diary 2010.8.

diary 2010.9.


2010.8.31 (Tue.)

ヤクルトは現在、勝率5割のラインをウロウロしているわけです。……なんてことが書けるこの喜び!
借金最大19の状態で高田監督から小川監督代行にスイッチしたときには絶望的な気分だったのだが、
信じられない快進撃で借金を完済してしまったではないか! これはまったく予想していなかった事態だ。
このままだらしない巨人を逆転してAクラスに滑り込めば、一時期完全にあきらめていたCSに進出できるのである。
ファンはこの借金19完済でのCS進出を「メークミルミル」と呼んでいるそうだ。上手いことを言うもんだ。
こうなったらなんとしてもCSに進出して伝説をつくってほしい。こうなると俄然、応援しがいがあるなあ。

さてそんなヤクルトは本日、巨人戦である。場所はなんと、金沢の石川県立球場。
そう、ヤクルトファンなら忘れられないあの試合、伊藤智仁が16三振を奪いながら敗れたあの試合が行われた場所だ。
1993年6月9日、ヤクルトの先発は伊藤、巨人は門奈でルーキー対決。どっちも好投して8回までゼロが並ぶ。
伊藤はルーキー記録となる16奪三振を達成するが、9回裏、代打篠塚にサヨナラホームランを浴びて敗れてしまう。
あのときダグアウトにグローブを投げつける伊藤の姿を見て「うーんこりゃいかんな」と思ったのだがさておき、
とんでもないルーキーの活躍をテレビで見て非常に大きな衝撃を受けた(→2002.11.12003.10.29)。
(そしてベテラン篠塚の実力にあらためて舌を巻いた。本当に、野球のドラマが凝縮された試合だったのだ。)
さすがに伊藤が引退した今でもこの試合は語り草になっているようで、伊藤・篠塚両コーチで始球式をする案も出たとか。
記事によると伊藤は「今度打たれたらもう立ち直れない」と断ったそうだが、実現していたら……うーん、
プロ野球の歴史に残る試合が再度注目されるいい機会になったと思うんだよなあ。伊藤コーチのファンとしては残念。


2010.8.30 (Mon.)

サッカー日本代表監督が、イタリア人のアルベルト=ザッケローニ氏に決定とのこと。
にわかサッカーファンの僕としては記事に載っている説明を読んでなるほどなるほどと思ったしだい。
かつてセリエAで弱小チームを率いて攻撃サッカーをしてその名を轟かせ、ミランの監督に就任してスクデット。
しかしながらその後はパッとしない成績が続いているという触れ込みである。うーん、なるほど。

懸念されているのは監督としてのキャリアがすべてイタリア国内という点、そして代表監督の経験がない点。
また近年はシーズン途中からの監督就任が続き、チームを立て直せないままで解任され続けているという点。
まあ確かにそういった部分を見れば、正直これはちょっと不安になる要素が並んでいる。
ひどいコメントでは「もう時代遅れの終わった人」なんてものもある。うーん、なるほど。

しかし、だ。僕はザッケローニの監督就任について、かなりポジティヴな印象を持っている。
「時代遅れの終わった人」が、初めての代表監督のキャリアに日本を選んだ。
彼はたぶん、追いつめられている。そういう状況にある人間が野心を持って取り組むなら、きっと何かが起きる。
3バックはともかく、攻撃サッカーにこだわりを貫きとおしてきたってのもいい。
そして何より、前にあった川淵のどうしょうもないやり口みたいなことではなく、
原博実(4バック大好きっ子)がきちんと外に出て交渉をしたうえで就任が決まったってのがいい。

ザッケローニ、いいじゃないか! 守備的サッカーで伸び悩む集団を、時代遅れのレッテルを貼られたおじさんが変える。
僕はそこに、何かものすごく面白そうなストーリーの匂いを感じるのだ。ドラマが始まる予感がするのだ。
一緒に世界を驚かせてやろうぜ、そういう準備がかっちりハマった感じがするのだ。ザッケローニ、いいじゃないか!


2010.8.29 (Sun.)

青春18きっぷが余ったので、日帰りでどこかに行ってみることにした。
今までにきちんと訪れたことのない、日帰り可能な街……ということで地図を眺めてみたところ、
「郡山市」と「いわき市」という答えがはじき出されたのであった。よし、いっちょ挑戦してみよう。

ふつうに東北本線を使うのはもはや面白くないので、ひと工夫して北を目指すことにした。
ただ、そのためには東急で山手線に出て……なんてことをやっていては間に合わない。
まだ夜が明けないうちに自転車のペダルをこぎ、向かった先は五反田駅。直接山手線からスタートするのだ。

●04:31 五反田-05:05 日暮里

山手線にぐるっと180°揺られて日暮里駅に到着。ここで常磐線に乗り換えるのだ。
常磐線は日頃まったくお世話になることのない路線なので、細かいことがよくわからない。
なんとなく不安になりつつも、事前に調べておいた時刻に発車する列車に乗り込み、2時間近く過ごす。

●05:13 日暮里-06:58 水戸

日記を書いたり音楽を聴いたりしているうちに水戸に到着。30分ほど余裕があるので駅周辺を徘徊してみる。
水戸は県庁所在地めぐりのかなり早い段階でクリアをしており(→2006.8.262006.8.27)、
訪れるのはけっこう久しぶりになる。一見したところそれほど大きな変化は感じなかったが、
よく見たら駅前の西武が撤退していて空きビルになっていた。これはかなりのショックである。
まだ午前7時をまわったところなので簡単には断定できないが、うっすらと街がパワーダウンした印象がする。
これはいずれきちんと検証してみなくちゃいけないかも、と思う。南口は相変わらずの大雑把さ。

  
L: 水戸駅北口。4年前とまったく変わらない姿である。しかし向かいの西武は空きビルに。厳しい。
C: 本当は諸国を漫遊していないのに堂々と銅像が立っている水戸黄門一行。まあしょうがないんだけどさ。
R: 水戸駅北口のペデストリアンデッキから眺める水戸市街。心なしか、パワーダウンしたように思える。

さすがに朝早すぎるのでこれといって寄りたいところもない。おとなしく改札を戻ってホームへ。
水戸から郡山までお世話になるのはそう、水郡線。このマニアックな路線に乗るために五反田スタートになったのだ。
駅の端っこにある水郡線のホームには、気持ち小ぶりなディーゼル車両が待機していた。
前面には黄色、側面には緑と原色の線を引いており、ドアも黄一色。おもちゃっぽくて少しかわいい。
乗り込んでしばらくすると列車は発車。すぐに県庁所在地とは思えない穏やかな田舎の住宅地を走りだす。

●07:27 水戸-10:50 郡山

水郡線は3時間以上をかけて、のんびりと北上していく。途中は本当に穏やかな田舎の駅ばかり。
少し停車した常陸大子駅はちょっと規模があったが、周りが田舎なのはほかとまったく変わらない。
とはいえ同じ田舎を走るんでも、東北本線はいかにも主要な路線です!と言わんばかりに線路周辺が広いのに対し、
水郡線は線路のすぐ脇から景色が始まって広がる。つまり、東北本線よりもずっと車窓から見える景色が近い。
また、東北本線が実際に広々とした田んぼの中を幹線道路と並んで走っているのとは対照的に、
水郡線は気ままに山を抜けて里を抜けて森を抜けていく。こっちの方がはるかに飽きない景色なのだ。
たまにはこういうのも悪くないなあ、なんて思いながら過ごすのであった。

そうして郡山に到着したのが11時ちょっと前。いつもはもっと北へ行く際の通過点でしかない街だが、
今日はここが主人公なのだ。まずは駅の中にある観光案内所で情報収集。どうも思ったよりも広い街で、
ずっと歩いていった先の自転車屋でレンタサイクルを扱っているらしい。こりゃもう、お世話になるしかない。
コインロッカーに荷物を預け、地図を片手に青空の下を意気揚々と歩きだす。

  
L: 郡山駅。交通の要衝ということで駅の規模はかなり大きい。いかにも新幹線が通りますってデザイン。
C: 駅に隣接する郡山ビッグアイ 。中身は下から商業施設、市民プラザ、県立高校、オフィス、科学館と実に雑多。
R: 郡山の駅前通りを行く。幅が広くて規模も大きいが、正直かなり衰退気味なのであった。

目的の自転車屋までは意外と距離があった。これはつまり、郡山の市街地が異様に広いのだ。
駅から国道4号との交差点まで伸びるアーケードの商店街はなかなか長い。福島市のそれより立派な印象すらある。
交差点の先はさくら通り。街中にしてはちょっと急な上り坂になっており、それを上りきってもまだ店は続いているのだ。
やがて店がまばらになってきたところに、営業しているのかやや怪しげな自転車屋がようやく現れた。
営業しているのを確認するとレンタサイクルの申し込み。駅からかなりの距離があったので、
早めに返して次の列車に間に合うように早歩きしなくちゃいけないな、なんて思う。
そんな僕の前で店のオヤジは信じられない行動に出た。なんと売り物の自転車の値札をはずして「はいどうぞ。」
どっからどう見ても中古だろコレ、と言いたくなるような自転車を売っていること自体にもたまげたが、
それを貸し出すという行動にはもっとたまげた。しかも料金が高い。いきなりの洗礼に驚くしかなかった。

自転車で走ってみると、郡山市街の異様な広さは想像以上であったことがよくわかった。
ふつうの街なら歩いてこれくらいの時間がかかるというスケール感が、自転車で走ってかかる時間と等しい。
つまり、郡山の街のスケールは、ふつうの街の(自転車÷歩き)倍ってことになるのだ。
かといって街並みはスカスカというわけではなく、ふつうの街と変わらない密度で構成されている。
これは実に不思議な感覚だ。巨大なスケールでどこまでも続く地方都市。歩きじゃとても味わいきれない。
(そんな郡山の街が形成された経緯については後述する。特殊な構造の街は特殊な経緯を持っているものだ。)

まっすぐ進んで進んでだいぶ行ったところにようやくあるのが郡山市役所。開成山公園に向き合うように建っている。
郡山市は1965年に非常に大規模な合併をしたのだが、市役所はその3年後の1968年に竣工している。

  
L: 郡山市役所。ファサードの印象は昭和30年代風なのだが、それにしては6階建てとスケールが大きい。実際デカい。
C: 正面より撮影。こうして眺める分には特に個性はないように思えるが。  R: 郡山市役所の裏側。

せっかくなので敷地をぐるっとまわって裏側も眺めてみた。まわってみると思ったよりも距離があり、
やはり郡山市役所は意外とデカい、ということを実感する。街も市役所も妙にデカい。特徴的な街だ。

 本庁舎の西側にある分庁舎は1993年竣工。

さて郡山は古くから交通の要衝として栄えた街であり、いろいろと見るべきものが多い街でもある。
時間はないし街が広くて見たい場所があちこちに散らばっているのだが、どうにかしてまわってみる。

 開成山公園の西側の様子。この公園もまた広いのだ。

開成山公園の南を通っているのが、はやま通り。これを西に行ったところにあるのが開成館だ。
開成館は1874(明治7)年に建てられた擬洋風建築。郡役所の前身である区会所として建てられ、
その後は安積(あさか)郡役所、県立農学校、桑野村役場などに利用された。「郡」よりも歴史が古いとは驚きだ。
そもそも郡山という街は城下町でもなんでもなく、明治になってつくられた安積疏水による開拓をきっかけに発展したのだ。
やけにだだっ広いその都市構造は、開拓という歴史的経緯を経たからこそなのである。
(何もないところに街がつくられたという点では、宮崎市(→2009.1.8)に似ているものがある。宮崎も変に広かった。)
なお、開成館は安積開拓官舎・安積開拓入植者住宅群とセットで公開されている。観覧料は210円。

  
L: 開成館。貴重な擬洋風建築ということで重要文化財なのだ。  C: 畳敷きだけどどこか学校らしさを残す1階。
R: 2階。安積疏水と郡山開拓の歴史がみっちりと展示されている。この階段はけっこう珍しい形ですな。

 
L: 3階、明治天皇の東北行幸の様子を伝える展示。  R: ベランダに出てみた。うーん、擬洋風。

開成館のさらに南西に位置しているのが、福島県立安積高校。その敷地内には安積歴史博物館がある。
この施設は1889(明治22)年築の旧福島県尋常中学校本館を利用しているのだ。
(開拓の後に郡山市は福島県屈指の都市となり、県の中央ということで、県庁を移転させようという運動が起きた。
 その結果、県庁と引き換えということで、当時県で1校しかなかった旧制中学校を福島から郡山に移転させたのだ。)
当然、中に入ってみたのだが、多彩な質・膨大な量の資料が展示されており、そこは母校を誇る雰囲気でいっぱい。
郡山(というより安積郡全体)の地元のプライドがものすごい圧力で来館者に迫ってくる。いや、圧倒された。

  
L: 安積歴史博物館(旧福島県尋常中学校本館)。竣工以来ずっとこの場所を動いていないそうだ。
C: 内部の様子。いかにも歴史ある学校建築。  R: 2階の講堂。なんというか、誇りの可視化が上手いよね。

  
L: かつての教室が復元されている。  C: 教壇、黒板、教卓、そして火鉢。東北は寒いもんな。
R: 裏手の様子。手前は県立安積高校の駐輪場である。うーん、もうちょいなんとかなりませんかコレ。

あとは郡山市内に点在しているそれ以外の歴史的な建築をちらほらご紹介しよう。
まずは1937年築の安積疎水事務所新館。シンプルながらも帝冠チックなのが時代を感じさせる。

 安積疎水事務所新館。

次は市制施行を記念して建てられたという郡山公会堂(1924年築)だ。
2005年に改修されたんだそうで、リニューアルがキツいのが残念である。ちょっと不自然だもんな。

 
L: 隣の中央公民館をついでに撮影。  R: こちらが郡山公会堂。正直、隣の公民館がジャマ。

最後に福島県郡山合同庁舎(1930年築)。この建物、実は先代の郡山市役所なのである。
今でも非常にきれいで、全体としてはシンプルにまとめているが、よく見るとしっかりと装飾が施されている。
こういう建築を安易に壊すことなく有効活用しているのを目にすると、こっちもうれしくなる。

  
L: 福島県郡山合同庁舎(旧郡山市役所)。  C: 近づいて撮影。これはけっこう立派ですぞ。
R: 裏側。こっち側はしっかりと年季を感じさせるなあ。だいぶ表と差がある。

時間が迫っている。合同庁舎から猛スピードで自転車屋に戻ると、無事にレンタサイクルを返却する。
あらためて郡山の広さに閉口する。歩きだったらいったいどれくらい時間がかかったことか。
ほかに選択肢がなかったからしょうがないんだけど、郡山市はレンタサイクルをきちんと充実させてほしい。
せっかく観光資源があるんだから、今のままではものすごくもったいない。

そんなわけで、軽く走りながらで郡山駅まで戻る。駅の中は店が充実していてフードコートもある。
そこでお昼何か食べようと思っていたのだが、ちょうど混み合う時間帯に重なったこともあり、
もうすさまじい混雑ぶりなのであった。フードコートは広いのに、すべての席が埋まっていたくらいだ。
しょうがないのであきらめて、コンビニで買って磐越東線の中で食べることにする。もうがっくりだ。

●13:18 郡山-14:52 いわき

広い広い郡山を自転車で必死になって走りまわらなくちゃいけなかったのは、
いわきに出る磐越東線の本数が本当に少ないから。今回の旅はこの路線を基準にスケジュールを組んだのだ。
水郡線が場所によってさまざまな風景を見せてくれたのに対し、磐越東線の景色はわりと一様。
川に沿って阿武隈高地の間を縫うように進んでいくので、両側で山々がずっと壁をつくっている格好になる。
阿武隈高地の山々は侵食が進みきった老年期~隆起準平原の地形であり、なだらかな円っこいスカイラインが続く。
列車はそのふもとの田んぼの中をのんびり走っていく。実にひなびた光景であると思う。
去年の移動教室のバスから見た景色(→2009.6.12)を思い出しながら過ごした。

 あぶくま洞(→2009.6.12)を遠くに眺めながら磐越東線はのんびり走る。

どうにか15時前に、いわき駅に到着。上で「郡山は広い」と繰り返し書いたのだが、
いわき市もまためちゃくちゃ広い面積を誇っている市である。平成の大合併が始まる前には日本一だった。
というのも、いわき市は14市町村(5市4町5村)が合併してできた市だから。1966年のことである。
現在のいわき駅周辺はもともと「平(たいら)」という場所で(福島県平市だった)、いわき駅もかつては平駅といった。

  
L: ペデストリアンデッキの先から振り返るいわき駅。この駅ビルができたのは去年のことなのだ。
C: 駅前のLATOV。再開発によって生まれた、商業施設と図書館などの公共施設が入ったビルである。
R: いわき(平)の街は大規模に都市化しているわけではなく、やや落ち着いている。でも道はしっかり広い。

駅前の大通りをまっすぐ南に下っていく。国道6号を越えると真ん中が緑道になっている道に出る。
新川東緑地という名前なので、まあおそらく川があったところにそのまま緑を植えたのだろう。幅が広い。
城下町のわりにはずいぶんゆったりとした街割りである。後で調べたら案の定、空襲に遭っていた。
南西に歩いていくと平中央公園。木々に囲まれて見通しの利かない公園だが、中に入ると芝生がひろがっている。
その奥には、いわき芸術文化交流館ALIOS。複数のホールと劇場があるやたら巨大な公共施設で、たまげた。

 
L: 緑道。大きな木の下にはベンチ。いわきは面積もデカいし道もデカいし緑道の木もデカいね。
R: いわき芸術文化交流館ALIOS。昨年にグランドオープンした新しい施設だ。しかしこれもデカいな。

ALIOSの道を挟んだ隣にあるのが、いわき市役所だ。いわき市もデカけりゃ市役所もデカい。
真四角のボディの前面は茶色いガラスで覆われて、写真で見るとそれほどサイズの大きさを感じないかもしれない。
しかしいざ実物と対面すると、その迫力に圧倒されるはずだ。この形状で8階建てというのは、かなりの圧迫感だ。

  
L: いわき市役所は1973年竣工。  C: シンプルな形の分だけ、実物にはグワッと目の前に迫ってくる感覚がある。
R: 本庁舎の議会部分。隣の塊がとにかく大きいので、スケール感がよくわからんです。

 
L: 裏手の駐車場2階部分から眺める。  R: 真裏にまわってみた。やっぱり真四角だ。

さて市役所を見たことで最低限のタスクは果たした。時間があればバスで小名浜方面にでも出て、
アクアマリンふくしま(→2009.6.12)をあらためてゆっくり味わったり、いわきマリンタワーに上ったりするのもいいのだが、
いわき市ってのはもうイヤになっちゃうくらい広いのである。いわき駅からだと小名浜に出るには40~50分もかかる。
その頃には17時近くなってしまってどこも閉館……なんてのは容易に想像がつく事態なのである。
それよりは、おとなしく平周辺を歩きまわって過ごす方がずっといいのだ。

 というわけで、磐城平城址にレッツトライ。

いわき駅まで戻ると、そのまま北に抜けて磐城平(いわきたいら)城址を目指す。といっても駅のすぐそば。
ちょっと急な坂道をちょっとやる気を出して上ってしまえば、もう石垣が見えてくるのである。
その先へ進んでいけば、もう本丸跡。ところが本丸跡は金網で閉鎖されており、中には入れなかった。
どうしてこんなことになっているのか、よくわからない。首を傾げつつさらに道を進んでいったら、
いちおういわき駅周辺を眺めることのできるスポットに出た。山にもう少し高さがあればフォトジェニックだったのだが。

  
L: 駅からほど近い磐城平城址。すっかり周辺は宅地化しているが、その中に石垣が現れて歴史を物語る。
C: 金網の間から撮影した磐城平城址の本丸跡。整備工事中ということなのだろうか。街が一望できそうだが。
R: かわりに別の場所から眺めたいわき駅周辺の様子。距離が近くて高さが足りないのが惜しい。

本丸跡からさらに奥、西へと進んでいくと、木々に囲まれた中に石段があった。その先には銅像があるのが見える。
特に案内板もないので何じゃいいこりゃ、と石段を上っていくと、それは明治天皇の像だった。
いったい何がどうなってこういう事態になっているのか。磐城平城址には謎がいっぱいである。

 
L: 歩いている途中に出くわした光景。詳しい説明がない。  R: 近寄ってみたら明治天皇の像だった。

銅像から戻ってさらに進むと、丹後沢公園。けっこう面積があるようだが、それほどメジャーな場所ではないようで、
なんとなく野性味漂う雰囲気となっている。そうそうのんびりとしてもいられないので、そのまま先へ進む。
磐城平城址は山というよりは丘の上に位置しており、西へ進んだところは完全に穏やかな住宅街である。
さっき歩きまわった平市街は広い道の走る真っ平らな場所だったので、ずいぶん対照的だと思いつつ歩く。
途中には丘の上なのになかなかダイナミックな鉤の手(鍵の手)となっている場所があり、城下町らしさを感じさせる。
そうして西へずんずん行った先にあるのが飯野八幡宮。7棟の社殿が重要文化財に指定されているので見るのだ。
いざ訪れてみると、さほど広くない敷地に建造物がいっぱい。全体的にずいぶんきれいにしてある印象がする。
おそらく最近になって境内のリニューアルでもしたんだろう。

  
L: 飯野八幡宮・鳥居と楼門。楼門は色づかいが派手だがしっかり重要文化財で1658(万治元)年築。
C: 幣殿・拝殿は市指定の有形文化財。  R: 神楽殿。1623(元和9)年築らしい。

 
L: 仮殿。本殿を修理する際に建てた仮殿が、今もそのまま残っているのだ。
R: 若宮八幡神社。仮殿に対応する建物だそうだ。どっちも簡素だがきれいにしてある。

帰りは一気に坂を下って陸橋を渡り、そのまま駅前に出てしまう。ヒマなのでLATOV内の図書館を見てみる。
道が広いせいか街は今ひとつ人口密度が低い印象だったが、図書館の中は人でいっぱいだった。いいことだ。
さて今回はいちおう平市街を歩きまわったが、いわき市ということで考えれば、小名浜だって勿来だってあるのだ。
街歩きもキリがねえもんだなあ、と思うのであった。考えたら腹が減ったので駅ビルのメシ屋で栄養補給。
これで常磐線に乗っている間もなんとかもつだろう。列車に乗り込む。

●17:33 いわき-20:04 土浦

列車はだんだんと暗くなっていく中を走っていく。日が完全に落ちた頃、さすがに疲れに負けて眠った。

●20:06 土浦-21:13 日暮里

起き抜けでぼんやりした頭のままどうにか乗り換えを済ませて東京を目指す。そのうちやっぱり寝た。

●21:17 日暮里-21:44 五反田

五反田駅の改札を抜けたのは22時近くになってから。自転車を回収してメシを食って帰る。
非常にせわしなくてハードな一日だったが、郡山もいわきも雰囲気をしっかり感じることができて余は満足じゃ。


2010.8.28 (Sat.)

本日はサッカー部の練習試合である。小学校のグラウンドを借りて近所の中学校と戦うのだ。
本来なら7月にも試合をやる予定だったのだが、雨で流れてしまったので(→2010.7.29)これが初試合だ。

さあ試合だと意気込むわれわれに、衝撃的な事実が告げられる。なんと、相手は10人しかいない!
しょうがないので相手は顧問の先生が審判をしながら参加(もちろん本気は出さないわけだが)。
本当は純粋に生徒どうしでの腕試しを期待していたのだが、こればっかりはしょうがない。
で、こっちの顧問はテキトーですから、やりたいポジションを挙手で募ってスタメンを組むしだい。

試合が始まるとかなりこっちにとってはいい展開に。中盤の前めのところでタメができたので、
そこに両サイドから2列目が飛び出していくサッカーができている。守備の動きもまずまず。
特にGKの積極的なプレーがリズムを生んでいる。指示を出すというよりは褒めまくる僕なのであった。
対照的に相手チームはCBに入っている顧問の先生(さすがに一番うまかった)から厳しいゲキが飛ぶ。
それにおびえるウチの部員はひ弱というか何というか……。ふだんからオレが甘いってことなのか。
そのうちに相手チームからは炎天下の試合だったせいで脱水症状になり動けなくなる生徒が複数出て、
もう数的優位とかめちゃくちゃな状況になってしまうのであった。ニンともカンとも。

というわけで顧問の手腕とかそういうのがまったく関係しないレベルでウチの勝ち。
でも大会になるととてもこんなんじゃ太刀打ちのできない学校がいっぱいあるのはわかっているので、
どうやって兜の緒を締めさせたものか、と困る僕なのであった。まあとりあえず、自信がつけばいいか。


2010.8.27 (Fri.)

保育園での研修2日目であり最終日である。もうちょっとやっても当方ぜんぜんかまわないんですけどね。

今日はまず4歳児のお相手。先日の2歳児と比べるとずいぶん口八丁手八丁である。
とはいえ座っていると磁石に吸い付く釘のようにワラワラと抱きついてくるのは変わらない。
そして思うのであった。「オレがふだん相手している連中って、園児とまったく変わらんやん……」
抱きついてくる中にはしっかりと育って小学生とかわらないくらいたくましい男の子もいて、重い。
そういう子は自分が重いことを自覚していてふだん保母さんに甘えられないので、相手が頑丈な男だと、
その分を取り返すべく、QBサックを狙うディフェンスラインよろしく思いっきり抱きついてくるのである。
まあそれが期待されている役割だってことは十分承知しているので、こっちもがっちり受け止めるけどね。
いや本当にハードでしたわ。

おとといはお昼寝の時間が丸ごと休憩になったのだが、今日は子どもの背中たたきにちょこっと参加。
そしたら珍しい男の人が来たってことで逆に寝れなくなっちゃう女の子が出てしまったのであった。
なんつーのかね、もうね、本当にね、オレは18歳以上にモテたいの。モテなきゃならんの。もう勘弁して。

その後は再び4歳児のお相手。やっぱりグイグイひっついてくるのだが、昨日とちがって男子が多い。
2歳児ではお父さん好き好き感覚なのか、わりと女子が来るのである。しかし4歳児だと女子がませているのか、
積極的に来るのは男子で、女子は遠巻きに様子をうかがっている感じ。興味深いものである。

さてこの2日間の園児観察の結果、いちばん印象深かったのは以下に述べる事実である。
それは、すでに園児の段階で、モテる女の子は男子からチヤホヤされているわけで、
つまりかわいい女の子は自分がかわいいことを十分に自覚した行動を、園児ながらにとっているのである。
「三つ子の魂百まで」とはいうが、こんな生まれて間もないうちからモテる自分を刷り込まれているので、
モテることが大前提の論理展開で動くシステムができあがっちゃっているのである。これは怖い。
男子とはすべからく自分に寄ってくるもの、そして寄ってくる男子をうまくいなしていくこと。
これが完璧に行動のひとつひとつに染み付いている。もう、すげーなと感心してしまったよ。
そして逆を言えば、モテる女子ってのは、寄ってこない男子の扱いはまったくわからないわけである。
ふたりきりのシチュエーションとなればモテる自分を自覚した甘え方が炸裂するが(さっきの昼寝できない子とか)、
ほかの男子がいる状況ではこっちに興味があってもガマンして、寄ってくるのをじっと待つことしかできないという、
園児にしてかーなーりーツンデレな習性が見受けられるのでありますね。自分には衝撃的な発見でしたコレ。
そんなわけで、女子ってこえー!と思う反面、美人への対処法がうっすらと垣間見えて、
いろんな意味で非常にためになる研修だったのであります。寄っていかない男子は一番最悪なのねゴメンナサイ。


2010.8.26 (Thu.)

本日は図書館で研修。なぜか本年度、僕は図書担当になってしまっているので、
学校図書館のシステムについてあれこれ説明を受ける。なるほどなるほどと思って終わり。

しかしまあアレですな、研修という名目でいつもの職場を抜け出すのは楽しいもんですな。


2010.8.25 (Wed.)

本日は保育園で研修なのである。なんで中学校の教員が保育園に行くのかよくわからんが、
この手の研修はやっておいて絶対に損はないのもまた確かなので、けっこう喜んで現場に行く。

現場はいつもの職場からめちゃくちゃ近くにあった。挨拶もそこそこに、さっそく2歳児のお相手。
子どもってのは上半期に生まれた子どもと下半期に生まれた子どもでかなり差があるものなので、
この保育園では2グループに分けている。僕は上半期グループと一緒に遊んで過ごすのであった。
あぐらをかいて座っていると、すばやく足の間に入ってがっちり席をキープされてしまうのであった。
何をすればいいのかわからんので、とりあえずおもちゃを手に取りうりゃうりゃ動かしてみたりなんかして。
受け入れ先の保育園も慣れたもので、子どもの遊び相手としてしっかり機能していればそれでOKなようで、
特に怒られるようなこともなく無事にプールもお昼も終えて一段落。

お昼寝の時間には子どもの背中をひたすらたたいて過ごすと聞いていたのだが、
慣れない男がいると興奮して眠れなくなっちゃうのか何なのか、そこで休憩となる。
で、休憩室であれこれ雑談に参加。しかしまあ、女性ばかりの職場というのも非常に緊張するものだ。
笑ってしまったのが、去年サッカー部で面倒を見た(こっちが見てもらった?)生徒の話になったこと。
保母さんの息子さんがそいつの小学校時代の同級生だったことが話のきっかけだったのだが、
その生徒のやんちゃっぷりをあれこれ話して盛り上がる。そして世間の狭さに少し背筋が寒くなったとさ。

午後にはなぜか0歳児のお相手。かなりやんちゃな女の子と1対1で対峙したのであった。
何に興味を持ってどうするかがわかんないので対応しづらかったなあ。子育ては奥が深い。

そんなこんなで定時になったので研修初日は終了。続きはあさって。なかなか面白い。


2010.8.24 (Tue.)

高岡に泊まったわけだけど、高岡市内を観光するのは後回し。まずは氷見線に乗って、氷見市に行ってみるのだ。
いや別に鉄道の乗りつぶしをしているわけではなく、純粋に氷見市に行ってみたかったのである。
その証拠にほら、今回は城端線には乗らないもん。イズレノルカモシレナイケド……。
で、氷見から戻ってきたら高岡市内をあちこちまわる。そして富山に出て、軽く散歩してから、高山本線で岐阜へ。
岐阜からムーンライトながらに乗り込んで東京に戻るという、最後の最後でグランツーリスモなのである。

6時過ぎにチェックアウトし、高岡駅へ。昨日は地下を歩いたので気づかなかったが、ちょうど駅舎を工事中で、
南口からはよくわからない通路で遠回りして改札まで出る。おかげで変に時間がかかった。
途中で高岡のマスコット「利長くん」を発見。モデルはもちろん前田利長なのだが、
戦国大名をゆるキャラ化するのには、個人的にはどうも違和感がある。なんかこう、もう一工夫できないものか。

汗ですっかりヨレヨレになっている青春18きっぷにハンコを押してもらい、改札を抜ける。
高岡駅舎改築の影響はここにも出ているようで、氷見線のホームまで妙に歩かされた。
そうしてたどり着いたホームに停車していたのは、全身を『忍者ハットリくん』でラッピングされた列車なのであった。
ブリにまたがったハットリくんが、シンちゃんと獅子丸を従えて両手でピース。正直、これには驚いた。
これはつまり、氷見市が「A先生」こと藤子不二雄Aの出身地ということでのハットリくん列車なのだろうが、
ここまで大胆にフィーチャーされているとは思わなかった。ご存知のように僕はハットリくんが大好きなので、
通学する女子高生たちの怪訝そうな目も気にすることなく、デジカメのシャッター切りまくりで発車を待つ。

  
L: 高岡市のマスコット・利長くん。うーん、なんかこう、個性に欠けるなあ…。
C: 氷見線の忍者ハットリくん列車。まさかこんなことになっているとは思わなかったので驚いた。
R: ハットリくんは天井にもいるでござるよ。さすが忍者は神出鬼没でござるな、ニンニン。

いい歳こいた男がハットリくんにウットリしている間に、列車は高岡駅を出る。ニンともカンとも。

●06:54 高岡-07:21 雨晴

高岡駅を出るとしばらくは住宅街が続くが、やがてすぐに車窓の風景は工業地帯のそれへと変化する。
富山湾というと日本でも独自の海の幸を想像しがちだが(富山湾は急に深度が下がる特殊な地形をしている)、
豊富な水力発電を利用した工業も発達している。特に電力を食うアルミニウム産業が有名だ。
なるほどなるほどと納得している間に、列車は小矢部川の河口から海に沿って直角に曲がる。
そして本日最初の目的地に着いたので、列車を降りる。名残惜しいがハットリくんともいったんここでサヨナラだ。

僕が降りたのは、雨晴(あまはらし)駅だ。なんとも面白い名前の駅だが、それはここが雨晴海岸だから。
自他ともに認める晴れ男としては、途中下車しておかなくてはならない場所であろう。
雨晴海岸の名の由来は、勧進帳その後の源義経。彼らがこの辺りの岩陰で雨の晴れるのを待ったという。
空気が澄んでいる日には富山湾越しに立山連峰を望むことができるというが、さすがに夏には無理。
駅舎を出ると、周囲には住宅が点在。にもかかわらず、縁起のいい名前の海水浴場ということでか、
ちょっとした売店っぽい雰囲気のする家もある。線路を渡って海岸に出ると、まずは義経岩まで行ってみる。

義経岩は線路のすぐ脇にあり、わりと新しい雰囲気の鳥居が立っていた。岩からはがっちりと松が生え、
ありがたやありがたやという雰囲気ではなく、なんだかよくわからない巨塊といった印象である。
そしてやはりというか何というか、足下の岩場はフナムシ天国なのであった。
北陸の海岸はどこもフナムシだらけなものなのだろうか。遭遇する確率が高すぎる。
せっかくなので、それより先にある女岩まで行ってみることにした。海岸沿いにさらに東へと進んでいく。
川を渡ったり砂地に足をとられたりしながら女岩を正面から撮影すると、やることがなくなったので戻る。

  
L: 雨晴海岸の女岩。非常にフォトジェニックな形だ。男岩まで歩くのは大変なので断念。
C: 義経岩。弁慶がこの岩を持ち上げ、その陰で義経一行が雨宿りをした、という伝説がある。
R: 雨晴海岸。なかなかの白砂青松ぶりである。早朝だったからか、トビが浜辺に降りてのんびりしていた。

雨晴海岸の海水浴場周辺をちょっと歩いたところで駅まで戻るとちょうどいい時間。
程なくして列車がやってきた。今度はハットリくん列車ではなかったのが実に残念だった。
でも氷見市に着いてから、その残念な気持ちはあっさりと吹っ飛ぶことになる。

●08:02 雨晴-08:10 氷見

後日、「乗りつぶしオンライン」にデータを入れたら、この氷見線で僕のJR乗車率が50%を超えた。
この夏休みだけで10%以上も記録を伸ばしての結果である。旅行しすぎなのはまあ確かなのだが、
しかし大学時代には鉄道の“て”の字もなかった自分がこんな記録を達成するとは、変な気分である。
(でも12月に東北新幹線が新青森駅まで延び、青森県内の東北本線が青い森鉄道に経営移管されるので、
 また50%を割り込んでしまうおそれがある。新幹線ができて在来線が第三セクター化するのは切ないものだ。)

さて、氷見線の終点は氷見駅である。ホームからけっこう先にまで線路は伸びているが、確かに終わっている。
地理的な特徴を考えると、この先には能登半島が構えているのだから、最果てという印象はまったくない。
純粋に一地方都市にやってきた、という感覚である。地図を片手に駅舎を飛び出す。
スケジュールの都合で氷見市内に滞在できるのは1時間程度。毎回反省しているのだが、
そうしないと高岡・富山にしわ寄せがいくのでどうしょうもない。この1時間をどこまで密度の濃いものにできるか、
そういう方向で物事を考えるしかないのである。氷見駅は市街地のはずれに位置しており、少し歩く。

まずは港に近い道路を北上していくことにする。朝早いだけに港の施設は活気が漂っており、
どこか起き抜けの雰囲気がする住宅側とは対照的だ。とりあえず、比美乃江大橋まで北上してみることにした。
すると、港に面する建物にでっかく、忍者ハットリくんの絵が描いてあるではないか。
そしてそこには「ハットリくんとその仲間たちに会える街 氷見」の文字が。けっこう本格的だ。
氷見線もそうだが、氷見はどうやらハットリくんで町おこしをしているようだ。
なるほどなるほどと思いつつ、西に曲がって国道415号に出る。すると道路の脇の車止めにはハットリくん。
ほかにもシンちゃんや獅子丸たちがオブジェとして乗っかっているのである。
境港の水木しげるロード(→2009.7.19)を意識しているのか、なかなかのやる気を感じさせる。

  
L: 氷見駅は氷見線の終点なのだ。でも地方都市へつながる専門の路線だからか、最果てという印象はない。
C: 氷見駅。学生を中心に確かな利用があるからか、市街地のはずれで淡々と営業中。
R: 車止めの獅子丸。うーん、いいなあ。ウチにも欲しいワン、カン様。

アーケード商店街の潮風通りに近づいていくと、そのやる気はさらにすごいものになる。
まずは交差点のポケットパークにブリとハットリくんの像。さっき氷見線に描かれていた絵が立体化されている。
そして郵便ポストの上に、シンちゃんをおんぶするハットリくん。光の加減が撮影しづらくて困った。
さらにはかつて銀行だった建物を改装して「氷見市潮風ギャラリー」とし、ハットリくんの飾りつけをしている。
『忍者ハットリくん』のファンにはまさに聖地と言えそうな、見事な充実ぶりである。

  
L: 氷見線に描かれていた絵が立体化。手裏剣型のコマをひねると、ブリの口から水が出るぜ!
C: 氷見市のメインストリート・潮風通り。昔ながらのアーケード商店街で、どこか懐かしい。
R: 郵便ポストの上にはハットリくんとシンちゃん。いろいろ見たけど、キャラクターものは初めてかな。

商店街を南下していくと、そこにはさらにすばらしい光景が。アーケードの柱にハットリくんの人形がついている。
これはハットリくんとケムマキの戦いを再現したもので、もうファンにはたまらないのだ。
朝っぱらから三十路の男がまたしてもハットリくんで興奮。まあ、旅の恥は掻き捨てなので、気にせず撮影だ。

  
L: アーケードの途中でハットリくんとケムマキが戦っているのであった。
C: ハットリカンゾウ。いい造形具合でござるな。  R: 対するケムマキケムゾウ。オレはケムマキも好きだ。

 
L: ちゃんと影千代もいるニャリン。  R: シンちゃんが泣いているのはお約束なのか。ナミダパワー炸裂でござる。

というわけで、しっかりと堪能させてもらったのであった。ケン一氏と夢子ちゃんはなぜか見かけなかったなあ。
あと、ツバメちゃんもいなかった。『ハットリくん』は主要な登場人物が限られているのだが、
その点を考えると、境港の妖怪(→2009.7.19)は無数にいるわけで、その辺も上手いなあとあらためて思う。

『ハットリくん』の世界を堪能した後は、いよいよ市役所とご対面である。氷見市役所は市の中心部にあるが、
その分だけ道路が狭くて非常に撮影しづらい。向かいにある郵便局にへばりつくようにして見上げて撮影。
周囲のスケールに比べて氷見市役所は大きく、全容をつかむのはとっても困難。実に困った。

  
L: 氷見市役所。設計は佐藤武夫設計事務所で1968年に竣工。  C: 側面なのだが、入口はこちらの模様。
R: 裏側。とにかく周囲は狭くて、お墓越しに撮影するしかなかった。こういう市役所は初めてだ。

氷見市役所の裏手にあるのは光禅寺というお寺だ。実はここ、藤子不二雄Aが生まれたという寺なのだ。
A先生はもともとお寺の息子だったそうなのだ。市役所を撮影しながら境内に入ってみるが、
きれいな砂利が敷いてあり、かなり手入れがされている。お堂の正面にまわり込むと、
そこにはハットリくん・怪物くん・猿谷猿丸・喪黒福造と、A先生が生み出したキャラクターの石像が並んでいる。
お寺なのでほかに派手なものはないのだが、期せずして聖地巡礼できたのは、けっこううれしいものだ。

 小さい頃からおなじみの皆さん。うーん、藤子Aワールドですなあ。

なんせ氷見には1時間しか滞在できないので、市役所の撮影が終わったということで、駅へと戻る。
途中にある湊川カラクリ時計を見ていくことにした。もちろん、ハットリくんが登場するカラクリ時計である。
ちょうど9時になるところで、まさにぴったりのタイミングで到着。川に架かる橋の上がカラクリの舞台だ。
僕のほかには親子連れが1組だけ。夏休みとはいえ平日の朝だから、まあよくほかの人がいたもんだと思う。
9時になると、いかにも忍者らしく、橋の上に霧が発生。そしてケムマキと影千代が登場。
そのうちにハットリくんやらケン一氏やらいつもの面々が勢ぞろいするのだが、話の展開がぜんぜんわからん。
ハットリくんがあの声でしゃべっているんだけど、何がピンチで何が解決したのかどころか、
ケムマキがわるもんとして登場しているのかそうでないのかすらわからないのだ。獅子丸は逆向いちゃってるし。
いちおう大団円らしい光景を見届けてから、駅への道を急ぐ。けっこう距離があるので軽く走った。

  
L: 湊川カラクリ時計。土日と祝日には30分ごとにショーがあるが、冬には動かなくなってしまうらしい。
C: ケムマキと影千代登場。まあ、影千代の慌ててる感は非常によく出ているんですが。
R: 全員集合で大団円……なのだが、なぜか獅子丸が逆向き。ストーリーも何が何だかわからなかった……。

 カラクリ時計の近くに停まっていたタクシー。やっぱりここにもハットリくん。

走らなかったら間に合わなかったかもしれない、というタイミングで氷見駅に到着。
青春18きっぷをかざして列車に乗り込む。氷見は予想以上にハットリくんだらけで、
ぜひ今度はゆっくり歩きまわってみたいと思わせる街なのであった。氷見うどんも氷見カレーも食いたい。

●09:17 氷見-09:37 能町

能町駅で氷見線を降りた。というのも、万葉線に乗り換えて高岡まで戻ろうと考えたからである。
わざわざ路面電車気分を味わおうというのは鉄分の匂いがする行動かもしれないが、
万葉線を乗りつぶそうとはしなかったところに鉄分の薄さを感じとってもらいたい。五十歩百歩か。
とにかく、能町駅で氷見線を降りたのである。しかし僕は毎度毎度思慮のない行動をとっているわけで、
JRの能町駅から万葉線の新能町駅まではどう行けばいいのか、まったく確認をしていなかったのですなー。
辺りは完全なる住宅地で、特徴もなければ案内板もない。とりあえずテキトーに方向を定めて歩きだすが、
空振りの感触。しょうがないので駅に戻って今度は逆方向に歩く。そしたら幅の広い道路があるのが見えた。
これだけ広ければ路面電車が走れるだろう、と考えて近づいてみたら当たり。ムダな時間を消費してしまった。

●09:58ごろ 新能町-10:15ごろ 高岡駅前

高岡駅に戻ってくると、観光案内所でレンタサイクルの申し込み。高岡は観光に力を入れているだけあり、
赤いオシャレな自転車を貸してもらった。変速機能もあってすごく乗りやすい。利用客はなかなか多そうだ。
カゴに地図を放り込むと、軽快に走りだす。自転車がいいと、気分も極めて爽快。街の印象もぐっと良くなるものだ。

  
L: 万葉線で高岡駅前まで戻った。写真はアイトラム。どうでもいいけど、「高岡駅前駅」って、なんか変な感じ。
C: JR高岡駅。立派に見えるが、実際にはそれほど有効に活用されていない感じ。近々建て替え予定だとか。
R: 駅前の大伴家持像。かつて越中国守として高岡市内の伏木に赴任しており、高岡では特別な存在なのだ。

高岡で最初に訪れたのは、高岡市美術館。公共建築百選に選ばれているということで、ちょっと寄ってみたのだ。
高岡古城公園のはずれ、市役所へ行く途中に位置している。四角の一部に円をくっつけたベージュ色の建物で、
その手前の通路は金属の屋根がジグザグに架けられている。なるほど、いかにもな公共建築である。
かつては高岡産業博覧会のパビリオンを使っていたそうだが、内井昭蔵の設計で1994年に竣工。
できれば中身の展示もチェックしてみたかったが、時間がないのですっ飛ばす。もったいない旅行である。

 高岡市美術館。いかにも公共建築百選に選ばれそうな建物ですな。

カーブを曲がって高岡市役所へ。実に典型的な、どっかで見たような市役所建築である。
高岡市は、1889(明治22)年4月1日に日本で初めて市制を施行した31市の中のひとつ。
その歴史は1609(慶長14)年に加賀藩主である前田利長が高岡城に入ったことで始まる。
しかし6年後の一国一城令で高岡城は廃止。この大ピンチに対し、前田利常は高岡を商工業の町とすることで、
今に至るまでの繁栄を続けてきたというわけである。なお、現在の市役所は1980年に竣工している。

  
L: 高岡市役所。実によくあるパターンである。  C: 側面と裏手を眺める。  R: 隣の議会棟。

 高岡市役所の内部。アトリウム発達前の典型的なホール。

市役所の撮影を終えると、高岡古城公園をぐるっと一周するようにしてその中へ入る。
途中で面白い建築を見つけたのでシャッターを切りつつ自転車を走らせるのであった。
個人的に一番惹かれたのは、本丸会館である。万葉線にも「本丸会館前」という駅があるが、
1934年に高岡電燈本社ビルとして竣工したこの建物は、使われなくなった今も風格を漂わせている。
設計したのは清水組(現・清水建設)の設計技師・矢田茂。清水建設とは、さすが富山県。
そしてこの本丸会館は、1960年から20年にわたって高岡市役所として使われた歴史を持っている。
つまり、前・高岡市役所なのだ。しかし高岡市は2008年に解体の意向を表明しており、
文化遺産として利用する気はないようだ。実にもったいない話である。事態がいい方に転がってほしいものだ。

市街地を走っていて思ったのは、高岡の街はすごく道路が立派で、きれいに整備されているな、ということ。
そしてそれに見合うだけの交通量もあるのだが、その分かえって歩行者が少ない感じがするのである。
車は盛んに行き来しているが、ひと気がイマイチないのだ。なんともさびしいものである。

 
L: 本丸会館(前・高岡市役所)。保存運動はあるが、市側は観光遺産としての価値を黙殺している感じ。一切PRがない。
R: 高岡のメインストリート(砺波街道)はこんな感じ。きれいに整備されているが、ひと気はそれほど感じないのだ。

坂道を上って高岡古城公園の入口方面へと入る。さすがに城跡だけあってか、土地は少し盛り上がっている。
自転車がいいのでそれほど気にはならないが、市街地の真ん中にしてはやや存在感がある高低差だ。
(高岡駅と高岡城址はだいたい同じ高さで、市街地はそれより一段低い位置にあり、駅前はいきなり下り坂。)
よっこいしょとペダルをこいでいくと、行く先に大きな円光を背負った影が現れる。
話では聞いていたが、実際にこういう形で出会うとちょっと驚く。これが高岡大仏である。
まあ確かに大きい仏像なのだが、野ざらしでいきなり街中に現れると、なんだかそれはそれで現実感がない。
ほかにもっとバカデカい仏像は全国にあるが、それと比べると街中に妙に解け込むサイズなのである。
住宅が突然変異して仏像になった感じというか何というか。とにかく、奇妙な感じだけがする。

 
L: 坂道の先にひょっこりと現れる高岡大仏。日常的な光景に混じって現れる非日常性だが、変に解け込んでいる。
R: 大佛寺の境内から眺める。高岡銅器の技術の結晶だが、まだ歴史が浅いので(1932年完成)、正直ありがたみは薄い。

高岡大仏を合図に北に曲がる。しばらく進んだ先が、いよいよ高岡古城公園だ。
入口には前田家の家臣として高岡城の縄張りを担当した武将で、十字架を抱えた高山右近の像が立っている。
公園内には動物園、市民会館、博物館、体育館などの施設が集中しており、今も高岡市の中心的な存在だ。
そしてそのど真ん中にあるのが越中国一宮のひとつ、射水神社(越中国にはぜんぶで4つの一宮があるのだ)。
城跡のど真ん中というその立地からもわかるように、射水神社は明治になってから移されたものである。

  
L: 高岡古城公園入口。  C: 4つある越中国一宮のひとつ、射水神社。  R: 射水神社の拝殿。1902(明治35)年に再建。

参拝を済ませると、すぐ隣の本丸広場へ。芝が植えられた広場は夏の日差しを浴びて青々と茂っている。
スプリンクラーから水が撒かれているが、そんなものは焼け石に水といったくらいに日差しは厳しい。
自転車で広場を一周してみる。周囲には彫刻がいくつか置かれている。奥には天守跡があり、
前田利長の像と彼の功績を讃える碑が少し距離をおいて並んでいる。撮影ついでに小高いその部分に上り、
本丸広場を見渡してみる。雲ひとつない空と、一面の緑。暑いけど、最高にすばらしい夏の一日を享受している。

  
L: 高岡城の本丸跡。彫刻や碑などが多くある。高岡市民には憩いの場として定着しているようだ。
C: 本丸跡前にある前田利長像。  R: 利長像のところから眺める本丸広場。実にすばらしい夏の光景だ。

今回の北陸旅行はこないだの北海道とは違い、天候に大いに恵まれている。
おかげでそれぞれの街の魅力を存分に味わうことができているのがうれしい。
そのことをあらためて実感しながら本丸広場を後にする。そのまま小竹藪を抜けて公園を出る。

 高岡城址は緑に包まれながらも往時の城らしさを存分に残している。

さて、高岡観光はこれで終わりではない。レンタサイクルを借りたのは、もっといろいろ見てまわるためだ。
高岡は歴史ある城下町ということで、まだまだいっぱい魅力を持っているのである。
万葉線の走る道から一本奥に入ったところには、山町筋(やまちょうすじ)という土蔵造りの街並みがある。
いざ訪れてみると、これが見事なのだ。重要文化財の菅野家住宅だけでなく、いくつも古い建物が並んでいる。
1900(明治33)年に高岡は大火に遭っており(上で射水神社が再建されたと書いたが、それもこの大火が原因)、
土蔵造りの建築群はその際に防火対策としてつくられたのだ(川越の事例と似たようなものだ →2010.4.11)。
城下町としてスタートした商都・高岡の繁栄ぶりをうかがわせる迫力に満ちている。

  
L: 重要文化財・菅野家住宅。現役の住宅なんだけど好意で公開している。火曜日は休みだったのが非常に残念……。
C: 筏井家住宅。きれいだ。  R: 高岡共立銀行本店として1915(大正4)年に竣工した旧富山銀行本店。

 山町筋のはずれにある佐野家住宅。これもまた見事。

高岡には山町筋と並んでもうひとつ、特徴的な街並みがある。中心部からやや離れた金屋町(かなやまち)だ。
その名のとおり、高岡銅器を生み出した鋳物の町で、こちらは格子造りの街並みとなっているのである。
現在も石畳と木造建築が続く街並みには鋳物職人の店が多く軒を連ねており、独特の雰囲気がある。
山町筋と比較した場合、商人と職人という差異が土蔵と木造という差異となってファサードに現れており、
町内に漂う空気も明確に異なっている。今もそれがしっかり味わえるというのは、これは本当に貴重な例だ。

 今も職人たちの町として穏やかな活気がある金屋町。

今度は北陸本線の南側に出てみる。住宅街を抜けて線路をくぐると、いったん高岡駅方面へ。
やはり高岡駅の南口はしっかりと道路が整備されて幅が広い。そんな駅南大通りを南下していくと、
両側に植物が植えられている石畳の道に出る。これが前田利長の墓所と瑞龍寺を結ぶ「八丁道」である。
というわけで、ここで西に曲がって瑞龍寺を目指す。自転車で参道を行くのは少々気が引けたが、ヨシとする。

 八丁道を行く。約8町(870m)の長さがあるため、この名になった。

程なくして瑞龍寺に到着。1997年、この瑞龍寺の仏殿、法堂、山門が国宝に指定されたのだが、
実はこれが富山県にとっては初の国宝指定。そして今でも富山県内の国宝は、この瑞龍寺だけなのである。
国宝だからどうこうというわけではないのだが、けっこう期待して料金を払い、中に入る。
まず入口には人体に模した伽藍配置を解説する案内板があって、まずこれがわかりやすくて面白い。
(ただし、裸が描かれていることが問題視されたこともあったのだとか。もちろん瑞龍寺側はそのまま維持した。)
そして総門をくぐってびっくり。広い敷地をしっかりと使って来訪者にインパクトを与える、見事なつくりなのだ。
よけいなものは一切置かず、箒目を引いた砂利の中に一本の道を通す。そうして山門をくぐると、今度は芝生。
緑の中に石灯籠が並べられているだけで、これまたよけいなものが一切ない。純粋な美しさにため息が漏れる。

  
L: 瑞龍寺の伽藍について解説している案内板。なるほどこの工夫は実にわかりやすい。
C: 総門をくぐると、回廊と山門が現れる。そこに至るまでの広大な空間はかなり衝撃的である。
R: 山門をくぐって仏殿を眺める。1659(万治2)年築だそうで、建物もいいのだが、やはり空間づくりが上手い。

瑞龍寺は前田利常が先代・利長の菩提寺として整備したのだが、加賀前田家の強大さを感じさせる寺だ。
まず建物。そして広大な面積。何より、本拠地は加賀のくせに越中でこの規模の寺をつくったという事実。
それらを冷静に考えてみると、百万石という膨大な石高の凄みとそれを最後まで維持した凄みに、
気が遠くなりそうになる。瑞龍寺はそういう歴史的背景をしっかり想像させてくれる場所だった。

  
L: 仏殿の内部。古い建物だがかなりきれいにしてある。  C: いちばん奥にある法堂。1655(明暦元)年築。
R: 法堂の内部。上がってウロウロすることが可能だったので、ちょいと歩きまわって過ごした。

境内を歩きまわって満足したので総門から出ようとしたところで、大規模な観光客の集団にぶつかる。
瑞龍寺のお坊さんの解説つきで、僕もその中に混じってちょっと聞いてみたのだが、実に話が上手い。
禅寺の特徴だとかかつての様子だとかを、とても軽妙な語り口でわかりやすくしゃべっていた。
正直もうちょっと聞いてみたかったのだが、時間に追われる旅行なので断念して高岡駅まで戻る。
レンタサイクルは高岡駅の北口で返すわけで、大回りして線路を越えて北口に出る。
かなりオシャレで性能のいい自転車だったので、お別れするのがちょっとさびしかったのであった。

●13:22 高岡-13:42 富山

高岡から富山まではあっという間である。富山駅は高岡駅よりも激しく工事中で、よくわからないうちに、
気がついたら駅ビルの改札を抜けていた。すさまじく腹が減っていたのでこれ幸いと店を探す。
すると「氷見うどん」の文字を発見。本場の氷見では早朝すぎて食えなかったので、ここで食べることを即決。

富山市内に滞在できる時間は、2時間半弱。こう書くとまずまず余裕がありそうに感じるかもしれないが、
前回の富山訪問(→2006.11.2)のリベンジをやろうとすると、かなり時間的には厳しいのである。
注文した氷見うどんは茹でて冷やしてという手間がかかるため、そうすんなりと出てきてはくれなかった。
でもだからといってここで氷見うどんを食わない方が絶対に後悔が大きいのはわかりきっているので、
泰然自若として待って、そしておいしくいただいた。氷見うどんは氷水に浸かった状態で登場。
ちょこんと乗った海藻がかわいらしい。ふつうのうどんの平べったいミニチュア、といった感じの見た目だ。
冷たい水でよく引き締まってコシがあり、薬味のショウガとマッチしてうまかった。

  
L: がっつりと工事をしている富山駅。北陸新幹線が通るとどんな姿になるんだろう。
C: 氷見うどんをいただく。本当は氷見市で食べたかったが、富山市でも食えた。こういうのが県庁所在地のいいところ。
R: 2010年現在の富山駅駅舎。なかなかの仮設ぶりだった。時間帯のせいなのか、かなりの賑わいだった。

満足して食べ終えると、富山駅構内の観光案内所を目指す。かつての駅舎は商業施設に特化しており、
現在の富山駅はそこから西隣にできていた。記憶にある空間が微妙に雰囲気を残したまま変化したので、
かなり戸惑いながらもどうにかたどり着く。そしてレンタサイクルについて問い合わせたところ、なんと無料。
さらに西側にある駐輪場で貸し出しをしているので、そこまで歩いて無事にママチャリをゲット。

レンタサイクルさえ確保できればもうこっちのものだ。勝手知ったる県庁所在地、快調に飛ばして南下する。
一度訪れた場所は地図なしでも行動できるようになる習性は、こういうときには非常に便利である。
すぐに緑に囲まれた県庁前公園に到着。中を突っ切って富山県庁の正面に出る。

 県庁前公園。県庁の敷地に余裕がない分、ここがオープンスペースがわり。

4年ぶりの富山県庁は、知らないうちにリニューアルされてすっかりきれいになってしまっていた(→2006.11.2)。
逆を言えば、富山県は今後しばらくずっとこの庁舎でいこう、と決心をしたわけで、それは個人的にはうれしい。
もともと富山県庁はすぐ南の富山城址内にあったのだが、1930年に火災によって焼失。
現在の県庁舎は1935年竣工である。『都道府県庁舎』(→2007.11.21)によれば、建設まで間が空いたのは、
浜口雄幸の緊縮財政と世界恐慌の影響とのこと。設計は大蔵省営繕管財局で、その点も質素なのだ。

  
L: すっかり小ぎれいになってしまっていた富山県庁。  C: 角度を変えて撮影。
R: ほぼ同じ角度から、全体を眺めてみたところ。上から見ると「日」を横に倒した形をしている(中庭2つってこと)。

  
L: 本館の後ろには南別館。  C: 実にシンプルである。  R: エントランスはこんな感じである。

 内部の様子。1930年代になると内装もだいぶ質素だ。

ついでに周辺にある建物も撮影してみる。戦前のモダニズムを思わせる本館とは対照的に、
お隣の県議会議事堂はピロティを駆使した戦後のモダニズム風味が漂う(残念ながら竣工年わからず)。
その南側にそびえる富山県警本部は平成オフィス建築。統一感がまったくないのもまた一興といえば一興。

  
L: 富山県議会議事堂。1935年の県庁舎の竣工当時は、議事堂は県庁舎のど真ん中部分の3階・4階にあったのだ。
C: 議事堂を裏側から見たところ。  R: 見るからに平成生まれな富山県警本部(1994年竣工)。

さらに、いったん敷地から出て県庁南別館を眺めたり、お隣の富山県民会館を眺めたり。
南別館はなかなか大胆だし、県民会館はいかにも高度経済成長期のモダニズムで(1964年竣工)、
この周辺には時代を反映した公共建築がそろっている。この面白さは素人にはわかるまい。

 
L: 富山県庁南別館。なかなか思いきっている。  R: 富山県民会館を県庁側から眺める。ホールの曲線がモダン。

大きな通りを挟んだ向かい側には富山市役所。前回訪れた際には展望台にも上ったが(→2006.11.2)、
今回はとてもそんなヒマがない。デジカメのシャッターを切りつつ一周するにとどめる。
周りはわりと落ち着いた住宅や小さなビルが多いのだが、富山市役所はまったくそれらとスケールが異なり、
あらためてその巨大さに驚かされた。「周囲から浮いている建物」なんてレベルでは到底ない。

  
L: 県民会館の駐車場から眺めた富山市役所(西側)。言っちゃあ悪いが、相変わらずの変な形と色である。
C: 北側の交差点から眺めたところ。  R: 裏側(東側)にまわってみました。こりゃデカすぎですわ。

  
L: 南東側から松川越しに眺める。  C: 南側。木々に遮られている奥にはアトリウム。  R: 富山城址方面より眺める。

さて旅行も最終日、おやつの時間になって空には黒い雲が広がりはじめた。
天気予報では晴れのち雨ということで覚悟はしていたのだが、いざ実際に黒い雲が迫ってくると、なんだか怖い。
そのうち雷の音が響いたりなんかして、レンタサイクルにまたがっている身としては戦々恐々である。
とりあえず市街地は一周しておこう、と考えて、総曲輪のアーケードへと行ってみる。
4年前(→2006.11.2)に工事中だった箇所はさすがにきれいに整備が終わっており、
人々がのんびりとくつろいで過ごす空間となっていた。しかし駅前の賑わいには及ばない。ちょっと寂しい。

  
L: 総曲輪のアーケード商店街。人通りは多くない。  C: ガラス張りのアトリウムに生まれ変わった空間。
R: かつて富山大和だった建物。現在は100mほど離れたところにある総曲輪フェリオの中で営業中。

富山は県庁と市役所を撮影したらそれで終わりという街ではない。
北部には「岩瀬」というかつて北前船で栄えた集落があるのだ。前回も訪れているのだが(→2006.11.2)、
当時の僕は街並みを目的に訪れたわけではなかったので、日記にまともな写真がほとんどないのである。
そういうわけで、天気が崩れつつあるのだが、そこはもう意地で岩瀬に突撃をするのだ。
猛スピードで富山駅前に戻ると、そのまま北口へ出る。しかし富山駅の北口は区画整理の結果なのか、
予想以上に複雑で思いどおりに道を進んでいくことができない。目指す方角と道がズレる感じがするのだ。
岩瀬まで自転車で突撃するのは難しいと判断し、自転車を降りて富山ライトレールのポートラムに乗る。

●15:00 富山駅北-15:21 東岩瀬

青春18きっぷを使うには16時9分富山駅発の列車に乗らないといけない。
さもないと、ムーンライトながらに間に合わせるためにどこかで特急に乗る破目になり、大散財となる。
予定に間に合うようにポートラムで岩瀬まで往復する場合、15時33分東岩瀬駅発で帰る必要がある。
その事実を頭に叩き込んで乗車。車内はけっこうな混み具合だったが、ジャマにならない位置でストレッチ。
東岩瀬駅で降りると、猛然とダッシュして岩瀬の集落へと入る。地図は前回訪れたから、必要ない。
雨雲が近づいている影響もありすでに薄暗くなってしまっている中、メインストリートを走ってシャッターを切る。
時間があれば、時間さえあれば、のんびりと岩瀬浜まで歩いて過ごすことができたのだが、それは無理な話。

  
L: 岩瀬の街並み。北前船の時代は去ったが、穏やかな住宅地として新しい魅力を発揮しているように思う。
C: 広場には北前船の像がある。  R: 重要文化財・旧森家住宅(北前船廻船問屋)。中に入りたかった……。

もちろん古い建物もあるのだが、どちらかというと古い様式で建てられた新しい建物が多い気がする。
それはつまり往時からの伝統を重んじているということだ。岩瀬は現役の住宅地だからか、
歴史的な街並みとしてはあまり有名な存在ではないと思うが、むしろ伝統を取り込んだ現在という意味で、
一見の価値がある場所だと思うのである。衰退ではなく、ただ表面的な熱が去っただけの街だと思う。

 今もJR時代の東岩瀬駅の旧駅舎(1924年築)は残されている。

さっき岩瀬浜方面へと去っていったポートラムが戻ってきた。走りまくって汗ダルマの状態で乗り込む。
当然、アテンダントのおねえさんはさっきと同じ人で、なんだかすごく恥ずかしい。
(富山ライトレールにもアテンダントのおねえさんがいる。北陸の地方鉄道では常套手段なのか。)
まあでもそれだけ岩瀬の集落をもう一度訪れたかったわけで、それが達成できたから僕は満足なのさ。

●15:33 東岩瀬-15:55 富山駅北

富山駅北駅に着くと、急いでレンタサイクルを回収して地下通路で南口に戻る。
前にも歩いたことがあるのだが、やはり富山駅の南北を結ぶ地下通路は長い。
レンタサイクルを返却すると、これまた急いでコインロッカーから荷物を取り出して改札を抜ける。
高山本線の列車に乗ったときにはけっこう時間ギリギリだった。いやー、本当に焦った。

●16:09 富山-17:09 猪谷

富山駅を出てしばらくしたところで、ついに雨が降りだした。濡れなかっただけ幸いである。
雨はなかなか大粒だったが列車は快調に南下し、「おわら風の盆」で有名な越中八尾(やつお)を通る。
前に実家に帰った際、両親から「おわら風の盆」を特集した番組のビデオを見せられたことがあった。
そのときに聞いた話では、「おわら風の盆」というのは八尾町で行われる踊りの祭りだそうで、
夕方から真夜中まで越中おわら節に合わせて無言で踊り続けるという。
これがめちゃくちゃな人気があって、凄まじい量の観光客でごった返すのだそうだ。
(ちなみにそのときの僕の反応は、「それは『風の盆』って名前の勝利だな!」というあっさりしたもの。)
ちょうどこの日は「おわら風の盆」の前夜祭の期間中で(前夜祭のくせに8月20日から30日まで11日間ある)、
駅のホームに架かる屋根には無数の提灯がさがっていた。祭りの人気をうかがわせる量だった。
そんなに評判ならぜひ一度体験してみたいものだ。しかしやっぱり、「風の盆」って名前がいいよな!

列車はさらに南へ進んで終点の猪谷駅に到着。乗客はみんな、雨のホームを走って高山行きの列車を目指す。
しかし僕は、わずかな時間だけどいったん改札を抜けて猪谷駅の駅舎を撮影。こんな機会でもないと来ないし。

 猪谷駅。まあ、あんまり来る機会ないよね。

ボサッとしていると列車が出ちゃって大惨事ということになってしまう。急いで高山行きに乗り込む。
程なくして列車は動きだす。最終日になっても相変わらずスリル満点というか、ギリギリの旅である。

●17:15 猪谷-18:26 高山

猪谷から先はJR東海。よくこんなところに鉄道を通したな、と思うような険しい場所を列車は行く。
県境にもなっている宮川に沿って列車は走るのだが、右手は生い茂る緑、左手は渓谷が続く。
そうしてトンネル混じりの山の中を抜けると、杉原駅に出る。場所としては飛騨の奥の奥なのだが、
峠を抜けたからか、どことなく窓外の雰囲気は穏やかだ。先ほどの黒い雲もどうやら県境までだったようで、
夕方らしいあたたかな色合いの日差しがこぼれてくる。まったく別の場所に入ったことを実感する。
列車はゆっくりと、高山へと帰る高校生たちを収容しながらどんどん南下していく。
こっちも穏やかな日常へと帰っていく気分になる。そうして空が暗くなりはじめた時分に高山駅に着いた。

 夕暮れの高山駅。日本人も外国人もいっぱいいた。

次の列車までは30分ほど時間があるのでメシでも食おうかと思ったが、高山駅周辺には適当な店がなく、
しょうがないので駅弁を購入。駅の弁当屋で売っていたのはまさに最後の1個なのだった。
やはり観光客のほかにも地元の高校生たちが列車に多数乗り込んできた。
テキトーに席を確保して、ボケッとしながら発車を待つ。発車した頃にはすっかり日が落ちて暗くなった。

●18:54 高山-21:11 美濃太田

弁当を食い終わると音楽を聴きながらボケッとして過ごす。さすがに疲れて、日記を書く気が起きない。
それにしても高山本線の高山以南は駅と駅の間隔がずいぶん広いような気がする。
高校生たちはこんな遠い距離を揺られて通学しているのかね、と驚いた。
あとは下呂駅を通ったときに、まだ下呂温泉に入ったことがないのが悔しかったのでそのことを書いておく。
いつか入りたいなあ。いつになるやら。

●21:22 美濃太田-22:00 岐阜

眠くてフラフラになりながら美濃太田駅で乗り換え。岐阜駅で降りるとムーンライトながらが来るまで、
1時間ほどの自由時間となる。でも店はほとんど閉まっているし、疲れてろくに動けないしで、
なんとも中途半端な過ごし方になってしまった。夜の岐阜駅ペデストリアンデッキがきれいだったので撮影。

 うん、なかなかきれいだ。

いちおう食料を買い込んでから改札を抜けてホームへ。しばらく待っていたらムーンライトながらがやってきた。

●22:59 岐阜-04:57 品川[ムーンライトながら]

ビニールの枕を膨らませてさっさと就寝。明日は保育園での研修なのである。
無敵の体力を誇る子ども相手にがんばらなくてはならないので、できるだけしっかり寝るのであった。

それにしても今回の北陸旅行は、最終日の一部を除いて天候にイヤというほど恵まれた旅だった。
ちょっと派手かなあと思わないでもなかったが、テンガロン風ハットを持ってきて正解だった。
ファッションにはまったく興味のない(というより苦手意識が強い)僕なのだが、
これについては上手く使えていて非常にうれしい。なかなか悪くない感触である。

ともあれ、鉄道はもちろん、路線バスやレンタサイクルを駆使して思う存分にあちこち行くことができた。
これだけ密度の濃い旅行をやりきると、さすがにもうお腹いっぱい……というわけにはいかないもんね。
まだ青春18きっぷは残っているし、気になっている場所はたくさんある。やっぱり旅はやめられない。
……まあ、がんばって日記を書くので、あたたかく見守ってやってくださいまし。


2010.8.23 (Mon.)

能登半島を満喫するのが本日の目標である。

能登半島というのは多くの人にとって、心理的に遠いものなのではないか。
何か行かなければならない目的があるというわけでもないし、鉄道も中途半端なところで終わってしまうし、
「じゃあ能登半島に行ってみよう」となるのには、それなりの特別な決断が必要になるように思う。

ちなみに僕が初めて能登半島に行ってみたいと思ったのは、高校在学中のことだ。
模試を受けて高校名をマークする段になり、実は石川県にも「飯田高校」があるのを知った。
地図帳によれば、「もうひとつの飯田高校」は能登半島の先っちょから少しだけ戻ったところにある。
いったいどんな学校なのか、いつかこの目で確かめてみたい、という気持ちが今もあるのだ。
しかし飯田高校のある珠洲市にはバスで行かなければならず、往復すると時間がかかる。
だから今回もいちおう行けるか計算はしてみたのだが、結局はあきらめることになった。
まだ見ぬ「もうひとつの飯田高校」へ行くことは、次回への課題ということにしておくのだ。

本日の旅程は、まず一駅戻って朝の七尾市を軽くまわり、その後はのと鉄道の終点・穴水へ。
そこから路線バスに揺られて、目指すは輪島市。輪島ではさらにバスで絶景を見に行くつもりである。
戻って輪島市街を味わった後は、「返す刀で」といった感じで羽咋市に寄ってみる。
夜には富山県の高岡に行き、そこに泊まる。まあ今日の主人公は輪島かな、といったところ。

朝食つきの宿だったので、いつものように早起きをするが、そのまま食堂へ。
ご飯と味噌汁を中心にあれこれいただく。宿で朝食を食べる場合、飲み物をどうするかで毎回悩む。
やはり朝から牛乳をたっぷり飲みたいが、オレンジジュースも捨てがたい。それで悩むのだ。
まあだいたい、牛乳3杯とオレンジジュース2杯くらいのバランスで勘弁してやることが多い。
そんな感じで気力をみなぎらせると、勢いよく宿を飛び出して駅へと向かう。おかげで長い距離もへっちゃらだ。

●06:47 和倉温泉-06:53 七尾

ホームで列車を待っていたらいきなり演歌だか民謡だかが流れ出して大いに驚いた。
これは『和倉音頭』といって、和倉温泉駅ではこれが入線メロディとなっているのだ。個性ありすぎ。
さて、昨日の夕方に乗った列車を朝早く逆方向に行くというのは妙な気分だ。しかも1時間ほど後には、
もう一度下り方面に乗るわけだ。そして昼過ぎにはまた上り方面で戻る。2日で2往復。
われながら、このバカバカしさには呆れる。でも七尾市も歩いておきたいのだ。しょうがないのだ。
通学する高校生たちでいっぱいの車内で、ひとりうんうんうなずくのであった。

 七尾駅はけっこう大きなターミナルなのであった。

七尾駅の改札を抜けるとコインロッカーに荷物を預ける。朝早いのに学生を中心に活気がある。
駅前はまずまずの規模のバスターミナルとなっており、能登半島の交通の拠点となっているのがわかる。
さて七尾といえば、なんといっても七尾城である。上杉謙信ですら落とせなかった難攻不落の名城だ。
(しかし七尾城内で疫病が流行して畠山家が全滅し、重臣の遊佐続光が内通してその後あっさり陥落。)
でも謙信ですら落とせなかったということは、つまり、それだけすさまじい山城だということである。
そりゃもちろん行ってみたいに決まっているのだが、とてもじゃないけど車じゃないと無理なのだ。
まして1時間程度で街中を走りまわるついでに訪れるのは不可能。残念だけどあきらめるしかなかった。
そういうわけで、まずは七尾市役所へ。その後は市街地をフラフラして、七尾らしさの感覚をつかむのだ。

七尾市役所は駅を出てから右へと進んだところにある。そう遠くなく、手前には広い駐車場があり撮りやすい。
なかなか僕にとっては優しい市役所である。朝からいい気分でデジカメのシャッターを切るのであった。
形としてはそれほど面白くはないが、きれいに使っているところになんとなく街の活気を感じる。
この場所はかつては小学校で、校舎をそのまま市庁舎として利用していたそうだ。
今の庁舎はさすがに建て替えられたものだろう。事務棟と議会棟が並んでいる標準的なタイプである。

  
L: 七尾市役所。広い駐車場のおかげで撮影しやすい。こういうのっていいですなあ。  C: 角度を変えて撮影。
R: 後ろ側からおそらく議会棟を撮影してみた。撮影している間も登校途中の高校生が自転車で走っていくのであった。

市役所を撮り終えると、そのまま七尾の街をフラフラしてみる。街の匂いを嗅ぎながら、中心的な商店街を探す。
市の中心を貫く御祓(みそぎ)川の一本東には、駅前リボン通り商店街があった。昔懐かしい典型的な商店街だ。
もともとは印鑰(いんにゃく)神社の参道で、その後、駅前商店街として発展した経緯があるそうだ。
だいたい端っこまで歩いてみると、あらためて御祓川に出る。そして港までこの川に沿っている大通りが川渕通り。
御祓川は七尾を象徴する存在で、そのまま民間まちづくり会社の名前にもなっているほどなのだ。
かつてはこの川を境にして東が職人の町、西が商人の町となっていたという。

  
L: 駅前リボン通り商店街。昔からの個人商店が並んでいる、懐かしい印象のする商店街である。
C: 能登食祭市場(七尾フィッシャーマンズ・ワーフ)。入ってみたかったけど、時間がないし、そもそも営業時間外だし……。
R: 七尾市内を滔々と流れる御祓川。かつてドブ川だったことを想像させないほど浄化が進んでおり、鳥も止まっていた。

朝早く訪れた七尾だったが、つねに人通りが絶えなかったためか、なかなか活気のある印象がした。
やはり滞在時間がたったの1時間では、その表面を非常に大雑把にさらう程度にしか街を味わえない。
いずれ七尾城とあわせてもっとじっくり歩きまわってみたいものである。いつになるやら。

●07:42 七尾-08:23 穴水

列車に乗ると、一気にそのまま終点の穴水まで行く。学生たちも乗ってはいたが、途中で降りて客は少なくなる。
田んぼなどが近くに迫る、いかにも狭苦しいローカル線らしいスケール感の線路を列車はひた走る。
そのうちに右手に島の浮かんだ海が現れる。島は能登島。架かっている橋(中能登農道橋)がなかなか立派だ。
能登半島というのは東京にいるとどうしてもマニアックな場所という印象がしてしまうのだが、
こうしてさりげなく絶景を見せられると、旅行に理由なんていらないのだという真実を確かめることができる。

 穴水駅に着いたのだ。

穴水駅はバス停と客待ちのタクシー以外に周りに何もない場所だった。なぜここが終点なのか、よくわからない。
しかし悩む間もなく輪島行きの真っ赤なバスがやってきたので乗り込む。客はほかに2名ほど。少なすぎる。

●08:30 穴水駅前-09:01 輪島駅前(北鉄奥能登バス)

穴水駅を出発したバスはのんびりと輪島への道をひた走る。路線バスではあるものの、
すぐに山の中の立派な道路を走るようになるためか、バス停の間隔は非常に広い。そしてめったに止まらない。
途中に三井(みい)町という集落があったくらいで、あとは本当に山間部を快調に飛ばしていくのであった。
そうして長い距離を走ったせいなのか、30分よりもっと長い時間バスに乗っている気分になった。

終点の輪島駅前でバスを降りると、急いでコインロッカーを探す。が、ない。
かつての輪島駅は、今は道の駅輪島「ふらっと訪夢」となっており、土産物もある観光拠点になっている。
しょうがないので観光案内所に行って訊いてみたら、ここで預かります、とのこと。BONANZAをそのまま渡す。
案内所を出たら、すでに目的のバスは来ていた。乗り込んでしばらく経ったら、発車。

●09:10 輪島駅前-09:30 白米(しろよね)(北鉄奥能登バス)

路線バスを乗り継いで目指したのは、「白米(しろよね)千枚田」という場所だ。
海に向かって棚田が下りていく景色が、ずいぶんと美しいのだという。幸いなことに今日は天候に恵まれ、
夏らしい青い空と海を背景にして絶景が見られることだろう。期待に胸が膨らむ。
白米千枚田の先には曽々木(そそぎ)海岸というもうひとつの名所があり、できれば行ってみたかったのだが、
路線バスの接続の都合上、そっちはあきらめざるをえなかった。やっぱり車がないと不便なのである。

白米のバス停を降りると、すぐ近くの道の駅を目指す。自販機やトイレ、小規模な売店があった。
感覚的には高速道路のパーキングエリアといった印象だ。そして奥へと進んでいくと、果たしてそこは絶景だった。

  
L: 白米千枚田。小さい画像だとわかりづらいが、これは確かに美しい。空と海の青に対し、稲の緑が輝く。
C: 棚田をクローズアップして撮影。このような無数の棚田のひとつひとつが絶景をつくり出しているのだ。
R: 棚田を横から眺めるとこんな感じである。そういうわけで、下へと下りてみた。

しばらく呆けて景色を眺めていたのだが、ボケッとしているのももったいなく思えたので、下に行ってみた。
目線を田んぼに合わせると、高いところから眺めていたときとは違い、ごくふつうに田んぼである。
青々とした稲穂の中を歩いているうちに、ふと気がついた。「ああ、僕は日本を旅しているんだ」と。
何を当たり前のことを、なんて言わないでほしい。僕は日本全国を旅しながら、日本を味わっているのだ。
法律で規定されているのとは違う、教科書で語られているのとは違う、日本という国の雰囲気・空気を味わう、
そのために僕は旅をしているんじゃないかと思ったのだ。自分の中にある日本のイメージを言語化するため、
僕はあちこちの日本をこの目で確かめようとしているのではないか、そんなふうに思ったのだ。
本当は順序が逆で、僕は旅先で必ず日本を突きつけられている。そこから、日本を問い直さざるをえない、
そういう立場にどんどん自分を追い込んでいるのだ。神社だとか城跡だとか木造建築だとか庁舎だとか、
街並みだとかご当地B級グルメだとかプロ野球だとかJリーグだとか、僕の行き先には日本が待ち構えている。
将来、僕は何をどう考える人間になるのかはよくわからないが、少なくとも今の僕は確かに、
自分の中にある日本というものの質感を確認していく作業に夢中になっているのだ。そのことに気がついた。

  
L: 稲穂の中を歩いて、今の自分が何をしているのかを知ったのであった。僕の行く先には、つねに日本があった。
C: 棚田を維持している皆さんが作業をしていた。そういう努力によって、この絶景は成り立っているのだ。
R: 棚田を見上げる。ずっとずっと先まで立体的に田んぼは続いているのである。

棚田の中を歩いていたら、なぜかJリーグ・湘南ベルマーレの旗が差してあるのを見た。
白米千枚田はオーナー制度・トラスト制度をやっているので、おそらくその一環で活動しているのだろう。
ご覧のとおり白米千枚田は大型機械による効率化ができないため、非常に多くの手間がかかる。
高齢化・後継者不足により稲作が年々難しくなり、上記の制度を始めたところ、なかなか人気のようなのだ。
いったいどういう経緯でベルマーレが関わるようになったのか、ちょっと気になる。

 白米千枚田はこんな感じで海に面している。テトラポッドにはフナムシいっぱい。

時間いっぱい、気の済むまで棚田の風景を味わって過ごす。面積的には決して広くない場所なのだが、
大切なことに気づかせてもらった。この夏の日に、この景色に出会うことができたことを、素直に喜んでいる。

●10:04 白米-10:24 輪島駅前(北鉄奥能登バス)

輪島駅前に戻ったところ、ちょうど市内を巡回する「のらんけバス」がバスターミナルを発車するところで、
気がついたら飛び乗っていた。乗客は地元住民ばかりで、観光客らしいのは僕だけ。なんだか気恥ずかしい。
観光案内所でもらった地図を広げ、どこで降りるか考える。北端の停留所は「鴨ヶ浦」。よし、ここに決めた。

ひとつ手前の海水浴場・袖ヶ浜では地元の親子連れがそこそこ降りたが、鴨ヶ浦では僕ひとり。
これといった目的があるわけでもなく、「なんとなく」降りる決断をしたことがなんだか気恥ずかしい。
いざバスを降りて海に出てみると、観光客がまったくいないわけではなく、数組が岩場を歩いていた。
僕も橋を渡ってみる。冬には波の花が発生するというこの場所も、今は穏やかな夏の海でしかない。
鴨ヶ浦は海蝕でできた岩場を人工的にアレンジした場所のようで、四角いプールがつくられていた。
しかしなんといってもすごいのはフナムシで、大きいのから小さいのまで、ウジャウジャ。
僕が近づくと、堺正章のテーブルクロス引きよろしく猛スピードで、岩に波紋を描くように逃げていく。
中にはやたらでっかいフナムシもいたのだが、いったいどうしてあんなに速く動けるのか、まったく不思議だ。

  
L: 鴨ヶ浦に架かる汐見橋。その先にある岩場はフナムシ天国なのであった。
C: 海水プール。僕は正直、ここでは泳ぐ気にならないなあ……。Googleマップでも四角く表現されている。
R: 鴨ヶ浦の海と岩。冬にはここに荒波が押し寄せ、波の花の名所となるそうだ。想像できないなあ。

鴨ヶ浦を後にして南に曲がると、そこは漁師の住宅が並ぶ一帯になっている。輪島の漁は非常に盛んなのだ。
さらに南下したところには輪島港。ちょうど祭りの日だったようで、大漁旗を掲げた無数の漁船を見ることができた。
これが実に壮観で、海なし県出身の僕は夢中でデジカメのシャッターを切って歩きまわったのであった。
旅先でこういう光景を偶然ながらも目にすることができるとは、本当に運がいいなあと自分で思う。

  
L: 輪島港にて。漁船がそれぞれに大漁旗を掲げており、これがとても美しい。いいタイミングで輪島に来たものだ。
C: 祭りの時を待つ輪島港。  R: 海鳥が橋の欄干にきれいに並んでいるのが妙におかしかったので撮影。

輪島港を後にすると、そのまま輪島朝市へ。昼に近くなってきたが、まだ午前中なのでやっているだろう。
そう踏んで朝市のエリアに入ると、果たして石畳の敷かれた街路を挟んで露店が出ている光景に出くわした。
露店のスタイルはさまざまだが、オレンジのシートが鮮やかで印象的だ。パラソルも多い。
売っているものも多岐に渡っているが、やはり海産物が多い。さすがは石川県の誇る港町だ。
特に干物や魚醤の「いしる(いしり)」を売っている店が多いのが特徴的だと思う。
11時半を過ぎて店じまいモードの露店もあったが、大半はまったく減る気配のない観光客相手に元気に営業。
鉄道が廃止になるくらいだから街は衰退しているのかと思ったら、そんなことはまったくないのであった。
むしろ豊かな輪島の個性を前面に押し出し、観光客をしっかり呼び込むことができているのだ。

  
L: 輪島朝市の様子。オレンジのシートがすごく印象的だ。  C: 朝市通りには輪島塗の店もたくさんある。
R: 朝市の露店はこんな感じで営業中。海産物を扱う店が多く、特に「いしる」はどの店でも売られていた。

そんな輪島朝市の中にあるのが永井豪記念館。ここ輪島は永井豪の出身地ということでつくられたのだ。
正直、僕は永井豪のマンガをきちんと読んだことは一度としてないのだが、輪島に来たからには入らねば。
そういうわけで500円を払って中に入る。お土産にうちわをもらったよ。
ところで僕の永井豪のイメージはまず、「物語をきちんと終わらせることができない人」。
次に、「エロ・下ネタに執念を燃やす人」。つまり、それほど高い評価をしていない(読んでいないくせに)。
しかしながらキューティーハニーにしろデビルマンにしろマジンガーZにしろヒゲゴジラにしろ、
キャラクターの造形に関してとんでもない実績を残している点はまったく否定のしようがないのである。

そういうわけであらためて永井豪についてきちんと勉強しようと思って展示を見ていく。
でも残念なことに記念館じたいが広くないため、展示内容は限られていた印象。突っ込んだ内容には乏しい。
パソコンを使ってデジタル化された永井豪の作品を読み放題になっている箇所があり、
そこで伊集院光がラジオでしゃべっていた『へんちんポコイダー』を読んでみた。
まあ仮面ライダーのパロディなのだが、主人公のクラスメイトや学校の教員たちが敵という設定に驚いた。
ヒーロー物の非日常な部分が、学校生活という日常の部分に完全にくっついている設定なんて初めて見た。
いつもすぐ近くにいる人たちがヒロインをめぐって敵になる。それで主人公が変身する。
これは盲点だった。この部分を衝いて新しいものを生み出すとは、さすがは永井豪ということなのか。
しかしテーマソングつきの戦闘シーンを経てヒロインを助けて話は終わる。毎回それ。そのうちに完結。
やはり永井豪は、彼の思いついた設定をもとにして誰かが話を膨らませないとダメなのか。
永井豪の代表作はみんなアニメ化されてヒットしたものばっかりだな、とあらためて思うのであった。

朝市通りから北側の輪島マリンタウン方面にも出てみた。
観光交流施設があったほかはまだまだ工事中の雰囲気。けっこう大規模な工事をしているようだ。
これまた運よく、帆船の「日本丸」が入港している期間中なのであった。
帆をたたんでいるのはちょっと残念だったが(停泊しているんだから当たり前だが)、
それでも現役の帆船を見ることをできたのは貴重な体験だったと思う。

輪島漆器会館にも行ってみた。1階は輪島漆器の販売所になっており、
なかなかな値段のついた漆器がみっちりと並んでいた。思ったよりも種類が多く、見ているだけでも勉強になる。
2階は漆器づくりの工程を紹介したり、江戸期からの古い作品や人間国宝の作品を展示したりする資料館。
見学してみて、めちゃくちゃな手間がかかっていることに唖然とする。削って塗ってハイ終わり、ではないのだ。
塗る過程だけでも何重にも作業が施され、「もう十分いいじゃん」と思ってもさらに塗りは続く。伝統工芸恐るべし。
また、展示されていた作品は古い素朴なものから確かな技術がつぎ込まれたものまで多彩な内容で、
蒔絵の豪華さだけでごまかしているようなものはそんなに多くなかった感触である。洗練されたデザインの世界。
やっぱり実際に目で見ると、とんでもない値段がついていることにも納得できるのだ。

  
L: 永井豪記念館。輪島朝市のど真ん中である。2階も展示スペースになっていればまた違うんだろうけどなあ。
C: 建設中の輪島マリンタウンに入港していた日本丸。登檣礼(とうしょうれい)はぜひ一度、生で見てみたいものだ。
R: 輪島漆器会館。輪島漆器の組合が運営している施設だけあり、販売所も資料館も充実。

しっかりと勉強した後には市役所の撮影である。輪島市役所は、河原田川と鳳至川が合流する手前にある。
つまり敷地の両側を川が流れている格好になるわけで、これはなかなか珍しいパターンだと思う。
おかげで周囲に背の高い建物はなく、遠くから邪魔されずに市役所を撮影することができた。

  
L: 輪島市役所。左手の階段からは直接2階に行ける。  C: 近づいて撮影。先ほどの階段は右手のデッキにつながる。
R: 河原田川を渡ってから振り返る輪島市役所。左の写真の遠景になる。輪島市役所は撮りやすくていい。

輪島に滞在できる残り時間もだいぶ少なくなってきた。あとは旧輪島駅の周辺をいろいろと歩きまわってみる。
旧輪島駅(ふらっと訪夢)から石川県道1号に出た辺りには、昔ながらの木造建築を利用した店が多くある。
道はかなり広いのだが、それなりに雰囲気は伝わってくる。のんびり散歩して過ごす。

 
L: 県道沿いの木造の店。  R: ふらっと訪夢。現在の姿になったのは輪島駅が廃止になってから。

最後に、ふらっと訪夢の裏手にはかつての国鉄輪島駅時代のプラットホームが再現されており、それを見る。
わりと有名なエピソードらしいのだが、終点だった輪島駅の駅名標には、日本海側の次の駅の欄に、
「シベリア」と落書きされていた。そして鉄道がなくなった今も、その駅名標は忠実に再現されているのである。
落書きをしたギャグセンス、それをそのままで残した思い。輪島をめぐる物語が、ここからあふれ出してくる。
ひとつ思うのは、なんだか上から目線になっちゃうのだが、こういうことができる輪島って街は、
きっとこれからも魅力的であり続けるだろうということだ。輪島は自らの魅力を十分に知っている。
わざわざ能登半島を訪れることの意味を、実際に訪れた人々にしっかりと残してくれる。

  
L: 写真パネルつきで念入りに再現された輪島駅のホーム。鉄道の廃止はさぞかし無念だったことだろうと思う。
C: 再現された輪島駅の駅名標。落書きをそのままにした当時の判断も洒落ているが、再現したのもまた洒落ている。
R: 鉄軌道の末端と並んで輪島塗の顔ハメ(『変な趣味オール大百科』による呼び方)。輪島はギャグのわかる街だ。

短い滞在時間だったのだが、僕はすっかり輪島の街に魅せられてしまった。
どの街も去るときには残念な気持ちになるものだが、輪島の場合はとりわけその思いが強かったような気がする。
穴水駅に戻るまでの間、僕はずっと寂しさを胸の中に抱えてバスに揺られていた。

●13:10 輪島駅前-13:41 穴水駅前(北鉄奥能登バス)

行きのときとは打って変わって、穴水駅の中は地元のおばちゃんを中心に列車を待つ人でいっぱいだった。
中には鉄っちゃんらしき人もいたのだが、彼らが穴水で満足してしまっていることが不思議でならなかった。
どうして輪島に行こうとしないんだ、と首を傾げるが、「そこに鉄道がないからだ」と返ってくるのが精一杯だろう。
乗客の中には相撲部屋の夏合宿中らしき力士もいて、角界の不祥事のニュースが騒がしい昨今だが、
そんなの関係なしにほかの乗客たちから励ましの言葉をもらっていたのであった。なごむなあ。

●13:59 穴水-15:12 羽咋

のと鉄道の車内ではアテンダントさん(残念ながら?おばさん)から沿線案内の地図をもらった。
イラストで各駅周辺の紹介がなされており、それぞれの土地の特徴がすごくわかりやすい。
沿線の魅力を伝えるには、確かになかなか面白い趣向であると思う。

 青い海に浮かぶ能登島。

七尾駅で乗り換え、JRの車両で羽咋へ。羽咋で降りたのは、せっかくだから能登国の一宮に行こうと考えたから。
あとは羽咋の名所である千里浜なぎさドライブウェイも見たい。ここは日本で唯一、車で波打ち際を走れる砂浜だ。
そんなわけで羽咋駅の改札を抜けると観光案内所を探したのだが、構内にも周辺にもまったく見当たらなかった。
ボサッとしているとバスの発車時刻になってしまう。鉄道と違って、バスはネットでも詳しい情報がないことが多い。
野性の勘をはたらかせてどうにか目的のバスを見つけると、それに乗り込む。やや波乱含みのスタートである。

●15:20 羽咋駅前-15:30 一の宮(北鉄能登バス)

バスは国道249号を北上していく。車窓から羽咋の街の様子を眺め、雰囲気をつかんでおく。
そうすれば、帰りが歩きになってもなんとなく正しいルートがわかるからだ。われながら便利な帰巣本能だ。
駅から一の宮のバス停までは、バスだと10分ほど。このたった10分が、歩きだとそうとうな距離となる。
小松での経験でもう十分にわかっていることなので、おとなしく覚悟を決めるのであった。

一の宮のバス停を降りて少し歩いたところに郵便局がある。その郵便局のちょっと先の交差点が入口だ。
能登国一宮は、気多(けた)大社である。名前からしていかにもパワースポットっぽいではないか。
そうなのだ。この神社は縁結びのパワースポットということで売り出しているのである。
ホームページを見ると、「キレイになるお守り」だとか、完全に女性をターゲットにしたつくりになっている。
まあそれはそれで狙いがハッキリしていて潔い。歴史があるけどきちんと現代にも目を配っているというわけだ。

  
L: 気多大社。海からちょっと入った高台の上にある。  C: 1584(天正12)年建立という神門。
R: 1653~54(承応2~3)年ごろに建てられた拝殿。飾りが少ないが、「気」のせいなのか迫力を感じさせる。

境内に入る。神門にしても拝殿にしても、歴史を感じさせる木材がシンプルに使われている印象で、
よく見るととても簡素なのだが、建物全体の雰囲気はそれにもかかわらず荘厳なのである。
それでこれは見事だなあと感心しながら歩いていくと、突如現れる真っ赤な絵馬に腰が砕ける、という仕組み。
前述のように気多大社は縁結びを大々的にアピールしているということで、赤い地にハート型を抜いた絵馬が、
それはもうびっしりと結び付けられた一角があるのだ。実際にそれ目的で来たっぽい女性の参拝客もいた。
出会いに飢えている女性がこんなにもいるというのか、と驚愕。そしてオレはどうしてモテないんだろう。

絵馬に驚いた後はおみくじを引き、大吉じゃなかったので結んでから、東側に抜けてみる。
そこには木で組まれた鳥居にしめ縄があり、その奥は鬱蒼とした木々に包まれてよく見えない。
これが気多大社を象徴する空間であり、天然記念物にも指定されている「入(い)らずの森」だ。
その名のとおり、中に入ることが禁じられている神聖な場所なのだ。どれどれと覗き込んでみたのだが、
道らしきものは見当たらず、本当に手つかずの状態の自然がそのまま残されている。
こういう光景を実際に目にすると、なるほどパワースポットだというのもなんだかうなずける気がする。

  
L: 気多大社の絵馬を結ぶところ。奥にある場所もそう。一面が赤に染まり、ハートマークには願いが書かれている。
C: おみくじには鵜が描かれていた。気多大社では鵜の祭りがあるくらい、鵜と縁が深いのだ。
R: 入らずの森。この原生林の中がどうなっているのか、それを知ることはできない。うーん、面白い。

気多大社での参拝を済ませると、とりあえず海の方へと出てみる。
羽咋駅には観光案内所どころか羽咋市内の地図すらなかった。すべては勘で動くしかない。
さっきのバスで通った道と太陽の出ている方角だけがヒントで、それらを綜合して判断して歩くのである。
まずは千里浜なぎさドライブウェイを目指し、そこから市役所経由で駅まで戻る。やってみるしかない。
何日か前に見たGoogleマップを思い出し、頭の中で漠然と見当をつける。毎度のことだが、乱暴なものだ。

とにかく歩き出さないと始まらないので、海沿いに南へと歩いていく。雰囲気は完全に埋立地のそれ。
海岸側からは植物が荒っぽく生い茂り、それを無機質な金属のフェンスがやっとのことで塞いでいる。
しかし制空権は完全に植物に握られ、アスファルトの地面は植物の落とした茶色いカスでいっぱいだった。
そんな中を延々と歩いていくのはなかなか苦痛である。歩いても歩いても状況が変化しないのはつらい。
先ほどバスで走った国道249号に出るまで20分ほどかかったのだが、1時間ぐらい歩いた気がした。

国道に出ても歩き続けなければならない点は変わりがないので、気分的にはあまり楽にならない。
バス停でバスの到着時刻を調べるが、なかなかうまくフィットしない。そうしてうなだれながら歩いていたら、
千里浜なぎさドライブウェイ方面に出られそうな道が分岐していたので、そっちへと下ってみた。
どうも羽咋の海岸近くは能登有料道路が通っていることもあってか、かなり歩行者に厳しい道になっている。
この辺りは基本的に車で訪れるところのようだ。海岸にうまく出ることができないまま、南へ南へ流される。

するとようやく、道路の下をくぐる小さなトンネルに出くわした。通り抜けると、そこは砂浜だった。
そしてその砂浜を、軽自動車が走っていく。車の轍が海に面して平行に、何本も何本も引かれている。
後で調べたところ、厳密には千里浜なぎさドライブウェイのややはずれの位置だったのだが、
とにかく羽咋の名所である砂浜まで来たのである。地図もないままで。気多大社から歩きで。
もうすでに海水浴のピークは過ぎているようで、海の家は閉店モードになっている。
しかし車で波打ち際まで来ている人たちがいる光景を、実際に目にすることができた。よかったよかった。

 
L: 千里浜なぎさドライブウェイの北のはずれ。でも確かに、車が砂浜を平然と走っていた。
R: もう少し南に下ると、車で波打ち際まで来て海水浴をする人たちがいた。違和感がないけど、珍しい光景。

以前、車が砂浜を走っている羽咋のポスターをどこかで見かけたことがあったのだが、
それにだいたい近い光景を見ることができた。満足して、羽咋の市街地を目指して東へと歩きだす。
自分がどの辺りにいるのかなんて、まったくわからない。それでも国道249号に出れば、
さっきバスの中から見た景色が蘇ってどうにかなるはずだ。そう信じて歩いていくのであった。
そしたら千里浜から羽咋の市街地までは思いのほか近く、あっさりと市役所に出た。

  
L: 羽咋市役所。  C: 正面より撮影。建物を凹ませて、ど真ん中の木をうまく建物と連続させている。面白い工夫だ。
R: 駐車場から眺めた羽咋市役所の裏側。こちらが南に面しているので、しっかりと窓がとられている。

ところで市役所を撮影する際、地面に埋め込まれたタイルに信じられない文字があるのを目にした。
「UFOのまち」。堂々と、空飛ぶ円盤の絵とともに、そんなフレーズが踊っていたのである。
そして羽咋駅まで戻って改札を抜けようとしたとき、そこにも同じように「UFOのまち 羽咋」とあるのを発見。
さらにはホームで列車を待っているときも、特急の乗車位置を示すタイルにUFOが描かれているのを見た。
どのような形で街おこしをしようとそれは自由ではあるのだが、それにしてもUFOというのはちょっとなあ、と思う。
実は羽咋がUFOで街おこしをしているのはけっこう有名な話で、宇宙をテーマにした博物館も市内にあるほど、
けっこう本気なのである。もともとは古文書でUFOに関する記述があるらしい、というところから始めたようだが、
いやはや度胸があるなあというか何というか。まあ、住民が納得しているんならいいんじゃないでしょうか。

 
L: 羽咋駅。無事にたどり着いて思わずため息が出た。  R: UFOでアピールする羽咋。羽咋は本気だ。

ホームで列車を待っている間、ボケーッと改札の方を眺めていたら、信じがたいものを目にした。
対面のホームにはなんと、レンタサイクルが置いてあったのである。ギャー!!!!!
駅員さんに頼んで貸してもらう仕組みだったのだが、僕はそれにまったく気づかずに改札を抜けてしまったのだ。
本当に、自分の観察力のなさがイヤになった。もう泣いてしまいそうだ。

●17:35 羽咋-18:14 津幡

津幡駅で北陸本線に接続。でもあまりタイミング的にはよろしくなくて、30分以上待たされる。
羽咋でのレンタサイクルショックもあって、缶ジュース片手に呆けて過ごしましたとさ。参ったなあ。

●18:48 津幡-19:12 高岡

高岡駅に着いたときにはもう空腹でどうにもならない状態なのであった。
しかし駅周辺にはメシを食える店がまったくなく、愕然とする。もうちょっと都会だと思っていたのだが。
宿が南口なので、地下通路を通ってそっちに出ることにした。運が良ければメシ屋があるはずだ、と考えて。
そしたらこれがもう、通路はさびれにさびれており、ちょっと怖いくらいの雰囲気。
それでも営業しているメシ屋が2軒ほどあり(2軒ほどしかなく)、どうにかメシにありつくことができた。

高岡駅の南口は区画整理をしっかりと済ませたようで、ずいぶんと道が広い。そして閑散としている。
コンビニで地図を見て宿の位置を確認し、夜食を買い込んでからチェックイン。
北陸旅行も残すところあと一日。4日目の今日も波乱万丈だったので、きっと明日もそうだろう。


2010.8.22 (Sun.)

今日は金沢を徹底的に味わう。が、それだけではつまらないので、加賀国の一宮にも行ってみたいと思う。
加賀国一宮は白山市にあるので、バスで行くことになる。昨年10月までは電車で行けたのだが、
路線の一部が廃止になってしまったので、今はバスしか手段がない。まったく不便なものである。
香林坊アトリオ前のバス停をバスが出るのが午前9時。問題は、それまでの時間の過ごし方だ。
少しのムダもなく金沢の街を動きまわるためには、頭を使って賢くやっていかないといけないのだ。

というわけで、宿をチェックアウトするとまずはバスで金沢駅へと向かう。
もてなしドーム内に降り立つと、駅の構内を抜けて西口へと出てしまう。そこにあるのはレンタカーの店。
実はここでレンタサイクルを借りることができるのだ。営業開始とともに店に飛び込み、申し込みをする。
これで金沢市内における足はしっかり確保した。9時になるまで、金沢探訪の前半戦の開始である。

  
L: もてなしドーム内部の様子。なかなか壮観である。駅の東口に直結しておりバスターミナルとして機能。
C: 駅前にあるオブジェというかなんというか。水を軽く噴き出してさまざまな文字をつくるのだ。
R: レンタサイクルにまたがり、あらためて外観を撮影。前回も撮影したが(→2006.11.3)、非常にインパクトがある。

歩くと距離のある金沢駅から香林坊周辺までの間を自転車で走り抜けるのは非常に気分がいい。
今日も朝から天気がすこぶるいいのでなおさらだ。レンタサイクルとは本当にすばらしいものだと思う。
そうして最初に訪れたのは、四高記念文化交流館(石川近代文学館)だ。
金沢には今も旧制四高の建物が重要文化財に指定されて残っている。それを利用しているのだ。
時間が早いので中に入ることはできないが、外から眺めて過ごすのであった。

  
L: 正面より眺める四高記念文化交流館。やっぱりナンバースクールのある街は違うよなあ、と思う。
C: 敷地の中に入って玄関を撮影。  R: 門の脇に守衛所がしっかり残っているのがすばらしい。

続いてはお隣の「石川県政記念 しいのき迎賓館」である。実はこれ、前回も訪れた旧石川県庁舎(→2006.11.3)。
旧県庁舎は矢橋賢吉(国会議事堂の設計にも参加)が設計し、1924(大正13)年に竣工した。
それが今年の4月にレストラン、会議室、ギャラリーなどが入った多目的施設としてリニューアルオープンしたのだ。
以前の姿を知っているので、しっかりとリニューアルされた姿には少し違和感を覚える。
でもまあ、有効利用がなされているので素直に喜んでおくとしよう。入口前の堂形のシイノキもさすがに健在。

  
L: 旧石川県庁舎で今は「石川県政記念 しいのき迎賓館」。リニューアルされて歴史の厚みがリセットされた印象。
C: シイノキのところに描かれている初代石川県庁舎の絵。木造で県庁舎がつくられた時代の典型的なスタイル。
R: 角度を変えてしいのき迎賓館を眺める。うーん、やっぱりきれいになりすぎちゃってる印象がする。

驚いたのは裏手がまるっきり別の建物になっていたこと。後ろ半分がガラス主体にがらっと切り替わっている。
まあ確かにそういうやり方もあるか、と納得できなくもないのだが、できれば建物じたいをまるごと残し、
そのうえでガラス部分を増築すりゃいいじゃん、と僕は思うのである。内装だって建築の大きな要素なのだ。
このやり方だと、外面だけを重視してかつての内装をすべて現代風に仕切りなおしてしまうことになるだろう。
果たしてそれで、建物の歴史をきちんと汲み取ったことになるのかなあ、と疑問が湧いてくるのだ。
まあまだ開館時間になっていなかったので中には入っていないのだが、いかがなもんじゃろか。

 
L: しいのき迎賓館の裏側。ここまで大胆に改装しちゃうとは驚きだ。気持ちはわからなくもないけどさ……。
R: 裏手は芝生の広場となっており、イベントスペースとして使われそうだ。空間としては悪くないと思う。

通りを挟んでしいのき迎賓館の向かいにあるのが、金沢市役所。ここも前回訪れている(→2006.11.3)。
しかしせっかく金沢に来たので、あらためて撮影しなおしてみるのだ。まあ前回はここでデモか何かやってたし。

  
L: 金沢市役所。向かいの旧県庁舎が大正~昭和の鉄筋コンクリートモダン建築なのと好対照をなす建物である。
C: 角度を変えて撮影。金沢市役所は1981年竣工とのこと。  R: 高層棟の方にもっと近づいてみた。

市役所の敷地を一周しながらデジカメのシャッターを切っていく。金沢市役所はどこから見ても、
その印象は全体として統一されている。よく目立つ色を使っているがまったく下品でなく、
僕としては「さすが金沢、やるねえ!」と言いたくなる建物なのである。

  
L: 市役所正面側のオープンスペースより低層棟の方を撮影してみた。
C: 隣にある金沢21世紀美術館の敷地内から金沢市役所の東側を眺めたところ。
R: 市役所の南西側は柿木畠(かきのきばたけ)という昔の地名が復活したのだが、その辺りから眺めたところ。

金沢市役所の写真を納得いくまで撮影しまくると、次は石川県立歴史博物館にしようか、とペダルをこぎ出す。
しかし大胆に道を間違え、悪戦苦闘しているうちに一の宮行きのバスが出る午前9時が迫ってきた。
しょうがないので片町の裏手にある駐輪場に自転車を置き、香林坊まで歩いて出る。
香林坊アトリオ前を経由するバスはすさまじい数にのぼるので、どれがどれだかわからない。
ひっきりなしにやってくるバスの行き先表示をひたすら凝視して待っているうちに、目的のバスが来た。

●09:19 香林坊アトリオ前-10:01 一の宮(加賀白山バス)

40分ほどバスに揺られて一の宮のバス停に到着。去年の10月まで駅舎だった建物の前で降りる。
瓦屋根の旧加賀一の宮駅はとても風情のある建物だが、入口が容赦なく板で塞がれてしまっていた。
今後、この建物はどうなってしまうのだろう。瓦屋根だと維持するのも大変そうだが、
だからといって壊してしまうのは非常にもったいない。これは困った問題だ。

 北陸鉄道・旧加賀一の宮駅駅舎。面白い建物なんだがなあ。

加賀国一宮である白山比咩(しらやまひめ)神社は旧加賀一の宮駅から歩いてすぐのところにある。
鳥居をくぐるとそこは見事な森の中といった印象へと変わる。上り坂になっている参道を歩いていると、
なんだか心が洗われていく気がする。参道の脇には湧水が流れており、これまた雰囲気がある。
やはり歴史のある神社がある場所は、神社がつくられるだけの何か理由があるのだろうと思わされる。

坂を上りきると左手に門があり、そこを抜けると拝殿だ。その空間構成のせいなのかなんとなく、
香取神宮(→2008.9.1)に似ている気がした。公共交通では来づらい場所だが参拝客はそれなりにいた。
僕と同じバスで来た人も5~6人いたし、車や観光バスで来る人もけっこういるようである。
やはり全国に2000社あるという白山神社の総本社というだけのことはあるのだ。

  
L: 白山比咩神社の鳥居。ここをくぐると世俗から切り離された世界、という印象に。  C: 参道を行く。左側には湧水。
R: 白山比咩神社の外拝殿(げはいでん)。本殿までにはさらにいろいろな社殿があるのだ。

さわやかな気分で白山比咩神社を後にすると、旧加賀一の宮駅まで戻る。が、戻ってもやることがない。
バスが来るまで少し時間が空いている。これをボーッとして過ごすのはなんとももったいない。
そういえばさっきバスでここまで来るときに外の景色を眺めていたら、古い建物がけっこう残っていた。
せっかくだから、それを見に行こうじゃないか。ということで、鶴来(つるぎ)駅方面に早歩きで戻ってみる。

石川県道179号を北上していく。少し進んでいくとすぐに、道を挟んで両側に木造の住宅がちょこちょこと現れる。
鶴来街道という名がついているとおり、古くからの歴史を感じさせる街並みとなっている。これはなかなかだ。
昔ながらの街並みが全国的に特に有名というわけではなさそうなのだが、これは思わぬ収穫だった。
バスと電車の関係で時間的な余裕はもう本当にないのだが、ウヒウヒ言いながら写真を撮って歩く。

  
L: 鶴来街道に今も残る木造住宅。往時の雰囲気がけっこう残っていて見事である。もっと有名になっていい気がする。
C: 鶴来は酒造業が非常に盛んなようで、造り酒屋が何軒かあった。写真は「菊姫」。かっこいいなあ。
R: 鶴来横町うらら館の内部。約170年前に建てられた商家を無料休憩所にしたが、開いているのは土日と水曜のみ。

鶴来本町のバス停まで来たところでギブアップ。わりとすぐに一の宮方面からバスがやってきたので乗り込む。

●10:44ごろ 鶴来本町-10:46ごろ 鶴来駅前(加賀白山バス)

しかしながら終点の鶴来駅まではあっという間で、なんだかわざわざバスに乗ったのが間抜けなのであった。
駅に着くと、野町方面へ向かう電車が出るまでのわずかな時間で白山市役所鶴来支所(旧鶴来町役場)を撮影。

 
L: 時間がないけど撮るもんは撮る。これは白山市役所鶴来支所(旧鶴来町役場)。
R: 鶴来支所の対面にある鶴来駅。加賀一の宮駅まであとちょっとなんだから廃止することないのに。

改札を抜けていざホームへ行こうとしたら、電車の正面にマンガチックなキャラクターのイラストが。
「あたしは石川線のいしたん 電車の魅力を発信します」とのこと。北陸鉄道はなかなかやる気のようだ。
そして電車の中に乗り込むと、中吊り広告がこれまたすべてマンガもしくはイラストとなっていた。
よく見るとそれはすべて地元の学生による作品だった。へー、こういうことを専攻する大学があるんだな、
なんて思いつつ見ていく。すると、イラストのばかりの中に文字と写真の中吊りがあったので読んでみる。
マンガの魅力を再確認しながら学生たちとの取材旅行について書かれたその文章の最後には、こうあった。
「漫画家 マンガ・キャラクターコース非常勤講師 ポヨ=ナマステ」――ポヨさんじゃん!

熱海ロマンがまだバリバリの活動中だったころ、潤平は積極的にマンガ家さんと交流をしていて、
その中のおひとりにポヨさんがいた。僕もポヨさんのマンガはかなり好きで、いろいろとチェックをしていたのだ。
僕はポヨさんに一度しかお会いしたことがないが(→2001.8.12)、潤平はポヨさんの結婚式にも出席していたっけ。
現在、ポヨさんは金城大学短期大学部で非常勤講師をされながら金沢で活動中とのこと。
そういうわけでまったく意外なところで久しぶりに知っている名前を目にして、かなり興奮してしまった。
調べてみたら電車に描かれていた「いしたん」も、どうやらポヨさんの奥さん・のぶちんさんが手がけたようだ。
熱海ロマンの掲示板(今はもうない)にさんざん書き込みをしていただいたのぶちんさんもお元気なようだ。
旅先で偶然ながら活躍されているのを知り、本当にうれしかった。今日はなんてすばらしい日なんだ。

●10:55 鶴来-11:13 野々市工大前

北陸鉄道のやる気はいしたんだけではない。昨年から車掌ならぬアテンダントが業務を行うようになったのだ。
アテンダントの仕事は高齢者や障害者の補助、車内の案内業務などである。アテンダントは制服姿のおねえさん。
もうそれだけで、地方の鉄道とは思えない華やかな雰囲気が車内に漂う。うーむ、これはステキだ。
実際にアテンダントさんのいる電車に乗ってみると、その威力を実感することができる。乗らなきゃわかるまい。
日常性の塊である冴えない経営難の地方鉄道に、パッと非日常的なハレ、昂揚感がもたらされるのだ。
仮に明確な数字にはならなかったとしても、乗客にとっては心理的にポジティヴな効果がかなりあると思う。

美人なアテンダントのお姉さんに後ろ髪を引かれる思いになりながら、野々市工大前駅で降りる。
無人の駅舎を出ると、そこは小規模な公園になっていた。駅を出たらいきなり公園ってのも珍しい。
この駅は駅名どおりに学生の利用が多いようで、駐輪してある自転車の数が半端ではない。
公園の敷地内には「富樫館跡」と彫られた碑があった。一向一揆で殺害された加賀国守護・富樫政親の屋敷跡、
ということらしい(でも野々市工大前駅は実際の富樫館跡から400mほど離れているようだ)。
それ以後、織田信長が攻め込むまで約100年にわたって加賀国では武士によらない統治が続き、
「百姓の持ちたる国」と呼ばれたのである。またしても歴史の一端に触れた気分になるのだった。

  
L: 北陸鉄道石川線のキャラクター「いしたん」。北陸鉄道はかなりやる気が感じられてよいです。
C: アテンダントのおねえさん。ローカル線の雰囲気づくりという点において、多大なる効果をあげていると思う。
R: 野々市工大前駅。右端にある石碑が富樫館跡の碑。「百姓の持ちたる国」の原点のひとつということか。

さて、僕がわざわざこの駅に降りたのには理由がある。それは、金沢カレーを食べるためなのだ。
金沢カレーの元祖は諸説いろいろあって非常にややこしく、明確にこれだと断定できる状況ではない。
しょうがないので今回、地元で「チャンカレ」と呼ばれているという「カレーのチャンピオン」の本店に乗り込んだのだ。
まあ正直言うと、金沢カレーじたいは東京でも秋葉原辺りでゴーゴーカレーを食べることが可能なのだが、
やはりせっかく石川県まで旅行に来ているのだ、地元で最も勢いのある店で食べてみることにしたわけだ。

野々市工大前駅周辺は、見事に学生向けのアパートや郊外型の店舗だらけとなっている。
面白いくらいにもう、以前は田んぼだったのをスプロールに開発していったのがわかる典型的な姿をしている。
そんな中にあるのが、カレーのチャンピオン本店。チャンカレは早くから郊外型ロードサイド店舗志向だったそうで、
本店はハッキリと学生向けの立地となっているのだ。全国的には珍しいが、意図が明確な経営スタイルである。
で、毎度おなじみ行き当たりばったりな僕は、事前に地図でろくに位置を確認することもなく、
街並みの雰囲気だけでチャンカレ本店を探すのだった。まったく迷わずにたどり着けたのは、今考えると奇跡的だ。

お昼のピークを迎える前の時間帯ということで、客はそれほど多くない。が、確実に出入りがある。
最も標準的なメニューと思われる「Lカツ」ことLサイズのカツカレーを注文。トイレに入っている間にもう出ていた。
かなり大きめのプラスチックのコップにたっぷり水が注がれて、炎天下を歩いた身にはとてもうれしい。
デジカメで証拠写真を撮ると、いざ戦闘開始である。夢中で本場の金沢カレーを食べていく。
味としては正統派のカレーなのだが、ルーがだいぶドロリとしているのがさすがは金沢カレー。
カレーをカツと一緒に食べるのもおいしいが、キャベツの千切りもカレーと一緒だと甘みが強調されておいしい。
地方のB級グルメってのはつねに、新しい発見をもたらしてくれるからやめられないのである。

 
L: カレーのチャンピオン本店。完全に郊外型の店舗であり、店内は衛生管理をアピールする展示でいっぱいだった。
R: 金沢カレー(Lカツ)。カツにソースがかかっている点も金沢カレーの特徴である。個性的だが、万人受けするおいしさ。

ところでここで一丁、昨日の日記でも少し触れた、「金沢は洋食の街」ということについて述べておきたい。
前回、金沢を訪れた際の日記(→2006.11.3)に、僕はこう書いた。
「単純に木造の商店が残っているだけでなく、鉄筋コンクリートのモダンスタイルも残っている点が、金沢の凄みである。」
金沢という街には、近代以前からの伝統があちこちに今も色濃く残っている。
しかしその一方でまた、明治以降に海外からもたらされたものも、日本風に解釈されて通用している。
モダンな建築はそれを体現するひとつの証拠だが、もうひとつ、金沢に息づく洋食のスタイルも指摘できると思う。
たとえば昨日の夜に食べた箸と味噌汁の洋食。……まあこれはどの街にもあるものだから証拠としては弱い。
だが、金沢名物・ハントンライス(→2006.11.3)は、洋食が日本において独自に解釈された料理と言えそうだ。
そして金沢カレーだ。金沢カレーにはいくつか特徴があるが、食器に特徴がある点が極めて独特である。
金沢カレーはステンレスの皿に盛られている。何より、スプーンではなくフォークで食べるケースが多いのだ。
ハントンライスもそうだが、これらの金沢名物は、洋食文化がきちんと根底になければ生まれなかったはずだ。
明治期に現れた洋食文化が日本化して定着し、そこからハイブリッドな新しい食文化が生まれる。
ハントンライスも金沢カレーも、厳密にはもはや洋食と呼べるものではなくなっているのかもしれない。
でもハントンライスと金沢カレーがあるという事実に、逆説的に金沢における日本的洋食文化の強さを感じるのだ。

ゴーゴーカレーがソースの風味を強めにしてカレールーをつくっているのに対し、チャンカレはオーソドクスだ。
なるほどこれが標準的な金沢カレーなんだな、と思いつつ完食。金沢において個性的に進化したカレーだが、
一定の様式が完成されており、家庭でわざわざこのやり方で食べてみるのもきっと面白いだろう。
そんな具合に大いに満足して店を出て、野々市工大前駅まで戻る。しばらく待っていると電車がやってきた。

●11:47 野々市工大前-11:58 野町

今度の電車は残念ながら「いしたん」ヴァージョンではなく、ごくふつうの車両だった。
車内でアテンダントさんから車内乗車券を発行してもらう。パンチで穴を開けて乗車駅を示すスタイルだ。
(前に一度、カシマスタジアムからの帰り(→2007.12.8)に鹿島臨海鉄道だかで似たような経験があった。)
北陸鉄道のやっていることは、古くて新しいことだ。そしてそれは、魅力の再発見をもたらしてくれるように思う。

 アテンダントさんからもらうとよけいに風情を感じる。

終点・野町駅に到着する。北陸鉄道石川線は犀川を渡る辺りまで伸びていれば利便性がぐっと高まるだろうが、
そうなっていないのにはきっとそれなりの理由があるのだろう。鉄っちゃんじゃない僕にはわからない。
野町駅から金沢の名所のひとつに数えられているにし茶屋街はすぐそこだ。住宅街を抜けて行ってみる。

道路がアスファルトから石畳に変わり、ここからにし茶屋街だとわかるようになっている。
道を挟んだ両側には木造建築が並び、なるほど雰囲気が「再現」されている。そう、「再現」。
にし茶屋街の建物はそれほど古い印象がしないのだ。街の規模も小さく、あまり迫力を感じない。
これならさっき走った鶴来の街の方がずっと魅力的だなあと思いながら歩く。まったく大したことがない。

  
L: にし茶屋街。現役の料亭がずらりと並んではいるものの、それ自体を楽しむことのできる建物はない。
C: 現在は事務所となっている西の検番。1922(大正11)年に芸妓の稽古場兼管理事務所として建てられた。これは面白い!
R: 西茶屋資料館内部。1階は島田清次郎についての展示。写真は2階だが、空中回廊になっていてかっこよすぎる。

西茶屋資料館の中に入る。1階にはこの地で幼少期を過ごした作家・島田清次郎についての展示があった。
島田清次郎のとんでもない人生についてはとてもここで書ききれるもんじゃないので、
『栄光なき天才たち』などを参照してください。展示を見て、あらためてその人生の凄まじさに圧倒された。
2階に上がると、そこはお茶屋らしさを演出した空間となっていてなかなか興味深い。
個人的には、1階展示室の壁の上をそのまま2階レベルの回廊にしているところに衝撃を受けた。
僕の文章がヘタクソなのでわかりづらいが、つまり、展示室はもともと1階・2階をブチ抜いた大空間なのだ。
その1階レベルには資料を展示する壁が立てられているが、この壁の上部は2階の通路を兼ねているのである。
建物じたいが大きくないのでイマイチぱっとしないが、大規模にやったらこれはめちゃくちゃかっこいいと思う。
まあ建築をやっている人にはさして珍しくないんだろうけど、和風の建物でやられたせいか、妙に印象的だった。

 こちらはお茶屋の雰囲気をつかませてくれる空間。

にし茶屋街を後にすると、国道を挟んで反対側の蛤坂方面へ。そこから妙立寺(みょうりゅうじ)へとまわり込む。
周辺は寺町ということで、古い建物を利用した商店が並んでおり、雰囲気は悪くない。
妙立寺は「忍者寺」という通称でもおなじみの寺である。寺町は城下町における防御を意図してつくられるが、
三代目藩主・前田利常は妙立寺をその監視所として、寺町の要塞としての機能を持たせて建てたのだ。
おかげで妙立寺は複雑な構造となっており、まるで忍者屋敷のようだということで「忍者寺」と呼ばれている。
せっかくなので内部を見学しようかなと思ったら、予約制だった。当日の予約も可能ではあるが、
待つのに時間をとられるうえに、ガイドの案内つきでまた何十分も時間をとられるというのはちょっと困る。
しょうがないのでまた次の機会にしましょう、ということにして蛤坂まで戻った。もったいなかったかも。

 この北陸旅行では百日紅がやたらときれいだった。

蛤坂を犀川大橋方面へ下っていく途中に、かなりの迫力を持った木造建築があって圧倒された。
外からだとよくわからなかったのだが、後で調べてみたら山錦楼という現役の料亭だった。
大正末期~昭和初期に建てられたそうで、犀川との間に壁のように立ちはだかる姿は実に美しい。
蛤坂では3階建てだが、逆に犀川の対岸から眺めると木造4階建てなのである。
こういう建物がさらっと残っている辺りが金沢の凄さだと思う。

  
L: 山錦楼を蛤坂の入口近くから眺める。  C: 角度を変えて撮影。これはすごい迫力だ。
R: 後で犀川大橋を渡って反対側から眺めたところ。木造4階建てが平然と並んでいるってのはすごいものだ。

というわけで、犀川大橋を渡って片町に戻ることにする。犀川大橋の写真は前回も撮ったが(→2006.11.3)、
やはり何度見てもいいものはいいのだ。色を微妙に塗りなおしたようで、青のグラデーションがよく見える。

 
L: 蛤坂を下ってきたところから眺めた犀川大橋。  R: 現在の犀川大橋は1924(大正13)年に架けられた。

片町の裏手にある駐輪場に戻るとレンタサイクルを回収。再びこれで金沢の街中を走りまわるのだ。
まずは近場の長町武家屋敷地帯に行ってみる。騒がしい片町から奥に入ると、そこは閑静な住宅地。
1車線の道路のすぐ横を同じ幅で川が流れ、屋敷との間にいちいち小さな橋が架かっている。
歩いている観光客も少なくなく、いかにもそれっぽい雰囲気である。

ある程度先へと進んでいってから右手に入ると、そこは見事な昔ながらの街並みとなっている。
ベージュの土塀と石畳がずっと続いて、独特な景観をつくり出している。タイムスリップ気分がやや味わえる。
中には店舗もなくはなかったが、だいたいは今もしっかりと住宅で、基本的に観光客はただ歩くだけ。
でもそれで十分なのだ。金沢という北陸の大都会の中に歴史が残っている、それを確かめられただけでいい。

  
L: 長町武家屋敷地帯。今も住宅だからこういう雰囲気が維持されていると思うのである。
C: 土塀よりも建物のファサードがよく見える一角。奥にある片町・香林坊のビルとの対比が面白い。
R: 高田家跡の門。有料で見学できる武家屋敷もあるし、無料の武家屋敷跡もある。

武家屋敷に満足すると、いったん香林坊に出てそのまま突き抜け、勢いをつけて坂を上がる。
重くて変速機能が貧弱なレンタサイクルだが、意外と最後までこぐことができた。
そうして到着したのは、石川県立歴史博物館だ。この建物はもともと金澤陸軍兵器支廠の兵器庫で、
国の重要文化財にも指定されているのだ。周囲は文化施設が多くて駐車場も広いが、
やはり建物自身の持つ雰囲気は抜群で、青い空の下、緑の芝生と美しく映えていた。

  
L: 石川県立歴史博物館。旧兵器庫は3棟あり、そのまま博物館として利用(ただし建物すべてを使いきってはいない)。
C: 角度を変えて撮影。  R: エントランス。まずは左手の棟から見学し、右手へと進むのだ。

せっかくなので中に入ってみる。もともとが兵器庫ということで、建物の中は比較的広いスペースとなっている。
そこをそのまま展示スペースとしているので、これはなかなか相性のよい利用のやり方だと思う。
展示は常設展が石川県の歴史で、特別展がトキについてのあれこれ。わりと急ぎ足でまわったのだが、
3棟分ということでなかなかのヴォリュームがあった。やはり歴史的建造物は中に入らないと面白くない。

 
L: 正直、展示物よりも屋根が面白くって内部を撮ってみた。  R: 2階レベル。うーむ、面白い。

前回の金沢訪問では県庁に行くまでと宿探しに時間がかかって兼六園と主計町を歩いておしまいだったが、
今回はレンタサイクルを使っていることもあってまだまだあちこち行けてしまうし、行ってしまうのである。
こうして日記を書いていてもつらいのだが、それだけ金沢に名所が多いのだからしょうがない。

次に訪れたのは、金沢21世紀美術館である。妹島和世・西沢立衛設計による、かなり有名な美術館だ。
前回の金沢訪問ではここに寄る気力がなかったのでスルーしており、これが初めての来館となるのだ。
実は朝のうちに金沢市役所を撮影するついでに敷地を一周していて、まずはそのとき撮った写真から。

  
L: 金沢21世紀美術館は円い。だからどこから撮るのがいいか迷った。これなんか、なかなかそれっぽいのでは。
C: 周囲の芝生にはオブジェが配置されて美術館らしい雰囲気を演出している。
R: これは子どもを遊ばせておく託児室。朝のうちで客がいないから撮影できたってわけです。

美術館に入ったのは昼過ぎなので、まあとにかく客がすごいことすごいこと。ものすごい人口密度。
金沢21世紀美術館は無料で通れる部分が非常に多く、そこを中心にみっちりと人で詰まっている。
駐輪場は裏手になるので、苦労して正面まで出てチケットを購入。1500円とやや高かった。
ちなみに今回の企画展は「Alternative Humanities~新たなる精神のかたち:ヤン・ファーブル×舟越桂」。

さて展示室内には決められた順路がない。だからどこから見ようと、来館者の自由なのである。
なるほど実際に順路のない美術館に来てみると、われわれが実は知らないうちに「美術館のコード」、
つまりは暗黙の様式に縛られているという事実に気づかされる。金沢21世紀美術館は、それを問い直す。
展示のやり方もそうだ。金沢21世紀美術館には常設展と企画展の境界がない(だから高いのか)。
明らかに企画のテーマとは異なる作品が点在しているのである。これもまた、「コード」への問いであろう。

ところが、だ。僕はこれらさまざまな「コード」への問いについて、あまり良い印象を持たなかった。
なぜなら、順路のない美術館というのは、極めて迷惑な迷宮だからだ。僕みたいにすべてを見ようとすると、
飛ばした部屋がないか確認するのにものすごく手間がかかる。今回みたいにつまらない企画だと本当に迷惑だ。
そもそも順路に沿って展示に物語性を持たせるところこそ、美術館の腕、センスの見せ所ではないか。
それを放棄してしまうことは、かなり大きなマイナスであると僕は考える。はっきり言ってこれは怠慢ですよ。
常設展示物と企画展の混在は、そういう(あえて言うなら)無神経さがなせる業だと僕は思う。僕は肯定できない。

金沢21世紀美術館の何が気に入らないって、学芸員たちの服装だ。なんだあの腐った宇宙服みたいな恰好は。
これまた「コード」への問いかもしれないが、僕には哀れな未来(のつもりをした現代)の捕虜にしか見えなかった。
「丸い美術館」ということでつけられた「まるびぃ」という愛称も、くだらないを通り越してみっともない。
そして妹島和世・西沢立衛の設計した建物じたいについても、批判の矛先を向けちゃう。
とにかく、安っぽいのだ。どこもかしこも、金沢21世紀美術館の建物はものすごく安っぽい印象しかないのだ。
SANAA(妹島と西沢の事務所)の建築はガラスを主体にしてその「軽さ」が一世を風靡したわけだけど、
金沢21世紀美術館についてはその「軽さ」が悪い方に作用して、とても貧弱というか、安っぽく見える。
まあこう書くと「びゅく仙はやたらと古い建築が好きだし、最近はそればかり見に行っているから、
正反対の金沢21世紀美術館についてそういう悪口を言うんだ」という反応がありそうだけど、
なんというか、僕のアンテナはそんなに貧弱じゃないという自信がある。新しくても良いものは見分けられる。
その辺の根拠が「なんとなく」で説明できないから困っちゃうのだが、とにかくこの金沢21世紀美術館については、
狙いをことごとくはずしている感じ、空回りしている感じを受けるのだ。建築から展示まで、すべてが。
ハッキリ言ってしまうと、この美術館は金沢という街の品位を落としかねない、低レベルな存在だ。

 
L: 金沢21世紀美術館の正面辺り。  R: 中にあるスケスケのエレベーター。設置の意図がよくわからんです。

ものすごくキツいことを書いて申し訳なかったんだけど、やっぱり金沢21世紀美術館は過大評価されていると思う。
地域の活性化の役割は果たしているかもしれないけど、僕がもし金沢市民だったらあえて無視するだろうなあ。
そんなわけで、少々むくれた状態で自転車にまたがり、次の名所へと向かうのであった。

次に訪れたのは、尾山神社。どうもここんとこ神社めぐりが多いのだが、面白いものがあるからしょうがない。
尾山神社の何が面白いのかというと、重要文化財に指定されている1875(明治8)年築の神門なのだ。
香林坊のオフィスビルが目立ちはじめる辺りから金沢城址方面に入ったところに、尾山神社はある。
鳥居の向こうにある神門は非常にインパクトがあり、実際に目にして思わず「おう」と声が漏れた。
擬洋風というかかえって中国風というか、神社というイメージとはずいぶん異なった門で、
石積みの足下の内側には見事な彫刻が施された木製の門がある。明治初期はなかなか自由な時代のようだ。

  
L: 尾山神社の神門。  C: 門のアーチの下はこのようになっている。こんなの初めて見た。
R: 本殿も神社というよりは寺だよなあ。でも、歴代の加賀藩主を祀った立派な神社なのである。

尾山神社の次は尾崎神社だ。こちらは前田利常とともに徳川家康を祀っており、
朱塗りの社殿の派手なところなどが、なるほどちょっと東照宮っぽさを演出している。
尾崎神社の建物は何から何まで1643(寛永20)年に建てられており、そのまま現存しているのだ。
そういうわけで、何から何までそのまま重要文化財。さりげなくたたずむ神社なのだが、実はすごいのだ。

 
L: 道路にはこんな感じで面していてさりげない地元の神社っぽさ満載なのだが、ぜんぶ重文。
R: 尾崎神社の拝殿。規模はまったく大きくないけど、やはりどこか威厳があるのだった。

ついでということで、公共建築百選に選ばれている金沢市文化ホールにも寄ってみる。
ホールや会議室のある施設で、まあ1980年代らしい景気のいい建物だなと(1982年竣工)。
中学校の跡地につくったそうだからしょうがないけど、奥まった立地がちょっともったいない感じだ。

 金沢市文化ホール。

さあ、これで香林坊~兼六園周辺の名所はだいたいクリアだ。兼六園は前回しっかり見たので(→2006.11.3)、
今回はスルーするのだ。いつか兼六園の雪景色は見たいと思っているけどね。
自転車を快調に走らせて、近江町市場へ。さすがに市場の中は自転車を引いて歩いて抜ける。
すべての店が元気に営業中というわけでなく、シャッターを閉めている店もあったが、勢いはまずまず。
金沢の都市構造上、この武蔵ヶ辻周辺の活気がないと、香林坊と金沢駅周辺に賑わいが二極化するので、
なんとしてもがんばってほしい場所である。でも観光客はそれなりに多く、雰囲気は悪くない。

 近江町市場。前よりは少し活気があったかな。

続いてやはり前にも訪れている(→2006.11.3)、主計町(かずえまち)に行ってみる。
4年前とまったく同じように、路地を歩いてその独特の雰囲気を味わって過ごす。
ここを歩いていると時間の感覚を忘れそうになる。狭い路地には狭い路地ならではの魅力があるのだ。

  
L: 主計町の細い路地。時間とか、時代とか、そういう感覚が希薄になっていくような気分になれる。
C: 浅野川沿いの木造建築のファサードもまたいいのだ。  R: 対岸から眺める。やはり主計町は独特で面白い。

 1922(大正11)年に架けられた浅野川大橋。これも金沢の名所。

そのまま浅野川を渡って、ひがし茶屋街(東山ひがし)へ。主計町からすぐ近くなのになぜ前回行かなかったのか。
まあとにかく、今回初めて訪れてみて驚いた。木造の古い建物が、非常に多く残っているのだ。
現代とは雰囲気の異なる街が、今もしっかりと街区として残っている。実に見事である。
石畳の路地をぐるぐるとまわってみる。やはり木造建築が集まって厚みを持っている光景に圧倒される。
迷路のような細い路地も、それよりはちょっと広めのメインストリートも、往時と変わらぬ姿を見せている。

  
L: ひがし茶屋街はこの広場のような場所から右手に入っていったところ。入口がクランク状なのがよけいに雰囲気を生む。
C: メインストリートと思しき通り。茶屋様式の町屋だらけだ。  R: 細い路地だって実にそれっぽい雰囲気満点だ。

観光客で混みあっており、重要文化財の「志摩」や「旧中屋」の中に入ってみたかったのだが断念した。
まあ時間的な余裕のない旅程を組んだ自分が悪いのでしょうがない。次回への課題としておこう。
それにしてもこういう古い建物が当たり前のように並んでいるってのはすごいものだ。

 
L: お茶屋文化館となっている重要文化財「旧中屋」。  R: 重要文化財「志摩」。行列がー。

ひがし茶屋街を後にすると金沢駅まで戻る。再び西口へと抜けると、そのまままっすぐ突き進む。
周囲はいかにも開発途中の郊外地帯。4年前にはトボトボ歩いたものだが、レンタサイクルだと極めて快適だ。
向かった先はもちろん石川県庁。金沢に来ておいてレンタサイクルを借りておいて訪れないというのはもったいない。
その姿をあらためて撮影し、できれば最上階の展望スペースから金沢の街を眺めようと思ったのだ。

自転車のおかげで拍子抜けするほどあっさりと石川県庁に着いた。歩くとあんなに遠かったのに……としみじみ。
さて写真を撮影しようとするが、逆光でなかなかつらかった。建物の写真を撮るのは難しいとあらためて思う。
敷地をぐるっとまわって撮影。日曜ということを考慮しても、閑散とした印象は4年前とまったく変わらない。
そもそも金沢駅西口、県庁周辺はあれからまったく開発が進んでいなかったのである。

  
L: 石川県庁舎(行政庁舎)。相変わらずの真四角タワーぶりである。  C: 北の議会庁舎方面から眺める。
R: 裏手にあるオープンスペース「県民の杜」越しに眺めた行政庁舎と議会庁舎。やはり人がいない。

 
L: 上の写真と反対の西側から眺めた行政庁舎。うーん、リバーシブル。  R: 石川県警本部。

石川県庁舎は2002年に竣工している。設計したのは山下設計。平成高層オフィス庁舎の典型である。
背の高い庁舎を建てた場合、その最上階は展望スペースとして休日も開放されることが多いが、
この石川県庁もまったくそのパターンで、自由に中に入ることができる。僕も最上階の19階へ行ってみる。

 
L: 1階ホール。これまたよくあるパターンであります。  R: 展望ロビーにある模型。

金沢市内にはほかに背の高い建物があまりないため、高いところから周囲を眺められる施設は多くない。
そのためか、親子連れを中心に客はそこそこいた。自販機のジュースを飲みつつ景色を撮影。

 
L: 金沢港方面。石川県庁からもうちょっとがんばると海に出るのだ。
R: 金沢駅方面を眺める。金沢城址・兼六園まではさすがに見えなかった。残念である。

これでようやく石川県庁舎をきちんとチェックできたような気がする。
帰りはピンチというほどではないものの、余裕を持ってペダルをこぐにはやや厳しい時間となり、
少し慌てる感じで金沢駅まで急いだ。レンタサイクルの返却はスムーズに済み、荷物を背負って改札を抜ける。

●16:14 金沢-17:55 和倉温泉

和倉温泉駅の扱いがよくわからない。JRの切符では七尾の先、和倉温泉まで乗れる。
ということは七尾線は和倉温泉駅までということだと思うのだが、現地に行ってみると、のと鉄道色が強い。
全国あちこち旅していると、鉄っちゃんでない僕には理解の範囲を超える事実によく出くわす。

ともかく、和倉温泉駅に着いた。今日はここの宿に泊まるのだ。旅程を考えていた段階では、
七尾に泊まるか和倉温泉まで行っちゃうかで迷ったのだが、やはり温泉が決め手となって一駅先まで進んだ。
しかしながら、駅から温泉街まではなかなか距離がある。夕暮れの日差しの中、トボトボ歩くのであった。
幸いなことに宿では無料で自転車を貸してくれたので、それを使って温泉街の中心部へ行ってみる。

和倉温泉は全国有数の高級温泉街だそうだ。特に有名なのが「加賀屋」という旅館で、
「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」において30年連続1位というとんでもない記録を持っている。
まあさすがにそんな宿に泊まるような余裕などない。外から眺めてすげーすげー言うだけである。
さて高級温泉街ということで困るのが、外湯が充実していないこと。「総湯」という施設があるだけなのだが、
これが現在、全面改装中で営業していない。しかし幸いなことに入浴させてくれる温泉旅館が2軒あり、
そのうち1軒にお邪魔したのであった。地元のおじさんたちとともにじっくり浸かった。なかなかよい。

  
L: 和倉温泉駅。JRはここからのと鉄道と名前を変えてさらに北へと伸びていく。
C: 七尾湾に面して並ぶ和倉温泉の高級旅館。加賀屋なんてまるで要塞みたいで、それはそれで内部が面白そう。
R: 風呂上がりはやっぱり牛乳だぜ。能登には能登ミルクというブランドがあるようだ。

困ったのが晩飯。高級な温泉旅館が多いせいで、外で食べるのに適した店がほとんどない。
けっこうさまよった挙句に、寿司屋で地物のちらし寿司をいただいたのであった。おいしかった。
よく考えたらもう寿司屋に入るのにまごついているような歳じゃないのだが、どうもこういうのはダメだ。
宿への帰り道、空に浮かぶ月を見ながら、金の使い方が成長しないことに反省しましたとさ。


2010.8.21 (Sat.)

朝起きて一番最初にやることといったら、当然、福井県庁と福井市役所の撮影である。
前回の訪問でもデジカメで撮影しているが(→2006.11.4)、県庁所在地めぐりを始めたばかりで粗っぽいので、
あらためてじっくり考察してみようというわけである。片町の繁華街からフェニックス通りを渡って福井駅方面へ。
佐桂枝廼社の目の前を抜ければ、そこはすぐに福井市役所である。さっそくカメラを準備する。
正面にまわり込むが、やはり前回と同じく道が狭くて建物がみっちり周囲を固めているため、
ものすごく撮影しづらい。それでもどうにか、さまざまな角度から福井市役所の姿を切り出していく。

  
L: 福井市役所本館。道を挟んだ向かいも第2別館になっていて、分散・狭隘がなかなかのレベルに達している。
C: 本館と別館の間を抜けて反対側から別館を眺めたところ。左の写真を点対称の位置から眺めた感じかな。
R: 中央公園に面した本館の裏側。うまく公園と市役所を接続させればいいのに、と思う。ちょっともったいない。

福井市役所じたいはモダンでピロティな建物で、平凡な庁舎建築ではあるんだけど、どこか清潔感というか、
整った感じが漂っているように思う。でも周辺の空間事情はそれを味わえるようになっていないのが残念だ。

 福井県庁(福井城址)側から堀を挟んで眺めた福井市役所。

というわけで続いては福井県庁である。前回の訪問ではわずかに正面からの写真一枚という有様なので、
ここはひとつ、堀を一周してあらゆる角度から県庁舎を眺めてみるのである。というわけでぐるっと歩いてみる。
ちなみに福井県庁は日建設計の設計で1981年に竣工。知事室は日本一広いことで有名なんだとか。

  
L: 北側。石垣とマッシヴな庁舎のミスマッチが面白い。前も書いたけど、まあ、県庁舎は現代の城ってことだ。
C: 北東側から眺めた。この角度からは、いかにも城跡に巨大な庁舎が建っている様子がよくわかる。
R: 東側より撮影。県庁舎の側面は木々に遮られてイマイチよくわからず。典型的な80年代スタイル。

県庁の正面である南側にまわり込んでみる。いかにも城跡らしく堀を渡る橋が架かっており、
その向こうに県庁舎がたたずむ。庁舎が真正面に位置していないのは隣に福井県警本部が並んでいるからだが、
そこにはやはり威圧的にならないようにという配慮があるのだろう。そして僕はそれを卑屈なものに感じる。

  
L: それでは福井城址であるところの福井県庁にレッツラゴー。  C: 福井県庁。非常にマッシヴな建物である。
R: 正面より眺める。2棟をアトリウムで囲んで真四角になっている、実に典型的な庁舎建築だ。

福井県庁をまっすぐに見据え、そこから右手に視線を移すと、慎ましやかな県議会棟。
そして左手は巨大な通信塔が生えている福井県警本部だ。この配置もまた県庁舎として典型的だ。
もちろん、県警本部は県庁舎とデザイン的に連続性を持たせてある。そういうもんだ。

  
L: 福井県議会。県庁舎ががっちりしているので、相対的に慎ましやかに感じてしまう。
C: 県議会方面から眺めた県庁舎。側面はこのようになっているのだ。  R: 福井県警本部。

県庁舎と県警本部の間を抜けて奥へ進むと福井城の天守跡である。もちろん前回も訪れている(→2006.11.4)。
そのときとまったく同じように石段を上り、福の井を眺め、天守跡で一息つく。そして県庁舎を見上げる。
日本の県庁所在地はほとんどが城下町だが、旧本丸がそのまま県庁舎になった例は、ここと福島ぐらいだ。
(旧本丸が軍の駐屯地となったケースは非常に多い。そして役所は旧二の丸や旧三の丸辺りに収まるのだ。)
そういう点では、福井は土地の歴史をきちんと守っているように思える。それもまたよし、である。

  
L: 敷地の北西端にある天守跡を目指す。  C: 再度登場、福の井。  R: 天守跡。奥まった位置なので静か。

福井県庁へのリベンジを果たしたことで晴れやかな気持ちで福井駅へと向かう。今日も天気は快晴で、
むしろ昼間の猛暑ぶりが怖いくらいだ。中央大通りと福井駅の駅舎を撮影すると、列車に乗り込む。

 
L: 福井・中央大通り。しかし広い。  R: 工事が終わった福井駅西口。朝なので逆光なのである。

列車が動き出し、テンガロン風ハットをかぶり直して気合を入れる。のんびりした平野を走ること10分、
すぐに目的の駅に到着してしまう。降りたその駅ではボランティアっぽいおじいちゃんが改札をしていた。

●07:33 福井-07:44 丸岡

丸岡駅に着いた。丸岡といったら、まず丸岡城。人によってはサッカーの強い高校を想像するかもしれない。
そんな具合になかなか個性の強い土地なのだが、残念ながら現在、丸岡という名の自治体は存在しない。
2006年に三国・丸岡・春江・坂井の4町が合併して坂井市となったからだ。今は坂井市丸岡町。
現存天守くらいはきっちり見ておきたいと思い、今回この丸岡に寄り道してみたわけだ。
ところが困ったことに、丸岡城のある丸岡町の中心部は丸岡駅からやたら遠いのである。
むしろ旧坂井町役場である坂井市役所が駅からちょっと行ったところにあるわけで、位置関係がややこしい。
さてどうしよう、と思って駅舎から出たら、運がいいことに本丸岡行きのバスが停まっていた。これ幸いと乗車。

●07:45ごろ JR丸岡駅-08:05ごろ 本丸岡 (京福バス)

本丸岡行きのバスは、バスといってもマイクロバスで、旅館か役所の送迎といった雰囲気である。
客は僕ともうひとりだけ。穏やかな稲作地帯に造られた道路を快調に東へと走っていく。こんな旅もいい。
丸岡の市街地をくるっと回ってバスターミナルに入る。隣が旧丸岡町役場だったので、まずは撮影だ。
市役所と言われても何の違和感もないくらいに立派な建物である。

  旧丸岡町役場。現在は坂井市役所丸岡総合支所だ。

さて腹が減った。実は福井では朝飯を食ったり買ったりする余裕があまりなく、そのまま丸岡に来てしまった。
バスがマイクロバスなくらいの場所なので、当然駅前にコンビニなんて便利なものは存在しなかったのだ。
さあどうしようか。東に進んで丸岡の市街地でコンビニを探すか、西に出て国道8号沿いに賭けるか。
丸岡城は東にあるので国道沿いは多少のロスになる。でもそっちの方が確率が高そうだと踏んで、西に出る。
その後しばらく国道8号を北に行ったらあっさりとコンビニを発見。日本はとってもコンビニエンスな国である。

食う物を食って準備が整うと、いざ出陣。昔ながらの店が残る地方の商店街を抜けて、駐車場に出る。
その南側は小高い丘になっており、ふもとに資料館、そしててっぺんには今も天守が残っているのだ。
石段を上って天守を目指す。「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の手紙が送られた場所ということで、
天守までの石段の側面には「日本一短い手紙」の入賞作品が展示されていた。

丸岡城の建っている丘は高さがあまりなくって、わりと簡単に天守とご対面となった。
向き合ってみると、規模は大きくないものの、はっきりと素材である木の褐色を全面にまとった姿が凛々しい。
築城したのは柴田勝豊。柴田勝家の甥なのだが、賤ヶ岳の戦いの前に秀吉にあっさり降伏した人物で、
評価の高い武将ではない(もっとも、長浜城主だった彼が降伏したのは致し方ない面も十分ある)。
まあともかく、この丸岡城にはやはり、現存天守ならではの説得力があるのだ。
1948年の福井地震で倒壊しているのだが、戦国時代に思いを馳せるためのすばらしい手掛かりをくれる城だ。

  
L: 丸岡城天守。  C: 角度を変えて撮影。簡素なところがかえって戦国時代らしさを存分に感じさせてくれていい。
R: 天守を見上げてみる。外装の、木材が木材である感じが好きだ。本物のリアリティが強く漂う。

中に入ってみる。やはり小ぢんまりとしていて、むしろ櫓っぽいサイズに感じてしまう。
内部の展示も全国の天守の写真が掛かっている程度で飾りっ気がない。そして案の定、階段がものすごく急。
戦争を意識した居住空間という印象がとても強く、それだけ歴史の真実に触れている気分を味わうことができる。

  
L: 石でできた鯱。戦時中に修理した際、銅がなかったため鯱を再現できず、かつてはこれを載せていたとのこと。
C: 天守の最上階から外を覗き込む。  R: 屋根に載っている石瓦。こういうのは珍しいのでは。

最上階から丸岡の街、さらには福井県いや越前国の平野を眺める。どこまでも平坦で、遠くで田んぼが広がる。
そして思う。丸岡駅が全然見えないけど、いったいオレはどこまで歩いていけばいいんだろうか……。

  
L: 丸岡駅はどこですか。  C: 天守内部の様子。真ん中に柱が一本、シンプルである。  R: ふもとから見上げる丸岡城。

天守を出るとふもとの資料館をさらっと眺め、駅まで戻るべく商店街を歩く。
もともとが市ではなく町レベルだったためか、空洞化のダメージを感じさせることなく穏やかな雰囲気がする。
そして国道8号を渡って本格的に稲作地帯を歩いていったのだが、これがもう想像以上に長い!
駅まではほぼまっすぐ一本道なので迷うことはない。しかし延々と延々と延々と同じ風景が続くのは切ない。
午前中から炎天下の中をトボトボ歩いているのを詳しく描写するのは恐ろしくつまらないのでやらないけど、
実に1時間近くも歩き続けることになったのであった。これには本当に参った。ここまで遠かったとは。
しかもその間、一度も曲がらずまっすぐ進んだ。いくらなんでも丸岡駅から丸岡城まで遠すぎ!

せっかくなのでそのまま丸岡駅に行くのはやめて、坂井市役所を見に行くことにした。毒食わば皿までだ。
しかしながらやっぱり、現場は地図を見た感覚よりも遠いのであった。なんだかんだ遠回りして歩かされた。
そんな思いをしてたどり着いた坂井市役所は、なかなか面白い角度に曲がった建物だった。
正面向かって右手の折れたような東側は後から増築されたようだが、このひと工夫が面白いのだ。

  
L: 坂井市役所。70年代っぽい印象。右側は後から増築されたようだが、こういうふうに配置するのは特徴的。
C: 正面より眺める。  R: 角度を変えてみた。旧坂井町役場は地理的に中心にあるので市役所になった。

丸岡駅に戻ってきて、時刻表を見て愕然とする。10時台の下り列車は1本もなく、次の列車は11時1分。
ボケーッと45分近く待つことになるのだ。仕方がないので待合スペースのテレビを見ながら過ごす。
とりあえずこの時間は体力を回復させる時間ということで、前向きに解釈する。本当にしっかり歩いたもんなあ。

●11:01 丸岡-11:06 芦原温泉

芦原温泉駅に着くと、急いでコインロッカーに荷物を入れる。身軽になったところですぐにバスに乗り込む。
今回の北陸旅行では路線バスを大いに活用することになるのだ。おかげで意外と交通費がかかる。

●11:10 JR芦原温泉駅-11:47ごろ 東尋坊(京福バス)

芦原温泉駅を出たバスが目指す場所は、自殺の名所としておなじみの東尋坊である。
「東尋坊」とはご存知のとおりここで殺された僧侶の名前だが、こういう地名のつき方は珍しい気がする。
バスにはだいたい30分ほど揺られることになるのだが、途中で芦原温泉を経由する。
もちろん芦原温泉には入ってみたかった。しかし調べてみたところ、ふらっと訪れて外湯に入る、
というスタイルには向かないようだ。宿泊客があちこちの宿の湯に入ることが主眼になっている。
そういうわけで、断腸の思いで芦原温泉をスルーし、そのまま直接東尋坊へと向かう。

東尋坊に到着してバスを降りる。周辺は土産物屋だらけでちょっと驚いた。
まさかここまで賑やかな場所だとは思っていなかったからだ。そして観光客でごった返している。
若者も親子連れもじいちゃんばあちゃんもいる。ありとあらゆる年齢層の人々が東尋坊に来ているのだ。
「自殺の名所」というイメージとはずいぶんかけ離れた明るい雰囲気の場所となっている。
とりあえず僕も賑わいの奥へ奥へと進んでいく。土産物屋が両脇を固める通りはそこそこ長く、
やがて階段を下りて海岸へと出る。夏の太陽が照らし出す澄みきった海は真っ青に輝き、
荒々しく手前にそびえる岩たちはその陰影をより見事に露わにしており、それはまさに絶景だった。

  
L: 東尋坊へ至る土産物屋の通り。かなり活気があり、自殺の名所とは思えない明るさに満ちていた。
C: 梅宮辰夫の漬物屋が元気に営業していた。そういえば昔、コロッケ屋とかあったなあ。
R: 東尋坊である。遊覧船がひっきりなしに行ったり来たりしていた。

ご存知のとおり僕は重度の高所恐怖症なので、もう怖いのなんの。
東尋坊は断崖絶壁なので端っこに行くまではわりと平気なのだが、そこから海を見下ろすともうダメ。
しかし海はきれいだし岩とのコントラストも美しいし、やはり見とれてしまうのである。
できるだけさまざまな岩の上に移動して、そこからデジカメのシャッターを切って過ごす。
それにしても最高の日に東尋坊に来たものだと思う。この場所の本来の美しさを少しのロスもなく味わえている。

  
L: 向かいの断崖を眺める。写真で見ると大したことないように思えるが、とてもこの先の方まで歩いては行けない。
C: 自己責任でどこにでも行けるようになっているのだが、さすがにこれより先は無理だ。
R: おそるおそるカメラだけを前に出して撮影。怖くてたまらない。でも本当に美しい。実に困った場所だ。

高所恐怖症の困ったところは、自分が高いところにいて怖いというだけでは済まないところ。
他人の状況を見て自分まで怖くなってしまうところなのだ。具体的に言うと、東尋坊に来ている観光客で、
特に若いねーちゃんたちは踵が細くなっているサンダルを履いて複雑な形の岩の上を歩いているわけだ。
もうこいつらバカじゃねえかと。ケータイのデジカメで撮ろうとしながらヨロヨロ歩いているのを見ると、
僕としてはたまったもんじゃないのである。お願いだからもうちょっとその辺の感覚をなんとかしてほしい。

  
L: 大池と呼ばれる名所。遊覧船はみんなここをスイッチバックして抜けていく。
C: 今回撮影していていちばん怖かったのがコレ。この裂け目に落ちたら最期なのだ。オレがんばった。
R: 陸地側を振り返ってみたところ。こんな感じの岩を下りてきて絶景を味わうわけだ。

ずっと眺めていても飽きないすばらしい光景だったのだが、この後もう一箇所行く予定になっているので、
目の前に広がる東尋坊の姿をしっかりと目に焼き付けてから来た道を戻る。途中でメシを食い、
バス停まで来たところで、ふと考える。すっかり汗をかいているし、芦原温泉に入れなかったし、
代わりということでさっき浜辺のところにあった入浴施設に入ってみるのはどうだろう。
というわけで、東尋坊からそのまま歩いて三国温泉まで行ってみることにした。

しかしまあこれがまた予想以上に遠い。車が快調に飛ばしていくのを指をくわえて見送りつつ歩く。
道路は崖の上なので海が見えて眺めはいいが、バス停間の距離は実際に歩くとかなりのものだった。
そして坂をしっかりと下り、東尋坊の高さから海抜0mの海水浴場まで下るのだった。
やっとの思いでたどり着いた入浴施設で、しっかりと汗を洗い流す。足を伸ばして入る湯は本当に気持ちがいい。
バッチリとリフレッシュした状態になって、再びバスに乗り込む。次は芦原温泉に入りたいなあ、と思いつつ。

●13:25ごろ 宿(しゅく)-13:55ごろ JR芦原温泉駅(京福バス)

芦原温泉駅に戻ってからがまた大変なのだ。とにかく時間がない。急いで運賃を払ってバスを降りると、
コインロッカーに直行して荷物をBONANZAに詰め込む。そして切符をかざして改札を抜けると、
ちょうど下り列車がやってきたところ。乗り込んだところでようやく一息つく。旅行なのに忙しいもんだ。

●13:59 芦原温泉-14:30 小松

本日の宿は金沢に確保してあるのだが、金沢の街を歩くのは明日の予定にしてある。
これから日没までの間、石川県で第2の都会である小松市を歩きまわるのだ。
小松といえば何といっても建設機械メーカーのコマツ(小松製作所)なのだが、実は今年の3月に、
創業の地である小松工場が閉鎖されている。とはいえ周辺には関連する施設が点在しており、
車窓からもそれらを確認することができる。さすがは企業城下町だなあ、と感心しているうちに到着。

駅の改札を抜けるとまず、観光案内所で地図をもらう。まずは当然、市役所の撮影だ。そして小松城。
そしてそれ以外の、一般人にとっての見どころはどこかというと、かの有名な安宅関の跡地がある。
歌舞伎『勧進帳』で義経一行を通過させるために弁慶が活躍した、あの安宅関だ。
時刻は午後の2時半、時間的に余裕は十分あると踏んで、すべて徒歩で訪れてみることにした。

  
L: 小松駅。駅前の広場では何やらイベントが開催されており、大賑わいなのであった。
C: 安宅関を模した駅前のモニュメント空間。安宅関があるからか、小松は「歌舞伎の街」として売り出しているようだ。
R: 小松駅西口からちょっと北に行ったところ。城下町らしい街並み・都市構造が今もしっかりと残っていて驚いた。

小松市は1639(寛永16)年に加賀藩藩主の前田利常が隠居して小松城に住んだことがきっかけとなり、
城下町として整備されていった。小松といえば前述のように企業城下町の工業都市というイメージがあるので、
今もその城下町としての都市構造がしっかりと残っているのを目にして、とても驚いた。
駅からちょっと歩いたところには木造の古い住宅が並んでおり、かぎの手・食い違いもあちこちに残っているのである。
小松は実力派の企業も歴史的な財産も何でもある、豊かな場所だなあと思いつつ歩くのだった。

市役所の近くにあるのは芦城公園。1904(明治37)年に小松城の三の丸跡につくられた、回遊式の日本庭園だ。
金沢の兼六園を手本にしているとのことで、園内には小川や池などがあちこちに配置されている。
歩いてみると、兼六園ほどゆったりとした空間になっているわけではないので窮屈な印象がしないでもない。
しかし緑がたっぷりと集まっており、今日みたいに暑い日にはなかなか快適な空間である。

  
L: 芦城公園入口。左手にあるのは小松市公会堂。  C: 芦城公園の内部はこのような感じ。
R: なるほどこうして見ると、しっかり兼六園(→2006.11.3)風になっている。

 とにかく緑が豊かな空間だ。その分、少し明るさに欠ける印象もなくはない。

芦城公園を軽く一周すると、そのまま小松市役所へと乗り込む。正面から撮影したらかなりの逆光になってしまった。
さすがに企業からの税収は豊かなようで、市役所の規模はなかなか大きい。敷地も広さがたっぷりある。
これまた撮影しながら一周してみるが、建物が大きくてカメラの視野にうまく収まってくれない。

  
L: 小松市役所。しっかりと逆光になってしまって申し訳ない。敷地は広く、建物は大きい。
C: 裏手から眺めるとこんな感じになっている。  R: 高層棟を北西側から撮影してみたところ。

逆光と視野とのダブルパンチと格闘しながら撮影を終えると、次は小松城址を目指してみる。
小松城址の天守台(ただし築かれていたのは御三階櫓)があるのは、石川県立小松高等学校の敷地内。
西端のテニスコートの脇に今も残っているので、行ってみた。高校生が部活の真っ最中だったがお邪魔する。
いちおう観光客にもわかるように案内があるが、まったく目立たない。よほどの物好きしか来ないだろう。
天守台の石垣があるのは、雑草がもっさりと生えた一角。石垣じたいもだいぶ草たちに侵食されている。
石段で上に上ることができるものの、状態はあまり良くない。足下に注意しながら一歩一歩上っていく。
天守台上部もやはり雑草があふれる海となっていて、まさに兵どもが夢の跡状態である。

  
L: 小松高校の敷地内にある小松城の天守台。周辺は雑草がやりたい放題を繰り広げている。
C: 近づいてみるとこんな感じ。石段はだいぶ並びが崩れていて、上る際にはかなり注意が必要。
R: 天守台の上から眺める小松高校グラウンド。雑草の茂り方が半端でなく、膝の上まで高さがある。

さて次は安宅関(安宅公園)に行ってみようかと、観光案内所でもらった地図を広げる。
イラストの地図で、上空から俯瞰した小松市の様子がびっしりと細かく描かれたものだ。
ところがこの地図、イラストの丁寧なタッチでごまかしているが、かなり縮尺が小さい。
地図を見ると大した距離がなさそうなのに、実際に歩くとかなり距離がある代物なのだ。
とはいえ今さら本数の少ないバスを頼るわけにもいかず、仕方なくそのまま歩くことにする。
そしたらもうこれが本当に遠いのなんの。昨日の鯖江といい今朝の丸岡といいさっきの東尋坊といい、
もういい加減にしてほしい。でも悪いのはそういう事態にうすうす感づいていながら強行突破しようとする自分。
オレって旅行するたび毎回コレだよ、と炎天下の中をうなだれながら歩くのであった。進歩しないなあ。

で、小松城址から安宅関までは徒歩でたっぷり30分かかった。30分というと大したことがないように思えるが、
駅から小松城址までだってそれなりに距離があるし、丸岡や東尋坊でもさんざん歩いているし、炎天下だしで、
これは本当にキツかった。もう帰りは絶対にバスに乗ってやるもんね、と固く心に誓ったのであった。

というわけで、安宅公園入口の向かいにある自販機周辺で軽く一休みしてから、安宅関を本格的に訪問。
上でも述べたように、平泉へ逃げる源義経一行が通りかかった際に弁慶が偽の勧進帳を読み上げて、
関守の富樫泰家はその嘘を見破りはしたものの、主君を守ろうとする姿に心打たれて通過を許したという、
歌舞伎の演目にもなった逸話で有名な場所である。が、その関所が実在した可能性は疑問視されているそうだ。
でもまあとにかく、その場所に行ってみようじゃないかということで安宅公園の中に入る。

公園の中はちょっと高低差のある松の林となっている。進んでいった先は海水浴場と勧進帳ものがたり館。
海岸の写真もいちおう撮ったのだが西日が逆光であまり見栄えがしなかったので出さないでおく。
そして松林が切れて砂浜になるぞ、というところにあるのが、源義経・武蔵坊弁慶・富樫泰家の銅像である。
台座には「智仁勇」と彫られた石がはめ込まれており、なるほど雰囲気がある。
そこからあらためて松林に入っていき、安宅住吉神社方面に行く途中で「安宅關址」の石碑を見かけた。
石碑のほかには『勧進帳』の舞台であることを想起させるものは何ひとつ残ってはいない。ただの松林だ。
800年前にはこの場所がまったく違う姿をしていたのだろうか。考えてみるが、どうもイメージがわかない。
それくらいにおそらくは変わり果ててしまった。時間の流れの残酷さを実感する。

  
L: 安宅公園入口。安宅住吉神社からすると裏手の林ということになる。抜けた先には海水浴場。
C: 安宅関ということで源義経・武蔵坊弁慶・富樫泰家の銅像がある。これはけっこう新しそう。
R: 「安宅關址」の石碑。周りは松が生い茂っているばかりで、とても関所があったようには思えない。

安宅住吉神社で軽く参拝をすると、橋を渡って梯川を越え、右岸へと行ってみる。
(安宅住吉神社では、待ち構えている巫女さんにお願いすると神社の由来について細かい話が聴けるようだ。)
安宅関の対岸にある安宅町はかつて海運業で栄えていた場所で、今も昔ながらの家が残っているというのだ。
実際に訪れてみると、見た目は伝統的な木造住宅でも意外に新しいものが多いことに気がつく。
つまりは家を新築なり改築なりする際に、従来のスタイルをしっかり守ってやっているということなのだろう。
特に観光地として強くアピールしている場所ではなく、あくまで生活の舞台として伝統を守っている。
それはある意味では本当の本物ということである。日本には実にさまざまな場所があると思う。

  
L,C,R: 安宅町の住宅。従来のやり方を静かに守る姿にはちょっと感動。なお、中には料亭となっている建物もあった。

安宅町をひととおり歩きまわると、安宅公園前に戻ってまた一休み。今日は本当に歩き疲れた。

●17:30 関趾前-17:43 小松駅(小松バス)

バス停前でしばらくボケッと待っていたら、だいたい定刻どおりにバスがやってきた。
このまま直接小松駅まで行ってくれるので、のんびりと窓の外を眺めて過ごす。
それにしても、駅から1時間半かけてフラフラ歩いてきたのをわずか15分足らずで戻ってしまうというのは、
なんともやりきれない気分である。エンジンってのは本当にすげえな!とあらためて実感させられるのであった。

 小松駅前広場では出初め式のパフォーマンスが大人気だった。

ヘロヘロになってホームにたどり着き、下り列車を待つ。金沢の宿は片町なので、駅からかなり遠い。
もはや前回(→2006.11.3)みたいにすべてを歩きで済ませる気力など残っちゃいないのであった。
そのうちに列車がやってきたので乗り込んでほっと一息。金沢に着くころには空も暗くなっているだろう。

●17:53 小松-18:31 金沢

金沢に着いたときには空腹でがまんがならない状態だった。もうどこで食うとか悩む余裕すらない。
それでも僕の中にはひとつ希望があり、金沢駅の中にある金沢百番街で食べることにした。
その希望とは……洋食だ。明日の日記でも述べることになるが、僕は金沢を「洋食の街」だと思っている。
そういうわけで条件に合う店を探して百番街へ。それっぽい店は複数あり、メニューの雰囲気で選んだ。
ハンバーグの定食にしたのだが、箸で食べる点、味噌汁が出る点なんて最高だった。
そういう日本化された洋食こそ、僕が金沢という街で最も食べたいものだったからだ。
大いに満足して東口のもてなしドーム内にあるバスターミナルへと向かう。

市街地が駅からひどく離れている金沢はバスの街でもある。城下町のサイズそのままに道は狭いが、
走っているバスの量はすさまじい。さすがに香林坊までのバスはひっきりなしにやってきては去っていく。
その中のひとつに要領よく乗り込むと、久しぶりの金沢の夜の風景を眺めながら香林坊まで揺られる。
香林坊から片町までは、自分の中にある金沢の記憶と現在の金沢の感触をすりあわせて確かめるように歩く。

 途中のゲーセンにあったエルモだらけのUFOキャッチャー。こりゃ壮観。

ホテルにチェックインすると、風呂に入ってさっさと寝る。今日は本当に疲れた。明日に向けてしっかり眠る。


2010.8.20 (Fri.)

ムーンライトながらが大垣に到着したのが午前5時55分。そこからすぐに西への列車に乗り換える。
なんだか、すっかりこの行動パターンにも慣れた気がする。でもこれが便利なんだからしょうがない。

今日から5日間の予定で北陸を旅行する。北陸旅行は二度目だが(→2006.11.22006.11.32006.11.4)、
前回は県庁所在地めぐりを始めて間もないこともあり、いろいろと消化不良な面があった。
(当時は旅先で宿を確保していたため、県庁以外に観光名所をしっかりとまわる時間的な余裕がなかった。)
今回の北陸旅行では、あのときにできなかったことをやる、ということを主な目標とするのだ。
ムーンライトながらで移動したこともあり、今回は前回とは逆に、福井→石川→富山というルートでまわる。
厳密にそのとおりというわけではないが、「若狭」「越前」「加賀」「能登」「越中」という単位を意識し、
だいたい一日にひとつの旧令制国(律令国)をまわるという感じでやっていくつもりだ。
というわけで、まず最初に攻め込むのは、若狭国だ。

●06:00 大垣-06:33 米原

米原に出ると、北陸本線に乗り換える。まだまだ頭は寝ぼけたままである。

●06:50 米原-07:37 敦賀

長浜(→2010.1.10)より先には行ったことがないので、長浜駅に到着する辺りからテンションがだんだん上がる。
まだ朝早いというのに、長浜駅で多くの客が乗り込んできた。これではっきりと目が覚める。
さっきまですぐそこに見えていた琵琶湖との間には緑の障害物が現れ、それはだんだん険しい様相となる。
ところが余呉駅でいきなり水辺が姿を見せる。完全に山に囲まれた湖。余呉湖だ。
琵琶湖と余呉湖を隔てているのは賤ヶ岳。さっき浅井長政の小谷城も通ったし、この辺りは歴史の舞台が多い。
近江塩津からトンネルに入り、それを抜けるといよいよ福井県。敦賀駅に到着し、小浜線のホームに移動する。

●07:44 敦賀-08:47 小浜

小浜線の車両は夏休み中だというのに中学生や高校生でいっぱい。部活だか勉強だか知らないが、
実に勤勉なものだ。単線の沿線風景は実にのどかで、思ったよりもとってもローカル色が強かった。
小浜までの小浜線は海岸線から少し内陸に入った盆地を走る。そしてその海岸線はリアス式海岸の典型で、
山が海に沈み込んでできたのだ。僕はずっと海側(北)を眺めていたが、山ばかりで海は一度も見えなかった。

1時間ほど揺られて小浜駅に到着。まず最初にやることは荷物を整理してコインロッカーに詰めること、
次にやることは観光案内所でレンタサイクルを借りることだ。9時少し前に受付を済ませると、いざ出発。

 小浜駅。駅周辺の道路は妙に複雑でちょっと苦労した。

小浜で行きたいところはいろいろあるのだが、まずは若狭国一宮を目指すことにする。
計画当初はバスを利用するつもりでいたのだが、小浜の名所はけっこう散らばっているので、自転車を借りた。
あまり歩行者には親切と言えない国道27号線をひたすら東へと走っていく。ママチャリだけど、猛スピードを出す。
それにしても朝から快晴で暑い。強い日差しを予想してテンガロンハット風の帽子をかぶってきて正解だった。
カウボーイっぽく大きめで目立つ帽子なのだが(→2010.5.3)、最大限に実力を発揮してくれている。
途中の自販機で水分を確保するが、それがあっという間になくなってしまいそうな熱気の中を行く。

東小浜駅への入口となっている交差点で、針路を南に変更する。そうしてすぐに右手に神社が現れる。
若狭国一宮、若狭姫神社だ。若狭国の一宮は「若狭彦神社」なのだが、これがちょっとややこしい。
「若狭彦神社」の上社が若狭彦神社、下社が若狭姫神社で、2箇所に分かれているのだ。
ただ、若狭姫神社を二宮とするケースもあるようで、その辺の関係は素人にはよくわからないのである。

若狭姫神社は東大寺二月堂のお水取りに水を提供している(詳しい由来はWikipediaなどを参照)。
神社の境内と道路の間には水が流れているのだが、さすがにこの水までもめちゃくちゃきれいなのだ。
手水の水も、どこまでも透きとおってやっぱりきれい。水道水とは明らかに違う質感がして、ちょっと感動した。
随神門をくぐれば拝殿の奥に大きな杉の木(千年杉)が立っていて、その見事な姿に思わず息を呑んだ。
さっきの水といいこの木といい、この場所はまさに神を祀るためにあるのだと納得させられる。

  
L: 若狭姫神社入口。道路と境内の間にはとてもきれいな水が流れている。
C: 随神門。質素だが、周囲の雰囲気とマッチして非常に美しく感じられる。
R: 拝殿と千年杉。巨木を社殿の内部に位置させるのは珍しいのでは。ものすごい存在感だ。

 拝殿をクローズアップ。自然ときれいに調和した空間だ。

下社・若狭姫神社の次は上社・若狭彦神社である。自転車にまたがり、さらに道を南へ進む。
行く手にはいくつも山が重なっているのが見える。その山と山の間のごくごく狭い土地を田んぼが埋めている。
この山のずっと向こうには近江国があり、そして京へとつながっていく。遥かに長い道のりに思えるが、
昔からこの土地は豊かな海の幸を送り続けてきたのだ。そう考えると、なかなか感慨深いものがある。
この山が折り重なる中へと田んぼが長く続いていく光景が、若狭国なのだと実感したのだった。

 これが若狭ってことなのだ。

しばらく走ったところで右に入り、田舎の集落のちょっとはずれ、といった場所に出る。そこが若狭彦神社だ。
境内への入口はけっこう立派なのだが、一歩入るとそこは木々で鬱蒼とした空間へと大きく変わる。
強烈な夏の日差しもすっかり遮られ、デジカメのシャッターを切ろうとするとストロボが勝手に反応してしまうほど。
参道はゆったりとした上りになっており、昔から姿を変えていないであろう森林が静かに広がっている。
途中、大きな杉の木が参道を挟んで立っているが、若狭彦神社ではこれを鳥居とみなしているそうだ。面白い。

  
L: 若狭彦神社入口。この辺りはまだはっきりと「人間の空間」という感覚がする。
C: 二の鳥居とみなされている2本の杉。周囲は古来から変わらないであろう姿の見事な森林。
R: 軽い上りになっている参道を行った先の随神門。簡素だが、むしろその分だけ歴史を感じる。

やがて参道は右へと曲がり、門をくぐれば拝殿が現れる。その光景はまさに「聖域」といったところ。
森の中にぽっかりと穴が空き、そこが神社として整備されている、そういう印象がするのである。
さっきの若狭姫神社よりもさらに、日本人が行ってきた原始的な信仰を思わせる雰囲気が強いのだ。
若狭彦神社が現在の場所につくられたのは715(霊亀元)年だというが、仏教が日本化していった奈良時代、
そのときにまだ様式化されないままで並行して存在していた神への信仰がここには残っているように思える。

 
L: 若狭彦神社に手水舎はなく、池がある。そこに杓子が置かれている光景が、原点を教えてくれる。
R: 若狭彦神社の社殿。実は社殿前の空間には、かつて拝殿があったらしい。礎石が残っているのが生々しい。

若狭姫神社・若狭彦神社に参拝して、歴史に直接触れた気分になった。
ちょっと感動しながら来た道を戻って国道に出る。そこからさらに東へと進む。
途中で遠敷(おにゅう)川という川を渡ったのだが、猛暑のせいか完全に水が干上がっていた。
それにしてもなぜ「遠敷」と書いて「おにゅう」と読むのか、まったく想像がつかない。
きっと若狭彦神社にあるような由緒正しい歴史があるのだろう。小浜は実に奥が深い。
(かつては「小丹生」だったが、713年に漢字2文字にする法律により「遠敷」となったらしいが。よくわからん。)

レンタサイクルを借りたことで行く気になったのが、次の目的地である明通寺(みょうつうじ)だ。
前述のように小浜の名所は散らばっているのだ。それをすべて押さえようとするとかなり時間がかかる。
それで最低限ということで、国宝の本堂と三重塔を持つ明通寺だけでも行っておこうと考えたわけだ。
いかにも郊外らしい大きな交差点で右折し、やはり南へと向かう。さっきの若狭彦神社への道よりも道は広い。
同じように山と山の間につくられた田んぼの中を行くが、こちらの方が少し上りがきつい。
そして道も曲がりくねっている。田んぼでは無数のトンボが飛びまわっているのが見えた。
トンボがかつては「秋津」と呼ばれ、日本には「秋津島」の異名があったなあ、なんて考えながらペダルをこぐ。

集落と一緒に現れるバス停をいくつも越えて、どんどん奥へ奥へと入っていく。
予想どおりにけっこうな距離を走らされた後、明通寺の駐車場を示す看板が見えた。
指示に従い駐車場の隅っこに自転車を停める。すっかり汗だらけで、ポケットの中の地図が半分溶けていた。
境内はどっちだ、と案内板を見たら、「三重塔は檜皮屋根を葺き替え工事中」との張り紙があり、愕然とする。
まあそういう運の悪さも旅行の愉しみのうちだ、と割り切るしかない。きっとどこかで代わりにいいことがあるさ。

橋を渡って石段を上って山門を抜け、明通寺の境内へ。汗ダルマのまま拝観料の400円を払って中に入る。
すると石段を上っていった先に本堂があるのが見えた。なるほど派手さはないが、端正な美しさが印象的だ。
正面から向き合う。檜皮葺の屋根に苔が生しているが、それがかえって周囲と調和しているように思える。
1265(文永2)年築ということで、この古び方は確かに鎌倉時代の建築という感触がする。
(個人的には、鎌倉期と室町期では、うまく言えないけど木の質感じたいに決定的な差を感じるのだ。)
そして左、境内の奥の方を見れば、灰色のシートに囲まれた三重塔が。これは悔しい。
いちおう、中にある仏像やカラフルな内部の壁画をサービスで見学できるようになっているのだが、
仏像よりも建物が好きな僕としては、それでは収まらないのだ。悔しいが、しょうがない。うーん。

  
L: 明通寺本堂。静かにたたずむ姿にはどこか気品がある。750年間こうして静かに人を迎えていたのだなあ。
C: 正面より眺める。屋根に生した苔と色褪せながらもしっかりと重みを支える柱とが、歴史を感じさせる。
R: 現在、檜皮屋根の葺き替え工事中の三重塔。しょうがないとはいえ、その姿をこの目でしっかりと見たかった……。

本堂の中におじゃましてあちこち眺めてみる。やはり柱や壁の木材の古び方が印象的だ。
こう言ってはなんだが、人間の手による建造物なのだが、色褪せて自然に還りかけている感触がなくもない。
その点がさっきも感じた「鎌倉時代らしさ」ということになるのかもしれない。でもそれは、悪いことではなくて、
周囲の木々や緑と調和して、さらに深い境地へと入っていったという雰囲気を生み出しているのだ。
本堂の内部では三重塔について説明するパネルが壁に掛けられていたので、熟読する。
いつかきっと、工事が終わって美しい姿を取り戻した三重塔を目にする機会があるように、と祈った。

明通寺からの帰り道は緩やかな下り坂なので、位置エネルギーを解放するだけなので楽ちん。
実に快適に国道まで戻ると、一気に小浜駅まで戻る。やはり国道27号は交通量が多くて運転しづらかった。
再度駅前に出ると、今度は商店街を経由して西へと向かう。小浜の名所は散らばっているのだ。
市街地西端の重要伝統的建造物群保存地区である小浜西組へ、まずは行ってみる。
いったん海に出てから左に曲がり、小浜公園を合図に南下。するとそこには古い街並みがあった。

  
L: 小浜湾の海水浴場。あーそうか、海で泳ぐって発想はなかったなあ。
C: 小浜西組・三丁町入口。この辺りはかつての遊郭で、今も現役の花街なんだそうだ。
R: 観光客相手の商売っ気がなくはないが、基本的には住宅地といった感じ。非常に落ち着いた空間である。

自転車でしばらくウロウロした後は、これまた一気に移動して小浜城址を目指す。
小浜城址は小浜の港に近いのだが、ちょっとそこからズレた位置にある。石垣が目立ってわかりやすい。
本丸跡には神社がつくられるというよくあるパターン。参拝すると、奥にある石垣を上ってみる。
櫓の跡はちょっとした展望台となっており、高さはないが小浜の街の様子をうかがうことはできる。
山がそのまま海へと沈んだ複雑な海岸線の湾、家並みの向こうにある港、これが小浜かと思って眺める。

  
L: 小浜神社。小浜城は関ヶ原の戦いの後、若狭国を与えられた京極高次が築城。ただし完成前に京極氏は松江に移った。
C: 今もしっかりと残る小浜城の石垣。  R: 櫓跡から眺める小浜湾。こっちも山が折り重なっているのだ。

腹が減ったので、小浜港で何か食べることにした。蘇洞門への遊覧船乗り場が観光客向けの施設になっており、
そこで海産物を中心にさまざまな土産物が売られていた。そこの一角にパックされた寿司の売り場があり、
自分で選んで買って食べられるようになっていた。エビの頭が入った味噌汁もサービスでつくようだ。
地物づくしのセットを買って、味噌汁をお椀いっぱいによそっていただく。簡素ではあるが、まあ悪くはない。

食べ終わると、近くにあった御食国若狭おばま食文化館に寄ってみる。
小浜はかつて、「御食国(みけつくに)」として朝廷に海水産物を貢いでいた歴史がある。
その事実を、当時の食事情を紹介しながらわかりやすく解説する施設なのである。
ところで小浜市は現アメリカ合衆国大統領のバラク=オバマと同じ名前ということで、大統領選の際、
勝手にオバマを応援していて話題になった(僕はそういうバカバカしいことが大好きなので好意的に見ていた)。
御食国若狭おばま食文化館にはオバマ大統領に関するミニ展示があり、うまいこと街おこししたなあと思った。

 
L: 御食国若狭おばま食文化館。豊かな小浜の海の幸をめぐるいろいろがわかる。
R: 館内のオバマ大統領に関する展示スペース。小浜市はうまいこと盛り上がったなあと思う。

見ごたえのある見どころが散らばっていたので、こりゃしょうがないやと、乗る予定の列車を一本遅らせることにした。
余裕をもって小浜市役所を訪れる。小浜市役所はがっちりとした建物で、大きいくせにコンパクトな印象がする。
敷地を一周して撮影すると、中に入ってちょっと休憩。今日の日差しは本当にキツい。

  
L: 小浜市役所。1987年竣工。  C: 角度を変えて撮影。  R: 裏側はこんな感じ。

 
L: 市役所1階のホール。初めて日本に象が来た港だそうで、その様子が描かれた絵を展示している。
R: 小浜市は連続テレビ小説『ちりとてちん』の舞台ということで、市役所にあった碑。

最後に小浜の商店街をフラフラしてみる。小浜はかつてサバの水揚げ港として「鯖街道」の起点となっていた。
アーケードの商店街には今もそのことを示す石板が埋め込まれており、その周囲は魚屋が多くて妙に納得。
市街地の中心部にはかつてデパートがあったと思われる広大な空き地があった。
ここもまた地方都市の苦しさを味わっている街なのだ。しかしオバマ大統領をフィーチャーした店があるなど、
小浜は小浜らしくがんばっているのもまたよくわかる。個性的な街だと思う。

  
L: 小浜・鯖街道のアーケード。  C: ここが鯖街道の起点ということでか、魚屋が多い。さびれ気味なのが残念。
R: 商店街にあるオバマ大統領を応援する店。せっかく食い物がいいんだからB級グルメがあればいいのにね。

当初の予定よりも一本遅い列車で敦賀まで戻る。やっぱり車内は中高生でいっぱいになるのだった。

●12:52 小浜-13:58 敦賀

敦賀駅でもレンタサイクルを借りる。敦賀といえばなんといっても気比松原、そして氣比神宮だ。
気比の松原はトボトボ歩いていくには遠いので、ここでも自転車を借りたわけである。

まずは敦賀駅周辺を軽く見てまわったのだが、『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』の像がいくつもあって、
これは何だ?と首をひねる。別に松本零士の出身地というわけでもないのに、と思って調べてみたら、
敦賀は港町で鉄道の町なので、港→『宇宙戦艦ヤマト』で鉄道→『銀河鉄道999』ということらしい。うーん。
それにしても駅から敦賀港まで伸びている道の広さには圧倒される。さすが日本海側を代表する港町だ。
小浜の商店街がけっこうさびれてしまっていることから考えると、敦賀もただじゃ済んじゃいまいと思っていたが、
原発があるおかげなのか、もともとの地力があるからか、けっこう元気そうな印象がする。

  
L: 敦賀駅。ホームの数が多いうえに長い。小浜線の乗り降りはなかなか大変だった。
C: メーテルと鉄郎。  R: 駅から伸びる福井県道13号。白銀の交差点で国道8号と交わる。どっちもデカい。

気比松原へ向かう途中で敦賀市役所に寄ることにする。さっきの道もそうだったが、敦賀の街は規模が大きめ。
自転車をしばらく西へ走らせて、ようやく到着。周囲には郊外型の店舗がいくつかあるが、市役所の周辺は正直、
街はずれをムリヤリ街はずれじゃなくしている印象である。移転させた市役所を核にして農地を宅地化させていく、
そんな行政側の狙いがなんとなく見えてくる立地だ。大都市の半ベッドタウンの田舎、という印象。
(ちなみに敦賀市役所の隣はヨーロッパ軒の敦賀中央店。大きめの建物でヨーロッパ軒の影響力がわかる。)

  
L: 敦賀市役所。1974年竣工。  C: 角度を変えて撮影。  R: 裏手はこんな具合である。

今の敦賀が良くも悪くも原発で成り立っている街であるというのは、市役所を訪れてみてよくわかった。
1階の受付付近には市に関連するパンフレットがたくさん置かれていたのだが、原発に関するものが多かった。
あるいは原発をふまえたうえでの平和に関連するものもあった。市民には避けて通れない現実なのだ。
また、自動販売機には「災害時には無料で飲料を提供します」という文字があり、なるほどそうか、と納得。
ふだんなかなか見かけない災害対策の自販機も、ここでは身近なものなのだ。ちょっと背筋が寒い。

 市役所1階の様子。奥には原発関連のパンフレットがずらり。

撮影を終えると、あらためて気比松原を目指す。といっても市役所まで来てしまえばそう遠くない。
適度なところで針路を北へと変えれば松林にぶつかる。そこを抜ければ海岸に出る。
海水浴シーズン真っ盛りということで駐車場の隅っこに自転車を置くと、砂浜へと出てみる。

  
L: 敦賀湾の海。なかなかきれい。  C: 思わず裸足になって中に入ってしまったではないか。
R: すぐそこには気比松原。そうか、僕が生まれて初めて泳いだ海はここだったのか。

そういえば小さい頃に敦賀には来たことがある。それが僕にとって初めての海水浴だった。
(長野県人はみんな、人生初の海ってのをはっきりと覚えているものだ。海なし県をナメるなよ!)
懐かしい記憶が蘇り、この夏を海に入らないまま過ごすのもひどく勿体なく思えて、裸足になって波へと向かう。
あんまりズブズブと行って濡れるつもりはないが、ちょっとくらいならこの暑さだ、すぐに乾くだろうと考える。
そうしてしばらく、松原を眺めたり海の青さに目を細めたり水中の砂の感触を味わったりしながら過ごす。

なんだかんだ敦賀はけっこう見どころがあるのだ。気が済むまで存分に呆けると、再び自転車にまたがる。
足下が濡れたままなので、カゴの中に靴と靴下を入れ、裸足でペダルをこぐ。
敦賀港方面へと向かう途中で敦賀西小学校に寄ってみた。かつて敦賀城があった場所だ。
しかしながら今はその事実を示す石碑があるのみで、ずいぶんとさみしいものだ。
歴史上最も有名な敦賀城主は、やはり大谷吉継だろう。ハンセン病にかかりながらも、
その有能さで広く知られていた人物だ。石田三成との友情は有名で、真田幸村の義理の父親でもある。
自転車にまたがりつつ石碑を眺めて往時を偲ぶ。が、裸足にはアスファルトがめちゃくちゃ熱いのなんの。
アチチアチチと逃げるようにペダルをこいで、港の方へと向かうのであった。

 
L: 敦賀城址の小学校にて。この石碑ぐらいしか歴史を感じさせるものがない。非常に残念である。
R: 途中で見かけた避難所の表示。ひどく目立つところに、原発の街ならではのリアリティを感じて背筋が寒くなる。

港へ行く途中で、敦賀市立博物館に寄ってみた。大和田銀行本店として1927(昭和2)年につくられた建物は、
地元では「戦前昭和時代の日本三大西洋建築物の一つに数えられる」と言われているとか(出典:Wikipedia)。
さすがにそれはオーバーだとは思うが、それでも確かによく手入れされていて見事なものだ。
展示内容は多岐にわたっており、敦賀の誇りが歴史を中心に要領よく学べる感じになっている。
が、原発について触れる要素はひとつもなかった。まあ、やりだすとキリのない問題でもあるし、難しい。

  
L: 敦賀市立博物館。みなとつるが山車会館のすぐ隣。  C: 正面玄関。狭い。  R: 1階展示室。銀行の雰囲気が残る。

敦賀港周辺は平日昼間ということもあってか、あまりひと気はなかった。
幅の広い道路を挟むように観光客向けの施設が点在する格好になっている。
歩行者ならちょっと面倒くさい距離感だが、自転車ならそんなのないも同然だ。ぐるっと一周。

  
L: 旧敦賀港駅舎。内部は鉄道の街・敦賀らしく、敦賀周辺の鉄道の歴史についての展示となっている。
C: 敦賀港周辺の様子。時計台の先にある辺りが金ヶ崎城址。歩道も幅の広い感じが、いかにも敦賀風?
R: 敦賀赤レンガ倉庫。この2棟しかないのが残念。1905(明治38)年に紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社が建設。

そして敦賀を象徴するもうひとつの名所といえば、越前国一宮の氣比神宮である。
国道8号を南下すると、巨大な交差点に巨大な鳥居が現れる。この大鳥居は1645(正保2)年に建立されたものだ。
そういうわけで、この一帯は古くから厚い信仰を受けてきた氣比神宮の威厳を存分に感じさせる空間となっている。
氣比神宮はもともと食物の神を祀る神社だったが、大陸との交通の拠点であるため海陸交通の神として敬われた。
1945年の空襲によって本殿は焼けてしまい、現在のものはその後に再建されている。もったいない話だ。
周辺の道路の広さとは対照的に、氣比神宮の境内はそれほど広くない。松尾芭蕉の像が目立っている。
工事しているのか柵で囲まれ、なんとも落ち着かない。なんとなく拍子抜けしつつ参拝するのだった。

  
L: 氣比神宮大鳥居。周りの道路のつくりが大きいためか、適切なスケール感と受け止めてしまうが、確かに大きい。
C: 境内にある松尾芭蕉の像。『奥の細道』のときに訪れたってことで設置された模様。
R: 氣比神宮拝殿。空襲があったからしょうがないんだけど、なんかこう、どうにかならなかったのかと思うわ。

氣比神宮の参拝を終えるとそのまま敦賀駅へ直行。時間的な余裕がちょっとだけできたようなので、
ここはもうひとつ福井県の市役所を押さえることにしようと思う。ターゲットは……そうだ、鯖江に行ってみよう。

●16:05 敦賀-16:41 鯖江

鯖江といえば、なんといっても眼鏡である。メガネフレームの国内シェアの実に96%を占めるという眼鏡王国だ。
なんでそんなに眼鏡に特化した街になったのかよくわからないのだが、とにかく鯖江は日本の眼鏡の首都なのだ。
(1905(明治38)年ごろ、増永五左衛門が農閑期の収入源として眼鏡フレームの製造を始めたのがきっかけ。)
ほかにも業務用の漆器が全国約90%の生産量など、第二次産業にやたら強い独特な街なのである。

鯖江駅で降りると、まっすぐ西へ行って中心市街地を目指す。なかなか角度のある坂を上っていくと商店街。
平日の夕方、穏やかな雰囲気が漂っている。鯖江では確固たる第二次産業が確立されているためか、
第三次産業であるところの商店街はそれほど活気がなくても街としてやっていけるということだろうか。
ほかの都市ならモータリゼーション以前に拡大していた商店街が、郊外化の進行と反比例するように
虫食い状に衰退していく様子がみられるのだが、鯖江の場合はその要素が比較的弱い印象がする。
もともと商業は県庁所在地の福井に任せており、ひたすら工業に専念しているという姿勢を感じるのである。

  
L: 鯖江駅。駅の広告は眼鏡を中心に工業関連のものばかり。さすがである。
C: 鯖江のアーケード商店街(県道134号)。商店街エリアは狭く、昔から細々と営業している感じ。
R: 月によって駐車禁止区域が変わる標識を初めて生で見た。北陸ではそんなに珍しいものではないみたい。

まっすぐ北に行ったところで西山公園付近の交差点にぶつかった。ちょっと見てみようと寄り道。
西山公園はツツジの名所として知られているようで、公園内には動物園もあって子どもに人気みたいだ。
時間があれば本格的に中に入ってみたかったが、もう17時過ぎなので入口だけ撮影して先へ進む。

 西山公園の入口付近。春にはツツジが凄そうだ。

国道417号線にスイッチしてさらに北上。駅で地図を見たときには、鯖江市役所がこんなに遠いとは思わなかった。
当初の予定になかった鯖江への寄り道を完全に後悔しながらトボトボ歩いていく。つらい時間である。
交通量の多い国道は横断することもままならない。戸惑いつつ進んでいったところで、やっと市役所の案内板を発見。
いざ敷地に入ってみると、2棟になっていて幅がある。増築のついでか、消防署をくっつけているスタイルだ。
昔からの市役所は奥にある4階建てのタイル張りで、これはいかにも昭和である。

  
L: 鯖江市役所。奥が本館・別館、手前が新館。昭和30年代からの増築の繰り返しといった雰囲気プンプン。
C: 本館・別館の西入口。正面入口は新館との間に移動した模様。  R: 裏手の様子。

撮影し終わると少し戻って小学校の脇を抜けて、住宅と田んぼの中を南下して駅まで帰る。
やっぱり駅と市役所の距離はかなり遠かった。旅行初日からずいぶんムダに疲れた気がする。

●18:05 鯖江-18:19 福井

4年ぶりの福井は、変わっていた。4年前には中央大通りを工事していて(→2006.11.4)、
それが当然終わっているわけだから当然変わっているわけなのだが、確かに変わっていた。
その変化に最も驚かされたのは、駅前の変化である。まず、ずいぶん歩行者向けの空間が広がった。
何も置いてなくって、点字ブロックとアスファルトが続いている。そこにポツポツと植木。
正直言って何か工夫があるわけではない。でもそこにははっきりと、駅から街への動線を豊かにさせる意図がある。
そして、観光案内所の入った小屋がその広い空間の中に建てられたこと。これは大きい。
なんせ4年前には「それなら今日のうちに名古屋まで行って泊まられたほうがいいと思います」と言われた、
それくらい観光には消極的だった街が、ソースカツ丼に留まらずあれこれアピールする姿勢を打ち出しているのだ。
実際、パンフレットの種類は以前とは比べ物にならないほど豊富になっている。福井もやる気を出したのだ。
駅前の整備された空間からはそういう一連の変化がはっきりと感じられた。なるほど福井は変わった。

晩ご飯にちょうどいい時刻になっていたので、まっすぐにヨーロッパ軒へと向かう。
地図を見なくても、記憶にきちんと残っている。自分でも呆れるほどまったく迷うことなくすぐに到着。
まずは建物の写真をしっかり撮影してから、満を持して店内へと入る。

 
L: ヨーロッパ軒総本店の外観。モダン!  R: 店の玄関はこのようになっておりました。

迷うことなくカツ丼セットを注文。前に訪れたときには異様に早く料理が出てきたが、今回はふつう。
と言ってもほかの店に比べると十分早いスピードである。人気店ゆえに仕込みが万端なのだろう。
前回はデジカメ慣れしていなかったこともあり、あまり積極的に撮影しなかったのだが(→2006.11.4)、
今回はその分、あれこれ撮ってみる。胸やけするまで画像を堪能してほしい。

  
L: ヨーロッパ軒のカツ丼セット。  C: ソースカツ丼をクローズアップ。  R: フタの裏にも「ヨーロッパ軒」。

 カツの厚みはこんな感じ。ヨーロッパ軒では肉を薄めにしているのだ。

あらためて食べてみると、薄めの肉は脂身が少なく、むしろ鶏肉に近いくらいの食感がするほどだ。
ただし揚げた衣は油分がやや残っている。もっとも、これにウスターソースが絡んで米にかかっているのがいい、
という意見には反対しない。トンカツのカツではなく、あくまで福井のソースカツ丼用に編み出されたカツだ。
その辺はほかの一般的なカツ丼とは異なっており、やはりヨーロッパ軒の洋食精神が反映されたものなのだ。

満足して店を出ると、宿にチェックイン。その後、再び街で買い出しをするのであった。
そして夜食兼朝食用にコンビニで「ソースカツ」のおにぎりを購入。さすがは福井である。
かじってみたら、やはりヨーロッパ軒スタイルのせんべい型カツだった。

 
L: セブンイレブンで売っていたソースカツのおにぎり。  R: かじると確かに福井のカツ丼なのだ。

天候に恵まれなかった北海道旅行とは対照的に、今回の北陸旅行は完全に真夏の中を行く感じになりそうだ。
それは非常にうれしいことなのだが、晴天は行動力が増幅される分だけ後で日記を書くのがつらくなる。
期待半分、恐怖半分。それでも今は、訪れている場所を存分に味わい尽くすことだけを考えようと思う。


2010.8.19 (Thu.)

小学校で練習するのも今日が最後なのである。連日の猛暑も今日だけは一休みといった感じで、
昨日やおとといよりは余裕を持ってプレーができた。なかなか充実した3日間なのであった。

夜になり、支度を整えると家を出る。毎度お馴染みムーンライトながらのお世話になるのだが、
金をケチって小田原から青春18きっぷを使うためには、非常に面倒くさい乗り換えをやることになる(→2010.3.25)。
ギリギリで焦るのはイヤなので、少し余裕を持たせて小田原へと向かう。
しかしそれはそれで小田原でヒマな時間に直面することになるので、まあどっちもどっちといった感じだ。

ムーンライトながらに乗り込むと、携帯まくらを膨らませて首に巻きつけ、すぐに寝る。
天気のせいでどこか消化不良だった北海道の借りが返せるといいなあ、なんて思っているうちにぐっすり。


2010.8.18 (Wed.)

今日も炎天下の中、小学校で練習である。それにしても今年の夏は、情容赦なく夏全開だ。
これまでだったらヤッホー夏だ夏だ夏らしくっていいなあ!と素直に喜んでいたかもしれないが、
子どもと一緒に動きまわる状況では、とにかくまず第一に「これはたまらん」という受け止め方になる。
そして家に帰ると、部屋の空気どころか部屋の中に置いてあるものすべてが熱を持っている有様なのだ。
突っ立っていても床に座っていてもベッドに寝転がっていても、どう過ごしたって暑いのである。
しかも、日が暮れてからも空気の温度が下がらない。もうどうしょうもない。
「温暖化」なんて生やさしい表現では済まない現実に、毎日途方に暮れているしだいである。


2010.8.17 (Tue.)

夏休み中の職場は基本的にユルユルなので、案ずるより何とやらでまったく違和感なく仕事ができた。

ところで昨日からグラウンドの改修工事が始まった関係で、サッカー部は活動する場合には、
外に出なくちゃいけなくなってしまった。近所の小学校にお願いしたら、あっさりOKがもらえたので、
本日より3日間は小学校のグラウンドを借りて練習をするのである。
炎天下の中、いつもと異なる感触の土の上でひたすらボールを蹴って過ごす。
まあたまには気分転換ってことで、こういうのもいいんじゃないでしょうかね。


2010.8.16 (Mon.)

東京に戻る。これでようやく、日常に戻るというわけである。
ガッツリと休みをとった分、まともに社会復帰ができるのか非常に不安だ。
いやー、本当に思う存分羽を伸ばした10日間だった。


2010.8.15 (Sun.)

テレビを見ながらひたすら北海道旅行の画像の整理をしつつ、親とあれこれ話す。
話した内容は旅行の際のログにだいたい反映させているので、特にここでは書かない。
のんびりとした団欒の時間はいいもんですなあ、ということなのだ。


2010.8.14 (Sat.)

北海道旅行から帰ってきてヘロヘロだというのに、帰省ということで今日も鉄道で移動なのだ。
夕方5時くらいに茅野で拾ってもらうことを目標に動く。もはやふつうの帰省には飽きているので、
そこは常識では考えられないような旅程で帰ることにするのだ。

●08:52 大岡山-09:01 武蔵小杉

目黒線に乗る。武蔵小杉で降りたのは、このたび横須賀線と湘南新宿ラインが停車するようになったので、
どれどれどんなもんだろうという好奇心が理由である。それで意気揚々と電車を降りたのはいいが、
待っていたのはひたすら長い通路。歩いて歩いて歩かされ、ヘトヘトになったところでようやく到着。
こんなにひどい乗り換えになるなら横須賀線も湘南新宿ラインも停まらない方がマシだ!と叫びたいくらい。
いや本当にこれには参った。もう二度とここじゃ乗り換えねえ。

●09:20 武蔵小杉-09:45 戸塚

横須賀線に乗り換えて西へ。腹が減ったので買い込んでおいた朝メシを食らう。

●09:52 戸塚-10:23 国府津

戸塚で東海道線に乗り換えるというのは何かこう、一手間多い感じがする。

●10:30 国府津-11:55 沼津

そのまま東海道線に乗ることにもはや飽きたため、かつての東海道線であるところの御殿場線に乗る。
天気が良ければ富士山を間近に拝めて山麓の雄大さがすごくいいのだが、ここにきて雨に降られる。
ゆえに景色を楽しむこともできず、ただ音楽を聴いて遠回りをしただけという結果になってしまった。しょんぼりだ。

●11:59 沼津-12:16 富士

沼津に着くと再び東海道線。この時点で、今回の帰省のバカバカしさに嫌気が差してくる。
しかしながらそれを計画したのは自分自身なので文句は言えない。粛々とその計画を進めるのみである。

●12:37 富士-14:00 身延

身延線を北上して山梨県に入る。特急に乗れば身延線はそれなりに便利な路線ということになるのだろうが、
各駅停車だともう苦痛としか表現しようのない状態となる。まずは身延まで行って一休み。

●14:18 身延-15:40 甲府

僕は鉄っちゃんではないのでJRの都合はよくわからない。なぜわざわざ身延で乗客を降ろして富士に戻るのか。
そのまま同じ車両で甲府まで行っちゃえばいいじゃないか。そんな疑問を置き去りにして、さらに北へ。
身延までの1時間半もキツかったが、こちらの甲府までの1時間半もかなりキツい。

(●15:43 甲府-16:43 茅野)

身延線のあまりのローカルっぷりにノックアウトされてしまったのか、甲府に着いてからしばらく虚脱状態。
おかげで乗り換え時間が3分しかないことをすっかり忘れ、目の前に停まっていた目的の列車を逃してしまう。
しょうがないのでcirco氏にメールを入れて、茅野ではなく小淵沢まで迎えに来てほしいと依頼。
ダメな息子でゴメンナサイ。

●16:18 甲府-16:58 小淵沢

そんなこんなでどうにか小淵沢までたどり着いた。駅前でひたすら実家の車を待つ。
ところがこの日は小淵沢駅前で祭りがあり、車の交通規制がなされていたのであった。
ヒマなので恒例のナンバープレート語呂合わせ(→2006.1.2)で時間をつぶすが、
同じナンバーの車ばっかり見かけるのであった。よほど交通規制が厳しく、かつわかりづらいとみえる。
やがて母親が駅前に現れるが、別の人を僕と勘違いして「早く来なさい!」と盛んにジェスチャーするのであった。
しょうがないのでその横から、「あのー、息子はこちらですけど」と声をかける。相変わらずである。

その後は伊那に行ってベルディのピザ。今回もひたすら食って食って食いまくった。
帰りの車内ではまたしても霧の日の話題で盛り上がる(→2009.4.42010.4.3)。
実家に到着すると持参したDVDを鑑賞。渋谷の地下を撮影したというDVDは予想以上にマニアックすぎて、
もうどうにも反応することができないレベルなのであった。かわりに万人受けするピタゴラ装置のDVDを鑑賞。

ところでついにcirco氏もFREITAG(DEXTER)を手に入れた。母親のHAWAII FIVE-0と一緒に置いてあったが、
ほとんど同じ柄なので全然気がつかなかった。これで我が家は父母兄弟全員がFREITAGユーザーとなった。
ひとりでいくつも持っている人はいても、さすがにこのような例はそうそうないんじゃないか。
まあ、いいものはいいからしょうがないのだ。ウチはそういう家系なのだ。


2010.8.13 (Fri.)

朝起きるとさっさとチェックアウトして函館の街に出る。向かったのは、函館朝市だ。
ここは前にも来たことがあるのだが(→2008.9.16)、本格的に歩きまわったのはこれが初めてである。
しばらくは朝市をウロウロして楽しむ。新鮮な魚介類が店先にあふれんばかりに並び、とっても壮観。
どこを歩いても活気にあふれていて、日本は平和じゃのう、と思うのであった。

  
L: 函館朝市の内部の様子。魚介類だけでなく、農産物に土産物など実にさまざまな商品が並んでいる。
C: 朝市で賑わう通り。観光客も店の人もいっぱいいて、朝っぱらからものすごいエネルギーが発散されている。
R: 店先には無数のカニたちがワサワサと脚を動かしているのであった。本当にいっぱいいるなあ、と呆れた。

さて、魚介類を土産に買って帰るということができない僕が、わざわざ朝市に来た理由はただひとつ。
それは函館らしい海鮮丼を食ってやろうじゃないか、という思惑なのである。
やはり函館朝市にはいくつか店があって迷ったのだが、名物だという巴丼に惹かれて注文。
値段は1600円ということで内容からすれば妥当なのだが、今までの人生でいちばんゴージャスな朝メシだったかも。

 ホタテ・ウニ・イクラの3色による巴丼。

まあアレだ、贅沢すぎるっていうのもよくない。高級食材が延々と続くと、それに慣れきってありがたみがなくなる。
ありがたがりながら食える量、つまりほどほどの量ってのが、食っていていちばん幸せなんじゃないかと思った。

さて、満腹でいい気分になると函館駅前のバス停へ。今日はまず、バスを利用して江差へ行くのだ。
せっかく7日間有効の「青森・函館フリーきっぷ」があるんだからそれを使って電車で行けばいいのだが、
それだと江差駅から中心部まで歩かされるうえに、40分程度しか自由時間がとれなくなる。
そうなってしまうよりは、よけいな出費にはなるが、直接江差の中心部に乗り込む方がいいだろうと判断したのだ。

●07:10 函館駅前-09:06 中歌町役場前 [路線バス]

バスは函館を出てから国道227号沿いに、北斗市~厚沢部町の各バス停をていねいにまわっていく。
江差線とは異なるルートを走るため、乗客は非常に多い。地元に帰省したであろう老若男女を降ろしては走る。
これで間に合うのかと不安になるが、よくできたもので、きちんと時間どおりに日本海に出た。

海岸の方まで行く観光客たちを乗せ、中歌町バス停で僕ひとりを降ろしてバスは去っていった。
今日はすこぶる天気がいい。昨日までのアレはなんだったの、よりによって最終日になってこの晴天ですか、と
胸の中にはふつふつと煮えたぎるものがないでもないが、それは人間にはどうしょうもない領域のことなのだ。
じっと我慢して、まずは江差町役場の撮影からスタート。続いて隣の江差追分会館も撮影。
江差追分会館は有名な民謡である江差追分をフィーチャーした公共施設なのだが、
和風のモチーフを大胆にコンクリートで解釈していて、意外と面白かった。実際に見ると好印象である。

  
L: 江差町役場。  C: 江差追分会館。公共建築百選にも選ばれている。訪れてみると意外と面白い建物だった。
R: 正面から見た江差追分会館。ここを訪れる観光客はけっこういるのだろうか。よくわからない。

新しい建物の後は、古い建物をたっぷりと味わうのだ。バス停のすぐ近所には、旧中村家住宅がある。
ニシンなどの海産物の仲買人をやっていた近江商人の家で、重要文化財にも指定されている問屋建築だ。
今回の江差訪問はかなり厳しい時間との戦いで、もう本当にもったいないなあと思いつつ大急ぎで見てまわる。
やはり古い木造住宅は2階が面白い。2階に部屋のないスペースは構造的に自然とアトリウムとなり、
それがものすごく格好いいのだ(むしろ通気性を持たせるためにアトリウムを優先的につくるのかもしれないが)。
旧中村家住宅の興味深いところは、住宅に蔵を連結したつくりになっているため、
座敷の奥にいきなり蔵の分厚い扉(防火扉)が現れているところだ。さすがにこんな事例は初めて見た。

  
L: 旧中村家住宅の国道に面した部分(ハネ出し)。昔はここで海からの荷物をそのまま中に入れていたのだ。
C: 正面から見た旧中村家住宅。リニューアルがなされているが、それにしてもやはり風格がある。
R: 内部のアトリウム部分。土間からハネ出しへと続く通路(通り庭)がそのまま頭上もぽっかり空いている。

  
L: 座敷の奥には蔵があり、その重厚な扉が開かれている。これは珍しい事例だと思うんだけどいかがでしょう。
C: 2階に上がってみたところ。朝の光を浴びてすごく心地よい空間だった。これは本当に和風住宅のすばらしいところ。
R: 最も国道側にあるハネ出し。中はニシン漁に関する展示でいっぱい。往時の繁栄ぶりが偲ばれる。

じっくり見ればかなり面白いのだろうけど、残念ながら時間の都合で急ぎ足。
中にいる係の人に解説を頼むとけっこういろいろ教えてくれそうだったので、それが心残りである。
まあそれも余裕のない旅程を組んだ自分が悪いのである。反省しつつ旧中村家住宅を後にする。

次は道を挟んだ向かいにある木造洋風建築だ。わりと急な坂を勢いよく駆け上がって中へと入る。
こちらの建物は、旧檜山爾志(にし)郡役所だ。旧郡役所はいまだに日本全国にちょこちょこ残っていて、
北海道で現存しているのはここだけなのだ(旧南会津郡役所を訪れたときのログはこちら →2010.5.16)。
この建物最大の見どころは、布クロスと呼ばれる布による内装。さすがに現在張られているものは再現した物だが、
当時のデザインの7種類を忠実に再現し、かつてのこの地域の誇りをしっかりと感じさせてくれる。
もうひとつ面白かったのが建物の構造で、1階が警察で2階が役所になっていたところだ。
今では警察と役所は別の施設とするのが当然だが(それでも県庁の隣に県警本部がある例はいくらでもある)、
当時の江戸時代とさほど変わらないお役所観というか警察観が垣間見えて興味深い。
ご丁寧なことに人形つきの取調室が再現され、さらに建物の隣には当時の留置場が再現されている。
ここまできちんとかつての姿を再現することにこだわった例は珍しいと思う。ずいぶんと勉強になった。
しかしここも時間がなくって急いでまわる。係の人の説明をぜひ聞きたかった。

  
L: 旧檜山爾志郡役所。とにかく当時の姿を再現することにこだわっており、一見の価値は間違いなくある。
C: 角度を変えて撮影。  R: 1階の様子。かつての警察署だが、現在はふつうに展示スペース。

 
L: 布クロスのデザインはこんな感じ。華やかなものが多く、往時の威厳を感じさせてくれる。
R: お隣の留置場。ここまで再現するとは、そうとうに気合が入っている。あっぱれである。

江差のこの辺りは「いにしえ街道」と名づけられ、かなり力の入った観光地区となっているようだ。
ふつうの住宅や商店も伝統的なファサードに統一されており、その比率はかなりのものとなっている。
地方の町レベルの自治体なのに、いったいどこそんな金があるんだろう、と首をひねりつつ小走りで駅を目指す。

  
L: 江差町・いにしえ街道。伝統的な木造建築のファサードが連続している。でも道の広さがフィクション、とはcirco氏の弁。
C: もうひとつの名物住宅建築・横山家。ニシンそばが食べられるのだがそんなヒマはないのであった。残念。
R: 角度を変えて眺めた横山家。やはり奥行きがあり、海岸(今は国道)に向かってハネ出しが突き出た格好になっている。

なんだかんだでしっかりと観光をした分だけ、残り時間が少なくなってきている。けっこうピンチである。
江差の海には鴎島という島が浮かんでおり(今はコンクリートで陸続き)、本来ならそこまで行くべきだろうが、
今の僕にはそんな余裕などないのだ。国道に出ると海岸線どおりに直角に曲がって南へ針路変更。
そのまま南にある駅を目指してひた走る。それでも途中で気になったものにカメラを向けるのが物好きの本能。
時間がないのにあれこれ撮影してまた走り、汗びっしょりになるのだが、まだ駅には着かない。

  
L: 住宅の玄関に施された防寒対策(風除室)。これは凸型(いま僕が勝手に決めた呼称)で、ドアの外側に空間をつくった例。
C: ドアを引っ込めて空間をつくる凹型。これらは北海道のほか、後に青森や北陸でも見かけた。寒冷地らしい工夫。
R: 江差の海は夏ということもあってか、南国の緑をうっすらと湛えた鮮やかな色に染まっていた。じっくり見たかった。

坂を上ったり下ったりを繰り返し、江差駅を目指してひたすら走る。案内表示の距離はなかなか減らず、
腕時計とにらめっこして絶望的な気分になった瞬間もあったのだが、どうにかギリギリセーフで車両にすべり込んだ。
いやもう本当に今回ばかりは参った。汗で全身ぐちょぐちょ、荒い呼吸でヒーハー言っているうちに発車。

 
L: 江差駅。観光の中心地からはかなりの距離があったなあ。  R: ここもまた、北海道の最果てなのだ。

●10:08 江差-11:11 木古内

江差線は山の中を突っ切って走る。地図を見るとまるで縄でも編むように道路と交差しているので、
ここまで自然がいっぱいな路線だったとは予想外だった。窓を開けると伸びきった草が頬を叩くほどだ。
そんな具合に1時間ほど揺られて木古内駅に到着。2年前も来た駅なので(→2008.9.15)、親近感を覚える。
さすがに喉が渇いたので自販機でジュースを買い、飲み干したところで特急が到着。
今回はフリーきっぷなので特急でもお構いなしなのだ。2年前のことを考えるとなんたる贅沢。

●11:19 木古内-12:03 津軽今別 [特急]白鳥18号

自由席だが無事に座ることができ、ほっと一安心したらいつの間にか眠っていた。
おかげで気がついたら竜飛海底駅に停車しており、見学する乗客でごった返していた。
そういえばみやもりに「マツシマさんは海底駅には行かないの?」と言われてしまったのだが、
うーんなるほど、こうして目の前でワクワクしている皆さんを見ると正直うらやましい。いつか見学しよっと。

寝過ごさないように注意してその後は過ごす。特急は地上に出ると何度かトンネルを抜け、
次なる目的の駅、津軽今別駅に着いた。ここでそこそこ客が降りたのがちょっと意外だった。
さてこの津軽今別駅だが、これは海峡線の駅だ(つまり本州にあるけどJR北海道の駅なのだ)。
そしてここから階段を下りたところにあるのが、津軽二股駅。津軽二股駅は津軽線の駅である。
もうおわかりだと思うが、本日はさまざまな最果てを味わいつつ東京に戻るというのがテーマなのである。
それでここから津軽方面の最果てである三厩駅に行っちゃうのだ。もうとことんやり尽くしちゃうのだ。

 
L: こちらは津軽今別駅のホーム。要するに、津軽線に接続するためだけの駅なのだ。
R: 階段を下りたところにある津軽二股駅。奥には道の駅があり、土産物などがたっぷり置いてある。

しばらくは道の駅で津軽地方の土産物をあれこれ物色して過ごす。帰省シーズン真っ盛りということで、
非常に多くの客でごった返していた。これは三厩方面へと向かう人も意外と多そうだ。

●12:22 津軽二股-12:37 三厩

果たして青森から多くの客を乗せて列車はやってきた。車窓の風景は穏やかな田舎そのもの。
家族で墓参りの真っ最中という光景もあり、日本の原風景をそのまま映し込んだような印象すらする。
駅に停車すれば家族が迎えに来ており、田舎の良い面をはっきりとこの目で確かめた気分になる。
やがて列車は海沿いを走る。空を映して鮮やかな青に染まった海がまぶしい。
その青さはどこまでも深く、僕の心にいつまでも忘れないであろう残像を焼き付ける。
そう、僕は青森の海を見るたびに、その青さに心を打たれる(→2008.9.14)。
青森県民の心が純朴であるならば、この陸奥湾の海の青さもまた純朴な青さなのだろう。

海に見とれていたら急に列車は左に曲がり、そのまま終点の駅へと入っていった。三厩駅だ。
車両を降りるとそのままさっきまでの進行方向に向き直る。レールの伸びる先には車庫があり、
それはまるで、どこか別の世界への入口のように、黒い影が夏の景色に穴を開けていた。
でも確かに津軽線はここで終わっているのだ。ここは確かに日本の最果てのひとつなのだ。

  
L: 三厩駅のホームから先を眺める。夏の日差しが車庫の中に深い影をつくりだし、まるでどこかへのトンネルに見える。
C: 振り返って車両を見る。2両なのはお盆だからか。  R: 三厩駅。ここもまた日本の最果てなのだ。

改札を抜けて外の様子を見ようと、駅舎の中へと入る。最果てにしては意外とゆったりしており、いろいろ揃っている。
駅舎を出ると、そこにはバスが2台ほど停まっていた。そのうちひとつは、これから竜飛岬へと向かうバスのようだ。
近くには竜飛岬まで行く道路の案内板もある。様子をうかがってみると、そのバスに乗った人もけっこういるみたいだ。
どうやら僕の「三厩が最果てである」という認識は間違っていたようだ。ここはまだまだ、通過点にすぎないのだ。
もっともっと強烈な土地が、この先にはある。そしてそこへ行くための手段は、確かに用意されている。

  
L: 三厩駅内部。夏でもストーブ出しっぱなし。物があふれていて、人のいる気配がいっぱい。最果てって感じではないなあ。
C: 三厩駅。  R: まだまだ道は続く。たとえば、この先にある竜飛岬。三厩駅は最果てではなく通過点だった。

●12:53 三厩-13:34 蟹田

滞在すること16分で三厩駅を後にする。さっきまで乗っていた列車でそのまま南へと戻る。
やはり美しい陸奥湾が現れて、それをのんびりと眺めて過ごす。やっと味わえた夏の贅沢に目を細める。

蟹田駅も以前訪れたことのある駅だ(→2008.9.15)。時間いっぱい駅の周りを眺めて過ごす。
やがて青森行きの普通列車の準備が整い、改札を抜ける。ここからは、ちょっと気合を入れないといけない。

●13:47 蟹田-14:26 青森

青森駅へと走る列車の中、僕は座ることなくドアのそばに立って過ごした。
膝の屈伸運動をし、アキレス腱を伸ばし、足首をほぐす。準備運動を入念に行い、万全の態勢を整えておく。
というのも、次の最果て訪問を敢行するためには、ここでちょっとムチャをしなくちゃいけないからだ。
青森に滞在できるのは、わずかに25分。この時間で改札を抜けてAUGAまで走り、丼を食い、駅に戻り、
そして特急に乗り込むのだ。もうバカを通り越して言葉にならないくらいの事態なのだが、そうすると決めたのだ。
やっぱり青森に来たからには旨いマグロを食わないことには納得いかないのである。ただそれだけなのだ。
幸い、地下に市場があり信頼できる食堂のあるAUGAは駅から近い位置にある(→2008.9.14)。
やってやろうじゃねえか、コノヤロウ。目的と手段が入れ替わるギリギリのところで、ハートに火がついた。

ドアが開くと同時にホームに飛び出し、ダッシュで階段を駆け上がる。背中の荷物がどうこうなんて言ってられない。
一度訪れた場所は頭の中の地図に刻み込まれる便利な習性があるおかげで、青森駅の中など見なくてもわかる。
スイスイと記憶をたどって改札を抜けると、駅舎から外に出る。が、ここで困った事態が発生。
どうやら青森駅は改修工事があったようで、以前と駅前の様子が変わったのだ。ゆえに横断歩道が見つからない。
ここで焦って事故に遭っては元も子もない。落ち着いて解答を探しながら走る。いくらか右手に流されたところで、
無事に横断歩道を発見。渡って対岸にたどり着くと、そのまままっすぐ進んでAUGAを目指す。
記憶ではもうちょっと手前にあった気がしたが、AUGAは確かに行く先にあった。地下への階段を駆け下りる。
地下に出る。やはり記憶の地図をたどって右へ曲がる。奥へ行った右手に目的の店があるはずなのだ。
果たしてそこには海鮮丼を出す食堂が営業していた。2年前と何も変わっちゃいない。ほっと安心しつつ中に入る。

注文するのはもちろん鉄火丼だ。時計を見ると予定どおりに5分強が経過したところ。
つくるのに時間がかかったら困るな、と思うが、鉄火丼なんてマグロを切ってメシの上に乗せればそれで完成だ。
案の定すぐに出てきたので、記念撮影もそこそこに、吸い物で喉を湿らせると丼を持ち上げて豪快に箸を入れる。
分厚く切られたマグロの味が口の中いっぱいに広がる。思わず絶叫してしまいそうになるほど旨い。
これはもう青森に来て実際に食ったヤツにしかわからない幸せなのだ。青森最高じゃー!と脳内でリフレイン。
そこからはもう夢中でかぶりついて過ごしたわけだが、途中からこの贅沢な状況に申し訳ない気分になってくる。
まあアレだ、贅沢すぎるっていうのもよくない。高級食材が延々と続くと、それに慣れきってありがたみがなくなる。
ありがたがりながら食える量、つまりほどほどの量ってのが、食っていていちばん幸せなんじゃないかと思った。
函館でもそうだったけど、やっぱり僕って貧乏性が染み付いているんですかね。

満腹になって時計を見る。計算どおり、お茶を飲み干すぐらいの余裕はある。
本当に旨かった……と、いま食ったばかりのマグロの味をしっかりと脳みそに焼き付けて、店を後にする。
帰りはちょっと心理的な余裕が出たので、地下市場の様子やちょっと変わった青森駅前の様子などを撮影。
それでもやっぱり特急の自由席で座れるほどの時間的な余裕をつくることはできなかった。
列車は動きだしてからも僕はずっと、さっきのマグロの味の記憶を反芻しながら過ごすのであった。

  
L: 鉄火丼。1600円だが、厚い層をつくったマグロに値段以上の価値があると僕は思うわけです。しびれるほど旨い。
C: AUGAの地下市場。相変わらず賑わっているようで何より。  R: バスターミナルが強化された青森駅。

●14:51 青森-15:19 野辺地 [特急]スーパー白鳥22号

野辺地駅に着くと、30分以上の余裕があるということで周辺を見てまわる。
駅から出て左に行ったところに観光案内施設があったので入ってみる。土産物がそこそこ充実。
いくつかパンフレットを手にとって眺めてみるが、下北半島の付け根のこの辺りはイマイチぱっとしない。
そうこうしているうちに大湊線が出る時刻が近づいたのでホームへ行く。
そしたら乗客がワンサカと乗っており驚いた。帰省シーズンということで満員御礼状態なのである。
今度は座れるんじゃないかと甘い期待をしていたのだが、それは見事に裏切られてしまった。

●15:52 野辺地-16:44 大湊

大湊線は陸奥湾の東の海岸線を走る。そういうわけで進行方向左手の窓を眺めて過ごす。
ところがいいかげん西日がまぶしい時間帯で、座っている皆さんが容赦なくカーテンを閉めちゃうのね。
まあそりゃしょうがないんだけど、ちょっと切ない。それでもわずかに空いた部分からシャッターを切ってみたり。
大湊に着く直前には太陽を背に逆光で恐山(正確には釜臥山)が威容を現し、これはなかなか見事だった。
やがて列車は大湊駅に到着。これで本日3つめの最果ても予定どおりにクリアである。

  
L: 大湊線より眺める海。しばらくこんな感じの景色が続いて実に平和である。背の低い松は将来の防風林だそうだ。
C: 逆光の中にそびえる恐山(釜臥山)。下北半島、いや青森のシンボルが目の前に立ちはだかっている。
R: 大湊駅の最果て部分。これまたどことなく立派で、あんまり最果て感がない。まあ、まだ半島は続くし。

 大湊駅。やはり帰省客でごった返していた。

撮影を終えるとすぐに改札を戻ってさっきまで乗っていた列車に再度乗り込む。いいかげん間抜けである。
帰りは陸側の席に陣取ることにした。のんびりと、田舎の風景を堪能しようというわけなのだ。

●16:56 大湊-17:57 野辺地

棚田というにはあまりにもゆったりと高さを増していく田んぼ、そしてその先には鋭いが高さのない山が連なる。
その田んぼと山の間を埋める、丘と呼ぶのにふさわしい一帯には、風力発電の白い風車が並んでいる。
西側では海がのんびりと続いているのと同様、こちらものんびりとした風景が延々と続く。
やがて日が落ちて夕方の雰囲気が世界を包み込む。列車が野辺地に戻ったのは、そんな時間帯だった。

●18:10 野辺地-18:40 八戸 [特急]スーパー白鳥30号

野辺地からは予約しておいた特急の指定席だ。空はどんどん暗くなっていき、車窓の風景は遠のいていく。
いつの間にか眠っており、気がつけば八戸駅に着くところ。支度を整えて下車すると、周りの客と同じように急ぎ、
新幹線へと乗り換える。途中で慌てて駅弁を買い込む。3種類ほどしか残っていなかったが、
「田子にんにく」の文字に惹かれてスタミナメガ弁当を購入。隣に座る人ゴメンナサイ、と心の中で謝りつつ。

●18:57 八戸-22:08 東京 [新幹線]はやて30号

新幹線が八戸駅を発車すると、さっそく駅弁をいただく。隣に座る人ゴメンナサイ、と心の中で謝りつつ。
食べ終わると窓に寄りかかるようにして眠りにつく。すべてをやりきった、その満足感に浸ってただ眠る。

東京に着くと、ホームに出て大きく伸びをする。そうして新幹線の改札を抜け、京浜東北線に乗り換える。
クタクタで記憶が飛びそうになる中、体は淡々と動いて大井町線に乗り換え、自宅まで帰った。

旅は終わった。だが、僕の中でこの経験を言語化する時が来るまで、旅は終わらない。
それっていつになるんだろうな、と考えるが、とても恐ろしくって想像することなんてできない。
とりあえず今は体を休めよう。そう思って風呂に入り、何も考えずに体を洗い、眠りにつく。


2010.8.12 (Thu.)

札幌、小樽、旭川、そして稚内と、北海道の各都市を思う存分にまわることができた。
だがまだ北海道にはたくさんの都市がある。今日はできるだけ多くの市役所を見てみようと思う。
しかし天候のぐずつきは相変わらず。昨日は肝心なところだけは雨がやんだが、すっきりした気分にはなれない。
どうにも心の中にはモヤモヤが残る。それを振り払うべく、ちょっとムチャをしてみることにした。
本来であれば函館本線でおとなしく西へと戻る予定だったのだが、まず富良野線で南へと向かってしまった。

●06:44 旭川-08:03 富良野

交通の要衝・旭川駅の中でやや離れた位置にあるのが富良野線のホーム。
美瑛町を通って富良野へと向かう路線ということで、ラベンダー畑を中心に高原らしい風景が思い浮かぶ。
でも実際に乗ってみると、穏やかな街外れがしばらく続く印象のまま美瑛駅まで行ってしまう。
季節のせいもあってか、花畑を車窓から眺めることはできない。列車は見通しのいい山の中を走っていく。
そして上富良野や中富良野辺りに出ると国道に沿って走るためか、田沢湖線の角館以西に似た感じがする。
今ひとつ「北海道!」という手ごたえがないままに富良野駅に着いてしまった。しっかり雨も降っている。

 富良野駅。観光地が郊外にあるためか、駅前ロータリーが広い。

駅の構内で富良野の地図を入手すると、荷物をコインロッカーに預け、折りたたみ傘をさして飛び出す。
富良野の市街地に対し、富良野線と富良野駅は見事に45°の斜線で直角二等辺三角形を形成している。
実はこれが一番厄介なのだ。人間の空間感覚は、碁盤目に45°で別の碁盤目を入れられると、簡単に狂う。
かっちりとつくられた駅前空間が市街地に45°で接することで、僕は完全に混乱してしまった。
おまけに今朝はひどい雨で、「バケツをひっくり返す」という表現がしっくりくるほどの有様。
太陽がどの方向にあるかがわからないために方角をつかむことができないし、
碁盤目の街はどこから見ても似たような表情をしていてなかなかとっかかりを見つけられない。
地図を持っていても確証を持って歩くことができないのだ。結局90°勘違いしたまま国道に出て、
富良野市役所までだいぶよけいに歩かされる破目になってしまった。

そんなわけで、富良野市役所に着いた時点ですでにけっこう靴が濡れてしまっていた。
朝の8時からこの状態というのは、かなり気分的にはつらい。おまけに予想外に時間がかかってしまった。
市役所の中を探検することもなく、敷地を一周してみることもなく、そそくさとその場を離れる。

富良野市役所からちょっと行ったところに小学校があるのだが、その敷地の一角がちょっとした名所になっている。
正確に言うと、その名所に行ってみようと思って歩いていったら小学校の中に入っていた。
で、それは何かというと、「北海道の中心であることを示す石碑」である。富良野は北海道の「へそ」として、
街おこしをやっているようなのだ。碑の近くには「へそ祭り」の人形もある。
豪雨の中、男一人が小学校の校庭にある「へそ」の碑の前で立ち尽くす姿はシュールだったに違いない。

  
L: 富良野市役所。3階建てでかなりコンパクトである。けっこう古いと思うのだが、きれいに使っているようだ。
C: へそ祭りの人形。へそだけあって、腹踊りをモチーフにしているのだ。  R: 北海道中心標。

時間もないのであとは駅に戻るのみである。富良野といえばもっと北海道らしい観光ができるはずだが、
男一人でそんなところに行っても仕方がないし、そんなヒマあったらほかの市役所見たいしで、
そそくさと富良野を後にするのであった。まあ正直もったいない気がする。

●08:52 富良野-09:56 滝川

根室本線に乗って滝川まで出る。まあ正直、ひどくローカルな路線で、緑の中を突き抜けていく。
周辺には人口が少ないながらも市がいくつか存在しており、やっぱり市役所が気になる。
しかしどこも根室本線からは離れた位置にあるので車でないと厳しいのだ。すべて素通りして滝川駅へ。

滝川市というと僕には「藤本美貴の出身地」以上のトピックが見当たらない。
とはいえ札幌-旭川間ではまずまずの人口規模を誇る街なのだ(4万人規模)。
おそらく「ふつうの北海道の街」はこのレベルなんだろうな、と思って歩きだす。

 
L: 滝川駅。函館本線と根室本線が通るため、規模はまずまず。しかしコインロッカーがなくって困った。
R: 駅周辺の商店街。店が開きだした時間帯だが、まったくもって活気がない。

開拓された都市らしく、道の幅は広い。交通量はそれなりにある。が、それゆえに人間よりも車の街、
そんな印象が強くなる。駅からちょっと離れるとすぐに郊外型ロードサイド地帯に変わる感じ。
そうは言っても本州の国道沿いほどさまざまな店があるわけではなく、閑散とした光景が続く。
やっぱりここでも駅周辺部と街の碁盤目の角度がズレていて、そのせいで道を間違えた。
途中のセイコーマートで地図を確認し、あらためて滝川市役所へを目指す。
実は根室本線で滝川駅にもうすぐ着くぞ、というところで、背の高いいかにもお役所っぽいオフィス建築を見た。
いやいや先入観はよくないぞ、ということで自分の頭の中にある地図を優先したのだが、その結果迷ってしまった。
最初っから素直にそのオフィス建築を目指していればよかったのである。というわけで滝川市役所に到着。

  
L: 滝川市役所。そこまで経済的に強い市という印象はないのだが、デカくてすごくよく目立つ建物だ。
C: 角度を変えて撮影。1997年竣工で、最上階は喫茶ラウンジになっている。  R: 裏側はこんな感じ。

駅から市役所までは、道に迷ったことは抜きにしてもそこそこ距離があった。
ほかにやることがないので、撮影を終えると駅に戻って一息つく。やがて函館本線がやってきたので乗り込む。

●11:40 滝川-12:22 岩見沢

岩見沢駅に到着。岩見沢駅も函館本線と室蘭本線が通る交通の要衝なのである。
実は今回、ここを訪れたのには理由がある。市役所も目的だが、もうひとつ、駅舎にも興味があったのだ。
というのも、岩見沢駅の駅舎は一般公募コンペで選ばれ、2009年度グッドデザイン賞の大賞を受賞したから。
(ほかにも2010年の建築学会賞やBCS賞も受賞している。けっこう総なめ状態なのだ。)
改札を抜けるとまずは南口へ。するといきなりベンチで列車を待つ学生たちがいっぱいたむろしていて驚いた。
岩見沢駅には駅の機能のほか、市の施設も併設されている。小規模なコンビニもあってなかなか面白い。
1階のコインロッカーに荷物を預けると、まずは駅周辺をいろいろと探検してみた。

  
L: 岩見沢駅。1933年築の木造駅舎が2000年に漏電で全焼し、この駅舎が建てられることになったそうだ。
C: 角度を変えて東側から眺める。手前にあるのは駐輪場で、ここから南北自由通路が伸びている。
R: 岩見沢駅の遠景。赤レンガとガラスによる非常にすっきりしたデザインで、確かにオシャレ。

岩見沢市役所を目指して歩きだす。この市役所も駅から距離があることは、事前の調査でわかっていた。
傘を片手にのんびりと南へ歩いていく。やがて商店街のアーケードはなくなり、ごくふつうの道へと切り替わる。
岩見沢もご多分にもれず駅前の商店街がだいぶ活力を失っていたのだが、なんというか、
そこまでの悲壮感はない印象を受けた。道路の道幅がそれほど大きくないのと、アーケードじたいが簡素なのが、
その理由に挙げられるかもしれない。きちんと調べないとわからないのだが、そんなふうに思えたのだ。

  
L: 岩見沢駅からちょっと行ったところの商店街の様子。  C; いきなり現れたがっちりした建築に驚く。これは裏側。
R: 正面にまわり込むと、こんなふうになっている。岩見沢にある北海道空知支庁だ(今は総合振興局だっけ? よくわからん)。

途中には空知総合振興局があり、その向かいには岩見沢市民会館が建っていた。
市民会館はなかなか規模が大きく、駅といいこれといいよく金があるなあ、と感心する。支庁があるからだろうか。
市役所はここから東に曲がって歩き、ちょっと南に入ったところにある。空腹を覚えつつ黙々と歩く。

ようやく岩見沢市役所に到着。3階建てで、わりと古いタイプだ。広々とした駐車場からさまざまな角度で撮影する。
芝生から撮影しようとするが、水をたっぷり含んでいて、思いっきり靴の中まで濡れてしまった。
雨がやんでも芝生で靴がしっかり濡れてしまうことはけっこう多い。あらためてそのことを痛感したのであった。

裏手にまわってみたらなかなか大胆に工事中で、市はこの建物をまだまだ使っていくようだ。
庁舎の中に入るとホールにテレビが置いてあり、そこでNHKのニュースをやっていた。台風情報である。
台風4号の影響で北海道では函館辺りを中心に交通がマヒしており、鉄道が運休する事態になっている。
いま僕のいる辺りでは問題はないのだが、函館-札幌間は土砂崩れが起きたとかで現在、復旧作業中。
今日じゅうに函館まで戻る予定になっているので、長引くとモロに影響を受けてしまうことになる。
不安になりつつ市役所を後にする。そういえば去年も台風にやられたっけ(→2009.8.10)、と思い出した。

  
L: 岩見沢市役所。  C: 角度を変えて近づいてみたところ。  R: 裏側。工事中である。

市役所から駅に戻る頃には雨も確実にやんでくれた。台風はどこかへと去りつつあるようだ。
ここ岩見沢から苫小牧には、常識的には函館本線でいったん札幌を経由して行くことになる。
しかし僕はひねくれ者なので、本数のすごく少ない室蘭本線で直接、苫小牧に行ってしまうつもりである。
ところが先ほどのニュースでは函館-札幌間の電車が止まっているということで、そうなると最悪の場合、
函館まで戻れないケースも考えられる。代行バスが出るというが、苫小牧でそれをつかまえる手間が面倒だ。
苫小牧に行ってもいいか、それとも札幌へ針路を変えてバスを探すか、情報を総合して考えないといけないのだ。

結局、岩見沢駅の窓口で函館-札幌間が遅れてはいるが動いていることを確認すると、
冒険オーライということで室蘭本線ルートで苫小牧へ行くことを決断。発車までの時間を優雅に過ごすことにした。
車窓の景色を眺めているとすぐに気がつくが、岩見沢駅の北側にはレンガ造りの建物がある。
僕はこの建物がどうしても気になって仕方がなかったので、直接この目で確かめてみることにしたのだ。

 
L: 岩見沢駅の北口と南口を結ぶ自由通路。いかにもグッドデザイン賞らしい美しい空間である。
R: 岩見沢駅の北側にあるレンガ造りの建物。こりゃもう実際に行ってこの目で確かめてみるしかないのだ。

近くで見てみると、なおいい。建てられた当初からまったくリニューアルをしていないので雰囲気は抜群。
その分しっかり古びていて「大丈夫かよオイ」と言いたくもなるのだが、それ以上に風格があって素敵なのだ。
何より、現役で使用されているがゆえの説得力というか迫力がある。僕はすっかり圧倒されてしまった。

この建物、正式名称を「岩見沢レールセンター」という。外観からするとらしくない名称だが、
かつての名前を「北海道炭礦汽船鉄道株式会社岩見沢工場材修場」といった。こっちの方がしっくりくる。
詳細な建築年は不明だが、明治中期築とのこと。現在も鉄道のレールを製造する現役の工場なのだ。
鉄道や北海道観光のイベントに使用されることもあるらしいのだが、やっぱり現役の工場という無骨さがいい。
冷静に考えると、明治期のレンガ建築が現役の工場ってのは、すごいことだと思う。
そんな例はもうほとんどあるまい。ひとり感動しつつ、夢中でデジカメのシャッターを切る。

  
L: 岩見沢レールセンターを東側から眺める。  C: 敷地の北端から撮影。  R: 北側。明治期の重みを感じる。

  
L: 南東側、岩見沢レールセンターの入口。  C: もうちょっと敷地内に踏み込んでから振り返ってみた。
R: 南側から眺める。リニューアルのなされていない、本物の迫力に酔いしれる。これは本物だ!

大いに満足して岩見沢を後にする。本数の極めて少ない室蘭本線だが、その分だけ乗客は多かった。
特に多かったのが学生で、地元のおばあちゃんもいるのだが圧倒的に高校生が多い。
岩見沢を出た列車は大胆にカーブしながら北海道の平野を走っていく。
今までは稲作地帯が中心であんまり北海道らしい風景じゃないなあ、なんて思っていたのだが、
この室蘭本線の沿線は雄大さといい稲があまりないことといい、とても北海道らしい風景を見せてくれた。
ようやく天気が回復しはじめたということを考慮したとしても、開放的な景色の中を走り抜けて気分がいい。
窓を開け、風を顔の正面で受けながら、僕は初めての「北海道らしさ」に感動を覚えて過ごした。

●15:06 岩見沢-16:33 苫小牧

岩見沢発の室蘭本線は定刻どおりに苫小牧に到着したが、函館方面への室蘭本線はそうはいかない。
苫小牧駅に着いて僕がまず最初にしたことは、乗るべき特急列車の遅れの確認だった。
電光掲示板によれば30分ほどの遅れということで、1時間ぐらい余裕がある。
とはいえもう夕方近くなって日も傾いてきたので、苫小牧市役所の撮影は諦めた。
(当初は深川市役所を訪れる予定だったのだが、天気がよくないモヤモヤを振り払うべく富良野行きを決行。
 青春18きっぷを使わずに函館本線で特急に乗れば苫小牧市役所の撮影も可能になる、という計算だった。
 しかし台風による札幌-函館間の運休トラブルでゴタゴタしたこともあって苫小牧行きが微妙になり、
 結局、苫小牧市役所の撮影は諦めたのだ。だからここで時間ができても、もういいや、と開き直ったわけだ。)

苫小牧駅周辺をプラプラして過ごす。観光案内所でやたらめったらパンフレットをもらい、駅を撮影。
僕は苫小牧というと工業都市で都会というイメージを持っていたのだが、実際に訪れてみるとそうでもない。
しっかりと街を歩きまわったわけではないので誤解している可能性もよくわかっているつもりだが、
それにしても駅周辺を歩いたかぎりでは、ダウンスケール、寂れた感じが手に取るようにわかって切ない。
いずれこれはしっかり歩いて確かめる必要がありそうだ。いつか札幌にリベンジしたいと考えているが、
その際に今回訪れることのできなかった室蘭と一緒にぜひチェックを入れてみたいと思う。

  
L: 苫小牧駅にあった絵。ホッキ貝とホッケーをかけているのはわかるけど、「HP」って何? 「TESS」って何?
C: いかにも製紙工場の街・苫小牧らしい風景だと思って撮影。もともと八王子千人同心が開拓した街だって。
R: 苫小牧駅。周辺にはいくつかビルがあるが、空洞化がかなり激しい印象がした。

まだ時間が余ったので、北口にあるドンキホーテに行ってみた。かつての駅前デパートがドンキというのは、
なんとも違和感があるものだ。最上階にはバッティングセンターがあったので、当然、打ってみる。
打席に立つのは久しぶりだったが、左打席からビシビシと鋭い当たりを連発できたのでいい気になる。

●17:55ごろ 苫小牧-21:15ごろ 函館 [特急]スーパー北斗18号

予定を30分ほど遅れて苫小牧を出た特急列車は、結局1時間ほどの遅れで函館に到着した。
まあ無事に函館に到着できただけでも万々歳である。台風で運休してもっと大きい被害を受けた人がいる中、
この程度で済んだことは実にラッキーだったと言えるのではなかろうか。助かった。

函館に着いたときにはもう空腹がひどい状態で、背中の重い荷物にフラフラしながら急いで歩いていく。
札幌では味噌ラーメンを(→2010.8.7)、旭川では醤油ラーメンを(→2010.8.10)食べたわけで、
こうなりゃ北海道の三大ラーメンを制覇するしかないのである。そして時間的に今しかチャンスはないのだ。

あらかじめ当たりを付けておいた中華料理店「鳳蘭」は、今まさに暖簾を下ろそうというところ。
慌てて「列車が遅れて…」なんて言いながらお願いするのであった。店の人は快く中に入れてくれた。
大盛の塩ラーメンを注文。函館の塩ラーメンは前にも食べたことはあるが(→2008.9.15)、
東京で食べたのとあまり変わらなかった気がして、やや地元密着型の店をリストアップしておいたのだ。
天井の蛍光灯と格闘しつつ撮影。これで任務完了なのである。一回の旅行で三大ラーメンを制覇するとは、
なんとも贅沢なものだが、それはそれで絶対的に正しい北海道の味わい方だと思うのである。

 函館ラーメン。塩ラーメンは素材本来の味が楽しめて好きだ。

函館では完全なるカプセルホテルに泊まったのだが、一泊1800円。いやーこれは凄い値段だ。
シャワーを浴びると即、就寝。今日は本当に疲れた。でもなんとかなって本当によかった。


2010.8.11 (Wed.)

せっかくじっくりと北海道旅行をしているわけだから、旭川から行ける最果てに行ってしまおう!
……というわけで、朝イチで宗谷本線に乗り込む。そう、行き先は宗谷という名の岬、日本の最北端だ。
今日の予定は、片道約6時間かけて各駅停車で旭川から稚内までを往復するのだ(もちろん青春18きっぷ使用)。
誰もが呆れるバカ旅行の究極形と言っても過言ではあるまい。でもそれは、人によってはロマンと表現できるものだ。

しかしながら最大の懸案事項は、なんといっても雨である。この北海道旅行中はハッキリしない天気の連続で、
昨日になってようやくきちんとした青い空を目にすることができたのだが、今日は完全に雨なのである。
天気予報によれば降水確率100%で、もうこりゃどうしょうもない。お手上げ状態だ。
正直言って、昨夜の段階では、稚内行きを断行するかどうかかなり迷った。疲れもだいぶ溜まってきているし、
一日このまま旭川でのんびりしてラストスパートに備えるのもいいのではないか、と。
でも結局、見知らぬ街に対する好奇心が勝った。天気なんて関係ない、僕はこの体に街の感触を刻み込みたいのだ。
それで傘をさしてセイコーマートが営業を始めるよりも早く旭川駅に行き、宗谷本線に乗り込んだのである。

●06:05 旭川-11:52 稚内

宗谷本線の車内は驚くほど客が多かった。しかも明らかにふつうの客ではない、鉄っちゃんが多かった。
僕はこの事態にちょっと危機感を覚えた。鉄ちゃん同士が調子に乗ってベラベラしゃべり、
聞きたくもないマニアックなトークが垂れ流し状態になるのが目に見えていたからだ。
果たして車内には聞こえよがしのハイテンショントークが充満。鉄っちゃんたちの目的地はどう考えたって、
終点の稚内に決まっている。6時間近くも付き合わされるのは本当に勘弁してほしい。
そういうわけで、ヘッドフォンを装着して外の音をシャットアウトすると、パソコンで日記の執筆を開始。
ときたま窓の外の景色を眺めるが、雨に包まれて輪郭をなくした緑が連続する光景しか見えなかった。

音威子府(おといねっぷ)駅に着いたのが9時少し前。ここで列車は28分の停車となる。
事前に調べた情報によれば、この駅は駅そばが有名らしい。喜び勇んで列車を降りて、改札を抜ける。
さあいざ食べん!と駅そば屋を探したら、やっていない。残酷にもそこには「水曜日定休」の文字が。
激しい雨といい、鉄っちゃんだらけの車内といい、この仕打ちといい、もうどうすればいいのか。
折りたたみ傘をさしてフラフラと駅舎を出ると、あてもなく音威子府駅の周辺を徘徊するのであった。
国道に面してスーパーが1軒あったが、いかにも田舎の村のスーパーといった風情。
あとは音威子府名物の蕎麦を売る店がいくつかあったが、つくった蕎麦を食べさせてくれる店はなかった。
朝の9時から絶望感に苛まれるという、非常に厳しい経験を味わった。それでも前向きにならないと旅は楽しめない。
列車の中に戻ると、気に入った音楽を聴きながら、どうにか気分を良い方向にもっていこうと努めるのだった。

  
L: 音威子府駅。周囲にはこれといった名物がなかったのが残念。  C: 休憩中の宗谷本線。雨がひどい。
R: 宗谷本線の駅舎は、このようにかつての客車を改造したと思われるものがとても多かった。写真は勇知駅。

定刻どおりに列車は稚内駅に到着。ついに北の果てに来たのだと思うと、雨の中でもじんとくるものがある。
今日は荷物の大半を旭川の宿に置いてきているので、コインロッカーのお世話になる必要はない。
改札を抜けると、頭の中にある稚内市の大まかな地図をもとに、まずは稚内市役所まで行ってみることにした。

  
L: 宗谷本線の先っぽはこうなっているのだ。  C: ついに来たぜ最北端。
R: 稚内駅。駅舎の右半分が、新しくできた稚内駅前ビルに隠れてしまっているのが残念だ。

途中で稚内の駅前商店街を横切る。稚内は半島の先端で、商圏が物理的に南に限定されている。
そして街を活性化させるような要因がこれといって存在しない。商店街には非常に苦しい条件しかないのだ。
でもどうにかゴーストタウン化しないで耐えているという印象がする。しかしそれもギリギリのところである気もする。
ここまで地理的な条件が特殊な街は、いったい何をどうすればいいのか、本当に難しい。

北海道道106号に出て、ちょっと南に戻ったところにあるのが稚内市役所。なかなか頑丈そうな建物だ。
背後にはノシャップ岬へそのままつながる台地を抱えており、稚内の独特の地形が顔を覗かせている。

  
L: 稚内駅前の商店街。  C: 稚内市内の交通案内板。さすが最北端だけあり、ロシア語の表記もあるのだ。
R: 稚内市役所。1967年竣工だが、わりときれいめ。がっちりした箱型をしている。

さて、市役所前にはバス停があり、時刻表を調べてみたらもうそろそろノシャップ岬行きのバスが来る頃。
ノシャップ岬に行って戻ってきても宗谷岬行きのバスには十分間に合う見込みなので、迷わず行ってみる。
定刻よりやや遅れてバスが来た。乗車券を取って席に座る。乗客は観光客を中心に10人ほど。
バスは北へと進んでいくが、ずっと住宅が続いている。けっこうノシャップ岬に近いところまで住宅は続く。
人間はたくましく家をつくって生きているんだなあ、なんて考えているうちに終点のノシャップ岬停留所に着いた。
停留所は砂利の敷かれた空き地で、柵の向こうでは草がいっぱいに生い茂っている。
よく見るとそれらの草の背丈はずいぶん高く、地面がその分だけ低かったのだ。まるで草の海のようだ。
そしてそのずっと奥には、さっきの市役所裏からずっと続いている台地が緑の断崖を形づくっていた。
これはなかなか独特な風景ではないかと思う。

 道北の特に北端部は、このような地形・植生が非常によく目立つ。

ボサッとしているわけにもいかないので、さっさとノシャップ岬へと向かう。
岬を左へまわり込む道と分岐してまっすぐ進むと、何軒か食堂が並び、その右手の先に大きめの施設がある。
水色が稚内市青少年科学館で、その奥の白いのがノシャップ寒流水族館だ。
両方に入る時間はないが、片方なら行けそうだ。岬に行った帰りに寄ることにしよう。
さらに進んでいくと、海を眺める展望スペースがある。ここがノシャップ岬の突端だ。

念のために説明しておくと、稚内には主要な岬が2つある。宗谷岬とノシャップ岬だ。
宗谷岬は言わずと知れた日本の最北端で、これは市街地からはずれた東側にある。
対するノシャップ岬は市街地からまっすぐ北に行った位置にある。最北端ではないが、交通の便がいいので、
前述のような施設がつくられた観光地となっているのだ。で、まずはノシャップ岬から訪れてみたわけだ。

天気が良くないので、海もこれといって美しさを感じさせてはくれなかった。
ただ、バスに乗っている間にいつのまにか雨がやんでおり、ちょっとは晴れやかな気分で海を眺めることができた。
この海のずっと先にはサハリンがあり、オホーツク海があり、シベリアを抜けた先は北極なのだ。
北極という場所がこの先にあるんだ、と感じたのは初めてだった。僕の中の地球が、以前より具体的に像を結んだ。

  
L: ノシャップ岬にある施設、稚内市青少年科学館(右)とノシャップ寒流水族館(左)。
C: ノシャップ岬のオブジェ。  R: この先にサハリンがあり、オホーツク海があり、そして北極がある。

せっかくなのでノシャップ寒流水族館に入ってみた。もちろん、日本で最も北にある水族館である。
まず最初にお出迎えしてくれたのが、ゴマフアザラシ。大きめのプールに10頭近くが優雅に泳いでいる。
100円でエサの魚をあげることができる。家族連れがあげているのを見たのだが、やつら、エサめがけて飛ぶぜ。
向かいの小さいプールには、ペンギンとやっぱりアザラシ。水面に対して直立してたたずむアザラシを観察できる。
これだけアザラシと近い距離で触れ合える施設はなかなかないんじゃないか。思わぬ収穫である。

建物の中に入ると、すっと寒くなる。そこに現れたのが、クリオネ。
クリオネの生息する海は本当に冷たいので、水槽の温度もかなり下げられている。
そのためにガラスが結露してしまい、必死で拭き拭きしながら観察。そして撮影。
クリオネは前にもアクアマリンふくしまで撮ったが(→2009.6.12)、今度は前より面白く撮れたと思う。
しかしやっぱりクリオネの撮影は難しい。小さいし動きが素早いし、性能のいいカメラじゃないとつらい。

寒流水族館と銘打っているだけあり、寒いところの生物が多いのかな、なんて思ったら、
熱帯魚も多く飼育していて意外と節操がなかった。とはいえ規模は小さいながらも種類は豊富と言ってよく、
予想していたよりもかなりがんばっているマジメな水族館という印象である。稚内に行ったらオススメだ。
途中にはガラ・ルファ、よけいな古い皮膚を食べてくれるといういわゆるドクターフィッシュがいて、
水槽に手を突っ込めるようになっていた。そりゃもちろん問答無用で突っ込みますわな。
しかしなかなか食いついてくれず、5分ぐらい入れていたのだが2回しか食べにこなかった。
感触は、くすぐったいわけでも痛いわけでもなく、まさに魚にキスされている感じだった。

  
L: 考えるアザラシ。こんな写真が撮れるくらいに近づける水族館ってのは、けっこう珍しいのではなかろうか。
C: 「流氷の天使」ことクリオネさん。  R: クマノミである。なるほどこりゃ確かにかわいいや。映画化もうなずける。

ノシャップ寒流水族館は、先に2階に入ってから1階に下りるという構成になっている。
1階のメインを張っているのは、イトウ。円形のフロアを囲むように水槽があり、そこをけっこうな速さで泳いでいる。
イトウはサケの仲間であり、日本最大の淡水魚として知られている。実際に見ると、その大きさに圧倒される。
そして別の小さな水槽には、そのイトウの稚魚が泳いでいる。かわいい稚魚があれだけ大きく成長する、
その差に大いに驚いた。最後は寒い地域に生息するイバラエビ(イバラモエビ)。なるほど確かにトゲだらけだ。

  
L: 水槽を泳ぐイトウ。けっこう速くて、撮影するのに苦労した。食べるとおいしいらしい。
C: イトウの稚魚。こんなにかわいいのがあんなにでっかくなるなんて、ちょっと信じられない。
R: イバラエビの皆さん。これまたけっこうおいしいらしい。北の海は豊かでございますなあ。

思いのほかしっかりと寒流水族館を堪能してしまった。おかげで昼メシを食いそびれてしまった。
停留所に戻ってバスに乗り込み、稚内駅前まで戻る。次はここからまたバスで宗谷岬を目指すのだ。
さっき稚内駅を撮影したときにジャマしていた稚内駅前ビルが、宗谷岬行きのバスのチケット売り場なのである。
往復だと割引料金になるので、あらかじめここでチケットを購入しておかないと損なのだ。
やっぱり駅前にある砂利敷きの空き地がバスターミナルになっていて、ここで並んでバスを待つ。
そのうちに再び雨が降り出した。宗谷岬はどうにか天気のいい状態のときに訪れたかったので、がっくりする。
空き地には同じ目的の観光客の皆さんがぞろぞろと集まってくる。なかなかの数で、バスは満員になりそうだ。

果たしてほぼ満員の状態でバスは発車。途中で南稚内駅周辺に買い物に来ていたお年寄りの皆さんを乗せ、
バスは軽快に宗谷岬を目指して走る。地図で見るかぎりはそれほど駅から距離がありそうには思えないが、
実際に走ってみるとしっかりと時間がかかる。稚内のロードサイド店地帯から海岸沿いの道へと入る。
左手は海だが、右手はずっとさっきのノシャップ岬と同じ緑の台地、宗谷丘陵がそびえている。
宗谷岬への道は予想外に曲がりくねっていた。海岸線を丁寧になぞっているので当たり前かもしれないが、
やはりこれも地図からは感じられなかったことなので、僕には意外だった。

稚内駅を出てから45分かかって宗谷岬に到着。窓の外を眺めていたらそんなに時間を感じなかった。
バスが出発してからしばらくしたところで雨はやんでくれ、最悪の事態を免れることができた。
それどころか、北の水平線の先にはうっすらと青い空が見える。
天気予報の降水確率が100%だったことを考えると、これはもう十分に奇跡だ。
バスを降りて、地面を踏みしめる。ついに最北端の地に来た。僕は日本のあちこちに行ってはいるが、
明確に日本の端っこに来たのは初めてのことだ(北方領土の難しい問題はとりあえずナシにして考えて)。
これより先には外国しかない。落ち着いて考えると、これはなんとも独特の感覚だ。

日本最北端の地であることを示すオブジェは、観光客の皆さんの記念撮影で大人気だ。
バイクやライダーの姿が目立っている。なるほどそうやって北海道一周をやっているわけか、と納得。
ぽけーっとオブジェを眺めていたら、記念撮影を頼まれた。いいですよと応じて撮影したら、
かわりに僕を撮ってくれるとのこと。お言葉に甘えて撮ってもらう。よく見たら周りもみんなそうしていた。
日本の端っこでそういう助け合い精神が盛んに発揮されているというのが、妙にほほえましく思えた。

海岸に立って海と向き合う。そうしたら、厚い雲の隙間のちょっとだけ青い空のかけらの下で、
さらに深い青に染まった陸地が見えた。サハリンだ。宗谷海峡の向こう、確かにサハリンが見える。
かつてあそこまで日本は領有していた。最果ての、さらに最果て。そして今は異国の地。
今朝、旭川を出発したときにはとても見ることなどできないと思っていた場所が、はっきりと見える。
かの地で今、人はどのような生活を送っているのだろう。僕らと同じように、でも異なった様式で、
人間が暮らしている。すぐ向こうにある島なのに、言葉が異なっていて、制度が異なっている。
考えだすとキリがない。でも確かに、僕はこの目で国境を見た。

  
L: 宗谷岬にある日本最北端の地であることを示すオブジェ。観光客に大人気である。
C: 撮影してもらっちゃいました。最北端な私。  R: 宗谷岬から見えたサハリン。思っていたよりも近い、しかしとても遠い。

時間いっぱい、宗谷岬のあちこちを散策してみることにする。
地図では何もないように見える宗谷岬周辺も、やはりきちんと観光客相手に土産物屋は存在している。
むしろ市街地に近かったノシャップ岬よりも店は多く、実に多くのご当地グッズを売っていた。
しっかりとした賑わいがあり、さっき寂しげな稚内の駅前商店街を歩いた身としては、正直ほっとした。

  
L: さっきのオブジェの近所にある、間宮林蔵の像。探検家として知られるが、幕府隠密としても暗躍したそうだ。
C: 宗谷岬周辺にはきちんと土産物屋が何軒もあって、なんだか安心した。賑わってるじゃん!
R: 宗谷丘陵に上ってみると、実に大らかな風景が目の前に現れる。奥の方は牧場になっているのだ。

さっき道北の北端部の地理的な特徴ということで書いたが、ノシャップ岬も宗谷岬も、台地がある。
(厳密に言うと台地ではなく、丘陵がそのまま海に面していて、それを下から眺めているだけなのだろう。)
その台地部分に上ってみると、なだらかな緑が脈を打つように広がっていて、まったく異なる景観となっている。
そして宗谷丘陵の突端には、大岬旧海軍望楼跡がある。旧帝国海軍が1902(明治35)年に建造した要塞だ。
これがそのまま宗谷岬の展望台として今も残っている。中には入ることができないが、外周部分から岬を眺める。

  
L: 大岬旧海軍望楼跡。  C: まわり込んでみるとこんな感じになっている。  R: 望楼跡より眺める宗谷岬周辺。

残った時間で土産物屋を見てまわり、もう一度オブジェの辺りを散策して過ごす。
やがてやっぱり定刻よりも少し遅れてバスが到着。先ほどの行きのバスとほぼ同じメンバーを乗せて出発する。
帰りのバスは声問という集落を経由して、1時間近くかけてゆっくりと稚内駅まで戻る。
途中で稚内空港の脇を通ったのだが、やはりここでも緑の海が平野部分を埋め尽くしてるのが印象的だった。

稚内駅に着くと、稚内港北防波堤ドームを見てみることにした。少々歩くと、すぐに到着。
ギリシャ建築っぽい柱のデザインが、僕にはとても下品に感じられた。なんだこりゃ、と首をひねる。
防波堤と桟橋から駅までの乗り換え通路を兼ねた建造物なのだが、ギリシャ風にする理由がわからない。
てっきりバブル期に調子に乗ってつくっちゃったのかと思ったら、1931年から5年かけてつくったとのこと。
おそらくリニューアルを積極的に行ったせいで、時間経過がもたらす風格がリセットされてしまったのだろう。
用途が用途だけに、古くなるまま残すわけにもいかない。これはなかなか難しい事例だと思う。

 北防波堤ドーム。

駅まで戻る道をまっすぐ進んでセイコーマートまで寄って、晩メシを買い込んでおく。
というのも、やっぱり旭川への帰りもきっちり6時間かかるので、食料が必要になるのだ。
途中、名寄駅で1時間の休み時間があるが、時間的にも場所的にもきちんとメシが食えるとは思えない。
ビニール袋にたっぷりと食べ物飲み物を詰め込んだ状態で駅まで戻った。

待合室で列車を待つ。先に特急が出発する。疲れている身には、それが本当にうらやましい。
改札が始まるまでの間、稚内での動きをぼんやりと振り返ってみる。
天気が良ければ最高だったのだが、要所要所ではきちんと雨がやんでくれたので十分満足である。
旭川で体力回復に専念するという選択をしなくてよかったと思う。やはりチャレンジしなくちゃいかんのだ。
やがて改札が始まり、充実感でいっぱいになりながら宗谷本線に乗り込む。稚内、本当に来てよかった。

●17:10 稚内-20:50 名寄

南稚内を過ぎると車窓の風景は一気に緑一色に変化する。植物の海を列車は掻き分けて走る。
さっき稚内駅の売店で買っておいた「稚内牛乳」を飲む。期待していた以上に濃い風味でちょっと興奮。
全国各地の濃い牛乳をいろいろ飲んできたが、その中でもこれは群を抜いて味が濃い。
製法がちょっと特別らしいのだが、牛乳本来の味が衝撃的なまでに残っている。これはぜひまた飲みたい。

 稚内牛乳と北海道限定のはっさくカツゲン。カツゲンは何種類あるんだ?

再び雨が降りはじめた。南稚内の次、日本最北の無人駅である抜海駅で列車が停車する。
木造の立派な駅舎に「抜海駅」と書かれた看板が掛かっている。マニアには有名な駅で、
時間があれば僕もここでボケッとしてみたかったが、残念ながらそんな余裕はない。
列車はゆっくりと走りだす。やはり、低い地面を覆いつくす背の高い草たちが緑の海をつくっている。
そんな中、ところどころで木々がひょっこり顔を出し、緑の海の向こうで台地が本当の地面をやっとさらけ出す。
まるで人間の到来を許さないと言わんばかりに、植物たちは自分たちのテリトリーを形成しているようだ。
しかしそれも、列車が南へ進んでいくうちに、開拓された牧草地や農地へと変化していく。
やがて日が暮れ、風景は闇に包まれた。

●21:56 名寄-23:27 旭川

名寄から旭川までの間は、ほとんど寝ていたのでよく覚えていない。
ほかの乗客たちもぐったりと寝ていて、おしゃべりな鉄っちゃんたちすら夢の中だった。
旭川に着いて宿の部屋に戻ったのは、もうほとんど日付が変わろうかという頃。
シャワーを浴びてさっぱりとして、残りの体力を振り絞って明日に向けて荷物の整理を済ませると、即、就寝。
とっても幸せな気分だったが、それをじっくり味わうヒマもなく、すぐに意識が消えた。


2010.8.10 (Tue.)

今日も朝早く起きる。でもおとといや昨日と違うのは、荷物をまとめてBONANZAの中に入れること。
札幌駅で集めたパンフレットのせいか、一段と重くなっている気がする。旅の時間に比例して背中が重くなる。
でも今日は少し天気が回復しそうな気配である。いい気分で宿を後にすると、札幌の街の感触を確かめるように、
一歩一歩を踏みしめて駅を目指す。すすきのから狸小路を経て大通公園へ。商業地帯からオフィス地帯へ。
朝日を受ける札幌駅と向き合うと、この街と別れることがひどくセンチメンタルに思えた。きっとまた来る。

●06:01 札幌-08:55 旭川

札幌から旭川へ移動するにはもちろん特急の方が便利に決まっているのだが、こちとら青春18きっぷ。
各駅停車の始発にのんびり揺られて朝の9時直前に到着する以外の選択肢などないのだ。
というわけで、本日のテーマは旭川である。北海道第2の規模を誇り、かつては軍都として栄えた歴史を持つ。
旭山動物園という超強力な観光コンテンツを擁する街で、僕もまずはそこから攻めてみるつもりである。

函館本線はのんびりまっすぐ北東を目指す。車窓の風景は緑が圧倒的に多い。次いで住宅。
緑は農地として管理されている印象が強く、稲作ばかりだ。つまり北海道らしいステレオタイプと異なる。
やっぱり北海道もしっかりと日本なんだねえ、と失礼な感想を抱きつつ過ごすのであった。
平和な農村風景は延々と続き、それは旭川の一駅前辺りまでずっとそうだった。
近文駅から石狩川を渡ってようやく都市らしさが漂いだす。そしたら急にビルが生えてきて、旭川に到着。

 旭川駅。駅舎は画面左にずっと伸びていて、さまざまな店が入っている。

旭川に着いていちばん最初にやるべきことは何か。僕の場合、それはレンタサイクルの申し込みだった。
駅の端っこにある観光案内所に入るとさっそく受付で手続きし、鍵をもらう。それからコインロッカーに荷物を預ける。
そうして準備が整ったら旧アサヒビル前のバス停に行って旭山動物園行きのバスに乗り込むのだ。
本当はこれらの作業を15分で済ませるつもりだったのだが、さすがにそれは無理だった。
というか、旧アサヒビルというだけあり、すでにビルは解体されていて、探すのに少し手間取った。
でもその場所は観光案内所からホントにまっすぐロータリーを越えた先だったので、なんだよもう、とがっくり。

結局、予定より1本遅いバスで旭山動物園に向かうことになった。余裕ができたのでセイコーマートで飲み物を買う。
バス停に戻るとなかなかの行列になっていた。日本語以外の言語も平然と飛び交っており、
旭山動物園の国際的な人気にあらためて驚かされた。バスはほぼ30分間隔なのでしばらくボケッとして待つ。
バス停のすぐ脇ではタクシーが客を待ち構えていたが、誰も乗ろうとしなかった。家族連れなら大差ないと思うが。
そうこうしているうちにバスがやってきた。ほかの路線はほとんど客がいないのに、旭山動物園行きは満員になる。
バスに乗るときに振り返ったら、前述の駅前ロータリーにかかるほどに行列が伸びていた。実に恐ろしい人気だ。
運賃は片道400円で、実際にその料金分だけしっかり走る。バスは市街地を離れ、緩やかに坂を上がっていく。
大地の広がり方が、やはりなんとなく北海道だ。本州のどこかにも似た風景はどこかにあると思うのだが、
ゆったりとした大らかな印象がする。奥行きが感じられるというか何というか。そんなことを考える。

バスは田舎の道を行き、さらに坂を上がっていく。やがて旭山動物園の駐車場が見えてくる。
その中の一角にあるバス停にすべり込んで到着。時刻はちょっとだけ10時を過ぎたところ。まあこんなもんだろう。
入口で入場券を購入し(大人800円)、いよいよ中へと入る。まずはオブジェがお出迎えなのだが、
その先にはまっすぐな一本道が伸びている。いったんゆっくり下っていって、ある程度行ったら上りになっている。
動物園というのは入口から入るとすぐにオリがあるものだと思っていたので、これには少し驚いた。
進んでいくと右手に水鳥のエリア「ととりの村」が現れる。フラミンゴは片足で熟睡中。鴨や黒鳥が気ままに泳ぐ。
圧倒されたのが、びっしりと細かい字で詳しく書いてある説明。ぜんぶ手書きで、読もうとすると目が疲れる。
これも旭山動物園独自の工夫ってことなのだろう。残念ながら当方、隅から隅までチェックする「ずく」はない。

  
L: 旭山動物園入口。旭山動物園は日本最北の動物園ながら、上野動物園と並んで最も入場者の多い動物園。
C: 中に入るとまっすぐに道が伸びている。右手に「ととりの村」があり、それを越えると動物たちが本格的に登場。
R: びっしりと細かい字で書き込まれた説明。タイトルは「あさひやまどうぶつえんのこだわり」。こだわりすぎだよう。

目についたのでペンギンから攻めてみることにした。人気の行動展示を見る行列は朝だというのにとんでもない長さ。
(建物の中に入り水面を見上げて、頭上で飛ぶように泳ぐペンギンたちを眺めるという仕掛けになっている。)
こんなのに並んでいたら日が暮れちまわァということで、ほかの動物園のときとまったく同じようにペンギンを観察。

  
L: ペンギンの皆さん。キングもジェンツーもフンボルトもイワトビもいっしょくた。  C: ペンギンって妙に人間くさいんだよな。
R: こちらはアザラシの皆さん。今日は本格的に暑くて参ったのだが、水中にいる皆さんはお構いなし。気楽だなあ。

続いては「もうじゅう館」。大勢の観客に安眠を妨害されたのか、オスのライオンがガラス越しに吠えた。
でも観客たちはかえって大喜びなんだからたまらない。ライオンはやる気が失せたようで、以後はおとなしくなった。
まったく落ち着かないでぐるぐる回っているのがトラ。ほかの動物園でもそうだったが、トラはとにかく回る。
なぜそういう習性があるのかは知らないが、延々とぐるぐる回って過ごしているのだった。
そしてヒグマ。現実に山で遭うのはごめんだが、動物園で見る分にはかわいい。人間とは勝手である。

  
L: ライオン。お勤めご苦労様です。  C: アムールトラ。なぜトラは回るのか。  R: ヒグマ。道産子らしいです。

裏手に回ると「オオカミの森」と「エゾシカの森」。オオカミは茂みの中に隠れていたのだが、やはり眼光が違う。
よく考えたらオオカミを生で見るのは初めてかもしれない。しばらくにらめっこをするのであった。
エゾシカたちは北海道とはいえ夏の日差しにやや参り気味で、日陰で固まって動かない。
その姿を見て、夏の動物園というのはアフリカ系の動物以外は「ハズレ」ってことかもしれないな、と思う。
特に旭山動物園みたいに北にある動物園は、冬にこそ本領を発揮するものなのかもしれない。

  
L: やっぱり動きまわるオオカミを見たかったのだが、夏場にそれは難しいということか。残念。
C: あんまり元気のないエゾシカ。ツノを接着して重さを体験できるヘルメットが置いてあったよ。
R: 特別天然記念物のタンチョウ。実に特徴的なカラーリングである。

 サル地帯の奥まったところには、いわゆる「八丈島のキョン!」がいる。

そのままサル類のいるエリアを通る。名物の行動展示では空中を移動するオランウータンなどが見られるのだが、
この時点では特にこれといった面白い動きはなかったので、そのままスルーして先へと進む。
するといかにも動物園らしい雰囲気の一角に入る。1967年の開園当初からある「総合動物舎」だ。
時代に合わせて施設を増強していく旭山動物園は、動物園の施設史を体現している存在とも考えられるわけだ。
そういう視点に気づいてしまうと、もう何もかもが面白くってたまらない。じっくりやれば、興味深い分析ができそうだ。

  
L: 仲むつまじく並ぶモモイロペリカン。  C: オリから必死に首を伸ばして葉っぱを食べようとするキリン。これは面白い。
R: キリンのオリ付近のベンチ。背には「贈呈 KIRIN 北海道キリンビバレッジ株式会社」の文字が。しっかりしてんなあ。

いちばん奥まったエリアは、人と動物が触れ合える「こども牧場」。上野動物園にも似たのがあった(→2007.3.24)。
大の大人が独りで「どうぶつさんがいっぱぁーい!」とはしゃぐのもどうかしているので、淡々と見てまわる。
アオダイショウとチンチラという奇妙な取り合わせからはじまり、モルモットとウサギがうじゃうじゃいるのを見る。
一匹一匹はかわいくても、さすがにこれだけ数がいるのを見ると、やや気持ちが悪い。
屋外ではアヒルがボケッと歩きまわっていたりポニーがのんびりエサを食べていたり。
造られた小さな岩場の上でヤギが一頭、りりしく立っていたのが妙に印象的だった。

  
L: ヨチヨチ歩きのアヒルさんたち。  C: モルモットもこんなふうに集まっていると、ちょっと引いてしまうわ。  R: ポニー。

 なんだか、「がらがらどん」って感じの風格が漂っております。

あとは気ままに、かつくまなくあちこちを見てまわる。旭山動物園は、決して敷地面積としては広くないと思う。
しかしいろいろと寄り道をする形でないと、すべての動物たちを見ることができないようになっている。
つまりそれだけ、敷地内の動物の配置は複雑なのである。飽きさせず、かつそこまで疲れさせず、いいバランスだ。

  
L: 天然記念物で絶滅危惧II類指定のオオワシ。本物はやはり大きくて迫力がある。  C: 悠然としているワシミミズク。
R: 旭山動物園内の自動販売機。とにかくこういった細かい工夫があちらこちらにあるのだ。

さっきスルーしたサル類地帯をもう一度訪れてみる。先ほどよりはややにぎやかになっている。
ひととおり見終わって心理的にも余裕ができたので、じっくり見てみようと思い、「チンパンジーの森」へ。
まずは室内の遊具で勢いよく遊んでいるチンパンジー軍団をガラス越しに眺めて歩く。
中はやや暗ったい印象で、あまり清潔ではない感じがする。でもみんな気にせず遊んでいる。
そして上の階に上がると今度は、外で悠々とくつろいでいるチンパンジーたちを内側から眺めるようになる。
これが非常に面白い。樹上生活を模した金網の上で集まって過ごす彼らは、とても人間くさいのだ。
特に、おっさんくさい。人間のおっさんと大差ない動きをし、その動作ひとつひとつがユーモラスなのだ。
中に一頭の幼いチンパンジーがいて、もう本当にかわいい。ずっと見ていても飽きないかわいさだ。
それにしてもやはり、ガラス一枚挟んだだけというこれだけの至近距離でチンパンジーを見られるのはすごい。
さすがは天下の旭山動物園だなあ、と心底感心した。わざわざ来た甲斐があったというものだ。

 
L: 樹上生活をしているチンパンジーはこんな感じで群れているのだろう。こんな間近で観察できるとは、さすが旭山。
R: めちゃくちゃかわいい子どものチンパンジー。しかしこれは本当にいい写真が撮れたと思う。会心のデキだ。

「くもざる・かぴばら館」もじっくり見てみる。これはどちらも中南米に生息しているということで、
クモザルとカピバラを同居させているのである(混合展示)。基本的にはお互い干渉せずに過ごしているのだが、
見ていたらクモザルがカピバラにちょっかいを出し、本気で怒ったカピバラが猛スピードで反撃する場面があった。
カピバラというと非常に穏やかな生き物というイメージがあったので、意外な一面を見た。

  
L: 「くもざる・かぴばら館」。木をイメージしたクモザルの遊具は、完全に来場者の頭上に張り出している。おしっこ注意。
C: ジェフロイクモザル。非常にイタズラ好き。頭上をスイスイと移動するのを見上げるのは実に新鮮な体験である。
R: カピバラ。10年くらい前から、「世界一大きなネズミ」として急激に世間に浸透した動物だと思う。飼ってみたいかも。

昼近くになって調子が上がってきたのか、サル類のみなさんはだいぶ元気に動くようになってきたようだ。
こりゃ面白いなと、こっちのテンションも上がってくる。次はニホンザルの「さる山」だ。
ふつう動物園のサル山は上から見下ろすだけで終わりなのだが、旭山動物園は違う。
上から眺めることもできるし、そこからスロープを下りていって360°サルの様子を観察することもできる。
グラウンドレベルに下りれば、エサを探して木材のチップをひたすらほじくり返すサルたちとご対面。
やはりこれだけ間近でニホンザルと向き合える場所はそうそうあるまい。観察していると本当に面白い。
そしてここでも赤ちゃんが登場。ほかのサルのお腹や背中に必死でしがみつくその姿は、
もう見とれてしまうよりないほどにかわいいのである。このかわいさは反則だろ、と思いつつ観察。

 
L: さる山と、そこから眺める旭山の街。なかなかの絶景である。  R: さる山。人間も冒険心をくすぐられるつくりだ。

  
L: 「おう、お前。遠いところからよく来たな。まあゆっくりしてけや」
C: 赤ちゃんがかわいすぎる。AFのせいでピントが金網にいってしまい、微妙にぼやけてしまったのが残念。
R: サルの運動神経に対抗しよう!ということでさる山のまん前には子ども向けの遊具が設置されて、けっこうな人気。

知能のそれほど高くない動物たちは自己の欲求に正直というか、生物として与えられた行為しかしない。
だから生物学的な環境に対する反応は鋭くても、社会的な環境に対する反応はほとんどしてくれない。
つまり、カメラを向けてもそのことを認識してくれないので、いい写真が本当に撮りづらいのだ。
ところが、さっきのチンパンジーもそうだが、知能の高いサルたちは社会的な環境の変化に反応する。
ヒトに見られていることに気がつき、そのうえで行動をとったりとらなかったり、まあ気まぐれなのだが、
少なくとも彼らは見られていることを意識することができる。そこが決定的に異なっているのだ。
そして彼らはヒトが自分たちが動くことで喜ぶことを理解しているので、微妙に動きのサービスをしてくる。
僕はそこにうっすらとコミュニケーションの匂いを感じるのだ。だから賢いサル類は見ていて飽きない。
ましてそんな彼らを間近でじっくりと見られるとくれば……。
旭山動物園の本当の見どころは、サルたちにある。そう僕は確信している。

最後に訪れたのは、おらんうーたん館。高さ17mの橋を渡るオランウータンが観察できる、
旭山動物園の中でも屈指の人気を誇る施設だ。最初に通ったときには大した動きはなかったのだが、
帰り際に通りがかったら周りにものすごい人だかりができており、もしやと思ったらビンゴ。
オランウータンの親子が今まさに橋を渡らんとす、というところ。必死でデジカメを構えてシャッターを切る。
まだ3歳だという子どものモリトは最初、母親の背中にしっかりとしがみついていた。
しかしてっぺんのロープにたどり着いたところで手を伸ばし、身軽な動きで橋を渡りはじめる。
母親はところどころで足場として自分の背中を貸しながら、モリトを見守るようにゆったりと進んでいく。
その様子に、びっしりと地上を埋めた来園者たちは拍手喝采。みんな夢中で見とれていた。
面白かったのは、どうも年間パスポートでしょっちゅう来ている高齢者がけっこういるようで、
この前に比べて今日はどうだ、なんて具合にオランウータンの調子について語り合っていたことだ。
聞こえてくる会話の内容はかなりマニアックというか非常に詳しく、どれだけ頻繁に来ているんだ、と驚いた。
老後はのんびりとオランウータン親子の成長を見守りながら過ごすというのも、なかなか悪くない気がする。

  
L: おらんうーたん館の飼育舎と運動場を結ぶ橋。この行動展示は本当にすばらしい発想だと思う。
C: 橋を渡るオランウータンの親子。一挙手一投足に歓声があがる。  R: サービス精神旺盛な親子。

動物園の楽しみ方に決まったルールはない。ただ、動物は人間の都合ではなく、自分たちの都合で動く。
だから存分に彼らの姿を楽しみたいのであれば、気楽に構えて運が向いてくるのを待つという姿勢が正しそうだ。
特に旭山動物園のように行動展示を積極的に行っている場合、ある程度狙いを絞っておいて、
お気に入りの動物のシャッターチャンスを気長に待つ余裕がある方が好ましいように思う。
個人的にはやはり、対象までの距離の近さと確かな反応を示す面白さのある、霊長類の皆さんが好きだ。
あれだけの至近距離で動きまわる姿を見ることができたのは、僕にはとても衝撃的だった。
またぜひ旭山動物園を訪れて、じっくりと彼らを観察しつつ観察されつつ過ごしたいものである。

バスに揺られて旭川市街に戻る。置いておいたレンタサイクルにまたがると、本格的に旭川探訪を開始する。
まずはやっぱり市役所に行かなければなるまい。旭川市役所は佐藤武夫の設計で(⇒こちら)、1958年竣工。
DOCOMOMOの初期100選にも選ばれている近代建築の名作だ(でも応対してくれた職員はそれを知らなかった)。
低層棟と高層棟を組み合わせるのは庁舎建築の典型的なパターンだが、レンガを使用したファサードは非凡。
オープンスペースの緑とも鮮やかな対比をなしているが、雪が降れば夏とはまた異なる色の映え方をするのだろう。

  
L: 旭川市役所を市民文化会館側(北側)から眺めたところ。  C: 北西から眺めた、おそらく最も標準的な構図。
R: 裏手の南東側から眺めてみた。しかし形状じたいは見事に昭和鉄筋モダン庁舎である。

 
L: 高層棟側の1階の様子。  R: こちらは裏手の第三庁舎。分散しても根性でがんばっていて偉いのである。

腹が減って限界に近づいていたので、市役所の地下にある食堂で昼メシを食べることにした。
カツ丼をかき込みながら高校野球の中継を見る。思えば今年の長野県の夏は短かった。
公立の松本工業が松商を下して初出場したのはいいが、初日の第1試合で1-14の大敗。
僕はこの事実を札幌へ向かう列車の電光掲示板ニュースで知り、思わずその場でずっこけた。
では旅行先である北海道はどうかというと、南北海道が小樽の北照、北北海道が旭川実業ということで、
どっちも今回訪れる予定だったので密かに気になってはいたのである。実際、小樽はあちこちで「北照」の文字が躍り、
なかなかの盛り上がりを見せていたのだ。が、昨日の第3試合と第4試合でどちらも仲良く負けてしまった。
まったく、今年の夏は切ないったらありゃしないじゃないか。

それはさておき、旭川市役所を後にすると、どうしても旭川で訪れたかった場所を目指す。
その場所は旭川の中心部から少し離れた場所にあるので、レンタサイクルを借りたというわけなのだ。
六叉路になっているため横断歩道を渡って進んでいくのが異様に手間のかかる常盤ロータリーを越え、
常磐公園の脇を通ると、旭川を代表する景観であるという旭橋で石狩川を渡る。
そのまま北東へと直進して、北海道教育大学旭川校に沿って曲がっていった先に、目的地がある。

 
L: 旭川常盤ロータリー。広い道が6本交わるので、歩行者はいちいち横断歩道で引っかかる仕組み。時間がかかる!
R: 石狩川の堤防から旭橋を眺める。1932(昭和7)年竣工。軍都ということで非常に丈夫に造られているそうだ。

「川村カ子ト」という名前を知っている人が、果たしてどれだけいるだろうか。
この名前は、「かわむら・かねと」と読む。ここ旭川には、彼が設立したアイヌ記念館があるのだ。
そう、彼はアイヌのリーダーである。そして、明治~戦前にかけて活躍した鉄道の測量技師なのである。
インターネットというのは非常に便利なもので、検索をかければ大小さまざまな情報があちこちから手に入る。
僕はそうして、初めて彼の名前を知った。僕の地元を走る飯田線の歴史において、多大なる貢献をした人なのに。
飯田にいる間に彼のことを知る機会がなかったということが、ひどく残念である。
(この直後にお盆で帰省した際、circo氏と川村カ子トの再評価について話して大いに盛り上がった。
 circo氏によれば、測量した当時の若き日のカ子トを見たという飯田市民も何人かいたそうだ。)

川村カ子トの業績について簡単に振り返っておこう。彼は鍛えられた身体能力や空間把握能力を武器に、
北海道の鉄道測量技師として活躍した。その辺はさすがに狩猟で生きてきたアイヌ民族といったところだろう。
そしてその能力を頼って仕事を依頼したのが三信鉄道。今の飯田線の愛知県北端~長野県南端に至る区域、
つまり秘境駅がいっぱいの山間部分をどうにかして通そうとした私鉄である。
(もともと飯田線は4つの私鉄がリレーのようにつながった路線で、戦時中に国鉄に一括買収されて今に至る。)
さすがのカ子トも天竜川の断崖絶壁に呆れたらしいが、測量作業を見事に完了させる。
飯田線に実際に乗ってみるとわかるが、あれだけ険しい山の中で測量したというのには驚くしかない。
カ子トは引き続き現場監督として工事に関わるが、ただでさえとんでもない難工事なのに、よけいな問題が起こる。
アイヌに使われるなんてイヤだと荒っぽい工夫が暴れだしたのだ。カ子トはリーダーシップを発揮してそれを説得し、
多くの犠牲を払いながら三信鉄道は全通を果たす。ちなみにこの難工事を成功させたことで、
熊谷組は大手土木ゼネコンへの道をひた走ることになる。そんな具合に興味深いエピソード満載のこの区間だが、
今の飯田線からその歴史を読み取ることは難しい。ただ秘境駅をアピールするだけでなく、
歴史の交錯する地点としての評価をもっと高める努力をすべきだと思うのである。
アイヌの文化は文字を持たない口承文化だが、カ子トらの業績も文字に残らないようではあまりに悲しすぎる。

そういう経緯もあって、僕はどうしても川村カ子トアイヌ記念館を訪問したかったのだ。
北海道教育大学旭川校の向かいに半ば空き地のような状態で緑に囲まれている一角がある。
大きな看板が出ているし、近くにはアイヌ記念館と書かれたバス停があるのでそれとわかるのだが、
高原の別荘地にやや似た独特な「放ったらかし」の雰囲気が漂い、ちょっと異様な印象もある。
それはつまり和人の得意な空間の管理(整備)法とは異なる場所ということか、と思いつつ敷地に入る。
駐車場を抜けると左手にアイヌ記念館が現れる。アイヌの狩猟文化を具現化した木造の建築で、
近くで見るとかなり年季が入っているのがわかる。つまり、それほどきれいではない。
正面には売店があり、ふつうに洋服を着ているアイヌのおばちゃんがいる。入館料500円を手渡して中に入る。
(上の文だが、服装については敢えて書いた。僕たちがいつも和服を着ているわけではないように、
 アイヌの人たちもつねに民族衣装を着ているわけがないのだが、それをかっちりと書いておかないと、
 誤解する人がいるんじゃないかと思ったので。いろいろ蛇足でごめんなさい。)

  
L: 川村カ子トアイヌ記念館。写真だといい映りだが、実際には私設の博物館らしく手づくり感覚にあふれている。
C: アイヌ記念館の土産物屋。シカのツノのアクセサリーや木彫の置物など、売られている品物は非常に充実している。
R: チセ(アイヌの住居)もある。住宅は別にあったので、作業場として使用しているのだろうか。

中に入ると膨大な点数のアイヌ民族の民具が展示されており、圧倒される。
当然ながら、民具たちは狩猟に使われるものが多い。儀式の道具もあるが、やはり狩猟の重要性がわかる。
ひとつひとつにカタカナでアイヌ語での名前が紹介されている。そこにあるのは、独自のアイヌの世界だった。
アイヌ民族は和人との同化が進んで、アイヌ語は絶滅寸前の状態にある。
ここにある民具に代表されたアイヌ語の世界、つまりアイヌの言葉から世界を眺める価値観が、
今まさに消えそうになっている。そうして博物館的にかつての道具だけが、二度と使われないままで残る。
ひとつの世界が、ガラスの中の痕跡となってしまう。その事実の残酷さに背筋が凍った。

実はこの夏休み期間中、僕は職場での空き時間に日本史の本を読んでいた。
『詳説日本史研究』、つまりは高校の教科書のめちゃくちゃ詳しいやつである。
それを一気に読んでいったのだが、もちろんアイヌについてもページが割かれていた。
思ったのは、狩猟という職業が資本主義においては非常に不利な役割であるということだ。
確実性や効率を重んじる資本主義に(特に近代は確実性と効率が革命的に高められる制度が開発された)、
和人の方がなじみやすい職業を発達させていただけなのだ。日本の開国は世界規模に膨張する資本主義が、
日本をその構造に組み込む過程にほかならなかったのだが、アイヌは二重に不利な立場を演じることになった。
(まず江戸期に独自の資本主義を発達させた幕府が、シャクシャインの反乱を鎮めてアイヌを利用対象に貶めた。
 明治政府は世界との関係で中間管理職的にふるまい、結果アイヌの権利が完全否定されたように見えた。)
狩猟をもとにした交易を生活の柱としていたアイヌは、近代の到来により従来のスタイルを維持できなくなった。
いや、維持させる余裕を日本は持たなかった。それを進歩の過程の必然とする考え方は、今やまったく許されない。
今も続く近代の制度や資本主義をいかに理性でコントロールするかというグローバルな課題とともに、
ローカルで絶滅寸前に追いやられている価値観をどう自立させていくか。
そのような極めて難しい問題を、名前の失われつつあるアイヌの民具たちから突きつけられた。

アイヌ記念館の展示室はもうひとつあり、木造のホールとも呼べる部屋が隣にある。
その一端にあるのが、この記念館の創設者・川村カ子トの業績をまとめたコーナーだ。
しかし、それは僕の感覚からすれば、コンパクトに配置したせいもあるが、本当に小さいものだった。
彼が測量に使った道具、彼が関わった北海道の鉄道や飯田線の品々、感謝状……それくらいだ。
残念なのは、リーダーの風格を漂わせる彼の写真は展示されていても、若き日の彼の写真があまりないことで、
なかなかその人物像を伝承よりもう一歩踏み込んだレヴェルで感じることができない。
どうにか彼の再評価の機運を高めていってほしいものだと心から思う。

  
L: 川村カ子ト翁。  C: 彼が使用した測量の道具。彼はこの簡素な道具で天竜川沿いの断崖に挑んだのだ。
R: 関連する飯田線の品々。いくらなんでもこれはさびしい。どうにかならないもんですかね、JR東海さん。

アイヌ記念館から出ると、そのまま売店に直行。舗装されていない地面を囲むような空間構成に、
どこか懐かしさを覚える。個人的な経験で言えば、運動会のテントがトラックを囲む光景にそれは近い。
あるいはどこかの広場で行われる地元の祭りで、テントの出店が並んでいる光景。そう、祝祭の空間だ。
それはテレビでたまに見る、アマゾン辺りの原住民の村のような印象でもある。
人間ってのは本来、そういう空間をつくって集団で生きていたんだ、と思った。
売店ではさまざまなアクセサリーを売っていたが、僕自身はアクセサリーをつけることを嫌うタイプなので、
正直、なかなか買うものがなかった(おばちゃんは「つけないタイプの人は買わないのよね」と笑っていた)。
それでも木彫りのコロボックルのストラップがあったので、こりゃ母親の機嫌をとるのにいいや、と買い、
いかにもアイヌな模様のバンダナ(手づくりでなかったのが残念だ)を買い、マサル向けにムックリも買った。
売店は川村家ともうひとつの事業者が並んで営業しており、均等に買うように神経を使ってしまったよ。
アイヌ記念館にはちょぼちょぼと客が来るようで、僕より先に一組、僕より後に来て先に帰ったのが一組。
おばちゃんに話を聞くと、やっぱり僕と同じようにレンタサイクルでやってくる好き者もたまにいるそうだ。
(ちなみに、おばちゃんには学生と間違えられた。30過ぎてそう間違われるのがそろそろ切なくなってきた。)

挨拶をしてアイヌ記念館を後にすると、今度は一気に東へと走る。
昨日までずっと厚い雲に覆われていたのに、今日は夏らしい晴れとなり、北海道なのに本州と同じく暑い。
途中のスーパーで水分補給をして再び東へ。かつてアイヌが狩りをした土地は碁盤目状に道路を引かれ、
今は住宅地となっている。その歴史の変遷が、今ひとつ自分の中でつながらない。
アイヌとは民族だが、それは同時に言語でもあり生活でもある。言語も生活も失われれば、
果たして民族として残るのは何なんだろうか、と汗をかきながら考える。でも答えなど出るはずがない。
すべての歴史が幻想であることを認めれば少しは楽になるのだが、それは生産的な解答ではないのだ。

僕が旭川でレンタサイクルを借りたもうひとつの理由が、中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館である。
この建物、もともとは「旭川偕行社」として1902(明治35)年につくられた。軍都・旭川の社交場だったのだ。
1階は企画展の旭川彫刻フェスタ2010、2階は中原悌二郎の作品を中心にさまざまな彫刻が置かれている。
立体造形が得意分野の僕としては、申し訳ないけどそれほど刺激的な作品はなかった。
しかし建物じたいは往時の風格をしっかりと残しており、うまく利用されているだけでも御の字だ。

  
L: 中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館(旧旭川偕行社)。用途が近いので昨日の札幌・豊平館(→2010.8.9)に似ている。
C: 角度を変えて撮影。  R: 不勉強で用途がよくわからないのだが、こんな建物が通路を挟んだ隣にある。

中原悌二郎記念彫刻美術館の隣は井上靖記念館。せっかく来たので入ってみる。
井上靖というと伊豆育ちというイメージが強いが、父親が軍医で旭川に赴任したためここで生まれている。
基本的には巨匠としてうらやましい作家生活を送った井上靖の足跡をさらっとたどる内容。
ひととおり見てから出る。やはりまだ外は暑い。陸上自衛隊の旭川駐屯地に沿って市街地に戻る。

途中で、やはり旭川といえば忘れることのできない人物を記念した場所を通りかかる。
それは、スタルヒン球場である。日本初の「人名を冠した球場」ということで話題になった野球場だ。
父がロシア革命で亡命したため旭川で育ったヴィクトル=スタルヒンは、日本で初めて300勝した大投手だ。
巨人は彼の背番号「17」を永久欠番にしちゃってもいいんじゃないか、なんて僕は思っている。

 
L: スタルヒン球場。正式名は旭川市花咲スポーツ公園硬式野球場というらしい。スタルヒンでいいじゃん。
R: スタルヒン像。伝説の大投手がきちんとした形になって評価されているというのは、うれしいことです。

再度旭橋を渡り、石狩川の左岸に戻る。さっき脇を通った常磐公園を、今度は本格的に訪れる。
常磐公園は旭川を代表する公園で、園内には彫刻や石碑が多く点在している。
千鳥ヶ池という池があること、美術館や図書館など公共施設が配置されていることなど、
開拓地の都市公園ということでか、昨日訪れた札幌の中島公園(→2010.8.9)にどこか似ている印象がある。

  
L: 常磐公園入口。  C: 園内の芝生の広場。ところどころにある黒い点はカラス。妙に多かった。
R: 千鳥ヶ池と噴水。ボートでのんびりと池をまわることもできるのだ。

旭川の市街地に戻り、有名な平和通買物公園を歩いてみる。
ここは日本初の恒久的歩行者天国で、およそ1kmの長さが完全に歩行者専用の道となっているのだ。
(参考までに、Wikipediaには社会実験を通して歩行者天国化を実現した経緯がやたら細かく記載されている。)
平日の夕方に歩いてみたが、これだけ広い道で賑わいを維持できているのは、さすが北海道第2の都市。
しかし現状はギリギリのラインであるという感触もする。もうちょっと人通りが減ると、一気にみすぼらしくなるだろう。
やはり郊外化の影響は極めて強いようだ。今は旭川市民の誇りでよく耐えていると思う。

北海道内の都市配置は、本州などの城下町による都市の形成とは異なり、植民地型のネットワークを感じる。
つまり札幌という核を中心にいくつかの開拓された都市が囲み、さらにその周辺を農村が囲むという構図だ。
(ただし道南部の松前や函館は城下町型で、地理的にも札幌を中心とする植民地ネットワークの外にある。
 そして松前や函館などは港町として、海路による道南部独自のネットワーク(本州型)を形成した。)
旭川は道北における核で、周辺の各都市と札幌を結ぶ役割を果たしている。
そこにあるのは「都会の階級」で、旭川の街からは、周辺各都市を「従えている」という誇りを感じるのだ。

最後に晩メシとして旭川ラーメンをいただくことにする。市内には老舗の有名店が複数あるが、
現在の旭川ラーメンのスタイルを確立したという蜂屋におじゃましてみることにした。
旭川5条創業店に入ってみたが、細長い店内に白い机が規則正しく並んでちょっと会議室っぽい構成。
壁は有名人の残したサインでびっしりと埋め尽くされていた。さすがは有名店だ。
当然、定番である醤油ラーメンをいただく。動物系と魚介系のダブルスープと焦がしラードが特徴とのこと。
食べてみての感想は、正統派の醤油ラーメンとは呼べないな、といったところである。
これは僕が醤油ラーメンといえば東京風あっさりラーメン、いわゆる支那そば中華そばを好むからだが、
豚骨の要素が強いところに魚介の風味と焦がしたラードが重なってくるのは、ちょっとクセがありすぎる。
醤油ラーメンっつったらまず醤油の風味だろ、と思う僕の価値観とはやや合わない。
でもそれはそれとして、名物の味はしっかり記憶にレコーディングするのが礼儀というものだ。
旭川市民好みの味はこういうものだ、という感覚で大盛をお腹いっぱいいただいたのであった。満足である。

  
L: 平和通買物公園。もともとは「師団通」という名称だったが、戦後に改名。歩行者天国化したのは1972年のことだ。
C: 左の写真よりももうちょっと駅から遠ざかったところ。駅前の大迫力の西武から徐々に個人商店中心になっていく。
R: 蜂屋の醤油ラーメン。由緒正しい旭川ラーメンである。個人的には正直、「醤油」と呼ぶのには違和感を覚える。

観光名所を優先したため、旭川の街歩きじたいはややおろそかになってしまったと思う。
本音を言えば、もうちょっと「北海道の副将軍」としての旭川の側面を掘り下げてみたかった。
でもまあそれは、ずっと先のことになるだろうけど、いずれ次の機会への課題ということにしておこう。


2010.8.9 (Mon.)

今日はまったく浮気をすることなく、札幌の街を歩きまわるのだ。
朝の6時前に宿を出て、テキトーに腹を膨らませると、地下鉄東豊線に乗り込む。
札幌ドームとは逆方向の北行きの電車にしばらく揺られ、環状通東という駅で降りる。
ここはバスターミナルが隣接しており、そこから路線バスに乗り換える。郊外の大雑把な街並みを抜け、
25分ほどしたところでモエレ沼公園の東口に到着。ここに降りたのは僕ひとりだけだった。

本日最初の目的地は、このモエレ沼公園。彫刻家イサム=ノグチの遺作と言える公園なのだ。
僕はかつて東京都現代美術館で開催された「イサム・ノグチ展」を見に行き、モエレ沼公園に疑問を持った。
この公園は、「けっこう来場者を野放しにしている」空間ではないかと直感したのだ(→2005.10.16)。
実はこの日の日記をアップした数日後、有名なイサム=ノグチについてああいう批判をするなんて度胸があるね、
という指摘を受けたが、それでも僕の「イサム=ノグチは過大評価されているのでは?」という直感は変わらなかった。
だから今回、モエレ沼公園を訪れたのには、僕なりのイサム=ノグチ観を結論づけるという意味合いもあったのだ。

エントランスからしばらくトボトボと歩いていく。植物が生い茂り、どこか埋立地めいた印象がする(→2008.7.27)。
のっけからヒューマンスケールを逸脱した感覚をおぼえる。その微細なギャップを、繁殖する植物が埋めていく。
意思があるような、ないような、植物の生への意欲は、土木構造体と格闘しながら空間をゆっくり占領する。
橋を渡って本格的に公園の敷地内に入る。橋は遠くから見る分には問題ないが、近くで見ると化粧が落ちている。
これまた、埋立地めいた印象を漂わせる要素だ。抑圧された時間と植物が、人間の管理から逸脱を試みている。

まず最初にガラスのピラミッド「HIDAMARI」に近づいてみる。もちろん本当は中に入りたかったのだが、
まだ9時になっていないので開いていない。外から指をくわえて眺めることしかできず、非常に残念だ。
中のアトリウムは休息空間となっており、ほかにギャラリー、レストラン、ショップなどがあるそうだ。
まあそこいらの美術館と似たような感じなんだろうな、と勝手に想像してピラミッドを後にするのだった。

  
L: 東口よりモエレ沼公園の中に入る。脇に広大な駐車場がある関係か、歩行者用の通路はしばらくこんな状態が続く。
C: モエレ沼を挟んで眺めるガラスのピラミッド。  R: ガラスのピラミッドの近影。イオ=ミン=ペイのルーヴルとかぶってる気がする。

 ピラミッドの内部を覗き込んで撮影。こんな感じになっているようだ。

北東へと進んでみる。モエレ沼が刻むカーヴに囲まれた突端の位置へと行ってみる。
この辺りは「サクラの森」と呼ばれ、イサム=ノグチがデザインした遊具があちこちに散りばめられている。
5年前(→2005.10.16)に見た覚えのある遊具がカラフルに公園を彩る。なるほど彫刻としては納得できる。
しかし、現実に子どもがこの遊具を前にして「さあ遊べ」と言われても、きっと戸惑うに違いない。
あるいは、最初のうちは遊具で遊ぶとしても、たぶんすぐに飽きて、追いかけっこの障害物になり下がるだろう。
前の日記にも書いたが、イサム=ノグチの作品は、子どもの想像力を刺激するにはあまりに力不足だ。
子どもにとって、遊具とはもうひとつ別の何かの役割、別の空間を演じさせることのできるものだ。
ところがそれをやるには、あまりにもイサム=ノグチの我が強すぎて、他者の想像を膨らませられないのだ。
「アート」や「作品」という言葉はしっくりくるが、「デザイン」という言葉を使うには適さない、そういうものばかりだ。

  
L,C,R: 確かに彫刻作品としては形の面白いものが多いが、他者に対して開かれたものかというと大いに疑問だ。

 せっかくの遊具が危険で遊べないケース。本末転倒ではないのか。

これは事前の僕の予想以上に予想どおりな公園かもしれないなあ、と思いつつモエレビーチまで戻る。
ここは水を張った子ども向けのプールだが、朝早いので誰もいない。とりあえず写真を撮って次の場所に移動。

 モエレビーチ。サンゴが敷き詰められ、さざ波が立つそうだ。

東から見るとなだらかな緑の坂だが、西から見ると遺跡っぽいプレイマウンテンに登ってみる。
公園を見渡すが、朝早くて空一面が厚めの雲に覆われていることもあり、どうもイマイチぱっとしない印象だ。
芝生が敷かれた広大な園内のあちこちに林やら山やら池やらが点在しているが、やはりどれもがオブジェ。
こうして高い場所から眺めていると、公園がひとりの彫刻家の美的感覚で完全に制圧されているのがよくわかる。
これは「public space(公共の空間)」ではない。完全に「private space(私的な宇宙)」なのだ。
モエレ沼公園という名前だが、「公園」を名乗るのにふさわしいとはとても思えない。悪く言えばエゴむき出し。
自治体の所有するこの広大な面積を独りよがりに構成してしまったことが、かなりの暴挙に思えてくる。
そもそも、今は曇り空だから気にならないが、もしこれが快晴だったらどうなっていたことか。
来園者は炎天下に放り出され、設計者にとってしか意味をなさない空間を延々と歩かされることになる。
プレイマウンテンを駆け下りた時点で、僕はかなり頭に来ていた。もはや僕の中のイサム=ノグチ観は確定した。
以前「イサム・ノグチは『あかり』をデザインしなければ、平凡な彫刻家にすぎなかったと思う」と書いたが(→2005.10.16)、
彼は「平凡」ではない。学歴だけで過大な評価をされている、愚かなエゴイストだとすら思う。すっかり幻滅した。

  
L: プレイマウンテンより眺めるミュージックシェル(左)とテトラマウンド(右)。まあどっちもオブジェですな。
C: アクアプラザとカナール、その奥には人工的に造られた山・モエレ山がそびえる。
R: グラウンドレベルに下りて、陸上競技場へ行ってみた。あまりの実用性の低さに開いた口が塞がらなかった。

最後にモエレ山に登ってみる。標高62mということで、高いのかそれほどでもないのかよくわからない。
登っている途中にすれ違ったおじさんは、階段の上り下りだけを目的にしているようで、頂上に着けばすぐに下り、
地上に戻ればすぐに上りと、無限の往復運動を繰り返していた。健康のためとはいえ、飽きないのかなあ。
僕はといえば、広い敷地を今までさんざん歩いてきたのでちょっとお疲れモード。でもこれで最後なので、
さらばモエレ沼公園ということで少々ムリヤリおセンチな気分を演出しながら頂上を目指すのであった。
そしていざ頂上にたどり着くと、真っ平らな地面に放射状に並べられた石のタイルがお出迎え。それでおしまい。
もはや拍子抜けする気分にもなれない。淡々とデジカメのシャッターを切って階段を下りるのだった。

  
L: モエレ山の頂上。や、何もないですよ。  C: 頂上から眺めた野球場。  R: アクアプラザとカラマツの林・噴水方面。以上だ。

そのままモエレ沼公園を西口へと抜ける。一服しようと思ったのだが付近は田舎な雰囲気で自販機もコンビニもない。
しょうがないのでまた公園に戻って陸上競技場の管理棟にある自販機でスポーツドリンクを買うと、バス停まで戻る。
もうちょっと時間がかかるかと思ったのだが、つまらなかったのであっさりと終わってしまった。
30分近く呆けてバスを待つと、やがてやってきたバスに乗り込む。乗客は僕だけであれっと思ったのも束の間、
次の停留所からどんどん地元住民のおばさんたちが乗り込んで、すぐに車内はいっぱいになるのだった。

モエレ沼公園西口経由のバスの終点は、サッポロビール博物館なのである。
日本唯一のビール博物館で、1890(明治23)年築の赤レンガ建築を再利用しており、ぜひ見たいと思ったのだ。
でも実は、この建物内でビールがつくられたことはない。もともとテンサイによる砂糖の工場として建てられ、
その後は麦の工場となり、操業停止後の1967年からビールの記念館としての利用が始まったのである。
ちなみにこの建物、自由に改装できなくなるという理由で重要文化財の指定を辞退したんだそうだ。

  
L: 博物館脇に復元された、醸造所開業式の樽。右上から「麦とホップを製す連者(れば)ビイルとゆふ酒に奈(な)る」とある。
C: サッポロビール博物館(旧札幌製糖工場)。ちょうどこのときだけきれいに晴れた。リニューアルがすごくきれい。
R: 中にある巨大な銅釜。ホップの苦味や香りをつける工程で使うそうだ。レンガ建築ととてもしっくりくる組み合わせ。

さっそく中に入ってみる。入場は無料で、入口のおねえさんに順路について説明を受けてからエレベーターで3階へ。
サッポロビールの歴史、ビールづくりの工程、かつてのポスターや看板などがきれいに展示されている。
個人的に最も面白かったのが宣伝ポスターで、時代を反映したスターが時系列に並んでいる。
途中からはなんとなく見覚えのあるものも登場するようになり、あーあーそうだった、となる。

1階に出て見学を終えるとグッズ売り場。かなり種類が豊富だが、荷物を増やしたくない僕は何も買わずにスルー。
いちばん最後にあるのが、テイスティング・ラウンジ。有料で実際にビールを味わうことができる場所である。
そんなもん……弱いけど、テイスティングしちゃうよ! グラス1杯200円で、価格設定はなかなか良心的だ。
どれにしようかチケットの自販機前で迷っていると、「飲み比べセット 400円」の文字が目に入る。
そんなもん……弱いけど、飲み比べちゃうよ! というわけで、3種類のビールを飲めるセットを注文してしまった。
目の前でサーバーから注いでくれるのだが、キチッと正装した店員さんが注いでくれる時点で雰囲気が違う。
酒にはこだわりがまったくといっていいほどない僕でも、さすがにこれには喉が鳴る。
さて、飲み比べセットは最も古いビールを再現した開拓使麦酒、黒ヱビス、黒ラベルというラインナップである。
開拓使麦酒は少し酸っぱいというか、いかにも発酵させた感じがする。第一印象は「狭いな」というもの。
日本語としておかしいのだが、なんというかこう、飲みやすさのレンジが狭いと感じたのでしょうがない。
それに比べると看板商品の黒ラベルはさすがに飲みやすい。喉を広く通って行き渡る感覚がする。
黒ヱビスと三つ巴でとっかえひっかえしながら味わっていく。やはり三者三様に特徴があるものだ、と実感。
最後はさすがに「これは酔った!」と自覚できるほどベロベロになったものの、非常に心地よい酔い方となり、
本場で飲むビールは違うなァ、おい!と大満足しながら赤レンガを後にするのであった。ホントに酔っ払いだ。

 
L: サッポロビールの歴代広告ポスターが並ぶ。タレントもデザインも時間の厚みを感じさせて実にいい。
R: レッツ・テイスティング! それにしても椅子の背もたれに空いた星印が圧倒的に格好いい。デザイン上の武器があると強い!

千鳥足とは言わないまでも、かなりのゴキゲンな足取りで西へ。次の目的地は北海道大学だが、
歩きではけっこうな距離がある。こうして歩いていればいい酔い覚ましになるだろ、と上機嫌でフラフラ。
われながら、旅行中とはいえ平日の午前中からいい身分である。まったくしょうもないもんだ。

途中で創成川という川を渡る。それほど大きいわけではないが、札幌の都市形成史においては重要な川だ。
もともとは大友堀という用水路だったが拡張され、架かっていた橋から名が採られて創成川となった。
そして札幌の街は、この川を基点に東西に分けられているのである(ちなみに南北は大通りが基点)。
数学のグラフでたとえるなら、第一象限はサッポロビール関係の大きな施設がやや郊外的な形で残り、
第二象限には札幌の都市機能の大部分が集中。第三象限はなんといってもすすきの、その南に中島公園。
で、最後の第四象限は豊平川にガッツリ削られて二条市場以外にほとんど名所がない、といった感じなのだ。
碁盤目の街は日本全国にいくつもあるが(飯田もそうだ)、さすがにこれだけ大規模なケースは少ない。
きっと北海道出身者の都市観は独特なものになるんだろうな、なんて思っているうちに北大に到着。

さて北大こと北海道大学にやってきたのだが、正門は広大なキャンパスの南東端にある。
歴史ある旧帝大にしては思いのほか質素な正門をくぐると、やはり中は大学らしい雰囲気にあふれていた。
入ってすぐ左手に北大交流プラザ「エルムの森」という施設がある。まあ言ってみれば北大の観光案内所だ。
土産物やさまざまなパンフレットが置いてあり、明らかに学生には程遠い観光客の姿が目立っている。
赤ら顔の僕も施設の内部を歩いてチェックを入れる。北大は観光地としてかなり認知されているようで、
学外向けの土産物がかなり充実していた。とりあえずキャンパス内の地図だけもらって出る。

北大のキャンパス内にはサクシュコトニ川という川が流れているので、それに沿って北へ進む。
夏休みという状況を考慮に入れなくてはならないが、学生よりも家族連れが目立っているくらいで、
「開放されたキャンパス」ってのはまさにこのことだな、なんて思う。緑がすごく多いのもプラスに作用している。
教育学部の裏手を西に折れて、北大名物というポプラ並木を見てみることにした。
街路樹が並ぶ雰囲気のいい道を想像していたのだが、現実は恐ろしいほどに異なった姿をしており、
狭い砂利道の両脇に野性味あふれる木がまっすぐ立っているだけだった。しかも立入禁止。これはがっかりだ。

  
L: 北海道大学正門。とっても質素。この敷居の低い感じが、かえって観光客にはいいのかもしれない。
C: 北大のキャンパス内部はこんな感じ。緑がとにかく多く、建物は木々の間に埋もれているような印象だ。
R: ポプラ並木。わりと有名なので期待していたのだが、この有様には本当に腰が砕けた。

腹が減ったので、当然のごとく北大の生協にあるカフェテリアに行く。
牛トロ丼と、ラム肉を乗せたジンギ丼で迷いに迷った末、今回は牛トロ丼にしてみた。
そしたら牛トロは顆粒だったし、学生っぽいほかの客はみんなジンギ丼を選ぶしで、ちょっと後悔。
ぜったいにいずれリベンジしてやると心に誓う、意地汚い僕なのであった。
生協のすぐ南にあるのが、北大の総合博物館。元は理学部の本館で、1999年から博物館となっているのだ。
が、せっかく来たのに月曜日で休館日。これは正直かなりショックだったが、納得するしかない。
天気もイマイチ冴えないし、なんとなくダウナーな気分で農学部方面へ。

  
L: 北海道大学総合博物館(旧理学部本館)。博物館という利用ができるところが格好いいと思うのだ。
C: 中に入るとこんな感じ。でも休館日なのでここから先には行けず。チェッ。  R: すぐ南のエルムの森を抜ける。

 農学部本館。なかなかがっちりとリニューアルしてある。

農学部本館は巨大なリニューアル建築なのだが、周辺には今も面白い建物がよく残っている。
旧制東北帝国大学農科大学時代から残る木造教室の古河記念講堂をはじめとして、
ほかにも北大出版会や旧昆虫学及養蚕学教室など、古くて上品な建築がしっかり堪能できる。

  
L: 1902(明治35)年築の北大出版会(旧札幌農学校図書館)。こういう建物に入っているのがさすがだと思う。
C: 1901(明治34)年築の旧札幌農学校昆虫学及養蚕学教室。かつてはこの建物が北大の交流プラザだった。
R: 1909(明治42)年築の古河記念講堂。窓ガラスが一重で、冬には中が氷点下になることがあるそうだ……。

胸像の元祖・クラーク像を見ると再びサクシュコトニ川を抜けて南門へ。
小ぢんまりとしているが、昔から変わっていないであろうその姿は旧帝大の迫力を感じさせる。
観光資源として成立している大学というのは全国的にみても珍しい。北大はまだまだ奥が深そうだ。

  
L: クラーク像。ここにバスでやってくる観光客が増えて大学側が困ったので、羊ヶ丘展望台に全身像が立てられた。
C: サクシュコトニ川。かつては鮭も産卵に来たというが、都市化で水源が枯渇。人工的に復活させて今に至る。
R: 北大の南門。レンガ造りの門柱や木造の守衛所がそのまま残っているのがとってもいい。

ガードをくぐって札幌駅の南側へと移動する。そのまま南下していくと、北大植物園の緑が見える。
北大植物園もじっくり歩きたい場所なのだが、総合博物館が休館日ならこっちもどうせそうだろう。
体力的にも時間的にもそこまで余裕がないし、また今度ということでスルーしてさらに南下。
すると北海道庁の裏手にぶつかる。都道府県庁めぐりも残りわずか。感慨にひたりつつ撮影を開始する。

  
L: 北海道庁を正面より撮影。ピロティ付きのモダンスタイルだが、規模が大きい。とても画面に収まらない。
C: 道庁の裏側を交差点を挟んで撮影。北海道の庁舎がモダンというのは、なんとなく意外に思える。
R: 中に入ってホール部分を撮影。ピロティをそのままむりやり内部空間として処理した印象がする。

北海道庁は1968年の竣工。設計は久米設計で、BCS賞を受賞している。
残念なことに、石田潤一郎『都道府県庁舎』(→2007.11.21)には詳しい記述がまったくない。
つまりはそれだけ典型的な「組織事務所による高層事務所建築」ということなのだろう。
個人的な感想としては、四面ともここまでまったく同じ形で統一されたファサードは珍しいと思うし、
なんだかんだで窓の面積比率が大きいことはかなり特徴的ではないかと考える。
何より、後述する「主役」を引き立てるために、あえて目立たないデザインに抑えたように思えるのだ。
僕はこの本庁舎を、地味ながらも当時の必要な条件をすべて満たした、巧い建物だと評価したい。

  
L: こちらは北海道議会議事堂。  C: 裏側はこんな感じになっておりました。
R: 本館の道を挟んだ向かいにある道庁別館。本庁舎とは地下でつながっている。

さて、一般の観光客なら今の北海道庁よりも「赤レンガ」として有名な旧本庁舎の方が気になるだろう。
僕は役所マニアなので、どっちも均等に気になる。北海道では道庁舎の敷地の真ん中に旧本庁舎を残し、
現在の庁舎はジャマにならない位置に建てているのだ。さすがは観光で食っている街だと感心する。
それじゃ満を持して赤レンガを撮影しましょうか、とカメラを構えたところで、いきなり雨が降り出した。
なんだよここにきて結局雨かよ、とブーたれるが、それでどうにかなるものではない。切り替えるしかない。
外観の撮影を最低限済ませると、中に入ってあちこち見学。北海道らしく、北方領土の展示が充実している。
かつての樺太での生活や行政などがよくわかる内容で、純粋に面白く、またためになった。

  
L: 北海道旧本庁舎。1888(明治21)年築の、アメリカ風ネオバロック。1968年に修復工事を行ったそうだ。
C: 裏側はこんな感じである。  R: 2階へ上がる途中の階段から内部を撮影。

しかしせっかくのすばらしい建物も、天気が良くなければその魅力をうまく写真に残すことができない。
きっといつかリベンジしよう、と思うのであった。もう8月には懲りたので、別の季節にチャレンジしようかね。
そうして北海道庁の撮影を終えたところで雨がやんだ。まったくよけいなことしやがって、という気分だ。

北海道庁の次は札幌市役所だ。南東に歩いていくと背の高い真四角の建物が現れる。
これが札幌市役所。敷地面積がそれほど広くないので、政令指定都市の市役所にしては、
シンプルというか簡素な印象を受ける。しかしカメラを構えると、しっかりと高さがあるのだ。
市役所の正面にまわり込むと、1972年の札幌冬季五輪を記念したオブジェが目に入る。
札幌五輪というと、日の丸飛行隊が板をぴったりとつけたジャンプで表彰台独占、というイメージがある。
もし冬に来たならば、その事実がもっと身近な感覚で蘇ったかもしれない。そうだ、その街に来ているのだ。
僕が過去に触れたことのある札幌の断片が、ここで現在を通じてかっちりとつながった気がした。

  
L: 札幌市役所。大通公園に面する南側が正面。1971(昭和46)年、小学校跡地に竣工。
C: 中に入るとホールになっている。ここで月1回ペースでコンサートが開催されるそうだ。
R: 北西側の交差点から眺める。最上階には展望スペースがあり、かつては茶室があったとか。

札幌市役所の北には全国的に有名な観光名所がある。が、ここは実際に訪れるとがっかりすることでも知られる。
そう、時計台である。もともとは札幌農学校(もちろん北海道大学の前身)の演武場だった建物である。
日本三大がっかり名所の制覇(→2007.7.232007.10.8)を目論んでいる僕としては、
どれくらいがっかりなのか非常に気になる。がっかり名所なのにワクワクしながら時計台の方に向き直る。
そこにあったのは、木々に囲まれてろくすっぽ姿が見えなくなってしまっている木造建築だった。
うん、そこそこがっかりだが、これは明らかに周りにあるもののせいでがっかりなのであり、
時計台じたいが悪いわけではなさそうだ。……そう思ったのは、事前に「がっかり名所」と聞いていたからか?

  
L: 札幌市時計台を正面より撮影。こうして見る限り、それほどがっかりということはない。
C: よくある構図で写真を撮れるように台が設置されている。そこに立ってシャッターを切るとこうなるのだ。
R: 遠景。背の高いオフィスビルともっさりした木々に囲まれて何があるのかよくわからない。原因はこいつらか。

 1階は時計台についての展示、2階はホールとなっている。

時計台を出るとそのまま大通公園へ。その東端にあるのが、赤い鉄骨と緑の外壁が特徴的なテレビ塔だ。
設計したのはもちろん内藤多仲。この人は本当に日本各地にタワーを建てまくったなあとあらためて思う。
テレビ塔の高さは147.2mあるが、展望台は地上90mの位置であり、それほど強烈に高いという印象はない。
むしろさっぽろテレビ塔といえば、非公式キャラクターのくせにあちこちにいる「テレビ父さん」のインパクトが強い。
(公式キャラクターは「タワッキー」だが、まったく存在感がない。ちなみに「テレビ父さん」の公式HPはこちら
以前TVチャンピオンだったか、みうらじゅんが解説を務めるゆるキャラNo.1決定戦みたいな番組があって、
それぞれの着ぐるみがさまざまな障害物を乗り越えていくという、それはそれは壮絶な絵面だったのだが、
そこでテレビ父さんは豪快に転んで身動きがとれないままもがき続けるという姿を晒して大笑いした記憶がある。
以来、僕はかなりのテレビ父さんファンなのだ。ぜひともグッズを買ってやろうと意気込んで中に入る。

  
L: 大通公園より眺めるテレビ塔。天気が良ければもっとキレイに見えるのに……。ホントにもったいない。
C: テレビ塔を近くから撮影。  R: 非公式キャラのはずなのに、ふもとではグッズが大量に売られているのだ。

エレベーターに乗り込んで展望台へ。実際に訪れてみると、中は予想以上に小さくて狭い。
驚いたのは、テレビ塔の鉄骨が展望台の中を堂々と貫いていることである。歩くとけっこうジャマなのだ。
しかしそれも味といえば味で、むしろテレビ塔それじたいを身近に感じることができる効果があると思う。
窮屈だが、悪くはない。展望台は100mないので周囲のビルが迫って見えるが、やはりそれも味なのだ。
展望台の半分近くは土産物売り場で、テレビ父さんグッズがとんでもない勢いでそこを占領していた。
テレビ父さんの脱力感とテレビ塔じたいのユルユルな感じが見事にマッチして、非常にほほえましかった。

  
L: さっぽろテレビ塔の内部。鉄骨がすごくジャマなのだが、逆にそれがいいかげんな感じでかえって面白い。
C: テレビ塔から眺めた札幌市役所。展望台に高さがないので、かえってちょうどいい具合に俯瞰できるのであった。
R: 大通公園を眺める。ここを基点に南北が分けられており、文字どおり札幌の街の核となっている公園だ。

中ではテレビ父さんのクリアファイルを購入。休み明けに生徒たちに見せびらかすとしよう。
テレビ塔を降りるとそのまま大通公園を散歩する。ベンチに座り、名物だという焼きとうもろこしを買ってかじる。
300円なのだが丸ごと一本で食べ応えがある。今日は札幌の名所をあちこちまわって観光しているが、
こうして大通公園でとうもろこしを食べるという行為は、その最たるものというか、正しい北海道の味わい方、
そんなふうに思える。まあ要するに、天気は悪くても僕はしっかり北海道を満喫したってことだ。

 夏の大通公園は大部分がビアガーデンと化すようだ。すげえ。

大通公園から少し南下すると、路面電車の駅がある。札幌には路面電車と地下鉄の両方があるのだ。
西4丁目の駅はスルーして、もうひとつ南のすすきの駅へ。ここで路面電車に乗り込む。
札幌の路面電車の路線は二重かぎかっこ(『)の形をしていて、西4丁目から南へ行き、北上してすすきのに戻る。
でも西4丁目とすすきの間は結ばれていない。どうせならループするようにすりゃいいのに、と思わずにはいられない。
さて路面電車に乗ってどこへ行くのかというと、中島公園だ。もともとは貯木場だったのだが、
1887(明治20)年から公園として整備されて今に至るという場所だ。

中島公園通で降りて公園の中に入る。するとすぐに白を基調に水色で縁取られた建物が目に入る。
かつて北海道開拓使の迎賓館として使用されていた豊平館だ。1880(明治13)年築ということで確かに古い。
しかし十分に気をつかって使っているようで、古いけれどもみすぼらしいことはまったくない。
見ているとどうも、結婚式場としての利用が多いようだ。なるほどな、と思う。

  
L: 豊平館。重要文化財。  C: 角度を変えてもう一丁。  R: 内部はこのように、今もすごく格調高い。

中島公園にはもうひとつ、重要な建築がある。端っこに日本庭園があるのだが、その一角に、
八窓庵という小堀遠州の建てた茶室があるのだ。もともと滋賀県にあったのを札幌に移した人がいて、
それが最終的に市に寄付されたのである。一度、積雪の影響で全壊したらしい。ニンともカンとも。

  
L: 中島公園の中の様子。感想としては、まあふつうに都市内の公園です。
C: 八窓庵。これまた重要文化財。  R: 内部を覗き込んで撮影。手前側はなかなかアクロバットですな。

帰りは地下鉄ですすきの周辺に戻る。札幌市内を徘徊するのはけっこう体力的に消耗したようで、
余力があれば円山球場や北海道大神宮の辺りまで行ってやろうかと思っていたのだが、あっさり諦めた。
で、あとは晩メシの時間になるまで狸小路周辺を往復して過ごすのであった。
もっとも、狸小路も1丁目から7丁目まであるので、くまなく歩いて往復するのはけっこう大変。
さすがに大通公園とすすきのに挟まれたアーケード商店街ということで、きちんと賑やか。
夏祭りの時期だったのか、1丁目から7丁目までそれぞれ独自の工夫を凝らして飾りつけがなされ、
その個性の違いがとても興味深くて面白い。ただ歩いているだけでもまったく飽きない商店街だ。

  
L: 狸小路。周辺には規模の大きい店が多いが、ここはさまざまな規模の店が入り乱れていて面白い。
C: 札幌の路面電車である。地元の人がよく使っているようで、乗客はけっこう多い。
R: 札幌でよく見かけたタイプの消火栓。赤じゃなくって黄色で、雪の結晶を思わせる六角形の中に星がある。

札幌最後の夜は、サッポロビールの経営する店であるライオンの狸小路店に入る。
酒に強くないくせに、北海道限定のサッポロクラシックをジンギスカン定食とともに注文していい気分。
まさか一日で4種類ものビールを飲むとは思わなかった。でもどれも存分に堪能することができてよかった。
昼間と同じくいい気分で店をあとにすると、そのまますすきの方面をフラフラ歩いて宿まで戻る。
途中でやっぱりセイコーマートに寄って夜食と飲み物を買い込む。そしたら北海道限定のメロンカツゲンを発見。
カツゲンじたいが北海道限定のようなもんじゃねえか、とツッコミを入れつつも、迷うことなく購入。

 カツゲンにはこれ以外にもいくつかヴァリエーションがあるようだ。

札幌に滞在した3日間、ちょっとしか晴れなかったのが悔しい(サッポロビール博物館の1時間だけ)。
おいそれと来られるような場所じゃないけど、このままで済ませるわけにはとてもいかない。
絶対にまた来てやるぞ!と誓って眠る。明日は明日で、また早起きして移動が始まるのだ。


2010.8.8 (Sun.)

北海道2日目の本日はまず、小樽に行く。札幌から程近い小樽、行かないわけにはいくまい。
本来なら一日かけてじっくり観光すべきだと思うのだが、午後に札幌ドームでの日ハム戦を押さえているので、
小樽には申し訳ないのだが午前中のみの観光とさせてもらう。その分、エネルギッシュに歩きまわりたい。
懸念されていた天気は今日も好ましくなく、空は厚い雲に覆われている。
降っていないのが不幸中の幸い、というのが正直なところだろう。せっかくの旅行なのに残念である。
が、落ち込んでいるヒマはない。小樽駅に到着すると、坂(セピア通り)を下って小樽運河方面へと歩きだす。

  
L: 小樽駅のホーム。古い標識や柱のガス灯で歴史を感じさせる工夫をしている。
C: 小樽駅内部はこのような感じ。9月から駅舎のリニューアル工事をして、外観は建設当時に復元するそうだ。
R: 後で少し天気が回復したときの小樽駅。現行の駅舎は上野駅をモチーフにしているんだとか。

前述のように駅から運河へは坂を下っていくのだが、道が広めにとられていることもあり、これがなかなか壮観。
途中には旧手宮線跡の散策路があり、運河の少し手前には古い建築が点在する一角もある。
夢中でデジカメのシャッターを切りながら、小樽の観光資源の豊かさを実感させられるのであった。
そんなこんなで、なかなか思うように運河までたどり着けなかった。意外と時間がかかってしまった。

で、小樽の運河。小樽といえば運河というくらいに有名な存在だが、今は観光向けに最低限残している印象。
古い倉庫がひとつのエリアに集中にして残され、遊歩道がつくられ、それでおしまいとなってしまっている。
まあ要するに、「面」ではなく「線」としてしか楽しめないので、その点は市街地に点在する建築とは対照的で、
個人的にはかなり残念な観光地としての処理の仕方だった。運河がもうひとつあれば全然違うだろうに。

  
L: 旧手宮線跡の散策路。道路と重なる箇所以外はかなりきちんと残しているのだ。
C: 小樽運河。天気が良ければもっとフォトジェニックだったと思うのだが。もったいない。
R: 少し進んで振り返る。倉庫は基本的に飲食店にリニューアルされているのだ。

せっかくなので、小樽の街にある古い建物をいくつかピックアップしてみる。
大正~昭和期の近代建築が多いのだが、中には蔵造りの建物もある。本当にあちこちにゴロゴロあるので、
そういう建物の好きな人間にしてみればうれしい反面、これはキリがないと思うほど追いかけるのが大変。

  
L: 洋風近代建築シリーズ。まずは1930(昭和5)年築、旧安田銀行小樽支店。今は飲食店になっている模様。
C: 昭和初期築、北海道紙商事(旧第四十七銀行小樽支店)。  R: 1933(昭和8)年築、旧小樽商工会議所。

  
L: 続いて蔵造りシリーズ。左が1920(大正9)年築の旧後藤商店、右が1906(明治39)年築の和菓子店「和蔵」(旧梅屋商店)。
C: 1906(明治39)年築、小樽大正硝子館(旧名取高三郎商店)。  R: 1891(明治24)年築、北一硝子三号館(旧木村倉庫)。

  
L: 左から1896(明治29)年築の岩永時計店、利尻屋みのや不老館、(明治39)年築の花月堂(旧第百十三国立銀行小樽支店)という並び。
C: 1908(明治41)年築の小樽浪漫館(旧百十三銀行小樽支店)。  R: 1912(明治45)年築の小樽オルゴール堂本館(旧共成(株))。

  
L: 1927(昭和2)年築の旧三井銀行小樽支店。  C: 1924(大正13)年築の旧第一銀行小樽支店。現在は洋服工場だそうだ。
R: 小樽市総合博物館運河館(旧小樽倉庫)。1890~1894(明治23~27)年築の建物がいくつも連続しているのだ。

とまあ、こんな具合に挙げていくと本当にキリがない。これだけのレベルの建物が無数に残っているというのは、
全国的にみて極めて珍しいことだ。建物が残るためにはまず、往時の繁栄がなければ建物がつくられないわけで、
つまりそれだけ小樽は大都会だったということだ。どれだけ都会だったんだ、と素直に驚くしかなかった。

小樽市内で最大の土産物屋地帯である堺町通りを南下していく。
各種小樽グッズを扱う店のほかにも鮮魚店や海鮮丼屋などが軒を連ねており、昼間になったら賑やかそうだ。
しかし通りを歩いていると、どの店もホースで水を出して店先を懸命に掃除しているのが気になる。
どうやら昨日の大雨で海に近いこの一帯は冠水してしまったようで、みんな必死で泥を流しているのだ。
中には店内に水が入り込んでしまっていた店もあった。朝からなかなかの大騒ぎのようである。

小樽オルゴール堂が土産物屋地帯の南端となる。ここから北海道道17号に出る。
かつて函館を訪れた際には北島三郎記念館を訪れたが(→2008.9.15)、小樽には石原裕次郎記念館がある。
こりゃもう、行っちゃおうじゃないですか。ダメな大学生の典型的なパターンとして、朝10時ぐらいにむっくり起きて、
テレビをつけてボーッと『西部警察』の再放送を見る、というのがあるのだが、そういう生活を送っていた自分には、
木暮課長の存在はやっぱりなんだかんだで大きいものなのだ(もちろん渡哲也の大門部長刑事もそうだが)。
さて、困ったことに裕次郎記念館は市街地から離れたところにあるのだが、
比較的早いうちに小樽入りしたので歩いて行ってみることにした。脳内地図でがんばってたどり着いたよ。

 石原裕次郎記念館。

なぜ小樽に石原裕次郎なのかというと、父の都合で9歳までここで暮らしたという縁があり、
ヨット大好きな裕次郎にとって小樽マリーナのヨットハーバーに隣接する立地がぴったり、ということだそうだ。
中に入るとまずは映像で裕次郎の名曲を振り返る。やくざやんちゃなドラマーな僕としては、
裕次郎ってのはある意味で尊敬すべき先輩なのかもしれんなあ、などと思うのであった。
続いて黒部ダムの工事現場を再現して『黒部の太陽』の映像を紹介。これはなかなか面白い。
『黒部の太陽』は石原裕次郎と三船敏郎が共演した作品なのだが、いまだにビデオ化もDVD化もされていない。
なんでも「あの迫力は映画館で味わってほしい」という石原裕次郎自身の意向なんだそうだ。
その気持ちはすごくよくわかるんだけど、それでもやっぱり商品化してほしい。本当にこの作品は見てみたい。
そこから先は映画関連の資料、シングルのジャケット、裕次郎所有のヨット関連の品々などが展示されている。
車が何台も並んでいたり部屋をそのまま再現したり、かなり豪快かつリアリティのつかめる内容で面白い。

見ていると、石原裕次郎というのは、兄が芥川賞をとったことがまあ最初のきっかけとなったのだろうが、
そこからあれよあれよとスターに祭り上げられていってしまった感じ、それに素直に乗っていった感じを覚える。
ガツガツと自分から野心を持ってスターダムを駆け上がっていった人というよりは、
周囲の要望に応じて裕次郎というアイコンをつくりあげていった人、そういう印象がした。
だからギャップを無理して埋めて、その分だけ若くして亡くなっちゃったような気がする。
でも一方で、その状況を素直に受け止めて、存分に人生を謳歌したんじゃないかって気もする。
展示された品々を眺めているうちに、彼は昭和(正確に言うと「戦後」かな)とともに生きて死んだように思えた。

帰りはさすがにバスに乗って市街地まで戻る。小樽市役所の近くのバス停で降りて、市役所を目指す。
小樽市役所は小高い丘の上にある小樽公園の隣にある。道を間違えてぐるっと遠回りして裏手から敷地に入る。
そうして正面へと抜けると、1933(昭和8)年竣工の市役所が堂々とした姿を目の前に現す。

  
L: 小樽市役所。地元の有力者の寄付をもとにつくったそうだ。  C: 豪快につないでおります。
R: 小樽都通り商店街。榎本武揚を前面に押し出し、そこかしこで小樽弁を紹介している。

市役所の撮影を終えるとそのまま坂を下って小さな飲食店が密集する花園界隈を抜け、商店街を歩く。
残った時間でどうしようか考えたのだが、がんばって歩いて有名建築を見てみることにした。
本当は寿司を食べたかったのだが、まあまた今度ってことにするのだ。

商店街を抜けてそのまま北へと進んでいく。歩いて歩いてずーっと行った先にあるのが旧日本郵船小樽支店。
1906(明治39)年築で重要文化財なのだ。レンタサイクルなら素早く動けたのに、歩きのせいで本当に時間がない。
外観を眺めて惚れ惚れすると、慌てて市街地へと引き返す。次回はいつになるかわからんが、中に入りたい。
で、そのまま旧日本銀行小樽支店の日本銀行金融資料館へ。こちらは1912(明治45)年築。
わりとリニューアルがきつくてそれほどありがたみはない。中では金融のお勉強ができるそうだ。

  
L: 旧日本郵船小樽支店。かつては小樽市博物館として再利用されていた。さすがに風格がある建物だ。
C: 角度を変えて撮影してみた。リニューアルの仕方がものすごく上品で、思わず見とれてしまう。
R: 日本銀行金融資料館。こちらはちょっとリニューアルをがんばりすぎという印象。

以上で今回の小樽探検は終了である。これ以外にも小樽北部にはニシン漁に関連する古い建築があるなど、
もっと深く味わいたい場所がいっぱいある。ぜひともいずれ天気の良い日にリベンジしたいものだ。

快速エアポートで札幌駅まで戻ると、地下鉄に乗り換える。慣れていないせいだと思うが、
札幌駅の地下鉄の乗り換えはかなりややこしかった。JRからやや離れて2つの路線が平行しているのだ。
東豊線のさっぽろ駅から終点の福住駅まで行く。車内は日ハムのファンでいっぱいだ。
福住駅から少し歩いていったところにあるのが札幌ドーム。今日は楽天とのデーゲームなのだ。
地方都市でのスポーツ観戦が密かな趣味(というか、それを基準に旅程を組む傾向がある)僕としては、
札幌ドームで日ハムを応援するのはどうしてもはずせない今回のメインイベントのひとつなのだ。
まあ、こういう探究心は都市社会学的にも重要だと思うし(地方のスポーツは都市と祝祭の一例だ)。

  
L: 目の前に現れた札幌ドーム。  C: 歩道橋の上から撮影。なんかナメクジっぽくないか。
R: 駐車場の方にまわって撮影してみた。夏休み中の日曜のデーゲームだから通路はかなり混んでいた。

試合開始までちょっとだけ余裕があったので、札幌ドームを一周してみる。
札幌ドームを設計したのは僕の大嫌いな原広司だが(→2004.8.62010.3.26)、単独での仕事ではないためか、
それほど原広司らしい無意味なオブジェは目立っていない(が、周囲にないわけではない)。
裏にまわるとサッカーの試合で使うピッチがあって、まるで体育の時間に引っぱり出すマットのように思えた。
この一段高い場所でサッカーをやるというのが、妙に違和感がある。ぜひいずれ、それを見てみたい。

あらかじめ携帯電話の画面にQRコードを出しておき、それを読み取らせて中に入る。
そんな時代になったんだなあ、としみじみ思う。個人的には印象に残った試合のチケットを栞にするのが好きなので、
あまりこういうIT革命はうれしくない。やはり、形になって残るってことの大切さがもっと大事にされてほしいのだ。
とにかく腹が減っていたので豚丼とジュースを注文したのだが、なんせ混んでいるのでスムーズにいかず、
席にたどり着いた頃には1回裏の攻撃が始まってしまっていた。楽天の先発はマー君こと田中将大。
それを意図してこの試合を選んだわけではないのだが、このことだけでずいぶんと得をした気になる。

  
L: 札幌ドーム、裏手で出番をじっと待つピッチ。これがそのまま実戦で使われるってのは、妙な気分だ。
C: 札幌ドーム内部の様子。なかなか見やすくてよい。ちなみに日ハムは三塁側がホームなのだ。
R: バックネット側の天井。なんかすげえなあ、と思って見上げるのであった。

マウンドに立つマー君は小さいが、テレビで見たとおりのセットポジションである。エースの風格が漂っている。
日ハムファンはなかなか熱狂的で、選手ごとに決められた応援があるのだが、内野席もそれをきちんとやっていく。
稲葉ジャンプ(稲葉が打席に立つとみんなでジャンプする)は本当に札幌ドームが揺れる大迫力。ビビった。
肝心の試合は一方的な展開で、楽天打線が日ハムのピッチャーを次から次へと火ダルマにしていくのに対し、
マー君の前に日ハム打線は完全に沈黙。ファンは途中からもう諦めムード。その辺はさすがマー君といったところ。

こうなると日ハムファンの興味は3試合連続でホームラン(4本/3試合)を放っている中田翔が打つかどうか、となる。
マー君が完璧に近い内容だけに、中田にかかる期待はどんどん(半ばムチャな形で)膨らんでいく。
でも中田のバットは豪快に空を切り続け、マー君は完封ペースで余裕のピッチング。
そして8回裏になり、この回先頭の中田翔が打席に立つ。観客は無責任に盛り上がるが……、
なんと、中田はマー君からレフトスタンドにホームランを放ったのだ。狂喜乱舞する三塁側。
結局日ハムの得点はこの1点だけで1-7で敗れてしまったのだが、ファンはどこか満足げだった。
中田翔はもはやすっかり日ハムファンのハートをがっちりつかんでいるようだ。

それにしても、ここまで熱狂的なファンが押しかけるチームになったとは、信じられない。
東京ドームがスッカスカだったころの日本ハムファイターズに慣れきっていた者としては、目を疑う光景だった。
地方都市への本拠地移転は大きな賭けだっただろうが、見事にそれに勝ったのだ。
ということは、新庄が現役だった当時の札幌は、どれだけメチャクチャな騒ぎだったのだろう。想像がつかない。

  
L: マー君VS稲葉。日ハムファンの稲葉ジャンプは本当にすごい。怖いくらいに揺れる。
C: 豪快な三振をかます中田翔。この後ホームランを放つのだが、客席はとんでもない熱狂ぶりだった。
R: YMCAを踊るおねえさんたち。ヤンキースはグラウンドキーパーもサビでちゃんと踊るぞ! 見習え!(→2008.5.7

札幌ドームを出ても、曇り空は相変わらず。天気が少しでも回復していれば羊ヶ丘の展望台に行くつもりだったが、
しょうがないので断念して札幌の中心部まで戻った。明日はこそはどうにかスカッと晴れてほしい。

札幌の東急ハンズで晩メシまでの時間をつぶす。時間をつぶすといっても東急ハンズを訪れることは、
それ自体が立派な目的になることだから、楽しくてたまらないことなのだ。嬉々として過ごす。
札幌ハンズは大通公園と狸小路に挟まれたエアポケット的な位置にある。少し不思議な立地だ。
思えば僕は全国各地の東急ハンズを訪れているが、これでもうほぼすべてを制覇したはずである。
後で旅行と名数のページにまとめてみようと思うのであった。

さて、本日の晩メシも札幌名物をいただくのである。昨日は味の三平の味噌ラーメンだったが、
今夜はスープカレーだ。日ごろそんなオシャレな物を食べることなんてないので、具体的にどんなものか知らない。
期待に胸を膨らませて、ガイドブックに出ていた店に入る。なかなか凝った感じの店である。
スープカレーの特徴は、ルーではなくスープなのですごくサラサラとしているという点がまずひとつ。
そこにかなり大きめに切った野菜と鶏肉を入れるというのが標準的なスタイルのようなのだ。
出てきたスープカレーを一口すくって味わってみる。ふつうに旨い。スープカレーとはつまり、
カレー風味の澄んだスープということのようだ。食べ方はいろいろあるけど基本的には自由なようで、
素直にスプーンによそったライスにそのままスープをサラッと浸していただくやり方で食べていく。
カレーとはそもそもさまざまなスパイスにより味が組み立てられているものだが、
スープカレーはそこにさらにスープじたいの味の深みも追求されているので、よけいに味が繊細。
そこに大雑把な野菜やチキンという対比が面白い。家庭でもいくらでも凝れそうな、奥の深い料理だと思う。
自分だけのこだわりの味を持っていれば家族や友人にありがたがられるなコレ、と思うのであった。
これは本当につくれるようになりたいね!

宿への帰りにセイコーマートを発見。といっても北海道にはそこらじゅうにあるので発見もクソもないが。
セイコーマートというのは北海道だけで展開しているコンビニなのだ。
あの「なっち」こと安倍なつみもバイトしたことがあるそうな。わーい、なっちなっち!
セイコーマートの何がいいって、とにかく売っている物が安いこと。きちんとしたレベルの商品が、
どれもほかのコンビニより安い値段で売られているのだ。本気で本州にも進出してほしいと思う。
唯一の弱点は24時間営業をしている店舗が少ない点だが、それを補って余りあるすばらしさだ。
で、そのセイコーマートで「カツゲン」を買って宿に帰る。「カツゲン」とはこれまた北海道内で大人気の飲み物で、
もともとは中国大陸にいた日本陸軍向けの栄養飲料だったのだ。それを飲みやすく改良したので、
正式な名前が「ソフトカツゲン」なのである。味は微妙にラムネ風味の混ざった乳酸菌飲料。
沖縄のヨーゴ(→2007.7.21)にすごく似ている印象。いつか飲み比べをしてみたいものだ。

  
L: スープカレー。カレー風味のスープといった印象。でもものすごくおいしかった。
C: セイコーマート大好き。  R: セイコーマートの北海道牛乳と、カツゲン(ソフトカツゲン)。

そんな具合に2日目も北海道を存分に満喫したのであった。明日は札幌市内を徘徊するのだ。


2010.8.7 (Sat.)

今日からいよいよ、待ちに待った北海道旅行がスタートである!
ほとんどすべての県庁所在地も政令指定都市も訪れたことがあるのだが、唯一行ったことがないのが札幌。
今回の旅行では、ついにその札幌を攻略するのだ。長年の野望がついに達成されるのである。

さて、本来であれば札幌というのは飛行機で行くところなのだが、お盆の期間と重なって運賃が高い!
これならフリーきっぷをフル活用して電車で突撃した方がまだマシ、というくらいなのだ。
まあついでにあちこち寄り道しちゃえば元はとれるよな、ということで、今回はほぼ全編を鉄道で行くのだ。
東京駅から八戸まで新幹線で行き、八戸から函館まで特急で行き、さらに函館から札幌までも特急。
どれだけ贅沢な旅なんだ、と自分でも言いたくなるくらいだが、フリーきっぷなので問題ナシなのだ。

●06:56 東京-10:03 八戸 [新幹線]はやて1号

ふだんはすべてを各駅停車で済ませているので、いざ新幹線に乗るとなると大いにまごついてしまう。
特に今日はお盆の帰省ラッシュが始まり、朝から構内は大混雑。新幹線の改札を抜けるとさらにひどい。
人混みを掻き分けて東北新幹線のホームに出る。チケットを確認して腰を下ろすと一息つく。
これから電車に揺られ揺られて札幌を目指すことになるのだ。コンビニで買ったメシを食っているうちに出発。

 新幹線に乗る機会なんてホントにないもんなあ。

東北新幹線に乗るのは本当に初めてなので、すべてが新鮮である。
いつも各駅停車でのんびり行くところを、スパンと一気に飛んでいく。これは快適だ。快適すぎて怖い。
音楽を聴きながら窓の外を眺めて過ごしていたのだが、あっという間に仙台に着いてしまった。
仙台の街をよく見ると、七夕の飾りつけがなされている。そうか、月遅れの七夕か、と気がつく。
そうこうしているうちに盛岡に到着。盛岡冷麺うまかったなあ(→2008.9.12)、なんて思っていると発車。

それから新幹線はいっそう濃くなった緑の中を駆け抜けていく。みちのく、という雰囲気だと思う。
やがて八戸駅に到着。乗客が一斉に降りてホームはぐちゃぐちゃになる。乗り換えの時間に余裕がないので、
電光掲示板の表示をすばやく確認して目的のホームに出る。今度は特急だ。座席を確認して乗り込む。

●10:15 八戸-13:14 函館 [特急]スーパー白鳥1号

東京から八戸までが3時間。八戸から函館までが同じく3時間。距離を考えると不思議なことだが、
つまりこれが新幹線と特急の速さの差ということになる。東北新幹線の延伸は、やはり需要があるのだ。
さすがに新幹線の後なので、特急とはいえどこかゆったりとした印象で進んでいく。
通過する駅のサイズが田舎の駅のそれなので、よけいに牧歌的に感じる。

青森駅で乗客の半分くらいが入れ替えとなる。でも満席だったのが再び満席になるわけで、さして変わりはない。
ここから先はスイッチバックしたので車両の前後が逆になる。乗客の皆さんは律儀に席の向きを変えるので、
僕もそれに従って進行方向に向き直る。青森から先は以前も来たことがあるので、パソコンを取り出した。
車窓の風景はそっちのけでひたすら日記を書いていくが、それでも大阪編が終わらない。ヒー

必死で書いていたらいつの間にか青函トンネルに突入しており、いつの間にか北海道に上陸していた。
そのうち(パソコンではなく自分が)電池切れしてギブアップ。おとなしく函館山を眺めて過ごすのであった。

 海に浮かぶ函館山。やはりこの街は特徴的だ。

函館駅でいったん改札を抜ける。フリーきっぷの範囲なので何も遠慮はいらないのである。
みどりの窓口でネットで予約しておいたきっぷを受け取ると、駅のレストランでご飯をいただく。
せっかくなので函館の街を歩きたいのだけど、それをやりだすとキリがないので我慢なのである。

●14:13 函館-17:29 札幌 [特急]スーパー北斗13号

ここから三たび3時間。いよいよ札幌への移動である。ここから先は初めてなのでちょっとドキドキ。
本州は東京が快晴、栃木が曇天、東北が快晴ときて、北海道は北へ進むと雲が厚くなっていく。
大沼公園の辺りで空はかなり暗くなり、そのうち降っていた雨を追いかける格好になる。
だからたまに日が差すと弱々しい虹が東の雲の手前に浮かんで、それがなかなか幻想的だ。
なーんて余裕があったのも新千歳空港の辺りまで。札幌市内に入ると一気に強い雨に襲われる。
薄暗い中、ぼんやりとビルに混じってテレビ塔が突っ立っているのが見える。ついに札幌に着いたのだ。

改札を抜けると、まず観光案内所を探す。かなり大規模なものが駅の構内にあり、パンフレットをもらいまくる。
札幌に限らず広大な北海道の観光パンフレットを網羅しており、この時点でかなりの重さになってしまった。
それにしても駅にはめちゃくちゃいっぱい人がいる。帰省してきた人がいるからだろうが、それにしても多い。
半ば呆れながら南口に出る。が、雨の勢いが凄まじく、旅行初日っからコレかい、とブルーになる。
天気予報によると、北海道はしばらく不安定な天気が続くらしい。晴れ男としては負けられない戦いになりそうだ。
とりあえず、晩飯を食わないことには落ち着かない。食い終わったらそのまま宿まで歩いていくことにしよう。

 雨の札幌駅。初日からこの雨とはついてない。ま、今後晴れればいいや。

さあ、札幌である。札幌名物と言えば、なんといっても味噌ラーメンだ!
札幌の味噌ラーメンの元祖は「味の三平」。ここが札幌、いや日本における味噌ラーメンの発祥の地なのだ。
あらかじめ調べておいた住所によるとPARCOの裏側ということで、雨の中をひたすら歩いていく。
札幌駅から大通公園までは思っていたよりも距離があった。札幌という街のスケールを実感する。
三越を過ぎるとPARCOが現れるので左折。看板に注意して歩かなきゃなと思った矢先、
ビルがそのまま丸ごと規模の大きい文具店となっていて、そのテナントの中に「味の三平」の文字があるのを発見。
半信半疑で中に入ると、エスカレーターで4階へ。1階も2階も3階も、そして4階もごくふつうの文具店だ。
しかし、4階の奥をよく見ると小さな入口があり、そこにはきちんと暖簾が掛かっているのである。「味の三平」と。
何がどういう経緯でこういうことになっているのかはわからないが、とにかく味の三平はあった。文具店に。
おそるおそる暖簾をくぐると、中はきちんとふつうにカウンター席がずらっと並ぶラーメン屋だった。すげー違和感。

迷わず味噌ラーメン大盛を注文。待っていると、漬物が出てきた。キムチというほど辛くなく、酸味が効いておいしい。
やがてラーメンもすぐに出てきた。でも、スープの色は味噌の色をしていない。底に味噌が沈んでいるそうだが、
これには少し戸惑った。もっとガッチリと全力で味噌を液状化させたスープだと思い込んでいたので、意外だった。
いざ食べてみると、スープの色と同様、味噌の味が前面に出ているわけではなかった。
味噌は一歩引いたところから全体のバランスを崩さないように風味を足している感じがする。
特筆すべきは具として乗っている玉ネギとひき肉の旨さ。これだけでも感動的なのだが、もちろん麺じたいも旨い。
ウハウハ喜んで食ってたら、「ご飯を一口どうぞ」と、チャーシューとネギを刻んで乗せた小さいご飯が出てきた。
思うに、味の三平の味噌ラーメンは、今のように味噌ラーメンが様式化される以前のものであるのだ。
しかしそれだけに、味噌の味だけでごまかすようなことが一切なく、どんどん一気に食わされた感じがする。

 
L: 味の三平の味噌ラーメン。食えば日本のラーメン文化の中に味噌味が深く根を下ろした理由がわかる。
R: 店員さんが記念に撮ってくれたよ。なんというか、老舗らしい接客だったなあと思う。おいしゅうございました。

食い終わってすすきの方面に向かい、宿を探す。今日、すすきのは祭りがあるようで、かなり賑やかだ。
札幌の人なのか観光客なのかはわからないが、とにかく人がいっぱいだ。人混みを眺めつつ味噌ラーメンを思い出し、
この大きな観光都市の名物をたった1軒でつくりあげたってのは偉業だなあ、とあらためて思うのであった。

 
L: すすきのの交差点。北の繁華街にやってきたのだ。  R: 今日のすすきのは祭りだった。すごい賑わい。

さて、すすきの。ドデカいニッカウヰスキーのキング・オヴ・ブレンダーズがとても印象的だ。
ああ札幌に来たんだ、としみじみ。ラフィラから南側をちょっと歩いてみたのだが、すすきのは実にパワフルである。
たとえば福岡の中洲であれば、風俗街は明確にエリアが分けられているのだが(→2008.4.25)、
すすきのはその点、ごちゃまぜ。けっこうなんでもアリという印象である。あっけらかんとしている感じ。
もうちょっと進んでいったところにはファッションセンターしまむらの文字で「ファッションヘルスしまむら」の看板が。
ネタとしては面白いんだけど、それでどうやって盛り上がるんだろう……と真剣に考えてしまったではないか。
まあそんなわけで明日以降、この街の魅力をしっかりと味わってみることにするのだ。


2010.8.6 (Fri.)

なぜわれわれは、社会のテストでいい点をとらなければいけないのか。

昨日のログで、理科と社会の学習は「自分を取り巻く世界や環境に対する興味・関心を養うため」と書いた。
では自然科学を守備範囲とする理科に対し、社会の守備範囲はどうなるかというと、社会科学・人文科学である。
こちらは人間の関与(行為)が引き起こす非物理的な変化を観察して読み取るという役割となっている。

勘のいい人なら気がついたと思うが、理科と社会に共通しているのは、「科学」である。
科学的思考に基づいていなければ、それは理科にも社会にもならないのだ。これが大原則。
つまり理科と社会は、科学に基づいた有史以来の知の蓄積である!ということなのだ。
社会の場合は理科と違って対象が確たる形を持っていないことが多いのでややこしくなりがちだが、
科学を武器に切り込んでマクロからミクロに至るまでの関係性(社会は主に人間関係が対象)を分析する点で、
しっかりと共通項を持っているのである。まあ、車の両輪みたいなものだ。

もう一度整理しよう。世界ってのはつまり、関係性の網目そのものである。
この関係性の網目を、観察によって冷静に解きほぐしていこうとするのが科学ってことなのだ。
そしてその関係性の網目について、物質を主な切り口として観察・分析を行っているのが理科。
人間を主な切り口として観察・分析を行っているのが社会。もちろんどちらも「人間と物質の関係性」も扱っている。
だから実は両者の境目は意外と曖昧だったりする。地理という科目の存在が、その事実を物語っている。
(僕が地理の学習に大いにハマったのも、その理科と社会を越境する可能性に魅力を感じたからなのだ。)

というわけで、5回にわたった「なぜわれわれはテストでいい点をとらなければならないのか」シリーズはおしまい。
テストでいい点をとるということは、まずそれ自体がコミュニケーションの訓練であるわけで、
そのうえでいかに高度な教養や知識につながる土台ができているかを相手に示す、ということにほかならない。
つまり、テストでいい点をとるということは、より美しい自己表現そのもの、というわけなのである。
もちろんテストでは評価しきれない頭の良さが存在するのも事実だが、かといってテストを軽んずるのはいけない。
とりあえず、主要5教科を勉強する意味についてはここまで書いてきたとおりだ。これが真理だ、覚えとけ。


2010.8.5 (Thu.)

なぜわれわれは、理科のテストでいい点をとらなければいけないのか。

国数英の3教科についてじっくり書いたから疲れちゃったというわけではないのだが、
理科と社会についてはわりとあっさり結論づけることができる。
学校で理科や社会を習うのは、自分を取り巻く世界や環境に対する興味・関心を養うためである。
国数英の3科目がコミュニケーションツールとしての言語に焦点が絞られるのに対し(数学も言語だ)、
理科と社会は言語そのものには関与しない。あくまで自分の外に対象が存在している点が特徴となる。
(だから理科と社会を研究する手法は、基本的に「観察」ということになるのである。)

そして特に理科の場合は、自然科学(その応用としての工学の基礎部分も含む)が対象となる。
まあ言ってみれば、人間の関与する以前、自然から「与えられたもの」を扱うための知識の学習だ。
とはいえ人間は存在している以上、すでに自然と双方向に影響を与え合っているわけだから、
理科の扱う範囲は基本的に実体のある物理的な存在全般ということになる(抽象的な表現で申し訳ない)。
物質と物質、人間と物質の関係性について科学的思考に基づいて観察し、分析をする教科というわけだ。

つまり結論としては、理科を勉強しなくちゃいけないのは、
生きていくうえで相手にしなくちゃいけない(触っていかなくちゃいけない)物質・物体全般への理解だからだ。
有史以来蓄積されている物質・物体全般への知識を継承すること。それが理科を勉強する意味なのである。


2010.8.4 (Wed.)

なぜわれわれは、英語のテストでいい点をとらなければいけないのか。
その問いに対する答えは、すでにこの日記のログでさんざん書いてきている。
そのため内容に重複する部分が多いと思うが、それを承知のうえであらためて考えてみることにする。

学校で英語の勉強をするというのも、考えてみれば実に変な話なのだ。教えている先生はネイティヴじゃないし、
そもそも週にたった4時間程度の授業で英語の「読む」「書く」「話す」「聞く」ができるようになるわけがない。
とっても便利な日本語が自分たちの周りを包んでいるのに、なんでわざわざ英語を半端に勉強するのか。
実はこれには隠された理由がある。「国際化」なんていうのはものすごくタチの悪い冗談だ。真実からは遠すぎる。
英語を勉強する、いや、英語のテストでいい点をとらなくてはいけない第一の理由は、
「英語のテストとは、そそっかしいやつ、努力しないやつをはじくための装置だから」である。
裏を返すと、「細かいところまで気の回る、気の遣える人を選び出すための装置だから」ということにもなる。
世間が英語のテストを必要としているのは国際化のためなんかじゃない。上記の理由で機能するからだ。

世の中には頭の悪い人たちがいっぱいいて、文科省の中にもいっぱいいて、英語をしゃべれる=すばらしい、
などと盛大な勘違いを平然としている。いや、恥ずかしいことに、たぶん日本人のほとんどがそう勘違いをしている。
英語をしゃべるリスクについては以前も書いた(→2009.10.162009.12.42010.7.5)。いい面だけしか見ていない。
ぶっちゃけ、英語なんてしゃべれなくっていい。書けなくってもいい。外人から逃げない度胸さえあればいいのだ。
逃げずに身振り手振りと表情でやればいい。必要な最低限の能力は、むしろこの原始的なところにあるのだ。
でも世の中の頭の悪い人たちは、その本質をまったくわかっていない。わからないで、小手先のことだけ考えている。

閑話休題。レベルが上がると、英語は「わかっているかどうか」ではなく「ミスしないかどうか」の勝負になる。
教養として英語のシステムが理解できているうえでの勝負である。十分理解したうえで、気を遣えるかどうか。
たとえば三単現のsにきちんと配慮できるかどうか。複数形に配慮ができるかどうか。過去形に配慮ができるかどうか。
受験英語は、実はすべて配慮からできているといっても過言ではないのである。配慮のできない人間に明日はない。
受験生は注意深くイージーミスと戦うことを強いられる。そしてそれは細かい部分への配慮の訓練にもなる。
進路を決める試験において英語が重宝されてきた本当の理由は、まさにこの点にあるのだ。

ところが学校で英語を勉強することの本質は、実はもうひとつあるのだ。
こちらは上で述べた「そそっかしいやつ、努力しないやつをはじく」なんて小さなレベルの話ではない。
それは、自分(日本語)とは異なるルールで動いているシステムに対する適応力をつけること、だ(→2009.12.9)。
国語で述べた「他者」よりももっと遠い他者。思考回路のまったく異なる人間に対する理解という深いレベルだ。

実はこれ、かつての日本においては漢文の学習という形で行われてきたことである(→2009.10.16)。
かつての日本は漢文の古典に触れることで温故知新による教養の充実を図りつつ、自分以外のルールを理解してきた。
ところが明治以後は漢文よりももっと異なる思考回路である西洋文明が入ってきた。
それで漢文の学習は英語の学習に切り替わってしまったのである。ただし方法論は同じままで。
漢文のエキスパートだった夏目漱石が英語の教師になったのは、極めて当然の流れだったのである。
ではその西洋文明ではどうだったのかというと、実はかつての日本と非常によく似た学習が行われていた。
イギリスにはグラマースクールという学校が設置されたが、ここで教えていたのはラテン語(今はいろいろ教える)。
グラマーとはつまり、ラテン語の文法のことなのだ。日本が漢文なら、西洋ではラテン語。まったくの相似関係だ。
漢文がもはや話されることのない文語での教養として確立されていたのとまったく同じで、
ラテン語も聖書の公用語、つまり話されることのない文語での教養として確立されていたのである。
洋の東西を問わずやっていることはまったく一緒だったわけだ。これは教育・教養の本質を示唆するものだ。
(そういえばかつての仏教も、これまた話されることのなくなったサンスクリット語から教養を学んでいたっけな。)
ここまで述べれば、学校教育における「英語をしゃべることの重視」がいかに薄っぺらいものかわかるだろう。

では漢文に取って代わったその英語とは、いったい何なんだろうか?
究極的には、多神教の世界観を持つわれわれ日本人が、一神教の世界観を知る入口としての役割であろう。
英語は一神教のもとで鍛えられた言語である。そのため、言語の仕組みがその世界観を反映している。
(昨日述べたように、普遍の真理を目指す数学と一神教の英語は、方法論としてかなり似通ったものがあるわけだ。)
be動詞ひとつとってもそれは明白である。まあこれはいずれ、余裕のあるときに日記に書くつもりでいる。
英語のシステムを学ぶことは、一神教の思考回路を学ぶことへとつながっているのだ。
だから本当は、英語をしっかりと勉強することは、無限に広い視野を提供してくれることになる。
社会学的な見方になるが、英語は噛めば噛むほど味の出る、西洋文明の本質を映す絶好の鏡となるのである。

ちなみに僕の中での「教養」という言葉の定義は、「差別をしないこと」である。
本当に教養のある人間は、どんな思考の枠組みに対しても差別をすることなく接触することができる。
(個人的には、それを歴史上最も美しくやってのけたのはレヴィ=ストロース(→2010.3.17)だと思う。)
そして本当に教養のある国民は、どんな人種に対しても差別をすることなく接することができる。
(「国民」と書いたのは、国が義務教育を規定しているからだ。教養は義務教育段階において徹底される。)
差別をするということは、教養の欠如そのものである。それは人間として最も恥ずべき状態にほかならない。

さてここまで書いたからには、僕は英語の教師として「生徒に本当の教養を教えること」に努めなければならない。
いちおう僕は、そこまできちんと考えたうえで英語という教科を選んだ(地理は自分には「物足りなかった」のだ)。
英語という入口を通して、本当に他者の思考を理解するための土台つまり教養を次の世代に植え付けること。
そういう使命を持った教師がもっと増えることを心から願っている(現状は絶望的だけどね!)。


2010.8.3 (Tue.)

なぜわれわれは、数学のテストでいい点をとらなければいけないのか。
「数学なんて生きていくうえで必要ないじゃん! 二次方程式とか因数分解とか、使わないじゃん!」
というかわいそうな意見を僕は何度も耳にしてきた。耳にするたび、こっちまで情けない気持ちになってきた。
まあ確かに、生きていくうえで二次方程式や因数分解を使わなければいけない職業は限られている。
しかしわれわれが数学の時間に学んでいるのは、実は「数学的思考」なのだ。これは、生きていくうえで必須だ。
たとえば、料理をするとしよう。あらかじめいくつか素材を切ったり味付けしたり、下ごしらえをする。
そのうえで混ぜて焼いたり、順番を決めて煮込んだり……。これって、( )のある数式の計算に似てません?
( )の中を先に計算する、その次に掛け算と割り算をする。ルールを守らないと、おいしいはずの料理がまずくなる。
手早くおいしい料理をつくることは、数学的な思考と大いに関係している。それこそが、数学で学ぶことなのだ。
(以前、「視野の広さ」という表現で、数学的思考について書いたことがある。→2004.6.21

いちおうここで、算数と数学の違いについてふれておこう。まず算数は小学校の教科で、中学校以降は数学になる。
算数は英語では「elementary mathematics」と表現するそうで、初歩の数学と位置づけられている。
学習指導要領を見ると、算数は日常の事象や生活について論理的・数理的に考えることが目標となっているのに対し、
数学はもうちょっと抽象的で、数量・図形などに関する基礎的な概念や原理・法則の理解が目標に挙げられている。
まあ要するに、算数では生活の中の数学的な要素について、計算などを通じて慣れされていくわけだが、
数学ではそこから一段メタレベルに入り込んで、数学という完結した世界の中でのやりとりが中心となっていくのだ。
つまり、数学の(算数ではなく)数学たるゆえんは、数学的思考のセンスを鍛えることに特化した点にあるといえる。

そもそも数学なんて、言語にすぎないのだ。数学とは、「数学語」で読み書きしたり考えたりする学問なのだ。
むしろこう捉えるべきだろう。数学とは、「数学語」で考える方が効率がいい物ごとを「数学語」で考える練習である、と。
文章題が典型的な例なのだが、まず日本語を数学語に翻訳して、演算をして、結論を出す。それだけのことなのだ。
(日本語では「ごたすにはなな」「五足す二は七」「5たす2は7」と表記するが、数学語では「5+2=7」と表記する。)
同じものを違う言葉で表現することが可能なように、同じ内容をさまざまな数式で表現することができる。
文字式の展開と因数分解の問題は、その訓練にほかならない。そうして数学語に慣れれば、思考の幅が広がる。
また、証明はだいぶ日本語が混じるが、あの証明独特の言葉の“型”は、数学語への翻訳の一種と考えればいいのだ。
数学の勉強は、そうやって数学語を用いた論理的思考の方法を磨くものとして高度に洗練された仕組みになっている。
学校の先生は誰もそういうふうに数学の意義について語らないのだが(なんでだろうね?)、
きちんと数学の勉強を進めていけば、あらゆる作業について、理にかなった順序というものが見えるようになる。
それなら数学語じゃなくて日本語で論理的思考を訓練すればいいじゃないか、と言う人がいるかもしれない。
昨日の日記で「気分ではなく論理的な思考をもって他者を理解することが、国語のテストでは問われる」
なんて書いているじゃないか、という指摘がありそうだ。しかし残念なことに、日本語の美は“曖昧さ”にあり、
直進的な論理的思考には実はそれほど向いていない。だから国語のテストの正解には曖昧な感触が残ってしまう。
(明日書くが、英語は数学の論理的思考に非常に近い。だから国語・数学・英語の三者のバランスが重要なんだ!)
人間が生きるうえで必要とする多様なセンスを磨くのに、数学語による思考の訓練はとても有用なものなのだ。

「数学的思考」という難しい言い方をずっとしてきたけど、これはどういうことなのか再確認して終わることにしよう。
たとえば、物ごとを早く終わらせること。物ごとを効率よく終わらせること。物ごとを美しく終わらせること。
そして、物ごとを安い経費で終わらせること。このすべてに、数学的思考は関わっている。
数学的思考とはつまり、簡単に手っ取り早く、そして確実に物ごとを処理するためのセンスのことなのだ。
(複雑な計算を工夫して簡単に済ませるということはつまり、間違うというリスクを回避するセンスなのである。)
人間、数学的思考が生きていくうえで必須だと上で書いたが、こう説明すれば納得してもらえると思う。
われわれが数学の時間に勉強し、数学のテストで試されていることは、物ごとを上手く処理するセンスにほかならない。
これで数学のテストでいい点をとらなくちゃいけない理由がわかったはずだ。数学ができる人は、仕事ができる。
そう考えて数学というものを眺めてほしい。このことが理解できれば、それだけで数学のセンスが向上するだろう。


2010.8.2 (Mon.)

なぜテストでいい点をとらなくちゃいけないのか、ということについて述べていきたい。
これは僕が今までの人生で理解したことで、まあ言い換えれば「悟り」といってもいいことだ。
今までそれを人に話すことはあっても、文章という形で出力したことはなかった。
しかしいいかげん形に残しておいた方があれこれ便利だということで、ちょっとがんばって書いてみる。

まず最初に断っておくが、テストを受けるということは、コミュニケーションの舞台に立つということだ。
頭の悪い連中は「コミュニケーション力をつけさせよう」だの「テスト偏重の評価は改めるべきだ」だの、
どうしょうもなく救いがたいことを平然と言っているし、悲しいことにそれが「正論」とされて久しい。
だが、テストを受けるということは立派なコミュニケーションの手段なのである。その点を理解しないといけない。

なぜテストを黙々と解くことがコミュニケーションとなるのか。それは、出題者と解答者の間のやりとりだからだ。
出題される問題には、必ず意図がある。「こう解いてほしい」「あなたならきっとこれくらいはわかるでしょう?」
テストの問題は、実はコミュニケーションの発露がたっぷりと埋め込まれたものなのだ。
だから出題者の意図を汲んできちんとした答えを出すことは、立派なコミュニケーションにほかならない。
近年テストは不当に低い位置・役割に押し留められているが、それは物事の本質の見えていない人間のせいだ。
はっきり言ってしまおう。テストとは、最も洗練されたコミュニケーション・ツールのひとつなのだ。
コミュニケーションにおける最高の褒め言葉が「空気が読める」ということであれば、
テストでいい点をとること=空気が読めるということである。それをこれから、教科別に論じていくことにする。

まずは国語から考えていきたい。なぜわれわれは、国語のテストでいい点をとらなければいけないのか。
結論から言ってしまおう。国語でいい点をとれるということは、「他人の気持ちがわかる」ということだ。
小説にしても論説文しても、テストでは他人が書いた文を読み取って判断を下すということを行う。
そこに自分の気持ちを込めてはならない。あくまで他人の思考を正確に追いかけないといけないのだ。
(この点について、以前にも同じような内容のログを書いたことがある。→2004.4.302005.7.28

少し話がズレるが、最近はテストに自分の気持ちや意見、考えたことを書かせる問題を出すバカがいる。
テストは数字、点数で評価するものだ。客観的な評価軸に基づいて数字をつけなければならない。
しかし自分の気持ちや意見、考えたことは、本質的に数値で評価できるものではないのだ。
だからテストにおける評価はあくまで量的なものであり、質的なものを混同して出題してはならないのである。
それは別の機会に作文を書かせるなりなんなりしてやるべきなのだ。テストという土俵でやってはならない。

閑話休題。小説で考えてみよう。登場人物がいる。描写から彼の心の動きを読み取り、選択肢を選ぶ。
少しでも自分自身の価値観を混ぜて考えてしまえば、間違った選択肢に引っかかることになる。
大切なのは自分が何を考えたか、ではない。他人が何を考えてどういう行動をとったか、理解することだ。
国語のテストでは、日常生活でもしょっちゅう直面する事態が正解/不正解で示される。
確かに国語のテストでの正解に、納得できないこともある。しかし不特定多数が正解として支持する以上、
その選択肢はどうしても正解なのである。その曖昧な部分にこそ、国語のテストを行う理由が隠れているのだ。

今度は論説文で考えてみよう。筆者がいる。彼の主張したいことを読み取り、選択肢を選ぶ。
彼はさまざまな理由を連ねて説明を試みる。注意深くその説明を受け止めることはできているだろうか。
そこにあるのは、他人の話をきちんと聞けるかどうかということと、まったく根を同じくしていることだ。
確かに中には悪文もあるが、テストとして出題されるからには、論拠や理由が必ずどこかにある。
それをきちんと探し出して、相手の主張を正確に受け止めることができるかどうか。
小説もそうだが、気分ではなく論理的な思考をもって他者を理解することが、国語のテストでは問われるのだ。

最後に、国語のテストで満点をとるのに必要なテクニックについて。
「~なぜですか?」と問われたら、必ず「~から。」もしくは「~ので。」という形で答える。
「どんなこと~?」と問われたら「~こと。」という形で答える。設問で答え方が決まるのである。
そこにはやはり、コミュニケーションのルールが存在しているのだ。相手の要求する形で答えなければならない。

そういうわけで、国語のテストでいい点をとらなければいけない理由がわかってもらえたと思う。
逆を言うと、国語のデキが悪いやつは、なかなか他人の気持ちを察してあげられないという短所を持っている。
まあこのことを指摘されても、別に悲観的な気持ちになることはない。
なるべく自分の意思を弱めて、他人の思考回路を合わせるように努力していけばいいだけのことだ。
そうすればテストだけでなく、日常生活においてもいい方に変わっていくことができるはずである。
テストをきっかけにして人は変わることだってできる。本当に賢い人なら、そのことをすでにわかっているはずだ。


2010.8.1 (Sun.)

今日は姉歯祭りだというのに、どいつもこいつも都合が悪くって集まることができたのは僕とみやもりだけ。
それでみやもりにどこに行きたいか希望を聞いたら、「東京スカイツリー」という答えが返ってきた。
現在建設中の東京スカイツリーはこないだ高さ333mを超えて、日本一高い建物の座を東京タワーから奪った。
そんなわけで、話題になっている建設現場を覗こうじゃないか、ということに決定。

午前中に部活があったので、午後になって浅草に集合。雷門の前で待ち合わせたのだが、
夏休みのお昼の浅草は多国籍に大混雑で、おまけに卒倒しそうなくらいに暑い。
テンガロン風ハットをかぶってボケーッとしてたらみやもりが現れたので、すみやかに合流。
そのままスカイツリーを目指して隅田川方面へと歩きだす。

 
L: 夏休みの浅草・雷門。人波も日差しもまったく容赦がない。
R: 隅田川左岸の風景。以前のログにある写真(→2007.6.20)と比較すると面白い。

お下品極まりないアサヒビール本社の足下を通ってそのまままっすぐ東へ。
今月に予定している僕の北海道旅行について話したりなんかしながら歩くのであった。

さて、東京スカイツリーは業平橋駅のすぐ南にある。浅草通りをちょっと北に入ったら、すでに人がいっぱいいた。
みんなお約束のようにデジカメ越しにスカイツリーを見上げていたので、僕も同じようにデジカメを構える。
みやもりは橋のたもとにあった「言問通り」の表示板が読めずに苦戦していた。「ことといどおり」に決まってんだろ!
東京の下町に詳しくない人間にはそんなもんかもしれないが、そんなもんなのか……。
で、僕は当然ながら建築が好きなのだが、みやもりも実はこういう建築現場を見ることを楽しく感じるタイプだそうだ。
付き合いが長いわりに、その事実は初めて知った。そんなわけでお互いいろいろマニアックに盛り上がる。意外だ。

  
L: 東京スカイツリー(建設中)。高いんだけど、「高い」というより「長い」と形容したくなる姿である。
C: 建設中の足下はこんな感じ。みやもりはこんなふうにクレーンが並んでいるのを見るのが楽しいらしい。健全だ!
R: こうして近づいて構造体を眺めると、その威容に圧倒される。ああやっぱりこりゃすごい、と納得させられる。

ふたりで感想をあれこれダベりつつのんびりと歩いて角度を変えて眺めてみる。ちなみに8月1日現在の高さは408m。
その表示が収まるように記念撮影をする人がいっぱいいた。家族連れで来ている人もけっこう多い。
今の東京で、いや、今の日本でこれだけの大規模な建築プロジェクトはほかにあるまい。
僕が思うに、景気の悪いニュースが日本全国を覆っている中、ここだけは、この東京スカイツリーだけは、
まるで高度経済成長期のような、無条件にポジティヴな存在なのだ。観光客はみな、どこか昂揚感に包まれている。
東京スカイツリーの完成は、かつて日本にあった「疑いなく明るい未来」の再現なのだ。

 工事の概要を説明する掲示。みやもりと食い入るように読む。

みやもりとふたりで工事の概要を隅々まで読み込む。正直、僕はみやもりがここまで好き者とは思っていなかった。
しかしみやもりは書かれている内容ひとつひとつを丁寧に反芻するように読んでいくのであった。
そして読んでいってわかったことをふたりでまとめていく。東武は社運を賭けているなあとか、
そうだよあ周辺のライフラインがまるっきり変わっちゃうもんなあとか、タワーの施工はJVじゃないんだなあとか。
そんな具合に実にタモリ倶楽部的に東京スカイツリーを堪能したのであった。見ごたえあったねえ!

せっかくなので東京スカイツリーをゆったり一周するように周辺を歩いてみた。
アイスでも売れば大もうけ間違いなしなのに、周囲はまったく商売っ気がない。もったいないったらありゃしない。
下町のなんでもない街並みに突如として現れるスカイツリーの違和感にみやもりが声をあげる。
でも僕はさっきも書いたように、その違和感がかつて東京を、日本全体を席巻していた日のことを思い出すのだ。
まだ生まれていなかったけど、でも高度経済成長期はきっとこうだったんだろうと、なんとなくわかる。
木造住宅の屋根を突き破るように、さまざまなビルが、ランドマークが建っていく。そしてそれは歓迎されていた。
そういった過去の記憶が、はるかな時間を超えて1コだけ蘇っているように僕には思えてならないのだ。

  
L: 東武の踏切から眺めた東京スカイツリー。逆光なのが惜しいな、これは。
C: 平凡な下町に突如現れるスカイツリー。これだけ差があると、かえって現実感がない。
R: 言問橋の東詰から眺めた東京スカイツリー。僕らはこれを日常として受け止めるようになるのか。

夏の日差しに焼かれる浅草を眺めながら、言問橋を渡って隅田川の右岸に戻る。
いいかげん腹が減ったので、浅草寺の境内を突き抜けて浅草のアーケードに行くことにした。
珍しくみやもりが主体性を発揮して「蕎麦を食べたい」と言うので、蕎麦屋を探すことにするのだ。
でもせっかく浅草寺の境内に入ったわけなので、本堂にお参りをしておく。
そしておみくじを引いてみたら、みやもり大吉、僕は凶。前も僕は凶を引いているのだ(→2008.3.20)。
「2回引いて2回とも凶って、確率的にすごくないか?」「うん、かえってオイシイなあコレ」
なんて具合に面白がりつつ浅草寺を後にしたのであった。浅草寺のおみくじ、凶の比率はどれくらいなんだろう?

 
L: おみくじ。右がみやもりの引いた大吉、左が僕の引いた凶。やっぱりひとつもいいことが書いてない。思わず記念撮影。
R: みやもりにやらされる私。雷門は「風雷神門」ということで、雷神になった私。ヘソのゴマ取るぞー

浅草六区を中心にあちこち歩きまわったのだが、なかなか蕎麦屋がない。
アーケードも歩いてみるが、やっぱりない。途中でマルベル堂を見つけて、佐藤蛾次郎のブロマイドに大興奮。
ほかにもなぜかELTの伊藤一朗のブロマイドが「いっくん」とだけ書いて売ってある。
持田香織はないのに、なぜにいっくん?と首をひねる。空腹を忘れるほどにモヤモヤしましたな。
まあなんだかんだで最終的には蕎麦屋を発見して無事に盛り蕎麦大盛を食べることができた。よかったよかった。

その後はつくばエクスプレスに乗ったことがないというみやもりの希望により、
秋葉原までつくばエクスプレスで行くことに。もう、みやもりさんは鉄だなあ。
何度乗ってもつくばエクスプレスは横揺れがないのがすごいと思う。あらためてふたりですげーと言うのであった。

秋葉原といえば世間ではすっかりAKB48なのである。しかし舞美に忠誠を誓っている僕は興味がないのだ。
みやもりはせめて顔と名前は一致していないとまずかろう、と思っているようだが、やはり人数が多く難度が高い。
「アレだ、歳をとると若い女性芸能人がみんな一緒に見えるっていうけど、それが始まってるのかもしれん」
なんて言ってふたりでブルーになるのであった。前田敦子と大島優子と篠田麻里子と板野友美はわかるんだが、
どうしてもそっから先の区別がつかん。人名は漢字を見た瞬間に覚えちゃうから名前だけはあと何人か出せるけど。
そういえばコスプレの売り場もチラッと覗いたんだけど、AKBの制服がひとつのジャンルになっているのに驚いた。
よく考えればそれは確かにジャンルとして成立しうるのだが、なるほどそういう面での需要もあったか、と感心。

あとはお馴染みの中古ファミコン屋で興奮したり(主に僕がゲームミュージックCD売り場で)、
ドトールであれこれダベったり。通勤する際に本を読みたいが何かオススメはないかと訊かれたので、
ヨドバシの有隣堂でさまざまなジャンルから文庫本を紹介もしましたな。まあ詳しくはオレの過去ログの書評を読め。
もちろん『GIANT KILLING』の最新巻と『デトロイト・メタル・シティ』の最終巻はその場で確保しましたよ。

夜になり、南砂町に移動。ここで真希波・マリ・イラストリアスことみやもりの嫁と合流。いきなり空っ風が吹いたね。
ちょうど江東区の花火大会をやっており、それを終わりまで3人で道端に立ったまま眺めたのであった。

  
L: この形はてふてふ?  C: 連発である。  R: クライマックスはこんな感じ。南砂町はマンションだらけでうまく見えないっス。

花火が終わるとSUNAMOという南砂町の商業施設へ行く。ペットの売り場を冷やかした後に中華料理屋に入って飲む。
最初に飲んだカクテルが異様に効いてしまったようで、話の内容をほとんど覚えていない。ふつうに反応してたと思うけど。
料理がうまかったのと僕のモテ期が終わった話をしたことは覚えているのだが……。うーん。
まあアレだ、SUNAMOは本場の佐世保バーガーの店が出店しているし富士宮焼きそばもあるし浅草のヨシカミもあるし、
本気でけっこういい商業施設だと思う。カインズホームもデカいしな。とりあえずみんな、SUNAMOで楽器買おうぜ。

どうも調子に乗っていたらしく、午前2時に体内のエタノールとホルムアルデヒドを口から排出する現象が発生しました。
いつ以来だか。ってか、そんなにオレは調子に乗って飲んでたっけなあ? まあでも後悔なんてしてないさ。
またぜひ次回の姉歯もしっかり楽しみましょう。


diary 2010.7.

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