diary 2010.9.

diary 2010.10.


2010.9.30 (Thu.)

放課後、生徒会選挙の立会演説会に向け、リハーサルの指導をする。
今日の僕は朝からダメ人間だったので(お察しください)、偉そうに指導するのはちょっと申し訳ないのだが、
ステージ上でのしゃべり方、ふるまいについてあれこれ指示を出す。
生徒たちはふだん人前に立つ機会がまったくといっていいほどない連中ばっかりなので、
人前でのクソ度胸だけはいっちょまえな僕の指導に、目からウロコがボロボロ落ちている感じ。
本番はどうなるかわからないが、まあ最低限のことができるようにはしたつもりである。


2010.9.29 (Wed.)

一日中ずっとクロスワードづくりに没頭する。
僕は自作の英語のテストでは、単語の問題をふつうに出題しても面白くないや、という理由で、
わざわざ英語のクロスワードパズルを毎回つくって単語を答えさせているのである。凝り性なのである。

しかしこれは実際につくってみるとわかるのだが、非っっっっっっっっっ常に面倒くさいのだ。
わずか5×5(次回あたりから6×6にするつもり)のマス目に破綻なく単語を埋めるのはとっても難しい。
特に中学生相手ということで使える単語が限られているのがまたつらいのだ。
今までに教えた単語だけを組み合わせて5×5の中に収める。これを考えるのは本当にしんどい作業である。
もうあと少しのイーシャンテンくらいまでいって身動きがとれなくなる悲しさといったら!
逆にうまくハマって完成したときには爽快感がある。矛盾を解決したミステリ作家のような気分になる。
(もっとも、実際には疲れきって爽快感よりも虚脱感の方が大きくなることの方が多いんだけど……。)

面白いのは、英語の特性として母音と子音の組み合わせがあるわけだけど(カナは意識しなくていいもんね)、
使いやすい母音(AとE)と使いづらい母音(IとOとU)というものが厳然と存在していることだ。
また、文字は左から右、もしくは上から下へと流れていく方向が決まっているので、
苦しくなるときはだいたい左上の処理でつまずいたときである。右下がかっちりとできている状況で、
左上が収まらないというのは、もう実に切ない。みなさんもぜひやってみて、そして苦しんでみてほしい。


2010.9.28 (Tue.)

わがユルユルサッカー部に新入生が殺到したあおりを食って、男子バスケ部の人数が不足している。
でも試合に出ないわけにはいかないので、どこかからメンバーを借りないといけない。
そう、去年の柔道サッカー部がそうしていたように。

というわけで、部員のレンタルを視野に入れて、今日のサッカー部はバスケ部に弟子入りしたのだ。
なんせサッカー部は顧問がテキトーな人なので、「おいみんな、部活のやり方を勉強しに留学してこい。」
この一言で決まり。まあ雨でグラウンドが使えなかったので、こりゃいい機会だとポジティヴに捉えたのだ。
それでサッカー部員全員が体育館に集まって、バスケ部に合流して基礎練習を一緒にやった。

フィジカルの練習に始まって、続いてボールの扱いの基礎もバスケ部員から教わる。
連中どんな表情するだろうと思って覗いていたのだが、ひとりとしてふざけることなく、全員が全員、
かなり真剣な表情で取り組んでいたので深く感心した。つーか、サッカーもいつもそういう表情でやれよ。
身体の接触やステップワークなど、バスケとサッカーでは共通する要素がまったくないわけではない。
その点も意識しつつ、かといってサッカーとあまり関係のない指先の動きもきちんと習って、
客観的にみて非常に充実した練習ができたと思う。もちろん、取り組む姿勢という点においてもだ。
それはバスケ部員についても同じ。素人に根気よく教えるバスケ部員たちは実にかっこよかったな。

僕は中学時代にテニス部から吹奏楽部にレンタル移籍させられた経験があるわけで、
生徒にはさまざまな体験をしてもらいたい、と冗談抜きで強く思っている。だから今回の無茶をやらせた。
内心不満に思っている生徒も少なくないだろうけど、でもふつうじゃできないこういう経験を、
貴重なものとして大切にできる人間に育ってほしいと思うのである。人生にひとつとしてムダなことなどない。


2010.9.27 (Mon.)

研究授業の準備でホントにヘロヘロになる。本当にヘロヘロで、17時の時点ですっかり抜け殻になっていた。
自分の意思でヘロヘロになるんならいいんだけどなあ。まああんまり書くとアレだからこの辺でおしまい。


2010.9.26 (sun.)

今日は朝から、職場の近くにある公園で行われる防災訓練に駆り出されたのであった。
ロッカーで支給された防災服に着替える。全身えんじ色で帽子までついて、もうなんだか、たまったもんじゃない。
防災なので足は安全靴のブーツ。サイズが小さいうえに足首が動かないからもう、歩きづらいのなんの。
ペンギンみたいな覚束ない足取りで、ベテランの先生と一緒に公園までトボトボと歩いていくのであった。

防災訓練が始まると、練習用の消火器にひたすら水を詰めていく仕事を仰せつかる。
何がなんだかわかんないけど、水を詰めて詰めて詰めまくって過ごした。
あとは放水した後のホースの片付け。当然のことだがいちいち走って移動しなければならず、
キツいサイズの安全靴に慣れない身としては、途中でだいぶイヤになったけど、最後までがんばったよ!

午後は部活だ! サッカーだ! 今日はなんとなくFW(右ウィング)に入ってプレー。
そしたらこれが一生に一度じゃないかってくらいの大当たりで、蹴るシュートがことごとく枠の中に入る。
右足も左足も関係ない。ボールは思ったとおりの軌道を描くし、クロスのミスキックもなぜかゴールに入っちゃう。
中盤に上手い生徒が入ったこともあり、空いているスペースに走り込んでパスを受けるとゴールを量産。
中学時代の授業サッカーではディフェンシヴなMFとして時間いっぱい走り続け、相手のチャンスをつぶしまくったが、
(でも蹴るのがヘタクソだから自分では攻めず、ボールを奪うといちばん近い味方にパスして任務終了。弱い。)
まさか自分がこうもFWに適性があったのか、と自分で自分に驚くほどの大暴れなのであった。
両チーム合わせた得点の4割はオレがたたき出しとったな。さすがペレと誕生日が同じだけのことはあるぜー。
……まあそんなふうにいい大人が中学生相手にいい気になっていたとさ。たまにはそんな日があってもいいじゃん。


2010.9.25 (Sat.)

せっかく自転車でどこかへ行こうかと思っていたのに、朝起きたら雨が降っていた。家でしょんぼり。
そしたら午後になってから急に晴れやがって、地団駄を踏んでも後の祭りなのであった。
しょうがないので近所でメシを食いつつ日記を書いて過ごす。なんだかツイてなかったなあ。


2010.9.24 (Fri.)

今日でいよいよ、県庁所在地めぐりの旅が終わる。最初は単なるテキトーな思いつきにすぎなかった。
しかし旅を続けていくうちに、僕が地図帳の中でしか知らない街の本当の姿に次々と触れていくことになり、
気づけば僕の中でこの県庁所在地めぐりというのは、かなり重要な部分を占めるようになっていた。
それはただ県庁や市役所を眺めるだけのものではなくなっていた。肌で感じた土地の特徴を言語化し、
それぞれの差異を整理していくことで、その街は僕の中の一部分になる。そして、僕自身が広がる。
つまりそれは、47個に分けられた僕の中の日本を拾い集めていく作業にほかならなかった。
ひとつひとつのピースを吟味することで、僕は日本に自分自身を埋め込みながら、自分の理解を広げていった。
そんな旅が、今日、終わる。

長電フリーきっぷは2日間有効なので、宿のある権堂から長野電鉄で長野駅まで出る。贅沢なものである。
市役所に行くには途中の長野市役所前駅で降りれば早いのだが、やっぱりそれじゃ味気ないじゃないか。
昨日の早朝、雨の中で長野駅前に降り立ったのとはまた違う気分で、あらためてゴールを目指すのだ。
長野市中心部の都市構造はそれほど難しくなく、駅から少しだけ西に行ったところから善光寺の参道が始まる。
これをそのまままっすぐ北上すれば善光寺に到着するのだが、途中の国道19号を東に曲がると長野市役所、
西に曲がると長野県庁ということで、(僕にとっての)主要な施設が見事に十字を描く形となっている。
だから今回は長野駅からスタートし、善光寺にお参りする途中で市役所と県庁に寄るようにしてみた。
ちょっとだけもったいぶって、長野県庁は長野市役所よりも後ということにする。まあ、それほど深い意味はない。

そういうわけで曇り空の下、いざスタート。駅からまっすぐ西に出ると、素直に善光寺の参道を北上していく。
道は緩やかな上り坂になっており、「十六丁」から始まって善光寺までを1丁ずつカウントダウンする石碑がある。
車は駅からだいたい参道と平行に走っている長野大通りを行くので、参道の交通量はそれほどなく安全だ。
基本的には商店街でさまざまな店が並んでいるが、正直なところ今ひとつ明るさに欠ける印象も否定できない。
車の交通を国道に専念させた分だけ、賑わいも微妙に削られてしまった、そういう感じがなんとなくする。

  
L: 長野駅前より眺める風景。この道を少し進んで右に曲がると善光寺の参道が本格化。
C: 善光寺の参道を行く。車の交通量が少ないので、落ち着いた雰囲気。ただしその分、賑わいにもやや欠ける。
R: 善光寺までの距離を示す石碑。形はさまざまで、特に決められているものでもないみたいだ。

残り12丁を過ぎたところにある新田町の交差点に出ると、右に曲がって国道19号(昭和通り)を行く。
1丁の距離はそれほど長くなく順調にカウントダウンを進めていたのだが、この寄り道がけっこう長かった。
参道からはずれてしまえば長野市の街並みはなかなか殺風景で、これといった特徴のないオフィスビルが続く。
オフィスビルといってもそんなに立派なものではなく、いいとこ5~6階建てぐらいが多い感じ。
やっぱり長野はほかの県庁所在地と比べても都会度合いは弱いなあ、と思いつつトボトボ歩く。

やがて右手に突然、屋根つきの駐輪場が現れる。その奥には少しだけマンションっぽい白と茶色のビル。
(後述するけど、マンションっぽいのはコアシステムのコアの部分が表に出ちゃっているから。)
これは長野市役所の第一庁舎である。ついに46番目、最後の市役所に到着したのだ。達成感よりも淋しさが募る。
もったいぶって、いったんスルーしてそのまま先へと進んでいったら、特徴あるファサードの長野市民会館が現れた。
長野市役所と長野市民会館は隣接しているのだ。といっても、市民会館は来年3月をもって閉館する予定。
取り壊した跡地に新たに長野市役所を建てる計画になっているのである。かなり凝った建物なのに、非常にもったいない。
とりあえず市民会館の敷地を一周して、雄姿をしっかりとデジカメの記録に残しておくことにする。

  
L: 長野市民会館。佐藤武夫の設計で1961年に竣工。一目見てこだわりがわかる建築。これ本当に壊しちゃうの?
C: 正面より眺める。長野市民会館の座席番号はアルファベット順ではなく、「いろは」順になっているそうだ。
R: 少し南に寄ったところ。長野市民会館は権堂を第一候補に新しくつくる方針だそうだけど……。うーん……。

 南側から眺める長野市民会館。やっぱりこれを壊すのはもったいないよ。

いよいよ長野市役所の撮影にとりかかる。現在の長野市役所は、玄関棟がくっついた第一庁舎と第二庁舎からなる。
昨日の日記でも書いたが、第一庁舎を設計したのは長野県建築界の重鎮・宮本忠長。竣工したのは1965年だ。
なお宮本忠長によると、現在の長野市役所第一庁舎は「当初の計画の半分でしかない」らしい。
なんでも、「南北の長さを市民会館とそろえてバランスに配慮し、1期工事で南側に9階建ての現庁舎を、
2期工事でちょうど対になるように北側に同じ高さの建物を造ってつなげる予定」で、基礎工事もそうしてあるという。
また、そうすることで耐震強度も高められるはずだったそうだ(以上、『週刊長野記事アーカイブ』より引用)。
しかし実際には北側(国道沿い)の2期工事が行われるかわりに、南側に第二庁舎が建って現在に至っている。
確かに現在の長野市役所は、ずいぶんと中途半端な印象のする建物である。
そう言われると、完成形を見てみたかった気がしてくる。

  
L: 北東側から見た長野市役所。 手前が玄関棟で、奥が第一庁舎。低層部分が幻の2期工事予定地ということ。
C: 正面より眺める。長野冬季オリンピック・パラリンピックの開催を示す看板が今も飾られている。
R: さらに角度を変えて北西側から撮影。確かに、北に面しているとはいえコアシステムが正面にあるのはすごく変だ。

今後、長野市役所はどのように姿を変えるのか。まず、第一庁舎はさっき書いたように、市民会館の跡地にできる。
現在第一庁舎が建っている土地は、駐車場として整備される。そして市民会館は権堂に移る方針となっている。
第一庁舎は2014年4月、市民会館は2015年4月に供用開始の予定である。どちらも太陽光発電などを導入し、
管理費を抑えるとともに環境に配慮することが明記されている。果たして、どうなることやら。

  
L: 玄関棟のエントランスをクローズアップ。  C: 東側から第一庁舎を見上げる。コアのせいでちょっとマンションっぽい。
R: 第一庁舎の裏側。なんだか第一庁舎は両面とも裏側っぽい建物だ。まあ、経緯を考えれば当たり前の話なのだが。

第一庁舎の奥にどっしりと構えているのが第二庁舎。市民会館とも第一庁舎とも無関係に建っている感じがありありで、
この辺りにある建物の統一感のなさをさらに加速している。こいつが残れば何が新たに建っても変わらない気がする。

 
L: 長野市役所第二庁舎。玄関棟と市民会館の間に鎮座しており、計画性をみじんも感じさせない。
R: 裏側から見るとこんな感じ。住宅とのスケールの差異がまた強烈である。

昨日の日記にも書いたのだが、長野市役所の新しい庁舎が完成したあかつきには、松代とセットで再訪したい。
待ちきれなくって先に松代だけを堪能してしまいそうな気がしてならないが、そのときはそのときなのだ。

来た道を戻って善光寺の参道を横断し、そのまま西へと通り抜けてしまう。今度は長野県庁の番だ。
やはり市役所と同じで、東西方向の移動はそこそこの距離がある。途中で長野中央郵便局の前を通ったが、
郵便ポストには長野冬季五輪のマスコット「スノーレッツ」の姿があった。ずいぶんと久しぶりに見た。
当時は「こんなヘタクソなマスコットを海外のデザイナーに発注して金のムダづかいじゃないか!」と叩かれたものだ。
まあ当時小学生だった僕もスノーレッツを初めて目にしたときには腰が砕けた。ヘタウマではなく、ヘタなのだ。
あれから10年以上経った(マジか……)今でも、こうしてきちんと形跡を残していること自体は評価したいが、
いかんせんスノーレッツじゃなあ。まあでも、いきなり現れた過去の遺物にほんわり和んだことは確かだ。

 長野冬季五輪のシンボルマークとスノーレッツ。こうなりゃとことん残せ。

郵便局からしばらく行くと、少し規模の大きな交差点に出る。そこに面しているのは、そう、長野県庁。
いよいよ47番目、最後のゴールに来てしまったのだ。やはり達成感より淋しさが胸を満たす。
しかし肝心の長野県庁はそんな感傷的な気分を引きずらせるほどドラマティックな建物ではない。
1968年竣工の典型的なモダニズム庁舎建築なのである。飾りっ気ゼロで、凝ったところがほとんどない。
しばらく正面から眺めているうちに、「いいや、撮ろう」とすっかりふだんどおりに戻ってしまった。

  
L: 長野県庁。コルビュジェとかその辺の要素を取り出して廉価版にしたというか量産化したというか、そんな印象の建物である。
C: ピロティとなっている東側から眺めた長野県庁本館棟。かっちりとモダニズムなのだが、派手さがほとんどない。
R: ピロティに注目してみた。長野県庁本館棟は「お役所系モダニズムの完成形」と言って差し支えのない仕上がりとなっている。

長野県庁を設計したのは建設省営繕局(当時)。1968年竣工というのは北海道庁(→2010.8.9)と同じタイミングだ。
北海道庁は久米建築事務所の設計だが、長野県庁も北海道庁も、どちらも似た感じの建物となっている。
これは『都道府県庁舎』(→2007.11.21)によると、シティ・ホールを意識した庁舎に対する揺り戻しに当たるという。
丹下健三の旧東京都庁舎(→2010.9.11)以来、社会にはたらきかける空間的要素を採り入れた庁舎が続いた。
(日建設計の広島(→2008.4.23)、前川國男の岡山(→2008.4.22)、丹下健三の香川(→2007.10.6)、
 星野昌一・坪井善勝の千葉(→2008.7.22)、岸田日出刀の高知(→2007.10.8)といった辺り。)
これらの庁舎はモダニズムに即しながらも、それぞれ設計者の個性をバランスよく加えた、一工夫あるものばかりだ。
その一方で、この時期には建設省営繕局が自らの存在意義を示すために積極的に庁舎建築に関わっていた。
(朝鮮戦争中は自衛隊・米軍施設を多数建設したが、戦争の終結とともに規模を縮小されるおそれがあったという。)
建設省営繕局の設計による建物は、対照的にひどくシンプルな(良くいえば質素さ全開の)オフィス建築ばかりである。
(こちらは島根(→2009.7.18)、秋田(→2008.9.13)、鳥取(→2009.7.19)。ただし最初期の島根は少し凝っている。
 建設省ではないが、谷口吉郎・日建設計による青森(→2008.9.14)も地味な部類に入ると言えるだろう。)
そんなわけで1960年代前半は建築家による職人モダニズムと建設省によるお役所モダニズムがせめぎあっていたのだ。
しかしやがてオフィス建築のヴォリュームが大きくなっていくとともに、質素なお役所モダニズムが優位となっていく。
建設省の地方建設局からは大分(→2009.1.9)や奈良(→2010.3.28)のような傑作も出ることには出たが、
建築家の設計事務所が組織事務所へと進化していくのと軌を一にするのと同じように、全体として質素化が進んでいく。
長野県庁はそういった流れの中で、建設省が県庁の設計を行った最後の例となった。当然、質素な仕上がりである。

  
L: ピロティはこんな感じ。  C: 本館棟の裏側。ファサードは正面と同じ。オープンスペースも無機質である。
R: 遠景で本館棟の裏側を眺める。長野市の中心部は全体が緩やかに傾斜しており、南より北の方が高くなっていく。

どの角度から眺めても、長野県庁の印象はまったく変わることがない。十分及第点だけど、なんかちょっとつまんない。
よくよく見れば見るほど、そのお役所系モダニズムとしての完成度の高さには感心させられるのである。まとまっている。
でもそれゆえに、あまりにも面白がることのできる部分が少ないので、ウキウキしないのである。
それはつまり、一般大衆が役所を見てウキウキする時代は終わったということにほかならないのだが、
僕にとってその事実は、建築の中の民主主義を面白がる精神が失われた!という残酷な事実にほかならないのだ。
かつて役所が地域住民の誇りだった時代は、もはや完全に終わっている。長野県庁の完成度はそれを宣言するものだ。
県庁めぐりの一番最後でその事実に直面すること、そして僕が生まれ育った県の庁舎がその事実を示していること。
なんとも皮肉なものだと思う。でもまあ、それが現実なんだからしょうがない。

  
L: それでは気を取り直して長野県庁の中に入ってみましょうか!  C: 1階にある県民ホール。観光協会もあるよ。
R: 2階より吹き抜けの部分を眺める。1~2階はピロティにガラスを張った感じのつくりになっているわけだ。

長野県庁の面白いところは、1~2階のピロティ部分をしっかりと開放的につくっているところだ。
周りをガラスで囲みホールとしての機能を持たせてある。特に、たっぷり東半分を吹き抜けのホールとした点は特徴的だ。
(竣工当時、西半分は行政のオフィスが占めていたが、その後完全に撤去されて1階はまるごとホールとなった。)
ただしその分、3階より上は完全にオフィス専門となっている。つまり開放されている部分はきっちり限られているのだ。
そこにもまた、様式としての完成度の高さを感じる。うまく開放した空間をつくる技術、そしてそれを限定する技術。
「うち」と「そと」を巧妙に構成して、日本型のモダニズム、そして日本型の公共性を実現している。
そういう意味では、長野県庁は僕の研究対象としては極めて有意義な存在なのかもしれない。
(今思えば、田中康夫がガラス張りの知事室をやっている間に訪れて、それについて空間的な分析をするべきだった。)

  
L: 長野県庁の東庁舎。  C: 本館棟手前の議会棟。絵に描いたような議会建築である。  R: こちらは議会増築棟。

これで僕の県庁めぐりは完了した。でも達成感は本当になくて、自分の課題をしっかり突きつけられた、
そういう感触しか残っていない。僕はただ、47の事例についてこの目で確かめたにすぎなかった、というわけだ。
結論は、つまり僕の目指すべき本当のゴールは、もっとずっと先にある。どうにかしてそこにたどり着きたい。
そのためにはきちんと今までの思考の成果を整理して、もっと深いレベルに発展させなくてはいけないのだ。
実に面倒くさい。面倒くさいが、それはたぶん僕にしかできない仕事だという気がする。だって誰もやってくれないんだもん。
もっとしっかり勉強して、もっと見えないものを見えるようにして、じっくり取り組んでいくことにしよう。

気を取り直して善光寺の参道に戻る。あとはもう、せっかく長野に来たんだから善光寺にお参りしておくのだ。
再び残り11丁からカウントダウンを始めるが、すぐに残り9丁を過ぎたところで大きな駐車場が現れる。
歩行者中心の参道にふさわしいとは思えないその規模と、置いてある車の台数に驚いてしばらく立ち止まる。
そうしているうちに気がついた。奥の方に何かがある。目を凝らすと、それはオリンピックのマークだった。
その瞬間、思い出した。そうだ、ここは長野冬季五輪の表彰式が行われたセントラルスクゥエアだ!
この駐車場は、そのセントラルスクゥエアの土地を有効活用した結果ということなのか。当然、中に入ってみる。

  
L: セントラルスクゥエアの駐車場。かつてここにはデパートが存在したが、長野冬季五輪の際に広場として利用された。
C: しかし今はただの駐車場でしかない。オリンピックの記憶は奥の方のごく一部分だけに、捨てられたように残っている。
R: ショックだったのは、すべてがこのように傷んだ状態のまま放置されていたことだ。オリンピックって、なんだったの?

これは同じ長野県民である僕にとっては衝撃的な光景だった。長野冬季五輪は確かに日本の選手が大活躍し、
熱く盛り上がった大会であったのは紛れもない事実だ。しかしそれを南信の人間はどこか冷ややかに見ていたのも確かだ。
そういう北高南低とでも表現すればいいのか、熱気の温度差と何よりも建設ラッシュの確固たる差が、
どれだけ南信の人間たちを苦しめて……ってほどではないのだけど、南信を完全に置き去りにしておいて、
そしてその結果がこれかと! 10年が経って、お前らが祭りで食い散らかした後に残したものがこれかと!
同じ長野県ということでくくられて、そっちにばかり予算が投入されたその結果がこれなのかと!
お前らにとってのオリンピックの記憶が今はこれなのかと! ……怒りを通り越して、もう力が抜けてしまった。
誇れよ! もっと誇れよ! お前らが国際イベントの地元での開催に沸き、日本の選手の活躍に沸いた、
その記憶をもっと丁重に扱ってくれよ! 南信がそのときにガマンした甲斐を、いつまでもプライドとともに残してくれよ!
あのときの僕らの「犠牲」を示すはずの証拠が、ここまで粗雑に扱われているとは想像したことがなかった。
これは本当に信じられない光景だった。そして、自らの過去に対してこのようなレベルの低い仕打ちをするこの街が、
僕の故郷の県庁所在地であることに、絶望的な気分にさせられた。

一方で、善光寺の参道には、大切にされているものもある。それは和風の店舗による街並みだ。
おそらく昔からあるであろう蔵造りの建物も混じっているが、最近になって新たに建てられたと思しきものもある。
全体的にまだまだきれいすぎるものが多く、風情が本格的に漂いだすのはこれからといったところ。
まあ、やる気は十分感じさせる徹底ぶりなので、その辺は好意的に受け止めておきたい。

  
L: こちらは実際に昔からある建物。  C: 新しく和風にそろえて建てたと思われる一角。
R: 大門町の交差点から先は車道も石畳になる。この辺の雰囲気づくりはかなり徹底している。

  
L: 以前は五明館旅館だった善光寺郵便局。1932(昭和7)年築である。
C: 御本陣藤屋旅館(現・The Fujiya Gohonjin)。こちらは1925(大正14)年築。
R: そうして左手に現れる大本願(写真は表書院)。浄土宗の尼寺で、大勧進とともに善光寺を運営している。

というわけでいよいよ善光寺である。大本願の脇を抜けると仁王門。これをくぐると仲見世通りとなっている。
坂道を上って上って和風の街並み、そこからさらに門をくぐって仲見世通りということで、よくできた空間の演出である。
善光寺の本堂に向けてだんだんと気分が盛り上がっていくように街ができあがっているわけだ。

  
L: 1918(大正7)年再建の仁王門。   C:仁王門を抜けると仲見世通りが続く。
R: 仲見世通りの先には大勧進。大本願とともに善光寺を運営するが、こちらは天台宗。

三門をくぐると善光寺の本堂が姿を現す。が、本堂をじっくり眺める前に、せっかくなのでやっておきたいことがある。
それは、三門に上ることだ。内部が特別に公開されているようで、これを見学しない手はない。
高いところは苦手なのだが、好奇心の方が勝ったからには挑戦せざるをえないのだ。
列に並ぶと、たすきを渡される。少しだけ緑がかった青、赤、黄、緑と色分けされており、このグループで上るのだ。
前のグループが下りるのを待って中に入るのだが、その間ずっとガイドの方が説明をしてくれる。
なかなか軽妙なしゃべりで勉強になる内容。高岡の瑞龍寺もそうだったが(→2010.8.24)、
歴史のある寺ってのは「聴かせるしゃべり」という伝統があるようだ。面白いものだ。

三門の中には仏像があるものの、比較的がらんとしていた。外を眺めるが、街はそれほどよく見えない。
三門じたいが思ったほど高くないのと、さっきの仁王門が意外とジャマになってしまっているためだ。
壁を見上げると、四国八十八箇所それぞれの本尊の代わりという仏像がずらっと並んでいる。が、けっこう欠けている。
説明を受けて「善光寺」の3文字の中に5羽の鳩が隠されているという額の文字を至近距離から見上げたのだが、
結局どこのどれが鳩なのかわからなかったなあ。実に残念である。ポッポー。
それにしても、中はあちこちに歴史的な落書きがなされており、これが日本人の本質なのかと思ってしまった。

三門から下りてくると、本堂をじっくりと眺める。ずいぶんと窮屈なバランスの建築だ。高さのわりに、幅がない。
本堂が再建されたのは1707(宝永4)年で、江戸時代中期を代表する仏教建築だというが、
このバランスはなんとも独特なものだと感じる。でもそれこそが、善光寺のほかにない存在感の根源だとも思う。
善光寺の歴史は非常に古い。本尊の「一光三尊阿弥陀如来像」は552年に初めて朝鮮から日本に渡来した、
日本で最古の仏像だというのだ。絶対秘仏で寺の住職ですら見ることができないのは有名な話である。
(そのためこれを模した前立本尊がご開帳の際に公開される。長野県ではそれすら一大事なのだ。)
この本尊を守って寺を創建したのが本田善光。善光寺の名は彼にちなんでいるのだ。
最初はわが飯田市に寺が建てられたが(それが元善光寺)、残念ながら642年に長野に移った。
これは当然、日本で仏教がさまざまな宗派に分かれる前のことなので、善光寺は宗派のない寺なのである。

  
L: 三門。1750(寛延3)年に完成。わりと最近、大修理が行われた。いつでも中に入れるわけではないみたい。運がよかった。
C: 本堂。思えばここを訪れたのは小学4年生のときの社会見学以来だ。でもこの強烈なシルエットを忘れたことはない。
R: 横から眺めた本堂。本堂は遠くから眺めると絶妙なバランスが印象的だし、近づいてみるとやはりその緻密さに圧倒される。

さて善光寺に来たら当然、やっておかなきゃならないことがある。そう、「お戒壇巡り」だ。
本尊が安置されている瑠璃壇の真下にある「極楽の錠前」に触れることで本尊と縁を結ぶということになっている。
そしてこの「お戒壇巡り」の特徴は、完全に真っ暗な回廊を右手で壁を触ることだけを頼りに進んでいく、という点だ。
参拝客が絶えないので途中ではぐれる心配はないが、本物の真っ暗闇の迫力は大したものなのだ。
(ちなみに飯田の元善光寺にも「お戒壇巡り」はあるが、それほど規模は大きくなかった記憶がある。)
参拝客の列に並んで僕もチャレンジ。ところが時計の文字盤が光ってしまい、左手首をねじって体に密着させる破目に。
昔の人はよくがんばったもので、お戒壇巡りの真っ暗ぶりは徹底している。重力の存在すら忘れてしまうほどに闇の中。
「極楽の錠前」のある場所も真っ暗で、参拝客のしゃべり声の中、ガチガチ鳴らされる音だけが距離感を伝える。
そうしてひんやりとした金属に触れるとご利益完了。しばらく進んで光のある世界に戻る。実にエンタテインメントである。

 経蔵。1759(宝暦9)年建立。老朽化で中に入れないのは残念だ。

善光寺参りの定番コースを済ませたので、境内からちょっと離れてふらふらと散歩をする。
すると、木々に囲まれた中にまるで要塞のような建物が目に入った。ほかにも行きたいところがあったので、
とりあえず写真だけ撮って引き返す。後で調べてみたら、これは現在、公民館として使われている建物だった。
もともとは結婚式場・レストランだった「蔵春閣」で、1967年竣工とのこと。かなりの迫力がある。
ぜひ次に長野を訪れた際には中に入ってみたい。やっぱりずくを出してあちこち行かないとダメだね。

 長野市城山公民館別館(旧蔵春閣)。中で演劇公演も行われているらしい。

善光寺の参道を大門の交差点まで戻って、そこから西へ行くと信州大学教育学部である。
わが恩師を多数輩出してきたし、わが同級生も多数入学した。いったいどんなところか様子を探ってみるのだ。
が、よく考えたら大学はまだ夏休み中なのである。学生はチラホラいる程度で、まったく活気がない。
キャンパスじたいもどこか殺風景で、曇り空のせいもあって、緑と灰色だけで構成されている状況なのであった。
建物もどれも無個性だし、まあ正直、このキャンパスで4年間過ごすというのは自分にはキツい。

  
L: 信州大学教育学部はこんな感じ。大学が周りよりも一段高くして場所を区切っているのはちょっと珍しいのではなかろうか。
C: 入口。殺風景にもほどがある。  R: 中はこんなふうになっている。空間が非常に狭苦しい。

参道を権堂まで戻ってアーケードを突っ切る。権堂のアーケードも以前来ているが(→2009.8.13)、どうもパッとしない。
アットホームといえば聞こえはいいが、まあ要するに迫力がないのである。東端のイトーヨーカドーにも寄ってみる。
最上階のゲーセンの手前に、花やしきにもあったパンダの乗り物(『稲中卓球部』のアレ)がいきなりあって驚いた。
地下の小規模なフードコートで一休みすると、そのまま長野電鉄の権堂駅へと抜ける。

 
L: 権堂アーケード入口。前にも同じ構図で撮影しているなあ。  R: アーケード内部。全国規模のチェーン店がぜんぜんない。

権堂駅から向かった先は、小布施である。小布施は北信の観光地としてはずせない存在なのだ。

●13:19 権堂-13:51 小布施

小布施駅で降りる客はさすがにそこそこいた。ワンサカというレベルではまったくないのだが、
片田舎の町ということで考えると、観光地としての根強い人気を十分に感じさせる量である。
外国人観光客の姿もぱらぱらとみかけられる。やはり善光寺と併せて訪れるプランが成り立っているのだろう。

 小布施駅。街と同様に落ち着いた雰囲気である。

駅の改札を抜けるとそのまま引き返して端っこの窓口へ。おばちゃんにレンタサイクルの申し込みをする。
小布施の名物はなんといっても和菓子である。特に栗を材料に使った和菓子がよく知られている。
町内の和菓子業者は駅に程近い国道403号付近に集中して店を出しており、そこが観光の中心となっている。
でもそれだけでなく寺めぐりをやろうとすると、なかなか面倒くさい距離を歩くことになってしまう。
となると当然、レンタサイクルの出番となるわけなのだ。これで山の麓にある寺まで行ってしまうのだ。

国道403号付近に和菓子店が集中している、と書いたが、これは「小布施町並修景」という計画によるものだ。
このまちづくりを進めたのが、昨日から今日にかけて大活躍の建築家・宮本忠長なのである。
核となっているのは北斎館。小布施は葛飾北斎が晩年に暮らしたことのある町で、北斎の作品が多数残っていた。
それをまとめた美術館「北斎館」が1976年に開館し、まちづくりの進行にともなって観光地として認知されていったのだ。
現在ではこの町並修景地区に、北斎館を中心にして和風の店舗が多数集まって落ち着いた賑わいが生まれている。

  
L: 国道403号沿いの風景。和菓子業者などの和風の店舗が集まって、古きよき時代の雰囲気を持った街並みができている。
C: 和菓子店の店舗はどこもこだわりを感じさせる建物となっている。  R: 土産物屋も一工夫あるのが印象的だ。

さっそく北斎館に入ってみる。建物じたいはまったく面白みがなかったので、写真は割愛。
しかし展示されている作品の質はすばらしい。北斎というと世間では『冨嶽三十六景』が人気なのだが、賛同しかねる。
一度でも北斎の肉筆を見てしまうと、そのケタはずれの観察眼と描写力に誰もが心を奪われてしまうだろう。
そうして感動した後で量産された『冨嶽三十六景』を見たところで、構図の巧みさにしか惹かれるものはないのだ。
北斎の真髄は肉筆にある。版画なんぞ彼の魅力の1/10も残しちゃいない、と僕は信じているのである。
北斎館ではそんな北斎の肉筆がしっかりと堪能できる。じっくり眺めて展示を往復して、至福の時間であった。

北斎を堪能した後は近くの店で栗のソフトクリームを食べて一休み。おいしゅうございました。
そういえば僕が小学生ぐらいのときに家族で小布施に来ているのだが、その際にたまたま、
アイスクリームに熱い栗味だかなんだかのシロップを掛けるというデザートを食べたことがあった。
これがめちゃくちゃうまかった記憶があるのだが、肝心の店がどこだったか覚えていなかったので、今回は食えなかった。
どうにかリベンジしたいものである。食い物の恨みは恐ろしいのだ。

エネルギーを充填して元気も出たところで、次の目的地へ向けてペダルをこぐ。
小布施の街は、全体が緩やかな斜面の上にある。この辺りは千曲川に向けて角度の狭い扇状地となっており、
したがって果樹園が非常に多いのだ。木々の合間に刻まれたアスファルトの道を、重力に逆らって進んでいく。

そうしてたどり着いたのは、雁田薬師浄光寺。1408(応永15)年建立の薬師堂は重要文化財である。
まずは仁王門をくぐるのだが、そこにあった文字が気になる。「参詣の皆様 説明機をお使いになるとご利益が増します」
ホントかよ! いきなりVOWっぽい案内に出くわしてドギマギ。面白かったので証拠を押さえてしまったではないか。

  
L: 浄光寺の仁王門。仁王像のうち片方は土の中から掘り出されたとか。  C: 要するに説明を聞けってことね。
R: 仁王門から薬師堂へと続く参道。一見するとガタガタだが、歩いてみるとやっぱりガタガタである。

薬師堂と向き合う。3年前に屋根の葺き替えを済ませたそうで、なるほど立派である。
正面には回向柱が立てられており、斜めの角度でしかうまく撮影できなかったのはちょっと残念。
でもまあその分、ご利益があるだろう。きっちり参拝しておく。

 薬師堂。やはり室町期の建築には独特の古さがあるものだ。

そのまま左手に小布施の果樹園を眺めながら山麓を北上していくと、岩松院に到着する。
ここの見どころは僕には2点。ひとつは北斎による本堂天井の『八方睨み鳳凰図』。
そしてもうひとつは、賤ヶ岳の七本槍にも数えられた福島正則の廟である。
岩松院の境内は花や草木に囲まれており、いかにも街はずれにたたずむ寺としての雰囲気がある。
そこになんとなく懐かしさを感じてしまうのは、僕が長野県出身だからなのか。

仁王門をくぐって本堂に入る。『八方睨み鳳凰図』は中央の大間にある。真下の座敷には椅子が並んでおり、
そこに腰掛けて絵を見上げる仕組みになっているのだ。『八方睨み鳳凰図』は北斎89歳のときの作品。
翌年に江戸に戻って死去しているので、まさに北斎がこの小布施の地に残した遺作というわけだ。
大きさにして21畳、描かれて160年以上が経っているがまったく手を入れることなく当時のままになっている。
正直言って、不気味な絵だ。暗い色調のど真ん中で、異様に鋭い鳳凰の眼光がぎらりとこちらを見下ろす。
薄暗い寺の中、その目が上から無言で視線を送ってくるのはかなりの威圧感とともに気持ち悪さがある。
しかしだからって負けるわけにはいかないのである。こっちも意地になって見つめ返してやる。
そうしてしばらく睨み合って過ごすのであった。こうして北斎の手のひらで転がされるのもまた面白いものだ。

  
L: 岩松院は外から見るとこんな感じ。江戸時代から変わっていないんだろうな、と思わされる風景である。
C: 仁王門。なかなか立派。  R: 『八方睨み鳳凰図』はこの本堂の中。北斎が描いたものがそのままってのはすごいものだ。

境内の奥へと進むと、無数の塔や墓石が立っている中にひっそりとお堂がある。これが福島正則を祀った廟だ。
秀吉子飼いの猛将だった福島正則は、石田三成との対立関係もあり関ヶ原の戦いでは率先して東軍に属する。
続く大坂夏の陣・冬の陣でも徳川方について家康への忠誠を示すが、その最期は非常に悲しいものとなってしまった。
福島正則は広島城主だったが、台風で城の一部が壊れてしまい、それを修理する願いを幕府に出す。
しかしこれがまったく受理されない。しびれを切らしてちょっと直したところ、これが武家諸法度に反したと咎められる。
結果、安芸・備後の領地をすべて没収されて川中島に大幅減封となってしまった。つまり、はめられたのだ。
後に同じく秀吉子飼いの加藤清正も子の代で改易となっており、徳川家への反対勢力の芽が徹底的に摘まれた。
(その流れを考えると加賀の前田利常のすさまじい非凡さがよくわかる(→2010.8.24)。毛利家・島津家もしかり。)
かつては50万石を誇る大名だった福島正則の廟は、彼の業績から考えると非常に小さな姿でたたずんでいる。
でも小布施を訪れる観光客が毎日ちょぼちょぼと訪れて、彼にまつわる悲劇を胸に、手を合わせて帰っていく。

 福島正則の廟。

扇状地なので帰りは快調に位置エネルギーを解放すればいいだけだ。勢いよく果樹園の中を抜けていく。
途中でおぎのやの店舗があったので、非常食ということで峠の釜めしを1個買って中心部まで戻る。
そうしてしばらくあちこち歩いて小布施の街並みを堪能すると、最後に小布施町役場に寄って駅へ帰る。

 
L: 小布施町役場。やっぱり観光がしっかりしているからか、どこか金のありそうな建物ですな。
R: 隣にある、その名も「北斎ホール」。小布施は北斎で押しまくっていますなあ。

けっこうギリギリのタイミングでレンタサイクルを返却すると、改札を抜けてホームへ。
程なくして電車がやってきたので乗り込む。小布施は面白いけど、ひとりだと十分には楽しめないかな。

●15:56 小布施-16:33 長野

長野駅に戻る。考えてみれば善光寺の参道を中心に歩きはしたが、長野の市街地を存分に味わってはいない。
というわけで、残り時間は長野駅周辺をふらふら歩いて過ごすことにしてみた。まずはデパートの賑わいぶりを分析だ。
東急(グループ創立者の五島慶太は長野出身ですよ)から攻めてみるのだ。が、勢いとしてはまあふつう。
壊滅的な県庁所在地のデパートもある中、まずまず元気。でもエネルギーがガンガン出ているというほどではない。
屋上に出て、長野の街を眺めてみる。実はデパートの屋上というのも社会学的にはめちゃくちゃ面白い対象だが、
それをきっちり書けるほど勉強しているわけではないので(ゼミの先輩で卒論に屋上論を書いた人がいたけど)、
あれこれ言うのはまたの機会とするのだ。いつか一定の結論にたどり着きたいと思ってはいるのだが。

  
L: ながの東急の屋上。長野は東急のふるさとってことになるので、長野と東急は今もちらちら細かいところで縁がある。
C: デパートの屋上は社会学的に実に興味深い場所なのだ。  R: こんなふうに神社があるのは当たり前。

フェンス越しに長野の街を眺める。ほかにもっと背の高い建物があって街を一望できればいいのだが、長野にはない。
さっき善光寺の三門から眺めても、やはり高さが足りなくて今ひとつ街の感触を味わうことができなかった。
北側は山に囲まれ、善光寺から南側へと流れるように広がる平らな土地には似たような高さのビルが並んでいる。
その光景を見つめているうちに、僕の頭の中にはもうひとつの街のことが浮かんできた。「松本はどうなんだろう」
かつて松本城の天守閣から眺めた松本の街も、山に囲まれた平地を似たり寄ったりのビルが埋めていた(→2008.9.9)。
平城なので高さが足りないのは松本城も同じだ。ひとつの県の中に、同じような規模の街が2つせめぎあっている。
もし、県庁所在地が松本に移っていたら。松本は少なくとも今の倍の規模になっていただろう。
そして長野は門前町の観光地としてのみ生きていただろう。だが、現実は長野の街にもある程度の規模を持たせた。

つまり、僕はこう考えたのだ。「長野と松本は互いに勢力を争うことで、本来あるべき街の規模を減じさせている」と。
もし信濃国の県庁所在地が松本であった場合、街の規模が100になっていたとしよう。その場合の長野は30程度だ。
それが現実には長野が県庁所在地となったため、長野が45、松本が45となっているように僕には思えてならないのだ。
現実の長野と松本を足しても100になっていない。それどころか、仮想の松本+仮想の長野の合計が130だから、
そこから40の規模が減じられたことになる。長野と松本の両雄が並び立つロスは、地方都市1個分のマイナスを生んだ。
東急の屋上から長野の街並みを眺めていて、この門前町に位置の偏った県庁が置かれたマイナスが透けて見えた。

これで僕の県庁所在地めぐりの旅は終わった。僕の故郷ということで長野を最後にしたわけだが、
県庁の建築と同様に、街並みからも僕の故郷についての厳しい現実を突きつけられてしまった。
まあでも、それは動かすことのできない事実なのだから受け止めるしかない。僕はそういう状況で育った、それだけだ。
思えばいろんな街を歩いてきた。おかげで、さまざまなものが見えるようになったし、肌で感じることができるようになった。
そして旅した場所を自分の中に刻み込むことで、身のまわりにある知識をより有機的につなぐこともできるようになった。
誰も褒めてくれないし(うらやましがるけどね)、コストもかかった。でも確かに僕は大切なものを手に入れることができた。
一段落ついたことで、これからはインプットだけでなくアウトプットを磨いていくようにしていかなくちゃいけない。
旅が終わっても続けるかどうかは旅人の自由だ。そして別なベクトルへの旅が始まってしまえば、それを追求するしかない。
僕にはまだまだ、考えなくちゃいけないことがいっぱいあるってわけだ。

長野駅周辺を暗くなるまでブラついて、駅ビルの蕎麦屋で晩飯をいただく。
大量の盛り蕎麦を注文したら、これがもうとんでもない量で、この蕎麦好きの僕が途中で飽きそうになるほどだった。
でも気持ちが悪くなりかけるまで盛り蕎麦を食うことができるというのは幸せなことなのだ。大満足でございます。
その後は駅前の平安堂をふらふら歩いて過ごす。せっかくなので、荷物になるけど本を何冊か買った。
(平安堂の社長一家の墓はうちの墓のお隣なのよ。うちのひいじいちゃんぐらいに平安堂といろいろあったみたい。)

やがてバスの時刻が近づいてきたので平安堂前のバス停へ。9月なのだが非常に寒いのであった。
しばらくしてバスが到着。次に長野に来るのは新しい市役所ができてからか、はたまたそれより前になるか。

バスは途中の横川サービスエリアで休憩をとる。夜遅かったので店はほとんどやっていなかったのは残念。
でも横川ということで、おぎのやの本拠地だけあり(→2010.3.13)、サービスエリアはおぎのや一色。

  
L: サービスエリアの建物内。丸に釜飯の蓋をデザインした紋が面白い。いいなあこれ、家紋したい第2位だ(1位は放射能マーク)。
C: 峠の釜めしを買ってこの中で食べて、かつての駅弁の雰囲気を楽しむことも可能になっている。すごいな、おぎのや。
R: 思わず釜めしストラップを買ってしまった。唐草模様の紙袋がまたいい。やるなあ、おぎのや。

バスが横川サービスエリアを後にすると、すぐに眠ってしまう。やはりフルパワーの旅行は疲れる。

日記の過去ログを見ると、スタートである山梨県甲府市を訪れたのは、2005年9月24日だった(→2005.9.24)。
そしてゴールである長野県長野市が2010年9月24日。まったく同じ日付なのだ。別に狙ってやったわけではない。
後になって(長野から戻ってきて何日も経ってから、掲示板にそのことを報告する際に)気がついた。
この偶然の事実に感動することはまったくなくって、むしろ逆に気持ち悪くって仕方がない。
まあ実際のところは秋分の日という便利な祝日があるおかげで、ほかよりわずかに高い確率がヒットしたにすぎない。
本当の感動は、日付なんかにはないのだ。旅で得たものに比べたら、日付なんか何の意味もないのだ。


2010.9.23 (Thu.)

深夜バスが長野駅前に着いたのは、午前5時になる少し前のこと。当然、空は真っ暗でほぼ夜中感覚だ。
おまけにしっかりと雨が降っている。LOIS(今回はBONANZAではないのだ)から折りたたみ傘を取り出した。
久しぶりの深夜バスでの移動はずいぶんとこたえたようで、バスを降りても車酔いの気配がまとわりついている。
そういうときは周囲をフラフラとあてもなく歩くことで頭をスッキリさせるのだが、よく晴れた青空ならともかく、
まだまだ真っ暗な雨の空の下では治るものも治らない。それでもぐったりしたままで、しばらく歩いて過ごす。

どうも空腹感がいけないんじゃないか、ということで、長野駅のビルに入っている松屋で牛めしを食う。
食ったらようやく目が覚めて、頭がやっとこさマトモに回りだす。あともう一息、ということで、今度はマクドナルド。
マックのハンバーガーは口にしない主義なので(もう20年以上食ってない)、コーヒーを1杯注文する。
熱いコーヒーをチビチビ飲みながら日記を書き進めていく。机にはコンセントがあり、電源とり放題。
さすがにこういうところはマックの商売上手なところだ。悔しいが、素直にそのサービスに甘えて日記を書く。
必死になってキーを叩いているうちに空は明るくなる。しかし雨は一向にやむ気配がない。
天気予報で覚悟はしていたのだが、しかし、旅先で雨に祟られるというのは実に嫌な気分になる。
今日の雨はやみそうにない。今回は県庁&市役所訪問を、初日と2日目のどちらでもいいように組んだので、
長野市内を歩きまわるのは明日にまわすことに決めた。というわけで、今日は長野市周辺を電車で動きまわる。

やがて6時を過ぎたのでマックを出て、トイレでコンタクトレンズを装着する。トイレは汚く、幸先の悪さを感じる。
コインロッカーにパソコンなどの重い荷物を預けると、地下に降りる。まずは地下を走る長野電鉄に乗るのだ。
長野電鉄では2260円で2日間乗り放題の長電フリー乗車券が発売されているので、それを利用する。
最初の目的地は、屋代駅。長野電鉄は長野を出て湯田中温泉まで至る長野線がメインのルート。
その途中にある須坂から屋代線が出ており、これで南下していった終点が屋代駅なのだ。
こちらは長野線と違ってずいぶんとローカル。長野電鉄じたい当然ローカル色が強いが、
屋代線は輪をかけてローカルなのだ。実際のところ、いつ廃止になってもおかしくない状況らしい。

 
L: 長野駅。かつては門前町ということで仏閣型の駅舎だったが、長野新幹線開通を機に今の姿になった。
R: 地下にある長野電鉄の長野駅。長野電鉄は市街地を走っている間は地下鉄状態なのだ。

窓口で長電フリー乗車券を買う。そしたら昨年の御開帳の際に発売されたと思われるフリー乗車券が出てきた。
資源の有効活用だし正直ちょっと得した気分になったのだが、しかしやはり「テキトーだなあ……」と感じたのは否めない。

●06:27 長野-06:55 須坂

長野電鉄は、地下を走っているうちは古臭いものの地下鉄っぽさが確かにあってまあ悪い感触はしないが、
地上に出ると感覚的には飯山線あたりとまったく変わらない雰囲気になる。まあそんなもんだろう。
須坂駅に着いたら乗り換え。9分間の余裕があるので、ちょっと改札を抜けて外の様子を見る。
しかし雨で曇ってなんとも冴えない。駅構内もさびれかけた待合室の前に無人販売所があって、
どうにも根強い田舎臭さが漂っている。この須坂は長野電鉄的には交通の要衝と呼べる存在なので、
これから先のローカルっぷりが非常に心配になる。いったいどこまでローカルになってしまうのだろう、と。

●07:04 須坂-07:55 屋代

7時をちょっと過ぎたところで屋代行きの列車が発車。乗客が非常に少ない。
無人駅をテンポよく抜けていって1時間弱、目的の屋代駅に到着する。ここはしなの鉄道に接続するため、
これまでと比較するとかなり立派な駅だ。といっても、長野電鉄としなの鉄道の間には格差がある。
長野電鉄のホームから駅舎に向かう通路は完全なる木造で、床もしっかり年季を感じさせる。
そしてしなの鉄道側に切り替わった瞬間、床はコンクリートとなるのだ。なんだか切なくなってしまう。

  
L: 長野電鉄のホームから屋代駅の駅舎に向かう。木造の床の先にはコンクリートの床。そこからがしなの鉄道だ。
C: 屋代駅の駅舎。しなの鉄道が接続しているので立派。しなの鉄道はこの先、上田そして軽井沢へと続く。
R: 屋代駅前の商店街。派手さはまったくないけど、小ぢんまりとのん気にやっている印象。

屋代駅で降りたのは千曲市役所(更埴庁舎)を撮影するためだ。2003年、平成の大合併により千曲市が誕生。
もともとこの辺りは更埴(こうしょく)市という街で、千曲市役所更埴庁舎はこないだまで「更埴市役所」だったのだ。
更埴市は「こうしょく」が「好色」に通じるということで、よくうちの母親がバカにしていた。北信では当たり前だったのか。
これは昭和の大合併で更級(さらしな)郡稲荷山町・八幡村と埴科(はにしな)郡埴生町・屋代町が合併し、
更級と埴科の双方から最初の1文字を採ったから。「しな」という長野県を象徴する響きを捨てて音読みに走ったことで、
なんとも不自然な地名ができてしまったのだ。しかしながら平成の大合併で埴科郡戸倉町・更級郡上山田町と合併し、
このたび千曲市となったのである。個人的には更埴脱却と「千曲川」という県内限定の名称を公に採用した判断とで、
まあそこそこ肯定的には捉えているが、やっぱり「更級」「埴科」という名前が遠くなったのはさみしいことである。
正直、ここが「信濃市」ではなくて「科野市」を名乗っても、文句を言う人はあまりいなかったんじゃないかと思う。

で、千曲市役所は更埴庁舎・戸倉庁舎・上山田庁舎で機能を分散させている。
中心的存在の更埴庁舎があるのは「杭瀬下」という場所。これを「くいせけ」と読める人はどれくらいいるのだろうか。
屋代駅から西へと進んでちょっと北に入ったところにあり、静かな商店街・住宅地の中にひっそりと建っている。

  
L: 1965年竣工の千曲市役所更埴庁舎。設計は滝沢健児(U研究室滝沢事務所)。根強いファンがいるようだ。
C: 建物の側面には複雑な模様が刻まれている。昭和30年代モダニズム庁舎をデザイン的に一歩進めた個性派だ。
R: ぐるっとまわり込んで撮影。中もいろいろ凝っているようだが休日で入れず。機会があればまたトライしてみたい。

 北庁舎。やっぱりちょっとどこか凝っている。

屋代駅周辺はこれといって見るべきものがない。駅の東側には博物館があったり古墳があったりするのだが、
そうなると今度は時間が足りなくなってしまう。しょうがないので駅で時刻表を眺めながらこの後の予定を練る。

●09:25 屋代-09:38 松代

屋代駅から屋代線で須坂方面へと引き返す。そして今度は、さっきは素通りした松代駅で降りる。
松代といったら鈴原トウジが……じゃない、式波・アスカ・ラングレーが……じゃない、
真田信之が上田から転封になって以来の真田家の城下町である。1966年に合併して今は長野市の一部。
天気が良ければ駅で無料のレンタサイクルを借りて松代大本営まで行ってしまうつもりだったのだが、
雨ではどうしょうもない。とりあえず、駅周辺の主要な名所をトボトボまわってみることにする。

まずは松代城址だ。松代駅のホームから眺めるとすぐそこにあるのだが、実際に行くにはけっこう手間がかかる。
長野電鉄の線路に遮られ、松代の住宅街をぐるっと270°まわり込まないとたどり着けないのである。
いざ松代城址を訪れてみると、つい最近リニューアルが終わりました、という雰囲気がプンプン。
松代城はもともとは海津城という名前で、武田信玄が山本勘助に築城させたのだ。千曲川を挟んだ北西は川中島。
つまり、松代は上杉謙信との戦いの拠点として整備されたことで歴史が始まった場所なのだ。
その後、江戸時代になって真田信之が上田から移ってくる。以後、真田氏の城下町として栄えて今に至る。
そんな真田知識を想起しつつ松代城址へと入っていくが、やっぱり雨のせいで今ひとつ気分が乗らない。
あちこち歩きまわってみたものの、傘をさしながら水の張った地面を歩いても、僕の中の想像力がはたらかないのだ。
せっかく来たのにこりゃ困ったな、と思いつつ松代城址を後にする。

駅の方に少し戻って、真田宝物館へ。ここには確か僕が中学生のときに家族で来ており、
松代藩の家臣たちがどれくらいの給料をもらっていたのかがひたすら羅列されている恐ろしくマニアックな本を買った。
この手の資料館なら天気はまったく関係ないので、気を取り直して中へと入るのであった。
館内は当然ながら真田家に関するありとあらゆる物が展示されており、これでもか!というほどの六連銭の連発で、
真田ファンにはそれだけでたまらないのである。スロープでは歴代松代藩主の業績がそれぞれ紹介されており、
幕末まで粘り強く存続した真田家について、時代背景と合わせてしっかりと勉強することができる。
戦国時代の真田三代(幸隆・昌幸・信之&幸村)については詳しくても、その後の真田家について不勉強な人は多い。
途中で養子が続いて直接のつながりは非常に弱くなってしまうが、それでも真田幸貫が活躍するなど見どころはある。
まずまず満足して宝物館を出るが、天気の状態は相変わらずで、もうしょうがないので駅に戻ることにした。

  
L: 松代駅。駅で無料のレンタサイクルを貸していて利便性抜群なのだが、さすがに雨では……。ホームの向こうは松代城址。
C: 松代城址。2004年に太鼓門や堀、石垣、土塁などが復元されて今の姿に。ちょっときれいにしすぎでは。
R: 真田宝物館。周辺は真田氏関連の史跡が集中しているが、その中心的存在である。

天気のせいで、真田ファンにとっての聖地中の聖地・松代訪問は甚だしく不本意な形となってしまった。
これはもう、リベンジするしかない。明日訪れる予定にした長野市役所は近いうちに建て替えられる予定なので、
新しい市役所ができたタイミングで、あらためて一日かけてじっくりと松代を味わうことにしよう。
もしガマンできなくって市役所ができる前に再訪しちゃったとしても、それはそれでしょうがない。

●10:41 松代-11:04 須坂

電車は須坂駅に到着。飯田市民にとって須坂とは、同じ長野県内でもまったくなじみのない街だ。
ただ、北信の中では前述のように交通の要衝ということで、長野の子分の中では若頭的存在なのは知っている。
そういう歪んだ知識を修正すべく、傘をさしながらもわりと軽い足取りで須坂の街を歩いていく。

須坂の市街地には蔵造りの建物がよく残っている。江戸時代には須坂藩の陣屋町であり、
明治以降は製糸業によって栄えた土地だ。その時期に建てられた蔵が今も現役で使われているのだ。
観光案内の地図で蔵がよく残っていると紹介されていた中央通りを歩いてみたのだが、印象はわりと新しい。
実際、道幅を拡張したのか、雨の中でも道路工事の真っ最中なのであった。
これはつまり、蔵造りの建物をリニューアルして並べることで観光資源をつくろう、ということだ。
以前訪れた犬山の例を思い出す(→2009.10.13)。犬山には国宝・犬山城という核が存在していたが、
こちらはそれと比べるといささか心もとないように思える。今後どうなっていくか注目したい。

  
L: 須坂駅。長野電鉄における「明大前駅」的な存在。でも駅周辺はあまりにぎわっていない。みんな長野に行っちゃうもんな。
C: 蔵造りの建物が並ぶ中央通りは道路工事中。建物は観光客を意識しつつさまざまな店舗に利用されている。
R: 国道406号・本町通り沿いの蔵造りの建物。こちらも古い建物が多く残っている通りである。

しばらく須坂の街並みを堪能すると、お決まりの市役所訪問である。
須坂市役所は1964年の竣工。隣の東庁舎は1980年竣工で、現在耐震工事中。
設計したのは地元・須坂市出身の宮本忠長。長野県を代表する建築家である。
ちなみに宮本忠長は、この須坂市役所と同じ時期に長野市役所の設計も行っている。詳しくは明日の日記で。

 
L: 須坂市役所。なかなか微妙な傾斜をした場所に建てられている市役所だ。
R: 基本的には昭和30年代型のオフィス庁舎なのだが、屋根が実に独特である。

周囲に遮るものがないので、須坂市役所はとても堂々と建っているように見える。
この時期の庁舎は全国でどんどん姿を消しているのだが、最近リニューアルをしたのかかなりきれい。
やはり地元出身の建築家の作品ということで配慮があったのだろうか。

さて須坂に来たからには、田中本家博物館に行っておかなくてはなるまい。
ここは北信を代表する豪商・田中家の屋敷をそのまま博物館として公開している施設なのだ。
中に展示されているのは田中家で実際に生活の中で使われていた品々。さらに回遊式の庭園まである。
3000坪の敷地を20の土蔵が取り囲むというその屋敷だが、外から見るとあまり威圧感はない。
蔵造りの建物が多い須坂においては、ごく自然に風景として溶け込んでいるように思う。

 田中本家博物館・エントランス。いざ行かん!

入館料を払って中に入るが、本当に他人のお屋敷にお邪魔するわけで、なんだか少し緊張してしまった。
建物も展示されている品々も、どれもあるべきところにある本物なのである。
公立の博物館であれば外からもってきたものを展示品の外にある価値観にもとづいて並べていくわけだが、
ここでは田中家の所有物を田中家の価値観にもとづいて展示しているのだ。完全にプライヴェイトなのだ。
言ってみれば、来館者が展示品の側に「合わせる」必要があるのである。まさに主客の転倒が起きている。
だから来館者はかなりアウェイな気分を味わうことになる。でもその感覚が味わえるということは、
それだけ豪商・田中家のリアリティを深く実感できるということでもあるのだ。つまり品々の迫力が面白い。
今回は企画展として田中家にある帯を紹介していたのだが、それぞれ実に凝った柄なのであった。
こういうものを当たり前のように確保するセンスと財力に、庶民としては脱帽するしかない。

  
L: 展示室を出て中庭へ。なるほど落ち着いて上品な庭である。  C: これも中庭。並ぶ建物がやはり田中家の力を感じさせる。
R: 庭園。いやしかし豪商ってのはすごいもんだ。殿様がやるようなことを自力でやっちゃえるんだもんなあ。

庭園を抜けると最後は喫茶室と土産物屋。さりげない気取り方が豪商の威光はいまだに健在だと感じさせる。
展示内容はとても面白くて満足したのだが、日本のイエ制度の強さも実感させられて、ニンともカンとも。

最後にもうひとつ、僕好みの歴史的な施設があるので寄ってみることにする。
それは、旧上高井郡役所である。1917(大正6)年築の、長野県で唯一現存する郡役所建築だ。
郡役所として使用されたのは10年に満たないが、その後は地方事務所や保健所として利用されるなどして生き残り、
須坂市に譲渡されたのを機に改修工事を施して、2007年に市民交流施設として再オープンさせた建物なのだ。
こりゃもう、寄ってみるしかないでしょう。

中に入るとまず1階で、映画関係のポスターやパンフレットが展示されているのが目につく。
これは須坂市在住だった映写技師の方が寄贈したもの。建物と直接の関係はないのだが、
これといって派手な要素のない旧郡役所の内装に、華やかな印象をもたらしている。

  
L: 旧上高井郡役所。建物もきれいにリニューアルされているが、周囲も花が植えられていてなかなかよい。
C: 正面より眺めたところ。うーん、木造洋風庁舎建築だなあ。よく残したものだ。えらいえらい。
R: 1階で展示されている映画のポスターやパンフレット。これまたよく残したものだ。すごいすごい。

旧上高井郡役所は上述のように、現在は市民の交流施設となっている。
まあ要するに、予約をして会議や展示会などを行う公共の場所となっているわけだ。
2階のホールはなかなか広く、屋上の蛍光灯の配置も面白い。これはかつての内装を利用したのだろうか。
こういう再生方法をみると、やっぱりプライドのある庁舎建築ってのは意味のある存在だと思う。

 2階のホール。いろいろできそうな空間である。

全国に郡役所はいまだにチラホラと残ってはいるが(→2010.5.162010.8.13)、
須坂の例は行政のかなりのやる気を感じさせてくれて、訪れるだけでうれしくなってくる。
果たして平成に入ってからの建物で、残して有効利用したくなる庁舎がどれだけあるものだろうか。

須坂駅に戻ると時間的に少し余裕があったので、近くのスーパーでパンでも買うことにした。
とにかくこっちは早朝の牛めし以来何も口にしていないのである。いいかげんガマンの限界だ。
何か少しでも長野っぽいものはないか、と探した結果、こんなものを発見。

 あんずとりんご、とっても信州らしいコッペパンだ。

2つのコッペパンを一気にたいらげて空腹をどうにかごまかすと、
長野電鉄のフリーきっぷを取り出して改札を抜け、長野とは逆方向の電車に乗り込む。

●13:42 須坂-14:03 信州中野

信州中野駅に到着。わざわざ駅名に「信州」が入っているのはもちろん、中野区の中野と混同を避けるためだ。
中野市はそれほど存在感があるわけではなく「なんだよー『ながの』と思ったら『なかの』ってまぎらわしいじゃん!」と、
おそらく長野県じゅうの小学生に言われてしまっている(そしてたぶん長野県外の人は中野市の存在を知らない)。
そんなマニアックな中野市にやってきたのだが、この場所、長野県の歴史においては意外と重要な役割を果たしている。
詳しくは後述するが、市役所とともにその現場を訪れてみようというわけなのだ。

  
L: 信州中野駅の改札を抜けて撮影。長野電鉄の駅ではこのように無人販売が大々的に行われているのだ。
C: 駅前にある、♪母さんお肩をたたきましょーの像。中野市は作曲者・中山晋平の出身地なのである。
R: というわけで、信州中野駅。駅前のターミナルはちょっと立派だが、その周辺は急激に勢いがしぼむ感じ。

中野市は、地理的には長野県最北の市・飯山市のすぐ南ということで、かなり雪が多くて寒い地域である。
地面の舗装もなんとなく雪で荒れている感触だ(雪国のアスファルトやコンクリートは独特の古び方をすると思う)。
商店が目立つのは信州中野駅からちょっと出たメインストリートくらいなもので、
あとはいかにも北信の田舎らしい高原っぽい雰囲気が閑散とした市街地を包み込んでいる。
……と、さっきからどうも中野市民に対して悪意のあるような文ばかり書いてしまっているのだが、
別にそんなつもりはない。知名度の低い地方都市ゆえに、口の悪い僕だとどうしても書き方がキツくなるだけなのだ。
僕個人の趣味でいえば、中野市はけっこう見どころのある街だ。つまり、古い建築や歴史を感じさせる施設などがある。
そこを紹介することでうまくバランスがとれるはずなのだ。それでいいのだ。

というわけで、まずは中野市役所から訪れてみる。3階建てで飾りっ気のないいかにも昭和な庁舎建築で、
ピンク風味の強いベージュという色合いがなんとも毒々しい。たまにこういう間違った配色の庁舎を見かけることがある。
設計は桂設計。竣工年はネットで調べてもわからなかったが、隣の市民会館は1969年の竣工となっている。
市役所は昭和40年代にしては明らかに古いデザインなので、おそらく市民会館より5年ほど古いのではないか。
市民会館を市役所に隣接させるのは1960年代後半からの発想で、後で同じ色でそろえて塗った可能性が高そうだ。
なお現在、中野市役所は旧中野高校跡地への移転を計画している。まあ確かに、この建物ではいろいろ厳しいだろう。

  
L: 中野市役所本庁舎。  C: 角度を変えて撮影。雨で休日ということもあり、周囲にはまったく人がいないのであった。
R: こちらは中野市民会館会議場。市役所のすぐ北に隣接している施設だ。

 まわり込んで中野市市民会館。市役所と表裏一体、といった構成になっている。

市役所を後にすると、そのまま北上して中野陣屋・県庁記念館に行ってみる。
「陣屋」はともかく、なぜこんなところに「県庁記念館」があるのか。それは、かつてここに県庁があったから。
そう、長野県はかつて、中野県だった時期があるのだ。まるでギャグみたいだが、これは本当の話。

江戸時代に中野は幕府の天領となっており、中野陣屋は5万石ほどの規模で周辺を支配していた。
明治維新により府藩県三治制となると、中野陣屋は伊那県中野分局となる(旧信濃国の天領を伊那県にまとめた)。
そして1870(明治3)年に中野県が分置されて、中野陣屋は中野県庁となる。ところがこの年の12月、事件が起きる。
年貢の減免、新規の税の廃止、特権商人の告発を要求する一揆が発生したのだ。いわゆる「中野騒動」である。
死罪となったのが28人、逮捕者は600人以上という規模で、この事件で中野県庁は襲撃を受けて焼失した。
これで翌年、県庁を中野町から長野村(!)へ移すことが決定し、中野県は消滅してしまったのである。
(長野村の町制施行は1874(明治7)年のことらしいので、長野市はまさに県庁移転を機に発展したことになる。)

現在の中野陣屋・県庁記念館の建物は、昭和になって復元されたものだ。
中は陣屋・県庁だった当時の歴史的な資料などが展示されているほか、市民の交流スペースとして機能しており、
僕が訪れたときも地元のおばちゃんたちが趣味の展覧会を開いていた。なかなかしっかりとした活用ぶりだった。
面白いのが2階で、地元在住の方の馬についてのコレクションで埋め尽くされていた。
まあ要するに小さいころから馬が好きだったコレクターのおやじが、集めたものを中野市にぜんぶ寄贈してそうなったわけだ。
このコレクションぶりが、ジャンルを問わずにちょっとでも馬に関連していればOKというめちゃくちゃ徹底したもので、
馬がいっぱいのモンゴルまで何度も遠征しちゃっているくらいの本気度合いなのだ。ここまでくるとかえって面白い。
本当にそのコレクターの方の目を通して、人類と馬の関係があらゆる文化においていかに濃いものかが見えてくる。

 
L: 中野陣屋・県庁記念館。歴史と現在をうまく交差させて活用していると思う。
R: 2階の馬スペース。すさまじい量の馬コレクションが複数の部屋を占領している。よく集めたもんだわホント。

さらに北へと歩いていく。途中で狭い敷地いっぱいに屋根の目立つ寺があったので、近寄ってみる。
「川東善光寺」とある(正式には南照寺)。千曲川を挟んだ西側の川西善光寺(いわゆる長野の善光寺)と、
対になった存在のようだ。長野の善光寺は全国的に有名だが、中野にもあったとは知らなかった。
ひどく規模が違うものの、本尊は秘仏だしご開帳もちゃんとやっている。中野市においては重要な存在のようだ。

 
L: 中野市のメインストリート。なんかこう、もうちょっと賑やかにならないもんですかね。
R: 狭い敷地にもっさりと迫力のある川東善光寺こと南照寺。長野に対抗する意気やよし。

北上を続けて中野小学校の脇を通り、そのまま長野電鉄の踏切を越える。
そうしてしばらく行くとバラの名所になっているという一本木公園が現れるので、敷地内に入る。
そこにあるのは、中野小学校の旧校舎。これは1896(明治29)年に建てられた校舎を移築保存したものだ。
一時は取り壊しが決まったものの、地元の熱意で保存が決定した建物である。1980年代前半の話だ。
現在、旧校舎の内部は「中野小学校旧校舎・信州中野銅石版画ミュージアム」として活用されている。
中に入ると改修工事が効いていて、全体的に小ぶりながらも清潔感のある印象がする。
まあ正直、版画ミュージアムとしての機能はそれほど充実しているとは言えないものの、
先ほどの中野陣屋・県庁記念館と同じで、地元の誇りを感じさせるには十分な存在である。

 
L: 中野小学校旧校舎。木造で洋風の要素を解釈した建物だ。  R: でも内装はしっかり洋風。

さて本日の最後は、長野電鉄長野線の終点・湯田中駅まで行ってしまう。そう、湯田中温泉に入ろうというわけだ。
運よく特急列車に乗ることができたので、それで快調に終点まで揺られるのであった。

●16:34 信州中野-16:49 湯田中

湯田中駅の改札を抜けると、ぐるっと駅舎をまわり込んで坂を上り、温泉街へと歩いていく。
温泉街といっても湯田中温泉はそれほど賑やかなわけではなく、ひっそりと落ち着いた雰囲気に包まれている。
山沿いの狭い道を挟んで規模の大きな旅館と小さな旅館と住宅が混在しており、実に静かなものだ。

  
L: 湯田中駅の改札を抜ける。いかにも田舎というか昭和というか、そんな懐かしい雰囲気のターミナルとなっている。
C: 特急の車両。これもまた昭和だなあ。  R: 駅舎の反対側。隣接した奥に共同浴場・楓の湯がある。

もともと湯田中温泉では共同浴場が一般開放されていたが、利用客のマナーが悪いということで、
すべてが地元住民と宿泊客しか利用できなくなってしまった。本当に残念だし迷惑でたまらない話である。
湯田中温泉において最も有名な浴場は「湯田中大湯」で、天智天皇の時代からの歴史があるという。
かつては宿泊しなくても隣のよろづやで鍵を借りて自由に入ることができたらしいのだが、
フロントで訊いてみたところ「宿泊しないとダメ」とのこと。しょうがないのでトボトボ歩いて駅まで戻る。本当にがっかりだ。

 
L: 湯田中温泉はこんな感じ。騒がしい要素はまったくなく、落ち着いた雰囲気が非常にいい。
R: 湯田中大湯。せっかくなのでぜひここに入りたかったのだが。とっても残念。

腹いせというわけではないのだが、駅に隣接している楓の湯で、ふやけるまで入浴したのであった。
で、風呂上りにジュースを飲みつつボケーッと大相撲をテレビ観戦。魁皇は人気だなあ。
まあそんなわけで、雨に祟られた一日だったけど、動けるだけ動いて楽しんだつもりである。


2010.9.22 (Wed.)

来月やらなきゃいけない研究授業に向けて、あれこれ準備をしているのである。
先輩の先生に指導案の原案を見てもらって修正が入って、また見てもらって修正が入って。そんな作業を繰り返す。
正直言って僕のやる気は非常に低電圧なのだが、先方は本当に親身になってくださるわけで、
倫理的にいいかげんにやるわけにはいかないので、それでどうにか準備が進んでいるという状況である。
おまけにというかありがたいことにというか、前に研究授業をやった他校の先生に資料を送ってとお願いしたところ、
なぜかこっちが指導案原案を送ることになってしまい、びっしりと赤が入って帰ってきたのであった。
いや、うれしいことなんですけどね。僕の周りは「テキトー」という文字が辞書に載っていない人ばかりで困る。
……いや、うれしいことなんですけどね。


2010.9.21 (Tue.)

休み明けで4つ授業があると、体力的になかなか大変なのだ。
ふだんは勢いでなんとなく乗り切れちゃうんだけど、休みでだらけた後だとこれがキツい。
しかも一日の最後には部活。けっこうヘロヘロになって家に帰るのであった。鍛えられますなあ。


2010.9.20 (Mon.)

今日はのんびりと日記を書いたよ。


2010.9.19 (Sun.)

FREITAGが届いたー!

実は15日の時点ですでに家に一度届けに来ていたのだが、受け取るヒマがなくって今日になったのだ。
注文したのが12日の夜(日本時間)で、15日の昼に届くってんだから、どんだけ日本とスイスは近いのだ。
メールには「Switzerland: 2-3 days EU-Countries: 5-8 days Rest of the world: 10-15 days」とあったが、
これでは日本は完全にスイス国内ではないか。ともかく、予想外の早さに呆れつつウキウキ待っていたのだ。

そういえば前の日記(→2010.9.13)では書き忘れたが、FREITAGのHPから直接注文する場合、
昨今の猛烈な円高の影響もあってか、国内で買うよりかなり安くなるのだ。
送料やら関税やら込みでも5000円ほど安く買えてしまったのである。これは本当にお得だ。

そうこうしているうちに荷物は無事に到着。箱は思っていたよりも小さかった。
納品書や関税の書類や運送会社の手配書がベッタリ貼り付けられていて、はやる心を抑えつつどうにか剥がし、
待望の中身とご対面。LOISは礼儀正しくコンパクトに折りたたまれて収まっていたのであった。
取り出してみて、あまりのオシャレさにうなり声が出てしまった。これは今まででいちばんオシャレなFREITAGだ。
クリーム色を想像していた基本部分はむしろベージュというか明るいコーヒーブラウンで、それがまたいい!

  
L: 正面から見るとこんな感じ。明るいコーヒーブラウンの地に、赤い帯が入っているのだ。
C: ところが側面には深めの緑が入っている。これでイタリアっぽい印象がちょっとする。
R: 裏面はシンプル。あだ名は「エスプレッソ」でいってみようかな。

 中身を入れて膨らませた場合にはこんな感じになるのだ。

というわけで、今後主に通勤にはこいつを使う予定である(DRAGNETは休日用なのだ)。
DRAGNETに比べるとやや小ぶりなのだが、A4サイズは余裕で入るし、襠(まち)がかなりあるので、
もうどうにでも使えそうだ。それにしてもやっぱり、FREITAGは本当にすばらしいですなあ。


2010.9.18 (Sat.)

本日は運動会。僕は用具の担当なので、種目に応じて出したり片付けたりの繰り返し。
生徒たちがよく動いてくれたので、特に苦労もなく終了。内容も白熱して非常によかった。
しかしまあ、すさまじい炎天下での運動会となったのはつらかった。今年の夏はどこまでも容赦ない。


2010.9.17 (Fri.)

ネズミが現れた!

「ネズミが教室に入っていくのを見た」という話が出て、大騒ぎ。といっても生徒には情報をシャットアウトしたので、
学校全体が大騒ぎになることはなく、職員室内ではヤキモキという状況なのであった。
とりあえず、噂のあった教室のドアをぴっちりと閉めて、煎餅をエサにしてネズミ捕りを仕掛けて放置。
まあ今夜が勝負かな、なんて気長に構えて待つ。

そして放課後、中の様子をちょろっと見たら、見事に引っかかっていた。
ネズミの標準的なサイズというのがわからないのでなんとも言えないのだが、15cmくらいのヤツが、
べっとりとネズミ捕りに粘着していた。尻尾が長い。暴れたせいか、首のところから血が出て痛々しい。
若手の代表ということで危険物処理班に任命されてしまったので、僕が処理に当たることに。くそう。
何重にもしたビニール袋の中にネズミ捕りごと放り込む。さてどうしたもんかと思っていたら、
理科の先生が準備室に連行するように指示。最後はスプレー缶に入った二酸化炭素でナンマイダブ。
石鹸で手をよーく洗って任務完了となったのであった。

しかしまあ、ネズミってのはデカいから厄介だ。小さいアレも厄介だが、でっかいネズミも厄介だ。
今回は1匹だけだからまあ別にどうってことはなかったけど、集団で来たら卒倒するかもしれない。こわいこわい。


2010.9.16 (Thu.)

休み時間がないのです。
午前中授業が詰まっているところに午後は運動会の練習。そのまま部活までいっちゃうと、
もう、本当に休み時間がゼロなのである。この忙しさ、キツさは他人にはわかるまい。
まあ放課後によけいな生徒指導をしなくちゃいけない状態ではないのが救いである。
だけど、たまには言わせれくれや。しんどい~~~~!!


2010.9.15 (Wed.)

運動会が近くなると大変なのだ。僕が中学生のときには運動会なんていう小学校チックな行事はなくって、
年に3回のクラスマッチ(バレー・陸上・バスケ)で張り切るという形だったが、東京はそうではないのだ。
男子は組体操、女子はダンスがハイライト。その特別練習を学校全体でやることになるのだ。
まあ運動会本番では上半身裸の男子を女子が野獣の目つきで凝視するという光景が見られるのだが、
練習ではそんな愉快なことはなく、ひたすら男女別で技に磨きをかけていくのだ。
学校全体が運動会に向けて特別モードになるので、授業もいろいろと影響を受ける。
なかなか当初の予定どおりにいかなくってつらい状況なのである。2年目だけど全然慣れないなあ。


2010.9.14 (Tue.)

いよいよ運動会の練習が始まり、男子は組体操の練習に励んでいる。
しかし、欠席者が出てまさか自分もその中に入るとは。でもそうしないとピラミッドもタワーも成立しないのだ。
育ち盛りの連中に混じり、まったく同じようにしてメニューをこなしていると、もう自分が何歳かわからない。
まあとりあえず、今はそれを喜ばしいことだと受け止めておくとしよう。

さて運動会では替え歌の応援歌がつくられるのだが、白組紅組、どっちもAKBですか。
今どきの中学生は、特に女子でAKB48を支持する姿が目立つ。良く言えば等身大、ということか。
まあ悪く言えば、自分にとって追いつけないかわいさではない感じ、三十三間堂ではないけれど、
中には自分っぽいメンバーがいそうな感じがいいのかもしれない。僕はAKBの楽曲は薄っぺらくて嫌いだが。
ちなみに男子は表立ってはどうこう言わないものの、こっそりと握手会に行ってるやつがいるそうじゃないか。
アイドルの握手会なんて、そんなもん、オレは℃-uteしか行ったことがないけど(→2008.4.5)、
AKBが梅さんや舞美よりかわいいとは思わんもんね。生梅は凄いぞ、記憶吹っ飛ぶぞマジで。
そうして呆けているうちに手をグイッとつかまれてなんだと思ったら舞美なんだぞ。もう梅さん卒業しちゃったけど。
5人の℃-uteなんてガックリだ! だからもう握手会になんか行かねえよ! やじうめだからよかったんだよ!
……えーと、とにかくアレだ、中学生にはAKBが人気だ。なんつーか、踊らされてるよなあ。


2010.9.13 (Mon.)

あちこちの都内の取扱店めぐりをしてみたのだが、FREITAGのLOISは絶対数が少ないこともあり、
なかなか「これだ!」という柄が見つからなくってウームとうなっている状況なのであった。
それでこうなりゃ本家のHPを見てみるか、と思って通販のページをチェックしてみた。
そしたらその中にひとつ、「まあこれならいいかもなあ」というのがあって、気にかけたのがおととい。

で、昨日は自転車で秋葉原に行った。ペダルをこいでいる間ずっと、LOISをどうしようかと考える。
FREITAGのHPではひとつひとつの商品について360°の写真を見られるようになっており、
慣れている者にはそれでだいたいの質感がわかる。振り返ってみるたび、悪くなさそうな感じなのだ。

7:3ぐらいで買う方に傾いて家に着く。それであらためて写真を見てみることにした。
しかし、通販ページの一覧写真からは消えてしまっていた。「しまった! 誰かが買っちゃったか!」とがっくり。
逃した魚は大きかったなあ、と落胆して過ごす。時間が経っても悔しい気持ちは消えない。
やはり一点モノは即決しないと後悔することになるんだなあ、と反省。
しばらくしてから「じゃあ新作が代わりに入ったのかな?」と思ってHP内で検索をかけてみたところ、
なんとその消えてしまった柄の画像が出てきたではないか。どうも通販ページに出るのは数が決まっているようで、
そこから漏れたものは検索しないと出ないようなのだ。そして僕のお気に入りは、そちらにまわっていたようなのだ。
さっきあれだけ落胆したわけだから、もう結論は出ている。これはもう、買うしかない!
慌てて注文のボタンを押し、必要事項を英語のやり方で埋めていく。意外と簡単に作業は完了した。

商品一覧の画面に戻ると、「unfortunately someone was faster」の文字がお気に入りの横に出ている。
そしてFREITAGから注文確認のメールがすぐに届く。英語なのだが、こなれた文章でなかなか面白い。
難しいわけではないので、これは英語の授業で使えるんじゃないか、なんて考える。
だいたい10日から15日くらいかかるとのことなので、気長に待つことにする。
FREITAGのさすがなところは、その間にさびしくないように、メールにバッグの画像をリンクしてくれているところだ。
届くまで毎日その画像を拝んでウヒウヒ言ってます、という話。


2010.9.12 (Sun.)

今日は久しぶりに秋葉原に来てゲームミュージックCDを物色したり中古DVDを物色したり。
たまにはおたくな休日を過ごしてーぜと思って来たのだが、結局は日記を書く時間が圧倒的に長くなる。
そう、日記。今年は7日間の北海道と5日間の北陸ということで、ここにきてものすごくたまってしまっている。
おまけに9月に入って姉歯祭りと昨日の東京都庁もあるので、解消できる見込みがまったくない。
秋分の日周辺にはいよいよラストの長野県庁。なんだかんだで書くこといっぱいなのである。
こりゃもうその分、ふだんの日常生活を極力あっさりで済ませるしかないのだ。
そういうわけでしばらくは日記の内容に極端なメリハリがつくと思う。ご了承くださいなのだ。


2010.9.11 (Sat.)

先月北海道を制覇したので、都道府県庁所在地めぐりも残すところあと2つ。長野と東京である。
……という話をすると、みんなずっこける。「あんた、東京に住んでいるのに東京都庁に行ってないのか」と。
もちろん東京都庁なんざ何度も行っている。卒論の聞き取り調査、教員免許の申請、採用の説明会、などなど。
しかし都道府県庁めぐりの一環としては、まだ行っていないのだ。これには2つの理由がある。
1つめは、東京都庁に行くときには、必ずセットで東京国際フォーラムにも行く必要があると考えていたから。
両方に行くにはそれ相応の時間がないといけないのだ。そしてそれについて書くのにもしっかりと時間がかかる。
これが実に億劫で、それで今まで都庁を避けてきたのである。これについては手が抜けないんですよ、私。
そして2つめは、単純に、前にチャレンジしたときにデジカメを壊したというトラウマ(→2007.6.16)。
もうね、なんかね、またデジカメを壊しちゃいそうな気がしてなかなか重い腰が上がらんのよ。
しかしだからってウジウジしているわけにもいかないので、天気もいいし、いよいよ挑戦することにしたのだ。

さて今回の日記では、現在の東京都庁舎が建設された経緯を非常に細かく記録した資料である、
『新都庁舎建設誌』(1992年発行)からの引用をまじえて書いていく。この本があれば都庁については完璧である。
あと、僕の卒論からもある程度引っぱってくる。それらの内容を総合して、都庁と国際フォーラムの建設経緯について、
詳しく述べていきたい。それで、都庁を見るには国際フォーラムを見ることが必須なのが、わかってもらえるはずだ。
さらには僕の大学時代の研究テーマだった「公共建築の設計者選定法」についても少し……いやけっこうふれる。
そうすることで、いま現在の僕がチンタラと格闘している研究テーマ「民主主義・公共性と建築の関係性」について、
ある程度の見通しが立ってくるはずだ。書き上がったときにすべてが一貫しているのがわかってもらえるといいのだが。

自転車で新宿まで行くのに甲州街道はオススメできない。車の交通量が多く、歩道が狭いからだ。
しかし一本北側にある水道道路はものすごく便利で、新宿へ行くときはいつもそっちで行く。
(この水道道路は、かつて淀橋浄水場へと流れ込んでいた玉川上水新水路を埋め立てた道だ。)
のんびり走っていくと、新宿区役所の角筈地域センターに出る。その先には新宿中央公園。
この「角筈(つのはず)」って名前が、都庁ができるずっと前の西新宿の歴史を匂わせている。
ここからは、公園の緑を突き破るようにしてそびえる都庁を見ることができる。
おなじみのツインタワーである第一本庁舎と段差のついた第二本庁舎が仲良く並んでいる。

 
L: 角筈地域センターから新宿中央公園越しに眺める東京都庁。左が第一本庁舎で右が第二本庁舎。
R: 第一本庁舎をクローズアップ。都庁は高さが243mもあるので、きれいに撮るにはこれくらい距離が必要。

さて、西新宿には高層ビルがいっぱいだ。京王プラザホテル、新宿住友ビル、KDDIビル、新宿三井ビル、
安田火災海上ビル、新宿野村ビル、新宿センタービル、小田急センチュリービル、新宿第一生命ビル、新宿NSビル。
これらは浄水場の跡地に建設されたビルだ。というわけでまずは西新宿、いわゆる新宿副都心の歴史からみてみたい。

江戸時代より玉川上水・神田上水の水が飲料用として利用されていたが、明治になって水質が悪化してしまった。
それで1898(明治31)年に完成したのが淀橋浄水場。当時の新宿付近はまだまだ近郊農村地帯だったのだ。
その後、大正末期から新宿は盛り場として発展し、たびたび移転が検討された。しかし震災や戦争で持ち越しとなる。
移転が決定したのは1960年。首都圏整備法・首都圏整備計画で新宿地区が副都心となったのを受けてのことだった。
東京都は新宿副都心建設公社を設立して浄水場の移転と跡地整備を行う。費用は造成した区画を売って充てた。
そして払い下げを受けた民間企業が協議会を発足させて、新宿副都心の開発が進められていったのである。
1971年の京王プラザホテルから1982年の新宿NSビルまで、だいたい1年に1棟のペースで超高層ビルが建っていく。
そして1990年、残った1号地に第二本庁舎、4号地に第一本庁舎、5号地に都議会議事堂が竣工した。

ではさっそく肝心の東京都庁について、写真を織り交ぜつつあれこれ書いていくことにしよう。
まずは角筈よりは都庁に近づいた写真から。もともと都庁の高さは圧倒的で、きれいに撮るには距離が必要だ。
しかし西新宿ということで、周りは見事に高層ビルばかり。そのためどうしても都庁を素直に撮影できる場所がない。
斜めに見上げる苦し紛れの構図にならざるをえないのである。大いに困惑しながらシャッターを切る。

  
L: 議事堂の北東側から眺めた第一本庁舎と第二本庁舎。逆光気味ではあるが、この構図ならまあ納得ができる。
C: 議事堂の南東側から撮影。  R: 第一本庁舎・第二本庁舎に面している通り(南東側)から撮影。苦しい……。

では西新宿高層ビル群のど真ん中、東京都議会議事堂を見てみよう。議事堂は真上から見ると、
四角から半円をえぐり取ったような形をしている。そのえぐり取られた半円部分はオープンスペースとなっている。
ここがいわゆる「都民広場」。広場の設置は都庁コンペの条件に入っており、議会とセットでの解決となったわけだ。
議事堂の東西を走る道路は2階レベルの高さだが、南北を走る道路の高さは1階レベルである。
そのため西側からは半円の広場を見下ろす格好になり、南北からアクセスするとカーヴした議事堂に囲まれる。
敷地の特殊な形態を実にうまく利用して空間を構成している。が、この広場は正直かなり殺風景である。
実際に訪れるとヒューマンスケールを逸脱した感触がして途方に暮れてしまうかもしれない。

  
L: 東側から眺める東京都議会議事堂の正面入口。  C: 1階レベルの北側からアクセスした都民広場。
R: 西側、2階レベルより見下ろした都民広場。下にいても上から見ても、人間が小さく感じられる。

次はいよいよ東京都庁の第一本庁舎と第二本庁舎を見てみよう。
といっても、写真はそんなにない。あまりに背が高すぎて、まともに撮影するのが難しすぎるからである。
じゃあ離れて撮影すればいいかというと、そうすると今度は周りの高層ビルに邪魔されてしまう。
本当はさまざまな角度から都庁を眺めたいが、こればっかりはもうどうしょうもないのである。
というわけで、どうにか押さえた以下の3枚の写真にまずは注目。

  
L: 議事堂のオープンスペースから見上げる第一本庁舎。正面からきちんと眺められる場所はたぶんここだけ。
C: 第一本庁舎のエントランス。  R: こちらは第一本庁舎の前から撮影した第二本庁舎。

現在の東京都庁舎がどのようなコンセプトの下に計画されたのか、ここでおおまかにまとめておこう。
いちばん最初に庁舎新築についての審議会が動きはじめたのは1971年。美濃部都政の時代である。
美濃部は丸の内建て替えの方向で準備を進め、新宿には清掃工場を建設する構想まで出している。
当面の対策として旧第三本庁舎が実際に建設されたが、財政難を理由に本庁舎の新築は見送られることとなった。
そして1979年に鈴木俊一が知事に就任すると「マイタウン構想懇談会」において、再度新築が提言される。
(鈴木知事の「マイタウン構想」は、それこそ論文がいくらでも書けるテーマなので、今回は突っ込まない。)
その際に登場したフレーズが「シティ・ホール」。これは都市の中核としての庁舎の役割を指す言葉で、
庁舎を近寄りがたい存在ではなく、欧米のように自治と文化の拠点・市民交流の場として機能させようと意識したもの。
(もっとも、この「シティ・ホール」という言葉は丸の内の旧都庁舎のときから存在していたものだ。
後述するが、旧都庁舎を設計した丹下健三は、庁舎建築の新しい形式をこの言葉とともに提案していたのだ。)
1982年には「シティ・ホール建設構想懇談会」が動き出す。ここでは本庁舎・都民ホール・広場が提案され、
それぞれ面積について具体的な数字まで出してある。場所についても「新宿が適切」と結論が出された。
1984年には「シティ・ホール建設審議会」にレベルアップ。より本格的に庁舎新築に向けて計画が進められた。
この段階では丸の内と新宿のどちらも優位とされていないが、バーターで何かしらバランスをとるように明記された。
そして1985年2月、新宿に都庁本庁舎と議会、丸の内に国際会議に対応したホール「東京国際フォーラム」を建設と、
鈴木知事が方針を発表する。これを受けた都議会では「東京都庁の位置を定める条例」を審議するがまとまらない。
そんな中、8月には都民に向けて「東京都シティ・ホール建設計画基本構想」が発表され、大々的なPRが展開された。
一方で、江戸東京博物館や葛西臨海水族園など下町で大型施設の計画を進め、移転反対派を揺さぶった。
そして条例はようやく9月30日に付帯決議つきで成立した。それだけ23区の西側への移転は大事件だったということだ。
なお、現在ではまったくそのように呼ばれていないが、計画が本格化してから建設に至るすべての過程において、
「シティ・ホール」という表現が徹底されている。しかしながら、詳しくは後述するが、できあがった本庁舎は決して、
上述のような「シティ・ホール」の定義をみたす建物ではない。政治に利用された言葉の典型的な事例である。
最後にお金の話をしておくと、建設費は約1569億円。このうち8割近くが基金の取りくずしによるもので、
あとは利用予定のない土地を売ったのが2割強、残りが宝くじ収入とのこと。

では実際に現在の都庁舎がつくられた経緯を書いていく。といっても僕の専門分野、設計者選定についてがメインだ。
現在の東京都庁舎は、指名コンペによって設計者が選ばれた。指名コンペとなった経緯は少々政治的な面がある。
まず、鈴木知事のブレーンであった丹下健三の発案により、東京都には「設計者選定委員会」が設置されていた。
当時の地方自治体では厳正でないコンペと設計料の入札という、公正でない設計者選定が頻繁に行われていたが、
東京都では記念性の高い公共建築については委員となった建築家・学識経験者が設計者を決めていたのだ。
さて新都庁舎の新宿への移転が決まり、設計者選定委員会の特命で丹下健三に設計が依頼されそうになった。
しかし下町の議員から都民に対してフェアな印象を与えないということで強硬な反対があり、特命は回避された。
そうして指名コンペが開催されることとなる。設計者選定委員会が候補を選んだのだが、その基準は3つ。
1. 超高層ビル建築の実績があること。2. 官公庁の本庁舎の実績があること。
3. 国内及び国外での評価の高い設計者であること。これらをもとに、激しい議論の末に9者が候補として選ばれた。
坂倉建築研究所、丹下健三・都市・建築設計研究所、日建設計、日本設計、前川国男建築設計事務所、
松田平田坂本設計事務所、安井建築設計事務所、山下設計と、大手の組織事務所がずらりと並ぶ。
(組織事務所……設計を専門とする企業。個人の設計事務所が大規模化したり、旧財閥の営繕が独立したり。)
唯一異質なのが、磯崎新アトリエ。ここだけが超高層建築を設計した実績が特にないのに候補に選ばれている。
これは、大組織でないアトリエ派の建築家も指名すべきだという配慮によるものである。
コンペの開始は1985年11月8日で、締め切りの翌年2月25日にすべての候補から計画案が提出された。
審査は1ヶ月にわたって行われ、丹下健三の案が当選。丹下は旧都庁舎に続いて新都庁舎でも設計者となった。

それぞれの計画案を実際に見たのだが、丹下案の迫力は他を圧倒するものだった。完全に飛び抜けていた。
ほかの候補者があくまで「超高層の庁舎建築」にとどまる案を出して周囲の超高層ビルとほとんど差がないのに対し、
丹下案では首都・東京のプライドと日本を代表する建築家の執念をそのままファサードに投影したような姿が描かれ、
すさまじいオーラが漂っていた。磯崎新にいたっては丹下のその執念を見越して完全に勝負を投げており、
むしろ条件をあえて無視して超高層ではない都庁を提案し、うまく自らの存在意義をアピールしていたのであった。
卒論を書く際、潤平を連れて丹下事務所にお邪魔させてもらって聞き取り調査をしたのだが、
二度目の都庁の設計にかける丹下のエネルギー満載の資料をお見せしてもらい、ただただ驚くしかなかった。
建てられた当初はその迫力ゆえにいろいろと批判のあった現都庁舎だが、コンペを見ればもうこれしかないと納得できる。
まるで勝負になっていなかったのだ。やはり建物にはプライドがなければいけないのだ、とあらためて思わされる。
審査員としてコンペに関わった近江榮は、「丹下健三案が他案に比較して、きわめて密度が高く、
この提案にかけられた情熱と思い入れは、確実に他案を圧倒していた。
元来は特命で委託されるはずであった都庁舎が急遽、指名コンペになったということで、
丹下健三案はスタッフの総力を打ち込んだ成果でもあったろうとは、審査委員会での共通認識であった。」と
『建築設計競技 コンペティションの系譜と展望』で述べているが、まさにそのとおりだとしか言いようがない。
(なお、この指名コンペでは参加報酬として2000万円が東京都から各事務所に支払われたのだが、
 コンペに参加したところはみな総力をあげて案を出しており、どこもこの報酬以上の資金をかけていたという。)

さて、せっかく都庁に来たわけだから、中に入ってみよう。都庁は土日には2階からアクセスすることができない。
45階にある南北の展望台に来る客のために、1階の狭い入口2つだけを開けているのである。
というわけで、都庁の展望台から東京の街を眺めてみることにする。

 
L: 東京都庁・第一本庁舎の2階フロア。天井が高い。  R: 北側は吹き抜けとなっている。下が1階、上が2階。

まずは北展望台から。北展望台の特徴は、フロアの中に博品館が出店しており、
キャラクターグッズをはじめとするお土産が非常に充実している点だろう。それに尽きる。
これは地方から東京に来た「おのぼりさん」向けでもあるのだが、しかしそれ以上に、
外国からの観光客を意識したものとなっている。日本発の各種キャラクターを幅広く取り揃えているのだ。

  
L: 北展望台の様子。後ろで並んでいるのはほとんどがキャラクターグッズなのだ。
C: 博品館が出店しており、外国人観光客に日本の「カワイイ」キャラクターを猛アピールしている。
R: 置いてあった東京都庁の模型。手前に都議会議事堂、その奥が第一本庁舎、左手奥が第二本庁舎だ。

肝心の東京の街並みを眺めてみよう。新宿は山手線のだいたい西端に位置している。
そのため、住宅の広がる多摩地区へとつながる西側と、オフィスビルの乱立する東側とでは、
見事に異なった景色を味わうことができる。東はそもそも西新宿の高層ビルが足下を埋めているし。
(高層ビルが邪魔になって都庁からは歌舞伎町周辺を見ることができない。面白そうなのになあ。)

  
L: 西を眺める。左端は初台の東京オペラシティ。あとは見事に背の低い建物が視界を埋め尽くしている。
C: 北西を眺める。埼玉へと続くので、西を眺めたときと大差ない風景となっている。
R: こちらは南東。画面真ん中で尖っているのは代々木のNTTドコモ代々木ビル。西に比べてスカイラインが複雑だ。

 真下の新宿中央公園では何やらイベントが開催されているようだ。

続いては南展望台である。純粋に景色を楽しむのであれば、フロアが広々としているこっちの方がおすすめだ。
土産物売り場もキャラクターグッズではなく都庁グッズ(ストラップやクリアファイルなど意外と多彩)、
あるいは外国人観光客向けの和風テイストあふれる土産物が中心である。中央のカフェも雰囲気がいい。

  
L: 南展望台の様子。真ん中にカフェがあり、展望スペースはよけいなものがなく広々としているのが特徴である。
C: 南西を眺める。手前にあるのは都庁と同じ丹下健三設計の新宿パークタワー。真ん中はオペラシティ。
R: あらためて西を眺める。多摩地区はいつも穏やかである。

  
L: 北西を眺める。やはり北展望台とほとんど変わらない。  C: 北東。西新宿の高層ビル群が視界をふさぐ。
R: 南を眺める。明治神宮・代々木公園の存在感が見事。手前に第二本庁舎、右端は前述の新宿パークタワー。

  
L: ツインタワーの反対側を眺めてみた。  C: 北展望台をクローズアップ。おー見とる見とる。
R: すぐ南にある第二本庁舎を見下ろす。上から見ると第二本庁舎の段差はこうなっているのだ。興味深い。

都庁は外見が非常に迫力があるし、展望台も2つあって観光名所としての要素をしっかり持っている。
しかしその中身はやはり完全にオフィス。観光を目的とする来庁者が訪れないであろう部分は、おそろしく質素
……というよりむしろ装飾的な要素を徹底的に排除した、異様に無機質な空間となっているのである。
特にすごいのは階段で、階段で都庁の中を移動した場合、きっと工場かどこかにいるような感覚になるはずだ。
かつての庁舎建築が階段に絨毯を敷き、手すりなどで非常に凝ったデザインを散りばめていたのとは両極端である。
都庁の「見せる部分」と「見せない部分」の落差の激しさは、日本の庁舎建築の象徴という点で、実に示唆的だ。

 都庁の内部は極めて無機質だ。通路や階段は気持ち悪いくらいに白一色。

以上で東京都庁についてはおしまい。

新宿副都心を後にすると、新宿通りで皇居まで出る。内堀通りでぐるっとまわり込んで東側に出て、
やってきたのは東京国際フォーラム。ここは「もうひとつの東京都庁」と呼べる場所なのだ。
都庁舎建設の経緯で述べたように、かつては文化拠点・交流拠点としての機能を持つ「シティ・ホール」が計画されたが、
新宿と丸の内での綱引きの結果、結局「シティ・ホール」の構想は変容し、従来どおりの庁舎とホールに分けられた。
(それでもおかしなことに、文書のうえでは庁舎についてのみ、かたくなに「シティ・ホール」の表現が使われていた。)
いちおう「都民ホール」は議事堂の1階に設置されたが、都庁の新宿移転のバーターである丸の内のホール建設計画は、
鈴木知事の提案どおりに「東京国際フォーラム」の建設として進められ、1997年のオープンによって完遂する。
(「シティ・ホール」という名称が忘れ去られて東京都庁は「東京都庁」でしかなくなっているのとはまったく対照的に、
 この「東京国際フォーラム」という名称が、都庁の新宿移転を宣言した1985年から変化しなかった点は驚きである。)

ここで僕の立場を明らかにしておこう。当初の「シティ・ホール」構想について、僕はある程度好意的に捉えている。
「市庁舎」には2種類の英語訳がある。ひとつは「city hall」で、もうひとつは「city office」である。
考えてみれば確かに、海外の(特にヨーロッパの)市庁舎は「city hall」として機能している。
たとえばノーベル平和賞の授賞式典はオスロ市庁舎で行われる。これは民主主義国家において、
市庁舎が市民にとって最も誇ることのできる公共空間のひとつであることを示唆する例だ。
では日本の市庁舎について同じことが言えるかというと、たぶん違和感を覚える人がほとんどだろう。
日本の市庁舎はほとんどすべて、「city office」としてしか機能していない。ただの事務のための空間でしかない。
これが日本の民主主義の現実なのである。あくまで役所は役所であり、市民の公共空間として認知されてはいない。
「city office」であっても「city hall」ではないのである。日本では空間を支えている市民性、
もっと言えば基礎自治体レベルで試されている民主主義の浸透度合いが、まだまだ成熟していないのだ。
(ちなみにニューヨーク市の場合、「市庁舎」は「City Hall」と「Municipal Building」の2つがあった(→2008.5.10)。
 「City Hall」が主に立法を担当し、「Municipal Building」が行政を担当する。これは日本に近い分け方だ。)
本当は当初の「シティ・ホール」構想が目指していたように、市民の誇るhallとしての機能を持った市庁舎が望ましい。
しかしそれは結局、上述のように、新宿か丸の内かという立地をめぐる政治の中で放棄されてしまう。
「シティ・ホール」はofficeの建築に疑問を持つ人に対するカモフラージュへと定義を変化させた。
(まあ、曖昧な外来語をもってきている時点ですでにカモフラージュ以外の何者でもないのだが……。)

というわけで、言葉の元の意味、そして民主主義と庁舎の関係性というレベルにまで戻って考えたとき、
officeとしての機能を持つ都庁とhallとしての機能を持つ国際フォーラムが分けられたという悲劇は、重要な意味を持つ。
日本における最大の自治体である東京都をもってしても、民主主義の理想を具体化した空間をつくれなかった。
(もちろんそんな東京都だからこそ、つくることができなかった、という考え方もできる。念のため。)
いやむしろ、両者の機能を分離したがるところに、日本の公共性・日本の民主主義の独自性があるのかもしれない。
建築を通して社会を読むことを大学時代から専門に研究してきた僕としては、そのように考えざるをえない。
だから僕にとって東京国際フォーラムとは、当初の「シティ・ホール」構想とほぼ同じ考え方によって、
本来都庁にあるべき欠けたピースを埋めるもの、まさにそのように見えているのである。
結果はどうあれ、現実はどうあれ、東京国際フォーラムと東京都庁は、セットで扱われなければならないのだ。

では実際に、東京国際フォーラムについて、写真を織り交ぜつつあれこれ書いていく。
旧丸の内都庁舎の敷地はJRの線路により東西に分けられ、東京国際フォーラムが建っているのは西側の部分である。
(東側は現在、インフォス有楽町(無印良品有楽町店・ビックカメラ有楽町店テレビ館)などに利用されている。)

  
L: 有楽町駅西口から出て東京国際フォーラムを眺める。西側(左)に4つのホールが並び、東側(右)はガラスの会議棟。
C: 中央の通路はこのように緑が目立つ空間となっている。日陰がしっかりと居心地のよさをつくりだしているのだ。
R: ホール側の外付けの階段。東京国際フォーラムはこういう細かい部分がけっこうかっこいいと思うのである。

東京国際フォーラムといえば、なんといってもガラスの大きなアトリウムである。
これはもともと船をイメージしてデザインされたもので、下から見上げるとなるほど海底にいる気がしなくもない。

  
L: 東京国際フォーラム・会議棟の巨大なアトリウム。グラウンドレベルよりも低く掘ってあるので迫力がある。
C: 天井をしっかりと見上げてみたところ。いかにも金がかかっていそうだが、実際に見るとやはりきれいでいい。
R: 地下にある展示スペース。東京国際フォーラムの施設配置はかなり巧みになされているのだ。

ここで、東京国際フォーラムの設計で行われたコンペについて書いておこう。
東京国際フォーラムでは都庁とちがい、完全に参加が自由な国際公開コンペが行われた。1989年のことだ。
これは「建物のシンボル性を確保し話題性を創出するとともに、多くの人々の参画を得て事業をすすめるため」だそうで、
やっぱり審議会の答申にのっとって決められたものである。そして都はこのコンペにかなり本気で取り組んでいる。
というのも、このコンペは日本で初めての、国際建築家連合(UIA)の公認を受けて実施された国際コンペだからである。
審査員は9名(補充審査員が2名)で、その過半数が建築家、また過半数が「国際」を意識して外国人となっている。
これはUIAの規程にのっとったものだ。ちなみに都庁の設計者・丹下健三も審査員である。もっともこれは、
また丹下が本気を出してこのコンペに勝つと、さすがに各方面から文句が出る、ということで審査員にしちゃったとか。

競技要項は日本語と英語で作成されたが、英語を母語としない人にもわかりやすい言葉で表現する必要があった。
周辺の交通・建築物はもちろん敷地の地質にいたるまで、なるべく簡単な表現でまとめなければならず、
競技要項づくりに都の事務局は相当な努力をしたそうである。さらに送られてきた応募作品の受付についても、
手書きのローマ字が読めなかったり消印が不鮮明で判別できなかったりと、いくつもトラブルがあったという。
また、このコンペでは50ヶ国395作品の応募があったが、模型の提出を義務づけたために保管場所が必要となり、
予定よりも費用がかかってしまったという話もある。とにかく国内では初めてとなるUIA公認の国際コンペということで、
徹底してその規程に沿ってコンペの準備を進めたため、たった10名だけの事務局は厳しい仕事をこなすことになった。
(聞き取りをさせていただいた当時の担当の方は、「トラウマ」という表現さえ使ってらっしゃるほどだった。)
事務局側の費やした時間・費用・エネルギーも膨大なものだったが、建築家にとってもこのコンペの条件は厳しい内容で、
たった約2.7haの敷地に4つのホール・大小の展示場・情報提供施設・国際交流施設を盛り込むことが義務づけられた。
そうして応募してきた395作品を、推薦・投票を繰り返してわずか3日間で審査した審査員も、キツい仕事だっただろう。

そんなコンペで当選したのはウルグアイ生まれアルゼンチン育ちのアメリカの建築家・ラファエル=ヴィニョーリの案。
大小4つのホールとガラスのアトリウムのある会議棟、両者の間は緑を植えた通路として、展示場は地下に配した。
条件を上手くクリアしつつ、大胆さもある案だ。特に東京駅~有楽町駅間の人の流れやホールの配置は高評価で、
9名の審査員全員から支持を集めた。しかし建築士の資格をめぐる問題や契約社会・アメリカと日本の慣習の違いなど、
コミュニケーションにはかなりの苦労があったようである。また、一度も現地を訪れたことのなかったヴィニョーリが、
敷地の利用を評価されて最優秀となったことや、規定を上回る莫大な設計料を得たことなどは、大きな波紋を広げた。
このコンペは国際的な評価を受けた点では日本のコンペ史において最も理想的なコンペとして位置づけられるものの、
自治体など主催者側にコンペに対する「トラウマ」を植えつけた点では反面教師的なコンペとしても位置づけられている。
そのような経緯もあり、近年ではより負担の少ないプロポーザル(提案)形式で設計者を決めることが一般化している。

東京国際フォーラムの中をあちこち歩いてみるとしよう。
エレベーターで会議棟の最上階である7階まで上がってみる。南端からガラスのアトリウムを眺める。
僕はこの大規模空間がけっこう好きなのだ。ぼんやり見ていてもなかなか飽きない。
実際にはもちろん無理なんだけど、あちこちをつたってどこにでも行けそうな気がするところがなんとなくいいのだ。

  
L: ガラスの天井を見上げる。白い鉄骨が大迫力である。よくこんなもんつくったなあ、と感心してしまう。
C: 7階より見るガラスのアトリウム。下の階で見るのとはまた違った面白さがあるのだ。
R: フロアの端っこにはこんな場所も。特に利用価値のあるスペースではないのだが、面白い。

  
L: アトリウムの中を走っているスロープ。これで別の階へ移動することができるのだ。
C: スロープを行く。これでゆったりと空中散歩を楽しみながら下の階へと下りていくのが通だぜ。
R: 北端、グラウンドレベルより眺めるアトリウム。やっぱり東京国際フォーラムは面白い。

ゆったりとスロープを下っていくと、途中の壁に写真が展示されているのに気がつく。
それは空から撮影した東京国際フォーラムと、かつてここにあった先代の東京都庁舎の写真だ。
名建築として知られた旧都庁舎だが、保存することは不可能だった。今は写真で眺めることしかできない。
そのほかにも、ここが土佐藩の上屋敷だったころの名残が遺跡として発掘されているが、それに関する展示もある。
そしてスロープを下りたところにあるのは太田道灌の銅像。これは旧庁舎の前に置いてあったものだ。

  
L: 空から撮影した東京国際フォーラム。  C: 先代の東京都庁舎。実物をこの目で見ることができなかったのは残念。
R: 太田道灌像。旧都庁舎のシンボルだったそうだ。今は東京国際フォーラムの中でどっしりと立っている。

旧東京都庁についてここで述べよう。そもそも東京都庁舎の起源は、1868(慶応4)年に設置された「江戸府」である。
それが江戸が東京と改称されたことで「東京府」となった。東京府庁の正式な開庁は同年8月17日だそうで、
場所は現在の千代田区内幸町。郡山(奈良県の大和郡山 →2010.3.29)藩主だった柳澤甲斐守の屋敷を利用した。
そして1894(明治27)年、土佐藩の上屋敷跡地(つまりこれが現在、東京国際フォーラムのある場所だ)に、
妻木頼黄設計の鉄骨レンガ造2階建ての2代目東京府庁舎が竣工した。といってもこれが建つまで紆余曲折があった。
政府がドイツ人建築家・ベックマンに依頼した官庁集中計画に東京府が一時期便乗し、府庁舎を建てようとしたのだ。
しかし結局ベックマンの案は頓挫し、東京府庁は当初予定していたとおりに妻木頼黄の設計で竣工することとなった。
完成した東京府庁舎は規模も工費も圧倒的だったが、後続の府県庁舎の理想的なモデルとして認知されていく。
なお、「東京市」については、当初は大阪・京都とともに特例市ということで市長は置かれず、府知事が事務を代行した。
その後、1898年(明治31)年に特例が撤廃されて東京市長が就任したが(10月1日、後に「都民の日」となる)、
東京市役所は東京府庁舎内に開設された。そして1943年に東京府と東京市が合併し、東京都となる。
したがってレンガ造りの2代目東京府庁舎が、そのまま初代の東京都庁舎となったのである。
しかし1945年3月10日の東京大空襲によって、レンガ造りのその初代都庁舎は焼失してしまった。

これに代わる新しい都庁舎(つまり先代の都庁舎)が竣工したのは1957年。
指名コンペが1952年に開催され、石本喜久治・蔵田周忠・佐藤武夫・谷口吉郎・丹下健三・前川國男・松田軍平・
村田政真・村野藤吾・山田守・吉田鉄郎の11名が参加した結果、丹下健三の案が当選した。
(この時期には、後の組織事務所もまだ個人建築家のアトリエだったのだ。高度経済成長を経て変化することになる。)
都議会議事堂は1950年にすでに再建され、分庁舎も多数残っていたので、この本庁舎の規模はそれほど大きくない。
丹下はこの庁舎で全面バルコニーと大規模ピロティをはじめとするモダニズムの手法を通して、上述のように、
「シティ・ホール」という概念を提案している。具体的な例を挙げると、玄関ロビーを都民ホールとした点、
岡本太郎の壁画をパブリックアートとして設置した点など、戦前の古典的な建築様式によるモニュメント性に対し、
社会にはたらきかける空間的要素を多数盛り込んだのだ。また中心にエレベーターなどを集約するコアシステムを採用し、
この東京都庁舎は当時の最先端をいくオフィスビルとしても大きな注目を集めることとなった。

現在、東京国際フォーラムが建っているのは、以上のような歴史的経緯のあった場所である。
そんなかつての姿を伝えるものは、今ではほとんど残っていない。空間の記憶は簡単に消えてしまうものだ。
明治の象徴、昭和の象徴となった建築は、平成を象徴するかもしれない建築へと完全に切り替わっているのである。

東京国際フォーラムの建物の外に出て、ぐるりと歩きまわってみよう。
コンペにおいて高い評価を得たというホールと会議棟の間にある通路は、さすがに歩いていて気持ちがいい。
周囲の金属や石などと緑が不思議と調和していて、きわめて洗練されている印象がするのである。
また、ホールと会議棟によって適度に「閉じられた」感覚が安心感を与えるのかもしれない。

  
L: 通路のベンチ。おしゃれだぜ。  C: 通路。やっぱりおしゃれだ。都会って感じだよなあ。
R: 交差点の反対側から逆光覚悟で眺める東京国際フォーラム。建物じたいはけっこうマッシヴなのだ。

敷地いっぱいに建っていることもあり、東京国際フォーラムは外から眺めると、だいぶどっしりしている。
高さが意外とあるうえに、周囲の道幅が特別広くなっていないこともあって、かなり撮影しづらい。
いちおう敷地を一周して撮影してみたのだが、建物全体の概要はかなりつかみづらかった。

  
L: 東京駅側から眺める。左がガラスの会議棟で右がホールである。デカい。  C: 角度を変えて眺める。
R: 北西端。こうして見ると、東京国際フォーラムってのはしっかりと高さのある建物である。

 
L: ビルの合間からホール側のファサードを眺める。  R: ホールのエントランス。

というわけで、歴史を振り返りつつ東京都庁舎と東京国際フォーラムについてみてきた。
首都の庁舎とホールということで、時代の象徴として全国的に影響を与えてきた建築物である。
手元にある資料をひっくり返してまとめてみたのだが、おかげで膨大なログとなってしまった。
まあとりあえずは、両者を通して庁舎建築をめぐる理想とその具現化、あるいは政治とその具現化が、
ある程度はわかってもらえたと思う(これこそが、僕が大学時代に必死で追いかけたテーマだった)。
東京都庁舎と東京国際フォーラムには、そういったドラマのすべてが詰まっているのである。

 

★本日の参考文献というか引用元
石田潤一郎 『都道府県庁舎 その建築史的考察』 (思文閣出版 1993年)(→2007.11.212007.11.22
近江榮 『建築設計競技 コンペティションの系譜と展望』 (鹿島出版会 1986年)(→2004.12.4
佐々木信夫 『都庁 もうひとつの政府』 (岩波新書 1991年)
陣内秀信 『東京 世界の都市の物語』 (文藝春秋 1992年/文春文庫 1999年)(→2006.9.7
鈴木俊一 『世界都市東京を語る』 (ぎょうせい 1986年)
東京都財務局庁舎管理部管理課 『新都庁舎建設誌』 (東京都情報連絡室 1992年)
『東京都新都庁舎・指名設計競技 応募作品集(プロセスアーキテクチュア特別号4)』 (1986年)
『東京都新庁舎』 (日経BP社 1991年)
『東京都新庁舎(建築文化別冊)』 (彰国社)
『KENZO TANGE 40 ANS D'URBANISME ET D'ARCHITECTURE』 (プロセスアーキテクチュア 1987年)
『東京国際フォーラム設計競技応募作品集』 (新日本建築家協会(JIA) 1990年)
『東京国際フォーラム 構想から開館まで』 (東京都生活文化局総務部国際フォーラム事業調整室 1997年)
……あとオレの卒論。


2010.9.10 (Fri.)

ついに1年の女子からもキモイと言われはじめる。授業なんかの接点ゼロなのになぜだ。
まあ2年や3年の先輩からあれこれ聞かされているのであろう。ショックなんか受けてないもんね。
しかし自分のあずかり知らぬところでいろいろ言われているんだろうなあ。やだなあそういうの。
僕は昔っから、自分のいないところで自分の話をされるのがめちゃくちゃイヤで、
まあつまりはできるだけ自分についてのイメージを自分の管理できる範囲に留めておきたい性格なのだが、
いいかげんその辺に折り合いをつけられるようにならないといかんとは思っちゃいるのだ。
最初っから「キモイとか、別に勝手に言わせときゃいいじゃん」と割り切れる人を、僕はすごいと思います。


2010.9.9 (Thu.)

今日はALTとの授業だったのだが、いざ授業が始まって夏休み何をした?なんて話になって、
ALTは北海道へ行ったと言う。僕にも話が振られたので、「I went there too.」なんて返して、大いに盛り上がる。
そしてそこでALTが取り出したのがなんと、テレビ父さん(→2010.8.9)のクリアファイルなのであった。
僕も持っていた別の種類のテレビ父さんのクリアファイルを出し、あまりの偶然に教室は騒然となるのであった。
まさかテレビ父さんでALTとかぶるとは……。僕らが気が合うのか、テレビ父さんがインターナショナルなのか。
まあそんなわけで、今日の授業も楽しくできました。いやー愉快愉快。


2010.9.8 (Wed.)

研究授業で、凄まじい土砂降りの中を移動して会場の小学校へ。
そこで見せられた英語の授業は、僕にとってはなんとも不可解というか、疑問だらけのものだった。

そもそも、小学校でやる英語の授業は、果たして「教育」と呼べるのか?
評価軸が「児童が楽しめたかどうか」だなんて、そりゃ教育じゃなくて娯楽だろ、と思うのだ。
わざわざ時間割いて英語ごっこをやる時間があるのなら、もっとほかにやるべきことがあるはずだ。
日本語をもっときちんと使いこなす能力、正確で手順を間違えない計算能力、そっちの方が重要だろう。
教える側の自己満足に子どもをつき合わせて、本来有効に使うべき時間をそう使わない。犯罪だよこれは。
今の英語教育に携わっている人間の近視眼的な物の考え方にはいいかげん絶望したくなる。
本当に頭のいいやつはひとりもいないのか!

そんなに英語を小さいうちから染み込ませないと不安なんですか?
そんなに日本人は自分の言語である日本語に自信が持てないんですか?
僕は「削る言語」(→2009.12.4)である英語を小さい子どもに教えることは、リスクを伴うと考える。
日本語も英語も満足に操れない人間を増やして何が教育だ馬鹿野郎!!


2010.9.7 (Tue.)

今日は去年のサッカー部員が母校訪問ということでやってきたので、みんなでサッカー。
うちは僕の性格がユルユル志向なせいで「部活動」というよりも「同好会」的なノリが強いのだが、
先輩らしくシャキッと締めてくれていい刺激になった。ぜひともこれを継続しなければ。
もうひとついい刺激になったのが、そのかつての部員の妹が最後のゲームに参加したこと。
サッカーをやっているのは知っていたが、この子がもうめちゃくちゃ上手くて大活躍。
現役部員どもは、こりゃ負けてらんねえ!とやる気に火がついた模様。実にいい日だった。


2010.9.6 (Mon.)

本日は部活で筋トレ終了後に、今シーズンのわがチームのフォーメーションについて会議した。
ヴァンフォーレ甲府で大木さんの攻撃サッカーの洗礼を受けた者としては4-3-3でアンカーで……
なんてことになりそうなもんだが、そこはやっぱり中学生にそんなムチャはさせられない。
ここはオーソドクスに4-2-2でDMFが2枚というスタイルに落ち着かせた。
4バックは中学に入ってサッカーを始めた連中が多いので、フラット気味でブロックをつくらせる。
サイドバックが中盤の選手を追い越していくなんて高級なことはできないのだ。ただ、ラインは高めに維持。
サイドハーフとFWには経験者が揃ったので好き放題にやらせる。4トップ気味になるのも許容する。
それを前提にして、トップ下は置かない。その分のスペースを攻撃時のポジションチェンジに利用させる。
というわけで、DMFに負担はかかるが攻撃的な姿勢のスタイルで意思統一ができた。
今後の練習でこの戦術を浸透させて、試合で活用させてみたいと思う。
将来的にはディフェンスの攻撃参加もできるようにしていきたいが、それは先の話。


2010.9.5 (Sun.)

FREITAGほしいほしいほしいLOISほしい!
学校の英語の授業用にLEOを買った件については以前に書いたとおりだが(→2010.1.22)、
今度は通勤時に使う新しいFREITAGがほしい。部活があったり授業の資料を持ち帰ったりで、
就職活動以来の単なるビジネスバッグではどうも物足りない状況なのである。雨にも弱いし。
今まで雨の日には、LEOの中から授業関係のものを一切取り出して机の上に置き、
ビジネスバッグの中身を詰め替えてLEOで帰るという荒技で凌いでいたのであるが、もう限界。
それであれこれ条件をチェックしてみたら、FREITAGのLOISという型がバッチリぴったりなのである。
決して安い買い物ではないので決心が必要だが、気に入った柄があったらもう何がどうなるかわからん。
これもぜんぶ、FREITAGが便利すぎるからいけないのだ! そうだ、FREITAGのせいだ!


2010.9.4 (Sat.)

毎度おなじみHQSの同期会・通称「姉歯祭り」である。今回は僕の提案により、国立科学博物館に行くのである。
そして遠路はるばる岡山から仕事でお越しのリョーシさんも後から合流することになっている。
今回の姉歯祭りはなかなか豪快なのである。楽しみにしつつ上野へと出かける。

……が。みんな遅刻をぶっこきやがって、約束の時刻に上野駅にいたのは僕だけなのであった。
しょうがないのでヒマつぶしに上野の名建築でもデジカメで撮っておくか、と東京文化会館を撮影して過ごす。
わかる人には一目瞭然、前川國男の設計した建物だ。向かいにあるコルビュジェの国立西洋美術館と対をなす、
日本を代表するモダニズム建築なのだ。「首都東京にオペラやバレエもできる本格的な音楽ホールを」ということで、
東京都が開都500年事業として1961年にオープンさせた施設なのだ。ぐるっと一周するが、実に典型的である。

  
L: 東京文化会館。モダニズムだなあ。  C: エントランスだ。  R: いかにもモダニズムだし、いかにもホール。

そんなこんなで最初にやってきたのはマサル。撮影を終えて上野駅に戻ると、ぼんやりと立っていた。
お互いに腹が減っていたので、そのまま上の蕎麦屋に入る。注文を終えるとさっそく、マサルから相談。
なんでも今度、文具をテーマにしたムックをつくるそうで、その中身についてどうだろう、と意見を求められる。
そうか、ついにマサルの文具好きを遺憾なく発揮する本ができるのか、と僕は素直に喜ぶのであった。
前にも「文具は実際に手にとってナンボなんよね……」と歌舞伎町のミスドで漏らしていたが(→2009.12.6)、
そうやって温めていた構想を実現できるってのはうれしいことではないか。できる限り頭をフル回転させ、
あれこれ答えていくのであった。まあ実際、文具の本は僕も読みたい。ぜひとも完成させてほしいものだ。

食べ終わるとニシマッキーが到着。みやもりはさらに遅れそうな気配なので、3人で国立科学博物館に入る。
いま国立科学博物館(どうも「科博」と略すのに抵抗がある)では、夏休みからの特別展ということで、
「大哺乳類展」というのをやっているのだ。といってもすべての哺乳類を網羅した内容ではなく、
海生哺乳類に焦点を絞った内容となっている。それでも十分、面白そうだ。大いに期待して見学開始。

まず最初は海生哺乳類の進化の歴史ということで、骨格標本の展示である。
現在知られている最古の海生哺乳類だというパキケトゥスの骨、ここから始まる。
そして体の形が流線型になる収斂についての説明などを経て、クジラの骨。
これがフルサイズで置かれているのだが、さすがにデカい。思わずマサルで記念撮影。

  
L: パキケトゥス。「パキスタンのクジラ」という意味だそうだが、クジラというよりワニ的なイヌって印象がなんとなくするなあ。
C: クジラの骨。これはデカい!  R: マサルを立たせて記念撮影。よい子はマネしないでね!

クジラといえばヒゲである。巨大なクジラ(ヒゲクジラ亜目)はヒゲで、メシであるプランクトンを食べるのだ。
実際にヒゲに触ることのできるコーナーがあったので、僕も行列に並んで触ってみた。
感想としては、ヒゲというよりも、もう完全に板である。木製の板って感触。乾燥してそうなってしまったのだろうが、
これでプランクトンを濾しとって食べるというのは、ちょっと想像できない。生物とは不思議なものだ。

それにしても、もともと夏休みの小学生をメインターゲットにした企画展だし折からの科学ブームもあるしで、
中は呆れるほどの混み具合。覚悟をしていたとはいえ、やっぱり呆れてしまう。ほかに行くところあるだろ、と。
でもまあこっちは僕もマサルもニシマッキーも根っからの(本当に根っからの)科学好きなので、
少々のひどい人混みなんかではへこたれないのだ。元気にあれこれ見てまわるのであった。

  
L: クジラのヒゲ。もはや完全に板ですわ、板。  C: マッコウクジラの体内にあった結石。つまり龍涎香の原料。まるでウ○コだ。
R: ホッキョクグマの剥製と対峙する私。まあ要するに、さっきの仕返しってことでマサルにポーズをとらされているわけです。

「大哺乳類展」は骨格標本や剥製などが中心で、内容としては感動というほどではないが納得がいくレベル。
驚いたのはクジラに寄生するというシラミのデカさ。相手がデカいと寄生する方もデカいということか。
そのシラミについて調べることでクジラの進化やら生態やらがわかるというのもまた面白い話。
マサルは相変わらずで、ダイオウイカがクジラと格闘する巨大な模型がちょうど興奮したチ○コに見えるとか、
そんなことで大はしゃぎなのであった。せがまれて写真を撮ったけど、自粛しておきます。
最後には迷って浜辺に打ち上げられてしまうクジラの話でちょっとしんみり。
ところでこの「大哺乳類展」では、『飛び出せ!科学くん』の音声ガイドを貸していた。面白い試みだと思う。
ああいう科学バラエティがどんどん脚光を浴びていってほしいものである。

企画展の次は常設展だ。やはり国立科学博物館は常設展を見てナンボなのだ。
僕が小学生のとき修学旅行でいちばん楽しみにしていたのは、国立科学博物館だった。
そこの「たんけん館(当時)」のヒマラヤ山脈ができる模型を見て、心の底から感動してもんである。
(南の海から来たインド亜大陸がぶつかり、ぐにょっとシワができるのだ。それがヒマラヤ山脈ってわけ。)
その後に大規模な改修工事をしたので国立科学博物館のレイアウトは完全に変わってしまったが、
面白さには変わりがない(→2005.8.6)。さっそく地球館の地下3階からじっくりと見ていく。

地下3階は宇宙・物質・法則がテーマ。特に元素関係が充実している印象である。
マサルは単位関係の実験系の展示に大興奮。僕は実際に展示されている元素たちを眺めてウットリ。
炭素の展示ではカーボンナノチューブやフラーレンの実物があったのだが、さすがに小さすぎてよくわからない。
カーボンナノチューブなんか、ただの黒いゴムの削りカスにしか見えなかった。でもこれがすごいんだよなあ。

  
L: 実験系の展示があると飛びつくマサル。とても30代とは思えない若々しさ(オブラートに包んだ表現)である。
C: 銀河系における地球の位置を体験できる展示。宇宙旅行の気分になれて、これがめちゃくちゃ素敵。ウチに欲しい。
R: カーボンナノチューブにフラーレンと、炭素原子の配列の展示。科学全開でよい。

地下2階は生物の進化の歴史となる。この辺からみやもりがどうにか無事に合流。
国立科学博物館のすごいところは、さまざまな種類の化石を存分に味わうことができる点だ。
特にバージェス頁岩とかのワケのわからん生き物の化石が多くて、気持ち悪いながらも想像力が広がる。
三葉虫についてもめちゃくちゃたくさん化石がある。しかし冷静に考えると、三葉虫ってかなり気持ち悪いな。

  
L: 国立科学博物館には化石がいっぱい。質も量も充実していて、暗い中に浮かび上がるとドラマチックですらある。
C: やたらと骨格標本が多いのも国立科学博物館の特徴だと思う。とにかくやたらめったら骨での展示が多いのだ。
R: 人類の祖先は最初、こんな感じだったそうだ(パレオプロピテクス)。これも骨での展示ですか。

国立科学博物館では、絶滅したかつての生物たちについては骨格標本の展示が非常に多い。
専門家の観点からすると、「よけいな想像を足していない分だけ、これこそがリアル」ということなんだろうか。
それとも、すべての生物を公平に扱っているということで、骨格標本を基準として設定したということなんだろうか。
個人的には、骨だけだとパッと見て違いがわからない部分が多いので、やや残念な気もする。

  
L: 恐竜だ! 巨大な頭部が来館者の頭上に来るように配置されていて、迫力満点。ホントにデカいなあ。
C: 再びマサルにポーズをとらされる僕なのであった。標本と同じポーズをしろとか、無茶を言いよるわ。
R: 海の生物についての展示では、海の底から眺めたイメージの配置がなされている。工夫がいっぱい。

上の階へ行くにつれて、骨の世界からなんとなくなじみのある標本・模型が増えてきて華やかな印象になる。
特に1階では生物多様性がメインテーマとなっており、ありとあらゆる生物の標本が収められている。
いちばん奥にある「系統広場」では、地球上の生物の系統樹が円形の展示場に標本とともに再現されており、
そのあまりの種類の多さに圧倒される。原核生物の真正細菌と古細菌からスタートするが、これらの数が非常に多い。
そして真核生物の原生生物へと続いていき、だんだんとなじみのある面々が登場するようになる。
哺乳類のヒトは、無数にある生物の中のたった1種類だけなのだ。その事実を衝撃的なほど冷静に伝える展示だ。

  
L: 海底のホットスポットに群がる生物たちの模型。リアルである。リアルすぎてちょっと気持ちが悪い。
C: 地球上のあらゆる生物たちを紹介している一角。ものすごい量が系統別に展示されている。
R: ヒトの箇所には自分の姿が映し出されるように工夫されている。その様子を撮ってみた。

2階に上がると、まずはたんけん広場。ここは身の周りにある光だの力だの電気だの磁気などといった物理現象について、
実験を通して理解する場所。つまりお子様向けのでんじろうコーナーなのである。ゆえに子どもだらけで大騒ぎ。
しかしそんな状況にも臆することなく飛び込んでいくのが、われらが岩崎マサルなのである。
子どもに混じってマサルは素早く動きまわり実験三昧。存分に堪能したようでよかったよかった。

  
L: 子どもがウジャウジャー。  C: そんな中で実験に勤しむ岩崎マサル。  R: 全力で楽しんでおりますな。

たんけん広場の奥は科学と技術の歩みということで、さまざまな機械が展示されていた。
これが非常に興味深い内容で、フロア内をオモシロ機械が埋め尽くすように並べられているのである。
その中で特にマサルとみやもりの興味を強く惹いていたのが、九元連立方程式求解機。
これはその名のとおりに九元連立方程式を解いてくれる機械なのだが、二段の枠の中で木製の棒が角度を変える、
ただそれだけの機械なのである。これでどうやって連立方程式、しかも9元の式を解くんだ?と呆れていた。
マサルもみやもりもそうとう気になっていたようで、えらい長い時間この機械の前で首をひねっていたなあ。

  
L: 真空管の計算機。コンピューターというよりは、計算機という表現がしっくりくる。工芸品の匂いを残していると思う。
C: 九元連立方程式求解機(マサルがケータイで撮影)。まあ確かに、これで連立方程式が解けるってのはすごすぎるなあ。
R: 科学ファンには毎度おなじみのペンシルロケット。日本のロケット開発はここからスタートした、ってやつだな。

フロアの隅っこには江戸時代の科学技術特集。これがまたすごい。日本人の遺伝子に刻まれたものづくりの精神が、
これでもかというほど味わえる、実にすばらしい展示だった。重要文化財にも指定されている万年自鳴鐘はもう芸術。
昼夜の長さの変化に応じた不定時法をもとにした和時計なのだが、二十四節気・曜日・十干十二支・月齢を表示し、
天球儀や洋時計の機能まで備えている。しかも完全に全自動。こういうものをつくりあげてしまうことができるというのは、
もうどこまで日本人は凝り性なんだと笑ってしまうしかない。こういうことに能力を発揮できるってのは素敵なことだ。

 万年自鳴鐘(万年時計)。究極の、いや究極すぎる和時計だ。

というわけで、みんな閉館時刻のギリギリまで国立科学博物館を堪能したのであった。
まさか時間がなくって日本館まで行けない、ってことになるとはなあ。国立科学博物館おそるべしである。

  
L: 最上階・3階は哺乳類と鳥類のコーナー。雑木林と図書館が融合したこの部屋は、かなり想像力を刺激する空間だ。
C: 国立科学博物館の象徴ともいえるシロナガスクジラのオブジェ。かつてはザトウクジラのオブジェだったそうだ。
R: 国立科学博物館の日本館。「旧東京科学博物館本館」として重要文化財に指定されている。上からみると飛行機型。

国立科学博物館を出たところでリョーシさんと合流。お土産の桃をもらった。う、う、うまそうだ(うまかった)。
その後は上野の街へと繰り出す。まずはお茶だな、ということで喫茶店の中へ。
よく考えたらわれわれはずっと博物館の中にいたわけで、飲まず食わずどころか座ってさえいなかったのだ。
疲れたときには甘いものが一番なのだ。プリンパフェがやたらめったらうまそうだったので注文。
案の定、手づくりだというプリンはすごくおいしかった(うらやましかったようでマサルは追加注文した)。

 記念に一発。

一休みした後はもちろん飲み会なのだ。テキトーに店に入って飲んでしゃべって愉快に過ごす。
途中でえんだうさんが合流して、やっぱりバカ話で盛り上がる。最後はいつもどおりではあるのだが、
やっぱりテーマを決めての姉歯祭りは楽しいなあ、ということで解散。次回は何をしましょうか。


2010.9.3 (Fri.)

僕は主にアンブロのサッカー用品を使っているのだが、「umbro」を「オンボロ」と呼んでからかってくるやつがいる。
「umbroはHumphrey Brothersの略で、イングランド代表御用達なんだぞコラ」と言っても連中は聞きやしない。
まあ中学生なんてそんなもんといえばそんなもんなので、そんなもんだわな、と納得しているしだい。


2010.9.2 (Thu.)

iPod shuffleのデザインが結局元に戻っているんでやんのという話。

僕は第2世代のiPod shuffleのデザインが大好きで、ついついつられて衝動買いしたことがあるが(→2007.3.20)、
第3世代になって「しゃべる」というよけいな機能をつけて無理にボタンの数を減らしたことにショックを受けていた。
で、このたび新しいiPod shuffleのデザインが発表になって、注目してみたら上記のような有様。
だったら最初から第2世代のデザインのままでよかったじゃねーか!ということなのである。
まあやはりそれだけ完成度の高いデザインだったのだ。ありゃもうアンタッチャブルな領域にまで達している。
ぜひとも末永くあのまんまでいってほしい。心からそう思うのである。


2010.9.1 (Wed.)

本日より新学期。案の定、みんなムダに背が伸びてやがる。チクショー。
ともあれ、元気そうで何よりだ。どちらかというと気持ちを入れ替えて臨んでいるやつよりも、
休み気分を微妙に引きずって現実感の薄いやつが多い。ま、僕もそうだから大きなことは言えないけど。
今週中にじっくりと真剣モードに入っていくようにしましょうか。


diary 2010.8.

diary 2010

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