diary 2020.8.

diary 2020.9.


2020.8.31 (Mon.)

昨日の日記で書いたとおり、神田スクエアについて。港区とは別項目となるので、今日の日記ということにしておくのだ。
2年前には建設中だったが(→2018.8.6)、その後どうなったのか。旧神田区役所で合っていたのか。いざレポート。

  
L: 完成した神田スクエア。南東から見上げる。  C: 南西から。  R: 北西から。

敷地の南東端には「電機学校発祥の地」という碑があった。中の地図を見ると厳密には発祥の地は靖国通りの北、
小川町になるようだが、調べてみたら他の学校の校舎を借りていたらしく、自前の校地は錦町が最初ということみたい。
隣が神田警察署、その隣が神田区役所という位置関係で、やがて東京電機大学は1968年に旧神田区役所の土地を取得して、
神田キャンパスを拡大した。そして2012年に東京千住キャンパスに移転、跡地が神田スクエアに再開発されたのだ。

  
L: 北東から。  C: 「電機学校発祥の地」の碑。  R: 当該箇所の古い地図で神田区役所跡地と確認できた。

「電機学校発祥の地」の碑には靖国通りを挟んだ小川町から錦町一帯の古い地図がレリーフではめ込まれており、
かつての様子をしっかり確認できる。土地の歴史・記憶をはっきり示しており、これはたいへんありがたい。
空間の記憶というものは恐ろしく脆いものなのだ。すべての区役所がこんな感じで確認できると素晴らしいのだが。


2020.8.30 (Sun.)

「TOKYO SWEEP!! 23区編」、第6回は港区の最終回。いやあ、手間がかかった。本日徘徊するのは、旧麻布区である。
3年前まで勤務していたのはこの辺りなので、土地勘があるとまでは言えないが、なんとなくわかる範囲はまあそれなり。
ただ、旧麻布区となると港区の南西部を占めており、やはり広い。今までの知識を生かしつつテンポよくまわるのだ。

さて今回は自前の自転車なので、目黒通りでのアプローチである。権之助坂を気合いで上がって目黒駅前を通過し、
東京都庭園美術館(→2016.10.31)の先へ。そこは国立科学博物館附属自然教育園なのである。本日はここからスタート。
かつては白金長者と呼ばれた豪族・柳下上総介の居館だったとされているが、詳しいことはわかっていない。
江戸時代には増上寺の管理下を経て、1664(寛文4)年には徳川光圀の兄である高松藩主・松平頼重の下屋敷となる。
明治維新後は陸海軍の火薬庫となり、1917(大正6)年には宮内省帝室林野局が所管する白金御料地となった。
戦後の1949年に文部省に移管されて国立自然教育園となり、1962年に国立科学博物館の附属となって今に至る。

  
L: 国立科学博物館附属自然教育園の入口。  C: 元は庭園だろうが、かなり野放しで野生化した感じ。  R: スダジイの大木。

  
L: 池の周辺。  C: 池の辺りは水生植物園となっている。  R: 園内の北側は武蔵野植物園。港区で「武蔵野」かあ……。

 鵜がいた。浜離宮でも旧芝離宮でも見かけたなあ。

  
L: 大蛇(おろち)の松。昨年10月の台風19号によって倒れてしまったが、自然教育園はその状態のまま展示している。
C: 水鳥の沼。ぜんぜんきれいじゃないなあ……。  R: 白金長者の屋敷跡を囲む土塁の断面。切り通しになっている。

ひととおり見てまわると、そのまま目黒通りを東へと進む。白金台駅の辺りにあるのが、港区立郷土歴史館。
もともとは1938年竣工の旧国立公衆衛生院で、港区が国から取得して2018年に郷土歴史館としてオープンしたのだ。
なんか立派な建物があるらしいと前からうっすら知ってはいたのだが、堂々と入れるようになったのはありがたい。
すぐ奥にある東京大学医科学研究所(1935年竣工)と同じく内田祥三の設計。なお公衆衛生院とはその名のとおり、
公衆衛生技術者の育成や保健衛生の調査研究を行った機関である。2002年に国立保健医療科学院となり和光市に移った。

  
L: 建物は両翼がせり出している独特な形をしている。これが北側。  C: 正面から見る。これは圧倒される。  R: 南側。

正面から見るとただただ圧倒されてしまう外観である。内田祥三は東京大学の安田講堂も設計しており(基本設計)、
なるほどそういうゴシック路線の大学講堂を思わせる。しかし高さがあるうえに見る者を囲む形状となっているため、
その威容はまるでこちらに迫ってくるかのようだ。大学でやるにはさすがにこれは権威主義的すぎて無理だろうが、
内田が全力で「わっ!」と驚かそうとするとこうなる、そんな建築だと思う。細部を見るとアール・デコ調で、
きわめて端正なモダンさにあふれている。中に入ると、質実剛健なモダンさがさらに力強く展開されていた。

  
L: エントランスを抜けるとこのホール。これは見事だ。同じ1930年代の国立科学博物館(→2017.6.6)に似ていると思う。
C: 3階(ホールは2階)に上がって眺める。  R: ちなみに建物内の廊下はこんな感じで、正直けっこう殺風景である。

  
L: 3階の展示室。エントランスのアーチの真上である。  C: 隣の旧院長室。  R: 4階の休憩室。旧院長室の真上。

  
L: 4階の旧講堂。2フロア分とって高低差をつけている。これは完全に大学の講堂だ。母校の本館を思い出すなあ。
C: 教壇の手前から見た光景。天井の格子といい梁のデザインといい、アール・デコを感じる。正しい1930年代って感じ。

  
L: 1階のカフェの脇は学校歴史資料展示室となっている。つまりは港区の小学校・中学校についての展示である。
C,R: 1階、カフェの様子。旧来のデザインを上手く生かした落ち着いた空間。ここはなかなかの穴場ですな。

  
L: 1階中央ホールは外光を採り入れるためプリズムガラスとしている。  C: プリズムガラス。今は下から光を当てている。
R: 2階南端はコミュニケーションルーム。もともとは図書館で、脇に図書館長室と受付窓口があった。こちらは受付窓口。

  
L: コミュニケーションルームを覗き込む。いろいろ置いてあって面白そうなのだが、現在はコロナの影響で閉鎖中。
C: コミュニケーションルームから南エントランスに出る。  R: 背面。実に東大安田講堂っぽい内田ゴシックである。

存分に堪能すると、そのまま目黒通りの終点(本当は起点)まで行って、「清正公」こと覚林寺へ。
ここはもともと熊本藩の中屋敷だった場所で、加藤清正が日本へ連れてきた日延により1631(寛永8)年に開山。
清正に縁があるということで日蓮宗の寺院だが、清正公堂は本殿・幣殿・拝殿が一体となっている権現造である。

  
L: 「清正公」覚林寺の山門。1856(安政3)年の再建。  C: 境内に入って右手のこちらが本堂である。
R: 山門から入ってそのまままっすぐ行くと清正公堂。1865(慶応元)年の再建で、山門とともに港区指定有形文化財。

御守を頂戴すると、国道1号で北にまわり込んで白金氷川神社に参拝する。白鳳時代に勧請されたそうで、
港区では最古の神社とのこと。社殿の後ろにある社叢がすごいなあと感心するが、実は近くのお寺のお墓の緑だった。
残念ながらこの日は御守を頂戴できなかったので、後日リヴェンジすることに。まあ白金高輪からいつでも来られるし。

  
L: 白金氷川神社の境内入口。  C: 拝殿。空襲で江戸時代の社殿は焼け、1958年に再建された。  R: 本殿。

住宅ばかりが続く道を抜け、明治通りの北へ。こちらも住宅地だが、どことなくお高くとまった感触の集合住宅が多い。
白金はまだ若干庶民的な匂いがしたのだが、南麻布には僕が勝手にスノッブさを感じてしまう要素が混じりだす気がする。
外人だらけの広尾の裏手にあたるからしょうがないか。というわけで、そんな一角に廣尾稲荷神社は鎮座している。
道路が神社を避けて不自然にカーヴしており、それだけ古い歴史を感じさせる。都心では珍しいように思うのだが。

  
L: 廣尾稲荷神社。道路は境内を避けているが、それでも横参道となっているくらい土地には余裕がない。
C: コンパクトな拝殿。  R: 本殿は拝殿に対して大きめ。幣殿と本殿は1925(大正14)年に建てられた。

さらに北へ行くとすぐに有栖川宮記念公園である。東京都立中央図書館に何度か来ており(→2003.1.232006.10.28)、
図書館は有栖川宮記念公園の敷地内にあるので、必然的に園内には入っている。でも本格的に散策したことはないので、
あちこち動きまわってみる。もともとはその名のとおり有栖川宮の御用地で、江戸時代には盛岡藩の下屋敷だった。
有栖川家が断絶した後には高松宮家が引き継ぎ、1934年に東京市に下賜して公園として整備されたという経緯がある。
特徴的なのはその高低差で、武蔵野台地の高低差を実感できる。港区の坂道は、かつてどこもこんな感じだったのだろう。
最も低い西側に池があり、そこから緑の中を上っていく。元が自然をしっかり生かした庭園だったことがよくわかる。

  
L: 有栖川宮記念公園の西側入口。つまりここがいちばん標高の低い地点。  C: まずは池がある。  R: 庭園らしい一角。

  
L: 敷地の傾斜をそのままに水が流れていく。  C: 緑の中を上っていくところ。  R: 南側の広場。

  
L: 有栖川熾仁(たるひと)親王の銅像。徳川家茂と結婚した和宮の婚約者だった。戊辰戦争では東征大総督を務める。
C: 東京都立中央図書館。設計は第一工房ということで高橋靗一ですかな。1973年に開館。  R: 北から見たところ。

東の台地方面に抜けると、東京都選定歴史的建造物に選定されている安藤記念教会の会堂に目を奪われる。
使われているのは大谷石で、本場の栃木県ではもっぱら蔵でよく見かけるが、教会となるとあまり例がないと思う。
しかもわざわざ震災前の東京で。道路が狭いので見渡しづらいが、その分だけ迫力が増している面もありそうだ。

 日本基督教団安藤記念教会会堂。吉武長一の設計で1917(大正6)年竣工。

そこからすぐに麻布氷川神社である。港区にはしっかりした規模の氷川神社が3つもあってややこしいのだ。
かつては2000坪以上の社有地があったそうだが、増上寺の所領となったことで1659(万治2)年に現在地に遷座。
今では無理やりな横参道でだいぶ狭苦しい印象の神社となっている。なお『美少女戦士セーラームーン』では、
火野レイが巫女をしている火川神社のモデルということで騒動になったとか。サターン派の僕にはわかりませんが。
でも歳をとるとセーラージュピターの良さがわかるようになるよね(→2017.9.7)。自分でも何書いてるんだかわからんが。

  
L: 麻布氷川神社の境内入口。道路の幅が非常に狭いので入口も窮屈な印象。いや、実際に境内も無理な横参道で窮屈だ。
C: 神楽殿と神輿倉。  R: 拝殿。横参道というか鉤の手型の参道なので、正面から撮るとまったく余裕のない感じになる。

 本殿。さっきの神楽殿や神輿倉と比べるとまったく凝った要素がない。

そのまま北へ抜けようとすると道は自然と東へカーヴしていき、麻布十番周辺へと至る。3年前まで勤務していたのは、
まさにこの辺りということになる。生徒とゴミ拾いをした記憶が蘇るのであった。タバコの吸い殻がやたら多かったなあ。
あと麻布十番というと南北線が通るまで都内の陸の孤島として有名で、もともとは低湿地で麻布三業地も存在していた。
大学時代に師匠が話していたのだが、かつてはヤクザ屋さんが囲っている女性が麻布十番にはけっこう住んでいたそうで、
調査をお願いするとひょっこり出てきた男の方が対象じゃないけどけっこう喜んで答えてくれちゃって、とのこと。
「港区」「麻布」という名前で掻き消されているけど、当時の出勤経路はどこかガサガサした雰囲気も少し残っていたし、
ここもまたエアポケットというわけだ。赤坂(→2020.8.19)ほど猥雑ではないが、“庶民的”では収まらないものがある。

 
L: パティオ十番を西から見たところ。戦後の区画整理の際に広い道路をつくる予定となった箇所を整備して1986年に完成。
R: 東から見たところ。商店街の一本南にあり、動線を分けるという点で絶妙なバランスが取れている気もする。

鳥居坂を北上していくとDOCOMOMO物件の国際文化会館である。なんともつかみどころのない名前だなあと思いつつ、
敷地内にお邪魔する。国際相互理解のための文化交流や知的協力の促進を目的とする財団法人・国際文化会館が運営。
やっぱりなんともよくわからない。1955年の竣工だが、前川國男・坂倉準三・吉村順三の3人が設計しており、
そのことが最大の売りなのではないかと思う。とりあえず怒られない範囲で撮影を試みるが、わりと自由放任な印象。

  
L: 入口からスロープを上がっていくと建物が現れる。  C: 建物の東端をクローズアップ。  R: とりあえず全体を眺める。

  
L: 反対側から眺めたところ。  C: 北側に飛び出している部分。  R: エントランスを眺めてみる。

 中はこんな感じ。2005年の改修が効いているのか昭和感はない。

さらに鳥居坂を北上すると、ほぼ坂を上りきったところで港区麻布地区総合支所。こちらが旧麻布区役所だった場所だ。
港区は嫌いだが、合併前の芝区役所(→2020.8.17)・赤坂区役所(→2020.8.19)・麻布区役所はともに歴史を受け継ぎ、
現在も区役所や支所として位置を変えずに存在している。この点は非常に偉いと思う。都会の真ん中だが歴史に敏感だ。

  
L: かつての麻布区役所の位置に建つ港区麻布地区総合支所。北西から。  C: エントランス。  R: 南西から。

 建物の平面は「ロ」の字をしており、中庭はこんな感じでだいぶアーティスティック。

外苑東通りに出ると、いったん東へ行って飯倉熊野神社に寄っておく。いつか御守を頂戴せねばと思っていたのだ。
いざ訪れるとやたらとコンパクトな都市型神社という印象だが、もともとは広い境内を有していたという。
御守のデザインは少し凝っていて、千鳥格子の地に熊野牛王神符の八咫烏を3羽配したもの。オリジナリティがよい。

  
L: 国道1号を挟んで眺める飯倉熊野神社。  C: 社号標と鳥居はかつての規模を感じさせる。  R: 拝殿。小ぢんまり。

六本木方面へ戻る途中で日本経緯度原点にも寄ってみる。こちらは日本国内の測量の基準点となっている場所なのだ。
かつて東京天文台の子午環がここにあり、1923(大正12)年の関東大地震で子午環が崩壊した後も基準として維持された。
とんでもないのが2011年の東北地方太平洋沖地震(いわゆる東日本大震災)で、原点が東へ27cmほど移動したという。
そのため原点数値を変更することになった。経度が0.0110秒だけ東に動いたが、緯度について変更はなかった。

  
L: 日本経緯度原点。ロシア大使館やアフガニスタン大使館に囲まれて、少し緊張感の漂う奥まった場所にある。
C: 上がるとこんな感じ。  R: 原点の金属標。東経139度44分28.8869秒、北緯35度39分29.1572秒に位置している。

饂飩坂からかつての勤務校の前を通って六本木ヒルズへ。あんまり興味のない場所で、自分の中ではまだ馴染みのある、
テレビ朝日や毛利庭園の周辺を軽くまわってみる。テレビ朝日は夏休みになると屋上にドラえもんが現れるんだよなあ。

  
L: 毛利庭園。再開発で整備された。毛利秀元(元就の孫)が上屋敷を構えた場所で、戦後はニッカウヰスキーの東京工場だった。
C: テレビ朝日。すっかりバラエティに強くなったなあと思う。  R: 六本木ヒルズアリーナ。屋根は開閉式らしい。

けやき通りを西へ抜けて、櫻田神社に参拝する。こちらも都会の中でだいぶ狭っこくなっている印象の神社だが、
もともとは霞ヶ関の桜田門外に鎮座していた。1180(治承4)年に源頼朝が創建し、寄進した田畑を区別するため、
畔に桜を植えたことから「桜田」の地名が生まれたという。1624(寛永元)年に江戸城御用地となって現在地に遷座。

  
L: 櫻田神社の境内入口。  C: 参道を行く。いくらなんでももう少しなんとかならんのか。  R: 拝殿。

御守を頂戴すると、六本木交差点の周辺へと向かう。バブルの時代には凄まじい賑わいぶりだったのだろうが、
僕にはなんとも。とりあえず東京ミッドタウンから国立新美術館の辺りまで動くが、これくらいしか行くところがない。

  
L: ギロッポンこと六本木の交差点。ここだけは上空を蓋する首都高がしっくりくる感じ。首都高なけりゃただの交差点。
C: 東京ミッドタウン。防衛庁本庁檜町庁舎を再開発して2007年にオープン。  R: 国立新美術館を入口からちょろっと眺める。

東京ミッドタウンと国立新美術館の間、少し低くなっているところに「龍土神明宮」こと天祖神社が鎮座している。
1384(至徳元)年の創建で、品川沖から竜が毎夜御灯明を献じたということで「龍灯」、転じて「龍土」となったそうだ。
神紋が三つ巴の3つの円形部分にそれぞれ「七」が入るという珍しいもので、「六本木7-7-7」の住所にちなんでいる模様。
かつてこの辺りは麻布区龍土町という名前で、住居表示が実施されてから神紋が変えられたのか。思い切ったなあ。

  
L: 「龍土神明宮」こと天祖神社。背の高いビルに囲まれてビルの公開空地と境内が一体化しているためか、独特な雰囲気の境内。
C: もともとの土地の高低差もあって、ちょっと狭さが強調されている印象。  R: その中で全力で屋根を広げている拝殿。

さて、六本木にもDOCOMOMO物件が存在するのだ。六本木通りから一本入った位置にある全日本海員組合本部会館だ。
設計はDOCOMOMO常連の大髙正人、1964年の竣工である。外見は実に端正なモダニズムということになるのだが、
中が非常に特徴的。まず当時の高さの制限を受けて、地上6階に対して地下が3階まであり、容積の4割は地下とのこと。
その地下にある大会議室が200平方mもあって、これがまた台形タイプのモダニズム。詳しくは公式サイトの写真を参照。
地上部分もコア以外に柱や壁がないため(確かに角に柱がない)、中からだとガラス窓がかなりの開放感を与えるみたい。
これは実際に中に入らないと魅力を味わいきれないだろう。外と中でどう印象が変わるのか、体感してみたいものである。

  
L: 全日本海員組合本部会館。つまりは船乗りの皆さんの労働組合本部。手前のラッパ状の物体は六本木西公園のものです。
C: 近づいて撮影。北西からのアングル。  R: さらに近づいて正面。かつて神戸にあった本部が東京に移転して建てられた。

  
L: 道路が狭くて撮るのが大変。南西から。  C: 六本木通りに出て南東から撮影する。こちらは背面ということになるのか。
R: 手前が駐車場になので建物をしっかりと見ることができる。しかし正面が見づらくて背面が見やすいのは、なんとも。

最後に久國神社に参拝する。赤坂氷川神社の東に位置するのでほとんど赤坂区のような気がする立地だが、
六本木のぎりぎり端っこということで麻布区。細い路地を抜けると崖下に貼り付くような細長い境内に横参道でぶつかる。
太田道灌により現在地に遷座した稲荷系の神社で、社名は鎌倉時代の刀工・粟田口久国作の刀が寄進されたことにちなむ。
無事に御守を頂戴して、これで旧麻布区探索は終了とする。まだまだいろいろあるんだろうけど、今日はこれが限界だ。

  
L: 久國神社の境内入口。  C: 鳥居をくぐると境内で、左手は遊び場となっている。  R: 右手に社殿。

3日かけて旧芝区・旧赤坂区・旧麻布区と動きまわったが、一口に「港区」と言ってもピンからキリまで実に多様だった。
ただ、それは歴史に深く入り込まないと見えてこない。「港区」というブランドで、その多様な面は覆い隠されている。
まるで化粧でシワやシミを隠すようにして、美化されている。でも確かに港区にはあちこちに坂道(シワ)があって、
盛り場には花街や産業地の匂い(シミ)が漂っている。むしろわれわれ「港区外」の人間たちが積極的にそれを無視し、
港区の本当の姿を見ないようにしているのではないか。昔からの港区民たちは、お上品ではない本当の姿を知っている。
対照的に、後から「港区」に惹きつけられてきた者たちは、必死で「港区民」を演じている。この矛盾こそが面白い。
港区で働いていたときにイヤというほど味わったこの矛盾は、これからも逆説として港区の根底で生き続けるだろう。
それにしても、きちんとやる気があれば、歴史にわりと容易にアクセスできるのは、港区のいいところであると思う。

せっかく都心に出てきているので、2年前には建設中だった神田スクエアを見に行った。これについては明日の日記で。
ついでに神保町で自転車の具合を見てもらったのだが、8年も乗っているので新しいものを考えなくてはいけないとのこと。
とりあえず今の自転車で行けるだけ行こうと、決断を先延ばしにするのであった。SPECIALIZEDは値上がりしたようで、
そうなると現状維持の価格帯ではGIANTが第一候補になってくる模様。いろいろ切ない気分になりつつ帰るのであった。


2020.8.29 (Sat.)

練習試合なんだけどさ、7時に家を出ても遅刻ってつらすぎるんですけど! 気合いでどうにかした。

「マツシマくん、焼肉キャンプっていうキャンプ感ある焼肉屋行かない?」
という連絡が入って、場所はどこだと訊いたら高島平だと。時間こそかかるが一本で帰れるのでむしろ便利。
いきなりの話だったのできちんとしたデジカメが用意できなかったが、とりあえずスマホの画像でお送りします。

  
L: 新高島平駅からまっすぐ南に歩いて焼肉キャンプ。ゼンショーが送る焼肉の新業態とのこと。もとは華屋与兵衛なん?
C: 待合スペース。小道具でキャンプ感を入念に演出している。家族連れだとこのタイプの椅子に座ってコンロを囲む席に。
R: マサルが撮影した私。西日が眩しかったのでサングラス着用で怪しい人である。部活の練習試合そのままの格好なのね。

今回はマサルの「お前の日記なんだからお前が写れ!」という意向によりオレの写真多め。誰が喜ぶんだそんなの。
オレの日記なんてcirco氏とみやもりしか読んでねえぞ。まあとりあえず、奥の席に通されて焼肉スタートである。
マサルは人気どころの肉を的確に見繕って注文。対する私はとにかく米を食いたい。正直、肉より米が好きなのだ。
しかしそこは焼肉キャンプ、わざわざ飯盒で炊いた米が食えるのである。さっそく注文してIHにセットする。

  
L: 「Camp de 飯盒ご飯」が到着。手前のコッヘルがご飯茶碗代わりと雰囲気がある。しかしIHでの調理で20分かかる罠。
C: そのままセットして点火。炊くのに9分、蒸らしに11分。サッカー審判用の腕時計が役に立つとは。  R: 肉奉行。

マサルは順調に肉を食べていくが、米待ちの僕はひたすら我慢の子であった。その間、いろいろダベる。
「この世でいちばん旨いのは、他人が炊いた米なんだよ」と力説する私。しかし、いま待っている飯盒の米は、
果たして他人が炊いた米なのか、自分が炊いた米なのか。IHを点火する一手間さえも他人に任せた方が旨いのだ。

  
L: 20分が経過して、いよいよ開封の儀。緊張の面持ちで蓋に手をかける私。  C: 蓋を取るとそこは……中蓋でしたー!
R: 中蓋を開けて今度こそ炊き上がった米とご対面。しかし本当にうれしそうだなオレ。焼肉のときの米って最高においしい。

  
L: 炊け具合は上々。うまく炊けた証拠であるという「カニの穴」がしっかりとできている(『BE-PAL』知識)。
C: 満面の笑みでコッヘルに米を盛る私。  R: それではいただきますなのだ。飯盒の米はやっぱ特別な味がするね。

というわけで話は僕の幼少期、なぜかcirco氏が創刊号から100号まで『BE-PAL』を欠かさず買っていたことについて。
実際にキャンプに行ったことは数えるほどしかないのだが(両手で足りるくらい?)、おかげでいろいろ知識がついた。
マサルはそんなcirco氏の行動について、「家から解放されたいって深層意識があったんじゃないの」と指摘するが、
うーん、どうなんだろうか。僕の母親は「お父さんは(マザコンならぬ)『ファミコン』だから」と言っていたけどねえ。

  
L: せっかくのキャンプ気分なんだから、とスカートステーキを注文。いやあ、これはさすがに迫力がありますね。
C: 肉奉行その2。この後、フタをして蒸し焼きにする。  R: 燻製キットもある。桜のチップで香りをつけるのだ。

やるからにはとことんやろうと、鮎の塩焼きにも挑戦。ニジマスもあったのだが、鮎の方がキャンプっぽいと僕が判断。

 こんな感じで登場である。

それでは焼き上がりを串に刺したままで、マサルにタイガー・ジェット・シンのポーズで食べていただきましょう。
マサルは『有田と週刊プロレスと』でプロレスの歴史に目覚めており、アマゾンプライムに入れと言ってくる。
またYouTubeの『アメリカ横断ウルトラクイズ』BGM集を再生するんだけど、そんなん、もう、僕は射精してしまうわ。

  
L: 鮎にかぶりつくマサル。  C: なかなかの迫力である。  R: 一口かじったらもう満足。あとは僕がいただきました。

最後は、淹れたてキャンプコーヒー。これまたコッヘルで雰囲気を演出なのだ。ふつうにおいしゅうございました。
僕の個人的な感想としては、焼肉キャンプは局所的にキャンプ感を出してくるけど、やっぱりファミレスの延長線上。
キャンプとは野外であることが絶対条件だと思うわけです。風と戦いながら火を守るのが醍醐味だと思うわけです。
とはいえ焼肉店としては、「キャンプらしさ」を目指した部分が確かに魅力的。あれだけ食って値段もリーズナブル。
タレ以外はふつうにいい感じの焼肉店だったと思うのである。タレ以外は。残念ながらタレは致命的に旨くない。

 コーヒーで一服どころかキューバとキリマンジャロで二服しちゃったよ。

あれこれダベる中、マサルの僕へのダメ出しが炸裂。お前はなんでも自分にとって都合よく解釈している!と。
なるほど確かにそれは僕の悪癖であるので、とりあえず黙って聴く。謎解きでのスタンス(→2020.3.1)から、
この日記での僕の行動の記述など。謎解きについては納得できたのでまあ世間はそういうものなのねと言うしかないが、
「きみは絶対に権力を持ってはいけない種類の人間なんよ!」とまで言われる筋合いはないのではないかと。
これはあくまで僕の日記なので僕の視点がこびりつくのは当たり前で、公正なジャーナリズムとは違うのだ。
よく自分の考えとは合わない視点の情報をもたらすマスコミを批判する人がいるけど、重要なのは受け手のリテラシーだ。
情報をどこまで信じればいいかは受け手の能力の問題。送り手が追求すべきなのは、誤読の可能性を減らすことだ。
とはいえ僕は、まともなブログや人気のYouTubeなんかと違い、お客さんの存在をまったく想定していないのである。
そこをきちんと想定する方が社会的に正しいし、意義のあるものとなるんだろうけどね。僕にそのコストは苦痛なのだ。
この日記なんてcirco氏とみやもりとあと好奇心旺盛な誰かに向けての生存報告でしかないのだから、しょうがないのだ。
相変わらず興奮すると言葉の選択が極端になるやつだなあ、本を読まねえからだ、なんて思いつつ拝聴するのであった。
とりあえず、マサルに「権力持つな」と言われたんで、結婚しません。家庭持ったり親権持ったり一切しません。
そしてみんなもこの日記に書いてあることを信じちゃダメだよ。これはあくまで僕個人専用の備忘録なんだから。

帰り道はマサルがプロレスラー・田村潔司の入場曲をめぐるドラマについてプロレスの歴史から詳しく説明してくれた。
マサル的には、将棋におけるAIソフトやプロレスにおけるグレイシー柔術といった、いわゆる「黒船来航」な事件、
そしてそれを乗り越えた先にあるドラマがたまらないんだそうだ。さらにその「黒船来航」で生まれた因縁について、
メディアで盛り上げる際の演出映像がまた最高に面白いとのこと。かつての『アメリカ横断ウルトラクイズ』でも、
決勝戦のクイズよりもその前にヘリでニューヨーク上空を飛んでいるときのトメさんの口上がたまらないのだと。
なるほど。今日の焼肉キャンプもそうだったが、「演出」とは僕らが思っている以上に心理的に効果のあるもので、
技術として磨くことができると劇的に人を楽しませることができるのだろうと思った。「演出学」か。興味深いね!


2020.8.28 (Fri.)

国会も開かず記者会見も開かず、何もしないで時間を稼ぎ、首相在任の歴代最長記録を更新したタイミングで投げ出す。
しかも、批判しづらい病気を理由にして投げ出す(13年ぶり2回目)。それならなんでもっと早く次に託さなかったの?
健康が万全でない状態が続いているにもかかわらず首相の座にかじりついているヤバさを、誰も異常だと思わなかったの?
自分の名誉しか頭にないんだよね、結局。国はお前のオモチャじゃねえぞ。最後の最後まで性根が腐っていたなあ。

「病気でもがんばっていたんだから責めるな」とか言う人は、感情で物事を判断して論理的な思考ができないバカです。


2020.8.27 (Thu.)

いのちの輝き、ですか。2025年大阪万博のロゴマークが決まって、多方面に衝撃を与えておるようで。
僕自身の感想としては、そもそも2025年大阪万博じたいに興味がないので、このロゴマークにも興味がない。
だからあれこれ言いたいという気持ちがぜんぜん起きない。ご勝手にどうぞどうぞ、である。もう本当にそれだけ。
それでも好きか嫌いかだけ言えば、僕はまったく好きではない。話題を喚起することだけを目的としているように思えて。
後世にも通用する本当に優れたデザインを生みだそう! 1970年の桜のロゴマーク(→2013.9.29)を超えよう!
──そんな前向きな気概をまったく感じないので。真剣勝負を最初から捨てている印象。卑屈さしか感じない。

心の底からイヤだなあと思うのが、「話題になったから成功である」という意見だ。これはマジで最悪だ。
この意見、実はロゴマーク自体に対する評価ではない。話題になる/ならないという点だけでの評価なのだ。
つまり、ロゴマークへの価値判断を作品じたいに置くのではなく、周囲の反応に置いている点がとってもズルいのだ。
端的に言えば、「周りが騒いでいるからいい作品だと思う」ということ。お前自身が好きか嫌いか、をスルーしている。
僕はそこに、現代社会の「話題になればそれでいい」という品のなさを感じる。善悪でなく損得で判断する価値観。
話題になっているうちにたくさん売ろう、賞味期限が切れたらハイさようなら、そういう使い捨てのやり口だよね。
目先のことしか考えない本当に品のない世の中になったなあと思う。まあそれを象徴できているデザインではあるよな。


2020.8.26 (Wed.)

黒野耐『「戦争学」概論』。講談社現代新書ということで信頼したオレがバカだった。

この本は、筆者にとって都合のよいように事実をねじ曲げている可能性がある本だ(これと一緒 →2017.6.10)。
いちばんの問題点は、クラウゼヴィッツの『戦争論』に対するズルい評価である。ズルいというか、汚い。
都合のよいときだけ「政治の継続としての戦争」という『戦争論』のフレーズを引用して絶対的に持ち上げるが、
基本的には近現代の犠牲の大きい戦争をもたらした元凶として扱い、殲滅戦思想を強調するものと決めつけている。
このダブルスタンダードがなんともいやらしい。本当にクラウゼヴィッツを理解できているようには感じられないのだ。
「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」んだから、戦争は政治的な目的を達成するために行われる。
そして「戦争とは、敵を強制してわれわれの意志を遂行させるために用いられる暴力行為である」んだから、
意志が通れば戦争は終わる。筆者は個別の戦闘における敵戦闘力の撃滅と、殲滅戦の絶対戦争を、恣意的に混同している。
過去、クラウゼヴィッツを誤読したバカが殲滅戦に躍起になったからって、それはクラウゼヴィッツの責任か?
「筆者もまた、未熟な批判者の一人であるかもしれない」と言い訳をしている姿勢もズルいが、本当にそのとおり。
しかしこれは未熟というよりは筆者の性格の問題だろう。よけいな修飾語が入るこの筆者の表現はいちいち不快だ。
「無能で腐敗した高級将校」「堕落した役人」などの表現があるが、その具体的な事例は出さずに自説を繰り広げる。
「ルーズベルトは、戦後のソ連との協調関係を無邪気に信じていた」なんてのもある。「無邪気に」とかよく言い切るわ。
当時の価値観や当事者の立場ではなく、現代の価値観と政治状況だけで過去を論じる。結果だけを上から目線で語る。
登場する人々が本当は何を考えていたかが見えないし、そもそもきちんと見ようとしていない。あるのは好き嫌いだけだ。
時間が経って歴史の総括者として感情的な言葉で語るから不快なのだ。後出しジャンケンで勝ち誇る種類の幼稚さだ。
(その点、呉座勇一『応仁の乱』は当時の感覚を丁寧に紹介しており、教養を感じさせる。実に対照的だ。→2018.2.21
文章を読むに、なんだか、つねに仮想敵がいないと気が済まないって感じ。誰かが悪くないと安心できない人なのかな。

そもそも「戦争学」と題しているが、内容は主観の入った叙述ばかり。図版も少ないうえにわかりづらい。グラフもなし。
データを挙げて客観的に戦況を説明することが一切ないのに「戦争学」って名乗っちゃうこの本はすげえな、と思う。
本来であれば「地政学」をテーマとしたかったのだろう。しかしそれをやるには国際政治学の知識がまるで足りない。
歴史に対するセンスもない。そこで筆者の専門領域として「戦争学」という言葉を生み出してタイトルにしたと思われる。
でもやはり軍事史についての記述が足りない。テクノロジーの革新による戦術の変化を丁寧に追わなければならないのに、
そこがわからないから現代アメリカの外交戦略を絶対的なものとして、そこからの逆算だけで済ませようとしている。
おそらくこの筆者にとっては、「地政学」=「アメリカの外交戦略」でしかないのだ。恥ずかしいほど視野の狭さだ。
橋爪大三郎『戦争の社会学』(→2016.11.28)とは比較にならない内容の薄さ。しかも感情的なので、どうしょうもない。

中国が嫌いっていう感情だけで先走っちゃうシンプルな人は、この本をふむふむなるほどと読めるのかもしれない。
共産主義者を人間と見るかエイリアンと見るかで、この人は後者。戦時の軍人ならそれでいいかもしれないけど、
それでは済まない人も多いのだ。 経済や倫理とのバランスで政治を考えられるレヴェルにある人は困っちゃうよね。
(僕は中国を共産主義ではなく、官僚制の帝国主義の国と見ていますが。そんでもってロシアはツァーリの専制国家。
 和辻哲郎の『風土』ほどでなくても、国民性をもとにした地政学という視点がまるでないので本当にイライラする。)
また、軍事的にアメリカにつかなければならないのは間違いないが、だからといって政治的にアメリカは信頼できるのか、
そこの視点が完全に抜けている。だけど筆者はそんなの気にしない。軍は悪くないよ、悪いのはぜんぶ政治のせいだよ、
という姿勢が一貫している。でも「軍事を主役にせず政治を主役に」と言うわりに、軍事の視点からの政治批判しかない。
つまりこの本は、軍人にはそのまま政治を任せられないという本質を示している。筆者の態度がその原則を体現している。
結局、政治も歴史もわからないのに戦争を論じようとして、でも政治も歴史も避けられなくて、変な本になっちゃった、
って感じだろうか。なかなか困ったものである。講談社現代新書のレヴェルが落ちているのではないか?と思わせる本。


2020.8.25 (Tue.)

久米田康治『かくしごと』。完結したら読むぜリストに入っていた作品。アニメもチェックしておりました。

アニメとほぼ同時に終わるということで、アニメを見終わってからマンガも全巻一気に読むという形にしてみた。
ちなみにアニメはエンディングが大瀧詠一「君は天然色」なのがまず衝撃。その選曲もさることながら、
マンガ本編をうまく編集して密度の高い内容としている。マンガのコマの間を完全に補完できているアニメ。
唯一残念なのが最終話が駆け足になってしまったこと(コロナの影響という噂を聞いたが本当なのだろうか)。
もう1話分の時間を足して、じっくりと間をとってやってほしかった。でもそれ以外に一切不満のない作品。

さてではマンガ本編について。とにかく、言葉遊びが全開である。キャラクターの名前といい各話タイトルといい、
そもそもこの作品のタイトルも「隠し事」「描く仕事」、さらに「隠し子と」まで織り込んでいるとはびっくりだ。
今まで発揮されてきた久米田氏の各種の才能が、最もきれいに融合して結実している作品なのではないかと思う。
典型的なのが非常に多彩な種類のギャグで、漫画家あるあるを基本に据えながらも、読者に訴えるメタなネタ、
古典的な久米田ギャグも健在だし、うまいこと言うパターンやアンジャッシュ的なすれ違いまでヴァリエーション豊か。
作者のネガティヴ発言がすごく心配になってしまうが、やはり久米田氏は唯一無二の才能の持ち主なのは間違いない 。
アニメに追いついて終わるメディアミックスも斬新。この人でないとできない、ということを今回とことんやっている。
思えば久米田氏は『行け!!南国アイスホッケー部』『ルートパラダイス』からずいぶん絵柄が変化してきたが、
主人公が「〇〇だろ!」と周囲のキャラクターに自分の意見を言うときの感じだけは変わらないなあと思う。
『南国アイスホッケー部』以来の読者としては、その感じが昔ながらの安心感にどこかつながっているのだ。
だからなんというか、確実に引き出しを増やして多彩なギャグを操る一方で、下ネタで楽しませてもらったあの時期を、
自虐的ながらもイジって楽しめる形で肯定していて、漫画家としてのスキルをさらに成長させている凄みを感じる。

それにしてもG-PROの居心地が本当によさそうである。実際に父の日の描写もあるが、こっちももうひとつの家族。
特にアニメではそこの空気感についての描写が絶妙で、こんな面白おかしい職場があったら最高じゃないかと思わせる。
可久士は姫との2人家族で奮闘する一方で、もうひとつの「家族」もしっかり回しているわけだ。それも大きな魅力だ。
アニメではテンポよく編集したせいで十丸院に対する反感が強まってしまったようだが、これは見事なトリックスター。
G-PROの内部に近い外部の人間として暴れまわり、家族としてのG-PROの魅力をうまく引き立ててくれているのだ。

さてそんなG-PROの面々でも、墨田羅砂が最高なんじゃー! これ、作者も実質ヒロイン扱いしているよなあ。
好きな人「私先生」発言、「密会みたいでいいよね」発言、「もしいつか再婚して誰かを家庭に入れるのなら
新キャラは世界観壊さない人選ばないとね」発言などなど、これ狙ってますよね? もう狙ってますよね?
可久士が昏睡から復活すると「作者取材で2週休載」を即決するし、最後の最後でも出てきて仕事場を間借りさせ、
しかもそこで可久士に「幸せだぞ」と言わせているし。こういうヒロインを生み出すとは、久米田氏は底が知れないぜ。


2020.8.24 (Mon.)

ついに新学期が始まってしまった。今日は授業はなく、班に分かれての帰宅訓練が終わるとひたすら会議モード。
会議のない時間帯に授業準備を進めていくが、3学年分の資料づくりは本当につらい。これを今後も延々と続けるのか……。


2020.8.23 (Sun.)

今日が今年の夏休みの最終日。はっきり言って、今年ほどネガティヴな気分で過ごしている最終日はない。
新学期が始まったらやらなければいけない仕事がたっぷりある。やらなくてもいいのだが、当方プライドがありますので。
まあそもそもが、もう英語に向き合いたくない。もはや何ひとつ面白い要素がない。毎日イヤイヤ過ごすのがイヤだ。
旅行で気分転換も、できるようになるんだかならないんだか。気分転換できたとしても、結局それは一瞬の話なので、
いかに日常生活のストレスを軽減できるかが本質的な問題なのだ。うまい具合に自分をだましていく方法を見つけないと。


2020.8.22 (Sat.)

本日は練習試合である。先日の部活ではぜんぜんいいところがなかったが、今日は思ったよりいい内容だったのでヨシ。
守備では相手に前を向かせない粘りを見せる。本音としてはそれを最終ラインではなく中盤からやってほしいのだが、
十分褒められるレヴェルだった。攻撃でもサイドを攻めきってCKを取るシーンがようやく出てきた。得点も奪ったし。
まだまだわざわざ狭い方へ突っ込んでいく悪癖はあるが、サイドチェンジを覚えつつある感じで、感触は悪くはない。
どうにかこの調子でサッカーの質を改善していってほしいものだ。まずは対戦相手から学んでほしいんだけどな。


2020.8.21 (Fri.)

「起きてから何か食べましたか?」
「バリウムだけです」

というわけで健康診断である。消化器検診とふつうの健康診断を一日で一気にやるという強行軍。
午前中の消化器検診では発泡剤とバリウムという苦行。これを考えたやつを○○して△△して××してやりたい。
それくらい相性が悪い。とりあえず、飲む発泡剤の量をこっそり減らすという手を思いついたので覚えておけ、オレ。

午後は健康診断。コロナの関係で担当の方がいちいち消毒ふきふき作業をしなくちゃいけないので本当に大変そうだ。
でもおかげでこれまたひどく苦手な血圧測定で落ち着くだけの余裕ができた。担当の方がまた指示が上手くて、
見事に正常値に。「上手にできました」と褒めていただいたが、むしろこっちが丁重にお礼を返したほどであった。
ふつうに吸ってからゆっくり息を吐くといいらしいので覚えておけ、オレ。


2020.8.20 (Thu.)

本日は夏休み唯一の部活デーである。しかしメイン顧問も外部コーチも来やしねえ。
あさってに練習試合が組まれているので(オレは毎回事後承諾なのだが)、とりあえずミニゲームやっとけと。
で、申し訳ないけど、今まで面倒みてきたチームの中でパスがいちばん雑。受け手のことをまるで考えていない。
パスを受けに動くこともせず見ているだけ。目の前に来たボールに対する反応だけはいい。やっているプレーはそれだけ。
一人でボールを前に蹴ることにしか興味がないとか、まるで小学生。なんかもう、見ていて頭が痛くなってくる。

というわけで、午後は気分転換にマンガ喫茶にこもる。小林有吾『アオアシ』を読んで頭をすっきりさせるのだ。

Jリーグのユースを舞台にしたマンガで、ユースという環境の特異性や高校部活サッカーとの比較などで実に読ませる。
育成のトップを行くユース、というのが面白い。2番手の成長物語という従来のやり口ではなく、王者の内部を描くのだ。
ゆえに出てくる人がみんな天才的である。さらに性格的にも悪人がいないのでストレスフリー(阿久津も含めてだ)。
つまり各キャラクターが実力を出し切れば勝てる設定なのである。なるほど、この視点はなかなか斬新ではないか。
こうなるとケガとの戦いが怖いのだが、そんなリハビリ話が面白くなるはずなどないので、そこは避けていく。賢明だ。
読者は無限の才能を持つ主人公と一緒にメンバーたちの活躍を追っていけばいいのである。強さのインフレの応用だ。
ちなみにキャラクター設定について、この作品は逆説的に『SLAM DUNK』をうまく消化していると見るが、どうだろう。
かなり巧妙に換骨奪胎していると思うし、竹島が坊主にするシーンで間接的な言及がある。ってか、栗林が仙道に見える。

個人的には、監督を目指すご令嬢を登場させる視点が上手いと思う。アシトだけでは不足する理屈の部分をフォローする。
サッカー経験がなくても、さらには女子でも、男子チームの指導者になる、というのはそっち方面の設定としては究極だ。
この究極さをしれっと入れることで、登場人物全員が自分なりに戦っているという構図の幅が劇的に広がっているのだ。
サッカーをやる楽しみと観る楽しみ、主観と客観をこれだけバランスよく混ぜているサッカーマンガはそうそうあるまい。
実際にサッカーをやるとまず技術の部分でつまずくわけだが、ユースの王者という設定でその枷をあっさりと取り払い、
サッカーの考える部分を徹底的に言語化してみせる。ストレスフリーに読ませる工夫と実践、どちらもハイレヴェルだ。

いちおう阿久津について補足すると、彼は悪人なのだが、実際は「教えるのがクソ下手」というアシトの指摘に尽きる。
悪意としてしか発露しえない性格というものを描いておいて、2年生たちはそれを理解したうえで彼を受け入れている。
そこがまた彼らの天才的な部分という表現にもなっている。冨樫もそうだが極端な性格がサッカーを介してつながる、
そういう側面を味つけるためのものでもあるが、その重要性は「もう一人の主人公」といっていいほどのものがある。
キャラクターの悪意を阿久津が一人で背負いこんでいるので大変だが、そのまま「教えるのがクソ下手」でいてほしい。
そうして「教えるのがクソ下手」な読者たちを代表して、不器用に突き進んでほしいものだ。たぶんそうなるだろうけど。
対するわれわれは、阿久津を阿久津のままで受け入れることに価値がある。この作品はそこに気づかせるだけの力がある。
ユースという究極に恵まれた環境と、家庭環境によるハングリー精神との対比・融合がこの作品の真のテーマなのでな。


2020.8.19 (Wed.)

「TOKYO SWEEP!! 23区編」、第5回は港区の続きである。本日まわるのは、お台場と旧赤坂区なのだ。
今回については、最初から自転車だとレインボーブリッジが面倒くさいので、NTTドコモのバイクシェアを利用する。
最初に利用したのは仙台だったが、沖縄や広島でもサーヴィスが展開されてきて、都内でもよく見かけるようになった。
手軽に電動自転車が使えるのはありがたいことです。県庁所在地を中心に広まってくれるとうれしいなあ。

  
L: お台場海浜公園駅。お台場の典型的な光景ということで。  C: アクアシティお台場周辺。左がお台場海浜公園。
R: 後で台場公園から眺めたお台場のスカイライン。それぞれのビルの間に余裕があるのがやはりお台場って感じである。

朝の9時、お台場海浜公園駅にてスタート。まずは都市景観100選ということでお台場周辺の街を走りまわる。
そしてその中心となっているのは、やはりフジテレビということになるだろう。商業施設も充実しているが、
外から見たときのランドマーク性は圧倒的。丹下健三の晩年の作品となっているが、正直うーんって感じだ。
香川県庁舎の新館(今は本館)とファサードがまったく一緒なのである(→2007.10.62007.10.92015.5.3)。
球体展望室でどうにか変化をつけているが、丹下らしいとは到底思えない。バブルの残り香という印象しかない。

  
L: フジテレビ本社ビル。  C: ゆりかもめの高架がどうしても入ってくる。  R: お台場海浜公園から見たフジテレビ。

お台場海浜公園に出てみる。自由の女神がにょっきりと無視できない存在感で立つ。なんで自由の女神なのかと思うが、
これは「日本におけるフランス年事業」でパリから自由の女神像を1年間限定で持ってきていたらそれが好評だったので、
レプリカを恒久的に置くようになった、という経緯がある。フランス政府公認のブロンズ製でかなりの気合いだが、
限定だからよかったんじゃないかと思う。お台場という場所の性格もあって、なんともキッチュな印象になっている。

  
L: お台場の自由の女神。   C: お台場海浜公園から眺めるレインボーブリッジ。  R: そのまま右に行って品川第三台場。

  
L: 錨と鎖のオブジェ。特に何か有名な艦船の錨というわけではないようで残念。  C: 水上バスのりばを眺める。
R: おだいばビーチ。人工的につくられた砂浜で、神津島の砂をもってきたそうだ。やっぱり大腸菌がねえ……。

では、せっかくお台場に来たからには、その地名のもととなった品川台場に行ってみなければなるまい。
ペリー来航で危機感を持った幕府が突貫工事でつくった砲台で、当初は11基を建設する予定だったが完成したのは6基。
そのうち第三台場と第六台場が現存し、第三台場は台場公園として整備されている(第六台場は無人島となっている)。
海岸沿いに自転車をこいでいき、「コ」の字のルートで台場公園に到着する。実際の距離よりもだいぶ遠い感じがする。

  
L: 台場公園(第三台場)へと向かう道。  C: 入口に到着。  R: ヒアリ注意の看板にゲンナリする。わしゃ短パンなのよ。

いざ第三台場探検を開始なのだ。上から見ると正方形をしており、外周は石垣を積んで土手が築かれて高い。
黒松が植えられていてなかなか独特な景観である。いかにも公園らしく小ぎれいに整備されている。

  
L: 土手に上がって第三台場の中に入る。緑の草と黒松という取り合わせで、穏やかな公園らしい雰囲気。
C: 北東の辺から低くなっている内部を見下ろす。  R: 北側にある史跡記念碑とレインボーブリッジ。

  
L,C: 南西にある砲台跡。案内板によると江戸時代のものではないとのこと。  R: かまど場。これも江戸時代のものではない。

石積みの階段で低くなっている中央部に下りていける。開けている部分はいいが、西へ行くとしっかり木々が生い茂り、
短パンに足首までの靴下である自分としては、なかなか度胸のいる環境である。ちなみに台場公園は「品川台場」として、
続日本100名城に選出されている。台場は城じゃねえだろうと呆れてしまうが、それっぽい雰囲気はちょっとある。

  
L: 火薬庫跡。  C: 開放的な東側に比べると、西側は妙に湿っぽい。  R: 礎石が残る陣屋跡。

 
L: 土手に戻って眺める第六台場。  R: 旧防波堤の「鳥の島」。1941年につくられ、お台場との間が貯木場となっていた。

お台場海浜公園駅に戻って自転車を返却すると、ゆりかもめで新橋へと向かう。平日の午前中なので先頭を独占し、
ふだん見慣れない景色を堪能するのであった。高いところから湾岸の景色を眺めるのは実に新鮮。楽しゅうございました。

  
L: レインボーブリッジを通過中。  C: ループから眺めるレインボーブリッジ。2日前に見た場所(→2020.8.17)にオレはいる。
R: 高速道路とビル群の間にあるもっさりとした緑は、浜離宮恩賜庭園である。こちらは5日前に訪れた(→2020..8.14)。

 
L: 終点の新橋駅が見えてきた。15分弱、たいへん楽しい時間だった。  R: ゆりかもめ・新橋駅の最果て光景。

以上で港区めぐりのお台場編は終了。では本日は引き続き、旧赤坂区域を動きまわってやるのだ。

旧赤坂区は現在の港区の北西部となる。あらためてバイクシェアで自転車を借り直し、行動を開始する。
まずは新橋駅から西へ1kmちょっと、日本財団ビルを目指す。NCRビルとしてDOCOMOMO物件になっているのだ。
設計は吉村順三で1962年に竣工。上から見ると、鋭角を切り落とした三角形となっているのが特徴的だ。
2001年に改修されたそうだが、1960年代のオフィスビルらしい雰囲気はギリギリ残っており、新旧入り混じった感触。

  
L: 日本財団ビル(旧:NCRビル)。これは東の赤坂一丁目交差点から見たところ。これが正面ということでいいのかな。
C: 少し近づいて南寄り。三角で横縞なので村野の読売会館(有楽町のビックカメラ)になんとなく似た印象を受ける。
R: 南東側ファサード。日本財団のビルということで1階と2階はオリパラ関連のポスターで埋め尽くされているのであった。

  
L: 南西から見たところ。手前の三会堂ビルが映ってかっこいい模様に見える。これ、狙ってやったのかなあ。
C: 少し角度を変えて三会堂ビルの前から眺めたところ。  R: 北側、特許庁前の交差点から眺める。

そのまま赤坂見附方面へと向かうが、せっかくなのですぐ近くの千代田区にちょっと寄り道。まずは首相官邸。
おそらく東の国会側が正門なんだろうが、今回は港区がテーマなので西の溜池山王側からシャッターを切ってみた。
次は日枝神社の山王鳥居。5年前にいちおう撮っているが(→2015.11.27)、外堀通りを挟んだアングルはなかったはず。

  
L: 首相官邸。  C: 日枝神社の山王鳥居。  R: 赤坂見附に向かって外堀通りを行く。道路の右側は千代田区。

そうして外堀通りを北上して赤坂見附である。赤坂見附っぽい写真を撮ろうとするが首都高と国道246号の高架で遮られ、
何をどうやってもすっきりした絵にならない。とりあえず弁慶橋の写真を撮ってお茶を濁してみるのであった。

 擬宝珠が印象的な弁慶橋。

赤坂見附の交差点から赤坂の中心部へと入っていく。隣が広大な外堀通りであるせいもあって、よけい狭く感じる。
狭くて、起伏があって、騒がしい。曲線的な入り組み方、緩やかな高低差によるドラマ、都会の真ん中にある欲望の街。
その3次元的な迷路空間は、どこか惹きつけるものがある。「赤坂的なるもの」という魅力が、確かにあると思うのだ。
歴史をたどればそもそもすぐそこが溜池で低湿地であり、岡場所があったところだ。明治以降に本格的な花街となる。
なるほど麹町区という当時の東京の中心にへばりつく赤坂は、エアポケットのような存在だったに違いない。
高度経済成長、そしてバブルが弾けても、その頃の猥雑な空気は今も決して消えることのないままで来ている。
潤平がロシアに行き損ねたとき、僕はコージーコーナーでミルクを飲み、赤坂のゲーセンで初めての『ストII』をやり、
ターミナル駅の喧騒とはまた異なる危険な匂いが濃密に漂っていたこの街に、確かに惹かれていたのだよ(→2007.1.14)。

  
L: 一ツ木通りを行く。狭くて起伏があってくねる、いかにも赤坂な光景。これもまた、港区の本来の姿なのだと思う。
C: 赤坂みすじ通り。見事に繁華街である。  R: 赤坂通り、視線の先には日枝神社の山王鳥居。混雑ぶりが赤坂っぽい。

赤坂を北に抜けて国道246号の青山通りを西へ。坂を上って豊川稲荷東京別院で御守を頂戴しようというわけだ。
もちろん本家は豊川の妙厳寺(→2009.12.302014.12.29)。東京の豊川稲荷もモゲメンバーと一度訪れているが、
おみくじの内容がたいへん辛口というイメージしかない(→2005.6.5)。あらためてきちんと参拝するのである。
なお、なぜ別院が港区にあるのかというと、大岡越前守忠相が勧請して自邸で祀ったのがきっかけとのこと。

  
L: 豊川稲荷東京別院の山門。ずいぶんと窮屈な印象だが、これは1964年の東京オリンピックで青山通りが拡張された影響。
C: 参道を進んで右に曲がると本殿。  R: すぐ隣が奥の院。稲荷系の独特さと相俟って、たいへん個性的な空間である。

さらに西へ行って、港区赤坂区民センター。港区の教員だった頃には英語関連のイヴェントで年に一度は来たものだ。
実はこちらが旧赤坂区役所のあった場所なのだ。複合施設となっているが、現在も役所であるのは矜持を感じるところ。

  
L: 港区赤坂区民センター。1995年に竣工、設計は類設計室であるようだ。事務所・ホール・区民住宅が一体化。
C: 青山通りをそのまま西に移動して眺める。  R: 敷地は三角形となっている。これは北西側から見たところ。

この辺りの青山通り北半分はずっと、赤坂御用地の裏という感じである。迎賓館赤坂離宮(→2017.9.2)も旧赤坂区だ。
そうして青山一丁目の交差点まで行くと、Honda青山ビル。本田技研工業の本社が入るビルだが、実に印象的な建物。
設計は椎名政夫建築設計事務所と石本建築事務所のJVが中心となって進めたようで、1985年に竣工している。
個人的には空冷エンジンのフィン(ひだひだ)をミニマルにしていってあのデザインと思っていて、さすがホンダと思う。

  
L: 国道246号の青山通りを行く。しばらく右手に赤坂御用地の緑、左手にオフィスビルという光景が続く。
C: 赤坂区民センターの少し西には高橋是清翁記念公園。高橋是清の邸宅跡で、二・二六事件の現場のひとつ。

R: Honda青山ビル。初めて見たときは見惚れてしまった。これ絶対にエンジンがデザインソースだと思う。

  
L: 明治神宮外苑のイチョウ並木。奥には聖徳記念絵画館(→2017.9.2)。この並木道までが港区である。
C: 外苑前から表参道へ。この辺はいかにも小洒落た都会空間で、個人的にはどうも好きになれない。
R: 表参道の交差点から原宿方向を眺める。もともとはもちろん明治神宮の表参道で、きちんと石灯籠がある。

さらに表参道の交差点に進んでから南に入る。DOCOMOMO物件のフロム・ファーストビルを見てやるのだ。
山下和正の設計で1975年に竣工。最初っからファッションやブランド方面に特化した商業ビルとして建てられており、
表参道駅周辺が今でも強烈なオサレ空間になるきっかけをつくったビルである。正直、個人的には苦手なタイプ。
実際に見てみると、とにかくその形状の複雑さに驚いた。スキップフロアを多用して秘密基地感を演出している。
本来段差のないところに段差をつくって視線を立体的に交差させるのだ。これが商業の演出としてきれいにハマる。
直感的に、このフロム・ファーストビルの成功が、1980年代以降の渋谷におけるパルコ的盛り場(→2004.12.2)に、
大きなヒントを与えたのではないかと思った。これこそ高度経済成長の終盤とバブルをつなぐ物的証拠ではないか。

  
L: まずは北西。街路樹が邪魔になってファサードがよくわからないが、これもまた期待させる演出なのであろう。
C: エントランス。左から階段を下りて入る。  R: そのまま東へ。洗練されきっていない「FROM-1st」はもはや伝統の印象。

  
L: 東から見たところ。形状としては間違いなくポストモダンだが、矩形の構成要素と茶色のレンガ貼りはモダンそのもの。
C: 南東側。  R: 階段を外に出すのではなく、引っ込める。連続する踊り場はまさにスキップフロアの視線をもたらす。

  
L: 裏の南側にまわり込む。  C,R: しかし今もまったく古びていないのがすごい。大切にされているんだなあと感心する。

本当はここから根津美術館へとなだれ込みたかったのだが、コロナのせいで臨時休館中となっていた。
日本やアジアの古い美術品に強いという話なので、ぜひとも訪れてみたいものだ。果たしていつになるやら。

 扉をかたく閉ざしている根津美術館。アイシャルリターン。

しかし南に行った岡本太郎記念館は開館中なので突撃する。岡本太郎の自宅兼アトリエがそのまま記念館になっている。
なお、川崎市岡本太郎美術館(→2017.6.2)は岡本太郎が作品を寄贈したことがきっかけで、没後の1999年にオープン。
なぜ川崎市なのかはわからん。広いあちらと比べて、こちらは自宅兼アトリエだしたいへん密度が高い印象。実に濃ゆい。
特筆すべきはサロンに置かれている岡本太郎の人形だろう。なんと太郎本人がシリコンに埋まってつくったんだと。

  
L: 岡本太郎記念館。マンションや商業ビルに囲まれる中、かつての東京の住宅感が維持されている貴重な空間である。
C: 建物は坂倉準三の設計。  R: 庭がまたすごい。バショウなどの草木が全力で生い茂る。座ることを拒否する椅子もある。

中に入ると岡本太郎の強烈な個性を直接的に実感できる。最もプライヴェイトな空間に強制的に引き込まれるわけだから、
純度がすごい。太郎の脳内を体験するようだ。しかし美術館の作品がエネルギーを放射・吸収する強度だったのに対し、
記念館はどこか優しい雰囲気なのが印象的だ。なんだかんだで太郎本人に歓迎されているような気分になるのである。
岡本太郎の芸術は多分に挑発的だが、その根底には「踊らにゃ損々」「Shall we dance?」な精神が間違いなくあって、
乗ってきた者には無限の愛情というか共感がもたらされた(と思う)。それを肌で感じられる空間となっているのが凄い。

  
L: 庭に面するサロンでは岡本太郎の人形がお出迎え。これ、生前の当人を顕彰するうえで、ものすごく重要なことだと思う。
C: 反対側に並ぶ作品。純度がすごい。  R: アトリエ。太郎の存命中とまったく変わらない状態になっているとのこと。

  
L: 西側の展示棟は記念館として新たに建てられたものだが、適度な住宅感があってしかもオシャレ。非常にいいバランス感覚。
C,R: 展示室内。作品は美術館の方に任せている感じで、こちらでは岡本太郎という人をクローズアップする内容になっている。

お土産に『座ることを拒否する椅子』を水玉模様のように配置したハンカチを購入(川崎でも買ったのでこっちは予備)。
ホクホクいい気分になったところで時刻はお昼、腹が減った。どうすべえかと思いつつ青山霊園方面に向かっていくと、
かおたんラーメンを発見したのであった。前から気になっていて、これはいい機会ということでお邪魔するのであった。

 
L: なんともインパクトのある店の外観。おそらく港区になる前の赤坂区はこんな建物が多かったのだろうなあと思う。
R: 「かおたん」は漢字で「高湯」と書く。 「中国福建省の高級スープ」とあるが、非常にあっさりでかなり好みの味だった。

これでエネルギーがばっちり充填できた。これで青山霊園も怖くないのである。まあ真昼間なので元から怖くないが。
3年前に勤務校の地域行事で夜通し都内を歩くという狂気の沙汰のイヴェントで丑三つ時に中を歩いたが(→2017.11.26)、
怖いことは怖かったけど意識が半ば朦朧としていたので霊を感じるはずもなく、何ごともなく通過したのを思いだす。
まあ別に面白半分で訪れるわけではなく、旧赤坂区域のはずせない有名な場所ということで青山霊園に来たわけだから、
堂々としていればいいのである。なお、「青山」の地名は丹波篠山の大名・青山家(→2012.2.25)の下屋敷に由来する。
「人間到る処青山有り」とは関係なく、たまたま。ここに霊園があるのはかつての東京市がコンパクトだった証拠だろう。

  
L: では青山霊園にお邪魔するのだ。  C: 青山墓地中央の交差点。3年前、真夜中にここを歩かされたなあ……。
R: 霊園内。大都会の真ん中に明治からの墓地空間がそのまま残っていて、なんとも不思議なタイムスリップ気分。

東の乃木坂方面へ抜けて乃木神社へ。4年前にも参拝しているが(→2016.8.4)、御守チェックということで寄る。
特に目新しい要素はないのであった。しかしコロナの状況でも神社はきちんとやっているのでありがたい。

  
L: 正面から見た乃木神社の境内入口。  C: 前回にない写真ということで、末社の赤坂王子稲荷神社。  R: 授与所と拝殿。

今日は旧赤坂区がテーマということで、代表する神社である赤坂氷川神社を再訪問。こちらは5年ぶりだ(→2015.4.2)。
港区というと坂が多いことで知られるが、特にこの赤坂氷川神社近辺の起伏の激しさはかなりのもの。あらためて実感。
緑が生い茂りどこか湿り気を感じさせる境内は、そういう江戸時代の「赤坂」、いや本来の「赤坂的なるもの」を、
今にしっかりと伝える場所であるように感じる。近代と資本主義に覆われているが、起伏の下にはカオスが潜んでいる。

  
L: 大いに湿り気を感じさせる赤坂氷川神社の境内。この土着的な感じこそ、本来の赤坂の姿なのではないか。
C: 拝殿。5年前にも撮っているけどやっぱり無視できない。  R: 5年前には撮らなかった本殿を覗き込む。

旧赤坂区めぐりを赤坂氷川神社で締めるのは非常にいい形だったのではないか。次回、港区のラストは麻布だぜ。


2020.8.18 (Tue.)

マンガを電子書籍に移行できないかと企んだのだが、どのサーヴィスがいいのか非常に迷う。
もはや追いかけているマンガがほとんどないため月極め読み放題が理想だが、世の中そんなに甘くなくて、
読み放題の対象となっているのはだいたいが古いマンガとのこと。まあそれはそれで楽しめそうではあるが。
すでに持っているマンガを買い取って電子化の足しにできるものがあれば最高だが、さすがにそれは無理か。
何もサーヴィスをひとつに絞る必要はなく、マンガの特性に応じて使い分ければいいのか、とも思う。
いちばんの問題は、じっくりマンガを読んでいる暇がないことなんですけどね! 日記がー


2020.8.17 (Mon.)

「TOKYO SWEEP!! 23区編」、第4回は港区である。が、港区はあまりに広い。なのでこれまた旧15区にもとづき分ける。
港区は、東の芝区・北西の赤坂区・南西の麻布区が合併して成立した。この中で最も広い旧芝区が本日のテーマなのだ。
しかし旧芝区だけでもアホみたいに広く、それだけで一日仕事である。しかもお台場なんて飛び地まであるし……。
申し訳ないけど交通の関係から、お台場についてはまた今度。がんばって港南・芝浦まではまわるので許してください。

スタート地点は八ツ山である。僕は混同していたが、実際には御殿山と八ツ山は別物なのだ。八ツ山は港区の最南端で、
旧岩崎家高輪別邸である三菱・開東閣が現存する。御殿山はその南側で品川区になる。英国公使館焼き討ち事件の場所で、
つまりは品川宿とともに『幕末太陽傳』(→2005.10.222012.1.9)の舞台というわけだ。品川区についてはまた後日。
(山手線の内側、目黒駅から品川駅にかけての島津山・池田山・花房山・御殿山・八ツ山を「城南五山」と総称する。)
というわけで、三菱・開東閣のある旧八ツ山を眺めてからのスタートだ。ここからまずはいったん品川駅の東側に出る。

  
L: 三菱・開東閣の門。  C: 新八ツ山橋交差点から眺める。こうして見ると、いかにも八ツ山の名残という感じである。
R: 八ツ山橋。現在の橋は1985年に架け替えられた4代目。『ゴジラ』(→2014.7.11)でゴジラが上陸した地点とのこと。

品川駅の東側にはこれといった観光名所もないため、軽くサイクリングで済ます。東京海洋大学(旧東京水産大学)、
あとは芝浦周辺をうろついたり、レインボーブリッジを眺めるくらいしかないかなあと。気楽にシャッターを切る。

  
L: 東京海洋大学。ワークショップ研修以来だ(→2016.7.26)。水産資料館はぜひもう一度見学したい(現在はコロナで休館中)。
C: レインボーブリッジのループを眺める。この角度から眺めることはあまりないのでは。展望向けに整備してもいいんじゃないかなあ。
R: 芝浦に架かる渚橋にて。東京モノレールの高架と漁船と乗り物いっぱい。対岸には屋形船まである。マンションとの対比も東京だ。

芝浦から田町駅へ。すぐ左手が東京工業大学附属科学技術高等学校。東工大の受験をここでやった人がいたっけ。
工業高校なのか何なのか正直よくわからん学校。ちなみに文化祭は「弟燕祭」。東工大の附属って意識が強いんだなあ。

 東京工業大学附属科学技術高等学校。正直よくわからん。

自転車だと品川駅の東西を抜けるのが非常に面倒くさいので、ここで山手線の内側に戻る。札の辻から国道15号を南下。
都営浅草線・泉岳寺駅の北口付近にあるのが高輪大木戸跡。東海道で江戸に出入りする際のポイントとなった場所だ。
大木戸はほかに甲州街道の四谷大木戸もあったが、そっちは1792(寛政4)年にすでに撤去されてしまったそうだ。

  
L: 高輪大木戸跡。  C: 横から見た石垣。  R: 北から見たところ。遺構が残っていることから東海道の重要性がわかる。

そこから少し南に行くと、高輪ゲートウェイ駅。山手線なのにクソバカ駅名ということで批判の集中砲火を浴びたものの、
JR東日本はどこ吹く風でそのクソバカ駅名のまま開業。周辺はまだ開発も進んでおらず、祝福されていない感触が切ない。

  
L: 高輪ゲートウェイ駅。歓迎されない駅というのは悲しいものだ。高輪でも芝浦でもいいので、名前変えませんかねえ?
C: 夜行バス利用者にはおなじみの京急の品川バスターミナル。高輪ゲートウェイ駅が最寄となったが、周辺に何もないのがつらい。
R: 品川駅まで戻ってみた。港区だけど品川駅。個人的には地下鉄がないので利便性が低いと感じる。品達品川が閉まったのも痛い。

ではあらためて国道15号を北上するのだ。こちとら自転車だから左側通行をきちんとやっているってわけです。
先ほどの高輪ゲートウェイ駅から見て真西に位置するのが、高輪神社。その名のとおり、高輪一帯の総鎮守である。

  
L: 高輪神社。ビルの合間でちょっとわかりづらい。  C: 拝殿。境内に入るとさすがに立派である。
R: 角度を変えて眺める。高輪神社は稲荷神社としてスタートし、八幡神と猿田彦を合祀して今に至る。

泉岳寺駅まで戻ると、西に入って泉岳寺。泉岳寺といえばなんといっても赤穂浪士の墓があることで有名だ。
今まできちんと参拝したことがなかったので、きちんとお墓参りをするのだ。まずは山門に圧倒される。

  
L: 中門。泉岳寺というアピールがなく「高輪中学校・高等学校」の看板の方が目立つので、ちょっと戸惑った。
C: 泉岳寺山門。1832(天保3)年の築。  R: 境内はこんな感じ。港区の丘にこれだけの規模とはさすがである。

本堂にお参りした後、南側に離れてある赤穂義士墓地へ。石段を上ると線香を200円で売っており、せっかくなので購入。
竹製の器にたっぷり並んで、47本の倍くらいありそう。しょうがないので、まず四十七士に公平に1本ずつ置いていく。
炎天下、途中で「オレは何をやっておるのだろう」と思わないでもなかったが、きちんと線香をお供え完了する。
討ち入りを果たせなかった萱野三平の墓もあるので、これで48本。それでも余るので、リーダーとその息子を多めに足し、
それでも余るので浅野内匠頭長矩の墓とその家族の墓にもお供え。意地で線香を供えきったのであった。変に疲れた。

  
L: 本堂。  C: 赤穂義士墓地はまず手前側に浅野家の墓。こちらは内匠頭長矩の墓。  R: 赤穂義士墓地はこんな感じ。

ちなみに赤穂義士墓地へ至る石段の途中には吉良上野介の首級を洗ったという「首洗い井戸」があるが、
その玉垣には「川上音二郎建之」の文字が刻まれていた。新派なのに『忠臣蔵』とは面白い。オッペケペー。

  
L: 四十七士&萱野三平の墓はこんな感じで並んでいる。切腹しなかった寺坂吉右衛門以外、戒名が「刃」で始まる。
C: リーダー・大石内蔵助良雄の墓。  R: リーダーの息子で最年少で裏門の大将だった大内主税良金の墓。

泉岳寺の御守は赤穂浪士の関係もあってか、大石内蔵助の信仰した摩利支天による勝守が基本であるとのこと。
頂戴すると高輪消防署二本榎出張所を目指してペダルをこぐが、この辺りの坂道の激しいことといったらない。
道幅の狭さといい急勾配といい、江戸時代の地割がそのまま残っている。これはかなり強烈な空間体験だった。

 高輪消防署二本榎出張所。設計は警視庁総監会計営繕係の越知操で、1933年竣工。

しばらくそのまま二本榎通りを北上し、伊皿子交差点から再び国道15号へ。次の目的地は御田八幡神社である。
国道15号を北から行くと隣のビルにでっかく名前が出ているのでよくわかる。南からだとどうしょうもないが。

  
L: 御田八幡神社の隣のビルにでっかく名前が出ている。  C: 御田八幡神社の境内入口。  R: 拝殿。

御田八幡神社の境内を奥へ進むと階段を上って亀塚公園となる。しかし公園に比べて一段低い御田八幡神社は、
不思議とかなり湿り気の強い場所なのだ。本殿を覗き込むと、鬱蒼と茂る木々にどこか妖しげな感触をおぼえる。
前に職場体験のルートとして歩いたことがあるのだが(→2015.9.18)、そのときもここは非常に印象的だった。
Wikipediaによればかつては芝浦越しに江戸湾を眺め、周囲の木々の剪定は最低限とのこと。往時の雰囲気が残るのだ。

 
L: 境内奥の五光稲荷神社・御嶽神社。一体化した独特なデザイン。  R: 本殿。近代以前の雰囲気がよく残る。

さて、札の辻へと戻る途中、聖坂にとんでもない建物があるのが視界に飛び込んでくる。これはぜひ確かめないと!
ということで、ちょうど次の目的地も聖坂なので、がんばって坂道を上っていくと、それは「クウェート大使館」だった。

  
L: 国道から見たクウェート大使館。  C: 札の辻交差点の工事現場越しに眺めるクウェート大使館。これはすごい。
R: 聖坂を突撃してみました。クウェート大使館は港区立三田中学校の敷地に囲まれながら独自のオーラを放っている。

クウェート大使館。この建築について事前にきちんと知らなかった僕が恥ずかしいのである。設計はあの丹下健三だ。
言われてみれば、なるほど今治の作品群(→2015.5.6)に近い匂いを感じる。ただそれらが1950~60年代なのに対し、
こちらは1970年の竣工だ。その分だけ、アヴァンギャルドさが増している。ポストモダンの匂いがするモダニズム、か。
これ以降の丹下は国内から海外(特に中東)へと活動の軸を移していくのだが、それを示唆する作品というわけだ。
なお、近くには蟻鱒鳶ル(「ありますとんびる」と読む)がある。周囲からの浮きっぷりがすごい。完成は遠そうだ。
その斜向かいに普連土学園。キリスト教フレンド派の学校だ。肝心の本体は奥まったところにあるので、そちらへ向かう。

  
L: クウェート大使館を南側から眺める。耐震強度に問題があり改築が予定されているらしいが、この傑作は壊せないわなあ。
C: 蟻鱒鳶ル。建築系の美術展で見かけたことがあったが、いざ実物を目にするとその違和感に驚く。周囲と比べて小さいし。
R: 普連土学園の聖坂に面している側の建物。これはDOCOMOMO物件ではないと思うが、デザイン的に統一させている。

というわけで、DOCOMOMO物件としての普連土学園を見てみるのだ。しかし僕には大きな不安があった。
私立の学校である。女子校である。そんなもん、どう考えたって自由に撮影させてくれるはずがないのである。
しかもこっちは半袖半ズボンで自転車にまたがったおっさんなのだ。カメラを構えれば不審者にしか見えないはずで。
それでも撮れる範囲で撮って、建物の概要をつかみたいなあと思いつつペダルをこいで坂を上がっていく。
すると右手に曲がってさっそく警備員の方とバッチリ目が合ったのであった。「建物の撮影……いいですか?」
それに対する答えは、僕の不安を完全にかき消すものだった。「今は生徒がいませんからどうぞどうぞ」と。
しかも警備員の方は、敷地内の少し高いところから眺める構図がいいですよと案内までしてくださった。
いや、これはなんという理解。「フレンド」の名にたがわぬ寛容さ。やはり建物目当てに来訪者がいるようで、
学校側がきちんとわかってくれているのだ。むしろ建物を通して名を知ってもらおうという前向きさを感じる。
いやもう本当にありがとうございました。こういう親切な対応を通じて学校の雰囲気の良さがうかがえるものです。

  
L: 潮見坂から見た普連土学園の校舎。大江宏の設計で1968年の竣工。大江の法政大学(→2018.8.2)は本当に傑作だと思う。
C: 正面より見た中学校舎。  R: 警備員の方オススメの角度による中学校舎。なるほどこれだと建物の面白さがよくわかる。

丁重にお礼を言って普連土学園を後にすると、せっかくなので慶應義塾大学も外から眺めておく。特に興味はないが。

 
L: 慶應義塾大学を正門から眺めたところ。  R: こちらは東門というか東館というか。

慶應義塾大学の脇にあるのが、三田春日神社。由緒はけっこう古く、958(天徳2)年に武蔵国の国司・藤原正房が勧請。
境内は小さいが、むしろコンパクトな公園のような雰囲気となっており、落ち着いて休憩できる場所という印象。

  
L: 三田春日神社の入口。  C: 石段を上ると拝殿。  R: 拝殿脇は公園みたいな雰囲気。奥に本殿。

少し北上してから、綱の手引き坂を西へ上がっていく。港区は坂が多いが、その中でも特に個性的な名前の坂だ。
「綱」とは源頼光四天王の筆頭・渡辺綱のこと。摂津国一宮・坐摩神社(→2013.9.28)は渡辺姓発祥の地とされるが、
その元祖が渡辺綱だ。茨木童子という鬼の腕を切り落とし、以来渡辺さんは節分でも「鬼は外」と言う必要がないそうで。
さてそんな綱の手引き坂には目立つ建築がある。北側にはかんぽ生命保険東京サービスセンター(旧逓信省簡易保険局)。
1929年築の震災復興建築だが、1920年代らしい合理的な装飾が非常に特徴的。ただしすでに解体工事が進んでおり、
正面部分だけを残して見事に消えていた。両腕のないトルソーみたい。まあなんとかうまくリニューアルしてほしい。
対する南側には綱町三井倶楽部。一般公開されていないので、敷地に入らない形でどうにか撮影してみた。

  
L: かんぽ生命保険東京サービスセンター(旧逓信省簡易保険局)。今後いったいどうなるのか。この正面部分は残るようだが。
C: 綱町三井倶楽部。  R: 反対側から。ジョサイア=コンドルの設計で1913(大正2)年に竣工。現役の「倶楽部」とはすごい。

交差点から北へ下ると神明坂。この通りはその名のとおり、天祖神社こと元神明宮の参道となっているのだ。
この神社がまたなかなか強烈で、社殿はがっちりコンクリート造。しかしその中に木造の拝殿が収まっている。

  
L: 神明坂をまっすぐ下ると天祖神社・元神明宮の境内にぶつかる。  C: 石段を上るとこの建物。周りはふつうの神社なのだが。
R: 脇の階段を上がって2階に拝殿。コンクリートはどうやら覆屋となっているようで、中にはこのように木造の拝殿がある。

 坂を下って天祖神社・元神明宮の背面を振り返る。これまた強烈な造形である。

そのまま古川を越えると東麻布で旧麻布区である。しかしあくまで本日のテーマは旧芝区なのだ。少し東へ移動して、
それから古川の北へと入ると、そこは芝公園。いよいよ本格的に芝に来たぜ、という感覚になる。花のお江戸の南側。
ではまずはとりあえず、DOCOMOMO物件でもある東京タワーを目指すとしよう。正式名称はもちろん「日本電波塔」。
タワー建築の第一人者・内藤多仲が日建設計とタッグを組んで設計し、1958年に竣工。スカイツリー開業後も人気は健在。
今回は上っていないが、15年近く前に男ふたりで東京タワーから夜景を眺めたときのログはこちら(→2007.3.13)。

  
L: 南西側から見上げる。  C: さらに近づいて見上げる。  R: 南東側から見た下のビル。こちらもまたモダン。

  
L: 東側から見た塔脚とビル。こうして眺めていると怪獣映画を見ているような、スケール感が狂った気分になってくる。
C: 見上げると色のバランスのせいか、非常にウルトラマンっぽい。ウルトラマンの身長は40mなんでだいぶ差はあるが。
R: 北東側から見たビル。タワーのおもりとして設計されているとのこと。現在は『ONE PIECE』の施設も入っているそうで。

  
L: 北西側から見たビル。なかなかに昭和。  C: そこから見上げる。やはり鉄骨構造体としての美しさは群を抜くなあ。
R: 東京タワー下の交差点付近から見たところ。芝公園は木々が多いので、すっきり足元を見渡せないのは残念である。

さて突然ですが、ここで東京で初めてつくられた公園5ヶ所をめぐる企画の第4回である(2年ぶり4回目)。
第1回が深川公園(→2002.8.25)、第2回が飛鳥山公園(→2002.8.31)、2年前の日比谷公園が第3回(→2018.8.2)。
結局、この企画が長いこと頓挫していたのは、芝公園がややこしかったせいなのだ。どうまとめるか思案しているうち、
16年の時間が経ってしまって、新たに23区をまわる企画をおっぱじめたのだ。というわけで、芝公園について整理。
芝公園は上述のように、「東京で初めてつくられた公園のひとつ」だが、現状、非常に複雑な状況になっている。
というのも、公園としては都立公園と区立公園に分かれており、さらに港区の公式な地名にもなっているからだ。
いったい「芝公園」とは本来何なのか。結論から言うと、「増上寺の敷地だったものが公園化された領域」である。
もともと徳川将軍家の菩提寺である増上寺は広大な敷地を有していたが、明治の上知令と廃仏毀釈により境内が縮小され、
ど真ん中の部分を残して周囲は1873(明治6)年の太政官布告によって芝公園として整備されることとなったのだ。
やがて公園内に公共施設やホテルなどが建設されていき、それ以外の部分が緑地として扱われている感じになっている。
というわけで、都立芝公園は明確な公園というよりは、「建物の建っていない緑地エリア」というのが実態なのだ。
それがややこしさの理由。なお、港区立の芝公園は、増上寺と芝東照宮の間にある芝生を中心とした開放的なエリア。

  
L: 芝公園・東京タワーの東側。  C: 芝東照宮の南にある梅園付近。芝公園駅はこの辺り。  R: 港区役所の西側。

大雑把にまとめたところで、芝東照宮にお参りするのだ。目の前をよく通ったけど、きちんと参拝するのは初めて。
芝公園は木々が多く起伏もあるので、どこか湿り気のある土地だ。もともとお寺の境内だったこともあるかもしれない。
芝東照宮は、芝公園の中でもその湿り気が特にピークと言える印象。木々が元気に生い茂る境内は独特な雰囲気がある。

  
L: 芝東照宮の境内入口。参拝は初めてだ。  C: 参道を行く。両脇がふつうに駐車場として使われている野放し感がなんとも。
R: 拝殿。芝東照宮は日光・久能山・上野と並ぶ四大東照宮に数えられている。思ったとおり、明治に増上寺から分離して独立。

芝東照宮への参拝を終えると、北上して増上寺へ。さっきも書いたが、両者の間にあるのが港区立芝公園。
都立芝公園が全体的に木々が生い茂っているだけという印象なのに対し、このエリアは気合いを入れて整備してある。

  
L: 港区立芝公園。開放的な公園で、東京タワーを眺めるのに最適。  C: 芝生から眺める東京タワー。いい感じである。
R: 旧台徳院霊廟惣門。港区立芝公園に隣接し、増上寺のかつての広さを感じさせる。1632(寛永9)年築で、国指定重要文化財。

増上寺に到着。丁字路のギリギリいっぱいにそびえる山門(三解脱門)が、本当にものすごいインパクトを与える。
かなり広い範囲が芝公園になったとはいえ、現在の境内でもそれなりにきちんと広い。トボトボ歩いて大殿で参拝。

  
L: 丁字路に面して絶大な存在感を示す増上寺三解脱門。1622(元和8)年の築ということで、家光の時代の建築。
C: 門をくぐって眺める大殿と東京タワー。  R: 大殿の北にある安国殿。ちなみに旧安国殿が現在の芝東照宮である。

さて、増上寺は徳川将軍家の菩提寺ということで、安国殿の脇から奥へと入っていき、徳川将軍家墓所にお邪魔する。
こちらは有料で拝観可能。かつては見事な霊廟(御霊屋、おたまや)があったのだが、空襲により焼失してしまった。
現在は石造や銅造の宝塔が並ぶ形となっている。将軍は6人分で、秀忠・家宣・家継・家重・家慶・家茂という面々。

  
L: 徳川将軍家墓所の鋳抜門。かなりの迫力。  C: 宝塔はこんな感じで並んでいる。やはり独特な雰囲気である。
R: 旧崇源院宝塔。もともとは秀忠夫人・崇源院の墓だが、秀忠の宝塔が焼失したので合祀され、夫妻の墓となっている。

増上寺の御守は安国殿で頂戴するのだが、家康が天下人ということで「勝運」の御守が標準となっているようだ。
ちなみに増上寺では2020年限定ということでオリンピック仕様の5色の勝運守(2020の刺繍あり)を用意していたが、
肝心のオリンピックはコロナで延期……。御守が不良債権化してしまうとは、御守マニアとして残念である。

  
L: 2020年限定・オリンピック仕様の5色の勝運守のポスター。オリンピックは嫌いだが、発想は嫌いではない。残念である。
C: 芝大門の交差点にある増上寺大門(旧総門)。所有者不明でモメていたが、東京市が建てたもので増上寺に譲渡されたとのこと。
R: 有章院霊廟二天門。戦災を免れた第7代将軍・家継の霊廟の門で、日比谷通りに面する。残ったのはこの門だけで本当に切ない。

芝公園の端っこに隣接するのが港区役所である。厳密に言うとここは芝公園6号地なので、もともと芝公園の範囲内だが。
さてこの港区役所こそ、15区時代の旧芝区役所である。現在の建物は1987年竣工。週末や休日に改修工事を進めていて、
それが昨年3月に完了したとのこと。港区の規模から考えるとずいぶんと小さいイメージである。まだこれでいくのね。

  
L: 港区役所。  C: 正面から見たところ。  R: おそらく旧芝区役所時代から敷地の広さが変わらないんだろうなあ。

港区役所というと個人的にはイヤな思い出しかない……本当にヘドが出そうなほどイヤな思い出しかないのだが、
それはそれとして淡々と撮影していく。なお前も書いたが、港区議会は道を挟んだ南隣のビルである(→2007.6.20)。

 
L: 南東側から眺めた裏側。表と変わらない。  R: お隣、港区議会のエントランス。

芝大門を抜け、芝大神宮に参拝しておく。東京十社ということで前にも参拝したことはあるが(→2015.1.18)、
芝エリアでは絶対にはずせない規模の神社なのであらためて訪問。しっかりと神明造でさすがだなあと思う。

  
L: 芝大神宮。  C: 拝殿。  R: 角度を変えて眺める。都会の神社なので境内に余裕がない。でもさすがに立派。

さてここからいったん西へ。思い出の地にちょっと寄ることにしよう。それは、芝給水所公園だ。通称「芝給」。
給水所の上を人工芝のサッカー場として整備した公園なのだ。4~7年前には夏休みにここで部活をしたものよ。
9月には港区中学生サッカー大会(通称:オランダ杯)の舞台となる。隣がオランダ大使館なのでそんな感じ。

  
L: 東京都水道局芝給水所。左の上の部分がサッカー場。  C: 改築前の給水所の一部をレリーフ的に残した部分。
R: 芝給の向かいは幸稲荷神社。稲荷神社だけど伊弉冉命(イザナミ)が祭神として倉稲魂命より先に記載されている。

神谷町の交差点からちょっと戻って西久保八幡神社へ。「西久保」とは麻布と愛宕山に挟まれた窪地ということ。
こちらは現在、社殿を新たに造営している真っ最中。仮殿が完全なるプレハブで、それはそれで面白いなあと思う。

  
L: 西久保八幡神社の境内入口。  C: 石段を上ると、そこは工事現場だった。  R: こちらの仮殿で二礼二拍手一礼。

北に戻るとトンネルを抜けて東へ。そう、愛宕山をブチ抜いた愛宕隧道である。愛宕山は標高25.7mであり、
人工ではない自然の山としては23区の最高峰である(ただし武蔵野台地の方が高くて最高点は練馬区南西端の58m)。

 東から見た愛宕隧道。1930年にできたそうだ。

というわけで、その愛宕山の山頂に鎮座する愛宕神社に参拝するのだ。江戸の街の防火を祈願すべく、
1603(慶長8)年に徳川家康が京都の愛宕神社(→2015.7.25)から勧請して創建。なんといっても有名なのが、
山の高さをそのまま生かした参道の石段である。3代将軍・家光が増上寺に参詣した帰りに山頂に咲く梅の花を見て、
「誰か枝を取ってこいや。馬で。」とパワハラ全開。みんなが躊躇する中、丸亀藩士の曲垣平九郎だけが石段に挑み、
見事に往復に成功したので家光は褒め称えたとさ。以来、この石段は「出世の石段」と呼ばれているのである。
僕も出世すれば他県の高校の教員に採用されますかね。さすがに自転車で往復は無理なので、徒歩で石段を上る。

  
L: 愛宕神社の表参道。  C: 鳥居をくぐると「出世の石段」。踏面はやや狭めで、確かに馬で行くのは非常につらい。
R: 頂上から見下ろした石段。真ん中にあるのが手すりではなく鎖ということで、やはり登山なんだなあと思う。

愛宕神社は最近になって社務所をリニューアルしたのか、置いてあるものがどれも非常にオシャレ。
さすが港区のど真ん中にある神社だけあって、デザイン的な工夫を感じさせる。女子受けしそうだなあ。

  
L: 石段からまっすぐ行くと境内はこんな感じ。  C: 拝殿。  R: 社務所(授与所)。オシャレな工夫がなされている。

境内には池があって、山頂なのによくまあ、と驚いた。全体的に緑が多いのだが、それは整備されたというよりは、
昔から愛宕山にあったものが今も残っている感触。御田八幡神社・芝東照宮と同じく江戸期以来の湿り気を感じるのだ。
周囲はすっかりオフィスビルだらけとなっているが、かつての空気を感じられる点でも貴重ないい場所だと思う。

  
L: 池。すぐ脇には弁財天社。  C: 境内にある三等三角点。  R: 曲垣平九郎の顔ハメを発見。僕も出世したいものです。

愛宕神社から虎ノ門ヒルズの前に出ると、そのまま環二通りを東へ。西へ東へ忙しいなあ。走りやすいからいいけど。
この道と国道15号との交差点にあるのが、日比谷神社。その名のとおりもともとは日比谷公園の大塚山にあったそうだが、
江戸城の拡張を受けて東新橋に移り、2009年に現在地に遷座。こちらは御守がかなり独特で、マニアな僕でもびっくり。
歯の御守は、虫歯に苦しむ人が鯖断ちして祈願するとご利益があるという伝承にちなむもの。なぜ歯と鯖が関係するのか。

 
L: 日比谷神社。  R: 拝殿。御守は「歯の御守」「祓戸四柱御守」「奇跡の御守」など個性派多数。

そんなこんなでようやく新橋駅に到着である。新橋駅というと個人的には、ニュー新橋ビルの印象が非常に強い。
骨を格子状に組み合わせたようなファサードが電車の車窓から見えるたび、「ああ新橋だ」と思うわけでして。
僕はひそかに「新橋ホネホネビル」と呼んでいたのだが、再開発の対象となっているようだ。ホネホネロック。

 
L: ニュー新橋ビル。松田平田坂本設計事務所の設計で1971年に竣工。  R: 駅前のSLもいちおう撮影。

新橋駅の西側にある飲食店街の中に、烏森神社がある。かつてこの新橋駅周辺は松林と砂浜だったそうで、
カラスがいっぱいいる森だったとのこと。そこに平将門を倒した藤原秀郷が稲荷神社を創建したのが起源である。
なお、現在の新橋駅は1909(明治42)年の開業時は烏森駅という名前だった(初代の新橋駅は汐留駅に改称された)。

  
L: 新橋駅前のファミリーマートの後ろにはこのような参道がある。  C: 進んでいくと烏森神社。
R: 鳥居をくぐって左を見る。これは神輿庫かなあ。烏森神社は鳥居から拝殿からこんなような形。

1971年造営というコンクリート社殿は非常に独特なデザイン。御朱印にもこだわりがあるようだし、御守も種類豊富。
いろいろと凝っている神社である。もともと神仏習合色の強い稲荷神社なので、発想が自由なんだろうなと思う。

 
L: 拝殿。  R: 拝殿の脇にある社務所。

旧芝区にある神社めぐりの最後は、虎ノ門の金刀比羅宮だ。丸亀藩主・京極高和が江戸藩邸に勧請したのが起源。
現在は虎ノ門琴平タワーの公開空地に社殿がある、みたいな感じの仕上がりとなっている。非常に独特なのだ。

  
L: 国道1号から見た金刀比羅宮。オフィスビルの足元だが、きちんと神社である。1階部分が社務所となっている。
C: 銅鳥居と社殿。鳥居は1821(文政4)年と歴史がある。拝殿は伊東忠太の設計で戦後の再建。  R: 本殿。

これで旧芝区の大部分は押さえた。あとは山手線の外側をまわって完了としよう。お台場についてはまた後日。
汐留の一角に旧新橋停車場があるので、ちょろっと寄ってみる。さっきも書いたが、ここが鉄道発祥の新橋駅なのだ。

 
L: 旧新橋停車場・鉄道歴史展示室。  R: 手前にある駅舎玄関の遺構。これしか残っていないのかー。

汐留から首都高とともに南下していき、浜離宮に沿ってちょっと東に出る。すると竹芝客船ターミナルに到着である。
竹芝のお世話になったのは2回。八丈島(→2009.8.21)と小笠原(→2011.12.29)である。どちらもすごく楽しかった。
なので僕にとってはいい思い出の起点となる場所なのだ。コロナが落ち着いたらほかの島にも行ってみたいなあ。
姉歯の面々による島部の活動は果たして復活するのやら。調布から伊豆大島に行くのはぜひやりたいところだが。

 
L: 竹芝客船ターミナル。  R: 建物側から眺めるマストのオブジェ。

2階のプロムナードデッキから東京湾を眺める。浜松町の裏側、けっこう奥まっている場所なのでなかなか来ないが、
のんびりと景色を眺めるには悪くない場所だ。正直、穴場だと思う。築地大橋からレインボーブリッジまで眺め放題。

  
L: 竹芝桟橋から北東方面。真ん中に築地大橋、右には豊海の冷蔵地帯。  C: 南にはレインボーブリッジ。船は日の出埠頭かな。
R: 真ん中の晴海には東京海洋大学の練習船・海洋調査船である海鷹丸が停泊していた。南極海の観測航海にまで行けるんだって。

本日のラストは、旧芝離宮恩賜庭園。将軍家のものだった先日の浜離宮と違い、こちらはもともと小田原藩の屋敷。
老中を務めた大久保忠朝の庭園・楽寿園として作庭されたが、所有者は堀田家・清水徳川家・紀州徳川家と変わり、
明治には皇室の迎賓館が建てられた。1924年に昭和天皇御成婚を記念して東京市に下賜され、旧芝離宮恩賜庭園となる。

  
L: 旧芝離宮恩賜庭園の入口。浜離宮と比べると非常に慎ましい。  C: 園内に入るとこんな光景である。
R: 回遊式庭園としてちょうどいいサイズ。周囲はビルだらけだが、それも対比で楽しませる懐の深さを感じる。

先日の浜離宮恩賜庭園(→2020.8.14)が広大な敷地の中にさまざまなポイントを持っていたのに対し、
旧芝離宮は回遊式庭園としてひとつにまとまっている。個人的にはこっちの方が圧倒的によくできていると思う。
庭園として単体で考えれば「よくできている庭です」という感じだが、ビルとの対比でさらに面白くなっている。
夕方だったのでビルによる日陰がきつかったのが残念な点ではあるが、日本庭園の底力を感じさせる魅力がある。

  
L: 大山と枯滝。  C: 蓬莱山を模している中島。  R: 奥の方から入口側(北)を振り返ったところ。空、ビル、木々、池。

すっかり旧芝離宮を気に入ってしまった。特に何も考えないまま、池の周りを歩きつつ目に映るものを受け入れる。
これだけの見事な庭で入園料が150円というのは、たいへんにお得である。ここもまた東京の穴場だなあと思う。

  
L: 石柱。政治力は高いがすぐ謀叛することでおなじみの松田憲秀の邸宅にあったものだそうだ。かつては茶室に使われていた。
C: 鯛石。なるほど。  R: 洋館の遺構。迎賓館となった際に洋館が建てられたが、関東大震災で焼けてしまったのだ。

入口の近くには藤棚があり、小田原風鈴が吊るされて澄んだ音色を奏でていた。庭園が日陰に包まれるまで、
ベンチに腰掛けてぼんやり過ごす。炎天下を自転車で走りまわった一日だったが、最後の最後でなんと穏やかな時間。

  
L: 鵜。  C: カルガモですかな。  R: サルスベリがとってもきれいなのであった。あと咲いていた花は藤が一房、くらい。

庭園を十分に堪能すると、竹芝の客船ターミナルに戻る。この夏休みは帰省しなかったので、せめて土産を送ろうと。
売店に八丈島と青ヶ島の焼酎を置いてあったので、それぞれテキトーに見繕って購入したのであった。以上でおしまい。


2020.8.16 (Sun.)

天気もよかったし、本当は東京23区探検の続きをやりたかったのだが、昨日の疲れと心理的な疲れといろいろで、
結局無理せずのんびり過ごすことにした。といっても日記を書いたり写真を整理したり、やることやってますけどね。
今後はどうやって気分転換しながら日常生活の精神状態を平穏に保てばいいのか、そこが本当に気に掛かる。困るなあ。


2020.8.15 (Sat.)

言い出しっぺはマサルだったのだが、コロナのドタバタで計画がしばらく頓挫していたのだ。
しかしいよいよ今月いっぱいで閉園ということで、それならお盆のど真ん中に行ってやろうじゃねーか!と、
姉歯の2家族+2人のおっさんでとしまえんに突撃したのであった。正午集合なのだが、もう暑くて暑くて。
ちなみにみんなでとしまえんを訪れるのは10年ぶりである(→2010.5.2)。乗り物酔いの記憶しかねえや。

  
L: としまえん入口。  C: 閉園まであと16日のカウントダウン。「としまえんど」の文字が、なんか、切ないね……。
R: としまえんのシンボル的存在、1907年製造で世界最古とされるメリーゴーラウンド「カルーセルエルドラド」。

皆さん考えることは一緒のようで、園内はなかなかの混み具合。カルーセルエルドラドの行列を見て臆したわれわれ、
とりあえずあまり人が並んでいない乗り物を押さえようということで、スナッピーに挑戦。水鉄砲をひたすら発射である。

 
L: お父さんコンビが仲良くチャンレンジの図。  R: こちらも液体を発射するマサル。

続いてバタフライダー。ペダルをこぐ意味がよくわからんなあと思いつつ見ていたのだが、こげば上昇するのだ。
みやもりの娘さんを隣に乗せたマサルは、例のごとくひたすらフルスロットルで舞い上がっていたのであった。

 
L: 親子でバタフライダー。  R: こげばこぐほど上に上がるらしい。フル回転で舞い上がるおじさん。

炎天下で屋外はキツく、レストランに入って食事をしつつ休むことに。しかし皆さん考えることは一緒なのだ。
席を確保してから注文の列に入るというルールのようで、二手に分かれたはいいが、席の確保が本当に大変そう。
そして僕とマサルが列に並んだのだが、さんざん待たされた。なんかもっと賢い仕組みはないものなのか。
なお、メニューのお値段について話をする中で、「西武税」という表現を久々に聞いたのであった。懐かしい。
あの鬼押し出しは、なんと13年も前になるのか(→2007.5.4)。時の流れとは残酷なものであるなあと震えるわ。
「ぼくどうしてこんなところに来なくちゃいけないの?」の名言はいまだにわれわれの語り草である。録音したかった。

 苦労して確保した席だとよけいにおいしゅうございましょう。

注文を待つ行列にいる間、ミラーハウスが僕とマサルの視界に入っており、ぜんぜん並ぶ人がいなかった。
としまえんが閉園したらもう、ミラーハウスなんてこの世から消滅してしまうんじゃないのか?なんて話になり、
食事が終わるとみんなで「人生最後のミラーハウス」を体験すべく移動。そしたら行列ができていたんでやんの。
とことん、皆さん考えることは一緒なんだなあと思うのであった。でもすぐ入れたし、鏡の迷路は複雑で楽しかった。

 
L: ミラーハウスの中ではふつうに面白い写真が撮れる。なかなかの迷路でけっこう迷ったねえ。
R: ミラーハウスを堪能するわれわれ。さまざまな映り方をする鏡が置いてあった。

さて次はどうしようかと歩いていたわれわれの前に、200円で動くパンダたちが現れた。正式名称は「メロディペット」。
『稲中』で育ったわれわれとしては、乗らないわけにはいかないのだ。ジョージ=マロリーのようなもんだな。

  
L: まあ、乗らずにはいられませんわな。  C: 正しい2人乗り。  R: 重量オーヴァーの2人乗り。目がズレとるで。

 楽しそうで何よりであります。

すっかり堪能したわれわれだが、またしても屋外での行動限界時間を迎えたのであった。こればっかりはしょうがない。
女性陣はアソブラボー!に避難するのであった。ボーネルンドが運営しており輸入品のミニカーやおもちゃも販売。
僕はてっきりスウェーデンの企業だと思っていたら、思いっきり日本なんでやんの。勘違いしていてお恥ずかしい……。

日陰とベンチを求めて歩いていったら北の端っこにたどり着いたのであった。木製立体迷路のトリックメイズがあり、
正直やってみたかったがみんなお疲れだったので僕もおとなしくベンチで休憩するのであった。一人で迷ってもねえ。
しばらくダベって過ごすが、そのうちにだいぶ夕方の雰囲気になってきた。そしてマサルも反応した宝石探しをしたい、
ということでそちらへ移動。向かいがカルーセルエルドラドなので、お母さん方がそちらに並んでいる間に宝石探し。
なお、マサルは宝石探しをやらないのであった。秋芳洞で石を買ったくせに(→2007.11.3)、やせ我慢しやがって。

 宝石探しに熱中するお二方。後でおまけの石をいっぱいもらった。

カルーセルエルドラドは定員154名なので、順番が来るのは思ったり早かった。宝石探しがちょうどいい時間調整に。
せっかくなので僕は撮影係に徹して皆さん乗りなせ乗りなせ、と。でも思ったより回転の速度が速くて上手く撮影できず。

  
L: みやもり夫妻とマサル。  C: ニシマッキー夫妻とお二方。  R: 「機械遺産」ということで興味津々の皆さま。

かなり日も傾いてきたので、お手軽に乗れるものに乗っておこうと、ミニフリュームライドに乗り込むのであった。
本家のフリュームライドが大行列で確かに豪快に水しぶきをあげているのに対し、こっちは本当にミニサイズ。
それでもマサルはミストで大はしゃぎなのであった。よかったよかった。こっちもいろいろ撮れてよかったわい。

  
L: なんか、罰ゲームの御柱祭みたいだな。  C: ミストに夢中の42歳。  R: 後ろに倒れそうになるくらいの興奮ぶり。

ここでニシマッキー家が撤退。お疲れ様でした。娘さんたちはすっかり打ち解けたようで何よりである。
残ったわれわれは最後の力を振り絞って乗れそうなアトラクションを探し、模型列車を堪能するのであった。

 夕暮れのエルドラドはなかなかムーディである。

模型列車はさっきわれわれがダベっていた北のエリアまで往復。その端っこにあったカーメリーゴーランドに乗るが、
どれも基本的に子ども向けなので座席に入れない。大人たちは車の脇にある椅子に座って我慢するのであった。
そして最後の最後はくるくる回るアニマルカップで締める。そんなもん酔うに決まってんじゃねえか!と僕は回避するが、
マサルは全力で回転するのであった。宇宙飛行士にでもなるつもりなのか。終わったときには完全にグロッキーでやんの。

 全力でコーヒーカップを回転させるマサル。

みやもりの娘さんはセブンティーンアイスのグレープシャーベットをご所望だったが、残念ながら売り切れ。
それはさっきダベっているときに僕も食いたかったのだが、やはり売り切れでワッフルコーンバニラにしたのだ。
皆さん考えることは一緒なのである。自販機を探しながらエントランスまで戻るが、結局最後まで見つからず。
その後、ユナイテッド・シネマに避難しつつ、近くで晩飯を食える店はないかチェック。その間もマサルはグロッキー。

 マサルは完全に昇天していたのであった。

「僕ばっかりカッコ悪いんよ!」とマサルから文句が来そうなので、女装ログにリンク張っとく(→2012.4.23)。
これでええか!? これで気が済んだか!? すっかり泥仕合だのう。まあ読んでいる人が面白けりゃそれでいいけど。

運よく居酒屋に入れたので、そこで思い思いに食事を注文。飲み物を飲んでマサルはようやく復活したのであった。
さて話題はみやもりの娘さんが遊んでいるファミコンミニのレトロゲーム。『ロックマン2』について訊かれるとは……。
お兄さん、いろいろ教えちゃうよ! さらにみやもりの娘さんは『スーパーストリートファイターII』が大好きで、
われわれが中学生のときとほぼ同じレヴェルでいろいろ語ってくれるのであった。すげえとしか言いようがない。
次回は『ロックマン2』攻略&『スーパーストリートファイターII』対戦大会ですかね。俺より強い娘に会いに行く。


2020.8.14 (Fri.)

「TOKYO SWEEP!! 23区編」、2年前の夏休みにやってから放ったらかしになっていたが(→2018.8.22018.8.6)、
コロナで遠出ができない現状を利用して第3回をやるのだ! 千代田区が終わったところなので、次の目標は中央区だ。
さて中央区は、戦後に京橋区と日本橋区が合併して誕生した区である。ざっと言うと南部が京橋区で、北部が日本橋区。

まずは中央区の最南端である浜離宮恩賜庭園からスタートする。9時オープンなので、それに合わせて自転車で移動。
2年前の千代田区編はすべて歩き通したが、とっても時間がかかるのと面倒くさいのとで、もう自転車で走りまくるのだ。
そのため、前半を旧京橋区、後半を旧日本橋区と分けつつも、一日で一気に制覇してしまう予定である。自転車って便利。
浜松町駅から東へ抜け、首都高に沿って少し北上すると、右手に堀と石垣が現れる。北へとまわり込めば浜離宮の入口だ。

  
L: 浜離宮恩賜庭園の正門。  C: ビルが林立する中、このような場所が残っているとは。  R: 庭園とビル。

浜離宮恩賜庭園は、甲府藩主だった徳川綱重(家光の息子で、綱吉の兄で、家宣の父)の別邸を起源とする。
家宣が将軍となったことで将軍家の別邸となり、名称も「浜御殿」となった。そのまま幕末まで受け継がれていく。
明治になると諸外国との交渉の場として使われ、1868(明治3)年には皇室の離宮「浜離宮」となった。
その後は関東大震災や戦争の空襲によって大きな被害を受け、1945年に東京都に下賜されて公園となった。

  
L: 2018年に復元された鷹の御茶屋。  C: 潮入の池に架かるお伝い橋を行く。江戸と現代の同居。  R: 中島の御茶屋。

  
L: 鵜(左端&右手前)や鷺(右端)など、野鳥がけっこう多くいてびっくり。都会だけど来るもんなのね。
C: 純日本庭園と高層ビル。これはむしろ高層ビルから見下ろす方が眺めがいいのかも。  R: 浜見世の案内板。

徳川綱重が別邸を建てる前は将軍家の鷹狩場であり、浜御殿となった後も池におとりのアヒルを放って鴨を捕っていた。
18世紀後半につくられた鴨場が今も残っており、詳しい説明がある。現代の鴨は何も知らずにのんびり泳いでいる。

  
L: 小覗。こちらで鴨の様子を探った。  C: 大覗。やってきた野生の鷹を捕まえることもあったそうだ。
R: 実際に穴から池を覗き込む。現代の鴨は何も知らず、藻で覆われた水面に線を引くようにのんびり泳ぐ。

東側には横堀水門や将軍お上がり場がある。浜離宮恩賜庭園は回遊式庭園だが、中心となっているのは潮入りの池で、
その名のとおり実際に東京湾から海水を引いている。潮の満ち干きによって池の趣が変わる、という趣向である。
旧芝離宮恩賜庭園・清澄庭園・旧安田庭園もかつては潮入の池だったが、今も実際に海水が出入りしているのはここだけ。

  
L: 竹芝方面を眺める。水上バスがいる。  C: 横堀水門。ここから潮入の池まで実際に海水が出入りしているのだ。
R: 歴代将軍が船で来るときに上陸した将軍お上がり場。鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜が江戸に戻った際もここから上陸。

 浜離宮の水上バス乗り場。東京の陸海空を制覇したときに見たなあ(→2015.3.14)。

浜離宮恩賜庭園を後にすると、首都高を挟んだ北側にある中銀カプセルタワービルへ。当然、DOCOMOMO物件だ。
実は2年前にデジカメを新調した際、最初の被写体に選んだのだが(→2018.2.3)、アスペクト比を間違えたので没にした、
という間抜けな経緯がある。今回はそのリヴェンジだ。メタボリズム(→2016.7.102019.10.28)を象徴する建築であり、
そりゃあいつまでも残ってほしい気持ちだが、1972年竣工でもはや限界もいいところ、解体待ったなしという状況だ。
きちんと記録しておこう!ということで気合いを入れてシャッターを切るが、撮影するアングルがめちゃくちゃ限られる。
なんかもうコレ、誰がどう撮っても同じだよなあと思うのであった。まあ、誰がどう撮っても面白い建築ということで。

  
L: 歩道橋というかペデストリアンデッキから眺める中銀カプセルタワービル。こうして見るとすげえゲソっぽいな。
C: だんだんと正面の方へと近づいていく。落下対策なのかネットをかぶっている。  R: ほぼ正面から眺める。

 グラウンドレヴェルから見上げる。やっぱり首都高が邪魔!

中銀カプセルタワービルの中身については、国立近代美術館でやっていた『日本の家 1945年以降の建築と暮らし』で、
見たことがある(→2017.10.18)。一歩間違えれば独房かタコ部屋なのだが、ミッドセンチュリーの匂いが印象的だった。
正直なところ、モーレツ社員のブラックな生活を男子の秘密基地感でごまかそう、ということになるのだろうけど、
理想を空間として実現してしまったことの凄みはやはり圧倒的である。まさに時代の痕跡そのもの、記念碑だなあと思う。

  
L: 北西から見上げる。  C: 南西から。これがおそらく理想的なアングルかな?  R: 南東から。

狭いし高いし首都高邪魔だしで、たいへん苦しい撮影だった。これで限界だろうと思われるアングルまで撮り終えると、
かつての築地市場方面へ。すでに解体されて更地となっており、あの喧騒(→2018.9.22)がまるで夢のようである。

 築地市場の跡地。

そのまま築地場外市場へ。こちらは築地市場がなくなっても健在で、以前とまったく変わらぬたたずまいである。
核がなくなってもその昭和感・アジア感をしっかり伝えてくれている。さすがにコロナのせいで人がだいぶ少ないけど。

  
L: 築地場外市場。かつての築地市場の雰囲気をしっかり残して、非常にアジアな感触である。人は少ないけど。
C: 都道50号沿いのアーケード。アジアだなあ。  R: 一本奥に入った通り。ここがまた飲食店がひしめいて充実している。

軽く散策すると築地本願寺へ。前にきちんと訪れてから、もう19年が経っていた(→2001.7.8)。恐ろしい……。
伊東忠太が設計した本堂は1934年の竣工で、国指定重要文化財となっている。まあ、いかにも自由な仏教らしい建築だ。
向かって左手前のインフォメーションセンターにはカフェや売店。でも御守はない。そこはさすがの浄土真宗である。

  
L: 築地本願寺。創建は1617年で明暦の大火により移転したが、「築地」の地名はその用地を確保するための埋め立てに由来。
C: 角度を変えて本堂を眺める。鉄筋コンクリートでインド風を戦前にやる凄さよ。  R: さらに近づいてみたところ。

  
L: 向かって左の北翼。  C: 右の南翼。  R: 本堂の中に入ってみる。建物の内側で枓栱を展開して折上格天井とするのは凄い。

 
L: 境内の北側のインフォメーションセンター。  R: 酒井抱一の墓。筆の形なんですかね。しっかり手を合わせておいた。

ちょっと戻って波除稲荷神社へ。ちょうど参拝者がいなくなって、すっきりと境内を撮影することができた。
明暦の大火の後に築地の埋め立てが行われたのは、築地本願寺の写真の解説のとおり。しかし激しい波で工事は難航する。
そんな中、光を放って海面を漂う稲荷大神の御神体が発見され、これを祀ると波がおさまり工事は無事に完了した。

  
L: 波除稲荷神社の境内入口。築地場外市場の南端に鎮座する。  C: 雌のお歯黒獅子。  R: 雄の天井大獅子。

 拝殿。建物は神宮スタイルだが、境内の湿り気はいかにも稲荷系である。

御守を頂戴すると、そのまま隅田川に架かる勝鬨橋へ。日露戦争における旅順陥落祝勝記念で「勝鬨の渡し」が誕生。
石川島造船所など月島の工場に通勤する多数の労働者が渡船を利用したので、架橋が検討されるようになる。
しかし当時は隅田川を航行する船もまた多く、それで水運を優先させるために可動橋が建設されることなった。
竣工したのは1940年で、つまり皇紀2600年記念の日本万国博覧会のメインゲートとして計画された経緯がある。
博覧会じたいはオリンピックとともに中止となったが、勝鬨橋は資材不足をはねのけて無事に完成した。

  
L: 勝鬨橋。この名前が竣工まで漕ぎ着けた大きな要因であるような気がする。2007年に国指定重要文化財となった。
C: たもとから眺める。この優雅な曲線は、戦前におけるモダンデザインの総決算と言えるのではないか。
R: 真ん中らへん。昔はこれが当たり前にパカッと上に動いていたのが信じられない。なお最後に開いたのは1970年。

勝鬨橋を渡ってまずは晴海周辺に入る。ふだんまったく来る要素がないので、なんとも不思議な感じである。
感触としては、いかにも埋立地のスケール感が自転車でも十分つらい。行って何があるというわけでもないし。
晴海客船ターミナルは青海の新ターミナルにとって替わられることが決まっているので、よけいに来る要素がない。
軽く走ったところで月島方面へ。こちらはしっかりヒューマンスケールの街で、比べると昭和と平成の断絶を感じる。

  
L: 晴海にて。よくあるスケール感の大きい埋立地といった感触だが、交通の便が悪すぎる分だけ疎外感がある。
C: 晴海から月島に入ったところ。感触としては江東区の川沿いとまったく変わらない。まあ「下町感」ということか。
R: 月島のメインストリートはやはり広く整備されている。でも晴海と比べると、どこか昭和末期の雰囲気を感じる。

 月島もんじゃストリート。本当にもんじゃ焼き屋ばっかり。

月島から先っちょの旧佃島エリアに入ると、さらに雰囲気が変化する。とりあえず、どん詰まりにある住吉神社へ。
佃の歴史は天正年間の徳川家康の上洛をきっかけとして始まる。摂津国の住吉神社(現:田蓑神社)に家康が参拝した際、
佃村・大和田村の漁民が船を出した。この縁で家康が関東に移ったときに両村の漁民も江戸に移り住み、漁業を営んだ。
やがて干潟を埋め立てた島ができると佃島と名付けて漁民が定住、住吉三神も勧請されて住吉神社が創建された。
住吉大社からの直接の勧請ではないものの、住吉神社とはいかにも摂津国の文化を反映する要素だなあと思いつつ参拝。

  
L: 旧佃島の北端にある住吉神社の鳥居。隅田川に面しており、堤防となっている道から下ってまっすぐ行くと境内。
C: まっすぐ進んで境内入口。扁額が陶製で独特。  R: 拝殿。ちなみに社殿は何度も火災に遭っているようだ。

御守を頂戴すると旧佃島エリアを軽く徘徊。船溜は江戸時代のスケールのままで船を浮かべており、かなり窮屈な印象。
しかしこのスケール感を保っていることが重要なのだと思う。住宅が密集していて昔ながらの下町感がものすごい。

  
L: 佃の船溜。江戸時代のスケール感がそのまま残る。  C: 佃小橋から佃公園を眺める。憩いの場となっているようだ。
R: 旧佃島エリアは猛烈な下町感の残る住宅地となっている。建物は現代だが、空間の感覚は江戸時代というギャップがある。

旧佃島エリアから北の旧石川島エリアに入ると雰囲気がガラッと変わる。空間とともに時間を超えた感覚になってしまう。
こちらはかつて石川島造船所(現:IHI)の造船所だった場所で、1980年代から「大川端リバーシティ21開発事業」として、
超高層マンションが建てられた。海外におけるウォーターフロントの都市再開発事例を参考にしたとのこと。

  
L: 旧石川島エリアは同じ佃でも高層住宅ばかりである。  C: 相生橋から見た大川端リバーシティ21の建物群。
R: 佃を出て中央大橋へ。開通は1994年とわりと新しく、フランスの会社が兜を意識してデザインしたんだと。

 中央大橋から見た大川端リバーシティ21と水上バス。

中央大橋から新川に入るが特に面白い要素もないので、亀島川を渡って鐵砲洲稲荷神社に参拝する。
創建は841(承和8)年とかなり歴史があるが、埋め立てが進むたびに海側へと遷座を繰り返していき、
海上守護の神様として崇敬を集めてきた。なお「鉄砲洲」とは、細長い洲が鉄砲の形に似ていたためらしい。

  
L: 鐵砲洲稲荷神社の境内入口。現在は亀島川から少し西に入った位置となっているが、富をもたらす港の神社として健在。
C: 拝殿。社殿は関東大震災の後に再建されたが、東京大空襲の被害はなかったので1930年代の建物として貴重とのこと。
R: 実際に富士山の溶岩を使っている鉄砲洲富士。中央区では唯一の富士塚で、遷座する前はかなり規模が大きかったらしい。

 本殿。稲荷らしい湿り気がしっかり感じられる神社だった。

西へ行って新富町方面へ。いよいよ中央区役所である。13年前の一筆書きプロジェクトでは改修中で(→2007.6.20)、
今回ようやくリヴェンジができると思うと感慨深い。冒頭で書いたとおり、中央区は京橋区と日本橋区が合併して誕生。
現在の中央区役所は、かつて京橋区役所があった位置に建っている。佐藤武夫の設計で、1969年に竣工している。
周辺の地形はかなりややこしい。一段低い首都高はかつての川を埋め立てたもので、微妙な曲がり具合をそのまま残す。
その分岐点を覆う三吉橋からまっすぐ見えるように意図して設計されており、 特別感が見事に演出されていると思う。
なお、中央区役所には区立京橋図書館が併設されているが、これは先代の京橋区役所時代からそうだったらしい。

  
L: 三吉橋は首都高が三叉路(もともとの川が三叉路だった)となっている地点にY字で架かっている。いろんな角度で見られる。
C: 正面から見た中央区役所。  R: さらに近づいてみたところ。三叉路に向き合う六角形の建物という発想はすごいと思う。

  
L: エントランス。  C: 中に入ってみる。1階と2階を吹抜とする発想は、1969年当時にしてはかなり先進的ではないか。
R: 再び距離をとって、北西から眺めたところ。周囲の道路がややこしいこともあって、一周して撮影するのはけっこう大変。

  
L: 西から見上げる。  C: 中央区役所の後ろには出っぱりがある。後述するが、これは図書館部分であるようだ。
R: 三吉橋に面する表側とは対照的に、南側は建物が密集していて撮影がつらい。まあこれが「京橋的」なのかもしれないが。

  
L: 背面。モニュメンタルな門柱がある。  C: 中央市役所の背面には中央区立京橋図書館が併設されている(役所とは独立)。
R: 図書館の入口辺りから振り返ったところ。よく見るとこの門柱は換気塔っぽい。周囲から一段低くしているのも面白い。

しっかり撮影して気が済むと、さらに西へ入って銀座へ。銀座・日本橋界隈はヘジテーリング100選に選ばれているが、
銀座は旧京橋区で日本橋は旧日本橋区。そこはきっちり分けていくのだ。まずは銀座をブラブラしてやるのである。

  
L: 銀座といったらとりあえず和光だろ。  C,R: 平日の銀座は平和である。まあ今はコロナでもともと人がいないけど。

銀座といえば言わずもがな、日本を代表する商業地だが、古い建物は少なくてオサレな新しい建物が目立ってきている。
矩形の街路はもちろんもともと町人地だった名残で、全体的な空間の印象として、江戸時代からの商魂をどうも感じる。
新しいもの、目立つものに飛びつく江戸っ子の気質、それが空間を遠慮なく更新する資本主義とマッチしていて、
街全体がショーウィンドーのような雰囲気、看板こそ少ないがそれを思わせるファサードが横一列に並んでいる。
高級感を演出している銀座だが、本質的には下町なのだと思う。中央通りから一本入ればオシャレさはガクンと減り、
狭苦しい江戸時代の路地のスケール感が今もしっかり漂っている。ただ、その二面性もまた銀座の魅力である。
全国各地に「〇〇銀座」が存在するのは、もともと下町だった場所が近代化とともに日本一の商業地に発展した、
そのサクセスストーリーへの憧れによるのだろう。下町が、地方都市が発展していいのだ、という希望だったのだろう。

旧京橋区の最後はやはり、京橋で締めるべきであろう。京橋とは文字どおり「京都に向かう橋」であり、
日本橋を起点にすると最初に渡る橋だった。京橋川は戦後埋め立てられて、上を東京高速道が通っている。
その際に京橋も撤去されてしまったが、欄干の親柱はモニュメントとして今も残されているのだ。

  
L: まずは築地警察署・銀座一丁目交番。明らかに京橋の親柱をモデルにしている。気持ちはわかるけど結果的にキッチュ。
C: 残されている京橋の親柱。こちらは1922(大正11)年の建造。  R: もうひとつの親柱。こちらは1875(明治8)年の建造。

京橋から北へ入って、お次は旧日本橋区である。こちらは旧京橋区と比べると明らかに戦前のガッチリした建物が多い。
東京駅の開業は1914(大正3)年で、その影響もあるのだろうが、大正から昭和にかけてのモダンの痕跡がよく残る。

 東京駅八重洲口。夜行バスで旅行する人なら馴染みの場所だ。

まずは旧日本橋区の西側から。日本橋の南詰、現在は野村證券の本社である日本橋野村ビルディングはDOCOMOMO物件だ。
安井武雄の設計で1930年の竣工。旧野村財閥が大阪から東京に進出する際に建てられ、当時のプライドが強く感じられる。
やけに東西に長い建物だなあと思ったら、1930年竣工は西側50mの旧館で、そこから東の70mは1959年竣工の本館。
そして東端の30mは1981年竣工の別館。これらが一体となって「軍艦ビル」と呼ばれる威容を生みだしていたのだ。
本館はかなり旧館に忠実なデザインとなっており、最初増築とは気がつかなかった。勉強不足でお恥ずかしい。

  
L: 日本橋野村ビルディング。西から見たこちらが旧館。  C: 旧館(左)と本館(右)の接合部。
R: こちらが本館のファサード。旧館にしっかり合わせてあって、ボケッとしていると違いがわからない。

  
L: いちばん東の別館。奥へ向かって本館・旧館と一列に並んでいる。首都高のせいで北側はすっきり眺められない。
C: せっかくなので江戸橋を挟んだ日本橋ダイヤビルディングも撮影。三菱倉庫の江戸橋倉庫ビルを2014年に建て替えた。
R: 江戸橋倉庫ビルは1930年の竣工。船をイメージしたデザインで、ダイヤビルは外観の約7割を保存しているとのこと。

そのまま東に抜けると、江戸橋JCTの下に兜神社である。由緒を軽く調べてみたが、諸説入り乱れていてかなり複雑。
まず兜だが、藤原秀郷が平将門を討ち取った後に将門の兜を埋めたのか、それとも源義家が自分の兜を埋めたのか。
また、南東にかつて鎧の渡しがあり、これは義家が暴風雨を鎮めるために鎧を海に投げた伝説に由来するとのこと。
この鎧の渡しに稲荷が祀られ、それと兜岩の伝承が絡み合った結果、兜神社という信仰の対象が成立したと思われる。
さらに困ったことに、兜神社の創建年がわからない。案内板では1878(明治11)年で、主祭神は倉稲魂命とのこと。
しかし東京証券取引所のサイトによると、1871(明治4)年に稲荷と源義家を祭神として鎧稲荷と兜塚の中間地点に創建。
なお、この年に三井組の三井八郎右衛門が「兜町」という町名を東京府に願い出て、受理されたという。
そして1874(明治7)年に源義家OUT、大国主命と事代主命INということで現在の3柱体制になったと説明している。
ちなみに無人の神社だが御守はあり、東京証券取引所の受付で頂戴できる。……が、コロナのせいで入れないのであった。

  
L: 兜神社。証券取引所としては商売繁盛の稲荷神は崇敬すべき神様だわな。  C: 社殿は1971年の再建。
R: 東京証券取引所。コロナが明けたらぜひ御守を頂戴したいが、受付は平日だけなのでちょっとつらい。

せっかくなので兜町証券街を徘徊する。ロンドンのシティやニューヨークのウォール街に並ぶ金融街として有名だが、
実際に訪れてみるとその素っ気なさにびっくりである。よく考えれば官庁街と似たようなものなので実務一直線、
華美な要素はなくて当たり前なのだろうが、それにしてもお堅い。明治以来の狭苦しさもそれに輪をかけている。
まあ、昭和の匂いが残る純オフィス地帯という視点で見れば、この空間も魅力的かもしれないが。懐古的ですかね。

  
L: 東京証券取引所の北側。  C: 兜町の街並み。証券会社の看板がいくつかあるが、本当にそれだけって感じ。
R: こちらが銀行発祥の地。かつて第一国立銀行の本店だった場所で、現在はみずほ銀行兜町支店となっている。

兜町の隣、茅場町に摂社日枝神社があるので参拝。こちらの神社、千代田区の日枝神社(→2015.11.27)の摂社である。
1590(天正18)年に徳川家康が江戸に入った際、神輿が置かれて御旅所となり、明治以降は本家とともに大きくなった。
御旅所であるにもかかわらず、他の神社と比べても遜色がないくらい立派で驚いた。場所がよかったということだろう。

  
L: 摂社日枝神社。「日枝神社日本橋摂社」「山王御旅所」とも。(※最近は「日本橋日枝神社」をメインの名称とするようだ。)
C: 拝殿。境内の位置は創建時から変わっていないそうで、境内を徘徊して江戸の雰囲気を味わってみる。  R: 本殿。

江戸橋方面に戻ると、せっかくなので日本橋郵便局にある「郵便発祥の地」関連のものも見てみる。
ここは1871(明治4)年に駅逓司(今の総務省やら何やら)と郵便役所(今の郵便局)が設置された場所なのだ。

  
L: 郵便創業100年記念ポスト「郵便は世界を結ぶ」。文京区の本郷郵便局と大阪・中之島の日銀大阪支店前の3ヶ所だけに設置。
C: 郵便発祥の地の碑。日本の近代郵便制度を確立した前島密の像が合体。前島といえば1円切手。ジョーカー感のある配役だ。
R: 日本橋郵便局の隣のビルにはおそらく本場モノであろう「U.S.MAIL」の郵便受け。わざとやっているんだろうなあ、面白い。

ではいよいよ日本橋だ。1603(慶長8)年に徳川家康が幕府を開くと、大規模な江戸の街づくりが諸大名に命じられた。
その際に最初に架けられたのが日本橋という話。それで江戸の市街地の中心として認識され、日本橋が街道の起点となる。
火事で何度も全焼しながら架け直され、現在の石造橋は20代目になるとのこと(19代目という説もあるようだが)。
1911(明治44)年の竣工で、設計は東京市橋梁課の技師・米元晋一。橋梁課長・樺島正義も設計者とする資料もある。
東京市では最後となる石造アーチ橋だそうで、鉄橋やコンクリート橋が架かる中、時代遅れだという批判もあった。
しかし耐久性は抜群で、最新の耐震基準も満たしているそうだ。なお、橋上の装飾は妻木頼黄がとりまとめている。

  
L: 日本橋南詰。見事に首都高が覆いかぶさっている。20年ぐらいかけて地下化する計画が始まった模様。
C: 親柱。シンプルな和風の塔を洋風な要素で飾り付けていった印象。橋銘板の文字は徳川慶喜の揮毫による。
R: 日本橋の途中から見た日本橋川と首都高。場所がないからって川の上に高速道路を通す発想もすごいな。

  
L: 中間地点から首都高を見上げたところ。道路元標地点の真上であることを示す装飾が設置されている。
C: 真ん中の柱。背中合わせに麒麟の像が配置されている。翼のような背びれがあり、橋と地域の躍進を願っているそうだ。
R: 親柱の唐獅子像をクローズアップ。東京市章(現在は東京都紋章)の上に手(足?)を乗っけているのがいい感じ。

 日本橋北詰。やはり上に首都高があると装飾が生きないなあと実感。

日本橋の北側は銀座とは対照的に、歴史を感じさせる建物がいっぱいである。下町感はまったくない。
まず日本橋からだと三越本店の新館が真っ先に目に入る。鋭角の三角形である敷地をうまく利用している。
その北に三越本店の本館。いかにも老舗の百貨店らしい風格だが、よく見るとファサードがツギハギになっており、
増改築の痕跡がしっかり残っている。最も古い部分で1914(大正3)年竣工。設計は横河民輔の横河工務所。
横河民輔はもともと三井に勤めており、1902(明治35)年には先代の三井本館の設計も担当している。

  
L: 三越本店の新館。こちらは2004年の竣工で、設計は清水建設だが監理は横河工務所の後身である横河建築設計事務所が担当。
C: 南東から見た本館。  R: 東側。見てのとおりファサードに違いがある。でもあまり違和感をおぼえないのがさすが。

  
L: 北東から。ライオンのいる正面玄関はこちら。  C: 北側のエントランス。  R: 北西から。驚くほどシンプル。

  
L: 後日あらためて撮影したライオン口。暖簾が呉服店の矜持をビンビン感じさせる。しかも周りと違和感がない。
C: 向かって左のライオン。  R: 向かって右のライオン。特に阿吽になっているということはないのであった。

 ちなみに地下の出入口にも暖簾が掛っている。

江戸桜通りを挟んだ北側には三井本館。上述の旧本館は関東大震災の影響で建て替えが必要となり、
アメリカのトローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所に設計を依頼。一般的なビルの約10倍の建築費をかけて、
1929年に竣工した。明治生命館(→2018.8.2)に似ている印象で、正統派だろうけどそのせいか個性がないような。

  
L: 三井本館。南東から見たところ。  C: 南西から。  R: 北西から。最上階の7階には三井記念美術館が入る。

そのまま西に隣接する日本銀行本店へ。辰野金吾の設計で1896(明治29)年に竣工しており「円」の形で有名。
そんなわけで上から見ることでおなじみの建物だが、地上目線ではあまりピンとこない。正面がすごくわかりづらい。
また江戸桜通りのソメイヨシノが建物を眺めるのに正直かなり邪魔で、なんとも消化不良な撮影となってしまった。

  
L: とりあえずぐるっと一周してみる。まずは本館の「円」の右下部分。  C: そのまま東へ行って別館(3号館)。
R: 交差点越しに眺める別館。別館は2号館と3号館から構成されており、北側が2号館でこちらの南側が3号館となる。

  
L: 別館の中央玄関。こちらは2号館に属する。なお2号館は1935年、3号館は1938年の竣工。別館の設計は長野宇平治。
C: 北から見た別館(2号館) 。  R: 本館・別館の北に、1号館を建て替えた新館。松田平田設計の設計で1973年竣工。

 西側から眺める本館の側面。本館をすっきり見られるのはここくらいか。

日本銀行本店から少し北へ行くと、近三ビルヂング。森五商店東京支店として建てられたDOCOMOMO物件である。
設計は村野藤吾で、村野が渡辺節建築事務所から独立して最初に設計した建物とのこと。竣工は1931年だが、
さっき見た三井本館(1929年)や日本橋野村ビルディング(1930年)と同時期と考えると、驚くほど現代風だ。
渡辺翁記念会館など、村野は「時間を飛び越える造形をたまにやる人」という印象があるが(→2013.12.23)、
この森五商店東京支店も言われなきゃ戦前の建物とは気づくまい。あるいは周囲に溶け込む普遍的な建築というか。

  
L: 江戸通りを挟んで眺める近三ビルヂング(旧森五商店東京支店)。隣が駐車場なのですっきり眺められてありがたい。
C: 正面から眺める。「何も足さない、何も引かない」って感じの完成されたオフィスビル。  R: 南西から眺める。

 裏にまわってみたところ(北東から)。戦前の建築のたたずまいではないよなあ。

さてここからはしばらく神社の時間なのだ。最初は福徳神社。コレド室町のせいで再開発で生まれた神社に思えるが、
貞観年間にはすでに鎮座していたという古社である。1973年にはビルの2階に小さな社殿が建てられるという状態で、
日本橋室町東地区の再開発が始まると「日本橋」「和風」のイメージを演出する重要な存在として迎えられた感じだ。
また徳川秀忠が参詣した際にクヌギの皮付き鳥居に芽が出ているのを見て「芽吹稲荷」と名付けたという逸話もあり、
御守のデザインに落とし込まれている。稲荷系らしい自由さと商業の目聡さをしっかり感じさせる空間となっている。

  
L: 福徳神社の鳥居。どこかに芽のレプリカを付けても面白いと思うが。  C: 拝殿。  R: それっぽく整備された参道。

江戸橋方面へ抜けてさらに行くと小網神社である。こちらも稲荷系の神社で、建物の配置がたいへん独特。
社殿のすぐ脇には五角形の神楽殿。社殿・神楽殿はどちらも明治神宮を建てた内藤駒三郎が1929年に建てたもの。
もともとは『往生要集』で知られる源信(恵心僧都)がつくった観世音と弁財天を安置する萬福庵で、つまりは寺。
こちらに1466(文正元)年、網にかかった稲穂を持った老人が訪れて数日宿泊。すると源信が主人の夢枕に立ち、
老人を稲荷大神として崇めれば村の疫病が消えると告げる。翌朝老人はいなくなっていたが祠を建てて祈願すると、
疫病がおさまったという話。強運厄除の神社として知られており、このご時世にやたらと参拝者が多かった。

 なんでこんなに参拝者であふれ返っていたのか……。謎である。

さらに東へ行って人形町へ。この辺りに来ると日本橋でもしっかり下町テイストである。水天宮に近いところで、
松島神社に参拝。松島の神社なので、そりゃもう気合いが入るってものだ。かつては本当に松の島だったという。
江戸時代になって周囲が埋め立てられると地方から人々が移り住むようになり、それぞれの神様を合祀したとのこと。
そのため基本は稲荷系なのだが、伊邪那岐神のほか13柱を祀っている。いかにも「マツシマ」な気の多さ。

  
L: 松島神社。ビルの1階に収まっている。  C: 拝殿……と言えばいいのだろうか。とりあえず二礼二拍手一礼である。
R: 松島神社御守。もちろん自分用だけでなく実家の分も頂戴しておいた。隣の松嶋大神のお札も気になるところである。

次は水天宮だ。1818(文政元)年、久留米藩主・有馬頼徳が江戸の上屋敷に水天宮(→2011.3.272014.11.23)を勧請。
これが毎月一般開放されると久留米藩にとって重要な副収入になるほどの崇敬を集めた。明治に入り有馬邸とともに移転、
1872(明治5)年に現在地に遷座する。今も有馬家との関係が深く、個人の神社であったためか、建物はかなり自由奔放。
現在の建物は2016年の竣工で、竹中工務店が設計・施工。境内全体が免震構造となっている。もはやビル感覚である。

  
L: 境内入口。 しめ縄のおかげでまあなんとか。  C: 途中で振り返る。随身がいるので随身門を兼ねているのか?
R: 鳥居を抜けてから振り返る。そうしないと鳥居がカメラの視野に入らないのだ。いろいろ常識を覆されるなあ。

参拝を終えると御守を頂戴するが、やはりなかなか独特。初穂料が1体2000円ということで泣きながら頂戴したが、
翌朝ご神前で名前を読み上げるということで、その分が入っているというわけ。名前を書いて御守を頂戴するのは初めて。

  
L: 水天宮の拝殿。社殿じたいは正統派の木造である。境内全体とのバランスをしっかりとっている。左手前は寳生辨財天。
C: 参拝を終えて境内の外、通りに出てみる。右が境内で玉垣はこうなるのか。  R: 水天宮前の交差点を挟んで眺めた本殿。

水天宮に圧倒された後は、いよいよ旧日本橋区役所へ行ってみるのだ。中央区は歴史を追いかけやすいのでありがたい。
かつての京橋区役所は現在の中央区役所の位置だし、日本橋区役所は現在の日本橋区民センターの位置にあったのだ。
公共施設としての歴史をきちんと守っているということは、実は自治体にとってかなり重要なことではないかと思う。
旧日本橋区役所庁舎は1995年まで日本橋特別出張所として使われており、中央区は建物を大切にしている印象がある。
日本橋特別出張所と日本橋公会堂の複合施設として日本橋区民センターが1999年に竣工。設計は国(くに)設計。
構造設計が専門(和光や九段会館を担当)の建築家で横浜国立大学の学長を務めた江國正義が設立した会社である。

  
L: かつて日本橋区役所があった場所には現在、日本橋区民センターが建っている。いかにも平成オフィスな建築である。
C: 北西には日本橋公会堂の看板。しかしこのファサードはなんとかならんのか。  R: 北東から。しっかり裏側って感じ。

 中に入ってみる。右へ行くと日本橋特別出張所の窓口。

これで旧京橋区と旧日本橋区の役所跡を制覇した。時刻は15時をまわったところ。あとは神社を押さえていくだけだ。
人形町に戻って東側、町人地らしいゴチャゴチャ感が漂う一角にあるのが末廣神社。かなり小さくまとまっているが、
こちらは移転前の「元吉原」の総鎮守だった神社である。1675(延宝3)年、社殿を修復する際に中啓(扇)が見つかり、
それで末廣神社という社名になった。主祭神は宇賀之美多麻命で稲荷系の神社である。日本橋周辺は稲荷系が多いなあ。

  
L: 末廣神社の入口。元吉原の総鎮守とは思えないほど慎ましい。  C: 末廣徳の石。周囲がいかにも稲荷。  R: 拝殿。

北上すると、路地が参道になっている三光稲荷神社に遭遇したので参拝する。無人なので御守はないが、気にせずお参り。
歌舞伎役者・関三十郎が伏見から勧請して創建したという。日本橋周辺における稲荷信仰の根強さを感じさせる神社だ。

 三光稲荷神社。街角の稲荷にしてはいろいろ立派である。

堀留町の交差点から西に入って椙森(すぎのもり)神社である。940(天慶3)年に藤原秀郷が狐像を奉納して創建。
1466(文正元)年には太田道灌が稲荷山五社大神を勧請している。というわけでやはりこちらも稲荷系の神社である。
江戸時代には柳森(→2018.8.6)、烏森(新橋、次回参拝予定)とともに「江戸三森」のひとつに数えられたそうだ。
ガチガチの鉄筋コンクリート社殿だが竣工はなんと1931年で、向拝の精密なつくりに時代のプライドを感じる。

  
L: 椙森神社の入口。横参道スタイルで境内を抜けられる。  C: 拝殿。きれい。  R: 本殿は木で見えないのであった。

神社の最後は宝田恵比寿神社。両側を駐車場に挟まれて小さな社殿だけが残っているという状態である。
べったら漬けを売る「べったら市」が名物だが、何をどうやってそんな大イヴェントを開催するのか見当がつかない。
宝田恵比寿神社はもともと皇居外苑の辺りにあった宝田村の鎮守だったが、江戸城の拡張により村ごと集団移転した。

 宝田恵比寿神社。

最後の最後に、馬喰町・横山町を中心とする日本橋問屋街を徘徊してみる。タオルや呉服など繊維方面の店が並ぶ。
お盆の夕方近くということで賑わいはほとんどなく、問屋街をうろつくにはまったく適さない条件だったものの、
道を極めた職人の世界という雰囲気は十分すぎるほど漂っている。名古屋の大須やアメ横ビルに似た匂いがして、
個人的にはその空気だけで面白くなってくる場所である。これはいずれきちんと再訪問しなければなるまい。

  
L: 人形町周辺はなんとなく神田的雰囲気(→2018.8.6)。日本橋も端っこに来るとだいぶ下町感が強くなる。
C: 清洲橋通り、馬喰横山駅周辺。  R: 新道問屋街。中央区にこのような光景があるってのが、なんだか不思議。

  
L: 横山町大通り。問屋直営の専門店が並んでいると、もうそれだけで面白くなってきてしまう。
C: 横山町問屋街。  R: 馬喰町横山町仲通りを行く。コロナが明けたらぜひ再訪問して賑わいを味わいたい。

以上でおしまい。欲張らずに旧京橋区で一日、旧日本橋区で一日とじっくりまわるべきだった。クソ長い一日だった。


2020.8.13 (Thu.)

2次の面接。幹部候補生が欲しい先方と地理を極めたいこちらとで、まるで噛み合わず。無念である。
世間はおっさんに対して厳しいのう。優秀な教員よりも優秀な役人が欲しいのなら、はっきりそう書いてくれや。


2020.8.12 (Wed.)

面接対策を考える。考えれば考えるほど、不器用な自分を突きつけられる。現場じゃ不器用なりにがんばっとるけどな。


2020.8.11 (Tue.)

本屋のマンガ売り場に行くたび思うのが、「スピンオフ多すぎだろ問題」である。いや本当に激増してしまった。

スピンオフといえば、ちょっと前まではライトノベルの十八番だったように思う。あるいは、ラノベのマンガ化。
僕はラノベが大嫌いなので、「品がねえなあ」と思いつつそれを眺めていた。新たな作品を生み出す挑戦を避けても、
一度食いついたファンを囲い続けることが大事なのかと。外部の人間からすれば、何の発展性もないように見える。

しかし気がつけば、マンガだってスピンオフだらけになってしまった。同じ作者がやるんなら、まだわかる。
描き足りなかったのかもしれない。そっちの方が面白くなっちゃったのかもしれない。とにかく、創造性は感じる。
ところが本編とは作画担当を別にしてまでもスピンオフをやる執念がやたらと目立つのである。これはもう商売の問題。
近年の出版不況で冒険ができないのと、マンガの読み手が高齢化しているのとで、安易なスピンオフが増えてきている。
かつて人気だったマンガを若手の作画担当で続けるパターンがすごく多い。読者として、それはうれしいことなのか?
あまりに守りに入りすぎていないだろうか。飽きっぽい僕なんかは、いいから次いこうぜ、次!と思ってしまうのだが。
すごい場合には現役で連載が続いているのにスピンオフ。そんな余力があるなら本編がんばれよ、と思ってしまうのだが。

僕の個人的な分析では、『ナニワ金融道』から『カバチタレ!』への流れが元祖にあると思う。
青木雄二の引退に対し、もっと読みたいという読者の声がアシスタントの起用につながったという流れ。これは正統だ。
あとは福本伸行の『天』と『アカギ』。魅力的なキャラクターを掘り下げるスピンオフはここで確立したと思うのだ。
これについても作者本人がやっているんだから、クリエイターとしてのやり方で収まるレヴェル。否定しようがない。
しかしこういった成功例をエクスキューズにどんどんスピンオフが粗製乱造されている現状はなんとも物悲しい。
クリエイターの創造力が原動力であるならまだしも、商売上の理由でやってみた、という事例があまりに多い。
企画する側のやり尽くしている感もそうとうあるんだろうが、結局それは将来が先細りにしかならないと思うのだが。


2020.8.10 (Mon.)

マサルにオススメされた『君は、エヴァンゲリオンというアニメを知っているかね?』の総集編をざっと見てみた。
内容は、『Bバージン』(→2009.6.28)の漫画家・山田玲司が2016年になってようやくエヴァのTV版を初めて見て、
その感想を動画サイトで語るというもの。『エヴァンゲリオン』があれだけ話題になった作品であるにもかかわらず、
1996年の初オンエア時ではなく、映画で一度完結したタイミングでもなく、新劇場版が始まったタイミングでもなく、
20年経って新劇場版の完結が待たれるタイミング、というのがまず笑いを誘うところである。タイトルが狙ってますなあ。
(いちおう今までのエヴァ関連ログ。→2007.9.232009.6.292010.5.252011.2.42012.12.232015.3.23

しかし内容はさすがに濃い。今までさんざん『エヴァンゲリオン』については語られてきて、語り尽くされてきたが、
「初めて見た」というタイムカプセルぶりと、「クリエイターとしての視点」そして「クリエイターとしての感情」が、
21世紀に入ったという時間的な落ち着きを背景として、余すことなく披露される。この時間差が絶妙なスパイスなのだ。
当然ながら山田玲司は21世紀以降の社会の流れを知っていて、その文脈で『エヴァンゲリオン』を眺めることになる。
しかし作品に対する反応じたいは刺激されてアッツアツの状態なのだ。この一個人の中にある温度差がむき出しで面白い。
例えるなら、サウナで完全にできあがった状態から水風呂に入った状態で語るようなもの。まずその反応で笑わせる。
そして状態を加速するのがクリエイターとしてのプライドである。冷静な視点と焚き付けられる感情、その対比で魅せる。
もともとが山田玲司は自身の感情的な勢いを作品に高い純度で乗せてくるタイプの人である。彼ならではのバランスで、
1話ごとの感想が落ち着いたり落ち着かなかったりする状態でどんどん紡ぎ出される。われわれはすでに冷え切っているが、
初めて見たときの熱さを思い出しながら見ることになるので、それもまたエンタテインメントとして楽しめる仕組みだ。

さすがクリエイター、と唸らされる場面はかなり多い。『エヴァンゲリオン』がロボットアニメであるより何より、
まず庵野監督自身の私小説であることを素早く見抜き、それを当然の前提として語っていくのである。本当に鋭い。
先に『シン・ゴジラ』(→2016.8.23)を見ているというアドヴァンテージはあるが、それにしてもさすがだと思う。
クリエイターとしての共感がまず何よりも先に来ているからこそ、冷静な分析とは違った彼ならではの熱い感想となり、
世の中に無数に存在している「エヴァを語る」ものたちの中でも独自の価値を持つことに成功しているのである。
ネタを20年寝かせました、では済まないクオリティがある。特に25話・26話への真摯な向き合い方がさすがだなあと思う。


2020.8.9 (Sun.)

W. ゴールディング『蝿の王』(→2005.10.25)をあらためて読む。感想はやっぱり前回とだいたい一緒。
しかし今回、新たに感じたことをテキトーに書きつけてみたい。なお、今回読んだのはハヤカワの新訳版である。

あらためて読み直してみると、作品を通して疑われることのない2つの柱があることに気がつく。
ひとつは大人が象徴する理性で、もうひとつが倫理観としてのキリスト教。非常にモダニズム色あふれる作品だ。
ご存知のとおりこの作品は崩壊する子どもの理性をテーマとしているが、2つの柱はそれとの対比軸となっている。
つまり、絶対的な軸を2つ用意することで、子どもの理性の崩壊ぶりをより明確にさせているというわけだ。
テーマはかなり絞り込まれている。「人間の暗部」にまで広げない。対象はあくまで「子どもの暗部」なのだ。
キリスト教についてはそんなに強く出てこないが、イギリスと比べると確固たるものとして通底して存在している。
果物を食べる生活と蛇のような〈獣〉ということで設定としても生きているが、常識の枠組み、といっていい扱いだ。
ジャック率いる聖歌隊が狩猟隊になり、部族になり、最後は野蛮人となる。キリスト教の規範意識が基準なのだ。
インディアン的描写は時代ゆえの差別的表現だが(初出1954年)、キリスト教的な倫理観が軸だからそうなるのか。
「キリスト教的理性」→「理性ある存在としての大人」という軸について問われることはない。興味深い点ではある。

「ぼくたちはみんな成り行きまかせで、何もかもでたらめになってきている。ここへ来る前は、大人たちがいた。
先生、ぼくたちどうしたらいいんですか、と訊いたら、すぐ答えてくれた。あのときに戻りたいよ!」
(中略)
「大人はなんでも知ってる」ピギーがいった。「暗がりを怖がらない。みんなで集まって、お茶を飲みながら相談する。
そしたら何もかもうまくいくんだ――」
「大人は島を火事にしたりしない。それに――」
「大人なら船をつくるよね――」
三人の少年は闇のなかに立って、大人のすばらしさを一生けんめい言葉でいいあらわそうとしたが、うまくいかなかった。
「大人は喧嘩しないし――」
「ぼくの眼鏡を割ったりしないし――」
「〈獣〉がどうとかいったりしない――」
「大人の人たちが何か連絡をくれたらいいんだけどなあ」ラルフはやけになった口調でいった。
「何か……合図みたいなものでもいいから、送ってくれたら助かるんだ」(pp.162-163)

社会学にどっぷり浸かっている僕なんかは大人の理性こそ疑いたくなるのだが、それをやると確かにテーマがボケる。
ゴールディングが巧いのは、大人=理性的存在という仮定を絶対的にすることで、ジュブナイル小説とした点だ。
最終的にそのジュブナイルぶりは野性の前に敗北を喫するのだが、ラルフの成長物語としても読むことができるのだ。
たとえば冒頭のラルフは子どもで、喜んでフルチンで泳いでいる。本人が嫌がる「ピギー」という蔑称を平然と叫ぶ。
しかし彼はほら貝を見つけたことでリーダーとなる。リーダーとなってからは段階的に揺れ動く部分を見せつつも、
火を守るという一貫した目標を掲げて成長していく。ラストシーンでの受け答えでは、もうそこに幼稚性はみられない。

困ったことに、隊長というのは自分の頭で考えなければならない。賢い人間でなければならない。
必要なときにさっさと決断しなければ、チャンスを逃してしまう。そうなるとよく考えるしかない。
考えるというのは大事なことだ。考えることで結果がちがってくる……(p.132)

そのラルフの成長をもたらした存在は間違いなくピギーで、彼こそ最も理性的な人間であり、ゆえに狙われ、悲劇に遭う。
描写からネガティヴな根暗に思えるが、裏を返せば最悪の事態を想定して対策を立てられる実に理知的な人間なのだ。
彼が理性ある大人としてラルフの一歩先を行く。しかし非力さと容姿の醜さゆえ権力がない。ラルフは彼の理性に守られ、
また彼の理性を守り、ゆっくりと成長していく。事態が決定的になるのは、実はピギーの死が引き金となっているのだ。
そしてラストシーン、ラルフが「誠実で賢い友だち」であるピギーを思い涙を流す。ここにラルフの成長物語が完結する。
ピギーの本名が最後まで明かされないのは興味深い。その匿名性は、共にラルフを見守り成長させた読者を示唆するのだ。

「でも、どうなんだろう。幽霊っているのかな、ピギー。〈獣〉はいるのかな」
「もちろんいやしない」
「なぜわかる」
「いろんなことが意味を失うからさ。家とか、街の通りとか――テレビなんかも――全部無意味になっちまう」(p.159)

預言者であるサイモンが、〈獣〉の正体を告げるべく現れたのに、〈獣〉として殺されてしまう場面も象徴的だ。
理性を失った少年たちが取り返しのつかないことをする、これこそキリスト教的倫理観が衝撃に拍車を掛けるだろう。
また、サムネリックの双子は揺れる人間らしい二面性を象徴する。また彼らはつねに単独でなく、相談する相手がいる。
ひとりではないこと、身近な仲間がいることで理性が残存するという人間らしさを表すキャラクターではないかと思う。
ちなみに悪役であるジャックは英語圏で標準的な名前であり、無名の少年たちの依り代となっていると考える。
そんなジャックも最後にはその地位を追われかけると思しき描写がある。権力は新陳代謝するもの、という示唆がある。
以上、登場人物を中心にあれこれ気ままに書いてきた。心理描写は基本的にラルフひとりに絞って読者の立ち位置を固定、
そうしてジャックの残酷さを客観視させる点がまた巧い。自分の中の〈獣〉を客観視を通して突きつけられる仕組みだ。

ギャング・エイジという言葉があるように、青年一歩手前の少年たちは社会性が閉じて理性が確立されていないだけに、
残酷な存在となることが往々にしてある。その少年たちの野性と分別ある大人が持つべき理性が対置されているため、
大人=理性がことさら理想的に映っているのが特徴的だ。そういえば前回のレヴューで僕は訳をボロクソに批判したが、
新訳版でも舞台空間はわかりづらかった。情景描写の美しさは格段に上がっているのだが、ポイントが絞られている感じ。
島全体について詳細に描写することはなく、焦点となる場所や印象的なシーンに限って精密に描写するのである。
つまりサヴァイヴァイルする空間について、ゴールディングは興味がないのだ。冒険小説としてのリアリティを切り、
その分だけラルフの心理と少年たちの行動を詳細に描くことに集中している。作品本来のテーマにきわめて忠実なのだ。
だからこの作品には切り口がひとつしかない。ああも読める、こうも読める、と議論できる魅力で惹きつけるのではなく、
単一のテーマを恐ろしいまでの切れ味で描ききり、決着がついたところでスッパリと終わる。議論の余地は残らない。
理性を守って大人へと成長する少年が、〈獣〉と同化して欲望のままに力を行使する少年に敗れる。その記録である。
冒険小説としてのリアリティではなく、人間心理のリアリティ。有無を言わせぬその圧倒的な説得力を振り返ったとき、
誰もが自分の中に〈獣〉がいたことに気づかされることになる。この〈獣〉が過去形かどうかは、また重い問題なのだが。


2020.8.8 (Sat.)

今日から夏休みだぜイェアァァァ!

といっても遊び呆けている余裕などないのである。面接に向けて準備、準備。でも開放感にも浸りたい。
そこで気分転換も兼ねて聖蹟桜ヶ丘まで行って、小野神社に参拝してスタ丼食って世界堂でテンプレートを買う。
そして帰ってきて書類を完成させる。これで細かい決意が固まった感じね。さらに再度の気分転換で日記を書き進める。
夕方は自由が丘へワイシャツを買いに行く。勝負服を用意して気合いを入れようじゃないか、という思惑である。
何から何まで、面接当日にピタリとハマるように、一歩一歩じっくり進めている感覚である。報われたいわー。


2020.8.7 (Fri.)

殺人的な暑さの中、ようやく1学期が終了したのであった。やりきった……。
なんせ例年なら夏休み、こんな状況で授業なんてやっていないわけで。無事に乗り切った自分を褒めてあげたい。

この1学期を振り返ると、例年と違うのでなんとも言えないんだけど、自分が何者なのかを問われた時間だったと思う。
他者としてスタートして、組織に同化していく中で、では自分の強みとは何なのか。それを問い直すことが多かった。
異動の苦労を通してかえって自分の武器が見えてきている、と言えばかっこいいけど、そういう要素だらけだったなと。
問題はその自分の武器が広く認められるかどうかなのだが、正直これは2学期の課題である。まずはとりあえず、
1学期を通して感じたことを言語化して、肝心の面接でポジティヴに展開できるようにしなければ。当面の焦点はそこ。


2020.8.6 (Thu.)

本日は5時間連続授業でもう何がなんだか。どうにか勢いで乗り切ったけど、終わった後は虚脱状態。
それでも面接向けの資料づくりは継続。授業のハイテンションを引っ張って、あれこれ書き出す。一歩一歩だなあ。


2020.8.5 (Wed.)

2次の面接向けの資料づくりを少しずつやっている。「なんにもナシは、ナシ!」ということで、毎日必ずやっている。
時間を工面して1時間だけでも集中して取り組むようにしているが、やっていると不思議と着実に進むのが面白い。
勉強でも何でも、短時間でいいから毎日続けることの重要性、一歩一歩の重みというものをひしひしと感じている。

あまり乗り気ではない入り方をしても、「あ、ここをなんとかしたいなあ」となって、そこから集中していく。
本当にじっくりと進んでいくが、だいたい1時間経ったらおしまい。それ以上やっても、あまり進展がないからだ。
逆を言うと、適度に時間を空けることで不思議と異なる角度へと展開していき、結果、多角的・多元的になるのだ。
授業や雑務といった日常生活を挟むと、知らないうちに視野が広がっていて、中身にフィードバックされるのである。
別のことをやっているときに、ふと名案を思いつくこともある。今日は特にそれが効いた感じで、ほっと一安心。

こんなことを書いておいて落ちたら超かっこわるいんですけど! 合格しなけりゃ意味がないことだしなあ。
でもまあ、今の状況を総合的に面白がれているというのはいいことかなと。今日の日記はそんな些細な記録なのだ。


2020.8.4 (Tue.)

このご時世とはいえ、山手線で私鉄ターミナルになっている都会に行かないと買えないものが必要になることもあり、
仕方なしにササッと買い物に出かけることもある。滞在時間を短くしてリスクを抑えるしかないのである。

以前と変化はないかなと、あらためて都会の街を観察しながら歩いていると、今まで見ていなかったものが見えてくる。
これまでほとんど意識することのなかった店が、街の隙間を埋めるようにびっしりと存在していたことに、驚かされる。
それらの店は、どこも懸命に対策を立てながら営業しているのだ。大小の多彩な店舗が、多様な経済活動をしている、
その現実を目の当たりにする。まさに、細胞ひとつひとつが生きることで器官が成り立っている生物のごとし。
そしてコロナウイルスはどの細胞にもしっかりとダメージを与えているのだ。とんでもねえ事態だな、と実感が湧いた。
生命はたくましくてしぶとい。商売をしている人々もまた、たくましくてしぶとい。公務員の僕にはとても真似できない。
われわれは、そのたくましさとしぶとさの恩恵を受けているのだ。そんなことをあらためて考えさせられたのであった。


2020.8.3 (Mon.)

circo氏とのやりとりもあって、いろいろと考える。

先月末の日記(→2020.7.31)のとおり、僕は勝手に冷戦中のベルリンにいるような気分になって、東京で暮らしている。
どれくらいの人が僕と同じ感覚を共有できるのかはわからない。しかし、「壁」を感じて暮らす人は少なくないだろう。
大半の都会者は、まず「自分がキャリアである可能性」をつねに念頭に置いて行動しているんじゃないかと思う。
もはや「もらうリスク」を考えて行動しているのではなく、「うつすリスク」の方を考えて行動しているはずだ。
他人からウイルスをもらってしまったら、もうしょうがない。でも、せめて自分がうつすことはないように、と。
毎日電車に乗って通勤しなくちゃいけない人間ばっかりで、 マスクをつけることが他者への配慮として浸透している。
つねに、どこか後ろめたい。ニュースを見ても、後ろめたい。そういう内罰的な意識から逃れられないストレス、
際限のない善意を継続するストレスが、われわれに無言の圧力をかけ続けるのだ。この点が田舎と決定的に違う。
いつでも自分はウイルスを保有する被害者になりうるという危機感と諦念が、僕らの周りに壁として立ちはだかる。
このコロナウイルスによる心理的な壁の存在は、社会学的に非常に興味深いテーマとして突如現れたように思う。

他者を排除する壁は、歴史上いくつも築かれてきた。古くは万里の長城やハドリアヌスとアントニヌス・ピウスの長城。
戦後ではベルリンの壁、そしてイスラエルの分離壁は現在進行形だ。そういえば、アメリカとメキシコの国境に、
壁を建設することを公約にした大統領もいたっけな。壁という物理的存在の分断する力は、圧倒的な強さを発揮する。
いま、東京の周囲に立ちはだかっている壁は、そのような物理的存在ではない。また交通も遮断されておらず、
実質的にはコロナ以前と何も変わらないのだ。しかし、われわれの心の内側には壁が築かれている。心理的な壁が。
宗教間・民族間・言語間の対立が典型的だが、これもまた他者を排除するための壁であることがほとんどだった。
ところが今回の心理的な壁は、自己の側を閉じる壁なのだ。そしてその発生源となっているのは、教養や配慮といった、
本来ならポジティヴな文脈で語られる要素だ。従来の壁とは異なる性質の壁が、社会で求められている事態なのだ。
今回、マスクがその心理状態の身体的な表現として機能しているのが面白い。マスクは他者への配慮の宣言となっている。
そこには「恥」の文化が透けてみえる。「恥ずかしいからやらない」という日本的価値観が、自制心を生んでいる。
もちろん、田舎での感染者の特定や誹謗中傷は、他者を排除する壁である。「コロナが出ると恥ずかしい」という、
これまた日本的価値観である。その混在が、混乱をもたらしてもいる。実に、社会学的に日本丸出しな事態だと思う。

英語では、丁寧な表現で過去形を使うことがある。具体的な例を挙げると、Will you ~? や Can you ~? よりも 、
Would you ~? や Could you ~? の方が丁寧になるというアレである。これは英語では過去が現在と切り離されている、
という感覚による。I could ~. という表現には、「昔はできた、でも今はできない」という意味がついてくるのだ。
で、現在から見たときの過去の距離感を、人間関係に応用しているわけだ。過去形を使って距離をとることで、
親しさが減った分だけ丁寧になるという仕組み。僕は今回の「ソーシャルディスタンス」に、似たものを感じている。
なるほど、「ソーシャルディスタンス」は「社会的距離」と和訳してもピンとこない。元来、日本にはない概念だ。
どうしても不安定である心理的な壁を補強するものとして、解釈がブレる余地のない英語を使って強制力を持たせる、
そういう合わせ技が成り立っているわけだ。自制心と和魂洋才という日本らしさ。やはり興味深い現象が起きている。


2020.8.2 (Sun.)

関東地方はやっと梅雨明けだが、こっちはそれどころではないのだ。洗濯物が片付くのはうれしいけどね。

書類が届いたことで、2次の面接に向けての格闘が本格的にスタートである。面接資料の下書き作業をやってみるが、
右手人差し指の骨折はやっぱり影響が微妙にあって、細かい字がやや書きづらいし疲れやすくなったような気がする。
嘆いたところでどうにもならんので素直に受け止めるしかない。そもそも老化ってそんなもんだよな、と思っておく。

あらかじめ赤ペンチェックしておいた去年の自己PR書類を参考に、反省を生かした新ヴァージョンの作成にとりかかる。
熱意をいちいち込めて、かつ簡潔に。Wordで何度も推敲して推敲して推敲するのだ。そうして意識をつくるのも大事。
なんせ去年は面接の成績が愕然とするほど悪かった(→2019.10.23)。この10日間で面接向けの頭をつくらなければ。


2020.8.1 (Sat.)

土曜授業だけど運よく担当授業が3時間目だけだったので、そこからの出勤にして午後の練習試合に備える。
正直、前の方に休みを取るのは後ろに休みを取るほどの開放感はないが、少しでも余裕が欲しかったのでこれは僥倖。
昨日インターネットで1次の合格を知った。うまく精神的なバランスをとりながら今後の戦いに備えるのだ。

授業が終わって息つく暇もろくにないまま練習試合。7年前に都大会を阻止された相手の学校(→2013.6.30)が来た。
その学校は7年経ってもやっぱり強いのであった。みんなボールの持ち方がいいし、その扱い方がいちいち的確なのだ。
脳神経が脚を動かすんだけど、その身体イメージにボールが含まれているのよ。ボールまで込みの運動神経って感じ。
しかもサッカーをわかった予測をしているから手に負えない。どんなプレーが相手を困らせるか、味方を優位にするか、
きちんと知っているからこそのプレーを連発してくる。なんとなく蹴るのを繰り返すレヴェルとは天と地ほどの差がある。
(いちばんの基礎は、マークする相手から遠い方の脚で蹴ること。相手が右にいれば左脚で蹴る。鳥かごで鍛える部分だ。
 次が、味方が前を向ける側にボールを出すこと。左前方にいる味方には、そいつが左足でトラップできるように出す。
 この一歩分のプレーの差が、実戦では圧倒的な差として積み重なってくる。賢い選手はそれがわかっているわけで。)

終盤の試合でウチの生徒がケガしてしまって、相手校の先生や学校に残っていた先生に協力していただきつつ緊急対応。
なんとか病院に送り出すが、もうそれだけでこっちはブルーである。湿気とともにイヤな感触がまとわりついて離れない。
後で病院から戻った生徒が学校に顔を出し、明るい表情だったので安心したものの、こっちとしてはニンともカンとも。
ケガは、うつるものなのだ。疲れによる注意力の低下やダウナーな気持ちによって、周囲に伝染していくものなのだ。
すべての運気はここを底にして、なんとか上向きになっていてほしい。自分も他人もみんな上向きになってほしい。


diary 2020.7.

diary 2020

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