diary 2005.11.

diary 2005.12.


2005.11.30 (Wed.)

吉永小百合主演、『愛と死をみつめて』。
セカチューブームに自主的に乗り遅れていた自分であるが、それ系の元祖に近い作品だとは思った。

高野誠(浜田光夫)は浪人中に小島道子(吉永小百合)と阪大病院で出会い、文通して、やがて付き合うようになる。
誠は大学生となってバイトに明け暮れる生活を送るが、一方で道子の闘病生活は続いたまま。
道子は軟骨肉腫という難病を顔の左半分に抱えていて、顔を削る手術を受けるかどうかの選択を迫られる……。
本当はこの後にもいろいろ続くけど、とりあえずあらすじはこの辺で。

ぶっちゃけ救いがない。終わり方も正直、後味がよろしくない。もう、どうすればいいやら。
純愛は美しくてはかなくて涙を誘いますね、とか言えればいいのだが、そんなにすんなり言えるほど生やさしくない。

しょうがないので、感心した点をいくつか挙げてお茶を濁すことにする。

まず、笠智衆の演技。笠智衆については、以前こんなこと(→2003.12.01)を書いたが、そういう細かいこと云々抜きで、
大の男が娘を思って流す涙の威力が実に凄かった(道子の父親役なのだ)。汽車で別れた後、手で顔を覆うその仕草。
あるいは、病室の窓から見える、何事もなく健康に過ごす女性たちを目にして落とす涙の粒。
わかりやすい分だけ、強烈な説得力を持っていた。見ていて思わず、「うわー」なんて声を出していた。

何より、吉永小百合の顔半分を隠して演技させる度胸。ふつうスターの顔を隠して演技させるなんて、できっこない。
そこをあえてさせることで、美しい顔が欠けることのむごさ、メッセージ性の強調、そういった効果をきちんと生み出している。
包帯のない右半分の顔を思いっきりゆがめて痛みに耐える様子をどアップで撮ることも、平然とやってのけている。
今の映画は役者に物語が振り回されてばかりな印象があるんだけど、そういう主客が転倒している場面はまったくない。

まとめると、それぞれの役者が最大限の苦しい演技・つらい演技をぶつけ合っている作品と言えそうだ。
だから、前述のように、生やさしくない救いのなさが実現されているのだろう。


2005.11.29 (Tue.)

ジル=ドゥルーズ+フェリックス=ガタリ『千のプラトー』。通称「ミルプラ」(これは今、僕が決めた)。
ここんとこぜんぜん小説読んでないじゃん!と思っていた人がいるかもしれないが、それはこいつを読んでいたから。
いや、もう、実にキツかった。

まず補足というか思い出から。大学院のとき、価値システム専攻の社会システムの授業を受けた(→2001.6.11)。
先生はその道ではけっこう有名な人で、『千のプラトー』の内容を毎回丁寧になぞっていく形の講義をしていた。
しかし僕は、それぞれの抽象的なテーマが自分の現在直面している具体的な生活のどこにつながるのかがサッパリで、
結局「少女になること」を自分なりに解釈し、日常生活に演劇性を持ち込むこと、演じることを軸にしてレポートを書いた。
個人的には当時考えていたことがわりとまとまったので満足したが(→2001.8.31)、85点という点数にへこんだ記憶がある。

さて、そんな4年前と比べて僕はどれほど成長したのかというと、実はまったく賢くなっていなかった。相変わらずサッパリ。
ただ、読むという行為についての考察はできた。自分の興味のある部分は、読みながら具体例を思いつくので納得できる。
でも自分の興味のない話題の部分は具体例が出てこないので、読んでも頭の中にほとんど何も残らない、という事実だ。
これは「ミルプラ」に限った話ではなくて、人間の読書という行為は本来、そういう性質のものだと思うのである。
ただ「ミルプラ」の場合、具体例による納得と具体例が出なくてサッパリ残らない、その落差が圧倒的に大きいのだ。

個人的に納得いった箇所を挙げる。まず2章は『アンチ・オイディプス』(→2004.7.1)の内容に近くて、なんとなく読めた。
次に4章の音楽の話。この辺はわりと具体的だったので、言いたいことを想像できた(理解できたかどうかは別。念のため)。
それから10章で、4年前に書いたレポートを思い出した。やっぱりあの頃の問題意識とあまり変わっていないのを確認する。
僕がいちばん面白かったのは12章だ。戦争機械の「機械」は『アンチ・オイディプス』と共通する概念なので、読めた。
そして14章の平滑と条理の違いが都市社会学な面からなんとなく匂いを嗅げたかな、という程度で、あとはもうサッパリ。
ぜんぜんわからなかった。もっとも4年前の授業では、先生自身が「何度読んでもわからない」と言っていたので、
まあ、わからないものはわからないということでいいのだろう。運がよければ、いつかわかる日が来るのかもしれない。
『アンチ・オイディプス』もそうなんだけど、この本は各種テーマについて触れてまわるヒント集なのだと思う。
だから自分の琴線に触れる部分だけでもきちんと読んでおけばそれでいいのだと思う。そもそも、そんなもんだと思う。

『アンチ・オイディプス』は扱っているテーマがわりと一貫(集中)しているので、まだわかりやすい。
でも「ミルプラ」はテーマが多岐にわたっており拡散しているので、プラトーごとでの差、納得とサッパリの差が激しい。
文章は客観的に見れば、本当にわけのわからない言葉の羅列である。したがって、少しでも興味を持って読めた部分は、
「ああ、自分はこの辺りが得意分野だったんだな」と確認できる、そういう“使い方”がこの本の一般的な扱いと言えるかも。
それくらい話の内容は多岐に渡っているし、複雑というか難解な書き方になっているのである。

とはいっても、ストレートに言葉で表現できないレヴェルの話をしているというのも、また確かなことなのだ。
Aではない、Bではない、Cではない……みたいに切り取っていって、残ったもの。そういうやり方で正確さを狙っている感じ。
語彙の使い方も独特で、その語彙を使う理由になっているイメージをつかめれば、話はずいぶんわかりやすくなってくる。
この本では語彙の使い方は徹底しているので、一度なじめば、苦痛の度合いは減ってくる。そういう本なのである。

というわけで、最後に僕がこの本の語彙からイメージしたものを書いておく。もし「ミルプラ」を読む気のある人、
あるいは読んだ人は、僕の持っているイメージの当否のほどを判定してみてください。あくまで個人的な印象だけど。

器官なき身体: 生物と鉱物の中間になって宇宙空間を漂うカーズ(『ジョジョの奇妙な冒険』・第2部「戦闘潮流」)。
戦争機械: 他者(単数および複数)と関係性を持つことの一側面。「エーテル理論」のエーテルみたいに社会中に遍在。
生成変化: 演じること。役を演じるうちに、役者と観客の両方に「むしろそっちが真実の姿」と思わせるようになる状態。
逃走: 非常口のマーク。今いる場所が硬直化してどうしょうもなくなったとき、新しい世界へと脱出する出口。
リゾーム: こんにゃくいも。土をかぶった汚れた塊で、表面に凹凸あり。きれいなこんにゃくになる前の段階。可能性。
地層とかアレンジメントとか領土化とか強度とか、その辺の用語はサッパリだった。具体例が思いつかず、負け。

結局「ミルプラ」にはどんなことが書いてあるの?という疑問を持つ人もいると思うんだけど、扱っている話題が広いので、
うまくまとめることができない。無理やり考えると、モダニズム以降にとるべき態度のヒントを集めたもの、だと思うんだけど。
その際に手がかりにしているのが、『アンチ・オイディプス』で扱った分裂症。分裂症が世界を救う、といった印象があるほど。
そうやって新しい価値観を提示することに必死になっている本だ。そしてそれを、個人的にはけっこう有効だと思っている。


2005.11.28 (Mon.)

朝起きたら、虫になっていた……わけではなく、声がほとんどまったく出なくなっていた。
しゃべろうとしても吐く息がほとんど漏れてしまって、声帯に引っかからない。ゆえに声にならない。
ふつうに声を出しているつもりでも、『千と千尋の神隠し』のカオナシ程度の音が漏れるだけなのだ。
地元の塾で教えたときも(→2002.1.5)、戸越で英語を教えたときも、急に声が出なくなったことはある。
おそらく、それがまた出たのだ。

毎朝の習慣で、飯田橋のカフェでパンとミルクティーを注文するのだが、声が出ないので注文できない。
でも毎日同じものを頼んでいるので、店員さんはわかってくれて、助かった。
いざ健康でなくなると、「当たり前」のありがたみがしみじみとわかる。

職場でも電話を取ることができない。これがまあなんとも、バツの悪い感じがしてしまって困る。
仕事の指示を受けて返事をするのもやっと。漏れる空気にわずかに発音が混じる程度しか言葉を出せない。
「マツシマさん……昨日、世界の中心で愛でも叫んでそんなになっちゃったんですか?」
なんて上司にからかわれてしまう。僕は本当にごくふつうに暮らしていただけなのだが。
まあでも確かに世界の中心で愛を叫んではいるなあ、瞳をとじて君を描いているなあ、でもそれだけではよくないなあ。
……そんなことを考えてみたり。

塾のときと違ってしゃべる仕事ではないので、それほど実害があったわけではないんだけど、やっぱり不便だ。
このまま声が出なくなっちゃったらヤダなあ。きゃーオレ人魚姫みたーい。


2005.11.27 (Sun.)

わが飯田オレンジャーズは今年もJ1で3冠を達成した……『サカつく』で。他に特にネタがないので、昔話をいくつか。

僕とアスベストの出会いは、たぶん小学校1年のときに遡る。理科の授業で初めてアルコールランプというものに触れた。
アルコールランプでビーカーの中の液体を熱するとき、白いセメントみたいなのがついた金網を下に敷く。これがアスベスト。
家に帰り父・circo氏に「なーなー、アスベストってなにー」と訊いた。「石綿のことだ。」「いしわたってなにー」「ガンになる。」
そんな感じだったと思う。circo氏は仕事柄よく建築現場に行くので、アスベストについては一般家庭より詳しかった。
で、それから20年経って世間は大騒ぎである。僕は小学生の頃から肺ガンになると知っていたので、何を今さら、だ。
それだけ。

振り返ってみると僕の中学校生活というのは、人生において、ある意味で頂点と言える時期だったのは間違いない。
クラスの連中と各種のバカバカしいことをやっては大笑いして過ごしており、この時期の記憶は今でもけっこう夢に出てくる。
なんとなく今、この文章を書いていて思い出したのは、中学3年のときに犬かきで50mを49秒という記録をたたき出したこと。
誰もほかにそんなバカなことはやらなかったので、これは世界記録である。ただ、犬かきはとにかく異常に疲れる泳ぎ方だ。
おかげで次の授業で眠りこけて怒られた。世界記録保持者がなんで怒られなきゃいかんのだ、と思ったワガママな僕。
それだけ。

高校時代にはいろいろと、しょーもないことをやらかした。特にテスト・模試でしょーもないことをやった。
高校3年の数学のテスト、問題を解くのが面倒くさくなってしまい、解答欄に担任の似顔絵をめちゃくちゃそっくりに描いて、
「解くのがめんどうだからこれで点くれ」と書き添えて提出。それを見た医学部に行った女子は、本気で呆れていたもんよ。
ちなみにこのエピソードには続きがある。担任がその答案を欲しがっていたので、卒業式に今までのお礼ということであげた。
教育実習でお世話になった地理の先生はこの話をすごく気に入っており、実習直前、自分の生徒たちに話していたようだ。
……これが美談であるなら、もちろん間抜けな話もある。やはり高3、学校で全国模試を受けたときのことだ。
その日僕は昼にやるべき仕事があって、弁当を食べる暇がなかった。で、午後の模試がスタートした。科目は理科だった。
とにかく極限まで腹が減っており、30分で解いて廊下に出て弁当を食っていたら、校内一頭の切れる先生に見つかった。
瞬間、その先生は「お前は、なにを、やっとるかー!」と、脱いだスリッパで所ジョージ風に僕の頭を叩いたのであった。
季節は夏で窓が開けっ放しだったから、教室内に一部始終は丸見えで、もう模試どころではない爆笑が巻き起こった。
ちなみにその先生は進路担当で、「僕は一橋の社会学部に受かりますかね?」と訊いたところ、
「無理。浪人しないと。」との言葉が返ってきた。この予言は1年後に当たる。

そういえば廊下を歩いていたら、一度定年退職して講師として高校に戻ってきた数学の先生が僕のそばに来て、
いきなり「君は僕が今まで教えた中でいちばん印象に残る生徒だ」と言われて返事に困ったこともあったっけ。
あれはどういう意味だったのか、いまだに怖くて確認できないでいる。僕はごくふつうに生きていたつもりなんですけど。

小学校のときは理由もなく学校が面白く、中学んときはクラスの仲間が面白く、高校じゃ頭の切れる先生方が面白かった。
それだけ。

オチなんてあるか。


2005.11.26 (Sat.)

病院へ、こないだ(→2005.11.9)の無呼吸の検査結果を聞きに行く。きちんと結果が出ているのか、非常に心配だ。
というのも、会社で校正していたらいきなり『新婚さんいらっしゃい』の時間になって、桂三枝がトイレに席を立つといきなり新婦がミラーボールでキラキラ照らされながら椎名林檎の『ここでキスして。』を歌い出して、それをワンコーラスきっちり聴いたところで審査委員長である目玉のオヤジがネチネチとダメ出しをする、ってんで「こりゃおかしいなあ」と思ったらやっぱ眠りかけていた……
なんて具合の毎日なわけで、無呼吸の認定をしてもらわないと僕はただのアブナイ人になってしまうのである。

いざ結果を聞く。無事に(?)無呼吸である、と認定してもらった。
データをまとめた紙をもらったのだが、それによると、無呼吸時間が最大で1分を超えている。
また、無呼吸と低換気が1時間あたり約17回あって、これは昼間に影響が出て当然の数値なのだそうだ。
ただ、重症と判定されるのはその指数が30以上ということで、まだ軽~中度というレヴェルだという。世界は広い。
オラ、なんだかワクワクしてきたぜ!

とりあえず、寝るときにマウスピースを装着して症状を改善していくのがいいだろう、という結論になった。
そんなわけで今度は歯科に舞台を移して治療をしていくことが確定。着実に、事態は上向きになっている、はずである。


2005.11.25 (Fri.)

鈴木清順監督で高橋英樹主演、『けんかえれじい』。

時は戦前、岡山中学に通う南部麒六はひたすらケンカの修行に明け暮れる。
キロクは下宿先の娘・道子が好きなのだが、硬派だしシャイだしでどうにも身動きが取れない。
やがて軍の将校にまでケンカを売ったことで、キロクは喜多方中学へと転校する破目になる。
そこでも周囲の田舎根性を相手にケンカを繰り広げ、仲間とド派手に立ち回って停学になる。
しかし福島にやってきた道子から「修道院に入る」と聞かされ、キロクはショックを受ける。
しばらくへこんでいたが、北一輝の存在を知り、上には上がいるのだ、と東京へ向かっておしまい。
以上のようにストーリーをまとめてみたわけだが、何がなんだかいまだにサッパリである。
話をまとめるという意識がここまで希薄な作品は、なかなかないと思う。

好みの問題なのでいろいろ書くのも無粋なんだろうけど、個人的には少しも楽しめなかった。
その場の勢いや嗅覚で「こうしちゃえ!」と思いきって舵をきるのだが、見終わって何も残らない感覚がちょっと虚しい。
もちろん何かを残さなくちゃいけないってことはないし、ただ何も考えずに時間を消費させるだけの作品だってアリだとは思う。
でもやっぱり、ケンカの無鉄砲さをそのまま映画としてもってきているだけのような気がしてしまう。
スタッフ側の意図をうまく共有できなかったし、そもそも共有を目的にしていない感じがした。困った。


2005.11.24 (Thu.)

数式だらけで本当に苦労をした電気機器の本だが、やっとのことで入稿である。
これでやっと少し楽になった……と思ったのも束の間。情け容赦なく心理言語学の本の初校が届いた。
やっぱり今日も、目をシバシバさせながらひたすら校正なのである。

せっかくだから、心理言語学の本の内容について詳しく書いておこうと思う(前に書いたものはこちら →2005.10.13)。
僕らは当然のように言葉を使っているわけだけど、そこには無意識のプロセスがでっかく横たわっている。
言葉という形で表現が生まれるまでの心理学的な動き、あるいは思考がどう言葉の形をとって出てくるのか。
そういった、ふだん絶対に考えない一瞬の隙間を深く追究している本である。少し難しいが、意義は大きい本だ。

僕が特に興味を持ったのが、文章の産出について書かれた章だ。
子どもが物語を生み出すプロセスを丁寧に追うことで、人間がフィクションを構築する意味を捉えようとしている。
また、作文で自分の考えを書く際に、むしろ書くという行為によって考えている中身の方がシェイプされるということを、
表現のレヴェルを上げるための訓練へとつなげる試みにまでもっていっている。

面白いのは成長とともに物語をつくる能力が高くなっていく点で、4歳くらいから生活体験の報告ができるようになるが、
5歳後半になると夢や回想など、空想的な展開を大胆に織り込んでフィクションを構成することができるようになるという。
言語に文法があるように、物語にも物語文法というルールがあり、それを使えるようになるのだそうだ。
また、結末から逆算して展開を考えたり、他人とコミュニケーションをとりながら協力して話を考えたりできるようになる。
これは短期記憶が成長して、同時に扱える情報の単位が増えることが原因なのだという。
どうして人間は物語をつくってしまうのか。ゆっくりとだが確実に、その問いに対する答えに近づいているように思える。

塾で作文講座を担当していたこともあり(→2004.4.14)、子どもが推敲して作文を仕上げる記述も興味深く読めた。
子どもは小学校に入って「強制的に学ばされる」ことになるが、そこで初めて登場するのが書き言葉の世界だというのだ。
それまでの話し言葉の世界から、義務教育によって書き言葉の訓練をみっちりじっくりやらされることになる。
するとここで、ひとつの乖離が起きる。自分の考えている中身と、実際に書いている作文との乖離である。
話し言葉の段階では意識しなかったことが、書き言葉の段階に入ることで急に大きな課題として横たわってくる。
自分で文章を書いていて、途中で違和感をおぼえて書き直すなんてことは、ごくふつうのことだ。
「ここはもっといい表現に直したいなあ……」「あれ、自分はこんなこと考えてたっけ?」という葛藤がつねにあるはずだ。
むしろ書かれている文章によって自分の考えがまとまっていくことすらある。そういう格闘が生まれるようになる。
この本が面白いのは、「停滞」つまり手が止まっているときに何を考えているのかを深く追究している点だ。
無理を承知で、書いている最中にちょっとでも思ったことをすべて声に出させて、その軌跡を追いかける方法をとっている。
そうすると、まず確固とした考えがあって、そこから文章が生まれるという順序は完全に間違っていて、
実は文章を書いていく中で考えが整理されてだんだん明確な形になっていく、という順序がふつうなのだ、とわかる。

最終的には、書くことによって癒される、書くことによって生きる意味を問い直す、という壮大なレベヴェルにまで話は及ぶ。
大げさに思えるかもしれないが、4歳児の体験談と作家が命を賭けて書いた物語とは、確かにつながっているのだ。
いろんな人がいろんなレヴェルで文章を書いていて、そうすることで新しい発見を繰り返している。
そう考えると、日記だとかブログだとかでつねに文章をシェイプするという行為は、限りなくオプティミスティックな流れに思える。


2005.11.23 (Wed.)

今までに書いた論文を振り返るシリーズ第2弾。今回は、僕の卒業論文について書いてみる。

さいたま新都心へのチャレンジ(→2005.11.8)をきっかけに、「自治体が空間をつくること」に関心を持つようになった。
自治体は市町村長や知事など、いわゆる首長と呼ばれる人がいちばん偉い人ということになるのだが、
じゃあ首長の首根っこを押さえてしまえば自治体の動きがつかめるかというと、それは違う。
官僚が陰でいろいろ良からぬことをする、なんてニュースは毎日のように目にする。つまり、自治体は独自の生命体なのだ。
実に不思議である。人間がいっぱい集まることで、組織が非常に大きな権力と独自の意志を持つようになってしまうのだ。
そういう意味では会社など法人も同じなのだが、自治体は公正さが求められる公の機関。正当性と正統性を持っている。
住民の利益のために正しいことをしているんだ!と胸を張りつつ、大規模に空間をつくる。そのメカニズムを知りたかった。
僕は育った環境から建築を卒論のテーマに据える決心をしており、対象は必然的に「公共建築のつくられ方」となった。

卒論のタイトルは、『設計者選定序説 -理想の公共建築デザインを求めて-』である。
この論文の核心にあるのは、公共建築(市役所、学校、公民館、ホールなど)をつくっているのは誰か、という問いだ。
もちろん税金で建てられるのだから、本来は市民が建てているはずだ。しかしそれを実感することは、きわめてまれである。
できあがったものを見て「変な建物!」と思ったり、使い勝手の悪さを感じたりするというのは、けっこうよく聞く話だ。
さて、建物の設計は専門性の高い仕事なので、プロの建築家が担当する。その建築家はどうやって選ばれているのか?
つまり、建前としては、誰が建物を設計するかを決める段階から、すでに市民の意思が反映されているべきなのである。
そういう「公共建築・公共空間」における「公共性」は、現実の制度においてどのように保証されているのか?
その疑問について、設計者の選定方法という視点から追っていったのが、この論文だ。

まず、一般にはほとんど知られていない、建築業界の基礎知識から押さえる必要があった。
これは餅は餅屋ということで、現役の一級建築士にして僕の実の父親であるcirco氏に聞き取りをして教わった。
一口に「建築の設計」と言っても、分野別に大きく4つに分けられる。[1]意匠、[2]構造、[3]設備、[4]積算、である。
世間一般のイメージ、アーティストの一種としての建築士を思い浮かべた場合、それは[1]の意匠担当のことを指している。
建物のデザインを決定し、図面を描く。計画の立案から工事現場での監理まで、すべての作業を指揮する花形である。
[2]の構造は、安全性の確保が求められる。つまり力学・材料・工法を把握し、頑丈さと経済性のバランスをとる役割だ。
[3]の設備は、建物内の電気・給排水・空調などを担当。省エネで故障が少なく管理しやすい設備づくりがその役割。
[4]の積算は、最終的にどれだけの費用がかかるのかをチェックする役割。公共施設をコンペで建てる場合は、特に重要。
(ちなみに、最近話題の姉歯氏は[2]の構造担当だ。構造計算の数字をごまかし、強度のない安い建物にしたわけだ。)
さらに建築事務所の形態も細かく分類できる。(1)個人事務所/アトリエ、(2)組織事務所、(3)ゼネコンの設計部、だ。
(1)の個人事務所は、独立したアーティスト的な存在だ。師匠と弟子が日夜悪戦苦闘しているイメージである。
(たとえるなら、マンガ家とアシスタントの共同作業ぶりがそれに近いイメージになると思う。潤平んとこの隈研吾もコレだ。)
当然、規模も小さい。[1]意匠担当の個人事務所の場合、上記[2]の構造以降の仕事は別の設計事務所に外注する。
(2)の組織事務所は、建築設計だけを専門としている会社。上記[1]~[4]までのすべてを担当できる能力を持っている。
もともと(1)の個人事務所だったのが事業を拡大していったパターンと、旧財閥の営繕部門が独立したパターンがある。
(3)のゼネコン設計部は、ひとつの会社で施工までのすべてをやりきるゼネコン(総合建設会社ね)の中の設計部隊だ。

以上のような設計業界の実情をふまえたうえで、ようやく本題の設計者選定の話題に入る。まずはコンペについて。
コンペとは「competition」の略語で、各建築士が描いた設計図を審査して、どれを建てるか決める、という方法である。
日本でも明治時代から広く行われていたのだが、なにしろ審査基準は曖昧だし、不正はまかりとおるし、といった具合で、
きちんとした「競争」と呼べるものになったのは、わりと最近なのだ。1980年代には好景気に乗り多くのコンペが開催された。
卒論では、国内国外完全自由参加のコンペが開催された東京国際フォーラム(1989年、当選:R.ヴィニョーリ)と、
あらかじめ指名された事務所によるコンペが開催された東京都庁舎(1985-86年、当選:丹下健三)を扱った。
(どちらも主催は東京都である。きわめて大規模なコンペを2つも続けて開催できてしまうところに東京都の凄さがある。)
さらに横浜港国際客船ターミナル、第二国立劇場(現・新国立劇場)、国立国会図書館関西館の事例も調べている。
ところで当然、コンペの最優秀作品が建てられるわけだ。しかし当選者がゼネコンの会社員の場合、事情が複雑になる。
ゼネコンは本来、設計と施工を一貫して行う。しかし公共建築の施工業者は入札で選ぶように、法律で決められている。
だから設計者の所属するゼネコンと施工するゼネコンが同じ場合、コンペと入札、双方の公平性が疑われてしまうのだ。
そのため、ゼネコンから当選者が出た場合、速やかに退社して個人事務所を設立する、という流れができあがっている。

コンペは、参加者にも審査員にも主催者にも、莫大なエネルギーを要求する。
特に参加者はせっかく細部までアイデアを練って細かい設計図を描いても、当選するのはたったひとつの案だけであるから、
タダ働きになってしまう可能性がきわめて高い。コンペに参加することは、あまりにハイリスク・ハイリターンすぎるのだ。
そこで、設計図を描く必要のない「プロポーザル(proposal=提案)」という選定方法が登場するようになる。
これはそれこそA4で何枚かという程度の分量で、どんな建物にするかのラフなプランを参加者にまとめてもらい、
その内容を審査するのである。実際に図面を描くのは当選者だけなので、参加者の負担を減らす仕組みになっている。
しかしこれも結局、当選するためには具体的なプランを盛り込む方が当然有利で、参加者の負担はあまり変わらなかった。
それに審査基準の曖昧さはさらに深刻で、審査を公開するなどして世間の理解を求める流れが生まれるようになる。

自治体によっては、コンペやプロポーザルを開催せずに設計者を決める、さまざまな工夫がみられる。
東京都では「東京都設計候補者選定委員会」を設立し、勢いのある設計者に仕事を依頼する制度をつくった。
(最も多い事例は、交番の設計である。鈴木エドワードの宇田川町交番など、個性あふれる建物が多く生まれた。)
それ以外にも、埼玉県や熊本県では専門家をディレクターに任命して、やはり若手を中心に活躍の場を与えていた。
さらに建築士の側からは、それまでの実績やヒアリングによる「QBS(資質評価方式)」という選定法の提案がなされた。
このようにさまざまな動きが生まれたが、いずれも一長一短あり、これといった万能薬があるわけではないのが現実である。
(ディレクター方式は決定する過程の透明性に難があり、QBSも参加資格を審査するので公平性に欠ける面がある。)
結局のところ建築というものは、ある程度の優劣は存在しても、テストとは違って○と×がはっきりつけられるものではない。
だから本質的にそういう曖昧さを覚悟せざるをえないわけで、そこに難しさと面白さが複雑に同居しているのである。

しかし、何より設計者を選ぶ際の最大の問題は、入札によって設計者を選ぶ方法がそのほとんどを占めている点だ。
つまり、単純に安い金額で請け負う事務所に仕事がいくのだ。建築の内容ではなく、値段で決めている。これが現実。
それによって、本当に市民の求めている建築とはかけ離れたものができあがってしまう、ということが容易に起こりうるわけだ。
(困ったことに、会計法・地方自治法によって、設計者は入札で決めるように定められている。施工業者と同じレヴェル。
 コンペやプロポーザルを開催する場合は、入札にはふさわしくない特例扱いということで手続きをしてからやっている。)
自治体は公共の存在であるがゆえ、「費用がかからないこと=いいこと」ということで、入札を基本としている。
確かに、すべて業者を指名しての発注ができてしまうと、特定の業者が不当に高い利益を得る汚職につながるのだ。
しかし公共性を重視して入札にするがゆえに、本来の公共性を踏みにじる可能性が発生してしまう。そういう矛盾がある。
かといってコンペ・プロポーザル・ディレクター方式といった選定方法も、それぞれに問題点を抱えているのは上述のとおり。
結論としては、入札は極力避けて、それぞれの欠点を覚悟したうえで市民の納得する方法を選ぶしかない、となる。
確実に言えることは、入札に頼らない建築家たちは、きちんと努力をしているということだ。
だから一住民として自治体を支えている僕たちにできることは、とにかく公共建築に対する意識をもっと上げていき、
いろんな提案をしてくる建築家たちに負けないくらいの情熱というか理解を持たないといけない、ということになるだろう。
卒論はいろいろ追いかけすぎて正直あまりまとまっていないが、導かれる結論はそれしかなかった。

実は、卒論のための聞き取り調査を始めた当初は、「コンペに勝つ秘訣」をどうにか探れないか、と考えていた。
それであちこちの建築事務所に話を聞いてみたのだが、ことごとく、そんな単純な答えなんてあるわけないよ、と諭された。
よく考えればそれは当たり前で、それぞれの事務所は与えられた条件をもとに全力で最善策を練り上げているわけで、
そこに専門外の文系学生が気まぐれに首を突っ込んでコンペに勝つ構造を見つけようなんて、甘ちゃんもいいところなのだ。
いま振り返っても恥ずかしい。でもそれは建築の良し悪しをわかるようになりたいという焦りでもあったのだ、今にしてみれば。
そうしている間にも締め切りはどんどん迫り、どういう方面に方向転換すればいいのかわからずに立ち往生していたところ、
提出期限の2週間前になって四谷のある老舗建築事務所でヒントをもらい、そこから一気に書き上げることができた。
それは、作品だけを見るのではなく、視野を広げて、作品をつくるための仕組み・制度を見たらどうです、というヒントだった。
その瞬間、僕の中にあった「公共性」と「デザイン」の関係性という問題意識が、さいたま新都心以来、再び浮かんできた。
「(民主主義の社会において、)公共空間のデザインは公共性をどのように担保・表現しているのか?」
その疑問への第一歩としてターゲットが「公共建築の設計者選定」に定まったことで、迷いは一瞬にして消えた。

閑話休題。ハコモノというと良くないイメージがあるし、実際に良くない側面の方が強いことが多い。
でも、形として残るものだからこそ、それはまたチャンスでもあるのだ(ハコモノというか、空間。みんなでつくる空間)。
じゃあ素人である住民たちがどのように参加すれば、ポジティヴな空間ができあがるのか?
どうすれば、「『本物の』公共の空間」をつくることができるのか?
――それが大学院以降の問題意識へとつながっていくことになる。


2005.11.22 (Tue.)

ダスティン=ホフマンが兄で、トム=クルーズが弟、『レインマン』。

高級車のディーラーである弟は、突然、父親の訃報を聞く。しかしその遺産は一人っ子のはずの自分には渡されなかった。
遺産の行き先を調べるうちに、自閉症者の施設にたどり着き、そこでサヴァン症候群の兄が存在していたことを知る。
弟は兄を半ば誘拐する形で連れ出し、シンシナティからロスへと向かう。自閉症者をテーマにしたロードムービー。

現場でのひとつのシーンを撮り終えたときの「カット!」という声が聞こえてきそうなくらい、各カット間がブツ切り。
このシーンを撮りました。はい次のシーン。終わりました。じゃあ次いきますよ。ってな具合で、流れの感覚がまるでない。
D.ホフマン演じるレイモンド(兄)の症例をひとつひとつ提示していくことでシーンが切り替わる印象すらある。
こんなレヴェルでアカデミー賞の脚本賞や監督賞をとったというのは良識を疑う。それくらいひどいデキだ。

ただし、役者の演技、特にD.ホフマンの演技は凄まじいとしか言いようがない。
『クレイマー、クレイマー』(→2005.6.2)とは完全に別人だ。視線のはずし方、常同運動、すごく説得力がある。
もっとも、それだけでは“いい演技”という評価で終わると思うのだが、D.ホフマンの場合、「かわいい」のである。
障害は厄介なものであり、彼と一緒にいることは、ある意味「被害」と言える(表現が不適切で本当に申し訳ないけど)。
しかしその「マイナス」を、いつしか観客は「かわいい」つまり「プラス」の要素で捉えられるようになっている。
演技とは集中力だ、と実感させられる。少しも気を抜かず完璧な集中力で演じきるその姿は、凄まじい、と形容できよう。
対する弟のチャーリーを演じるT.クルーズだが、こちらは脳みそのシワが少なそうだという印象を、うまく観客に与えている。
決して褒めているように聞こえないだろうが、脚本のレヴェルにうまく合わせた演技になっていて、全体をきちんとまとめている。
(役者は常に一定の演技をしているようじゃダメだと僕は思う。スタッフに合わせて柔軟に対処できるのが、いい役者だ。)

つまるところこの映画の意義は、1988年という時期に、自閉症をテーマにした作品を世に送り出した、その一点にある。
その意味で、これは必見の作品である。そしてD.ホフマンの演技はリアリティの塊として広く認識されていくものだと思う。
詳しい人ならいろいろ不満があるのかもしれない。そこそこ会話が成立する状態からスタートしていることとか、
旅を通してレイモンドが「回復(厳密にはこの表現はおかしいと思うが)」していくこととか、現実と異なる点も多いとは思う。
あくまでフィクションであって、そんな感動的な展開はありえない、という指摘もあるかもしれない。
でも自閉症とは想像力の障害であり、その想像力の産物であるフィクションの側からこのようなはたらきかけがなければ、
何も始まらなかったと思うのである。とりあえず、とにかく見るべき作品。まず見て、そして考える。そういうきっかけの作品。


2005.11.21 (Mon.)

『シェーン』。言わずと知れた、西部劇の名作である。
確か、伊丹十三の一連の作品は、『シェーン』へのオマージュと言われているっけ。

開拓地で暮らす3人家族・スターレット家のもとに、旅の男が馬に乗ってやってくるところから話が始まる。
スターレット家をはじめとする村の人々はホームステッド法(だと思う)にのっとって入植したのだが、
もともとその場所で放牧をしていたライカーは、なんとかして彼らを追い出したいと考えている。
旅の男・シェーンはスターレットに頼まれて、ライカーの度重なる嫌がらせに耐えながら家で働く。
が、入植者のひとりで短気なトリーが罠にかかって殺されたことで、スターレットはライカーと決着をつけに行こうとする。
しかしシェーンは力ずくでそれを止める。そのことで、彼を慕っていたスターレットの息子・ジョーイはシェーンを嫌いだとなじる。
そしてシェーンはひとり、ライカー一家の待つ酒場へと向かう。彼の真意を悟ったジョーイは、謝るために後を追う。
酒場に着いたシェーンはそれまでひた隠しにしていたガンマンとしての本性を剥き出しにして、ライカーたちを全滅させる。
その一部始終を見ていたジョーイは、去っていくシェーンに戻ってくれと叫ぶが、声は山々にこだまするだけ――。
……あれ、ぜんぶ書いちゃった。

王道であるとは思う。社会に溶け込もうとするものの、結局失敗してしまうガンマンのシェーン。
幼いジョーイが力いっぱい叫ぶものの、彼の虚しさを補いきることはできないわけで、そういう哀しさが実に深い。
ひとつひとつのシーンを順を追って丁寧に追いかけているので、観客にはきわめてわかりやすく、すんなり楽しめる。
いくらでもリメイクの利く、見事な物語の構造をつくりあげている作品である。

でも、長い。90分でまとめれば密度も濃くなると思うのだが、118分では少し退屈だった(2回見て、2回とも眠くなった)。
個々に「いいシーン」が散りばめられているんだけど、その「いいシーン」をどうもってくるか、というまとめ方に疑問が残った。
逆を言えば、この映画を90分にまとめるのは、それぞれ物語の構造を押さえてリメイクする監督の仕事なのかもしれない。
「この映画を退屈させずにアレンジするにはどうすればいいでしょうか?」と広く世間に出題している、そういう感触がした。

気になったのが、画面の暗さの気持ち悪さ。夕暮れや夜のシーンは、昼間に撮って色を調整したんじゃないか、
そんなことを思ってしまうくらい、なんというか、閉塞感のある画面になっているのだ。また、そういうシーンがやたら多い。
単純にビデオテープあるいはデッキのせいかもしれないのでなんともいえないけど、非常に強い違和感があった。

なんとなくジョーイ役のB.D.ワイルドの存在感がよくって、この映画が名作として扱われる理由の大半はそこだと思う。
筋がシンプルなだけに広く受け入れられているけど、あんまりキレている感じがしないので、個人的にはイマイチかなあと。


2005.11.20 (Sun.)

両親が親戚の結婚式で上京してきた。で、久しぶりに一家が揃ってメシでも食いましょう、ということになる。

潤平の提案なんだそうで、品川駅に集合し、天王洲まで歩く。テレビ東京が見えるあたりのブリュワリーでメシ。
最初はその結婚式の話題から入る。親も潤平も親戚一同を呼ぶ旧来のスタイルの結婚式に疑問を感じていたのだが、
こちらとしてはまったくもって縁のない話なので、特にこれといって思うこともない。今の僕にとってそういう話は、
未来の自動車がチューブの中を走っているのと同じ感覚なのである。別の世界の話でございますなー。

ブリュワリーだけあって、さすがにビールの種類は豊富で、旨い。パスタやピザをあれこれ注文し、いろいろ飲み、
あれこれしゃべってのんびり時間を過ごす。個人的にはやはり縁のない空間なので戸惑いが大きかったが。

タクシーで汐留に移動。ジャン=ヌーヴェル設計の電通ビルは明らかに周囲のビル群とは一味違っていて、
その刃物を思わせるファサードにため息が漏れる。面白いのは雲の動きを映してか、ビルが動いているように見える点。
上を向いて眺めていると、切っ先がこっちに迫ってくる感じがするのだ。こんな感覚は、このビルでしか味わえない。
また、ビル内には各種の名作椅子が置かれていて、番号がそれぞれふられ、自由に座れるようになっている。
武蔵野美術大学の名作椅子に座り倒した男としては、なんとも感慨深い(マツシマ家の写真はこっちを参照なのだ)。

46階のカフェに入って、築地からお台場にかけての風景を眺めながら、いろいろ話をする。
circo氏と僕は「なにもこんなセレブ御用達な場所にしなくても……」なんて思ってしまう。根っからの貧乏性なのだ。
対する母親は大いに満足している模様。まあ確かに久しぶりの上京だし、たまーの贅沢も悪くないわけだけどね。
ワイン風味のゼリー(正式な名前は忘れた。この辺がやっぱり貧乏性)は今までに味わったことのない種類のおいしさで、
たまにはきちんとこういう贅沢をすべきだ、と思った。やはりデートする相手がいないといかん、ということか。

新橋駅で潤平と別れると、両親は横浜に宿をとっているとのことで、僕も暇なのでついていくことにした。
まずは横浜の東急ハンズでFREITAGを見る。実は母親もHAWAII FIVE-Oを持っていて、FREITAGのファンなのだ。
「あーこのBONANZAいいわあ」「えーこんなのがいいの?」「こっちは材質は文句なしなんだけど色がねえ……」「ホント」
なんて会話をしばらくして、宿に向かう。宿はcirco氏がネットで見つけた格安物件なんだそうだ。
しかし、この宿が遠い。新杉田から出ているシーサイドラインという新都市交通システムにわざわざ乗らないといけない。
概してこういう乗り物は運賃が高いわけで、「時間かかるし交通費かかるしで、これなら損じゃん」と母親は不機嫌になる。
なぜか僕も宿までついていくことになって(あちこち行くのは嫌いじゃないのでまったく平気だけど)、埋立地の風景を眺める。
それから来たルートを戻って石川町で降りると、中華街でメシを食うことにした。

中華街は広くて店が多いので、あらかじめある程度あたりをつけて行かないと、むしろ食いっぱぐれることになりがちだ。
結局歩くのが億劫になった両親の提案で、テキトーな店で炒飯とかた焼きソバとラーメンをいくつか注文して回し食い。
エビの風味が非常によかったのだが、それを生かすためか炒飯は薄味で、少し残念だった。僕は炒飯にはうるさいのだ。

で、雰囲気はいいけど買うもんねーなーなどと言いながら元町を軽く歩いて、僕は元町・中華街駅から帰る。
両親は久しぶりの首都圏を満喫したようで、よかった。


2005.11.19 (Sat.)

クリント=イーストウッド主演、『夕陽のガンマン』。バリバリのマカロニ・ウェスタン(イタリア製の西部劇)である。

どこか上品さが漂う賞金稼ぎのモーティマー大佐(L.V.クリーフ)と、荒っぽい若者のマンゴー(C.イーストウッド)。
ふたりは共通の敵・インディオ一味を倒すために手を結ぶ。経験豊富な大佐はつねに的確な指示を与える。
インディオ一味は「要塞」とまで言われるエルパソの銀行を襲撃し、マンゴーはその手下となって隙をうかがう。
ところがインディオも頭が切れる。ふたりの計画を見破り、あえてふたりを逃がすことで一味の数を減らしてしまい、
奪った金の分け前を調整しようとする。最終的にはインディオと大佐が決闘し、大佐がインディオを追った理由がわかる。

「いいもん」側の結束の理由は正義感だったり社会のルールだったり、物語においてしっかりと説明されることが多い。
しかし「わるもん」側の結束の理由は、意外とけっこう無視されていることが多いように思うのである。
で、この映画ではその結束の危うさ、いつ裏切られるかわからない緊張感がつねに描かれているのが興味深い。
だけどいつ裏切られるかわからない緊張感は逆に、ストーリーの複雑さにもつながる。状況がつかみづらくなる。
そういう両方の側面が見えて、話を伝える難しさを実感した。

あと、懐中時計のオルゴールがこの映画では重要なポイントとなるのだが、
そのオルゴールが鳴っている時間が少し気になった。見ている観客の緊張感をあおる目的なんだろうけど、
ちょっと長いなあ、と。おかげで集中力が欠けてしまい、映画を素直に楽しめなかった。

全体をとおして、「マカロニ・ウェスタンってどうなんだろう……」という感触が残った。
たとえば昔の西部劇では、アウトローとそれに対する社会の壁がつねに意識されていたと思う。
でもマカロニ・ウェスタンの場合、西部劇お決まりのシーン(銃撃戦とか殴り合いとか)がまずあって、
それを盛り上げるためにストーリーが組み立てられている、という印象を受けるのである。
だから手を変え品を変えていけば、量産はできる。できるけど、ひとつひとつの物語じたいの個性は薄くなっていく。
やっぱり西部劇はただドンパチやるだけじゃなくって、そのプラスアルファの部分が重要なのだと思ったしだい。


2005.11.18 (Fri.)

編集の仕事は他の言語と格闘しているかのようだ。

日本で活字の本が出回るようになって、とっくに100年以上の時間が経過している。
最近はDTPなんてのが浸透してきているとはいえ、かつての活版印刷の頃のルールは現在も生きている。
活版印刷は職人の世界なのだ。だから専門用語がとにかく多い。校正記号をはじめとするしきたりも多い。
そういうものはひとつひとつ覚えていくしかない。しかし、これがけっこう大変なのである。

たとえば、このホームページはHTMLファイルを編集するソフトを使ってつくっている。
だからワープロソフトとだいたい同じ感覚で文章を書いていけば、それがきちんとした形になって自動的に仕上がる。
レイアウトについては、ソフト任せでやってしまえる。マウスをドラッグしてあれこれ指定すれば、もうそれでおしまい。
しかし、印刷される本ではそう簡単にいかない。ぜんぶ一人でできてしまうソフトとは違い、印刷所など他の人の手が入る。
そういう状況で思ったとおりのものをつくるには、どうしても意思疎通のためのルールが必要になってくるのだ。
それは、同じホームページをつくるのでも、いちいちタグを打っていく感覚にかなり近いものがある。
ただ文章を書いていけばいいのではなく、タグのようにきまったコマンドでいちいち指定を入れないといけない。
そして僕はタグの技術がゼロの人間である。言葉でデザインを表現する、指定をするということが、かなり苦手なのだ。
ああ、ぜんぶ自分でできるんならすぐに済ましちゃえるのになーと思うのだが、そういうわけにはいかないのである。
そういう指示出しのルールがなかなかしっかり身についてこない。元来テキトーに済ませる性格が悪い方に作用している。

昔っから、口でいろいろ説明するよりも先に、自分ひとりでさっさとつくってしまうことが圧倒的に多い人間だった。
だから今になって他人に指示を出す立場になって、自分の考えている内容を正確に伝えるためにやることすべてが、
まるで自分の言いたいことを別の言語に翻訳しなくちゃいけないような苦しみに思えてしょうがないのだ。
自分で絵を描いちゃえば一発でできるのに、それをあえて言葉で他人に伝えないといけない、という感覚。
今までサボってきたからここでちゃんとやれるようにしておくべきだ、とわかっちゃいるが、キツい。

そしてもうひとつ、なかなか全体のヴィジョンが見えないまま作業をするのが、何よりつらい。
このホームページもそうだし、熱海ロマンで御神体をつくったときもそうだし、潤平の模型づくりの手伝いをしたときもそうだが、
僕はまず完成品のイメージを頭の中で想像しておいてから、それを実現するための最短距離を貫くようにモノをつくる。
つまり、全体のヴィジョンが見えないと、本当に手も足も出ないのだ。本屋のポップが、いい例だ(→2005.4.11)。
それで僕は、タグみたいな言葉でレイアウトの指定をしなくちゃいけない場面で、どうしてもヴィジョンが浮かんでこないのだ。
言葉でデザインの指定をする、それが、頭の中で考えていることと言葉とが本当につながらなくって、うまくいかない。
完成品がどんな形になるのかが見えないままで作業をするのは本当につらい。言葉がヴィジュアルにならない苦しみ。

だけど組版の歴史を考えてみると、昔は活字をひとつひとつ拾って、そうして版面をつくって印刷していたわけだ。
その時代にできることが限られていたわけで、校正記号や専門用語で十分通じたっていうことなのだ。
でも今はコンピューターでなんでもできてしまう。だから言葉が足りなくなってしまっている、という現実は確かにある。
自分の頭の中にあるイメージが、従来の言葉では表現できなくなってきている、そういう状況なのは間違いないとは思う。

でもそれ以前の問題として、僕はもともと、言葉というものに恐ろしく無自覚・無頓着なのである。
(そういえばかつて「言説編成」の授業では、まず言葉の意味というレヴェルで一人つまずいていたっけ。→2001.11.9
これを機に、もっときちんと、言葉を使うということについて考えていく必要がある、ってことだろう。
まあとにかく、がんばるしかない。


2005.11.17 (Thu.)

スタジオジブリ作品、『千と千尋の神隠し』を見る。今さらなのだが、見たことなかったのできちんと見ようと思ったわけだ。

物語は最初から独特の雰囲気を漂わせている。静かな中にも何かイヤな予感を漂わせる、そういう慎重さが丁寧だ。
そして両親が豚になるシーンから、観客を一気に特異な世界へと引き込んでいく。子どもはかなり怖いんじゃないかと思う。
世界観のつくり込み方がとにかく徹底していて、その想像力は異常とも言えそうなくらい。
人間が今まで見たこともない世界をヴィジュアルで表現するというのは、かなりの想像力を必要とすると思うのだが、
それをとても鮮やかな色づかいでしっかりやってのけているわけで、序盤から駿とジブリの底力を見せつけられた。

働かないと存在が消えてしまう、ということで「働かせてください!」となるわけだが、最初の部分を見るに、
この作品は「社会の中で働くこと」がテーマなのかな、と思った。つまりは、ニート対策の映画(坊については引きこもり)。
特に、礼儀とは何かということ、相手を尊重する態度で失礼なく相手に接することを子どもたちに教えている気がする。
釜爺・リンは一見怖いが、正面から接すれば、すごく優しい。そういう相手の優しさを引き出す段階に進むための礼儀を、
子どもに示している。また、乱暴な言葉づかいのリンだが、客と接するときはプロの顔に変化する。その点も示唆的である。

登場人物の多くがそれぞれにどこかしら問題を抱えているのが面白い。
たとえばカオナシは自分の存在を認めてもらうために金の粒を出す。千の気を引くため、物を与えて解決しようとする。
湯婆婆は過保護で坊は引きこもり。この共犯関係も、実際の社会でも非常によく見られるパターンであるはずだ。
リンは「こんなところ辞めてやる!」と現状にまったく満足していない。ここからは、若者の離職率の高さが透けて見える。
まあそれでもいちばん象徴的な例はカオナシだと思うので、カオナシについて話を進めてみよう。

カオナシは、お腐れさま以上に嫌われている。この映画では、そんな究極の嫌われ者をどのように肯定するかが描かれる。
その肯定する役を一手に引き受けているのが銭婆だ。彼女の「突っ立ってないで中に入っておいで」「手伝っておくれ」
などは何気ない言葉だが、それまで存在を無視されていたカオナシにとっては、存在を認識されたうえでの次のステップだ。
カオナシは坊たちと一緒に銭婆の手伝いをして、「ありがとう、助かったよ」という言葉をもらう。存在、さらに行為の肯定だ。
(まずは「be」という根源的なレヴェルでの肯定、そして「do」という上位のレヴェルでの肯定。カオナシは一歩一歩進む。)
働くことが存在意義になる、ということが序盤で示されている。そう上で述べたが、カオナシの肯定はその再確認にあたる。
また、家でのお手伝いから始まってそれが労働へとつながる、そういうスタート地点が描かれているとも考えられる。
そうしてみんなでつくった髪留めが、千の宝物となる。「なぜ働くのか?」という問いに対する答えが、ここにある。

ついでに、坊についても書いておこう。坊はネズミに姿を変えられた後、千・カオナシらとともに旅に出る。
そこで象徴的なのは、駅を降りて、自分の足で歩こうとするシーンだ。肩に乗るように千は勧めるが、それを拒否して歩く。
小さなシーンではあるが、この変化が最終的に彼に「(旅は)楽しかったよ」と総括させることになるわけだ。

そういう意味では、主人公は千尋/千だけではなくて、登場人物全員と言えそうだ。
それぞれがそれぞれ抱えている問題を、働くというコミュニケーション形態を軸に解決していく様子が描かれたドラマなのだ。
善だと思ったら利己的だったり、悪が簡単に善となったり、登場人物の善悪が相対的にくるくる変化する。
多神教的とも言えそうだ。でもそれこそが現実なのだ。どんな人間にもいい面と困った面の両方があって、
それぞれが複雑に組み合わさっている中で、みんな生きているわけだから。

本来なら5時間くらいする壮大というか緻密な話を、無理やり2時間に詰め込んでいる、という印象がした。
けっこう説明不足のままご都合主義的につなげている箇所があるのも否めない。これは仕方のないことなのだけど。
でもその分、さまざまな社会や個人の問題を考えるきっかけ、ヒントがあふれている。密度が高く仕上がっている。
お腐れさまの部分では環境問題についても触れているし、名前とはなんだ?という哲学的な問いかけも奥が深い。
銭婆のもとにみんなで向かうシーンも印象的だ。動から静へ。ノスタルジー、友達との旅の記憶。不思議な気持ちになる。
まあそんな具合に非常に多くの切り口を持っている贅沢な作品で、宮崎駿のプレゼン能力の高さは抜群のものがある。

ジブリ作品は現代の子どもたちの圧倒的な支持を得ているが、子どもたちはどんなふうにどの程度「読んで」いるのか。
あるいは、ジブリ作品を評価する海外メディアは、ジャパネスクに目が眩んでいるのではなく、どこまで「読んで」いるのか。
エンタテインメントとメッセージの融合が広く受け入れられているのはうれしい事実だ。
ぜひ、その受け入れレヴェルをちゃんと知りたい。


2005.11.16 (Wed.)

はじめてのおつかい。執筆者の先生から校正したゲラをもらうため、会社をちょっと早めに出て東大に行った。
お邪魔したのは東大の生物学研究室だったのだが、鉄筋コンクリートのどっしりとした古い建物の地下で、これが怖い。
廊下に並ぶ古ぼけた冷蔵庫の中には、さまざまな細胞が詰まっているのだ。『パラサイト・イヴ』(→2005.2.3)の世界だぜ。
そういう遺伝子研究の最先端と、戦前の古い鉄筋の建物。妙に相性がいい。“理科室の怖さ”が全開なのである。

高校時代に雑談をしていて、「どんな場所が怖いか」という話題になったことがある。肝試しの話から始まった気がする。
そのとき僕の回答は、「壁の四面いっぱいに隙間なく時計が掛かっていて、ぜんぶ指している時刻が違う部屋。」だった。
おそらくオバケ方面の答えを期待していたであろう後輩たちは、僕の答えがぶっ飛んでいたためか、一瞬間をおいてから、
なるほど確かにそういう怖さもある!という反応をしていた。僕のこの答えは、今もまったく変わっていない。
人間を超越した存在も怖いけど、人間が生み出したものもまた怖いのである。
無数の細胞が眠っているコンクリートの地下室で、僕はそんなことを思い出していた。

P.レヴィンソン『デジタル・マクルーハン』。こないだの神保町のブックフェアで半額で買った本(→2005.10.30)。
群馬・栃木旅行の3日間で、一気に読み終えてしまった。結論から言うと、半額でも損した気分になる本だった。
(いちおう参考資料ということでリンク。『グーテンベルクの銀河系』(→2004.12.17)、『メディア論』(→2005.3.17))

念のために書いておくが、自称「マクルーハンの愛弟子」が書いているだけあり、マクルーハンの用語の説明は的確である。
「ホット/クール」をはじめ、「メディアはメッセージである」「バックミラー」など、マクルーハンの言葉は多重的で難解なのだ。
そんな中で、なるべく誤解を振り払ってマクルーハンの真意を広く伝えよう、という姿勢は非常に真摯である。
おかげで、マクルーハンの主張をきちんと理解する手助けとしては、なかなか有効な本になっているのは確かだ。

しかしながら、マクルーハンの解説としては及第点であっても、それ以降の部分、つまり著者の主張は実に乏しい。
著者自身の体験談(自慢話)が論拠になっていて、読者側の体験を通して理解させよう、という意識がほとんどない。
マクルーハンの場合には、英文学者としてのキャリアがあり、膨大な量の作品を引用することで主張の根拠を用意した。
しかしレヴィンソンにはそのようなバックグラウンドがないため、主張の根拠をマクルーハンの威を借る自らの経歴に求める。
だから読者は、自分自身の体験がメディアの革新とどう関係しているかがつかめないまま、自慢話に付き合わされるのだ。
むしろマクルーハンの主張を利用して自分のことをひたすら正当化している弁解のようにすら見えてくる。醜さを覚えた。

タチが悪いのは、マクルーハンのやり方をそのままなぞっている点だ。
マクルーハンは「自分は解説をしない、探求するだけだ」と言って、メディアの革新が人間を更新する様子を提示した。
それを見習い、レヴィンソンも同じようにふるまう。しかし、マクルーハンの主張(つまり、過去のできごと)はきちんと解説し、
マクルーハンの死後(つまり、現在と未来)については自分のライフスタイルの説明、という形になっていて、
その断絶が非常に居心地の悪い感覚につながってしまっている。受け取るこっちには自慢話にしか聞こえない。
確かにマクルーハンのやり方は、彼の主張からすれば「正しい」方法論だったと思う。
しかし、そのやり方は預言者である彼が死んだことで、彼とともに終わったのではないか。
マクルーハンは過去を語ることで現在の位置を知らせた。となると次にやるべきことは、「探求」からさらに一歩進んだことだ。
でもレヴィンソンは師匠をなぞって自分の過去を語ることで、頑なに師匠と同じ探求を続けようとする。
その姿勢がとても創造的なものに見えないのは、当然のことだ。

結局のところ、弟子は師匠ほど優秀ではなかった。師匠のつくった枠を壊すことをせず、その枠の中で縮こまっている。
この本を読むと、創造的な仕事をするには先人の作品を勉強するだけではダメで、それを壊すことこそが大切だとわかる。
なんだか皮肉な形で教訓を得た、そんな一冊だった。


2005.11.15 (Tue.)

戸田でのパンフレット作業、最終日である。
倉庫の作業は肉体労働に分類されるので、休憩時間がしっかりしている。それは非常にうれしいことなのである。

作業が早く終わって、空いた時間で倉庫に積まれている本をあれこれ眺めてみる。
そこまで世間一般に知名度はないのだが、出している本の分野はかなり広い会社なので、これが飽きない。
テキトーにさっと1冊手にとって、興味のある部分に目を通す。あるいは、タイトルで決めてページをめくってみる。
あれこれ読んでいるうちに、時間が経って帰る時間になる。会社の製品を知るのも仕事のうちだから、これでいいのだ。


2005.11.14 (Mon.)

朝起きて、休みってステキだわーと思う。同期が戸田で黙々とチラシをまとめている中、自分はのん気に宇都宮にいる。
まるでアメリカの王様にでもなった気分だ。……でもよく考えたら、去年はそんなような生活をしていたわけだ。
そう考えるといろいろ複雑な気分になる。休みは当然の権利なんだけど、働かないでいると罰が当たりそうに思える。

宿を出ると、タリーズで優雅にコーヒーを飲みつつノートパソコンで日記を書いていく。
こないだのさいたま新都心の分(→2005.11.8)をまとめる。気合を入れて書いた論文なので、日記のログも気合が入る。
それにしても宇都宮というのは、なぜか日記がスイスイ進む街だ。理由はわからないが、とにかく文章が出てくる。

朝を抜いて昼メシを餃子にするつもりだったので、バッテリーの都合で日記を書き終えても、まだ時間的な余裕がある。
のんびりともう一度、宇都宮市街地を一周してみる。平日朝のオリオン通りは、見事なまでに閑散としていた。

 松が峰教会。1932年築で、大谷石がふんだんに使われている。道幅が狭くてこんな写真に。

昨夜けっこう行列のできていた餃子の店は「昼はやってないんですよ」ってことで、駅前に戻って小洒落た別の店に入る。
ここでもやはり餃子だけを注文。これで宇都宮滞在中、餃子しか食べない記録を達成。米粒ひとつすら口にしていない。
宇都宮の餃子は1人前が200円台から400円するものまで、実にさまざまだった。値段は店の表には出ていないので、
あらかじめある程度チェックしておかないと、味の好みによってはけっこうもったいないことになるかもしれない。
また、営業時間と混み具合もチェックしておく方がよかっただろうと思う。けっこう気まぐれな店が多そうな感触だった。

 宇都宮駅東口の餃子像。ムダに大谷石。これをつくろうとした意図がよくわからん。

宇都宮線で帰る。大宮で埼京線にスイッチ。戸田公園駅で停車したとき、なんとなく同期の顔を思い浮かべた。


2005.11.13 (Sun.)

朝起きると、そそくさと前橋駅に行く。両毛線は30分に1本ほどなので、しばらく周辺を散歩してから、電車に乗り込む。
群馬と栃木を結ぶ両毛線。「毛」ってなんだ?と不思議に思う。だって「上野」「下野」だから「両野線」になるはずだろう。
群馬県には「上毛新聞」という新聞があるように、「上野」という表現よりも「上毛」という表現の方がメジャーなようだ。
でも栃木側では「下毛」とは言わない。そりゃそうだろうけど(…と思ったら、大分県にはかつて下毛(しもげ)郡があった!)。

後日調べたら、昔、関東北部は「毛の国」と呼ばれていた(「毛」とは「二毛作」などの「毛」、つまり作物の実りを表す)。
群馬県は「上つ毛の国」で、栃木県は「下つ毛の国」と呼んだそうだ。それがやがて「上毛野」と「下毛野」となり、
そのうち「毛」が抜けて上野国と下野国という名称に落ち着いたという。実に奥の深い経緯があったのだ。
(「上つ毛→かみつけ→こうずけ」、「下つ毛→しもつけ」。「上野」と「下野」が特殊な読み方である由来がよくわかる)。
ちなみに鬼怒川は「毛野川」が変化したものだとか。洪水をやたらと起こす川なので、現在の文字がに当てられたそうな。

群馬県東部から栃木県西部へは、実にスムーズにつながっている。長野県人には県境=山!だが、全然そうではない。
栃木はとにかく平野。地平線が見えるほどに平野。群馬は山に囲まれているが、栃木は平べったい。風景がまったく違う。

まずは栃木駅で降りる。おととい上京したcirco氏(→2005.11.11)に「群馬・栃木に行ってみる」と言ったところ、
「栃木市を見ておけ」とアドバイスをもらった。なんでも江戸時代に栃木市は商都として栄えていたそうで、
今でも蔵の街ということで街並みの保存に力を入れているのだそうだ。なるほど、それはぜひ寄らなくてはなるまい。
というわけで、ブラブラと歩いてみる。駅から北へ延びる道は石畳で舗装されている。穏やかな秋晴れによく似合っている。
しかし行けども行けどもちょっとさびれた街並みで、なんだか不安になる。思いきって西側へと歩いてみたら、川に出た。
これが巴波(うずま)川。石畳の道と白塗りの蔵が川を挟んでいる。川の水はきれいで鯉がやたらとたくさん泳いでいて、
カルガモも10羽以上は浮かんでいた。川辺では絵を描いている人もいて、すべてが心地よい日曜日の午前中である。
残念なことに、時間の都合でこの周辺しか見てまわれなかったが、調べてみたらもっと北側にも蔵があったようだ。
そんなに派手に観光地化していないので、かつての繁栄を落ち着いてのんびり感じるには非常にいい街かもしれない。
これはぜひ、いずれ機会をみて再訪し、じっくりと街並みを味わってみたい。

 
L: 巴波川と蔵の街並み。実に見事だけど、僕が見たエリアではここだけしか蔵の街っぽくなかったのがちょっと残念。
R: かつての黒塗りの蔵が、なんとそのままタイヤ屋になっていた! そのアンバランスさがなんだかとても微笑ましい。

両毛線の終点である小山駅に着く。あちこち見てまわりたかったけど、宇都宮線がすぐに来たのであわてて飛び乗る。
列車は平野らしい田舎の風景を切り裂くようにして宇都宮へ向かう。途中にはその名も自治医大駅があって、
「自治医大カッケー」などとつぶやいてみる。自治医大は僻地や無医村での医療・福祉を充実させるために、
都道府県が共同で設立した大学なのだ。医学部に入れるほど賢くない僕には、かっこよくってたまらない存在だ。

そして宇都宮駅に到着。まずは当然、餃子! 着いたのは昼過ぎだったが、何も食べていなかったのだ。
腹が減ると思考能力が鈍る。だからあれこれ迷っている余裕なんてないわけで、駅前のチェーン店でセットを注文。
そもそも餃子の食べ方がなかなか難しい。一般的には餃子定食なんだろうけど、そんなの王将でしか食ったことない。
ラーメンと一緒に頼む、というのが最もふつうの食べ方だと思う。あくまで主役として餃子を食べるのは、ひどく久しぶりだ。
(中学・高校ぐらいの頃は、家で餃子の日にはご飯を食べずに餃子だけ食っていたもんだ。40個くらい。)

宇都宮は日本の餃子の首都である。今やすっかり、餃子といえば宇都宮、という認識が定着している。
もともとは1991年ごろに市の職員が「餃子の消費量日本一」というデータに目をつけて、餃子での街おこしが始まった。
さらに掘り下げると、宇都宮市は陸軍第14師団が置かれた軍都であり、この第14師団が大戦中に満州に駐屯。
敗戦後、帰国した彼らが餃子を広めたという。また、宇都宮の気候・作物が中国東北部に似ていたことも要因らしい。

宇都宮は、駅と市街地がちょっと離れている。腹もある程度膨れたことだし、のんびり歩いて、市街地へと向かう。
途中で二荒山神社という神社を見かけたので、お参りしてみることにする。旧下野国の一宮なんだそうで、
宇都宮の名の由来になった神社だという。周囲によけいなスペースがなく、いきなり石段。上るとそこは七五三の博覧会。
そしたら自分よりも年下っぽいお父さんに記念撮影を頼まれる。それが思いっきり栃木弁で、「ああ、栃木だわ」と実感。

 駅から大通りを見下ろす。交差点の向こうを田川が流れ、市街地はそのもう少し先。

宇都宮市役所と栃木県庁は、一本の道路を軸にして南北に向かい合うように配置されている。
まずはマロニエの並木道を通り、北側の栃木県庁に行ってみる。並木道に一歩入ると商店街の猥雑さが急に消える。
京都府庁舎もそうだったけど(→2004.8.7)、役所にアプローチする大通りは閑静な並木道になっていることが多いと思う。
そうやって威厳というか役所っぽい堅さ・マジメさを演出しているのか。こういう手法についてもいずれ研究してみたいもんだ。

で、栃木県庁は建設中だった。なんだか肩透かしを食った気分。事前に調べておかなかった自分の責任なんだけど。
現場には完成予定図があったのだが、昨日の群馬県庁と大して変わらないような大規模オフィス系の建物になるようだ。
通りに面している議会棟も、これから壊して大規模なオープンスペースをつくるつもりみたいなんだけど、
周辺には商業施設がないから平日は役所の関係者だらけで休日は無人、そんな定番のパターンになりそうな気がする。

 
L: 建設中。真ん中に建っているように見えるのは合同庁舎。新栃木県庁舎はまだ基礎工事の段階らしい。
R: こちらは向かって左の議会棟。モダニズム全開の超ピロティである。でもこれも壊してオープンスペースにするんだとさ。

建設中の県庁にいても別に何もないので、さっさと退散。今度は道をまっすぐ南下して、宇都宮市役所へと向かう。
こっちもいちおう木の植えられた通りになっているが、県庁ほど徹底して威厳を保っている印象はない。なんかテキトー。
住宅だかなんだかよくわからないビルが多く、人通りも少ない。なんだか閑散としていてさびしい。

宇都宮市役所もやっぱり高層オフィスタイプで、事務棟と議会棟が並んでいる。その前にはお決まりのオープンスペース。
西洋をちょっと意識した庭園風になっていて、市役所らしからぬ時計塔が建っている。正直、あまり趣味がよろしくない。

 
L: 市役所の事務棟。左下の旗は姉妹都市か何かの旗と思われる。  R: 議会棟。逆光で撮るのが大変だった……。

宇都宮で最大の賑わいを見せているのが、アーケードの「オリオン通り」だ。人口密度が高く、若い年齢層が多い。
群馬ではアーケード商店街は壊滅的な状況だったのだが、宇都宮は活気にあふれていて、歩いているだけで楽しい。
また、宇都宮は「ジャズのまち」ということでも売っている。この日は渡辺貞夫が子どもたちを引き連れて演奏していた。
(ちなみに宇都宮が「ジャズのまち」を標榜する根拠は、ナベサダの出身地であること、ただその一点のみである。)
ナベサダの演奏するサックスに合わせてドラム(中太鼓)をたたく子どもたち。その音はオリオン通り全体にこだましていた。

 
L: オリオン通り。右上にナベサダのシルエットによる「ジャズのまち」の旗が掲げられている。通りはずっとこんな具合に人でいっぱい。
R: ナベサダ団。とにかくすごい音量。ナベサダは黒いキャップ、黒いセーターに黒いレザーパンツでさすがにオシャレなジイサマだった。

PARCOに寄って、1階のスタバでノートパソコンを取り出し、日記を書く。その後、上の階をブラつく。
それからやっぱり周辺をぐるぐる歩きまわる。宇都宮は活気があるので、歩いていてもなかなか飽きない。
やはり、人通りの多さは街を楽しむ重要な要素なのだ。昨日の高崎・前橋との違いに驚きながら歩くのであった。
暗くなりかけた頃にPARCOのすぐ裏にある宿を確保して、晩飯に出かける。ターゲットはもちろん、餃子。
宇都宮滞在中は3食すべて餃子にすると決めていたので、駅でもらった餃子のパンフレットを片手に見てまわる。

そして行列を発見。すごくいっぱい並んでいるけど、せっかく来たのだから、と迷わず僕も並ぶ。「みんみん」の本店だ。
周りは2人組だったり3人組だったりするが、自分はひとり。少し虚しさを感じつつも、わずかな明かりで読書をしながら待つ。
18時半くらいになって、店の暖簾が下ろされる。これにはちょっと驚いたが、つまりはそれだけの人気ということなのだ。
だから「みんみん」本店に行く場合には、18時半までに並んでないと食べられないのである。生存競争は厳しいのである。

 これが「みんみん」の餃子だ!

結局、店内で餃子を口にするまで1時間くらい待った。これは真冬だとかなりきついかもしれない。
店の中の雰囲気は、いかにも古くからの定食屋・ラーメン屋といった印象。懐かしい感じが全体に漂っている。
メニューは「焼餃子」「揚餃子」「水餃子」の3種類のみで、それぞれ1人前が6個で220円。安い。
味もいたってシンプルで正統派。噛むと中からたっぷりのスープがこぼれ出す。これが人気の最大の理由なのだと思う。
個人的には好きではないが、パリパリの「羽」(鉄板から剥がしたときについてくる焦げのこと)もしっかりついている。
これが宇都宮における正しい餃子なのか、と思いつついただく。宿でも食えるように「おみやげ」まで注文してしまった。
(「おみやげ」は店内で食べる分と同時に注文しておくと、勘定のとき非常にスムーズに受け取ることができるのだ。)

宇都宮は高崎・前橋のどちらとも比べ物にならないくらい、実に活気があった(東京と比べればふつうに見えるだろうけど)。
その理由をいろいろと考えてみた。まず、きちんとテーマを持ってまちづくりをしている点が挙げられる。
餃子とは、非常にいいところに目をつけたと思う。食べ物の名物は、現地に行かないと味わえない。経済効果も確実だ。
ジャズについては「ナベサダが宇都宮出身」ってことだけでスタートしたものの、根気よく取り組んでいるように思う。
そういった個性を積極的にアピールする姿勢が、街を衰退させない原動力へとつながっているように感じるのである。
そしてもうひとつ象徴的なのが、前橋における西武の撤退と宇都宮におけるPARCOの存在感、両者の圧倒的な差だ。
PARCOには若者が集まるから、それだけで市街地に若年層を引き寄せる核になる。周囲が明らかに活性化するのだ。
同じ西武系列だが、PARCOは特に強い存在感を持っている。いずれ、1980年代という時代への考察と合わせて、
きちんと考えるべきことだろう。ともかく、極端な話だけど、実際に訪れてみての感触として、
宇都宮は餃子とPARCOの相乗効果でもっている気すらする。それはそれで大いに参考になる例だろう。


2005.11.12 (Sat.)

ひとり合宿で県庁所在地に行ってみようシリーズ、第2弾。群馬と栃木に行ってみるのだ。
本当は11月3日から優雅に4連休で、茨城まで北関東を横断しようと企んでいたのだが、会社の都合でこうなった。
とりあえず、西側の群馬から攻めてみることにする。

群馬県は、北端の片品村へ大学時代に合宿で行ったことがある、という程度。
ちなみにそのとき、マサルが「力飴」というとんでもない土産物を発見して大騒ぎ、という事件があった。
マサルは自前のミニコミ誌(月経エンタ)に「群馬遺産」というコーナーをつくって学内に紹介したほどの衝撃なのであった。
まあ実際、長野県とは隣り合っているにもかかわらず、僕には「風と母(妻)と自民党が強い」という程度の認識しかない。
そんなわけで、時間は少ないけどいろいろ見てやろうと思いつつ、上野駅から高崎線に乗る。

僕が乗っていたのは先頭車両だったのだが、赤羽駅で女子高生がふたり、乗り込んできた。
ふたりは入ってきたのと反対側のドアの前で腰を下ろすと、バッグを手前に置いてあぐらをかいた。
そうして化粧道具を取り出して、雑談をしながら化粧を直しだしたのである。大宮駅で降りるまでずっとそうしていた。
マナーが悪いと怒るのは簡単だが、それは事態を正しく理解できる人の態度ではないと思う。そもそも、マナーってなんだ?
彼女たちにそのような行動をとらせた認識が何なのか、それを探るのが正しい社会学的態度なのである。

というわけで、考える。電車内とはどういう空間なのか? 女子高生たちは電車内をどう捉えているのか?
ヒントになるのは、日本で初めて鉄道が開業したとき、列車に乗る際に履物を脱いでしまう人が続出したという話だ。
類推するに、あぐらをかくことは、電車内を家の中と同じ「自分の空間」と捉えている証拠かもしれない。バッグがちゃぶ台。
(あぐらという座り方に男性性を見出すこともできるが、ここは、最も揺れに強く安定感のある座り方として捉えてみたい。)
化粧を直すという行為はどうか。女性が外出していて化粧を直す場所は、ふつうはトイレだろう。電車内はトイレなのか?
トイレでは他者と親しくすることがない。知っている人に会っても軽く挨拶する程度にしておくのが一般的であると思う。
そういう純粋な個、どこにも属さないむき出しの自分というものが強調されている場所がトイレである、と考えられるだろう。
それは電車内と似ていると思う。特に通勤電車では、周りの迷惑にならないように一人でじっと守りに入る感覚が似ている。
(ただしこれはあくまで男の意見。女性がトイレでどのように過ごしているかなんて知らないから、本当のところはわからない。)
さて、最も重要なのは、電車は移動する手段であって、駅と駅をつなぐ役割を果たしているということだ。
つまり、電車の中とは、駅という「家の外部」をつないでいる「部屋」と捉えることができるのではないか、ということだ。
僕らは電車に乗っている間、確かに移動しているが、身体的には静止している。だから、ワープしている感覚になると思う。
身体を動かすことなく、頑丈な箱に守られている。移動すればそれは「電車」で、移動しなければそれは「家」になりうる。
囲まれた空間として考えると、ただそれだけの差だ。では他者のいない「家」と他者だらけの「電車内」の違いはどうか。
ここでいったん、先ほどのトイレとの関連を考える。化粧を直すということは、落ち着いて態勢・装備を整えるということだ。
トイレは全員が無防備になる場所であるから、僕たちはできるだけ他者をしっかりと認識しないように努める習性がある。
挨拶が軽いのはそれが理由だ。そうして、お互いに無防備な自分を守るべく紳士協定を結んでいる、そう考えられるのだ。
このことと、電車内で自己の存在を強調しないように努めることは、かなり似ている。空間内でのふるまい方がかなり近い。
そしてトイレは、外へ出る前に装備を改める場所である。となると、電車内で暗黙の了解のうちに装備を改める行為、
つまり化粧をするということは、意外とハードルが低いのだと考えられるのである。そこからさらに感覚がエスカレートして、
電車内の他者を完全に無視することができてしまえば、そこは家の中と変わらなくなる。あぐらもかきたい放題なのだ。
女子高生、若者一般がそのように電車内を捉えているとすれば、それはかなり空間認識が変化している証拠だとも思う。
この、出発地と目的地を結ぶ「移動」の時間を完全にプライヴェイトなものとして認識してしまえる感覚、つまり、
他者の視線を無視できる=「ないのと一緒」とまとめることができる感覚は、従来の空間という概念の否定につながる。
彼らは、ほかの乗客たちとセットで、移動する途中の経路まで存在を否定しているのではないか。
もともと電車内は家の感覚に近いが、さらにそれが圧縮されて、無になってしまっている。あるのは出発点と目的の駅だけ。
僕はそこに、ウェブでリンクをクリックすることで直接目的地にたどり着く感覚との共通点を感じずにはいられないのだ。
自分だけの秘密のトンネルで出口に出る。そのトンネルにマナーなど存在するはずがない。無は無だから、何もないのだ。

なーんて考えているうちに、車窓から見える風景はすっかり住宅地から枯れ草の色に。埼玉県も北部は穏やかな田舎だ。
やがていつのまにか群馬県に入り、高崎駅に到着。大学時代、一度だけ降りたことはあるが、本格的に来たのは初めて。
実は、僕はたまに群馬県の県庁所在地がどこなのか曖昧になる。高崎なのか前橋なのか、わからなくなることがあるのだ。
ミネソタ州のミネアポリスとセントポール(だからミネソタ・「ツインズ」なのだ)のような関係と捉えている。あくまで個人的に。
実際には前橋が県庁所在地なんだけど、高崎の方が交通の便がいいから、妙な勘違いをしてしまうのである。
ぜひ、今回の群馬訪問を機に、きちんと両者の区別をつけられるようになりたい。

高崎名物・だるま弁当を買うと、西口に出る。駅周辺をうろついてみる。小ぢんまりとした若者向けの店が密集しており、
なんとなくだけど、高崎は松本に少しだけ似ている印象がした。本当になんとなく、少しだけだけど。
道幅が広く、工事中が多いように思えた。アスファルトも整備中なのかデコボコしているところが多い。
市役所へ行く途中、とにかく風が強くてまいった。さすがは上州の空っ風だ、と感心する。

 高崎市役所。でけえ。

高崎市役所前の公園のベンチでだるま弁当をいただく。群馬も海なし県なので、山の幸が詰まっていて、おいしい。
特においしかったのが、こんにゃく。下仁田のこんにゃくは有名だが、弾力があって噛んだ感触がたまらない。
それにしても、食っている間、とにかく風が強くってまいった。市役所に風がぶつかって下りてくるので、すごい勢いなのだ。
でもとにかく腹が減っていたので、あっという間にたいらげる。容器は捨てるに捨てられず、以後FREITAGの中に。

空腹が満たされたことで余裕も出てきて、あちこち歩いてまわってみることにした。
鞘町が石畳で整備されていて、いかにも城下町な印象。そのまままっすぐ北に行くと、アーケードの商店街があった。
中紺屋町・寄合町・新紺屋町と歴史を感じさせる町名なのだが、商店街はさびれてしまっていてどうしょうもない。
夜に営業する種類の店の割合が驚くほど高い。が、その外観はとても活気がありそうには思えない。
駅前の大規模店舗はわりと活発だったが、ちょっと離れると半ゴーストタウン化している。これは深刻な問題だ。

両毛線に乗って前橋に移動する。利根川の向こうにやたら背の高い建物が見える。おそらく群馬県庁だろう。
前橋駅で降りて駅周辺を見てまわったのだが、駅前はほとんど何もなかった。北口にイトーヨーカドーがあるくらい。
ここは本当に県庁所在地なのか?と疑いたくなる。北へとまっすぐ延びるケヤキ並木は堂々としていて立派なのだけど。
前橋もやっぱりやたらと風が強くって、ケヤキの落ち葉の量が半端じゃない。車道だけじゃなく歩道も幅が広いので、
ホウキで掃除をしているサラリーマンの人(JTBの人だと思われる)がかわいそうだった。

 
L: 前橋駅北口。ただのロータリーでしかない。  R: 駅から北へと延びる道路。とにかく風が強くて落ち葉だらけ。

ケヤキ並木は大規模な歩道橋のある交差点で45°左に曲がる。これで国道50号と合流する。
それをさらにちょっと行くとまた45°左に曲がる。そのまままっすぐ行くと、群馬県庁と前橋市役所がある。
この周辺は県警本部に地方裁判所などが集中している、群馬県最大の行政区域なのだ(裁判所は司法か)。
道幅が広く、いかにも「威風堂々」といった印象を残す。ただ、何のイヴェントもない休日はかなり閑散としてそうだ。
この日は高校の説明会的なものが開催されていたようで、やたらと高校生がいっぱいいて、テントを片付けていた。

  
L: 群馬県庁。いかにもな平成以降の役所オフィスって感じ。内装がどんな感じか、もう簡単に想像がついちゃう。
C: 県庁舎の足元には昔の庁舎を思わせる建物が貼りついている。その手前は芝生の広場で、イヴェント開催が可能な模様。
R: こちらは前橋市役所(右に貼り付いているのは議会棟)。個人的な印象では日野市役所に似たタイプって感じ。

街を軽く一回りして宿を探す。さっきの交差点近くで無事に確保できた。部屋の中で日記の内容をメモでまとめておく。

夜になり、晩飯を求めて出歩く。先ほどのリサーチでは特にこれといったメシ屋がなかったが、あきらめずぐるぐる街をまわる。
前橋市内には広瀬川というそんなに大きくない川が流れているのだが、けっこう派手にライトアップされていた。

 でも周囲には街灯がないので、暗い箇所はけっこう怖い。

国道17号・50号・広瀬川に囲まれた一帯が前橋の中心市街地なのだが、まあ正直言ってさびれつつある印象。
高崎のアーケードはもうほぼ壊滅状態という感じだったが、こちらはそれほどではないにせよ、やはり元気がないのは一緒。
おそらく大規模店が国道沿いの郊外にあって、客足はそっちに集中しているのだろう。ひと気も休日の夜にしては足りない。
いちおう地元のデパートが真ん中にデン!と居座ってはいるけど、ファッションに偏っていて、あまり面白みを感じないのだ。
かつては西武があったのだが、無印良品を残して撤退してしまったようだ。こうして地方都市の悪循環は加速していく。
何より、魅力的なメシ屋がホントにないのだ。休日の夜を外食で締める家族連れが街にぜんぜんいないのが悲しい。
それでもなんとか小ぎれいな洋食屋を見つけて入る。マグロの刺身がセットになったソースカツ丼をむさぼり食った。

それにしても群馬は風が強すぎる。夜になったら風の冷たさが骨身にしみるレヴェルにまでなった。情容赦ないほどだ。
群馬県民は毎日この風に耐えているのかと思うと、なんてガマン強いんだと感心してしまう。それくらいとにかく風が強かった。


2005.11.11 (Fri.)

仕事でミスをした……。A4の紙を大量注文するつもりが、間違ってA3の紙を注文してしまう。
そんなマンガのようなミスをするなんて! なんというか、自分の単純さというか間抜けさに、心底情けなくなる。

大学時代の先生が卒寿を迎えてその祝賀会があったそうで、circo氏が上京してきた。
iPod nanoをやたらと褒める。「買えばいいじゃん」と言うと、「WMAファイルに対応してないからダメー」と言う。

circo氏は1945年生まれだ。こないだ見た『キューポラのある街』(→2005.10.30)の時代を現実に生きていた人だ。
そういう人がiPod nanoの話をするというのは、冷静に考えるとSFなことだと思う。
めまぐるしい時間・時代がこの身体を通過していったんだなあ、なんて思いつつ寝袋にくるまるcirco氏の寝姿を眺めた。


2005.11.10 (Thu.)

KOKAMI@network vol.7 『トランス』。戸田帰り、新宿は紀伊國屋ホールへ観に行く。
エントランスで鴻上尚史本人が客の様子をじっくり見ていて、「わー本物だー」と驚いた。
そしたら見ているのに気づいたのか、こっちをジロリ。なんというか、切れ者の視線は怖い。

『トランス』は以前、戯曲を読んだことがある(→2003.5.26)。その後、この戯曲は僕の枕元のラインナップに入っている。
フリーライターで離人症により天皇を名乗り出してしまう男・立原雅人に高橋一生(『スウィングガールズ』の吹奏楽部長)、
彼を診ることになる精神科医で、新興宗教にハマった過去を克服した女・紅谷礼子にすほうれいこ(おでこ)、
そしてゲイバーで働くターミネーターおかまのしゅわ子こと後藤参三に瀬川亮(超星神グランセイザー)。
3人は同じ高校の同級生で、ふとしたことから親友となる。が、大学進学を機に別れ、偶然の再会を果たす。

「妄想」という言葉があるわけだが、この言葉の定義がなかなか難しい。というのも、客観的に「妄想」と判断できるのは、
暗黙の了解があってのことだ。その了解は社会性だとか常識だとか、そういうルールに従っている。
だから客観性が確保できない状況では(特に自分ひとりとか集団が少人数の場合、あと戦時中の日本なんかもそうだ)、
「妄想」を「妄想」ととらえられない。どこまでが正常でどこからがおかしいという線引きは、結局のところ、誰にもできない。
だから僕らは、たとえそれが「妄想」でも、正常さと異常さをひっくるめて、愛する人を受け入れるのだ、という話。
その「妄想」は自分が天皇だと考えることであり、新興宗教であり、報われない恋愛感情を持つことであり、さまざま。
それを3つのキャラクターの内面とそれぞれの関係とで描き出す。登場するのは3人だけだが、構造としてはけっこう複雑だ。

この劇で最も“オイシイ”のは、おかまの参三だろう。表情をダイナミックにして、オーバーアクションでぐりぐり動けば、
誰でも一定レヴェルの演技はできる。そういう役だ。瀬川亮は恥ずかしさなどお構いなしに、舞台を思う存分動きまわる。
「しゅわ子」なんていうくらいだから、本来は彼のようなイケメンが演じるのとは少し違うコミック系のおかまなんだろうけど、
その懸命さがしっかりと伝わってくる演技で、観客は大いに満足したのではないかと思う。
それに対して雅人と礼子は少し難しい役だ。でも礼子は女性であることを自覚すれば、きちんとした演技になると思う。
すほうれいこはマジメさが出ている演技だったと思う。正直、声量がもっとあれば、より心の強さと弱さが描けた気がする。
おそらく最も演じにくいのが雅人。というのも、立原天皇としてふるまうシーンの方が多いからだ。
演じる人物を演じるというメタレヴェルの戦いがある。これを簡略化して天皇メインで雅人をサブ扱いするのも違う。難しい。
この役には、“クセ”が必要になる気がする。雅人と天皇できっちり差をつけないと、雅人の存在感がなくなってしまう。
高橋一生は「ふつうの人」に見えるので、その点、損をした感じ。雅人は早口で天皇はゆっくりとか、工夫が欲しかった。

今回の『トランス』は、上記キャストの「youth version」と、もうちょっと年上の役者による「elder version」の2種類がある。
僕が観た「youth version」は若さがあふれていて、それはそれで前向きでいい舞台だったと思うのだが、
その分、粗さとは言わないまでも細部をふっとばす勢いというかスピード感が強く、繊細さにはやや欠けた。
若さゆえに余裕のない感じ。一生懸命すぎて、肩の力が入りすぎている感じ(このログが参考になるかも →2005.9.17)。
そうなると、「elder version」で百選練磨のベテランが繰り広げる世界が気になる。まあ、経済的に観に行けないけど。
もっとも、僕は勢いで演じられる『トランス』を観たかったので「youth version」を選んだのだ(そうとう迷った結果だ)。
ベテランの演じる舞台は戯曲を読みながら想像できる。その想像できないものを観たかった、というのがその理由だ。
だから満足している。もっとも、ベテランならではの想像の裏切り方も、当然いまだに気になっているんだけどね。

帰りがけ、やっぱりエントランスで鴻上尚史が客に挨拶をしていた。にっこり笑って頭を下げたら、向こうもそうした。


2005.11.9 (Wed.)

戸田でパンフレットをまとめる作業をする。5月と同じ内容の仕事(→2005.5.10)を、
ルーキー4人でひたすら修行僧のようにやる。あいかわらずおじいちゃんたちは元気で、いい感じ。

夜になって、睡眠時無呼吸症候群の検査をする。病院に泊まれるようになっていて、検査は院内で寝て行うのだ。
翌朝起きたら医者から軽く説明を受けて、そのまま仕事に直行するという仕組みなのである。
運よく明日も戸田なので、着替えを気にしなくていいのは助かる。

まず備え付けのパジャマに着替え、血液検査をしてから(3本分採られた)しばらく待って、機器を取り付けてられていく。
検査技師のおねーさん(こないだの人)と雑談をしつつ、足からスタートしてセンサーをあれこれ付けられていく。
その量たるや半端ではなく、本当に全身のあちこちに貼り付けられる。この作業だけで、1時間近くかかるのだ。
検査料はけっこうするけど、それが納得いくほど手間がかかる。しゃべりつつ作業を進めるおねーさんの器用さに感心した。

  携帯のカメラで記念撮影してもらった。

21時就寝。寝つきの良さに関しては「のび太か、オレか」というくらい自信があるので、15分ほどしてぐっすり。
が、どうにも鼻の下がかゆくて気になる。気にしないようにガマンしていたら気にならなくなったので、あらためてぐっすり。
途中で軽く目が覚めた状態になって、「ちゃんと無呼吸の症状出るかなあ、なんにもなかったら検査料ムダだなあ」などと、
不謹慎なことをちょっと考える。やっぱりいつもと寝る環境が違うと、落ち着かないというか調子が狂うというか。
またすぐに寝たけど。

翌朝5時起床。もっと寝ていたいところを起こされて不機嫌気味に挨拶を返す。
シャワーやらヒゲ剃りやら着替えやらを済ませると、医師から結果について軽く報告を受ける。
結論からいうと、無呼吸の症状はしっかりと出ていた。血中酸素量が90%を切るとか、呼吸停止が1分以上とか、
さまざまな条件があるんだけど、それをクリアというかなんというか、まあとにかく無呼吸の認定をバッチリ受けたのだった。
ただ、症状としてはまだ軽い部類だそうだ。自分より重い症状っていうのは、どれだけひどいのかなかなか想像がつかない。
でも病院に来ていたどっしりした中年の男の人を見ると、それもなんだか納得がいく。体格的に、僕は例外的存在なのだ。
まあでも無呼吸なのは事実だし、改善していかないといろいろ困る事態になりつつあるので、対策を考えることにする。

非常に面白い体験ではあった。


2005.11.8 (Tue.)

日記になるようなネタも特にないので、今までに書いた論文の内容について、軽くまとめてみることにする。
論文は、大学3年のゼミ論文、大学4年の卒業論文、大学院に移ってからの修士論文と、3つある。
(将来の構想として、4つ目になる博士論文もいちおう考えてはいるのだ。いつかきっちり書ける日が来るのかねえ。)
そのどれもがそれなりに濃い内容を持っているので、全4回のシリーズものということにして、のんびり書いていきたい。
第1回目の今回は、大学3年のときに所属していたゼミで書いた、さいたま新都心についての論文だ。

僕の所属していたゼミでは、3年生で論文集を出すきまりになっていた。卒論とは別に、である。
おかげで「ゼミがゼミが病」(サークル活動中もゼミのことを考えてしまう、ゼミのことでやたらテンパる)の毎日を送っていた。
例年、論文集のテーマは学生たちが自主的に決めることになっていて、僕は「さいたま新都心と3市合併」をテーマにした。
3市とは浦和・与野・大宮のこと。現在はさいたま市となったが、当時は合併計画が一進一退の様相を呈していたのだ。
夏休みに与野の民宿で合宿をして、あちこちで聞き取り調査をした。県や市の担当の皆さんから近所の学校の先生、
さらには神社で暮らしているおばあちゃんまで、とにかく話を聞いた。これは恩師の指導方針「足を使って考える」による。
実際、先輩方による過去の論文集を読んでみると、聞き取り調査を徹底したものほど面白い仕上がりになっているのだ。
それで当時「院生レヴェルの論文を書いてやるぜ!」と密かに息巻いていた僕は、合宿後も暇をみて聞き取り調査をした。
(ちなみに神社(新都心のすぐ隣にある)のおばあちゃんについては、「生活調査論」の授業でレポートの題材にもした。
 戦争で東京から逃げてきて、生活苦にあえぎつつなんとか生き抜き、今の神社に落ち着くまでの話を一日かけて聞いた。
 役所のような巨大な組織から、毎日を淡々と生きている住民にまで広く話を聞いて考えをまとめていくことができたのは、
 僕にとって非常に大きな経験となった。おかげで先行研究調べに弱くなった気もするが、現場主義は今も徹底している。)

そのときの僕の関心は、「さいたま新都心の絵は誰が描いたんだろう?」というところからスタートした。
「行政の出す資料に載っている完成予想図は、いったいどこの誰が描いたものなのか?」それが気にかかってしょうがない。
資料にはその施設や空間じたいについての詳しい説明はあっても、その絵を描いた人の名前が載っていることはまずない。
そんなわけで、その事実を解明することを目的に、次から次へと芋づる式に聞き取りを続けていったのだ。
僕がさいたま新都心について、特にそこにこだわったのには理由がある。というのも、さいたま新都心の完成予想図は、
実は立案当初のものと聞き取り当時のものとで、まったく別の絵が使われていたからだ。共通しているのは土地の形だけ。
当初の計画で最大の目玉は、「埼玉コロシアム」という屋外競技場だ。さらに「埼玉メッセ」という展示場も南側にあった。
しかしそれらは現在、「さいたまスーパーアリーナ」と、霞ヶ関から政府機関が移転する「官庁街」に完全に姿を変えている。
(ちなみに、東京タワーに代わる新しいタワーをさいたま新都心(官庁街の西側)に建設しようという計画もあって、
 それについての新聞記事をみんなが見たことから、ゼミの研究テーマが新都心・3市合併に決まることになったのだ。)
計画がいつ切り替わったのか、誰が絵を描き替えたのか、誰も知らない。僕はそれを根気よくほじくり返していくことで、
新都心の計画がつくられた経緯をつかむことにした。そしてあちこちで話を聞いていくうちに、
建設省(当時)の外郭団体だった都市みらい推進機構によって初めてその絵が表に出たことがわかった。
(そうやっていろいろ探っていくうちに、純朴な田舎育ちの青年は行政のやり口を学んでいくことになるのであった……。)

次に、いつ誰がこの絵を今のものに切り替えたのかを調べることにした。
資料を集めていくうちに、さいたま新都心の計画には、ある「空白期間」が存在することがわかった。
畑和(はた・やわら、前の前の埼玉県知事、社会党出身だが後に離党)知事時代に新都心計画はスタートしているが、
その後に空白があって、土屋義彦(前の埼玉県知事、元環境庁長官で元参院議長)知事になってから、
まったく別の絵(現在の姿)になってリスタートしていたのだ。トップである知事が交代したから当然といえば当然だが、
「具体的な絵は描かれなくなったが計画じたいは進められている」という時期がさいたま新都心には存在していたのだ。
何があったのか、その動きを探ることが、「いつ誰が絵を替えたのか?」という疑問に対する答えを導くはずである。
まとめると、こうなる。第1期:埼玉コロシアムに代表される初期の新都心。第2期:文面だけで絵のない新都心。
第3期:アリーナと官庁街の新都心。……ではこの第2期の新都心で、いったい何が起きていたのか?
しかし、埼玉県庁に当時の担当者はいない(異動ってのは本当に面倒くせえ)。攻め方を工夫しないといけなかった。
手元にある膨大な資料から、ストーリーを構築していく作業が始まった。そうしてできあがったものを、以下に要約してみる。
ゼミ論文ではさいたま新都心をめぐる「政治」と「デザイン」をキーワードにしていたので、ここでもそれに倣うことにする。

論文のタイトルは、『権力と空間/さいたま新都心の政治とデザイン』である。

まずは、さいたま新都心をめぐる「政治」について。
さいたま新都心の土地はもともと、「大宮操車場」と呼ばれている国鉄の車両置き場だった。
ここが1984年に機能を停止したことで、開発計画が持ち上がったのだ(ちなみに国鉄の分割民営化は1987年)。
埼玉県は1982年に「埼玉中枢都市圏構想」を立ち上げている。これは県の中心部である与野・大宮・浦和に加え、
上尾市と伊奈町も整備する計画だ。これが後に「さいたまYOU And Iプラン」→「彩の国YOU And Iプラン」となる。
(「YOU And I」とはつまり、関係するそれぞれの自治体の頭文字をとって、いかにもな名前をつけたわけだ。)
この計画の中で大宮操車場跡地の整備が主要プロジェクトとして位置づけられたのが、1985年のこと。
当時は自治体主導の大規模な都市開発計画が盛んな時期で、横浜の「みなとみらい21」、千葉の「幕張新都心」、
東京の「テレポート計画(都市博中止で頓挫、現在の臨海副都心)」などがあった。「さいたま新都心」は最後発である。
(みなとみらいは三菱重工業の造船ドックを再開発したもので、幕張と東京臨海副都心は埋立地である。
 当然、海へ向けて土地を拡張していった先発の計画に比べ、海なし県による「さいたま新都心」の規模は小さい。
 ちなみに幕張は、海を埋め立てるためにその利用目的を次々と変えていったくらい、強硬に計画を進めた感じだった。)
一方、国の機関である国土庁(当時)では、「業務核都市構想」が進められていた。
これは1986年の第4次首都圏基本計画、1988年の多極分散型国土形成促進法によって東京一極集中を緩和し、
首都圏の地方都市を「自立都市圏」として整備していこう、というものだ。これと「YOU And Iプラン」の目的が合致した。
さらに、その国土庁の計画とも関連するが、この時期、東京・霞ヶ関から地方への省庁移転が計画された。
このときに埼玉県サイドでは畑知事と埼玉県選出の土屋参院議長が政府機関の誘致活動を展開し、
大宮操車場跡地(つまり、現在のさいたま新都心)への誘致に成功したのである(1989年)。
もともと大宮操車場跡地は国鉄の所有地だったこともあり、国が取得しやすいという事情もあったようだ。
とにかく、こうして新都心の南半分は国の土地となったのだ(北半分は埼玉県の所有地)。
(なお、このとき内閣官房副長官として移転を決めたのが石原信雄氏。後に3市の合併協議会会長を務めることになる。)
このように政治面では、埼玉県が言わば国・政府の計画を利用するような形によって、
最後発の都市開発プロジェクトだったさいたま新都心の整備に箔を付けていった様子がうかがえる。

ところで土地の所有者ということでは、さいたま新都心には埼玉県・国のほかにもうひとつ、片倉工業という企業がある。
さいたま新都心の東側エリア、現在はイトーヨーカドーが建っている辺り一帯が、片倉工業の土地なのである。
片倉工業は戦前の繊維産業で大きな役割を果たしたが、日本の産業構造が重化学工業中心に転換していく中で、
徐々に力を失っていった企業である(かつては「片倉財閥」だった)。現在ではホームセンターの経営が目立っている。
(イトーヨーカドーの北側には片倉工業が経営するホームセンターがある。八重洲には今も立派な本社が建っている。)
JRの線路を挟んで新都心に隣接するため、県の意向もあって片倉工業の土地も計画の中に引き込まれることになった。
実際、立案当初(第1期)は片倉工業の土地は計画区域の外だったが、第3期からはしっかり新都心の一部となっている。
しかしながら当然、片倉工業には県や国と足並みを揃えるような大規模な開発ができるほどの体力はない。
イトーヨーカドーの営業開始は1983年で、新都心の影も形もない時期だ。大規模開発計画は後から降って湧いたのだ。
(片倉工業に新都心担当の部署ができたのは1986年のこと。「社長室付室」で、単なる窓口にすぎなかったそうな。)
今にしてみれば南の官庁街・北のアリーナに対して絶妙な位置の商業施設となっているが、これは偶然の結果である。

次に、さいたま新都心の「デザイン」について。
上述のように、第1期のデザインは都市みらい推進機構によって、1986年に用意された。
これは国土庁の「業務核都市構想」の下位計画を受けてのものだ。それを埼玉県も利用していた、ということである。
(都市みらい推進機構は建設省(当時)によって1985年に設立され、国や自治体の開発計画の下準備を担当した。
 「調査」と称して具体的なプランを練ったのだ。国鉄の土地を再開発する仕事が非常に多いのも特徴である。)
1988~89年には政府機関の移転が議論され、畑知事と土屋参院議長が誘致活動を行い、移転が決定した。
そして1992年に埼玉県知事が畑氏から土屋氏に代わる。非常に低い投票率で当選した土屋知事は、
畑氏の人気が非常に高かったこともあり(5期20年も知事を務めていた)、その路線をある程度引き継ぎながらも、
「彩の国」というフレーズを多用する姿勢にみられるように独自性を打ち出していく必要があった。
それがさいたま新都心のデザイン上で具体化したのが、「埼玉コロシアム」から「さいたまアリーナ」への計画変更である。
(西武ライオンズを埼玉コロシアムに移転させる計画が失敗したので、運動施設にこだわる必要がなくなったって話。)
「さいたまひろば(現・けやきひろば)」と「さいたまアリーナ(現・さいたまスーパーアリーナ)」では、コンペを開催している。
(ところがここで問題が発生した。アリーナのコンペで、最優秀作品が取り消し処分になるという混乱が起きたのだ。
 別の自治体での贈賄事件を受けての措置で、せっかくの大規模なコンペだったが後味の悪さを残す結果となった。
 というわけで、いま建っている「さいたまスーパーアリーナ」は、もともとは次点の作品だったのである。)
新都心の北半分は埼玉県が整備をしたが、南半分は政府機関の移転によって官庁街として整備されることとなった。
こちらは当然、国が整備の主体である。国による整備計画が具体化したのは1991年のことで、
当時東大教授だった伊藤滋氏(伊藤整の息子で都市計画界の権威)が委員長として招かれた。
さいたま新都心の計画をスタートさせた立場の埼玉県としては、政府機関をあくまで新都心のアクセントと認識していた。
しかし国は県の計画をほとんど意識することなく、独自に計画を進めていく。国有地なんだから当然といえば当然だが。
革新系出身の畑氏と連絡がうまく取れなかった結果かもしれないし、国は県より上位という意識によるものかもしれない。
とにかく、埼玉県自身による政府機関の誘致活動は第1期のデザインに対して「待った」をかける格好になったし、
移転が決まったら決まったで埼玉県と国とはうまく噛み合わないしで、これらの流れが第2期の空白期間を生んだわけだ。
その後、政府とつながりのある土屋知事の誕生により、伊藤氏が埼玉県側の計画にも参加する。1993年ごろのことだ。
こうしてようやく、さいたま新都心の敷地全体を把握する体制ができて、第3期のイラストを描けるようになったというわけだ。
(なお、伊藤氏は前述の「さいたまひろば」と「さいたまアリーナ」のコンペで審査委員長も務めている。
 伊藤氏はコンペで非常に徹底して透明性を確保しており、かなりレヴェルの高い審査となっていたのだが……残念。)
第3期に至るまでの紆余曲折は、きわめて複雑なものだ。さまざまな協議会・委員会が組織され、統合されながら、
計画は進められていった。その事実を象徴するように、さいたま新都心の景観は個性豊かといえば聞こえはいいが、
実際のところは個々の建物の自己主張が強く、どこまでが新都心の敷地なのかすらわからない結果となってしまった。
それについて伊藤氏は「ゆるやかな統一」という言葉で強引にまとめている。物は言いよう、と思った23歳の秋。

ゼミ論文の結論としては、整備主体の意思統一がとれていないことは、デザインに大きな影響を確かに及ぼしている、
そうまとめている。つまり、政治はデザインに影響し、デザインは政治を具体的に目に見える形で露出させている、
と主張をしているわけだ。それを資料や聞き取り調査にもとづいて検証していったのが、このゼミ論文の中身なのである。
できれば新都心の来場者にインタヴューするなどして、政治がデザインを介してどう人々に影響を与えたか、
まで踏み込むべきだったろう。それをやるにはあまりに時間の制約が大きかったので、無理だとはわかっているけど、
でもそこまでやりたかったと今でも思っている。

僕のゼミ論文ではさいたま新都心の建設に主眼を置いており、浦和・与野・大宮の3市合併にはほとんど触れていない。
しかし、「業務核都市構想」を実現しようとする動きや石原信雄氏の合併協議会会長就任といった動きをみれば、
さいたま新都心が3市合併のシンボルとしての役割を期待されながら整備を進められていったことは確実だ。
そもそもさいたま新都心の土地は3市にまたがっており、政府機関がスムーズに移転するためには合併が必要だったのだ。
浦和と大宮の合併計画は1927年に始まり、6回も失敗に終わっている。したがって、これが7回目の挑戦だったのである。
そして政令指定都市を目指す動き、平成の大合併(石原氏が推進した)などに押され、ついにさいたま市が誕生した。
(区名を冠することとなった浦和レッズと大宮アルディージャが「さいたまダービー」を繰り広げているのは、実に感慨深い。)
それから市町村合併は全国各地で進み、静岡市も清水市との合併で政令市になり、堺市も政令市になろうとしている。
時代の変化を感じる。

ゼミ論文では「政治」と「デザイン」を切り口にしたが、これは「政治がデザインをつくるのなら、デザインから政治が読める」、
そう考えたからだ。それで第1期と第3期のイラストを比べることで、その差異を生み出すことになった各種の動きから、
さまざまなレヴェルでの政治をあぶりだした、つもりだ。やれるだけのことはやった、そう思っている。
なお、この問題意識は「政治」が「公共性」という呼び方になることで、卒業論文(公共建築の設計者選定について)、
さらに修士論文(結局頓挫した方=自治体の政治体制と庁舎の空間デザインの関連性)へと発展することになる。
そして「権力と空間/さいたま新都心の政治とデザイン」というタイトルをつけた僕のセンスは、永遠に変わらない気がする。

本当にとんでもない量の資料を集め、2ケタの聞き取り調査をこなして書き上げたこの論文は、
そりゃあいま見れば稚拙な面も多いけど、僕の原点そのものだ。もしかしたら僕が今までつくってきたモノの中で、
いちばんデキがいいかもしれない。やるべきことを見つけて最後までやりきった、という点において。
そういう意味じゃ、ゼミ論文ってのは、こうして懐かしさを感じながら振り返るべき対象ではなくて、
乗り越えるべき壁として睨みつけないといけないものなのかもしれない。

このゼミ論文は、論文集『埼玉からさいたまへ -手探りの行方-』(一橋大学町村ゼミナール)に収録された。
論文集は関係者や希望者に配布されたけど、国立国会図書館に行けば読めるはずなので、興味のある方はどうぞ。


2005.11.7 (Mon.)

ここんとこ、また日記の更新速度が鈍くなっているのは、ひとえに『サカつく '04』のせいです。
育成型シミュレーションゲームに弱いの、ボク。ゲームは時間を消費していけないね。わかっちゃいるんだけど……。


2005.11.6 (Sun.)

吉永小百合主演、『伊豆の踊子』。
恥ずかしながら川端康成の原作をぜんぶ読んでいないので、的はずれなことを書いてしまいそうで怖い。
でもまあ、いちおう書いてみる。

時代は昭和初期ということだが、和と洋の見事な混ざりっぷりが、未来となった今から見ると、少し奇妙に感じられる。
和と洋がごっちゃになっている光景を見ると、僕の感覚ではまず明治という印象になる(大正期は洋風寄りに感じている)。
しかし昭和に入っても根っこは和風のままだったわけで(田舎は特にそうだろう)、その事実があらためて新鮮だった。
昭和というのは20世紀の真ん中60年間を占めていた時代で、僕はその後半をギリギリ知っている世代だ。
そういう感覚からすると、この映画で描かれている過去が、僕の知っている過去と同じ元号だったとはまったく思えないのだ。
(だから平成生まれはこの映画に対する感覚がまったく異なっていると思う。たった10年ちょいの差なのに、怖いわ……。)

とにかく、制度というか社会というか世間というか、そういうものの強大さが描かれて、見ているこっちもブルーになる。
ヒロインの薫はもともと踊子として生まれたのではない。兄についてきた結果として踊子になった、という事実がまずある。
兄は山梨出身で新劇の俳優をやっていたが、旅芸人の娘と結婚して伊豆大島に移り住んでいる、という設定なのだ。
伊豆には出稼ぎのような形で来ているわけで、そういう背景をきちんと押さえておかないといけないように思う。
(さらには、新劇の俳優ってことはもともとある程度インテリだったわけだ。当時の「インテリ崩れ」の姿が描かれているのだ。)

徹底して描かれるのは、身分だとか身の程だとか、そういう世間・社会の側から個人の身体を規定する制度だ。
旅芸人の生まれではないにもかかわらず、薫は「卑しい」人間であるということを嫌というほど痛感させられっぱなしだし、
対する主人公がモラトリアム真っ只中の学生ってのも、観客の正義感と無力さを浮き彫りにするのに実に的確な選択だ。
僕らの時代では、身分制度のバカバカしさだとか職業選択の自由だとか、そういった観念が常識になっているけど、
同じ昭和でこういう光景が事実としてあって、そしてそれは今は見えなくなっただけで、確実にまだ存在し続けている。
いちばんキツいのが、「卑しい」側の人間たちが自分たちの卑しさを完璧に理解していて、そのうえで開き直っている点だ。
そしてこういう思考回路をしっかりと受け止めているのが世間や社会といった制度で、そこには共犯関係が成り立っている。
彼らが自分の卑しさを認めることで、「卑しい」自分を再生産している。それで世の中がスムーズに回っている。
しかもそれは、他者から強要される。薫はそういう視線にさらされ続けていて、深い孤独の中にいる。
誰も助けてくれない。学生は正義感はあるが力は少しも持っておらず、何もできずに別れる(活動写真すら見られない)。
深読みすれば、活動写真・映画という“夢”すら見ることを許されない、ということか。そんな現実はあまりに厳しすぎる。

映画のデキとしては、ふつうだと思う。特別キレているわけでもないし、大きなマイナスもない。きちんと見られる映画だ。
やはり原作が飛び抜けているんだろうな、と思う。日本人として、早いうちに読まねばなるまい。


2005.11.5 (Sat.)

昼間、特に出かける用事もなかったので、テレビでやっているナビスコ杯の決勝戦をぼーっと見ていた。
ジェフ千葉とガンバ大阪の対戦で、1993年のJリーグ創立時からのクラブでは無冠どうしの戦いなのだそうだ。
僕はオシムのオモシロ発言が好きなのと「どうせガンバはリーグ優勝するんだろ」という気持ちから、ジェフを応援しつつ見る。
試合は3トップを軸に攻めまくるガンバと、隙を見てカウンターを素早く仕掛けるジェフが互いに一歩も譲らない接戦。
見ていると大黒のシュートがまるっきりあさっての方向ばっかりで、入る気がしない。ぜんぜん怖くない。
しかしジェフの攻撃はことごとくシジクレイに止められる。シジクレイがいなけりゃ3-0くらいで勝てそうなのに、点が入らない。
試合が進むにつれて、ジェフのスタミナが目立つようになっていく。それでも最後までシジクレイを抜くことはできなかった。

で、結局PK戦の末にジェフ千葉が優勝。ロッテといいジェフといい、全員で戦うチームが勝つのは見ていて気分がいい。

一日中まったく外に出ないのももったいないよなあ、せっかく晴れてるんだし、と思って、夕方になって出かける。
ここにきてFREITAG欲しい病が再発しているので、BONANZAでもチェックしにあちこち行ってみるかなと、まずは下北沢へ。

下北沢は地図を持って歩いても迷ってしまう街だ。京王井の頭線と小田急線が交差して、街が4分割されている。
行くたび、自分が今どの象限にいるのかわからなくなる。気づいたらさっき渡った踏切をもう一度渡っていた、なんてザラだ。
それなのに事前にネットで店の位置をチェックすることもなく、行ってしまう。まあ、迷うのもたまには楽しいものだ。
前に下北沢まで来たのは8ヶ月くらい前のことなのだが、30分ほどプラプラ歩いていたら見覚えのある通りに出た。
というより、見覚えのある方向を向いた。角度が違うとまるで別の通りに見えることが、下北沢ではよくある。
実際のところは駅からまっすぐ進めばいいだけの通りだったのだが、それが目的の通りだと気づくのに時間がかかったわけだ。
「STEPS」という店の2階奥にFREITAGは並んでいる。今のところ、ここが都内では最も充実していると思われる。
箱を引き出しては柄を眺めつつ、ふむふむとうなずいてみる。こうして「あれもいいこれもいい」と困る時間もまた楽しいのだ。

環七を南に戻って246号を西へ行き、駒沢大学駅のちょっと先まで行くと、「guava jelly」という自転車グッズの店がある。
僕がいつも使っているDRAGNETはここで買ったものだ。自転車の店だけあって、DRAGNETが充実しているように思う。
しかし今回欲しくなっているBONANZAの品揃えはあまりよくない。残念に思いつつ、店を出る。

せっかくだからもう1軒行ってみっか、と代官山に向かう。目指すは、「HOLLYWOOD RANCH MARKET」という古着屋だ。
僕の性格からして、代官山という街にはまったく縁がない。古着屋なんてのにも行かない。だからなんだか違和感がある。
置いてあるFREITAGは、各種類が数点ある程度で、あまり充実していない。しかし凝っている柄が多い。
ちょっと目立つ感じの文字やマークの入った品物を優先的に取り扱っているのだろうか。気になるところだ。

とりあえず3軒まわってみたが、絶対数が少ないこともあって、今回はなかなかピンとくるものはなかった。
あと気になったのが、どうもちょっと値上げをしたようなのだ。どこの店でも、それぞれ少しずつ値段が高くなっていた。
もともと決して安いものではなかったので、そんなに気にならなくなってしまっているのはどうしたものか、と自省してみる。


2005.11.4 (Fri.)

会社の創立記念日は11月6日なのだが、今年はその日が日曜日なので、今日その式典があった。
式典といってもまったく大したものではなく、社長が2~3分しゃべって三本締めをする程度のものだ。
まあ、そのためだけに4連休を阻止されたわけで(先月の神保町の休日出勤で代休がもらえるはずだったのに……)、
会社の気の利かないぶりに呆れつつ、いつもどおりに仕事をこなして一日が過ぎた。

記念品として社員全員に赤飯が配られた。家に帰って食べたが、正直うまかった。
でもやっぱり、赤飯よりも4連休の方がよかった。なんとも複雑である。


2005.11.3 (Thu.)

こないだ横浜に行ったわけだし、自転車たっぷりこぎたいしで、千葉まで行ってみることにした。
千葉には大学時代に一度行ったことがあるきり。circo氏がかつて暮らした街なのだが、意外と縁がないままでいる。
事前にネットの地図でチェックしたのだが、けっこう距離がありそうだ。覚悟を決めて、朝10時に出発。

例のごとく国道1号を北上して、途中で近道して靖国通りまで出る。秋葉原をかすめて東へと針路をとる。
国道14号をまっすぐ進んでいく。だいぶこの道にも慣れてきた気がする。この辺はきれいに碁盤目なのでわかりやすい。
亀戸でちょっと早めの昼食(遅めの朝食)をとり、江戸川区へ。前に来たときにも江戸川を渡るのに困った記憶がある。
前は河川敷を北上したけど、今回は南下してみる。狭い行徳橋を渡る。広い川を狭い橋で渡るのは、意外に面白い。
ところが千葉県に着いたら問題発生。国道14号が行方不明で合流できない。京葉道路が横たわって、壁になっている。
しょうがないのでしばらく平行に東へ走って、タイミングをみて北上。県道に出たので、それを行き止まりまで東へ。
また北上すると国道14号にやっと戻った。東京都の道路がいかに単純明快で走りやすいかを実感したひとときだった。
気がつけば市川から船橋に移っていたのだが、この辺の国道14号は完全にかつての街道の雰囲気。
たまに賑やかな感触がすると、なんとなーく荒っぽい匂いがしなくもない。さすがは漁師町といったところなのか。
習志野は少しこぎれいになる印象で、千葉市に入った瞬間に道幅が4倍くらい大きくなる。自治体の格差を感じる。

走っている間、「幕張メッセ・千葉マリンスタジアム」という看板が目に入る。行ってみよっか、と思ったのが苦労の始まり。
海に向かって針路変更するが、埋立地は自分がどこを走っているのかが恐ろしくわかりづらい。
しかも車での移動が前提になっているので、歩行者・自転車は交差点のたびに歩道橋に追いやられる。もうサッパリ。
根性で幕張メッセにたどり着くが、脇の道路に入った瞬間、警備員に止められる。「入場券はお持ちですか?」「ハイ?」
なんでも今日は東京モーターショーが開催されているそうで、国際展示場と幕張メッセの両方が会場になっている。
だからその間の道も封鎖しているそうだ。「はぁ」と間抜け面をしていたら、通り抜けるだけならいいですよ、と許可をもらった。
そこからあれこれ試行錯誤の末、ようやく千葉マリンスタジアムに到着。完全に埋立地のがさつな空間。球場があるだけ。
周囲との関係なんてほぼゼロで、試合のあるときだけ人が集まるパターン。個人的にはかなり嫌いな部類の空間だ。
とはいえ今年のロッテの活躍に敬意を表して、自販機で売っていたレディボーデンをいただく(販売元はロッテなのだ)。

 記念撮影。真ん中の自転車が僕の愛機。そういえばコイツを撮ったのは初めてだな。

海浜幕張駅まで戻って、さらに北上。国道14号に戻ろうとしたのだが、道を間違えてそのまま県道を北へと進んでしまう。
広がる畑に疑問を感じ、コンビニで地図を確認してみる。結局、肩を落として来た道を戻り、14号を東へ進んでいく。
思えば、このときに地図を買っておくべきだった。

快適な広い道をグイグイ進んでいくと、突然視界に「千葉市役所」の文字が入る。ついに到着だ。

  
L: 国道沿いに鎮座する千葉市役所。政令指定都市のわりには小規模な印象。つまりはそれだけ古いってことだけど。
C: 前方が議会棟、後ろが事務棟。なんでこんなムチャな合体になったのか、想像がつかない。ふつう
もうちょっと統一感があるものでは?
R: 事務棟は国道から見て横向きが正面。上にあるのはモノレールの軌道。千葉は地下鉄がないかわりにモノレールの街なのだ。

モノレールに沿って進むと千葉駅に出る。老若男女、かなりの人出でバスターミナルは非常に混雑していた。
千葉駅前のロータリーは各種交通が入り乱れてかなり複雑だ。しかも屋根がかかっているので各ビルの区別もつきづらい。
周辺も、短い千葉駅前大通りのほか、街路があちこち不規則に延びているので、自分の居場所がわからなくなってしまう。
どうしてこういう構造になったのか、由来を知りたくなる。慣れるまで大変そうな街だ。

 駅前ロータリー。270°バス停で(屋根つき)、駅ビルが取り囲む。もう何がなんやら。

大学時代に幕張新都心について聞き取りに行ったことのある千葉県庁へ(正確には、「千葉県企業庁」に聞き取りした)。
この周辺は新聞社やNHKや警察署がある一大行政区域だ。行政の建物に取り囲まれた空間は、羽衣公園という公園。
文化の日ということでデモがあったせいか、やたらと警官がいて、みんなピリピリしていた。

 
L: 千葉県庁。左の新しいのが本庁舎、右が中庁舎。同じようなデザインで、さらに手前には議会棟。
R: こちらは南庁舎。千葉県企業庁はこっちに入っているのだ。

駅前まで戻ると、一服しつつ読書。明るいうちに帰りたかったので、早めに切り上げて出発することにした。
本当は駅周辺をもうちょっとあちこち見てまわりたかったのだが、幕張で道に迷ったロスが響いた格好に。もったいない。

帰る途中、circo氏の母校・千葉大学にでも寄ってみようかな、と考える。で、JR沿いに進んでいったが、これが大失敗。
道を進むとどんどん閑散としてくる。線路沿いなのにおかしいなあ、と思ったそのとき、路肩のクラックを派手に踏んだ。
結果、前輪も後輪も両方パンクするという異常事態になってしまう。千葉市街のはずれで身動きが取れなくなってしまった。
どうする? 一瞬の自問の後、すぐに判断を下す。「千葉駅に戻れば、修理できるはずだ!」そして迷わず引き返す。
来た道を引き返すのは虚しい。しかもパンクした自転車を引きずって、だ。近かったはずの距離の実際の遠さに悲しくなる。
そうして20分ほど歩いて駅に着くと、駅前交番で修理できるところはないか相談する。自転車屋は近くに1軒あるという。
しかし祝日なので開いてないだろうし、出勤してきたときは開いてなかった、という警官の言葉。大型店をあたってもらうと、
PARCOの無印良品で自転車を売っているのだが、無印のものでないと修理できない、という事実が判明。愕然とする。

だからってそのままでいるわけにもいかない。とにかく歩く。でも駅周辺には本当に自転車屋がない。空が暗くなってきた。
このままだと、どこかに自転車を預けて電車で帰り、別の日に修理してもらってそれに乗って帰るということになる。
だけど天気予報では次の土日は雨になるって話なので、それはなかなか難しいことなのだ。じゃあどうすればいいんだ?
イチかバチか、PARCOに行ってみる。無理を承知で無印良品のサービスカウンターのおねえさんに修理をお願いしてみる。
すると「修理のできるスタッフがここにいるわけじゃなくて、依頼があってスタッフが来るようになっているんですね」とのこと。
しかしおねえさんはここからが非常に親切だった。「東千葉駅に自転車店があるから、そこに電話して訊いてみますね」
そしたらなんと今日中に修理できるとわかり、地図のコピーまでもらってそちらに移動する。おねえさんの優しさに救われた。
シャイが裏返ってノリのいい自転車屋のおやじに自転車を預けると、近くのコンビニで帰りの道順を確認しておく。
そして、気がついた。僕がパンクした道は、千葉大学へと向かう道ではなく四街道の方に出てしまう道だったのだ。
JRの線路は千葉駅を底辺にしたU字型になっていて、目的地とは左右逆の方へと進んでいたのだった。
だから道を間違えなければ、パンクすることはなかったはずだ。地図を買っておけば。自分の愚かさに思わず眩暈がした。
しかし、そこを無理やりこう考えて納得する。「パンクしないで進んでいたら、もっとひどい目に遭っていたかもしれないんだ」
こうして強引に楽天的な方向に思考回路をもっていくことで、現状に専念する。集中する。まあ、ひとつのテクニックだ。
40分ほどで修理は終わった。丁重に礼を言って千葉駅に戻る。途中の千葉神社で無事に帰れるように参拝しておいた。

千葉駅を通過したのが18時少し前。もう空は真っ暗。でもこうして帰るチャンスがあるだけ幸せだ、と自分に言い聞かせる。
足元に気をつけながら国道14号を西へ進む。市街地から出ると、右足がつりそうな感覚になる。赤信号でマッサージする。
幕張周辺では街灯のない暗がりを進んだり、歩道橋をひたすら上り下りしたりと苦労が続く。でも歯を食いしばる。
そのうち高速道路と合流する辺りから、道が複雑になる。一本道だが、国道14号でもあり、357号でもある、というのだ。
やがて道は知らないうちに分岐して、僕は南側の357号の方を進んでいた。気がついたときには、もう遅かった。
新習志野駅近くのコンビニで地図を見ながら一息ついて、決めた。14号には行かず、この道を進んで東京を目指そう、と。
というのも、14号の場合は市川から橋を渡ると江戸川区北部、ほとんど葛飾区に近い位置に出る。これは大回りだ。
対して357号で行けば、うまくするとお台場経由でショートカットになる。都内に入ってから、この差は大きくなるはずだ。

覚悟を決めて埋立地の道を進んでいく。ナトリウム灯が世界をぼんやりとしたオレンジ色に染めている。
無造作に茂る緑が濁った影になり、コンクリートで固められた隅々を占領している。右手の高速道路は僕と無関係に走る。
前にcirco氏と国立という街の特徴について話したことを思い出す。国立の北部は、聖も俗もないから違和感がある、と。
一橋祭に合わせて市民祭りが開催されるし、住宅街は谷保天神の影響下にあることになっている。いちおう。
もともと何もない誰もいない森林を、堤康次郎(西武グループの堤兄弟の父親)が宅地開発して、国立は生まれた。
その人工的な感じ、プラスでもマイナスでもないゼロの感じが、街としてどこか居心地のおかしさ、違和感を生み出している。
(空間に対するプラスの感覚、マイナスの感覚については過去ログのこの辺りを参照のこと。→2004.11.3
そして埋立地は、最も強烈な「ゼロ空間」だ。空虚に無理やり地面を引いて、人間が使うことのできる場所とした。
埋立地からは、そういうもともとの「何もない」感覚、言わば「ゼロの空気」が染み出してくるのだ。
延々と続くオレンジ、コンクリート、影、スピード。隣を京葉線の高架が走る。自分まで無機物に変化していく感覚になる。
手塚治虫『火の鳥』には生命体としての鉱物が登場する。埋立地で息を潜める無機物は、それに限りなく近い存在だ。
iPodでお気に入りの曲をフルボリュームで再生して走る。もし音楽がなかったら、間違いなく頭がおかしくなっているはずだ。
そのうち、気がつけば曲に合わせて歌い出していた。とても歌わずにはいられなかった。人間として理性を保つために歌った。
千葉市、習志野市、船橋市、市川市、浦安市。ゆっくり東京へと近づく。時間と空間の経過が本当にゆっくりに思える。
コンクリートと汚れた緑が支配する薄暗いオレンジの世界の中で、僕もただ走るだけの機械のように、ひたすら逃げる。
赤信号にぶつかるたび、ペットボトルの甘い飲み物を口にする。そうしないととてもじゃないが、耐えられないのだ。
(この描写に対して、夜に湾岸の埋立地を走るだけなのに大げさだと思う人がいるだろうが、実際に体験してみるといい。
 精神的にタフな状態じゃないと、絶対に走り続けられない。「ゼロ空間」は無意識のレヴェルで人間に恐怖を与える。)

 舞浜にて。道路ではなく人間を照らすための光の、なんとありがたいことか!

2時間以上もオレンジとダークグレイの世界から逃げまどって、ようやく東京都に入る。しかし状況は何ひとつ変わらない。
「お台場でうまい晩飯を食おう」、その思いだけが希望で、変わらない景色の中を突き進んでいく。
やがて葛西の端から荒川を渡ろうというところで、道が大きく右にカーヴした。車道は橋の上を通っているが、歩道はない。
茫然として頭上の葛西ジャンクションを見上げる。車が空を走っているのに、僕は地べたでただそれを眺めるだけ。
どうしょうもないのであきらめて、申し訳程度のまばらな街灯が照らす堤防の上を上流に向かって走る。
ほとんど明かりのない中、気持ちはどんどん沈んでいく。人の気配はないわけではないが、猛烈な孤独感に襲われる。
振り返ると、ここから清新町に出るまでが精神的にいちばんキツかった。「絶望」という言葉を具体的に体験した気がする。

やっとの思いで清砂大橋を渡ると江東区。南砂町はまだ埋立地の匂いが強かったが、東陽町では人間の匂いがした。
2歳のときここに住んでいたこともあってか、久々の人間らしい街並みに、懐かしさと安心感をおぼえた。助かった、と思った。
何気なく過ごしている空間・場所が、実はどれだけありがたいものかを実感する。深く深く深呼吸してやっと落ち着いた。
木場まで進んで、ようやく晩飯にありついた。門前仲町を駆け抜け、永代橋を渡る。佃の夜景が美しい。
宝町で左に曲がると、わざと銀座のど真ん中を走る。東京にはいろんな種類の空間があることに、あらためて驚いて走る。

 
L: 佃の夜景を永代橋から見る。このひとつひとつの明かりの下に人がいるのだ。感傷的だけど、本当にそう思う。
R: 銀座の夜景。さまざまな色のバラエティが走る力を与えてくれる。人工の光だからこそ与えられる勇気があるのだ。

新橋経由で国道1号に移る。来たときとまったく同じルートを帰る。こういうときは勝手を知り尽くした道を走るのが一番だ。
そうして家に着いたのが21時半。ゆっくり風呂に浸かって、上がるとベッドに横たわる。まだ筋肉が緊張しているようだ。

どうして僕は、こんな思いをするまで自転車をこぐんだろう? そんなことを、じっと考えてみる。
走っている間に考えたことがひとつある。大げさに言えば、自転車をこぐってのは、人生の縮図なのだ。
どのルートを行くか。歩行者にも車にも迷惑にならない動きは何か。瞬時の判断が求められる。それが楽しいのだ。
そして今日みたいにパンクしたときも、ベストの判断をできるだけ早く下すことが必要になる。実力が試されるというわけだ。
道を間違えるなどのピンチも、その状況を楽しめれば問題ない。置かれた状況を楽しむこと、それはすべてに通じることだ。
そういったことを無意識のうちに再確認するために、僕は自転車に乗っているのかもしれない。
また、ピンチになっても途方に暮れている暇なんてなくって、強制的に前向きになるところも気に入っているのだと思う。
実際の生活では、自分が前向きかどうかなんてわからない。でも自転車だと、それがすぐ行動につながるからよくわかる。

それにしても、埋立地のあの感覚はなんなんだろう。夜になった瞬間、あのゼロの感覚がとても恐ろしいものになる。
物質が支配する世界というか、人間が他者になってしまう世界。とにかく、人間の存在をはじき返すような感触の空間。
照らす光もまったく意味合いが違っていて、単純にナトリウム灯の性質のせいだけではない何かがありそうに思える。
逆を言えば、上の写真のように、人間の暮らす世界にはどれだけ多彩な光が存在しているか、ということだろう。
街の光を手かがりにしていろいろ考えてみるのも、けっこう都市社会学的に大きな意義があるはずだ。


2005.11.2 (Wed.)

ゲーリー=クーパー主演、『真昼の決闘』。

西部の街ハドリーヴィルの保安官・ウィル(G.クーパー)が、エミー(G.ケリー)と結婚式を挙げるところから話はスタート。
ウィルはこの日保安官を辞め、別の街へ移る予定になっていた。が、かつて逮捕した男・ミラーが保釈されたことがわかる。
ミラーはウィルを恨んでおり、汽車に乗って街に来てウィルを殺そうとしていた。彼の弟と仲間が駅で到着を待っている。
ウィルはミラーを倒そうと住民に協力を求めるが、ミラーの目的がウィルであることと、ウィルがもう保安官でないことから、
誰も彼を助けようとしない。そうこうしているうちに、ミラーが駅に到着する正午が刻一刻と近づいてくる……。
というストーリーが、現実と同じ速度で進行する。つまり、劇中の時間経過ペースは現実とまったく同じになっているのだ。

最初は話の設定がいまいちわかりづらくって、なかなかうまく話に入り込めなかったのだが、
登場人物の側面がいろいろと描かれていくと概要がつかめた。他の脇役との関係が描かれて理解が進んだ、ということだ。
『グランドホテル』(→2003.11.30)や『駅馬車』(→2005.6.16)と同じで、人間関係を第一のテーマとした作品である。
主人公はクーパー演じるウィルなんだけど、彼自身のキャラクターよりも、彼を取り巻く人間模様に重きが置かれている。
だからじっくりと見ていくうちに、どんどん面白くなっていく。設定がわかると、加速度がついて楽しめるようになるのだ。
街のためと思い、保安官として厳しい態度をとってきた主人公だが、いざピンチになると誰も助けようとしてくれない。
主人公はいわば「嫌われ者」であるわけで、その彼に冷たくする人々をもっと丁寧に描いた方が、個人的には好みだった。
とはいえ、それは難しいところだ。あくまで主人公ひとりが主役であるわけで、他の人はことごとく脇役である。
孤独に追い詰められた主人公がそれでも敢然と悪に立ち向かい、勝利する様子を描いた作品なので、
脇役を丁寧に描くことは、話の本質からズレてしまう。そういう意味では、わりとうまいバランスをとった作品なのは確かだ。

現実と同じように1秒、1分と時間が経過していくのだが、それは良くも悪くも、あまり気にならなかった。
手間がかかっているわりには目立っていないが、それだけ自然にできているということでもあると思う。
結局、「正午にミラーがやってくる」という大前提があって、その正午へと向かって流れていく時間は、
ディフォルメしてもしなくても大差はないのだ。むしろ、人間には同じ1分でも遅く感じることもあれば早く感じることもある。
時間の感覚にズレのある方が、よりリアルかもしれない。どちらが本物のリアルなのかは、これはもう哲学的な問題だ。
ただ個人的には、時間経過を現実に合わせるというこだわりは好きなので、素直に歓迎しておきたい。

クライマックスは戦いに反対していたエミーの、それでも夫のことを愛しているんだという感情をうまく表現できていると思うし、
終わり方もそれしかない、というものだったと思う。西部劇の名作には、虚しさを観客に突きつける作品も多いのだ。
この作品も見事に、こだわりというか美学というか、描きたいことと描くべきことをやりきったという充実感と
その後に残る完全燃焼しきった疲労感を存分に味わうことができる。穏やかだけど、鮮やかな満足感が残る。

それにしてもグレース=ケリーって本当に美人だなあ。


2005.11.1 (Tue.)

売込隊ビーム『タマゴよ、みな鳥になれると思うな』。世界一団の赤星さんが出演するっつーので、観に行ってみた。

2つの世界(?)をパラレルにして、物語は進んでいく。ひとつは美大講師とその知り合いの対話、
そしてもうひとつが、これから飛行機に乗って旅に出かけようという、白い衣装に身を包んだ男女8名である。
この両者がどういう関係にあるのかは、話が進むにつれて明らかになっていく。
男女8名の方は、ツアコン(赤星さん)がやってくるものの、いつまで経っても出発する気配がない。
そのうち、全員が出発できるわけではないことがわかる。そしてひとり、またひとりと消えていく……。

この劇団の役者はキャラづけがはっきりしているようで、それにもとづいて存分に役を演じているのがわかる。
小さい体でハイテンションに舞台を動きまわる女子、顔面いっぱいの笑いで他のキャラをバカにする男子、
しっかりとした性格で場を締める女子、ひたすら絵を描く女子、ふたりがそれぞれ左半身と右半身でひとりの男子、
そういった個性をうまく際立たせているように思った。別の作品ではまったく違って演技をするのかもしれないが、
それならそれもまたこの劇団の魅力ということで、役者のキャラの重要性というものを再認識させられた。

話の仕掛けは、「搭乗券」と「登場権」を掛けた序盤から見えてしまって、あとはどう展開していくのかに注目する感じに。
もちろん仕掛けをわかりやすくつくっていた側面もあると思う。そうなると、どう話にオリジナリティを持たせるかが鍵になる。
その点、イマイチ斬新さに欠けた。観客が仕掛けに感づいて頃合を見て、さらになんとかしてもうひとひねり入れた方が、
よりドラマチックに話を進められたと思うのだが、そこについては予想どおりだった。かなりもったいない。
(まあ、タイトルから想像されるとおりの展開なのだが。それだけにやっぱり、ひねってほしかった。)
もっとも、赤星さん演じるツアコンの正体はうまいこと観客を驚かせたと思う。ここは素直に上手いとうならされた。

役者の演技が好きならば、リピーターがつく劇団だと思う。僕も、もうちょっといろいろ見てみたいと思っている。
で、ストーリーの方はというと、個人的にはそんなに魅力を感じなかった。もうちょっとぶっ飛んでいると予想していたのだが、
終わってみれば最初から最後までタイトルから想像がつく範囲で話がおさまってしまっていて、
わざわざ労力を使って演劇というメディアで表現する必要が、いまひとつ弱かったかなあ、と感じてしまった。
まあとりあえず、次回作も観に行ってみようかな、と思う。


diary 2005.10.

diary 2005

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