diary 2008.7.

diary 2008.8.


2008.7.31 (Thu.)

7月が終わる。ハッキリ言って、今月は非常に低調であった。人としてどうよ、と思ってしまうほどにひどかった。
みやもりには「人間、思いっきりジャンプするときには一回かがまんといかんわけでさ、しかもさ、
ジャンプしても滞空時間ってもんがあるわけだから、タイミングをみて飛び上がらないといかんわけよ。
そういう勢いっつーかエネルギーっつーかをピークにもっていくためには、少し準備が必要なんだよ」
という、とっても見苦しい言い訳をしていたのだが、もういいかげん、本腰を入れないとお話にならない時期だ。

人それぞれのタイプがあるので一概には言えないのだが、僕の場合は「いかに自分をだませるか」が鍵になる。
いかに自分がそれを好きか、いかに自分がそれに集中できるか、いかに自分がそれに賭けているか、
そういったことを自分に暗示をかけて少しも迷うことがないようにする。これは何ごとについてもそうなのだ。
催眠術をかけるようなものなので、かかるまで時間がかかるし、かかった後も時間が経つと解ける。
あんまりダッシュをかけるのが早いと、ガス欠を起こしてしまう。4年前と違って、今はまったくガソリンの要素もないし。
そういうわけで、今は自分を完全にだましきるタイミングを計っているところなのだ。いちおう、そういうことなのだ。

とはいえ、なんだかんだ理屈をこねたところで僕のやり口は急造ロケット方式なので、ボロが出る可能性はある。
やはり日ごろから少しずつ努力をしておかないと、予測がはずれたときに強烈なしっぺ返しを食らうはずなのだ。
だからぼちぼち、本格的に気合を入れ直していくことにするのである。日記に書いちゃうことで自分を追い込む作戦。


2008.7.30 (Wed.)

夜中に『機動警察パトレイバー the Movie』をやってたから思わず最後まで見ちゃったよ。
せっかくなので、きちんとレビューを書こう(マンガのレビューはこっち →2004.12.15)。

この作品はマンガよりはOVAの延長線上にある感じだが、マンガのファンでもあまり違和感なく楽しめるデキになっている。
1999年ぐらいの東京が舞台。『パトレイバー』の世界では、1995年に東京南沖大地震が発生している。
そのガレキの処分と土地不足解消と温暖化対策のため、東京湾全体を干拓・埋め立てする計画が進められている。
これが「バビロンプロジェクト」。この国家的プロジェクトにより、レイバーが急激に普及していった、という背景になっている。
パトレイバーは1980年代後半に生まれた物語で、作品には当時予測された「10年後」が描かれていることになる。
現在は2000年代後半ということで、もはや作品世界ですら「10年前」なのだ。
つまり映画の公開からは20年近いことになる。うわあ……。

いま見ると、全体を通して異様に説明ゼリフが多い。上記のような設定を理解させるためにはどうしても必要なのだ。
ストーリーじたいはそんなに複雑ではないものの、設定をきちんと呑み込めていないと存分に楽しむことはできない。
この作品は登場人物が説明ゼリフを発するとき、聞き手のほかに自分に対しても同様に言い聞かせているところがある。
複雑な状況を登場人物と観客が一緒に整理しながら進むため、不自然な説明ゼリフもわりとすんなり受け止められる。
そして押井作品といえばやたらめったら外からの引用が多いのだが、この作品でもやっぱり、旧約聖書からの引用がある。
しかしそれは松井刑事が帆場の生まれた場所を探り当てる部分にほぼ集中しており、まあ許容範囲と言えるだろう。

この作品では後藤隊長の魅力がとにかく満載。仕掛けられた巨大な悪に誰よりも早く感づき、
時には自分の部下をいいように操りながら、また操られた本人の意欲を高めながらも、真相へと迫っていく。
そして最後には、確信を持って賭けに打って出る。そして作戦を実行する段階では後方支援をしっかりとこなしている。
第2小隊という小さいながらも熱い組織をフルに活躍させて、敵の残した罠を自分なりに崩していくのだ。かっこよすぎだ。
というわけでこの作品の主役はまちがいなく後藤隊長で、ずる賢いオトナの頭脳戦が好きな人にはたまらない仕上がりだ。

また、この作品では都市の描写に極めて高い評価が与えられている。
コンクリートに固められた川沿いから東京湾岸へと至る風景は、実際にロケを行ってから描いたという。
開発されていくウォーターフロントと対比して、そこから取り残されて朽ちていく貧しい住宅街がクローズアップされる。
そこで使われている川井憲次の音楽も特徴的で、スティールドラムをフィーチャーした無国籍な雰囲気が、
過去なんだか現在なんだかわからない、時間の狂った場所という感覚を増幅する。

最後に、僕の個人的なこだわりからこの作品の意義について考えてみたい。
この作品では、被疑者はすでに死亡(扱い)しており、残されたコンピューターウイルスにより犯罪が実行される。
つまり、身体のない敵、実体を持たない敵との戦いという構図になっている。
これは後の『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(→2005.8.19)の「人形使い」に通じる鋭い視点だ。
戦いにもいろんな種類があるが、この作品で第2小隊が繰り広げるのはあくまで物理的なレベルでの戦いである。
プログラムされた暴走という形で実体化する悪意に対し、実体化させる物理的な鍵(箱舟)を取り除くという手段をとる。
映像化したときのわかりやすさ、表現しやすさ、観客の感情移入しやすさという点からして、実にいいバランスがとれている。

そんでもって僕は、封建国家から近代国家への変革は暴力を管理する機構の変革である、という視点に立っている。
(つまり、法律は暴力を管理するための論理的な秩序で、論理で暴力を制御することこそが理性の発揮しどころ。
 法律とは数学的な論理の世界であり、暴力が暴発する可能性(確率)を極限までゼロに近づけることが目的。
 そしてシビリアンコントロールは公的な暴力の行使を最終的に市民が管理するわけだから、民主主義のキモになる。)
軍隊のない日本では(自衛隊に関する議論は面倒くさいのでパス)、警察が最大の「公的暴力を保持する組織」だ。
だから理性の度合、民主主義の度合が高ければ高いほど、警察機構は法律でがんじがらめになって官僚的になる。
この作品では、そんな日本のおまわりさんが、法律に縛られながらもスレスレの論理で許される限りの暴力を行使する。
プログラムにより埋め込まれた悪意が引き出す被害を最小限に食い止めることが目的である、というのがポイント。
敵を攻撃しようにも相手には身体がない。そして第2小隊が行使する暴力は、あくまで犯罪の予防というレベルに留まる。
これは本当にうまいところを衝いてきたなあ、と感心。押井の問題意識が非常に自然な形で物語と融合しているのだ。

以上書いてきたように、この作品は、1980年代末における未来像を読むという点でも意義があり、
失われていく都市の風景を克明に記録したという点でも意義があり、実体を持たない敵との戦いという点でも意義があり、
公的暴力(軍事力)と理性の問題という視点から見ても意義のある作品なのだ。しかも高度な娯楽作品になっている。
(続編の『機動警察パトレイバー2 the Movie』(→2007.6.22)では、軍事力に関する部分のみをクローズアップしており、
 作品から読み取ることのできるテーマが激減している分だけ面白くない仕上がりとなってしまっているのだ。)
まあともかく、この劇場版1作目は、ただの「パトレイバーの劇場版」にはとどまらない作品となっている。
もともとパトレイバーは面白いんだけど、その面白さに加えてもう一歩先に進んだ面白さにもあふれている。
未来を扱ったストーリーは、それが過去になると急激に古びるものだが、この作品にはまったくそれがないのだ。恐ろしい。


2008.7.29 (Tue.)

ハローワークへ行って説明会というか講習会というか、まあとにかく話を聞く。
こういうことを書くのは不謹慎な気もするのだが、正直なところ、なるほどなあと思うところが多い。
ふつうに過ごしていれば、もしかしたらこういう場所でこういう話を聞く機会はなかったかもしれない。
自分の生活がかかっているのだから、もっと現実的にもっと緊張感を持って臨まないといけないのだが、
なんというか、社会学的に面白いなあと。こういうふうになっていたんだなあと思うのであった。
わざわざ自分から波乱のある人生を選んでいるわけだから賢いふるまいではないのだろうけど、
だからこそこういう経験を忘れないようにしておかないといかん、と肝に銘じるのであったことよ。


2008.7.28 (Mon.)

埋立地ゼロ空間論、その2(過去ログはこちら →2004.11.32005.11.3)。
今日は昨日のテキトーな埋立地に関する考察をふまえたうえで、ある実例と比較をしてみて、
「埋立地とは何ぞや」ということについて一定の結論を導き出してみたい。あくまで、僕の主観として。

まずは千葉の埋立地について、その歴史を振り返ってみることにしよう。
千葉県企業庁による公式HPによれば、この地域の埋め立て計画は1945年に閣議決定されたという。
その目的は、食糧増産。幕張(花見川区側)はもともと、ニンジンの産地として知られた農村だったのだ。
しかし後に事業目的は中小工場用地造成に変更となり、1964年に60haの造成が完成している。
そして1967年に海浜ニュータウン計画が発表され、住宅地として埋め立てを進めることが決められた。
が、1975年に「幕張新都心」構想が発表され、住宅からオフィスなど業務施設中心の計画に変更されて今に至る。
1976年にはその幕張新都心に教育文化機能を集中させる方針が掲げられ、大学や高校などが多くつくられる。
こういった経緯を見るに、実は目的などどうでもよく、埋め立てという土木事業を実施することが重要だったように思える。
高度経済成長期における埋立地造成は、本質的に、事業のチャンスを生むための空間でしかなかったようだ。
用途は後で決まるから、とにかく土地を生み出すことが大事。未来の皮をかぶった、現在でしかない土地。

さてそんな埋立地の比較あるいは関連事例としてここで挙げるのは、僕の慣れ親しんだ街・国立である。
国立はかつて広大な武蔵野の原生林であり、甲武鉄道(現在の中央線)が通ったことがきっかけで宅地化したのだ。
開発したのは箱根土地(後の国土計画・コクド)の堤康次郎。今の西武グループの生みの親である。
1920年代の日本は田園都市構想の影響下にあり、鉄道建設と宅地開発が盛んに行われていた時期だった。
関西では阪急の小林一三が先行して、大阪・箕面~兵庫・宝塚で娯楽施設と合わせた宅地開発を行っていた。
同じように関東(東京)でも私鉄による宅地開発が行われたが、こちらは阪急とは異なる特徴があった。
それは「学園都市」である。関東大震災に見舞われた都心の大学・学校を郊外に誘致して開発の核としたのだ。
大学・学校を中心にすれば、ハイソな住宅街をつくることができる。また、通学客を乗客として取り込むことができる。
特に東急の五島慶太と、後に西武グループをつくりあげる堤康次郎は、学園都市の開発に非常に積極的だった。
(そのため、今も東急と西武の沿線にはその名残がたくさんある。東工大も蔵前から東急の大岡山に移転した。
 ちなみに西武の大泉学園は、学校を誘致したがどこも移らず、そのまま学園という名の住宅街になった事例である。)

で、国立。1926年に分譲開始し、1927年に東京商科大学が神田一ツ橋から移転してくる。
(その後、元あった土地の名前を大学に冠して「一橋大学」となったのである。国立は、一橋大学とともに発展した。)
この国立という地名は、中央線で立川と国分寺の間にあったので、両方から1文字ずつとってつくったものだ。
つまりそれ以前にこの一帯は、地名の存在しない場所だったのである。完全な空白地帯だったのだ。
北側の国分寺などは江戸期には畑地となっており、南側の谷保は甲州街道から多摩川にかけて稲作が行われたが、
現在の国立市北部は何もない場所だったのである(それはたぶん府中の東芝の工場辺りまで続いていたと思う)。
宅地造成の結果、国立駅からまっすぐ南北に広い道路が引かれ(大学通り)、矩形のブロックが地面を覆った。
武蔵野の原生林は一橋大学のキャンパス内を除いてほぼ消え、低層の高級住宅街ができあがって今に至る。
南から北にかけて本当にわずかな上りの傾斜になっている以外にはまったく起伏がない。
すべての道路は直線であり、駅から東西に伸びる旭通りと富士見通り以外はぜんぶ直角に交わる。
そして新たに植えられた緑が大通りの両側と家々の庭先で茂っている。それが国立という街なのである。

何もないところに人工的につくられた空間ということで、千葉の埋立地と国立についてざっとみてきた。
両者に共通しているのは、一言で表現するなら「神の不在」である。つまり、どちらにも神社仏閣が存在しないのだ。
神社仏閣がどのように生まれたのかは想像するしかないのだが、まず住民が「聖なる土地」を選ぶことから始まると思う。
聖なるものに適した土地を選び出してそこに神社や寺をつくる。そういうプロセスが最初にあると思う。
北多摩地区を地図で見てみると、武蔵野市は五日市街道沿いに、小平市は青梅街道沿いに寺社がある。
主だった街道のない畑地だった国分寺市西部は、そこかしこに寺社が点在するかたちになっている。
ところが国立市は甲州街道沿いに谷保天満宮などがあるが、南武線と中央線に挟まれた空間には、
寺社は旭通り近くの應善寺だけしか存在しない。あれだけ広大な空間に、たった1つしかないのだ。
(後日国立に行って確認してみたら、應善寺は関東大震災で被災し、1930年に現地に移ったとのこと。)
国立が宅地造成された1920年代は、すでに寺社を必要としない時代となっていたのである。
そして当然、高度経済成長期に造成された千葉の埋立地にも寺社は存在しない。

「神の不在」と書いたが、では、いなくなった神の代わりにやって来たのは何だろうか。
個人的に思いついた結論を言えば、それは「近代」ということになる。神は死んで、近代がやってきた。
近代とは、産業が主役の時代だ。産業革命の産業。それが神に代わって世界を支配する。
(ここまで資本主義がどーのこーのと書いてこなかったのは、主役が産業であって資本主義ではないからだ。
 むしろ社会主義の方が豪快に産業のための空間をつくる傾向があるくらいで(コンビナートはロシア語由来だし)、
 産業の生んだ近代、近代の生んだ産業というその絡み合いが絶対的な存在になっているということなのだ。)
国立では産業として宅地開発が行われた。そこは増加する都市住民の受け皿となり、今もそのまま機能している。
千葉の埋立地も産業として開発された(上述のように、目的は二の次で埋め立てること自体が目的化していた)。
そして新たに生まれた土地は、今も産業のための空間として機能しているのである。
国立と埋立地の差(それは「プラス」か「ゼロ」かという差である)は、そこで生活する人間の存在によっている。
神が産業に置き換わった近代は、ハレとケの垣根がなくなった時代である。つまり、生活が祭りの要素を含む。
日々繰り返されるお祭り騒ぎのような日常は、土地の喜怒哀楽の記憶を無視するように再生産されている。
その華やかなハレの時間の陰で、人間のいない場所でケを一身に背負っているのが、埋立地なのだろう。
埋立地というのは、逆説的な形で近代が実体化した場所、と表現できるのかもしれない。

●今後の課題

今回は埋立地を千葉の例(鶴見線沿線も同じような傾向だが)に限っているが、それはかなり短絡的。
品川区・大田区にある戦前につくられた埋立地は、どのような存在なのか? 今と昔でどう変化したか?
さらには、江戸時代につくられて住宅として定着している月島はどのような存在なのか?
かつて計画された東京万博(1940年)と晴海の関係は? 埋立地・万博・近代それぞれの関係は?
臨海副都心計画と現在のお台場の賑わいの関係は? 千葉との違いはどこにあったのか?/あるのか?
同じように何もない場所が利用可能な空間になった例として、旧・淀橋浄水場、現・新宿副都心はどのような存在か?


2008.7.27 (Sun.)

埋立地ゼロ空間論、その1(過去ログはこちら →2004.11.32005.11.3/JR鶴見線周辺の埋立地→2006.8.6)。
ホントは日記1日分で終わらせるつもりだったのだが、書いてみたらかなりのヴォリュームになりそうなので、2日に分ける。

人通りの多い賑やかな繁華街を歩いていると、ただそれだけで楽しい気分になってくる。
逆に人通りのほとんどない暗く静かな一本道を歩いていると、三途の川でも渡っちゃったんじゃないかと思えることもある。
土地には歴史がある。長い年月、人間が暮らしていく中で、土地の歴史は刻み込まれ、再生産される。
あるいはもともとその土地が持っている特徴を無意識に受け止めて、対応を決めていることもあるだろう。
たとえば、池袋。かつて刑場だったというその土地は、いま歩いてみても、なんとなくジメジメとした雰囲気が漂っている。
ジメジメとしているから刑場になったのかもしれないし、刑場になった恨みつらみでジメジメしているのかもしれない。
とにかく、池袋東口から雑司が谷霊園へと抜けていけば、その土地の持つ「マイナス」の雰囲気に圧倒されるはずだ。
対照的に、いつでもすっきりさわやかな土地も存在する。たとえば、私鉄の大きすぎず小さすぎない駅前商店街。
すべてがそうだとは言わないが、私鉄の駅前商店街はアットホームな活気を持った場所が多い。
夕方、買い物客で賑わう商店街を訪れると、帰ってきた人を迎える「プラス」の雰囲気であふれている。
(なお、ここでの「プラス」「マイナス」は、「陽気な感じ」「陰気な感じ」という程度の表現と受け止めてくれればいい。)
「プラス」にしろ「マイナス」にしろ、そこには必ず人がいる。あるいは、いた。
人間の喜怒哀楽の記憶がその土地の特徴と結びついて、「プラス」の雰囲気や「マイナス」の雰囲気を生む。

しかし、この世界には「プラス」でも「マイナス」でもない場所がある。「ゼロ」とでも形容すべき場所がある。
上で述べた理屈からいえば、たとえば山の奥深くとか海の中だとか、人間の存在していない土地は「ゼロ」となる。
でも、それはちょっと違う。そこにはもともと人が住んでいないわけだから、判定不能とすべきなんじゃないか。
僕が「ゼロ」とみているのは、人間が存在しているのに喜怒哀楽の記憶が抜け落ちている場所だ。
それはつまり、広大な埋立地であり、郊外のニュータウンだ。特に起伏のない埋立地がそうだ。
(起伏がないということは、のっぺらぼうということで、そのとおり感情が生まれづらいということだ。
 起伏は歩くとしんどいし、高いところから眺めれば気持ちがいい。そういうわけで、起伏は感情を容易に生む。)
こないだ、千葉の幕張新都心周辺を自転車で走った際(→2008.7.22)、とりとめもなく風景写真を撮影してみた。
今日はその記憶をたどりながら写真をあれこれ眺めてみることで、この「ゼロ」空間についてテキトーに考察をしてみたい。

  
L: 千葉市花見川区検見川町。この近辺の国道14号は車道のみとなっており、歩行者・自転車向けの側道が並行して走る。
C: 同じ側道を撮影。行く先に見えるのは、東関東自動車道の高架。左手は古くからの住宅地、右手は国道14号である。
R: 側道が国道14号に合流した地点より撮影。道路を挟んで右側(南)は埋立地である美浜区となっている。

上の写真はすべて東向き。つまり、写真の左側(北)は花見川区の幕張周辺、右側(南)は美浜区の幕張新都心だ。
花見川区にはもともと村落があったのに対し、美浜区は1960年代より始まった埋め立てによって成立した場所である。
畑の雰囲気を残しながら宅地化したのが容易にわかる花見川区(西国分寺~国立の北側と雰囲気が似ている)に対し、
美浜区はひとつひとつの区画のスケールが大きい。そしてコンクリートやアスファルトの無彩色、あるいはプラスチックの原色、
そしてそれらの端っこや隅っこ、裂け目から漏れ出すようにして増殖を続ける植物の緑が、風景を形づくっている。
上の3つの写真に共通しているのは、埋立地との境界を壁のように覆っている植物の姿である。
「コンクリートジャングル」ではなく、コンクリートとジャングル。まるでジャングルのように、臨界点で植物は勢いよく生い茂る。

  
L: 千葉からの帰り道、国道357号の様子。右手の高速道路を覆い隠すように植物が生い茂っている。
C: 鉱物と植物だけで構成された空間。車道に比べると、歩道の扱いはずいぶん雑で、すっかり雑草たちの天下だ。
R: オフィスビルが建ち並ぶ足元で浮いている船。船の存在に違和感があるのは、この場所に生活感がまったくないからだろう。

今度は千葉から帰ってくるときの写真である。上に挙げた3つの写真はどれも、ひと気を感じさせないことが共通している。
車はひっきりなしに通るが、人間が歩いているのに出くわすことは極めて稀だ。車は道路を猛スピードで走り去っていく。
そこに言語はない。存在している生命は、無言でゆっくりと勢力を広げていく植物だけだ。その植物は数を持たない。
無数の植物が融合して、不定形な塊となってアスファルトやコンクリート、金属との間を埋めている。
可算名詞でなくなったことで、植物はまったく別種の存在となる。森や林の静けさや優しさとは違う面を見せるようになる。
埋立地における植物は、凶暴だ。襲いかかるようにしてすべてを覆って、みずからの中に取り込もうとする。
そこに美しさという要素は一切なく、ただ欲望のままに増殖し、ミクロの速度でうごめくのみだ。それは菌類の性質に近い。

  
L: 埋立地の道幅は非常に広い。横断歩道がなく歩道橋が架かっているところも多い。車が標準、歩行者は想定外の存在だ。
C: 歩道橋から眺めた風景。埋立地ではアスファルトとコンクリートの間で管理された緑と逸脱した緑が存在していることに気づく。
R: 太陽が沈む。黄昏は人の顔が見づらくなり「誰そ彼」と尋ねることから名がついたそうだが、ここに名を尋ねる相手はいない。

埋立地と鉱物(金属・アスファルト・コンクリート)の関係について。
道路の広さからわかるように、埋立地は歩行する人体のスケールではなく、機械のスピードを前提にしている空間だ。
埋立地では鉱物が多量に使われているが、その事実が「スピードの重視」という利便性によるのは当然のことだろう。
もうひとつ重要なのが「管理」の面。産業に特化した埋立地では、土地の所有者は自分の土地だけを管理する。
アスファルトやコンクリートで蓋をすることで土地は所有物の刻印を押され、使用可能となる(利潤を生む「下地」となる)。
現代において土は公園などの公共空間にしか残っていない。私的所有されている土の空間はまず頑丈な柵で囲まれる。
最も丈夫で軽くて造形が簡単な柵は、金属の柵だ。金属の柵が、埋立地に所有の境界・安全のための障壁をつくる。
鉱物は劣化こそすれ腐ることがない、清潔な存在だ。だから放置しても問題が少ない。それだけ管理が簡単になるのだ。
こうして埋立地は、水平なアスファルト・コンクリートと、垂直な金属によって全面を覆われることになる。

 
L: 植物の塊が道路へとあふれ出そうとしている光景。管理されることのない裂け目から緑が噴き出す。
R: 京葉線の高架のふもと、機械ではなく人間のための空間である歩道を雑草が侵食する。

管理の視線から抜け落ちたエッジや裂け目は、菌類のように増殖する植物たちの拠点となる。
それはまるで、タイルの目地のカビに似ている。産業による管理はそのタイルの範囲にしか及ばないため、
目地の部分は植物たちのやりたい放題の舞台となる。結果として、埋立地においてその存在が想定されていない
歩行者のための空間が、植物たちの侵食の犠牲となる。産業-鉱物-植物の共犯関係が、ここにはっきりと現れる。
埋立地においては、人間の居場所はペデストリアンデッキ(や歩道橋)のある場所に限定されているのだ。
歩車分離、安全の名のもと、人間は機械化された産業の邪魔にならないように地面より一段高い通路に追いやられる。

  
L: 日が落ち、ナトリウム灯が点灯すると、鉱物と植物たちの時間が始まる。
C: 周囲はオレンジ色に染まり、昼間とはまったく異なる世界が現れる。
R: ナトリウム灯は世界から彩度を奪い、すべてのものはモノクロームとなる。

埋立地が「ゼロ」空間であるのは、人間が徹底的に疎外されている場所だからだ。
人間たちの生活を裏で支えている産業が、表に出てしまった場所。それが埋立地なのである。
シンクロナイズドスイミングの水面下の泳ぎ、月の裏側、そういう「見てはいけない部分」だから、埋立地は人間に冷たい。
産業には喜怒哀楽などの感情にかまっている余裕がなく、鉱物も植物も言葉を持たない。ゆえに、「ゼロ」となる。
実際に埋立地の歩道を自転車で走れば、まるで難民になってしまったような気分になる。
産業だけが君臨する世界で、鉱物と植物が無限の無言の戦争を繰り広げているところに、裸のまま投げ出されるから。

日が落ちて空が暗くなると、オレンジ色のナトリウム灯が辺りを照らすようになる。
こうなってしまうともう、人間の居場所は完全になくなってしまう。人間であることが不自然に思えてくる恐怖を感じる。
だから僕は、夜の埋立地を自転車で走るときには、歌を歌う。声を出すこと、言葉を発することで理性が保たれる。
埋立地は人間が自ら生み出した異界であり、それはモノたちの反乱という新たなる怪談の舞台なのかもしれない。


2008.7.26 (Sat.)

教育実習の事後指導ということで、自転車をこいで都心に出て、通信の大学へ。
這ってでもこれに参加しないと単位がもらえないのだが、実際に来てみると内容は非常にユルユル。
事前指導にも登場した先生が「まあ、極端な話、今日は出席しちゃえば寝てても大丈夫ですから」なんて言う始末。
しかしこの先生は話がわかるというか、なんというか。そういうオトナになりたいわ。

前半は用意されたA3のアンケートに答える。後半は教科ごとに分かれて教育実習の反省会というか雑談会。
運よくこないだの介護等体験で一緒だった方とお会いしたので同じグループに入り、あれこれ話すのであった。
聞いていると公立と私立では実習の内容にとんでもない差があったようだ。やはり公立の中学校はどこでも、
いかにセーフティーネットとして機能するか、生徒たちに自信をつけさせる教育をするか、に取り組んでいるようだ。
義務教育段階では、全国的に「できるヤツ」に対して待ったをかける教育がなされているわけで、
どうもやっぱり、釈然としない。今の僕が抱えている板ばさみの感情は、長く続いていくことになりそうな感触だ。
(皆さんの話を聞いて確認したのだが、やはりウチの中学校は熱心すぎるというか、労力をつぎ込みすぎるようだ……。)

始まる前にはかったりーなーとしか思っていなかった時間も、あれこれ参考になる話を聞いているうちに、
あっという間に過ぎてしまった。自分の体験を相対化できたわけで、充実した時間を過ごすことができた。


2008.7.25 (Fri.)

冨樫義博『幽☆遊☆白書』。今まできちんと読んでいないことに気がつき、一気に読破。

序盤の幽助の幽霊としての活躍から、いかにもジャンプ的なバトル、そして霊界探偵に戻ってのエンディング。
なるほど、物語は(絵柄も)ずいぶんと大きく変化しながらも、全19巻というヴォリュームで無事に終わった。
このマンガの終わり方は当時、かなりの衝撃を与えたらしいのだが、『DRAGON BALL』の大失敗を考えれば、
そこに作者の鋭さ、頭の良さをみることができよう(鳥山明がバカだと言いたいわけではない)。

少年マンガの例に漏れず、主人公の浦飯幽助は物語中で大きく成長を遂げている。
しかし、この『幽☆遊☆白書』でそれ以上に覚醒したのは作者の才能だろう。その覚醒ぶりは常軌を逸している。
このマンガは『てんで性悪キューピッド』から『レベルE』(→2004.12.11)と『HUNTER×HUNTER』へ至る進化の記録だ。
作者は少年マンガを描く絶対的な才能を持っていた。それがジャンプ的なバトルを扱ったことで、一気に噴出したのだ。
戸愚呂、仙水、さらには黄泉・躯・雷禅までも「物差し」にしながら主人公たちは強くなる。際限なく強くなる。
そういう強さのインフレを、作者は全面的に肯定してしまう。臆面もなくインフレを続行することで、疑問を消し散らす。
そしてもうひとつ、作者には大きな武器があった。それは後に『レベルE』を描かせることになる、頭脳ゲームの才能だ。
単行本には「幽☆遊☆クイズ」というパズルが挿入されているのだが、ここに作者の才能をみることができる。
こういう頭脳を駆使するゲームの才能は、優れた頭脳を持つ蔵馬の活躍とともに物語の魅力を増幅させていくことになる。

『HUNTER×HUNTER』が爆発的に面白いのは、作者がこの『幽☆遊☆白書』で得た経験をフルに活用しているからだ。
強さのインフレを大胆に肯定することでストーリーは絶対的な芯を持つ。話にブレようがなくなるのだ。
そして頭脳ゲームを散りばめることで、ただのバトルが知的な戦いという膨らみも持つようになる。
アタマとカラダ、複数のレベルで強さが設定される。つまりそれだけ、読者を惹きつける要素が用意されているということだ。
(なお、『レベルE』は、『幽☆遊☆白書』の霊界探偵としての部分をアレンジし直したものとして読むことも可能である。
 『レベルE』の宇宙人との接触を、『幽☆遊☆白書』の魔界との接触として読めば、そのエンディングはまったく同じだ。)
だから『HUNTER×HUNTER』は、『レベルE』という高度な実験を経たうえで再度少年マンガの王道を目指した、
作者の総決算の作品となるはずである。圧倒的な才能を覚醒させた作者の総決算なのだから、面白くないはずがない。

話がそれたので、『幽☆遊☆白書』に戻すことにしよう。
このマンガ、キャラクターの魅力も見逃すことができない。典型的なジャンプの主人公・幽助に、ライバルで三枚目の桑原、
顔も頭も性格も良い蔵馬、冷酷にみえてなんだかんだ情に厚い飛影の4人は、ガチガチに友情で結ばれた関係ではない。
しかしその分、互いに力を認め合うことでつながっていることが強調されており、強さのインフレにうまく対応している。
敵や対戦相手にも、しっかりした背景が用意されている。幽助たちと戦うことになった悲しい過去が本当によく効いている。
だから戸愚呂(弟)も仙水も、ただ少年マンガ的な勧善懲悪な決着ではなく、過去を含めての清算となるのだ。
そして黄泉や躯も同じようにドラマを抱えている。その点をしっかり描いたことで、世界観全体がとても魅力的に映る。
大勢のキャラクターを出しながらも、それぞれに十分な魅力を持たせて造形をしていく作者の能力は群を抜いている。
読めば読むほど、この人はマンガを描く才能に恵まれたというか、うまく才能を開花させた人だなあと感心させられる。

さて、『幽☆遊☆白書』の凄みということでよく覚えているのが、「アニメを最後までやりきった」という事実である。
土曜の夜18時半フジテレビ系、森永製菓が提供していたアニメの時間は少年ジャンプのアニメ化の枠だった。
アニメ化されるのはいいのだが、どれも原作では途中の部分で最終回を迎えてしまい、消化不良な気分になった。
しかし『幽☆遊☆白書』だけは違った。原作と多少の差はあれ、その結末までほぼ完全にやりきったのだ。
最終回のエンディングではそれまでに関わったすべての人がスタッフロールに登場し、その長さに思わず鳥肌が立った。
スポンサーや上層部の意向ですぐに打ち切られるテレビアニメというメディアで、原作の最後まできちんとやりきる、
それを実現したのは空前絶後の快挙なのである。マンガもアニメもきれいに終わった、非常に幸福な例だと言えるだろう。


2008.7.24 (Thu.)

介護等体験、特別支援学校の2日目である。毎年恒例だという、プールのお手伝いをする。
特別支援学校では夏休みの最初のうち、学校に通う生徒にプールを開放している。
それで児童・生徒たちがプールに入るのだが、担任の先生の指示に従ってそのお手伝いをするのである。
まあ要するに、人数的に先生たちじゃ面倒がみきれない生徒の相手をするというわけだ。

午前中、中学生と小学生ひとりずつの相手をしたのだが、まあ本当に人それぞれだなあと。
その人それぞれぶりを熟知している先生方には素早く対応できることも、一見さんの僕らにはできない。
できないけど、一生懸命にやるしかないわけで、そういう点での心構えというか受け止める姿勢というか、
そういったことをあらためて学んだ感じである。ふだんの生活じゃ想像できないことだもんなあ。
で、午後は職員図書の整理を手伝い、副校長の講話を聞き、感想をまとめる。
ひととおり終わったらさっさと帰るように促される。帰り際、中学生の担任の先生と顔を合わせる機会があり、
お礼の言葉とともに、なんだかやたらと「がんばってください」と言われた。
そうなのだ、僕はがんばらないといけない身分なのだ、とあらためて思うのであった。

特別支援学校では、以前に比べて自閉症的な症状の子どもが多く通うようになってきているという。
(そのせいか、児童・生徒は女子と比べて男子が非常に多い。自閉症は女子よりもずっと男子に出やすいのだ。)
そういう子どもたちは、言葉を持たない。しかしそれは、コミュニケーションを拒絶しているということではないのだ。
こっち側から彼らの真意を読み取らないといけない。そしてそれは、当然のことだが、「慣れ」を必要とする。
僕を含めた社会の全員がそういうことに「慣れる」日は来るのだろうか、なんてことを思いつつ自転車をこいで帰る。


2008.7.23 (Wed.)

今日は雑務を一気に片付けた。

まずは昨日の朝から調子の悪かったネットからだ。朝起きたらいきなりつながらなくなっていたのである。
で、問い合わせてみた結果、パソコンにつなぐ側のケーブルに問題があったということで、取り替えたら解決。
ネットの不調は時と場合しだいでは致命的な事態になりかねない。派手な故障でなくてよかったのであった。

で、その後は病院に出かけてこないだの健康診断書を受け取りに行く。
せっかく受けた細菌検査の結果がまったく反映されてなくて怒る。かなり待たされてから、ようやく書類を受け取る。
どうも病院ってのは、診察し慣れている人には迅速に対応するが、そうでない人には非常に脆いところがあるようだ。

午後になってからはエアコンの修理。と思ったら、新品が登場なのである。やりい!
取り付け工事するおっさんの一部始終を観察させてもらう。なるほど、こういうふうになってんのかーと思うのであった。
新しいエアコンは当然ながら、非常に快調。今までエアコンなしの間、窓開けて扇風機を回して耐えていたわけで、
そんな生活と比べると本当に天国である。窓の外の灼熱地獄を見ると、エコ的に非常に申し訳ない気分になる。
まあとにかく、これで夜はずいぶんと過ごしやすくなるはずだ。気合を入れて勉強せねば、と思った。


2008.7.22 (Tue.)

昨日の姉歯が終わって電車内でみやもりと話しているうちに、どこか遠くへ行きたいなあ、という気分になった。
でもホントにどこかへ行くような余裕はない。ケリがついたら即、どこかの県庁所在地に飛んでいく気持ちではいるけど。
それで、日帰りで行ける県庁所在地に行くことにした。前に行ったけどリベンジしたいなあと思っている街へ行くのだ。
県庁の写真をほんのちょっとしか撮っていなかった(→2005.11.3)、千葉がターゲットなのである。

朝8時半、自転車にまたがって家を出る。まずはいつも秋葉原・上野に行くルートで北上していく。
さて東京から千葉へと抜けるルートはいくつかあるのだが、車だと楽なのに、自転車だと非常に大変になる。
国道14号でそのまままっすぐ東へ抜けられるといいのだが、高速道路になっていて自転車は通れない。
そこで北東や南東方向にちまちまと迂回することになる。今回はいろんな市役所を見てやろうと思ったので、
いったん北東に針路をとり、千葉街道(こっちも国道14号になっている)を一気に進んでいくことにした。

 ようこそ千葉へ。

市川橋を渡ると千葉県に入る。まずは市川市だ。市川市役所は千葉街道をしばらく行くと、北側に現れる。
昭和30年代風のなーんにも面白みのないオフィス建築だが、あからさまにリニューアルしており、
新庁舎を建てることなくこれで通すぜ!という気概が感じられる建物となっている。
千葉街道の交通量は多いし敷地に余裕はないしで、けっこう大変そうである。
個人的な印象としては、街道との位置関係といい建物の地味さといい、東京の小金井に似た感じがした。

  
L: 市川市役所第一庁舎。奥には第二庁舎がそびえている。建物は色がすべて白なので、なんだか複雑に見える。
C: こちらは向かって右側にある第三庁舎。耐震補強工事中。  R: 千葉街道を挟んで撮影。ホントに敷地に余裕がない。

千葉街道は歴史のある道なので、交通量が多いわりにはあまり幅が広くない。
でもしっかりと歩道をつくっているので走りづらいということはない。自転車ではなかなか快適な道である。
そうして勢いよく先に進んでいくと、武蔵野線の高架が見えてくる。すぐ近くに西船橋駅があるが、そのまま通過。
陸橋で線路を越えるとすぐに次の船橋駅。だが、その手前で南に折れ曲がる。すると巨大な船橋市役所が見えてくる。
さすがに千葉県で2番目の人口を誇る都市だけのことはあるなーと思いつつ撮影。

  
L: 船橋市役所。デカい。  C: 角度を変えて撮影。  R: 北(千葉街道)側から見るとこんな感じになっている。

うーむ、デカい。と感心しながら市役所をあとにすると、そのまま船橋駅の南口へ。
地下駐輪場に自転車を置いて、しばし休む。だいぶ日差しがキツくなってきて、意識が少しボーッとする。
食料品売り場で2リットルのウーロン茶を買い込むと、それをラッパ飲みしてどうにか落ち着いた。
脱水症状は判断力を鈍らせるので、きちんと水分を摂らないと危険なのである。
船橋駅の地下駐輪場は電子チップを使った仕組みになっていて、慣れないとよくわからない。
係員のおじいちゃんにいろいろ教えてもらって無事に出発できたのであった。

船橋競馬場駅近くで朝メシを食べると、そのまま千葉街道を離れて南下。寄り道をするのだ。
しばらく行くと左手に広大な駐車場が見えてくる。船橋競馬場だ。今日はレースがあるようで、
新聞を手にしたおっさんたちが入口付近にたむろしている。お馬さんに興味のない僕はとりあえず歩きまわる。
なんだか、前に行ったことのあるよみうりランドに似ているなあと思ってしまった。ヲタのかわりにギャンブルおやじ。
構造としては似たようなものなのかもしれないなーなんて考えながら炎天下の駐車場をあとにする。
寄り道したいのは競馬場ではないのだ。競馬場の向かいにある、ららぽーと船橋なのである。
駐輪場に自転車を停めると、東急ハンズの看板が見えた。胸が高鳴るではないか。
意気揚々と中に入るが、平日午前ということもあってか、ハンズにいる客はほとんどいなかった。
置いてあるものもまったく大したことがないので、少々がっくりきながらほかのエリアを見てまわる。
ららぽーと船橋はかなり広い。そのせいか、建物内はまとまりがない印象だった。
歩きまわっているうちに客は増えて、徐々に活気が出てきた。でもあんまり、惹かれる店はない。
実は自転車をこいでいるうちに右ヒザの裏側が痛んできていて、歩くのがけっこうつらい。
でもせっかく船橋に来ているんだから、と少しムリして1時間ほどあちこち見てまわった。結局、何も買わずに出る。

 
L: 船橋競馬場。船橋市には中山競馬場もあり、中央競馬と地方競馬の両方がある珍しい街となっている。オートレースもある。
R: ららぽーと船橋の入口。東西方向にかなり長い。しっかり見てまわろうとすると半日がかりになるかもしれないくらいの広さ。

千葉街道に戻るとさらに東へ。しばらく行ってから津田沼方面に北上すると、「市役所通り」という標識が見えて右折。
そうして坂道を上っていったところにあるのが習志野市役所である。通りの南側にある背の高い建物が本庁舎なのだが、
面白いことにモダン風味な建物がくっついていて、そこにはでっかっく「市民食堂」とあるのだ。
なるほど、カフェではなく食堂としての機能をくっつけることで市民の交流スペースとしているのかー!と衝撃を受けた。
まあ実際のところは市役所の食堂を一般にも開放しているだけだとは思うが、こうも堂々としていると、もはや新機軸だ。

ところで、「習志野」という地名は「ならした平野」みたいな意味なのかなとずっと思っていたのだが、調べてみてびっくり。
明治天皇がこの地で軍事訓練を見た際に「篠原に習え」とお褒めの言葉を述べたのがその由来なんだそうだ。
「習え篠原」→「習篠」→「習志野」。もともとあった津田沼という名を捨ててまで習志野という名にこだわっている。
まあなんというか、価値観は人それぞれだなあと。でもまあこんな由来の地名は珍しいので、それもアリな気もしてきた。

 
L: 習志野市役所の自称(?)市民食堂。午後1時過ぎということで、けっこう客がいたよ。
R: 習志野市役所本庁舎。中庭の池付近では何やらイベントをやっていたのであった。

千葉街道に戻って東に進んで幕張ICを越えれば、すぐに千葉市に突入である。
過去の日記でも書いているけど、千葉街道は千葉市に入った瞬間にいきなり広くなる。
街道という名称を使うのがまったく似つかわしくない、埋立地の広大な道路へと変化するのである。
北は花見川区の幕張。かつては馬加(まくわり)と称したこともある土地で、ニンジンの産地として知られた住宅地。
南は美浜区の幕張。埋立地で便宜上「幕張」を名乗ったが、今ではこっちの新都心のイメージが強くなっている。
道路を境にして本当に雰囲気が変わる。この辺のことについては、いずれじっくり考えてみることにしよう。

さて、浅間神社のところで左折して、稲毛駅へと向かう。そこそこ強烈な上り坂で、汗をかきながらペダルをこぐ。
稲毛駅の構内で5分ほど涼んでから出発。起伏が激しく、埋立地との対比にあらためて驚くのであった。
進んでいった先にあるのは千葉大学。ウチのオヤジの母校なのである。正面にまわり込むと、さっそく侵入。
南側の工学部からぐるっと回って教育学部方面へ。キャンパスは思ったよりもこじんまりとしていて、
あんまりきれいに整備されていない中に、たくさんの建物が学部ごと勝手におっ建っている感じである。
大学ってのは時計塔を中心にフォトジェニックな場所を用意しているもんだと思うが、千葉大にはそれがないみたいだ。
人口密度は高い印象。生協に行ってみたら、学生たちがワンサカいた。試験期間か、けっこうマジメに勉強している。
居心地の良さそうな場所が生協一帯に集中していて、学生が学部ごとに分かれて過ごすことが非常に少なそう。
で、いつものように学生のふりをしてカフェテリアでメシを注文すると、学生たちに混じって食べるのであった。
学部生とは言わないが、修士課程の院生には見えるよね? よね?

 
L: 千葉大学の正門。研究機関というよりも、あくまで学校という印象。平穏無事な4年間が過ごせそうな感じ。
R: 生協近辺。学生たちはこの一帯に集まっていて、ワイワイ楽しそうにしているのであった。

生協の千葉大グッズには、これといってあまりキレているものがなかったのは残念。
何か気の利いたものがあればオヤジへのお土産にいいかなあとも思ったのだが、まあしょうがない。

新千葉駅付近で軽く迷ったりしながらも、どうにか国道14号に復帰。
モノレールの軌道が頭上を塞いでいるのを眺めつつ、歩道橋を渡って千葉市役所に到着。
しかしまあ、何度見ても本庁舎と議事堂とで違和感のあるつくりである。元気があってよろしい。

  
L: 歩道橋から眺める千葉市役所。手前の和風っぽいのが議事堂、奥にある四角いのが本庁舎。
C: 千葉市役所の本庁舎をモノレール側(南側)から眺める。てっぺんの展望台が独特な雰囲気を漂わせる。
R: 国道14号側(東側)から眺めた議事堂。見れば見るほどインパクトの大きいデザインである。

 それにしても、何年経っても市役所前の国道14号は工事中なんですけど。

なんだか急に曇り空が広がってきたので、少し慌てて撮影を終え、次のポイントを目指す。
国道14号をちょっと進んで左折して突き進む。京成、総武線、モノレールを越えると千葉県庁なのである。
なんせ前に来たときには、千葉県庁の写真は本庁舎と南庁舎(千葉県企業庁)の2枚しか撮っていなかったわけで、
今回は敷地内の建物を飽きるまで撮ってやるのだ。そんなわけでバッシャバッシャとシャッターを切りまくる。

  
L: 西側から見た千葉県庁。正面にあるのが本庁舎、その右側が中庁舎で、さらにその右側が県議会。
C: 南側にまわり込み、羽衣公園越しに眺めた議会棟。議会棟というより事務棟っぽいデザインである。
R: 議会棟に隣接している中庁舎。もともとコンクリートの純粋オフィスだが、リニューアルされてガラスがまぶしい。

 
L: 角度を変えて中庁舎をもう一丁。奥には背の高い本庁舎が見える。
R: 3年前にあった南庁舎(企業庁)は取り壊され、跡地に千葉県警本部の新しい建物が建設中である。

『都道府県庁舎』(→2007.11.21)には現在の中庁舎が新築の本庁舎だった頃の写真が載っている。
中庁舎は1962年の竣工。当時は今の本庁舎の位置に議会棟があったのだが、これがかなり個性的な造形だった。
(建物の側面に大胆にトラス構造を出し、波打たせた屋根の上に巨大などら焼きのような形の物体を乗せている。)
その後議会棟は中庁舎の隣に移り、1996年に今の本庁舎ができあがった。中庁舎はリニューアルして現存している。
今後も千葉県庁はそんな感じで、今ある敷地を有効に活用しながら新陳代謝を繰り返していくんだろうなあ、と思う。

  
L: 東側から都川越しに本庁舎を撮影。  C: 北側から眺める本庁舎の入口と中庁舎。  R: 北側から議会棟。

千葉ってのもなかなか個性的な街で、かなり面白い都市構造をしている。
まずJRが総武線と外房線で千葉駅を中心としたY字を描いている。そこに京成が総武線と外房線に沿って走る。
そして千葉駅の上をモノレールが横断しているのだ。しかもモノレールも千葉駅付近で南北に分岐する。
だから千葉駅付近では、無数の鉄道・軌道が重なり合い、円形のケーキを切るように鋭角をつくっているのである。
いちばん活気のあるエリアは上記3つの交通機関に三方を囲まれて、さまざまな店が密集している。
ど真ん中を駅前大通が貫いていて、外ではPARCOがお出迎え。そこからも都会らしい街並みが広がるのだ。
千葉県庁は、さらにしばらく南下した場所にある。そしてそこはマスコミや裁判所が集まった一帯となっている。
そんなわけで複雑な商業地帯の千葉駅を中心にして、北は千葉大学、南は千葉県庁、西は埋立地と千葉市役所、
東はコリアンタウンで風俗街の栄町と、異なる特徴を持った場所がきれいに並んでいるのである。
今やすっかり東京のベッドタウンとしての印象が強い千葉だが、独特な千葉文化圏の中心地として考えれば、
非常に奥の深い街である。房総の個性・東京の影響・埋立地らしさ、さまざまな要素が複雑に絡み合っている。

 千葉駅のロータリー。毎回疲れた状態で来るせいか、どうも特徴がつかみきれない。

というわけで、千葉市役所・千葉県庁ともにしっかり撮影を完了。
しかし足の痛みもあって、あまり積極的に千葉駅周辺を歩こうという気分にはならなかった。
今度はしっかり下調べをしたうえで、電車で来ることにしよう……と思うのであった。いや、本当に自転車だとキツい。

で、喫茶店でしばらく放心状態で過ごす。持ってきた小型の地図(去年の11月、柏に行ったときに買った)を眺めたり、
軽くうつらうつらしたりしながら足を休める。帰りのことを考えると、本当に憂鬱になるのである。
しかしまあ暗くならないうちに出発しないと、つらさはどんどん増幅されていってしまうのだ。
千葉駅到着がだいたい15時ごろだったのだが、17時半にはもう出発したのであった。
あれだけ苦労して来たのにわずか2時間半の滞在というのも虚しい。けどしょうがない。

右ヒザ裏の痛みは本当に厳しい。しかしペダルをこがないことには帰れない。
なるべく最短距離で行きたいので、帰りはルートを変えて国道357号を突き進む。
右手を東関東自動車道(湾岸線)、左手をJR京葉線が並行して走る。雑草とコンクリートと金属だらけの中を走る。
二俣新町駅前で一休みして、コンビニで飲み物を買い込む。血糖値を上げないとモチベーションが保てないのだ。
やがて空は暗くなっていき、高速道路のナトリウム灯が景色を支配しはじめる。鉱物たちの時間が始まる。
浦安に入ってすぐに迷う。前にも迷った記憶がある。この辺は鬼門だなあと思いつつ、必死で正しいルートを探る。
危うく新浦安駅を抜けて東京湾方面に出そうになるが、落ち着いて考えてどうにか国道に戻る。

 
L,R: 舞浜駅付近。ディズニーランド脇を自転車で通過するのは本当に虚しくってたまらない。

舞浜大橋を渡って東京都江戸川区に入ると、一気に北上。清砂大橋で荒川を渡り、江東区へ。
しかし清砂大橋は長い。しかも横からの海風が非常に強い。横からの風が強いと空気がうまく口に入らず、
とっても呼吸がしづらいという事実に生まれて初めて気づくのであった。変な発見。

東陽町でメシを食ったら元気が出た。足の痛みをこらえながら東京駅まで出て、あとは南下して帰る。
やっとのことで家に着くと、ぶっ倒れそうになりながら風呂にお湯を入れるのであった。
それにしてもまあ、右ヒザ裏の痛みはいきなり出るから困る。翌日ケロッと治っていたりするくせに。まったく。


2008.7.21 (Mon.)

例のごとく昼近くになってむっくり起きたらえんだうさんから電話が入って、駅前で合流してメシを食うことに。
あれこれ迷った末に蕎麦屋に入るのであった。蕎麦湯が濃いのはいいが、コシを求めるあまり喉越しがおろそかでしたな。

ニシマッキー邸に戻ると、今回僕が用意しておいたニューヨーク土産を渡し(みやもりだけサンフレッチェ広島のハンカチ)、
それから「ツンデレカルタ」と「ツンデレ百人一首」をやってみる。今さらな気もするが、ものは試しなのである。
しかしまあ、これが正直つまんねーのなんの。やっぱり馴染みのないキャラクターには感情移入できないわけで、
そんなのが50人いても100人いてもなんにも面白くないのである。最後は拷問に近いものがあった。

気を取り直してクイズの時間。ニシマッキーが早押し機を買っていたので、それを使う。
最初はニシマッキーの問題を、みやもり・えんだう・僕で押す。連答するとその数に応じてポイントが入るというルールで、
中盤で7連答ほどした僕が圧勝させていただいたのであった。こりゃ運がよかった。
そして続いてはみやもりが出題。仕事の合間を縫ってシコシコと問題をつくっていたらしい。偉いですな!
ルールは、問題数が3の倍数と3のつく数字のときだけポイントが3倍になる早押しボード、である。全42問。
当然、3の倍数と3のつく数字のときにはアホになって答えなければならない。さすがみやもりって感じだ。
昔っから僕はみやもりのつくる問題とは相性がいいのだが、ここでも爆発。
本来ならニシマッキーやえんだうの方が僕よりクイズが強いのだが、問題のおかげで僕が終始リードする展開に。
30問台の地獄のインフレ地帯も切り抜けてまたまた勝たせていただいたのであった。
おかげで、落ち着いたらクイズでもつくって恩返ししましょうかねえ、という気分になったのであった。いつになるやら。

そんな感じで、今回の姉歯はインドアなままで閉幕。来月あたり、マサルムック祭りができるといいねえ。


2008.7.20 (Sun.)

本日は姉歯祭りの予定なのだが、みやもりと合流してニシマッキー邸に行くつもりでいた。
もともとみやもりは夜になると聞いていたのだけど、まさか本当に深夜も深夜、日付が変わってからの合流になるとは。
話を聞いたらゴルフをやっていたんだそうで、なんというか、まっとうなサラリーマン人生だなあと。
少しはそういう人生をうらやましく思えるようにならなければいけないのだろうか。ちょっと考えてしまった。

さてニシマッキー邸に着いてからは、ニシマッキーが買っておいた「ジョジョ百人一首」をやってみる。
僕はジョジョに関してはまったく詳しくない。第1部と第2部をリアルタイムで断片的に追っていた程度にすぎない。
対照的に、ニシマッキーとみやもりはジョジョが大好きということで、“上の句”だけでけっこう札を取るのである。
“下の句”が読まれてようやくあっちこっちを見回しはじめる僕とはまるっきりレベルが違うのであった。
ちなみに札を読むのはケンドーコバヤシ。実際に聴いてみると、なるほど確かに適任だなあと思った。

というわけで結論。ジョジョを読まないとモテない。セリフを暗記するまでジョジョを読み込めばウハウハ。


2008.7.19 (Sat.)

特別支援学校で介護等体験。
夏休み初日ということで学校ではお祭りがあり、そのお手伝いやお子さんのお世話などをする。
小学校1年生の男子の面倒をふたりがかりで見たのだが、これがまあ元気いっぱいで体力的に本当に疲れた。
誇張なしで、食べる以外の時間はすべて全力で走り回るのである。しかもこれがけっこう速い。
まるで敵のカウンターをゴール前でつぶす甲府のセンターバックになったような気分で何時間も過ごした。
じっとしている分にはとってもかわいいのだが、そんな時間はごくわずか。暴走王子には参りました。


2008.7.18 (Fri.)

ハローワークに行ってもろもろの手続きをする。いろいろややこしくって閉口。
お金がからむと、どうしてこうも物事は複雑になるのだろうか。人類とは奇怪な生き物だ。
それにしても、夏になるまで離職票を出さない会社には心底腹が立つ。約束破りと言い訳の繰り返し。
おかげでどれだけの迷惑を被っていることか。やはり交渉ごとは強気に出ないといけないなあと実感。

冷牟田竜之が東京スカパラダイスオーケストラから脱退してしまった。非常にショックである。
スカパラが竹中直人と組んで暴れていた頃(『デカメロン』DVD化しないかなあ)、冷牟田はバイク事故の療養中だった。
このたびの冷牟田の脱退は、そのケガが直接の理由になっている。そうだとしたら、なんともやりきれない。
冷牟田といえばあの『MONSTER ROCK』の作曲者であり、スカパラにロックテイストを持ち込んだ人である。
(冷牟田はもともとベーシストであり、スカパラの楽器構成上アルトサックスをやっていた、というところがあるのだ。)
トーキョースカというごった煮のジャンルを構成する柱が確実に一本抜けてしまったわけで、
スカパラの現状と今後を考えると、かなり痛い。本当に残念なニュースだ。


2008.7.17 (Thu.)

野茂英雄が現役引退を表明した。メジャーリーグ大好きっ子として、日記でこのことに触れないわけにはいくまい。

僕はそれほど野茂という投手が好きではなかった。なんだか無愛想でサービス精神に欠けるというイメージがある。
だから近鉄時代の野茂については、「そりゃまあ成績的にはすごいけどね」といったところでそれ以上特になし、だった。
しかし1994年のオフ、野茂は近鉄をムリヤリ退団してロサンゼルス・ドジャースに入団してしまう。
正直「ムリでしょー」と思っていた僕には、野茂の活躍を予測することなどまったくできるはずがなかった。
奪三振王、新人王となった野茂のことを、「へえー意外だわー」と距離を置いて眺めていた。そんな程度だった。
だが、野茂の活躍をひとつの記事とした『Number』のメジャーリーグ特集を目にして、僕は衝撃を受けた。
鮮やかなユニフォーム、個性的な選手たちの構え、美しいボールパーク。メジャーリーグの魅力にノックアウトされた。
そしてスポーツニュースを見るたび、「野茂はいいから、メジャーリーグ全体を見せろよ!」と言うようになった。

日本人だから。日本人が活躍しているから。――そういう視点にはまったく興味がないし、バカバカしいと思っている。
誰が渡米してどれだけ活躍しようが、知ったこっちゃない。ただ僕は、海の向こうのベースボールを好きでいる。
そしてそのきっかけとなったのは、情報に触れるきっかけをくれたのは、間違いなく野茂なのだ。
だから野茂が引退するということは、特別なことなのだ。野茂が残した成績は疑いなくすばらしいものだ。
でもそれ以上に、成績以上に大切なものを彼は残していて、今はそれが当たり前になっているのである。
ある意味でそれはジャッキー=ロビンソン的なことだと思う。少なくとも僕の中では、ふたりは同列に位置しているのだ。


2008.7.16 (Wed.)

教育実習は無事に終わったわけだけど、教員免許取得のためには介護等の体験がまだ残っているのである。
それで健康診断を受けなくちゃいけないので、最寄りの病院というか上が病院になっている最寄駅に行ってきた。
病院内のあちこちの部屋で検査を受けて、今回は細菌検査もあるので便も採取して、最後は内科医の問診。
当方、自他共に認める超がつくほどの健康体なので(血圧124-77、脈拍58。脈拍は3年前に寝て測ったときは50)、
ひととおり診察を受けるのはなんだか滑稽な感じである。幼稚園児・小学生のときにはさんざん診察されまくったのだが。
で、保険を使わない健康診断というのは計算がややこしいのか、精算の段階で30分以上待たされる。
その間ずっと面接試験対策の本を読んでいたので、特にご立腹あそばされることもなく(自敬表現)麿は過ごしたぞよ。

午後になって、介護等の体験でお世話になる特別支援学校の下見に行く。
遅刻厳禁なので、あらかじめ不安要素は徹底的に取り除いておくに限るのだ。
ケヴィン=リンチ風に表現するところの「ノード」をしっかりと押さえていれば、まったく迷うことのない場所だった。
その後は東急多摩川線の各駅をのんびり見てまわったり日記を書いたりして過ごす。
エアコンが壊れているので、しばらくは夕方まで自分の部屋に戻ることができない日々が続くのである。
日記が現実の日付に追いつきしだい、勉強に専念することができるのである。
そんな具合にいろいろとモチベーションを保つ工夫をしつつ毎日を過ごしておるぞよ。


2008.7.15 (Tue.)

あだち充『H2』。
偉大なる傑作『タッチ』(→2004.12.142005.9.18)を作者自ら再解釈して再構成した作品として読む。
そのために用意された最大の前提条件は、達也(≒比呂)と南(≒ひかり)は決して結ばれない、ということだ。
ひねくれているけど、そのような視点に基づいて考えてみたい(だってパンチが出てくるんだもん)。

主要な登場人物は4人。千川高校の絶対的なエース・国見比呂。比呂の親友で明和一高のスラッガー・橘英雄。
比呂の幼なじみで英雄と付き合っている雨宮ひかり。そして千川高校野球部のマネージャー・古賀春華。
物語はつねに比呂とひかりの距離を描く。問われ続ける英雄とひかりの関係、近づいていく比呂と春華も描かれるが、
中心に据えられているのは比呂とひかり。何よりも固い友情と心の奥底で固く結ばれている感情とが無意識にぶつかる。
『タッチ』の達也と南を思わせる比呂とひかりの関係だが、『タッチ』とはまったく異なる形でふたりの間に壁が築かれる。
『タッチ』では、和也の死が壁となっていた。いなくなったことで絶対的に立ちはだかる壁を成長で乗り越えるというテーマ。
しかし『H2』の壁は乗り越えることが許されない。その壁とは親友の英雄であり、もうひとつは時間・タイミングだ。
たまたま比呂の成長が遅かった、その時間・タイミングをきっかけにして、親友との友情が壁を形成してしまうことになる。
もちろん、友情よりも感情をとって壁を壊し、すべてを泥沼化させていくという選択肢も現実的には存在する。
でもその瞬間、野球という真剣勝負は「道具」に成り下がってしまう。ルールが崩れた後には醜い争いしか残らない。
野球のルールは恋愛のルール、野球のルールと恋愛のルール、そういう節度というか理性が前提条件を守らせる。

国見比呂は上杉達也ではないわけで、そのことは物語を進めていく段階で大きな違いをもたらしている。
『タッチ』では懇切丁寧に須見工戦が描かれたのだが、それに比べると『H2』の明和一戦はずいぶんあっさりとした印象だ。
そして達也が新田とすべての打席で一球一球真っ向勝負をして緊迫感のある戦いを繰り広げているのとは対照的に、
比呂は英雄の各打席に応じた対策を講じ、スローボールを使ってまで試合での勝利にこだわる。きれいごとではないのだ。
もうひとつ『タッチ』と『H2』の大きな違いとしては、脇役の扱い方を挙げることができる。
『H2』では広田・大竹・島という明らかな悪役が登場する。物語が展開する中で彼らがどう変化するかも見どころだが、
理解者として登場する野田・明和一高の稲川監督・伊羽商の月形・志水らも存分に魅力を発揮する。もちろん木根も。
キャパシティという視点からすれば、『タッチ』の原田がいなくなった分、脇役の活躍する余地が分散したと言えそうだ。
また、『タッチ』に比べると、作者がギャグを挟み込むタイミングに非常に慣れてきている印象を受ける。
『タッチ』では影も形もなかった下ネタを、野田がバンバン繰り出してくる。比呂と野田の気の利いたやりとりは実に笑える。
『H2』で作者の埋め込んでいるギャグは、『タッチ』のそれよりもずっと面白くなっているのである。
ギャグを一部の登場人物が担当していた(代表的なのは勢南の西村)『タッチ』に対し、
『H2』では脇役に魅力が分散したこともあってか、男子のほぼ全員が面白くふるまってくれる。これもまた大きな魅力だ。

しかしながら、自分には理解できなくて戸惑ってしまった部分も、正直言っていくつかある。
まずは、ひかりの母親が亡くなる必然性だ。かなり衝撃的な演出で度肝を抜かれたが(ページの下3/4が真っ黒)、
この事態が登場人物それぞれにどのような心理的な変化をつけたのかが僕にはイマイチ追いきれず、
死という絶対的なカードを切る必然性にばかり疑問がいってしまい、物語に集中できなくなってしまったのだ。
また、最後のところでの比呂・英雄・ひかりたちの心理はまったく理解ができなかった。
比呂とひかりが奥底で惹かれ合っているのは、そりゃわかる。でもそのことに決着をつけることと、
準決勝での勝負を一致させる理由がまったくもってわからないのである。関係ねーだろ、と思ってしまうのだ。
『タッチ』にしろ『H2』にしろ、あだち充作品にはけっこう三人称的な傾向(モノローグの少なさ)があると思う。
登場人物はセリフの形で心情を吐露する場面はあるが、そういう口に出す以外の形で心情を読者に伝えることは少ない。
『タッチ』ではそれが良い方向に作用し、達也の内面の超人ぶりと外面のだらしなさと優しさがミステリアスに結びついた。
南にしてもやはり、外面の超人ぶりと内面の奥底に隠している臆病さが非常にいいバランスで結びついた。
『H2』でもその傾向はそのままで、それでいて『タッチ』よりも複雑な恋愛感情を扱っているために、
それぞれの登場人物の考えていることと行動の一致あるいは乖離が、かなり読み取りづらくなっていると思うのである。
まあこれは僕が鈍いからそう思えてしまうだけであって、人によっては正反対の評価になるのかもしれないが。

結果として『H2』は読み応えのあるマンガに仕上がっており、野球と恋愛という2つの真剣なゲームをきれいに描いているが、
用意した設定をフルに活用しきったかといえば、まだまだ改善の余地を感じさせるのである。
そんなわけで、完成度という観点からすれば、『H2』は残念ながら『タッチ』には及ばないと考える。
しかしながら、『タッチ』の再構成に挑んだ作者の姿勢は絶対的に評価できるし、何よりやっぱり、面白いのだ。
あだち充の描くマンガは何をどうやっても面白い、そういう領域に到達してしまっているのである。
ここまで書いてきたことは、そのような事実をふまえたうえでの「ないものねだり」にすぎない。

それにしてもまあ、イチャついている高校生を見るのは正直ムカつきますな。とりあえず、それが結論ってことで。


2008.7.14 (Mon.)

やっとこさニューヨーク日記を書き終えた。
慌しい旅行だったけど、何から何まで慣れ親しんだ物とは違う「他者の世界」を思う存分見ることができて、
非常にプラスになる経験だった。悔しい思いをしたことは、次の機会までの反省材料である。

それにしても海外旅行というのは、一人旅だったせいもあってか、とても疲れるものだった。
日本であれば、それがたとえ初めて訪れる街であっても、テキトーにお茶でも飲んでいれば落ち着くことができる。
しかし海外では、落ち着くことのできる場所がないのだ。つねに緊張状態のまま過ごすことになった。
いつもピリピリと気を張ってなきゃいけないというのは、かなりキツい。
海外旅行というものに慣れればまた違ってくるのだろうけど、初めてということでその辺の融通が利くわけないのだ。

山陽~九州西海岸旅行に続いてニューヨーク旅行の日記を書き終えたことで、僕の中では大きく一段落ついた感じだ。
これからしばらくは勉強ばかりの日が続くが、それが終わったらまたどこかへ行きたい。日常を離れたい。
しかしながら当然、そのためには今をがんばらないといけないのである。
次に目一杯動くために、今を目一杯動く。やらなきゃいかんことはいっぱいあるのだ。


2008.7.13 (Sun.)

3月のモテないふたり沼津モゲ(→2008.3.212008.3.222008.3.23)は非常にすばらしい体験なのであった。
で、それをトシユキさんにも味わってもらわないとなあということでか、今回もだいたい同じコースとなった。

そんなわけで、起きるとバヒさんの運転で湯ヶ島温泉へゴー。代車とのことで、また車が違うんでやんの。
車内ではやっぱりヤンデレのCDが再生され、トシユキさんはまたしても呆れ返るのであった。

お世話になった温泉施設は、前回はほとんど客がいなくてよかったのだが、残念ながら今回はそこそこいた。
のんびりだらだら温泉に浸かり、安楽椅子に腰掛けて寝て過ごす。実に優雅なものである。

しかしながらトシユキさんは夜に下北沢で行われるライヴに顔を出すんじゃーということで、一足先に帰ることに。
渋滞気味の中、バヒさんの懸命な運転でなんとかタッチの差で電車に間に合うのであった。
三島駅に到着する寸前、トシユキさんより重大発表。ここでこのタイミングでかよ、と思ったのだが、
まあその原因は昨年1月の僕のふるまいにあるので、素直にそうですかと受け止めるのであった。
しかしこれから1年近くかけてネタを考えにゃならんとは。ハードルを上げてくれるもんじゃのう。

モテないふたりが残るとやっぱり沼津港へ。コンクリートの堤防の上から飛び跳ねる魚を眺めて時間をつぶすと、
バヒさんオススメの定食屋で晩ご飯。やはり沼津に来たからには魚を食わなくちゃいかんだろに、ということなのだ。
奮発して本マグロ中トロ刺身定食をいただく。デジカメで写真を撮ろうと思っていたはずなのに、気がついたら食っていた。
超厚切りの刺身が10枚ほどということで、元気に3杯メシをいただいて大満足。沼津ってステキ、と心から思った。

駅までバヒさんに送ってもらう。お礼を言って手を振って別れると、今回は小田原から小田急線に乗ってみることにした。
しかし東急田園都市線に乗るためには、途中の相模大野で江ノ島線に乗り換えないといけないことが発覚。
そんなわけで横浜で東急に乗り換えるよりも少し時間がかかった。値段は260円安いけど、あんまりお得でなかったなあ。
とりあえず風呂に入って寝る。酒、温泉、メシ。沼津モゲは幸せでございますなあ。


2008.7.12 (Sat.)

トシユキさんの呼びかけで急遽モゲの会が開催されることとなった。
いつもは9月の諏訪湖花火大会まで音沙汰がないのがふつうなので、今回の招集にはけっこう驚いた。
おかげでモゲメンバーにはニューヨーク土産を用意していないのである。しまったなあ、と思いつつ参加。

集合時刻の1時間前には駅に着いてスタバで日記を書いていたのだが、
ケータイに連絡が入らねーなーと思っていたら、あとのみんなは交番できちんと集合していて、結局僕だけ遅刻。
なんだかいつもこんな感じになっていて申し訳ない。ダイエーで買い物中ということで、そこに直接合流した。
みんなで丸山さん宅(まる邸)でお昼を食べようということで、あれこれ食材を選んではカゴに入れていくのであった。

まる邸には横浜駅から路線バスで移動。横浜駅のバスターミナルを訪れるのは初めてなのである。
こんなふうになっていたのかーと妙に感心しながらバスに揺られること15分くらい。
バス停から坂を上って、無事にまる邸(社宅のアパート)に到着した。

まる邸では丸山さんがキャベツの千切りにバルサミコ酢をかけて非難囂々(バヒさんは産廃扱いまでしていた)、
しかし妊娠中の嫁さんがうまそうに食ったのを見て何も言えなくなる、等の行状なのであった。
あとは42インチの液晶テレビで録画してあったタモリ倶楽部を再生、全員食い入るように見るなどして過ごした。
それにしても、たっぷりと録画してあるタモリ倶楽部ってのはキリがなくっていけないね。

 クリスピー・クリーム・ドーナツをおかずにご飯を食べるダンナ。

夕方になって解散。丸山さんに車で横浜駅まで送ってもらった。ホントに楽しかったです。ありがとうございました。
で、未婚のわれわれ3人はそのまま電車でバヒさんの本拠地である沼津まで移動。夜は長いのである。

沼津に着くと、沼津港近くの飲み屋に入る。ビールが売りの、ややイギリス風パブっぽさを漂わせた店である。
隣のテーブルではパーティが開催されているようで、その迫力に押されながら黒ビールをいただく。
その後、しばらくして落ち着くと、料理をちょこちょこ食べながらどうでもいいことをあれこれ話したり、
いかにも外国産なプレッツェルをつまみながらニューヨーク旅行の顛末についてしゃべったりして過ごした。

そして第2ラウンドは、前回の沼津モテないふたりモゲ(→2008.3.21)でもお世話になったバーに行く。
トシユキさんはバヒさんに負けず劣らず酒が好き、酒場も好きな人なので、けっこう反応が楽しみなのであった。
最近はたまに新宿ゴールデン街にも足を運んでいるというトシユキさんも、店のオトナな雰囲気に見事に圧倒されていた。
僕は僕で、この店ではなぜか異常に酒が飲めるので、バヒさん・トシユキさんとまったく同じペースで飲んでいく。
「橋場さんと同じのをお願いしますぅー」とニコニコしながらグイグイ。ふだんありえない僕の飲みっぷりを目の当たりにして、
トシユキさんはかなり呆れていた。きちんとした店のきちんとした酒は、アルコールに弱い人間にも優しいのだ。
で、僕はいつもとまったく変わらない声色・口調で、「バーテンはスポーツ選手だよなあ」なんて偉そうに語るのであった。
(身体の見事なふるまいといい、コンテストが開催される点といい、けっこう共通項があるんじゃないかと思う。)
いやーそれにしても、酒屋が信頼する店にしか売らないという貴腐ワインはさすがにおいしゅうございましたね。

3人とも大満足で店を出ると、バヒさんオススメのつけ麺屋で一杯いただく。
正統派の支那蕎麦がそのままつけ麺になった感じで、これが非常においしいのであった。
バヒさんの部屋にたどり着くと、さっさと布団を敷いて僕は一足先にグースカ。
高らかにイビキをかいている僕を見ながら、トシユキさんとバヒさんは酒の威力について語り合っていたことでしょうなあ。


2008.7.11 (Fri.)

浦沢直樹『20世紀少年』(『21世紀少年』)。猛スピードで読破したのでレビューを。

まず最初の10ページくらい(第1話)の展開に面食らった。場面転換が非常に早いペースで繰り返され、
次から次へと伏線がバラまかれていく。クドカン脚本のドラマよりもカット数が多い感じ。
時間軸もそれに応じて激しく行ったり来たりする。とにかくそのこま切れ具合にはひどく驚かされた。

結論から言うと、僕はこのマンガをわりあい好意的に評価している。
理由は、作者がやりたいことを極限までやり尽くしていることが伝わってくるからだ。
ただ、そのやりたいことがあまりにも激しい場面転換で展開されすぎているのもまた確かだと思う。
超絶複雑なプロットをつくることじたいが目的化してしまい、そこで本末転倒を起こしかけている。
最終的には作者のマンガの才能でそれをどうにか押さえつけて、なんとか物語にケリをつけているのである。
(正直、カツマタ君って結局どんなんだったのかよくわからんかったのだが、考えるのも面倒だしまあいいや、と思った。)
それで読み終えての感触は、「このマンガを一番楽しんだのはほかでもない作者本人であって、
どんな読者も作者ほどは楽しめていないだろうなあ」というもの。独りよがりに陥る寸前、ギリギリのライン。
だから絶賛することはない。でもやっぱり、これだけの複雑な話をやりきったことは評価したい。そんなところだ。

少年マンガである。ものすごく少年マンガだ。平凡な日常生活を送っていた主人公たちは、
いきなり非日常のとんでもない状況に放り込まれてしまう。そこで(最終的には)全員が勇気を振りしぼり、
正義の味方としての行動をとることになる。あまりに少年マンガなので、序盤で紅一点のユキジもほとんど男子だ。
「ともだち」は何者なのかという謎、そして登場人物たちの意外なつながり、それらが激しい場面転換とともに、
単行本24巻分のヴォリュームを休む間もなく突き抜けていく。こういう読者の裏をかいて興味を引くやり方は、
往々にしてミステリ的なくだらない自己満足な論理でみみっちく世界観が完結してしまいがちである。
しかしこのマンガでは、G.オーウェルの『1984』に代表されるような絶望的な未来管理社会をしっかり描き、
そこに少年マンガ的な情熱を持ち込んで、弱い人間が集まって強くふるまう姿をどんどん提示してくるので、
読者の裏をかくことが目的化しそうになりながらも、どうにか踏みとどまることができているように思う。
特に「僕は隊長にふさわしくない」と言い続けるヨシツネだからできたことを描いたのはすごく好きだし、
この設定はちょっと強引だなあと思いつつも春波夫の芯の強さにはやられた。
ありとあらゆるキャラクターがワンサカ登場して収拾がつかなくなりそうになるのを、意外性の提示で持ちこたえる、
その繰り返しではあるのだが、ストーリー全般を少年マンガで貫き通しているのでなんとかなった感じだ。

このマンガを読んで思うのは、ストーリーとキャラクターの関係性の問題である。
複数のキャラクターが動く中で全体のストーリーが表現されていくのだけど(個人的な感覚では「演奏」って感じかなあ)、
ここまでキャラクターどうしの関係性をつなげまくってストーリーを展開するマンガを読んだのは初めてだったので戸惑った。
たとえば『AKIRA』(→2004.4.272006.3.24)は舞台空間の価値をゼロにして人間関係を展開することだけが目的だが、
このマンガは舞台空間(1970年/20世紀末/「ともだち」による未来管理社会)が非常に重要な意味を持つ。
しかしその展開があまりにブツ切りになりすぎているため、キャラクターがストーリーから浮いているように感じられる。
キャラクターの真剣さに共感するためには、彼らを呑み込むストーリーの迫力、言い換えれば世界観の説得力が必要だ。
でもこのマンガでは、キャラクターの関係性に気をとられすぎて、その迫力・説得力を犠牲にしているように僕には思えた。
複数の視点による一人称のリレーでストーリーを展開させているのだが、三人称で描いたシーンはほとんど存在しない。
そのせいで、それぞれの一人称が読者の中でスムーズにつながらない結果となってしまっているように思うのだ。
特にこのマンガは上述のように舞台空間・時代背景をすごく大切にする話だから、そこが曖昧なのがとても気にかかった。

ひとつひとつのコマに注目してみると、映像というものをすごく意識して描かれているのがわかる。
これは実写化狙いという意味ではなく(映画化されるが)、映像の影響をマンガにフィードバックして読者に伝えるということ。
作者の頭の中にある映像をマンガで忠実に再現しようという意欲がとてもよく感じられる描き方がされているのだ。
だから、一人称ばかりで三人称がないというのは、そういった試みの副作用と考えることができるだろう。
映像とマンガの性質の違い、映像だと自然に受け止められるのにマンガだと違和感となってしまう表現・効果がある、
図らずもそれを証明する結果となっているように僕は感じる。そういうわけで、映画化はけっこう正しい解答だと僕は思う。


2008.7.10 (Thu.)

いいかげんちゃんとせにゃならんので、英語の勉強に出かける。
脳みその栄養補給ということで、一口サイズのチョコレートを食いつつがんばる。
甘くておいしいからお菓子を食べるのではなく、頭を動かすためにお菓子を食べざるをえないこの現実。厳しいものだ。


2008.7.9 (Wed.)

息抜きをするのである。ヴァンフォーレ甲府がアウェイで横浜FCと対戦するので、観戦しに行く。
試合会場はニッパツ三ツ沢球技場。もちろん自転車で行くのである。
自転車で横浜へは何度も行っているのだが、だいたい横浜駅~みなとみらいぐらいにしか行っていない。
地図を見たところ、三ツ沢球技場は神奈川区の隅っこ、ほとんど保土ヶ谷区ということで、
いつもの国道1号コースは使わずに別のルートを開拓してみることにした。

まずは中原街道(都道2号)を行く。丸子橋を渡ると綱島街道(県道2号)にスイッチし、そのままひた走る。
東急東横線(最近になって目黒線も延伸してきた)はこの道路と並走するように伸びている。
武蔵小杉、元住吉、日吉、綱島、大倉山と駅前商店街への入口を眺めながら南下していく。
国道1号と比べるのは酷だが、特に走りづらいということもない。そこそこ起伏があるが、それも味だ。
やがて港北区役所で右折して県道17号に入る。困ったことに、東横線の上に架かる新菊名橋にはスロープがない。
しょうがないので自転車を担いで階段を上り下りする。やがて道路は広くまっすぐな郊外型のものになり、
右手に横浜アリーナを眺めつつ新横浜駅の目の前を通過。やっぱり自転車を担いで横浜線を越えると、
そこから南下して県道85号に合流する。横浜市の郊外はどこも似た印象だなーなんて思っているうちに、
国道1号との交差点に出る。すぐ右手は保土ヶ谷区。高速道路のランプと接続していて非常に複雑な構造だ。

とりあえず三ツ沢公園に入って中をウロウロしていたら、すぐに三ツ沢球技場の入口が見つかった。
写真を撮ってアウェイゴール裏への入口を確認すると、時間があるので横浜駅西口まで行くことにした。
この辺りはかなり高低差のある地形をしていて、道は急なS字カーブを描いて駅前の一帯に至る。
東急ハンズを見てまわり、喫茶店で日記を書いて過ごす。ニューヨーク日記は実に手がかかる。

キックオフの1時間前になったので、再び自転車にまたがって坂道を上っていく。
コンビニに寄って飲み物を買ったのだが、妙に甲府サポーターの姿が目立っているなあ、なんて思う。
公園内にテキトーに駐輪すると、チケットを提示してスタジアムの中へ入る。
アウェイ側のスタンドはやたらと遠回りさせられることが多いのだが、ここもそうなのであった。

ニッパツ三ツ沢球技場(横浜市三ツ沢公園球技場)は、良い意味で狭い。とにかくピッチが近い。
1955年にサッカー専用のスタジアムとして誕生し、東京オリンピックではサッカーの会場となった伝統ある施設だ。
試合開始前のスタジアムでは、電光掲示板にケーブルテレビのような感じの番組が流されている。なかなかよい。
やがて両チームの練習が始まる。甲府のGK桜井は大人気で、つねに声援が送られているのであった。
あまりにピッチが近いため、練習中にボールがやたらめったらスタンドに飛び込んでくる。でも、それもまた楽しい。

  
L: ニッパツ三ツ沢球技場の外観。高いテンションを保つことのできる、適度な規模のスタジアムだと思う。
C: 練習中のピッチの様子。近いので細かいところまでよく見える。  R: 試合開始。膠着状態が延々と続く。

キックオフ。横浜FCのゴール裏は人数がいないくせに、やたらと声がデカい(狭いのでよく聞こえる、というのもある)。
間違いなく甲府のゴール裏の方が人数が多い。しかしそれに負けないだけの声援を送る姿勢には感心した。
ホーム側はゴール裏よりもバックスタンドで応援するファンが多かった。横浜FCは比較的「薄い」層が多いということか。
それにしても、首都圏での試合ということでか、甲府サポはゴール裏をけっこうな比率で埋めていた。
平日夜にもかかわらず、アウェイでこれだけ集まるってのはなかなかすごいなあと他人ごとのように呆れた。

肝心の試合は、横浜FCが甲府の長所を徹底的に消し、甲府も横浜FCの攻撃をしっかり分断するという、
客観的に見て迫力に欠ける内容。甲府は相変わらずのゴール前他人任せが炸裂し、横パスばかりでシュートがない。
どっちもゴールを決める予感を漂わせることなくそのままタイムアップとなるのであった。
甲府はいくらなんでもセカンドボールを拾えなさすぎる。消化試合的な内容の、消化不良な一戦なのであった。
アウェイとはいえ審判が甲府のファウルを過剰にとったことと、芝がスリッピーでやたら選手がコケたことは不満点である。

 お疲れ様でした。

帰りは来た道を同じように戻って帰る。東横線の駅周辺でメシを食おうと思ったのだが、なかなかいい感じの店がない。
結局、元住吉まで戻ったところで食った。東横線というのもなじみがあるようでそうでもないので、新鮮な経験だった。


2008.7.8 (Tue.)

僕はいつもインナーイヤーヘッドフォンを使っている。音質にはそんなにこだわりがないつもりなんだけど、
ふだん使っているやつの音の軽さがどうにも気になって、チャンスがあったら替えたいなあ、と長らく思っていた。
で、ネットであれこれ調べるうちにBOSEの製品が気になったので、英語の勉強ついでに新宿で試聴してみることにした。

自分のiPodをつなげてみて驚いたのなんの。もともとBOSEは低音に定評のあるメーカーなのだが、それにしてもいやはや。
値段が値段なのだが、これはそれだけの価値があるなあ、なんて思っちゃったもんだからさあ大変。
(隣にあったオンイヤーヘッドフォンはさらに凄かったのだが、携帯性を考えて今回はやっぱりインナーイヤーとするのだ。)
金がない生活をしているわけで、贅沢は敵である。しかしこういう日常生活に潤いをくれるアイテムは重要な存在なのだ。
うんうんうむうむと悩んだ末、思いきって購入。イヤーチップも無償で請求できるし、決して損な買い物ではないはずだ。

家に帰って、アホみたいにガッチリ接着されているパッケージを必死で破ると(いかにもアメリカって感じ。なんとかならんか)、
いろいろな曲を聴いてみる。iPodのイコライザーを「Treble Booster」に設定したら、いやもう本当に参りましたって音質。
すっかり面白くなっちゃって、最近まったく聴いていないあんな曲やこんな曲を再生してみて「おおー」なんてうなって過ごす。
特にジャズなんかは今まで聴いていたのと別物としか思えないくらいに違った。対照的にYMOはあんまり変化なしって感じ。
やっぱ生音が響くのかな、と思いきやcapsuleやPerfumeがキレキレになっていたりと、いろいろ新しい発見があった。
これはしばらく楽しめそうだ。正直、楽しんでばかりもいられないのだが、節度を守ればいい気分転換の武器になるだろう。

ところでBOSEのインナーイヤーヘッドフォンはなぜか、ケーブルが黒と白のツートンカラーになっているのである。
まるで鯨幕みたいだなあ、なんて思う。ボーズ(坊主)だけに。……お後がよろしいようで。


2008.7.7 (Mon.)

虚脱状態で過ごす。

iPodに新しい曲を入れる容量がないので、データ量の多い落語を重点的に聴いてプレイリストからはずす作業を進める。
聴いているうちに、桂枝雀ってのは落語が面白いんじゃなくて、枝雀本人の面白さで笑わせていたんだなあと思った。


2008.7.6 (Sun.)

一次試験。採点者の機嫌がいいことを祈ることにしよう。


2008.7.5 (Sat.)

筆記試験前日ということで、去年の問題を自分ならこう書く、というのをチェックして過ごす。
つまりは、明日本番で書く内容の基本をきっちり固める作業をする。正念場である。


2008.7.4 (Fri.)

筆記対策ということで、今日もそっち系の雑誌を読み込んでさまざまなテーマに対する返し方を研究。
僕の場合は社会人枠ということで、よけいなマークシート問題をすっ飛ばして論述試験に専念できるのは大きい。
しかしそれだけに、一度ミスをしてしまうとカヴァーすることが難しくなる。脳みそフル回転で対応を考える。


2008.7.3 (Thu.)

東京藝術大学大学美術館の「バウハウス・デッサウ展」を観に行く。
1920年代前後のモダンスタイルが大好きな人間としては、バウハウス展は絶対にはずせないのである。

東京藝大は上野の美術館・博物館集中地帯で一番西端にある。
都道452号の北側の敷地は音楽学部、南側が美術学部となっているが、美術学部に入ってすぐ右手が大学美術館。
学生感覚で自転車を駐輪すると、美術館の中へと入る。平日昼間だが、けっこう客が多い。
一般に比べて学生料金がずいぶん安い。ナイス通信教育と思いつつ学生証を提示してニンマリである。

バウハウス展のほかに、芸大コレクション展も一緒に観ることができたので、まずはそっちから。
実は僕は藝大に密かな憧れを抱いているのである。藝大ってのは、特殊な才能が集まる場所だと思っているのだ。
だからなんというか、こう、浮世や世間というものに対して治外法権が公認されるような、そんな印象を勝手に持っている。
「あー藝大だからしょーがねーや」というような、何をやろうがすべてエクスキューズ・免罪符になるみたいな領域、
生き方そのものを芸術と言い張ることが許される世界、そんなふうに僕は藝大というものを見ているのだ。
(僕の得意分野である塑造を死ぬ気でがんばったとしても、藝大に入るってのはムリなんだろうなあ……。)

で、さすがに藝大のコレクションは面白い。かつて日展100年(→2007.8.11)のときに味わった、
「うまいなあ……」としか言えなくなるような、さりげないけどなかなかできない、そういう作品が多く展示されていた。
地下フロアの半分だけでなくもっと規模を拡大して、抱えているコレクションをできるだけ展示してほしいなあと思う。
バウハウス展との関係で、バウハウスに留学していた人の卒業制作などが重点的に展示されていたけど、
そのスペースはもうちょっと削っていいと思った。とにかく、「藝大のフツー」の凄みをもっと感じさせる工夫をしてほしい。

そして肝心の「バウハウス・デッサウ展」である。
バウハウスというのは、1919年にドイツのヴァイマル(ワイマール)に設立された美術・建築・工芸の学校である。
1925年にデッサウに移転、1932年にはベルリンへ移転するがその翌年にナチスの圧力により閉校させられる。
ヴァルター=グロピウス、ハンネス=マイヤー、ミース=ファン=デル=ローエが歴代校長ということからもわかるように、
(「わかるように」と書いたが、よく考えたらそのことがわかる人にはバウハウスについての説明なんて必要ないよな)
バウハウスの活動はモダニズム建築やインターナショナル・スタイルといった潮流に多大なる影響を与えた。
ひらたく言うと、建築やデザインの領域で「シンプルで美しい」作品が今でも通用する、その下地をつくった学校なのだ。
(ちなみにヴァイマルとデッサウのバウハウス関連施設は世界遺産に登録されている。それだけ影響が大きかったのだ。)

今回の展示では、グロピウス設計の校舎でおなじみのデッサウ期に焦点を当てて、
そこでどういった講師がどのような授業を展開していたのか、どういった理念で教育を行っていたかを紹介している。
モホリ=ナジ(モホリ=ナギ)、ヴァシリー=カンディンスキー、パウル=クレーといったビッグネームの作品もないことはないが、
それよりは彼らが指導した生徒がどういった課題を与えられてそれにどう答えたかの展示が多い。
あとは校長室の再現やデッサウ校舎の模型など、学校施設や学校生活の資料も散りばめられていた。
感想としては、骨の髄までバウハウスが好きならそれなりに楽しいかもしれないが、ややマニアックだなあ、と。
実際に生徒に教える立場の人なら興味深い部分もあると思う。でもあまり一般向きではないというのが正直なところだ。
なお、僕は音声ガイドが大嫌いだが、声を谷原章介が担当しているという点は面白い試みであると感じた。

帰りはタリーズでマンゴータンゴスワークルを飲みつつ、教員採用専門の雑誌を読んで論述試験対策の勉強。
自分でもなんでか知らんが、どうも僕はマンゴーの風味に弱いようだ。特に好きだという意識はないんだけどなあ。


2008.7.2 (Wed.)

一次試験直前ということで、日記の更新を停止することにした。
とても旅行の記録やマンガのレビューなど書いちゃおれん状況なのだ。


2008.7.1 (Tue.)

本日より2008年も後半戦である。今年は激動の年になることがかねてから予想されていたわけで、いよいよ正念場だ。
とにかくここから2ヶ月は全力でぶつかっていく。9月以降は知らない。予測もつかない。
無策はダメだが、勇気を持って何ごとにも恐れることなくふるまっていきたいものである。ニンニン。


diary 2008.6.

diary 2008

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