diary 2010.10.

diary 2010.11.


2010.10.31 (Sun.)

なんだか、パーッとサッカーでも観に行きたいなあと思って調べてみたら、フクアリで千葉×甲府戦がある。
現在のJ2の勝ち点の状況から考えて、この試合は両チームにとって極めて重要な位置づけになるはずだ。
これはぜひ観に行かなくちゃ、ということで自転車の準備を始める。しかし空模様はまったく冴えない。
どうも東京から千葉にかけて、霧雨が降ったり降らなかったりという天気になっているようなのだ。
そうなると蘇我まで自転車で行くのはかなり面倒だ。行きは良くても、帰りが非常にしんどい。
しょうがないので、買い物ついでにできるだけ自転車で千葉に近いところまで行き、
テキトーなところで電車に切り替えて蘇我まで行くことにした。あわよくば全行程を自転車で、というつもりだ。

ところが都内での買い物に意外と手間取り、渋谷から新宿へ回って秋葉原に到着。
キックオフまでの残り時間を勘案して、ここで電車に乗ることにする。蘇我までは740円で意外と高い。
まあつまり、なんだかんだでやはり千葉は遠いということだ。あらためて実感したのであった。

各駅停車の総武線で寝っこけて終点の千葉に到着。外房線に乗り換えて蘇我を目指すことに。
すると対面のホームにうぐいす色の見慣れない電車が入ってきた。行き先表示には「団体」とある。
乗客はほぼ全員が青い色の服を着ていて、一目で甲府サポだとわかった。
J1昇格を賭けた重要な一戦を特別列車のツアーで観戦するとはなんとも優雅なものだが、
そういうプランが成立するくらいに甲府サポは熱いということでもある。サッカー文化は確実に根付いてきている。
ちなみにクロスシートで僕の向かいに座ったカップルも甲府のマフラーを巻いていた。甲府サポは熱心だ。

蘇我駅に到着して階段を上がると、そこはジェフユナイテッド一色の光景。
まあJR東日本はジェフのメインスポンサーだから当たり前といえば当たり前だが、それにしても力が入っている。
今や蘇我駅は完全に「ジェフの駅」といった印象である。そして僕はコンコースの床に貼られている
「JEF UNITED」の文字を踏んづけて改札を抜ける。負けるわけにいかないのはお互い様なのだ。

西口を出る大勢の人たちに混じって歩いていく。やはり思いのほか青いユニフォームが多い。
10分もしないうちに、左手にあるフットサルコート付きのショッピングモールの先にスタジアムが現れた。
フクダ電子アリーナ、通称「フクアリ」だ。ご存知のように僕はネーミングライツに断固反対しているが、
フクアリは施設の使用を開始した時点からすでにフクダ電子アリーナという名前がついており、
千葉市蘇我球技場という名前はあくまで条例上のものなので、以後しょうがなく「フクアリ」と書いていく。

それにしても衝撃的なのは、フクアリの右手奥、海に面したJFEの敷地内にあるプラントだ。
使用されなくなって解体の途中のようだが、このインパクトの強さといったらない。
世間には工場マニアがいるわけだが、その領域に片足を突っ込んでいる僕としては、これはシビれる。
ぜひとも解体しないでオブジェとして残して、フクアリの隣に移築保存してもらいたかった。それくらい、いい。
ひとり興奮してバッシャバッシャとデジカメのシャッターを切りまくる僕なのであった。

 
L: 蘇我駅構内のNEWDAYS。見事にジェフユナイテッド一色に染まっているのであった。
R: フクアリの近くにあるプラントの廃墟。これはすごい。立派なオブジェとして残してほしかったんだけどなあ。

フクアリについても敷地をまわって撮影してみる。困ったことに、メインスタンド方向にはまわり込めず、
バックスタンド方向を軸に270°弱しか眺めることができない。メインスタンドがスタジアムの顔であると思うのだが、
それを見ることができないというのは、あまりよくわからないつくりだ。まあ何らかの事情があったのだろう。

  
L: フクダ電子アリーナ。蘇我駅から歩いてくるとこの角度でご対面となる。  C: バックスタンドアウェイ側より撮影。
R: メインスタンド側はこんな感じになっているが、関係車両しか入れない。よくわからない措置である。

敷地を一周、ができないので、往復してフクアリの施設をいろいろ眺める。多目的室の中に「福有神社」があった。
J2降格を味わいJ1昇格を目指すチーム同士ということで、せっかくなのでいちおうお参りしておいたよ。

 信玄以来贈られる方が得意な甲府サポだけど、敵に塩を贈っておきました。

気が済むまで歩きまわったら、いよいよフクアリの中へ。今回もお得意のバックスタンド観戦である。
なるべくアウェイ側に寄った最前列に席を確保すると、気ままにデジカメのシャッターを切って過ごす。
もしかしたらジェフサポのえんだうさんが女連れで観戦に来ていたかもしれないが、こちとら一人だ文句あるか。

それにしても、フクアリは噂どおり客席とピッチが近い。特にコーナーまでの近さはかなりのものだ。
(半分仮設の日立台(→2007.11.24)とどっちが近いのだろうか、ってくらいに別格の近さだ。)
そのうち試合前の練習が始まる。もう本当にすぐそこで甲府の選手が練習をしている。ちょっと感動。

  
L: フクアリのピッチ。やはり黄色のジェフサポが大部分の席を埋めたが、甲府サポもアウェイ側ゴール裏にびっしり。
C: イヴィツィア=オシムの横断幕。クラブを去った今も、彼は横断幕を通して選手たちに鋭い視線を送り続ける。
R: 審判団もウォーミングアップなのだ。本日の主審はW杯でも笛を吹いた西村氏。ちょっと不安(→2008.4.6)。

目の前では甲府のGKが練習をしたのだが、知的なイケメンの荻と無骨なスキンヘッドの荒谷の対比がすごい。
ここまでGKが対照的な容姿をしているクラブはほかにあるまい。見ているだけで微笑ましくって面白い。
ちなみに荻はウチの体育教師の同級生(中学時代)だそうでびっくり。荻を「コータくん」なんて呼んでたし。
ふざけてカンチョーしてコータくんを病院送りにしたことがあるとかなんとか。なんちゅーエピソードだ。

  
L: 荻と荒谷。どっちがどっちかは一目瞭然。  C: フクアリのメインスタンドと練習中のGK荒谷。
R: こうしていると瞑想中のインドの行者みたいですよ荒谷さん。

そうこうしているうちに練習が終わり、キックオフへ向けてのセレモニー。甲府も千葉も犬がマスコットということで、
(甲府は甲斐犬のヴァンくんとフォーレちゃん、千葉は秋田犬のジェフィ(背番号2)とユニティ(背番号9)。)
マスコットをお互い招待し合っているのである。なのでアウェイゲームだけどヴァンくん・フォーレちゃんが登場。

 試合は真剣勝負でも、ほのぼのできるところはきちんとほのぼの。

ここできちんと、両チームにおけるこの試合の重要性を述べておきたい。現在、甲府が2位で千葉が4位。
J1に昇格できるのは3位まで。甲府としては、ここで千葉を叩くことができれば昇格の可能性が一気に広がる。
対する千葉は当然、昇格するためには絶対に落とせない試合である。特に最近は3位福岡に離されつつあり、
単なる上位対決というだけでなく、この試合の結果がこの先の運命を大きく左右することになるのだ。
今シーズンのJ2における最大のターニングポイントになりうる、ものすごく重い意味を持った試合なのである。

スタメンを見て思ったのは、ジェフには出戻りの選手が多いなあ、ということ。
今日は茶野と佐藤勇人がスタメンだったが、これ以外にも坂本、林、村井といった面々が在籍している。
主に自分からクラブを出ていった選手たちが古巣に戻ってプレーしているというのは、なんとも複雑な感じがする。
対する甲府のスタメンにはかつて戦力外になったことのある津田と保坂がいる。よくよく考えると、
自分で戦力外にしておいて戻した選手2人がスタメンというのは、なかなかキテレツなフロントだ。変な対決。

試合が始まると、極めてスピーディな展開となる。ジェフがFW青木孝太を軸に裏へ抜けるパスを志向すれば、
甲府は長身のハーフナー マイクにロングボールを当てつつもその周囲でしつこい攻めを展開する。
そんな具合に、まずはピッチ全体で互いにチャンスをつぶし合う時間が続く。
印象的だったのはジェフのチェックの速さ。つねに甲府のボールホルダーに対し、ダッシュでプレスをかけていく。
でも甲府の選手は落ち着いていて、ほとんどまったくミスをしないでつないでいく。さすがはプロだ。
そして甲府の守備はダニエルと山本のCBが安定していて非常に堅い。中盤・SBとの連携もいい。
言っては悪いが、やたらと転ぶことでチャンスを得ようとする青木がとても滑稽だった。

先制したのは甲府。前半16分、中盤を省略して山本が送ったロングパスをパウリーニョが鮮やかに決める。
ジェフ守備陣がハーフナーに気を取られた一瞬の隙を衝いたゴールだが、やはりパウリーニョの決定力はすごい。
その後もつぶし合いは続く。足と頭でのパスカットの応酬で、どちらも思うようにボールを前に運べない。
しかしながら、ハーフナーに当てる攻撃と中盤の保坂・藤田を軸に素早くボールを回す攻撃のある甲府の方が、
やや押していた印象である。きちんとパスを回す意識のある甲府なら、応援しがいがある。

  
L: ハーフタイムに撮影したフクアリ。空はだんだんと暗くなっていき、うっすらと霧雨が降りはじめる。
C: ジェフのフラッグをくるくる回すパフォーマンス。なかなかきれい。途中からマスコット4体も参加でほのぼの。
R: バックスタンド側にヴァンくんとフォーレちゃんが来て、わざわざカメラにポーズをとってくれた。ありがとう。

後半に入ってもスピーディな展開は変わらない。それでもジェフは交代カードを切り、攻撃に勢いをつけてくる。
そして後半27分にジェフは素早く甲府陣内に入り込み、たまらずダニエルがペナルティエリア内でファウル。
このPKを決められて1-1の同点となる。序盤はややジェフ寄りだったジャッジもおおむねマトモになっており、
まあこれはきっとそうなんだろうな、と納得せざるをえない感じ。でも今日は、同点なら甲府に有利な展開なのだ。

 
L: フクアリはスローインがめちゃくちゃ近い!  R: フリーキックだってめちゃくちゃ近い! ホントに目の前。

ジェフは交代で入った工藤を軸にして大胆にパスを展開して攻め込んでいく。
対する甲府はスタメンのルーキー・柏が何度も切れ味の鋭いドリブルで右サイドから崩しにかかる。
ファウルは決して少なくないが、どちらも懸命のプレーを見せながらゴールに迫り、目が離せない好ゲームだ。
そして決着をつけたのは、パウリーニョ。柏のドリブルをファウルで止められたことで得たFKを、
そのまま豪快に左足でゴールに叩き込んでみせた。甲府の選手たちは喜びを爆発させる。
あとはチラチラと脅しをかけつつゴールを守るだけ。5分という長いロスタイムも手堅く切り抜けて甲府が勝った。

  
L: 試合終了の礼が終わってサポーターの元に向かう両チームの選手。こんなふうに入り乱れてというのは珍しい。
C: バックスタンド側のサポーターに礼をする甲府の選手たち。フクアリは何から何まで近いなあ。
R: これまたバックスタンド側のサポーターに礼をするジェフの選手たち。うつむき加減で、「前を向け!」と声がかかる。

 この日の勝利でJ1昇格へ大きく前進し、大喜びのサポーターと選手。

今日の甲府はとにかく選手のポジショニングというか、距離感が非常によかった。
それぞれの選手がそれぞれのポジションできちんと守備をしながら、正確なパスを回せる距離感を保って、
しっかりと攻め上がっていった。その中でハーフナーの高さと柏のドリブル突破はいいアクセントとなっていた。
パウリーニョのスーパーなゴールも、まあ大木さんの頃からスーパーなFW頼みの側面はあったわけで、
その周りにいる選手たちがきちんとゲームを組み立てていたからこそ生まれた結果だろう。
あらゆる選手があらゆる場面で顔を出してプレーしていて、11人全員がゲームに絡んでいた。美しかった。

そしてジェフの選手のプレーを見て思ったことは、さっきの出戻りの話とも関係してくるのだが、
彼らがかつて展開したサッカー、イヴィツィア=オシムのサッカーは、いったいどんなものだったのか、ということ。
僕が今日、目にしたジェフのサッカーにはオシムの遺伝子が残っていたはずだ。
でも、純度100%のオシムのサッカーをそこから逆算して想像することは、素人の僕には極めて難しいことだ。
一度でいいから、オシムのサッカーをこの目で実際に見たかった。心の底からそう思った。

面白いのは、逆に考えることもできる点だ。甲府にも出戻りの選手はいるわけで、大木監督時代を知る選手が、
11人のうち半分ほどいた。今日、彼らが見せたサッカーからは、その要素をある程度垣間見ることができた。
さすがにクローズ(狭い間隔で攻める独特の戦術)は出なかったが、過去にクローズをやっていたからできる、
アップテンポでできるだけ多くの選手を巻き込んで組み立てるサッカーがうっすらにじみ出ていた。
クラブを去った監督が残した遺産が、形を変えつつもぶつかった好ゲームを、僕は目にすることができたのだ。
Jリーグの中に息づく「歴史」を確かめることができたのは、すばらしい収穫だったと思うのである。


2010.10.30 (Sat.)

文化祭当日。午前中は学習発表会ということで、ヴァリエーション豊かな内容。
特に今年は「中学生の主張」が充実していたので、より中身が濃かったように思う。
午後には合唱コンクール。去年はまさかの新型インフルエンザで途中退場を命じられただけに(→2009.10.31)、
今年は個人的にはちょっと気合いが入っていたのである。照明に指示を出しつつ無事に終了。

ところで今年の文化祭では、トランシーバーを使ってほかの先生とやりとりをしてみた。
もっとうまく使えればさらに便利なんだろうけど、まだまだ使いこなせていないなあ、といったところ。
で、スーツ姿で片耳にイヤホンを詰めて突っ立っていたら、生徒たち全員からSPみたいと言われた。
様子を見に来たOGにも言われたもんなあ。まあ、褒め言葉として受け取っておきましょう。

それにしても疲れた。最初から最後までずーっと神経を張りっぱなしだったようで、
ステージが終わったら一気に疲れがきた。おかげで打ち上げの司会もすさまじくテキトー。皆さんすいません。


2010.10.29 (Fri.)

文化祭の前日準備で大忙し。基本的に僕の場合には自分の担当よりも手伝いの方でフル回転になるもので、
頼まれてあっちへ走ってこっちへ走ってを繰り返すのであった。実に便利な遊撃部隊ぶりである。
まあこういうイベントは、準備も大切だがそれ以上に当日のテンションが重要なものだ。
だから前日準備は会場を整備すると同時に気合いのゲージを満タンにする儀式のようなものでもある。
生徒たちの様子を見るに、明日はなかなかいい文化祭になりそうな気配である。


2010.10.28 (Thu.)

夜8時まで残って文化祭の打ち合わせ。ゲネプロからそのままあれこれ話をして詰めていく。
体力的にはキツいのだが、こういう充実感が得られる時間は好きなので、素直にそれを楽しむ。

生徒と一緒にあらためてステージの照明について説明を受けたのだが、これってミキサーみたいだ。
かつて熱海ロマンでバリバリとミックスをやっていたときの感覚が、うっすらと戻ってきた。
各トラックのヴォリュームを調整するように、ライトの強さを調整して組み合わせていく。
そうやってステージ上での効果を引き出すのだが、音楽と光を操作する共通性が実に興味深い。
照明の機械は非常によくできていて、いろんな方法で同じ効果が得られるようになっている。
その方法を駆使し、状況に応じて操作を工夫する面白さもある。これは実に奥が深いものだ。

そんなわけで、新しい発見もあって、実に楽しく仕事をすることができたのであった。
こういう機会がもうちょい頻繁にあると言うことないんだがなあ。


2010.10.27 (Wed.)

急に寒くなりやがった。室内はいいのだが、廊下を歩くのが非常につらい。
昨日までは気にすることのなかった温度差というものをいきなり突きつけられて、動揺している自分がいる。
こうしてだんだんと秋は深まっていくのだ。そうして冬へと切り替わって寒い日がずーっと続くのだ。

部活のサッカーに参加して、前線から積極的にプレスをかけにいったところ、
生徒が必死でクリアしようとしたボールが顔にぶつかるという事故に遭う。不運である。
もともと僕の歯がムダに尖っているせいもあり、口の中がしっかりと切れて出血。
一生懸命やってのことなので責める気はさらさらない。こりゃもう、しょうがない。
しばらく口が不自由な日が続くが、ムダ口たたかずに過ごすことにしましょう。

 生徒たちのミニゲームを見る僕。

マツシマ監督、がんばってますよ。


2010.10.26 (Tue.)

日記を書いてはいるのだが、いっこうに進まない!
ひとつにはやはり、大物の旅行が続いたことでその処理に追われているということがある。
あとはまあ単純に、日記を細かく毎日書いていけばいいのにそれをしないで、
手が空いたときに一気に仕上げるクセがついてしまっているというのもある。
どうにかヒマをみて書いてはいるのだが、どうにも追いつくことができない。困った。
状況を打開するには、結局、自分ががんばる以外にはないのだ。うーん、自業自得。


2010.10.25 (Mon.)

もともと僕は1980年代末から1990年代前半のゲームミュージックについてはマニアであるのだが、
ここ最近、自分の中でさらに再評価の気運が高まっている真っ最中なのである。
専門と言えるのはコナミとカプコン。あと多少ファルコムといったところなのだが、
あらためてゲームミュージックについてチェックを入れていく中で、セガのS.S.T.を無視していたのに気づいた。
『AFTER BURNER』の音楽は当時中学生だった僕にとっても非常に衝撃的だったのだが、
なぜかほかのセガのゲームへと興味が広がることはなかった。セガが任天堂と距離を置いていたからかもしれない。
で、このたびS.S.T. BANDのアレンジヴァージョンを聴いてみて、これはもっとチェックせにゃいかん、となった。
しかしながら、中古の市場に出ているセガのCDはわりと偏っている印象がある。
あるものはたくさんあるし、ないものはホントに見かけない。もともと情報を積極的に仕入れていなかったこともあり、
イマイチ次へと進めないでいる状況である。まあ、今後も気長にチェックを続けていくとしようか。


2010.10.24 (Sun.)

久々に行ってみようと思い立ち、池袋で買い物をして日記を書く。
しかしその帰り、雨に降られる。遠出したときに雨とは実にツイていない。


2010.10.23 (Sat.)

サッカーやって買い物して日記書いて。いつもどおり。そうか、今日は僕の誕生日だったのか。


2010.10.22 (Fri.)

おいなんかFREITAGの新作ができたじゃねーかほしくなっちゃうじゃねーか。

FREITAGというと肩掛けカバンが標準的なのだが、僕が旅行の際に愛用しているBONANZAはリュック型なのだ。
いいデザインのものがあったらもう1個押さえておいてもいいかも……なんて考えてしまうほどに、
大容量でとても便利なモデルだったのだが、このBONANZAは残念なことに生産終了となってしまった。
というわけで、FREITAGのラインナップにリュック型がないという状況が長らく続いていたのだ。

ところがこのたび、HAZZARDというリュック型のバッグが発売されたのである。
容量こそBONANZAに劣っているが、使い勝手は格段に良くなっているようだ。
こうなると……うむむ、もしタイミングが合ってしまえば注文ぶっこいてしまうかもしれん。
まあとにかく、いいなあいいなあと思っているうちがいちばん楽しいのだ。
買っちゃうぞー買っちゃうぞーと構えている時間がいちばんエキサイティングなものなのだ。
当面はそのスリルを味わうことで満足しておくことにするのだ。
……しかしまあ、なんつーか、欲望ってのはキリのないものでありますね。


2010.10.21 (Thu.)

沖縄手帳がはるばる沖縄から届いた。
世間では実にさまざまな手帳が売られているが、沖縄県で確固たる支持を集めているのが沖縄手帳。
沖縄ならではのイベントやできごとが記載されているほか、旧暦や月の満ち欠けまで載っている手帳なのだ。
『秘密のケンミンSHOW』で紹介されたのを見て、いちおう沖縄ファンとしては使わなければなるまい、
ということで初めて注文したのが去年のこと。で、今年も2011年の分を注文して、それが届いたのである。
非常にローカル色の強い内容である分だけ、あこがれの沖縄に接しているという気分になれる。
僕にとっては、いつかまた沖縄に行きたいなあ、という気持ちを優しく慰めてくれる、そんな存在なのである。
ぜひ東急ハンズで取り扱ってほしいと思う反面、わざわざ沖縄から送られてくるその手間がいとおしい。
手帳については昔から三日坊主の僕なのだが、今年こそは有効活用するぞ、と気分を新たにするのだった。


2010.10.20 (Wed.)

『木更津キャッツアイ』と『タイガー&ドラゴン』のBlu-rayがBOXで出るっていうじゃないか困っちゃうなあ。
Blu-rayを見るために経済的に無理してパソコンにその機能を取り付けた僕としては、こりゃ買わざるをえない。
こうなりゃ毒食わば皿まで、だ。『池袋ウエストゲートパーク』もぜひBlu-rayで頼むぜ。


2010.10.19 (Tue.)

月末の文化祭に向けて合唱の練習が始まる。が、相変わらずウチの学年は声が出ない。
女子はけっこうがんばっている。でも男子がまるでダメ。「キ○タマついとんのか!」と叫びたくなるくらいダメ。
去年もすさまじくダメで、一年が経ってちったぁマシになっているかと思えば、何ひとつ成長していない。
むしろ後退しているくらい。怒りを通り越して呆れるどころか、呆れることすらもったいなく思えるほどだ。
かったるい、面倒くさい、そもそもまともに歌ったことがないままここまできたから歌う意義がわからない、
そういうマイナスの感情、情けない習性が声を出させないのだ。こっちがいくら声を出してもダメ。

夜になってPTAでの合唱練習。僕は音楽の先生に「やれる人」とすっかり見抜かれちゃっているので、
半ば強制的にパートリーダーに任命されてしまった。といっても、CDの再生ボタンを押すだけの役割だが。
地元で中学生をやっていたときに身に付いてしまった歌い方でマジメにやっていたら、「キミ、5あげる」。
まあそんな感じでイライラしたり褒められたりしながら元気にやっております。


2010.10.18 (Mon.)

こないだ四国に行ったばかりだというのにまた旅行を計画してみやもりに諭される。


2010.10.17 (Sun.)

わが校の男子バスケ部員が4名しかいない、というのは前にも述べたとおり(→2010.9.28)。
で、人数不足を補うべくサッカー部員がバスケの試合に出ることになったので、その応援に行く。

生徒たちとあんまり接触して集中を切らすと悪いので、応援に来たほかの生徒たちと試合を見学。
ウチの前の試合から見ていたのだが、なんというか、上手いやつが触るとボールが喜ぶ感じがする。
明らかに周りよりもレベルの高いプレーをする選手がいたのだが、そいつが触るとボールの動きが変わるのだ。
その様子が、まるでボールが喜んでいるかのように見えたのだ。いや本当に。
これが運動神経に恵まれている人とそうでない人との差なのかーと悲しくなってしまった。

さて肝心の試合は一方的にやられて負け。わが助っ人たちは一生懸命やったのだが、まあ正直、
正規の部員のところの差でやられていましたぞ。そんなに足は引っ張ってなかったかな。
部活ってのもなかなか難しいものだなあ、一生懸命にやっても勝てないってのも困るなあと思うのであった。


2010.10.16 (Sat.)

夜、お祭りの見回りに参加する。生徒たちはみんなオレを見つけるとケータイで激写してくるので困る。


2010.10.15 (Fri.)

「アレだろ、『AKB』ってのは『あきれたぼういず』のことだろ」ってボケても平成生まれはツッコんでくれない。


2010.10.14 (Thu.)

チリの落盤事故で作業員33名全員が無事に救出された件についてちょろっと書いておく。

事件の概要については特に詳しく述べるまでもないだろう。事故発生は8月5日。生存は絶望視されていたが、
なんと2週間以上経ってから掘ったドリルにメモがつけられていたことから全員の生存が確認され、事態は一変。
以後、世界じゅうの注目を集める中で救出作戦が進められ、このたび見事、救出に成功したというわけだ。
世の中には嫌なニュースが蔓延しているのだが、不幸の中にこれだけはっきりと希望が報じられたのはすばらしいことで、
ご多分にもれず僕も連日の報道をちょこちょことチェックはしていた。そして一人の犠牲者も出すことなく救出できたのは、
まさに快挙ということで世間と同様に大盛り上がりである。いやー、よかったよかった。

あちこちの報道を綜合するに、全員が生還できたのは冷静な判断のできるリーダーの存在が大きかったようだ。
生還につながった彼らのサバイバルの方法論が具体的に明らかになってくると、その判断の的確さに驚かされた。
途中には見えない選択肢が無数にあり、気づかないまま誤ると生き延びることのできる日数が減っていく。
ややゲーム感覚的な捉え方だが、それらの選択肢をことごとく正解していって生還を勝ち取った、そういう印象がするのだ。
冷静に最善の策を選び続けながら、仲間たちを統率する。リーダーの資質というのは本来凄まじいものなんだな、と思う。
言うは易し、行うは難しどころの騒ぎじゃない難しさだ。極限状態において、それは決定的なものとなる。
リーダーになりたいと思っている人間の多さと比べると、それにふさわしい能力のあるなしというのは、実に残酷なものだ。
もっとも、正しい判断の根拠には経験が重要な要素となるわけだから、コツコツやってりゃ多かれ少なかれ資質は伸びる。
まあつまり、生き残るには頼れるやつのそばにいるか、地道に経験を積んで頼れるやつになればいいってことだな。


2010.10.13 (Wed.)

テストをつくらなければいけないのである。
四国からの帰りの飛行機の中で、ある程度長文問題の構想は練っておいたのだが、
それをきちんと形にしなくてはいけない。特に僕は出版社出身というプライドがあるので、
テストの組版というかレイアウトのデザインについては毎回それなりに凝っているのである。

で、結局今回も泣きながらテストのデザインをやることになる僕なのであった。
時間がない中であれこれ細かい部分を調整するのは本当につらい。でもやらないと気が済まない。
まったくわれながら困った性格をしているもんだ。ヒー


2010.10.12 (Tue.)

四国旅行の最終日である。今日は大洲やら宇和島やら内子やら愛媛県の観光名所をぐるっとまわるのである。
最終的には松山に戻って飛行機で帰る。できれば夜行バスにしたかったが、到着時刻の都合で断念。
さて最初の目的地は大洲なのだが、愛媛県西部の鉄道はちょっとややこしいことになっている。
海辺を行く予讃線が先に通っていたのだが、内陸部の内子を経由する内子線が開通して2つのルートがあるのだ。
前回の四国旅行で内子線ルートは通っているので(特急は内子経由なのだ →2007.10.7)、
今回はわざわざ伊予長浜経由の海沿いルートをのんびりと行く。……ええ、まあ、これで予讃線は完乗ですが。

●06:06 松山-07:44 伊予大洲(伊予長浜経由)

トンネルや高架で豪快に突っ走る内子経由のルートとはちがい、伊予長浜経由は実にローカル色が濃い。
山の斜面がそのまま海へと落ち込んでいく海岸線を、国道378号とともにそのままなぞっていく。
通学する学生たちを適度に乗せて淡々と進んでいくが、やはり車窓から望む海は穏やかで美しい。
列車は伊予長浜から山の中に入り、学生たちを乗せながら分厚い雲の下を川沿いに進んでいく。

 
L: なだらかな海岸沿いに列車は走る。  R: 向こうに見えるのは屋代島(周防大島)かな?

伊予大洲駅に到着すると、大量の学生たちと一緒に僕も列車を降りる。時刻はまだ8時前だ。
大洲市の観光名所は駅からだいぶ南、肱川を渡った先にある。のんびり歩いてそこまで行けばいいのだ。
いかにも旧来の街道の雰囲気を残すスケール感の商店街を行く。意外なことに、店はどこまでも続く。
昔ながらの昭和っぽい看板を掲げた店たちが、肱川橋に至るまでの600mほどの区間をずっと埋めている。
自分を取り巻くその光景をぐるぐると眺めながら歩く。それだけで、どこか心地よさを感じる。

 
L: 伊予大洲駅。これは後で青空が見えだしてからの写真。大洲の中心部からはちょっと距離がある。
R: 駅から南に伸びる商店街を行く。ご覧のとおり、どこか懐かしさを感じさせる雰囲気。店がずっと続く。

肱川橋の手前で商店街に並行していた国道56号に出る。自転車に乗った学生たちがチラチラ行き交う。
橋を渡る途中、右手には大洲城が見え、左手には臥龍山荘から広がる大洲の街が見える。
歩けるだけ歩いてやろう、とやる気がみなぎってくる。まずは市役所から攻めるのだ。
大洲の中心部に入ると、そのまままっすぐ南に抜ける。山へと上がっていく麓にあるのが大洲市役所。
……なのだが、なんと見事に改修工事中。本日最初の市役所でコレとは、ちょっとガックリである。

 改修工事中の大洲市役所。うーん、残念。

気を取り直し、大洲の街を歩いてみる。さっきは駅から続く昭和な商店街に感心しながら歩いたが、
中心部もそれに劣らず昔懐かしい雰囲気にあふれている。さらに進んでいくと、「明治の家並み」。
実際に明治から大正にかけての建物が並んでいるのだという。なかなか大洲というのは面白い場所だ。
江戸に始まり明治・大正・昭和と、さまざまな時代の痕跡を味わうことができる。ただ歩くだけでも楽しめる。

  
L: 大洲の中心部。昔ながらの道の広さに住宅と個人商店が入り交じっている。特に和菓子屋が多い気がした。
C: なんだかタイムスリップした気分になってくる。  R: 明治の家並み。大洲の街にはいろんな表情がある。

さて大洲といえばなんといっても大洲城。この城のすばらしい点は、4つの櫓が現存している点だ。
このうち2つは天守と連結して建っており、あとの2つは川べりと市街地にそれぞれ残っている。どれも重要文化財だ。
それらをひととおりまわってみようというわけなのだ。まずは大洲城の天守を目指して西へと歩いていく。
すると大洲城のまん前に大洲市民会館が現れる。1968年竣工で、かなり古びてきている印象を受ける。
デザインはなかなか個性派で、司馬遼太郎は痛烈に批判したというし、評判はあまりよくない模様。

 大洲城二の丸跡にある大洲市民会館。オレはそんなに嫌いじゃないよ。

市民会館の前をするっと抜けて、石垣の脇の坂道を上っていくと大洲城の本丸である。
まずはこの本丸から、周囲を景色を眺めてみる。大洲の街においては、肱川の存在感がとにかく圧倒的だ。

  
L: 肱川沿いの大洲市中心部。狭い範囲に建物がびっしり。  C: 改修工事中だった大洲市役所のさっきと反対の面。
R: これは伊予大洲駅方面を眺めたところ。やはりビルと住宅たちが川沿いの平らな土地を埋め尽くしている。

大洲城は藤堂高虎と脇坂安治によって整備され、その後に加藤貞泰が藩主となり、そのまま明治まで続いた。
現在の天守は2004年に再建されたもので、東に台所櫓、南に高欄櫓(ともに重要文化財)を従えて建っている。
天守の最大の特徴は、建築当時の工法により完全に木造で復元されている点だ。だから中に入ると天守だけ新しい。
でも外観はまったく違和感がないようにつくられており、100年ほど建てば中身の違和感もなくなってくるだろう。
かつての天守に関する資料が非常に豊富だったからこそ、このような徹底した再建が可能だったそうだ。

  
L: 二の丸より天守と高欄櫓を眺める。天守と櫓は本丸の端っこに建っているのだ。
C: 本丸側より天守と櫓たちを撮影。右の台所櫓(1859(安政6)年築)から入る。左が高欄櫓(1860(万延元)年築)。
R: 天守の内部はこのようにピカピカ。まあそれはそれで、昔できたてだった頃の城を想像できるので、いいと思います。

 こんな凝った注意書きも。大洲ってのは本当に面白いところだ。

真新しい天守と歴史を感じさせる2つの櫓との対比から、100年前の大洲城と100年後の大洲城の両方を想像する。
今はまさに空間の結節点が歴史の結節点というわけだ。ある意味、貴重なタイミングだ。そうしてしばらく時間を過ごす。

天守を後にすると、残る2つの櫓(もちろん重要文化財)を見るべく坂を下っていく。
まずは苧綿(おわた)櫓から。こちらは本丸のすぐ近く、肱川に面して建っている。

 
L: 本丸より眺めた苧綿櫓。堤防と同化してしまっている。1843(天保14)年築。
R: 堤防の下を抜けて肱川側から見た苧綿櫓。本物ならではの迫力はあるが、規模は小さく、どこかちんまりとしている。

最後のひとつは三の丸南隅櫓。こちらは1766(明和3)年築と、4つの櫓の中で最も古い。
隣には藩主の子孫が建てた旧加藤家住宅主屋が残っており、併せて「お殿様公園」となっている。
実際に訪れてみると、お殿様公園のすぐ隣は県立大洲高校のグラウンドで、部活動の真っ最中。
グラウンドに面しているというよりもむしろ、櫓をギリギリ残す形でグラウンドが整備された、といった印象である。

  
L: 旧加藤家住宅主屋。1925(大正14)年築。『男はつらいよ』にも登場したことがあるそうだ。
C: 三の丸南隅櫓。公園内から見るとどうもイマイチ。大洲高校のグラウンドから眺めたかった。  R: 三の丸南隅櫓の内部。

 やっぱり大洲はこうなんですか。

さて大洲といえば、かつてNHKの連続テレビ小説『おはなはん』の舞台となった街である。
『おはなはん』は平均視聴率は45.8%、最高視聴率は56.4%という凄まじい人気を得ており、
大洲の市街地の東側には江戸から明治の建物をうまく使って整備した「おはなはん通り」があるのだ。
せっかくなので、そのおはなはん通りをのんびりふらふら歩きながら、臥龍山荘の方へと向かうことにした。

 
L: おはなはん通り。たぶん大洲観光における拠点となる場所。なかなか雰囲気がよろしい。
R: 休憩所。中は『おはなはん』のロケ写真などが展示されている。『おはなはん』は本当に大人気だったようだ。

市街地の東端にあるのが臥龍山荘だ。貿易商・河内寅次郎が1907(明治40)年に完成させた邸宅である。
門を抜け、苔の生した狭い石段を上って中に入ると、まず母屋の臥龍院。細かい部分に工夫を凝らしている建物で、
床板や天井、欄間に襖、さらにその引手など、うっかりしていると見逃してしまいそうだが、どれもこだわりに溢れている。
そうして部屋ごとにテーマを設定しており、それぞれ独立した世界観を徹底して持たせてあるのが面白い。
奥に進むと茶室の知止庵、そして崖の上に不老庵がある。不老庵は槙の木をそのまま捨て柱として利用している。
建物に負けず劣らず、地面に埋め込まれた石もまた面白い。さまざまな形の石が並べられており、飽きさせないのだ。
緑が多いのと曇り気味の空のせいで明るさに欠けた印象となってしまったのは残念だが、なかなかよろしかった。

  
L: 庭を少し進んでから振り返って眺めた臥龍院。細かい工夫が各部屋ごとにいっぱいあった。
C: 臥龍山荘の庭は、苔の中にさまざまな形の飛び石が配置されている。  R: 不老庵と槙の捨て柱。

臥龍山荘を後にすると、1901(明治34)年に大洲商業銀行として建てられた「おおず赤煉瓦館」に行ってみる。
南東側からアプローチしたところ、「大洲まぼろし商店街一丁目 ポコペン横丁」という一角に入り込んでしまった。
ここは昭和30年代の街の風景を再現した場所で、ホーロー看板をはじめ、さまざまな懐かしいグッズが並べられている。
しかしながら営業というか運営というか、やっているのは毎週日曜日だけなのである。今日は平日なのでお休み。
しょうがないので日曜日の賑わいを脳内で勝手に想像しながら先へ進んでいくのであった。

  
L: ポコペン横丁の入口を振り返ったところ。懐かしいデザインの車が置いてある。車のデザインって確かに変化しているなあ。
C: ライヴが開催されるときにはここが観客席になるそうだ。ホーロー看板はやはり重要なアイテムなんだなあ。
R: そういえばビールケースって昭和のアイテムになるのか。道端に置いてある光景って最近本当に見ないもんな。

いちばん奥には「思ひ出倉庫」というレトログッズを集めた資料館があり、こちらは開館中なので入ってみた。
この手の資料館はけっこうあちこちにあるのだが(たとえば高山 →2009.10.12)、なかなかがんばっている感じ。
さらに期間限定で「昭和の青春 僕らに初めてアメリカを教えてくれたCokeとVAN展」ってのもやっていて、
そちらは無数のコカ・コーラグッズとVANグッズで埋め尽くされていた。VANが好きなcircoさんは大喜びかもしれんなあ、
なんて思いつつ見てまわった。いや本当に、めちゃくちゃたくさんの種類のグッズがあってたまげた。

 
L: 思ひ出倉庫。ここが開いていてくれたおかげで存分に楽しめた。VANグッズの量には驚いたなあ。
R: 昔の給油ポンプとマツダキャロル。日曜だけとはいえ、よくがんばっているなあ、と思う。

もし日曜にポコペン横丁を訪れていれば、また違った印象がしたのは間違いないはずだ。
でもここを平日に訪れたことで、昭和30年代の雰囲気を過去のものとして冷静に見つめることができた気がする。
ひと気のない静かなレトロ空間を味わっていたら、もう本当に夢の中を歩いているような気分がしたのだ。
確かにある場所、そして確かにあった時間を、独りきりでさまよう。これはなかなかできる体験ではない。
時間と空間の興味深い共犯関係とでも表現できようか。実に貴重な体験をさせてもらったと思う。

最後に、「おおず赤煉瓦館」の本体。本館は物産コーナーとして大洲の土産物がいっぱい並んでいる。
奥には新しめの別館があり、古い映画のコレクションや鉄道関連のコレクションが展示されている。
正直なところ、もっと凝ったファサードのレンガ建築は、全国にまだまだちょこちょこと残っている。
それらに比べるとどこか物足りなさを感じてしまうのは確かだ。でも、櫓や街並みが残されている大洲の街、
その中にある存在として考えてみると、おおず赤煉瓦館の持っている本当の価値がわかる。
そしてまた、大洲城天守のように新しい建物が、歴史の中へと刻まれていく。
大洲という街には、独特の「こだわり」があるのだ。肱川橋を渡りながら、そんなことを考えていた。

 
L: おおず赤煉瓦館。適度に古びた雰囲気が残る。  R: 去り際に、肱川越しに望む大洲城を一枚。

伊予大洲駅へと向かう帰り道、10時を過ぎて商店街の店たちはすでに開いている。
やはり穏やかな雰囲気で、やや活気に欠けるのは否定できないが、でもその落ち着きが好ましく思えた。

●10:49 伊予大洲-11:30 宇和島 [特急]宇和海5号

伊予大洲から特急でさらに先へと進む。途中で八幡浜を通過する。時間の都合ですっ飛ばしたが、けっこう残念。
八幡浜のちゃんぽんもぜひ食べてみたかった。ちゃんぽんは、実は長崎(→2008.4.27)だけのものではないのだ。
そんな僕の思いも乗せつつ特急は一路、南へ。終点の宇和島駅に着いた頃にはすっかり晴天となっていた。

宇和島は前回の四国旅行でも訪れているが(→2007.10.7)、なんせ滞在時間がたったの1時間だった。
それで宇和島市役所と宇和島城を走りまわることになったので、今回はそのリベンジといくのである。
といっても、今回の滞在時間は1時間25分。大して変わらんやん!とツッコミが入るかもしれないが、
その増えた分で宇和島城天守の中に入り、宇和島名物の昼メシを食べるのである。まあ、忙しいことには違いない。

前回の宇和島訪問は早朝だったので、商店街はどこも開いていなかった。でも今回は違うのだ。
巨大なアーケードの宇和島きさいやロードをぷらぷら歩いて宇和島城方面へ。
シャッターを閉めた店が正直多くてそれほどの元気は感じられないのだが、アーケードのつくりが実に豪華で、
光をたっぷりと採り込むようになっているので雰囲気は悪くない。淡々と営業している印象である。
そしてなぜか、行き交う人の数よりも置いてある自転車の数の方が圧倒的に多い。たっぷり駐輪してある。
そのせいか、実際にアーケードにいる人はまばらなのに、人の気配が妙にするので寂しさはほとんどないのだ。
夕方ぐらいになると、街の人たちが一気に押し寄せるのかもしれない。宇和島も面白い街である。

  
L: 宇和島駅。上にはホテルが乗っかっております。  C: 駅から商店街へ至る道。うーん南国風。
R: 宇和島きさいやロード。なぜこんなに自転車がいっぱいあるのか。とても不思議だ。

前回とは逆に、桑折(こおり)氏武家長屋門から宇和島城を目指す。一度来ているのでまったく迷うことなく、
スイスイと石段を上っててっぺんへ。相変わらず、本丸から眺める街の様子が美しい。
宇和島城の天守と向き合う。やっぱり相変わらず小ぢんまりとしているが、均整の取れた姿にしばし見とれる。

  
L: 桑折氏武家長屋門。  C: 宇和島城への道のり。市街地の中にある山を利用した、典型的な平山城だ。
R: 宇和島城天守。現在のものは1671(寛文11)年に竣工。天守はあるけど、櫓がまったく残っていないのはさびしい。

さっそく宇和島城の中へと入る。宇和島城についての解説は前回訪問時のログを参照なのである(→2007.10.7)。
現存12天守の中で唯一、障子戸が残っているという特徴がある。おかげでその分、往時の雰囲気を味わえる。

 
L: 宇和島城天守1階。真ん中には模型が置いてあり、周囲には全国各地の天守の写真が飾られている。
R: 天守3階(最上階)。瓦や棟板などが置かれている。外からの光がけっこう入ってくるのだ。

最上階の3階から、宇和島の街を眺める。天守からの眺めは高さが増したおかげで、より美しく映る。
山々の間にある狭い平地を街が埋め尽くす。宇和島のたくましさを感じる景色である。

  
L: 宇和島駅方面(北東)を眺める。山々に囲まれながらも、街はたくましく平地いっぱいに広がっている。
C: 南東を眺める。やはり街が山の間を埋める。  R: 本丸とその先に広がる海。きれいだなあ。

来た道を戻ってきさいやロード方面に出る。そろそろ昼メシの時間だ。宇和島名物・鯛めしをいただくことにするのだ。
宇和島における鯛めしは、藤原純友以来の歴史があるのだという。藤原純友に代表される瀬戸内の海賊たちが、
醤油に浸した魚の刺身をご飯の上に乗せて混ぜ合わせて食べていたのが、この料理の始まりなんだそうだ。
今では三枚に下ろした鯛を醤油ベースのタレに漬け込み、それを一気に熱いご飯にかけて食べるやり方になっている。
タレの中には玉子が入っており、当然それをといてかき混ぜるわけだが、この玉子のおかげでなんとなく、
「鯛めし=醤油っ気の濃いたまごご飯+鯛」という印象になってしまったのであった。いや、旨かったけどね。

 
L: 宇和島名物の鯛めし。海賊っぽく豪快にぶっかけて食べるべし。鯛の風味を味わうには、正直あまり向かない。
R: とってもマッシヴな南予文化会館。南予における宇和島の中心っぷりを示す建物である。

1時間半弱でやれるだけのことはやったが、やっぱりまだ消化不良なのである。きちんと宇和島を味わった気がしない。
もうちょっと時間をかけて旅行しないといけないよなあ、と反省しながら駅の改札を抜けるのであった。
そしたらホームに停車していた特急列車には、なんと、ばいきんまんのラッピング。これにはたまげた。
いくらJR四国が『アンパンマン』をフィーチャーした列車を走らせているとはいえ、わるもんを抜擢するとは。

 アンパンマン列車「ばいきんまん号」。

グリーン車の中に入ってまたびっくり。内装も、ばいきんまんがしっかり主役となっていたのである。
こういうことが成立するくらいに『アンパンマン』は人気ってことなのか。……うーん、すげえ。

●12:55 宇和島-13:49 内子 [特急]しおかぜ22号

グリーン車の乗り心地は非常に良く、ゆったりと座っているうちにすっかり眠ってしまった。
そして突然、ハッと目が覚める。窓の外を見ると、高架のホームに停車しているところ。見覚えのある光景。
瞬間、これはまずい!という予感がして、広げていた荷物をあわててまとめ、転がるようにホームに出た。
よく列車の中に忘れ物をしなかったものだと今でも思う。茫然として「ばいきんまん号」を見送ると、
あらためて駅名標を確認する。果たしてそこには「内子」とあった。タッチの差で、下車しそこなうところだった。
助かった。大きく深呼吸をしたら、なんだか脱力してしまった。快適すぎるグリーン車というのも危険なものだ。

というわけで、どうにか内子に到着。着いてまず最初にすることは、レンタサイクルの申し込みだ。
内子の古い街並みは、駅からかなり離れたところにある。自転車を使ってそこまで移動し、後は歩くという算段だ。

 内子駅。内子経由の予讃線が高架で通ったのでこういう姿になったのだろう。

内子駅前には立派なロータリーがつくられ、SLがポンと置かれている。でもそのスケール感は、
明らかに内子本来の街のスケール感とはズレており、どこか噛み合っていない印象を受ける。
なんとなく首を傾げつつ、ペダルをこぎ出す。この日はどうやら地元でお祭りがあったようで、
子どもたちがそれらしい恰好で練り歩いていた。そういうときに部外者が訪れるのは、なんだか申し訳ない気分だ。

内子における最大の見どころは八日市・護国の街並みともうひとつ、内子座である。
内子座は1916(大正5)年築の劇場で、1985年に復元された。意外とその歴史は新しいのだ。
もちろん今も現役で使用されており、催し物があるときには内部見学ができない。
この内子座は内子駅から八日市護国までのだいたい中間地点に位置している。
というわけで、まずは内子座から攻めるのだ。メインストリートの本町通りから一歩奥に入ったところにある。

  
L: 内子座。正面前にはあまり空間的な余裕がないので撮影するのが非常に厳しい。
C: あらためて正面から撮影。  R: 角度を変えて撮影。目の前にワッと迫ってくる迫力がある。

おそるおそる細い路地を行くと、内子座は住宅地の中にいきなりその姿を現す。思わず声が漏れてしまう。
非常に堂々とした外観で、惚れ惚れしながらデジカメを構えるが、道幅が狭いのでうまく収まらない。
向かいの住宅の敷地に入り込むギリギリのところでこらえて、どうにかシャッターを切った。

300円を払って中に入ると、その美しさに圧倒されてしまった。外観も見事だが、中はそれ以上だ。
明治末から大正にかけて、内子は木蝋などの生産で大いに栄えた。その当時の勢いが、見事に再現されている。
まず中に入って目に入るのは、1階の枡席。1950年には椅子の席に改造されてしまっていたというが、
この枡席に復元されたことで、内子座本来の役割そして魅力がきちんと実感できるわけだ。

  
L: 内子座1階客席。枡席という様式がもたらす感覚に新鮮さをおぼえてしまうほどに、僕らは西洋化されていたのか。
C: 花道より眺める舞台と枡席。  R: 舞台より客席を眺める。この光景はなかなか味わえないものですよ。

1階と2階の桟敷席は1967年に一度撤去されている。内子座を商工会館として使うための措置だったそうだ。
そうして内子座はいわゆるホールとして機能していたという。味気ない、ただのホールとされてしまっていた。
だが内子の街並みの貴重さが見直され、観光資源として広く認知されていく流れの中で、内子座も蘇ったわけだ。

  
L: 花道から反対側の桟敷席を眺める。風情があるなあ。  C: 2階の桟敷席に上がってみました。
R: 桟敷席はこんな感じになっております。この桟敷席がきちんと復元されたのも非常に大きい。

 2階桟敷席から舞台を眺めたところ。とてもよく見える。

客席だけでなく、内子座の隅々まで歩きまわって過ごす。当然、奈落にも入ってみるのだ。
こちらは近年になってかなりしっかりと整備し直したのが、薄暗い中でもよくわかる。
奈落は奈落で客席とはまったく異なった世界となっている。必要最小限の狭さしかない、迷路のような空間。
突き当たりには回り舞台の装置がある。ひとつひとつの工夫が完成されたもの、様式となっているわけだ。

  
L: 舞台袖にある奈落への入口。こりゃもう、行くしかないぜ!  C: 奈落の中はこんな感じ。
R: 奥にある回り舞台の装置。かつては人力で回したようだが、現在はモーターで回すんだそうだ。

大興奮しながら内子座の中をあちこち見てまわる。たとえば学校の講堂もしくは体育館なんかも、
舞台周辺はまあ似たような役割を果たすべくつくられている。だから基本的な要素は共通している。
でも内子座はそれだけに留まらず、往時の内子の誇りが直に伝わる再現ぶりとなっているのだ。
そして、かつての日本が自ら生み出した劇場の独自な空間構成を素直に体験できる施設となっている。
僕らの祖先が当たり前のものとしていた空間の様式、それは今ではほとんど見かけなくなったものだが、
それをこの目で実際に見て、またひとつ日本的なものの本質に触れることができた気がした。感動したなあ。

内子座を後にすると、いよいよ本格的に内子の街並みを味わう。
メインストリートの本町通り沿いは、観光名所の八日市・護国に至るまでにも、
ちょこちょこと歴史的な建造物が建っているので気ままにデジカメのシャッターを切っていく。

 
L: 内子町立図書館。1936年に内子警察署として建てられたそうだ。
R: 下芳我(しもはが)邸。約140年前に建てられた木蝋で栄えた商家を蕎麦など和食の店に利用。

本町通りを進んだ先には、商いと暮らし博物館(内子町歴史民俗資料館)があるので寄ってみることにした。
人形を使って大正期の薬屋の日常生活を紹介する施設なのだが、センサーで勝手にしゃべる仕組み。
薬屋の一家と住み込みの丁稚(年齢的には手代くらいか?)の生活が、かなり生々しく再現されているのが興味深い。
丁稚は今の仕事とは別に目指している目標があるようで、いろいろ悩んでいる様子。
ただ空間を再現するだけでなく、登場人物の設定までリアリティたっぷりにつくり込んでおり、
人形を置く展示をかなり有効に活用できている印象。この手の施設にしてはけっこう楽しめたかな。

  
L: 商いと暮らし博物館の中に入るとまずこれ。薬屋の商家建築ってけっこう残っている気がする(→2009.11.32010.4.11)。
C: 食卓の風景。一家の主を中心に上手と下手に分かれて食べる。住み込みの丁稚は座敷の外でいただくのだ。
R: 土間の台所。現代における「キッチン」とはまったく別種の概念からなる空間である。女中さんが愚痴をこぼすぜ!

奥には土蔵があり、内子の歴史や民俗を紹介する展示がなされている。やはりじっくり見ると勉強になる内容で、
なぜこの地がかつてたいへん栄えたのかがよくわかる。こちらも面白かったので満足して土蔵を出ようとしたら、
猫が1匹、展示物の上で寝転がっているのに気がついた。デジカメを向けると面倒くさそうにこちらを一瞥。
その表情がかなり生意気でかわいかったので、なんだかすっかり和んでしまった。

 いかにも気まぐれな猫らしい目つきだなあ。

伊予銀行を目印に、本町通りから分岐する坂道を上っていく。ママチャリにはけっこう急な坂で、
両脇を固める建物も和風のファサードが続く風景となる。いよいよ本格的に内子に来たって感触だ。
この坂道には和ろうそくの店と森文という味噌・醤油の醸造元が向かい合っている。
特に森文は築115年以上という建物が現役で使われており、これがかなりの迫力なのであった。
森文では「酢卵」という健康飲料を売りにしているようで、店先でかなり宣伝をしていたよ。
さらに坂を進むと、1793(寛政5)年築の商家(旧米岡家住宅)を復元した町家資料館。
いちおう中は覗いてみたが、こちらは内容的にはそれほどインパクトがなかった。

 
L: いよいよ本格的に内子に来たぜ!って感じになる風景。この坂を上りきると八日市そして護国。
R: この坂道では森文が元気に営業中。なんというか、古い物と新しい物が融合している場所だったな。

坂道を上りきったところにあるのが、内子の誇る重要伝統的建造物群保存地区、「八日市護国」である。
実は手前の「八日市」と奥の「護国」に分かれるようなのだが、その境界線が正直今でもよくわからない。
八日市護国の入口のところで自転車を駐輪すると、フラフラと気ままに歩いてみる。

上の内子座のところで少し書いたが、かつて内子は明治末から大正にかけ、製蝋業で大いに栄えた。
そのロウの原料はハゼノキという木で、その実からロウ(木蝋、もくろう)を取り出すのである。
もともとは大洲藩によって生産が奨励されていたのだが、明治に入って製法が改善されて発展し、
パリ万博やシカゴ万博で表彰されるなど、内子のロウは世界レベルのブランドとして確立したのだ。
しかし石油などの代替品がつくられたことで商品価値が急激に下がり、大正末にロウの生産は終了してしまった。
八日市護国の伝統的な街並みは、その木蝋バブルとでも呼べそうな急成長によって成り立ったものであり、
また木蝋バブルがはじけてしまったことで姿を変えることなく維持されてきたものでもあるのだ。
(街道から山裾へ、坂を上ってちょっと奥に入ったところにあるという立地条件も大きかったようだが。)
そういった経緯をふまえると、現在は「重要伝統的建造物群保存地区」として観光名所となっている場所も、
いわば日本の歴史における示準化石みたいなものなのかもしれないな、なんて思う。まるで考現学の考古学だ。
でも確かに、この場所にはその時代にふさわしい繁栄があった。それは正しく認識しないといけないことだ。

八日市地区にはかつての豪商の邸宅が建ち並ぶ。今も現役の住宅なので、中に入れるものは少ない。
自動車ではなく人間のスケールでつくられた道の両側を、たくさんの工夫を凝らした邸宅が固める。
道幅が狭くてうまくカメラの視野に収まらないのが残念だが、それが近世日本の本質なんだからしょうがない。
それにしても護国八日市の古い住宅たちに施された飾りは本当に凝っている。
1階レベルでは道との連続性を考慮した仕掛け、2階レベルでは屋根を含めて意匠の工夫が実に見事なのだ。
目地の漆喰を立体的に浮き出させた海鼠(なまこ)壁、鬼瓦の上で突き出している鳥衾(とりぶすま)、
その名のとおり虫カゴみたいな虫籠(むしこ)窓、破風板の下に取り付けられた彫刻の懸魚(けぎょ)、
外側に張り出してつくられている出格子(でごうし)など、デザイン上の贅沢な工夫を挙げるとキリがない。
単純に古い建物が並んでいるだけではなく、道の幅が「そと」と「うち」の両方に変化するちょうどいいバランスであり、
住民たちがその特性を柔軟に生かしながら、時には自らの建物を誇り、時には八日市全体を誇る、
個の美しさと集合の美しさの両方を実現している光景が独特なのである。

内子の住宅におけるさまざまな工夫を味わうには、本芳我(ほんはが)家住宅がいいらしい。
なるほど確かに、海鼠壁に鳥衾に出格子に懸魚など、あらゆる特徴が盛り込まれた決定版という印象だ。
非常に残念なことに、内子で最も古い大村家住宅と内部見学のできる上芳我(かみはが)邸は改修中。
それでも上芳我邸に併設されている木蝋資料館は開館しているので、裏から入って見学してみた。
館内はなかなかきれいな内装で、適度に明るい。木蝋づくりとかつての内子の繁栄ぶりをしっかり勉強できる。
資料がとても豊富でかなりわかりやすく、大いに満足できる内容なのであった。

  
L: 内子・八日市の街並み。趣向を凝らしに凝らした住宅たちが、観光客を取り囲む。これには圧倒された。
C: 本芳我家住宅。1889(明治22)年築で、重要文化財に指定されている現役の住宅である。飾りの量が凄い。
R: 上芳我邸の木蝋資料館に入ってすぐのところ。和風テイストをうまく現代風にアレンジ。展示内容も充実。

  
L: 江戸時代末に染物屋だったという商家を利用した八日市資料館。
C,R: 本芳我家住宅ほどではないにせよ、さまざまな工夫が凝らされている八日市の住宅。

古い建物のひとつひとつに圧倒されながらさらに進んでいくと、清正川という川を渡る。
おそらくここを境にして、八日市と護国に分かれるのだと思われる。雰囲気が少し変わるのだ。
大きめの邸宅が並んでいる八日市と異なり、川を渡ると比較的質素な(それでも凝ってはいる)住宅が並ぶ。
そのせいか、道幅が少し狭くなった印象を受ける。穏やかな住宅の軒先では地元の農産物が売られている。
華やかな印象はそれほどないのだが、手入れされた古い建物がしっかり活用されている美しさは変わらない。
こちらでは江戸時代後期の建物だという八日市護国町並保存センターが中心的な存在となっている。
内子町の出先機関や町並み保存会の事務所となっており、大工道具や街並み保存についての展示もある。

  
L: 豪華さが印象的な八日市とは少し異なり、穏やかな住宅地という雰囲気の護国。
C: 八日市護国町並保存センター(旧藤岡家住宅)、2階の展示室はこんな感じである。
R: 護国の家は八日市と比べるとだいぶ質素な印象だ。現役の個人住宅で、地元の農産物を売っている。

最後に、内子町役場の内子庁舎を撮影する。内子町は2005年に合併して町域を広げたのだが、
その代償として町役場の本庁を旧五十崎町庁舎に譲ることになった。よくあるパターンである。

 内子町役場内子庁舎。大洲街道(国道56号)に面している。

八日市護国の街並みを比較的ゆったりと堪能したおかげで、駅に戻るのはけっこう急ぎになってしまった。
レンタサイクルを無事に返すと大股で階段を上って駅のホームへ。程なくして特急列車がやってきた。

●15:51 内子-16:18 松山 [特急]宇和海16号

JR四国全体でそうなのか予讃線だからそうなのかよくわからないが、特急にはグリーン車があったりなかったり。
松山へ戻るこの列車には、残念ながらグリーン車はついていなかった。ゆったり帰りたかったのだが。
さっきグリーン車で居眠りぶっこいたせいで乗り過ごしかけたくせに現金なものだ、と自分でも思う。

30分弱であっさりと松山に到着。もし松山駅から遠くなければ道後温泉に押し掛けるところなのだが、
さすがに何かあるとマズいだろうという判断で、おとなしく松山駅周辺でしばらく過ごす。
でも駅周辺には特に面白いものはないわけで、適度に切り上げてあっさり空港行きのバスに乗った。

松山空港に到着すると、土産物を見たり日記を書いたりして過ごす。
松山名物の「タルト」(あんこをカステラで「の」の字に巻いた菓子)を擬人化したキャラクターが面白く(⇒こちら)、
思わずストラップとシールを買ってしまった。地球を征服しにやってきた宇宙人という設定なのだが、
しゃべるのは伊予弁。しかもかなり難しめの伊予弁なので、どういう意味なのかがよくわからない。
でも面白いので満足なのだ。シールは英語の授業のご褒美にしてみよう。

腹が減ったのでレストランでメシを食うことにする。何にしようかとメニューを見ていたら、
八幡浜名物のちゃんぽんがあった。これはもう、食うしかないだろう。迷わず注文する。
長崎のちゃんぽん(→2008.4.27)と違い、八幡浜のちゃんぽんは醤油の風味が非常に強い。
でも具材は確かにちゃんぽんなのである。長崎もよかったが、これはこれでかなりおいしい。
ぜひともこれはいずれ本場で食いたい!と思うのであった。懲りない男である。

 
L: 夕暮れの松山空港。  R: 八幡浜ちゃんぽん。具材はそのままで醤油味。すごく旨かったです。

地方グルメってのは本当にキリがねえなあ、と思っているうちに飛行機は離陸。
県庁所在地めぐりが終わったわけで、次に飛行機に乗る機会はいつの日か。

●19:40 松山空港-21:05 羽田空港

空港から電車を乗り継いで家まで戻る。振り返ってみると、夢のような3日間だった。
四国旅行ではバースデイきっぷをフル活用しようと欲張るので、どうしてもすべてが駆け足になってしまう。
でもやりたいことをとことんやり尽くした、非常に満足のいく旅行だった。あと残すは徳島線と鳴門線だな!


2010.10.11 (Mon.)

朝、まだ暗いうちに宿を出る。といってもチェックアウトはしない。あくまで外出なのである。
ひと気のまったくないアーケードの商店街を南下していく。アーケードが終わると観光通りという大通りに出る。
面白い名前だが、これは高松の市街地と観光地の屋島を結んでいることが由来なんだそうだ。
そのまま観光通りを東へ行く。その頃には日が出て、空が明るくなる。写真撮影には少し暗いが、贅沢は言えない。
観光橋で御坊川を渡るとフランス語のCMでおなじみのセシールのビルがあり、その奥に目的の建物があるのだ。
山田守設計のNTT西日本高松診療所。1962年に高松逓信病院として竣工した。公共建築百選に選ばれている。
本当ならもっと余裕のある時間に来たかったのだが、予定が詰まりに詰まった旅行なのでしょうがない。

  
L: NTT西日本高松診療所。実にモダニズムな建築である。アアルトの「パイミオのサナトリウム」の影響を感じるなあ。
C: エントランスはこのようになっている。手すりというか柵というかがとってもモダン風味。  R: こちらは奥にある棟。増築だな。

いざ実際に見てみると、地味ながらも気品を感じさせる建物で、シンプルなのだが見飽きることがない。
敷地をぐるっと一周すると、折れ曲がった建物をつなぐ位置に円形でスロープがつくられていた。
病院だけに、車椅子の利用者のためにこのように配慮したということだろう。ガラス張りで中はなかなか気持ちよさそうだ。

  
L: 円筒形の裏手にはスロープ部分。  C: 拡大してみた。今どきの建築では見かけないだろうけど、面白い。
R: 奥にある棟を、駐車場を挟んで遠景で撮影。こっちはいつも見ている庁舎建築とあまり変わらないなあ。

撮影を終えるとそのまま戻って中央通りまで渡ってしまう。目的地はもちろん香川県庁。
高松を訪れておいて丹下健三設計の庁舎(今は「東館」)を無視するわけにはいかないのである。
香川県庁は何度見ても面白い(前回訪れたときのログはこちら。→2007.10.6)。

  
L: 香川県庁舎。ピロティ部分と奥にある本館。  C: 香川県庁舎東館。県庁舎の傑作を1つ選べと言われたらコレかな……。
R: 本館。潤平が「絶対に丹下が設計していないのに丹下の設計扱いにしちゃうのはやめようよ」って言ってた。賛成。

さて腹が減った。前回もお世話になった、高松高校の生徒御用達だという「さか枝」に行ってみる。
が、祝日ということで休み。ものすごく残念である。ここで気持ち悪くなるまでうどんを食ってやろうと企んでいたのだが。
しょうがないので県庁の向かいのうどん屋に入る。さか枝ほどのアットホームさはなく、ふつうにきれいなうどん屋。
しかしさすがに讃岐のうどん屋はレベルが高い。しっかりとコシのあるうどんを腹いっぱい堪能して満足したのであった。

 うどんイエー。

腹ごなしに高松市役所も撮影してしまうのだ。中央公園の中に入って、広場の真ん中から撮影。
当然、前回訪れたときにも撮っているが、適度に距離をとって撮影してはいなかったので、これでヨシとするのだ。
宿に戻る途中では百十四銀行本店も再び撮影。こちらは建物の裏側を補修工事中なのであった。

  
L: 高松市役所。1980年竣工である。こうして見ると、典型的な昭和50年代保守庁舎って感じですな。
C: 百十四銀行本店。ブロンズ色の側面にモダンなサッシュが印象的。  R: 北側を補修工事中。

宿に戻って荷物をまとめると、急いで高松駅へと向かう。できることならじっくり高松を歩きたかったが、
(前回訪れたときは先に直島に行ったので、それほど高松を激しく歩くことはなかったのだ。→2007.10.5
やっぱりそんな余裕はないのであった。栗林公園も高松城址の玉藻公園も入口だけとは情けない。
いつかきちんと高松だけをテーマに街歩きをしたいものだ。

  
L: 玉藻公園(高松城址)入口。中は有料(200円)で、あちこち見学する時間がないのが悔しい。いつか入りたい。
C: 中央通り。国道30号で、中央公園以南は国道11号。  R: 四国の玄関口・高松駅。

バースデイきっぷで自動改札(3年前にはなかった)を抜けると、土讃線に乗り込む。目的地は丸亀だ。

●07:54 高松-08:30 丸亀

前回の旅行では華麗にスルーしてしまった丸亀なので、今回はしっかりと歩きまわるのである。
個人的には丸亀にはちょっと切ない思い出があるのだが、それをエネルギーに変えてがんばるのだ。

 丸亀駅。ピーター=ウォーカー設計による広場。

丸亀駅前、改札を出て右手には、実に凝った現代建築がある。丸亀市猪熊弦一郎現代美術館だ。
谷口吉生の設計で1991年に開館した施設である。駅前にいきなりコレってのは、かなりのインパクトだ。

  
L: 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館。駅前にいきなりコレがドーンとあるのは非常にインパクトがある。
C: 交差点を挟んで撮影。  R: 奥の方から眺める。こっち側は丸亀市立中央図書館として利用されているのだ。

企画展ではちょうど「キュピキュピ」の石橋義正展をやっていて、『バミリオン・プレジャーナイト』が面白かった僕は、
正直かなり見たかった。美術館の中身じたいも非常に気になる。でも時間がない。あきらめざるをえない。
こりゃもう、何年後かに高松とセットでもう一回来なきゃダメかと思う。キリがないわホントに。

まだまだ店が開くには時間があるので、アーケードは通らずに丸亀市役所まで行くことにした。
街の雰囲気は県庁所在地には及ばない地方都市らしさで、やや衰退している感触が漂っている。
通りはきれいに碁盤目を形成しており、城下町にしては妙に道が広い。実はこれ、堀を埋めて道にしたのだ。
西側からまわり込んで市役所へ。丸亀城の手前のこの一角は、公園があり警察署があり市民会館がある。
かつて外堀だった県道33号を挟んで商業区域が一気に行政区域に変わるのがなんとも面白い。
堀の内側は丸亀藩の侍屋敷地帯になっていたというが、そういった土地の歴史の匂いがしっかりと残っている。
市役所のすぐ南には、かつて歩兵第12連隊が置かれていたという市民広場がある。
なお、市役所の敷地の端にある電話ボックスの上には城の模型が載っていた。こんなのは初めて見た。
で、肝心の丸亀市役所は木々に囲まれて全貌がつかみづらいが、なかなかのモダンスタイル。
典型的な高度経済成長期の庁舎建築という印象である。調べてみたら1964年竣工とのこと。

  
L: 丸亀市役所前にある電話ボックス。これは豪快だ。  C: 丸亀市役所。なんだか懐かしさを感じるなあ。
R: 市役所の前から丸亀城を眺める。丸亀城は亀山公園となっているが、石垣が壁をつくっているようだ。

市役所を撮影してそのまま南を向くと、ひときわ高くなった石垣の上に丸亀城の天守がそびえる。
JRの列車の中からも見える光景だが、この街の誇りがダイレクトに伝わってくる光景である。
丸亀城の天守は、言わずと知れた現存12天守のひとつだ。当然、次の目標はそこだ。

  
L: 丸亀城の敷地内に入るとすぐに坂のお出ましなのだ。これがけっこう急なのだ。
C: 石垣がなかなかすごい。丸亀城の石垣はぜんぶで60mに及ぶそうで、日本一の高さになるんだとか。
R: ちょっと寄り道して下から丸亀城の天守を眺める。でもやっぱり、石垣の存在感がすごい。

急な坂をえっちらおっちら歩いて上っていった先に天守がある。本丸の端っこで、天守というより櫓という印象。
調べてみたらやっぱり正確には御三階櫓だった。弘前城(→2008.9.14)と同じパターンで、同じくらい小さい。
丸亀城は讃岐に入った生駒親正が高松城の支城として建てたのだが、一国一城令で壊されそうになる。
この危機に対して生駒正俊がとった手段は徹底的に木で隠しまくるというもので、それが成功するから面白い。
その後、丸亀に山崎家治が入るとむしろ瀬戸内のキリシタン対策ということで大改修が行われる。
最終的には京極氏がこの地を治めた。現存する天守は1660(万治3)年に京極高和により建てられた。

  
L: 本丸側より眺めた丸亀城天守。思ったよりも小さい。JRから見た場合にはもっと大きな建物に見えるのだが。
C: 天守最上階はこんな感じである。なんせ眺めがすごくいいので居心地はなかなか。  R: 瀬戸大橋を眺める。

とにかく天気に恵まれたので、丸亀の街の眺めが最高だ。そして街の向こうでは海が青く輝いている。
しばらくこの光景に見とれて過ごす。滞在時間が短いのでこの街を味わい尽くすことなど到底できない。
でも今はただ、できる限りで、この街のことを自分の中に焼き付ける。


天守の隣にある展望スペースから丸亀の街を眺める。街、海、そして島がそれぞれに美しい。

あとは丸亀の街を気ままに歩きまわるのだ。まだ10時前ということで、アーケードの商店街はシャッターばかり。
これが10時以降、どの程度賑わうのかは正直よくはわからない。でも、あまり元気さを感じられない。
やっぱり時間的に余裕のない旅行はよくないなあと思うが、それはつまり、四国が意外と広いということなのだ。
四国の各都市は、海沿いにある。それをチェックしていくと、海岸線に沿って長い距離を移動することになる。
この移動が厄介なのだ。特急を使ってもそれなりに時間がかかってしまう。それで、街歩きの時間がなくなる。

  
L: まちの駅「秋寅の館」。 大正時代末に「秋山寅吉商店」として建てられた。今は市の情報コーナー、ギャラリー、会議室など。
C: 角度を変えて秋寅の館を眺める。しかしまあ、アーケードの邪魔なことといったらない。ここだけでもどうにかならないものか。
R: 丸亀のアーケード商店街を行く。きれいではあるが、活気は今ひとつなさそうな感じ……。

どこか消化不良な気分で丸亀を後にする。確かに丸亀城からの眺めはすばらしかった。
でも、丸亀の街をきちんと歩いて味わうことができたかというと、それはできなかった。
今度はしっかり、港の方まで歩いてみたいと思う。そしてうちわのひとつでも買って帰ろう。

●10:09 丸亀-11:33 今治 [特急]しおかぜ5号

続いて訪れたのは今治だ。今治といえばタオル。うちわ(丸亀)の次はタオルなのだ。
さてそんな今治だが、人口は愛媛県で松山市に次ぐ2位、四国全体でも5番目という都会なのである。
今治駅を出ると、そのまま県道157号の大通りを北東へと進んでいく。とても広い道だが、構造がちょっと独特。
2車線道路-分離帯-3車線道路-分離帯-2斜線道路となっているのだ。これはあまり見たことがない。

 
L: 今治駅北口。快晴の空を映して、駅舎はまるで青い魚のように光っていたのであった。
R: 今治駅から伸びる大通り。2-3-2というなんとも奇妙なバランスの道路となっている。

駅から伸びる県道157号は400mほど進んだところで終わるのだが、ちょうどそこにあるのが今治市役所。
ここは市役所だけでなく、公会堂や市民会館が集まっている公共施設の一大集中地点となっているのだ。
そしてこれらはすべて丹下健三の設計による。丹下は幼少期を父親の出身地である今治で過ごしており、
この地に丹下の作品が集中しているのは、まあ当たり前といえば当たり前の事態なのだ。ひとつひとつ見てみる。

  
L: 西側から眺めた今治市役所第1別館(左)と第2別館(右)。第1別館は1972年竣工とのこと。設計はもちろん丹下。
C: 第2別館の方が高いところから察するに、オフィス空間を増やすべく後から第2別館をほぼ同じデザインにしてくっつけたのか。
R: 今治市役所本庁舎(左側)と別館をセットで眺める。本庁舎は1958年竣工で、時期による作風の違いが面白い。

今治市役所本庁舎は豪快に格子を前面に出したモダニズム建築で、実に1950年代の丹下らしい作品だ。
3階建ての横長庁舎は今も全国に現存するが(飯田もそうだ)、ファサードの洗練度合いは段違いなんてもんじゃない。
モダニズムではプラスアルファの造形センスが重要になると考えるが、丹下の初期の問題意識が垣間見えて面白い。

  
L: 本庁舎。広島平和記念資料館(→2008.4.23)、香川県庁舎(→2007.10.6)、旧東京都庁舎(→2010.9.11)との関連が興味深い。
C: 角度を変えて撮影。後ろの別館との違いが非常にはっきりしている。本庁舎は周りにほかの建築がない方が生きる感じがするなあ。
R: 逆側から撮影。特徴的な格子を味わえる。すごいなー箱だなー。

そして市役所の北には公会堂、東には市民会館がある。今治市公会堂は1958年、市役所と同時に竣工している。
その後、住民の活動の場を増やすために市民会館が同じ敷地に建てられた。こちらは1965年の竣工となっている。
公会堂が全面コンクリートのトガった建物なのに対し、市民会館はガラスを使って開放感を演出している。
時代ということもあるのだろうが、市民会館は前川國男の東京文化会館(→2010.9.4)にかなり似ている。

  
L: 今治市公会堂。丹下が「壁」を意識した作品だとか。  C: 側面の凹凸とヤシ類が妙に目立っている。
R: こちらは今治市市民会館。東京文化会館もそうだったけど、実に典型的なモダニズムホール建築である。

県道157号の大通りはこの市役所のある場所で国道317号にぶつかり、クランク状の食い違いとなる。
今度は市役所の正面からまっすぐに道が伸び、広小路(今度は県道14号)となっているのだ。これまた幅が広い。
広小路を突き当たりまで進むと、海に出る。今治港である。海岸沿いは遊歩道となっており、少し散歩する。
真っ青な空の色を映した海はわずかに緑を混ぜて応える。島がたくさん浮かんでおり、せせこましい。
海面から頭を突き出した山々には白い橋が架かっている。たぶんあれが「しまなみ海道」ってやつだ。
前回の四国旅行でも写真に撮ったが、この瀬戸内の景観は独特だ(→2007.10.6)。
この今治の辺りでは特に島が多いように思える。確かにぴょんぴょんとジャンプして島を渡りたくなる。

 
L: 今治の広小路を行く。  R: 今治港にて。大小さまざまな島がポコポコと浮かび、そこにいちいち橋が架かっている。

そのまま今治観光物産館に入る。中は今治の名産品でいっぱいだったが、やはりタオルの存在感は別格だった。
もう少し海を眺めていたかったが、今治市街は思っていたよりも大きかったので、すぐに今治城を目指して南下。
住宅地を歩いていくが、街は見事に碁盤目状になっているので迷うことはない。程なくして城のお堀に出る。
今治城は築城の名手として知られる藤堂高虎によって建てられた。もともとは山の上に城があったのだが、
関ヶ原の合戦も済んで戦略面よりも経済面での利便性が重視され、港のすぐ近くに城が新たにつくられたのだ。
海と堀の間を船で直接行き来することができたそうで、日本三大水城の一つとされている。

今治城の現在の天守は1980年に再建されたもので、中身は博物館的な展示となっている。
最上階は例のごとく展望台となっているのだが、海の方を向けば今治港と瀬戸内の島々が一望できる。
背にした山から一気に下るように、今治は都市の範囲を海へと一気に広げているのがよくわかる。
その都市は青さをたたえた水でしっかりと遮られているのだが、きっと対岸の中国地方で再び広がりだす。
瀬戸内海の海路とは、本来ひとつだった都市の間に割り込んでいる海水を貫いて結ぶ、そういう存在なのだろう。
かつてあったベルリンの壁よりも、瀬戸内の海の方がずっとやわらかい存在なのかもしれないな、と思った。

  
L: 今治城。再建天守はあまり史実に基づていないそうだ。京都の亀山城へ移築されたという説もあるそうで。
C: 天守最上階より今治駅方面を眺める。  R: こちらは今治港方面。非常にいい眺めである。

帰りはさっき歩いた広小路の一本南側にあるアーケード商店街で駅まで戻る。幅は広いが、わりと元気な印象だ。
休日の昼過ぎにしては人がやや少ない気もするが、それがダメージとなっている感じがしない。
天井から光を通すアーケードの構造のせいなのか、雰囲気は明るく、小ぎれい。歩いていても違和感はない。
四国の都市は海岸に沿って点在しており、特に愛媛は海岸線が長い。つまり、各都市は適度に距離がある。
そしてまた今治は瀬戸内海の対岸を向いている街だ。そういった要素が重なり、今治の活力を生み出しているのだろう。

 
L: いまばり銀座を行くのだ。  R: アーケードを行く。四国第5の都市にしてはやや小規模な気も。

駅に戻るとまたも特急列車に乗り込む。青春18きっぷに慣れきった自分には、バースデイきっぷの旅は実に贅沢である。
というよりはむしろ、鉄道の場合、四国では特急を使わないことには時間がかかってやってられないのだ。
こうして特急に乗りまくっていることで、自分が四国にいることを実感するようにすらなってきた。

●12:40 今治-13:14 松山 [特急]いしづち11号

どうにか午後1時台に松山入りすることができた。松山は四国随一の観光都市。見たいところがいっぱいだ。
そのしわ寄せが高松と丸亀に行ってしまったのだが、こりゃもうしょうがないと割り切るしかあるまい。
松山駅から市街地へは距離があるので市内電車のお世話になる。市役所前で降りて松山市役所に再会。
それからちょびっと歩いて愛媛県庁とも再会。3年前(→2007.10.6)と変わらぬ姿になんだか安心するのであった。

  
L: 松山市役所。こちらの本館は1975年に竣工。設計は石本建築事務所のようだ。
C: 愛媛県庁。1929(昭和4)年の竣工で、1994年には大規模な改修工事が行われた。
R: 1980年に建てられた愛媛県庁第一別館。やっぱり足元が変態である。奥にあるのは第二別館。

愛媛県庁を設計したのは木子七郎。『都道府県庁舎』(→2007.11.21)によると、大正~昭和のこの時期は、
知事が特定の建築家に県庁の設計を依頼するパターンがいくつか見られたそうで、愛媛もそうである。
新潟から移ってきた尾崎勇次郎知事は、着任すると建設中の愛媛県庁舎について設計変更を強行。
結果、工費は40%増となったという。尾崎知事は新潟でも木子七郎に県庁舎の設計を依頼しており、
着工後に愛媛に移ったのだ。もっとも、新潟では後任知事により県庁舎の工費が減額され、設計も変更されている。

愛媛県庁の撮影を終えると、そのまま東へと進む。まずは萬翠荘を見てみようと思ったのだ。
萬翠荘は旧松山藩主の家系である久松家の別邸だった洋館で、1922(大正11)年築とそこまで古くはない。
でもまあ奥にある愚陀仏庵(ぐだぶつあん、夏目漱石の下宿先を再建)とセットで見ておこうと考えたのだ。
そしたら愚陀仏庵は7月の大雨で裏手の山が崩れたせいで倒壊したとのこと。うーん、ツイてない。

 
L: 萬翠荘。設計はさっきの愛媛県庁も手がけた木子七郎。 愛媛県美術館分館として利用されたことも。
R: さすがになかなかよいのだが、敷地に余裕がないので正面からビシッと撮影できないのが困った。

目的の施設にトラブルがあって見られないというのは、どうも気分がモヤモヤするものだ。
というわけで腹いせに隣の「坂の上の雲ミュージアム」にも入ることにした。
まあ腹いせというのは冗談で、NHKのドラマのブームに乗っかる形になるのが癪だっただけで、
やっぱり司馬遼太郎の原作には興味があるので、松山に来たからには寄らないと損だと思ったのさ。

 
L: 坂の上の雲ミュージアム。設計は安藤忠雄で、2007年にオープンした。
R: 建物は三角形で、スロープを利用しながらだんだん上に行く構造になっている。

司馬遼太郎の目のつけどころが実によかったと思うのだ。秋山好古・真之兄弟という陸海それぞれの軍人に、
俳句の革命児・正岡子規が関わってくる。体育会系と文科系、うまい人間関係の絡みを見つけたものだと思う。
しかしながら史実をもとにした作品なので、演劇のようなストーリーの流れの飛躍はない。
つまり、三者三様の生き様をそれぞれに描くレベルに終始しているのではないか、という感触なのだ。
だからスタート地点の巧さでやりきった作品ではないかと感じる。まあ、読んでみないとなんとも言えないが。
とりあえず、NHKのドラマをちょぼちょぼと見た限りでは、そういう印象なのである。
三者のストーリーを大胆に交差させることで時代の特性を立体的にえぐり出す、まではできていない感じがした。
もしこれが演劇並みにウソを差し挟んだら、もっと豪快な物語に仕上がったのではないか。
まあその分だけフィクションが強くなるわけで、それは司馬遼太郎の望んだのと正反対の方向性になるだろうけど。

坂の上の雲ミュージアムの展示じたいは非常にオーソドクス。作品と当時の時代背景、両方を押さえている。
来館者に「ドラマだけじゃなくて原作も読んでみたい!」と思わせることには成功していると思う。
ドラマがブツ切りの連続に感じられて面白くない僕でも、ヒマがあれば、ぜひ読んでみたいと思うのであった。

さらに東へ進むと右手に大街道のアーケードが見えてくる。これを目印に反対側の北へと進めば、
松山城へのロープウェイ・リフト乗り場だ。松山城には前も来たが、天守には入らなかった(→2007.10.6)。
今回はきちんと中に入ろうということでリベンジをするのである。迷わずリフトを選択しててっぺんへ。
石垣の通路を抜けて門をくぐって本丸を目指す。途中で松山市街を一望できるポイントがあるのだが、
これがやっぱり美しい。平地を埋め尽くす都市は海までずっと広がっている。さすがは四国でいちばんの都会だ。
条件が良ければ佐田岬まで見えるらしいのだが、残念ながら地平線は白く溶けて見えなかった。
それでも十分、見ごたえのある景色だ。しばらく眺めて小休止すると、天守を目指して再び坂を上がる。

松山城の天守は櫓に囲まれて、なんとなくもっさりしている印象だ。どこか「箱っぽい」のだ。
どうもイマイチすっきりした格好良さがないなあと思いつつ桜並木を抜けると、鎧兜姿のゆるキャラがいた。
その名も「よしあきくん」。モデルはもちろん、松山城の初代城主で松山の名付け親・加藤嘉明である。
世の中なんでもかんでもゆるキャラばかりだ。加藤嘉明は軍事面での活躍が目立つ大名なので、
ゆるキャラに適しているとも思えないのだが。利長くん(→2010.8.24)といいよしあきくんといい、いいかげんにしませんか。

  
L: 太鼓櫓。これは戦後に再建されたもの。  C: 桜並木と松山城天守。櫓に囲まれているけど高さがないのでなんだかもっさり。
R: よしあきくん。松山城築城400年祭のときに誕生したとのこと。嘉明自身は城が完成する前に会津に加増移封されている。

天守の中へと入る。現在の松山城天守は1852(嘉永5)年に再建されたもの。
これは黒船来航の前年であり、見事に幕末である。したがって現存天守の中では最も新しいものとなっている。
そのせいか内部はゆったりと空間的な余裕があり、甲冑があるなど博物館的な展示もなされている。
最上階からは松山の街を眺めたが、松山城のある勝山はそこそこ大きいので、街がちょっと遠い。街じたいも広い。
それでどこか漠然とした印象を受けてしまったのは残念だった。まあ、世の中そう都合のいいもんじゃないわな。

  
L: こちらの門をくぐって内庭から天守内へと入るのだ。  C: 最上階より本丸と松山の街を望む。都会だねえ。
R: 天守最上階の様子。現存天守の中で最も新しいということで、採光十分で広々としており、実に快適。

のどが乾いたので本丸に下りて、自販機でポンジュースを買って飲む。
自販機にポンジュースがあるってのがいい。うーん、まさにオレは今、愛媛にいるぜ!って感じ。

それにしても、松山の観光の演出上手っぷりには恐れ入る。
坂の上の雲ミュージアムの前には明治の軍人の恰好をしたおじさんがおり、来館者にていねいに挨拶をしてくる。
そうかと思えば松山城へのロープウェイ付近には坊ちゃんの恰好の兄ちゃんに、マドンナの恰好のおねえさん。
観光資源の見つけ方、生かし方、何より雰囲気のつくり方。どれも本当に上手い。うらやましくってしょうがない街だ。

 リフトにて。こういう工夫が松山は本当に巧いのだ。

松山城から下界に戻ると再び市電に乗り込む。行き先はもちろん、道後温泉方面だ。
ただ、このまま素直に道後温泉に入るような僕ではない。道後温泉周辺の名所にも、もちろん行くのだ。

 
L: 道後温泉駅。1986年に新築されたが、1911(明治44)年築の旧駅舎を忠実に再現しているとのこと。
R: 道後温泉商店街の入口。相変わらずの賑わいだ。「道後ハイカラ通り」という愛称もある。

わざわざ写真を撮るために終点の道後温泉駅まで乗ったのだが、ちょっと戻って手前の道後公園へ。
ここはかつて瀬戸内海をブイブイ言わせていた河野氏の居城・湯築(ゆづき)城の城跡なのだ。
『信長の野望』では一、二を争う弱小大名としておなじみの河野氏だが(争う相手はもちろん姉小路だ)、
弱小ながらも非常にしぶとい活躍を見せたわけで、なんとなく憎めない存在なのである。

いざ道後公園・湯築城址の中に入ると、まずは資料館で河野氏のしぶとい歴史を味わう。
そして城内を散策。真ん中辺りには展望台があり、松山の街と松山城を両方眺めることができる。
湯築城址の面白いところは、明らかに近世ではなく中世の匂いがするところだ。
それはまず、城が矩形ではなく円形をしているところ、石垣ではなく土を盛った土塁としているところが大きい。
そこにいくつか柵を立てている姿が再現されており、全国に残る城跡たちより前の時代を感じることができる。
大名というよりも、豪族って感じなのだ。確かにこれは近世の城郭とは違う面白さがある。

  
L: 道後公園入口。中は湯築城址として整備されている。土塁に武家屋敷、庭園が再現されて勉強になります。
C: 展望台から松山の街と松山城を眺める。こうして見ると、湯築城址が円形をしているのがよくわかる。
R: 湯築城址の中はこのように整備されている。いかにも中世の戦闘拠点といった雰囲気が味わえる。

道後公園をまっすぐ東へと突き抜けると、そのまま進んで住宅地へと入る。
本当に完全なる住宅地で、案内してくれる地図なんてまったくないから、さすがに迷いかける。
太陽の出ている方角と街歩きの勘とでやりくりし、どうにか目的地にたどり着くことができた。
運が悪かったらめちゃくちゃな方向へと行ってしまっていたかもしれない。困ったものだ。

そんなギリギリの思いをしてやってきたのは石手寺。四国八十八箇所の51番目の札所にもなっている寺だ。
ここには国宝の山門、重要文化財の本堂・三重塔・五重塔などがある。せっかくなので見に来たわけだ。
まず入口から物がいっぱいでにぎやか。回廊も人の名前がびっしり書かれた板が貼り付けられてにぎやか。
回廊の両脇にも土産物や仏教グッズを売る店が小規模ながらも並んでおり、ちょっと雰囲気が面白い。

  
L: 石手寺の境内への入口。この回廊を進んで境内へと入っていくことになるのだ。いろいろと物が多い。
C: 回廊内の様子。  R: 回廊を抜けると国宝の山門(二王門)。実に1318(文保2)年の建立だそうだ。

石手寺はなかなかユニークな寺で、境内に入ると平和を祈る旨が書かれた板が置いてあったり折鶴が大量にあったり、
なんというか、文化財が多い寺にしては何かと騒がしい。住職はいろいろと訴えたいことのある人のようだ。
もちろん観光客の数も多い。まあ、活気があるのはいいことなんじゃないかと思いつつお参り。

  
L: 何の文化財にも指定されていないが、なかなか見事な茶堂。瓦が重そうだなあ。
C: 重要文化財の三重塔。世界の震災や紛争に対して平和を祈る旨が書かれた札が立てられております。
R: これまた重要文化財の本堂。観光客がいっぱい。手前にあるのは密教の金剛杵をオブジェ化したものだな。初めて見た。

寺の次は神社だ。道後温泉方面に戻りがてら、伊佐爾波(いさにわ)神社にお参りする。
かつては湯月八幡宮と呼ばれていたそうで、1667(寛文7)年竣工の社殿は、3つしか現存しない八幡造のひとつ。
さんざん歩いて疲れているのだが、ガマンして石段を上っていく。そうすると見事な楼門が現れる。
中へと入ると本殿があり、その手前でお参りをすることになる。そして本殿を囲む回廊をぐるりと歩く。

  
L: こ、この石段を上がるの……? ウエー  C: 伊佐爾波神社の楼門。おお、さすがにこれは見事だ。
R: 回廊から本殿を眺める。八幡造ってかなりややこしい構造をしているものなんですな。

 回廊を行く。古い絵がいくつも並んでいるのであった。

最後はもちろん道後温泉につかるのだ! 前回は「神の湯」を堪能したので(→2007.10.6)、
今度は「霊(たま)の湯」につかるのだ! これで両方を制覇なのだ! 密かな目標を達成なのだ!
神の湯は青っぽいというか白っぽい印象の光加減だったのに対し、霊の湯はオレンジっぽい。
湯船はやや小さく、浴場全体もさほど広くない。けっこう違うもんだなあ、と思うのであった。
そして徹底的にお湯につかる。やはり前回の神の湯と同様、霊の湯もいつまでもつかっていたくなる適温なのであった。
風呂上がりにはお茶と菓子が出てくる。お茶の温度は当然、完璧。しばらく呆けて疲れを癒す。

帰ろうとしたら係の人に、坊っちゃんの間と又新殿(ゆうしんでん)に案内された。
坊っちゃんの間は、3階のいちばん奥の一部屋を夏目漱石の資料室としたものだ。
そして又新殿は日本で唯一の皇室専用の浴室。といっても、1952年を最後にまったく利用されていない。
最高級レベルの浴槽や控え室、トイレなどがあるが、むしろ僕は使われていないこの浴室がかわいそうに思えてしまった。

  
L: こちらは霊の湯の2階席。神の湯の2階席と比べるとずいぶん狭い。狭いことがステータスなのかね。
C: 霊の湯3階個室群の奥にある「坊っちゃんの間」。夏目漱石に関するさまざまな資料が置かれている部屋だ。
R: 夕方から夜になろうという時間帯でもやっぱり道後温泉本館は見事なのであった。

市電に乗り、大街道で降りるとアーケードの商店街を歩く。大街道も銀天街も相変わらずの盛況ぶりだ。
松山市駅のいよてつ髙島屋をぶらぶらしてみる。9階建てだが、8階で西半分が屋上・オープンスペースとなる、
なかなか面白い構造をしている。外に出て、観覧車「くるりん」のネオンを眺めてみる。

 今夜も「くるりん」は松山の街で輝きつづけるのであった。

2泊3日の旅行、残すところはあと1日となってしまった。なんだかちょっぴりセンチな松山の夜だった。


2010.10.10 (Sun.)

どうも最近は深夜バスとの相性が良くなくて、ウンウン苦しみながらいちおう眠り、なんとも重苦しい朝を迎えることが多い。
今回もそんな感じで、バスが停まるとどうにかヨイショと起き上がり、ミネラルウォーターを一口飲んで乗降口へ。
ヨタヨタした足取りで地面を踏むと、そこは光があふれており、とても目が開けられない眩しさだった。
おかげで一瞬、自分が何をしようとしていたのか忘れそうになるが、数歩歩いてようやく我に返るという有様なのであった。
そうしてはりまや橋のバスターミナルに到着したのが7時35分。3年ぶりの高知、いや3年ぶりの四国だ。
昨日から天気予報を逐一チェックしていたのだが、僕の四国上陸に合わせるように天候は回復してくれたみたいだ。
秋らしい深い青に空は染まっており、光が何者にも遮られることなく澄みきった空気の中を純度100%で降り注いでいる。
午後に落ち合う予定のニシマッキーは昨日から四国入りしており、なんだか非常に申し訳ない気分である。

さて、いつまでもバスターミナルでボーッとしているとスケジュールが狂うことになってしまう。
係員の人にはりまや橋の方向を訊くと、そちらへとヨチヨチ歩きだす。バスターミナルははりまや橋よりやや東にあるのだ。

 
L: はりまや橋のバスターミナル。朝起きたばかりの僕にははりまや橋からの微妙な位置のズレが非常に難解なのであった。
R: 高知の人々は龍馬が好きで好きでしょうがないわけだが、ついに案内板まで龍馬のシルエットとなってしまっていた。

はりまや橋の交差点に立つ。路面電車が行き交うだだっ広い交差点を眺めていると、ああ高知に来たという気分になる。
乗る予定の路線バスの時刻まで余裕があったので、はりまや橋周辺を軽く散策して過ごした。
日本三大がっかり名所として知られるはりまや橋だが(→2007.10.8)、相変わらずでなんだか安心。

 
L: はりまや橋の交差点。高知における最大の交通の要衝である。  R: 相変わらずなはりまや橋。ま、これでいいやね。

交差点からちょっとだけ西に進んだ堺町のバス停から路線バスに乗り込む。目的地は、かの有名な桂浜。
前回の四国一周では訪れることのできなかった場所だ。今回はそのときのリベンジという要素が非常に強いのである。

●07:47 堺町-08:15 桂浜

バスははりまや橋の交差点からひたすら南下。路面電車が行き止まりになってもまだその先へ進んでいく。
やがてバスは大通りから田舎の住宅地の中へと入り込んでいく。実に正しいローカルっぷりである。
途中には長宗我部元親の墓がいきなりあって、これはお参りしたいなあなんて思う間もなくバスはさらに南下。

高知県のみに許される青く茫洋とした太平洋が現れた。高知県の太平洋は特別だと僕は思うのである。
まるで劇場の客席のように、高知の大地は海に向けてなだらかに広がっている。海岸線も入りくんだ要素が少ない。
そして青い空をより深く映し返したその色。これらすべてが高知県だけが独占している太平洋の美しさをつくりだすのだ。

バスはもうすぐそこまで迫っている桂浜を目指し、複雑なジャンクションをいったん上って海から離れる。
そうして緑の中をしばらく走ると、桂浜のバス停に到着した。バスを降りて車窓から見えていたカラフルな旗を眺めてみる。
まるで大相撲ののぼりのようなそれは、土佐犬の闘犬のためのものだった。「○○号」と犬の名前が書かれている。
桂浜の土産物屋地帯の真ん中には「土佐闘犬センター」があり、今日はまさに闘犬の開催日だったのだ。
桂浜に出ようと思って歩いていったら、係員にさえぎられる。すると手際よくアルミ製の柵が引かれて目の前を闘犬が通る。
朝イチでこんな地元ならではの文化に触れちゃったもんだから、もうテンションが一気に上がる。
そしたら「柵に近づかないでください」と注意されてしまった。確かに、変に興奮されて暴れられたらたまったもんじゃない。

 そこのけそこのけ土佐犬が通る。

土佐犬が通り過ぎて安全が確認されると柵はしまわれる。見ていると、そこそこの頻度で土佐犬が通る。
どの程度観光客向けなのかはわからないが、闘犬って今でもなかなかけっこう盛んだな、という感触がした。

さて桂浜。階段を上って木々に囲まれた高台にまずは行く。そこから左手に進めば有名な坂本龍馬像。
右手に進んでひたすら歩くと坂本龍馬記念館だが階段を下りていけば桂浜の砂浜に出るということで、素直に下りる。
下りていった先に広がっているのは、太陽をいっぱいに浴びた青い海が白く泡立った波を盛んに打ち寄せる光景。
砂浜にはいくつか大きな岩が露出しており、その対比がまたなんともフォトジェニックなものだ。
右手には岩が壁をつくり、左手にはテトラポッドの並ぶコンクリート構造物が突き出ている。この範囲が桂浜ということか。
まだ時刻は8時半だが観光客はすでに集まっており、目の前に繰り広げられている写真どおりの光景に目を細めている。
なるほど、これは絵に描いたように見事な高知の光景だ。もう本当に、観光ポスターの中に入り込んだ気分である。

  
L: うーん、桂浜。  C: 桂浜水族館。まだ営業前。少し開放的な印象のする施設だ。
R: さっきと逆方向、西から東側を眺めたところ。こっちはそれほどフォトジェニックではないかな。

まずはとりあえず右手にある岩場の上へ。階段がついていて、てっぺんにある小さな神社までお参り。
途中で桂浜を高いところから眺める格好になる。こうして見ると、桂浜がまるで箱庭のように感じられる。
決して広くない範囲が、有名な観光地としてありがたがられている。なんだかちょっと不思議な感覚になる。
そうしてお参りを終えて、もう一度海と向き合う。青い海がつくりだす白い波に光が透けて、ガラスのような色合いになる。
この色は本当にきれいだと思う。これは、前にも見た。室戸岬だ(→2007.10.8)。あのときと同じ波だ。
それでわかった。桂浜ってのは、室戸岬のミニチュア版じゃないかと。行きづらい室戸岬の代替観光地なのだと。
僕が室戸岬を訪れたとき、目の前に広がる太平洋に強く衝撃を受け、高知県・土佐国の本質に触れた気がした。
あれをもっとお手軽に、もっとソフトに味わうことができる場所が、この桂浜なのだ。桂浜で味わう高知の感覚。
なるほどそれこそが、優良な観光資源としての桂浜の存在意義だったのだ。まあでも、それは決して悪いことではない。

  
L: 高い岩の上から眺めた桂浜。すごくコンパクトなエリアにおさまっているんだなあ、とまず思う。
C: 桂浜の波。透き通った色が本当にきれいだ。そしてこれは、室戸岬と同じ種類の、「高知の波」なのだ。
R: 坂本龍馬像。実物は正直あんまり威厳というか迫力のない印象。ここには写ってないけど観光客がワンサカでした。

みんながみんな記念撮影しまくっている坂本龍馬像をいちおうデジカメで撮影すると、階段を下りて浜辺に戻る。
天気が良すぎて暑く、のどが少し乾いたので、アイスクリン(200円)を買って舐める。高知の観光地ならどこにでもある。
これもまた高知らしさなんだよな、と思っていたらすぐに食い終わってしまった。だいたい、桂浜はやり尽くした。
満足してバスに乗り込み、桂浜を後にする。あらためてしっかりと高知らしさを味わうことができた。

●09:35 桂浜-10:09 堺町

バスは来た道をそのまま戻ってはりまや橋の交差点へ。お次は市街地にあるいろんなものを見てまわるのだ。
まずは重要文化財・旧山内家下屋敷長屋展示館。この下屋敷は戦後に売却され、今は旅館・三翠園となっている。
しかし下屋敷の一部だった長屋展示館は無料で開放されている。見学するには、三翠園の敷地内にいったん入る。

  
L: 長屋を南側から眺める。往時の風情そのままでよい。  C: 三翠園側から撮影。2階建てなのだ。
R: 中はこのような感じ。それぞれの部屋は質素。当時の生活をしのばせる品々が多数置かれている。

 2階では船の模型と高知の名士たちの写真が並ぶ。なかなかの大空間。

そのまま西に入って山内神社にお参り。境内は鏡川沿いにつくられており、緑に包まれていい雰囲気。
木漏れ日の中を歩いていくのはなかなか気持ちがよかった。社殿はコンクリートでちょっと残念。
さらに西に行くと土佐山内家宝物資料館。山内家に関するさまざまな展示がなされているが、規模は小さめ。
もうちょっといろいろ並んでいてもいいんじゃないか、と思うのであった。

せっかく高知に来ているんだから、前も撮ったけど(→2007.10.8)あらためて市役所と県庁も撮影しておく。
今日は天気が抜群にいいからきっと写りっぷりも良くなっているはずである。というわけでまずは市役所がこのとおり。

 
L: 高知市役所。相変わらず形がよくわからんなあ。  R: 角度を変えてもやっぱりよくわからん。

次はすぐ北の県庁だ。足元が改修工事中のようだが、気にせず撮影するのだ。

 
L: 高知県庁だ。岸田日出刀だ。  R: 近づいてみたら予想以上にシュロがでかかったぜよ。

勢いに乗ってそのまま高知城へ。前回来たときは中に入れないくらいの早朝だったので(無茶なスケジュールだったなあ)、
今回はその借りを返すべく中に入るのである。やっぱり現存12天守はきちんと中に入らないといかんよな、というわけだ。

  
L: 相変わらずフォトジェニックな追手門。  C: 高知城は石垣も天守も本物ならではの迫力があるのがいい。
R: 天守の入口。本丸御殿の懐徳館から入って天守のてっぺんを目指す。本丸にはソテツがあるなどやはり南国風。

高知城や高知の歴史については前回来たときのログであれこれ書いているので(→2007.10.8)、詳細は省略。
二の丸から門を抜けて本丸に出ると、本丸御殿「懐徳館」の奥で天守がお出迎え。まずはここから入り、
本丸御殿の中をぐるっと見学してから天守を上っていくという構造になっているのだ。
天守の中には模型があるなどやっぱり博物館的な要素が持たせてあるのだが、過剰にそうなっているわけでもなく、
素直に建物の感触を味わうこともできる。全体的に余裕のある建物で、狭苦しさは感じない。
天守の最上階も望楼となっている回廊への出入口が大きめにとられており、光が多く入ってきて雰囲気は明るい。
観光客が非常に多くて動きづらかったが、なかなか居心地のいい城なのであった。

 高知城天守。『龍馬伝』効果なのか観光客が多い多い。

前に来たときは天守に近いところから高知の街を眺めたのだが(→2007.10.8)、今回は天守の中から眺める。
まあ当然だが、印象としてはまったく変わらない。高知の街は意外と山に囲まれており、平地を建物が埋めている。
その密度の濃さが東西にずっと広がって続いていくのを見ると、やはり県庁所在地としての威厳を感じる。

  
L: 高知城天守より眺める高知市街(高知駅方面)。さすが県庁所在地、建物で埋め尽くされておりますな。
C: 帯屋町など中心市街地方面。  R: すぐ南を眺めると高知県庁の屋上が。高知もけっこう山がち。

街を眺めて満足し、天守を後にする。高知城を出ると、今日は日曜日ということで追手筋は日曜市の真っ最中。
前回訪れたときにはまったく味わうことができなかったので、今回はずいぶんと運がいいなあと思う。
しばらくフラフラとそれぞれの店を眺めながら歩いてみることにしたのだが、ひどく印象的だったのは、
やたらと鉢植えの木を売っているのと、刃物を売っていることである。そんなに需要があるのか、実に不思議だ。

 
L: 高知名物・日曜市。たいへん賑わっているのだが、鉢植えの木と刃物を売る店が妙に多いのが気になる。
R: 追手筋沿いの店舗はもともと日曜市仕様にできているらしく、露店となめらかに連続して賑わいを生み出している。

日曜市が切れる辺りがちょうどひろめ市場の裏口になっていたので、そのまま中に入ってみた。
こっちは朝から動き回っているので栄養補給が必要なのだ。ひろめ市場内はびっしりと店がひしめいているのだが、
真ん中にフードコート的な場所があり、そこで席を確保して買ってきたものを食べる仕組みになっている。
そこでテキトーに何か食おうと思ったのだが、中に入ったらこれがもうすさまじい混雑ぶり。
親子連れから酔っ払っていい気分になっているグループまで、ありとあらゆる年齢層でごった返しているのである。
とてもじゃないが、ここで何か食べるなんて不可能。昼飯にはちょっと早いくらいの時間帯なのだが……。

しょうがないので高知駅で何か買い込めばいいや、と方針転換。気ままに高知のアーケード商店街を歩くことにする。
前回訪れたときには祝日だが10時前ということで人もまばらだったのだが、さすがに今回はそこそこ賑わっている。
とはいえ道幅が広いこともあり、どことなく物足りない感覚がする。さっきのひろめ市場の混雑ぶりを目にした後なので、
なるほど高知人は街をフラフラ歩くのは好きじゃないのかな、なんてふうに捉えるのであった。
街歩きをするよりは、早いうちからどこかの店に入ってしまって飲んだくれる。これが土佐人気質ということか。
そうこうしているうちに店先に置いてある長机で鰹のたたき丼(小さめ)が食える店があったので、迷わずいただく。
さらに馬路村の特産品として有名な「ごっくん馬路村」を売っていたので、食後にそれもいただく。優雅なものである。

  
L: ひろめ市場の混雑ぶりはもうたまったもんじゃない。昼前からコレだもんなあ。参っちゃうよなあ。
C: ごっくん馬路村。馬路村の柚子、ハチミツによる飲み物。よけいな添加物なし。これで馬路村の経済は大いに潤ったとか。
R: 高知の観光地にはどこに行ってもこのようなアイスクリン売り場があるのだ! これはもう文化ですな。

  
L: 帯屋町のアーケード。巨大である。  C: さすがに日曜ってことで商店街はそれなりに元気だった。
R: 前回も撮影している新京橋プラザ。前回よりも活気を感じるのは『龍馬伝』効果か。

のんびりぷらぷらしていたらあまり時間的に余裕がなくなり、路面電車よりも自分の足の方が速えや、ということで、
結局高知駅まで走ることに。毎回毎回コレだなあ、成長せんなあと反省しつつひた走ること10分弱、高知駅に到着。
3年ぶりの高知駅は大胆にリニューアルされており、以前とはまったく異なった姿をしていて驚いた。
わりと殺風景だった駅前は、レンガ敷きの広場なんかがつくられちゃって、すいぶんオシャレになっていたのである。
しかしそれをのんびり眺めているヒマがないのが悲しいところ。急いでみどりの窓口に飛び込んで、特急の席を確保。
どうにか余った時間で、のどが乾いたので何かないか探してみたら、「スーパーごっくん馬路村」を発見。そりゃ買うわ。
こちらは500mlのペットボトルで成分をちょっといじってある。でもたっぷりと水分が欲しいときにはむしろこっちの方がいい。

  
L: リニューアルした高知駅。なんだかだいぶ雰囲気が変わっちゃったなあ(→2007.10.8)。
C: ホームには木製の屋根が架かっちゃってオシャレ。  R: スーパーごっくん馬路村。スーパーだぜ、スーパー。

やっぱり、結局、僕の旅行は慌ただしいのである。桂浜にも行ったし高知城にも入ったし日曜市も見たし、
前回が夜から朝にかけての高知探訪ということでそのときよりは幾分かマシなのは確かなのである。
しかし駆け足で高知らしい要素をどうにか拾った、という感触であることには変わりはなく、
なんだか物足りなさがどうしても残る。でもまあこれはたぶん、よさこいを体験しないと解消できない気もする。
高知の街の本領ってのは、よさこいのときにだけ発揮される……そんな気がしてならない(→2007.10.9)。

●12:13 高知-13:22 阿波池田 [特急]南風14号

ともあれ、列車は動き出した。土讃線でまっすぐそのまま東に行き、御免からは高松へ向けて北上していく。
その途中で土讃線は徳島県の西端を切り取るように走る。そこにあるのが大歩危・小歩危で、次の目的地はそこだ。
しかしながら僕はいったん阿波池田まで出てしまう。そこで前日から四国入りしているニシマッキーと合流し、
あらためて土讃線で戻って大歩危・小歩危を訪れる予定になっているのだ。……なぜそんな手間をかけるのか?
いや、まあ、そうしないとホラ、土讃線が大歩危−小歩危間だけ残っちゃうじゃん……。ちがうよ、鉄じゃないよ!

 阿波池田駅にて。『アンパンマン』のやなせたかしは高知県出身なんだがなあ。

阿波池田駅に着くと、トイレでコンタクトを装着。そしたらそのタイミングでニシマッキーがやってきた。
ニシマッキーは昨日、徳島にいたのだ。天気はイマイチだったようだが、徳島城に行って蜂須賀家に思いを馳せたり、
三好家ゆかりの地である勝瑞駅の駅名標を撮って興奮していたりと、まあやっぱりタダモノではない旅行をしたようだ。
とりあえずふたりで駅前の観光案内所をチェックして大歩危周辺の地図を確保すると、土讃線に乗り込んだ。
しかしまあ、オレとニシマッキーって意外とコンビでいろいろ行ってるなあ。

●13:48 阿波池田-14:08 小歩危

土讃線に揺られること20分、小歩危駅に到着。まずはここで降りて、大歩危・小歩危の小歩危の方から体験するのだ。
列車を降りて駅舎の中に入ると、何やら動物の鳴き声がする。甲高くてか細い。猫、それも子猫の声だ。
なんだかイヤな予感がして、ニシマッキーと互いの顔を見合わせる。声は僕らのすぐ近くから聞こえる。本当にすぐ近く、
そう、目の前。見ればそこには、魚屋にありがちな発泡スチロールの箱に座布団でフタをしてヒモで縛ったモノがある。
「これは……有名な『シュレーディンガーの猫」ですか」「そうですね、『パンドラの箱』ですね」
そんな具合にごまかそうとしたって、目の前にある現実は変わらないのである。目をこすっても耳をかっぽじっても一緒。
「まあ、われわれにできることは無事を祈ることだけしかないんじゃなかろうか。開けなきゃいいんだし……ってオイ!」
開けちゃうんだよねー、ニシマッキーがさー。どれくらい鳴いていたのかわからないけど、久しぶりに差し込んだ光に反応し、
白い子猫はもがきながら小さな頭を箱から出す。開けた口から覗く牙には発泡スチロールの白いくずがついている。あー。
論理的に因果関係を考えて、元の飼い主が捨てた時点で結果は同じなのである。僕らがどうしようと、どうにもならない。
ただ、まるで狙ったように小歩危駅という辺境の地でこの事態がわれわれを待ち構えていたというところがどうにもイヤだ。
人によって受け止め方がいろいろ変わるんだろうけど、とりあえず僕はノーコメント。ただ、捨てた奴は絶対に許さん。

いきなりの衝撃にふたりともテンションが極限まで下がりきった状態で歩きだす。「小歩危」ということで、
道を歩きながらいろいろ軽く小ボケをかましながら歩いていく予定だったのだが、もう全然そんな気分になれない。
空回りしながらもカラ元気でどうにか2分に1回くらいのペースでボケ発言をしていった僕とは対照的に、
開けちゃったニシマッキーはずっと冴えない表情でうつむいていたのであった。あーもう、本当に困った!

 
L: 小歩危駅にて小ボケをかますニシマッキー氏。まさかこの直後、あんな事態が発生しようとは……。一寸先は闇だ。
R: 小歩危自動車。歩行者にはちょっと不安な名前だね……って無理矢理ボケてもスッキリしないんだもんなあ!

とりあえず小歩危駅でのできごとは脳内から暫定的に消去して、北へと歩いていく。
事前に調べてみたら小歩危は駅よりもやや北側にあるらしいということで、それっぽい光景をチェックして歩く。
しかしインターネットで検索してみる限り、大歩危についての詳しい説明はあちこちにあるのだが、
小歩危については有効な情報が本当に少ない。だから標準的な小歩危の写真もほとんどなくって、実に困った。
途中にはすさまじく見通しの悪いカーブで道路を横断しなければならない場所があって、これがまた困った。
高知から高松に抜ける道はこの一本なので、車がそこそこの交通量でどんどん走り去っていくのである。
「リーリーリー!」なんて盗塁気分で(実際は命がけ)全速力で横断。いやもうこれは本当に怖かった。
そうして歩いていった先に、「国指定史跡 小歩危」と彫られた石碑があるのを発見。どうやら到着したようだ。
でも、道の下には木がいっぱい生えていて川がよく見えない。「これでいいのか……?」なんて言いつついちおう撮影。

 
L: 小歩危らしき場所。どの辺りが「小股で歩いても危ない」のかよくわからん。
R: だいぶ「歩危」っぽいかな、って感じ。小歩危をうまく見渡せる場所はないものか。

あんまり北へ行きすぎても帰りが面倒くさくなるだけなので、この辺で切り上げましょう、と納得することにする。
そして来た道を戻って小歩危駅を通り過ぎたのだが、もうあの鳴き声が頭の中でリフレインしちゃってたまらない。
気持ち早足で駅の脇を抜けると、逃げるようにそのままひたすら南へ。……こんな形で忘れられない思い出ができるとは。

しばらく南に歩いていくと、赤川橋という吊り橋が現れた。隣には石像が建っている。名を見ると、「赤川庄八」とある。
この人、林業で財を成した地元の名士で、個人で大川橋という橋を架けたそうなのだ。
そういうわけで、この吊り橋は彼の業績を記念したものなのだ。高いところは苦手なのだが、当然渡ってみるのである。

 
L: 赤川橋を行く。板と板の間は少し空いていて、それがちょっと怖い。  R: 橋の上より小歩危方面を眺める。

赤川橋を渡った先には「ご注意 落石 いのしし まむし」という案内板が。そこから奥には進めそうにない。
わざわざ怖い思いをしてイノシシやマムシに襲われてもなあ……ということでさっさと引き返すのであった。
今日はもう、何が起こっても驚かないもんね。いやはやホント、まいったまいった。
ところでこの橋には僕らのほかに50代くらいのおじさんとそれよりちょっと若い女性がいて、
僕らは「課長と愛人の秘密の旅行」と勝手に決め付けて小ボケ妄想を楽しむのであった。
あとニシマッキーが「高坂弾正ネコ弾正」とかほざいてたよ!

さてわれわれ、小歩危から大歩危へ向けて延々と歩いているわけだが、どこまでが小歩危でどこからが大歩危なのか、
これがまったくわからない。わからないまま、大歩危駅へ向かっての一本道をトボトボ進んでいるのである。
だいたい基準になっていたのは道路標示やバス停で、小歩危の文字があるうちは小歩危の範囲かな、と思い、
大歩危の文字が目立つようになるとぼちぼち大歩危ですか、と考える、そんなテキトーぶりなのであった。
事前に調べておいた情報によると、大歩危には遊覧船があるということで、感覚的にはそこがゴールである。
それでゴール目指してふたり並んで歩き続けていたのだが、歩いても歩いても一向に景色が変わらない。
途中で崖の上を走る土讃線に「おおー」と声をあげたり、アウトレットショップに「よくつくったなあ」と感心したり、
そんな具合に楽しめる箇所もなくはなかったのだが、90%以上は崖と緑と川のみの風景で、それが延々続くのである。

 こんな感じの中を歩き続ける。

遊覧船はまだかー!と吉野川を覗き込むが、そこには翡翠色の水が滔々と流れているだけ、ってのを何度繰り返したか。
僕らが小歩危−大歩危間を歩くと聞いたリョーシさんが「それってけっこう(距離が)あるよ……」と言ってたのを思いだす。
が、もうどうしょうもないのである。どんなに景色に飽きようと、歩き続けるしか解決の方法はないのである。
ふたりで「あー」だの「うー」だのうなりながら歩き続けること40分ほど、ようやく川面に船が浮いているのを見た。
いやーよかったと心から安堵したものの、ここからがまたけっこう距離があったのね。歩いて歩いてさらに20分、
ようやく「ゴール」の遊覧船乗り場に到着。大歩危峡は険しい谷間にあるので、すっかり日陰に入ってしまっていた。

  
L: 遊覧船が見えた! しかしここからさらに歩く破目になるのであった。トホホ。
C: 遊覧船乗り場の上から眺める大歩危峡。  R: さあいざ行かん!船に乗り込んでレッツラゴーだ!

遊覧船のチケットを購入してから建物の下に抜けて乗り場まで行くのだが、さすがに水面までは高さがあり、
ぐるっとまわり込んで下りていくのはなかなか手間だった。しかし台風のときには吉野川が増水し、
建物のすぐ下が水びたしになったこともあるようで、途中にその写真が展示されていた。これは本当に怖い。
客は意外に多くて、船は客をいっぱいに乗せてから出るのだが、そう時間はかからなかった。
僕らがいちばん最後に乗り込んだのだが、船は向きを変えて動き出すのでそのまま先頭のベストポジションに。

  
L: 船は快調に大歩危峡を下っていく。すぐそこに45°に傾いた岩が連なっていて迫力満点。
C: 岩が突き出していて、なるほどさすがは大歩危。やっぱり水面の高さから見ると違いますね。
R: 岩を撮影。大きな岩が斜めに沈み込んでいる中を行くと、まるで南極の流氷の中を行くような気分になる。

さすがは大歩危峡。大きな岩がほぼ斜め45°に傾いて沈み込み、また鋭く水面と平行に突き出す姿は圧倒的だ。
上から眺めていたときにはそれほど迫力を感じなかったが、水面の高さまで下りて眺めるとやっぱりすごい。
面白いのは、大きな岩が複雑な角度で連なる横を進んでいるとまるで岩が流氷の塊に思えてきて、
「南極や北極ってきっとこうなんだろうなー」と思えてくることだ。前を見ればふつうに渓谷なのだが、
横を向くと斜めに沈んだ岩たちが視界をふさぐくらいの大きさで連なっているのである。なるほどこれは面白い。

かつて遊覧船を引き上げていたポイント(クレーンが今も残っている)まで行くと、船は引き返す。
多少巻き戻し気分でさっき見ていた光景の逆側をさらっと通り抜け、スタート地点まで戻る。
さっき下りていった高さを再び歩いて上るのは非常に面倒くさかったが、でも十分に大歩危峡を味わうことはできた。
大いに満足してニシマッキーと大歩危駅目指して歩きだすのであった。

遊覧船乗り場から大歩危駅までもそこそこ距離があって実に困った。土讃線はずっと対岸を走っており、
いつオレたちはあっち側に渡れるんだと大いにやきもきしたのだが、大歩危駅付近にちゃんと橋はあった。
橋を渡ってぐるっとまわり込んで大歩危駅に到着。たまらずジュースで一息ついたら即、列車が到着。
やってきた特急列車は全面アンパンマンのラッピングがなされていた。そう、またしてもアンパンマンである。
どうやら四国全土はすっかりやなせたかしに占領されてしまっているようだ。子どもがねだって四国まで乗りにくるのか。

 
L: 大歩危駅。ニャーニャー言う箱がないか、ふたりとも変に神経質になってしまったよ。
R: やってきた特急列車にはアンパンマンのラッピング。すげえなあ、と呆れるしかなかった。

波乱に満ちた大歩危小歩危ともこれでお別れ。座席に座ると疲れが一気に来た。
車両の天井に描かれたアンパンマンご一行様を眺めているうちにグーグー。

●17:04 大歩危-17:58 丸亀 [特急]南風22号

熟睡していた僕はよくわからないままニシマッキーに起こされて、丸亀かどっかで乗り換え。

●18:08 丸亀-18:38 高松 [快速]サンポート南風リレー号

寝ぼけてよくわからないまま高松に無事に到着。一人旅だったら寝っこけて岡山まで行っちゃってたかもしれんなあ。

さて高松に到着すると、準備万端、先に高松入りしていたリョーシ氏がすぐにお出迎え。ほっと一安心。
そして真打・めりこみ先輩が登場。高松在住で一児の父となっためりこみさんにお会いするのは久々だ。
僕らの気まぐれな旅行に予定を合わせていただいて、本当にふたりには申し訳ない。
まあその分、いろいろとたっぷり話をして楽しんでいただくことにするのである!

店はめりこみさんが予約しておいてくれたのだが、和風でなかなかけっこう高級そうな感じだった。
国立のニュー庄助からあまり成長していない僕なんかはやや緊張気味。おかげで皆さんの写真を撮りそこなったよ。
でも話す内容はHQSについてのバカ話ばっかり。やれあんときはああだった、今はこんな感じだ、そんな内容。
近況報告をしつつもどうしょうもなく下らない昔のエピソードを思い出しては大笑いという、実に楽しい時間なのだった。
やっぱり人数そろって気のおけない話で盛り上がるのは楽しくてたまらんわ。
しゃべるのにばかり夢中になってしまって写真を撮り忘れたのが本当に悔しい。

ニシマッキーの泊まる宿までみんなで行って、そこで解散。しかし僕は自分の泊まる宿の名前がうろ覚えで、
心配しためりこみさんはついてきてくれたのであった。優しすぎるやろ! いやいや本当にお世話になりました。
まあアレですな、やっぱり定期的にこっちが遠征してのOB会もやんないといけないよな。本当に楽しかったです。


2010.10.9 (Sat.)

今日は土曜日だが学校公開日ということで授業なのだ。ふつうの授業でもいいのだが、
わざわざ土曜日に学校に来ているのにそれもつまんねえなあ、ということで、スクラブルをやってみた。

スクラブルといっても馴染みのない人が多いだろうから、いちおう説明。
これは英語でクロスワードをつくっていくゲームなのだ。それぞれの文字に得点が割り振られており、
使いやすいAやEなどの文字は1点と低く、QとZが10点で最高点。これらをつなげて単語をつくるわけだ。
単語を置くマスによってポイントがさまざまに増えるボーナスがある。そうして点数を競うゲームなのである。
で、今回はスクラブルを辞書を引く練習も兼ねて生徒にやらせることにしたわけだ。

いざやってみると、いつもと違うゲームということもあってか、すべからくみんな積極的にチャレンジ。
辞書を駆使しながらもなかなか鋭い単語を出してくるなど、全体的に見どころのある展開が多かった。
もっとも、実力的にはまだまだだなあと思う場面も。習った単語が使えるだろ、というところでも気づかなかったり。
面白いのはいつものテストの成績とスクラブルのセンスはそれほどしっかり比例しないということで、
おお!こいつがこんな手を!と感心させられることがけっこうあったことだ。だからゲームは面白い。またやってみよっと。


2010.10.8 (Fri.)

サッカー、日本×アルゼンチン戦である。ザッケローニの初陣なのである。
あのメッシがいるアルゼンチン相手にザッケローニがどんな采配を見せるのか。大興奮でテレビにかじりつく。

まず驚いたのがアルゼンチンのスタメン。本気すぎる。アルゼンチンのセルヒオ=バティスタは暫定監督ということで、
彼としても親善試合とはいえ手の抜ける試合はひとつもないということか。これは期待のできる内容になりそうだ。
対する日本は南アフリカW杯の経験者が中心。中澤と闘莉王はいないが、岡田-原路線がベースなのは明らか。
原博実と同様、守備重視に徹した岡田監督がそのまま攻撃面を改善しようとしたらこうなる、という印象。

序盤はやはりアルゼンチンの強さと速さに圧倒される。地球の裏側から来てコンディションが良くないだろうが、
やはり日本代表とはまだまだ差がある。でも、差をつけられながらも粘り強く攻めて、岡崎が詰めるシーンも。
日本はもっと積極的にミドルを打っていくようにならなきゃいかん、と思う。
そしてメッシはやはり別格だ。どんなにきっちりと守っていても、スルリと簡単に抜けられてしまう。
あれはもうどうしょうもない。割り切ってこっちの攻撃のチャンスを増やしていくしかないだろう。世界レベルとは恐ろしい。

ところが前半19分、長谷部がミドルシュートを放つ。GKはいったん弾くがそのこぼれたボールを岡崎が鮮やかに押し込み、
なんと日本が先制してしまう。うわあ、入っちゃったよ! やっちゃったよ!と見ていて大興奮。
対照的にアルゼンチンはケガで2人が交代するアクシデント。流れがどんどん日本に傾いている。
そして後半に入ると、日本のプレーのひとつひとつに自信を感じるようになる。画面越しにそれが伝わってくるのだ。
攻めのスピードはアルゼンチンに比べると遅いのだが、「通用している!」という感触があるのか、落ち着きがある。
長友の強さ、香川のスピード、前田のプレーの切れ味もすごい。最後はメッシ頼みで冴えないアルゼンチンに対し、
日本はそれぞれの選手の持ち味を組み合わせながらどんどん見せ場をつくっていく。
ただ、本田はシュートに時間をかけようとしすぎな印象。打つならもっと早く打たないと隙だらけだ。

終わってみれば、あのメンバーのアルゼンチンに勝利。しかも十分に興奮する内容でもあった。
たかが親善試合、コンディションだって良くなかった、という意見もあるかもしれないが、アルゼンチンはアルゼンチン。
メッシだけでなく一線級のメンバーをそろえたアルゼンチンに勝っちゃう時代が来た、それだけでも最高の収穫だ。
これ以上ない新しいスタートを切った日本代表。この4年でどこまで行けるものなのか。本当に楽しみでしょうがない。


2010.10.7 (Thu.)

劇団☆新感線 『鋼鉄番長』。新感線ぐらい一度は観ておかなくちゃいかんだろ、ということで行ってきた。
新感線には座付き作家が2人いて、今回はいのうえひでのりのギャグ路線とのこと。

最初からいきなりド派手。大道具が非常に凝っていて、しっかりと金をかけているなという印象。
テレビなどで編集段階でやる演出を、そのまま舞台上で再現することにこだわっているようだ。
ストーリーとしては警察によって改造人間にされた主人公が犯罪組織となっている学園の中に潜入するというもので、
まあ要するに小難しいことは一切考えなくていいエンタテイメントに徹した内容になっている。
どんなマジメになりそうな場面でも坂井真紀の間延びしたムリヤリな土佐弁が炸裂してギャグの世界に引き戻す。

新感線といえばなんといっても古田新太で、その存在感はさすが。
歌と踊りをかなり積極的に盛り込んでくるのが新感線の特徴らしいのだが、古田新太はとにかく踊りが上手かった。
役柄も悪の生徒会長ということで、アクの強さをフルに生かした演技はそれだけで笑えた。

……と、褒めるのはここまで。全体的な感想としては、まったく満足できるものではなかった。
おバカを追求したエンタテインメントなのはいいとしても、観客の想像力を喚起する要素がないのはつまらない。
ド派手な舞台装置に凝るあまり、すべてを舞台上で見せてしまおうというのは、演劇の醍醐味を確実に殺いでいる。
ストーリーも非常に苦しく、部分部分にこだわりすぎて、全体の統一性がまったく欠けてしまっている。
出てくるギャグも基本的には腐りやすい時事ネタが中心。小道具に凝っての出オチが多いのである。
いい歳こいてバカを存分にできるあなたたちは楽しいでしょうけど、こっちはあなたたちほどは楽しくないですよ、って感じ。
前に観たキャラメルボックスほどではないが(→2007.7.10)、でもそれにかなり近い内輪ウケの世界でしかない。
ストーリーの説得力が十分にあれば、客の想像力を刺激することができれば、客を100%舞台に引き込める。
でも今回の新感線は、そのどちらもが決定的に欠けているのだ。楽しむ役者を遠巻きに延々と見せられるだけ。

客の質にも疑問を感じる。これは決して甘やかしてはいけないレベルのデキだろう。
それなのに、ただの「役者のファン」でしかないためか、繰り広げられる内輪ウケの世界に喜んでばかり。
演劇を単なる日常生活のガス抜き程度に捉えているのであれば、まあ喜ぶのはわからないでもない。
しかし演劇を可能性を持ったメディアとして捉えるならば、この作品は何ひとつ有益なものを残さないのだ。
そんなものでキャッキャキャッキャと喜べるほどみんな単純ではない。時間つぶしになんかつきあっていられない。

そういうわけで、人気劇団の新感線だが、その実力のほどや人気の理由には大いに首を傾げざるをえない。
もうひとりの座付き作家である中島かずきの作品を観て、それからもう一度きちんと評価をしてみることにしたい。

ところでこの『鋼鉄番長』は後日、ケガ人続出で大変なことになっているのであった。
まあ確かに舞台上で非常に激しく動いていたからわからないでもないが……。まあなんとも、お大事に。


2010.10.6 (Wed.)

研究授業本番。思ったよりもずっと怒られなかったので、まあそれなりにいい授業だったのだろう。
もっとがっつり怒られると思っていたもんなあ。質疑応答もなんだかソフトだったし。よかったよかった。

いちばんショックだったのは、講師の先生の話を不満そうに聞いていたと誤解されたことだ。
こちとらめちゃくちゃ真剣に聞いていたっつーの! でもその真剣さが表情に出た結果、誤解を招いたらしい。
僕は頭の回転が早いので(当社比)ですね、話を聞いたそばから「それが今できているかどうか」検証しちゃうのだ。
その結果「む、こりゃいかんなー」となると渋い表情になるわけで、それが不満そうに見えてしまうらしいのだ。
話を聞くだけじゃなくって、同時に、「それを実現するためにはどうすべきか」まで考えてしまうので、
これまたよけいに深刻な表情になってそれが不満げと受け取られてしまうのである。もうすべてが裏返っちゃってる。
というわけで授業それ自体よりもややこしい課題を突きつけられちゃった印象である。ニンともカンとも。


2010.10.5 (Tue.)

研究授業前日ということで、別のクラスで同じ内容の授業をやって細部を確認する。
もちろんクラスによって個性があるのでまったく同じ展開になるわけはないが、それでも今までの経験で、
ここはこうなりそう、というのは十分に見えてくる。それをフィードバックしていくわけだ。

やってみてどうも、最初の英語での雑談の部分が長引く傾向が顕著である。どげんかせんといかん(流行語)。
生徒がお互いにしゃべりあう活動の時間をしっかりとるためには、もうちょっと要領よくやらなくちゃいかんので、
効率のいいトークの内容を考える。どこをどう削りましょうかね、と考えて日が暮れる。ああ面倒くさい。


2010.10.4 (Mon.)

研究授業の脚本書きをやってみることにした。これは中学校での教育実習のときにもやった(→2008.6.8)。
当時は「なんでこんな面倒くさいことやらなくちゃいかんのだ……。そもそもこのとおりにいくわけないじゃん……。
生徒の一挙手一投足まで書くなんて、もう長野県の教育は△ק※#……」と内心思ったものだが、
純粋にイメージトレーニングという点では、正直なところこれは効果大なのである。
重要なのは本番に向けて筋書きを細かくつくることではなく、授業の様子を細かく想像すること自体にあるわけだ。
そう考えるとこれはけっこう悪くない思考実験ということなのである。

とはいえ実際にやると、これはめちゃくちゃ時間がかかる。おかげで授業の前半くらいしか書けなかったのだが、
ポジティヴに考えれば不安定な序盤部分のシミュレーションはけっこうかっちりとできたってことである。
自分でも意外なのだが、そんなに自暴自棄になることなく2日前まで来た。さああともう少しの辛抱だ。


2010.10.3 (Sun.)

高くジャンプするには一回かがまないといかんのじゃ!という考え方のもと、今日はのんびり過ごす。
昼過ぎにふらっと外に出てコーヒーを飲みながら日記を書き、サンマを買って帰る。
このサンマを焼いてメシを食ったら、一気に切り替えてがんばることにする。予定。


2010.10.2 (Sat.)

朝からミーティングして昨日の反省点を挙げてから練習。僕の提案を中心にいろいろやってみた。
けっこう悪くない感触だったので、これからもいろいろ練習方法を考えてみることにしよう。

午後には研究授業に向けていろいろ考える。苦手なことをやるこの苦痛といったらない。
まあとにかくやれることはきっちりやって、できるだけ気分よく四国へ行けるようにがんばる。


2010.10.1 (Fri.)

今日はいつも公式戦をやるグラウンドでサッカーの練習試合なのであった。
相手はけっこう強い学校ということで、気合を入れて試合に臨んだのだが、3-10で負けた。
とにかくウチは体格が小さいうえにプレスが甘い。球際の強さという点で圧倒的に弱かった。
走るのも遅かったし、なによりグラウンドの広さに終始戸惑っていた感じである。
校庭の狭い我が校の長年の課題が、今回も遺憾なく発揮されてしまった。
まあ逆を言えば、ものすごくわかりやすく改善点を見つけることができたとも考えられる。
今後の練習をいろいろ見直していくことにするのである。

学校に戻って報告すると、すべからく「え、3点も取ったの!?」という反応。
1点取るのがやっとだった去年のことを考えると、そりゃまあそうか。前向きにやっていきましょう。
(でもいまだに、なんで去年の連中が1点しか取れなかったのか、まったく合点がいかない。
 どう考えても、去年の連中の方が今の連中よりも上手くて強かったと思うんだけど……。)


diary 2010.9.

diary 2010

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