diary 2012.4.

diary 2012.5.


2012.4.30 (Mon.)

ドリブルで抜け出そうとしたところを後ろから手で思いっきり突き飛ばされて転び、膝をかなり派手にすりむいた。
てめーペナでファウルしてんじゃねーよバカじゃねーのかコラ!と教員とは思えない剣幕でディフェンスの生徒に怒鳴った後、
水道で傷口を洗う。それでも血はじわじわ出てきて、おかげで白い靴下が少し汚れてしまった。あーあ。
結局、膝には分厚いかさぶたができ、ちょっとかゆいんだけどそれを割らないようにガマンする、そんな感じになった。

もし自分が選手だったらどうだったんだろうな、と思う。自分が中学生のときにはサッカー部なんてものはなかった。
ただし、体育の授業では小学校でも中学校でもサッカーがあった。そこで僕はDMFの位置に入ることが多かった。
スパイクだのトレーニングシューズだのといった気の利いた靴を履いているはずなどなく、ただのスニーカー。
ボールを蹴るのは本当にヘタクソだった。インサイドキックなんて知らなくって、ぜんぶトーキックだったしな。
だけど相手の動きを読んでパスカットしたりディレイさせたりすることは少しはできたので、DMFの位置でボールを奪い、
それをいちばん近くにいる味方につなぐ、というプレーをしていた。うまいことにスタミナだけは学年一だったので、
守備範囲は異様に広かった。中盤の底で足を止めることなく最後まで走りまわって相手の邪魔ばかりしていた。
(バスケットボールだとその守備面の長所はもっとはっきりと出たので、相手からはかなり嫌がられていたもんだぜ。)

今、こうしてサッカー部の面倒を見るようになって、実際に生徒と一緒になってプレーをしていると、
あちこちのポジションを埋める役をやることになる。そうなったとき、実は僕がいちばん機能するのは、FWなのだ。
かつての定位置、中盤の底はプレスがきつくて、落ち着いてボールを扱うヒマがなくってなかなか役に立てない。
(相手にボールが納まるタイミングでプレスをしっかりかけるように指導しているのは、ほかでもない僕自身なのだが。)
しかし意外なことに、FWだとそこそこ活躍ができる。まず僕のドリブルは部員と比べるとかなり速い方で、
スピードに任せて抜き去ることができる。体格ができあがっていない中学生とは体つきが違うから、強さもある。
そして左右どっちでも蹴られるから、どっちのサイドに流れても問題なくプレーできる。味方を呼び込める。
まだ蹴るのはヘタクソなのでそこが課題だが、空いているスペースを使う/使わせる賢さはいちおうあるつもりだ。
何よりいちばんの持ち味は、前からの献身的な守備である。パスコースを限定し、味方に相手のパスを奪わせるのだ。
というわけで、得点力はそれほどないが、できるだけこっちの攻撃時間を長くするプレーをするFWとしてやっている。
(余談だが、最近は松本山雅の塩沢勝吾(→2011.4.30)が献身的に守備をするFWとして高い評価を受けている。
 山雅は好きじゃないけど、進学校出身の長野県人Jリーガーである塩沢だけは好きだ。がんばれショウゴ!)

まさか自分にFWの適性があるとは想像していなかったので、やってみてびっくりである。
と同時に、生徒たちの適性をきちんと把握できているか、つねに気を配っておかなくちゃいかん、とも思う。
中学生だと性格面で攻撃的か守備的か決まっちゃうところがあるのだが、体のセンスはまた別なんだよな。
そこのギャップをきちんと見抜いて、センスを伸ばせるような指導ができるようになれればいいんだけど。

ちなみに僕がいちばんヘタクソなのはGK。上がる判断が遅いし、シュートへの反応も遅いし、適性がゼロで悲しい。


2012.4.29 (Sun.)

昨日、日本ハムの稲葉が通算2000本安打を達成した。これは本当にうれしいニュースだ。
今年は2000本安打を達成するとみられている選手が複数いるのだが、まずは稲葉が無事に達成してくれた。よかった。

ご存知のとおり僕はヤクルトファンなので、稲葉という選手については入団時からきちんと把握している。
野村監督(当時)が息子のカツノリを見に行った試合でホームランを打ったことでヤクルトに指名されたエピソードも、
僕の中では当然、常識の部類に入る。だから稲葉が外野でレギュラーになったときには「さすがノムさん」と思ったもんだ。
しかし2000本安打を打つことを想像できたかというと、それはない。大学卒だし、10年間ぐらいは活躍するだろうな、
そういう程度にしか認識していなかった。大リーグ挑戦を表明したときには、冷ややかに反応したもんよ。

やはり稲葉の転機は、大リーグから声がかからず、北海道に移転した日本ハムへの移籍が決まったことだろう。
実績のある稲葉は、優勝の味を知るベテランとして、日本ハムでチームリーダーとしての役割を期待されるようになる。
それまでとは違う形で必要とされるようになったことで、稲葉は飛躍的に成長したと思うのだ。
ずっとヤクルトに残っていたら、おそらく2000本安打は達成できなかっただろう、と思うのである。
そう考えると、選手の移籍というのはポジティヴな要素のあるものなんだ、とあらためて気づかされる。

札幌ドームをグラグラ揺らすほどに愛されている(→2010.8.8)稲葉は、今シーズン絶好調である。
実は稲葉は、「仕えた監督をすべて優勝させてきた」という、とんでもない記録を持っているのだ。
それは2000本安打にも決して劣らない、本当にすばらしくて誰からも羨まれる記録であるはずだ。
ファンに愛され、個人記録も残し、優勝請負人であり続けている。長く現役を続けて、さらに勲章を増やしてほしい。


2012.4.28 (Sat.)

もう本当に疲れきっていたので、大型連休の初日は部活も何もかもナシで完全休養日とするのである。
で、完全なる休みということで何をするのかというと、結局サッカー観戦なのだ。はっはっは。
近所の等々力競技場で新監督を迎える川崎が、パスサッカーが絶好調の広島と激突するっていうんだから、
これは観戦するしかないじゃないか。しょうがないのだ。なお、このカードを観るのは2回目だ(→2011.6.18)。
(ちなみに、広島のサッカーを研究すべく、大宮へ行ったときのログはこちら。→2011.7.3

自転車で早めに武蔵小杉入りをする。そうしてファストフード店で日記を書いてスタジアムの開場時刻を待つ。
15時のキックオフなのに10時半にはハンバーガーを食べていたわけで、ちょっと気合を入れすぎた。
それでも街には川崎のユニフォームを着たサポーターの姿がチラホラ。皆さんやる気だなあ、と思う。

かなり余裕を持って等々力競技場のバックスタンドへ。2階席の最前列に陣取るが、とにかく日差しが凄まじい。
毎年ゴールデンウィーク辺りになると、日差しだけは本格的に夏へと変わりだす。まさに刺すような勢いだ。
こりゃかなわん、と上半身を折り曲げて、横断幕のつくる影へと隠れる。そうしてひたすら読書に勤しむ。

  
L: 等々力競技場ではふろん太くんを含むゆるキャラ3匹が、いつまでもピッチの上で遊んでいた。キックオフ直前までいた。
C: 今シーズンより広島の指揮を執る森保監督。初めての監督職にもかかわらず、広島は前年以上の勢いをみせている。
R: 対する川崎はJリーグ初采配の風間監督。筑波大学では高い評価を得ており、サッカーファンの期待を集めている。

そんなこんなでキックオフ。広島はペトロヴィッチ監督が退任し、そのまま浦和の監督に就任。
後を受けたのは新潟へコーチに出ていたクラブOBの森保一。「森保」が名字で名前は「一」。
よく「森/保一」と間違われ、そこから「ポイチ」と呼ばれているという逸話が楽しい(本人のブログタイトルにも「ポイチ」)。
広島監督就任後はペトロヴィッチのサッカーを見事に継承しつつ守備を安定させ、上位に食い込んでいる。
対する川崎は相馬監督を解任し、解説者・筑波大学監督として人気のあった風間八宏を招聘して初めての試合。
風間監督はフジテレビの「マンデーフットボール」の解説でおなじみ。彼の解説は本当に勉強になる。
そして筑波大学では相手ディフェンスを「はずす」独特のサッカーを展開して高い評価を得ていたのだ。
満を持してJリーグ監督に初挑戦となったのだが、さすがに就任4日目では大したことはできないだろう。
常識的に考えて、この試合、川崎が負ける。ズバリ見どころは、広島の森保監督によるプラスαを見極めること。
風間監督の「はずす」サッカーは半年後ぐらいに期待しましょう。正直なところ、そんな感じである。
ちなみに森保監督と風間監督はJリーグ黎明期に広島の中盤でコンビを組んでいた(ファンには常識だ)。
そういう点からも、この対戦は見どころがたっぷりあるわけだ。こりゃ生観戦するしかないわな。

上記のように、僕が主に気にしていたのは、広島の戦術である。フォーメーションとしては3-6-1と表記されるが、
それが具体的にどのように機能しているのか、それをきちんと把握しようというわけだ。
といっても、僕は半ば趣味で中学生たちの監督をしている程度の戦術眼しかないので、しっかりわかるわけではない。
それでも恥をかくことを恐れずに、素直に思ったことを書いていってみる。

ペトロヴィッチ監督のときにもそうだったが、広島のシステムは本当に独特で、3バックの顔をして、3バックではない。
中盤の底にいる青山や森崎を加えて4バックや5バックになることも珍しくない。他方、サイドはけっこう上がる。
右の森脇、左の水本がはっきりと中盤の高さにまで入り込んでくることも、ぜんぜん珍しくない。
つまり、最終ラインを形成するメンバーが一定しないのである。それでもしっかり守れるところが、広島の凄さだ。
トップもユースも何年もかけて、ひとつのスタイルを追求している。連携が成熟しきっているので困らないのだ。
広島は相手が攻め込んでくると、驚くほどの速さでブロックを形成する。5人ほどが横に並んでフタをする。
結果、川崎はパスの出しどころが見つからず、どうしても時間がかかって速攻ができなくなってしまう。

そして広島の守備の特徴はもうひとつある。それは、インターセプトがやたらと上手いことだ。
これは単純に川崎が意思の統一をとれておらず横パスを拾われまくっただけかもしれないのだが、
それを差っ引いても、広島は中盤でボールを奪ってから縦に展開するスピードがとんでもなく速いのだ。
この戦術を成り立たせているのは、足下の確かな技術だ。ワンタッチで前線に決定的なパスを通しまくる。
連携がとれている広島は、自分の周りの選手が何がしたいか正確にわかっている。その分、アクションが速くなる。
だから広島の攻撃はつねに鋭いイメージである。中央で待ち構えている佐藤寿人はもちろん、手前の石原、
サイドで待ち構える山岸も、ディフェンスライン裏の空いているスペースへ、スピードに乗ってえぐり込んでくる。
まるで針のような、いや、槍のような、おっと広島だから矢か。そう、まさに何本も矢が容赦なく飛んでくるサッカーだ。

面白いのは、その矢を放つ最終ラインが、まるで弓のように弧を描いていること。パーレンの形をしているのだ。
(ただし本来、矢を放つ際の弓とは逆方向の弧である。むしろ矢を放とうと張っている弦にたとえればいいのかね。)
たぶんトルシエ以来、日本において3バックはフラットなラインを想定するのが一般的になっているのだが、
広島の最終ラインはCB以外の選手も含めて堂々と弧を描いている。そしてこの弧が右へ傾き左へ傾き、ローリングする。
サッカーのフィールドは長方形だが、広島はその事実を無視して、弧の向きを自在に変えながら組み立てる。
このローリングで相手のフォーメーションとのギャップが発生する。この試合では特に右MFのミキッチがボールを受け、
そこを起点に前線の選手がゴール前に飛び込んでいくシーンがたっぷり見られた。広島は、完成されている。

というわけで、15分に広島があっさり先制。風間監督はCBに稲本を起用する独自色を見せていたのだが、
(スタメン発表の際にはさすがにスタンドがどよめいた。「ディフェンダー・稲本潤一」って言われりゃ驚くわ。)
広島は狙いどおり、そしていつもどおりの攻撃で、速くきれいに回して前へ運んでいき、最後は山岸が先制点を奪う。
それでもさすがはJ1で、33分に川崎は中央でボールを受けた中村憲剛がゴール前に見事なスルーパスを出して、
これをサイドバックの伊藤が決めて同点に追いつく。J1は急に動きが出て点が入ると前に書いたが(→2011.9.24)、
広島の得点も川崎の得点も、まさにそういう感じ。レヴェルの高い集中力をみせた方が勝つ、そういう感じ。
懸命のプレーで得点を奪った川崎だったが、5分後にあっさりと失点してしまう。広島は得意のインターセプトから、
高萩が持ち込んで最後は石原が突き刺し2-1。スピードに乗った広島の一瞬の攻撃は、本当に鋭い。

  
L: 斜めの弧を描く広島の最終ライン。攻撃時には左右にローリングし、守備時には素早くブロックを形成するのだ。
C: これは川崎の得点シーン。熟練の広島守備陣を、抜群のセンスを持つ中村憲剛と駆け上がってきた伊藤が切り裂いた。
R: 5分後、38分の広島の得点シーン。鋭く入り込んでくる広島の攻撃陣に、川崎の守備は対応できない。

後半に入ると、いよいよ広島のやりたい放題となっていく。連携がとれていることで広島の判断スピードは非常に速い。
対する川崎は何をするにも広島の後手を踏むようになる。左からはミキッチにどんどんパスを供給されてしまうし、
右は山岸に深くえぐられる。そして中央には佐藤寿人。47分と78分に佐藤寿人はゴールを突き刺し貫禄を見せる。
周囲の川崎サポたちも、ただ「広島強い」「広島上手い」としか言えない、そんなワンサイドゲームとなった。
広島は本当に強い。スコアは4-1で終わったものの、川崎は6~7点くらい取られてもおかしくないほどの差があった。

 
L: 佐藤寿人の一瞬のスピードは本当に特別だ。その凄さを見せつけられて思わず鳥肌が立ってしまったよ。
R: ゴールを決めて広島サポーターに挨拶する佐藤寿人。今の広島のスタイルに完璧にマッチしているFWだ。

この日の勝利で広島は2位に浮上した。上にいるのは無敗の仙台だけだ。
今シーズンはおなじみのビッグクラブがなぜか冴えないままでいるのだが、もしかしたら、去年の柏の快挙に続き、
広島ももしかしちゃうかもしれない。そう思わせるくらい、スタイルが完成しているサッカーだった。
そしてまあ、川崎はこれからだ。今日は相手が悪すぎた。半年経ったらきっと独自色が出ているでしょう。
そもそも川崎というチームは、多くの人が勘違いしているけど、実はそれほど地力のあるチームではないと思う。
確かにちょっと前には上位に食い込んでいたが、それは主にブラジル人選手の活躍によるもの。
今日のスタメンみたいに日本人選手限定で考えると、選手のセンス任せのサッカーをやるにはやや物足りなさがあるのだ。
その物足りなさを、風間監督がどのように埋めていくのか。僕には「かつての川崎」より「これからの川崎」の方が、
ずっとずっと魅力的に映っている。そういう意味で、先を行く広島に叩きのめされたのは、いい出発点と言えるかもしれない。

 
L: 歓喜の広島サポと選手たち。  R: 川崎サポの皆さんは選手たちにあたたかい拍手を贈るのであった。

やっぱり頭を使ってサッカーをしているチームの試合は面白い。京都以外の試合ももっと観ていかないとね。


2012.4.27 (Fri.)

生徒の相談を受ける。僕は人生経験をしっかり積んできたようなきちんとした人間ではないのだが、
それでも中学生だった経験はいちおう持っているし、それを相対化できるだけの時間はすでに経ってしまっているので、
それなりにアドヴァイスをすることはできる。僕自身の考え方の根拠となった体験を話しつつ、こういう論理もあるぞ、
と紹介していくような感じで言葉を出していく。何ごとも答えはひとつではない。僕が語るのはひとつの可能性にすぎない。

相談の内容を聞いていると、「うーん、10代の悩みだねえ」と言いたくなった。というか、実際言った。
毎日仕事に追われてワケがわかんなくなっている身としては、10代が10代らしく悩めるというのはちょっとうらやましい。
われわれはもう、そこで悩んでいるヒマもないし、予防線を張って時間がとられないような行動をとる習慣がついている。
地に足がついたレヴェルでしっかりと悩むことで、視野を広げることができるし、考える習慣をつけることができる。
そういうことがじっくりとできることに、僕はうらやましさを感じているわけだ。本当に、心から、うらやましい。

きっと、そんな今の僕も、未来の自分が見ればうらやましがる要素を持っているのだろうと思う。
それが客観的にわからなくってもがいているのだが、そんなものは時間が経たないと誰だってわからないのだ。
だったら、とりあえず、今を面白がっておくしかない。笑えるだけ笑っておくしかない。
そんなわけで、生徒への結論も、自分への結論も、結局のところは一緒。人間は現在を積み重ねるしかないもんな。


2012.4.26 (Thu.)

先週の土曜授業のダメージは予想外に大きかったようで、職員室では皆さんヘロヘロなのであった。
「なんだか今日、金曜日のような気がするんですよ」ってな言葉が出て、ホントにそうだなあ、と納得。
思わず、「わかります、今日は金曜日でありたい、金曜日であってほしいって感じです」と返した。
明日もまた平常どおりに授業があるということが信じられない。信じたくない。そんな気分なのである。
家に帰ってもなんとなく金曜日感覚で、油断すると明日の朝は寝過ごしてしまいそうだ。そんな予感がある。

……先生方はそんな感じで毎日毎日一生懸命にやっているんだぞ! 一週間、気を抜くことなくやりきっとるんじゃ!
教育委員会だかどこだか知らないけど、その場の思いつきで軽々と負担を増やすようなことをすんなよな!
オレたちは疲れを知らないロボットではないのだ。土日にはうまくリフレッシュさせてくれなきゃ調子がおかしくなるっての。
本当に質の高い教育をするための逆説を見抜けるだけの「熟考」ができるようになってもらわないと困る。


2012.4.25 (Wed.)

1年生はアルファベットの学習が終わったところで、次の段階は人の名前を書かせることである。
自分の名前や先生方の名前、家族や友達の名前をひたすら書かせて、アルファベットにもヘボン式にも慣れさせる。

そのうち、簡単な名前はスラスラ書けるようになっても、「shi」や「tsu」が入る名前でミスとの戦いが始まる。
(そういう意味では、「マツシマ」という名字は、練習させるうえでは理想的な難しさを持つ名前である。)
あれはどうだ、これはどうだ、とやっていくうちに、ネタが尽きてきた。しょうがないのでとっておきの問題を出す。

「長宗我部元親」

初々しい中学1年生たちが揃ってノートに「Chosokabe Motochika」と書いている風景はなかなかシュールでござる。


2012.4.24 (Tue.)

サッカー部は新入部員がたったの2名! はっはっはー
野球部は新入部員が多すぎてめちゃくちゃなことになっているというのに。なんじゃこりゃ。
まあつまり、ここ2年間、サッカー部が恵まれすぎていただけってことだが。……いやしかしこれはどうしたものか。
とにかく数は関係なく、きちんとした運営を続けていくしかないので、今年もがんばるのだ。


2012.4.23 (Mon.)

秋葉原でゲームミュージックCDあさりをしました。これについてはいまだにおたくです。たぶんこれからも。

さて、秋葉原ということで、やっぱりメイドがうじゃうじゃいたのであった。
よく考えたら、この日記で秋葉原に代表されるメイド文化についてきちんと書いたことがない。
(メイド喫茶に行ったことは何度かある。そのときのログはこちら(→2005.9.112005.12.242009.1.2)。)
僕は現代のメイド文化にはまったく興味がないのだが、自分がメイドの恰好をしていた過去はあるので、
そのことについてさらっと記録を残しておくことにする。題して、「僕がメイドだったころ」。
(参考までに、女装について軽く語ったログはこちら(→2011.2.15)。なかなかコンパクトにまとまっている。)

きっかけは、潤平が中学校の余興で女装したことである。それが評判がよくって、よしじゃあオレもやってみよう、と。
ただ、実行するまでにはさすがに時間が空いた。高校時代にはまったく女装する機会はなかったなあ。
でも浪人時代にバヒサシさんがイヤガラセということでチャイナドレスを贈ってくれて、準備が整ってしまったわけだ。
で、大学に入ると丸眼鏡をかけていたこともあり、そのチャイナドレスを使って『サクラ大戦』の李紅蘭のイメージで女装。
クイ研の女性メンバーに化粧してもらってKODAIRA祭でデビューしたわけです。思い出深いなあ。
そっから女装が芸として定着してしまって、美人の先輩からワンピースを100円で売ってもらったことから一気に加速。
一橋祭ではワンピースを着てめりこみ先輩・マサルとともにクラブ対抗歌合戦に出場して呆れられたのであった。
そんでもって女装した写真をマサルに撮ってもらって、月経エンタなどを中心に暴れて過ごしていたわけだ。

  
L: 大学1年のKODAIRA祭。ミユミユさん・ダイゴウさんに手伝ってもらっての女装。男は化粧しちゃダメだな、と思ったわ。
C: すいません、ご覧のとおりデビュー当初は完全にイロモノでした。ただ気持ち悪いだけだもんなあ、これ。
R: 紅蘭(オレ)、アイリスのテディベア「ジャンポール」(ダニエル)のツーショット。いま見るとこれっていい写真だね。ダニエルの表情がいい。

女装する際にはスネ毛が邪魔になる。だから剃る。でもスネ毛が生えかけてくるとチクチクする。
そこでどうにかスネ毛を剃らないで女装する方法はないかと考えた結果、黒いストッキングを履けばいいことがわかった。
黒いストッキングだとスネ毛がまったく目立たなくなるのである。じゃあ黒いストッキングが不自然じゃない恰好は何だ、
考えた結果到達したのが、メイドなのである。「まずメイドありき」という現在のメイドブームとは発想が正反対で、
僕は黒いストッキングを履くためにメイドになったわけだ。というわけで、東急ハンズでメイドのコスチュームを購入。
当時は女装用のコスチュームなんて本当に少なかった。メイド服なんてホントに1種類ぐらいしかなかったもんなあ。
とにかくそんなわけで、以後、僕はクイ研のイベントのたびにメイドとして登場する芸が確立されたのであった。
これがだいたい1998年くらいのことなので、世間のメイドブームのそうとう先を行っていたことになるのだ。参ったか。
(※探したんだけど、肝心のメイド装備の写真は手元にありませんでした。ごめんなさい。ワンピースで許して。)

  
L: 先輩から100円でワンピースを買った記念に女装。ポーズをつけろ、とマサルに言われてとったポーズがコレ。
C: もうちょっと女らしいポーズをしろ、と言われてコレ。どうでもいいけど、後ろの洗濯物がすげー気になる。
R: 大学1年の一橋祭・クラブ対抗歌合戦。その靴下とスニーカーをやめろ!と言いたい。ちなみに右側の男はマサルです。

その後、頼まれて一橋祭で女装して「松島なめこ」という名前で登場してミスコンのイントロでギャグをかましたり、
マサルから「女装の科学」ってタイトルで書けと命令されて月経エンタに記事を書いたり(石田二成(ふたなり)名義)、
いろいろと暴れさせてもらった。松島なめこさんはファストフードのユニフォームだったけど、けっこうきれいと評判でしたよ。

  
L: なんかの合宿にて。だいぶ慣れが感じられる。しかしオレって合宿のたびにこんなことやっとったんだな。
C: これも合宿。パジャマはゆったりしているのでけっこう女装向きと判明。しかし若いなあ、オレ。
R: デビュー当時のイロモノからここまでもってくることができたとは……。感慨深い一枚である。

女装して痛感させられたのは、男はどんなにがんばっても、女性の生まれついての美しさには勝てないってこと。
この世のどんな女性にも、男は絶対に勝つことができないのだ。いや、「勝てない」っていうより「追いつけない」。
私、ぜんぜん美人じゃないし……なんて思っている女の子がいたとしても、女性に生まれた時点で男に勝っているのだ。
「ふつうの女の子」に見えるレヴェルまでもっていくことが、男には不可能であるとわかったときの切なさっていったらない。
過去ログで「女装とは、理想のタイプの女性を自ら演じる行為である」なんて書いたけど(→2011.2.15)、正確に言うと、
「女装とは、自らの身体を理想のタイプの女性へと限りなく近づけていく行為」なのだ。でも決して追いつくことはできない。
(唯一、その領域に食い込んだと言えそうなのは、『お試しかっ!』の「Aniコレ」における杉浦太陽くらい。あれは別格。)
でも困ったことに、その不可能を可能にすべく、あれこれ考えて努力をしていくところがまた面白いのだ。
女装ってのは、生まれついて美しい女性の皆さんにはできないゲーム、なのである。お遊び、お遊び。


2012.4.22 (Sun.)

部活が終わって、横浜FC×京都を観戦すべく三ツ沢球技場へ。雨の可能性を考慮して、電車とバスで行く。
ウチの部員で観戦したいという連中がいたので、現地集合でバックスタンドに陣取ったのであった。
このカードは昨シーズンも部員と一緒に観戦している(→2011.11.27)。三ツ沢は臨場感があっていいのだ。
前回は京都がロスタイムに2連発して逆転勝利、横浜FCは一気に地獄へ突き落とされるという劇的なゲームだった。
あれから約半年、新しいシーズンで京都は連携が成熟して2位、対照的に横浜FCは未勝利で監督交代という状況。
ただ、新監督の山口素弘は知的な選手だったし、彼の戦術も浸透してきているはずなので、結果は読めない。
2位につけている京都も、J1昇格に向けて楽なゲームなんてひとつもないのだ。ワクワクしつつ練習風景を眺める。
それにしても三ツ沢はピッチが近い。練習中の選手たちがすぐ目の前なので、一挙手一投足が丸見え。たまらんわ。

 
L: 横浜FCといえばカズだぜカズ。この人は歳をとるほどにどんどんかっこよくなっていくなあ。
R: 鳥かごに興じる京都の控え組の皆さん。真ん中のソフトモヒカンはこないだ高校を卒業したばかりの久保なのだ。

キックオフすると、まずは京都が果敢に攻める。右サイドバックに入った安藤が凄まじいキレ具合を発揮し、
勢いよく駆け上がってファーストシュート。この日の安藤は攻めても守っても大活躍。本当にすばらしいパフォーマンスだ。
ゲームは全体的に、京都がボールを保持する形で進む。しかし横浜FCの守備は集中し、シュートまで行かせない。
京都のパスが引っかかったところを起点に、横浜FCは単純には蹴らず、サイド経由のカウンターで攻め込んでいく。
そして高さと強さを兼ね備えた田原・大久保の2トップに当てていくという明快な戦術をとってくる。
強気にパスをつなぐ京都、鋭いカウンターで応戦する横浜FC。序盤から両チームともに飛ばしてきて、
非常に見応えのある試合展開となる。三ツ沢球技場ならではの臨場感に迫力ある内容。これはもう、たまらない。

均衡が破られたのは31分。横浜FCの左サイドから出たアーリークロスがゴール前でバウンドする。
京都のCBが対応しきれないところに、大久保が浮いたボールをボレーで叩き込んで先制。これは巧かった。
今日こそは初勝利をあげたい横浜FCの選手もサポーターも大喜びである。だがまだ、1点が入っただけだ。

  
L: 臨場感たっぷりな三ツ沢球技場。目の前で迫力のあるプレーが展開される。やっぱりこのスタジアムはいい!
C: 先制したのは横浜FC。大久保が鮮やかにボレーで決めた。喜んで走る大久保と、うなだれる京都の選手たち。
R: 岸野さんの後を受けた山口監督。彼の采配には横浜FCファンに限らずサッカーファン全体が注目しているはずだ。

横浜FCの集中力は途切れることなく、そのまま1-0のスコアで前半終了。
京都はどのように修正してくるのかワクワクしながらハーフタイムを過ごし、後半開始。
すると開始直後の49分、横浜FCがFKのチャンスを得る。高地の蹴ったボールはバーのギリギリ下へと飛んでいく。
そしてこれに田原が反応してバックヘッド。このボールを押し込んだのは、またしても大久保なのであった。
横浜FCは2点のリードとなったことで、いよいよ待望の初勝利が見えてきた。でもまだ時間はたっぷり残っている。

2点のビハインドを追う京都は、自分たちのサッカーを信じて攻め続ける。
しかし守りへの比重を高めて楽になった横浜FCは、さらに意欲的なプレスをかけるようになる。
先月の記憶が蘇る。京都はアグレッシヴな守備に対してわりと弱い印象があるのだ(→2012.3.4)。
右サイドでの安藤の活躍ぶりは相変わらずだが、左サイドバックのルーキー・黄のデキは今ひとつで、
(まあこれはおそらく安藤が凄まじかったせいでそう見えたんだろうけど、でもやっぱり不満。)
ボールは来るのだがそれを有効にゴール前へと持っていくことができない。時間がただ経過していく。

  
L: 追加点を奪って喜ぶ横浜FCの皆さん。京都守備陣の隙を上手く衝いた見事なゴールだった。
C: すごい体勢で浮き球のパスを出す京都の工藤。天才は何を考えているかわからん、と思った。
R: カズだぜカズ! カズが登場するだけでスタジアムの雰囲気が変わってしまう。まったく、恐ろしいお人だぜ。

集中して守りきろうとする横浜FCに対し、京都は猛攻を仕掛けるのだがシュートまでなかなかいけない。
選手交代をしても攻撃のパターンは同じなので、相手を戸惑わせるところまでいかないのだ。
90分にはカズが登場して、スタジアムの雰囲気は一気に華やかなものへと変わる。
横浜FCにしてみれば、理想的な展開で終わりを迎える準備がひとつひとつ整っていっているわけだ。
そしてロスタイム、ついに原が押し込んで1点を返すものの、ここでタイムアップ。
京都は今シーズン3敗目。そのうち2回を直接この目で見てしまっている(2敗/観戦2回で100%)僕はとっても悲しい。

  
L: ロスタイム、原が押し込んで京都が1点を返す。原は3試合連続の得点だが、今回は勝利にはつながらなかった。
C: 今季初勝利をあげて喜ぶ横浜FCの皆さん。地力はあるだけに、ここから一気に来そうな気がしなくもない。
R: ヒーローインタヴュー中の光景。裏でがんばっている人がいるから世の中成り立っているのだ、と生徒に語る僕。

もう一度書くけど、どうも京都は、こないだの湘南のように積極的にボールを奪いにくる守備をするチームに弱い。
僕は今シーズン、負けている京都しか知らないのでなんとも言えないところではあるのだが、
京都のパス回しのリズムはわりと一様なのである。工藤以外にも独特なリズムでパスが出せる選手がいたら、
また違ってくる気がするのだ。ボールは保持できているので、時間帯によってリズムを変えるパスワークができれば、
京都はかなり勝率を上げることができるように思うのだが。言うのは簡単で、実行するのは難しいけど。

まあとにかく、京都にとっては仕切り直しを強いられる一戦。横浜FCはおめでとうございました。


2012.4.21 (Sat.)

今日は土曜日なんだけど授業だぜ。いろいろと言いたいことはあるのだが、書くと問題になるから書けないぜ。
授業は午前の3コマだけなんだけど、実際にやってみるとやっぱりけっこう疲れる。疲労の蓄積が心配だ。

午後になって、潤平の仕事の関係で上京してきたcirco氏の相手をする。
毎回恒例、どっか出かけますかね、となるのだが、なかなか決め手に欠けて非常に困る。
お台場で「ダイバーシティ」なるものがオープンしたということで、当然それが気になってしょうがないのだが、
さすがにオープン直後で大混雑だろうということで回避。まあ、いずれ行くことにしましょうや。

それで結局、渋谷に出て東急ハンズである。circo氏はとにかく東急ハンズに行きたかったようなので、そうなった。
まずはエレベーターでいちばん上の階へ行き、そこからぐるぐると下りていくのがいつものパターンである。
そしたらカフェがあったので、そこでコーヒーを飲みつつあれこれ話す。特にこれといって緊急性の高い話題もなく、
穏やかな会話ができるというのは幸せなことだ。コーヒーをおかわりして優雅に過ごしたのであった。

下のフロアへと移動しながら、それぞれの売り場を細かく見ていく。ハンズはええのう、とひたすら再確認する。
東急ハンズのすばらしいところは、やはり売っているものを見ることで想像力を刺激される点である。
単純に売っているものをいいなあと思うだけでなく、これをどのように使おうかと考えられる点がいいのだ。
さまざまな道具や素材が並べられている中を歩いていると、それだけで刺激的な体験となる。
circo氏も僕も「おおー」とうなり声をあげながら、売っているものをひとつひとつチェックしていくのであった。

ハンズを出ると晩飯タイムである。「トンカツにしよう」というcirco氏の提案により店を探すのだが、
これがなかなか見つからない。渋谷駅の方へ行けばあるんじゃないかと考えて、人混みの中をどんどん下っていく。
駅ビルはどうだ、ということで、マークシティ方面へと歩いていく。結果としてはそこで無事にトンカツを食えたのだが、
渋谷の迷路っぷりをイヤというほど実感させられたのであった。もともと高低差のある地形をしていることもあるし、
ターミナル駅として複雑に増築がなされていることもあるし、とにかく迷路。立体的な迷路そのものだった。

トンカツを食いつつ、お互いに最近興味を持っている研究テーマについてあれこれ話す。
circo氏は地方における舞台芸能について。かつて江戸時代ごろには地方の村にも舞台があり、
そこを旅芸人が訪れたり地元住民が演じたりという光景があったのだという(こんな事例もある →2011.8.16)。
もともとcirco氏はそういった地方の舞台についてあちこち訪れて研究をしているのだが、
今回はハード面というよりは、資金の出し方や舞台文化の伝播状況について話をしてくれた。
それを受けての僕の考えは、現在の日本でゆっくりとだが確実にサッカーが文化として根付きつつあって、
かつての舞台文化と現在のサッカー文化は通じるものがあるのではないか、というところ。都市と祝祭の関係。
まあもうちょっとじっくりと多角的に話をして、記録をまとめておいた方がよかったわ。なかなか深い話だった。

トンカツを食い終わると、再び迷路をかいくぐるようにしてJRと東急の渋谷駅を目指す。
途中で岡本太郎の『明日の神話』がコンコースに展示されているのを見たのだが、これはいい場所見つけたよなあと、
あらためてふたりで感心するのであった(前にひとりで感心したときのログはこちら →2010.5.3)。
そんな感じで解散。きちんと話し合った内容はメモするなりなんなりして、形に残しておかないとダメだわ。


2012.4.20 (Fri.)

タカラヅカを観劇したおかげで(→2012.2.26)見る気になった『英国王のスピーチ』。
第83回アカデミー賞で、作品賞・監督賞・主演男優賞・脚本賞の計4部門を制覇している。
あらすじとしては、幼少期のトラウマだの虐待だのが原因で吃音に苦しむイギリスの王・ジョージ6世が、
オーストラリア出身の言語療法士・ライオネル=ローグの助けを借りて症状を克服し、国民を鼓舞するスピーチに挑む。
以上。2行でまとめてしまっては実もフタもないのだが、実際にそうなんだからしょうがない。

主人公のジョージ6世が勝村政信にしか見えねえ。そしてローグは阿藤快にしか見えねえ。
結局、最初から最後までその感覚が抜けなくって困った。洋画ではそういう現象が往々にして起きるので困る。
この映画はテーマがテーマだけに、英語における吃音の症状がどう描かれているのかが重要になる。
また、キングズ(当時)イングリッシュとオーストラリアなまりの差もチェックしておきたい。
英語を教える者としてはきちんと見ておかないといけない映画かもしれんなあ、と思いつつ見たのであった。

感想としては、ちょっと脚色が過ぎるんじゃないのかなあ、というのがまずある。
上に書いているように、正統なイギリス英語の発音は「キングズ(現在はクィーンズ)イングリッシュ」と呼ばれる。
(BBCが日々電波を通してその基準を示しており、実際に映画はBBCのアナウンサーのとても美しい英語で始まる。)
当時のジョージ6世はまだヨーク公であり、王位に就く可能性はそれほど高いわけではなかった(兄に次ぐ2番目)。
とはいえ国王の次男がなまりのひどい植民地であるオーストラリアから来た男の治療を受けるというのは、
これはかなり衝撃的なことだったと想像できる。でもその点についてはあまり説明がなくって、
ちょっとモヤモヤ。ローグのみすぼらしさを多分に強調している分、論理的に違和感を覚えてしまうのだ。

途中で発生するジョージ6世とローグの行き違いも、脚色の要素が強すぎるように思う。
イギリスではエドワード8世の困ったちゃんぶり(→2012.2.26)は常識なんだろう。あんまり背景の説明がない。
でもそれについての描写が少ないままなので、兄に代わって王位に就く気がさらさらないジョージ6世と、
国を傾かせかねない男にこれ以上任せられないというローグ(ほか多数の一般大衆)の気持ちのすれ違いは、
それほどの緊迫感が漂ってこないのである。そう、この映画は全体的に説明不足なのである。
タカラヅカ観ておいてよかったぜ、と心底思った。知識のない方が悪い、と言われりゃそれまでだが。
まあとにかく、説明不足なところに脚色が加えられるので、鵜呑みにできない、入り込めない、そういう感覚がある。
素材としては、これはもう面白い映画がつくれるに決まっている、選んだ時点で「勝ち」な素材だと思う。
この作品は、映画史上でも稀なことに、主人公が国王になるシーンで悲しい音楽を流した映画である。
そういう真理をえぐる鋭さを持っておきながら、それを料理しきれていない感じが、たまらなくもったいない。

もっともジョージ6世という素材は、実はもともと扱いづらさが含まれる素材だったのかもしれない。
というのも、彼の戦いは、彼にしかできない、彼だけしか戦うことのできない戦いだったからだ。
戦争を通して英雄となった歴史上の王とは明らかに異なる戦いを、彼は強いられることになったからだ。
ナチスという脅威がヨーロッパを席巻する状況下で、ジョージ6世は確かに戦った。
しかしそれは、電波を通して国民を鼓舞するという、20世紀に入ってから成立するようになった戦いだ。
結果は歴史としてはっきり現れるにしても、それはものすごく経過が見えづらい戦いなのだ。
剣を振るって、馬で蹴散らして、矢を放って……というような、ヴィジュアルで見える戦いではないのだ。
ジョージ6世は戦っている間、ローグの励まし(もはや治療ではなくなっている)を受けながら、
一言一言に力を込めて、スピーチを読み上げていく。それは吃音つまり弱い自己との戦いであって、
目に見える敵との戦いではないのである。でもナチスの脅威は目に見える。そこが噛み合っていないのだ。
論理的には、ジョージ6世は立派に自分の戦いをして、見事にやりきったには違いないのだが、
映画の観客としては、目に見える敵と目に見えない敵とのズレがどうしても頭の中に残ってしまう。
そこを解消するのが演出のテクニックにほかならない。でも、この映画はただ無難にシーンをつないだだけだ。

結論はそんなところだ。どこかで大胆に前衛的(に見える)なシーンを入れて、
ナチスの脅威が何を引き起こすのか、そしてそれに対するジョージ6世の戦いが何をもたらしたのか、
それを示さないといけなかった。はっきり言うと、それは映画に「未来」のシーンを入れろ、ということだ。
史実に忠実であるふりをしている映画に、そんなことができるはずがない。でもそれは必要なことだった。
当時の人々が想像したフィクションの未来でも構わないし、歴史的な事実となったリアルな未来でも構わない。
そのピースが欠けたことで、本来の破壊力を失ってしまった。もったいない映画だなあ、というのが僕の気持ち。


2012.4.19 (Thu.)

『ウルトラセブン』全49話のうち第12話(噂のスペル星人)以外をぜんぶ制覇したのでレヴュー。
というか、もともと僕は『ウルトラセブン』をいつかきちんと見ようと思っていたのである。
でもやっぱり、『セブン』を見るよりも前にきちんと『マン』を見ておくべきではなかろうか、と考えて、
それで先に『ウルトラマン』を見ていたのである(→2012.2.27)。それでようやく『セブン』も見た、というわけ。

アンヌ隊員むっちむちー!!

『ウルトラセブン』が放映されていたのは1967~1968年ということで、やはり『マン』と同様に、
ビルに下水道にと都市がガンガン開発されていく時代が作品の重要な背景となっている。それがテーマの回もある。
現代とはやや異なっている当時の価値観がしっかりと反映されており、そこがたまらなく面白い。
そしてやっぱりモダニズム建築が満載である。京都国際会館が最新鋭の基地となっているのも興味深い事例だ。

さて、『ウルトラセブン』は何度も再放送されており、僕も幼稚園だか小学生だかのときに見た記憶がある。
ただ、いい加減な僕の記憶とは異なる現実を突きつけられて、自分の記憶力にかなり自信をなくした。
ワイアール星人とかめちゃくちゃ気持ち悪かった記憶なのだが、実際にはまったくそんなことはないし。
ブラコ星人の特殊効果もいかにもな感じだったし、ガッツ星人はどっからどう見ても明らかに鳥だったし。
でも相変わらずダンカンは変にかわいい(我が家ではあのトゲトゲ姿が一番人気なのであった)。

そんな僕のどうしょうもない記憶で唯一、頭の中の映像と現実が完全に一致していたのは、モロボシ・ダンの鼻の穴。
ウルトラ・アイを装着しての変身シーンでどうしても鼻の穴に目が行ってしまうのだが、そこは完璧に記憶と同じだったわ。
で、そのモロボシ・ダンなのだが、あらためて見るとサッカー日本代表の本田圭佑にわりと似てないか。
本田からウチのみやもりへとモーフィングしていく途中にモロボシ・ダンが出てくるはずだ。その印象しかないわ。
ウルトラ警備隊のほか皆さんについては、とにかくアンヌ隊員の服がピッチピチぶりに目が行ってしょうがない。
そしてさすがウルトラマンの中身だけあって、アマギ隊員の姿勢は美しい。そして鼻が高い。体型もすごく独特で、
後ろ姿でもすぐにアマギ隊員とわかるのがいい。やはり『ウルトラマン』はアマギ隊員が中身だから成功したんだなあ。

『ウルトラセブン』は単なるヒーロー物に留まらない内容が現在も非常に高く評価されているが、実際に見てみると、
なるほど確かにテーマのレヴェルが高い話が多い。地球を侵略するつもりのなかったペガッサ星人との悲しい戦い。
超兵器R1号に託された、冷戦における果てのない核兵器の製造競争に対する明らかな批判。
地球の価値を徹底的に否定してみせるマゼラン星人。ノンマルトを通して示された、人間が侵略者であるという視点。
第四惑星という完全なるパラレルワールドを構築することで、科学万能主義に痛烈な批判を浴びせてみせる姿勢。
それらのどれもが、完全にヒーロー物の枠を超えている。ここまで次元の高い内容を扱うとは!と感動すら覚えた。
これ以外の単純なヒーロー物に近い話も、ただミニチュアを壊すだけではない点がすごくいい。全体的にレヴェルが高い!

そもそも、各話のタイトルがすでにとんでもなく魅力的なのである。個人的に気に入ったものをいくつか挙げてみる。
「マックス号応答せよ」「栄光は誰れのために」「ひとりぼっちの地球人」などは、視聴者の興味をうまく惹く表現だ。
「人間牧場」「蒸発都市」など、実に衝撃的ではないか。「第四惑星の悪夢」なんてもうめちゃくちゃかっこいいし、
「あなたはだぁれ?」ときたら、こりゃもう見ずにはいられないってもんだ。本当に上手いタイトルが多い。

さて、ここからは特に印象に残った回について気ままに書いていく。

第8話、「狙われた街」。あの有名なメトロン星人の回である。この回、凄いのはちゃぶ台だけじゃない。
僕にとっていちばん衝撃的だったのは、葬式ですれ違う人々の会話から状況説明を組み立てていることだ。
平田オリザは『演劇入門』で外部の人間(=観客)にいかに自然に情報を与えるかにこだわっていたが(→2002.6.23)、
その観点からすると、このやり方はもう、本当に、上手すぎる!! すべてにおいて完璧としか言いようがないのだ。
監督はあの実相寺昭雄(→2012.2.27)なのだが、この回は特に、奇抜さと定番のバランスが絶妙である。
舗装されていない道路が示す生活感もいいし、割れるアパートの豪快さもとんでもないし、
対話シーンに逆光を効果的に使っている点もすばらしい。何より、中身が濃いのにテンポがいい。
いま見ても、何ひとつまったく古びていないのだ。これだけ完成度の高い作品がつくれるってことに、ただただ呆れる。

第9話、「アンドロイド0指令」。『セブン』では『マン』と違ってすでに宇宙人たちが地球へ忍び込んできている。
その侵略の手口はいろいろあるのだが、子どもを狙うその卑怯さ(巧さ)と、美少女と老人というキャラクターと、
深夜のデパートという優れた舞台空間とが完璧に噛み合っていて、本当に面白かった。この話もすばらしいわ。

第31話、「悪魔の住む花」は『ミクロの決死圏』(→2006.2.10)みたいだ。ここまで凝ってセットをつくれるのがすごい。
『セブン』ではいろんな場所が戦いの舞台として登場してくるが、この大胆な設定をきっちりやりきるのはかっこいい。
最後に花からぬっと出てくるセブンがまた面白い。スタッフの発想の柔らかさには脱帽するしかないわ。

第43話、「第四惑星の悪夢」(実相寺昭雄監督作品)。地球にそっくりだがロボットに支配されている星が舞台。
この話では特に、モダニズム建築とSFの相性の良さが抜群に効いている。また、とんでもなく奥行きがある部屋も登場し、
現実の空間と虚構を巧みに組み合わせて第四惑星の特異さを強調する効果を生んでいる。もうそれだけで面白い。
ロボット長官の合成映像はさすがに時代を感じさせる部分ではあるのだが、かえって不気味さが出ているようにも思う。
こういうSFを思いつくだけで終わらず、実際に映像としてつくりあげてしまう脳みそってのは凄すぎる。
怪獣ばかりが出るわけではなく、こういう話が混じっているからこそ、『セブン』は傑作になりえたのだ。

第45話、「円盤が来た」(やっぱり実相寺昭雄監督作品)。演出じたいは特に奇をてらっていないのだが……と思ったら、
渡辺文雄の存在感がムダにすごすぎ。完全にウルトラ警備隊の皆さんを食っているではないか。さすがだと呆れたわ。
話の内容はオオカミ少年を下敷きに実相寺らしい皮肉が込められたものとなっている。やはり一筋縄ではいかない。
この話はやはり、「サイケ宇宙人 ペロリンガ星人」という相手の名前が強烈で、もうそれだけでノックアウトである。
しかもサイケ宇宙人の名に違わず、戦闘シーンがあまりにも前衛的すぎる。ダブだし端折るし投げっ放しで終わるし、
もう何がなんだか。でも実相寺にしかできないことをやっているのは確かなわけで、素直に参りました、ハイ。

以上、やっぱり実相寺昭雄すげー!という結論に落ち着いてしまうのであった。しょうがないわ、こりゃ。
でも『ウルトラセブン』は全編を通して本当にレヴェルが高い。これはもう、娯楽の枠を完全に超えちゃっている。
あの時代にこういう作品をつくった人たちを心から尊敬する。『セブン』をつくってくれてありがとうございました。


2012.4.18 (Wed.)

毎日ヘロヘロに疲れているのは、ガイダンスで語りまくる(→2012.4.16)のと、新1年生がパワフルだからか。
今年の新入生たちは野球部希望者が非常に多く、おかげでなんとなく雰囲気が野球部っぽいノリなのである。
それはそれで礼儀正しい感じがしていいのだが、メリハリがつかないでいっつもフルスロットル、にもなっている。
こないだ卒業した連中がふだん元気を出し惜しみするようなやつばかりだったから、とても対照的なのだ。
新入生たちの相手をしていると、こっちまで自然と勢いが出てしまうところがあるようで、どうもそれで疲れている。
決してこっちの歳のせいではないのだ。断じてちがうのだ。


2012.4.17 (Tue.)

本年度の歓送迎会が行われた。会場は目黒雅叙園。
中に入るのは初めてで、入ってみてからいろいろと呆れたんですけど、目黒雅叙園ってどうなんですかね。

Wikipediaによれば、目黒雅叙園は1931年に開業した料亭で、国内最初の総合結婚式場でもあったという。
中華料理でおなじみのターンテーブル発祥の地としても知られている。このエピソードはけっこう有名みたい。
(恥ずかしながら僕はそのことを知らなくって、現地でメシをいただいている最中に皆さんから教えてもらって驚いた。
 中国発祥じゃなかったの!?と。ふだん物知りを気取っている僕は、知識の穴があると本当に恥ずかしい。)
目黒雅叙園は贅を凝らした豪華な内装で知られており、戦時中も芸術家が活動する拠点となっていたという。
現在の目黒雅叙園はバブル期の1991年に850億円もの費用をかけてリニューアルしたもので(設計は日建設計)、
でっかいアトリウムがとても印象的だ。かつて「昭和の竜宮城」と呼ばれたそうだが、和風と中国風が折衷されている。
床はフカフカ絨毯で、やり手っぽいサラリーマンが外人のビジネスマンと英語で会話している横を抜けて会場の部屋へ。
こういうセレブ風がビュービュー吹いている空間は、いづらくってしょうがない。虚勢を張るのは面倒くさいから苦手なの。

僕なんかは旅行しても、安いビジネスホテルで寝るだけ、みたいな学生のノリがまだまだ抜けないのだが、
職場の皆さんは「目黒雅叙園、豪華でいいわぁ」みたいな感じ。ぜんぜん興味のない僕にその価値観はわからない。
せいぜい、とりあえず旨い中華料理がたっぷり食えるんならそれでいいや、くらいの関心しかないのだ。
だから目黒雅叙園の建物も、内装も、空虚に思えてならなかった。なんでここまでやって威圧する必要があるのかね、と。
個人的には、金の使いどころを間違っちゃっている成金趣味にしか思えない。ただひたすら、もったいない。
でも世間一般の考え方では、そういう権威ある空間をきちんとつくることがホスピタリティの体現となるわけで、
建築家はそういう要求に応える仕事もしなければならないわけだ。潤平は大変だなあ、となんとなく思う僕。
豪華さ(高価な道具)によってホスピタリティを表現するというのは、茶道でも通じる考え方だ(→2011.11.20)。
僕にはまるっきり欠けている観点だが、それはやはり他人に対する礼儀に欠けているってことだろうなあ、とも思う。
空虚だなあと思うのは僕の勝手だが、その空虚さを実のある価値として認めて尊重できるのがオトナなのだ。
そしてそのことをきちんと自分の中に常識として持っておくことができないといけない歳になっているのだ。

歓送迎会が終わると、そんな具合に反省しながらエレベーターで1階へと下りる。
そしたら「マツシマさん、目黒雅叙園には日本でいちばん豪華なトイレがあるんですよ!」と教えてもらう。
で、そのトイレに入ってみたんだけど、その瞬間、僕は「うわなんだこれバカじゃねえの!?」と叫んでいました。
オトナにはほど遠いね。


2012.4.16 (Mon.)

毎年恒例、僕は新年度最初の授業では、勉強をやる意義を確認するべくぶっ通しで語るのである。
その具体的な内容はすでに前に書いたとおり(→2010.8.22010.8.32010.8.42010.8.52010.8.6)。
中学校に入ったばかりの新入生に対してガツンといったれ、と言わんばかりに熱くしゃべり、
少人数クラスとなって新たに面倒をみることになった2年生に対しても熱くしゃべる。おかげでヘロヘロだ。


2012.4.15 (Sun.)

本日はサッカー部の春季大会である。新3年生になった連中も、この大会の次の大会で引退。早いものだと呆れる。
対戦相手は、2年前に3-10で敗れ(→2010.10.1)、半年前に2-5で敗れた(→2011.10.23)学校だ。
決して勝てない相手ではないと僕は思っているのだが、相手は顧問の先生がこの春に異動されたので、
「先生のために勝とう!」と団結しているのではないかと予想される。非常にやりにくい状況なのである。
しかも! こっちは急にディフェンスラインのスタメン予定だった2名が急性胃腸炎にかかって欠場決定。
試合以前のところでつっかかっているようじゃ、まるっきりお話にならない。もう本当にがっくり。
オレが生徒だったら、公式戦なんて年に3回だから、調子が悪かろうと絶対に試合に出たがると思うんだけど。
小さい頃から本番にやたら強いことで鳴らした僕には、試合のときに病気になるってこと自体が理解できないのである。
……まあ他人の価値観についてグジグジ言ってもしょうがない。監督としては、切り替えてベストを尽くすのみだ。

この試合も最終ラインを入れ替えた3-3-1-3で臨む。が、やはりDFのひとりがキックオフ直前になって体調が悪化。
不安はあるが先週の練習試合でいい動きをしていた2年生と、練習不足の3年生を投入して攻めきるサッカーを目指す。

しかし試合が始まると、中盤より前がまるでダメ。ボールに対する貪欲さがまったく欠けていて、戦えていない。
そして練習不足の3年生は見事にサイドをブチ抜かれて失点を重ねる。突っ立ったまま動かない前線と、
走り負けるディフェンスでは試合にならない。まったく想定していなかった0-7というスコアで敗れて監督ブチ切れ。
本番こそヴォルテージが上がって怒鳴りながら闘志むき出しでプレーできるもんだろ、とドゥンガな僕は思うのだが、
メンタルが弱っちい生徒たちはぜんぜん実力を発揮できない。そういえば、ウチは練習試合と比べて本番にすごく弱い。
「技術以前のところで負けているんだ! 口だけで悔しがって、戦う気持ちをプレーで表現できていないんだよ!
オレはお前らと比べると本当にヘタクソだけど、オレがもしピッチに立ったらこんな無様な試合には絶対にさせてないぞ!」
試合後、そんなふうに雷を落としたら、生徒たちは「そう思います……」とか弱くうなずくのであった。もう本当に情けない。
根性論というか、「本番での強さ」というまさかの課題にぶち当たってションボリな僕。
そんなもん、自分で勝手に身につけるもんだろ、と思っているのは僕がそういう性格をしているからですか?

家に帰って冷静に考えると、今回の試合は明らかに僕の采配ミスだった。
それは慣れていない生徒にいつもどおりの3-3-1-3をやらせたことだ。サイドをケアする4バックの方がよかったかというと、
必ずしもそうではないと思うのだが、やはりディフェンスの呼吸がいつもと異なっている以上、きちんと配慮すべきだったのだ。
センターバックとサイドバックでつねに2対1の状況をつくる守備から入っていけば、失点はぐっと減ったはずなのだ。
そんな感じでディフェンスから計算して前のポジションに的確な指示が出せていれば、いいところまで持っていけた気がする。
フォーメーションに固執してプレイヤーの特徴を生かせなかったのは、どう考えても監督である僕の大失敗なのだ。

今回の結果は生徒にとっても苦い経験となったけど、僕にとっても非常に苦い経験となった。
次は引退のかかった夏季大会。わずか1ヶ月半後だ。とても部活のことだけを考えていられないほどに忙しい状況だが、
それだけに集中力は増すはずだ。きちんと練習して課題を克服して、納得のできる成果を残したい。


2012.4.14 (Sat.)

本日はサッカー部の公式戦の予定だったのだが、雨で明日に順延となった。
そのことをいちいち連絡していくのが面倒だったので、発作的に団体名を使ってTwitterに登録してしまった。
部員たちはTwitterをチェックすればいいじゃん、というわけだ。これに従来の電話を組み合わせればいいのだ。

知ってのとおり、僕はTwitterが嫌いである。だから一切興味関心を持つことなく今まで済ませていたのだが、
今後もTwitterに対する「嫌い」という感情に変わりはない。自分に不要なコミュニケーションツールに割く時間などない。
ただ、便利な機能として利用することはできるので、そこは上手く使っていきたいとは思う。それだけのこと。
(俳句をやる人なんかは、Twitterは非常にいいツールになるんじゃないか。旅先で芭蕉も喜びそうだ。)
というわけで、僕個人がTwitterを始めることは、未来永劫ありません。日記を一方的に垂れ流すだけです。


2012.4.13 (Fri.)

本日より本格的に授業がスタート。今年度も相変わらずピッチピチに授業が詰まっている状態で、本当に疲れた。
3年生はだいたい去年と同じとおりなのでさほど困ったことはないが、2年生は少人数授業が始まってそこで一苦労。
1年生はまさにアルファベットの「A」からスタートするわけで、それはそれでストレスがたまるのである。
特に僕はまず自分が大声を出しながら、しゃべりでクラス全体の雰囲気をつくっていく授業をするので、
ブランクが空いたうえに力加減を忘れてパワフルに進めていくと、その分だけダメージが大きくなる。
こたえたわー。


2012.4.12 (Thu.)

桜がきれいに咲いている。いや、ソメイヨシノがきれいに咲いている。

今年は入学式にばっちりのタイミングで桜が咲いた。うっすらとピンクを帯びた白いその花に見とれてしまう。
ニュースなどでも桜の話題はよく出てくる。と同時に、ネットなどではソメイヨシノについての解説も見かける。
ソメイヨシノ。漢字では「染井吉野」と書く。江戸・染井村の植木職人が生み出した。桜の名所から「吉野」と名付けられ、
後に本来の吉野名物であるヤマザクラ(→2010.3.30)との混同を避けるために「染井吉野」と正式に命名された。
ソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラを人工的に交配させてつくられた種だが、種子で増えることはない。
現在、日本中に広がっているソメイヨシノは接ぎ木で増やしたクローンで、どの木も遺伝的にはほぼ同一である。
これはけっこう有名な話だ。江戸期にクローンということで、人間の知性の深さを実感させられるエピソードとして知られる。

明治以降、あっという間に日本中を覆い尽くしたソメイヨシノ。僕たちはその花を標準的な桜の花と認識している。
桜と聞けば「散り際」、そして武士道を想像する。その媒介となっているのは、間違いなくソメイヨシノだ。
でも、日本に侍がいた時代には、この世にソメイヨシノという種はまだ生まれていなかったのだ。
同じように、平安時代の「花」と聞いて、僕たちは吉野の里のヤマザクラよりも先にソメイヨシノを想像してしまう。
ソメイヨシノはその美しさゆえに、意図したわけではないものの、歴史を、記憶を、書き換えうる力を持ってしまった。
美しさだけでここまで人の心に入り込み、あちこちに居場所をつくり、過去のイメージさえ変えてしまうことに成功している。
そんな存在はほかにあるまい。ソメイヨシノは、日本における究極の傾城の美人と言えるのかもしれない。

ソメイヨシノについて書いてあるサイトの中で印象深かったのは、ソメイヨシノの老木を植え替えるべき、という意見だ。
植えられて60年以上経過したソメイヨシノが枯れるという話はよく聞く(ちゃんと世話すれば100年以上生きる、とも)。
僕らの一般的な価値観からすると、枯れないようにがんばれ、がんばれ、という方向の努力が美談となりやすい。
しかしそのサイトでは、ソメイヨシノについて「たくみに人々の心をとらえた結果、人と共存の道を選んだ」と書いてあった。
この視点は面白い。人間が人工的に生み出した種に対しても、種の側の主体性を見出しているわけだ。
ソメイヨシノは風の力でもなく虫の力でもなく、人の力を借りて勢力を広げていった種、とみなしているわけだ。
そして、そのサイトには「老木になってしまったら、若木として蘇らせることをためらうべきではない」とある。
ソメイヨシノは、美しく咲いた姿を愛してもらうために生まれたクローンだ。そういう形の生命として生まれたのだ。
だから、その生命が最も役割を全うできる形でいられるように配慮すべきだ、ということだろう。僕はそう解釈した。
ソメイヨシノは仲間が自分しかいないという孤独に耐えながら、毎年美しい花をつける。それがソメイヨシノの存在意義だ。
無数に増殖したクローン生物の価値観は、たぶんわれわれのそれとは大きく異なっているはずなのだ。
だったら、いちばん美しい姿でいさせてあげたい、という考え方は、実は倫理的に正しいと言えそうじゃないか。

校舎3階の窓からソメイヨシノを眺める。間近で咲き誇るその花は、白い肌がうっすらと上気したような紅を含んで、
思わず心が吸い込まれそうになってしまうほどに美しい。遠くから集団を眺めても美しく、近くでひとりを見つめても美しい。
人の心を媒介に、日本という空間も時間も支配してしまった、狂おしいほどに美しい花。文字どおり人を酔わせる花。
人間が、自ら生み出したクローンの美人に魅了され、翻弄される。こんな身近なところにそんなファンタジーがあったとは。
ソメイヨシノと人間の「共犯関係」はどこまで続くのか。酔い心地に遊び、散る花を惜しむことを知ってしまった僕らは、
これからもずっとソメイヨシノの腕の中に抱かれたままでいるような気がする。ソメイヨシノよ、すべてはきみの言いなりか。


2012.4.11 (Wed.)

ワカメが上京してきたので、そのお相手。ワカメに会うのは実に震災の翌日以来だ(→2011.3.12)。
本当はもっと多くの仲間に会えるのを期待していたのだが、都合がついたのが見事に僕だけだったので、
ワカメとサシで晩飯を食うことに。まあワカメと1対1ってのは中身の濃い時間になるから大歓迎だけどね。

ワカメが麻布十番に宿をとっているので、僕もそこへ向かう。麻布十番は帰るのが楽だからいいのだが、
男ふたりで飲み食いするには少々厳しい場所である。新一の橋交差点で1年ぶりの再会を果たすと、
雨の中、ふたりで麻布十番の商店街をさまよい歩く。結局、なんとなく過去の楽しかった記憶もあって、
「もんじゃでいこう!」となるのであった。もんじゃを食うのはそのとき以来だよ(→2005.9.4)。
もうあれから7年近く経っているんだぜ、やんなっちゃうよな、まったく。

正しいもんじゃの焼き方なんてまるっきり忘れちゃっているから、なんとなく野菜と魚介類を焼いて、
なんとなく土手をつくって、なんとなく汁を流し込んで、なんとなく混ぜる。もんじゃっぽいからヨシ!
ワカメはまったく酒が飲めないし、僕も酒は苦手なので、お互いコーラで乾杯。瓶のコーラは特別にうまい。

単純に好き放題にダベるだけなので、話の内容はあっちへこっちへフラフラ。
僕が典型的なサッカー部員の恰好で現れたので、部活動についての話からスタートし、最近の日本サッカー、
去年のペナントレースでのヤクルトの残念っぷり、Perfume、AKBのどこがいいのかわからんとか、そんな感じ。
ワカメから、おたく方面のネタでオススメなものはないかと訊かれ、『けいおん!』(→2012.1.13)を薦める。
「ボーッとDVDを見ていると癒されるんだよ……」と語る僕なのであった。

そのうちに話題は僕が旅行しまくっていることになって、ワカメに盛んに旅行するように薦める。
47都道府県を制覇するくらいに全国を旅行していると、日本人ほぼ全員と共通の話題がつくれるようになるし、
それぞれの土地について語れるようになるし、流行のB級グルメについても他人にアドヴァイスできるようになるし、
知識が経験として深く自分の中に定着する快感が得られるし、もういろんなことが面白くてしょうがなくなるのだ。
なんでもいいのでテーマを決めていろいろ見ていくうちに、ひとつのテーマが次のテーマにつながっていき、
興味関心や知識がどんどん広がっていく。ぜひそれをワカメにも味わってほしいなあと思っているわけだ。
旅行で経験した知識は、きっとどこかで役に立つ。人生に厚みを加える意味でも旅してくださいよ、と語る僕。
ワカメはけっこう前向きそうな感触であれこれ考えていたので、これからするであろう旅行の体験を、
いつか彼独特の鋭い感性で練った作品としてどこかに出してほしいと思う。それを僕は楽しみに待つことにするのだ。

ワカメはそんな僕の書いている日記をしっかりと読んでくれているようで、バレンタインデーの閉鎖騒動を把握していた。
僕の日記の読者なんていいところcirco氏とリョーシさんぐらいだと思っていたので、すっかり驚いてしまったわ。
やたらとログの量が多くて読みづらいだろうに、ありがたいことです。できればワカメにも日記を書いてほしいね!

というわけで、3時間ほどのんびりとしゃべって非常に楽しい時間だった。いやもう本当に楽しかったですよ。
僕らも確実に歳をとっていて、年々集まりづらくなっているわけだけど、ワカメからはいい刺激が絶対にもらえるので、
呼ばれれば都合をつけて必ず顔を出すことにしているのだ。次はいつ会えるかわからないけど、ぜひまたよろしく。
そのときにはワカメの旅行記についていろいろ話せるといいなあ。期待してます。

なんかワカメにやたらと「子孫を残せ」と言われたんですけど、子どもを産んでくれる女性がいませんので……。


2012.4.10 (Tue.)

新入生どもに、「厳しそうなシャキッとした先生」という印象を与えることに、たぶん成功したのだ。
今年からはこのキャラでいくのだ。これでいいのだ!


2012.4.9 (Mon.)

本日は入学式なのであった。つい先日までランドセルを背負っていた連中が、真新しい服に着られているような状態で、
体育館の中へとぞろぞろ入ってくる。こないだ卒業生を送り出したせいなのか、例年以上に新入生が幼く見えてしまう。
まあ確実に僕と新入生との歳の差は年々広がっていくわけで、自分の立ち位置というものをあらためて考えさせられた。

夕方になって卒業生たちが登場。昇降口のところからサッカー部の練習をなんとなく見ているので、ちょっと相手する。
高校生にしてはまだまだ初々しい姿にほっとするんだけど、やはり淋しい気持ちがこみ上げてくる。
正直に書くと、僕だけが置いてけぼりを食っている感覚になるのである。オレも高校に行って教えたいわ、となるのだ。
練習に戻ったら部員たちから「先生、女子高生相手にニヤけてましたよ」と言われてしまった。うう、ニヤけていたか。
開き直って「しょうがねえじゃん、教えてた生徒がわざわざ来てくれるとうれしいもん!」と返す僕。そして部員と笑い合う。

今のサッカー部生活もいいもんだけど、早く高校の教員になりてえなあと、とことん思った日なのであった。


2012.4.8 (Sun.)

今日は部活の練習試合。こないだ(→2012.3.4)のリヴェンジで、今日こそ勝ちきろうぜ!と意気込む。

まず前回スコアレスドローに終わった学校との戦いは、2-3で負けた。今回はリスクを負っても点を取ろうということで、
かなり攻撃にこだわった指示を出してから送り出した。だからきちんと2点取ったのはまずまずと言える。
その一方での3失点は、よく粘ったのだが相手を褒めるしかないシュートを打たれてのものなので、責められない。
さらに高い位置からの守備を徹底して、攻撃の時間をもっと増やすことを高めていくしかない、というのが僕の気持ち。
相手がファインゴールを決めるのであれば、こっちだって決めるしかないのだ。そこの意識づけをしていきたい。

続いては強豪というほどではないものの、しっかりと強い学校との試合。こちらも2-3で負けた。
さっきの試合以上のファインゴールを食らったわけで、これをどう自分たちの攻撃に生かすかが勝負だと思う。
まあ正直この学校とそれなりにがっぷり四つに組んだ試合ができるとは思わなかったので、僕としては自信になった。
ただ、細かいところではひとつひとつのプレーで負けていて、その積み重ねとして1点差の負けとなっている。
これを追いつき、追い越すためには、まだまだ足りない点ばかりなのだと実感もさせられた。

その後も試合はがっちり組まれており、結局1試合も勝てなかったのだが、すべての試合で得点はした。
今までのことを考えると、これはかなりの快挙である。生徒たちも一定の自信はついたようである。
特に、こぼれ球への反応は前より確実に速くなった。押し込んで攻めきるサッカーが形になってきている。

僕がぼんやりと理想にしているサッカーは、足下の高い技術を駆使するいわゆる「セクシーフットボール」に、
かつてのデンマーク代表「ダニッシュダイナマイト」のような爆発力を組み合わせるサッカーだ。
名付けて「セクシーダイナマイト・フットボール」だ!……まあ言葉遊びのレヴェルではあるけど、形容すると事実そうなる。
実際のところのわれわれは、とても「セクシー」を名乗れるほどの技術はないので、ただの爆発(暴発)サッカーである。
相手チームを相手陣内に押し込んでボコボコにすることを目指す、いわば「ランバージャック・フットボール」となっている。
(プロレスの「ランバージャック・デスマッチ」が元ネタ。リングの四方を人で囲み、リングアウトした選手を押し戻す試合形式。
 わからない人は、『キン肉マン』のマッスル・ブラザーズvsはぐれ悪魔超人コンビの試合を参照。)
でも負けてしまっている以上、目指すサッカーが体現できているとは到底言えない。かっこつけている場合ではない。
今回の練習試合ではある程度の攻撃ができたので、次は守備の手順をきちんと確認してレヴェルを上げていきたい。
いつか堂々と「オレたちは○○フットボールをやっているんだ!」と言えるようなチームにしたいもんだわ。

ところでこの日ついに初めて、主審というものをやった。もうね、本当にね、これは難しい。
審判ってのは実際にやらないと上手くならないので、たくさんやって経験を積んでいくしか解決策はないのだ。
でも僕にはそういうものが何もなく、いざ試合が動き出すと、とてもとても「試合をコントロール」なんてできやしない。
だいたい接触プレーってのは判断が難しいもので、でも毅然とした態度で素早く判定をしないといけない。
ある意味、誤審覚悟でもっとふてぶてしくならないと、この商売は到底つとまらないのだ。
試合ってのは生き物なわけで、猛獣使いになったような気分。そして結果としては、『魔法使いの弟子』。
主審をやることで副審のスキルが上がるなあ、とは感じたが、とにかく悔しい思いばかりの時間だったわ。勉強になります。


2012.4.7 (Sat.)

DVD鑑賞、日記、部活、床屋、買い物、日記。……旅行が強烈なせいで日記がぜんぜん仕上がらない!
でももうどうせ今月も来月もどこにも行けないから、その間に追いつけるようにがんばるのだ。
ゴールデンウィーク? そんなもん、部活じゃ部活。あとはサッカー観戦。早く来い来い期末テスト前の土日!


2012.4.6 (Fri.)

始業式だ! 静かだった校舎に生徒たちがやってくると、一気に騒がしくなる。
特に今日は新しいクラスの発表ということで、ソワソワ感はかなりのもの。まあそりゃそうだわな。
それにしても、新3年生と新2年生しかいないのは、やはりどこか「欠けている」感触が強くて淋しい。
そのうちまた元気な連中がやってきていつもどおりな空気になっていくんだろうけど、違和感がなんとも。

僕は教科書の係をやっているので、今日は新2年生どもに教科書を配るための下準備をさせたのだが、
そこで「お前らは本の扱い方をぜんぜんわかってない!」と軽くキレたのであった。
こちとら出版社で鍛えられた経験があるので、大量の本を要領よく分けることについては少々うるさい。
そんな僕の目の前で、連中は教科書を雑に扱い、平然と本を傷める積み方をし、それで仕事をしたつもりになっている。
しょうがないので作業をストップさせ、倉庫生活(→2005.3.1)で鍛えた技術を披露して、本の扱い方を教えていく。
「なるほどー」と目を丸くしていたやつが1/3、あとはボーッとしていて片方の耳からもう片方へ抜けていく。困った。
作業じたいをサボっていたやつはゼロで、みんなきちんとやる気を持って取り組んでいる姿勢そのものはいいんだけど、
結果を考えないで作業を始めてしまうところはいただけない。「頭を使え!」とさんざん叫んで疲れた。

僕らがお昼に肉屋のカレーや弁当で気合を入れているのを見て、新しくウチの職場にいらした先生方も興味津々。
それで「ぜひ食いたい!」ということでみんなで弁当を買いに行ったのだが、信じられないことになんと、
ご飯がなくなったので弁当売り切れという事態になってしまっていたのであった。そんなの初めてだからびっくり。
来週は入学式があったり給食がスタートしたりするので、次に肉屋の弁当のお世話になるのは、おそらく夏休みなのだ。
なんとも運が悪い。しかしまあ、あの一味唐辛子入りカレーで気合を入れる「儀式」がこんなに流行するとはねえ。
まあ、これも職場が平和な証拠なのだ。なかなかいい感触で新学期を迎えようとしておるわけです。


2012.4.5 (Thu.)

明日が始業式ということで会議やら事務仕事やら椅子のシールはがしやらがピークなのであった。いや本当にキツかった。
早くもトップスピードの中に放り込まれて目が回っている。そんな中で、どれだけ冷静に物ごとをコントロールできるか。
これまでの経験が試されているのがわかる。一歩一歩着実に、賢く切り抜けていきたいものだ。

なでしこのブラジル戦を見る。試合内容・結果はもちろん、ホームのINACを立てたキャプテン宮間のコメントまでも完璧だ。
非の打ちどころがないとはこういうことか。とことん憧れるわあ。いいなあ、ああいうチーム。本当いいなあ。


2012.4.4 (Wed.)

弁当の話でもしましょうか。

昨年の夏休み、強烈な弁当について書いた(→2011.8.1)。で、春休みに入ってやっぱりほぼ毎日お世話になっている。
どれくらい強烈なのか、各メニューの写真を撮影してみた。安くて量があって旨い、その威力を感じてほしい。

  
L: これが噂のカツカレー。よーく見ると、一味唐辛子の存在が確認できるはず。この辛さがやみつきになる人が続出。
C: こちらはしょうが焼き弁当。肉のヴォリュームが凄まじい。フタがぜんぜん閉まっていませんぜ。
R: フタを開けてみた。肉の下に敷いてあるキャベツもまた大量で、それゆえ職場では「最もヘルシー」と評される。……そうか?

僕の師匠格にあたる先生は連日のカレー天国(あるいはカレー煉獄)。すっかりハマってらっしゃる。
そういう僕も写真を見てもらってわかるとおり、カツカレーにしょうが焼きにトンカツにと、毎日がっつりである。
おかげで職場ではこの店の弁当が静かなブームとなっている。コストパフォーマンスが最強だもん、しょうがないわな。

  
L: 別の日にはトンカツ弁当。やっぱりフタが閉じる気配はまったくないのであった。いやー、ありがたい。
C: 細長く切ったトンカツをひとつひとつ揚げているのだ。中にはメンチカツも一切れ入っている。

R: メンチカツ弁当。こちらには鳥の唐揚げが1個ついてくる。しかしやっぱり肉屋だけあり味は本格派だわ。

そんな感じで、毎日お昼はしっかりと食事を楽しませてもらっております。もう、写真を見るだけで力がみなぎってくるね!


2012.4.3 (Tue.)

台風並みの暴風が来るというので、部活は中止にせよと急遽お達し。で、職員も早く帰れと。
しょうがないのでウキウキしながら家に帰って、ひたすら伊勢湾旅行の画像整理に勤しむのであった。
これがもう、調子に乗ってシャッターを切りまくったもんだから、とんでもない作業量になってしまった。
しかしそれは、その分だけ充実した内容の経験ができたということなのである。これは本当にそうなのだ。
あとはがんばってその経験を言語化して記録していくのみだ。大変だけど、これをやらなきゃ意味がない。
知識は連鎖して加速度的に次の知識を呼び込む。それを整理しておくのが、僕の日記の役目なのだ。
新学期、すぐに忙しくなってしまうから(もうすでに忙しいが)、コツコツやる習慣だけでもつくらないとね。


2012.4.2 (Mon.)

ムーンライトながらで東京に戻り、帰宅すると軽く仮眠をとる。
そしていつもの時間にむっくりと起き上がり、着替えて支度をととのえて、出勤する。
こうして本年度がスタートしたのであった。今年度はいろいろと勝負の年なのでがんばるのである。

新たにやってきた先生方を迎え、机を片付けて移動し、新体制に入る。
午前中も午後も会議会議会議のオンパレードで、新しい一年が始まるんだなあ、とイヤでも実感させられる。

夕方になって部活。ここんとこ生徒が動くのを見てばかりだったようで、久しぶりに思いっきりボールを蹴ったら、
足の筋が痛くなったりやたらと疲れたりと、自分で自分が本当に情けない。しっかり鍛えないといかん。
こないだ卒業した連中が何食わぬ顔して参加したのだが、やはり彼らにも今やっている部活のメニューはキツいようだ。
ってことは、それなりにちゃんとやれているということか。まあとにかく、まずまずのスタートにはなったかな。


2012.4.1 (Sun.)

まあ、なんというのか、せっかくだから乗りつぶしておこうか、と。
早朝、宿を出ると伊勢市駅から二見浦駅まで乗って、引き返す。これで参宮線をクリアしたのだ。はっはっは。

それはともかくとして、本日は三重県の各都市を徹底的に歩いていくのである。
津はすでに県庁所在地めぐりで訪れているので(→2007.2.10)、それ以外の街を押さえていく。
まずは松阪、続いて亀山、そこから四日市、最後に桑名である。夕方には名古屋に入り、そこでリョーシさんに会う。
リョーシさんは昨日、名古屋で会合があったそうで、僕の旅行と日程が重なったのでメシを食うことにしたのだ。
ちなみに僕は昨日お伊勢参りをしたのだが(→2012.3.31)、リョーシさんは本日公式参拝するとのこと。
一緒に参拝する計画も練ったのだが、僕の行動予定があまりにもトライアスロンで、結局断念したのであった。すまん。

松阪に着いたのは8時20分ごろ。松阪といえばなんといっても松阪牛が有名だ。
かつては「まつざかぎゅう」とみんな言っていたが、正しくは「まつさかうし」ということが世間でも広く認知されてきて、
現地の人はさぞ喜んでいることだろう。しかしながら、松阪は決して牛肉だけの街ではないのだ。
しっかりと調べていくと、この街はかなり訪れる甲斐のある魅力的な街だったのである。
そんなわけで今回の松阪訪問では、牛の要素一切抜きで、きちんと城下町らしさを味わうことにするのである。

まずは城下町・松阪の歴史を軽く押さえるところから始めたい。1588(天正16)年に、蒲生氏郷が松坂城を築く。
しかし小田原征伐の後、氏郷は秀吉から伊達政宗へのマンマーク役に指名され、会津若松へと移る。
そして1619(元和5)年以降は紀州藩の飛び地となり、そのまま明治維新までいってしまう。
「松坂」から「松阪」へと表記が変わったのは1889(明治22)年の町制施行の頃とのこと。意外と最近なのだ。
松阪出身の歴史上の有名人は、なんといっても本居宣長。そして伊勢商人の代表格・三井高利。なかなかいい感じだ。

実際に松阪駅からまっすぐ商店街を歩いてみると、けっこうしっかりと栄えていた街だという感触がある。
(店が開く10時よりも前に歩いたので、現在どの程度栄えているのか、あるいはダメージを食っているのかはわからない。)
アーケードの商店街がわりと長く続き、交差点で覗き込んだ旧伊勢街道も穏やかだがしっかりきれいに整えられている。
藩主がおらず飛び地だったのだからそんなに大規模な街でもないだろうと思い込んでいたのだが、そんなことは全然ない。
むしろこれは強大な力を持っていた紀州藩(→2012.2.24)の飛び地ならでは、ということなのかもしれない。

Googleマップを印刷した地図を片手に、松坂城址方面へ歩いていく。商店街から奥へと進むと、急に雰囲気が変わる。
住宅地、それも昔ながらの武家屋敷の空気を残した空間へと変わるのだ。コントラストがものすごくはっきりしている。
そのまま進んでいくと、松阪工業高校の敷地に出る。すると、赤く塗られた面白そうな木造校舎があるのを発見。
実はこれ、「赤壁(せきへき)校舎」という名前がついているのだ。松阪工業高校の前身・三重県立工業学校のもので、
1908(明治42)年に建てられた。当時は化学実験で変色しないように、硫化水銀で校舎を赤く塗ってあるのだ。
現存する赤壁校舎はここだけとのこと。これはなかなか貴重な事例に偶然出会ったわ。

  
L: 松阪駅前の観光案内所。なかなか気合の入った建物である。松阪って観光資源がとっても豊富だもんな。
C: 商店街から松坂城址方面へ入っていくと、いかにも武家屋敷がそのまま宅地化した一帯に出る。
R: 松阪工業高校に残っている赤壁校舎。これは製図室として建てられたんだそうだ。

その松阪工業高校からすぐのところにあるのが、御城番(ごじょうばん)屋敷である。
幕末の1863(文久3)年に建てられた長屋群で、紀州藩の浪人たちが松坂御城番に任命され、ここに暮らしたのだ。
武士の組屋敷が建てられた当時からほとんど姿を変えることなく残っているのは非常に珍しいことだそうだ。
実際に訪れてみると、この一角だけ見事に異世界なのである。現代では考えられない空間が現実に目の前にある。

  
L: 御城番屋敷。現役の住宅として維持管理されているだけに、その迫力たるやとてつもないものがある。
C: ちょっと進んでみたところ。松坂城の石垣がよく見える。しかしこの光景は21世紀のものとは思えないなあ。
R: 入口はこんな感じ。生け垣の切れ目となっている入口と長屋の玄関は少しずらしてあるのだ。

正直、松阪にこんな面白い空間があるとは思っていなかったので、これにはひどく驚かされた。
一口に「日本の伝統的な空間」と言っても、場所によってそれは本当に異なった姿をしている。実に多様なのである。
その多様さの中に一貫する「構造」があって、それをわれわれは無意識に、でもしっかりと感じ取っている。
いつかそれを帰納して言語化できるように、今の僕は懸命に事例を体験していくしかないのだ。あらためて実感した。

しばらく御城番屋敷の通りを往復して空間の記憶を脳みそに刻み込むと、そのまま松坂城址へと入る。
御城番屋敷側の入口は搦手となるが、とりあえずはそのまま本丸を目指して石段を上っていく。
しかし、なぜか城内のあちこちからは歓声というか掛け声というか、賑やかな雄叫びが絶えず聞こえてくる。
二の丸に出てわかったのだが、今日の松坂城址は少年剣道大会の会場となっていたのである。
ふつう剣道の大会は武道館など建物の中でやるものだと思うのだが、皆さんまったく気にすることなく、
青空の下で防具を着けて竹刀を振り振り。城内は完全に剣道関係者にジャックされていたのであった。
松坂城址は見事な石垣がしっかりと残っているのだが、とてもじっくり見学できる状況じゃなかったなあ。

 
L: 二の丸の広場より眺める松阪市街。  R: 松阪市役所は耐震補強が行き届いているようです。

 
L: 剣道大会の会場となっている本丸跡。こんなことになっているとは心底びっくりだ。
R: 天守台跡はビニールシートが敷かれ、弁当を食べる人たちに占拠されていた。ぜんぜんフォトジェニックじゃねえ!

テキトーにデジカメのシャッターを切ると、そそくさと城内から退散する。そのまま搦手から出て、
松坂城址のすぐ隣にある神社へ。その名も、「本居宣長ノ宮」という。実際に訪れるとわりとふつうの神社だが、
近世の個人名がここまでしっかりとつけられている神社というのは珍しいと思う。賢くなれるようにお願いしたよ。

この本居宣長ノ宮と松坂城の搦手口の間に挟まっているのが、本居宣長記念館なのだ。
1970年竣工という建物はガチガチのモダンスタイル。せっかくなので中に入って見学するが、
そこは直筆の手紙やら宣長の書やらが大量に置かれており、ほとんどが重要文化財の指定を受けている。
きちんと古事記の内容を把握しないことには、宣長の業績を理解することはできないだろうなあ、と思うのであった。
そういうわけで、あらためて自分の無知っぷりを実感させられて記念館を出た。そしてその先にある宣長の旧宅へ。

宣長が書斎に鈴を吊り下げ、その音を聴いて楽しんでいたことから書斎を「鈴屋(すずのや)」と名付けたことは有名だ。
旧宅はもともとは市街地にあったのだが、明治期に松坂城内の現在地に移築されたのだ。中に入ることはできるものの、
肝心の2階にある書斎に立ち入ることはできない。それでも、雨戸が開けられて外から様子をばっちり眺めることができる。
小さいながらもその分だけ屋根裏感覚がしっかり味わえそうな空間となっており、これは居心地がよさそうだ。
その空間を見ただけで、さすがは宣長、やっぱりすごいわ、と思わされたのであった。いやホントに。

  
L: 本居宣長ノ宮。宣長は町医者として活躍しながら執筆活動を行い、国学に大きな流れをつくった。
C: 本居宣長旧宅。2階の小さいスペースが鈴屋だ。もうこの空間のつくり方を見ただけで、宣長の非凡さがわかるってもんだ。
R: 後になって撮影した、松坂城の大手。もうちょっとしっかり、城内を見てまわりたかったなあ、と思う。

鈴屋に感心した後はぐるっとまわって松坂城址の北側に出る。そうして城を一周するようにして松阪市役所へ。
松阪市役所の竣工は1969年。その時期に建てられたのでやむをえないのだろうが、それにしても耐震補強が凄まじい。
さっき二の丸から見下ろしてその姿に驚いたのだが、あらためて近くで眺めると、もうファサードがわからない。
むしろ耐震補強の部材がファサードを形成している状態となっている。ウチの学校をはじめそういう建物はけっこう多いが、
さすがにここまでガッチリと補強されまくっている庁舎は柏崎(→2011.10.9)以来である。
耐震補強がファサードを形成している事実については、マジメに建築学的に考えるべきテーマだと思う。
芸術性の高い耐震補強を追求した事例は存在するか? 耐震補強による利用者の意識の変化はどの程度あるか?
逆に耐震補強をデザインのヒントとして何かを生み出すことは可能か? 震災後の現状から考えた場合、
これらはきわめてコンテンポラリーな研究テーマであるはずだ。興味は尽きない。

  
L: 松阪市役所の現況。耐震補強により、本来あったはずのファサードは完全に消し去られてしまっている。
C: 正面よりあらためて眺めたところ。ジャングルジムみたいで、それはそれでかなり面白い造形となっている。
R: 裏側はこんな感じ。補強がこの程度だと、よくあるパターンではあるのだが。庁舎は本当に補強されまくるなあ。

帰りはやや急ぎ足で松阪駅を目指す。先ほど交差点から覗き込んだ旧伊勢街道へ出ようと歩いていたら、
どうもチラチラ見える街並みが木造の伝統建築を多く残している感触なのである。当然、寄り道してみる。
地名で言うと「通り本町」「魚町一丁目」の界隈になる。この辺りは松坂城址に近いこともあってか、
ちょっと入り込んでみただけでも昔ながらの街並みがけっこうしっかり味わえる。
御城番屋敷は非常に有名なのだが、そのほかにも伝統建築のまとまった場所があるのは知らなかった。
後で調べたら、ちょうどこの日から松阪市の景観形成重点地区に指定された模様。
将来的には気合の入った整備がなされて、観光都市・松阪の見どころになっていくのかもしれないなあ。

 
L: 通り本町の街並み。松坂城址と市役所を挟む位置にある。これは将来的に観光資源として期待できるかも。
R: 通り本町にある、三井家発祥の地。松阪は伊勢商人を多く生んだ地だ。三井高利は三井財閥の基礎を築いた。

帰りにもう一度駅前のアーケード商店街を歩いたのだが、よく見ると妙に気になることがある。
駅前のアーケード商店街ってのは、もっとゴチャゴチャしているものだと思うのだが、やけにデザインが統一されている。
いや、そもそもひとつの大きい建物の中にそれぞれの店舗が納まっているのだ。ずいぶんと大胆に再開発したものだ。
見上げれば信号機の横には町名のかわりに「ベルタウン」とある。これほどの事例はなかなかないのではないか。
まだ10時前なので店は開いていないのだが、雰囲気はつかむことができる。というわけで、ちょろっと寄ってみる。

  
L: ベルタウン。1980年に整備が完了したとのこと。当時、これだけ広い範囲をまとめて再開発したのは珍しいのでは。
C: ベルタウンの内部空間。ちょうどデパートと商店街の中間の雰囲気となっている。いい意味で迷路っぽさがある。
R: 裏手。さらに裏側は駐車場となっている。正直、あまり元気はなさそう。今は駅前商店街じたいが不利な時代なのだ。

松阪はただ牛だけの街ではなく、実にさまざまな都市空間が混在していて、非常に見応えのある街だった。
正直、こんなに面白い要素の詰まっている街だとは今まで知らなくって、お恥ずかしい限りである。
伊勢や鳥羽はすでに観光地として圧倒的な存在感を放っているが、松阪もすばらしい魅力を持っていると思う。
わかる人にはわかると思うので、街歩きに興味のある人はぜひ訪れてみてほしい。

松阪駅からは紀勢本線で終点の亀山まで行く。JRの快速なんかは紀勢本線ではなく、伊勢鉄道で名古屋へ行く。
これは伊勢鉄道がもともと、名古屋への短絡線として建設された国鉄伊勢線だった経緯によるものだろう。
松阪駅のホームでワンマンディーゼルな紀勢本線の車両を見て、そのローカルぶりに少し悲しい気分になってしまった。
地元の高校生らを中心に、ひなびた田畑の中を突っ切って走ること50分弱、亀山駅に到着した。

かつては2つ「亀山」という街があった。ひとつはこちら三重県(伊勢)の亀山で、もうひとつは京都府(丹波)の亀山。
混同を避けるために丹波亀山の方は「亀岡」と名前を変え、現在に至っている(→2011.10.2)。
まあ、伊勢亀山城は天守を堀尾忠晴によって間違えて壊された過去があるので、おあいこと言えばおあいこなのか。
(堀尾忠晴は丹波の亀山城天守の解体を命じられたのだが、間違って伊勢亀山城の天守を壊した。なんじゃそりゃ。)
現在の亀山は、なんといってもシャープのAQUOS「世界の亀山モデル」で有名だ。どこがすごいのかよくわからんが。
それ以外にも、ろうそく業界では圧倒的なシェアを誇るカメヤマローソクの工場もある。工業が盛んな街なのだ。

工場が多いんならそこそこ都会なんじゃないかと思って駅の改札を抜けたら、実に質素というか地味というか。
当初の僕の予想はまったくはずれ、駅前にはこれといったものが何もないのであった。これが「世界の亀山」なのか。
あんまり時間的に余裕がないので、とにかく亀山城址方面に向けて歩きだす。駅前ロータリーには鳥居があり、
そのまままっすぐ進んでいったら車道の陸橋。そしてその先には壁のような起伏が立ちはだかっている。
どうにかこれをよけるように右手にまわり込んで坂道を上っていく。坂は延々と続いている。
「亀山」という地名に偽りはなく、城跡に向かってしっかりと上りになっているのであった。

 亀山城址を目指す。いやー、これはなかなかの勾配だ。自転車だとイヤだな。

途中で東海道の宿場跡の脇を通る。いまだにいかにもな街道っぽさを残しているが、建物はそれほど古くない。
建物は替わっても変わることのない雰囲気は漂っている。それをもたらす原因は何なのか。僕にはまだわからない。
東海道を越えると今度は池である。亀山にはいろんな要素があるなあと思うのだが、商店街だけがない。
駅からここまで歩いてきて、城下町らしい商店街が見当たらない。郊外型店舗は駅からちょっと離れた場所にあったが、
なぜか旧来の商店街は見当たらないのである。池の先には市役所らしい建物が見える。ここは市の中心部のはずだが。

坂道を上りきると、そこは亀山城址の入口である。現在は多聞櫓が大規模修復工事中のようである。
上述のようにこちら伊勢の亀山城は丹波の亀山城と間違われて、天守が壊されてしまった。
この天守の代わりに築かれたのが多聞櫓なのだ。三重県では現存する唯一の中核的城郭建築だそうで、
見られなかったのはかなり残念である。まあ事前に下調べをしなかった自分が悪いからしょうがない。
亀山城址はまったくもってよくわからない形になっており、どこが本丸跡でどこが二の丸跡なのかつかめない。
多聞櫓が工事中であるため、じゃあどこをもって「亀山城に来たぜ!」という気分に浸るかというと、
それに適した場所がないのだ。なんとなく居場所のない気持ちになりつつ5分ほど散歩して終了。うーん。

  
L: 池越しに眺める亀山市役所。ここからきちんと市役所の匂いを感じ取れるとは、われながらなかなかのマニアっぷりだ。
C: 亀山城の多聞櫓。天守が壊されてしまったが、その天守台の上に新たに建てた。現在の修復工事は長引いてしまっている模様。
R: 亀山公園。二の丸跡は児童向けの遊具のほか、飛行機やSLなどが置かれている。そこそこ人が訪れるようだ。

亀山城址の入口からちょっと東へ行ったところに亀山市役所がある。
しかしこれがまあ、「世界の亀山」というフレーズからは想像もできないほどに小規模なのである。
これはもう、市役所ではなくって町役場のスケールである。駐車場も狭くて、どこかノスタルジックですらある。
亀山市の市制施行は1954年だが、ひょっとしたらその頃から使っているんじゃないの?ってくらいに古いのだ。
以前は新庁舎建設事業を進めていたようだが、現在は「一時凍結」ということになっている(事実上の白紙状態)。

  
L: 亀山市役所。右半分(北側)は増築もしくは改修したっぽい雰囲気。まあ、どのみち古い建物だ。
C: 駐車場の敷地ぎりぎりいっぱいより撮影。狭くてちっちゃいなあ。  R: 裏側にある西庁舎。これも古いねー。

亀山に来たからには、伝統的な木造建築がよく残っているという東海道の関宿にも行ってみたかったのだが、
今日はとにかく市役所をたくさん訪れるつもりでいたので残念ながらパス。いずれチャレンジしてみたいものだ。

帰りは一気に坂を下って亀山駅へ。ほぼ満員の関西本線は農村地帯を東へ進んでいく。目指すは四日市市だ。
三重県の県庁所在地は津市であり、5年前に訪れている(→2007.2.10)。しかし四日市の方が人口が多く(30万人)、
街としての規模は圧倒的に大きいのだ。四日市を訪れることなくして三重県を制覇した、とは言えまい。
というわけで今回、満を持しての四日市市上陸となったのである。その都会っぷりを体感してやろう、と。
しかし正直なところ、四日市は都会ではあるものの、特別これといって有名な観光資源はない。
さっきの亀山が非常に地味な感触で終わっただけに、ここで一発、四日市で挽回したいわけだ。
どうしたもんかなあ、と思っているうちに、田畑ばかりの風景は完全なる工業地域のそれに見事に切り替わる。
鶴見線やら何やら、工業専門の地域を走る路線はいろいろあるが、それは海沿いの埋立地だから当然だ。
しかし四日市の場合、川を越えてからずっと、工場がまとまった景色が続いている。まさに工業都市に入ったのだ。
四日市といえばまず社会科の教科書の「四日市ぜんそく」を想起するわけだけど(さすがに今はもうないよ!)、
それも当然か、と思えるほどに街が工場で埋め尽くされている感触がするのである。これは驚いたね。

伊勢鉄道とJRが合流するのはこの四日市。しかしホームはやたらと広いが、どこか閑散としている印象がする。
乗降客は決して少なくないのだが、それでもまだ、駅の規模の大きさに見合ってない感じがするのだ。
改札を抜けると「こにゅうどうレンタサイクル」という文字を発見。反射的に駅舎を出て左にまわって受付に行っていた。
これは一日で120円と、かなりリーズナブルである(電動自転車は240円)。手続きをしていたらどこから来たか訊かれ、
「東京です」と答えると「キューコーへ観光ですか」と言われた。「キューコー?」よくわからんので「はい」と返事。
どうやら四日市は「キューコー」なるものを観光資源としており、そこへレンタサイクルで行く客が多いようだ。
入口のところにパンフレットがあったので、それをもらって確認してみる。「四日市旧港」、これだ。
なるほど工業都市・四日市はかつて栄えた港を整備して観光資源としているわけだ。こりゃ、行ってみるしかないだろう。
ただ都会っぷりを味わうだけじゃ絶対につまらない。近代産業遺産をたっぷり堪能しちゃおうじゃないの。

  
L: JRの四日市駅。規模が大きく、かつて大いに栄えたことをうかがわせる。しかし現在はだいぶしぼんだ感じ。
C: JR四日市駅前にある稲葉三右衛門の像。私財を投じて四日市港を整備し、四日市発展の基礎を築いた人なのだ。
R: 中央通り(市役所付近からJRつまり東側を眺めたところ)。幅が70mということで、この道路は本当に広いわー。

とはいえ、まずは都会に出て腹ごしらえをしないともたないのだ。JR四日市駅から、近鉄の四日市駅方面へペダルをこぐ。
四日市市街の都市構造は、久留米(→2011.3.27)にわりと似たところがある。四日市の場合、中心を中央通りが走り、
その東端にJRの駅、西端に近鉄の駅がある。かつてはJR側に商店街が形成されて賑わいがあったのだが、
四日市は第二次大戦中に大規模な空襲に遭ったこともあり、戦後は近鉄の四日市駅が中心となっている。
(空襲から復興する際に近鉄四日市駅を現在地に移転させたのだ。そして幅70mの道路で国鉄四日市駅とつないだ。
 この道路・中央通りの両側を官公庁や銀行などを集めた商業地域とすることで、今のような構造になったのだ。)
もともと四日市はそれほど規模の大きくなかった伊勢神宮への宿場町・港町で、地震により港湾機能を失ってしまう。
そこで立ち上がったのが稲葉三右衛門。地元住民の反対もあったが私財を投じて四日市港(現在の旧港)を整備した。
これが明治政府の殖産興業政策、また幕府側についた桑名を弱体化させる狙いと合致したこともあり、四日市は一躍、
津と並ぶ三重県の中心都市へと発展することになる。実際、1872(明治5)年には県庁が津から四日市に移転してきて、
県名が四日市のある三重郡からとられて「三重県」となった(それ以前は津の旧名から「安濃津県」となっていた)。
翌年、県庁は津に戻るが、県の名は現在も三重県のままとなっている。なかなか複雑な経緯があったわけだ。

さてそんな四日市の市役所があるのは、JR・近鉄それぞれの駅のだいたい真ん中の辺り。1972年の竣工、11階建てだ。
なるほどさすが工業都市・四日市の市役所だ、と感心しながら見上げる。中央通りの幅は本当にたっぷりとられているが、
それでも四日市市役所をデジカメの視野に収めるには、反対側の歩道まで行かないといけない。
しかもそれでも広角で歪む。立派なもんだと思いつつ交差点まで移動して撮影するなど、いろいろ角度を変えて眺める。
まあ正直、ちょっと味気ないのだが、それもまた工業都市らしいかな、なんてことも考えてみる。

  
L: 正面から見上げる四日市市役所。さすがに規模が大きいが、建物の前のスペースは狭く、どこか殺風景だ。
C: 交差点越しに眺めてみる。角地のオープンスペースがまったく有効活用されていないのがもったいない。
R: 四日市市役所の側面。大通り沿いなのになんとも物足りない印象だが、実はこれには理由があったのだ……。

ところが後になって家で四日市市役所について調べてみたら、なんと現在はオープンスペースになっている角地に、
1994年まで旧庁舎が建っていたというのである。やけに無計画なオープンスペースだと思ったら、まあ。
そしてこの旧庁舎がかなり面白い。1931年築だというのだが、いかにもその時期らしいモダンな庁舎で、
これと現在の市庁舎が並んで建っている光景は、実に不思議だけどどこかしっくりいく取り合わせだったのだ。
きれいな写真を掲載しているサイトがあったので、リンクを張らせていただく(⇒こちら)。ぜひ確認してみてください。
現在の四日市市役所は、正面はともかく、側面がひどく物足りない。これは旧庁舎が解体されたせいだったのだ。
個人的には大牟田の市役所のことを思い出す(→2011.8.8)。あっちは炭鉱の街だから厳密には異なるが、
それでも産業で栄えた街という点では共通している。その往時の勢いを存分に漂わせる誇り高い市庁舎が建てられたが、
大牟田の場合にはそれが今でも残って近代産業遺産となっている。しかし四日市では記憶から消えてしまっている。
もし四日市が旧港を観光資源とみなしているなら、なぜ旧庁舎を残さなかったのか。これは完全なる大失敗である!

市役所の撮影を終えると、四日市の商店街をあちこち走りまわる。近鉄四日市駅の手前には、昔ながらのアーケード。
縦横無尽に屋根が架かっておりけっこうな面積があるのだが、駅から離れるとさすがに求心力は落ちてくる模様。
さらに駅へと近づいていくと、いかにも新しく整備したばかりという印象の、それほど大きくない商業施設がある。
周りを歩いているのは学生っぽい若者ばっかりで、なんだか少しアウェイな感触を覚えてしまった。
しかしそんな卑屈さも空腹には勝てず、2階にあるちょいとオシャレなトンカツ屋でカツ丼をいただいたのであった。

食べるものを食べて落ち着くと、あらためて駅の周辺、そしてアーケードの商店街をぐるぐる走ってみる。
今まで三重県内の各都市を歩きまわってみたが、四日市には別格の迫力がある。津よりもはっきりと賑わっている。
名古屋への適度な近さ、そして工業都市としての歴史が四日市の存在感を際立たせているのだ。
ある意味、名古屋というのは植民地的なネットワーク構造を持った都市なのかもしれないな、と思う(→2010.8.10)。
東には豊橋、北には岐阜、そして西に四日市という家臣を抱える王様、そういう存在なのかもしれないと思うのだ。
四日市は過去に住民を犠牲にして(公害のことね)、輝かしい未来(現在の地位)を手に入れたのかもしれない。
産業構造、そして都市構造が変化を強いられる中、四日市は今後どのようにふるまっていくのか。興味深い。

  
L: 中央通りを進んだ先にある終点・近鉄四日市駅。さすがに規模が半端じゃない。四日市の都会っぷりを見せつけられたぜ。
C: 近鉄四日市駅の手前にはアーケードの商店街が縦横無尽に広がっている。これは諏訪神社への参道となっている商店街。
R: 四日市のアーケード商店街の端っこに位置している諏訪神社。四日市の氏神で、今も厚く信仰されているのだ。

  
L: とっても大規模なアーケードの公園通り。でもその分だけ、人口密度が低くなってしまっている。
C: 四日市のシンボルとされる大入道の人形。首が伸び縮みする。「こにゅうどう」はこいつのディフォルメキャラだ。
R: 近鉄四日市駅の西側は再開発されて間がないのか、非常にきれいなのであった。若者もとっても多い。

ひととおり近鉄四日市駅周辺を走りまわって満足すると、いよいよ四日市旧港へ突撃なのだ。
旧港はJRの四日市駅からさらに東へ行ったところにある。中央通りをそのまま走るのは面白くないので、
市役所前で左に曲がって、中央通りよりも北にある通りを爆走して東へと突っ走る。一気に踏切を越えて旧港地区へ。

四日市旧港と一口に言ってもけっこう広い範囲にわたっており、確かに徒歩では探索が難しい距離がある。
まずはパンフレットの地図で、海に面する場所の中では最も北に位置する観光ポイント・稲葉翁記念公園へ。
この辺りには波止改築の記念碑と稲葉翁の記念碑があるが、なんといっても見ものは潮吹防波堤(潮吹き堤防)だ。
先ほども書いたように地震によって四日市の港は壊滅したが、稲葉三右衛門が私財を投じて再建工事を行う。
その際に桑名城の石垣を利用してつくられたのが、潮吹防波堤である。穴の開いた堤防によって波の力を弱める、
という大胆かつ柔軟な発想で、現在はその珍しさが評価されて重要文化財にも指定されている。
しかし桑名城の石垣を使用した背景には、幕府側についた桑名藩に対する明治政府の懲罰という意味合いがあり、
四日市港の整備を助けることで相対的に桑名の力を減殺しようという思惑があったのだ。なんとも難しいところだ。
現在「旧港」と呼ばれているこの港が完成したのは1884(明治17)年のことだが、暴風雨によって被害を受けたため、
1894(明治27)年に服部長七が潮吹防波堤を完成させたとのこと。明治になって四半世紀経つのに政府もしつこい。

 
L: 四日市旧港の潮吹防波堤(潮吹き堤防)。今はこの堤防の先も工業地帯となっている。
R: 潮吹防波堤をクローズアップしてみた。この穴から威力の弱まった波を吐き出させるわけだ。

さらに南には昭和になってから整備されたエリアがある。歩きだと少し距離があるのだが、自転車だと快適。
いかにも港湾らしい埋立地感覚満載の大雑把な広い道をぶっ飛ばして、旧四日市港管理組合庁舎を目指す。
この周辺にはまだ現役の施設がいくつかあるのだ。パンフレットを参考に、それらをまわってみるのである。

旧四日市港管理組合庁舎に到着すると、とりあえずデジカメを構える。可もなく不可もない印象のモダン庁舎だ。
それで距離を確認しながら後ろのフェンスまで後ずさったところで、なかなか衝撃的な看板を発見してしまった。
非常にうまいことを言っているのだが、セリフを発しているゆるキャラとそのセリフの内容に落差がありすぎて。

  
L: 旧四日市港管理組合庁舎。  C: ゆるキャラとセリフの落差が! うまいこと言っているんだけどなー。
R: 現役の跳ね橋・臨港橋。これは1991年完成の3代目。踏切みたいな遮断機があるのが面白いのだ。

この辺りはいかにもな港湾地帯になっていて、山国育ちで海に縁のない僕にはそれだけでいろいろ面白い。
フラフラと自転車で気になった方に行ってみる、そんなふうに優雅に過ごすのであった。
いかにもドラマや特撮ヒーローもののロケ地になりそうな港湾風景に、ひとり「おお」と声をあげるのであった。

  
L: これはいかにもだー。こないだ見た『ウルトラマン』(→2012.2.27)なんかに出てきそうな気がしてならないわ。
C: こっちは倉庫がちょっと凝っている感じ。  R: こういう怖い標識があるあたり、港湾ならではですなー。

さて、この周辺で最大の見どころといえるのが、末広橋梁である。可動橋として初の重要文化財となった橋なのだ。
1931年の竣工で、今もバリバリの現役。平日はいつも跳ね上げておいて、上を貨物列車が通るときだけ橋桁が下りる。
今日は日曜日なので橋桁が下りたままとなっているわけだ。なお、列車は一日5往復するそうだ。

  
L: 末広橋梁。貨物の線路はこんな感じでまっすぐ末広橋梁へと向かっているのだ。この線路じたいものんびりしていていい感じ。
C: 末広橋梁の全景を眺める。やっぱり現役ってのがいいなあ。  R: 列車が通る時間になると、係員が自転車で来るんだってさ。

末広橋梁へ至る線路の周りでは、春の日差しをたっぷり浴びて草が生い茂り花が咲き、実に穏やかな空気が流れている。
殺風景な港湾の風景の中で、歴史ある跳ね橋と春らしい空気は妙に調和していて、それだけで微笑ましく思えた。

すっかり満足した僕は、非常に交通量の多い国道23号を上機嫌で北上。今では国道23号はだいぶ海寄りの印象だが、
かつての四日市の賑わいはこれより海側の納屋町にあった(今も住宅多数)。江戸期には海沿いが栄えていたのだ。
しかし近代化が進むにつれて四日市の賑わいはどんどん西の陸側へと移り、戦後には諏訪神社周辺まで後退した。
四日市の歴史は、急激な工業開発と急激な市街地の移動の歴史なのである。ここまで極端な例は滅多にあるまい。

JR四日市駅に戻ってレンタサイクルを返却すると、電車に揺られて次の目的地へ。四日市のライバルとされた街・桑名だ。
桑名といえば「その手は桑名の焼き蛤」というフレーズがいまだに有名だが、じゃあどんな場所があるのかというと、
正直あまりこれといった名所が個人的には思い浮かばない。2004年に長島町や多度町と合併したので、
現在はナガシマスパーランドや多度大社をその領土に収めている。でも、桑名の中心部はというと、ピンとこない。
(小学生のとき、飯田市民にとってナガシマスパーランドはわりと人気があった記憶がある。でもウチは行かなかったなあ。)
というわけで、あまり期待をしないままに桑名駅の改札を抜けた。そしたら出口が出口になっていなくって驚いた。
2階の高さでそのまま通路が続いていて(ペデストリアンデッキと呼べる感じのしない通路)、 どこに行くのか不安になる。
そのうち左手に、きれいに整えられたロータリーが現れた。すぐ南にある三岐鉄道・西桑名駅との間につくられているのだ。
さらに西桑名駅前には大規模なバスターミナルがある。規模はそれなりだが道が狭くて建物が近い。いきなり独特である。

 桑名駅前。立派だが道は広くない。高度経済成長期以前のスケール感のままだ。

さっそく桑名市役所を撮影すべく、地図を見ながらさらに南へと歩いていく。
桑名駅前は旧来のスケール感を存分に残しており、商店も住宅もどこかくちゃっと狭苦しく集まっている印象がある。
全国各地で駅前が再開発されるようになって久しいが、桑名の駅前は昔ながらの街割りが維持されている感じがする。
昔ながらの感覚を維持したままでビルを建てている。この妙な密度の濃さからは、そういう雰囲気を感じるのである。

そんなわけで首を傾げつつ歩いていくと、そのすべてがぎゅっと集まった雰囲気の中から巨大な建物が現れた。
桑名市役所の裏手に出たのだ。建物じたいは立派な大きさなのだが、なにしろ周囲の道が狭い。
かなり窮屈な感覚を覚えつつ、まずは桑名市役所の背面を撮影。そのまま東へ歩いて正面へとまわったのだが、
桑名市役所はけっこう幅のある建物だった。これはデジカメにうまく収まらないぞ、と思いつつ正面に立つ。
いちおうカメラを構えるが、予想以上に建物が視野からはみ出すはみ出す。いや、今回は本当に苦労したわ。
桑名市役所は中央に時計塔がある今時珍しいタイプで、よく見るとその時計塔の左右で窓の位置にズレがある。
外見はパッと見ただけだと、周りの道幅のわりにデカくて撮りづらい庁舎という印象ぐらいしかないのだが、
どうやら中はスキップフロアを使用して組み立てている、ということか。裏手は裏手で二段構えになっている。
ホームページで各階の図を見てみると、東側(正面向かって右側)は議会専門となっているようだ。

  
L: 1973年竣工の桑名市役所。幅があって道が狭くて撮りづらい!  C: どうにか全体を収めようとするとこうなってしまう。
R: 裏手を眺めたところ。桑名市役所は外見と比べて、どうもけっこう複雑な構造になっているようだ。

とにかく撮影は終わった。あとは桑名城址である九華公園まで街歩きをしていくのだ。
まず、街をぶち抜くように大きな通り・国道1号に出た。周囲はなんとなく、津(→2007.2.10)に似ている印象がする。
津は駅からずっと南に商店街があったが、広く薄い感じで街が延びていて、そこを大きい道路・国道23号が走っていた。
そこに僕は「愛知・滋賀・奈良・和歌山といった各地域への通過点」としての三重県の特性を見たのだが、
桑名の街を南北に貫く国道1号を見ていると、その特性を感じさせた津にいるような錯覚をおぼえるのだ。

 国道1号は、なんだかすごく津っぽい。それが三重県らしさ、なのか?

それでも桑名の東西方向はやはり独特で、地図を片手になんとなく道を選んで東へと進んでいったのだが、
歩いても歩いてもぜんぜん進まない感じがする。さまざまなランドマークを確認しながら歩いたのだが、
地図で見た感じよりも桑名の街はずっと距離があるのだ。また、街には商店街がない感じがするのも独特だ。
代わりに住宅や一軒だけの個人商店が多くて、それが同じペースのまま、延々と続いている。

やがて目の覚めるような凝った建物が現れた。側面に「kml」と書いてある。隣は駐車場で、その奥にはアピタ。
ふつうデパートはここまで狭苦しい空間の中にいきなりつくられることはないはずだ。桑名の街は独特すぎる。
それは置いておいて、あらためてその「kml」に注目してみる。「kml」とは「くわなメディアライヴ」の略。
要するに市立中央図書館を中心とする複合施設だ。かっこつけて「知の情報メディア拠点」なんて表現がされている。
特徴的なのは、日本で初めてPFIによってつくられた図書館という点。そのためか、開館時間が21時までと長い。
建物の設計は佐藤総合計画で、2004年のオープン。桑名は伊勢神宮への参道の入口に位置する街であるためか、
鳥居をモチーフにデザインされたそうだ。1階にタリーズコーヒーが入っているところがなかなかかっこいい。

  
L: くわなメディアライヴ。ここをはじめ、桑名には凝った公共建築が本当に多いのだ。古いものも新しいものも独特だ。
C: 角度を変えて撮影。図書館建築の歴史ってのもかなり奥が深くて面白い研究対象になりそうだ、と思わされる。
R: 近所の桑名市民会館。設計は大建設計で1967年に竣工したが、大規模改修(一部増築)が2007年に完了して現在の姿に。

くわなメディアライヴからちょっと奥まった位置にある桑名市民会館も、ガラス面積を多くとった凝った建築だ。
さっきから書いているように、桑名の街は昔ながらの住宅が広がっている独特の様相を呈している。
だがそれだけではなく、点在している公共建築もどこか一癖あるものが多いのだ。観光客の足を止めさせる何かがある。
そう思ってさらに東へと歩いていったら、今度は明らかに大正期ぐらいの建築を発見。桑名は建築の街なのか。
これは1925(大正14)年築の桑名石取会館。四日市銀行桑名支店として建てられた。確かに典型的な銀行建築だ。
石取会館のある京町は当時、桑名町役場や複数の銀行が集まる桑名の経済の中心地だったという。
1991年に桑名市に寄贈され、現在は桑名石取祭の祭車行事を紹介する施設となっている。

  
L: 大胆なカーヴを描いている寺町通り商店街。その名のとおり、西側には城下町らしく寺が並んだ区域となっている。
C: 寺町通り商店街からすぐのところにある、旧桑名市役所の跡地。桑名駅は城下町のはずれに位置していたんだとあらためて実感。
R: 桑名市石取会館。非常にモダンですばらしい。銀行っぽい飾りをかなり簡略化して削ぎ落としていった野心作だな。

寺町通りから石取会館の脇を抜け、そのまままっすぐ行くと、その名も「歴史を語る公園」の端っこに出る。
桑名城の堀端を整備して公園にしているのだ。さらに直進していくと、今度はもっと規模の大きな堀に出た。桑名城址だ。
桑名城址は「九華公園」として整備されている。堀は九華公園において実に半分以上(6割)の面積を占めているという。
最後の桑名藩主・松平定敬の実兄は会津藩主の松平容保。桑名藩は幕府側についた結果、いろいろ不利益を被った。
明治政府軍が無血開城された桑名城に入る際、城を焼き払うことで降伏の証としたそうで、城らしい遺構は現存しない。
現在の九華公園は元桑名藩士・小沢圭次郎の設計によるもので、サクラの名所としてとても有名なんだそうだ。
この日はちょうど九華公園での「さくらまつり」がスタート。園内はいかにもお祭りらしく、出店がいっぱいに並んでいた。
堀をめぐるボートも出ているようで、園内は関係者でごった返していたのであった。観光客の姿よりもはるかに多かったな。

  
L: 九華公園(桑名城址)の様子。とにかく堀の印象が強い。堀の中に陸地が浮かぶように配置されているのだ。
C: 本丸跡は小さい子どもたちが遊んだり遊ばなかったりする広場となっている。反対側は松平定綱・定信を祀る鎮国守国神社。
R: 神戸(かんべ)櫓跡。鈴鹿市にあった神戸城の天守を移築して櫓としていたそうだ。現在はテーブルとベンチがあるのみ。

公園としては堀に浮かぶ陸地や咲くのを待っているサクラなど、面白い工夫がなされていると思うのだが、
城跡となるとかなり物足りない。それにやはりなんといっても、桑名を与えられた大名といったら本多忠勝だ。
その本多忠勝の痕跡が城内にはぜんぜんないのである。これはまったく予想外だったし、大いに不満である。
(真田びいきな僕は当然、本多忠勝びいきでもある。真田昌幸・信繁親子の命が助かったのは忠勝のおかげ。)

そんなわけで、九華公園を出ると桑名における本多忠勝の痕跡探しをしながら七里の渡し方面へと歩いていく。
運のいいことに、それは比較的簡単に見つかった。市民プール方面へと抜ける堀のたもとに堂々と腰を下ろしている。
鹿の角をかたどった兜でお馴染みのその姿に、なんだかうれしくなってしまった。でも忠勝的要素はそれだけだった。
桑名市民はもっと本多忠勝を前面に出してアピールすべきではないかと強く思う。扱いが不当に小さいよ。

そのまま揖斐川沿いに歩いていき、七里の渡しへ。揖斐川は九華公園の辺りで長良川と合流するのだ。
木曽川は最後まで合流しないで伊勢湾に注ぐが(その両者に挟まれた河口の端っこにあるのがナガシマスパーランド)、
これらの木曽三川が一気に集まっているのは、なかなか迫力がある。どれだけの水が集まっているのか想像もつかない。
堤防の上を歩いていると、遠くに長良川河口堰が見える。なんだかデザインが妙に近未来的な感じがする。

そうしてようやく「七里の渡し跡」にたどり着いた。東海道における唯一の海上路だそうで、船で4時間かけて渡ったという。
ゆえに往時には渡船場として大いに賑わったそうだが、今はただ鳥居のある小さな公園となっている一角があるのみ。
変に小ぎれいに整備されているせいもあって、もうかつての姿をまったく想像することができなくなってしまっている。
途方に暮れてしまったよ。周囲に旅籠跡と思われる料亭が何軒か残っていたけど、それくらいしかなかった。

  
L: 本多忠勝像。桑名において、彼の存在をはっきりと感じられたのはこの像だけだった。桑名はもっと忠勝アピールしろよ!
C: 揖斐川越しに眺める長良川河口堰。1994年に竣工したが、当時はこの堰の建設が大きなニュースになったなあ。
R: 七里の渡し跡。変にきれいにしてしまったせいで、かえって想像力の拠りどころがなくなってしまった感じ。

さて冒頭でも書いたように、今日はこの後、リョーシさんと名古屋で落ち合う予定になっているのである。
桑名が思いのほか面積の広い街だったため、当初の予定よりも若干遅れての合流となりそうだ。
少し急いで桑名駅まで戻る。桑名まで来れば名古屋へ向かう電車の本数はそれなりにあるので安心だ。
そう思ってロータリーの向かいにある再開発ビルの中を通って桑名駅へ行こうとしたところ、
今頃になって観光案内所を発見。どれどれ、と思ってパンフレットを手に取って、愕然とする。
ジョサイア=コンドルが設計したという六華苑の存在を、完全にスルーしていた!!
思わずその場で膝から崩れ落ちてしまったわ。なんたる不覚。せっかく桑名まで来ておきながら……。
こうなったら、いずれまた桑名へリヴェンジに訪れなければなるまい。I shall return! なのである。
I shall return by Yoro Railway(養老鉄道). って、シャレにならんなあ……。
そんなわけでかなり気落ちした状態で桑名駅へ。売店でリョーシさん用のお土産として赤福を買っておく。

桑名から名古屋まではすぐなんだけど、僕はその間、ずっと桑名という街の特徴について考えていた。
とにかく桑名は、独特な都市構造を持っている街だ。城下町として栄えた過去がまずあって、
それをベースにした生活感が今もあまり縮小することなく続いている。これは現代ではなかなか珍しい。
あくまで個人的な予想だが、それは四日市のところで書いたような、明治政府によって抑圧された背景が関係すると思う。
桑名は故意に成長を阻まれたが、それが全国的な中心市街地衰退の波への抵抗力へとつながったと思うのだ。
ほどほどにやっていく。そういう感覚に桑名の街全体が包まれている。でも公共建築などで十分に意地は見せている。
一方でまた、観光で食っていく意欲の薄さも感じる。桑名は三重県で伊勢市に次いで2番目に観光客が多いそうだが、
正直「どこが!?」って印象である。それは長島町・多度町との合併によって得られた結果にしか思えないのだ。
桑名の中心市街地は、住民の生活感にはあふれているが、観光客を呼び込むような魅力ある要素には欠けている。
九華公園もそこまでフォトジェニックな場所ではないし、七里の渡しなんてひどいものだ。どちらも訪れる必然性はない。
何より観光案内所がどこにあるかわからないうえに、パンフレットが置いてある程度の非常に貧弱な設備しかない点が、
桑名の観光に対する消極性を如実に示している。客を呼び込むべく魅力を再発見しようというやる気を感じさせない。
もし桑名が観光について本腰を入れているならば、本多忠勝という存在をクローズアップしないはずがあるまい。
街に漂う自己完結的な誇りと、(四日市を意識するにせよしないにせよ)あきらめにも似た奇妙な安定感と、
桑名は非常に独特な雰囲気のある街である。ポテンシャルは高いのにひねくれている街、とでも形容できようか。

名古屋駅に到着すると、リョーシさんと無事に合流。さっそくお土産の赤福を渡すと、そこはさすが僕の友人、
伊勢神宮に公式参拝していたリョーシさんも僕へのお土産として赤福を買っていたのであった。なんという阿吽の呼吸。
まあ付き合いが長いので、お互いの手の内はもうわかりきっているのである。わかったうえで、それを楽しむ。オトナなのだ。

あれこれ悩むのが面倒くさかったので、そのまま名古屋駅の駅ビルツインタワー内にあるイタリアンレストランに入ってメシ。
周囲のオシャレ軍と見えない戦いを繰り広げつつ、ピザやらパスタやらをいただきながらあれこれ話をするのであった。
僕の中でリョーシさんはかなり近い価値観を持った友人であると同時に、この日記のいわば顧問弁護士でもあるわけで、
ログが社会的に問題のない内容なのかコメントをもらうなどするのであった。ありがたいことです、はい。

しばらくダベって過ごしていたのだが、頃合いを見計らってエスカに移動。やはり名古屋といえば地下街なのだ。
特に名古屋の地下街でもエスカは、店が充実しているしそれほど混み合ってもいないし、利便性が非常に高い。
で、名古屋ということで、コメダ珈琲店にチャレンジしてみる。コメダといったら名古屋型のサービスを売りに大増殖中で、
前にモゲメンバーで飯田のコメダに入ろうとしたことがあったのだが、あまりに混んでいて入れなかった(→2009.8.15)。
やはりエスカでも店内は満員だったのだが、少し待ったらどうにか入れたのでよかったよかった。コメダ初挑戦なのだ。

リョーシさんはクリームオーレ、僕は基本のアイスコーヒーとコメダの名物であるというシロノワールをいただく。
メニューに書いてあるとおり、アイスコーヒーは甘くした状態で出てくる。飲みやすいけど、甘いのが標準というあたり、
やはり名古屋文化だなあと思う(「マウンテン」の各種メニューはその最たるものだと言えよう →2006.8.15)。
「名古屋力」とでも呼べばいいのか、なんでも名古屋スタイルに消化してしまう力は半端ないのである。
そしてなんといってもシロノワールである。あったかいデニッシュの上に冷たいソフトクリーム。なんだこの矛盾。
当然、ソフトクリームはどんどん融けていくので、急いで食べていかないと悲惨なことになってしまうわけだが、
ソフトクリームってのは表面は融けやすいけど中はわりと硬いままなのである。きれいに割れなくって困った。
おまけにデニッシュの表面はすべるし。食べるのに、けっこう大変な目に遭いましたぞ。正しい食い方がわからん。

 
L: クリームオーレの迫力に少々圧倒され気味のリョーシさん。これはなんというか……、名古屋だねえ。
R: コメダ名物・シロノワール。見てのとおり、独創的だが非常に名古屋的な組み合わせのデザートである。

僕はミルクセーキが大好物なので、メニューで発見してかなり気になったのだが、まあどうせ名古屋クオリティなので、
ベッタベタに甘いんだろうな、と判断して今回はパス。まあいずれ挑戦してみたいとは思っているけどね。
まあそんな感じで名古屋文化の強烈な力に圧倒されつつ、近況をダベったり旅行の写真を見せあったりして過ごしたよ。
リョーシさんは変わらず元気そうで何よりでした。近いうちにまた一緒にどっかへ行きましょう。

新幹線で岡山へ帰るリョーシさんをコメダで見送ると、その後もエスカのマックでMacBookAirを引っぱり出し、
閉店時間まで日記をバリバリ書いて過ごす。で、改札を抜けて名古屋駅のホームへ移動。しばらくボケッとして過ごす。
やがてムーンライトながらがやってきた。指定された席に着くと、すぐに寝る。中身の濃すぎる2日間だった。

あ、ホームページでエイプリルフールで何かをやるヒマなんてとてもなかったので、今年は何もなしです。あしからず。


diary 2012.3.

diary 2012

index