『のだめカンタービレ 最終楽章 後編』。
テレビドラマから始まった『のだめ』の実写化シリーズも、ついにこの映画の後編で一段落となる。
前作(→2010.1.29)では原作に極めて忠実に実写化を進めていったのだが、
ラストは果たしてどのような締め方になるのか。それをこの目で確かめるために、映画館へと向かった。マンガで読む場合、ストーリーのスピード感は人それぞれの受け止め方になる。
僕のように勢いに任せて一気に読んでしまう人もいれば、じっくり1コマ1コマ確認していく人もいるだろう。
そのことを考えた場合、この映画の進め方は実に最大公約数的というか、無難な速度で展開していく。
やはりこの後編も原作に忠実である。映画らしい大団円にもっていくために軌道修正してくるかな、
と思ったのだが、最後まで徹底して原作の実写化という立場を貫いている。これは意外だった。「パリ編」以降は舞台が世界規模となり、いっそうさまざまな登場人物が物語を彩っていくが、
原作は話を終わらせるために、かなり強引に舞台空間を狭めて収束させようとする(→2009.11.27)。
具体的に言えば、千秋とのだめ以外ほとんど出てこないようになり、そうして話が決着させられる。
この映画もそのままで、やっぱり最後は千秋とのだめ以外ほとんど出なくなる。
マンガではそれを非常に退屈に感じたのだが、なぜか映画ではそのことをごく自然に受け止めることができた。
この差は何なのかよくわからないが、原作での話のしぼんでいく虚しさが、映画ではうまく中和されているのだ。
実写のリアリティがそうさせたということなのか。このことについてはあらためて検証が必要かもしれない。映画オリジナルで盛り上がれる可能性を完全に捨てて、原作の敵討ちに徹するという潔さ。
お祭り大好きなフジテレビが最後の最後まで良識というか礼儀を貫き通したのには驚いた。
これで『のだめ』実写祭りは静かに収束していくことになるのだろうけど、きっとそれでよかったのだろう。
サッカー部、今シーズン初の休日練習である。休日練習はグラウンドを全面使える貴重な機会なのだ。
ふだんはただでさえ狭いグラウンドを半分にしているため、全面というだけで歓声があがる状況である。
さて今日も最後はゲームで締めたのだが、上手いやつもまだまだなやつも、全員が持ち味を発揮したのがうれしい。
ひとりとして「消えている」やつがおらず、全員が自分なりのレベルで的確に動くことができた。
そうすると自分たちが高いレベルでゲームを成り立たせていることがはっきりとわかるので、充実感が違うのだ。
時間がきて終わって、妙にみんなすっきりとした表情になる。毎回こうだといいなあ、と心底思う。ところで小学生は自分の得意なプレーしかやらない生き物なようで、逆足でのプレーがみんなヘタクソである。
(さみしいことにウチの部員は全員が右利きなので、全員逆足が左となる。僕もそうである。)
いちばんテクニックのあるやつも、逆足でシュート練習をやるとまるでダメ。それで利き足でやらせてくれと懇願。
でも僕は「苦手だからやるんだろ。得意なことだけやって満足ってのは部活じゃなくて遊びのサッカーだろ」と却下。
ちなみに僕は逆足でもそれほど差のないプレーができる(純粋にヘタクソなので利き足と差がないだけだが)。
左足でループを決めたら「先生はどっち利きですか?」と訊かれたので、「真ん中の足」と答えておいたよ。
……結局最後はシモかよ!
学年の先生方で出発会が開催されたのであった。まあ要するに、今年一年がんばりましょう会である。
僕がいちばんの若手であとみんな年上なので、いつものようにガッチガチに緊張するのであった。
また今回は店が店で高級感があふれるところだったので、よけいにガッチガチ。
で、僕はベテランの皆様のような長期的な視野から行動できていない、その場しのぎばかりと指摘される。
とりあえず怒鳴るのはやめます、ということでよろしいでしょうか。いやはや、お恥ずかしい。
本日は遠足なのである。先日、下見に行ったのだが(→2010.4.10/2010.4.11)、その本番。
朝から重苦しい曇り空で、天気予報を見ても旗色が悪い。まだ降りだしてはいないものの、時間の問題に思える。そんなわけで、前半戦のサイクリングはまさに雨との戦いに。高速道路があまりに快調で開園30分前に到着、
しばらくバスの中でボケーッとしているしかなかったので、後々考えると、どうにもならないんだけどもったいなかった。
いざサイクリングが始まると、まずは年配の女性の先生と一緒に行動。その後、ひとりで遊撃的な動きをすることに。
ぽんぽこマウンテンでは、ウチの連中は自分たちが中学生であることを完全に忘れ、小学生とはしゃいでいたので、
「おいお前ら! 中学生って自覚はあるのか!」と言っている僕もピョンピョン飛び跳ねているのであった。
……トランポリンって意外と疲れるね。昔はぜんぜんそんなことなかったのに。もう歳ってことなのか……。ウワー雨が降ってきたのは渓流広場に着いたあたり。一度降りだしたらやまない気配が強く漂っていたので、
メシを食ったらバスに戻ることに。実に消化不良である。それでも生徒たちは帰り道で極力楽しんでいたのであった。後半は丸木美術館へ移動。原爆の絵で知られる丸木夫妻の美術館である。
かの有名な『原爆の図』が展示されていたのだが、まあとにかく上手すぎるし、きれいすぎる。
原爆という情容赦ない兵器にさらされた人々を描いているのに、あまりにも美しいのである。
かといって汚く描けばいいのかというとそれは明らかに間違いなのだが、それにしても美しすぎた。
具体的に言うと、最初の作品では純粋に原爆の被害を確かな腕で描いたという印象があるのだが、
連作が進んでいくにつれ、原爆の卑劣さを強調するためか、とにかく少女の身体が多く描かれるようになる。
でもそのせいか、原爆が少女たちの身体をこんなにも残酷に傷つけました、というよりはむしろ、
絵じたいの美しさにより、究極的な打ちのめされ方で傷つけられても少女たちは美しい、
というような逆説が発生してしまっているように思うのである。丸木美術館以降はもうザンザン降りで、駐車場と美術館の距離が本当に遠く思えた。
それでも帰りのバスは高速道路を軽快に走り、建設中の東京スカイツリーにみんなで大興奮。
もっとも僕と年配の女性の先生は、要塞としか形容しようのない新しい小菅の拘置所を見て開いた口が塞がらず、
「すごいわねー」「すごいですねー」と繰り返すのであった。たまにお世話になる首都高は面白くってしょうがないぜ!
今日は身体計測なのである。聴力検査を任されて、保健室でチェック。
でもやっているうちにふつうにやるのに飽きてきて、ドアを開けた生徒に「へいらっしゃい!」と声をかけるようになる。
「何握りましょう!」「いや、あの……耳の検査……」「ハァ? 耳を握れだァ? お客さん、冷やかしなら帰ぇってくだせえ」
と、ひととおりやってから、きちんと検査はしましたよ。こんなことをやっとるから、あの先生は変だとか言われるんだ。
実の父親であるところのcirco氏が上京してきたので、まずは一緒にメシを食う。
潤平を加えた3人で大岡山の中華屋へ。注文したのはいいが、ご飯の量が足りなくなって変更を余儀なくされる。
店の旦那はそのことについてひたすら平謝り。賄いメシまでくれるほどで、かえって申し訳なかった。潤平には京都・奈良旅行の日記(→2010.3.26)について、「石山寺の多宝塔ちゃんと見たのかよ」と怒られた。
まあ確かに、たった1枚の画像とともに「多宝塔。日本で最古のレベルのものだそうだ。」というキャプションのみで、
ちゃんと見たのか言われれば、うーん、まあ、そこそこ。としか答えることのできない情けなさなのである。
写真じたいは4~5枚撮っていて、その中のベストを選んで画像をつくるという作業をやってはいる。いちおう。
そういうわけで、今から多宝塔について画像とコメントを付け足しておきます。それで許して。あと、「どーせ誰もオレの日記なんて見てねーもん、いーじゃん」って言ったら、「や、けっこう見てる」との返事。
潤平が言ってるんなら、たぶんそうなんだろう。ぜんぜん実感わかないけど。
誰が見ているかわからないからきちんと書こう、とあらためて思ったのと同時に、この日記を楽しんでくれている人は、
僕にメシをおごるルールをきちんとしてほしいなあ、と思った(→2006.8.20/2006.8.21)。意地汚いですよ、僕は。◇
その後はcirco氏と新宿に出る。お決まりの東急ハンズめぐりをした後、どこに行こうか、という話になる。
で、そのうちにせっかく都会に来たんだから、FREITAGを売っている場所に行ってみることになった。
最近は都内のあちこちでも売っているのだが、量を求めるなら下北沢か宮下公園前か国立新美術館だと思う。
今回は新宿からほど近い渋谷・宮下公園前の店に行ってみた。純粋に情報収集というか、様子を探ってみたわけだ。
circo氏はなるほどこういう感じか、とわかってくれたようだ。で、新宿に戻る。新宿に戻る途中の山手線内で、おそらくフランス人の姉妹と母親が原宿で降りた。
そのファッションたるや完全に『東京カワイイ★TV』の世界で、僕とcirco氏は互いに顔を見合わせてうーむとうなった。
昼間は買い物をする。夜は部屋の片付けを続行中。
せっかく部屋の片付けをやっているのに物を増やすというのは愚行であるのだが、
買ってくることでいらないものがはっきりするという側面もあるので気にしないのである。
しかし部屋の片付けはいつ終わるやら……。果てしない挑戦に思えてきた。
PTAでの飲み会があった。オトナの飲み会が苦手な僕にはいちばんキツい会なのだが、
実際に出てみるとみなさんすごく優しいのでさほどでもないという、まあそういう感じなのである。
途中から始まるカラオケタイムでは当然のごとく『あの鐘を鳴らすのはあなた』が入れられるので、
昨年と同じように握手して歩きながら熱唱。僕としてはそれほど面白いことをやっているとは思わないのだが、
酒が入ったみなさんは大爆笑してくれるので、来年はおかっぱのカツラを用意しようと思った。
木曜日はグラウンドを使うことができないので、校内で走ってトレーニングなのである。
で、こないだの部活動オリエンテーションで「極力僕も一緒にやります」と言っちゃった以上、一緒に走って筋トレ。
今までろくすっぽ運動なんてしていなかったのに、ここで急にエッサホイサとやるわけで、もうキツいのなんの。一方で、どんどん部員は増えていく。まだ仮入部の段階ではあるのだが、
新入生だけで試合のできる人数にまで到達してしまったのだ。そんなに需要があったとは!
うれしい悲鳴でヒーヒー言っております。
あ゛ー、研究授業をやることになっちまっただよー!
これだけは避けたい、これだけは避けたいと思っていたのに……。あ゛ー!!
もうどうなっても知らねえぞー! 後悔すんなよお前らー!
ようやく京都初日の日記を書きあげることができた(→2010.3.26)。
写真の量が膨大だし、ものすごい勢いであちこちをまわっているので覚悟はしていたのだが、
今回の京都・奈良旅行の日記を書くのがここまでキツいとは思わなかった。
わかっていたつもりだった。わかっていたつもりだったけど、何もわかっちゃいなかった。何もそんなに必死になって日記を書かなくても……という意見もあるだろう。
そのとおりである。その意見が全面的に正しい。僕は間違っております。
でも、日記に書いて言語化することで、形に残すことで、旅をようやく消化できるのだ。
ふつうの人よりもずっと不器用なので、消化する作業を要領よくできない。
いいかげん慣れてきてもよさそうなもんだが、なかなかうまくいかない。そんな状況だ。
まあでも、こうやって書いていくことでいつかプラスになるときが来るだろうと信じてやっております。
ヤマグチノボル『ゼロの使い魔』。
前にバヒサシさんのところに泊まった際、「『ゼロの使い魔』のルイズはいいぞぅ~」と教えられた。
ふーんそうかい、と生返事をしてから何年経ったかもう忘れてしまったが、本屋でふとそのことを思い出したので、
いざ読んでそのツンデレぶりを確かめることにしたしだいである。今になって読む気になったのに、特に意味はない。主人公はこれといった取り柄のない高校生・平賀才人で、異世界ハルケギニアの魔法学院の生徒・ルイズによって
召喚されてしまったことから物語が始まる。ルイズは魔法をまったく使うことができず、「ゼロのルイズ」と呼ばれている。
才人はそんなルイズの使い魔としてこき使われる毎日を送るが、実はあらゆる武器を使いこなす能力を身に付けており、
ルイズや魔法学院の同級生たちとともに冒険を繰り広げるというライトノベルである。アニメも大人気。一読してみての感想は、これはお金になりますなあ、といったところ。
まあはっきり言って、文章については見るべきものはない。売り物にしては稚拙というレベルでしかない。
巧いのはその設定で、読者を投影できる平凡な男子を主人公に据え、剣と魔法の世界に放り込み、
気がつけば努力をすることなく特別な能力が手に入っており、さらにはツンデレなヒロインまで用意されている。
おたく業界で身に付けたセンスをうまく発揮して、実に手堅く飯の種を構築したものだ、と感心した。
まあこの手の作品は、できるだけキャラクターを魅力的にしてエピソードを盛り込んで人間関係を修飾し、
サイドストーリーをやたらめったらたくさん生み出せる仕組みをつくりあげればそれで「勝ち」なのである。
その点において、『ゼロの使い魔』は文句なしにうまいことをやっている作品である。
もうかってまっか? ぼちぼちでっか。そうでっか。
突如として大規模な部屋の片付けを開始した。
けっこうそういう人は多いと思うのだが、ある日突然思い立って片付け作業は始まる。
そして7割くらい終わったらところで力尽き、また部屋は荒れていくのである……。
ともかく、作業は始まった。まずは本棚の位置を大胆に変える。だいたい僕の部屋は物が多すぎるのである。それの取捨選択もしなくちゃいけないが、
最初に部屋の物理的な構成を決定する要素である、本棚の位置変更から始める。
ベッドの下の空間は、物を置けるようにしてはいるけど、なんだかんだで利用頻度は低い。
また、ベッドと壁に挟まれた小空間も出入りしづらいので利用頻度が低い。
今回はその点を考慮し、本棚を1つ利用しやすい位置に出すことにしたのだ。
CDや本をそこに置くことで、機能性を上げようというわけだ。今日のところは棚を移動してその中に大雑把に物を詰め込んで終了である。
細かい整理は今後じっくり、毎日少しずつやっていくつもりなのだ。
ここんところどうも部屋の散らかり具合がひどいので、どうにかがんばりたいものである。
昨夜の大爆発の影響が残っていたせいで、昼まで寝てた。
むっくりと起きると、いい機会なのでWindows7へのアップデート作業をやることにした。
今のパソコン(→2009.9.18)はVistaで動いているのだが、このOS、評判がすこぶる悪い。
僕はパソコンに詳しくないのでどこが悪いとかよくわからないが、確かになんとなく扱いづらさは感じている。
世間のOSがVistaから7に切り替わるタイミングだからこのパソコンを安く買えたので悪く言うつもりはないが、
お安くアップグレードできる最後のチャンスらしいので、思い切って申し込んだのだ。OSを切り替えるということは新しいパソコンを買うのとほぼ同じ状態になるようで、
外付けのハードディスクにバックアップをとってから作業を始める。
アップデートの作業じたいはすこぶる順調で、かなりスムーズに終わった。
で、避難させておいたデータをパソコンに戻し、自分なりに環境を整えていく。
デスクトップをできるだけすっきりさせようと思ってやっていったら、ゴミ箱だけになってしまった。
Windows7、なかなかやるではないか。そういうわけで、今のところは非常にいい感じである。
もともとそんなにマニアックにパソコンを使っているわけではないので、故障しなけりゃそれでいい。
末永く無事に動いてくれればいいなあ、と思う。
本日は先生方の歓送迎会。1次会はきちんとした場所できちんとした内容だが、
2次会はカラオケで皆さん大爆発なのであった。本当に凄まじくて、腹がよじれまくった。
しかしこの仕事をしている人には芸達者な人が多い!とあらためて思うのであった。
僕なんか気は利かないしこれといった芸を持っているわけではないしで、肩身が狭い。
まあ、そういう人間が無理して受けを狙っても見苦しいだけなので、
要所要所で空気を読んだり読まなかったりしてぶちかます今のままでいくとしましょう。
2年生になって、目つきが変わった連中がけっこういる。
なんとなくだけど、やる気が伝わってくるのである。そうなるとこっちだってやる気が出るぜ、
ということで、密かに燃えてあれこれ授業に向けての工夫をしている。
お願いだから連中のこのやる気が長いこと続いてほしい。
今のこのいい状態をどれだけ長引かせることができるか。勝負である。
今日も練習。ついこないだまでランドセルを背負っていた諸君はゲームが大好き。
基礎的な練習よりもとにかくゲーム、ゲーム!なのである。
意欲があるのはいいことなので僕としてはわりと甘めに対応しているつもりなのだが、
「自分の可能性を広げることにチャレンジするのが部活動だ」という認識はいちおう持っているので、
ただ単純にゲームをやって活躍したい、いいカッコしたい、という面に対しては厳しく指導をしている。だからドリブルがめちゃくちゃ上手くて何人もスイスイ抜いてゴールを決めても、
周囲が見えてなくて味方との連携がとれていないプレーだったら怒るのである。
どうもまだこの点においてお子ちゃまが多い。ボールを持つと自分の世界に入ってしまう。
テレビで見る有名選手みたいなプレーをすることが目的になってしまっているのである。
できるだけ点を取れる確率の高いプレーをチームの中で連続させることが目的だろ、
と毎回注意している状況である。体も小さいが、ハートもまだまだ。時間がかかりそうだなあ。
新生サッカー部の練習初日である。みんなでグラウンドに出て、ボールを蹴る。
実に10ヶ月ぶりの光景だ。すっかり忘れていたことを、ひとつひとつ思い出しながら指示出し。しかしこう、なんというか、滅亡してしまったはずのサッカー部がはっきり復活した姿を見ていると、
なんだかちょっと泣けてくる。やはり何かが消滅するということは、とても悲しいことなのだ。
そしてそれがふとしたきっかけで蘇るということは、とてもうれしいことなのだ。
学校の都合でつぶれかけた部活がグータラ教師の意地でどうにか息を吹き返す。
これで強くなっちゃったりした日には、もうまるでマンガだけど、それは求めない。
こいつらが選んだこのスポーツを、義務感ではなく楽しみとして3年間続けられるように、
余裕をもってやっていきたい、とあらためて思うのであった。
え、えらいことになった……。
サッカー部に入部希望してきた新入生が9人もいる。おまけにまだ増えるかもしれん……。
(新入生男子のうち、実に1/3がサッカー部に入部希望してきたのだ……。)
すでに2年生からも新規加入が内定しているやつが3人ほどいるから、これで11人そろってしまった。
去年部員ゼロだったのに、これはなんなんだ? いきなりこんな事態になるとは想像できんかった。
こうなるとこうなったで、むしろ不安だわ。オレ、いったいどうなっちゃうんだろ……。
今日も昨日の続きで川越を下見するのである。交通費的には散財で切ないが、しょうがない。
もうこうなったらとことん、下見をしつつ日記のネタを探しまくるのみである。ポジティヴにいくのだ。と、その前にまずは髪の毛を切る。朝イチに自由が丘でサッパリしてから、渋谷に出る。
さて川越へ行くには、東武か西武かJRで行くことになる。JRも東武も使ったことがあるので、
今回は西武で行ってみることにした。東武の場合は池袋が起点になるから西武もそうだろうと思い、
渋谷から池袋まで移動する。ふつうに移動しても面白くないので、地下鉄副都心線に乗ることにした。
僕はまだ副都心線に乗ったことがないのだ。キョロキョロしながら地下空間を奥へ進んでいく。
L: 東横線との接続はまだなので、行き止まりになっている線路。将来はこの壁が取り払われるってことなのね。
C: 地下につくられた吹き抜け空間。東急の広告ポスターや『タモリ倶楽部』なんかで見たことある気がする。
R: 線路の上に通路がつくられ、キオスク的な店もある。これも今のうちだけなんだろうなあ。さて、私は間違っていた。大いに間違っていた。それは、本川越駅は西武新宿線の駅だということである。
つまり西武新宿スタートでないと、まっすぐ川越に行けないのだ。西武池袋線だと秩父に行ってしまう。
その事実に気がついたのは池袋駅の西武線改札口前。副都心線は乗ってみるとけっこう地味じゃのう、
などとのん気に構えていたのも束の間、己の間抜けっぷりにがっくりうなだれるのであった。
結局、毒食わば皿までじゃー!ということで、所沢で乗り換えて根性で本川越へ。散財じゃーとはいえ本川越駅から川越の蔵造りの街並みへと入るのは、なかなかいい気分転換になった。
昨日歩いた道を今日もトボトボ行くというのは非常に退屈で、そう考えれば寄り道だって悪くないものだ。
中央通りをまっすぐ行っても芸がないので、わざと一本東の大正浪漫夢通りを行って、川越一番街へ。
2年前にも訪れているが(→2008.8.19)、今回は下見とクイズづくりという使命があるので気持ちとしては新鮮。
L: 鯉のぼりがいっぱいの大正浪漫夢通り。ここは川越一番街と違って石畳になっているのがとてもよく効いている。
C: 川越一番街。観光客の量がすさまじく、また車の交通量もすさまじい。相変わらず、のんびり歩いていると非常に危険。
R: 蔵造りの店舗が並ぶ光景はさすがに迫力満点。森林公園で自転車ぐるぐるよりはこっちの方がいいよなあ。
L: 旧八十五銀行本店(現・埼玉りそな銀行川越支店)。1918(大正7)年築で、埼玉県初の国の登録有形文化財。
C: 毎度おなじみ時の鐘。見た目はかなりきれいだが、実は1893(明治26)年の川越大火の翌年に再建された古い建造物なのだ。
R: 時の鐘のある通り。これまた石畳で雰囲気がよい。このまままっすぐ東へ向かうとウォーターボーイズの川越高校。前に訪れた場所も、あらためて行ってみる。やはりきちんとしたクイズをつくるためにはきちんとしたチェックが必要で、
細かいところまであちこち見ていく。だから思いのほか時間がかかるし、何より疲れる。よくがんばってんなあオレ。
L: 服部民俗資料館(服部家住宅)。もともと履物屋だが、薬も売っていた。いったいなぜそんな取り合わせになるかなあ。
C: 蔵造り資料館の内部。ここを風が通るので、蔵造りの建物は夏でもものすごく涼しいのである。
R: 大沢家住宅。1792(寛政4)年に豪商の西村半右衛門が建てた。現存する市内最古の蔵造り建築であり、国の重要文化財。いつもの気ままな単独行動であればまず行くことのない川越まつり会館についても下見とクイズづくり。
中ではちょうど囃子の実演が行われていて、結局最後まで見てしまった。これを毎週やるのはなかなか気合がすごい。川越まつりの囃子。大きく3つの流派があるそうだが。
さて川越まつり会とともに川越の中で今回初めて訪れたのが、菓子屋横丁である。
いかにも昭和っぽい雰囲気を残している一角となっているが、歴史は意外と古くて1796(寛政8)年に遡る。
江戸時代には「飴屋横丁」と呼ばれていたが、関東大震災後に東京に駄菓子を供給する拠点となり、今に至る。
中身にチーズの入った鯛焼きを売っていたのでチーズドック気分で買い食いしながら歩きまわってみる。
日本一長い麩菓子はいいけど正直そんなに需要はないだろオイ、などと心の中でツッコミを入れつつ歩くのであった。
L: 菓子屋横丁。昔ながらの菓子を売る店が並んで大盛況。確かにお土産を選ぶのが楽しそうだ。
R: こちらの名物・麩菓子。ご覧のように、やたらめったら長い。こんなん食べるのが大変でしょうに。最後に、先述の川越まつりが行われる神社である氷川神社に行ってみる。蔵造りの街並みからは離れており、
川越城本丸御殿(ただいま保存修理工事中)や市立博物館・美術館方面にある。歩くとそこそこ距離がある。
こちらの氷川神社は533年に大宮の氷川神社を分祠したことに始まるとされ、かなりの歴史がある。
でも神社じたいはそれほど広くなく、いくつも社殿はあるものの、なんとなく小ぢんまりとしている印象である。
朱塗りの大鳥居は木造としては日本で最も大きいが、正直、大きいというだけなのである。
どうも今ひとつパッとしないなあ、なんて失礼なことを思いつつ撮影をするのであった。
L: 氷川神社の大鳥居。確かに大きい。でもそれだけ。 R: 氷川神社本殿。ひとつの観光スポットにつき1問、どうにかつくることができた。
ホッと安心しながら川越駅まで戻る。クレアモールの元気のよさが、とても頼もしく思えた。
遠足本番で川越に来ることになるかどうかはわからないが、ぜひまたこの街を楽しみたいものだ。
遠足の下見なのである。今回われわれが行くのは、埼玉にある森林公園。
雨天時は川越の街歩き(雨天で街歩きってのもなあ……)ということで、両方に行ってみるのだ。
特に下見における僕の使命は、クイ研出身ということで、生徒向けのクイズをつくることにある。
その場で考えたクイズをあれこれデジカメで撮影することで記録(記憶)するという手法をとっているので、
こういう日記を書く作業からすれば一石二鳥なのである。そういうわけで、撮影したデジカメ画像を中心に、
今回の下見で訪れた場所を軽く紹介してみることにするのだ。東武東上線の森林公園駅で下車。ところが名前は森林公園駅なのに、肝心の公園はここから遠い。
駅前ではレンタサイクルもやっているが、自転車は公園内で借りることに決めていたので、歩くことにする。
……思えばこれがそもそもの間違いなのであった。そう、大間違いなのであった。
なぜって、駅から一歩踏み出す方向を間違えて、てんで見当違いの方向へと歩きだしてしまったから……。ここは、どこだぁ~!?
どうしてオレは駅からのバス代をケチってしまったんだ、と後悔しても遅い。すでに手遅れ。
いちおう埼玉県のポケット地図帳を持ってきたのだが、田舎すぎて縮尺が小さく、まったく参考にならない。
途方に暮れつつ歩は進める。全神経を敏感に尖らせて、少しでも現在地や目的地がわかるものはないか探す。
しかしそこは田舎道。行けども行けども農地や住宅ばかりでまったく森林公園の「匂い」がしないのである。
今まではこういう状況でも「どうにかなるだろう」という根拠のない自信が湧いてきて、事実どうにかなってきたが、
今回については本当に焦った。まあ、幹線道路を探して右往左往していたら運よく公園への道に合流でき、
結果だけみれば無事に済んだのだが、時間にしてたっぷり1時間のロス。いやー、歩かされた。なぜ今回の遠足の目的地に森林公園が選ばれたのかというと、サイクリングを存分に楽しめるから。
広大な面積の公園内には全長17kmに及ぶ自転車専用の道路があり、レンタサイクルも充実しているのだ。
わが学年では修学旅行でサイクリングを予定しているので、ここで予行演習をしようという意図があるわけだ。
じゃあびゅく仙なら自前の自転車でそこまで行っちゃうんじゃねーの?ていうか自転車で行けやコラ、
と思っている人も多いだろうけど、今日のうちに川越まで下見する予定だったので、さすがにそれは避けた。さてこの森林公園、正式には「国営武蔵丘陵森林公園」という。明治百年記念事業の一環として整備され、
1974年に全国初の国営公園として開園した歴史を持っている。埼玉の田舎を生かして公園にした空間である。
入口はいくつかあるが、最も利用者が多いと思われるのが南口。入場料の400円を払って中に入る。
レンタサイクルの事務所は入口と同じ数だけあるが、まずは入口の周辺部を歩き回ってみることにする。
自転車の入れない東側へと進んでいくと、秀吉の小田原征伐の際に前田利家が落としたという山田城址があった。
兵どもが夢のあと、とはまさにこのことで、それらしい高低差がある点を除けば完全に林の一部と化していた。
そこを抜けると、桜の木々が無数に植えられた一角・花木園へと入る。東京ではほとんどが葉桜になっているが、
埼玉では今がまさにちょうど見ごろで、もうこれが美しいのなんの。シートを広げた家族連れがいっぱいおり、
奥の方では会社のグループと思しき人々がバーベキュー。実に和やかな風景なのであった。
L: 森林公園南口。男一人でこんなところにフラッと来るのは、さすがに少々気が引けるのであった。
C: 花木園付近。桜の薄いピンクと、ムラサキケマンの紫と、アブラナの黄色の組み合わせがすばらしく美しい。
R: 花木園。まさに理想的な休日という感じ。ここでひねもすボケーッと過ごすのも悪くなさそうだ。南口に戻ると、ちょっと坂道を上ってレンタサイクルの事務所へ。410円払ってMTBタイプの自転車を借りる。
選べる種類はママチャリかMTBかの2択ということで、それほど凝った自転車が置いてあるわけではないようだ。
正直、京都のレンタサイクルの方がはるかによかったなあ(→2010.3.26)、なんて思いつつペダルをこぐ。
しかしさすがに自転車専用道路は快適で、風を切って走るのが本当に心地よい。
コースも等高線を考慮に入れてか、起伏はそれほど激しくなく、カーヴを多めにとって楽しませてくれる。
何より面白いのは案内板のデザインで、「スピード落とせ」「急カーブあり」「合流注意」「歩行者注意」など、
さまざまな注意書きが動物のイラストで彩られていた。こういう工夫が楽しいのだ。
L: 森林公園の自転車専用道路。こんな感じで17kmである。走りやすくてとっても快適なのだ。
C,R: 自転車専用道路に出ている案内板。あちこちにあってオレンジ色で目を引く。うまいもんである。北上していって最初のチェックポイントとなるのが、展望広場。といっても、その名前ほどには展望はきかない。
レストランがあってそこからの眺めは悪くなさそうだが、周囲にこれといって魅力のある空間がないのが惜しい。
むしろ緩やかな起伏のある芝生に座ったり寝転がったりして過ごしている人々がとても気持ちよさそう。
これまた、ボケーッと過ごすには実によさそうな場所である。森林公園、侮りがたし。
L: 芝生のスロープを展望広場へと上っていく。桜がなかなか見事だ。 C: 展望といっても、まあこの程度。
R: 自転車道路への帰り際、ジンジャーじゃなかったセグウェイに乗っている人を発見。そうか、こう使うわけか。森林公園内にはさまざまな施設があるのだが、ぶっちぎりで子どもたちに大人気なのは、
運動広場にある「ぽんぽこマウンテン」だろう。空気圧を一定に制御したトランポリンなのだが、とにかくデカい。
その面積は1000平方メートルということで、日本一の大きさなんだそうだ。どんな感じか、非常に気になる。
しかし自転車道路から運動広場まではけっこうな距離があり、林を抜けて吊り橋を渡って行くことになる。
起伏があって見通しの悪い林をエンヤコラサと歩いて歩いて抜けると、視界がパッと開ける。
一面の芝生が広がる光景に、思わず声が漏れた。そしてその先には真っ白いぽんぽこマウンテン。
すでに子どもたちが大勢群がり、ピョンピョンと飛び跳ねて大騒ぎになっていた。
そして運動広場にはそれ以外にも、見事なポピーの花畑があったり芝生の山のてっぺんに東屋があったりと、
空間を贅沢に使っているのが印象的だった。というか、この公園は本当に広い!
L: ぽんぽこマウンテン。さすがにオトナとしてここで遊ぶのはできなかったわ。でもマサルなら遠慮なく行きそうだ。
C: てっぺんの東屋から眺めた運動広場。広いなあ。 R: ポピーの花畑。これは本当にきれい。戻って自転車にまたがると、西口へと向かってみる。西口付近にあるのは、わんぱく広場。
ここは森林公園の中でも最もお子様向け、家族連れで遊ぶ場所といった感じになっている。
巨大なボールでボヨボヨしてみたりアスレチックに興じたりと、子どもがはしゃぎまわっていたのであった。
森林公園は正直、中学生向けじゃないかなあと思ったのだが、連中はまだまだ幼いのでちょうどいい気もする。
L: ボヨンボヨン。 C: むさしキッズドーム。やっぱりさすがにこの中には入れないわ。
R: 冒険コースと名づけられたアスレチック地帯。各遊具間の距離が大きくて遊ぶのが大変そうである。少し戻って渓流広場へ。ここは特に遊具があって楽しめるという場所ではないのだが、
売店があったのでパンを買ってかじることにした。そしたら森林公園内の植物を紹介するガイドブックがあり、
衝動買いしてしまった。花の色でグループ分けしているユニークな内容で、なかなか面白い。
デジカメを持って街歩きをしていると、たまに植物の名前がわからなくて悔しい思いをすることがあるので、
きちんと読んで知識をつけようと思う。やっぱオトナとして花の名前は知っておかなきゃね、と思うのである。
L: 渓流広場。水はそれほどきれいではないので、中に入って遊ぶことはオススメできない。
C: カワウたちとそのコロニー。 R: 山田大沼といっぱいいるカワウ。あまりにいっぱいいて、ちょっとヒッチコック。山田大沼に沿って中央口へと行ってみる。いちおう、ここが森林公園のメインのエントランスっぽいのだが、
利便性が南口ほど良くないようで、なんとなく閑散としているのであった。ちょっと休んでまたすぐ出発。
L: 中央口のエントランスと借りた自転車。 R: 花壇と噴水。なかなか気合が入っている。最後に北口方面を目指す。途中にあるハーブガーデンに寄ってみる。まだまだ春先だからか、
植えられている植物の種類は多いが、雑草と見分けがつかない程度の成長具合で、
あまり見栄えはよろしくないのであった。この手の植物園はなかなかフォトジェニックではないのが難点。
L: ハーブガーデン。ヨーロッパの庭園風にデザインされているが、どこか美しさに欠けるのが残念。
R: 種類は多いがそれほど育っていないので、それぞれの区別がつけづらいのであった。北口周辺には本当に何もなく、ただひたすら快適に走り抜けるのみである。
いちおう、北展望所に寄って埼玉北部の風景を眺めることには眺めたのだが、
これといって特に引っかかるものもなかったので、あっさりとそのまま渓流広場まで戻る。
そしてこれまた快適に飛ばして南口のレンタサイクルの事務所に戻って無事に返却。思いのほか森林公園で時間がかかってしまった。さすがに帰りはバスに乗り込み、森林公園駅へ。
これがもう、あっさりと着いちゃうもんだから、なんとも言えないさみしい気分になるのであった。
まったく、行きのあの苦労はいったい何だったんだ、とガックリ肩を落とすしかなかった。
さてさて、川越の方の下見は時間的になかなか厳しそうだ。ぜんぶをチェックすることは難しいので、
行ける部分だけ行ってみて、続きは明日ということにしよう。そう覚悟してしまえば気は楽になる。あちこちチェックを入れながら自転車でまわる作業は意外と激しいものだったようで、
電車に乗り込んでシートに座ったらすぐにぐっすり。ふと目を覚ましたら周囲がなんとなく騒がしい。
慌てて電車を降りたら、そこは坂戸駅だった。事態がつかめず茫然としていたら、電車は発車してしまった。
えーと、坂戸、坂戸……と頭をブンブン振ってホームにある案内板を見ると、川越はまだ先。
次の電車まではけっこう時間が空いている。こりゃしまった、と思うが時すでに遅し。
しょうがないので改札近くまで散歩して過ごす。そしたら東武関連の旅行パンフレットがあったので、
なんとなく手にとって眺めてみる。するとその中に大内宿についてのプランがあるのを発見。
そうだ、大内宿に行ってみよう!と決心がついた。ま、こんなふうに足止めだってプラスに転じるってもんだ。川越駅ではなく、川越市駅で降りる。こっちの方が少しは川越の街並みに近いし、何より新鮮味があっていい。
(前回川越に来たのは2年前。そのときの日記についてはこちらを参照のこと。→2008.8.19)
頭の中にある地図と通りに出ている案内板をもとに、まずは仙波東照宮と喜多院を目指すことにする。
本川越駅の脇を通ってそのまままっすぐに東へ。住宅地をトボトボ歩いていくと、仙波東照宮の南側に出た。仙波東照宮は徳川家康の遺骸を久能山から日光へ運ぶ途中、天海によって家康の法要が行われたのが起源。
本殿や拝殿など多くのものが重要文化財となっている。童謡『あんたがたどこさ』はここが発祥という説もある。
落ち着いた空間の中にしっかりと管理された状態で残っているのはさすがだと感心。
L: 川越らしさを体現させた自動販売機。けっこうあちこちに配置されており、しょっちゅう見かける。
C: 仙波東照宮・拝殿および幣殿。長い階段を上りきった高い場所にある。 R: こちらがその奥にある本殿。仙波東照宮の敷地のすぐ北側にあるのが喜多院。川越大師という別名でも知られている。
830(天長7)年に無量寿寺という名前で創建されたが、1599(慶長4)年に天海がやってきて喜多院と改めた。
もともとただの「北院」だったのが、天海の影響力で関東における天台宗の総本山になり、隆盛を誇るようになる。
ちょうどこの週末は縁日なのかお祭りなのか、喜多院の境内は花見客と屋台で非常に賑やかなのだった。
L: 天海を祀る慈眼堂。1645(正保2)年築。しかし仙波東照宮といいこの慈眼堂といい、天海の影響力は実に大きい。
C: 花見で賑わう境内。この日の桜は本当に見事な咲きっぷりなのであった。 R: 喜多院の本堂。
L: 多宝塔。喜多院には歴史ある建物が点在しているのだ。そうでないのはさっきの本堂くらいなもの。
R: 五百羅漢は1782(天明2)年から半世紀を費やして造られたそうだ。日本三大羅漢のひとつに数えられている。じっくりと仙波東照宮と喜多院を歩きまわっていたら、すっかり日差しが夕方のものになってしまった。
残念だが、ここでタイムアップなのである。続きはまた明日だ!
連日サッカー部の話題で申し訳ないのだが、この時期はそういうものなのだ。
とりあえず口車に乗せて美術部から2年生3人を移籍加入させることにすでに成功しており、
サッカー部じたいは存続できそうな気配でいる状況なのである。
あとは1年生がどれくらい入るかで活動の規模が決まる。けっこうドキドキものである。で、部活動のオリエンテーションがあった次の日であるところの本日、
こんな不安定な部活を選ぶ1年生はそうそういないだろうなあと思いきや、
休み時間に男子が次から次へとオレのところに仮入部届を出してくるではないか。
この全員が入部するとは限らないけど、この分だとサッカー部の存続は確定といっていいだろう。
いやー、よかったよかった。これでほかの部活にまわされないで済む(本音)。
本日は部活動オリエンテーションが開催されたのであった。
体育館に並ぶ新入生の前でそれぞれの部活で実際にパフォーマンスをして勧誘をする機会なのだが、
わがサッカー部は部員がゼロということで、僕は生徒に混じって発表者の列に並ぶのであった。
これはなんだかものすごく間抜けな構図だなあ、と思うのだが、致し方ないではないか。
で、出番が来たので自分は顧問だと前置きをしてから部活についての説明。
といっても、部員がいないこと、自分が素人であること、勉強との両立が大前提であることなど、
現状の正直な紹介と今後の方針をしゃべっておしまい。変なの。
あーあ、リフティングぐらいできるようになっときゃよかった!と本気で思いましたとさ。
入学式である。ほとんど小学生な顔つきで1年生が体育館に入場してくる。
もうあれから1年経ったのか、と思いつつ式が進行していくのをボケーッと見守る。
果たして今年はどんな年になりますやら。
休みが明けて、本日より本格的に新年度が始まった。
昨年と比べて違っているところを数えて、一年という時間の早さに呆れる。
これからは毎回そのスピードに圧倒されることになるのかと思うと悲しいが、
よく考えたらそれはどんな仕事においても言えることなので特に気にしないことにした。
この分じゃ、3年間なんてあっという間だ。気をつけなくちゃいかん。◇
京都・奈良旅行の画像整理がまったく終わる気配がない。
確かにとんでもない量の写真を撮りまくったのは事実だが、それにしても作業がキツい。
画像の整理が終わらないことには日記を書き出すことができない。
そうしてただでさえ停滞している日記の仕上がりが、どんどん遅くなっていくのである。これは困った。
しかしそれにしても、今回の写真の取捨選択は特に難しい。
やはりそれは京都・奈良という古都のなせるわざか。
ここにきて、やるべきことが一気に出てきて卒倒寸前である。
まあつまり、昨年度はそれだけ楽をさせてもらっていたということなのだが、
それが一気に来られると非常に困る。一年かけて「僕は能力高くないですよ」とアピールしたつもりだったのに。
能力と関係なしに仕事を振るのはやめていただきたい。有能な人が活躍すればそれでいいじゃないか。
昼過ぎになってメシを食らうと支度をととのえ、circo氏の運転する車に乗って家を出る。
本日のメインイベントはもちろん、JFLの松本山雅FC×SAGAWA SHIGA FC@飯田市松尾総合運動場である。
しかし会場入りする前に、飯田名物である安富桜を眺めようということで美術博物館にちょっと寄り道。
ちょうど見ごろということで、年配層を中心にそれなりの賑わいをみせていたのであった。飯田で最も有名な桜と思われる安富桜。
谷川線から松川へと降りていき、飯田地場産業センターの脇を通る。
ここもまた桜が満開で、敷地は完全に花見客で占領されていた。向かいの西友も大もうけだろう。
車は松川沿いに下っていって天竜川に合流する直前、右に曲がる。
そうして進んでいった先にあるのが、飯田市松尾総合運動場だ。「サッカー P」と書かれた札を持った人がいる。
指示されたとおりに駐車場に行ってみたら、なかなかの数の車が置いてある。予想よりも盛況である。
JFL開幕戦が行われた鳥取に500人ほど詰め掛けたという松本在住サポのことを考えれば少しは納得がいくが、
地元飯田住民がJリーグではなくJFLなのに来ていると考えれば、これは予想外の事態だという感触だ。入口でチケットを提示すると中に入る。メインスタンド裏はちょっとした物販スペースなのだが、
やはりJFLが3部リーグにあたることを考慮すると、これまたけっこうな賑わいなのである。
松本山雅のグッズは快調に売れており、食べ物や飲み物もしっかり用意されている。
サッカーがまったく盛んでない田舎の飯田でこういった光景を目の当たりにする日が来るとは思わなかった。
日本をゆっくりと包み込んでいるサッカーの熱(→2007.11.12)が、地元にまで及んでいることに心底驚いた。
L: メインスタンド裏の物販スペース。特にタオルマフラーの売れ行きが良い模様。飯田でこんな光景を見るとは……。
C: コアな山雅サポが陣取るゴール裏。横断幕の準備も万端で、徐々にテンションが上がっていくいい時間である。
R: 飯田風越高校吹奏楽部が演奏する中、ゆっくりとサポーターが集まってくる。フットボール・ウィークエンドだ。グラウンドに出た瞬間、僕の脳裏にある記憶が蘇った。かつて中学2年生のときに、僕はここに来ている。
飯田市内のすべての中学校が参加する陸上大会がここで開催され、僕はここで1500mを走ったのだ。
結果は確かビリから2番目だったのだが、運動が苦手だったのに学校代表になれたことをうれしく思った、
その記憶が実に18年ぶりに鮮やかに蘇ってきたのだ。一瞬ですべてを取り戻した。さて、僕はヴァンフォーレ甲府を中心にサッカーの試合というものにはそれなりに慣れているのだが、
circo氏にとっては初めて見る光景である。平凡な飯田がサッカー文化に染まる様子を興味深げに観察していた。
そう、これは文化なのだ。行動様式が確立され、それが伝播していく。飯田にも種が蒔かれた瞬間なのだ。
一緒にチャントを歌って飛び跳ねるならゴール裏が楽しいが、試合をできるだけ近くで見るならバックスタンドだ。
そういうわけでぐるっとまわり込んで座れそうな場所を探す。が、思ったよりもすでに観客がたくさんいて、
なかなかベンチが空いていない。アウェイ側にそこそこ入り込んだところで運よく2人分のスペースが見つかり、
そこに陣取って試合開始を待つ。緑色の紙に黒インクで印刷されたマッチデープログラムを読んだり、
サッカー文化について話をしたりして過ごしていると、両チームの練習が始まった。
目の前のSAGAWA SHIGA FCは徹底的にボールを使って練習をする。鳥かごも動きが軽やかだ。
対照的に松本山雅はまったくボールを使わない。じっくりと体をほぐしきってから、ようやく蹴りはじめる。
そうこうしているうちに山雅サポはゴール裏をびっしりと固めて見事な深緑の壁をつくっていた。
試合が始まる前の緊張感が徐々に増していく。
L: 飯田市松尾総合運動場。18年前に走った場所で、これからサッカーの公式戦が始まる。
R: 選手が入場し、サポーターがタオルマフラーを掲げる。circo氏はこの行為にサッカー文化を強く感じたようだ。松本山雅にとってこの試合は、南信に支持を広げる絶好の機会である。
一方のSAGAWAは昨季のJFL王者。天皇杯で浦和を破って話題になった昇格クラブに負けるわけにはいくまい。
そんなわけで、単なる地方巡業というレベルではない真剣勝負が期待できそうな状況である。
ちなみに僕としては、中信のクラブなんて応援できるかよという長野県人特有のひねくれた感情を持ちつつも、
おととしまで甲府にいた木村勝太が在籍しているし、甲府の大西容平の双子の兄・康平が在籍しているしで、
7:3ぐらいで山雅びいきといった感じで観戦するのであった。試合は序盤から山雅が押し気味に進める。長身のFW柿本にボールを集め、そこを軸に切り込むサッカーを展開。
対するSAGAWAは高さはないが動きのいいDF陣からパスを通して素早くカウンターで応酬する。
しかし山雅のDFはしっかり粘ってフィニッシュを決めさせない。互いの持ち味を見せつつも膠着した内容となる。
個人的な好みでいえば、フィジカルで解決する要素の大きい山雅のサッカーはあまり好きではなく、
体格のハンデを高い技術で乗り越えようとするSAGAWAのサッカーに好感が持てた、というのが正直なところ。
まあ僕は大木武の指揮した甲府のサッカーから入ってきたから、どうしてもそういう価値観になる。
あと、山雅のGKは反応は素晴らしいのだがキック力に難があり、おいおいおい!となる場面も何度かあった。
(後で調べたらFC東京の石川直宏の弟とのこと。そう言われると、確かに外見が似ていたかなあ……。)
やはりJリーグの試合とは速さと正確さが違うなあ、と思いながら見る。
L: パスをスルスルと通して前へ前へと進んでいくSAGAWA(白)。対する山雅(緑)は最終ラインでガッチリ食い止める。
C: 山雅の攻撃に観客は盛り上がる。が、どうしてもゴールネットを揺らすことができないまま時間が過ぎる。
R: 後半に入ってサイドチェンジ。目の前でゴールを見たいが、それはSAGAWAの得点ということで、微妙な感情である。それにしても山雅サポはなかなかすごい。90分間ずっと歌って飛び跳ねて応援を続ける。勢いが衰えないのだ。
本拠地ではない地方開催のJFLだが、ヘタなJ2クラブにもまったくひけをとらない応援ぶりで、
つまりは日ごろそれだけ山雅の存在は松本市民を興奮させることができているということなのだ。
ろくに娯楽のない長野県が、確かに変わってきているということなのか、と痛感した。
そしてもちろん、アウェイの地方都市に乗り込んできたSAGAWA SHIGA FCのサポも実にすばらしかった。
下の写真のとおり、コアなサポはいいところ1ケタである。でも声は本当によく出ていて、GKにFKを中心に、
決して山雅に負けない迫力の応援をしていたのである。Jリーグを目指さないクラブなのに、よくまあ、と感心。
circo氏はその根性に圧倒されていたようである。滋賀から飯田まで、ただ応援するためだけに来た。
でも、そうして応援できるクラブを見つけることこそが、サッカー文化なのである。
そしてそういう彼らの姿勢をきちんとリスペクトできるようになることこそが、高い文化を持つことなのだ。
L: 絶えず声援を送り続ける松本山雅サポ。この中のほとんどは松本市民なんだろうけど、猛烈な勢いである。
R: まず飯田まで来ること自体がとんでもなく凄いのだが、そこでさらに懸命の応援をするSAGAWAサポ。偉いの一言。さて肝心の試合は両チームとも決め手に欠けてスコアレスドローに終わってしまった。これは残念である。
とはいえ見どころがまったくなかったわけではなく、むしろゴール前での死闘が何度も展開され、
内容としては充実したものだった。飯田の観客たちもみんなきっと満足しただろう。
何より、サッカーをめぐるあれやこれやの文化に触れる機会がもたらされたことがうれしい。その後、少し時間があったので、circo氏の希望で飯田市内の小学校に植わっている桜をいくつか見物。
それから高速道路のバス停まで連れて行ってもらい、そのまま高速バスで東京に戻った。ところで、circo氏は松本山雅FCについてこんな仮説を立てていた。
松本山雅の「山雅」とは選手たちの通っていた喫茶店の名前だが(これはかなり有名な話だ)、
その「山雅」とは、もともとある「山家(やまが)」という言葉をもじったのではないか、というのだ。
(ただしWikipediaには「サンカ」という読みで、これについての記事が存在している。)
「山家」とは踊る方の「クラブ」と同じイントネーションで読み(「山雅」は部活の「クラブ」と同じ)、
山間の家々のことを差す言葉で、やや差別的なニュアンスを持っている。
山がちな長野県のサッカークラブで「やまが」というのは、めぐりめぐって、それはそれとして、
反骨的なイメージにもぴたりと合っているんじゃないの、と思えてくる仮説である。
真相はもちろんわからない。でも、もしこの仮説が事実でそれが織り込み済みの名前だとしたら。
そう想像してみると、これは実に面白いことだと思うのである。
突然だが、この土日は実家に戻ることにした。
最大の理由は、飯田でJFL(Jリーグの下にあるサッカーリーグ)の試合が開催されるというので、
それを見てみようと思ったから。サッカーというスポーツがゆっくりとこの国を包んでいく中で(→2007.11.12)、
故郷がどんな姿を見せるのかを目にしたかったのだ。まああと、新年度になったし現況を報告しよう、と。
そんなわけで、青春18きっぷを片手に電車に乗り込み、中央本線を西へと進む。ふつうに飯田に帰るはずなどないわけで、当然どこかに寄り道をするのである。
ただ中央本線だと、寄り道する場所は必然的に山梨県か諏訪周辺に限られることになる。
今までにさんざん訪れて正直飽きすら感じる場所であるのだが、よく考えたら市役所にはあまり行ってない。
じゃあいい機会だからと思い直し、諏訪と岡谷を市役所を中心にしてあちこち歩きまわってみることにした。
(勘のいい人ならもうわかっていると思うけど、僕は長野県内の市役所完全制覇を密かな目標としている。)電車は快調に西へと進んでいくが、途中で猛烈な混雑具合となる。
特に富士見-茅野間がすさまじい混み具合で、とても身動きの取れない状態になる。
というのも、7年に一度の御柱祭りが開催されるからなのだ。今週は茅野の上社前宮(→2006.9.3)が祭りで、
それを目指す人たちで電車の中はいっぱい、というわけだったのだ。
どうにか茅野をやり過ごすと、ずいぶん落ち着いた。上諏訪駅で降りると、いざ寄り道開始である。
が、御柱祭りがある関係でか、駅前で「峠の釜飯」を売っていたので、迷わず購入。
どうもこいつだけは衝動買いしてしまう。まあそんなふうに出足をくじかれたものの、気を取り直してスタート。諏訪には毎年、新作花火大会で来ているのだが(→2005.9.3/2006.9.2/2007.9.1/2008.9.6/2009.9.5)、
昼間に一人でじっくりと勝手気ままに歩きまわるというのはこれが初めて。われながら意外である。
まずは前も写真に撮ったけど、片倉館に行ってみる。そういえばここの「千人風呂」にも久しく入ってない。
今年は早めに諏訪入りして、バヒサシさんあたりとのんびり入浴を楽しみたいなあ、なんて思いつつ撮影。
片倉館は、かつて絹糸で莫大な利益を得ていた片倉財閥の2代目・片倉兼太郎が建てた。
彼が欧米を視察した際、文化福祉施設の充実ぶりに感動し、諏訪でもそれをやろうとしたのである。
森山松之助の設計により、1928(昭和3)年に竣工。浴場棟と会館棟が2つ並んで建っている。
なお、その片倉館のすぐ隣にあるのが諏訪市美術館。もともとは片倉グループの「懐古館」として建てられた。
戦時中の1943年竣工ということもあり、当時の世相をバリバリに反映した帝冠様式となっている。
L: 片倉館・浴場棟。この中に「千人風呂」と呼ばれる大浴場があるのだ。う~ん、入りたくなってきた。
C: こちらは片倉館・会館棟。要するに宴会場。 R: お隣の諏訪市美術館。なんとも違和感の多い建物。
L: 片倉館・浴場棟を反対側(諏訪湖側)から眺めたところ。背中も風情があってよい。
R: 会館棟の反対側。さすがに裏手とあってか、ずいぶんと平板な印象である。諏訪湖岸に出ると、そのまま早足で歩いて市役所を目指す。諏訪の中心部は諏訪湖に面して平らなのだが、
道はそれほど単純ではないのだ。円い諏訪湖に対してさまざまに道が走っており、大したランドマークもなく、
どこをどう行けばいいのかがどうもつかみづらい。おまけにけっこう広くて歩くのに時間がかかる。
やや焦り気味で、市役所の隣にある高島城址に到着。この城は日根野高吉によって7年間で一気につくられた。
1970年には本丸に天守などが復元されて高島公園として整備され、現在の姿となった。
特にこれといって面白いものはないのに観光客はけっこうおり、それがなんとも不思議なのであった。高島城の復元天守。かつては諏訪湖に面していたんだそうで。
公園から歩道橋を渡って諏訪市役所へ。1969年に竣工したというが、なるほどそれらしく形状はシンプル。
しかし、やや白みがかった茶色で塗りたくっている(無彩色でない)のが昭和40年代テイストと言えよう。
建物じたいに特に何の面白みも持たせていない点がまた、時代を感じさせる部分である。
L: 諏訪市役所・本庁舎。昭和30年代コンクリ庁舎が5階建てになって色がついた、という印象である。
C: 議会棟。塗装が剥げかけていて歴史を感じさせる。ピロティピロティ。 R: 裏手から眺めた本庁舎。諏訪の街は思ったよりも薄く広がっている感じがする。おかげで徘徊するのに意外と時間がかかってしまった。
これは予定の列車に間に合わないかもしれない、と覚悟を決めて駅まで走る。
が、なぜかホームに停車している列車はまったく動く気配がない。結局、僕が事前に調べていた時間を過ぎても、
まだ列車は動き出さないまま。駅前でおぎのやの峠の釜めし(→2010.3.13)を売っていたのでそれを買い込み、
青春18きっぷをかざして改札を抜けて、階段を下がって上がって通路を通って列車の停まっているホームに行き、
列車に乗り込んでしばらくしてからようやく動き出した。まあこれはおそらく、ツいているってことなのだろう。岡谷駅で降りると、荷物をコインロッカーに預けて歩きだす。岡谷には家族でちょくちょく来ているが、
本格的に街歩きをやってみたことはまだない。いい機会なので、あちこち徘徊してみるのである。
まずはすっかり寂れてスカスカになってしまった商業施設・ララオカヤ(ララ・オカヤ)に入ってみる。
そしたら1階に観光案内のパンフレットを置いてあるスペースがあったので、いくつか見繕ってもらっておく。
さっきの諏訪の片倉館もそうだが、岡谷もかつては絹糸の紡績で大いに栄えた過去を持っている。
その当時に建てられた歴史的建造物が今もいくつか市内に残っているのだ。歩ける範囲で見てみることにする。駅から岡谷市役所へと向かう途中にあるのが、旧山一林組製糸事務所だ。
その名のとおり、かつてあった山一林組製糸の事務所・守衛所である。1921(大正10)年築とのこと。
現在は「岡谷絹工房」として利用されており、外見を非常にきれいに保っているのが印象的である。そして岡谷市役所。現在の岡谷市役所は1987年に竣工した。向かって右手奥にあるのが文化会館。
こちらは「カノラホール」という愛称がついており、市役所より2年遅い1989年に竣工している。
どちらも設計には佐藤総合計画が関係しており、まあつまりこれは1980年代後半、だいたいバブル期の
市庁舎とホール建築を一体的に整備した事例ということになる。でも双方の建物に、一体感はほとんどない。
L: 旧山一林組製糸事務所。現在は、機織技術の伝承と新たな絹商品の開発をするという「岡谷絹工房」が利用。
C: 岡谷市役所。これは「佐藤武夫設計事務所」名義での最後の作品になるのか?(竣工翌年に社名変更をした)
R: 岡谷市文化会館・カノラホール。「カノラ」とはラテン語で「高らかに響きわたる」という意味だそうだ。さて、カノラホールの手前、岡谷市役所の手前にあるオープンスペースの東側には古い建物が残っている。
これは現在、岡谷市消防庁舎として利用されているが、もともとはこれが先代の岡谷市役所である。
1936年、岡谷市が市制を施行する際、製糸家の尾澤福太郎という人が寄贈したそうだ。景気のいい話である。
新しい市庁舎ができてからも建物をきれいに保存して活用しているのは、さすがに文化の高さを感じさせる点だ。
L: 旧岡谷市役所(現・岡谷市消防庁舎)。シンプルだけど威厳があってなかなかよい。
R: 市役所のオープンスペースから側面を見たところ。モダンである。今度は今までと逆方向、諏訪湖方面へと歩いていく。さっきの諏訪もそれなりに距離があったが、
こっちの岡谷はもっと距離がある。時間的な余裕はしっかりとっているので問題ないが、それにしても面倒くさい。
諏訪湖岸をのたのた歩き続けること30分以上、ようやくたどり着いたのはこげ茶色の学校なのであった。
岡谷市立湊小学校。今回の帰省の寄り道の中でも、個人的にはかなり重要度の高い建物だ。試しにインターネットで「湊小学校 岡谷 大高正人」で検索してみたところ、ヒットしたのはわずかに2件。
なんと、当事者である大高建築設計事務所と潤平のSTUDIO LITHIUMだけだった。これには驚いた。
そんなにマニアックな建築だとは思っていなかったのだが、世間的な表立った評価は皆無に近いようだ。
わが社(マツシマ家)では近くを車で通るたびに大絶賛していた学校建築なのである。
建物についての詳しい分析は潤平の日記の過去ログを参照してもらうとして(⇒こちら)、
ここではいいかげんで無学な人間が敷地をぐるっと一周して撮影した写真を紹介しておくに留める。
L: まずは北東側から眺めたところ。 C: 庭ができとるぞなもし。 R: 校庭方面からまわり込んでみました。
L: 校庭では少年野球の皆さんががんばっていたのであった。 C: 校舎を真正面から眺めるのだ。
R: 校庭の端っこから校舎がぜんぶ収まるようにがんばって撮影してみたところ。
L: 校舎に近づいてみたところ。モダンスタイルがものすごくかっこいい! どことなく手づくり感覚がありますな。
C: もうちょっと奥に入ったところから振り返る感じで撮影。北側は豪快に斜めにカットしている。
R: 最後に正面玄関。諏訪湖に面している側は裏手になる、というわけなのだ。湊小学校の敷地を一周したので満足し、また諏訪湖岸の道を歩いて戻る。
周りは住宅ばかりなので、やっぱり非常に退屈である。それでも帰り道は早く感じるもので、
行きに比べれば気分的にはずいぶんあっさりと釜口水門まで戻ってきたように思えた。
そしてここからまた寄り道。駅にはまっすぐに戻ることなく、少し西へと逸れていく。
L: 釜口水門。ここが天竜川の起点なのである。南信の人間にしかピンとこないかなあ。
R: 岡谷JCTの高架をくぐる。しかしまあずいぶんと高いところを走っているもんだなあと呆れる。最後にもうひとつ、岡谷の古い建築物を紹介しておきたい。
僕が編集の仕事をしていたときにはたいへんお世話になった(いや本当に)中央印刷の敷地にある建物だ。
それは、1910(明治43)年に建てられた、旧片倉組本部事務所である(現在も中央印刷が使用している)。
さっき諏訪の片倉館のところで出てきた片倉兼太郎の仕事の拠点となった建物なのである。
なぜそんな建物が印刷会社の敷地内に残っているのかというと、理由はごくごく簡単で、
中央印刷がもともと片倉工業の印刷部門からスタートしている会社だからだ。
時代は移り、産業構造の転換によって製糸業は衰退の一途をたどり、印刷会社は独立して本を刷る。
小さい頃に片倉館の千人風呂に入った人間が、学生時代にさいたま新都心について片倉工業本社に聞き取り、
(片倉工業とさいたま新都心の関係は、ゼミ論文についての過去ログを参照のこと(→2005.11.8)。)
そして就職したら中央印刷にゲラを出してもらってチェックをする。こうしてみると、なんとも不思議な縁だと思う。
L: 旧片倉組本部事務所。けっこうリニューアルがキツめになされているが、雰囲気は今もしっかり残っている。
R: 正面から眺めたところ。本社の東京移転後も本部事務所として使用された。昔はこのスケールで足りてたんだなあ。岡谷駅に戻ると、待合室で峠の釜めし(→2010.3.13)をいただく。至福の時間である。
こないだ聖地・横川で買った際にはあまりに腹が減っていて気がついたら食っていた状態で撮影できなかったので、
今度はしっかりと撮影。パッケージの紙が御柱の特別仕様になっていたので、それもまたいい資料かな、と思う。
L: 峠の釜めし・御柱記念の特別仕様。でも中身が替わっているわけではないので、念のため。
C: 紙を取ると、まずフタが登場。益子焼の釜は実際に1合のご飯を炊くことが可能なのだ。やったことないけど。
R: これが峠の釜めしである。いやーもう、この画像を見ているだけで食いたくなってくる……。たまらんなあ。撮影さえ終わればこっちのものである。猛スピードでわき目もふらずに食べ尽くすと、
FREITAGの中に空っぽになった釜を再び収納するのであった。いやー、実に幸せ。で、岡谷駅から次はどこに行ったのかというと、塩尻駅である。
塩尻駅に行ってから、辰野駅に行って、そこでcirco氏の運転する車に回収してもらうのだ。
なんのこっちゃと思う人がほとんどだろうから、詳しく説明をしておこう。
昔、伊藤大八という人がいた。今の飯田市殿岡出身の代議士で、鉄道局長という要職に就いていた。
そして東京と名古屋を結ぶ中央本線のルートを決める際に伊那谷ルートではなく木曽谷ルートが採用されたので、
伊那谷出身の伊藤大八はせめて伊那谷の端っこは通過させようと、辰野を経由するように迂回させたというのだ。
(地図を見ると岡谷・辰野・塩尻は見事に三角形を描いており、列車はそこをジグザグに走ることになった。)
この迂回路は彼の名をとり「大八廻り」と呼ばれ、いわゆる「我田引鉄」の例として知られるようになった。
もっとも、当時の技術力もろもろを考えると、岡谷-塩尻間をトンネルで直行させることはほぼ不可能であり、
これは真っ当な判断だったという説も有力である(塩嶺トンネルが開通したのは実に1983年のこと)。
で、まあ今回はいい機会なので、その大八廻りを体験してみようと思ったわけである。鉄とか言うな!塩尻と辰野を結ぶワンマンカー。
塩尻駅を出ると、列車はのんびりと山沿いを行く。右手は完全に山、左手は完全に農村。
線路はその境界線上を走っていくのである。やがてトンネルの中に入るのだが、これで善知鳥峠を抜ける。
かつてはウルトラマンの像があるドライブインで有名だった善知鳥峠もすっかり通らなくなったなー
なんて思っているうちに小野駅に到着。線路はそのまま国道153号と並走して辰野まで出る。
懐かしい記憶が違う角度から蘇ってくるのが、なんとも不思議な体験だった。辰野駅でcirco氏に回収してもらうと、そのまま伊那市へと直行。やはり車は便利である。
伊那といったらベルディのピザなのだが、まだメシまでには時間があるので、伊那市役所に寄ってもらう。
郊外にできた伊那市役所も竣工したのが1993年なので、意外と時間が経っている。
だだっ広い駐車場をじっくり一周しつつ、テキトーにデジカメのシャッターを切って歩きまわるのであった。
L: 伊那市役所。城取建築設計事務所・佐藤総合計画の設計。いかにもな平成型オフィス建築である。
C: 角度を変えて撮影。 R: 側面。西側から眺めたところである。
L: 裏手(南側)から眺めたところ。 C: これは東側の側面。 R: どうにか根性で全景を収めたつもりの構図。ピザを食って恍惚とした後は、飯田へと帰るのみ。
それにしても、車内ではいまだに猛烈な濃霧の中を帰ったこと(→2009.4.4)が話題になる。
あれは本当に怖かったなーと語り合うのであったことよ。さて実家に帰ると、パソコンを起動してBlu-rayのDVDを見るのであった。
今回実家に持ってきたのは東京の夜景のDVD。ヘリで東京の名所の夜景をひたすら見てまわるだけなのだが、
これが意外と家族には好評なのであった。てっきり「何つまらないもん買っとるのよ」と、
集中砲火を浴びることを想定していたのだが、やっぱりウチの家族は数寄者の家系なのであった。
あらためてそのことを再確認したのであった。ニンニン。
本日は異動してしまった皆様も交えての飲み会。
新年度が始まってまだ2日だというのに、皆様が来ると「オールスター!」という感じがする。
それだけ昨年度は濃かったということか。今年度も負けないようにしたいものである。
エイプリルフールとは関係なしに今年度も平穏に始まるのであった。
今年も役所へ行って辞令をもらい、公務員としての宣誓。まさか今年もやらされるとは思わなんだ。
学校に戻ると片付け三昧。席が移動したので、それを機にエイヤッと本やら書類やらの整理をする。
が、昨年度サボった分は尋常でなく、結局見た目がきれいになった段階で力尽きるのだった。