diary 2015.12.

diary 2016.1.


2015.12.31 (Thu.)

実家に帰るとだらしない生活をしておるわけです。遅く起きて日記テレビ日記テレビメシ。

ニュースを見たら、JR高徳線で脱線事故が発生したとのこと。映像を見て「これ、オレンジタウン駅の辺りじゃね?」
と言ったらテロップが出て、まさしくそのとおり。そしたら母親が気持ち悪そうに僕のことを見るのであった。ひどくね?

毎年恒例の年越し麻雀である。今年は熱心な観客がいた。どうも潤平があることないこと嫁さんに吹聴した模様。
なぜか母親が持ってきた「黒ひげ危機一髪」で最初の親を決めてスタート。なんで黒ひげだったのかいまだにわからん。

 ピノを食ったらレアな星形が出た。これでツモもよくなるはず!

ということで国士無双をイーシャンテンまでもっていくが、結局和了れないのであった。無念である。


2015.12.30 (Wed.)

昨日に引き続き福井の神社めぐり……なのだが、本日の最初の神社は石川県なのだ。加賀国二宮だ。
北陸本線で石川県に入った最初の駅が大聖寺駅で、ここから徒歩圏内にある菅生石部神社に参拝するのである。
公式サイトの地図では加賀温泉駅が最寄駅のような描き方をしているが、実際には大聖寺駅の方が近い。
そして大聖寺駅は加賀市役所の最寄駅なので、参拝がてら市役所も押さえておこうというわけなのだ。

8時半前に大聖寺駅に到着すると、のんびり歩いて大通りを北へ。まだ時間が早いので、市役所撮影は後回しだ。
街中にはやたらと寺が多い。しかもみんなお堂の規模が大きい。加賀国といえばなんといっても一向一揆だが、
その影響だとしたらすごいものだ。なんとなく「浄土真宗」「真宗」という表記が目立っていた気がするなあ。
「く」の字に曲がる県道を北へ進むと大聖寺川。そのまま川沿いに東へ行くと、菅生石部神社である。

  
L: 菅生石部神社。  C: 神門を見上げる。1825(文政8)年築とのこと。  R: 境内。すでに初詣モードである。

境内はすっかり初詣モードとなっているが、朝早いので人の姿は少ない。天気もかなりよくなってきたので、
気分よく参拝する。拝殿付近は空間的にちょっと窮屈な印象。拝殿じたいもなんだか壁っぽく感じる建物である。

  
L: 拝殿。  C: 手前はあまり空間的に余裕がない感じ。拝殿も壁っぽい。  R: 裏手にまわり込んで本殿を眺める。

なお、京都にある「わら天神」こと敷地神社(→2015.7.26)は、こちらの菅生石部神社を勧請した神社である。
あちらは御守がちょっと特殊だったが、菅生石部神社の御守はごくごく一般的なものだった。よかったよかった。
拝殿の向かって左側には敷地稲荷社があり、両者の関係性をうかがうことができる。この地名が京都に移ったのね。

 
L: 拝殿のすぐ脇にある、敷地稲荷社への入口。  R: 鳥居をくぐるとこんな感じである。

帰りは菅生石部神社からまっすぐ南下して加賀市の市街地へ。大聖寺川の南側には県立大聖寺高校があるが、
大聖寺藩をイメージしたという校門が少し独特だった。もともとここは藩主・前田家の屋敷だったとのこと。
そんな具合に、加賀市の中心部は大聖寺藩の城下町ということで、往時の雰囲気を漂わせた街並みとなっている。
菅生の交差点から弓町へ入ると、行く手にかなり強烈なカーヴが現れる。絶対これカーヴだから「弓」町だろ、
と思いながら歩いていくと、少し細い道に分岐して、これが荒町。この辺りはかつての街道の感触がそのまま残る。
メインストリートの県道19号へ戻ると、その先は整然とした町人地が宅地化した空間となる。特徴的で面白い。

  
L: 少しわかりづらいが、弓町の豪快なカーヴ。なるほどこりゃ「弓」だ、と大いに納得するのであった。
C: 弓町から直進すると荒町。この辺りは北陸街道の雰囲気そのまんま。  R: 駅からまっすぐ、県道19号。

城下町において寺は防御拠点として整備された背景があるものだが、大聖寺の場合はそれだけと思えない迫力がある。
さっきも上で書いたけど、とにかく規模の大きいお堂が街のあちこちにあるのだ。しかも北陸で寒いからか、
お堂はどれも屋根の下が板などで覆われており、ずんぐりとした形状となっている。かなり独特な景観なのである。

  
L: 願成寺の山門。大聖寺の寺はお堂も迫力があるが、山門も立派なのだ。  C: でも本堂はこんな具合である。
R: 県道19号からだと非常に目立っている毫摂寺の本堂。どうやらこれが大聖寺のお堂スタイルであるようだ。

  
L: 専稱寺(専称寺)山門。これまた見事。  C: 本堂。ガラス張りだぜ。  R: 中を覗き込んだらこんなん。

街並みや寺の威容に感心した後は、いよいよ加賀市役所の撮影である。旧国名による「加賀」市ということで、
いかにも平成の大合併でできた市名っぽいのだが、大聖寺町を中心に加賀市が誕生したのは1958年である。
2005年に新設合併して新たな加賀市となっているが、「加賀市」としての歴史はそれなりにあるのだ。

  
L: 加賀市役所。規模がけっこう大きい。  C: エントランス部分を正面より眺める。  R: 中を覗き込んだところ。

加賀市役所の竣工は1960年。1989年には別館が建てられており、2011年に耐震補強・改築工事が完了している。
調べてみたら、1960年の竣工当時から規模はそのままだった。四角い補強が付いたことで印象が変わっているが、
基本的な部分は昭和の庁舎のままなのである。駐車場の面積がしっかりあるのも、平成っぽい価値観である。

  
L: 少し角度を変えて正面と側面を眺める。  C: 距離をとって眺める。駐車場が広い。  R: 背面はこんな感じ。

加賀市というか大聖寺の中心部は城下町の風情を残しながらも、市役所のためにしっかりと駅前に大空間があって、
街づくりがどのように行われてきたのか少し不思議に思える。江戸時代からどのように近代化したのか知りたい街だ。

  
L: 消防車や救急車が入っているが、これが別館ですかね。  C: 東側から側面を眺める。  R: これで一周。

大聖寺を後にすると、福井県に戻って芦原温泉駅で下車。前にここから東尋坊へ行ったことがあるが(→2010.8.21)、
今回はそこまで行かず、徒歩であわら市役所へ向かう。ちなみに芦原温泉駅から温泉街までは5km弱の距離がある。
えちぜん鉄道・あわら湯のまち駅の方が近い。今回も芦原温泉に浸かれなかったと思いつつ10分ほどで市役所に到着。

  
L: あわら市役所(旧金津町役場)。  C: 何の飾りっ気もない庁舎である。  R: エントランス部分を眺める。

あわら市は芦原町と金津町が合併して2004年に誕生した。当初は分庁舎方式をとっていたとのことだが、
現在は1976年竣工の旧金津町役場をあわら市役所としている。本当に飾りっ気のない箱といった建物だ。
1985年には改築工事が行われたとの記録があるが、その後さらに改修をしているようで、小ぎれいである。

  
L: 中を覗き込んだところ。  C: 敷地内から眺めた正面と側面。  R: 裏側にまわる。駐車場を挟んで南西より。

特徴的なのは、市役所の駐車場の隣にプールらしきものがあること。水どころか屋根すらないので廃墟かと思ったが、
それにしてはちょっときれいである。もしかしたら季節限定で運営しているのかもしれない。今は真冬だもんな。
もともとは体育館施設だったようだが、市役所のすぐ隣に剥き出しのプールというのは珍しい。温泉引けば面白いのに。

  
L: あわら市役所の背面。左手にプールが。  C: 北西より眺める。光の加減で撮影するのがつらいのであった。
R: プールは鉄骨を残して屋根がない。夏になったら幌でも張るのか。それはそれですごく面白い仕組みだと思う。

駅に戻る途中、公共施設が集まっている一角を撮影してみる。1969年竣工と思われる中央児童館が妙にモダンだ。
こういう昭和を感じさせる公共建築は減る一方である。だいぶ汚れているが、よく残しているなあと思うのであった。

 
L: 中央児童館・社会福祉センター。  R: すぐ隣にある中央公民館。こちらは1983年竣工のようだ。

正午に福井駅に戻ってくる。駅舎をよく見たら恐竜の絵が描かれていた。昨日の工事看板といい、かなりの恐竜推しだ。
9年前にはぜんぜんやる気がなかったのに(→2006.11.4)。そういう意味では、福井がいちばん変化した街かも。

 観光に目覚めた福井。9年前からすると信じられないやる気っぷりである。

午後はレンタサイクルで福井市内の残りの神社をガンガン攻める。駅に近いホテルで手続きをして自転車を借りると、
まずは足羽川を渡り足羽山方面へ。手始めに毛谷黒龍(けやくろたつ)神社に参拝。境内入口は少しひっそり感があり、
石段を上ると山腹に貼り付く感じで社殿がある。歴史があるわりには簡素で、なんともちょっと独特な印象を受ける。

  
L: 毛谷黒龍神社の入口。初詣モードじゃなかったら、うっかりスルーしていたかもしれない。なんかちょっと独特。
C: 石段を上って拝殿前に出る。 簾だか何だかで包まれているのがまた独特。  R: 本殿。山腹にめり込んどる。

毛谷黒龍神社から南下すると、すぐに藤島神社の入口である。石段はここからぐるりとまわり込むようになっており、
上っていくと道路があって、ラストスパートで上がりきると広場のような境内に出る。小高い丘の上の神社なのだ。

  
L: 藤島神社への入口。広いのはいいが、鳥居の先は小学生たちの遊び場となっていた。ドッジボールに夢中。
C: 石段を上る。ぐるりとまわり込んで山を登っていくのだ。  R: 上りきると少し開けた境内に出る。社殿はこの先。

藤島神社に祀られているのは新田義貞だ。明治になって南朝をメンバーを祀った、いわゆる建武中興十五社のひとつ。
「藤島」とは義貞が戦死した場所の地名。彼が使ったとされる兜が発見されたことで祠が建てられ、後に神社となった。
1901(明治34)年に街を見下ろす高台の現在地に遷った(藤島はもっと北で、えちぜん鉄道・八ツ島駅の辺り)。

  
L: 藤島神社の拝殿。  C: 角度を変えて眺める。  R: 本殿。なお、御守の種類はなかなか多かった。

位置エネルギーを開放するのがもったいないので、なんとかそのまま山の中の道を進んで足羽神社へと向かう。
足羽神社は継体天皇(男大迹王)が大宮地之霊(坐摩神)を勧請してできた神社。後に継体天皇が主祭神となる。

  
L: 足羽神社の横参道入口。  C: 下り坂に面する表参道入口。  R: 境内と拝殿はこんな感じである。

表参道からだとかなり厳しい逆光で、なかなかすっきり写真が撮りづらかった。公園っぽい境内なのが特徴的。
でももっと面白いのが神紋で、日・月・星を丸で囲んだ「三光紋」というそうだ。神功皇后の旗の紋にちなむとか。
御守の神紋は菊紋・葵紋・巴紋が圧倒的に多いので、個性のある神紋が描かれているとそれだけでうれしくなる。

 足羽神社は高台にあるので、手前から福井の市街地が一望できる。

表参道から坂を下ったらいきなり石段に変化。しょうがないので方向転換してぐねぐね曲がる道を下って平地に戻る。
足羽川の右岸に戻ると、北の庄城址である柴田公園へ。当然、以前も来たことがあるのだが(→2006.11.4)、
あらためてきちんと柴田神社に参拝するのであった。9年前にはお市の方と三姉妹の銅像はなかった気がするけどなあ。

  
L: 北の庄城址・柴田公園。  C: 城跡であり公園であり神社であるという見事な複合ぶり。  R: 柴田神社。

ここは久しぶりに訪れたのだが、城郭の遺構らしさもあるし、公園としてしっかり整備されてもいるし、
神社としてもきちんとつくられている。3つの要素がかなり均等に混じっていて、非常に興味深い空間である。
すぐ隣には福井市の中心市街地があるので、それも意識してのオシャレ整備がまた効いていると思う。

  
L: 柴田神社の本殿。  C: 柴田勝家像。これは9年前にも撮ったな。  R: お市の方と茶々・初・江の三姉妹像。

あらためて市街地(北)側から神社として境内まで歩いてみたのだが、いかにも街の神社といった雰囲気がする。
それに対して足羽川(南)側からアプローチすると城跡の公園っぽさが強調される。やっぱり面白い。

 
L: 柴田公園というよりは柴田神社の境内入口。市街地から来るとこうなっている。
R: 市街地に面した鳥居。城跡でもあるのに、路地を抜けるようになっているのがまた面白い。

さて、実は昨日も訪れている福井神社をあらためてきちんと紹介しよう。青空の下であらためて撮ったのだ。
今回、福井市内の神社をあちこち参拝してみたが、その中でいちばん衝撃的だったのは、この福井神社なのだ。

  
L: 福井神社の鳥居。堀に沿って進んでいくとぶつかる。  C: 参道は鳥居をくぐってから左に曲がる。これは手水舎。
R: 参道からまっすぐ社殿を見たところ。鳥居と冠木門の中間のようなコンクリート構造物がある。これ、神社ね。

福井神社は、福井城址である福井県庁の堀を挟んだ北西に鎮座している。祭神は松平春嶽こと松平慶永だ。
1943年の創建と非常に新しいが、2年後の福井空襲で総檜造りの社殿が焼失してしまう。そしてご存知のように、
福井の街は1948年にも福井地震と九頭竜川による大洪水というとんでもない大災害に見舞われた(→2006.11.4)。
結局、福井神社の再建は1957年まで待たねばならなかった。そして空襲や災害の経験があったからなのか、
できあがった新しい社殿はなんと、コンクリートによるモダニズムなのであった。これはかなり衝撃的である。

  
L: 社務所はこれとは別にあるのだが、境内にあった建物。  C: 絵馬殿と言えばいいのか、絵画が収められた建物。
R: 摂社の恒道神社。幕末の福井藩士である中根靱負・鈴木主税・橋本左内を祀る。神社らしさをきちんと感じさせる。

設計は福井大学工学部。伝統的な神社建築を当時の最先端であるコンクリートで再解釈した意欲がものすごい。
こんなの神社建築とは認めねえ、という意見もあって当然だと思うが、僕としてはこの事態をかなり好意的に捉えている。
まず、創建が1943年と新しいことによる冒険心。そして祭神が松平春嶽という進取の精神を体現する人物であること。
何より、壊滅的な被害を受けた福井市民の復興への情熱と災害への対抗心がデザインに現れているではないか。
この「ありえない」社殿からは、そういった福井の歴史が濃厚に刻まれているのだ。それを感じ取らねばなるまい。
もちろんモダニズムのデザインとしても一定の成果が出ている。僕はこれをDOCOMOMO級の価値があると思うんですが。

  
L: 福井神社の拝殿。正統派モダニズムで神社建築を再解釈した意欲作だ。  C: 角度を変えて拝殿を眺める。
R: 本殿を覗き込む。徹底してモダニズムなのだ。本殿に至るまでの幣殿も、改修されているとは思うが、面白い。

時間的な余裕がいつもよりあるので、のんびりと福井神社の境内を見てまわる。やっぱり、見れば見るほど面白い。
1950年代というのは、コンクリートが建築素材として一気に発達していく時代で、その痕跡もまた読み取れる。
ベクトルは違えどもこれはある意味、木造で伝統にのっとってきっちり建てるのと変わらない「思い切り」がある。
僕自身は神様を信仰するつもりはあんまりないけど(神頼みくらいだ)、他人の信仰心じたいは尊重したいと思う。
つまり神様そのものよりも、神様を信じる人間の心理や意志に価値を感じているわけだ。あなたまっすぐですね、と。
そしてモダニズム精神あふれる福井神社からは、強烈な意志を感じる。その点において、僕は福井神社が大好きなのだ。

  
L: ちょっと失礼して拝殿内を撮影。どこまでもモタニズムなのであった。  C: 本殿の背面。  R: 祭神・松平春嶽の像。

午後になってバスで名古屋へ向かい、晩飯を食うと再びバスに乗って飯田に戻る。名古屋はハブな都市だなあ。


2015.12.29 (Tue.)

今年の帰省は福井県に寄り道するのだ。実は別表神社がいっぱいあるので、それらの御守を頂戴しておくのだ。
ムーンライトながらに揺られて大垣までたどり着くと、米原から北上してまずは敦賀へ。敦賀といえば氣比神宮だが、
御守はすでに頂戴済みなのだ(→2014.12.13)。しかしうっかり金崎宮(かねがさきぐう)をスルーしており、
それをきちんと押さえないといかん、ということでやってきたのである。駅周辺の工事が終わったことにまずびっくり。

 新しくなった敦賀駅周辺。オシャレなもんですね。

敦賀の街はかなり広い(→2010.8.202014.12.13)。雨の中トボトボ歩くのはつらいので、バスを頼ることに。
駅舎内の広場でコンビニメシを食いつつ、インターネットを駆使してバスのスケジュールを素早く組み立てる。
その後はバスの時間まで、置いてあるテレビをボケーッと見て過ごす。なんとも冴えない旅の始まり方だなあと思うが、
こればっかりはもうしょうがないのである。自分の置かれている状況をポジティヴに捉えるしかないのだ。

コミュニティバスに揺られて金ヶ崎宮口というバス停で下車するが、これが意外と手前。結局小走りで港まで出た。
運よく雨はあがってくれていて、手早く敦賀赤レンガ倉庫を撮影する。1905(明治38)年の築で、さすが港湾都市。

  
L: 敦賀赤レンガ倉庫。もともとは石油貯蔵用の倉庫として建設されたが、軍の備品倉庫や昆布貯蔵庫としても使われたそうだ。
C: 南北2つの棟がある。  R: この10月に北棟がジオラマ館、南棟がレストラン館として開業。オープンスペースも充実。

赤レンガ倉庫から金崎宮へはそのまま直進して行けそうだが、実は行けない。これに引っかかって少々時間をロスする。
実際には東側からまわり込んで、そのまま山沿いに石段を上っていくことになるのだ。案内板を出してほしい……。

  
L: 赤レンガ倉庫の辺りから眺める金崎宮。置かれたコンテナが「通れねえぜ!」とアピールしているかのようだ。
C: 東からまわり込まないと金崎宮には行けない。社号標も妙な向きである。  R: 石段を行く。濡れてて怖いぜ。

石段を上りきると、さほど広くない平地をそのまますっぽり境内にした密度で社殿が配置されていた。
金崎宮は後醍醐天皇の皇子・恒良親王と尊良親王を祀る。尊良親王は直方市(→2015.11.22)の名の由来の人だ。
ふたりとも金ヶ崎城で新田義貞とともに足利方と戦うが、兵糧攻めの末に尊良親王は自害し、恒良親王は捕まった。
明治になって、建武中興十五社ということで金崎宮は創建された。でもなぜか「難関突破と恋の宮」で売っている。謎だ。

  
L: 境内は山の中にある平地いっぱいを使っている印象。  C: 拝殿。  R: 奥に本殿。1906(明治39)年の再建。

帰りはけっこうタイトで、小走りで氣比神宮まで戻って敦賀駅行きのバスに乗る。敦賀の街は本当に広いんだよ。
駅に着いて10分後に北陸本線が動き出す。そこから19分後に下車。早朝の暇っぷりが信じられない慌ただしさだ。

降り立ったのは武生(たけふ)駅である。ここから30分ほどバスで揺られたところに次の目的地があるのだ。
その名も「織田(おた)」。ちなみに武生駅は越前市で、織田は越前町。平成の大合併は本当に低レヴェルで困る。
織田はもともと織田町という独立した自治体だったが、2005年に合併して越前町の一部となっている。
バスターミナルで下車して建物の前に出ると鳥居を模したファサードとなっており、中央には銅像が立っている。
どちらも織田を象徴する存在をモチーフにしている。鳥居は劔神社、銅像は織田信長。そう、ここは織田氏発祥の地だ。

  
L: 織田のバスターミナル。鳥居と銅像。  C: 銅像は織田信長。これは安土型ですな(→2015.8.7)。
R: バスターミナルから劔神社へと向かう。どうやらこれが織田のメインストリートみたいね。

5分ほどで劔神社に到着。観光バスでやってきたグループがおり、ちょうどいいやと一緒になって説明を聞く。
もともと織田氏はこの劔神社の神官で、守護大名の斯波氏が「こいつ有能だー」ということで家臣にしたそうで、
越前のほかにも所領としていた尾張に守護代として派遣したら戦国大名化して下剋上されちゃった、とのこと。
劔神社の主祭神は素盞嗚尊であり、スサノオといえば牛頭天王と習合した祇園信仰である。スサノオ系の神紋は、
「左三つ巴」と「五瓜に唐花」。織田氏の家紋はまさに「五瓜に唐花」で、なるほどそういうことかと納得。

  
L: 劔神社、南側の鳥居。  C: 境内はこんな感じ。年末年始モードだ。  R: バスターミナルのある東側の鳥居。

劔神社は越前国二宮とされている。スサノオの力を宿した剣をご神体としたことでその名になったのだろう。
その剣で戦った忍熊皇子も越前国を開拓した祭神として祀られているが、記紀では神功皇后・応神天皇に敗れており、
前後の経緯はよくわからない。神社の歴史は古すぎて追っかけるのが本当に大変だ。空間もけっこう飛ぶし。

  
L: 劔神社の拝殿。1847(弘化4)年の建立とのこと。  C: 角度を変えて眺める。美しいな。
R: 本殿は江戸時代の築ということしかわかっていないが、1627(寛永4)年にはすでにあったそうだ。

御守はいちばんふつうのやつをお願いしたら、「勝運御守」を勧められた。やはり信長効果は絶大なのである。
黒い色が本当に強そうな雰囲気が漂う。もちろん織田氏の家紋でもある「五瓜に唐花」が描かれていた。

  
L: 本殿脇の織田神社。八幡宮の別称があるが、祭神の応神天皇は忍熊皇子を倒した人なんだけど……いいの?
C: 旧神前院護摩堂。劔神社の神宮寺・織田寺の護摩堂として1675(延宝3)年に建てられたそうだ。立派。
R: 西側の林の中にも末社があって独特な雰囲気。雨のしっとり感がよけいに神秘的な空気を醸し出す。

帰りのバスは武生駅までは戻らず、市街地のアーケード商店街で下車する。真ん中に総社大神宮があるので参拝。
ずいぶんいいとこ取りな名前だなあと思うが、越前国総社に神明神社を合祀したのでそうなったわけで。
総社があることからも理解ができるが、越前国の国府はこの武生にあったと考えられているそうだ。

  
L: 総社大神宮の境内入口。  C: 長い参道の先に拝殿。  R: 本殿。社殿は1926(大正15)年の築とのこと。

市街地をふらふら歩いてみたのだが、昔ながらの都市構造がしっかりと残っており、非常に興味深い場所だ。
1948年に武生市が誕生したが、2005年に越前市になってしまった。「武生」のままであれば個性が見えたが、
確かに国府はあったかもしれないが「越前」という曖昧な名称にしてしまったせいで、街もぼやけて感じられる。
「武生の街並み」は言葉として成立するが、「越前の街並み」は成立しないのだ。本当にもったいないことをした。

  
L: 総社大神宮の手前にある一角。近代以前の街路がそのまま残る。  C: 商店街の真ん中にある食い違い。
R: その東側にも食い違い。これはしっかり時間をかけて歩くべき街だったか。駅周辺しか歩きまわれなかった。

駅から見て南西にあるのが武生公会堂記念館だ。ここはかつて越前国府があったとされる場所であり、
江戸時代には藩校・立教館があった。そして1929年に昭和天皇の即位を記念して武生町公会堂が建てられた。
1933年からは1階に武生町役場が入り、役場と公会堂が共存するというかなり珍しい施設として機能していた。
やがて1955年に現在の越前市役所でもある武生市役所が建設されたが、公会堂としては1990年まで使われた。

  
L: 武生公会堂記念館(旧武生町公会堂)。現在は越前市の博物館施設となっている。よく残したものだ。
C: 正面より撮影。この少し窮屈な感じが昔の都市構造の影響を感じさせる。  R: 南東側より眺めたところ。

 エントランス。建物じたいは昭和モダンだが、扉の凝り方がすごい。

最後の最後、運よく日が差して青空が見えてきた。前述のように1955年竣工の越前市役所(旧武生市役所)を撮影。
全国的に見ても1955年というタイミングで役所が建てられた例はほとんどない。本当に貴重な市庁舎建築である。

  
L: 越前市役所(旧武生市役所)。このシンプルさがたまらん。  C: 駐車場越しに本庁舎別館とセットで眺める。
R: 手前の交差点から眺めたところ。本当に無駄な装飾がなく、端整でいい建築だと思う。公会堂にも通じるものがある。

しかしさすがに新庁舎建設の計画が進行している状況で、今年9月に出た「本庁舎建設基本構想・基本計画」では、
本庁舎は耐震補強工事が困難ということで取り壊しの予定となっている。建築史的には貴重なサンプルなのに……。

  
L: 本庁舎の手前から見たところ。  C: 正面。車止めをきちんとつくるのは1950年代までだと思う。
R: 武生市の閉市記念碑とセットで一枚。こうして見ると、役所らしい役所で美しさをはっきり感じるのだが。

裏側にもまわってシャッターを切っていく。端整な表側と比べるとかなりゴツい印象なのがまた面白い。
表側への凝り方と裏側の正直さの落差がまた、時代性を感じさせるところだ。旧武生市役所はまさに時代の鑑だ。

  
L: 側面。  C: 背面。  R: もう一丁。こうして見ると、表面とはだいぶ落差がある。昔の役所らしいなあ。

なお、本庁舎の脇にある別館は1977年の竣工で、裏にある生涯学習センターは1972年の竣工である。
新庁舎を建てる際にはこれらも一緒に解体される予定である。せめて本庁舎だけでもなんとかならんか。

  
L: 別館。手前には池を主体にしたオープンスペース。  C: 別館の背面。妙に汚い。  R: 生涯学習センター。

時間ギリギリまで撮影すると、本日最後の目的地である福井駅へ。残った時間で福井市内の神社を参拝しまくるのだ。
なぜか福井市内には別表神社が多いので、今日と明日でできるだけそれらを押さえていこうというわけなのだ。

 福井駅西口は盛大に工事中。こんな凝った看板が出ていたよ。

まずは福井市役所の隣にある佐佳枝廼社(さかえのやしろ)から。もともとは福井城の鎮守として勧請された東照宮。
明治に入り結城秀康を祀る神社が創建され、松平春嶽が「佐佳枝廼社」と命名。翌年には福井城の東照宮を合祀し、
春嶽自身も死後に祀られている。下を駐車場にして境内を2階に上げている現在の姿になったのは、1992年のこと。

  
L: 佐佳枝廼社。  C: 石段を上って振り返る。  R: 境内は2階レヴェルの高さとなっている。

  
L: 拝殿。  C: 本殿。  R: グラウンドレヴェルから見た拝殿と本殿の側面。境内の下は駐車場なのだ。

その次は、北へ少し歩いて神明神社。「神明」ということは神宮系で、全国あちこちにある名前の神社だ。
でも別表神社になっているのは福井に鎮座するこちらだけ。なぜそんなにメジャーな存在なのかはよくわからない。
勧請されたのが924(延長2)年という歴史の古さがモノを言っているのだろうか。なお、福井は空襲と地震のせいで、
かつての城下町らしい街並みは失われ、市街地の神社たちもコンクリートでの再建が当たり前になっている。
特に明日の日記で扱う福井神社の仕上がりは強烈だ(本当は今日も参拝したのだが、翌日が晴れたのでそっちで言及)。

  
L: 神明神社の境内。参道がなかなかの長さ。  C: 拝殿。フォトジェニック。  R: 裏手に出て本殿を眺める。

 本殿のある一角だけ、かつての城下町らしい食い違い構造が生きている。

だいぶ日も傾いてきたので、今日の神社参拝はこれでおしまい。でもまだまだ福井市内には参拝すべき神社がある。
キリがないなあと呆れつつ、ふと見上げたら空に虹が架かっていた。悪くない感触である。

 こんな具合だった。

晩飯にはお約束の、ヨーロッパ軒のソースカツ丼である。相変わらず、注文してから出てくまでがすごく速い。
ウスターソースに漬けた薄いロースカツは、やはり洋食黎明期の香りがする。食べていてどこかノスタルジーを感じる。

 どうしても福井の夜はこれを食ってしまうわ。

明日は明日でいろいろ動きまわる予定なので、さっさと就寝。しかしまあ、福井市には神社がいっぱいあるもんだなあ。


2015.12.28 (Mon.)

今シーズンの年末年始はなかなかファ○キンな曜日になっている。
年末は26日が土曜、27日が日曜で、28日の月曜だけ出勤して29日から正月休みということになっている。ふざけとる。
年始も年始で、冬休みは7日まで。8日の金曜が始業式になっており、その後は9日・10日・11日と3連休。ふざけとる。
しかも8日は午前中だけだぜ。そのためだけに学校に行くのは生徒もイヤなら先生だってイヤなのだ。勘弁してくれ。
で、26日からずっと部活がないまま正月に入るのもどうかなあ、ということで、本日は午前中に部活をやったのであった。
2015年最後の部活なのだが、集まったのが5人だけ。顧問とコーチの計7人で、ボールを追いかけて走りまわる。健康!

午後はついに、懸案事項であったベッドの組み立て作業に入る。すでにブツは届いていたが、心理的に余裕がないのと、
この土日があまりに天気が良すぎたのとで、今日になったというわけだ。散らかった部屋は使えるスペースが限られており、
頭をフル回転させながら組み立てていく。付属品のスパナがあまりにも貧弱すぎて、一時はどうなるかと思ったが、
スパナじゃなくてラジオペンチで固定すりゃいいじゃんと気づいてからは、わりかしスイスイ。3時間ほどで無事に完成。
新ベッドの難点は、高さがないこと。1mは旧ベッドよりも若干低く、本棚の上=ベッドの下に物を置けなくなってしまった。
まあそれはそれで、散らかる要因がなくなった、とも言えるのだが。新ベッドは「宮」があるので、そこはうまく活用したい。

しかしこれでベッドの周囲はずいぶんと片付いた。なんとなく清々しい気分がするのは、単純に作業が終わっただけでなく、
積年の汚れが完璧に除去されたことで雰囲気が良くなったこともあるだろう。今後はぜひともこれをキープせねば。
そしてテレビ側の整理整頓も正月休み中に進めていかねばなるまい。circo氏が言うように、片付けて運気を上げないと。


2015.12.27 (Sun.)

今日も今日とて青春18きっぷでお出かけじゃ! 飽きることなどないのじゃ! 昨日が山梨なら今日は静岡じゃ!

……しかしその前に、ちょっと寄り道である。小田原にある別表神社・報徳二宮神社に参拝しておくのだ。
その名のとおり、祭神は二宮尊徳。報徳社は掛川の印象が強いが(→2012.12.24)、尊徳自身は小田原の人である。
明治になって彼の功績を讃え、小田原城址の一角に神社が創建された。朝イチで小田原に着くと、歩いて城へ向かう。
報徳二宮神社は城跡の南西側、駅から見るとちょうど反対側の奥に位置しており、まわり込むのが面倒くさい。

  
L: 報徳二宮神社。小田原城址の南側からこのように入り込むのだ。  C: 参道を行く。なんかお祭りっぽいんですが。
R: 御社殿。いろいろ一体化させており、社殿はこの一棟だけの模様。境内は広くないが神池を中心に表情は多彩。

営業じゃないや、受付開始と同時に御守を頂戴したのだが、御守を入れてくれる袋はなんと紙ではなくビニール製。
紙袋と同じように、白地に朱色で神紋と社名が施されているのだが、ビニール。これも尊徳流の合理的精神なのか。

  
L: 神池。なかなか風情がある。奥にある社務所と報徳会館がすごく立派。  C: 使用前。  R: 使用後。

せっかくなので小田原城の再建天守をちょっと見ていくか、と神社の裏側からまわり込んだら、耐震工事の真っ最中。
一度中に入ったことがあるが、内装の1960年代市民会館風モダニズムが強く印象に残っている(→2008.9.3)。
インドゾウのウメ子は2009年に亡くなってしまったが、ニホンザルの集団は健在。仲良く猿団子になっていた。

  
L: 耐震工事中の小田原城天守。  C: こちらは猿団子中。あったかそうだな。  R: 公園と城跡らしさを併せ持つ。

のんびりと来た道を戻って小田原駅を目指すが、商店街の上空にはサルをかたどったカラフルな風船が踊っていた。
それを見て、「ああ来年は申年か」とようやく気づく。きちんと年賀状をつくっていないからそんな有様なのである。

 小田原の私鉄らしさ全開な商店街と、その上空を踊るサルたち。

小田原からさらに西へ進み、熱海駅で下車。温泉旅館に泊まっていたのであろう観光客たちでいっぱいだが、
本日の私の興味は温泉街とは反対側にあるのだ。やってきたバスに乗り込むと、10分ほど揺られて下車する。
それにしても、熱海の道路は高低差がものすごく激しいうえにやたらと細くて、しかも異様に曲がりくねっている。
1次元の線が全力で3次元空間を暴れまわっている感じ。そこをバスが軽快に走っていけることが信じられない。
平然としている熱海のバスの運転手って本当にすごいね。尊敬しちゃうね。あらためて驚かされたのであった。

というわけで、到着したのは伊豆山神社。もともと修験道の修行場所だったそうで、複雑な経緯がある神社らしい。
流された源頼朝が北条政子とイチャイチャした場所ということで、縁結びの神社としても知られているようだ。
伊豆山浜からきちんと石段を上ると実に837段にもなるそうだが、バス停からだと残り189段で済んでしまう。
そもそも海岸まで下りる時間がもったいないし、今回は変にチャレンジ精神を発揮しないでおくとするのだ。

  
L: 伊豆山神社のバス停前。ここからの189段もそれなりに大変なんだけどね。  C: こんな具合に石段を上っていく。
R: 拝殿。詳しいことはわからないのだが、いかにも家光あたりの価値観を反映したデザインだなと思う。

日曜日の熱海の朝は観光客でいっぱいなのであった。しかし境内にある伊豆山郷土資料館に入る人は少ない。
せっかくなので軽く見学したのだが、かつて掲げられた扁額「伊豆大権現」の文字に隠されている動物たちや、
拝殿の彫刻についての説明など、興味深い話が聞けてよかった。やはり歴史ある神社はエピソードが満載なのだ。

  
L: 本殿。  C: 山の上にある本宮への参道入口。さすがにそこまでは無理。  R: 拝殿の彫刻。波の表現がさすが。

御守は最も代表的なものということで、強運守を頂戴した。地下にいて温泉を生み出すという赤白二龍が描かれている。
赤龍は火、白龍は水の力を操るそうだ。両者の絡み合いぶりからして、縁結び的な意味合いも多分に込められているね。

 
L: 境内より熱海駅方面を眺める。山裾から山裾を見るので絶景とは言いがたいが、すっきりした気分になれる。
R: バス停のところから石段を見下ろすの図。海岸からここまで来るのは本当に大変だと思うわー。

再びバスに揺られて熱海駅まで戻ると、さっさと次の目的地へと移動。30分ちょっと揺られて富士駅で下車する。
しかしここからが少々面倒くさい。レンタサイクルがあるのは在来線の富士駅ではなく、新幹線の新富士駅なのだ。
バスの事情がよくわからなかったので、もういいやとスマホ片手に歩いて移動。20分弱かかったのであった。

 新富士駅。富士駅との微妙な距離が本当に面倒くさい。

レンタサイクルを借りると富士見大通りを北へと爆走。富士市内をきちんと動きまわるのは初めてだが、
スケールのデカい街だな、という印象。JRの車窓からも見える製紙工場を中心に、市街地がゆったり広がっている。
車線の多い幅の広い道路がドカンドカンと通っており、それが巨大な富士山と違和感なくマッチしているのだ。
実は富士市は静岡県で3番目に人口が多い(1位と2位は政令市の浜松と静岡)。人も車も活発に行き来している。
これは都会だなあと感心しながらペダルをこぐ。しかしこいでもこいでも街が続き、市役所までがけっこう遠い。

  
L: 富士市といえば製紙工場。富士川の水や富士山の伏流水が産業を支える。ただ、近年は縮小傾向にあるそうだ。
C: 富士見大通りより眺める富士山。小学校の修学旅行で初めて富士山を見たときに「壁!」と思ったが、今も同じ印象。
R: 中央公園の向かいにある富士市文化会館ロゼシアター。 石本建築事務所の設計で1993年にオープン。立派だねえ。

中央公園を目印に青葉通りに入る。やっぱり幅の広い道路で、富士市のスケールの大きさにあらためて呆れる。
程なくして富士市役所に到着したのだが、市役所のスケールもなかなかデカくて撮影するのに四苦八苦。
手前の道路は片側3車線に中央分離帯付きなのに、ギリギリ。しかも手前の街路樹がものすごく邪魔なのだ。

  
L: 富士市役所。手前(西)が消防防災庁舎で、奥(東)が本庁舎。  C: 手前に本庁舎が来るように眺めたところ。
R: 背面はこんな感じになる。手前が消防防災庁舎だが、1階が中央消防署ということで消防車が並んでいるのがわかる。

富士市役所本庁舎の竣工は1970年。建物じたいはシンプルな印象だが、手前の道路を飛び越える歩道橋が、
そのままペデストリアンデッキで2階玄関につながっていたり、歩道に面して小規模なサンクンガーデンがあったりと、
ちょこちょこ凝った要素もある。ちなみにそのサンクンガーデンに面する部分には、コンビニが入っている。

  
L: 本庁舎をクローズアップ。  C: 手前には小さいサンクンガーデン。この1階部分にはコンビニが入っている。
R: 歩道橋と連続しているペデストリアンデッキからファサードを眺める。耐震トラスのフラクタルやー。

せっかくきれいな格子のファサードにしたのに、耐震補強のトラスが逆V字のやっぱりトラス型に入っており、
それが変に目立ってしまっているのは仕方がないとはいえ残念なところ。2階エントランスはピロティにガラスで、
1960年代の鉄筋コンクリートモダンを1970年代的に量産化した感じがまた興味深い。富士市は都会なのだ。

  
L: 2階エントランス。建物の側面にエスカレーターがついており、こちらが正式な玄関となっているようだ。
C: 東側にある公園から眺める本庁舎。  R: 市役所側から眺めた東側の公園。わざと起伏をつけた芝生である。

なお、消防防災庁舎の方は石本建築事務所の設計で2001年に竣工している。本庁舎の東側にある公園はおそらく、
以前は消防署だったのではないか。で、西側に場所を移して新築し、跡地は公園として整備した、と。そんな感触だ。

  
L: 公園の北、広大な駐車場から眺める本庁舎の背面。  C: こちらは消防防災庁舎。正面側はやはり街路樹が邪魔。
R: 消防防災庁舎の背面。駐車場には3日後の富士山女子駅伝に向けて、フジテレビの中継車両がいっぱいいた。

市役所の撮影を終えると、消防防災庁舎の脇を北上していく。するとそのまま神社の鳥居がお出迎え。
富知六所浅間神社である。しかし手前にある結婚式場の看板には「三日市浅間神社」としか書いておらず、
本当にここでいいのかとしばらく迷う。スマホを取り出して確認してみると場所は間違いないはずなのだが、
鳥居の付近にはドラえもんのキャラクターをはじめとする謎の石像が置いてあり、怪しさが満載。大丈夫かコレ。
まあ結局、Wikipediaの「通称は三日市浅間神社」という記述でようやく納得できたのであった。ニンともカンとも。
(後で御守の裏側を見てみたら、こちらも「富知六所浅間神社」ではなく「三日市」の方の表記となっていた。)

  
L: 三日市浅間神社こと富知六所浅間神社。このように遠目で見る限りは由緒ありそうな立派な神社なのだが……。
C: とりあえず石像を無視して境内へ。すっかり年末年始モードである。  R: 拝殿。うおう、ピッカピカだ!

社殿はつい最近竣工したばかりのようだ。建物は完成しているようだが、周りの整備はまだ終わっておらず、
奥にはこれから使われるであろう土が山となって置かれていた。古い建物もいいが、新しい建物も悪くない。
どんな建物もできたての瞬間はあったわけだし、何より未来へ向けての気合が感じられるではないか。

  
L: 建物はできあがっても、まだ整備工事じたいは終わっていない模様。  C: 本殿。実に真新しいですな。
R: 御守も特徴的で、ハローキティにマイメロディ、豆しば、たれぱんだ、ケロロ軍曹、ちびまる子などキャラ物が充実。

境内にドラえもんのキャラクターの石像があるのは、子どもたちに親しみをもってもらうため、らしいのだが、
ただただ怪しくってたまらない。まあ、子ども向けのキャラクター御守が充実している点も一貫しているけどね。
(ただしドラえもんの御守はなかった。藤子プロが許可を出さないとつくれないからしょうがないかもしれない。)
というわけで、富知六所浅間神社の境内にあった石像たちを一挙公開。ファンには有名らしいけどねえ……。

  
L: 鳥居の下にはまずこのふたり。「のび太と静香」と言い切れる自信がない。  C: その向かい側にはドラミ的な像。
R: ジャイアン的な像。よく見ると髪型がマッシュルーム気味。少し「きれいな」方の要素が混じっている印象。

  
L: 問題の立体化。むしろ口の表現の方に無理を感じてしまう。  C: コイツはつくりやすいんだな、と思う。
R: あれ? 『ドラえもん』にこんなやついたっけ? もうなんでもアリなんだなと呆れるしかないのであった。

富知六所浅間神社は富士下方五社の首座とされる、由緒正しい神社なのにね……。別表神社だぜ?
なぜかドラえもんだけ少し離れたところにあり、軽く宝探し気分を味わったのであった。ちょっと楽しかった。

さて腹が減った。静岡の名物といえばいろいろあるが、最近かなり注目を集めているのが「さわやか」である。
地元のファミレス「さわやか」のげんこつハンバーグがとんでもなく旨いという話なのである。これは食わねば。
さっそくスマホで検索して近くの国道沿いの店舗に行ってみたら、午後2時近いのに店の外まで人があふれていた。
さすがにこれにはまいった。しかし「さわやか」は静岡県にしか店がないので、これはもう絶対に食っておきたい。
幸いなことに自分にはレンタサイクルがあるのだ。富士市内のもうひとつの店舗を目指して爆走するのであった。
新富士駅から見ると、店舗は富士宮市までの中間地点にある。でもそれがどうした、という走りっぷりで到着。

  
L: 「さわやか」の店舗はこんな感じ。ホントに地元のファミレス。独りだと少々後ろめたいが気にしちゃいけない。
C: これがげんこつハンバーグ。まん丸のハンバーグを店員さんが目の前で真っ二つに切って、断面を押し付けて完成。
R: レアを楽しむもよし、じっくり断面を焼くもよし。ほかのハンバーグにはないモチモチ感がすごい。これは旨い!

すごいすごいと聞くけどそんなにすごいんか、と半信半疑で口に入れたら、予想は完全にぶっちぎられた。
なんだこれ!?と驚愕。外見的にはいかにもファミレスのハンバーグなのだが、見た目とは次元の違う旨さ。
肉としての密度の高さが感じられて、これは絶対にクセになる食感だ。静岡に来たらコレ食うしかないわ、もう。

満足感に浸りながら来た道を戻る。そのまま富士宮まで突き抜けてもよかったが、帰りが面倒くさいのはイヤなので、
おとなしく鉄道でアクセスすることにした。というわけで、新富士駅で自転車を返却すると、歩いて富士駅まで戻り、
身延線で富士宮駅へ。本日最後の目的地は富士山本宮浅間大社だ。3回目になるが(→2008.3.232014.10.12)、
あらためてきちんと御守を頂戴しておくのである。前回頂戴したやつはかなりブサイクだったので、受け直すのだ。

  
L: 冬なので16時を過ぎればこんなもん。  C: 夕暮れの楼門。  R: 夕暮れの社殿。お賽銭ガバガバモードである。

今回あらためて頂戴したかったのは富士山が前面に描かれているもので、できるだけ写真映りのいいものを選んだが、
非常に不器用なデキのものばっかりで困った。御守は手作業でつくるものだから、けっこう巧拙の差が激しいんだよね。
できることなら器量好しを揃えていきたいのだが、なかなかそうもいかないのである。キリがないですな!

 夕日を浴びる富士山を眺める。いちおう赤富士ということで。

以上、本日も青春18きっぷをフル活用しての日帰りでした。それにしても「さわやか」のハンバーグは絶品だった……。


2015.12.26 (Sat.)

今日も青春18きっぷでお出かけしちゃうよ! 先週、富士吉田と都留を押さえたばかりだけど、また山梨だぜ!
今回は中央本線沿線の市役所をつぶしていくのである。新しくなった甲府市役所にも行っちゃうよ!

始発から列車を乗り継いで、8時半過ぎに下車したのは穴山という駅。穴山信君(梅雪)の穴山か、と思う。
で、穴山駅から4kmちょっと北へと歩いたところにあるのが北杜市役所なのだ。中央道の須玉ICからだと一瞬だが、
こりゃもうしょうがないのである。北杜市というと個人的には小淵沢のイメージが強いが、市役所は東の方なのね。

 穴山駅。線路と高低差があり、跨線橋がそのまま駅舎につながる珍しい形。

まずは県道603号で塩川まで出る。かなり急な下り坂になっており、山梨県の急峻な地形を実感。狭っこいなあ。
橋を渡ってひたすら北へとトボトボ歩く。狭い道の住宅地を抜けていくが、「大豆生田」という地名が面白い。
「だいず・いくた」ではなく「まみょうだ」と読む。これは難しいなあと思っていると、左手に広大な駐車場。
なるほどここが北杜市役所か、と思って建物と向き合うが、もう、これがどう見ても学校なのである。
広大な駐車場も、明らかに校庭を舗装したものだ。ここまであからさまな転用をした市役所は初めてである。

  
L: 北杜市役所の遠景。いやこれ、学校でしょ。  C: 正面より眺めてみる。いやこれ、学校でしょ。
R: 旧来の校舎に新たにエントランスを付け足しているのがわかる。ここまで学校な市役所は初めてだと思う。

歩きまわってみたら、東の旧玄関辺りに「山梨県立須玉商業高等学校」と彫られた石碑を発見。やはりそうか、と納得。
近くに「克己」と彫られた石碑もあったが、その両脇を灰皿が固めていた。禁煙している人には皮肉でしかないなあ。

  
L: 手前にある西館の裏から眺めた北杜市役所の本館。つまり旧須玉商業高等学校校舎。1963年竣工とみていいだろう。
C: 東側にある旧正門。これは高校だわ。  R: 高校当時の雰囲気が残る(ただし灰皿は除く)、旧玄関前の庭。

北杜市は2004年に北巨摩郡の須玉町・長坂町・白州町・高根町・大泉村・武川村・明野村が合併して誕生。
2006年には小淵沢町を編入している。須玉商業高等学校の廃校は2001年で、校舎の利用は合併時に決めている。
須玉商業高等学校は1963年の創立。したがって現在の北杜市役所の建物は、学校創立当時のものと考えられる。

 裏に広がる畑から見た本館の背面。実に学校である。

本館の手前にある各施設も撮影しておく。東から東館、西館、議場となっているが、西館を除くとやはり学校くさい。
特に議場の慎ましさがいじらしい。大きさからいって体育館ではなく武道場だろうか。ビフォーアフターを比べたいねえ。

  
L: 東館。合宿所っぽい雰囲気なんですが。  C: 西館。これは新しいね。  R: 議場。武道場っぽい雰囲気なんですが。

穴山駅まで歩いて戻るのがめちゃくちゃ面倒くさいなあと思ったら、運よくバス停がすぐ近くにあった。
そのまま揺られて韮崎駅前。いや、これは本当に助かった。おかげでずいぶん時間も体力も節約することができた。

というわけで、ここからは山梨県内をひとつひとつ引き返していくのである。韮崎ではもちろん市役所のほか、
神社とにわかに有名になった美術館を攻めるのだ。駅前にある韮崎市民交流センターNICORIで自転車を借りると、
中央本線のガードを抜けて中心市街地へ。韮崎はわりと昔からある市なのでもっとずっと都会かと思っていたが、
実際に訪れてみたらまったくそんなことはなく、落ち着いた住宅地の方が印象的だった。個人商店が弱まったせいか。
さて韮崎出身の偉人というと、もはやすっかりノーベル賞の大村智先生なのだが、忘れちゃいけない人がいる。
現在はにらさき文化村という施設で手前がポケットパークになっているが、実はここ、小林一三の生家跡だ。
小林一三といえばあの阪急グループの創業者(→2012.2.26)だが、その系譜は甲州商人にあるというわけだ。

  
L: 韮崎駅の西側、旧市街。個人商店が多いが、その分だけ郊外化の影響を受けている感じ。思ったより賑わっていない。
C: 本町に出たところ。川と丘に挟まれており、そのうえ中央本線も走っていて、韮崎の中心部は地形がかなり複雑だ。
R: 小林一三の生家跡。日本の都市開発にとんでもない影響を与えた人だが、地元での扱いはやや地味だったのが残念。

小林一三生家跡からちょっと進んで左に入ると、韮崎市役所である。エントランスの上には当然のごとく、
「祝 ノーベル生理学・医学賞受賞 大村智博士」という横断幕が掲げられていた。盛り上がっておりますね。
しかしそれとともに印象的だったのが、エントランスへ至る植樹帯の縁石にサッカーボールがあしらわれていたことだ。
韮崎高校といえば、山梨県におけるサッカーの超名門。韮高を出て教員になって甲府クラブでプレーする、というのが、
かつて山梨県のサッカー好きの典型的なパターンだったという。そんな甲府クラブは今のヴァンフォーレ甲府。
ホームタウンは「甲府市、韮崎市を中心とする山梨県全県」となっており、韮崎が特別な存在であることが窺える。

  
L: 韮崎市役所。駐車場の階段から撮影。  C: 正面から見たところ。  R: サッカーボールの縁石がわかるかな?

韮崎市役所は1984年の竣工。見るからに80年代の価値観を感じさせる建物だと思ったら、やっぱりそうだった。
ピロティを組み合わせたエントランス周辺がガラス張りの大空間となっていて、ホール部分として開放されている。
しかしそれ以外の部分は質実剛健なオフィス建築。ここまでメリハリがついているのはなかなか珍しい気もする。

  
L: 建物の手前にある庭的な空間。  C: 豪快なピロティである。  R: 側面のガラスから中を覗き込んだところ。

敷地を一周してみるが、冬なので太陽の角度が低くて撮影がつらかった。毎年のことだが、これが大変なんだよな。
わかっちゃいるけど、年末近くはまとまった時間が取れるので、つらいのを覚悟の上で市役所探索に出ているしだい。

  
L: 東側の駐車場越しに眺める。  C: 背面にまわり込む。  R: 後ろにある別館。本体から距離がなくて撮りづらい。

韮崎市役所の脇は釜無川が流れており、その堤防上が国道20号となっている。さすがに交通量が多い。
隙を見て撮影を済ませると、そのまま釜無川を渡って西側の丘へと突撃するのであった。根性あるのみ!

 国道20号越しに別館ごと眺める韮崎市役所の背面。

さすが山梨県、山へと向かっていく坂道の角度は半端ない。自転車で極限まで上っていき、武田八幡宮に到着。
とても12月とは思えない発汗ぶりなのであった。帰りに「自転車でここまで来たんか」と自分で呆れたほどの高さ。

  
L: 二ノ鳥居は1789(寛政元)年に再々興とのこと。この先の参道はさらに勾配がキツくなっている。厳しいのう。
C: 境内に到着。正面の石垣と石鳥居がなんとも独特である。つくられたのは室町時代中期と推定されるそうだ。
R: 石鳥居の奥にある随神門(案内板には「総門」と表記)。詳しいことはわからないが、これまたかなり立派。

武田八幡宮はその名のとおり、甲斐武田氏と非常に縁の深い神社である。武田姓は常陸国の地名が由来とされるが、
こちらはこちらで日本武尊の子・武田王を地名の由来としており、結果的に甲斐武田氏が氏神とした事実は変わらない。
社殿は山に沿ってまっすぐ配置され、石段をえっちらおっちら上っていく。なんだかんだでけっこう上まで行く感じ。

  
L: 門を抜けるとまずは舞殿。  C: 斜めから見た舞殿。白だけでなく赤や黄色の紙垂がぶら下がっているのが面白い。
R: 舞殿の先には拝殿。拝殿幕にはしっかりと武田菱。武田菱は厳密にはふつうの四つ割菱より間隔が狭いんだってさ。

拝殿の奥にあるのが重要文化財の本殿。案内板によれば、1542(天文10)年に武田信玄が再建したとのこと。
よく見ると、屋根の棟の端には鬼の面がついている。鬼瓦のようなものか。細部までこだわっているなあと感心。

  
L: 拝殿と本殿。  C: 瑞垣から本殿を覗き込む。  R: 棟にくっついている鬼の面。なかなかの迫力であります。

拝殿には御守がいくつか結んであって、存在が確認できた。しかしどこにも置いていないので頂戴できない。
これだけの常軌を逸した坂道を上ってきて、御守がきちんとあることもわかったのに、頂戴することだけができない。
この苦しみあるいは悔しさを、どう表現すればいいのやら。日記を書いている今ももどかしくってたまらない。

武田八幡宮の参拝を終えると、そのまま山裾を南へと移動する。やがて川にぶつかり、少し下ると次の目的地が現れる。
そう、ノーベル賞の大村智先生が自費で設立してそのまま韮崎市に寄贈してしまったという、韮崎大村美術館である。
大村先生がノーベル賞を受賞したというニュースを聞いたときには「また日本人の受賞ですか」程度の認識だったが、
そのうちに大村先生の人となりが詳しく報道されて、とんでもない偉人がいたもんだ!と驚愕した(→2015.12.10)。
大袈裟な表現ではなく、大村先生は山梨県において武田信玄と双璧といえる存在ではなかろうか。そういうレヴェルよ。
韮崎大村美術館はもともと個人の美術館なので、さすがに自治体や企業なんかの美術館と比べると華奢さが目立つ。
しかし大村先生が女子美術大学の理事長だったこともあり、女性画家の作品を意欲的に紹介している点が面白い。
金の力でなんとかする美術館と違い、この方向性をより明確にしていけば唯一無二の存在意義を持つ美術館になりうる。

 
L: 韮崎大村美術館。やはりノーベル賞効果で来場者は多かった。女性画家の作品に強い特性は絶対に武器になる。
R: 美術館は扇状地の上端にあるので雄大な景色を味わえる。いかにも山梨県的な風景という感じがするねえ。

韮崎の最後はやっぱり韮崎高校を拝んでおこうと。さっきも書いたが韮高は山梨県におけるサッカーの超名門。
あの金丸信も教員として勤めたことがあるそうだが、こういう賢くって個性のある高校の教員はやりがいあるだろうなあ。

 サッカーが上手くなりますようにっと。

韮崎の次はいよいよ甲府……ではなく、その1駅手前の竜王駅で下車。平成の大合併で甲斐市になっているので。
それにしても平成の大合併における山梨県の市のネーミングセンスは壊滅的なものがある。隣にいながら呆れたものだ。
「南アルプス市」はその筆頭に挙げられるが、県庁所在地の甲府市のほかに「甲斐市」「甲州市」があるのも変だ。
さっき訪れた「北杜市」も無個性だし、「中央市」とかもう……。適切な地名をつけるだけの教養がないということだ。
まあとにかく、そこに市役所があるからには行くしかない。龍王駅から南下すること10分ほどで甲斐市役所に到着。

  
L: 甲斐市役所。幅があって全容がカメラの視野に収まらない。  C: とりあえず中央のエントランスと右手の新館から。
R: 新館をクローズアップ。役所の機能は2階までで、3階と4階は公民館となっているようだ。なかなか大胆な事例だ。

甲斐市役所は本館と新館が並んで建っており、両方合わせるとなかなかの幅である。一気にカメラに収められない。
西側の本館はもともと竜王町役場で、1986年の竣工である。対する東側の新館は2011年の竣工と、かなり新しい。
エントランスごと新館を本館にくっつけたわけだな。なお、新館の設計者は馬場設計という事務所のようだ。

  
L: 本館をクローズアップ。南西側から眺める。  C: 正面から見たところ。  R: 角度を変えてもう一丁。

新館は公民館の機能も持っているためか、土曜日でもエントランスから中に入ることができた。
本館と新館を単純につなぐだけでなく、なかなか上手いこと開放感のあるホールにしている印象。

 
L: 1階エントランスより本館側。  R: 新館側。エントランスはホールとなっているわけだ。

北隣の農協にまわり込んで、甲斐市役所の背面を眺める。80年代オフィスと平成オフィスが違和感なく並ぶ。

  
L: 農協の駐車場から眺める甲斐市役所の背面。  C: 左側が新館。  R: 右側が本館。80年代だねえ。

竜王駅まで戻る。新館がくっついた市役所といい、駅舎が新しくなった竜王駅(2008年に工事が完了)といい、
甲斐市は勢いづいているなあと思う。いや、甲府市役所も新しくなったし、山梨全体の新陳代謝が進んでいるのか。

というわけで、いよいよ甲府に到着である。まずは観光案内所に問い合わせてレンタサイクルを確保する作業だ。
北口のホテルで貸し出しているというので手続きをする。盆地はやっぱり電動自転車がありがたいですな!
さっそく南口に出てまずは山梨県庁を拝んでおこうと思ったら、かなり派手に工事中だった。うーん新陳代謝。
現場の金網にくっついていた説明を見るに、風格ある建物は残しつつオープンスペースを整備しまくる計画のようだ。
甲府じたいが狭っこい街だが、山梨県庁の狭っこい中への凝縮ぶりもすごかった(→2005.9.242008.3.16)。
それらがある程度解消されるということか。工事が終わったらどうなるのか、かなり興味のあるところだ。

 
L: 甲府駅北口。この10年で、丹下健三の山梨文化会館(→2012.5.6)以外はまったく姿を変えてしまった。
R: 工事中の山梨県庁(県議会議事堂)。完成したらどうなるのか、ぜひじっくり見させていただきましょう。

県庁から少し南へ行くと、甲府市役所である。建て替え工事中に来たことはあるのだが(→2012.5.6)、
完成してからは初めてだ。前の小ぢんまりとした市役所(→2005.9.242008.3.16)のイメージが残っていたので、
豪快にそびえる新しい甲府市役所が視界に入ったときにはもう、度肝を抜かれてしまった。山梨のイメージと違う!

  
L: 甲府市役所。北西側から平和通り越しに眺めたところ。  C: だいたい西側より。  R: 南西の歩道橋より。

市役所は敷地いっぱいに建てられているが、南側にピロティで駐車場を確保しているというわけだ。
しかし圧迫感がものすごく、ぐるっとまわって撮影していくのがとにかく大変。もともと甲府は狭っこいので、
そこにドカンとデカい建物ができると、周囲とのバランスがとれなくてすっきりとした写真にならない。

  
L: やはり歩道橋から南側をメインに撮影。  C: 南東側より。  R: こっち側にアトリウムがくっついているのね。

一周すると、市役所の中に入ってみる。土曜日なので窓口は開いていないが、1階はだいたい自由に歩きまわれる。
特に南東側のアトリウムの迫力はなかなか。市民活動向けのスペースはもちろん、なんとコンビニまで入っている。
役所にコンビニが入っている事例は今までゼロではなかったと思うが、この甲府市役所のやる気はすごいなあと感心。

  
L: 北東側より眺めたところ。  C: アトリウム部分に入って振り返ってみました。ちょっと無機質かなあ。
R: しかし奥にはコンビニが。閉庁日でもふつうに営業しているし。椅子にテーブルもあってすっかり憩いの場だ。

新しい甲府市役所が竣工したのは2013年。設計者は日本設計JVということで、組織事務所の面目躍如という印象。
よく見るとわかるのだが、低層部の屋根には徹底的に太陽光パネルが載せられている(ブドウ棚のイメージとか)。
10階は展望フロアとなっており、議場を囲んで一周できる。いろんな要素を詰め込んだ最先端の庁舎建築ってわけだ。

  
L: 1階の案内所。点で描いた「甲府市役所」のロゴがあちこちで利用されていた。  C: 西側通路もPRスペースで活用。
R: 10階の展望スペース。冬なので日差しがキツく、ガラスの反射も激しくて景色をきれいに撮影できなかったのが残念。

その10階を一周して景色を確認してみたのだが、なんだかんだで周囲の建物もそれなりに背が高いので、
街を眺めていい気分というわけにはなかなかいかない感じ。冬で太陽光が変に映り込んでくるのもつらかった。
ここはもう一丁がんばって、屋上オープンスペースにしてほしかった。やっぱり駅や県庁を見下ろしたいよね。

 甲府城址の石垣はそれなりに楽しめた。

これで懸案事項が解決したのですっきり。気持ちよくペダルをこいで東へと向かうのであった。
中央本線で甲府駅の1駅東は酒折駅だが、酒折宮(さかおりのみや)へは駅の手前で左折することになる。
すると踏切の手前に一の鳥居があり、それを越えると境内に入る。印象としてはがっちり整備されている感じではなく、
住宅地にひっそり鎮座する小規模な神社に思えるが、授与所にはきちんと人がいて御守も頂戴できたのでよかった。

  
L: 酒折宮の一の鳥居と踏切。  C: 進むと境内。無人でなくて安心。  R: 境内はこんな感じである。

酒折宮の祭神は日本武尊。東征から帰る際、この酒折の地に仮の宮を建てたのが起源になっているそうだ。
その滞在中にヤマトタケルと焚き火の番をしていた老人が1首の和歌をつくるやりとりをしたという伝承があり、
連歌発祥の地とされている。芸能方面の「タケル守」があるのはその影響であると思われる。頂戴しましたよ。

  
L: 酒折宮の拝殿。  C: 本殿。シンプルである。伝承をめぐる研究が多い名所のわりにはずいぶん質素な神社だ。
R: 境内東側の鳥居。こっちはけっこう急な坂となっている。「酒折」とは「坂折」で、土地の境目を指すとか。

そこから西に戻って甲斐善光寺にも参拝する。軽い気持ちで訪れてみたら、思いのほか立派で驚いた。
山門も本堂も重要文化財となっているが、本家の善光寺(→2010.9.242014.10.19)を思わせる堂々たるものだ。

  
L: 甲斐善光寺の山門。上棟が1767(明和4)年とのこと。  C: 境内を行く。  R: 本堂。1796(寛政8)年築。

甲斐善光寺は1558(永禄元)年に武田信玄によって創建されたが、案の定、その原因は川中島の戦いである。
上杉謙信との間で善光寺如来をめぐるやりとりがあり、まず謙信が本尊を直江津に移し(十念寺 →2012.8.11)、
その後に信玄が本尊を甲斐に持ってきて甲斐善光寺が建てられる。なお、本尊は武田家が滅亡すると岐阜へ移される。
それが伊奈波神社の手前にある岐阜の善光寺(→2015.8.8)というわけ。善光寺は戦国の世に翻弄されたわけだ。

  
L: 本堂の側面を眺める。こっちもかなりの迫力ですな。  C: お墓越しに本堂の背面を眺める。縦長感も本家そっくり。
R: 山の手通りから扇状地を埋める住宅越しに眺める富士山。甲斐国は山が近く、どうしても富士山の前に壁がある感じになる。

本日の最後を飾るのはやっぱり武田神社だ。訪れるのは実に3回目になるので(→2005.9.242012.5.6)、
もはや特にいろいろ書く必要はないだろう。今回は神社探検よりも、御守を頂戴するのが目的だし。

  
L: 武田神社はいつ来ても観光客がいるよね。  C: 正門だけど、神社をつくる際に石垣を崩してつくったそうで。
R: 参道を行く。躑躅ヶ崎館跡に武田信玄を祀る神社を創建したのは1919(大正8)年になってから。意外と遅い。

やはり武田信玄は人気があるので、武田神社はいつ訪れても参拝客が多い。落ち着いて社殿を撮影するのが難しい。
御守はふつうの袋守だけでなく、鹿革を使っている印伝守があったので、両方頂戴しておいた。さすがは甲州印伝。
このように地元の産業を上手く採り入れた工夫がされていると楽しい。大いに満足して扇状地を下って帰る。

  
L: 武田神社の拝殿。  C: 角度を変えてもう一丁。  R: 本殿を覗き込むが、なかなか見えないのであった。

青春18きっぷを利用した日帰り市役所めぐり&御守収集、本日のタスク終了である。じゃあ明日は静岡編ね。……え?


2015.12.25 (Fri.)

朝練が終わって終業式向けのチャイムのチェックをしてみたら、いきなりデータを外に出せなくなっていた。
このまま3学期に突入したら大変なことになる!ということで、しばらくその解決手続きに追われるのであった。
その一方で通知表のチェックもあるし、まったくもって落ち着くヒマのない終業式となってしまった。……いつものことか。

午後のおつとめも終わってヘロヘロになりつつ思う。ついに2015年も終わるのね、と。
嵐が過ぎ去って、束の間の休息に急に切り替わったわけだが、こっちはそんなに器用に対応できるわけがない。
ただただ、虚脱状態。日記書かなきゃ。あちこち行きたい。本読みたいDVD見たい。いろいろごっちゃでただただ放心。


2015.12.24 (Thu.)

2学期のレギュラー授業が今日で終了。お疲れさまでした、自分。

……というわけで、職場はいよいよ年末モードに。僕としては、溜まっている日記の処理を淡々と遂行するのみである。
青春18きっぷのせいで、今月はなんだかんだであちこちに行っている。これから行く予定もある。日記がマッチポンプだ。
天気が良くなければ覚悟を決めて日記に集中することになるのだが、天気が良いとついつい出かけてしまうわけで。
この時期は太陽が低いので写真を撮るのが本当に大変だけど、青空が抜群に気持ちいい。それで撮りまくる。
というわけで、結論としては「ぜんぶ太陽のせい」ということにさせていただくのである。やっぱ晴れるに越したことはない。


2015.12.23 (Wed.)

天気もよくないし、いいかげん寝床をなんとかしないといけないので、朝起きてからひたすら掃除掃除。
まずは崩れかけのベッドをばらすところからスタートである。途中の9時半に新ベッドが届いてそれを受け取るが、
旧ベッドを撤去してそのまま新ベッドをポン、というわけにはいかない。積年の汚れを取り除かねばならないのだ。
それで旧ベッドの跡地にあるすさまじい量の埃を拭き取っては流し、拭き取っては流し、ひたすらその繰り返し。
15年前に引っ越して以来、まったく手つかずの部分ばっかりなのである。これは自分でも呆れるしかなかった。

午後になっても作業を継続。こりゃ今日中には新ベッドを展開できないなあと諦めるが、掃除は粘り強く続ける。
おかげでベッドのあった位置に関しては、完全に埃を取り除くことができた。これは快挙ですよ快挙。15年越しの快挙。
ベッドのない部屋ってのは広いなあ、オレの部屋は実際にはこんなに広かったのか、と感動を覚えたのであった。
あまりに新鮮な快適さなので、記念に撮影しておく。こんなにすっきりしている状態はもう二度とあるまいて。

  
L: 隅っこすっきり!  C: こっちもいちおうすっきり! 旧ベッドの残骸が残るが気にしない。  R: その分、テレビ側がカオスですが。

高さが伸縮するベッドがあればいいのにね。ふだんは天井近くまで上げておいて、寝るときだけ下げればいい。
そんなこと言うんならお前はもうハンモックで寝ろってかそうですか。


2015.12.22 (Tue.)

本日は職場の忘年会なのであった。司会だけど特に難しいこともなく、序盤だけテキトーに手順を踏むだけなのでまあ。
プレゼント交換では『ほめくり、修造!』が当たった。松岡修造は育ちがいい、と褒めたおかげだろうか(→2015.1.26)。
なので僕としては素直にありがたく頂戴しておくのだ。確かに自分に買うよりは人にあげる方が面白い物だよな。

……え? 僕が出したプレゼント? 東急ハンズでおなじみ、牛乳1リットルで手作りするプッチンプリンセットだ。毎回コレよ。


2015.12.21 (Mon.)

英語のルールが苦手な生徒への関係代名詞の教え方はいつも悩む。それで毎年、生徒と一緒に試行錯誤している。

 
L: thatの区別がつかない生徒向けに、あえてthat節と関係代名詞を比較する作業。
R: 和文英訳ができればどんな問題も解ける、ということで、日本語の修飾/被修飾関係にまず焦点を当てる。

どの説明がいちばんヒットするかは生徒によって違う。その場にいる生徒たちと一緒に考えることで、
生徒たちがそれぞれいちばん納得できる説明を探す、そういう授業。オッカムの剃刀の逆をやっているってわけ。
英語の授業は英語でやるべき、という主張がいかに愚かで底が浅いか、僕の生徒たちはよくわかっていますよ。


2015.12.20 (Sun.)

今日も元気だ青春18きっぷが便利だ、ということで、連日のお出かけなのである。日記がつらいのである。
でもまあ自業自得の覚悟はできているのでしょうがない。天気が良すぎるのも問題だよなあ、と思いつつ常磐線。

佐貫駅で関東鉄道竜ヶ崎線に乗り換える。ふだん常磐線に乗るときには意識しないのだが、今回はここからスタートだ。
竜ヶ崎線は龍ケ崎市の中心部と常磐線を結ぶ、そのためだけに存在する路線だ。乗ってみると乗客はそれなりに多く、
行きは部活の練習試合に出かける女子高生、帰りは仕事か買い物に出る幅広い年齢層の女性たちでいっぱいだった。
ちなみに女子高生たちはいちばん端っこの吊り革だけハート型になっているのに大いに反応してスマホで激写、触りまくり。
僕は車窓に広がる田舎の景色を眺めつつ、お前らそんなに簡単にノせられてどうすんだ、と思うのであった。

そんなこんなで竜ヶ崎駅に到着である。目的は当然、龍ケ崎市の中心部を歩くことと、龍ケ崎市役所の撮影だ。
(市名は「龍ケ崎」が正しいが、駅名や高校名は「竜ヶ崎」でいいらしい。少々ややこしいことになっている。)
しかし朝早すぎるので商店街はまだ眠っている状態である。どういう雰囲気の街なのか、感触を確かめて歩くことに終始。

  
L: 龍ケ崎市の中心部。駅からとことんまっすぐ歩いていくと、緩いカーヴの先に寂れ気味の商店街が現れる。
C: 訪れたのは午前8時半前だが、昼になってもそんなに賑やかになるとは思えないのがなんとも切ない。
R: 商店街の真ん中にある八坂神社。境内が通りに沿って横向きになっているのが少し独特である。

小貝川を介して利根川とつながっている龍ケ崎市の中心部は、水運による物資の集積地として大いに栄えた。
「龍ケ崎」とはなんとも仰々しい名前だが、竜巻が多かったとか街の形が龍っぽかったとか、由来は諸説ある。
江戸時代には水戸街道からはずれてしまうものの、1606(慶長11)年に仙台藩・伊達政宗の所領となると、
そのまま伊達家が治めて明治維新を迎える。転封がなく安定した支配が続いたことも、繁栄の一因なのだろう。

時間的な余裕があまりないのと歩いていてもどうしょうもないのとで、軽く往復すると市役所方面へと移動する。
街道の雰囲気がしっかり残る商店街の300mほど北側は茨城県道5号となっており、こちらは完全に郊外社会の匂い。
もともとが広大な農地だから開発しやすかっただろうが、性格のまったく異なる道路がすぐ近くを平行に走るのに驚いた。

 こちらは完全に郊外社会の雰囲気。龍ケ崎は街道と郊外が並行しているのね。

程なくして龍ケ崎市役所に到着。敷地にずいぶんと余裕があり、県道から少し奥まった位置にどっしりそびえている。
手前も裏も広々とした駐車場があって、本当に撮影がしやすいありがたい市役所である。なかなかロボットっぽい形だ。

  
L: 龍ケ崎市役所。さすが農地の広がる茨城南端、土地に余裕がたっぷりあるようで、大きめの庁舎がポツンとそびえる。
C: 少し近づいてみたところ。巨大ロボットが上半身だけ残して埋まっている感じだな。  R: 側面の方へまわり込む。

龍ケ崎市役所は1974年の竣工。龍ケ崎市歴史民俗資料館の公式サイトには年表があって(こういうのホント便利)、
それによると1956年にも市庁舎が竣工しているが、これは先代ということだろう。築22年で新庁舎を建設するとは、
かなりのハイペースである。ちなみに龍ケ崎市の市制施行は1954年。翌年に分村編入があったが、その後に合併はない。

  
L: 龍ケ崎市役所の側面。とにかく撮影しやすい市役所だ。  C: 背面へとまわり込む。  R: 背面。駐車場が広い。

龍ケ崎市できわめて面白い特徴としては、「市役所の住所が市名の後にいきなり番地」が挙げられるだろう。
市役所の住所はズバリ、「龍ケ崎市3710番地」なのだ(市のサイトによると、香川の琴平町にもそういう場所がある)。
これは旧龍ケ崎町が、江戸時代に仙台藩領だった村の範囲のまま、合併などをしないでここまできた影響らしい。
つまり、人が集まる街としての歴史の深さが、「市役所の住所が市名の後にいきなり番地」という形で現れているのだ。

  
L: 反対側の側面へとまわり込む。  C: こちら側は新しく庁舎を増築するようで、その工事中。  R: 正面より眺める。

あまりにも撮影しやすい市役所だったので、のんびり歩きまわっていたら、ちょっとピンチな時間になってしまった。
小走りで竜ヶ崎駅に戻る。やはり早朝にたった43分滞在するだけでは何も味わえない。龍ケ崎の魅力をもっと知らないと。

 竜ヶ崎駅前の空間は独特というか、古き良き鉄道の時代を思わせる構造だ。

佐貫駅まで戻ると時間調整のために周辺を軽く散歩。佐貫駅も龍ケ崎市内だが、そりゃあ常磐線の方が強いわな。
竜ヶ崎駅周辺は昔ながらの風情を残してがんばってはいるものの、衰退するのもやむなしか、と思うのであった。

ちょっと北上して土浦駅で下車する。土浦には今年の1月に来ており、自転車であちこちを走りまわった(→2015.1.10)。
そのときにはまだ土浦市役所は丘の上だったが、ついに9月に駅前の「ウララ」に移転を完了させたのである。
というわけで、今回はその新しい土浦市役所がどういう状態なのかを確認するのだ。つちうらうらまで見てやる、なんつって。

  
L: 現在の土浦市役所はこの中に入っている。かつては「イトーヨーカドー土浦店」だったが、2013年に閉店した。
C: 1月に訪問したときとほぼ同じ角度で撮影。当時、てっぺんにある立方体は真っ白だったが、現在は土浦市の市章入り。
R: 1階の入口。「土浦市役所」の下には「KASUMI(食料品スーパー)」と「ダイソー」の文字。夢(?)のコラボだ。

建物じたいは6階建てで、そのうち1階から4階までに土浦市役所は入っている。5階と6階は県南生涯学習センター。
スーパーやダイソーは地下1階に入っており、それ以外のカフェ、ファストフード、居酒屋が1階と2階の端にある。
本当に商業施設と市役所が合体している状態なのである。スーパーはまだしも、居酒屋と同居ってのはすごいと思う。
スーパー跡地に市役所が入った事例としては、北見市役所(→2012.8.19)が思い浮かぶ。あれから3年経って、
どのような形に落ち着いたのか、映画館は残されているのか。ぜひ、いろいろ確かめて比較してみたいものである。

  
L: こちらは土浦駅と直結しているペデストリアンデッキから2階の入口へ来たところ。やはり市役所と店の看板が並ぶ。
C: 1階の様子。日曜日なので市役所部分が閉じているが、それ以外のスペースは開放。勉強している人が多かった。
R: エスカレーターで2階に上がる。いきなり市役所部分となっていて、やはりかなり独特。平日に来ないとダメかー。

しかしこの現状をどのように認識すべきなのか。一昔前では考えられなかった事態が、選択肢として上がってきている。
思い出すのは大学院時代だ。都内の全市で調査をしたが、その際に狛江市役所で参考になる話を聞かせていただいた。
「公有財産」と「公共用財産」の違いだ。市役所などは「公有財産」であり、公園などの「公共用財産」ではないため、
開放するにも限度がある、ということ。その線引きは遵守しつつも、開放する部分の自由度を高める動きが続いている。
そしてこの土浦市役所の事例はおそらく、現時点において最も先端的なものだと言えるだろう。経緯を詳しく知りたいね。

  
L: 2階、駅側から市役所入口にかけてのスペース。  C: 市役所部分の中に入るとこんな感じで窓口がズラリ。
R: 地下はごくごくふつうの食料品売り場である。奥にはダイソー。これと市役所が同居しているってのが信じられない。

それにしても不思議な空間である。これは、公共が商業を呑み込んだのか、それとも商業が公共を呑み込んだのか。
規制緩和と新自由主義の関係から読んでいくことはもちろん可能だろうが、それだけの視点では事実を見誤りそうだ。
確実に言えることは、「庁舎建築」というもののアンチテーゼを叩き込まれたということ。「開かれた庁舎」なんて言葉、
ここでは軽やかに乗り越えられてしまっている。ネット、ウェブの世界というものは、ある意味では内装だけの空間だが、
それがこの土浦市役所では現実のものとなっているのではないか。2階のカフェで時間調整しながらそんなことを考える。

さて、龍ケ崎市→土浦市と来たわけだが、次の目的地は稲敷市。2005年に3町1村が合併して誕生した市である。
ところが稲敷市、鉄道が通っていないのだ。それで土浦からバスで移動することになるわけだが、東口と西口を間違えて、
バスを逃してしまったのであった。次のバスが来るのは1時間後ということで、駅のフードコートでルートの確認。
ついでに少し早い昼メシをいただく。せっかく写真撮影にいい時間帯を、ただバス待つためだけに使うことになるとは……。

そんなこんなでたどり着いたのは、江戸崎バスターミナル。ここは稲敷市を構成する町のひとつ、江戸崎の中心部なのだ。
江戸崎といっても江戸とは名前に直接の関係はなく、霞ヶ浦付近の地名「榎の崎(えのさき)」がなまったという説がある。
もともと霞ヶ浦の水運で栄えていたが、秀吉の天下統一後に蘆名義広が治め、天海の協力を得て街づくりがなされた。

  
L: 江戸崎バスターミナル。土浦のほか龍ケ崎や佐原からアクセス可能だが、まあ正直、交通の便はかなり悪い。
C: 江戸崎の中心部。右手は「えどさき笑遊館」。昭和初期に建てられた旅館をリニューアルした多目的施設である。
R: 県道との交差点。街道らしさの中に、昭和の商店街の雰囲気がよく残る。とはいえ、かなり衰退している印象も。

のんびりフラフラ、左回りに一周するような動きで、県道49号まで出てから稲敷市役所へと向かうことにする。
旧街道の雰囲気が残る東側とは対照的に、西側は寺と食い違いを連発する城下町の特徴がはっきり残っている。
近世の空間的な特徴があちこちにあるのだが、それがまったくアピールされておらず、なんだかもったいない街だ。
交通の便が悪すぎることもそうだが、ポテンシャルを生かしきれていない。古い建物がほとんどないのが惜しいなあ。

  
L: 旧街道の東側から西側へ出るルートは、「切通し」と呼ばれているようだ。確かに小さい峠になっている。
C: 切通しを下るといきなり、寺と食い違いがお出迎え。  R: 郵便局前。ここも食い違いで、往時の空気が残る。

そのまままっすぐ東へ歩いて稲敷市役所へ。建物が見えた瞬間、思わず「うおおおおお」と唸り声をあげてしまった。
そこにあったのは、まさに昭和の遺物! 今どき、こんな絵に描いたような庁舎が残っているとは! ただただ感動である。

  
L: 見よ、この正しい役所っぷり!  C: 敷地内に入って撮影。これはもう、昭和の役場そのものだ。  R: エントランス。

予想どおり、稲敷市役所は江戸崎町役場として建てられている。合併をめぐる資料を調べてみたら1970年竣工とのこと。
もうそんなに絶対に信じられないくらいの役場っぷりである。古び方からしても、絶対に50年代の庁舎にしか見えないが。

  
L: 正面より撮影。  C: 角度を少し変えて眺める。てっぺんの望楼が役場っぽいなあ。  R: 北西側から眺めたところ。

興奮して庁舎内に入るが、中もやっぱり質実剛健、正しい役所ぶりである。散らかり具合がまた昭和な雰囲気全開。
面白いのは、横長の内部空間には壁がぜんぜんなくて、やたらと開放感があること。その辺は70年代ならではの進歩か。

  
L: 稲敷市役所(旧江戸崎町役場)の内部。なんか、壁がぜんぜんないんですが。  C: 玄関入って正面には階段。
R: 入って右手は市民向けに開放されているスペース。ちなみにゆるキャラは「稲敷いなのすけ」というそうです。

撮りごたえのある庁舎なのはいいが、非常に横長なのでうまく収まるように撮るのは大変。手前の駐車場だけでは足りず、
向かいのスーパーの駐車場からあの手この手で撮影する。そういえばこのスーパー、さっきの土浦市役所と同じ店だ。
冷静に考えると、役所のすぐ隣がスーパーという立地も独特である。土浦市役所にもこの「実績」が影響したのかな?

  
L: 庁舎のいちばん北側だけ膨らんでいるのは議場だからかと思ったが、そのような利用はなされていなかった。
C: 小野川越しに眺める背面。  R: 角度を変えて背面。こっち側はタイルが多めに貼り付くなど、少し印象が違う。

稲敷市役所の撮影は終わったが、旅はこれで終わりではない。同じ稲敷市内にある、大杉神社を参拝するのである。
しかし大杉神社へのアクセスは江戸崎よりさらに悪い。さっきバスを逃してへこんだのは、この乗り継ぎが理由なのだ。
天気もいいし、今日はもう大杉神社まで行けばそれでいいので、覚悟を決めて歩くことにする。その距離、6km。
稲敷市役所を後にすると、県道をトボトボ歩いてひたすら東へ。途中で別の県道にスイッチして、さらに東へ。
最後は国道125号に合流して阿波(あば)という集落まで行く。大杉神社はそこにあるというわけ。がんばるか。

  
L: 歩きはじめて15分ほどで県道107号にスイッチする。高低差のけっこうある道で、切り通しっぽい箇所も。
C: これはソーラーパネルを設置する工事中だと思うのだが、なんだか『エヴァンゲリオン』に出てくる墓地みたいね。
R: 県道107号のラストスパート。工場・ゴルフ場・農地が錯綜する、非常に茨城県南部らしい土地なのであった。

国道125号に入ると生活空間の匂いがしてくる。比較的まっすぐだった道はくねくねと曲がり、店もチラホラ現れる。
やがていきなり、東照宮を思わせるようなド派手な門と玉垣が視界に飛び込んでくる。そして、その隣の寺もなかなか。
なるほどこれが大杉神社か、隣は神宮寺ねと納得。というわけで、まずは隣にある安穏寺のお堂から見ていく。

  
L: 安穏寺の本堂。立派なのだが詳細がぜんぜんわからない。  C: 大杉神社の境内側から覗き込んだところ。
R: 本堂の背面。軒下の彫刻がやはり東照宮風。寺と神社は別物とはいえ、大杉神社から何かしらフォローがほしいぜ。

ではいよいよ大杉神社へ。まわり込んで正面の鳥居から入るが、全般的にゴテゴテしているのがどうしても気になる。
神社というよりは寺っぽいし、むしろ新宗教っぽい感触すらある。神仏習合の名残があると、そういう傾向が出てくる。

  
L: 鳥居。手前の道がカーヴしており、曲がりきらないとそのままスポッと境内に入る感じ。奥の店舗は和菓子店。
C: 直進すると石段。石灯籠がやたらと多いんですが。  R: 石段を上がった右手には旧護摩堂。1804(文化元)年築。

こちらの大杉神社は全国各地にある大杉神社の総本社とのことだが、僕はそもそも大杉神社という存在じたいが初めて。
かつて航海の目印だった大きな杉の木をご神体とし、そこに仏教の疫病退散祈願が重なって、現在の形に仕上がった。
まあそれはいいのだが、鎌倉時代前夜には源義経の家来だった常陸坊海存がこちらで数々の奇跡を起こしたそうで、
この人が天狗そっくりな風貌だったので天狗信仰までプラスされている。そんなわけでいろいろ盛りだくさんになっており、
社殿がやたらとデコレートされていたり、いろんな神様を末社に迎えていたりして、正直とっ散らかり気味である。
まあ庶民の信仰ってそんなもんかな、とも思う。鹿島神宮や香取神宮(→2014.8.30)とは、だいぶ雰囲気が違う。

  
L: 神門。  C: くぐると境内で、雰囲気は東照宮と中国風の中間って感じ。  R: 2010年築の麒麟門。約280年ぶりの再建。

よく言えば、境内は非常にきれいなのである。しかし逆にきれいすぎて、むしろ作り物感がものすごく強くなっている。
神社というと自然と人工の共存ぶりがひとつの魅力だが、大杉神社の場合は徹底的に人工の美にこだわっているのだ。
周囲と比べてここだけ別世界という印象を与えることで、信仰をより強めようとしてきたのだろう。神社もいろいろだ。

  
L: 拝殿。現在の社殿は1816(文化13)年に建てられたというが、100年経っているとはまったく思えない。
C: 奥には本殿。周りの玉垣には彫刻がバリバリに施されている。その内容は二十四孝(→2015.8.23)だった。
R: 反対側の奥の方には摂末社群。こっちは自然と共存している感じになっており、かなり対照的である。

大杉神社の境内すぐ脇にはネコが何匹もいて、参拝客と戯れていた。大杉神社には「あた」という名前のネコがいて、
そいつは滅多に出てこないので会えると縁起がいいとか。でも僕はそんなの別に興味がなくって、ただネコと遊ぶだけ。

  
L: 黒いネコは風邪を引いているらしく、いびきをかいて寝ていた。  C: 酒樽の上ってのもどうかと思ってしまうのだが。
R: これは後で日記を書いているときに出てきたやつ。なんだかクリスマス・エクスプレスのCMに出てきそうな美ネコだな。

大杉神社は成田線の下総神崎駅との間に無料バスを出している。しかし乗り場を確認せずにネコと遊んでいたせいで、
結局乗り遅れてしまったではないか。おかげで次のバスまで2時間も待ちぼうけである。今日のバスはいろいろ誤算続きだ。
しょうがないのでMacBookAirを取り出して日記を書きまくるのであった。最初の1時間はかなり快調に進んだのだが、
16時を過ぎるとけっこう寒くなってきて、疲れも出てきて、なかなか進まなくなる。あと1時間、これはまいった。
……そう思ってMacBookAirをたたむと、ふと視線を感じた。見ると、ネコが1匹、こちらをじっと見ているではないか。
「よし! 遊んでやるぜ!」ということで、残り時間はネコたちを相手に過ごしたのであった。当方、ネコにはモテるのよ。
特に風邪っ引きの黒猫はやたらと人なつっこく、膝に乗ってきたと思ったらそのままジャンプして僕の背中に乗りやがる。
一度降ろしたのだが、2回目はまったく躊躇なく背中に乗りやがった。ほかの参拝客や神職さんから笑われるのであった。

 ヒゲそってないしメガネだし、自撮りしたくないんだけど……。こんな感じでした。

そんなわけで時間ギリギリまでネコと遊んで、日記もそれなりに進んだし、まあそれはそれで怪我の功名だったかも。
下総神崎駅まではやっぱりなかなかの距離があり、空はどんどん暗くなっていく。そして下総神崎駅に着いてびっくり、
そこにはクリスマス仕様ということでか、きらびやかに電飾が施された駅舎が待っていた。こういう駅もあるのね。

 
L: 電飾だらけの下総神崎駅。  R: スロープにも虹色の灯りが。夕焼けと相俟って実に美しい。

成田よりも東にいるので、じっくり時間をかけて帰ることに。今日もなかなかの冒険なのであった。
いやーしかし、最後の最後で背中に乗ってくるネコにはやられた。背中を取られたのは初めてだよ、ハハハ。


2015.12.19 (Sat.)

いいかげん疲れているので土日はしっかりと休みたいのだが、この週末はそれが許されないほどの快晴になるとの予報で、
じゃあしょうがねえや、と朝の5時台に家を出るのであった。そうして青春18きっぷをかざしてやってきたのは大月駅。
国立時代の感覚がだと大月はわりと近い印象があったのだが、実際はしっかり2時間はかかる。やはり山梨は甘くないのだ。

大月駅ではまず、富士急行の「フジサン特急フリーきっぷ」を購入。別にフジサン特急が目的というわけではないが、
今回はこれがあった方がいいのである。で、あったかい朝メシということで駅そばをいただく。僕はいつも月見なんですよ。
そして満を持して乗り込んだ特急列車だが、いわゆるフジサン特急の車両ではないようだ。点検がどーのこーの言っていた。
僕としては富士急に乗ること自体が初めてなので、車窓からの景色が楽しめればそれで十分なんだけどね。
鮮やかな冬の晴れた日に見える富士山は、雪を頭にかぶって堂々と立ちはだかる。それだけで得した気分になる。

  
L: 富士急行の方の大月駅入口。鳥居のデザインとなっている。いいかげん見飽きた水戸岡戦法がここでも炸裂でウンザリ。
C: 富士山駅に到着。かつての富士吉田駅である。大きく出たもんだと思う。全列車がスイッチバックするので櫛型ホーム。
L: 駅ビルの外に出てみたら、こっちにも鳥居がデザインされていた。富士信仰を強調するのは世界遺産だからかね。

富士吉田にやってきた目的はふたつ。ひとつは当然、富士吉田市役所。そしてもうひとつも当然、神社である。
まあいつものパターンである。ただ、富士吉田には北口本宮冨士浅間神社と小室浅間神社があるので、両方参拝。
バスターミナル前にある観光案内所でレンタサイクルを借りる。予定の段階では河口湖まで行っちゃうつもりだったが、
河口湖は河口湖で別にレンタサイクルがあるという話なので、乗りつぶしにもなるし、富士吉田限定で動くことにする。

 駅から東に出ると、いきなり見事な鳥居。富士山がまたいいなあ!

最初にまず北口本宮冨士浅間神社を目指す。富士山駅からすぐのところに一の鳥居があり、ひたすらそれを南下。
しかし当然といえば当然だが、富士山に向かって地形はなかなかの上り坂になっており、電動自転車が威力を発揮。
おかげであっという間に境内の前に到着した。しかし目の前の道は狭くて交通量が多く、撮影には少し難儀した。

  
L: 北口本宮冨士浅間神社の鳥居。手前にはつねに交通整理の係員がいるようだ。道は狭いのに交通量が多くて大変。
C: 鳥居をくぐると、富士山の自然と無数の石灯籠が幻想的な空間を見せてくれる。  R: 三の鳥居がバカでかい。

富士信仰に関係する神社というと、僕が真っ先に思い浮かべるのは駿河国一宮の富士山本宮浅間大社である。
あっちは2回ほど参拝しているが(→2008.3.232014.10.12)、こちらは初めてだ。しかし負けず劣らず社殿が立派だ。
神秘的な雰囲気の境内に巨大な朱塗りの両部鳥居、そして随神門。神像があるはずのところに何もないのが不思議。
その随神門をくぐると神楽殿、その右に手水舎で、これまたすべて朱塗り。その造りは神社というより寺っぽい。

  
L: あまり写真の枚数を増やしたくないが、北口本宮冨士浅間神社についてはしょうがないと諦めた。これは随神門。
C: くぐると神楽殿。  R: 手水舎。軒下がすごいことになっているが、そういう手水舎は珍しいと思う。

そして何より圧倒的なのが拝殿だ。中を覗き込むと天狗の面がある。高尾山を思い出すが(→2010.5.3)、
あっちは薬王院で飯縄権現。そして建物内部の雰囲気は、雄山神社の中宮祈願殿(→2015.8.1)にも似ている。
やはり北口本宮冨士浅間神社は神仏習合色が強いのである。でもこの拝殿、なんで重要文化財じゃないんだろう?

  
L: 圧倒的な存在感をみせる拝殿。随神門・神楽殿・手水舎・拝殿は1733(享保18)年に村上光清が造営した。
C: 正面から拝殿を眺める。有無を言わせぬ迫力。  R: 中を覗き込んだところ。仏教っぽさが強く漂っている。

北口本宮冨士浅間神社は、本殿の右手奥にある鳥居がそのまま、富士登山・吉田口の起点となっている。
なるほどこれが久須志神社(→2013.8.7)までつながっているのか、なんて思うと感慨深い。ぜひまた登りたい。

  
L: 本殿へ向かう途中で振り返った拝殿。この角度からでも見事である。  C: 重要文化財の本殿は覆屋の中なのだ。
R: 本殿の左右隣にはそれぞれ東宮と西宮がある。こちらは西宮。やはり重要文化財に指定されているのだ。

御守を頂戴すると一気に坂を下っていく。富士吉田の市街地は富士山の裾野の傾斜そのままに成立しており、
位置エネルギーを解放するだけであっという間に富士吉田市役所に到着。楽なのはいいが、帰りが怖いわ。

  
L: 富士吉田市役所を交差点越しに眺める。冬の市役所撮影は逆光がキツくて大変。この写真だけは小室浅間神社の帰りに撮影。
C: 3階建てで、いかにも高度経済成長期の古典的スタイル。むしろ「町役場」って感じである。  R: 少し角度を変えて撮影。

富士吉田市役所は1958年の竣工と、見てのとおりの歴史なのであった。設計者は石本喜久治。
彼の設計事務所は後に組織事務所として多くの市庁舎建築を設計していくことになるが、その存命中の作品だ。
(1953年竣工の足利市庁舎別館(→2011.1.5)以降、松本市庁舎(→2008.9.9)、三島市庁舎(→2013.3.9)、
 館山市庁舎(→2008.12.23)、蒲郡市庁舎(→2012.12.29)、島田市庁舎(→2012.12.24)などなど、
 石本建築事務所は数多くの庁舎建築を世に送り出していく。石本の市庁舎に対する強さは特筆すべきレヴェルだった。)

  
L: 背面。東庁舎がくっついている。  C: 南側にまわり込んだところ。  R: 振り返って東庁舎を眺める。

何の変哲もない正しい1950年代3階建て庁舎だが、やはり側面の富士山の絵は非常にインパクトが大きい。
竣工当初からこのような利用がなされていたとは思えないが、今となってはまさに絶好のキャンバスである。

  
L: 側面に描かれている富士山。世界遺産登録を記念して描いたかはわからないが、抜群にいいPRになっている。
C: 内部の様子。玄関から入ると、まずはホール的空間。  R: そこからドアを開けてもうひとつ奥に入ると窓口。

最近はマイナンバーの関係で、休日でも堂々と市役所の中に入れることがある。その点だけはありがたいことではある。

撮影を終えると、旧市街地の商店街である国道139号を一気に下って小室浅間神社を目指す。北へ行くのに下る、
それが表現としてはなんともムズムズするが、富士吉田の市街地は富士の裾野ならではの坂道として全体ができている。
そしてその商店街をほぼ下りきったところにいきなり、小室浅間神社の鳥居が現れる。これにはちょっと驚いた。

  
L: 商店街の中にいきなり現れる、小室浅間神社の参道。  C: 石畳はなかなかの凸凹ぶり。そこを根性で進んでいく。
R: 二の鳥居に到着。別表神社だが雰囲気はふつうに街の神社。コンパクト感があるのは山梨だからか(→2014.10.12)。

境内にお邪魔すると、氏子の方数人で何やら祭礼があって、それが終わった直後の様子。しかし特に関係もないので、
淡々と二礼二拍手一礼して御守を頂戴するのであった。これは単なる街の神社ではない風格を感じさせたなあ。

  
L: 小室浅間神社・境内の様子。  C: 拝殿を正面より眺める。  R: 少し離れて角度をつけて眺めたところ。

本殿を見ようと拝殿から少し右にずれたら、そこにはイチョウの木があり、その前には「大塔宮」と書かれた柱があった。
これはつまり、後醍醐天皇の皇子・護良親王のことだ。鎌倉宮(→2010.11.192015.9.12)で学習済みだもんね。

 この場所に護良親王に関連するものがあるのは意外。

参拝を終えると、国道139号の商店街をそのまま走って駅まで戻る。電動自転車だからスイスイ進むことができたが、
ふつうの自転車だったらそうとうキツい傾斜である。でも真正面に富士山が見えて、これが実に美しいのである。
特筆すべきは交通量の多さで、とにかくやたらと車が通る。市役所前もそうだったが、富士吉田は街の規模に対して、
交通量が異様に多いのが気になる。江戸時代に富士講が流行したことで富士吉田の街は発展していったというが、
街割りはそのとき以来のものが維持されているようで、矩形で道が狭い。そしてどこからでも富士を見られる。

  
L: 国道139号の商店街を南に進む。富士山が見事に真ん中に来る。  C: さらに南へ進む。  R: 富士山駅近く。

富士山駅に到着すると、レンタサイクルを返却。河口湖行きの列車が来るまで時間があるので、駅ビル内を散策する。
まずは6階/屋上にある展望デッキに直行。外に出た瞬間、富士山の威容に目を奪われてしまう。これは見事だ。

  
L: Q-STA(富士山駅ビル)6階の展望デッキ。ここでも水戸岡デザインが炸裂していてウンザリである。
C: しかし雰囲気はすばらしい。木造デッキの落ち着いた感触は大正解。  R: 富士山を眺める。言葉が出ない。

富士吉田市内ならだいたいどこからでも富士山を望むことができるが、展望デッキからだとまったく遮るものがない。
おかげで「これでもか!」というほど正統派の富士山の威容を味わうことができた。いや、もう、これは文句なしだ。

 山腹~山頂をクローズアップ。富士登山の記憶(→2013.8.62013.8.7)が蘇る。

そこから売り場をぐるぐるまわって地下のフードコートへ。富士吉田といえば「吉田のうどん」なのだ。
迷わず昼メシにいただいた。小麦感たっぷりの太麺にキャベツ、そしてつゆは味噌仕立て。というわけで、
これはもう食った瞬間に「ハイ、ほうとうのうどんヴァージョン!」なのであった。いや、すごく旨かったけどさ。

 吉田のうどん。大盛にしておくべきだったと深く後悔。

そんな具合に時間いっぱい富士吉田を満喫すると、河口湖行きの列車に乗り込む。と、外国人観光客でいっぱい。
南米ラテン系の皆さんと中国系の皆さんが半々ぐらいか。南米ラテン系の皆さん(特に男性)が着ている上着には、
高確率で赤いタスキの入ったエンブレムがついている。「ああ、リーベル・プレート(→2015.12.16)か!」と納得。
大阪から横浜へと移動するにあたり、ちょっとフジヤマを見ておこうぜ!というわけか。特に家族連れが多くて、
富士急ハイランドに寄って遊ぶとは、実にうまいことを考えたな。大いに感心しながら列車に揺られるのであった。
いやー、まさかこんなところでリーベル・プレート×広州恒大のエキジビションマッチが開催されるとは、とボケてみる。

しかし富士急ハイランドでは下車せずに終点の河口湖まで行く客も多かった。中国系はむしろ河口湖までが多い。
これはいったいどういうことかと首をひねる。外国人観光客はみんなそのままバスを待つ行列に並ぶのであった。
どうやら僕の知らないうちに、河口湖は外国人観光客に大人気のスポットとなっていたようだ。これには驚いた。
(彼らが行列をつくっていたのは、どうやら世界遺産を巡る周遊バスのようだ。そんなにいいもんなのかねえ。)

 
L: 富士山とハローキティのコラボ顔ハメなのだが、こうなるともうどうすればいいのやら。
R: 外国人観光客でごった返す河口湖駅。当方、河口湖がそんなに観光資源として魅力的とは思っていなかったのだが。

とにかくレンタサイクルが確保できないことには困るのである。冨士御室浅間神社はけっこう距離があるのだ。
観光案内所で訊いたら、まず近くのレストランを勧められた。ダメなら駅の向かいちょっと奥にもある、とのこと。
で、レストランはすでにぜんぶ出ちゃったとのことだが、もうひとつの店に行ってみたらたっぷり自転車があった。
2時間の予定で快調に走り出し、湖へと向かう。そしたらレンタサイクルを扱う店がいくつもあって、驚いた。
河口湖は僕が思っていたよりもずっと、観光地として賑わっているようだ。何が魅力的なのかよくわからんが。

 
L: 駅から河口湖へと向かうが、きっちり観光地で驚いた。  R: 河口湖に出た。あまりフォトジェニックではなかったね。

とりあえず河口湖の湖岸線に沿って走っていけば、高低差に苦しむことなく冨士御室浅間神社に到着できるのだ。
それでグイグイ走っていると、途中でバッティングセンターを発見。河口湖ってのは何でもアリなんですな!

 ……あれ? オレ、打席に立っている?

というわけで、気がつけば中に入って打っていたのであった。バッティングセンターは超久しぶりなのだが、
それにしてはまずまずのバッティングができたのでヨシとしよう。ファウルが多かったが、会心の一撃も出たし。
しかし、まさか河口湖に来てバッティングをするとはなあ。まあそこにバッティングセンターがあったからしょうがない。

そんなこんなで冨士御室浅間神社に到着。湖に面しているのは境内の奥の方なので、正面へとまわり込んで参拝開始。
なぜかはわからないが、参道が住宅地の中からいきなり始まる形になっており、少々戸惑いながら歩いていく。

  
L: 冨士御室浅間神社に着いた。こちらは境内の北東端、河口湖に面している箇所。本殿はこの鳥居のすぐ先にある。
C: まわり込んで参道の始点へ。住宅地の中でいきなり始まるので、こんな窮屈な角度でないと撮影ができないのだ。
R: 住宅を背にして正面から鳥居・参道と向き合ったところ。静かな神社だが参拝客はチラチラといるようで。

冨士御室浅間神社は、富士山にある神社では最も古いそうだ。今回訪れたのは958(天徳2)年につくられた里宮で、
富士山の2合目には本宮(奥宮)がある(ただしその本殿は文化財保護ということで、こちらの里宮に移されている)。
北口本宮冨士浅間神社が「大」、小室浅間神社が「小」なら、冨士御室浅間神社は「中」といった規模である。

  
L: 参道を行く。  C: 進んでいくと随神門。  R: 門を抜けると拝殿。1889(明治22)年に建てられたそうだ。

拝殿の前に立つが、破風が大きくてなんだかバランスが悪い印象である。そこだけ見ると寺っぽさもなくはない。
吊灯籠が2つ下がっていて、それは寺っぽい。裏には一体化した本殿があるが、よく見ると覆屋になっているようだ。

  
L: 冨士御室浅間神社の拝殿。ややバランスを欠いている印象だが、真ん中だけ見ると寺っぽく感じられないこともない。
C: 本殿は覆屋になっているようだ。  R: 角度を変えて拝殿を眺める。やはり屋根の持っている迫力が独特である。

随神門の手前を横向きに道が通っていて、ちょうど十字路のようになっている。この南西側に本宮の本殿がある。
1612(慶長17)年に徳川家の家臣・鳥居成次が建てたそうで、重要文化財となっている。上ですでに書いたが、
富士山2合目の環境は厳しいので、1973年にこちらに移築した。

 
L: 本宮の本殿前には中門はある。天狗の面が掛かっていて、やはりそこが修験道っぽさを感じさせる。
R: 瑞垣から中を覗き込んで本殿を見たところ。カラフルな彫刻がやや東照宮的な価値観を思わせる。

これで河口湖を訪れた目的は達成したが、せっかくなので富士河口湖町役場も見てみる。かつては河口湖町だったが、
2003年に合併で富士河口湖町となった。2006年には上九一色村の南半分だけが編入(残りは甲府市に編入)という、
珍しい合併劇があった。役場庁舎は見るからに新しいが、建設中に合併計画が進行したようで、経緯がよくわからない。

  
L: 富士河口湖町役場。逆光がひどくて正面から撮影できなかった。  C: 背面と側面。  R: これまた側面。

河口湖は観光地として整備がガンガン進んでいる途中のようだ。河口湖駅へ向かう道は交通量が多いのに非常に狭く、
自転車だとヒヤヒヤする箇所があった。しかし河口湖大橋から役場を経て国道139号へと接続する道は広々としており、
ロードサイド店も盛んに営業している。富士山をまっすぐに望めるように計算して整備したのは間違いあるまい。

 これからガンガン開発されていくんだろうなあ。

河口湖駅に戻ると自転車を返却して駅構内を少しブラブラ。しかしそこは外国人観光客ばかりなのであった。
日本人観光客もいなくはなかったが、完全に海外勢に占領されていた感じ。それはそれでどうかと思うのだが。
観光案内窓口のすぐ脇には数ヶ国の通貨と両替する機械が置いてあったわけで、そういうもんなのかと。

たまたま『きかんしゃトーマス』列車に乗って河口湖駅を後にする。僕は『やえもん』派なのでうれしくない。
そしたらリョーシさんから「エヴァ新幹線に乗ってるよ!」とメールが届いた。お互い、ニンともカンともである。

そんなこんなで下車したのは谷村町駅。「たにむらちょう」ではなく「やむらまち」と読むのだが、
谷村はもともと武田家臣・小山田信茂が本拠地としていた場所だ。武田勝頼が織田軍に攻め込まれて逃亡する際、
真田昌幸は上野国に呼び寄せようとしたが、勝頼は譜代の家臣だった小山田信茂を頼る。しかし信茂は裏切ってしまい、
勝頼は天目山の戦いに敗れて武田氏は滅亡する。信茂は甲州平定後、信長に会おうとするが逆に裏切りを咎められ、
結局は処刑された。その後も谷村町は郡内地方の拠点であり続け、1954年に周辺4村と合併して都留市となる。
「都留」とは元は山梨県東部を占める郡の名前で、現在の都留市域よりかなり広く、大月や富士吉田も含んでいた。

というわけで、目的地は当然、都留市役所である。谷村町駅から都留市駅まで、都留市街をのんびり歩いてみるのだ。
さすがに旧町名を冠した駅だけあり、市役所は徒歩で1分ほどの位置にある。裏道を抜ければすぐ、市役所の敷地内だ。

  
L: 都留市役所。これは後でわざわざ距離をとって正面から眺めたところ。  C: エントランス付近。  R: 角度を変えて眺める。

都留市役所については、図書館によって市庁舎竣工記念パンフレットがウェブで公開されている(⇒こちら)。
1968年竣工で、設計は加藤明建築設計事務所。しかしこの加藤明さんは、都留市役所以外の作品が見当たらない。
パンフレットによると、市役所の敷地はもともと都留文科大学があったそうだ。長野県民にとって都留文というのは、
独特な存在感のある大学なのだ。近くてC日程(当時)で受けやすい公立ということで、文系に優しい大学なのだ。
まあそれとひきかえに、筑波と並ぶ「同棲の聖地」みたいな認識もあったけどね。確かに陸の孤島だよな、ここ。

  
L: 都留市役所の南側面。谷村町駅から来るとまずこっち側に出るのだ。  C: そのまま背面へとまわり込む。
R: 中はこんな感じで大胆な吹き抜けだ。休日だけど、ここもマイナンバーの関係で中に入ることができた。

市役所の撮影を終えると、気ままに街歩きをスタートである。「富士みち」という別名を持つ国道139号に出ると、
都留市商家資料館こと旧仁科家住宅が堂々と建っていた。1921(大正10)年築で、絹問屋だったそうだ。
さらに進んで市役所入口交差点に行くと、銀行っぽい雰囲気の近代建築が残っていた。ネットで調べてみたら、
旧横山呉服店とのこと。それ以上の細かいことはわからないが、意地で残そうとしている気迫は十分に感じられる。
国道を挟んだ東側はかつて谷村町役場(1928年築)があったそうで、今では想像できないほど栄えていたのだろう。

  
L: 都留市商家資料館(旧仁科家住宅)。甲斐絹の産地だった名残だ。  C: 角度を変えて眺める。
R: 旧横山呉服店。向かいにはかつて谷村町役場があった。どうにか活用できないかと意地で残している感じ。

この市役所入口交差点から少し北へ行ったところに、山裾にくっつくようにして都留市まちづくり交流センターがある。
まあ要するに公民館やら図書館やらの複合施設なのだが、食い違いになって山裾へと向かう構図がいかにも城っぽい。
正確に言うと城というよりは、山城の麓にある御殿の雰囲気だ。谷村町の歴史はたぶんここが中心だったんじゃないか。

 都留市まちづくり交流センター。谷村陣屋跡はここから少し西の裁判所だけど。

その後は国道139号を歩いたり、西側にある県道705号を歩いたり、あみだくじ式にフラフラしながら都留市駅方面へ。
山裾と桂川の間はいかにも城下町らしく、基本的には碁盤目だが、あちこちに食い違いが配置された構造になっている。
だいぶ弱まってはいるものの、穏やかな雰囲気で営業を続けている商店も点在しており、往時の繁栄ぶりがしのばれる。

  
L: 山裾側の国道139号。異様に交通量が多い。富士吉田もそうだったけど、狭いところに交通量が多いので撮影しづらい!
C: 桂川側の県道705号。この一角がいちばん商店が残っているかな。  R: こちらは東西方向の商店街。都留市駅に近い辺り。

国道139号は山に沿って大胆にカーヴするが、そのまま直進すると都留市駅である。なかなか大胆なデザインで、
全体的に昭和の雰囲気がよく残っている。かつては特急が停まったらしいが、今は都留文科大学前駅の方に停まって、
こちらは単なる各駅停車の駅となっている。その辺りに都留市の立ち位置、多くの大学生を抱える都市ではあるが、
商業圏としての勢いは失われてしまった現実が読み取れる。観光客でごった返す河口湖と同じ路線とは思えない。

 都留市駅。開業当時は「谷村横町駅」という名前だった。城下町だねえ。

都留/谷村町をのんびり歩きすぎて、列車を一本遅らせることになってしまった。まあ別に困ることもないのだが。
のんびり揺られて帰ったのだが、やっぱり大月まで行くのは遠いとあらためて実感。しっかり疲れちまったよ。

そのまま渋谷まで出てちょっと買い物。そしたら渋谷の交差点もセンター街もリーベルのサポーターだらけで驚いた。
みんな着ているものに赤いタスキのエンブレムがついているのだ。しかしよく考えると、これはなかなかすごい。
一目でそのサッカークラブのサポーターだとわかる恰好をしているというのは、もうそれが文化だということだ。
強豪国ってのはこういうもんなのかね、と渋谷の雑踏の中でしみじみ思うのであった。


2015.12.18 (Fri.)

『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』。アニメを見たので感想を。

強さのインフレを全肯定した成長しまくりモテモテ特別主人公という、安易さ満載の前提がなんとも。
いや、キャラ自体に嫌悪感はないが、「昔、『イース』ってゲームでアドルって人がいてね……」って言いたくなるね、と。
対するヒロインは、ボクっ娘でツインテールでロリ巨乳で紐。人気が出る要素を見事に盛り込んだなあと感心してしまった。
(横文字の名前に弱い僕は「ヴァレンシュタイン」が覚えられずに、ずっと「ハリルなにがし」と呼んでいたのは秘密だ。)

それにしても主人公をめぐる前提(設定ではなくて、前提。前提条件ね)の安易さは、ちょっと気になるところだ。
もともとこの作品はライトノベルが原作で、さらにそのライトノベルはネットの小説投稿サイトから出てきたという話だ。
ネットの小説というのは、正直なところ僕も一時期格闘していたことがあるのだが、なかなか独特なものがある。
端的に言うと、読み手のレヴェルが高くないのだ。今の僕は完全にそういう世界と切れているので詳しくはわからないが、
10年くらい前には書き手云々というよりもむしろ、読み手のレヴェルの低下が顕著になっていったように思う。
そしてそういう連中を満足させるためにはどうしても、安易な前提、安っぽいドラマトゥルギーに寄っていく。
ライトノベルにはもともとそういう類の「とっつきやすさ」があるが、ネットはさらに安きに流れているのではないかと。
だからネットの小説出身のライトノベル作品は、ただのライトノベルに輪をかけて安易さが目立つのではないか。
ドラマトゥルギーがよりひどく退化しているのではないか。話の展開を見ながら、そんなことを考えていた。

というわけで原作を読む気はしないので、アニメだけに的を絞って感想をまとめていく。
第1話の終盤、ベルをバカにするベートの直接的なセリフにテンションだだ下がり。上記の安易さをまず大いに感じた点だ。
しかし、見ていくと総じてよくできていると思う。ダンジョンを中心としたひとつの街に舞台を狭めたのが効いている。
また、ダンジョンの扱いが「危険だが富をもたらすもの」として機能しているのが面白い。炭鉱のような産業ってわけだ。
ご存知のとおり、僕にはファンタジー脳(能)が完全に欠けているので(→2011.10.152013.11.15)、
ファンタジーにおける論理としてそれが妥当なのかどうかはわからないが、ひとつの完結した舞台としては完成されている。
だからベル君だけ特別に猛スピードで成長していくのも、安易さを大いに感じずにはいられないのだが、納得はいく。
その世界ではそうなんだからしょうがねえやな、と思わせるものがきちんとある。前提は安易でも、設定は安易ではない。
神様がバイトを掛け持ちしているという世界観を違和感なく構築できる想像力は、これは大したものだと思う。

個人的に特に感心した点は、第8話のミノタウロス戦。よく動かすなあと。日本のアニメってすごいなあと。
あとは第12話の「ロマン」の巻き舌も好き。見るべき箇所をきちんとつくっている皆さんは大変すばらしいです。
ライトノベルだと読む気はしないが、アニメ化されたものを見るっていうのは、いい方策かもしれないなと思う。
『ゼロの使い魔』(→2010.4.19)や『狼と香辛料』(→2009.7.28)のアニメはどんなんなのか、気になってきた。
また、褒めるところのなかった『氷菓』(→2015.2.12)はどうなるのか。ありゃあ文章より内容がウンコだからダメか。
そういう意味では『デュラララ!!』(→2011.4.25)も西尾維新(→2012.7.10)も見る気しねーや。
そういえば、『マリア様がみてる』(→2004.3.4)は違和感なく読めた記憶があるなあ。おたくもいろいろ。


2015.12.17 (Thu.)

女子サッカーのレジェンド中のレジェンド、澤選手がついに引退ですか。うーん、ついにこのときが来たか。

思い出すのは2003年ごろ、修士論文を書くために自転車で府中市役所まで往復していた日々のことである。
当時の僕は、暇を見て府中市役所へ行っては資料室で市報を読み込む、という行為を延々と繰り返していたのだ。
そしたら以前の日記に書いたとおり、ある女子サッカー選手の活躍が定期的に市報で紹介されていた(→2011.7.18)。
これが、僕が「澤穂希」という名前を知ったきっかけである。しかしここまで偉大な選手とは思っていなかった。

というわけで、府中の件もあって僕が女子サッカーに興味を持ちはじめたのは、女子代表が上田監督のときだ。
僕が彼女たちの存在をきちんと認知してからしばらく経って、「なでしこジャパン」という愛称が決まった。
なので世間と比べて早くから興味があったと言えるほどのものではない。本当にタッチの差くらいなものである。
「あの(府中市報に載っていた)澤が、この(なでしこジャパンの)澤か!」ってくらいで。そんなもん。
個人的には『ウゴウゴルーガ』でやっていた「ちなつのシュート」が好きだったので(circo氏もファンだった模様)、
男子サッカーよりはあたたかい目で見ていたつもりである。そしてその中心には、つねに澤がいたのだ。

あの時期の女子サッカーと比べると、今は確実に裾野が広がっているのを感じる。かわいい子がやたらと多いもん。
まあそんなヤンなでフィーヴァーは置いといて(→2012.8.132012.8.302012.9.82012.11.42012.12.25)、
長い女子サッカー苦難の時代があって、それを一手に引き受けるようにして耐え抜いて、人気を定着させた中心人物。
そんな澤さんには心から敬意を表するのであります。ほかの選手だってもちろん女子サッカーを支えてきたんだけど、
中心として存在し続ける時間がこれだけ長かったのは圧倒的だ。澤という選手の存在が今後も唯一無二であること、
それが女子サッカー界にとって最も幸せなことなのかもしれない。もはや一人に頼ることがない、そういう意味で。


2015.12.16 (Wed.)

クラブW杯準決勝・サンフレッチェ広島×リーベル・プレート。ついに南米王者との対戦である。

前半は試合を支配されつつも、広島がよくチャンスをつくっているという印象。相手はこれが初戦だが、広島は3試合目。
広島はもともと連携のいいチームだが、まだ目覚めきってないとはいえ、それがリーベル相手にきっちり通用している。
しかしリーベルのGKがさすがの反応でゴールを割らせない。Jリーグなら決まっていそうなシュートを連発しているのに。
そもそも広島が中2日×2という異常なスケジュールでこの試合に臨んでいるのが、もう気の毒でならない。
チャンピオンシップ、クラブW杯、しかもこの後にはまだ天皇杯だってある。それでいてあれだけチャンスをつくれるとは、
さすがのチームとしての熟成度合いということだろう。しかし素人目にも疲れは明らか。彼らは絶対に言い訳にしないだろう。
でもセカンドボールはまったく取れていないし、トラップもいつもより大きくて相手に狙われては簡単に奪われちゃっている。
いくら南米チャンピオンが相手で気合が入っているとはいえ、ドウグラスの変なミスがあまりに多いのもまたおかしい。

リーベルの相手をかわす技術がものすごく高いのは、こりゃもう圧倒的だ。プレーの際の細かい体の動きひとつひとつが、
相手にとってやりにくいように徹底されている。疲れから来る技術のムラに苦しむ広島とは正反対のプレーぶりだ。
(まあこれは広島に限らず、日本代表が世界の強豪に比べて圧倒的に欠けている部分だとは思うが。)
そして72分にリーベルがFKを獲得すると、GKがキャッチしきれずにこぼれたところをヘッドで決められて先制されてしまう。
広島は先日のJリーグCS(→2015.12.5)でもマゼンベ戦でも恐ろしいほどの落ち着きぶりを見せていたのだが、
先取点を奪ったリーベルはそれ以上の試合巧者ぶりを発揮してそのまま勝利。当たり前のことを当たり前にできる強さ、
それは広島も十分に持っているはずのものだが、こうなると点を取りきったチームに勝利の女神は微笑むってわけだ。
敗れてしまったのは残念だが、ここまで戦えるクラブは広島だけ、とも思う。誇らしい戦いをありがとう。


2015.12.15 (Tue.)

ついに、ついに……、ベッドがぶっ壊れよった! 大学時代から使っているから20年近いモノなのだが、ついに限界が来た!
いわゆるロフトベッドという高床式のベッドで、下部を収納に使える便利さで選んだが、長年の衝撃が蓄積していたのだ。
ここのところ尋常ではないスライド&傾き度合いだったが、「さすがにこれ以上、このベッドには乗っていられん!」と判断。
まあ、寝ている間に変に崩れてケガするようなことがなかっただけ、幸運だったと思っておこう。

それにしても、これは計り知れないダメージである。高校以来、何から何まで寝床でやってしまう癖がついている自分には、
生活空間を奪われたも同然。もう何もできないですよ。新しいベッドを買うにも、まず片付け作業が必要なわけで、
そんな余裕は時間的にも心理的にもまったくない。でもなんとかしないと人としてマトモに生きていけない。うーん、極限。


2015.12.14 (Mon.)

『ゴーストバスターズ』を久しぶりに見たのね。1984年の映画ということで、もちろん幼少期に見ている。
日本でもめちゃくちゃヒットして、あの印象的な主題歌がそれはもう日本中を席巻したのはよく覚えている。
80年代のアメリカ娯楽映画の勢いは本当に凄かった。どれもこれも面白かったもんなあ。あの頃のアメリカは良かった。
やっぱり『ゴーストバスターズ』も娯楽が娯楽に徹していて、何も考えずに楽しめる。いい時代だったなあ。

さて、『ブルース・ブラザーズ』(→2014.2.4)を知っていると、この映画はまた違った見え方がする。
もともとジョン=ベルーシをメインに据えるつもりだったそうだけど、残念ながら亡くなっちゃって。
でもベルーシとエイクロイドならブルース・ブラザーズの印象が強すぎて、あそこまでのヒットにはならなかったはず。
それはそれとして楽しめればいいのだと思う。その後、エイクロイドはきちんとケリをつけているし(→2014.2.18)。
しかしまあ、いい時代だったなあ。それに尽きるわ。


2015.12.13 (Sun.)

朝、グランドプリンスホテル高輪へ。本日はわが弟・潤平の結婚式なのだ。プリンスメロンホテルじゃないよ。
実は両親は昨日から東京入りしており、夜に自由が丘で落ち合っていろいろ打ち合わせをしておいたのだ。
しかしまあグランドプリンスホテル高輪はややこしい。同じ敷地内にグランドプリンスホテル「新」高輪があって、
もうどっちがどっちだかわからない。日記を書いている今も自信がない。なんとかしてほしい。自分にゃ縁がないが。

 ホテルの部屋で着替えて撮影。セルフタイマーって便利。

午前中は新郎新婦両家顔合わせということで、貴賓館に移動。しかしこちらは親戚一同が諸事情によりことごとく不在で、
威厳ある人々が並ぶ新婦側に対し、新郎側は両親と僕だけという圧倒的な戦力差(新婦のお父さんが4人兄弟だし)。
で、新郎新婦が両親とあれやこれやしている間、僕は一人で待合室にいたのだが、まあ暇なこと暇なこと。
新婦側が非常に賑やかなのとここまで対照的だと笑えてくる。しょうがないからカメラのセルフタイマーで遊んでた。

 
L: 広い待合室にオレ一人の図。  R: あまりに暇なので碇ゲンドウの真似をしてみる。冬月がいないと締まらんな。

記念撮影やらなんやらを終えると有栖川清水という料亭に移動。潤平はここでの披露宴がやりたかったらしく、
そこから逆算してのグランドプリンスホテル高輪だったみたい。ようわからんけどオトナですな!
で、案の定マサルは遅刻。ちなみにマサルの肩書は、年上なのに「友人」はちょっとなあ……ということで、
「恩人」になっていた。いいなあ恩人。「ぼくはきみの恩人なんよ!」とか公式に言えるんよ。さすがマサル。
同じテーブルには両親のほか、飯田からやってきた潤平の同級生、かたばみカワテ氏・ユウキ氏・ピコ山さんがいた。
僕がユウキくんと会うのは中学校以来になるらしい。そこでファミコンの話になりマサルも加わりロックマン2を合唱。

  
L: めでたいけど、こうして見ると不思議な絵面な気もする。  C: 新郎を激写する岩崎記者。盃事とか好きだもんな。
R: スマホでバリバリ写真を撮る皆様を撮る。しかしまあいろいろとお疲れ様でございましたな。

披露宴は、まあ、大変ですなと。田舎出身のわれわれのテーブルはみんな全力でアウェイ感に耐えておったわけですが、
意識が高い人たちって大変だなあと。きちんと凝っておかないと仕事にかかわる部分があるとか、いやはやなんとも。

 一仕事終わってホテルの喫茶店でくつろぐ。マサルももう家族のようなもんだな。

しかし熱海ロマンがほとんどなかったことにされていたのには笑った。はっはっは、そうか、仕事に差し障るか。


2015.12.12 (Sat.)

sasakure.UK『ロストピリカ』。大いに期待して購入したのだが……うーむ。

個人的にはささくれさんの本領はむしろインストにあると思っているので、ヴォーカル曲が主体なのはちょっとね……。
内容もファンタジー方面に舵を切りすぎていて、明らかにそっちのファン向け。広く世間の支持を集めるものではない。
なんというか、内向きになってしまっているのだ。全体として踊れる感じじゃないのが残念。非常にノリが悪い。
『MetroJackz』のときの衝撃(→2015.2.2)は、もはや遠い過去となってしまったなあ。


2015.12.11 (Fri.)

クソ雨の後に快晴で20℃とかもうワケわからんのだが。12月やぞ、12月。地球おかしいよ地球!


2015.12.10 (Thu.)

ノーベル賞はいいけど、大村先生はすごすぎやしませんかね。日本人の受賞がやったぜとかそんなことよりも、
現実にこんなスケールの大きい偉人が実業家とかそっちからではなく、学者の側から出た、その事実がすごいと思う。
まず学者としての軸があって、そこからやることなすことぜんぶ他人のためになっている。偉人としか言いようがない!

マスコミが連日あれやこれや報道してくれるが、ノーベル賞というきっかけがなければほとんどの人が知らなかった、
そこがなんとも情けないなと思うのである。あちこちで偉業を成し遂げているのに存じ上げず、本当に恥ずかしい。
これだけすごい人ならもっと全国的な知名度があっていいはずなのに。きっとそんな偉人がまだまだいるのだろう。

そんなわけで、上記2つのことを考えさせられた。偉人たるべきこととは。人の偉大さを知るべきこととは。
ある意味、これらのことを世間に示してくれたことが、大村先生の本当の偉業なのかもしれない。だからこそ偉大だ。


2015.12.9 (Wed.)

職場の忘年会のプレゼント探しに渋谷ハンズへ行ったのだが、どうも弱まっとる感触がする。
以前ほど品揃えが強烈じゃなくなっているというか、ハンズらしいクセのある感じがイマイチしないのだ。
もうちょっと言うと、「つくる」ための品揃えではなくなってきている。便利グッズが主体な感じ。
店内をぐるぐる歩きまわっているうちに想像力やら創造力やらが刺激されて「一丁やってみっか!」となる、
ああいう感じが確実に弱まっている。ハンズのハンズらしさが年々あさっての方向に行っている気がするんだよなあ。


2015.12.8 (Tue.)

雑務が雑務が! 授業以外に英検に生活指導に要録印刷に部活でマジで余裕ないんですが! 忙しすぎるで!


2015.12.7 (Mon.)

2年前にも引率した、区の子どもたちが集まって会議をするイヴェントに行ってきたのであった(→2013.12.9)。
今年度は竣工したばかりの区の施設にあるホールと会議室で話し合い。書記をやらされることはなかったので、
ひたすら写真撮影係に徹するのであった。まあ要するに、居眠りしないように座らないで過ごしていたということだ。
中身については特にないです。「大人の実績づくりのために子どもを利用してんじゃねー」、それに尽きる。


2015.12.6 (Sun.)

今日こそは日記に集中するぜ!ということで、朝から夜まで日記を書きまくったのであった。

まず、目を覚ましたら9時20分。オレは本当はロングスリーパーなのかもしれん、と思う。
しかしそんなことを考えるヒマがあったら、溜まった日記を書かないといけないのだ。さっさと着替えて外に出る。
そして雪が谷大塚で朝メシをいただきつつ1月分のログを書いていく。1月ですぜ、1月! さすがに越年はマズいのだ。
そんな危機感にモノを言わせて、MacBookAirのバッテリーが限界を迎えるまで書くまくる。おかげで1月の大部分を消化。
作業を終えるとマイナンバーの通知を受け取りに郵便局へ。自民党のやりたい放題、いいかげんにやめさせようぜ。

いったん家に帰ってMacBookAirを充電すると、今度は旗の台に出て昼メシをいただきつつ、futsutamaで画像の整理。
ふつうの人はMacで画像をいじってWinで文章を書くだろうけど、僕の場合は逆なのだ(→2014.2.24)。変なの。
昨日買ったトラックボールを駆使して、未修整だった画像をぜんぶ片付けることができた。いやー、よかったよかった。

で、またいったん家に帰ってfutsutamaを戻し、充電が終わったMacBookAirとともに、三たびお出かけ。
腹が減ったので先に晩メシを食ってから、今こうして再び日記を書いております。これで1月分のログを書き終えたが、
一橋に受かったときのことを書いたらなんだか、だいぶお勉強ができなくなってしまった今の自分が情けなくなってきた。
浪人中はキレッキレだったなあと思う。高校時代や浪人時代に戻りたい。あの頃は24時間、好奇心がフル稼働していた。
今も好奇心でいっぱいだが、仕事があるからフル稼働できんのよね。もっと貪欲になれるだけの空き時間が欲しい。

そういえば、J2・J3の入れ替え戦は町田が勝って大分が負けたそうで。大分のJ3はつらいなあ。サポの真価が問われる。
一方でJ1昇格プレーオフは福岡が勝利。家を出た時点ではC大阪がリードしたまま終盤に入っていたので、かなりびっくり。
でも順当に3位が昇格したのは喜ぶべきことだ。来年はぜひ、博多の森で井原監督の指揮する試合を観たいものだ。
(実は今年の10月に観戦する予定だったのに、新人戦で行けなくなったんだよな! ふざけんな! まだ怒りが収まらんぜ。)


2015.12.5 (Sat.)

この土日はどこにも行かずに腰を据えて日記を書こうと思っていたのだが、天気予報が「超絶晴れだ」と言うので、
そうなるともう、どこかに行かないともったいないじゃないか。ここ最近の疲れもあるので遠出はナシとしても、
サイクリングがてら都内の有名神社でも参拝しておく、ぐらいなら、まさに絶好のコンディションなのである。
そうそう、自転車のタイヤもいいかげん限界にきているので、神保町へ行ってメンテナンスをしておきたい。
というわけで、いよいよ最後の東京十社となった神田明神まで行くことにした。どうせ混むから朝のうちに参拝だぜ。
なお、神田明神の参拝は実は3回目(→2005.6.42011.7.10)。僕が生まれて初めておみくじを引いた神社なのね。

  
L: やってきました神田明神。でも正式名は「神田神社」。  C: 随神門。1970年に建てられており、実はけっこう新しい。
C: 拝殿。権現造なので本殿までが一体化している。関東大震災で焼失したため、1934年に鉄筋コンクリートで再建された。

神田明神の祭神はもともと大己貴命だが、疫病を平将門の祟りと考えて1309(延慶2)年から将門も祀るようになった。
しかし後に明治天皇が訪れる際、「逆賊を祀るのはダメずら」となって、平将門を祭神からはずして少彦名命を勧請。
将門を再び本殿で祀るようになったのは1984年と、ごく最近のことなのだ。それまでは摂社に遷されていたとのこと。
そして神田明神には、成田山新勝寺との間に有名なタブーがある(→2011.7.102011.9.192014.8.30)。
新勝寺は平将門の反乱を鎮圧すべく行われた護摩の儀式を起源としているからだ。さすがに気にしないわけにはいかず、
引き延ばして引き延ばして、結局、神田明神の御守を頂戴するのが東京十社でいちばん最後になってしまったのである。
新勝寺で御守を頂戴してから1年以上経ったし、そろそろいいんじゃないかということで本日参拝に至ったわけです。

  
L: 拝殿を斜めの角度で眺める。鉄筋コンクリートが功を奏して東京大空襲をくぐり抜け、今や国登録有形文化財である。
C: 奥へまわり込む。権現造にしてもずいぶん複雑な構造になってますな。  R: 本殿の手前にあるのは銭形平次の碑。

坂を下ればすぐそこが秋葉原ということで、神田明神は『ラブライブ!』といろいろコラボしているようで。
コラボする神社の姿勢そのものは柔軟でいいと思うが、当方、神社は静かな方が好きなので、正直そこはなんとも。
今回参拝してみて特に『ラブライブ!』要素はなかったので、通常モードでよかったなあと素直に思うのであった。

天気がいい中せっかくここまで来たから、上野まで足を延ばしてみる。上野といったら上野公園、寛永寺。
いい機会なので、上野に散らばる寛永寺関連の建物を見学してまわることにした。まずは清水観音堂からだ。

  
L: 清水観音堂を見上げる。なるほど規模はだいぶ小さいが、清水寺(→2010.3.262015.2.1)と同じく懸造だ。
C: 上がったところが入口。  R: 舞台からお堂を見る。舞台はもうちょっと面積の余裕が欲しいところである。

清水観音堂は1631(寛永8)年の築で、重要文化財になっている。規模は小さいが、残っているだけでもすごい。
いつもその背面をなんとなく眺めて通過するだけだったので、今回あらためてきちんと参拝することができてよかった。

  
L: 歌川広重が浮世絵に描いた「月の松」を2012年に復元。そこを通して不忍池の弁天堂を眺めてみた。
C: 背面はぜんぜん面白くないなあ。  R: いちおう弁天堂も参拝。1958年に鉄筋コンクリートで再建。

さてここでいったん寛永寺からは離れて、上野動物園の脇にある上野東照宮に参拝。けっこう奥まった位置にあり、
予備知識なしで上野を訪れたらスルーしてしまいそうだ。しかしこの神社、行ってみたらとんでもない場所だった。

  
L: 上野動物園の出口からひと気のない方にはずれていくと、上野東照宮の鳥居がある。これは目立たないわ。
C: 参道を行く。石畳と石灯籠の空間が東照宮らしさ(→2008.12.142014.10.12015.6.29)を感じさせる。
R: 社殿に到着。その手前にある金色の唐門がまたすごい。その両側にある銅灯籠6基は、徳川御三家の寄進とのこと。

なんだかんだ全国あちこちの東照宮を訪れていて、そのたびに「東照宮スタイル」とでも呼べそうな建築様式を見てきた。
徳川家光が関わると、だいたいそうなる。今年の5月に訪れた秩父三社(→2015.5.17)は興味深い事例であり、
この日記では、家康による「元祖」の秩父神社と、その様式を継承した三峯神社と宝登山神社を比較してみた。
また上野から近いところでは、家光を意識した綱吉による根津神社というパターンもある(→2014.3.162015.8.5)。
(上野国一宮の一之宮貫前神社も、家光と綱吉のコラボレーション事例として挙げられるだろう。→2014.9.13
そして上野東照宮はそれらにまったくひけをとらない存在だ。中尊寺金色堂の次くらいに金色で包まれている建物だ。

  
L: 500円払って透塀の内部へ入る。いきなり本殿の金箔が朝日を反射してめちゃくちゃ眩しい。全身金色に染まったわ。
C: 別の角度から本殿を眺める。権現造なので本殿は拝殿と一体化している。東照宮だから権現造なのは当たり前か。
R: 唐門の裏側はこんな感じ。まったく手を抜くことなく、容赦ない金箔責めである。本当に金属の柱に見えるからすごい。

現在の上野公園の土地はかつて、藤堂高虎(津)・津軽信枚(弘前)・堀直寄(村上)各大名の下屋敷となっていた。
徳川秀忠は江戸城の鬼門にあたるこの地を天海に与えた。天海はそこに、天台宗の江戸の拠点として寛永寺を建てる。
そして1627(寛永4)年、かつて藤堂高虎の下屋敷だった場所に、高虎が天海の協力を得て上野東照宮を創建した。
1651(慶安4)年には徳川家光が社殿を改築。以来、彰義隊で有名な上野戦争も、関東大震災も、第二次大戦も、
すべてくぐり抜けて社殿が残っている。これはすごいことだ。深い上野の森に守られて、この豪壮な建築は生き残った。

 透塀もすべて上下に彫刻が施されている。東照宮の価値観がよくわかる。

正面にまわり込んで唐門の内側から拝殿を眺めるが、もうため息しか出ない。おととし修復工事が終わったというが、
おかげで全盛期の輝きを存分に堪能できるようになっている。これはぜひ見学してみてほしい場所である。

  
L: 何も金ピカだからいいってわけじゃないんだけど、家康から家光に受け継がれた東照宮的価値観が爆裂している。
C: 正面から眺めた。なんだこの圧倒的迫力。  R: 角度を変えて眺める。非常にフォトジェニックな建築なんだよなあ。

では次は、旧寛永寺五重塔だ。「旧」が付いているのは、今は寛永寺のものではなく、東京都に寄付されているから。
東京都のものということは、まさか……。五重塔の方へとまわり込んでみたら、上野動物園の出口に出た。
そしてそこには小さく書かれていた。「五重塔は上野動物園の敷地内です。」……入場料を払わないといけないじゃん!

というわけで、急遽上野動物園の中へ。まったく予定していなかった行動&出費である。でもここまで来たらしょうがない。
こうなったら、もう、動物たちも見てまわってやるのだ。動物園は動物園でカメラ片手に歩きまわれば十分楽しい場所で、
一日だって簡単につぶせてしまう魔境である。まだ10月の東山動物園の分の日記も書けてないってのによぉ……。

  
L: 上野動物園は親子連れだけでなく、学生などさまざまな層で賑わっていた。動物園、楽しいもんな!
C: 入っていきなり、おっさんが寝ていたよ。  R: 内側から見る旧正門。わざわざ移築保存されているのだ。

おっとっと、本来の目的を忘れるところだった。五重塔を見にいくのだ。東照宮側へと早足で移動する。

  
L: 旧寛永寺五重塔。これまた重要文化財。上野公園は国宝建築こそないが(都内に2件なのね)、重要文化財だらけだよ。
C: 鮮やかな紅葉とともに。いい日和だ。  R: 参考までに、東照宮の境内から眺めた五重塔。柵と石碑が邪魔だー!!

ではいよいよ動物さんたち観察タイムである。テキトーにフォトジェニックだったやつだけ貼っていくぜ。

  
L: 毛づくろい中の2匹。知性のある動物を観察するのは飽きない。  C: 落ち着かないホッキョクグマ。  R: バク。

  
L: バードゲージから、マダガスカルトキ。  C: カンムリシギダチョウ。実際はシギでもダチョウでもない鳥。
R: シロハラハイイロエボシドリ。この2羽、ずっとイチャイチャしていてムカついたんですけど!

  
L: 動物園の華はやっぱり猛獣よ。ライオンが実にネコっぽくウニャウニャと舌を出してペロっとしているの図。
C: スマトラトラ。やはり舌を出してペロってしていたのであった。今回はこんな瞬間ばっか撮れちゃったな。
R: アビシニアンワシミミズク。フクロウ系統は目がデカくてかわいいやな。でも飼うとなるとものすごく大変らしい。

そんなこんなで1時間弱でどうにか魔境を脱出。寛永寺めぐりに戻るのだ。とりあえず国立科学博物館の先に出て、
旧本坊表門を撮影。こちらは現在、輪王寺境内の入口に移されている。いちおう隣の両大師堂にも参拝しておく。
正直なところ、寛永寺と輪王寺の関係がよくわからない。寛永寺のサイトでは一体的に扱われているのだが。

 
L: 旧本坊表門。  R: 両大師堂。「両大師」とは天海(慈眼大師)と良源(慈恵大師で元三大師)のこと。

今回は東京国立博物館をスルーして、そのまま進んでいく。しかし当然、旧因州池田屋敷表門でつかまる。
鳥取藩池田家の江戸上屋敷の正門で、江戸末期に建てられたものが1954年にここへ移築されてきた。
僕が上野に来るたび、いちばん圧倒される建築物はこの門だ。現在は東京国立博物館の屋外展示物となっている。

 
L: 旧因州池田屋敷表門を正面より眺める。冬なので陰影がつらい!  R: 大きすぎてうまく視野に収まらない。

さらにまたしても重要文化財でつかまる。旧東京音楽学校奏楽堂である。当然ながらもともと東京藝大の構内にあり、
明治村へ移される予定だったのを台東区が譲り受けて現在地に移築。4年後にリニューアルオープンの予定とのこと。

  
L: 旧東京音楽学校奏楽堂。1890(明治23)年築で、日本初の本格的西洋式音楽ホール。  C: 正面より眺める。
R: 旧博物館動物園駅。1933年の京成本線開通とともに開業したが、1997年に休止。なんとか活用できんのか。

やっとのことで通り抜けると、そのまま藝大をまわり込むようにして寛永寺の根本中堂へ。ようやく到着した……。
寛永寺は山号を「東叡山」といい、「東の比叡山(→2010.1.9)」を意味している。延暦寺がそうだったように、
寛永寺も創立年の年号からその名がつけられた。上述のように創建当時の伽藍は上野公園そのままの広大さだったが、
上野戦争で旧幕府軍・彰義隊が寛永寺に立てこもり、新政府軍の攻撃を受けてその伽藍は一部を除きほぼ焼失した。
その後、伽藍跡地は公園となったが、寛永寺は徳川家との結びつきが強かったゆえの「公園化」であるようにも思える。
ある意味、幕府の解体という政治上の動きが、空間上で実現されたものだと言えるだろう。封建制度の解体に際し、
公園という西洋由来の公共性が持ち込まれたのは、われわれが想像する以上に大きな影響を与えたかもしれない。

 
L: 現在の寛永寺・根本中堂は、川越の喜多院(→2010.4.10)本地堂を移築したものである。
R: 角度を変えて眺める。喜多院の隣は仙波東照宮で、どちらも天海と縁の深い寺院なのだ。

以上で上野の重要文化財めぐりは終了。この後は秋葉原で新しいトラックボールを買い、神保町で自転車をメンテ。
自転車のメンテは購入(→2012.6.252012.7.4)以来初めてである。われながら超いいかげんなものだ。

メンテを待っている間と、家に帰る途中で今日の分の日記を書き上げたのだが、それだけでもうヘロヘロ。
この土日はどこにも行かずに腰を据えて日記を書くはずじゃなかったのか。これはなんというマッチポンプだ!
「その日の汚れ、その日のうちに」という意味ではプラスマイナスゼロだが、日記の負債はとんでもない状況なのだ。
しょうがないので明日がんばろう、明日。

さて、夜はJリーグチャンピオンシップの広島×G大阪。J2を含めてプレーオフ制度じたいにウンザリしているわけだが、
いい試合になるのは間違いないだろうから、テレビにかじりつく。後半、浅野が投入されてから状況が変わりだし、
寿人を彷彿とさせるヘッドを決めて同点に追いつくと、試合のテンションは一気に最大限のものになる。
高い技術と集中力で展開される攻防は一瞬も目が離せない。タイトルをめぐるこの緊張感はやっぱりたまらない。
これがJ1のどの試合でも見られるようになれば、日本のサッカーはもっと強くなるだろう。おそらくJリーグの課題は、
90分間の緊張感の持続ってことだと思う。ハリルホジッチはそれをもっと上手く言葉にしないと伝わらないぜ。

広島がそのまま逃げ切って年間優勝。毎年主力が抜けるクラブを率いて4年間で3回目の優勝とは、もうとんでもない。
森保監督が名将なのは間違いないが、それとともにクラブのフロントももっともっと讃えられるべきだと思う。
広島ほど的確に補強しているクラブはないからだ。水戸から塩谷を引き抜いた視野の広さはすごいし(→2012.8.5)、
徳島からドウグラスを獲ったのもお見事だった。甲府サポにしてみれば、柏に佐々木と連続で引き抜かれたが、
彼らの活躍ぶりを見れば素直に納得するしかないところだ。もともと育成は国内でも最高レヴェルの評価を受けているし、
采配も補強も育成も最高なら、優勝を連発してもまったく不思議ではない。非の打ちどころがないクラブだと思います。


2015.12.4 (Fri.)

びっくりした。近所でまた新しくコンビニができていた。先月末から今月頭で立て続けに2つ、コンビニができたのだ。
よく考えたら駅前のコンビニは長らくローソン1軒で独り勝ちだったわけだ。そこにイレブン屋ができ、ファミマができた。
選択肢が増えること自体はうれしいが、これはさすがにいきなり飽和状態なんじゃないかと思う。限度があるだろに。
東京はもう十分だから、地方都市の駅前につくってくれんかねえ。旅先にコンビニがあるとぐっと楽になるんだけどねー。


2015.12.3 (Thu.)

キミは血糖値不足で自分が何をしゃべっているのかわからなくなるまで授業をしたことがあるか?
記憶が完全に断片的になる。2秒前に何を言ったのか思い出せない状態で説明を続けるのは、なかなかつらい。
途中でワケのわからないことを口走っているんじゃないかと自分で自分に疑心暗鬼になりつつも、
立ち止まっている余裕もないからしゃべり続ける。視野も狭くなるので単語も読み間違える。でも続ける。

……本当によくがんばっていると自分でも思っていいよね?


2015.12.2 (Wed.)

期末テストづくりが終わって以降、日記をコツコツがんばっておるわけです。しかしさすがに負債の量がすさまじく、
なかなかおっつかない。進んでいないわけではないんだけどね。基本的にはレヴューより旅行の分を優先していて、
どの旅行もいろんなことをたっぷりと学んでいるので、書くのは大変だがその再確認がそれなりに楽しくもある。
とりあえず、やる気のあるうちに書いて書いて書きまくるのである。今はひたすらそんな日々だねえ。


2015.12.1 (Tue.)

お前らはぜんぜんできてねえよ、と言っている自分ができていなかった、というパターン。
「荘子、畜類の所行を見て走り逃げたる語」(→2006.11.29)、まさにそのものである。悔しいし恥ずかしいし。
傷口がまだまだ浅いうちにアドヴァイスをいただけたのは本当にありがたい。忘れないように日記に書いておく。

ここんとこ、どうにも精神的に低調である。なんだかいつも疲れている感覚で、知らず知らずのうちに仕事が雑になる。
そうしてトラブルの種が撒かれ、芽が出ていて膨らんでいて、表面化して初めて「うわぁしまった!」となるのである。
今回は幸いアドヴァイスをいただけたので、早めに気づくことができた。でも気づけない自分がいた事実は変わらない。
そういう自分をどう敏感にしていくか。自力で性格を変えるのはとっても難しい。だけどやるしかないのよね。


diary 2015.11.

diary 2015

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