diary 2006.10.

diary 2006.11.


2006.10.31 (Tue.)

芦原すなお『青春デンデケデケデケ』。直木賞受賞。
1960年代後半の香川県観音寺を舞台に、バンド活動に明け暮れた高校生活を自伝的に描いた作品。

と、まあ、上のように書いてしまえばそれでおしまい、である。
実にストレートに、当時の高校生が当時の音楽事情にあこがれてバンドを始める姿が描かれているのだ。
方言まるだしで一般市民のやりとりが丁寧に書かれているので、本当にその場にいるような雰囲気になる。
話の展開にはけれん味がまったくなく、ハラハラドキドキああもうどうなっちゃうの!?というシーンが存在しない。
だからここまで徹底的に安心して読める話が直木賞を受賞した、ってのがなんとなく信じられない印象である。
恋愛の要素がほとんど出てこず、高校生男子はただ音楽のことばかりを考えている。
つまり話を膨らませる手段がものすごく限られているのだ。言い方を変えれば直球勝負すぎるのである。
しかし飽きさせない。それは、方言丸出しの登場人物がことごとく親近感の持てる存在として描かれていること、
1960年代の音楽事情が現在進行形で扱われているその徹底ぶり、そういった、
主人公たちを囲む環境がガッチリとできあがっていて、読者を現代から隔離してしまう巧さによるものだろう。
だからシンプルで波乱のない話でも、1960年代感覚にひたってしまえば別に物足りなく感じることもないのだ。

まあ当然、団塊前後の作者の回顧録ということで、視線が一切未来に向いていない点に批判はあるだろう。
でもまあいーじゃん、と思うのである。これだけ安心して読める作品ってのは貴重な世の中なんだし。


2006.10.30 (Mon.)

藤沢周平『孤剣 用心棒日月抄』。タイトルを見てわかるように、『用心棒日月抄』(→2006.10.11)の続編。

藩からの秘密の指令で、又八郎は再び江戸へと入る。大富静馬から、藩主暗殺を企てた面々の名簿を奪うためだ。
というわけで今回は、大富静馬を追いつつ、さらに藩の取り潰しを企む公儀隠密とも戦いつつ、
用心棒として事件を解決していく又八郎の姿が描かれる。浪人仲間では細谷源太夫に加えて米坂八内が登場。

結論から言ってしまえば、前作があまりにも面白すぎたのでしょうがないか、というところ。
シリーズものらしく、登場人物の魅力を前面に押し出すことで、読者を惹きつけていくという要素がいっそう濃くなっている。
悪く言えばマンネリの境地なのだが、マンネリに至ることができるってことは、やはり巧くないとできないわけで、
そういう凄みはあちこちに感じられる。だから娯楽作品としては当然、一級品で、実に楽しく読めるのである。

気になるのは、全般的に、斬り合いのシーンがあっさりしすぎているかな、というところ。
文章でそのやりとりを懇切丁寧に描くのは難しいし読むほうも疲れてしまうので、やりすぎもイヤなのだが、
何かこう、すっきりしすぎているように感じられる。もうちょっと盛り上げてもいいじゃん、と言いたくなるのだ。

読んでいてふと思ったのだが、この作品の人気とマンガの人気は通じるものがある。
マンガを読む習慣のない人が、マンガと同じ要素のカタルシスを求める際に、こういう話を読むのだと思う。
毛色はまったく違うのだが、『シティーハンター』(→2005.1.27)と構造が重なっている部分があるため、そう感じる。
そんな具合に、世間でウケるものを書く秘訣が探れそうな作品だ。


2006.10.29 (Sun.)

神保町ブックフェスティバルの売り子の仕事。休日出勤である。
前日、天気予報では雨とのことだったので、油断してけっこう夜遅くまで起きていた。
しかしフタを開けてみたら雨は上がり、けっこうな日和。ぼーっとしつつ電車に乗り込む。

集合時間を度忘れしてしまい、8時45分に着くように出店場所に行ったら同期のO田氏がいた。
「飯田橋(会社の最寄り駅)から神保町まで歩いてきたんスけど、距離がわかんなくて時間を読み違えました」
「え? 歩いてきたの?」「そうっスよ」「あのさ、集合時間って何時だったっけ?」「9時半っスよ」「……」「……」
互いに呆れあっているうちに営業の方が到着したので、「じゃ、メシ食ってきますわ」とその場を離れる。
近くのファストフード店で、テキストをチェックしながらリポート課題のプロットを書く。

9時半ちょい前に戻ったら開店準備がほぼできていた。慌てて手伝う。10時スタートなのだが、それより前に本が売れた。
神保町ブックフェスティバルで売るのはカバーが汚れていたり旧版だったりのワケあり品で、半額で売る出版社が多い。
ウチは4割引と7割引の二段構えなのだが、圧倒的に7割引のほうが売れていく。けっこう好調だったようだ。

昼になってO田氏と神保町界隈をフラつき、テキトーに中華の定食を食べる。
戻って手伝い続行。会社のおばちゃんたちが差し入れを持って登場。立ちっぱなしの体には非常にありがたい。
客層は圧倒的にメガネの人が多いなーとか思いつつ午後6時までがんばる。
途中で立ちながらウトウトしてバランスを崩す。営業の女性にばっちり見られて心配されてしまった。

まあそんな具合で、家に帰ったときには本当にぐったり。これだけヘトヘトになったのはいつ以来か記憶がない。
とりあえず日記はこうして書いたんで、かなり早い時間だけどもう寝ます。おやすみなさいなのである。


2006.10.28 (Sat.)

通信教育の大学ってのは、単純にレポートや試験で単位が取れる、というわけにはいかない仕組みになっている。
僕のところでは、まずリポート(一橋では「レポート」だったので、「リポート」というのには少し違和感がある)を提出。
そのリポートでOKをもらえたら、試験を受けられるのである。で、試験で合格点を取れば単位がもらえる。

どうしても本を読まないとクリアできないリポート課題があったので、都立中央図書館までお勉強に出かける。
ここに来るのは二度目(→2003.1.23)だが、ロッカーで荷物を預けたり本を借りるのに手続きがあったり、どうも慣れない。
それでもお目当ての本を2冊借りてきて、ひたすら読み込む。で、ポイントをルーズリーフに書き込んでメモをつくる。
課題と関係のない部分はハイペースで読んでいくが、それでも時間がかかる。じっとガマンしながら読む。
途中で2回ほど休憩を入れる。5階の食堂でカップの飲み物を飲む。甘いやつ。そうして、頭の疲れをほぐす。
5分ほどで休憩は終了。元いたフロアに戻って読書を再開。そうやって過ごす。

閉館時刻の17時半ギリギリまでかかり、ようやく作業は終了。これから実際にリポートを書くことを考えると、ため息が出る。
今週は5日連続で遅くまでの残業が続いたので、体力的にも精神的にも、正直かなりキツい。
でも、リポート提出期限まで余裕がないので、やらないわけにはいかない。サボれば状況が悪くなるのは目に見えている。
休みなのだが、まったく疲れがとれていない。先週は社員旅行で休みが1日しかなかった感覚だし。
明日は雨でなければ神保町へ休日出勤なので、かなりハイペースで仕事を続けているような印象だ。
まあ、すべてが自分のためのことだから、甘える気などない。能力があればこなせるだろうし、なけりゃつぶれるだけ。
こんな程度のことでつぶれてたまるかってんだ。


2006.10.27 (Fri.)

高校の履修の問題が騒がれている。いろんな見方があると思うのだが、僕としては、こんな感じ。

まず、建前の話。文部科学省の決めた指導要領がそんなに偉いのか、という点。
今の僕の立場からすれば、それを言っちゃあオシマイよ、ってなことになってしまうのだが、本当にそう思う。
上の人たちが決めて役人言葉(法言語)で書かれた要領は、あくまで大枠でしかない、と思うのだ。
“一般”としては、そりゃ当然、なくては困るものだ。でも、現場はそれぞれの“特殊”な状況で動いている。
“特殊”な状況は現場の教師が個別に解決を図るべきで、“一般”の役人言葉の出る幕ではないと感じる。
だから必修である科目があるのはわかるが、それを単純に授業の時間で達成したと判断するやり方には納得がいかない。
これは僕の持論である「法言語と生活言語の差」という意識にもとづいている意見だ(→2005.4.29)。

次に、本音の話。どうしてわが母校、飯田高校は履修漏れをしていないのだ、という点。
ほかの長野県内の進学校で芋づる式に履修漏れが発覚している中、飯田高校は清く正しくやってきたようだ。
これを未然にトラブルを避けた、偉い偉いなんて言うつもりはさらさらないのだ。
履修漏れするくらいの度胸を見せろ、それくらいの貪欲さで生徒を大学へ送り出せ!と僕は大いに主張したい。
どっちが生徒のためなのかとか、必修科目をしないことできちんとした社会人にどーのこーのとか、
そんな時間のムダでしかない議論はここでは無視する。主体的にやらない勉強なんて、やんないのと一緒だ。それが結論。
で、だ。僕が問題にしたいのは、履修漏れしなかった飯田高校の姿勢。
高校というものの存在意義にも関わる話なんだけど、僕としては、大学進学を目指す意識も高校生活のうちだと思うから、
つねに「次へつなぐ」という意識を持ってやってもらいたいのだ。ただでさえ飯田高校はのんびりしているんだし。
のんびりしすぎて浪人ぶっこいた自分としては、何が大切なのかをきちんと教えてやってほしいなあ、と思うのである。
こう書くと高校を予備校化させるんか、なんて言われそうだけど、むしろ予備校的な要素を取り入れて、
なおかつクラブ活動やクラスマッチや文化祭を楽しめる学校のほうが、僕は魅力的だと思う。すべてに全力を尽くせる学校。
言い直すと、受験なんてゲームの一種だから、そう割り切ってエンタテインメント化させちゃえばいいじゃん、ってことなのだ。
しょせん受験なんて、軽やかなステップで通り抜けちゃうべきものなんだ、ということを生徒が理解できればそれでいい。
それができているかどうか、判断の基準を履修漏れしているかしていないかに置くのは乱暴すぎるが、
リスクをおかしてでも攻める姿勢を見せないと、組織ってのはナアナアになっていくものだ。今回の件はその象徴に思える。

話がズレた気もするけど、根本的な問題は、何も考えることなく文部科学省を全能視して済ませる姿勢と、
自らの判断に自信を持って役人の決めたことに反発する度胸を持たない現場にあると思う。


2006.10.26 (Thu.)

ここんとこ仕事の正念場が続いているので、家に帰ってくるといつも日本シリーズが8回の攻防である。
なぜか、必ず8回なのである。で、日本ハムがリードしている。そんな感じ。
それでそのままマイケルが抑えちゃって、やった日ハム勝ったー、そんな毎日である。

さて、本日、ついに日ハムが日本一になった。
若い日ハムに比べると明らかに中日の方が試合巧者なイメージがあったので、正直4勝1敗は予想外だった。
去年のロッテもそうだけど、ファンが後押しして勝った、という印象がある。
確かに投手陣をはじめとして、日ハムに実力があったのは間違いない。でもその力をきちんと発揮できるかどうかは別。
若いチームはえてして少しのきっかけで失速してしまいがちだったのだが、プレーオフという制度とファンの声援とで、
勢いよく乗り切ってしまったのが勝因だと僕は勝手に思うのだ。まあ、これも、必然の勝利ってことなのだろう。

やはり、きちんとSHINJOの存在について書いておかねばなるまい。
まあたいていのプロ野球ファンはそうだったと思うけど、僕も正直、SHINJOをナメていた。
しかし北海道でのSHINJOは、これまでのお騒がせ的なイメージから一転して、ファンという相手の存在を意識していた。
何をやらかすにも、まず「ファンがどう見るか」を考えている点が、これまでの引退騒動やメッツ移籍騒動との違いだ。
立場が人をつくるって感じで、地味極まりない日ハムというチームでこそ、SHINJOが生まれ変わったとみるべきだろう。
個人的には去年のオールスターでホームスティールを成功させたことがすべて。あれで文句が言えなくなった。
そして今年の日本一である。もう、ぐうの音も出ない。あんたやっぱすげえわ、と大勢の人に言わせて引退するとは。参った。


2006.10.25 (Wed.)

今、新たに環境心理学の本を担当しているのだが、これがまあ比較的新しくって固まっていないジャンルだけに、
あれこれ二転三転あって、ほかの心理学シリーズに比べると、現場の苦労がヒシヒシ伝わってくる感じ。
各論はけっこう多い。「環境」が現代社会のキーワードになって久しく、各学問領域が「環境」を植民地化しようと必死だ。
しかしながらそれをまとめる総論となると、これがなかなか難しいのが現実なのである。
僕のつくっている環境心理学の本では、心理学の理論研究から「環境」ととれる部分をもってきて、やりくりしている。
横断的な研究ってのは、公平に評価しづらいから相手にされづらいのかな、と自分の経験を照らし合わせて考えてしまう。

さて、個人的には現在、通信で教育心理学系のテキストを必死で読んでいるわけで、
心理学シリーズで扱ってきたことと重なったりかすったりする部分がそこそこあって、ふむふむなるほど、ってな具合の毎日。
知識が知識を呼び込んでくるわけで、ひとつのことを知っていると、それがきっかけとなって知識はさらに増えていく。
そんな体験をちょびっとずつしているわけで、サボっちゃいかんなあ、とあらためて気合を入れ直しているしだいである。


2006.10.24 (Tue.)

太った!

こないだの社員旅行のときに、風呂でふと体重計に乗ってみて、愕然とした。
ベストの体重の頃(大学院2年くらい。VAAM飲んで自転車で市役所巡りをしていた頃)をわれらが地球とするなら、
すでに今の自分は冥王星くらい遠いところにまで来てしまっている、それくらいな距離感をおぼえるほどに太ってしまった。

いや、確かに実感はあった。毎日着ているスーツのズボンがいつからかキツくなった。
特にパンパンになっていたのが太ももで、全盛期ほど自転車をこいでいるわけでもないのに、と疑問に思っていたのだ。
動いていてもベストのときとは比べ物にならないほど体が重く、認めたくないけど……と頭の片隅にはあったのだ。
何より、仕事をしていて、腹の辺りがどうも気になる。以前より確実にだらしなくなっているのが、
じっと座って仕事をしていてもわかるのである。もうそうなると気になって集中できない。
――このように、証拠は揃っているのだ。もはや男として、この現実を認めざるをえない。私がやりました、いえ太りました。

原因は、単純に運動不足と食いすぎ、特に後者である。
ここんとこ急激に忙しくなって、知らず知らずストレス解消を食べることに求めていたのがいけなかったようだ。
これは早急に対策を練らねばなるまい。まずは節制と、休日の運動の徹底である。
時間の制約がいよいよキツい生活になってきているのでどこまでできるかわからないが、やってやるのである。
仕事に勉強、日記にダイエット。もしかしたら浪人以来久々に、真剣さが求められている時期に来ているのかもしれん。
まあ、やりますよ。ええ、やりますとも。


2006.10.23 (Mon.)

29歳になった。

いよいよ三十路一歩手前なのだが、ぜんぜんそんな自覚のない生活をしているわけで、
『デトロイト・メタル・シティ』を読んではアハアハ言ってるような毎日である。
まあ明らかに去年と変わった点といえば、大学生(通信)になって勉強をちょこちょこしているってことか。
この勉強の成果を発揮するには、最低でも2年かかる。
その影響か、「焦ってもしょうがない」「目の前の課題をきちんとこなす」という意識が強くなった気がする。
だからいいのか悪いのか、そんなに追い立てられているような感触がない。
とはいえこのままのんびりペースでいるつもりもないので、タイミングの見極めには注意しているつもりである。
29歳の自分は、これまで以上にメリハリだとか空気を読むとか、そういう能力が求められることになりそうだ。
油断しないでチャレンジしていきたいもんだ。


2006.10.22 (Sun.)

今日はコンディションが悪くて思うように動けなかった。

思えば学校というものに通っていた頃には、体調が悪くて集中力が欠ける、ということは、ほとんどなかった。
高校のときに風邪で早退した際、あまりの顔色の悪さに周囲がドン引きしていたのが唯一記憶にあるけど、
それはつまり、それくらいの不調でないと「動けない」ことがなかった、ということなのだろう。
これが「仕事をする」ってことなのかなーとぼんやり思う。でも塾講師んときは体調不良になった記憶ないしなあ。


2006.10.21 (Sat.)

日光2日目。一部の人は、早起きして東照宮まで行ってきたらしい。僕は当然、起きられるはずもない。がっくり。

2日目はまず、鬼怒川へ移動してライン下りである。
僕の地元では天竜川のライン下りがあるが、当然乗ったことなどない。地元民は乗らないものなのだ。
だからこういうのは初体験なのである。かったりーと思いつつ、ゴツゴツした鬼怒川の川原で出発時刻を待つ。

いざ乗り込んだ船が動き出すと、これがなかなか面白い。両側はほぼ絶壁になっているので、
船の上から眺める景色は独特のものなのだ。ああ、日記を書いていてデジカメを持って乗らなかったことを全力で後悔。
低い目線から、いかにも上流らしく突き出した岩も、空に架かろうという高さの紅葉も、見たい放題。
たまに水しぶきに備えてビニールを持ち上げるのが面倒くさいが、慣れてくればそんなに気にならなくなる。
天気が少し良かったこともあって、穏やかな午前中の日差しの中、滑るように川面を行くのは、意外と楽しかった。

バスはそこから龍王峡へ移動して一休み。ここでは特に書くことはなかったかな。

一年のうち1/3は霧が出ているという霧降高原の大笹牧場でお昼をいただく。ジンギスカンである。
昨日の晩メシもそうだったのだが、お偉方がやたらと肉をくれるので(単純に健康上の問題や分量の問題なのだが)、
こちとらひたすら処理にあたるのみ。実家にいるときとあまり変わらない気分である。
僕は肉を食べる際には米がないとダメなので、周りがビールをグイグイやっている中、ひたすらおひつからご飯を盛っていた。
酒は飲めないが米なら何杯でもいけるので、それで飲み会とか勘弁してくれるといいのになあ……などと思いつつ堪能。

  
L: 牧場の内側から高原を眺めた風景。天気はいいけど、確かに遠くにうっすら霧がかかっている。
C: 牧場の風景その1。僕と潤平でいうところの、「ロックマン1のエンディング的な景色」。
R: 牧場の風景その2。自由に柵の中に入れれば、広々とした野原の景色が撮れたのに。まあ、そうはいかないわけで。

牧場はバイクのツーリングサークルや家族連れで大いに賑わっていた。
お土産のコーナーが非常に充実していて、家族連れならいくらお金があっても足りないなあ、なんて思う。
お約束のソフトクリームをペロペロしつつ、辺りをブラつく。ムシキングの影響か、虫の標本を売る店があって、覗いてみる。
ミヤマカラスアゲハ(→2005.8.16)の標本には少し惹かれた。海外のカブトムシが多いのが気に食わない。がんばれ国産。
牛を放牧している草地には入っちゃダメな雰囲気だったのでちょっとがっかり。そういう野原を歩きまわるのが楽しいのだが。
子ども向けのアスレチック的なものがあったり人工芝のソリ乗り場があったりで、20年くらい前のことを思い出す。
と同時に、いずれああいうガキンチョどもを連れてこういうところに来ることになるのかもしれん、と背筋が凍った。

 バスの前で社長に撮られる(僕は左端)。

帰りにバスは牧場の真っ只中を走っていく。牛の群れがいたと思ったら、馬の群れ、さらにはなんとサルの群れまでいて、
動物だらけだなあ、と思う。どうせならふれあってみたかった気もする。エサとかあげてみたかった。
そんなことを考えているうちにさすがは霧降高原、周囲は完全に霧に包まれて何も見えなくなった。
日本にはいろんなところがあるなーと感心しているうちに、気がついたら寝ていた。起きたら首都高。

まあ、一人旅では絶対に行かないような場所ばかりまわったわけで、そういう意味でもいい旅だったのは間違いないと思う。


2006.10.20 (Fri.)

社員旅行で日光へ行くのである。社員旅行というものに参加するのも初めてなら、日光も初めて。
正直めんどくせーなーどうせ飲むだけだしという気持ちが半分、日光ってどんなところだろドキドキという気持ちが半分。

バスに揺られて3時間ほど。お約束どおりに途中で寝っこけていたので、気がついたら到着ってな塩梅。
着いたのは中禅寺湖。ちょうど昼メシどきで、テキトーに食堂に入って「ゆばうどん」をいただく。
なんかやけにメニューに湯葉が目立っているなあってことで、この辺りの名物が湯葉なのだと初めて知る。

 
L: 中禅寺湖。うーん、特に感想はないです。
R: 中禅寺湖の反対側には男体山がそびえる。目の前に迫って、かなりの威圧感がある。登ってみたいかも。

湖をぐるっとまわる遊覧船に乗るのだが、まだ小一時間ほど余裕がある。
じゃあ華厳の滝にでも行ってみますかーってことで、同期2人+先輩(でも同い年)でぷらぷら歩く。
途中でシモーヌ(仮名。全身つっこみどころ満載な同期の天然男で、彼をイジっていれば飽きることがない)が、
土産物店からごませんべいを素早く強奪するサルを目撃する。ほかの3人は見られなくって悔しがる。
やっぱ日光に来たからには、ワイドショーでたまにやっているサル大暴れなシーンを見たいわけで、
「これだけでも日光に来た価値があった」と言うシモーヌをうらやましがるのであった。何か間違っている気もするが。

さて華厳の滝。有料のエレベーターで下までおりて滝を見上げる、というのが本道なのであるが、
シモーヌが財布をバスに忘れて所持金40円、とぬかしやがる。「じゃあ40円分だけ下ろしてもらえ!」
彼がいると日常会話にボケとツッコミの要素が混じってくるので楽しくなる。天然恐るべしである。

 
L: 華厳の滝を展望台より。山の中にいきなりこれだけの規模の滝が現れることに、不自然さを通した美を感じる。
R: 周囲の山は紅葉をはじめたところ。最盛期には本当にきれいなんだろうなあ、と思う。人出がすごそう。

滝を眺め終わると中禅寺湖に戻る。途中で小学生の群れに巻き込まれる。
そのまま小学生たちと同じ遊覧船に乗ることに。社員旅行も構造的には何ら変わらないなあ、と思う。
情けないような気持ちが半分、懐かしさにひたる気持ちが半分。で、遊覧船に乗っている間はぐっすり熟睡。
周りの皆さんもそうだったらしい。ろくすっぽ見るところのない遊覧船には乗るのに東照宮には行かない、
という行程にはまったく納得がいかないのだが、仕方がない。僕にはどうしょうもないのだ。

バスはゆっくりといろは坂を下っていく。超ヘアピンなカーブが往路と復路、ぜんぶで48。
いろは坂のすべてのカーブには、「い」「ろ」「は」と書かれた標識が立てられている。
上りは「い」~「ね」の20カーブ、下りは「な」~「ん」の28カーブである。
僕はいろは坂の名前は知っていても、上り専門の道と下り専門の道に分かれているなんて知らなかったので、妙に感心。
関東圏の人は紅葉の名所ってことでよく知っているんだろうけど、長野の田舎出身者はそんな程度なのだ。
よく渋滞のニュースでヘリからの映像が流されるが、実際に通ってみると、幅は狭いわカーブと坂の角度は急だわで、
渋滞しないほうがおかしい。そんな道だった。

で、やっぱり寝っこけて、着いたら宿。荷物(ほとんど酒)を下ろして部屋に入って風呂に入ってメシをいただいて、
申し訳程度にカラオケで和田アキ子の『古い日記』を歌って、部屋に戻って押入れで自分の酒の弱さに驚愕しつつ爆睡。

 コップ1杯で顔真っ赤。(撮影:社長)


2006.10.19 (Thu.)

昼休み。自転車で大学まで行って履修登録を済ませてくる。
通信制大学の履修登録ってのもよくわかんない。登録できる単位数は上限が決まっている。
試験は1日で4科目やるのだが、それが年4回ある。僕は9月スタートなので、受けられる試験が限られている。
でも登録は4月の人と同じだけできる。登録しておけばテキストが来て、リポートを出せる。
だからとりあえずリポートを通しまくっておいて、試験をのんびり確実に受けていく、なんてことができるっぽい。
ま、できる限りのことをやってみるかな、と思う。

北朝鮮が暴れている今だからこそ、プロジェクトB(Beicho)を実行するのだ。米朝のCDを借りてくる。
さすがに上方落語の正統派だけあって、絶滅しかかったものをなんとかして残そう、という熱意を感じる。
今は面影がなくなってしまった土地だとか、誰も覚えていない言葉や物だとか、そういう消えてしまったものを掘り返そう、
という意欲が、細かい部分の説明で、特にヒシヒシと伝わってくるのだ。落語の時代と現代とは、
もうまるっきり違ってしまっているのだけど、それをなんとか現代でも解釈できるようにしようとしている。
そういう情熱をうらやましがっているうちは、まだまだヌルいと思っているしだい。


2006.10.18 (Wed.)

星新一『ボッコちゃん』。表題作を含むショート・ショート50編を収録した文庫本。

僕らの世代では『おみやげ』だとか『繁栄の花』だとかが国語の教科書に載っていて衝撃を受けた人が多いのだが、
いざ文庫本で星新一を読んでみると、実にこれがキツいのである。
どうキツいのか。読んでいて、非常にブルーな気分にさせられてキツいのである。
ブラックユーモアはたまに混じるからいいのだ。それが連発でくると、いたたまれない気分になってしまう。

さすがにアイデアは豊富で、そのスタート地点の奇抜さには毎回驚かされる。
星新一はあらゆるシチュエーションのパターンを引き出しの頭の中に持っていて、それを自在に取り出しているのがわかる。
ところが分量がショート・ショートであるため、起承転結でいうと「起」が「承」を飛び越して「転」に来たところで終わる。
ひたすらそういう消化不良の連発も、上述のブルーな印象をさらに加速してくるのだ。
「これからが面白いところなのに!」「それをどう克服していくか描くのが面白いのに!」と、
読んでいるこっちのフラストレーションは溜まっていくばかり。でも星新一はそんなこと少しも気にせず次へと進んでしまう。

だから僕からすれば、本当に豊富なヴァリエーションの設定を次から次へと使い捨てされている印象。
転がせばもっと面白くなる話が、中途半端なタイミングで遺棄されている。
まあそれは凡人ゆえの反応なのかもしれないけど、読んでいて不快感がある、というのが僕の正直な感想なのだ。


2006.10.17 (Tue.)

くるりにはほとほと困った。CDを借りてきて聴いたのだが、評価のつけように困る。
『ワールズエンド・スーパーノヴァ』だとか『ワンダーフォーゲル』だとか『ばらの花』だとか『赤い電車』だとか、
シングル曲にはいいものが多い。能動的ではなく受動的に聴いていると、気分のいい曲が多いのだ。
しかしアルバムのデキにとんでもなく波があるのだ。おかげで総合的な評価がうまくまとまらないでいる。

『さよならストレンジャー』は借りてきたはずなのに、『オールドタイマー』しかMP3データがない。
シングル曲はひとつも僕の好みでなかった、ということなのだ。1stからして、これである。
そして『図鑑』は非常に退屈だった。『TEAM ROCK』はまずまずだった。『アンテナ』は褒めるところがひとつもなかった。
『THE WORLD IS MINE』はどうすりゃいいんじゃ、と言いたくなるほど退屈だった。
しかし『NIKKI』は名盤だと思うのである。アルバムごとの(僕の中での)浮き沈みが非常に激しい。
いいアルバムとそうでないアルバムがはっきりしているバンドはそれなりにあるが、ここまで極端なのはくるりだけだ。

もともと僕は『ワールズエンド・スーパーノヴァ』を高く評価していたのだが(→2002.3.25)、
あまりに聴きすぎて飽きて、一時期iPodでのマイレートが★2つにまで落ちた(今は★5つに戻っているが)。
まあそれくらい、僕にとっては1曲ごとについても浮き沈みが激しいわけで、やはりそんなのはくるりだけなのだ。
全面的に肯定はできないが、たまにがっつりやられる。不思議な存在なんだけど、それはそれで楽しい。


2006.10.16 (Mon.)

近況報告。

「匂い」がキツい、というと悪臭がするのかと思われちゃいそうだが、まあつまりは匂いについての本がキツい。
著者の人数がやたらと多いので、ゲラの発送作業が非常に手間なのだ。手を動かす仕事ってのは、意外と時間がかかる。
封筒にラベル貼ってハンコ押してゲラと挨拶状を入れて、なんて具合にあれこれバタバタしていると、あっという間にお昼。
かつて昼休みってのは絶え間ない眠気との格闘の末にやってくるオアシス、ハーフタイムだったのだが、
今じゃ完全にウォーミングアップ終了の合図でしかない。仕事が増えて、イヤでもそれだけ体力がついたってことだ。

さて昼休みはいつも小説の文庫本をブリブリと読むのだが、今日は違う。大学から履修の案内が届いたので熟読なのだ。
そう、ついに入学してしまった。文系の大学を出て理系の大学院に進み、最終学歴は通信制大学の中退を目指す、
なんてバカは未来永劫僕だけだろう。学費を自力で稼いでいれば、誰にも文句を言われる筋合いなどないのである。
地獄の沙汰もなんとやら、とはまさにこのことだなあと思う。でもさすがにぜんぶ一人だけで、ってわけにはいかなくって、
保証人には潤平になってもらったけどね。親は頼りたくないんですよ。親がまったくタッチしないように、すべてをクリアしたい。
こういう苦労をしていないと満足できない性格なのかもしれない。実は苦難が大好きな山中鹿之助タイプなのかもしれん。
論文に塾講師に就職活動にサイクリングに明け暮れた厳しい毎日は、いま思えば本当に、とんでもなく充実していた。
充実感の源泉といったら、まあ、アレですけど、そういう気配のまったくない今の生活は、やっぱりイマイチなのだ。
まったく別世界のアイテムである大学のシラバスを読んでいると、ページの向こうには見たこともない光景が広がっている、
そんな気がしてくる。まあ確かに、この山を越えたなら、きっと見える景色は今までとはまるっきり異なっているのだろうけど。

見たこともない光景といえば、そろそろまた県庁所在地への旅がしたくってうずうずしている。
まだ水戸の分の日記を書き終えてないのに。関東近郊はもう制覇しちゃったから、今後はどうしても遠くへ行くことになる。
名前しか知らない街を実際に歩いていく。想像するだけで、わくわくしてくる。

そう、日記だ。実はこの日記、帰りの電車内でケータイを使って書いている。飯田橋駅からスタートして、座席でニチニチ。
白金高輪で乗り換えて、立ってニチニチ。会社帰りの皆さんで車内は混み合っているが、気にせずニチニチ。
最近は週末のサイクリングついでに喫茶店でノートパソコンを広げて、ってのがお決まりになっている。
平日は仕事で集中力を使い切っちゃって、日記を書く意欲がなかなか湧いてこないのだ。
僕は断片的なメモから記憶を呼び起こして細かく描写していくから、日記を書くのにどうしても集中力が必要になる。
書いている間はまるで体を残して脳みそだけタイムスリップしているような感じになるから、時間の感覚がなくなってしまう。
まあそれだけ大変な作業なのだ。週に2日しか満足に書けない態勢だが、それでも負債の返済に目処が立ちつつある。

ただいま21時17分。ああ、もうのだめのドラマが始まってしまった。
どんなふうにフジの月9が崩してくるか、怖いもの見たさで楽しみにしていたのに。でも残業をしておかないと、
とてもこなせない量の仕事がたまっているからしょうがないのだ。社員旅行のせいで今週は金曜仕事できないし。
それにしても昨日買った、のだめの最新巻はすごくよかった。このマンガ読めて幸せだーって思った。
ポールがいい味出してきたし、ターニャがなんだかツンデレだし、マルレ・オケのコンサートの描写がもう感動的だし。
それでパリ編をイチから(10巻から)読み直したら、また寝不足さ。まあしょうがないだろう。
しかし、なんかホントに、小さな幸せに救われているよなあ。なんだかんだでギリギリなんとかなってんのかな。
自分じゃ全然満足していないつもりなんだけどな。まあ、やっているうちになんでも面白くなっちゃうのはいつものことだし。
あ、家に曲がる道が見えてきた。あんなに細い道なのに、生意気にも大田区と目黒区の境界になってるんだよな。
お、やべー電池切れそうだ。家までもつかな。しかしバックライトつけっぱなしだと電池すぐになくなっ


2006.10.15 (Sun.)

ふと思った。歳をとると涙もろくなるのは、思い出すことがいろいろとあるからじゃないのか、と。

いや、大した意味はない。


2006.10.14 (Sat.)

『女王の教室・SP エピソード2 悪魔降臨』。挫折から立ち直り、教壇に戻ったマヤがひとりの児童と対決する。
苦悩しながら自己を確立する姿、「灰マヤ」から「黒マヤ」の完成へと至るまでが描かれる。

さて今回、スタッフ側は前回ほど急ぎ足が要求されないかわりに、別種類の難しさに直面する。
それはエピソード1とテレビシリーズの間に位置する作品ということで、いかに自然に伏線を盛り込むか、ということだ。
エピソード1で埋め込んだ伏線を回収しつつ、先行するテレビシリーズともうまくつながる伏線を用意しなければならない。
結論から言えば、非常に高いレヴェルでクリアしている。特に後者、テレビシリーズに向けて放たれる伏線は、
セリフの細かいところからガジェット(小道具)に至るまで、完璧と言っていいほどの完成度を誇っている。

天海の演技が非常に細かい。テレビシリーズでは子どもが完全にマヤの手のひらの上にいるわけだが、
灰マヤではそれがまだまだなので、見ていてすごく不安感をあおられる。スタッフの思うツボである。
灰色のジャージに身を包んだマヤは、黒マヤほど徹底はしていない。しかし揺るぎない精神力は身につけているってことで、
ほかの学園ドラマとほぼ同じバランスを持った熱血教師(ただしそれを決して表面には出さない)として動く。
だから、超人でなく等身大の一人の人間が難題に対処する、という面白さがあるのだ。
このエピソード2で、設定が奇抜だからウケたのではない、本当に芯のあるドラマ、ということが誰の目にもはっきりするはず。
いや、それにしてもふつうの恰好(ジャージという飾らない恰好)をしていると、天海祐希がものすごい美人とわかる。
芸能人のオーラというかスター性というか、まあとにかく、おお~とアホ面でため息を漏らしてしまった。

あらすじとしては、1年留年しているために体も大きく頭も回る児童がクラスをコントロールしている。
彼は表面上は従順な子どもを演じているが、実際には支配する者/される者という図式をクラスに持ち込んでいた。
マヤはそれに真っ向から戦いを挑むが、またしても策略にはめられて思うように動けなくなる。
最終的には、単純に悪者を退治しましためでたしめでたし、としないで、さらに一段上の解決へと持っていく。
ここがやっぱり、このドラマの非凡なところだなあ、とあらためて感心。基本的には、時間がないせいもあってベタなのだが、
ベタをベタのままで終わらせない、新しい解釈、あるいは新しい意味づけをきちんと考えている、ということなのだ。

考えてみれば、テレビシリーズのクラス(神田さんのクラス)は、学園ドラマにありがちな問題をひとつも持っていなかったのだ。
ふつうのクラスを、ふつうの児童を鍛える。ふつうであることの価値を認めつつ、子どもに「強さ」を身につけさせることで、
「強い状態」をふつうにするということ。その点で、このドラマは特殊ではあるけれども普遍性を持っている。勉強になる。


2006.10.13 (Fri.)

『女王の教室・SP エピソード1 堕天使』。人気ドラマ(→2006.9.13)のスペシャル版。DVDを借りてきたのだ。
印象としては、いわゆる「白マヤ」のダイジェストみたいな感じ。ペースが速く、つくりが粗い。
初めて小学校で担任になってからトラブルに巻き込まれて学校を去り、結婚して子どもをもうけるが、
不慮の事故により死なせてしまう……ってな具合に盛りだくさんな内容なので、仕方ない面もあるとは思う。

それにしても相変わらず、描写に容赦がない。見ていて「こんなの対処できないわー」なんて切実に考えてしまう。
仕事がうまくいかない描写がまずリアル。黒マヤとは別人に思える天海祐希の演技には感心させられる。
そして子どものいる家庭の描写もたぶんリアル。きっと見ているのがやんなるくらいリアルなんだろーなーとぼんやり思う。

愛情かけすぎていじり壊しちゃうから距離をとる、そういう痛々しさが真正面から描かれていて、なんとも複雑な気分になる。
その延長線上として、子どもに『泣いた赤鬼』を読んであげるという演出は、さすがだなーと思わずうなってしまった。
特にこのエピソード1では、児童に対して空回りする熱意だとか子どもに対する愛情だとか、
マヤの善意がかえって逆効果になってしまうというシーンがふんだんに盛り込まれているわけで、
その分、エピソード3にあたるテレビシリーズの記憶が印象的なものになってくるのだ。いやはや、さすが。
しかしまあ、こうしてみると、マヤはすっかりいい人だ。スペシャルを見た後のテレビシリーズの見え方の違いも、興味深い。

全体としての感想は、このドラマが好きな人向けのおまけというかサイドストーリーというか、そういう存在に徹した作品だ。
テレビシリーズを見て楽しめた人は、見て損は絶対にしないはずである。ちょっと急ぎ足ではあるんだけどね。


2006.10.12 (Thu.)

日ハムがプレーオフを制してパ・リーグで優勝した。
投手四冠を果たした絶対的なエースである斉藤和己から、決勝点を奪ってサヨナラ勝ちした。
その瞬間、斉藤がマウンドで崩れたシーンが忘れられない。あのシーンはあまりに悲しくて美しかった。
あの斉藤を崩してパ・リーグ優勝を決めた日ハムの底力と、力投が最後の最後で報われなかったつらさ。
日本のプロ野球はまだまだ魅力的である。


2006.10.11 (Wed.)

藤沢周平『用心棒日月抄』。「日月抄」は「じつげつしょう」と読む。
これまた会社の先輩がオススメしてくれたので、藤沢周平の代表作ってことで読んでみた。
脱藩して江戸へとやってきた浪人・青江又八郎が主人公。又八郎は藩主毒殺の陰謀を知ったため、
刺客に追われる身となってしまっている。用心棒としてあちこちで働きつつ、刺客と戦うという一話完結型のストーリー。

ものすごく秀逸なのが、又八郎が用心棒をしている背景で、赤穂浪士の討ち入り計画も進んでいく点。
読者にはもうすっかりお馴染みの討ち入り事件を、江戸の一浪人の目から描く、という要素も含まれているのだ。
又八郎は又八郎で敵と戦いつつ当座の問題を解決していく。それに加えて背景には討ち入りもあるってことで、
一粒で二度も三度もおいしい、そんな工夫がなされているのだ。これにはしびれた。
ゆっくりと、しかし着実に計画が進んでいくのを裏側から眺める、という視線は斬新で、
浪人の日常と討ち入りという非日常が巧みに交差された構成は、ただ夢中で読み進めていくしかなかった。

文章についても、いかにも時代小説らしい端整さがあって、うらやましく思いつつ読んだ。
シンプルに、必要なことだけを書く。名詞で時代物の雰囲気を出しつつ、表現はくだけたものも混ぜる。
なんだか筆で半紙の上に墨を勢いよく引いていく、しかしメリハリはつけている、という印象の文で、
上記のように構成での巧みさもあいまって、ベテランの凄みをあらためて思い知らされた。

ところで、藤沢周平原作の映画では『たそがれ清兵衛』をDVDで見たことがあるが(→2003.10.27)、
やはり、時代物でありながら現代に通じる点を問題意識に持ち作品をつくるという視線が共通している。
それは、サラリーマンとしての武士たちと、フリーターとしての浪人という点だ。
事件が起きるまでは藩に勤める武士、それも徳川の幕府がすっかり安定した時代の武士ということで、
又八郎はサラリーマンの一員として暮らしてきたことが暗に示される。
しかし江戸に出てからは食べるために稼ぐという毎日が続く浪人の身となり、
これは直接的な言葉としては当然出てこないものの、誰が読んでもフリーターの生活とわかる。
だからこの作品は、単純にエンタテインメントとして書かれたというだけでなく、
そういった労働の形態、サラリーマンとフリーターという格差だとか意識だとか思考回路だとか、
そんなレヴェルにまで踏み込む深さを持っている。これがまた、今の時代だからこそはっきりわかるようになっている。
この作品は1978年初出らしいので、時代を30年近く先んじていたことになる。
というか、作品に遅れてようやく現代社会が事実に気がつくようになってきた、ということか。
どちらにしろ、あらゆる角度から見て、傑作である。完全に降参。


2006.10.10 (Tue.)

グレゴリー=ペック主演、『アラバマ物語』。ちなみに、ペック演じる弁護士アティカス=フィンチは、
2003年にアメリカ映画協会が選んだ「映画の登場人物ヒーローベスト50」の第1位に選ばれている。クイズ知識ですな。

舞台は1932年のアラバマ州。弁護士フィンチは、妻を亡くしたが子ども2人と平穏に暮らしている。
彼は非常に正義感が強くって、しかも絶対的に頼りになる。絵に描いたような理想の父親である。
そんな彼が、婦女暴行容疑で捕まった黒人の弁護人に指名されることで、話は急展開を始める。
周囲の偏見をものともせず、正義を貫く姿が主に子どもの視点から描かれる。
これは原作の『ものまね鳥を殺すには(To Kill a Mockingbird、ピューリッツァー賞受賞)』に忠実に従ったからだろう。
それにしても原題と邦題にとんでもなく差がある。ここまで変えちゃっていいものなのかと不安になってしまう。

背景がしっかりと描きこまれているのはさすがで、当時のアメリカの雰囲気がよく伝わってくる。
さすがにちょいセレブな生活をしている田舎の弁護士と、こましゃくれているなんだかんだで賢いその子どもたち。
アティカスは身なりがやたらきちんとしているのに対し、農家の子どもはナイフとフォークすら使えない。
そういう対比が提示される。この話は南部の人種問題がわからないと正確に味わえない面があるかもしれない。
しかし逆に、キリスト教、民主主義、差別など、アメリカの特徴を知るには抜群の素材という見方もできるだろう。
(上で書いた原題と邦題の差ってのも、そういうアメリカ的な感覚と日本的な感覚の違いという意味ではいい資料だ。)
そしてそういう現実、世の中にはイヤなことがいっぱいあるわけで、それに初めて直面した子どもの姿が描かれる。

だけど、見ていてどうにもノれない。裁判のシーンはめちゃくちゃ退屈だし、何より構成が本当にヘタクソに感じられる。
ネタバレになるが、この話では近所に狂人が住んでおり、子どもたちがそれをなんとか見ようとする、という設定がある。
そのこと自体は閉鎖的な田舎の現実という点ではまったく問題がないし、むしろリアリティのある設定なのだが、
そんなキャラクターがラストにきていきなり登場して大活躍してみせるもんだから、すっかり興ざめ。不自然極まりないのだ。
アティカスは正義の象徴なので、暴力を振るうことはありえない。しかし悪人は平然と暴力を振るう。それも子どもに対して。
それで悪人からの暴力に対抗するため、狂人が用意されているのだ。狂人には責任能力がないということで、
物語的な意味でも許されてしまう。この乱暴なやり口は、あまりにひどい。見ていて呆れ返ってしまった。
とても伏線とは呼べないほど荒っぽい仕掛けをして、最後の最後でご都合主義。もうがっくりである。
さらに言うと、アティカスの正義っぷりもつくりものっぽくって、僕には人間味が感じられなかった。
なんというか、こういう人工物くささ、自然な流れに沿った世界観よりもキャラクターの都合を優先する感覚、
なるほどそれこそがアメリカなのか、と妙に感心させられた。これはたぶん、アメリカ人にしか面白くない映画だと思う。


2006.10.9 (Mon.)

祝賀会が終わってニシマッキーとダニエルとえんだうは帰ったが、僕もみやもりもリョーシ氏もマサルも特にやることがない。
しょうがないので、そのまま引き続き僕の部屋でダラダラと午前中を過ごす。
みんなが『のだめカンタービレ』(→2005.8.20)を熟読する中、僕はPS2で『ロックマン2』(→2002.10.30)をおっぱじめる。
しかしクイックマンステージがクリアできず挫折。腕が落ちている。愕然とする。

その後、ファミコンを引っぱり出して、マサルと『がんばれゴエモン2』をおっぱじめる。
1Pゴエモンがマサル、2Pエビス丸が僕。ちなみに僕は、「エビちゃん」と聞くと当然、エビス丸を想像する。
『ゴエモン2』についてはそれはもう小学生の頃から徹底的にやりこんでいるので、スイスイと進んでいく。
しかしマサルは地蔵を叩いて地獄に行くわ、3D迷路は早々にあきらめて「松島くん、早くマップ取ってよ!」と言う始末。
挙句の果てには「最後の面(からくり城)になったら復活させて」と言い残してギブアップ。
でもまあ最終的には『ゲームセンターCX』のような感じで、AD松島の指導のもと、無事にクリアしたのであった。

このまま部屋の中におってもしょうがないなーってことで、昼メシを食べると新宿に出ることにする。
その間、マサルが長野県の方言である「ずく」についてあれこれ言ってきた。
「ズクナシ君」とかぜったいに新聞の4コママンガにありそうだ、とか、「ずく水洋一」って呼んでやる、とか。
「ずく水洋一」はともかく、「ズクナシ君」は確かに実在しそうな感じだ。植田まさしっぽいタッチで。
さらに矛先(?)はリョーシ氏に飛び火。ニートからエリートになったから、エニート! エニちゃん! ひたすらあだ名を開発。
まあそんな感じでバカ話をあれこれダベっているうちに、新宿に到着。

新宿ではひたすら『クイズマジックアカデミー3』。部屋にいるのと大して変わらんなあ、と思いつつ4人でガンガン解いていく。
そのうちマサルが「僕も自分のキャラでプレーしたい」と、新たにカードを買ってやりはじめる。
のんびりしてそうな女性キャラを選び、「ズクナシさん」と名前をつけていざゲームスタート。
それで2人のキャラを4人で同時に問題を解きながら進めていくという、なかなか忙しい展開に。
たとえると、2種類の料理を4人それぞれ入れかわり立ちかわりで同時につくっていく感覚。
こういう切羽詰まった状況をみんなで一歩ずつクリアしていく感じがなかなか面白かったので、これはアリだな!と思った。

さて群馬に帰ったみやもりを見送ると、メシ食うか、となって、残りの3人で京王百貨店へ。
どの店にしようか、なんて迷いつつ屋上に出て風に吹かれてみたり。これはなかなか新鮮だった。
結局、トンカツをガッツリ食べて解散。仲間とのんびりする時間がしっかりとれて、非常に充実した時間だった。


2006.10.8 (Sun.)

渋谷へCDを返しに行く。
晴天が本当に気持ちのいい日で、自転車に乗っていてそのままどっかに飛んでいきそうな気分になる。
ああーオレは今、幸せだーなどと思いつつペダルをこぐ。すごく経済的なリフレッシュ法である。

さて、夜になっていつもの姉歯祭りのメンバーで大岡山に集合。
このたび見事に司法試験に合格されたリョーシさんの祝賀会である。
かつて大学時代にマサルが「僕が司法試験に合格したら、絶対に最高裁の裁判官になるよ!
そこから徹底的に悪事の限りを尽くして、国民審査で罷免される史上初の最高裁の裁判官として歴史に名を残すよ!」
との名言を吐いたのだが、いやあ、まさか身内からその夢を実現可能な資格を持つ人が現れるとは。めでたいめでたい。
リョーシ氏は法科大学院修了後はニートな生活をしていたのだが、これで一気に勝ち組の筆頭に躍り出たのである。
そんなリョーシさんをみんなで讃えて讃えて讃えまくりましたとさ。

その後は久しぶりに僕の部屋に移動して、DVD鑑賞。
ニシマッキー持参の『すべらない話』を見る。結局は身近な人のバカ話を紹介すればすべらないのだな、と思った。
それから特にやることもなかったので、毎度おなじみ僕のパソコンでiTunesイントロクイズ。
入っているのは基本的にキテレツな曲ばかりなので、誰かが正解できる曲が流れるまでスキップするのが大変。
そんなこんなでみんな体力の限界がきて寝たり寝なかったり寝たり。

ところで今回、リョーシ氏の現在の一押し女性芸能人は、貫地谷しほりと判明。
(『スウィングガールズ』(→2005.8.10)のトランペット。最近は、NTTドコモのCMで店員のモモコ役をやっていた。
 僕は『スウィングガールズ』をきちんと見たのに、モモコの人が貫地谷しほりだとはまったくわからなかった……。)
そんなわけで、リョーシ氏のスタンド「ウェディング・ベル」が貫地谷しほりを熱愛発覚させる日も近いと思われる。
ちなみにマサルは、リョーシ氏の気になる女性芸能人がことごとく熱愛発覚する、という話題になると、
リョーシ氏の顔のちょっと上を見ながら会話をする。いかにもリョーシ氏の背後にスタンドがいるかのように話すのだが、
これがめちゃくちゃ自然な演技で、腹がよじれるほど笑えてたまらん。


2006.10.7 (Sat.)

豊洲へ行ってみることにした。
というのも、電車の広告で東急ハンズのららぽーと豊洲店がオープンする、と知ったから。
ららぽーとはよくわからないけど、東急ハンズができるんならちょっと見てやれ、ということで自転車にまたがる。

新橋の辺りで東に針路を変える。そして、勝鬨橋を渡る。よく名前を聞くけど、実際に渡ることはなかなかないのだ。
デザインは非常にシンプル。しかし優雅。橋に据えつけられているランプが、全体的なモダンな印象をさらに強める。
かつては隅田川を行き来する船のために橋を開閉させていたり、上を都電が走っていたりしたという。
現在はそのようなことはないものの、橋のあちこちに往時を思わせる仕掛けが残っていて、なかなか面白い。

  
L: 勝鬨橋の雄姿。うーん、モダン曲線。  C: 橋の真ん中ら辺には信号機が。もちろん、使われていない。
R: ランプがこれまたモダン。しかしこれだけどっしりした橋が跳ね上がるなんて信じられないなあ。

 
L: 橋から隅田川を行く船を撮ってみた。佃のマンションが時代の変化を感じさせるのだ。
R: 振り返って、築地市場を眺める。そういえば、築地市場って豊洲に移転しちゃうんだよね。

橋を渡ってさらにまっすぐ行くと、黎明橋、そして晴海大橋を渡る。これがなかなかの景色。
上り坂は遮るものが何もなく、空と海と橋がそれぞれくっきり線を引いている。天気がよかったので、よけいに鮮やかだった。

さて、晴海大橋を渡りきると豊洲に入る。が、工事中で何もない感じ。いちおう、頭上にはゆりかもめの軌道が走っている。
知らないうちにゆりかもめは豊洲まで伸びていたのだ。これから一気に都会化していく予感がプンプン漂う場所である。

 晴海あたりのビルを背景に、埋立地ではたらくショベルカー。なんか象徴的だ。

そしていよいよららぽーと豊洲に到着。駐輪場を探してウロウロしてたら、ものすごい人ごみが。
あれ? もしかしてオープンするのは東急ハンズだけじゃなくって、ららぽーと豊洲全体が今日、そうなの?と、今ごろ気づく。

なんとか臨時の駐輪場に自転車を置いて、ららぽーと豊洲の中に入る。
人ごみでウヤウヤしていてなかなか思うように進めない。こりゃしまったなーと思う反面、やはり面白がっているのも確か。
ららぽーと豊洲は、全体を船のイメージでデザインしているみたい。壁に丸い穴を開けており、船体を想像させるのだ。
1階から上の階を見上げた感じ、逆に上の階から下を見下ろしたときの感じ、どちらも、港と甲板の関係を意識させる。
直線のまっすぐな部分に曲線を食い込ませる。その曲線はまさに船の形になっているわけで、
歩いているとなんとなく、客船の中にいるような気分になってくるのだ。実際に乗ったことはないけどね。
個人的な印象としては、猛烈に面白い場所というわけではないのだが、そう悪くはない。
六本木ヒルズやら表参道ヒルズに比べれば、格段にいい場所である。ハンズも本屋もあるから。

キッザニア東京がものすごい行列になっていて、たまげた。
そういえば以前テレビで、海外で子どもが職業を体験するテーマパークがあるってのをチラッと見たことがあるのだが、
それが商業施設の中に入っている、という事実がものすごく興味深い。
今までなら、大きなテーマパークが子分のような商業施設を従えている、そういうイメージだった。
しかしここでは、商業施設の子分としてテーマパークが入っている。逆転現象が起きているのだ。
まあ結論から言っちゃうと、商業施設のテーマパーク化が進行したっていうことだろう。
商業施設じたいがテーマパークに近づいていて、キッザニアはそのワンコーナーの位置を占めている。
社会学的にきちんと考えて、明治期の勧工場(かんこうば、百貨店の前身的存在)からの歴史ということで見てみると、
実はゆっくりとスタート地点に戻ってきているんじゃないかって気もする。本質的な部分に戻ってきた感じ。
現代の商業施設は、買い物に行くだけの場所でなく、体験するための場所となっているのだ。

これはいずれcirco氏を連れてきたほうがいいかもしんないなあ、と思いつつ、ららぽーとを出る。
自転車で越中島方面に行き、東京海洋大学海洋工学部(旧・東京商船大学)の脇を通って、門前仲町に出る。
ミスドに入ってパソコンを引っぱり出して日記を書く。

ところで、門前仲町に出る直前、ついに撮影してしまった。
こっちに引っ越してきた頃から(つまりこの日記を始めた頃から)ずーっと見かけて「おお」と思っていたのだが、
苦節5年、ようやく撮影に成功したのである。それは、これだ!

 

「クール橋場」である。バヒさんがクールなのだ! これはすごいのだ!
いや、ただそれだけだしモゲの会の皆さんにしかわかんないことだし、日記に書いてもしょうもないことかもしれないが、
個人的にはバヒさんに「クールなバヒさんが街を走ってんだぜー」と言ってやりたかったので、写真をここに公開。
今日もクール橋場がクールに食品を店までお届けするのであった。(よくわかんないオチだが、これでいいのだ)


2006.10.6 (Fri.)

仕事がいよいよ山積みである。本来だったら二、三日のタイムラグのあるはずのものが、
ちょうど何もかもがぴったり重なってきて、目の前にドカンと壁のようにそびえている。そんな感じ。
そういうときには優先順位をつけてひとつひとつ処理していくのが鉄則だ、と頭ではわかっているつもりなのだが、
そんなにすんなりと順位がわかるようなら苦労はしないのだ。もう何を優先していけばいいのかサッパリ。
しかも、自分が仕事の手順をひとつクリアするまでにどの程度時間がかかるのか、読めないのがまたつらい。
優先順位もわからない、自分のペースもわからない、本当に宇宙空間をただよっているような感覚で、
とりあえず日程が近いものから手をつけている、そんな状況なのである。
自分の体が自分の思いどおりに動いていない、というのはつらいなあ、なんてしみじみ思う暇もない。


2006.10.5 (Thu.)

『続・座頭市物語』。その名のとおり、『座頭市物語』(→2005.9.20)の続編である。
今回は座頭市の兄である渚の与四郎に、勝新の実兄である若山富三郎(名義は城健三朗)が出演。
かつて伊集院光はラジオで、任天堂のWiiがいろんなふうに使えるコントローラーということで、
「マリオとルイージじゃなくて、勝新と若山富三郎でチャンバラゲームを出せよ!」と提案していたわけで、
そんなゲーム化したくなるほどに面白いのか、と思って期待をしつつ見はじめる。
前作がめちゃくちゃ面白かったこともあり、テンションがかなり高くなる。

が、ものの5分で白けてしまった。役者がヘタクソな印象で、全然引き込まれない。
殺陣はまあいいけど、ほかの部分のつくりがひどすぎる。続編でここまでひどくなるものなのか、と唖然とした。
何もかもが前作にあやかっていて、この作品単独での凄みがひとつもなかった。
データを見るに、監督が前作から別の人に交代しているらしいのだが、その影響なのか、
前作のファンが「こんな続きを考えてみました」という感じでつくった感触がする。なんだか、“同人誌”的だ。

そんなわけで、大いにがっくり。監督を交代させたのがすべての元凶のように思う。
勝新のシリーズものは、第1作に比べて続編がどんどん尻すぼみになっていく、という印象を持った。
まあ、勝新に限ったことじゃないだろうけど、なんだかさびしい。


2006.10.4 (Wed.)

ディック=フランシス『興奮』。
会社の先輩と本の話をして、「なんか娯楽として読める話はないですかねえ」って言ったら、
ミステリ界からD.フランシス、時代小説界から藤沢周平をオススメしてくれた。だから読むのだ。

D.フランシスについては、その経歴から書かねばなるまい。もともと競馬の騎手(障害競走)で、
通算で350勝以上を挙げている。そして、引退後に作家になった。で、競馬の世界を舞台にしたミステリを書いている。
非常に多作で、それらの作品は「競馬シリーズ」として高い人気を誇っている。
邦題が必ず漢字2文字の熟語になっているというのも特徴。

一言でまとめると、ベタ万歳って感じ。
先輩は、お約束のように、主人公がひとりで悪事に立ち向かって、ピンチに陥るけど、それを克服して、
最後には必ず事件を解決するっていうパターンになっている、と言っていたが、まさにそのとおりだった。
やられてやられてスカッとする、そういうカタルシスがたっぷり含まれていて、読んでいて
「ああーオレ今、作者の手のひらの中にいるなー」と思うのだが、素直にやられてしまうのだった。
主人公はオーストラリアで牧場を経営しているダニエル=ロークで、彼がオクトーバー卿に頼まれて、
イギリスの競馬界に巣食う不正を厩舎に潜入して暴く、という話。
筋は単純なんだけど、上記のような山あり谷ありで飽きさせないのである。

僕なんかは競馬に関してはまったく知識がないので困るかな、とも思ったのだが、
舞台であるイギリスの競馬事情がわからなくてもきちんと説明が自然に入るので問題がなかった。
きちんとしているSFなどでもそうだけど、別に読んでいて違和感を覚えることがなかったので、
競馬だからということで変な先入観を持つだけ損だ。むしろ視野が広がって、知識が入って面白い。

きっと作者は、小さい頃からきちんと面白いストーリーに触れていて、そこに騎手としての経験が織り込まれたから、
こういう話が書けたんだろうな、と思う。なんというか、自堕落に暮らしている今の自分が恥ずかしくなったことよ。


2006.10.3 (Tue.)

ハンフリー=ボガードとイングリッド=バーグマン、『カサブランカ』。

事件が起こり、状況を説明してからリックのカフェへ行く、という手続きがなかなか自然で、
いかに観客を冷めさせないで設定を理解させるか、という点で参考になる。いろんなレヴューで何度も書いていることだが、
いわゆる「名作」においてそれは基本なんだなあ、と実感した。『カサブランカ』では直接的なセリフでの説明もあれば、
ヴィシー政権のペタンの肖像画の前で死ぬなど間接的な表現もある(わかりやすさという点ではかなり直球だが)。
そうしたあの手この手で雰囲気をつくり、観客をスムーズに物語の世界へと引き込んでいく。

グランドホテル(→2003.11.30)式にさまざまな登場人物が出てきて、リックのカフェに集まるという仕掛け。
舞台が第二次大戦下のモロッコということで非常に国際的。うまい場所を選んだな、って印象。
そしてそれぞれの登場人物が属する国と立場が、そのままキャラクターになっている。実に明快である。
訛りもかなりしっかり再現されているようで、そういう細かい演出がそれぞれの立場を強調する効果を持っている。
カフェでドイツの軍歌を歌い出すのに対し、ラ・マルセイエーズでやり返す、というのがその最たるもので、
単純な敵/味方という構図に終わるのではなく、政治の影をチラつかせることで、
当時のカサブランカという空間の持つ緊張感がより増幅されて感じられるのだ。全体を通してすごく丁寧。

セリフがオシャレでちょっとイヤミではあるが、やっぱりかっこいい。すごく大人向けな印象がする。
やはりこれは、リックという人物の造形がしっかりしているってことなのだろう。
序盤でその人物の陰を強調して謎を深めておいて(たとえば、『As Time Goes By』を演奏させないところ)、
セリフをよけいに意味深なものに感じさせて、含蓄を持たせている。脚本と役者、どちらもすばらしいってことだろう。
もちろん話が進むにしたがって、過去が明らかになってくる。期待を煽っておいて観客を満足させている。有言実行だ。

パリでの過去をわざと断片的に描いているのもすごい。
重要な部分だけを荒っぽく抜き出すことで、よりリアルな記憶の再現に感じさせるというわけだ。
僕らが過去のことを思い出すときには、よほど記憶力のいい人でない限り、すべてダイジェストとなってしまう。
その荒っぽい編集の感じが本物っぽくて、いかにも過去の記憶を思い出したように感じられる、そういう見せ方をしている。

まあそんな感じで、コテコテな面もありつつスパッと切れ味鋭い面もありつつ、最初から最後まで引き込まれた。
第二次大戦中のアメリカのプロパガンダ映画だというが、とてもそんなカテゴライズじゃおさまらないデキだ。
とにかく細部まで、物語をつくるプロフェッショナリズムに貫かれていて、圧倒されっぱなしだった。
さらに詳しい情報を求めてWikipediaでチェックしたら、これがもうめちゃくちゃですごい。
クランクインの段階で、脚本がまだできていなかったというのだ。とても信じられない。
まあ確かにルノー署長の挙動が不審で、そこだけキャラクターの造形があやふやになっているところは気になる。
でもラストで鮮やかにまとめているので、あまりその不安定さが印象に残らなくなっているのだ。
物語のつくり方を知り尽くしているスタッフの実力を、イヤというほど実感できる名作。参りました。


2006.10.2 (Mon.)

幸村誠『プラネテス』。以前、横浜で、わりとあっさり読めて面白そうなマンガないかなーと思い全4巻セットで買ったのだが、
まったく日記でこれについて書かないままでいたので、いいかげん書くことにする。

僕はもともと宇宙大好きっ子なので、カヴァーを見て、ああこれは今までにない話で楽しめそうだってことで買った。
第1話がかなり面白かったので、期待して読み進めていったら、1巻の最後の辺りで宇宙論を語り出してありゃりゃとなり、
さらにタナベ登場で「愛」についてどーのこーのでもうガックシ。僕の感覚では、どんどん救いがたくつまんなくなっていった。

結局、宇宙空間でデブリを回収しているだけではどうにもドラマにならないってことでシフトしていったんだろうが、
一人称のつぶやきを延々と三人称のフリして聞かされているような感じで、物語として出版する意義を感じられない。
それでもまあなんとか後半に入って軌道修正を試みるのだが、主人公のハチマキの話が面白くないので、
そちらのほうに引き寄せられちゃって非常に中途半端な印象を残すマンガになってしまっている。
どうせならキャラを増やして、毎回完全に主人公を替えて、それをリレーでつなげていって、個人の見た宇宙を総和にして、
そうして「部分(一個人)でもあり全体(生命体の集合)でもある宇宙」って答えを引き出すほうが、ずっと魅力的だと思う。
まあ、それはすでに手塚治虫が『火の鳥』でやっちゃっていることではあるのだが。

そういうわけで、素材をうまく扱いきれずに漂流する姿は、まさに宇宙空間を漂うデブリのようだ。
もし、自分のことしか書いてないからつまんないんだとしたら、今こうして偉そうなことを書いている僕も反省しなけりゃいかん。
まあそういう意味では、人のふり見てなんとやら、なマンガである。


2006.10.1 (Sun.)

ジェームズ=ディーン主演、『エデンの東』。旧約聖書のアベルとカインの話を下敷きにした青春ドラマ。

舞台は第一次世界大戦直前のカリフォルニア、サリナス。
クソマジメな父親・アダムのもとで育ったアロンとキャルの双子の兄弟だが、性格はまったく違っていた。
父に似て品行方正なアロンに対し、キャル(J.ディーン)にはどこか陰がある。
キャルは死んだと聞かされた母親が実は生きていて、近くの街で酒場を経営するケートがその人だと確信を持っていた。
妻が去って以来アダムは魂が抜けたような生活をしていたが、レタスの冷凍保存に全財産をつぎ込む賭けに出る。
が、事業は失敗。キャルは損を自分が取り返そうと、アメリカの参戦を見越し、ケートに金を借り大豆のビジネスを始める。

いろいろとすごいのだが、まずはこのストーリーのすごいところ。
旧約聖書を下敷きに、「原罪」の概念を応用して、自己の肯定と他者の肯定の話に仕立て上げている。
父と兄が絶対的な「善」の体現として存在している。キャルはふたりに違和感をおぼえる自分をうまくコントロールできない。
そして父のもとを去り、自分を捨てた母。母は水商売のど真ん中にいる「悪」で、自分はその血を受け継いだと解釈する。
それでも父に愛されたいということで、キャルはあれこれ画策するのだが、それがことごとく裏目に出てしまうという悪循環。
しかし、父は父で悩んでいる。「善」の体現であるがゆえに(それを意識しないでやっているだけに)、
妻が自分に属するすべてを拒否したという事実をうまく受け入れることができない。柔軟性がないわけだ。
そしてアロンの恋人・アブラも悩んでいる。清く正しすぎるアロンが愛しているのは、本当の自分ではないとキャルに告げる。
誰にだって汚れたというか、きれいでない側面があるわけで、そこを直視してくれないアロンとの関係に不安を持っている。
つまり、アダムは「善」の体現者として悩み、キャルは自分が「悪」ではないかと悩み、アブラはふつうであるがゆえに悩む。
聖書を下敷きにしたうえで、キリスト教的な善/悪の二項対立を見事に消化して、キャラクターの構造をつくっているのだ。
(ケートは「悪」であることを受け入れて生き生きとしているし、若さという強さを持つ「善」のアロンは事実を知って壊れる。)

次にジェームズ=ディーンのすごいところ。
ジェームズ=ディーンの視線はどこか虚ろで、落ち着かない。つねに不安を抱えているのがわかる。
外から見るぶんには若くて力があるのだが、実際には陰があり不安にさいなまれている、という彼の姿は、
まさにアメリカそのものと、アメリカの若者の現実を示したものなのだろう。だから彼は広く共感を得ることができたのだと思う。
そして彼は、交通事故で亡くなる。永遠に若いままの姿が記憶に留まることも、彼が特別な存在であることを後押しした。
ジェームズ=ディーンを見ていると、大人と子どもの境界線上で自分の力を持て余す若者の姿の代名詞に見えてくる。

ストーリーはめちゃくちゃハイレヴェルにテーマを描ききっているし、ジェームズ=ディーンはその身体ですべてを表現しきった。
人類が永遠に繰り返すであろうテーマががっちりフィルムに刻まれており、この先、未来永劫ずっと色褪せることはないはず。
なるべく10代のうちに、できれば14歳で見ておきたい作品。文句なしに古典。すばらしい。


diary 2006.9.

diary 2006

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