diary 2009.8.

diary 2009.9.


2009.8.31 (Mon.)

本来であれば今日の夜は共済だか何だかの手配による屋形船での飲み会になる予定だったのだが、
さすがに台風が直撃するのせんのという状況では屋形船は出せません、ということで陸上での飲み会となった。
去年までわが校で講師をされていた先生のご両親が品川駅の近くでお店をやっていて、そこにお邪魔する。

まあハッキリ言って、出される料理はすさまじくおいしゅうございましたわ。
こういう食い方があるのか!と驚いたものもあったし、いろいろと発見の多い飲み会でしたわ。
ちょびっとだけ飲んだ日本酒の古酒も勉強になるおいしさで(こういう表現が僕らしいと自分でも思う)、
ふだん飲む習慣のない僕には本当に視野の広がる絶好の機会でしたわ。

……でも、7000円もしちゃうのはなあ。パソコンの件もあるし、来月は本気で締めていかなくちゃヤバい。


2009.8.30 (Sun.)

本日は衆議院議員選挙の投票日なのである。わりと早い時間にさっさと投票を済ませてしまう。
僕が一票を投じるのは近所の小学校なのだが、選挙のために学校へ行く、というのはちょっと不思議だ。
江川達也『BE FREE!』(→2001.12.25)では学校と選挙が交差するシーンが描かれていて、それを思い出す。
最も「学校が開かれる」日は、もしかしたら選挙の投票日なのかもしれないな、と思う。

さて、今日は上野に行かなくちゃいけない。国立西洋美術館でやっているル・コルビュジェ展の最終日だからだ。
夏休み中にいくらでもチャンスはあったのだが、ご存知のとおりズボラな性格なので最終日になってしまった。
最終日は混むものだから好きではない。しかしながら、最終日に美術展に行くのも実は悪いことばかりではない。
美術館の入口で貧乏そうな顔をしていると、無料の招待券が余ってしまった人がその券をくれることがあるからだ。
実際、大学時代には2回くらいそうやってタダで中に入ったことがある。若いうちの特権、なのである。

自転車で一気に上野公園へ。国立西洋美術館は上野駅の公園口からすぐである。
向かいの東京文化会館がいかにも「オレは前川國男設計だぜ」と言わんばかりに建っている。
思えばきちんと国立西洋美術館を眺めるのは初めてだ。上京して10年以上経っているのに情けない。
国立西洋美術館はル・コルビュジェの原案をもとに、弟子である前川國男・坂倉準三・吉阪隆正が調整して建てた。
日本でコルビュジェの建物と呼べるものはこれが唯一ということで、今回の美術展はそこをクローズアップしている。
エントランスで420円を払うと中へ。もちろん、国立西洋美術館の中に入るのはこれが初めて。お恥ずかしい。

  
L: 国立西洋美術館を正面より眺める。1959年竣工だが、世界遺産に申請するのに合わせ、急遽重要文化財になった。
C: 角度を変えて撮影。この右手にはロダンの「地獄の門」があるよ。  R: エントランスはこちら側。ピロティ全開。

 桂浜の青丸石を使った外壁。こだわりですなあ。

中に入るとまずは国立西洋美術館特集。建物のさまざまな部分のつくられ方が写真で説明されている。
木枠にコンクリートを流し込んで柱をつくるなど、手づくり感覚のモダニズムはやはり面白い。
向かいにある東京文化会館と合わせた模型も置いてある。いくらかかってるんだろうか、気になる。
コルビュジェ名物・モデュロールについての説明もある。あちこちペタペタ触りながら2階の常設展示室へ。

常設展はいわゆる松方コレクションを中心に、ルネサンス以降の絵画作品がたっぷり。
最初のうちは宗教画が多く、相性の悪さを感じて「うーむ」なんてうなっていたのだが、
進んでいくとふつうの西洋絵画が並ぶようになってほっと一安心。いつものように、近づいたり離れたりしつつ鑑賞。
しかし展示されている作品が半端ない量なのだ。本館から新館に入ってからも容赦ないペースで展示がある。
はっきり言って、これは420円の分量ではない。お徳用というにはあまりに量がありすぎる。それぐらい多い。
誰もが知っている有名な作品はそれほど多くないが、ジャブのように繰り出される佳作がかなりあるのだ。
また、絵画以外では徹底的にロダンの彫刻が攻めてくる。彫刻はいろんな角度から眺めるものなのでまた疲れる。
コルビュジェ特集の第2弾・図面コーナーにたどり着いた時点ですでにフラフラになっているのであった。
僕は美術館に行くたびに、最後まで見終わるともう一度スタート地点に戻って気に入った絵を眺めるのだが、
国立西洋美術館については本当にそれがつらかった。ここまで恐ろしい場所だとは知らなかった。

というわけで、コルビュジェ目的で訪れたのだが、むしろ常設展の方にノックアウトされたのであった。
いや、手づくりの丁寧なモダニズムが味わえたのはすごくよかったし、展示内容も悪くはなかった。
しかし常設展は有無を言わせぬ圧倒的なペースで攻め立ててきて、それに耐えることしかできなかったのだ。
さすがは国立の美術館、とうならされた。美術館でこれだけ体力を消耗させられたのは久しぶりだ。

夜はもちろん、選挙特番のザッピングである。投票締め切りの20時を過ぎて、各局の獲得議席予想に驚く。
あとはインタビューをすっ飛ばして注目の選挙区速報を見ていくだけである。これが面白くて面白くてたまらん。
競っている選挙区の大勢が判明するのは深夜になってからなので、それだけ楽しみが持続する。
で、今回の選挙で顎がはずれるかというくらい驚いたのが、長野県での民主党の全勝。これは予想外だった。
自分の実家のある長野5区でも民主党が勝った。自民党はここまで嫌われていたのか、と唖然となる。
まあ僕としては今の自民党vs民主党という構図は不満で、きちんと支持できるリベラルな政党がほしい。
とりあえず今回の政権交代劇が、日本国民の民主主義への成熟度を上げるきっかけになりゃいーなーと思う。
偉そうだけど、本音としてはそんなところ、そんな程度だ。まだまだ先は長い。


2009.8.29 (Sat.)

山形県経由で実家に帰省したときに使った青春18きっぷが、まだあと1回分余っている。
来月には学校が始まって思いどおりに動けるかどうか読めないから、今のうちにさっさと使ってしまうことにした。
たった1回分なので凝ったことはせず、甲府へサッカーを観に行くついでにどこかへ行ってみようと思った。
始発で家を出て、甲府でのナイトゲームに間に合うスケジュール。行ったことのない街。
出てきた答えは、「小諸」だった。長野県出身だけど、なぜか小諸には行くチャンスがなかった。
だから今回、小海線にひたすら揺られて小諸を目指すことにした。

朝5時前に家を出る。目黒線の始発に乗り込んで目黒に着くと、青春18きっぷを提示する。
いつも胸元のポケットに入れて歩いていたので、汗でボロボロになってしまっている。
山手線とはいえ早朝は本数が少ないから待たされる。ホームのコンビニも開いていないし、手持ち無沙汰な時間だ。
10分ほど突っ立っているとようやく電車がやってきた。金曜の夜をどこで過ごしたのか、客はけっこう乗っている。
代々木駅で降りて、中央線に乗り換える。この時間は各駅停車しかないので新宿まで行かなくても同じなのだ。
各駅停車だがオレンジ色の電車は土日なので西荻窪・高円寺・阿佐ヶ谷をすっ飛ばす。妙な気分だ。

気がついたら寝ていた。西へと向かう次の電車は八王子発なので、八王子駅で降りておけば座れる。
でも僕はなんとなく高尾駅の駅舎を写真に撮っておきたい気分だったので、終点の高尾までそのまま乗った。
高尾駅に着くと改札を抜け、近くのコンビニでメシを買い込む。それから駅舎を撮影する。風格があるなあ、と思う。

 高尾駅。設計者は旧大社駅(→2009.7.18)と同じ曽田甚蔵で、1927年竣工。

高尾駅にやってきた電車は案の定、リュックを背負った年配の皆さんが一大勢力を誇っていた。
それでも運よく座ることができたので、のんびり音楽を聴きながら過ごす。やっぱりうつらうつらする。
甲府を過ぎて、さらに西へ。小淵沢駅で降りると少し離れた小海線のホームへと移動する。
中央本線に乗る機会はいっぱいあるので慣れているが、小海線に乗った記憶はない。
夏休み最後の土曜日ということでか、こちらも行楽客でいっぱいである。

小海線はとにかく標高が高いところを走ることで有名な路線である。
鉄分の少ない僕でも、途中の野辺山駅が日本で最も標高の高いところにある鉄道駅であることを知っている。
清里駅を出て、いかにも高原といった風情の林を行く。ゆっくりゆっくり、ディーゼルは高度を上げていく。
やがて鉄道の最高地点を知らせるアナウンスが入り、林を抜けたところで大きな碑が立っているのが見えた。
個人的にはまったく興味がないので「ふーん」という程度。鉄っちゃんはテンションが上がるのだろうか。

スケジュールに少し余裕があるので、野辺山駅で途中下車してみる。時刻は10時少し前。
冷静になってみると、ここまで4時間半はガタンゴトンと揺られてきたことになる。でもまだまだ序の口だ。
野辺山駅に降りたはいいが、周辺にこれといって面白そうなものがない。天文台は歩きでは遠い。
仕方がないので駅の向かいにある公園を散歩して、ジャージー牛の牛乳を使ったというソフトクリームを食べる。
確かに非常に濃い味でおいしかった。残った時間は駅のホーム周辺を歩きまわって過ごす。
ところで野辺山には小さい頃に家族で来たことがある。その際に僕は勝手に店に入ってトイレを借りたのだが、
両親は僕の姿がいきなり消えてしまったということで「神隠しって本当にあるんだなあ」と真剣に思ったそうだ。
20年以上経った今でもウチの家族は「野辺山」と聞くと条件反射でこの話を連想する。もういいかげんにしてほしい。

  
L: 日本一高いところにある野辺山駅。  C: 駅に面した公園。野辺山駅周辺は、高原らしさはたっぷり味わえる場所だ。
R: 野辺山駅のホームにて。西大山駅でもそうだったけど(→2009.1.7)、僕はこういうものにはとんと興味が湧かない。

やがて小諸行きの列車が来たので乗り込む。車窓の風景は高原の森林から高原の農村へと切り替わる。
穏やかな長野県の田舎を軽快に走っていくこと1時間半、無事に小諸駅に到着した。
長野新幹線と接続している佐久平以北は少しにぎやかになったけど、総じておとなしい印象しかしない路線だった。

小諸駅に着くと、まずは観光案内所に入って情報収集。パンフレットや地図が思ったよりも充実していてうれしい。
観光案内所のすぐ近所には、小諸宿本陣主屋がある。2005年から休館中ということで、中には入れない。
とりあえず外から様子を眺めておくと、これまた近所の小諸城大手門へ。こちらは昨年復元されて公開中である。
ガイドのおばちゃんがインクジェット印刷のパンフレットを渡してくれる。金はないけど誇りはあると言わんばかりだ。
門の中に入ることもでき、資料がいくつか展示されている。点数は少ないが、今後に期待といったところか。

  
L: 小諸宿本陣主屋。歴史資料館となっているはずなのだが、なぜか現在は休館中。
C: 小諸城大手門。復元されたてのホヤホヤ。  R: 大手門の内部。きっちりと復元していて好感が持てる。

小諸は今も城下町としての街並みをあちこちに残している。それほど時間に余裕があるわけではないのだが、
極力あちこち歩きまわって体験してみることにする。というわけで、北国街道に出てみる。
すると下り坂に沿って、まずは旧脇本陣。傾いている敷地に対応してつくられた木造建築は、
今も往時をしのばせる魅力を失っていない。赤い丸ポストと妙にマッチしているのがほほえましい。
そして、そこからちょっと進んだところにあるのが、重要文化財にもなっている旧小諸本陣である。
このような問屋場建築は全国にわずか2棟が現存するのみということで、かなり貴重な建物なのだ。
北国街道にせり出すように建っており、迫力満点。しかしよく見るとかなり傷んでしまっているのがわかる。
建物の中に入ることができないのは、その辺の事情もあるのだろう。少しの衝撃で壊れてしまいそうだ。
現状のままでは本当にもったいない。どうにか早いところ、中に入ることができるまで修復をしてほしい。

  
L: 旧脇本陣。 かつては小諸宿一の人気旅籠「粂屋」だったとか。今は教科書会社か何かの分室として使われている。
C,R: 旧小諸本陣(兼問屋場)。これも坂道に対応して建てられている。18世紀末~19世紀初頭の建物だそうだ。

来た道をそのまま戻って北国街道を東へと歩いていく。今も木造建築がチラホラ残っていて、歴史を感じさせる。
長野県出身のくせに今まで小諸を訪れる機会がなかったのだが、「小諸ってすごいじゃん」とひどく感心。
同じ城下町でも飯田は建物がほとんどまったく残っていない。残念なことだなあと心底思うのであった。

  
L: 北国街道。古い建物をきれいにして利用している例が目立つ。  C: 蕎麦屋もこんな感じで面白い。
R: やや洋風テイストの混じった旧小諸銀行。現在は骨董店の店舗となっている。

街道沿いの建物を堪能すると、お次は市役所である。小諸市役所は商店街から少し奥に入った位置にある。
市役所の正面と向き合うように市民会館が建てられており、両者の間には申し訳程度に緑が植えられている。
僕の今までの経験からすると、市役所じたいは昭和30年代シンプル庁舎の特徴を持っている建物だが、
市役所と市民会館を隣接させてオープンスペースをつくる発想は昭和40年代に入って本格化するわけで、
小諸市のケースはまさに移行期の事例といった印象がする。なかなか興味深い市役所である。

  
L: 小諸市役所。1964年1月に竣工。老朽化と耐震強度の問題から、市では移転を計画している。
C: 市役所と向き合っている小諸市民会館。やはり1964年、市役所より遅れて11月に完成したようだ。
R: 裏手の駐車場から眺めた小諸市役所。敷地に高低差があるので、見る位置でけっこう印象が異なる建物だ。

昼飯に小諸蕎麦をいただくと、残り時間を気にしつつ、最後の目的地である小諸城址へ。
島崎藤村が「小諸なる古城のほとり」と詠った、あの古城である。
現在は「懐古園」という名前で整備された公園となっている。線路を越えて西側へと移動する。
さて小諸城だが、この城はちょっと珍しい特徴を持っている。それは、市街地よりも低い場所にあるということ。
浅間山から下ってきたところに小諸の市街地があり、そこからさらに下った崖の端に、小諸城はあるのだ。
そのため「穴城」という異名を持っているという。山本勘助の縄張りによる城だという説もあるそうだ。

 石段を下っていって三の門を抜けると懐古園である。

懐古園に入るには入園料が必要である。内部の美術館や博物館との共通券なら500円。
園内を歩くだけの「散策券」なら300円である(園内の動物園にのみ入ることができる)。
残念ながら時間がないのでゆっくり見てまわることができない。ゆえに散策券で中に入る。

緑に包まれた園内を早歩きで進む。弓道場を越えて橋を渡った先には藤村記念館。
さらに先へ行くと、本丸の跡地にある懐古神社にたどり着く。お賽銭をあげて賢くなるようにお願い。
社殿の奥に進むと天守の跡がある。端っこのところから石垣の下を覗き込んでみる。
懐古神社を出ると、本丸跡を回り込んでしばらく散歩する。いちばん奥の展望台からは、
崖の下を流れる千曲川とダムを眺めることができる。こうしてみると、天然の要害なのがわかる。
それにしても小諸城の石垣は美しい。熊本城(→2008.4.28)のように計算されつくした感じはしないが、
ひとつひとつの石の特徴を生かしたまま、ゆるやかな曲線を描かせて見事に積み上げている。
空間の持っている歴史をそのまま公園としてうまく演出させている。小諸は本当にうらやましい城下町だ。

  
L: 本丸跡にある懐古神社。  C: 懐古神社の奥へ進むと天守跡がある。
R: 天守跡を反対側から眺めるとこんな感じ。小諸城はとにかく石垣が美しい。自然と人工の美が共存している。

13時38分小諸発の列車に飛び乗ると、そのまま小海線を戻っていく。揺られること2時間半ほどで小淵沢に到着。
中央本線の接続まで30分ほど時間があったので、のんびりと立ち食い蕎麦をいただくなどして過ごす。
やがて電車が来たので甲府まで戻り、例のごとく小瀬行きのバスに乗る。テンションが少しずつ上がっていく。

ある程度余裕を持って行動しているつもりでも、小瀬に着くのはいつもキックオフ直前になってしまう気がする。
それほど応援が激しくないエリアに無事に席を確保する。新調された電光掲示板は以前とさして変わらない大きさ。
しかし選手紹介が始まると派手な映像をガンガン流してくる。こうしてクラブはまたひとつ成長したってわけだ。

ヴァンフォーレ甲府の今夜のお相手はカターレ富山である。ここんところ地味に勝ち続けているし、
新顔に弱い甲府には厄介な相手だ(甲府はなぜか去年から、J2に昇格してきたチームに苦戦することが多い)。
今年のJ2は3位までがJ1に昇格できる。しかし、開幕からその3つの枠をめぐりC大阪・湘南・仙台・甲府の4チームが
激しく争っている状況なのである。とにかくC大阪も湘南も仙台も勝って勝って勝ち続けており、落ちないのだ。
そんなわけで、今年のJ2は例年になく熱い。甲府は昇格争いを続けるためにはどの試合も落とせないのである。

前半はどちらもそれほど冴えた印象のない展開だった。甲府はチャンスで決めきれないし、富山も攻めきれない。
イージーに点が入ってハーフタイムを迎えるなんてことは滅多にないのだけど、それにしても見飽きた感じの0-0。
甲府が甲府らしさをまるっきり出せていないわけではないが、富山がよく粘ってのこの結果、という印象である。
後半に入るとさらに甲府は積極的に攻め込むが、なかなかゴールを割ることができない。
それでも甲府が悪いときにはゴール裏から「前へ行け!」とか「シュートしろよ!」という荒っぽい声があがるのだが、
今日の試合に関してはそれがない。チャレンジしているが割れないということで、それだけ富山がいいのだろう。
そうなると試合終盤で切ったカードがどれだけ機能するかという、運を味方につけるセンスの問題となる。
その点で甲府は今年ブレイク中の國吉がいる。SB杉山がゴール前に空いたスペースへボールを転がすと、
飛び込んできた國吉がきっちりシュートを決めてみせた。交代して2分での鮮やかなゴール。
國吉がまたしても終盤で無類の勝負強さを発揮したことでゴール裏は大盛り上がり。
あとは手堅くゲームを閉じ、この日甲府はクラブ史上初の首位にいちおう立った(30分後に湘南が勝って逆転)。

  
L: 甲府のフリーキック。残念ながらシュートは逸れたが、目の前で展開されたチャンスにドキドキ。
C: 83分、途中交代で入った國吉がゴールを決めた。新しい電光掲示板が國吉のプロフィールを映し出す。
R: 毎試合が勝たなくてはいけない試合である。そういう苦しい状況できっちり結果を出した選手たちに拍手。

小瀬から甲府駅に戻る途中のバスで、富山サポの女の子ふたりが甲府サポのおっさんたちに話しかけられていた。
おっさんたちは「勝ち点3をもらったから、お礼にこれをあげよう」と、持っていた巨峰を女の子たちにプレゼント。
つーか、名産品とはいえ、山梨県民は巨峰をサッカー場まで持ち歩いているものなのか?とびっくりした。
ともあれ、地方遠征のイイ話を間近で見た。日本全国こんな感じになるなら、サッカーとは本当にいいものだ。
女の子たちは明日、富士急ハイランドに寄ってから富山に帰るそうで、山梨の地元経済に貢献しているなあと思う。

街並みだとか観光名所だとか市役所だとかサッカークラブだとか、共通しているのは「自分の街への誇り」だ。
僕はそれに直接触れたくて旅をする。旅をして日本全国あちこちの誇りに触れるたび、僕はまた日本が好きになる。
自宅に戻ったのは日付が変わってからだったが、とても満足のいく最高の休日だった。


2009.8.28 (Fri.)

宿泊研修の最終日である本日は午前中にディベートをやり、午後になったら帰るというスケジュール。

ディベートではリーダーが先陣を切る役割だったので、しょうがなくその仕事をこなす。
相変わらず本番には異常に強いタチで、自分でも呆れるほどなめらかにわがチームの立場を説明。
後で「ディベートを何度も経験されてるんですか?」と訊いてくる人がいるほどの仕事人ぶりであった。
ディベートなんて面倒くせえことやるわけないじゃん、と思いつつ「いいえ」と返したら妙に感心された。
(僕の記憶では、大学院時代に研究室の先輩の授業で1回やっただけ。結果は負けた。→2002.2.1
で、わがチームは奮戦むなしく負けた。敵のリーダーのゆとりのある見事なしゃべり方に負けたように思う。
(そもそも僕は、裁判員制度のような審判の存在が気に入らないのだ。バカに判定される筋合いはない。)
後でディベートの講評を担当したお偉いさんが話しかけてきたので、ネット端末が1つしかなく、
資料を揃えた図書室もない宿泊施設でディベートの準備をさせること自体に無理がある、と噛み付いておいた。
もっとも、空き時間に参加者たちがひたすらディベートの準備をするように追い込むのは、
よけいな動きをして監視する側に負担をかけることがないようにする工夫だということも理解している。
理解しているだけに、それならもっと快適に囲い込めやボケ、と主張したわけである。

昼飯を食べると宿泊施設を後にする。帰りのバスの中では今後に向けての決意表明をしろというので、
カマドウマやクワガタの件をジャブにして笑いをとり、ディベートのリーダーはいい経験だったとまとめた。
宿泊施設の所在地は日光だったが、施設から一歩も外に出ることはなく、日光らしさはほとんど味わえなかった。
虫とのふれあいは僕が体験した唯一の日光だったわけで、それを話題にしたのは一種の皮肉でもあったのだが、
聞いてるお偉いさんたちには伝わらなかったわな。場所が日光なのは単純に脱走させないためでもあったろうしな。

途中休憩で訪れたサービスエリアで栃木名物として有名になりつつある「レモン牛乳」を発見。
500mlで190円と少し高かったのだが、迷わず購入して帰る。日光へ行ったという唯一の物的証拠である。

 家に帰って飲んでみたらベタ甘だった。さすが無果汁。

区役所に着くと解散。仲良くなったのは男の先生ばっかり、という誠に残念な結果に終わったのであった。
まあ別に嫁探しのために行ったわけじゃないしな。……というところがダメだとまた集中砲火なんだろうな。


2009.8.27 (Thu.)

宿泊研修2日目。まず朝に敷地内のテントを片付ける仕事が与えられる。
ペグを抜いてテントをたたむ作業をするのだが、戸惑う女性陣を尻目にホイホイとペグを抜いていく僕。
この手の作業は昔っから得意なのだ。でも特に羨望の眼差しで見られることもなく作業終了。
驚いたのは、テントの中から大量のカマドウマがピョンピョン出てきたこと。しかもめちゃくちゃデカい。
都会っ子な先生方はカマドウマを初めて見る人が多く、田舎育ちの僕が説明すると妙に感心していた。
あとはコクワガタが地面を歩いていたので捕まえて教務主事の先生(初任者の指南役)にあげてみたり。
やっぱり部屋の中に押し込められているよりも外でやりたい放題やる方が楽しい。

建物の中に戻ると午前中はひたすら講演。区が「最先端を行く」自負する教育改革について延々と、である。
こりゃまるで洗脳ですなあ、と例のごとくポケーッとしながら右耳から左耳へと受け流す僕なのであった。

午後は子どもたちに経営センスを身につけさせるなんたら、ということで経営シミュレーションを体験することに。
僕の勤務する区では教育現場にそういうのを持ち込むのが大好きなようだ。まいったまいった。
こちとらお金の計算ができない一橋生として鳴らした人間である。興味がこれっぽっちも湧いてこない。
同じ班の女性3人はけっこう熱中していたが、数字でしか結果が見えないリアリティのないゲームには惹かれない。
「いいんじゃないっスか」とだけ返事をするという非常に問題のある参加態度で4時間を過ごすのであった。
ほかの班の皆さんもそれなりに熱くなっていたのだが、どこがそんなに面白いのかまるっきり理解できない。

夜はディベートに向けての最終準備。さっきは積極性のかけらもない態度をとっていたので、
その分をきちんと取り返さないとな、と思ってここで初めてそれらしいリーダーシップを発揮する。
空いていた時間に集まっている資料を読み込んで方向性を固め、発表の雛形をひとりで作成しておく。
で、メンバー全員が集合したところで雛形について説明し、意思統一が取れたのを確認してから仕事の指示を出す。
それまでの「そうせい侯」ぶりから豹変して八面六臂に動き出したのでメンバーは戸惑っていたよ。

夜9時ごろにいったん参加者全員で集合して飲み会。といっても酒は出ないのでジュースの飲み会。
晩飯が異常なほど大量に出てほとんどの人が満腹の向こう側に行ってしまっていたにもかかわらず、
会場にはこれまた大量のオードブルが用意されていてみんな唖然とする。結局果物をかじる程度に終わる。

会が解散してからも班で集まってディベートの準備。いつもならテキトーに切り上げてさっさと寝るのだが、
リーダーなのでそういうわけにはいかない。自分のいつものテキトーぶりを他人に押し付けるわけにもいかない。
メンバーの相談に付き合ったり相手の論理をシミュレートしたりしながら過ごさざるをえないのであった。
結局、作業を切り上げたのは深夜の1時半。義理人情とは恐ろしいもんだなあと思いつつ寝る。


2009.8.26 (Wed.)

今日から3日間は初任者の宿泊研修ということで、区の施設に泊まり込んでの研修なのである。
本気で面倒くさい困った行事ではあるのだが、同期の先生方とコミュニケーションをとるには歓迎すべき機会だ。
ということを自分に言い聞かせて、どうにか前向きな気持ちになって区役所の集合場所へ。

2台のバスに分かれて乗り込むと、首都高に入ったところでさっそくバスレク開始。これも研修の課題だ。
うちの班は「どうしてもタモリのマネがしたい」という先生に進行を任せて、あとはひたすらサクラになればよし。
そういうわけで個人的には特にこれといって問題もなく課題終了。ほかの班のバスレクを堪能する。
教員は(特に小学校の先生は)クソマジメな人が多いようで、子ども向けのレクに本気で取り組んでしまうので、
あまり当初の目的どおりにならないケースがチラホラ。テキトーでいーじゃん、という自分は思いっきり異端なようだ。

区の施設に到着すると荷物を置いてさっそく何かをやった気がする。たぶん講演か何かだったと思うけど忘れた。
あとは3日目のディベートに向けて話し合い。あれこれ細かいつまんない議論をしてもしょうがあんめえと、
例のごとくブレインストーミングに終始させておしまい。リーダーらしさをまったく発揮せずに済ますのであった。
まるで「そうせい侯」である。でもまあその放任主義が幕府を倒したんだしそれでいいやね、と開き直る。
(※そうせい侯……幕末の長州藩主・毛利敬親のこと。家臣の提案にいつも「うん、そうせい」と返事していたという。
 そして優秀な家臣たちが存分に能力を発揮した結果、毛利家の宿願である倒幕が達成された。)

風呂あがりに男だけ集まって軽く酒を飲んであっさり寝る。初日はうまくごまかせた感じである。


2009.8.25 (Tue.)

アルフレッド=ベスター『虎よ、虎よ!』。ベスターの作品を読むのは『分解された男』(→2005.10.18)以来だ。

人類がテレポート(作中では「ジョウント」と一般動詞化している)の能力を発達させた未来が舞台。
内惑星連合と外惑星同盟は戦争状態にあり、宇宙船の平凡な乗組員・ガリヴァー(ガリー)=フォイルは、
攻撃を受けて宇宙空間を漂流していた。やがて宇宙船「ヴォーガ・T・一三三九」が目の前に現れるが、
無情にもヴォーガはフォイルを無視して去る。ここから、ヴォーガに対するフォイルの超人的な復讐が始まる。

救助した小惑星の住人の風習により、フォイルは顔に刺青を彫られてしまう。
それが虎のように見えるということがこの作品タイトルの由来であるのだが、フォイルの超人的な復讐劇は、
まさに人類の限界をはるかに超える強さの意志で遂行される。シンプルかつ絶妙なタイトルだと思う。
そして文庫本では寺田克也が表紙を描いており、これが本当に中身にマッチしているのだ。すばらしい。

しかしながら内容は、ベスターがかなり意識的にすっ飛ばしている部分が多く、はしゃぎすぎという印象。
ベスターは想像力の限りを尽くした新しい展開を連発してくる。まるで彼自身がジョウントしているかのように。
読者はその軌跡をおとなしくつないでいくことを強いられることになる。正直、これがなかなかつらい。
いちばん大きなベスターのジョウントは、第一部から第二部に飛んだとき。
ここはつまりそれだけフォイルが超人的な能力を持っていることの証左でもあるのだが、
作者や登場人物ほどにテンションの高くない読者は、話についていくのがかなり大変である。

きわめて強力な意志を持った人間が周囲を巻き込みながら成長する(と書いて差し支えあるまい)、
というモチーフは、実は前作・『分解された男』とまったく同じなのである。
ただ、『虎よ、虎よ!』は前作に比べて「力み」が非常に強く込められており、その分読みづらくなっている。
作者の「やってやろう!」という気概がフォイルの活躍を通して物語全体ににじみ出ている。
でもそれが、読者との物語の共有を妨げてしまうほどに強いレベルで現れてしまっているのだ。
おかげでクライマックスの部分で物語のコントロールがうまくいかなくなり、かなり間延びしている印象がする。
ベスターは超人的な“虎”を生み出しはしたものの、結局うまく彼を手なずけることはできなかった。
物語は、人間の思考の中で確実に生命を持つ。でもその生命を思いどおりに育てることは難しい。
そういう厳しい現実をあらためて突きつけられた一冊だった。


2009.8.24 (Mon.)

八丈島3日目で最終日である。宿でチェックアウトを済ませるとタクシーで空港へ。
といってもそのまま東京に帰るわけではない。空港のロッカーに荷物を預け、レンタバイクの事務所へ。
掲示板で僕が提案したのだが、3日目はレンタバイクで八丈島のあちこちを走りまわることにしたのだ。
ニシマッキーが原付という乗り物に対してかなり慎重な姿勢をとっていたのに対し、僕はかなり軽め。
いつもの「なんとかなるっしょー」という感覚で受付のお姉さんに申し込むのであった。

免許証を提示して鍵とヘルメットをもらって、手続きは非常にスムーズに進む。が。
「停まったときに片足しかついてないとか、警察がけっこう細かく見ているから気をつけてくださいね」
というお姉さんの言葉にフリーズするわれわれ。……エ? ソウイウモンデシタッケ?
この妙な間のおかげでお姉さんはかなり不安そうな表情になるのであった。まあオレたちも不安だったけどね!
お互いに不安になるのをハハハハハと笑ってごまかし、バイクの置いてある外のスペースに出る。
車がまったく来る気配がないのをいいことに、引渡しが終わってもしばらくそのスペースで練習をするわれわれ。
お姉さんはしばらくの間、大丈夫かなあと言わんばかりにこっちの様子を探っていたが、やがていなくなった。
それでもわれわれは練習を続ける。しばらくやってみてアクセルの絞り方とウィンカーの出し方がわかったので、
ついに勇気を出して公道に出てみることにした。ちなみに僕もニシマッキーも、運転免許の行使はこれが人生初だ。
「よし、ニシマッキーお先にどうぞ!」「何を言ってるんですか先輩。ここは先輩を立てますから、さあどうぞ!」
「……。しょうがねえなあ、もう…」ということで僕から公道に出る。20km/hがやっとという超チキンな運転である。
できるだけ歩道に近いところをノロノロビクビク走っていったのだが、八丈島のドライバーは優しいというか、
事情をよく察してくれる人ばかりだったので、特に危ない目に遭うこともなく走ることができたのであった。

さて空港から勢いよく(というほど実際には勢いよくないのだが、気分として)飛び出したものの、
行くあてなんてあるわけない。混乱した頭で思いついたのが八丈町役場で、とりあえずそこを目指すことにした。
途中の赤信号ではきっちり両足ついて停車しつつ、スピードを出すと怖いので20km/hのノロノロ運転で走る。
八丈高校前のまっすぐな道を走っていてようやく落ち着きだす。ミラーで後ろを見ると、ニシマッキーがちゃんといた。
原付の意外な重さとアクセルのさじ加減がイマイチしっくりこないまま八丈町役場に到着。
一呼吸入れて軽く休むと、いよいよ八丈島の東側をぐるっと回る旅に出ることにする。
「よし、今度がニシマッキーが先な!」「何を言ってるんですか先輩。僕はどこまでも先輩を立てていきますよ!」
「……。ちくしょう、こんなときばっかりオレを先輩扱いしやがって…」というわけでまたしても僕が先頭。
この後もバイクを止めるたび、同じやりとりを何度も繰り返す懲りないわれわれなのであった。

あまり遅すぎるのもかえって危険なので、勇気を出して25km/hをキープして走る(それでも十分遅い…)。
島の西側から南へと向かっていった先にある大坂トンネルは絶景を楽しめる名所として有名なのだが、
オレらにゃそんなものを振り返って眺められるような心理的余裕はないっての。だから写真も何もありません。
幸い、道はきちんと整備されているので走りやすい。樫立の集落に入り、快調に進んでいく。
でも樫立ではまったくといっていいほど商店を見かけなかった(気づかなかっただけか?)。
運転に必死になっていることもあり、気がついたときにはそのままさらに東の中之郷へと入っていた。
中之郷で温泉に入るつもりでいたのだが、入口がまったくわからず、結局中之郷もそのまま抜けてしまった。
平日ということもあってか島の南部は交通量が少なく、とても快適に走ることができた。
レンタバイクを3日目に設定しておいてよかったーと思いつつ、東端の集落・末吉を目指して走る。

やがて末吉小学校の脇に出る。右手を行くと灯台と温泉があるようなので、行ってみることにした。
あまりよろしくない空模様の下、背の高くない八丈島灯台は妙に周囲の自然に溶け込んで建っていた。
僕らの脇をすり抜けるように、舗装されていない土の道路を郵便局の赤いバイクが行く。
なんとなく宮崎アニメのワンシーンのような感じがした。ここは遠くの島なんだ、と変に実感した。
灯台から戻ると温泉に向かうが、まだ営業時間前。しょうがないので暇つぶしに一気に坂を下って、
洞輪沢港まで行ってみる。何もない場所だったが、太平洋をニシマッキーとふたりでなんとなく眺めるのだった。
調子に乗って海のギリギリまで近づこうとしたら、藻の生えたコンクリートで見事にすべって左足を濡らしてしまう。
そのうちカップルが2組ほど来たので、「何もないのに何で来るんだよ!」とふたりともやさぐれて帰る。

温泉に戻ったら営業が始まっていた。顔を洗っているときに使い捨てのコンタクトレンズがずれてしまい、
これじゃバイクを運転できないじゃん!と焦りに焦ったが、どうにか無事にレンズを元の位置に戻すことができた。
ほっと一安心して露天風呂を楽しんでいたのも束の間、薄暗い空からついに雨が降り出してしまった。
がっくりとうなだれつつ風呂から上がるわれわれなのであった。なかなかハードな最終日だ。
ジュースを飲んでしばし呆けると、覚悟を決めてバイクにまたがり、末吉小学校まで戻る。
ここから先は完全な山道になる。雨が厄介だが交通量はゼロといっても差し支えないくらいの状況である。
運転にもだいぶ慣れてきたので、制限速度いっぱいの30km/hでクネクネ曲がった道をグイグイ攻めるのであった。

走っているうちに雨降りもそれはそれとしてだいぶ気持ちよくなってきた。ドライヴァーズ・ハイとでも言うのだろうか。
ジャマするものがない道をエンジンの力で進んでいくことをかなり楽しめるようになってきていた。
自動車学校で初めて原付に乗ったとき、「こんな便利な物が普及したら人類は堕落して滅ぶ!」と思ったもんだが、
そのときの感覚が蘇ってきた。さっきまでのチキンぶりはどこへやら、慣れてしまえば現金なものである。

途中で「ポットホール」なるものがあると看板が出ていたので、ちょっと寄り道してみることにした。
荒れ放題のアスファルトに落ち葉、枯れ枝、水たまりが広がっている道を、奥へ奥へと進んでいく。
生い茂った木々が雨粒を受け止めてくれている。僕は地元の山道を思い出しながら快調に走るのであった。
原付で走ること自体が楽しくなってウットリしていたら、目的地であるポットホールのある場所に着いた。
ポットホールとは川の中にできる丸い穴で、底にある石が水流により回転することでを円形の穴をつくっていき、
川の浸食が進んで穴の周囲だけが地表に現れることで人目につくようになったものなのだそうだ。
なるほどとは思うのだが、実際に現物を目にしてみると、「で、だから?」と言いたくなってしまうのであった。
ニシマッキーとふたりでしばらく無言で立ち尽くし、写真を撮るとさっさと撤退。ニンともカンとも。

  
L: 八丈島灯台。島の果てということでなんだかちょっと非日常的な印象がした。なんとなく物語性を感じるというか。
C: 少し高いところから洞輪沢港を眺める。何もない!  R: ポットホール。丸い穴がある、それだけである。

元の道に出てさらに進んでいくと、登龍峠である。ここをちょっと下ったところに展望台があったので寄る。
晴れていれば! 晴れていれば絶対に絶景なのである。でも雨に煙ってほとんど何も見えない。
ニシマッキーとふたりで肩を落としてため息をつくのであった。これには泣けた。どうにもツイていない。

 登龍峠展望台から眺める八丈富士。雨で、雨のせいで……。

最後の道のクネクネぶりはかなり強烈だったが、もはやわれわれはすっかりそれも楽しめるようになっていた。
三根の中心部に戻ると昼飯を食べることにする。選択肢が少なかったので、結局おとなしく寿司をいただいた。
かなり待たされたのだが、お詫びにと島海苔の寿司をおまけしてもらって何も言えなくなってしまうわれわれ。

おとといは自転車で八丈富士側を一周し、今日は原付で三原山側を一周した。
これでいちおう、八丈島をぐるっと周回達成である。あとは高さの面で八丈島を制覇するだけとなった。
そういうわけで、最後は八丈富士登山である。坂道をグイグイ上ってまずは鉢巻道路を目指す。
客を乗せたタクシーと何台もすれ違うが、そのたびに「あーバイクって便利だなー」と思う。
そうこうしているうちに、天気が急激によくなってきた。雨はすっかりやみ、青い空が広がりだす。
さっきまでのびしょ濡れ突撃っぷりが嘘のようだ。まさに山登りにふさわしい空への変化である。
鉢巻道路に入ると、せっかくなので左回りに一周する。地を這う雲の中をバイクで抜ける、貴重な体験をした。

途中のふれあい牧場にももちろん寄ってみる。規模は予想に反してけっこう小さい。
建物の中ではおばちゃんがアイスクリームを売っていたので買う。あとは牛乳の自販機があるだけ。
壁一面には八丈島の酪農の歴史を書いた紙が貼り付けられており、ニシマッキーと読んでいく。
かつて酪農は盛んに行われていたようだが、今ではこの小さな牧場で細々とやっているのみ。
でも八丈牛乳はおいしかったので(→2009.8.23)、今後もがんばってほしいと思うのであった。

  
L: 鉢巻道路から眺める八丈富士山頂。こうして見るぶんにはのんびりしている印象の山である。
C: ふれあい牧場。土の道を行った先にあるのは展望台だが、雲に包まれてほとんど何も見えず。
R: 牧場でのんびりと草を食べる牛たち。実に平和なもんである。

鉢巻道路を一周すると、いよいよ八丈富士に登る。登山口に何台か車が停まっていたので僕らもバイクを置き、
登山道を進んでいく。するとすぐに野ヤギ対策の鉄製フェンスが現れる。開けっ放しにしてはいけないので、
内側に入ると鍵をかけていざ登山開始。1280段の石段がつくられており、それをグイグイ踏みしめて上がる。

 
L: 登山道にある野ヤギ対策フェンス。ここから中に入ると、いよいよ本格的に八丈富士への登山開始となる。
R: 八丈富士の登山道はひたすら石段。両側では緑が生い茂り、遠くから見たときと印象が大きく異なる。

僕は大股で登っていたのだが、途中でニシマッキーのペースが落ちる。
「おーい、大丈夫かー」なんて声をかけつつ登っていたのだが、さっきの昼メシが予想外に遅れた影響もあり、
あまりのんびりとはしていられない状況である。ニシマッキーは男らしく「自分を置いて先に行ってください」と決断。
「わかった。いっぱい写真撮ってくるぜ」とニシマッキーをあっさり置いていく僕なのであった。
付き合いも長いので、お互いその辺はサバサバしているというか、わかっている。
さてもうこうなったら意地でも頂上を制覇するしかない。気合を入れ直して登る。

坂道を上っていくのもつらいが、階段を上るのだってつらい。汗だくになり荒い呼吸で歩き続けていたら、
わりあいにあっさり開けた場所に出た。案内板を見ると、山頂はここからさらに左手に進んでいったところのようだ。
八丈富士では火口丘の外輪山を1時間かけて歩く「お鉢めぐり」を楽しむことができるという。
すでに高所恐怖症を発症しているのだが、それでもせっかくだからやってみようと思い、山頂と反対の右手へ進む。
しかしとにかく足場が悪い。低木が生い茂っていて、道が見えないのだ。もちろん両側とも崖である。
50mも進まないうちに断念。必死の思いで体を反転させ(大変だった……)、おとなしく山頂だけを目指すことにする。


八丈富士の山頂付近。中央が火口丘で、左手の高い部分が山頂。「お鉢めぐり」とは、この外輪山を一周すること。

山頂に行くだけといったって、これがけっこう大変。やはり低木や草が生い茂って足元がものすごく見づらい。
それでいて岩の並びはかなり凹凸が激しく、どう歩けばいいのかわからなくなることもしばしばだった。
僕としてはニシマッキーが頂上まで来られないかもしれないということで、根性フルパワーで突き進んでいく。
そうして夢中で足を動かしているうちに、どうにか山頂へたどり着くことができたのであった。

  
L: あらためて山頂と反対側(上のパノラマ写真の右手側)の稜線を眺める。こんなところを歩くなんてありえない……。
C: ついに八丈富士の山頂に到着。しかしまあ、なんだかんだでいろんな山に登っているよなあ。高所恐怖症なのに。
R: 山頂より底土港周辺・三根の集落を眺める。さっきまでの雨が信じられない。晴れて本当によかった……。

僕の使っている携帯電話はauである。auはソフトバンクほどではないがドコモに比べて弱っちく、
地方ではたまに使えなくなることがある。この八丈島では、宿ですでにヘコ1(アンテナ表示1本)という状況だった。
しかし! あろうことか、この八丈富士山頂ではバリ3だった。さっきパノラマ写真を撮ったところはヘコ1だったのに!
いったい山頂のどこにアンテナが隠されているのだろう。山頂を示す石柱がアンテナなんじゃねーの、
なんて思いつつニシマッキーに電話して山頂に着いたことを報告。するとニシマッキーももうすぐ着くとのこと。
すると確かに僕がさっき歩いてきた場所にニシマッキーが現れたではないか。いやーよかったよかった。

 
L: ニシマッキー参上。  R: 山頂から中央火口丘を眺める。緑の中に雄大な裂け目が走る。日本とは思えない光景。

山頂にてニシマッキーの到着を待つ。そしてニシマッキーが最後の一またぎをする直前、
「じゃ、時間もないし戻ろうか」と声をかける。「ええー!?」と叫ぶニシマッキー。もちろん冗談である。
ふたりでこれでもか!というほどしっかりと目の前に広がる景色を記憶に焼き付ける。
火口側を見てもものすごい迫力だし、八丈島の中心部側を見ても絶景。これは本当に見事としか言いようがない。


あらためて、八丈島の中心部側をパノラマ撮影。カメラの性能の関係上、視界が狭められているのが悔しい。

午前中のことを考えるとまさに天国のようだ。大いに満足して下山を開始。
行きは非常に苦しい道だったが、帰りは比較的スムーズ。テンポよく下りてフェンスのところを抜けると、
意気揚々と原付にまたがる。八丈富士を下りてしまえば、もうあとは空港へと向かうのみ。
このレンタバイクのお世話になるのもあと少しということで、ちょっとだけセンチになりつつ坂道を下っていった。

「ニシマッキーさん、もうバイクは十分堪能しましたかね?」「ええ」と会話を交わして空港へ入る。
原付という乗り物は、すっかり慣れてしまえば面白くってしょうがない乗り物なのであった。
そりゃあヤンキー中学生もハマるわ。初日に自転車で苦しんだだけに、エンジンの偉大さを痛感した。
また機会があったらブイブイ言わせてあちこち走りまわりたいものである。レンタバイクにして大正解だった。

 
L: バイクにまたがる姿を記念撮影。楽しゅうございました。  R: 八丈島空港。

レンタバイクの鍵を返すと、残りの時間は土産物屋で過ごす。八丈牛乳をまた買って飲んだ。
それから来月結婚式を挙げるみやもりへの土産ということで、くさやを購入。

さて飛行機は八丈島を離陸すると、あっさりと1時間ほどで羽田空港に到着。
往路で11時間かけたことを考えると、飛行機ってのは本当に反則だと思う。
お疲れさんでした、と挨拶をして京急蒲田で降りる。旅ならではの爽やかな疲れを感じつつ、
なんとなく夢見心地で商店街を歩いて帰った。ニシマッキーさん、素敵な旅をありがとうございました。


2009.8.23 (Sun.)

八丈島の2日目は、ひたすら海で遊ぶことにした。午前中はシュノーケルなしのシュノーケリングをやるのだ。
ニシマッキーと底土港すぐ隣の海水浴場へ行き、準備運動もそこそこにさっそく泳ぎだす。
僕は沖縄旅行(→2007.7.23)の際に買っておいた水中メガネとデジカメ用の防水パックを用意してザブリ。
少し進んでいったところには岩にサンゴがいっぱい張り付いていて、とにかく魚がいっぱい。
沖縄の海よりもずっと種類が多いことに驚いた。夢中でデジカメのシャッターを切って過ごす。
それにしてもやはり、シュノーケリングはシュノーケルがないと実につらい。いちいち息継ぎするのが大変だ。
沖縄でそう実感したはずなのに、学習能力がなくて困る。次にやるときには絶対用意しておこうと思った。

  
L: 底土港の海水浴場。まさかこんなところに魚がウジャウジャいるとは思わなかった。
C: あっちを見てもこっちを見ても魚が泳いでいる。  R: なんとまあ派手なカラーリングだこと。

  
L: ウニの一種・ガンガゼと青い小魚。ガンガゼの棘は刺さりやすい上に有毒なので要注意なのだ。
C: これまたいかにも熱帯な魚である。  R: 泳ぐニシマッキーの図。

  
L,C,R: しかしまあいろんな種類の魚がいるもんだ。人間の暮らすこんな近くにこれだけいるのが信じられない。

  
L: 魚は頭を上に、尻尾を下にして考えるので、手前で泳いでいる魚は横縞なのであります。
C: やたら速く泳ぐ魚が群れをなして行く。  R: 波をものともせず、ずーっと同じ位置で浮かび続ける魚。

シュノーケリングは本当に飽きない。時間が経つのを忘れて魚を追いかけて過ごす。
でも空腹には勝てず、海の家で軽く昼飯を食べるといったん宿に戻る。

午後はいよいよ体験ダイビングである。「せっかく八丈島に来てるんだからやるぞ!」ってことでやることになった。
ダイビングショップのおやじさんが宿まで車で迎えに来てくれたので、乗り込んでいざ出発。
ふたりっきりでのチャレンジというのが非常に残念だったのだが、こればっかりはしょうがない。

ショップに着くと、まずは基本的な講義を受ける。きちんと聞かないと命に関わるのでそりゃもう真剣に聞く。
それが終わるとレンタルのダイビングスーツに着替えるのだが、ここでトラブル発生。
体格的にLサイズのスーツを選んだところ、上半身はすんなり入ったのだが下半身がまったく入らない。
太もものところでつっかえて、そこからスーツがまったく上がらないのだ。これには参った。
それでLLサイズに替えたのだが、これまた太ももでつっかかる。ニシマッキーはLLサイズを余裕で着ているのに。
汗だくになって握力全開で引っぱり上げてどうにか完了。僕はそんなに異常な体型なんだろうかと悩む。

着替えると車でダイビングのポイントに移動。初めてということで凝ったことはせず、素直に近場の港に潜ることに。
底土港からすぐ北の神湊(かみなと)漁港に到着すると、スクーバ・タンクを背負って記念撮影である。

 緊張気味の僕と余裕の表情のニシマッキー。

初めてのダイビングということで、無理せずデジカメは置いていくことになった。少し残念だが、しょうがない。
カニがワサワサと歩いているコンクリートの斜面を進み、ゆっくりと海へと入っていく。
スクーバ・タンクの調子は非常にいい。水中なのに、まったくそのことを気にせず呼吸できるのはいい気分。
しかしすぐに耳の奥が痛くなる。習ったようにやってみたのだが、どうも耳抜きがうまくできていないようで、
まるで緊箍児(きんこじ)を締められた孫悟空のような気分になる。痛いのだが、逃げようがない。
何度も何度も鼻をつまんで唾を飲んだり鼻腔の気圧を変えてみたりするのだが、どうもうまくいかない。
対照的にニシマッキーはさっさと耳抜きを済ませてスイスイ。自分の要領の悪さに悲しくなる。
で、どうにかあれこれやっているうちに小康状態になったのでダイビングを続行。
その後も何度か耳抜きをやってごまかしごまかし潜るのであった。一度でビシッとできる方法を知りたい。

さて潜ったのは漁港だったのだが、これが意外となかなか面白い。
天気があまり良くなく水中の景色はそれほど美しくはなかったのだが、とにかく生物がいっぱいいるのだ。
魚はもちろん、ニシマッキーがワタリガニを捕まえかけるなど、豊かな生物相を存分に堪能することができた。
この季節には珍しいというイカの卵も発見。こういうものをじっくりといろいろ観察できたのは初めてだ。
ダイビングでは深く潜るほど体が安定して動きやすくなる(そのかわり耳抜きの必要がまた出てくる)。
逆にそれほど深くない場所では体が浮き上がって非常にコントロールしづらい。これにもかなり苦戦した。
おやじさんによるとこれは慣れの問題だそうだ。初めてだったらできなくって当たり前だそうで。
でも、水中で上下を気にせず宇宙空間のように遊泳できる感覚を少し味わうことができた。新鮮な感覚だ。
きれいな海で耳抜きを気にせず自由に体をコントロールできるようになれば、これは絶対に面白い。

時間が経つのがけっこう早かった。悪戦苦闘している時間が長かったのでなおさらだろう。
でも初めてのわりにはダイビングの醍醐味にそれなりに触れることができたと思う。
何年後になるのかはまったく見当がつかないが、機会があればまた挑戦したいものだ。
(着るときに悪戦苦闘したダイビングスーツだが、脱ぐときにはそれ以上に悪戦苦闘した。
 シャワー室でのた打ち回る僕を見てニシマッキーは爆笑。次回はこの点もどうにかせんといかん。)

宿に戻ってからもボーッとしているのはもったいないってことで、再び底土港の海水浴場へ。
やっぱり午前中と同じようにシュノーケリングして過ごす。雨が降り出したが、気にせず魚と戯れる。
しかし先ほどと比べると非常に波が強くなってきていて、どうも浮いていると流される感じがする。
そのうちかなりの速さで北へと流されるのが体感できたので、ニシマッキーと相談して海からあがることに。
最後は波が強いわ高いわでけっこう怖かった。もう少しモタモタしていたら危なかったかもしれない。
魚たちは平気でも、人間たちは臆病なくらいがちょうどいいのだ。

晩飯を宿でいただくと歩いて酒と夜食の買い出しに出る。島とはいえ商店の品揃えは充実していた。
もうちょっと港に近いところに店があってもいいのになあ、と思うのだが、いかがなものなのか。
宿に戻るとテレビを見つつ酒盛り。林間学校の下見(→2009.6.17)の際に買った土産をつまみに出す。
信州名物・ざざむし(カワゲラやトビケラなどの幼虫)の佃煮の缶詰である(中身の画像があるけど自粛)。
素人にはわからないだろうが、蜂の子やイナゴの佃煮の缶詰よりも1000円くらい高い高級品なのだ。
食べてみると……やっぱりちょっと砂っぽい。味も少しクセがあり、まあ確かにこりゃ虫だな、と。
ニシマッキーの箸が途中で止まったので、あとは責任を持って僕が食べましたとさ。
ところで商店では八丈島で育てている牛の牛乳を売っていたので迷わず購入。けっこう濃くておいしい。
地方牛乳マニアに片足を突っ込んでいる僕としては、かなり満足度の高い牛乳だった。

 経営的にはいろいろ大変みたいだが、味は確か。がんばってほしい。

今日も存分に八丈島を堪能した。海は楽しいですなーハッハッハ、などと言いつつ今宵も更けていった。


2009.8.22 (Sat.)

朝5時に船内放送が入り、三宅島に着いたことを知らされる。
しばらく座席でボンヤリしていたのだが、妙な匂いがすることに気がついた。これは硫黄だ。
隣のニシマッキーと顔を見合わせる。雄山の噴火は2000年のことだが、今もまだこれだけのガスが出ているとは。
三宅島に入るにはガスマスクが必要だという話を聞いたが、最深部の2等船室にまでガスが届くのだ。納得いく。
ニシマッキーとふたりでデッキまで出てみる。ようやく明るくなりだした空の下、客が下船の手続きをしている。
しばらくして船は三宅島を後にする。それまでに空はすっかり明るくなっていて、ガスの匂いにも慣れていた。
ある程度離れると、三宅島の威容がゆったりと眺められるようになる。雲に隠れて雄山は見えない。
振り向けば御蔵島が丸っこい巨体を海に浮かべていた。あまりに見事で現実感がない。蜃気楼のようだ。

  
L: 午前5時、三宅島にて。硫黄のガスが今も島を包む。  C: 三宅島の威容を眺める。雲のせいで平べったく見える。
R: 三宅島付近から見た御蔵島。島というよりも海坊主みたいだ。茫洋とした海に浮かぶ島ってのは不思議なものだ。

船室に戻って1時間ほどすると、さっき眺めた御蔵島に到着である。やはりニシマッキーとデッキに上がってみる。
すると緑の断崖絶壁が視界に飛び込んできた。そこから舌を伸ばしたようにコンクリートの桟橋がつくられている。
緑の断崖を眺めるが、上の方にちょぼちょぼと建物がいくつかあるだけで、ちゃんとした集落らしきものが見当たらない。
海岸からいきなり山が盛り上がり、それが奥へと続いている。まさに海に浮かぶ山、といった感じがする。
けっこうな数の客が降り、船は港を後にする。御蔵島を半周するように南下していったが、緑の絶壁はずっと続いた。

 
L: 御蔵島港。建物がいくつかちょこんと乗っているほかはすべて緑一色。険しい断崖が島の周囲を包んでいる。
R: 少し離れたところから眺める御蔵島。雲が乗っかって、なんだかハンバーガーみたいである。

さて、八丈島まではここからさらに3時間である。もう一度船内探検をしてから船室に戻った。
船内の客は半分くらいかそれをやや下回るほどしか残っていない。かなり退屈な3時間である。
しょうがないので歯を磨いたりコンタクトレンズを入れたり、身だしなみを整えて過ごす。
それでも当然、時間が余って暇だったので、ガイドブック(ふたりとも同じもの)を並んで読んでみたり。
そうして粘っていたのだが、ニシマッキーが「そろそろ八丈島が見えるかもしれませんよ」と言うので、
デッキに上がってみる。果たして、船の行く先にポコポコポコと山が3つ見えた。八丈島だ!

 
L: ポコポコポコと並ぶ3つの山。左から三原山(八丈島)、八丈富士(八丈島)、八丈小島。
R: 左の写真よりも八丈島に近づいたところ。ひょうたん島のくびれを目指して船は行く。

山が2つあることで、八丈島は確かに三宅島や御蔵島よりも大きさを感じる。
青く澄んだ海をゆっくりと進んで船は港に着いた。左手の三原山は荒っぽく、右手の八丈富士は優雅だ。
好対照な2つの山を眺めつつ下船客の列に並び、11時間ぶりに陸地を踏みしめる。ついに到着だ!
「でも選挙区的には僕は一歩も外に出ていないんだよね」と言ったらニシマッキーは爆笑。
来週には総選挙があり僕の選挙区は東京3区になるのだが、島嶼部も同じ東京3区なのだ。
さんざん見飽きた選挙のポスターを、この旅行中も見知らぬ土地のあちこちで見かけることになるのだった。

 びゅく仙、八丈島に立つの巻。

到着したのは八丈島の東側、底土(そこど)港である。宿はすぐ近所にあるのでさっさとチェックイン。
宿は某理工系大学のダイビングサークルが合宿をするようで、大学生がいっぱいいた。
ニシマッキーは女子大生がいっぱいいるのを見て興奮していたよ。既婚者のくせに生意気な。
荷物を置くとレンタサイクルを借りてさっそく島内探検へと繰り出す。まずは島の中心部を目指してみることに。
意気揚々と自転車をこぎ出したのはいいのだが、島というのは意外と高低差のあるものなのである。
海から勢いよく突き出ている場所だから当然といえば当然だが、忘れてしまいがちな事実だ(→2007.10.5)。
レンタサイクルの変速機能なんてお世辞にも大したものとは言えないわけで、ふたりともヘロヘロになりつつ進む。

神社のある交差点を左折すると、いくつか商店が並ぶ一角に出る。夜に買い出しするときお世話になりそうだ。
脳内地図にチェックを入れてさらに進んでいくと、じっとりとした上りがさらに続く。なかなかの炎天下でつらい。
やがて「大賀郷」という看板が出て下り坂になる。分水嶺を越えたか!と思ったらすぐに八丈町役場。
どうやらこの辺りが八丈島の官庁街にして中心市街地ということになるようだが、風景は完全に田舎のそれ。
「八丈島って……い、田舎やんか!」と僕は驚くが、ニシマッキーは「当たり前じゃないですか。島ですよ」と冷静。
よく考えればそりゃそうなのだが、いやしかし有名な観光地だからもうちょっとトカイトカイしているかと思ってた……。

  
L: 底土港から八丈島の中心部を目指してゴー。島のあちこちではハイビスカスが咲いていてきれいだった。
C: 八丈町役場。潮風の影響で外観はだいぶボロボロになっていたのであった。
R: 八丈島の中心部からちょっと入ったところの風景。八丈富士が雲に隠れて残念である。

八丈町役場の撮影を終えると、とりあえず島を横断しちゃおうぜ!ということで西側の海岸まで出てしまう。
坂を一気に下って西の八重根港まで出ると、北へと針路を変えて南原千畳岩海岸を目指す。
八丈富士が噴火したときに出た溶岩が固まった大地は今も迫力満点。
真っ青な海と黒い大地のコントラストを眺めながら自転車をこぎ、八丈小島が見えるポイントの公園に到着。
溶岩の皺は複雑な模様を描いて広がっている。そこをニシマッキーと歩いて突端のところまで進んでいく。
目の前に現れた八丈小島は「小島」と呼ぶにはふさわしくない鋭い迫力を見せてそびえている。
現在の八丈小島は無人島となっているが、1969年に全島民が完全移住するまでは人が暮らしていたのだ。
1947年の地方自治法施行まで名主制が存続していたり、議会を置かず町村総会を設置していたりと、
いろいろとトリヴィアが詰まっている島なのだ。映画『バトル・ロワイアル』(→2005.6.24)のロケ地にもなったとか。

  
L: 黒い溶岩の広がる南原千畳岩。皺の描く模様がとても複雑。なおこの写真は八丈小島の反対側を眺めたところ。
C: 南原千畳岩より眺める八丈小島。傾斜がきつく、確かにここで暮らすのはものすごく大変そうだ。
R: 溶岩の大地にできた水たまりでたくましく生きるオタマジャクシを発見。生命のしぶとさをニシマッキーと実感。

いいかげん腹が減って限界に近い。南原千畳岩を後にすると町役場付近に戻って飯の食える場所を探す。
運よく営業中の寿司屋があったので迷わず入って島寿司をいただくことに。 八丈島といえば島寿司である。
船旅用の食事として生まれた島寿司は、甘めの酢飯の上に醤油漬けにしたネタを乗せて握ったものだ。
島にワサビなんてないから、カラシを使う。魚のほかに島海苔の握りもあって、実に独特。面白くておいしい。

しっかり食べてやっと落ち着いた。再び自転車にまたがると、宇喜多秀家の墓参りをすることに。
地図を片手に探すのだが、島のスケールは僕らの感覚よりやや小さく、気づかず通り過ぎるなどして苦戦。
小さく出ている案内板を目ざとく見つけ、ようやく墓所にたどり着くことができた。
さて宇喜多秀家を知らないという不届き者のために解説。宇喜多秀家は豊臣政権下の大名で、五大老の一人だ。
関ヶ原の戦いに敗れて流罪となったのだが、彼は歴史上、八丈島に流された初めての人なのである。
秀家以後、八丈島は流人が持ち込む文化とともに発展していった(近藤富蔵も非常に有名な存在だ)。
僕もニシマッキーも戦国バカなので、宇喜多秀家の墓参りはある意味、今回の旅のメイン・イベントである。
ところが困ったことに、秀家の墓は石柱一本と非常に地味で、これまた見つけるまで少し時間がかかった。
しかもその石柱には「浮田秀家」とあり(子孫の苗字は「浮田」となっているようだ)、苔が生して文字が読みづらい。
かぶっていたテンガロンハット風の帽子を脱ぎ(ニシマッキーから「萩原流行みたいですね」と言われた)、
ふたりでしばし黙祷。岡山から遠く離れたこの島で享年83歳の大往生を遂げた秀家の生活を少し想像してみる。

 
L: 島寿司である。もともと味がついているので醤油をつけずにこのままいただく。
R: 宇喜多秀家の墓。かつての大名の墓がこんなに質素なのは流人となったからか。ナムナム。

墓参りも済ませたので、あとはテキトーに気になった場所をまわってみることにした。
せっかく八丈島に来たからにはしっかりと島について勉強しておこうぜ、と八丈島歴史民俗資料館に行く。
この建物は旧八丈支庁舎である。木造の庁舎がまだ残っているのは貴重なのである。
入館料を払って中に入ると、非常にゆっくりじっくり展示を見ていく。うちわを貸してくれるのが面白い。
係員の人がいかにも昭和テイストなビデオを再生してくれたのだが、ふたりですっかり見入ってしまった。
展示されている資料は歴史的なものからかつての生活用品まで実にさまざま。
驚いたのが諏訪湖周辺の黒曜石の石器が黒潮を越えて八丈島まで来ていたこと。人間ってすごいものだ。
あとは八丈島の名の由来にもなった「黄八丈」についての詳しい展示があった。
八丈の大きさがある草木染めの絹織物・黄八丈は、年貢として納められていたとのこと。

  
L: 八丈島歴史民俗資料館の入口。建物的には側面になる。  C: 廊下の様子。木造庁舎ということで僕は興奮。
R: かつての庁舎の正面玄関は、今は中庭に面するレイアウトとなっている。

 正面玄関の床に埋め込まれたサンゴ。

資料館で勉強して八丈島のだいたいの見どころがあらためて把握できたので、大賀郷をもう少し回ってみる。
奥まった集落は見事な玉石垣で囲まれていて、本州にはない独特の雰囲気を醸し出している。
室町時代末から島の政治の中心地だったという陣屋跡にも行ってみたのだが、完全に何もなくて唖然。
ただ雑草が生い茂っているだけの空き地で、あまりの状況に僕もニシマッキーも言葉を失うのであった。

  
L: 玉石垣で囲まれた集落。びっちりと、まったく隙間なく石が積まれており、これはすごいと驚くしかない。
C: 玉石垣をクローズアップ。  R: 陣屋跡。これはひどい。案内板がなかったらどうしょうもない。

陣屋跡からちょっと奥に進んだところにあるのが、ふるさと村。昔の住居を復元して公開したものだ。
入るのは無料どころか、中にいるおばちゃん2名が応対してくれて、お茶と塩でゆでたジャガイモを出してくれた。
おいしくいただきつつ「今朝来たんですよー」「台風が来なくてよかったですねー」と雑談。ものすごく和んだ。

 ふるさと村。のんびりした島の姿に触れるには最高の場所と思われる。

すぐ近くの為朝神社にも行ってみる。平安時代末に暴れまわった源為朝は伊豆諸島に流されたが、
八丈島にもその伝説が残っているのだ。でも訪れてみると為朝神社はものすごく小規模だった。
賽銭箱すらない有様で、ふたりでがっかりするのであった。観光名所が基本的にどこも小規模なんだよなあ……。

 為朝神社前で次はどこに行くか途方に暮れるわれわれ。

いったん底土港に帰って一休みすることに決めた。でもふつうに帰っても面白くないので遠回りをすることに。
島の東側を回って帰るのは自転車だとめちゃくちゃキツそうなので、西の八丈富士側を回っていく。
中心部にいったん戻って飲み物を買ってから空港の南、八丈高校前を抜けていく。野球部が元気に練習中だ。
まさか将来ここに赴任するとかないよな、と思うのであった。やはり島嶼部というのは特別だと思う。

標高はゆっくりと上がっていき、南原千畳岩を遠く見下ろす位置まで来る。交通量はきわめて少ない。
八丈小島が頭に雲を乗せているのが見える。逆光でその姿は影になっているが、鋭いシルエットは変わらない。
さらに進んでいくと周囲に家はポツポツとわずかに点在するのみになる。すっかり物悲しくなってしまう。
右手には山、左手には海。海までの斜面にはひと気のない別荘が何軒もあった。
走っても走っても風景は変わらない。それでもガマンしてペダルをこいでいると、真っ白な大越鼻灯台が現れた。
近くに展望台があったので寄ってみて写真撮影しつつ一休み。だいたいこれで八丈富士のふもとを半周である。
八丈富士側の山肌にはアロエ園がつくられていたが、アロエは完全に野生化していて繁殖し放題だった。

  
L: 八丈富士の麓を爆走しつつ眺める八丈小島。  C: 展望台から見た大越鼻灯台。  R: 八丈富士山頂を見上げる。

気合を入れ直して再びペダルをこぎ出す。やはりしばらくはさっきと同じような景色が続いたが、
突然、上り坂が多くなる。道幅もいきなり狭くなり、ニシマッキーは青色吐息。レンタサイクルじゃもう無理だ。
でもふたりとも意地っぱりなので、根性で先へと進んでいく。道はひと気が完全になくなり、山の中といった感じに。
ホントに意地だけでペダルをこぎ続けたら、視界が晴れて左手に海が再び現れた。道もまっすぐになり、
あとはもう三根(みつね)の集落に出るだけ、という状況になった。こうなるともう余裕である。
無事に底土港の海水浴場に出ると、すぐ近所の宿へと直行。テレビを見て一休みするのであった。

夜になり、メシを食いに外へ出る。自転車にまたがり八丈島の名物料理が食べられる店まで坂道を上っていく。
島の焼酎を飲みつつ刺身、くさやなどをいただく。調子に乗って大量に注文して苦しみつつも勢いよく食べる。
八丈島のくさやは匂いがソフトだと言われる。確かに匂いはきつくなく、食欲にはまったく関係してこない。
かなり細かいところまでつついて食べた。ふつうにおいしい干物じゃん、という印象である。
でもやっぱり、くさいもんはくさい。くさやを押さえていた左手の指の匂いを嗅いだら、思わずうなり声が出た。
「これってちょっとした毒手だよな!」なんて言ってニシマッキーと大笑いした愉快な夜だった。
(最近の中学生にはこういう小粋な『男塾』トークが通用しなくって悲しい。)


2009.8.21 (Fri.)

今日の研修は消防署の人を呼んでの号令のかけ方についてと、宿泊研修の準備。
号令のかけ方はイベントスタッフとしてバイトをしていたときのことを思い出して面白かった。
上意下達の指揮系統に入ることと身体のふるまいや訓練の関係がやや軍隊っぽく(軍隊は究極形である)、
人間(というか生物)の社会性ってのは突き詰めるとこうなっちゃうんだよなあ、とあらためて思うのであった。
僕のような反社会的な要素を多分に抱える人間には、これはちょっと悲しい現実でもある。

さて宿泊研修だが、これは初任者を対象に毎年行われる恒例の行事である。
3日間泊まり込みでみっちり研修をやることで効果を上げたり参加者の連帯感を高めたりという狙いがあるそうな。
宿泊研修中は基本的に班行動で、小学校の先生方に女性が多い都合上、うちの班は女3人に男が僕ひとり。
客観的にみればこれは思わず鼻血が噴き出てしまうようなシチュエーションかもしれないが、
甲斐性もやる気もない僕にしてみればやりづらさの方が大きい。まったく損な性格に生まれてきたものだ。

さっそく班に分かれて、まずはバスレクの打ち合わせ。バスレクとはバス移動の際のレクリエーションのこと。
面倒くさいのでテキトーに相槌を打って済ませようと思ったら、ひとりの先生が「私、タモリのマネをしたい」と言う。
ふつうそういう演出ってレクの内容が決まってから考えることだろ、とびっくりしたのだが、
それはつまり僕が進行役をやらされる可能性がゼロになるということなので歓迎して話を合わせていく。
頭の回転の速さにモノを言わせて「じゃあテレフォンショッキングをやりましょう」と提案し、
あっという間にレクの内容が固まっていくのであった。僕はSEの録音係におさまった。こりゃ楽チンである。

続いて宿泊研修の3日目に行われるディベートのチームに分かれて話し合い。
これまで研修のいろんな役割分担からはずれていてこりゃラッキーとひそかに思っていたら、
ここにきてディベートリーダーという重責が無印だった僕に課せられることになった。しまった!
ディベートは僕らの勤務する区の各教育政策について賛成・反対で議論するということで、非常に面倒くさい。
とりあえず今日は、各テーマの賛成・反対の論拠をブレインストーミングでほじくれるだけほじくり出すことに。
ブレインストーミングなら時間をみてテキトーに仕切りゃいいだけなので楽勝である。
テンポよく意見が出るようにあれこれ水を向けて過ごしていたら「手際のいい進行ぶり」と褒められた。……あれ?

夜になり、いよいよ八丈島へ出発である。
いつものHQS同期で島へ行こうねという話になっていて、今回ついに八丈島旅行が実現したのだ。
が、HPなどを駆使してスケジュール調整をしたにもかかわらず、参加できたのは僕とニシマッキーの2名のみ。
結局、男の二人旅になってしまったことで掲示板でキレたこともあったが、まあ諦めるよりほかない。
それより問題はパソコンが壊れたことだ。今後いくらお金がかかるのか予測がつかない。
猛烈にヘコみつつも、八丈島には行かないと損してしまうので、電車に乗って竹芝桟橋を目指す。
そう。今回の八丈島旅行では、往路はわざわざ船で行くことにしたのだ。
ニシマッキーも物好きなので、二つ返事で了承してくれた。もうとことん、面白がるしかない。

ゆりかもめを降りて竹芝桟橋に到着すると、さすがに夏休みのシーズン中ということで人がいっぱい。
出航時刻の22時20分まではたっぷり時間がある。ニシマッキーと合流すると晩メシを食って心を落ち着かせる。
パソコンが壊れた件をニシマッキーに慰めてもらいつつ、のんびりダベったり酒を買い込んだりするのであった。

頃合をみて列の最後尾に並び、船に乗り込む。万が一、船が事故に遭った場合に備えて、
乗船前にチケットに名前を書く。こういうことは初めてなのですごく新鮮だった。
僕らが乗った船の名前は「かめりあ丸」。カメリアとは椿のことだから(学名はCamellia japonica)、
おそらく本来は椿の産地として有名な伊豆大島への航路で使われる船なのだろう、なんて話をする。
今回は2等の椅子席ということで、感覚的には夜行バスでの旅行とあまり変わらない。

 
L: 竹芝桟橋に停泊するかめりあ丸。ノルウェーの国旗みたいな東海汽船のマークがよく目立っている。
R: 2等船室内の様子。さすがに夜行バスに比べれば十分リクライニングで、特につらいことはなかったよ。

出航してしばらくしてから、ニシマッキーとデッキに出て東京湾の様子を観察する。
夜の海は現在位置がまったくつかめない。今の自分たちがどの辺りにいるのか、まったく見当がつかないのだ。
そして東京湾の中にいると360°ぐるっと明かりがあって、出口がどこになるのか本当にわからない。
観音崎(横須賀)と富津岬の間を抜けて浦賀水道に出るまで、その状態はずっと続くのである。
それにしても夜の海は怖い。間違って落ちてしまったら、湾であっても生きて陸地に戻れる気がしない。
『太平洋ひとりぼっち』の堀江謙一がどれだけ偉業だったか、あらためて実感するのであった。寛平さんも偉い。

いつまで経っても東京湾から出ないので飽きてしまい、軽く船内探検をしてから2等船室に戻る。
消灯時刻になって船室内は文字どおりの真っ暗になってしまったので、おとなしく寝た。


2009.8.20 (Thu.)

今日と明日は研修なのである。今日の午前中は情報管理について。午後は人権教育について。

午後の人権教育では実際に東京都の食肉処理施設を訪れて説明を聞いた。
牛や豚を食肉として加工する過程は、考えてみると確かにブラックボックスに追いやられているところがある。
根底には仏教をとおした日本の宗教的な倫理観があるとのこと。個人的にはピンとこないが、
まあそう言われているからにはきっとそうなのだろう。人間に比較的近い大きめの哺乳類を解体するのは、
やはり何か特別なハードさを感じてしまう。でもその感覚を取り除くことが大切だという話を聞いた。
僕は毎年秋になると自分でサンマをさばいて焼いて食べる習慣があるので(→2005.10.172007.9.12)、
食肉加工はその延長線上にすぎないことをわざわざ訊いて確かめちゃったよ。でもおかげで納得がいった。

ここからは完全に余談。
捕鯨について少し考えてみたい。僕らはクジラを動物であると同時に食材として見ることが、ある程度できている。
(牛や豚などについても同じようにそれができるようになれば、上記のような問題は起きなくなるのだろうが。)
反対派は、クジラは食材だとしても、痛みを知覚できる動物に痛みを与えて殺すことを残酷だとして反対するようだ。
その辺の倫理観ってのはどうなんだろう。一神教と多神教の差なのか、日本人だから気にしないのか。
苦痛を与える処刑とそこからの処罰の変容についてはM.フーコー『監獄の誕生』(→2008.2.27)に詳しい。
彼らの感覚からすれば、苦痛を与えることは純粋に「罰」だとしか思えないのだろう。だから捕鯨を残酷と言う。
(切腹を「ハラキリ」と呼んで珍しがっていたのは、自分たちの発想にはまったくなかった死刑の方法だからか。)
死という結果が同じなら過程にそれほどこだわらない日本人には、その辺の「刑罰の計算」はどうもピンとこない。
(禁固やら懲役やらでは数値化された時間が刑罰の軽重を決める。同じように死刑の方法も数値化されていた。)
とりあえず僕は捕鯨反対派は嫌いだ。自分たちから「残酷でない捕鯨の方法」を提案せず捕鯨を規制するのは、
ただ単に白人の価値観を押し付けているだけのように思う。生命の奪い方に数値化された罰の意識を持つことは、
ここまで書いてきたように、僕には理解できないことではない。でもその倫理観にのっとった対案を出さない限り、
自分たちの立場だけを優先してレベルの高い建設的な解決を拒否しているようにしか感じられない。

この日、深夜になって、いきなりパソコンが壊れた。
調子が悪くなったので再起動しようとしたら、エラーメッセージが表示されてそれっきり。
リカバリしようとしてみたものの、途中でストップしてしまう。ジ・エンドである。
ハードディスクの中には貴重なデータがワンサカ詰まっていたのだが、アクセスすることなど当然できない。
ノートパソコンは一瞬にして開けることのできない宝箱となってしまったのである。愕然とする。
でも悩んでいても事態は解決しないので、とりあえず放っておいて寝る。


2009.8.19 (Wed.)

日直をやる。日直ってのはつまり、つねに職員室に待機して何かあったときに対応する、そういう仕事だ。
頃合をみて見回りをしたり、校内の人の出入りを把握したり、そういう仕事もあるが、基本的には待機。
で、何事もなく平穏無事に終わった。よかったよかった。


2009.8.18 (Tue.)

政権交代を焦点にした選挙がだいぶ近づいてきて、テレビはあれこれ盛り上がっている。
毎回選挙のたびに思うのだが、本当に投票率を上げたいのであれば、思い切った工夫が必要である。
僕が考えているのは、当選した国会議員の歳費は、その選挙の投票率に応じた額にするというもの。
つまり、「本来の歳費×投票率=実際にもらえる歳費」にしちゃえ、というわけである。
こうすれば議員の皆さんは投票率を上げるべく、わかりやすい活動を必死でやるんじゃないか。
投票率が低いことを期待するような不届きな政党など許されないのである。
前にも書いたことがあるけど、投票率はテレビで言えば視聴率に当たると思うのだ(→2007.2.23)。
政治に注目を集め、関心を高めるためには、これくらい面白いことを実行してもらいたい。


2009.8.17 (Mon.)

東京に戻ってくる。地元での怠惰な生活が終わり、また都会での一人暮らしが始まる。
僕は基本的に家でのんびりするのが苦手というか下手なので、東京の一人での生活が嫌いではない。
ただ、人と別れてから家で一人だけになる状態というのは、これはかなりイヤなものだ。
おとなしくメシ食っておとなしく風呂入っておとなしくパソコンいじっておとなしく寝るだけ。それしかできない。
まあ、これをうまく紛らわせることができるようにはなりたくない、という気持ちもある。
人間の心理とは難しいものだと思う。なんだか他人ごとのように書いちゃっているけど。


2009.8.16 (Sun.)

久々にベルディのピザを食ったのであった。ウチのオヤジは毎回デジカメでピザの写真を撮影しているのだが、
1枚目はその全容を撮影できても、そのうちに食べる方に夢中になっちゃって写真を撮り忘れてしまう。
今までに出てきたピザの写真をコンプリートできたことがないという有様だったのだが、
今回は僕が「ほら写真!」と声をかけて無事にすべてのピザを撮影することができたのであった。
よかったですな!


2009.8.15 (Sat.)

昨日の夜に続いて、本日は昼にモゲの会が開催されたのであった。
相変わらずマイペースな「まる」こと丸山さんの代わりに、今回はトシユキの嫁さんが参加。
これはつまり、僕とバヒサシさんの僻みや悪ふざけが制限されるということである。うーん僕らってオトナ。

まずは、まるの実家であるパン屋併設イタリア料理屋で昼メシをいただく。
バジリコだらけのパスタが旨いのである。あれこれダベりつついろいろおいしくいただくのであった。
それにしても、まるの弟さんはまるに似てきたように思う。それでいてしっかりと厨房で働いている。
外見的にまるだと、かつてのまるが持っていた不潔なイメージが思い出されてしまうのだが(失礼)、
そういう負のイメージ(失礼)とは正反対の仕事ぶりを見せられて、立派ですなあと感心。

その後はトシユキ家の車とバヒサシ車に分乗してアップルロード方面へ。
もちろん僕はバヒ車の助手席でバヒさんとろくでもないことを話して過ごしたよ!
さて、最近の飯田では、名古屋から進出してきた「コメダのコーヒー」が人気なんだそうだ。
もともとバヒさんは名古屋の近くに住んでいた時期があり、喫茶店にもハマっているのでいろいろ詳しい。
それでみんなで行ってみようということになったのだが、お盆の土曜日で入れず断念。
これは非常に悔しい。そんなに人気ならぜひとも入ってみたかったのだが。
仕方なく近所のオシャレなカフェというか料理屋に入ってみんなでダベった。

まあ、これはこれでいいとは思うんですけど、以前のようなハジケたモゲが恋しいのもまた事実。
妙琴原で白衣を着てカレーをつくったり、田切川のプールから自転車で走り回ったり、
治部坂の山小屋でスキーをやってそのまま気がつけば名古屋にいたり(しかもトシユキさん急病)、
そういうような企画が再び展開されることを期待しております。他力本願で申し訳ないけど。


2009.8.14 (Fri.)

いよいよ本日はこの旅行の最終日である。鉄道でそのまま飯田まで南下してもいいのだが、
松本は去年訪れたばかりだし(→2008.9.9)、諏訪湖周辺もわりとよく来ているし(→2008.9.6)で、
それはあんまり芸がないような気がする。無理のない範囲でもうちょっと妙なルートを模索したい。
……というわけで思いついたのが、奈良井宿だった。家族でいずれ行こうぜなんて話になっていた場所だが、
なかなか実現する気配がなかったのだ。そこで今回、奈良井宿で両親と落ち合うことにしたのである。
そういうわけで、塩尻まではまっすぐ南下するものの、そこから木曽谷に入るという無茶を敢行。

 5日かけて帰省してみる2009・5日目: 長野→塩尻・奈良井(→飯田)

しっかりと寝て元気が回復したので、さすがに今日は権堂から長野駅まで歩いた。
いずれまた、今度は県庁所在地めぐりを目的としてこの街を訪れることになる。
モタモタしていると長野市役所の建て替え計画が進行してややこしくなるので、なるべく早く来たいと思う。

7時半過ぎ、長野駅を出発する。川中島の古戦場を抜けると篠ノ井駅で、ここから篠ノ井線だ。
長野と松本という長野県きっての大都市を結ぶ路線名に地区名の「篠ノ井」が今も残っているのは、
なかなか奇跡的なことなんじゃないかと思う(かつて篠ノ井市があったが、1966年に長野市と合併)。

さて、篠ノ井線といえば何と言っても、日本三大車窓の一つである姨捨駅からの眺望だろう。
篠ノ井駅を出て稲荷山駅を過ぎると、電車は傾斜を上りはじめる。山地に沿いつつカーブを描き、
林を抜けると左手に善光寺平こと長野盆地が広がる光景が目に飛び込んでくる。これには息を呑んだ。
やがて電車はスピードを落とし、完全に止まる。すると今度は逆走。姨捨駅にはスイッチバックで入るのだ。
ここでしばらく停車。物好きな人々がカメラを手にしてホームに出て、目の前に広がるパノラマを撮影する。
太陽の光をいっぱいに浴びて、緑の濃淡が輝いて見える。これは本当に美しい。心を奪われた。

日本三大車窓というのは伊達ではなかった。たっぷりと停車時間をとった電車が走りだす。
すぐに山の中に入ってしまい、善光寺平はあっという間に視界から消えてしまった。
トンネルを抜けると麻績村・筑北村(坂北など)で、この辺りはいかにも標高の高い田舎といった風景である。
再びトンネルを抜けると今度は犀川。まっすぐ南に下ると松本に到着。南信出身にはひどくあっさりに感じた。
今日は移動距離が短いので、青春18きっぷを使わない方が安く済む。だから松本駅の改札は抜けられない。
ホームの売店で飲み物を買ったり音楽を聴いたりして時間をつぶすと、甲府行の電車に乗り込む。

塩尻駅で降りる。塩尻という街もろくすっぽ来たことがないので、ちょっと歩いてみることにするのだ。
塩尻市は東京からの中央本線と名古屋への中央本線がぶつかり、さらに松本や長野へと続く篠ノ井線もある、
長野県最大の鉄道交通の要衝と言える場所である。地図を見れば、きれいに120°ずつで線が引かれている。
塩尻駅の東口に出る。ロータリーは大きめだが、とっても閑散としている。駅の近くに土産物屋が1軒あるくらい。
駅からは市役所に向けて幅の広い道がまっすぐに引かれている。周囲は完全に住宅街で、とても静か。
交通量もほとんどなく、拍子抜けする。交通の要衝とは、通過点ということなのだ。

 何もないぞ塩尻。

そうこうしているうちに塩尻市役所に着いたので、さっそく撮影。敷地には木が多く、撮影がしづらい。
奥には交通の要衝の街らしく、D51が置かれていた。レールも敷いて、駅名標も立てて、ちょっと凝っている。
裏手にまわり込んでみると、非常に広い駐車場になっていた。今度は非常に撮影がしやすい。
敷地の北西には本庁舎に比べるとずいぶん質素な北庁舎がポツンと独りたたずんでいる。
これらの面をみると、塩尻市役所は非常に「日本の市役所」らしい特徴を持っているなあと思う。

  
L: 塩尻市役所。正面には緑に囲まれたオープンスペースがつくられている。
C: 交通の要衝らしく、敷地の奥にD51がある。  R: 裏手の駐車場から見たところ。

 独り離れてたたずむ北庁舎。島流し感覚がしないでもない。

塩尻市役所探訪はあっさりと終了。駅まで戻ると、今までお世話になったJR東日本からJR東海のホームへ。
いよいよ本日の最後の目的地である奈良井宿を目指すのである。電車内は乗客でいっぱいだ。
平成の大合併で塩尻市は楢川村と合併し、南西に広がった。これにより、中山道の宿場町を5つ抱えるようになった。
奈良井宿はその中で最も南に位置している。今も往時の街並みをよく残しており、観光客が多く訪れる名所だ。

奈良井駅を降りると、あらかじめ連絡をとっておいたウチの両親が登場。
天気は最高、空は真っ青、緑は鮮やか、照り返す地面がまぶしくってたまらない。
奈良井宿は難所である鳥居峠の前にあり、「奈良井千軒」と呼ばれるほど栄えたという。
宿場町の中心部は今もその頃の雰囲気をよく残している。が、少し離れるとわりとふつうの集落もある。
ここに来たからには宿場町らしさを存分に味わって歩くのだ(同じ中山道の妻籠と馬籠のログはこちら →2005.8.16)。

歩いてみると、漆器の店が非常に多い。漆器や曲物は奈良井の名物だという。
民宿や蕎麦屋のほか、小じゃれたカフェもある。旧楢川村が整備したという水場はよく目立っている。
しかしながら、車が平然と道を通っていくのは大きなマイナス点だ。もっと高い意識を持ってもらいたいものだ。
とにかく観光客が多く、どこを歩いても大いに賑わっている。塩尻駅とはずいぶん差のある光景だ。

  
L: 奈良井駅。宿場町ということでか、落ち着いた雰囲気の駅舎となっている。
C,R: 奈良井宿の中はこんな感じ。奈良井川と山に挟まれた細長い土地の両側に、建物が並ぶ。

江戸時代には旅籠だったという徳利屋で蕎麦をいただく。二階建の建物の中は囲炉裏があることでアトリウム状態。
こうして見ると、昔の木造建築ってのは非常にオシャレなものである。あらためてそんな事実を再確認した。

 
L: 建物の中に入ると吹き抜けってのは現代建築にもよくあるが、江戸期にすでにやっているとはねえ。
R: くるみ餅。少し硬めに焼いた餅にくるみのたれがかかっている。よけいな甘さがなく上品。

ようやくマトモなメシを食って落ち着いた。あとは南端にある鎮(しずめ)神社を目指してプラプラ歩いていく。
極めてテキトーにデジカメのシャッターを切りつつ、家族みんなで気ままに奥へと進んでいくのであった。

  
L: 元櫛問屋の中村邸。奈良井宿の典型的な民家造りの家だそうだ。脇に咲いている向日葵がいいね!
C: 上問屋史料館。旅行者のために宿場では馬と人手を用意していたのだが、その事務所だったところ。
R: 木造建築が並ぶ中に突如現れるモダンな建築。一切の説明がなかったのが残念。

  
L: 奈良井川の方から奈良井宿の西側に迫っている山の様子を撮ってみたところである。
C: 鎮神社から見下ろした奈良井宿。  R: カフェの2階から辺りを見下ろすとこうなっている。

宿場を往復すると、奈良井川に架かる木曽の大橋を渡って駐車場へ。
木曽の大橋は、すべて樹齢300年以上の木曽ヒノキで造られているという太鼓橋である。1989年竣工。
売店など商業施設がまったくないのに、一帯はなぜか道の駅になっている。冬の間は渡ることができないそうだ。
なお、駐車場はそれなりの広さがあったのだが、いろんなナンバーの車がびっしりと詰まっていたのであった。

 
L: 木曽の大橋を下から眺めてみた。これはすごい!  R: 渡って国道19号側から振り返る。

電車に揺られてばかりいたせいか、本当に久々に実家の車に乗った気がした。
姥神峠道路と権兵衛峠道路であっという間に伊那谷に出る。本当に便利になったもんだ。これは革命だな!

実家に戻るとお土産の贈呈式である。裏日本横断弾丸ツアー(→2009.7.19)の際に買っておいたものだ。
(勘のいい人はお察しのとおり、僕はそのお土産を5日間背負って東京から山形経由で飯田まで帰ったのである。)
ところで昔、地方の面白いCMを特集する番組があり、それを家族全員で見ていたところ、非常にバカなCMが出た。
外国人の男女が英語で会話を繰り広げるのだが、そんな気取った設定で相手に薦めているのは、地方銘菓なのだ。
たどたどしい発音で告げられるその名は、「どじょう掬い饅頭」。あまりのインパクトに家族全員笑い転げたのだった。
(販売元・中浦食品のホームページには「どじょう掬い饅頭の歴史」として年表が載っており、
 そこに堂々と「1991年 民放主催のローカルCM全国大会で、どじょう掬い饅頭のCMがグランプリを受賞」とある。
 いまだにあの「ドジョースクイマンジュー?」のイントネーションが脳髄に焼き付いていて一向に消えない。
 鳥取砂丘の売店でこいつを買ったときリョーシさんも反応していたので、全国規模でインパクトを残したのだろう。)

というわけで、どじょう掬い饅頭を贈呈。開けて中を見てみたら、なるほどこれは見事にどじょう掬いである。
豆絞りの手ぬぐいは饅頭を包むビニールに印刷されたものだが、目の黒い点は饅頭じたいにつけられている。
包み具合によって手ぬぐいのかぶり具合が変わるわけで、これは洗練された工夫だと思う。
最もベーシックと思われる白餡が入っているものを買ってきたのだが、いざ食ってみると超絶パッサパサ。
飲み物なしではとても食えないシロモノなのであった。しかしデザイン的にはキレまくってるなこれ。

 
L: 僕と一緒に長旅をしてきた「どじょう掬い饅頭」。いまだにあのCMが忘れられない。
R: ナメてかかったら口ん中の水分をぜんぶ吸い取られるぜ! カワイイ顔して意外とやんちゃ。

夕食は父親・circo氏の同級生一家が経営する焼肉店・徳山へ行く。
徳山でモツを食べるというのが実家における定番の外食メニューなのである。
さてこの徳山、circo氏に言わせると「最近はものすごい人気」なのだそうだ。
田舎の大衆食堂の風情を残す店内には肉を焼く煙がこもり、その濃い空気を通して奥にあるテレビを見る、
おばちゃんに焼酎を頼むと余所見をしているにもかかわらずグラスに表面張力いっぱいまで注いでくれる
(しかも焼酎が入っている容器はヤカンだ)、そういった部分がネット時代になり大いに評価されているというのだ。
実際に店は大盛況で、次から次へと客から注文が入る。不景気など少しも感じさせない勢いである。

 
L: 今や予約しないと入るのが大変らしい、大人気の焼肉店・徳山。  R: モツを焼くぜー!! 親子で焼くぜー!!

遠くにあるもの、身近にあるもの、いろんなものの持っている面白さが地道に再評価される時代になっている。
灰色の柔突起がいっぱいついているモツを噛みつつ、そのことをしっかりと実感するのであった。

夜になって、トシユキさん・バヒサシさんと合流。久しぶりのモゲの会である。
ふたりに連れられて、飯田市内の小じゃれたバーに入る。飯田は飲み屋の多さで知られる街であるが、
酒が苦手な僕はふだんそのことを意識することはない。ああ、やっぱりバーがあるんだなあと、それだけで新鮮。

酒を飲みつつ、新婚旅行でスイスに行ってきたトシユキさんの土産話を聞く。
鉄道であちこち積極的に動きまわったようで、見せてもらった画像は鉄道関係のものが多かった。
筋金入りの鉄っちゃんである、まるの協力もいろいろとあったようだ(そのまるは今回欠席)。
しかしながら酒に弱い僕は長旅の疲れもあって、すぐにぐったりしてしまうのであった。ニンともカンとも。


2009.8.13 (Thu.)

新潟の鉄道はごちゃごちゃしていてワケがわからない。地図を見ても何がどうつながっているのかわからない。
時刻表が読めれば多少はどうにかなるのかもしれないが、当方、それすらできないのである。
いつもあらかじめネットで調べたスケジュールに沿って動いているのだが、正直うまくできるか少し不安だ。
それくらい、新潟の鉄道は複雑なのである。それが楽しいという人も多いのだろうけど。

今日はまず、新潟県第2の人口を誇る街である長岡。そこから長野県に入って飯山を訪れ、長野まで行く。
なお、今回は現在挑戦中の県庁所在地ひとり合宿とは無関係ということで動く。
というのも、長野市はそこを目的地としてきちんと訪れたいという思いがあるからだ。
ルート上、長野しか安く泊まれるところがないので、仕方なく長野に泊まるというのが実情である。

7時半には新潟駅の改札をくぐる。よくわからないままで長岡行の電車が来るというホームに立つ。
ぼーっとしていると電車がやってきた。長岡行であることを確認して乗り込む。
どうやら僕が乗っている路線は信越本線というらしい。その名前から察するに、長野県と新潟県を結ぶ路線だろう。
そのまま乗り継いでいくと柏崎を経て直江津まで行くようだ。どこへ行くのが何線なのかわからない僕には新鮮だ。

 5日かけて帰省してみる2009・4日目: 新潟→長岡→飯山→長野

電車は1時間半ほどで長岡に到着する。途中でニシマッキーの故郷である三条市を通過した。
降りていろいろ歩いてみたい気持ちもあったのだが、市役所が遠いので今回は断念した。
さて、長岡駅に着いたのは朝の9時である。長岡も市役所が遠いので、まずは市役所に行っておけば、
戻ってくる頃には街も活気づいているだろう、と計算してさっそく歩きだす。

大手通のまちなか観光プラザで地図をもらい、チェックを入れているときに気がついた。
「平成23年誕生! 『アリーナ』・『屋根付き広場』・『市役所』が一体となったにぎわいの新空間 全国初」
という大々的な看板が出ているではないか。どうやら市街地の活性化策に市役所がくっついて駅前に移るようだ。
後になって調べてみて知ったのだが、もともとここには長岡市厚生会館という体育館があったとのこと。
つい先月に解体が終わったばかりなのだが、石本喜久治設計で1958年に竣工した、個性的な建築だったのだ。
そんな面白いものを見逃してしまって、この日記を書いていてなんだか非常に悔しい気分である。
果たして新しくつくられる「シティホール」は厚生会館を超えることができるのだろうか。注目しておきたい。

  
L: 長岡駅。実はここ、長岡城の本丸跡なのだ。北越戦争(戊辰戦争における長岡での戦い)の激しさがうかがえる。
C: 大手通の厚生会館跡にあった「シティホール」の告知。いったいどんなものができるのやら……。
R: ピンクが市役所、オレンジがアリーナ、水色が多目的ホールと議場。真ん中の緑色が屋根付き広場とのこと。

現在の長岡市役所は信濃川の脇にあり、駅からはかなり離れているのである。
表町の交差点を左折すると、そのまま進む。道は少しずつ折れ曲がりながらも確実に信濃川へと伸びていく。
もともと城下町だったのだが、北越戦争と大戦中の空襲により、長岡の街は道を広くつくり変えられている。
それほど個性のない、閑散とした住宅地が平らな土地に薄く広がっている。

淡々と歩いていると、「市役所通り」と案内板があるのを見つけた。せっかくなので、その道を行く。
ここからが非常に長かった。同じような風景の中をひたすらまっすぐに歩いていくのだ。
不安になって地図を確認するが、まだ着かない、まだ着かないの繰り返し。
やがてスーパーが現れて、その先には広々とした駐車場の中に、いかにもな公共建築が点々と並んでいた。

  
L: 長岡市役所。1977年竣工とのことで、確かにこの時期らしい見事な茶色。  C: 南の市立劇場側から眺める。
R: 裏手の信濃川側から眺める。どの角度から見ても呆れるほど同じ姿である。

  
L: 市役所と市立劇場は、この別棟を介してつながった格好になっているのだ。
C: 長岡市立劇場。1973年オープンで、当時、劇場と名乗る公共施設は東京・国立劇場とここだけだったとか。
R: 長岡市役所幸町分室。市役所通りに面しており、てっきりこれが旧本庁舎だと勘違いしてしまった。

真四角な長岡市役所本庁舎とは対照的に、駐車場を挟んだ向かいの幸町分室は典型的なモダンスタイル。
こいつってもしかして今の本庁舎ができた1977年まで市役所だったのかなと思って調べてみたら、見事に勘違い。
旧市役所は幸町分庁舎ではなく、今は長岡市立科学博物館としても使われている柳原分庁舎だったのだ。
さっき通ってきた道の途中にあった、あの「く」の字の曲線を描いたファサードの建物だったのだ。
市役所本庁舎のことばかり考えていて、さほど注目しないままで通り抜けてしまった。これは不覚。
この日記を書いている今も、愕然としているところだ。自分の目の節穴っぷりがイヤになる。

撮影を終えると長岡駅前まで戻ることにする。さっきと同じ道ではつまらないので南中央通りから行く。
やっぱり長岡は道が広く、いつも慣れている街歩きのスケール感とは少し異なる感覚がする。
大規模なアーケードの大通りが走っているが、路地の中を縫っていくような商店街がなかなか見当たらない。
それはそれで淋しいなあと思っているうちに、さっきのまちなか観光プラザのところまで戻ってきた。
あらためてしっかりと中を覗いてみるが、『天地人』効果で直江兼続関連のお土産が非常に多い。
種類が豊富なのはいいのだが、やはり長岡ならではのグッズで勝負してほしいなあと思う。

さて、まちなか観光プラザの横には路地があり、「長岡城二の丸跡」と看板が出ているので行ってみる。
前述のように長岡城の本丸跡の上にはドデンと長岡駅が鎮座しており、往時の姿は完全に掻き消されている。
いざ路地を抜けてみたら、厚生会館の解体の影響もあってか、今に残っている二の丸跡は非常に狭かった。
申し訳程度に稲荷神社がつくられており、戊辰戦争の幕府側に対する徹底した弾圧を見た思いである。

 
L: シティホールができれば多少はマシになるのだろうが、これは実に淋しい。
R: 長岡城二の丸跡の現在。とても城跡とも神社とも思えないような状態である。

残った時間で長岡市の中心部をいろいろと歩きまわってみることにする。
まず特徴的だったのだが、表町の交差点。ここはもともと、攻め込まれた際の防御を考えて、
十字路ではなくクランク型の交差点「食い違い」だった場所だ。それが解消されたのが2002年。
歩道を拡張しつつオープンスペースをつくって直線化を果たしているのである。かなり豪快な事例である。
(昨日の新発田市の札の辻もこれと同じ。新発田の場合、斜めにショートカットを入れている。→2009.8.12

 
L: まいまい姫の像。案内板に「なぜかたつむりの上に少女が乗っている像なのか、由来ははっきりわかりません」とある。
R: 表町の交差点。道路だった部分が歩道とオープンスペース(左側)になり、新しい道路がその脇(右側)につくられた。

長岡は第二次世界大戦中の空襲で市街地の約8割が焼失したという。
現在の街はそこからの復興によって形づくられているのだが、この道の広さ、スケールの大きさは、
中心市街地の空洞化という問題に直面したとき、ほかの街以上の脆さをさらけ出してるように思う。
残酷な書き方だが、行政の必死さとそれでも埋め切れない空白とのアンバランスが非常に顕著なのだ。
いかにもかつては駅前のデパートだった建物を、「ながおか市民センター」として活用している。
中には人がいるし、街じたいにも人の気配がないわけではない。しかし、埋め切れない歴然としたものがある。

  
L: 国漢学校跡地にある米百俵の碑。しかし空襲の火はその面影を完全に消し去ってしまっており、何も残っていない。
C: 中央分離帯に注目。長岡名物である花火をこんなふうにさりげなくアピールしているのである。
R: ながおか市民センター。2000年に閉店したデパート・丸大をリニューアル。雪が積もらないように工夫された道路標識も要注目。

とはいえ長岡に歴史を感じさせるものがまったくないわけではない。長岡出身の有名人に、山本五十六がいる。
山本五十六の生家を復元している山本記念公園があるので行ってみることにした。
(それにしても長岡は河井継之助といい山本五十六といい、悲運の司令官を生み出す土地なんだろうか。
 河井継之助はただ、歴史に愛されなかった人物だと思う。もうちょっと写真映りがよけりゃ評価も違うだろうに。)

 山本記念公園に置かれている山本五十六の胸像。

どれどれ昔の賢い人はどんなふうに暮らしておっかんだろかと思いつつ、復元した家の中にお邪魔する。
質素な和風の住宅なのだが、中にいきなりさっきの胸像の石膏バージョンが置いてあって驚いた。
勉強部屋だったという2階の部屋は、非常に狭い。また天井も非常に低い。ものすごい圧迫感だ。
自分が名古屋で浪人していた部屋を思い出す。あれと同じ、勉強以外にやることのない部屋だ。
ずっとこんなところにいて勉強していれば、そりゃあ賢くもなるわなあと妙に納得するのであった。

  
L: 復元された山本五十六の生家。  C: 石膏像がものすごく違和感あるのですが。
R: 勉強部屋。これはいかにもご利益がありそうな、強烈な部屋である。2畳!

歩きまわって腹が減ったのでメシを食うことにする。この地域の名物である「へぎそば」をいただくのだ。
へぎそばとは、フノリ(布海苔)という海藻を使った蕎麦である。その盛りつけ方にも特徴があるそうだ。
実際に食べてみるととにかくコシが強い。そしてふつうの蕎麦よりもつるつるとした感触がする。
確かに海藻らしい色はついているが、それが香りに乗っている感じはしない。あくまで蕎麦の一種だ。
全国各地、いろいろと名物があるもんだなあと思いつつ長岡駅を後にするのであった。

 
L: へぎそば。「へぎ(片木)」という器に盛られることからその名がついたそうだ。
R: 長岡駅のバスターミナル。雪除けと思われる屋根の形が非常に特徴的だ。

長岡駅を出ると、まずは上越線だ。上越線といっても上越地方を走っているわけではない。妙なものだ。
(群馬と新潟を結ぶ路線だから上越線ってことになったんだろうか。鉄っちゃんじゃないからワケがわからん。)
小千谷(昔どう読むのかわからなくて悶えたことがある)を抜けて、越後川口で飯山線に乗り換える。

飯山線は戸狩野沢温泉駅が中間地点になるのだが、ここまで行く列車の本数が非常に少なくて困る。
しかし沿線の風景はそれなりになかなか見ごたえがある。新潟県側は水田が多く穏やかな農村。
標高のあるところでも土地の傾斜はきつくなく、しっかりと稲が育てられているのである。
ところが長野県側に入ると景色は鮮やかに変わる。平らな土地はほとんどなくなり、木々が生い茂る。
川沿いに道路は引かれているが、とてものんびりと稲を育てていられるような環境ではなくなるのだ。
この変貌ぶりには思わず笑いがこみ上げてきた。そうだ、僕はそういう長野県で育ったのだ。

列車は戸狩野沢温泉駅が終点である。15分ほどホームで待って、南から来て折り返す列車に乗り換える。
ホームで待っていたのよりも短い時間で飯山駅に到着する。改札を抜けると観光案内所で地図を入手する。
飯山市は長野県で最も北に位置する市だ。最も南の飯田市出身には、名前は似てても非常に馴染みが薄い。
そんなわけで今回は非常にいい機会である。飯山市のあちこちを歩いてみることにするのである。

さて、飯山は「寺の町いいやま」ということで売り出しており、実に22の寺社があるのだそうだ。
それだけ多いとどこに行けばいいのかわからなくなってしまう。中華街でどこで食えばいいのか困るのと一緒だ。
とりあえず「七福神めぐり」というのがあるらしい。7つなら手ごろなので、それを実行してみることにした。
時間のない旅行なのは相変わらずなので、当然、走ってめぐることになる。もはや完全にスポーツ感覚だ。
走りながらも気になったものはデジカメで撮影する。目の前に迫る山にはスキーのジャンプ台がつくられており、
もうすでにその辺の感覚が、同じ長野県でも南信出身者には理解できないところだ。見るだけでも怖い。

  
L: 飯山駅。北陸新幹線の開通に合わせて、今の位置から別の場所に移るらしい。それはちょっと残念だ。
C: スキーのジャンプ台。北信はスキーの本場だとはいえ、当然のようにそこにあるってのが信じがたい。
R: 11もの仏壇店が並ぶという愛宕町雁木通り。さすがは寺の街だけあって、仏壇産業も盛んということか。

まずは寿老人の明昌寺からクリアする。お堂の前には寿老人を描いた板が立っており、なんだかちょっと安っぽい。
続いて大黒天の常福寺、弁財天の本光寺とお参り。寺は通りから少し奥まった位置にあり、石段もある。
これを走ってチェックしていくというのは、地味になかなか大変な作業である。もうすでに汗びっしょりだ。
毘沙門天の大聖寺は、最寄駅で言えば飯山駅のひとつ手前の北飯山駅の勢力圏である。
つまりあっという間に1駅分を走ってしまったということだ。まあ体力自慢としては悪くないペースである。
が、それにしてもさっきから、それほど見栄えのよくない寺ばかりなのが少々気になる。

いかにも田舎の路地を抜けて皿川を渡り、福禄寿の英岩寺へ。案内板によれば鬼小島弥太郎の墓があるという。
あまりにも強いので名字に「鬼」を付けて呼ばれたという上杉謙信配下の伝説の武将だが、
川中島の合戦で重傷を負ってしまい、足手まといだからと自害してここに葬られたというのだ。
奥にある墓場でその墓を探したのだが、あまりにもほかの墓石の数が多くて結局見つけられず。
それにしても土葬の墓場は妙な迫力がありますな……。

恵比寿の飯笠山神社はこの地域最古の神社だという。お参りを済ませると、いよいよあとひとつということで、
地図を広げて残った布袋尊のありかを調べる。しかしなかなか見つからない。妙だなと思って探索範囲を広げる。
そして、見つけた瞬間に思わずよろけた。布袋尊はこの辺りの寺社ではなく、斑尾高原ホテル内にあるのだ。
飯山駅からバスに乗って35分の場所である。この事実に気がついたときには、さすがに頭の中が真っ白になった。
自分がいかに計画性のない人間であるかを、このときほどはっきりと痛感したことはない。

 
L: 英岩寺。鬼小島弥太郎の墓は、この左手奥にある一大土葬地帯の中のどこかにある。
R: 飯笠山神社。飯山城の守護神であり、今も飯山総鎮守として祀られているそうだ。

そんなわけで、七福神めぐりはあと1箇所を残してなし崩し的に強制終了。これには本当に参った。
しかしまあ、今になって冷静に思い返してみれば、特に名物があるわけでもない地方都市の寺をめぐるのは、
それはそれで決して悪いことではない。なぜなら、地元の穏やかな日常に触れることにほかならないからだ。
飯山市観光協会のホームページには「日本のふるさと体感の旅~歩こさいいやま~」というフレーズがあるが、
そのとおり、結果として僕は自然が存分に残る田舎の街の空気を満喫していたのだ。

気を取り直して飯山城址に行ってみる。塀のまったくない住宅街を抜けると飯山城址の正面側に出る。
そこから小高い丘の上にある本丸へと続く坂道を上っていく。途中で復元された門を見かける。
この一帯は武道館や市民会館、児童館などの施設が集まっており、小さな城下町の誇りを垣間見ることができる。
坂を上りきったところにあるのが葵神社。ここが本丸跡だ。少し降りた二の丸跡は芝と草が生い茂っている。
一部分だけ残っている石垣が、静かに過去を物語っている。

  
L: 復元された城門。南中門跡に建つ。飯山城に関係する建造物でこの場所に戻ってきたのは、この門だけである。
C: 葵神社。本丸跡は、この小さな建物が残るのみだ。  R: 二の丸側から眺めた飯山城址の石垣。

飯山城址を歩き終えて、市役所に行くべく麓の小学校の正門にまわり込んだ瞬間、パカッと記憶の蓋が開いた。
「オレは、前にもこの場所に来たことがある!」――唐突に、思い出したのだ。確かに、自分はここに来ている。
飯山駅に降りた瞬間、いや、飯山線のうぐいす色のワンマンディーゼル車両に乗った瞬間、デジャヴを感じていた。
駅前の光景、バスターミナル、まっすぐ東に伸びる商店街にもどこか「以前に見た感じ」を覚えていたのだ。
首をひねりつつも、でもそんなはずはないと疑問を一蹴して必死で歩きまわっていたのだが、ついに思い出した。
オレは1999年、大学3年の夏、HQSの夏合宿で飯山に来ている! しかもその2ヶ月ほど前には下見にも来ている!

1999年、僕は当時HQSの会長兼合宿係をやっており、6月26日に夏合宿の下見に出かけることになった。
下見に行く面子は僕と副会長のみやもり、あとはマサルと後輩のサガの4人だった。
10時4分発の長野新幹線で長野まで行き、飯山線に乗って飯山駅で宿の人の車に拾ってもらう予定になっていた。
が、あろうことか僕は寝坊で遅刻をかまし、下見の予定が完全にメチャクチャになるという事件を起こしたのだ。
独り茫然と飯山駅に降り立ったあのときの記憶が、まるで何分か前のできごとのように鮮やかに蘇る。
(サガがHQS会報に書いた恨み言たっぷりのレポートが非常に秀逸で、今読み返しても申し訳ないけど面白い。
 下見の2日目も僕が超弩級の車酔いになってほとんど何もできず。会報に謝罪文を書く事態にまで発展した。
 ちなみにみやもりと沖縄旅行に行った際、このときのトラウマを使ってみやもりをからかっている。→2007.7.21
そして9月に入ると夏合宿本番である。合宿では倒れるまでスポーツをやるのがHQSの伝統なのだが、
3日目に小学校の体育館を借りてバスケットボールをやった。その場所こそ、いま目の前に立っている小学校だ。
それまでのデジャヴと、ちょうど10年前のできごとが、完全に重なった。思わずうなり声をあげて立ち尽くす。
(この合宿は、あの伝説の「マリポーサ」の合宿である。われわれ幹部学年が本当にやりたい放題だった……。)
まるで大人になってから、かつて幼馴染だった女の子と再会……というような感覚である。
が、現実には幼馴染ではなく小学校の校舎であり、ロマンスもへったくれもない。感動的ではあるけどね。
南に行ったところに飯山市役所があるので、懐かしい気分に浸りつつ撮影に入る。

  
L: 飯山市立飯山小学校。覚えてますかね? 10年前、奥にある体育館でバスケをやったんですよ、われわれ。
C: 飯山市役所を北西側から撮影。市の規模に見合ったサイズという印象。  R: 角度を変えて南西側から撮影。

まったく馴染みの薄い場所だと思って訪れてみたら、意外な記憶が蘇って楽しい思い出が戻ってくるという、
とても珍しい体験をすることができた。まあ単純に僕が忘れっぽいだけかもしれないが、それにしても感動的だ。
急ぎ足でアーケードの商店街を歩いて飯山駅まで戻ると、残りの時間をいろいろ思い出して過ごす。

 飯山市街のアーケード。昭和の雰囲気が漂う街である。

飯山線はやっぱり川に沿って下っていく。飯山街道と並んで走り、中野市に入ると街道沿いの住宅の裏を行く。
それまでの無人駅とはまったく異なる橋上駅舎の豊野駅(去年できた)からは信越本線に合流する。
ここまで来ればもうあっという間だ。長野駅に到着したときには17時半を過ぎていた。

長野駅と言えば、かつては善光寺を意識した駅舎で有名だった。小学校4年のときに社会見学で長野に来たが、
そのときには仏閣駅舎だったのを覚えている。でも今ではガラスの天井を持つコンコースに変わっている。
駅の善光寺口から出て周囲を見回す。いかにも強力な地方都市、県庁所在地らしい表情をしている。
県庁所在地めぐりをしている立場として、この街を納得いくまで歩く余裕がないことが少し悔しい。
でもその反面、それは楽しみを先にとっておくことでもある。疲れもあるし、今日はおとなしく過ごすことにした。

本日の宿は長野市が誇る繁華街・権堂にあり、駅からは少し離れている。歩くのが億劫だったし、
長野電鉄にもちょっと乗ってみたかったので、地下に下りて2駅分だけ揺られることにする。
電車に乗り込むと、長野電鉄の路線図を眺める。須坂、中野といった馴染みのない街の名前が気になる。
小布施には家族で訪れたことがあるが、あらためて行ってみたい。真田ファンとしては松代にも行ってみたい。
長野を拠点にあちこちまわってたいなあ、なんて思っているうちに、権堂に着いたので電車を降りる。
権堂のアーケードを歩いていき、途中にある宿にチェックイン。ようやく落ち着いた。

 
L: 長野駅のコンコース。今の駅舎になったのは長野新幹線開業のとき。きれいだけど特徴に乏しい。
R: 権堂のアーケード(中央通り・善光寺の参道側)。幅が狭く、チェーン店が少ないのでアットホームである。

アーケードを抜けた先を北に行けば善光寺があるが、それは長野県庁と同じく次回のお楽しみとしておく。
晩飯を食えるところを探しながら権堂周辺を探索する。アーケードのすぐ南側は飲み屋やホテルだらけ。
大化の改新とほぼ同時期に生まれたという歴史を誇る寺の門前町の、もうひとつの面を垣間見るのであった。
中にはこんな三面記事ネタも。

以上、長野の夜、終わり。


2009.8.12 (Wed.)

街を歩くには適度な時間帯というものがある。朝早すぎても面白くないし、夜遅すぎてもつまらない。
僕の場合には、その場所を訪れて写真を撮りつつ雰囲気を噛み締めるという作業がメインになる。
だから基本的には太陽光線の加減によって行動時間が決まることになる。日が出たら動き、沈んだら休む。
そういう感覚からすれば、街が本格的に動きはじめる午前10時というのは、かなり遅い時間なのである。
そのため、どうしても朝のうちに動きまわる必要のある場合、行きたくても行けない場所が出てくる。
(たとえば、高知(→2007.10.8)。たとえば、尾道(→2008.4.23)。たとえば、角館(→2008.9.13)。)
今回の酒田もまさにそれで、施設の中に入りたいのに入れない、そんなジレンマでいっぱいとなってしまった。
しかしだからといって、じっとしていることなどありえない。歩いて、歩いて、歩いて、街を感じとるのだ。

朝5時過ぎ、デジカメと地図だけを手に宿を出る。昨日と同じようにまっすぐに南へと歩いていく。
大通りに出てもまだ南下する。酒田商業高校の脇を通ると新井田川(にいだがわ)が目の前に現れる。
この川を渡った右手にあるのが山居(さんきょ)倉庫だ。が、まずは川を渡らずに酒田町奉行所跡に寄る。
かつて246年間にわたって酒田の役所として機能した場所の跡地で、今は公園になっている。
いかにも奉行所らしい冠木門を抜けると木々が植えられており、その奥は閑散とした芝生である。
先の方へと進んでいくと、目を覚ましたセミが集団で勢いよく飛びまわって暴れたので困った。

 
L: 酒田町奉行所跡の冠木門。いかにもな構えである。  R: 中にはこれといったものがほとんど残っていない。

ではいよいよ山居倉庫に行ってみる。1993年に復元されたという山居橋を渡る。
明け方まで降っていた雨のせいなのか、橋は強い木の香りで包まれている。美しい匂いだ。
太鼓橋になっていて、橋を上っていった真ん中には椅子や長机が置かれている。足を止めて周囲を見渡す。
橋を下った先にある倉庫はぜんぶで12棟。整然と並んでおり、その見事な姿に圧倒される。
これらは資料館や観光物産館としても利用されているものもあるが、ほとんどは今も現役の倉庫なのだ。

 
L: 新井田川に架かる山居橋と山居倉庫。  R: 山居橋の真ん中部分。木の香りがとても心地よいのだ。

倉庫の前に立ってみる。1893(明治26)年築とはいうものの、さすがに現役だけありまったく古さを感じさせない。
風通しを考えた二重構造の屋根、まぶしいくらいの白壁、長く突き出た瓦の庇、連続するガラス窓と黒い板壁。
ひとつだけなら「ふーん」で終わるかもしれないが、これが150m以上は続いている。壮観というほかない。
北側の棟から順に番号が振られているが、よく見ると各棟はそれぞれ細かく異なっており、微妙な個性がある。

  
L: 山居倉庫を眺める。北端の1棟は庄内米歴史資料館、南端の2棟は酒田市観光物産館。あとは現役の倉庫。
C: 真正面から見るとこんな感じである。  R: いやしかし、これはさすが海運で栄えた酒田ならではの光景だ。

  
L: 内部を覗き込むことができたので撮ってみた。リアルだわ……。  C: 南端・酒田市観光物産館の入口。
R: 酒田市観光物産館の裏側では、2つの棟に挟まれた空間をうまいことオープンスペースとして活用している。

せっかくなので敷地を一周してみるのだ。倉庫の裏側に出ると、これまた見事なケヤキ並木になっている。
景観として優れているだけでなく、西日を遮りつつ冬の季節風から倉庫を守るという重要な役割を果たしている。
ちなみにこのケヤキ並木、かつてはNHKの連続テレビ小説『おしん』のロケ地にもなったそうだ。

  
L: 倉庫を裏側から眺めるとこんな感じ。こうして見ると、屋根が二重構造になっていることがよくわかる。
C: 倉庫と倉庫の間からケヤキと三居稲荷神社を眺める。それにしても百葉箱がいいね!
R: ケヤキ並木。ケヤキと倉庫の対比が鮮やか。先人の知恵が生み出したすばらしい風景である。

朝早くに来たからこそ味わえた良さもあるんだろうけど、ほかの観光客に混じってのんびり歩いてみたかった、
という気持ちも正直強い(もっとも、朝6時くらいなのに散歩に来ている地元の人や観光客がそこそこいたが……)。
何十年後くらいになるかもしれないが、ぜひまた訪れてみたい場所である。

山居倉庫を後にすると、そのまま北上して酒田市役所へ。なかなか広い駐車場を持つが、建物も意外と大きい。
酒田市役所は1964年竣工とのこと。デザイン的には納得できるが、当時にしてはスケールが大きめだ。
立地もなかなか面白い。山居倉庫にも本間家旧本邸にも比較的近い位置にあるのだ。鐙屋は真向かいである。
酒田の歴史を紐解くうえで、市役所の位置はなかなか重要なポイントである予感がする。

  
L: 酒田市役所。意外と大きく、駐車場を挟んでカメラの視野にやっと収まる感じ。
C: 角度を変えて側面を眺める。なんかチクチク飛び出してますよ。  R: 裏手はこんなん。隣は市民会館。

 エントランス脇に飾られている酒田まつりの大獅子の頭。

上でも述べたが、酒田市役所の真向かいは、酒田を代表する廻船問屋だった旧鐙屋(あぶみや)である。
中に入れるのは9時からということで、仕方なく目の前を素通りするのであった。せっかく来たのに……。
そのまままっすぐ進んだところにあるのが、旧本間家本邸。かつて日本最大の地主だった本間家の邸宅だ。
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」というフレーズで有名な、あの本間家である。
そりゃもう中を見学したくってしたくってしょうがなかったのだが、やっぱりまだその時間外ということで、断念。
旅程を組んだ自分の責任とはいえ、悔しくって悔しくってたまらない。絶対いつかまた来てやる!

  
L: 旧鐙屋。  C: 旧本間家本邸・正面の長屋門。二千石の格式を持つそうな。  R: 東側の薬医門。

 
L: 旧本間家本邸の真向かいには別館「お店」がある。こちらも時間外で入れず。
R: 「お店」の側面はこんな感じになっておりました。

あとは市街地をフラフラしながら宿へと戻る。本間光丘が1800年に寄進したという浄福寺の唐門を眺め、
もともとは「庄内情報プラザ」だったという酒田市役所中町庁舎を眺め、大通りの写真を撮影して帰る。

  
L: 浄福寺唐門。酒田市内にはさすがに本間家関係の名所があちこちにある。
C: 酒田市役所中町庁舎。市役所本体が手狭になったので、近所の手ごろな施設を利用したってことみたい。
R: 大通り。この辺りは1976年の酒田大火の被害を受け、その後に緑地や資料館などがつくられた。

宿でチェックアウトというか支払いを済ませると、酒田駅へと向かう。
時間に余裕が少しあったので、駅からちょっと先に行ったところにある本間美術館(新館)を眺める。
やっぱり、まだ中に入れる時間ではないのだ。かなり特徴的な屋根をした建物だった。

 本間家のコレクションを展示する本間美術館(新館)。

酒田駅のホームでは鈴虫がプラスチックケースの中で飼育されていた。
輪切りのナスに群がる大量の鈴虫たちは、じっくり見るとあまり気持ちのいいものではなかった。
でもさすがにその鳴き声は美しい。鈴虫の鳴き声に見送られ、羽越本線に乗り込む。

 5日かけて帰省してみる2009・3日目: 酒田→鶴岡→村上→新発田→新潟

列車が酒田駅を出たのはまだ8時前。気分的にはもう半日が過ぎた感じだが、まだまだ一日は続く。
酒田から鶴岡までは電車で30分ほど。酒田が商人により栄えた街なのと対照的に、鶴岡は武士の城下町。
藤沢周平の作品群のモデルとなっていることでも知られる街でもある。
残念ながら2時間弱しか滞在できないうえに、市役所が駅から遠い。羽黒山も遠い。
ここも酒田と同じくいずれリベンジしなくちゃいけない街だなあ、と歩きまわる前から考えるのであった。

 米俵を背負う家族のモニュメントが妙に目立つ鶴岡駅。

鶴岡駅で降りるとまずは大通りをまっすぐ南下。商店街のアーケードが続くが寂れ気味である。
山王日枝神社の交差点で右折。すると古くからの商店が並ぶ一角に入る。モダンな建物が点在している。
やはり歴史ある城下町には面白い建物が多い。なかなかやりますなーと唸りながらシャッターを切る。

  
L,C,R: 鶴岡の市街地にはモダンな商店が多く残っている。市が都市景観賞を授与して後押ししているようだ。

内川を渡ったところにある本町もアーケードの商店街である。こちらも正直、寂れた感触がする。
再び内川を渡って対岸の馬場町へ。鶴ヶ岡城址が近いこともあり、この辺りから定番の観光名所が現れだす。
まずは旧風間家住宅 「丙申堂」に行ってみる。鶴岡一の豪商の住宅である。が、まだ開館時間前で中に入れず。
今日は本当にこのパターンばかりだ。じっと待っているヒマがない旅行というのも考えものである。

  
L: 本町のアーケード商店街。どうにも寂しい。  C: 旧風間家住宅 「丙申堂」。また開館時間前かよ……。
R: 悔しかったので中を覗き込んだら、こんな感じだった。武家屋敷と商人の屋敷の違いを実感してみたかった。

お次は鶴岡カトリック教会天主堂。教会自体は1903(明治36)年築でしっかり洋風の木造建築なのだが、
門が思いっきり和風という取り合わせ。まずこの破天荒なコンビネーションに衝撃を受けてしまう。
実はこの教会、庄内藩の家老だった末松十蔵の屋敷跡地に建てられている。
その屋敷の門だけを残して教会を建てたので、このような姿になっているというわけなのだ。

 こんなワイルドな教会は全国でもここだけなんだろうなあ。

出入自由ということで、勝手に中を見学させてもらう。スケールは大きくないが、さすがに天井が高い。
前に日記でキリスト教は鉛直方向の意識がなんたらかんたらと書いたが(→2008.4.23)、
ここでもそれは同じで、やはり光をうまくコントロールしながら神の存在に説得力を持たせようとしている。
まあそういう宗教的なテクニックを抜きにしても、きれいにしてあり大切にされていることがよくわかる場所だ。

  
L: 鶴岡カトリック教会天主堂。真正面から見たところ。誇り高い街の教会だ。
C: 祭壇を眺める。光が奥から差し込む。  R: 入口を振り返る。祭壇の光の演出が上手いことがわかるでしょう。

さていよいよ鶴岡市役所だ。茶色の四角い物体で、これまた典型的なタイプだなあと思いつつ撮影。
そしたらいきなり雨が降り出した。なんで今さら降り出すんだよー!と、うなだれるしかないのであった。
それにしれもやはり、四角をベースにした建物はいろんな角度から撮影する楽しみがあんまりない。

  
L: 鶴岡市役所。  C: 角度を変えて眺めてみるが、特にどうということはない。  R: 裏手の山形地裁側から見る。

こりゃかなわん、と雨宿りも兼ねて市役所の向かいにある致道館の中に入る。
致道館はかつての庄内藩の藩校で、東北地方に現存する唯一の藩校建造物なんだそうだ。
孔子を祀る聖廟が残っているのが確かにそれらしい。教育をめぐる地元の誇りを味わうのであった。

 狭い範囲に建物が密集していて撮影しづらかった。

ところでこの「致道館」の名前は「致道博物館」として、博物館の名前にも残っている。
鶴ヶ岡城址の鶴岡公園を挟んだ西側にあるのだが、残念ながら今回、この博物館に寄る時間がなかった。
民俗資料だけでなく、旧西田川郡役所や旧鶴岡警察署庁舎などの重要な建物が移築されており、
鶴岡に来たからには行かなきゃ話にならない場所なのだが、それだけの余裕がなかった。
どうも今回の酒田・鶴岡は一番いいところを素通りして終始してしまった感がある。実に悔しい旅行だ。

雨により街歩きのコンディションも悪くなってきたので、ペースを上げて鶴岡公園内を歩きまわる。
かつての市立図書館だったという大宝館、本丸跡の荘内神社、その向かいの藤沢周平記念館を眺める。
藤沢周平記念館は「養生中」ということで、来年春の開館を目指しているとのこと。よくわからない状態だ。
でも鶴岡としては、藤沢周平の存在は強力な観光資源である。ぜひうまく活用してほしいと思う。

  
L: 大宝館。中に入ってじっくり観察する時間がなかったのが本当に残念である。
C: 酒井家を祀る荘内神社。「庄内」と「荘内」の表記の違いにはどんな意味があるのだろう。どっちも可、らしいのだが。
R: 「養生中」の藤沢周平記念館。『用心棒日月抄』(→2006.10.11)はすさまじく面白かったなあ。

まるっきり消化不良な気分のまま、急ぎ足で鶴岡駅への道を歩いていく。
どうやら僕は、鶴岡という街をナメていたようだ(もちろん酒田も)。庄内地方はもっとゆっくりしっかり味わうべきなのだ。
寺が点在している住宅地を抜けると、店舗があちこちに現れるようになる。駅が近くなってきたってことだ。
後ろ髪を引かれる思いを振り切るべく観光案内所でチラシをたっぷりもらうと、気持ちを切り替えて電車に乗り込む。

10時ちょっと過ぎという、観光してきたというにはあまりにも早い時間に電車は次の目的地へと走り出す。
羽越本線は西へと進んでいき、庄内平野に別れを告げるとトンネルを抜けて日本海に出る。
さっきまでの雨が嘘のように青空が広がり、海はそれを映して輝く。東北地方の日本海とはとても思えない色だ。
市街地の中に県境が引かれているという珍しい場所、鼠ヶ関(ねずがせき)を越えると新潟県に入る。
電車は海岸線を丁寧になぞって走る。そのうち海の向こうに島が見えてくる。粟島だ。

 ここは本当に新潟県なのかと疑ってしまう光景だ。

北から新潟県に入っていちばん最初の市が、村上市。下越地方の穏やかな城下町だ。
(近畿に近い方が「上」になるので、新潟県は北が「下越」で西が「上越」となるのである。)
電車を降り、駅前に出ると夏の太陽がしっかりと降り注いで暑い。久しぶりのいかにも夏らしい感触である。
観光客らしい人の姿が思っていたよりもずっと多い。観光案内所で地図をもらって市街地へと歩きだす。

しばらくは駅からまっすぐ歩いていったのだが、特にこれといって面白い風景ではなかったので北へ移動。
すると急に懐かしい雰囲気の漂う街並みが現れた。旧街道沿いなのか、昔ながらの商店が並ぶ。
中には軒先に内臓を取った後の鮭を吊るして干している光景もある(塩引き鮭)。鮭は村上の名物なのだ。
また、お茶の店も目立っている。村上市は茶を栽培する北限の場所で、それを強く意識している。
昔ながらの品物が、今も木造のままの店舗でのんびりと売られている。

  
L: 村上駅。櫓には「瀬波温泉」の文字も。一定の観光客がいるようで、まずまずの賑わいなのであった。
C: 軒先に鮭を吊るしている村上市コミュニティデイホーム。こういった感じの建築が並んでいる。
R: 肴町、鍛冶町、小国町、大町と先へ進むにしたがって名前は変わるが雰囲気はだいたい同じ。

駅から東へ進んでいった先にあるのが村上市役所。隣は小学校で、村上城址は臥牛山の上だが、
察するにこの辺りはかつて藩庁が置かれるなどした歴史ある土地なのだろう。さっそく撮影開始。

 
L: 村上市役所を正面から撮影。街の規模にマッチした庁舎という印象である。
R: 裏手から眺めたところ。村上市の市章が建物にでっかく刻印されていた。

さて村上市では、2と7のつく日に「六斎市」という市が開催される。場所はちょうど市役所の裏の通りで、
お昼になって片付けムードになっているところに出くわした格好になった。ちょっと残念である。
感じとしては地産地消の生鮮食料品が多そうだ。なんとなくお年寄りが多い。

 
L: 六斎市は市役所の裏通りで開催される。道は広くないのでなんだかアットホーム。
R: 魚や野菜・花卉の扱いが多いようだ。特に魚は人気があるようでけっこう売れていた。

そのまま北上して文化施設の集まった一角を訪れてみる。
江戸時代の中級武士の屋敷である旧若林家住宅を外から眺め、村上歴史文化館を覗いてみる。
隣はもともと銀行だったという三の丸記念館。1907(明治40)年築で、木造の銀行とは非常に珍しい。

  
L: 旧若林家住宅。  C: 三の丸記念館。中は現在、市民の文化活動に開放。  R: 村上歴史文化館。

時間があれば施設を隅から隅まで見てまわりたかったし、村上城址にも行ってみたかった。
しかしながら村上市の滞在時間を1時間半ほどしかとっていなかったため、駆け足での訪問となってしまった。
やっぱりこれでは消化不良だ。どうも今日は中途半端な観光になっちゃってるなあと思いつつ駅に戻る。
市役所にほど近い小町通りと大町通りは木造の町屋やセットバックしたアーケードが残っていて面白い。
あらためてじっくりと味わってみたい街なのであった。われながら、もったいない旅である。

 
L: 商店ごとに1階をセットバックしてアーケードをつくっている。  R: 塩引き鮭を扱う店。すげえ。

村上を出ると30分ほどで新発田市に到着。やっぱりここも歩きまわってみるのだ。
酒田・鶴岡・村上と、今日訪れた街はどこも市街地が駅から離れている。おかげでよけいな時間を食った。
では新発田はどうなのかというと、やっぱり市役所・新発田城址は駅からけっこう距離がある。
しかしアーケードの商店街が駅前から延々と続いているのだ。これだけの長さは、非常に珍しい。

アーケードをずーっと歩いていって、寺町を抜ける。すると札の辻に出る。
防御を考えた城下町らしく、きれいな十字路ではなくクランク型の交差点(食い違い)にしてあるのだが、
そこに後になって斜めのショートカットをつくったことで、三角形の小さな空間ができているのだ。
周囲には今もこの地域の銀行が集まっているのが面白い。北へ進むと地裁・検察・警察署が固まっている。
さらに北に行くと妙な建物が現れる。アントニン=レーモンド設計で1965年竣工の新発田カトリック教会だ。
教会建築ってのは、もしかしたら宗教建築の中ではいちばん自由度が高いのかもしれないなあと思う。

  
L: 新発田駅。ロータリーがデカい。近くには大倉製糸新発田工場跡を再開発した巨大な新潟県立新発田病院がある。
C: 駅から延々と伸びるアーケード。光を採り入れるのが上手いのか、それほど寂れた印象を残さない。
R: 新発田カトリック教会。ステンドグラスには和紙を組み合わせているとか。しかしまあいろんな教会があるもんだ。

教会のすぐ近くに新発田市役所はある。コンクリートの色合いからしてかなり年季が入っている(1966年竣工)、
いかにも庁舎らしい建物である。道路を挟んで駐車場が点在しており、いろんな角度から撮影してみる。

  
L: 裏手の図書館側から撮影。  C: 標準的な角度から見た新発田市役所。この交差点は駐車場だらけ。
R: 真正面から眺めたところ。明らかに増築しました、という雰囲気がプンプン漂う。

市役所を撮影し終えると、いよいよ新発田城址へ。狭苦しい住宅街を抜けると堀と櫓が現れる。
視界が開けるようにして二の丸隅櫓が姿を現すのは、なかなか鮮やか。本丸表門の堀を挟んだ向かいには、
初代新発田藩主・溝口秀勝の曾孫だという堀部安兵衛(新発田出身だそうだ)の像がある。
さて、堀を渡って本丸表門をくぐると、いきなり塀がある。おかげで非常に狭苦しくってたまらない。
というのも、新発田城址の土地のほとんどは、陸上自衛隊新発田駐屯地となっているからだ。
明治維新で城が廃城になった後、その場所に陸軍の部隊が置かれた例は全国あちこちでみられるが、
ここ新発田はそれが今も自衛隊という形で残っている場所なのである。塀の奥にはジープがいっぱい。
さらにジープの向こうには木造の兵舎が見える。なかなか貴重な事例である。

  
L: 住宅街を抜けると現れる二の丸隅櫓。  C: 本丸表門。これと二の丸隅櫓は数少ない新発田城の現存する建造物だ。
R: 辰巳櫓の内部に入る途中で振り返って眺めた新発田駐屯地。ジープがいっぱいで独特な雰囲気である。

2004年に復元された辰巳櫓の内部に入ることができる。説明によれば「本丸側を眺めるのは恐れ多い」ということで、
辰巳櫓は北側に一切窓がつくられなかったとのこと。まあ今はお殿様の代わりに自衛隊がいるわけで、
21世紀になってもジロジロ眺めるわけにいかない事情は変わらないのだろう。妙なものだ。

 本丸表門の内部にも入ることができる。

新発田市には今も城下町としての特徴を色濃く残す観光名所が数多く点在している。
それをチェックしていってもよかったのだが、今回は駅のはるか東側にある「五十公野(いじみの)」に行ってみた。
というのもそこには、現存する知事公舎としては日本最古だという旧県知事公舎記念館があるからだ。
もともと1909(明治42)年に新潟市に建てられたものを移築しているのである。

しかしながらこの五十公野が、すさまじく遠い。新発田駅脇の陸橋で線路の東側に出て、ひたすら歩く。
幅の広い新潟県道14号を延々と歩いて歩いて東に行くが、まったく案内板の出る気配がない。
新発田市街の中心部からは離れた場所なので、観光地図も非常に大雑把で現在地がうまくつかめない。
しびれを切らして県道から曲がったら、それで完全に迷ってしまった。汗びっしょりで絶望的な気分になる。
しかし運よくコンビニを見つけて地図で現在地を確認すると(駅の東側で見かけたコンビニはここともう1軒だけ)、
最終的にどうにか目的地にたどり着くことができたのだった。本当に、一時はどうなるかと思った。

さて、そんな思いで訪れた旧県知事公舎記念館だが、はっきり言って面白いと言えるのは、
公邸部分は洋風だが私邸部分が和風建築という点だけ。あとは特にどうということはない。
まあ日本の近代化が進んでいく中で洋風なものが公的領域として選ばれていくのを示した空間ではあるが、
それ以外にはこれといった売りがないのであった。畳の部屋には歴代知事の書が並べられて、それだけ。
ここまで来る苦労がまったく報われない内容で、思わず畳の上に膝から崩れ落ちそうになってしまった。

  
L: 旧県知事公舎記念館の入口。  C: 歴代新潟県知事の書が並ぶ、和風の私邸部分。  R: 洋風の公邸部分。

 この施設は和風と洋風の合体以外に見るべきところがほとんどない……。

旧県知事公舎記念館のすぐ近くには、新発田藩藩主溝口家の別邸を復元した五十公野御茶屋がある。
まあ確かに雰囲気はいいと思うのだが、これもここまで来る苦労と比べれば、それほど感動的ではなかった。
こんなことならおとなしく城下町の清水園や足軽長屋、旧公設鮮魚市場を見ておくんだったと思うのであった。

  
L: 五十公野御茶屋。  C: 中はこんな感じ。  R: 縁側から池を眺める。まあ悪くはないけどさ……。

一日中歩きどおしでヨタヨタしながら新発田駅まで戻るのであった。今日は本当にハードだった。
まだでもこれで終わりではない。新発田から新潟へ移動し、本日の宿にチェックインするのである。
新潟駅なら前に来たことがあるから(→2007.4.28)要領はつかめているつもりだったのだが、意外と複雑。
前回来たときは新潟駅をさっさと後にして万代橋を渡って市街地を中心に歩いていたので気づかなかったが、
万代口(北口)周辺をしっかり歩けばごちゃごちゃした飲食店とビジネスホテルが入り組んで存在しているのだ。
南口は南口で再開発が終わり、大きなビルがいくつも並んでいる。なんとなく仙台駅の東口に似ている気がする。

 政令指定都市らしい都会な雰囲気ができあがっている南口。

万代口と南口をつなぐ自由通路は非常に賑やか。疲れ果てて千鳥足の僕には非常に歩きづらかった。
しかしまあ、こうしてみると新潟は都会である。前回の旅行ではまったく新潟のことを理解していなかったなあと反省。

無事にチェックインを済ませると、前回晩飯をいただいたハンバーグの店に行ってみることにした。
頭の中に残っている地図に任せて歩いたら、まったく迷うことなく到着できて一安心。まだまだ錆びついちゃいない。
やっぱり前回と同じように数量限定の大型ハンバーグを食べる。おかげで疲れも吹っ飛んだ。


2009.8.11 (Tue.)

朝6時、宿を出ると米沢市街を北へと歩いていく。まだ雨は降っている。
折りたたみ傘を片手に、城下町とは思えない広い道を行く。山に囲まれた中にぽっかりとできた平地。
それを贅沢に使っている街だと思う。まあそれは、狭苦しい伊那盆地に生まれたことによる感覚かもしれないが。
ゆったりと幅をとってまっすぐ引かれた道は、郊外の雰囲気を漂わせている。が、郊外に染まりきってもいない。
派手に飾った大規模ロードサイド店もなくはないが、それが両側を埋め尽くしているわけではない。
店も年季が入っていて、昭和の匂いがする。おそらく、昔からこうだったのだろう。

ところで、山形県は村山地方・最上地方・置賜地方・庄内地方の4つの地方に分けることができる。
山形県内ではこの分け方は常識であるようで、旧山形県庁である文翔館の展示でも、
この4地方別に詳しい紹介が行われていたのを覚えている(→2007.4.30)。
そして米沢市は最も南に位置する置賜地方の中心都市なのである。
ちなみに置賜は「おいたま」と読むのが一般的なようだ(「おきたま」とも読む)。

延々と北へと歩いていった先に、ようやく米沢市役所が現れる。地図で見た以上に遠く感じる。
これまた道と同じように広々ととった駐車場の奥に市役所が建っている。けっこう大きい。
敷地を一周して撮影していくが、広いおかげでけっこう撮影がしやすい。しかしやっぱり大きい。

  
L: 米沢市役所。非常に広い駐車場の隅にどっしりと構えている。建物じたいはシンプルだが、議会棟の屋根が独特。
C: 角度を変えて撮影。ジャマが入らないで撮影できるといい気分。  R: 議会棟をメインに撮影。

市役所を撮影し終わると、トボトボと歩いて中心市街地に戻る。朝っぱらからけっこう歩かされたが、
これから朝っぱらのうちにまだまだたっぷりと歩くのである。今度は南にある米沢城址を目指す。
いかにも旧街道沿いの住宅や店舗が並ぶ中を歩いていく。道がわりと広めだからか、交通量がけっこうある。
それにしても、長年の雪で傷んだアスファルトやコンクリートの舗装を歩いていると、北国に来たという感覚になる。

案内板がところどころに出ているので、そんなに不安になることもないまま目的地に着いた。
米沢城址一帯は現在、公園として整備されている。本丸跡は上杉神社、二の丸跡は旧上杉伯爵邸(上杉記念館)、
その東側には県立置賜文化ホールと米沢市上杉博物館が合体した「伝国の杜」がある。
まずは松岬(まつがさき)神社からお参り。ここは上杉鷹山を祀ったことでできた神社だ。
かつては上杉鷹山ブームが巻き起こっていたが、今は直江兼続ブームの真っ最中。
しかし松岬神社はそんな移ろいやすさとは無縁の、地元の人たちの崇敬の念を感じさせる場所だった。
そして堀を渡って上杉謙信を祀った上杉神社へ。朝早いのにちょぼちょぼ参拝客がいた。

  
L: 伝国の杜。建物の前は起伏のある芝生となっていて、なかなかそういうのは珍しいように思う。
C: 松岬神社。上杉神社の摂社(言葉は悪いが子分のようなもん)であるせいか、とても落ち着いた雰囲気。
R: 上杉神社。武田家の屋敷も神社となっていたが(→2005.9.24)、ライバルだった上杉家も同様とは妙な一致だ。

お参りを済ませると二の丸方面へ行き、旧上杉伯爵邸の門をくぐる。
営業時間外で中には入れなかったが、外から建物を眺めたり庭園を覗いたりするのであった。
そんな感じで米沢城址めぐりは終了である。ここからさらに南へと歩いていく。
しかしまあ、米沢はもともと伊達家の領地だったのに(伊達政宗はここで生まれている)、
見事なまでに上杉家関連の史跡ばかりである。もうちょっと伊達家のことをアピールしてもいいように思う。

 
L: 上杉神社への参道にある上杉鷹山の像。アメリカからの逆輸入で知名度が上がった珍しい偉人である。
R: 旧上杉伯爵邸。とても見事なお屋敷。機会があれば中に入ってみたいものだ。

かつて広大な田畑があったことを想像させた市街地北部とは違い、米沢城址の南側は住宅がしっかりと集まっている。
一軒家だけでなくアパートも点在している。おそらく山形大学の学生が下宿しているのだろう。
というのも、山形大学の本部は山形市にあるが(→2007.4.30)、工学部は米沢にあるからだ。
もともと繊維産業が盛んで米沢高等工業学校が置かれ、それが現在の山形大学工学部につながっているのだ。
その旧米沢高等工業学校の本館は今もキャンパス内に残っており、国の重要文化財になっている。
敷地にたどり着くと、北側のど真ん中に木々に囲まれながら旧米沢高等工業学校本館が鎮座している。
現在の山形大学の入口は、その脇に建物をよけるようにしてつくられている。誇りが感じられる措置だ。

  
L: 旧米沢高等工業学校本館。1910年竣工で、全国で7番目の官立高等工業学校だそうだ。
C: 正面の藤棚から撮影したところ。やっぱり本物の風格は違う。木造ならではの気品がたまらない。
R: 山形大学工学部の入口。本館とは対照的な現代的理系っぽさ(こだわらない感じ)が全開だ。

これでだいたい米沢市の見たいものはチェックできたので終わり。
宿に戻って荷物を抱えると、米沢駅を目指してえっちらおっちら歩いていく。雨が上がったのが幸い。
米沢駅に着くと猛烈に腹が減ったので、駅弁を買うことにした。米沢に来たのに米沢牛を食わないというのは、
やっぱり非常にもったいないことに思えたので、奮発して米沢牛の駅弁を買ったのであった。

 駅弁とはいえ吉野家や松屋とは肉質が違いますわ。

車内で弁当をおいしくいただくと、やる気が湧いてきた。やはり旨いメシを食うと力もみなぎる。
米沢ではかなりの距離を歩いたのだが、しっかりリフレッシュできたのであった。

 5日かけて帰省してみる2009・2日目: 米沢→山形(山寺)→新庄→酒田

山形に着いたのが9時ちょっと前。山形市に来るのは2年ぶりだ(→2007.4.30)。
しかし、山形から仙台へと移動した際に、山寺を無視するという失態を演じているのである(→2007.5.1)。
そこで今回はそのリベンジを果たすべく、山寺へ寄り道することにしたのだ。

仙山線に揺られること15分ほどで山寺駅に着く。まだ雨の影響が残っていて湿っぽい。
それにしても観光客が多い。山寺は有名だが、まったくもって派手な場所ではない。
にもかかわらず、小さな子どもを連れた家族の比率が高い。南東北の皆さんには親しめる場所なのか。
外国からの観光客もなかなか多い。これはまあなんとなくわかる。そしてもちろん、お年寄りもいる。
さてそんな山寺が目的地の皆さんとは違い、僕は山寺が「寄り道」なのである。今日も予定はピッチピチ。
モタモタしていて予定が狂うと大ダメージを被ってしまうのである。軽くストレッチをしていざスタート。

 
L: 山寺駅。  R: 旅館・高砂屋本館 と、その奥にある山寺。雰囲気抜群でございますな。

まずは坂道を上って根本中堂にお参り。すぐ隣は日枝神社で、神仏混淆の過去を思わせる。
宝物殿と念仏堂を挟んだその先にあるのが山門。ここをくぐれば、いよいよ山寺の奥の院への参道である。
入山料がかかるのはここからで、300円を納めていざ石段を上っていく。

  
L: 根本中堂。重要文化財になっているとのこと。  C: お隣の日枝神社。  R: 山寺の山門。鎌倉時代のものだそうだ。

とにかく湿っぽい。雨の湿気がしっかりと残っていて、全身から汗が噴き出る。
また石段も濡れたままなので、滑らないように注意しながら大股で上っていく。
ぜんぶで1015段あるというが、さすがにその量は半端ではない。あっさりと息が荒くなる。
半分ほど上ったところに芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句碑(せみ塚)があった。
なるほど山寺で詠んだんだっけと思って目を閉じるが、聞こえるのはワンサカいる観光客の声ばかり。
またその先には、こんな山の中の狭い場所によくまあつくったもんだと呆れてしまう仁王門がある。
これが非常に撮影しづらく(撮ろうとするとど真ん中に杉の木が立ちはだかる)、大いに困った。
そんなこんなで性相院、金乗院、中性院といった建物を越えると奥の院に到着。
時計を見たら山門からここまで来るのに10分を切っていた。スポーツかよ!

  
L: 山寺の石段を行く。ちなみに山寺の正式な名は立石寺(りっしゃくじ)という。まあ常識だわな。
C: 仁王門。苦労して撮った一枚。周囲の岩は浸食で削られて不思議な形をしている。
R: 山寺の奥の院(如法堂)。正しくは右側が奥の院で、左側は大仏殿。

奥の院から少し離れたところに華蔵院がある。その途中の洞穴に重要文化財の三重小塔が置かれているが、
まあ正直、素人の僕にはこいつのどこがいいのかさっぱりわからなかったのであった。困った困った。
開山堂・五大堂にも行ってみる。開山堂とその先にある納経堂(山寺最古の建物)は遠くから見ると味わいがある。

 開山堂と納経堂。山寺らしい風景ですな。

五大堂は展望台にもなっており、麓の景色を一望できる。これがまたすばらしい。
汗びっしょりの体をクールダウンさせつつ、しばらく目の前の景色に釘付けになるのであった。


山寺・五大堂より眺める景色。山寺駅に電車が停まり、そして再び走っていく。

下りではいっそう観光客の数が増え、なんだか回転のいい行列という雰囲気だった。
さっきも書いたけど、なんでみんなこぞってそんなに山寺に来たがるのか理解ができない。
山の中の静かな空気を味わう、自然と一体となった美を楽しむ、そういった要素がまるでなくなってしまった。
その点はちょっと残念だったが、まあこればっかりはどうにもならないのでしょうがないのだ。
予想していたよりも余裕のあるお参りとなったので、あまった時間は山寺駅でのんびりと休んで過ごす。
それにしても雨の湿気はものすごく、自販機のポカリスエットを飲んで水分補給してようやく落ち着いた。

山形駅に戻ると、前回訪れた場所をもう一度歩いてみることにした。といっても、県庁は遠いのでパス。
まずは山形城址の霞城公園だ。……とその前に、山形駅西口にそびえ立つ霞城セントラルを撮影。
この建物、山形市の部署から山形県の公社、民間企業、レストラン、果てはホテルに県立高校まで入っている。
ここまで(いい意味で)節操のない活用ぶりは珍しい。その垣根のなさは個人的には興味深いところだ。

 山形市内で最も高いビルにしてごちゃまぜの殿堂・霞城セントラル。

霞城セントラルからちょっと行くと山形城址の南門。ここから霞城公園だ。
実は前回の訪問ですっぽりと忘れていた場所がある。旧済生館(さいせいかん)病院本館である。
もともとは県庁(現・文翔館)のそばにあった私立病院だが、貴重な擬洋風建築ということで公園内に移築された。
現在では山形市郷土館となっているが、入ってみるとかつての医学を紹介するコーナーが大半を占めている。

 
L: 旧済生館病院本館。色がなあ……。まあ、かつてもこんな感じだったんだろう。
R: 中庭を眺める。しかしまあ、ここまで見事に円形な建物ってのも珍しい。

1878(明治11)年という文明開化の時代の建物ということで、中がまた非常に凝っている。
ステンドグラスに螺旋階段など、かなりの気合が感じられる。細部へのこだわりが本当に美しいのだ。

 
L: 上の階へと上がる通路が廊下の上を走る。木造でこんな例はめったにないのでは。
R: 螺旋階段。大工の棟梁が気合を入れて洋風につくったわけだ。そう考えると実に面白い。

なんでこんな面白いものを2年前にオレは素通りしていたんだろう、と思いつつ旧済生館病院本館を後にする。
続いては、あれから工事は進んだのかな?と思いつつ山形城本丸跡へ。あまり前と変わらない気がするが、
それでも大手橋が復元されたことで奥に進めるようにはなっているみたいだ。行けるところまで行ってみる。

  
L: 2年経ってもあんまり工事が進んでいる気がしない。  C: とはいえ大手橋が復元され、奥まで進めるようになっていた。
R: 現在の山形城本丸跡。この一帯が城に復元されるまで、今後どれくらいの時間と費用がかかることやら。

東大手門の中に入ることができたので、お邪魔してみる。しっかり復元しているだけあり、天井がいい。

 展示はお決まりの博物館的内容。しかし金かかってるなあ。

これで霞城公園のリベンジ完了ということで、今度は山形市役所へ。
山形市役所も前回の訪問で撮影したが(→2007.4.30)、デカすぎて満足に撮影できなかったのでやり直すのだ。
ちなみに上記の山形県4区分では、山形市は村山地方の中心都市である。

  
L: 市街地から眺める山形市役所。  C: 南側から眺める山形市役所。やっぱりこの建物は大きい。
R: 前回の写真があまりに断片的なものばかりだったので、がんばって全景を撮影してみた。

 
L: もひとつおまけに県民会館前から撮影。  R: 車のいないタイミングで七日町商店街を撮影。

これで前回できなかったことはほぼやり尽くしたはずである。さあ、落ち着いて昼メシをいただくのだ。
さて山形といえば、『秘密のケンミンSHOW』などでその独自の「冷やし文化」が注目されている。
番組では冷やしシャンプーが紹介されたが、実際に山形県内を歩いていて床屋を見かけると、
まあ100%と言っていいほどの確率で、そこには「冷やしシャンプー」の水色の旗があるのだ。
そしてその「冷やし文化」の元祖と言えるのが、「冷やしラーメン」である。
山形は盆地だし74年間にわたって最高気温の記録を持っていた街だし、暑い場所なのは周知の事実。
そのせいか、冷やしラーメンは山形名物として人気を博しているのだ。
最初に冷やしラーメンを出したという店は残念ながら定休日。でも近くの店でもやっていたので注文する。
観察していると、なぜか男性よりも女性のお客さんが冷やしラーメンを好む傾向にあるようだ。

 冷えているラーメンも夏に食うとなんか納得できるぞ!

というわけで満足したところで次の街へと移動する。置賜、村山ときたら、今度は最上地方だ。
最上地方は山形県の中では最も小ぢんまりとしており、市は新庄市ひとつだけ。
ちなみにWikipediaによれば、かつては現在とは逆に、北が村山郡で南が最上郡だったそうだ。
しかし江戸時代に双方が入れ替わって北が最上郡、南が村山郡となったという。不思議な話だ。
現在の最上地方・村山地方の区分は江戸期以来の分け方がそのまま生きている状態である。

新庄駅に着いたのが14時半過ぎ。交通の要衝ということでホームの形が複雑だ。
また、駅には「最上広域交流センターゆめりあ」というホールなどが併設されていてだいぶ賑やかである。
山形新幹線の終着駅ということでか、駅舎が妙に近未来的な感触がする。
果たして街はどんな感じなんだろうとワクワクしつつ、観光案内所で地図をもらうといざ出発。

 新庄駅。こうして見るとなんだかイラストみたいだ。

駅からはまっすぐ山形県道32号が伸びているが、まずは右折して市役所を目指す。
メインストリートから一歩奥に入るとそこはいかにも地方都市らしい穏やかさが漂っている。妙に落ち着く。
鴨が泳いでいる川を渡ってすぐ左手にあるのが新庄市役所。駐車場が複数の建物に囲まれている格好だ。
敷地も含めて小ぢんまりしており、昭和の香りが漂う。古き良き時代の市役所というか役場といった雰囲気だ。
真正面にあるのが本庁舎。1955年竣工で、けっこうな古さである。東側に福祉・建設庁舎がくっついている。
その向かい側にあるのが東庁舎。これまた「正しい分庁舎」といった風情でどこか懐かしい。

  
L: 新庄市役所。この小ぢんまりとしたサイズがいいじゃないですか。  C: 本庁舎を正面より撮影。シンプル。
R: 本庁舎の裏側に抜けてみた。裏側もやっぱり駐車場。まさに昭和30年代(というより昭和20年代?)スタイルである。

 東庁舎。物見櫓がいいですなあ。

市役所の撮影を終えるとそのまま西へ。新庄の街は、メインストリートはきっちり広いが、奥に入ると道が狭い。
いかにも昔ながらの城下町のスケールを残している感じがする。住宅地を抜けると区画整理をした感じの一帯に出る。
新庄ふるさと歴史センターやら市民文化会館やらがあり、その奥に最上公園・新庄城本丸跡の神社群があるのだ。
堀にはまっすぐな橋が架かっており、戸澤神社の鳥居から建物までをすっきりと見渡すことができる。
新庄城本丸跡には4つの神社が並んでいる。いちばん右手にあるのが戸澤神社。城主の戸沢氏を祀ったものだ。
その左隣が護国神社。さらに左隣が稲荷神社。そしてちょっと離れていちばん左手が天満神社。
天満神社は新庄藩時代から現存する唯一の建造物なのだが、現在修理中なのであった。残念である。
戸澤神社の右手は庭園となっており、水も含めて緑一色。とても静かな場所だ。
本丸から外に出て堀の周りを一周してみると、釣りをしている人が何人もいた。人気のあるスポットのようだ。

  
L: 戸澤神社。新庄藩は戊辰戦争で新政府側についたため、新庄城は攻め込まれてそのまま廃城になったそうだ。
C: 最上公園の庭園。  R: 堀では釣りをしている人がいっぱいいた。そんなに釣れるんですかね。

帰りはなるべく広い道を歩いていくことにした。新庄市では東西と南北で交差している大通りに名前をつけている。
最上公園から新庄駅に至る道の西側は「こぶとり爺さまとおり」、東側は「金の茶釜とおり」。
南北に走る道は、北から「笠地蔵とおり」「鴨とり源五郎とおり」「かわうそと狐とおり」となっている。
新庄市は民話が多く残されており、その民話にちなんだ名前をそれぞれの通りにつけているというわけなのだ。
ところで新庄の街を歩いていると、あんまりひと気を感じない。人がいないわけでは決してないのだが、
どうも人の気配がほかの街よりも少ない印象がするのだ。みんな車でどこかへ出かけてしまっているのか。

新庄駅に着くと、そのまま東口に出てみる。新しくつくられたロータリーを抜けた先にあるのは、最上中央公園。
まだ整備中のようで、工事で使う車が何台か動いていたり、ヘルメットをかぶった皆さんが働いていたり。
いちばん高いところからのんびりと辺りを眺める。静かというか穏やかな街だと思う。

  
L: 中心市街地のアーケード商店街、鴨とり源五郎とおり。なんか、ひと気がない。
C: 新庄駅へと向かう県道32号、金の茶釜とおり。なんか、ひと気がない。
R: 整備中の最上中央公園。すっかりおとなしい西口の街と開発中の東口。新庄は今後どうなるんだろう。

16時過ぎ、新庄駅を後にする。陸羽西線で余目まで出て、そこから羽越本線で酒田まで行ってしまうのだ。
もっとも、列車は酒田まで直通なので、あれこれ気にすることはない。のんびりと車窓の風景を眺める。
大きくカーブを描いてから、新庄盆地の稲作地帯を西へ進む。そして最上川に沿って山地を抜ける。
するといきなり開けた平野に出る。かの有名な庄内平野だ。今までずっと山形県の内陸部を北上してきたが、
ついに日本海側へと出た。平地を稲がいっぱいに埋め尽くしている。盆地とは明らかに異なる開放感がある。
余目を離れて列車は北へ西へと進んでいくが、どこまで行っても土地は平らだ。

酒田駅に着いた。山形県を4区分した最後の地方、庄内地方にやってきたのだ(なんて長い一日だ)。
庄内地方の中心都市はここ酒田と、もうひとつ鶴岡。どちらも明日、本格的に歩きまわるつもりである。
とりあえず今日は、日本最古の木造灯台・日和山公園の六角灯台と夕日を眺めることにするのだ。
まずは宿に荷物を預けるか、と思って観光案内所でもらった地図を片手にウロウロ。
酒田の街にはいい具合のビジネスホテルがなく、今夜は格安の旅館(ほぼ民宿)に泊まるのだ。
観光客向けの地図には地番表示などないので苦労しつつもどうにか宿を発見し、部屋を確保。
荷物を置くと、そのままふらりと酒田港を目指して歩きだす。

南にまっすぐ行くと、大通りに出た。その脇にアーケードの商店街があったので、そっちを歩いてみる。
横断幕で中町通りとでっかくアピールしている。道の狭さのバランスがよく、歩いていて心地よい。
そのまままっすぐ歩いていったら、マリーン5清水屋というデパートに出た。道は広場のようになっていて、
酒田まつりの大獅子の頭が飾られている。夕方で買い物をするおばちゃんたちで賑わっている。
さらに進むと中町商店街。再開発によって大きな施設と小さな商店が混在する不思議な空間になっていた。

  
L: 酒田駅。船のオブジェは港町の心意気か。駅前のアーケード商店街はかなり寂しい雰囲気だった。
C: 中町通り。ここからまっすぐ、どうにか粘り強くがんばっている感じの商店街がけっこう長く続くのだ。
R: ボラード(車の進入を防ぐ柱のこと)が日和山公園の六角灯台になっていた。凝ってますな。

坂道を上って、さあもうすぐで日和山公園だぞ!というところで面白い建物を発見。
なんだろうと思って近寄ってみたら、「おくりびと」と書かれた看板と「NKエージェント」という表札があった。
どうやらこの建物、映画『おくりびと』で主人公が勤めることになる会社の事務所として使われたようだ。
隣には和風の建物があり、両方そろって割烹として昭和元年ごろに建てられたそうだ。

 
L: 旧割烹小幡。『おくりびと』効果で今も「NKエージェント」の表札が付けられている。
R: 奥まった和風の建物を見ると割烹だったことに納得がいく。しかし珍しい組み合わせだ。

坂道を上りきると日和山公園。上った分だけ高低差があり、高い部分は展望台として日本海を一望できる。
低い部分には日本海の沿岸をかたどった池があり、ミニチュアの千石船が浮かべられている。
さらに東北地方から江戸へと米を送る西廻り航路・東廻り航路を開いた河村瑞賢の像もある。
そしてちょっと上ったところには、1895(明治28)年に建てられた日本最古の木造灯台が移築されている。
江戸時代に海運の発達とともに隆盛を極めた酒田の誇りがそのまま形となって現れた空間と言えそうだ。

  
L: 千石船が浮かぶ池。かつてはこの船が日本海を闊歩していたのだ。
C: 河村瑞賢の像。航路を開いたり土木工事をやったり、やることなすこと偉業だらけのすごい人。
R: 日本最古の木造灯台であるという、日和山公園の六角灯台。いいデザインですな!

この日は雲が厚くてなかなかきれいな夕焼けとはいかなかったのだが、どうにか粘って撮れたのが下の写真。
夕焼けを眺める場所として日和山公園は有名らしく(パンフレットにあったし)、僕以外にも数人がカメラを構えた。

 雰囲気はすごくいいんだけど、緑の照明だけはなんとかならんか。

日が沈んだらさっさと撤退して、晩メシの時間である。酒田名物といえば、まあ寿司だと思うのだが、
当方そんな贅沢はまだまだ言ってらんない身分である。そういうわけで、晩メシは酒田ラーメンに決定。
なんだか昨日からラーメンばかり食べている気がするが、名物ということなんだからしょうがないじゃないか。
もっともWikipediaによれば、「ご当地ラーメンの中でも個性的な特徴を確立するに至っていない、
典型的な企画型ご当地ラーメンである。」とのこと。つまりラーメン屋が多いので名物にした、というわけだ。
ただし酒田ラーメンは、自家製麺の比率が約8割と非常に高いのと、透きとおった醤油味のスープが特徴だそうだ。
わりと早くに閉まってしまう店が多い中、どうにか閉店間際に飛び込んだ店でラーメンをいただく。

 これまたシンプルなラーメン。でもまったく飽きずに食えた。

のんびりと宿に戻る。さすがにけっこうな距離があり、今日もしっかり歩いたなあとしみじみ思うのであった。
宿に着いてから風呂に入ったが、いくら民宿的旅館とはいえ完全に「他人の家の風呂」で、入るのに気がひけた。


2009.8.10 (Mon.)

採用試験も終わったし、お盆も近いし、実家に帰ることにするのである。
が、「旅行バカ」をこじらせてむしろ「バカ旅行」になってしまっている僕としては、
ふつうに帰るなんてことはありえないのである。夏休みとして認められているのは5日間。
となれば、その5日間をフルに使って旅行しながら帰省してやるのだ!

さて、そうなると問題はルートである。どのようなルートで東京から飯田まで行くか。
贅沢な悩みにウヒウヒしながら自分のホームページのreferenceと日記の過去ログをチェックしていく。
こないだの裏日本横断弾丸ツアーのときにGoogleマップを使ってみたのだが(→2009.6.26)、
いざ自分の今までに訪れた場所をまとめてみると、これが予想以上に面白い(他人に面白いかは知らん)。
で、referenceやGoogleマップをチェックすると、どうも山形県が弱いことに気がついた。
県庁所在地めぐりで山形市を訪れたのだが(→2007.4.30)、それだけ。
ほかにも山形県には面白い街があるのに、それを無視して「山形、クリア」としているのだ。これはいかん。
そんなわけで、今回は山形県の街めぐりを裏テーマとして帰省することに決めた。

 5日かけて帰省してみる2009・1日目: 大井町→白河→二本松→福島→米沢

例のごとく早起きして電車に乗り込む。まずは大井町から上野に向かい、東北本線に乗り込むのだ。
しかしながら肝心の天気は台風によって容赦なく雨が降る、旅行には最悪のコンディション。
今年の夏は雨に祟られまくっている。今でも忘れない高1の夏、1993年の夏は梅雨が明けないまま秋になった。
そのとき以来の悪夢である。先月「梅雨らしい梅雨ですね」なんて余裕ぶっこいたことを書いたが(→2009.7.2)、
さすがにここまでひどいと、テメー、ふざけんな天気!とワケのわからん悪態をつきたくもなる。
ぶーたれつつ東北本線の中ではコンビニで買っておいた朝メシを食べて過ごすのであった。

定刻どおり8時42分に宇都宮に着いたのはいいが、雨で川が増水しているとかで、そこから黒磯までが不通。
どうせ最初っから雨なので、もうアハハと今の状況を楽しむしかない。
そう思って気楽に構えていたら、駅員が振替輸送の券を配っている。東北新幹線は動いており、
黒磯駅まではそれに乗ってくださいとのこと。青春18きっぷでもOKということで、新幹線のホームへ。
青春18きっぷで新幹線に合法的に乗ることができるなんて、めったに起こることじゃない。
僕は鉄っちゃんじゃないからそれほどうれしくはないが、日記のネタになるなあと思いつつ新幹線を待つ。

 来た来た。青春18きっぷでこいつに乗ることになるとはねえ……。

空いている席にちんまりと座る。車内はスーツの男性ばかりで空いていたが、急に人口密度が上がって変な感じ。
雨の勢いはおさまらない。新幹線は何も気にせず高架を行くが、確かにこれでは橋を渡るのが怖い勢いだ。
黒磯駅に到着すると、リュックを背負った私服の乗客がどっと降りる。そのままみんな駅の構内に待機。
ここから先の郡山行も、いつ出発するんだかよくわからない状況である。困ったものである。
ヒマなので東北本線のホームに出てみたら、真っ青な列車が立ち往生していた。はるか北海道から来た北斗星だ。
高級な寝台特急も大雨には勝てず、足止めを食らっているのだ。ザマーミロと思ってしまう心の狭い自分。

やがて列車がゆっくりとやってきて、みんな乗り込む。遅れはしたものの、無事に白河越えができるようだ。
もっとも、僕の本日最初の目的地はその白河である。白河まで行ければ、とりあえずそれでいいのだ。
栃木北部のひと気のない高原を抜けて、列車は白河駅に着いた。時計を見たら定刻よりわずか10分遅れ。
想像を超えるドタバタがあったが、どうやらほぼ予定どおりに街歩きができそうだ。雨はやまないけど。

 白河駅。1921(大正10)年築の2代目駅舎だそうだが、これが美しい。

まずは白河駅のすぐ西側にある白河小峰城に行ってみる。前に車窓から眺めたときは(→2008.9.11)、
これでもかというほど気持ちのいい青空が広がっていたのだが、今日は泣きたくなるようなザンザン降りである。
地面のあちこちに水たまりができていて、よけられない。芝もたっぷりと水を含んで、踏めばジュッと音がする。
ふつうの観光客ならこんな日には来ないんだろうなあ、なんて思いつつ本丸を目指すのであった。

  
L: 東北では珍しいという総石垣造りの城である。  C: 前御門。当時の史料に基づいて1994年に復元された。
R: 本丸御殿跡より眺める御三階櫓。駅から城まではすぐなのだが、すでに靴の中はぐちゃぐちゃ。

白河小峰城は「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」でお馴染みの松平定信がいた場所だ。
実質的な天守である御三階櫓は1632年に建てられたが、戊辰戦争により焼失してしまった。
現在の御三階櫓は1991年に復元されたもので、中に入ると木造による再現が徹底されているのがわかる。
よけいな展示物がほとんどないのもすばらしい。新しいのだが、非常に説得力のある建物なのだ。

  
L: 御三階櫓の内部(1階)。いかにも櫓なサイズである。かなり気合の入った正確な復元ぶりという印象。
C: 櫓より眺める白河市街。雨に煙っているのがもったいない。  R: 櫓の天井。これまた気合を感じる。

白河小峰城を後にすると、線路の下を再びくぐって駅の東側へ。白河市役所周辺を軽く歩いてみる。
白河市は城下町ということで、駅の周辺には店舗を中心とした建物がよく集まっている。
地方都市が勢いを失って久しいが、白河は小ぢんまりと落ち着いた生活感を漂わせているように思う。
市街地で唯一といっていい名物建築の白河ハリストス正教会も「観光名所!」という感じではまったくない。
強い雨が降る中、折りたたみ傘をさして淡々と散歩をするのであった。

  
L: 1915年築の白河ハリストス正教会。ふつうに街の教会といったたたずまいである。
C: 白河市役所を正面から撮影。  R: 裏側はこんな感じ。こっちから見るとそこそこ大きめな印象になる。

さて、白河といえば、白河ラーメンが有名なんだそうだ。醤油ベースの正統派ということで、好みの系統だ。
市役所の近くにある店に入ったら客が僕ひとりだけでなんだか妙な雰囲気である。でも気にせず大盛を注文。
出てきたのは確かに、なるとまで入っているまさに正統派の醤油ラーメン。おいしくいただいた。

 白河ラーメン、見たまんまの味である。

食べ終えると白河の街歩きを続行。市役所の裏を流れる谷津田川が激しい濁流になっており、少し怖い。
あらためて今回の台風9号の勢いを実感したのであった。大変なときに来ちゃったもんだ。

白河駅に戻ってくると、列車のダイヤは元にだいたい戻っているようだった。
正午ちょい過ぎに白河を離れると、30分ほどで郡山へ。郡山もじっくり歩こうと思ってなかなか実現しない街だ。
東京から東北本線でまっすぐつながっているので、「郡山なんていつでも行けるでしょー」なんて考えてしまうのだ。
今回も郡山は華麗にすっ飛ばして、そこから少し北に進んだ二本松で降りてみる。

事前に練っておいた計画では二本松城址にチャレンジしてみるつもりだったのだが、さすがにこの雨では無理。
とりあえず市役所には行ってみることにした。改札を抜けて階段を上り、駅の南側に出る。ここで困った。
駅の北側は開けていたのだが、南側は完全に駅のすぐ向かいから完全な住宅地になっているのだ。
道幅が狭く、起伏も大きい。どっちに進めば市役所があるのかまったくわからず途方に暮れる。でも歩く。
Googleマップで調べた駅と市役所の位置関係を頭の中に思い浮かべ、その方向へと進んでいく。
そうして坂を上っていったら少し大きめの道に出た。こうなれば、さらに大きな道の匂いのする方へと歩けばいい。
途中で二本松城址があると思われる山が見えたので、デジカメで撮影してみる。

 
L: 大雨の二本松駅。改札を抜けたこちら、北側は開けているのだが、反対側の南側はものすごく複雑だった。
R: 住宅ばっかりの坂を上っていったら少し広い道に出た。そこから眺めた二本松城址方面。

入り組んだ住宅地を抜けてしまえば二本松市役所は意外と近かった。
目立っている四角形の建物を目指して坂を上っていき、まわり込んだら市役所の正面である。
向かいにある駐車場から撮影したのだが、けっこう大きくてやりづらい。
何枚か角度を変えて撮った後、市役所の中に入る。エントランスを抜けるとそのままロビーになっていて、
自由に座れるスペースになっていた。二本松市をアピールするチラシが何種類かあったのでもらっておく。
地元産の米や野菜、肉などをたっぷり使う「安達太良カレー」を地元のB級グルメとして売り出しているようだ。
しかしこれはまだ考案されて半年経っていないようで、まだまだ名物となるには程遠い感じである。

 
L: 二本松市役所。こちらは正面。  R: 裏側。撮影してみるとやっぱり意外と大きい。

消化不良な気分で駅まで戻る。南側の住宅地はもう懲り懲りだったので、県道を歩いて北へとまわり込む。
線路を越えて川を渡った北側は旧街道の雰囲気を残していて、対照的な姿をしていたので少し驚いた。
機会があれば、二本松城址も含めてまたあちこち歩いてみたいものである。

二本松の次はいったん福島駅で降りる。ここで16時近くまで時間をつぶさなくてはならないのだ。
本日最後の目的地である米沢まで行く列車は山形新幹線ばかりで、各駅停車がまったくないのである。
前に福島から山形入りしたときには青春18きっぷを使うなんて知識はなかったので気にしなかったが(→2007.4.30)、
すっかり旅行に慣れた今となっては、これは重要な問題である。成長して各駅停車になる私。
仕方がないので駅周辺の喫茶店に入ってパソコンを取り出し、日記を書いて過ごす。
店員のおねえさんが色白でまぶしかったです。やっぱ東北はいいですなあ。

 前回すっかり写真を撮り忘れていた福島駅をリベンジで撮影。

福島から米沢へは1時間足らず。列車は吾妻山のふもとの山岳地帯を突き抜けて走っていく。
つい2ヶ月前に訪れた裏磐梯(→2009.6.11)が、吾妻山の向こう側にあるのだ。不思議な感じだ。
やがて列車は平坦な土地に出る。まっすぐ走ると終点の米沢駅。時刻は16時44分で、街歩きはもう無理だ。
本格的な米沢市探訪は明日の朝にやるとして、まずは市街地の宿を目指して歩かなければならない。
米沢駅周辺にはそれなりに店舗があるものの、駅は中心市街地からかなり離れているのである。
重いFREITAGのBONANZAを背負ってトボトボと歩いていくのであった。

  
L: 米沢は大河ドラマ『天地人』の舞台ということもあり、駅には巨大な直江兼続の人形が設置されていた。
C: 米沢駅。明日訪れる予定の旧米沢高等工業学校本館をモデルにした駅舎だが、はっきり言って趣味悪すぎ。
R: 駅のすぐ近くにあるホテル音羽屋。1898(明治31)年築という見事な建物。でも正直、リニューアルがキツめ。

 
L: 山形県道6号を行く。米沢駅周辺は店もあるが、だんだん住宅地っぽくなっていく。
R: 最上川を渡って中心市街地へ。アーケードの商店街は、街の知名度にしてはやや小規模である。

最上川を越えると、はっきりと昔からの中心市街地に入った感触がする。
さすがは歴史ある城下町だけあり、ほぼ平らな広い土地を矩形の街区が穏やかに埋めている。
建物の密度は高くないのだが、街の範囲がすごく広い。こういう街は、歩くのがけっこう大変なのだ。

宿にチェックインすると、さっそく晩飯を食べに再び街へと繰り出す。
さて、米沢といえば、米沢牛である……と言いたいところなのだが、そんな贅沢は無理な話。
米沢牛が完全A級グルメであるなら、自分にはB級グルメを堪能するしかないのだ。
というわけで、米沢ラーメンをいただくことにする。さっき昼にもラーメンを食べたが、気にしない。
米沢ラーメンは、細打ちのちぢれ麺とあっさりした醤油味のスープが特徴とのこと。
いざ食べてみると、確かに麺がものすごく細い。だが、しっかりちぢれているのでスープがよく絡む。
これだけ麺が細いと、日本のラーメンというより中華料理の麺という印象がするくらいだ。
でも具とスープは正統派の醤油ラーメンといった雰囲気を強く漂わせている。おいしいのであった。

 米沢ラーメン。茹でているうちにくっついて固まりそうな細麺である。

食べ終わるとアーケードを軽く散歩して宿に戻る。米沢市民文化会館前のオープンスペース周辺を、
若い人たちがわりと歩いていた。山形大学工学部の学生たちか、帰省してきた学生たちか、どっちかだろう。
全盛期に比べると明らかにパワーダウンしている街中を若者ばかりが歩いている姿は、妙に違和感があった。

部屋に戻ってユニットバスの扉を開けてびっくり。僕の住んでいるアパートのユニットバスと同型だったのだ。
設備の都合で左右は逆になっていたけど、細かいところがすべて同じ。こんなのは初めてで、親近感が湧いてくる。
自分のアパートにいるような雰囲気がするけど、左右が逆なので確かに旅先にいるのだ。
洗面台の鏡の向こうが自分のアパートにつながっているような気がして面白かった。
雨に降られたけど、悪くない初日だった。


2009.8.9 (Sun.)

今日は本年度の採用試験である。僕は実際に働いている立場なので、面接試験があるだけだ。
とはいえ逆を言うと面接でコケれば人生台無しということにもなりかねない。油断など決してできないのだ。
思えばヒマを見て校長やら副校長やら、さらには飯田高校出身だという近所の校長まで面接の練習をしてくれた。
そこでの反省をしっかりと生かして試験に臨まなければならないのである。

受験者はひとつの教室に集められ、時間が来るとグループごとに移動して各自割り当てられた教室の前に座る。
これがフロアにある教室をぜんぶ使っている感じで、けっこう大規模な印象がして個人的にはあまり好きではない。
緊張しないように適度に脱力した体勢でじっくりと自分の番を待つ。

時間になり、ノックして中に入る。内容は予想していたものとはやや異なり、自分の今の仕事に関することが多い。
もしこうなったらどうしますか系の質問が多く、ひたすら「周りに相談します」的な答えを返すのであった。
最後に新しい学習指導要領についての質問が出て、しっかり覚えてきたはずなのに度忘れ。
焦りつつもどうにか根性で正解をたたき出し、ほっとして教室の外に出たのであった。いやー、ピンチだった。

まあ、去年とちがって「しまった~」という感触はまったくないので、どうにかなるよなあ、と思う。
牛丼をかっ食らって帰る。去年と比べて落ち着いていられるのは、現場にいることから生まれる自信なのか。


2009.8.8 (Sat.)

『モンティ・パイソン 人生狂騒曲』。ついにパイソンズが「人生の意味」をテーマに据えた映画である。
(前々作『ホーリーグレイル』(→2009.7.23)、前作『ライフ・オヴ・ブライアン』(→2009.7.24)のレビューも参照。)

まず最初に本編の前の短編映画ということで、『クリムゾン 老人は荒野をめざす』とタイトルが出る。
終身雇用の会社で無理に働かされる老人たちの姿が古代ギリシャのガレー船と重なり、
仲間の一人がクビを宣告されたことで老人たちが反乱を起こす。勝利した老人たちは海賊となって、
ビルごと国際金融社会の海に漕ぎだすというギャグでスタート。最初から発想の飛躍がすさまじい。

本編は出産・成長と学習・戦い・中年・臓器移植・晩年・死と、人生の流れに沿ってギャグが展開される。
基本的にイギリスの社会がギャグのよりどころになっており、その茶化し方でイギリスってそういうものなんだ、
と理解する感じになってしまう。とはいえ、バカバカしいことを全力でやる姿勢は相変わらずの面白さだ。
特に今回はブラックさやエロ・グロが大幅に増量。それもパイソンズなりの人生の解答なのかもしれないが。

アーサー王という元ネタに沿っていた前々作、一本のストーリーを丁寧に描いた前作と違い、
今回は元祖であるテレビシリーズと同じくギャグが徹底したオムニバス形式で続いていく。
モンティ・パイソンの凄みはそのオムニバス形式で積み重ねたギャグを交差させる技量にある。
前に出したギャグを絶妙のタイミングで持ってきたり、つなげたり、そういう楽しみがたっぷり盛り込まれている。
圧倒されたのは、映画の折り返し点の映像。手の長いテリー=ジョーンズとオカマ衣装のグレアム=チャップマン、
それに象の執事が「魚はどこだ」と繰り返すのだが、この映像の気持ち悪いこと気持ち悪いこと。
悪い夢がそのまま映像化されたようで、よくこんなもんをつくれるなあと呆れた。これはふつうじゃない。

パイソンズは「人生の意味」について、ありとあらゆるギャグを展開した末、非常にあっさり答えを出している。
さらにエンディングクレジットの最後には、魚にたとえてもっともらしいコメントが出る。どちらも中身はまっとうだ。
これまでを総括する壮大なエンディングシーンが用意されたり、「解答」に直接的に言及したりしていることもあるし、
モンティ・パイソンとしての最後の作品だという雰囲気が非常に強く漂っているように思う。
今までさんざんバカをやってきて、最後までバカを通した中に、ほんの一瞬だけマジメを垣間見せる。実に見事な結末。


2009.8.7 (Fri.)

『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』。
毎度のことで申し訳ないが、ストーリーはきちんとしたものがあちこちで書かれているので割愛。

前作でやたらと強かったドゥークー伯爵が、わりとあっさりアナキンに殺されて話が始まる。
このエピソード3ではいかにしてアナキンが悪者になってしまうのか(シスの側に移ってダース・ベイダーとなるのか)、
そこに焦点が当てられているのだが、展開としてはわりあいにベタというか意外性はなかったと思う。
その分だけSF・ファンタジーものにしてはわかりやすくて助かった、というのが正直なところだ。
(ダース・シディアスの正体はエピソード1から察しがついていた。顎の形が一緒だったので。)

しかし各地で戦っていたジェダイがクローンに裏切られて次から次へとものすごくあっさり倒されていく描写は切ない。
そこには銀河共和国があっさりひっくり返されて銀河帝国になることも重ねられているわけで、
各キャラクターを描くことで背景にある宇宙規模の政治まで描こうという意思が読み取れると思う。
やっぱりこういう物語は悪役がしっかりしていないとつまんなくなってしまう。
シスの側に堕ちてオビ=ワンに倒された後のアナキンはなかなか悪くてよろしい。
エピソード3まで終わってみれば、けっこうきれいに旧三部作と接続がされている印象である。
旧三部作は小さい頃にいちおう見ているのだが、また違った感触であらためて楽しむことができそうだ。

『スター・ウォーズ』ってのは結局、SFにファンタジーの要素をうまく盛り込んで成功したのだと思う。
いや、SFは元来ファンタジーに近い位置にある。両者の差は金属の光沢の程度くらいなのかもしれない。
でもその未来っぽさと前近代っぽさを大胆に融合して映像にしてみせた点に成功の秘訣があるように思える。
そういうヴィジュアル的なわかりやすさからライトな層を引き込んで、絶大な人気を得たのではないか。
もちろん各キャラクターの特徴をうまく交差させた技量も大きいし、J.ウィリアムズのテーマ曲も大きい。
だてに世界中で人気になったわけじゃないんだなーと思いつつ新三部作を見終えたのであった。


2009.8.6 (Thu.)

『裸の銃を持つ男 PART33 1/3』。
岩崎マサルが尊敬してやまないコメディアン・レスリー=ニールセンの代表作、第3弾で完結編である。

今作は映画のパロディが非常に多く登場する。まずは『アンタッチャブル』(→2005.6.19)のパロディで始まる。
(『戦艦ポチョムキン』(→2004.11.11)のオデッサの階段をオマージュしたシカゴ・ユニオン駅の場面をさらにパロディ。)
それにしても階段を落ちる乳母車が何台も出てくるという発想はすごい。何を食ったらそんなことを思いつくんだろう。
しかもNFLの元スター選手であるO.J.シンプソンが飛んでくる赤ちゃんをキャッチしまくるというのもすごい。
タッチダウンのセレブレーションをうまくギャグとして織り込んでくるセンスにも大笑いさせられた。
その後はやっぱり縦横無尽に走り回るパトランプが登場するが、ついに『スター・ウォーズ』まで茶化してしまった。
(エンディングのスタッフロールを見ると、ルーカス側にしっかり協力してもらっていたみたいでまた爆笑。)
ほかにも今回は脱獄ネタということで、悪びれもせずに『大脱走』(→2006.4.30)をパロディしてみせる。
クライマックスが映画の祭典・アカデミー賞授賞式ということで、きちんと考えたうえでバカをやっているのだ。
(パロディされている映画を数えるとキリがない。『サタデー・ナイト・フィーバー』(→2005.5.6)もやられている。)

さすがに3作目ということで、出演者・スタッフたちのチームワークが実に見事。
L.ニールセンだけでなく、誰がどこでどうボケるかがすごくいいバランスで散りばめられていて見ていて楽しい。
(それだけに、現実でのO.J.シンプソンをめぐるトラブルがものすごく残念という気分にもなる。)
しかし内容としては、今まで以上に下ネタがキツくなっているのも確かである。
もっとも、それでもしっかりとやりきってみせるL.ニールセンの実力はすばらしいとも思う。

『裸の銃を持つ男』シリーズはもともと『フライング・コップ』というテレビドラマが元になっているが(→2009.2.22)、
ぜひそちらの方も機会があれば見てみたい。映画のように大掛かりではないが、
その分だけ手ごろなサイズでつくり込まれたギャグのオンパレードが期待できそうだ。
やっぱり映画として大々的につくるよりも、適度に羽目をはずしていくテレビの方が向いていそうに思える。
映画でドドーンと3発つくって終わり!というのではなく、細く長く続けてほしかったなあというのが正直な気持ちだ。


2009.8.5 (Wed.)

藤原正彦『祖国とは国語』。ウチの英語科の先生が薦めてくれたので読んでみた。

エッセイ集ということになるのだが、まず最初に登場するのが「国語教育絶対論」。
言語が思考を規定するのだから、日本人はまず国語教育を徹底して思考力を磨くようにすべきだ、という論旨だ。
そして今の日本で着々と進められようとしている英語教育に対して大いに警鐘を鳴らしている。
国際化に向けて英語が話せるようになるのが望ましいということで会話重視の英語教育が進められているが、
その安直さと短絡さと愚かさについて、さまざまな根拠を挙げながら実に明快に論が展開されている。

僕は学校で英語を教える立場にあるが、はっきり言って、この「国語教育絶対論」には全面的に賛成だ。
何ひとつ批判すべき点がないと断言できるくらいに賛成である。この論に賛成する勇気を持つことを厭わない。
実際にこの本をぜひとも読んでほしいので、詳しい内容をそのまま書くことはここでは避ける。
だが最低限わかっておいてほしいのは、学校で英語を教えることと現場で英語を話せるようになることは、
イコールになることがありえないということ。週に何回かの授業で英語でものを考えられるようになるはずがない。
英語を現場で話せるようになるために学校で会話を重視した英語を教えようとする動きが活発化しているが、
そのことが引き起こすマイナスはとてつもなく大きいのだ。ちょっと考えればわかることが、みんなわかっていない。
このことに関しては、いずれ日を改めてしっかりと書きたいと思う。とにかく、この本を読んでほしい。

本の内容のレビューに戻ろう。中盤は純粋にエッセイとなる。「いじわるにも程がある」と題して、
藤原家でのやりとりを数学者(科学者)らしい鋭い視点からユーモラスに描いてみせる。
家族全員賢くてようございますなあ、とやっかみ半分に読んでしまったが、正直うらやましい。

最後を締めくくるのは「満州再訪記」である。藤原正彦の父親は作家・新田次郎だ。
新田次郎は戦中に中央気象台に勤めており、ソ連軍の侵攻を受けて勤務地である満州を脱出することになる。
(藤原正彦の母親・藤原ていはそのときの体験を『流れる星は生きている』にまとめて出版している。)
この「満州再訪記」は、21世紀に入って藤原正彦一家が母を連れて当時の街を再び訪れた記録である。
しかしながら内容は当然、ただの旅行記にはなっていない。当時の世界情勢についての細やかな説明と、
混乱を極める満州の描写、そして風化しつつある過去の記憶を掘り起こしていく現在が交互に展開されていく。
ノンフィクションだが藤原正彦はストーリーテラーとしての才能も一流で、とにかく読ませる。
過去と現在が入り組んで生々しい事実を描き出していく迫力は見事だ。時間を忘れて夢中になっていた。

硬派で中身のある主張がある一方で、気楽に読めるエッセイもある。最後にはすばらしいノンフィクションがあり、
新潮文庫でたった400円(税別)なのに、非常に充実した内容の一冊である。
僕の日記を読んで一度でも「なるほど」と思ったことのある人は、「国語教育絶対論」だけでも読んでほしい。
もし他人に読むことを一冊だけ強制できるとしたら、今のところ(たぶん今後しばらく)僕はこれを読ませる。
そこまでかよ、と思われるかもしれないが、それぐらいの重要性を持っている本だ。お願いだから読んでくれ。


2009.8.4 (Tue.)

『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』。
やっぱり、ストーリーはきちんとしたものがあちこちで書かれているので割愛。

アナキン役のヘイデン=クリステンセンがやたらめったらナタリー=ポートマンとチューチューしやがってコンチクショー。

相変わらすCGがキツいので個人的にはしょんぼりしつつ見る。
もともと僕はカタカナ名前に弱いというか、SFやファンタジーに出てくるそっちの世界で使われる用語が苦手である。
『スター・ウォーズ』シリーズでもそれは同じで、登場人物たちが何について話しているのかが今ひとつわからない。
そのためか、なんで共和国がクローンの軍隊を注文していたのか、それがあっさり実戦に投入されたのか、
よくわからないままストーリーの展開を見守るしかないのであった。

やっぱりこのエピソード2でも派手な戦いのシーンが売りとなっていて、観客を興奮させる秘訣が垣間見える。
ドゥークー伯爵が非常に強いのはいいが、前作出てきたダース・モールのような強烈さがなくってやや淋しい。
1作目だけで使い捨てるにはもったいなかったなーと思うのであった。それにしてもヨーダは強いなあ。


2009.8.3 (Mon.)

『裸の銃を持つ男 PART2 1/2』。
岩崎マサルが尊敬してやまないコメディアン・レスリー=ニールセンの代表作、第2弾。

相変わらず頭の悪いオープニングのパトランプが健在でうれしい。
今回は90年代初頭のエコロジーブームをうまく茶化してストーリーが練られているのだが、
その一方でやっぱり細かいところまで、豊富でくだらないアイデアがしっかりと詰め込まれていて、
よく思いつくものだとまたしても呆れ返りながら見ていった。アメリカ人の頭の中っていったいどうなっているんだ。
前にかましたギャグを場面が変わってもうまく引き継いでいるなど、丁寧さもみられるのがまたいい。

見ていると、繰り広げられるギャグを完全に理解しきれないのが悔しい。
字幕では拾えない部分、アメリカ人として生きていないとわからないバックボーンの部分、
そういったところに詰め込まれているギャグを味わえないのが悔しくてたまらなくなる。
もちろん拾わなくたって十分お腹いっぱいになれるくらいではあるのだが、
どうしてももったいなさを感じてしまうのだ。重箱の隅をつっついて、バカさ加減をこの目で確かめたいのだ。
そういう気にさせるアメリカ式バカ映画の正統派シリーズだ、とあらためて思うのであった。


2009.8.2 (Sun.)

本日も英語の勉強会なのだ。今日は朝から夕方までほぼ一日中勉強なのだ。がんばるのだ。
2日目はいくつかの分科会に分かれてのお勉強だったのだが、僕が今回申し込んだのは「音声から入る学習」。
いつも僕の授業では英語を読ませる努力が足りないので、ここでしっかり勉強しようと考えたわけである。

基本的には報告者の先生が自分の授業でやっている工夫を発表するという内容である。
午前中は中学校の先生による発表で、これがまた非常に参考になった。生徒を食いつかせる手段が多様なうえに、
先生じたいの人間的な魅力で生徒の意欲を引っぱり出しているのが話を聞いているだけでわかる。
有利な点としては英語専門の教室(LL教室ではない)があるという点で、そこを英語の雰囲気で固めてしまえる点。
僕は自分が教えていて問題だと思っているのは、まず自分が英語モードになりきれないまま授業に入ることだ。
ほかの先生の授業を見学したりALTが隣にいたりすると、そのうちに自分の脳ミソが英語に染まっていくのがわかるが、
それをどうにかして自力でできるようにならないといけないのだ。英語のスイッチを自力で入れないといけない。
まず生徒よりも自分に対してそういう工夫をする必要があるのか!と発見できたのは大きい。

午後は高校の先生による発表だったのだが、こちらは残念ながら先生が焦ってしまったこともあり今ひとつ。
一緒のグループに入ったほかの受講者の先生方も僕とまったく同じような反応をしていたのであった。
このやり方が効果ある!と主張するのはいいけど、その言葉の繰り返しばっかりになってしまっていて、
その効果を実感できるような具体的な経験を持てなかったということだ。逆を言えば、それはみんな陥りがちなミスであり、
何かを発表して相手を納得させるにはどうすればいいのかを客観的に考える機会になったのは、ムダではなかった。
まあともかく、参加したことで確実に視野が広がった。やはり物事は積極的に受け入れないといけないなあと思った。

2学期以降、ここで勉強したことがどれだけ生かせるかはわからない。僕の頭の柔らかさによると思う。
とにかく、どんなにゆっくりでもいいから、勉強した内容をしっかりと消化して自分にとっての当たり前にしていきたい。
そういうヴォキャブラリーを確実に増やすことができたことは、本当によかったと思う。まあがんばりましょう。


2009.8.1 (Sat.)

林間学校から帰ってきても私には休みなどないのだ。同僚の英語先生に勧められて、英語の勉強会に行くのだ。
クラスの強敵相手に面白おかしい授業ができなくて苦しんでいる自分としては、とにかくヒントが欲しいのである。
少しでも経験値を上げておかないといかん!という義務感から積極的に参加したわけだ。

英語の勉強会と書いたが、教員の団体が全国規模でやっている大会なので非常に大規模である。
場所は島津山こと東五反田の某女子大で、女子大に潜入ハァハァなんて思っていませんよ。
全国から英語の先生方が集まる中、たったひとり自転車でキャンパスに乗りつけるのん気な僕なのであった。
で、この会は純粋な英語の教育研究に加えて、いかに英語を通じて平和教育を進めるかにも力が入っている印象。
なんとなく生協的な匂いをあちこちで感じつつ、それはそれとして授業のレベルを上げるべく勉強しようと準備万端。

本日は中学入門期の授業に関する講座をとったのだが、なんというか自分の想像力不足を痛感した。
少しの工夫で生徒を食らいつかせる方法をあれこれ披露してもらい、こんなことができるのか!と目からウロコがボロボロ。
個人的なポリシーとして、中学生になったらガキみたいなゲームでお遊戯してんじゃねえよ!という矜持が僕にはある。
しかしながら現実問題として、お遊戯レベルの易しいアプローチでないと入り込めない生徒がたくさん存在している。
(お遊戯じゃないと食いつかないということではなく、それくらいソフトな位置まで下げないと理解ができないという意味。)
できるヤツは熱心に指導しようが指導しまいが塾に行こうが行くまいが、放っておいてもできるようになる。
問題は、放っておくと伸びないヤツと、きちんと指導しないと理解できないヤツと、箸にも棒にもかからないヤツだ。
こいつらを同じ授業で一括して成長させないといけないわけで、幅のある学力をどうきっちり上げていくかが課題なのだ。
現状では、上位の2者(できるヤツ・放っておくと伸びないヤツ)しか結果を残せていないように思っている。
でも、2学期以降に根気よく授業に取り組んでいくための非常に参考になるヒントをバシバシもらうことができた。
どうにか今のモチベーションを維持して結果へとつなげていきたいものだ。余裕がなくてもあれこれ試行錯誤してみたい。

まあそんなわけで、ちょっと感動して会場をあとにした。夏休みのうちにぜひいろいろ考えてみることにしよう。


diary 2009.7.

diary 2009

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