diary 2013.1.

diary 2013.2.


2013.1.31 (Thu.)

あっという間に1年の1/12が終わろうとしているよ! 時間の流れが速すぎてかなわん。

ここ最近は生活スタイルがかなり安定、悪く言えば硬直化ってことになるんだけど、まあとにかくかっちりしている。
部活が終わってから日記書いて晩メシ食って大量のゲームミュージックCDをMP3化してニュース見て寝る。
昼間の仕事も、3学期に入ってどの学年も演習中心になっているので、膨大な量のプリントを管理しつつ進めていく。
ルーティンというと退屈なイメージがあるのだが、ゆっくりながらも確実に結果が残っているルーティンなので、
それほど悪い感触はしていない、そんな生活である。ゲームミュージックもじっくり聴いていると新たな発見があるし、
日記を書いていても体験を通して賢くなっている(言語化できる経験を蓄積している実感がある)のがわかるし、
まあ、落ち着いて生活できていることは喜ぶべきことなんじゃないかと思っている。今のところはそんな状態である。

これが新年度以降、何がどうなるかまったく読めないのが怖い。今の状態が嵐の前の静けさ、そう思えなくもないのだ。
穏やかさは素直に受け止めつつも、来るべきものに備えておかなければならない。つねに気を抜かずにいたいものだ。


2013.1.30 (Wed.)

今年も文化祭の作品展に向けて「全校テーマ」をやらされるのであった。そして僕は実行委員から逃げまわるのであった。
3年生の実行委員男子はなぜかふたりともサッカー部で、「先生お願いしますよう」とわざわざ下手に出て攻めてきやがる。
僕は往生際が悪いので、女子の委員のひとりが僕に対して最近いろいろと冷たいことを理由に強権発動して逃げまわる。
「出してないのは先生だけだよ!」「うるせー、教師に対する態度がなってねえ!」そんな具合でもうメチャクチャ。
で、結局しょうがないので暇をみて作業に取りかかる。今年のテーマは「『絆』がなんちゃら」ってことなので、テキトーに。

 いつもの丸っこいタッチに飽きたので、トゲトゲさせたらそれなりにいい感じになった。

すいません、『GIANT KILLING』の最新巻から構図をパクりました。でも完璧に似せられるほど上手くないので許して。
最後まで逃げた挙げ句、周囲から浮く絵を出してくるという毎年恒例のパターンである(→2011.1.202012.1.19)。
全校テーマは、僕としては今や一年にたった一度、真剣に絵を描く機会なのだ。だから手を抜くことができない。
でも手を抜かないのは面倒くさい。だから往生際悪く逃げている。そして今年も思うのだ。成長せんなあ、と。


2013.1.29 (Tue.)

寝違えて首が痛えー! 寝違えるのなんて何年ぶりだかわからないんだけど、かなりひどくひねってしまっている。
ちょっと体をひねるごとにいちいち痛みが出てくるので、とってもつらいのであった。いや、これはまいった。

ところでベルギーリーグに移籍したFW永井の入団会見なんだけど、チームメートになったGK川島が通訳を務めたそうで。
ほかに日本語ができる人がいなかったから、ってのが真相らしいが、これは最高のファンサーヴィスだな!と思うのだ。
川島の天才的な語学力は有名で、ファンも通訳ができるとわかっているわけで、それを本当にやっちゃうのが面白い。
現地の記者からはその点について厳しい質問もあったようだが、日本のファンにはすごく安心感のある構図だった。
なんというか、非常にアットホームな雰囲気が感じられるじゃないか。ファンサーヴィスとして、大いに喜べた。


2013.1.28 (Mon.)

3年生の都立高校推薦入試の日なのであった。おかげで授業がなかったので、久々に余裕たっぷりに過ごせた。
やらなくちゃいけない事務仕事をしたり、ゆったりとネットを使って授業のネタになるものを探してみたり。
今日は有効に時間を使って仕事ができたなー!という手応えがあったのがうれしかった。ふだんは授業準備ばかりで、
しっかりと考えてプランを練ることが思うようにできない。これでは仕事の充実感もあんまり得られないのだ。
でも今日はその点、十分すぎるほどに満足ができた。定期的にこういう日が欲しいものである。

さて、ついに推薦入試まで来たということで、今年度ももう終わろうとしているんだなあ……としみじみ実感している。
歳をとると一年の経過がどんどん早くなるというけど、本当にあっという間だったなあ、と心底呆れているしだい。
あともうわずかで3年生は卒業し、何ごともなかったかのように在校生は進級し、新入生がやってきてまた忙しくなる。
前回、その当たり前のサイクルが更新したのが、ついこないだのことにしか思えない。でも確かに一年経とうとしている。
ボケッとしているとどんどん歳をとってしまう。実に危険である。シャキッとせんといかん!と思うのであった。


2013.1.27 (Sun.)

本日はサッカーの冬季大会、グループリーグの最終戦である。先週の試合で不戦勝となったため(→2013.1.20)、
この試合に勝った方が決勝トーナメントに進出するのだ。初めての快挙が達成できるかどうか、正念場なのだ。

ところが中学生ってのは実にひ弱な生き物で、肝心の試合の日になって体調を崩すやつが2人出てしまった。
ウチの部員は現在、12人。2人休んだので……ハイ、最初っから1人足りない状況でやるしかなくなりましたー。
まあこれはウチの学校に限った話じゃなくって、ほかの学校でも同様の事態は発生していたけどね。
しかしまあ、だからって、試合に出られるように体調管理をきちんとしておくことができないってのは情けない。

先週の日記でも書いたけど、相手チームは強くはないので、やるべきことをきちんとやれば、10人でも勝てる。
ただ、ちょっとでも後手にまわったらやられる。そこのところを再確認して生徒たちをピッチに送り出す。
ひとりが1.1倍の力を出すだけでいい、とにかく走ることをサボらないようにして0.1人分多く動け。
相手チームは全体としてはまだまだでも、個人で能力がそれなりにある選手はいるので、そこで負けないこと。
そのうえで10人だけだけど組織力で上回って戦いなさい、と言っておいたのだが、序盤は完全に互角の戦いぶり。
前半のうちにこっちが先制して主導権を握ったかな、と思ったところですぐ反撃に遭ってしまう。
そして、こちらのGKがスリップしたところを押し込まれて同点に追いつかれる。1-1でハーフタイム。
ふりだしに戻っただけなので落ち着いていけ、と指示をして後半に入るが、集中していなかったところを衝かれ、
なんと逆転を許してしまった。盛り上がる相手の保護者の皆さんたち。追いつけないとは思っちゃいないが、
「いい試合」を演じてしまっている今の状況に腹が立つ。お前らもっとやれるのに何をしているんだ、と呆れてしまう。
カンフル剤ってことで、私立高校に合格済みで応援に来た3年生とポジション変更のプランについて話し合っていたら、
こっちの3バックのひとりがスルスルと上がってミドルを決めた。いいタイミングでこっちの流れになってきた。
で、その3年生の助言を受けて体の強いセンターバックを前に出し、パスに精彩を欠く左サイドMFと入れ替える。
するとこれが上手くハマって、中盤から前に起点がつくれるようになり、いつもの押し込むサッカーになってきた。
そうなると、さらに積極的にサイドを深くえぐるように指示を出す。そしたらどんどん相手は追い込まれていった。

結果、ウチのエースがハットトリックを決める活躍で4-2で快勝。いちおう、地力の差で押し切った格好になった。
ただ、どっからどう見ても成長度合いは相手チームの方が上で、正直、こっちの停滞ぶりが目についた試合だった。
運よく采配がハマって10人で勝つには勝ったけど、危機感の方が大きい。当事者たちはそれをわかっているのかなー。


2013.1.26 (Sat.)

天気がよかったので、朝からいい気分で日記を書き、昼前に家に戻って台所の片付けをする。
やはり土曜授業がないと余裕があっていい。台所を掃除すると、いよいよユニットシェルフ計画の仕上げにかかる。
まったく使っていなかった台所用品をすべてゴミとして処理し、代わりに組み立てたシェルフを入れたのだ。
ユニットシェルフにはキャスターがついており、動かすことでキッチンまわりのスペースを有効活用できる。
また、シェルフの面が平らなので物を置きっぱなしにしてしまうことが少なくなる。こまめに掃除する気になれる。
というわけで、必要のないものがなくなったので劇的にすっきりした。もっと早く取り組むべきだったとあらためて反省。
これで購入予定のユニットシェルフはすべてそろったので、後は整理しながら物を減らすことに専念するのみである。
物の堆積とはつまり時間の重みの堆積であるので、まだまだ手強い。でも環境づくりはこれですべて整った。
地道にコツコツと今後も整理を続けていくのだ。うーん、これでもう言い訳できなくなっちゃったな。


2013.1.25 (Fri.)

アルジェリアの人質事件とマスコミの対応がまったくよくわからない。何から何まで、よくわからないのだ。
たとえば、テレビ東京とNHK教育の以外すべての局が、生存者と遺体を乗せた政府専用機の到着を生中継していた。
このことに、ほぼすべてのテレビ局が思考を停止してただ眺めているだけであることに、僕は恐ろしさを感じた。
いったいこの時間は何なんだろう? マスコミはこの事実をリアルタイムで報じることに、どんな意味を持たせているんだろう?

今回のこのあまりにも痛ましい事件に関しては、ただただ哀悼の意を表明するよりほかにない。
単なる企業としての利益だけでなく、日本が海外で尊敬される国であろうとする志の高さを持って仕事をしていた、
そんな一般の人々が、わがまま勝手な論理による暴力の犠牲になってしまった。そのことに、怒りしか湧いてこない。

しかし、マスコミの対応には疑問ばかりが残る。実名報道についてはどうでもよくって、それは家族の意向に沿えばいいだけ。
問題は、事件の全容を伝えようとすることよりも、日本人の安否の情報を伝えることのみに終始していた点である。
もちろん日本人の安否が重要な情報であることは間違いないが、それと同時に、まずは現場の状況を知らせるべきだ。
必要なのは、襲撃前の状況である。どんな人々がどれだけ働いている場所だったのか。そこをきちんと報じてからでないと、
襲撃後の情報の意味がなくなる。われわれ受け手は与えられた情報からさまざまな判断をすることになるのだが、
前提条件となる情報がまったくないまま、二転三転する日本人の被害だけが突きつけられる。報道が完全に無意味だ。

今回の事件では日本人が狙われ、実際に国籍別では日本人が最も多く犠牲者を出している。実におぞましい現実だ。
そこだけヒステリックに取り出して論じることをする以前に、日本人以外の状況をきちんと報じるべきではないのか。
襲撃前の現場で日本人がやっていた仕事と、日本人以外がやっていた仕事と、そこを客観的に伝えること。
その部分を完全にすっ飛ばして、ただ日本人の被害だけを報じている。もともとアルジェリア軍による情報統制により、
事件の進行がきわめて見えづらいのは承知の上だ。でも、日本人のみに焦点を当てる姿勢によって、
すべてが非常に見えづらいものとなってしまっている。これは日本人が10人亡くなった悲しい事件です、
そんなふうに短絡的にまとめてしまっていいものではないのだ。マスコミが、完全に思考停止していると僕は考える。
マスコミの思考停止につられて、われわれまでもが思考停止してしまうことは避けなければならない。

今回の事件に対するマスコミの対応・姿勢は、あまりにも幼稚というか低レヴェルというか短絡的というか、
とにかく問題がありすぎて適切な表現が出てこない。物ごとの真相を掘り下げる真剣な意志もないままに、
限られた情報をただ投げつけるだけ。マスコミの質の低下が指摘されているが、今回はあまりにも、あまりにもひどすぎる。


2013.1.24 (Thu.)

ちょっとだけだが、確実に、この世界を良いものへと変える方法を教えよう。

それは、サイレンを鳴らして走っている救急車を見かけたら、エールを送ることだ。
とは言っても実際に声に出すのはなかなか恥ずかしいから、心の中でそっとつぶやくだけでいい。
でも、できれば、小さな声で、救急隊員と患者に向けて「がんばれー」と言ってほしい。

救急車が走っていく先、みんながみんなエールを送っていれば、それは少しでも良い世界だと言えるんじゃないか。


2013.1.23 (Wed.)

本日の放課後、ようやくグラウンドでサッカーができるようになった。昨日の雨で街に残る雪がようやくあらかた融けて、
グラウンドに残っていた雪や氷も姿を消したのだ。そして現れたのは、予想外に凸凹ができた地面。かなりひどい状態だ。
それでも、当たり前のようにグラウンドが使えることの喜びといったらない。生徒ははしゃいでボールを蹴っている。
今回の雪の被害を受けたのはウチだけではないのだが、それにしても本当に、とことん迷惑な雪だった。
雪が降ること自体は、たまにだったら別にいいんだけど、しつこく残られると困る。もう今年は降るなよー。


2013.1.22 (Tue.)

発端は、PS2でCDを再生すると音飛びするようになってしまったこと。昨年末からそんな状態で、実に困っていたのだ。
せっかく『GRADIUS ULTIMATE COLLECTION』(→2012.12.5)を買っちゃってウホウホ大喜びをして、
さらに『KONAMI SHOOTING COLLECTION』(→2013.1.16)まで買っちゃってウヒウヒ転げ回っていたのだが、
肝心のMP3化ができなくって悶絶していたのである。合計CD18枚分の音源、どないすりゃええねん!と。

最初は単純に、安いCDプレーヤーをテキトーに買ってくりゃいいや、と考えていたのだが、甘かった……。
著作権に厳しくなったのとオーディオプレーヤーが発達したのとで、近年はデジタル出力できるモデルが激減しているのだ。
それでもよけいな機能はいらないので、1万円ちょっとでどうにかデジタル出力のあるプレーヤーを買ったのはいいが、
そしたら今度はそのデジタル出力が同軸(コアキシャル)ケーブル対応ってことで、光デジタル出力ではなかった。
(だからって光デジタル出力のあるやつにすると値段が4倍くらいになってしまうので、これはしょうがないのだが……。)
しょうがないから光と同軸の両方に対応したコンバーターを買ってみたら、データが第2世代に当たるという判定で、
パソコンのハードディスクに録音できねえんでやんの。まあ、もったいないから大切にとっておくけどさ。がっくり。
できるだけお安く抑えたいわけで、次にとった手段が、新しいDAW用の機械を購入するという荒技なのであった。
今まで使ってきたUA-25EX(→2010.1.162010.1.17)は、それはそれとしてSC-D70の隣に保管しておいて、
その後継機にあたるUA-55(QUAD CAPTURE)を購入。ネット上での評判が大変いいので思いきって決断したのだ。
(世間では光デジタルよりも同軸の方が主流になっており、光デジタルのみ対応のUA-25EXはすでに生産終了。
 今後のことを考えると、僕が買いそろえてきたものはどれもズバリ正解と言えるみたいだ。ニンともカンとも。)
で、いざつないでみたら、バスパワーUSBで電源をとっている関係で、ノートパソコンだとプチプチ雑音がする。
またまたしょうがないので、近所の電器屋でAC電源のついているUSBハブを買ってきて解決させた。
しかしまだ問題があって、CDで再生する曲を進めたり戻したりすると、そのたびにQUAD CAPTUREから雑音が発生する。
(いちいちブチッと音がして、その後に曲がフェードインする。まるで電源を入れた直後のような挙動をするのだ。)
CDプレーヤーに問題があるのか、QUAD CAPTUREに問題があるのか。面倒くさいが理系の論理的思考をここで発揮。
対照実験ということで、さっきのデジタルコンバーターを引っぱり出し、PS2の光出力からつないで同軸で出す。
これでもQUAD CAPTUREから雑音が出るのなら、CDプレーヤーではなくQUAD CAPTURE側の問題となる。
やってみたら雑音が出た。どうも同軸のデジタル信号にQUAD CAPTUREがバカ丁寧に反応するのが原因のようだ。
(これでデジタルコンバーターも無駄ではないことになった。きっとまたいつか再び活躍する日が来るだろう……。)
それで問い合わせてみたところ、やはりこれはCD出力側との相性の問題ということでまとめられる事実が判明。
解決できるかどうかは機材しだいらしいのだが、それをひとつひとつ確かめていくのは無理な話。こりゃしょうがない。
そもそも世間では、パソコンでCDを直接インポートしてデジタルデータを扱うやり方が一般化しているみたいだ。
でもこれだと1ファイル=1トラックごとでの作業となってしまうため、曲をまたいだ編集が面倒くさくなってしまう。
こうなったらもう、こっちの工夫でカヴァーするしかない。曲を変えるときはその1個前の曲の途中から録音すればいい。
不便なときには頭を使う。人類はそうやって進歩してきたのじゃ。少しくらい不便じゃないと考える楽しみもないのだ。

……というわけで、問題は全面的に解決したわけではないのだが、知恵を絞りつつあちこち走りまわった結果、
どうにかMP3化じたいは従来どおりにできる見込みは立った。想定していた予算の範囲で成果を出せたので、
十分に満足はしている。しかしこの1ヶ月近く、こんなに頭を使って過ごすことになるとは思わなかった。
こういうことでドタバタするのは正直、面白いんだけどね、ここまで問題の連続だとつらい。本当に疲れた。
ま、この新しいシステムでいい曲をたくさん聴いて、疲れをしっかり癒してもらうことにしましょうか。


2013.1.21 (Mon.)

月曜日は朝練の日なのだが、まだまだ日当りの悪いゴール前に氷となった雪が残っている。
とてもまだサッカーができる状況ではないので、朝練がわりに部員みんなで氷を除去する作業をした。
しかし氷はがっちり固まっており、シャベルで叩いてもなかなか割れない。どうにもならない。
試行錯誤の末、バケツで水を運んでいき、氷の上に撒いてしみ込んだところをかち割っていく方法に落ち着いた。
この方法だと氷が泥と混じってしまい、外見上どっちの塊かわからなくなってしまうのだが、しょうがない。
泥ごと一緒に撤去して、とにかくグラウンドの表面を出すことに専念する。朝から本当に疲れた。

夕方も引き続き、グラウンドの氷を割る作業をやる。気温が低いので氷の面積がぜんぜん小さくなっていない。
朝と同じように氷を割っては泥ごと撤去していくのだが、なんとなく「シベリア抑留ってこういう気分か」と思う。
いや、あっちは命がけでまったくシャレにならない状況だったのは当然わかっているのだが、救いのない感じ、
終わりの見えない感じが重なったような気がしたのだ。僕の勝手な解釈なのだが、ふとそう思ってしまった。

しかし、大雪から1週間経ってこの状態とは……。温暖化がまだひどくなかった僕の小学校時代を思い出してみるが、
やはり雪がそのまま1週間以上残るという事態は思い浮かばない。降ったけど、その分だけ融けた気がするのだが。
そんな具合に首を傾げている僕の横で、サッカー部の部員どもは文句ひとつ言わずに作業に没頭している。
サボるどころかしゃべるどころか、ふだんの練習以上の熱心さで、地道な作業を黙々とこなしているのである。
いや確かに、こういうところで真剣に取り組める姿勢ってのは、性根のレヴェルがちゃんとしているってことだけど、
それにしてもここまでストイックにできるとは。僕は面白い生徒たちを相手にしているなあ、と思うのであった。


2013.1.20 (Sun.)

本日はサッカーの冬季大会、グループリーグ第1戦である。われわれは第1試合を強いチームと戦うのだ。
いざ気合を入れて会場入りし、手続きを済ませ、チェックも済ませて選手が入場したのはいいが、ここでストップ。
詳しいことは書かないでおくが、ある事情によってまさかの不戦勝となってしまったのであった。……えー!?
まったく想像していなかった展開に、僕も部員も応援に来てくれた保護者の皆さんも大いに拍子抜け。
試合は不戦勝でも細かい処遇を確認するのに手間取って、その後の予定が一切見えない状況にしばし置かれる。
結局、なくなった試合はおまけつきの練習試合という形で実現したのだが、決定まで二転三転して本当に疲れた。
もちろん生徒たちもテンションの上げ下げを強いられて、いつもよりよけいに疲れていた。とにかくまいったわ。

で、その練習試合なのだが、今日試合する予定だった強いチームと、来週公式戦をやる弱いチームと2試合やった。
そしたら見事に、強いチーム相手には弱気なプレーを連発してボコボコにされてしまい(CKだけで4失点だぜ?)、
弱いチーム相手にはガンガン攻めて3-1で勝利する。相手によってあまりにも積極性やプレーぶりが違っていて、
その落差に顧問ながら本当に驚いてしまった。いやもう、心の底から呆れてしまったよ。

試合が終わった後、顧問として当然、雷を落とす。「お前たちの姿勢は非常に卑屈だ!」と。
相手が弱ければ調子に乗るくせに、相手が強いとあきらめて言い訳を探す。プレー以前の問題を抱えているのだ。
「そんな卑屈な根性で、相手に対してもサッカーって競技に対しても失礼じゃないのか!」とブチ切れてしまった。
ドゥンガな僕は、ウチのサッカー部は伝統的にメンタルが弱ぇ弱ぇといつも嘆いているのだが(→2012.4.15)、
この日はその怒りが頂点に達した感じ。何をどうすりゃ、こういうしょうもない意識を改革できるのやら……。


2013.1.19 (Sat.)

今日は土曜日。5日前に降ってグラウンドに積もった雪が(→2013.1.142013.1.15)、まだ融けない!
厳密に言うと半分くらいは融けているんだけど、日当りの悪い部分が永久凍土になりかけとる勢いなのだ。
東京は最近ずっと寒い日が続いているせいで、まったく融ける気配がない。白い屋根の家々もまだまだ多い。

明日からサッカーの冬季大会が始まるのだが、グラウンドが使えないまま突入することになってしまった。
あまりにも雪の融ける気配がなかったので、近所の小学校にお願いをして、体育館を使わせてもらうことにした。
そう、開き直ってフットサルをやって明日の試合に備えようというわけである。ボールは3年前に買った私物がある。

午前中は土曜授業で、メシを食って午後になったら校門に集合し、みんなで小学校にお邪魔する。
そうして体育館に入ると、まずはゴールを借りて組み立てる。この組み立て作業に部員たちは大いに手間取り、
結局30分ほどかかってしまった。僕はこの手の組み立て作業についてはエキスパートでございますので、
もうそれだけでイライラ。ふだんからちゃんとモノをつくる習慣がないってのはイカン!と憤るのであった。

いざ練習が始まると、ふだんのメニューにアレンジを加えて対応。勝手は違うが、それはそれで新鮮だ。
最後の1時間はミニゲーム。体育館には微妙に砂ぼこりがあったせいで、これが滑る滑る。思いどおりに止まれない。
みんなかなり苦労しながらプレーしていたが、慣れてくるとそれも込みでプレーができるようになっていく。
そしていろんな発見があった。体育館ではグラウンドよりも球足が速くなるので、パスの種類に工夫が必要になる。
また、いつも以上に正確にボールを止めて蹴る技術が要求されるため、やはり足下の技術が高い方が有利になる。
やっているとフットサルについては素人なわれわれでも、動きがどんどんフットサルっぽくなっていくのが面白い。
確かにゲーム自体はサッカーとは違う要素が強いのだが、サッカーでも優位に立てる技術がしっかり磨かれる。
特にフットサルはプレースピードが速いので、判断の速さや咄嗟のボールコントロールを高めるいい訓練になる。
これは大いにアリだ、と勉強になるのであった。今回は偶然だけど、機会をみてまたやってみてもよさそうだ。


2013.1.18 (Fri.)

本日は1年生たちの百人一首大会が行われたのであった。狭い学校なので会場はクソ寒い体育館。
しょうがないので僕はサッカー用のベンチコートを着込んでお仕事をする。とはいっても授業が目一杯あるので、
大会運営の方にはそれほど深く関われなかったのだが。しょうがないとはいえ、ちょっと切ない。

何度か授業で練習をしてから本番を迎えたのだが、今年の1年生たちは百人一首にまったく慣れ親しんでおらず、
ほとんどゼロに近いスタートだった。しかし本番までにかなり勉強をしてきた生徒が多く、なかなかの熱戦となった。
こういうところで意欲的にできるってのは非常にいいことだ。教員たちも大満足で大会は終わった。

しかしながら、中学生だった当時に比べ、自分の百人一首の腕前が恐ろしく衰えていることも自覚させられた感じ。
かつてはいちおう男子のエースだったのだが(→2005.2.26)、今はもう、記憶の中の上の句と下の句がうまくつながらない。
一人暮らしだし、帰省して麻雀はやっても百人一首はもうやらないしで、百人一首に接する機会が皆無なのだ。
「さすがにこれはマズいぞ……」と戦慄を覚えるレヴェルだったので、地道に復習していこうかと思う。やばいです。


2013.1.17 (Thu.)

今のところ、処理がまだ終わっていない最も古い過去ログは、昨年8月分である。
どうにかしてコイツを終わらせて、勢いに乗って9月、10月、11月と過去ログを書き上げていってしまいたいのだが、
8月分のまあ手間のかかることかかること。いちおうコツコツと進めてはいるんだけど、ぜんぜん終わりが見えない。
というのも、「教員免許更新講習2日分」と「北海道の都市の総括」という、とんでもない難関だからである。

教員免許更新講習は手元にあるレジュメをもとにまとめていけばいいんだけど、なんせ分量が凄まじく多いので大変。
内容も僕がふだん意識することのないキリスト教の価値観をたっぷり反映しているので、よけいにエネルギーが必要だ。
建築史についての部分なんか、メモした絵を加工しながらやっているので、さらによけいな手間がかかっているのだ。
とにかくいつも以上に進度が遅くて困っている。でもこれは地道に積み上げていくしかないので、どうしょうもない。

北海道の都市の総括も、実際にやってみるとものすごく大変。単に各市の歴史をあさるだけでは到底ダメで、
松前藩と幕府の蝦夷地支配についてまでほじくり返しながらまとめているところである。これまたすげえ手間。
はっきり言って、大学時代に読んだヘタなゼミ論なんかよりも手間がかかっていると断言できるほど。
(僕のやったゼミ論・さいたま新都心のやつは、標準的な卒論以上の手間がかかっているけどね! →2005.11.8

というわけで、できることならさっさと終わらせてしまいたい8月分なのだが、まだまだ終わりが見えないのである。
そこまでクソマジメに日記を書く必要なんて本来ないんだけどね、ふだんそこまで考えちゃう性格だから。
そしてせっかく考えたからには、きちんと記録に残しておかないと気が済まない性分だから。自分で自分が困る。


2013.1.16 (Wed.)

『KONAMI SHOOTING COLLECTION』を買ってしまいました。なんと10枚組。
CD10枚で『グラディウス』シリーズ以外のコナミのシューティングゲームBGMを網羅するという贅沢さなのだ。
しかも各種おまけ音源がマニアックに収録されているのは相変わらずで、いい時代になったなあと思うわけです。

音質としては、『GRADIUS ULTIMATE COLLECTION』(→2012.12.5)と同様に非常にシンプルなミックスで、
生音に忠実な分だけ単純に音量を上げてMP3化すると音が割れて出やすくなる印象。ちょっと扱いづらい。
しかし貴重な音源たちを、じっくりと思う存分味わうことができるだけでもありがたいのだ。毎日ウヒウヒ言ってます。
というわけで、収録されているものについて気ままにいろいろテキトーに書いていくのだ。

『沙羅曼蛇』。グラディウスシリーズに並ぶコナミの金看板であり、さすがに曲じたいも有名なものが目白押しである。
メロディラインの魅力で言えば、数あるコナミのゲームの中でも屈指の打率を誇る。捨て曲がないのである。
何よりすごいのは、『グラディウス』の翌年であるにもかかわらず、ドラムスが入るなど、音が飛躍的に向上していること。
(これがMSX版になるとSCC音源でさらにすごいことになる。もっとも、僕はMSX版のアレンジはそれほど好きじゃないが。)
ゲームミュージックのレヴェルを一気に引き上げることになるコナミの伝説は、実はここから始まったように思う。

『沙羅曼蛇2』。コナミの売りであるメロディの魅力を存分に持っているのはいいが、構成がすごく中途半端である。
先に矩形波倶楽部のアレンジヴァージョンを聴いていたので、その尻すぼみな印象のある原曲にはひどく驚いた。
まあ、逆を言えば矩形波のアレンジぶりがめちゃくちゃ秀逸だったということではあるのだが。
音質じたいは『グラディウスIV』に似ている印象。非常にクリアな反面、全体的に軽い感じもある。

『TwinBee』。(かつての自分も含めて)おたくな人々には『出たな!!ツインビー』以降の路線でお馴染みかもしれない。
が、それ以前の純粋にポップなツインビーのシリーズも味があっていいのだ。第1作目の『TwinBee』の中ではやはり、
パワーアップBGMの「Fantastic Power」が抜群にいい。ベースのグルーヴだけでここまでできるんか、と呆れてしまう。

『もえろツインビー』。ディスクシステムで出た第2作なのだが、これは一部の曲がかつてCD化されていた。
それを中学校時代の僕はレンタルで借りて、テープが擦り切れるほどに聴き込んだので、実に思い出深い。
ファミコンの音とツインビーらしいのんびりとした曲調が実にマッチしていて、個人的にはやはりいまだにこれがベスト。
「Mountain High」と「Love Portion No.2」のコンビネーションには無条件で惚れ惚れしてしまうのだ。

『ツインビー3 ポコポコ大魔王』。前作にエフェクトがかかった音は、世間的には音質が良くなったってことだろうが、
個人的にはPSG音源のまっすぐな音がツインビーらしさそのものと感じていたので、そこはちょっと残念。ひねくれ者なのだ。
曲も数が増えた分だけ、前作の研ぎ澄まされたような鋭さが薄れた印象。本当つくづくひねくれ者で申し訳ない。
でもいい感じにポップな曲がいっぱいあって、平均点はさすがに高いと思う。ポップでコミカルな最後のツインビー。

『出たな!!TwinBee』。しばらくぶりのツインビーは、すっかりおたく向けになっていた……。
そして中学生~高校生だった僕はそれにバカハマりしていた……。うーん、恥ずかしい過去である。
やっぱり僕はひねくれていて、『出たな!!TwinBee』にはアーケード版からではなく、『MIDI POWER』から入った。
『MIDI POWER』ってのはX68000のMIDIアレンジを収録したCDで、さすがにMIDIは楽器の一種なので、
当時ゲームミュージックで主流だったFM音源とは比べ物にならないほど音がいい。これでまいっちゃったわけだ。
その中でも『出たな!!TwinBee』のアレンジは特に秀逸だったと思う。原曲を生かした最高のアレンジだった。
ポップでコミカルだったツインビーは6年の間にすっかりメロディアスになっていて、僕の好みに一気に入ってきたのだ。

『Pop'nツインビー』。SFCで発売された新ツインビー。しかしSFCということを考えてみると、『Pop'nツインビー』の音は、
実はかなりレヴェルが高いと思うのだ。SFCはわりと音源にクセがあって、全体的に「丸っこい」印象の音になる。
(特にドラムスではなかなか迫力のある音にならなかったように思う。まあ、それはそれでコンシューマらしい味だった。)
『Pop'nツインビー』はその「丸っこさ」をうまく利用して、非常にまとまりのある音色の構成を組んでいるのだ。
脂の乗り切ったメロディラインと特徴のある音の組み合わせは実に魅力的。SFCでこれだけいい音はなかなか出せんぞ。

『ツインビーヤッホー!』。シリーズ最後のシューティングゲーム。「歌う基盤」ということで有名だったかもしれない。
FM音源からPCM音源への移行を見つめてきた僕らには、基盤で歌を鳴らすというのは究極の行為だったのだ。
それだけの技術があったわけだから、当然ながら音質は極限まで良くなっている。『XEXEX』のさらに上(→2007.2.24)。
ここまで来ちゃうともうどうにでもしてください、という領域。曲じたいもしっかり名曲ぞろい。やることぜんぶやっちゃった感じ。

今回、この10枚組CDを買って一番の発見だったのは、PSP版の『ツインビーだ!!』。
もともとはゲームボーイで出た作品で、PSP版に収録される際にBGMもリニューアルされたのだが、これがすばらしい。
かつてのポップでコミカルなツインビーの雰囲気をしっかり残しつつ、聴きやすい音で見事な再解釈がなされている。
ある意味、『出たな!!TwinBee』がなかったらどうなっていたかが再現されている作品だ。これはこれでかなり好き。

『A-JAX』。何度かCD化されていたので、オリジナル音源じたいは知っていた。
アレンジヴァージョンには名曲が多く、その原曲はだいたい好きである。でもそれ以外はそこまで好きではなくって、
自分としてはなかなか全体的な評価がまとまらない。コナミが神懸かる前の「準備期間」のゲーム、という印象である。

『THUNDER CROSS』。これは2ステージの「Skywalker」があまりにも有名で、僕も大好きで、もうそれに尽きる。
それ以外のBGMもそれなりに揃っているのだが、やはり「Skywalker」の前にはすべてが霞んでしまう。

『THUNDER CROSS II』。この1ステージの曲には懐かしい記憶がある。中学生のときに原曲を知らないまま、
ベーマガ(今は亡き「マイコンBASICマガジン」のこと)の付録にあったスコアをFM音源で鳴らして遊んだのだ。
原曲を知らないでアレンジするという行為はなかなかスリリングで面白かった。だから今回初めて原曲を聴いて、
答え合わせをしている気分がした。思っていたよりも原曲は軽かったね。BGMは全体的に印象に残らないものが多い。
シューティングのBGMは凝って長くなってもいいことはない、というのが個人的な結論だ。

『TRIGON』。これもBGMを3曲ほど原曲を聴かずに鳴らして遊んだ。当時の僕はゲーセンの音ってことを意識して、
わざとキンキンした音で鳴らしてみたのだが、原曲を聴いてみたらすごくふつうだった。まあそりゃそうか。
原曲はドラムスの音がかなり目立っていて印象的である。でもその分だけメロディラインが弱い気もする。
鳴らしても原曲をあんまり知りたい気分にならなかったってことは、やっぱり魅力に欠ける曲だったってことか。
このゲームはなぜか、ボスBGMは各ステージごとにあるのに、肝心のステージBGMが2ステージに1曲しかない。
それはゲームミュージックファンの立場からするとものすごいマイナスなんだけどな。よくわからんな。

『XEXEX』については過去ログを参照(→2009.12.12)。かつて発売されたCDではデモBGMに音声が乗っていたが、
『KONAMI SHOOTING COLLECTION』に収録されているヴァージョンでは音声が抜かれており、ひどく新鮮。

『スペースマンボウ』も過去ログを参照(→2012.3.29)。いまだに、いくら聴いても飽きることがない。

『FALSION』。グラディウスを意識したネーミングのゲームだが、BGMを聴くのは初めて。
悪くはないのだが、これといったキラーチューンがない印象。やっぱりゲームミュージックはメロディだな、と思う。
覚えたくなる中毒性のあるメロディラインがつくられていないと、こっちとしてはなかなか燃えないんだよなあ。
その点が先に述べた『THUNDER CROSS』との大きな違いということになるのだろう。

『FLAK ATTACK』。ステージBGMにすべて「Counter ○○」というタイトルがついているのが面白い点。
でもやっぱりキラーチューンがない。どれも「そこそこ」止まりなんだよなあ。贅沢言って申し訳ないんだけど。

『AXELAY』。SFCのオリジナル作品で、前に発売されたCDはプレミアムがついて大変な値段になっているゲームである。
いまBGMを聴いてみると、ものすごく過渡期な印象がして興味深い。グラディウス以来のいかにもコナミな音楽から、
アンビエント風味の強いテクノの影響が混じったところに映画音楽っぽい重厚さを感じさせる音楽への移行。
悪く言えば「暗い」。どの曲も長いのでサビまで時間がかかることもあり、どうしても爽快感がないのである。
僕としてはあまり高い評価ができないというのが正直なところ。SFCゆえのチャレンジだと思うけど、うーん……。

ほかにもマニアックにさまざまなタイトルが収録されているのだが、キリがないのでまあこんなところで。
でもやっぱり、前にも書いたけど(→2012.12.5)、こういうことはもっと早くやってほしかったなあ……。


2013.1.15 (Tue.)

昨日の雪は10年に一度の大雪だったようで、一日経ってもグラウンドは一面真っ白。これでは部活ができん!
というわけで、放課後は野球部とサッカー部の連合軍でひたすら雪かきに追われるのであった。
しかしながら、日頃狭くて狭くてたまらんと悪態をついているわがグラウンドだが、雪かきをするとなると広大!
雪の地面に接している部分がかなり固まっていて、雪をかくというよりは、シャベルではがす感じの作業となる。
もともと道具の数は少ないし、はがしてもはがしてもキリがないしで、半ば絶望的な気分で作業を続ける。
それでも生徒たちはみんな素直なので、文句ひとつ言わずに動きまわって悪戦苦闘。その姿勢はたいへんすばらしい。
結局、グラウンドの日当りの悪い部分を1/6くらい(もっと小さいかも)ほじくったところで終わりとする。
雪は天からの贈り物とは言うけれど、まったくもって情け容赦ない贈り物である。本当に疲れました。


2013.1.14 (Mon.)

なんたる大雪!

今日は午前中に部活の予定があったが、起きたら予報どおりに雨の音がしたのでこりゃ中止中止、と布団の中でまったり。
それでいつもより遅めにベッドを降りて窓を開けたら、隣の家の屋根が完全に真っ白になっていた。いやー、びっくりした。
積もるかも、とは聞いていたのだが、まさかここまでガッツリ降るとは。今シーズンの初雪がえらいことになっとる。

  
L: 家の前。なんじゃこりゃー!!  C: 家の近所。ここは東京なのか……?  R: 環七もこの有様である。

もともと無印良品に買い物に出る予定で、雨でも雪でも強行するつもりでいたので、支度をととのえて家を出る。
東京のくせして景色は完全に雪国と化していた。しかもまだ、飽きることなく大粒の雪がひっきりなしに舞い降りている。
こりゃかなわんなあ、と思いつつ駅まで歩いていき、電車に乗って二子玉川へ。最寄の無印は自由が丘なのだが、
改装のため店内在庫を大量放出中。おかげで欲しいものがぜんぜんなくって、ニコタマへの遠征を強いられたのだ。

さてニコタマ。ちょっと来ないうちにまるっきり変わってしまっていて、大いに戸惑う。雪とのダブルパンチな気分だ。
軽く迷った末に大好物であるベーグルをいただきながら日記を書いて過ごすが、昼を過ぎても雪は一向にやむ気配なし。
それどころか順調に吹雪いている。もう、ただただ呆れるしかなかった。意を決して外に出るが、街は大混乱。
ニコタマ無印は駅からちょっと離れたところにあるのだが、そこまでの距離が今日に限っては非常に億劫である。
で、せっかくたどり着いたニコタマ無印は品揃えがあまりよくなく、欲しかったものがぜんぜんないのであった。
唯一、正月に帰省して以来の懸案事項だったブルゾンを安く買えたのはよかったが、本当にそれだけ。がっくりだ。
前々からニコタマにいいイメージが持てないでいるのだが、今回も「使えないなあ(→2001.5.72009.7.4)」だった。

さっさと家に帰ってテレビをつける。東京だけではなく、中部~関東にかけてはかなりの混乱になっているようだ。
今日が休日でよかったなあと思う反面、新成人で晴れ着の皆さんが気の毒でならない。お疲れ様です。


2013.1.13 (Sun.)

ヤボ用で自転車で国立まで行ってきたぜ。ヤボ用ってのはそのとおり、谷保天に用があって行ってきたぜ。
今年の3年生はサッカー部員がいっぱいいるし、合格祈願だぜ。さらには高校入学後に中退しない祈願だぜ。
受験シーズンということで、到着したのは夕方なのに谷保天は参拝客でいっぱい。お参りするのに列ができとる。
後ろに長い列があると、二礼二拍手で緊張するぜ。拍手がみっともない音だとかっこ悪いなとか邪念が入るぜ。
そんでもって、なるべくスピーディーに拝むようにプレッシャーを感じてしまうぜ。小心者はつらいぜ。

参拝を終えると大学通りに出る。こないだ高校の同窓会があった影響もあってか(→2013.1.2)、
大学時代が妙に遠いことに思えたけど実際もはや遠いんだよな。なんだかものすごくセンチになっちゃったよ。

カフェで日記を書いて時間調整をして、いざ晩メシにスタ丼をいただく。国立東店はいつのまにか拡張されており、
入口は変わらないんだけど奥に2倍くらい広くなっていて、ぶったまげた。ちょっと来ない間に変わるもんだね。
そうそう、変わったといえば国領の開かずの踏切。京王線が地下化したので、もう煩わしい思いをすることはないのだ。
変わるものと変わらないものがあるけど、全体的にはやっぱり変わっている。そんなことを考えながらスタ丼を食った。


2013.1.12 (Sat.)

既刊のマンガで地道に集めているものはふたつ。『SLAM DUNK』(→2012.6.13)と『へうげもの』(→2011.8.25)だ。

正月に帰省した際、潤平とマンガの話になり、『SLAM DUNK』について軽く盛り上がった。
話題の中心は、やはり山王工業戦。ほかの試合も面白いのだが、とにかく山王工業戦は別格なのである。
それまでの試合には、どこか「穴」があった。コマとコマの間に流れる時間がうまくつながっていない箇所があった。
しかし山王工業戦にはそれがない(特に後半)。むしろ現実以上に細やかでなめらかな時間がコマとコマの間にある。
(また細かいところも読者のツボをついているのだ。回想の絡め方、河田兄や沢北の花道を認めるセリフ。)
山王工業戦の後半は、構図のとり方じたいが変わってくる。それまでキャラクターを中心に描いていたのが、
試合全体の流れ自体を描くようになるのだ。ひとつひとつのコマで描かれるのが、「試合の中の一瞬」になる。
明確に、試合の中での身体の動きや表情や背景を描くようになるのだ。ここから『SLAM DUNK』は神懸かる。
そして最後にはセリフはおろか、擬音すらなくなる。純粋に、試合の一瞬一瞬だけが積み重ねられるのだ。
こうして『SLAM DUNK』は、マンガというメディアでスポーツを表現する際の、究極の到達点を示してしまった。
僕はこの山王工業戦をとにかく読みたくってたまらなかったので、最終巻から最初へ戻っていくように集めている。
(ちなみに潤平のお気に入りは深津だピョン。僕は仙道が好きだけど、プレーヤーとしては河田兄が究極だな。)

『へうげもの』は、序盤の単行本を潤平がくれたので、そこからちょこちょこと買い足している。
このマンガでは数寄を求めて苦悩する古田織部が描かれているが(読めば読むほど古織どのは切れ者でござるな)、
やはり凄いのは千利休。天才的なセンスを持っている人物なのだが、その描写がどこまでも的確に思えてしまう点。
さらには利休自身が、織部らとの交流を経て変化・成長していくところまでも描かれていくのがまたいい。
そして真っ黒に塗り込められた9巻で利休は切腹する。これを織部が介錯するシーンは涙なしには読めない。
ここは本当に凄い。利休の切腹へ向けてのカウントダウンが始まり、コマの隅々にまで緊張感があふれ出すが、
そのクライマックスであまりにも意表を突いてくる織部の登場。最期のやりとりも純粋でまた美しければ、
目と鼻を赤くしながらも毅然と利休の首を持って立つ織部の姿もまた見事。もう言葉がございません。
日本のマンガというメディアの実力をここまで存分に見せつけてくれるシーンはそうそうあるまい。

ちなみに正月の実家で潤平は、ウヒウヒ言いながら『GS美神 極楽大作戦!!』(→2006.1.3)を読んでいたよ!


2013.1.11 (Fri.)

sunday『グルリル』。久しぶりの東京公演ということで、仕事をさっさと終えると多摩センターまで。
パルテノン多摩は本当に遠いなあ。世界一団時代の『645』(→2003.4.13)以来、なんと10年ぶりか。

正月に帰省した際、大阪公演を観たという潤平から軽く情報は得ていた。「やっぱりまだ暗いけど」、
そう言って手で下へさがるグラフを描き、「最後にちょっと上がる」と、手をちょびっと上げて教えてくれたのだ。
僕はsundayになって以来の、名前のわりには内省的で根暗な路線にウンザリしているので(→2010.7.292011.10.4)、
潤平のその言葉に一縷の望みを持って開演を待つのであった。役者が舞台に入り込んできて、本当にさりげなく始まった。
「グルリル」とは架空の街で、そこで起きる10個の物語を描いたSF小説、とのこと。でもその本はすでに失われている。
その街をつくった夫婦、生まれた双子、失われた小説を自分で書こうとする作家、盗賊、ガンジー博士、
そういった面々がきわめて複雑に交差していく内容となっている。終わってもまだ空白が残る、そんな構成だ。

まあぜんぶハッキリ書いちゃいますけど、今まででいちばん眠かった。最前列中央で眠くって、役者に申し訳ないくらい。
序盤はとにかく断片が提示されるだけ。『20世紀少年』(→2008.7.112008.9.2)に近い感じのやり口である。
こっちは一日仕事を終えて多摩まで来ているので、もう眠くて眠くて。話に入り込む気にぜんぜんなれないのよ。
それで「こうなってしまったのは、オレが変わったからか? あっち(sunday)が変わったからか?」って考えだしたら、
どんどん目が冴えてきた。だから僕は舞台上の物語を半分以上無視して、延々とそのことを考え続けていたのだ。

脚本のウォーリーさんのインタヴューがチラシとともに載っていたんだけど、そこにすべての答えが書いてある。
「今回、一番最初にやりたかったのは、たとえば広場の中心に立ってぐるっと360°パノラマの風景を見渡しているような
作品が演劇でつくれないかなと。その見えている視界と見えなくなっていくところがあって……(以下略)」
なるほど、確かにそういう内容である。でもね、これは完全に、自分以外の視点を拒否するぞ、という宣言なんだよね。
もっと言うと、観客側の視点を無視しているってこと。今回の演劇はその姿勢を完全に反映させていたと思う。
もはや客から金を取って観せるものではない。やりたいんならやってもいいけど、サーヴィス業としては完全に失格だ。
演劇は観客の想像力を信じ、舞台上も客席も一体となって物語をつくることが求められる。その基本原則に反している。
役者の身体を制限する舞台美術も健在で、何もないところにいろんな空間を実現していた過去がまるで幻のようだ。
もう、やることなすことが、演劇の本質から遠ざかっているんだよね。劣化、逆行、どんな言葉を当てても足りない。
役者の個性もまったく生かせていない。僕が役者だったら、もう絶対に辞めている。役者の我慢強さに驚くばかりだ。
終わって客席を振り返ったんだけど、やっぱり空席がけっこう目立つんだよね。残酷なほどに、客はわかっている。

演劇は観客も含めて集団でウソをつく行為なので、「ウソの現実」を信じきることができないと、成功しない。
「ウソの現実」とは、ストーリーとか物語と呼ばれるもので、それはひとつの世界観、宇宙を構成していないといけない。
その別世界での体験を、本物として共有できるところに演劇の面白さがある。映画やマンガよりも、本物度を高くできる。
では今回、この『グルリル』という「ウソの現実」から、僕たちは何を共有できたのだろうか?
役者の力を借りてウォーリーさんが提示したものに対し、観客たちは共有しようという意欲を焚き付けられただろうか?
展開されたのは、またも他者のいない演劇だった。ライトノベルやミステリや伊坂幸太郎のように醜悪な、独りよがりだ。

パルテノン多摩は、めちゃくちゃ大好きな『スペースラブ』が上演された場所だし(→2002.4.29)、
『645』も本当にすばらしかったし、僕にとってはけっこう思い出の地なんですよ。そこで、10年経って、この有様。
残念なんだけど、今後もう、sundayの演劇を観ることはないでしょう。この劇団からはもう何も期待できません。


2013.1.10 (Thu.)

昨日に続いて第2弾、昨今の政治経済について考えているうちにまとまった概念、「そこそこ資本主義」について。

★ キーになる過去ログ
 河邑厚徳+グループ現代『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』(→2004.2.172006.6.5
 G.ドゥルーズ&F.ガタリ『アンチ・オイディプス』(→2004.7.1
 正社員廃止論(→2005.4.29
 不測の事態を楽しむ余裕(→2006.5.22
 ファンドとかどうよ(→2006.6.5
 日本の雇用形態/日本ユルユル党(→2009.3.7
 教員免許更新講習1日目・現代英米映像文化(→2012.8.7

過激な発想でぜんぜんわかってもらえない「正社員廃止論」。
実際に自分がサラリーマンからフリーターに立場が変わった経験にもとづいて書いたのが、「日本の雇用形態」。
これらの発想の根底にあるのは、なんといっても『エンデの遺言』だ。「ファンドとかどうよ」は完全にその影響。
最近になって具体的に問題意識が形になったのは、「教員免許更新講習~現代英米映像文化」のおかげ。
「不測の事態を楽しむ余裕」は少し内容が違うんだけど、「余裕」をテーマとしていたのでここに挙げてみた。
あと、まったく中身のないレヴューになってしまっているが、『アンチ・オイディプス』のログもいちおう挙げておく。
(時間があればきっちり読み返して、今の問題意識と絡めてレヴューを書き直したいとずっと思っているのだが……。)

「グローバル化」という、実感はできないけどまあ確かに進行している事態によって、資本主義の加速度は上がっている。
交通手段の発達、電話や無線の発明など、時間と空間の制約を克服することで人類は経済の規模を拡大してきた。
そしてパーソナルコンピューターがインターネットと呼ばれる情報通信網によってつながる社会となったことで、
ひとつの決定的な段階に到達したことは論を俟たないだろう。人類に欲望がある限り、この変化は不可逆的だ。
マクルーハン的に考えるなら、人類はメディアを革新することで身体像を拡張してきたので、これは新たな進化だ。
(いま思いついたのだが、彼の「メディアはメッセージである」とはきわめてキリスト教的な解釈をすべき言葉で、
 「新しいメディアは、人類の進化を促す神の意志が送られてきたもの」、そういう意味ではなかろうか。)
人類は、時差を超えて距離を越えて電気信号のコミュニケーションをとる生物となった。そういう段階に入った。

資本主義を象徴する言葉として、アダム=スミスによる「神の見えざる手」がある。
市場経済の流れに任せておけば、なんでもうまくいくようになっているんだ、ってな具合に僕は解釈している。
小さな政府を志向する皆さんはこの考え方をベースにしている。政府が介入するのは非効率かつ不公平であると。
しかし自分の背後につねに唯一神がいる欧米の皆さんとは違い、神の数も居場所もまったく異なる日本人の僕にとっては、
この考え方にはどうも賛成できないのである。僕にはどうしても、神ではなく人間が勝手にやっていることにしか見えない。
もちろん僕だって資本主義の恩恵に大いに与っている身だから、現状はある程度肯定しなければならない。
だが、このまま何も考えず思考停止した状態で資本主義を続けていくことには、危機感をおぼえずにはいられない。
(特に最近は、需要に対していかに適切に供給するかを「ビジネスチャンス」と見なすのではなく、
 需要を喚起することそのものを「ビジネスチャンス」と見なす風潮が目立っている。それは本質からはずれている。)

「神の見えざる手」と書いた。見えないだけではないだろう。実際に、神は身体を持っていないのだ。
神と人間の違いはいろいろあるだろうけど、けっこう重要度の高い違いとして、身体の有無が挙げられるはずだ。
絶対的な存在として規定される神と違い、人間には有限の身体という制約がある(この制約ゆえに幸福にもなれる)。
もし資本主義経済を動かしているのが神であるなら、その動く駒である人間の身体はどうなるのか? そこに疑問がある。
ひらたく言うと、労働者としての人間の身体は、現代以降の経済の流れに対応することができるのか?ということだ。
(もっと簡単に結論を言っちゃうと、今の経済システムのままだとみんな体がもたねえぞ!ということだ。)

実際にはいるんだかいないんだかわからない神が、電気信号のスピードで不眠不休で経済を動かしている。
そのスピードに人間の身体は耐えられるのか?という問題だ。これはもうすでに顕在化している。
具体的にはユニクロなんかは世界で勝負できる人材をうんぬんかんぬんと言って社員にだいぶ無理をさせているし、
「ブラック企業」なんて言葉が定着してけっこう経っている。でも僕らは客なので、彼らのサーヴィスを享受するのみだ。
この現状から一部の経営者と無数の労働者という対立軸を用意して階級闘争に持ち込む人もいるだろうが、
それは20世紀末に失敗した考え方だし、もうちょっと人間として誇らしいやり方で対応を図るべきだと思う。

まず、もう一度現状を見つめてみる。現代は、資本主義がよりいっそう加速度を増して地球上で進化している時代だ。
かつては一部の都市、そして大陸を対象にしていた資本主義は、情報通信網の発達という変化を得て、
その対象スケールを地球とほぼ同等の規模にしつつある(これを世間では「グローバル化」と呼んでいる)。
しかしながら、進化の先にあるのは、当然、「死」だ。人間の身体の有限性が、資本主義の「死」を呼び込むだろう。
資本主義は、生物としての人間の欲望をかなり効率的に管理できるシステムである。現状では最良と言える仕組みだ。
ゆえに資本主義の「死」は、できるだけ先延ばしにしなければならない。そのためには理性を発揮することにより、
資本主義の進化スピードを抑制・コントロールしなければならない。僕の考え方はそういう視点に立っているものだ。
(政府がイデオロギーにもとづいて強権的にそれを実行すれば、まあ社会主義っぽくなるのは確かなのだが……。)

別の表現で言い換えてみよう。「自転車操業」という言葉がある。ペダルをこがないと倒れる、そういう経営だ。
資本主義の現状は、ブレーキの利かない自転車が脇目も振らずにさらに加速をしているようなもので、
あまりにも加速をしすぎるものだからそのうちGに耐えられなくなって、運転しているオレたちの身体がつぶれるぞ、
っていう話なのだ。そもそも地球の資源だって有限で、そこに無限に加速度をつけていったら結果は明々白々。
勇気を持ってスピードを落とす判断をしないと、とんでもなく恐ろしい状況に陥る可能性が高いぞ、と言いたいのだ。

トヨタのカンバン方式は世界的に評価されている生産システムなのだが、あまりよろしくないと僕は考える。
カンバン方式は在庫を持たないことを目標とする仕組みだ。在庫を持つことで発生するコストをゼロにすることで、
品質の良い製品を少しでも安く提供することができる。でも冷静に考えると、在庫を持たないということは当然、
部品を生産する下請けの会社に無理がかかるということだ。でもその不満は金(アメ)と仕事(ムチ)でコントロール。
最近は労働市場の弾力化という言葉が出てきているけど、本質的にはこれと一緒なんじゃないかと思う。
正規の労働者は少なければ少ないほどよく、フレキシブルと言えば聞こえがいいが実際は非正規の労働者が増えていく。
総論賛成各論反対で社会全体がそういう方向性を志向しているんだから、この状況を変えるのは非常に難しい。
ひとつ忘れてはならないのは、削減対象となってしまう「よけいなコスト」こそが周りを豊かにしているということ。
中心にある1社だけを見ればコストは削減すべきものかもしれないが、その「よけいなコスト」で周りは食っているのだ。
当然、その周りの中に未来のお客さんがいる。コストの削減は、金の卵を産むニワトリを食べる行為になりかねない。

ということで、ようやく逆説まみれの結論に到達する。ムダなものほど、豊かさを生む。
数撃ちゃ当たるの基礎研究があって初めて、莫大な利益を生む応用研究が成り立つという事実は、
ノーベル賞の季節になるたび出てくる話だ。急がば回れ、ムダに対してガマンできる忍耐力が必要なのだ。
(いずれ国立大学の法人化が決定打となった現在の大学教育の貧しさについてもこの日記で書くべきだな。)
われわれは、もっとムダに対して寛容にならなければいけない。ムダとはすなわち、余裕である。
ムダを許す余裕のないところに誇りは生まれない。誇りを持つためには、理性に裏打ちされた教養が必要だ。
一見、実生活上で何の役にも立たないように見える知識や特技こそ、硬直化した状況を打破する力になる。
情けは人のためならず。勇気を持って「よけいなコスト」を抱えることが、社会全体のプラスになるはずなのだ。

では具体的に僕らはどこから始めるべきなのか。ヒントは、「武士は食わねど高楊枝」という言葉だ。
安ければいいという価値観を脱すること、そこから始めるべきである。本来、価格とは商品の価値についているもので、
値段が安いということは、商品に対して価値を低く見積もっているということである。このバランスが大事なのだ。
いいものに対してはきちんとそれ相応の対価を支払うこと。そういう価値観に戻らなければ、何も始まらない。
「安くて品質がいい」には、必ずどこかに無理や負荷がかかっている。見えないマイナスのコストがかかっている。
ユニクロが中国で大量生産して従業員が大忙しなのは、当然のことなのだ。それにノーを突き付ける勇気が必要だ。
そこまでいかなくても、いわゆるプチ贅沢をするだけでもいい。安易に安いものは買わないというプライドがほしい。
そう、これはプライドの問題なのだ。プライド、誇り。教養により磨かれた誇りが、本当にいいものを生み出す。
安いものを買うということは、自分を安売りすることである。そういう意識を日本人は取り戻さなければならない。

余裕はまた、客としてのレヴェルも引き上げる。店員に対する態度に始まり、待たされてもガマンする姿勢。
店の対応は早くて正確なのがもちろん望ましいが、それが達成されなくても動じることのない余裕が欲しいのだ。
情報通信網や交通手段の発達は、取引相手の利便性を高める。それはそれでいいことだ。
だが、本質はそこにない。それはあくまで本来のサーヴィスに付随する要素にすぎない。そこで勝負するようになると、
際限のない無理や負荷が始まる。無事に商品が手元に届いて、商品相応の対価を支払うこと。それだけが本質なのだ。
(「お客様は神様です」は、非常に罪深い言葉である。まちがっても客の側がそんな傲慢な意識を持ってはならない!)

僕の言っていることが受け入れられたとすると、それはずいぶんとゆっくりとした社会になると思う。
それをスローライフと言うのかどうかは知らないが、誇りを持って余裕を持って生きていきたいとは思っている。
遅延や欠航覚悟でお安いLCCに乗ることは絶対にしたくない。相応の対価を払って安全・確実な飛行機に乗りたい。
夜行バスに乗って旅行に出かけるけど、相応の対価を払って運転手が無理なく仕事をしている夜行バスに乗りたいのだ。
そうして自分が少しよけいに払った金が、安全運転をした運転手への評価になっているのだ。それが正しい社会だろう。
結局、この資本主義においては、自分の消費という行為にきちんと責任を持つことが大事なのだと思う。
消費すること、お金を払うということは、選挙で票を投じるのと同じ意味合いを持っているのだ。
自分が誰を信頼してお金を払うのか。その本質をきちんと問い直すところからもう一度始めないといけない。
そこに神はいない。いるのは人間だけ、人間が人間の労働に対してきちんと対価を支払うという光景だ。
そうして正しくお金を使っていくことで、現代社会のグローバル化の歪みを矯正できるんじゃないか。そう思っている。

以上のように、余裕を持って理性により適度にスピードをコントロールした資本主義を「そこそこ資本主義」と名付けたい。
「そこそこ資本主義」は資本主義を徹底しないので、あくまで「そこそこ」レヴェルにすぎないので、非常にムダが多い。
でもその分だけ、相手を尊重し、自分を尊重し、買い物を通して幸せになれる機会が増えるはずである。
そもそも、神と比べて「ムダ」である身体があるからこそ、人間は幸せになれるのだから。


2013.1.9 (Wed.)

正月に実家でcirco氏と話しているうちにまとまったことをふたつほど、この場で発表しておきたい。
まず第1弾は、ここ最近、僕が旅やサッカー観戦を通して到達した概念である「空間の肯定」についてだ。

★ キーになる過去ログ
 「愛する」という“行為”は、本来、動詞で表現されるべきものなのだろうか?(→2006.5.27
 東京都庁/東京国際フォーラム 論 【かなり決定版】(→2010.9.11
 古い歴史的な建造物を見てまわるのが趣味である理由/公共建築に対する僕の基本的なスタンス(→2010.11.7
 信州ダービー(→2011.4.30
 神社を参拝しまくっている理由(→2011.10.3
 小笠原旅行の最終日(→2012.1.2
 宇都宮徹壱『フットボールの犬』(→2012.1.12

最初のログ(「愛する」という~)は空間について書いたものではないのだが、「be」を「been to」に変えれば、
空間についても議論が成立するのではないかと思う。「東京都庁~」「古い歴史的な~」「神社を参拝~」は、
地域の誇りとしての建築について書いたもの。特に僕は古い役所を地域の誇りの実体化したものと見なしているので。
「信州ダービー」はサッカークラブが地元の誇りとして機能し、さらにそれが都市の代理戦争に至る萌芽の記録。
サッカークラブが国家や都市の誇りとなって日常生活とつながっている光景は、『フットボールの犬』に詳しい。
そして実際に旅行で空間を訪れることでもたらされる肯定的な感情については「小笠原旅行の最終日」に書いた。

県庁、市役所、城跡、神社、博物館。僕が旅行の目的地としてよく訪れている場所だ。
さらに、サッカー、B級グルメ、ゆるキャラ。旅行のついでということでよく触れているものだ。
いいかげんなことに、僕個人としてはこれらの要素について、最初にまずまとまった関心があるわけではなくって、
わりと単純に、テキトーに候補を選んで訪問している感覚なのである。自分でも本当にいいかげんだと思う。
つまり、単に古い建物ってことで城跡や神社仏閣であるわけで、部活の勉強ってことでサッカーであるわけで、
腹が減ったからB級グルメであるわけで、そしたらなんだかワケのわからんゆるキャラがここにもおったわ、と。
旅行における僕の趣味嗜好に対し、僕自身は統一感を持っていない。でも、好みに引っかかるってことはおそらく、
何か共通項があるはずなのだ。じゃあその共通項を言葉にしてみると、「空間の肯定」という概念が出てくるのだ。
どうも僕は、自分ではまったく意識していなかったのだが、空間を肯定するために旅をしているようなのだ。
だからおこがましいけど、ここで一丁、僕の行動を帰納的に分析することで、ひとつの概念をつくりあげてみたいと思う。

かなり脈絡なく日本全国あちこちをフラフラしている僕の旅行スタイルだが、わざわざ行ってよかった、
そう思えるときは必ず、その土地の誇るプライドに触れたときである。それが快感で、旅を続けているのだ。
プライドといっても種類はさまざまなのだが、観光名所に行けばわりとそれは容易に触れることができる。
ただしすべての観光名所で快感が得られるかというとそうでもなくって、なかなか難しい。
以前日記に「あっちこっちの『ふつう』を見に行ってやる。」とズバリ結論を書いたことがあるが(→2007.2.7)、
僕は旅先でイヴェントに出くわすことをかなり嫌っている。イヴェントのない、日常の状態を目にしたいのだ。
あくまで日常生活の延長線上にある状態の、その場所に出会いたいのである。日常におけるプライドを味わいたい。
そういう観点からすると、建築というのは最も好ましい素材となるわけだ。その場に長くあり続けるもの。
日常でも非日常でも姿をほとんど変えることなく存在する建築は、誇りのプレーンな可視化と僕は捉えている。

そして僕の場合、建築の中でも特に役所がお気に入りなわけだ。日本が民主主義国家である以上、
自治体の役所というのは自分の暮らす場所の象徴であると一応は結論づけることができるはずで、
かつてはそのとおりに地元の誇りをそのまま具現化したような豪華絢爛な庁舎がつくられた時代があった。
(しかし民主主義が浸透したはずの戦後は、逆に役所の建築がどんどん質素なものへと変化していく。
 この反比例の関係こそ社会学的に分析をしなければならないことなんだろうけど、僕にそこまでの頭はないので、
 まあ今後、じっくりと時間をかけて考えていくことにしたいものだ。それだけの余裕のある生活がしたい。)
政治を行う場所という意味では、城郭がかつての役所であると考えることはもちろん可能である。
封建制度という違いはあれど、領主が自らの誇りを賭けて普請した城郭は、その地域全体の誇りとして機能したはずだ。
博物館は、地元の誇らしい歴史を語る場所である。再建天守の内部が博物館的展示となるのは偶然ではあるまい。

「空間は権力の容器である」とは大学院時代にさんざん格闘したテーマである。城郭はまさにそうだったし、
かつてあった豪華絢爛な庁舎もそうだろう。そしてまた、宗教が権力と結びついて空間を生産することもある。
日本でそれが最も露骨に現れた事例のひとつは聖武天皇の律令制で、東大寺の大仏はつくるわ国分寺は建てるわで、
仏教を大和朝廷の中央集権化にうまく取り込んで、法律によって規定された国家として日本の形を整えていった。
まあこれはかなり強烈な事例で、もうちょっと素朴に宗教が生活空間にまとまりを持たせた事例として、神社がある。
山や岩をはじめとして自然の中に存在する神の依代(神奈備)を空間的に選り分け、日常的に祀ったのが神社の始まり。
やがて神社は神話と結びつき、さまざまな名前の神々を祀るようにもなる。また神社は勧請されて全国各地へと広がる。
地元の産土神レヴェルから律令国で一番の格式を与えられた一宮やら何やらまで、神社は多重に土地を守っている。
自分たちを守る存在を信じること、それが神社仏閣を残す意志となる。これもまた、空間を通したプライドの発露だ。
というわけで、建築は古いものも新しいものも、つねに地域や施主のプライドを映す鏡としてあり続ける。

建築は形があるのでかなりわかりやすい「誇り」だが、形を持たない「地元の誇り」もある。
かつてなら重要無形文化財に指定されているような踊りだとか、そもそもそれが演じられる祭りだとかがそうだ。
祭りはなかなか難しい。というのも、地元を誇るものであると同時に、他者である観光客を呼ぶ要素もあるからだ。
有名になりすぎて観光客が多く訪れた結果、地元民は観光客向けとは別の形で自分たちの祭りをやる事例もあるそうだ。
これについてはおそらく、「ホーム/アウェイ」という対立軸を設け、その比率から分析することが可能だろう。
「ホーム」とは地元民たちを主人公とする要素の強さで、「アウェイ」とは観光客向けの要素の強さである。
さらに、形のあるものとそうでないもので「ハード/ソフト」という対立軸を設けることもできそうだ。
この観点からすれば、現代は「ハード」から「ソフト」への移行が進んでいる期間と捉えられるかもしれない。

「ソフト」による地元への誇りとして無視できない存在となっているのが、サッカーだ。
都市とサッカーの関係性は過去ログでも書いているが(→2007.11.12)、近年この傾向はいよいよ強まっている。
(さっき「ホーム/アウェイ」という対立軸を持ち出したが、これは当然、サッカーから借りてきた表現だ。)
自分でも正直、ここまでサッカーにどっぷりと浸かるような生活をすることになるとはまったく思っていなかったが、
地方を旅行したついでにサッカー観戦をしていると、サッカーが地元の誇りとして完全に機能しているのがよくわかる。
特にダービーマッチでは逆説的にそのプライドが可視化されることになる(「さいたま」しかり、「信州」しかり)。
単なるチームの勝敗だけではないものを背負って、地元の誇りを背負って選手たちはぶつかり合うことになるのだ。
まあダービーは特殊だが、2週に一度の祭りという要素を含みながら、サッカークラブは地域の期待を一身に受けて戦う。
また、土地にやってきたアウェイのサポーターを受け入れて、もてなす(スタジアムは拍手で迎える。浦和以外は)。
(典型的な例として、甲府サポのおっさんと富山サポのねーちゃんの心温まるエピソードを挙げる。→2009.8.29
地元クラブを誇るということは、相手クラブを尊重するということでもある。サッカーがもたらすプラスは非常に大きい。

そしてまた、街おこしの武器として注目されているのが、B級グルメとゆるキャラである。
どちらもあまりに多くのものが粗製濫造されている感があるが、一発当たれば莫大な利益をあげることができる。
B級グルメは、観光客たちが実際にその場所へ行かないときちんと体験したことにならないという点がポイントである。
ゆるキャラは、これは本格的に本腰を入れて社会学的に考えるべきテーマであると思う。それくらい重要だ。
内(ホーム)向きな「ハード」だった庁舎建築が解体して、外(アウェイ)向きの「ソフト」であるゆるキャラになった、
それくらいのことが言えてしまうのではないかと思う。ゆるキャラはもはや、空間そのものであるとすら思っている。
空間が印刷されて商品に貼り付き、着ぐるみになって動きまわる。そういう時代になってきているということなのだ。
(ゆるキャラは厳密には「ソフト」と「ハード」両面の性質を持っているので、簡単に論じきることはできないが。)

以上、ざっくりと僕が旅行の中で興味関心を持って接しているものについて、まとまりのないまま書いてみた。
ここでもう一度、主題に立ち返ろう。今回のテーマは「空間の肯定」である。「空間」を「肯定」すること。
そう、肯定なのである。人間が自らの立っている場所を肯定すること。空間の肯定を通じ、人間は自らの存在を肯定する。
その手段(メディア)は、建築だったりB級グルメだったりサッカークラブだったりゆるキャラだったりする。
難しく言ってしまえば、自らの存在を肯定することで保たれる「尊厳」、それを「地元への誇り」として僕は味わっている。
「ホーム/アウェイ」という対立軸を用意して僕は考えたが、本質は一緒なのだ。それは、be動詞で表されるものだ。
be動詞はなかなか一発できれいな日本語には訳せないが、「~という状態で存在している」という意味で考えればいい。
(いちおう、キリスト教を通してbe動詞について説明したときの過去ログを紹介しておく。→2011.4.18
このbe動詞こそ、空間そして自らの肯定を包括的に行うことのできる重要な鍵なのだ。

中学3年で習う現在完了には、「have been to ~」という表現が出てくる。「~に行ったことがある」と訳すアレだ。
(「have gone to ~」だと、行ったまま戻ってこないことになっちゃうからダメだよ!と言われたアレである。)
鍵になるのは、この「be」なのだ。「be」とは「存在すること」。「その場所に存在すること」が重要なのである。
「愛する」ということは、実は、「(相手のいてほしいときにきちんと)そこにいる」ということにほかならない。
「ホーム」の立場で言えば、自分の存在している場所を誇ることで、その誇らしい場所にいる自分自身を誇ること。
「アウェイ」の立場で言えば、その場所に価値を見出して、わざわざコストをかけてそこを訪れること。
自分がその場所に存在すること(be)が、空間への愛情を表明し、それを通して自己と他者を肯定することになる。
「空間の肯定」とはつまり、自らの存在を賭けて、あまねく自己と他者を肯定することなのだ。
たとえば小笠原なら、7万円以上のお金と片道25時間半以上の時間(実質的にはまるまる6日間だけどな!)という、
猛烈なコストをかけないと訪れることができない。でもそのコストを払うことができるのは、小笠原を肯定するからだ。
小笠原で暮らす人たちを肯定するからだ。彼らはその肯定の意味を知っているから、海に飛び込んで僕らを見送る。
(さらに、小笠原の旅館やアクティヴィティの運営元からはきちんと年賀状が届くのだ。つながっている、のだ。)

僕は旅行を通して、日本という空間を全面的に肯定している。そして、自分と日本に暮らす人々を肯定している。
そういえば、県庁所在地めぐりを長野県庁で達成する日のログで、僕はこんなことを書いている(→2010.9.24)。
「肌で感じた土地の特徴を言語化し、それぞれの差異を整理していくことで、その街は僕の中の一部分になる。
そして、僕自身が広がる。つまりそれは、47個に分けられた僕の中の日本を拾い集めていく作業にほかならなかった。
ひとつひとつのピースを吟味することで、僕は日本に自分自身を埋め込みながら、自分の理解を広げていった。」
これがまさに、「空間の肯定」を通した自己の肯定ということだろう。知らず知らずのうちに、僕は実践していたのだ。
人間は無意識ながらも「空間の肯定」を繰り返し、自分と周りの人々を肯定している。そういう生き物ってことだ。


2013.1.8 (Tue.)

新学期なのだ。また授業と宿題チェックとプリントづくりと部活に追われる日々が始まったのだ。

全学年とも教科書の内容がすでにだいたい終わっており、この3学期は全学年で演習中心にやる予定でいる。
それはつまり、すべての授業で毎回オリジナルの教材を用意しなければならないということを意味するのである。
冷静に考えると、これはとんでもないことだよ! 今までとは比べ物にならない負担がかかってくるってことだよ!
でもまあ、やるしかないので、覚悟を決めてやるのである。生徒たちを戦える集団にしていかないとな。


2013.1.7 (Mon.)

橋爪大三郎+大澤真幸『ふしぎなキリスト教』。新書大賞2012の大賞を受賞したそうで、かなり売れたそうな。
僕は橋爪先生の『世界がわかる宗教社会学入門』(→2006.5.31)のお世話になっているわけで、
その内容をキリスト教についてさらに深めたものっぽかったので、迷わず買って読んでみたのだ。
しかしながらこの本、ネット上のレヴューではものすごい批判にさらされているみたいなのである。
さらにはこの本の間違いを指摘するWikiも存在し、その内容をまとめた本まで出版されているほどの加熱ぶりなのだ。

内容は橋爪先生と大澤さんの対談なのだが、基本的に大澤さんが質問して橋爪先生が答える役割となっている。
大澤さんはその答えに自分の考えを付け加える形で、読者にわかりやすく結論をまとめる役割もしている。
大澤真幸というと学生のときにさんざん現代文でワケのわからん文章を読まされたので、正直、いいイメージはない。
でもさすがにこの本についてはしゃべり言葉なので、そういった心配はない。いつもこうならいいのにね。

「一神教を理解する」「イエス・キリストとは何か」「いかに『西洋』をつくったか」の3部構成となっている。
第1部ではユダヤ教を中心に一神教の考え方を論じ、第2部では聖書からキリスト教についての説明をし、
第3部でキリスト教が西洋文明に及ぼした影響を探っていく。キリスト教の“前後”を押さえたきちんとした構成だ。
読んでいて「すげえなあ」と思うのは、橋爪先生がかなりの断定口調で聖書の解釈をしている点。ここまで言い切るか。
まあこれは後で述べることになるけど、とりあえずは聖書の解釈を一刀両断できる自信に感心した。

さて、この本の内容じたいについては、僕はものすごく勉強になると思っている。読んで大いにプラスになった。
でも、ものすごく強い批判にさらされている事実も理解できる。おそらくキリスト教の信者からの反発は大きいだろう。
それは結局、キリスト教を徹底的に外部から語っていることに起因すると思う。キリスト教をすべて知っているかのように、
他者があれこれ語る。それはキリスト教の内部にいる人間にとっては、たまらない苦痛となるだろう。
信仰の拠り所として穴が開くほど聖書を読み込んでいる内部の人間には、「間違いだらけ」と映ってもおかしくない。
またそれを、橋爪先生による解釈のあまりの一刀両断ぶりが助長しているように思うのである。
あれだけよくできているイスラムですらスンニ派やらシーア派やらに分裂しているわけで、解釈は人間の数だけある。
つまり本質的に、この世に存在する宗教の数は地球上の総人口と一致すると僕は考えているんだけど、
そういうところをすっ飛ばして(すっ飛ばさざるをえないのだが)、みんなが自分が正しいと解釈を断定したがっている。
そんな気持ちが感情レヴェルでぶつかっているのだから、批判が加熱するのはしょうがない。宗教だけに和解はありえない。

この本の帯には「起源からイエスの謎、近代社会への影響まで すべての疑問に答える最強の入門書!」なんて、
とっても調子のいいことが書いてある。でもそれは違うし、この帯のコピーを含めた売り出し方に問題があると僕は思う。
この本は、キリスト教の世界観を理解するための入門書ではなく、客観的にキリスト教の影響を分析する社会学書だ。
キリスト教の内部にいる人間が理解を求めるために書いたものではない。外部の人間が社会現象を分析したものなのだ。
言ってみれば、この本ではキリスト教はメインディッシュではなく、あくまで調味料としての扱いとなっているわけだ。
調味料の起源やつくられ方、利用のされ方について書いた本なのだ(調味料扱いとはけしからん!と言われりゃそれまで)。
そこのところを売っている側はきちんとアピールしていただろうか。橋爪&大澤の言っていることは、あくまで意見にすぎない。
なのにどうも、売る側は「キリスト教はこう解釈するといいですよー」と呼びかけて部数を伸ばそうとしているし、
批判する側は「キリスト教や聖書の解釈を外部の視点から決めつけてけしからん!」と感情的になっている。
(この本に対して「社会学者の無知」を強調して批判するレヴューは、どうにも感情的なものが多いように思う。
 その姿勢に、『モンティ・パイソン ライフ・オブ・ブライアン』(→2009.7.24)への的外れな批判・抗議を思い出す。)
結局のところ、本文のp. 123にあるように、自分の信条と矛盾しない限りで『ふしぎなキリスト教』を信じればいいのである。


2013.1.6 (Sun.)

昨年中から部屋の片付けを地道にやっているのだが、なかなか思うように進まないでいる。
前にも書いたように(→2012.11.10)、部屋で生活している以上、終わりなき新陳代謝をしているわけだからしょうがない。

それでも、ユニットシェルフ計画がいよいよクライマックスを迎えようとしている。
年末に注文しておいた無印良品のユニットシェルフが届いたので、それを組み立てたのである。
ユニットシェルフ計画は3期に分かれていて、本棚に代わる存在として試しに買ってみたのが第1期(→2012.10.28)。
これが思いのほかオシャレな雰囲気だったので、調子に乗って大型の本やパンフレットを収納する小型のものと、
衣類をまとめておく大型のものを注文したのが第2期(→2012.11.10)。やはりこれがまた好調なのである。
それでこのたび、部屋の真ん中にある本棚を撤去して新たに配置したのが第3期。段ボールの収納ボックスを組み合わせ、
本やらCDやらを効率よく収納できるように計画したのだ。実際にやってみると、非常にいい感触である。
あともうひとつ、台所用に小型のものも買っておいたので、片付けながらそれを入れ替えれば第3期は終了。
これをもってユニットシェルフ計画は完了となるのだ。そうして収納場所を確保したら、あとは部屋をきれいにするだけ。
(その最後の掃除が大変なのだが……。どうにか「ずく」を出してがんばらないとなあ……。)

今の部屋に引っ越してから実にもう12年近くになろうとしているのだが、今ごろになって大規模な模様替え。
なかなかにオシャレな雰囲気が漂いだした部屋を眺め、もっと早くやるべきだったなあ、と反省するのであった。


2013.1.5 (Sat.)

本日は2013年初めての部活、初蹴りなのであった。デキとしては、まあこんなもんかな、といったところ。
個人的にも多少はボールを蹴ったりゲームに参加したりできてよかったかな。悪くない滑り出しである。

午後は秋葉原にて、会社を移籍した岩崎マサル主催による「知らず演歌大会2013」が開催された。
知らず演歌とはわれわれにはお馴染みの紳士のスポーツだが(→2007.1.8)、やるのはけっこう久しぶり。
マサルは会場として秋葉原のカラオケ屋を押さえたのだが、そこはなんと、『バクマン。』仕様の部屋になっていた。
でもわれわれ、『バクマン。』については「ちょっとオシャレな『まんが道』」程度の認識しか持っておらず、
特にそれで浮かれることもなく、淡々と飲み物と食い物の注文をするのであった。

大晦日の夜、マサルは『アイアンシェフ』の特番を見ていたようで、玉木宏っぽく1回戦のテーマを発表。
(「でも玉木宏はやらされてる感があるんよね。鹿賀丈史みたいに本当にやりそうな変態さがないんよ」とのこと。)
で、テーマは「五木ひろし」。さっそくみんなで五木ひろしの曲の中からそれぞれ、琴線に触れるタイトルを探し出す。
が、ここで肝心なことが発覚。知らず演歌をやるには、カラオケの採点機能が必須なのだ。でもやり方がわからない。
店員さんに訊いてみたら、「ウチの店には採点機能はないんです」との返事。知らず演歌の根幹が崩れてしまった。
しょうがないので、せーのでお互いに一番よかった人を指差すという原始的な方式をとることになるのであった。

●1回戦:テーマ「五木ひろし」
マサル:『ありふれたシャンソン』、びゅく仙:『狼のバラード』、みやもり:『孫が来る!』、ニシマッキー:『恐竜体操』
ということで、これはもう、みやもりの圧勝なのであった。孫が来る!って、なんでエクスクラメーション・マークなんだ!
これじゃ孫が魔太郎扱いじゃねえか!とみんなで爆笑。サビの「孫が来る」の連呼なんて呼吸困難になったわ。

●2回戦:テーマ「伍代夏子」
ニシマッキー:『誘われて長崎』、みやもり:『海峡の宿』、びゅく仙:『夏子音頭』、マサル:『横濱エラヴィータ』
これもみやもりが圧勝。バックはギターの演奏のみというアレンジの選択が功を奏したのであった。

しかし、知らず演歌は異様に体力を消耗するのでみんなフラフラ(なぜか本当に体力をやたらと使うのだ)。
結局、みやもりが総合優勝ということでおしまい。引き続き、今度は知っている演歌をそれぞれのびのび歌う。
さらに秋葉原ということでアニメソングを歌ったのだが、当然、われわれが歌えるのはちょっと昔の曲ばっかり。
それはそれで懐かしくって、かえって面白かったな。マサルの『ダンバインとぶ』が声量MAXでうるせーうるせー。

 
L: 知らず演歌アカデミー主宰・岩崎マサルが歌う! 相変わらずのやりたい放題が炸裂しとったわ。
R: 結局、ハニートーストを注文してしまうのであった。うれしそうだなあ。まあ、みんなで仲良く食ったけどね。

その後は巳年ということで、ランキングのヒット曲を巳年縛りで歌ってみる。
1977年は意外と粒ぞろいでけっこう歌えた。1989年もかなり歌えていいのだが、2001年で僕は少し困った。
ハロプロ全盛期なのだが、それ以外となると急に歌える曲が減ってしまうのである。偏った人生だなあ、と思う。

そんなこんなで最後は肩を組んで『鳥の歌』を斉唱しておしまい。

中古ファミコン屋に寄ってから仕事に向かうマサルを見送ると、残った3人で居酒屋へ。テキトーにダベって解散。
知らず演歌のせいなのか、むやみやたらと眠くて困った。おそるべし、知らず演歌。


2013.1.4 (Fri.)

やはり笹子トンネル事故(→2012.12.3)の影響は大きく、鉄道はあきらめて中央道の高速バスで東京まで帰ることに。
それでも飯田発のバスが確保できず、なぜか伊那発のバスに乗ることになった。いや、文句はまったくございませんが。

上りの中央道はまったく混雑しておらず、山梨県まで順調に走る。しかしさすがに、笹子トンネルの手前で渋滞となる。
上り線のトンネルは通行不能なので、下り線の笹子トンネルを使って1車線ずつの対面交通としているのである。
ちょうどその部分だけが混んでおり、そこを抜けてしまえば、バスは再び快適に走り出す。30分遅れで新宿に到着。

笹子トンネルを通過している間、僕はずっと壁面や天井を眺めていた。不備のあった箇所を補修した跡が生々しい。
なんというか言葉足らずで本当に申し訳ないんだけど、やはり、人生に運のよしあしはあるんだな、と思うしかない。
いつどこで何が起きるのかなんてわからん。とりあえず今は補修の跡を眺めて、現実をきちんと見ておこう、と思った。


2013.1.3 (Thu.)

ピザ。潤平が「フレッシュトマトはもはや飲み物」と発言していたが、まったくもって同感である。
あまりにもジューシーすぎて、確かに食べるというよりも飲むという感覚に近いものがある。
ベーコン&マッシュに始まり、フレッシュトマト、バジリコ、ガーリックとしっかり堪能させていただきました。

 もはやこれは飲み物。

いざとなったら教員を辞めて弟子入りする覚悟はできている。ああ、覚悟完了しているとも!

家に帰ってきてテレビをつけて、ライスボウルを見ようとして驚いた。やっていないのである。
日本のアメリカンフットボールにとって最大のゲームであるライスボウルの地上波中継がないってどういうこと?
もはや呆れるのを通り越して怒りしか湧いてこない。ふつうなら「怒り」→「呆れる」の順序かもしれないが、
呆れていられるほどこっちはお人好しじゃないんだよ。で、ライスボウルを中継しないで、やっているのがお笑い番組。
NHKは良識がないのか! 公共放送としてスポーツ文化の深化・多様化に貢献しようという気はさらさらないのか!
しかもこういうときに限って、最後まで決着がわからない白熱した内容の好ゲームなんだよな。
繰り返すが、怒りしか湧いてこない。これだけで今年のスタートをぐしゃぐしゃにされた気分だよ。


2013.1.2 (Wed.)

高校の同窓会でございました。大々的に同窓会をやるのは高校卒業以来初めてなのである。いいかげんな学年だ。
その時間の厚みがあまりにも大きくて重たくて、顔を出すのがものすごく面倒くさい。面倒くさくってたまらない。
でもだからって参加しないのも根暗だと思うので、そこは「ずく」を出して参加するのであった。

会場のホテルに着くが、案の定、知っている顔がいない。弱りつつ受付へ行くと小学校から一緒だった女子に遭遇。
僕は長らくメガネ生活をしており、現在は基本的にメガネをしていないので、僕だとわかってもらえないことが多いのだが、
さすがに小学校の頃を知っている人は一発でわかってくれたのであった。まあ、顔が小学校に戻っただけなんだけどね。
そんな感じで右往左往していたら、まる氏がやってきた。これでどうにか一安心。まる氏と「アウェイだー」とうなりつつ過ごす。
バヒさんもやってきて、さらに安心。でもモゲ仲間のトシユキ氏は今回不参加とのこと。なんだよつまんねえなあ。

そうしているうちに、C組仲間のヒデトシ氏が登場。最初は戸惑っていたようだが、さすがにわかってくれてまた一安心。
C組仲間は思ったよりも少なかったが、気心の知れた連中がそこそこいたのでほっとした。みんなぜんぜん変わってないな!
メガネをはずした僕のことも予想以上にみんなわかってくれたので、さすがだなあ、と妙に感心するのであった。
ちなみにC組は3年前、担任の定年退職を機に同窓会をやったそうだが、僕の実家に送ったハガキはそのまま戻ってしまい、
僕は軽く行方不明状態になっていたそうだ。そしたら今回ひょっこり現れたというわけで、やたらと驚かれてしまったよ。

会が始まると、まずは亡くなってしまった先生と同級生に黙祷。しょうがないとはいえ、ここから入るのはやはりショックだ。
その後はご歓談なのだが、残念なことに今回、肝心の担任が参加できなかったので、みんなでテキトーにダベる。
わかっちゃいたが、さんざん「何やっとるの? 中学校の先生なの? なんかすごくもったいなくない?」と言われまくった。
そしてさんざん、「まだ結婚しとらんの? 生徒には手ぇ出しとらんの? バレないようにやれよ!」と言われまくった。
これもう本当に飽きるほどたっぷり言われたんだけど。周りがオレをどう見ているのか、あらためて実感させられたわ……。

仲間の元気な顔が見られたのはもちろん良かったのだが、それと同じく参加して良かったと心底思ったのは、
お世話になった先生方にきちんと挨拶をする機会が持てたこと。「お前らのせいで教員になっちまったよ」という意味の、
すごく丁寧な言葉でご挨拶させていただいたのだが、先生方はぜんぜん変わらないなあ。イヤんなるくらい変わんねえよ。

ご歓談タイムの後は各先生の紹介に校歌斉唱に写真撮影に万歳三唱で締め。こうやって人間は歳をとっていくのか。
次回は卒業25周年、なんて話になっているっぽいのだが、そのとき僕はどうなっているやら……うーん、想像がつかん。
まあヒデトシ氏もノリもスミノもツチヤさもタカハシもイタさんもキノシタ氏もアキコさんもユキさんも変わりなくてよかった。
次回はぜひ、タカマサものぐっつぁんもユウジ氏もミネちゃんもスガヌマもヤマケンもヤトーもイケさんも会いたいもんだな。
あと東中少なすぎ。物理班も少なすぎ。おかげでそこは超アウェイだったんで、次回はぜひみんな顔を出していただきたい。

ここからは僕の個人的な考えというか感想。

みんなの変わらない顔を見ていて、でも変わっている立場を知って、僕は高校を卒業してからのこの17年という時間が、
一瞬で過ぎてしまったことをはっきりと悟ったよ。一瞬で、猛スピードで、風を巻いて去っていったことを実感したよ。
それは、いま僕が「これから高校生になる人々」とみっちりと接触しているということもあるんだけど、
取り返しのつかない時間的な距離というものをはっきりと理解してしまった。その頑丈さに愕然としてしまった。

本当に、みんな顔かたちが全然変わっていない。でも、動かしがたく固定化されてしまったものがある。
ほんのちょっとのことで、本当にたった少しのことで戻れそうなんだけど、実際にはそれが絶対に不可能であるという事実。
僕は簡単にタイムスリップできるつもりでいるのに、僕だけは17年前の続きをそのまま今すぐできるつもりでいるのに、
みんなの中にはそういう発想すらなくなってしまっている。過去をふまえたうえでの現在という時間しか持っていない。
それはつまり、皆さんは家庭を持っていて、そこでの現在の生活というものが絶対的なものになっているということ。
裏を返せば、僕の今の生活は自由に動かせるということなんだけど、動かしたところでそこにはもう誰もいないのだ。
僕は日記を書いているせいか、どうもほかの人よりも、過去の記憶を自在に旅する能力に長けているところがあるようだ。
それはそれで非常に楽しいことなのだが、この僕の能力とはまったく別のところで皆さんは現在だけを生きている。
その事実を今回はっきりと認識して、なんともやるせない気分になってしまった。僕は過去に囚われているのかね。


2013.1.1 (Tue.)

今年の元日も特にこれといったこともなく無事に過ぎていきましたなー。

昨日は二年越し麻雀ができなかったので、夜になって麻雀大会がスタート。
しかし雀牌を触るのがみんなあまりに久しぶりだったせいか、とにかく低調なことといったらない。
僕も、判断が悪くて聴牌までもっていくのに時間がかかってばかりで非常に苦しい麻雀となった。
運よく一回、満貫を和了ったんだけど、そのプラスがノーテン罰符でどんどん削られていくという惨状で、
半荘終わった時点で結局マイナス。みんな悔しいのでもう一半荘やってみたのだが、やっぱり低調。
それでももう一度和了った満貫のプラスをしぶとく聴牌にもっていって死守し、今度はどうにか浮いた。
今年最初の教訓は、ピンフをきちんと意識して麻雀をやんなきゃダメ!ということなのであった。


diary 2012.12.

diary 2013

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