diary 2022.1.

diary 2022.2.


2022.1.31 (Mon.)

ここ最近メンタル的に低調でなので、『からかい上手な高木さん』(→2016.4.20)を読んで脳みそをふやけさせ、
それでどうにか日常生活を切り抜けられないかと企んでいるダメ人間です。いい歳こいてダメですいません。

しかし読んでいくうちに高木さんがどんどん怖くなってくる。あんな追い詰め方もあるぞ、こんな追い詰め方もあるぞ、
なんて八方塞がりっぷりを見せつけられるような気がしてしまうのである。真綿で首を絞めてくる感じがしてしまう。
高木さんが(読者に)感情を出してくるようになってから、どうにも怖い。まあそんなんだから独身なんですが。


2022.1.30 (Sun.)

朝から薄曇りだったことを引きずって、非常に低調な一日なのであった。メンタルの閉塞感がなかなか手強い。
それでもなんとかできるだけのことはやっておく。今後書いていく分の写真の取捨選択にじっくり取り組むのであった。

さて来週からは2月が始まり、テストづくりで日記の更新が停滞する見込み。仕事に全力ってことで許してください。


2022.1.29 (Sat.)

モスバーガーでまぜるシェイクのピスタチオ味をいただいたのだが、これは危険な旨さでございますね。
そういえば先月、我孫子駅前の鯛焼き屋でもピスタチオクリームの鯛焼きをおいしくいただいたっけなあ。
ピスタチオ味はまだまだ期間限定スペシャルフレーヴァーな扱いが強い気がするが、そのうち定着して定番になるかもね。


2022.1.28 (Fri.)

今週のラストは久々の対面授業となったのであった。ブランクのせいで、やっぱりちょっとリズムがつかめない。
今後どうなるか先が読めないので、とりあえず作成してあるプリントはぜんぶ配ってしまう。いや本当にまいったものだ。


2022.1.27 (Thu.)

昼の弁当を注文する紙に「からあげ」と書こうとしたら、「あ」を間違って「お」と書いてしまう。
ミスに気づいたけど、勢いあまって「からおけ」といったん書いてから二重線を引き、上に「あげ」と書いて訂正。
……疲れているのかな。


2022.1.26 (Wed.)

今週もオンライン授業でございます。2時間続きの授業だったので、休憩時間に黒板にでっかく「休憩」と書いておく。
黒澤明の『七人の侍』リスペクトである(→2005.4.92020.6.6)。BGMはミニー=リパートンの『Lovin’ You』ね。
やっていることがだいぶマサル好みだなあと自分で自分に苦笑い。現役高校生にこのセンスわかってもらえるんかな。


2022.1.25 (Tue.)

仕事の種類が多すぎる。日本史と世界史の授業準備だけでもヒイヒイ言っている状況なのに、
副教材の確認に学年会計に授業改善のまとめに授業登録の当番に、その他もろもろ、何が何やら。
小規模な中学校では教員の数が少なくて、それでやるべき仕事が多めに降りかかってきて苦労したもんだが、
そのときよりも仕事が多いように思う。これはいったい何なのか。授業に集中させてほしいと心底思う。


2022.1.24 (Mon.)

実は2月に旅行に出かけられないかと画策していたのだが、飛行機の運休を食らって正式にあきらめるのであった。
しかしもともと高校にとっての2月とは、入試がある関係で教員もいろいろやらなくちゃいけないことがあるようで、
まあしょうがないかな、ということで納得しておく。こんな調子で、春休みにはふつうに旅行できるようになるのかねえ。
できなけりゃできないなりに、首都圏の市役所を日帰りで攻めまくるだけだが。放ったらかしで申し訳ございません。


2022.1.23 (Sun.)

はい本日カメラが帰ってきましたー。タッチの差。昨日の浦賀南部日帰り旅をいつものカメラで撮れればよかったのに。
まあでもこれはしょうがない。古いカメラでも自分の腕とPhotoshopでカヴァーできたと思って納得しておこう。
なお、厳密に言うとカメラは修理ではなく、結局は同じモデルの新品をかなり安く買った格好となったのであった。
これまで使ってきたモデルに満足していて、現行モデルで魅力を感じたものがなかったので、継続という判断である。

しかし今月はカメラを修理に出していたおかげで、スマホに先代にと、いろんなカメラを使うことになった。
おかげでカメラによって性能の差がけっこうあるもんだなあと、あらためて実感するいい機会になった気がする。
今の主力(Canon PowerShot G1 X Mark II)と比べて先代(Canon PowerShot SX700 HS)は陰影差にとにかく弱い。
暗い方を優先して明るい方が飛んでしまう感じ。そのくせ暗い方もきちんと描写できない。冬場は本当に撮影がつらい。
まあ結局はPhotoshopで加工してのやりくりになるのだが、やはり細部の表現が甘くなり、彩度を上げてごまかす。
SXシリーズよりもGシリーズの方がはっきりと有能だとよくわかった。やっぱり高いカメラの方がいいのだなあ。

ちょっと気になったので、歴代の主力カメラを振り返ってみる。初代が、Canon PowerShot A400(→2005.3.11)。
circo氏が年賀ハガキのお年玉くじで当てたものをもらって、僕のデジカメ生活はスタートしたのである。
でも今から見ても、画質はそんなに悪くない印象である。いい意味で中庸というか、バランスがとれている感じ。
2代目が、Canon IXY DIGITAL 900 IS(→2007.6.17)。これはかなりみっちり使ったなあ。当時ちょっと高めのモデルで、
価格と性能のバランスを吟味して思いきって買った記憶がある。その後、お返しとばかりにcirco氏に譲ることになり、
性能いいなあ!と驚かれたっけ。でもそんなcirco氏も、今はもっぱらスマホで写真を撮ってばかりである。
3代目が、NIKON COOLPIX S9100(→2011.7.23)。とにかくフォーカスが甘くて、これは短命だったなあ。
結局こいつでニコンに対する疑心が湧いて、キヤノン党になってしまった。カメラメーカーのデジカメを使いたいのね。
4代目が、Canon PowerShot SX260 HS(→2013.2.11)。ここからIXY系からPowerShot系に移行したのだが、
性能にはかなり満足していた。ただ、いま振り返ると全体的に明るく写りすぎに思える。予備の予備として置いてある。
5代目が、Canon PowerShot SX700 HS(→2015.1.13)。これが先代の主力である。SX260 HSと比べると暗く感じたが、
慣れると妥当に思える。汎用性が高く、予備としては文句なし。御守コレクションを撮影するときはこいつを使っている。
そして現在の主力が6代目となるCanon PowerShot G1 X Mark II(→2018.2.3)。調べたらこれ、2014年のモデルなのか。
デカいしクソ重いしで扱いづらく、とにかくケラレが大変。青空の写真の2枚に1枚はケラレが入るぜ。マジで。
でもなんだかんだで仕上がりがいいんだよなあ。周期的には確かにそろそろ新しいデジカメに移行する時期だったわけだ。
それでも発売から8年経つモデルを継続するからには、かなり気に入っているんだなあと。今後も長く使っていきたいです。

というわけで、僕のカメラの歴史はそのまま、コンデジに対するこだわりの歴史なのである。
コンデジの肩肘張らない感じ、旅行に対して主客転倒しない感じが好きなんだよね。まあPowerShot G1 X Mark IIは、
ほとんど一眼レフのサイズ感だけどね。一眼レフとかミラーレスとか、こだわったらキリがないのが怖いというのもある。
最近はコンデジどころかデジタルカメラという概念じたいがピンチになってきているが、スマホは撮影には使いづらい。
意地でもとことんコンデジにこだわっていきたいと思っている守旧派であります。がんばれカメラメーカー!


2022.1.22 (Sat.)

先週、京急バスに乗った際に「よこすか潮風ライナー」の実証運行を知り、調べてみたらなかなか面白そう。
もともと横須賀の海沿いを攻める計画は立てていたのだ。その中で、浦賀ドックのツアーがこの週末までと判明し、
それで慌てて予備のカメラを片手に飛び出したというわけ。ほぼ午前中のみ、久々の気楽な日帰り旅である。

浦賀駅からまず向かったのは、叶(かのう)神社である。「どっち?」と思った人は鋭い。東西に分かれているのだ。
今回は浦賀ドック見学ツアーの時刻に合わせての行動なので、まずは東からである。いかにも港な住宅地を行くと、
横向きで神社の境内にぶつかる。つまりは神社が海に面して鎮座しているというわけ。海を背中にまずは撮影。

  
L: 東岸 叶神社(東叶神社)。写真を撮るために立っている場所は駐車場になっていて、すぐ後ろは海である。
C: 境内を進んで拝殿と向き合う。空間に余裕がないので、拝殿をすっきり撮るにはこれが精一杯ではないかと。
R: そのまま右へ入っていくと身代り弁天(厳島神社)と金運御守の銭洗い場所。神仏習合の匂いが少し残る。

御守を頂戴したが、まず訊かれたのが「縁結びですか?」ということ。東西の叶神社では両社合同の企画として、
東の叶神社では御守袋を、西の叶神社では中身の勾玉をそれぞれ授与品として用意しているのである。
縁結びでなければ頂戴したんですがなあ。でも東西叶神社の目玉企画だから頂戴しておけばよかったかなあ。

  
L: 石段の途中にあるソテツ。源頼朝が源氏を再興した際に伊豆から移植した。  C: 拝殿前から眺める境内と浦賀港。
R: 石段の上にあるのはあくまで拝殿。本殿(奥の院)へは、拝殿脇からさらに上る。なかなか急な石段が遠慮なく続く。

叶神社が東西に分かれているのは、もともと西にあった叶神社を東に勧請したことによるそうだ。
1692(元禄5)年に幕府が浦賀村を湾の東西で分けたことで、東側にも叶神社がつくられた、ということ。
しかし東の叶神社本殿のある明神山は、社叢が県の天然記念物だったり勝海舟が断食修行をしたり、がんばっている。

  
L: 明神山の山頂ですかな。本殿のほか、東照宮と神明社がある。  C: こちらが本殿。石でうやうやしく囲まれている。
R: 勝海舟断食之跡。それだけである。咸臨丸に乗る前に気合いを入れたらしいが、そんな暇はなかったという説もある。

参拝を終えると、お次は西の叶神社である。そしてここで登場するのが、横須賀市営・浦賀の渡しなのだ。
東西の浦賀を結ぶ渡し船は、実に横須賀奉行が置かれて間もない1725(享保10)年以来の歴史があるという。
叶神社を両方とも参拝するのであれば、ぜひとも乗らなくてはなるまい。桟橋へ行くと、ちょうど船が来たところ。
特に決まった時刻に運航するわけではなく、客がいる限り無限に往復する感じ。素早く乗り込み、いざ出航。

  
L: 浦賀の渡し、東側の入口。  C: 抜けると桟橋である。  R: 愛宕丸に乗り込む。200円の料金を皿に置けばOK。

現在、浦賀の渡しとして運航しているのは1998年就航の愛宕丸。ちなみに航路は横須賀市道2073号線となっている。
スイッチバック的な感じで途中で向きを変えると一気に渡っていき、所要時間は1分台ではないかと思うくらい早い。
あっという間に対岸に着いたので、その後もしばらく様子を眺めたのだが、乗客はつねにいてノンストップの繁盛ぶり。

  
L: 反対側。この上に自転車を載せることもできるようだ。  C: 愛宕丸。  R: こちらは西側の桟橋入口。

というわけで、実に由緒正しいプロセスで浦賀の西側に到着である。ここから西の叶神社はすぐそこなのだ。
東の叶神社が境内を広めにとって海のかなり近くまで迫っていたのに対し、西の叶神社は住宅を抜けた奥にあり、
斜面をそのまま石段とした余裕のない立地となっている。こちらの方が歴史が古い分だけ周囲が宅地化したのか。

  
L: 県道に面する西岸 叶神社(西叶神社)の一の鳥居。  C: 参道を進んで境内。余裕がない。  R: 鳥居から見上げる。

西の叶神社は、1181(養和元)年に文覚上人が石清水八幡宮を勧請して創建。もともと北面の武士だった人で、
伊豆に流された際に源頼朝と知り合って後に大きな影響力を持った。源氏の再興が叶ったことで「叶神社」とのこと。
御守については、標準的なものもなかなか種類が多くて困った。東の叶神社もそれなりに気合いを感じさせたが、
西の叶神社はそれ以上という印象である。個人的には東西コラボ御守は勾玉より渡し船デザインの方がいい気がするけど。
その方が縁結びにふさわしいんでないかい? 浦賀の渡しのいい宣伝にもなるよ? いかがでございましょう。

  
L: 拝殿。1842(天保13)年の築で、後藤利兵衛義光による彫刻は横須賀市市民文化遺産に指定されている。
C: 社殿の脇にある境内社。こちらは山に登ることはないようだ。  R: 本殿。これも江戸時代の築にしてはきれい。

参拝を終えると駅方面に戻って、いざ浦賀ドックへ。現在は土日に公開されているようだが、ツアーは今週末まで。
さっそく受付で見学ツアーの申し込み。ちなみに「浦賀レンガドックと千代ヶ崎砲台跡をめぐるガイドツアー」、
「URAGA開国クルーズ」、「浦賀レンガドック見学ツアー」の3種類のツアーが設定されており、
一番人気はぶっちぎりで浦賀レンガドックと千代ヶ崎砲台跡のセット。一日2回だがすでに定員となっていた。

  
L: 「浦賀レンガドックと千代ヶ崎砲台跡をめぐるガイドツアー」のバス乗り場。かつてあったハンマーヘッドが目印。
C: 受付や休憩所はコンテナハウス。コンテナハウスってロマンがあるよな! またいい色の青で塗ってあるなあ!
R: 「MEGURU PROJECT」ということで会場全体はこんな感じ。運営は軍港めぐり(→2012.5.52018.4.30)の会社みたい。

ではいざ見学ツアーのスタート。まずは浦賀ドックを見下ろしつつ、ツアーでないと入れない南側へまわり込む。
片耳にトランシーヴァーのイヤホンを突っ込んで説明を聞いていくが、なるほどこのスタイルはやってみると便利だ。

  
L: 見学ツアーに参加しなくても、外側を半周くらいはできる。北西側からドックを見るとこんな感じである。
C: ドックマスターが指示を出す場所。黄色い箱の前後の糸が重なって1本に見えるところが中央で、そこに船の中心を合わせる。
R: 南西側から見たところ。冬ならではの陰影に、カメラの性能がもっと良ければなあ……と思うが、しょうがない。

浦賀ドックは2003年まで使われていた造船所。世界でも4箇所しかないという、レンガ積みのドックである。
(日本には浦賀ドックのほかに、同じ浦賀で南に行ったところにある川間ドックがあるが、水が入っている。)
完成したのは1899(明治32)年。以来、さまざまな船が建造されたが、旧海軍の駆逐艦が非常に多い。

  
L: 北東側から見たところ。  C: レンガの側面と船底を支える盤木。  R: 北西側から。右の階段で底に下りる。

  
L: ドックの横に係船柱が並ぶ。船にロープをつなぎ、両側から引っ張ってここに留めて安定させたとのこと。
C: 係船柱をクローズアップ。  R: URAGA開国クルーズの船。なんだかすごくオシャレである。

ではいざ、浦賀ドックの中へと入っていくのだ。下りていく途中で撮影した写真はこんな感じである。
フランス積みのレンガが間近で見られるだけでなく、空中から覗き込んでいる形になるのはなかなかよい。

  
L: ドックの奥の方をクローズアップ。  C: 反対側、海側。  R: 海水をせき止めているゲートをクローズアップ。

  
L: レンガ壁。いろんな色がついているのは不届者の犯行ではなく、船のペンキが付着した跡とのこと。
C: 反対側の壁を眺める。  R: 盤木。コンクリートの上に置く木材で、船底の形に対応するそうだ。

そんなこんなでドックの底に到着。残念ながら全体を歩くことはできず、防水マットの置かれている上から覗くのみ。
なんだか軍艦島のときと同じ生殺し感だが(→2014.11.22)、あちこちに水が滲み出てきているし、しょうがあるまい。

  
L: ドックの底から奥の方を眺める。  C: 盤木。木材は最後につくった船の底の形のままだそうだ。  R: ゲート方面。

写真を撮ったら後はもう戻るしかない感じである。盤木に近づくなどもうちょっとあれこれできるとよかったのだが。
残りの半周は浦賀ドック関連の遺構についての説明が多い。けっこう興味深い内容が多くて勉強になった。

  
L: 左のレンガ部分は明治の築、右のコンクリ部分は1983年に延長されたとのこと(28m)。確かに海に出っ張っている。
C: 左の茶色いパイプが排水用、ゲート前の右下の穴が注水用。  R: かつてあったハンマーヘッドクレーンの残骸。

  
L: ゲート。上を通ったのだが、高所恐怖症が発動した。  C: ゲート上から見た浦賀ドック。映画のワンシーンみたいね。
R: ゲートを開け閉め閉めする装置。ふだんは水圧で閉じているが、開けるときは注水して水圧をなくしてから倒す。

  
L: 排水ポンプ施設。色を塗ってあるので古そうに見えないが、こちらもレンガ造り。かつては屋根があったそうだ。
C: ドックに隣接する現存唯一のクレーン。「浦賀船渠(会社名)」「昭和20年6月」「7T(7tまでいける)」の文字あり。
R: 反対側から見たクレーン。このクレーンがあるとないとでは印象がまったく違うので、ぜひとも永く残してほしいが。

北側にはもうひとつ造船所(こちらはレンガではない)の跡があり、それについての紹介もしてくださった。
不勉強な自分は、船をつくる工程について興味深く聞けた。レンガドックを眺めるだけではもったいないので、
もうちょっと力を入れて造船について総合的に勉強できる施設にすれば面白いのではないかと思うのであった。

  
L: 船体をつくる船台。なお、この造船所で最後につくられたのは現役の護衛艦・たかなみ(DD-110)。なるほどかも。
C: ゲートに「No.2」の文字が見える。穴が開いているのは、ゲートを開けるときに浮力をなくして倒れやすくするため。
R: 東側は艤装岸壁。こちらで進水した船にさまざまな装置をつけて完成させる。船の文化ってのは確かにあるんだなあ。

見学を終えると燈明堂・千代ヶ崎砲台跡方面へと向かうが、歩くのが微妙に面倒くさい距離なので、
ここで実証運行中の「よこすか潮風ライナー」のお世話になる。おかげで快適に燈明堂入口まで行くことができた。
ちなみに燈明堂入口バス停は上述のもうひとつのレンガ積みドックである川間ドックのすぐ近くにあるのだが、
不束者の僕はそのことに気づかずにスルーしてしまったのであった。いちおう覗き込むことはできるようだ。

燈明堂と千代ヶ崎砲台跡、どちらを先に訪れるか少し迷うが、まずは燈明堂へ向かうことにした。
周囲はいかにも海辺で植物が元気な無法地帯で、なんとなく不安になりつつ歩いていくのであった。
室積の象鼻ヶ岬(→2020.2.22)へ行く途中に雰囲気が少し似ている。フェンスの分だけ妙な怖さがあるような。

 こんな感じの道を行く。なんだか不安になりません?

ところが、到着した燈明堂海岸はかなり風光明媚な場所なのであった。後で来た方が締まったかなと思うくらい。
こりゃいいわと思ってしばらく散歩したが、最後に案内板を見てびっくり。かつては浦賀奉行所の処刑場だったんだと!
入ってすぐの巨大な石碑にお題目はそういうことかと。脇の地蔵はそういうことかと。歴史とは恐ろしいなあ。

  
L: 燈明堂海岸、入ってすぐに「南無妙法蓮華経」とひげ文字が彫られた巨大な石碑。首切場と呼ばれた歴史を物語る。
C: 燈明堂へと向かう散策路。  R: 向かって右、南側はこんな感じの海水浴場。水はきれいでいい感じなんだけどなあ。

  
L: 海岸側を進んでいくとこんな感じ。  C: 何かの基準点があった。軽く調べたけどよくわからず。  R: 海を眺める。

両側が海水浴場になっている岬のど真ん中にあるのが燈明堂。1648(慶安元)年に幕府の命で建てられた灯台で、
1872(明治5)年まで一日も休まず火を灯した。しかし1869(明治2)年に日本初の洋式灯台である観音埼灯台が点灯、
その役割を終えることとなった。燈明堂の建物は明治20年代まで残っていたが、石垣だけ残して風雨で倒壊してしまう。
やがて1989年に鉄筋コンクリートで復元された。今はただオブジェとなって木々の中に置かれている、そんな感じだ。

  
L: さっきと反対の北側。これまたいい感じの海岸である。マリーナにいるヨットのマストがいっぱい。川間ドックもその辺り。
C: 1989年に復元された燈明堂。  R: 角度を変えて眺める。観音埼灯台とセットで訪れるのが正しいような気がしてきた。

夏に来ればまた違った印象になるのかもしれないなあ、と思いつつ、燈明堂海岸を後にする。
不安になってしまう道を戻ると、今度は南へ入る道を行く。これがなかなか強烈な坂道で、油断すると膝を痛めそう。
しかし途中の駐車場はけっこうな入り具合だし、こんな辺境のわりに坂道を行き来する人はそれなりにいる。
意外と人気があるんだなあ、と思いつつどうにか坂道を上りきると、千代ヶ崎砲台跡に到着である。

  
L: 千代ヶ崎砲台跡の入口。さっそく切り通しである。中に入るとまずは係の方から軽く説明を受ける。
C,R: いざ出発。
スロープを下っていってレンガの各部屋を見ていく感じ。しかしよくつくったもんだ。

千代ヶ崎砲台跡は明治期に建設が始まった東京湾要塞のひとつ。ペリー来航をきっかけに開国した経緯もあって、
明治政府は首都東京や軍港横須賀を守るべく、東京湾の湾口部に防衛線を設けたのだ。僕が今までログで書いた場所では、
千葉県側では富津元洲堡塁砲台跡(→2020.3.7)や第一海堡(→2014.9.27)、神奈川県側では猿島(→2012.5.5)がそれだ。
特に日清戦争や日露戦争では緊迫感を持って整備され、太平洋戦争でも本土決戦を想定して運用が継続されている。

  
L: 雨水を集める貯水槽。今でも水道が来ていない。奥は素焼きの赤レンガだが、入口側は丈夫な焼過レンガと使い分けている。
C: 隣はきれいになった水を溜めた井戸。中を覗くと今もきれいな水があった。  R: 塁道。やはりレンガを使い分けている。

もともと会津藩がつくった台場が隣にあったのだが、旧日本陸軍が本格的に近代技術を導入して建設した砲台である。
1892(明治25)年に起工し、1895(明治28)年に竣工している。砲座は地上から一段掘り下げてつくられており、
さらにその下に弾薬庫などの部屋がつくられている。塁道がスロープで下っていく形なのは、そのためだ。
丘の上なので表現としては微妙だが、砲座が地下1階レヴェル、塁道やレンガ部屋が地下2階レヴェルに相当する。
これだけ良好に施設が残っているのは、戦後に海上自衛隊通信隊の送信所として利用されていたことが大きいとのこと。

  
L: 塁道を進んだところ。左のレンガ部屋は居住スペース。砲座は向かって左奥上って感じの位置。  C: 塁道を振り返る。
R: 塁道に面している部屋。もともとは扉などがついていたが、終戦後に鉄をことごとく盗まれてこうなったそうだ。

さて見学方式だが、昨日からコロナの蔓延防止の関係で少々変更があり、塁道で適宜ガイドさんの話を聴く形式に。
砲台の建物内部は人数制限をしたうえでガイドさんに案内してもらう。待っている間、細かい話を聴くことができる。
なお、上で「浦賀レンガドックと千代ヶ崎砲台跡をめぐるガイドツアー」が大人気と書いたが、それは今週末までの話。
千代ヶ崎砲台跡じたいは土日に無料で見学できる。一般公開は昨年10月に始まったばかりで、人が多いのはそのためか。

  
L: 部屋の中を覗き込んでフラッシュ撮影。後述するが、3つの明かりは火気を遠ざけるために専用の小部屋になっている。
C: 桜が刻印されているレンガ。これは小菅集治監でつくられたレンガとのこと。  R: それでは通路で地下施設へ……。

ではガイドさんの説明を聴きながら施設の内部に入るのだ。3つ明かりが並ぶ部屋の奥にあるのは、弾薬庫。
案内されるがままに天井を見ると、2つの穴が開いている。これは28cm榴弾を弾薬庫から持ち上げるための穴だ。
階段で上に上がると、砲座を結ぶ通路に出る(地下1階レヴェル)。穴から吊り上げた28cm榴弾を運ぶ通路である。

  
L: 弾薬庫の天井に開いている穴を見上げる。  C: その穴を地下1階レヴェルの通路から見下ろしたところ。
R: 吊り上げた28cm榴弾は天井のレールで通路に運び出す。ただし、そのレールは上述の盗難被害で跡が残るのみである。

  
L: 砲座を結ぶ通路。両側にレールがあり、それで28cm榴弾を砲座まで送った。レンガの地の色が出ている部分がレール跡。
C: 砲座への出口付近。左のえぐられた部分がレールの設置されていた箇所で、右の石の上に同じ高さでレールの跡がある。
R: 砲座(第二砲座)。奥に通路が見えるが、第一から第三までの各砲座が一直線に並んでいるのが近代砲台の特徴とのこと。

いちばん南の第一砲座に出ることができるが、強烈な逆光でマトモな写真が撮れなかった。申し訳ない。
砲座の脇には28cm榴弾サイズのクッションがあって、実際の大きさを体感できる。重さは200kg超えとのことで、
同サイズの米と比べると(僕の感覚は10kgの米袋が基準)圧倒的に重い。火薬や金属でギッチギチだから当たり前だが。

  
L: いちばん北の第三砲座。この奥に第二、第一と砲座が並ぶ。  C: 角度を変えて眺める。  R: 上は公園みたいな雰囲気。

内部の見学を終えると地上に出る。なんだか公園のようなのどかな雰囲気だが、手すりのような柵があり、
その中には掘り下げられた砲座跡がある。手前から第三、第二、第一と並んでおり、それぞれ覗き込んで眺めてまわる。
砲座が一段低い位置にあるのは、先ほどの「榴弾」と関係がある。榴弾を撃つのは曲射砲で、その軌道は放物線を描く。
だから砲座は海から見えない位置の方が有利となるわけだ。狙いをつけるのは別の場所で、無線の指示で撃てばいい。
日清戦争当時の艦船は船体と比べると甲板が弱く、上からの砲弾は効果が大きかったそうだ。なるほどと納得。

  
L: 真ん中の第二砲座を南から見る。自分の影が写り込んでいる。  C: クローズアップしてみる。
R: これは上から見下ろした塁道。砲座の西側に掘られている。この両側にレンガ部屋が埋まっているわけだ。

天気のいい日には富士山も見えるという話だが、どの方角なのかよくわからず。案内板がありゃよかったが。
しかし確かに眺めのよい箇所は浦賀水道を行き来する船をのんびり眺めるにはいい感じで、ポテンシャルを感じる。
まあでも国指定の史跡だし、近くに刑務所があるからこんなものか。燈明堂海岸でのんびりすればいいのか。

  
L: いちばん南の第一砲座と千代ヶ崎砲台跡全体を眺める。往時の緊迫感はなく、ただ穏やかな空気が流れる。
C: 第一砲座。脇の窪みに置かれているのが28cm榴弾サイズのクッション。実際にこのように置かれていたとのこと。
R: 東側、浦賀水道がなかなかの景色。対岸の房総半島がよく見えて、浦賀水道のボトルネックぶりが実感できる。

以上で本日の気楽な日帰り旅は終了。北側の走水とか観音崎とかはまたいずれ。今週も野比温泉に浸かって帰る。


2022.1.21 (Fri.)

本日は久しぶりのオンライン授業となった。が、やってみたら音が聞こえないそうで、ホワイトボードに筆談で対応。
おかげでなんとも消化不良な感じとなってしまった。生徒も教科書や資料集を持ち帰っていないし。うーん、つらい。


2022.1.20 (Thu.)

臨時休校で大混乱である。これはわが職場に限らず全県的な話だそうなので、オミクロンが一気に来たなと思う。
とりあえずまずは懸案の事務仕事を片付け、授業の資料づくりへ移行。みっちり働くことに変わりはないのだ。
ここにきて本当に一寸先は闇という状態になってきた。最低限、意識してメンタルの状態だけは維持しておかないとな。


2022.1.19 (Wed.)

歴史の授業の力加減にほとほと困っております。当たり前だけど毎回がっちりと予習して臨んでいるのだが、
その発表会になってしまっている悪癖は自覚している(→2021.10.20)。じっくり調べてみて、新たな発見があって、
「これ面白いよね!」ということで授業をやっているのだが、生徒は必死で受け止める一方。いちおう反省はしている。
しかし自分にはもともと基礎が完全に欠けているのだ、手を抜くわけにはいかない。今は歴史のキャリアが浅すぎて、
「手を抜くこと」と「力を抜くこと」を上手く分けられない状態なのだ。力加減に困っているとは、そういうこと。

かといって、「生徒主体の授業」(→2021.10.20/2021.12.14)なんてものは幻想にすぎないのである。
70点くらい取れる生徒じゃないと、他の生徒に新たな発見を与えられない。二流に教えられても一流は伸びない。
申し訳ないが記述式の問題がまるでお話にならないレヴェルの生徒たち(→2021.11.18)を抱えている以上、
「生徒主体の授業」なんて自己満足以外の効果をもたらすものには到底ならないのである。それが現実なのだ。
たまに、好きに論じる系の提出課題を出しているけど、読んでみて面白いものはゼロではないが、やはり正直少ない。
そんなわけで僕の授業は、僕自身のための「これ面白いよね!」発表会と化している。そっちがまだマシだと判断して。

本当に申し訳ないけど、覚悟を決めて、今シーズンはまるまる守破離の「守」に専念させてもらいたい。
僕の成長のために我慢してもらう時間(→2020.5.26)が必要なんですゴメンナサイ、と。これだけはわかってほしい。
自分自身の新たな発見の蓄積、力の抜き具合、生徒主体の強弱。それらのバランスの追求は、次の段階にさせてほしい。
記述式の問題でもきちんと対応できる生徒の育成は、来年度以降に重点的に取り組んでいく課題とさせてほしい。
失敗も込みで経験していかないことには先へ進めないのだ。まだまだお客さんに合わせてのパフォーマンスができない。
自分で自分がものすごくもどかしい。でもそれを十分にやれるだけの余裕がまだない。よけいな力を抜けない。
というわけで、残り少ない今シーズン、最後まで開き直ってやらせていただく。全力でやらせていただく。


2022.1.18 (Tue.)

朝、家ではまったく大したことのなかった腹痛が、出勤途中にみるみる悪化して大いに苦しむのであった。
尿路結石が潜んでいたとき(→2021.9.92021.9.17)にもこの症例は数回あったので、またなのか……?と凹む。
常備してある使い捨てカイロでどうにか回復させることができたのでよかった。しかしこの格闘でだいぶ消耗した。
帰る頃にはかなりのヘロヘロ具合で、日記を書く気力なんてとても残っていない。もう本当に勘弁してほしいわ。


2022.1.17 (Mon.)

トンガの噴火については、まず島民の皆様の無事を切に願っているのだが、なかなかもどかしい。
被害の状況がまるでわからないのでどうにも想像力がはたらかない。情報化が進みきったはずの現代社会において、
これだけ情報が少ないという事態に慣れていないのだ。東日本大震災のときにはショッキングな映像が目白押しで、
消化しきれないままに感情が揺さぶられた。今回もそれに劣らぬ大災害であるはずなのに、質感がない。もどかしい。

日本では夜中に延々と津波の情報が流されていて、僕はテレビをつけっ放しで寝ていたので、寝ながら混乱していた。
夢なのか、現実なのか。地震のニュースがないのに津波の話だけが緊迫感を持って伝えられている。起きても同じ。
昨日は「噴火で津波が起こることもあるのか、トンガ大丈夫かな」と思いつつ家を出て日記を書いていたのだが、
家に戻って夜のニュースを眺めていると、トンガの状況はまだまるでわからないのでさておき、津波の特殊性の話ばかり。
そうは言っても、噴火の衝撃波が地球を一周したって話には驚いた。まだまだ地球はわかっていないことがいっぱいだ。

今回の事態は、科学的な面からも、社会学的な面からも、学ぶことが非常に多そうだ。想像のつかない事態に対し、
これまでの経験から想像力を駆使して対応し、この経験を次の想像力へと生かす。そういうことが、いま起きている。
このもどかしい感じ、「よくわからないこと」へのアプローチの研ぎ澄まし方、試行錯誤を、覚えておきたいと思う。


2022.1.16 (Sun.)

朝、出かけようとしたら、隣の部屋の前にカップラーメンのダンボールが2箱置かれていた。
……これってそういうことですかね? まあさすがに、ウイルスが壁を越えてくることはないだろうけど。
いやあ、各方面からじわりじわりと来ていますね。清く正しく免疫力を発揮していきたいと思います。


2022.1.15 (Sat.)

部活があるので午前中に職場に顔を出し、終わると寿司屋で1100円とは思えない握りをいただく。
これが食えるのであれば、休みの日にもわざわざ職場に来るのがそれほど苦痛に感じられない。

 せっかくなので撮ってみた。いかがでございましょう。

せっかくなので、さらに足を延ばして野比温泉に浸かる。帰りに横浜でデジカメの情報収集をしつつ日記を書く。
そして東急ハンズで掃除用品を大量に買い込んで準備万端。リラックスもできたし、戦闘態勢も整えたし、言うことなし。


2022.1.14 (Fri.)

やはりここ最近の強烈な閉塞感は、なかなか旅行に行けないことも関係しているような気がうっすらとしてきた。
年末にはその閉塞感をごまかすように千葉県方面の市役所を押さえたが(→2021.12.272021.12.282021.12.29)、
馴染みのない空間を夢中で動いていると、新たな発見に集中でき、感動でき、よけいなことを考えないで済むのである。
「それってただ時間と金を浪費しているだけなんじゃないか……?」などと思うから、ネガが発生してしまうのだ。
自分が旅行を通して経験していることの価値を言語化できているか、そのうえでその価値を普遍化できているか、
それについて自信を持って「はい」と答えられないのがいけない。つまりは、旅行を肯定できていないのである。
旅行に魅了されている間はそんな疑問すら浮かばないが、旅行との間に距離感が生まれてしまうと、醒めてしまう。
今はそういう状況にある。おそらく旅行以外でも何か没頭できるもの、「狂う」ことができるものが必要なのだろう。
いい歳した大人として、少年の心を呼び戻す何かを見つけなければならないというわけだ。さて、どうするか……。



2022.1.11 (Tue.)

カズがJFL鈴鹿にレンタル移籍とのこと。いろいろな意見があるのはわかるが、僕がまず思ったことは、
「日本サッカー界の裾野の拡大にとっては最高の選択肢じゃないか!」ということである。さすがキングカズ、と。

J2創設が1999年、J3創設が2014年のことで、サッカー文化は日本の各地に確実に定着してきていると言える。
しかし、まだ47都道府県すべてにJクラブができたわけではないし、そもそもプロサッカークラブがすべてではないのだ。
天皇杯でプロクラブとアマチュアクラブが戦うことで日本のサッカーの総合的な姿を垣間見ることができるものの、
サッカーを身近なレヴェル、日常的なレヴェルで楽しむ、というところまではまだまだ行っていないのが現状だ。

そこでカズである。アマチュアリーグの最高峰であるJFLに所属することで、新たな角度からスポットライトが当たる。
JFLには、Jリーグを目指すJリーグ百年構想クラブもあれば、Honda FCみたいな「門番」役の企業クラブもいる。
大学のサッカー部やJクラブのBチームが所属していたこともあった。その多様性こそがJFLの魅力なのである。
カズが鈴鹿に移籍したのは、自身の(あまり言いたくないが)最後の使命として裾野を広げに行ったのではないかと思う。
これからJリーグ入りを目指すクラブにとって、また企業クラブにとっても、対戦相手にカズがいることの恩恵は、
計り知れないものがあるはずだ。われわれは、カズを通してJFLという日本サッカーの多様性を見つめることになる。
そうすることで間違いなく、サッカーをもっと身近なレヴェル、もっと日常的なレヴェルで楽しむ視点を得るはずだ。
究極の客寄せパンダを自認するカズは、絶対にそこまで考えている。「Jリーガー」ではなくなってしまうこの移籍だが、
体ひとつでサッカーの裾野を広げようとするチャレンジを、どうして批判できようか。どうして揶揄できようか。
もちろんバンバン点を決めてほしいが、もはやそんなの関係ない領域で、カズを尊敬せざるをえない。本当にすごい。


2022.1.10 (Mon.)

おとといのリヴェンジということで、ピザ食って帰る。今回はフレッシュトマトをレギュラーとし、
バジリコとガーリックをラージとする構成。これでもまだちょっと多いくらい。もちろん満足いたしましたが。

帰りのバスであれこれ考えてしまったのだが、どうにもネガで困る。一人で嫌な汗をずっとかいていた感じ。
今回はバヒさんとトシユキさんのホスピタリティに大いに救われて、本当にそれがありがたかったのだが、
いざ現実の日常生活とその延長線上にある未来を考えると、どこまでも暗い気持ちに支配されてしまう。
結局のところ自分には友達しかいないんだなあと思う。周りに強制的に前を向かせてもらわないと動けない。
特に今回の帰省はその事実を確かめた感触である。友達の優しさに支えられてなんとか立っていられるなあと。


2022.1.9 (Sun.)

本日はトシユキさんも交えて4人でランチなのであった。久しぶりにモゲメンバー勢揃いでございますな。
バヒさんが気になるという元町珈琲でいただいたのだが、そもそも「港元町」とはどこの元町なのかと首をひねる。
店舗一覧が岐阜から始まる事実を発見し、東日本は横浜で、西日本は神戸なんじゃないかと推測して盛り上がる。
飲み物に豆菓子がついてきたので、ハイやっぱり名古屋圏!ということでわれわれの間では決着がついたのであった。

その後は本屋と電器屋で時間調整して、高速バスで名古屋へ帰るまるをお見送り。
それからトシユキさん宅で真人間との差を思い知りましたな。一国一城の主とはこういうことかと。偉いなあ。

残ったバヒさんと喫茶店でさらにダベる。旧知の友人とくだらない話をするのがどんなにありがてえか実感しましたな。


2022.1.8 (Sat.)

昼に間に合うように帰省するが、ベルディは土曜にランチ営業をしていないのであった。備忘録として書いておく。

夜になってバヒ・まる両氏とメシをいただく。豚と鶏と羊をしゃぶしゃぶしたのだが、まるが本当に相変わらずでしたな。
それにしても、当方だいぶメンタルをやられていることを実感。オレ史上最大に病んでおりますね。まいったまいった。


2022.1.7 (Fri.)

一晩明けても、なかなかの冬景色である。スマホのカメラでテキトーに写真を撮りつつ出勤。

  
L: 家の近くにて。  C: 職場近くの住宅街、地味に面倒くさい坂を振り返る。  R: 職場。

今シーズンの冬はきちんと冬らしい感じである。季節感が豊かなのはいいことだと思っておこうではないか。


2022.1.6 (Thu.)

見事なまでの雪である。昨日までの2日間でだいぶ消耗したので(大したことはしていないのだが……)、
本日はお休みをもらって気ままに日記を書いて過ごす。そんでもって軽くお出かけ。雪の東京をそれなりに味わう。


2022.1.5 (Wed.)

スタ丼が! 値上げ!

1スタドン=550円だった為替レートが1スタドン=580円へと変化したのが14年前(→2008.9.10)。
それからインフレは確実に進み、9年前には1スタドン=630円となったのであった(→2013.8.24)。
そしてついに1スタドン=680円時代に突入なのである! うーん、肉損ショック!

630円だと本当にお得感があったが、680円だと確かに妥当なんだけど二の足を踏む感じになってしまうなあ。
まずはワンクッション置いて650円がよかったなあと。今後どれだけの期間、1スタドン=680円を維持できるのか……。


2022.1.4 (Tue.)

仕事始めなんだけどぜんぜん人がいないのであった。活気がないとこっちのテンションも上がらず、
先んじてのプリントづくり作戦もなかなか進まない。まあ新年初日はこんなもんかもしれないけど……。


2022.1.3 (Mon.)

今ごろになって、点取占いがすでに生産終了していたという事実を知る。これは本当にショックだ……。
つくるのに儲からなくて手間ばかりかかるのは容易に想像がつくが、なくしてしまうのはあまりにも惜しい。
インターネット時代、どうにかならないものなのか。うまい棒屋さんとか、事業を引き継いでくれないものか。


2022.1.2 (Sun.)

帰省したらしたで完全なる寝正月なんだけど、帰省しなけりゃしないで「日記ー! 御守ー!」でいつもと変わらない。
きちんとクリエイティヴな趣味を持たなくてはいけないのではないか、と反省はしている。反省だけはしている。


2022.1.1 (Sat.)

あけましておめでとうございます。毎年毎年正念場。少しでもマシな年になりますようにっと。

今シーズンは帰省をずらしたので、元日から都内の神社を参拝しまくりである。
東京23区めぐりで御守をゲットできなかった神社をリストアップし、やっぱり自転車で攻める。

 実にいい天気である。

北は北区、東は墨田区・江東区、西は中野区、南は大田区と動きまわりまくり。元日の東京は明らかに交通量が少なく、
人がそんなに出歩いていない。なんだかんだで皆さん結局帰省しているのか。それにしてもペダルのこぎすぎで脚が痛い。

 元日の渋谷。人はいるけどいつもの休日とは比べ物にならない穏やかさ。

ゴールが大田区ということで、新年早々黒湯に浸かるのであった。蒲田温泉といえばバカみたいに熱いことで有名だが、
今回の「あつ湯」はしっかりと47~8℃で、「ぬる湯」をじっくり味わった後におまけで30秒ほど浸かっておいた。
こりゃもう熱いというより「痛い」。まあおかげで、寒い中で自転車をこいでもへっちゃらでございましたが。

 やっぱり黒湯は効くと思うのである。

日記を書いてメシを食って帰る。正月なんだけどまったくもっていつもと同じような過ごし方なのであった。ニンニン。


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