津田塾出身の先生がいらして、旦那が一橋なんです、と。グラシエルですと。びっくりである。
当然、「Oザサっていうエロいやつがいまして」なんて話をする。今月は世界の狭さを実感させられまくりである。
天気がいいので出かけたいところだが、見えない疲れもあるだろうし、たまっている写真を整理せにゃならんしで、
おとなしく過ごすのであった。再び日記が停滞しだして困ったものである。来年度は順調に書き進められるのか?
『とらドラ!』見たよ。暴力系ツンデレミニマムヒロインの古典ということで今さらですが。
結論から言いますと、僕には面白くありませんでした。各キャラクターは行動するんですよ。すごく動きまわる。
しかしそこに至るまでの思考が見えない。みんなその場の衝動で行動しているだけに思えてしまったんですな。
実際はそんなことないはずなのだが、思考についての描写が抜け落ちている。だから行動に論理が見えないのだ。
ラブコメであれば揺れる心理を描いてナンボのはずなのだが、櫛枝→大河に行ってしまったら話が終わるためか、
そこを隠して周りを動かす。周りもそれなりに考えて行動しているはずなのだが、そこを描かないでただ動かす。
しかも高須と大河を中心に、すべての設定がご都合主義で動く。行動が高須&大河に対するヴェクトルだけなのだ。
最後の最後でキャラクターの行動を積み重ねてくるが、すべての行動がソロ、高須&大河向けの単発なのである。
「高須と大河がくっつくのがしっくりくるべさ」にすべての行動が回帰するが、その心理プロセスは描かれない。
葛藤を行動で表現してしまっているわけだな(それが物理的に出たのが櫛枝と川島の殴り合いというわけだ)。
だから僕にとってはすべてのキャラクターが、主人公の高須すら、最後まで「他者」の物語なのであった。高須と大河の関係性を絶対的な位置に置いて、その舞台である高須家を重点的に描くのは、まあいい。
しかしそれ以外の家族については恐ろしく描写が少ない。櫛枝北村川島の家族を描かずして、彼らの心理はわかるまい。
だから高須&大河と比べて他のキャラクターが雑に扱われている印象がした。ものすごくもったいないのである。
終盤の演出は過剰で、なんでもかんでもドラマティックにもっていこうと、極端にもっていこうとしていると思う。
高須&大河のロミジュリはそれはそれでいいが、「学校生活で本当に面白いことはなんですか?」という問い、
それに対する答えが完全に欠落している。北村には「生徒会」という答えがあり、櫛枝には「部活」という答えがある。
川島は冷めているようで、実は「要所要所で学校生活を盛り上げる役割」を存分に果たしている。ドラマがあるのだ。
しかしそれらすべてを高須&大河のロミジュリのために切り捨てる。ロミジュリを盛り上げるための方策として、
舞台空間の魅力を貶めることで対応しているのだ。その必然性はないはずなのに。そこまでして、お涙頂戴したいのか。
僕が最初に戸惑ったのは、櫛枝の性格である。見ていて「この人、頭がおかしい人なのかな?」と本気で思った。
結局それは本音をはぐらかす性格の発露として描きたかったのだろうが、心理描写が抜けているから奇人になるのだ。
あえて描かなかった判断は、物語の魅力を殺ぐ結果となっている。そうして櫛枝たちの心理描写を犠牲にした時間は、
高須と大河のやりとり・高須家の描写に充てられている。このペース配分が明らかにおかしい。インコ出すくらいなら、
周りの心理描写をちゃんとやれよと言いたい。スタッフが大河を上回る自己中心っぷりを発揮している作品だった。これ、後に『あの花』(→2012.2.15)をつくるスタッフによる作品とのこと。そりゃ勘違いしているわな、と思った。
会計の計算が大混乱である。今年度の分については当方が責任を持って明朗会計をやっておるわけですが、
前年度と前々年度でややこしいことになっていて、本当に勘弁してほしい。他人の金の計算はいろいろ本当につらい。
ほぼ朝イチで来年度についての打ち合わせ。3年連続で職場が替わるというのも、なかなかレアな経験であろう。
次の職場は家から近くなるのはいいが、バスに乗る時間が長い。酔い止めを常備しないとダメなのか。
そして今の職場に戻るまでが遠い。同じ県の東側だというのに、2時間弱である。神奈川は東京より地域性が強いね。
テストづくりで共通問題が20点分来たので、予定が狂って調整に追われる。今日はそれだけで終わった感じ。
本日より採点。ほとんどがマークシートで、英語と国語の記述問題の確認をしたのみだが、非常に慎重でややこしい。
マークシートのありがたみを感じる。すべてを記述していた時代はどれくらい時間がかかったのだろう。想像できない。
本日は面接試験。東京都では面接は推薦だけだが、神奈川県では全員やるとのこと。所変わればってやつですな。
僕は誘導係だったのだが、女子よりも男子の方が圧倒的に、緊張で頭が真っ白になりやすいのかなあと思った。
自分も男子として気をつけなければいけないなあと心に誓うのであった。いやあ、女子つえー
本日は特色検査ってやつ。神奈川県では、進学校を標榜する高校の入試で教科横断的な問題をやらせるのである。
パッと見た限り、マークシートではあるものの、なかなかのヴォリューム。つくる方も解く方も大変ですなあ。午後は各種調整作業で、結果的に僕の仕事が他の皆様に流れていった感じで、なんだか申し訳ない。
しかし本当に事務仕事が多い。高校は他の都道府県もこんな感じなのか? なんともすっきりしないものである。
本日は入試(入選)の筆記試験。午後には一部生徒の面接なのであった。やはり気をつかうのは疲れる。
詳しく書いちゃいかんのだろうが、面接官をやるのは人生で初めてなので、なるほどなるほどこういうものかと。
昨年度の自分の採用試験もこんな感じだったのか、なんて思う。まあこっちは落とすための面接ではないけど。◇
日本史を専門にしているヴェテランの先生が飯田高校の先輩だった、と(今さら)発覚して驚愕しております。
もともと妙に長野県出身者の多い職場で、飯田・上田・長野といて、「あと松本が欲しいですなー」と言っていたら、
まさかの飯田がダブるという事態。なんかもうねえ、嬉しいんだけどねえ、嬉しいんだけどねえ、ただただびっくり。
授業が終わってすぐに入試(入選)の準備となる。正直、モードの切り替わりについていけない。
しかしそんなことを言っていられないので、課されたタスクを無我夢中でこなしていく。いや、けっこう疲れる。
日本史の問題はつくっていると「あれも訊きたい」「これも訊きたい」となるので、調整が大変なのだ。
何も考えずにつくると100点満点を簡単に超えてしまう。それでも構わんと開き直ってもいいのだが、解く生徒が大変。
なんとかバランスをとりつつ問題数を削っていく作業がつらいのである。今日はひたすら、その作業に没頭する。
祝日ということで遅く起きるが、なんとなく不調。それでも意地でテストづくりである。
調子が上がらず、なかなか記述問題がつくれない。日本史は用語を覚えないとどうにもならない要素が強くて、
そっちに引っ張られがちなのだが、それにしてもイマイチである。調子悪いなりに粘って過ごすのであった。
雪なのでさっさと帰る。帰ったら急に疲れが押し寄せてきて、ずっと眠りこけるのであった。
まだ2月上旬だってのに本日をもって終了の講座とかあって、高校はいろいろ違いすぎないかと呆れております。
当方、まだまだ高校ならではの力加減がわからないので、これでいいのか実感がつかめない。慣れるしかないのだが。
テストづくりに没頭しているが、一方で高校入試の準備も本格化である。初めてのことなのでいろいろ新鮮。
そもそも「入試」というと大学入試を指すので、高校入試の方は「入学者選抜」を略して「入選」と呼ぶのである。
かなりシステマティックになっているが、その分だけ僕としてはついていくのが大変。圧倒されております。しかし思うのは、やっぱり高校は事務仕事が多くて、授業準備に割ける時間は少ないもんなんだなということ。
授業に工夫をしたくても、自分の予習だけで本当に手一杯。来年度にこれが好転すると思えないのがつらい。
函館本線のバス転換とかそごう・西武の売却とか東急ハンズの売却(→2021.12.23)もそうだけど、
なんとも切ないニュースが多くて困る。時代の変化に対応できなかったのだ、と言うのは簡単だが、
ではその「時代の変化」は果たしてわれわれにとって好ましいものなのか。考えてないやつに限って偉そうに言う。つまるところ、われわれの消費行動が貧しくなっているのだ。品性の貧しい消費にすっかり慣れきっている。
安売りの店がもてはやされ、ネットで1円でも安いサイトを血眼になって探し、送料無料で当たり前だと思っている。
プライドの欠片もない消費行動を恥じる価値観が、日本人から完全に失われてしまったのだ。恥知らずになり果てた。
何度も繰り返しこの日記で書いてきたことだが(→2014.11.11/2020.6.28)、消費とは良品への投票行動である。
卑しい消費が「時代の変化」を促す。僕は、安かろう悪かろうを肯定するような言説に与するのはまっぴらごめんだ。変化を急ぎすぎているように思う。そのことでかえって豊かさが消えていく逆説を僕は強く感じている。
周りを気にして焦って経済を加速する側にまわって、いったい何が残るのかなと思っている(→2013.1.10)。
日本経済が世界に置いてかれる!という危機感を煽ることで利益を手にしようとする人たちがいるわけだけど、
そんなチキンレースは相手にしないで、地に足つけて地方の衰退に目を向けないと絶望的なことになる。
かつては世界を相手にしすぎて産業の空洞化が言われたけど、このままいくと日本のすべてが空洞化するんだけどな。
鎖国しても食っていけるくらいの勢いで内需を拡大しないと明日はない。それで初めて世界を相手に、と言える。
地方を旅していると、その事実をイヤというほど突きつけられる。まず自分たちの内側を充実させなければ明日はない。
くれぐれも、自らの足元を見つめることなく世界を語る利己主義者たちに、耳を傾けることがございませんように。
南勝久『ザ・ファブル』。以前ソムリエ(潤平)から薦められたマンガで、このたびようやく読破したのであった。
映画化もされてかなり人気があるので、あらすじやら何やらは割愛。むしろ変なこと書いちゃって恥をかきそうだ。主人公が文句なしに最強である点は実に現代的。構造的には異世界転生モノと変わらない要素であると思う。
もはや強くなるプロセスを描く時代ではないんだなあと。成長を物語として楽しむ余裕のない時代なんだなあと。
なんでもかんでもすぐに結果を求める時代なんだなあと。これは『ランウェイで笑って』でも書いたな(→2021.9.5)。さてそうなると、最強の主人公でどのようなドラマを生み出すかという工夫が腕の見せ所となるわけだ。
作者は「個としての強さ」(→2016.1.2)を意識して、ファブルのキャラクターをどこか俯瞰して楽しみつつ、
混沌のターミネイター(terminator本来の意味)として動かす。おそらく作者自身、「他者」として描いていると思う。
つまりファブルが動くときは、話にけりがつくときなのだ。それまで存分に悪を泳がせてカタルシスを準備する。
したがって、やっていることは勧善懲悪にほかならない。でもその実は単純な構図がウケている、という気もする。作者の価値観が露わになるのは、貝沼のところと物語の締め方だ。貝沼については「個としての強さ」がはっきり出て、
やや不自然なところもあったが、冷静に戻ってそのエピソードを締めた。しかしその後の山岡との最終決戦では、
それとはまた違う価値観が前面に出ている。根底にあるのは、作者のキャラクター愛だ。これが思いきり炸裂している。
殺し屋の話であるから、大部分の読者はキャラクターの生死を気にしながらページをめくっていくはずである。
そしてキャラクターたちも「個としての強さ」とともに、その絶対的な否定である「死の恐怖」をまた抱えている。
(ラスボスたる山岡が恐怖を持っていない、また主人公たるファブルがそれを達観した立場にある描写は興味深い。)
さて、寿命でも災害でもない形で命を奪われる殺人とは、知的生命体の人類にとっては究極の不条理である。
この究極の不条理をいかにして避けるか、というところが、読者の意識しているポイントとなるはずだ。
さっき書いたように、死を避けるには「個としての強さ」が必要となるはずだが、それは頂点にいるファブルが基準で、
ファブル以外はドングリの背比べでしかない。では何が生死の差を分ける鍵となるのかというと、「立場」なのである。
極端な話、ファブルのいる側に立てば生き残る。そしてファブルが善人である以上、善人が生き残る構図なのだ。
ところが最後に作者はその構図を崩す。ファブルと対立する側に立った者を生き残らせる。その理由は何かというと、
キャラクター愛なのだ。こいつらいいところあるじゃねえか、という面が強調され、彼らはファブルの許しを得るのだ。
この選択を物語内で論理的に保証すべく、作者はファブルの殺し屋からの改宗というロジックを差し挟む。このようにして、ところどころで現れていた勧善懲悪は、物語全体を覆う。ファブルは強いから漏らさず善を救える。
最後にきちんと鈴木やペ・ダイヨチャを出すところなんてもう、作者のキャラクター愛が発露したものでしかない。
まあキャラクターを粗雑に扱うよりはずっといいけど、予想以上にコテコテに解決していてびっくりした。
作者はファブルを自由に動かして楽しんでいたが、最後の最後でかなり強制的な力でファブルを着地させたのだ。
主人公に対する呼び方は、途中で明らかに「ファブル」から「佐藤明」へと変化する。これは「改宗」の根拠として、
作者が意図してやったことだろう。ダークヒーローの物語として始まりつつ、勧善懲悪かつ家族の話で終わる。
実は昭和のマンガだったというわけだ。なるほどよく考えたら、ファブルが黒塩と山ごもりをするエピソードは、
強さの理由を示す成長譚の要素をきちんと持っている。この作品は、熱い作者が現代風のアレンジを受け入れて、
絶妙なバランスを持たせて送り出した勧善懲悪モノだったわけだ。読み終えて一本取られた気分である。しかし、これで続編をやっても正義の味方の話になるだけである。スピンオフの時流に乗っていくのか(→2020.8.11)。
それは『シティーハンター』(→2005.1.27)の大阪型亜種であるように思うのだが。まあ人気あるんならいいか。
弐瓶勉『シドニアの騎士』。アニメと映画のレヴューはこちら(→2021.6.15/2021.6.21/2021.6.28)。
アニメのところで挙げた問題点は、ほぼそのまま原作の問題点なのであった。いやあスマンスマン。
むしろアニメのスタッフはがんばってよくわかりやすくつくってくれた! ありがとう!って感じである。
特に原作からのアクションシーンの再構築は感動的だ。マンガ→アニメの順だったらもっと高評価になったはず。
アニメの側で時系列の整理などをやってくれれば、より優れた内容になったかなとも思う。原作に忠実すぎたかな。というわけで、展開がわかりづれえ! 作者の想像力にコマ数が追いついていないのである。
これは往々にして見かける現象で、そう珍しいことではない。しかし、SFなのでこの短所が濃縮されているのだ。
作者の内部にある物語と比べてアウトプットが不足している。ジャンルがSFだから、読者には特に情報不足となる。
その苦しみが序盤は大きい。読み進めると慣れてくるけど、情報量のギャップで離脱した人がいたのではないかと思う。
実は積んであった単行本が崩れてしまい、11巻を飛ばして10巻→12巻と読んでいた。14巻を手に取った段階で気づいて、
慌てて11巻だけ戻って読んだのだが、そう困らなかった(おかげで市ヶ谷テルルがしれっと仲間になっていたが)。
それぐらい展開がわかりづらい。情報を客観的に整理してくれる「外側」のキャラクターがいないのである。
(個人的に、これを最もうまくやっている例は『ウルトラセブン』の第8話「狙われた街」だと思っている。
葬式ですれ違う人々の会話から状況説明をやってのける。こういう外部からの説明が必要だった。→2012.4.19)
おそらくそんな余裕はなかったのだろうが、それで損をしている。僕にファンタジー脳(能?)がないのも悪いが。ただ、SFとしての迫力はものすごい。圧倒されるほどの想像力(妄想)、というSFの醍醐味はきちんと味わえる。
宇宙にロボットで「よくある設定のSF」と評する人は多いようだが、シドニア独自の文化がきちんと構築されており、
それをきっちりと描いているところが偉い。この文化の有無に気づかず、現代と同じ価値観を当たり前に思う人は多い。
しかし現代とは別の文化が存在しながらも普遍的なものを描くことによって、倫理や人間性が浮き彫りとなるのだ。
この深みを理解していないSFに価値はない。その点で長道のラブコメと戦いに重点が傾いているのは少し惜しいが、
作品のキャラクター独自の生活空間について最低限の理解はできるようになっている。こういう工夫があることが、
キャラクターの行動への納得につながる。本当は長道が不在でも話が進むと理想的だったが、そこまではいなかったか。
逆に考えると、最初から最後まで長道視点が貫かれたことで、文句がつけられない終わり方ができている、とも言える。
二次の妄想を大規模に誘発するほどではなかったが、十分に魅力的な世界観の構築がなされていたと思う。
(アニメでは東亜重工フォントを生み出すことで、シドニア独自の文化をさらに強めることに成功していた。)限られたページ数で、その分量をどのような比率で振るかは重要だ。設定の説明に振ったりアクションに振ったり、
そのバランス配分は個性の出るところだ。そして作者はギャグの描写をかなり優先している。このセンスは好きだ。
基本的にはそれが長道の痛めつけられっぷりとして出てくるが、それはシドニアでの生活を前提としたものであり、
また長道の特殊な身体能力とも絡んだものなので、納得がいく。ストーリー中のギャグ要素は「戦いの中で笑う余裕」、
つまり「守るべきもの」につながるので、バカにできないのである。いや、仄姉妹に蹴られたいわけではない。
ただもうちょっと仄姉妹をツンデレとか内気とかいろんな性癖じゃなかった特性を持たせてあれこれできたのではと……
うーん、カテーテル!
30年ぶりぐらいの続編が公開されたということで、テレビで『ゴーストバスターズ』をやっていたので見る。
(参考までに、前に見たときのログはこちら。ぜんぜん大したこと書いてないなあ。→2015.12.14)よくわからない機械でオカルトと戦うのはロマンなのである。これ、設定を思いついた時点で「勝ち」なのでは。
ノスタルジーを差っ引いても、これは面白い映画だと思う。特におっさんたちのとぼけたキャラクターがよい。
音楽もさすがのブルース・ブラザーズ仕込みでノリノリ。さらにCGよりも特殊効果の方にリアリティを感じるし。
80年代のアメリカはやっぱり質・量ともに豊かだったんだなあと実感する。全力でエンタテインメントを極めている。しかしこうして魅力を書き出してみると、「売る」よりもまず「面白がる」ことを優先していたんだなと思う。
主演はかっこいい若手俳優ではなく、おっさんのコメディアン。かっこいい曲ではなく、一緒に歌いたくなる曲。
技術を誇示するようなCGではなく、派手さで威力を表現する単純明快な特殊効果。それらをみんなで面白がる。
面白がる経験を共有するところに、何よりも価値を見出していたと感じるのだ。つくづく、いい時代だったなあと思う。
3年生の成績をつけております。正直、仕組みを完全に理解できていないままにやっている。
中学校の経験をまるまる応用しているが、それでまったく問題がないようなので、なんとかなっている感じ。
無料動画で『月刊少女野崎くん』のアニメを見たので感想を。マンガの方はまったく読んでおりませんのであしからず。
面白いんだけど、これ全編ギャップ萌えですね。ギャップ萌えで一発かましてからのわちゃわちゃ。そういう様式美。
世間で最も成功したギャップ萌えはダウンタウンの『笑ってはいけない』シリーズだと僕は考えているのだが、
それと同じで、パターン化されると飽きてしまう。ギャップを前提にしたキャラクターたちの紹介が一段落し、
きちんと彼らを関係性で動かしはじめてからはよかった。キャラを出オチにしない、使い捨てない工夫は好感が持てる。このマンガはつまり、野崎くん率いる少女漫画部のコメディなのだ。部活とはまた別の共同体をつくったのは巧い。
そしてこの共同体の構成がまた計算されている。アシスタントで女子はヒロインの佐倉だけで、あとはみんな男。
男のお相手が(2次元も含めて)すべて少女漫画部の外に配置されているので、佐倉は野崎に一途でありつつも、
男女の友情を通したハーレム的な要素も両立されている。野崎が一人暮らししていることもあり、疑似家族的でもある。
キャラクターについて掘り下げると、少女漫画部の男子メンバーは男子一般が共感できる要素をしっかり持っており、
その外側にいる女子たちも個性的な魅力をそれぞれ持っている。ギャップ萌えを巧みに使い、男の読者も女の読者も、
どっちの立場からでも肯定的に映るキャラクターを確立させていることは、この作品の特筆すべき点であると思う。
それにしても、ヒロインの佐倉がたいへんかわいい。少女漫画然とした外見・行動だけで終わらせるのではなく、
ギャップを見せるキャラクターに対してツッコミを入れることで、客観視できる性格を強調してバランスをとっている。
これは「全編ギャップ萌え」の世界だから成り立つヒロイン像である。非常にオールマイティなキャラクターだと思う。ギャップ萌えとはつまり、「プラスとマイナスのバランスがとれている」ということである。
どのキャラクターも振り幅が最初から設定されているのだから、対人関係を使ってそこを動かすことで、
いくらでもエピソードが生み出せるのだ。あとは少女漫画部の基本構造を維持しつつ、その外側でドタバタを繰り広げ、
その波紋を内側にフィードバックして回収していけばいいのである。実にうまい仕組みをつくったなあと思う。
今までで最も勝ち目の薄い、厳しい戦いだったなあと思うのは、殺女さんとの「こいこい大戦」ですかね。勝ったけど。