしまい、子がいなかったために寺沢家は断絶。
その後、唐津は譜代大名がかわるがわる治めることとなったという。

石段を上っていくと(裏手には有料のエレベーターもあるようだが)、天守はわりとすぐである。
途中にある藤の木は樹齢100年を超えるそうで、これが見事。まだ満開となってはいなかったが、十分に美しい。
もうあと少しすれば藤は満開になり、それはもうとんでもなく鮮やかな光景になるんだろうなあ、と想像してみる。

  
L: 藤棚の向こうにそびえる唐津城。絵になるじゃないの。  C: 市の天然記念物にも指定されている藤の木。見事なものです。
R: 意外と珍しいと思う、藤棚を上から眺めてみた構図。こうして見ると、ちょっと幻想的な気もする。

岡山城(→2008.4.22)・広島城(→2008.4.23)とスルーしてきたけど、唐津城では天守に入ってみることにした。
中はやっぱり、かつての唐津藩のさまざまな道具やら何やらが展示されている。
そして最上階が展望台。なのだが、この日はやたらめったら風が強く(唐津の地理上の特性かもしれない)、
とても外に身を乗り出して撮影なんかできないほど。例のごとくロボットダンス状態になりながら必死でシャッターを切る。

 
L: 唐津市街方面を眺める。  R: 唐津湾を挟んで北にある高島。宝くじが当たると評判の宝当神社がある。

あまりの風の強さにハヒーハヒー言いながら降りてくると、自販機でアイスを売っていたのでそれで一休み。
落ち着いたところで、今度は唐津市街を歩いてみることにした。唐津城でもらったマップを広げて歩きだす。

当然、唐津市役所にも行ってみようと思うのだが、唐津城から市役所まではそこそこ距離がある。
途中で半分住宅地になっている商店街を通ったのだが、そこで目に飛び込んできたのが旧唐津銀行本店。
1912年竣工で、現在は唐津観光協会のほか、無料の展示スペースとして使われている建物である。

  
L: 旧唐津銀行本店。辰野金吾の指導の下、清水建設の技師である田中実が設計したとのこと。
C: 側面はこのようになっている。  R: 逆側の側面、駐車場から撮影。かつては別の建物に隣接していたように思える。

中に入ると、唐津観光協会のおじさんがひとりで机に向かっていた。「中を撮影してもいいですか?」「どうぞどうぞ!」
というわけで、気の向くままにバシバシ撮影。中は今でも銀行の内部レイアウトがそのまま残されていて、
なんだか西部劇の映画に紛れ込んだような気分になる。今にもライフル片手に銀行強盗が襲ってきそうじゃないか。
そんでもって、金の入った袋を背負って馬にまたがって逃げていきそうじゃないか。それを保安官が追いかけそうじゃないか。

  
L: 旧唐津銀行本店内部の様子。ほら、西部劇に出てくる銀行って感じがするでしょう。
C: 窓口から奥の方にも入れる。奥にある机でおじさんが仕事をしていたが、なんだかすごく閑職って感じが……失礼。
R: インテリアも昔のものをそのまま使っているのだろうか。カーテンが雰囲気抜群。アップライトピアノもあるのだ。

1階はかつての銀行の雰囲気を意識して残しているようだ。端っこの方には応接室も往時の姿のままに残されている。
そして2階に上がると、そこは唐津の生んだ建築家・辰野金吾の偉業を讃えた展示スペースとなっている。 
写真が部屋いっぱいに並べられ、日銀本店・東京駅から地方の建築まで、偉大な建築家の作品を知ることができる。

 辰野金吾の展示室はこんな感じ。

実は唐津は、ほかにも曽禰達蔵・村野藤吾といった建築界のビッグネームを輩出している。
辰野金吾の部屋の隣には曽禰達蔵・村野藤吾の展示室もあることにはあったのだが、村野は主な業績の紹介、
曽禰達蔵に至っては年表のみといった有様で、辰野金吾の扱いとは天と地ほどの差があるのだった。
まあでも、特徴のある建物を隅々まで見ることができたので個人的には満足。おじさんに挨拶をして、建物を出る。

さらに西へと進んでいくと、唐津市役所である。この唐津市役所、ほかの市役所と比べると妙な特徴を持っている。
まず、堀に囲まれていること。そして入口に、役所というより奉行所といった雰囲気を漂わせる冠木門があること。
肝心の建物が鉄筋コンクリートなので「なんか変な感じ」で済んでいるが、もし役所が木造瓦屋根の建物だったら、
これは間違いなく「江戸時代のお役所」に見えることだろう。明治維新前の雰囲気を、どことなく引きずっているのである。

 
L: 唐津市役所。冠木門は廃藩置県前の和風建築の庁舎でみられるスタイル。今なぜこうなのか。
R: 建物じたいはいかにもな鉄筋オフィスである。入口には左近の桜と右近の橘が植えられていた。

 
L: こちらは市議会。裏から見たところは先日の倉敷市立美術館(旧倉敷市役所→2008.4.22)にちょっと似ていた。
R: 市議会の側面。ピロティでけっこうガチガチのモダンスタイルとなってるのがわかる。

市役所を撮り終えると唐津駅方面へ。駅にほど近いアーケードを通ってみることにする。
が、これが正直、確実にさびれてきている雰囲気が漂っていて、歩いていて少し切なくなってしまった。
唐津は歴史的に名の知られている都市なので、もう少し元気かと思っていたのだが、あまりそうでもない感じだ。
しかしアーケードから奥に入った飲み屋街や古い街並みの商店は元気そうな気配がした。
訪れた時間帯の影響もあるのか、高齢者の姿が非常に目立っていた。
でもおそらく、唐津くんちのときに街は、いま僕が見ているのとはまったく別の姿になるのだろう。
きっとこの街も、高知や徳島みたいに、時間によってエネルギーを発散する街(→2007.10.9)なのだろう。

 
L: 唐津のアーケード。ちょうど店の始まるくらいの時間だが、活気があるとは言いがたい雰囲気。
R: アーケードから少し入ると、お年寄りが群がる商店があった。若年人口が足りないってことなのか。

そのまま唐津駅に行って、佐賀行きの切符を買ってしまう。まだ時間があるので駅周辺をブラついて過ごす。
で、まだメシを食っていなかったので、駅の敷地のすぐ脇にある土産屋のビルで名物をいただくことにした。
ネットで「佐賀名物」を検索すると、「いかしゅうまい」というものが出てくる(ただし、厳密には呼子の名物)。
それがセットのうちの一品として出てくる定食を食べてみる。ほかにもイカの刺身があり、イカが名物なのだと再確認。
いかしゅうまいは、食べてみるとそんなにイカならでは、という感じはしない。むしろシュウマイとしての要素が強い。
でも表面を覆っている細かく刻んだイカが独特の食感をもたらす。よくまあ思いついたもんだなあ、と思うのであった。

  
L: 唐津駅。終点は隣の西唐津駅だが、なんとなく最果て感のする場所。もうちょっと都会だと思ったのだが。
C: 唐津駅にある曳山の像。曳山とは、唐津くんちで曳かれる山車のこと。
R: 佐賀名物・いかしゅうまい。刻んだイカがシュウマイを包んでモジャモジャ。てっぺんに乗っているのは、からし。

食べ終わるとけっこう出発ギリギリの時間になっていた。少し急いで列車に乗り込む。
唐津を出てしばらくは高架だったが(海に近い地域は平らということだ)、唐津線はすぐに南に針路が変わって山の中へ。
しばらく両面を緑が囲む中、部活に行くと思われる高校生がそこそこ乗って、車内はまずまずの繁盛ぶりだった。
景色が単調だったのでうつらうつらしていたのだが、多久市から小城市に入った辺りで思わずハッキリと目が覚めた。
それまでの山の中から抜け出すと、目の前に広がるのは一面の平野なのだ。茫洋とした緑が地平線を描く。
その景色の変わりようはちょっとほかでは体験できないと思う。飛行機が雲を抜け出すように、視界が一気に晴れる感じ。
これには驚いて、この緑の平野の正体をつかむべく目を凝らす。どうやら地面を覆い尽くしているのは麦(大麦)のようだ。
佐賀県ってここまですごい麦の特産地だったのか!とあらためてびっくり(二毛作らしいが)。とにかくその広さに圧倒された。
列車は緑一色の麦畑の中をまっすぐ突き進んでいき、弧を描いて長崎本線へと合流する。
佐賀駅の西隣は鍋島駅だが、この鍋島駅まで麦の緑は続いていた。これまた、県庁所在地?と思ってしまう光景だった。

唐津を出て約1時間、列車は佐賀駅に到着した。改札を抜けると、さっそく本日の宿を探して北口から出る。
ほとんど真っ平らと言えるほど非常に緩やかな上りになっている道をしばらく行くと、宿の看板が見えた。
壁面を全面的に改修しているようで全体がシートに覆われていたが、間違いない。中に入ると荷物を預かってもらう。
そうして身軽になると、また佐賀駅へと戻る。佐賀駅は南口がメインであり、北口は駅裏になるのだ。
が、南口に出てみて「あれ?」と思う。駅舎の南口が北口とまったく同じデザインになっていたからだ。
ここまで見事に対称になっているのは初めてだったので、少し驚いた。とりあえずすぐ近くの西友でペットボトル飲料を買い、
それをぶら下げて歩きながら佐賀市役所を目指すことにするのであった。

  
L: 目の前に広がるのは一面の緑。佐賀平野の麦畑である。これには驚いて目が覚めた。
C: 佐賀駅北口。  R: 佐賀駅南口。間違い探しができるくらいにそっくりだ。

佐賀市役所は佐賀駅からはかなり近い。駅構内を進んでいけば、その飲食店街から市役所がはっきり見えるくらいだ。
土地が平らで、周囲に背の高い建物もなく駐車場ばかりのため、市役所は歩いていてすぐに見つけることができる。
後でまた書くと思うけど、佐賀という街は道路の幅がとても広い。そして車が多い。駐車場も多い。
歩いてみるとものすごく個性的な街なのである。とりあえずは、「アスファルトの面積が広いところだなあ」と思いつつ撮影。

  
L: 佐賀市役所。右手(南)が本館で左手(北)が議会。周囲には建物が少ないので非常に目立つ。
C: 角度を変えて撮影。西友のだだっ広い駐車場から撮ってみた。  R: 市役所の敷地内から本館を撮る。

  
L: これは議会の側面。なんだか妙に複雑なファサードになっている。
C: 市役所の東側にある駐車場から本館を撮影。それにしても本当に駐車場ばかりだ。
R: 市役所の手前はちょっとした公園になっていて、なぜかドンとD51が置かれているのであった。

市役所の撮影を終えたら次は佐賀県庁である。佐賀県庁は駅・市役所からそこそこ離れた位置にある。
道でいえば駅から中央大通りをまっすぐ南に一直線だが、そこは佐賀。道幅も広けりゃ長さもあるのだ。延々と歩くことに。
歩いていたら途中でアーケード商店街があったのでふらりと寄ってみる。が、完全に壊滅状態。山口なんかかわいい方だ。
端っこのパチンコ屋が元気なくらいで、あとはまったくひと気がない。本当に県庁所在地なのかと信じられなくなる。
中央大通りに戻ってまた歩きだす。が、いくら歩いても県庁に近づいている気配がない。
トボトボと道路を歩いているのは僕ひとりくらいなもので、無数の車がビュンビュンと走り抜けていく。
車はたくさん通っているのに比べると、本当に歩行者の姿が見えない。たまに自転車に乗った若者が通る程度。
冗談でなく、車たちが暮らす街に間違って入り込んだ人間になった気分になる。まるでSFだ。佐賀は未来都市か!?

  
L: 佐賀のアーケード。もはやほとんどゴーストタウンな雰囲気。こりゃホントにヤバイでしょう、と思う。
C: 中央大通り。ご覧のとおり、車の交通量はけっこうある。しかし、歩行者がまったくいないのだ。本気でSF気分である。
R: このように、街中に積極的に緑を配置する工夫をしている(松原川通り)。でも人いなけりゃ意味ねーじゃん、って気も。

道が広くて車が多くて歩行者が少ない。その結果、佐賀では横断歩道を渡るのが非常に大変なのである。
横断歩道じたいがそんなに多くないし、待たされる。渡るのにも時間がかかる。だから街歩きがとってもやりづらい。
佐賀は福岡と長崎を結ぶ位置にある。都合のいいことに土地がとてつもなく真っ平らでだだっ広いということで、
車にとっては非常に便利な通過点となっているのだ。そして、そのことが前提となって、街の構造ができている。
実際に歩いてみると、街全体が郊外社会化している感じになっているので、すべてがヒューマンスケールを逸脱していて、
上記のようにSF感覚に陥るというわけだ。交差点の角からロビタ(『火の鳥』のアレ)が出てきそうな気がする。ホントに。

で、ようやく佐賀県庁に到着である。道路と建物のバランスがいつもの感覚と違うので、少し戸惑いながらカメラを構える。
とても広い道路、とても大きな堀を越えると佐賀県庁。佐賀県庁は古い本館(1950年竣工)を今でも残している。
いつものように敷地を一周しながら、さまざまな角度からそれぞれの建物を撮影していくことにした。

  
L: 道を挟んで佐賀県庁を眺める。左側の背の低い本館と右側の背の高い新行政棟の二段構えとなっている。
C: 旧佐賀城の堀。「コ」の字になっているのだが、道路に負けず劣らずデカい。
R: 佐賀県庁本館。この建物は、戦後初の県庁舎建築なのである。4本の柱はこの前の代にあたる県庁舎のイメージを残したもの。

  
L: 少し離れた位置から撮影した本館。それにしても、4本の柱がセイウチの牙に思えるのは僕だけではあるまい。
C: 県庁のすぐ裏には佐賀西高校(進学校で、大学のゼミに出身者がいた)がある。そのグラウンド脇から新行政棟を見上げた。
R: 佐賀県庁、本館と新行政棟を裏手から眺めたところ。新行政棟は本館と同じ高さの部分だけファサードを合わせているのね……。

佐賀県庁の敷地を一周すると、この平野っぷりをぜひ高いところから見てみよう!と思って県庁の中に入る。
新行政棟の12階は展望ホールになっているのだ。しかもその西端は展望レストランになっている(年中無休なのだ)。

  
L: こちらは堀越しに見た佐賀県議会。新行政棟にくっついている。  C: 新行政棟の入口はこんなふうになっている。
R: 展望ホールから佐賀駅方向(北)を眺める。平野を建物が埋め尽くし、その奥に筑紫山地(脊振山地)がうっすら見える。


これは南側を眺めたところ。緑の地平線を見ることができる。本当に、見事なまでの真っ平らぶりである。

山国育ちとしては、このような光景というのは文字どおり別世界のものなのである。
自販機で紙パックのジュースを買って、それをチューチュー味わいつつ、しばらく呆けてこの光景を眺めて過ごした。

さて、県庁の撮影も終わったので、あとはテキトーに佐賀市内をうろつきまわることにする。
といっても、まあ正直言ってそんなに名所があるわけではないので、気ままな散歩といった感じになるのであった。

まずは県庁からすぐ南西にある佐賀城址である。天守は残っていないが、本丸御殿を再建したということで中に入る。
佐賀藩といえば鍋島直正。戦国大名・龍造寺隆信の死後に頭角を現していった鍋島直茂の子孫であり、
長崎の警備にあたったことを生かして積極的に海外の軍事的ノウハウを吸収して明治維新の原動力となった人だ。
そんな鍋島家の城が佐賀城なのである。1874年には佐賀の乱の舞台となり、その影響で建物の大半を失っている。
なお、佐賀城は攻撃にされた際に主要部以外を水没させる仕組みになっていたため、「沈み城」とも呼ばれたという。

  
L: 佐賀城・鯱の門。この門には、佐賀の乱のときの弾痕がいまだに残っているという。
C: 再建された本丸御殿は佐賀城本丸歴史館となっている。入館料は「お客様の満足度に応じた募金をお願いしております」。
R: ちょっと離れて佐賀大学。これが地方の国立大学らしさなのか、山形大学(→2007.4.30)に似ている感じ。公団住宅みたいだ。

佐賀城本丸歴史館は木造の新しい建物の清々しさにあふれていて、それはそれで心地よい場所なのであった。
中の展示も、幕末の佐賀藩がいかに最新技術を開発しながら明治維新につなげていったかが豊富な資料で説明され、
なかなか面白かった。端的に言って、やはり優秀な人材をガンガン生み出す仕組みをつくった藩の勝ち、だったようだ。

佐賀城址を出て、さらに佐賀の住宅地を歩いてみる。と、すぐに佐賀市の面白い特徴が見えてくる。
それは、小さな水路(クリーク)の存在だ。佐賀市内には川らしい川がほとんど流れていない。
そのかわり、平野には無数の水路が引かれているのである。農地が宅地化した現在もこの水路は残っていて、
住宅地を歩くと道の脇には必ずといっていいほど水路がある。本当に、あっちを見てもこっちを見ても水路だらけなのだ。
(この水路にボウフラがわくせいで、佐賀では蚊の被害が非常に多いのだという。歩いてみると妙に納得できる。)
そういうわけで、水路を撮影しながら歩いていたら、地元のおっさんに「おう、何撮ってるんだい?」と訊かれる。
「水路ばっかりで特徴的だなあって思ったんで撮ってます」と返事。「なるほど。どこから来たの?」「東京です」「へぇ」
おっさんは、なんでわざわざ佐賀に来る?という表情を一瞬浮かべつつも、「そうだねえ、佐賀は水路だらけだよ」
「多いですねえ。あと、車もすごく多い」「ははは、そうだ、人より多いだろ」ってな感じの会話を交わすのであった。

  
L: 水路。  C: 水路。  R: 水路。こんなふうに、街のあちこちに水路が走っている。大半はきれいな印象だが、汚いものもある。

そしてもうひとつ、これは佐賀市の観光パンフレット・地図にも載っていることなのだが、
佐賀市の住宅地には、恵比須様の像があちこちに置かれているのである。お地蔵様のような感覚で点在している。
これは江戸時代から現在にかけて、商売繁盛などを願って設置されたものなんだそうだ。ぜんぶで500体近くあるとか。
基本的には、その土地の持ち主が敷地の端っこに置くというならわしになっているようだ。
塀が家を囲んでいるのだが、そのうち恵比須様のいる一角だけは塀をへこませている例がよくみられた。
恵比須様の像もいろいろなパターンがあり、よく見るとそれぞれにポーズが異なっている。
それをひとつひとつチェックしながら歩くのも、佐賀観光のひとつのスタイルであるらしい。
家の角に恵比須様というのは、なかなか独特なスタイルである。面白いものだなあ、と思いつつ撮影して歩いた。

  
L: アーケードの東端、パチンコ屋付近の恵比須様。沖縄の石敢當(→2007.7.22)のようなものなのだろうか?
C: 住宅地で、ポストと並ぶ恵比須様。背中の上のところが欠けてしまっている。
R: これは鯛を背負っている珍しいパターン。この部分だけ家の塀をへこませているのがわかる。

住宅地から駅の近くまで来ると、バッティングセンターを発見。さっそく打ってみる。
プロ野球の投手の映像が出るタイプで、案の定、左打席で打てるブースはひとつだけなのであった。差別だ。
映像で出てくる投手は阪神の藤川で、どんなに「高」ボタンを押しても低めのボールしか投げてこないんでやんの。
おかげで納得のいく打球があまり出なかったのでガックリしつつ、駅まで戻る。

空は明るいが、もう晩メシの時間だったので、駅構内の飲食店街で済ませることにした(目ぼしい店もなかったし)。
ふらっと入った定食・丼物屋で鶏肉の丼をたのんだら、大盛をサービスしてくれたので非常にラッキー。
佐賀はこれといった名所は少ないけど、歩いてみるとものすごく独特な特徴のある街だったので(さびれていたけどね)、
それを自分の身体で実感できたことは非常に大きい。都市社会学的に、実に興味深くて楽しい経験だった。


2008.4.25 (Fri.)

本日が、今回の旅行で最もきついスケジュールとなっているのである。
湯田温泉を出ると西に行って下関へ。そこから九州に乗り込むのだが、いったん引き返す形で門司港へ行く。
そして門司港駅の駅舎を撮影したら、今度は小倉で途中下車して街の様子を探るのである。
それから博多に到着した後も、まだまだ動く。午前中のうちに太宰府天満宮までお参りに行くのだ。
そうして帰ってきてからようやく、福岡市内をうろつきまわるという予定なのである。これはもう、トライアスロンである。

まだ空が暗いうちに宿を出て、湯田温泉駅へと向かう。始発列車に乗らないと後の予定が狂うのだ。
切符を買って駅舎の中でぼーっとしつつ待つ(一方通行切符の関係で、山口線は別料金で乗っているというわけ)。
やがて列車がやってきて、乗り込む。まだ6時前なのに、高校生の姿がけっこう目立っている。部活だろうか。
ほどなくして新山口駅に着く。いったん改札を抜けると、岡山からの切符でもう一度改札を通る。なんだか間抜けである。

新山口から1時間ほどかかって、ようやく下関に着く。半年ほど前の楽しかった記憶が蘇る。
日程的に余裕があればもう一度ラビさんのお世話になって市街地を歩き倒したかったが、残念ながら今回はパスなのだ。
そういうわけで、滞在時間4分で下関を後にする。通勤・通学の乗客で混み合うJR九州の列車に乗り込んだ。
車両もわりと古くてトンネルを抜けていくということで、なんとなく武蔵野線を思い出した。

関門海峡の対岸・門司駅に到着すると、いよいよ本格的に九州探検のはじまりなのである。
まずは門司港へ行って、半年前の借りを返さなくてはならない。そういうわけで、門司港行きの電車を待つ。
去年、姉歯祭りのメンバーで下関旅行を敢行したのだが(→2007.11.2)、そのとき門司港レトロに行ったにもかかわらず、
肝心の門司港駅舎を見ずに帰るという失態を演じてしまったのだ(→2007.11.4)。駅舎では初の重要文化財なのに。
というわけで、わざわざ門司港駅へ行くためだけに時間を割くことにしたのである。なんかこう書くと鉄っぽくてイヤだけど。
しかし、問題がひとつある。この予定を立てるにあたってネットの時刻表サイトを利用して調べてみたのだが、
なんと、門司港駅の滞在時間はたったの4分(!)しかとれないのである。もしこれをしくじってしまった場合、
朝の8時で何も開店していない門司港レトロに30分間ほったらかしになった挙句、その後の予定がどんどんズレていくのだ。
4分でどう動けばいいのか。ホームに出て改札を抜けるまでに1分かかるとする。そうすると往復で2分とられる。
したがって、2分間のうちに自分の納得できるアングルで門司港駅を撮影しなくちゃいけないのである。あまりにもムチャだ。
とはいえ躊躇しているヒマなどない。門司駅で門司港までの往復切符を買うと(一方通行切符の都合上ここも別料金)、
いちばん前の車両のいちばん前のドアに入れるように電車を待つ。できるだけ改札までの距離を縮めておくのだ。

やがて電車がやって来た。ギューギュー詰めになりながらも根性で体を中にねじ込むと、発車。
電車は倉庫が並んでいる中をスイスイと抜けていき、定刻どおりに門司港駅に着いた。
開いたドアは反対側だったが気合いで抜け出すと、軽く走って改札を通る。そして外に出てバッシャバッシャ撮影。
駅舎の前にはかつて噴水があったと思われる跡が残っていたが、今は何もなく真っ平らになっていた。
朝日を浴びて堂々と構える門司港駅舎は確かにかっこいい。現役で使われているからやっぱりいいんだなあ、
なんてのんびり思うヒマもなく、駅舎の中をバシバシバシと撮っていくと、そのまま改札を通って電車の中にすべり込む。
そしたらわりとすぐにドアが閉まって出発進行。なんとか無事に、本日最初の課題をクリアしたのであった。
帰りの車内では多少の余裕も出てきて、窓から見える景色を楽しむことができた。
表面は古典的な意匠なのに裏側が工業のプラントになっているとんでもない建物も見えて、なかなか刺激的だった。

 
L: 門司港駅舎。1914年築で、左右対称のデザインが特徴的なんだとか。あんまり権威的な感じがしなくてソフトな印象の建物。
R: 門司港駅の構内の様子。この駅だけ駅員の制服は特別仕様になっているそうで、それだけ誇りとされているってことなのだろう。

さて列車はそのまま小倉まで行く。そこで降りると、30分ほど駅の周辺をうろつきまわることにした。
下関旅行のときには小倉城と北九州市役所ぐらいしか行けなかったのでもう少しあちこち見てみたかったんだけど、
やっぱり30分程度では何もできなかった。店もまだ全然開いていない時間だし。ただ走りまわっただけ、って感じである。

  
L: 小倉駅。吹き抜けになっているど真ん中をモノレールがぶっ刺さっているという大胆なデザイン。面白い。
C: リバーウォーク北九州。北九州市ルネッサンス構想によって生まれた複合商業施設である。
R: 北九州市役所を遠景で。ちなみに半年前に来たときの写真はこちらを参照(→2007.11.5)。

そんなわけで、元気なんだか衰退しているんだか肌で感じることができないままに、慌てて小倉駅まで戻る。
小倉駅からは素直に博多まで直行するつもりだが、どのホーム発のどの電車に乗ればいいのかイマイチよくわからない。
博多へ行く電車は、直方経由の電車とそうでないものと2つあるのだ。直方経由の方が少し早く出発するようだ。
迷った挙句、当初の予定どおりに直方経由でない方を待つことにした。どうも素人には難しくって困る。
で、無事に博多行き(正確には大牟田行き)の電車に乗り込むと、キオスクで買っておいた朝飯をいただく。
それにしてもJR九州の車両は内装がいろいろと凝っていて、普通列車でも特急のような印象がする。
この点もまた鉄道オンチの僕には混乱の一因になっているわけで、ニンともカンとも、と思うのであった。
(その後、博多駅に着く直前で、僕の乗った列車は直方経由の列車を追い越して、先にゴールに着いた。)

さて、1時間ほどで博多駅に到着である。いったんここで降りて、宿に荷物を預けることにする。
軽く迷ってから博多口に出ると、「うわー都会!」と思わず声が出た。道が広い、車が多い、ビルが高い。都会なのだ。
博多駅博多口は現在、九州新幹線乗り入れに合わせて再開発の途中である(駅ビルには東急ハンズも入るんだとさ)。
それが完成したら、さらに都会の印象が増すのだろう。すげえな博多、すげえな福岡!と圧倒されるのであった。

 
L: 博多駅博多口の現在の様子。大規模に工事中となっているが、午前中から酒をあおって倒れこんでいる人もチラホラ……。
R: 博多駅前・大博通り。さすが九州で一番の都会だけあって、迫力満点なのであった。

地図では宿はさほど駅から離れていない印象だったのだが、博多駅周辺の区画は大きめなので、意外と歩いた。
無事に荷物を預けると、意気揚々と博多駅に戻る。そこから地下鉄で、もうひとつの繁華街である天神に向かう。
金曜日は一日乗車券を500円で売っているようで、得した気分になりつつ電車に乗り込んだ。
福岡の地下鉄はなんとなく大阪の地下鉄に雰囲気が似ているかなあとも思うんだけど、あそこまでガサツではない感じだ。

天神に着くと今度は西鉄の福岡駅に移動。そこから太宰府天満宮まで行くのだ。
これまたなんとなく南海に雰囲気が似ているかなあと思いつつ、電車は南へ進んでいく。周りの風景は住宅街に変わる。
で、二日市駅に着いたら乗り換え。太宰府行きの電車に乗るのは案の定、年配の乗客が多い。
若くてもなぜか女性が多い。なんだか自分ひとりだけ浮いているかなあ、なんて思っているうちに太宰府駅に着いた。

太宰府駅の前はちょっとした広場になっていて、その先を右に曲がればすぐに参道である。
参道に出てみてびっくり、とにかく人でごった返しているのだ。しかもほとんどが高校生。修学旅行か学校行事のようだ。
太宰府名物の梅ヶ枝餅を売る店や土産屋に混じってソフトクリームの店があり、長い行列になっていた。
間を縫うように歩いていって鳥居をくぐると、左に曲がって石橋を渡る。そうして楼門が見えてきた。
この季節に太宰府に来ているのは修学旅行の高校生だけでなく、なぜか女子大生のグループも多かった。
おそらく九州の大学に今年入ったばかりで、いい天気だしグループで名所に来てみた、ってなところなんだろう。
あとは韓国語。韓国の小中学生が修学旅行で海外へ、という場合、九州というのは手頃なコースになっているようだ。
楼門をくぐって拝殿まで歩いていくと、お賽銭を入れて二礼二拍手一礼。願いごとは目標の達成、
そして今後の無事に決まっている。いいかげん、少しは賢い人間にならないと困るお年頃なのだ。どうにかお願いします、
と神頼み。それから金を納めてお守りと絵馬を頂戴し(「買う」という表現じゃないのがなんとももどかしい)、
絵馬には願いごとをがっちり書いて所定の場所に吊るすのであった。こういうことをするのは人生で初めてである。
(どうでもいいが、他人の絵馬を見るのが好きなやつがいるけど、それは本当に良くない趣味だと思う。誰とは言わんが。)
しばらく境内をフラフラと散策すると、九州国立博物館に寄ることなく来た道を戻り、あっさりそのまま天神に帰る。
どうせ修学旅行の生徒でグチャグチャに混んでるんでしょ!という判断だ。いずれお礼参りに来たときには寄りたいものだ。

  
L: 太宰府天満宮の参道。修学旅行か何かと思われる高校生の集団でごった返していた。ウエー
C: 太宰府天満宮の楼門。  R: 太宰府天満宮の拝殿。1591年、小早川隆景によって再建されたそうだ。

天神に戻ると、お次は福岡市役所の撮影なのである。博多ではその都会な雰囲気に圧倒されたのだが、
(※「天神」は西鉄福岡駅周辺の地域名、「博多」はJR博多駅周辺の地域名としてかなりいいかげんに使っています。)
天神もやっぱり都会なのだった。博多がいかにもCBD(central business district)って感じでオフィス天国な印象に対し、
こちらは大きな百貨店が多く並んでいて一大商業地帯という印象。大通りを一歩入れば商店街も健在だ。
正午過ぎということもあってか、人通りが非常に多い。すげえな九州、すげえな福岡!とまた圧倒されるのであった。
で、肝心の福岡市役所はその天神のほぼど真ん中に位置している。規模の大きい建物が多い中でも、
福岡市役所はさらに大きい。敷地の前面を豪快なパブリックスペースにして、その背後にドデンとそびえている。
お昼休みの時間帯なので広場では大勢の人が休んだり買ってきたメシを食べたりしている。
買い物客で騒がしい天神の中で、なんだか独特な存在感を示しているなあ、と妙に感心するのであった。

  
L: 福岡市役所。デカいです。  C: 真正面から見るとこうなる。交通標識がジャマ!
R: 市役所前のパブリックスペース。広い。そんでもって日陰がない。豪快なのである。

 
L: デザインが微妙に左右非対称なのは、市議会を中に含んでいるからと思われる。三権分立ってことなのだ。
R: 反対側の天神中央公園側から見た福岡市役所。裏側もまったく同じデザインとなっている。

福岡市役所はデカい。建物じたいはわりとシンプルな真四角なのに(ファサードは微妙に凹面になっているが)、
ヴォリュームがあるので撮影には非常に苦労する。それで裏手の天神中央公園から撮影しようと中に入ったら、
北側に緑の謎の物体があるのに驚いた。なんじゃこりゃ?と近づいてみると、どうやら何かの施設のようなのだ。
公園に面した側は階段状になっていて、その面を覆うように植栽がなされている。
しかもこの植栽の中を歩きまわることもできるようになっているようだ。ずいぶんと思い切ったことをするなあ、と思う。
そんなわけでこの建物「アクロス福岡」についても、軽く一周しながら撮影してみることにした。
表通りの方にまわったら見事にガラス張りになっていて、公園側とまったく雰囲気が異なっている。
きっと公園との連続性に配慮したことが売りになっているんだろうけど、それにしても本当に大胆なデザインだ。

  
L: アクロス福岡の天神中央公園側。見事にこんもりと緑に包まれている。公園で寝転がっている人がいるが妙に目立ってるな……。
C: アクロス福岡の市役所から見える側。  R: アクロス福岡の明治通り側。こっちから見るぶんにはただのガラス張りの建物なのだが。

で、調べてみていろいろとわかった。「アクロス」とは「アジアのクロスロード」という意味なんだそうだ。
福岡シンフォニーホールや国際会議場などの公共施設と民間オフィスの複合している建物で、1996年のBCS賞を受賞。
もともとはこのアクロス福岡と天神中央公園の場所に、福岡県庁があったそうだ。今の県庁は郊外に移転したものなのだ。
つまりは福岡市役所と福岡県庁は、かつてはこの天神地区で隣接していたのである。
江戸時代まで福岡は武家町、博多は町人町としてそれぞれ別個に栄えていた歴史がある。
そういうことを考えると、福岡市内での繁華街の力関係の変化というのは、なかなか複雑で興味深いものだ。

さて「博多」「天神」ときたら当然、九州一の歓楽街と言われる場所にも行ってみなければなるまい。そう、「中洲」である。
中洲はその名のとおり那珂川(と博多川)の中州であるが、位置としては博多と天神の真ん中あたりにある。
で、実際に中洲を北から南まで歩いてみると、周囲の光景がはっきりくっきりと変わっていくのが実に面白い。
北側はなんのことはない、ごくふつうの都会といった印象である。さまざまな店がありオフィスがありコンビニがある。
しかし中ほどまで南下すると、一気に飲み屋が多くなる。まだ開店前だが、夕方以降はかなり賑やかになりそうだ。
そして中洲の南端はどうなっているのかというと! 風俗街である。いやはや、呼び込みがすごいのなんの。
東西方向に走る道路を横断するたびに、見事なまでに段階的に街の表情が変化していくのである。
まるで昼から夕方、夕方から夜、のような。それも不連続にいきなり変化するのだ。なかなか貴重な体験である。
じゃあその中洲の風俗街を抜けた先にはいったい何があるのかというと、いきなりキャナルシティ博多なのである。
逆を言えば、オシャレな場所として認知されているキャナルシティの5m先には妖しげな区域があるわけで、
まあなんというのか、その辺のパワフルさも福岡らしさってことなのかなあ、なんて思うのであった。

  
L: キャナルシティ博多。最近は首都圏で大規模なアウトレットモールが人気だが、その先祖にあたる存在と僕は考えている。
C: キャナルシティの敷地内はこんなふうになっている。逆説的に、アトリウムを屋外に出した感じ、とでも形容できようか。
R: これまた同じ。各種メディアでもこの光景はよく紹介されていると思う。

これでまあだいたい、福岡市内の賑やかな地域は押さえた、ということにしておく。
次は福岡県庁だ!ということで、中洲川端駅(中洲と対岸の川端の中間にある駅)から地下鉄に乗って県庁に向かう。
福岡市営地下鉄には千代県庁口駅という駅があるのでここで降りればいいのかな、と思ったのだが、
福岡県議会へは千代県庁口駅、福岡県庁へは次の馬出(まいだし)九大病院前駅とのアナウンスがあり、「?」となる。
県庁へ行くのに、県庁口じゃなくて病院前? 首を傾げつつ、馬出九大病院前駅の方で降りて、地上へ。

地上へ出ると白いコンクリートの寂しげな通路がある。これを通って県庁へ行くようになっているようだ。
でも僕としては建物の写真を離れた位置から撮りたいので、いったん敷地の外に出て道路から様子を探っていく。
ところがこれが困ったことに、植えられている木がジャマで、福岡県庁がてっぺんしか見えないのである。
しかもそのてっぺんが長い。どうやら福岡県庁は非常に幅のある建物のようで、行っても行ってもまだ建物が続いている。
ようやく木々が途切れたと思ったら裏口。どうやら地下鉄の駅から素直に出ると、裏口側に着くようになっているようだ。
えーいめんどくせえ! 一周してやる!と敷地をぐるっと回ったら、行く先にさっきスルーした千代県庁口駅の入口が見えた。
つまり福岡県庁の敷地はほぼ一駅分の長さがあるってことなのである。広いし、デカいし、写真を撮る身にはつらい。

  
L: 馬出九大病院前駅から福岡県庁へ出ると、このような通路を行くことに。殺風景でイヤな感じ。
C: 福岡県庁の裏手入口。非常に幅の広い建物をしっかり隠すように木々が植えられている。
R: こちらは表側(東側)にまわり込んで撮影した正面入口の様子。

福岡県庁は上に書いたように、もともと天神にあったものが郊外に移転している。
例のごとく県警・県庁・議会が3つ並んだ構成となっていて、それと正面から向き合うような感じで、
敷地の東側に東公園という公園がある。この公園には高台があって、そこからは県庁舎がよく見える。
そういうわけで、あらためて今度は表側から福岡県庁を撮影してみる。

  
L: 東公園の高台には亀山上皇像が立っている。日露戦争中の1904年からここにあるんだそうで。
C: 高台から眺める福岡県庁。こうしないと全体像がつかめないくらい幅のある建物なのだ。さすがにこんなのは初めてだ。
R: 側面はこのようになっている。現在の福岡県庁は1981年竣工。黒川紀章設計だと。

 
L: こちらは県議会。大きくて木に囲まれているので建物の全体的なイメージがよくわからない。
R: 東公園の高台から眺めてアップで撮影した画像。やっぱり、全体像がわからない。

福岡県庁の撮影も終えて、これでいちおう本日のタスクは完了。しかし福岡には名所がまだまだある。
体力の続く限りあちこち行ってみようか!ということで、また地下鉄に乗って西に戻る。そのまま突っ切って、大濠公園へ。
大濠公園とは、その名のとおり大きな池のある公園である。が、規模がすごい。池を一周すると約2kmある。
雰囲気はなんとなく水戸の千波湖(→2006.8.27)に似ている。でも、大濠公園はそのど真ん中を歩いて渡れるのだ。
さっそく大濠公園の縦断にチャレンジしてみる。橋を渡って島に上陸し、歩いていく。
木がけっこう多く生えているのであまり見通しがよくなかったのが残念なところである。
「おお、オレ今、こんな細い陸地を歩いてるよー」って感覚が味わえたら面白かったのだが。まあ、あくまで個人的な感想。

  
L: 大濠公園はこんな感じで、一面の水の真ん中を陸地がちょっぴり通っているのだ。
C: さっそく歩いてみる。橋を渡ってスタート。  R: 中の様子はこんな感じになっている。見通しがもうちょっとよけりゃねえ。

大濠公園の隣は舞鶴公園、かつての福岡城である。せっかくなので福岡城址にも行ってみることにする。
坂はあんまりないのだが、中はちょっとした迷路のようになっていて、位置がわかりづらくって行くのが少し大変だった。
天守の跡は展望台になっていた。ご丁寧に、わざわざ足場までつくってくれている。さっそく周りを眺めてみる。
そんなに高さのある土地というわけでもないので、博多・天神方面はビルに埋もれてよくわからず。
対照的に、博多湾方面は福岡ドーム(今はネーミングライツで福岡Yahoo! JAPANドームか)が目立っている。

 
L: 福岡城址の天守跡にある展望台。  R: 天守跡より福岡ドームを眺める。金属の光沢がなんだか異質だ。

東へ下りるとそこは平和台野球場の跡地。かつての西鉄ライオンズ、ダイエーホークスの本拠地だ。
平和台野球場は、掘ったら遺跡(鴻臚館遺跡)が出てきた、なんて話をどこかで聞いたことがあったけど、
実際に何やら発掘された跡がいまだにあった。広大なグラウンド跡地はフェンスに囲まれて立ち入り禁止。
ひと気のない中、カラスたちのいい住処になっていたのであった。

 
L: 平和台野球場跡地。広大な土地がそのままになっている。いつまでこのままなのかな。
R: 何かが出たと思われる跡。それにしてもやたらとカラスが多かった。

それじゃお次はさっき城跡から見た福岡ドームだ、ということで、地下鉄に乗って唐人町へ。
いちおう、ここが最寄駅なのだが、ドームまではけっこう歩くのである。ドームが目立つので迷うことはないが、
いかにも埋立地っぽい閑散とした大雑把な風景の中を歩いていくのはあまり楽しいものではない。
で、そのまま福岡ドームに行ってしまうのも芸がないので、ここでまた寄り道なのである。
ドームを通り越して、そのまま博多湾まで出てしまう。この一帯は「シーサイドももち海浜公園」という人工海浜なのだ。 
しばらくアホ面で海を眺めながら足を休めて過ごす。辺りにはひと気がまるでないのであった。

  
L: シーサイドももち海浜公園。対岸に見えるのはおそらく志賀島。歴史の教科書に出てくる金印でお馴染み。
C: 天神も博多も福岡空港の関係で背の高いビルは建てられないのだが、この辺はOKということでタワーがある。
R: 振り返ればそこに福岡ドーム。果たして今夜の試合はどんな展開になるやら。

海を見るのにも飽きたので、福岡ドームへ。試合開始は18時ということでまだ時間はある。
ブラブラとのん気に一周してみる。当日券売り場がけっこう混雑してきていた。まあ後で買っても大丈夫でしょ、とスルー。
あちこち歩きまわって福岡という街の規模の大きさはだいたい肌で感じていたので、
ソフトバンクホークス(やっぱ「ダイエー」じゃないとなんとなく違和感があるなあ……)の地元での人気は納得できる感じ。
かつてのライオンズの埼玉移転がムチャなことに思え、この街にプロ野球チームのない時間があったことが不思議に思える。
ところで僕はドーム球場があまり好きではなく、野球はやっぱ青空の下でデーゲームだぜ、という考えの持ち主なのだが、
おとといのようなこと(試合の時間帯だけ狙ったように雨で中止)があると、ドームって助かるなあ、と思ってしまうではないか。
今夜の試合がいい試合になることを期待しつつ、いったん天神方面に戻る。

天神に戻ってからは、試合開始までの時間をメシ食ったりお茶飲んだりでつぶすことにした。歩きどおしでさすがに疲れた。
荷物は宿に預けているので日記が書けない。なんとなくもどかしいのだが、しょうがない。背負って歩いたら足が壊れるし。
うつらうつらしたりしなかったりで、18時頃に着くように地下鉄に乗る。一日乗車券とは便利なものである。

で、ドームに着いて肝心なことに気がついた。当日券を買うための列に並ばなきゃいけないってことである。
さっき来たときにはそこそこな長さだったので、「後で来た方が早いかも」と思っていたのだが全然そんなことはなかった。
しまったなーと思いつつ、列に並んでぼんやり待つ。メンツは会社帰りのサラリーマンコンビ、カップル、家族連れ。多彩だ。
ホーム側のスタンドでホームを応援をするつもりでいたのだが、ホークス側の席はすべて指定席だった。
これも人気があることの証明なのかな、と思いつつ、外野指定席のチケットを無事購入。
中に入ると、広い。そして緑。人工芝のだだっ広いグラウンドがやたらと鮮やかな緑なのである。
福岡ドームは広い球場として有名だが、実際に席に着いてみると、確かに明らかに広いのである。
(まあ僕の中での「標準的な野球場」というのが神宮球場ということもあるのだが……。)
試合はすでに始まっていて、ホークスは杉内、対戦相手の千葉ロッテは「しみちょく」こと?清水直行が先発である。
すでにホークスは1点を先制されているのであった。とりあえずホームであるホークスの応援に混じりながら、
福岡ドームの中にある、気になったものあれやこれやを撮影してみることにする。

  
L: 福岡ドーム外観。これは砂浜でボーッとした後、試合開始前に撮影したもの。黄色いグッズが非常に目につく。
C: 福岡ドームの外野。広い!  R: 縦の構図で天井も含めて撮ってみた。本当に巨大な空間だ。

  
L: 大リーグ風に、より近くで見られるように張り出している「コカ・コーラシート」。2008年は全席年間指定席で完売済み。
C: 千葉からやって来て、レフト側の外野席でジャンプするロッテファンの皆さん。いやはや、元気でございますな。
R: ホークス(ライト側)応援席の様子。非常に幅広い年齢層である。ホークスの応援は比較的シンプルなテンポで合わせやすい。

試合展開は千葉ロッテ・清水直行の前にホークス打線は凡打の山を築くという、ホームにとってはイヤなもの。
しかもセンターの多村が3回の守備中にレフトと交錯して負傷退場(その後、腓骨骨折と判明して前半戦絶望に……)。
それでも懸命に声援を送り、チームの逆転を信じる。僕もホークスはあまり好きではないチームなのだが(強いから)、
今日ばかりはできるだけ周りの皆さんと同じようにして拍手と声援を送った。見よう見まねで、それなりに必死である。
一方、レフト側ではロッテファンが選手の名前をコールしたり飛んだり跳ねたりと元気いっぱい。
ロッテの応援はプロ野球のそれというよりむしろ、Jリーグに近い。かなりサッカーの影響を受けているようにみえる。
そうやっていろんな個性が出てくるのは好ましいことだと思うのである。やっぱりホームチームを応援しながらの、
12球団の本拠地めぐりはやってみる価値がありそうだ。まあ、いつになるやら。
あともうひとつ気がついたことは、女性ファンが着ているユニフォームの9割が背番号52であるという事実。
ムネリン人気あるなあ、ムネリン(川﨑宗則のことね、念のため)。

球が高いながらも3失点で耐えてきたホークス・杉内だったが、8回表になってズレータに2点タイムリーを浴びて勝負あり。
対する清水は100球も投げずに4安打完封。せっかく応援したのに、なんともモヤモヤの残る試合となってしまった。

 
L: 7回になったら何かがもっこりと出てきたよ。  R: 試合終了後、肩を落として帰るファンの皆さん。残念!

試合が終わって腹が減った。福岡といえば長浜ラーメン!ということで、地下鉄で降りて長浜地区まで歩いていく。
しかし、長浜に行けば屋台とかあるんじゃないの?という僕の甘い目論見はもろくも崩れた。全然ひと気も明かりもない。
市場も「本日の営業は終わりました」と言わんばかりにトラックが静かに停車しているだけ。
ただひたすら、夜の闇に包まれて閑散としているだけなのである。これには困った。
それでもあきらめきれずにフラフラ歩いていたら、「長浜屋台」を店名に入れているラーメン屋があったので入る。
店の真ん中には屋台を模したテーブルがあり、妙に胡散くさい。ホントに大丈夫かこりゃと思いつつも注文。
でも出てきたラーメンはきちんと長浜ラーメンだった。意外と醤油の風味が強かった。

 こんなん出ました。

1杯で満足できるはずもない。やはり福岡に来ているわけだから、本物の屋台で食べなければならないのである。
そういうわけでまた地下鉄に乗って中洲へ。中洲を南へ下っていくと、最南端のエリアの川沿いが見事に賑わっている。
屋台が一列に並んでいて、まるで縁日かお祭りのようだ。屋台だけでこれだけの活気が出せるものなんだ、と驚いた。
さすがは福岡、博多だなあと感心しながら歩いていく。呼び込みのお兄さんがひっきりなしに声をかけてくる。
その中の一軒に入ってラーメンを注文。酒もアリかなあと思ったが、高かったので遠慮することに。
出てきたラーメンはしっかりトンコツ細麺だったけど、やっぱり意外と醤油の風味が強かった。
僕は博多のラーメンはどこでも「博多天神」くらいの、純度が限りなく100%に近いトンコツなのだと思っていたので、
実態に触れて新たな発見をしたというかなんというか。やっぱりここでもおいしくいただいた。
結論としては、これは酒を飲んだ後に食えば最強の味付けだなあ、ということ。
醤油によるややしょっぱい味付けは、つまり、中洲で酔っ払った客のためのものなのである。そうだったのか、とひとり納得。

  
L: 中洲の屋台はこんな感じで延々と並んでいる。会社帰りで酒飲んだ後のサラリーマン・OLが多数集結。
C: 屋台の様子。福岡はほかのアジア諸国に近いだけあって、アジアンテイスト全開?
R: 屋台の博多ラーメンとテーブル。今度はぜひ、飲んだ後にチャレンジしてみたいものです。

そんな具合にエネルギッシュに福岡の夜は更けていくのであった。さすが九州一の都会だなあ、と納得。


2008.4.24 (Thu.)

広島県の名所といえば、なんてったって日本三景のひとつ、安芸の宮島なのである。
そういうわけで本日は午前中に宮島に寄り、午後には山口県に入る、というスケジュールとした。
宮島に行くのには2つのルートがある。路面電車(広電)でも行けるし、JRでも行ける。
そしてフェリーに乗るのだが、これも2種類のルートがある。これまた広電のグループと、JRのグループである。
持っている切符が一方通行のルートということで、よくわかんないので安全策でJRで統一することにした。
路面電車で広島駅まで行くと、そこからJRに乗る。宮島口で降りてちょこっと歩いてフェリー乗り場へと向かう。

宮島にはやはり小学校3年生のときに来ている。そのときには鹿の放し飼いっぷり(本当は野生)に驚いた記憶がある。
できればロープウェイに乗って弥山(みせん)から瀬戸内海を眺める(それが本来の日本三景だそうだ)、
ということをやってみたかったのだが、いかんせん時間がない。ここでボサッとしていると山口でえらい目に遭う。
そういうわけで、おとなしく厳島神社周辺を散策する程度にとどめておくことにした。
フェリー乗り場には修学旅行と思しき中学生がワンサカ。昨日もそうだったが、僕は修学旅行コースをなぞっているのだ。
で、フェリーはすぐに出発。厳島神社の大鳥居にわざわざ近づくコースでゆったりと宮島港に到着。

 
L: 船上より眺める宮島。でかい。そして山がけっこう尖っている。
R: 日本三景のひとつであることを主張している石碑。ふもとで鹿が寝転がっているのであった。

宮島に着くと、さっそくほかの観光客の皆さんと一緒に厳島神社へと歩いていく。
時刻はまだ8時半ということで、土産物屋もまだやっていない。しかし観光客はすでにけっこうやって来ている。
入口で300円を払うとさっそく中に入る。板張りの床は本当に浅瀬の上にあり、平清盛の発想に呆れる。
台風に遭うたびに直しているせいか、建物じたいには正直、あまりありがたみは感じられなかった。
でも厳島神社は、この場所に建てられていることがまず第一の価値だと思うので、気にせず先に進む。
板張りの床を歩いていると、なんとなくRPGの街を歩いているような気になる。上から見ると似ていると思う。
いちばん海に出ている突端のところから本殿を撮影したり、大鳥居を撮影したりと、のんびり過ごす。

  
L: 厳島神社本殿。平清盛が造営。平家の守り神だったが、その後も長く続いて今に至る。
C: 角度を変えて本殿と高舞台。厳島神社は世界遺産に認定されているのである。
R: 大鳥居。高さ16.8m、重量約60t。今の大鳥居は8代目とのこと。

 
L: 厳島神社の能舞台。満潮時には海の上に浮かぶように見えるんだそうだ。
R: こちらはお隣の大願寺。日本三大弁財天のひとつ。明治期までは厳島神社と一体化していた。

宮島、宮島と僕らは呼んでいるのだが、正式な名称は「厳島」。かつては宮島町として独立していたが、
平成の大合併を経て現在は廿日市市の一部となっている。厳島神社周辺には古い街並みが残されている。
また、野生の鹿があちこちを闊歩しているため、家の入口には必ず柵が設けられている。
そういうわけで、歩いていると宮島には独特の時間が流れているような印象を受けるのである。

  
L: 宮島歴史民俗資料館。かつての豪商の邸宅をそのまま使っているのだ。
C: 資料館の角を曲がったところ。古い街並みが続いており、そこを鹿がブラブラと歩いている。
R: 表参道商店街。2階から布を張ってアーケード的な状態をつくりだす点が面白い。

さて厳島神社の周辺を歩いていると、何やら面白そうな塔が目に入ったので坂を上ってみる。
そこにあったのは、豊国神社の五重塔と千畳閣と呼ばれる建物。特に圧倒されたのが、この千畳閣である。
豊臣秀吉が建てたのだが、途中で秀吉が亡くなったために工事が中断されたまま今に至るという。
そのため、板壁も天井もないぶっ通しの大空間となっているのだ。「千畳閣」の名はその広さから来ているわけで、
その(結果として)豪快な空間は、なかなかほかでは体験することのできないものとなっている。入場料100円。

  
L: 豊国神社千畳閣の外観。高い丘の上に建っているので見晴らしがいい。厳島神社も宮島の街並みもよく見える。
C: 千畳閣内部。全国あちこちから訪れてきた人が奉納した額であふれている。江戸期のものもあって貴重。
R: 床がテカテカに輝いてまぶしいほど。江戸時代には交流・納涼の場だったとか。確かにすごく魅力的な場所だと思う。

 千畳閣の中から上を見上げる。天井がなくって、梁がむき出しになっている。見事だ。

厳島神社に比べるとここを訪れる人はぐっと少なかったが、千畳閣はかなり魅力的な場所だった。
宮島を訪れた際には、ぜひここで一休みしてほしいと思うのである。

そろそろ時間なのでフェリー乗り場へと戻る。修学旅行と思われる女子高生集団がギャーギャー騒いでいてうるさかった。
宮島ってのは一年中こうなんだろうなあ、と思う。昼間はどれくらいの人ごみになるのやら。

JR宮島口駅に戻ると駅弁を買った。宮島はしゃもじ・もみじ饅頭のほかにも「あなごめし」が名物となっている。
やっぱ食っとかなきゃな!ということで、電車に乗り込むとそれをおいしくいただく。
(駅弁の包み紙は大正時代のものを復刻していた。中身も極めてシンプルで、雰囲気抜群だなあと思いつつ食った。)
電車は山口県へと入り、ゆっくりのんびり大回りをして西へと進んでいく。

 
L: あなごめし。うな丼がそのままアナゴになったようなものだが、こちらの味は脂に乏しくやや淡白。それもまたうまい。
R: 南岩国駅周辺の風景。田んぼの中に突如、工場が現れる。第一次産業と第二次産業の境界線が見える光景。

そんな調子で2時間半ほど過ごすと、新山口駅へ到着。かつての小郡駅だ。
新山口駅は南の新幹線口と北の在来線口がある。まず在来線口で降りたら、まあ見事に田舎というか何もない場所。
しばらく歩いて県道まで出てみたのだが、ビジネスホテルが数軒あるほかは何もないのだ。
それじゃあ新幹線口はどうなの、と陸橋を渡って反対側へ出てみる。そこには広大な駐車場が広がっていて、
同じように近くを県道が走っている。表面的には新幹線口の方がわりと都会に見えるが、そこから数m入っていけば、
大差がなくなりそうな感触がした。時間もなかったので、さっさと駅のホームに戻って列車を待つ。

で、山口線は見事にワンマンで単線なのであった。しかも非電化。ホントに県庁所在地を通る路線かよ、と思う。
発車時刻になって列車は出発、国道9号とまったく平行に走っていく。そして午後2時に山口駅に到着。
駅舎を出ると、駅前のあまりの穏やかさに面食らう。まっすぐに道が伸びているが、看板のひとつも出ていない並木道だ。
確かに、全国の県庁所在地で最も人口が少なく人口密度も低いだけのことはある、と妙に納得しつつ歩きだす。

 
L: 山口駅。後ろは山。駅舎の2階が観光案内所になっている。駅前のT字路は信号無視が余裕でできるくらいの交通量。
R: 山口駅から市街地に伸びる道路。実に穏やか。この通りにはセンスの良さそうな外観のブティックが多く並んでいた。

山口市は守護大名・戦国大名の大内氏が拠点とした街である。
つまりは周防・長門両国のど真ん中という位置にあることで栄えた、ということだ。
山陽本線建設時に乗り入れを拒否したため、県の政治の中心でありながら現在のように穏やかな街に仕上がったのだ。
米屋町のアーケードを横切ってさらに進むと県道に出る。そこから先は「パークロード」という広い道となるのだが、
その起点となっているところに山口市役所はある。亀山に向かって土地が高さを増していく、そのふもとに位置している。

  
L: 山口市役所を南側から見上げたところ。なお、後ろに見えるのは山口サビエル記念聖堂の塔。
C: 市役所入口を撮影。建物はまったくもってフツーの庁舎建築。1階の端っこに市民向けに開放されたスペースあり。でも狭い。
R: 入口のところから議会棟を眺めたところ。駐車場とそれを囲む建物の配置は古典的だなあ、と思う。

山口市役所の裏側というか北側には、山口サビエル記念聖堂がある(「ザビエル」ではなく、「サビエル」と濁らない)。
戦国大名・大内義隆がキリスト教の布教を許可した歴史もあり、山口市はキリスト教との関係が深い。
(そもそも日本で初めてクリスマスを祝ったのは、ここ山口なんだそうだ。1552年のことだという。)
で、この教会は1998年に現在の姿に再建され、その前衛的なデザインは大きな議論を呼んだそうだ。
でも今では山口の(数少ない?)観光地のひとつとしてすっかり定着している。さっそく中に入る。
(ちなみに、中に入るには教会へのカンパというか心づけをする必要がある。)
中ではひっきりなしに大音量でパイプオルガンが演奏されていて、正直なところ、「う、うるせぇ~!」と思ってしまう。
でもまあこれもひとつの祈りの形ってことで納得し、うろうろ歩いてみたり長椅子に腰を下ろしてみたり。
昨日の世界平和記念聖堂と違って、中は明るい。色づかいとしては圧倒的に白が多く、
僕はそこになんとなく、プラスティックのような軽さを感じた。あとは音響設備の立派さが目につく。
やはり一神教のまっすぐさにあふれていて、そして光を多めに採り入れていたせいか、ずいぶん前向きな印象の場所だった。

  
L: 山口サビエル記念聖堂の外観。うーんポストモダン。  C: 記念聖堂から前庭・亀山を見たところ。
R: 亀山公園から山口県庁舎を眺める。山の中に一大行政区域が現れるわけで、なんとも壮観。

記念聖堂を出るとそのまま亀山公園のてっぺんまで上り、そこからパークロードで出る道を探す。
しかしこれが完全に山の中で、まるで風越山から下山するような感覚で下りていく。パークロードに戻るとさらに北上。
辺りは県立山口図書館・県文書館・県立美術館・県立山口博物館など文化施設が集中している。

 パークロード(県道203号)はこんな感じで緑に覆われている。

そして国道9号にぶつかると、地下道を通って山口県庁前に出る。
というわけで、山口県庁である。現在の山口県庁舎は1984年に建てられたものだが、「山口県政資料館」という名称で、
かつての県庁舎・県議会議事堂が敷地の中に保存されているのだ。さすがに室町時代から続く行政都市である。
そういうわけで、まずは西側の旧山口県庁を、続いて東側の旧山口県議会を撮影していく。

  
L: 旧山口県庁舎。中では山口県の歴史を展示しているが、山口県観光協会事務局など現役で使われている部分もある。
C: 正面より撮影。  R: 中庭の様子。なぜか郵便ポストがあったけど、やっぱここまで取りに来るんだろうなあ。不思議だ。

  
L: こちらは旧県議会議事堂。やはり中では議会の歴史が展示されていたが、議場は改装して実際に会議に使えるようにしてあった。
C: 正面より撮影。  R: これは旧山口藩庁門。つまり廃藩置県前の庁舎の門がいまだに残されているのだ。1864年完成。

旧山口県庁舎と旧山口県議会議事堂は1916年に竣工。妻木頼黄の指導のもと、武田五一・大熊喜邦が設計した。
『都道府県庁舎』(→2007.11.21)によれば、後に建設される国会議事堂のテストケースという要素があるらしい。
旧庁舎・旧議会を資料館として残すパターンは山形県(文翔館→2007.4.30)と共通している。
あちらは商店街の端っこに位置していたが、こちらは人里離れた行政区域の中ということで、訪れる人はさほど多くない。
それでもきちんときれいに残しているところに、政治の分野で有名な人材を輩出してきた県の意地を感じる。
それにしても藩庁門まで残すとは、その保存ぶりには驚くというか呆れるというか感心するというか。

続いて現在の山口県庁をみていく。とにかくこれがデカい。真ん中にあるのが本館棟2号で、
その南を本館棟1号、東を議会棟、北を厚生棟、そして西を県警察本部が固めている。あまりに大きいので、
うまくカメラの視野に収まらない。広い敷地をあちこち歩いても、なかなか納得のいく構図で撮れないのだ。
正直、県の規模のわりには巨大な建物だなあと思ってしまう。まるで要塞のようである。

  
L: 山口県庁舎の本館棟・厚生棟を、前庭を挟んで撮影。建物もデカいが敷地もデカい。
C: 本館棟のエントランス部分。  R: 右が本館棟1号、左が本館棟2号。

  
L: 敷地の奥には滝があり、そこから本館棟の東側まで水が流れてくるようになっている。この滝は食堂から見える。
C: 議会棟。わりと間近で寄って眺めたところ。  R: 議会棟を少し離れた位置から見るとこうなっている。

県庁舎をぐるっと一周したのだが、とにかく建物の大きさに圧倒されっぱなしだった。
見てもらってわかるようにマトモな写真がほとんどない。大きすぎて、断片的なものしか撮れなかったのだ。

さて時刻はだいぶ夕方に近づいてきた。少し急いで、山口市における最大の観光名所であろう瑠璃光寺へと向かう。
大内氏全盛期の勢いを今に伝える五重塔(国宝)で知られる寺だ。周辺は香山公園と呼ばれ、大きな駐車場がある。
境内に入ると池越しに五重塔が見える。檜の皮で屋根が葺かれていて、周りの緑との対比が美しい。
1442年ごろの建築といい、近づいてみるとなるほどけっこう古びている。観光客がそこそこいるが、塔の近くはとても静かだ。
日没後にはライトアップがされるようで、巨大なライトが足元に転がっていた。それもまた機会があれば見たいものだ。

 
L: 瑠璃光寺五重塔。変に色を塗っていないところがいいなあ、と思う。日本三名塔のひとつだそうだ。
R: 近寄って見上げてみた。遠くからはシンプルに見える塔も、よく見るとしっかり飾りが施されている。

瑠璃光寺の本体は特にこれといってどうということはないのであった。
しかしやはり五重塔は美しい。特に周りの緑の中に埋もれそうになりながらもスマートに立っている姿がいい。
山口の街は周囲の山に囲まれて埋もれそうになりながら県庁所在地をやっているわけだけど、
この五重塔の姿は、それをなんとなく反映しているように思えた。まさに「西の京・山口」の象徴ってことだ。

瑠璃光寺からの帰りは、一の坂川沿いに下っていく。この周辺は、まったく県庁所在地とは思えない穏やかさ。
一の坂川には無数の小さな橋が架けられていて、そこから川の様子が見渡せる。
川の両側は草がいっぱいに生え、堤防にも桜の木が植えられている。まさに緑一色となっている。
時期が来ればホタルがいっぱいに川の辺りを舞うんだそうで、それはおそらく、ライトアップされた五重塔とともに、
実に感動的な夜の光景となるのだろう。うらやましい。

 
L: 一の坂川沿いの道。上飯田あたりと変わらない風景である。  R: 一の坂川と桜並木。緑でいっぱい。

西京橋の交差点からアーケード街を歩く。最初ここを横切った印象ではわりと活気を感じたのだが、
実際に歩いてみてそのダメージの深刻さに驚いた。ひと気が少なく、とにかく閑散としているのだ。
シャッターがあちこちで下りているというわけではないし、明かりが少ないというわけでもない。
しかし、絶対的な人の少なさによる淋しさが全体を覆っているのだ。
郊外化が進んだ結果としての中心市街地の空洞化に必死で抵抗しているんだけど、
それが空回りしたままうまくいかないでいる、そういう光景を見せつけられている印象がする。

  
L: アーケードは飾りつけ、のぼりなど賑やかにしようと努力をしているのが感じられる。が、人が少ない。
C: 米屋町周辺は比較的元気だが、それでもやはり買い物客の姿は絶対的に少ない。
R: 駅通りから一の坂川までのエリアは壊滅的な印象。いったいどうすればいいのやら。

山口という街はもともと都会的な騒がしさとは無縁の場所だとは思うのだが、それにしてもこれはちょっと……
と思う衰退ぶりだった。純粋に、国道9号あたりのロードサイド店に人が移動しただけのことかもしれないが、
もともと穏やかにやっていた街が静かに力をなくしていく、そういう状況を目の当たりにするのはまったくもってうれしくない。
とはいえ単線でワンマンで非電化な山口線に乗って山口駅から歩いてきた自分としては、
この流れをどうすることもできないのがわかっているから溜め息を漏らすことしかできないのである。

来た道をトボトボ歩いて戻って山口駅まで着くと、隣の湯田温泉駅まで行って降りる。
山口駅周辺にはこれといってビジネスホテルがない(新山口まで行かないとビジネスホテルがないのだ)。
それならいっそ、湯田温泉でゆっくりしよう、というわけである。この「県庁所在地ひとり合宿」では県庁所在地に泊まる、
ということをルールにしているわけだが、湯田温泉は山口市内、それもわりと中心部にあるのでまったく問題ないのである。

 駅では湯田温泉のマスコット・ゆう太がお出迎え。高さ8mとかなりデカい。

湯田温泉には、ケガをした白狐が池に足をつけていたので掘ってみたら温泉が出た、という伝説がある。
街中にあるせいか、いわゆる温泉地的な印象はそんなにない。ただ、ホテルが多くあることで、「ああ温泉だ」と思わされる。
また山口大学が近いので学生のアルバイトがあちこちにいて、やっぱり温泉地っていう気がしない。
ごくふつうの街の中に温泉という要素がムリヤリ割り込んでいる、そんな感じのするなかなか面白い場所である。

宿に着くとさっそく大浴場に入る。湯田温泉は1日2000tの湧出量を誇るんだそうで、無色透明なのはそのせいらしい。
ちゃっちゃと体を洗うとのんびりと湯船に浸かり、足をほぐす。明日以降のスケジュールもピッチピチなので、
今日ここでしっかりと疲れをとっておかないと大変なのである。ひたすらリラックスして過ごした。

温泉からあがるとメシを食いに出る。あれこれ迷った挙句にファミレスに入る。あんまりメシ関係は充実してないようだ。
で、客はいっぱいいるのにウェイターはバイト学生ほぼ1人という状況。なんだかこっちまでハラハラしながらメシを注文。
しかしその学生は見事に立ち回って仕事をやりきっているのであった。偉いなーなんて思いながら店を出る。

宿に戻ると本日の写真をまとめたり日記を軽く書いたりして過ごし、寝る。
ふやけるまで温泉に浸かりまくるほどの体力は残っていなかったなあ。今にしてみればちょっと残念。


2008.4.23 (Wed.)

熟睡しているのにいきなり「もう5時15分だよ!」という僕の声で起こされるリョーシさんはたまったもんじゃないはずだ。
もっと良識的な時間に起きて岡山を出発する予定を組むのが人として正しい行いである、というのはわかっている。
でもやっぱり、そこはワガママにふるまってしまうのだ。5時51分発の電車に間に合うように、リョーシさんに車を出してもらう。

例のごとく僕の旅行は早寝早起きの弾丸ツアーなのである。岡山県の次は広島県に入るのだが、
「寄り道! 寄り道!」ということで強制5時起きとなったわけだ(本日の寄り道予定地は、尾道)。
ちなみにリョーシさんは今回僕が企んだ旅行の行程を聞いて、心底呆れていた。「頭がおかしい」と言われてしまった。
正直、自分でもそう思う。でもせっかくだからということで、体力任せにガーッと実行してしまうのである。
それにしてもリョーシさんは優しい。僕の計画に呆れる一方で、JRの時刻表を片手に貴重なアドバイスをくれた。
「ルートが100km以上で一方通行なら途中下車ができる。しかも200kmごとに切符の有効期間が1日ずつ延びる」と。
つまり、岡山から福岡までの切符を買えば、4日間途中下車し放題(ただし一方通行なので戻れない)になるそうだ。
そんなうれしい仕組みがあるなんて初耳だ。もう何から何まで世話になりっ放しだ。今後は岡山に足を向けて寝られない。
というわけで、岡山駅までリョーシさんに送ってもらうと、「いつか出世して恩返しするぜ!」とテキトーなお礼を言って、
みどりの窓口に飛び込んだのであった。切符は無事に買えた。これで経済的にずいぶん助かった。リョーシさまさまである。

電車に乗り込むとそこから約1時間、尾道駅に到着である。尾道といえば尾道ラーメンと言いたいところだが、
尾道着が7時6分、尾道発が8時54分ということで、そんな時間にやっている店などないのである。無念である。
しかし僕としては、ラーメンよりも尾道という極めて特徴的な街を実際に歩いてみることの方が重要だ。だから気にしない。
コインロッカーに荷物を預けると(今回は足を極力痛めないためにコインロッカー代は一切ケチらないことにした)、
駅に置いてあったマップを片手に山の方へと入り込む。いちおうキレイに舗装されてはいる狭い石段を大股で上る。

 
L: ペデストリアンデッキから眺める尾道駅。駅舎の後ろにある山の中をグイグイと行くのである。
R: 尾道の商店街。左にあるのは林芙美子像。林芙美子は女子高生時代、この街で文学を志したそうな。

尾道は「坂と寺の街」ということで全国的に知られているのだが、実際に歩いてみると……まったくそのとおりである。
住宅が山の斜面を埋め尽くし、単純にコンクリートで固めただけの路地が複雑に張りめぐらされている。
そのところどころで山門がひょっこり現れ、中に入るとちょっとコンパクトな寺がひっそりたたずむ。
住宅、路地、住宅、路地、坂、住宅、路地、坂、寺、路地、住宅、坂、路地、住宅、路地、坂、寺、といった具合。

  
L: 路地な坂。  C: 寺。  R: ちょっと立派な坂。以後こんなんばっかりの繰り返し。

 
L: 三重塔もあるけど坂がきついので簡単に見下ろせてしまうのだ。
R: 住宅間の路地はこんな感じ。幼稚園の頃に遊んでいた地元の路地をなんとなく思い出した。

尾道で最も大きいというかランドマークになっている寺は千光寺である。
その一帯は千光寺公園として整備されており、ロープウェイまである(僕が訪れたときは営業時間外。念のため)。
この後の予定もあるので、あんまりボーッとしているわけにはいかない。ということで千光寺をゴールということにして、
ひたすら東へと針路をとりつつ石段になっている坂を勢いよく上っていく。まるであみだくじを実演している気分だ。

路地があまりに複雑なので、途中で自分の居場所がわからなくなる。
それでも根性でどうにか舗装された石段を探っていき、ようやく千光寺への正しいルートに入ることができた。
雰囲気は微妙に住宅地から寺社のそれへと変化し、周囲を包む緑の印象が少し強くなる。
そうして石段を上っていくと、赤い建物の姿が目に入った。千光寺である。気がつけばけっこう汗をかいていた。

千光寺は尾道の地形の影響によってか、非常に狭い。その分、千光寺公園でバランスをとっているのかもしれない。
とりあえず本殿から尾道の街を見渡すことができるようになっていたので、実際にその場に立ってみる。
それからパノラマ撮影もやってみる。朝の光が眩しくてうまく見えない箇所もあったが、風も眺めも非常に気持ちいい。

本殿からさらに奥には石鎚山というものがあり、鎖をつたって岩を登って行くようになっている。
チャレンジしてみようと勢いよく鎖に足をかけたはいいのだが、すぐに高所恐怖症が出てきて断念。ムリだ。
そんなわけで、おとなしく本殿から景色を眺めてしばらく過ごす。汗がゆっくりと退いていく。穏やかな時間がただ流れる。
ロープウェイでここまで来ちゃえば楽なんだろうけど、そうすると尾道の路地を懐かしい気持ちになりつつ歩くことはできない。
僕は体力任せで一気に上がってきたわけだけど、本来ならのんびりぶらぶら歩いてくるのが正しい味わい方なのだろう。
それにしてもいい天気、いい時間に来たもんだなあとしみじみ思った。

景色を満喫すると、海岸沿いの道まで出て駅に戻る。海では小さなフェリーが向島との間をひっきりなしに往来している。
船の中では学生や会社員が突っ立って着岸するのを待っている。山国育ちの僕には想像のできない原風景がここにある。
所変われば品変わると言うが、こうも違う日常があるのかとあらためて思う。海外に行ったらもっと違うんだろう。

さて列車に乗り込むと、さらに西へと進んでいく。そして10時ちょい過ぎに広島に到着。ここが本日の目的地である。
広島の中心市街地は、実は広島駅からけっこう離れた位置にある。広島市街が太田川の三角州にあるのは有名だが、
駅はそこから北東のはずれに位置しているのだ。でも路面電車が充実しているので特に困るということはない。
広島の路面電車はなんと、ぜんぶで9つもの系統がある。番号を確かめると、テキトーに乗り込んで出発を待つ。
やがて電車は動き出し、いくつか橋を越えて中心市街地へ。すぐに宿の最寄り駅に着いたので、さっさと降りて南へと歩く。
少し妖しげな匂いの漂わないでもない飲み屋街を突き抜けた先で、無事に宿を発見。荷物を預けると再び歩きだす。

ちなみに、僕が広島を訪れるのは二度目になる。一度目は、小学3年のときに家族旅行で親戚のところに泊まったのだ。
延々と自家用車を西へと走らせての旅行で、当時はオヤジも若かったんだなあ、と思うのであった。
いちおう主要な観光地は押さえた旅行だったが、例のごとく何事もテキトーに済ませる僕の記憶は、残念ながらおぼろげ。
まあそんなわけで、新たな気持ちで広島市内の観光に臨むのであった。

広島市街で軸になっている道路の幅は非常に大きい。「でけー」と歓声をあげつつ歩いていくと、妙な風景に出くわした。
大きな交差点の一角を、これまただだっ広い芝生が占めており、その先には壊れかけの建物がある。
手元のプリントアウトしておいた地図で確認する。広島大学旧理学部1号館である。
(今回、広島を歩きまわるにあたり、こちらのサイトのお世話になった。管理者は僕と同時期に東工大にいた方のようだ。)

  
L: 広島駅。左手にちらっと見える路面電車の駅にはいつも車両が停まっていて、発車する番を待っている。
C: 交差点から眺めた広島大学旧理学部1号館。  R: 正面にまわるとこんな感じ。近づくとボロボロでびっくりする。

広大な空き地には学生や親子連れが数人いて、それぞれのんびり過ごしている。有効活用する余裕がないんだろうな、
でもまあこうして開放されてみんなテキトーに過ごせる空間ってのも悪くないなあ、と思う。
ろくすっぽ使っていない国立大学の土地ってのはけっこう面白い思考実験の素材である。とりとめもないことを考えてみる。

肝心の広島市役所はそこからもう少し西側にある。ぷらぷらと歩いていくと、ベージュで背の高い建物が現れる。
それが広島市役所だ。見事に四角い典型的なオフィス建築である。南西端には議会もくっついている。
「標準的だなあ」と思いつつカメラを構えるが、議会棟も込みにすると、なかなかうまく視野に収まらない。でかいのだ。
大きい建物なので広角の影響で建物が大規模に曲がってしまい、思うように撮れないで苦しむ。
で、もうしょうがねえやこりゃ、と半ばあきらめ気味にシャッターを切るのであった。ムリなもんはムリだ。

  
L: 広島市役所事務棟。左手には議会棟があるけど、それも撮影しようとすると広角なので形が大きくゆがんでしまうのだ。
C: 裏手から見上げたところ。デザインは正面と同じ。  R: こちらは隣接している中区役所。手前には路面電車もいるよ。

西側の正面の方にまわり込んだら、地下室への入口があるのに気がついた。
実はこの地下室、被爆した先代の広島市役所の資料展示室なのである。迷わず階段を下りていく。
先代の広島市役所は1985年まで現役で使われていたらしい。原爆投下後、2日ほど熱で建物に近づけなかったとか。
すべてがなくなってしまった大混乱の状況ってのが今では想像がつかないけど、それは確かに存在していた時間なのだ。

 
L: 広島市役所旧庁舎資料展示室の入口。もともとは旧庁舎の地下室で、市役所配給課の倉庫として使われていた。
R: 展示室内の様子。原爆ですべてが消え去った中、L字にポツンと残った旧市庁舎の模型が展示されていた。

上で紹介したサイトの影響もあり、広島には見てみたい建物がけっこういっぱいある。
夜には広島市民球場で広島×ヤクルト戦を観るつもりなので、急がないとまわりきれないのである。
いやむしろはっきり言って、本日のメインイベントは市役所でも県庁でもなく、広島カープの試合なのだ。
広島の前田智徳のバッティングを広島市民球場で見る。ぶっちゃけそれが、今回の旅を決行した最大の理由なのだ。
というのも広島市民球場は老朽化が非常に深刻な状況であり、今年が最後のシーズンとなるからである。
(来年からは広島駅に隣接する新球場がフランチャイズになる。仙田さんのところにいる潤平の知り合いが設計したとな。)
そんなわけで撮影を終えると早足で北上し、今度は広島県庁を目指す。

で、広島県庁。広島県庁舎は1956年竣工と、けっこう古いものを今でも使っている。
そしてこれがまあ、絵に描いたような典型的なモダンスタイルの作品なのだ。
モダンが量産化される前の、まだモダンスタイルが「作品」と呼べた頃の建物であると思う(設計は日建設計)。
建物じたいは古いのだが、きれいに使う努力があちこちで感じられてほほえましい。

  
L: 広島県庁舎を正面から撮影。ピロティ、低層と高層の対比、徹底した直線の使用と無彩色が実にモダン。
C: 角度を少し変えてもう一丁。左の写真と比較するとなんとなく形状がつかめるかと。
R: エントランスを押さえつつ高層の建物をクローズアップ。モダンが量産化される前の手づくり感というかなんというか。

  
L,C: 裏手にまわってみても、ファサードの統一感は徹底されている。
R: こちらは県議会。やっぱり雰囲気を統一させている。敷地内の建物はすべてこんな感じである。

これは僕の個人的な感触なんだけど、広島県庁舎ってのは絶妙の位置にある建物だと思う。
それは、広島県庁舎はコンクリートによるモダンスタイルが、まだ職人芸だった最後の時代に属する作品だと考えるからだ。
組織事務所による設計なのが、それを象徴していると思う。これは巨匠の作品を量産化するためのプロトタイプなのだ。
いかにも「役所らしい」オフィス建築が一定の方法論に従ってガンガン全国に散らばっていく時代がこの後にはあるわけで、
広島県庁舎とは、庁舎をもっと安価にもっと単純化してつくっていくための通過点だったように、素人の僕には思えるのだ。
だからつまんないモダンにはない何か特別な匂いがするし、なおかつこの次の建物には期待の持てない感じというか、
まあ一種の「やり尽くしちゃった感」、モダンの実験がここで一段落ついた落ち着き(ワクワク感の喪失)を嗅ぎ取ってしまう。
そういう点もひっくるめて、この建物はすごく意義の大きい作品であると思うのだが、いかがだろう。
(ちなみに全国規模で見た場合、広島県庁舎の次に建てられたのは、あの丹下健三の香川県庁舎だ。→2007.10.6

なお、広島県庁舎の向かいのブロックには百貨店のそごうがある。交差点に面した本館の迫力は特筆モノである。
この建物はバスターミナルにもなっており、いまだに広島の街において大きな役割を果たしているようだ。
その後ろに控えて県庁舎と対面している新館(基町クレドの一部)も、最近の商業施設らしいこだわりにあふれている。
エントランスのところの屋根というかアーチというか(キャンチレバーっていうの?)の掛け方が実にエロいなあと思った。

  
L: そごう広島店本館。交差点で真正面から見たところだが、実際に目にすると、まあこれがすごい迫力なんですわ。
C: そごう広島店新館。その姿は本館と対照的だが、商業施設の新旧のスタイルが並んでいるところがすごく面白い。
R: 基町クレドのすぐ西には広島市民球場がある。ここで広島の前田のバッティングを見るのが夢だったのだ。試合が楽しみ。

さて次は言わずと知れた「原爆ドーム」である。そごうの西には広島市民球場があるが、そのすぐ南側にある。
平和記念公園を北上して原爆ドーム、というのが一般的なコースだろうが、今回は裏手にあたる北側からまわり込んだ。
そうすると、なんというか、ものすごく違和感がある。だって街中に、いきなり廃墟が現れるんだから。
二度と使われることのないむき出しの廃墟が、ドカンと放置されている。ボロボロのレンガとコンクリートでできた塊が、
ただそのまま放ったらかしになっているのだ。活気のある街なのに、きれいな公園なのに、ありえないものが存在している。
そして建物だったはずのそれは完全にスッカスカで、オブジェにしか思えない。その奇妙な印象は強烈なインパクトを残す。

 
L: 広島を象徴するオブジェとなったもの。  R: 元安川の傍らに、そのオブジェは設置されている。

あまりにも広島は見事に復興したため、原爆という“究極の”兵器がどんなものだったのか、それを知る手がかりはない。
だからこの原爆ドームの奇妙さは、過去に存在した非現実的な現実がどれだけ奇妙だったかをそのまま伝えるものだ。
しかしまたその一方で、自分がテーマパーク的な視線で原爆ドームを見つめているということも痛感する。
廃墟ってものは、それらしくつくることができる。テーマパークや商業施設などで、つくられた廃墟には簡単に触れられる。
それと同じ質感でこの原爆ドームをイージーに捉えているのではないか、そういう感覚もまた自分の中には存在している。
まあそんな具合に、考えていけばキリがない。

平和記念公園を南下。南端は丹下健三設計の広島平和記念資料館、そこからまっすぐモニュメントまで広場である。
資料館を背に振り返ると、モニュメントを通して原爆ドームが見える。そういうふうにつくった、ってことだろう。
園内からは子どもたちの全力の遊び声が聞こえてくる。平和を享受している空間、そういう感じだ。
資料館のピロティのふもとでは学校行事で来たと思しき中学生たちがビニールシートを敷いて弁当を食べていた。
これまたのん気な光景である。見たところ生徒たちは中学生になったばかり。自分が歳をくったことを強烈に感じさせられる。

 
L: 平和記念公園のモニュメント。広島平和記念資料館を背にすると原爆ドームが真ん中におさまる。
R: 広島平和記念資料館本館。修学旅行やらなんやらでピロティの下は人でいっぱい。外国からの観光客も多い。

原爆資料館の中に入る。入場料はわずか50円ということで、やっていけんのかよと思いつつ展示を見ていく。
前に広島に来たときにもこの施設に入った記憶があるのだが、そのときに比べておとなしい展示に変わった気がする。
以前はフルカラー3D『はだしのゲン』といった展示で圧倒された記憶があるのだが、今の展示にはそういう要素が少ない。
館内には日本人よりもやや多いくらい外国人観光客がいたのだが(なぜかほとんどが白人だった)、
果たして彼らにどれだけのものを訴えることができているのか、その威力に疑問を感じるのが正直なところだ。
女性や子どもに対しても容赦なく、その身体を徹底的に傷つける兵器という側面を、もっと前面に出すべきと思うのだが。

資料館を出ると、そのまま平和記念公園から平和通りへと移動する。平和通りは本当に幅の広い道だ。
原爆で徹底的に街が焼き尽くされたせいか、広島は三角州の上にあるのにわりと碁盤目状に道が引かれている。
まっすぐ北上して東に歩く。そうして次の目的地へと向かう。

平和記念公園からはけっこう離れたところでひっそりと建っているのが、世界平和記念聖堂である。
これは行ってみるとごくふつうの一教会なのだが、設計は村野藤吾による。
設計者を決めるコンペでもめた挙句、審査員だったはずの村野が設計をやっちゃった、という紆余曲折があったそうだ。
敷地内に入るとベンチで本を読んでいた教会関係者の方が声をかけてきてガイドするかどうかを訊いてくる。
気ままに見たかったので丁重に断ると、外観を撮影し、中に入ってみる。
よく考えてみたら僕はキリスト教の教会の中に入るのはこれが初めてなのだ。

  
L: 世界平和記念聖堂。コンクリートのモダンな骨組を、村野らしい手づくり感あふれる造形で肉付けした建物という印象。
C: 内部。入口より祭壇を眺めたところ。鉛直方向、つまり神のいる天と人間のいる地の対比が強調された空間。
R: 祭壇付近から振り返ったところ。ここは誰でも自由に入って、自分の好きなように平和を祈ることができる場所なのだ。

教会の中は薄暗く、天井が非常に高い。光が厳重に管理されている、そういう印象を受ける。
おかげで鉛直方向のまっすぐな関係性が強調されていて、自分が地べたにいる人間であることを自覚させられる。
ゆっくりと祭壇の方へと歩み寄っていくと、壁面に描かれたキリストの像が目の前に立ちはだかる。
彼は人間の罪をひとりで背負ってがんばっているわけで、その彼を象徴として戴くことでキリスト教は成立している。
すでに社会学を勉強している僕には、一神教を信じることは絶対にできないな、とそれを見て思う。
この空間は、迷うことなく1つのベクトルに収束している。それは地から天へと昇っていく方向のベクトルだ。
それは賛美歌だったりステンドグラスだったり光の演出だったり、華やかに味付けする要素にあふれている。
そうやって疑問を差し挟む余地を与えないようにする工夫が、2000年の間にいくつもいくつも開発されている。
しかしそのシステムの外側にいる自分には、それが多くの選択肢のひとつであることをすでに知っているわけで、
そうなってしまうとそのシステムの内部に身を置くことなどもはやできっこないのだ。
ただ、信仰によってよけいな迷いに踏み込まずに済むこと、そういう寄りかかれる根拠を容易に手に入れられることは、
正直なところ、うらやましいと思わなくもない。僕みたいな社会学っ子は、それを他者から与えられるのではなく、
自力で手に入れるしかない。これがけっこう大変なのである。でもそれを選んだのだからしょうがない。
ということで、自分なりに平和を祈ると外に出る。

次は広島城である。原爆によってかつての天守は破壊されてしまった(国宝だった)が、1958年に鉄筋コンクリートで再建。
しかし近づいてみると木造の印象が残るようにしてある点が独特である。周囲に木が多いこともあって、
なんとなく小ぢんまりとした感じがするが、それだけ忠実に再現できているってことなのかもしれない。

 広島城。

これで広島の見たい建物はだいたいまわったのだが、まだ最後にもうひとつだけ残っている。
それはJRでは広島駅の西隣になる、横川駅である。この路面電車の停留所が、ヨーロッパ風で面白いらしい。
さっそく路面電車に乗って行ってみる。ほかの系統は頻繁に電車が来るのに、横川駅行きは妙に本数が少ない。
赤い乗り換えカードを眺めて足首をマッサージしながら待っていると、15分くらいしてようやく電車がやってきた。
で、終点の横川駅に着く頃には雨が降り出してしまった。野球の試合がー!と思いつつも駅周辺を撮影していく。

  
L: 横川駅。右手にあるのが路面電車の停留所で、なるほどヨーロッパ風で風情があって面白い。JRの改札は奥にある。
C: 駅舎の前にあるバスの停留所には、同じ深緑のアーチでアーケードがつくられている。雰囲気を統一しているわけだ。
R: 路面電車側をクローズアップしてみたところ。この空間は路面電車ならではのものだと思う。

 
L: アーチの下から路面電車の停留所を眺めたところ。ホントにヨーロッパっぽい。天井のトラス構造がかっこいい。
R: 路面電車のホーム。オシャレである。広島駅の方もこんなふうにすればいいのに。

雨はまったくやむ気配がない。駅近くのファストフード店でぼんやりと外を眺めつつメシを食って過ごす。
春は晴れたり降ったりを繰り返す季節なのである程度の覚悟はしていたのだが、それにしてもしかし、
なぜいちばん楽しみにしていた広島×ヤクルト戦のタイミングで降るかなーと悲しくなる。
そんなに僕の日ごろの行いは良くなかったのだろうか。しょんぼりしつつもエネルギーを充填すると、再び歩きだす。
ケータイで確認してみたら両チームの先発投手が発表されていて(大竹と館山。館山にはなんか縁があるなあ)、
まだ中止と決まったわけじゃないんだから前向きにがんばろう、と気を取り直して再び路面電車に乗り込むのであった。

で、紙屋町周辺のアーケードを歩いてみることにする。さすがに広島は中国地方で最大の都市だけあり、活気は十分。
近くには東急ハンズの広島店もあったので、迷わず中に入る。3階だけいきなりRight-onになっていてびっくりしたが、
品揃えはけっこう充実していた。バラエティグッズ売り場では広島名物やカープのグッズがいっぱいに並べられていた。

 
L: 本通のアーケード。カープを応援する垂れ幕が目立っている。それに比べるとサンフレッチェの要素は弱い。
R: 胡(えびす)町のアーケード。周辺は大きな百貨店が多く集まっていて、人通りも多い。

相変わらず雨は降り続けている。天気予報では悪いのは今日だけということだったので、
一縷の望みを胸に広島市民球場へと行ってみる。……そして目に入ってきたもの。

 ぎゃー!!

今回の旅行で広島を通過するように予定を組んだのは、野球観戦がいちばんの理由だったのに……。
市民球場は今年限りだからどうしても試合を観たかったのに……。まったくもってツイていない!
あきらめきれずにほかの広島ファンの皆さんと一緒に入口の前でボーッと突っ立っていると、
タクシーがやってきて目の前に停まった。しばらくすると球場から私服の選手が出てきて乗り込み、タクシーが去る。
ああ、これは出待ちの皆さんなのか……と思いつつも、まだあきらめられないで時間をつぶしていると、
今度は対戦相手であるヤクルト関係者がジャンパー姿でパラパラと出てきた。田中浩康や飯原が目の前を通る。
さらに続いて荒木大輔! 土橋! 飯田! 八重樫コーチまで! おお、なんということだ!
僕にとっての黄金時代である1992~93年に現役だったコーチ陣が、次から次へと登場するので大興奮である。
一方、広島サイドでもブラウン監督がタクシーに乗り込むなど、なかなか貴重な場面に出くわすのであった。
でもやっぱり、彼らの姿はグラウンドで見たかった。

肩を落として繁華街に戻ると、気分転換も兼ねていいかげんもうメシ食っちゃおう、と決めた。
広島といえば広島風のお好み焼きを食べるしかない。で、「お好み村」の看板が派手に出ていたのを見たので、入る。
この「お好み村」というのは、ビルの2~4階までのフロアをすべてお好み焼き屋が占めているのである。
それぞれのフロアでは屋台村形式で、だいたい10軒弱くらいのお好み焼き屋が集まっているのだ。

 お好み村。

中に入ると、いらっしゃいいらっしゃいの大合唱。こういうのは中華街と同じで、判断基準がないのでどこに入るか困る。
結局、熱心に声をかけてきたおっさんの熱意に負けて、その店に入るのであった。

  
L: 薄くした生地を焼きつつ、刻みキャベツとモヤシと揚げ玉を乗せる。その上に豚肉を用意。
C: ひっくり返してギューギュー圧縮。そしてまた一方で、茹でておいたヤキソバを鉄板で焼く。
R: 広島風お好み焼きの完成形である。意外とボリュームがあり、しかも腹持ちがよい。

そんなわけで、野球観戦ができなかった悔しさをしっかり食べて晴らそうとがんばるのであった。
やっぱり広島風はボリューム満点で食べ応えがあっていいですな。

さて本日の宿はちょっと特殊で、チェックイン時刻が夜の8時からなのである。
野球観戦するつもりでいたので問題ないやと思っていたのだが、まさかの雨天中止でしばらくヒマになってしまった。
(具体的に宿がどう特殊なのかは詳しく書かない方がいいと思うのでやめておく。個人的にはまったく不満でないし。)
しょうがないのでゲーセンに入って『クイズマジックアカデミー5』で時間をつぶすのであった。
やっぱりツンデレなキャラクターを選び、お決まりの名前をつけてプレー。そんでもって当然のように3連勝である。
うーん虚しい、と思いつつも、広島の夜は元気に更けていくのであったことよ。


2008.4.22 (Tue.)

深夜バスの旅には苦痛がつきものなのである。今回も前と同様にビニールの枕を用意したのだが、
やっぱり尻が痛くなる。寝ている間に軽く意識が戻るとそのたびに姿勢を変えて耐えるが、そのうち腰が痛くなる。
幸いなことにバスの座席は比較的スカスカだったので、後ろの空いている席に移動して、思いっきり座席を倒す。
そうしてほとんどベッド状態になったところで寝たら、これがけっこう快適だったようで、以後ぐっすり。
目が覚めたのがだいたい8時くらいで、そうして終点・倉敷駅北口に着いたらバスを降りたのは僕ひとりだけだった。

というわけで、今回の県庁所在地めぐりのスタート地点は、倉敷なのである。
県庁所在地じゃねえよ!とツッコミが入るかもしれないが、この街はかなり見どころの多い場所なのではずせない。
お約束の美術館めぐりと美観地区めぐりを済ませてから、県庁所在地である岡山に乗り込む算段なのである。

荷物がクソ重いのでコインロッカーを探す。そしたら南口にあるレンタカー屋の隣で発見。
しかもこのレンタカー屋はレンタサイクルもやっているということで、迷わず申込み。倉敷市役所は遠いのだ。
そうして身軽になったところで一気に南下して倉敷市役所を目指す。時刻は朝の8時半である。いい感じだ。
事故を起こさないように気をつけつつも快適に走っていく。地図なんかなくても大丈夫である。
だって倉敷市役所は……目立つから。

  
L: 倉敷市役所(南側より撮影)。倉敷という街のイメージに翻弄されてこんなことになってしまったのだろう。ニンともカンとも。
C: 倉敷市役所の反対側(北側)。高層の建物の手前に低層の建物という構成になっているのだが。うーん。
R: 市役所裏手の遊歩道。この辺の雰囲気はいい感じに仕上がっているだけに、建物が本当に悔やまれる。

というわけで、倉敷市役所の撮影は無事終了。7年前か、東京都・多摩地区の市役所聞き取りをした際、
倉敷市役所は「豪華な庁舎」ということでけっこう有名な存在だったようで、そこそこ話題に出てきたのである。
しかし実際に見てみると、豪華というかなんというか、まあ、困ったちゃんな建物なのであった。

午前9時になったので、気をとりなおして美観地区へと移動。まずはかの有名な大原美術館へ行ってみる。
大原美術館は、倉敷出身の実業家・大原孫三郎が私財を投じてつくった美術館である。
日本初の西洋近代美術の美術館ということで、非常に有名な作品が多く、多くの観光客が訪れている。

 
L: 大原美術館の外観。美観地区のど真ん中に建っている。生垣に囲まれて小さく見えるが中はけっこう広い。
R: 大原美術館で面白かった部分。古典様式のファサードと石垣の間をガラスで囲んでアトリウム展示室化しているのだ。

学生料金600円(お得!一般料金の1000円でも十分に安いと思う)で中に入る。基本的に20世紀初頭、
特に1910年代の作品が多く集められている。素人にも解釈しやすい、いかにも美術らしい絵が並ぶ。
2階の展示室は非常に豪華。ロートレックにピカソにユトリロにモネにゴーギャンと、ビッグネームがさらりと並べられている。
ああなるほど、確かにうまいわーと感心しつつ見ていく。いい作品に触れるとエネルギーを食うものである。
時間の都合もあるのでできるだけ素早く見ていこうと思っていたんだけど、結局、疲れを覚えるまで見入ってしまった。
大原美術館の一番の目玉はエル=グレコの『受胎告知』のようだ。確かに、この作品だけ妙に年代が古い。
実際に見て「なんだかマンガっぽいなあ」と思ってしまった。それは別に悪口でもなんでもなくって、
物語の中の一部分・一瞬を切り取るわけだから、本質的に絵画ってそういうものなんだろな、と思ったのだ。
ラストにある抽象画は個人的に好きでないこともあって軽めに見てまわって済ませたが、
大原美術館は確かに、誰でもいい作品とわかるものをしっかり展示していて、行く価値あり!と実感したのであった。

大原美術館にはさらに別館・工芸館・東洋館がある。別館には日本の近代画家の作品が並べられ、
工芸館では陶芸と棟方志功の版画が見られる。東洋館は発掘されたオリエント美術が陳列されている。
だからじっくり見ていくとけっこう時間がかかる。大原美術館はチケットを見せれば一日で何度でも入れるので、
美観地区を散策がてらのんびり一日かけてゆっくり味わっていくのが正しいスタイルなのだろう。

さて、大原美術館の近所にはもうひとつ、倉敷市立美術館がある。
実はこの建物、かつては倉敷市役所だったのだ。市役所が美術館になるとは、ずいぶん珍しい話である。
そういうわけでこちらにも行ってみる。丹下健三設計のモダンスタイルで、建物じたい見ておいて損はないはずだ。
中はもうほとんど市役所だったことを想像させないくらい完全に美術館に改装されている。
なお、展示内容は岡山市で活躍した郷土画家の作品が中心だが、倉敷市の文化レベルの高さが知れる。
入館料は200円(学生100円)と非常に良心的なので、倉敷を訪れたらぜひとも行っておきたい場所である。
(ちなみに図書館も隣接しており、この一帯は現在、文化施設が集中した地区となっている。)

 
L: 倉敷市立美術館(旧倉敷市役所)。外装はかなりきれいにしてある。仙台市役所と同じ仕上げ方と見た(→2007.5.1)。
R: 美術館の中。丹下モダンらしいちょっとしたホール空間となっている。市役所っぽさを唯一感じさせる場所、かもしれない。

時刻はまだ朝の11時。正直、けっこう疲れた。でも動きまわらなくては後悔するのである。
残りの時間はレンタサイクルにまたがりながら、美観地区のあちこちを走りまわって撮影して過ごした。

  
L: 白壁通りから美観地区に入るとまずこんな感じ。左手にはサンリオのショップや星野仙一記念館も蔵スタイルで存在。
C: 左の写真の、倉敷川を挟んで反対側の光景。この一帯は時代劇のロケなんかで使われそうな雰囲気が漂う。
R: 倉敷川が静かに流れる。左手の角地にある洋館は、観光案内所になっている。

  
L: 美観地区の中心から少しはずれた東町でも、このようにかつての街並みが保存されている。しぶい店があって面白い。
C: 旧・倉敷紡績は「アイビースクエア」として観光拠点となっている。その名のとおり、ツタで覆われた建物。
R: 左の写真の建物の中。アイビースクエアはホテルや工芸の勉強ができる場所となっているのだ。

かつて強力な資産家がいて街全体が強力な求心力を持っていたということの凄みをあらためて実感させられる。
古い木造の街並みがいまだに残っていて、ふつうの商店だったりちょっと洒落た飲食店になっていたりと、
いまだにその恩恵を受けることができているっていうのは本当にとんでもないことだと思う。
観光客の年齢層はやはり少し高めではあるんだけど、けっこうヨーロッパ方面からの客も目立っていた。
もう美観地区は資源として完成されているから、今後もずっと一定の観光客が見込めるんだろうなあ、と思った。

正午に岡山行きの電車が出るので、それに合わせて倉敷駅まで戻る。
レンタサイクルを返却すると、荷物を取り出して移動の準備。

 
L: 倉敷駅の南口。やっぱり倉敷は都会だなあ。岡山との強烈なライバル関係も当然だわなあ。
R: 北口には倉敷チボリ公園。でもこの名前を名乗れるのはもうあとわずか。

電車に揺られて岡山へ。できれば車窓の風景を味わいたいところだったけど、
美術館に吸い取られたエネルギーは半端でなく、結局寝っこけてしまった。まだまだ一日は長いというのに。

さて岡山に到着。やるべきことは市役所と県庁の撮影である。そして繁華街である表町を歩き、岡山城・後楽園に行く。
地図を見てみると岡山市役所だけ、なぜか離れた位置にある。電車の中でしっかり眠って体力がそこそこ回復したので、
元気なうちに市役所へ行ってしまうことにした。岡山駅から地下街経由でまっすぐ南へと進んでいく。
けっこう広い道路だが、市役所がそのど真ん中にデン、と鎮座しているのが見える。歩道橋から撮影してみる。

 真正面にそびえ立っているのが岡山市役所。

地図の上ではけっこう距離があるように見えるけど、歩いてみるとさほどでもない、でも冷静に考えればやっぱり遠い、
そんな不思議な位置にある岡山市役所は、いかにもそれっぽい庁舎建築である。平日ということもあり、人も車も多い。
仕事をしている真人間の皆様とのんびり旅行中の自分とを心の中で比べてしまい、ややブルーになりつつも撮影。

  
L: 岡山市役所を正面より撮影。ちょうどお昼休みの時間なので、中に入ったら人の行き来がすごく激しかった。
C: 角度を変えて北西側から撮影。建築年代がちょっとわかりづらい建物だ。古いように見えるけど、きれいにしている。
R: 裏手の公園から撮影。けっこう大きい建物だが、近所に分庁舎があるのだ。

岡山市は2009年の政令指定都市移行を目指しているんだそうで、その決意を表明した垂れ幕が正面に下がっていた。
実際、幅の広い道路にけっこう活気のある地下街を見てきたので、なるほど元気あるんだなーと思う。

敷地を一周して撮影を終えると、表町の方へと歩いていく。しかしこれがけっこう長い。
駅から南に来たときは距離は全然気にならなかったが、東西方向に動くとかなり距離があるように思える。
途中で西川緑道という見事な緑のライン(岡山市街を南北にまっすぐ走っているのだ)をまたいだのだが、これで半分。
そこからもさらにだだっ広い道をトボトボと歩き続け、ようやく路面電車の駅にぶつかった。
で、そこからもうちょっと東に進んでいくとアーケードが見つかる。表町である。しかし表町の南端はさびれきっていて、
とても悲しい風景だった。日本ならいいが、これがアメリカなら怖くて歩けんな、と思う。
表町のアーケードは北へと進むにつれ、少しずつ元気になっていく。でも歩いている人の平均年齢は高く、若者がいない。
さっき歩いた岡山駅の地下街のきれいさ・元気さと表町のそれが反比例になっていることに気がつく。
それでも天満屋やNTTクレド周辺は若者で賑わっており、岡山の若者のエネルギーは点在して集中しているのか、と思う。

  
L: 表町は正直、弱りつつあるほかの地方都市とまったく同じ印象がした。人通りはあまり多くなく、年齢層が高い。
C: 中之町の辺り。設備は立派なんだけど、どこか物足りない。駅の地下街にエネルギーを吸い取られている感じがするのだ。
R: 北端の上之町は大型店舗に助けられて、そんなに衰えている印象を残さない。でも客が少なめ。

そんなことを考えつつも腹の減り具合は極限まできていたので、岡山名物であるというデミカツ丼をいただくことにする。
デミカツ丼とはつまり、デミグラスソースをかけたカツ丼のことだ。そんなの初めて聞いたので、これはチャレンジするしかない。
岡山でデミカツ丼を始めたという店に入る(表町からはけっこう遠かった)。「ドミグラスソース」とあるが、気にせず注文。

 デミカツ丼。

ソースの色、粘り具合は名古屋の味噌カツにかなり近い。ので、箸でカツをつまむと条件反射でその味を想像してしまう。
しかし口の中に広がるのはまさしくデミグラスソースの味なのだ。ゆでて柔らかくしたキャベツが敷かれており、一緒に食べる。
感想としては、「そりゃあうまいよ、カツ丼だもん」といったところ。やっぱりカツ丼とは本質的においしい食べ物であり、
それの一種ならなんでもうまい、だからデミカツ丼もおいしいです、そんな印象なのであった。ふつうにうまかったですな。

食べ終わって頭の中が落ち着くと、来た道を戻って表町へ。しかし表町も貫通して、そのまま東へ進む。
そうしてまっすぐ行った先にあるのが岡山県庁なのである。

岡山県庁はファインダー越しに見ると意外と大きい建物である。しかし前にオープンスペースがそんなにあるわけでもなく、
すぐ向かいには岡山県立図書館があるので満足のいく写真を撮るのが難しい。どうしても広角で歪んでしまうのだ。
それでもどうにかシャッターを切って一丁あがり、ということにする。写真というのは本当に難しいものだとあらためて実感。

  
L: 岡山県庁。見た目ではそんなに大きくは感じないが、実際には高さも幅もある建物なのだ。
C: 逆サイドから見た岡山県庁。  R: エントランス部分。植えられているパンジーがちょうど見ごろだった。

岡山県庁の中身はけっこう複雑な構造をしているようで、でっかい建物の裏側にはモダンスタイルな建物が残っている。
両者の間にはなかなか見事な植栽のオープンスペースがつくられていて、今の季節は非常に見栄えがよかった。

 
L: エントランスを通り抜けてオープンスペースの脇に入ったところ。モダンである。
R: その逆側、振り返って県庁の新しい建物を眺めたところ。これで少しはファサードのデザインがわかりやすくなったかも。

いちおう、敷地を一周して裏手もまわってみたのだが、とにかくごちゃごちゃしていて、撮影してもなんだかわかりづらい。
岡山県庁は真上から見てみないとその本当の構造がつかめない、けっこう迷宮っぽい建物なのであった。

というわけでとりあえず最初のタスクは完了ということで、そのまま岡山の名所である岡山城と後楽園を目指す。
県庁まで来てしまえばもうすぐそこ、ということで、さっさと堀を渡って岡山城へ。
岡山城じたいは戦国大名・宇喜多氏(直家~秀家)の時代からの歴史があるのだが、
ほかの城などと同様に空襲で焼失してしまったため、1966年に今の天守が再建された。
「烏城(うじょう)」という別名を持つように、黒漆塗の真っ黒な姿が再現されている。

 岡山城。

特別高いところにあるわけでもないので、天守へのアクセスは楽ちんである。
高所恐怖症ということもあるので中に入るのはスルーして、そのまま後楽園へと抜ける。
後楽園は旭川という川を隔てて岡山城の北に位置している。月見橋という鉄橋を渡って正面入口へとまわり込む。
いよいよ日本三名園のラストに入場なのである(偕楽園→2006.8.27、兼六園→2006.11.3)。胸が高鳴る。

で、いざ敷地に入る。しばらく垣根に沿って歩いていくと、突然、視界が開ける。
その対比はなかなか見事で、ほとんどの観光客がこの時点で声をあげる。僕も思わず「おお」なんて具合にうなった。

  
L: 後楽園に入って視界が開けるとこんな感じ。広大な芝生が一面に広がり、背景に岡山城がそびえる。
C: 後楽園の中心には唯心山がある。後楽園で唯一、高さのある場所である。あとは真っ平らなのだ。
R: 池には白砂青松の島が浮かぶ。天気が良かったこともあって色の対比が非常に鮮明だった。

偕楽園はとにかく広い偕楽園公園を背景にしつつ、芝生と梅林で区画をはっきりと分けていた。
兼六園は区画が非常に曖昧で、さまざまな庭園の要素を重層的に配置していったカオスの空間だった。
では後楽園はというと、一言で表現するならば、「ひたすら見渡す空間」であろう。
後楽園の中に入ってみると、広さの感覚がつかめなくなる。この場所が広いのか狭いのか、見当がつかなくなる。
周囲を木々が囲んでいるものの、芝生がずっと広がっているために圧迫感がまったくない。開放感のみを感じるのだ。
もちろん景色に変化はつけてある。芝生だけでなく田んぼ(今の季節は花畑に見える)があり、隅には桜も梅もある。
だが地形に起伏がまったくといっていいほどないため、第一印象としてとにかく開放感が強くなる。

  
L: 唯心山の裏側には休憩のできる唯心堂という建物が貼りついている。
C: 茶店は敷地の端の方に配置されている。岡山名物のきびだんごなどを売っていた。
R: 芝生をずっと行った先には桜がこんもりと植えられている。そのさらに先には梅もある。

唯心山に上ってみると、その「ひたすら見渡す」空間の究極形を味わうことができる。
起伏のまったくない空間に込められていた工夫が一気に姿を現す。観光客はまたここで声をあげるわけだ。
後楽園は岡山藩主・池田綱政が14年の歳月をかけてつくったという。で、息子の継政の時代に唯心山がつくられた。
「平面的だった庭園が立体的な景観へと変化しました」と説明があったが、まさにそのとおりだと思う。
(ちなみに、後楽園の中では猛烈な勢いで中国語が飛び交っていた。たぶん日本人観光客より多かったのでは。)


唯心山より園内をパノラマ撮影。

後楽園を見終わって、とりあえず岡山の見るべき最低限は押さえた。路面電車に乗って岡山駅まで戻る。
岡山の路面電車はいかにも古い型とライトレール型の車両が混在していた(最近はそういうパターンが多い模様)。
特にライトレール型の車両は、座席シートがすべて木製で驚いた。岡山の路面電車は景気が良くて有名らしいが、
実際に街を歩いてみると、路線の通し方があまり実用的でない感じである。なぜ黒字なのかよくわからない。

  
L: 岡山の路面電車と桃太郎大通り。桃太郎大通りは広いけど、商業施設はあんまりないので歩き甲斐はイマイチ。
C: 岡山駅。岡山の道路は東西南北にきっちり引かれているのだが、駅は斜めに横たわっている。珍しいかも。
R: 岡山駅前にはイヌ・サル・キジを引き連れた桃太郎の像がある。岡山最大のヒーローなのである。

さて岡山といえばリョーシさんだ。リョーシさんは弁護士の資格を無事に取得し、今は地元である岡山に戻っているのだ。
で、今回旅行をするにあたって「泊めて!」とお願いメールを送り、半ば強引に約束を取り付けたのである。
とはいっても平日で仕事があるわけで、合流する時刻はリョーシさん任せ。
それまではのんびりとスタバで日記を書いて過ごす(電源をかっぱらったので半永久的に作業ができる)。

その後、仕事がちょっと長引くという連絡が入ったので、晩飯を先にいただいてしまうことにした。
ネットで調べたら出てきた岡山名物第2弾、「えびめし」である。

 えびめし。

ジャンバラヤを思わせるがそこまでスパイシーではない、炒めたライスにエビが混ぜてある。
メニューにはカラメルソースを使っていると書いてあったので、それでこういう色になったのだろう。
実際に食ってみると、エビの使い方がピラフに似ている印象を受ける。ただこちらは、ライスとエビだけでできている。
なるほどこれは「その手があったか!」って感じの名物だなあと感心しつついただいた。

やがて連絡があってリョーシさんと合流。ネクタイ姿のリョーシさんを見るのはおそらく初めてだったのだが、
なんというか、しっくりくる社会人らしさが漂っていてうらやましく思えたのであった。
で、リョーシさんの運転する車でリョーシ邸まで連れて行ってもらう。家賃を聞いて都会の不条理に憤慨する。
それからいったん、リョーシ邸の近くにある中華料理屋でメシ&ビールで雑談。
おとといの姉歯の顛末やらリョーシさんの仕事っぷりやら、話題は多岐にわたるのであった。
その後はリョーシ邸に戻って泊めてもらうお礼のお土産を渡すと(強引になすりつけた、とも言う)、
やっぱりあれこれ雑談をしつつ過ごした。デザートに風呂までいただいて本当にありがとうございました。
まあなんつーのかね、僕がやることなすことは多かれ少なかれ周囲の人に面倒をかけるわけだけれども、
それを補うことのできるような何かを残せればいいよなあ、と思っているわけです。
そういう「自分にできること」というのが何なのかいまだにわからないで毎日モヤモヤしているけど、
まあこうやって顔を合わせて気の置けない時間を過ごせたからいいかな、と。
とりあえずはリョーシさんは僕の日記をチェックしてくれているということで、
きちんと毎日を楽しく過ごして微力ながらもエンタテインメントとして貢献できるようにがんばるだす。

●今回のリョーシさん語録
「だってMEGUMIの街だもん」(僕が「岡山には全然美人がいないじゃん」と言ったのに対する返事。)
「Perfumeにはモリクミ(森公美子)がいる」(それに対して僕は「谷亮子もいるぜ」と返事。)

おまけ:岡山で見かけたあれこれ。

  
L: 岡山のポストの上には桃太郎が乗っている(岡山駅前)。にしてもなんだ、このポーズは。
C: こちらは岡山城が乗っているパターン(岡山市役所前)。ポストに乗っけるシリーズは東北以来である。
R: 岡山市役所の近所にあった「仙太鮨」。オレだけ安くしてくれないかなあ。


2008.4.21 (Mon.)

いろいろと手続きしなくちゃいけないことがある。しかし明日からは旅行なのである。
よって今日はありとあらゆる事務的手続きを一気にこなさなければならない、非常に面倒くさい日となった。

まずは病院。こないだの麻疹の抗体検査結果報告に加えて、健康診断を受けないといけない。
ところが抗体検査では検査項目にミスがあったらしく、「すいません、もう2~3日かかります」といきなり先生が謝罪。
こればっかりはしょうがないので、来月また病院に行くことに。健康診断の結果は問題なし。

続いては通信教育の大学へ行って、教育実習の申込み手続きを完了させるのである。
今さっき出たばかりの健康診断結果を持参して係の人に提出。前回の実習は国立大学ということもありタダでできたが、
今回は目ン玉が飛び出るような料金がかかった。結局は世の中、金なのかなあと虚しくなりつつ次の目的地・新宿へ。

新宿の都庁ではパスポートの更新。前に申請したのがちょうど10年前で、もうすぐ期限切れになってしまうのだ。
で、IC旅券化やらなんやらで、この際きちんと更新しておいた方がいいと判断したわけだ。
なんで海外に行ったことがないのにパスポートがあるのかというと、それはウルトラクイズに出たからである(2問目敗退)。
そんなわけでパスポートを見てみると、10年前とは著しく外見が変化しているので、これがけっこう恥ずかしい。
今回、申請用紙のサインを英語で書こうとしたのだが、自分の名字がローマ字だと長いことを忘れててはみ出してしまった。
結局それで書き直し。でも窓口の人の対応はものすごく丁寧というか、事務的にならないようにかなり気を遣ってくれて、
非常にいい気分になって手続きを終えることができた。また受け取りに来なきゃいけないが、そこでも金がかかって困る。

各種手続きを終えると風呂に入り、荷物の整理をして出発。今回は長旅なので着替えの準備が面倒だ。
予想どおりにBONANZAの重さは半端ではないものに。いつも以上に足を痛めないように気を遣う必要がありそうだ。
いつもの旅行だと気合いが鼻の穴からフンフン漏れ出すくらいにテンションが高まっているものなのだが、
今回に限っては有給を取った事情が事情だけに、どこか自分の中での盛り上がりが欠けている。
でもまあ、歩きまわっているうちにいつもどおりになっていくだろう。バスの座席につくと、さっさと寝る。


2008.4.20 (Sun.)

本日は姉歯祭りなのである。今回は僕の希望を強引に通した形で「壮行会」とさせていただいたのであった。
「恥ずかしいから日記に具体的なことは一切書かない」と言ったら、みやもりに「なんだよそれ!」と怒られた。
というわけで、何をどうやっても恥ずかしい記録なのだが、その辺は意地でところどころぼかしつつ書いていく。

掲示板に書くのも恥ずかしかったので、「朝10時・新横浜駅に集合!」と電話で連絡。
参加したのは僕とみやもり、あとは“怖いもの見たさ”でニシマッキーとえんだうというメンツである。
マサルは仕事がピークで欠席、ダニエルさんは午後になってからの合流となっている。
さてこんな時間に新横浜に集まって何をしたのかというと、そこは秘密なのである。
つーかどうせ横浜アリーナしかないわけで、その日に横浜アリーナで公演をしてたのは誰なのか、
調べればすぐにわかるだろコンチクショーってな具合である。みやもりの「いやいや好きですなあ」が聞こえてきそうだ。
で、横アリに着くとそこは異世界なのであった。でも僕が想像していたよりは、ふつうの恰好をしていた人が多かった。
まあどうせ中で着替えるのに決まっているのである。そうすればワンダーランドにいらっしゃいなのである。

えーと、ここから約2時間にわたってお祭りが開催されたわけですが、内容のレポートは割愛させていただきたいな、と。
ライヴ向きのアップテンポなナンバーが多くてよかったんじゃないでしょうか。
うーん、今日の日記は異常に歯切れが悪いな。ムリもないけど。

終わって岡山在住のリョーシさん向けのお土産を購入すると(その金額を当てるクイズを残りの3人はやっていた)、
次の公演を待ってたむろするファンを尻目に、さっさと新横浜駅へと戻る。歩きながら、みんなで感想戦なのである。
「女の子たちがすごく努力してがんばっているのと、大人たちのダメダメぶりとの差が印象的でした」とはえんだう。
「まあとりあえず、『愛を与えて金をもらう』という商売のすばらしさを再確認したわけでございますな」とは僕。
「意外と若い女の子のファンが多くてびっくりした」とはみやもり。既婚者ニシマッキーはほとんどノーコメントなのであった。
当然のことながら、僕はずっと、「やじうめサイコー」と繰り返していたとさ。舞美舞美。

横浜駅に着くとダニエルさんがお出迎え。なんだかんだで久しぶりの再会である。
地下街で昼メシを食らうとカラオケへ。これまた久しぶりの流れである。
で、カラオケ屋に入ったはいいが、ダニエルさんが本日の公演でかかった曲を次から次へと容赦なく入れてくる。
(ダニエルさんはそのグループが大好きなのだが、ライヴ会場にいる連中を目にしたくないという美学上の問題で、
 今回は午後からの合流となったのである。だからその分をカラオケで取り返したのだと思われる。)
そんでもって僕は結局、それらをぜんぶ歌いこなすのであった。えんだう曰く、「プロレスで言う『受けきった』状態」である。
新横浜では次の公演が始まっていたわけで、まあある意味、僕らも彼女たちと同時進行でやっていたわけです。

珍奇なカラオケが終了すると、そのまま晩飯兼飲み会へと移動。
「びゅく仙の未来は果たして明るいのか?」というような深刻な話題になることはあんまりなくって、
まあいつもどおりにケタケタ笑いあうような内容に終始し、実に心地よい時間なのであった。

……こんなもんで許してくれますかね、皆さん?


2008.4.19 (Sat.)

明日は姉歯祭りということで、夜にみやもりが僕の家にやって来た。
最近はすっかりニシマッキー邸でのお泊まり会が定着しているので、人が来るのは久しぶりである。
みやもりは今月5日の僕の行状(→2008.4.5)について、あの少ないヒントで正解をしっかり導き出していて、
その洞察力には心底恐れ入ったのであった。こりゃみやもりさん相手に浮気はできないね。

で、いろいろとどーでもいい話をしたのだが、話題は主に今月末の大規模な旅行のことだとか、明日の姉歯の予習など。
「梅さんを生で間近で見るとなあ、もうなあ、頭ん中が真っ白になるんだよ! 顔のつくりが違うんだよ!」とか力説する僕。
ほかにも「みやもり、お前本当にこんこんのことが好きだったんだな」「そうだよ」なんて会話が、
遅くまで繰り広げられたりもするのであった。お互い30歳。ニンともカンとも。


2008.4.18 (Fri.)

来週は丸ごとお休み、再来週も前半に休みをもらっているということで、抱えている仕事の整理にあたる。
ずっと前から決心していて、わかっていたことのはずなのに、今になってすべてが急に思える。
周りの人にとってはもっとそうなんだろうけど。迷惑かけちゃってるなあ、と非常に申し訳なくてたまらない。

いろいろと思っていることはあるんだけど、さすがにこれは書くわけにはいかない。
時間が経って落ち着いて、すべてを肯定的に捉えられるようになったら書けるかもしれない。
みやもりに言われた「あなた悩んでるヒマがあったら勉強しなさいよ」という言葉がいちばん真実だと思うので、
とにかく、やるべきことを謙虚にがんばる。グダグダ考えるのはその後ってことで。


2008.4.17 (Thu.)

本日、回覧がまわってフリーエージェント宣言したことがようやく公になった。
すでにチラホラと噂にはなっていたらしいのだが、「まったくノーマークだった」と感想をくれた人もいた。
回覧の文面は何度も想像していたとおりだったので、実際目にしても特に感慨深いということはない。
ただ、「これから大変だぞう」という気持ちがあらためて湧き上がってきて、ちょっと緊張した。
いろいろな思いを振り払って、集中して残りの仕事にあたっていった。

さて昼休み、国際学生証をつくってみた。バリバリ使うことはないんだけど、「面白いから」という理由で。

国際学生証は大学生協でつくることができる。職場の近所にある大学の生協でつくったわけである。
生協は旅行代理店と提携しているようで、壁一面に国内・海外さまざまな旅行プランのパンフレットが並んでいた。
それを見て、大学時代にもっといろんなところに行っていればよかったなーと今さら後悔。
とりあえずこれからは、できるだけ全力で動きまわって、できなかったことをできるだけ取り返してやりたい。


2008.4.16 (Wed.)

高校時代から、気が向いたときになんでもない日常の写真を残しておくのが趣味だった。
そんなわけで、残り少なくなってしまった飯田橋生活のどうでもいい朝の一コマを撮影してみた。

 
L,R: 外堀通り・目白通り・大久保通りが交差する五叉路になっている飯田橋駅東口周辺。
朝のこの時間帯は出勤する社会人の皆さんでいっぱいなのである(→2005.4.17)。

  
L,C,R: 首都高速を眺めつつ、目白通りを北上する。歩道も車道も混み合うので自転車で走るのは少し大変。

 いつも無断駐輪している場所で自転車(satellite-1)を撮影(→2005.5.1)。

当たり前が当たり前でなくなる前に、記録に残しておくのである。自己満足ですいませんな!


2008.4.15 (Tue.)

やっと実習先から書類が届いた……。これで教育実習の手続きを再開できる……。もうホントダメかと思った……。


2008.4.14 (Mon.)

いろいろと思うところがあって、今日は非常に不安定だった。
こんなことなら日記も閉鎖してしまおうか、と思わないでもないほどだったのだが、
まあ、前向きになるための手段のひとつとして日記を扱えればいいかな、という程度には落ち着いた。
これからは前向きになるために日記を書きたい。そうなればいいのだ。


2008.4.13 (Sun.)

今日は通信教育で、最後の試験である。これはつまり、僕のテストでの単位取得が終わるということ。
まだスクーリングやら教育実習やらが残っているんだけど、でもまあこの2年間がんばってきたことに区切りがつくわけだ。
天気が悪かったので電車で会場へと向かう。東急線に乗り、南武線に乗り、小田急線に乗る。
乗っている間も、「最後」ってことでなんとなく淋しくなる。が、油断はできない。気を引き締めて会場の最寄り駅で降りる。
駅からは世田谷のややこしい住宅街を歩いて大学に向かう。でも一度通った道は迷わないのでスムーズに到着。
会場に着くと提出したリポートや対策のメモに目を通して過ごす。こういう時間も今日で終わりなのだ。
そして本番、問題用紙の封を破るベリベリベリという音が教室内に響く。これを聞くのも今日限りだーと思いつつ解く。
直前の復習が効いたので単位を落とすことはないとは思う、というレベルのデキ。
終わりってのはいつもあっさりとしたもんだね、と思いながら、やっぱり電車をたっぷり乗り換えて家まで帰った。

さて家に戻ると上京していた父・circo氏のお相手。
毎度のごとくどこへ行くか悩んだ末、神楽坂を歩いてみようじゃないか、という結論に。
日が落ちて神楽坂に着くと、いろいろと路地裏などを軽く歩きまわる。が、どこも敷居が高そうで「うへー」とうなる。
日曜日の夜ということでなのか、店があんまり開いていない。坂を往復してさまよった末、一軒の酒場に入る。
で、circo氏から僕の生きる姿勢についてダメ出しを食らう。それは的を射ているわけだけれども、
僕自身としてもどうにかしなきゃという思いはあるわけで、その辺の齟齬が最後まで埋まらなかった感じ。
どうすることもできないままで、食欲がどんどん落ちていくのであった。
結局、「バランスが悪すぎる。賢く生きてちょうだいよ」と言われて別れる。
「だったらお前が賢くつくりやがれ」と言い返す気性がまったくなくなった分だけ成長したと思いねえ。

家に帰ると、かつて友人に対して僕が放った言葉を残したログを読む。
その友人は、ある資格試験をがんばっていて、なかなか結果が出せないままでいる。
結果が出ないにもかかわらず、どうも緊張感が足りないんじゃないか、ということで、僕らは彼のことを心配しているのだ。
ログを読むと、当時僕が放った言葉は、そのまま今の自分に突き刺さる。その滑稽さに情けなくなってくる。
やらなくちゃいけないことは何だ、守らなくちゃいけないものは何だ。そういう極めて基本的な部分を再確認する。
そうしていたら精神的に弱りきっちゃって、急に眠くなってきた。あれこれ悩むのがイヤだったから、さっさと寝た。超早寝。


2008.4.12 (Sat.)

教育実習の事前指導。朝から夕方までかかるのだが、これに参加しないと単位を認めてもらえない。もちろん出席。

午前中は教育実習へ向けての心がけ、といった感じの内容。
通信で教育学を担当している先生の話を聞いたのだが、まあこれが面白いのなんの。
話の内容は予想の範囲内なんだけど、それについて一言多くコメントをつけてくれて、全員爆笑。
「教員免許なんて取ってしまえばこっちのもんですから」とか、ここまではっきり言われると実にすがすがしい。
純粋に、話の面白さ、人に話を聞かせる技術という点で勉強になる時間を過ごさせてもらったと思う。

午後には教科別に分かれて模擬授業。
まずは事前に提出しておいた指導案が添削されて返却されたので、その確認。
僕は最低限のことだけ書いてA4で1枚足らずで済ませたのだが、中には「脚本かよ!」とツッコミを入れたくなる人も。
もちろん脚本みたいな指導案は現実味がないにしても、僕の指導案もあっさりしすぎで褒められたものではないようだ。
褒められる指導案という領域があることがわかったので、それを書けるようにしなきゃいかんかったな、と反省。
で、模擬授業がスタートする。グループに分かれて、その中でやる気のある人が発表していく感じに。
みんな発音うまいなあ、オレが学生のときにはこんなに発音のうまい先生いなかったぞ、と思いつつ聞いていく。
困ったことに、このときの僕はどこか他人事というか批評家の目で発表を眺めていたのだが、
冷静に考えれば、本番で自分が同レベル、いやそれ以上のレベルで実演できないといけないわけである。
その辺の覚悟というか真剣な取り組みが欠けていたのは否めない。家に帰って(特に翌日以降)大いに反省した。

全般的に言えることとして、僕には「これが正しい!」と確信していることがあって、それはもちろん譲れないことなのだが、
あくまで試験には客観的なレベルで判定の基準があり、そこからはずれてしまえば元も子もないのである。
相手の要求していることを正確に把握してそれに合わせるという意識をもっと持たないと危ない、と気がついた。
オレはもっと謙虚にいかなきゃダメだ、それを実際に外に向けて表現できないとダメだ、と心の底から思った。本当だよ。


2008.4.11 (Fri.)

本日をもって、昨年入社した新人くんが退職した。うーん。まあ、ノーコメントで。

ネットのニュースを見たら、『LOGiN』の休刊が報じられていた。もう読まなくなっていたとはいえ、これはショックだ。

『LOGiN』はパソコン雑誌で、言ってみれば『ファミ通』のパソコンゲーム版といったところである。
中学・高校時代にMS-DOSマシンをいじくっては悪さをしていた僕は、『LOGiN』をかなりよく買っていた。
『LOGiN』最大の特徴はバカページの存在で、ゲームとは関係のない編集スタッフのバカ文章が満載されていたのだ。
ノリとしては深夜ラジオのそれに近く、正直言って僕はギャグセンスの大半を『LOGiN』で培ってきたのである。
しかしなぜか、Windowsが浸透しはじめたころを境に『LOGiN』の勢いは急低下した(ように感じた)。
「パソコンゲーム」という枠が、家庭用ゲーム機の進化とともに弱まっていったのが一因、と考えられなくもない。
まあともかく、いつしか僕は『LOGiN』を読まなくなり、そうして10年、休刊のニュースに出くわしたのである。

時代は動き続けているわけで、世間とパソコンの関係、自分とパソコンの関係は目まぐるしく変化している。
そういう状況だから、『LOGiN』もなくなってしまうわけだ。悲しいが、これはしょうがないことであるのだ。
記事も広告もすべてが懐かしい。あののんびりとしていたパソコンの時代を思い出し、ちょっとセンチになる夜なのであった。


2008.4.10 (Thu.)

本日、最後の回付を済ませた。
回付というのは印刷所に原稿を渡すことである。分厚いハンドブックだったのですべての原稿を渡したわけではなく、
全体のおよそ1/3程度を渡したのだが、最後ということでいろいろと感慨深いものがあった。
この3年間、回付してはゲラを直してはで明け暮れる日々だったなあ、とあらためて思う。
それでも本づくりは続いていくわけで、僕がワガママを通した事実をもう一度冷静に見つめないといけないな、と思った。


2008.4.9 (Wed.)

藤崎竜『封神演義』。単行本全23巻をマンガ喫茶で一気読み。非常に疲れた。
古代中国・殷の皇帝紂王はかつては名君だったものの、妲己が現れて以来暴虐の限りを尽くすようになる。
崑崙山の仙人のトップである元始天尊は新たな王朝をつくるべく、弟子の太公望に封神計画の実行を命じる。
しかしこの計画には裏があり、妲己や殷をめぐる戦いはしだいに仙人たちを巻き込んだ壮大なものへと移っていく。

『封神演義』と一口に言っても、実はいろいろなヴァージョンが世の中には出まわっている。
このマンガは安能務の訳による講談社文庫版『封神演義』をベースにして、
超古代先史文明説まで採り入れての独自の展開をする。キャラクターデザインや大胆なストーリーの解釈など、
あちこちで藤崎のセンスが光っており、独特の世界観がつくり込まれているのだ。
そして何より、根底にあるのが「連載されたのが週刊少年ジャンプである」という事実。
実に少年ジャンプらしい、必殺技による派手な戦いが存分に繰り広げられるのである。

一気読みしたのが悪かったのか、読み終えたときにはもうヘトヘトになった。
序盤は太公望がその知力を発揮して周による革命を目指していたのが、最後には世界をめぐる戦いへと変化する。
それは封神計画の目的がズレていく(というか、真の目的が暴かれていく)わけだから、話の流れとしてはおかしくない。
でもそれがズレていく過程で、そのスピードに振り落とされてしまった気分になったのだ。つまりは、ついていけなかった。
次から次へと少年マンガらしい戦いが繰り広げられていくのと同時並行で、物語の位相は変化していく。
しかしそこにある論理の展開についていけなかったのだ。登場人物たちが自明としている理屈がぜんぜん理解できない。
王天君とか伏羲とか、もう僕のアタマではワケがわからない。ファンタジー慣れしていないと無理ではないかと思う。

あくまで個人的な感想なのだが、このマンガは少年ジャンプであるがゆえに人気が出て、
また少年ジャンプであるがゆえに内容が難しくなった。細かいところは気にせず読めばいいんだろうけど、
登場人物の多さと週刊ペースでの派手な戦いに押されて説明不足になってしまった部分は絶対にあると思う。
(仮にそこを丁寧に説明されたとしても、それをきちんと理解できる脳みそを僕が持っているかどうかは別問題だが……。)
ラストボスに対する登場人物たちの反感、自分たちが生まれた世界に対する革命の意志、
その辺はなるほどなるほどと納得できるだけに、そこに至るまでの話の「飛び方」が、僕には惜しく思える。
なんというのか、「実は話はあらぬ方向へと広がっていくんです」というときには、
それがどれぐらい広がったのか、一息ついて一度きちんと確認させて、落ち着いて俯瞰させてほしいのだ。
しかしそのインターミッションは少年マンガらしいバトルシーンで埋め尽くされてしまっていて、
ハイテンションのままで最後まで突っ切るようになってしまっている。
天下のジャンプでの連載なんだから仕方ないのかもしれないが、おかげでいろいろ見失ってしまった。

まあとにかく、序盤の太公望の策士ぶりが好きだった僕には、終盤のドラゴンボール的展開は好きになれないわけで、
これは結局、好みの問題なのかなあと思う。「頭を使う主人公」が斬新に思えただけに、個人的には残念。


2008.4.8 (Tue.)

うーん。なんなんですかね、この日常の雰囲気は。
片方で着実に進行していることと、それをおくびにも出さずに過ごしていることと。
誰が情報をどこまで把握しているかがわからないこともあって、表面上はごく普通にふるまっているわけだけど、
でも僕としてはもう決まっていることであって、毎日カウントダウンをしながら過ごしているのだ。その二面性がなんとも。
まあとやかく言ってもしょうがないので、できるだけ自然体でいることにする。変なの。


2008.4.7 (Mon.)

声が荒れて今日の英会話はめちゃくちゃ大変なのであった。
ふつうに応援するだけならここまでのダメージになることはない。
何度も何度も大声を張り上げたブーイングのせいだ。ホントに困る。


2008.4.6 (Sun.)

青春18きっぷの都合上、「最後の」小瀬である。
各駅停車の電車に揺られて甲府駅に到着すると、さっさとバスに乗って小瀬陸上競技場へ。

 小瀬スポーツ公園の桜。

山梨ではちょうど桜が満開だった。東京では散り始めているうえに雨でぐちゃぐちゃ、という風景に慣れていたので、
こうやってきちんと桜が咲いているのを眺めるのがひどく懐かしく思えた。今年は全然桜を楽しめていなかった。

さてスタジアムの中に入る。もうすっかり慣れてしまった、午後のひとときである。
本日の相手はセレッソ大阪ということで、昇格争いの本命クラブとの対戦である。未勝利のままここまで来てしまった。
お約束の「桜(セレッソは桜の意)を散らせー」的なメッセージが読み上げられる中、ゆっくりとテンションが上がっていく。
今日以降しばらく小瀬には来られないということで、本日はわりと熱めのエリアで声を出して飛び跳ねることにした。
選手入場の時間になり、みんな一斉にタオルマフラーを誇らしげに掲げる。

 こんな感じでやっとります。

さて試合開始。最終的に上位に来ることが予想される相手ということで厳しい戦いを想像していたのだが、
開始10分、この日戦列に復帰した宇留野がDFとGKの連携ミスを衝いて先制ゴールを決める。
そこからさらにジョジマールが落ち着いて2得点。あれよあれよという間に甲府は3点のリードを奪ってしまった。
今日の甲府はチーム全体が前へ前へと明確な意識を持っているのがわかる。ゴール裏はお祭り騒ぎである。

 ゴールが決まった瞬間。電光掲示板に「GOAL!」の文字が。

対するセレッソは選手が立て続けに負傷退場してしまう混乱した状況。結局、3-0で前半が終了する。
ハーフタイム中の小瀬は非常に穏やかな空気に包まれていた。
こんな幸せな日曜日の午後があるのかしらん、と僕も思いつつ、ゆったりとお茶を飲んで過ごす。

が。

どうしてか、甲府はトラブルに巻き込まれてしまうのである。
後半に入って審判のジャッジは明らかに異常なものになった。とにかくすべてにおいて甲府に厳しい判定をする。
甲府に対してイエローカードを連発して試合のムードはどんどん悪くなっていく。これはイジメか?と思うほどの判定が続く。
56分、GK桜井がペナルティエリア内で相手を倒してしまった際には、なぜかDFの池端にレッドが出る。
ただでさえイラついていたところに明らかな誤審を目の前で見せつけられて、ゴール裏からは怒号が響く。
しかもセレッソのPK失敗の後、やり直しの指示。これだけでも納得がいかないのに、2回目のPKはキッカーが奇妙に動き、
桜井が構えを解いたところで蹴り込まれた。これがゴールとして認められたことで、サポーター全員の怒りが爆発した。
抗議する桜井に主審は素早くイエローを提示。ブーイング、罵声、ありとあらゆる怒りの表現がスタジアムを包んだ。
「怒り」という感情が形になり、それが圧倒的な圧力になって飛び出していく瞬間ってのを、僕は初めて見た気がする。
その後も狂った判定は続き、秋本がイエロー2枚で退場。試合展開がマトモだったらカードをもらっていないはずなのに。
そんなわけで甲府はなんとセンターバック2人がいない大ピンチに。30分近い残り時間を9人でしのぐことになってしまう。
僕の脳裏に、去年の川崎での記憶が蘇る(→2007.9.30)。雨の中、絶望的な時間を過ごしたあの記憶。
周りからも「川崎……」「等々力……」「鍋島……」という声がチラホラ。
中盤の選手は体を張って相手を止め、前線ではジョジマールがボールをキープして時間を稼ぐ、辛い展開が続く。
(それでも甲府はDFを増やさず、逆に攻撃的な選手を入れるという非常に積極的な戦術をとった。かっこいい。)
結局、セレッソの追加点をどうにかもう1点のみで抑え込み、甲府は3-2で今季初勝利をあげた。
選手もサポーターも、ハーフタイムには想像ができなかった疲れ果て具合で勝利の余韻を味わうのであった。
(勝利監督インタビューへの拍手から審判退場へのブーイングの切り替わりぶりといったらない。マジで審判許せんわ。
 もし最後甲府が追いつかれて引き分けで終わっていたら、冗談ではなく暴動が起きたと思う。全員が激怒していた。)

 
L: 試合終了後、選手を迎える甲府ゴール裏。なんつーか、もう、本当に感動したわ。
R: 挨拶する選手の皆さん。やっぱり甲府は応援しがいのあるクラブだと心から思う。

今季初勝利、そして僕にとっても観戦9試合目にして初めての勝利で、「ああこれが勝利の味か」とじんわり思う。
これからも小瀬でこの味をコンスタントに味わえればいいのだが、現実としてなかなかそうもいかない。
やっぱり交通費の問題は大きいのである。遊んでいられる身分でもないし。
とりあえずしばらくは東京でおとなしくしているとしよう。そして、秋の終わりごろになって、
今度は甲府が昇格を賭けて戦う場面に立ち会えることを祈るとしましょう。


2008.4.5 (Sat.)

早起きして自転車にまたがると、多摩方面へと走り出す。こっちに来るのはずいぶんと久しぶりのことで、
なんとなくペダルが重く感じられる。日ごろの運動不足を強烈に痛感し、快調に走りながらも反省。

 Good morning, Tokyo――

こんな早くにいったい何をしていたのかというと、それは内緒にさせてください。
別にやましいことではないが、みっともないことには違いないので、ここには書かないでおく。
まあ、面白い体験だったのは事実だ。いいストレス発散の機会になった。

 桜散る中、日記執筆中。

夕方近くになって国立まで足を伸ばし、一橋大学の構内に入った。10年前とほとんど何も変わらない空間だ。
僕は10年経っていろいろ大きな変化を体験したけど、この空間はずっと同じようにして新入生を受け入れ続けている。
学校が変わることなく持ち続け、学生たちに与え続けているもの。「校風」という語彙もあるが、それに収まらない気もする。
こういう学校という場所が、現代に限らず人間社会において演じる役割というものに、すごく興味がある。

さて今、西生協前のベンチに腰かけてこの日記を書いているけど、風が出てきてだいぶ寒くなってきた。
早いところスタ丼を食べて、暗くならないうちに帰るとしよう。気ままで愉快な一日を、まだまだ楽しむことにしよう。


2008.4.4 (Fri.)

なんだか毎回、ネイティヴに「リラックスせえ」(という意味の英語)と言われている気がする。
僕は短期記憶が苦手なこともあって、頭の中で言いたいことが順序に関係なくワッと一挙に殺到してくる。
いざ面と向かって話そうとすると、まるでトラフィックを増大させられ処理をマヒさせられるDoS攻撃のようになってしまうのだ。
今後は単純に英語の勉強をしていくだけではなく、そういったメンタル面の問題も解決を探っていかねばなるまい。

スクールでアフリカ系の先生はそんなに多くないのだが、見ていると「これはマネできんカッコよさだなー」と思う。
特に、ヒップホップのような“だらしなさ”とは無縁だが、アフリカ系特有の仕草や言葉の選び方がきまっている人がいて、
こういうのは日本人がマネしても滑稽なだけだなあ、しっくりきていてカッコいいなあ、と毎回思う。
たぶん日本人には日本人にしかできない“日本人らしいカッコよさ”があるはずなので、いつかそれを体現した人になりたい。
まずは視線を外に向けて積極的に物事を見聞きしていろんなものを比較をしていかないといけないのだ。
すべての勉強はムダにはならないものなのじゃー。


2008.4.3 (Thu.)

書いてる本人が言うのもナンだけど、最近の日記はひでえなあ。


2008.4.2 (Wed.)

昨日、引き継ぎのため今抱えている仕事の進捗状況を報告をしたときに上司から、
今後有給を使い切って大規模に休む気があるかどうか訊かれた。言われて「ああ!」と思う僕。その発想はなかった。
今まででいちばんド派手な旅行をゴールデンウィーク明けに設定しているくらい、それは頭の中になかったわけで。

で、そうなると俄然、旅行欲がワキワキと湧いてくる。金はないが、有給期間中ほかにやることも勉強くらいしかないので、
「それじゃ、ちょっくらガーッと歩きまわっちゃおっかな……」とすぐさま今月の旅行計画を練り直す始末である。
これとこれをくっつけて、こうできないか……。あれ? この日ヴァンフォーレはここで試合をやるのか……ふむ。という具合に、
あれよあれよという間にこないだの四国一周旅行(→2007.10.5)を上回るムチャなプランができあがるのであった。

理想をいえばやはり、ある程度は仕事をきちんと続けて、今の「平凡」を味わい尽くしておきたいというのが本音である。
でも実際のところ、最近は腰の調子があまりに悪くて座り仕事に集中してばかりいるのは限界に近いものがあるので、
有給を使い切ってしまう方が賢明だとは思う(まあ、旅に出たら出たで今度は腰じゃなく足がビキビキに痛くなるのだが)。
とにかく、金は入らないが金はかかる、そういう生活がすぐそこまで来ている。ここをうまくやり抜いてこそ男なのだ。
現実を直視しつつも不安に対して決して臆病にならない、そういう人間になってやるのだ。


2008.4.1 (Tue.)

今年のエイプリルフールも小ネタをかましたのであった。無事にみやもりが見破ってくれたので一安心。
ワケがわかんなかったという人は、この辺(→2008.2.6)を参照してください。どこかにヒントがあるはず。
いやいや好きですなあ、なんて言われちゃったけど、ワシにはもうこれくらいしか楽しみがないんじゃよ。

どうでもいいけど、エイプリルフールに退職願を出したらどの程度真剣に受け止めてもらえるものなんだろうか。
誰か試してみてよ、ねえ。


diary 2008.3.

diary 2008

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