diary 2012.2.

diary 2012.3.


2012.2.29 (Wed.)

閏年で一日増えるというのはお得な感じがするんだけど、実際のところは平日なので、働かなくてはいけない。
どうせなら2月29日を祝日か国民の休日にしちゃえばいいのに!と思う。そうなりゃ、これはありがたいよ。
ほぼ4年に一度のことなんだから、それくらいのサーヴィス精神を発揮してこの日を迎えてもいいんじゃないか。
日本国政府はハッピーマンデーよりも先にそのことを検討してほしかった。今からどうにかなりませんかね。

サッカー・日本代表のウズベキスタン戦をテレビで見た。結論から言うと消化不良もいいところで、
前がかりになったところに鮮やかなカウンターを決められてウズベキスタンがアウェイで勝利。
日本はザッケローニ体制下では初となるホームでの敗戦となってしまった。
まあ、ウズベキスタンが上手かったということで。あのチームは純粋にいいチームだ。

具体名は挙げないけど、頭が悪くて建設的なことは一切言わないサッカー評論家たちがザッケローニ批判を始めている。
今回のザッケローニのプランはまったく機能しなかったわけだが、これはいい教訓として受け止めるしかないわけで、
ギャーギャー騒いで足を引っ張るバカが出てきたことは実に困ったことである。ま、相手にしなければいいのだが。
いいときもあれば、悪いときもある。それがサッカーだ。がまん強く鷹揚に構えていればいいのだ。

でもひとつだけここではっきりと書かせてくれ。僕はハーフナー=マイクがまったく好きではない。
理由は、彼がいるとサッカーがつまらなくなるからだ。すべてのボールがハーフナーの頭狙いになって、面白くない。
彼が間違って甲府に来てしまって、甲府のサッカーがつまらなくなった。でも点は取るからみんな勘違いしちゃった。
そして甲府が変なふうにJ1に昇格してしまったので、よけいに問題が見えづらくなってしまった。
甲府がJ2に落ちたのは三浦監督と佐久間GMのせいなのだが、ハーフナーに頼った選手たちにも問題があると思う。
ハーフナー頼みのサッカーは、彼の得点は増えても、チームとしての強さにはつながらないし、だいいち内容がつまらない。
ウズベキスタン戦を見て、日本代表がかつての甲府と同じ罠に陥ってしまったように僕には思えた。
日本のサッカーに長身のターゲットマンは必要ない。ミドルシュートを撃つ勇気とこぼれ球に詰める勇気、
むしろそれらが日本らしいサッカーを実現する要素だと思うのである。なでしこを見ろ、なでしこを。

というわけで、男子の試合の後はそのまま女子のアルガルヴェ杯中継をハシゴなのだ。なでしこを見るのだ。
女子のサッカーはいよいよ世界レヴェルの貫禄が出てきた感じで、本調子ではなくてもどこか安心して見られる。
男子ほど体にしてもボールにしても強いプレーはないのだが、その分だけ柔よく剛を制す印象がより鮮やか。
小さい者が知性を生かして大きい者を倒す現場を見ている感じで、なでしこにはなでしこ独自の面白さがある。
世界を相手にしたとき、自らの弱点を自覚したうえでの覚悟が男子よりもはっきりとわかるサッカーだ。
だから結局、さっき書いたのと同じ結論になる。日本サッカーのキーワードが「勇気」になる日が来ないといけない。


2012.2.28 (Tue.)

英語のテスト、みんなきちんと受験勉強をしただろうから今回はちょっと骨のある問題を出してみるかー!
そう思ってやってみたら、これができねーできねー。平均点は43点ほどとなってしまった。もうガックシである。
あいつら、最後まで弱いまんまだったなあ……。ま、教えてたやつの責任だと言われればそれまでだが。


2012.2.27 (Mon.)

『ウルトラマン』全39話をやっと見終えたので、そのレヴューなのだ。

まずはフジ・アキコ隊員。ものすごく美人だ。もう惚れ惚れしたであります。

『ウルトラマン』が最初に放映されたのは1966~1967年ということで、まだ原爆のトラウマが読み取れる。
僕らは原爆と聞くとそれなりに具体的に被害のイメージを思い浮かべることができるが、
それが実際に使われたら地球オシマイという状況で暮らしているわけで、そういう意味では、
原爆というものは想像上の究極破壊兵器とあまり変わらないのである。切っちゃいけないカード。
しかし『ウルトラマン』においては、原爆の兵器としての使用(不発弾にしろこっちの武器にしろ)が、
ある程度のリアリティをもって受け止められている。この感覚の差に、軽くショックを覚えた。

古きよき時代の様子を収めた作品という点では、昭和という時代の質感やスケール感が味わえるのがすばらしい。
車や家電などのインダストリアルデザイン、モダニズム全盛の建築など、かつて身近なところに存在した、
いま見ても十分にキレているデザインが多く出てくる。しかもカラーで次から次へとどんどん出てくる。
戦争が終わって高度経済成長期に入ってポジティヴな日本の勢いを、直に感じることができるのである。
一方で道路の舗装が十分でないなど、まだ前の時代とそんなに変わっていない部分もチラホラみられる。
われわれの都市空間がどのように変容してきたのか、その過程がかなり綿密に記録されていて興味深いのだ。

怪獣が暴れるシーン、科学特捜隊やウルトラマンとの戦闘シーンになると、特撮ならではの職人芸が全開。
CG全盛の現在では味わえなくなったこだわり、それが非常にいとおしい。本当に、「いとおしい」という感じ。
小さいスケールのミニチュアでどれだけリアリティを、迫力を出すかを徹底的に追求しているのだ。
特に、カメラと模型、双方の動かし方による見せ方の工夫がすごい。その職人根性だけでも涙が出そうになる。
ただ、ずーっと連続で見ていると、「壊すためにつくる」ということに途方のない虚しさもまた感じてしまう。
壊して、壊して、また壊して。そこに美学があるのかもしれないが、僕はすっかり飽きてしまった場面も多かった。

そんな僕の「飽き」を一瞬で取り払ってしまったのが、実相寺昭雄だった。
彼が関わりだしたあたりから、『ウルトラマン』は確実に変化する。実相寺昭雄はとにかく、変な画をつくる。
カメラワークがそれまでの標準的なものとは明らかに異なっており、しかしどこか惹きつけるものがあるのだ。
ただ、あまりに奇をてらいすぎて変態すぎる面も多々ある。が、これで『ウルトラマン』は特別な作品になった。

実相寺昭雄の本当にすごいところは、ほかの監督たちに多大なる影響を及ぼした点であると思う。
彼のつくりだす『ウルトラマン』に対抗すべく、それまで平凡な話しかつくってこなかった各スタッフが、
どんどん切れ味の鋭い話をつくるようになっていくのだ。ゴルドンは2体いるし、ウーは消えてしまうし、
メフィラス星人も戦いをやめて帰ってしまう。ケロニアの回なんかカメラの構図の取り方がかっこいい。
おかげで『ウルトラマン』の後半はどこをとっても面白い。実相寺昭雄が発端となった相乗効果と言えるはずだ。

そしてさらにそれに触発されちゃったのか、実相寺昭雄は伝説の第34話『空の贈り物』(スカイドンの回)で、
完全にそれまでとははるかにレヴェルの異なるやりたい放題をやってくる。この話、30分間ずっとキレっ放し。
世間的にはハヤタ隊員がベータカプセルとスプーンを間違えることで有名なのだが、それだけじゃない。
ビートルから傘は落とすわその次のシーンで飛び降り自殺を描くわ、キャップは寝ぼけて服を後ろ前に着るわ、
スカイドンとビートル双方から見たアングルを入れるわ、隊員の口元だけ接写するシーンをやたらと入れるわ、
ウルトラマンがいきなり背中から登場するわ、しかも一回負けちゃうわ、科特隊の祝勝会はぶち壊してみせるわ、
テトラポッドに座るシーンはすごいわ、隊員たちがスカイドンから逃げるところにコミカルなBGMは入れるわ、
なぜか隊員たちが並んでカレーライスを食っているわ、もう、1秒たりとも気を抜けない恐ろしさなのだ。
その次のシーボーズの回でもやりたい放題が続くのだが、それにしても実相寺昭雄の存在は凄すぎた。

というわけで、『ウルトラマン』の感想のはずが、実相寺昭雄が凄すぎるという話になってしまったのであった。
でも実際、キレまくっているんだからしょうがない。もし実相寺昭雄が参加しなかったら『ウルトラマン』という作品は、
これだけの影響力は持っていなかったはずだ。実相寺昭雄と彼に負けまいとした皆さんのとんでもないテンション、
それが『ウルトラマン』を本当の名作にした最大の理由だと思うのである。『ウルトラマン』、本当に凄すぎ!


2012.2.26 (Sun.)

おととい和歌山駅でつくってもらった切符の終着駅は、和田岬。
宿を後にして三ノ宮駅前で朝メシをかっ食らうと、JR神戸線(東海道本線~山陽本線)を東へ進んで兵庫駅まで行く。
昨日の夜なのか今日の早朝だったのか、風がやたらと強かったようで、駅前では自転車がすべて倒れていた。

さて、兵庫駅から延びている支線・和田岬線から1駅の終着駅、それが和田岬である。
わざわざ別の改札が用意されており(和田岬が無人駅なので)、専用のホームへと向かうのだ。
和田岬線は朝晩のみの運転で日中はまったく運行がないのだが、平日は17往復もある。土曜は12往復。
しかし休日は朝夕各1往復のみということで、これを逃すと今日はもうアウト、ということになってしまう。
そんな日曜なのに利用客は意外と多く、停車していた列車も車両の数がかなり多かった。需要があるんだなあ。

 
L: 兵庫駅の山陽本線ホームを降りたところにある和田岬線専用改札。
R: その改札を抜けると兵庫駅の和田岬線ホーム。よっしゃ、行くぞー和田岬!

和田岬というのはそもそも、ここが出っ張っていたことで神戸が波の穏やかな優れた港になったのだ。
(行基が築いた大輪田泊をもとに、平清盛が福原京を建設した。神戸はそうして発展していった。)
やがて明治に入ると造船所がつくられて工業地域となる。三菱系や川崎重工の工場は今も健在だ。
現在はすっかり埋め立てが進み、工業地帯の一部分としての印象しかなくなってしまっている。
神戸市営地下鉄海岸線にも和田岬駅があり、当然そっちの方が利便性は格段にいいのだが、
和田岬線は黒字としっかり健闘している。ただ、再開発の関係で廃止を求める動きもあるようだ。
近くにはヴィッセル神戸がホームとする御崎公園球技場(ホームズスタジアム神戸)があるのだが、
通はわざわざ和田岬線に乗って観戦に来るものなんだろうか。まあ、本当は僕もそうしたかったんだけどね。

 
L: 列車を降りる人々と、最果ての光景。  R: 振り返って和田岬駅のホームを眺める。

和歌山から途中下車を繰り返して訪れた和田岬だったが、訪れてみたらどうということのない場所であった。
まあでもこれで気が済んだので、おとなしく地下鉄に乗ってみなと元町駅へ。次の目的は神戸ポートタワーなのだ。
おととしに神戸を訪れた際、神戸ハーバーランドから神戸ポートタワーを眺めた(→2010.7.17)。
その後、いろいろ調べて神戸ポートタワーが日本におけるDOCOMOMO100選に入っていたことを知り、
こりゃ本格的に訪れなくちゃ!と思ったわけだ。もっとも、朝早い訪問なので、中には入れないのだが。

神戸ポートタワーが竣工したのは1963年。設計は日建設計による。
世界初のパイプ構造の建造物で、日本で初めてライトアップされた建造物とのこと。細かいトリヴィアだ。
神戸市長がロッテルダムのタワーに刺激されて建設されたそうだが、単なる展望タワーに留まらない、
独特の美しさが印象的だ。近くでまじまじと見つめると、その美しさに思わず見とれてしまう。

  
L: 神戸ポートタワーを正面から見据える。これは美しいね。「鉄塔の美女」と呼ばれるのもなんだか納得だ。
C: 下から見上げてみたところ。こうやって近くで見ると、大胆なデザインセンスがより強烈に感じられる。
R: てっぺんの部分をクローズアップしてみた。神戸ポートタワーの高さは108m。

神戸ポートタワーはかつては埠頭に位置していたそうだが、埋め立てが進んだ結果、
周辺はいちおうコンクリートで固められた状態になっている。とはいえ、海はすぐそこ。
地震が起きて津波が来ませんように、と祈りながらの撮影なのであった。なんとも困った世の中だ。

 
L: 今度は神戸ポートタワー側から神戸ハーバーランド、神戸モザイク方面を眺めてみる。曇っているのが本当に残念。
R: 隣の神戸海洋博物館。開館は1987年で、設計は 神戸市港湾整備局。波や帆船の帆をイメージさせる屋上構造物が見事だ。

またしてもこれで気が済んだので、そのまま三宮方面へと歩いていく。
商店街が商店街らしいスケールで営業をしている三宮は、都会でありながら歩きやすい適度なスケール感を残していて、
それだけで非常に居心地がいい。大阪の梅田周辺だとちょっと大通りと路地の差がありすぎるし、
京都だと商店街の要素がないのでさみしい。神戸の三宮は本当に優れたバランス感覚をしていると思う。

三宮からは阪神に乗って東へ。阪神なんてめったに乗らないので特徴がよくわからないのだが、なかなか快調だ。
そして芦屋駅で降りる。芦屋は高級住宅地というイメージしかなかったので、阪神の芦屋駅を見たときはショックだった。
芦屋川を渡る橋がそのまま駅となっていたのである。非常に質素で、周囲も店がほとんどない。これが芦屋か、と。
市役所へ行くのに阪神を選んだ理由はただひとつ、駅から市役所が近いから。というわけで、すぐに市役所の撮影に入る。
芦屋市役所は1960年の竣工。近年になって改修したのか、外見は築50年以上とは思えないほど整っている。
とはいえ金持ちいっぱいの芦屋にしては華やかさがない。ピロティと花の咲くオープンスペースぐらいで、
ほかに凝った要素がない建物だと思う。阪神の駅もショックだったが、市役所もなかなか期待はずれであった。

  
L: 芦屋市役所。『ウルトラセブン』に京都国際会館と一緒に登場しており、当時は最先端のモダニズム建築だったのか。
C: しかしながらデザイン上、特別にキレている印象はない。  R: 芦屋川を挟んで眺めるとピロティ全開なのがわかる。

撮影を終えるとすぐに荷物をコインロッカーに預けて市役所の横にあるバス停へ。
芦屋や西宮の山の手高級住宅街は、鉄道の最寄駅がないくらいに山の手なのだ。もう、バスに揺られるしかない。
(そもそも山の手高級住宅街に住む人たちは、電車で通勤をする必要がないってことなんでしょうなあ。)
で、芦屋に来たからにはいちばん有名な「六麓荘町」を見てみよう!ということなのだ。

というわけで、さんざん書いてきたように今回の3日間の関西旅行では一日ごとにテーマを設定しているのだが、
3日目の本日のテーマは、「阪神間モダニズムの感触を味わう」である。どうだ、高尚なテーマ設定だろう。
阪神間モダニズムとは、1900年代から1930年代にかけて花開いた近代的な芸術・文化・生活様式だ(Wikipediaより)。
地理的には兵庫県の東端、伊丹・尼崎~神戸市灘区辺りまでの六甲山地と海に囲まれた空間が該当する。
その後、都市化が進んで大阪府や神戸市全域にも拡大する傾向がみられた。背景にあるのは、田園都市構想。
(東京では関東大震災の後に五島慶太(後の東急)や堤康次郎(後の西武)が「学園都市」として郊外化を進めた。
 その辺の詳しい経緯については、国立を例に挙げた過去ログを参照してください。→2008.7.28
もともと関西では日清戦争を経て経済が活性化した反面、大阪や神戸といった大都市の住環境は悪化していた。
そこで神戸市東灘区辺りに豪商の邸宅が建築されるようになり、大正に入って小林一三率いる阪急グループが、
鉄道建設と郊外住宅地の開発を積極的に組み合わせる。ターゲットは新たに増えてきた大学卒のサラリーマン層。
そして富裕層はさらに六甲山麓につくられた住宅地へと移っていく。西洋の生活スタイルの影響を多分に受けて、
新しい都市に新しい住宅、新しい娯楽施設が次々と建設されていく。その文化的な側面をまとめた総称が、
いわゆる「阪神間モダニズム」というわけだ。その勢いを実感するには、やはり空間の証人である建築が最も手っ取り早い。
というわけで、主に現存する建築群を眺めつつ、阪神間モダニズムについて考えるのが本日の旅のテーマなのだ。

しばらくしてバスがやってきた。芦屋川に沿って山へ向かって坂をグイグイ上っていく。
やがてJRの芦屋駅(阪神とは比べ物にならない立派さ)を経由して、トンネルを抜けて西宮市内へと入る。
急な坂の両側にはびっしりと住宅が続いており、その光景が延々と続く。阪神間の独特な光景だと思う。
バスはさらに本格的に山登りを始める。こんな傾斜じゃ自転車になんて乗れないよ、と思うくらいの角度だ。
そうしてやってきたのが「苦楽園」という場所。西宮には「西宮七園」と呼ばれる高級住宅街があるのだ。
(ちなみに西宮七園の内訳は、甲子園・昭和園・甲風園・甲東園・甲陽園・苦楽園・香櫨園。多答クイズみたい。)
ちょうど西宮と芦屋の市境にある苦楽園五番町のバス停で降りる。降りたのはさすがに僕ひとりだけだった。
道に迷うことがないように、あらかじめ買っておいた神戸の文庫地図を眺めながら、芦屋市内へと入る。
山の中なのに、住宅街なのに、六麓荘町の道路の幅は広い。後で思ったのだが、外車が走るのに困らないサイズだ。
とりあえず、山の方へと歩いてみる。そうして町内をぐるっと軽くまわってみることにした。

急だが広い坂道の両側には、確かに見事なお屋敷が並んでいる。半端ないアウェイな空気がビュービュー吹き付ける。
地図を片手にあてもなく歩く僕の姿は、この場所にはまったくそぐわない。不審者扱いされても文句が言えない、
そう自分でも思えてしまうくらいの高級住宅街だったのである。犬の散歩をする住民以外に歩いている人がいないのだ。
あとはぜんぶ外車。外車が軽々と曲がりくねった急勾配を駆け上がっていく。日本は格差社会なのだ!と痛感したわ。

1928年、株式会社六麓荘が設立された。宅地開発は香港の九龍半島・香港島の白人専用街区を参考にしたという。
6m以上の道路に300~1000坪以上の区画、もちろんインフラもがっちり整備(日本初の電線地中化も行われた)。
遊園地やテニスコートといったレジャー施設も建設され、一大高級住宅地ができあがったのである。
「六麓荘」とは、「風光明媚な六甲山の麓にある別荘地」ということから付けられた名前とのこと。
現在、六麓荘町では町内会が強い力を持っており、高級住宅街としての環境の維持に努めている。
建物は一戸建ての個人住宅限定で、営業行為は一切禁止。新築・増改築には町内会の承認が必要。
ここに新たに住むには町内会の入会金と毎月の管理費が必要になる。なんとも恐ろしい世界である。

  
L: 六麓荘町を行く。個人住宅しかないので、個々の家に焦点を当てて撮影できないのがなかなかつらい。
C: 街並みとしてはこんな感じですかね。どのお屋敷も迫力のあるつくり。どれくらい稼げばここに住めるもんなのか。
R: 山の上なのでさすがに景色は抜群にいいと思われる。曲がっている道路からだと景色の良さがうまく味わえない……。

実際に歩いてみて思ったのは、もう本当に豪邸ばっかりが並んでいるんだけど、あんまりうらやましくないってこと。
僕みたいに貧乏が染み付いていると、「そんなに家って大きい必要、ないだろう」と思ってしまうのだ。
それにわざわざここまで登ってくるのが面倒くさい。庶民の僕にはこの価値観はイマイチわからないのである。
ただ、道路からチラチラと、とても見事な阪神間の街並みを見下ろすことができて、それは本当に美しい。
夜にはすばらしい夜景が味わえるのだろう。それを独り占めする気分になれるのは、まあ悪くはないわな。
それにしても、こう言ってはなんだが、明らかに美的感覚のおかしい豪邸がけっこう多くあった。けっこう多く。
阪神間モダニズムにおける豪邸は、時代背景もあって、機能をささやかに装飾する美が中心となっていて、
それがものすごく上品だったわけだ。しかし現代の豪邸は家主の感覚をそのまま反映することができるためか、
申し訳ないんだけど成金趣味としか言いようのない救いがたい事例がそこかしこに点在している。
新築には町内会の承認が必要という話だが、いったいどこを承認しているのか首を傾げたくなった。
金の使い方って難しいもんだなあ、そこに人間の品性って出るんだなあ、と勉強になりました。
もちろん、落ち着いていて「これはよさそうだ」という豪邸もいっぱいあったけど。……辛口すぎたかな?
まあ、貧乏人のひがみだと思って軽く受け流してください。僕は質素なものが好みなだけですから。
旅のような非日常に金をかけるより、毎日満足できるように日常生活を充実させる方が正しいのは事実だしな!

 1930年に住民が建てた会館・六麓荘倶楽部。1階は警察の駐在所。モダン!

時間調整の目的もあり、六麓荘町からひたすら歩いて西へ行く。そして芦屋川沿いの山手まで行ってしまう。
次の目的地は阪神間モダニズムにおける究極の逸品のひとつ、旧山邑家住宅だ。といっても、今はそう呼ばれない。
1947年にヨド物置で有名なヨドコウ(正式名は淀川製鋼所)が買い取り、現在は「ヨドコウ迎賓館」となっているのだ。
ここが10時オープンということで、六甲山麓の住宅地の雰囲気を味わいながら歩いて移動していったわけなのだ。

芦屋川沿いの道はかなり急な下りになっていて、あらためて六甲山麓がどれだけ高い場所かを実感させられる。
そうして大股の小走りになりながら坂を下っていくと、やがて右手に緑に包まれた一角があるのに出くわす。
これがヨドコウ迎賓館。建物は奥まった位置にあり、入口からだとその姿を見ることはまったくできない。
中に入っていくと、右手にいかにもな建物が現れる。このデザインは……そう、フランク=ロイド=ライトだ。
一目でわかるその強烈な特徴に、胸が高鳴る。ライトの建築はゲッゲンハイム美術館(→2008.5.9)以来、二度目だ。
灘五郷の「櫻正宗」八代目・山邑太左衛門の別邸として建てられたこのヨドコウ迎賓館は、1924(大正13)年の竣工。
ライト設計の建築では日本で唯一、完全な形で残る作品であり、鉄筋コンクリート建築で初となる重要文化財だ。
そして阪神間モダニズムの傑作として、日本におけるDOCOMOMO100選にも選ばれている。これは見なければいかん!

ヨドコウ迎賓館の一般公開日は水・土・日・祝となっている。もうちょっとサーヴィスしてほしいのだが、まあしょうがない。
500円払って中に入る。斜面につくられているので、1階はほぼエントランス専門といった感じで、すぐに2階に上がる。
まず最初にお邪魔するのが、応接室。ここに足を踏み入れた瞬間、もうシビレてしまったね。本当にすばらしい!
応接室の天井には照明がない。しかし十分に明るい。これは部屋の両側に窓があり、そこから光が入るからだ。
ってことはつまり、夕方以降は部屋の中が暗くなる。必要最小限の照明だけで、とてもオトナな雰囲気になりそうだ。
朝の今は、自然の光をいっぱいに採り入れて、本当に快適な雰囲気がつくられている。心から、うらやましい空間だ。
僕の場合、ライトならではの大谷石の彫刻とかはわりとどうでもよくって、むしろ過剰な装飾と思っているんだけど、
この応接室では垂直と平行が強調された木の装飾が実にモダンで、奥行きのある部屋をうまく演出していた。
ライトをイメージした家具(ライト自身が建築に合わせて家具を設計することが多いが、これは彼の作品ではないそうだ)も、
室内空間によくマッチしている。ぼーっと全体を眺めたり、細かいところに注目してみたり、のんびり過ごしてみる。

  
L: ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)の外観。建物をしっかりと眺められる場所はこれくらい。しかしまあ、いかにもライトだ。
C: 車寄とエントランス。一見、なんでもないような印象なんだが、細部が凝りに凝っている。そういうセンスがモダニズムのいいところ。
R: 2階の応接室に入ったところ。両側の窓から光が差し込み、本当に居心地のいい空間になっている。これは本当にうらやましい。

さっき六麓荘町で、オレは豪邸なんぞちっともうらやましくねえ、ってなことを書いたけど、
このライトの生み出した空間を体感してしまうと考え方を改めざるをえない。すいません、僕ここで暮らしたいです。
今までいろんな古い住宅を見てきていろいろ書いてきたけど、このライトの住宅については、なんというか、
ここまで素直に白旗をあげたい気持ちになったのは初めてかもしれない。もう、理屈抜きで惚れてしまった感じだ。
僕は日本人だから、畳敷きの和風の部屋にはある程度無条件で心地よさを感じるわけだ。そしてその分だけ、
洋風の部屋には豪華につくられていれば豪華につくられているだけ、違和感を覚えるところがある。
でもこのライトの応接室にはそれがない。洗練されたモダニズムの切れ味に、ただただ圧倒されて喜ぶだけだ。

  
L: 家具設計者としてのライトは六角形好きという印象があるけど、それをイメージした家具。これは見事だね!
C: 応接室の端っこから入口を振り返ったところ。左側から入ってくるのだが、右側は別の部屋に通じている。
R: 旧山邑家住宅ではこのデザインの飾り銅板がテーマとなっており、あちこちに登場する。葉っぱがモチーフだと。

来館者は意外と多く、時間帯によっては応接室を無人の状態のように撮影するのは難しいかもしれない。
ライトが好きでたまらん人が日本にいっぱいいるとも思えないのだが、ここはそんなに有名な名所なのか。
館内にはライト関連の書籍が置かれており、ガイドのおばちゃんがライトがいかに偉大かを説明するのだが、
そんなもんモダニズム建築好きにはわかりきっている話ばかり。でもそういう説明が必要な層が多いんだろう。
ここに来る人たちがどれだけモダニズムに興味・理解があるのか、けっこう気になるところである。
そして、本当にすばらしいこの空間を、百科事典的な知識よりまず先に、自分の感覚で味わって評価してほしい。

 
L: 応接室に飾られているヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)の紙製の模型。なるほどこれはわかりやすい。
R: 上から見たところ。手とカメラが映り込んですいません。でもこれで平面構成がわかるよね。

いつまでも応接室でうっとりしている余裕もないので、次の階へと行ってみる。
さっきも書いたが、この住宅は斜面につくられているため、その地形を利用して階段状にフロアを積んでいる。
(たとえば東急ハンズ渋谷店はA・B・Cの3つのフロアを段違いにつなぐスキップフロアだが、やっていることはそれに近い。)
そのため、上の階に行っても高さを感じないのだ。まあもともと街を一望できる高台に建てられているわけで、
1階高くなろうが2階高くなろうが大して変わらないって言っちゃうこともできるんだけど。

そんなわけで、するっと3階へ。3階には和室が3つ続いているのだが、そこでは企画展で雛人形が飾られていた。
そこだけ撮影禁止ということで、建築目的で来た僕としては、雛人形を撤去して部屋を写させろよ!という気分。
まあとにかく、軽く雛人形を眺めてから、廊下に出てあちこちシャッターを切りまくるのであった。
3階で面白いのは、和室の隣にある四畳半ほどの部屋。かつては談話室、今は休憩室として利用されているのだが、
ここの形がキレている。さっきの模型を上から見た写真でわかるように、この建物は奥で少し角度を変えている。
この角度を変える調節をしている部分が、その部屋なのだ。なんと、ドアを含めて五角形になっており、
その「膨らみ」の分だけ余裕を感じさせる空間となっているのだ。しかもドアを開けると一気に見通せる。
ふつうなら狭苦しくて使いづらい部屋になってしまうはずなのに、正反対の居心地のいい場所となっているのだ。
むしろ部屋の連続に絶妙なアクセントをつけている。この工夫ができることに、ライトの非凡さを実感せずにはいられない。

 
L: 2階から3階に上がったところ。見通しがいいので狭いけど開放感がある。こういう空間がつくれるって本当に凄い!
R: 3階の休憩室(旧談話室)。ふつうなら隅っこの薄暗い部屋になってしまうのだが、そんな印象はなく、むしろ居心地がいい。

最上階の4階は洋風の食堂。ホームページでの説明によると、欧米で食堂は儀式の場であることから、
厳粛な気持ちになるようにつくられている、とのこと。かつてはレトロで貴重な家電がいっぱい並んでいたそうな。
そしてその食堂からは外に出ることができる。このバルコニーはちょうど3階の真上になる。
(さっきも書いたが、この建物は斜めに階を積み上げた形なので、屋上バルコニーが2階の上と3階の上の2つあるのだ。)
ここは純粋に、広がる空を眺める感じ。絶対的な開放感を味わう楽しみがある(高所恐怖症には正直ちとつらい)。

  
L: 4階の食堂。ここは純粋に西洋の価値観による空間ですな。  C: 食堂から出てすぐの3階真上のバルコニーにて。
R: 高所恐怖症がおそるおそる振り返って撮影した4階。実に見事なフランク=ロイド=ライトである。

3階真上のバルコニーのいちばん先へ行くと、そこから2階真上のバルコニーへと降りることができる。
本当は3階から直接そこに出ることができるのだが、ヨドコウ迎賓館ではその部分は締め切りとなっているのだ。
さっきのバルコニーが空の開放感を味わう空間だったのに対し、2階真上は眼下に広がる街を一望する空間。
そのあまりの見事さに、山の手の豪邸の凄みを見せつけられて、ぐうの音も出なくなってしまったのであった。


ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)、2階真上のバルコニーより眺める阪神間の街並み。これは……もう、参りました。凄すぎる。

というわけで、ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)の圧倒的な迫力にすっかりやられちゃったのであった。
建築のいいところは、まず空間を鑑賞者が自分の経験としてわかりやすく捉えることができる点である。
ライトがどういう建築家だったのか、装飾へのどんなこだわりがあったのか、そういった知識は後回しでいい。
それよりも先に、その場所にいることで自分の中にどのような変化があったのかを感じること。
この点において、ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)は凄まじい説得力を持っている。
素直にそれを受け止めるとき、この建築の持つ価値を正しく味わったと自信を持って言い切ることができるのだ。

 敷地を出て、手前にある駐車場からヨドコウ迎賓館を眺める。

そのまま芦屋川沿いに下って阪神の芦屋駅まで帰る。途中で芦屋川はJRの東海道線を豪快にまたぐ。
川が鉄道をまたいでいるのだ。よく考えてみたら、なかなかそういう事例は見かけない気がする。
その鉄道をまたいだたもとにあるのは、芦屋市民センター(芦屋市民会館)、ホールの愛称は「ルナホール」だ。
一目でタダモノでないとわかる威容の建物である。竣工は1964年、設計は坂倉建築研究所大阪事務所で、
2008年に日本におけるDOCOMOMO145選に追加選定されている。芦屋川沿いには公共建築が点在するが、
スケールがひとまわり違うので、かなりの存在感である。市役所と同時期だが、だいぶ雰囲気が異なる。

 
L: 芦屋川のJR東海道線を豪快にまたいでいる箇所。すごい工事をやるなあ。右端にあるのは芦屋市民センター。
R: 芦屋市民センター(芦屋市民会館)。目の前に巨大な塊が現れた感じになり、まさに威容を誇っている印象。

芦屋駅のコインロッカーで荷物を引っぱり出して整理すると、さらに東へ行って西宮駅で降りる。
阪神の西宮駅から西宮市役所(→2009.11.21)まではすぐそこなのだが、今回はスルーしてそのまま南へ。
西宮神社もスルー。申し訳ない気分になってしまうが、別の目的地があるんだからしょうがないのだ。
阪神高速3号神戸線からさらに南へ。そうすると、街の雰囲気に少し埋立地の匂いが混じりだす。
どこか大雑把な印象が区画のあちこちから漂っている。規模の大きい工場が姿を見せるようになる。
この工場が何をつくっているのかというと、日本酒だ。西宮市の南西端は日本酒工場の密集地帯なのである。

これらの工場地帯の中に、辰馬本家酒造・白鹿館という建物があるはずなのだ。それが次の目的地だ。
竹中工務店・石川純一郎の設計で、1930年に竣工。やはり日本におけるDOCOMOMO100選に選ばれており、
これもまた阪神間モダニズムの一環というわけだ。ぜひ見てやろうと意気込んで白鹿の工場に到着。
白鹿の敷地は広いが、どうせモダンな建物なんてすぐに見分けがつくからきっと大丈夫さ、と楽天的に構える。

ところが、敷地をぐるっとまわってみるが、それっぽい建物が見当たらない。イヤな予感がする。
実はこの白鹿館、あらかじめ白鹿のHPでいろいろ調べてみたのだが、詳しい場所がわからなかったのだ。
たぶん敷地のどこかにあるだろ、というアバウトさ全開で現地に来たのだが、どうも当たりの感触がない。
しょうがないので工場からそのまま少し東に移動して、白鹿記念酒造博物館の周辺を探索してみる。
しかし、やはりこれといって特別にモダニズムを感じさせる建築はない。いったいどういうことか。
首を傾げている間にも時間は経っていく。周辺の写真をいろいろ撮影しておいて、納得いかないままその場を離れた。

  
L: 工場から200mほど離れたところにある白鹿記念酒造博物館。こちらの「酒蔵館」は明治2年築の酒蔵を利用したもの。
C: その隣にある白鹿クラシックス。酒蔵をうまく改装しているレストラン。なかなか繁盛しているようだ。
R: 旧辰馬喜十郎住宅。阪神間モダニズムの黎明期、1888(明治21)年築のコロニアルスタイルな擬洋風建築。ハイカラである。

後で調べてみた結果、なんと、白鹿館は昨年解体されてしまっていたのであった! なんということだ!
そりゃ、必死で探しても見つからないわけだ。工場の南側に砂利が敷かれた広大な更地があったのだが、
そこに建っていたというのだ。たった1年前までは残っていたのに。もう全力でがっくりだよ。
ネットで画像を見たのだが、白鹿館は1930年の竣工当時最新鋭の瓶詰工場として建てられており、
外観は品のよいさりげない装飾満載のモダニズム建築だった。でも外だけじゃなくて中がまた凄くって、
神戸新聞の記事(⇒こちら)で見た内装の迫力はとんでもない。これはいくらでも有効活用ができるだろうに、
なぜ簡単に壊してしまうのか。オレは絶対にこれから白鹿を飲まねえぞ!と思っちゃうよ、ホントに。

いいかげん腹が減ったので、今津駅にたどり着くと昼メシタイムにする。
この後の予定を考えると匂いの出るものは食べられないので、素直にラーメンだけいただいた。食いたかったな、餃子。
で、今度は阪神から阪急にチェンジして北へと移動する。この辺の阪急の構造は、正直よくわからない。
今津からそのまま北上して宝塚まで突っ走ればいいのに、阪急今津線は阪急神戸線で南北が分断されているのだ。
いったん西宮北口駅で列車を降りて、そのままコンコースを歩いて、北へ向かう別の列車に乗り換えなくてはいけない。
そもそも「西宮北口駅」ってなんだ、阪神やJRの西宮駅の北にあるからそんな名前かよ、と思ったら、
実はこれは北口町という地名からきていて「西宮の北口町」ってことなのであった。いろいろ紛らわしい場所だ。

というわけで、阪急今津線からあらためて阪急今津線に乗り換える。阪神競馬場目的のおっさんたちで大混雑。
その最寄駅である仁川駅を越えると、今度は女性の乗客の方が微妙に多くなる。まあ、僕もこっちと同じ目的だが。
でもその前に市役所めぐりをやっておくのだ。逆瀬川駅で降りると、まっすぐ東に延びている坂道を下っていく。

坂道を進みきったらT字の交差点になっており、北へ。武庫川の手前に宝塚市役所がある。けっこう遠かった。
宝塚市役所の向かいは末広中央公園というかなり広い公園になっている。が、どうもよくわからない。
市役所の敷地で交差点に面する部分には水道局の庁舎が建っている。まるで本庁舎を塞いでいるような位置関係だ。
かといって公園側から市役所を眺めてみても、見映えはよくない。街路樹も邪魔にしかなっていない。
それじゃあ、と裏手にまわってみると、そこは広めの駐車場。それに負けじと市役所は駐車場を囲むように延びている。
シンプルなデザインのわりにスケール感は大きく、とてもアンバランスな印象だ。違和感しかしない。
焦れてしまって、じゃあこの市役所の正面はどこよ!と思いながら武庫川方面に出る。
そうして武庫川に架かる宝塚新大橋をちょっと渡ったところで振り返る。……これが正面、なのか?
宝塚市役所は、ただデカいだけでデザイン的な工夫を何も感じることができない。これはひどいな、と呆れる。

  
L: 末広中央公園側より眺める宝塚市役所。せっかく公園の向かいにあるのに、その立地がまったく生きていない。
C: 裏手の駐車場から眺めた宝塚市役所。左側の棟はかなりの長さがあり、バランスが非常に悪い印象。
R: 武庫川に架かる宝塚新大橋から眺めた宝塚市役所。強いて言うなら、これが正面か。つまらん建物だなあ。

宝塚市役所は1980年に竣工。設計したのは、なんと村野藤吾。村野が89歳のときの作品だそうだ。
まあはっきり言って、村野の作品でこれだけ尊敬できない建物は初めて見たぜ、というのが正直な感想。
尼崎市役所のログではソフトに書いたが(→2009.11.21)、村野は公共建築に関してはヘタクソと言っていいと思う。
横浜市役所についても(→2010.3.22)、村野ならもっとできるだろ、という消化不良な感触は確かにある。
なんでかわからないけど、村野藤吾は商業ベースの建築や企業の建築ではとんでもない切れ味を見せるくせに、
公共建築(特に庁舎建築)となると、とたんに縮こまってしまうのだ。これはいったい、なんなんだ。
(公共建築の特殊性に関する僕の見解は、過去ログにいちおう書いてあるので参照してください。→2010.11.7
今の目黒区役所はもともと千代田生命の本社ビルとして建てられており、これは大好きなんだけど(→2007.6.20)、
もし仮に、これが最初から目黒区役所として依頼されていたら、あの傑作にはならなかっただろうな、と思う。
村野が公共建築、さらには公共性についてどのような意識を持っていたのか、非常に気になるところである。

ところで関西の山の手の開発ぶりは、関東にはない独特なものがあると思う。
宝塚新大橋から宝塚市役所を撮影した際、反対側の山沿いの風景も非常に気になったので撮影してみた。
横浜の山の方に行けばこれに近い光景は見られる気もするんだけど、関西はこういう光景がもっとあちこちにある。
ぼけーっと眺めていて、なんだか熱海(→2010.11.13)みたいだなあ、と思った。

 なんだか、非常に熱海っぽいなあ、と。

来た道を戻って、そのまま逆瀬川駅へ。目指すはいよいよ終点・宝塚駅である。
宝塚といったら当然、宝塚歌劇団。今日は阪神間モダニズムについて考えてきたわけだが、
その総仕上げはもう、ヅカしかあるまい。ヅカという価値観に触れることで、思考の幅を広げるのだ。

宝塚駅の改札を抜けるが、駅と阪急百貨店の空間的な区別はだいぶ曖昧な印象で、
とりあえず人の流れに沿って宝塚大劇場方面へと歩いていく。横断歩道を渡ると、かの有名な「花のみち」だ。
Wikipediaには「段葛(→2008.9.3)型道路」なんて説明があるんだけど、まさにそのとおりで、
道路のど真ん中に花や木に囲まれた歩道がつくられているのだ。ヅカファンになったつもりで歩いてみる。

チケットはあらかじめ予約を入れておいたので、チケットカウンターに寄って受け取る。
一人旅の男がふらっとやってきてチケットを受け取るってのは、きっと珍しい光景なんだろうなあ、と思いつつ。
それにしてもやっぱり、受付の対応はとってもハイソというか、ぴしっとしていますなあ。さすがだわ。

  
L: 花のみちを行く。ヅカファンの皆さんは期待に胸を踊らせてここを歩くんですかね。
C: 宝塚大劇場の入口。かつての宝塚ファミリーランドの入口をそのまま残している感触。よくわかんないけど。
R: 阪急今津線の高架越しに眺める宝塚大劇場。現在の建物は2代目で、1993年の開場。なんだかとってもマッシヴ。

開場まで余裕があったので、宝塚大劇場の周辺をふらふら散歩してみる。
そしたら宝塚市立手塚治虫記念館にたどり着いた。これはぜひとも中に入らねば!と思って入口へ走ったら、
展示替えで閉館中。これには本気でがっくりした。いつかリヴェンジできるといいなあ、と思っておく。
それにしても宝塚大劇場から手塚治虫記念館への辺りにはタカラジェンヌの出待ちだか入り待ちだかをしているのか、
なんだかよくわからない女性の集団ができていて、その数の力がもたらす迫力にちょっと背筋が凍った。

 
L: 宝塚市立手塚治虫記念館。意外と小さい。入口には火の鳥。やっぱ手塚治虫は『火の鳥』だよな。
R: 地面には手塚キャラの手形・足形があるんだけど、お茶の水博士はこんな具合になってました。

ぼちぼち開場時刻が近づいてきたので、宝塚大劇場の中へ。建物の中はいきなり劇場になっているわけではなく、
まずは大量の宝塚土産を売っているコーナー。お菓子類が非常に充実しているのが印象的だ。
トップスターの写真が印刷された缶に入っている宝塚名物・炭酸せんべいもある。すごいもんですなー。
店内はすばらしい繁盛ぶりで、レジにはしっかりと行列ができている。宝塚パワーに圧倒されてしまう。
そんな売店以外にも、ヅカグッズを大量に取り揃えている「キャトルレーヴ」はもちろん、
入館料400円のプチミュージアムに郵便局、さらには宝塚の衣装と化粧を体験して撮影できる場所も。
あちこち歩きまわって「ヅカらしさ」というものをしっかりと体験して記憶に残していく。

宝塚歌劇団の歴史を軽くまとめておくと、1911年に開業した宝塚新温泉がきっかけということになる。
1913年に劇場がつくられ、そこでショウをやるために組織されたグループが宝塚歌劇団へと発展したわけだ。
宝塚新温泉は複合レジャー施設の宝塚ファミリーランドとなって営業を続けていたのだが、2003年に閉鎖される。
それでも宝塚歌劇団はしっかりと客を集めているようで、宝塚駅周辺はさすがになかなかの賑わいとなっていた。

開場時刻を過ぎ、劇場内に入る。いかにも豪華そうな内装となっていて、阪急ブランドの誇りを感じさせる。
装飾が過剰すぎるとこの手の空間演出は悪趣味になってしまうのだが、シンプルと豪華のバランスをうまくとっている。
2階席だったので3階へ。宝塚大劇場は、1階席へは1階と2階から、2階席へは3階と4階からアクセスするのだ。
まあつまりはそれだけ客席の規模が大きいってことが言えるだろう。面白いもんだなあ、と素直に思う。

 
L: 宝塚大劇場の中に入る。いかにもブルジョワな劇場って感じの内装。こういう世界もあるんですなあ。
R: 劇場内の様子。オペラグラスがあればどの席でも快適に鑑劇できそうな感じ。ただし1階席の奥は天井の圧迫感がある。

せっかくなので開演までの時間、劇場内のあちこちを歩きまわって観察してみる。
客席はどこも舞台がよく見えそうだ。僕は小劇場演劇に慣れているので、どうしても最前列で鑑劇したくなる。
そうして役者の身体のふるまい、役者の動きによって起こる空気の振動を味わって共感したいわけだ。
でもタカラヅカの場合には、オペラグラスや双眼鏡などでお気に入りのスターを見られればいいや、と割り切れる感じ。
個人的には、1階席の奥では2階席が天井として頭上に広がっており、その圧迫感が少し気になりそうに思えた。

タカラヅカというと、やはり女性からの支持が圧倒的に多いわけだ。
実際の劇場ではどんなもんだろう、とかなり気になっていたのだが、思っていたよりは男性がいた。
比率でいえば、ざっと見て観客のだいたい10%くらいが男性という感触。商業科の高校みたいな感覚かもしれない。
正直なところ、どうなっちゃうのか内心けっこう怖くって、「秘密の花園・タカラヅカに足を踏み入れたいのなら、
まずはその股間にぶら下がっている醜いモノを切り落としてから来い!」と周囲のヅカファンからボコられるんでないか、
なんてことすら考えていたのだが、それはさすがに杞憂なのであった。男一人でも奇異の目で見られることはなかったです。

まあそういう下らないギャグはいいとして、いよいよ開演。今回の演目は、たまたまスケジュールが合っただけで、
決して狙ったわけではないのだが、月組の男役・娘役両トップの退団公演となる『エドワード8世』である。
エドワード8世はイギリスの王様なのだが(在位・1936年の11ヶ月)、王位よりもアメリカ人の人妻を選んだ、
いわゆる「王冠を捨てた恋」で知られている人だ。そのエピソードを純愛物語として仕立てたストーリー。
しかしこれがいきなりエドワード8世の葬式のシーンから始まることで、かなり話の流れがわかりづらくなってしまい、
入っていくのにけっこう手間取ってしまった。工夫したつもりかもしれないけど、正直よけいなイントロだったわ。
それ以降の話の展開がふつうに時間を追っていくものだっただけに、そこだけ浮いていた構成がなんとも違和感。

(余談だが、エドワード8世がさっさと退位してしまったことで、弟のジョージ6世がイヤイヤながら即位せざるをえなくなる。
 しかしジョージ6世は吃音を克服し、第二次世界大戦でもイギリスを鼓舞して「善良王」と呼ばれるまでになった。
 映画『英国王のスピーチ』で描かれているのはそのジョージ6世。それにしても、歴史って調べていくと知識がつながり、
 どんどん広がっていって面白い。『英国王のスピーチ』、ぜひ近いうちに借りて見てみようと思う。)

僕の感覚・印象では、タカラヅカの劇ってのは展開されるストーリーを楽しむというよりは、
おそらく出演者の一挙手一投足にウットリしてナンボのもんだと思うので(役者>物語)、
タカラジェンヌの皆さんのパフォーマンスやタカラヅカの方法論を重点的に味わうようにしてみた。
なので『エドワード8世』という演劇じたいの感想は特に書かない。書く必要もそれほどないだろうし。
タカラヅカはまず、絶対的な要素として男役トップと女役トップのふたりのゆるぎない関係性があって、
それに合うように題材が選ばれて、物語があつらえられていくという特性がある。タカラヅカの様式に話を合わせる。
だから『エドワード8世』からは「今回はイギリス風のファッションです」以上の意味を僕は見いだせなかったのだ。
(ちなみに今回はイギリス風タータンチェックということからか、AKBっぽく味付けされた衣装も大胆に登場。)
そういう意味では、役者の名前が何よりも前に出る歌舞伎と共通した要素を持っていると言えるかもしれない。
襲名される名前を持つ役者と、スタイルが固定されているタカラヅカのトップスターが似ているということは、
それが「日本的な演劇」の特性を示唆していると考えられる。つまりタカラヅカは日本の伝統芸能の系譜にあるのだ。
もうひとつ歌舞伎とタカラヅカの共通項を挙げると、物語の大胆な飛び方を指摘することができる。
歌舞伎では場面がどんどん変化していき、そこに脈絡はほとんどなかった(→2008.1.13)。
他方、『エドワード8世』でも次から次へと場面が転換していった。時間よりも主役を演じる人間の方が重要なのだ。
あとは舞台上をぐるぐる回る大掛かりなセットも、歌舞伎のやり口とかなり似ている。

ここからはさらに、実際の舞台を見て感じた「タカラヅカ的なるもの」をひたすら検証していくことにする。
男役トップスターの演技に対する僕の第一印象は、ズバリ、「声優って感じじゃん!」というものだった。
具体的に書いちゃうと、『エヴァンゲリオン』における緒方恵美の碇シンジ的な声、
まあもちろん碇シンジは14歳だから子どもの声なんだけど、あの延長線上にある大人としての声、それ。
それがタカラヅカの男役におけるコツというか様式美なのかな、と思ったわけだ。
(だから『幽☆遊☆白書』における蔵馬(やっぱり緒方恵美が演じている)に熱狂する女性のおたく、
 それがタカラヅカに熱狂するヅカファンとかなり強い共通する要素を持っているように思えてならんのだ。)
しかしトップスターは声だけではない。タップやらダンスやら、ショウビジネスの基礎を徹底的に鍛えられている。
西洋にルーツを持つショウの要素(『雨に唄えば』のログ →2005.5.16)と、上述のような日本の伝統芸能との融合。
どうもタカラヅカという存在を分析するには、そういう視点が有効になりそうな感触がする。
操り人形のような歌舞伎を参考にすると、タカラヅカは西洋人形が繰り広げる伝統芸能とでも表現できそうだ。
(タカラヅカらしい独特な芸名が、「人形らしさ」を加速する。身体を訓練し、現実から離れた名前を持つことで、
 少女はタカラヅカという舞台にふさわしい存在となる。夢の世界を実現するためには、そこまでやらないといけない。)
あとは音楽面でもタカラヅカは強く印象に残る要素を持っている。さすがにタカラジェンヌは歌が上手いのなんの。
そしてそれに勝るとも劣らないすばらしさなのが、オーケストラの生演奏。生演奏だともう、グルーヴ感がとんでもないのだ。
タカラヅカは単なる演劇にとどまらないものとして受け止められているが、実はこの生演奏がかなり貢献している。
打ち込みで済ませている曲もなくはないのだが、生の演奏と生の歌声がもたらす一体感は本当にすばらしい。
そういう音楽本来の魅力を実に上手く演劇の中に取り込んでいるのである。

さて、タカラヅカでいちばん困惑させられたのは、拍手のタイミングである。これがまったくわからない。
物語よりも役者の方が偉くなると、観客は役者が登場した際に拍手で迎えるという行動をとるようになる。
(これが僕には気持ち悪くてたまらない。拍手で物語の流れを切ることを平気でやる神経が理解できない。)
そしてタカラヅカでは拍手の嵐。どういうタイミングでするものなのかまったくわからなかったので細かく書けないが、
タカラジェンヌの皆さんが何かするととにかく拍手。大げさではなく、本当に100回以上拍手したと思う。
こっちとしては、周りに合わせて拍手しないと憲兵か特高に捕まっちゃうんじゃないかって疑心暗鬼になっているので、
なんでもかんでも拍手して済ませたのだが、最後まで拍手するポイントが何なのかはつかめなかった。
歌舞伎では観客が感極まって役者の屋号を叫ぶけど、あれよりずっと頻繁。なんなんですかね、いったい。

『エドワード8世』が大団円を迎えると、休憩タイム。トイレに行って周辺を軽く散策して席に戻る。
女子トイレでは階段まで長い行列ができていて、なんだか申し訳ない気分にならざるをえないのであった。
そして後半はショウになる。タカラヅカは歌劇団であり、つまり、「歌」と「劇」なのだ。
前半で「劇」をやったので、後半は「歌」となるわけなのだ。基本的にはこういう二部構成になっているそうだ。

この歌のショウもまた、個人的には実に興味深い内容だった。まず思ったのは、非常に紅白歌合戦的だということ。
オーケストラの生演奏をバックに、ダンサーたちを従えて、ステージでスターが歌う。方法論が紅白と一緒なのだ。
ひとつの舞台で次々に歌が繰り出されていく演出は、紅白歌合戦そのまんま。もっともこれはどっちが先とは言えないし、
本質的に歌謡ショウというのはそういうものだ、ってことなんだろう。ライヴではなくて、歌謡ショウだった。
そしてこの歌謡ショウっぷりを観ているうちに、なるほどモーニング娘。が目指した地点はここだったか、と実感。
かつて宝塚市出身だという方と話したときに「つんくは現代の小林一三を目指す」という指摘があったが(→2003.2.22)、
モーニング娘。を本体とし、周囲をハロプロキッズで固めていた全盛期のハロプロの方法論は、
確かに究極的にはタカラヅカのように自前でショウを完結できる団体づくりへと向かっていく。
キッズ/エッグからモーニング娘。への昇格は、いわば宝塚音楽学校とのアナロジーとなるし、
モーニング娘。からの卒業とタカラヅカの退団は容易に重なる。卒業コンサートと退団公演、ぴったり同じじゃないか。
かつて「さくら組」「おとめ組」への分割が目指されたことがあったが、これが完遂していた場合には、
タカラヅカの花・月・雪・星・宙の各組それぞれで特徴を出していくのと同じスタイルで公演がなされたかもしれない。
モーニング娘。をきっかけに、アップフロントはアイドル業界に本格的にタカラヅカの方法論を持ち込もうとしていた。
そうしてテレビで扱われなくなっても、コンサート重視で経営していけるスタイルを目指していたとしたら。
ちなみに現在のハロプロは、ほぼそういった路線に定着しているという話である。なかなか、これは面白い。
さらに! そんなモーニング娘。・ハロプロの方法論を最初から実行しているのがAKB48であるとしたら。
AKB48ではタカラヅカ同様、聖地となる場所を最初から決め、組分けを「チーム」として最初から行い、
売れているメンバーをまるでトップスターのように扱い、徹底的にメディアに露出させている。
タカラヅカのスターシステムに総選挙というイベントを組み合わせている、と考えることができるわけだ。
おそらく秋元康はハロプロがタカラヅカのアナロジーで動く方向性を正確に見抜いていた。
そのうえで、それをもっと効率的にやってみせようとしているのだ。アイドル業界、実に奥が深い。

ショウは『Misty Station-霧の終着駅-』というタイトルで、これはトップスター・霧矢大夢の退団公演だからだろう。
もうこれだけで、タカラヅカがいかにトップスター中心で動いているものなのかがわかる。
中身は古典的名曲から懐メロ、さらにはなぜか『魂のルフラン』まで出てきて(いや名曲だと思いますけど)、
非常に多彩である。これを抜群の歌唱力とオーケストラの生演奏(一部打ち込み)でやるわけだから、
かなりの迫力がある。特に生演奏のグルーヴ感はもう最高で、タカラヅカの底力を徹底的に見せつけられた。
ショウのフィナーレではシャンシャンを手にしたタカラジェンヌの皆さんが、大階段を降りてくる。
スターの皆さんは羽根だらけ。その羽根の大きさがそのまま序列になっているところがまたなんとも生々しい。
もう最後はどこに注目すればいいのかわからないくらい、舞台全体が華やかな雰囲気に包まれていたのであった。
この大騒ぎをほぼ毎日2回ずつやっていると思うと、心からお疲れ様と言いたくなる。本当に大騒ぎなんだもん。
とはいえ、熱狂する人の心理は正直わからん。確固たる伝統芸能として非常に重要な位置を占めているとは思うけど、
だからといって、異様と言えるくらいの求心力を持つ理由はわからなかった。まあ男はそんなもんかもしれんけど。
でもすごく勉強になって面白かったですよ、本当に。今後は適度にタカラヅカのことを気にしていきたいと思います。

 小林一三像とツーショット。角度のせいで一三翁が嫌がっているように見える……。

タカラヅカは社会学的に実に面白かった。やっぱり世の中のいろんなことに興味を持たないとダメだと思ったね。

帰りはJRで宝塚駅から尼崎、そして大阪へ。バスの待合室で日記をバリバリ書いて過ごしたのであった。
今回の関西3日間は毎日それぞれテーマを設定していたこともあり、予想以上に勉強になった旅行となった。
おかげで日記を書くのがめちゃくちゃ大変だったよ! まあそれだけ賢くなった実感はできたけどね。
そんなわけで、大いに満足して夜行バスに乗り込んだのであった。明日からまた大変だ。しっかり日常をがんばろう。

……どうでもいいけど、「トップスター」と「チップスター」って、似てるよな。


2012.2.25 (Sat.)

まだ空が暗いうちに宿を出て、昨日歩いた道をそのまま戻ってJR難波駅へ。
相変わらずの常軌を逸した旅だなあ、と思うのだが、4月以降はそれができなくなるかもしれないのだ。
そうなりゃもう、今を存分に楽しむしかないのである。地下に降りて、JR難波駅のホームに出る。

 JR難波駅の最果て。この先が開発されるのは、はたしていつになるやら。

昨日の逆で、関西本線を戻って天王寺駅へ。ここでいったん改札を抜けて、和田岬行きの切符で再び改札をくぐる。
大阪環状線で大阪駅まで行き、途中下車するものの新築の大阪駅は早朝だと特に面白みがなく、すぐにまた戻る。
そうして京都まで行ってしまう。京都でも途中下車するものの、やはり早朝だと何もできず、また改札に戻る。
要するに旅の思い出として、和田岬行きの切符に各駅のハンコを押してもらっているわけだ。
「長居」「天王寺」「大阪」「京都」。これからまだまだ増えていく予定である。

さて、昨日の日記でも書いたように、今回の3日間の関西旅行では一日ごとにテーマを設定している。
2日目の本日のテーマは、「城下町めぐり」である。いつもと変わらん。変わらんのだが、そこはちょっと渋く、
旧丹波国の城下町めぐりをするのである。1日目が和歌山でせわしねえなあ、と思われてしまいそうだが、
実はもともと旅行は2日間の予定で、そこに長居でのサッカー観戦を初日としてねじこんだ結果、貴志川線がついてきた、
というのが真相である。いろいろ迷ったのだが、2月という観光に不向きなシーズンということも考慮して、
距離的にはけっこうな無茶なんだけど、行ってみたい場所をできるだけ要領よく押さえる旅を計画したわけだ。

京都駅までは曇り空で済んでいたのだが、山陰本線(嵯峨野線)で亀岡を過ぎた辺りから、ついに雨が降り出した。
さっき京都駅で、山陰本線の列車を降りて改札へ向かう乗客がみんな傘を手にしていたのでイヤな予感がしたが、
それはきっちりと現実のものになってしまった。せっかくの旅行なのに雨が降ってしまうとテンションは一気に下がる。
おまけに目の前にはいかにもサッカークラブ所属の小学生がいて、隣のチームメイトにちょっかいを出し続けている。
親やコーチの顔が見てみたいくらいのレヴェルで、ずっとイライラしながら福知山まで過ごす破目になってしまった。
こういうときには無理やりにでもポジティヴな気持ちにもっていかないといけないのだが、それもなかなかつらい。

 というわけで、福知山駅に到着。

福知山は本能寺の変が勃発した際の明智光秀の本拠地。あとはモーニング娘。の元リーダー・中澤裕子の地元。
そんな福知山知識ぐらいしかないのだが、山陰と近畿をつなぐ交通の要衝らしく、駅を歩きまわる人は非常に多い。
もともと福知山が鉄道の街として発展したのは、日露戦争時に軍港・舞鶴へ至る鉄道網の拠点となったからだ。
現在も近畿・山陰の各方面から列車が盛んに乗り入れ、北近畿タンゴ鉄道も存在感をみせている。
まあとりあえずは、街歩きである。折りたたみ傘を引っぱり出し、広い駅前のロータリーを横断して右に曲がる。
このまままっすぐ進んでいけば福知山市役所で、そしてその先には福知山城があるのだ。
駅から市役所までは思ったよりも距離があった。工事中でわりとガサガサした感触の道をトボトボ歩いていく。

やがて右手に現れた福知山市役所は、なかなか立派な印象の建物だった。1976年の竣工で、設計は山下設計。
いかにも組織事務所の仕事らしく、これといって特別な要素のない純粋な庁舎建築という印象なのだが、
電線に邪魔されることもなく道を挟んで撮影しやすいこともあってか、妙に立派に見える。
個人的には、庁舎建築においては「見えやすさ」はかなり重要であると考える。というのも、それはそのまま、
政治や行政の透明性を象徴することになるからだ。これはなかなか議論されない視点であるのだが、
設計者は絶対にそのことを念頭に置かねばならないと思う。その点で、福知山市役所は来訪者に開放感を与え、
庁舎建築として特別なことは何もしていないのだが、自然と好感の持てる仕上がりになっていると思うのだ。

  
L: 福知山市役所。隣にくっついているのは福知山市民会館。  C: 市役所本体をクローズアップなのだ。
R: まだまだ寒くて、雪かきした後の雪が残っているぜ。市役所からは福知山城がよく見えるのだ。

市役所の撮影を終えると、さらにその先の福知山城へ。もともと福知山は塩見氏が治めていたが、
明智光秀が攻め滅ぼし、そのまま福知山を本拠地とした。光秀が福知山城主だった期間はたったの3年間。
しかしこの間に由良川の大規模な治水を行い、善政を敷いた。その後、本能寺の変を経て山崎の合戦となり、
光秀は秀吉に敗れる。しかし今でも光秀の功績は福知山では非常に高く評価されているのだ。
福知山の現在の街割りは、有馬豊氏によるもの。1669年に朽木家が移ってきて、そのまま明治維新を迎える。
ちなみにこの地を「福智山」と名付たのは明智光秀だが、朽木玄綱が現在の「福知山」に改めたそうだ。

福知山城公園では今まさに、府道24号・お城通りを渡る橋を架ける工事の真っ最中。その脇を通って天守を目指す。
天守は大天守と小天守が1986年に復元され、福知山市郷土資料館の施設となっている。お決まりのパターンだ。
時刻としてはちょうど天守が開館したくらいだったのだが、雨が降って霞んだ街を眺めるのも切ない。
それよりは街をのんびり歩こうと思い、中には入ることなく城を後にした。いずれリヴェンジしたいものだ。

  
L: 福知山城の石垣。奥へ行くと石塔や石臼などを石垣に使った転用石を並べたスペースもある。
C: 大天守。外観は木をしっかりと使っており、なかなかの風格。  R: 本丸から眺める福知山市役所。

雨は一向にやむ気配がない。おかげで知らない街を歩いていても、特有の開放感を味わうことができない。
空が雲に覆われると、それだけで閉塞した印象を感じてしまう。さらに雨が降ると、傘を差すという身体的拘束が生まれ、
閉塞した印象は一気に強まっていく。日本って広いなあ、という開放感が味わえないのは、本当に損した気分になるのだ。

とはいえ、じっとしていることなどありえない。街の雰囲気、匂いを嗅ぎながら、何かありそうな方へと歩く。
格子状の街割りの中、偶然、アーケードの商店街を見つけたので、傘をたたんで様子を探りながら進んでいく。
アーケードじたいがかなり古びている印象で、並ぶ店の看板もどこか懐かしい昭和を想起させるものばかりだ。
こないだ歩いた名張で感じた「昭和」のことを思い出す(→2012.2.19)。ここも「取り残された街」なのか?
そんな問いが頭の中に浮かんできて、その答えを探しながら歩いていく。ふらふら、ふらふら、感覚に任せて。

結論から言うと、それは大まかには正解である。福知山という街は、「取り残された街」である。
由良川で曲がりながらも、格子状の街区を残した街並み。かつて舞鶴への経路として栄えた時代の名残である料亭が、
今もその街区の中で静かに営業を続けている。また、城下町であることを示す地名もしっかりと残っている。
だが、完全にそうだと言い切れないものもある。アーケードを抜けた先にある広小路では、昔ながらの商店に混じり、
いかにも新しくつくられた感じの映画館があった。全体としては古びていく街並みを更新できないままでいながらも、
局所的に新しさを持たせている。モザイク状に古さと新しさが入り交じった、なんとも不思議な風景がみられるのだ。

とりあえず、僕はこう解釈しておきたい。鉄道を通しての繁栄は、城下町としての福知山のレヴェルを大きく超えていた。
その後、膨らんだ風船がしぼむように市街地の勢いは衰える。その際、いわば「逆のスプロール現象」が発生したわけだ。
(ふつう、スプロール現象とは、住宅などの開発が「虫食い」状に無秩序に広がっていく様子を指す。
 しかし都市が衰退する際、新陳代謝をやめた店舗・住宅もまた、無秩序に都市空間の中に穴をつくっていく。
 これを逆のスプロール現象として定義することは可能ではないか? いわゆる「シャッター通り」はその一環と考える。)
ところが福知山は縮小したとはいえ、交通の要衝としての機能を今もしっかり保っている。規模は失っても、機能はある。
結果、焦点を絞って空間の更新がなされた。それは穴が開き続ける都市空間すべてを救えるほどのものではないが、
都市自身が持っている力を示すには十分だ。衰退と更新が入り乱れた街、それが僕の福知山に対するイメージなのだ。

  
L: 並ぶ建物は上から見ると長方形。その短辺を道路に向けている街並みはいかにも城下町だ。そこに今も料亭が点在している。
C: アーケードの新町商店街。昭和だなあ。  R: 1699年に防火のため拡張された広小路。かつては大いに栄えて賑わっていたという。

福知山の複層化している都市感覚に戸惑いながら西へと歩いていくと、空き地のような公園にぶつかった。
奥には神社があり、「御霊(ごりょう)神社」と石碑が建っている。面白いのはこの公園、
かつて1953年に大氾濫(「28水」と呼ばれる)を起こした際の由良川の水位を示す標識があり、それとともに、
現在の由良川の水位も表示している。福知山における由良川の脅威ぶりがよくわかる光景だった。

さてこの御霊神社、名の由来は明智光秀が合祀されたことによる。福知山における彼の存在感はかなり大きいのだ。
光秀が福知山で今も高く評価されている理由のひとつが、由良川の治水に一定の成功をおさめたことである。
つまりこの御霊神社において、光秀を神として祀ったうえで、由良川と福知山の住民との戦いが象徴されているのだ。
御霊神社の境内にはなんと、全国で唯一、堤防そのものをご神体として祀る「堤防神社」が存在しているのである。
洪水との戦いがここまで苛烈というか、強烈な形で表現されている場所は初めて見た。いやはや、すごいものだ。

 
L: 御霊神社。広小路通りはこの神社をよけて分岐して走り、再び合流しているのだ。それだけ重要な神社ってことだろう。
R: 堤防神社。毎年8月15日には祭りが開催され、夜はドッコイセ福知山花火大会で盛り上がるんだそうだ。

本当はもっとあちこち歩きまわってみたかったのだが、時間となったのでおとなしく駅まで戻る。
初めての福知山訪問は、なんともモヤモヤの残る結果となってしまった。勉強して出直すとしましょうか。

福知山駅からは福知山線(JR宝塚線)で南下していく。山に囲まれた細々とした田舎の中を抜けていくこと1時間、
篠山口駅で途中下車する。そう、本日のテーマは旧丹波国の城下町めぐりということで、丹波篠山の街を歩くのだ。
が、篠山の城下町は「篠山口」という駅名が示しているように、駅から離れた位置にある。
そのため、バスに乗って中心部へ入るのだ。晴れていればレンタサイクルという選択肢もあったのだが、残念である。
ちなみに篠山は、1999年に篠山町・今田町・丹南町・西紀町で合併して篠山市となっている。

バスの発車時刻まで余裕があったので、駅の周辺を歩いてみるが、食事のできそうな店は見当たらない。
郊外らしくロードサイド店舗はあるのだが、そんなのばかり。近くにコンビニがあったので、そこで食料を買い込む。
そろそろだな、と思って駅に戻ると、今まさにバスがバス停に停車するところ。意気揚々と乗り込んで座席に座るが、
発車時刻間際になって次から次へと客が乗ってきて満員状態。しかも、ほぼ全員が年配の男性なのだ。これは何だ!?
いくら考えても、ジイサマたちの会話に耳をそばだててみても、答えはまったく出てこない。本当にわからない。
結局、謎は謎のままで二階町のバス停で降りた。バスは無数のジイサマを乗せて走り去っていったのであった。

さあ、丹波篠山の中心部に着いた。とりあえず篠山城方面へ歩きだす。と、すぐに観光案内所を発見したので中に入る。
地図が手に入ったので、ここからはもう、やりたい放題にできるのだ。篠山は城の北側に中心市街地があり、
南東に商家の古い街並み、西に武家屋敷の古い街並みがあるようだ。けっこう散らばっており、歩きだと面倒くさい。
それなりに余裕を持ってスケジュールを組んでいるので、テンポよく歩けばすべてをまわることは可能だろう。
考えている時間ももったいないので、とりあえずそのまま、この街の中心である篠山城から攻めることにした。

と、その前に大正ロマン館について。これは篠山町役場として、1923(大正12)年に竣工した建物なのだ。
そして、実に1992年まで実際に役場として使われていたのだ。篠山の商店街と篠山城をつなぐ位置にあり、
交差点の角地を正面にして、非常に堂々とした建物だ。今はお土産にレストランにと観光客のための空間となっている。
こういう「顔」になる役場が残っているのはうれしい。ある意味、観光都市としては正しい公共の空間であると言えよう。

 大正ロマン館(旧篠山町役場)。まさに篠山観光の拠点となる施設なのだ。

大正ロマン館から南へ行って外堀を渡ると、広大な空き地の篠山城・三の丸跡に出る。その先には壁のような石垣。
平べったい土地にいきなり現れる石垣の幅は、とんでもなく広い。広角でもデジカメの視界に収まらない。
周囲に比べる対象がないせいか、三の丸跡にしろ石垣にしろスケール感覚がほかの城とは違って見える。
実際、この城があまりに堅固すぎるためか、天守台はあっても天守が建てられることはなかったそうだ。
代わりに大書院がつくられて篠山城の中核として機能したが、明治維新後は校舎や公会堂として使われたという。
この大書院は1944年に焼失してしまうものの、古絵図や古写真をもとにして調査したうえで2000年に再建されている。

篠山城の歴史は1609(慶長14)年、松平康重が山陰の要衝である篠山盆地に城を築いたことから始まる。
それまでは波多野家の山城・八上城があったのだが、それを廃城にして篠山城がつくられたのだ。
縄張は藤堂高虎、普請総奉行は池田輝政、天下普請によりわずか6ヶ月で完成したという気合の入れようだ。

  
L: 広大な空き地となっている三の丸跡から眺めた篠山城。石垣の幅が非常に広くて、デジカメでの撮影がきつい。
C: 大書院の内部の様子。これは最も格式が高いという上段の間。奥の絵は江戸時代の狩野派の作品とのこと。
R: 大書院の裏手にはかつて二の丸御殿があった。大書院が公的な空間だったのに対し、二の丸御殿は藩主の生活空間。

大書院の中に入ってみる。さすがに2000年の再建だけあり、あちこちができたての感触である。
まあそれはつまり、建築当時の雰囲気であると割り切れば問題ないのだ。これからどう古びるのかも楽しみだ。
大書院は大雑把に言うと、3×3=9つの四角いブロックを並べた構造で、うち1つの壁をぶち抜いて8部屋としている。
そしてその周囲を広い縁側(広縁)で囲んで一丁あがり、という感じだ。平面的にはわりと単純なのである。
しかし杮葺きの屋根は実に優雅な曲線を描いており、建物全体が独特の風格を漂わせている。

中をひとまわりすると、裏手へと出てみる。そこは二の丸御殿跡。ご丁寧なことに、どこにどんな部屋があったのか、
地面に間取りが描かれている。やはりただの平面図では迫力は今ひとつ感じられないが、複雑に入り組んでいて面白い。
その奥、一段高くなっているのが本丸だ。現在はそこに青山神社が建てられており、鳥居をくぐって本丸に入る。
本丸の隅っこには天守台が静かにたたずんでいる。広々とした石垣の上にちょこんと乗っている対比が印象的だった。

 
L: 青山神社の奥にある天守台。上述のように、篠山城に天守が築かれることはなかった。
R: 二の丸御殿跡地を挟んで眺める大書院。二の丸御殿は広い敷地をけっこういっぱいに使っていたようだ。

篠山城を後にすると、外堀を挟んで北の篠山市役所へ。この建物についてはネットで調べても詳しい情報が出てこない。
出てくるのはことごとく、さっきの大正ロマン館の情報ばかり。古い役所が残ると、そういうデメリットもあるのだ。
まあ、大正ロマン館が1992年まで現役だったわけだから、おそらく1992年か1993年の竣工だろう。

 
L: 篠山市役所の第2庁舎。  R: その東隣のこちらが本庁舎。いちばん西にはたんば田園交響ホールがあり、公共施設3連発。

篠山市役所は篠山城のすぐ北東にあるので、そのまま堀の東側を南へと下っていく。
するとすぐに、東の馬出(うまだし)跡がある。馬出とは城の出入口部分に設けられる防御の空間で、
堀を渡る通路の外側の端を「コ」の字状にふさいだもの。つまり、「城=コ」という形状になっているわけだ。
これで出入口が狭くなるうえ、敵を2回も180°方向転換させて射撃による攻撃をたっぷり行えるのだ。
篠山城の馬出は特に状態がいいことで有名である。きれいに整備されて公園のようになっている。

これだけ見事に馬出の形が残っているのは珍しいなあ、と思いながら眺めていたら、視界の端っこに動物がいた。
軽快に泳いで水を横切るそいつの先には、さらにもう1匹。のん気に植物の茎をかじっている。なんだこれは。
後で調べてみたら、ヌートリアだった。篠山のヌートリアはけっこう被害が大きいようだ。困ったもんだ。

  
L: 泳ぐヌートリア。  C: かじるヌートリア。それなりにサイズがあるので、いきなり見かけるとけっこう驚かされる。
R: 東の馬出跡。きれいに整備されすぎていて、正直違和感も。軍事的な空間って匂いがしなくなっちゃっている。

突然のどうぶつ奇想天外に驚きつつ、再び南へ。そして堀が終わるのを合図に、さらに東へと針路をとる。
けっこう歩いた先にあるのは、河原町(かわらまち)妻入商家群。篠山には伝統的建造物群保存地区が2つあるが、
そのうちの商人町のほうだ。街道沿いに、丹波特有と言われる妻入の商家が並んでいるのである。
中心市街地からはかなり距離があるので観光客はそれほど多くないものの、行き来する人の姿は絶えない感じ。
すべての建物が観光客相手に商魂むき出しというわけではなく、落ち着いた適度な生活感が漂っていて心地よい。

  
L: 河原町妻入商家群を行く。右手前では、昔ながらの商家がそのまま現代の本屋になっているのがいい。すごくいい。
C: 「妻入」とは簡単に言うと、屋根のV字型断面(「妻」)を見せるように出入口がついているということ。対義語は「平入」。
R: 明治初期に南丹銀行として建てられたという鳳凰会館。これは平入ですな。違いがわかっていただけましたか?

せっかくなので、商家群の中にある丹波古陶館に入ってみた。焼き物の世界はけっこう面白いのだ(→2011.1.10)。
この施設の「古丹波コレクション」は、館長親子(たぶん)が約80年にわたって集めてきたものだそうだ。
素朴でも味わい深い作品から始まり、時代が進むにつれて凝ったものも増えていく。
しかし技術をひけらかすだけで下品な仕上がりになってしまっているものはほとんどなく、
節度を感じさせるものが多く並んでいる。僕は焼き物の世界にはぜんぜん詳しくないのだが、純粋に楽しめる。
一見、いいかげんにぶっかけたような釉薬がいいバランスで垂れてきて、なんともいえないデザインとなる。
僕はポロックのアクション・ペインティングがめちゃくちゃ大嫌いなのだが、器という前提と組み合わさると、
ある程度の偶然に結果を委ねつつも、持ち前のシビアなセンスが存分に発揮されているのがよくわかる。
無名の天才たちが生活の中に残そうとした芸術に、しばし酔いしれるのであった。

  
L: 丹波古陶館の中庭。奥から入口側を眺めたところ。この空間、ものすごくオシャレだと思う。
C: 西坂家住宅。元は醤油屋だったそうだ。篠山の妻入住宅の代表格と言えそうな存在。
R: 丹波黒(丹波黒大豆)で有名な小田垣商店。敷地の広さと塀の長さがすごい。国登録有形文化財。

河原町妻入商家群を往復し、そのまま遊歩道を西に抜ける。南の馬出は東と違って、それほどきれいではなかった。
そうして堀の西側に出ると、そこには小林家長屋門。江戸時代に建てられた、長屋がそのまま門になっている建物で、
見ると明らかに門というよりも家である。住める門とは、なんとも面白い文化があったんだなあと思いつつ撮影。

そしてそこからもう一歩西へと入ると、そこは御徒士町(おかちまち)武家屋敷群である。
篠山のもうひとつの伝統的建造物群保存地区だ。旧安間家住宅は史料館になっており、内部を見学できる。
しかしそれ以外の建物はどれも現役の住宅だった。旧安間家住宅は茅葺の屋根だが、それ以外の住宅は、
だいたい同じデザインのトタン屋根が乗っかっている感じである。残念ながら、河原町妻入商家群ほどの風情はない。
篠山城下では外堀の周りに家臣の屋敷が並べられ、下級武士はさらにその外側に配置されていた。
旧安間家は下級武士の家柄だそうで、当時の標準的な生活スタイルをよく感じさせる空間となっているのだ。

  
L: 小林家長屋門。長屋を門にしてしまうとは、なんとも不思議な建築様式である。農作業にも使う空間だったそうだ。
C: 旧安間家住宅を正面から撮影したのだが、門がジャマで全体像がつかみづらいの図。
R: 中庭から撮影した旧安間家住宅。内部はわりと一般的な武家屋敷スタイル。庭の奥には土蔵などもあり、余裕がある。

旧安間家住宅の中には、古文書や家具・食器のほか、篠山藩ゆかりの武具なんかも展示されている。
縁側からすぐのところには水琴窟がつくられており、水を垂らすと澄んだ音色がよく反響して面白い。
それほど広い建物ではないのでわりとあっさり見学を終えて外に出る。あらためて、御徒士町の家並みを眺める。
1830(天保元)年の火災で御徒士町の大部分が焼失したそうで、以後、火除地として6尺分セットバックして、
現在のような姿になったそうだ。明治維新後も御徒士町の住民たちは篠山に残って屋敷の手入れを続けたことが、
武家屋敷群の保存につながったという。つまりここは観光地である以前に、今も生活の場所ってことなのだ。

 御徒士町武家屋敷群を行く。いかにもな武家屋敷は通りの西側(左)に多く残る。

そんな感じでゆったりと篠山城の周囲を一周。ゴール付近になって現れたのが、青山歴史村だ。
これは旧篠山藩主・青山家の別邸で、桂園舎という建物と3棟の土蔵、そして長屋門で構成されている資料館だ。
展示されているものの内容はとにかく多岐にわたっていて、漢学書の版木がやたらとあるのが特徴か。
あとは「鼠草子」も目立っていて面白い。鼠を擬人化した絵巻物で、最後は主人公が出家してしまう。そういうもんか。
中庭にも石造金櫃をはじめ多数の史料が置かれており、むしろ内容が雑多になりすぎている感じすら漂う。
もう一歩間違えると原色のペンキで手書きをするようなユニークさんの秘宝館になってしまいそうで、
それを旧藩主の気品でこらえている感触があるくらい。サーヴィス精神が旺盛だ、と言えなくもないのだが。

青山家は徳川家康の父・松平広忠の代から仕えた譜代大名。家光のせいで領地を奪われたり大名に復帰したり、
浮き沈みの激しい家柄で、あちこちへ転封を繰り返した末の1748(寛延元)年、丹波篠山に落ち着いたのだ。
家紋の無字銭のインパクトが大きい。ちなみに東京都港区青山の地名は、青山家の下屋敷があったことに由来する。

 青山歴史村の中はなかなかのワンダーランドぶりをみせていた、と思う。

歩いて篠山城を完全にぐるっと一周したので、なんだか疲れてしまった。雨は完全にあがってくれたが、
湿っぽさはまだずっと残ったままだ。大正ロマン館を軽くひやかし、篠山の商店街をふらふら歩く。
基本的には丹波の黒豆や猪肉など土産物の買い物が楽しい場所のようだ。やや人生のベテラン向けな印象である。
こうなると、なるべく土産物を買わないで済ませようとする主義の僕は、少しションボリしてしまう。
ちょうどバスが来る時刻だったので、少し迷ったのだが、乗ってしまうことにした。

 二階町の商店街の様子。篠山ならではの土産物がかなり充実していた。

来たときと同じルートをていねいになぞって、バスは篠山口駅へと走っていく。
いちおう篠山の名所は軽めながらもひととおり押さえたはずなのだが、消化不良な気分が残っているのはなぜだろう。
おそらくは雨があがったばかりの湿っぽい中を歩いたことで、どことなく閉塞感を覚えたせいだと思う。
本当の篠山の魅力に触れたという感触が、いまいち足りないのだ。ぜひもう一度訪れて、気が済むまで歩きたい。

篠山口以南の福知山線は複線化して本数も多くなる。大阪都市圏に組み込まれたぞ、という印象がする。
車窓の風景はゆっくりと山間のものからひらけた平野へと変化していく。土地に高低差はあるのだが、
全体的にゆったりしていて大地の広がりを存分に感じさせる風景になるのだ。
そしてその中に、とても大規模な高層住宅が点在しているのを目の当たりにすることになる。
なるほど、これが1988年から1997年まで人口増加率が10年連続で日本一になった三田市のニュータウンか、と納得。
しっかりと広がる農地と、まるで丈夫な柱のように空に伸びるマンションたち。実に独特な風景である。

三田駅で途中下車して、三田市役所を目指す。福知山・篠山と「旧丹波国の城下町めぐり」をしてきたが、
三田は旧摂津国なので本日のテーマからははずれる。まあでも、せっかくだから市街地を歩いてみるのだ。
いちおう書いておくと、三田は「さんだ」と読む。東京の人は港区の三田(みた)と間違えることが多いらしいが、
関西人にはそのことは信じられないんだろうな、と思う。ベッドタウンとして有名な都市でございますよ。
歴史的には三田はなかなかややこしい扱いを受けており、城下町なんだけど城とはみなされていなかったらしい。
毛利水軍を破ったことで有名な九鬼嘉隆の子孫が鳥羽から移って三田を治めたのだが、城ではなく陣屋扱い。
それでも水軍としての誇りは忘れず、池に船を浮かべて訓練を続けたという。そのまま明治維新まで九鬼家が治めた。

 
L: 三田駅。ペデストリアンデッキをはじめ、わりと大きめな規模で再開発が進められた感じ。
R: 駅から南に延びる商店街を行く。駅周辺は賑やかだが、商店街は個人規模の店が多くてとても落ち着いた雰囲気。

単純にまっすぐ市役所へ向かうのはあまり面白くなさそうだったので(電車内から市役所が見えるくらいの距離感)、
駅から延びている商店街を歩いて武庫川まで出てそのほとりを西に進むという、かなりの迂回をして歩いた。
三田駅周辺はいかにも強烈なベッドタウンらしく、全国規模で展開している店が新しい駅舎にすっぽり収まっていたが、
駅からちょっと離れるとすぐに地方都市らしい穏やかな雰囲気に変わってしまう。本当に、駅周辺だけが浮いている感じ。
つまりこれが本来の三田の姿であるのだろう。広がる農地を背景に、住宅と商店がのんびり集まっていたかつての三田。
そこに覆いかぶさるようにして、ベッドタウンや駅周辺の「最近整備しました」空気が局所的に流れ込んできたわけだ。
そんなことを考えながら住宅地を抜けると、交差点の角地に古めかしいモダニズム庁舎建築が現れた。三田市役所だ。

  
L: 交差点より眺める三田市役所。3階建て、戦後しばらく経ってからの鉄筋コンクリート庁舎の典型的なタイプである。
C: 後ろには目立たないように増築された建物がくっついている。これもけっこう古いなあ。
R: エントランス付近を撮影。この無表情な感じがなんともたまらん。昭和30年代らしさ全開って感じである。

駅やニュータウンのマンション群とはまったく別世界の、典型的な旧来の庁舎ぶりは意外に思えた。
そう思って後で調べてみたら、なんと今月1日に新しい庁舎の基本設計がまとまったという話。うーん、やっぱそうか。
現在の三田市役所は1960年の竣工で、老朽化と分散化に苦しんでいるそうだ。まあこれじゃ無理もあるまい。
今の庁舎は交差点の角地に位置しているが、その裏にはけっこう広い駐車場がある空間構成となっている。
新庁舎はその駐車場の位置に建てて、現庁舎は取り壊してオープンスペースにするようだ。まあ、妥当だわな。

  
L: 駐車場(新庁舎が建てられる予定地の辺り)から南側の現庁舎の側面を眺めたところ。  C: 駐車場の西側には西3号庁舎。
R: 現庁舎の奥に建っている西庁舎と西2号庁舎。これらはそのまま残されるとのこと。まあ、もったいないもんな。

時代に合わせて空間は更新されていくものだとはいえ、昭和の空間体験が遠くに追いやられようとしている。
そうして何ごともなかったかのように、新しい21世紀初頭の空間がその上を塞いでしまうのだろう。
まさに三田駅周辺がそうなっているように、この三田市役所も「最近整備しました」空間へと姿を変えてしまう。
三田という場所は、きちんと城と認められなかった城下町であるがゆえに、空間の更新への抵抗が薄いのかもしれない。
三田駅もニュータウンも豪快に改造され、市役所もこれから実施される改造を静かに待っている。
でもそういった更新された空間のすぐ隣には、のんびりとした旧来の三田の生活感が今も穏やかに残っている。
そんな両者の不思議な共存こそが、三田らしさということになるのだろう。なかなか面白い土地である。

駅まで戻ると駅舎のすぐ隣、ペデストリアンデッキ上にある観光案内所で三田市関連のパンフレットをもらう。
まあ正直、あまり魅力的な名所はない感じだ。でもまあ、この街はありのままの姿が十分に興味深い対象だった。

都市社会学の思考実験をしながら、さらに南下する福知山線に揺られる。
トンネルがぶち抜かれた山間地帯も通ったし、川西池田のような乗降客の多い駅も通った。
福知山線というのは、いろんな表情を見せる路線だと思う。でもその最後には、あの場所がある。
2005年、この線路の上を猛スピードで走っていた電車が、カーヴに入ってレールをはずれ、マンションに激突した。
いわゆる福知山線脱線事故だ(→2005.4.25)。21世紀なのに100人以上が亡くなった鉄道事故に、ショックを受けた。
終点の尼崎駅が近づいて、電車は緩やかにカーヴする。僕はそっと一瞬だけ目を閉じ、そのニュースの記憶を引き出す。
怖かった。この線路の上を走る電車が過剰なスピードを出すことは、もう二度とないだろう。でも確かに怖かった。
怖さを感じることが哀悼の意を表明することにはならないだろうけど、僕はその記憶を引き出さずにはいられなかった。

尼崎駅で途中下車し、ミスタードーナツで栄養補給しながら日記を書いていく。空が暗くなってから駅に戻り、
三ノ宮駅まで行く。今夜はここに泊まるのだ。土曜の夜の三宮は大変な賑わいぶりで、神戸という街が本来持っている、
関西らしい飾らないエネルギーを大いに放出していた。晩メシを食って本日の宿へ。大浴場つきのカプセルホテルだ。
しっかりと湯船に浸かって体力の回復を図ると、風呂上がりにはレッドブルを飲みつつMacBookAirで画像の整理。
明日はいよいよ旅行の最終日だ。しっかり歩いてしっかり勉強できるように、整理を終えると早めに寝てしまう。
今のオレは本当に充実した経験をしているぜ、という満足感に包まれつつ眠ったのであった。


2012.2.24 (Fri.)

夜行バスが到着したのはまだ真新しいバスターミナルで、なんだかずいぶん近未来的な印象がした。
大阪駅に着いたことは確かなはずだが、じゃあ具体的に大阪駅のどの辺にいるのかは皆目見当がつかない。
昨年、僕がまったく細かいことを把握していないうちに、いつの間にか大阪駅は大規模にリニューアルしていた。
いったいいつ工事していたんだろう、と今でも不思議なのだが、つまりそれだけ僕が鈍感であるってことだろう。
昨年の5月に大阪駅の変貌に驚かされたが(→2011.5.15)、このときにはバスターミナルはまだ桜橋口だった。
10月は体調不良で夜行バスをキャンセルしたので、このときどうだったかはよくわからない。
まあでも、とにかく、大阪駅のバスターミナルは位置が変わったのだ。とりあえず外へと歩いていくと、
ヨドバシカメラがあるのが見えた。ってことはつまり、バスターミナルは駅の北側にあるということだ。
桜橋口は駅の西南側なので、まあだいたい反対側に移ったことになる。まだ薄暗い中、必死で位置関係を把握する。

とにかく、メシだ。大阪駅の北口側には吉野家があったはずなのだが、歩いてみても見当たらない。
しょうがないのでファーストキッチンでコーヒーとハンバーガーをいただいて目を覚ます。
やはりコメでないと十分なパワーが出ないが、早朝なので文句は言わない。とりあえず体が動けばいい。

先週の土日は奈良県から三重県にかけてを存分に堪能し、今週は関西である。贅沢なものだと自分でも思う。
でも来年度のことを考えると、これぐらいやってもバチは当たるまい。それくらい、来年度はキツいのだ。
それに、今回の関西旅行は3日間だが、きちんと一日ごとに勉強としてのテーマを設定しているのだ。
単なる物見遊山ではなく、見聞を広める旅になっているのだ。だから卑屈になることなど何もない。
では初日の本日のテーマはというと、「城下町探訪+和歌山県三社参り+サッカー日本代表の試合観戦」である。
大阪からスタートして南へ移動しながら城下町めぐりをし、神社めぐりをし、最後は日本代表の試合で締める。
まあ要するにいつもの旅とやっていることはあまり変わらないのだが、そこはそれ。がっちり勉強するのだ。

 トラス構造満載の屋根が素敵な大阪駅のホーム。僕はこういうのに弱い。

大阪駅から大阪環状線で天王寺まで出ると、阪和線で一気に南下する。天井の真ん中にモニターがあり、
そこにどの駅に止まるか、次は何駅かといった案内が表示する。間抜け面でその画面に見とれていたら、
車両内を移動する客のジャマになってしまったではないか。東京にはない工夫なので、どうも慣れない。
そんなこんなでしばらく電車に揺られ、降りたのは鳳駅である。行政区域としては堺市だ。
ここからしばらく歩いたところに、和泉国一宮である大鳥大社があるのだ。本日はまずここからスタート。

ところで、もちろん今日は平日だ。当然、学校はある。しかし僕は有給を取ったのだ。
本日からテスト期間ということで、平常の授業ではないので休むことができる(授業があっても休めるけどね)。
しかし僕が学校のある日に有給を取って休むのは、3年目にして初めてのことなのだ(インフルエンザでの隔離を除く)。
生徒は学校に来ているけど、こっちはお休み。いざやってみると、解放感よりも圧倒的に、罪悪感・背徳感が大きい。
職員の打ち合わせ開始時刻である8時10分が近づくにつれ、その感情が増していく。なんだか背筋がゾクゾクする。
生徒たちの顔を思い浮かべ、いやー悪いねーみんな必死でテスト受けている時間にオレは旅行しちゃってるよー、と、
本当は別に感じる必要のない背徳感に震えながら知らない街を歩くのであった。われながら倒錯しているなあ。

大鳥大社は落ち着いた商店まじりの住宅地の中にあるが、境内はなかなか大きい面積を持っている。
そして中はけっこう複雑な構造をしている。まず鳥居をくぐって中に入るが、そこからの参道がわりあい長い。
二度のカーヴで右へ直角に曲がる格好になり、さらにそこから左に折れて進む(これで鳥居からはまっすぐになる)。
ところがその突き当たりにあるのは摂社の大鳥美波比神社で、大鳥大社の拝殿・本殿はその手前を左に入ったところ。
高低差があるならともかく、真っ平らな土地でこういう複雑な経路になる理由がイマイチわからない。
大鳥大社には「千種の森」という神域があり、それを避けていったらそうなったのかもしれない。

  
L: 大鳥大社の入口。さすがに堂々とした印象である。参道がけっこう長い。
C: 案内がいちおう出ているので派手に迷うことはないが、境内はなかなか複雑になっている。これは拝殿前の様子。
R: 拝殿。本殿は貴重な大鳥造だそうだが外からはよく見えない。僕は本殿より拝殿が好きだ。

大鳥大社への参拝を終えると、来た道を戻って鳳駅へ。これから登校しようとする学生たちとすれ違う。
小学生たちが小学校に向かってわらわらと集まってくる。やはり、自由とはいいなあという感情よりも、
背徳感の方がずっと大きい。そんなこんなで鳳駅に着くと、立ち食いうどんで再度、栄養補給をするのであった。

鳳駅からは東羽衣駅まで盲腸線が出ているので、それに乗り込む。さすがに高校生たちの姿がよく目立つ。
東羽衣駅はがっちりと高架でなかなか眺めがいい。この先に続きがないのがなんだかもったいない。
鳳駅から東羽衣駅までわざわざ支線があるのは、東羽衣駅で南海の羽衣駅に接続するから。
ふたつの駅の間には微妙な距離があり、乗り換える人もけっこう多い。おかげで予定の列車に乗り遅れた。
南海はうまく急行列車をつかまえれば快適だが、各駅停車になると本当にゆったりとした進み具合になってしまう。
それだけ街歩きの時間が減る。けっこう焦り気味の気分になって次の目的地に到着することになってしまった。

予定よりも10分遅れで岸和田駅に到着。岸和田といえばだんじり祭りがめちゃくちゃ有名だが、
この街には城下町の街並みもある。そして今まさにNHK朝の連続テレビ小説『カーネーション』の舞台になっており、
その関係もあって観光には力を入れているようだ。ともかく、駅から市役所、そして岸和田城まで歩いてみる。

岸和田駅からすぐにアーケードの商店街が延びているが、市役所や岸和田城までは少し距離がある。
アーケードの商店街を抜けて左折、そこからカーヴしながらゆったりとした坂を下っていくと、岸和田市役所前に出る。
岸和田市役所はその敷地の高低差をはっきりと受け止めている建物で、質実剛健、実に立派なモダニズムぶりだ。
派手な装飾はないが、ファサードには小気味いいリズムで窓が刻まれ、決して陳腐ではない。
じっくり眺めれば眺めるほど落ち着いていて味わい深い、そんな建物である。正面からも交差点からも見映えがいい。
設計者は誰だろうと思って後で調べてみたのだが、まったくデータが出てこない。竣工年すら出てこない。
僕は市役所の建築からその市の品格というか文化度を測る考え方なので、岸和田市役所には大いに感心する反面、
その扱いの雑っぷりに残念になる。この市役所は有名ではないかもしれないが、美しいからもっと誇るべきだ。

  
L: 岸和田市役所。どの角度から見てもなかなか見映えがいい。  C: 交差点より眺めても美しい。
R: もうちょっと側面に寄ったところ。規模とデザインからみて、1960年代前半の竣工かな。この時計塔がすごくいい。

 岸和田市役所前の電話ボックスにはだんじりが乗っておりました。

市役所の撮影を終えると、岸和田城の堀を一周するように歩いてみる。まずすぐに現れるのが自泉会館。
岸和田紡績の寺田家の倶楽部として、1932年に渡辺節の設計で建てられた。質素な印象が品の良さを感じさせる。
後に岸和田市に寄贈され、さまざまな用途を経て現在は文化施設として市民に広く利用されている。

 岸和田市立自泉会館。本当の金持ちがきちんとつくった建物って品がいいよな。

岸和田城の東側にまわり込むと、岸城神社と府立岸和田高校。この辺りから見る岸和田城はかなりきれいだ。
そして南側には五風荘。旧岸和田城内の新御茶屋跡をもとにつくった回遊式日本庭園だそうだが、
現在は「がんこ」グループが所有しているのか、「がんこ岸和田五風荘」として営業中。
がんこ寿司も知らないうちに経営を多角化してあちこちに出てくるようになったなあ、と思うのであった。

もともと、ただの「岸」と呼ばれた土地に和田氏が城を築いたことで「岸和田」という地名ができあがったそうだ。
現在の岸和田城はそれとは別の場所にあるが、大坂城と和歌山城の中間地点ということで紀州藩を監視する城として、
江戸時代には重要な役割を果たしていたのだ。今も立派に残る城の構造を見ると、その力の入れ方がなんとなくわかる。

  
L: 1954年築の岸和田城復興天守。開館時間は午前10時だったので中には入れず。それにしても逆光がきつかった。
C: 岸和田高校前から撮影した岸和田城。堀と石垣の間に犬走りがあるのが特徴。なぜわざわざくっつけたのやら。
R: 紀州街道には昔ながらの街並みが残っており、その屋根を展望できるようになっている。もうちょっと高さがほしい。

岸和田城の周辺をだいたい歩きまわると、紀州街道沿いの街並みを歩いて市役所まで戻ってみる。
紀州街道は府道204号と平行に、一本北へ入ったところを走っているのだが、本当によく建物が残っている。
実態としては府道204号が車の交通を一手に引き受けたことで、紀州街道の道幅が維持されて建物が残ったのだろう。
毎年10月にはここがあの岸和田だんじり祭りの舞台となるわけだ。この紀州街道の家々の軒をかするように、
だんじりが走り抜けていくのだろう。今日みたいな冬の平日の朝だと、その光景を想像するのはかなり難しい。
今はただ、祭りに向けてのエネルギーをひたすら静かに充填しているのみ、そんな静けさに染まっている。

  
L: 岸和田・紀州街道の街並み。昔ながらのスケール感そのままで、木造住宅がよく残っている。ここをだんじりが走るのか。
C: 重要伝統的建造物群保存地区ではないが、なかなかだ。  R: 空き地が隣だと住宅の側面がよくわかっていいなあ。

のんびり歩いて市役所前まで出ると、そのまま来た道を戻って岸和田駅前のアーケード商店街へ。
ぼちぼち店が開きはじめる頃合で、ゆったりと活気がみなぎってきている。人の往来もだいぶ増えてきた。
商店街の中には『カーネーション』に登場するコシノ洋裁店を模したグッズショップがあった。
しかし冷静に考えると、コシノ3姉妹そろっての活躍ぶりは凄い。NHKもいいところに目をつけたもんだ。
椎名林檎のテーマ曲が不評だのなんだのというつまらんニュースでしか気にする機会がなかったのだが、
ちょっくらきちんと見てみようか、という気分に少しだけなったのであった。

  
L: アーケードの商店街を岸和田駅まで戻る。非常に活気があり、雰囲気はとても明るい。
C: 『カーネーション』のコシノ洋裁店を模した店。もうかってまっか?  R: 商店街の入口。

岸和田を後にすると、そのまま和歌山へ。南海なのでゴールは当然、和歌山市駅のほう。
和歌山市街を挟む和歌山市駅と和歌山駅の状況については以前書いたはずなので省略(→2007.2.11)。
今回の旅行では、和歌山市街をしっかりと歩きまわるだけの時間はきちんと確保してある。
そうして、あらためて和歌山市役所と和歌山県庁の写真を撮り直そうというわけなのだ。
なんせ過去ログの和歌山市役所の写真はテキトーなのが1枚だけだし、県庁も夕日を浴びて色が変わっていたし、
せっかくの機会だからちゃんとした写真を撮影しておくのだ。ついでに、和歌山県立近代美術館も押さえる。
前回訪問では和歌山ラーメン車庫前系を食っただけだったので(→2010.3.30)、しっかりリヴェンジするのだ。

 和歌山市駅。建物は立派だが、周辺はかなり閑散としていて寂しい。

それにしても和歌山市街の道は広いなあ、と呆れながら歩いていく。以前の日記のログでは、
この広い道の真ん中をかつて路面電車が走っていた、と書いていた。でもあれこれ詳しく調べてみたら、
どうも必ずしもそうじゃなかったようだ。空間の記憶を掘り起こす作業というのは本当に大変だ。
現在はかつての路面電車のルートでバスが走っている。が、知らない土地で路線バスに乗るのはけっこう億劫だ。
和歌山市駅と和歌山駅の間だけでも、今も路面電車が走っていれば楽なんだけどなあ、と思いつつ歩く。

そんなこんなで和歌山市役所の近くまで来た。5年前にはいいかげんな写真が1枚だけだったので、
これでもか!というくらいたっぷりと撮影。まあ、それほど優れたデザインの建物というわけでもないのだが。

  
L: 和歌山市役所。まあ、一言で表現すると、わりと中野サンプラザ(→2007.6.20)的なデザインの建物。
C: だいたい正面から見るとこう。けやき大通りはここだけ狭くて撮影が大変。  R: 側面が見えるように撮影するとこうなる。

和歌山市役所は1976年に竣工。設計者などの詳しいデータはざっと検索した限りではわからなかった。
最大の特徴は、狭い敷地に立体的に積み上げた形のオフィスであること。東京23区の区役所ならともかく、
この時期の県庁所在地の市役所でこういうパターンはなかなか珍しい。裏手には駐車場もあるが、これも狭め。

 
L: 裏手にまわってみた。裏側はけっこう無骨なのね。出っ張っている部分は市議会の議場になっている。
R: 背面をまっすぐ見据えて撮影。ガラスが目立っているものの、アトリウムではないみたい。

たっぷり撮影して気が済むと、今度は和歌山県庁の番なのだ。和歌山城の敷地の脇を通って、南西へ。
和歌山県庁は1938年竣工の本館が今もしっかりと残っている。この土地はもともと紀州藩の家老の屋敷跡とのこと。
戦後に本館の周囲に次々と別館が建てられ、本館じたいも裏側がしっかりと増築されている状態である。

  
L: 和歌山県庁本館を正面より撮影。設計者は和歌山県技師の増田八郎、顧問に内田祥三。
C: エントランスに近づいてみる。  R: さらに真正面から。なかなかのリニューアルぶりである。

 本館の側面と、増築された部分。デザインがかなり異なる。

市役所と県庁をしっかり撮影して、これで最低限のタスクは終了。ついでと言っては失礼だが、
公共建築百選に入っている近所の和歌山県立近代美術館・博物館にも寄ってみる。黒川紀章設計の巨大な建物だ。
でもまあ個人的には別にどうでもいいデザインで、特に興味は湧かない。中に入る余裕もないし。

  
L: 交差点の歩道橋の上から撮影した和歌山県立近代美術館。  C: 近づいて撮影。1994年竣工とのこと。バブリーじゃのう。
R: 改修工事中なのか足場がジャマ! ……と思ったのだが、見ているうちに、この足場がある方が格好よく思えてきた。

 美術館の隣にくっついている和歌山県立博物館。

あとはこれまたせっかくなので、和歌山城にも行ってみることにした。5年前にも来ているが、
天守を外から眺めただけで終わっている。いい機会なので中に入って和歌山の街を眺めてみることにした。
和歌山公園として往時の雰囲気を漂わせているのは二の丸までで、三の丸跡は官庁やさっきの美術館などになっている。
かつては今のだいたい4倍くらいの規模だったそうなので、紀州藩の権威の凄さがうかがえる。
もともとここは『信長の野望』の鉄砲軍団でおなじみの雑賀衆が押さえており、信長存命中には完全に攻略できなかった。
しかし秀吉が攻め込んで平定、「若山」を「和歌山」に変えて弟の秀長が築城し、街の歴史が本格的に始まった。
1619年には外様大名だらけの西国の抑えとして徳川頼宣(家康の十男)が移ってきて紀伊徳川家が成立する。
この頼宣が城と城下町を改修して今の都市構造ができあがった。謀反を疑われたほどに規模の大きい改修だったそうな。

  
L: 和歌山市役所付近から眺める和歌山城の天守。1958年の再建。  C: 天守曲輪。考証がしっかりしているからきれいですな。
R: 本丸御殿跡。和歌山城は本丸と天守が別の場所にあるのだ。本丸御殿跡は現在、給水場となっている。

400円払って門をくぐると、そこには遠足か何かで来たと思われる幼稚園児たちでいっぱい。今日は平日なのだ。
園児たちが記念撮影をしているその隙をぬって中に入る。高いところから眺める和歌山市街は格別だった。

  
L: まずは西側を眺める。紀の川の河口がはっきり見えて、なかなかの景色じゃないですか。
C: 和歌山市役所は和歌山城から眺めるのがいちばんいいですな。  R: 和歌山駅方面を眺める。

和歌山城を後にすると、これまたまたまたせっかくなので、ぶらくり丁経由で和歌山駅を目指す。
これはわざわざ北側へ戻ることになるのでずいぶんと遠回りになるのだが、やっぱ商店街を歩きたいじゃん。
無味乾燥なけやき通りをトボトボ歩いたっていいことなんてないのだ。というわけでぶらくり丁へゴー。

 ぶらくり丁を行く。以前より活気があるかな?と勝手に思った。

和歌山駅に着いたときには、足がパンパンになっていた。よく考えればすでに大鳥大社・岸和田としっかり歩いており、
そこに和歌山市駅から和歌山駅までをがっつり蛇行して歩いているのだ。しかもその途中には和歌山城にも登っている。
これだけ歩けば足がどうにかならない方がおかしい。だからといって休んでいるヒマはない。次の目的地が待っている。
本日のテーマは「城下町探訪+和歌山県三社参り+サッカー日本代表の試合観戦」ということで、
まだ最初のテーマを消化したにすぎないのである。もう自分でも頭がおかしいんじゃないかと思う詰め込みぶりだが、
見聞を広める旅行なんだからやれるだけやらないともったいないのだ。ガンガンいくのだ。

と、その前に、切符を買っておかなくちゃいけない。今夜はここ和歌山から大阪に戻って泊まるのだが、
明日以降はまた別のテーマに沿って大移動をするのだ。100km以上で途中下車ができる仕組みを最大限に活用して、
この後、和歌山を出るところからあさってまで使う切符をみどりの窓口でつくってもらうのだ。さっそく列に並ぶ。
すぐに自分の番が来て、窓口のおねえさんに一言。「和歌山から福知山経由で和田岬まで行く切符をお願いします」
突然の無茶な注文に、おねえさんは絶句する。そりゃそうだ。自分でもこんな変態的な注文、恥ずかしくてたまらん。
そもそも和歌山人にとって福知山なんてまるっきり別世界だろうし、終点が和田岬というのはもう正気の沙汰ではない。
(どれくらい変態的な注文なのか気になる人は調べてみてください。僕はもう二度とこんな恥ずかしいことしたくないです。)
おねえさんは戸惑いつつも、時刻表を参照しながらコンピューターに入力していく。こっちは事前に計画を練ってあるから、
「いえ、そっちじゃなくて京都経由です」とか「尼崎で乗り換えになります」とか、いろいろ助言というか何というか。
これじゃまるっきり鉄っちゃんじゃねえか、と自分で自分に嫌気がさしつつも、なんとか切符はできあがった。

どうにか切符を無事に買うと、とりあえずその切符はポケットにしまっておいて、
次の目的地へと向かう和歌山電鉄貴志川線に乗ることにする。ところがこの鉄道、どこに入口があるのかわからない。
和歌山駅は西口と東口の接続が地下通路で非常にわかりづらく、かなり迷った末にどうにか東口に出た。
そうして和歌山電鉄の入口を探すが、ない。困ってJRの改札でどこか尋ねたら、9番ホームに行ってくれ、とのこと。
言われるままに改札を抜けて地下通路で9番ホームを目指すと、足下にネコの足跡が貼り付けられている。
それに従って階段を上ったところに和歌山電鉄の切符売り場があった。一日乗車券を650円で購入。

さあ貴志川線に乗るか、と思ってホームを見て驚いた。で、電車に……ヒゲが描かれている……!
側面を見てみると、そこには大胆不敵なネコのイラストのラッピング。そして「たま電車」の文字。
そう、和歌山電鉄貴志川線(つっても和歌山電鉄には貴志川線しかないけど)はネコの駅長・「たま」で有名なのだ。
廃止寸前の地方鉄道だった和歌山電鉄は、駅に住み着いたネコ・「たま」を駅長に任命することで起死回生、
一躍全国区の知名度と人気を手にしたのである。今やすっかりネコ好きの皆さんの聖地みたいになっているそうな。

  
L: 9番ホーム・和歌山電鉄貴志川線へと至る階段。壁には「たま」のイラストがあるし、かなりの徹底ぶりなのだ。
C: たま電車。貴志川線のリニューアル車両は「いちご電車」が第1弾で、「おもちゃ電車」が第2弾。これは第3弾になるそうだ。
R: たま電車の側面。しかしここまで「たま」で押すのか。まあ実際にそれで観光客が来ているわけだし。うーん、すげえ。

もともと貴志川線は1916年に山東軽便鉄道によって開通。日前宮・竈山神社・伊太祁曽神社への三社参りのためで、
貴志川線はそれぞれの神社を結ぶ形で走っている。1961年に南海の一部となったが(今も南海カラーの車両が走る)、
2006年に岡山電気軌道が出資する和歌山電鉄に経営を引き継いで今に至る。その際、社長が「たま駅長」を発案。
これが当たって今や「たま」は「スーパー駅長」、さらには和歌山電鉄の常務執行役員で社内のナンバー3なんだとさ。
日本は平和だなァ。ちなみに「たま」は和歌山県からも「和歌山県勲功爵(わかやまでナイト、「貴志」とのシャレだと)」
「和歌山県観光招き大明神」の称号をもらっている。まあそんなわけで、まさに「たま」様々なわけだ。

たま電車の中はさらに凄いことになっていて、もうなんというか、やりたい放題。
ヘタな人間よりもずっと偉いネコがモチーフということで、車内は「たま」の「たま」による「たま」のための空間だ。
「すべては1匹のネズミから始まった」とはW.ディズニーの言葉だが、たった1匹のネコからここまでやるとは。
でも実際にこれで観光客をしっかり呼ぶことができているわけだから、とりあえず文句はない。
むしろネコ1匹にここまで翻弄される人間ってなんなんずら、と哲学的に考えさせられてしまったよ。

  
L: たま電車の中にはなんと、本棚があるのだ(たま文庫)。置かれている本はネコに関する本ばかりだった。
C: たま電車の車内の様子。もう、ふつうの電車とは別世界となっている。車内のライトもネコの形をしている。
R: 背もたれもネコ型。クッションは弾力があってかなり座り心地がよい。この電車、居住性はかなりいい。

「たま」のフィーチャーぶりにすっかり圧倒されてしまったが、本題はあくまで三社参り。
和歌山駅を出てから2駅の日前宮駅で降りる。そしたら降りたのオレだけ。日前宮は一宮なんだがなあ。
去っていくたま電車を見送ると、そのままホームでさっきコンビニで買っておいた昼メシをまずいただく。
駅から神社までは歩いてすぐなので、まずはここでしっかりと腹ごしらえをしておくのである。
食べ終わると細い路地を抜けて県道138号に出る。日前宮はもう、すぐ目の前にあった。

日前宮(にちぜんぐう)は2つの神社の総称で、正式にはそれぞれ日前(ひのくま)神宮・國懸(くにかかす)神宮という。
どちらも紀伊国一宮である。そしてこの神社は実に面白い構造をしていて、完全に左右対称になっているのだ。
境内に入って向かって左が日前神宮、向かって右が國懸神宮だ。かつてはそうではなかったらしいのだが、
1926(大正15)年の工事で現在のようにつくり変えられたのだという。なんとも珍しい事例である。
神武天皇2年という非常に古い由緒があって、八咫鏡に先立ってつくられた2つの鏡をご神体にしているという。
日像鏡が日前神宮、日矛鏡が國懸神宮。まあとにかく、完全にコンビ扱いの神社なんて初めてだ。

  
L: 日前神宮・國懸神宮への入口。周辺は住宅ばっかりで、そのせいか非常に静かで落ち着いた神社である。
C: 境内を行く。ここから先が本格的な参道となっている感じ。緑に包まれて、完全に雰囲気が変わるのだ。
R: 参道をまっすぐ進むと左右への分かれ道となる。左に行けば日前神宮、右に行けば國懸神宮。

緑に包まれた参道を歩いていると、不思議な気持ちになってくる。明らかに俗世と切り離された感覚がする。
もともと周囲が住宅街で、賑やかな場所ではないという要素があるにせよ、ちょっとこの雰囲気は独特だ。
自然の中へと入り込んでいく感じがある。沖縄の斎場御嶽(→2007.7.24)ともまた厳密には違うのだが、
人間よりも大きな自然がすぐそこに横たわっている感じ、その庭先をちょちょっとかすめてお参りする感じが似ている。

完全に左右対称なのでどっちから先に参拝すべきか戸惑ったのだが、この神社の名前を書く際には、
日前神宮→國懸神宮という順番になっている印象があったので、とりあえず日前神宮から参拝する。
柵で区切られ、鳥居のところだけが開いている。くぐれば、屋根だけの拝殿があり、奥の扉は閉じられている。
石畳の参道の周囲はしっかりと苔が生していて、緑一色。少し縄文っぽい空気(→2006.9.3)も感じる。

  
L: 日前神宮。参道も社殿も緑に包まれて、独特な雰囲気となっている。これも日本の原風景か。
C: 日前神宮の手前はこんな空間になっている。いかにも古神道っぽい、原始的な自然崇拝の雰囲気だ。
R:
日前神宮への参拝を終えて次は國懸神宮へ。緑の中に摂社・末社が点在する光景は、なんとも荘厳なものだ。

日前神宮への参拝を終えると國懸神宮へ。参道の雰囲気は日本古来の森林を思わせる。
明らかに野放しな森林ではなく、管理されている空間(そもそも大正時代に人工的につくられた)なのだが、
その手の加え具合がかえって自然の威厳を強調している印象である。神社の空間演出とは面白いものだ。
そうして國懸神宮にも参拝。やはり日前神宮と同じ空間構成になっていた。

 
L: 國懸神宮。やはり日前神宮とまったく同じようなつくりとなっていた。そのせいもあってなんだか不思議な感じ。
R: 國懸神宮の拝殿。とても静かで、圧迫感のない威厳がある。
日前神宮もこんな感じ。

上で書いたように、日前神宮・國懸神宮は大正時代に現在の姿になったそうだが、
どこか古神道を思わせる不思議な自然の威厳に満ちた空間だった。個人的にはかなり好みな場所だわ。

和歌山県三社参り、続いては竈山神社である。こちらは一宮ではないが、セットとなっているので参拝するのだ。
竈山神社は神武天皇の長兄・彦五瀬命の墓が神社になったもので、江戸期にはそれほど重要視されていなかったが、
明治以降はその由緒から官幣大社にまでなっちゃったという。近代社格制度はよくわからんが、
地元では大切にされているのだろうから、まあきっちり参拝しておかないとね、ということで竈山駅で下車。

貴志川線の駅から神社までの距離がいちばん遠いのがここ竈山で、徒歩10分ほどということだったが、
それよりも少し多めにかかった印象である。山や林を背負った田舎の住宅をひたすら南に行くだけなのだが、
意外と車が頻繁に通って歩きづらい。まずは右手に彦五瀬命の墓があり、そこからさらにしばらく行って鳥居。
次の電車までは30分弱ということで少し急いで歩いたのだが、思ったよりも余裕がなかったなあ。

  
L: 竈山駅からまっすぐ南に進んで県道137号に出る。和田川に架かる橋のたもとにはこのような大きな鳥居があった。
C: 竈山神社に到着。意外と時間がかかってしまった。境内は非常にきれいに整備されていた。  R: 拝殿。

日前神宮・國懸神宮が日本の原風景を想像させる空間だったのに対し、竈山神社はふつうにきれいな神社。
きれいな建物がいい感じに年を経てきたところで、こちらは人工的な威厳、もっと言うと天皇家の威厳を思わせる。
まあこの神社ががっちりと整備されていった経緯がそうだから、当たり前のことなんだろうけど。

 帰りに彦五瀬命の墓を撮影。いかにも宮内庁的というか、そんな感じの空間。

和歌山県三社参りの最後は伊太祁曽(いたきそ)神社である。ちなみに駅名・周辺の地名は伊太祈曽(いだきそ)。
この微妙な差は社会学的にはけっこう重要なのだ。両者の差にどんな意味があるのか非常に気になるところだ。
ちなみに駅名は2006年に南海から和歌山電鉄になった際に、「伊太祁曽」から「伊太祈曽」に改名された。
伊太祈曽駅は和歌山電鉄の中では中心的な駅で、車両基地があるほか、本社機能もこの駅の中にある。
後述するけどここにもネコの駅長である「ニタマ」がいて、けっこうな数の乗客が一緒に降りた。

住宅街を抜けて南へ行くと、和田川を越えたところにすぐ鳥居がある。伊太祁曽神社だ。
木の神として信仰されている五十猛命(いたけるのみこと、スサノオの息子)を祀っている神社なのだ。
『日本書紀』によると五十猛命は日本に木種を播いて緑いっぱいの国にしたそうで、木の国である紀伊の一宮らしい。
(そもそもこの地は雨が多くて木々がよく生い茂っていたことから、「木国(きのくに)」と呼ばれていた。
 その後、713(和銅6)年に国名を漢字2文字で表すように勅令が出され、「紀伊」と表記するようになったという。)
鳥居はさすがに木製で、くぐると参道は緩やかな上り坂になっている。その途中、右手にまた木の鳥居があり、
そこから先が伊太祁曽神社の境内となっている。参道は池の上を橋で通る形になっており、
昔からそうだった感じはなく、近年になって大規模に整備されたんだろうな、という印象がプンプン漂っている。

  
L: 伊太祁曽神社への参道。両側には旗がたくさん立てられ、信仰の篤さを物語る。  C: 右手に折れて境内に入る。
R: 後で撮影した境内の池。山すその少し広い土地をそれっぽく改造しました感があるのはちょっとねえ……。

石段を上がって門をくぐるとすぐに拝殿。けっこう急である。拝殿はわりと近年に整備したようで、
さすがに木の神を祀っているだけあり、新しいながらも風格を感じさせるようにしてある。見事な色合いである。
参拝を終えて振り返ると、門の中には干支の動物をモチーフにした木製の像が置いてある。
実はこれ、チェーンソーカーヴィングといって、チェーンソーを使って彫りだしたんだそうだ。
毎年4月に「木祭り」が催され、その際に世界チャンピオンによる実演奉納が行われるとのこと。
チェーンソーというと豪快に木を切り倒す大雑把なイメージがあるのだが、置かれている作品は繊細そのもの。
立体的に破綻のない構図を一発で決めて削っていくそのセンスに圧倒された。世の中にはいろんな芸術があるなあ。

  
L: 池に架かる橋を渡った辺りから撮影。  C: 門にはチェーンソーカーヴィングによる干支の動物の像がある。純粋に、上手い!
R: 伊太祁曽神社の拝殿。中央の五十猛命のほか、左右両側で彼の妹たちも祀られている。なかなか面白い構造。

このほか、『古事記』で大屋毘古神(五十猛命)が大木の俣をくぐらせて大国主神を逃がした逸話にもとづいて、
かつて神木だった杉の穴を抜ける「木の俣くぐり」もあった。もちろんくぐりましたよ。木の中に入る感覚はすごく不思議。

参拝を終えて伊太祈曽駅まで戻ってくると、駅舎の中に入る。すでに観光客が4~5人ほどいて、
狭い駅舎の中はかなり窮屈である。彼らの視線の先を追うと、そこには1匹のネコがいる。
伊太祈曽駅の駅長「ニタマ」である。駅舎の入口に沿うように、L字を横にした形の「駅長室」がある。
壁にはひたすら「たま」のグッズが並んでいる。ネコの駅長効果はすごいもんだ、とあらためて実感させられる。
伊太祈曽駅で下車しても、伊太祁曽神社に参拝することなく過ごす人の方が圧倒的に多いってことだ。
それはそれで非常にさみしい事態であるが、廃線になったらもっとひどいことになる。素直に喜んでおこう。

駅長室のてっぺんでじっとこっちを見つめるニタマと向き合う。ネコに上から見下ろされるのは、まあ正直、
あまりいい気分ではない。こっちに近づいてきて愛嬌を振りまかれちゃったら評価が180°変わっちゃうかもしれないが。
ニタマは岡山市内で保護されたネコで、岡山電気軌道を通して和歌山電鉄に譲られ、駅長見習いとなった。
「たま」に似ている2番目の駅長ネコだからニタマなんだそうだ。現在はこうして伊太祈曽駅の駅長をやっているほか、
日曜日には「たま」の代わりに終点の貴志駅で駅長代理をやっているとのこと。日本は平和だなァ。
ニタマは結局、座ったままでぜんぜん下りてきてくれないのだった。うーん、いけずぅ。

  
L: 伊太祈曽駅の駅長室。てっぺんにニタマがいる。  C: ニタマ駅長を撮影。ガラスに天井の模様が反射しちゃったよ。
R: 伊太祈曽駅に停車しているいちご電車(左)とおもちゃ電車(右奥)。和歌山電鉄の営業努力は凄まじいなあ。

伊太祈曽駅から終点の貴志駅へと向かう。貴志駅には本物の「たま」がいる。まあせっかくだから、会ってやろうじゃん。
貴志駅のホームを電車の中から眺めていて、たまげた。いちご電車、おもちゃ電車、たま電車それぞれの神社がある。
列車から降りたら2010年竣工のきれいな駅舎の中へ。そして右手にいきなりスーパー駅長「たま」の駅長室。
しかしまあ、さすがに高齢のネコということで、案の定しっかりと熟睡中なのであった。予想以上に予想どおりだったなあ。
向かいは「たまカフェ」という休憩室にカフェをくっつけた部屋になっている。メニューも「たま」づくし。
まあつまり、飲み物の容器に「たま」のイラストが印刷されているだけなのだが、うーん、ニンともニャンとも。

  
L: 貴志駅のスーパー駅長室。  C: 中では「たま」が熟睡中なのであった。これで仕事していることになるんだからいいよなあ。
R: 向かいにはたまカフェ。飲み物のほか、各種お土産の「たま」グッズを販売中。「たま」の業績を紹介するたまミュージアムも。

いったん駅舎を出て、外から眺めてみる。JR九州でおなじみの水戸岡鋭治のデザインなんだそうだが、
まあなんというか、やりたい放題だな、と思うのみ。どうせ観光客相手がメインの駅なのでそれでいいんだろうけど、
それにしても和歌山電鉄のなりふり構わない「たま」づくしっぷりには言葉もございません。

 
L: 貴志駅。屋根には「TAMA」の文字も。……まあ、なんというか、日本人ってホント、ネコが好きね。
R: 貴志駅前の風景。駅舎から外に出るとこんな風景。まず駅前をもうちょっとなんとかしませんか?

貴志駅の駅舎の向かって右手がたまカフェで、左手は小山商店という雑貨屋、コンビニ的な存在である。
で、この小山商店で、各種「たま」グッズを大量に売っている。もともと「たま」は小山商店に世話されていたのだ。
せっかくなので、僕は何かしら「たま」のグッズを買って帰りたいなあと思っていたのだ。けっこう強く。
それでいいグッズはないかとじっくり見てまわって、あれこれ吟味したのだが、結局何も買わなかった。
いや、買いたかったんですよ、「たま」グッズ。でも、納得できるものがなかったのだ。
グッズの種類は本当に膨大で、キーホルダーに御守にペンにタオルに缶バッジにドロップにシールに、
もうめちゃくちゃいろいろ取り揃えてあった。でも、なんか違うのだ。違和感がどうしても拭えない。
それは結局、「たま」のグッズではあるんだけど、ネコ本人ではなくってイラストのグッズだからだ。
「たま」をモデルにしたネコがスケートをしているイラストのクリアファイルを買っても、うれしくないのだ。
またイラストも気の利いたものならよかったのだが、変に擬人化したものばかりで駅との関連性がぜんぜんない。

そもそも、もうはっきり書いちゃうけど、「たま」をめぐるひとつひとつのものが、ダサいのである。
たま電車をつくっちゃうセンス、貴志駅の駅舎をネコ型にしてしまうセンス、グッズの種類だけを増やすセンス、
さらにはネコに趣味の悪い騎士の恰好をさせるセンス、擬人化したイラストの方が本物より優先されてしまうセンス、
それらのすべてが、ダサい。本来、「ネコが駅長だってアハハ面白いね」というレヴェルで十分だったはずなのだ。
でも、それをよくわからない方向に過剰に拡張して、本来の目的を見失ってしまっている姿は見苦しい。
非常に品の悪いジジイが「なんだよ、せっかく来たのに寝てるじゃねえかよ」と言ってスーパー駅長室のガラス窓を叩き、
たまカフェの従業員に文句を言っているのを見かけた。僕はこういうジジイは殴り倒したくなるほど嫌いだが、
でもそこに本質はある、とも思う。肝心のスーパー駅長(この名称もセンスがなさすぎる)が顔を見せずに寝ていて、
イラストのグッズだけはやたらと用意されている。本末転倒も甚だしい。和歌山電鉄は何をしたいのか、わからない。

とりあえず小山商店で買ったのは、ペットボトルのジュースだけ。何かしらグッズを買いたかったけど、
琴線に触れるものが本当に何もなかったので、あきらめた。駅舎をぼんやり眺めながらジュースを飲んで過ごす。
最後の最後で「たま」が寝返りを打ったのを見て、ああよかった生きてるわ、と思って貴志駅を後にした。

和歌山駅まで戻ると、JRの阪和線に乗り換えて大阪方面へ。途中で各駅停車に乗り換え、降りたのは長居駅。
そこからちょっと歩いていくと、セレッソ大阪が本拠地としている大阪市長居陸上競技場(長居スタジアム)がある。
今日はここで日本代表の親善試合(キリンチャレンジカップ)、アイスランド戦が行われるのだ。
いちおうサッカー部顧問として部活の勉強という名目で来たので(校長たちにもきちんと話をしてあるぜ)、
ふだんのJリーグとは違う国際試合ならではの部分をしっかりと学ぶのだ。

キックオフ約2時間前に到着したのだが、すでに長居スタジアムの周辺は人でいっぱい。さすが代表戦だ。
街灯には新しいユニフォームを着た日本代表選手の写真が飾られており、みんな記念撮影している。
雰囲気が明らかにふだんのJリーグの試合とは違う。代表の試合には独特の高揚感があるのだと再認識。

初めて訪れたスタジアムは必ず一周することにしているので、ぐるっと歩いてみる。
長居スタジアムのすぐ向かいには、大阪市長居球技場(キンチョウスタジアム)。ぶつかりそうなくらい近い。
長居スタジアムは5万人収容だが、長居球技場は2万人。見やすさからいったら圧倒的に球技場の方がいいのだが、
まあ、代表の試合なんだからしょうがない。そうしてゴール裏方面に出ると、意外なコラボレーションに驚いた。
なんと、長居スタジアムの中には、ユースホステルが入っているのだ。この併設は初めて目にするパターンだ。
今日もいつもどおりに営業中のようで、宿泊客はいったいどんな気持ちなんだろう、と面白がる。

  
L: 長居陸上競技場(長居スタジアム)。杮落としは東京オリンピックのサッカー5・6位決定戦とのこと。ここ大阪やぞ。
C: すぐ隣には大阪市長居球技場(キンチョウスタジアム)。いつかここでセレッソの試合を観てみたいものである。
R: 驚いたのは、スタジアムの中にユースホステルがあるということ。こういう工夫は初めて見た。

バックスタンド側は特にこれといったこともなく、無事にメインスタンドまで戻ってきた。
一周している間にすっかり空は暗くなり、人出も多くなっていた。少しずつ、テンションが上がってきている感じ。
僕は日本代表の試合をスタジアムで生で観戦するのは初めてなのだ。ちょっと緊張してきた。
(ちなみに潤平は10年前、アディダスのコンペで優勝してスウェーデン戦を生観戦している。うらやましかったなあ。)
せっかくなので何かグッズを身につけて応援するか、とテントの売店へ。無秩序状態でごった返している中、
わりに要領よく日本代表のタオルマフラーを購入。八咫烏のエンブレム入りのやつである。
あとはこれまたせっかくだからってことで、パンフレットも購入。スタンプを押してばっちり記念になったぜ。

ところで日本サッカー協会のエンブレムに八咫烏が描かれていることについて、僕はかなり好意的である。
しかしながら、日本代表の「サムライブルー」という愛称については、全面的に反対である。どうしょうもない。
これについては後日しっかりと書くことにする。いろいろと言いたいことがあるので。

記念すべき初めての日本代表の試合の生観戦ということで、今回は奮発してメインスタンドの指定席なのだ!
贅沢すべきときにはきちんと贅沢しなくちゃいかんのだ。変なところをケチってもつまらんしな。
そしたら運がいいのか悪いのか、まさしく最前列の席なのであった。正直、全体を俯瞰して眺めるには、
最前列よりは少し上くらいの席がいい。でもまあ、最前列には最前列の良さがある。きっと演劇と一緒だ。

やがて日本代表の面々が登場。今日の試合は2012年になって初めての代表の試合ということで、
海外組は招集されていない。開幕に備えて各クラブでのキャンプで調整をしていた国内組中心なのである。
とはいえ日本でトップクラスの実力を持った選手たちが招集されていることには変わりない。今回は特に、
ベテランの大久保・石川から10代の柴崎・久保(京都での久保の活躍はこちら →2011.11.27)まで、
幅広い面々が招集されているのだ。Jリーグのファンとしては、むしろそれはそれで見応え十分なのだ。
(ただし前日の会見でザッケローニは、柴崎と久保は試合には出さないと明言していたそうだが……。)
選手たちはメインスタンドに向けて小さいボールをソフトに蹴り込んでファンサーヴィス。
僕らの目の前には石川が来た。うーん、やっぱこれ興奮するね。いいね、こういうの。

  
L: 長居陸上競技場の中の様子。この後、バックスタンドもびっしりと埋まる大盛況となった。
C: ピッチに登場した日本代表の面々。やっぱり目の前に本物の選手が現れると興奮しますな。
R: ファンサーヴィスにやってきたFC東京の石川。個人的にはぜひ代表で活躍してほしい選手。

サッカー部監督として、試合前に選手たちはどのような最終調整をするのか特に注目していたのだが、
ふつうにパス練習と鳥かごだった。あとはジャンプしてからのダッシュくらい。
京都のウォーミングアップ(→2011.11.27)みたいな独特なことはやっていなかった。ちょっと残念。
その間も、キックオフに向けて着々と準備は進んでいく。アイスランド代表の皆さんの練習も見たが、
やっぱりボールの扱いが柔らかくて上手い。僕みたいなヘタクソとはボールの弾み方がぜんぜん違うもんなあ。

いよいよキックオフの時刻が近づき、両チームのスタメンが発表される。まずはアウェイのアイスランドからだが、
これがもうすげえのなんの。僕らはふだんアイスランド人って馴染みがないからよけいそう思えるんだろうけど、
とにかく名前が長い。そんでもってものすごく複雑。基本的には「○○○○ソン」という感じで「ソン」で終わるが、
その「ソン」に至るまでの経緯が舌を噛まずにはいられないくらいみんな複雑なのである。
これは後で調べてみて初めてきちんと知ったのだが、アイルランド人の名前には姓がなく、
ファーストネームの後ろに父親の名前を活用させたものをくっつけるからなのだ。
男は「~の息子」という意味の「ソン(son)」、女は「~の娘」という意味の「ドッティル(dóttir)」で終わる。
(説明を読みつつ、あーそういえばビョークの本名(ビョーク=グズムンズドッティル)はこのパターンだったな、と思い出す。)
例を挙げていくと、GKはハンネス=ソール=ハルドーソン、DFにはアルノール=スベイン=アーザルスティンソン、
MFにはソーラリン=インギ=バルディマルソン、FWにはグンナル=ヘイザル=ソルバルドソン。こんな感じ。
会場のアナウンスではまず日本語のアクセントで男性が読むのだが、ひとりひとりの選手の名前が読み上げられるたび、
周囲の観客はその複雑な響きに圧倒されるのであった。笑っちゃ失礼なんだけど、無理もない感じ。
そして男性に続いて女性の声で英語の発音で名前が呼ばれるのだが、もうこれが凄まじくいい声、いい発音なのだ!
ずっと聴いていたくなるくらい、いい。かっこよくって美しくって、結婚してほしいくらいのすばらしさ。
アイスランド人の名前はやたらと長くて複雑なことで、よけいにその見事な発音に聴き惚れてしまったわ。

  
L: 長居陸上競技場、日本側のゴール裏を眺める。  C: 両チームの選手が整列。日本代表のジャージは赤なのね。
R: いよいよキックオフ。僕は代表の新ユニフォームは嫌いだが、色じたいは好き。電光掲示板の「NAVY」って表示がいいね。

毎年、日本代表は初戦で苦しむという。Jリーグが開幕する前に組まれている試合ということで、
国内組のコンディションが上がらないため、そうなるらしい。そんな国内組オンリーの日本代表のスタメンは、
GKは西川、DF駒野、栗原、今野、槙野、MF遠藤(cap.)、増田、藤本、大久保、柏木、FW前田。
どっからどう見てもザッケローニが新戦力を見極めようとしている布陣である。それはそれで見応えがあるじゃん。
派手さはないが、通好みの試合だろう。もう本当にワクワクしながら19時20分のキックオフを迎える。

試合が始まってたったの2分、左サイドを大胆に攻め上がっていった槙野から中央へきれいな浮き球のパスが出る。
これに前田が頭で合わせて日本が先制。あまりにもあっけない。こんなに早くこんなにきれいに決まるなんて思っていなくて、
鮮やかに実現されたゴールに一瞬、茫然としてしまった。前田の得点能力の凄みをはっきりと見せつけられた。
海外組のいない親善試合とはいえ、これだけしっかりとしたゴールをすぐ目の前で見られるというのは最高の気分だ。

  
L: 前半2分、あっけなく日本が得点した場面の直前。この直後に槙野から出たパスに、手前にいる前田が難なく合わせた。
C: 駒野のシュート。日本は積極的に攻め込むが、アイスランドがしっかりと体を張った守備で抑える。
R: ザッケローニ監督。テストの意味合いが非常に強い試合だったこともあり、かなり冷静に戦局を見つめていた。

ところがこの後も日本が攻め続けるものの、アイスランドが集中した守備を見せ、決め手に欠く試合展開となる。
特に空回りしていたのが柏木。トップ下ということで目の前でプレーしていたので悪い点ばかり目についたのかもしれないが、
ボールを受ける位置が悪く、ボールを持ってからの判断も鈍く、攻撃が柏木で止まることが非常に多かった。
また左サイドでは大久保が槙野との相性が良くなかったのか、効果的なプレーができないままだった印象。
攻めきれない中、西川に安定感があったので怖くはなかったが、アイスランドが鋭いカウンターを仕掛けるシーンもチラホラ。
そんな感じで追加点を奪うことはできず、1-0のままハーフタイムを迎えた。

 
L: ハーフタイム、日本代表のマスコット・「カラッペ(兄)」と「カララ(弟)」がキリンの環境活動シンボル「エコジロー」とともに登場。
R: 八咫烏は足が3本なのだ。なんだか尻尾みたいな生え方をしているなあ。もう少しきちんと足っぽくしてほしかった。

後半に日本は柏木に代えて中村憲剛を、大久保に代えて田中順也を投入。中村憲剛はさすがの貫禄で、
遠藤とともに気の利いたパスで前線の動きを活性化させる。柏木と中村憲剛の差はかなりあるように感じられた。
そして53分、その中村憲剛から右サイドへ絶妙なスルーパスが出て、藤本が冷静にループ気味のシュートを決める。

ところが事態は意外な展開をする。後半から登場したアイスランドの7番、ステインソール=フレイル=ソルステインソン。
最初に彼が「それ」をやってみせたとき、僕はカメラのズームを調整していて、「それ」を直接見ることができなかった。
だが、スローインの場面で観客席がどよめいたことから、「まさか」と思った。スローインで客が盛り上がるといったら、
ものすごいロングスローか、「それ」しかない。まさか本当に「それ」をやるとは思えなかったが、いやしかし、この反応は。
そして再びボールがタッチラインを割り、7番がボールを手にする。彼はタッチラインからずいぶん距離をとってみせる。
次の瞬間、勢いよくボールを地面に叩き付けるようにしてそのまま体の上下を入れ替える。彼が起き上がると同時に、
ボールが飛んでいく。話でしか聞いたことのなかったハンドスプリングスローを、本当に目の前で見てしまった!

 
L: ハンドスプリングスローをしようとするソルステインソン。この間合いがやがてアイスランドを後押しするようになる。
R: ボールを投げる瞬間。完全に宙に浮いている! まさかハンドスプリングスローを超・目の前で見ることになるとは……。

ソルステインソンのハンドスプリングスローに、長居スタジアムは異様な盛り上がりをみせるようになる。
無理もない。日本代表は2-0でリードしていて余裕がある。ハンドスプリングスローは「曲芸」としてはもってこいだ。
冷静に考えれば、ハンドスプリングスローが見られるということは、相手ボールなのである。
しかも、ある程度日本のゴールに近い位置でのプレーである。つまり、日本が押し込まれている状況を意味するのだ。
ところが2-0という心理的余裕、テストマッチとしての意味合いの強さが、観客の期待を別の方向へと加速していく。
いつの間にか、観客たちはハンドスプリングスローを無意識のうちに要求していた。ボールが切れて、7番が手にすると、
ざわめきが生まれる。子どもは素直にハンドスプリングスロー、つまり日本の押し込まれている状況を喜びだす。
「空気読んでくれよ、7番!」という声なき声がスタジアム全体を包み、ソルステインソンは毎回それにきっちり応えてみせる。
(わざわざ逆サイドに走ってハンドスプリングスローを披露する場面も2回あった。バックスタンドも大満足だろう。)
しまいにはバレーボールのサーブよろしく「そーれっ!」という掛け声まで聞こえてくる始末。すっかり本末転倒してしまった。
とはいえ僕も、「アメリカ発祥」「筑波大学が一時期やっていた」という知識はいちおうあったものの(あったんですよ)、
実際のハンドスプリングスローを生で見るのは初めてのことなので、純粋にそれ自体に興奮していた。
確かに色物であることには違いない。しかし、このプレーによって会場の空気はすっかり変わっていたのだ。
本来ほぼ100%ホームを応援する雰囲気が、ハンドスプリングスローを期待する気持ちで完全に壊されていた。
直接得点にはつながらなかったが、「流れを変える」という意味で、ハンドスプリングスローは確かに成功していたのだ。

  
L: 何度もやってくれたんで、けっこう余裕を持ってハンドスプリングスローを撮影することができたのであった。
C: 確かに純粋に飛距離は出る。でも精度はどうしても甘くなる。現実にはロングスローの方が実用的だわ。
R: 逆サイドでもハンドスプリングスロー。流れを変えるためにこのプレーをやる、という戦術もなくはないかなあ。

しまった、これはテレビ中継を録画しておくんだった!と後悔する。
テレビではいったいどんなふうにこのハンドスプリングスローを扱っているのか、知りたくなった。
テレビカメラもわざわざソルステインソンの近くに寄って、その一挙手一投足をおさめようとしている。
リアルタイムの日本全国の反応が知りたかった。まあでも、生で目の前で見られたのがいちばん幸せだよな。

肝心の試合はすっかり背景へと追いやられてしまっていた感じ。79分には中村憲剛のFKを槙野が座ったまま押し込み、
日本が3-0とリードを広げる。もう、生観戦している人たちには最高の展開である。曲芸を何度も見られて、
日本代表のゴールも3回あった。言うことなしじゃないか、と。これは至高のエンタテインメント以外の何物でもない。
確かにアイスランドの守備を思うように破れない時間帯が長く、ハンドスプリングスローの影に隠れて、
実は日本が押し込まれているという状況はかなり多かった。きちんとしたサッカーの試合としては、
手放しでは喜ぶことのできない内容である。しかしライトな素人たちにしてみれば、これは完璧なエンタテインメントなのだ。
正直なところ、ハンドスプリングスローをめぐる考え方は、まじめにサッカーをやっている人ほど否定的になるだろう。
だが、サッカーが観客席を含めたスタジアムの空気によって内容が変化していくスポーツである以上、
ハンドスプリングスローがもたらした「流れを変えうる」という効果は正当に評価しなくてはいけないと僕は思う。
(ただし、「流れを微妙に変えうる」ということ以外の効果をそれほど期待できないのもまた事実だが。)

  
L: ハンドスプリングスロー祭り以降、日本代表のリズムは微妙に狂ってアイスランドが攻め込む場面が多くなった。
C: それでも日本は槙野のゴールで追加点を奪ってみせた。中村憲剛の実力をあらためて実感したなあ。
R: やはり遠藤のプレーは際立っていた。遠藤がボールを持つと、時間の流れ方が変わる感じがするのだ。

この試合は結局、最後まで変に見どころが満載なのであった。ロスタイムに入ってなんと、
槙野がペナルティエリアで相手を倒してPKを献上してしまう。これを決められて3-1。
これで今日の槙野は1ゴール1アシスト1PK献上。今日の長居は「ハンドスプリングスロー劇場」であると同時に、
「槙野劇場」でもあった。なんともド派手な試合で、メインスタンドでわざわざ観戦した価値は十分にあった。

 アチャー。

単なる二番手の選手たちのテスト、ハンドスプリングスローがぜんぶを持っていったお寒い内容、
そんな評価を下す人がけっこう多い試合だったのかもしれない。でも、それはとてもサッカーらしい、
サッカーの確かな真実の一面をとことんまで露わにした試合と表現することもできると思う。
僕はそれを素直に楽しむ余裕を持ちたいと思うし、また存分に楽しませてもらった。それでいいじゃないか。

 試合が終わり、選手たちがスタジアムを一周する。

初めての日本代表の試合観戦は、一生忘れることのできない強烈なものとなった。
快速の止まらない長居駅でがまん強く列車を待ち、天王寺まで揺られる。
天王寺駅で途中下車しても、長居で観客全員に配られた青い袋をさげている人はいっぱいいて、
みんなそれぞれに感動を共有していたのだと思うと、なんとなく感傷的になってしまった。

天王寺でメシを食うと、和田岬行きの切符はとりあえずしまっておいて、JR難波へ。
途中までは大阪環状線と並んで走るが、今宮を過ぎて分岐し、地下に潜る。
JR難波はいかにも大規模に開発していたものを途中で止めている、そんな印象の駅だった。
そこからアメリカ村方面へしばらく歩いて本日の宿へ。いや本当に長い一日がようやく終わった。


2012.2.23 (Thu.)

夜になって東京駅へ移動。先週の金曜日には雪が舞っていたが、今日は特に寒くもなくいいコンディション。
それにしても、前回東京駅から夜行バスに乗ってまだ1週間も経っていないのに、同じように夜行バスに乗る。
変な感じがする。でもたまにはいいじゃねえか、と開き直る。4月からはこんな自由、たぶんない。

ついこないだの大和(→2012.2.18)・伊賀(→2012.2.19)に続いて、今度は関西。実に贅沢なもんである。
もちろん費用はきちんと抑えるだけ抑えての旅行だが、シチュエーションが贅沢すぎて変な感じがするのだ。
旅が始まったらそれどころじゃなくなるので、今はこの変な感じをしっかりと認識しておくことにする。
これは贅沢なことなのだ、その分だけきちんと見聞を広めてこなくてはいけないのだ、と自分に言い聞かせる。
そうすることが良心だと信じて、目を閉じる。すいません、行ってきます。しっかり勉強してきます。


2012.2.22 (Wed.)

「3年生を送る会」で3学年担当の教員にまつわるクイズをやるんだそうで(モノマネもやるとか。恥ずかしいよ!)。
そんでもって僕が市役所マニアというのは全校に知れ渡っているので、市役所に関するクイズをつくるんだそうで。
それで「マツシマ先生の一番好きな市役所はどこですか?」と訊かれたのだが、これが本当に答えに困ってしまった。

あらためてきちんと考えてみたのだが、県庁についてははっきりと答えが出る。丹下健三の香川県庁(→2007.10.6)だ。
東京23区の区役所もわりとすんなり答えが出る。村野藤吾の目黒区役所(旧千代田生命本社 →2007.6.20)だ。
ところが市役所となるとめちゃくちゃ難しい。今まで見た市役所の中でベストを選べと言われても、出てこないのである。
そもそも「市」となると中学生の知識だと県庁所在地、それもメジャーな街に限定しないと答えが出ないだろうから、
「3年生を送る会」向けの答えとしては、まあだいたい政令指定都市の中で選ぶことになるだろう。
でも、ベストというには苦しい。威厳を感じさせるという点では、武田五一と中野進一の京都市役所(→2010.3.26)か。
戦後の洗練されたモダニズムの香りを漂わせるという点では、村野藤吾の横浜市役所か(→2010.3.22)。
このどっちかかな、とは思うのだが、正直どちらもなんとなく決定打に欠けるのである。生意気で申し訳ないけど。

きちんと自分の中の「ベスト市役所」を無条件で選ぶとしたらどこになるのか。これはもう、本当に難しい。
個人的な希望としては、すごくセンスのいいモダニズム建築を推したいのだが、なかなかツボにはまるものがない。
コンクリートだけじゃイヤで、ガラスを上手く使ってほしい、という気持ちがある。そうなると、なかなか思いつかない。
でもそれはつまり、僕の市役所知識がまだまだ乏しいということなのだろう。たぶん単純に、僕の修行が足りないのだ。
ヤケクソになって飯田市役所、というのは避けたい(嫌いではない。念のため。ただ、それに勝つ市役所を訪れたいのだ)。
できれば近代ではなく現代の建築で、住民に開いていて、なおかつ来訪者を魅了する美しさをきちんと持った市役所。
いろいろきちんと勉強しないと、僕はきっとそれを見つけることはできないだろう。受け手の僕が鋭くないといけない。
訊かれたことはすごく単純なことだったんだけど、自分にとっては非常に厳しくて、でもありがたい質問だった。


2012.2.21 (Tue.)

図書館で新しく本を購入するということで、ひそかに僕のオススメの本をいくつか推薦しておいた。
そしたらけっこう聞き入れられたので、かなりうれしかった。図書館にあれば授業の中でも紹介しやすいし。
過去ログで扱った中で(⇒reference/books)、子どもにもすんなり読めそうなものをあれこれ見繕った結果、
文庫や新書が大半を占めることとなった。図書館の本はハードカヴァーじゃないともったいない気分がしてしまうが、
まあこれは僕の経済的な状況がどうしても反映されるからしょうがない。もっとじゃんじゃん読んで紹介しまくりたいもんだ。


2012.2.20 (Mon.)

卒業文集で生徒が先生の似顔絵を描くコーナーがあるのだが、オレの顔は描きづらいと文句を言われた。
特徴のないつまんない顔で申し訳ありませんな、と思ったのだが、それとともに思い出したことがある。

昔、HQSの名簿の表紙に同期連中の似顔絵を描いたことがあるのだが、圧倒的にみやもりが描きづらかった。
ウチの同期ではイケメン様として知られるみやもりだけが描きづらい。つまりイケメンは描きづらいのだ、と結論づけた。
だからといって描きやすいからブサイク、というわけではないだろうけど、顔の中の非イケメン的要素が、
描くうえでのポイント・手がかりとなる点は否定できない。カリカチュアライズのしやすさ、と言ってもいいかもしれない。
イケメンにはそれが少ないので、「つかまえにくい」のである。実際に描いた経験のある人にはわかってもらえると思う。

大学時代の僕はメガネをかけていたので、そこを軸にしていけば特に苦労することなく自分を描くことができた。
でも今の僕はメガネをしていないので、確かにとっかかりとしては難しいところがある。似ている印象がなかなか残せない。
これは上記の図式で言えば、僕はメガネをはずすことで晴れてイケメン様の仲間入りを果たした、
という論理展開になってしまうが、僕自身は自分のツラを別にどーでもいい無個性なツラだと思っている。
むしろ、手軽に自分の顔をキャラクターとして描けなくなったことを、内心残念に思っているくらいだ。


2012.2.19 (Sun.)

奈良盆地から伊賀へと抜ける今回の旅行、2日目はいよいよ伊賀に突入なのである。
が、その前にいろいろと寄っておかなくちゃもったいない場所がある。せっかく橿原に泊まったからには、
やはり朝のうちに今井町(→2010.3.29)の空間をもう一度味わっておかなければ非常にもったいない。
というわけで、早起きして宿を出ると、まずは昨日の晩飯のときと同じルートで今井町へと向かうのだ。

その際、ついでといっては失礼だが、宿のある八木の街並みを撮影しながら畝傍駅方面まで出る。
特に観光地として有名なわけではないのだが、古い木造住宅がよく残っていて、しかもきれいで、見応えがある。
日本にはまだまだ僕のまったく知らないすばらしい情景がいっぱいあるのだ。そう思わされる。

 
L,R: 八木の街並み。歴史のある土地であることを実感させられる光景である。

近鉄のガードを抜けて川を渡って今井町へ。早朝すぎて、人の気配はそんなにない。
犬を散歩させている住民の皆さんがたまに行く手の先を横切っていくくらいである。
今井町を訪れるのは2回目だが、相変わらずの強烈な空間である。歴史と現代の融合が美しいのだ。
ただ古い建物が残っているというだけではなくて、厚みのある街並みとして成立しているというだけではなくて、
ひとつひとつの家々に生活感があるのがいいのだ。やはりここは特別な場所だと思う。

  
L: 今井町を行く。ここの価値は古い建物以上に、空間の構成それ自体にある。見るだけでなく身体で体験することに意義がある。
C: 今西家住宅を前回とは違う角度から。  R: 中橋家住宅。ひとつひとつの住宅が集まり、今井町を特別な場所にしているのだ。

 あらためて撮影した今井まちなみ交流センター「華甍」(旧高市郡教育博物館)。

帰りにさらっと橿原市役所を撮影。前に撮影したとき(→2010.3.29)とは異なる角度にしてみた。
あらためてじっくり眺めると、基本は典型的な1960年代庁舎なんだけど、コアをかぶせるように補強がしてある感じ。
そう思って橿原市のホームページで調べてみたら、1961年の竣工で1981年に改修をしたとのこと。
たくさん建物を見ていくと、なんとなくわかるようになるんだなあ、と自分で自分に呆れるのであった。

 
L: 橿原市役所。1960年代庁舎を増築して塗り直した感じが強く漂うでしょ。  R: 橿原市役所の裏側。こっちは60年代全開。

今井町を存分に堪能すると、大和八木駅から近鉄で東へ。昨日は長谷寺までだったが、今日はさらにその先へ行く。
榛原(はいばら)駅でいったん降りると、トボトボと市役所目指して歩きだす。近くに宇陀市役所があるのだ。
宇陀市は2006年に大宇陀町・菟田野町・榛原町・室生村の合併で誕生。宇陀市役所はもともと旧榛原町役場だ。
竣工したのは2003年のことで、合併後に市庁舎にすることを狙って建てたんじゃないかって気もする。
駐車場やオープンスペースで距離が確保され、電線もなく、周囲にジャマになる建物もなく、実に撮影しやすい。

  
L: 宇陀市役所。なんか、ロボットっぽいな。  C: 正面より撮影したところ。
R: オープンスペースはそれなりに凝っているけど、あんまり人が訪れてうれしい感じではない印象。

榛原駅まで戻ると、ミスドで一服。地元のじいちゃんばあちゃんの憩いの場として機能しているようだった。
それにしても、榛原駅は規模はそれほど大きくないものの、ミスドが入っていることもそうだが、
ずいぶんときれいで立派に整備されている。近くには背の高いマンションが建っており、
近鉄も開発に力を入れている場所なのだろう。そして特に、駅前バスターミナルの充実ぶりがすごい。
さっき榛原駅前に出たときに、「高見山行きのバスはこちらです」と案内されたのだが、
なるほどこれから山に登ろうという恰好をした人たちがけっこういるのだ。ハイキングの拠点のようだ。
また駅から南へ進んでいった先には重要伝統的建造物群保存地区の宇陀松山(大宇陀)がある。
ぜひいつか訪れてみたいものだと思いつつドーナツを平らげると、切符を買ってホームへ。

室生口大野駅で再び降りる。その名前からわかるとおり、この駅は「女人高野」こと室生寺の最寄駅だ。
といっても駅から室生寺まではけっこうな距離があり、多くの観光客は路線バスのお世話になる。
この近辺は大学生の合宿地になっているのか、何部なのかはよくわからないが、
京大やら阪大やらとローマ字で書かれたウィンドブレーカーを着ている学生たちがチラホラ。
そんな彼らの背中を眺めつつ、停車している室生寺行きの路線バスに乗り込む。本日の始発なのだ。
僕以外にも観光客はけっこういて、ざっと20名ほどが乗り込んでバスは出発。全員が終点の室生寺まで行った。

室生寺というといまだに僕の頭の中には国宝の五重塔が台風でやられたというニュースが浮かんでくるのだが、
それは1998年の話で、その頃に生まれた連中にいま英語を教えているくらい、もう時間が経過している。
復旧工事は10年以上前に終わっていて、今は何ごともなかったかのように美しい姿を見せているという。
バスを降りると相変わらずの早足で室生川沿いの参道を進んでいくが、さすがに昨日の雪がアイスバーンになっていて、
油断すると大胆に滑ってけっこう危ない。でも今日の日差しは春の近さを感じさせる陽気で、少しも気にならない。
土産物や旅館が並ぶ参道は思ったよりも長く(でも規模としてはまったく大きいとは言えないレヴェルだ)、
しばらく歩いた先の左手にようやく入口があり、太鼓橋を渡って右岸の室生寺側へとたどり着いた。

さて、運のいいことに、先日のNHK『歴史秘話ヒストリア』で、桂昌院にスポットを当てた回を見た。
八百屋の娘から将軍(綱吉)の母親にまで昇り詰めた、日本の歴史上最高の玉の輿に乗ったと言われる女性である。
(桂昌院の本名が「お玉」であることから「玉の輿」という言葉が生まれた、という説もあるくらいだ。)
桂昌院は自分が祈願する寺として文京区にある護国寺を建てるほど、仏教に傾倒していたという。
そしてこの室生寺に優れた建築が残っているのは、修理代をたっぷり出した彼女のおかげでもあるのだ。
室生寺を訪れてみると、なるほどあちこちで桂昌院がまず養女となった本庄家の家紋「繋ぎ九つ目紋」を見かけた。
中には「繋ぎ九つ目紋」と葵の御紋が左右で合体しているものまで見かけた。そういう知識をきちんと得たうえで、
有名な観光地を訪れるというのは久々のことなので、よりいっそう室生寺が魅力的に映った。
(ちなみにホームページを見るに、護国寺も「繋ぎ九つ目紋」を使用しているようだ。)

仁王門を抜けると鎧坂。いつもなら何も考えずにホイホイと石段を上っていくところだが、
なんせ周囲の地面にはしっかりと雪が残っている状況。少し慎重な足取りで先へと進んでいく。
石段は一段一段、箒で雪が払われていたのだが、参道でさんざん滑っているので油断はできないのだ。
そうして鎧坂を上がりきると、目の前に平安時代の築である金堂が現れる。建物としてはやや素朴だが、
鎌倉期より古い木材特有の味わいと相まって、すばらしい存在感の塊となってこっちに押し寄せてくる感じ。
左手の弥勒堂も見事だが、やはり敷地の特性を生かしつつ豪快に建てられた金堂の迫力は別格だ。

  
L: 仁王門。ここからいよいよ、いかにも山と寺が一体化した世界が始まるのだ。
C: 鎧坂を上がると現れる金堂。参拝者はまずこの迫力に圧倒されるわけだ。  R: 金堂から眺める弥勒堂。

さらに石段を上って先へ進むと本堂(灌頂堂)である。金堂はいきなり下から見上げる構成にすることで、
参拝者に対し有無を言わせぬ圧力をかけていたのだが、本堂は高低差が少なく、訪れる際に正面に向き直る形になる。
つまり、参拝者に心の準備をさせてから対面するわけだ。室生寺は境内の敷地は狭くとも、空間的な工夫に満ちている。
そして正々堂々と端整な姿を見せる本堂と向き合った瞬間、なんとも言えない清々しい気持ちにさせられてしまうのだ。
この金堂と本堂の対比は実に見事で、その緻密な計算ぶりにはただ舌を巻くしかない。

 室生寺の本堂。「端整」としか言いようのない姿だ。

本堂ではちょうど曼荼羅と五重塔の秘仏・五智如来を特別に公開していたので、別料金で拝観。
靴を脱ぐと、冬の木の床のひんやりとした空気。これこそ、この地に寺を構えた理由だろう。足の裏で味わう。
五智如来は五重塔が上述の台風でぶっ壊れた際の修理で存在が明らかになった物で、ピッカピカに光っていた。
そして胎蔵界と金剛界の両界曼荼羅をじっと眺めて、曼荼羅は密教の世界観、つまりは想像力そのものだと再認識。

本堂を後にすると、さらに脇の石段へ。すると石段の先に五重塔が現れた。これまた、工夫に満ちている。
石段のまっすぐ先にある五重塔は、明らかに逓減率が低い(上の階に行っても屋根があまり小さくならない)。
つまりこの五重塔は、石段の下から見上げることを意識しているのだ。下から見上げた後で、同じ高さで見つめ、
そしてまた下から見上げる。目の前に現れる建物たちは、それぞれに完璧に役割を果たしている。
仏教寺院の建物の配置(伽藍)は仏教の世界観の再現そのものだが(→2010.3.282010.3.29)、
山という空間的な制約を受けつつも、それをむしろ効果的に活用する知恵が室生寺にはあふれている。
女人禁制の高野山とは対照的に室生寺は女性を受け入れて「女人高野」と呼ばれたが、それはやはり、
空間構成の巧みさゆえにもたらされた名誉ある称号だろう。時を越えて女性たちに愛された密教テーマパークなのだ。

  
L: 石段の下から眺めた五重塔。石段とつながって見えるのだ。  C: 石段より五重塔を見上げる。これは本当に美しい光景だ!
R: 奥の院へと向かう石段を挟んで撮影。屋根の逓減率の関係か、下から見上げたときほどは美しくない。カメラの影響もあるかも。

ちなみにWikipediaによれば、この五重塔は800年頃の建立で、日本で2番目に古い五重塔だそうだ(最古は法隆寺)。
そして国宝・重要文化財で屋外建造物としての五重塔では日本最小とのこと。やはり特別な存在なのだ。
さすがにこの五重塔は大人気で、裏手にまわると高級そうなカメラを三脚にセットした皆様が必死で撮影していた。
僕も一緒に同じような構図で撮影してみたのだが、どうもなんとなく変な感じがする(右端の画像)。
結局、屋根の逓減率が低いので、そのまま側面を撮影すると、広角のせいかゆがんでいる印象になってしまうのだ。
室生寺の五重塔は素直に下から見上げ、その小ささからは信じられないほど満ちている威厳を味わうのが一番だ。

五重塔の脇の石段を上がっていくと、すぐに下りになる。「室生山暖地羊歯群落」と彫ってある石碑が目に入る。
そのまま山道を進んでいくと、奥の院へと至る石段に出る。これがけっこう長くて高く、高所恐怖症には厳しい。
先ほどの鎧坂同様に箒で雪を払ってあるのだが、石段はやや急で、非常に足下がおぼつかない感覚になるのだ。
やがて行く手には常燈堂の見事な懸造が現れる。室生寺の「見上げる角度」は、ここでクライマックスを迎えるのだ。
奥の院にたどり着くと常燈堂でお参り。向かいの御影堂(みえいどう)が重要文化財だったのだが、
気づかず撮影し忘れるというボーンヘッドをやらかしたのであった。うーん、もったいない。

 
L: 奥の院への石段。行く手を塞いでいるのは常燈堂。室生寺の建築群を見上げ続けたけど、ここが究極ですかね。
R: 常燈堂。ちなみに室生寺は、お堂ごとに御守など扱っている品々がけっこう違っていた。注意が必要かもしれん。

帰りの石段は本当に怖かった。一歩一歩を踏みしめながら下りていく。石畳から土の道になり、ようやくほっとした。
五重塔、本堂、弥勒堂に金堂と、ひとつひとつの建物を振り返りながら下山していく。観光客が少し増えており、
冬の室生寺もけっこう人気があるんだなあ、と思うのであった。仁王門をくぐり太鼓橋を渡り、ようやく現実に戻った。

復路は参道も日が当たるようになっており、往路に比べればだいぶ歩きやすくなっていた。
室生川を覗き込むようにしながら、バス停までのんびり歩く。雪解け水をたたえた川は美しく透き通っており、
女人高野という言葉から想像される清らかさに似つかわしいな、なんて思った。

 室生川と参道沿いの土産物店たちを眺める。

程なくしてバスがやってきた。それなりの量の観光客を乗せて室生川沿いに下っていく。
室生口大野駅に到着すると、切符を買ってホームへ。室生寺参拝は非常に有意義な経験だった。
やってきた列車に乗って、さらに東へ。山を抜けるとそこははっきりと人里。
大和と伊賀の境目は、険しい山という印象はあまりなく、思っていたよりもずっと穏やかな風景だった。

そうして列車はスムーズに名張駅に到着した。室生寺の次は名張市の街歩きなのである。
しかし困ったことに、西と東、どっちに出ればいいのかわからない。旧市街は西口方面だが、市役所は東口方面。
こういうときは観光案内所がある方に出ればいいのだが、それもどっちにあるのかよくわからない。
とりあえず旧市街側の西口に出て、駅前のロータリー的な空間をふらついてみる。
と、けっこう先まで進んだところに観光案内所を発見。中に入ってレンタサイクルがないか訊いてみる。
そしたら困ったことに、歩いて15分ほどかかる旧細川邸「やなせ宿」まで行かないとない、とのこと。
ほかに選択肢がないので予約を入れてもらい、荷物をコインロッカーに預けて歩きだす。なかなか幸先がよろしくない。

名張の旧市街は基本的には格子状になっているのだが、名張川に近づくと角度が変わってわかりづらくなる。
また、土地の高低差が予想以上にあって、名張藤堂家邸・名張小学校を頂点に意外な上り下りをすることになった。
歩いていていちばん驚いたのは、やたらめったら車が通ることだ。それほど広くない道に車がどんどん現れる。
名張の旧市街は比較的、かつてのスケール感をよく残している。昭和を感じさせる店や家がとにかく多い。
そこを遠慮なく車が行き来するので、歩行者としてはかなり歩きづらい。車の多さには本当に呆れた。
ようやく「やなせ宿」に到着すると、レンタサイクルの申し込み。後払いで400円である。
名張は市街地にこれといった名所がないので、滞在時間は少なめに設定しておいた。
その分、気合を入れて旧市街地を走りまわり、さらに郊外の市役所まで訪問しなくちゃいけないのだ。
名張川沿いの道の複雑さに辟易しながらどうにか国道165号に出ると、そのまま一気に名張市役所を目指す。

国道165号は完全に郊外社会なのであった。ロードサイド店舗と無数の車が景観を構成している。
そんな場所に名張市役所はある。かつては名張藤堂家邸のすぐ近く、今の名張市総合福祉センター「ふれあい」
の位置にあったそうだが、1987年に現在地に移転したのだ。おかげでこっちはすっかりいい運動をさせられる破目になった。
名張市役所はそんな広い土地の恩恵をたっぷり受けて、実に平べったい。オープンスペースもたっぷり。
裏手にはとっても広い駐車場がある。本当に贅沢な土地の使いっぷりで、ここまでくるとすがすがしい。

  
L: 名張市役所。1987年の竣工。  C: 敷地内のオープンスペースより撮影。高台の広大な土地に建つ。
R: 裏手の駐車場から撮影。レンタサイクルがなかったらどうなっていたか、という広さ。

時刻はちょうど昼メシ時で、腹は猛烈に減っているし旧市街じゃメシは期待できそうにないしで、
そのまま市役所のすぐ近くにある讃岐うどん屋に入るのであった。せっかく伊賀に来て讃岐うどんとは虚しいが、
こういう旅の矛盾は往々にして発生するものなのだ。勢いよく釜玉食って再びペダルをこぎだす。

市役所のある高台から一気に下って再び旧市街へ。特に個性のない郊外社会から旧市街に入ると、
やはりそれはそれでしっかりと特徴が感じられて面白い。さっき昭和を感じさせる店や家がとにかく多いと書いたが、
名張の旧市街には今も昭和の空気が色濃く残っているのである。だがそれは、「取り残された街」ということだ。
山に囲まれた伊賀国という場所で賑わってきた名張は、高度経済成長を経ても市街地に大規模な産業を持たなかった。
(海に面して、あるいは他都市と連結して、都市たちは工業化した。でも伊賀国は、ほぼ陸の孤島となってしまった。)
つまり名張には空間的な大きな改変がなかった。名張の街が近世の構造を残す一方、住民の生活は近代化していく。
かつての中心であった名張藤堂家邸と旧名張市役所の近くには、サンロードというかなり短いアーケード商店街がある。
この短いアーケードの存在は、江戸期以来の商店街がそのまま空間構造を変えずに「戦後化」した痕跡だろう。
今、サンロードは廃墟のオブジェとなっている。そして生活の近代化だけが進みきった結果が、さっきの国道165号だ。
名張の旧市街は市民からも、さらには市役所からも取り残されて、ただの車の狭苦しい通路になり果ててしまったのだ。
まるで抜け殻のように、容器としての空間構造だけが名張の旧市街には残っている。
でもその容器の中を埋めるべき生活は、今やすっかり変化を遂げて郊外に適応したものとなっている。
近世の空間と現代の生活。この空間と生活のズレが、名張の旧市街にははっきりと現れているわけだ。
両者のズレがもたらす違和感を形容するため、変化への矛盾に満ちた時間であった「昭和」という表現を、僕は使った。
時代の変化から取り残された名張という街が示唆するものは、日本の現代史を考えるうえで、とても大きいはずだ。

  
L: 名張における近世の空間構造と、その中を生きる現代の生活とのギャップがもたらす違和感。ここも車がガンガン通る。
C: サンロード。城下町(城ではないが)の商人町がそのままアーケードの商店街となり、そのまま風化した。これはその化石だ。
R: 古い木造建築の比率はそれほど高くない。そのおかげで、時間に対する空間の「遅れ」がはっきり視覚化されている。

難しい表現で書いてきたけど、要するに、名張は奥まった土地であるがゆえに、空間が大規模に開発されなかった。
非常にゆったりとした新陳代謝(建て替え)をしただけだった。でもそこを生きる人間の生活は大規模に変化してきた。
日本全国では、昭和時代に空間も生活も一気に郊外社会化(クルマ社会化など)する変化をしたが、
名張では生活だけが変化したわけだ。結果、名張の街は空間がまだゆったり新陳代謝を続けている状態になっていて、
つまりそれが「昭和時代の匂い」「取り残された街」という印象や質感になって現れているのだ。
でも生活だけは郊外社会化しているので、昭和の街並みの中を猛烈に車が通るというズレが発生している。
その違和感、人間で言えば成長痛のような状態もまた、昭和という時代特有の矛盾だ、と僕はまとめて表現したわけだ。

「やなせ宿」でレンタサイクルを返却すると、駅へ向かう。途中に名張藤堂家邸があるので、急いで中を見てまわった。
名張藤堂家邸は本来、道を挟んだ隣の名張小学校まで敷地にしていたほどの広さがあったらしいのだが、
現存しているのはごくふつうの住宅と変わらない範囲だけになってしまっている。ずいぶんと規模が小さくなってしまった。
しかしながら、ところどころに施されている飾り(特に絵)はなかなか見事で、さすがは藤堂高虎の系統である。
名張の旧市街には本当に観光名所がないなあ、とこっちまで悲しい気分になりつつ、名張藤堂家邸を後にした。

 
L: 名張藤堂家邸。かつての名張はこの屋敷を中心にした城下町だったのだが、今やただの住宅。
R: 中はなかなか立派なのだが、正直なところ、観光資源としては貧弱と言わざるをえない……。

走って名張駅に滑り込む。伊賀神戸(いがかんべ)で伊賀鉄道に乗り換えて、目指すは上野市じゃなかった伊賀市。
かつての上野市は、平成の大合併を経て伊賀市という名前になっているのだ。個人的には残念である。

その伊賀市を南北に走って近鉄とJRの関西本線をつないでいるのが、伊賀鉄道だ。
もともとは近鉄の一路線だったのだが、第三セクター化した旧国鉄路線と同じ感じで伊賀鉄道となったのだ。
さて、伊賀鉄道の名物といえば、なんといっても松本零士デザインの忍者列車である。
列車の前面と側面には忍者の顔(というか目)が大胆に描かれており、とてつもないインパクトなのだ。
もし僕が子どもだったらけっこうなトラウマになっているんじゃないか、というくらいの迫力がある。

  
L: 伊賀鉄道の忍者列車。この目のインパクトは蝶の蛇の目や田んぼの鳥除けに近いものがあるなあ。
C: 側面にも目が描かれている。うわー。  R: 車両にはちゃんと、松本零士によるサインがあったよ。

とりあえず伊賀神戸から上野市まで乗ったのだが、伊賀鉄道は経営が成り立つとは思えないド田舎を行く。
ほとんどの駅の周囲はひたすら田んぼ・池・森・川ばかりなのである。JRならほかの路線があるからいいけど、
伊賀鉄道はこれ一本だけだからまともな経営ができているとは到底思えない。世界は広い。

上野市駅に到着すると、まずは観光案内所へ行ってレンタサイクルについて問い合わせ。
駅前の自転車屋が貸してくれるということで、あっさりと解決したのであった。よかったよかった。
あ、そうだ。すっかり説明を忘れていたが、合併して伊賀市となったものの、駅名は今も「上野市駅」なのだ。
伊賀鉄道は駅名を変える気はさらさらないようだ。まあ、経営が厳しいし、よけいな費用は出せないのだろう。

  
L: 伊賀市になったけど上野市駅。伊賀鉄道の駅の中で、きちんと駅の形になっているのは非常に少ない……。
C: 駅前にはこの地出身の松尾芭蕉の像がある。『おくのほそ道』は伊賀忍者の流れをくむ芭蕉の隠密旅行なんて説もある。
R: 駅前の上野市産業会館。要するにバスターミナルなのだが、地方都市らしく老朽化しまくって痛々しい雰囲気だった。

踏切を越えて北に出ると、すぐにコンクリートの「ちょっと違う」感じが漂う建物が目に入る。伊賀市役所だ。
かつて上野市役所といったこの建物は、メインの南庁舎が1964年、旧三重県上野総合庁舎の北庁舎が1963年、
両者に挟まれている伊賀市中央公民館(旧上野市公民館)が1960年の竣工で、どれも坂倉準三の設計だ。
残念ながら、現在は新庁舎の建設のために取り壊しが進められている状況である。
調べてみたところ、DOCOMOMO Japanが取り壊しに反対する活動を行い、伊賀市側もそれに応じた形跡があるのだが、
結局は取り壊しとなったようだ。ネットで追いかけた限りでは、この経緯が非常に複雑でぜんぜん全容が見えてこない。
最悪なのが新庁舎の設計者決定過程で、あろうことかプロポーザルを中止しての競争入札なのだ。
それで選ばれた日建設計の設計案が救いがたいセンスの悪さで、坂倉建築をぶっつぶしてコレ!?と絶叫してしまった。
伊賀市の住民たちは、将来自分たちの文化レヴェルの低さが物笑いの種になることを覚悟しておく必要がある。
大げさではなく、それほどの愚行であることは間違いない。

  
L: 伊賀市役所南庁舎。「坂倉準三設計の上野市役所」と言ったほうがわかりやすいのかもしれない。
C: 正面より撮影。さすがの端整なたたずまいである。  R: 裏手はこんな感じ。やっぱり、ただものではない。

 右手が伊賀市役所の北庁舎。

伊賀市役所の撮影を終えると、勢いよく東へとペダルをこぎだす。伊賀国一宮・敢國(あえくに)神社を目指すのだ。
バスで行くというアイデアもあったのだが、旅先の空気を肌で感じるならやはりレンタサイクルなのだ。
案の定、市街地とはそれなりの高低差があったのだが、のんびりとした光景の中を走るのはなかなか悪くない。

 三重県道676号にて。ホントに農村地帯だぜ。

三重県はなんでもなんでも県道にしたがるらしく、敢國神社へと通じる道は三重県道676号となっている。
しかしこれが県道という響きから想像するにはあまりにもローカルすぎる道で、ただの道と変わらない。
そこを当初乗る予定だったバスがふらふら走り抜けていく光景は、少し違和感があった。

そんなこんなで無事に敢國神社に到着。阿部、安倍、安部、阿倍、「あべ」姓の氏神とされる由緒ある神社だが、
訪れてみるとちょっとだけ豪華な感触のする農村集落の神社、という印象なのであった。
舗装された表参道と舗装されていない裏参道が平行に走り、敢國神社の境内はその奥にある。珍しい横参道だ。
摂社・末社は裏参道に面しており、境内はかなりコンパクト。空間構成としてはかなり特殊な神社である。

  
L: 敢國神社の表参道。緩い坂を上っていった奥の左手に鳥居がある。  C: その鳥居。横参道にしても珍しい。
R: 鳥居をくぐって境内へ。拝殿は一段高いところにあるが、裏参道はこの拝殿とだいたい同じ高さになっている。

周辺の空間を大規模に改造していないところに、敢國神社の歴史が感じられる。
決して派手な要素はないのだけど、コツコツやってきた、そんな感じだ。参拝客は絶えずパラパラ来ていた。
まさか、あそこにいた参拝客たちの名字がみんな「あべ」さんだってことはないよな。

敢國神社からの帰りも同じルートを行く。やはり途中でバスに抜かれた。国道163号に戻って坂を上がって、
伊賀市役所前へと戻る。途中で松尾芭蕉が幼少期を過ごしたという「芭蕉翁生家」があったけど、
古い木造の建物で残っていて、なかなか雰囲気がありそうだった。しかし伊賀上野の芭蕉愛はすごいな。

 芭蕉翁生家。表札に「松尾」ってあったけど、ホントか? 子孫が住んでるの?

市役所と一宮というお決まりのパターンを済ませたので、ここからはいかにも観光客的な行動をとるのだ。
伊賀上野といったらなんといっても上野城ということになると思う。市役所の裏手から山を軽く登るのだが、
行けるところまで自転車で突撃。基本的に車も入れないし歩きで来るところなので、自転車だと位置がわからない。
テキトーに駐輪して上野城を目指して歩きに切り替える。と、少し下ったところに天守を発見。

上野城の天守は1935年に地元の政治家・川崎克が私財を投じて建てたもので、正式名を「伊賀文化産業城」という。
かつて上野城は藤堂高虎により5層の天守が建てられようとしていたのだが、完成直前に嵐によって倒壊してしまう。
したがって今の上野城はその天守を再現したものではないものの、無事に完成したという点ではこれが初代天守なのだ。
実際に中に入ってみたのだが、木造でそれなりにきちんと城の雰囲気を再現しながら建てられており、決して悪くない。
むしろこれはこれで、新しい文化的な価値がついているように思える。それくらいよくできている。

  
L: 上野城の模擬天守。木造できちんとつくってあり、これはこれで貴重な建築物であることは間違いない。
C: 天守の最上階。城らしい雰囲気と「見せる」場所である特徴をうまく兼ね備えており、居心地がいい。
R: 最上階より眺めた伊賀上野の街並み。こうして見ると、伊賀上野も元気いっぱいな印象なのだが。

上野城といえば高石垣なんだそうで、「日本で一、ニを争う高さ」と看板が出ていた。なんだその微妙な表現は。
素直に日本一と書けないところがもどかしい(日本一の高石垣は大阪城)。とはいえ、しっかり29.7mもあり、
その上に立ってみると、これがもう、キンタマが縮み上がるどころの騒ぎじゃないくらいの凄まじい怖さなのだ。
昨日の雪で土が濡れていて、高所恐怖症は一番上でつるっと滑るんじゃないかという妄想をしてしまうものだ。
石垣の上には柵も何もないところがまた恐ろしい。風もあるし。冷や汗でカメラが滑りそうになるくらいだった。

上野城の天守から、自転車を置いておいた場所へと戻る。その途中に、何やら怪しげな建物を発見。
「俳聖殿」とあり、これはもう松尾芭蕉を祀る建物に決まっているのだが、うーん、なんだかいやらしい形だ。
調べてみたら松尾芭蕉生誕300年を記念して伊東忠太の設計により1942年に建てられた建物だった。
2年前に重要文化財に指定されている。伊東忠太設計の重要文化財をつかまえて「いやらしい」とは……。
われながらいいかげんなものだ。……まあでも、こりゃやっぱいやらしいでしょ。ち○ぽじゃ、ち○ぽ。

その先には伊賀流忍者博物館。中にある忍者屋敷では、忍者の恰好をしたガイドさんが実践しながら、
忍者屋敷の仕掛けを紹介してくれるそうだ。それってつまり、家族連れ向けってことなのだろう。
いい歳こいたお一人様の僕としては、あまりうれしくないスタイルである。というわけで、パス。
誰かもう一人一緒だったら、迷わず入ったんだけどね。まあ、今後の課題ということにしておきましょう。

  
L: 後で堀を挟んで撮影した高石垣。上から見下ろすと、もう、怖いなんてもんじゃない。拷問以外の何物でもない。
C: 俳聖殿。伊東忠太先生、この形、なんとかならないの?  R: 伊賀流忍者博物館。お一人様にはキツいかなあ……。

ちなみに堀を挟んで高石垣を撮影しようと四苦八苦していたら、高低差の激しい住宅地の中に、
擬洋風建築の旧小田小学校本館を発見。実に1881(明治14)年の竣工であり、当時の誇りが偲ばれる。

 旧小田小学校本館。三重県最古の校舎建築だ。

あとは伊賀市内をちょろちょろとまわってみる。地図で伊賀市の中心部を眺めていると、
なんとも不思議な形をしている一角があることに気づく。わりと格子状の街割りになっている中、
一箇所だけいびつというか、街割りをまったく無視している存在があるのだ。そこは、菅原神社。
要するに、菅原道真を祀った天神様だ(上野天神宮)。この神社だけ、周囲の街割りから浮いている。
それだけ厚く信仰されていたんだろうな、と思いつつ参拝。伊賀上野では10月にだんじり祭りが行われるが、
これは「上野天神祭」という菅原神社のお祭りなのである。受験生たちの合格をちゃんと祈願しておいたよ。

  
L: 菅原神社。ここだけ周囲とは浮いた都市構造になっている。  C: 三重県道56号。伊賀市街を南北に走る道。横断しづらい。
R: やはり伊賀上野には忍者っぽいものがいっぱい。これは交差点にある車止め。それぞれの持ち場でいろんなポーズをとっている。

日が暮れる前にレンタサイクルを返却し、上野市駅に戻る。伊賀神戸で一日乗車券を買っておいたので、
伊賀鉄道の終点である伊賀上野駅まで行ってみることにしたのだ。上野市駅周辺には日記を書けそうなカフェもないし、
伊賀上野駅周辺なら何かあるかもしれないな、と思ったのだ。今回の旅は、上野市産業会館から夜行バスに乗り、
明日の朝に東京に戻る予定なのである。夜行バスが来るまでの長い時間を、どうにかして過ごさないといけないのだ。

まるで飯田線のような見事なカーヴを描き、列車は伊賀上野駅のホームへと入る。
伊賀上野駅の主人公はやはりJR関西本線で、伊賀鉄道のホームは関西本線の脇にちょこっとくっついている、
そんな程度の存在感なのであった。やっぱり伊賀鉄道は肩身の狭い路線なのか……。

 伊賀鉄道の最果てゾーン。屋根もここだけないし、関西本線とはえらい差だな!

改札を抜けて駅前に出てみるが、何もない。建物がぱらぱらとあるほかは、空き地だったり道路だったり。
駅舎の中に椅子はあるけど、風がしっかりと通り抜けて寒くてたまらない。日記を書くどころじゃない。しまった!
こうなると選択肢は3つ。1. さっきのカーヴを突っ切って、上野市駅との間の郊外型店舗を目指して歩いていく。
2. 伊賀鉄道に乗って上野市駅に引き返す。3. 関西本線に乗っちゃって都会に出て、メシと日記を書く時間を確保する。
郊外型店舗は魅力的だが、いったんそうすると上野市駅までたどり着くのが面倒くさくなる。道に迷う不安もある。
かといって上野市駅まで引き返しても、何もメリットがないのは明白だ。産業会館で何時間も過ごすのは切ない。
というわけで、僕が選んだ選択肢は3番目なのであった。伊賀上野からいちばん近い都会は……奈良でやんの。
昨日のスタート地点である奈良に出てメシ食って日記書いて伊賀上野に帰る。伊賀鉄道の終電で上野市駅まで戻り、
上野市産業会館から夜行バスに乗り込んで東京まで帰るのであった。なんだこりゃ。

最後が非常に間抜けな形で今回の2日間の旅は終わり。名張と伊賀上野が僕の予想以上に地方都市すぎたのだ、結局。
まあでも、ものすごく意義のある旅ではあった。やりたい放題やったしな。満足して早朝の品川駅に降り立ったよ!


2012.2.18 (Sat.)

テスト前である。よし、ここは旅行だ! 旅行しかねえ!という毎度おなじみの強迫観念によって、
毎度おなじみの夜行バスに飛び乗ったのであった。とはいえ前回夜行バスに乗った際には、
それはもう寿命が縮まるんじゃないかというほどの体調不良に襲われたこともあり(→2011.10.2)、
今回は素直に3列シートのバスに乗るのであった。おかげでかなり快適に過ごせた。よかったよかった。

さて今回の旅行はとりあえず2日間。青春18きっぷが使えない時期ということもあり、
私鉄沿線でまだ行ったことのない街を攻めることにした。県庁所在地めぐりの旅のおかげで全国あちこち行ったが、
律令国でいうとまだまだノータッチの場所はチラホラ残っている。そんなわけで今回のターゲットは、旧伊賀国だ。
でもただ伊賀を攻めるだけではつまらない。それなら奈良県からスタートして、国宝や重要文化財をしっかり見よう!
そう考えた結果、初日に奈良盆地の南部を押さえて2日目に伊賀に入るという行程ができあがったのであった。

 
L: そんなわけで、今回の旅は奈良駅からのスタートです。  R: 駅裏のなら100年会館。実に巨大な物体である。設計は磯崎新。

奈良駅に着いて真っ先にやることといったら、当然、朝メシを食うこと。しっかり栄養を摂取すると、
いざ奈良駅の改札を抜ける。「万葉まほろば線」という愛称が妙に幅を利かせている桜井線に乗り込む。
桜井線は2年前の関西旅行ですでに乗っているのだが(→2010.3.29)、ろくに途中下車していないのだ。
今日はまず、桜井線沿線の天理市と桜井市をきちんと味わうことから始めるのである。

天理市というと天理教だ。小・中学校時代の友達に家が天理教の人がいたり、某友人の実家が天理教だったりするが、
僕自身は別に天理教についてどうこうという感情はない。ただ、天理市は日本には珍しい宗教都市ということで、
社会学的な興味関心から街を歩いてみたいとは思っていた。どんな空間なのか、やはり実際に体験してみたい。

「天理」と書かれたバッグを抱える中学生か高校生くらいの学生たちと一緒に、列車を降りた。
彼らは改札を抜けると一斉にアーケード商店街の入口へと向かっていく。朝早い時間に商店街を歩くのは楽しくないので、
あえて幅の広い中大路通りを東へ歩いていくことにした。そのまま歩いていけば天理教の本部だ。ま、見てやろうじゃん。
天理の街は奈良盆地の南東端に位置しており、山に向かってゆったりとした上り坂になっている。
歩いていると街の雰囲気はやはりちょっと独特だ。寺と旅館のちょうど中間のような木造和風建築が点在している。
コンクリートの建築にもやはり和風の屋根がかぶせられているが、側面が異様で、完全に断面になっているものが多い。
近代建築としての機能と象徴としての和風、それが帝冠様式以上の露骨さで現れている。実に独特である。
そんなことを考えていたら天理教の本部に到着。建物の周りは砂利の敷かれたオープンスペースになっており、
やはりどこか寺に近い空間だ。ただし寺にあるはずの樹木は敷地の周囲にしかなく、やはり異質な印象があった。
広大な砂利の広場にはランドセルの小学生から中学生、そして高校生と、未成年の大集団が形成されつつある。
今日は土曜日なのに、わざわざこの時間に集まるのか。所変われば品変わるもんだなあ、と思うのであった。
時刻は8時15分くらい。本部へ慌てて集まる子どもたちと、その反対方向へと歩を進める僕。明らかに、僕は異質だった。

 
L: 天理教の本部。巨大な建物の周りにさえぎるものは何もないので、非常に開放感の強い空間だった。
R: 本部の手前にある天理参考館。天理大学に附属している博物館施設。天理のコンクリ建築はだいたいこんなデザイン。

別に僕は天理教を茶化すためにここに来たわけではない。天理市には見ておきたい神社があるのだ。
そのままさらに東へと進んでいき、周辺の風景は山の要素を含んで木々が主体となっていく。
そんな山と里の際にあるのが石上(いそのかみ)神宮だ。入口は大雑把な空間だったので少し不安になったのだが、
参道を進んでいったらきちんと神社だった。鳥居をくぐると境内はやや小ぶりな印象。
でもそこにきゅっと重要な建築が集まっているのだ。神職の皆さんが掃き掃除をしている中、参拝する。

  
L: 石上神宮の入口。なんだかちょっと、車のスケールという印象。進んでいくとふつうの神社になる。
C: 石上神宮の鳥居。山が近くて平らな空間が少ないからか、境内はちょっと狭めながした。
R: 楼門。向かいにある石段に上って撮影した。1318(文保2)年の建立とのこと。鎌倉時代だもんなあ。

石上神宮には2つの国宝建造物がある。ひとつは拝殿で、白河天皇が当時の皇居の建物を寄贈したそうだ。
ずいぶん改装されている感触だが、神社というよりは寺っぽい雰囲気が漂っているのが面白い。
もうひとつが摂社である出雲建雄神社の拝殿。さっき楼門を撮影する際に石段に上ったのだが、
その石段を上りきったところにひっそりとたたずんでいる。狭い敷地に歴史ある建物が密集しているのだ。

  
L: 石上神宮の拝殿。神社というよりは、寺という雰囲気がする。あちこち改装されている感じ。
C: 出雲建雄神社・拝殿。1300年ごろの建物。真ん中が土間の通路になっている「割拝殿」という形式が独特。
R: 石上神宮の境内から始まる山の辺の道。本当はここからスタートしてぜんぶ歩いてみたいのだが、時間がない。

石上神宮の参拝を終えて、市街地へ向けて坂を下っていく。すると朝のおつとめを終えたのか、
さっきの学生たちが大挙して目の前を横断していくところにぶつかった。本部からまっすぐ南下していくと、
そのまま学校が集まっている場所に出るのだ。学生たちはそれぞれの学校の敷地へと吸い込まれていった。
宗教が異なるということはすなわち、生活のスタイルそのものが異なるということである。
僕の中の当たり前とはまったく異なる光景を目の当たりにして、人生いろいろ、と思うしかないのであった。

さて天理の道路を歩いていると、なんだか緑色にとんがっている構造物がやたらと目につく。
あらかじめプリントアウトしておいた地図と照らし合わせて、まさかなあ……と思っていたのだが、そのまさかで、
そのとんがりは天理市役所の屋根なのであった。この斬新すぎるデザインは……うーん、困った。
まあ、市民が納得しているならそれでいいんですけど。天理の価値観はオレとは違うんだなあ、と思ったわ。

  
L: 天理市役所。東畑建築事務所の設計で、1984年に竣工。うーん。  C: 裏側も同じデザインである。うーん。
R: 天理本通り商店街。天理教に絡んだ商品を扱う店がちらほらあるが、基本的には活気のある地方の商店街だ。

市役所を撮影すると、少し北に入ってアーケードの天理本通り商店街で駅に戻る。やはり天理教の影響は強いのだが、
全体的にはふつうの地方都市の商店街。店はどこもきちんと営業しているようで、雰囲気は明るい。
宗教パワーが集客につながって賑わっているということか。商店街の活性化という点ではいいことだ。
かつての門前町の賑わいと同じことだ。宗教の持っているポジティヴな効果をはっきりと見せてもらった気がする。

天理の街を後にすると、桜井線でさらに南下。次は大和国一宮・大神(おおみわ)神社に行くつもりなのだが、
調べてみたら桜井はレンタサイクルがわりと充実しているようなので、最寄駅の三輪駅をスルーして桜井駅まで乗る。
北口の観光案内所で確認してから南口にまわり、駅の近くにあるビジネスホテルでレンタサイクルを借りる。
カゴには「明日香レンタサイクル」とあって、それは明らかに見覚えのある種類の自転車だった。
そうだ、去年の9月に修学旅行で明日香を自転車で走りまわったが(→2011.9.10)、あのとき生徒たちが乗ったやつだ。
ここからあの明日香まではそんなに近いんだ、と驚いた。猛暑の明日香と極寒の桜井。季節だけが遠いのだ。
そんなわけで妙にセンチな気分になりつつ自転車にまたがると、一気に北口に抜けて大神神社を目指す。

桜井駅から大神神社までのルートはわりと単純で、躊躇せずにまっすぐ北へ進んでいけば、三輪駅の入口に出る。
そのまま突っ切ればすぐに大神神社の参道にぶつかるので、石上神宮のときと同じようにゆるい坂を東へ上ればいい。
歩きだったら面倒くさい距離でも、レンタサイクルだと非常に快適。実にありがたいことである。

さすがに大神神社は参拝客が多く、鳥居の手前にある駐車場はけっこういっぱいになっていた。
駐輪場に自転車を停めると、僕も鳥居をくぐって進んでいく。ゆったりとした参道を行った先にちょっとした石段があり、
注連縄をくぐると見事な拝殿が現れる。この拝殿は1664(寛文4)年に、徳川家綱により建てられたものだそうだ。
ところが大神神社には、拝殿はあっても本殿はないのだ。これは三輪山を神体としているからだそうで、
つまり自然崇拝・アニミズムの要素が今も色濃く残っているわけだ。それだけに、大神神社の歴史はそうとう古い。
(社殿を建てずに磐座を崇拝対象とする例は、丹波国一宮の出雲大神宮についてのログを参照。→2011.10.2
「日本最古の神社」という看板を掲げているが、実際にそれくらいの歴史を持っているのである。

  
L: 大神神社の二の鳥居。一の鳥居が巨大なことで有名なのだが、巨大なだけなので今回は行っていません。
C: 大神神社の参道。紀元前からの歴史があるんだそうで、さすがに雰囲気があるなあ、と思いつつ歩いた。
R: 重要文化財の拝殿。御守をいただいたのだが、「三輪明神」とあった。複数の名を持つところがまた歴史を感じさせる。

参拝を終えると、そのまま祈祷殿の方へまわってみる。せっかくなので、あちこちお参りしてみよう、と思う。
末社の久延彦(くえひこ)神社は合格祈願の神社ということで、受験シーズンらしく絵馬がいっぱい。
境内はやや離れた隅っこの高台にあって、途中の展望台から眺める奈良盆地はなかなか美しかった。
そして摂社の狭井(さい)神社にも行ってみた。こちらの境内にはご神体である三輪山への登山口があるのだ。
入山初穂料は1人300円で、暗くなる前に戻ってこないといけない。面白いもんだなあ、と思うのであった。

 
L: 久延彦神社へ行く途中の展望台から眺める大和の風景。甘樫丘(→2011.9.10)の別角度。右に大神神社の大鳥居が見える。
R: 狭井神社の境内にある三輪山への登山口。太古の昔から信仰されていた山だから、正直けっこう気になる。

さて大神神社への参拝を終えると、盆地を下ることなく、二の鳥居からそのまま南へと進んでいく。
というのも、このルートはさっき上でちらっと書いた「山の辺の道」だからだ。これは日本最古の道と言われている。
かつて大和国には、いくつも巨大な道が走っていた。代表的なものは上ツ道(かみつみち)、中ツ道(なかつみち)、
下ツ道(しもつみち)の「大和三道」だが、さらにその外側、奈良盆地と山の境界を南北に走る道があった。
これが「山の辺の道」だ。当然、時間が経過してかつてとはまったく異なった風景となってはいるものの、
日本の原風景を感じさせる雰囲気は残っているという。そこをレンタサイクルで走ってみようというわけだ。

わくわくしながらペダルをこぎだしたのはいいが、すぐに途方に暮れてしまう。
かつては道だった場所も、1300年以上の時間が経過して宅地になっており、ルートがまったくわからないのだ。
つねに案内板が出ているわけではないので、嗅覚というかセンスを頼りに、それっぽい方へ進んでいく。
本当にわずかに残っている街道の雰囲気を嗅ぎ分けながら、山裾の住宅地をうろつきまわるのは実に大変。
「山の辺の道」というだけあって、山へ向かっての道はけっこう急で、レンタサイクルのママチャリではきつい。
どうにか平等寺に出ると、その手前が山の辺の道だという案内が出ていたので、ほっと一安心して下っていく。
住宅地のうねる道、林の中の舗装されていない道、石畳の道と、同じ道のはずなのにヴァリエーションは非常に豊か。
それでもやはり、どこか懐かしい印象を残しながら道としての確固たる雰囲気を保っているのはさすがだった。
想像力を広げつつ、南へと下っていく。途中で散策中の観光客と何人かすれ違ったので、
山の辺の道は観光の名所として地味ながらもしっかりと認知されているようだ(天理駅にも案内があった)。

  
L: 大神神社の二の鳥居を出てわりとすぐの山の辺の道。周辺は完全に宅地化しているのでルート探しは本当に難しかった。
C: 林の中を行く。あらためて整備した感触がするのだが、まあかつてもこんな感じだったんだろうなあ、と思う。
R: 石畳が敷かれた場所もある。平地と山のちょうど境目で、穏やかな雰囲気がかえって歴史の厚みを感じさせる。

山の辺の道の標準的なコースは、天理駅からスタートして石上神宮へ行って、その境内から歩きはじめるというもの。
そうして途中にある神社を参拝しながら南下していくようだ。時間のない僕は大神神社からのスタートで、
ではゴールはどこかというと、初瀬川(大和川)の右岸にある金屋という集落になる。
この集落の中の「海石榴市(つばいち)観音堂」がかつての拠点だったようだ。というわけで、そこまで行ってみる。
山の辺の道は奈良盆地と山の境目を南北に走っているが、金屋の集落にぶつかるとT字路となり、東西方向となる。
この東の端っこまで進んでいったところに海石榴市観音堂があるのだ。金屋には今も古い木造建築が残っており、
街道としての雰囲気を存分に味わうことができる。かつては歌垣の行われる場所として大いに賑わったというが、
今はただの落ち着いた住宅街だ。でも、賑わいの痕跡は街道としてしっかりと残っている。面白いものだ。

金屋の住宅地をけっこう進んでいった先、案内に従って少しだけ山の方へ入っていく。
田舎の住宅に囲まれたおそろしくふつうの路地の奥に、海石榴市観音堂はあった。本当に、地元の小さなお堂だ。
僕にとっては非常に残念なことに、観音堂は新しく建て替えられて風情はゼロ。観光客がワンサカ来たら迷惑な場所で、
わざわざ古風なお堂を建てる必要などまったくなかったのだろうけど、それにしてもなんだかちょっとさみしい。

 
L: 金屋の集落。落ち着きながらも、街道としての雰囲気をしっかりと残している。
R: 住宅地の奥にある海石榴市観音堂。観光客向けではないとはいえ、もう少しどうにかなりませんですかねえ……。

とりあえずこれで山の辺の道はクリアということにするのだ。実は出発前夜までレンタサイクルという発想がなかったので、
鉄道とバスを組み合わせた旅程を組んでいた。でもレンタサイクルのおかげで、ずいぶんとスケジュールに余裕ができた。
あとは桜井駅に戻る途中で桜井市役所を撮影すればいい。……が、その前にとにかく腹が減った。
気がつけば奈良盆地上空の分厚い雲からは、はらはらと牡丹雪が降りはじめている。もう、とんでもなく寒い!
2月という観光にはまったく向かない時期に来たからには覚悟していたが、現実にこうなると、もう、笑うしかない。
しかし笑うためには燃料が必要なのだ。一刻も早くメシを食わないことには、凍えてどうかなってしまいそうだ。

というわけで、ご当地B級グルメをいただくのである。奈良盆地の名物といえば、「天理ラーメン」なのだ。
「天理ラーメン」の有名店はふたつ。元祖といえる「彩華」のサイカラーメンと、「天理スタミナラーメン」だ。
どちらも奈良県内を中心に大胆にフランチャイズ展開しているので、天理の名を冠してはいるものの、
桜井で食っても問題はなさそうだ。まずは市役所へ行く途中にある天理スタミナラーメンをいただいてみるのだ。
けっこうな風に乗って雪がビュービューと舞う中、店内に入る。そして迷わず天理スタミナラーメンの大を注文。

 天理スタミナラーメン。豆板醤が効いたスープに白菜と豚肉が浮かぶ。

容赦なく雪が吹き付けられる天気の中、いちばん食いたい種類のラーメンが出てきた。
もう本当に、今まさにオレがいちばん食べたいラーメンが、目の前に現れたのだ。その喜びといったら!
ニンニクのがっちり効いたピリ辛スープと、それがたっぷり絡んだ豚肉、そして白菜の甘み。
麺はそれほど自己主張することのないごくふつうのものだったが、それくらいでかえってバランスがとれている。
ただただ夢中で食らいつくのみなのであった。いや本当に、天理スタミナラーメンを最高のシチュエーションで食った感じ。
適材適所というとちょっと変だが、食うべきものを食うべきときに正しくいただいた。もう、言うことなしだ。

店を出ても相変わらずの風と牡丹雪だったが、完璧なエネルギー補給ができた僕にはそんなものは関係ない。
そして目の前に現れた桜井市役所は、いかにも典型的なモダン庁舎だったが、なかなかいい均整がとれていた。
こういうタイプの庁舎建築は日本のあちこちにあるが、桜井市役所はその中でも特に完成度の高さを感じさせる。
地味ながらも確かなデザインとなっていて、これはぜひ残していってほしいレヴェルの建築だと僕は思う。
そんなわけで、コンディションは悪いけど、非常にいい気分で撮影していくことができた。

  
L: 桜井市役所。1967年の竣工だそうで、なるほど昭和40年代らしい凝り方である。純粋に美しいと思う。
C: 角度を変えて撮影。ピロティとホールが実にモダニズムだ。  R: 裏手の駐車場から眺めたところ。

 桜井市役所はすぐ隣に消防署を併設している。これも昭和な発想だ。

天理スタミナラーメンの威力は凄まじく、桜井駅に戻るとそのまま南口へと突き抜ける。
自転車をこぐ僕の体には雪が積もりかけているほどの悪条件だったが、勢いに任せてそのまま一気に南下を始める。
当初の予定ではバスで訪れるつもりだった橿原市昆虫館まで、レンタサイクルで行ってしまうのだ。
ルートはじっとりとした上り坂になっていたのだが、まったく気にならないくらい力があふれてくる。
県道からはずれると、郊外にある公共施設らしく、かなりの上り坂と下り坂の繰り返しとなる。
しかし旨いものを食ったテンションはその程度のことでは衰えないのだ。パワフルに坂を上がって駐車場に到着。
そしたら雪がやんでくれた。橿原市昆虫館の中を見学しているうちに、きっと天候は回復してくれるだろう。
そう期待して、中へと入る。ちなみに橿原市昆虫館をわざわざ訪れたのは公共建築百選の建築だからなのだが、
純粋に中身が楽しみでもあった。めくるめく昆虫の世界を堪能させてもらおうじゃないの。

500円の入館料を払って展示室へ。そしたら最初に現れたのは、バージェス頁岩のオモシロ生物たちの化石だった。
なるほど、厳密に言えばこいつらは昆虫ではないけど、それに近い節足動物であるには違いない。
美術館や博物館はその導入部分によくセンスが現れるのだが、なかなか興味深いアプローチをしてくる。
化石がしばらく続いた後は、虫入り琥珀。とても貴重な品々だが、よく市レヴェルの施設が持っているなあ、と感心。
橿原市昆虫館は起伏のある敷地をそのまま生かしているのか、だんだん展示室の高さが上がっていく格好になっている。
そして奥へと進んでいくと、かなり広い展示スペースに出た。右手には世界各地で採集された昆虫の標本が並び、
中央には子ども向けに昆虫の体のメカニズムを体験させる装置、そして左手は昆虫についての解説となっていた。
どうやら橿原市昆虫館は昆虫をたくさん飼育している施設ではなく、博物館的な施設のようだ。
パンフレットを見ると「Kashihara City Museum of Insects」とある。「insectarium」ではなかったのだ。ちょっとがっくり。
(水生生物の飼育施設は「aquarium(アクアリウム、水族館)」、陸上動物の飼育施設は「terrarium(テラリウム)」、
 そして昆虫の飼育施設は「insectarium(インセクタリウム)」である。そういう施設であることを期待していたのだが。)
生きている珍しい昆虫も展示されていないことはないが、その数は期待していたほどではなかった。

ところが橿原市昆虫館のハイライトはその次に待っていた。ガラスと鉄骨によるアトリウム内に入ると、
あたたかく、湿っぽい。そして高そうなカメラを構えたおじさんおばさんが多数いたのである。
彼らのターゲットは、アトリウム内をひらひらと舞っている蝶たちだった。せわしなく飛び続ける蝶もいれば、
うっとりと花をつかんで離さない蝶もいる。そんな蝶たちを相手に、皆さん必死でシャッターを切っていた。
なるほど、こういう休日の過ごし方があったのか。旭山動物園のオランウータンと同じパターンだ(→2010.8.10)。

  
L: 橿原市昆虫館のエントランス。壁には大きなカブトムシが貼り付いているなど、ややキッチュな要素あり。
C: 展示スペースの様子。内容は正直、一回見れば飽きる感じで、全般的に子ども向けだったのが残念。
R: アトリウムにて。いいカメラを持ったおじさまおばさまが蝶を追いかける。ある意味、桃源郷かもしれん。

コンパクトデジカメを持っているのは僕だけである。しかしこっちにも意地はある。
というかそもそも、僕はきちんとした一眼レフではないコンパクトデジカメという限界・条件を楽しんでいるのだ。
オートフォーカスが勝手に作動してしまうのは本当に困るが、制約の中でいい写真を残すゲームだと思っている。
そんな気持ちでシャッターを切ってみる。蝶の種類によって撮影のしやすさ/しづらさがあって面白い。
いつもせわしなく羽ばたいている蝶もいれば、ほとんど動かない蝶もいる。その特性を確かめながらつかまえる。

  
L: リュウキュウアサギマダラ。うっすらと青みをたたえた羽(翅)が美しい。動きは非常にゆったり。食べると苦いがゆえの余裕か。
C: オオゴマダラ。この蝶もリュウキュウアサギマダラと同じくアルカロイドをためこんでおり、警戒心ゼロのふるまいぶりがすごい。
R: シロオビアゲハ。こちらはつねに羽ばたいているので撮影がものすごく大変だった。蝶は種類によって動きがまったく違うなあ。

ある程度撮影をして気が済んだので、まったく飽きる様子を見せずにシャッターを切りまくる皆さんを尻目に、
さらに先にある新館へと入ってみる。そしたら真っ先に登場したのが、ゴキブリなのであった。
ゴキブリは動物のエサとしては理想的な存在なんだぜ! そこまで極端に不潔でもないぜ!と説明があったが、
もうすでにその外見が人間にとってはイヤなのである。「世界のゴキブリ」や「日本のゴキブリ」ということで、
標本が大胆に並べられた展示があったが、じっくりそれらを見ていくのはなかなか勇気が必要なのであった。

新館は小さく、あっという間に見終わってしまう。再びアトリウムを抜けて展示スペースに戻ると、
2階の資料室に行ってみた。そしたら蝶の標本が特別展示されていて、これがなかなか見事だった。
万人に美しさを感じさせる蝶というのも、不思議な生き物だ。あらためてそんなことを実感させられる。

  
L: さすがにモザイクをかけてみました。デカいやつは本当にデカいよー。こいつらが動いていたら本当に怖いと思う。
C: シジミ蝶の標本。地味なシジミたちの中にもこんなに美しい羽を持った種類があるんだ、と驚いた。
R: 蝶の中でも抜群に美しいモルフォたち。羽は光の干渉でこの色に見える(CDと同じで構造色)。ちなみに有毒だそうだ。

外に出て、建物の周りを歩いてみる。やはりアトリウムのインパクトが非常に大きい。
設計したのは日建設計で、1989年の竣工である。まあなるほど、確かにバブリーな発想の施設だなあ、と思う。
それにしても、昆虫館のすぐ脇にかなり規模の大きい霊園があったのには驚いた。
高低差があるので上から見下ろす格好だったのだが、かなりモニュメント性の強い設計になっていた。
死者たちが眠っているすぐそばで蝶たちが舞っているというのも、なかなか興味深い対比である。

  
L: 橿原市昆虫館の外観。入口からはちょうど反対側になる。  C: 非常に目立っているアトリウム部分。
R: 隣にある市営の霊園・香久山墓園。自称「賑やかな明るい雰囲気の公園墓地」。うーん。

帰りは下り坂になるので一気にそのまま桜井駅へ。レンタサイクルを返却する前に、桜井駅南口を少し走ってみる。
桜井駅の南口にはアーケードの商店街が面的に広がっている。しかし正直なところさびれ具合はかなりひどくって、
けっこう悲しい気分になってしまう。しかしそのアーケード商店街の奥には歴史を感じさせる木造住宅が並んでおり、
何とも言えない不思議な印象を与える空間となっていた。遠くなりつつある昭和がまだ息づいている感じだ。

 
L: 桜井駅南口に広がるアーケードの商店街。面積はあるのだが、かなり壊滅的な状況となっている。
R: アーケード商店街と接して木造住宅群も広がっている。この両者の存在は、不思議な空間体験だった。

本日最後の観光名所は、長谷寺だ。桜井駅から近鉄で東へ行けばすぐに長谷寺駅に着く。
しかしながら駅から長谷寺まではなかなかの距離があった。駅を出てすぐ、石段をたっぷり下りて初瀬街道に出て、
そこから参道をじっくりと歩くことになる。歴史ある門前町らしい穏やかな雰囲気が色濃く残っているのはいいが、
困ったことに、行く手は明らかに雪のせいで霞んでいる。しっかりと歩かされて長谷寺の仁王門に着いたときには、
さっきの桜井と同じくらいの厳しい状態になっていたのであった。ニンともカンともである。

  
L: 長谷寺への参道を行く。行く手が雪で白く霞んでいるもんなあ。2月は本当に観光に向かない時期だなあ……。
C: 長谷寺の仁王門。これは帰りに撮影したもの。到着時には雪のせいでぼやけた画像にしかならなかった。
R: 仁王門から本堂まで続く登廊(のぼりろう)を行く。明治期の再建だが、雰囲気は抜群。心が洗われるわー。

長谷寺のある場所は「初瀬(はせ)」という名前で、長谷寺はかつて「初瀬寺」と書いていたそうだ。
いろいろと複雑な経緯があって今の表記となったのだろう。おそらく日本でいちばん有名な「長谷寺」はここ。
なんといっても主役は国宝の本堂ということになるだろうが、登廊もかなり独特な雰囲気を感じさせていい。
399段を一歩一歩上るたび、俗世から離れていく気持ちにさせられるのだ。アナウンスの解説はちょっとうるさいが。
長谷寺は牡丹の寺として特に有名で、登廊の脇では牡丹の花が雪から守られていた。実に風情がある。
そうして下登廊、中登廊、上登廊と向きを変えながら上っていくと、本堂の脇に出る。手前の鐘楼が立派だ。

  
L: 下登廊と牡丹。まあ、これはこれで風情があっていい。牡丹のシーズンはゴールデンウィークあたりとのこと。
C: 鐘楼。  R: 本堂を側面より撮影。非常に複雑な構造をしている建物である。1650(慶安3)年の築。

長谷寺の本堂は正堂・相の間・礼堂によって構成されている。相の間から入って十一面観音像に参拝するのだが、
礼堂にある奉納額が実に多彩で面白い。さまざまな時代のさまざまな人々の思いがダイレクトに伝わってくる。
姿形を変えながらも人間は同じことを繰り返しているわけだ。時間を飛び越えて、あれこれ考えてみる。

  
L: 礼堂の奉納額。それだけ篤く信仰されてきたわけだ。  C: 百人一首の奉納額。天才たちがいっぱいにあふれております。
R: 本堂の前面、懸造の舞台。長谷寺の本堂はさまざまな建築的要素が盛り込まれている贅沢な建物だと思う。

本堂は崖の上に位置していて前面は懸造になっており、ここからの眺めがなかなか美しかった。
山並みの中に寺と初瀬の集落の屋根が並んでいる景色は、パノラマを楽しむという感じにはならない。
でもその狭苦しい中にあるたくましさは、いかにも日本らしい景色であると思う。

  
L: 長谷寺の舞台。やはり崖に対して斜めに下っており、高所恐怖症としてはなかなかつらい。
C: 舞台から眺めた長谷寺の境内と初瀬の集落。穏やかなこの景色は昔とあまり変わっていないのだろう。
R: 舞台の端っこで振り返って本堂を眺める。威風堂々、実にかっこいい。

レンタサイクルでスケジュールに余裕ができたおかげで、かなりのんびりと長谷寺の中を歩きまわることができた。
気がつけば雪はやみ、空はゆっくりと青色を主役にしはじめていた。今日はとんでもない天気だったけど、
明日は鮮やかな晴天が期待できそうだ。今日は本当にいい経験ができたなあ、やっぱり旅は楽しいなあ、と思いつつ、
ニコニコしながら登廊を下っていく。旅をして得た知識が自分の体の中に染みわたっていく感覚は格別なのだ。

 最後にもう一丁、長谷寺の本堂の正面側を撮影。

長谷寺駅に戻る途中、振り返ったら雪雲が再び山肌の境内を覆い尽くそうとしていた。こりゃたまらん。
駅までの道のりはやっぱり長くて、石段を上りきるとなんだか足がフワフワする。だいぶ疲れている。
やがてやってきた列車に乗り込み、大和八木駅で降りた。ここは近鉄の一大ターミナル駅のはずなのだが、
周囲にはあまりのんびりできる店がない。できればコーヒーを飲みつつテストづくりを進めたかったのだが、
マクドナルドすらない。駅を一周して探しても、やっぱりない。そうこうしているうちに雪の勢いが増し、
地面にしっかりと積もりはじめた。もう、とんでもなく寒い。さっさと宿にチェックインしてしまおう、
と歩きだす。そしたら雪がやんだ。いいかげんにしてほしい気まぐれさである。旅でこれはたまったもんじゃない。
Googleの地図をプリントアウトしておいたので、それを見ながら宿まで歩いた。驚いたことに、
近くの今井町(→2010.3.29)ほどではないものの、宿の周囲は堂々たる木造の住宅がよく残っていた。

空が暗くなった頃合いを見計らって、晩飯を食べに出る。昼は天理スタミナラーメンだったが、
夜は天理ラーメンの元祖であるサイカラーメンをいただくのだ。畝傍駅の前を通り、今井町方面へ。
その今井町の南東端の辺りに「彩華」の橿原店があるのだ。暗かったので予想より時間がかかったが、無事に到着。
店内は家族連れがめちゃくちゃいっぱいいて、なるほどそういう経営戦略なのか、と納得。

サイカラーメンの大を注文すると、わりとすぐに出てきた。天理スタミナラーメンもそうだったが、かなりの量だ。
こちらは豆板醤がたっぷり入っているということはないが、丼の底には刻んだニンニクがたっぷりと沈んでいた。
そしてやはり、白菜と豚肉の組み合わせが独特の風味を醸し出している。天理ラーメンというものが理解できた。
そういえば渋谷や歌舞伎町にある「どうとんぼり神座」が一時期マスコミで話題になった記憶があるのだが、
あれは完全に天理ラーメンの系譜だったのか、と今さらようやくわかった。勉強になるなあ、と思いつつ完食。
支払いをしようとレジに行ったら、白菜の入っていた段ボールが山と積まれていた。すごい人気である。

帰りは今井町の中を突っ切ってみた。赤みがかった街灯がところどころにある程度で、非常に暗い。
伝統的な木造建築からはぜんぜん光が漏れてこないのだ。歩いていると、かなり孤独感にさいなまれてしまう。
明日はこの今井町を散策することからスタートする。中身がぎっちり詰まった旅は、まだまだ半分なのだ。
(来週の分も含めて考えると、まだまだ1/5である。いやー、久々に日記を書くのが大変な状況だ。)

 
L: サイカラーメン。家族連れの熱烈な支持を集めていた。確かに天理ラーメンは独特なおいしさだ。
R: 夜の今井町。木造住宅からはまったく光が漏れない。現代の住宅とはまったく異なっていることを実感させられる。

宿に戻るとさっそくMacBookAirで画像の整理を開始。トリミングなどの編集をしながらサイズをそろえる。
いいかげんテストづくりの方も進めていかないといけないのだが、それについてはやる気が出てこない。
毎回毎回、ギリギリの状況に追い込まれるまで腰が上がらなくって苦労するのだが、喉元過ぎればなんとやら。
どうせ画像整理も大変な作業なんだから、こっちも早めにやっておくべきなんだよね、と自分に言い訳をするのであった。


2012.2.17 (Fri.)

掃除が終わって下校までのちょっとした時間、なぜか『けいおん!』に関する会議が開催されてしまったのであった。
ウチの学年に『けいおん!』のファンはけっこう多い。おたくな連中に限らず、わりと広く支持されているのだ。
(卒業遠足の行き先に豊郷小学校を希望した連中は重度のおたくばっかりだが(→2011.11.16)。)
で、「推しメンは誰だ」と、まことに中二病な会議が繰り広げられたのである(そこに違和感なく解け込む僕……)。

重度のおたく男子ふたりは「あずにゃんあずにゃん」と叫び、もうひとりは「唯かなあ」とコメント。
僕は基本的にDD(誰でも大好き)なのだが、強いてひとりを挙げるなら「ムギに癒されたいです」。
ところが女子は圧倒的に「澪が一番でしょう!」なのである。澪と律のコンビの空気感がもうたまらん、と。
どうやら女子の価値観からすると、澪と律のやりとりが『けいおん!』にハマった理由であるくらい、いいらしいのだ。
これはかなり面白い事実である。男子(おたく)は唯・梓・紬といった女の子らしさがわりと前面に出たキャラを好み、
女子(それほどおたくでない)は澪と律のリアリティを大いに支持する。キャラの支持層にはっきりとした差があるのだ。
そして裏を返せば、『けいおん!』は男女を問わず支持されるようにキャラクターの造形ができているということなのだ。
今さらながら、あらためて「よくできてるなあ」と感心させられた。

さてそんな具合のやりとりを日々しているせいか、最近、生徒たちが僕に貢物をしてくるようになった。
「これあげる」という言葉とともに、ムギのシールだのプリントアウトした画像だのを差し出してくる。
正直、僕はいらないのだが、受け取らないのもつまんないので、「いらねえよ! ……くれるんならもらうけど」と返事。
なんだかすっかりムギ大好きキャラにさせられてしまっている。大丈夫なのか、オレ。


2012.2.16 (Thu.)

冬の空を眺めていると、オリオン座がすぐに目につく。そのたび、ベテルギウスのことが気にかかる。
小笠原旅行をした際に、星空観察しようぜ、ということからベテルギウスがよく話題にのぼった。
しかもタイミングよく、NHKか何かの番組でちょうどベテルギウス特集をやっていて、
それをがっちり見たものだから、もうそれ以来ベテルギウスのことが気になって気になってしょうがない。

ベテルギウスはオリオン座のα星だ。Wikipediaの記事を参考にデータをまとめると、
全天で9番目に明るい恒星だそうだが、変光星でβ星のリゲルよりも暗いのがふつうとのこと。
シリウス・プロキオンとともに冬の大三角を構成するとっても有名な星だが、これが今、消滅の危機にあるのだ。
早ければ明日、遅くても100万年後には超新星爆発を起こし、中性子星かブラックホールになると予想されている。
恒星として最終段階のベテルギウスは非常に大きく膨らんでいて、太陽と同じ位置に置いたら木星近くまでくるサイズ。
これが爆発すれば、当然、凄まじい光を発する。数日間は昼でも見えて、夜は月と同レヴェルの輝き方をするという。
そんな希代の天体ショウを見逃すまいと、世界中の天文学者がベテルギウスの爆発を待っているのだそうだ。

もし、ベテルギウスが爆発して消えてしまったら。オリオン座はずいぶんといびつな形になってしまう。
シリウスもプロキオンもきっと淋しがるだろう。僕にはそういうマイナス面ばかりが気にかかる。
冥王星が仲間はずれになった悲しみ(→2006.8.24)とは比べ物にならないショックを受けるんだろうなあ、と思う。
僕が生きている間にベテルギウスが爆発するかどうかは、こりゃもうまったくわからない。
でも、僕としては、天体ショウを目撃する喜びよりも星の死の悲しみの方がきっと大きい。
ベテルギウスよ、美しく力尽きるその日まで、どうか長生きしてくれ。


2012.2.15 (Wed.)

昨年評判が良さそうだったアニメ、ということで『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』を借りて見てみた。
ムダにまどろっこしいタイトルからしてセンスがなさそうで不安だったが、ともかく再生してみる。
……で、結論。非常に退屈で、これで感動したという人がいることが信じられない。絵がきれいなだけの駄作である!

このアニメ、その気になれば1時間半でできることを、だらだらだらだら11話分に引き延ばしており、実に退屈だ。
登場する各キャラクターのトラウマとその解放をやりたかったのかもしれないが、時間をかけたわりに中身が薄っぺらい。
話の進みが遅いせいか、キャラクターをしっかり描くことができておらず、人間くささがかなり足りないのだ。
トラウマを描きたいのであれば、絶対にめんまの死の瞬間を具体的に映し出さなければいけない。
ここが抜け落ちているので、めんまの死の重みが伝わってこないのだ。そのせいで、すべてがウソっぽく見える。

救いがたいのが、中途半端なタイミングでめんまの実在が明らかになる点。やり口がもう本当にヘタクソで泣ける。
じんたん以外、めんまが実在することはラストシーンまでわからない、という形でやりきれなかったのは実力不足。
じんたん以外にもめんまの実在を気づかせざるをえないのなら、序盤でやるべき。おかげで話の動きが悪くなっている。
とにかく話が動かないし、動いても大したことないしで、見ていてとてもイライラした。受け手を引き込むスピード感がない。

物語を通して登場人物には変化がなければならない。その変化が「成長」と呼べるなら、なおよい。これは僕の持論だ。
このアニメでは、非常にゆったりと11話分の時間が経過するが、その結果はみんながスタートラインに立っただけ。
登場人物たちの「ここから」を描かなくてはいけないところで終わってしまっているのだ。ムダがあまりにも多すぎた。
むしろ、話が始まった時点で「めんまが不在だったからこそ進んでいた面」を肯定的に描かなくてはいけなかったと思う。
めんまの死からずっとトラウマ引きずって停滞を続けていたというのは、あまりに人間をナメすぎてないか。
「人間くささが足りない」って書いたけど、そういうこと。出てくるキャラクターが制作側に都合のいい人形なんだよね。

これを面白いと評価する人はそうとうな単細胞だし、本当に面白い作品を知らない人だ。それは致命的ですらある。
「感動」「泣ける」という意見の安っぽさを感じる。お前らの感動は、お前らの涙は、ずいぶん安っぽいな!と思う。
前に、感動は他人にさせられるものじゃなくて、自分が勝手にしてしまうものだと書いたが(→2008.9.4)、
相手の安っぽい誘いに喜んで乗っている姿は滑稽でしかない。お前らは自分で物を考えることができないのか?

それにしてもあなるはないだろ、あなるは。聞くたびにツッコミを入れちゃうよ。……入れるのはツッコミだけだよ!


2012.2.14 (Tue.)

バレンタインデーとはまったく関係なくホームページをいったん閉鎖した。
事情が事情なので詳しく書かないでおくけど、立場上ちょっと困った事態が発生しかけたので、
ええいそれならいったん閉鎖だ!ということで対応したしだい。本当に面倒くさい。

いい機会なので、ログの中身をもう一度精査して今後の対応がしやすいように対策を練ってみる。
だいたい1ヶ月もすればほとぼりも冷めるだろうということで、ホワイトデーぐらいを目処に再開したいですな。


2012.2.13 (Mon.)

教育学禁止論。ものすごく過激な内容だけど、僕は真理を衝いていると思うので、ここではっきり書いておく。

教育学というものを、学問として認めるべきではないと思う。こんなものは必要ないし、むしろ有害だ。
だからすべての大学において教育学部を廃止すべきだし、○○教育大学も○○学芸大学も廃校にすべきだ。
実際にそんな改革はできっこないだろうけど、これを実行したらその瞬間、間違いなくすべてがうまくいくだろう。

僕が社会人として働きながら通信制の大学で教員免許のための単位を集める生活を送るようになったとき、
最初に思ったのが、教育学部の教員のレヴェルの低さだ。どいつもこいつも、言っていることが本当にくだらない。
常識とは逆である真実をまったく見抜くことができず、ただただ自分の食い扶持を守ることだけを考えている。
しかも、ほかの学部と違って背景に「教育のため」「未来の子どもたちのため」という大義名分があるからタチが悪い。
短絡的な発想しかできない人間が、近視眼的な人間が、教育学が専門というだけで発言権を持ってしまっている。
はっきり言って、教育学の専門家に頭のいい人は一人もいない。あらゆる分野に優秀な人間が流れていった残りカス、
それが教育学という分野だ。現場にすらいない彼らは何も考えていないに等しい存在だ。いなくても誰も困らない。
なぜ教育学は学問として不毛なのか。それは簡単で、本来、教育とはすべての人間が行うこと、関与することだからだ。
親として先輩として、すべての人間が専門家となる行為である。だから学問領域には本来なりえないことなのだ。
それを無理やり学問として成立させているので、無意味で中身のない「研究」ばかりが横行することになる。

そんな連中の巣窟である教育学部は、当然、無意味な4年間を過ごす場所となる。いや、むしろ視野を狭める場所だ。
これは実際に働いてみての僕の勝手な感想だが、教育学部出身の教員は、わりと視野が狭いんじゃないかと思う。
僕みたいによけいな進路をふらふらした後で教員になった人間にしてみると、どうも彼らの価値観は狭いのだ。
その分だけ、生徒の側の多様さにあまりうまく対応できていないんじゃないかって気がする。
彼らは本質からはずれたどうでもいいことにこだわるし、ある種のテキトーさがないから対面していて息苦しい。
教員なんてものは、つまるところ、生徒に己の生き様を見せつけられればそれで十分だと思う。
「尊敬できる大人」の面を見せることで、生徒が自分自身の未来を肯定的に感じられれば、もうそれでいいと思う。
でも教育学部出身者は価値観の幅が狭いので、自分がコントロールできる範囲を広げようとする傾向がある。
「こうでなければならない」という意識が何ごとにおいても強い。自分自身がまず模範的であろうとするんだけど、
その模範の範囲が狭いので、生徒の価値観とフィットしない。発想の範囲も狭い。
せっかく持っているはずの人間としての魅力・面白みが、実際よりも薄く見えてしまう。

もし教育学部が廃止されれば、それ以外の専門領域を持った人間が代わりに教壇に立つことになる。
「教えることが専門」の人間ではなく、「教えることもできる」人間が教員になる。絶対、生徒はそっちの方が面白い。
(部活動以外にも)さまざまなバックグラウンドを持った教員が、それぞれの立場から生徒と向き合う。
多様な価値観を持っている生徒たちが救われる可能性は、どう考えてもそっちの方が高いだろう。
(バックグラウンドのない教員は、とりあえず部活動にそれを求める。だから部活動のことしか考えない教員が多い。)
というか、そもそも、教員免許という制度じたいを廃止すべきなのだ。学士号を持っていればそれでヨシとすべきだ。
教員免許の制度がレヴェルの低い人間のための免罪符になっている。教員免許取得によけいな単位がかかるせいで、
どれだけの優秀な人たちが教員の可能性をあきらめていったことか。本当に、もったいないことをしているのだ。
本当に大切なのは、何を教えられるかではない。どういう生き方をしているのかを、子どもに見せつけられることだ。
そこに免許など必要ないのは当然のことだ。だから教員免許の更新制は、本当にどうしょうもない制度だ。
現場で忙しく働いている人間によけいな負担をかければしわ寄せがどこに行くのか、考えるまでもない。
今の教育をめぐる動きは本当に最悪で、すべてが真実と正反対の方向を向いている。
思考停止した結果生まれた常識が、事態をただただ悪化させている。

「聖職者」なんてくだらない言葉が取り沙汰されることがあるけど、教員だって人間だ。聖人君主ではない。
聖人君主でありたいと思っているやつに、たくさんの生徒の多様な価値観を受け入れることができるはずない。
教員はミスをしないロボットじゃないし、人間くさい欠点を見せるからこそ生徒がとっかかる余地が生まれるものだ。
人間が人間を教えるからこそ意味がある。必要なのは多様性を認めることで、ひとつのモデルに絞り込むことではない。
でも教育学部出身者にはその辺の感覚があまりない。模範的であろうとする。でもそれに生徒が憧れるかどうかは別だ。
ミスも込みで、「これもアリなんだ」という肯定的な感情を生徒が持てるように仕向ける賢さが教員には必要だろう。
教育学部出身者は教員志望の生徒には理想的なモデルになっているかもしれないが、それじゃ困る生徒がほとんどだ。

繰り返すが、教育はすべての人が無償でやるべきことだ。だから、教育のプロが存在していること自体がおかしいのだ。
本当に必要なのは、完全に逆説だが、プロの教員を生産することをやめることだ。だから教育学を即刻禁止すべきだし、
教育学部も即刻廃止すべきなのだ。本来は、教育は、意欲のあるアマチュアがやるべきことであるはずだ。
その意欲のあるアマチュアが尊敬される対象として完成したとき、現在の教育をめぐる制度が再構築されることになる。
つまり今の状況は、本質を欠いたまったく中身のない、形骸化しきった制度でしかないのである。
再構築するためには、壊すしかない。教育をめぐる誤解と混乱は、こんな深刻なところまで来ているのだ。


2012.2.12 (Sun.)

防衛大臣の田中直紀が、防衛大臣としての知識が足りないということでマスコミにめちゃくちゃ叩かれている。
僕はそれを見て、麻生太郎の漢字読めない騒動や、引退に至った島田紳助へのバッシングを思い出さずにいられない。
どうも最近、世間ではネガティヴな評価が一度ついたら止まらなくなっている現状があると思う。
この風潮にはものすごく危機感を覚える。今のニッポン、気持ち悪い。そう表現したくなるほどのレヴェルだ。

自分の気に入らないものを、攻撃する。それはまあ、人間として「ふつう」の感情、「ふつう」の要素ではある。
しかし、その攻撃のレヴェルがあまりにも激しい。とことんまで叩きつぶそうという風潮があるように思うのだ。
かつてならあったであろう「これくらいにしといてやるか」「これで懲りたか」という余裕が微塵も感じられないのである。
過剰に攻撃的で、まったく生産的でない態度で、ただただ気に入らない相手を集団で取り囲み、全力で痛めつける。
ひとつの角度からしか事実を眺めず、そこに至った理由を問うこともせず、ただ一定の角度から言葉の力を行使するのみ。
それは、醜いという理由だけで面白がって虫をいじり殺してしまう子どもにも似た心理ではないのか?
自分の中でしか通用しない論理で狂った正義をつくりだし、ホームレスを襲撃する外道と同じ心理ではないのか?

そういう風潮がどこから始まったのか、残念ながらそれを感じられるほど僕は敏感ではない。
ただ、小泉純一郎がマスコミをうまく誘導してひたすら単純な構図だけを提示し、自分に都合のいい結果を引き出した、
その方法論が何かしらのターニングポイントとなったのではないか、という予感はある。あくまで予感だが。
もっとも、それを言うならオウム真理教をめぐる動きも源流のひとつに数えることができるかもしれない。
オウム真理教がやったことは絶対に許されないことばっかりで同情の余地なんぞまったくないのだが、
(自分たちの論理だけで一般市民を襲撃するテロを起こしたわけだから、オウムは上で例に挙げた外道そのものだよな)
ああいう反社会的な団体を社会から分離させてしまった要素についての問いは、すっかり抜け落ちているように思う。
つまり、団体が反社会的になって犯罪を起こす、その前に更正させるキャパシティを社会が持っていなかったということ、
そのことをきちんと検証することなく、ただひたすらにオウム真理教の犯罪ばかりを語るのは、片手落ちだと思うのだ。
他者を攻撃する際についてまわる「後ろめたさ」、そこを直視する勇気をわれわれは失ってしまったんじゃないか?

最近流行の「敵」は、小沢一郎だ。
僕は小沢一郎の手法は、日本を後退させる閉鎖的な家父長制度の最たるものだと考える。
彼にとって、選挙が政治をするための手段ではなく、政治をするための目的となっている点(→2008.9.22)も嫌いだ。
しかし、小沢一郎が検察審査会からしつこく強制起訴されて裁判が続けられている状況は、どう考えてもおかしい。
この件に関してはもう、逃げきった小沢一郎の勝ち、それでいいじゃねえか!と強く思う。法治国家ってそういうもんだろ。
また、近所の仮想敵ということでか、中国や韓国に対する無条件の蔑視もよく見かける。
まあ確かに、中国には経済的な規模にモラルが追いついていない面が多々あるのは否定しようのない事実だと思う。
韓国にしても、過剰に自国を誇る姿勢はどうかと思うし、日本の芸能界が韓流に押されている現状はうれしくない。
キム=ボギョンの件(→2011.9.27)もあるし、何ごとにつけ必死になるところがあるのは隣人として正直、迷惑だ。
しかし、だからといって民族によって差別をすることは、こっち(日本)のレヴェルを落とすことにほかならない。
相手の良い点をまったく無視して出自によって価値判断を下すことは、これは人間としてそうとうに品位がないことだ。
存在(be)の部分で相手を否定する容赦のない攻撃ができるということは、相手から同じことをされても文句を言えない。
最終的にこっちが損をしないように、こっちにも相手にも良識を求めてやりとりしていくのが本当の賢さではないのか。

とにかく、何かしらの祭りをつねに期待し、勝ち馬に乗るべく単純な構図を増幅する光景が目立つようになったと感じる。
みんなで同調して相手を攻撃している限り、自分に矛先が向けられることはない。そうして相手が消えてしまうと、
粗探しで次のターゲットを見つけ出し、また叩く。今の日本はひたすらそれを繰り返してばかりいるように思えてならない。
自分が攻撃されることを恐れて容赦なく他者を攻撃し続けるという構図は、「いじめ」や「リンチ」となんら変わらない。
そんなことをしている国を、いったいどうして誇ることができようか。今のニッポン、前よりも確実に気持ち悪い。

結局、必要なのは教養だと思う(→2011.8.22)。相手を尊重し、自分の価値観だけで差別をしないこと。
相手を尊重できるからこそ、相手から尊重されうる。教養こそが、どんな相手でも尊重できる余裕を、自信を生む。
今の日本は、自ら教養のない部分を増幅し続ける、非常に悪い循環に陥っていると僕は感じる。日本人として悲しい。
もう一度、本当に誇らしい人間としての品性を問い直し、それをもたらす源泉となる教養について見つめ直す必要がある。
日本人の皆さん、けっこう勝負どころかもよ。


2012.2.11 (Sat.)

どうにも「コミュニケーション」という言葉が気持ち悪い。ものすごく気持ち悪い。

「communicatoin」と英語で書くと、まったく気持ちが悪くない。これは単純に、英語の単語である。それだけ。
でも「コミュニケーション」とカタカナで書いた瞬間に、なんとも言えない気持ちの悪さが充満するのである。
気持ちの悪さは大げさにしても、どこか信用のできないウソくささ、胡散臭さがあるのは誰もが感じていることだろう。
この落差はなんなのか、きちんと考えている日本人はあまりに少ない。でも僕は、きちんと考えているのだ。

近年、教育の現場でも職場でも「コミュニケーション能力」などという不思議な日本語が当たり前のように語られている。
だがちょっと待て!と私は言いたい。なぜ、カタカナなんだ!? カタカナってことは、外来語だ。
これはつまりだ、もともと日本語に「コミュニケーション」に相当する言葉がなかったということを意味するはずだ。
とすると、果たして、本当に日本人は「コミュニケーション」を必要としているのか、疑問に思わないか?
国際化で日本人にも「コミュニケーション」が必要な時代が来たのだ、という間抜けな意見は認めない。
それだと、英語移入以前の日本人がcommunicationをとってこなかったということになってしまうではないか。
真剣にcommunicationという言葉の意味と向き合わないやつに限って、「コミュニケーション」という言葉を重宝したがる。

結論から言うと、僕は「コミュニケーション」は日本人には必要ない!と考える。
だから学校で「コミュニケーション能力」をつけさせよう、なんて動きはバカじゃねえのかと考えているし、
職場で「コミュニケーション」が足りない、なんて批判は知ったことかと思う。日本人に「コミュニケーション」はいらない。
今や完全に、「コミュニケーション」という言葉は、英語のcommunicationの意味から遊離したものとなっている。
communicationなんてものは、人間として生まれた以上、生きていくうえで当たり前のものだ。その程度のことだ。
学校で習うものでは決してないし、職場で足りなくなるようなものでもない。人がふたりいればcommunication、だ。
日本人は独自の「コミュニケーション」という言葉を英語からひねり出して勝手に使ってあれこれ論じている。
でもそんなもの、勝手に意味を抜き出した時点で、言葉としては死んでいる。死んだ言葉はcommunicateしない。

勘違いしないでほしい。日本人が本当に必要としているもの、取り戻さなくてはいけないものは確かにある。
それは、「義理と人情」だ。こないだ談志の『現代落語論』(→2012.2.7)を読んで納得がいったのだが、
「義理と人情」は現代社会において、確かに減少してきている。これも本来は人から教えてもらうものではないが、
人から教えてもらう要素はあるものだから、学校に限らず日常の各場面においてもっと意識されるとよいものだ。

communicationとは、人間がふたり以上存在すれば自然に発生するものだと僕は信じているし、
そうでなければ人間が人間でなくなってしまうとまで考えている。本来もっと、根源的なもののはずだ。
だからそれをカタカナとして取り出して「コミュニケーション」として扱うことは、完全に目的を見失った行為だ。
ましてや「コミュニケーション能力」などというワケのわからない定義をして学校で教えようなど、愚の骨頂である。
本当に現代社会が取り戻すべきは、「義理と人情」。「コミュニケーション能力」を教えるなんて、低レヴェルすぎる。
(さらに、英語教育はその「コミュニケーション能力」を高めるひとつの道具として見なされている。アホか!)
真実はむしろ、多様なcommunicationの方法論を認めることで(これは人間の数だけ種類が存在するはずだろう)、
自閉的な傾向の症例を含め、さまざまな性格の人たちが自分の居場所を見つけられるようにしていくことだ。
つまり、発する側の方法論を研ぎ澄ましていくのではなく、受け手側の知性を徹底的に磨いていくべきなのである。
その点の感覚が、今の日本人の大多数では真逆になってしまっている。これは本当に、憂うべきことだ。
(大多数の皆さん向けにわかりやすく書くと、「コミュニケーション能力」を上手くすることを求めるのではなく、
 「コミュニケーション能力」の下手な人を理解することを求めていくべき、ということ。これでよろしいか?)
結局、「コミュニケーション能力」なんて言葉を使う人は、相手の人間のことを信じていないのだと思う。
そんな人間から何かを教えてもらおうとは思わない。物ごとを短絡的にとらえることは、本当に罪深いことだ。


2012.2.10 (Fri.)

『第三の男』。親友のハリー=ライムに呼ばれてウィーンに着いたばかりの作家・ホリー=マーティンスは、
いきなりライムの突然の死を告げられる。墓地では葬式の真っ最中。そこでイギリス軍のキャロウェイ少佐と知り合うが、
彼らがライムを犯罪者として扱っていることを知り、親友である彼の無実を証明しようと動きだす。
ライムが事故死した際にクルツ男爵とポペスクのふたりが彼を運んだというが、門衛は3人だったと証言。
マーティンスはこの「第三の男」の存在を手がかりに真相を追求しようとするが……ってなところ。

最初は話の大枠がけっこうわかりづらい。というのも、主人公が万能のヒーローではなく、むしろ真逆で、
まるっきり頭の切れない人だから(作中で最も頭が切れるのはおそらく少佐)。主人公を信頼すると、事態がつかめない。
また、舞台が4分割統治(米英仏ソ)下のウィーンということもあり、登場人物の置かれている状況が複雑なのもある。
だから1回目を見ただけでは何がなんだか、という人も多いかもしれない。でもそこで止まってしまうと大損をすることになる。
2回目を見ると、話の大枠がわかった状態で主人公のやや的外れな行動を見ることになり、その展開がすっきりとする。
というわけで、ぜひこの作品は2回以上見てほしい。そうすると、この作品の持っている価値がしっかりわかるはずだ。

キャロウェイ少佐に証拠を突きつけられてハリー=ライムの真実の姿が示されることになるのだが、
ハリー=ライム役のオーソン=ウェルズ先生の存在感がとんでもない。そう、存在感である。
愛嬌のある悪人、いやむしろ愛嬌を武器にして人を裏切る男の存在感が、分厚いオーラとなって画面を占領してしまう。
オーソン=ウェルズ先生といえばなんといっても傑作『市民ケーン』(→2003.10.22)だが、この作品でもやっぱり、
厚み・迫力・存在感を存分に発揮した演技で観客を圧倒してしまう。これっていったい、なんなんだろう?
生まれついてのもの、という安直な答えしか出てこないが、とにかくその「悪さ」が本当にすばらしい。

しかしこの作品が凄いのは、脚本の巧みさやオーソン=ウェルズ先生の演技だけではない。
まず、カメラの構図のとり方、特に人が動くときの位置取りがすばらしい。空間の広がりを感じさせるのだ。
映画は暗く閉じきった空間に観客を押し込めるメディアだが、この作品のカメラワークには計算され尽くした開放感がある。
また、近影と遠影のバランスもいい。近くにあるもの、遠くにあるもの、あるいは距離感の変化。
ごく自然に空間と場面をつないでいて、特にクライマックスではカットが切り替わるたびに緊張感がぐっと増していく。
もちろん陰影の巧みさも絶妙で、これについてはモノクロ映画としての到達点にあるんじゃないか。けなすところがない。

音楽も非常に有名で、アントン=カラスのシターは、常識からすればBGMとしてはありえない。
でもそれが違和感なくきちんと成立しているのが凄い。緊迫感満載のシーンでも素直に受け入れられてしまう。
結局これは、ウィーンの街をものすごくしっかりと描いているからこそ、シターがしっくりきているのだろうと思う。
舞台となっている空間のリアリティが非常に強いから、本物の地元の音楽がそのままBGMとして調和しうるのだ。
(ただ、映画がモノクロだから成立しているとも思う。カラー映画だったらたぶんうまくいかなかっただろう。)

まあそんなわけで、舞台空間も脚本も音楽もカメラワークもそして悪役の演技もどれも最高。文句なしの傑作だ。
モノクロの映画でできることがすべて詰め込まれた映画であり、それゆえに今はアンタッチャブルになった映画だろう。
当時の映画の価値観で頂点を極めた映画ということで、そういう目で見てきちんと評価しておきたい作品である。


2012.2.9 (Thu.)

東京の中学生というのは卒業遠足と称してディズニーランドやディズニーシーに行くのが一般的なようなのだ。
田舎出身の僕としては、呆れて何も言えなくなってしまう事態である(もっとも、最近は減りつつあるらしいが)。
だから当初、学年の先生方との会議の際に僕は卒業遠足でディズニー関係へ行くことに反対を表明していたのだが、
この学年はいろいろと行事が地味だったから最後くらいあいつらの思いどおりにさせてやってくれと説得されて、
それはそれで確かに納得できる話だったので、まあしょうがないなと反対意見を撤回したのであった。
で、実際に生徒にアンケートをとって多数決で行き先を決めたのだが、ランドとシーが飛び抜けて大接戦。
だいぶ離されて富士急ハイランド。同数に『けいおん!』の聖地・豊郷小学校(→2010.1.10)が食い込むのがすげえ。
まあそんなわけで多数決の結果、卒業遠足の行き先は1票差で東京ディズニーシーに決定したのであった。
もっとも生徒にしてみればディズニーじゃなきゃイヤだというわけではなく、ほかの選択肢を思いつかないからとりあえず、
というのが実情のようだ。最大公約数の思い出づくりという意味では、まあそうなるかな、と今は素直に思っている。

遠足であるからには下見をしないといけない。ベテランぞろいのウチの学年としては、当然のごとくその役は僕にまわってくる。
「せっかくだから楽しんでらっしゃいな」と快く送り出されたのはいいのだが、独り身にとってそれはなかなか切ない。
ウチの掲示板を使って仲間を募ってみたものの、平日にわざわざ有給を取ってオレと行く物好きは皆無なのであった。
というわけで、本日は恐怖の「ディズニーシーお一人様」である。仕事じゃなかったら行きたくないわマジで。
天気は抜けるような青空で、最高の行楽日和なのがまた泣けてくる。重い足取りで舞浜駅に降り立ったのであった。
ちなみに、僕は東京ディズニーシー初体験である。まさか初めてのディズニーシーがお一人様とはな! なんだこれ!

2月のなんでもない平日のくせしてディズニーリゾートは大盛況。舞浜駅の人混みを抜けると、
とりあえずディズニーリゾートラインの駅へ行ってみる。ディズニーシーは初めてだから歩いての行き方がわからんのよ。
それにしても、わざわざ専用のモノレールをつくってしまえるところにディズニーの凄みを感じる。
学校からここまで来る電車はずっとラッシュだったが、いちばん混雑していたのがこのディズニーリゾートラインだった。
押し合いへし合い、泣きそうになりながらどうにかディズニーシーステーションで降りるが、改札を抜けるまでがまた大変。
改札を抜けたら抜けたで、どこへ行けばいいのかよくわからない。下見の教員はティーチャーセンターにまず行くのだが、
もらったハガキだけを頼りに必死で頭をフル回転させ、どうにかたどり着くことができた。いや、大変だった……。

ティーチャーセンターで注意事項についてのDVDを見せてもらう。その後、軽くスケジュールの確認をすると、
マップとパンフレットとパスを渡されていってらっしゃい、となる。とってもあっさり。え、もういいの?って感じ。
そのまますんなりと中に入って、いよいよ下見スタート。しかし初心者の僕はまずマップとひたすら格闘。
ディズニーランドと比べるとアトラクションの数は少ないようだ。どれがどんなのかよくわからない。
もうこうなったらあれこれ迷うよりもあちこち歩きまわって感覚をつかもう、と意を決して歩きだす。

  
L: 平日の朝なのに混雑している舞浜駅。ディズニーってすげえなあ、とあらためて実感させられるわ。
C: ディズニーシーのゲートをくぐってディズニーシー・プラザに到着。ディズニーシーは今年で10周年だとさ。
R: 意を決して中を目指す。しかしまあ、こんなかたちでディズニーシー初体験をすることになるとは思わんかったなあ。

建物を抜けると、視界の真ん中には水。その先には山。パレード待ちなのか、地べたに座っている人が多数。
やはりディズニーシーというだけあって、水がメインに据えられているのねと思いつつデジカメのシャッターを切る。
とりあえずマップを見ながら敷地を一周してみますか、と歩きだす。プロメテウス火山方面、ミステリアスアイランドへ。
渓谷に鋼鉄のデッキという無骨な感じがなかなかいい。つくり物だとわかっているけど、けっこうワクワクさせられる。
先へ進んでマーメイドラグーンを横切り、アラビアンコーストへ。バザール気分がもうちょっと味わえるとよかったかな。
そのまま中米をイメージしたというロストリバーデルタに入る。インディ・ジョーンズのアトラクションが大人気だったが、
インディ・ジョーンズはどうやら知らないうちにディズニーグループ入りをしていたようだ。
とりあえず、こないだテレビでやっていた『クリスタルスカルの王国』はどうしょうもなくって泣けた。
『最後の聖戦』は何度見ても面白いのになあ。なんで地球外知的生命体を出しちゃうかなあ。ぶち壊しすぎるわ。

  
L: ミステリアスアイランド。正直、こういう空間構成はけっこう好きだ。もうちょっと広くて入り組んでいれば言うことなし。
C: アラビアンコースト。  R: インディ・ジョーンズのアトラクション。水を流しつつ火を燃やして、凝っていますなあ。

ぐるっとまわり込んでポートディスカバリー。感覚的にはランドのトゥモローランドに近いが、こっちはだいぶ小規模。
アクアトピアは楽しそうなんだけど、なんだかミズスマシみたいですな。もうちょいいろいろあるといいのに。
アメリカンウォーターフロントに入ると、いきなり人混みができていたので驚いた。ダッフィーの専門店があるのだ。
ダッフィーは本当に人気があるなあ、とあらためて実感。ぶらさげて歩いている人もいっぱいいたし。

  
L: ポートディスカバリーにて。もうちょいいろいろできるんじゃね?  C: ミズスマシ道場じゃなかったアクアトピア。
R: ダッフィー専門店のアーント・ペグズ・ヴィレッジストア。ダッフィーの人気は凄まじいが、当然だろうと僕は思う。

いい機会なので、ダッフィーについてここできちんと書いておきたい。
ダッフィーはミニーがミッキーにつくったテディベアという設定で、ディズニーシーの中だけでしか売っていない。
ディズニーシーを知らない僕は当然、その存在を知ることなどなかったのだが、去年の3年生が卒業の際にくれた。
コートにマフラー、帽子をかぶったダッフィーで、僕はそのあまりのオシャレさに驚愕したのである。
2時間ぐらい「うわーなんだこれオシャレだー」とつぶやきながら職場でダッフィーをいじくりまわしていた僕の姿は、
まあはっきり言ってかなりあぶない人だったのだが、本当にそれくらい衝撃的だったのだ。これは別次元のオシャレさだね。
(ただし、服を着ていない裸のダッフィーについてはそれほど魅力を感じていない。服の着せ方が上手いってことか。)
ディズニーサイドでは特に宣伝に力は入れていなかったというが、爆発的な人気となっているのもうなずける話だ。
まあそんなわけで、僕はダッフィーに関しては「確かにすげえ」と全面的に白旗を上げているのである。
(それに対してシェリーメイはいまだに名前が覚えられなくて、「メスダッフィー」と呼んでは女子生徒に怒られている。)

さらにこの先に行ったところでは等身大のダッフィーと記念撮影ができる場所があったのだが、これがとんでもない行列で、
ダッフィーさんすげえなあ、と心底呆れたのであった。もう、さん付けするしかないわこりゃ。

 はい、職場のダッフィーさん。

アメリカンウォーターフロントの中に本格的に入っていくと、S.S.コロンビア号がお出迎え。
この周辺はディズニーにしては珍しく、夢の世界ではなく現実の空間が垣間見える一角であると思う。
海に面した堤防がリアルなんだよな。今後、いろいろ改装していくのかもしれないけど。
さてアメリカンウォーターフロントは開放感があって居心地がいい。特にエレクトリックレールウェイの高架がたまらん。
実際にシカゴ辺りはこんな空間なのかな、と思わせるのだ。鉄の骨組みがあればそれで満足なのかオレは。

  
L: S.S.コロンビア号。本物の船ではないのがちょっと残念。中はレストランなどになっているそうな。
C: この橋は渡っていて、ブルックリン橋(→2008.5.10)を思い出した。アメリカのつくり方でできている橋なんだなあ。
R: エレクトリックレールウェイの高架。カーヴしている下を抜ける感じが本当にたまらん。いいなあこういうの。

そのままタワー・オブ・テラー(名前だけは聞いたことある気がする)の前を通ってアメリカらしい街並みを抜け、
メディテレーニアンハーバーに戻ってこれにて一周完了。時間にして30分ほどである。もうやることがない。
どのアトラクションも客がいっぱい並んでいて、120分待ちの文字ばっかり。そんなところに一人で並んだら、
もう虚しくて虚しくて、それだけで死んでしまえる。ゆえにアトラクション以外で時間をつぶすしかない。
お一人様向けのシングルライダーという制度もあるらしいのだが、アトラクションに一人で乗ること自体が虚しいのだ。
非常にネガティヴな気分に包まれる。本気で帰りたい。でも仕事だからもうちょっといるべきだろう。困った。

しょうがないので、ちょっと早いけど昼メシをいただくことにした。モタモタしていると混むのは間違いないし、
早め早めに動くほうがいいや、ということで何を食べようか考える。が、結論はすぐに出る。カレーだ。カレーしかない。
幼少期の経験からか、僕はディズニーというとハウス食品の出しているカレーが条件反射的に食べたくなるのである。
それでカレーをいただくべく、アラビアンコーストまで再び歩こうとしたそのとき、何やらショウが始まった。
キャストの案内に従って「ビーマジカルビーマジカル」と何やら印を結んでいる観客たちは、
まるで新興宗教の信者のようだ。といっても、こういうのは素直にみんなと一緒にやる方が楽しいに決まっているのである。
一人だともうどうしょうもなくって、これは何の拷問だ、という気分になる。いやホント、これは拷問以外の何物でもない。

  
L: プロメテウス火山を眺める。ディズニーシーの象徴的な光景ということになるのかな。
C: ネズミの親分が登場。さすがに大人気なのであった。  R: こちらは踊るアヒルの親分。

ディズニーランドが道を行くパレードであるのに対し(→2011.7.10)、こちらは水場が舞台となっている。
ああなるほど、と感心した。ショウの舞台を限定することで、うまく観客との間を隔絶した空間をつくっているわけだ。
また、水だけに舞台空間は周囲より低くて見通しが利く。水場を囲む通路すべてから、広い範囲を見渡すことができる。
つまり、ショウをやるには絶好の空間となっているのだ。考えれば考えるほど、本当によくできているのである。
ディズニーランドのパレードが高知のよさこいと同じストリートの系統であると指摘できるのに対し、
ディズニーシーのショウは札幌のYOSAKOIソーランと同じステージの系統であると指摘できる(→2008.1.10)。
ランドとシーを単純に同じ形にはしないで、見事に変化をつけて運営しているのだ。ディズニー恐るべし、である。

そんな具合にショウが一段落つくまで結局、見入ってしまったではないか。急いでアラビアンコーストへ。
まだ本格的にお昼を食べようという客は少ないようだった。ビーフとチキンとシュリンプの3種のカレーを注文する。
ナンもついてきておいしいのだが、量が足りない。ディズニーシーが満腹になる目的の場所ではないとはいえ、これはつらい。
というわけで昼メシのハシゴ。今度はチャーハンが食いたくなったので、ミステリアスアイランドに戻る。
「ディズニーはメシを食うしか過ごしようがないですよ」とは去年下見に行った先生の言葉だが、本当にそのとおりだ。
チャーハンをゆっくり食いつつマップを広げ、これからどうしよう……と途方に暮れるしかなかった。
しかしまあ、よく考えたらまだ外周を一周しただけで、マーメイドラグーンなどがある水の内側は歩いていない。
下見で来ているわけだし、せっかくだからとことん歩き倒してみるか、と気を取り直して外に出る。
腹も膨れてだいぶポジティヴな気分になってきた。やっぱ人間、メシを食わなきゃいかんのである。

マーメイドラグーンをつるっと抜けて、再びロストリバーデルタ、そしてポートディスカバリーの裏側へ。
プロメテウス火山の麓にある城郭を抜けるとさっきのミステリアスアイランドに戻る。今度はもっと早く一周完了。
こんなもんか、とマップを広げたところで、実はマーメイドラグーンの地下に広大な空間があることに気がついた。
下りていってみると、そこは薄暗い中になかなかどぎつい照明を使っている空間となっていた。
それまでさんざん晴天の屋外を歩きまわってきたので、閉鎖されている感覚がちょっと息苦しく思える。
が、よく考えたらディズニーランドの屋内アトラクションと印象は変わらない。ああこういうもんだったわ、と思い出す。
この屋内空間はトリトンズ・キングダムというらしいのだが、アトラクションも土産物店も飲食店も入っている。
充実しているけれども、やはり薄暗い中の色つき照明というのは苦手だ。息苦しくなるのは海をイメージしているからか。

 
L: マーメイドラグーン。貝をイメージした姿が微妙にガウディくさい結果となっている。色彩が安っぽいなあ。
R: 地下のトリトンズ・キングダム。正直、僕はちょっと苦手な空間かなあ。土産物店の床が柔らかいのが気持ち悪い。

これで本当に、敷地内をだいたい歩き倒した。もう帰っちゃおうかなと思うが、もったいないなあという気持ちもある。
せっかくだからひとつぐらいアトラクションを体験しておこうかと考えるが、やっぱり一人だと滅入ってしまう。
はてどうしたものか、と考えたそのとき、さっき並ぼうか迷ったものがひとつだけあったことを思い出した。
そうだ、さっきアメリカンウォーターフロントを歩いたとき、アメリカっぽい街並みにけっこうワクワクしたじゃないか。
そして、ブロードウェイ・ミュージックシアターで演奏するというスウィングジャズに、ちょっと惹かれたじゃないか。
音楽の公演だったら一人でも淋しくなんかならない。よし、あそこに行ってみよう。ビッグバンドビートを聴いてみよう。

 
L: プロメテウス火山からアメリカンウォーターフロントに出るルートは、なかなか眺めがいい。
R: メディテレーニアンハーバーを眺める。この広大な水場をショウの舞台空間にする発想は凄い、とあらためて思う。

一度がっつりと歩いているので、マップを見なくてももう大丈夫。十分に下見としての仕事は果たしたのだ。
エレクトリックレールウェイの高架に再びウハウハすると、ブロードウェイ・ミュージックシアターに到着だ。
ビッグバンドビートの公演のほぼ45分前だったが、行列はなかなかの延び具合になっていた。今度は迷うことなく並ぶ。
15分くらい経って中への移動が始まる。少し迷ったが、2階席から全体を見渡すことにした。
運よく2階席の一番前、しかも真ん中に入ることができた。目の前の手すりが少し邪魔だが、前屈みになれば大丈夫だ。

 ブロードウェイ・ミュージックシアター。ニューヨークの旧ニューアムステルダム劇場がモチーフだと。

さすがに歩き疲れていたようで、気がつけば寝ていた。しかし開演直前に、何ごともなかったかのように目が覚める。
われながら便利な体である。幕が上がると白いタキシードに身を包んだ男性シンガー2人が登場し、
ビッグバンドの演奏をバックに『It Don't Mean a Thing (If It Ain't Got That Swing)』を歌い出す。
(しかしつくづく、『スウィングしなけりゃ意味がない』という邦題はすばらしい訳だと思うわー。)
僕が想像していた以上に、生演奏のスウィングジャズはたまらない。生音の臨場感に、一気に引き込まれる。
歌だけでなくタップダンスでのリズムもあって、聴いていて思わず体が動き出す。これはもうガマンできない。
女性のシンガーやミッキーをはじめとするディズニーキャラクターも登場し、舞台はどんどん華やいでいく。
でも僕はビッグバンドの生演奏だけで十分に満足だ。『Chattanooga Choo Choo』や『In the Mood』、
最後には『Sing Sing Sing』など超有名なナンバーも飛び出して、ディズニーシーに来てよかったと心から思ったよ。
ショウじたいもキャラクター主体で子どもが楽しめる要素があり、大人向けの骨太なジャズの要素もしっかりあり、
誰もが楽しめるようにしっかりと構成が練られている。アメリカの本場で鍛えられたショウをこれだけ手軽に楽しめるとは。
『Sing Sing Sing』ではミッキーがドラムスを実際に叩いてみせるし、踊ってみせるしで、うらやましくってしょうがない。
最後に幕が下りる際にはさっきの白いタキシードの2人がスライディングで鮮やかに締めてみせるなど、
完成されたショウビジネスの方法論をこれでもかというほどに見せつけられた。やっぱりディズニーは凄いわ。
かつて『上海バンスキング』(→2010.2.23)を観たとき、演劇の魅力をスウィングジャズの魅力が上回ったのを感じたが、
ビッグバンドビートのパフォーマンスもやはり、観客が見事に巻き込まれていた。スウィングには不思議な引力がある。

そのままフラフラとディズニー文具の専門店(やっぱりここも文具ブームですかね)へ行ってみる。
基本的にはやっぱりお子様向けというか、ゴテゴテしているキャラクターグッズが多く、これといって惹かれない。
キャラクターのクリアファイルをまとめて売っていたのだが、なかなか悪くないデザインのものがチラホラ。
でも突き抜けて「これはいい!」というところまで来ていたものはなかったので、今回は買わないでおくことにした。

店から出ると、今まさに水場でのショウが始まらんとしているところ。「レジェンド・オブ・ミシカ」というらしい。
あらためて洗練されたショウとして見てみる。噴水に花火を豪快に使っており、そこに水上オートバイまで登場。
この大騒ぎを毎日やっているわけか、と呆れてしまうが、スケールがどでかいだけに迫力は満点。
そのうちに動物をイメージした趣味の悪い船で(ファンタジー要素を持たせるとはいえなんとかならんか)、
ミッキーたちキャラクターが登場。船に乗り込んだダンサーの皆さんがまずキャラクターに先立って上陸し、
見事に踊りを披露する。その身体の動きに、ショウビジネスの妥協のなさ、厳しさをあらためて実感する。

  
L: ネズミの親分が新しいコスチュームで再び登場。それにしてもこのデザインはなんとかならんのか。
C: 上陸してダンスを繰り広げる皆さん。すげえなあ。  R: 水場は水場でこんな感じの大騒ぎ。水上オートバイは凧を揚げるし。

さっきのビッグバンドビートも実に見事だったが、このショウも素直にすばらしかった。
ディズニーシーお一人様は拷問でしかないと思っていたのだが、それはアトラクションだけで考えた場合のこと。
単なる遊園地と違い、ディズニーにはどんな客層も楽しませる要素があるのだ。すっかり感心させられてしまった。
そんなわけで、結果として僕はふてくされてさっさと帰ることなく、しっかりとディズニーシーを一人で堪能したのであった。
最初は本当にどうなることかと思ったけど、満足感が得られてよかったよかった。社会学的な興味関心は大事だね。

  
L: 「レジェンド・オブ・ミシカ」で登場したチップとデール。  C: 女の子に囲まれて鼻の下を伸ばしている子持ちのオヤジ。
R: ディズニーで掃除をしている皆さんって、こういうスキルも持っているのか! 本当にとことん凄いわ。

もう一度ビッグバンドビートの公演を見ようか本当に迷ったのだが、もし飽きて感動が薄れたらもったいない気がして、
また次の機会ってことにした(ライヴの音楽だから飽きなかっただろうけど)。今度はお一人様じゃないといいんだけどねえ。

ゲートを抜けると、朝のとんでもない行列がウソのような光景となっていた。人影がまばらなのだ。
ディズニーシーステーションからモノレールに乗り、舞浜駅まで戻る。これで乗りつぶし完了である。
ちなみに先ほどは書かなかったが、ディズニーリゾートラインの車両は窓がミッキーになっているだけでなく、
つり革までもがミッキーで驚いた。ディズニーは本当にどこまでも徹底している。最後まで圧倒されっぱなしだ。

  
L: ディズニーシーステーションにて。モノレールの軌道はこんな感じですかなるほどなるほど。
C: 車両の中はこんな感じ。シートの形が実に面白い。網棚もないのね。  R: ミッキーつり革。恐れ入りました。

こんな感じで下見はおしまい。一人で行った分、社会学的な興味関心で冷静にいろいろ見ることができたかなと思う。
楽しさとしてはもちろん100%にはほど遠いのだが、でも十分に満足させてもらいました。今度、みんなで行こうぜ!


2012.2.8 (Wed.)

横浜DeNAベイスターズの誕生については特に興味を持つこともなく日記ではスルーしてきたのだが、
監督に就任した中畑があまりにもハッスルしているので、こりゃもう書くしかないな、ということで取り上げる。

工藤との交渉が決裂して監督が中畑に決まった瞬間、世間は「ダメだこりゃー!!」という声の嵐であった。
しかし当の中畑はまったく気にすることなく、現役時代とまったく変わらない絶好調ぶりを見せつけ続けた。
世間は彼のパフォーマンスを失笑で迎える。またアイツが何かやってるよ、ちょっと笑ってやるか、そんな感じ。
そしてそのまま2月になりキャンプイン。中畑はいち早くインフルエンザに感染してリタイア第1号となり、
ホテルのベランダから練習の様子を見たり報道陣にアピールしたりでやっぱり変わらず絶好調。
そしたら世間の評価もついにポジティヴなものへと変わってきた。これは本当に凄い!と僕は心底感心しているのだ。
(世間のネガティヴな評価が一度ついたら止まらなくなっている現状については、いずれきっちり書くことにする。)

ヤクルトのことじゃないから言えるのかもしれないが、僕は中畑監督は大いにアリだと思っている。
12球団にひとりくらい、ああいうタイプの監督がいないとプロ野球は面白くないのだ。これは絶対にそうだ。
中畑に野村や落合みたいな能力を期待できるわけがない。でも、別の能力は大いに期待できるんじゃないかと思う。
それは、部下が気持ちよく仕事ができる上司としての能力だ。そう、監督本人はまるっきり無能でも構わないのである。
コーチ陣のバランスをとり、彼らが持っている力を100%発揮できるようにして、自分は何もしない人。
実はそれって、リーダーとして最もすばらしい適性と言えるのではないか。そして中畑にはその可能性がある。
毛利敬親(そうせい侯)のようにして、あれよあれよと勝っていく野球ってのは、それはそれでとても魅力的だと思うのだ。
野球の理屈ではない部分は、現代では非常に少ないのかもしれない。でもその部分だけのエキスパートがいてもいい。

そんなわけで、僕は中畑にはぜひともある程度いい成績を残してほしいと思っている。
そういうポジティヴな世の中であってほしいと願っているのだ。ね、悪くないでしょ、中畑監督って。


2012.2.7 (Tue.)

立川談志『現代落語論』。談志師匠が亡くなった(→2011.11.23)ことで大増刷。すいません、つられて買いました。

初版は1965年。時に談志、29歳。芸の道を邁進する男が三十路を前に思いの丈をぶちまけた本である。
カタいタイトルがついているが、中身はそれまで談志が目にしてきた落語の世界について自由に書かれており、
落語で鍛えられた軽妙なリズムがしっかりと文の中にも生きていて、非常に読みやすい。
そして内容は落語という絶対的な中心を持ちつつも幅広い。すべてを落語にフィードバックしようという執念が凄まじい。

この本は全編を通して、ひとつの確固たる姿勢が貫かれている。それは、腕の確かな芸人としての矜持だ。
彼は一生を落語に捧げる覚悟ができていて、きちんと腕を磨いてきた一人前の芸人としての揺るぎないプライドがある。
だから談志はトピックとして扱っているものに対し、必ず自信を持って自分の意見を述べる。それだけでできている本だ。
この姿勢は本当に正しい。「自分はこういう経験をした、そして自分はこう考える。」論旨が実に明快なのである。

しかし彼のそのブレない姿勢は、落語をめぐる状況(それは社会状況そのもの)に対する強烈なペシミズムもまた生む。
自分の魅せられた/自分が表現する落語の世界と、客が生きている現代社会とのズレに、彼は苦悩する。
江戸末期に成立した芸である落語が違和感なく通用したのは昭和の初めまで、と彼は見抜いている。
その原因は、落語の世界にあったような人情が失われてしまったこと、現代の観客がなんでもかんでも笑おうとすること、
そういった社会の変化によるものだと見抜いている。さらにテレビをはじめとする新手のマスコミまで登場しようとしている。
現状を痛いほど理解したうえで、腕の確かなひとりの芸人として、自分は現代でどのように笑いを、落語を追求すべきか。
この問いを一身に受け止めて苦悩している。急速に時代が変化する中で戸惑いながらも、確固たる自信を見せながら、
それだけに苦悩を隠すことなく素直に語る。この苦悩が見事に言語化されているところに、彼の非凡さがうかがえるのだ。

冷静にこの本の占める位置を表現すると、「高度経済成長期に30歳になろうとしている天才が書いた記録」となるだろう。
唯一無二の時間に唯一無二の人間が残した苦悩の記録という点で、これは本当に価値のある本だと思う。
特に凄いのは、落語家としての個人の問題を扱うが、それが現代に対する鋭い分析という普遍性を持っていることだ。
29歳の談志が見ていたものは、そうとうに大きなものだった。複雑に入り組み抗うことのできない現実を前に、
自分の技術だけを武器にして切り込んでいこうとする彼の姿が目に浮かぶ。凡人はもう、それだけで圧倒されてしまう。


2012.2.6 (Mon.)

今日はインフルエンザの病み上がりということで、生徒たちも「おっ、マツシマが復活したぞ」と興味津々な感じ。
で、ムダにサービス精神旺盛な僕はそれに応えて、しっかりとマスクをつけて、
「おいお前らちゃんとオレみたいにマスクをつけないとダメだぞ! インフルエンザにかかるぞ!」と言ってまわった。

 みんな、インフルエンザ予防にきちんとマスクをつけよう!

そう、プロレスのマスクをつけて……。おでこにちゃんと「仙」って書いておいたから大丈夫。バッチリ受けてよかったよかった。

夜中になって、スーパーボウルを見る。今年はペイトリオッツとジャイアンツ。4年前と同じ顔合わせで、
そのときにはジャイアンツが勝った。ペッツのリヴェンジなるか、ということで注目度は高い対戦らしい。

試合が始まると、ペイトリオッツを押し込んだジャイアンツがなんとセイフティで先制する。こんなの初めて見た。
やはりスーパーということで緊張しているところがあるようで、ペッツは肝心なところで攻めきれない。
対するジャイアンツはパスにランにと多彩に攻める。そんな具合に第1Qはジャイアンツが優位に試合を進める。
しかし第2Qにペイトリオッツが地力を見せて逆転。やはりQBブレイディの実力はすごいもんだ、と感心させられる。

後半に入っても接戦は変わらない。ペイトリオッツがブレイディからのパスでタッチダウンを奪うのに対し、
ジャイアンツはフィールドゴールでしぶとくポイントを稼いで食らいつく好ゲームとなる。
となると、第4Qにやたらと強いQBイーライ=マニングが活躍。本当に、突然輝きだすような活躍ぶりで、
ペイトリオッツを再び押し込んでみせる。そしてついに残り57秒で逆転のタッチダウンを奪うが、
解説によると、これはペイトリオッツがわざと相手にタッチダウンさせたプレーだったんだそうだ。
ジャイアンツの得点で攻撃権が移るので、そこからの再逆転をあえて狙ったという。ぜんぜんわからなかった!

残り1分なくても攻めきれる、と考えたブレイディとベリチックHCの決断力は凄い。
そして実際にブレイディは落ち着き払ったプレーでゆっくりと相手陣内へと侵入していく。なんという強心臓だ。
だが時間は確実に削られていき、最後のプレーでブレイディはエンドゾーンにボールを放り込む。
両チームの選手が一気に集まり、全員がジャンプし、軌道に向かって懸命に手を伸ばす。
ペイトリオッツはキャッチしなければならないが、ジャイアンツは叩き落せばいいだけ。パスはインコンプリートに終わった。

1分、1秒という時間が極限まで圧縮されて濃密になった瞬間。それこそがアメフトの醍醐味だ(→2006.6.19)。
これはほかのスポーツでは味わうことのできない、アメフト特有の感覚なのだ。そのためだけにアメフトを好きでいる。
そして今年のスーパーボウルは、最後の一瞬まで気の抜けない、本当に見ごたえのある試合だった。いやー、すばらしい。


2012.2.5 (Sun.)

なんかどっかで誰かが取り上げていた気がするので『秒速5センチメートル』を借りて見てみた。
「桜花抄」「コスモナウト」「秒速5センチメートル」の短編アニメーション3本からなる連作。

第一話の途中で僕はもう呆れていたのだが、最後まで結局ダメなままで終わった。もう、見事なる時間のムダ。
ここまでひどい作品(正直これは「作品」と呼べるレヴェルに到達していないと思うが……)をつくった、その気が知れない。
褒めるところが何ひとつない。映像美を評価する声があるけど、それは風景描写の連続に完全にごまかされているだけ。
最後は山崎まさよしのPVになるし、もう、なんなんだこれは。全編をギャグとして捉えればいいのか? でも面白くないよ。

失敗している最大の理由は、対話(ダイアローグ)が存在せず、すべてが独白(モノローグ)でしかないこと。
だから出てくる言葉が本当に気持ち悪い。ひとりの人間の狭い脳ミソの中を延々と出し続けるだけ。絵でごまかしつつ。
(風景に比べて、人物の絵の下手さが凄まじい。この点からしても、きちんと人間を描こうという意識を感じない。)
他者がいない独白をずーっと続けられて、本当に辟易。結局、生きている人間をぜんぜん描けていないんだよな。
これを褒める人がいることが信じられない。そういう人は、もうなんというか、かわいそうだ。
そしてこんなどうしょうもないものを金を払ってわざわざ借りてしまったオレが一番かわいそうだ。


2012.2.4 (Sat.)

道満晴明『ニッケルオデオン』。
僕は酒を飲まないかわりにマンガやDVDなどでストレス解消をするわけだが、なんかいい具合に酔えるマンガはないか、
とフラフラ探していたところに目に入った。結論から言うと、求めていたものに対する完璧な答えを提供してくれた。やはり。

10年ほど前、熱海ロマンがまだバリバリ活動していた頃、潤平と僕は『快楽天』というエロマンガ雑誌にハマっていた。
いま振り返ってみても、そこは圧倒的な才能の集まっていた場所だったと思う。どのマンガも本当にレヴェルが高かった。
潤平はSABEさんを中心とするコミュニティに実際に飛び込んでいったほどだ(おかげで『串やきP』に出演しやがった)。
マンガソムリエの潤平にそこまでさせる勢いが、当時の『快楽天』にはあったのだ。僕も毎月かなり楽しみにしていた。
さてその『快楽天』をホームグラウンドにしたマンガ家で、僕が「この人にはハズレがない!」と思っていた人は何人かいた。
現在は金沢方面で活躍中のポヨ=ナマステさん(→2010.8.22)もそう。この人はバカバカしい方向で話を豪快に転がす。
そしてファンタジーというか、より想像力を寓話っぽい方向にもっていって意表を突く、ハズレのない人が、道満晴明だった。
『快楽天』に掲載する以上、エロがなければならない。道満晴明の作品にもちろんエロはあるが、それ以上に寓話だった。
僕はその想像力を大いに尊敬していて、「今回もいい話を書くなあ!」と読むたびに満足感をおぼえていた。
そう、道満晴明の作品は単なるエロマンガではなく、読者をストーリーで満足させるマンガだったのだ。

才能のきらめきは当時と何ひとつ変わらない。一般誌なのでエロはかなり除いているが、切れ味の鋭さは相変わらずだ。
われわれには「非常識」な身体を軸にした発想も当時のまま。その設定を押し進める想像力に、優しさとイジワルさを加え、
8ページの物語が紡がれていく。これはもう、ずっと読んでいたい種類のマンガだ。作者の想像力にひたすら揺られたくなる。
『ニッケルオデオン』というタイトルもまた絶妙で、作者のスタイルの到達点であるこのマンガにとてもふさわしい。
マネのしようがない、作者にしかつくれない世界がとてもていねいにつなげられていく。
このまま、ずっとどこまでも延々と続いていってほしい。


2012.2.3 (Fri.)

朝、マスクをきちんとつけて職場に行ったのだが、まだ休んでろ!と周囲からさんざん言われて結局、強制退去。
それでも今週末に予定しているサッカー部の練習試合についての段取りをまとめる仕事だけはさせてもらう。
と同時に、昨日知ることができなかった生徒の合格状況を教えてもらう。出願したうちの約45%が合格。
これはすごい。合格したやつはよくがんばった。合格しなかったやつもがんばった、けど切り替えて進め。

それにしてもいよいよ生徒たちのインフルエンザの感染ぶりはひどくなってきており、1年生から2年生に広がりつつある。
まるでドミノ倒しのような感じである。……って、倒れたオレが言ってもしょうがないんだけど。ホント、どこでうつされたのか。
これが3年生に飛び火するとめちゃくちゃなことになるってのを身をもって体験したので、無事をひたすら祈るのみである。

午後になって家で寒さに耐えながら寝ていたら(今朝は沖縄以外の全都道府県で氷点下になったそうだ。寒すぎ!)、
インフルエンザの感染を予防するため、週末の部活と練習試合を強制的に中止にします、と連絡が入った。
もう本当にがっくり。練習試合、みんな楽しみにしていたんだがなあ。テスト明けにまた組ませてもらうか……。


2012.2.2 (Thu.)

今日が都立の推薦入試の発表日だったのだが、何がどうなったのか僕だけ一切関知していない状況。
インフルエンザで隔離中とはいえ、これってどーよ。


2012.2.1 (Wed.)

熱は下がりはじめたが筋肉痛がけっこうあり、頭もぼんやりと痛い。何より気力が出てこないので、ただ寝ているしかない。
買い物のために外へ出てしまえばわりとスイスイ動けるのだが、まずベッドから起き上がるところまで持っていくのがつらい。
体をしっかり起こすまでが本当につらいのだ。で、外に出ると天気がいいことで気分的にごまかせてはいるものの、
無理やり体を動かしていることには違いないので、家に戻るとくたっとなってしまう。そのままぐったり寝続ける。
前に新型インフルエンザにかかったときには症状が軽くて軽くて仕方がなかったが(→2009.10.312009.11.1)、
今回はがっつりとやられた。土日や祝日を挟むこともない月曜日からのKO劇だったのも痛かった(周囲に迷惑が……)。
いろいろとダメージの大きい悲惨な状況になってしまったので、ぜひしっかりと反省して来年以降に生かしたい。とほほ。


diary 2012.1.

diary 2012

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