diary 2008.9.

diary 2008.10.


2008.9.30 (Tue.)

教員免許を今度こそ申請するのだ。ということで、新宿の都庁第二庁舎へ。
天気が悪くて自転車が使えないのが痛い。でもモタモタしていてもしょうがないので、電車で行った。
午後だったせいか、前に来たときよりはけっこう待った。でも無事に手続きが済んだので、ほっと一安心。
喫茶店で姉歯祭り・大井川鐵道編の日記を書くと、帰路につく。
途中で食料品をそれなりに買い込んだ。しっかりメシを食ってがんばるとしよう。


2008.9.29 (Mon.)

疲れが抜けず、一日中ぶっ倒れていた。何時間寝ていたかわからないくらいの惨状なのであった。


2008.9.28 (Sun.)

寸又峡温泉周辺で観光名所と言えるものは、まあ正直そう多くはない。
しかし温泉街から45分ほど歩いたところに「夢の吊橋」という名所があるとのことである。
昨日の経験から、大井川鉄道周辺の見どころは渓谷やダム、橋にあるとわかってきたので、
全員で早起きして6時に宿を出て夢の吊橋にチャレンジすることにしたのであった。

宿に置いてあった地図を手に、寸又峡プロムナードと名づけられた道を行く。
プロムナードといっても、ごくふつうのアスファルト舗装の道路である。いちおう、車は入れなくなっている。
似たような感じの道は、飯田に帰って名古屋方面の山に入ればいくらでもある。なんだか郷愁を覚えつつ歩く。
いかにも山中の細い道路にふさわしい、簡素なトンネルを抜ける。すると右手に階段があった。
その先には大間ダムのダム湖が硫酸銅のような青色をたたえていた。そしてそこに架かる吊橋も見えた。
けっこー下まであるなー、と口々に言いつつ、階段を下りる。すると道はコンクリ舗装の遊歩道となった。

  
L: 寸又峡温泉の中心部。日本一清楚な温泉街を目指しているとのことだが、なるほど実に鄙びている。
C: プロムナード入口では杖を貸し出しており、さっそくマサルが手に取る。この直後、飽きてリョーシ氏に渡すのであった。
R: 思っていたよりも早く、夢の吊橋が見えるところまで来た。しかしまあ、山深いところである。

遊歩道をしばらく歩く。ほかにも若干名、寸又峡の山道を歩く人がいる。だからか、歩いていてそんなに寂しい気はしない。
妙に早足なマサルの後を追って歩いていると、左手の崖に何やら気配がした。不思議に思って見てみたら、動物がいる。
特別天然記念物・ニホンカモシカの親子が目の前5mのところにいたのである。これにはかなり驚いた。
子連れということでこりゃヤバいかなと思ったが、カモシカはまったく警戒する姿勢を見せることなくのんびりとしたもの。
(Wikipediaによれば、ニホンカモシカは好奇心の強い動物で、むしろ人間を見に来ることすらあるんだとか。)
フラッシュが反応しないように慎重に操作してデジカメで撮影すると、刺激を与えないように静かに通過。
野生動物にこれだけ近い距離で出くわすなんて、めったにあることじゃない。貴重な体験だった。

そうこうしているうちに夢の吊橋に到着。ニヤニヤするマサルとみやもり。このコンビはこういうときだけ連携が良くなる。
モタモタしていてもしょうがないのでみんなで渡る。僕の前を行くマサルは、わざと揺らしたりやたらステップを踏んだり。
いちおう手すり代わりのワイヤーをつかんで渡ることができるようになっているので、そこそこスムーズに歩けたのだが、
後ろのみやもりの歩くリズムと噛み合わず、よけいに揺れを感じて立ち止まることしばしばなのであった。

  
L: 突如現れたニホンカモシカの親子。手前が親で奥が子と思われる。野生動物にこの至近距離で向かい合うとは……。
C: 夢の吊橋。落ち着いて見るとなかなかの絶景なのだが、そんな心理的余裕はないのであった。
R: 人をからかって楽しそうなマサル。お前、こんなところをクロックスで渡るんじゃねーよ!と言いたい。

 足元の幅はこんだけ。ワイヤーも木材も細いので怖い。

本来なら夢の吊橋を渡った後は、階段を上って少し上流にある飛龍橋を渡るコースになっているのだが、
昨日の奥大井湖上駅で懲りたのか、そのまま引き返して宿に戻ることに。やっぱりマサルがからかってくるのだった。

宿の朝食は、やはりけっこうな量があるのだった。朝メシが充実していると一日のやる気が違ってきますな!
そして8時40分発のバスに乗り込んで寸又峡を後にする。昨日の夕方にはスッカスカだったバスも完全に満員。
寸又峡温泉って実はけっこうしっかり繁盛しているのかもしれないなあ、とボンヤリ思うのであった。

★秋だ一番!姉歯祭り ~のび太と鐵道兵団~ 【2日目】

バスが奥泉駅に着いたところで降りる。というのも、終点の千頭駅まで行ったら井川線の始発に乗れなくなるのだ。
奥泉駅からなら、20分ほど待って始発をつかまえることができるのである。なかなかややこしいダイヤなのだ。
さて奥泉駅のホームはけっこうな混雑ぶりだった。大井川鉄道ではさまざまな旅行プランを用意しているようで、
奥大井湖上駅から山道を歩きまわるツアー(昨日もけっこういた)、接岨峡温泉でのんびりするツアーなど、
団体客と思しき皆様が多い。年齢層はいかにも会社をリタイアして夫婦であちこち行ってます、といったところだ。
そんな人々や家族連れに混じり、アラウンドサーティーの男4人というのは非常に珍しい。
そしてその4人は本日、やっぱり非常に珍しい目的地を訪れるのである。

井川行きの列車がやって来たので乗り込むと、そのまましばらく揺られて奥大井湖上駅で降りる皆さんとお別れ。
さらに接岨峡温泉駅で降りる皆さんともお別れ。そしてその次の駅、われわれ4人は砂利の敷かれた大地に降り立った。
ほかの乗客たちが唖然とした表情を見せるが、われわれは気にせず車掌にフリー切符を提示して車両から離れる。
そして何ごともなかったかのように走り去っていく列車を見送るのであった。

 達者でなー。

列車が去ると、辺りは急に静かになる。風が木々を揺らす音や鳥の鳴き声ぐらいしかなくなる。
ここは、尾盛駅。鉄っちゃんには「究極の秘境駅」として知られる場所なのである(もちろんケータイの電波も圏外)。
かつてはダム建設の作業員たちが飯場としていたが、ダムが完成したことで無人の場所となった。
そしてこの駅の凄いところは、アクセスするための道路が一切なく、外からこの駅に来ることはほぼ不可能という点である。
通の登山者がたまに訪れることがあるというが、そんなのはほとんど都市伝説と言っていいだろう。
それほどまでに深い山の中にポツンと取り残された空間、それが尾盛駅なのである。

  
L: 本当に、周りには緑しかないのだ。平らになっているところは全面砂利である(写真は閑蔵・井川方面を向いたところ)。
C: 尾盛駅の様子。列車は手前の一段高くなった砂利のところに停車するため、奥のホームは完全に無意味。
R: とりあえず尾盛駅を探検してみるわれわれ。噂に違わぬ秘境ぶりに全員呆れ気味なのであった。

次に乗る列車が来るのは実に1時間半後ということで、それだけの時間をここでつぶさなければならない。
とりあえずデジカメやらケータイやらで気の済むまで駅周辺の様子を撮影すると、辺りを探検する。
そのうちホームのプレハブ倉庫に落書きノートが置かれているのを発見、4人で覗き込む。
日付を見ると、それなりの頻度で物好きがこの駅に降りているようだ。有名なんだなあ、とあらためて実感する。
ノートに書かれたメッセージの内容はさまざまで、冬にここに降りて次の列車が来るまでの時間に愕然としているものや、
井川方面のトンネルにはヒルがいるぞ!という警告(尾盛駅からかなり距離があるのだが……)などが印象的だった。
中には、「愛妻のヌードを撮りました。今までで一番キレイな絵美子を見ました。」「やっぱりはずかしい! 絵美子」
というものもあり、一同爆笑。尾盛駅は案外、人間性が試される場所なのかもしれんなーと思うのであった。

ノートのメッセージを読み終えると、各自テキトーに動く。持参したノートパソコンでエヴァのDVDを再生してみたり、
持ってきた『へんな趣味 オール大百科』を宣伝文とともにプレハブに置いてみたり、酒をむやみやたらに飲んでみたり。
「そろそろギョニるか」と、4人で揃って魚肉ソーセージをかじっているところをセルフタイマーで撮影してみたりするのであった。
あとはiPodを使っての「街角イントロクイズ」が異様に盛り上がった。これも人がほかにまったくいないから気兼ねなくできた。
(街角イントロクイズ……出題者がイヤフォンから聞こえる曲をそのまま口で再現して、ほかの人が曲名を当てるクイズ。
              一部の人には「マサルがサガマサシにGacktの『Vanilla』を歌わせた」ことでお馴染み。)

  
L: 秘境駅・尾盛に到達したことを喜ぶマサルの図。初めて目にする「無」の光景に大はしゃぎ。
C: 奥の方には何やら小屋が。しかしなんとなく恐ろしげなオーラがして、近寄りがたい雰囲気が漂う。
R: 右を向いても左を向いても山(写真は接岨峡温泉・千頭方面を向いたところ)。線路の先にマサルとみやもりがいるよ。

  
L: 『へんな趣味 オール大百科』(→2008.8.2)を置くマサル。まあ確かに、こんなところに来る人はへんな趣味の人に決まってるもんな。
C: 尾盛駅で酒盛りをする人。次の駅が「かんぞう(閑蔵)」ってのはできすぎ。  R: ギョニる男4人。

そんな具合にバカをやって過ごしていたら、あっという間に上り列車(千頭行き)のやってくる時刻になるのだった。
ゆっくりとスピードを落として列車は停車する。乗客たちは半ば呆れた様子でわれわれのことを眺めている。
しかし! われわれは列車に乗り込むことなく、そのまま発車して去っていく人々に手を振るのであった。
尾盛駅に降り立った人は数あれど、尾盛駅で列車をスルーして見送ったことのある人は、そうはいまい。
乗客のおっさんが一人、窓から顔を出して「何をしているんだ?」と盛んに僕らに訊いてきたのが面白かった。
後になってみると、せっかく4人いたんだから、雀卓を用意して尾盛駅でひたすら麻雀を打っていたら面白かったなあと思う。
そしたら最高に乗客の度肝を抜くことができたんじゃないか。この日記を読んでいる物好きな誰か、ぜひやってみてくれ。

 おまたせー。

やがて下り列車がやってきたので、荷物をまとめて乗り込む。これで尾盛駅ともオサラバである。
列車は関の沢鉄橋で名物の徐行運転。みんな窓から真下を覗き込んで、絶景を楽しむ。
次の閑蔵駅は狭苦しいホームのほかには何もなく、これは尾盛駅よりもはるかにキツいよね、なんて話になる。
確かに尾盛駅ならともかく、閑蔵駅での置いてけぼりは中途半端なネタにしかならないので、それは純粋に拷問だ。

終点の井川駅に到着すると、県道に出て井川ダム方面へと向かう。実はこの道、崖崩れが起きていて、
訪れたことのある場所だった(→2007.9.16)だけに、ニュースでそのことを知ったときにはけっこう驚いた。
そして実際に現場を目にしてみると、その崖崩れの跡はいまだに生々しかった。天気が悪かったら本気で怖い。
県道を少し行くと、井川ダムが見えてくる。相変わらず、高さがかなりあってド迫力である。
近くのコンクリートには温泉をPRする絵が描かれていて、それを目ざとく発見したマサルはさっそくマネを敢行。
マサルはいくつになっても相変わらずだなあ、なんて思いながらシャッターを切ったのであった。

  
L: 井川駅近くの崖崩れ現場。まだ土砂を撤去した段階といった感じで、歩くのがけっこう怖い。
C,R: マツシマくん、撮ってよ!とせがまれて撮影。マサルよ、これで満足か?

駅からしばらく行くと、目の前に井川ダムが現れる。2回目だが、やっぱり高くて怖い。
昨日長島ダムを堪能している皆さんも、この高さには圧倒されたようで、ひたすら感嘆の声を漏らしていた。
ダムの天端(てっぺん部分)が道路(県道60号)になっているので、みんなでそこを歩いていく。
ダム湖側はまだしも、放流口側にはとても怖くて近づけない。残りの3人はわりと平然と近寄っていくが、
さすがの高さに「これは確かに怖い!」を連発。そしてこの巨大な構造物をつくったことに感心するのだった。

  
L: 井川ダム。1957年竣工。堤高103mで、その堤体の中は空洞になっているんだそうな。
C: 井川ダムのてっぺんは道路になっている。画面左手が放流口側で、吹き上げてくる風も強く、迫力満点。
R: やっとの思いで近づき、腕を伸ばしてカメラだけを柵の外に出して撮影。でもこれじゃまだイマイチ凄みがよくわからないなあ。

ダムの迫力をしばらく味わうと、脇の山に貼りついている井川ダム展示館に行ってみる。
中には井川ダムができるまでの映像があり、それを4人並んで熱心に眺め、社会見学するのであった。
井川ダムもやはり、雄大な自然に対して真っ向勝負を挑んだ結果、人工物も圧倒的な迫力を持って妙に調和する、
そういう凄みというか美しさというかを感じさせるのだった。特に3人には好評で、井川ダムは強く印象に残ったようだ。

千頭行きの列車に乗り込むと、そのまま終点まで行く。そうしないと帰りのSLに間に合わないのだ。
車内では、こないだの函館(→2008.9.15)で買ったサブちゃん人形焼をみんなでモフモフ食べるなどして過ごした。
そして千頭駅でSL乗車手続きを済ませると、さっさとお土産などを買って客車に乗り込む。
本当は千頭駅のホームでSLの細かい部分を見てみたり、ほかの車両を見てみたり、回転台を見てみたり、
そんな具合にあちこちをフラフラするのも楽しいのだが、時間がギリギリだったのでしょうがない。

 楽しい旅でよかったですね。

大井川本線では途中の塩郷駅でSLを降りて久野脇橋を渡ってみよう、という話もないことはなかったのだが、
夢の吊橋も経験したし、この2日間で本当に体力を使ったしで、今回はあきらめることにした。
金谷駅に着いたときには4人とも寝っこけていたし。乗り物に揺られるってのは体力を使うなあと実感した。

また次も面白いことやりましょう、と西へ帰るリョーシ氏を見送り、われわれ3人は東へと帰る。
金がない僕は各駅停車だが、さすがに御殿場線を経由する気力はなく、おとなしく東海道線で行く。
マサルは早く東京に戻らなくちゃいけない事情ができたので、静岡から新幹線ということで別れる。
それまでマサルのiPodでイントロクイズをやったのだが、アイツはiPodに百人一首まで入れてるのな! すげえよ!
で、静岡からも各駅停車と快速でみやもりと帰る。僕は熱海で駅弁を買って旅情に浸るのであった。
横浜にて僕は下車し、東急で帰る。みやもりはそのまま在来線で前橋まで戻ったようだ。タフだわ。

まあそんなわけで、今回の姉歯祭りは終了。とにかく移動がキツいうえに集合してからもまた移動だったので、
体力的には本当にしんどい企画なのであった。まあとにかく、これからもこうやって定期的に何かできるといいなあと思う。


2008.9.27 (Sat.)

恒例の姉歯祭りである。いつもはだいたいニシマッキー邸でダラダラというパターンなのであるが、
今回は最近になって鉄分が多めになってきたというマサルの意見を採り入れ、思いっきり鉄道を味わうのである。
舞台は鉄っちゃんには聖地として知られる大井川鐵道。ここでSLやらアプト式やらを体験するというわけだ。
ちなみに僕はすでに体験済みなのである(→2007.9.16)。それで今回、幹事として動くことになったのであった。
まあHQS時代も会長兼合宿係だったし、すっかり旅行には慣れている身だし、異存はない。

今回は、11時48分金谷発のSLに間に合うように現地集合!ということにした。
なんせ場所が場所(静岡県島田市)であり、参加者も散らばっているので(群馬から岡山まで)、
現地集合とするのが一番効率が良いのである。それにしても、こうしてみるとなかなかワイルドな企画である。
まっとうな社会人なら新幹線を使うのが常識なのだが、そこは貧乏な私。オール各駅停車で金谷まで行くのだ。
5時10分の始発で出発して東急の最果て・中央林間まで行き、小田急に乗り換える。
そして小田原まで行かずに新松田で降り、そこからちょっとだけ歩いて松田からJR御殿場線に乗るのである。
できるだけ小田急に乗ることで交通費を抑える作戦である。これで3000円以内(2980円)を実現できるのだ。
細かい乗り換えが多いうえに御殿場線の本数が少ないせいで始発に乗ることになるわけだが、しょうがない。

眠い目をこすりつつ家を出て、電車に乗り込む。そういえば、今月はいったい何本の始発に乗っているだろう。
考えるだけでも恐ろしい。おかげですっかり早起きに慣れているような気がする。
二子玉川で田園都市線に乗り換える。駅名は「○○野」「○○台」といったいかにも新しい名前が続く。
大学時代に恩師が、田園都市線と『金曜日の妻たちへ』の都市社会学的意義について語っていたことを思い出す。
この辺りもまったく来ることのない地域だ。いずれDVDを借りて、それから実際に訪れてみたいなあなんて思う。
中央林間に着くと、コンビニでメシを買い込んで小田急に乗る。相模大野に出るまでの2駅がじれったい。
もうすぐ相模大野に着くぞ、というところで一瞬、富士山が見えた。やたらめったらきれいなのであった。
相模大野からは神奈川県西部の穏やかな風景が続く。新松田で降りたのだが、何か部活の大会があるようで、
運動着姿の女子中学生で駅はごった返していた。そしてそれがそのままJRの松田駅まで押し寄せてきたからたまらない。
松田駅のホームが黄色い声で埋め尽くされる中、なんですかこれは、と眉根にシワを寄せてパンをかじるのであった。

御殿場駅に着いた。沼津行き電車の発車まで30分ほどの余裕があったので、「じゃ、市役所でも撮るか」となる。
(松田から金谷までは100kmを超えるので、途中下車が可能なのである。詳しいことはこの辺を参照。→2008.4.23
正直、この地域のことはよくわからない。御殿場線に乗るのは初めてだし、そもそも地図でこの辺りを眺めたことなんてない。
まあ知識をつけるいいきっかけになるよね、と前向きに考えて、駅前の地図を記憶して東へと歩きだす。
ところが地図のスケールは予想とかなり違っており、実際に歩くとけっこう距離があった。
御殿場市役所に着くと、腕時計とにらめっこしながら小走りで敷地のまわりを走って撮影する破目に。

 
L: 御殿場市役所。正面からだとイマイチ全体像がつかめない。狭い敷地に植栽・建物がぎっちり詰まっている感じ。
R: 角度を変えて撮影。正面からは見えない西側のピロティ部分がやたらデカいのであった。

慌てて駅まで戻って沼津行きの電車に乗る。富士山が近くなって、車窓から見える景色はなかなか雄大。
緩やかな緑の壁が広がっていて、まるで高原に来ているかのようだ。これまた、見慣れない風景である。
やがて沼津に到着。沼津はバヒさんがいることで、なんだかんだでけっこう来ている街である。
しかしながら着いたのが9時ということで、店はどこも開いていない。なんにもできない。
魚食いてえなあ、酒飲みてえなあ、と思ってポヤ~ンとしているうちに時間になったので電車に乗る。

 
L: 沼津駅南口。バヒさんのおかげで、なんだかすっかり沼津には慣れた感じがする。
R: 駅前から街を眺める。けっこう都会。歩き倒したことがないので、いずれブラブラしてみたい。

沼津からは静岡行きに乗る。途中の富士駅周辺は製紙業の工場地帯になっていて、これが眺めていて面白い。
無数の銀色のパイプやタンクが集まった工場は、機械の力強さが100%表に出ていて、とてもダイナミックだ。
良く言えば機能美の世界である。唯一の目的に向けた手段が、そのまま剥き出しになっている。
マサルの『へんな趣味 オール大百科』(→2008.8.2)には工場マニアも登場するが、なんとなくその気持ちはわかるのだ。
そんな具合に車窓の風景を楽しんだ後は、静岡で浜松行きにスイッチし、大井川を渡ってすぐの金谷で下車。
11時13分、ようやく到着。実に家を出てから6時間以上かかっているのだ。いやもう本当に参った。

ホームでみやもりと合流。どうやら同じ電車に乗っていたようだ。
改札を抜けると、われわれより先に到着していたリョーシ氏とも合流。が、問題はあともうひとりである。
まさかと思ってそのマサルに電話してみたら、「え……、ああ、……すいません。いま家です」とのセリフ。
思わずその場にへたり込んでしまったが、それは冗談なのであった。本気でびっくりしたわ!
で、マサルは掛川まで新幹線で行って金谷に戻る途中とのことで、10分後に無事全員集合となったのであった。

★秋だ一番!姉歯祭り ~のび太と鐵道兵団~ 【1日目】

メンバー4人が揃ったので、2日間のフリー切符と予約していたSLの急行券を購入。
しかしモタモタしていたせいで駅弁を買うことはできないのであった。参った参った。
大井川鉄道の改札を抜けてホームへ行くと、SLがまさに発車を待っている状態。いよいよ旅の始まりである。
そしたらここでなぜか、「おいマツシマ、鼻血出てる」「へ?」「興奮して鼻血出すなんて、もう、鉄だなあ」
「あ……あれ?」……なんと、SLを前にして、それまでまったく何の前兆もなかったのに、いきなり鼻血が出た。
「SLで鼻血だなんて、マツシマくんはどれだけ変態なんよ」とマサルにからかわれる始末。おっかしいなあ。
まあアレだ、すでに5時間近く電車に揺られたところでSLってことで、体が拒絶反応を起こしたんだきっと。

  
L: 大井川鉄道・金谷駅。家族連れと年配の観光客がやたらめったらいるのであった。  C: SLを前にして鼻血を出す人。
R: 車内販売で運良く最後の駅弁をゲットしたマサルと、金谷に来る途中に買っておいたみやもりが、これ見よがしに食べるの図。

SLは、新金谷までは別にどうってことがないのだが、そこから先はいかにも静岡の田舎を走るようになり雰囲気が出てくる。
どこまで行っても広がっている茶畑、幅は広いが流量の少ない大井川、水の滴るトンネル、その繰り返しである。
そして時折思い出したように、ススいっぱいの煙が窓から入り込んでくる。みやもりは煙が目を直撃して顔をしかめていた。
(昨年9月に僕が一人で大井川鉄道に乗ったときのログはこちら(→2007.9.16)。比較すると面白いかも。)

やがてさまざまなSLグッズを売る車内販売がやってくる。そしてこれにものすごい勢いで飛びつくのが岩崎マサルである。
SLの汽笛の音が鳴る木製の笛、ボタンを押すとSLの汽笛とレールを走る音が鳴る腕時計、
さらには、金谷から千頭までを再現した地図の上をチクタクバンバン方式でSLが走るおもちゃ、すべて購入。
「だってここでしか買えないっていうんだもん」と次から次へとグッズを買って喜ぶマサルは、なんというか、凄いな、と。
「対象年齢3才以上」の文字を見て「10倍だ……」とつぶやいた次の瞬間には腕時計をいじって大いに喜ぶのであった。

  
L: 白目を剥いて笛を鳴らす30歳児。着ているTシャツには「Not in Education, Employment or Training」の文字が。
C: ボタンを押すとSLの先端部分が飛び出し、時刻のデジタル表示がわかる仕組み。汽笛の音は一度鳴らすと止められない。
R: 対象年齢3才以上のおもちゃで喜ぶ30歳児。SLグッズに囲まれて、心の底から楽しそうにしているのであった。

千頭駅に着くと、かなりの人数がホームに降りる。こんなに乗ってたのかー、なんて言いながら急いで乗り換える。
ホームはSLを撮りたい客で混雑していたが、どうにか井川線のホームに移動。そしてここからがまた強烈なのだ。
井川線はもともと、ダム建設のためにつくられた路線である。それをあの手この手で観光化しているのである。
本当は各駅で降りて暴れたいところだったが、一日5~6本しか走らないのでそれは断念。
(実は、早朝たほいやで最下位の人を秘境駅に置いてけぼりにする、というアイデアからこの企画はスタートしたのだ。)
とりあえず1日目は奥大井湖上駅を探検し、時間があれば長島ダム駅でダム見学をしよう、ということに決定。

  
L: 千頭駅ホームに到着したSL。デジカメやケータイで撮影する人でごった返している。人気あるなあ。
C: 「びゅくさん、せっかくだから撮ってあげるよ」とみやもりに言われ、井川線の車両とともにハイ、チーズ。
R: 車両の連結部分はこうなっております。いや、だから別にどうってことはないんだけどさ。

井川線に乗っている間、最も鉄分の少ないみやもりは終始うつらうつらしているのであった。
対照的にマサル・リョーシ・僕は景色を眺めてけっこう満足。やっぱ山国出身には山の中の風景は落ち着く。
アプトいちしろ駅ではアプト式で客車を押し上げる電気機関車を接続するということで、乗客がどっと降りて見学。
準備が終わって慌てて客車に戻る姿に、なんとなく第12回ウルトラクイズのアラスカ鉄道を思い出すのであった。

  
L: 寸又川と大井川が合流する地点。なんだかとっても流れが複雑である。けっこう珍しい光景だ。
C: アプト式の電気機関車を接続する作業中。みやもりが「びゅくさん撮ってあげるよ」ということで、歯車ぐるぐるのポーズ。
R: アプト式区間からは長島ダムの雄姿が眺められる。中部電力め、フォトジェニックにつくりやがって、まあ。

さらに先へ行ったところに奥大井湖上駅がある。ここにはレイクコテージ奥大井という展望スペースがあるだけなのだが、
ダム湖に両側を挟まれたでっぱりに位置しているため、遠くから眺めた姿がとても印象的な場所である。
下車してまずは、駅から少し上ったレイクコテージ奥大井へ。しかしこれは来てみても何もないので、あんまり楽しくなかった。

  
L: 長島ダムのダム湖、接岨湖。まあ正直、長野県出身の僕はダム湖なんて見飽きてるんですけど。
C: 奥大井湖上駅・レイクコテージ奥大井。自販機もなく、時間をつぶせる要素が何もない……。
R: レイクコテージ奥大井から見た風景。ただ目の前にホームとダム湖と林があるだけなので、面白みはないです。

ホームに戻るとレインボーブリッジを歩いてさらに進んでみることに。せっかくだから遠くから駅を眺めてみよう、となる。
しかしまあ当然、僕は高所恐怖症なので体をこわばらせながらおそるおそる行くことになるわけである。
それを見たマサルは当然、あらゆる手段を使って僕をからかってくるわけである。本当につらい時間なのであった。
どうにか橋を渡り終えると、今度はモーレツな上り階段である。しっかりと金網が張ってあるとはいえ、怖いもんは怖い。
で、階段が終わると山道。こないだの函館山七曲コース(→2008.9.16)ほどではないのでヒョイヒョイ歩く僕。
対照的に、さっきまで僕をからかいまくっていたマサルは息も絶え絶えなのであった。ザマーミロ。

  
L: 奥大井湖上駅のホームにはこのようなベルがある。さっそくガシガシと鳴らしまくるマサル。
C: レインボーブリッジを行く。冷静に考えれば安全対策バッチリなんだけど、やっぱ高いところは怖い。
R: 渡り終えたレインボーブリッジを階段のところから眺める。けっこう距離がありますなあ。

山道をしばらく登るとアスファルトの道路に出る。さっき駅のホームから白いガードレールが見えていた道だ。
けっこう遠くまで、けっこう高くまで来たなあとあらためて思う。そして木々の合間、少し開けたところから駅が見えた。

 左右の橋の間にあるのが奥大井湖上駅。

さっきまでそこにいたのがちょっと信じられない。それくらい駅は小さく、模型のように見えた。
井川線はあの手この手で、自然の中に人工の美を織り交ぜてくる。この駅は、その典型的な例だ。
人工物は近くで見ると鉄やコンクリートの巨大な塊で、かなりの迫力を持って迫ってくる。
でも遠くから眺めると、周りの自然と妙に調和して見えるのだ。不思議なものである。
そうしてしばらく奥大井湖上駅の景色を堪能すると、来た道を戻る。
山道ではマサルがフラフラ、階段と橋では僕がフラフラということで、果てしない泥仕合が繰り広げられるのであった。

しばらく待って上り列車がやって来たので、奥大井湖上駅を後にする。
次の目的地は、さっき通過した長島ダム駅である。長島ダムに行き、ダムに架かる「しぶき橋」を歩くのだ。
高所恐怖症の僕には厳しい体験の連続だが、せっかく来ているから行こう、という思いの方が強いのでガマンなのだ。

列車が長島ダム駅に着くと、自販機で飲み物を買っておいてからダムへと歩きだす。
まずはそのまま道路を歩き、ダムのてっぺん(天端)へ。ど真ん中に展望台があり、さっそくマサルがタイタニックごっこ。
よく見たら展望台は下が金網でスケスケになっていて、ダムから上ってくる風を通すようになっているのである。
みやもりは落ちていた枯れ草を拾い、展望台の上で離す。枯れ草は下からの風を受けてひゅうっと舞い上がった。
これはもう本当にダメ。へっぴり腰であわあわと震えていると、マサルが容赦なく背中を押してくる。
「あああああ~」と力なく叫んで展望台の上へ踏み出す僕。その瞬間、全身を風が包み込んだ。
優しいリョーシさんが体を支えてくれるが、とてもマトモに立っていられない。そんな僕を見てマサルとみやもりは大笑い。
「おじいちゃん、ほらしっかり歩かなきゃ! リハビリがんばるんでしょ!」などとからかってくるのであった。

  
L: ダムの突端でタイタニックごっこの人。  C: こんなのムリ。死ぬ。死ぬる。  R: 拷問かイジメですぜ、これは。

展望台で僕をからかうのに飽きたみんなは駅と反対側にまわり込み、階段を下りていく。
階段は無限に続いてんじゃねえかってくらいに高さがあり、ダムの巨大さをあらためて体感するのであった。
やがてしぶき橋のあるところまで到達したので、みんなで渡る。まあ確かにこれも怖かったのだが、
さっきの刺激を体験してしまうと、それで慣れてしまって、まあどうにか耐えられるレベルに思えたのだった。
そんな僕を見てマサルはつまんなさそうにしていた。鬼め。

  
L: ダムの脇にある階段から眺めたところ。真横から見ても、うーん、ド迫力。
C: しぶき橋。さっきの刺激で感覚がマヒしたのか、意外と平気だった。コンクリートなので揺れもほとんどないし。
R: アプト式の区間を行く列車。こうして見ると、やっぱり急勾配だなあと思う。

しぶき橋を渡ると、かつて井川線が通っていたというトンネルを抜けてダムのふもとへ。
だいぶ体力的にしんどくなってきていたが、そこは根性で階段を上って長島ダム駅の駅舎まで戻った。
なんとなくリンガーハット的なデザインの長島ダム駅舎の中にはポスター以外に何もなく、4人で座って過ごす。
リョーシさんが確保しておいた時刻表をもとに、今後の予定を詰めて電車を待つのであった。
しばらくして本日の最終列車がやってきた。景色を眺められる剥き出しの車両があったので、そこに陣取る。
辺りはだいぶ暗く、そして寒くなってきていて、この井川線が18時前にすべての営業を終える理由がよくわかった。

 のんびりと景色を眺めるリョーシさんとマサル。マサルはTシャツ一枚。

奥泉駅に着くと、列車を降りて寸又峡温泉行きのバスに乗り換える。乗客は僕らのほかにカップル1組のみ。
山奥のぐねぐねとした道を30分ほど行き(軽く酔っちまったい)、たどり着いたのは小さな温泉街だった。
予約しておいた宿はすぐに見つかり、部屋に通されてようやく落ち着いたのであった。

夕食までの時間を利用して買い出しに出かける。予想よりは品揃えが良かったので安心した。
酒やらつまみやらを買い込むと宿に戻って夕食。最初は量が少ねーなーと思ったのだが、
次から次へと料理が出てきて最終的にはかなりたくさん食ったのであった。いやー、よかったよかった。
食べた後は風呂である。寸又峡温泉のお湯はとにかくぬるぬるしており、いかにもアルカリ性という感じ。
肌についている垢をガンガン溶かしまっせーという感触満点の強烈さだった。

風呂から上がると、TBS恒例の特番・オールスター大感謝祭を見ながら酒盛り。
リョーシさんは岡山土産のピオーネ(種なしブドウ)をふるまってくれた。これがまあ、うめーのなんの。
そんでもって僕は鉄道つながりってことで、こないだ銚子電鉄に乗ったときに買ったぬれ煎餅を披露(→2008.9.1)。
予想以上に皆さんの食いつきが良かったのだが、ぬれ煎餅は醤油をしっかり染み込ませた食品であるわけで、
2枚も食べればあまりのしょっぱさにギブアップとなるのだった。全員各1枚ずつで十分だったか……。
で、歩きや階段の上り下りが激しかったためか、誰ひとり『スーパーサッカー』までもたずに就寝となるのであった。
健康的でいいじゃないか!


2008.9.26 (Fri.)

朝起きると自転車にまたがり出発。通信の大学の事務が始まるのとほぼ同時に窓口に飛び込む。
そうして無事に教員免許の申請用紙を受け取り、その足で新宿の都庁第二庁舎へ直行した。
さあこれですべての手続きが完了だぜ、と息を巻いていたのだが、「住民票はお持ちですか?」と訊かれ、「あ……」
ゲームオーバーでございます。

そういうわけで、申請しようとしたけど住民票と介護体験の証明書を忘れて「また今度~」となるのであった。
これは自分の単純なミスなので、もう本当に情けない。いくつになってもこのそそっかしさは治らない。
しょうがないので新宿から蒲田の大田区役所まで住民票を受け取りに行くのであった。
で、蒲田から自宅に戻ったのだが、午後から天気が悪くなるという予報だったし、
そんな状況で新宿まで安全運転で往復できるのか不安だったので、本日はこれにてストップということに。

そしたら見事に天気予報ははずれ、午後もけっこういい天気が続いてそのままお日様が沈んだのであった。
なんだよチクショー! ツイてねーなー!と憤慨したところで後の祭り。おとなしく日記を書いて過ごした。トホホ。


2008.9.25 (Thu.)

ここんところのニュースで僕が一番危機感を覚えているのが、事故米転売問題なのである。
単純に食の安全がどーのこーのという安易なレベルには収まらない、収めてしまってはいけない問題だと思う。

まず第一に許せないのが、日本人の主食であるところのコメをナメていたという点。
やっぱりコメは基本なのである。この基本の部分で理性や正義が保てないというのは、いくらなんでもまずすぎる。
刑法には飲料水の汚染に関する罪があるけど、コメについても同じように考えていいんじゃないかと思うのである。
「コメですらこんな状況なのだから、いわんや○○をや。」この○○の部分には、すべての食材が入りうるわけだ。
もうどの食材でどんな事件が起きても驚くことはない。そういう恐ろしさが現実のものとしてハッキリしてきている。

21世紀の今になってこの問題が発覚するということもまずい。これは20世紀のうちに発覚してなきゃいけなかった。
国民のほとんど全員が何を食わされてるんだかわかんない状況が、今の今まで続いてきた(続いている)ってことだ。
この手の事件は、終戦直後か高度経済成長期までならまだ理解できなくもない。しかし、つい最近のことなのだ。
森永ヒ素ミルク事件(1955年)やカネミ油症事件(1968年)がいまだに根絶されていないって見方だってできるだろう。
とても中国のことを対岸の火事みたいに思えない。今の日本が直面していることは、これらとまったく同レベルなのだ。

この転売問題ではかかわっていた業者のリストが公開されたわけだけど、これは当然の処置だろう。
しかし「こっちは被害者だ」という人たちの言い分もわかる。「安いコメを買うからこうなるんだ」という批判もあるだろうけど、
それは「イジメられる側にも問題がある」という意見と同じで、何ひとつ建設的な解決をもたらすものではない。
そもそも事故米と確認することが不可能なくらいに転売が繰り返された例もあるだろうし、安易に責めることはできない。
だからこそ、食品を製造することなく転売しまくって利益を得ていた業者たちには徹底的に厳罰が適用されるべきだと思う。
コメが汚染されていると知ったうえでやっているわけだから、これは悪意ある犯罪として裁かれなくちゃいけないだろう。

日本が「オレたちゃ先進国だぜ」と言いたいのであれば、この問題は徹底的に検証されないといけない。
まさに国のレベル、国の次元が試されている問題だと思うんだけど、いかがですかね。


2008.9.24 (Wed.)

ようやく一橋から書類が届いたので、次は通信で書類の依頼なのである。自転車にまたがり水道橋へ。
窓口に教員免許申請の用紙を手渡して、とりあえずの任務完了。こっちは中1日で書類が出るということで、
この差はなんなんだろうと本気で思う。やはり国立はお役所仕事ということなのか。

水道橋からちょっと足を伸ばし、久々に秋葉原に行ってみた。
まずはゲームミュージックのCDを見てみる。評価の高いCDほどいい値段がついている。
今の自分には指をくわえて憧れの眼差しで見つめる以外にはないのである。切ないものである。
本屋にも行ってみるが、これといって気になるものはなくさっさと撤退。

このまま帰るのも味気ないなあと思い、ヨドバシカメラに寄って各フロアをぼんやり眺めてみる。
新しいiPod nanoはかなりかっこいい。すべての色を揃えちゃう物好きがいそうだが、そうさせるオーラがあると思う。
対照的に、classicのダサい表面は相変わらずでガックリ。従来の清潔感のある白に戻る日は来るのだろうか。心配だ。
デジカメの売り場も覗いてみる。ちょうど新製品が出たところのようで、各社とも宣伝に力が入っている。
やっぱり気になるのは自分の使っているCanon製品だ。困ったことに、どんどんおもちゃっぽくなっている気がしてならない。
デジカメはあくまでカメラの延長線上にあるツール、「機械」を感じさせるものであってほしいと思うのである。
中の歯車の回転が伝わるような感触、金属のヒヤリとした感じ、無骨さを残した道具であってほしいと思うのだ。
でも新製品のIXY DIGITAL 920ISには、プラスチックのおもちゃの感触が強く漂う(910ISからその気配があった)。
3000ISも同様で、手にしたときに違和感のない曲線を意識しすぎて、かえってすべって落としやすそうに思える。
愛着があることを差っ引いても、やぱり自分の持っている900ISが一番いいな!とあらためて確信するのであった。
(まあ致命的なのは、CMで中島美嘉の歌を流しているところなんだけどね。もういいかげんにやめてほしい。)

しかしまあ、金があったら電器屋ってワンダーランドだなあと思う。そして家電のあふれる日本もワンダーランドだと思う。
ドイツ語っぽいのをしゃべっていたヨーロッパ系の皆さんや、東南アジア方面の言葉をしゃべっていたアジア系の皆さんが、
デジカメ売り場で興奮気味にあれこれ手にとっていたのを見ると、本当にそう思わずにはいられない。


2008.9.23 (Tue.)

今日のテレビは王監督が退任するというニュース一色だった。
一時期のイヤになるほど強いホークスを指揮し、WBCで日本に優勝をもたらした名監督ということで異存はない。
ここんところのやつれ具合は部外者の僕でも「もう休ませてあげないといかんでしょう」と思うほどだったので、
残念な気持ちもあるけど、それ以上にほっとしたというのが正直なところだ。本当にお疲れ様なのである。
それにしても王監督という人は、現役時代にあれだけの成績を残し、監督としてもあれだけの成績を残し、
それでいて人格者としても知られているわけで、もう本当にあらゆる面で超人的だなあと感心するしかない。
僕みたいなひがみっぽい凡人はどうしたらいいんですかね、と思ってしまうではないか。人間としての器の差を感じるわ。


2008.9.22 (Mon.)

自民党の総裁選が終わったわけだけど、総選挙の話ばかりでそれはどうだろうと。
選挙ってのはあくまでみんなの代表である国会議員を選ぶための手段であって、目的じゃないだろ、と思うのである。
本来の目的は、国際的に恥ずかしくない日本を運営していくことであって、現状はひどい本末転倒ぶりだと思うのである。
ニュースでは総裁選の演説をダイジェストで流していたわけだけど、出てくるのは自民党がどーこーという話ばかり。
国民としてはどの政党が政権を取ろうと構わないのだ。今の暮らし、今後の日本が改善されるならどこでもいいのだ。
でも話を聞いていると、どうも自民党は国民の行く末よりも自民党の行く末の方が大切な人ばかりに思える。
お願いだから、自民党はいいかげん、もうこれ以上日本を壊さないでください。国士はどっかにおらんのか、国士は。


2008.9.21 (Sun.)

映画『イキガミ』原作が星新一作品に酷似と指摘、作者側は反論、というニュースをネットで見かけた。

僕は『イキガミ』のマンガを読んだことがないし、星新一の方の作品も知らない。
しかし、これだけは書いておきたい。
ああいう設定を思いつくということ自体が、僕には絶対に許せない。
あまりにも人間というものをナメているんじゃないか。人間の想像力をバカにした話だ。
物事を閉じる方向に想像力を使っておいて、そこでの独りよがりな理屈を社会全体に広げようとしている。
神様にでもなったつもりなのか。物語の中とはいえ、人間をおもちゃの人形のように扱って喜んでいるのは許せない。
人間をおもちゃの人形のようにみなしている現実に対して怒りをぶつける作品なら、理解はできるのだ。
(たとえば、アフリカで起きていることを見つめる作品だとか、虐待される子どもや老人を見つめる作品だとか。)
でも、そこにあるのは人間が存在すること(be, being)に対する敬意が抜け落ちた、実験と称した遊び半分の妄想だ。
そういうものが野放しになっている今の状況を、僕は絶対に許すことができない。
(僕は前々から伊坂幸太郎に対して並々ならぬ嫌悪感を抱いているが、これも根っこは同じ。
 日記のこの辺(→2005.8.182006.3.152006.3.222008.6.28)を読んでもらえれば察しがつくだろう。)

今月は珍しく映画館に行ったので予告編を見させられることになったわけだが、
感動を強要する予告編の中でも飛びぬけて僕のはらわたを煮えくり返らせたのが、『イキガミ』だった。
イヤだ。本当にイヤだ。こういう考え方のできる連中とは関わりたくない。


2008.9.20 (Sat.)

久しぶりに『魁!男塾』を読んでみたので、思ったことを書いてみよう。

江田島平八塾長の下、非常に軍国主義的なシゴキの中で男を磨いていく学校である男塾。
序盤はそのハチャメチャぶりが巻き起こすギャグマンガの様相を呈している。これはこれできっちり面白い。
しかし読み進めていくと、当時の少年ジャンプ連載マンガの例に漏れず、格闘バトル物へと変化をしていく。
男塾の場合には、そっち方面への方向転換が思いのほかスムーズな印象を受ける。
「男を磨く」目的が、バトルとうまくマッチしていたからだろう。実際、男くささ満載の熱い戦いは大きな支持を得ていた。

男塾が強烈に面白いのは、何から何まで真剣にやっていたからだろう。
男のプライドを賭けた勝負にしても、民明書房のウソ解説にしても、妙な迫力と説得力にあふれているのである。
これは冷静に考えればバカバカしいことでも、本気で真剣にやっていたからこその芸当だと思うのだ。
バトル路線が定着してすっかり消えてしまったギャグも、いま読んでみるとけっこう真剣にやっているのがわかる。
どんなコマであっても、あの濃いタッチで描かれている。ギャグでコケたときの足ですら、一切の手抜きがない。
このマンガは連載当初から、そういう律儀さというか真剣さを徹底的に貫き通しているのだ。
作者にとって、スクリーントーンをそれほど使わないで丁寧に描いていくことは、ごく自然なことだったのだろう。
でもそのこだわりが、読者に対して有無を言わせない独特の説得力へとつながっているのだ。

冷静に考えれば、こんなにバカバカしい内容のマンガはない。
しかし読んでいる間は決してそんなふうに冷めた態度をとることなどできない。そんでもって確実に面白い。
「狂気を極めるのが俺たちの本分さ……」とは桃の言葉だが、このマンガは作品全体でそれを見事に体現しているのだ。
めちゃくちゃな方向の想像力と確かな画力のもたらす唯一無二の世界、としか言いようがない。
こういうことを全力でやっていた大の大人ってのはかっこいいなあ、と思うのである。


2008.9.19 (Fri.)

久しぶりに『THE MOMOTAROH』を読んでみたので、思ったことを書いてみよう。

前にもこのマンガについて軽く触れたことがあるが(→2004.9.19)、牛バカと坂田鋼鉄郎を中心に賑やかなのが楽しい。
ツッコミの入る余地がほとんどないままにボケがノンストップで展開され、息をつくヒマがない。
ボケの前には試合展開の流れなど無力で、ある程度のページ数をこなしたところで思い出したように決着がつく感じ。

しかし、実はこれほどまでに「プロレス」をうまく表現しているマンガもないんじゃないかと思うのである。
果てしないボケの応酬は、プロレスでまず考慮されるエンタテインメント性そのものだし、
お互いに技をめいっぱい繰り広げたうえで、作者がきっちり試合にケリをつける点は、いかにもプロレスらしい律儀さだ。
プロレスラーは自分と相手の強さを観客にしっかりと提示しながら試合をつくっていくもんだと僕は理解しているが、
このマンガではキレまくったギャグを挟むことで作者・読者・キャラクターの体力を適度に回復させながら、
試合が展開されていくのだ。ここに、単なるバトルものにはない、プロレスのリズムが再現されていると思う。
よく読んでみるとわかるが、このマンガには途中で少年マンガらしい飛び道具が多数出てくるんだけれども、
必ずプロレス技で決着がつく(カウント3もしくはリングアウトやレフェリーストップなどのプロレス基準が適用される)。
そういうところからも、プロレスに対する全面的なリスペクトが感じられるのである。

あと、このマンガには昔話・おとぎ話の子孫がたくさん登場するが、その辺の理屈のつけ方もなかなかいい。
先行する物語をうまく消化して独自の世界をつくっているわけで、ぜひとも高く評価しておきたい点である。


2008.9.18 (Thu.)

久しぶりに『キン肉マン』を読んでみたので、思ったことを書いてみよう。

第1話から読んでいったのだが、初期のキン肉マンはコテコテのギャグが展開され、いかにも大阪のノリである。
そして第3話からミートくんが登場し、しばらくはボケとツッコミによってバランスよく話が進んでいく。
ハワイ・アメリカ遠征の辺りはカメハメの下での修行、テリーマンとのタッグと、完全にプロレス的展開をみせる。
そして2回目の超人オリンピックを経て、独特のバトル世界を切り開いていくのである。

いま読んでみると後先考えないっぷりがすごいなーと思う。
その場の勢いで描いたことが、作者にとっても思いもよらない方向へとどんどん動いていってしまう。
しかし作者はマンガ家としての経験を積んでいくうちに、過去のストーリーを伏線として処理する能力を身につけた。
これは特筆すべきレベルだ。ふつうなら「うわーやっちゃったー」となるようなことも、極力きれいに拾ってしまう。
だからラーメンマンはブロッケンJr.を特別気にかけるし、サムソンティーチャーがサタンクロスにもなる。
言い方を変えれば、このマンガは非常に前向きなのである。「失敗」しても気にしない。次の機会で利用すればいい。
そういうポジティヴさがあるから、満載のツッコミどころも読者の目には作品を楽しむポイントとして映るのだ。

それにしてもサブキャラクターの動かし方がうまいなーと思う。
キン肉マンは欠点だらけの主人公だが、ほかの仲間がうまくその穴を埋める、そういうやり方が徹底されている。
このマンガでは、キャラクターどうしの人間関係を、友情という要素を軸にして丁寧に描いている。
因縁で話が動くのはプロレス由来の方法論だと思うが、それを友情という味付けでうまく消化しているのである。
魅力的なキャラクターが次から次へと現れ、さまざまな戦いを経た末に、読者の期待に沿って動く。
まさに単純明快な少年マンガのお手本的存在なのだ。


2008.9.17 (Wed.)

久しぶりに『キャプテン翼』を読んでみたので、思ったことを書いてみよう。

このマンガ、三部構成もしくは四部構成となっており、それぞれに熱い戦いが繰り広げられている。
序破急でいうなら、序:小学校、破:中学校、急:Jr.ユースとなり、
起承転結でいうなら、起:南葛vs修哲、承:小学校の全国大会、転:中学校の全国大会、結:Jr.ユースとなる。
非常に夢のあるマンガで、無敵の主人公・大空翼が中心となって最終的には世界に飛び出して活躍をする。
根底にあるのはいかにもジャンプ的な「昨日の敵は今日の友」という発想で、
対抗戦の相手である修哲小学校の面々とともに南葛SCとして全国を制覇することになる。
そして中学校の全国大会が終わると今度はJr.ユースという舞台でオールスターのチームが組まれることになる。
(読んでいると、「全日本」という呼称に時代を感じる。そして本当に日本を変えちゃったマンガなんだなあ、と思う。)

個人的な感触としては、小学校の全国大会はそこそこ面白く、中学校の全国大会はウンザリするほどつまらなく、
最後のJr.ユースはかなり面白いという、非常に波のある印象を受けるのである。
理由は簡単。Jr.ユースは各ポジションに魅力のあるプレーヤーがそろっているからだ。
対戦相手の世界各国のチームにも一癖あるキャラクターがいて、それぞれに十分な見せ場を与えられている。
小学校の全国大会は、Jr.ユース編に比べるとやや落ちる。翼の活躍の度合が大きすぎるからだ。
それでも頼れる味方の存在と日向小次郎を頂点とする手ごわいライバルは、物語を確かなレベルに保っている。
問題なのが中学校編。構造的に小学校編の焼き直しにならざるをえず、そこに少年マンガの強さのインフレが降りかかる。
しかし作者の出してきた調整法は「ケガ」。これが最悪で、読んでいると対戦相手よりもケガとの戦いの方が目立っている。
それでも小学校時代には実現しなかった南葛vsふらの、日向(東邦)vs三杉(武蔵)という戦いを組んだのはすばらしい。
天才肌の翼に対して、徹底した努力家である日向の成長をクローズアップした点も、きちんと評価をしておきたいところだ。

『キャプテン翼』はいま読んだら非現実的なプレーの嵐なのだが、逆にそれだからこそ読者が食いついた面も大きい。
それぞれの必殺技とも呼べるシュートの存在や、ゴールポストや身体を想像力で利用しつくすプレーの数々は、
変にリアルなマンガには追いつくことのできない求心力を持っていた。「マンガとして正しかった」のである。
たとえば井沢・来生・滝は若島津から点を奪うことができないなど、絶対に破られない階級の存在は気に食わないが、
マンガならではのフィクションの時間と空間に読者を引き込んでいくテンションがどこまでも持続する凄みは特筆モノだ。

さて『キャプテン翼』といえば、テクモによるゲームの存在も忘れてはならないだろう。
これが本当によくできていて、『キャプテン翼II』にはハマりまくった。音楽も良かったし。
マンガを読んでいて、久しぶりにプレーしてみたくなった(実はソフトを実家からこっちに持ってきてある)。
ヒマをみてちょこちょこと進めてみよう、と思うのであった。


2008.9.16 (Tue.)

本日が今回の旅行の最終日である。昼の便の飛行機で東京へと戻るのだ。
でも、午前中はめいっぱい函館を歩きまわることができるわけで、元気に5時起きで街へと飛び出すのであった。

昨日と同じように路面電車の軌道に沿って歩くのもつまらないので、南の海岸線を行くことにした。
途中で砂浜に出てそちらを歩いていくようにするが、これが足が深く入る感じがして、思いのほか歩きづらい。
よけいな体力を消費しない程度に海岸線を堪能すると、アスファルトの道路に戻って先へと進む。

函館の路面電車は、ベイエリアに近い十字街の停留所で二手に分かれる。
ひとつは北へと針路をとる、函館どつく前行。そしてもうひとつが南へ針路をとる、谷地頭(やちがしら)行である。
その谷地頭の停留所をさらに進んでいった先にあるのが、立待岬や石川啄木一族の墓なのだ。
地理的には函館山の一部分になるので、けっこうな上り坂である。でも朝の風が心地よい。
函館の街を横側から一望できる啄木一族の墓を抜けると、立待岬の入口となる。でもまだそこには行かない。
その右手、いかにも冬には交通規制がかかりそうな山道の方を歩いていく。
注意深く山肌の方を見ながら坂を上っていくと、まるでぽっかりと穴が開いたような登山口が現れる。
近くには登山コースの案内板が出ている。大きくひとつ深呼吸をすると、その中へと飛び込んだ。

函館山には多くの自然が残っており、市民には手頃な登山コースとして親しまれている。
最初のうちはハイキングというかトレッキングというか、そんな面倒くさいことをするつもりなどなかったのだが、
千畳敷という絶景を楽しめるポイントがあることを知り、それじゃあせっかくだから行ってみようか、となったわけだ。
どうせ立待岬には行ってみるつもりだったし、ちょっと早起きをしてチャレンジしてみればいいや、と。
しかしこの千畳敷、行くのがなかなか大変なのである。函館山の登山コースは何種類も設定されているのだが、
その中でも最も手間がかかると思われる「七曲コース」でしか行くことができないのである。
観光案内所で配っている地図ではグネグネと曲がった線でしか表現されていない七曲コースだが、
実際に登ってみたら、これが完全な登山モードでやんの。草木が遠慮なく生い茂り、ほとんど獣道である。
僕の地元の風越山(→2005.8.14)の方がはるかに登りやすい。思わぬ誤算にため息をつくヒマもなく足を動かす。
七曲コースは僕が本日最初のお客さんらしく、とにかくクモの巣が顔にからまりまくって困った。
朝早くて気温はそんなに高くないのだが、けっこう激しい運動なようで、すっかり汗びっしょりである。
鼻の頭からやたらとポタポタ汗がこぼれる。やっぱり鼻が高くなったんかなあ(→2007.6.27)と思いつつ登る。

 
L: 函館山・七曲コース。もはや本格的な登山なのであった。こんな具合の山道をひたすらジグザグに登っていく。
R: 悪戦苦闘の末にたどり着いた千畳敷見晴所。それほど広くなく、展望台からの景色もまあそこそこって程度。

山の中を登りきったところで海上保安庁の施設がお出迎え。久しぶりに目にする人工物に少し心が和んだ。
でもそこには「スズメバチやマムシに注意しましょう」という看板が出ていて、勘弁してくれ……と心の底から思った。
ここまで来てしまえば、千畳敷見晴所はすぐそこだった。急に見晴らしのいい空間に出て戸惑ったが、
ああこれが千畳敷かと気がついて一安心。展望台で呼吸を整えながら函館の街の景色を味わう。
しかし昨日の見事な夜景からすると、イマイチ迫力不足に思えてしまい、どうにも消化不良な気分になる。

せっかくなので、しばらくその周辺を歩きまわってみる。予想していたほどには広くない。
南は木々、北はさらなる山に囲まれているので、特に爽快感がある場所でもない。遠足でお昼を食べる場所って感じだ。
ここまで来る労力のわりには大したことねーなあ、と思っていたら、北側でもっと高い場所への入口を見つけた。
こうなりゃもう、毒食わば皿まで。こっから先へ進んでみてやろうと思って、登ってみることにした。
いざ登ってみると、背の高い木々は一切なく、ススキなどの草が斜面を覆っている。
さっきの山の中とは印象がすっかり変わって、今度はどこかの高原にでも来たような気分だ。
そしてある程度の高さまで登って後ろを振り返ってみたら、その眺めのあまりの美しさに呼吸が止まった。

いちおうデジカメでパノラマ撮影したのだが、実際に目にした光景の美しさは表現しようがない。
僕は日本のあっちこっちに行っては体力まかせの非常識な名所めぐりをやっているが、
そういう行動が当たり前になっているからこそ出会うことのできた光景だと思う。
ふつうの観光客が絶対に目にすることのないものを、僕だけが味わっている。その贅沢さ。
「面倒くさいけどもうちょっとやる気を出して行ってみよう」と決心したときには、必ず確かな報いがある。
今まで何度もそういう体験をしてきたけど、今回のこの絶景は、本当に特別なものだ。
僕は何も言葉を発することができず、目の前に広がる世界をただただ眺めていた。
(後でいろいろ調べてみたのだが、どうも「千畳敷」とは本来、この斜面一帯のことを指すようだ。)

七曲コースの帰り道では数人の登山客とすれ違い、挨拶を交わした。
趣味や健康づくりで登る習慣ができている感じの人ばかりで、自分のイレギュラーさをあらためて実感する。
でもそんなイレギュラーな自分がああいう特別な光景に偶然触れられたってことに、強烈な幸運を感じる。
おかげで険しい山道もそんなに苦にすることなく下りていくことができた。わずか20分で登山口に戻ったくらいだ。

地上に戻ると定番の観光スポットとなっている立待岬へ。
アイヌの漁師が岩上で魚を待って獲る場所、ということでこの名前になったとか。
天気がいいおかげで色鮮やか。見事なもんだと思いつつデジカメのシャッターを切る。

  
L: 立待岬の突端。岩の上には無数の鳥がびっしりとたたずんでいるのであった。
C: 断崖が美しい。それにしても右手の山を眺めると、僕はさっきまであんなところにいたんか、と呆れてしまう。
R: 立待岬から眺める函館の市街地。函館ってのは本当にいろんな表情を持っている場所だなあと思う。

しばらくのんびり過ごすと、来た道を戻る。さすがに歩いて宿まで戻る体力は残っておらず、
(函館山まで来る際の描写をかなりあっさりめに抑えているけど、本当はけっこう時間がかかってるんだぜ!)
谷地頭の停留所から路面電車に乗ることにした。程なくして電車がやってきたので乗り込む。
歩きと比べると路面電車の速いこと速いこと。あらためてその便利さを実感するのであった。

宿に戻ると足をほぐすなどしてしばし休憩。その後、ベイエリアの辺りが店開きをする時間を見越してチェックアウトする。
これからしばらくは泊まりがけの一人旅なんてできなくなるんだろうなあ、と少々おセンチになるのであった。
で、函館駅前を通り抜け、そのまますぐ近くにある函館朝市を見てまわる。
ベイエリア周辺が現代風のオシャレな商業空間なら、函館朝市周辺は昔ながらの元気な商業空間である。
市場独特の大雑把な活気を味わいながら歩きまわり、そのままベイエリアまで行ってみる。

  
L: 函館朝市周辺の様子。函館駅の改札を抜けてすぐ右手はこんな感じなのだ。食事どころも充実。
C: 函館朝市の内部はこんな感じ。魚介類だけでなく、北海道の農産物がぎっちり。これまた魅力的である。
R: ベイエリア・金森赤レンガ倉庫の中で、今も実際に倉庫として使われている建物。かっこいい。

3連休が過ぎた朝ということでか、昨日の夜と同じく観光客の姿はとってもまばら。
少しでもしっかり函館の光景を目に焼きつけようと僕は歩きまわるのだが、賑わいが弱いのはやっぱりさびしい。
印象的だったのは、金森赤レンガ倉庫群のいちばん端っこにある、今も現役の倉庫。
ほかの建物が、リニューアルをした商業空間としてどこか作り物っぽい雰囲気を漂わせているのに対し、
現役の倉庫は飾りっ気がない分、すごくかっこいいのだ。頼もしいというか、そういう感触。
扉のところではおっさんが、スルメの入った段ボールをテンポよくコンベアへと乗せている。
建てられた当初の目的を今も守り、嘘偽りなく機能している建物ってのは美しいもんだなあ、と感心した。
確かに歴史的な建築をリニューアルして残すことは大切なことだとは思うんだけど、
そこに無意識のうちに入り込んでくる空間的な演出という要素について、あらためて考えなきゃいけないな、と思った。

飛行機で帰ることを考えると、少し早めのお昼をとっておきたい気分である。
スープカレーの店に入ってライスとナンをおいしくいただくと、少し急ぎ気味で函館駅まで戻る。
函館駅からは函館空港行きのリムジンバスが出ている。わりかしタッチの差で間に合った。
本当はもっと余裕を持って函館と別れたいところなのだが、ギリギリで動くクセがついているのでしょうがない。

40分ほどバスに揺られて空港に到着。あっちこっちをうろつきまわって時間をつぶす。
地方の空港というのも、見る人が見ればけっこう個性のあるものかもしれない。いるんだろうなあ、地方空港マニア。

 函館空港はけっこう立派なのであった。

函館の街中は昨日の夜から閑散としていたのに、空港の中はかなりの混雑ぶり。
大量の乗客を乗せて羽田行きの飛行機は離陸した。しかしいつまで経っても慣れないわー。

●12:50 函館-14:10 羽田

さんざん各駅停車の電車に揺られまくった日々を送った人間としては、飛行機ってのは反則モノである。
北海道を出てから1時間半もしないうちに東京に戻ることができるなんて、信じられない。
なんだこりゃ、飛行機って便利すぎないか? こんなに便利になっちゃってバチが当たらないか?
などと首をひねりつつ京急の改札を抜けるのであった。北海道が実はこんなに近かったなんてショックだ。

自宅に近づいていくにつれ、旅の終わりを感じてどんどん感傷的な気持ちになっていく。
次の機会がいつになるのか想像がつかないけど、きっと今回みたいに楽しめるようにと願いつつ、
ドアの鍵を開けて荷物を置き、ベッドに寝っ転がって深呼吸するのであった。

★おまけ:函館名物について

函館の名物として真っ先に挙げられるのが、イカなんだそうだ。
実際に、函館の街を歩いていると、あちこちでイカのキャラクターを見かけることになる。
あんたらどんだけイカが大好きなんだよ!と思わずツッコミを入れたくなるほど、イカ頻度が高い。

 
L: わざわざイカを起用して訴えるところが函館クオリティ。  R: 立待岬の柵にはイカがいっぱいなのだ。

函館のイカ好きは徹底しているので、そこに注目して観光するのもまた一興かと。


2008.9.15 (Mon.)

もうすっかり、始発電車に乗り込んで移動という行動パターンに慣れてしまった。
特に苦もなくあらかじめ決めた時刻に目を覚ますと、さっさと支度を整えて宿を出る。
まだ街が眠っている中、商店街を抜けて青森駅へ。各駅停車の電車に乗り込み、コンビニの朝メシを食べる。

さて今回の旅行では北東北の3県を制覇することが目的だったわけだから、昨日の段階でタスクはクリア済みである。
ゲームで言えばラスボスを倒してさあエンディング、といった感じになるはずだが、ところがまだ旅は終わらないのだ。
というのも、僕にとって隠し最終面とも言うべき街があるからだ。……それは、函館。
今回の旅は、津軽海峡を越えて函館に上陸してゴールとするのである。そういうわけで、今日も元気に出発進行。

●06:03青森-06:42蟹田 :津軽線(津軽海峡線)

青森の中心部を離れると、景色はすぐに田舎の農村といった印象になる。まあ、地方はどこも似たようなものだ。
しばらく行って蟹田駅に着いたところで下車。僕と同じ目的の人もいて、時間のわりにそこそこな数の客が降りた。

鉄っちゃんには常識かもしれないが、僕を含む大半の人には何がなんだかサッパリな事態だと思うので、
蟹田駅で電車を降りたことについて軽く説明することにしよう。ポイントは、青函トンネルは特急しか通らない、ということ。
今回のように「北海道&東日本パス」を使う場合、あるいは「青春18きっぷ」を使う場合、特急に乗ることはできない。
そのため、青函トンネルで北海道と青森の間を行き来することができない、という困った事態となってしまう。
それを防ぐため、北海道の木古内と青森の蟹田の間についてのみ、特急に乗ることが特例として認められているのだ。
というわけで、青函トンネルを通る特急に乗り換えるために、僕は蟹田駅で各駅停車の電車を降りたのである。
1時間ほど後に特急が来るので、それに乗って青函トンネルを抜けて木古内まで行き、また各駅停車に乗り換えるのだ。
正直、こんな鉄っちゃん的行動なんてとりたくなかったのだが、金がないのでやむをえないのである。無念である。

蟹田駅に来てもやることなんてないので、海まで出て景色を眺めて過ごすのであった。
海岸は小さな岩がゴロゴロしている状態で、素早く泳ぐ小魚がいっぱいいたのでひたすら観察。オレは何歳だ。
対岸には恐山率いる下北半島がデンと鎮座していた。この半島も形からしてなかなか興味深い場所である。
いつか行ってみたいなあ、っていう場所がいっぱいあって困るなあ、なんて思っているうちに特急の時刻が近づいてきた。

●07:53蟹田-08:46木古内 :海峡線(津軽海峡線)[特急]白鳥41号

トイレを済ませてホームに戻ると特急列車がやってきた。自由席の車両に乗り込む。けっこうスカスカ。
特急は山の中を走り、いくつもトンネルを抜けて突き進む。そんな準備運動を経て、さりげなく青函トンネルに突入。
当然のことながらトンネルの内部は真っ暗で、非常に単調な時間が続く。まあ寝ますわな。
海底駅だの海峡の中間地点だの、そういったものにまったく気づくことなく再び地上に出たのであった。
さてこれが人生初の北海道なのであるが、広がる景色はさっきまでの青森県の山ん中とそんなに変わらない感じである。
青函トンネルを抜けるとすぐに知内駅があるのだが、そこは駅というより「大いなる西部」って印象なのであった。
そんなこんなで木古内に到着、特急列車を降りて普通列車を待つ。やはりヒマなので改札から出て歩いてみる。

木古内。「きこない」という響きはいかにも北海道である。駅舎から出ると、さびれた田舎の駅前の風景がお出迎え。
ぜんぜん本州と変わらないなーと思いつつ歩いていくと、北海道銀行の支店があって、ああここは北海道だと確認。
駅からまっすぐ行けば海に出るということで、行ってみる。国道228号を渡ると、海へ下りるコンクリートの坂に出た。
お祭りの際には神輿を担いでここから海へと入っていくようだ。海水に触れるギリギリのところでしゃがみ込んで呆ける。
それにしても今日も実に天気がいい。空は真っ青、日差しがまぶしい。いい天気はいい旅の必須条件である。
今回の旅もしっかりと運に恵まれた旅だなあ、と思いつつ駅まで戻る。

●09:31木古内-10:31函館 :江差線・函館本線(津軽海峡線)

部活に行く高校生たちが乗り込んできたことで、函館行きの電車の中はかなり騒がしかった。
特に眉毛の処理に失敗してほとんどゴリラ状態という女子高生1名がうるさかったのであった。
しかしそれはそれで、ナマの方言に触れる絶好の機会でもあったので、まあヨシとするのである。
で、函館近辺の方言は正直言って、東北地方よりキツい東北弁という印象がした。
個人的に函館にはオシャレな港町のイメージしかなかったので、これは意外だった。

函館の街は陸繋島(函館山)の砂州の上にできている。車窓から見ると函館山がまず目立っており、
そのふもとに市街地が広がっている。海を挟んでそれらの姿を眺めていると、期待がどんどん高まっていく。
そして函館に近づくにつれて車内の人口密度は確実に増していく。観光客よりは地元住民の方が圧倒的に多い。
まあふつうの観光客はこんな各駅停車には乗らないもんな、と思っているうちに函館駅に到着。
長崎駅(→2008.4.27)などと同じように、最果て感の強い櫛形のプラットホームである。

 函館駅。2003年竣工の新しい駅舎である。

はるばる来たぜ函館。3連休の最終日ということで、かなりの賑わいである。さすがは北海道を代表する観光都市だ。
実は個人的には、函館に対する憧れはかなり強い。長崎と同じくらい強いのである(わかりづらいだろうけど)。
北海道に上陸しても札幌を目指さず函館をゴールに設定したのは、つまりそれだけ函館観光を重視していたということだ。

そんなわけで、宿に荷物を預けると勢いよく函館の街へと飛び出す。まずは路面電車に乗り込んで一日乗車券を購入。
最初の行き先は五稜郭だ。函館の街は、函館駅の辺りから南西の函館山までの一帯が中心となっている。
五稜郭は函館山とは反対方向の北東側に位置していて、中心部からは離れているのだ。
それで先に五稜郭を見ておいて、その後じっくり函館の街を歩くという算段なのである。

路面電車にしばらく揺られて、五稜郭公園前停留所で下りる。しかしここからまたそこそこ歩くのである。
観光客の姿がチラホラ見えるので道に迷うことはないのだが、微妙に面倒くさい距離なのであった。
で、やがて五稜郭タワーのふもとにたどり着く。展望台には後で上るとして、とりあえず公園の中へ入る。
天気に恵まれて、空の青さと園内の緑が鮮やかだ。堀の水はお世辞にもきれいとは言えないが、まあいい気分。
五稜郭の独特の形を味わうべく、まずはその外周を歩いてみる。ほかの城では体験できない鋭角のカーヴが続く。
それで最初のうちはおもしれーおもしれーなんて言っていたのだが、途中で飽きてきた。五稜郭はけっこう広いのだ。
裏手から城郭の中に入ろうと思っていたのだが、橋が見事に工事中で入れず。しょうがないので結局一周する破目に。

 
L: 五稜郭の堀と石垣。ヨーロッパの影響による五角形なのに石垣というミスマッチが面白い。
R: 振り返って五稜郭タワーを望む。2006年3月竣工の2代目で、塔体の断面は星形、展望台は五角形になっている。

やっとこさ一周。五稜郭の外周はシャツと短パンで走っている人が多く、絶好のランニングコースとなっているようだ。
あらためて正門にまわり込むと、今度こそ中に入る。橋を渡って藤棚のトンネルを抜けると城郭の中である。
さて中に入ったはいいが、どこへ行けばいいのかわからない。様子をつかむために高いところから見てみようと、上にあがる。
そこは城跡というよりも田舎の農村の道とでもいった方がいい風情で、まったく五稜郭にいるという気がしない。
ワープでもしたような感覚だ。よーく見れば五稜郭を囲む都市の姿は確認できるのだが、気にしなければ、気にならない。
芝生に土が露わになった道が通っており、木々や草花が生い茂るその光景は、どこか郷愁めいた匂いを漂わせている。
不思議な気分になりながら、それでも先へと進んでいったら、さっきの裏手の橋のところで行き止まり。
思うように進めないもどかしさで胸がいっぱいになりつつ、来た道を戻るのであった。

  
L: 五稜郭の入口。橋を渡ってここを抜けると城郭の中なのだが、工事中で見るべき場所はあんまりなかった。
C: 中に入って高いところに上ると、こんな感じの風景になる。とても五稜郭にいるとは思えない、田舎っぽい風景。
R: 「ラピュタ」的な感覚は味わえるかもしれない。散歩や暇つぶしが目的なら、大いにオススメできる場所である。

入口付近に戻って、あらためて五稜郭の中をあちこち歩きまわってみる。しかし特に施設があるわけでもなく、
ど真ん中ではただいま箱館奉行所の復元工事中ということで、あっさりと外に出たのであった。
いざ中に入って歩きまわってみると、五稜郭はふつうに緑の生い茂る公園なのであった。

それじゃあ今度は高いところから五稜郭のお姿を拝見しましょうかね、と五稜郭タワーに入る。
展望台の入場料は840円とけっこう高い。旅行ってのはこういう入場料でお金が吹っ飛ぶものである。切ない。
しかしエレベーターを出ると、ガラスの向こうに広がっている光景に思わず声が漏れた。
山のふもとの平らな土地を埋め尽くしている街の中に、緑の星がズドンと刻まれているのである。
地上からでは理解のできない五稜郭の見事な雄姿が、目の前にある。これは本当に美しい。
しばらく夢中でデジカメのシャッターを切る。広角レンズでもはみ出してしまう大きさで、さまざまなパターンで撮影する。
そして五稜郭タワーから眺める光景で美しいのは、目の前の五稜郭だけではないのである。
その向こうに広がる亀田半島の山々も美しいし、反対側の函館山と中心市街地もいい。なかなか見どころ満載なのだ。
やっぱり函館はすげえなあと、ただひたすら感心するのであった。

  
L: 五稜郭タワーより眺める五稜郭。街の中に突然こんな刻印が押されているなんて、ほかの街では考えられない。
C: 五稜郭の先に広がる亀田半島の山々。このなだらかな感じが、いかにも北海道っぽく思えたのであった。
R: こちらは南西側の函館山。平らな土地いっぱいに広がる函館の街との対比がなんともドラマティックじゃないか。

地上からも空中からも五稜郭を満喫したので、路面電車で中心市街地へと戻る。
函館駅よりちょっと先の市役所前停留所で降りて、函館市役所を見てみることにした。
函館は駅から少し離れているベイエリア(金森赤レンガ倉庫周辺・十字街停留所付近)が観光地として賑わっている。
市役所は駅とベイエリアのだいたい中間地点にあるため、歩いてみるとややさびしい感じがする。
やがて広い並木道の真ん中にドンと建っている茶色の立方体が見えてくる。函館市役所、堂々としたもんだ。

  
L: 並木道に姿を現した函館市役所。特に個性のある造形ではないが、これだけしっかり真四角なのは珍しいかも。
C: 近づいてみた。広角レンズの影響で遠近感がやたらと強くなってしまっている……。
R: 裏手はこんな感じ。「函館」だけに箱っぽくつくっているのかもしれない、なんて思う。

市役所見物を終えると、ベイエリアの観光地へと歩いていく。いいかげん腹が減ったのでメシを食いたい。
函館といえばやっぱり塩ラーメンでしょ!ということで、土産物屋の一角にある専門店でいただくのであった。
味は自由が丘の函館塩ラーメン屋とそんなに変わらず、まあなるほどこういうものなんだなと納得。

 函館塩ラーメンの特徴は、新鮮な魚介類を素材としている点なのだ。

エネルギーを充填すると、再び元気に歩きだす。われながら、単純な構造の体である。
函館ベイエリアの名所をくまなく歩きまわってあれこれ観察。リニューアルして再利用している古い建築がとにかく多い。
はこだて明治館も金森赤レンガ倉庫も、ファサードには古さと新しさがなんとなく混在していて、ちょっと妙な感触だ。
そして中に入ってみるとどこも見事に土産物がびっしり並べられている。かなりのワンパターンである。
これだけやってることがどこも同じだとつぶし合いになるんじゃないのと思うんだけど、適度に共存しているようだ。
個人的には、規模の大きい買い物空間であるためか、この場所にアウトレットモールの匂いを感じる。
歴史ある建物という演出効果と北海道名物の土産物が独特の雰囲気をもたらしてはいるが、
現代社会の商業的な本質が、この場所でも確実に貫かれているように思うのである。

  
L: はこだて明治館(旧函館郵便局)。1911(明治44)年築でツタが見事だが、とにかくタクシーがジャマ!
C: はこだて明治館の中はこのようにずいぶんと現代風である。天井をブチ抜くとはずいぶん思い切ったリニューアルだ。
R: 函館ベイエリア。左手には金森赤レンガ倉庫、真正面には函館山。この辺りはどこへ行っても土産物屋ばかりである。

とはいえ、実際に歩いてみればこれはなかなか楽しい。明治館も赤レンガ倉庫も、内装は徹底して現代風だ。
だから建物じたいの魅力というのは、まあ正直それほどのものではないなあと思うのだが、売っている物が面白い。
特筆すべきは食品で、北海道という土地の豊かさを感じさせるものであふれている。
肉、魚、乳製品など、どれも充実している。僕は貧乏な一人暮らしなので抑えることができたものの、
家族旅行で来た日にはお金がいくらあっても足りないだろう。あれもこれも欲しくなること間違いなしだ。
いつかお金持ちになってまた来たいねえ、なんて思うぐらいしかできない。
(食品以外の土産物でなるほどと思ったのは、北海道出身・タカアンドトシのグッズ。異常に充実していた。)

さて、この辺りにある歴史的な建物は、何もはこだて明治館や金森赤レンガ倉庫だけではない。
一般の住宅をきれいに改装して店舗にしている例が非常に多いのだが、これがすごく面白いのだ。

 
L: 古稀庵。1909(明治42)年築とのこと。  R: こちらもすぐ近くにある飲食店である。

上の画像をよく見てもらうとわかると思うが、これらの建物、1階は和風で2階が洋風の折衷様式なのである。
さすがは函館。この一帯は国選定の重要伝統的建造物群保存地区となっているのだが、
こういう何気ないけど歴史が確実に刻まれている建物が残っていて、現役で使われているのはすばらしい。

  
L: 現存する日本最古(1923年)のコンクリート製電柱。断面が四角なのだ。今も現役でさりげなく立っているのがかっこいい。
C: 函館の路面電車はこんな感じ。  R: こちらは「箱館ハイカラ號」。大正~昭和期の市電を改修・復元したものだ。

だいぶ腹もこなれてきたところで、いよいよ函館名物である坂道をいろいろ歩いてみることにするのである。
前述のように、函館の街は陸繋島である函館山の砂州の上にできている。
(地理を勉強したことのない人のために説明すると、かつての函館は海の中にポツンと島があるだけだった。
 そのうち海流が島と陸の間に砂を堆積させていき、やがて島は陸とつながって、島は「山」となったのだ。
 そしてその砂地の部分に函館の街ができた。この日記で扱ったほかの陸繋島の例は潮岬(→2007.2.11)を参照。)
で、その砂州の部分から函館山に登る斜面が函館名物の坂道となっているわけである。

とりあえずは函館山の北西端に位置している高龍寺と外国人墓地まで行ってみることにする。
路面電車の軌道と並行して、てくてく歩いていく。実際に歩いてみると、なかなかの距離があった。
なぜか函館ではあちこちの電柱にスピーカーが取り付けられており、そこからPRを延々と流している。
歩いている間ずーっとそれを聞くことになったわけで、これにはけっこう参った。

さて、昨日青森で入手した冊子『浪漫函館』の中で、函館の坂はぜんぶで18紹介されている。
その中で最も北にある魚見坂を上っていく。正直、イヤんなるくらいの距離の上り坂である。
ガマン強いなあオレ、なんて思いつつ一歩一歩踏みしめていくのであった。
そうしてお参り用の花を売っている一角を通り過ぎると高龍寺に到着である。さっそく山門の彫刻に圧倒される。
高龍寺は彫刻の見事さで売っている寺なのだ。確かに山門も本堂も、見上げると彫刻が目に飛び込んでくる感じだ。
お参りをすると、しばらく上を眺めて過ごす。たぶん口を開けたアホ面だったろうけど、見事なんだからしょうがない。

 
L: 高龍寺の山門。高龍寺は市内最古の寺院で、本堂も山門も明治期のもの。
R: 彫刻をクローズアップ。ここまで凝っているものはなかなかないでしょう。どうやって彫ったんだコレ、とひたすら感心。

高龍寺からちょっと奥へと進むと外国人墓地である。キリスト教系の墓地のほか、中国人墓地も目立っている。
しかし山の斜面に位置しているため通路は狭く、見晴らしもあまり良くなく景色はそれほどのものではないのであった。
松の枝に寝そべっていたネコと少々たわむれると、苦労して来たわりにはずいぶんあっさりめで退散した。

ある程度坂道を下って戻ると、途中で右に曲がる。お次はてっぺんから眺めるそれぞれの坂の景色を楽しむのだ。
穏やかな住宅街の並木道の先に真っ青な函館港が見える光景は、さすがにオシャレである。
何枚か撮ったうち、特にフォトジェニックだった2つの坂の画像を貼りつけてみることにする。

 
L: 幸(さいわい)坂。  R: 常盤坂。電柱・電線がなけりゃカンペキなのだが。

函館の坂の上にも歴史的建造物は多く残っている。港町らしく、外国人の建てた建築が点在しているのが特徴だろう。
こちらで一番目立っているのは、(国産の建築だが)旧函館区公会堂である。入場料は300円。
女の子の観光客向けに衣装を貸し出して記念撮影するサービスをやっており、ベランダでその様子が見える。
こういうのは港町の特権だよなあ、なんて山国出身の僕は思ってしまうのである。
で、旧公会堂は外観の色づかいがどうにも妙で、違和感を覚えてしまった。昔からこうだったんですかね。

  
L: 旧函館区公会堂。光の加減のせいか、色づかいが妙に安っぽくって、なんとなくウソくささを感じてしまうのであった。
C: でも中に入るとこんな感じで、明治期の地元の誇りが伝わってくる。1910(明治43)年竣工で重要文化財である。
R: 旧公会堂の前には元町公園があり、その一角に残る旧北海道庁函館支庁庁舎(現・函館市写真歴史館)。うーん、木造。

この旧公会堂の周辺が、函館ベイエリアと並ぶもうひとつの、いわゆる「函館らしい」場所である。
元町公園からは広い石畳の道が伸びている。これは函館の道づくりの基点ということで、「基(もとい)坂」という名である。
この基坂から旧公会堂、そして函館山を見上げるアングルは、観光案内などでよく見かける構図だ。
交通量がほとんどないので撮りたい放題なのであった。やっぱり車でも坂道を上るのはイヤなんだろうか。
で、それに対していかにも函館らしい下り坂を撮影する絶好のポイントが、「八幡(はちまん)坂」である。
こちらの坂はとにかく急で、上れば上るほど反り返り、どんどん容赦がなくなっていく感じである。
てっぺんには函館西高校があるが、生徒たちは日ごろどれだけ鍛えられているんだろう、と思うほど。
大勢の観光客がデジカメやケータイを構えている中、僕も混じってシャッターを切る。なるほど、これは確かに函館だ。

  
L: 基坂より旧函館区公会堂と函館山を見上げる。建物の大きさのバランスがなかなかとりづらい構図だった。
C: 八幡坂から函館港を眺めるの図。いい眺めなんだけど、この坂はここまで上ってくるのが本当に大変だ。
R: 函館ハリストス正教会・主の復活聖堂を西側から見たところ。現在の聖堂は1916年に再建された。

やはり北海道は日が暮れるのが早いのか、光の具合がだいぶ夕方のものに近づいてきた。
坂を下って路面電車の軌道のある大通りに戻ると、忘れちゃいけない函館の名所・北島三郎記念館に突撃する。
いやーやっぱり、はるばる函館に来たんなら行かなきゃダメでしょう。

北島三郎記念館はホテルの中にある。ホテルの1階から3階までが記念館となっているのだ。
フロントでチケットを買うと、案内係の女性にエスカレーターを下りるように言われる。そんでもって女性はついてくる。
そうなのだ、なんと北島三郎記念館では、係の女性がつきっきりでエスコート(というか説明)してくれるのである。
「お一人で、お若いのに珍しいですね」「そうですかー」などと会話を交わしつつ、いざエントランスへ。
まずは船村徹先生の筆による「北島三郎記念館」の文字。そしてサブちゃんの大きな写真。
ここが最初の記念撮影ポイントなのである。近づくと「ようこそいらっしゃいました……」とサブちゃんの声が流れた。

ランドセルを背負った大野穣(サブちゃんの本名)少年の写真からスタートし、中に入るとそこは駅舎。
サブちゃんは列車で函館まで通学していたそうで、かつての渡島知内駅や客車内部が細かいところまで再現されている。
お次は函館を後にしたときに乗った青函連絡船。ご丁寧に、昼間から夕暮れまで光の具合が調節される。
そして渋谷での流しの日々である。サブちゃんを抜きにしても、昭和をしっかり味わえる点でこれはけっこう面白い。
また、係の女性はきちんと、かつてサブちゃんが漫才コンビ「ゲルピンちん太ぽん太」の「ぽん太」として活動した話や、
サブちゃんのデビュー曲『ブンガチャ節』がベッドのきしむ音を想像させる部分があるとして放送禁止なった話をしてくれた。
で、体験コーナーが終わると全シングルのジャケットが壁一面に展示されていた。壮観である。
「女(ひと)シリーズ」「一文字シリーズ」に続いて『おじゃる丸』が登場。すいません、けっこうここで盛り上がりました。
洗脳されたってわけじゃないけど、オレのiPodももう少しサブちゃんを充実させんとなあと思ったことよ。

さあ! そして! なんといってもメインイベントは、ステージで本物のごとく歌いまくるサブちゃんロボットである。
ほかに客がいなかったので客席には自分ひとりだけ。オレのために! オレだけのために! サブちゃんが歌う!
係の女性が注意事項を一通り言った後、照明が落とされる。そして『まつり』の前奏とともに突如輝き出すステージ!

  
L: 前奏が流れて舞台装置が動き出す。真ん中の光の当たっているところに、ゆっくりとサブちゃんロボットが登場する。
C: 出たー! カリブの海賊級の精巧さで、本当によくできている。細かい仕草まで完全に再現していて呆れるしかないデキ。
R: 最後の最後までフルパワーでエンタテインメントなのである。これは実際に行ってみて確かめるしかない!

もうあとは爆笑である。爆笑というと失礼に思われるかもしれんが、感心のあまり笑いが込み上げてくるのだ。
サブちゃんロボットはものすごく精巧にできていて、そこにド派手なステージと映像、大迫力の音響で圧倒される。
すげーよすげーよ、こういうことができちゃう日本人って本当にすげーよ!という方向で心から感動した。
これは函館に来たら是非とも目にしなくてはなるまい。特に男子大学生にオススメだ。高校生にはまだ早い。
もし将来、人類が滅亡して地球が廃墟のカタマリになっても、このサブちゃんロボットだけはエンドレスで動いていてほしい。
本気でそう思うくらいに見事なステージなのであった。いやー、笑った笑った。
(後日マサルから「それはまさに『サブの惑星』やね!」というすばらしいコメントを頂戴した。)

 堪能させていただきました。

記念館の最後には土産物売り場があるのだが、係の女性はここでもマンマークなのであった。そりゃ、買わざるをえんわな。
売っているサブちゃんグッズを見ていると、世間のおばさんたちの好みというものが透けて見えて、それはそれで面白い。
それにしてもグッズの種類の多さは尋常ではなく、お守りだのチョロQだのよくまあこんなに思いつくもんだと呆れた。
で、今度の大井川鉄道の姉歯祭りでみんなで食べようと思って、一番人気だというサブちゃん人形焼を購入した。

存分に歩きまわっていいかげん足が疲れた。いったん宿に戻って一休みする。
そして空がすっかり暗くなると、晩メシを食いに再びベイエリアの辺りまで出た。
せっかく港町に来ているわけだから、2日連続になるけどやっぱり海鮮系統でいこうと決めて店に入る。
そしたら店内は恐ろしいほどガラガラなのであった。時計を見るが、しっかり晩飯時である。
首をひねっていたら、店の主人が「昨日までは行列だったんですけど、今日は全然なんですよ」とため息を漏らした。
確かに街全体が閑散としていて、観光客の姿がほとんどなくなっている。昼間の賑わいがウソのようだ。
「3連休の最終日ってことで、もうみんな帰っちゃったんですかねえ」なんて具合に話をするのであった。
店主は客がたっぷり入ることを見込んで大量の仕入れ・仕込みをしていたんだそうで、当てが外れたとガックリ。
「その分しっかりサービスしますよ」と気合を入れてくれるのであった。ありがたい話である。
実際その後、「こんなに盛ったらかえって食べづらいでしょ」「いいんだよ」という会話が奥の方から聞こえてきた。
そして出てきた海鮮丼は、言葉に違わず具が満載。どこから食べていいのやら、誇張でなく5分近く悪戦苦闘した。
でもまあ、おいしいものをたっぷりと味わえたのはありがたいことだ。僕ってこういう運が異常にいいなあ、と再確認。

 これをどこから食えと。

ごちそうさまでした、と丁寧にお礼を言うと、店を出る。そのまま昼間も行った坂道の方へと向かう。
函館の夜は、やはりなんといっても夜景で締めなければなるまい。ロープウェイで函館山に上るのである。
南部坂を上ってロープウェイの乗り場へと歩いていったのだが、坂道で停車しているタクシーの数のすごいこと。
この南部坂もずいぶんと急な坂なのだが、そこに何十台も貼り付いているのはなかなか見ごたえのある光景だった。

あらかじめ函館駅の観光案内所で入手しておいた割引券を提示して、少々お安くチケットを購入。
ロープウェイのゴンドラは、ニューヨークで乗ったルーズヴェルト島行きのトラム(→2008.5.11)とまったく同じものだった。
(調べてみたら、オーストリアのスヴォボダ社製の大型ゴンドラ、125人乗りだそうだ。確かにデカい。)
揺られながら、なんとなく懐かしさを覚えるのであった。海外での思い出に浸るとは、なんだかオトナになった気分だ。

函館山の上に着くと、展望台に出る。より高い方の展望台に行こうとしたら、満月が輝いているのが見えた。
月の光はそのまままっすぐに海へと下りていき、ネイヴィーブルーの海面にひとすじの柔らかな帯をつくっていた。
そこに函館名物であるイカを釣る漁船の明かりがぽつりぽつりと浮いていて、その光景に思わず息を呑んだ。
海なし県で育った僕は、月がこんなふうに穏やかに海を照らす姿など見たことがなかった。
夜の海を見て地球の丸さを実感する、そういう体験は初めてで、しばらくその場に立ち尽くすのであった。

そして、日本いや世界三大夜景にも数えられる函館の街の夜景である。
くびれた砂州の上いっぱいに広がる明かりは本当にきれいだ。この街独特の地形と、それを鮮やかに描き出す光。
周囲を夜の闇に囲まれた中で輝く無数の光点は、人間がここにいるぜー!と強く主張しており、頼もしさを感じさせる。

光によって地形を浮き上がらせること、そのことが人間の力を示している。その事実が美しさを増幅させている。
自然のつくりだした美しさの上に、人間の力が美しさを上乗せしているということなのだ。
「調和」とはこういうことなんだな、と思った。


2008.9.14 (Sun.)

朝の5時半にチェックアウトし、駅に行く途中のコンビニで食料を買い込む。もはや恒例のパターンだ。
そしてJR北海道&東日本パスを自動改札機に通し、目的の路線のホームへと向かう。
クロスシートがなかったので、しょうがないのでロングシートの端っこを占領する。準備OK。

●05:46秋田-08:29弘前 :奥羽本線

ほどなくして列車は動き出し、落ち着いたところで車窓の景色を眺めながら朝ご飯をいただく。
しばらくは稲作地帯が続く。干拓で有名な八郎潟も通過、穏やかな風景が広がっている。
やがて東能代駅で停車。ここから始まる五能線に乗ってみたいなあ、という気がなんとなくしてくる。
きっと山国育ちの僕にはなかなか想像のつかない景色が広がっているのだろう。
まあ、僕は鉄分の少ない人なので、是が非でも乗りたい、乗らないと気が済まない、ということはないが。

大館に近づくにつれ、車内に高校生が増えていく。そのうち、ある事実に気がついた。そして、その事実に驚愕した。
男子も女子も、友だち同士で電車に乗っているにもかかわらず、雑談することなく教科書や参考書を読んでいるのだ。
誇張ではなく、居眠りしている男子1名を除く全員が、電車の中で黙々と勉強をしているのである。隣の車両も同じだ。
しかもよく考えてみたら、今日は日曜日なのだ。日曜日なのに、みんな黙って勉強をしながら学校へ向かっている!
テストが近いのかな?とも思ったが、高校生たちは別々の制服を着ているのに、全員同じように教科書を読んでいる。
第一、テストを前に誰もが悪あがきをするとは限らない。ほぼ全員が勉強しているということは、これが習慣ということだ。
今までそれなりに全国あちこちをまわってみたけど、こんなクソマジメな高校生たちを見たのは初めてだ。
高校生たちはみんな大館駅で降りたのだが、これは実に衝撃的な光景なのであった。秋田県北部、恐るべし。

信じられない光景を目にして唖然としているうちに、電車は青森県へと入る。
やはり稲作地帯となっているには違いないのだが、そのうちすぐに、なるほど青森だ!と思わされるものを目にする。
それは、田んぼの中に突然、リンゴの木が現れることである。田んぼとリンゴの混成部隊が広がっているのだ。
僕は長野県人なので、リンゴがどのように栽培されているかは知っているつもりである。リンゴは果樹園で育つものだ。
しかしリンゴの果樹園が単体で存在するのではなく、田んぼの中に点在する光景というのは、初めて見た。
さすがはリンゴ王国・青森県である。長野県もここまでやらないと勝てないということなのか。

さて弘前駅に到着すると、コインロッカーに荷物を預けて意気揚々と街へ繰り出す。
大学院時代、後輩に弘前出身者がいていろいろ話を聞いていたので、弘前にはちょっと憧れがあったのだ。
予定している滞在時間は3時間半ほど。自分としては、精一杯の配分である。期待に胸を膨らませて歩いていく。
観光案内所はまだ開いてなかったが、駅に地図があったのでそれを見ながら弘前城方面へ。
そして土手町通(県道3号)に出たところでびっくり。今日は商店街でイベントを開催するようで、
通り全体がその準備の真っ最中だったのだ。歩行者天国となった車道にはびっしりと出店が並んでいる。
文字どおりに老若男女が入り混じって忙しそうに支度をしており、ずいぶんと賑やかだ。
盛岡や秋田でも東北弁はチラホラ聞いたが、青森の東北弁は一味違う。より深いところまで染みついている感じがする。
勢いに圧倒されながら商店街を抜けると、北へと針路を変える。弘前名物の伝統建築を味わって歩くのだ。

  
L: 奥羽本線で青森県に入ると、田んぼの中にリンゴの果樹園が点在する光景が目に入る。正直、これには驚いた。
C: 東北地方・ポストの上にいろいろ乗っけるシリーズがようやく復活。弘前駅のポストの上にはリンゴなのであった。
R: 日本キリスト教団弘前教会。きれいに塗りなおしているせいか、あんまり風格を感じられなかったのが残念。

弘前市内には数多くの歴史的建築が残っている。仲町には重要伝統的建造物群保存地区の武家屋敷通りがあり、
明治・大正期の洋風建築も街中のあちこちに点在している。神社仏閣も市街地の南側2箇所にごっそり集まっている。
それだけではなく、前川國男設計の公共施設がやたらめったらあることも有名である。
本当なら一日かけてあちこち見てまわるべきなのだろうけど、3時間半しか滞在しないので超ダイジェスト探訪となる。
こうして帰ってきて日記を書いていると、もったいないことしたなあ……という気分になってしまう。

とりあえずは仲町の武家屋敷通りへ。津軽藩ねぷた村を越えてしばらく行くと、独特の雰囲気が漂いだす。
通りを覗き込んでみると、黒板塀とサワラの生垣がまっすぐに続く景観に出くわし、呆気にとられる。
道の幅は広くないが、黒と緑は目に見えるずーっと先まで延々と続いているのだ。これは見事だ。

 弘前・仲町の武家屋敷通り。これらはほぼすべて現役の個人住宅である。

家によって生垣の手入れ具合はけっこう異なるが、外観の統一感は徹底している。
玄関は門から直接見えないように少しずらした位置にあり、中の住宅はかつての面影を感じさせるものが多い。
過去にタイムスリップしたのではなく、伝統が穏やかに現代と調和した印象がして、こういう生き延び方もあるんだなと思う。
ほとんどが現役の住宅であるが、中には昔ながらの姿をそのまま保存・展示している武家屋敷もある。
武家屋敷通りの奥にある、旧伊東家住宅と旧梅田家住宅を見学してみるのであった。
それにしても、盛岡の啄木新婚の家(→2008.9.12)、角館の武家屋敷(→2008.9.13)と見てきたので、
だいぶ武家屋敷の標準的なスタイルというものが感覚的につかめてきたような気がする。

  
L: 旧梅田家住宅。屋根が見事。  C: なぜかここだけ縁無し畳。ほかはふつうの畳だったのだが。  R: 天井。すごい。

武家屋敷をしっかり堪能した次は、いよいよ弘前城である。北門から入ると、広大な四の丸がお出迎え。
陸上のトラックがつくられ、実に広い。弘前城のすごいところは、とにかく建築物がよく残っていることだ。
天守はもちろん、辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓・追手門・東門・南門・東門・北門(亀甲門)が残り、すべて重要文化財。
広大な敷地は弘前公園として整備され、春には桜の名所として日本でもトップクラスの観光客を集めている。
東口券売所で料金を払って中へ。12月~3月は無料になるそうで、なんだか悔しい気分になるのであった。
北の郭が芝の庭園となっていたのに対し、本丸は砂利がメイン。しかしどちらも木々が多く植えられて明るい雰囲気。
北西には津軽富士こと岩木山。頂上に雲がかかっているのが本当に残念だった。
そして南東の隅には3層の天守が建っている。あまりの小ささにたまげる。これじゃまるで櫓じゃないか。

  
L: 弘前城本丸の様子。かつては本丸御殿もあったというが、今は静かな公園。
C: 本丸からは岩木山を眺めることができる。東北地方にはけっこう印象的な山が多い。雲が本当にジャマ!
R: 弘前城天守を本丸側から眺める。こうして見ると、本当にミニサイズでレプリカっぽい感じ満点である。

と思ったら、弘前城の天守は本当に櫓なのだった。現存する天守が建てられたのが1810(文化7)年ということで、
本格的なものを建てることを遠慮して、櫓を天守の代わりとしたわけである。なるほど、小ぢんまりしているはずだ。
で、中に入る。弘前城に関する歴史的資料が並べられているが、サイズがサイズなのであっさり風味である。
よく見ると建物の端っこには穴が空いていて(石落とし)、来場者が落ちないように網がかけられていた。
これはその名のとおり、攻め込まれた際に石などを落として応戦するためのものだが、高所恐怖症にはちょいとキツい。

  
L: 石落とし。石垣を登ってきた敵を撃退するための穴なのだが、このサイズだと正直ちょっと怖い。
C: 天守の最上階はこんな感じである。  R: さっきの反対側、二の丸から眺めた天守。こっちからだと立派です。

 弘前城追手門。ここから城内に入っていくのが最も一般的と思われる。

それにしても、東北地方の現存天守は弘前城のみなのだが、実際に訪れると見るからに櫓なので、なんだかさみしい。
でもよく考えれば、それは鉄筋コンクリートで堂々とした天守を復元するのとは対極にあることなのだ。
弘前公園は敷地の規模や建物など、歴史ある弘前城の姿をとてもよく残している。
質素な天守はその中心で、かつてあった現実をしっかりと見せてくれているわけだ。
そんなわけで弘前城は、実際に訪れて体で感じてみることの大切さが実感できる場所だと思う。

さて追手門から城の外に出ると、そこにあるのは弘前市役所である。設計は前川國男。
モダニズム全開の本館と、そこから一歩引いて縦に伸びている新館という構成。
交差点に面した部分はオープンスペースで、それを本館と新館が囲んでいる。
そして向かいは追手門広場となっていて、弘前市立観光館が堂々と建っている。
観光客もそれなりにいたが、壁のガラスを利用してダンスの練習をしている女の子が2名ほどいて、
なるほどそんなふうにも使われているのか、と思うのであった。

  
L: 弘前市役所。1957年竣工とのことだが、新館についてのデータはよくわからないのであった。
C: いかにもモダニズムな本館。ファンなら弘前市の前川建築めぐりとかやるんだろうなあ。
R: 弘前市立観光館。追手門広場は地面よりも一段高くつくられていて、観光の拠点となっている。

追手門広場をそのまま抜けると、青森銀行記念館へとたどり着く。
まだ青森銀行が「第五十九銀行」だった当時の本店を、そのまま保存して有料(200円)で公開しているのである。
午前中だったせいか、ほかに客はいない。青森銀行内で記念館勤務は閑職かもしれないなー、と失礼なことを考える。
でも客への対応はどことなくキビキビしていて、博物館ではなく銀行のそれ。さすがだなあ、と妙に感心。
スリッパに履き替えて、かつての窓口の内側へと入る。青森銀行の歴史的な資料のほか、昔の貨幣も展示されていた。
なかなか細かい内容のものが多く、フロアをきっちり展示物で埋めようという意思が感じられた。
2階に上がるとホールになっており、金唐革紙が張られた天井が壮観。かつての地元の誇りがフルパワーで迫ってくる。

  
L: 青森銀行記念館(旧第五十九銀行本店本館)。明治37年築とのことだが、非常に外観がきれいである。
C: 正面から撮影。弘前市内の歴史的建築の中でも特に状態がいい。企業がきちんと管理しているからかな。
R: 2階ホールの様子。良い建築は天井が美しいものだ、というのが僕の持論なのである。金唐革紙が見事。

さて、電車の時刻まであんまり余裕がない。小走りで弘前駅を目指すが、歩行者天国はいよいよ本格化。
土手町通はまっすぐ歩くことができないほどに混みあっていた。あらゆる年代の人、人、人が通りを埋め尽くす。
しかもそれがかなりの距離があるアーケードの商店街にみっちり詰まっているのである。
弘前おそるべし、と心の底から思うのであった。いやもう本当にこれには参りました。

 ぎゃー! なんじゃこりゃー!

どうにか商店街を脱出すると(時間があればのんびり買い食いしたかったなあ)、弘前駅に到着。
観光案内所もチラッと覗いてみたのだが、あまりパンフレット類が充実していなかったのは残念。

●11:54弘前-12:36青森 :奥羽本線

40分ほどで電車は青森駅に到着。今日もガッツリと中身の濃い午前中を過ごしたおかげで、
なんだか24時間のまだ半分という気がしない。ふだんのだらけた生活のせいで、今にも日が暮れそうな気分だ。
しかし太陽はきちんと南の空の高いところで照りつけている。気合を入れて、歩きまわってやるのだ。
ロータリー脇の観光案内所で青森市内の地図を手に入れる。ざっと見てみるが、市役所がなかなか遠い。
面白いというかさすがというか、青森市の観光案内所には函館市のパンフレット(というよりは冊子)が置いてあった。
うーむなるほど、なんて具合にうなりつつ、その函館案内冊子ももらって、いざ青森市街に出発。

青森駅のロータリーからはまっすぐに、新町通りというアーケード商店街が伸びている。
それをまっすぐに東へと進んでいく。なかなか賑やかで、歩いていてけっこういい気分である。
横断歩道を渡る途中で左手に巨大な三角形がそびえているのを目にして驚く。これは後で行ってみなければと思う。
で、予約していた宿は県庁通りにあったので、荷物を預けるとそのまままっすぐ南下する。

  
L: 青森駅。東北地方のほかの県庁所在地に比べると古めの駅舎だが、つねに人通りがあって賑やかだった。
C: 市街地の北にそびえる巨大な三角形・アスパム(青森県観光物産館)。中には青森土産売り場がぎっしり。
R: 新町通り。かなり東の地点から、西の青森駅方向を眺める。青森で最も元気な通り。

まずは青森県庁北棟のお出迎えである。昨日の秋田県庁もそうだったが、これまた典型的な第二庁舎だ。
県庁本体の斜向かいに位置しており、道を挟んだ隣の青森県警本部を経由した連絡通路で本体につながっている。
敷地の南側は「青い森公園」。緑の多い部分と日差しのキツいオープンスペースとの対比がけっこう激しい。
こりゃかなわんなあ、まぶしいなあと思いながらも撮影していく。

 青森県庁北棟を青い森公園越しに撮影。

そして青森県庁の本体である。これがまあ、すさまじく地味。まず色がはっきりしない。
形もまったく個性がなく、ベランダがついてりゃまるっきり古い団地に見えてしまうくらいだ。
建物は正確には4つに分かれている。北側が議会棟で、あとは東棟、西棟、南棟となっている。
青森県庁は、1961年の竣工当時には議会棟・東棟・南棟による「コ」の字型配置のみだった。
後からできた西棟は、同じ色をしていてもやっぱりかなりの違和感がある。
議会棟・東棟・南棟の設計は谷口吉郎ということでびっくりした。全然そんな感じがしない。
青森県サイドは派手なものを嫌ったというが、それにしても「つまらなすぎる」印象がする。
もっとも、もともとの「コ」の字のままであれば、この建物はかなり印象が違っただろう。
本来オープンスペースだった部分を巨大な西棟が埋めてしまったことで、
県庁全体が単なるベージュのカタマリになってしまった、そういうふうに捉えることもできると思う。

  
L: 青森県庁。左手が西棟、右手が南棟。新しい西棟は、かつてオープンスペースだった場所を埋めている。
C: 今度は左手が南棟、右手が東棟という角度から撮影。道路からは足元の様子がつかみづらい建物だ。
R: 裏手の議会棟。東棟から出ている連絡通路はまず真北の県警本部に入り、そこから東に出て県庁北棟につながる。

青森県庁の撮影を終えると、そのまま広い国道を行く。ややこしいのだが、この国道は青森県庁までは国道7号で、
すぐ東の青い森公園から先は国道4号になるという。本州の最北端・青森県ならではだねえ、と妙な実感を覚えた。
(国道4号は東京・日本橋を起点に太平洋側を通り、国道7号は新潟を起点に日本海側を通っている。)
で、そんなだだっ広い道路を日陰を求めつつ東へ。これまただだっ広い柳町通りを渡って少し行くと、青森市役所だ。

さて青森市役所に着いたはいいが、やっぱりこれまた、すさまじく地味である。県庁同様、微妙な色合い。
役所というよりは、理系の大学の中にありそうな建物という印象がする。とにかく飾りっ気がない。
しかし意外と幅があり、広大な駐車場を挟んでもカメラの視野にきれいにおさまらない。
市役所前のバス停のところに、市役所の沿革を説明した案内があった。正面の第1庁舎は1956年竣工とのこと。
その後、1965年に裏側の第2庁舎が竣工。東には議会棟がくっついており、あとは離れて第3庁舎がある。

  
L: 四角+入口+屋上=青森市役所。  C: 入口部分をクローズアップしてみた。ここまで地味だとモダニズムと呼べないよ。
R: 市役所の横側。左が第1庁舎で、右が第2庁舎。それにしても青森市役所は駐車場だらけである。

いちおう敷地を一周して、議会棟も見てみる。こちらは色も形も本庁舎と異なっている。

 
L: 青森市役所議会棟。こちらはばっちりモダニズム。  R: 階段をガラス張りの吹き抜けっぽくしているのがわかる。

ということで、今回の主目的である「北東北3県の県庁・市役所探訪」は、これにて完了。
あとは青森市街をのんびりぷらぷらと歩きまわるだけである。地図を眺め、気ままにあちこち行ってみるのだ。

とりあえず新町通りに戻ろうと、さっき横断したやたらと広い柳町通りを北上していく。
この通り、両側に商店が並んでいるが、まったく活気がない。道の幅が広すぎるし、駅から離れすぎているのだ。
かつてはこの柳町通りが青森の中心市街地の明確な東端となっていたのだろうけど、その面影がほとんどない。
新町通りの元気さと比べると、その差はあまりに残酷すぎる。難しいものだとあらためて思う。

青森駅を目指し、新町通りを軸にしてふらふらと西へ進んでいく。
その途中にあるのが善知鳥(うとう)神社。かつて青森市は善知鳥村と呼ばれていたのだ。
初代の青森町役場はこの神社に置かれていたそうだが、まあつまりは青森を代表する場所のひとつなのである。
青森に来たからには、こりゃあ是非とも参拝せにゃいかんだろ、ということでお参りをするのであった。
ちなみに善知鳥神社の所在地は青森市安方2丁目。善知鳥安方ということで、地名の豊かさを感じる事例だ。
(ウトウの親が「ウトウ」と鳴くと、子が「ヤスカタ」と答えるという。善知鳥安方という人が浄瑠璃にも出てくる。)

新町通りに戻るとやっぱり西へ。すると、駅の程近くになって真っ赤で巨大な建物が目の前に立ちはだかる。
これは駅前にあった市場を再開発したことで生まれた施設・アウガ(AUGA)である。上の階は図書館などの公共施設。
そして市場はこの地下に新たにつくられた。ちょっと見てみるか、と階段を下りたら、なるほど確かに市場。
下関の唐戸市場(→2007.11.4)などとまったく同じで、さまざまな店が軒を連ねて見事な賑わいを見せていた。
巨大な施設の地下というのは妙な違和感があるが、その活気はまったく変わらない。歩いているだけでも楽しい。
(アウガは駅前商店街の核として機能しており、新町通りに元気さをもたらした再開発の成功例として知られている。)
そして面白いのが、魚介類・干物を扱う市場であるにもかかわらず、かなりの割合の店がニンニクを売っていたことだ。
青森県はニンニクの生産日本一(国内生産量の約80%を占めており、田子町(たっこまち)が特産地として有名)だが、
それを考慮しても、まさか魚屋でニンニクとは。実に興味深い。

  
L: 善知鳥神社。市街地にあるが緑に囲まれ、奥には池もある。「青森市発祥の地」としてアピールしているのだ。
C: アウガはとにかく巨大で色もドギツい。ニワトリをイメージしたとか。正直なところ、周囲とのバランスがとれていない気もする……。
R: アウガの地下は市場である。けっこう敷地は広いのだが、そのすべてのエリアで店が元気に営業中。

青森は都会かと言えば、ほかの県庁所在地に比べればそれほどでもないだろう。弘前という有力な街も近い。
しかし、3連休の中日ということを差っ引いても、活気があるように感じた。街を歩く人が多いのだ。
青森市内で観光名所といえば、まず三内丸山遺跡(車じゃないと遠い)で、あとは浅虫温泉、終わり!ってなもんだろう。
市街地ではアウガとアスパムで青森名産の各種食料品をたっぷり売っているけど、ほかにこれといった施設はない。
だから僕なりの表現(→2007.10.9)では、青森は「空間的には貧弱で、ねぶた祭りのときに大爆発する街」となる。
でも、実際にこうしてねぶた祭りのない時期の青森に来てみても、退屈な感触はあんまりしないのだ。
こりゃいったいなんなんだろう、そんな疑問を肌で感じながら、さらにあちこち歩いてみることにした。

青森駅のすぐ北には青森港があり、駅と港の間には青森ベイブリッジが架かってランドマークとなっている。
高いところは苦手なのだが、来たからにはチャレンジしないと損なので、わざわざ階段を上って渡ってみた。
車道も歩道も十分な幅がとってあるので、怖いんだけどもけっこう安心して渡ることができる。
アスパム方面へと向かって歩くが、左手には海、右手には街、そして頭上には空が広がっていて、気分爽快。
青森湾の海水は、真っ青な空を映して澄みきった青に染まっている。今は夏であり、そして秋でもある季節なのだ。

 青森ベイブリッジ。これを歩いて渡ったのだ。

アスパムに到着すると、何やらイベントが開催されているようで、人出がすごい。世間は3連休なのである。
中に入ると、まず1階の青森土産売り場をウロついてみる。かなりの活気だった。
そしてエレベーターで13階の展望台へ。エレベーターを出たところで400円を払って入場。
入場券にはカップドリンクのサービス券(カード)もついてくる。それを飲みつつ景色を眺める。


南側、青森市街を眺める。


こちらは北側、青森湾。津軽半島と下北半島の向こうには津軽海峡、そして北海道があるわけだ。

青森の街には明確なランドマークがない。そのことを意識してか、アスパム・ベイブリッジ・アウガのように、
最近つくられたものは目立つように派手な仕上がりになっている。そういったやり方には功罪両面があるだろう。
僕のような旅行者には、街を味わう切り口が多ければ多いほど楽しめるという事実があるのみだ。
アスパムやベイブリッジがなければ、青森湾の眺めに感動することはなかっただろう。それだけだ。

アスパムから外に出ると、青森湾をもう少しブラついてみる。かつての青函連絡船・八甲田丸の脇を抜け、
太公望の皆さんたちが釣り糸を垂らしているコンクリートの突端へと行ってみた。僕の原風景にはない光景である。
9月の海はクラゲがけっこうプカプカユラユラと浮かんでいた。

 
L: 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸。中は有料で見学可能。  R: コンクリートの突端より眺めるベイブリッジ。

太陽の光は夕方のものへと変化しつつある時刻。寝転がって打ち寄せる波の音を聴いてボンヤリ過ごす。
空は吸い込まれそうになるほどに青い。デキの悪い試験が終わって今後は不安だらけだ。
ゆっくり深呼吸しながら覚悟を決める、そんな感じでぼけーっとするのであった。
2時間ぐらいそうやっていたら、さすがに飽きた。コンクリートを戻って青森駅方面へ。
ちなみに魚が釣れた様子の人は誰ひとりとしていなかったのであった。

宿に戻り、空が暗くなって晩飯どきになって、再び街へと繰り出す。
昼間あたりをつけておいた、アウガの地下にある食堂へと入る。
迷った末に、定番と思われる刺身の定食を注文する。
出てきた刺身は数は多くなかったが、とにかく分厚くて、食べてるこっちがとろけそうになるほどうまかった。
こんなの長野県じゃ食べることができないし、東京ではお目にかかる機会がない。
こういうものがポンと出てくるってのがすげえよ、とひたすら感動するのであった。

 
L: 刺身定食なのである。食べることは幸せなのである。  R: 新町通りに浮かぶ中秋の名月。

アウガから出て、ふと振り返ってみたら、見事な満月が浮かんでいた。今夜は中秋の名月だったのだ。
昔の人は偉いもので、確かに中秋の名月には、ほかの満月にはない特別な美しさがある。
海がきれいだったり食べ物がおいしかったり月がきれいだったり、旅先で些細なことに感動できるのって、
それはとても喜ばしいことではなかろうか。今回の旅も存分に楽しめている。本当にうれしいことだ。


2008.9.13 (Sat.)

今日も元気に各駅停車なのである。まだ薄暗いうちに宿を出て、駅へと向かうのが日課なのだ。
岩手の次は秋田ということで、途中で寄るのは角館。武家屋敷があまりにも有名な観光名所である。
コンビニで朝メシを買い込んでおき、盛岡駅の改札を抜けると田沢湖線の始発電車に乗り込む。

●05:22盛岡-06:54角館 :田沢湖線

電車が発車すると、ゆっくりと空が明るくなっていく。最初のうちは田んぼが広がる田舎の光景。
しかし見事なまでに濃い霧に包まれており、どこか幻想的な雰囲気がするのだった。
電車は奥羽山脈の中へと入り込んでいく。田んぼに代わって、背の高い木々の緑が車窓を埋め尽くす。
霧と緑、そしてたまに川が姿を現す。人を寄せつけないような自然が目の前に現れて、なんだか圧倒されてしまう。
人間の入り込めない深い山の中を突き抜けて、電車は走る。その光景は延々と、とにかくひたすら続く。
やがて電車は国道と併走するようになり、景色も穏やかな農村といった感じになる。
そして田沢湖駅に着くと長めの停車となり、高校生がちらほらと乗ってきた。すこし活気が出てきて、発車。
途中の駅で秋田新幹線「こまち」とすれ違う。路線の規模にまったくふさわしいと思えない、堂々とした車両だ。
各駅停車には各駅停車の味があるわけだけど、利便性を考えるとやっぱり新幹線がうらやましい。
そんなことを思っていたらいきなり角館駅に到着。なんだかずいぶん唐突に感じた。

角館に着いたはいいが、7時前なので閑散としている。観光客も僕のほかにはほとんどいない。
とりあえず駅で地図を入手したので、コインロッカーに荷物を預けて歩きだす。停車するタクシーは時間のわりに多かった。
地面はまだ濡れている。さっきまで雨が降っていたようだ。自販機には小さな羽虫がいっぱいついていて、
角館ってのはいかにも高原というか山の中なんだなあと実感するのであった。

商店の点在する通りをしばらく行くと、角館の中心部に出る。まずは田町武家屋敷がお出迎えである。
角館の都市構造はかなり特徴的である。真ん中の火除けと呼ばれる防火帯によって南北に分けられるのだ。
北にあるのは武家町の内町。南にあるのは町人町の外町(とまち)。田町武家屋敷は南側・外町に位置しており、
やや小規模で小ぢんまりとした印象のする場所である。新潮社記念文学館のほか、何軒も屋敷が並んでいる。
さらに西の方へと進むと、安藤醸造元がある。味噌や醤油の醸造元で、明治期のレンガ蔵が見事だ。
外町で残っている歴史的な建物はそれほど多くない。しかし街並みはなんとなく昭和を感じさせてくれる。
朝の光を浴びながら、のんびりとした懐かしい風景の中をゆっくりと北上していく。
郵便局から商店街を抜けると、妙に広い道。さらに進むと左手に庁舎建築が現れる。
仙北市役所角館庁舎(旧・角館町役場)である。角館は田沢湖町などと合併し、今は仙北市の一部となっているのだ。
この庁舎は上述の火除けに位置している。その東には空き地のような公園を挟んで図書館が建っている。
今も火除けの風情を残しているのはこの辺りのみである。そしてここを越えると、本格的な武家屋敷となる。

  
L: 安藤醸造元。中に入って見学もできるのだが、いかんせん訪れた時間が早すぎた。それにしてもレンガ蔵が見事。
C: 仙北市役所角館庁舎。町役場テイスト満載のスケール。  R: 火除けの雰囲気を残す一角。奥にあるのは図書館。

さあいよいよ角館の誇る武家屋敷通りへと入る。南側の外町と比べると、内町の迫力は段違い。
どっしりと幅の広い道に黒板塀、そして背の高い緑が空を覆う。武家屋敷は日本のあちこちに残ってはいるけど、
このような景観はほかではお目にかかれないだろう。非常に独特なその姿に、しばし呆けて立ち尽くす。
住人なのかボランティアなのか、落ち葉を掃除する皆さんと挨拶を交わしつつ、景色に見とれながら歩く。

  
L: 角館・武家屋敷通り。これは内町南側の東勝楽丁。とにかく道の広さと静かな雰囲気に驚いた。いやー、これは凄いわ。
C: 東勝楽丁の北端には、かつて小学校があったという公園がある。建物が建つことなく、今もそのままとなっている。
R: 内町北側の表町下丁。通りいっぱいにシダレザクラが植わっている。こういう光景は世界でここだけだろうなあ。

角館の武家屋敷は公共の財産となっているものもあれば、私的な所有物でも好意で一部を公開しているものもある。
店舗となっているものは意外と少なく、どれもできるだけ商売っ気を目立たないように抑えているのが印象的だった。
(秋田名物ということで、稲庭うどんの店がいくつかあった。稲庭うどんは秋田県南端の湯沢市(旧・稲川町)の名物で、
 角館は無関係だと思うのだが……。まあでもそれを言えば、秋田市で稲庭うどんを食うのもおかしくなっちゃうもんな。)
最も多いのは、門に「非公開」と表札のように出してある屋敷。これは住民が家を守っているからこそ成り立つ景観なのだ。

  
L: いかにも角館っぽい風景、もみじと黒板塀。  C: 武家屋敷の門からは美しい庭が見える。納得の一枚なのである。
R: 武家屋敷通りの店舗はかなり気をつかっているのがわかる。これは稲庭うどんの店で、江戸時代には寺子屋だったそうな。

早朝の極めて静かな時間帯に訪れたこともあり、武家屋敷通りにはなんとも言えない凛とした空気が漂っていた。
ゆっくり歩いて、この場所が持つ雰囲気を体で覚えながら過ごした。ほかに観光客がいないので、独り占め気分である。
しかしさすがに早く来すぎたため、まだ公開時間になっておらず、武家屋敷の門は閉ざされたまま。
しょうがないので国道まで出て、桧木内川(ひのきないがわ)堤のソメイヨシノを眺めて歩いた。

 
L: もうトンボの季節なんだなあ、と。  R: 古城橋から桧木内川を眺める。釣り人がけっこういた。

そうこうしているうちに9時近くになり、何軒かの武家屋敷の中に入れるようになった。
さっそくおじゃましてあちこちを覗いてみることにする。時間がない中、量をこなそうということで、
入場無料の武家屋敷を攻めることにした。有料の屋敷にも入りたかったが、対価に見合うほどゆっくりしてらんないのね。

  
L: 小田野家。順路どおりに行くと、そのまま隣の河原田家に入る仕組みになっている。
C: 河原田家の中はこのようになっている。襖絵が実に見事ですなあ。
R: 河原田家の庭。角館の武家屋敷は庭の木々の茂り方がすばらしいと思う。

  
L: こちらは岩橋家。とっても居心地の良さそうな縁側である。映画『たそがれ清兵衛』(→2003.10.27)のロケ地だそうだ。
C: 裏手にある井戸。庭が広いなあ。  R: 囲炉裏。武家屋敷が全面座敷だと思ったら、それは間違いなのである。

ぼちぼち列車の発車時刻が迫ってきている。角館の中心部は駅から離れているので、あんまりのんびりもしていられない。
できるだけ隅から隅までうろうろ歩いて武家屋敷の感触を確かめると、少し早足で駅まで戻る。
観光客のほとんどいない時間帯だったおかげもあって、角館の本来の雰囲気を存分に満喫することができた気がする。
でも、賑やかなところもまた見てみたかったとも思う。とにかく、この独特な空間体験は非常に貴重なものであった。

 郵便局前のスペースでは朝市が始まっていた。

田沢湖線の各駅停車は本数が極めて少ない。9時43分角館発を逃してしまうと、13時46発まで4時間待ちとなるのだ。
角館は「こまち」で来るところなのかと思う。貧乏人に冷たい世の中である。世知辛いのである。
観光案内所「駅前蔵」のお世話になるヒマもなく、素早く荷物を回収して改札を抜けるのであった。

●09:43角館-10:03大曲 :田沢湖線

時間的にはこれから観光客の動きが本格化するわけで、そういう時間に角館を離れるというのはとても残念だ。
とはいえモタモタしているわけにはいかないのである。おとなしく電車に乗り込んで西へと向かう。
風景はいかにも秋田県らしい、田んぼばかりのものとなる。平らな大地は稲の穂でいっぱいなのだ。
途中で停まる小さな駅は、稲の海の中に浮かぶコンクリートの島のようなもんだ。穀倉地帯だなあ、と思う。

終点の大曲に到着すると、しばらく時間があるので辺りを散策する。大曲は平成の大合併で大仙市となった。
市役所は旧大曲市役所なのだが、30分足らずで往復・撮影するのには厳しい場所にある。
しょうがないので駅周辺を徘徊して時間をつぶす。でも特に目ぼしい店があるわけでもないので、
結局は駅舎にくっついているコンビニで立ち読みとなるのだった。虚しい時間の使い方である。

大曲駅の駅舎は比較的新しく、なかなか強烈なファサードだったので撮影してみる。
正面からだと何の変哲もないオシャレなデザインに思えるが、横から見るとその凝り方がよくわかる。
無数の棒が縦に並べられているのだが、建物の左端ではその棒は「/」と下が前に出ていて、
建物の右端では「\」と上が前に出ているようになっているのだ。これが連続してなめらかな曲面となっている。
これは「大曲」という地名から生まれたアイデアなのだろうか。なかなか面白い工夫だと思う。

 
L: 大曲駅の駅舎はこんな感じ。  R: 横から見ると、棒を並べて曲面をつくっているのがわかる。

時間が迫ってきたので、改札を抜けて奥羽本線のホームへ。
やっぱり各駅停車は手間がかかるなあと思っているうちに発車。

●10:28大曲-11:20秋田 :奥羽本線

奥羽本線の車窓の風景は、大曲へと至る田沢湖線の風景とほとんど変わらないのであった。
あまりに変化に乏しいので、少し眠気に襲われる。うーん、今日もまずまずいい天気だ。

秋田駅に到着。まずはメシでも食ってやる気を出そうと、駅周辺を軽く歩きまわってみる。
しかし目についたのはファストフードの店ばかりだったので、駅ビルに引き返してレストランの階に直行。
秋田名物というわけではないのだが、カツ丼をいただいて気力がみなぎるのであった。
そして駅にほど近い宿に荷物を預けると、秋田県庁・秋田市役所を目指して歩きだす。

 秋田駅はよくわからない形をしていて、写真に撮ってもなんか違和感がある。

秋田県庁と秋田市役所は、道を挟んで向かい合っている。これは撮影するのには好条件ではあるのだが、
いかんせん、駅・市街地からかなり離れた場所にある。とにかく遠いのだ。両方揃って遠いというのはなかなか珍しい。
でもまあ時間はたっぷりあるので、ヘタに疲れることのないように、のんびりと歩いていく。
さて、秋田市の中心市街地は特色のある構造をしている。駅からは広小路(県道26号)が西へと伸びているが、
その南側では中央通りと呼ばれる道路が平行に走っており、この2本の道路が駅前の核となっているようだ。
しかし両者とも、旭川にぶつかったところで終わる。そこから西へは、ちょうど2つの道路の中間の位置から、
竿燈大通り(その名のとおり竿燈祭りの舞台となる)がまっすぐ伸びる。そして県庁と市役所は、この道路を挟んでいる。
東北三大祭りの舞台となるだけあって、本当に広い道である(むしろ竿燈祭りの舞台にするためにつくったのか?)。

だだっ広い道をひたすら歩いていくと、オフィスビルや銀行の本店の向こうに秋田県庁第二庁舎が見えてくる。
真四角の体に屋根をかぶった姿は、絵に描いたように典型的な実務専門・第二庁舎のスタイルだ。
そしてその奥には全身茶色の秋田県庁舎(本庁)が見える。こちらにもオシャレな要素がほとんどみられない。
『都道府県庁舎』(→2007.11.21)によれば、秋田県庁舎の竣工は1959年。実はかなり古い建物なのだ。
この時期、丹下健三の香川県庁舎(→2007.10.6)や旧東京都庁舎が市民を意識した新しい庁舎としてつくられた。
しかしそれに対し、庁舎とは本来、実務性を重視したものであるべきだ、という考え方も存在しており、
秋田県庁はその実務重視のオフィスとして建設されたという。そういう意味で、この庁舎も歴史の証人なのである。

  
L: 竿燈大通り。実はこの地下には、秋田駅をくぐって東西に抜ける道路が通っているのだ。なんとも豪快な発想だ。
C: 秋田県庁の本庁。設計は建設省営繕局。建設省は国の機関だが、この時期、県庁舎の設計に積極的に関与した。
R: 県庁・市役所周辺から第二庁舎を振り返ったところ。庁舎建築において個性とは否定されるべきものなのか。

 秋田市役所のオープンスペース越しに眺めた秋田県庁舎。

  
L: 秋田県庁舎の裏側。右手が県議会議事堂になる。議事堂の裏がちょっとした庭になっているほかは駐車場ばかり。
C: 正面から見た議事堂。  R: 議事堂の東側にはこのような新しい建物がくっついている。増築したようだ。

秋田県庁を撮り終えると、次は竿燈大通りを挟んだ向かい側、秋田市役所である。
これがまた見事に昭和30年代コンクリ庁舎の典型で、隣接する議場棟も当時の流行をよく反映している。
秋田県人は質実剛健な気質なのかねえ、と思いつつ、敷地を一周してみるのであった。

  
L: パノラマ撮影すべきだったのかな? とりあえず秋田市役所の議場棟。初期コンクリによくみられる造形だ。
C: 議場棟と本館をつなぐエントランス。  R: 秋田市役所は1964年竣工。たぶん竣工した当時からほとんど変わらないと思う。

県庁と市役所の撮影を終えたので、市街地を目指してトボトボと帰ることに。
でも来た道をそのまま引き返すのは芸がないので、地図を見て気になった寺町通りを歩いてみることにした。
寺は広い敷地の中に大きくて頑丈な建物を構えているため、市街地で戦闘が起きた際には守備の拠点となる。
だから寺を帯状に配置して防衛線をつくるという戦略的な理由により、城下町では寺を集中させるものなのだ。
秋田市街の西側にはそのような役割を託された寺が現在も約40残っており、寺町通りを形成している。
そしていざ寺町通りを歩いてみると、なんだか変な感じである。さすがに寺はだいぶ近代化していて、
住宅とあまり変わらないコンクリートの塀で敷地を覆っている。でもその中身は確かに寺。
植えられた木々と塀から覗いている墓石が、どこか冷ややかな空気を周囲に吐き出しているのである。
そういう空間が隙間なく続いているため、歩いているとやっぱり、微妙に日常からズレた感覚がするのだ。
南池袋の一角に似た、どこかマイナスというか、空の晴れきらない感じが漂っている(→2008.7.27)。

 寺町通り。住宅もあるが、寺ばかりなので人口密度をあまり感じない。

寺町をいっぱいまで南に下ると、旭川まで出て繁華街である川反(かわばた)通りを北へ戻る。
夜の賑わいまでにはまだ時間があり、通りは実に静かだ。日が沈めば、まるで別世界のようになるのだろう。

そんなこんなで歩きに歩いて、宿まで戻った。午前中の角館でもしっかり歩いているし、県庁と市役所が遠かったしで、
なんだかすっかり疲れた。チェックインを済ませて本日の部屋に入ると、テレビの電源を入れてしばらく休憩。
夕方、日の暮れる前の時間帯はローカル局の個性が出る部分である。電波の中の秋田らしさを味わって過ごす。
しかし落ち着いて考えてみると、秋田市というのは目玉となっている観光施設がこれといってない街である。
駅前の商業施設、竿燈大通りの行政施設、それ以外に特に行ってみようという場所がないのだ。
四国旅行のときに考えた、「時間で盛り上がる街」(→2007.10.9)なのかもしれないと思う。
寒い東北地方と南国の、相違点と共通点。考えるとどんどんこんがらかっていく。

さて、本格的に日が暮れてしまう前に、秋田の街の核である久保田城址に行っておかねばなるまい。
ややこしいのだが、秋田市は久保田城の城下町であり、秋田城の城下町ではないのである。
(秋田城は奈良時代から平安時代にかけての城であり、戦国~江戸時代とは関係がない。)
もともと秋田にはもう少し北西に出羽湊城があり、戦国時代には安東愛季(後に秋田に改姓)が治めていた。
その後、関が原の合戦で西軍寄りの態度を示した佐竹義宣がこの地に減封となった(54万石→20万石)。
(なお、佐竹義宣は「鬼義重」と呼ばれて恐れられた常陸(今の茨城県)の戦国大名・佐竹義重の子である。)
家臣の多かった佐竹氏には出羽湊城が手狭だったため、新たに久保田城を築城することとなったのだ。

そんなわけで、体力がすっかり回復すると部屋を出て、久保田城址を目指して勢いよく歩きだす。
佐竹氏は秋田市において絶大な支持を得ていたようで、今でも家紋の日の丸扇をあちこちで見かける。
大手門通りをまっすぐに行き、坂道を上ってまずは彌高神社へ。巫女さんが何やら作業をしている中、参拝。
そのまま二の丸跡に出て、復元された表門をくぐる。本丸跡は細かな砂利が敷かれ、緑が多く落ち着いた雰囲気だ。

 千秋公園・久保田城本丸跡。かなり広いように思う。

奥へと進むと、これまた復元された御隅櫓にたどり着く。中は佐竹氏の歴史について展示したスペースと展望台である。
入場料100円を払って中に入る。閉館時刻まであと少しということで、急ぎ足で説明を読み、階段を上がる。

上でも述べたが、秋田市には目玉となっている観光施設がこれといってない。
また、歩きまわって、駅前の商業施設・商店街はお世辞にも活気にあふれているとは言えないと感じた。
街に県庁所在地としての迫力は十分にある。しかし、それは生活感と直接結びつくものではない。
でもこうして御隅櫓から眺める秋田の街は、見渡す限り、住宅で埋め尽くされていた。
この場所で暮らす人々は、たくさん存在している。そのことを確かめて、複雑な気分になる。
観光で訪れる人とその場で生活している人とでは、街の見え方が違う。あらためて考えさせられた。

秋田県民会館の脇を抜けて久保田城址をあとにすると、晩メシを意識しつつ市街地をぶらぶら歩いてみる。
秋田駅の西口からはまっすぐに商店街が伸びている。途中まではアーケードで、仲小路という名だ。
広小路と中央通りのちょうど中間の位置にある仲小路は、歩行者スケールののんびりとした道である。
駅の近くにはデパートが2つあるのだが、やっぱり商店街と同様になんとなく元気がないのが気になった。

いいかげんガマンができなくなったので、晩メシをいただくことにする。
秋田の名物ということで、稲庭うどんを食べるのだ。上述のように本来は湯沢市名物だが、細かいことは気にしないのだ。
なお、きりたんぽ鍋という選択肢もあるにはあったが、やはり一人鍋はキツいので、今回はパスするのだ。
で、温かいうどんと冷たいうどんの両方を味わえるセットを注文する。稲庭うどんは初めてなのでドキドキである。
しばらく待ってうどん登場。その細さにびっくりする。昨日に続き、所変われば品変わるなあと思うのであった。
いざ口にすると、なんだか繊細な風味がして面白い。何にも似てない、「稲庭うどん」としか形容しようのない食感に、
麺類とは奥が深いものだなあと実感。世の中いろいろなものがあって楽しいですなあ。

 
L: 秋田駅西口から伸びる通路を抜けて仲小路に出たところ。夕方なのに人が少ない……。
R: 稲庭うどん、温かいのと冷たいのが両方味わえるセット。どっちもおいしかったよ。

ところで、秋田といえば秋田美人である。さぞかし街には色白美人がひしめいていて、
あっちも美人、こっちも美人でウハウハシュポシュポな世界だと期待していたら……現実はそんなでもなかった。
いや、確かに美人はいた。いたけど、美人で街が埋め尽くされているような状態にはほど遠いのであった。
(でも全般的に、なんとなく彫りの深い顔の女性が多かったような気がしないでもない。いいかげんな印象として。)
色白の人はむしろ少なく、山形(→2007.4.30)はおろか、新潟(→2007.4.28)にもはるかに及ばないように思う。
『秘密のケンミンSHOW』の「○○県の中心で愛を叫ぶ」のような展開を密かに期待していたのに。
東京一郎(あずま・きょういちろう)のようになってみたいと思っていたのに。残念無念。


2008.9.12 (Fri.)

旅行初日に仙台・松島を設定したのには、前回の東北旅行で雨に降られたリベンジという要素がある(→2007.5.2)。
しかしそれ以上に、各駅停車での移動を義務づけられているため、少しでも北へ進んでおくという目的があった。
朝早いうちに出発して、午前中に有名な観光地を寄り道する。そして午後に県庁所在地を歩きまわる。
それが今回の基本的なパターンとなる。そして旅行2日目の本日は、平泉に寄り道してから盛岡入りをするのだ。

●06:00仙台-07:30一ノ関 :東北本線

雨である。昨日の夜に降りはじめた雨は、まだ止まない。ため息をついているうちに、電車はさっさと発車。
しかし雨は場所によって激しかったりサッパリだったりの差があり、一関に着いたときにはギリギリ止んだ感じに。
乗り継ぎまで15分、とりあえず改札を出て駅周辺で過ごす。一関の市街地は特に何かあるってわけでもないなあ、
なんて思っているうちに次の列車の発車時刻が迫ってきたので駅へと引き返す。

●07:45一ノ関-07:53平泉 :東北本線

一関から平泉までは見てのとおり電車で8分程度の距離なのだが、平泉に着いたらザンザン降りなのであった。
一緒に電車を降りたほかの観光客の皆さんとしばらく途方に暮れるが、じっとしていてもしょうがないので準備をする。
平泉駅は観光地といえども確かに「町」レベルの駅で(平泉町)、待合スペースの奥に土産物屋がある程度。
とりあえずそこでカロリーメイトを買って、荷物をコインロッカーに預けると、折りたたみ傘をさして国道4号を北へ行く。
駅に置いてあった地図を頼りに、カロリーメイトをもぐもぐかじりつつ、雨の中をのんびりと歩く。

けっこうな距離があるものと覚悟をしていたけど、思っていたよりすんなりと歩道橋を発見。中尊寺入口に着いた。
「関山中尊寺」と彫られた石柱の先を進むと、道はけっこう急な上り坂となる。月見坂と呼ばれる参道である。
まずまずきれいにしてあるのでそんなに違和感はないが、雰囲気としてはけっこうな山の中。
それでも本堂や金色堂までの距離を示した案内板がしっかり出ているので、不安になることもなく歩いていく。
やがて道はわりかし平らになり、左手にお堂が現れる。弁慶を祀った弁慶堂である。右手は展望台。
軽くお参りしてさらに先へと進むと、またお堂がいくつか。そして右手に本堂が現れた。さっそく参拝。

  
L: 中尊寺入口。すぐに上り坂になる。それなりに急で小石が多いので、雨の日は気をつけましょう。
C: 月見坂。中尊寺は山の中にあるのだ。しばらく行けばお堂の点在する中心部に入る。
R: 中尊寺本堂。明治時代の建物で、今は特別に金色のご本尊を中に置いていた。

本堂の向かいは土産物屋になっていたけど、さすがにまだ早いようで開店前。
とりあえずスルーして金色堂の方へと歩く。中尊寺の境内には薬師堂や不動堂などやたらめったらお堂があり、
金色堂はその中のエースで四番というわけである。で、その金色堂を拝観するためには、
中尊寺の国宝や重要文化財を展示している讃衡蔵との共通券が必要になる。
拝観料を払って讃衡蔵に入ると、いきなり僧侶が朝のおつとめの真っ最中。世界の平和を祈願しているんだそうだ。
展示物の量は、博物館ほど多いわけではないが、ひとつの寺としてはさすがにかなりのもの。
平安末期の貴重な仏具が並べられていて、その900年の重みを感じながら見ていく。
遠く東北地方で仏教の世界観を再現しようとした奥州藤原氏。その栄華の一端に触れ、不思議な気分になる。
(後で調べてみたら、当時の平泉は黄金が採れたために平安京に次ぐ規模を誇る都会だったとか。信じられない。)

讃衡蔵の少し奥にあるのが金色堂……の覆堂である。金色堂を風雨から守るため、
コンクリートの建物がガッチリと建てられているのだ。肝心の金色堂はその中でさらにガラスに囲まれている。
ガラス越しに眺める金ピカの金色堂は、まあ正直、あんまり品のよろしいもんではないなあと。
なんとなく、建物というよりも博物館の剥製や模型を見ているような気がした。リアルさに欠ける観察って感じ。
でも螺鈿の細工は手が込んでいて、めちゃくちゃ凄い。材料になる貝は東北地方で獲れるはずがないわけで、
これだけの質と量を確保した奥州藤原氏の力を想像して呆れるのであった(そんでもって撮影禁止でガックリ)。

 
L: 金色堂の覆堂。この中に金ピカの建物が収納されている。建物の中で建物を見るというのはなんだか違和感がある。
R: 経蔵。金色堂の近くにある。こちらは重要文化財だが、あんまり目立つことなくひっそりとたたずんでいる。

 
L: 旧覆堂。松尾芭蕉らはこちらの覆堂の中にある状態の金色堂を見たわけだ。室町時代の建築だそうだ。重要文化財。
R: 中はこんな具合で、絵や千社札が目立っている。金色堂もこの中で見れば、また違った印象なのだろう。

初秋の中尊寺、雨に濡れる姿もそれはそれで美しいのかもしれないなあ、と思う。
雨が降った際のデジカメでの撮影は、空気中の水分が光を拡散する効果があるのか、全体的に明るめにぼやける。
そんな淡い光に包まれた光景は、むしろ奥州藤原氏の理想とした世界に近づいた眺めなのかもしれない、と思ってみる。

自販機で小岩井ブランドの瓶牛乳を売っていたので、腰に手を当てて一気に飲み干す。
そうして一息つくと、参道を下って国道に出る。来た道をある程度まで戻ったところで、高館義経堂の案内板を見かけた。
高館義経堂(たかだちぎけいどう)は、国宝級の中尊寺と比べてしまうと、正直ややマイナーな名所である。
しかしさっき弁慶堂もお参りしたことだし、ここは寄っておくべきだろう。そんなわけで、少し寄り道。
平泉は有名な観光地だけあり、案内板は手頃な間隔で置かれている。おかげで少しも迷うことなく入口に着いた。
雨も降っているし朝も早いしで、ほかに観光客の姿はまったくない。拝観料を払い丘の上へと上がっていくと、そこは絶景。

目の前に、北上川と束稲山の一大パノラマが現れる。雨が降っていることが本気で悔しくなる、見事な景色だ。
真正面でクレーンが動いて護岸工事をやっているのがまた残念だが、それにしてもこれは美しい。
折りたたみ傘を弾く雨粒の音を聞きながら、しばらくその場に立ち尽くして過ごす。いやー、寄り道して正解だった。

そして義経堂である。ここはその名のとおり、源義経を祀ったお堂だ。中には義経の人形が置かれている。
本当に小さなお堂で、なんだかこっちまでさびしい気分になる。そんでもって『火の鳥 乱世編』が無性に読みたくなった。

 高館義経堂。平泉でいちばん眺めのいい場所にある、小さなお堂。

国道に戻るが、同じ道を帰るのもつまんねえなあと思ったので、そのまままっすぐ南に行って、毛越寺を目指すことにした。
起伏がそんなに気にならなかった国道4号と違い、西に入った細い道はなかなかの上り具合である。
周囲は緑一色。でもそれは「人里」という言葉がしっくりくる、穏やかな田舎の景色だ。大学時代の合宿を思い出した。
のんびり歩いているうちに雨はあがり、空からは日の光がこぼれ出した。ゆっくりと青い部分の面積が広がっていく。
太陽に照らされた人里は、眺めているだけで心地のよい色に輝きだす。なんともいえない爽快な空気が辺りを包む。

そして毛越寺に到着。毛越寺は「もうつうじ」と読む。パンフレットに「もうおつじ」→「もうつじ」→「もうつうじ」と説明がある。
ここの売りはなんといっても、浄土庭園だ。平安時代につくられ、かつては多くの寺やお堂がその中に建てられていた。
その伽藍の規模は中尊寺をしのぐほどだったらしいが、今は静かな庭園のほかはほとんど残っていない。

拝観料を払って門を抜けると、まず本堂。これは平成に入って再建されたもので、堂々としている。
本堂に向かって右側が、浄土庭園である。南大門跡を抜けると、そこには別世界が広がっていた。

大泉が池を中心とする庭園の迫力に圧倒される。とにかく広く、それでいて、ひとつの雰囲気で見事に統一されている。
雨が止み太陽が出てきたことで、庭園の緑は一段と瑞々しく、そして鮮やかに見えた。
デジカメで恒例のパノラマ撮影を済ませると、庭園を一周する。観光客の中には本格的にカメラを構えている人もいた。
わずかに色づきはじめた紅葉と、まだ夏の勢いを保っている草木のバランスが、なんとなく一瞬の危うさを感じさせる。
これから景色が一気に秋のものへと傾いていく、そんな予感が漂う。やはり東北とは秋なのか、と少し残念な気分になる。
しかし今は夏を惜しむ最後の時期でもある。浄土庭園は雄大さも感じさせ、その雰囲気は今の時期でも十分味わえる。
そもそも浄土庭園とは、仏教における究極の場所である極楽を再現しようと試みたものだ。ここには確かに、浄土がある。
広い庭園には伽藍の遺構がいくつも残っている。それらの遺構からさまざまな角度で池を眺め、時の流れに思いを馳せる。

  
L: 遣水。曲水の宴(流した盃が通り過ぎるまでに詩歌を詠めないと、罰として盃の酒を飲むという行事)が行われる。
C: 常行堂。晴れてきたので屋根から湯気が立っていたのが妙に印象的だった。1732(享保17)年再建。
R: 大泉が池の南東にある石組と池中立石。広く穏やかな池に突如現れるアクセント。美しい……。

もはや雨の降る気配はまったくない。毛越寺を出ると、すっかり晴れやかな気分になって平泉駅へと向かう。
途中で平泉町役場への案内板を見かけたので、ちょっと寄ってみることにした。
建物はわりと新しそうな印象だが、いかにも「役場」というサイズで、ほほえましいのであった。

 平泉町役場。戦前の市役所はこれが木造になった感じのものが多かった。

駅に戻ると荷物を取り出し、列車の到着を待つ。やってきた列車からはなかなかの量の観光客が降り、
さすがは観光名所だなあとあらためて実感するのだった。まあそもそも、僕の行動時間が早すぎたわけで。

●11:45平泉-13:12盛岡 :東北本線

岩手県はデカい! 僕の地元・長野県もデカいが、岩手県はそれよりも面積があり、本州で最も広い県なのだ。
県庁所在地の盛岡は、岩手の真ん中よりやや北西に位置しているのだが、けっこう電車に揺られた感覚である。
そしてもうひとつ岩手はデカいなーと思った要因。盛岡に着いたときに、雨がそこそこの強さで降っていたのだ。
平泉ではしっかり晴れたのだが、またしても電車を降りると雨。参ったなあと思いつつ、メシを食べることにする。

盛岡の名物といえば? ……まず思いつくのは、「盛岡冷麺」か「わんこそば」であろう。
これに「じゃじゃ麺」を加えた3つが、盛岡三大麺ということになっているんだそうだ。
それで今回、盛岡名物ということでまず最初にチャレンジすることにしたのは、盛岡冷麺なのである。
理由は単純に、店が多いから。駅の近くでさっと食って、そのまま気合を入れて県庁と市役所の撮影に臨むのだ。
そんなわけで事前に調べておいた駅前の有名店に行こうとするが、なぜか全然見つからない。
駅前をしばらく徘徊した末、どうにか発見することができた。まさかホテルの1階から3階までを占領していたとは。
これは完全に盲点だったが、つまりはそれだけ人気があるってことだろう。中に入るとものすごい高級感。
圧倒されつつランチメニューを注文。冷麺という物じたい、食べるのが初めてなのでドキドキである。

 こんなん出ました。

スイカ? キムチとスイカ? まずその発想に驚く。とりあえず、テキトーにグジグジ混ぜて、麺からいただく。
今までに味わったことのないコシ。そしてスープとキムチとスイカが実にうまく溶け合い、不思議な風味がする。
うまいんだけど、それ以上に「なんだこれは?」と混乱。最後まで頭の中にクエスチョンマークを浮かべながら平らげた。
盛岡冷麺は、これまでの僕が想像できた範囲を超える食べ物なのであった。うまいとかまずいとかではなく、
世の中にはこういう種類の料理が存在するんですよーというのを勉強させられた、という感覚だ(まあ、うまかったんだが)。
でもこれ、ハマる人がいるのがなんとなくわかる。これからも機会があればちょくちょく食べて、慣れていきたいと思う。

盛岡冷麺にカルチャーショックを感じているうちに、すっかりお空は晴れ模様。
濡れた地面を日差しが乾かし、あっという間に青空が広がるのであった。晴れ男ぶりまったく衰えず、である。
北上川を渡って宿屋へ行き、荷物を預かってもらう。応対してくれた男性は「観光ですか。どちらから?」と尋ねてくる。
「東京からです」「東京のどちらですか?」「大田区です」「そうですかー。僕は昔、三鷹にいたんですよ」と、
まったく東京暮らしを感じさせない見事な盛岡弁で話してくれるのであった。方言の引力ってすごいとあらためて思う。

宿から程近くに「啄木新婚の家」がある。宿の受付の男性がオススメしてくれたので、行ってみることに。
そしたら地元の小学生が見学に来ており大混雑。中に何人入れるかギネスに挑戦してたんじゃねえの?ってくらい、
次から次へと小学生がポコポコ出てきてキリがないのであった。中には目ざといヤツがいて、僕を見つけて
「なにものだ」なんて訊いてくるから「観光客だ」と返す。そんな実にのん気な午後なのであった。
で、「啄木新婚の家」は文字どおり、石川啄木が新婚当時に暮らしていた家である。無料で中に入れる。
建物の中は、後に角館や弘前でも見ることになる、武家屋敷の典型的なスタイルなのだった。
新婚の家にもかかわらず、啄木夫妻の部屋は四畳半のみ。実際にはこの家に両親・妹と5人で暮らしており、
とてもスウィートホームと呼べるような状況ではなかったようだ。

  
L: 盛岡駅。新幹線が通っていることもあり、地方都市としてはなかなかの規模である。小売店舗が充実している。
C: 北上川と岩手山。雲がかかっちゃっているのが残念。  R: 「啄木新婚の家」内部の様子。

県道1号をそのまままっすぐ東に進んでいくと、裁判所・県庁・県公会堂・市役所などが建ち並ぶ行政地帯となる。
この辺りはかつて盛岡藩の重臣の屋敷が並んでおり、それがそのまま官庁街となったのである。
岩手県のくせに(?)トチノキの並木道になっていて、「実が落ちてくるので注意」なんて看板が出ている。
実際に足元を見ると、実についている殻の跡がチラホラ。歩いていていきなり上からゴツンときたら、たまったもんじゃない。
そんな行政地帯の西端にあるのが盛岡地方裁判所。その敷地内にある「石割桜」は国の天然記念物となっている。
巨大な花崗岩に生えた桜が石をパックリと割ってそのまま育ったんだそうで、なかなか豪快な姿である。
そしてその隣が岩手県庁。まずはモダンスタイルの匂いを残す県議会がお出迎え。

 
L: 石割桜。まあ確かに、こんなのほかに見たことない。  R: 岩手県庁議会棟。

岩手県庁本庁舎は、実際に目にしてみるとなかなか大きい。幅があって巨大というわけではないのだが、
なんだかみっちり詰まっている、そんな印象のする建物である。正面のベランダ部分の形が特徴的。
竣工したのは1965年と、意外と古い。山下寿郎設計事務所、現在の山下設計による。
『都道府県庁舎』(→2007.11.21)によれば、県庁舎で初の12階建てで、当時としては最大級のスケールとのこと。
いざデジカメで撮影しようとすると、並木のトチノキがものすごくジャマ。街路樹は建物の景観をジャマしちゃいかんのだ。

  
L: 岩手県庁本庁舎。窓の外側、ペリカンのくちばしのように張り出したベランダ部分が特徴的だ。
C: 正面より撮影。斜めから見たときの特徴が消え、とりわけ面白みのない建物に見えてしまう。
R: 裏側を撮影。表側とは対照的にベランダがまったくない。これだけの差は、この手の庁舎にしては珍しいかも。

 エントランスを斜めに撮影。ギザギザさせて、地味めな庁舎の中でオシャレな部分だ。

道路を挟んで県庁の東側には、岩手県公会堂。この建物がなかなか見事で、地味めの官庁街では異彩を放っている。
見てみると、木々に囲まれて少しわかりづらいのだが、東京・日比谷公園にある日比谷公会堂に似た印象がする。
それもそのはず、設計したのは佐藤功一だ。こちらの岩手県公会堂は、日比谷公会堂よりも2年早い1927年に竣工。
(余談だが、佐藤功一とわかって「ああやっぱり」と思えるようになったのは、自分でも少しは成長したなあと思う。
佐藤功一は旧群馬県庁(→2008.8.19)や旧栃木県庁(→2008.8.20)も手がけた。早稲田の大隈講堂も有名。)
岩手県公会堂が面白いのは開館当時の用途で、県会議事堂・大ホール・西洋料理店・皇族等の宿泊所となっていた。
公会堂に県議会が入るという事例は非常に珍しいが、民主主義ということを考えるとけっこうなナイスアイデアと言えよう。
(実際のところは建設費を捻出するための措置だったようだ。なお、費用の約半分は盛岡市が負担したとのこと。)

 
L: 岩手県公会堂。今も現役バリバリで使われている。盛岡名物としてもっともっと評価されてもいいと思うんだけど。
R: 正面からの撮影。並木のトチノキがジャマ。なんでもかんでも街路樹を植えればいいってもんじゃないでしょうに。

そして県道1号をまっすぐ進んだ行き止まりにあるのが、盛岡市役所である。ピロティのいかにもなモダン役所だが、
建物の高さのわりに周囲の道が狭く、ものすごく撮影しづらかった。正面からじゃ建物の全容がつかめない。
北隣には市議会、南隣には別館が並んでいるのだが、正面側にそれを見渡せる場所はないのが残念。

  
L: 盛岡市役所本館を県道1号の並木道から眺めた図。つきあたりにあるため、巨大な壁って感じである。
C: ファサードをクローズアップ。Wikipediaには「震度6強で倒壊することが判明している」と書かれているが……。
R: こちらは市議会。こちらも典型的なお役所という印象のする建物となっている。

  
L: 市議会を別の角度から。道幅が狭いうえに木がジャマ。  C: 別館。地震が来たらコイツだけ残るのか……。
R: 中津川を挟んで眺める盛岡市役所(右手が議会)。てっぺんの手裏剣みたいな盛岡市章が印象的である。

行政地帯や盛岡城址のすぐ脇を流れているのが中津川である。
この川を挟んで市役所と面しているのは、荒物を扱った豪商の家「ござ九」の土壁(今も生活雑貨を売っている)。
中津川の左岸は町人町なのだ。盛岡は戦災を免れたので、城下町の都市構造が今もそのまま残っているのである。
だから川に架かる中ノ橋を渡った辺りは、明治・大正期の古い建築が多く残る観光名所となっている。
その中で最も有名なのが、辰野金吾・葛西萬司の設計による岩手銀行中ノ橋支店。交差点の角地にあるこの建物は、
赤レンガと白い花崗岩で彩られて非常によく目立っている。北には葛西の設計した盛岡信用金庫本店もある。
そこから一本東には、ホットライン肴町という名のアーケード商店街がある。町人町の風情がしっかりと残っている。

 
L: 岩手銀行中ノ橋支店。道は昔のスケールだから狭く、交通量も多い。撮影するのはちょっと大変だった。
R: ホットライン肴町。けっこう長さがあり(365m)、よく賑わっている。いかにも地元商店街という感じが漂う。

アーケードを往復すると、再び中ノ橋を渡って盛岡城址(岩手公園)に入ってみる。
いわゆる不来方のお城である。草の上に寝転んで、「空に吸はれし三十の心」としゃれ込むのである。
公園内は城の高低差が今もしっかり残っていて、県立図書館の脇には噴水が印象的な、堀を利用した池もある。
見事な石垣を眺めながら坂道を上っていき、真っ赤な橋を渡ると本丸跡に出る。緑に包まれ、静かな場所だ。
あまりに木々が生い茂っているので、眺めは良くない。真ん中には戦死した南部家当主を悼む碑がある。
なんでもかんでも天守を再建するなどして観光客を呼び込むのが良いとは決して思わない。
しかし盛岡城については、都市構造の残りっぷり、知名度、地元での誇り、それらを勘案してみた場合、
現状はあまりに地味すぎる気がしないでもない。どうにもイマイチ、訪れてもグッとこないのだった。

 
L: 盛岡城址、内部の様子。石垣が見事だ。  R: 本丸跡は今も静かに眠っている感じ。

桜山神社でお参りをすると、そのまま大通りアーケード街を駅に向かって歩いていく。
さっきの肴町もそうだったが、盛岡の商店街はなかなか元気があってよろしい。
大通りは途中で映画館通りと交差している。案内板を見てみると、映画館はこの付近に9つあるとのこと。
手頃なサイズの街路樹を植えるなどして、小ぎれいな雰囲気が保たれている。盛岡、実に面白い街である。

  
L: 大通りアーケード街。盛岡城を中心とする旧市街は駅から離れており、大通りは両者を結ぶ役割を果たしている。
C: この商店街では、車道を削って歩道との間に駐輪スペースを確保している。こういう大胆な事例は初めて見た。
R: 映画館通り(CINEMA STREET)。東西の大通りと南北の映画館通りが現在の盛岡市街の核、という印象。

さんざん歩いたので、駅ビルの喫茶店で一服する。地図を眺めて盛岡の都市構造を総括しながら過ごす。
やがて晩メシ時になったので、盛岡三大麺のひとつである「じゃじゃ麺」を食べに盛岡城址方面に戻る。
(本当は「わんこそば」にチャレンジしたかったが、一人でやるのもどうかと思ってあきらめた。でもいずれやるのだ。)
夕暮れの中、北上川に架かる開運橋を渡ったが、とにかく若い人の姿が目立っていた。

桜山神社の近く、じゃじゃ麺の元祖であるという店に入る。少し早かったかなと思ったが、
店内はけっこう混んでいて、行列ができる寸前という雰囲気なのであった(じゃじゃ麺はつくるのに少し時間がかかる)。
当然のごとく「大」を注文した後は、ほかの客の様子をしっかりと観察する。けっこうローカルルールがありそうな感じだ。
見ていてわかった正しい食べ方は、以下のとおり。まずは麺をこれでもかというほど全力でグチャグチャにかき混ぜる。
麺全体に均等に味噌と具が混ざったら、それを勢いよく食べていく。一緒に混ぜる生姜の量はお好みで。
食べ終わったら、テーブルに置いてある生卵を1個、皿に落としてかき混ぜる。
そして「チータンタンお願いします」と言って店員に差し出す。このとき「チータン」と略しても可である。
すると店員が渡した皿に熱々のゆで汁と味噌を入れ、卵とじのスープをつくってくれる(50円の追加メニューなのだ)。
受け取ったら、テーブルのアジシオを思う存分振って、おいしくいただく。これが標準的な食べ方である。
少しでもぎこちない動きを見せたら、店員が初心者と理解して食べ方を教えてくれるので、心配はいらない。
なお、食べ終わってお金を払うときには、頼んだメニューを店員に自己申告する。珍しいシステムだ。

そこそこ待って麺がゆであがり、じゃじゃ麺登場。料理としては、けっこうシンプルだ。
いざ食べてみると、かき混ぜまくることで皿が汚れて、あんまり見た目のよろしい食べ物ではないのであった。
そしてシンプルなだけに、「大」は味の変化がなく単調で、ものすごく飽きやすいのだった。正直、後半つらかった。
(僕が食べている最中、店員が初めて食べるほかの客に「中か小にしておいた方がいいですよ」と言ってて、納得。)
それでも勢いで麺をぜんぶ平らげると、皿の上に生卵を割って落とす。出てきた黄身が双子だったので驚いた。
かき混ぜてチータンをお願いする。けっこう多めにアジシオを振って、ようやくふつうの味の濃さになった。
まあこんな具合に、見よう見まねの訳知り顔で、無事に一連のルーチンをこなしたのであった。

  
L: じゃじゃ麺登場! 大サイズはかき混ぜるのも一苦労。確かに素人にはオススメできないわ、これ。
C: 卵の黄身は双子だった。人生初双子ということで記念撮影。なんだかいいことありそうな気がするわ~。
R: チータンタン。さっきから皿が汚くてすいません。でもじゃじゃ麺ってそういう食べ物なのだ。不可抗力なのだ。

食べ終わるとのんびり歩いて宿へと戻る。B級グルメもあるし、観光名所もあるし、賑わいもある。
盛岡という街はかなり魅力的だなあと思うのであった。いやー、やるねえ。


2008.9.11 (Thu.)

試験も終わったことだしお疲れさんということで、恒例の県庁所在地めぐりをやるのである。
さまざまな事情があるので、次回はいつになるのか見当もつかない。悔いのないように歩きまわるのである。
ターゲットは、北東北だ。東北地方でまだ残っている岩手・秋田・青森の3県をつぶしてしまうのだ。

さて今回用意した強力な武器は、「北海道&東日本パス」である。期間限定で発売されるこの切符、
JR北海道とJR東日本の範囲内であれば、5日間連続の乗りたい放題で1万円なのである。1日あたり2000円!
しかしオイシイ話には裏があるもので、基本的に特急に乗ることはできず、各駅停車か快速に限定されるのだ。
(つまりは青春18きっぷと同じようなものである。もっとも、「北海道&東日本パス」は第三セクターにも乗れる。)
金のない自分にとってはそんな制約、屁でもないので迷わず購入したしだい。鈍行ノロノロ、上等じゃないか。
もともと北東北は広く、各都市は離れているのである。こういうお得な切符を活用しないと、
とてもじゃないが経済的にやっていけない。そういうわけで今回は徹底して格安の旅となるのであった。

●05:02大岡山-05:10目黒 :東急目黒線

始発で山手線圏内へ。目黒駅の改札で北海道&東日本パスを通していよいよスタート。
しかしあまりに朝が早かったためか、目黒駅のホームでボーッとしていて、乗るべき電車を逃してしまう。
目黒から上野へは山手線の内回りと外回りのどっちで行くべきなのか、寝起きの頭が混乱してしまったのだ。
あれ? あ、あ、ああ~っ!と情けない声をあげても後の祭り。電車はスーッとそのまま五反田へ。
しょうがないので19分後の次の電車を待つことに。このわずか19分の遅れが、結果的には恐ろしいことになってしまう。

●05:29目黒-05:56上野 :山手線

鉄っちゃんなら上手いリカバーの方法を思いつくのかもしれないが、こちとら素人。
しょうがないので事前に調べておいたルートを素直にたどっていくしかないのである。
山手線で上野へ。上野に着いたら宇都宮線に乗り換え。本来なら6時前に出発できたのに……と悔やむ。

●06:09上野-07:52宇都宮 :宇都宮線(東北本線)

平日早朝下りの宇都宮線だが、思ったよりは乗客がいた。とりあえずコンビニで買っておいたメシを食って元気を充填。
大宮から先は乗客も減り、だいぶのんびりとした雰囲気。宇都宮はこないだ来たので(→2008.8.20)、なんか変な気分。

●08:02宇都宮-08:56黒磯 :宇都宮線(東北本線)

この路線に乗るのは初めて。車両は一気にローカル色の強いものになった。
黒磯駅に着いて次の電車を確認してガックリ。9時39分発ということで、ここで30分以上の足止めである。
目黒のホームでボンヤリしていなければ、スムーズに接続できたのに……と待合室で意気消沈。
いちおう、黒磯駅周辺も歩きまわってみたが、朝も早いし特にこれといって気になるものはなかった。
ところで黒磯市って平成の大合併でなくなっちゃって、那須塩原市になっていたのね。知らなかった。

●09:39黒磯-10:40郡山 :東北本線

栃木県から福島県へ。山の中を抜けて東北地方に突入である。
途中の白河駅からは白河城(白河小峰城)址がよく見えた。寛政の改革を行った老中・松平定信の治めた城だ。

 白河城址。いずれ寄ってみたいとは思うけど、なかなかその機会はなさそう……。

東北地方に来たんだなあと実感し、そのまましばらく行って郡山に到着。45分の遅れに拡大した。
ここでも30分弱の足止めとなったので、郡山駅周辺を散策して過ごす。残念ながら、市役所まで行く時間はなかった。
郡山は福島県の交通の要衝で、商業が盛んなはずなのだが、商店街はけっこう弱っていた印象である。

●11:06郡山-11:54福島 :東北本線

1時間遅れとなって福島へ。前にこの電車に乗ったときは夕方だったからか、窓から見える風景に少し違和感を覚えた。
さて福島は以前に来たことがあるが(→2007.4.292007.4.30)、感慨にひたる間もなく乗り換えとなるのであった。
本来なら快速で一気に仙台まで出る予定だったのだが、白石で一息入れることになってしまった。遅れが広がる。

●12:00福島-12:33白石 :東北本線

老若男女をけっこうたっぷりと乗せて、列車は出発。山と田んぼが広がる風景が続く。
白石駅に着いたら休む間もなく乗り換え。それにしても、電車に揺られっぱなしで尻が痛い。

●12:36白石-13:25仙台 :東北本線

やっとこさ、仙台に到着。ここまですべて各駅停車で、本当によく来たもんだと自分で自分に呆れる。
しかしボサッとしてはいられない。急いでエスカレーターを駆け下りて、仙石線のホームに出る(仙石線だけ離れている)。
で、ホームの時刻表を見てみたら、どうも松島海岸まで行く電車はしばらく来ないらしい。手前で止まってしまうようだ。
そんならテキトーに途中下車して歩きまわってやるぜコラ、と決意を固めるのであった。

●13:32仙台-13:54多賀城 :仙石線

多賀城駅で降りたはいいが、駅の周りには見事に何もないのであった。少し離れてデパートが見える。
とりあえず駅のコンビニで飲み物を買って一息つく。仙台と松島はやっぱり意外と距離があるなあ、と思う。

●14:07多賀城-14:15本塩釜 :仙石線

次に来た電車は東塩釜止まりということで、本塩釜で降りてみた。駅にくっついて商業施設があるが、それ以外は地味。
時間がないので鹽竈神社に参拝するヒマはない。とりあえず塩竈市の「竈」の字を練習して書けるようになろうと思った。
(塩釜ではなく塩竈と書くのが自治体名としては正しい。「竈」とは「かまど」のことで、市のHPで書き方を教えてくれる。)

●14:24本塩釜-14:34松島海岸 :仙石線[快速]

ようやく到着! 19分の遅れは、実に1時間半以上に拡大したのであった。もう本当にフラフラである。
郡山辺りまでは日差しが照りつけてくる天気だったが、宮城県はすっかり曇りの空模様。
あんまり前回(→2007.5.2)のリベンジという感じにはなれなかったが、雨でないだけヨシとしよう。

さっそく15時発の松島湾遊覧船「仁王丸」に乗船。窓際の席に陣取ったのだが、暗めのガラスがどうもジャマだ。
船が出てからしばらくして、むき出しになっている船尾の喫煙スペースに移動。ここなら存分に写真を撮れる。
そのうち、寄ってくるカモメにエサ(100円で売っているかっぱえびせん)をやろうと、ほかの観光客も大勢やってくる。
少しでも面白い風景写真を撮ろうとカメラを構えるが、エサやり観光客とカモメが本当にジャマで腹が立った。
エサやり観光客には「お前らは日本三景を楽しみに来たのか? それとも鳥にエサをやりに来たのか?」と訊きたい。
カモメがキャッチできなければ、エサを投げることは海にゴミを捨てることと何ら変わらない。
これは本当に愚かな行為だと思う。エサを売ることもカモメにあげることも、今すぐ禁止してもらいたい。

肝心の景色は、なるほど確かに奇妙で面白い。海の中に岩肌を露出した島が無数に浮かんでおり、
そのてっぺんには松などの緑が生い茂っている。天気が良ければ色の対比も鮮やかだったろうに、と少し残念に思う。

  
L,C,R: こんな具合の島が点在している。実際に目で見ると、デジカメの画像なんかとは比べ物にならないほど見事。

 カモメと島。

  
L,C,R: 島に接近してみるとこんな感じになっている。人間が触れちゃいけないんじゃないかって気分になる。

遊覧船は約50分かけて湾内を回る。大半の観光客は、途中で島を見るのにもカモメにエサをやるのにも飽きていた。
まあ確かに、同じような島が無数に近づいてそして遠ざかっていくのを眺め続けるのは単調なのである。
そこに刺激に慣れきった現代人の姿を見るのも自由だし、風雅を解さぬ衆じゃのうと突き放すのもまた自由。

船から下りると、もういい加減ガマンの限界にきていたので、メシを食べることにする。
食べたのは前回と同じで、なぜか牛タン丼なのであった。おいしゅうございましたよ。

 旅の間くらいしか贅沢できんのよね。

平日だけど観光客の数はけっこうなもの。特に目立っていたのが大学生っぽいグループである。
まあ確かに彼らはまだ夏休み中なのだから、東北地方の学生なら名所の松島に来るのは自然なことなのかも。

食べ終わると五大堂や土産物屋の辺りを散策して過ごした。
松島の夕暮れは早く、瑞巌寺の拝観時間が終わってしまう17時が近づくと、周辺はすっかり閉店モードになってしまう。
遊覧船も最終は16時の便で、何もそんなに慌てて一気に店じまいを始めなくてもと思うのだが、
景色と寺と土産物屋で構成された場所なので、夜に活気を出す理由がないのもまた確かなのである。
空が暗くなる以上の加速度で松島は急激におとなしくなり、さびしい雰囲気が一気に広がっていく。

  
L: メシを待っている間に、店舗の2階から撮影した五大堂。残暑の季節からゆっくりと秋の気配が漂いはじめている。
C: 五大堂は瑞厳寺の仏堂。1604年に伊達政宗が再建したもの。  R: 軒が見事だったので撮ってみた。

仙台駅に戻るとすっかり暗くなっていた。向かいのジュンク堂に入って地図を見て、本日の宿の位置を確認する。
で、宿に移動している最中に雨が降り出した。前回もそうだった(→2007.5.1)。どうも仙台の夜は雨に祟られる。

 夜も元気な仙台駅。この後、急に激しい雨が降り出した。

チェックインして荷物を置くと、晩メシを食べに出る。さすがに仙台の街は規模が大きく、思ったよりも歩く破目になった。


2008.9.10 (Wed.)

昨日の夜に東京に帰ってきて、明日の朝には旅行なのである。今日やるべきことは、けっこういっぱいある。
そんなわけで、朝起きると勢いよく自転車にまたがってペダルをこぎだすのであった。

まずは渋谷で注文していた1dayのコンタクトレンズを受け取る。より快適になったという新製品は、確かに前よりいい。
今後は緊縮財政で、今まで以上にちびちび使っていくことになるだろう。贅沢は敵なのである。

渋谷から一気に北上して、お次は新宿。都庁の第二庁舎へ駆け込み、教員免許の申請準備である。
教員免許は単位の確認が実にややこしい。そのこともあり、まず申請用紙の入手をするのにひとつ手続きが必要なのだ。
係の人の説明を受けたうえで申請用紙をもらう。7年前に比べてはるかに複雑化している。本当に困ったものだ。

そして甲州街道(国道20号)をグイグイと西に走って国立を目指す。途中、調布の布多天神でお参り。
いつものように走りやすい旧甲州街道にスイッチして、府中を突っ切って国立に到着。
国立に入ったらそのまま谷保天神でお参りである。谷保天はいつ来ても神妙な気分になる。
神頼みを済ませると大学通りを北上し、そのまま母校である一橋大学の本館へ入る。
さっそく教員免許申請用紙を渡して記入をお願いする。ついでに中学社会・高校公民の単位確認もお願いしておいた。

これでいちおう、本日やらなきゃいけないことはクリアである。ご褒美がわりにスタ丼をいただくことにする。
しかしながら券売機の前に立ってショックを受けた。スタ丼が、なんと、値上がりをしているではないか!
われわれ、今まで長いことスタ丼1杯550円という価格に慣れ親しんできたのだが、30円アップの580円となっていたのだ。
1スタドン=550円だった為替レートが1スタドン=580円へと変化していたのである。円安だよ、円安。
ショックのあまり気が動転して、間違ってスタミナライスのボタンを押してしまったではないか。
しょうがないから店内で「すいません、スタ丼にしてください」って言ったさ(スタ丼の画像はこちらを参照 →2005.9.19)。

食べ終わって、久々に立川まで行ってみたくなった。もう何年行ってないだろう。
そういうわけで、だいぶ記憶があやふやになりながらもさらに西へと針路をとり、南武線の踏切を越えて立川へ。

  
L: 立川駅北口、駅ビルのルミネ。これは大学卒業当時からなんら変わっていない。
C: 北口からまっすぐ伸びている街路。個人的にはこれを見てもあまり立川って感じがしない。ピンとこない。
R: 立川駅南口。グランデュオもできて、僕らが国立にいた頃とはまったく異なった姿となっている。

「立川の秋葉原」と個人的に呼んでいる第一デパートは残念ながら定休日。
駅の周辺を北口・南口関係なく歩きまわってみるが、変化した部分と変化していない部分が妙に均等で違和感がした。
歩き疲れたら南口のドトールで一服しつつ日記を書く。このドトールも昔はなかったなあ、なんて思いつつ。

18時くらいになって国立に戻り、ロージナでシシリアンをいただくことにする。
僕にとってスタ丼とシシリアンは、国立での2大グルメなのである(ほかにもいっぱいあるけど、この2つが特に好きなのだ)。
シシリアンはとっても熱々で食べるのが大変なのだが、そこはヤケド覚悟でガンガン攻めていくのである。
全盛期に比べてちょっと量が減った?と悲しい事実に気づいてしまうが、味はまったく変わらない。
食べ終わってお金を払おうとしたら、本日サービスでシシリアンは980円とのこと(いつもは1100円)。
まるで地球上で一番の幸せ者になった気分である。大いに気をよくして自転車にまたがり、鼻歌混じりで帰る。

 シシリアン。これが存在しているためにザイカレーが二番手になってしまう。

久しぶりに国立に行ったけど、あらためて「この街は平和すぎるわ」と思った。穏やかすぎるのだ。
駅前も大学通りも一橋大学も落ち着きすぎていて、どこか外の世界と隔離されているような印象がしたのだ。
ふと、それがまるで浦島太郎の竜宮城のように思えた。僕はあれから、どんなふうに歳をとったのだろうか。


2008.9.9 (Tue.)

家族会議も済んだので、東京に戻ることに。
ただふつうにバスで帰るのも芸がないので、青春18きっぷを使い、松本に寄って帰ることにした。
というのも、僕は自分勝手に松本を歩きまわったことがないからである。自分の思うがまま、好きなように、
長野県を代表する城下町である松本を観察してみようと考えたのである。

8時14分、飯田駅発の電車に乗る。飯田線に乗るのなんて、何年ぶりになるかわからない。
まちがいなく10年ぶりくらいにはなる。それくらい、僕にとって飯田線は遠い存在なのである。
高校時代に電車通学をしていればどっぷりとノスタルジーにひたることになるのかもしれないけど、
僕の高校時代で飯田線との思い出といえば、放送委員会の企画で「下山ダッシュ」の対決をしたくらいなものだ。
結果は当然こっちの圧勝で、もっと苦しそうにギリギリ勝ったような演出にしよう、とヤラセをしたほどである。
(※下山ダッシュ……飯田線は飯田の市街地を通る必要があったため、大きくカーヴ(Ωカーヴ)している箇所がある。
            下山村駅から伊那上郷駅に至るそのカーヴ区間を直線で突っ切り、電車と競争すること。)

車窓の風景はイヤというほど馴染みきった風景なので、かなり退屈である。
飯田駅以北の飯田線は国道とほぼ並行して走っているので、車で見る風景とそんなに変わらないのだ。 
でもまあ飯田線に乗る機会など今後どれだけあるかわからないので、それなりに目に焼きつけつつ北上。
乗客の大部分は通学する高校生だったのだが、元善光寺を過ぎてしまえばそれもすべていなくなる。
とっても平和で穏やかな旅が続き、9時半過ぎには駒ヶ根駅に到着。岡谷行きの別の車両に乗り換えである。

山国の田舎を突っ切って、飯田線は進んでいく。11時前には岡谷に到着する。
次の電車までは多少の時間があるのだが、どうせ岡谷駅周辺の商業施設に見るべきところなどないので(さびしい)、
あくびをしながらホームでぼんやりと下りの電車を待つのであった。ニンともカンともである。
しかしまあ、よく考えてみると松本方面への電車に乗ったことなんて記憶にないので、これがたぶん初めて。
電車がホームにやってくると、やはりそれなりに車窓の風景を目に焼きつけて過ごした。11時43分、松本に到着。

 松本駅。この駅の改札を抜けたのも、たぶん初めてだと思う。

さすがはのん気な飯田線、南信から中信に出るまでに3時間かかった。でもまあ長野県人なので、なんとなく納得。
南信から中信までの心理的な距離はそれくらい、いやそれ以上にあるのだ。そんなもんなのだ。
で、駅のコンコースにある観光案内所で地図を入手すると、荷物をコインロッカーに預けて歩きだす。
とにかく腹が減ったので、まずはメシなのである。こないだの蕎麦屋にすっかな、と思って行ってみたら休み。
隣の海鮮料理店は開いていたので中に入る。山国で海鮮丼ってのも変な話だが、きちんとうまかったのでヨシとする。

エネルギーが充填されると俄然やる気が湧いてくる。軽くPARCOを歩きまわると、国宝・松本城を見に行く。
松本城はあまり有名な大名の居城だったわけではないのだが、貴重な現存天守ということで国宝なのだ。
(石川数正が唯一のビッグネームで、松本で死去している。今の天守は数正の子・康長が建てたようだ。)
実際に眺めてみると、その「烏(からす)城」とも呼ばれる黒い姿は堂々としており確かに美しい。
お堀越しに見てもよし、料金を払って本丸庭園から見てもよし。

 
L: お堀越しの松本城。フォトジェニックですなあ。  R: 本丸庭園越しの松本城。色の対比がすごい。

入口でビニールをもらって靴を入れると、天守の中へ。木造の歴史ある城らしく、独特の窮屈さがある。
いちおう城内には資料の展示がなされている部分もあるが、何もなくただ内部がむき出しという部分も多い。
現存天守はやっぱりこうでなくっちゃ、と思う。城それ自体のあちこちを見られるのはいいことなのである。
そして最上階は、網の張られた狭い窓から外を眺められるようになっている。
もともと平城なので高さがなく、景色は特別美しいというわけではない。
でも天気に恵まれて、本丸庭園の緑や後ろにそびえる美ヶ原が実に鮮やかなのであった。

 
L: 東、本丸庭園と美ヶ原。街は(長野県にしては)都会だし、高原もあるし、松本はいろいろあっていいなあ。
R: こちらは南、松本市街。右手が駅周辺なのだが、けっこうゴチャゴチャしていてよくわからず。

松本城は小さい頃に家族で来たことがあったわけだが、これできっちりと記憶を修正できた。
その次はやはり松本の名所で、これまた家族で行ったことのある、旧開智学校である。
城を出るとそのまままっすぐ北へ。現在の開智小学校にぶつかり、それをさらに北に行くと旧開智学校。

  
L: 旧開智学校を正面より眺めたところ。意外と幅があり、外の門のところから撮影してもまだギリギリ視野からはみ出す。
C: クローズアップしてみた。龍や天使の意匠が施されている。文明開化の頃の地元の誇りが感じられるのである。
R: 中は教育に関する資料を展示した博物館になっており、この教室ではかつての授業の様子をそのまま公開している。

見てのとおり、旧開智学校はキテレツな形の建物である。和風の建築が洋風になりきれず、むしろ中国化しかけている。
このような、主に明治期に「欧米の建築を日本の職人が見よう見まねで建てたもの(Wikipedia)」を擬洋風建築という。
きちんと外国の建築設計技術を学んだわけではない大工の棟梁が、木造で再現しちゃおうとチャレンジした建物なのだ。
だから形だけ見ればどこか変で落ち着かないのだが、やはりそこには進取の精神があふれているわけで、
当時最先端のものをまず何よりも教育の場に採り入れようという文化性の高さが感じられるのである。
近代が日本にやって来た頃の貴重な生き証人であり、こうしてきれいに残してある例は非常に珍しいのだ。

松本城といい旧開智学校といい、古い建物が残っているのは松本市が戦災から免れたからである。
そうして考えると、日本は戦争によって本当に多くのものを失ってきたということがわかる。
失ってもその上に新しいものを生み出してきたことで今の日本があるんだ、という考え方もできなくはないけど、
一度失われてしまうと、それを未来の人間が掘り返すことは本当に難しいのだ。特に空間の記憶はそうだ。

さて、松本城の東側には松本市役所があるので撮影する。松本市は平成の大合併でバカみたいに領土を広げた。
(異常に大きく西へ張り出し、岐阜県と接してしまった。地図で見ると実に変な形。……飯田市も人のこと言えないが。)
でも市役所はさほど大きくない。1959年竣工の建物を、耐震補強しまくって現在も使っているのである。
その外観はもはやサイボーグ的というか全身これギプスというか。人生いろいろ、市役所もいろいろ、である。

  
L: 松本市役所本庁舎。庁舎のサイズといい、植栽庭園といい、今の松本市の規模からは考えられないほどコンパクト。
C: 角度を変えて撮影。耐震補強ももはやこうなるとデザインのうちですなあ。
R: 本庁舎北側の棟はこんな感じ。本庁舎の裏側には東庁舎があり、議会はそちら。

日銀松本支店前を通り、そのまま上土(あげつち)通りへ。この辺りはいまだに古い建物が点在し、城下町らしさが漂う。
映画館が何軒も残っているのは特筆すべきだろう。この界隈を歩いていると、不思議とかつての賑わいがまぶたに浮かぶ。
土の道路にせり出し、いくつも看板が出ている人通りの多い街並み。そんな一枚の白黒写真を簡単に想像できるのだ。
そしてそのまま女鳥羽川に出ると、左に市営上土団地がそびえる。足元には「松本市旧市役所跡」という石碑があり、
その建物は1913年に建てられたかつての市役所のファサードを思わせるものとなっている。
ここで橋を渡ることなく西を向くと、すぐに縄手通り商店街のお出迎えである(なぜかカエルがシンボル)。

  
L: 市営上土団地。かつての市役所は2階建てで、足元の石碑にはその絵が刻まれている。
C: 縄手通り商店街。2001年に改装して昔の街並みを再現した姿となった。女鳥羽川周辺は再開発がけっこう激しい。
R: 商店街のラインナップは実に多彩で、蕎麦屋に喫茶店に婦人服店に雑貨屋に模型屋など。鯛焼きを売る店も2軒ある。

四柱神社でお参りをすると、千歳橋を渡って女鳥羽川の左岸(南側)に出る。ちょっと行ったらすぐに左折して中町へ。
この通りは蔵のある町づくりを推進しており、奥(東)に行けば行くほど見事な景観となっているのだ。
本当に松本はいろんな財産を持っている街だなあ、と同じ信濃国の城下町出身として痛感させられる。

  
L,C,R: 中町通り、蔵のある風景。東に行くほど蔵の密度が高くなる。中は松本らしく小洒落た雑貨屋が多め。

そのまま東の住宅地を突き抜けるようにして歩いていく。ガイドマップには「懐かしい雰囲気の路地が」とあるが、そのとおり。
旧家の間にある路地を行が、この一帯は湧き水が出るようで、側溝をきれいな水がたっぷりと勢いよく流れている。
最近ではすっかり見かけなくなってしまった光景だ。暑かったせいか、一匹のネコが夢中で水を飲んでいた。のどかである。
そのまま県道63号に出ると、さらに東に行って松本市美術館の脇を通る。ゴールは、あがたの森公園だ。
公園内には旧制松本高等学校の本館や講堂があり(1920年竣工)、図書館などに利用されている。
やっぱり辺りをウロウロして過ごすと、来た道を戻り、途中でまつもと市民芸術館(→2007.1.2)を撮影。

  
L: 僕の存在を無視して夢中で水を飲んでいるネコ。なんでいきなりこの辺りで水が湧いているのか不思議。
C: 旧制松本高等学校本館。いわゆるナンバースクールの次につくられた旧制高校。やっぱり松本は教育に強い。
R: まつもと市民芸術館。松本の特性よりも設計者である伊東豊雄の問題意識を優先した外見になっている(→2007.5.1)。

最後は松本駅の南東にあるデパート群を軽く見てまわる。井上やセブン&アイはかつては賑わっていたものの、
今はかなり勢いが落ちてきていた。昔は松本へ来るたびに寄ってその都会さを実感したというのに……。
変わることのない松本の威力に魅せられつつ、また、中心市街地の活性化について考えつつ、電車に乗り込む。

16時半過ぎ、松本を出た電車はそのまま3時間かけて大月まで直行。
疲れて半分寝っこけながら、今年は甲府の応援に出かけたこともあってけっこう中央本線に乗っているなあ、
なんて思っているうちに新宿に到着、山手線に乗り換える。自宅に戻って風呂に入って、思う存分眠った。


2008.9.8 (Mon.)

僕は自他ともに認める市役所マニアであるわけだが、出身地である飯田市の市役所について、
今までノーマークだったことにようやく気がついた。本籍地の番地が市役所と1つ違いってくらいの市役所っ子なのに。
それで今日は飯田市役所を撮影したのであった。物心ついたときには絶好の遊び場だった飯田市役所である。
客観的に見ようとするとなんだか変に違和感があるのだが、まあとりあえずはテキトーにシャッターを切ってみよう。

 その前に、わが本籍地。高校まではここに家があって暮らしていたが、今は駐車場。

現在の飯田市役所は1962年に竣工した。以来、増築することなく、ひたすら敷地内に分庁舎を建ててやり過ごしてきた。
今まで特に飯田市役所のファサードについて考えることはなかったのだが(あまりに無個性で意識にのぼらなかったのだ)、
こうしてじっくり見てみると、なるほど昭和30年代スタイルそのものである。3階建てで無彩色、細長い。
前に東京の多摩地区の市役所を徹底的に調査したことがあったのだが、国分寺だとか立川だとか福生だとか、
昭和30年代に建てられた庁舎はことごとくみんなこんな感じであった。絵に描いたような初期の鉄筋お役所である。
それをいまだに大した改修もせずに使っているとは、正直驚きである。

  
L: 飯田市役所本庁舎。かつては手前の国道からアクセスできたが、現在はそこを封鎖して駐車スペースを確保している。
C: 正面を角度を変えて撮影。エントランスも典型的な昭和30年代スタイル。それにしても車がジャマだ!
R: なんというかもう、「かつての平均的な市役所像」ってことで保存をお願いしたくなる。

  
L: 敷地は駐車している車でいっぱい。  C: こちらは議会棟。近くで見ると、これはいかんだろー!というくらいガタがきている。
R: 交差点から眺める議会。国道に面しているが、なんだか見られることがあまり意識されてないように思えてしまう……。

  
L: 市役所の裏手は道を挟んで広い駐車場になっているのである。後ろから見てもあんまり変わらない。
C: 市役所の裏側はこのように堀がつくられたような形となっている。  R: 狭隘、分散。敷地にはさまざまな建物がひしめく。

  
L: 水道局はこちらの建物。昔よく子ども会やら何やらで中に入った記憶がある。これまた地味なコンクリ庁舎。
C: かつてこの地には大久保小学校が存在していた。学校用地を役所にするのも典型的なパターンなのである。
R: 敷地の端には大きなケヤキが植わっている。環境省登録の巨木だそうで、なかなか見事ですよ。

久しぶりにこうしてじっくりと飯田市役所を眺めてみると、あらためて……その地味さに驚く。
僕が大久保町に引っ越してきたのは1984年のことで、当時から分庁舎がいくつもできていた。
市役所は僕にとって主に自転車レース場となってきたのだが、建物があまりに地味なので、
それらを建物というより壁の一種と見てきたフシがある。それくらい、地味すぎて意識にのぼらなかったのだ。
今、市役所のあちこちを歩いてみても、印象はまったく変わらない。というか、相変わらず印象に残りづらい。
でもその「透明感」、よけいな色のついていない感じが、僕にとって心地よかったのもまた事実だ。
いまだに市役所というものが気になってしょうがない、そんな僕の原点は、間違いなく飯田市役所にある。
飯田市役所のいい意味でのおとなしさは、公共の場所を「オレのもん!」と積極的に感じとる精神へとつながっていて、
それが、自らが参加する公共性を通して街について考える、という視点を培っていくきっかけになったのだ。たぶん。

市役所ができた当時のことを探ってみようと、3階の資料の置いてある一角におじゃまして市報の縮刷版を読む。
(飯田市役所の情報コーナーはほかの自治体と比べると泣けてくるほど貧弱だ。市史すら置いてないんだもん。)
市報は1950年から発行されたようで、記事を読んでみるといろいろと興味深い。
当時はまだ戦争の混乱から抜けきっていないうえ、飯田大火(1947年4月)のトラウマが大きく影を落としている。
一方で復興が着実に進んでいくのもまた確かで、動物園オープンとか、明るい話題がそこかしこに見られてほほえましい。
なぜか国連についての理解を深めようなんて記事もあり、じっくり読むとまた面白いのである。

さて、1962年に飯田市役所が現在地にできる前は、どこに市役所があったのだろうか。
市報では肝心の住所が示されておらず、上飯田(JR飯田線より西側)ということしかわからなかった。
それで家に帰ってcirco氏に訊いたところ、今の上飯田の農協(JAみなみ信州飯田)に市役所があったとのこと。
そもそも一番の原点は、今の中央通りのNTT。ここに、下伊那郡役所があったのだそうだ。
これが一番最初の役場になるのだという。そして1937年4月1日、飯田町と上飯田町が合併して飯田市が発足した。
(合併して市制施行するのは、戦前では唯一の例だったそうだ。長野県では長野・松本・上田・岡谷に次いで5番目。)
どのような細かい事情があったのかは、もはやわからない。合併を機に市役所が上飯田側に置かれたのかもしれないし、
しばらくしてから上飯田側に市役所をつくったのかもしれない。当時の建物の老朽具合によって決めたかもわからない。
もしかしたら飯田大火によって上飯田への移転を余儀なくされたのかもしれない。ともかく、市役所は上飯田にあった。
(いずれじっくり調べないといけないと思う。それにしても、調べることに比べ、忘れてしまうことのなんと簡単なことか!)
そして1962年、大久保小学校の跡地に現在の飯田市役所ができて今に至る。

 上飯田時代の飯田市役所。木造2階建てで、当時としては典型的なスタイル。

いま、飯田市ではついに市役所建替えの話が出てきているそうだ。というか、circo氏が建設検討会の公募委員だと。
市役所マニアとしては、自分の故郷の市役所がいよいよ新しくなるということで、これは注目しないわけにはいかない。
どうせ組織事務所による白もしくは淡い茶色みたいな変な色のガッチリとしたカタマリができあがってしまうんだろうけど、
できることなら、丘の上の誇らしいランドマークとなることを意識した「作品」と呼べるシロモノにしてほしい。
「たかが役所なのに凝りやがって」というつまんない批判を恐れず、ぜひとも上品に冒険してほしいなあと心から思うのだ。


2008.9.7 (Sun.)

実家で人生相談。とりあえずマジメにやんなさい、ということで方向性を確認。いやはや、ご心配をおかけして申し訳ない。

で、晩メシは外で食べようということになり、車を飛ばして伊那まで出る。
少し時間があったのでどっか行きたいところはないか?と訊かれ、気まぐれで「高遠」と答えたらじゃあ行こう、となる。

高遠はかつては独立した町だったのだが、平成の大合併を経て、今は伊那市の一部となっている。
桜の名所として知られる、高遠城の城下町である。絵島が流された場所ということでも有名かもしれない。
で、今回はその高遠城址公園に行ってみた。駐車場で車を降りて、なんだかガックリ。あんまりきれいじゃないのだ。
日本100名城にも指定されている城址なんだからもっときちんと観光客を受け入れる態勢を整えておいてほしいのだが、
桜のシーズン以外はまったくやる気なし、という印象である。もったいねえなあ、と話して二の丸方面へ。
高遠城址には昔の建物がまったく残っていないのだが、1936年に建てられたという高遠閣が健在で目を引く。
天気もそれほど良くなく、長男のご乱心で来てみた程度の興味関心だったので、公園内を歩きまわることはせず撤退。
地元はかつて高遠城主だった保科正之のNHK大河ドラマ化を熱望しているようで、あちこちでそんな文字を見かけた。
もし実現すれば、ここも少しは見栄えのいい場所になるかねえ、と思う。とにかく、今のままじゃもったいない。

  
L: 伊那へ向かう途中で見かけたソバ畑。花が見事だったので、オヤジとともにデジカメで撮影したのであった。
C: 信州高遠美術館。遅くに行ったので中には入れず。低くつくった入口には雨水が溜まってしまうそうな。
R: 二の丸跡にある高遠閣。1936年築。地元の会合やお花見期間中の休憩所に使用されているとのこと。

今度はきちんと予備知識を押さえたうえで訪れたいものである。

高遠から伊那に戻ると、かっぱ寿司に入る。回転寿司には何度も来たことはあるけど、かっぱ寿司は初めてだ。
両親は何度も来ているようで、ずいぶんと慣れた様子である。社会見学気分で店内を眺めて順番を待つ。
かっぱ寿司の歴史は古くて、小学生のころからテレビCMをよく見た。でも伊那谷の辺りには出店していなかったはずだ。
それが今や、あっちこっちに店ができて盛況なのだという。時代は変わったなあ、と思う。

さて順番が来て、席につく。両親が指摘するとおり、確かにシャリが小さい。でも全品105円なので納得してしまう。
扱っている魚の種類はある程度限定されていて、それがコスト削減につながっているのだろう。
母親はもともと寿司が大好きで、僕も歳をとって魚が好きになってきているので、2人で勢いよく食べていく。
父親は安いネタが専門なので、巻物を注文。するとかっぱ寿司名物である新幹線のトレイが目の前まで運んでくる。
魚は回転寿司だからとバカにできない味で、「うーむ、やるなあ」なんて母親と一緒に感心しつつ食べるのであった。
ある程度腹がいっぱいになったらデザート。ケーキとメロンを食ったのだが、特にメロンの旨さに参った。
1切れ150円なのだが、しっかりとジューシーでおいしいのである。これでこの味ってのは安すぎるよ、とまた感心。
まあそんな具合に、家族全員で日本の外食産業の実力にすっかり降参するのであった。

帰りの車内では、そんな回転寿司についての考察がいろいろと繰り広げられた。以下、その概要。

▼回転寿司というのは、もはや日本固有の芸、新たなる食文化の誕生である。ある意味、最も日本らしいものである。
▼外食のテーマパーク化。食べることに、いかに楽しむ要素を外的に加えるかというサービス産業。エンタテインメント。
▼肉を扱ったメニュー(ハンバーグやチャーシュー)、デザートの充実など、多くの人の要望に応える柔軟性がある。
▼寿司屋の寿司とは別個の食べ物。もっとも、寿司とは本来ファストフードであり、原点に回帰したとも考えられる。
▼子ども連れのほか、年配の夫婦の客が多かった。手軽に魚を食べられる機会を提供している。
▼でき合いの食品は工場でつくられる時代だが、回転寿司はその工程が壁のひとつ向こう側にあるだけのこと。

上記のように、かなり肯定的なスタンスである。実際、よくできているのだ。
しかしまあ、こうして世界はどんどん未来に向かって変化していくけど、この変化はホントに面白いなあと思う。
回転寿司の社会学、これはなかなか侮れない。興味深い要素が満載なのである。


2008.9.6 (Sat.)

例年どおり、モゲの会のメンバーで諏訪湖新作花火大会を見に行く。
しかしながら今年はずいぶんと変則的。まるさんは生まれた子どものお世話があるので(おめでとうございます)不参加、
バヒさんは仕事の都合で泊まりができないということで、いつものように昼から飲んだくれてイヤッホーとはならないのだった。
結局、昼過ぎに現地集合で花火を見た後はみんなで飯田に帰る、ということになるのであった。
まあ僕にしてみても、試験の感触が芳しくないこともあって実家で家族会議をせにゃならんのである。
そんなわけで、青春18きっぷを使って上諏訪駅まで鈍行で揺られる。

諏訪湖の花火大会といえば8月15日に開催されるものが本チャンとして有名なのである。
が、新作花火大会も知名度をグイグイと上げているようで、駅に着いたらあまりの人の多さにびっくりした。
片倉館の駐車場でバヒさん、婚約者連れのトシユキさんと合流。その後しばらく諏訪湖岸を歩きまくって場所取りに励む。

 
L: 午後3時、すでに大賑わいの上諏訪駅前。そんでもって諏訪湖周辺は猛烈な人出なのであった。
R: 片倉館は、片倉財閥(製糸業)の二代目・片倉兼太郎が地元のために建てた入浴施設。1928年竣工。「千人風呂」で有名。

どうにかいい感じの場所が見つかり、僕とバヒさんで飲み物を買いに出る。ついでに虫除けスプレーも買うことに。
諏訪湖近くのコンビニは、何人入れるかの新記録をギネスに申請しようとしてんじゃねーのってくらいの混み方で、
しょうがないので駅前まで足を伸ばした。道草ゼロなのにやたらめったら時間がかかってしまった。
その後はトシユキさんたちが食料の買い出しに出てくれた。いやー、久々に肉らしい肉を食ったね。

花火の時間まで暇だからってことで、持参しておいた岩崎マサル編集『へんな趣味 オール大百科』をみなさんに貸す。
けっこう好評だったので、まだ買ってないこの日記の読者は注文して買いましょう。早くしないとなくなるよ!(たぶん)

夜7時、花火開始。新作花火大会は毎年大雨に見舞われているのだが、今年は一滴も降ることなくスタート。
いつもは超絶晴れ男の人(30歳・独身)が花火を見に来るアベックに対して猛烈にひがんで雨を降らせているのだが、
今年その人は採用試験でひがんでいるどころじゃないので、そのおかげ。との説がまことしやかにささやかれたとさ。
陣取った場所はなかなかきれいに花火を見ることができ、「こりゃいいわ」と4人とも大いに満足しつつ眺める。
花火はどれも工夫を凝らしていたけど昨年があまりにキレキレだったので(→2007.9.1)、それと比べるのはかわいそうかな。

  
L: 新作花火大会、開幕。  C: 大きな玉はやっぱり迫力抜群。  R: 最後の湖面スターマインがすごく近い!

競技が終わって最後に行われる湖面のスターマインがものすごく近くで大迫力。
やったー!と喜んだのも束の間、風向きが変わってすべての煙やらカスやらがこっちに吹き付けてくる。
おかげでそのうちに煙のせいで花火が見えなくなってしまい、あっちこっちで「あーあ」と声があがる。がっくりである。
おまけに僕はハードレンズのコンタクトをしていたので、「目がー! 目がー!」とムスカのごとくのた打ち回るのであった。

花火が終わって少し急いで移動したのだが、駐車していた車に乗り込む直前に大雨。
それでもこのくらいで済んで御の字さ、と素早く車に乗り込んだ。車の規制区域に駐車していたので、そこでしばらく待つ。
予定より30分ほど早く規制は解除となり、軽い渋滞を抜けて高速道路へ。途中のパーキングエリアで一休みして帰宅。
そんなわけで皆さんお疲れ様でした。来年はぜひ、落ち着いた心持ちで新作花火大会に臨みたいですな!


2008.9.5 (Fri.)

迷惑メールの処理でキレてメールソフトを取り替えるなどいろいろしたら、なぜかInternet Explorerの調子が悪くなる。
ついさっきまではスイスイと動いていたのが、急に動きが重くなってとても使い物にならない状態になってしまった。
あまりにひどいので、こうなりゃもうさようならマイクロソフトだ!ということで新たなブラウザをぶち込む。
そんな具合にあれこれやっていたらかなりの時間をとられてしまった。もう本当に参った。

僕はパソコンのことをよくわかっているわけではなく、よくわからないモノの上に乗っかって作業をしているようなもんだ。
別に詳しくなりたいとは思わないけど、ある程度の知識がないとこういうときに困るなあ、と思い知らされた一日だった。


2008.9.4 (Thu.)

『デトロイト・メタル・シティ』の映画を見に行ってきた。DMC信者の端くれとして、当然のことなのである。

まず第一の感想として、加藤ローサが非常にかわいい。あの独特の骨格を思う存分堪能することができる。
ローサ好きならそれだけで見に行っておく価値はある。ある意味、一番の主役だったと思いますわ。

映画と原作マンガの最大の違いは、「感動」という要素の有無である。
原作にはカケラもなかった「感動」を、映画ではそこかしこに織り交ぜてくる。
劇中で使用される楽曲がDMCのアルバムとしてCD化されており、これが賛否両論あるわけだけど、
僕にとってはこの「感動」についての違和感の方が、楽曲に対する違和感よりも圧倒的に大きかった。
原作はバカバカしさ満載のマンガであるにもかかわらず、映画化する際には「感動」が必要になるのか?
「感動」のない映画は今の時代において、つくってはいけないのか? この疑問がずっと頭から離れない。
(目的の映画を見に行っても、まず延々と予告編を見させられることになるわけだが、
 これがことごとく「感動」を誘発するストーリーであることが暗示されていて、本当にうんざりした。)

当たり前のことだが、感動とは観客がすることである。自動詞である。
しかし映画のつくり手がやろうとしていることは、強制的に感動させようとしていることで、他動詞である。
はっきり言わせてもらおう。つくり手が観客を感動させようなど、おこがましい。
感動など、観客が勝手にしてしまうものだ。つくり手は観客が感動するのを、むしろ“止められない”。
本来なら、そういう関係性であるべきだろう。作品のどこで感動するか、観客に選ぶ権利があるはずだ。
しかしながら最近の映画を見てみると、つくり手が泣くポイントを観客に用意する(例:『フラガール』 →2007.3.14)。
ここで泣きなさいよと、下らないバラエティ番組でテロップが用意されるのとまったく同じように、強制してくる。
何も考えないバカなら敷かれたレールの上を走って満足できるのかもしれないが、
誰もがそういう「正解」が1つしかないストーリーに踊らされると思うなよ、と言いたいのである。
そして、そういう「正解」が1つしかないストーリーが時代を切り拓く次の作品を生むわけないだろう、と言いたいのである。

観客が皆、泣くために映画館に行くとしたら、それはなんと貧しい行為だろう。
泣くのが悪いとは言わない。ただ、それを手段としても目的としても、唯一の正解のように扱うことが許せない。
見る人の数だけ解釈は開かれているべきだ。そうして各自が映画館で起きたことを日常生活に持ち帰って味わう、
そういうところに本当の感動があると僕は信じている。あの暗くて重苦しく閉ざされた場所で得た経験が、
分厚いドアを開けた瞬間に飛び込んでくる光と入れ替わってそこらじゅうに広がっていく、そういう映画を見たい。

話がそれた。映画の『デトロイト・メタル・シティ』は、映画としてはまあ見られる(やはり配役が良い)。
個人的には、根岸とクラウザーさんとの間でオロオロよりは、クラウザーさんの常軌を逸した雄姿をもっと見たかった。
まあ常識的に、抑えざるをえないんだろうけどね……。


2008.9.3 (Wed.)

クヨクヨしているときには海に行こうシリーズ第2弾ということで、今日も青春18きっぷを使って軽く旅に出るのである。
自分のホームページを見ていて、神奈川県がまるっきり弱いことに気がついたので(川崎と横浜以外行ってない!)、
本日は神奈川県の有名な街に行ってみることにした。やっぱりネットでいろいろ調べて、キツキツのスケジュールを組む。

5時35分に大岡山を出発。隣の県に行くのにこの時間かよーと再び思いつつ、しばらく電車に揺られる。
川崎で東海道線に乗り換えると、グイグイと西へ。大量の高校生集団に囲まれて小田原に到着したのが7時過ぎである。
(小田原駅のホームを見るたび、あるいは乗り換えるたび、なんでこんなに高校生がいるのかと毎回不思議に思う。)

 小田原駅西口、ロータリーの北条早雲像。

本日最初の目的地は小田原。いつも東海道線に乗って遠出するときには豪快に通過している街なのだが、
いい機会なので歩きまわってみることにした。まずは市役所まで歩いてみることにする。
西口は駅裏に当たり、ロータリーを抜けるとすぐに上り坂。足柄街道(県道74号)に出ても上りは続くが、
やがて今度はすぐに下り坂となる。箱根が近いせいなのか、西側はなかなか起伏が激しく平地が少ない。
住宅ばかりの中、ところどころに警察署や税務署などの大きい建物が覗いている、そんな景色である。

ヤオハンを越えて少し北へ行くと、小田原市役所。カメラを構えるが、これが非常に撮りづらい。
大きさのわりに高さがなく、正面は緑に囲まれて裏手は道が狭く、とにかく全容がつかみづらいのである。
建物じたいは白くて真四角なのだが、斜めに配置されてややバランスが悪い。
なんだかハッキリしねーなあ、なんて思いつつ敷地を一周するのであった。

  
L: 小田原市役所を正面より撮影。南側(右手)が1階分高くつくられているのだ。
C: 見通しのよい駐車場から南西サイドを眺めたところ。  R: 南から見たところ。駐車場を挟んで生涯学習センターがある。

すでに日差しがまぶしい中、来た道を戻る。しかし駅には行かず、そのまま新幹線の高架をくぐって南下。
そして陸橋で東海道線などを越えると、あふれ出さんばかりの緑のふもとを行く。小田原城である。
せっかくなので正面入口から入ろうと、ぐるっと回り込むことにした。橋を渡って中に入るとそのまま本丸まで行く。
小田原城というと、戦国時代好きな人間としてはとにかくバカデカい要塞というイメージがあるのだが、
現存しているのは江戸時代に規模を縮小させたものである。本丸には小規模な動物園もつくられている。

 
L: 小田原城本丸(小田原動物園)のインドゾウ・ウメ子。ゾウはこの1頭のみ。  R: ニホンザルはいっぱいいるよ。

天守の中に入ってみる。小田原城の天守は1960年に鉄筋コンクリートで復元されたが、再建された時期が時期なのか、
内装がなんとなくモダニズムなのである。1960年代市民会館風というか、そういう印象を受けるのである。
中ではさまざまな歴史的資料が展示されており、小田原という歴史ある城下町・宿場町の一端に触れることができる。
そして最上階は展望スペースで、海も見えれば山も見え、実に眺めがいい。
小田原がさまざまな特徴を持った街であることが、景色を眺めているだけでもよくわかる。

  
L: 小田原城天守より眺める小田原駅。  C: 反対側、相模湾と伊豆半島。天気がいいと海も山も格別にきれいである。
R: 本丸から見上げる小田原城天守。木が真正面に植わっているため撮影するポイントが限られているのが残念。

小田原城を出ると、電車が来るまでの残り時間をブラブラ歩いて過ごす。
東口から眺める小田原駅の駅舎はけっこう近代的。そして錦通り周辺は私鉄らしい小ぢんまりとした街並みで穏やか。
市域に比べるとそういう商店街の面積は狭いようにも思うのだが、いい雰囲気だなあと思うのであった。

 
L: 小田原駅東口。小さなロータリーを囲んでビルが建つ。なんとなく、熱海駅前に雰囲気が似ている印象を覚えた。
R: 錦通り入口。右手奥には商業施設とパチンコ屋。あとは妙にドラッグストアが目立っていたなあ。

10時半よりちょっと前に小田原を出発。大船まで戻ると電車を乗り換えて南へ。次の目的地は、鎌倉である。
鎌倉に来るのは初めてではない。国立に住んでいたとき、神奈川県立近代美術館のDOCOMOMO展を見に行っている。
そのとき以来となるのだが、久々の鎌倉は前とまったく変わらず、平日昼間でもお構いなしに観光客でごった返していた。

 鎌倉駅。観光客のエネルギーがすごいのなんの。

時刻は11時ちょい過ぎ。さっそく鶴岡八幡宮へ参拝するべく、小町通りを北上していく。
いちばん多いのはおばちゃん方だが、若い人の姿もチラホラ。修学旅行か何かで先生の指示を受ける中学生たちもいる。
鎌倉ってそんなにたくさん見るところがあるもんなのか……と思いつつ人ごみの中を歩いていく。
店先では呼び込みの声がとっても激しい。実に賑やかである。

 
L: 小町通り。おばちゃん多数。  R: 鶴岡八幡宮に近づくと、雰囲気は落ち着いたものに。

鶴岡八幡宮に近づくにつれて賑やかさはなくなっていくが、店が並んでいることには変わりない。
そして八幡宮の脇へと出るのだが、いったんそのまま直進して、八幡宮の横を歩いてさらに北上していく。
坂を上りながら左へカーブしていくと、そこにあるのは神奈川県立近代美術館の鎌倉別館。
休館日だったので中には入れなかったが、とりあえず外観を眺めておく。
気が済んだら来た道を戻って西側の入口から鶴岡八幡宮に入る。例のごとく参拝すると、大石段を下りていく。
大石段の西側には樹齢千年を超えるという大銀杏がある(公暁が源実朝を暗殺したとき、その陰に隠れていたとか)。
木の樹齢やら鎌倉時代という時間の隔たりやら、いろんなことを思いつつ境内を歩く。

  
L: 神奈川県立近代美術館鎌倉別館。地味な位置にあり、鎌倉館からも距離がややあって不便かも。
C: 鶴岡八幡宮、本宮と大石段。左手には大銀杏。1000年だとか800年だとか、時間の流れとは不思議だ。
R: 鶴岡八幡宮の境内は広い。手前に舞殿、後ろの高いところにあるのが本宮。

鶴岡八幡宮の境内西側には、モダニズムの四角い建物がある。神奈川県立近代美術館鎌倉館(本館)である。
坂倉準三設計のこの建物は、DOCOMOMO日本近代建築20選に選ばれているほど有名なのだ(⇒詳しい解説)。
近づいてみても竣工から50年以上経っているという感じはあんまりない。きれいにしている印象だ。
細かい部分でのモダニズムぶりはさすがで、近代建築にきちんと歴史的な価値を認めることの必要性を感じさせる。
モダニズムが設計者の「芸」であった時代の作品ということで、それだけでも見ていて面白いのである。

  
L: 神奈川県立近代美術館鎌倉館。1951年竣工。ピロティや鉄骨の使い方など、モダニズムの特徴がわかりやすく出ている。
C: ハスの見事な平家池と鎌倉館。モダニズムですなあ。  R: 平家池越しに見た鎌倉館。2階、縦の赤い鉄骨がアクセント。

やはりこちらも休館日だったので中には入れず。でもまあ、面白い建物が見られてこちとら十分満足なのである。
平家池ではハスにカメラを向ける観光客はいても、美術館の引力に気づかない人があまりに多かったのが残念。
この建物が漂わせているタダモノではない感じを見抜けないってのは、非常にもったいないのである。

 
L: 鶴岡八幡宮、二の鳥居。ここから段葛(だんかずら)が八幡宮境内のすぐ前にある三の鳥居まで続くのだ。
R: 段葛は、車道よりも一段高い中央分離帯がそのまま桜の参道になっていると思えばわかりやすい。

鶴岡八幡宮への参道である若宮大路をそのまま南下する。
まっすぐまっすぐ、ひたすら南へと歩いていくと、国道にぶつかる。その向こうにあるのが由比ヶ浜だ。
湘南だとかサーファーだとか、究極的に僕にとって縁のない世界。おそるおそる足を踏み入れる。

  
L: 9月に入って海の家がことごとく撤退作業中なのであった。  C: でも海水浴客は家族連れを中心にそこそこいた。
R: 超遠浅の海岸だ。確かに浜辺でみんなでキャイキャイ遊ぶには絶好の場所だと思う。眺めもいいし。

由比ヶ浜にはカップルはあんまりいなくって、男子大学生のグループや家族連れが多かった。
特にひがむこともなく、呆れるほど遠浅な海を眺めてしばらくぼーっとする。頭上ではトビが優雅に飛んでいる。
水着の皆さんが波と戯れている中、ジーンズで背中に荷物を背負っている僕の姿は明らかに異質。
男一人で海だ海だぁとはしゃぐのも非常にみっともないことなので、わずかに残った夏の感触を確かめる程度でガマンする。

存分に由比ヶ浜を堪能すると、若宮大路を戻って鎌倉駅の周辺へ。いい加減腹が減ったので、どうにかしないといかん。
若宮大路沿いに出ている看板では「しらす丼」という文字が目立っていたので、それは食わねばなるまいな、と思う。
いろいろチェックしてみた結果、漁の結果しだいで生しらす丼が食べられるという店に入ってみることにした。
店の壁には往年の日活スター(石原裕次郎とか小林旭とか赤木圭一郎とか)のポスターがびっしり。
店主の趣味が前面に出ていて面白い。会社勤めを引退して、鎌倉でのんびりと第二の人生を謳歌しているのだろう。
人生いろいろ、名物もいろいろ、と思いつつ、おいしく生しらす丼をいただいたのであった。

 長野県人にはまったくもって異質な文化でございます。おいしかったです。

メシを食ってようやく落ち着いた。そういえば鎌倉市役所をまだ撮ってなかったな、と肝心なことを思い出す。
鎌倉市役所は駅の西口にあるので、地下道を抜けて反対側へ。江ノ電の駅がある西口はずいぶん小ぢんまりしている。
西口のロータリーからまっすぐ伸びている道を歩いて鎌倉市役所へと向かう。途中のスタバが和風でオシャレだった。

さて鎌倉市役所。敷地はさほど広くなく、その中に本庁舎といくつもの分庁舎が建てられている。
本庁舎は1968年竣工で久米設計による。耐震補強した際に直しているのか、ガラスが目立っている。
コンクリートで伝統表現を意識したそうだが、組織事務所らしくあんまり冒険しているという印象はない。
でも直方体を互い違いに2つ重ねた形状は、冷静に考えるとなかなか大胆だ。西端には議会がくっついている。

  
L: 鎌倉市役所の正面。  C: 角度を変えて撮影。言われてみると、まあ和風テイストもあるかな、と。  R: こっちは議会。

時間的に少し余裕があったので、鎌倉から次の目的地へ移動する途中、逗子駅で下車してみた。
せっかくだから逗子市役所も見てやるかーというわけである。逗子市役所は駅から近いのだ。

逗子というと高級住宅地!というイメージしかないのだが、駅からしばらく歩いてみると、あんまりそういう感じはない。
むしろ昔ながらの街並みという印象の方が強い。標高の高いところに行けば、また違う光景になっているのだろう。
で、京急・新逗子駅の手前にあるのが逗子市役所。道幅が狭いのにヴォリュームのある建物で、非常に撮りづらい。
なんとか撮影を終えると、お隣の亀ヶ岡八幡宮で軽くお参りをして駅に戻った。そいだけ。

  
L: 逗子駅。駅の規模のわりにはロータリーがデカい。通勤時間帯にバスがたくさん出入りするのかな。
C: 逗子市役所。敷地いっぱい、みっちり詰まっている建物。  R: 敷地も道路も余裕がなくって本当に撮りづらかった。

本日最後の目的地は横須賀である。コイズミやクボヅカやイシカワリカなど、なかなかファンキーな人材を輩出する街だ。
三浦半島ってもの自体に今まで触れたことがないので、まったく想像がつかない。ドキドキしつつ電車に揺られる。
トンネルを抜けて横須賀駅に到着。ホームから見える景色は実に田舎っぽい。海には軍用の艦船が何隻も停泊している。
小田原は思っていたより落ち着いていたし、鎌倉は商業施設がほとんどなかった。逗子も小規模な印象だったので、
こりゃあ横須賀も知名度のわりにはちんまりとした街なのかなあ、なんて思いながら改札を抜ける。

 横須賀駅も、思っていたよりずっと小さかった。

駅から海の方へと行ってみる。木製のデッキが遠くまで続いていて、穏やかな公園になっている。
ヴェルニー公園というようだ。少し進むと、小ぎれいに手入れがされている木々が目立ってくる。
湾の向こう側は海上自衛隊の基地になっているようで、さまざまな艦船が並んで停泊している。
中には潜水艦まである。僕は海軍方面の知識はほとんどないのだが、さすがに生で見る潜水艦には少し興奮した。

  
L: 湾を囲むように停泊する海上自衛隊の艦船。  C: 潜水艦も2隻いた。なんだか少し、ひ弱な印象がしないでもない。
R: ヴェルニー公園はこんな具合である。園内には軽食・喫茶の店もある。正面にそびえているのは横須賀芸術劇場。

横須賀駅は市街地からは完全にはずれた位置にある。だからヴェルニー公園もけっこう長い。
公園を突っ切ると、ダイエーの大規模店舗が目の前に現れる。これは大きい。やはり横須賀、都会なのだ。
そして何より、真っ白な横須賀芸術劇場が、まるで要塞のようにそびえ立っているのである。
ホテルも併設しているそうなのだが、とにかくこれがとてつもない迫力なのだ。
とてもとても、県庁所在地でも政令指定都市でもない一自治体の施設とは思えない。
国道16号はずいぶんと広々としている。雰囲気は一気に変わってしまい、横須賀駅のおとなしさがウソのようだ。
ただ、景気のよい大規模施設も、ダイエーと芸術劇場を越えてしまえばなくなってしまう。
道路のサイズに似合わないさびれかけた雑居ビルが並んでおり、とてもアンバランスな印象を受ける。

横須賀でいちばんの名所といえば、まあおそらく三笠公園ということになるだろう。
そんなわけで、とりあえず三笠公園を目指して東へと歩く。街のあちこちで港・海軍を思わせる意匠を見かける。
ここも佐世保(→2008.4.27)同様、海軍の街なのだ。あらためてそのことを実感しながら歩くうちに、到着。

三笠公園の三笠とは、戦艦「三笠」のことだ。日露戦争・日本海海戦における日本海軍連合艦隊の旗艦である。
「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」、東郷平八郎が指揮してZ旗を掲げてバルチック艦隊に勝利をおさめた、あの戦艦だ。
その戦艦「三笠」がコンクリートで足元を固められて園内に保存され、中は資料館になっているのである。
海軍や艦船に関する知識はほとんどゼロの僕ではあるが、面白そうなので入ってみることにした。

三笠の外側はまったく汚れておらず、きれいである。よく公園に置いてあるSLと同じように、
もう動かない機械特有の物悲しさを漂わせながらも、本物ならではの迫力を感じさせてくれる。
思ったよりもあっちこっちに上ってみることができるのがまたいい。そして猿島越しの東京湾が美しい。
高所恐怖症なんでへっぴり腰になりながらも、さまざまな角度から三笠や海を眺めてはウンウンうなずく。
また、三笠の内部も手入れが行き届いている。日露戦争当時の世界情勢を教えてくれる展示が少しあり、
あとは旧日本海軍の資料がたっぷり並べられている。艦首の内部は立派な映写室になっているのがまた驚きだった。
艦尾はお偉いさんたちの部屋だったようで、当時の内装がきれいに再現されている。
軍隊らしい無骨さと威厳たっぷりの優雅さがひとつの船に同居している、それが実に面白い。
不慮の死を遂げた船員を悼む展示も充実しており、単に船を操る技術や戦術だけでなく、組織の一体感、平和など、
いろいろと考えさせられる要素が含まれている非常にいい施設だと感じた。

  
L: 三笠公園内の戦艦「三笠」。コンクリートで固められているが、艦首は皇居、そしてロシアに向けられているとか。
C: 三笠の甲板。大雑把な鉄の塊たちは、まるで工場のようにエネルギッシュな印象が残る。
R: 艦首から眺めた主砲と艦橋。こういう戦艦が遊び場になるってことこそ、自由だとか平和の象徴って感じがするなあ。

  
L: 艦橋から艦首を眺める。実際に東郷平八郎や秋山真之らはここで指揮を執っていたみたい。
C: 広々とした艦内は展示室となっている。いい意味での海軍の誇りが感じられて興味深い。
R: 艦尾のお偉いさんの部屋。ふつうに豪華。こうしてみると、戦艦ってのもなかなか不思議なものである。

三笠はなかなか面白く、思ったよりも時間がかかってしまった。だいぶ光線は夕方っぽさを含んできている。
少し急いで横須賀市役所へと向かう。なぜか大量の高校生たちの列に混じって市街地へ。
公園の真向かいにある横須賀市役所は、非常に巨大な建物だ。なかなかカメラの視野にうまく納まらない。
しょうがないので公園の敷地いっぱいまで距離をとって撮影するなどして、どうにかその全容をつかむ。

  
L: 横須賀市役所本庁舎 。周りの建物とはワンサイズ違う大きさ。  C: 公園の敷地ギリギリから撮影。
R: 最初の写真の反対側はこんな感じになっている。とにかく、大きい。

 向かいにある分館。あれだけデカい本庁舎からはみ出すとは。

今日一日で実に4つも市役所を撮影してしまった。まあ、これだけのハードスケジュールなら当然だろう。
あとはのんびりと横須賀の市街地を散策するのみである。横須賀駅の雰囲気で勘違いしてしまったが、
横須賀はとっても都会だ。実際にあちこちをあてもなく歩いてみて、それを肌で実感するしかないのである。

  
L: 京急・横須賀中央駅。JRの横須賀駅が街はずれだったのに対し、こちらは市街地の中心部にある。
C: 横須賀は「よこすか海軍カレー」を名物としてPRしている。そのキャラクターであるスカレー。
R: 横須賀の中心市街地はこんな感じ。やはり外国人の姿がちょこちょこ目立っていた。さすがは海軍の街。

横須賀は、実はかなり山がちな性格の街でもある(トンネルが非常に多い)。横須賀中央駅のすぐ裏は上り坂で、
手前のペデストリアンデッキもなんとなく狭苦しい。平らな海辺は軍用地になっていて、残された平地の少なさを実感する。
国道16号から横須賀中央駅までの間はアーケードの商店街になっていて、人口密度が非常に高い。
大きめのデパートも複数あり、しっかりと営業をしていた。やはり軍の街ってのは確かな活気があるものなのだ。

しっかり歩いて腹も減った。空もすっかり暗くなった。横須賀名物海軍カレーを食べて、本日の旅を締めるとしよう。
本屋の旅行本コーナーで海軍カレーを食べられる店を確認すると、脇目もふらずに直行する。
まだ時間がちょっと早かったからか、ほかに客がほとんどいない中、オススメであるいちばんシンプルなものを注文。
もちろん大盛である。つくったカレールーをご飯にかければいいだけだからか、けっこう早く出てきた。
さて、海軍カレーについて調べてみるとなかなか面白い。カレーはもともと、イギリス経由で日本に上陸したというのだ。
イギリスのシチューと同じ食材にインド産の香辛料を使うことでイギリス型カレーが生まれ、それが軍隊食に定着。
そして旧日本海軍はイギリス海軍を模範としていたことで、イギリス型カレーが日本へと伝わったそうだ。
旧日本海軍はカレーに小麦粉でとろみをつけてご飯にかけるスタイルを確立、ここに日本のカレーライスが誕生したという。
横須賀の海軍カレーは、カレー粉と小麦粉を炒ってルーをつくる、カレーライス・牛乳・サラダのセットで出す、が条件。
後者は栄養バランスを考えてのことであり、海軍たるこだわりを感じさせる部分だ(現在の自衛隊もそうしているとのこと)。
実際に食べてみると、小麦粉のルーによるカレーは素朴な味わいだが、シンプルなだけに食欲をしっかりそそられる。
夢中でがっついて、あっという間に平らげた。大いに満足して、横須賀駅へと向かう。

国道16号の南側にはそれと並行するようにして、「どぶ板通り」と呼ばれる商店街が広がっている。
戦後、米軍横須賀基地の外国人向けに栄えた場所で、今もアメリカの匂いが漂う独特な雰囲気の一角となっている。
特に夕方以降は米軍相手のバーが開店し、そんな店の奥を覗き込むと「おお、外国!」と思わず声が出てしまう。
街並み全体がアメリカ風というわけではなく、ひとつひとつの店がアメリカのカプセルといった趣で、
ちょっとほかでは見かけられない風景が次から次へと小宇宙のように点在しているのである。

 
L: 横須賀名物・よこすか海軍カレー。素朴な味だからこそおいしいのだ。セットの牛乳も風味抜群でよろしかったです。
R: 夜のどぶ板通り。店の外は日本なんだけど、店内は完全にアメリカだったりなんかして、妙に面白い。

今日はこんな具合に朝から晩まで神奈川県内をあちこち歩きまわって過ごしたけど、さすがに数をこなそうとしたせいか、
質としてはちょっと粗かったかなあ、と思う。まあでも、できる限りのいいとこ取りはしてみたつもりである。
まあこうやってきっかけをつくっていくことが重要なのだ。いずれどの街についても、たっぷりとディープに味わってみたいものだ。


2008.9.2 (Tue.)

通信の大学へ書類を提出しに行く。本来の期限から2週間ほど遅れたが、試験と大学側の夏休みのせいなのである。
不可抗力なのである。僕は悪くないのである。まあ、大学もその遅れをまったく気にすることなく受け取ってくれたし。

試験の感触がまったくよろしくないので日々やさぐれているのである。
そういうわけで、本日は帰りに渋谷に寄って、話題の『20世紀少年』の映画を見ることにした。
『20世紀少年』のマンガについては、前にレビューを書いている(→2008.7.11)。
そのときには超絶複雑なプロットを一応はやりきったことを評価し、映画化することを「けっこう正しい解答」と書いた。
そういう経緯もあるので無視できないなーと思ったわけである。キャストも異常に豪華だし、どれどれ見てやろうか、と。

2時間半、映画としては長めの部類に入るが、なんせマンガのヴォリュームがかなりあるので、それでも駆け足な印象。
原作マンガにとても忠実につくっている。ひとつひとつのコマの絵をそのまま映像化していく努力を感じる。
ほとんどの観客はまず、このキャラクターをこの芸能人が演じる!というところに興味があるわけで、
その次にストーリーをどこまで忠実に再現しているかを気にすると思う。その点では、一定の成果を残せているとは思う。
でも、優先順位をその2点に置いているだけ、というレベルの作品だ。はっきり言って、これは使い捨ての映画。

延々と予告編を見させられている気分だった。
原作では場面転換を連発して読者の気を引き続けることでテンションを維持したが(その連続で食傷気味にもなった)、
それをそのまま映画でやると、気持ちをクイッと引っぱっておいて解決せずにまったく別のシーンに移る連続となるわけで、
まさに映画の予告編を2時間半もの間ずーっと見させられているような気分になるのだ。これは本当に苦痛だった。
考えてみれば、両者は共通点を持っている。原作マンガのわざと短く切られたシーンも予告編という存在も、
どちらも解決を先延ばしにすることで当座の支持を得ようとするものだ。本質的な部分はまったく一緒なのだ。
だから観客を目の前のことだけに格闘させて、ストーリー全体を貫いているモノには触れさせないようになってしまっている。

もうひとつ、大いに気になったのが、「会話の不在」である(まあ、それはこの映画に限ったことではないとも思う)。
この映画では、セリフを発する人物をクローズアップすることが多い。別の人がしゃべるときはカットを替え、そっちをアップ。
言葉が交差することはまったくない。必ず誰かがセリフを言い切ってから、お行儀よく次のセリフが出てくる。
会話がリアルでないのだ。こういうスタイルについては橋田壽賀子的モノローグということで前に批判をした(→2003.2.6)。
そのような日本語や日本の古くさい演劇の持っている問題点にチャレンジしようという意欲のかけらもないので、
すべてのセリフは登場人物が自分のやりたいことを声に出して確認しているようにしか聞こえないのだ。響かない。
マンガを映画化したのに、セリフが終わるのを待ってカットを切り替えて話を進めていくんじゃ、映画にした意味がないだろう。
小津安二郎の『東京物語』(→2005.7.3)で炸裂していた手法が、悪い方向で無意識のうちに慣例化している感じだ。

そういうわけで、ものすごくキツい表現になってしまって申し訳ないのだが、
この映画を面白いと感じる人は、よっぽど物を考えることがない人なのだと思う。
このキャラをこの人が演じてるー、マンガのこのシーンが再現できてるー、という程度のことで喜んでいて、
マンガではお世辞にもきれいに解決できたとはいえない肝心のストーリーをどう料理しているか、
映画というメディアでどう再解釈しているか、というレベルまで踏み込んで考えることのない人、
そういう人ならそれ相応に楽しめはするだろう。だけどそれは、使い捨ての楽しみ方だと僕は思う。
観客が骨の髄までしゃぶり尽くすことで何年にもわたって影響を与え続けるような作品ではない。
監督である堤幸彦の力量がいかに乏しいかを感じとることは十分できるだろう。


2008.9.1 (Mon.)

僕の場合、現実逃避の手段が旅となって久しい。
ここんところ、まるで地球全体が雨雲で覆い尽くされたんじゃないかと思えるほどにジトジトした天気が続いていたが、
ようやく晴れ間が覗くようになってきたので、センチメンタル・ジャーニーとしゃれ込むのである。イヤホントマジで。
で、クヨクヨしているときには海に行くべきだ、と思ったので、雄大な太平洋を見るべく犬吠埼まで行ってみることにした。
途中で佐原に寄って小江戸も体験してしまうのである。青春18きっぷってのは本当にいいもんですな!

5時55分に大岡山を出発。東京から見ればお隣さんの千葉県へ行くのになんでこんな早く出にゃならんのだ、と思うが、
ネットで調べたら「この時間じゃないと佐原も銚子ものんびり歩くことはできません」ってことなので、しょうがない。
各駅停車、18きっぷの弱みである。特急ばかりが旅の手段だと思うなよ、と私は言いたい。
で、大井町から日暮里に出ると、常磐線の快速で我孫子まで進む。この辺、馴染みがないので勝手がわからない。
異常に腹が減ったので立ち食い蕎麦をすすると今度は成田線。自分が今どこにいるのか全然わからないのだが、
それでも電車はどんどん進んでいく。いかにも千葉っぽい(千葉市以東っぽい)のどかな風景を抜けて成田駅に到着。
成田からは青とクリーム色でいかにもローカル線らしく塗装された電車になる。単線らしいのんびりしたペースでさらに東へ。
あまりに平和なのでうつらうつらしていたら佐原駅に到着。実にここまで来るのに3時間ちょっとの時間がかかった。参った。
朝9時になり佐原の街は徐々に動き出そうとしているところ。観光案内所で地図をもらうと(20円と有料。そんなの初めて)、
元気よく東に向けて歩きだす。まずは香取神宮でお参りしておこう、という魂胆なのである。

さて、ここで佐原についてまとめておこう。まずその読みからで、「佐原」と書いて「さわら」と読む。
かつては伊能忠敬が暮らしていた街であり、今でも古い街並みをよく残している水郷として知られている。
街の中には伊能忠敬に関するものが数多くあり、その偉業(本当に偉業だよなあ)があちこちで讃えられている。
そしてここは先月訪れた川越市(→2008.8.19)や栃木市(→2008.8.20)とともに「小江戸サミット」を始めた街でもある。
平成の大合併により、現在は郡名から「香取市」となっている。しかし中心市街地が佐原周辺であることに変わりはない。

県道55号に出ると、そのまま東へ歩いていく。住宅街をしばらく行くと、すぐに木造の街並みが現れる。
そして小野川に架かる忠敬(ちゅうけい)橋まで来ると、川沿いの柳と木造建築の光景に圧倒される。
川越や栃木と比べると、東京から行くのに時間のかかる場所にあるためか、ずいぶんと雰囲気が落ち着いている。
そして、建物が点在しているのではなく、きちんと線になって残っているという印象を受ける。
これはすごいなーと思うのだが、まずは香取神宮を目指すのである。この辺りの散策は、とりあえず後回しなのだ。

  
L: 佐原駅。小江戸のイメージに合わせてリニューアルされたそうだ。屋根の色をなんとかすればグッと雰囲気が出そう。
C: 県道55号沿いの街並み。かつての街道ということもあってか交通量はまあそこそこあるが、川越や栃木ほどではない。
R: 一見モダンなファサードも、その裏側は木造なのである。うーん、これは面白い。

いかにも小江戸な街並みを抜けてしまうと、あとはごくふつうの片田舎の住宅地となる。
香取神宮まではけっこうな距離があるとわかってはいるが、実際に歩くとなかなかつらい。道も狭いし。
地図には「山車会館から香取神宮まで2.2km」と書いてあったが、これは絶対にウソだと思う。ホントはもっとあるって。
そして県立佐原高校を越えてしばらくすると住宅街は農地へと変わる。いかにも千葉県の田舎の風景だ。
「千葉には独特の文化があるんだよね」とは大学時代の恩師の言葉だが、千葉市より東に来るとそれははっきりわかる。
森と農地、それがひたすら繰り返される。こうしてみると、千葉ってのもなかなか近くて遠い場所である。

 こんな標準的千葉の田舎な風景が延々と続くのだ。

日差しがきつくなってきた中、緩やかな起伏をいくつか越えて行ったところに広々とした駐車場が現れた。香取神宮だ。
参道の土産物屋がちょうど店を開け始めたところだった。まっすぐ進んで神宮の中に入る。

 香取神宮の参道の土産物屋。周囲は農地と森で何もないが、ここだけ妙に元気。

香取神宮は全国に約400あるという香取神社の総本社である。平安時代に「神宮」と呼ばれていたのは、
伊勢神宮(→2007.2.10)、鹿島神宮(→2007.12.8)、そしてこの香取神宮だけだったそうだ。
本殿も楼門も1700(元禄13)年に造営された重要文化財だが、まあ個人的にはとにかく神頼みということなのである。
さすがに境内は静かな雰囲気。緑に包まれた坂をぐるりと回るように上っていくと、赤い楼門が見えてくる。
そして拝殿・本殿は、それとは好対照な真っ黒。こういう取り合わせも珍しいなあ、なんて思いつつ参拝。

  
L: 香取神宮の参道。今は緑一色だが、春には桜、秋には紅葉が見事に色をつけるとのこと。
C: 楼門。そんなに古くは見えなかったんだけどなあ。  R: 拝殿。奥には本殿。黒がたいへんシブい。

しばらく香取神宮の穏やかな空気を深呼吸して過ごすと、来た道を戻って佐原の街まで帰る。
知らない場所を歩いているとずいぶん長い距離を歩いている気になるが、帰り道は早く感じるものだ。
しかしそれにしてもやっぱり、佐原の街から香取神宮までは、かなりの距離があった。これには閉口。

忠敬橋の辺りまで戻ると、小野川に沿って北上しながら散策する。
平日の午前中ということもあって、とっても静かだ。ほかに観光客がいないわけではないが、街全体が落ち着いていて、
まるで時が止まったかのような印象を受ける。古い建物が本当に多く残っていて、そのことにあらためて感心した。

  
L: 小野川沿いの光景。家並みと柳とで、利根川水運で栄えた往時の雰囲気が伝わってくる。
C: 伊能忠敬旧宅。ちなみに付近には現在も伊能さんのお宅が何軒かあったよ。
R: 忠敬橋から北側は柳がすごい。リニューアルによりつくられたという感じのない、自然な街並みだ。

  
L: 今でも和紙などを売っている商店。  C: こちらは醤油屋。本当に醤油の匂いが漂っている。  R: 街灯も雰囲気あるのだ。

建物は古いが売っているものは新しい、という例はよく見かける。しかし佐原の商店は売っている物も伝統的な印象だ。
(典型的な例はカフェ・軽食の店だと思う。古い建物を利用した小洒落たカフェが佐原にはほとんどなかった。)
それは街並みも含めて、一般的な都市化・都会化から取り残されてしまったということを示しているのかもしれない。
しかし、数は力であるとも思わされる。これだけ古い建物が集まって残っていることは本当に珍しく、見るだけで圧倒される。
佐原の街は小江戸ということでPRをしているが、実際に行ってみると、ごく当たり前の生活を昔から続けているだけで、
僕らは何も特別なことなんてしていませんよ、という空気を感じとることになる。欲張らない、不思議な街だ。

線路の反対側に出て、市役所も見てみることにする。旧・佐原市役所、現・香取市役所である。
9月1日ということで避難訓練をやっていた。真四角の現代オフィス建築で、小江戸のイメージとはひどく対照的だった。
でも変に木造の街並みを意識してワケのわかんないものになるよりはずっといいとは思う。

 香取市役所。これほどまでに僕のアリバイを証明する写真がほかにあろうか。

成田線は電車の本数が少なく、昼メシを食ってもまだ時間的な余裕があった。
少し疲れたので駅前の停留所のベンチで寝ていたら、行き倒れかと心配した警官に起こされた。恥ずかしい……。

佐原から銚子までは1時間弱。銚子って遠いんだなあ、と呆れる(総武本線だけで行けばまだマシなのかもしれんが)。
電車には高校生がやたらめったら乗ってきて、うーむ元気だなあと。こちとらすっかりしょぼくれちまってらあ。
せっかくこの辺りまで来ているのだからいかにも水郷っぽい風景を味わいたい気持ちもあったが、時間もないのでガマン。
銚子駅に着くと、ホームをそのまま進んで一日乗車券(弧廻手形)を買い、銚子電鉄の車両に乗り込む。
乗ったのは『鉄子の旅』(→2007.9.25)の特別車両だったようで、車内広告は『鉄子』関連のものばかり。
銚子電鉄はキャンペーン上手だなあ、とあらためて思うのであった。

けっこう鉄っちゃんが多いのかなあと思ったら、銚子電鉄はきちんと地元住民の足として活躍しているのであった。
なかなかの乗車率で電車は動き出す。天気もすっかり良くなっており、窓から見える風景はなかなか鮮やか。
千葉の田舎の風景も、電車のリズムとともに心なしか輝いて見えるのであった。
とりあえずは終点の外川(とかわ)駅まで乗ってみる。案の定、一緒に降りた人はほとんどが駅舎の写真を撮っていた。
駅舎の近くに貼りついて次の電車を待つなんてつまんないから、周辺の住宅街をふらふら歩いてみる。
そしたら下りの坂道から太平洋が見えた。山国育ちに海辺の風景は異世界なのだ。時間いっぱいあちこちを歩きまわる。
やがて電車の発車時刻が近づいてきたので、さっきまで乗っていた車両に再び乗り込む。
犬吠駅で降りると、本日2つめの目的地である犬吠埼を目指して歩きだす。

  
L: 銚子電鉄の鉄子スペシャルな車両。中は『鉄子の旅』書き下ろしマンガや広告でいっぱいなのであった。
C: 千葉の最果て、外川駅。木造の駅舎はいかにもノスタルジックな要素満載。これは確かにロケ向きって感じだ。
R: 犬吠埼の最寄駅である犬吠駅。なぜかポルトガルの宮殿風になっているそうだ。理由がわからん。

案内に従って県道254号に出てしばらく行くと犬吠埼。遊歩道があって下りられるので、迷わず行ってみる。
足元の岩はとても珍しい形をしている。何層にもなった板が斜めに埋め込まれたようになってギザギザに露出していたり、
あるいは泡の跡がそのまま残ってしまったような穴が表面に無数に空いていたりと、なかなか神秘的である。
複雑な地形の海岸に波は絶えず押し寄せてくるが、勢いをそがれてしまってそんなに怖くない。
雄大な太平洋と真っ青な空を、高いところに上ってボーッと眺めながらしばらく過ごした。

  
L: 犬吠埼灯台周辺。土産物屋はちょっと元気がないかなあという印象。芝生がけっこう気持ちいい。
C: 遊歩道の様子。一部通行止めだが、下まで行くことはできる。ゴツゴツと露出している岩に波が押し寄せる。
R: 下りてみた。意外と歩きにくいことはなく、きちんと気をつければ特に危険ではない。わりとフレンドリーな岬である。

 時折、岩に激しく波がぶつかる。気分は東映。

せっかくここまで来ているわけだから、高いところは苦手でも犬吠埼灯台に上ってみるのだ。
200円の入場料を払って中へ。実に1874年竣工だそうだが、中はそれほどの古さを感じさせない。
九十九里海岸にちなんだ99段のらせん階段を上っていった先には展望スペース。
高いところは怖くってしょうがないのだが、運良く風がなかったので比較的落ち着いて一周できた。
いやいや、すばらしい眺めでした。

  
L: 犬吠埼灯台。国産のレンガでつくられ、竣工から130年以上経った今もバリバリの現役なのである。
C: 灯台から眺めた犬吠埼の先っちょ。海は広いなあ。世界は広いなあ。地球は丸いなあ。
R: こちらは君ヶ浜。波が高くて複雑な海流のため遊泳禁止とのこと。

絶景を堪能したので犬吠駅まで戻る。一日乗車券の弧廻手形には銚子電鉄製ぬれ煎餅1枚との引換券がついている。
今やすっかり、銚子電鉄といえばぬれ煎餅になっている(副業なのに鉄道の赤字を補っているってんだからすごい)。
銚子は醤油どころだけあって、ぬれ煎餅はその醤油の風味がたっぷり染み込んでいて確かにおいしい。
これはのどが渇くなーと思いながらも必死にむしゃぶりつくのであった。
それにしても、銚子電鉄は副業やらコラボレーションやらに熱心だ。犬吠駅の構内は土産物でいっぱいなのである。
銚子電鉄名物のぬれ煎餅だけでなく、小魚の佃煮、豆乳ジェラート、酒など各種の食品が所狭しと置かれているのだ。
まさに地元密着で全力のPRである。そのエネルギーたるやすさまじいものがある。
銚子電鉄は乗客だけでなく地元の産業も乗せながら、ネットさえも利用して日本全国を相手に走り続けている。

そんな具合にあれこれ考えながらトイレに行くなどして電車を待っていたら、デジカメを忘れて改札を抜けてしまった。
幸い、忘れ物ということで届けてくれた人がいて、どうにか助かった。もう本当、自分のいい加減さには呆れる。
でもまあ、ギリギリのところで無事に済んだということで、運の良さに感謝しておくことにする。うーん、かっこ悪い。

乗り込んだ電車は、今度はハドソンの桃太郎電鉄とのコラボ車両だった。
銚子電鉄はホントにいろいろ手広くやってるなあ、と舌を巻く。もちろん車内広告は桃太郎電鉄関連のものでいっぱい。

 
L: シートまで桃鉄仕様だった。これには驚いた。  R: 大胆にラッピングされている車両。

観音駅で降りると、これまた銚子電鉄名物であるという鯛焼きをいただく。
あんことカスタードを各1個ずつ食べたのだが、パリパリではなくふんわりとしたつくり方で、けっこう量があった。
鯛焼きを食べつつ歩いて県道244号に出る。のんびりぷらぷら西へと歩いて銚子市役所を目指すことにする。
広々としている道路は閑散としていて、なんだかさみしい印象である。
それでもヤマサ醤油(ぬれ煎餅専用の醤油を銚子電鉄に卸している)の工場はさすがに大きくて迫力があった。
そこからしばらく行くと商店街。でもやはり、道が広すぎて人口密度が低い印象が残る。
日差しはだいぶ西へと傾いている。高校生の姿がチラホラする中、少し寄り道して利根川に出てみる。
ゆったり流れる川の向こうには茨城の住宅街が広がる。見渡す限り真っ平らな土地だ。
利根川から回り込むようにして銚子市役所へ。歴史ある街だけあってか、けっこう大きめにみえる。

  
L: 利根川河口を望む。自分にはまったく馴染みのない風景。  C: 銚子市役所。  R: たぶん左手にあるのが議会。

銚子は平野に海に電車と、自分にとって縁のないものづくしの街だった。
本来なら車かなんかで自由にじっくりあちこち見たり食べたりしながら観光するのがいいのだろうけど、
銚子らしさに少しでも触れることができたわけだから、良かったなあと思う。遠かったけど、楽しかった。

で、3時間以上かけて銚子から東京まで戻ってきたんだけど、途中の品川駅で中国人(台湾?)観光客から、
英語で新幹線の乗り場について訊かれた。うえー今日も英語ー!?と思ったのだが、わりにすんなり意思疎通ができた。
なんつーか、へこんどるヒマなんてありませんな。


diary 2008.8.

diary 2008

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