diary 2022.3.

diary 2022.4.


2022.3.31 (Thu.)

朝、出勤したら学年主任が会計の謎を解明していたのであった。なんと振込手数料をめぐる行き違いが原因で、
そんなんわかるか!と呆れるしかなかった。いや、すごい方だとは思っていたが、これほどまでとは……。
順調に馬齢を重ねている当方の粗末な脳みそと比較すると悲しくなってしまいますね。生まれてすみません。

そうなるとこっちとしては残った手続きを粛々と進めるだけである。一気に会計書類をアップデートしてしまう。
それからまだできていなかった入金手続きをするために銀行へ。桜を眺めている人々の中を抜けて商店街を行く。

 見事なものです。

入金を済ませると、桜餅を買って帰って近くの席の皆様と学年主任とでいただくのであった。お疲れ様でした。
おやつの時間には旅行の土産をあちこちに配ってお礼を言う。片付けも終えて職場を後にすると、黒湯に浸かって帰る。
しかし最終日にこうして職場や最寄駅の商店街などのポジティヴな面だけを見て去ることができるのは幸せだなと思う。


2022.3.30 (Wed.)

優雅な旅行を終えて出勤したら、最後の最後で会計が大荒れなのであった。本当に勘弁してほしい……。
最初っからチェックしていくが、数字は合っているしこちらのミスもないはずなのに、どうしても計算が合わない。
夜までかかるが、結局謎を解明することはできなかった。無事に新しい職場に移らせてもらえるのかね……?



2022.3.28 (Mon.)

瀬戸内旅行の3日目は、岡山県から広島県への移動をしながら市役所と神社を押さえる旅である。
「setowa 岡山ワイドパス」がたいへんありがたく、今日はそれに頼りっぱなしとなるのだ。
しかしながら問題がひとつ。これはスマホアプリの画面を見せないといけないので、電池が切れたら即アウト。
おかげでいつも以上にスマホのバッテリー残量を気にする旅となるのであった。Googleマップの確認回数を減らさにゃ。

 倉敷駅にて。徹底しているなあと思う。

リョーシさんにSMSでお礼のメッセージを送り、岡山駅を出発。倉敷を抜けてそのまま伯備線で北上する。
そして清音駅で下車。ここからは井原鉄道で西へ向かうのだ。しばらく待って倉敷へ向かう列車を見送ると、
やってきた下り列車に乗り込む。……ん? やってきた? 列車にはすでに乗客がいる。つまり、清音駅は途中駅なのだ。
井原鉄道井原線の起点は総社駅で、総社-清音間は伯備線との共用区間となっているのだ。鉄じゃないから知らなかった!
これでは終点の神辺駅に行っても井原線の乗りつぶしにならないではないか! 鉄じゃないから別にいいけど!
別にいいけど、なんだかすっきりしないではないか! そんなモヤモヤした思いをよそに、井原線は西へと動きだす。

切り替えて車窓の風景を眺めるが、なんとも妙な感触がする。高架から眺める景色はどこか真新しい雰囲気なのである。
どこか、東日本大震災の復興を目指す地域に似ている──。そして田んぼの中に点在する家々を見ているうちに気がつく。
ああ、ここは4年前の西日本豪雨(→2018.7.72018.7.12)で50人以上の犠牲者を出した、あの場所だったのだ、と。
倉敷市真備(まび)町。ニュースでさんざん聞いた名前で、ヘリからの映像で見ていた場所がまさにここだったのだ。
あれから4年、表面的には穏やかに見える。しかし小田川の堤防は注意深く整備されているのがなんとなくわかり、
水害のショックが透けて見える。温暖化が進む昨今、再びあのようなつらい光景を見ないで済むことを祈るばかりだ。

  
L: 高架から眺める倉敷市真備町。  C: 復興した住宅。しかし真ん中の宅地は塀だけが残っている状態。
R: 小田川の堤防を眺める。どの辺りが決壊したとかはよくわからないが、じっくり丁寧に全体を整備している。

列車はトンネルに入り、抜けると矢掛町。矢掛駅に到着すると、外に出て和風デザインの駅舎を振り返る。
矢掛町は古い街並みが有名で、それを意識したのは明白だ。おととし重要伝統的建造物群保存地区に選定されたが、
そんなに誇りにしているんならもっと早く選定されていてもいいはずなのに、ちょっと不思議に思える。
まあその辺についても、実際に街歩きしながら考えることにしよう。撮影を終えると歩きだす。

 和風デザインの矢掛駅。1999年の井原鉄道開業時からコレ。

まだ9時前ということもあり、まっすぐ矢掛宿の方へは行かない。せっかくなので、矢掛町役場を見ておくのだ。
駅から西へ250m行ったところが矢掛町役場。駅は矢掛宿から距離があるが、その間にあった農地を矩形に開発し、
計画的に施設をつくったのがうかがえる立地である。矢掛町役場の竣工は1988年で、井原線建設再開の翌年になる。

  
L: 矢掛町役場。まずは南東の敷地入口から見たところ。  C: 南西から駐車場越しに。  R: 北東から見た背面・側面。

  
L: 駐車場の車止め。ここにも古い街並みをイメージしたデザインが施されているのであった。こだわっているなあ。
C: せっかくの平日なので中にお邪魔する。  R: エントランスのすぐ右側はこのようなパンフレット置き場。

 市役所の東にある、やかげ文化センター。こちらは1999年竣工。

撮影を終えると矢掛宿を目指して南下。小田川のすぐ左岸にあるのだが、まずはそのまま西側の端から攻めてみる。
星田川が美山川と合流し、200mもしないうちに小田川に合流する。この複雑な合流点に赤い橋が架かっていて、
そのたもとから矢掛宿の街並みが始まる。ゆったりとカーヴを描きながら下っていく入口からすでに古い建物がある。
それらは現役の商店であるようで、看板や広告が平然と掲げられている。他ではあまり見かけないパターンだ。

  
L: 矢掛宿の西の入口。  C: 古い建物が現役の商店としてそのまま使われている。後述するが、これは矢掛の大きな特徴だ。
R: 宿場から少し北に行ったところにある、やかげ郷土美術館。高さ16mの水見やぐらが自慢らしい。1990年オープン。

矢掛は古くから宿駅の機能があったようだが、正式に宿場として整備されたのは参勤交代が始まって以降らしい。
秋に開催される矢掛町最大のイヴェントが「矢掛の宿場まつり大名行列」なのも、それを反映しているのだろう。
さて、僕が毎回困ってしまうのが矢掛の読み方だ。「やかげ? やがけ?」短期記憶がバカなのでたまに間違える。
今川貞世(了俊)が宿泊した際には「屋蔭」と表記しており、今もそのままであれば迷わずに済んだのだが、
どういうわけか「矢掛」という漢字が当てられるようになってしまった(屋蔭は東の茶臼山付近という説も)。
本陣・脇本陣の両方が国指定重要文化財として現存するのは矢掛だけとのこと。いいかげんしっかり覚えなければ。

  
L: というわけで、その旧矢掛本陣・石井家住宅。この規模でそのまま残っているというのは凄い。圧倒される。
C: 向かって右の御成門。殿様が宿泊するのはこちら側ということですかな。  R: 御成門の脇にある祠。

9時を過ぎて旧矢掛本陣石井家住宅の前に立つが、一向に戸が開く気配がない。そして気がつく、今日は月曜日じゃん!
週末に平日休みを足した旅行最大の弱点がコレである。月曜日で博物館系の施設が休みになってしまう忌まわしき慣習。
ここでそれが直撃するとは……まあそれを考慮して旅行の計画を立てるべきなのだが、それにしてもこれは大失態。
昨日の牛窓海遊文化館と本蓮寺に続いて、またリョーシさんに連れてきてもらわないといけない場所が増えてしまった。

  
L: 主屋側。これはぜひ中を見学したかった……。  C: 角度を変えて眺めてみる。迫力が違うなあ。
R: 本陣前から見た矢掛宿。ここから東側が本格的な宿場町で、脇本陣までなかなかの密度で古い建物が続く。

さて矢掛の街を歩いていると、さっきもそうだったが、古い建物が店舗として今もしっかり活用されているのが目立つ。
たいていの重伝建の宿場町は、往時の雰囲気を壊さないようにあえて地味に営業しているものが多いと感じるが、
矢掛の場合は元気いっぱいで現在進行形という印象なのである。間違いなく、街の活気についてはトップクラスだ。
逆を言えば、歴史をそのまま伝えるという点での価値はいくらか下がるだろう。重伝建への選定が遅くなった理由は、
おそらくそこにある。しかし宿場町の活気という絶対値を感じられる点では、矢掛の姿は実に正しいとも思うのだ。
江戸時代の活気をそのままに令和の現在まで連続的に引き伸ばしたら、矢掛の街並みが標準的なものとなるだろう。
前にモダニズム建築の「復元」について考えたことがあったが(→2018.11.30)、そのとき最後にメタボリズムについて、
「リニューアルすら新陳代謝と捉える」「『保護』って言葉が似合わない」「遠慮せず改造しまくって使い続ける方がいい」
などと書いた。矢掛という宿場町はまさに、「重伝建のメタボリズム」とでも表現できそうな事態になっている。
昭和の街並み(たとえば豊後高田の例 →2015.8.22/2020.3.29)がレトロなものとして人気が出ている昨今だが、
その昭和を通過点として江戸時代と令和を結んでいるのが矢掛なのである。矢掛の存在価値は、まさにそこにあるのだ。

  
L: 矢掛の店舗あれこれ。こちらは宿泊施設となっている矢掛屋本館。時間の都合がつけば別館の温泉に浸かりたかったなあ。
C: 宿場町矢掛の侍イタリアン。和でイタリアンとはいいなあ。  R: 坪井醤油本店。建物の奥の方までわかるのがありがたい。

  
L: 並んでいるとさすがに迫力がある。  C: 川田商店。大正時代に山陽商業銀行の事務所となり、今のモダンなデザインに。
R: 矢掛ビジターセンター問屋(左)から見た矢掛の宿場町。この辺りから旧矢掛脇本陣までが賑わいの東端といった感じ。

メインストリートから小田川沿いの国道486号に出たところに、道の駅 山陽道やかげ宿がある。
オープンしたのが昨年3月28日ということで、ちょうど1周年なのであった。ちょっとお邪魔してみたのだが、
見るところがほとんどなかった。致命的なのが、今さら水戸岡鋭治のデザイン全開であること。空虚そのものだったね。

  
L: 道の駅 山陽道やかげ宿。本当に道の駅なのかと疑いたくなるほどに中身のない施設だった。
C: 意図のわからない部屋。奥には観光パンフレットや映像の流れる画面があるが、何に使うのだろう。
R: お土産コーナー。陳列ぶりはオシャレだが、客目線ではないし売る気も感じられない。

  
L: やかげ観光大使・やかっぴー。矢掛町の鳥がウグイスなのでこうなった。でもウグイスって茶色なんだよね(メジロと混同)。
C: 矢掛のマンホール。まあ水戸岡デザインなんですけどね。水戸岡を起用しちゃえる辺りがメタボリズム精神かもしれないが。
R: 街角の自動販売機もこんな塩梅である。意外と違和感がないのが面白い。本陣とともに大名行列の写真が貼ってある。

もうひとつの国指定重要文化財である旧矢掛脇本陣髙草家住宅も撮影。こちらも月曜日で見学できず(土日のみ開館)。
月曜キライで輪ゴム銃を乱射したい気分である。矢掛に来ておいて本陣も脇本陣も見られないとは、何しに来たのか……。

  
L: 旧矢掛脇本陣・髙草家住宅。  C: 主屋を正面から。  R: 主屋の右に本陣から移築した薬医門。その右が蔵座敷。

この脇本陣の辺りが賑わいのある矢掛の宿場町の東端といった感じである。ここから東も街道らしい風情を残すが、
店舗よりも住宅が中心となる。余裕があるのでもう一往復するが、それで本陣が開くわけでもない。悔しさが募る。
矢掛の街の感触を確かめると、駅へ向かってのんびり歩いていく。まあ、いい感触で一日が始まったのは間違いない。

  
L: 脇本陣の横を通っている大髙草小路。矢掛を象徴する路地となっているようで、PRでよく使われるようだ。
C: 宿場町の東端から見る矢掛の街並み。  R: 東端にある交譲会館。1928年ごろの築。手前の祠は由加神社。

矢掛を後にすると、西へ2駅行った早雲の里荏原駅で下車。こちらはその名のとおり北条早雲こと伊勢盛時の故郷。
応仁の乱をもたらした最大の原因でおなじみの伊勢貞親の甥に当たるそうで、そうなると下克上のイメージとだいぶ違う。
早雲は庶流とはいえ、伊勢氏は室町幕府の政所執事という名門で、それで足利一門の今川氏とつながりがあったわけだ。
堀越公方を倒して伊豆を制覇し、関東管領に対しても殴り込みをかけた戦国大名の嚆矢を生んだ土地なのである。
ゆうきまさみの『新九郎、奔る!』を読んでおくべきだった、と思いつつ国道486号に出る。ここからが大変だ。

  
L: 早雲の里荏原駅の北口にある北条早雲像。工場に挟まれたスペースにあり、かなり地味。南口に置いた方がマシなのでは?
C: 跨線橋から眺める井原線。この写真は戻ってきてこれから乗る下り列車が来るのを撮ったところ。  R: 南口。

国道に出ると、ひたすら西へと歩く。片道2km、目標は縣主神社だ。次の列車まで1時間弱なのでけっこうギリギリ。
「ビール王」馬越恭平の生家付近にある馬越橋で小田川を渡ると、旧木之子村の木之子町。読みは「きのこ」だが、
木々の村ということで名がついたそうで、特にキノコは関係ない模様。田んぼの中を抜けて稲木川を渡ると縣主神社。

  
L: 縣主神社の手前にある庭。  C: こちらが境内入口。  R: 鳥居にいる虬(みずち、一般には「蛟」の漢字を当てる)。

『日本書紀』によると、備中にはかつて毒を持った「大虬(ミズチは水に関連する竜・大蛇系の怪物)」が棲んでいた。
これを笠臣国造の祖先である県守(あがたもり)という男が倒したという記述があるのだ。なるほどそれで縣主神社か。
調べてみたら、確かに鴨別命を縣守として主祭神に祀っている。石段を上きるとすぐそこが拝殿で、高さはなく幅が広い。
また瓦屋根も独特である。神仏習合っぽい感触もあるが、その枠に収まらない感じもある。なんとも不思議な神社だ。

  
L: 石段はなかなかハードである。  C: 1885(明治18)年に建てられたという石柱。この時期に神社にこのアーチは不思議。
R: 拝殿。中央が向拝として張り出しているのでよけいに圧迫感がある。単純な神仏習合とは違う雰囲気が漂っている。

境内社の八幡神社の中には複数の虬の木像が置かれており、異彩を放っている。八幡神とは関係ないと思うのだが。
ちなみに僕のミズチ知識は『水滸伝』の“出洞蛟”童威によるもので、『日本書紀』の虬の方は正直知らなかった。
勉強になるなあ、伝承ってのは面白いなあと思いつつ縣主神社を後にする。急がないと列車が出てしまうのだ。

  
L: 境内社。北には荒神社(右)と厳島神社(左)。  C: 右が八幡神社だが、「虬神社」の幟が置かれている。
R: 本殿。屋根の4方向に同じような千鳥破風が付いているタイプで、岡山県にはそういうものが多いのかなと思う。

知らない道を行く往路よりも知っている道を行く復路の方が早く着くものである。下り列車には無事間に合った。
1駅進んで井原駅で下車。いよいよ岡山県の市役所を完全制覇する日が来たのだ。しかしまずは凝った駅舎を観察する。

  
L: 井原駅の外観。だいぶ気合いを感じさせる。  C: 駅舎内には井原デニムストア。奥には平櫛田中の作品がある。
R: 駅中央のとんがりガラス内はこのような待合スペース。柱には「IBARA DENIM」とありアイデンティティを感じる。

というわけで、駅舎の時点で井原市のアイデンティティが「デニム」「平櫛田中」の二本柱であることがわかる。
デニムというとおととい児島に行ったこともあって、ここもそうなのかという感覚だが、どうもいろいろ見てみると、
児島はジーンズで井原はデニムという住み分けがあるようだ。デニムが生地なのに対し、ジーンズはズボン。
だから井原で生産した生地を児島で加工すればいいということか。よくわからんが、がんばれ岡山県。
そしてもうひとつ、平櫛田中である。僕は大学時代に小平に通った経験があるからその名前を知っていたが、
(一橋大学小平キャンパスのすぐ近くに平櫛田中彫刻美術館がある。でもいつでも行けると思って行ったことないです。)
そうでなければたぶん知らなかったと思う。なんで名字が2つなんだよ、とか言っていると思う。
ちなみに平櫛田中の旧姓は実際に「田中(たなか)」だったので、名字が2つというのは実は正しい。
木彫の彫刻家で生涯現役、107歳で亡くなったときには男性長寿日本一だったという、うらやましい人である。

  
L: 井原デニムをアピールする公式マスコットの「でんちゅうくん」。井原が誇る二本柱が融合している例である。
C: 街中を走るジーンズバス。ここにも鏡獅子。ちなみに井原市のデニム生産は江戸中期からの綿花栽培・藍染織物が起源。
R: またしてもでんちゅうでござる。井原市民は本当に平櫛田中が好きだなあ。でも鏡獅子ばっかりなのはどうなんだろう。

井原市役所へと歩いていく。井原市の旧市街は小田川沿いにあり、昭和の風情を残しているとのこと。
しかし駅から最短距離で市役所を目指したため、しっかり碁盤目状に整備された区域を行くのであった。
我慢できなくて途中のラーメン屋でお昼をいただいたのだが、無理してでも旧市街を歩けばよかったと後悔している。
天気よければ行動範囲も自動的に広がるのだが、曇り空だとどうしても動くのが億劫になっていけない。
いや、駅でレンタサイクルを借りればよかったのだ。つねにきちんと下調べをしないといけないなあと反省。

  
L: 井原市役所。まずは駐車場越しに南西から撮影。  C: 近づいて眺める。  R: 南東側から見たところ。

井原市役所に到着。すっかり書き忘れていたが、井原は「いばら」と濁る。市役所は2003年の竣工で、設計は大建設計。
西は313号、南は486号と2つの国道が近くを走っているのだが、どちらからも一本入った位置に建てられており、
建物のわりに周囲の道は幅が狭くて撮影しづらい。まともに撮れるアングルがかなり限られていてフラストレーション。

  
L: 北東側から見た側面と背面。  C: 北西側の駐車場から見た側面。非常に撮影しづらい。  R: 南西から。一周完了。

平日なので中にお邪魔する。入ってすぐは特にどうということはないが、進んでいくと豪快なアトリウムとなっている。
なるほど敷地いっぱいに建てている理由はこれかと思う。自治体によるが、アトリウムは公開空地扱いにできるのだ。
しかしこれだけ大胆な事例はかなり久しぶりである。浦添(→2018.6.24)以来かな。20年前(!)に多摩地区を攻めたが、
そのときの昭島(→2002.9.27)とあきる野(→2002.10.9)がこんな感じだった記憶がある。再確認せねばいかんなあ。

  
L: 井原市役所の中に入る。エントランスはごくふつうな印象。  C: 奥へ進むとこの光景。  R: かなり豪快なアトリウムだ。

市役所の裏には、井原市立田中美術館を挟んで田中苑(でんちゅうえん)という公園。いやホント、田中大好きだな!
和風の庭園としてまとめられているが、園内には『鏡獅子』をはじめとする田中作品のブロンズ像が置かれている。
これらは木彫をつくる前に石膏で型取りした原型を鋳造したもので、複製ではなく「本物」という扱いになるそうで。
ここに来るまでさんざん『鏡獅子』を題材にした地元アピールを見てきたので、作品本体を見ると不思議な気持ちになる。
いや、これが代表作なのはわかるけど、平櫛田中の作家性や井原市の特徴ではなく、歌舞伎をアピールする要素が強く、
僕の中では『鏡獅子』と井原がつながらないのである。「鏡獅子〜平櫛田中〜井原」<「鏡獅子〜歌舞伎」だと思うのだ。
まあこれはむしろ、平櫛田中が歌舞伎を象徴する作品をつくったという点が凄いんだろうけどさ。すっきりしない。

  
L: 田中苑。日本庭園のテイストだが公園なので周囲が開放されており、妙な違和感が。  C: 園内にある茶室・不老庵。
R: 『鏡獅子』。平櫛田中自身よりも歌舞伎をアピールする要素が強く、井原とのつながりが弱い選択だと思うのだが……。

無知な自分が悪いということにしておいて、気を取り直して周辺探索。もちろん井原市立田中美術館に入りたかったが、
新館の建設工事で絶賛休館中なのであった。今日はとことんツイていないなあ。しかし隣の井原市民会館が面白く、
それでどうにかヤケにならずに済んだ。1971年のオープンで、しっかりモダニズム。詳細を知りたい建物である。

  
L: 井原市民会館。  C: 東から見た側面。南北の棟をスキップフロアでつないでいるようだ。実に面白い。  R: 南東から。

  
L: 市役所側、南西から見た井原市民会館。  C: 工事中の井原市立田中美術館。現在の建物は1982年竣工とのこと。
R: 駅前通り沿いのアクティブライフ井原。生涯学習施設で1994年竣工。5階建てで、かなり充実している模様。

岡山県の市役所めぐりを締めくくる井原市訪問だったが、やや消化不良な感触となってしまった。
神辺駅に着くとJRの福塩線に乗り換える。福山市域を抜けて府中へ。前に来てから10年近く経っている(→2013.2.23)。

 神辺駅にて井原鉄道の最果て光景を眺める。

府中駅の改札を抜けると9年前と変わらぬ光景(だと思う)。市街地は矩形にのっぺりと広がっていて、
やっぱり街の規模のわりに距離がある。それがどこか密度の薄い閑散とした街という印象につながっているわけだ。
備後の府中ということで往時の勢いを感じさせる広さである分、現在のダメージが目立ってしまっていると思う。
それでもSPINGLE MOVEの工場は相変わらず元気である。市街地に工場があることがプラスの印象を与えている。

恋しきから駐車場を挟んだ南側に観光案内所ができていた。道を挟んださらに南には同じデザインの飲食店もある。
9年前にはなかったのに、府中もがんばっているなあと思いつつ、矢掛で予約しておいたレンタサイクルを借りる。

 観光案内所。駅前でなく街の中心ってことは、福塩線に乗る観光客、少ないんだなあ。

それでは府中市内の神社めぐりをスタートなのだ。ターゲットは北西の甘南備神社と、北の府中八幡神社。
特に名前はついていないようだが府中市の中心部はしっかり盆地の地形となっており、神社は山麓に食い込んでいる。
電動自転車の便利さを最大限に生かして勢いよく駆け上がっていくのであった。まずは甘南備神社からだ。

  
L: 甘南備神社の参道入口。いかにも山裾の神社である。  C: 参道が長い。  R: 自転車を置いて本格的な石段に挑む。

県道388号を進んでいき、出口川沿いに少し上がると一の鳥居である。しかしここからの参道が実に長い。
まっすぐ山麓の境内へと続く道は、さすが備後の府中にある式内社だと思わせる風格が漂っている。
電動自転車のおかげで簡単に済むが、雨でも降ってこれが歩きなら、かなりつらい道だ。運がいいと思おう。

  
L: 隋神門。  C: 抜けてもさらに石段があり、その上に拝殿がある。1924(大正13)年再建で、なかなかの威容である。
R: 境内の南側にある稲荷神社。ほかの境内社が祠レヴェルなのに対し、妙に立派である。明らかに特別扱いだ。

社務所に近づいたら2匹の犬が寄ってきた。吠えられるかと思ったら、やたらめったらフレンドリーでもうかわいくて。
御守も頂戴できたし、犬は尻尾をブンブン振って迫ってくるし、もう最高。昨日の猫に続いて楽しい交流ができたぜ。

   
L: 稲荷神社前から拝殿の側面を見たところ。左の赤いのが本殿。  C: 本殿にできるだけ近づいてみた。見事な朱塗りだ。
R: 社務所前にいた犬。左の犬は首をブンブン回しているところ。こんなかわいい犬に歓迎してもらえるなんて最高だわ。

後ろ髪を引かれる思いで甘南備神社を後にする。次の目標は府中八幡神社で、県道をちょっと戻って北に入る。
すると「首無地蔵」と案内の出ている寺にぶつかった。物騒な名前だが、これはお参りしておかないといかんのでは、
ということで自転車を駐めて境内に入る。意外と規模が大きくて感心しながら参拝したのだが、歴史は非常に新しく、
首無地蔵が見つかったのはなんと1977年のこと。オレが生まれた年じゃないかよ! それでこの規模とは驚いた。

  
L: 首無地蔵の境内入口。歴史が新しすぎてか、どこかの寺に所属しているということがない模様。
C: 地蔵が安置されている建物内。  R: こちらが首無地蔵。確かに首から上がない。撮影自由なのもすごいなあ。

参拝を終えてさらに北へ。山へと向かう道なので勾配がかなりキツい。周囲は穏やかな住宅ばかりだが、
この感じは長崎の金刀比羅神社に匹敵する。あの「長崎11社参り」もつらかったなあ……(→2019.11.17)。
それでも電動自転車の性能にモノを言わせて参道に出る。さらに脇の車道で行けるところまで駆け上がる。
府中八幡神社も参道が非常に長く、しかもこちらは山の中の公園を行くような感じになっており、
電動自転車じゃなかったら甘南備神社以上の時間を食われていただろう。運がいいと心から思う。

  
L: 石段を上って参道入口。後で自転車を置いて撮影。  C: 進むと隋神門。  R: 抜けて手水舎から見たところ。

府中八幡神社は1443(嘉吉3)年、山名持豊(宗全)の目代・宮田備後守政輝により、八尾城の守護神として創建された。
しかし1538(天文7)年に城主の杉原理興が神辺城に移ってしまい荒廃。江戸時代に入って地元民が現在地に遷座し、
1692(元禄5)年に社殿が造営された。その後、1742(寛保2)年に新たな社殿が造営されると末社・天満宮に転用。
現在の府中八幡神社は1969年の再建だが、天満宮はそのまま残って府中市指定重要有形文化財となっている。

  
L: 府中八幡神社の拝殿。今となってはやたらと奥まった位置にある神社だが、しっかり崇敬されているのがわかる。
C: 角度を変えて眺める。拝殿の幅が広いが、こうして見るとバランスがいい。  R: 本殿。こちらの脇に境内社が並んでいる。

 
L: 本殿脇の境内社。デザインの違いが面白い。  R: 橋を渡って末社・天満宮。こちらが1692(元禄5)年築の元本殿。

無事に御守を頂戴できたので、位置エネルギーを解放して市街地に戻る。いや、本当に大変だった。
せっかくなので恋しきを撮影してみる。恋しきは9年前にも訪れたが、早朝すぎて中に入れなかった(→2013.2.23)。
そして今度は冬季営業期間だからかコロナだからか、またも中に入れなかった。月曜キライ! 輪ゴム銃乱射してやる!

  
L: 恋しき。1872(明治5)年創業の料亭・旅館をリニューアル。国登録有形文化財で府中のシンボル的存在とのこと。
C: 裏手の庭園を覗き込む。  R: 駐車場から見た恋しきの裏側。いやー、これはぜひ中を見学したかったなあ。

そして近くの金毘羅神社も撮影。社務所がないので御守もないが、街中の神社として独特の存在感がある。
境内中央の石灯籠は、讃岐の金毘羅宮を遥拝するため三浦堪右衛門が約30年かけて1841(天保12)年に完成させた。
高さは8.38m、笠石は一辺2.62mの規模がある。しかし本来なら参道のある場所につくっちゃうとは大胆だなあ。

  
L: 金毘羅神社。「日本一石灯籠」の石碑がある。  C: こちらがその石灯籠。  R: 金毘羅神社の本殿。

9年ぶりの府中市ということで、府中市役所もあらためて撮影するのだ。というのも、改修工事が行われており、
以前(→2013.2.23)とはだいぶ異なる姿となったからだ。ちゃんと情報をアップデートしておかないといけないのだ。
国道486号に出て福塩線の南側に出ると、そこにはなんだかロボット感のある建物がそびえていたのであった。

  
L: 府中市役所。9年前と比べると、2本あった柱が1本に減っている。  C: 南東から見たところ。  R: エントランス。

  
L: 新たに増築された建物。女性子ども課とのこと。  C: 南西より。平日なので駐車場がしっかり混んでいる。
R: 北西から見た側面と背面。しっかりと耐震補強されているなあ。1973年竣工だから、こうなるわけか。

  
L: 北から見た背面。国道から見るとこちら側。府中市役所は国道に対して背を向けている珍しいタイプなのである。
C: 北東から見たところ。  R: 東から見た側面。敷地入口がこちら側なのでロータリーがここにあるという変則さ。

府中市役所が耐震補強工事を完了したのは2014年のことなので、前回僕が訪れた翌年には今の姿に変わっていたのだ。
しかしまさか、あの地味だったベージュ庁舎がこんなことになるとは。この改装ぶりはちょっと予想外だった。

 中に入ってみた。前と比べて開放的になっているのかな?

これでいちおう府中市内で訪れておきたかった場所はすべて押さえた。しかし時間的な余裕がまだある。
このまま国道486号をまっすぐ行けば──備後国一宮がふたつあるじゃないですか! 行かいでか!
というわけで、せっかくここまで来ていて時間的余裕があるのに参拝しないわけにはいかず、目指すは新市・上戸手。
交通量が多く決して自転車にとって走りやすい道というわけではなかったが、まっすぐ下っていくのはやはり快適。
15分ほどの楽しいサイクリングで素盞嗚神社(→2013.2.232015.5.6)に到着するのであった。この神社好きだなあ。

  
L: 素盞嗚神社の入口。昔からの聖地という感触の神社で、なんとなく落ち着く。実は巨旦将来の屋敷跡だそうだが。
C: 隋神門。  R: さらに進んでいくと神楽殿。参道の真ん中にこのような神楽殿があるのは独特である。

  
L: 拝殿。  C: 本殿。何度見ても立派だなあ。  R: 蘇民神社・疱瘡神社。『備後国風土記』の蘇民将来伝説はここが舞台。

  
L: 戸手天満宮。  C: 相方城から移築された城門(東門)。こちらは16世紀末から17世紀の築で、装飾のない実戦仕様だと。
R: こちらも相方城から移築の城門(西門)。ちなみに相方城は芦田川を挟んだ南西にある山城で、石垣が残っているそうだ。

素盞嗚神社はいかにも近所の公園のような雰囲気と昔ながらの聖地の雰囲気が混じって、なんとも落ち着く場所だ。
実はこちらの境内、武塔神(スサノオ)によって滅ぼされた巨旦将来(蘇民将来の弟)の屋敷跡という話だが。

 神谷川にて。上からサギ、ウ、カモ。なんだこの3連発。

新市駅前に出ると、県道26号をひたすら北上。歩きだとしっかり30分かかる道のりも、自転車だと一瞬である。
昔ながらの住宅や備後絣に由来する繊維・衣類関連の事務所が並んで歴史を感じさせてくれる街道を走るのは楽しい。
自転車だとその空気を肌で感じながらスピーディに動けるので、しっかりいいとこ取りができるのである。
吉備津神社(→2013.2.232015.5.6)には自転車で参拝に来るのが正解だったんだなあ、と思っているうちに到着。

  
L: 吉備津神社の入口。いやあ、自転車で来るの超楽しい。新市駅近くで自転車を貸し出してくれるといいんだけど。
C: 参道の北にある櫻山神社。元弘の乱で楠木正成に呼応して備後国一宮で挙兵するも敗死した桜山茲俊を祀る。
R: 参道に戻る。吉備津神社はまっすぐな参道に社殿を点在させて配置しており、境内は少し山岳寺院っぽい感触がある。

  
L: 途中の神楽殿。こちらは素盞嗚神社と違って妻入スタイル。  C: 拝殿。本殿が修理工事中なので祭神は現在こちら。
R: 本殿。修理工事を行って色を塗り直しており、驚いた。個人的には前の方が好きだったんだけどなあ……。

  
L: 正面から見る本殿。工事は終わっているようだが、遷座がまだなので扉が開いていない。なんだか悔しい。
C: 角度を変えて眺める。  R: 側面。しかし本殿に直接参拝できる神社は本当に珍しいよなあと思う。

本殿の修理工事は終わったようだが遷座祭が行われるのは来月なので、扉が開いておらずけっこう残念。
むしろ扉が開いていない貴重な姿を見ることができたと思えばいいのだろうが、悔しいものは悔しいのである。

 吉備津神社の境内にて。今日は犬にモテる日なのかな。

電動自転車の性能にモノを言わせて山を越えると府中の市街地に戻る。自転車を返すとのんびり歩いて駅へ。
今日も中身の詰まった一日だった。明日が旅行の最終日だが、今日以上に自転車で走りまわる予定になっている。
天気が良くなることを祈ることとしよう。でも春の旅行って安定しないんだよなあ。スカッと晴れますように。


2022.3.27 (Sun.)

瀬戸内旅行の2日目は岡山県の東部を動く。なお、リョーシさんは弁護士の休日当番だかなんだかで(お疲れ様です)、
本日は私の単独行動。でもそのリョーシさんが教えてくれた「setowa 岡山ワイドパス」を使って動くのだ。
これが非常にありがたいきっぷで、4,100円で岡山県内のJR全駅に加えて広島県は三原まで行ける。有効期間は3日間。
しかも井原鉄道にも乗れる。まさに今回の旅行のためにあるようなきっぷなのだ。本当にありがたいことです。

8時半ちょい前に降り立ったのは日生駅である。日生といえばカキオコ。そう、牡蠣のお好み焼きである。
前に男3人ブラ珍クイズ旅で食べたが(→2011.2.19)、あのとき以来の日生だ。夜で様子がよくわからなかったが、
太陽の出ている時間に来るとこんななのか、と思いつつ国道250号を西へ。瀬戸内らしい山の迫った港町である。
朝早いので店はまだやっていないが、あちこちに「カキオコ」の文字があり、名物としての定着ぶりがわかる。
逆を言うとそれしかない気もする。まあ名物が何もないよりは絶対にいいし、食の名物は強いのである。

  
L: 日生駅。後ろに山が迫っていて、なんとなく紀勢本線を思い浮かべる。  C: 駅から海はすぐ。「ひなせ」の文字が目立つ。
R: 日生カキオコ20周年の横断幕。僕らが食べたのは10年ほど前で、着実に名物として定着してきているなあと思うのであった。

5分ほど歩くと目的地に到着。旧日生町役場、現在は備前市日生総合支所である。こちらがDOCOMOMO物件なのだ。
設計は山本久(K構造研究所大阪事務所)で1961年の竣工。なるほど、これは一目見ただけでタダモノではないとわかる。
個人的な感触としては、役所というよりは体育館建築に近い印象で(体育館建築についての軽いまとめ →2015.5.10)、
中を覗き込んだら実際に柱が見当たらなかった。時期としては名だたる体育館建築群よりも早い竣工になるので、
それらに向けての無柱空間の実験のような要素があったのかもしれないと勝手に思う。その点でも貴重な例だろう。

  
L: 備前市日生総合支所(旧日生町役場)。港から上り坂を行ったところにある。津波を少し考慮した立地か。
C: 敷地に入って眺める。平面は長方形で長辺方向が短辺方向の3倍長く、幅がけっこうある。エントランスは東寄り。
R: 角度を変えてエントランスを眺める。庇の折り方が実に楽しいモダニズム。屋根とのバランスもよい。

  
L: 近づいてみたところ。こうして見ると体育館建築としての要素が強いと感じる。タイルが少し安っぽいのが残念。
C: 中を覗き込む。ご覧のとおり柱がない。その分、天井に圧迫感をおぼえてしまう。しかし窓が汚いので光が拡散するなあ。
R: 奥の方からエントランス側を振り返る。本体はまだまだ大丈夫そうだが、屋根がちょっと傷んできているかなと。

  
L: 少し距離をとって眺める。  C: 全体が収まるように撮るのは少し大変。思ったよりも幅があるのだ。  R: 側面と背面。

  
L: 北西にまわり込んで背面を眺める。  C: 背面。  R: 駐車場から一段下がって背面を眺める。石垣がなかなかのこだわり。

日生総合支所の裏には日生西公民館があり、これがまた凝った建物となっている。もともとは日生町の中央公民館で、
竣工は1965年。設計者はわからないが、日生総合支所同様にセンスのある人がセンスのある設計者を選んだのだろう。
建物は2棟からなり、間をエントランスがつないでいる。残念ながらどちらも積極的に使われている感触はなかったが、
高度経済成長期における躍動感がしっかり伝わってくる建物で、昭和ブームであればもっと注目されるべき建物と思う。

  
L: 備前市立日生西公民館。  C: 西側の建物。本来は大ホールだろうが、現在は単なる物置となっていた。
R: 東側の建物。「地域交流サロン とまり木」という看板が置かれており、「心の相談日」と貼り紙がしてあった。

昨日と違って今日は青空である。いい気分で時間いっぱい粘って撮影を終えると、日生駅へと戻る。
ここからどんどん西へと引き返していくのだが、次の目的地は備前市役所だ。西片上駅で下車する。
8年前に訪れているが(→2014.2.22)、2020年に新しい庁舎が竣工したので再訪問するのである。

  
L: 備前市役所。まずは北西から見たところ。  C: 西から駐車場越しに眺める。  R: そのままエントランス。

懐かしさを感じつつ、前と同じルートで備前市役所へ。旧庁舎は敷地の南西に増築棟があり、本体は北側にあった。
新たな市役所は敷地の東側となっており、新庁舎を建て終わってから旧庁舎を壊して駐車場にしたのがわかる。

  
L: エントランスの柱には備前焼のタイル。  C: 南西から見た備前市役所。道を挟んだ南は工場で入れないので、これが限界。
R: 南東から見たところ。やはり南側からすっきり撮影できないのは苦しい。道路側に駐車場のような余裕が欲しかったよなあ。

新たな備前市役所の設計は、山下設計・丸川建築設計JV。市の名物である耐火レンガをイメージしたとのこと。
まあよそ者が見る分には、格子が強調されている辺り、いかにも最近の堅実な庁舎建築というように思えるが。

  
L: 東側の側面。南も東も敷地の端に寄せているので余裕がない。  C: 北東から見たところ。  R: 北から見た背面。

撮影を終えると駅には行かず、市役所前の道をそのまま西へ。備前市市民センターも越えて橋を渡り、備前郵便局へ。
この郵便局の脇が片上のバス停になっているが、もともとは同和鉱業が経営していた片上鉄道の片上駅があったのだ。
片上鉄道は1991年に廃止となり、片上駅の貨物関連施設だった場所には現在、複数の商業施設ができている。

停まっていたバスに乗り込むと、国道2号を西へ。山陽本線も並走しているが、次の目的地が微妙な位置にあり、
時間と距離の都合を考えてあえてバスにしたわけだ。船山バス停で下車すると、まっすぐ南へと歩いていく。

 途中の公園。「備前長船刀剣発祥之地」と彫られた石碑がある。

というわけで、備前長船刀剣博物館にやってきた。この微妙な立地がネックで岡山旅行のたびにスルーしていたが、
刀剣の常設展示を行う日本初の公立博物館ということで、ずっと気になっていたのである。鼻息荒く入館する。
現在はテーマ展「占いと刀剣」の真っ最中で、手相などと同じように「剣相」を見るという考え方があったことを特集。
僕としては「備前長船」ならではの特徴、他の土地の刀とどう違うのかを知りたかったのだが、その要素はほぼなかった。
正直かなり残念である。国宝の山鳥毛も展示されていなかったし。撮影自由なのはありがたかったけど、それくらい。

  
L: 法光。室町末期の長船派(末備前)を代表する刀工で、吉備津神社(→2014.7.24)に奉納された大太刀は最高傑作とのこと。
C: 清光。こちらも室町末期で長船派を代表する刀工。  R: 兼元。つまりは関孫六(→2018.8.12)。美濃じゃねえか。

  
L: 村正。美濃の流れを汲み、桑名を拠点とした。徳川を呪う妖刀としておなじみだが、実際には三河武士御用達だったそうで。
C: この刃文を見ると、妖刀とされているのも納得してしまうなあ。幕末には倒幕の象徴とされ、志士に人気だったという。
R: こちらは富士山と月輪を入れた江戸末期の長船派・祐包。こんなことできるのか、と驚いた。反対側は富士山と日輪だと。

備前長船の特徴は大量生産に対応したことで、日明貿易では低品質な刀でも10倍の値段で売れたので大儲けだった。
戦国時代になるとさらに大量生産体制を強化し、特注品から安かろう悪かろうまでなんでもござれで100万振は生産。
おかげで今も知名度があるわけだが、終わりは突然やってくる。1590(天正18)年にすぐ西を流れる吉井川の大洪水で、
長船の地は壊滅的な被害を受けてしまう。刀の生産は一気に衰退し、戦後にじっくりと復興してきた感じである。
備前長船刀剣博物館では展示館の隣に工房をつくり、作刀の様子を一般公開している。物産館もあって賑わっていた。

  
L: こちらの冠木門が備前長船刀剣博物館の入口になる。  C: 工房エリアは広場を中心に並んでいる。  R: 工房。

 
L: 鍛刀場の中を覗いたところ。  R: ツバメがいたのであった。もうそんな季節なんだなあ。

見学を終えるとJRの香登駅までのんびり歩く。列車に乗り込むと西大寺駅で下車。駅前にある会陽の像を呆けて眺め、
バスが来たので乗り込む。次の目的地は牛窓だ。リョーシさんに連れていってもらった安仁神社(→2015.5.6)の先、
瀬戸内海に面する港町である。リョーシさん曰く「日本のエーゲ海」を名乗っているそうだが、僕としてはとにかく、
その名前が気になるのだ。「牛」で「窓」。どういう由来なのか。ぜひ現地に行って実感してみたいと思ったのだ。
バスで30分ほど揺られて山の中から港に出ると、そこが牛窓である。オリーブ園入口というバス停で下車したが、
ここがもう、港らしい雰囲気全開。岸に面してボートがびっしり並んで停泊しており、リゾート感が漂っている。

 牛窓、オリーブ園入口バス停付近。思っていたより元気な港町である。

ではここから牛窓神社を目指すのだ。微妙に距離があって面倒くさい。スマホを片手にトボトボと東へ歩く。
高低差があるところに住宅が点在し、低くなると畑とそれを囲むようにやっぱり住宅が並んでいる。実に穏やかだ。
東の端っこが牛窓神社だが、境内は海水浴場から続く石段でアプローチするのが正しいようで、そっちにまわり込む。
浜辺では散策する人、釣りをする人、持ってきた椅子に寝る人など、みんながさまざまなスタイルで過ごしている。
今日は風がなくて暖かく、海岸でのんびりするには最高の日和だ。いちばんいいときに牛窓に来たのかな、と思う。

  
L: 海水浴場脇にある牛窓神社の一の鳥居。ここから石段がけっこう長く続いていて、なかなか大変。
C: じっくりと上っていく。  R: 途中にある蕪崎園地に到着。展望台があるので寄ってみる。

参道の途中に蕪崎園地という公園があり、展望台があるのでちょっと寄ってみた。とにかく今日は天気がいいので、
海も空も輝いて見える。南を向けば手前に前島、その奥に小豆島(→2013.12.29)が見える。だいぶ近くに感じる。
欲を言えばもう少し高さが欲しいところだが、牛窓南端の集落が見えてなかなか風情がある。しかし晴天は正義だな。

  
L: 蕪崎園地の展望台から眺める家島群島。右端、前島の後ろに見えるのは淡路島とのこと。そこまで見えるんだなあ。
C: 南を向くと前島、そして小豆島。  R: さらに南西方向。牛窓南端の集落と小豆島、瀬戸内の日常が一望できる。

さらに先へと進んでいくと、ようやく牛窓神社の境内である。裏の駐車場から来ている人もけっこういるようで、
神社はかなり賑わっているのであった。場所が場所だけに牛窓神社は古くから聖地として認識されていたようだが、
長和年間に宇佐神宮(→2011.8.132015.8.22/2020.3.29)または石清水八幡宮(→2015.3.28)から八幡神を勧請し、
それをもって創建としている。伝説によると、神功皇后が三韓征伐に赴く際、ここで塵輪鬼という怪物に襲われた。
撃退すると塵輪鬼の首・胴・尾が分かれてそれぞれ黄島・前島・青島となったという。そして征伐を終えた帰路、
塵輪鬼の魂が牛鬼に化けて再び神功皇后を襲ったが、住吉明神が牛鬼の角をつかんで投げ飛ばして倒したという。
そのためこの地を「牛転(うしまろび)」と呼ぶようになり、それが訛って「牛窓」という地名が生まれたとのこと。

  
L: 参道に戻って進んでいく。   C: 随身門。なかなかの風格である。  R: ようやく境内に到着。石段長かった。

牛窓神社の拝殿は幅の広い瓦屋根に唐破風の向拝でなかなか独特。それに対して本殿は正統派というか、
いかにも吉備国だなあと思える檜皮葺。1812(文化9)年の再建で、瀬戸内市の重要文化財となっている。

  
L: 拝殿。幅があり撮影に苦労した。  C: 角度を変えて眺める。  R: 本殿。手前の玉垣には廻船問屋の旦那衆の名前が並ぶ。

御守を頂戴すると、参道を戻って海水浴場に出る。さすがに泳ぐわけにはいかないが、夏は大盛り上がりだろうと思う。
そのまま南へのんびり歩いて海岸線をなぞっていく。いかにもな漁港が点在していて、海をよけいに近く感じる土地だ。

  
L,C: 牛窓海水浴場。ひたすらに穏やかな時間である。  R: 愛宕宮近くの漁港。漁業の街にしても、海を身近に感じる街だ。

牛窓神社の摂社である五香宮を目指してさらに南下。本蓮寺に至る道には「しおまち唐琴通り」という名前が付いている。
この辺りの家々は焼杉板を張った黒一色のものが多く、以前訪れた、同じ瀬戸内海の直島(→2007.10.5)を思いだす。
同じ文化を持っているということは、それだけ瀬戸内海のネットワークが強固だったんだなあ、なんて思いつつ歩く。

  
L: 焼杉板を張った住宅が並ぶ。  C: こちらは新築のお宅なのだが、焼杉板で全面が準備万端。文化なんだなあと思う。
R: かつてここには家があったと思うのだが、今はすっかり向こうの海が見える。オープンスペースにしちゃったのか。

  
L: 若葉屋(東服部家)。  C: その蔵。  R: 焼杉板張りの古い家を店舗としている例。

五香宮に到着。周囲と比べて高い丘に鎮座しており、こちらの祭神は牛窓の地名の由来に関係した住吉三神。
周囲をがっちりとコンクリートで固められているが、社殿じたいは木造で、摂社にしてはなかなかの規模である。

  
L: 五香宮の参道入口。  C: 拝殿。コンクリートのインパクトが大きい。  R: 本殿。五香宮の社殿は1918(大正7)年築。

五香宮の奥は妙福寺観音院の境内とつながっている。本堂は1746(延享3)年の築で、こちらも瀬戸内市の重要文化財。
そして五香宮の海側には恵美須宮と牛窓灯籠堂跡がある。港町の歴史がしっかりと凝縮されている一角である。

  
L: 妙福寺観音院本堂。  C: 手前が恵美須宮で奥が牛窓灯籠堂跡。  R: 恵美須宮。なんかかわいいのがいますね。

というわけで、この辺りには猫がいっぱいなのであった。しかしなかなか仲良くしてくれない。
CIAOちゅ~るをあげていたおじさん曰く、「触らせてくれるのとエサをあげるのは交換条件になっているねー」だと。
それでは僕は今後、旅行にCIAOちゅ~るを持ち歩かないといけないではないか! まったく困ったものである。
しかし中に1匹フレンドリーな猫がいて、僕が撫でたらよほど気持ちよかったのか、よだれを垂らして白目をむき、
延々となすがままにされるのであった。あまりに反応がいいので撫でまくっていたら、思いのほか時間を消費していた。

  
L: 「CIAOちゅ~るくれないヤツは触らせないよ」  C: 僕のゴッドハンドぶりに悶える猫。  R: 記念に自撮りしちゃったぜ。

猫というのは本当に恐ろしい生き物である。昨日、リョーシさんが沖田神社に連れていってくれたおかげで、
その分だけ牛窓での行動時間が大幅に増えたというのに、それが一気にチャラになってしまった感じなのだ。
まあ実際のところは、純粋に見どころが多いのと天気もよくて居心地がいいのとで時間を忘れていたわけだが、
それにしても猫との交流が「最後の一押し」になってしまった格好である。しおまち唐琴通りを慌てて西へ。

  
L: 途中の街角ミュゼ牛窓文化館(旧中国銀行牛窓支店)。1915(大正4)年の築で、1980年まで銀行として使われていた。
C: 中に入るとこんな感じの吹抜空間。  R: 奥から入口側を眺める。椅子が並べられてホール的に使われているようだ。

  
L: 牛窓文化館の向かいにある御茶屋跡。明治時代の有力者の邸宅とのこと。現在はセレクトショップなんだと。
C: 長屋門の中を覗き込む。うーん、入りづらいぜ。  R: 今も残る港の石積みと瀬戸内海。ひねもすのたりのたりかな。

しおまち唐琴通りの西側は、先ほどのような漁村らしい住宅よりも商店の割合が高くなる印象である。
それでもやはり焼杉板の黒い家がよく残っており、道路の曲がり具合もあって往時の雰囲気がしっかり感じられる。

  
L: しおまち唐琴通り。朝鮮通信使や参勤交代の風待ち・潮待ちの港だった歴史を穏やかに伝えている。
C: 家々の軒下にはこのような牛王宝印が掲げられていた。こちらはさっき本堂を見た妙福寺のものですな。
R: 上之町の井戸。雨の少ない瀬戸内の牛窓では、このような井戸が地域コミュニティで重要な役割を果たしたそうだ。

  
L: 備中屋高祖(こうそ)酒造主屋。明治時代の築で、国登録有形文化財。かなりの迫力で、しっかり焼杉板張りである。
C: 側面。  R: 裏にまわって見たところ。レンガの煙突は1932年ごろに建てられ、「牛窓港の赤煙突」として親しまれた。

しおまち唐琴通りのゴール地点には海遊文化館、そして本蓮寺。しかしどちらも時間切れで訪れることができなかった。
海遊文化館は朝鮮通信使を中心に牛窓の歴史を扱う博物館施設で、本蓮寺は朝鮮通信使が宿泊した宿舎でもあった寺。
本堂をはじめ国指定重要文化財がいくつかあり、これらを見られなかったことはもう本当に悔やんでも悔やみきれない。
せめて外観だけでも、と海遊文化館を撮影するのがやっとだった。これはもう、いつかリョーシさんに連れてきてもらい、
それでリヴェンジとするのだ。牛窓オリーブ園もあるし、いつか一緒にアナゴを食いに行きましょうや! ……とほほ。

 海遊文化館。1887(明治20)年に西大寺警察署牛窓分署として建てられた。

断腸の思いで牛窓を後にすると、邑久駅へ向かうバスの終点手前で下車。そこにあるのは瀬戸内市役所なのだ。
8年前に訪れているが(→2014.2.22)、せっかくなので晴天の下であらためて撮影しようというわけである。

  
L: 瀬戸内市役所。邑久町役場として1987年に竣工。  C: おじゃまします。  R: 北東から見た側面。

  
L: 南東から見た背面。  C: 南西から。  R: 北西に出てきて、これで一周である。

ちょっと急いで邑久駅に行き、そこから一気に岡山駅に戻る。牛窓で昼メシを食う時間はとても確保できず、
岡山木村屋のバナナクリームロールをかじりながら路面電車を待つ。これも「setowa 岡山ワイドパス」で乗れますのよ。
あらためて岡山の街は広いよなあと呆れながら城下で降りて旭川方面へ。本日のラストは岡山神社なのだ。

  
L: 岡山神社の境内入口。  C: 鳥居をくぐって随神門。1745(延享2)年築で、岡山大空襲をくぐり抜けて現存する貴重な門。
R: 拝殿。がっつりコンクリートのこちらは1975年の再建。川沿いということもあり、独特な開放感がある神社だと思う。

岡山神社は貞観年間の創建で、かつては現在の岡山城本丸の位置に鎮座しており、「坂下(さかおり)の社」と呼ばれた。
しかし1573(天正元)年に宇喜多直家が岡山城を築くため、現在地に遷座させた。江戸時代には岡山藩主・池田氏が崇敬。
漢字を改めて「酒折宮」と呼ばれていたが、1882(明治15)年に岡山神社と改称している。主祭神は吉備津彦命の姉で、
倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)。単純に藩主を祀った神社だと思っていたが、まったく違った。

  
L: 角度を変えて眺める。  C: 本殿。1958年の再建。  R: 後ろから見たところ。堂々としたものである。

参拝を終えると、旭川を眺めるベンチに腰掛ける。時刻はもう16時近くとなっている。怒涛の一日で本当に疲れた。
対岸の後楽園を覆う木々を眺めながら岡山木村屋のあんぱんと牛乳をいただいて呆ける。岡山城は改修中でシートの中。
時間があれば後楽園(→2008.4.22)の再訪もいいかなと思ったが、だいぶ夕方の日差しだし、もう体力が尽きている。

 後楽園もあらためてきちんと訪れたいなあと思う。

あんぱんを食い終わると城下の電停へと引き返し、地下の広場で日記を書きながらリョーシさんを待つ。
当番の仕事を終えたリョーシさんは思ったよりも早く来てくれたのであった。わざわざありがとうございます。
リョーシさんは僕が一宮好きなのを知っているので、時間いっぱい動けるだけ動きまくって、
吉備津彦神社や吉備津神社方面(→2011.2.192014.7.24)へ行ったものだと思っていたとのこと。
いや、さすがに今日そこまで行くのはつらいでございますね。そりゃもちろん、行けるもんなら行きたかったけどね。

少し早い晩メシとなったが、岡山名物ということでデミカツ丼をいただくことに。2回目(→2008.4.22)ですな。
リョーシさんが卵とじカツ丼とのセットにしたので、僕もそうする。さっきのあんぱんは昼メシにカウントなので大丈夫。
出てきたダブルのカツ丼だが、デミカツ丼はデミカツ丼でいいのだが、卵とじカツ丼が半端ない旨さでたまげた。
店を出た瞬間に「これだけ旨い卵とじカツ丼があるのにデミカツ丼ばかり有名なのはもったいないんじゃないか」と、
思わずリョーシさんに言ってしまうほどなのであった。東京にあったら確実に、自分へのご褒美で月イチで食ってる。

 デミカツ丼はデミカツ丼でいいが、卵とじカツ丼が凄すぎた。

その後は岡山駅方面に向かいながら入れる店を探す。漁船的なイメージでいい感じの居酒屋があったのでお邪魔して、
ままかりをはじめとする岡山名物をいただいた。僕は地酒を飲むぞということで、岡山の日本酒を飲んでいい気分。
リョーシさん曰く、この時期の岡山県民はサワラを出しておけばみんな喜ぶ、とのこと。勉強になりますなあ!
あとはリョーシさんのお遍路3周目が始まっちゃった話が面白かった。いいなあ岡山県民。オレもいつかやりたい。
アレだな、姉歯メンバーがみんな定年退職になったら記念にやってみっかね。勢いでお遍路しちゃうジジイになりたい。
ちなみに後で宿に帰るとき、別の飲み屋の店先で「サワラ入荷しました」という文字を見て、ほうほうほうと納得。

というわけで、リョーシさんには2日間にわたり遊んでもらいありがとうございました。たいへん楽しゅうございました。
いちおう今回の旅で岡山県の市役所はすべて押さえる予定だが、それでも岡山県を極めたとはまだまだ言えませんので、
きっとまたお世話になることでしょう。その際にはぜひよろしく。こちらもリョーシさんの上京を楽しみにしています。


2022.3.26 (Sat.)

岡山県で唯一残った井原市役所を押さえる瀬戸内の旅行は、ずっと前から計画していたのである。
で、岡山へ行くからにはリョーシさんに挨拶しないわけにはいかない。しかしコロナでそれが憚られるため、
実現できないでいたのだ。そしてこの春休み、ついに意を決して夜行バスに乗り込んだのである。

バスが岡山駅に着く少し前に、リョーシさんからはスタンバイの連絡が入る。うーむ、さすがである。
久しぶりの尻の痛みにヨタヨタしながら下車すると、スマホを見ながら西口の待機場所へと向かう。

 岡山駅付近。曇り空は暗いが、久しぶりの旅行で気分は昂揚。

すぐにリョーシさんの車が見つかり、どうもどうもとご挨拶。なんだかんだでけっこう久しぶりの再会だ。
さっそく朝メシをどうするかという話になるが、まあそこは当然、「やっぱり西日本はジョイフルですよね!」
というラビーの発言が思い起こされるわけだ(→2011.2.19)。われわれ、完全に刷り込まれてしまっている。
なにもそこまでジョイフルにこだわらなくてもいいのだが、僕が「コメが食いてえ」と所望したところ、
朝の7時台にコメが食える場所が結局ジョイフル以外に思いつかず、ふたりで倉敷のジョイフルに入るのであった。
今回は豚汁朝食はあえてはずしたが、朝からしっかりコメをいただけるジョイフルはやっぱり強いと思う。

さて、今回の旅行は3泊4日である。岡山スタートでだんだん西へと移動していき、広島空港から帰る。
初日の本日は土曜日ということで、気のいいリョーシさんが車を出して僕のワガママに付き合ってくれるのである。
実はあらかじめ、すべて自力でなんとかする場合の4日間のプランをリョーシさんに見てもらったのだが、
「この初日はレンタサイクルだとキツい!」ということでのご厚意である。朝メシの間に雨も降り出したし、
リョーシさんの車がなかったらどうなっていたことか。あらためて本当にありがとうございました。

 雨の中、倉敷の街並みを行く。

最初の目的地は阿智神社。 倉敷の美観地区を見下ろす鶴形山に鎮座する神社で、名は東漢氏の祖・阿知使主に由来する。
境内の北にある藤が有名で、倉敷市は藤を市の花にしているとのこと。女流棋戦の倉敷藤花はそこから採ったわけだ。
主祭神は宗像三女神で、今ではすっかり平地の印象の倉敷にこの祭神という点に、干拓の激しさと歴史の古さを感じる。

  
L: いざ阿智神社へ。鶴形「山」ということで、しっかり石段を上ることになる。  C: 神門が見えてきた。
R: 拝殿。中を通ることはできないが割拝殿的なスタイル。瓦葺きで堂々とした姿は、どこか奈良時代の匂いがする。

  
L: 境内の南西にある絵馬殿。雨なのでじっくり検証することはなかったが、実は床の下が懸造になっている。
C: 能舞台。山の上だがさまざまな要素が詰め込まれた境内だ。  R: 神庫。倉敷らしい(→2014.7.23)なまこ壁。

  
L: 拝殿から離れて本殿。手前には中門も独立しており、非常に独特。これは晴れた日に来てじっくり見たかったなー。
C: 拝殿の後ろ、幣殿を見たところ。本殿側にも唐破風があって立派。鳳来山東照宮(→2019.1.6)を少し思いだす。
R: 石段の途中から見下ろす美観地区。雨で煙っているのが残念である。瓦屋根が重なる光景は貴重なんですよ。

無事に御守を頂戴すると次の目的地へ。あらかじめGoogleマップでクチコミの件数が多いところをリストアップし、
それにもとづいて訪れる場所を決めたので、リョーシさんの知らない場所も含まれる。マニアックでごめんなさいね。
そんなこんなでやってきたのが、日本第一熊野神社。「日本第一」というフレーズがなんとも怪しさを感じさせるが、
国指定重要文化財があるということで気にせずゴー。岡山から水島・児島に分岐する直前の山麓に鎮座している。

  
L: 参道入口の鳥居。車は左脇の迂回路を行く。後で車から降りてわざわざ撮らせてもらったのだ。
C: 駐車場から見た境内入口。三重塔が神仏習合であることを強調する。  R: 駐車場のはずれに後鳥羽上皇の供養塔。

「熊野神社」ということは熊野三山(→2013.2.92013.2.10)、つまりもともと神仏習合色が強い神社である。
それにしてもこちらの日本第一熊野神社はさらに雰囲気が独特だ。しかし後鳥羽上皇供養塔の案内板を見て納得。
そこには「修験道総本山 五流尊瀧院」とあったのだ。これは神社の南にある寺院で、今は熊野神社とは別物。
しかしどちらももともとは役小角が創建した修験道の施設だったわけだ。それで独特すぎる匂いが残っているのだ。

  
L: 日本第一熊野神社の拝殿。境内の各社殿は、まるで寺院の伽藍のように自由度の高い配置となっている。
C: 境内南東にある三重塔。実はこれ、熊野神社ではなく五流尊瀧院の建物となる。1820(文政3)年の築。
R: 参道をまっすぐ進んでいくと複数の本殿。中央の赤い第二殿は1492(明応元)年の築で国指定重要文化財。

修験道の匂いが強く残る境内に見事な本殿が一列に並ぶ光景に、「今日は建築的には大当たりじゃあああ!」と、
僕は大興奮しながらシャッターを切るのであった。雨粒が写り込んでしまうのが本当に惜しいが、とっても楽しい。
そんな僕に呆れながらも、リョーシさんは物の価値がわかる人なので、静かに本殿に見惚れているのであった。

  
L: 一列に並ぶ本殿。平入と妻入が並ぶのはいかにも熊野らしい部分(→2013.2.92013.2.10)であると思う。
C: 左が第三殿、右が第一殿。  R: 赤い第二殿の右に、第四殿・第五殿・第六殿。第二殿以外すべて1647(正保4)年の築。

撮影を終えると御守タイムだが、これがとんでもなかった。無人販売所となっている建物が用意されており、
中に入るとそこは大魔境。日本第一熊野神社には全57種類の「からだ御守」があり、あらゆる箇所を押さえている。
もうどうすりゃいいんだか。結局、ふつうの御守のほか、せっかくなので「からだ御守」もいくつか頂戴することに。
個人的には「シナプス御守」の響きがいちばん面白かったんで頂戴した。これでクイズの記憶障害もバッチリだぜ!
そんな具合にいいようにお金を搾り取られる僕を見て、リョーシさんは本格的に呆れて声も出ないのであった。

  
L: 「からだ御守」全57種一覧。実に恐ろしいことをしやがる。  C: 中はこんな感じ。御守で「あ行」とか初めて見たわ。
R: こんな感じで大魔境。こういう型にはまらないことをやる価値観はいかにも仏教的(→2021.1.16)。さすが修験道系。

お次は児島IC近くにある新庄八幡宮。鷲羽山ハイランドにも行かず、下津井にも行かず、その手前でストップなのだ。
なんだか閑散とした場所で、御守があるのか不安だったがきちんと頂戴できた。まあ公式サイトもあるしね。

  
L: 新庄八幡宮の一の鳥居。  C: 駐車場から見た参道。  R: 途中の神門。石段がなかなかである。

なお、新庄八幡宮の「新庄」とは、下津井を含む「本荘」に対しての名称とのこと。平安時代末期に分かれたそうだ。
本殿は1805(文化2)年の築で、正面と側面に同じような千鳥破風が付いているので十字形に見えて面白い。
拝殿は1991年の改築だそうだが、雨のせいかとてもそうは見えない風格があった。「八」を曲げた神紋も気になる。

  
L: 立派な拝殿。  C: 本殿。側面の破風が正面と同じようで独特。  R: 境内から見る海。児島ボートレース場しか見えん。

参拝を終えると児島の中心市街地へ。かつては「児島市」だったこともある場所で、きちんと歩いてみたかったのだ。
児島といえばジーンズストリートが有名だが、まずは塩田だよ! 旧野﨑家住宅を見学しよう!ということでお邪魔する。

  
L: 旧野﨑家住宅への入口。長屋門からだが、実に長い。  C: 長屋門をくぐって邸内へ。土蔵が並んでいる。  R: 表玄関。

  
L: 南東側から見た表書院。来客を迎える建物で、奥には水琴窟がある。玄関棟と表書院は1852(嘉永5)年の築。
C: 表書院の座敷。中には入れないが見事である。  R: 表書院の庭園。奥へ行くほど高さを持たせている。

  
L: 奥まった位置に主屋。野﨑家の生活や仕事の中心となっていた。こちらは1833(天保4)年ごろの築とのこと。
C: 主屋の座敷。23間(約42m)という奥行きがすごい。「こんなの『ウルトラセブン』の「第四惑星の悪夢」以来だぜ」
R: 主屋の裏には石垣と、くりぬいてレンガで覆った薪納屋や風呂場など。空間を無駄なくしっかり使っている。

裏から入れる台所がまた面白い。従業員のための食堂としても使われていたそうで、その分だけ広さがある。
古い道具やノリタケっぽい食器(→2017.8.12)、戦前のアサヒビールの瓶なんかも置かれていて見応えがあった。

  
L: 台所への入口。  C: 従業員の食堂となっていた一角。  R: 台所の奥を覗き込む。

  
L: こちらも台所の奥の方。  C: 反対側は料理室という別の部屋。わざわざ分けていたのか。
R: 台所から裏に戻ったところ。岩壁をくりぬいてレンガで整備した風呂場がある。

敷地のいちばん北西には味噌納屋。こちらで味噌をつくっていたようで、奥には厚い壁で囲まれた麹室がある。
今でも各種の道具がそのまま残されており、往時の雰囲気をしっかりと味わうことができるようになっていた。

  
L: 味噌納屋。  C: 入って右手奥には麹室。  R: 麹室の中を覗き込んだところ。

ぐるっとまわり込んで最後は蔵である。すべてが開放されているわけではないが、展示館となっている蔵にお邪魔する。
最も大きい大蔵は野﨑家塩業歴史館となっている。入口には専売時代の「塩」看板が掲げられており、思わず唸った。
その上には歴史館の寄付者名があり、リョーシさんのご先祖様の名前もそこにあった。かつて働かれていたそうで。

  
L: 並ぶ土蔵群が実に壮観。江戸末期から明治中期にかけて順次建てられたとのこと。このうち2つの蔵が展示館となっている。
C: 野﨑家塩業歴史館の入口。「塩」の看板がいいなあ。その上の寄付者リストにはリョーシさんのご先祖様もいらした。
R: 中の様子。揚浜・入浜といった塩田の歴史から、野﨑武左衛門に始まる児島の製塩業とその現在までを簡潔にまとめている。

今までこれだけの施設をスルーしていたとはお恥ずかしい。たいへん勉強になりました。本当に来てよかった。
さて見学を終えると、旧野﨑家住宅の前から児島市街へと向かう道を行く。実はこれが児島ジーンズストリートなのだ。
アスファルトではなく石畳で整備された道は寺や神社にふさわしい落ち着いた雰囲気だが、適度な路地感を持っている。
そこにオシャレに改装されたジーンズ専門の店舗が点在しているのだ。少し裏原宿っぽさ(→2021.9.19)もあるような。

  
L: 児島ジーンズストリート。シャッターに混じってオシャレな店舗が澄まして営業している感じが興味深い。
C: もともと銀行だった建物(リョーシさん曰く、中国銀行はこのスタイルが多いとのこと)を利用している店舗。
R: 中央の広場空間。奥にあるジーンズの絵が描かれているものは公衆トイレ。全体的にクールにまとめていると思う。

なるほどこれがジーンズストリートか、と思うんだけど、じゃあ買い物するのかというと、しないのよね正直。
僕の場合もっぱらユニクロのスキニージーンズで、それで十二分に満足しているので高級ジーンズに食指が動かない。
そう、ジーンズはあまりにも一般的になりすぎているのである。「人口に膾炙しすぎている」という感じだろうか。
簡単に手に入りすぎるがゆえに、ブランド化された児島を訪れるレヴェルまでこだわる人の比率は低めであるはずで、
そうなると観光地として訪れるライト層とのギャップがほかの地より激しいのではないかと思ってしまうのである。
あくまでファッションに疎い僕の感覚で申し訳ないけど、一張羅としてのジーンズというのがちょっと考えづらくて。

  
L: ジーンズがぶら下がってオシャレ。なのだが、僕は奇妙な果実的なものを考えてしまってイカンイカン、となるのであった。
C: さらに奥へ進んだところ。おそらく旧野﨑家住宅や寺社、また石畳から漂う「和」の雰囲気が、独特な高級感に通じている。
R: せっかくジーンズストリートに来たんだからGパンだに会いてえなあ!と思っていたら、こんなところにいたでござる。

やっぱりオシャレな店には入りづらいなあ、と思いつつ歩いていると、「インディゴソフト」なる文字を発見。
店先には青いソフトクリームの置物があるではないか。食わいでか!ということで迷わず頂戴するのであった。
味はふつうにおいしい塩ヴァニラ。これもまた塩田だからということなのだ。おかげでやる気が出ました。

 
L: インディゴソフト。藍の粉末(でも緑色)がかけられている。  R: この後メシなのに甘い物は別腹と喜ぶ私。

いちおうこれで児島の何たるかは多少は体験できたということにしておく。そろそろランチタイムである。
実は今回、僕が岡山に来るということで、リョーシさんがわざわざ予約を入れておいてくれた店があるのだ。
それは……仙太鮨。かつて岡山市役所の近所にあった店舗はすでに閉店してしまったそうだが(→2008.4.22)、
本店である児島の店は非常に人気のある有名店として知られているそうだ。いやー、緊張しますなあ。

  
L: というわけでまさかまさか、仙太鮨にお邪魔する日が来るとは。  C: 暖簾の方はなぜか「し」の送り仮名がある。
R: オーシャンヴューな席に通された。ひゃー! これで天気がよけりゃなあ……。まあ春はしょうがないけどさ。

あれこれ話しながら寿司を待ったが、いざやってくると無口になってしまうものですな。夢中で味わう。
リョーシさんに教えてもらったのだが、岡山の名産品である黄ニラの寿司が出てくるのがさすが高級店とのこと。
黄ニラは日光を当てずに栽培する必要があり、非常に手間がかかる。それゆえにお値段も高いというわけ。
だから黄ニラを出せる店は格の高い店、という認識があるんだそうだ。いやはや、勉強になります。
寿司はもちろん、赤だしの味噌汁にデザートのメロンもおいしゅうございました。久々の会食、いいもんいただきました。

  
L: 出てきた湯呑みも仙太鮨。正直、記念にもらって帰りたかった。オレだけ特別に許してくんねーかな。
C: 一皿目。なんというか、ネタが力強かったです。  R: 二皿目。イカの繊細な切り方に圧倒される。右上が黄ニラ。

せっかく児島に来ているので、次の目的地に行く前に倉敷市役所の児島支所を撮影させてもらう。
さっきも書いたように、かつては1948年に市制施行した「児島市」が存在していた(中心部は旧味野町だった)。
しかし1967年に倉敷市・玉島市と3市で対等合併し、新たな倉敷市の一部となって今に至っている。

  
L: 倉敷市役所児島支所のエントランス。定礎を見るに1983年の竣工。  C: 北西から見たところ。  R: 奥の食堂・喫茶。

これまで見てきたように、児島には確固たる歴史がある。それが倉敷の存在感で掻き消されているように思うのだ。
今の児島はすっかり「倉敷」に上書きされており、その独自の歴史が観光都市・倉敷の中に消化されているのではないか。
だからリョーシさん相手に「児島が再独立するためにはどうすべきか、岡山市に親岡山系住民を“保護”してもらって、
そこから独立を承認してもらうしかないんじゃないか」なんて、ドンバス地域的な冗談(不謹慎)を言っていたのだが、
僕の感覚ではそう言いたくなるくらいに、児島の存在感のなさが惜しいのだ。ジーンズストリートだけではダメだ。
おそらく、そもそもこの場所は「味野」であり、それが「児島」になった時点でアイデンティティは弱まっていた、
そんな気がする(実は先ほどの野﨑家は、地名だった味野と赤﨑からそれぞれ1字ずつ採ってつくられた名字なのだ)。
むしろ僕のようなよそ者の方が、「児島」という地名に幻想を見ているのかもしれない。どこか諦観を感じる街だった。

  
L: 児島支所の看板が見える形で撮影してみた。  C: 正面から見たところ。  R: 北東から見たところ。

海岸沿いの国道430号を東へ行って、琴浦港の手前で北上。こちらの小高い丘の上にあるのが鴻(こう)八幡宮である。
旧県社ということで、実際に訪れてみるとやはり立派。港を見下ろす立地が見事だなあと思いつつ参拝する。

  
L: 鴻八幡宮の境内入口。車はやっぱり脇から行くのだが、かなり勾配のある坂道でリョーシさんはお疲れ様でした。
C: 鳥居をくぐるとこの勾配。参拝者が来るたびに土が削れないか。  R: 拝殿。1976年の竣工とのこと。

拝殿の裏にまわると安永年間(18世紀後半)に造営されたという本殿。手前をくぐって通り抜けることができ、
ちょいと失礼して撮影させてもらったが、さすがの風格。ちなみに名前の「鴻」とはコウノトリのこと。

  
L: 本殿。  C: 手前をくぐり抜ける途中で見たところ。  R: 境内から見える琴浦周辺。

御守を無事に頂戴すると、さらに北上。ちなみにこの琴浦エリアも児島地域に含まれるが、学生服生産が強い模様。
確かに県道276号の両側にはチラホラと繊維・被服関係の建物がある。これもリョーシさんがいろいろ教えてくれたが、
全国の学生服の約8割は岡山県でつくられているのである。トンボも富士ヨットもカンコーも、本社は岡山県なのだ。
(このうち富士ヨット学生服ブランドで知られる明石被服は児島に本社を置いている。さっきの児島支所の300m東。)
冒頭、阿智神社で干拓について少しふれたが、児島はかつて島であり、岡山藩が大規模に干拓して半島となったのだ。
しかしやはり塩害がひどく、米の代わりに塩分に強い木綿を栽培したことで繊維産業の下地ができたというわけ。
遠浅の海ということで塩田をつくったり干拓して木綿をつくったり、昔の人はあの手この手で逞しく生きていたのだ。
学生服に特化したのは、東京・大阪といった情報の発信地から距離があるため流行に左右されない利点を生かしたとか。

そんなことを話しているうちにいかにも街道な交差点に出て、東へと針路変更。県道268号はどんどん山に上っていく。
リョーシさんから聞いていたが、これは思っていた以上にしっかり山だ。やがて広大な駐車場に出て、ちょいと北上。
やってきたのは由加山である。以前、瀬戸大橋線に乗ったときか、車内広告で見て大いに気になっていたのだ。
しかしここに来る公共交通手段がまったくないため、今回の旅ではレンタサイクルでの強行突破を想定していた。
リョーシさんが車を出してくれたのは、この由加山のキツさを知っているからこそ。車内で僕はもし自転車だったらと、
正直青ざめておりましたことよ。リョーシさんは家族で正月に参拝する由加山を友人と訪れるのが楽しみだったようで。
なお、由加山は金毘羅権現(現・金刀比羅宮 →2007.10.52011.7.17)とセットで両参りということになっている。

  
L: 由加山の参道入口。こちらは由加神社側になるみたい。蓮台寺の駐車場だともうちょっと近くまで上がれるとのこと。
C: 門前町を行く。週末だがわりとおとなしめ。名物・あんころ餅の店は複数営業中。  R: さらに進む。けっこう長いな。

由加山という名前、「由加」というと女の人の名前っぽいが、「ゆが」と読む。正式には「瑜伽」と書くようだが。
日本三大権現を名乗っているそうだが、「権現」という点からわかるように神仏習合の性質が非常に強い場所だ。
現在、神社では由加神社本宮が、寺院では由加山蓮台寺がそれぞれ存在しているが、仲はたいへん悪いみたい。
境内には「あっちとは関係ねえし」という内容の看板が確かに出されていて、参拝するこっちは複雑な気分である。

  
L: 東側に行くとこちらの由加神社。西へ行くと蓮台寺。  C: 厄除石段には小銭入れ。これで厄を落とすのだという。
R: 石段を上りきって右手に備前焼の大鳥居。こちらをくぐると由加神社の境内である。狛犬も備前焼ですね。

というわけで、まずは由加神社から参拝。拝殿の前に線香を立てる香閣があり、もう完全に神仏習合。
案内にあるとおり、いちおう二礼二拍手一礼で参拝したが、それでよかったのかどうかちょっと不安なくらいだ。
ずっと前から由加山の神仏習合の強固さが不思議だったのだが、今回こうやって由加山を訪れてそれが体感できた。
主祭神は手置帆負命・彦狭知命・神直日命で、正直かなり知名度が低い。本地仏は阿弥陀如来・薬師如来ということで、
むしろそちらをメインとして拝んでいる感じだ。調べると、先ほど参拝した日本第一熊野神社が絡んでいるようで、
由加山は熊野系のルーツを持っているみたい。習合度合いの高さと組織化度合いの弱さ(独立性の強さ)はそれゆえか。

  
L: 由加神社。香閣があるくらいに神仏習合なのは初めてではないか。  C: 拝殿。狐がいて五色幕があって……。
R: ちょいと失礼して拝殿を覗き込んだところ。神社らしい鈴と寺にある鰐口が並んでいるのは初めて見た。

  
L: 拝殿脇から本殿方面へ入ってみる。しかし鳥居の脇にあるタコ神様が気になる。こういう自由さは寺なんだよなあ。
C: そのまま奥はこんな感じ。石灯籠をはじめいろんな要素が満載で落ち着かないが、天満宮と稲荷が中心みたい。
R: 見上げると本殿。江戸時代初期の築とのことだが、組物をはじめかなり立派な造り。さすがだなあと感心。

 拝殿の向かいにある休憩所・祈祷受付所。

明治に神仏分離となったが、戦後の由加神社は蓮台寺側が運営していた。しかし1997年に由加神社が法人として独立。
それで異様に仲が悪いのだ。由加神社の仏教色の強さも「キャラがかぶっている」わけだ。むしろ意識しているのかも。
由加神社の東には大師堂・多宝塔・観音堂などの建物があるが、これらは蓮台寺のものである。つまり由加神社により、
蓮台寺の境内は分断されている形なのだ。日光のややこしさ(→2008.12.142015.6.29)にちょっと似ている感触か。
なお公式サイトを見るに、由加神社は「マル由」マーク、蓮台寺は「マル瑜」マークを使って差別化を図っている。

  
L: 由加神社の東に大師堂。1817(文化14)年の築。  C: 多宝塔。1843(天保14)年の築。  R: 観音堂。享保年間の築。

というわけで、今度は西側の蓮台寺を参拝する。山岳寺院の伽藍は基本的に自由な宇宙なので(→2012.2.19)、
あちこちに分散配置された堂宇はそれはそれで仏教テーマパークである。リョーシさんとくまなく見てまわる感じ。

  
L: 客殿。寛政年間の築で、木造では岡山県最大の建物だとか。岡山藩主の宿泊・休憩用の建物として建てられた。
C: 権現堂・奥の院。客殿からも行ける。  R: 客殿の玄関。ここからは入れないが、奥の杉戸絵を見るときに開けてくれた。

客殿にお邪魔して中を見学。いちばんの見どころは円山応挙絶筆の『竹鶏の図』だが、暗くてぜんぜん見えない!
それ以外にも障壁画がいっぱいだったが、文化財保護とはいえもうちょっと明るくできないものですかねえ……。
殿様御成の間も、横から覗き込むだけだったのは残念。「折上格天井は格式がいちばん高いんだぜぇー」など、
こっちも知識を披露。リョーシさんに教わってばかりなので、少しはこっちも知識を還元しないと申し訳ないのだ。

  
L: 音消しの壺。殿様のトイレの音をごまかすアイテムということで、音姫の原点はここだったのか、とツッコミ。
C: 総本殿。中には7m59cmの高さを誇る木造不動明王が厄除け権現として置かれている。  R: 建設中の本堂。

リョーシさんと一緒に僕も名物のあんころ餅を買って由加山を後にする。「あんころ餅」と聞くとマツシマ家では、
なぜか『まんが日本昔ばなし』の常田富士男の声真似で「おらァ、あんころ餅が食いてェ」と反応するのが定番なのだ。
でもその後に市原悦子の声真似ができなくて片手落ちの感触が残るのである。ホント、特殊な家に生まれてすみません。
さて肝心のあんころ餅だが、リョーシさんの「あんころ餅を食べると赤福の偉大さがよくわかる」は名言だと思う。以上。

由加山への参拝を終えるとそのまま東に抜けて玉野市に入る。リョーシさん、故郷に凱旋である。おめでとう!
やってきたのは玉比咩神社。なお「玉野」とは日比町「玉」地区と宇野町の「野」を組み合わせて生まれた地名であり、
その「玉」の由来こそ、玉比咩神社なのだ。レンタサイクルで来ることを計画していた僕はやっぱり青ざめたとさ。

  
L: 玉比咩神社。写真の方向、まっすぐ境内に向かって延びる国道430号が、交差点で神社を避けて南に曲がる。
C: 参道を行く。境内はかつて入江だったそうだ。  R: 拝殿。よくあるそこそこの規模の神社、という印象。

さて玉比咩神社の「玉」たる所以が、立石である。境内南東の国道脇に、巨石がいきなりドカンと立っているのだ。
周囲は穏やかな港であり(大正以降はがっつり造船の街)、こんな巨石があるのはさすがにかなり異様である。
倉敷市との境にある王子が岳は花崗岩の巨石で有名だそうで、その中のひとつが変なふうに転がってここまで来たのか?

  
L: 本殿。  C: 立石神社となっている巨石。  R: 角度を変えて眺める。高さ10.6m、周囲29.4mとのこと。

  
L: さらにまわり込んで眺める。松が生えているな。  C: 橋で渡って触ることができる。  R: 花崗岩だと思う。

リョーシさんのおかげで無事に本日の予定は終了。……なのだが、せっかくなので岡山に戻る途中、沖田神社に寄る。
ここを今日のうちに参拝できると、明日のスケジュールがたいへん楽になるのだ。リョーシさん、本当にありがとう!

  
L: 沖田神社。百間川の脇に鎮座する、岡山市の干拓地総鎮守。なるほどそれで「沖田」という名前であるわけか。
C: 境内に祀られている津田永忠。岡山藩の干拓事業を主導し、閑谷学校(→2014.7.25)・後楽園(→2008.4.22)にも関わった。
R: いかにも真新しい拝殿。後述するが、1階部分は無人の授与所になっている。手前にはファジアーノの幟がありますな。

沖田神社はJ2のファジアーノ岡山が必勝祈願をやるということで知ったのだが、いざ訪れてみたらなかなか独特。
創建は1694(元禄7)年、岡山藩主・池田綱政の命による。しかし1582(天正10)年の高松城(→2014.7.24)水攻めで、
清水宗治の次男・長九朗が白蛇に導かれて逃げ延びたことから創建された道通宮(どうつうぐう)が末社となっており、
これがかなりの存在感を持っている。そして何より、御守の量が尋常ではない。拝殿脇の授与所と拝殿下の授与所と、
2箇所にとんでもない種類の御守が満載なのである。今日だけですでにかなりの出費なのに、もう干からびそう……。

  
L: 本殿。  C: 境内の奥にある道通宮。末社だがかなりの存在感があり、道通宮独自の御守もしっかり用意されている。
R: 授与所の御守はこんな感じで並んでいる。しかも一見同じデザインでも、身体健全や学業、交通安全など中身が違う。

さすがに気になったものをすべて頂戴できなかったが、縁結びとは別の「アモーレ守」、開運方面の「『ん』の御守」、
ほかにも「ありのまま守」「倍返し守」「やってみよう守」「スマイル守」「おもてなし守」「おかえりQR守」、
あとは対象範囲がたいぶ限定的な「団地安全守」「連勝守」「日本一守」などいろいろ。恐ろしゅうございました。
ちなみにファジアーノを意識した臙脂色のサッカーボール型御守はあったが、エンブレムをあしらったものはナシ。

  
L: 拝殿下1階の無人授与所。ここもまた大魔境なのであった。しかし一日で2回も大魔境とか、もうもたねえよ。
C: アモーレ守。もう何がなんだか。  R: 「ん」の御守。開運方面。ほかにも個性派の御守多数なのであった。

以上、実に濃い一日なのであった。いやもう、日記を書くのが本当に大変だった……。特に今回は濃かったね。
知識量の多い者どうしであれこれ言いながら旅行して、それを逐一記録していくのは凄まじい手間でございますよ。

いったん休憩してから晩メシのタイミングでリョーシさんと再合流、岡山で人気という冨士屋の中華そばをいただく。
いやいいんだけど、なんかジョイフル→仙太鮨→気取らない中華そばって、今日のメシのアップダウン激しいな!
中華そばを待つ間、こないだ姉歯メンバーに配ったマサル似帽子(→2021.12.19)をリョーシさんにもプレゼント。

 
L: 離れていても、リョーシさんも姉歯メンバーだもんね!  R: 冨士屋の中華そば。気づけば一気に食い終わっている感じ。

その後は岡山のあちこちに支店があるという完全大衆居酒屋にハシゴし、酒を飲みつつ思う存分にダベるのであった。
僕はおかげさまで本当に楽しい旅になっているけど、リョーシさんもいい感じに楽しんでくれているなら何より。


2022.3.25 (Fri.)

職員室内の机の移動と新年度の生徒名簿づくりと会計の最後の処理とで、春休みなのに大忙し。

ネットでスポーツニュースを見ていたら、イタリアがカタールW杯本戦の出場を逃したという話。2大会連続。
それにもびっくりだが、それ以上に驚いたのが対戦相手の北マケドニア。いつから「北」が付いていたの!?と。
慌てて調べてみたら2020年4月からで、ギリシャの抗議を受けてとのこと。いや、地理の先生のくせしてお恥ずかしい。
確かに「マケドニア」の範囲は本来もっと広いのだ。歴史を鑑みて、きちんとした対応だなあと感心するのであった。


2022.3.24 (Thu.)

終業式で離任式。みなさん気合いを入れて気の利いたことをおっしゃる。僕は時間厳守で淡々としゃべるだけ。
言わなくていいことは言う必要がないのだ。そうなると、言いたいことがない。申し訳ないけど、そうなのだ。
4月からは熱意を持って仕事ができるといいなあと思う。すべては自分しだいなんだけどね、がんばりますよ。


2022.3.23 (Wed.)

この期に及んで担当している仕事でトラブル。ぶっちゃけ、いま指摘してくれてありがとう!と言いたくなる内容だが、
余裕がないのはみっともねえなあ、という気持ちも否定できない。もちろんトラブルを未然に防げればすばらしいけど、
1年間やってみて正直そういう仕組みにはなっていないことを痛感しているので、切り替えて前を向くしかないのだ。
そこでキーキーしても事態は良くならないし、再発を防ぐためには仕組みを変えないと無理だし。言うは易し行うは難し。
増築しまくって組織として成り立っていないんだからしょうがない。僕はそれがイヤだから出ていくわけですし。

それ以外にも問題はまだあって、会計の最後の決算がまとまらない。なんで年度が終わってないのに〆るのか、
そこが僕にはまったく理解できないのだが、そういうことをやるからしわ寄せが末端に来るのである。困ったものだ。
グチってばかりで申し訳ないが、木を見て森を見ない体質にひたすらウンザリしている。4月からはマシになるといいが。


2022.3.22 (Tue.)

電力需要が逼迫しているということなので、今夜は暖房をつけずに布団をかぶる。そしてウクライナのことを考えてみる。


2022.3.21 (Mon.)

御守の写真を撮ったり日記を書いたりですっかりインドアな一日だった。まあこれもまた精神的なバランスの保持だな。

一気に文章を書く気分になれず写真の取捨選択をやっていたら、過去ログのリンクの不具合を発見してしまう。
「diary(今月の日記)」を「past log」に格納する際のリンク修正し忘れが、かなり大規模に残っていたのだ。
こんな初歩的なミスを大量にやっていたとは、ちょっとショック。自分がどこでボケているのかわからんのは困る。



2022.3.19 (Sat.)

朝は日記を書きまくり、昼は久々に髪の毛を切り、夕方は無呼吸の病院に行ったり、それなりに動きまわるのであった。


2022.3.18 (Fri.)

teacup.の掲示板が今年の8月1日13時をもってサーヴィス終了とのこと。ひとつの時代が終わるなあ……。

当サイト「logistics 443013」もほぼ設立当初からteacup.の掲示板を利用しております。今もふつうに使えますよ。
2000年ごろは設置して当たり前で、あっちで書き込みこっちで書き込み、連絡を取り合っていたっけなあ。懐かしい。
現時点でいちばん最後の書き込みは2017年11月28日で、クリスマス会のお知らせ。顛末はこちら(→2017.12.24)。
その前が2016年7月20日で、通算500市役所達成の報告である。見た感じ、2013年まではきちんと書き込んでいたのか。

それじゃあいちばん古い書き込みはというと……2004年3月1日、栄えある第1号はなんとダニエルだぜ!
その次にはニシマッキーによる市井紗耶香できちゃった婚へのツッコミ。みんな好き勝手に雑談しているなあ。
僕は当時、ドラムス叩きながら就職活動をやっている。なんかそのときから生活スタイルに変化がない感じだが……。

せっかくなので、どうにかしてログを保存しておくとするかな。諸君、あと4ヶ月ちょっと、好きに書き込みたまえ。


2022.3.17 (Thu.)

本日をもって今年度の日本史Bの授業が終わった。1年間、本当に大変だった。でも、ものすごくいい経験だった。
授業をやる前には「『信長の野望』仕込みの戦国知識しかねえぞ……」と震えていたが、いちおうなんとかなったかな。
前も書いたように(→2022.1.19)、今シーズンは守破離の「守」ということで、授業内容を割り切らせてもらった。
来年度は多少は「次の展開」を見据えて授業をマネジメントできるはずなので、いろいろ工夫をしていきたいところだ。

それにしても、後期は鎌倉時代や室町時代が舞台だったので、やっていくと経済史の重要性を実感させられた。
貨幣経済の進展が社会の形をガンガン変えていく。おそらく現代社会もそんなダイナミックな変革の真っ最中だろうが、
僕はそれを「教養が足りねえ」なんて斜に構えて見ているわけで、果たしてどこまで「妥当」なのか考えてしまう。
でもまあとりあえず、歴史における政治や経済の位置付けが、以前よりはるかに明確に見えてきたのは大きな収穫だ。
今後はそこに地理的なエッセンスをきちんと絡めて、さらに広い視野で理解を深めていきたいものである。

あとやっぱり、自分は文化史や美術史方面が大好きなんだなあと実感した1年間でもあった(→2021.5.7)。
日本史Bの授業をやるにあたって、勉強ということでヴェテランの先生のプリントを共用させていただいたのだが、
そのプリントは文化史がすっぽり抜けていたので、資料集をベースにそこだけ自力でまとめることになったのである。
文化を手がかりに当時の人々の価値観を追体験しながら現代につながる意義を論じるのは、やっぱり面白い。
大学時代から美術館めぐりで貯め込んできた知識が確実に生きている。これは自分の強みなんだ!と自信を持てたね。

そしてなんといっても、国内旅行で撮りまくった大量の写真。備忘録の日記と合わせて、地味に効いている。
これまで好きでやってきたことが仕事で役に立つのは、独特の快感があるものだ。さらに精進していきたいものである。


2022.3.16 (Wed.)

夜に地震が発生。震源の近い東北地方ではしっかりと被害が出ている模様である。

東京では、今までに経験したことのない、やけにねっとりとしたP波が来た。ぬるーりぬるーりとイヤな揺れ方だった。
いったんおさまって「変なの」と思っていたら、本格的なS波がやってきて、けっこう長めにわっしゃわっしゃ。
本棚に並んでいる100ml焼酎のビンが落ちそうになり、手のひらを広げて押さえているうちにどうにか揺れがおさまった。
S波はいつもどおりな印象だが、とにかくあのP波が気持ち悪い。この後で強烈な本震が来る、なんてことがないといいが。


2022.3.15 (Tue.)

本日は来年度の教科書・副教材の販売日でただでさえ忙しいのだが、そこに合格者説明会があって凄まじい忙しさ。
体力的にキツいことはないが、神経を使い続ける一日だったので、地味に疲れた。あと半月で異動とか信じられない。


2022.3.14 (Mon.)

本日は成績を確定させる日でただでさえ忙しいのだが、そこに学年会計の返金チェックが入って凄まじい忙しさ。
なんていうかね、手続きを要求される場面があまりにも多いのである。学校というよりも役所だなあ、って思う。


2022.3.13 (Sun.)

定期券が使えるうちに京急沿線を冒険しよう企画・第3弾、本日は逗子・葉山方面を気ままにまわってみる。

と、その前に朝イチで寄っておきたいところがある。「おっぱ○」。さて、○には何が入るでしょうか?
「い」が入る人は正常です。「お」が入る人は10回クイズマニアです。「ま」が入る人は京急マニアです。
というわけで「おっぱま」。漢字では「追浜」と書く。こちらの雷神社に参拝しておこうというわけである。
ちなみに雷神社は「いかづち」と読みたいところだが、「かみなり」という読みの方が優勢な模様。

  
L: 追浜駅から北に300m、こちらが雷神社の入口。  C: 境内の真ん中には御神木のイチョウ。  R: 拝殿。1960年の再建。

祭神は火雷命ということで、雷神だけど菅原道真とは別系統。もっとも、天神社を明治初期に合祀しているらしい。
御守を頂戴したところ、堂々と稲光がデザインされており、さすがは雷神社。御守にこだわりのある神社は大好きだ。

 
L: 本殿。  R: 背後にある山肌はコンクリートで固められているが、このように祠を収める空間がわざわざつくられていた。

1駅戻って金沢八景から逗子・葉山行きの列車に乗る。確か前は新逗子駅だったよなあ?と思ったらそのとおりで、
2年前に改称された。要するにこちらが葉山へ行くための最寄駅であることをアピールするため、らしい。
葉山というと有名人や芸能人がヨットを浮かべて喜んでいるイメージしかないのだが。ええ、偏っていますとも。

 逗子・葉山駅の最果て。かつてはこの先に湘南逗子駅があったそうで。

最果て光景を撮るためにいったん南口に行ってから北口まで戻る。そしたら駅がクソ長いんでやんの。
旧湘南逗子駅を短くした南口と、JR逗子駅との乗り換えを意識しての北口まで、300mほどの距離がある。
トボトボと歩きつつ、先週の浦賀、昨日の三崎口、今日の逗子・葉山と、京急南部3路線の違いについて考える。
そこでようやく、浦賀行きを普通、三崎口行きを快特と特急、逗子・葉山行きをエアポート急行に割り振っている、
その事実に気づく。ぜんぶがぜんぶそうではないが、下り線は行き先で列車種別がだいたいわかるようにしているのだ。
感心しながら北口から出ると、そこには逗子市役所。前にも訪れたことはあるが、雑に写真を撮っただけ(→2008.9.3)。
あらためて一周しながらシャッターを切っていくが、やっぱり余裕がなくて撮りづらい。現在の市役所は1984年の竣工。
ちなみに、先代の市役所(逗子町役場として1937年に竣工)は、逗子市の公式サイトで何点か写真が残されている。

  
L: 逗子市役所。逗子・葉山駅の北口から見た東側。  C: 北東寄りから見たところ。  R: 亀岡八幡宮の境内から振り返る。

  
L: 北側。左手前は公衆トイレである。  C: 北西から見たところ。  R: 南西から見たところ。余裕がないなあ。

  
L: 南側。この辺りは区画と道路の形が複雑なうえに田越川沿いに京急の線路がカーヴして踏切があって動線がぐちゃぐちゃ。
C: 南東、バス停の辺りから眺める。  R: 少し角度を変えて眺める。市役所の敷地も交通の混乱に拍車をかけていると思う。

逗子市役所の撮影を終えると、北に隣接している亀岡(かめがおか)八幡宮に参拝する。
JRの駅と京急の駅の間ということでか、乗り換えがてら参拝していく人がけっこう多い印象である。
ちなみに御守は授与所が開いておらず断念。扉には、亀甲をイメージしてか八角形の御守のイラストが貼ってあった。
12月25日に授与開始とのことなので、今年の年末を気長に待つとしよう。楽しみは後にとっておくとするのだ。

  
L: 市役所の手前から見た亀岡八幡宮の境内入口。「亀岡」は鎌倉の鶴岡を意識しての名称らしい。  C: 拝殿。  R: 本殿。

参拝を終えると逗子・葉山駅の南口の先まで戻ってバスを待つ。逗子の次は葉山なのだ。葉山を訪れるのは初めてだ。
バスは田越川を渡ると海岸沿いを走るが、道が狭くて曲がりくねって大変。葉山町に入るとさらに道が細くなる感じ。
葉山というと上述のように有名人や芸能人がヨットを浮かべて喜んでいるイメージ、ひたすらリゾートなイメージだが、
意識の高さを感じさせるオサレな店舗とともに前近代的な要素が意外に残っていて、なんとも不思議な感触である。

そんなこんなでやってきたのが、森戸神社。葉山郷総鎮守とのことだが、創建は1180(治承4)年で源頼朝による。
三嶋大社(→2013.3.9)からの勧請で、「三嶋大明神」という呼び方を受けてか「森戸大明神」とも呼ばれるようだ。

  
L: 県道207号に面した森戸神社の参道。かなり賑わっており、葉山に来た人はとりあえずお参りしておく感じか。
C: 境内入口。バイクや自転車を駐めてあるのが目立つ。  R: 鳥居をくぐるとこんな感じ。海に向かって開放的。

  
L: 拝殿。社殿は葉山町指定重要文化財。400年以上の歴史を誇るらしいが、詳しい建築年代はよくわからなかった。
C: 横から見た社殿。本殿は木々に囲まれて見えない。  R: 社殿の裏にまわり込むと、岩の上にある千貫松。

 本殿の裏には森戸大明神のビャクシン。

ふだんサンリオ系の御守は頂戴しないのだが、さすがに「マーメイドキティ御守」は珍しかったので頂戴してしまった。
まあこれもこの土地ならではの御守だからね、しょうがない。赤穂の大石神社で討ち入りモードを頂戴して以来か。
サンリオファンならご当地ハローキティ御守はかなり集め甲斐のある趣味になりそう。やっている人ぜったいいるよね。

県道とは思えないほど細く曲がりくねった道はさすがに難儀するようで、森戸神社から南下するバスは10分近い遅れ。
なんとか乗り込むと、三ヶ丘というバス停で下車。こちらは神奈川県立近代美術館 葉山館が目の前にあるのだ。
というわけで、本日のラストは美術鑑賞である。神奈川県立近代美術館といえば、鶴岡八幡宮の土地を借り、
坂倉準三の設計で1951年にオープンした建物がおなじみであった(→2008.9.32016.2.52018.11.10)。
結局、その建物は鶴岡八幡宮に譲渡され、2019年に鎌倉文華館鶴岡ミュージアムとして再オープンしたのであった。
2020年には国の重要文化財に指定されたそうだ。いずれそちらも再訪問して中身を確かめないといけないなあ。
……が、とりあえずは葉山館なのだ。もともとは高松宮家別邸だった場所に佐藤総合計画の設計で2003年に開館。

  
L: 神奈川県立近代美術館 葉山館。  C: 三ヶ丘バス停付近から見たところ。  R: 南東から見たところ。

  
L: そのまま南側にまわり込む。  C: 抜けて北側の入口を振り返る。  R: 北側入口前から右を向くとこんな感じの中庭。

葉山館には常設展示がなく、企画展を担当とのこと。今回は「奥谷博ー無窮へ」を開催中なのであった。
僕としては、とりあえず一度は葉山館に来ておこうということであって、特にこの画家さんに興味があるわけではない。
作品を見てみてもどこがいいのかサッパリ。女性と花の描き方はいいと思うが、それくらいしか褒めるところはない。
森戸神社を後にする辺りから曇りはじめて、葉山館ではすっかり翳ってしまった。そんな感じで尻すぼみ。

逗子に戻ったら多少晴れ間が戻ったので、市役所を再撮影して本日は終了。今週もがんばるぞなもし。


2022.3.12 (Sat.)

定期券が使えるうちに京急沿線を冒険しよう企画・第2弾、本日は三浦市編である。

横浜駅で京急に乗り換える際に駅蕎麦をいただく。京急はグループ会社が「えきめんや」を展開しているのだが、
今はちょうど期間限定メニューで「三崎まぐろ祭り」を展開中。これから三浦市へ行くわけだから、食っておく。

 まぐろの旨塩天ぷらそば。確かに旨い。

いい感じにウォーミングアップができた格好である。特急に揺られて50分ほどで三崎口駅に到着する。
京急はこれまで野比温泉に浸かるためにYRP野比までしか乗ったことがなく、終点の三崎口に来るのは初めてだ。
観光案内所のレンタサイクル受付が9時半からなので、それまで駅周辺をウロウロしながら時間調整。

  
L: 京急・三崎口の最果て。市街地まで延伸してくれると楽なのだが。  C: 三崎口駅。観光客がけっこう多かった。
R: 駅の中央に掲げられている名標を見ると、「三崎マグロ駅」。調べてみたら、5年近くこの状態が続いている模様。

9時半になったのでレンタサイクルの手続きを開始。1日利用の1600円はちょっと高いので、3時間利用+αで申込み。
三浦半島の先っちょである三浦市は坂がきわめて激しく、電動のレンタサイクルがあるのはたいへんありがたい。
さっそく国道134号を南下していくが、横須賀へ向かう分岐点・引橋の手前で最初のチェックポイントへと向かう。
小網代(こあじろ)の森である。国道から西へ入るとすぐに猛烈な下り坂。今も隆起している三浦半島の本気を味わう。

  
L: 小網代の森・引橋側の入口。  C: 中に入るとこんな感じ。  R: いきなりの豪快な高低差。これが三浦半島なのだ。

引橋側から入るとまずは森である。いきなりタイワンリスが現れて、慌ててカメラを構えるが、木の裏に隠れてしまう。
結局そのまま姿を見せることなく森の奥へと消えてしまった。鎌倉にいるやつはもうちょっとフレンドリーなのだが。
エゾリス(→2015.11.3)ほどとは言わんが、少しはサーヴィスしてほしいものだ。外来種で害獣なんだけどね。

  
L,C: 下り終えると少し開けた平地となる。脇を川が流れている。  R: 中央の谷からやなぎテラスへ。湿原に入る。

さて、小網代の森である。森林・湿地・干潟が連続的に残っている場所で、関東・東海では唯一の存在とか。
高いところはコナラの森、谷にアスカイノデ、川の上流部はハンノキの林で、ジャヤナギを経てヨシの湿原に変化する。
実際に歩いてみると、高低差による環境の変化が手に取るようにわかって興味深い。歩くと片道1km以上あるが、
この距離にしては植生の変化が非常に大きく、理科の教材としては文句なしだ。動物がもう少しいれば言うことなし。

  
L: やなぎテラスから湿原を行く。  C: えのきテラスが見えてきた。  R: 眺望テラスから見た干潟周辺。

えのきテラスからさらに奥へと進むと、カニがいるという海辺に出る。求愛のダンスの案内板があり期待が膨らむが、
時期が悪かったのかカニは1匹もいなかった。かわりに谷津干潟(→2021.4.11)にもいた巻貝がびっしりといて、
あまり気持ちのいい光景ではなかったなあ。まあとりあえず、自然環境について体感的に学べたのは満足である。

  
L: 海辺の光景。岩場には巻貝がびっしりだぜ。  C: 湾を眺める。ここまでが小網代の森か。  R: ハクセキレイがいた。

戻って国道143号から県道26号にスイッチし、本格的に三崎の市街地を目指す。かなりの下り坂で帰りが心配になる。
さっきの国道はしっかり幅があったが、県道になってからは昔ながらの幅で歩道にあまり余裕がなく、気をつかう。
まあ逆を言えば、そういったところから「昔ながらの漁港の街」という空気を味わうことができるわけだ。
まわり込むように坂を下っていくと、「三浦市役所入口」という案内板を見かけて左折。ちょっと進んでもう一回左折。
するとさっきの分を取り返す上り坂となっていて、気合いで進んだらすぐに開けた場所に出た。三浦市役所に到着だ。

  
L: 三浦市役所。左側の木がいかにも市役所らしい雰囲気を醸し出すが、右側の建物は市役所というよりその別館っぽい印象。
C: しかし案内板を見たところ、これが三浦市役所の本館だ。  R: 正面から眺める。シンメトリーじゃないのが別館っぽい。

立派な木が植わっているので場所が市役所だとわかるが、その横にある建物は市役所にしてはやや貧相であり、
これ別館じゃないのか?と思う。しかし案内板を見るに、こちらが本館でいいようだ。気になって調べてみたら、
やはり当たりで、2002年まではアール・デコでモダンな本館があった。1934年築とのことで、ぜひ見たかった。
その旧本館が耐震性の問題から取り壊されたことで、1970年築の現在の建物が本館ということになったようだ。

  
L: 市役所前のオープンスペース。  C: 南東側から見た三浦市役所。  R: 隣のグラウンドから本館の東側を眺める。

なお、現在の本館も老朽化が進んでおり、市では引橋にある県立三崎高校跡地に市役所を移転させる方針とのこと。
2026年度を目途に整備完了の予定という記事が出ている。すでにベイシア三浦店・三浦消防署がつくられており、
交通の便のいいそちらに移るのは既定路線であるようだ。さすがにまあこりゃしょうがないよな、と思う。

  
L: 北東から見た背面。  C: 西から見た側面。これで一周完了。  R: 本館の南側にある分館。

さて、三浦市役所本館から坂を上っていくと、グラウンドに出る。奥にはいかにも学校の校舎がある。
しかしこれは三浦市役所の第2分館なのだ。もともとは三崎中学校の校舎だったが、2014年に閉校した。
なるほどそれで今の三浦市役所の本館があのサイズで済んでいるわけだ。そして移転したがるわけだ。
ちなみにかつて三崎中学校では団鬼六が英語教師として勤務していたそうだ。なんだかオレと同じやん!

 
L: 三浦市役所第2分館(旧三崎中学校)。市立図書館もこちらにある。  R: 脇には校歌の碑が今も残っている。

市役所の撮影を終えると、次は当然、神社である。三浦の総鎮守は海南神社。いったん港に出てから、
路地へ入り込むようにして海南神社の境内に入る。藤原資盈を祀るが、源頼朝の崇敬が篤かったとのこと。

  
L: 海南神社の境内入口。  C: 鳥居をくぐる。  R: 拝殿向かって左手には神楽殿。

  
L: 拝殿前から左を見る。相州海南高家神社があり、房総にもあった高家神社(→2020.3.7)がこっちにもあるのが興味深い。
C: 拝殿。朱塗りなところになんとなく神仏習合っぽさを感じるが。  R: 拝殿前に記念撮影用のマグロの頭。面白いなあ。

 本殿を覗き込む。やはり朱塗りが徹底されている。

二礼二拍手一礼を終えると御守を頂戴すべく授与所へ向かうが、そこにネコが現れた。ネコは僕を避けて仲間を呼ぶが、
呼ばれて来たやつがだいぶフレンドリーでしばらく楽しませてもらった。御守もオリジナリティがあって素敵だったぜ。

  
L: かわいいけどこいつには避けられてしまった。  C: 呼ばれてやってきたこいつは触らせてくれたのでヨシ。
R: 「しょうがねえなあ、撫でさせてやるよ」という感じ。ありがたく、ふだん欠乏しているもふもふ成分を補給した。

だいぶいい感じである。となると、このいい流れで、混まないうちに昼メシをいただいてしまうのだ。
三崎といえばマグロだが、どの店で食えばいいのか本当に迷う(個人的には「中華街現象」と呼んでいる)。
どの店がいいのやら……とフラフラしているうちに、西に出て城ヶ島大橋が見えた。思ったよりもずっと大きい。
あの橋を渡って城ヶ島に入るためには、いったん坂を上って市街地のはずれまで行かないといけないのは明らかだ。
こりゃもうさっさとメシを食うしかないか、と港方面に戻り、見本の写真が出ている店から選ぶことにする。

 城ヶ島大橋。思っていたよりも大橋だった。

三崎港周辺を本格的に動きまわる。いかにも港町らしい雰囲気で、なんとなく鞆の浦(→2016.7.21)に似た空間配置。
あちらは古い建物が並んでいるし港じたいが近代以前の遺構だが、三崎港は建物こそ新しいものとなっているけど、
海をぐるっと囲む雰囲気が一緒なのである。港を正面として、建物が並んでいる感触が共通しているのである。

  
L: 三崎港。海を正面として囲むように建物が配置されている感じが、いかにも昔ながらの漁港という雰囲気なのだ。
C: インパクトある三崎館本館。1907(明治41)年創業の旅館で、建物は1927年築、1953年に3階部分を増築とのこと。
R: 港から市街地方面に入ったところ。港を正面とする感じで建物が並ぶ。古い建物もチラホラ。海南神社はこの奥。

  
L: 三崎フィッシャリーナ・ウォーフ「うらり」。2001年オープンというわりには建物がモダニズムなのだが。
C: うらりの2階テラスから眺めた三崎港。  R: 手前のデッキにて。黄色い船は水中観光船・にじいろさかな号。

  
L: うらり1階のうらりマルシェさかな館。きちんと市場の雰囲気がする。  C: 貝と魚。特に魚がデカくて驚いた。
R: 港近くの店で地魚の海鮮丼をいただいたのだが、正直コスパは悪かった。もっとマグロまみれな丼を食うべきだった……。

「地魚」の響きに惹かれてランチはマグロよりそっちを優先したのだが、やっぱりマグロまみれでいくべきだった。
あとわかったのは、京急の「みさきまぐろきっぷ」がめちゃくちゃお得だということ。今回は帰りに途中下車する予定で、
わざわざ「みさきまぐろきっぷ」にこだわらなくてもいいかと考えた。しかし三崎でランチをいただくとなると、
「みさきまぐろきっぷ」の方がかなりお得になる。レンタサイクルも借りられるし。まあ次回への教訓ってことで。

ランチを終えて、うらり周辺を歩いていると、城ヶ島への渡船が目に入る。片道500円、あと5分で出航とのこと。
これはわざわざ遠回りして城ヶ島大橋を渡るよりも絶対に面白い。行きは渡船で帰りは大橋なら完璧じゃないか。
瞬間的にそう判断して自転車と一緒に乗り込む。いやあ、われながら三浦半島を存分に堪能しておりますなあ。

  
L: 自転車は船内ではこんな感じで固定。よくできているなあ。  C: いざ出航。あらためて港の周りの街を眺める。
R: 船はスイスイ進んでいく。こちらはマグロ集配施設と、香川県と大分県が共同で使っている高校の実習船・翔洋丸。

  
L: 海から眺める城ヶ島大橋と城ヶ島。  C: そのまま右を向いて城ヶ島の西半分を眺める。  R: 城ヶ島の海上生け簀釣堀。

 城ヶ島渡船「白秋」。楽しい時間をありがとう。

城ヶ島に上陸すると、まず城ヶ島灯台へと向かう。途中で城ヶ島のメインストリートを横断するが、見事に食堂ばかり。
こっちの方が安くてマグロまみれだったかなあと思いつつ灯台へ向かう商店街に入るが、ここも食堂が賑わっている。

 
L: 城ヶ島のメインストリート。食堂が並んで賑やかだが、このブロックを抜けた駐車場から先は静か。
R: 灯台へと向かう道は土産物や食堂が並んでいる。いかにも港の観光地といった風情である。

商店街の坂を上っていくと灯台の入口となる。ここからは階段だ。上りきると公園となっているのだが、
ギリシャ・ヨーロッパ方面のデザインがわりと悪趣味にまとまっていてニンともカンとも。海が近いので傷みも目立つ。
さらに進んでいくと城ヶ島灯台である。日本の西洋式灯台としては5番目の歴史を持つが、関東大震災により倒壊。
現在の灯台は1925年築で、それでも立派にモダンである。中には入れず、灯台の脇を往復しておしまい。

  
L: 城ヶ島灯台。手前の建物はかつて灯台博物館となっていたが、現在は中に入れない。
C: 横から見上げる。  R: 西へ通り抜けて振り返る。これで終わり。ちょっと味気ないなあ。

灯台から南側に岩礁が広がっているのが見えたので、ちょっと行ってみる。散歩する観光客も多いが、
目立っているのは本気の釣り人たち。海の際ぎりぎりのところで糸を垂らしている。大物を捕らえた人もいた。
景色は荒涼としており、人がいなけりゃ月面と錯覚しそうなくらいだ。斜めになった地層がはっきり露出しており、
その褶曲ぶりがよくわかる。地学がわかる人ならウハウハなんだろうなあと思いつつ、のんびり歩く。

  
L: 城ヶ島の南側はこんな感じ。  C: 海と褶曲。なお、この辺りは「ヒナダン」というらしい。
R: 海に浮かぶ島で釣りをしている人もいた。どうやってあそこまで行ったんだか。すげえなあ。

 遠くに馬の背洞門が見える。さすがにそこまで行く気力はなかった。

しばらく景色を堪能すると、再びレンタサイクルをこぎだして今度は城ヶ島の東側へ。
城ヶ島大橋へ向かうループの途中、脇に逸れて進んでいくと、城ヶ島公園の入口に到着である。
自転車は中に入れないので、駐輪場にレンタサイクルを置いてお邪魔する。城ヶ島全体の1/3くらいあって距離が長い。

  
L: 城ヶ島公園の入口。  C: 門を抜けるとこんな感じ。  R: 東の端には安房埼灯台。三浦大根をもとにしたデザインとな。

天気のよい土曜日の午後だからか、家族連れを中心に来園客はけっこう多い。公園内は特に何かあるわけではないので、
みんな純粋にのんびり過ごしに来たというのか。せっかちな僕には信じられない優雅な家族たちだなあと思う。
展望台が2箇所あり、上から城ヶ島を眺める。北には三浦半島先端のゴツゴツした岸壁が続き、頭上に木々を載せている。
東を向けば砲台跡。なるほど東京湾防衛の最前線か。その南には岩礁が広がり、物好きな人々がのんびり散歩している。

  
L: 展望台から見た三浦半島の先端。しかし手前のトイレが目立ちすぎているのであった。
C: 東の崖の手前に砲台跡。水平線の向こうには房総半島が延びているはず。  R: 南の岩礁と海。

さてそもそも、なぜ「城ヶ島」というのか。律令制の「尉(じょう:四等官で3番目)」が住んで「尉ヶ島」といい、
後に「城」に字を改めたとか、戦国時代に里見義弘が砦を築いたとか、複数の説がある。こうして展望台から見ていると、
確かに城っぽい感じはある。三崎港が栄えたのは、この城ヶ島が天然の防波堤の役割を果たしていたことも大きい。
呼子における「壁」だった加部島を思いだす(→2018.2.26)。三崎からは港を守る城に見えたってことなのか。

 西側を眺める。城ヶ島の高台部分は外海の影響を直接受けるので建物がない。

だいぶ動きまわって疲れた。これ以上アップダウンをする気力はないので、旧安房埼灯台跡も馬の背洞門もスルー。
ループに戻って城ヶ島大橋を渡る。さっき書いたように、下から見上げる大橋は渡るのがたいへん面倒に見えたが、
いざ渡ってみると予想以上の絶景なのであった。高所恐怖症的には少しつらかったが、満足しながら半島に戻る。

  
L: 城ヶ島大橋から眺める城ヶ島(左)と三崎港(右)。  C: 三崎港をクローズアップ。マグロをリヴェンジしたいぜ。
R: KEIKYU OPEN TOP BUS。「みさきまぐろきっぷ」で三崎口駅から城ヶ島まで来られるみたい。うわあ、これいいなあ。

存分に堪能したおかげで、もうすぐ自転車を借りてから4時間になる。超過料金は1時間で300円なので、
4時間をオーヴァーすると1日利用と大して変わらなくなってしまう。ケチくさい話だが、そこは節約したいのだ。
それでもあと1箇所は寄り道する余裕がありそうなので、噂で聞いた油壺というところに行ってみることにした。
ちなみに京急油壺マリンパークは昨年9月に閉館したので、マリーナ以外には特に何かあるわけでもない感じ。

 油壺湾。来てみたものの、どうにもならないのであった。

5分の余裕を残して三崎口駅に到着。いやあ、堪能したなあ。新しい市役所ができたらマグロを食べにまた来よう。

特急列車で三崎口を後にすると、京急久里浜で下車。駅から少し歩いていくと、イオン久里浜店がある。
そしてその屋上は久里浜中央自動車学校。前にバスに乗ったとき、「自動車学校前」って名前のバス停なのにイオン。
それで不思議に思っていたのだが、まさかこんなコラボが存在していたとは。で、その自動車学校イオンの向かいに、
久里浜天神社が鎮座しているのである。天神様をこちらに勧請したのは、久里浜を開拓した砂村新左衛門とのこと。
聞いたことあると思ったら、江東区の砂町(→2021.7.24)の由来になった人じゃないか! いろいろやった人だなあ。

  
L: 自動車学校イオンを背中に久里浜天神社を撮影。  C: 逆光と戦いつつ拝殿。  R: 本殿。

参拝を終えて御守を頂戴すると、京急久里浜駅から湘南山手へ向かうバスに乗る。ガッチゴチのニュータウンだが、
その真ん中にポツンと神社が残されている。そこに用があるのだ。神社の名は、安房口(あわぐち)神社。
かつて館山の洲崎神社を参拝した際、海の近くに「吽形」の御神石が祀られていたのを見た(→2019.3.21)。
あの御神石に対応する「阿形」の方を祀っているのが、安房口神社というわけなのだ。3年かかってやっと来れた。

  
L: 湘南山手のニュータウンの中に突如として現れる社叢。こちらが安房口神社の境内入口となっている。
C: 石段を上って鳥居をくぐると、開発前の自然がそのまま残されていて驚く。進んでいくと二の鳥居。
R: さらに進むとこの光景。斜めにまわり込んで御神体と向き合う位置関係が独特。石は安房国を向いているそうだが。

ではいざ御神体である「阿形」の御神石とご対面。洲崎神社の「吽形」はなんだかクルミっぽかったが、
こちらの「阿形」は見るからにちくわである。……こんなこと書いて罰が当たったらヤダなあ。でもちくわなんだもん。

  
L: 厳重に囲まれている御神体である「阿形」の御神石。後ろの木々や脇の祠がまた厳かな雰囲気を漂わせているなあ。
C: 中を覗き込む。これは……ちくわですね。  R: 角度を変えて眺める。オレ、なんだか磯辺揚げが食いたくなってきた。

洲崎神社との関係でばかり書いているが、こちらの石は安房神社(→2019.3.21)の祭神・天太玉命の依り代として、
東国鎮護のために飛んできたという話。2つある安房国一宮のどちらとも関係性があるのが、実に興味深い。

 横に並ぶ境内社。左端の招き猫が異彩を放っているのだが。

とにかくこれで、東京湾を守るという両方の石を訪れることができた。ニョホホホホ。やったワン。
参拝を終えるとニュータウンを西に抜けて、広めの道を北上していく。本日最後の目的地は大津諏訪神社なのだ。
824(天長元)年に諏訪大社(→2014.8.17)から勧請された。拝殿の前には真澄(→2016.8.21)の酒樽が置かれており、
今も諏訪大社との関係性を大事にしているのがよくわかる。長野県人としては実に親近感の湧く神社である。

  
L: 大津諏訪神社。昔はこの辺りまで湾が入り込んでいたんだろうなあ。  C: 鳥居をくぐって境内へ。  R: 石段を上がる。

  
L: 拝殿。関東大震災で社殿が倒壊したため、損害の少なかった旧矢之津神社のものを移築したとのこと。
C: 本殿。こちらは旧白山神社のものを移築。  R: 拝殿前から境内を眺める。かつての港も今は住宅だらけのようで。

御守を頂戴したが、三つ巴の標準的なもののほかに、きちんと諏訪系の梶紋をあしらったものあり、両方頂戴した。
新大津駅へ行くとまさに列車がホームに入ってきたところ。そのまま揺られて横浜へ。楽しい一日だったなあ。



2022.3.9 (Wed.)

春休みに山陽方面に旅行できないかと計画を練る。いいかげん、そろそろ遠くへ行きたいのだ。

岡山へ行くにあたっては、当然リョーシさんに話を通しておかなければなるまい。
それで「岡山どうすかね」とメッセージを送るが、どうにも反応がうれしそうな感触である。
「朋あり遠方より来る、亦た楽しからずや」ってやつなら、こちらもありがたいことだが。
閉塞的な感じの毎日はどこも一緒なんですかね。感染拡大防止を意識しつつ、お世話になります。


2022.3.8 (Tue.)

眼鏡っ娘嫌い。私にとって、眼鏡とは男性器に他ならないのである。ファルスじゃ、ファルス。

きっかけはもちろん小学校5年生、自分が眼鏡をかけるようになったことである。両親ともに目が悪かったので、
それはもうしょうがないものとして受け容れるよりほかない運命なのであったが、問題は眼鏡をかけた自分の顔である。
ウチの母親そっくり。もうゲンナリですよ。以降、眼鏡女子はもうその時点で私の性の対象からはずれたのだマジで。
本当に、心の底から眼鏡っ娘という概念を嫌悪しております。なぜ眼鏡ですべてをぶち壊してしまうのかと。
女性の眼鏡とは、美しく盛り付けた料理の上に、文字にするのも憚られるような汚物を撒き散らす行為に等しい。
眼鏡っ娘に欲情する心情がまったく理解できないどころか、そんな異常性欲は社会から抹殺されるべきだと思う。
言いたいことはそれだけだ。Y染色体を保有していないと眼鏡をかけられない、そんな世の中になればいいのに。


2022.3.7 (Mon.)

毎度おなじみ無料動画で『中二病でも恋がしたい!』と、その続編の『中二病でも恋がしたい!戀』を視聴。
最近はマンガだったりアニメだったりおたく方面全開で申し訳ない。気楽にアクセスできるのでついついつられちゃう。
ちなみに滋賀県の旧伊庭家住宅を訪れた際に小ボケをかましているが(→2015.8.7)、それの元ネタであります。
ネットの海に浮かんでいた同人誌でモリサマーは把握していたが、きちんとアニメを見たのは今回が初めてなのだ。

結論としてはもう、よくこんなしょうもないものつくったな、としか言いようがない。
使えそうな設定のライトノベルを原作にすばやく持ってきて、京アニパワーで無理やり売ろうとした感じ。
おかげで確かに絵はきれいだが、そのクオリティと音楽でごまかしているだけ。本当に中身がない。
そもそもヒロインに魅力がないからしょうがない。主人公の富樫は完全に六花の保護者ポジションであり、
これをラブコメで処理しようというのがもう無理な話なのだ。最初っから矛盾しているのである。
どう考えてもモリサマーこと丹生谷の方がヒロイン適性が高い。そして丹生谷は凸守の保護者なので、
富樫と丹生谷をくっつけて「娘2人に翻弄される楽しい我が家」とやる方が、物語として妥当なのだ。

さらに言うと、そもそも中二病とは何なのか。おたく向けなのでファンタジー方面を中二病としているが、
少なくとも僕の感覚では、そういうよくわからない力で現実に抗うのはせいぜい小学校低学年までだと思うのだが。
(ラヴクラフトのクトゥルフ神話がこの方面の中二病における総本山ではないかと思う。よく知らんけど。)
一口に「中二病」と言っても実際の病態は多様であり、共通しているのは人それぞれの「背伸び感」だろう。
大人になる前の時期、理想と現実の齟齬を認めたくなくて、できるだけ現実を理想に寄せようという努力。
そのように中二病の定義についてきちんと考えることなく、表面だけ舐めてラブコメをやろうなんざ甘すぎる。
一話完結スタイルで、校内の各種中二病を富樫&丹生谷一家が暴露しては浄化してはをやっていけばよかったのに。

それにしても、中二病という概念を可視化した伊集院光は偉大であるとあらためて思う。
ちなみに私の中二っぷりは、国語の授業で登場人物の心理の解釈について意固地になる部分に現れていた気がする。
むしろ当方、そこから一生中二病を患っている感じですよ。現役患者なめんなよ、と言いたい。


2022.3.6 (Sun.)

殆ど死んでいる『異世界おじさん』を読んでみたので感想を。

トラックにはねられて昏睡状態だったおじさんは、実はファンタジーな異世界で大冒険をしておった、と。
しかしそちらで大いに活躍しつつも行動原理が徹頭徹尾SEGAのゲームでいやあ残念残念、という話である。
異世界モノを逆手にとったギャグマンガなわけですな。明らかに、SEGAのゲームを懐かしがって楽しむマンガ。
したがって、異世界における残念ギャグと、令和におけるジェネレーションギャップギャグで、一粒で二度おいしい。
ところが当方、カプコナミっ子だったので、ついていけないギャグ多数。おまけにファンタジー脳(能?)もない。
だから100%楽しめない感覚がついてまわるのがやや淋しい。どうしてもアウェイ感を振り払うことができないのだ。

ここからはちょっとテクニカルな方面を。現在をベースにしつつ過去の異世界編を振り返るという構成で、
これは専門用語で「茶砂漠方式」というやつである(特殊な界隈でしか通じない表現です念のため →2019.2.18)。
利点は時系列をほとんど気にせず、後からいくらでもエピソードを放り込めること。思いついたらどんどん書ける。
欠点はすべてのエピソードが断片的になり、前後の論理的なつながりが非常にわかりづらくなってしまうこと。
今のところ『異世界おじさん』はその辺を気にせずやれているようだが、すでに僕は前後があやしくなってきている。

おじさんは17年の冒険を終えており、すべての異世界エピソードは過去でしかない。
つまり、ツンデレエルフをほったらかしてきたという結果が動くことはない。これはちょっと切ない。
かつて『キサラギ』という映画があって、男5人の会話から隠されていた過去が明らかになっていくのだが、
ヒロインが死んじゃっているという絶対的事実に「それほどでも……」となってしまったことがある(→2007.8.11)。
あれと同じ。ツンデレエルフをほったらかしてきた事実は動かないのである。それで過去を語られてもなあ……。
読んでいるこちらにとっては、約束された報われない話が延々とギャグで流されていくことになるので、少しストレス。
(あと個人的なところでは、あらゆるフラグをへし折るおじさんに自分の過去が重なってブルーになるのよね……。)
となると、最終回でその事実をひっくり返すどんでん返し(妥当なところでは異世界との接続)が起きるはずなのだ。
もしかしたら斜め上を行く展開があるのかもしれない。ただ、それまで過去を眺める構図が延々と続くのは同じことだ。
過去に対する現在の世界も、基本的にはSEGAとジェネレーションギャップである。どっちにしろ、広がらないのだ。
ツンデレエルフの不憫さが臨界点を突破したところで救いはあるのか。もはやそういう視点でしか読めない。

さてさて、実はここ最近、異世界モノをわりと積極的にチェックしている。あれはもう15年近く前のことだが(!)、
2回目の教育実習の際にファンタジー小説ブームに驚いた(→2008.5.31)。現在の日本はさらにその度合いを深めている。
異世界ブームはおそらく、現代の消費社会を端的に象徴する現象なのではないか、ということで興味が出てきたのである。
そんな具合に社会学的に楽しくなってきたので、しばらく研究してみようかなと思っているしだい。どうなることやら。



2022.3.4 (Fri.)

卒業式なのであった。その様子を眺めながら、自分の高校のときはどうだったかなあ、なんてぼんやりと考える。

国公立志向の地方の進学校なので、御多分に洩れず卒業式は非常に慌ただしかった。進路が決まっていない状態で、
さっさと出てけと言わんばかりのあっさりした卒業式であった(気がする)。覚えているのは、みんなで新京亭に行き、
ラーメン食って解散したことだなあ。♪右ーのポッケにゃ卒業証書、左のポッケにゃ缶ビール~ってやつもいたっけな。
まあ結局、そこから1ヶ月もしないうちに多くの面々が名古屋に浪人として集結したんだが。かっこよくないなあ全然。

午後には生徒有志によるグラデュエーションパーティが開催され、さまざまな出し物が発表されたのであった。
コロナで合唱はできなかったが、「卒業式といえばコレ」ということで『旅立ちの日に』を歌う生徒たちがいて、
東京都の中学校はもはや完全に『旅立ちの日に』に征服されていたけど、神奈川県もそうなのか!と思うのであった。
いや、確かに名曲なのである。「あのイントロを聴いただけで涙腺がゆるんでしまう」という先生もいたくらいでして。
男声にも女声にもきちんと見せ場があり、間奏でしっかりクールダウンさせて後半一気に盛り上げる構成もよい。
卒業生がボロ泣きになり崩れそうになりながらもそれを勢いで持ちこたえさせるようにできているのがまた完璧だ。
聴けば聴くほどよくできているのである。定番を新たに生み出すってのはとんでもないことだなあと震えるのであった。


2022.3.3 (Thu.)

後期期末テストを返却する。今回は日本史のみだったが、マジメにやっていた生徒たちは軒並み高得点をとった。
たいへんよくがんばりました、と全力で褒めてあげたい。しかし一方で、極端な二極化が進んで年度が終わった感じ。
ちゃんとやっていた生徒が報われて、そうでない生徒がイマイチであれば、それはいいテストだったのかもしれない。
センター試験をモデルにかなり練り込んで問題をつくっているので、その方向性が上手くいったのならうれしいが。
課題は、勉強していなかった生徒たちのやる気をどう喚起するか。4月から新たな環境で試行錯誤するとしよう。


2022.3.2 (Wed.)

シュシュが好き。洋風はもちろん、和風のデザインも合う。シュシュで髪を束ねた女性の魅力は5割増し以上だぜ。


2022.3.1 (Tue.)

プーチンの表情がどうにも気に掛かる。奇妙なこわばり方をしている。これはおそらく認知症的なものがあるだろう。
思い返せば僕が港区で働いていたとき、明らかに校長が認知症だった。もともと人格的に問題のあるクズだったが、
校長という権力をかさに現実離れした主張をしつこく繰り返し、都合が悪くなると聞こえないふりで事実を否定した。
あれと似た匂いがする。校長の権力も現場では絶対的でたいへん迷惑きわまりなかったが(港区の対応もクソだった)、
核を持っている独裁者の認知症はその比ではない。これは世界的にマジメに考えなければいけない大問題だ。
中国はこの事態をどう思っているんだろうか。北朝鮮は何も考えてないんだろうなあ。ダモクレスの剣が光っている。


diary 2022.2.

diary 2022

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