15日の湘南×横浜FCを観戦した際にはまったく想定していなかったのだが、突如としてサッカー観戦をねじ込んでしまった。
というのも、AC長野パルセイロがJ3で2位に入り、J2で21位のカマタマーレ讃岐と入れ替え戦をやることになったから。
松本山雅がJ1に昇格してまたしても信州ダービーが遠くなってしまっただけに(→2014.11.1)、これは勝たないといかん。
というわけで、「こりゃ、女房を質にいれてでもみなあかんな!!」と鼻息荒く長野まで行ってきました。中野さん状態だよ!快晴の長野駅。まさか、わずか1ヶ月ちょっとでまた来るとは……(→2014.10.19)。
長野駅でいちばん驚いたのは、駅ビルのMIDORIに東急ハンズが入っていやがったこと。これには心底たまげたわ。
まさか長野県に東急ハンズができる日が来るとは……。長野のくせになまいきだ! できるとしたら松本だと思っていたが。
松本には国宝とJ1クラブがあって、長野には国宝とJ2になりそうなクラブがあるうえについに東急ハンズもできてしまった。
こりゃあ南信は取り残されるばかりである。愕然としつつミスドで日記をブリブリ書いて時間調整をするのであった。10時になったらさっそく東急ハンズ長野店に突撃である。MIDORIの4階に入っており、このフロアの大部分を占めている。
しかし面積としてはそれほど広くなく、ラインナップは東急ハンズの都会的な部分を要領よく持ってきた、という感じ。
東急ハンズ本来のマニアックな部分は非常に薄く、ハンズの構成要素の最小限だけという印象である。しょうがないけど。
とはいえさすがに客は多く入っており、日常生活において都会的成分に恵まれていない長野県民が大いに浮かれていた。
チラシを見たら、東急ハンズ長野店はなんと今月21日のオープンで、まだ10日も経っていないのである。はしゃぐはずだわ。2階に下りるとそのままコンコースへ出て、改札を抜けて飯山線のホームへ。本日の試合会場は長野市営陸上競技場だ。
長野運動公園総合運動場にあるのだが、最寄駅は長野から1駅の北長野駅。ここからシャトルバスに乗るわけだ。
ところが2両の飯山線はかなりの満員状態。キックオフが12時半なので多少は余裕があるかと思っていたのだが、甘かった。
ギッチギチの状態で列車は動きだし、北長野駅に到着すると客がどっと降りる。素早く動いて帰りの切符を確保するが、
駅の向かいにあるバス停はすでになかなかの行列ができているのであった。讃岐の水色のユニを着た人もけっこう多い。
バスの中では讃岐サポが「名古屋に連泊で来ている」なんて話をしていて、すげえ熱意だわと呆れる。お疲れ様です。
まあ、つまり入れ替え戦ってのはそれだけの真剣勝負なのだ。dead or alive、まさに生きるか死ぬかの戦いなのだと実感。シャトルバスが競技場の前に到着すると、すでにオレンジ色のユニを着た人たちが集まって異様な迫力を漂わせていた。
奥には水色のユニを着た集団がいて、一触即発ということはなくって雰囲気はそれなりに穏やかではあったのだが、
やはりこの一戦にかける緊張感というものがヒシヒシと伝わってくる。どうやら水色はアウェイゴール裏への待機列で、
オレンジ色は選手たちの乗るバスの入り待ちのようだった。水色の入場が完了すると、空間はオレンジ一色に染まる。せっかくなので料金を上乗せしてメインスタンドでの観戦にしたのだが、ホーム側は11時前なのにすでにほぼ満席状態。
これはちょっと落ち着いて観戦できそうにないな、ということで、中央からややアウェイ側に陣取ることにした。
僕は長野サポではないものの信州ダービーファンではあるので、今回はしっかりと長野を応援するつもりなのである。
タオルマフラーを家に忘れてきたので何かいいグッズはねえかと売り場に行ったら、今年のタオルマフラーはすでに売り切れ。
直射日光が厳しかったので、薄手のニット帽を買っていちおう長野支持を表明しながら観戦することにした。悪くない。
L: 選手たちのバスを待つオレンジ色の集団。やはり気合が違う。 C: 試合会場の長野市営陸上競技場。わりと観戦しやすかった。
R: スタメン発表はこのような古典的スタイル。倒したハードルを使って名札を置くやり方が、かえってかっこよく思えてくる。J3は今年から始まったので、当然ながらJ2・J3入れ替え戦は今年が第1回目となる。J1昇格がプレーオフ化したため、
純粋な入れ替え戦は貴重なのだ。それだけにかかるプレッシャーも半端ではない。昂揚感と緊張感が高まっていく。
讃岐はアウェイとはいえゴール裏をしっかりと埋めるだけのサポーターが遠路はるばるやってきている。思った以上に多い。
対するホームの長野もJFL時代(→2012.10.14)を考えるとかなりの成長ぶりである。メインスタンドはすでにいっぱい、
ゴール裏もオレンジ色で隙間なく染まっており、さらにバックスタンドの芝生席までしっかり観客で埋め尽くされている。
最終的には緩衝地帯ギリギリのところまで観客がきっちり入ってしまった。遅ればせながら、長野もついにここまで来たか。
(観戦者数はクラブ史上最多となる8,944人。1万人に届くかと思ったのだが。でもこれだけの人が入った事実はデカいね。)
L: 練習開始時、讃岐の選手たちにエールを送る讃岐サポ。運命を分ける一戦だけあり、ゴール裏をしっかり埋めている。
C: もともと讃岐は選手入場時に『瀬戸の花嫁』を歌うなど工夫のあるチームだが、選手の顔写真で応援するのがまた面白い。
R: 対する長野のゴール裏はオレンジのビニール袋を膨らませて対抗。真ん中に白い星というのもいいメッセージである。いちおう長野と讃岐の因縁をまとめておくと、両チームとも2011年からJFLで戦うことになった同期生である。
ただし、JFL昇格を決める全国社会人サッカー選手権と全国地域サッカーリーグ決勝大会はどちらも讃岐が優勝しており、
長野はどちらも準優勝だった。そして迎えた2011年のJFLでは、長野が2位と好成績を残したのに対し、讃岐は11位。
(ちなみにこのシーズン、ライバルの松本山雅は4位ながらJ2昇格。アルウィンというハコの威力を思い知ったもんだ。)
翌2012年も長野は2位になり、昨年はついにJFLで優勝。しかし2位になった讃岐がJ2・JFLの入れ替え戦で鳥取を下し、
一歩先にJ2加入を果たしてしまったのである。長野がいかにスタジアム問題に翻弄されてきたかがよくわかるなあ。
まあそんなわけで長野にとってカマタマーレ讃岐とはある意味、松本山雅より身近なライバルと言える存在なのである。
長野にしてみれば「ウチの方が実績は上じゃねえの?」ってところだし、讃岐にしてみれば「負けたらすべてがパー」。
旧JFLを通じて馴染みのあるクラブ同士の対戦であるだけに、より意地の張り合いが凄まじい、そんな入れ替え戦なのだ。
L: 初のJ2・J3入れ替え戦がついにスタート。さすがにメディアがよく目立っているぜ。熱い戦いを期待するのだ。
C: 序盤は完全に讃岐ペース。見てのとおりの大ピンチを長野DF・川鍋がゴールライン直前で必死に掻き出してセーフ。
R: 讃岐はFW木島の圧倒的なスピードを武器にカウンターをどんどん仕掛ける。長野側にはものすごく胃に悪い展開。コイントスで讃岐は風上側を選択。同点の場合にはアウェイゴールが考慮されるというレギュレーションなので、
アウェイの讃岐は一気呵成に攻めてくる。特にFW木島のスピードは凄まじく、長野は肝を冷やすシーンを連発。
(木島は松本山雅に在籍していた関係で、スタメン発表の際に唯一長野サポからブーイングがあった。そうでなきゃな!)
後ろからのパスの精度がいいこともあって、とにかく木島のところにボールがきれいに入る。そこからのドリブル、
さらにはキープして味方が上がってからの崩しなど、讃岐の白がオレンジを面白いくらいに翻弄してみせる。
長野の選手たちの動きが異様に硬かったこともあるが、いつ失点してもおかしくない状況がしばらく続いてしまう。
特に前半6分の川鍋のゴールライン上でのクリア、前半42分に讃岐が放ったミドルのバー直撃は心臓が止まるかと思った。
個人的に長野の選手で印象的だったのは、スキンヘッドでおなじみの勝又。FWとして相手陣内をえぐるだけでなく、
守備の場面では非常にいい読みで後ろからボールホルダーに襲いかかってピンチの芽をきれいに摘んでいた。
勝又は天皇杯でも面白いプレーを見せていたが(→2014.7.13)、ほかの選手とは違う効果的なプレーをしてくれる。
L: 守備陣を落ち着かせようとしている長野の美濃部監督。いざ就任してみたら今の長野にうまくフィットした感じだなあ。
C: 長野陣内を自在に躍動する讃岐の選手たち。そういえば長野って外国籍選手がすごく少ない気がする(韓国が2名のみ)。
R: 讃岐のカウンターが発動! うわーめちゃくちゃやべえ! 連動して動く讃岐に対して明らかに長野は後手後手である。あまりにも讃岐のカウンターが鋭いので、長野は中盤から後ろがまったく上がれず攻撃が分断されてしまっている。
かといって守備の場面では、運動量の少なさを衝かれて簡単にペナルティエリア付近までボールを運ばれてしまう。
どっからどう見ても讃岐の得点は時間の問題、長野は本当にギリギリ小指一本でぶら下がっているくらいの危うさだ。
今年のJ2は序盤から讃岐がぶっちぎりの低空飛行を続けていたのだが、地元出身の北野監督が耐えに耐え抜き、
常識はずれの泥沼にはまり込んだ安間監督の富山を抜いて最下位脱出。ヤスを解任した東京Vまでは抜けなかったが、
ある程度安定した状態でこの入れ替え戦に臨むことになった。その持ち味をこの大舞台でも存分に発揮している。
対照的に長野の硬さはこれまで見たことがないほどで、とにかく選手が動けない。まるでサッカーになっていない。
だが、見ていくうちに、長野がとにかくアウェイゴールを許さないというプランで戦っていることは理解できた。
勝負は後半のどこか、それまではなりふり構わず守りきる姿勢を貫いていた。得点するならCKか松原のロングスロー、
そう割り切って戦っているのがわかった。これは美濃部流の勝負強さかもしれない。そして長野は無失点で前半を終える。後半に入ると長野は4バックに変更して、讃岐の使えるスペースを消しつつ攻撃の起点をつくるようになる。
長野の攻撃が機能しはじめるとその分だけ木島の存在感が減り、勝負ははっきりと互角の様相を呈するようになった。
しかし讃岐の守備も手堅く、長野は決定機をつくるというところまではいかず、じっとりと時間が流れていく。
主審の判定は「見えていないなあ」と思わせるものもそれなりにあったのだが、観客席はかなりオトナと言ってよく、
ひとつひとつの判定に安易に反応することはなかった。これだけの大舞台なので興奮する客も出るかなと思ったのだが、
予想をはるかに超える紳士的な態度で、とても誇らしかった。これは讃岐サポも同じで、フェアな応援ばかりだった。
入れ替え戦という生きるか死ぬかの戦いであるわりには、極めて節度のある観戦態度だったことは特に記しておきたい。
L: 後半は時間が進むにつれて長野が試合の主導権を握っていく。 C: しかし長野はなかなか決めきれない。うーん。
R: 試合終了直前、エースの宇野沢がシュート。しかしこれはポストに嫌われてしまう。これが決まっていたらなあ……。終盤になると長野が次々に決定機をつくりだす。讃岐のCKを撥ね返すと、DFのバックパスをFW高橋がかっさらい、
準備のできていないGKとの1対1からシュート。しかしこれをふかしてしまう。観客席は総立ちの後、盛大なため息。
さらに直後のプレーで長野はゴール前に侵入すると、正面の宇野沢にボールが渡る。これはもらった!と思った次の瞬間、
宇野沢のシュートはポストに当たってゴールならず。ほかの選手がそれに詰めたものの、やはりふかしてゴールならず。
決まってもまったくおかしくないシュートが3つともはずれてしまったのは、やっぱり長野は最後までどこか硬かったということか。
長野が前半の讃岐の猛攻を耐え抜いたそのお返し、といったものを感じざるをえない。それくらいの惜しいシーンだった。
そんなこんなで緊張感満載の第1戦はスコアレスドローで終了。なんとしても第2戦では勝ちきってもらいたい。
L: 讃岐の選手たちを迎えるゴール裏。サポーターの数といい懸命な応援といい、着実にJ2でレヴェルアップしている。
C: こちらは長野のゴール裏。注目の一戦とはいえここまで客が入るようになるとは。やはり山雅の影響はあるだろうね。
R: 帰りのシャトルバスに並んでいるときに撮った長野市営陸上競技場の外観。意外と個性派で驚いた。なかなかいいじゃん。試合じたいは特に長野の選手たちが硬かったこともあって、非常に見応えのある好ゲームというわけにはいかなかったが、
それはそれとして充実していた内容だったのは間違いないだろう。派手なゴールなどはなかったが、みんなが懸命だった。
そういうゲームになったのは、長野と讃岐、両チームのサポーターがフェアな雰囲気を演出したからにほかならない。
J2の重みと地方クラブとしての立ち位置をきちんと理解しているからこそ、相手をリスペクトしつつ自軍を応援できる。
初めてのJ2・J3入れ替え戦だったが、それにふさわしいクリーンな内容に終始したことは、大いに誇れることだろう。北長野駅に着いてからもまた大変で、吹きさらしかつ満員のホームで30分以上待ってからやってきた電車に乗り込む。
南長野の改修が終わったとしてもアクセスの問題はおそらく残るだろうから(→2012.10.14)、どうにかせんとねえ。
で、長野駅に着いた後はカフェでこないだの九州旅行の写真を整理して過ごしたのだが、もう眠くて眠くて。17時発のバスで新宿を目指すが、横川SAで休憩。横川SAといえば、おぎのや帝国の本拠地である(→2010.9.24)。
峠の釜めしはもちろん売っているし、フードコートには峠の釜めし定食があるし、釜めしおやきだってあるぜ!
なんだか『ドラえもん』のドライ・ライトの回に出てきた「ドラやき食堂」のような状態である。さすがおぎのや帝国。
(※ドラやき食堂……ドラどん、ドラさしみ、ドラステーキ、ドラバーガー、ドラカレーといったメニューがある。)
せっかくなので今回は、釜めしおやき(200円)をいただいた。おぎのやマークがしっかりと刻印されているのがいいじゃん。いただきまーす。
峠の釜めしのおやきということで、中身はあの味がついたゴボウを中心に、椎茸・タケノコ・鶏肉となっている。
釜めしの全体というよりは部分をクローズアップした味になっているので、釜めし本体が非常に食いたくなるのであった。バスは定刻どおりに新宿西口に到着。期せずしてハードな一日になったが、第2戦で勝てば報われるというもの。
とにかく長野パルセイロにはがんばってもらって、少しでも早くJ1の舞台で信州ダービーをやってもらわないとね!◇
で、家に帰ってスポーツニュースを見てびっくり。J1昇格プレーオフで山形のGK山岸がヘッドで決勝点だと!?
しかもアディショナルタイムで!? 引き分けなら磐田が勝ち進むところだったのに? いやー、そりゃ劇的なことで。
長野パルセイロはぜひ第2戦で劇的な勝利を収めて少しでも話題にならないとねえ。……しかしサッカーってすごいな。
天気は悪いが久々ののんびりな休日なのであった。どう過ごしたかって? ……そんなの、日記を書いてばっかりだけどな。
3年生の成績をつける。3年生の2学期の成績は進路に決定的な影響を与えるわけで、少し緊張気味に計算を進める。
そうは言っても、詳しいことは書けないのだが、今年もやっぱり「まあこれが現実だよね」という感じにまとまったのであった。
コツコツがんばった人は伸びるし、甘えに流された人は取り残される。数字には面白いくらいはっきりとその事実が現れる。ちゃんと記録をとっていれば、数字は絶対にウソをつかない。「数字がすべてじゃない」なんて、負け犬の言い訳だ。
むしろ数字は、現実を受け入れて次へ進むための距離を教えてくれさえする。数字は人間より先に納得してくれるのだ。
毎年この時期になるたび、そのことを実感している。まず、数字を味方につけること。そうすれば成長は可視化される。
最近たまに、渋谷のTSUTAYAでまとめてCDを借りている。今回の借りたのは、川上つよしと彼のムードメイカーズ。
川上つよしは東京スカパラダイスオーケストラのベーシストであり、個人的には一番のメロディメーカーと思っている。
2001年の1stアルバム『Tsuyoshi Kawakami & His Moodmakers』は持っているが、以降はおろそかになっていたので、
このたびあらためて追いかけ直してみたというわけだ。置いてあるのを片っ端から借りて全曲MP3にして聴き込んでみた。感想としては、「ゆるくて気持ちのよいムーディな音楽」というコピーはまさにそのとおりであるということ。
ただ、あまりにゆるくて、本当にカリブ海辺りの陽気さ一色に染まっていて、キラーチューンには欠ける。
(まあそもそも「キラー」という単語を使うにふさわしくない、柔らかな曲調のものしかないのだが。)
だから僕としては、『国境の北、オーロラの果て』『美しく燃える森』『流星とバラード』などに代表される、
川上つよしの圧倒的なメロディメーカーぶりを堪能できる要素がないので、不満と言えば不満なのである。
いや、もう、オレ本当に川上さんの作曲した曲が好きなのよ。スカパラの曲はみんな好きだけど、川上さんの打率は別格。
とはいえ、このまったく攻撃的でない曲たちもまた川上つよしの本領であるし、BGMとしては最高のものばかり揃っている。
どのアルバムをとっても完成度がめちゃくちゃ高い。日常ですぐ手の届くところに置いておきたい音楽として、
川上つよしと彼のムードメイカーズという存在は非常にありがたいのだ。絶対に誰からも嫌われない音楽だと思います。
わかっちゃいたけど、九州旅行の写真がえれえことになっとる。終わりがまるで見えない……。
今月はじめにcirco氏が僕の部屋にやってきたのだが(→2014.11.3)、その際に御守のコレクションを見て一言、
「壁に並べて吊るす方がいい」とのたまった。しかしひとつひとつピンを刺してぶら下げるのは、非常に面倒くさい。
それでしばらくスルーしていたが、たまたま渋谷の東急ハンズに行ったらとんでもなくいいものを見つけてしまった。
それはレターラックの一種なのだが、カレンダーになるというもので、壁掛けに7×5の小袋がついている。
このサイズが御守にちょうどいいんじゃねえかと思って試しに1つ買ってみたら、もう絶妙どころじゃない騒ぎなのだ。
これは!と思って、平塚でサッカー観戦した帰りにも買い足してありったけ並べてみる。そしたら壮観なこと壮観なこと。
やはりcirco氏の指摘は的確だったのである。あらためてそのセンスに敬服しつつ、並んだ御守の神々しさに悶絶している。
L: というわけで、ずらっと並んだ御守の数々。一宮が中心で、地方の有名神社もいくつか押さえている。
R: 一部をクローズアップしてみた。いま僕は、こんな感じで御守が並んでいる真下で寝ているのだ。いかがでしょうか。眺めているとなんだか、マスクを集めて喜ぶネプチューンマンの気分になってくるぜ。イチバーン!
長かった旅行も今日が最終日ということで、元気に神社を参拝しまくって御守を集めまくるのである。
昨日の久留米もそうだったが、福岡も有名な神社が多い街だ。それだけ元気な城下町だったということだろう。
しかし本日のスタートは、城下町とは関係のない福岡県の超有名な神社である。そう、宗像大社だ。
前々から参拝したいなあと思っていたのだが、宗像大社は駅から遠いのでなかなかうまく予定が組めずにいた。
しかし今回は御守頂戴を主目的とする旅行なのである。むしろ朝イチで宗像大社から攻めてしまうのである。一口に「宗像大社」と言っても実体はちょっとややこしい。辺津宮・中津宮・沖津宮の3つが存在するのだ。
それぞれに宗像三女神が1柱ずつ祀られており、これは江ノ島の江島神社も同じ構図である(→2010.11.27)。
(なお、宗像三女神のうち市杵島姫神は、神仏習合の結果として弁財天と同一視されることも非常に多い。
厳島神社(→2013.2.25)も宗像三女神を祀っており、全国あちこちの神社に弁天様扱いで勧請されている。)
一般によく知られている宗像大社は辺津宮であり、市杵島姫神を祀る。湍津姫神を祀る中津宮は筑前大島にあり、
参拝するにはフェリーで行く必要がある。そして田心姫神を祀る沖津宮があるのは沖ノ島。いわゆる「海の正倉院」だ。
この島は全体がまるごと聖地となっており、女人禁制。男も年に一度、200人が禊をしてから上陸可能という厳しさ。
さすがにフェリーに乗る余裕もないし、沖ノ島なんて無理なので、辺津宮を参拝して宗像大社はクリアとするのだ。博多駅を出ると、東郷駅で下車する。一般には隣の赤間駅の方が宗像大社の最寄駅というイメージがあるが、
バスは東郷駅にしか来てくれない。タクシーの運ちゃんがたむろする中で、しばしボケーッとしていると、
やがてバスが登場。このバスに10分ほど揺られれば、境内の脇にあるバス停に到着する。バスって便利だねえ。
さて、宗像神社前のバス停は、釣川からキュッと入ったところにあって、本当に境内の脇。だからそのまま少し歩き、
駐車場の手前で体を反転させて鳥居とご対面することになるのだ。その瞬間、朝の光が直撃して眩しいのなんの。
L: 宗像大社・辺津宮の鳥居。左手にある道から来てぐるっと向き直ると参道である。朝の太陽が実に眩しい。
C: 道路を渡って境内へ。 R: 境内の様子。とにかく逆光で撮影しづらかった。朝来るところじゃないわ、ここ。宗像大社はちょうど西日本菊花大会の真っ最中で、この3連休がちょうどその期間の最後に当たっていた。
おかげで境内はあちこち菊の花だらけ。できるだけふだんの神社の姿を知りたい僕としては、かなり残念な事態だ。
しかも神門をくぐったら、拝殿が大胆に工事中。なんでも現在、「平成の大造営」の真っ最中なんだそうだ。
まあ修復工事は必要なものだからしょうがないけどさ。重要文化財の社殿、けっこう楽しみにしていたんだが……。
L: 神門をくぐる。菊祭りっぷりがおわかりいただけるかと。 C: 拝殿と本殿。 R: 見事に工事中であります。隣に用意されている仮本殿で参拝。このスケスケ空間は、それはそれで興味深いので、面白がっておくことにする。
聞けば仮本殿へ神様が移るのは43年ぶりのことだそうで、むしろ今これは滅多にないことを味わっているのだ、
と強引に解釈しておくのだ。仮本殿は原始的な造りで、祭祀空間の本質を考えるにはそれなりのヒントになりそう。
L: 微妙にシートをかぶっている本殿。 C: 本殿の周囲に並ぶ摂末社がなかなか壮観。さすがは宗像三女神の総本社。
R: 仮本殿の中はこんな感じ。地面は砂で単に屋根が架かっているだけだが、天井にLEDのライトがあるなど新旧が合体。さてこれで宗像大社はオシマイ、ではない。離れたところに宗像三女神が降臨した場所とされる高宮祭場があるし、
その手前には第二宮(ていにぐう)と第三宮(ていさんぐう)という社殿が並んでいる。これらをきちんと参拝するのだ。
境内の脇に「高宮参道」と額の掛かった切妻屋根の出入口がある。森の中を進んでいくとちょうど本殿の裏の位置に、
まるで伊雑宮(→2012.3.31/2014.11.9)のような素朴さと崇高さを感じさせる社殿がふたつ並んでいた。
……と思ったら、第二宮と第三宮は1973年に行われた伊勢神宮の式年遷宮によって別宮が移築されたものだそうだ。
しかしそれだけに、雰囲気は古来の祭祀の雰囲気を非常に強く伝えるものとなっている。しばし茫然と眺めて過ごした。そして坂道となっている参道を上ってたどり着いた高宮祭場は、完全に古代の祭祀空間そのままの姿だった。
宗像大社は沖津宮(つまり沖ノ島)が原始的な祭祀空間となっているが、その神聖さが丸ごと再現された感じである。
縄文時代、いやそれ以前から脈々と祈りを捧げてきた日本人の本質が、はっきりとうかがえる空間となっていた。
L: 手前が中津宮の湍津姫神を祀る第三宮、奥が沖津宮の田心姫神を祀る第二宮。かなり強烈な祭祀空間である。
C: 森に包まれた参道を抜けた奥に高宮祭場。境内の南にある小高い丘の上だ。 R: これは祈りの原型、そのものだ。宗像大社にまさかここまで強烈な祭祀空間があるとは思っていなかったので、とにかくひたすら圧倒されてしまった。
大陸との交流もあり、福岡という地はそれだけ古い都市(というか集落か)としての歴史を持っていた土地なのだ。
思えば九州国立博物館の展示も凄かった(→2011.3.26)。宗像大社には、あの迫力が生の空間として残っている。釣川沿いの平地。この先に中津宮、沖津宮、そして朝鮮半島と中国大陸がある。
圧倒されたままバスに乗り込み、東郷駅まで戻る。ここからしばらくは趣味の世界だ。香椎駅で乗り換えて、
3年前(→2011.3.26)には果たせなかった香椎線の南半分を制覇するのだ。香椎線は実に面倒くさい形になっており、
JRでは現在唯一の「起終点両方の駅で他路線との連絡が無い路線」である。西戸崎も行き止まり、宇美も行き止まり。
つまり、乗りつぶすのはいいけど必ずそのまま引き返すことになるという、妙な手間がかかる路線なのである。
そんなわけで終点の宇美駅までのんびり揺られること30分ちょい。到着したら宇美駅周辺をあれこれ撮って、
そのまま引き返すことやっぱり30分ほど。この1時間のロスがもったいないのだが、しょうがないのだ。トホホだ。
L: 宇美駅前。「U」のオブジェが実に大胆である。駅舎の朱色の柱は宇美八幡宮を意識したデザインなのか。
R: 宇美駅における最果ての光景。駅前が広々としているのは、かつてあった勝田線の部分を整備したため。帰りは香椎駅のひとつ手前、その名も香椎神宮駅で下車する。非常に規模の小さい駅で、なんだか拍子抜け。
というわけで、次の目的地は香椎宮だ。駅名の「香椎神宮」は正式な名前ではなく、「香椎宮」が正しいので注意。
ちなみに駅から香椎宮の間には「男煮」という居酒屋があった。魚の活造りが名物らしいが、非常に気になる店である。
L: 香椎参道を挟んで香椎宮の境内を眺める。 C: 境内は少し開けている印象。神社だけど公園っぽさが強い。
R: 楼門。1903(明治36)年に再建されたものだそうだ。ここからぐるっと左回りに上って進む感じになる。熊襲討伐の途中で亡くなったとされる仲哀天皇を神功皇后が祀ったのが、香椎宮の起源だそうだ。
仲哀天皇は実在しなかったという説がけっこう有力らしいが、そのわりには香椎宮はかなりの特別扱いを受けている。
どういう経緯で香椎宮がそこまで厚遇されているのかよくわからないが、とにかくきちんと参拝するのだ。
が、時期は七五三真っ盛り。拝殿近辺は猛烈な量の参拝客でごった返しており、写真がぜんぜん撮影できない。
特に黒田長順が1801(享和元)年に建てた香椎宮の本殿は「香椎造」というほかに例のないものだそうで、
きちんと見ておきたかったがそんな余裕はまったくなかった。中門をくぐるとすぐに拝殿というせせこましさもつらい。
L: 楼門と中門の間には、神木「綾杉」がある。 C: 脇を抜けると中門が現れる。 R: そしてすぐに拝殿。授与所近辺でたむろしている七五三の参拝客を掻き分けつつ、御守を頂戴すると香椎宮を後にする。いやあ、疲れた。
西鉄の香椎宮前駅まで香椎参道を歩いていったのだが、ここの雰囲気が実にいい。クスノキの並木道になっており、
天気がいいこともあって緑と店舗が非常によく調和していた。世田谷辺りの落ち着いた住宅地と同じ感触がしたね。
L: 拝殿の奥には幣殿、そして本殿。 C: 本殿を横から見たところ。確かに何やら不思議な構造体になっている。
R: 香椎参道の入口。交通量が多くて撮影はけっこう大変だった。緑が豊かで非常にいい雰囲気の通りである。JRではなくわざわざ西鉄の香椎宮前駅へ行ったのには訳がある。それは貝塚駅で地下鉄に乗り換えられるからだ。
直接乗り入れているわけではないので、ホームに出てから改札を抜けて少し歩かないといけないのだが、
運賃を割引してくれる。それでそのまま地下鉄に揺られて箱崎宮前駅へ。そう、次の目的地は筥崎宮なのだ。
L: 地下鉄の箱崎宮前駅から地上に出るとこの光景。筥崎宮からまっすぐ参道が延びていて、海までまっすぐ続いている。
C: というわけで、あらためて筥崎宮の鳥居を眺める。黒田長政が1609(慶長14)年に建てた逸品でございますよ。
R: くぐって境内側から眺めたところ。こうして見ると、この鳥居独特の風格がよくわかると思う。筥崎鳥居というそうな。筥崎宮には3年前にも筑前国一宮ということで参拝をしている(→2011.3.26)。そのときも参拝客は多かったが、
今回もやはり七五三ということで大いに賑わっている。11月ってのは落ち着いて神社を撮影できない時期なのだ。
さて筥崎宮というと楼門がすばらしいことでも有名だが、あらためてじっくり見ると、なかなか頭でっかちである。
正面から眺めるとまだいいが、少し脇から眺めるとだいぶアンバランスに見えてしまう。迫力は満点だけどね。
L: 筥崎宮の境内の様子。楼門の存在感が格別。 C: 楼門と正面から向き合う。 R: 脇から見るとこうなる。前回も社殿を一周しているのだが、あらためてデジカメのシャッターを切りながら歩いてみる。
本殿の後ろにはそれぞれ東末社と西末社があり、複数の神様たちがかなりコンパクトにまとめられている。
これだけきれいに整理整頓してしまっている例はなかなかないだろう。妙に感心してしまった。
L: 東末社。左端は稲荷神ということで赤が目立っている。 C: 西末社。東西できちんと対にしているのが興味深い。
R: 西末社の辺りから眺めた本殿。本殿は大内義隆、楼門は小早川隆景が建てた。鳥居の黒田長政といい有名人だらけ。参拝を終えて御守を頂戴する。筥崎宮はふつうの御守の色が白の1種類だけだったのでスッキリ。
今回はきちんと50円玉を持っていたので、それでおみくじを引いたら大吉が出たのでさらにスッキリ。
いい気分で地下鉄の駅に戻ると、天神で降りる。地上に出たら一気に空が雲に覆われていたので驚いた。残念だ。さて、地下鉄天神駅は大都会・福岡のど真ん中なので、複数の出口がある。その中のひとつを出たところに、
DOCOMOMO物件・福岡銀行本店がそびえている。黒川紀章設計、1975年竣工なのでDOCOMOMOにしては新しい。
どんなもんだべと実際に見てみたら、まあデカいデカい。大都会・福岡を代表する地方銀行の本店なので当たり前だが、
あまりにもデカくてしかも通行人も多いので、本当に撮影しづらかった。ウンウンうなりながらどうにか撮ってみる。
L: 福岡銀行本店。DOCOMOMOに追加選定されたのは2012年とずいぶん最近。前に福岡に来たときは違ったわけだ。
C: 少し角度を変えて眺める。クリスマス向けの飾り付けがちょっと邪魔ね。 R: さらに角度をつけて眺めると、こう。モノリスのような立方体をガッツリと削った非常に大胆な造形で、その削った内部(ピロティ)はどうなのか見てみると、
竣工当時はどうだったか知らないが、現在はオープンなカフェとなっていた。敷地の内側には緑も豊富に用意されており、
感触としては完全に外部空間である。公共建築、特に市庁舎建築を専門とする視点から言わせてもらうと、
1970年代以降の市庁舎建築はオープンスペースの時代となる。市役所と市民会館でオープンスペースを挟むのが流行。
やがて1980年代になると革新に対する保守の巻き返しとともに、オープンスペースは「安全な」建築内部に取り込まれ、
アトリウムとなる(これは空調技術の発達という視点も重要である)。アトリウムと駐車場が1980年代以降の空間だ。
そんな経緯を考えると、1975年における銀行のこの大胆なやり方は、実に多くの示唆に富んでいる事例であると思う。
L: 福岡銀行本店のピロティ(というには壮大すぎるように思えるが)はオープンカフェとなっている。
C: 敷地内で屋根の下にある空間だが、木々を多く植えており、つくり方は完全に外部空間のそれである。
R: 敷地の外から眺めるとこんな感じである。段差があって、明らかに道路とは隔絶されている。バリアがある。北側の昭和通りにまわり込んでみたら、こちらは穴ではなく窓になっており、けっこう雰囲気が違う。
だいぶ閉鎖的な感触のする外観で、まあこっちの方がはっきりとガードの堅い印象で、いかにも銀行っぽい。
特に窓以外の部分のファサードが暗色で無装飾になっていることが、その印象をかなり強めている。
権力と空間とデザインの関係、そして銀行という存在の意味合い。この建物は本当に奥が深いと思う。
L: 北側から眺めた福岡銀行本店。 C: 正面より眺める。 R: こっち側はめちゃくちゃガードが堅そうな印象だ。さて、天気がはっきりと曇りになってしまったのが残念だが、最後に残った一宮をきちんと制覇しないといけない。
もうひとつの筑前国一宮にして日本三大住吉のひとつ、住吉神社だ。もちろん二度目の参拝である(→2011.3.27)。
天神からは博多駅へ向けて無数のバスが出ているのでそれにスルッと乗って、その名も住吉バス停で降りればいい。
L: 3年前には何やら工事をしていた天竜池も、今はばっちり水が入っている。 C: 池の中には天津神社があるよ。
R: まっすぐ行くと住吉神社の境内だ。前回は朝っぱらにテキトーに参拝しただけなので、今回はしっかりいくぜ。鳥居をくぐると緑豊かな参道がまっすぐ延びる。住吉神社は天神と博多駅の間のややエアポケット的な位置にあり、
周囲は大規模な建築をボンボン建てるような場所ではなく、オフィスと店舗と集合住宅が混在する雑多な空間だ。
ある意味、住吉神社の存在は、この一帯が過度に開発されるのを抑止していたのではないかと思える。
もちろん背の高いビルがないわけではないが、住吉神社の緑は昔ながらの土地の匂いを周囲にはっきり残しているのだ。
都会の中にありながらものびのびと神社らしさを保っている境内を歩いていると、少し不思議な気分になってくる。
L: 鳥居をくぐって参道を行く。街中の神社にしては緑がずいぶん元気だ。 C: 途中の少彦名神社。 R: 神門。神門をくぐるとどっしりとした拝殿。その奥に黒田長政が1623(元和9)年に建てた重要文化財の本殿があるのだが、
これがやっぱりどうしてもはっきり見ることができない。もう本当に残念でたまらない。しょんぼりしつつ二礼二拍手一礼。
しかし授与所に行ったら御守がなかなか面白い。「住吉」らしく、全体に波しぶきを背景にして神紋の三つ巴をあしらう。
特に白い御守は波が金色で刺繍されており、一目で気に入った。その神社らしいデザインの御守を頂戴できるとうれしい。
L: 拝殿。 C: 肝心の本殿はこれが精一杯だなあ。もうちょっとなんとかならんかなあ。 R: 脇にある摂末社4連発。いろいろ歩きまわって腹が減ったのである。空腹に悶えながら博多駅へ向かって歩いていると、「ウエスト」の看板が。
そういえばこないだ『アメトーーク』で博多華丸・大吉のどっちか(区別つかんのよ)が紹介していたっけ、と思い出す。
「ウエスト」とは福岡県を中心に展開している外食チェーンで、メインはうどん店と焼肉店。その取り合わせがワケわからん。
でもこれは地元B級グルメを堪能するいい機会だということで、午後2時なんだけどうどんをいただいちゃうことにした。
メニューを見るに、どうも地元人気がありそうなのが、ごぼう天。ということで、関東では見慣れないごぼう天を注文。純情な博多っ子にはお馴染みらしい、ウエストのごぼう天うどん。
博多のうどんは(讃岐に比べて)コシがない、という話なのだが、それは立ち食い的なフニャフニャという意味ではなく、
スイスイと食べやすいということだと思う。食感は別に悪くなく、次から次へとすするには適度な硬さなのであった。
そしてごぼう天をかじると、なるほどと納得。ゴボウの歯ごたえがうどんと絶妙なコントラストとなっているのだ。
これは確かに食が進むぜ、と大いに感心しながらあっという間に平らげた。博多うどん、なかなかいい文化じゃないか!博多駅の行き止まり感はやっぱり札幌駅(→2010.8.7)っぽいなー。
エネルギーを充填できて、先ほどとは打って変わって軽い足取りで博多駅に到着。いい機会なのでここで一発、
やっておきたいことがある。それは、博多南線に乗ってみる、ということ。僕は鉄っちゃんじゃないので知らなかったが、
九州のくせしてJR西日本に属する路線と駅があるのだ。それが博多南線と博多南駅。いったいどういうことかというと、
住民の要望で博多駅から新幹線の車両基地までを乗れるようにしたのだ。だからこの路線の車両はすべて新幹線。
そんなオモシロ路線、体験してみたいじゃないの。というわけで券売機で切符を買おうとしたら、操作がよくわからない。
一大ターミナルの博多駅にしてみれば、博多南線はローカルというかマニアックな存在となるのだろう。すんなりいかない。
少し戸惑ったがどうにか切符を買うことができ、いざ新幹線の改札を抜けてホームへ。なんとも不思議な気分である。
新幹線の車両を使うということで、博多南線は通常の運賃にプラスして100円の特急料金がかかるのだ。
その分だけしっかりリクライニングして、車窓の風景を眺めて過ごすのであった。無駄に優雅な時間だったな。博多南線の車内。新幹線なんだけどローカルで、少し変な感じだ。
博多南駅に到着すると、まずは最果て探検。もともとが車両基地なので、実に無骨な光景なのであった。
引き返して狭いホームを長々と歩いていくと、ようやく改札。変なところが新幹線仕様なのでいちいち違和感がある。
L: 博多南線の最果て光景。さすがに特に感慨はない。 C: ホームが狭いぜ。 R: 駅名標はしっかりJR西日本である。20分ちょっと時間があるので、博多南駅周辺をブラつく。「博多南」といっても所在地は福岡市ではなく、春日市になる。
むしろ筑紫郡那珂川町の中心部が近い。博多南線はこの辺りの住民にとっては貴重な足になっているようだが、
観光するには特にこれといったポイントがないので、本当に駅付近を歩きまわっただけで散策終了。
L: 博多南駅の入口。上の高架は九州新幹線だってさ。 C: 西口のペデストリアンデッキ。 R: 下はバスターミナル。そんなわけで、あっさり博多駅に戻ってきたのであった。でもこれ、寝過ごしたらとんでもないことになるよな……。
さて本日最後のタスクはここ、博多駅が舞台である。現在の博多駅ビル(JR博多シティ)が開業したのは3年前。
ちょうどそのタイミングで博多を訪れており(→2011.3.26)、行かなかったことはないはずなのだが、
日記にはそのことにまったくふれていないのである。そう、駅ビル内にある東急ハンズ博多店のことだ。
帰りの飛行機まではまだ時間があるので、とことん気の済むまで博多ハンズを味わってやろうじゃないか!東急ハンズ博多店は駅ビルの1階から5階までに入っているが、売り場面積じたいはやや狭めとなっている。
最近のハンズの傾向そのままで、全体的なラインナップはだいぶファッション方面に傾いている感触がする。
あるいはセレクトショップの雑貨屋といった感じも強い。つまりはマニアックさよりもオシャレさを優先している。
博多っ子もハンズは大好きなようで、レジの行列がなかなか凄かった(6階の無印良品も長蛇の列だったけどね)。
九州一の大都会である博多はアジアからの観光客が多いと思うのだが、雰囲気としては銀座ハンズに近い。
銀座ハンズも海外からの客を大いに意識している店舗なので、その辺りは共通のコンセプトがあるのだろう。
博多ならではの要素は少なかったなあ。とりあえず、年末帰省時の実家へのお土産をいくつか見繕っておいた。福岡空港は地下鉄で博多駅から2駅という最高の立地なので、カフェで日記を書いて時間調整をしてから向かう。
せっかくの博多なので、晩メシは1人前の水炊き定食をいただいた。しかし意気揚々と注文してから気づく。
「オレ、水炊き食ったことないから食い方わかんない……」なんというか、われながらニンともカンともである。
慌ててiPhoneで検索かけてもイマイチ要領を得ない。とりあえずスープにポン酢醤油を混ぜていただいたのだが、
それで良かったのかどうか……。疑心暗鬼になりながらビクビク食ってもしょうがないのにねえ。博多名物をちゃんと味わえた気がしない。誰か正しい食い方を教えてくれ。
そんなこんなで楽しかった4日間の旅行も終了。長崎は佐世保方面に借りがあるので、これはまたいずれきっと。
しかし今回は、あらためて九州の奥深さを教えられた旅だったなあ。何から何まで面白かったわー。
3日目の本日は長崎を離れて福岡を目指す。まだ乗ったことのない長崎本線でのんびりと北上しつつ、神社に参拝。
行ったことのない一宮や行ったことのある一宮を押さえながら、御守を頂戴していこうというわけだ。列車が諫早駅を出たのは6時半過ぎ。空は明るくなっていき、列車が有明海に出ると雲仙の見事なシルエットが見える。
海のすぐ上で複数の山が集まっている姿だけでも印象的だが、これがしばしば大災害をもたらしているわけだから、
ただ見とれるだけで済むことはなく、どうしても「怖さ」を感じざるをえない。阿蘇とはまた異なる威圧感だ。有明海の向こうでたたずむ雲仙岳。圧倒的な存在感を見せる。
やがて線路は有明海の海岸線を丁寧になぞりながら東から北へと針路を変える。乗客の多くは部活の高校生たちだ。
彼らと一緒に降りたのは、肥前鹿島駅。「鹿島」というと東日本の人間には鹿島神宮でアントラーズの印象が強いが、
あちらは長く「鹿島町」であり、「鹿島市」といえば佐賀県なのである。茨城県の鹿島町は1995年に市制施行する際、
重複を避けて「鹿嶋市」とした。まあ個人的には、歴史的に「島」なんだから常陸鹿島市にすべきなのにと思ったが。
まあとにかく、鹿島市に来たからには鹿島市役所に行かなくてはなるまい。駅からトボトボ南へ歩いていき、
中川を渡ると図書館の奥に鹿島市役所があった。隣の市民会館でイヴェントがあるのか、朝早いのに人が多くいた。
L: 鹿島市役所。 C: 角度を変えて敷地入口より撮影。 R: もう一丁、側面も眺めつつ撮影。鹿島市役所は1979年の竣工。規模から言えば妥当な気もするが、色づかいやシンプルさなどに平成っぽさを感じる。
後ろは広大なグラウンドの中川公園で、背面が非常に撮影しやすい。ちなみに鹿島城址は中川の対岸にある。
L: 公園のグラウンド越しに眺める鹿島市役所の背面。 C: 一周して再び正面側へ。ちょいと個性的な空間だ。
R: 隣の鹿島市民会館。1966年の竣工で、建て替えの計画が進行中。昭和なコンクリートでなかなか面白そうな建物だが。市役所の撮影を終えると、バス停を探して右往左往。市役所の近くにバス停はあったけど、目的のものではなかった。
違うバス停で待ちぼうけをぶっこくわけにはいかないのである。結局、川を渡って駅方面に戻り、ターミナルで待つ。
地方都市のバスはいろいろローカルな仕組みがあるので旅行者には厄介だ。でもバスが頼りになる場面は多いのだ。茨城県の鹿嶋市は、上で述べたように鹿島神宮で有名である。しかしこちら、佐賀県の鹿島市にも有名な神社がある。
それは、日本三大稲荷に数えられることの多い祐徳稲荷神社だ。駅からかなり距離があるので、バスで行くのだ。
ちなみに鹿島市では祐徳稲荷の影響力は絶大なようで、街の中のどんなものにも「祐徳」という名前がついていた。
漢字でなくてもカタカナで「ユートク」となっているものも多い。そんなにご利益があるのかね、と驚いた。
やがて予定時刻より少し遅れてバスがやってきた。バス会社の名前はもちろん「祐徳バス」である。すごいもんだ。
乗客は僕だけではなく、女性が4人ほどすでにいた。うち2人は外国人のようで、中国方面の言語を話している。
そんなに国際的に有名なのか、とまた驚く。まあ九州はアジアの観光客が多いから、比較的人気なのかもしれない。10分ほどでバスは終点の祐徳神社前に到着。バス停は駐車場の一角にあり、そこからまたさらに歩くことになる。
朝早いとはいえ門前町の雰囲気を楽しむのもまた一興、と思って歩きだすが、やはり早すぎてどこも開店前だった。
商店街が終わったところで鳥居があり、神社の境内に切り替わる。いったん右に曲がって左に向き直ると楼門。
なんとも豪華なもんだなあと思いつつくぐると、右手の山裾に清水の舞台を思わせる見事な朱塗りの懸造があった。
L: 祐徳稲荷の楼門。 C: 楼門を抜けるとまず、右手にある懸造に圧倒される。この上にあるのが本殿だ。
R: 神楽殿。1966年竣工で、漆が塗られて伝統的な飾りもたっぷり施されてわかりづらいが、鉄筋コンクリート。とりあえず楼門からまっすぐ進んだところにある神楽殿でまず参拝。こちらも漆の朱塗りだが鉄筋コンクリートとのこと。
それからいよいよ階段を上って本殿へ。なんとも独特な形式で、これが祐徳稲荷のありがたみを増幅しているのかと思う。
なお、祐徳稲荷にはふつうの御守がなくって困った。「いちばんふつうのやつってどれでしょう?」と巫女さんに尋ね、
開運厄除のものを頂戴しておいた。神社を代表するこの1体!ってのを、どの神社も用意してくれませんかねえ。
L: 階段を上っていくと本殿の側面。まあこれもある種の横参道ってことかな。1957年に再建された。
C: 本殿前より境内を見下ろしたところ。神楽殿の屋根が非常に独特。十字になっているじゃないか。
R: 本殿から少し上がったところにあるのが石壁神社。祐徳稲荷を創建した萬子媛が入定した現場である。さて、せっかくやってきた祐徳稲荷神社、本殿に参拝してそれで終わり、とはいかないのである。奥の院があるのだ。
帰りのバスに間に合わないと困るが、まあ大丈夫だろうと踏んで石段を上る。本殿までの階段はしっかりしていて、
いかにも最近になってしっかり整備した感じだったが、本殿より先はまったく様相が異なる。さすがは歴史ある神社だ。
ルートはかなり急になっており、11月下旬の朝なのに汗びっしょりになって上っていく。いやむしろ「登っていく」か。
こちらは鉄筋コンクリートできれいにつくられた空間とは違い、稲荷らしい幻想的な雰囲気が非常に強くて興味深い。
朱に塗られた無数の鳥居や祠が急角度の石段上で斜面に貼り付くように建っている。なかなかの異世界ぶりである。
L: 命婦社(みょうぶしゃ)。神の使いの白狐を祀っており、1933年まではこれが本殿だった。佐賀県重要文化財。
C: 奥の院へ至る参道。急斜面に鳥居と祠が建ち並んでおり、これは見事な稲荷空間だ。 R: 奥の院に到着。祐徳稲荷神社は肥前鹿島藩主・鍋島直朝に嫁いできた萬子媛が創建した。後陽成天皇の曾孫にあたるためか、
朝廷の勅願所である稲荷大神を勧請したのだ。当時は神仏習合の時代で、萬子媛はこの地で入定(即身仏になった)。
その諡名から祐徳院と呼ばれるようになり、神仏分離を経て祐徳稲荷神社という名前になったというわけ。
奥の院からの眺めはなかなかのもので、神社が鹿島の市街地から離れてずいぶん奥まった位置にあることがよくわかる。
それだけ俗世と隔たっていたということで、また天皇家とのつながりも篤く信仰された一因となったのだろう。
祐徳稲荷は日本三大稲荷や五大稲荷のひとつとして伏見・豊川に次ぐ人気を誇る。その理由がなんとなく理解できた。
L: 奥の院からの眺め。鹿島の街からまっすぐ南下するだけだが、奥まった位置にあり信仰の場として絶好なのがわかる。
C: 神社からの帰り、門前町から境内の方を振り返る。 R: そろそろ9時半で、参拝客向けに店が動きはじめた感じ。バスに乗り込むとまっすぐ走って10分で肥前鹿島の駅前に到着。今回、肥前浜の宿場をスルーしたのは残念だった。
まあ余裕のないスケジュールを組む自分が悪いのだが。列車が来るまでの時間で駅周辺を軽く散歩して過ごす。駅前から延びるスカイロード。結局、市街地探索も中途半端だったなあ。
時間の都合でここから先の長崎本線は特急を利用するのだ。いきなり自動券売機が故障して大いに焦ったが、
どうにか無事に乗車すると、列車は佐賀平野を優雅に走っていく。おととい飛行機から見た、まさにその平野だ。
しかし感傷に浸っている間もなくわずか18分で下車する。佐賀駅に到着したからだ。休んでなんかいられねえぜ。駅構内の観光案内所でレンタサイクルを確保すると、コインロッカーに荷物を預けていざ出発。
佐賀には2回来たことがあるが、どちらも佐賀駅より南側が行動範囲だった(→2008.4.26/2011.8.7)。
南側だけでも佐賀は十分に広くて、歩きで動きまわった僕はその2回とも大いに辟易した記憶しかない。
広くて真っ平らな佐賀を観光するにあたって、レンタサイクルほど有効な武器はないだろう。というよりむしろ、
佐賀はレンタサイクルで観光するためにあるような街だ。佐賀にまともな観光資源があるかどうかはまた別の話だ。
閑話休題、今回は佐賀駅以南は一切無視して、ひたすら北上するのみである。目指すはまだ見ぬ肥前国一宮。というわけで、佐賀駅から北へとひたすら爆走していく。
佐賀平野の平野っぷりは熟知していたつもりだが、それにしてもやはり平野である。わずかな上りではあるものの、
勾配のペースが変わることもなければ道が曲がることもない。笑えてくるほどまっすぐ、まっすぐ、ただまっすぐ。
ただし景色に変化はあるものの、ペダルをこいでもこいでも状況が変わらないというのは、正直切ない。
でも目的地はこの佐賀平野の北端にあるんだからしょうがない。平野が終わって山が行く手を塞ぐまで、走るしかない。黙々と走ること20分、長崎自動車道の佐賀大和ICの手前でいったんストップ。「肥前国庁跡」の文字につられて、
ちょっと寄り道。まあ寄り道といっても、いま走っている国道から100mほど西に入ったところに行くだけなのだが。
思えば今までなんだかんだでいろんな国庁跡に行っているが、肥前の国庁がここにあるとは知らなかった。
でも一宮が近くにあるわけだから、納得はできる(一宮参拝ついでに国庁跡を通りかかることはちょこちょこある)。
どれどれと覗いてみたら、広大な空き地に復元された南門。その先もやっぱり広大な空き地となっている。
思えば多賀城(→2013.4.28)や太宰府(→2011.3.26)なんかも、山を背にして里を眺める、そんな位置だった。
ということはこの位置に国庁を置いたのもなんとなくわかる。ここから広大な佐賀平野に睨みをきかせたってわけか。
L: 肥前国庁跡の南門。空き地にポツンとたたずんでいる。 C: 門の向こうはこんな感じ。ロマンが広がっていますな。
R: 脇殿の跡。肥前の国庁は8世紀前半に築かれたらしい。当時も今と変わらずひたすら稲作していたんでしょうなあ。長崎自動車道を抜けると道に高低差が出てくる。佐賀平野がようやく終わったんだ、とそれで実感する。
国道263号線が嘉瀬川に沿ってくねくね曲がりながら北上していくのだが、ここから先は「川上峡」というらしい。
そのぎりぎり手前のところになかなか見事な橋があり、これを渡って右岸へと移る。少し戻って南から境内に入る。
そう、ここが肥前国一宮のひとつ、與止日女(よどひめ)神社だ。覚悟はしていたものの、やはりきちんと遠かった。
でも予定どおりにレンタサイクルで来ることができたので大満足だ。雨に降られた場合にはバスでのアクセスとなり、
この後のスケジュールが大幅な変更を余儀なくされるところだった。オレってツイているぜ、とウハウハしつつ参拝。
L: 嘉瀬川越しに眺める與止日女神社の境内。この先は川上峡で、佐賀平野の本当に端っこに位置しているのだ。
C: 南側にまわり込んで参拝開始。歴史を感じさせるのっそりとした石鳥居がお出迎えだが、その先が駐車場とは……。
R: 駐車場を抜けると公園のような雰囲気になる。三の鳥居は1608(慶長13)年に建てられており、なかなかのもの。境内には僕以外にも参拝客の姿がチラホラ。地元住民もいれば、一宮の御朱印集めをしている人もいた。
とりあえず境内のあちこちを歩きまわって観察して過ごすが、秋晴れの空に色づいた葉が美しい対比を見せており、
もうそれだけで清々しい気分になるではないか。一宮云々よりも、まずその基本的な部分で魅了されてしまった。
L: まずは手水舎。器から出る水を柄杓で受けるという珍しいタイプとなっている。平成になってからつくられた。
C: まっすぐ拝殿を眺める。 R: 角度を変えて撮影。建築年代はわからないが、かなり立派な拝殿である。御守を頂戴する際、応対してくれたおばあちゃんにどこから来たのか訊かれたので、東京ですと答える。
するとおばあちゃんもかつて東京に住んでいたことがあるそうで、最近の東京についてあれこれ話をする。
僕なんか鈍感になっているが、スカイツリーだのオリンピックだの、地方から見た東京は派手に動いているようだ。
言われて初めてそのことに気づく。なお、與止日女神社の御守は何種類かあったが、いちばんふつうなものを選んだら、
なんとどこにも名前が記されていなかった。ただ表面に「御守」とあるだけの非常にシンプルなもので、
せっかくの一宮なのにもったいないなあと思った。御守は旅の思い出にもなるから、できるだけ凝ってほしいのだが。
L: 本殿。かつて與止日女神社には本殿がなく、嘉瀬川と川上峡の巨石群を祀る自然崇拝の場所だったという話もあるが。
C: 本殿の脇にあるカエデが色づいてとてもきれい。日の光を浴びる紅葉を青い空と一緒に眺めると本当にきれいなんだよな。
R: 1573(元亀4)年に建てられた西門。與止日女神社がただの穏やかな神社ではないことを示す、何よりの証拠だ。帰りは緩やかながらもいちおう下りになるので、それもある程度計算に入れながら滞在時間を逆算して過ごす。
與止日女神社の雰囲気は本当に「癒し系」ってやつで、一宮ということで気取っているようなところがまったくなく、
本当に市街地のはずれにある自然豊かな公園に近いものがある。しかしながら歴史ある神社らしい風格は確かに強い。
つまり場所がいいのだと思う。今も川のすぐそばに鎮座し、日本における自然崇拝、信仰の根源的な部分を保っている。
実は與止日女神社が一宮になったのは国府が近かったから、という事情もあるようなのだ。国府→一宮という順らしい。
しかし実際に訪れてみると、単純に国府に近いことだけが理由とは思えない。水神信仰の確かな実績があればこそだろう。存分に境内を歩きまわって満足すると、ペダルをこいで一気に南下。たまらず途中で昼メシをいただきつつ、
なかなかいいペースで佐賀駅まで戻った。しかし駅の北側は運動公園に体育館に文化会館に病院に警察学校にと、
かなり強烈な開発ぶりとなっている。どうやら1976年に佐賀県で行われた国体が開発の動機となっているようだが、
そういう構図は日本全国どこでも共通している。国体の陸上競技場とJリーグの関係を探るのも面白そうなテーマだ。佐賀駅から鳥栖駅に出ると、ホームから鳥栖スタジアムが見える。できればまたここでサッカーを観戦したいものだが、
なかなか来れない九州はいろいろ魅力的な要素がありすぎて、なかなかそれが叶わない。鳥栖周辺住民がうらやましい。
そんな気持ちを抱えつつ、ここでいったん鹿児島本線を南下。福岡とは逆方向に2駅、久留米を目指すのだ。
久留米といえば筑後川越しに眺めるアサヒの工場なのだが、キレイに上塗りされてまったく風情がなくなってしまった。
(塗りたくる前 →2011.3.27/塗りたくった後 →2011.8.7 5ヶ月足らずで変化して、ひどく驚いたもんだ。)
なんともションボリしているうちに久留米駅に到着すると、駅前のロータリーでバスを待つ。久留米はバスの街なのだ。久留米周辺に一宮は2ヶ所ある。ひとつは肥前国一宮・千栗(ちりく)八幡宮。もうひとつが筑後国一宮・高良大社。
まずは千栗八幡宮から攻めるのだが、その所在地は厳密には佐賀県のみやき町である。久留米駅の端っこぶりがわかる。
千栗八幡宮への参拝は2回目となるが、前回はレンタサイクルを借りられずに歩きだし、途中でバスに乗った。
歩けない距離ではないのだが、時間がもったいないのである。そんなわけで今回も素直にバスのお世話になることにした。
久留米駅を出たバスはぐるっとまわり込んでいま渡ったばかりの筑後川を引き返すと、そのままひたすらまっすぐ走る。
わかっちゃいるけど見事な直線ぶりである。そしてこの直線が終わるところこそ、千栗八幡宮なのである。
L: 千栗八幡宮に到着。バスだと久留米駅からあっという間に着いてしまうのだ。本当に駅からまっすぐ。
C: 古賀稔彦が足腰を鍛えたという石段。あらためて上るが、やっぱり強烈。 R: 上りきると鳥居である。下車すると深呼吸して覚悟を決める。そして石段をグイグイ上っていって、境内へと入る。相変わらずの強烈さだ。
汗を拭きつつあちこち散策して過ごす。2回目の参拝なので正直あまり新鮮味はないのだが(→2011.8.7)、
逆にその「変わらない部分」に歴史を感じて面白がってみる。これが古来変わらない神聖さなんだよ、と思い込む。
L: 千栗八幡宮の拝殿。 C: 本殿。 R: 境内の様子。真ん中にあるのはお粥の神事で使われるお粥堂。さて肝心の御守頂戴タイムだが、神職の方は10年ほど前まで東京にいらしたそうで、あれこれ雑談が弾んだ。
一宮の御朱印を集めて参拝に来る人は多いそうだが、御守をテーマにして来る人はやっぱり少ないようだ。
八幡系の御守はわりとデザインを統一しているらしいとうかがったのだが、実際のところはどうなんでしょうかね。
神職の方は、筑前と筑後の境となった川の流れの跡や、昔の門前町の様子について教えてくださった。
さらには「千栗」ということで、栗の落雁までお土産に下さったのであった。職場でおいしくいただきました。
バスの来る時間いっぱい、興味深い話をあれこれ聞かせていただいた。本当にありがとうございました。
L: 前回参拝時も眺めたが、やはり千栗八幡宮からの久留米方面の眺めは抜群にいいわ。道のまっすぐぶりもすごい。
R: 写真だとわかりづらいが、境内のすぐ下には筑後川の旧水路跡があり、そこが国の境だったのがうっすらわかる。バスでそのまま、西鉄久留米駅まで行ってしまう。久留米は西鉄の方が都会というか商店街に近いのだ。
だから西鉄久留米駅の方がバスターミナルとしての機能が充実している。充実しすぎて素人には難しくて、
それで高良大社方面へ向かうバスを1本逃した。どの番号から乗ればいいのかが、まったくわからないのである。
結局、素直に案内所で訊いて解決。わからないことをはっきりと自覚する早さってのも大切だと実感。高良大社は有名な神社なので公共交通でのアクセスが充実していると思ったら、ぜんぜんそんなことなかった。
西鉄久留米駅から20分ほど揺られると御井町というバス停があって、そこでまず降りる。この御井町が麓で、
ここからひたすら山を登っていったところが高良大社だというのだ。登山はだいたい40分くらいになるらしい。
バスは神社前まで行けよ!と思うのだが、現実は現実として受け止めないといけないのである。どうしょうもない。
まあどうせ僕の旅は、どこかで何かしら登山が入ってしまうことが多いので、こういう事態には慣れっこなのだ。
バスが来るまで気分転換がてら足をほぐしておいて、勝負の時に備えておく。あらかじめ水分も補給しておく。西鉄久留米駅を出たバスは南東へ走る。都会から落ち着いた郊外の住宅地へと景色はだんだん変わっていくが、
わりと昔ながらの雰囲気が残っていて、さすが久留米は歴史のある街だと思う。やがてバスは大きな鳥居の前に出て、
その手前にあるスペースでUターン。ここが御井町のバス停というわけだ。見事に一の鳥居からのスタートなのだ。
バスを降りるとさっそく軽くストレッチして、いざランニング開始。ゆるゆるとした住宅まじりの山裾を抜けると、
山道に入って二の鳥居。ここから先は石段だったり石畳だったり土だったり、完全なる山道である。もうどうにでもして。
L: 御井町バス停からすぐの一の鳥居。1655(明暦元)年に第2代久留米藩主・有馬忠頼が寄進。さすがに立派。
C: 住宅地を抜けると山に入って二の鳥居。ここから先は完全に登山である。ご利益を感じざるをえない。
R: 毎度おなじみトレイルラン実行中。このように切り通し状態の石段混じりの道をグイグイ進んでいくのだ。参拝客はさすがにけっこう多く、思ったよりは頻繁に人が歩いている。久留米市民には適度な運動コースのようで、
しっかりスポーツウェアを着て参道を行き来する人がわりと目立つ。そんな人より速いスピードで駆け上がる僕。
もちろん汗びっしょりで、気合だけを頼りに足を動かす。まあ今日はこの高良大社でラストだから、やりきるしかない。
あまりにも気合十分だったからか、予想よりもはるかにあっさりと境内に到着。一の鳥居をくぐって20分弱である。
七五三の記念撮影に勤しむ家族連れを横目で見ながら呼吸を整える。いやホント、予想していたより楽でよかった。
L: 神宮寺本坊跡。高良大社は西暦300年代の創建だそうで、歴史がある分、ちょっと強めの神仏習合っ気を感じる。
C: ラストスパートの石段。これを上りきると社殿の真正面に出る。 R: 非常に立派な社殿を南西側から眺める。高良大社は本殿・幣殿・拝殿がそれぞれ重要文化財となっている(さっきの一の鳥居も重要文化財である)。
第3代久留米藩主・有馬頼利の寄進で、本殿が1660(万治3)年、幣殿・拝殿が1661(寛文元)年の竣工とのこと。
古いからただすごいというわけでなく、サイズもまた立派なのだ。神社としては九州最大だそうで、そうとうな迫力だ。
サイズのわりに中門・透塀が近いので、中からだとどうしても社殿が迫ってくるように見えるのだが、ただただ圧倒的。
L: 中門。こいつと周囲を囲む透塀が、社殿にかなり近い位置に建っているのだ。 C: おかげで社殿の圧迫感がすごい。
R: 側面を眺める。もうちょっと余裕を持ってじっくりと眺めてみたい建築物である。が、それは叶わないので切ない。社殿の周囲には神輿があったり摂末社があったり。ぐるっと一周してみたが、やはり社殿の圧迫感がいちばん印象深い。
境内の端っこには高良会館の展望所に直接入ることができる。ここからの久留米の眺めが非常にすばらしかった。
どれがどの建物かなどははっきりとわからないのだが、やはり久留米ほどの都会になると眺望の見応えが違う。
L: 本殿裏には神輿。 C: 高良会館。1965年竣工ということで、鉄筋コンクリートの自由度全開な建物である。
R: 高良会館からの眺め(透明の板越し)。ちくごーがわ、ちくごーがわ、そのフィナーレじゃないけど、ああー♪なお、高良大社の御守は特徴的で、少し縦に長くててっぺんがきっちり尖るように折ってある。
そして2つ重なった宝珠が真ん中にデザインされているのだ。宝珠は稲荷系にはちょこちょこ出てくる素材だが、
仏教の流れを汲むものだ。やはり高良大社は神仏習合の気配がほかの神社よりも少し強いなあ、とあらためて思う。相変わらずの大股スピーディ下山で二の鳥居を抜けると、さっき通りかかって気になっていた神社に参拝する。
一の鳥居から二の鳥居までの間には池があるが、その池を望むようなちょっと高い場所に小さな神社が鎮座している。
高樹神社という名で、案内板の由緒を読んで驚いた。ここに祀られている神様こそ、もともとこの地の神様だったのだ。
しかし高良大社の神様が一夜の宿を借りたいと言うので貸してあげたら、そのまま乗っ取られてしまったという。
結局、山裾のこの場所に落ち着いて高良大社の摂末社となってしまった。現状の扱いを見るに、なかなかにひどい話だ。
おそらく歴史的に、この土地のもともとの有力者が追いやられて、その後の支配系統が高良大社を通して制度化された、
その経緯を反映している物語なのだろう。レヴィ=ストロース並みに神話について勉強してみなけりゃわからんかね。高樹神社。まあとにかくがんばれ。オレは高樹マリアとか好きだ。
御井町から西鉄久留米駅まで戻ると、さらにそのままJR久留米駅まで戻ってしまう。いろいろ複雑ではあるのだが、
JRから西鉄までの間をかなりのバスが走ってくれるのは非常に便利だ。スムーズにJRの方まで戻ることができたので、
少し暗くなりはじめていたが、ちょっと足を延ばして水天宮まで参拝に出かける。もちろん御守を頂戴しておくのだ。水天宮の拝殿を前回(→2011.3.27)とは異なる角度から。
久留米を出ると、30分ほどで博多駅に到着。久留米も都会だったが、こちらはもう桁外れの大都会である。
宿は博多駅からまっすぐ10分ほど歩いていったところにあるので、素早くチェックインしてメシを食いに出て、
そのまま近くのカフェで日記を書いて過ごす。しかし今日一日で一気に御守が集まったなあ。自分で自分に呆れる。
2年越しの思いを込めた長崎旅行、本日は県庁所在地・長崎市を徹底的に攻めるのだ。基本的に長崎で一日過ごす。
3年前の夏休みに敢行した九州一周大作戦では、その地理的特性(端っこ)により、長崎県だけがルートからはずれた。
それもあって昨年、長崎県に焦点を当てた旅行を計画したわけだ。しかし飛行機の料金払い忘れで計画はおじゃん。
3連休を体育座りで過ごした哀しみは忘れようにも忘れられない。今こそ、そのリヴェンジの時が来たのだ!
長崎といえば日本でも屈指の観光都市。前回訪問時(→2008.4.27)よりもさらに掘り下げていろいろ見てやる。とはいえ、まずはその前にやることをやっておかないといけない。それは、諫早市内の街歩きである。今回の旅行は、
昨日のログに書いたとおり、前半を長崎県観光、後半を神社訪問しながらの移動という別個の動きを組み合わせている。
それで佐賀県へ出やすい諫早に宿を連泊で確保しておいた。だから朝のうちにきちんと諫早市を味わっておくのである。宿を出たのは午前7時。当然、街歩きをするには早すぎる時間帯だ。しかしこればっかりはどうしょうもない。
逆に考えて、朝早くに訪れてもあまり差のない箇所から優先的に攻めていくのだ。余裕がないのはよくないけどね……。
まず諫早駅前を南に抜けて、目指すは諫早神社。「四面宮」という別名があり、これは昨日の温泉神社と同じ。
そう、諫早神社は雲仙の温泉神社を勧請してできた神社なのだ。あらためて温泉神社の影響力に驚かされたのであった。
二礼二拍手一礼して参拝を終えると、そのままさらに南下。本明(ほんみょう)川に沿って道は東へと大きくカーヴするが、
川も道も曲がっているのは旧諫早城である山が行く手を塞いでいるため。この山は現在、諫早公園となっている。
少しややこしいことに、この諫早公園は日本の都市公園100選のひとつ「上山(じょうやま)公園」の一部となっている。
諫早公園の南西にはさらにデカい山がドカンとそびえていて、これが上山公園のメインパートとなっているのだ。
まあせっかくの早朝散歩なので、今日はこの上山公園から行ってやろうというわけ。相変わらずの体力勝負であります。
L: 諫早神社。地元にがっちり根付いている印象。 C: 本明川と諫早城址の諫早公園。かなりの存在感である。
R: 諫早公園を南にまわり込むと高城神社。江戸時代に諫早を治めた諫早氏の祖・龍造寺家晴を祀る。明治の創建。県道41号、それと並走する島原鉄道の線路を越えると右側がはっきりと山となる。これが上山公園だ。
しばらくその裾をまわり込むように歩くと、健康福祉センターのところから園内に入る道があったので突撃する。
まずはツツジ園があって、その先へと進むと散策路に出た。どこまで行けばいいのかわからなかったが、
とりあえず行けるだけ行ってみようと上を目指して歩いていく。しばらく歩いたら展望台に出たので、
まあこれで上山公園はヨシとしよう、という気になる。でも朝靄と木々のせいで眺めはあまりよろしくなかった。
L: 高城神社の向かいにある諫早市体育館。詳しいことはわからないが、凝った意匠だったので撮影してみた。
C: 上山公園の中はこんな感じで、はっきり山である。 R: 展望台より眺める諫早市街。イマイチである。来た道を戻って本明川まで出ると、今度は諫早市役所を目指して歩く。市役所の手前は芝生の広場になっており、
連休に合わせてイヴェントでもあるのか、飾り付けがなされていた。その先に見える諫早市役所はずいぶん新しい。
歩きまわりながらデジカメのシャッターを切っていたら、広場の東側に完璧なるモダニズム構造体があるのを発見。
島原図書館と同じく武基雄が設計した(正確には武建築設計研究所+日亜設計事務所)、諫早市民センターだ。
竣工は1972年で、外観から受ける印象よりはちょっと新しい。完全に1960年代の匂いしかしない建物なのだが。
L: 諫早市民センター。要するに公民館である。 C: 西側から眺めたところ。 R: 東側から眺めたところ。市民センターを一周しながら撮影していたら、アーケードの商店街にぶつかった。手前には十八銀行諫早支店。
どうやらここ、島原鉄道本諫早駅周辺が本来の諫早の中心部のようだ。諫早駅は長崎県を代表する交通の要衝で、
その都会ぶりを僕は昨日からそのまま純粋に受け止めていたのだが、むしろ本諫早の方をきちんと味わうべきだったのだ。
自分の無知さが恥ずかしい。しかし冷静に考えると、諫早市には諫早駅と本諫早駅、2つの核がある状態と言えるわけだ。
本諫早があっさりと諫早駅に主導権を譲ることなくそれなりの勢いを維持している点に、諫早市の底力を感じる。
L: 十八銀行諫早支店。清水建設の設計で1931年に竣工した模様。 C: アーケード側、正面の様子はこんな感じ。
R: アーケード商店街。さすがにやや寂れ気味っぽい雰囲気。V・ファーレン長崎を応援する横断幕が見えますな。ではあらためて諫早市役所についてのあれこれ。2009年の竣工で、設計は松林建築設計事務所と山下設計のJVだ。
見るからに軽さを感じさせるが、ガラスとベージュで最近のオフィス建築にしてはちょっと落ち着いている印象もある。
L: 諫早市役所の北面。芝生の広場を挟んで眺める。ちなみにこの芝生広場は先代の諫早市役所の跡地とのこと。
C: 広場と市役所の間は駐車場となっている。 R: 駐車場からあらためて眺めた諫早市役所。面白みはあまりないものの、趣味の悪い要素をかなり排しているので批判は少なそうに思える市役所である。
まあ、モダンといえばモダンか。中心市街地活性化の切り札として今後もがんばっていただきたいものだ。
L: 西側へとまわり込む。 C: 南西側から眺める。 R: 南面。なお、市役所の南隣には2001年竣工の図書館がある。なんだかぜんぜん諫早の街を味わえたという実感が湧かないが、最後に諫早が誇る重要文化財を堪能させてもらう。
先ほど通った諫早公園だが、ここの端っこにある池には、眼鏡橋が架かっている。石橋では日本初の重要文化財だ。
諫早の街は本明川の水害に何度も襲われており、住民は流されることのない頑丈な橋をつくるべく、石橋の建造を開始。
そして1839(天保10)年に眼鏡橋が竣工した。以後、眼鏡橋は一度も流されることなく役割を果たしてきたのだが、
1957年の諫早大水害では橋があまりに頑丈だったために濁流をせき止めてしまい、結果、被害を拡大させてしまった。
その後の復興計画で本明川の川幅を拡張することが決まり、眼鏡橋をダイナマイトで爆破するという案も出された。
しかし保存を望む声によって水害の翌年に重要文化財に指定され、諫早公園に移設されたという経緯がある。
L: 諫早の眼鏡橋。現在は諫早公園の池で静かにその威容を見せている。 C: ここがいちばんの撮影ポイントらしい。
R: 江戸時代の末期とはいえ、このデザインはかなりキレているじゃないか。長崎に近いゆえの先進性なのかな?眼鏡橋は今もきちんと渡ることができる。実際にそのアーチの上に立ってみると、その頑丈なつくりに圧倒される。
これだけ隙のない石造りの橋が江戸時代のものとはとても思えない。いや、それが偏見混じりだとは自覚しているが、
たとえば錦帯橋(→2013.2.25)のような伝統的な木造の橋と同じ感触で、アーチが完全に石で再現されているわけだ。
正直、これは非常に不思議な感覚である。特に眼鏡橋はサイズがかなり大きいので、「違和感」が強いのかもしれない。
L: 眼鏡橋のアーチを堪能してみる。サイズがあるので、木造の曲線が石で完全再現されている点に独特さを感じる。
R: 諫早高校のすぐ手前のところには、眼鏡橋を移築する際につくられた1/5スケールの模型が置かれている。いちおうこれで今回の諫早探訪は終了である。わかっちゃいたけど、朝早すぎる街歩きは消化不良になるものだ。
スケジュールの都合でしょうがないことなのだが、モヤモヤした気分を抱えながら長崎本線に揺られて終点の長崎駅へ。函館と長崎は日本の誇る最果ての都会だ。どっちも外国由来の観光都市だな。
急いで軍艦島ツアーの集合場所である常盤ターミナルへ行かなくてはならないのだが、どうしても気になるものがある。
それはDOCOMOMO物件の「日本二十六聖人殉教記念施設」だ。「記念館」「聖堂」「記念碑」が一体になっており、
今井兼次の設計で1962年の竣工。今井兼次は大多喜町役場(→2014.8.3)も設計しているが、両者を比較すると、
なるほど時代の流れにあったモダニズムをベースにしつつ、手づくり感を足して独自性を出していった作風がよくわかる。
考え方としては、広島にある村野藤吾の世界平和記念聖堂(→2008.4.23/2013.2.24)と似たものを感じる。
L: まずは日本二十六聖人記念聖堂。長崎特有の猛烈に急な坂の途中にある。 C: 西坂公園を挟んで眺めたところ。
R: 角度を変えてもう一丁。今井兼次はガウディの研究者でもあったそうで、確かに尖塔がサグラダ・ファミリアだ。坂を必死で上ってたどり着いたものの、日本二十六聖人の記念碑は工事中でブルーシートが掛かっていて見られず、
記念館も時間的に余裕がなくって入れず、本当に外観をちらっと眺めただけで終わってしまった。情けない。
いつかリヴェンジしたいものだが、長崎ってのは西の端っこなので、気軽に行ける感じがしないんだよなあ……。
L: 日本二十六聖人記念館。もともと坂の上で土地に余裕がないこともあり、このアングルでしか撮影できなかった。
C: 背面側。タイルなどで絵が描かれており、それがモダニズムと一線を画す。が、後にモダニズムはそれも取り込んだ。
R: さらにその後方にくっついている建物。スペインというよりはむしろ中国製の陶磁器のような感じもするが。ざっと撮影を終えると急いで路面電車に飛び乗って大浦海岸通りを目指す。途中の築町乗り換えがもどかしくって。
どうにか着いたが集合時刻には遅刻。本当にすいませんでした。でも快く船に乗っけてくれたのはありがたかった。というわけでいよいよ次の目的地は軍艦島だ。6年前に長崎を訪れた際は、その存在はある程度知られていたものの、
観光資源としてはまだ整備されてはいなかった。しかしさすがは観光都市・長崎だけあり、その嗅覚は本当に鋭い。
あれよあれよという間に条例が制定されて、気づけば長崎を代表する観光地がもうひとつできあがっていたのであった。
タイミングとしては、僕が旅行した翌年から軍艦島観光が解禁された格好だったので、そりゃもう悔しくて悔しくて。
それで昨年、鼻息荒く軍艦島ツアーを申し込んだらまさかの飛行機入金忘れで体育座りですよ。積年の思いがあるのだ。
現在、軍艦島ツアーは5社ほどが実施しており、それぞれに特徴がある。まあそれだけ人気があるってことだ。遅くに船に乗り込んだ分、出入口に近い通路側の席に座って30分ほど揺られる。するとアナウンスがあって、
デッキから軍艦島を見られるというので、迷うことなく飛び出した。そこには確かに軍艦を思わせるシルエットの島が!
緑が覆いかぶさっている箇所もあるものの、コンクリートの構造物ががっちり表面を固めている姿は圧巻である。
L: やってきました軍艦島。 C: ほかのツアーが上陸中。しかし島がまるごと都市で、今はまるごと廃墟とは……。
R: 端島神社の本殿。拝殿はすでに倒壊してしまったという。これがひょこっと残っているってのがすごくいい。ツアーは慣れたもので、まずは東側から島の全体を眺めると、北からぐるっとまわって西側へ。じっくりと、
軍艦島の細部まで観察できるように安定したスピードで進んでいく。観光できるのは島の南側に限られているので、
北側はこうして船上から眺めることで補完しようという意図がよくわかる。かゆいところに手が届く配慮である。
船はそのまま軍艦島の西側で停止。こちらからの眺めが軍艦「土佐」に似ていて「軍艦島」の由来になったそうで、
たっぷりと記念撮影タイムをとってくれるのであった。午前中なので逆光だったが、心ゆくまで撮影できた。
L: 北東側。左が70号棟(端島小中学校)。右は軍艦島最大のアパート・65号棟。屋上は保育園で、すべり台もある。
C: ゆっくりと東側を行く。無数の集合住宅が折り重なる姿は圧巻である。本当に映画やマンガの世界そのままの光景。
R: 東側から眺める軍艦島。なるほど、これはまさに軍艦だ。満員の乗客たちは気が済むまで記念撮影しまくりであった。ではいよいよ上陸である。この日はこれ以上ない絶好の晴天に恵まれて、しかも波がほとんどゼロという好条件で、
ガイドの方も「こんなにコンディションのいい日は、一年に2,3回あるかないかですよ」とおっしゃっていたほど。
最高のタイミングで訪れることができたのは本当にうれしい。去年の体育座りのことを考えてもお釣りが来るほどだ。
さて、さっきから「軍艦島」と書いているが、正式な島の名前は「端島(はしま)」である。炭鉱として栄えた島だ。
もともとは南北が約320m×東西が約120mの島で、埋め立てによって3倍ほど広くなった(約480m×約160m)。
本格的に炭鉱の開発が始まったのは明治に入ってからで、1890(明治23)年からは三菱財閥の私有地となる。
人口が最も多かったのは1960年で、5,267人。人口密度は世界一で、東京23区の9倍以上にもなっていたという。
しかしエネルギー革命で石炭から石油に移行が進むと急速に衰退。1974年に炭鉱は閉山し、そのまま無人島となった。
やがて廃墟ブームが到来すると、特異な景観と歴史を持つ軍艦島は注目を集めるようになる。日本って平和だね。
で、上述のように2009年から観光事業がスタートし、今では長崎の人気観光スポットとして完全に定着している。
L: ついに上陸。第1見学広場から北を眺める。いちばん奥が小中学校で、手前の構造物は石炭を運ぶコンベアの橋脚。
C: 崖の上の幹部用住宅・3号棟。一等地ですなあ。 R: 見学の様子。みんなで貯水槽を見上げるの図。現在、軍艦島で見学ができるコースは南側の特設通路のみに限られており、途中に3ヶ所の見学スペースがある。
基本的にはハンズフリーのマイクに携帯スピーカーという形で代表の方があれこれガイドしてくれるのだが、
客が多いこともあって写真を持った係の方たちが周囲に立って掲げて見せてくれる。よくできているなあ、と感心。
見学できる箇所は限られているものの、興味深い内容の話をいろいろ聞けて特にストレスを感じることはなかったなあ。
L: いかにもな廃墟が登場だ。これは総合事務所の跡。 C: 角度を変えて眺める。ちなみに灯台は閉山後に建った。
R: 第二竪坑坑口桟橋跡。つまり炭鉱の坑道への出入口で、鉱夫たちは真っ黒になってここから帰ってきたわけだ。島のいちばん南側をまわり込んで最後の見学広場へ。工場群跡の向こうには、黒くて真四角の建物がある。
これが日本初の鉄筋コンクリート造の集合住宅である30号棟だ。1916(大正5)年の竣工ということで、
なんと同潤会アパートより一回り古い(同潤会アパートは関東大震災の復興を目的に建てられた →2012.12.2)。
この端島という場所だからこそ必要で、そして三菱という財閥だからこそできたことなのかもしれないが、
まさか建築史上に燦然と輝く同潤会の先を行く建物が、ここに今も凛とした姿を見せてくれているとは。
ここでの生活を想像するにはあまりに廃墟と化してしまっているが、でもその痕跡は確かに残されているのだ。
化石に似たところがある。存在した、生きていたという確たる証拠。あまりに遠いが、しかし目の前に現実がある。
L: 南側の廃墟群。 C: 右の黒い建物が30号棟。1916年の竣工時には4階建てだった。それが残っているとは……。
R: 端島を取り巻く護岸堤防には釣り人たちの姿。堤防上なら条例違反にはならないのだ。なお、手前はプールである。軍艦島の面白さとは、まあ人によってそれぞれあると思うのだが、いちばんは「特異な空間体験」にあるだろう。
ふつうでは経験できない特殊な空間に実際に身を置くことで、面白さを感じる。そういうことになるのだと思う。
(フィクションのような現実に価値を感じさせるという点では、竹田城(→2014.10.27)に似た要素がある。)
もちろん、かつてここにあった生活を想像し、今の自分の生活と比べたり重ねたりするという楽しみ方もあるだろう。
目の前には圧倒的な存在感で時間が横たわっている。可視化された時間、それはやはり化石に似た物語なのだ。さて、実際に軍艦島に上陸して思ったことをもうひとつ。軍艦島を楽しめるタイムリミットは、案外短いかもしれない。
海に浮かぶコンクリートの構造物たちは、メンテナンスを放棄されたまま風雨にさらされ深刻なダメージを受けている。
だからこその廃墟なのだが、それにしても傷みはかなり進行している。素人目で見ても限界ギリギリであると感じる。
特に近年の台風は大型化しており、その直撃を受け続けている軍艦島は、着実にその寿命を削られているはずだ。
つまり、軍艦島が「いい具合の廃墟」であり続けていられる時間は、もはやそう長くなさそうに思えるのである。
朽ちているから観光資源になるが、完全に朽ちたらそれはもはや何の価値も持たない、という逆説がそこにはある。
原爆ドームが象徴的だが(→2008.4.23/2013.2.24)、廃墟を維持するための工事が必要になってくるのだ。
言わば、廃墟という「現実」を残すためには工事という「フィクション」を介在させることが必要となる、その矛盾。
軍艦島という価値、廃墟という価値、それをわれわれはどの程度肯定できるのか。具体的には維持資金の投入だが。
もしかしたら、軍艦島は今、2番目に幸福な時間を送っているのかもしれない(一番はやっぱり1960年ごろだわな)。
今後、軍艦島はその幸福をどのように保っていくことができるのか。空間が持っている歴史や時間としての価値、
それがわれわれの健康で文化的な最低限度の生活とどう折り合いをつけるのか。軍艦島はこの問題に直面するはずだ。
L: 護岸の裏側にはこのように明治時代の石積みが残っている。 C: ドルフィン桟橋に残る石積みの護岸が実に壮観。
R: さらば軍艦島、また会おう。できるだけ長く今の姿を保っていてほしいとは思うが、正直かなり心配である。帰りは素早く動いて船の2階端っこに席を確保。というのも、往路で右手に2つ教会が見えて、これはいい!と。
こりゃもう復路でばっちり撮影するしかないぜ!と作戦を立てたからである。ホント、こういうことには頭が回るオレ。
軍艦島を出発すると、中ノ島、そして高島。するとしばらくして沖ノ島へと入る。ここで左手後方に身をよじると、
馬込教会(沖ノ島教会、正式名称は聖ミカエル教会)がはっきりと見えた。白く輝いてその存在は本当に目立っている。
いわゆる火焔様式(フランボワイアンっつーのか)を少し意識したような、仰々しいファサードがお面のようで強烈だ。
といっても海上から見ると、それは絶妙なランドマークとなる。これくらいでちょうどいいのかなるほど、と納得。
そしてもうひとつは、長崎湾の入口にあるカトリック神ノ島教会だ。手前の岩場に立つマリア像が目立っているが、
僕としてはその奥にどっしり構える神ノ島教会の方に惹かれる。これまた真っ白い姿が非常に印象的だ。
こちらももともとは島の教会だったが、神ノ島が埋め立てられたことで、今のように陸地の突端に建つ教会となった。
長崎の教会群とキリスト教関連遺産は世界遺産の推薦候補となっているが、それ以外にも見るべき教会が多数ある。
馬込教会と神ノ島教会には、あらためてそのことを実感させられたなあ。いや、もう、キリがねえです。
L: 馬込教会。台風に耐える鉄筋コンクリートの教会ということで1931年に再建。国登録有形文化財。
R: カトリック神ノ島教会。レンガ造りで1897(明治30)年に竣工。これまた美しいランドマークだ。船は長崎港へと入る。長崎港は海を挟んだ東西で、その役割がはっきりと分かれているのが面白い。
東山手や南山手を擁する歴史ある市街地は東側にあり、海岸線には客船の発着所が並んでいる。
それに対し西側は三菱重工業長崎造船所の造船ドック。中でもハンマーヘッドと呼ばれるクレーンの存在感が圧倒的だ。
高さ62m、腕の長さ73mというサイズもさることながら、1909(明治42)年にイギリスから購入して以来、
今も現役バリバリなのがとんでもない。建物や土木建造物もそうだが、やはり現役だからこそ輝きが増して見える。
L: 夜景で知られる稲佐山を背景にハンマーヘッドを眺める。こいつが現役で動いているってすごすぎるよ!
R: 150tを釣り上げるというハンマーヘッドの勇姿をクローズアップ。もちろん、長崎の原爆にも耐えたのだ。とまあこんな具合で、軍艦島だけでなく、そこへ行くまでのルートでも存分に楽しませてもらったのであった。
最高の気分で陸地に戻ると、今度は長崎の市街地を歩きまわる。6年前にはグラバー園、平和公園、中華街など、
とりあえず知名度の高い箇所をつぶしていった感じだった(→2008.4.27)。なので今回は建物を中心に据え、
かつ重要伝統的建造物群保存地区として長崎の街歩きをしてみる。おかげで写真がやたらと多くなってしまった。まずは船の発着所からすぐ近くにある大浦天主堂へ。言わずと知れた国宝建築であり、6年前にも訪れているが、
あらためてきちんと行ってみる。長崎だからしょうがないのだが、本当に狭くて急な坂の上にあり、撮影しづらい。
あの手この手でチャレンジして、できるだけ大浦天主堂らしさを自分の中に落とし込めるようにと試みる。
L: まずは正面より撮影。観光客がひっきりなしで大変。 C: 石段から見上げる。これはなかなか絵になるなあ!
R: 教会の側面。洋風だけど瓦屋根で、やはり「フランス寺」。1865(元治2)年の竣工だもん、すごいなあ。大浦天主堂の中にお邪魔してキリスト教的垂直性を味わって一息つくと、今度は周辺の建物に焦点を当てて撮影。
まずは手前にあるレンガ造りの旧長崎大司教館だが、土地が狭くて高低差がありすぎて全容がつかめないのが切ない。
奥には旧羅典神学校。こちらも敷地に余裕がないが、コロニアルな感触はしっかり味わえる。でもどっちも瓦屋根なのね。
L: 大浦天主堂に隣接する旧長崎大司教館。1915(大正4)年の竣工。土地が急峻すぎて全容が撮影できないよ。
C: こちらも同じく大浦天主堂に隣接する旧羅典神学校。現在はキリシタン資料室として使用されている。
R: 旧羅典神学校を正面側から眺めたところ。富岡製糸場(→2012.8.4)と同じ木骨レンガ造となっている。旧羅典神学校の中も覗いてみたのだが、階段からしてすでに凄い。この時期の洋館らしい凝り方だと思うが、
描いているカーヴがとんでもなく美しいのだ。地形の制約を軽々と乗り越えているデザインである。これは凄い。この曲線には思わず見とれてしまうね。
さて、長崎市には2つの重要伝統的建造物群保存地区がある。大浦天主堂とグラバー園を中心としているのが南山手。
むしろどちらかというと、南山手はグラバー園を核とすることで成立している、といった感触すらあるほどである。
もともと住宅地として街がつくられていったため、時間の経過によって往時を想起させる要素が少なくなった感じだ。
L: さっきの旧長崎大司教館の側面。この脇を行く坂道・グラバー通りとグラバー園が南山手の核となっている。
C: グラバー通り。 R: 坂道の上から振り返ったところ。南山手は住宅が更新しており、往時の雰囲気は弱め。正直なところ、ほかの重要伝統的建造物群保存地区と比べると、長崎の南山手は街並みとしてのインパクトが弱い。
それでも外国人居留地らしい雰囲気を残した建物がいくつか残っているので、それらの写真をざっと貼り付けてみる。
L: 十六番館。1860(万延元)年築で、東山手から移築された。もともとは初代アメリカ領事館員の宿泊所。
R: 角度を変えて眺めるが、どうやら閉鎖しているようで、現在の使われ方はよくわからない。グラバー園以外の南山手はあまり歴史を感じさせる要素がなく、ごくふつうの高級住宅地という印象である。
もうちょっと何かないかと思って大浦天主堂の前まで戻り、別の道を歩いてみると「南山手町並み保存センター」を発見。
築約120年の旧ウォーカー邸と説明があったので、外観をちょっくら覗いてみる。なるほど、コロニアルである。
長崎だからしょうがないんだけど、やはりこの建物も敷地に余裕がなくて撮影しづらい。どうにも困ったものだ。
L: 南山手町並み保存センター(旧ウォーカー邸)はこんな感じで建っている。しょうがないけど、本当にわかりづらい。
C: 余裕がなくて撮影しづらい玄関。移築で現在地に来たそうだが、もう少しなんとかならなかったんか、と思ってしまう。
R: 庭の方にまわり込んで撮影してみた。実にコロニアルである。やはりもうちょっと敷地に余裕が欲しいよなあ。南山手はいくつか建物が残ってはいるものの、街並みとしてはどうにも消化不良な感触である。
そのまま国道499号に出ると、重要文化財が2つお出迎え。まずは旧香港上海銀行長崎支店から。
L: 旧香港上海銀行長崎支店。1904(明治37)年竣工で、下田菊太郎設計の現存する唯一の建物とのこと。
C: 角度を変えて眺める。逆光になっちゃったのが惜しいなあ。 R: 背面。手前にある駐車場の管理事務所が邪魔。もうひとつは、長崎市べっ甲工芸館こと旧長崎税関下り松派出所である。明治時代の税関建築というと、
個人的には旧新潟税関庁舎が印象深い(→2007.4.28)。外国との接点である税関の建築はどうも独特になるようで、
こちらの派出所もかなりの擬洋風ぶりを見せている。1898(明治31)年の竣工で、2002年にリニューアルオープン。
L: 長崎市べっ甲工芸館(旧長崎税関下り松派出所)。 R: 角度を変えて眺める。次の目的地は東山手だが、その途中には旧長崎英国領事館。1907(明治40)年の竣工で、1942年までが領事館。
その後は長崎市の所有となり、児童科学館となったり美術館となったりしたが、老朽化により現在は閉鎖されている。
それでもレンガと木造の外観は圧倒的な存在感があり、できる限りで覗き込んで撮影した。改修と再利用が待たれる。
L: まずは旧長崎英国領事館の背面。木造部分は職員住宅。 C: 木造の北側にあるレンガ造りの棟。これも職員住宅。
R: 職員住宅の正面側を塀の外から覗き込んでみました。早いところ敷地の中に入れるようになるといいのだが。国道にまわって正面を眺めたが、木が茂って見えない。もったいないなあ。
旧長崎英国領事館の先にある交差点を右に曲がるとオランダ坂である。この辺りから東山手の区域に入る。
オランダ坂の幅はそこそこあって、じっとりとした上りになっている。建物に日が遮られており、けっこう暗い。
上っていくとまずぶつかるのが東山手甲十三番館。1894(明治27)年ごろに賃貸住宅として建設されたもので、
さっき見た旧香港上海銀行長崎支店の支店長やらフランス代理領事やらが住んだという。現在は長崎市が所有し、
東山手の観光拠点や市民活動の場所となっている。喫茶コーナーもあるなど、多様な使われ方がなされている。
L: オランダ坂を行くと、まず東山手甲十三番館。 C: 建物はこんな感じ。 R: 内部。コロニアルだなあ。二手に分かれる坂を左に行ったら、重要文化財の東山手十二番館。1868(明治元)年の築という見事な建物で、
大胆なベランダの存在が実に外国風。日本の縁側との違い、公共空間の感覚の違いがはっきり体感できて面白い。
この土足でベランダを経由して建物の中に入る感じは、日本人には元来まったくなかったものだと再認識した。
これと同じ感触がする場所は、ディズニーランドだ。ディズニーランドで土産物を売っている店に入る感じがする。
L: 東山手十二番館を北から眺めたところ。 C: 南側から振り返る。このベランダ土足感覚は日本にはまったくないもの。
R: 建物の中。現在は「旧居留地私学歴史資料館」として、主にキリスト教系の私立学校に関する資料が展示されている。この先は活水女子大学のキャンパスなので、引き返して東山手甲十三番館まで戻り、今度は右側の道を行く。
さっきの南山手はかなり現代風の住宅地となっており、歩いていても正直あまり面白そうな要素はなかった。
それに対してこちらの東山手は長崎で最初に外国人居留地となった場所で、古い洋風の建物がよく残っている。
東山手洋風住宅群などはあまりにも地形が厳しすぎて、それらを余裕を持って眺められないのは切ないが、
もともとこのような形で建てられたものがそのまま残っているわけだから、文句はない。それもまたリアリティなのだ。
L: オランダ坂通りを行く。「山手」という言葉がまさにぴったりな地形である。地面の石畳がまたいいのだ。
C: とんでもない急斜面につくられた東山手洋風住宅群。日当り最高な場所ではあるが。 R: 背面を見下ろしたところ。オランダ坂をそのまま進んでいくと、東山手洋風住宅群の上に出る。猛烈な角度の斜面に並んでつくられており、
その姿は独特だ。長崎だからこその景観で、それがそのままたくさん(7棟)残っていることに驚かされる。
これらの建物は明治20年代後半にまとめて建てられており、洋風というよりは中国風の価値観が随所にみられる。
住宅群はそれぞれ、東山手地区町並み保存センター、レストランの地球館、古写真資料館、埋蔵資料館など、
さまざまな活用ぶりとなっている。ソフトが追いつかないほどハードが多くあるところに長崎の歴史の凄みを感じる。
L: 東山手洋風住宅群。狭い空間にぎっちり並んでいる。 C: ファサードをきれいに見られないのが切ないぜ。
R: オランダ坂(石橋電停側の坂)。こっちは狭くてさらに急。塀に瓦が乗っていて、やはり擬洋風な感触になっている。いちおうこれで南山手と東山手の重要伝統的建造物群保存地区はクリアということにして、次の目的地を目指すことに。
すると途中で出島の跡にぶつかった。日本史ではきわめて有名な出島だが、現在は「出」ていないし「島」でもない。
明治時代以降は埋め立てられるなどして市街地の一部となっていた。しかし長崎市は1996年から復元工事を行っており、
すでに観光名所としてオープンしている。なるほど、地図で見ると確かにその扇型がわかるまでになっている。
長崎市の出島復元に対する意欲は並々ならぬものがあり、最終的には四方を水に囲まれたかつての姿に戻すようだ。
しかし僕の感覚からすると、歴史的な空間をフィクションで復活させることは、フェアではないと思うのである。
出島には旧出島神学校と旧長崎内外クラブという古い建物が現存するが、どちらも明治期になってからの建築なのだ。
つまり、日本史における出島にはなかった建物なのである。しかしそれはそれで確かな価値を持っているのもまた事実だ。
これらを残したままで鎖国時代の建物を精力的に復元するのは、かえって歴史に対して不誠実な態度と言えるだろう。
はっきり言って、出島を復元する必要はない。嘘で固めた空間をつくって想像力を混乱させるのは、歴史に対する犯罪だ。
長崎市にそういったセンスがないのには失望した。出島の復元は、知的なレヴェルの非常に低い事業である。
L: 旧出島神学校。1878(明治11)年築で、現存する日本最古のキリスト教(プロテスタント)の神学校とのこと。
C: 発掘された出島の護岸石垣と、1903(明治36)年築の旧長崎内外クラブ。路面電車が出島の境界を通るのは面白い。
R: どんどん復元されている出島内の建物。長崎市がやろうとしていることは、ただのテーマパークづくりでしかない。国道499号に面する水門。ここが出島の西の端だったのだ。
出島を見下ろす丘の上に位置しているのが長崎県庁なのだ。6年前にも訪れたが(→2008.4.27)、あらためて撮影。
逆光や国道34号の交通量と格闘しながら、どうにかふんばってデジカメのシャッターを切っていく。いやー大変だった。
L: 国道34号より眺める長崎県庁。 設計は日建設計で、国道34号が突き当たる丁字路ということを意識したと思われる。
C: エントランスを眺める。非常に特徴的なバランスだなあ。 R: 東側の側面を眺める。狭い敷地は車でいっぱい。長崎県庁は1953年の竣工で、ここ数年で建て替え計画が一気に進行し、新庁舎の実施設計がこの2月に完了した。
場所は長崎駅の南西にある旧長崎魚市跡地。長崎港に面した土地で、丘から海へのなかなか大胆な移転ぶりである。
設計は日建設計九州オフィスに地元長崎市の事務所を加えたJVで、公募型のプロポーザルによって決定している。
ただし同じ敷地に入る警察本部庁舎は山下設計のJV。行政棟と警察庁舎の設計者をわざわざ分けるのは珍しい。
竣工予定は2017年度で、長崎本線の連続立体交差事業・九州新幹線の乗り入れによる長崎駅移設と連動しており、
将来的には駅に直結した県庁舎となる。したがって、長崎市の中心部は10年後にはだいぶ姿を変えることになるだろう。
L: 南東側から眺めたところ。 C: 北側から眺める。坂による高低差がすごいのだ。長崎らしいなあ。
R: 坂を下ったところに第3別館。1923(大正12)年竣工なので被爆建造物。長崎警察署としても利用された。そのまま国道に沿って歩いて親和銀行大波止支店へ。設計は白井晟一で、佐世保にある本店が非常に有名なのだが、
こちらの大波止支店も建築好きには有名だそうだ。銀行にしては非常に小ぢんまりとした印象の建物ではあるものの、
白井晟一らしさは満載。造形物として完結していて、むしろ教会建築のような雰囲気さえ漂わせている。
車やバスや路面電車がひっきりなしに目の前を通るのだが、大波止支店だけは周囲から完全に隔絶されているようだ。
L: 1963年竣工、親和銀行大波止支店。これは見事なまでに白井晟一らしい作品。松濤美術館に似た感じがするな。
C: 角度を変えて歩道から眺める。まったく銀行らしくない。緑の看板がなかったら近寄るという発想すら起きそうにない。
R: 側面にまわり込んだらだいぶ雰囲気が違っていた。後から増築したのか、正面とはかなり極端な差がある。脇から坂を上って再び国道34号に出ると、長崎市役所へ。もちろん6年前にも訪れているのだが(→2008.4.27)、
青空の下であらためてきちんと撮影をしようというわけなのだ。上で書いたように長崎県庁は建て替えが決まっているが、
長崎市役所も1959年竣工なので建て替えを検討中。しかし移転先が長崎市公会堂ということで、混乱がある模様。
なんせ長崎市公会堂は、地元出身の武基雄が設計したDOCOMOMO物件である。これは簡単に壊すわけにいかない。
結局、市は新庁舎建設基本計画を策定したが、「長崎市役所の位置を定める条例の一部を改正する条例」を撤回。
今のところはどうにもならない状態で計画が中断しているようである(市は「急激な建設コストの上昇」と言い訳中)。
長崎にまとまった土地がないのはわかるが、おとなしく県庁舎の跡地に移る方がいいと思う。出島も見えるしさ。
L: 長崎市役所。1959年竣工ということで、実にそれらしいデザイン。 C: 歩道橋から撮影してみた。
R: 北側にある坂道から背面を撮影。周辺の道路は路面電車のせいもあって複雑な構造で、歩行者には怖いぜ。市役所の隣には議会棟。向かいには別館。6年前と同様、これらも撮影しておく。いつまでもつのかと思いつつ。
L: 手前の五芒星(長崎市章)が印象的な議会棟。 C: こちらは別館。1966年竣工。 R: 別館を正面より眺める。さあ、だいぶ日が傾いてきてしまった。本日最後の建築は、市庁舎新築問題で揺れている当の長崎市公会堂なのだ。
昨日の島原図書館でも知られる武基雄のDOCOMOMO物件で、1962年の竣工。しかし建て替えの問題もあって、
公会堂は来年3月をもって利用を終了することになっている。市は完全に取り壊しの方針を固めているようだ。
慌てて坂を下りて(長崎はホントに坂の上下の繰り返しだよ!)、公会堂の前に出ようとしてびっくり。
11月の3連休ということで、公会堂前の公園は出店で占領されていた。おかげで正面からの撮影がうまくできない。
最後の最後でコレかよ、と公会堂の前で立ち尽くすのであった。じっくり見る余裕がなかったのが本当に残念だ。
ちょっと見ただけでも細部まで非常に凝っているのがわかる、特色あるホール建築なのだが。壊すのもったいないよ!
L: 長崎市公会堂の側面。この建築を拝めるのもあとどれくらいになるのか……。 C: ちょっと角度を変えてみる。
R: 正面の公園は出店だらけで客だらけ。とても落ち着いて建物を眺められる状況ではないのであった。残念である。今日は一日めちゃくちゃ動きまわって本当に疲れた。諫早に帰る前に稲佐山の夜景で締めることに決めていたので、
しばらく休んでからバスに乗り、ロープウェイで展望台を目指す。面白いのは淵神社の境内にロープウェイがあることで、
軽くお参りしてからゴンドラに乗り込む。少し歩いて展望台に着くと、まずは西側の角力灘を眺める。これが実に見事。
長崎らしく島が浮かぶ複雑な海岸線がオレンジ色に染まっており、やがてゆっくりと暗くなっていくのがなんとも美しい。
東側はすでに人がいっぱいだったが、気長に待っていたら最前列に出た。深い青から黒へと空が色を変えていく中、
山裾を埋め尽くす長崎の市街地はそのまま光を浮かべて残り、まるで陰と陽が反転したような感覚を呼び起こす。
L: ロープウェイ乗り場の脇にある淵神社。もともと弁財天で、神仏分離後は宗像三女神を祀っている。
C: 夕暮れの角力灘。こっちの眺めもかなりのもの。 R: 陰と陽が反転するように、夜景が主役となっていく。昼間に訪れた南山手も東山手もそうだったが、長崎の街は立体的なのである。元の地形に沿ってロールしており、
その緩やかなカーヴが光を載せているので、夜景は円筒を寝かせたように曲面で広がっているのである。
僕は6年前には稲佐山から見る夜景を光の帯として捉えた印象が強いのだが、今回は特にその曲面に心惹かれた。
毎度おなじみのパノラマ撮影を試みるが、やはり目の前に広がる光景をそのまま捕まえることはできないな、と思う。
夜景を堪能すると、混雑する前に素早く麓に戻ってしまう。バスはそのまま中心市街地まで行く便だったので、
駅をスルーして中華街を目指すことにする。県庁前を抜けると観光通りのバス停で下車。そこでハタと思い出した。
そうだった、長崎の浜んまち商店街(浜町アーケード)は、全国でも2ヶ所しかない国道のアーケード商店街じゃないかと。
ほんの2週間前、もうひとつの国道アーケード・サンロード瓢箪山をそれと知らずに訪れていたのだが(→2014.11.8)、
ぜひ記念にこちらも写真を撮っておかないといけない! というわけで、北に入って浜町アーケードをうろついてみる。
県庁の前からまっすぐ、路面電車も通る道が延びているにもかかわらず、国道はわざわざ折れてアーケードを抜けていく。
なんでそんなことになっているのかわからないが、面白いからいいや。アーケード商店街は県庁所在地らしい活気と、
地方都市らしい落ち着きとを併せ持った雰囲気である。アーケードの終わるところにはしっかり三角の案内標識があった。
いやー、これでようやく6年前の借りを完全に返すことができた。後で気づいて悔しかったんだよなあ。よかったよかった。
L: 国道324号・浜町アーケード。 C,R: アーケードの終端には案内標識が。面白いよなあ、コレ。夜になって訪れたのでイマイチ標識が暗いのが残念だが、昼間に忘れていた自分が悪いのである。しょうがない。
満足すると、まっすぐ南に向かってようやく中華街へ。皿うどんにも惹かれたが、とりあえずちゃんぽんをいただく。たまりませんぜ。
やりたいことをとことんやりきった一日がようやく終わった。諫早に戻る電車内の記憶がまったくないのはご愛嬌。
しっかり眠って明日への英気をしっかり養うのであった。明日は明日でまたスケジュールキツキツ。しょうがないやな。
テスト期間と3連休が重なった! うおお4連休! ……どこへ行く!? そんなもん、リヴェンジに決まってる!
昨年体育座りで過ごした3連休(→2013.11.22/2013.11.23/2013.11.24)の借りを返すに決まってる!
というわけで行き先は長崎! 軍艦島がオレを呼んでるぜ! しかし昨年立てたプランは3日分なので、もう1日ある。
そこでその3日分のプランを2つに分割して、今回はその前半部分だけを実行に移すことにした。後半はまたいずれ。
そして新たに長崎から福岡まで行くプランを足してしまう。前半は長崎県を味わい、後半は神社を参拝していく。
はっきりと毛色の分かれる旅程となったのだが、それはそれで飽きがこなくていいもんだ。やりきってみせまさァ。空が暗いうちに出発すると、蒲田での歩きを挟んで羽田空港へ。初めてソラシドエアのお世話になってみたのだが、
九州へ行くには非常に便利な航空会社だと思う。ここ最近は東北づいていたから、よけいに気持ちが高まるのであった。
さて、朝の飛行機に乗る楽しみといえば、なんといっても窓から見える景色である。このたび航空法が改正されて、
どのタイミングでもデジカメを使いたい放題になったのが非常にありがたい。いろいろ撮りまくってはしゃいでみる。しかし伊那谷は見事なまでに雲に塞がれてしまっていた。
3年前に福岡へ飛んだときには飯田の市街地を存分に堪能できたのだが(→2011.3.26)、残念ながら今回は雲の下。
それでも地図でおなじみのスケール感で全国各地を眺められるのは、本当にたまらない面白さである。ひたすら興奮。
L: 噂の御嶽山。まさかいきなり噴火するとは(→2014.9.27)。犠牲者の方々のご冥福を心よりお祈りいたします。
C: 岐阜市上空。山と濃尾平野の対比がくっきり。 R: 敦賀湾。地図で見たそのまんまの福井県の海岸線だ。
L: こちらは大山。先ほどの御嶽山もそうだが、信仰の対象になる山は、上空からでもそれとはっきりとわかる。
C: 下関市上空。火の山公園に壇ノ浦に赤間神宮が懐かしい。 R: 福岡市上空。これは見事な博多湾だわ。
L: 福岡市街をクローズアップ。大濠公園もヤフオクドームも丸見えじゃ。 C: いかにも佐賀県な風景。白石町上空。
R: 着陸態勢に入って諫早市上空を通過。右側の奥にある楕円形はJ2長崎のホーム・長崎県立総合運動公園陸上競技場。長崎空港は大村湾に浮かんでおり、長崎・佐世保・島原半島という観光資源からすると、なかなか絶妙な位置にある。
ここはもともと箕島(みしま)という天然の島で、これを開発することで1975年に世界初の海上空港としてオープンした。
さて今回の旅行では、長崎市内を観光するのは2日目。これは余裕を持って軍艦島へ行くことを考えての措置なのだ。
長崎市行きのバス停に観光客が並ぶのを尻目に、諫早駅行きのバス停へ。今回は島原半島からのスタートなのである。
バスが大村市役所の前を通っていくのに若干ムズムズした気持ちを抱えつつ、50分ほど揺られて諫早駅に到着する。
もしバスが遅れたら計画にいちいち修正を入れないといけないところだったが、無事に予定どおりに島原鉄道に乗り込めた。
曇り空なのが少々残念だが、考えていたとおりにあちこち訪れることができるのであればそれでいい。ほっと一安心。列車に揺られること20分、吾妻駅で下車。島原鉄道には6年前にもお世話になっているが(→2008.4.28)、
そのときはどちらかというと、観光というより「長崎から熊本へ出るための手段」という感じだった。寝坊ぶっこいたし。
今回はそのときにできなかったことをとことんやっておこう、というわけだ。まずは雲仙市役所を訪問する。時間は1時間ちょっとを設定していたのだが、吾妻駅周辺は思った以上に何もなく、ふらふらとあてもなく遠回りする。
駅から南に行ったところには体育館があり、辺りは住宅が散らばっている。雲仙岳へ向けてゆったりと田んぼがつくられ、
この土地での穏やかな生活ぶりがうかがえる。雲仙岳は島原半島の中心として、圧倒的な存在感を放っている。
島原半島は、この火山を中心に弧を描いてできあがっている。すべての生活はこの火山の裾野で成り立っているのだ。
阿蘇の外輪山を初めて見たときには「火山に生殺与奪を握られている感じ」に衝撃を受けたが(→2008.4.29)、
島原大変肥後迷惑の歴史や平成新山の噴火、そしてそれを上回る犠牲者を出した御嶽山をさっき上空から見たこと、
それらの知識や経験が一体となったところで目の前にある雲仙岳を眺めると、言葉にできない感情に襲われる。
ここにある平穏な日常は、いつ破られてもおかしくはない。しかしその脅威を受け容れたうえで、人間はここで生きる。
人間の弱さと強さがここにはあるのだ。そう思うと、僕の周囲にある穏やかさが、また違った形で映って見える。
L: 島原半島は雲仙岳をその中心に戴いており、ほとんどはこの火山の裾野である。人間の弱さと強さが同居する風景。
C: 2つの建物が田畑の中にいきなり建っている。 R: 向かって右側は吾妻町ふるさと会館。なんだこの悪趣味な柱は。しばらく歩くと田畑の向こうにベージュの建物が2つ並んでいるのが見えた。どっちが市役所なのか、それとも両方か。
近づいてみたら、右側の方は悪趣味な柱が立っていてゲンナリ。こっちは「吾妻町ふるさと会館」という施設で、
公民館的な各部屋にホールと図書室が付いている。1993年の竣工で、設計したのは建友社設計という長崎の事務所。
そしてこの左隣の方が、雲仙市役所。もともとは吾妻町役場として建てられており、こちらも建友社設計による設計。
竣工は1988年なので、まず先に町役場ができて、その5年後に隣にホールがつくられた、ということになる。
L: 雲仙市役所(旧吾妻町役場)。南東側から見たところ。 C: 南側から眺める。 R: 西側から眺める。雲仙市は2005年、南高来郡の7町が合併して誕生した。7町ってのはさすがにすごい。平成の大合併を経て、
島原半島は島原市・南島原市・雲仙市の3市による3分割状態となった。雲仙市は島原半島の西半分を占めている。
しかしさすがにこれだけ大規模な合併だと問題も発生するわけで、市役所の位置をめぐって市民懇話会が設置され、
現在の愛野町公民館の位置に市の事務所を置く、と決めた。ここはほとんど諫早市域、島原半島の完全な付け根だ。
ただし財政面の苦しさを理由として、当面は旧吾妻町役場をそのまま雲仙市役所として使うことも同時に決めている。
まあいかにも田舎っぽい結論先送りによって各方面の顔を立てた格好である。それなら懇話会必要ないだろ、と思うが。
L: 国道251号から眺める雲仙市役所(北面)。 R: 中に入ったら右手に吹抜。ここ本当に使っているのかな?とりあえずこれで雲仙市役所はクリア。吾妻駅に戻ると列車に乗り込み、今度は旧国見町域の神代町駅で下車する。
ここは重伝建の神代小路(こうじろくうじ)があるのだ。「こうじろ」はなんとか読めるが、「くうじ」は読めん……。
神代町駅は無人駅で、下車して少し途方に暮れるが、かなり親切に鍋島邸への案内があちこちに貼り付いているので、
実際に歩いてみるとまったく迷うことなく神代小路まで行ける。鍋島邸は神代小路の中心部にあるのだ。
駅の出入口は北側にしかなく、川を渡りながらぐるっとまわり込んで歩いていく。途中に歴史民俗資料館があるが、
これは旧神代村立神代中学校を改装したもの。見るからに学校らしさが残っているのが、なかなかほほえましい。
そこからさらに進むと道は鉤の手になっていて、見事な長屋門から神代小路の街並みがはじまる。うーん、武家地!
L: 旧神代村立神代中学校の雲仙市歴史資料館国見展示館。2棟あるのだが、こちらは奥の木造校舎。
C: 進んでいくと鉤の手と長屋門。ここまで見事な武家地らしいアピールはなかなかないだろう。
R: 神代小路の街並み。道の両側に延びる生け垣が武家地特有の雰囲気を今もはっきりと残している。神代小路の長さがイマイチわからないことと、鍋島邸がどれくらい時間を食う場所なのか読めなかったことから、
まずはざっくりと観察しながら神代小路を往復してみることにした。中央にある小さな公園は整備工事の真っ最中で、
完成したらどんな空間になるのかよくわからないが、往時の雰囲気を伝えてくれる場所になるといいと思う。
この公園のところが食い違いになっており、通りはそのまま2つに分かれる感じになる。手前の道は同じ雰囲気だが、
奥まった道は狭まっていて、武士たちの生活空間らしさをより強く漂わせている。とはいえ基本的には石垣と生け垣で、
まっすぐ延びた道の両側でしっかりと空間を区切っている光景は変わらない。なかなか強固に歴史を残している空間だ。
L: 食い違いに位置する公園は工事中。どんなふうに仕上がるのか気になる。 C: 神代小路はずっとこんな光景が続く。
R: 一本奥、東側にある通りはこんな感じで少し幅が狭い。その分だけ生活感があるというかなんというか。神代小路は東を流れるみのつる川が蛇行するところで終わる。まあ実際には川の流れを変えて武家地をつくったのだろう。
きれいな建物はなかったが、端から端まで昔ながらの雰囲気を保っている点は、さすが重要伝統的建造物群保存地区。
食い違いの公園まで戻ると、今度は西側にある丘・鶴亀城址に行ってみる。北が二の丸だが、完全に畑となっていた。
南の入口には鳥居があって、石段を上ると鳥居が並んでいかにも稲荷神社の参道っぽい。稲荷の手前で左に曲がると、
本丸跡には神代神社が鎮座していた。こちらの拝殿前にある石鳥居が異様に低く、なんだかいわくありげである。参道の脇には神代の地名の由来と鶴亀城の歴史について書いた案内板があり、天孫降臨の舞台は最初は雲仙だった、
というなかなか大胆な主張がなされていた。それで「神代」で、後で島原半島から高千穂に向かった、とあった。
平安時代に荘園ができ、それが武士化して鎌倉時代に築城されたのが鶴亀城。神代家は沖田畷の戦いを経て滅亡し、
最終的にこの一帯は鍋島家の分藩となり明治維新を迎えた。神代小路は元禄時代に今のような街割りになったそうだ。
L: 鶴亀城址・本丸側の入口には鳥居。 R: 稲荷の鳥居を抜けると左手に神代神社。鳥居が低いのはなぜだ。これでだいたい神代小路の街並みは味わったので、残りの時間で鍋島邸を歩きまわってみることにするのだ。
鍋島邸は神代小路の真ん中より北側にあるのだが、もう周囲とは完全に迫力が違うのである。まさに威容を誇っている。
入口が長いまっすぐな石垣でつくられており、建物はだいぶ奥まった位置にある。いかにも「偉さ」が漂っているのだ。
L: 鍋島邸の入口部分。なんじゃこの威圧感は。ほかの武家屋敷群とはまったくもってレヴェルが違う。
C: 進んでいくとやっと邸宅が現れる。主屋は1930年の築と新しいが、重要文化財に指定されている。
R: いちばん驚いたのはこの水場。建物の間にこのような形で池を挟み込む事例は初めて見たわ。200円払って敷地内にお邪魔する。まずびっくりしたのが、邸宅のど真ん中に池というか水場があること。
建物の間に坪庭を配するのは一般的だが、ここがいきなり水なのだ。そんな住宅は初めて見たので本当に驚いた。
確かに夏場なんかは涼しげでいいかもしれない。蚊が出るなどのデメリットがあるかもしれないが、これは凄い。
L: 唐破風が印象的な主屋。 C: 山側から庭園ごと邸宅を見下ろすとこんな感じ。複雑で豪華なもんだ。
R: その山側の斜面はこのような植栽で飾られている。こういう立体的な造園も住宅ではきわめて珍しいはず。池のほかにも山裾を利用した庭園など、鍋島邸は従来の住宅にはない独特な発想が多い。これが大名家の余裕か。
鍋島邸は全体的に、非常に洗練された空間だったと思う。1930年代というモダンな時代のなせるわざなのだろうか。
神代小路は街並みがまずまずでも建物が充実しておらず不満だったが、鍋島邸でそれが一気に解消されてしまった。ネコが出てくるとどうしても遊ばずにはいられにゃい。
時間いっぱい鍋島邸を満喫すると、神代町からさらに先へ。国見高校のある多比良町をスルーすると島原市に入る。
というわけで、島原駅で下車。時間的な余裕のある限り、島原の市街地にある名所を歩きまわってやるのである。
島原市を訪れるのは6年ぶり。前回は寝坊によって思うように歩きまわれなかったわけだが(→2008.4.28)、
そのときの借りを返してやるのだ。けっこう鼻息荒く改札を抜けると、まずは南へ進んで島原市役所方面へ。
そしたら見るからに築50年以上で飾りっ気のない建物が目の前に現れた。敷地いっぱい道路ギリギリの建て方といい、
円形の前庭ロータリーといい、(僕にとっては)古き良き役場庁舎建築である。癒されるなあと思いつつ撮影。
L: 島原市役所。これは古いなあと思ったら、本館が1954年の竣工。さすがに新庁舎建設の計画が進んでいる。
C: 正面より撮影。円形の前庭ロータリーは当時なりの威厳の持たせ方なのだ。ある意味、駅と同じ感覚なんだと思う。
R: 裏側を眺める。このぐちゃぐちゃしている感じが僕にとっての「役所」なんだよなあ。活気を感じるじゃないですか。島原市役所は本館が1954年、新館が1971年の竣工で、もうさすがに我慢の限界が来ているらしく、
新庁舎建設計画が進行中。すでに設計プロポーザルを行っている。個人的にはこの昭和の証人を残してほしいのだが。
(翌12月にプロポーザルの審査結果が出た。最優秀は佐藤総合計画九州事務所とInter MediaのJVとのこと。)
L: こちらは1971年竣工の新館。 C: 手前が本館、奥が新館。 R: 後で島原城から見た市役所。手前が本館、奥が新館。島原市役所の目の前は「大手広場」となっている。城下町の食い違いをそのまま整備して大通りとしているわけだ。
ここにはバス停があって、混雑の要素を島原駅前から分散させて国道251号を渋滞させない狙いがあるのかもしれない。
まあ何にせよ、島原鉄道の踏切や市役所庁舎とともに、昭和の都市整備手法をよく保存している一角であるように思う。
この南側にはアーケードの商店街があるが、残念ながら、軽く歩いた限りではあまり元気があるとは言えない状態だった。
市役所本館が建った頃にはどのような賑わいだったのか。それを想像するのは正直ちょっと難しいところまで来ている。
L: 大手広場。市役所本館を背にして食い違いを広げた通りを眺める。ずっと先に雲仙岳が見えるのもまたいい。
C: サンシャイン中央街は大手広場から入っていくアーケード商店街。 R: でも残念ながら、あまり元気がない感じ。大手広場から大手門跡を抜けて島原城方面へ戻る。すると、堀と向かい合う位置に島原市立島原図書館がある。
この島原図書館は公共建築百選に選ばれているのだ。設計は武基雄で、竣工は1986年。かなり後期の作品となる。
ちょろっと中に入ってみたのだが、確かに空間的に凝っているのは感じる。しかし建材の質感が1980年代のものなので、
モダニズム建築という感触はもはやない。「建築家の作品」というより「組織事務所の仕事」という印象がしてしまう。
これは単純に僕の建築を見る目がまだ足りない、表面的な部分に左右されているということに起因するのは間違いないが、
しかし時代を経て建材が変化したときにモダニズムは可能なのか?という命題が提起されているのも確かだと思うのだ。
また、島原城に面するという位置から切妻屋根の和風デザインを採り入れた発想もまた、キッチュと断じる隙がある。
僕としては、もう少し別の解決策があったんじゃないか、という思いがどうしても残る。切れ味があまりに鈍いと思う。
L: 島原市立島原図書館。設計した武基雄は長崎市出身ということもあり、長崎県に作品が多く残っている。
C: 中はこんな感じ。開放感がさすがなのだが、この建築は古くなったら残らないな、という感触もあるのだ。
R: 島原城から見下ろす島原図書館。島原図書館周辺は道幅に余裕がないから、全体をきれいに撮るにはこれしかない。続いては島原城だ。6年前にも来ているが、あらためて行ってみるのだ。……と思ったら、このタイミングで雨。
前回訪問時も天気があまりよくなくて、なんとも切ないことになってしまった。テンションを維持するのが大変で。
L: 堀越しに眺める島原城。それにしても堀の色が妙なことになっているんですが。どうしたらこんな色になるんだか。
C: あらためて眺める島原城の石垣の威容。これはどう考えても贅沢すぎるだろう。そりゃあ一揆も勃発するわ。
R: 1964年に復元された天守。石垣に負けない姿を見せている。中はお約束の歴史資料館となっている。今回も歴史資料館の中に入ってみた。時間がないので素早く展示を見ながら上がっていくが、非常に残念なことに、
島原の乱に関する展示がリニューアルされて、生き残った住民の数を示したもの(→2008.4.28)ではなくなっていた。
きれいな展示になった反面、「全村不参加」「一部参加」「全村参加」というオブラートに包んだ表現に変わっていた。
あの島原半島南半分が完全に無人化したという衝撃のデータがないとなると、苛烈さの説得力が半減どころではない。
これはぜひなんとかしてほしいんだけどなあ。「不参加者」の数字がゼロという展示では、衝撃の度合いがまったく異なる。
L: 島原城から眺める雲仙岳。街まで非常に近く、「島原大変肥後迷惑」を想像するとすごく鳥肌が立つ。
R: 武基雄設計の島原文化会館は、島原城の二の丸跡に建っている。すいません、近くまで行く気力がなかった……。最後に意地で武家屋敷街地区を再訪問。きちんとした武家屋敷は山本邸・篠塚邸・鳥田邸の3軒しか残っていないが、
石垣と中央の水路はしっかりと残っており、往時の雰囲気をかなりきちんと今に伝えているのがありがたい。
前に大内宿のときのログでも書いたが(→2010.5.16)、かつては側溝ではなく道の中央に水路がごくふつうにあった。
島原の武家屋敷街地区はその空間を今もそのまま体験できる貴重な事例なのである。あらためてそのことを確認。
L: というわけで、島原の武家屋敷街地区。6年前から何も変わっていないが、おそらく300年前からも大差ないのだろう。
C: 中央の水路に近づいて足下ぐらいの高さから眺めたところ。かつてはこの水路が水道代わりだったわけだ。
R: 水路をクローズアップ。実際に地元の方がこの水を汲んで使っている現場を見た。きれいな水だなあ。3軒の貴重な武家屋敷ももちろん覗いてみる。豪邸ではないので庭はあまり広くなく、撮るのが大変だった。
まあそれがリアリティなんだからしょうがない。とはいえリニューアルしたのか全体的に妙に小ぎれい。
L: 武家屋敷。こちらは鳥田邸。 C: 庭が広くないので建物を撮影しづらい。 R: 篠塚邸内の人形。なるほど。武家屋敷街の全長は400mちょっとだそうだが、ほぼ同じ光景がずっと続くので、もっと長さがあるように感じてしまう。
島原の武家地はもともと7つの地区があったのだが、現在もその姿を保っているのはこちらの「下の丁」のみ、とのこと。
逆を言えばこれと同じような武家地がほかに6つもあったのか、ということになる。城の規模に応じて広かったのか。
L: 武家屋敷と直交する道にも石垣が続いていた。立派ではあるが、舗装されている分だけ「現代」なのだ。
R: 水神祠。不自然だと思ったら、明治に入って島原城が廃城となったときに城の部材でつくったらしい。雨に祟られつつも時間いっぱい島原を堪能すると、さっきの大手広場のバス停へ。本日最後の目的地へと向かうのだ。
島原半島の真ん中にある雲仙岳、その最大の賜物と言っていいのが雲仙温泉だ。じっくりゆったり浸かってやるのだヒヒヒ。バスは雲仙岳をぐるっと西へとまわり込んで、島原市とちょうど反対側にある雲仙営業所まで1時間弱で到着した。
歩き疲れて車内ではぐっすり寝ていたが、途中で硫黄の匂いに起こされた。降りたらもっと強烈で完全に目が覚めた。
とりあえずキリシタン殉教の舞台にもなったという雲仙地獄を見てみるか、とiPhone片手に歩いていったら道が消えた。
いや、湯気で道が見えなくなっていたのだ。まるで白い壁のように湯気が行く手を遮っている。視界は完全にゼロで、
これは本当に怖い。アスファルトにはオレンジで「駐停車禁止」とある。こんなところを車で走るなんて絶対にイヤだ。
いちばん湯気の激しい部分は橋のようになっており、歩道の両側はうっすらと黄色が岩に貼り付いている、まさに地獄。
その歩道も木製で仮設感が全開だ。硫黄混じりの湯気を受け続けるんだから、取り替えが前提で当たり前かと納得。
L: 湯気が行く手を遮るの図。こんなところを車で走り抜けるなんて怖すぎる。これだけ極端な場所はそうそうあるまい。
C: 雲仙地獄を行く。雨で気温の低さもあって湯気はフルパワー。 R: 湯気を噴出する硫黄のこびりついた岩。地獄だ!傘をさしつつ雲仙地獄の遊歩道を軽く散歩してみる。地獄と言えば別府温泉も有名だが(→2009.1.10)、
雲仙の場合は別府のようにさまざまな種類があるわけではなく、あちらの「山地獄」が延々と続くという感じである。
背景には緑・黄・赤ときれいに3色が混じり合った山があり、その生と死の対比は実に見事な絶景となっている。
これって一年でいちばんいい季節に来たのかもしれないな、そう思うことで天気の悪さをごまかしてみる。
雲仙地獄は国道57号の東側がメインで、西側はかつて地獄だった場所がそのまま公園となっている(旧八万地獄)。
そっちにも行ってみたけど、湯気を噴いていないとぜんぜん面白くない。「月面地獄」という表現はわからなくもないが、
月面を名乗るにはもうちょっと広くあってほしい。どっちかと言うと、「戦隊ヒーローが敵と戦う地獄」だったなあ。
L: 地獄をクローズアップ。間近に見ると迫力ありまっせ。 C: 色づいている山と地獄の対比が妙に美しい。
R: 「立入禁止 地獄内は危険です」の立て札。地獄が危険なのは当たり前でしょうに、といちおうツッコんでみる。雲仙温泉はそんなに広くなくて、国道57号を軸にして南北にそんなに無理なく歩ける範囲に収まっている。
しかし雨でしかも夕方ということで、僕の行動力もだいぶ落ちていたようだ。遊歩道の散歩を終えると中心部まで戻る。
後になって雲仙観光ホテルが名建築であることを知り、ぜひともそこまで足を延ばすべきだったと後悔したのであった。雲仙温泉の温泉街は、その名も「温泉神社」を中心に成立している。明治33年に建てられたという鳥居は風格があるが、
温泉街にあるから温泉神社とはなんとも単純すぎてちょっと怪しい。ホントにちゃんとした神社なのかなと思って寄ると、
無人販売所形式の授与所にはなかなか凝った御守が置いてあった。こりゃいいじゃん、と1体頂戴してきちんと参拝。
後で知ったのだが、雲仙はもともと「温泉」と書いて「うんぜん」と読んでいた、というのだ。この事実には驚愕した。
(1934年、日本で最初の国立公園に指定された際に「雲仙」という表記に改めた。わりと最近のことじゃないか!)
島原半島には温泉神社がいくつもあるが、その元がここ雲仙温泉の温泉神社とのこと。非常に由緒正しい神社なのだ。
L: 温泉神社。温泉街の中心にあり、規模はそこまで大きくない。ゆえにナメてかかっていた。 C: 拝殿。
R: 雲仙温泉の温泉街はこんな感じ。国道57号沿いに店舗や旅館が集中しており、コンパクトにまとまっている。ではいよいよ、雲仙温泉に浸かるのである。立派なホテルにお邪魔して日帰り入浴するのも悪くないのだが、
今回は地元の皆さんが浸かるという湯の里共同浴場にチャレンジ。国道からちょっとはずれて坂を下ると、
少し奥まった位置にひっそりとあった。200円払って体を洗って浴槽に入ると、思わず大声を漏らしてしまう。
本当に温泉らしい温泉で、浸かっているとあっという間にただのお湯とは決定的に違う感覚に全身が包まれる。
時間を忘れて浸かりに浸かり、目一杯満足すると着替えて外に出る。が、外に出ても温泉に浸かっている感覚が続く。
これが本当に強烈で、バスに乗っても諫早に着いても晩メシを食っても宿にチェックインしてもふわふわしたまま。
バスの中なんか、湯船に浸かっている感覚で完全にぐったりぐっすり。気がつけば夕闇に包まれる海岸沿いにいた。
その場所、小浜温泉も非常に気になっていたのだが、ハシゴしてやろうなんて意欲がまったく湧かない状態で揺られた。
今までそれなりにいろんな温泉に浸かってきたが、雲仙温泉は完全に別格。これだけ「濃い」温泉は初めてだった。そんな具合に盛りだくさんだった初日は、雲仙温泉に完全KOされて終わった。いや、もう、凄かったです。
旅行に備えて早めに帰る。せっかくなので目黒の無印良品に寄ってみたのだが、特に買いたいものはなかった。
目黒の無印ってほかと比べてやたらと品揃えが弱いというか、僕好みではない感じになっているように思う。
まあ僕好みになっていればそれはそれでお財布が大変なことになってしまうので、これでちょうどいいのかもしれないが。家に着くと、明日の朝すぐに動けるように支度を整えて過ごす。今回は夜行バスではないので、その分だけ余裕がある。
飛行機ですよ、ヘッコーキ! 去年乗れなかった飛行機で長崎ですよ! やってやりたいことだらけだぜ! ウヒヒ!
いやー、テストできないねえ。本当にお前ら勉強しとるんか、と呆れてしまうよ。
いやもちろん、自分の中学生の頃を思うと、そんな偉そうなことはとてもとても言えないという気持ちはあります。
テスト勉強なんて一度もしたことないもん。なんせテストがいつあるかを把握したことがなかったくらいだからね。
朝、登校したらいつもと机の配置が違う。なんで?って訊いたら「おいマツシマ、今日テストだぞ!」と。
そんな人間が大人になったら「○月○日がテストなんだから勉強しとけや」とか、悪い冗談だよマジで。すいません。しかしその反面、お前らセンス悪いなあという上から目線の気持ちがまた半分。確かに私のつくるテストにはクセがあり、
明らかに「教科書でやった内容の確認」というよりも「学習に対するセンスを測るツール」という要素の方が強い。
それでもいちおう、マジメに授業を聴いていれば、確実に85点は取れるようにつくっているはずなんだけどね。
センスがないと90点以上は取れないけど。これまたそういうふうにつくっているから。テストってそういうゲームだろ?ちゃんとやらずにセンスだけでやっていたから僕は浪人という遠回りをする破目になった。それは重々承知しております。
しかし、だからこそ、「お前らには両方欠けておるわ!」と言いたいわけです。努力もセンスも感じさせないのだ。
努力もせずセンスも磨かれていない奴に優しい言葉を掛けるほど、僕は甘くはないのである。まず努力してくれよ、と。
テストから努力が感じられれば、そこは褒めます。センスについてのヒントも出します。というか、まず努力してくれないと、
どんなにヒントを出しても理解できないもんだからねえ。そのスタートラインにまだ立っていないんだよなあ。困ったわ。
高倉健が亡くなった。健さん歳をとらねーなーとつねづね思っていたから、いきなりの訃報で驚いた。
僕が健さん主演の映画できちんと見たのは『幸福の黄色いハンカチ』(→2012.10.15)くらいか。
ニュース番組では任侠映画からはじまってその足跡をていねいに紹介していってくれるのだが、
とにかく見ないといけない映画が多いわ、と反省させられるのであった。いやーオレ、全然見てないよ。
そんなわけで、ちまちまその背中を追っかけていくとするか、と思う。今さら申し訳ないんだけど。……え、もしかして『あなたへ』が遺作になっちゃうの? そんなん、また竹田城の観光客が増えちゃうじゃん!
◇
衆議院が解散だとさ。クズだクズだとわかっちゃいたけど、ここまでとはね。ひとりのバカのせいで日本が腐る。
◇
サッカー・日本代表のオーストラリア戦。アジアカップ前の親善試合ですからなー。お互い調整って感じなんだろうな。
日本がポンポン攻めるが得点できず。それでもCKがファーまで流れてフリーの今野がヘッドで先制。なるほどと思う。
しかし森重の突破から岡崎がヒールで決めた2点目には、思わず「ウソぉ!?」と声が出てしまったではないか。
岡崎といえばもう、泥臭い!というイメージしかないのである。ドイツでそうとう上手くなったという話は聞いたが、
いざこんなオシャレなシュートを決められちゃうとねえ。いや、もう、尊敬しますわ。純粋にかっこいいと思う。動きが重いなあと思っていたオーストラリアだが、アディショナルタイムにケーヒルがあっさりとヘッドで得点。
これをやられちゃダメでしょ!というのが最後の最後で出た。思いっきり不安になってしまう試合の終わり方である。
ある意味、手の内を見せなかったオーストラリアが、錆び付いていないところを最終確認したように思える。
そんでもって、日本はいつもどおりにゴールを決めきる力のなさと守備の締まりのなさを露呈しただけにも思える。
あんまり実のある親善試合ではなかったのではないかなあ。岡崎のゴール以外、ポジティヴになれる要素があまりない。
今週末は3連休、そこにテストで休みを入れたので4連休! ってことはつまり、今週で一気にテストを仕上げんといかん。
今回は1学年分だけでいい番なので、わりと余裕があるのだが、かといって油断するわけにはいかないのである。
いつものようにルーズリーフに手書きからスタートしてIllustratorで割付する。並行してリスニング問題もつくる。
ある程度できたら実際に印刷して、かぶっている問題がないかをチェックして修正を入れて、また印刷。
正直、かなりの労力がかかっている。「解くことで賢くなるテスト」をつくっていますんでね、大変なんですよ。
いいかげん運転免許の更新に行かないといけねえや、ということで、鮫洲まで自転車でお出かけ。
家から鮫洲はちょうど東の方向にある。それで前任校への出勤コースをたどって行ったのだが、
考えてみればこのルートを走るのはけっこう久々なのである。ちょっとしんみりしたねえ。鮫洲に到着したのが11時25分で、もうあとちょっとで午前中の受付が終わるところ。ギリギリセーフである。
事務手続きに講習と、テンポよく進んで新しい免許証が手元に来るまで1時間足らず。実に要領がよかった。
それにしても鮫洲の免許試験場は建て替えられていて、以前とだいぶ雰囲気が違っていたのであった。
前はいかにも昭和な庁舎建築で、殺風景というか無機質な感じが満載だったと思うのだが(→2004.11.4)、
自然光がかなり入るサワヤカな空間になっていた。お役所的なたらい回し感は相変わらずだけどね。
せっかくなので2階にある食堂で醤油ラーメンをいただく。そしたらなんだかもうどうでもよくなってきた。
天気もいいし、このまま都心か川崎方面へサイクリングするのもいいかなあ、なんて思っていたのだが、
どうせ今度の週末には大規模なお出かけをやらかすので、今日のところは家に帰っておとなしくすることにした。で、テストづくりをせにゃならんなあと思いつつカフェに寄ったら日記の調子がいいのなんの。
時間を忘れて豊岡の分を書きまくってしまった。まあそれはそれでいいストレス解消にはなったかな。
しょうがないので仕切り直して晩メシ食った後は地道に割付作業をがんばることにする。たぶん。
テスト前だってのに土曜授業ということで、最高の秋晴れなのにどこか遠くへ出かけることもできないのであった。
まあそれはそれでしょうがないので切り替えて、授業が終わったらサッカー観戦に出発。今日はそれでいいのだ。
去年J1昇格プレーオフで京都が敗退したのにキレて「その存在意義を全否定する」と宣言した以上(→2013.12.8)、
今年はもう観戦するつもりはない。したがって今日のサッカー観戦が今年最後のスタジアム生観戦となるのである。
というわけで、今年の締めを飾るのにふさわしい試合といえば、やはり湘南ベルマーレ。湘南×横浜FCを観るのだ。平塚までは片道1000円ほどの金がかかるし、もちろん時間もかかる。なんせ横浜に着いてからまだ30分以上かかる。
いくら湘南のやっているサッカーが魅力的でも、スタジアムへ通うほどのファンになるにはちとつらいところである。
平塚競技場は席の確保が大変なスタジアムだし、早めに着いてテストづくりをシコシコやってりゃいいしということで、
14時前には平塚駅に到着して昼飯を食う。そしてすぐに駅前のバス乗り場から競技場へ。今回は素早いのだ。今回は西日に耐えてバックスタンド観戦なのだ。
英語のテストづくりでいちばん面倒くさいのは対話・長文問題で、あれこれ考えながら過ごす。
そしたら16時のキックオフまではわりとあっという間だった。うーん、忙しいでございますなあ。前回の平塚競技場ではメインスタンド側の天井桟敷からの観戦で(→2014.5.31)、それがいろいろつらかったので、
今回はバックスタンドでの観戦にした。バックスタンドは夕方の試合だと西日で観づらいのがお約束なのだが、
まあ「秋の日はつるべ落とし」でそこまで大変だってことにもならないだろうと踏んでの選択である。
というのも、この日は湘南のホーム最終戦。したがってきっといっぱい客が入るんじゃねえかと予想していたのだ。
それもあって、かなり早めにスタジアム入りしたというわけだ。でも思ったよりもずっと余裕があったので驚いた。試合が始まると、さっそく湘南がその強さを発揮する。今シーズンのJ2は湘南がぶっちぎりの優勝をすでに決めたが、
ホーム最終戦ということで手綱を緩める気配は一切なし。スタメンも中盤を少しいじっているが、いつものサッカーだ。
対する横浜FCはクラブのレジェンドである山口監督が退任することが発表済み。モチヴェーション的にはややつらい。
もちろんプロとして優勝チーム相手に気を吐いているのはわかるが、湘南は時間経過とともに横浜FCを押し込んでいく。
そして湘南は早くも前半10分にCKからウェリントンのヘッドで先制。きれいに決まるもんだなあ、なんて思っていたら、
次のプレーで10番の菊池がゴール。どっちも大逆光の角度で、バックスタンド観戦をちょっと後悔したのであった。
L: ウェリントンのヘッドで湘南が先制したシーン。多少距離があってもヘッドで決めきってしまうのがすごい。
C: その後のキックオフでも湘南は一気に攻めて菊池がゴール。左の写真もそうだが、逆光で撮るのがつらかった……。
R: 前半は完全に湘南が試合を支配。右からも左からも中央からも攻めまくる。横浜FCは必死に耐える。その後も完全に湘南ペースで試合は進み、横浜FCは防戦一方。やはり10番の寺田はセンス抜群のプレーを見せるが、
湘南の守備は安定していてまったく崩せる気配がない。湘南は前線からのプレスとショートカウンターを徹底しており、
ボールを奪うとほかの選手たちが連動して一気に前に出る。横浜FCはその圧力にただひたすら耐えるだけだった。
L: この大チャンスを決められないのにはずっこけた。やっぱりシュートを撃つときは判断を早くしないとかえってダメだね。
C: 背番号が48なのは「芝=シバ=48」という語呂合わせですかね。 R: なぜかざっくぅ(ZAQ)が台車に乗せられて行くよー。後半に入ると横浜FCが修正してきて、湘南を押し込むシーンが見られるようになる。
どちらかというと湘南がペースを落としたように思えたのだが、とにかくチャンスをつくって互角に戦いはじめる。
湘南は前半にはショートカウンターを仕掛けていたが、後半は低い位置からのふつうのカウンターとなってしまい、
明らかに相手ゴールまでの距離が遠くなる。しかし横浜FCはあくまで「互角」まで持っていっただけで、
得点を奪いきることはできなかった。要因はやはり、湘南の体の強さと足下の技術、そして的確なフォロー。
体の強さはちょうど日本代表で本田が見せるような感じで、湘南はとにかくボールを確実にキープすることができる。
そこに味方選手が素早くフォローに入り、足下の技術を生かして上手くボールをつなぎ、相手をかわしていくのだ。
プレスをかけて相手には思いどおりにプレーさせず、自分たちは思いどおりにプレーする。当たり前のことだが、
それをここまで自在にできるチームはなかなかない。やはりこれは本当に魅力的なサッカーである。そんなことを思っていたらカウンターから最後は菊池が遠い位置からシュートをするっと決めて3点目。
横浜FCとしては粘り強く攻めていたところでの失点で、決めきるチームとそうでないチームの差が出た感じ。
さらにその6分後にはやはりカウンターからゴール前でつないで最後はウェリントン。カウンターからの攻撃だが、
ゴール前でつなげるということは、複数の選手がきちんと走っているということ。湘南はひとつひとつの質が高い。
L: 後半に入り、横浜FCが攻める時間帯も見られるようになる。 C: ゴール前の混戦。しかし横浜FCは決めきれない。
R: ウェリントンが4点目を決める。湘南の強さはJ2では完全に規格外だ。来シーズンのJ1ではぜひ旋風を巻き起こしてほしい。最後の最後で横浜FCはPKで1点を返すが、それがやっとだった。湘南は最後まで湘南らしく勝ち続けたって感じ。
これだけ魅力的な攻撃サッカーが、相手の隙を衝くことに長けたJ1のサッカーに対してどこまで通用するのか、
非常に気になるところだ。来シーズンは、できることなら湘南のサッカーを中心に追いかけていきたいものだ。湘南の勝利のダンスはスクロール感がものすごく独特なのだ。
帰りは横浜の東急ハンズに寄って、御守収納用の壁掛けを買い足す。いやー、これは強烈なことになってきたわ。
日本代表のホンジュラス戦をテレビ観戦。アギーレ監督になってからは代表戦をそこまで熱心に見ていないのだが、
今回はテスト前で現実逃避したくなるだけの余裕があったのか、なんとなくきちんと見たくなったのである。
そしたらスタメンが武藤以外全員ザックジャパン。まあ今野の代わりに森重って感じではあるけど。試合が始まると気合十分、どの選手も明らかに迫力が違う。まるでW杯の借りをここで返すぜと言わんばかりだ。
これは本当に僕個人の希望的観測なんだけど、ザッケローニへの根強い批判をこのメンバーで返上させてやるぜ、
そういう種類の気迫を感じたのね。このメンバーだからこそやれることがある、そういう気概を僕は見たのだ。
吉田のヘッドを皮切りに、長谷部からのとんでもないパスに本田の1対1からのゴール、そして遠藤のミドル、
どれもあまりにも美しすぎて声を出さずにはいられなかった。後半も乾と豊田が代表初ゴールして6-0の勝利。
内田は右サイドを突いていくし、ゴートクは左サイドで相手の攻撃を抑えまくるし、長谷部の読みは絶妙だし、
香川はゴール前では実力を発揮できなかったが守備が本当に的確だったし前線へのパスには鳥肌が立った。
ブラジルW杯組の本当の実力がばっちり堪能できて、心ゆくまで楽しめる試合だった。会心のデキだったねえ。あと、松木の解説はもちろんハイテンションだったが、今回はわりときちんとした内容のものだったと思う。
松木は松木なりに、ライト層も引きつけつつ中身も充実したバランスの取れた解説を試行錯誤しているのかもしれない。
それはそれで面白いことになってくるし、サッカーファンのレヴェルを引き上げるにはいちばんいい方法なので、
そっちの面でもポジティヴさを感じた。まあ、日本国内では最大多数が最大幸福になるようなゲームだったのでは。
色違いに惹かれる。
朝、出勤するときにコンビニの前に缶チューハイを持っていたおっさんがいたのね。朝から酒かよ、
そう思って通り過ぎたのだが、ふと頭の中に引っかかるものがある。缶チューハイの缶のデザインだ。
タカラ缶チューハイ。確か僕が小学生くらいのときに発売されたはずで、そのときと同じ文字が描かれていた。
それに気づいた瞬間、幼少期の記憶が一気に蘇ってきた。そしてハッと理解する。ああ、オレは色違いに惹かれるんだ!
当時、タカラ缶チューハイは黒・黄色・ピンク・グリーンの各色があって、すべて同じデザインで、色だけが違った。
それを見て僕は、ぜんぶの色を集めたい!という衝動にかられていたのだ。幼少期の僕は本当にその傾向が強かった。今でも強く印象に残っているのは、「宝石箱」というアイスクリームである。バニラアイスの中に氷の粒が入ったもので、
メロン味の緑の氷のやつがお気に入りであった。赤い氷のイチゴ味も覚えているなあ。その後さまざまな種類が出た。
僕は中身を食った後の空き箱を洗って保存していたんではないかと思う。そんな記憶がうっすらとあるのだ。
どういう執着心だよ、とわれながら思わざるをえない。親は息子の異様な執着ぶりをどう思ったのか、怖くて聞けない。ほかにも色違いにまつわる思い出は多々あるが、自然では白と黄色の組み合わせが印象深い。
ペンペン草(ナズナ)に白い花のやつと黄色い花のやつがあって、その2種類だけなのが少し残念だった。
(調べてみたらナズナは白い花しかなく、黄色い花はイヌナズナだった。別の種類だと今、初めて知った。)
そしてモンシロチョウとモンキチョウである。これまた好対照な存在で、僕にとって蝶というとまずこの2種なのだ。そういえば、スーパー戦隊(この名称が定着したのは後になってからなので、ちょっと違和感がある)の影響も見逃せない。
デンジマンは夕方の再放送というイメージがやたらと強い。そしてかつて母親が言っていたことから考えると、
僕はどうもサンバルカンから入っているようである。そしてゴーグルファイブから興味が本格化した。これは覚えている。
ダイナマンにはだいぶ熱中し、バイオマンまではしっかり見た。でもチェンジマンからはなんとなく飽きて見ていない。
逆に元祖のゴレンジャーは知らない。ジャッカー電撃隊とバトルフィーバーJはケイブンシャ辺りの本で振り返ったと思う。
やはり色分けされたキャラクターというのはわかりやすくて、そうとう魅力的なものとして刷り込まれたようである。
基本的に混じりっ気のない原色は好きなのだ。熱海ロマンのときも原色のカラーリングを徹底して押し通したのは僕である。
親が「緑は目に優しい」と言っていたせいで、小さい頃は熱狂的に緑色が好きだった。それに対して潤平は青が好きで、
僕ら兄弟の持ち物は、基本的には「びゅく仙=緑」「潤平=青」というカラーリングの不文律ができていたのが面白い。幼稚園時代には、「緑×赤」「青×黄」という補色関係にかなり思考回路が支配されていたところはある。
その基本4色に近い「黄緑×ピンク」「水色×オレンジ」というのが、当時の僕の世界観ではかなり重要な部分だった。
まるで風水の東西南北のように緑・赤・青・黄が世界を構成し、8方位のように黄緑・ピンク・水色・オレンジが取り巻く。
だから色違いで4色から欠ける物、8色から欠ける物があると、悔しさを感じていた。逆にこの8色以外へのこだわりは弱い。
いま思えば、決定的だったのは『アメリカ横断ウルトラクイズ』のウルトラハットだ。形は同じで、原色が揃っていて、
それ以外の色のヴァリエーションも豊富で、幼少期の僕はウルトラハットがめちゃくちゃ大好きだったのだ。狂っていたわ。紙とクレヨンさえあればそれでよかった僕にとって、世界を構成する要素である原色たちは、はるかに深い意味を持っていた。
色とりどりな絵本に囲まれて育った影響も大きいと思う。レオ=レオニの『あおくんときいろちゃん』は基礎の基礎だし、
『ねずみくんのチョッキ』はチョッキだけがつねに赤い。そして赤い顔の『はらぺこあおむし』は緑の葉っぱを食い散らす。
おかげで色に異様に執着する子どものできあがり、である。僕の幼少期はまず何よりも、色が意味を主張して見えていた。
幼稚園児に最も身近な「色のヴァリエーション」というとクレヨンと折り紙で、クレヨンは何も気にすることなく使ったが、
折り紙にはあまり興味を示さなかったと思う。幼少期は今ほど3次元の立体物に興味がなかったなあ、そういえば。
2次元から3次元をつくるのが折り紙の本領だが、僕にはそれ以上に「色」そのものだった。「色」の段階で満足していた。
だから、折り紙を使ってしまうと色が欠けることになるので、使いたがらなかったのだ。本当にそういう理由があった。おかげで、今でも色違いに惹かれる。たとえば商品のパッケージで、色違いのものがあるとする。
そうだなあ、たとえば蛍光灯。クールな白さなら、青。ナチュラルな色を出すなら、緑。あたたかな色合いなら、赤。
それぞれに異なるパッケージがあるとすると、僕はその中の1種類だけを選んで買うのが、ちょっと悔しいのだ。
やっぱり全色制覇したくなっちゃうんだよね。色違いのものが揃っている状態に、この上ない安心感を覚えるのである。
今これを書くのに使っているMacBookAirでも、DockにDreamweaver・Illustrator・Photoshopのアイコンが並んでいて、
それがいい具合に色違いになっているので落ち着く。MicrosoftのWordやExcelやPowerPointの色違いぶりも好きよ。
FREITAGもなんだかんだで、新しいものを買うときには「まだ持っていない色」という基準で選んでいるもんね。
神社の御守で色違いがあるときは、1つを選ぶのが本当につらい。お願いだからどこも代表を1色だけに絞ってほしい。以上、まとまらないままに幼少期の記憶をたどって自分の趣味嗜好を分析してみた。うーん、面白い。
本日は区での英語の発表会。去年はいろいろブチキレたけど(→2013.11.13)、今年はまあ納得。
問題意識を持っていたのは僕だけではなかったようで、確実に改善がなされていたのであった。
一点、気になったのは都大会の代表決め。今年も救いがたい英語劇が展開されてフンニャリしたのだが、
外国人審査員はスピーチよりもそっちを推す。あんなのが代表とか恥さらしなだけじゃん、と思うのだが。
まあ色眼鏡に基づいた意見だし、具体的に書くのも問題があるからできるだけオブラートに包んで書くけどさ、
日本とヨーロッパ、同じように戦争をめぐる悲劇に対し、あなたたちの中には明らかに、共感の度合いに差があるよね。
直接問い質したわけではないが、彼らの評価からはそういう意識が透けて見えた。無意識かもしれんがね。
やっぱり日本人は、もっと英語に対して危機感を持たないといけない。英語はいつでも敵性語になりうるんだぜ。しかし生徒の舞台度胸はすごいなあと感心。緊張していたとしても、それを感じさせないパフォーマンス。
大変すばらしゅうございました。あの舞台度胸は本当にうらやましいよ。スイッチ入っていたもんなあ。
買い物とは、コミュニケーションである。買い物とは、本来は貨幣を介した交渉なのである。
だから売り手と買い手の間に信頼関係が結ばれないと交渉が成立しない。最近どうも、その本質がおろそかになっている。
(参考までに、僕がこっそり標榜している「そこそこ資本主義」についての過去ログはこちら →2013.1.10)僕が「買い物がコミュニケーションであること」を実感させられた経験で、深く印象に残っている例を2つ挙げよう。
ひとつは、今は亡きニューヨークのシェイ・スタジアムで、チケットを買ったときのことだ(→2008.5.10)。
ここで本場の足し算によるお釣りを経験し、買い物とは価値の交換であるという事実を再認識させられた。
そしてもうひとつは東急ハンズでのバイトである(→2009.3.28)。レジで商品と代金が釣り合うことの意味を学んだ。
実家がお店をやっている人なら当然のことかもしれないが、それとはまったく縁のない環境で育ったのでひどく新鮮だった。
相手を認め、その品物の価値を認めるから金を払う。最近はどうも、その本質がすっかり忘れられてしまっていて、
交換する行為だけが独り歩きしてエラそうに振る舞っているように思う。買い物にまず必要なのは、礼儀であるはずだ。そういえば、小学生のときに読んだ学研マンガに出てきた本阿弥光悦の逸話もまた、深く印象に残っている。
光悦が高価な茶碗を購入する際に、相手から値引きしますよと言われたのにそれを断り、高いままの値段で買った。
その理由は、この茶碗にはそれだけの価値があるから相応の金を出す、値引きしたら茶碗に対して失礼だ、というもの。
そしてこれを聞いて感心した徳川家康が光悦に鷹峯の土地を与えた、というのだ。いやー、われながらよく覚えているなあ。
面白いのは、相手という人間だけでなく、商品という物に対しても敬意が払われている点だ。やはりそこには礼儀がある。デフレで儲ける商売が行き詰まり、ここ最近の日本経済は少々高くても付加価値で勝負する、という流れができつつある。
それ自体は好ましいことだ、というより、経済が本来の姿に多少揺り戻しただけ、と受け止めている。当たり前のことだ。
ただ、そこに「礼儀」はあるのか?と考えると、やはり「お客様は神様です」的な主従関係が幅を利かせている気がする。
売り手は質の高いものをそれ相応の値段で売り、買い手は礼儀を尽くして対価を支払いその商品を自分のものとする。
一時の経済の活性化のために、この本質、この原則を破ることは、前提としている交渉の信頼関係を損ねるものとなる。
そうなってしまった経済は、果たして意味のあるものとなるだろうか? 交換のための交換がわれわれを豊かにできるのか?
1円でも安いものを求めてあちこちの店を転々とすることが、社会全体を豊かにするとは到底思えない。
それとは反対に、少し高くても信頼できる商品を扱う店で買う方が、社会全体の質を高めることにつながるはずだ。
資本主義社会である以上、われわれは買い物を通して社会をよりよいものにしなければならないのである。
食の安全が保証されていない、と中国を笑う資格がわれわれにあるのか。われわれの周りにある商品たちは、
本当に安全と言えるだけの質を保てているのか。安心できる物、質の高い物に囲まれたいなら、相応のコストが必要だ。われわれは、誇りある買い手にならなければならないと思う。誇りがあるから、同じように相手を尊重することができる。
誇りがあるから、本当に価値のあるものを求める。誇りがあるから、価値あるものをそれ相応の対価を支払い手に入れる。
どうもわれわれは買い物が当たり前になりすぎてしまっていて、感覚がひどくマヒした状況にある。忘れていることがある。
その当たり前を問い直していけば、景気なんてものに振り回されることなく豊かな生活ができるのではないかと思う。
経済をめぐって一喜一憂している世間の皆さんの姿からは、誇りというものがまったく感じられないのである。
プライドのない金持ちよりも、誇りある貧乏人になりたい。というか、もうなっている。誇りは金じゃ買えんからな。
今日も英語の授業でSCRABBLEだぜ。生徒の食いつき方が本当にすごい。惚れ惚れする。
御守頂戴の旅・第2部は、伊勢神宮まで行ってしまうのである。いや別にそんなに焦って参拝する必要はないのだが、
土日両方動けるんなら寄ってしまってもいいのではないかと。それに個人的にピンチな状況に追い込まれつつあったので、
まあここらで一丁、最も強烈な神頼みをしてみるのもいいのではないかと。神宮大麻を頂戴するのもいいのではないかと。そんなわけでまだ暗いうちに金山駅を出発すると、名古屋駅で近鉄に乗り換えてひたすら南へ。2時間寝てたら鳥羽駅で、
さらに30分ほど揺られたら上之郷駅。そう、まずは伊勢神宮の別宮で志摩国一宮である伊雑宮から参拝するのだ。
伊雑宮を訪れるのは2年ぶり(→2012.3.31)。前回は天気が良くなくて、今日も今すぐにも雨が降り出しそうな気配。
どうにか天気がもつといいなあ、と思いつつ、簡素な駅からスルスル歩いて伊雑宮に到着。前回は特に気にしなかったが、
よく見ると境内の手前にある建物がなかなかいいじゃないの。一発でアングルが決まらず苦しみながらも撮影してみる。
L: 伊雑宮の手前にあるウナギ料理店・中六。 C: 伊雑宮の目の前には神武参剣道場。どちらも国登録有形文化財。
R: 伊雑宮は相変わらず木々が元気に茂っている。伊雑宮は古来の自然を想起させる空間だが、外観からしてこうだもんな。境内に入るとくねった参道を抜けて参拝。そしたら社殿がふたつ並んでいてびっくり。前回はこんなんじゃなかった。
実は今月の28日に、奥にある新しい社殿に神様が移るそうだ。伊勢神宮と同じく、20年で遷宮するとのこと。
新旧ふたつの社殿が並ぶのは、それはそれで貴重な機会であるには違いない。ギリギリ最後のタイミングでの訪問だ。
L: ゆったりとくねる伊雑宮の参道。木々を抜けるとパッと開けた場所に出て、そこに簡素な社殿があるのだ。
C: ……と思ったら、ふたつ並んでいた。ある意味、20年でこうなるという比較ができる貴重な機会なのであった。
R: 役目を終えつつある現在の正殿をクローズアップ。古来の信仰スタイルを体感するには最もよい神社だと思う。二礼二拍手一礼を終えたらちょうど雨粒が降ってきた。うーん、ついにやられたか、とがっくり。
まあ多少の湿り気がある方が神社らしさが感じられるってもんだが。でも2回来て2回ともそうだと残念だわ。デビューを待つ新しい正殿。20年後にはお隣のように、いい感じに古びるのか。
御守を頂戴して境内から出ると、前回は行かなかった料田の方へとまわってみる。そこはまず広大な駐車場があって、
その先には簡素な鳥居があり、左右両側には屋根のついた細長い空間。いかにも祭祀のための場所という雰囲気だ。
鳥居の先が伊雑宮の料田で、駐車場のインパクトと比べればそこまでの広いというわけでもないかな、という印象。
右手を見れば伊雑宮の社叢がどっしりと構えていて、料田との対比がなんとなく弥生時代テイストに思えてくる。
L: 伊雑宮の料田は、まずその手前に広い駐車場。 C: 鳥居から料田を眺める。 R: 右手には伊雑宮の社叢。日本だなあ。上之郷駅から再びのんびり電車に揺られて鳥羽駅に戻る。ここでわざわざJRに乗り換えて、目指すは二見浦駅だ。
せっかくここまで来たからには、中に入れなかった賓日館に行ってやるのである。またしても雨なのが本当に残念。
駅から二見浦までは少し距離がある。早足でグイグイ歩いてさらっと到着すると、まずは外観の写真を撮影して、
300円払って中を見学する。そしたらこれが思っていた以上に素晴らしい建物だった。本当に来た甲斐があった。
L: 賓日館。けっこう大きい建物で、正面からだと全体がうまく収まらない。というわけで敷地の端から撮影してみた。
C: あらためて正面から撮影。 R: 向かって左手の塀を抜けて庭園越しに眺めたところ。いや、これはすごい建物だ。まずは賓日館について軽くまとめる。伊勢神宮に参拝するVIPな客の宿泊施設として1887(明治20)年に建てられた。
明治天皇の母・英照皇太后の宿泊に間に合わせるべく、着工からわずか3ヶ月で竣工させたという。すごい話である。
その後、明治から大正にかけての増改築で2階建となり、1930年代に2度目の増改築を行って現在のような姿になった。
おかげで中の構造はちょっと複雑なのだが、それもまた味というか、多様な表情を持つ建築として仕上がっているのだ。
L: まず玄関近くの階段にカエルがいる。近くの二見興玉神社ではカエルを神の使いとしており、それを受けてなのだろう。
C: 2階に上がったところなのだが、この増築感がたまりませんね。こういう複雑さが建物のワクワク感を演出すると思うのだ。
R: 中庭を見下ろす。さまざまな木々や石灯籠など、狭い中でしっかり取捨選択しながらも、多彩な要素を詰め込んでいる。やはり圧倒されたのが2階の大広間。今年の夏休みに訪れた能代の金勇も本当に見事だったが(→2014.8.21)、
こちらもそれに負けない迫力を持っている。そして天井から下がっているのがシャンデリアというのもモダンだ。
L: 賓日館の大広間。こりゃすごい。 C: 反対側を振り返る。 R: 廊下に出てみる。和風建築の2階はここが魅力的。賓日館は外から眺めても見事な迫力を漂わせているが、中に入るとさらにすごい。この建物を通すことで、
二見浦の歴史的な人気ぶりがわかるし、それに対する地元の誇りも強く伝わってくる。まさに誇りが具現化した空間だ。
ただ豪華だからいいというわけではないのだ。華やかにつくられた空間を通して人々の誇りが見えてくるからいいのだ。
賓日館の威容は、昔から聖地・特別な場所として支持されてきた度合いをはっきりと示しているものだ。感動的だった。
L: 2階から玄関側と庭園を眺める。賓日館は庭園もしっかり凝っている。建物とうまく調和しているように思う。
C: 御殿の間。座敷の外は絨毯敷きで、机と椅子が置いてあるのが面白い。かつての和と洋の共存はこうだったわけだ。
R: 御殿の間、奥を覗き込む。二重格天井や螺鈿を入れた床の間など、ほかの部屋と差がつけてあるのがわかる。前回二見浦を訪れたときから気になっていた賓日館だが、その凄みをきちんと味わうことができ、満足して外に出る。
そのまま東へ進んで二見興玉神社を参拝。雨であるにもかかわらず、観光客がいっぱいなのであった。人気あるなあ。
せっかくなので御守を頂戴するが、一番人気はやはり縁結び。しかし夫婦岩がデザインされたフツーの御守を頂戴。
そりゃあ縁結びもいいだろうけどさ、デザイン凝っているんならそっちに行くってものだ。もうこりゃしょうがない。
L: 前回参拝時にも書いたが、二見興玉神社はカエルがいっぱい(→2012.3.31)。手水周辺もエラいことになっとる。
C: 二見興玉神社の拝殿。参拝客がワンサカですよ。 R: 夫婦岩。やはり雨だと色合いが冴えない。これじゃモテません。雨の中だし、それなりに距離があるはずなのだが、二見浦駅までは思ったよりスンナリと戻ることができた。
快調に列車に揺られて伊勢市駅に着くと、いよいよ伊勢神宮に参拝である。まずは外宮からだ、と改札を抜けると、
そこは2年前とは違う光景となっていた。記憶と異なる空間を目の当たりにして、少しうろたえる。
2年前にはもうちょっと寂れ気味だったのだが、再開発がなされたのか一部の建物が和風に新しくなっており、
観光客の姿が格段に増えている。駅から外宮までの道はどう考えても賑わう可能性がいっぱいのフロンティアで、
その可能性が着実に掘り起こされている、という印象である。将来的には「外宮のおはらい町」を目指すのだろうか。
L: 伊勢市駅。色が塗り替えられて雰囲気が変わった(→2007.2.10)。 C: 見慣れない店舗が並んでいるんですが。
R: 外宮へと向かう参道は、古い建物を新しい木造店舗に更新していくつもりなのか。長いスパンで取り組むってことか。程なくして外宮に到着。もう3回目になるので(→2007.2.10/2012.3.31)、細かいことは書かない。
今回は昨年遷宮が行われたばかりというタイミングでの参拝だったので、移った後に残された空間が妙に生々しい。
雨にもかかわらず参拝客でごった返しており、相変わらず賑わいが増す一方で、衰えることのない人気ぶりである。
L: 外宮の旧社殿跡地。これはこれでしっかりと神聖さが感じられる空間となっている。いいタイミングで来たもんだ。
C: 奥へと移った現在の社殿。 R: 撮影できるのはここまで。いやしかし、相変わらずの圧倒的な人気ぶりだ。参拝を終えると外宮の御守を頂戴する。外宮は食物・穀物を司る女神である豊受大御神を祀っているためか、
御守がふっくらしているのが非常に特徴的だ。本当に「ふっくら」という形容詞がしっくりくる感じなのだ。
さらに表面には稲穂の柄も添えられており、外宮の特徴を見事に表現した御守なのである。前回同様、黄色を頂戴。
しかし守袋の口を結ぶところに2年前に受けた御守にはなかった玉がついており、マイナーチェンジが施されていた。
伊勢神宮は人気があるだけに、わりと頻繁に御守のデザインを更新しているのかもしれないな、と思う。
そういえば7年前に内宮で頂戴した御守は、裏面に「神宮」と伊勢神宮の正式名称が記されていたのだが、
2年前に頂戴した御守は「内宮」「外宮」にそれぞれ変わっていた。そんなに頻繁に更新されても困るんですが……。外宮の境内を出ると、すぐ手前のバス乗り場へ。御木本道路は交通量が多いこともあり、なかなか青にならない。
おかげで信号が変わる直前のタイミングでバスが出てしまった。それで次のバスを待つ列の先頭で待機することになる。
バス乗り場では待っている間に係員から乗車券を買う仕組みとなっていて、伊勢神宮の猛烈な人気ぶりがよくわかる。
後ろに並ぶ乗客たちを見ていると、とにかく外国人観光客が多い。これは7年前とはまったく異なる状況で、
2年前と比べても確実に外国人観光客が増えている。これは僕なんかが教会建築を訪問するときにも言えることだが、
どのような好奇心で、どの程度背景をわかってきているもんなのかな、と気になった。まあ別にいいんだけどさ。雨ということもあるし、すでに御守を頂戴しているので、今回は猿田彦神社はスルー。もったいないけどしょうがない。
そうして内宮に到着すると、やっぱりすごい人波なのであった。伊勢神宮の人気ぶりは極限まで来ていると思う。
ある程度は余裕を持ってスケジュールを組んだつもりだったが、境内の広さとバス移動の影響は予想以上に大きく、
あんまりのんびりと参拝していられない感じになってしまった。雨ということもあり、要領よく歩いて参拝を済ませる。
そして御守を頂戴。内宮の方は2年前から特に変化はない印象。せっかくなので角祓のデカいやつも頂戴しておいた。
これでなんとか今のピンチな状況から脱出できるといいのだが。神頼みもここまでやるか、と自分でも思うけどね。
L: 内宮にやってきたけど、ご覧のような混雑ぶり。 C: 境内の参道を行く。入ってからがしっかり広いんだよなあ。
R: 写真が撮れるのは石段の下までだ。混雑しているうえに雨で、落ち着いて参拝するのがけっこう大変だったなあ。おはらい町やおかげ横丁を散策する間もなく、バスに乗って宇治山田駅まで揺られる。雨ってのはやる気をそぐなあ。
宇治山田駅に到着すると、中のコンビニで昼メシを買い込んでおく。名古屋に戻るのに2時間近くかかるので、
結局こういう形で栄養補給せざるをえないのだ。今回は御守頂戴に特化した旅とはいえ、ちょっと切ない。
L: 宇治山田駅。久野節の設計で1931年に開業。さすがの外観。 R: 駅の中はこんな感じ。やっぱり風格あるなあ。名古屋に着いたのは午後3時を過ぎてから。多少戸惑いつつも、近鉄から名鉄への乗り換えに初挑戦してみた。
名鉄にはまったく乗り慣れていないので、どの列車に乗ればいいのかがまったくわからずかなりうろたえたが、
結果的には無事に目的の駅で降りることができた。その名は、「神宮前駅」。東京だと明治神宮のイメージだが、
こちらは名古屋なので「神宮」とは熱田神宮を指す。8年前にドサクサにまぎれて参拝しているが(→2006.8.15)、
きちんと意識して訪れるのは初めてになる。駅を出ると県道を挟んだ目の前に熱田神宮の境内があるのだが、
せっかくなので南側へ歩いてきちんとした入口から参拝することにする。そしたら境内がめっちゃくっちゃ広いの。
L: 熱田神宮・南側の境内入口。左には別宮八剣宮があるが、工事中だった。 C: こんな感じで参道がまっすぐ延々と続く。
R: 信長塀。桶狭間の戦いで勝利した織田信長が奉納したもの。えらくきれいに残っているのだが、直したのかなあ?駅から来た分をまっすぐ北へと戻ることになるので少々残念な気分になりつつも、どうにか拝殿の前に到着。
熱田神宮といえば、三種の神器のひとつ、草薙剣こと天叢雲剣を祀っている神社である。当然、かなりの格式なのだが、
なぜか尾張国の三宮という立場になっている。まあ一宮なんてものは、政治的な力関係で決まってきたもんだし。
今年の夏に吉備津彦神社を参拝した際、社殿が4つ直列に並ぶ形式が熱田神宮スタイルということで(→2014.7.24)、
なるほど本殿の方を覗き込んでみたら確かに独特である。ただしこちらは神明造で、伊勢神宮に非常に似た印象だ。
さっきの伊勢神宮も外国人観光客が多かったが、こちらの熱田神宮も負けじと外国人観光客がすごく多い。
言語としては東南アジア系の響きが目立っていたが、やはりどの点に興味があって訪れているのかが気になる。
L: 長い長い参道の奥にようやく拝殿が登場。 C: さらに奥を覗き込むと、確かに神明造が3つ並んでいた。
R: 境内の参道沿いにはきしめんの店があって、あたたかいきしめんをいただくことができた。おいしゅうございました。帰りは我慢できずに参道の途中にある店できしめんをいただいた。寒い雨の夕方には非常にありがたいあたたかさ。
それにしてもなぜ、きしめんの汁って微妙な酸味があるのだろう。もともと僕は小さい頃からきしめんが大好きで、
名古屋文化圏に属してしまう飯田ではスーパーでも袋の生きしめんを売っており、よく母親がつくってくれたものだ。
ところがなぜか汁に酸っぱさがある。理由を訊いても、酸味を足しているわけではなくて自然とそうなる、とのことで、
つまり麺じたいに酸味のもとが含まれているということになる。これこそ、きしめんとうどんの決定的な違いなのだ。
なぜ麺類なのに酸っぱいのか、どうもよくわからないのだが、旨いからいいや。日本人はもっときしめん食おうぜ。熱田神宮を後にすると、帰りは名鉄ではなくJRを利用。熱田駅は名鉄の駅より北にあり、よけいに歩く必要がある。
でも久しぶりにきしめん食って満足したので、上機嫌でホイホイ歩いて駅に到着。すぐに列車がやってきて、名古屋駅へ。今回は御守を頂戴するだけの旅行なので、できるだけ簡素にということで、帰りも高速バスを利用するのである。
以前のバスターミナルは名古屋駅の隅っこにあったのだが、気がついたら太閤通口の目の前に移転していて驚いた。
乗り込んだのは名古屋駅を17時半に出るバスで、22時39分に東京駅に着く予定となっている。新幹線だとすぐだが、
バスだと5時間が標準的となるのである。5時間ってのはけっこう大きくて、微妙に行動が制限される感触になる。
僕が東京から名古屋へ出ることが意外と少ない最大の理由は、この「バスだと急に利便性がなくなる感じ」なのである。
それでもたまにはいいだろうと、名古屋駅のビルで買ったデザイン史の本を読んだり寝たりのん気に揺られていたのだが、
名古屋市内を脱出するだけで1時間かかるスローペースぶりで、なんだかうっすらと不安な気分になってくる。その後、バスは第二東名に入る。第二東名は初めてだが、すでに暗くなっているので特に興奮することなく過ごす。
それからもバスは遅れを巻き返すことなく静岡県の端から端までを着実に走っていき、不安感はかなり増幅していく。
結局、遅れは1時間以上に膨らんだ。こりゃマズいんじゃないか、と直感で予定を変更して用賀PAで下車する。
こんなことをするのは今までなくて、いいのかなあと首をひねりつつエレベーターに乗り込む。やってみて初めて、
用賀ってこんな構造になっていたんだと知った。地上に出ると、iPhone片手に東急田園都市線の用賀駅まで歩く。
どうにか二子玉川経由、終電一本前で家までたどり着くことができた。疲れもピークでギリギリの判断を重ねたわりには、
きっちり正解をたたき出せたようである。いや、まさかこんなことになるとは17時半の段階では想像できなかった。
明日はふつうに仕事だよオイ……と思いつつ寝床に横たわった瞬間にぐっすり。なんだか大冒険だった気がする。
御守頂戴の旅・in 関西! 今回も一宮を中心に、関西方面で御守を頂戴するよ! 毎度おなじみ無茶な旅行だよ!
スタートは当然、夜行バスなのだが、今回はデラックスな席しか予約が取れなかった。安い方がいいに決まっているが、
こればっかりはしょうがないので素直にデラックスに甘えることにした。そしたらこれが予想以上にデラックスでして、
それはもうとっても快適に過ごすことができた。シートがほぼ180°になるんだぜ! こりゃもうほとんどベッドも同然。
おかげで信じられないほどぐっすりと眠って和歌山駅に到着さ。夜行バスでこんなに寝覚めがいいのはもちろん初めて。王侯貴族な気分でバスを下りると、近くのコンビニで朝食を買い込む。そして和歌山電鐵の一日乗車券を購入する。
今日は関西の一宮をしらみつぶしに参拝していくが、紀伊国一宮は3つあり、うち2つが「和歌山三社参り」に含まれる。
和歌山電鐵はもともと和歌山三社参りのために設立された路線なのだ。まずはここから押さえて、その後、北へ向かう。さて和歌山電鐵といえば、なんといっても「たま駅長」。しかしそれについては以前、批判的に書いた(→2012.2.24)。
「『たま』をめぐるひとつひとつのものが、ダサいのである」というのがそのときの結論で、これは今も同じ気持ちだ。
しかし和歌山電鐵が勘違いをしているのは、「たま」関連のものだけではない。今回、おもちゃ電車に乗って再確認した。
デザインに関わっているのは水戸岡鋭治。水戸岡鋭治といえばJR九州の車両デザインで高い評価を得ている人だ。
彼がJR九州にもらたらしたプラスの効果については以前、肯定的に書いている(→2011.8.6/2011.8.9)。
昨今、JR九州でいちばんの話題は超豪華列車「ななつ星」だろう。世間的には水戸岡鋭治の集大成ってところだろうが、
僕は「ななつ星」に関しては全面的に否定、あんなものに喜んで乗る人間は差別の対象、ってくらい大嫌いである。
鉄道における「豪華さ」とは何か(これは建築の「豪華さ」にも通じるものがある)、という問題は非常に重要で、
これについては後日きちんとじっくり日記で書いてみるつもりなのだ。和歌山鉄道はその水戸岡鋭治の勘違いが丸出しで、
もう本当に救いがたいレヴェルにまで来ている。その豪快な空振りっぷりに呆れながら揺られるのであった。おもちゃ電車の中。こんな下らないものを走らせて、いったい誰が喜ぶの?
本日最初の目的地は伊太祁曽神社。なので伊太祈曽駅で降りる。前回訪問したのは2年前で(→2012.2.24)、
まあ当然ながら景色はまったく以前と変わらない。境内に入るとまず授与所をチェックするが、まだ開いていない。
とりあえず参拝してあちこち写真を撮りまくって過ごすが、授与所は一向に開く気配がない。これは困った。
L: 2回目の伊太祁曽神社であります。前回訪問時には撮らなかった角度からいろいろ撮影していくのだ。
C: 授与所は拝殿の脇にくっついている。 R: 拝殿。拝殿というよりは門のような気も。割拝殿ってやつかね。拝殿の階段を上ると本殿を覗き込む。伊太祁曽神社の空間配置はかなり独特で、門のような拝殿を抜けると中門。
ここから二礼二拍手一礼するのだが、左右両側には脇宮があって主祭神・五十猛命の妹がそれぞれ祀られている。
また向かって左側には摂末社が集中しており、それもまた独特である。けっこう狭い範囲にいろいろ詰まっている。
L: 中門。手前と奥にそれぞれ脇宮の参拝口がある。 C:失礼して本殿を覗き込む。 R: もう一丁、別の角度で。境内のあちこちを撮影しても、まだ授与所は開かない。しょうがないので向かい側にある古墳・ときわ山にお邪魔する。
奥へと進んでいくとそこは石碑の点在するちょっとした休憩スペースとなっており、ベンチが置いてあった。
しかし木々に囲まれて奥まった場所なので、あまりすっきりした雰囲気ではない。来る人いるんか、と疑問に思った。
L: 伊太祁曽神社は横参道。境内の反対側にはこちらの古墳がある。 R: てっぺんはこんな感じ。いちおうベンチがある。これだけやってもまだ授与所は開かない。しょうがないので境内にあったポスターやら案内板やらを見ていくと、
そこには授与所が開くのは9時からとの記述があった。9時となると、まだ1時間以上あるじゃないか!
さすがにここでボーッと待っているのはもったいない。先に日前神宮・國懸神宮で御守を頂戴してしまうことにした。
いや、これは失敗した。それがわかっていれば上手く動いて竈山神社まで足を延ばすことができたかもしれないのに……。思いがけず一日乗車券をフル活用することになってしまった。和歌山駅の2つ手前、日前宮駅まで戻る。
駅から日前神宮・國懸神宮まではすぐなので助かる。当然こっちを訪れるのも2年ぶり(→2012.2.24)である。
L: まずは向かって左手、日前神宮から参拝。 C: 拝殿を前回とは異なる角度から撮影してみた。
R: 境内はこんな様子。祠や摂末社が点在するが、歩いているとなんだかRPGっぽい気分になってくる空間だ。日前神宮の参拝を終えると、そのまま國懸神宮へ。途中の市戎神社が大繁盛で、赤い幟がいっぱい。
L: 特に祠などがあるわけではないが、注連縄があるからには何かしら神聖なものが祀られているのだろう。
C: 向かって右手の國懸神宮。 R: こちらの拝殿も同じようにつくられている。見分けがつかんぞなもし。参拝を終えるといよいよ御守頂戴タイムである。白(っぽい)・朱・紺の3種類の色があって少し迷ったが、
白っぽいけど完全に白でなく黄色がかっている、そこが気に入って白(っぽい)を選んだ。なかなかよい。
背面を見たら「日前宮」と刺繍してある。これは日前神宮だけということではなく、國懸神宮と併せての総称。これで紀伊国一宮が2つクリアできた(丹生都比売神社の御守は2年前に訪れた際(→2012.10.8)すでに頂戴済み)。
あとはさっきの伊太祁曽神社だけである。再び伊太祈曽駅まで行くと、時刻は8時57分。授与所へ走って御守を頂戴し、
帰りの列車に間に合うように駅まで戻る。ああ、疲れた。やはり事前にできるだけきちんと調べておかないといかん。
さて、伊太祈曽駅に着いたらなんだか人がいっぱいいてバシバシ写真を撮っている。しゃべっている言語は中国語だ。
テレビで「たま駅長は香港や台湾でも人気がある」ってやっていたのを思い出す。伊太祈曽駅にはニタマがいるので、
おそらくそれが目的で来ているのだろう。伊太祈曽にはもっとほかに見るべきものがあるのに、なんとももったいない。
別に外国の人をバカにするつもりはないのだが、せっかく日本に来ておいてそれってどうよ、と思わざるをえないね。和歌山駅に戻ると、用意しておいた切符を取り出す。ここからは毎回恒例、JRで途中下車の旅となるのだ。
阪和線に揺られること1時間弱、鳳駅で下車。ここも2年ぶりとなる大鳥大社(→2012.2.24)が目的地である。
そういえばそのときにはテスト期間で、生徒たちが問題を解いている間に旅をする背徳感に快感をおぼえたが、
神社までの道を歩いているとその感覚が鮮やかに蘇る。記憶ってのは空間と密接な関係があるもんだと再認識。
L: 大鳥大社の社叢。「千種の森」ってやつですかね。 C: 境内の入口。前が丁字路になっていて、少し撮影しづらい。
R: 前回は写真を貼らなかったが、大鳥大社は参道が長いのである。この先を右に曲がって、左に曲がって、その左手に社殿。11月になってちょうど七五三の時期である。おかげで境内は家族連れでいっぱい。なんとかがんばって写真を撮る。
なんせ前回訪問時のログは3枚貼り付けただけ。天気もよくなってきたし、この神社のいい雰囲気を伝えたいのだ。
L: 長い参道を曲がると社務所があって、分岐となっている(社殿は左)。警備員がいるのは、車で来る家族連れがいるから。
C: 参道の突き当たりは摂社の大鳥美波比神社。天照大神を祀る。 R: 大鳥大社の拝殿。簡素で重厚、独特な雰囲気である。さすがに名の通った神社だけあって、七五三の参拝客がひっきりなしにやってくる。おまけに本殿の手前には、
七五三の皆さんのための待機テントまで用意されており、できるだけふつうの光景を見たい僕にはつらいのであった。
まあでもそれはそれでしょうがないので、割り切って構図を工夫しながらデジカメのシャッターを切っていく。
L: 角度を変えて拝殿を眺める。 C: 神門を覗き込む。 R: 本殿。手前の七五三待機テントは気にしないでください。七五三シーズンということで、御守も授与所の隣にある特設会場に並んでいた。紫色の1種類だけと潔い。
面白かったのは「大鳥」大社ということで、「航空安全御守」があったこと。こっちも頂戴しておけばよかったなあ。
まあとにかくこれで和泉国一宮もクリアである。午前中だけで一気に一宮を3つも参拝。近畿地方ならではだ。再び阪和線に乗り込むと、終点の天王寺まで揺られる。そこから大阪環状線に乗り換えて、鶴橋で途中下車。
ここから近鉄で枚岡神社を目指すというわけだ。しかしJRのホームからそのまま近鉄に乗り換えるのは一発でできるのに、
昼飯を食おうと改札を抜けて街へ出たのが失敗だった。メシはすぐに食えたものの、近鉄の駅入口を探して四苦八苦。
結局、ひどく遠回りしてからようやくたどり着くことができた。おかげで時間的にちょっとロスしてしまった。河内国一宮・枚岡神社を訪れるのは1年ぶり(→2013.9.28)。正直ついこないだ来たばかりという感覚なので、
非常に申し訳ない気分になりつつの参拝である。同じ日に参拝した坐摩神社と住吉大社では御守を頂戴しているのに、
オレは何を寝ぼけていたんだろう……と自己嫌悪に陥りつつ二礼二拍手一礼。やはりこっちも家族連れだらけ。
L: 境内入口。1年前と変わんない写真ですいません。 C: 坂の参道を進むと石段。これがけっこう急なんだよね。
R: 拝殿。相変わらず空間に余裕がなくってひどく撮影しづらい。授与所を背にして唸りながらの撮影。枚岡神社もさまざまな御守があるが、標準的なものは1000円とややお高め。元春日らしく4連の本殿というデザインで、
その神社ならではの特徴を出している点は非常に好印象である。ほかに強く印象に残ったのは旅行安全御守で、
日本列島がデザインされていた。あとは東大阪市ということでラグビー御守もあった。けっこう凝っていますな!
御守に凝らない神社よりは、きちんと凝っている神社の方が、参拝し甲斐があって断然いいのである。ナイス枚岡。
L: 前回訪問時とは異なる角度で本殿の撮影にチャレンジしてみた。 C: 枚岡梅林に向かう途中にある摂社・若宮社。
R: 枚岡神社の境内からまっすぐ石段を下りていくと、枚岡駅の難波方面改札に突き当たる。神社が続いている独特な感じ。枚岡神社の参拝を終えると、電車に乗ることなくそのまま坂を下って住宅地を抜け、麓の中心市街地へと向かう。
冒頭にも書いているとおり、今回の旅の目的は、一宮を中心に関西の神社の御守を頂戴しまくることである。
しかしせっかく枚岡に来たからにはやっておきたいことがあるのだ。前回訪問時には気がつかなかったのだが、
後になって詳細を知って激しく後悔したことがある。それは、旧枚岡市役所を見ておくべきだった、ってことだ。
枚岡神社の所在地は現在は東大阪市となっているが、これは1967年に布施市・河内市・枚岡市が合併して誕生した。
その旧枚岡市の市庁舎が、今も「東大阪市旭町庁舎」として現存している。設計は坂倉建築研究所大阪事務所で、
西澤文隆と東孝光のコンビ。枚岡神社に参拝したからには、ぜひセットでわざわざ見てやるのだ、と鼻息荒く到着。
L: 東大阪市旭町庁舎(旧枚岡市役所)。まずは道路を挟んで撮影。 C: 駐車場から撮影。これはモダンだなあ。
R: 正面より撮影。竣工は1964年で、大胆な曲線の使い方がなんとも独創的。庇の反り返り方がすごいことになっとる。中に入ってみたら、なんと図書館になっていたのであった。役所から図書館への転用というのはそこまで珍しくはないが、
こうしてきちんと残してバリバリ活用しているのはうれしいものだ。しかし残念ながら建物の2階以上には行けなかった。
竣工当初のこだわりを見ることはできず、図書館として改装された部分しか歩きまわれないのはなんとも悔しい。側面。敷地はかなりの高低差が残されている。
なんだか表面をつるっと撫でただけという感触で、旭町庁舎を後にする。もっときちんと細部まで見たかった。
耐震性に問題があって東大阪市では建て替えの方針でいるようだ。市民の文化度が今まさに問われていますよ、と思う。そのままアーケードの商店街を抜けて瓢箪山駅へ。非常に元気な地域密着型の商店街で、歩いているだけで心地よい。
東京の私鉄沿線と似た雰囲気だが、大阪にはあちこちにこういった商店街があるように思う。うらやましいもんだ。
ところで後になって知ったのだが、このアーケード商店街(サンロード瓢箪山)は、実は国道170号なのである。
バイパスが西側を走っているので旧道となるのだが、立派な国道なのだ。国道がアーケード商店街になっているのは、
ここと長崎市の浜んまち商店街(→2008.4.27)の2ヶ所のみ。どちらもそれと意識せず訪れていた……。サンロード瓢箪山。ここ、全国に2ヶ所しかない国道アーケード商店街です。
鶴橋駅に戻ると、途中下車から復帰して大阪環状線に再び乗り込む。大阪駅に着くと東海道本線に乗り換え、
京都で今度は山陰本線に乗り換える。本日の最後は丹波国一宮・出雲大神宮だ。3年前に訪れたが(→2011.10.2)、
とにかく異様に体調が悪かったのでうっすらとしか記憶がない。よくまあ根性だけであちこちまわったなあと思う。さて出雲大神宮だが、亀岡駅か千代川駅からバスでアクセスすることになる。今回はダイヤの都合で亀岡スタート。
亀岡駅の北口には広大な土地があるが、実はここ、京都サンガF.C.のホームとなる球技専用スタジアムの建設予定地。
しかし絶滅危惧種のアユモドキが生息しているということで、建設計画が揺れている。個人的には亀岡は遠くてたまらん。
でも京都市内にスタジアムを建設するのが至難の業であることもわからんでもない。なんとも難しいもんである。亀岡駅の展望スペースからスタジアム建設予定地を眺める。
バスに乗り込むと、10分ちょっとで神社に到着。歩いていくと手前が駐車場になっていて、ああこうだったわと思い出す。
ちょうど木々が色づいていて、夕日を浴びて鮮やかだ。前回訪問時とは正反対の、非常にすっきりした気分で参拝する。
L: 出雲大神宮の境内入口。敷地にあまり余裕がなく、駐車場はけっこういっぱい。人気があるんだなあと実感。
C: 参道脇にはハートマーク。縁結び感を強調しているのだろうが、神社でこれってちょっとなあ……。
R: 拝殿。山裾に社殿を配置していて、木々をしっかり管理しているので、小ぎれいというかサッパリした感触がある。それにしても、丹波にあるのに「出雲大神宮」とは不思議だ。出雲といえば、出雲大社(→2009.7.18/2013.8.19)。
しかし昨年のログで書いたように、出雲大社はもともと「杵築大社」という名前で、「出雲大社」になったのは明治以降。
出雲大神宮的には、「だからこっちの方が歴史が古くて元祖だぜ。『元出雲』だぜ」ということになるらしい。
「杵築大社はスサノオを祀っていたじゃねーか、こちとらずっと大国主命一筋だもんね」と。まあ、わからんでもない。
(気になって神紋を調べてみたら、どちらも「二重亀甲剣花角」であるようだ。やはり何かしら関係があるのだ。)
ちなみにこないだ、生徒が机の上に出したままにしてあった国語の資料集をパラパラとめくってみたところ、
『徒然草』第236段の「丹波に出雲と云ふ処あり」というエピソードが載っていた。参拝したら獅子と狛犬が後ろ向きで、
これは何か由緒があるに違いないと思っていたら、実は子どものいたずらだった、という話。そういえばあったなあ。
この話の舞台となっている「丹波の出雲」が出雲大神宮なのである。なるほど、確かにきちんとした歴史のある神社だ。
L: 舞殿のような拝殿の奥にある中門。実に立派でフォトジェニック。 C: 中門から本殿を覗き込んだところ。
R: 本殿の側面を眺める。1345(貞和元)年に足利尊氏によって建てられたそうで、重要文化財に指定されている。二礼二拍手一礼すると、右手にある鳥居をくぐって磐座ランドにお邪魔する。前回は意識が半ば朦朧とする中で、
ひととおりの磐座や境内社は見てまわっている。ああそうそう、こんな感じだったわと思い出しながら歩いてまわる。
散策を終えるといよいよ御守頂戴タイムである。出雲大神宮はなかなか独特で、表面に「出雲大神宮 御守」とあり、
神紋は裏面だ。いちばん強烈なのが金色の「三大御神徳の御守」で、縁結び・金運・長寿にご利益があって1600円。
見るからに効いてくれそうな雰囲気である。しかしできるだけフツーの御守を集めているので、今回はパスした。
オモシロ御守にまで手を出していくと収拾がつかなくなるのね。本当にキリのない趣味ばかりだと自分でも思う。
L: 稲荷社と御蔭の滝。 C: 磐座。出雲大神宮の境内は、高低差を生かしつつ聖域の要素をたっぷり詰め込んでいる。
R: 東側には神体山の御蔭山。境内からも独特な丸っこい姿を見ることができる(上の拝殿の写真で右側に写っている)。いかにも丹波の穏やかな里が夕暮れの景色へと変わっていく中、帰りのバスが来たので亀岡駅まで揺られる。
京都駅に着くと東海道本線に乗り換えて、一気に米原まで行く。ここから先はJR東海になるのでまた乗り換えだ。
何もすることがなくてホーム上でただ待っていたのだが、18時を過ぎて辺りは完全に暗くなり、寒くてたまらない。
でも今回の旅の第1部を予定どおりに終えることができたので、悪くない気分で列車がやってくるのを待つ。
列車がホームに入ってドアが開くと同時にすべり込み、席を確保してぐっすり。いっぱい動いてとっても疲れた。今回は名古屋駅周辺ではなく、金山駅の近くで宿を確保した。名古屋はかつて自分にとって最も身近な都会であり、
1年間の浪人生活を送った街である。だからかなり馴染みのある街なのだが、なぜか金山に来たのはこれが初めて。
名鉄とJRと地下鉄が通る一大ターミナルなのだが、名古屋駅周辺でいろいろ完結してしまって来る機会がなかった。
今回は夜に訪れたのでなんとも言えないが、最近になってしっかり再開発をした感触が強く、いかにも副都心的な印象だ。
名古屋は今年の夏に訪れたが、台風で完全に予定が狂ってしまった(→2014.8.8)。近いうちにリヴェンジしたいが、
そのときには金山もきちんと歩いてみようかと思った。まあ歩いたところであんまり個性はなさそうだけど。
家に帰ったら部屋の片付けをひたすらがんばる。そして無理やり一段落つけて、荷物をまとめていざ出発。
今週末はごくふつうの土日なのだが、チャンスがあれば御守収集の旅に出るのだ。そんでもって神頼みだぜ。
行けるときに行っておかないと、来年どうなっちゃうかわからんからね。許せないー奴がいる!(杉良太郎のマネで)
「東京3大鯛焼き」なるものがあるらしいですね。幼少期より隠れ鯛焼きファンだった僕としては、
こりゃあ挑戦しなければなるまい、と思うわけです。が、平日は動けるわけがないし、日曜も定休だったりで、
土曜日にしかチャンスがないではないか。しかしながら土曜日は授業と部活で半分を取られる生活なのであります。
……残りの半分? 旅行、旅行。そんなわけで、どうも今年中はチャレンジできそうにない。食いたいなあ、鯛焼き。
本日も会議。ここんところ、いよいよ拍車がかかってきているように感じる。相手にさらに勢いがついてきている。
今回は来年度へ向けての計画が出てきたのだが、これがまた、もうひどくてひどくて。ふだんは飄々としている皆さんが、
ここぞとばかりに舌鋒鋭く対抗する姿は大変かっこよいものでございました。論理的に戦えるって、本当にかっこいい。で、最後に私からも一撃を加えさせていただきました。自分で言うのもナンですが、これが会心の一撃でございまして。
「今年度の計画が実際と異なる虚偽の内容だから、それをもとにした来年度の計画は破綻している」と演繹的に証明。
そしたら、今年度の計画は来年度向けにすでに変更済みではないのか?と、自分の妄想を押し通す姿勢を見せてきた。
それを否定して、そもそも現実に即した今年度の計画がないままで半年以上経過しているのは大問題だと指摘したら、
自分の今年度の計画のどこを直せば実際の内容になるのか?と訊いてきた。責任者なのにわからんのかと一蹴すると、
最後は「私の基本的な考え方を示したものだ」と言い張って、現実を自分の都合でねじ曲げようとまでしてきた。
いや、もう、とにかく怖かった。人間、こんなふうになってしまうのか、と。理想と現実はつねにせめぎあっているが、
理想が本人の知らないうちに妄想となり、現実を完全に否定して妄想に合わせようとする。そのために権限を行使する。
そのさまがはっきりと見えた。理想を持ちつつ現実を生きている自分にとって、そういう状態に陥ることは究極の恐怖だ。周りの皆さんからは、完膚なきまでに叩きのめしたように映ったようである。でも僕としてはその手応え以上に、
妄想と化した理想と現実の区別がつかなくなっている状態への恐怖の気持ちでいっぱいだった。これは本当に怖い。
一歩間違えれば、自分がああなるんだ。ああならないようにバランス感覚を保たないと……。とにかくただ、そう思った。
本日より部活が18時終了ということで、その分だけ日記を書く時間が確保できるわけであります。
なんせちょこちょこと御守頂戴の旅に出ているおかげで、地味に日記が溜まっている状況なのだ。
まあいちばんの元凶はブラジルW杯のレヴューなのだが(まだ決勝トーナメント分をきちんと見ていない……)。
早いところ8月の東北旅行の分と、こないだの豊岡&竹田城の分を仕上げないといかん、という自覚はある。
そんなわけで、今は日記と部屋の片付けと個人的な防御態勢(毎日毎日、本当に大変なんですよ)で、
どうにもこうにも身動きがとれない。なんとかして読書やDVD鑑賞の時間もひねり出していきたいところである。
もっともっと積極的にインプットしていかなければ。金曜夜の美術鑑賞が定着しつつあるのは喜ばしいことだけどね。
片付け作業に疲れて朝メシ食いつつ日記を書いて、戻ってまたちょぼっと片付けをしているうちに、circo氏が来た。
詳しいことは知らなかったのだが、今回は母親も一緒の上京だそうで、衣類の交換などの作業を済ませると、
自由が丘にいったん集合してから東京駅へと向かう。母親がKITTE行きてえKITTE行きてえとうるさいので。全国各地のDOCOMOMO物件探訪をやっているくせに、東京23区内だと「いつでも行けるぜ」という気分になるため、
むしろ中国地方なんかよりも物件を訪れた比率が低い状態である。そうやってのんびりしているうちに、
気づけば東京中央郵便局はがっちりリニューアルされてKITTEになってしまった。なんとも切ない事態である。
いちおうKITTEには1回入ったことがあるが、マサルに連れられて地下でカレースパゲティを食っただけ(→2014.4.27)。
なので親子3人でアトリウムに圧倒されてしまうのであった。いやー、ここまで大胆にやっているとは。びっくり。潤平がKITTEなら回転寿司がいいと薦めたんだかなんだかで、エスカレーターで5階に上がってみたら、すごい行列。
マツシマ家には行列に並ぶという文化がまったくないのだが、まあせっかくだからと今回だけは素直に並ぶ。
僕とcirco氏がガラスに寄りかかってダベりつつ並び、その間に母親がKITTEの全テナントを見てまわるという効率性。暇なんでアトリウムを撮影してみた。
40分ほど並んだ結果、寿司が回らない奥の席でいただく。最初の勢いであれこれ注文していったら、けっこうな量に。
それをがんばって着実に食っていくのは、ピザとまったく変わらない構図である。なんとかならんもんですかね。
まあ寿司は非常に旨かったので、そんなに文句はないけど。お値段も妥当だったし。高いものは食わん主義だしな。その後は母親がせっかくだからFREITAGのショップに行きたいと言うので、腹ごなしも兼ねて歩いてそこまで向かう。
東京国際フォーラムを抜け、銀座ハンズをスルーし、歩行者天国を横断し、少し迷ってなんとか到着。
特に気に入った柄はなく、これといって必要性のあるモデルもなかったようで、ひととおり見学すると店を出る。
そこからまた有楽町方面に戻って無印良品へ。せっかくなのでと中の喫茶店に入って一服するのであった。
3人揃ってソフトクリームをいただいたのだが、モーレツに旨かったのでみんなで驚いた。平和な休日である。その後、母親が歌舞伎座の売店に行きたいと言いだし、東銀座まで歩くことに。1.5往復と実に非合理的な順路だ。
歌舞伎座の中の売店はチケットがないと入れないようだが、地下に土産物店が集まっている広場があって、
そこで母親は回遊魚のようにぐるぐると動きまわるのであった。対照的にcirco氏はヘロヘロ。無理もないわな。まあそんなこんなで解散。大量の寿司をいただいたおかげで、結局、晩メシは食わずに済んでしまった。ごっさんでした。
今日はもうどこにも行かずに部屋の片付けをする!と決めていたので、ひたすら断捨離!断捨離!また断捨離!!である。
で、作業に飽きてきたらメシを食ったり近所のカフェで日記を書いたりして過ごす。優雅だ! 実に優雅な休日だ!それにしても片付けていて思うのは、ここ最近のだらしなさと、だらしなくならざるをえない精神的な余裕のなさである。
自分でも情けないが、これほどまでに本が床に埋もれているとは思わなかった。もっと大切に扱わないといけないのにね。
きちんと本棚に戻す以前に、まず本が行方不明になっていたことにすら気がつかない。どれだけ雑な生活をしているのか。
旅行で持ち帰ったパンフレット類を大々的に整理したので、そこにできたスペースへと落ちていた本たちを入れていく。
床にはモノをそのまま置かない、モノをあるべき場所へときちんと戻す。今回はとにかくそのことを徹底していく。
こういう人として当たり前のことを、反省しながら一気にやり直すのは切ないものである。自業自得であります。
土曜だ授業だSCRABBLEだ。どんなに不真面目な生徒もSCRABBLEだと熱中しちゃう、この愉快さったらない。
午後にはサッカー部の練習試合を予定していたのだが、雨で中止。11時まではもちそうに思えたんだけどなあ。
で、早めに帰ることができたので、新潟日記の1日目をがんばって仕上げてしまう。でもまだまだ溜まってるんだよな……。◇
松本山雅のJ1昇格、カターレ富山のJ3降格について。この両クラブにはそれなりに思い入れがあるんだよな。
まず山雅。ついこの前までJFLで戦っていたクラブが(→2010.4.4/2011.4.30)、本当にJ1昇格を果たしてしまうとは。
ついに長野県からJ1とは、いやしかしこれはとんでもないことになったなあ……。田中隼磨はよくがんばったよエライエライ。
反町監督でなかったらこんなに早く昇格できなかったのは間違いのないところで、その名将ぶりは疑う余地がないだろう。
また、ほかにろくに娯楽がないけど、県庁所在地への対抗意識だけは十分すぎるほどある街が本拠地なのもプラスだった。
監督の力と地域の力が噛み合えば、こんなに早くJ1昇格という快挙を達成できるんだと示した意義はものすごく大きい。
やっているサッカーは伝統的にキック・アンド・ラッシュだし、中信のクラブだし、これからもこの先も応援する気はない。
しかし礼儀正しい大勢のサポーターが全国各地を行脚していることは、日本全体に非常に大きなプラスをもたらしうる。
その点だけでも山雅のJ1昇格は喜ぶべきことだろう。まあそんなわけで、とりあえずはおめでとうと言っておこう。
さあパルセイロよ、J3なんかでもたもたしていられないぞ。山雅の昇格ほど刺激になるニュースはないだろう。
早くJ1の舞台で信州ダービーを日本じゅうに見せつけてやらなくちゃいかんぜ。それが定着することがゴールだぜ。開幕前、富山のJ3降格とは、山雅のJ1昇格以上に想像できないことだった。過去最強の富山だと思っていたが……。
僕は大木サッカーを支持している(た)関係から、大木さんの弟子にあたる安間さんも、かなり強固に支持してきた。
実際、いいときの富山のサッカーは躍動感にあふれ(→2011.3.6/2011.5.8/2011.5.15/2011.8.21/2013.11.3)、
そのひたむきさに誰もが思わず魅了されてしまうような好ゲームを展開する。「躍動感」の質が本当に高いサッカーだ。
しかし悪いときの富山のサッカーはどうしょうもない(→2012.3.25/2013.6.22)。走らない富山はただのサンドバックだ。
この富山のいいときと悪いときの落差は本当に大きくて、ここ最近はどちらの富山が本物なのか、つかみかねてきた。
というよりは、いいときの富山と安間監督を信じようとしてきた。でもついに限界が来てしまった、それが正直な感想だ。
昨年の大木さんの昇格失敗に続き、今年も安間監督による降格と、僕にとってつらい現実がまたも突きつけられた。
でもしょうがない。サッカーは過去の実績以上に現在の結果が求められるものだから。僕はそれを受け止めるしかない。
クラブとしての富山は、J3でゼロからまた積み上げていくしかない。今度積み上げたものは、YKKでも北陸電力でもない、
本物の「カターレ富山」の財産として生きてくるだろう。J2降格が恥ではなくクラブ再建のチャンスであるように、
J3降格もチャンスになりうる(J2降格とは比べ物にならないほどつらいけど)。富山という地域の力が問われている。松本山雅が示したものと、カターレ富山がこれから直面するもの。今日という日は、実に示唆に富んだ一日だったと思う。