diary 2005.9.

diary 2005.10.


2005.9.30 (Fri.)

最近は音楽の話題があんまりないので、現時点でのiPod再生カウントランキングでも載せてみよう。
ちょっと自己顕示欲が出てイヤな感じなんだけど、僕の趣味嗜好が最もはっきり出る指標のひとつだと思うので。
とりあえず上位10位以内のものだけ、列挙してみよう。

1: Star Guitar/The Chemical Brothers album 『COME WITH US』 (2002)
2: Higher than the Sun/シンバルズ single 『Higher than the Sun e.p.』 (2001)
3: すばらしい日々/ユニコーン single 『すばらしい日々』 (1993)
3: 美しく燃える森/東京スカパラダイスオーケストラ single 『美しく燃える森』 (2002)
3: In the Wind/矩形波倶楽部 album 『GRADIUS III』 (1990)
6: メッセージ・ソング/ピチカート・ファイヴ single 『メッセージ・ソング』 (1996)
6: The Look of Love/東京スカパラダイスオーケストラ album 『PIONEERS』 (1993)
8: 南風/レミオロメン single 『南風』 (2005)
8: ワタスゲの原/坂本龍一 album 『子猫物語』 (1986)
8: 国境の北、オーロラの果て/東京スカパラダイスオーケストラ single 『Dear My Sister』 c/w (1998)
8: 睡蓮の舟/東京スカパラダイスオーケストラ single 『美しく燃える森』 c/w (2002)
8: 燃えよドラゴン/東京スカパラダイスオーケストラ album 『FULL-TENSION BEATERS』 (2000)

なんというか、好みがものすげーわかりやすい。なんだか恥ずかしい。

本日、ついに父親であるところのcirco氏が還暦を迎えた。
外見的には40代後半からそれほど変化していないので、そういう感じはしない。でもまあ、それはそれでいいことだとして、
確実に時間が経っているのだから、きちんと事実は意識すべきなんだろう。もちろん前向きに。
社会人となった今、これから僕が歳をとっていくうえで、どんなにイヤでも父親の通った道は比較対象になっていくはずだ。
そんな具合にいろいろと考えさせられることが多い。自分も少しは落ち着かないとなあ、と今日だけは思っておくことにしよう。


2005.9.29 (Thu.)

ウィリアム=ワイラー監督でグレゴリー=ペック主演、『大いなる西部』。まず、オープニングがシンプルながらもかっこいい。
ジェローム=モロスによるテーマ曲が最高で、そこにソウル=バスがセンス抜群のデザインを施している。
王道のつくり、といった感じ。まだまだ西部劇において、王道の作品がつくれるのだ、というプライドを感じさせる。

船長の職を捨てて大牧場の一人娘と結婚するために、西部へとジム(G.ペック)がやってくる。
娘の父親である少佐は彼を歓迎するが、牧童頭のリーチ(C.ヘストン)は快く思っていない。
少佐はブロンコ谷に陣取っているヘネシー一家と対立関係にあり、ヘネシーの長男がジムを襲ったことで事態が悪化する。
そんな中でジムは西部特有の荒っぽいやりとりに違和感をおぼえ、また少佐と娘もジムを臆病者とみなすようになっていく。
それでもジムは娘の親友であるジュリーから水源地の土地を買い取り、西部で生きていく決意を固めていく。
しかし水源をめぐって両家の対立は頂点を迎え、ヘネシーはジュリーを誘拐する、が。……といったあらすじ。

166分と長い映画だが、まったく飽きることなく見られる。というのも、とにかく細かい点まで配慮が行き届いているからだ。
カットしようと思えばカットできるかもしれないが、あればあったでストーリーがすごくわかりやすくなる、というシーンでいっぱい。
たとえば暴れ馬のサンダーにジムが乗ろうとするシーンは、馬の仕草がとても丁寧に描かれていて、それだけで楽しめる。
また、使用人であるラモン(A.ベドーヤ)の演技はこの作品をしっかりと盛り上げている。こういう脇役がいるのはすばらしい。
とにかく映像づくりにおいて神経が隅々まで行き届いていて、そのクオリティには圧倒されるはずだ。
どのシーンも極限まで考え抜いて撮影している。ボヤッとしていると気づかないかもしれないが、それくらい自然にやっている。

ストーリーを描いていくテクニックもまた秀逸だ。伏線の張り方が徹底していて、思わず唸らされるシーンは非常に多い。
もともと東部の人間、つまり他者であるジムを主人公にすることで、西部の姿が客観的に、立体的に描かれる。
だから従来ならただドンパチやっているシーンでも、その裏ではどういう思考回路があったのか、をきちんと扱っているわけだ。
さらに言うと、ジム(=観客)の知らない言葉を西部の人間たちがさらっと言う。当然気になるけど、訊けないで気にかかる。
そうして観客の注意を引きながら、順々にこの物語のキーワードを出して世界観を理解させていく手法など、職人芸だ。
その辺はさすがに巨匠。ひとつも手を抜かずに、やるべきことをすべてやっている印象。とにかく、穴がないのだ。
ジムが超人的に善人で気に食わないという人は、この映画を素直に楽しめないということで、とてもかわいそうに思えるほど。

ここまで丁寧に映画をつくることができるのかと、ずっと驚きながら見ていた。
とりあえずカラーの西部劇の中では、僕が見た中では暫定チャンピオン。古典だけど新しい。
つまり永遠に古びない映画だ。


2005.9.28 (Wed.)

石田衣良『少年計数機 池袋ウェストゲートパークII』。人気シリーズ(→2003.4.25)の続編を、遅まきながら。
やはり今回も、文章がヘタクソだ。前に比べるといわゆる「気の利いた表現」が多くなっているが、
相変わらず語り口が空回りしていて、読んでてこっちが恥ずかしい気分になってしまう。

今回いちばんのハイライトはラストに収録されている「水のなかの目」だと思うので、それについて書いておく。
なんというか、伏線があってないようなもので、そのテクニックについては、言葉は悪いが“幼稚”なレヴェルだと思う。
ただ、そう思うのは、ここんとこ少しだけ読んだミステリの影響を僕が受けすぎたのかな、という気もする。
ミステリで期待されるレヴェルの伏線を基準にするなら“幼稚”ということになってしまうだろうが、
そうでなければ、「上手ではない」という程度で許されるレヴェルなのかもしれない。
まあどのみち、人並みはずれた想像力で世界観を構築するということができない作家だということは痛いほどわかる。
最後のところを強烈にしっかりとまとめているので、それで無理やり納得させているのが、せめてもの救いだ。

かなり辛いことを書いたが、それでもこのシリーズが現代社会の一面をしっかりとえぐっていることは周知の事実である。
その一点のみにおいて、この作品は存在意義を確かに獲得している。だから僕は今後も、このシリーズを金を払って読む。
どんなにつまんなくっても、僕はこのシリーズを追いかける決心を固めている。文句あるか。


2005.9.27 (Tue.)

士郎正宗原作、押井守監督、『イノセンス』。
映画『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(→2005.8.19)の正統な続編にあたる作品である。
草薙素子が失踪した後のバトー(とトグサ)を主人公に、人形たちによって引き起こされた連続殺人事件を追いかける。

まず、面白かった点を列挙していく。
人間が人形をつくるという行為・事実を通して、人間・生命の形を浮き彫りにしようとする意欲。
『GHOST IN THE SHELL』では機械と融合していく人間(人間性)が描かれたが、それを理屈の面で補強する試みだ。
人型ロボットの意味にも通じるけど、なぜ人間のカタチなのか? 人間は無意識のうちに、人形に何を託しているのか?
その疑問から、逆に現代における人間性を検証しようとしている。そしてその核にあるのが今回の事件の真相というわけだ。
『イノセンス』というタイトルは、「人形で遊ぶ子どもの姿」と「子どもを生んで育てる人間の姿」をパラレルに表現したもの。
そしてまた、そこには今回の事件における“無知”そして“無罪”という意味合いも、当然織り込んでいるのである。
そんなわけで確かに、物語の骨組は非常にしっかりしていて、現代に訴えかける要素を強く持ったものだった。

ところが、いかんせんその語り口がいただけなかった。セリフに引用があまりに多すぎて、かえって薄っぺらく感じた。
キャラクター自身の言葉でしゃべらせないことで、逆に説得力もリズムもなくなることがわからないのか。非常に残念だ。
また、CGの多用も気になる。アニメの絵だけで十分きれいなのに、なんでウソくさいCGを入れたがるのか、理解に苦しむ。
フルCG映画『ファイナルファンタジー』がコケたのは記憶に新しいが、なぜ人間はCGで描かれたものに抵抗感があるのかは、
きちんと心理学的な面から検証すべきことだと思う。特にこのことは、『攻殻機動隊』本来の問題意識とも重なるはずだ。
そして、話の展開というか構図がとことんわかりづらいのもダメ。次々と現れる事態のつながり方が、いまいち見えづらい。
バトーたちは今、どんな目的のために行動しているのか。それを逐一示してくれないと、何が重要なのかを見失ってしまう。
そのせいで、中盤以降がとても退屈だ(キムの館のシーンが致命的)。観客のことを考えた表現ができていないと思う。
ラストもそれまでの豪華なやり口に比べてパンチが足りず、正直みみっちいような気がしてならない。

見ていて、1989年に公開された『機動警察パトレイバー』の劇場版(→2003.6.8)を特に強く意識しているように思えた。
同じ押井守監督作品なのだが、そのときにやったことを踏襲しているような印象を持った。
帆場を探るふたりの刑事が武器を持った、みたいな感じだ。大掛かりな犯罪の概要がゆっくり見えてくるところも似ている。
しつこい都市の描写も共通している。でも、『パトレイバー劇場版』では両刑事と遊馬&シゲさんは別行動をとっており、
そこを一気にくっつけてしまった『イノセンス』は、その分だけ話が入り組んで見えてしまったということではないか。

人間性の位置を探るテーマ設定は大変すばらしいが、表現がどうも浮気しがちで、テーマの内容に対応できていない。
たいていの人の場合、総合的な評価では「つまらない」というところに落ち着くだろうと思う。非常に残念な作品である。


2005.9.26 (Mon.)

『サウンド・オブ・ミュージック』。あまりにも有名なミュージカル映画で、一般教養として見ておこうと思ったわけだ。

スタートして2時間経った時点で、僕は正直、この映画をかなりナメていた。とにかく話の筋がコテコテ。
誰もが予想できるいちばん単純な展開を、驚くほどのスピーディさで見事なまでにやってのける。お約束の連続だ。
だから僕は画面を見ながら、話の本筋をヒントにして、気ままに別方向への想像を広げていた。
たとえば、子どもたちが7人なのは「ドレミファソラシ(シは本当はティと発音するのね)」に合わせたからなんだなとか、
単純に「規律」を否定するのではなく、いいパフォーマンスを目指す段階で規律は自ら生まれると主張しているんだなとか。
そもそも「ドレミファソラシ」という音階のそれぞれの名前は聖歌の歌詞から偶然取られたものにすぎなくって、
ほかにも「CDEFGAB」や「ハニホヘトイロ」という表現もある(音階のスタート地点が「ド」であるとは限らないのも面白い)。
もっと言えば、1オクターブの中に12音階が設定されたのは西洋がそうしたからで(東洋には微分音というものが現存する)、
音の名付け方も分け方も、実は恣意的なものなのだ。これをヒントにすれば言語の恣意性も理解しやすくなるなあ……。
まあそんな具合に、映画をヒントにして別のことばかり考えながら見ていた。

ところが、休憩も終わって残り1/3に差しかかって、事態は急変。舞台であるオーストリアがナチスドイツに併合されたのだ。
これを機に、平和な家族ドラマだったこの映画はいきなり、外国への亡命を試みるスリリングな展開をみせるのである。
そのじりじりとした緊張感を存分に含んだ進め方への脱皮も見事なものなのだが、それ以上に度肝を抜かれたことがある。
それは、ここまでの話をすべて伏線にして、歌が歌われているということだ。以下にもうちょっと詳しく書いてみよう。

この映画に登場する歌は、実に有名なものばかりだ。『ドレミの歌』も『エーデルワイス』も『もうすぐ17才』も、どれも有名。
でも、凄いのはそれだけじゃない。これらの歌は、それぞれほぼ2回ずつ映画の中で歌われる(そうじゃないのもあるけど)。
1回目が歌われるのは、すべてオーストリアがドイツに併合される前のシーン。そして2回目は、併合された後に歌われる。
その1回目と2回目で、歌の持つ意味が完全に異なるようになっている、というのがこの映画のとんでもない仕掛けなのだ。
『エーデルワイス』は、トラップ大佐の思い出の歌から、オーストリアという亡き国家を讃える歌になる。
『もうすぐ17才』は、淡い恋愛に夢中になる歌から、失恋を経て将来への希望を見出す歌へと変化する。
1回目では気軽に歌われた歌が、2回目に歌われるときにはことごとく、逆境を乗り越える力を秘める歌になっているわけだ。
注意して見るとわかるが、すべての歌がそうなっている。つまり前半2/3は、後半1/3のための伏線として存在していたのだ。
圧巻なのが、1回目はマリアが修道院に戻ってきたときに修道院長が歌う、『すべての山に登れ』だ。
僕はそのときには「なんでこんなに院長は一生懸命歌うんだろ?」なんて具合に少し引いた気分で見ていたのだが、
それがラストシーンでもう一度流れたとき、めちゃくちゃ大きな衝撃を受けた。つまり、1回目の修道院長の歌は、
2回目にそれが流れたとき(つまりラストシーン)に院長たちが送っていたエールを、時間軸を先回りして表現していたのだ。
これはもう、手塚治虫の『火の鳥』レヴェルの伏線のふっとばし方だ。この手法を思いつくということに、思わず鳥肌が立った。
ラストシーンに、歌う修道院長たちはもう出てこない(あえて出さない)。でも観客たちは全力で歌っている彼女たちの姿を、
アルプスを越えるトラップ一家のバックに重ねて見ることになる。時間を超えて、2つのシーンが観客の中で同時進行する。
こんなことができるなんて、信じられない。人間の想像力を最大限に活用したこの演出には、ただただ感動するのみだ。

以上のことに注意して見ないと、ただの「感動的につくられた映画」としかこの作品を認識できないだろう。
同じ歌を歌っても意味合いがまったく異なっているという実に巧妙な仕掛け、それに気づいて初めて本当の偉大さがわかる。
こういうふうに音楽を存分に生かしきった作品には、そうそうお目にかかれないはずだ。これは本物の名作だった。


2005.9.25 (Sun.)

高速バス内で日記をまとめつつ、昼ごろ東京に帰ってくる。池袋に行って東急ハンズで軽く買い物。
お台場にまで行ってやっと手に入れたモヤッとボール(→2005.9.18)を1階であっさり売っており、徒労感をおぼえる。
ドトールでメシを食いながらノートパソコンで日記を書いたのだが、なんつーか、イヤミな感じが自分でもした。

どうにも自分が今いる世界が狭いなあ、という気がする。まあ、毎度の悩みである。
高校にしろ大学にしろ、学生のときには強制的にいろんな種類の人間と顔を合わせる機会があったわけだが、
今はその絶対数がぐっと減っている状況にある。これは、静かに危険な状態だと思う。

で、解決策を考えてみたのだが、出てきた結論は「部活をやるべし!」ということだ。仕事・趣味以外に、部活をやること。
僕の周りでは、この点についてダニエルがいちばん積極的で、着実に人脈を広げている(ように僕には見える)。
本も読みたいし、DVDも見たいし、いろんなところにも行ってみたい。でも、それだけじゃ世界はそんなに広がらないわけで、
ここはひとつ、何かまったく別のことを強制的にでもいいから始めてみるべきなのかなあ、なんて思ってみる。
時間的な余裕は大丈夫なのか、って心配がすぐに浮かんでくる。やっぱり本とDVDに接する今のペースを落としたくないし。
でも今の生活スタイルを省みると、むしろある程度時間に追われないとだらしなくなるので、実はそう大きな問題ではない。
メリハリをつければ現在のペースを守れるだろうし、逆に日常生活にもっとメリハリが必要だ、と思い直した。

さて、部活といってもいろんなジャンルがあるわけで、どこに飛び込むか、それが重要である。
とりあえず、いろいろあちこち行ってみようかな、と思う。運がよければ、うまくいくかもしれないからね。

日記をまとめていて気がついたこと。
お台場での写真(→2005.9.18)を見るに、僕の顔は小学生のころとまったく変わっていない!
中学校入学以降はメガネを常用するようになっていたので気にしたことなどなかったのだが、メガネをはずした写真を見ると、
小学生のころと完全に同じ顔をしているのだ。あの頃からまったく成長していないようで、妙な気持ちになってしまう。
困ったもんだ。


2005.9.24 (Sat.)

昨日の反動で家に1秒たりともいたくなくなったので、旅に出ることにする。
目的地はなるべく近場で外泊する意味のある場所ということで、甲府でひとり合宿を敢行することにした。
天気予報では台風が接近して雨になると言っていたが、そんなことを気にしていては何もできなくなる。
FREITAGにノートパソコンをぶち込んで、傘を持って外に出る。

新宿で中央線に乗り換える。駅構内の売店で駅弁とお茶を買った。いつもじゃありえない行動だ。
中央特快で高尾に着くと、少しだけホームで待って、甲府行きの普通電車に乗り込む。
けっこう乗客がいた車内だったが、上野原を過ぎたらずいぶんと余裕ができた。
大月の辺りで駅弁をいただく。中央線名物がいろいろ入っているという「新宿弁当」。ご飯がいちばんうまかった。

家を出てから合計3時間ほどで甲府に着いた。この街にわざわざ来るというのは、実家に住んでいたとき以来のことだ。
宿を確保すると、街を歩いて見てまわることにする。今にも雨が降り出しそうな天気なのが、ちょっと気にかかる。

  
L: 甲府駅南口。八王子駅なんかとは比べ物にならないほど小規模。ロータリーも国立をちょっと大きくした程度という印象。
C: 駅前から平和通りを眺める。左手(東)は商業地区だが、右手(西)はさびれた飲み屋街となっている。
R: 甲府名物・武田信玄像。近くに寄ると、意外とデカい。でもそれは、なんだか中途半端な印象のデカさなのだ。

駅からまっすぐ南に伸びるメインストリート・平和通りは片側しかアーケードになっておらず、ちょっとさびしい。
周辺の商店街を見てまわったのだが、シャッターがけっこう閉まっていたり人通りがまばらだったりで、かなり寂れている。
東京が近いから、地元よりもそっちに行ってしまう人が多いのかもしれない。元気なのは私服の女子高生くらいだった。
駅から離れるほど、それに比例して活力がなくなっていくように思えた。県庁所在地がこれじゃ困るだろうと心配になる。

 甲府市役所。平和通りのど真ん中にある。典型的な昭和30年代の庁舎建築だ。

甲府はすべてのスケールが小さくできている。比較的大きいのは甲府駅前の武田信玄像だけだ。
県庁所在地ということでもう少し都会を予想していたのだが、非常に小ぢんまりとしていて繁華街も広くない。
街道沿いの旧家というか古い街並みは残っているのかもしれないが、駅前中心地域はとてもコンパクトだ。

  
L: 山梨県庁本館。このほか、敷地内には7つ(道を挟んだ隣にもうひとつある)の庁舎が建っている。典型的な分散型の狭隘庁舎だ。
C: 山梨県庁別館(旧館)。かつて役所が地域の誇りだった時代の遺物。こういう建物を見ているとうれしくなる。庁舎建築バンザイ。
R: 県議会の議事堂、平和通りに面した部分。うまく連携すれば商店街の活性化に使えるかもしれないのに、非常にもったいない。

県庁の東隣に位置する甲府城址に行ってみる。一般的には「舞鶴城公園」と呼ばれているようだ。
武田信玄の時代の甲府には城がなかったのは有名な話で(攻められることがないから必要なかったという)、
この城は江戸時代になってから築かれたものだ。やはり街と同様に小規模だが、遺構の雰囲気はよく残っている。

  
L: 舞鶴城公園から市街地を眺める。この写真は南向きで、正面には甲府でいちばん活気のある商店街が見える。
C: 東向き。見事に山に囲まれている。山梨県の山の近さは長野県の比ではない。それは国道20号(→2005.9.3)でも実感できる。
R: 北側を眺める。扇状地の緩やかな上り坂に、びっしりと建物が詰まっている。山との境目にあるのが後述する武田神社なのだ。

 
L: 舞鶴城天守台。周辺は、なんとなくジブリ的な光景。  R: なぜかオベリスク的な石碑もあったよ。

南口から北口へと移動してみる。こちらは実家の近所にありそうな光景で、県庁所在地って感じがまったくしない。
唯一、山梨放送のビルがナウシカに出てきそうな姿でそびえ立っているくらい。ちょっと先に進むと完全に住宅街だ。
とりあえず、武田神社に行ってみることにする。途中に山梨大学もあるというし、見てみて損はないだろう。

甲府市街の観光マップを駅でもらっていたのだが、南口と北口ではなんだかスケール感がまったく異なっている。
南口エリアは呆気にとられるほど狭くて簡単に歩きまわれてしまうのだが、それに比べると北口エリアはやたらと距離がある。
駅からまっすぐ延びる武田通りを歩けど歩けど小規模な店と住宅ばかり。一向に大学も神社も見えてこない。不安になる。
甲府は完全に扇状地なので、緩やかな上り坂が同じペースでずっと続く。楽なのかキツいのかわからなくなってくる。

距離感がまったくわからなくなってきたところで、山梨大学。もともと教育学部と工学部しかなかった大学で、
それを反映して武田通りの西側は教育人間科学部、東側は工学部と、キャンパスがきれいに分かれている。
(山梨県立医科大と合併して医学部もできたが、キャンパスは甲府にないので実質的には変わらない。)
やっぱり甲府は大学も小さい。背の低い柵で区切られた構内は、ちょっと豪華な私立高校みたいな印象がした。

 
L: 山梨大学教育人間科学部(西側)。生協の前でダブルダッチをやっている学生たちを発見。青春してやがんなあ。
R: こちらは工学部。西より質実剛健な感じ。悪く言うと華がない。理系の男子学生を文系の女子から隔離しているのは気のせいか。

もうずいぶんと上ったなーと思ったところで、ようやく正面に石造りの鳥居が見える。武田神社である。
もともとは武田氏の居城である躑躅ヶ崎館だった場所だ。扇状地のてっぺん、山との境目に位置している。
周囲を堀で囲まれているのが、その名残を示している。橋を渡って境内に入るが、すっかりふつうの神社なのであった。

  
L: 武田神社を正面から。甲府の名所できれいな場所だが、土産物屋は向かいに1軒しかなかった。  C: 夕方は灯篭がすごくきれい。
R: 神社の鳥居の位置から街を眺める。まっすぐ伸びた道が誇らしげ。武田信玄も、扇状地の先にある街を見たのだろうか。

参拝し終えると、いま来た道をそのまま帰る。ご利益がないと何のために甲府に来たのかわからんなあ、と思いつつ歩く。
そうしたら、うっすらと雨が降り出した。駅に着く頃には少し雨足は強まっていたけど、予報で言っていたほどのものではない。
僕はそこそこ晴れ男らしいので、それが雨の勢いを抑えていたのだ、と思っておく。

甲府はデパートもいまひとつ元気に欠ける。
小さい頃、休日のたび両親にあちこち連れて行かれたせいで、僕は地方都市のデパートが大好きだ。
だから旅行先では必ずその街のデパートに入って、各フロアを見てまわるクセがついてしまっているのである。
岡島は市街地の元気さを吸収してがんばっている印象があったが、駅前の山交は無印良品以外にあまり特徴がない。
逆ドーナツ化現象というか、首都圏の地方都市は東京にやられてかなり苦しんでいるのかもしれない。そんなことを考える。

晩ご飯には山梨県名物のほうとうをいただく。隣県で育ったくせに、今まで食べたことがなかったので楽しみにしていたのだ。
鉄製の鍋で出てきたほうとうは、山の幸が盛りだくさんで、すごく量が多い。しかもかなり熱い。勢いよく食べられない。
味は芋煮会の豚汁に、いちおう麺状にしましたって感じの小麦粉が入ったものだ。きしめんよりももっと「炭水化物」な感じ。
麺もジャガイモ・ニンジン・カボチャといった野菜のサイズも大雑把に切られており、体積が大きくてなかなか熱が逃げない。
ワラビも入って、海なし県の矜持を感じる味である。僕のような山国育ちは、無意識に懐かしさを感じてしまう味である。
冬に食べればカラダの芯からあたたまって、たまらないはずだ。今はまだ残暑の残る秋なので、冷静に食べられる。

店を出たら急に、一人旅なのが悲しく思えてしまった。まったく、社会人ってのは困ったものだ。


2005.9.23 (Fri.)

今日は一日、ニートに過ごすぜ!

今月はやたらといろいろ動きまわっていたのだが、この3連休については特に予定がない。
本当は大阪に行ってワカメ(→2005.9.4)たちに会うという話もあったのだが、諸々の理由によりポシャったので、暇なのだ。
まあそれならいっそ、引きこもり的な生活を徹底してみようと突然思い立ってしまったのである。

まず、午後に起きる。ニートは午前中に目覚めてはならないのだ。
太陽が南中してから西へと傾きはじめたタイミングで起き、日没までの短い昼間を味わう。これこそが正しいニートなのだ。

最初はゲーム! コーエーの『水滸伝』、PC-9801版の復刻版をひたすらプレー。
これは僕が初めて買ったパソコンゲームで、難易度設定がめちゃくちゃ。それでも中国を統一するのがプロの技である。
無頼漢の能力以上に小者の武装度と訓練度が軍事力に影響するので、戦争の前にしっかり準備をしないといけない。
放っておくと忠誠度も下がりまくるので、義兄弟での統治と委任をうまく使い分けないといけない。久々に熱くなる。

次はマンガ! 潤平のオススメである萩尾望都『スター・レッド』を買っておいたので、それを途中まで読む。
ぜんぶ読んだら後の楽しみがなくなってしまうので、中盤のキリのいい辺りでいったん終了。別のマンガに乗り換える。
稲中でケタケタ笑いながらゴロゴロ床を転がる。このマンガは僕にとって永遠のバイブルだとしか言いようがない。

メシはコンビニで買うのが正しいニートである。おにぎりとジャムバターのコッペパン、という定番のものを買う。
飲み物はいちごミルク。全体的にかなり甘いものが多い。しかし、それこそがニートである、と自分に言い聞かせる。
でもよく考えてみたら、こういう食生活は大学時代の前半にしていた記憶がある。懐かしさも同時に覚えるのであった。

夜になったらだいぶ飽きてきて、テレビを見ながら、まだ書いていない過去の分の日記を書いて過ごす。
あと、ふと思いついてデジカメによる画像データのフォルダをまとめ直してみる。四季に応じてファイル分けすることにした。
そんなふうに過ごしているうちに眠くなったので、寝る。思いっきりムダに時間を過ごしたように思え、複雑な気分になりつつ。

結局、『グラディウスV』と『ロックマン』シリーズをやる時間がなかった。まあ、またの機会にじっくりとチャレンジするとしよう。


2005.9.22 (Thu.)

あさりよしとお『まんがサイエンス』。単行本のVIII巻とIX巻が出ていたのを本屋で見かけたので、迷わず買った。
このマンガは、僕が小学校5年生のときに『5年の科学』でお世話になって以来の付き合いだ。
当時の僕は図書館に入りびたっては学研マンガを読んでいるガキンチョで、その趣味嗜好は今も大して変わっていない。
だから『まんがサイエンス』の単行本を見つけたときには、まるで犬が尻尾を振って飛びつくように買っている。

『まんがサイエンス』は今も『5年の科学』に連載されているのだが、年によってスタイルが若干違うようだ。
テーマをオムニバス形式にしている年もあれば、ひとつのテーマに集中して話を進めていく年もある。
VIII巻ではロボットがテーマに、IX巻では人体がテーマになっている。どちらもこのマンガお得意のテーマ設定だ。

このマンガは最初「よしおくん(♂)」と「あさりちゃん(♀)」のふたりが主人公だったのだが、
「あやめちゃん(♀)」と「まなぶくん(♂)」のふたりが登場してから飛躍的に話の展開が広がった。
大ボケのあやめちゃん、小ボケのあさりちゃん、ツッコミのよしおくん、しっかりしているようでちょっと頼りないまなぶくん、である。
ここに毎回さまざまな専門家のキャラクターが絡んできて、非常にわかりやすく科学の最先端を紹介していくのだ。
何より、あさりよしとおお馴染みの、一味違ったキャラクターデザインがそれぞれの専門家には施されていて、
それを見ているだけでもまったく飽きない。これをネタ切れなしで毎月やっているってのは、地味ながらも偉業だと思う。

考えてみれば、もう15年以上も連載は続いているのだ。マンネリというと悪く聞こえる言い方だが、
安定してハズレのない芸をコンスタントに提供し続けているわけで、その技術には素直に感嘆するしかないのだ。
国立科学博物館やNHKの理系ドキュメンタリーが好きな人は、ぜひ今すぐ全巻揃えるべきだ。


2005.9.21 (Wed.)

村上龍『69 sixty nine』。クドカン脚本の映画(→2005.8.5)の原作になった小説である。

1969年は、マルクス主義に代表されるような革命だとか救済だとかが、まだ信じられていた時代だ。
社会の制度は厳然と目の前に立ちはだかってはいたけど、若さでなんとか変えることができる、そう考えられていた。
だからヴァイタリティをもって何かをする、ということが、当時はわりとカジュアルというか、近くにあったのだ(、きっと)。
そういう幸福(?)な時代の物語である。現代ではもう、再現しようがない。非常に残念である。

巻末で作者自身もそう書いているが、高校生はぜひ読んでおいた方がいい作品だと思う。
高校を卒業してからでは遅い。10代で、リビドーと日常を変える意欲とがいっしょくたになったエネルギーがあるうちがいい。
そういうものを適度に発散すること、発散するテクニックを身につけることがいかに大切か、教えてくれるからだ。
何も主人公たちと同じことをする必要はないし、それをしようとするのはずいぶんと無茶なことだ。
だから、今を楽しむべく、今の時代なりのアレンジを施してやればいい。そういうきっかけを与えてくれる作品である。
さらに言えば、これを書いた時点で作者は32歳だったのだ。理由なんてものは32歳になって考えればいいわけで、
とにかくエネルギーをきちんと正しく発散することができれば、それで十分なはずなのだ。

原作を読んだことで、映画の評価を上方修正しなければならないと思った。実に魅力的に映像化していた。
小説の持っているリアリティをそのまま追求するのではなく、思いきってディフォルメすることができていた(特に時代背景)。
そうして、理想に燃える部分とリビドーに突き動かされる間抜けな部分とをきれいに切り出して勝負する姿勢がよかった。
やはり映画でも小説でも、物語が終わって、17~18歳という年齢だからこそ見えていた世界が懐かしく思えた。
そういう気持ちにさせることができるってのは、もうそれだけで成功と言えるはずなのだ。
ちなみにラストは映画の方が圧倒的に好きだ。小説のラストは結局、現実に引き戻されてしまう。それも急速に。
その点、映画はきれいに落としていて、ヴァイタリティを少しも損なうことなく余韻を楽しむことができるからだ。

それにしてもこの小説を読んでいると、どうしても自分の高校時代と比較をしてしまい、思わずため息が出てしまう。
具体的な例を挙げていくとキリがない。僕の高校時代についてそこそこ細かく書く必要が出てきてしまう。
一言でまとめると、「オレがもう一人いればなんでもできるんだけどなあ……」で、これは当時よく潤平に漏らした言葉だ。
こいつと組めばとにかく笑える!という存在がいなくって、それで消化不良な気分で毎日を過ごしていたのだ。
一人じゃ結局、何も動かせない。一緒に周りの温度を上げる、決定的な仲間が必要なんだ。そう思って唇を噛んでいた。
というのは嘘で、作曲してバット振ってマンガ読んでゲームやって勉強は一切しないでのんべんだらりと過ごしていた。

もうひとつ切なくなってしまうのは、去年まで塾で教えていた生徒たちが高校生活を楽しんでいる姿を想像してしまうことだ。
こちとらすっかり社会の側に取り込まれて四苦八苦しているわけだが、それですっかり生徒たちに負けている気分になる。
(今月の日記があちこち遊び歩いた記録になっているのはその反動だったりするわけだ、ここだけの話。)
社会人として経験を積んでいくと、どんどん常識を踏みはずすことが怖くなる。うまくハジケられなくなる。
そうして脳みその運動不足な自分を鏡で見るたびに、気ばかりが焦ってしまうのだ。どうにかしなきゃ、と。

読みながら、いろんな思いが広がっていく。高校時代を回顧する物語は世の中にいくらでもあると思うけど、
軽やかな足取りで時代背景とともに的確に切り取ったこの作品は、説教臭いこともあんまりなくって、
本当にスムーズに受け止められる。なるべく早いうちに、広く読んでもらいたい作品。


2005.9.20 (Tue.)

勝新太郎主演、『座頭市物語』。リョーシ氏が借り残していったもの(→2005.9.17)を、きちんと見た。

丸坊主で目を閉じる勝新太郎は、どこか日本人離れしている。目立つ鼻が、エキゾチックな雰囲気を漂わせるのだ。
「異形」というと語弊があるが、江戸の社会から外れきった姿、外れたやくざの中のさらに外れ、というのを表現するのに、
その妙に整った顔はぴったりマッチしている。ちょっと上を向いて鼻を利かせながら気配を探る仕草がかっこいい。

この物語には、すべての要素が凝縮されているようだ。実力を認め合った男どうしの友情と真剣勝負、報われない恋。
特に敵役である平手とのやりとりは、いかにも日本人好みの切なさが満載で、観客の心をじっくり盛り上げていく。
結末のわかりきっているあまりに潔い悲しさが、運命に翻弄されてしまうそのやるせなさを、さらに強めるのである。

演出では、カメラの構図がものすごく巧みだ。カメラを固定して遠近で差をつけるというパターンが多いが、
近くで大映しになっている人物を遠くの役者が見つめる、その視線で感情表現をさせる手法が徹底していて美しい。
白と黒のコントラストも鮮やか、かつ落ち着いている。光の量にかなり気をつかっているのがわかる。
あとは殺陣のシーンで安易に刀のぶつかり合う金属音をさせないところもいい。安っぽい音は、一切入らない。
その一方で、派手に太鼓を叩く人々を画面に登場させてしまうという、大胆すぎる演出がなされていた。
つまりこれは、効果音を出す裏方の人々を表に公開してしまっている、というわけなのだ。
この手法は北野武監督の方の『座頭市』(→2005.5.28)でもアレンジされていると思う。これには驚いた。

僕の場合、こういったモノクロの時代劇を見ていると、どうしても西部劇と比較して見てしまう。
西部劇でははっきりと正義と悪が判別できて、主人公は正義の使者として勝つものの、その勝利には虚しさがつきまとう。
しかしこの『座頭市物語』の場合、対立するやくざの組のどちらにも正義はない。ただ既得権益を守るために戦うだけだ。
そんな中で座頭市と平手は翻弄されるがままに戦うことになる。勝ったのはただの結果であり、正義はその根拠ではない。
正義VS悪という単純な構図はどこにもなく、ただ火の粉を払いながら自らの道を行くのみという姿勢は、西部劇にはない。
そういう点では、時代劇の方がより真実を衝いているように思う。より、「リアル」であると思う。

時代劇というと「お決まりのパターンが確立されている」というイメージがどうにもあるわけだけど、
そのパターンがなぜ確立されるに至ったのか、それを丁寧になぞることがどれだけ美しい印象を残すのか、を考えると、
奥の深さに思わずのけぞってしまう。この『座頭市物語』は、そういう古典の中に今も生き続けている作品なのだ。


2005.9.19 (Mon.)

無性に多摩地区を自転車で走りたくなったので、国立まで行くことにした。だいたい半年ぶりになる。
国立に行くだけじゃつまらないし、久々に走ってみたい道もいくつかあったので、ちょっと大回りで行くことにした。

環七を北に行き、井の頭通りを西北へと進んでいく。だいたい京王井の頭線沿いの道になっている。
行った先にあるのは吉祥寺。多摩地区で最も東にある、洗練された都会の街である。
人出がすごくって思うように進めない中、無印良品とLOFTを見てまわる。いかにも僕らしい行動パターンである。
キッチン用品やリビング用品など、あると楽しいだろうなあと思うものはいっぱいあるのだが、
よく考えると実際には使うのが面倒になりそうだ、というものがほとんど。それで結局、見ているだけになってしまう。
そういうのが、なんだかちょっと悲しい。貧乏性が染みついてしまっている。

なんとなく青梅街道を走りたかったので、そのまま吉祥寺通を北に行って青梅街道に出る。
青梅街道は場所によってけっこう雰囲気が違って、西東京市の東半分までは大規模な道路である。
でも新青梅街道が並行して走るようになると、かつての旧道といった雰囲気が濃くなる。小平市もそんな感じが残っている。
ちょっと言葉では説明しづらいのだが、小平の青梅街道特有の、生活と緑と交通量の多さの微妙に入り混じった感覚が、
たまに懐かしくなることがある。ある意味では、多摩地区の北半分の特徴をごちゃ混ぜにした道、と言えそうな気もする。

西武多摩湖線の青梅街道駅から線路沿いに南下して、一橋大学小平キャンパスへ。
小平キャンパスは僕が国立を離れてから劇的に変わったのだが、変わってからはあまり変わっていない(おかしな表現だ)。
ただ、周辺の街や店は以前と比べてちょっとだけ元気がなくなってきている気がした。少し心配になる。

かつてはそこそこ往復した、小平-国立コースを行く。大学1年のとき、夜に停車していた車に激突したのが懐かしい。
そうしていったん国立に入る。親戚宅の建て替えをcirco氏が担当しているので、現場で記念写真をパチリ。

 国立市北地区は、すっかり様変わりしとりますな。

駅前のロータリーを抜け、そこから今度は立川へと向かう。
住宅街の国立と騒がしい立川は、同じ道なのに市境で本当にガラッと雰囲気を変えるのが面白い。

立川は北口をブラつく。本屋やCD屋でプラプラする。学生時代となんら変わらない行動パターンである。
再開発の第1弾が終わった辺りで僕は引っ越したわけで、今の立川はさらに勢いよく建物が建っている。
商業施設のほか、基地の跡地には市役所をはじめとする公共機関もバンバン移って、今後はさらに姿を変えるのだろう。
でも実際に周辺をまわってみると、意外と前からあったこまごましたものは残っていた。懐かしいものの健在ぶりがうれしい。

国立に戻ってリョーシ氏に電話。かつて僕が暮らしていたアパートの前で待ち合わせて、一緒にスタ丼を食べに行く。
考えてみたらこの日記でスタ丼についてきちんと書いたことはなかった気がするので、いい機会なので書いておこう。
スタ丼とは「スタミナ丼」の略称である。ニンニクたっぷりの醤油ダレで炒めたネギと豚肉を、海苔を敷いた白飯に乗せ、
その上に生卵をかけて食べる。実に男くさい料理である。一橋生男子の主食といっても過言ではない国立名物なのだ。
特筆すべきは大盛の存在で、洗面器レヴェルの器にメシがたっぷり盛られて出てくる。これを食いきるのは至難の業だ。
(国立に住んでいた頃はたまに潤平が食べに来て、一緒に大盛をたいらげた。でも今はもう絶対に完食できないと思う。)
なお、一橋大学の学園祭「一橋祭」の運動会では、スタ丼早食い競争が行われるのがならわしになっている。
僕の在学中に応援部が41秒という異次元な記録を樹立したが、さすがにこれを更新するのは無理だろう。そんな大学。
現在、スタ丼の店は多摩地区を中心に拡大路線を突っ走っている。あちこちで食べられるので、興味のある方はどうぞ。
ネットで「スタ丼」と検索すればイヤというほど出てくるので、そちらをじっくりチェックしてリサーチしておいた方がいいでしょう。

  
L: スタ丼(550円)。昔はもっと汚い器で、生卵が最初から乗っていた。味噌汁の具はもやしだけだった。
C: スタ丼近影。食べたことのある人は、条件反射で匂いを感じるでしょう。一橋の男子はみんなこれで育ったのだ。
R: 店の外観。なんだかすっかりイメチェンしてしまった。昔はもっとなんというか、女人禁制の荒っぽい雰囲気丸出しだったんだけどなあ。

久しぶりのスタ丼。僕にとっては国立を象徴する味で、これを食べると若返るというか、内側からエネルギーがあふれてくる。
なんてったって風邪を引いたときにはスタ丼を3食食って寝て一晩で治していたわけで、まだまだその勢いは衰えていない。
そんな僕を見てリョーシ氏は「スタ丼を食えるうちはまだまだ大丈夫」と言った。
その程度のことが基準なら、余裕で大丈夫に決まっとるやん。

リョーシ氏に府中への抜け道を案内してもらって別れる。勉強、がんばってください。
で、僕はひとり、夜の旧甲州街道を東へと走っていく。3年前に僕は多摩地区の市役所をすべてまわる、
ということをやったのだが(はじまり →2002.9.2/おわり →2002.11.18)、そのせいか、夜の旧甲州街道は特別に感じる。
誰も助けてくれない、自分ひとりでなんとか帰るしかない。そういう現在の状況を、夜道が象徴しているように思うのだ。
「無事に帰る」ということがどれだけ当たり前で大切なことなのか、それを実感しながらペダルをこぐ時間が、いとおしい。
ちょっと街灯が頼りなくって静かな道を走っていると、自分のスピードが闇を切り裂く光になったように錯覚する。
狛江通、世田谷通と道を変えても、その感触は変わらない。自分だけを頼って家へと近づいていく、特別な力を確かめる。
今回はまだそれが自分の中に残っていることを確かめたくて、国立まで行ったようなものだ。
そして無事に家までたどり着いて、自転車に「お疲れ」と声をかけて、部屋に入る。ほっと安心する。


2005.9.18 (Sun.)

朝起きたら、ダニエルが持参したBerryz工房のシングルVが流れていた。
リョーシとみやもりから、お前は重度の睡眠時無呼吸症候群だ、と指摘された。

特に予定もないわけで、もろもろの都合により、午前中でダニエルとニシマッキーが帰る。
残ったリョーシ・みやもり・僕の3人で、とりあえずメシを食いに出る。蕎麦を手繰りつつ、ロッテが強いとかダベる。
で、みやもりは合宿の準備のためにここでお別れ。僕とリョーシ氏だけが残る。

誰が言い出したのかよくわからないのだが、気がついたらお台場で『タッチ』の映画を見ることになっていたので、そうする。
僕の記憶では昨日、DVDを選ぶとき「カッちゃんの死んじゃう回を借りよう」って話になりかけたのがきっかけだった気がする。
なんで場所がお台場なのかは覚えていない。でもそんな予定になんとなくなっていたので、なんとなく乗ってみる。

大井町線で大井町に出て、りんかい線でお台場へ。地上に出てみると、日差しがまるで拷問のようだ。
フラフラしながらアクアシティに行き、とりあえずチケットを確保する。僕はシネマコンプレックスを目にするのは初めてで、
あまりの大規模さにため息が漏れた。なんだかSFに出てきそうな、宇宙ステーションの中みたいだ。

そのまま6階にある「World of Coca-Cola TOKYO」に行ってみる。ここはコカ・コーラのグッズが置いてある店なのだ。
売っているグッズは本当に多種多彩で、日用雑貨やおもちゃから自転車、衣類、サッカーボールと、なんでもある。
一企業のグッズで、これよりも充実しているものは絶対にほかにないはずだ。ないジャンルが想像できないくらいだ。
金もなければ置き場もないわれわれは、「すごいねー」なんて言いながら見てまわるしかない。それでも満足できてしまう。
面白いのは、英語で「Coca-Cola」と書かれると、それはアメリカの匂いがすること。古き良きアメリカの文化を感じるのだ。
ところが日本語カタカナで「コカ・コーラ」と書いてあると、今度は昭和の匂いが強く漂い出す。ロゴの影響力が実感できる。
そんな二重のノスタルジーがあるから、コカ・コーラグッズの魅力は強い。手に取ったものが、思わず欲しくなってしまうのだ。

 やっぱりコーラはビンでしょう!

続いてフジテレビに行ってみる。僕のワガママで、どうしても「モヤッとボール」が欲しかったので、行くことにしたのだ。
とんでもない炎天下、フジテレビのオフィシャルショップでついにモヤッとボールを購入。ずっと前から欲しかったので、大満足。

 
L: モヤッとボール大好き。  R: お台場の大観覧車を背景にリョーシ氏。

まだ映画まで時間があったので、パレットタウンまで足を運んでみる。ビーナスフォートに男2人で入るという暴挙に出る。
が、どうにもテーマパークっぽいウソくささ満載で、5秒で飽きる。「印象を一言で言うと、『叶姉妹』」とはリョーシ氏の弁。
1階に下りたら広大なスポーツ用品売り場になっていて、僕は急に楽しくなってあちこち見てまわるのであった。
入り口の方はアミューズメントエリア(いわゆるゲーセン)になっていて、花やしきでお馴染みのパンダを発見。

 27歳児。

ぼちぼちいい時間になっていたので、シネマメディアージュに戻る。中に入って、指定された席に座る。
思えば、映画はなんと3年3ヶ月ぶりである。久々の映画鑑賞が『タッチ』になるとは、夢にも思わなかった。

いざ開演。原作マンガ(→2004.12.14)との違いに、「へえー、そうきたか」なんて思いつつ見る。
柏葉監督代行も吉田剛も勢南の西村も出てこない。南は新体操をしない。そうして、意地で2時間に収めている。
もともと原作並みのクオリティなど期待していない。原作はもう神懸かったレヴェルだからだ(そう見せないところがまた凄い)。
映画は映画なりのストーリー展開にアレンジして、それで勝負しよう、という姿勢が一貫しているのは納得できる。

長澤まさみについては、異論はありそうだけど、僕はいいと思う。「ふつう」な感じ、「ふつうにいそう」な感じがいい。
原作での南を見ると現実離れしたヒロインを設定したくなるだろうが、それをしないで「ふつう」に徹したのは好感が持てる。
(本人やファンには悪いかもしれないが、僕はアイドルにはそれほど興味がないので、とりあえず役者として評価してみた。)
斉藤祥太・慶太もきちんとキャッチボールができていて、決して女投げでぶち壊しということはない。見られる。
が、アップになった祥太がどうしても新庄剛志に見えるときがあり、それで集中が欠けた。本人は真剣だろうが申し訳ない。
人によっては、コータローが体格も顔つきも原作とぜんぜん違うじゃないか!とか、なんで新田が左バッターなんだ!とか、
あろうことか原田が若槻千夏と手をつなぐシーンを見て思わず、下駄履かせときゃいいってもんじゃねえぞ!とか、
いろいろツッコミが入るかもしれない。まあでもこの手の映画では、いかに原作に近づけるかを期待すべきではないと思う。
原作をヒントに、どう映画の中の世界をそれ自体だけで魅力的につくるか、で評価すべきだろう。

で、上述の評価軸からすると、僕の場合は「がんばっているけど、ちょっと不満」という辺りになる。
お涙頂戴とまでは言わないが、感動させよう感動させよう、という制作者側の意識が見え見えだからだ。
山場はもうちょっとあっさりしていても大丈夫だったと思う。ふつうに高校野球していた方が好みだった。あくまで、僕の好み。
また原作ではこだわっていた部分、「達也が自分の中で勝手に和也というハードルを設定する」という点が決定的に弱い。
達也は野球部入部以降、和也の不在を逆に「利用」し、南にふさわしい男になるべく理想像をきわめて高く設定する。
そのことでがんじがらめにして自分を追い込んでいく姿が描かれるのが、原作後半のすべて、と言ってもいいのである。
映画でも同じ密度でできるとは思わないが、なぜ作者が和也を死なせたのかを考えてみた場合、はずせないことだと思う。
しかし、映画でそれはあっさりスルーされている。そうして和也の存在感がほとんどなくなってしまっているのは残念だ。
がんばってつくっているという姿勢はヒシヒシ感じるものの、まだまだ原作の咀嚼は不十分である、といったところか。

まあそんな話を軽くしつつ、リョーシ氏と晩メシを食べたのであった。


2005.9.17 (Sat.)

HQS同期会、通称:「クイス研究会」である。今回はマサルが欠席、みやもりとダニエルが遅刻ということで、
とりあえずリョーシ・ニシマッキーと秋葉原に集合した。秋葉原なのは、ニシマッキーがメイドカフェめぐりを提案したため。

まずは前日にオープンしたばかりの秋葉原ヨドバシカメラに向かう。案の定、異様なほどの人出だった。
レストラン街で何か食べようかな、と考えていたのだが、どこに行っても行列ができている。まあ、当たり前のことなのだが。
それでもうイヤんなっちゃって、3分もしないうちに建物を出る。そのまま、炎天下の中をあてもなく歩くことに。
そうしていてもしょうがないので、テキトーにメイドの店に入って何か食べよう、と決議。ネットで下調べした店へと行ってみる。
ところが、行く店行く店、ことごとく行列。男3人、すっかりやる気をなくしてしまい、結局近場のラーメン屋に入る。
ラーメンを待っている間、ずっとメイドカフェの混み具合について呆れていたのであった。「この街はおかしい!」
で、お腹いっぱいになって落ち着いたところで、次にどこに行くかを決める。
「つくばエクスプレスに乗ってみたい」「落語とか聴いてみるのもいいかも」の2つの意見を総合して、浅草に行ってみることに。

秋葉原の地下深く、つくばエクスプレスの車両に乗り込む。いざ発進してみると、これがまったく揺れない。
ふつう電車というものは、地下鉄だろうとなんだろうとローリング(横揺れ)するもんだが、それが見事なまでにゼロなのだ。
ここまで揺れない乗り物は初めてだ。なんだか気持ち悪いくらいスムーズに進む。妙な体験だった。

浅草に着くと、まず僕の希望でバッティングセンターへ。打つぞー!と意気込むが、左打席がなかなか空かない。
その間、リョーシVSニシマッキーでエアホッケー対決が行われる。結果はリョーシ氏の圧勝。おめでとうございます。
そうしているうちにケージが空いたので、いざバッティング開始。ホームラン性の打球もそこそこあったのだが、
納得のいく当たりは少なかった。日ごろの鍛錬不足を感じる。もっと確実にボールを捉えられるようにしなければ。

 
L: リョーシ(奥)vsニシマッキー(手前)、エアホッケー対決の図。  R: 浅草の記念写真パネル。撮るしかないでしょ!ということでパチリ。

浅草演芸ホールでは16時40分より夜の部がスタート。2500円で一日中見たい放題、となっている(学割あり)。
休日ということもあるだろうが客席は見事なまでにいっぱいで、落語人気の根強さを感じさせた。
前座にはじまり、最初は若手の時間。一生懸命なのはいいけど、それが若干空回り気味なところもチラホラ。
ひとつのことを極めるにあたって経験を積むとはこういうことか、と教えられたような気がする。なんだか偉そうだけど。

やがて中堅~ベテランの方々が舞台に登場すると、その話芸の巧みさに圧倒されてしまう。
明らかに、レヴェルが違うのだ。ただしゃべるのではなく、客を引き込む引力を持っている。
この差はどこから生まれるのだろう? 高座で演じる噺家の身振りの向こうに、噺に登場するキャラクターが見えてくる。
ここが、若手との大きな差なのだ。この目でいま見ているのはもちろん噺家本人なのだが、
頭の中には別のもの=キャラクターが見えている。だから、そのふたつが重なって、光景が二重に見える。
決定的だったのは講談の神田松鯉先生で、横綱・谷風の生涯唯一の八百長の話『谷風の情相撲』を聴かせてくれた。
序盤は「なんだ講談かよ」とナメている客がけっこういたが、山場で観客たちは完全に惹きつけられて、身動きひとつしない。
観客たち全員の頭の中ではそれぞれに谷風が佐野山と組み合っていたわけで、想像力を動かす話芸の威力を実感した。
もちろん落語だって負けてはいない。三遊亭遊吉師匠の『粗忽の釘』、三笑亭茶楽師匠の『紙入れ』、どちらもしびれた。
テンポのいい口調によって頭の中が刺激され、丁寧な(しゃべりと動作の)演技によってキャラクターが見えてきだす。
そうなってしまえばもう、噺家側のやりたい放題で、観客の想像力はいいようにコントロールされてしまうのだ。
特に『紙入れ』は間男の話で、それを小さい子どもの前で喜々として演じる、黒さ全開の茶楽師匠はひどく印象に残った。

想像力を使う落語ばかりでは頭が疲れるだろう、という配慮もあって、コントなどの色物もバランスよく組まれている。
コントでは、明らかにお年寄りは僕らと笑う箇所が異なる。僕らがスルーするような、単純すぎる箇所でバカ受けなのだ。
「韓流ドラマは筋がコテコテでとてもとても……」とは僕の母親の弁だが、そういうものが受け入れられる土壌に近いと直感。
この単純さを好む層と、もっと踏み込まないと面白がれない層をつなぐ芸人は誰か。理想に近いのは、綾小路きみまろだ。
なるほど、きみまろが売れる理由はそこにあったのかー!と、バカ受けのお年寄りを遠巻きに眺めてひとり納得。

時間の都合で、仲入りのタイミングで外に出る。3人揃って「落語は大いにアリだ」という結論に至る。
「オレ、会社辞めたら落語家になるー」と言う。そのときの思いつきであれこれ無責任に発言するのは僕の悪い癖だ。
まあそれはさておき、川崎のみやもりが今から合流可能、ということで、自由が丘に集合して晩飯を食べることにする。
銀座線に乗っている間、われわれはずっと落語の話をしていた。「これはオツだわー」なんて繰り返し言い合っていたわ。
メイドのおねーちゃん<落語家のおっさん。われわれの統一見解である。

無事に合流して晩飯タイム。みやもりはこれから車の免許の合宿に行くんだそうで、パンフレットをみんなで眺めつつ食事。
その後は大岡山に移動して、DVDを借りることに。各自1枚ずつ見たいDVDを借りて、それを見てみよう、という企画。
『ウルトラセブン』、『ALL JAPAN REGGAE DANCE Vol.3』、『勝新太郎・座頭市』、『ワールドカップの歴史(2)』と、
それぞれの趣味が全開のラインナップである。誰がどれを選んだのか、当ててみれ。

やがてダニエルが合流。マサルがいないが、記念写真を撮ってみた。

 なんか青春だな。

ダニエルは到着早々、Berryz工房のマイハが抜けたショックから立ち直れないとかなんとかぬかしてやがるので、
みんなで無視してDVD鑑賞を続ける。でもまあ結局、みんなすっかり夜が弱くなったのであっさり寝っこけた。

DVDの正解は、ウルトラセブン=ニシマッキー(特撮大好き)、レゲエダンス=みやもり(オシャレかつちょいエロ)、
座頭市=リョーシ(しぶい邦画大好き)、W杯=びゅく仙(スポーツ知識大好き)でした。みんなわかりやすいねえ。


2005.9.16 (Fri.)

アルフレッド=ヒッチコック監督、『鳥』。
今回のヒッチコックは、オープニング終了後に、ヒロインと入れ替わりにペットショップから犬を連れて出てくる。

不思議な映画だ。序盤ではふたつの目的が用意されていたが、途中から片方だけに集中していく感じ。
放棄される方の「目的」は、ヒロインの相手であるミッチに対して奇妙な愛情を注ぐ母親をめぐる謎、である。
母親は夫(ミッチの父親)を亡くして以降つねに不安を抱え、その結果、ミッチに異常に寄りかかるようになる。
前半はそこを徹底的に描いていくので、鳥の恐怖と絡めてどう解決するのか楽しみにしていたのだが、
結局、もうひとつの「目的」である鳥の恐怖を描く意識に押し出されてしまい、こちらはそのまま放置されてしまった。
逆を言えばその分、鳥の恐怖は後半でどんどん凄みを増してくる。本当に怖い。見ていてぞっとする。
圧巻なのは音楽の使い方(というよりも「使わないぶり」)で、観客を無理に盛り上げるようなBGMは入ってこない。
鳥の羽ばたきや鳴き声などの自然の音で恐怖を感じさせるのである。よけいに、リアリティが増してくるわけだ。
最終的に、この映画は純粋に、人間とは異なる種である動物という存在がもたらす恐怖を描くことに収束する。
その点のインパクトは、本当に強い。

本来、動物は本能で生きるものであり、明確な意思や目的を持つことはない、という認識がわれわれにはある。
しかしこの映画において鳥たちは、自らの意思で、徹底して人間を攻撃してくる。くちばしという鋭利な武器を使って。
人間はふだん鳥類を比較的フレンドリーな対象として捉えているが、それだけに容赦なく逆襲してくるのが怖いのである。
僕らには、たとえ相手が殺人鬼でも、人間であれば言語を介してどこか理解できるところがあるはずだ、と信じている。
しかしその相手が動物になったとき、言葉が通じないことで、彼らは何を考えているかわからない絶対的な他者となるのだ。
妙に人間くさい仕草をすることもあるが、でも人間ではない。似ているのに決定的に異なっている、からこそ漂う恐怖感。
(1羽、また1羽と集まってくるジャングルジムのシーンは、本当に怖い。ヒッチコックの演出が冴えわたっている。)
似ている他者が突きつける恐怖というものが、この映画では少しも手綱を緩めることなく、次から次へと提示されるのだ。

だが、それだけなのである。この映画ですごいのは、本当にそこだけなのである。
鳥の恐怖、ただそれだけでしかない。あとはぜんぶ、それに比べるとよけいなものでしかない。
だから、作品としての完成度はまったく高くない。しかし、恐怖という点では群を抜いている。
やっぱり不思議な映画だ。終わり方もものすごい消化不良なんだけど、それが妙に似合っているのも実に不思議だ。


2005.9.15 (Thu.)

桐野夏生『OUT』。映画化も舞台化もされたミステリの名作である。
ちなみにこの作品は、僕の大学時代の恩師が都市社会学の授業で配った「参考になる文献リスト」に入っていた。
論文や学術書の中で、この小説の存在は異彩を放っていた。そして教授のジャンルを問わない読書量に舌を巻いた。

読んでみての第一印象は、文章表現のムダのなさだった。「ムダがない」というのは正確ではないかもしれない。
必要なことはきちんと書き、それでいて不要な余韻を一切残さない。一言でいうと「端的」という感じだ。
でもよくありがちな、ト書き的な文章にはなっていない。ミステリにちょうどいいスピード感とあっさり感とが実現されている。
こういう研ぎ澄まされた文章が書けるというのはうらやましい。手際のいい包丁さばきを見るようでかっこいい。

都市社会学的には多摩地区という郊外を舞台にしているところが重要である。
理想的なホワイトカラーの居住地という側面と、その幻想が崩れた家庭崩壊という現実が、バックグラウンドにはある。
登場する4人の女性はそれぞれに重い問題を抱えている。軸にあるのは家庭(夫婦生活)で、ギリギリの状態が描かれる。
つまり、表面的には外向きに理想を演じ続けている、壊れきった人間関係の容赦ない描写が突きつけられるのだ。
家庭という単位が、そこでは最も残酷な単位となる。これは女性作家だからこそ、到達できた視点なのかもしれない。

その中で「OUT」というタイトルは、何重もの意味を持つように設定が組まれている。
まず、表面的には忘れられているが、でも確実に存在している、現代社会の階級という社会的な縛りがある。
もうひとつ、主婦(女性)であるがゆえに居場所を固定される(家庭でのシャドウ・ワークや女性の身体的価値)という縛り。
両方のレヴェルでがんじがらめになっていて、女性たちの日常生活はあまりに厳しく苦しい状況で染め上げられている。
そこからの脱出という意味合いが、タイトルにはある。だが、それはまっとうな社会からの逸脱をも意味している。
この物語では主婦たちが(意図したものではないにせよ)社会から逸脱することで、硬直化した日常からの脱出を図る。
それが成功したかどうかはラストで読者の想像に委ねる姿勢をとっており、正直ちょっと消化不良な気にもなった。

4人の主婦それぞれの性格の描き方が実に綿密だ。ヨシエ・弥生・邦子、それぞれの「敗北」の理由がきちんと描かれる。
しかし雅子の存在は奇妙に映る。超人的なのだ。それは逸脱を通じた出口への到達を徹底的に目指す人物だからで、
常識を超えた強さを持っていなければ脱出はできない、社会の分厚さは半端ではない、という事実の裏返しだろう。
最終的にはその出口への猛烈な希求がクローズアップされ、序盤でしつこく描かれた俗世のことはほとんど出てこなくなる。
徹底してリアルだった対象が、急にふわふわと現実味を失っていく。ここは、ちょっともったいなく思った。作者としては、
都市社会学的な関心よりも、出口を求める人間の精神性を重要視したのだろう。ここは人によって評価が変わりそうだ。

物語が徹底して残酷なのは、現実の社会が残酷だからで、安易な救済など存在しないことを作者は冷静に描いている。
想像力を使ってここまでリアルに沿ったストーリーを考えられる、という能力には、もう脱帽するしかない。
この話がリアルだからこそ、映画とか演劇とか、ほかのメディアでの表現に挑戦する人が次々と現れたのだと思う。
また凄いのは、裏返しの形で、「じゃあ幸せに暮らすにはどうすればいいのか」という解答の輪郭を示しているところだ。
主婦たちが自ら墓穴を掘っていく姿を容赦なく描くことで、読者はその対偶が真であることに気がつく仕組みになっている。
現代社会を的確にえぐっているから、いろんな読み方ができる。実に奥の深い作品だ。


2005.9.14 (Wed.)

ヘンリー=フォンダ主演でジョン=フォード監督、『荒野の決闘』。
実話に比べてあまりに脚色がなされているので、ネタバレありで書きたい。

久しぶりにモノクロ映画を見たせいか、コントラストが強すぎるように感じた。
特に屋内で撮影していると思われるシーンでは、白と黒のバランスが難しいのか、いつの時間帯なのかわかりづらい。
全体的にどちらかというと黒の方が目立っていて、画面の細かいところが追いかけづらかった。

ストーリーは、西部劇ではお馴染みのワイアット=アープ物。OK牧場でクラントン一家と戦う、アレである。
前も『OK牧場の決斗』(→2005.6.26)で書いたが、この戦い自体は実話である。だからどうしても、そう思って見てしまう。
しかし『荒野の決闘』は、登場人物は実在するけど、かなり展開が脚色されている。ここを押さえないとけっこう大変だ。
序盤でワイアット=アープがトゥームストーンの保安官を引き受けるまでがきわめてスピーディに描かれ、
続いてドク=ホリデイとの出会いが描かれる。しかしこの映画では、ふたりの関係はちょっと複雑だ。
まず、ワイアットが実力でドクをねじ伏せる。そこにドクを追いかけてきたヒロインが登場して、四角関係が発生するのだ。

どちらかというと銃撃戦はオマケで、この四角関係の方がメインになっている印象を受ける。
ドクはもともと医者で、結核をきっかけに無法者となってしまう。そんな彼を救いたくて、ヒロインのクレメンタインがやってくる。
しかしドクは自らの過去を突きつける存在であるクレメンタインを避ける。で、ワイアットはクレメンタインがどうにも気になる。
ドクは歌手のチワワ(人名、念のため)とくっついているが、このチワワがクレメンタインにライバル心をむき出し。
とにかく、この関係性がすべて。このためだけに、ノンフィクションがフィクションになっているくらいだから。

具体的にどこが脚色されているのか。まず、ドクは歯科医のはずなのに、外科医になっている点。
この脚色は、この映画では絶対にはずせない。ドクは外科医としてチワワを手術して、一瞬、過去の栄光を取り戻す。
しかし、結局チワワは死んでしまい、自分はもうガンマンとして生きるしかないという決意を固め、ドクは決闘に参加する。
いかにもジョン=フォードらしい、観客の心理を熟知した盛り上げ方だ。ここまでフィクションを優先させる姿勢は、潔い。
そしてドクは、ガンマンとしてOK牧場で死んでしまう。現実にはサナトリウムで結核で死んだのに、である。
個人的には、ドクにはOK牧場を生き抜いてもらわないとイヤだ、と思う。やはり撃たれて死ぬのはすごく違和感がある。
でも、実在の人物をキャラクターとして利用した物語と割り切ってしまえば、まあなんとか納得のいくレヴェルである。
フィクションとしてうまくできているだけに、なんとも複雑な気分になってしまう。

この作品で最も納得のいかない点は、『荒野の決闘』という邦題である。
原題は“My Darling Clementine”という。つまり、ヒロインをめぐる男の心理がメインだ、とはっきり宣言しているわけだ。
『駅馬車』のときと同じで、撃ち合い以外のところでドラマをしっかりやろうという意欲がよくわかる。
邦題はそういう意図をすっかり隠すものになってしまっていて、非常に残念である。

邦題と過剰な脚色のせいで、どうにも最後まで乗りきれず。オープニングは凝っていて面白かったんだけどなあ。


2005.9.13 (Tue.)

岩井俊二監督で松たか子主演、『四月物語』。TSUTAYAで4本ばかしこのDVDが並んでいたので、借りてみた。

白い。とにかく白い。野外ロケなんか特に白い。光を目一杯採り入れて、画面をやたら明るくつくっている。
良く言えばホンワカとかフンワリとか、そういう表現ができると思う。とにかく徹底的にエッジを削った感じ。
悪く言えば、オンナコドモ向け、という表現もできるかもしれない。綿菓子みたいな印象で、話を進めていく。

ストーリー展開もそれと同じで、とにかくやわらかい。「不純な動機」なんていうからドキドキして見ていたのだが、
いざフタを開けてみて拍子抜け。そういう理由で大学に行くのは、ネームヴァリューで学校選ぶのと大して変わらないだろう。
穏やかに優しくヒロインを見つめる視線は、確かにゆっくり見られる安心感はあるし、悪くない雰囲気だと思う。
でも、あまりにもふつうすぎて、「これって映画にするほどの話なのかなあ」という疑問がずっと消えなかった。
正直、途中で飽きてしまって、この日記はDVDを横目で見ながら書いているしだい(つまり画面に集中してないってことだ)。
いちおう、そういう「ふつうさ」をきちんと描くことの価値はわかっているつもりなのだが。うーん。

あと、どーでもいいところで気になったのは、1998年の作品だってのに、学生たちから妙にバブルの匂いがすること。
もうひとつ、松たか子が自転車で下る歩道橋は思いっきり国立の大学通り。諸般の事情により、ちょっとセンチになったぜ。

結論。悪くはない。女性にはバカ受けだろうなあと思う。
でも、刺激が足りないと思ってしまうのは、僕が短絡的なんだろうか。物足りなくってお腹がすいた。


2005.9.12 (Mon.)

選挙結果について書いておくか。といっても、長々と書く気が起きないので、できるだけ短くまとめておく。
日本はどんどんアメリカに近づいている気がする。簡単な方、安易な方に流れちゃうところとか。
東京で民主が菅直人しか勝てなかったというのは、一番流行に敏感な都市がそうなっている、という意味で、
すごく象徴的なことのように思う(民主が千葉でも1議席、神奈川にいたってはゼロってのは、なかなか衝撃的だ)。
まあ、どうでもいいや。とりあえず今後4年間、政治については思考停止する。役者が少なくって面白くないもん。

ところで各選挙区の当選者を見ていると、誰とは言わないが「良識があるのか?」と疑いたくなる結果が、今回は目立つ。
僕にとやかく言う権利などないのだが、首をひねらずにはいられない。人生っていろいろだなあ、と思うしかないのだが。


2005.9.11 (Sun.)

マサルに誘われ、秋葉原へ。ついに、かねてよりの懸案であった「秋葉原アンプラグド・ツアー」を実現する日が来た!
これはまだ僕らが大学生で秋葉原が電気街だったころにマサルによって立案された企画で、
電化製品以外のさまざまな面から秋葉原をクローズアップしよう、というものなのだ。
しかし現在の秋葉原は「萌え」がキーワードになるような、まあむしろそっちがメインの街になっているわけで、
結局のところ、できる限りで「メイド」漬けの時間を過ごそう、という話である。ちなみに僕はメイド初体験である。
(今年の5月1日に「メーデーにメイド・デー」という企画をやろうとしたができなかったので、そのリベンジでもあるのだ。)

午前11時に現地集合という約束をしたが、10時50分にかかってきた電話は「いま起きたところ」。
しょうがないのでアイスティーを飲みつつ高校数学の勉強。マサル到着は12時半ぐらい。昼メシおごりはいつものこと。

まず最初に行ったのは、メイドヘアサロン。開店してから1週間も経っていない、新しい店のようだ。
本格的にカットもできるが、シャンプーのみ、というコースがあるのが売り。マサルはそれが目的というわけ。
「僕はこのために、昨日は頭を洗ってないんよ!」
店はふつうのビルの2階に入っている。受付でマサルが申し込むが、僕は「付き添いです!」とパス。
店内でぼーっと待っているが、けっこう客が来る。予約の客がホントに多くて、あきらめて帰る人もチラホラ。
特にカットは予約しないとできないくらいの盛況みたい。シャンプーだけでもかなり待たされた。すげえ人気、と内心びっくり。
待っている間に壁に貼られた英字新聞の記事の切り抜きを読んだけど、冷静な視点で書かれているのが面白かった。
アキバのA-BOYがファッションに気をつかうきっかけになれば、という意図もあっての開店のようだ。
そうこうしているうちにマサルの番に。メイドさんに呼ばれて頭を洗ってもらうマサル。写真に撮れなかったのが残念だ。
(メイドさんの肖像権やら何やらの関係で、写真は撮影できませーん。オレは洗われるマサルにしか興味がないのだが。)

シャンプーが終わって店を出ると、昼メシを食べよう、ということに。メイドレストランに行くことにする。
あまり派手な看板が出ていなかったので見逃すところだったが、地下にあるその店に入ると、並んで待っている人がいた。
禁煙席ということですんなり座れたが、こちらの店も混んでいた。メイド商売って、ホントに人気があるんだなあと実感。
メニューを見ていろいろ迷うが、メイドさんがケチャップで好きな絵を描いてくれるという「萌え萌えオムライス」を揃って注文。

 
L: マサルの指示で僕のオムライスに書かれた文字。食いづれえ。  R: マサルの分。メイドさんにお任せしたらキッコロを描いてくれた。

せっかく描いてくれたキッコロだが、マサルは「死ね!」と叫んで目の位置にスプーンをグサッ(もちろんギャグだが)。
肝心の味の方は、卵の半熟具合がなかなかよろしかった。飲み物はどれも全般的に激甘で、その辺がアキバ風かも。
そんな具合に食べつつ飲みつつ店内を観察していたのだが、客はけっこうひっきりなしにやってくる。
すごいねえ、繁盛しているねえ、なんて話をして、次の目的地に向かうべく店を出る。

しかし店を出て驚いた。いきなり予想外の大雨になっていたのだ。洗濯物干したのに……と絶望的な気分になる。
仕方がないので近くの店で雨宿り。そうして雨の様子をみながら少しずつ距離を詰め、なんとかメイドカフェに飛び込んだ。

目的のメイドカフェは、これまたふつーのビルの2階である。僕からすると、店の中はけっこう混みあっているかな、という感じ。
それでも「今日はちょっと少ないかな、って感じですね。予約中心なんで」とはメイドさんの弁。そういうもんなのけ。
さて、この店は「ケア」と「コミュニケーション」というのが売りなんだそうだ。「ケア」とはメイドさんによるマッサージのサービス。
で、「コミュニケーション」というのは、お気に入りのメイドさんを指名して、個室に入ってコミュニケーションをとる、というもの。
マサルから「さっきマツシマくんはなんでシャンプーせんかったんよ」と、ノリが悪いとチクチク非難されていたので、
今回はおとなしくコミュニケーションすることに。膝まくらと耳そうじをオプションでつけるのが一番人気だそうで、それにする。

しばらく待った後、コミュニケーションルームに連れて行ってもらう。中に入ってみてわかったのだが、要するに、
マンガ喫茶の個室にメイドさんと一緒になって入るようなもん。部屋にはテレビ・ゲーム・ソファ・クッション・テーブルがある。
メイドさんといろいろ話したけど、実家だという八百屋の話、歳の離れた末っ子だから甘えんぼなのって話、そんなところ。
で、なんとなく年齢の話になって、隠してもどうにもならんので27歳って正直に言ったら「見えなーい」って反応。
そのメイドさんは20歳なんだそうで、「若くていいね……」と言ったら「男は30から」と見事に慰められ、
あとは膝まくらで耳かきをしてもらって「次来るときまで掃除しちゃダメですよ」と言われて「商売うまいわー」と密かに感心。
僕は相手がどんなに年下でも、しっかりしている人であれば丁寧語(です・ます調)でしゃべるクセがあるのだが、
「ご主人様、私はメイドなんですから敬語を使うのはやめてください!」と笑いながら怒られた。確かに、そりゃそうだ。
まあそんな感じで、メイドのなんたるかをみっちりと勉強させてもらった時間はおしまい。メイドのプロってすごいなーと感心。
ちなみにマサルは膝まくらしてもらいつつゲーム、という贅沢なコミュニケーションをしたそうだ。もう、尊敬の念すら覚えた。

一日かけてメイドの店をいろいろとまわってみて、けっこうたくさん気がついたことがあるので、とりとめなく書いてみよう。

まず、どこも例外なく繁盛していた点。単純にメイドのコスプレをしているだけ、と考えられなくもないわけだが、
それがひとつの街の規模で集合しているので、ある意味でテーマパーク的な特徴を持ってきていると思う。
つまり、「せっかく秋葉原に来たんだからメイドカフェにでも」というパターンが、観光ルートとして成立してしまっているのだ。
そういった下地があるところに、さまざまな業種が展開されようとしている。女性店員がメイド姿になっていく街、秋葉原。
マサルはこの「秋葉原=メイド」という流れは永く定着しそうな気がする、と言っていた。事実、それだけの勢いはある。

店じたいの特徴を見てみると、内装に凝ったものはなかった。裸の壁に、申し訳程度の飾りを施したものがほとんどだった。
真剣に営業しているわけだが、設備についてはちょっと貧相なものが目立つ。それを眺めてみて、思い当たることがあった。
メイドの店は、学園祭の延長線上にあるのだ。学園祭の喫茶店が常時営業になったもの、それがメイドの店というわけだ。
女の子はみんな思い思いのコスチュームで接客する。客も客で、どれどれどれ、と様子をうかがいに来る。同じ構造だ。
それはつまり、学生時代の匂いが気軽に体験できる、という魅力があることを意味する。秋葉原はそういう街になっている。

さらにもうひとつ。メイドヘアサロンでの英文記事で書かれていたことから、考えてみる。
メイドは本来、いかにもA-BOY的な妄想の産物であるはずだ。「モテない男にとって都合のいい女の子」であるはずだ。
しかし実際にメイドの恰好をしている女の子と話してみると、やはり相手が生身の女の子であることを実感することになる。
だって女の子は、メイドを演じているだけだから。少し話して演技の奥と向き合ってみると、そこにリアルな存在が感じられる。
それで自発的に、もうちょっとカッコよくならねば、という気にさせられる。やはり相手に不快感を与えるようなことはしたくない。
だからメイドという存在は、もしかしたらA-BOYに現実をやんわり提示し、脱オタク化させていく救世主なのかもしれない。
つまり世間一般の見方とは実際は正反対で、メイドが秋葉原という街を巨大なリハビリセンターにする可能性があるのだ。
(メイドヘアサロンやメイドレストランでは、ダンス系の洋楽やOrange pekoenなどが店内に流されていた。
 いわゆるアニメソングは一切なかったところからも、A-BOYだけでなく一般に通用する店にしよう、という意志を感じた。)

百聞は一見に如かず、というが、マサルに連れて行ってもらわなければ、こういった現場のことはわからないままでいたと思う。
とても貴重な体験ができたと心から感謝している。A-BOYでない人も、ぜひ試しに一度行ってみると新鮮で面白いはずだ。
(でも最後まで、店に入ったときの「お帰りなさいませ、ご主人様」のセリフに慣れることはなかったなあ……。)


2005.9.10 (Sat.)

おとといの会社の飲み会で白鬚西地区(南千住)の再開発の話が出たので、じゃあ自転車で行ってみるか、と思った。
今までほとんど行ったことのない東京北部を探索するのが、自分の中ではどうも最近の流行であるようだ。

まず上野まで出て、そこから日光街道を行く。千住大橋を渡ったところで地図を確認してみて、しまった、と思う。
「千住」と一言で言っても、北千住と南千住がある。千住大橋はその両方をつなぐ位置にあるのだ。
だから南千住の白鬚西地区に行くには、橋を渡っちゃいけないわけだ。こそこそと戻る。
千住というのは厳密には荒川と隅田川の中洲を指す地名で、足立区に属している。その真ん中にあるのが、北千住駅。
地図を見るに、南千住は「千住の南」ということだろう。こちらは荒川区で、北千住周辺とはまったく別モノである。

さて南千住に着いたが、駅の規模にびっくりする。予想よりも小さかったのだ。もっと都会だと思っていたが、すごくローカル。
でも現在はあちこちが工事中で、これからは一気に開発が進む予感。ちょっとしたら街の景色が劇的に変わりそうだ。
白鬚西地区への整備された道沿いに商業施設がぽつぽつできている。2階から見る隅田川貨物駅がなかなか面白い。
東に進むと、都立航空高専がそびえ建つ。その先の隅田川の堤防も、ずいぶんと爽やか。すべてが新しくつくられている。
実際に白鬚西地区を走りまわってみると、大規模な高層住宅ばかりだ。東京湾岸の埋立地とまったく変わらない感覚。
集客は南千住駅に任せて、白鬚西地区は住宅に専念する。そういう分化がはっきりしている。それはちょっと残念に思う。

泪橋の交差点から明治通を西に行く。荒川区役所の脇を抜け、目指すその先は尾久。伊集院光の生まれ故郷だ。
下町と郊外が混じった妙な道を走っていると、いきなり尾久駅。でも、駅周辺にはほとんどそれらしい商業施設がない。
都電荒川線の梶原駅から、荒川線沿いに東へ戻る。途中でふらりと、あらかわ遊園の入り口まで行ってみる。
走ってみると、西尾久・東尾久、どちらも広い。そして「ふつうの街」という印象を受ける。昔ながらの住宅街だ。
落ち着いているし、都電のスケールも楽しいし、なかなかいい街だと思った。子どもが元気に遊ぶ姿が特に目立つ街だった。

町屋まで出たところで右折、尾竹橋通を南へ。そのまま一気に鶯谷駅へ。鶯谷の東口は特に何もない。ホテルだけだ。
いいかげん空腹が限界なのでメシを食い、上野・秋葉原経由で帰ろうかと思ったが、このままじゃつまらないので新宿へ。
新宿ではあまっていた商品券で文庫本をけっこう大量に買い込み、ホクホクして(この辺、庄司薫風表現)帰る。

家に帰って、「いやー今日も走ったなー」と思いつつ、テレビを見る。天海祐希主演、『女王の教室』がすごすぎ。
オレ今年も塾講師やっていたら、絶対に阿久津真矢のマネしてたわー、なんて思う(あとレイザーラモンもマネしたと思う)。
何より天海祐希だけじゃなくって、子役の演技力が異常だ。こいつら将来どんな大人になるんだろうってくらいの演技。
これはDVDをちゃんと借りて、最初からきちんとじっくり見ないといけない、と思った。

カナタニさんは神田さんがストライクですか?


2005.9.9 (Fri.)

ピーター=フォンダとデニス=ホッパー、『イージーライダー』。

前半と後半でけっこう話の重みが違うので、まずは前半について気軽に書いていこう。
まず、シーンの切り替え方に驚かされた。点滅するように前のシーンと次のシーンを三度、交互に挟んで切り替える。
たったそれだけのことなのだが、思わず「おお」と唸ってしまった。ずいぶんと思いきった演出で、かっこいい。

映画でもなんでも、物語を観客に提示する場合、リアルな世界をミニチュア化して、手頃なサイズにするのがふつうだ。
時間の制約があるから、どうしても「描かれない部分」が出る。そこを説明ゼリフにするなどして「圧縮」するのがふつうだ。
しかし、この映画はまったくそれをしない。1/1スケールのまま、手づかみにしたものをそのまま観客に提示してみせる。
では「描かれない部分」はどうするのか。答えは単純で、無視するのだ。必要な部分以外は、見事に切り捨てている。
旅にしろ会話にしろ、ハイライトの部分だけ残して乱暴につないでいる。この手法は当時、ものすごい衝撃だっただろう。
特にパレードの場面では、カメラがそれまでじゃ考えられなかったさまざまな角度から、一見「無意味」な映像を撮る。
映画館という固定された場所でしっかり座って見る、という身体感覚が、それまでカメラを固定させていたのかもしれないが、
この場面では特に、あらゆる「ハイな」断片をつなぎ合わせることで、リアルな対象をそのままの勢いで描き出そうとしている。

前半はバイクでの気ままな旅が描かれる。ヒッピーに出会い、彼を一緒に乗せてそのコミュニティを訪れる。
また保守的な南部の留置場で弁護士に出会い、彼を一緒に乗せて謝肉祭へと向かう。
その場その場で新しく生まれていく関係性を正直に描きつつ、主人公たちの自由奔放さを強調する仕掛けになっている。

ところが南部をさらに進んでいくと、その自由奔放さ(その象徴こそが長髪なのだ)に対する嫌悪感が強く渦巻きだす。
(実際に現地の素人を起用して、映画の登場人物そのままの撮影スタッフたちを本気で嫌わせて撮ったのが効いている。)
ジャック=ニコルソン演じる弁護士が、その後の展開を予言するように、アメリカについて語る。
そうして急激に物語は意味を持ちはじめる。メッセージが観客に突きつけられるのも、また急で乱暴なのだ。
でも実は、それは最初のところから埋め込まれている。牧場での食事、ヒッピーとの食事、どちらも神に祈りを捧げている。
作中に登場するほとんどの人々は、宗教や規律、社会性といったものに、実はおそろしく忠実に従っているのだ。
そしてそこからはずれた人間に対しては、容赦のない仕打ちが例外なく与えられるのである。
アメリカにも「世間」は日本とは違う形だけど確かに存在していて、それが主人公たちにボトムアップで襲いかかる。
前に「西部劇とは、社会からはずれた人間による社会制度への挑戦、そして敗北」と書いたが(→2005.6.30)、
馬をバイクに置き換えたこの作品でも、まさにその構造が踏襲されているのである。

映像についてもう少し書いておくと、やはり謝肉祭のシーンについて触れないわけにはいかないだろう。
ここでの映像の劣化具合、断片的なカットのつなぎ方は、もはや古典の領域である(『下妻物語』参照 →2005.7.12)。
ノスタルジックな印象を与えるここの描写は、すでに僕らが過去を振り返るときの常套手段になっていると言えるだろう。
さらにすごいのが、そこから墓地に行ってLSDでラリるわけだが、ここは完全に、20世紀後半の映像作品において、
わけのわからない状態になったときの言い訳的な映像を表現するときの元ネタとなっているように思う。

この作品は、現代に続く古典となっている。それはつまり、時代だけでなく、人間や社会の本質も確実に切り取ったからだ。
表面だけ見れば1960年代に対するノスタルジーということになるかもしれないが、とてもとてもそんなレヴェルじゃない。
主張といい演出といい、永遠に古びることのない作品。こういうものをつくれるってのは、もう本当に奇跡としか思えない。


2005.9.8 (Thu.)

僕は会社の労働組合には入っていないのだが、総会をぜひ見学してほしいってことで、出席する。
飯田橋の公共施設に会議室を借りてあって、会社が終わるとそちらに移動。しばらく待って、会議が始まる。

渡された資料に目を通す。が、何がなんだかサッパリ。僕はこういう、法律的な文体の文書がものすごく苦手なのだ。
しかも、最後には収入と支出の表がついている。僕はこういう、お金の計算をした文書がものすごく苦手なのだ。
同じ日本語とは思えない、と妙な感心の仕方をしながら文書を眺める。こういうものをつくる才能が僕には欠けているから。

会議は労働組合という単語からは想像しがたいほど、のんびりと進む。すべてが終わるまでに2時間半ほどかかった。

その後は飲み会。いろいろと雑談をするのだが、皆さん知識量のある人ばかりなので、話を聞いていて驚くことばかり。
面白かったのが、かつて行われた飯田橋の再開発の話と、牛肉は実はそれほど旨い肉ではない、という話。
特に後者は農学博士号を持つ先輩があれこれと実例を挙げつつ話していく。その内容に、目からウロコが落ちる。
そうかと思えばレイザーラモンHGが幅広く大人気なのが判明したりと、新しい発見をさせてもらえた飲み会だったフォ~ッ!


2005.9.7 (Wed.)

村上春樹『海辺のカフカ』。

僕はいつもこの日記で村上春樹についてボロクソに書いているわけだが、今回はちょっとよかった。いや、なかなかよかった。
面白かった理由は主に2点ある。それぞれ詳しく見ていきながら、総括をしてみようと思う。

まずひとつ目は、空間に対する意識が強いこと。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(→2004.8.31)や『ねじまき鳥クロニクル』(→2004.11.8)よりも、
空間が重要になっている。この作品では、四国は香川の高松にある図書館が物語の主な舞台となる。
地方都市なのがポイントだ。主人公とナカタさんが住んでいたのも中野区野方と、町名まで指定しているところが新しい。
つまり、リアルな空間を意識しているのだ。今までの村上春樹なら、想像力で組み上げた現実にはありえない空間で、
現実にはないできごとをメインに描いていた。しかしこの作品では、いくらか浮世離れしているとはいえ、
生活の場としての空間を描こうという意欲がすごくよく見える。ネタバレになるかもしれないが、特にクライマックスで、
主人公は想像力を磨くために現実の空間を選択することになる。これは今までになかった姿勢だ。

もうひとつは、登場人物だ。
今までの村上春樹には、「僕/セックスさせてくれる女の子/絶対的な他者・敵」という3類型しかなかった。
しかし今回、長距離トラックの運転手・ホシノさんが途中から登場し、最後まで重要人物として踏ん張る。彼が、キーだ。
村上春樹の描く人物は、「僕」を含めてみんなセンスがいい。音楽も、料理も、ファッションも、どれもきちんとわかっている。
ところがホシノさんは、そこから最も遠い人物である。野蛮とは言わないまでも、とてもハイソとは言えないキャラクターだ。
彼はナカタさんと出会うことで、自分が少しずつ変わっていくのを知る。そういう未完成さを描く姿勢は、今までになかった。
また、主人公も15歳の少年で、自分が未熟だと強烈に意識をしている設定がなされている(ただし周囲はそうは見ない)。
だから読んでいて、物語をとても身近に感じることができた。村上春樹はおそるおそる、自分の世界を外側に開いたようだ。
とにかく、ホシノさんの存在は大きい。彼がいないと、この話は少しも面白くなくなってしまうところだった。
彼の存在は、今後、村上春樹が作品を書いていくうえで、大きなターニングポイントとなるはずだ。

とはいえ、問題点というか、「おい、ほったらかしにしないで、どうにかしてくれえ」と言いたくなるような部分もある。
ナカタさんをめぐる戦時中の山梨の事件など、冒頭に出ただけでその後は言及がなかった(説明不要という人もいるだろう)。
それに今回の敵も絶対的な悪で、悪が悪である理由が欠けているのは、やはり腑に落ちない(気にしない人もいるだろう)。
そもそも少年とナカタさんはどこでつながっているのか? 野方在住ってだけじゃあまりに乱暴。その理由がぜひ知りたいのに。
この辺のうっちゃり方はいかにも村上春樹ということで、ガマンできる人とそうでない人とで差の出てくるところだろう。

これは成長の話だ。オイディプス王の話を下敷きにしつつ、現実と想像力、双方の世界で少年が困難を乗り越える話だ。
そして彼の成長とパラレルで、ホシノさんも成長する。確かに同じ自分なのだが、何かが変わったという感覚を彼はつかむ。
一方で、犠牲もある。少年の成長は、数多くの犠牲によって成り立つものだ。その光と影も、きちんと描かれている。
多くの未完成な要素をスタートラインに取り入れることで、物語の意味というか存在意義が、確実に濃くなっているのだ。

村上春樹が好きな人は、彼の作品を読んでいて、風呂に入っているような感覚になることがあるんじゃないかと思う。
彼の想像力の世界は、完結していて、心地よい。重力を感じさせないふわふわした世界は、まさしく風呂の中である。
『海辺のカフカ』は、そんな風呂の湯船が、ちょっと広くなった感じだ。そうすると、ぬるさと熱さの差が出たり、泳げたりする。
あまり長く入るとのぼせてしまうところは、そんなに変わっていない。でも、風呂上がりの楽しみは、以前よりぐっと大きい。


2005.9.6 (Tue.)

『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 2nd GIG』。TSUTAYAの半額キャンペーンに乗じてぜんぶ見た。
結論から言ってしまうと、1st(→2005.3.6)に比べて、2ndの面白さは正直かなり落ちる。いや、1stが面白すぎるのだ。
それに比べると、ということで、純粋に見ればレヴェルの高い作品だとは思う。しかし、その差はあまりに歴然としている。

1stでは「笑い男」が中心的なテーマになっていて、僕としてはむしろ、「笑い男」が出てこない回の方が楽しめた。
2ndでもそれは同じで、ゴーダが絡む回よりも、絡まない回の方が楽しめた。ゴーダが出ると、どうにも説明ゼリフが多くなる。
で、1stの笑い男密度よりも2ndのゴーダ密度の方が高かったので、それも差を感じた一因になったと思うのである。
じゃあどういう回が面白いんだよ、と聞かれると、「一話完結の刑事ドラマな回」という答えになる。
2nd GIGでは中盤に9課のメンバーをそれぞれフィーチャーした回があって、そこは非常によろしかった。
やはり仲間のキャラクターがきちんと確立されたうえで、それぞれの個性を生かして話が進んでいく、というのが王道なのだ。

ゴーダにより9課が追い詰められる。視聴者はその圧迫感とラストの開放感の差異を楽しめばいい、ってところだろう。
しかし、1stが現代から未来にかけてのコンテンポラリーな思考の切り口をいっぱい持っていて、そこも楽しめたのに対し、
2ndではそういった社会学的な要素よりもゴーダとの駆け引きを優先させていて、楽しみ方が一様になってしまっている。
ただ軍隊的なやりとりばかりで、2ndの話は進んでいく印象だ。イジワルな言い方をすれば、ほとんどミリタリーマニア向けだ。

一番のポイントは、今回は招慰難民の存在が重要な背景となっている(さらにその原因である二度の大戦も)ことだ。
それを踏まえたうえでの政治のあり方(特に外交)が、9課とゴーダに大きく関わってくるのである。
ところが作中では外交に関する説明をほとんどすっとばし、9課という現場の視点だけで話を進めていくわけだ。
だから政治的な状況をきちんとつかめた視聴者は、本当に少なかったと思う。僕は正直、置いていかれた感じが残った。
9課のメンバーは外交問題の状況を知っている。でもそれと同じ量の情報が視聴者には与えられないので、ムズムズする。
とにかくバランスが非常に悪かった。軍事アクションも見せたい、ゴーダとの胃のムカムカするような駆け引きも見せたい、
各メンバーに焦点を当てた回も見せたい、もちろんSFの側面も見せたい。視聴者に見せたいものがいっぱいありすぎて、
結果として、長々とした退屈な説明がどうしても必要になってしまう外交の詳しい描写が、削られてしまったのだろう。
でもそのせいで、せっかくのクゼとの核をめぐるやりとり、ゴーダとの駆け引きが、すべて消化不良になってしまったように思う。

かっこいいのは、1stでは登場しなかった荒巻の兄をきちんと出して、でもその事実を作中で一切説明しなかった点。
きちんと見ている人ならわかるでしょ、という姿勢は賛否両論あるだろうが、できるだけわかりやすくしていて、好感が持てた。
あとはクライマックス(ゴーダのラスト)を第1話とパラレルなやり口にしていて、その辺はさすがだわ、と大いに感嘆させられた。
やはり1stが面白すぎたのだ。その分、2ndでは続編としての損な面がかなり出てしまっている。
もう少し間隔を空けて、その分じっくりと話の構成を練ってみてもよかったのでは。拙速でもったいない、というのが感想。


2005.9.5 (Mon.)

会社が終わって呼び出し。ワカメ・ハセガワ・ナカガキの3氏に誘われて、中野に向かう。
なんで中野なのだ?と思ったら、ワカメが昨日に引き続き、今日はまんだらけで人間観察をしていた模様。暇人め。

中野サンプラザの半地下にあるボウリング場でゲームスタート。男4人で盛り上がる。
1ゲーム目はふつうにプレイ。ワカメが150というスコアを出した以外はみんな低調。
2ゲーム目。晩メシを賭けて学生チームと社会人チームに分かれる。金を賭けると全員の成績がガラッと変わる。
それぞれスペアで確実にピンを倒し、ストライクで相手を引き離しにかかる。まったく差がつかない死闘が続くが、
途中でボウリング場のサービスタイムになり、大音量の音楽が流れだす。それでワカメが集中力を失ってしまい、
なんとか社会人チームが勝利したのであった。爪が割れている状況で129をたたき出したオレ偉い。
勢いに乗って3ゲーム目に入るが、社会人チームが急に息切れ。というか、僕が息切れ。
スペアの後にファウル(ぜんぶ倒したのに)で0点、意地でその2投目をスペアにするも、その次がガーターで0点。
見事に足を引っ張る格好になり、今度は学生チームが勝利。結局、晩メシの賭けはチャラになったのであった。

  
L: 絶叫ワカメ。イケメンめ。  C: すばらしい笑顔のナカガキさん。サワヤカだ!  R: 3人並んで。左端はハセガワさんです、念のため。

中野ブロードウェイのちょっと奥にある焼き鳥店で晩メシ&飲み。
比内地鶏を売りにしている店で、食べてみると確かにおいしい。特に親子丼が信じられないほどうまかった。
さすがにお値段は少々お高かったんだけど、「まあいいや」と思える味で、全員大いに満足する。
そんな感じでダラダラダベって、時は過ぎていく。理由は消えても、つながっているという結果は残る。それでいいと思う。


2005.9.4 (Sun.)

午前中に花火合宿は解散。バヒ氏は電車で、トシユキ氏はバイクで、僕は高速バスでそれぞれ帰途についた。
上諏訪駅でどうしてもガマンできなくなって、おぎのやの「峠の釜めし」を購入。僕はこれが大好物なのである。
帰りの車内では高校数学の本を読みつつ釜めしをいただく。最高に贅沢な時間じゃのう、などと思うのであった。

午後は、けっこうこの日記に登場する大阪在住の大学生・通称「ワカメ」が上京してきたので、そのお相手。
以前は氷川きよしにそっくりと評判だったワカメだが、最近はジェフ千葉の阿部勇樹が微妙に混じってきた。つまりイケメン。
付き添いは、このたびめでたく大学院に「入院」が決まったハセガワ氏。こちらもイケメン。そんなふたりと渋谷で待ち合わせ。
ところが「A-BOYを激写してえ」とワカメはデジカメを取り出して言う。じゃあ、秋葉原行くか……と銀座線に乗り込む。

渋谷から秋葉原へ移動すると、ワカメは「すげえ! 人種が全然違う!」と興奮気味にシャッターを切りまくる。
根っからのイジメっ子体質が全開である。で、僕はそんなワカメをひたすら激写。だって面白いんだもん。
「オレを撮んなよ! おっ、すげえA-BOY!」と、ワカメは逃げたり撮ったりで忙しいのであった。

  
L: ワカメ(右)の希望で秋葉原にやってきたわれわれ。左は「入院」決定のハセガワ氏。ふたりとも外見はまともだけど中身は濃いぜ。
C: A-BOY激写中のワカメ。  R: 駅前でも激写。ワカメの激写の対象はメイドではなく、メイドを撮っている人々なのだ。

まあしかしながらわれわれ、秋葉原で買い物をすることはあっても時間をつぶすことはないわけで、すぐに飽きる。
男3人でクレープをかじりつつ、晩飯どうしようかと相談。ワカメの「東京ならではのもの」という希望によりもんじゃに即決。
後からもうひとり合流する計画だったわけで、時間つぶしを兼ねつつ築地から月島まで歩けばいいや、と移動開始。

築地駅から明石町の方に曲がって佃大橋を渡る。道に人通りはまったくといっていいほどなくって、ワカメは呆れていた。
確かに、中央区のこの辺りはひと気がない。大阪人のワカメには、東京の風景はけっこう極端に映っただろう。
ところが月島に着くと、急に大勢の人で賑やかになる。この落差には僕でさえ驚いたわ。
月島は日本のもんじゃの首都とは知っていたが、いざ実際に来てみると、そのパワーに圧倒される。
200~300mほどの通りのうち、半分くらいの店がもんじゃ。このもんじゃ密度は異常だとしか思えない。
ワカメは「こんなにあるとつぶし合うんちゃうんか」とつぶやいていたが、逆に密集しているからこれだけの集客力になっている。
3人で軽く探りを入れつつ、通りを往復。そうして1時間近く過ごしていたら、ようやくもうひとりの仲間・ナカガキさんが到着。

ちょっと混んでいる店に入って、明太子もちから焼いてみる。ご存知のとおり、もんじゃを焼くにはスキルが必要なわけで、
最初の1つ目は焼いているうちにわけがわかんなくなって、それでもかき混ぜたら完成には違いねえや、ということで食べる。
ワカメは今日が誕生日なので、それを祝してみんなで乾杯。でも残念ながら、彼はまったく酒が飲めないのである。
仕方のないこととはいえ、ワカメは怪しげなソフトドリンクをまずそうに飲んで過ごすのであった。
肝心のもんじゃは2つ目くらいから要領がなんとなくつかめてきて(鉄板もあったまってきて)、ガツガツとおいしくいただく。
男4人、もんじゃと酒を思う存分に胃袋に詰め込む。結局もんじゃは4つ食べた。僕は飲みすぎてマグロのように突っ伏した。

思えば僕らが知り合ったのは3年くらい前のことで、そのときからみんな社会的な状況はけっこう変化しているのだが、
それぞれの個人の特徴はあんまり変化しない、というのを一番実感させてくれる仲間だなあ、と僕は勝手に感じている。
なんというか、僕らをつないでいる理由はなくなっても、つながっているという結果が残っている。
その点において、個々のいい部分ってのはずっと変わらないのだ、そんなことを教えてくれる友人関係と捉えているわけだ。

  モンジャーズ。

たまりませんね。


2005.9.3 (Sat.)

諏訪湖新作花火大会である。バヒサシ氏&トシユキ氏は毎年恒例行事にしていて、今年は僕も参加することにした。
ちなみにバヒ氏+トシユキ氏のユニットには「ラクタローズ」という名前がついている。理由は、ふたりとも腹黒いから。
(僕+トシユキ氏は愛宕神社の氏子なので「アタゴーズ」、僕+バヒ氏は「フラーレン」。名前の由来はみんなで考えよう。)

交通費がもったいない!ということで、トシユキ氏のバイクにタンデムさせてもらって諏訪まで行くことにした。
朝4時に起きて5時に家を出たのだが、電車の接続があまりに悪く、調布に着いたのは実に6時半ちょい前。
駅でさっそくトシユキ氏にヘルメットを渡され、いざタンデム。トシユキ氏の尻を膝で挟み、肩をぐっとつかんで出発。
走りだすと、これがすごく怖い。レイザーラモンHGのマネして「いや~いいですね~密着、フォ~ッ!」とかやろうと企むも、
とてもそんな余裕はない。高尾のコンビニで朝メシを食ったのだが、そこに着くまでずっと、ガチガチに硬直していた。
朝の日差しはとても気持ちがよくて、バイクの風を切るスピードも心地よい。……なんてことをかっこよく書きたいんだけど、
実際のところはアスファルトのわずかな段差を踏むたびに「ひいー」なんて悲鳴を心の中であげていた。
なんとか頭の中でステッペンウルフや奥田民生を再生しようとするのだが、あっさりとフェイドアウトしてしまう。情けない。

そのまま甲州街道を行く。大垂水峠を越えると神奈川県なのだが、それと同時に曲がりくねった下り坂になる。
山道だけど、休日だからかそこそこの交通量がある。中央道の入り口を越えて藤野町に入って、ようやく少し落ち着く。
上野原に入るとだいぶ慣れてくる。というか、手が疲れてきて、イヤでも力が抜ける。精神的には小康状態といったところ。
そうしていつしか大月に突入。しかし、とにかく大月が広い。走れど走れど大月市内。いつまで経っても抜ける気配がない。
中央道やJR中央線だと大月はわりとあっという間なのに、実際に国道20号を走ってみると、その広さにはウンザリする。
途中で見かけた堀内光雄の選挙ポスター(郵政反対派なので大変なのだ)は、冗談でなく3ケタはあったと思う。
(つまらないので詳しい描写は端折るけど、これが本当に退屈なのだ。僕もトシユキ氏もけっこう眠くて多少意識が飛んだ。)
やがて道はゆったりと上りになっていき、笹子餅の看板が目立つようになる。難所・笹子トンネルが近づいているのだ。
笹子トンネルの中に入ると、急に風が強くなる。トシユキ氏の背中にへばりつき、できる限り抵抗にならないようにする。
途中で道の端に目をやると、アスファルトとコンクリートの壁の間に溝がある。自転車だと、かなり怖いレヴェルだ。
トシユキ氏は学生時代に竜王町まで自転車で日帰りした経験を持つ男である。つまりここを往復したのだ。漢である。
トンネルを抜けてすぐにある道の駅で一休み。ずっと同じ位置に座っていなきゃいけないのでケツが痛えのなんの。

 漢の図。

勝沼に入るといきなり視界が開ける。扇状地の高台から、右手に街を見下ろして走る。けっこう快感。
ブドウ畑は真っ青に茂って、まだまだ夏らしい日差しを思いきり受け止めている。「豊か」という言葉の意味をなんとなく思う。
まっすぐ広い道が甲府を抜けてもまだ続く。ここは時間を稼ぐには絶好のポイントだ。予定よりちょっと早めのペースで進む。
韮崎は釜無川沿いを行く。日差しが暑く、腕が日焼けしているのがわかる。でもトシユキ氏の肩をつかむ手は離せない。
それにしても、山梨県は市町村が積極的に合併しており、新しい地名ばかりが出てきて具体的な位置がよくわからない。
甲斐市とか笛吹市とか北杜市とか、まったくもってサッパリ。話題の南アルプス市は通らなかったけど、まあなんとも。
山梨のはじっこ、旧・白州町の道の駅で休憩を入れる。日焼けの程度をあらためて確認してびっくり。腕だけ別人みたい。

いよいよ長野県に入る。入った瞬間に「いねむり死亡」とバカデカく書かれた看板を目にする。もう少し考えてほしい……。
富士見町を抜けると茅野市。ここまで来ると、ああ長野県だ、という安心感がある。見慣れた風景を見て心が和む。
そのまままっすぐ北へと走って上諏訪駅に到着。諏訪湖方面にちょいと走ると宿屋に着いて、無事にタンデム終了。
バイクでの移動は、とても新鮮だった。自転車や車にはない、独特のスピード感とスケール感がある。
ずっと同じ姿勢でいるのは正直つらいが、山道や街中を自由に均等に走れるというのは非常に面白いことだ。奥が深い。
またこんな機会があったら、ぜひタンデムさせてもらおう。後ろに乗っているだけで楽しかった。

しばらく部屋の中でダラッとしていたら、電車でバヒサシ氏が到着。田んぼの広がる中を、買い出しに出かける。
まあ買うのはほとんど酒とつまみなのだが、遮るものが何もないきつい日差しの中を、散歩がてら行く。
買い物を済ませた瞬間、トシ&バヒは缶ビールを飲みだす。酒に弱い僕はバニラアイスを食べる。いろいろと、ダメ人間だ。
宿に戻ったらマサルから「今、長野県?」と電話。本人は勘で言ってみたらしいのだが、大当たり。なんてヤツだ、と呆れる。
マサルは今月、この週末だけ暇なので遊びたいという電話。「錦糸町に新しくメイド××××ができたんよ! 行こうよ!」
僕が渋ると、「男は『飲む・打つ・買う』やろ!」と言ってきた。「お前、『飲む』も『打つ』もまるでしないじゃん」と返したら、
「だから3倍『買う』んよ!」と頼もしいお言葉が。「借金してでも買うんよ!」……参りました。

花火の開始は19時ということで、だいたいその30分くらい前に湖へ行けばいいよね、とテレビを見ながら時間をつぶす。
ところが、だ。超カンカン照り、盆地、上昇気流、夕立。「バケツをひっくり返す」では済まない大雨がいきなり降り出した。
それまで道行く浴衣のカップルに悪態をついていた僕でさえ「オレのせいじゃないよ! 呪いとかかけてないし!」と焦るほど。

 ラクタローズ、がっくり。

しばらく待ってみたのだが、一向にやむ気配がない。しょうがないので合羽を持っているトシユキ氏が傘を買いに出かける。
雷も激しく鳴り出す大雨の中、新作花火大会はスタート。このコンディションで強行する意地はすげえ、と感心したわ。
トシユキ氏が戻ってきてから、会場である諏訪湖に向かう。さすがに花火はすぐそこで打ち上げているだけあって、ドデカい。
新作花火は音楽に合わせて、それぞれ趣向を凝らしたものが打ち上げられる。作家性が強調されている点が面白い。
J-Popが多かったのは個人的に残念。ケミカルとかアンダーワールドに合わせてやればいいのにと思った。好みなだけだけど。
しかしいちばん残念だったのは、雨のせいで煙が空中に残ってしまったことだ。おかげで花火が欠けて見えてしまった。
細やかな配慮がいろいろとされている花火が、ほぼ台無しなくらいに煙は強烈だった。仕方ないとはいえ、がっくりだ。
それでも最後は水面に半円を描くようにスターマインが花開いた。確かにこれは毎年見たくなるくらい大規模で鮮やかだ。
雨のせいで早めに大会は終了。帰り道、ずっと「もったいねえなあ……」を僕は連発していた。

部屋に戻って風呂に入って、『世界ふしぎ発見!』を見ながら酒飲んでつまみを食べる。それからすぐに眠くなって、寝る。
高校や大学じゃこういうのが当たり前だったんだよなあ……なんて思いつつ、すやすやぐっすり。


2005.9.2 (Fri.)

昔、というか若い頃には時間が過ぎるスピードというものをあんまり感じていなかったんだけど、
今はもう、一週間があっという間で困る。時間の過ぎるスピードが、信じられないほど速くなっている。
塾講師をやっていた去年よりも速く感じている。これは、やっている仕事の内容のせいだと思う。
去年は曜日によって担当する学年が違ったし、科目が違うこともあったので、生活はバラエティに富んでいた。
でも今の仕事は基本的にやることが一緒。ひたすら校正校正また校正、なのである。
おかげで、今日は何曜日かはわかるけど、昨日が何曜日だったのかは怪しい、それくらいのレヴェルである。

僕の中で、時間のスピードが確実に変化した転換点がある。大学に入ったことが、そのきっかけだ。
一人暮らしが始まって、奨学金と親からの仕送りを期待するようになった。この振込の日が、生活を規定しだす。
月に1回の振込までをどう切り抜けるかが勝負になる。特に自分はアルバイトをしていなかったので、シヴィアだった。
そうして「ああ、時間がゆっくり流れてほしいなー」という気持ちはいつしか、「早く来い来い月末」と変化していた。
毎月をそんな感じで積み重ねているうちに、時間は本当に速く流れるようになってしまった。

そして、今。流れる時間には加速度がついている。午前の3時間と午後の4時間はわりとじっとり過ぎていくんだけど、
それを5回繰り返す一週間という単位はあっという間に過ぎていき、それが4~5回重なってすぐに給料日になる。
本当にジェットコースターに乗っているみたいだ。地球の自転は秒速464mほどだというけど、それが実感できる気分。
おかげで急に、自分は今、何かをし忘れているんじゃないか、と焦る気持ちになってしまうことがよくある。
置いていかれてしまっている感覚が、つねにつきまとっている。自分ひとりだけ取り残されているんじゃないか、という錯覚。
対策としては、できる限り自分が速く動くしかないと思う。相対性理論で浦島効果。そうして、時間を遅らせるしかない。


2005.9.1 (Thu.)

今日から9月である。もう秋なのである。今年の夏も見事に何もなくスカスカだったなあ……。
そんなことを思いつつ出勤するわけだが、なんだかいつもより電車が混んでいる。
なんでだろうと考えてみて、周りを見て、納得。8月の間にはほとんど見なかったブレザーやセーラー服が、いるのである。
大学生になって以来、そういう義務教育的な出席感覚というものがなくなってしまっているので、変に感心してしまった。

それにしてもこうしてみると、学生たちの占めている空間というのはけっこう大きいのだ。
本当に、夏休み中とふだんとでは、席に座れるかどうかの駆け引きが、ぜんぜん違っているのである。
僕がいつも使っているのは東急目黒線と東京メトロ南北線ということで、特別そんなに混み合わない路線だ。
ただ、目黒線は不動前から目黒までのラストスパート1駅間がキツい。ここさえガマンすれば、まあ大丈夫。
ところがいつも乗る電車は三田線に分岐してしまうので、白金高輪で南北線に乗り換えないといけない。
ここでモタモタしていると座れなくなるのである。夏休み中にはかなり余裕をもって座れたのだが、
学生たちがいると、ここでの駆け引きが重要になってくるのだ。そんなに違うのか、と呆れるくらい差がある。
まあもっとも、溜池山王でみんな一気に降りてしまうので、それ以降は確実に座れるのだけど。

自分の場合、かなり早めに家を出て、その分早めに目的の駅に着き、カフェで朝食&読書という生活をしている。
満員電車だけは耐えられない。今の生活が限界だ。ニッポンジン、ガマンヅヨイネー。


diary 2005.8.

diary 2005

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