diary 2009.12.

diary 2010.1.


2009.12.31 (Thu.)

あろうことか17時まで寝ていたので(しかも起こされてようやく起きた)、起きたらよくわからない状態。
とりあえず「バカじゃないの」と潤平をはじめとする家族全員に罵倒されて2009年最後の日が始まった。
僕にしてみれば起きてきていきなりお年とりということで、寝ぼけたままメシを詰め込む状況になった。
ふだんの生活からすれば非常に贅沢なメシがテーブルに所狭しと並べられ、うろたえつつ食べる。
起き抜けだし動いてないから腹減ってないしでキツい状況だったが、たっぷり時間をとってしっかり食った。

さて大晦日ということで、我が家では恒例行事の麻雀大会がスタートする。
昨年は僕が帰省せずにバイト漬けの生活を送っていたので開催できなかった。2年ぶりの麻雀である。
序盤はけっこう冴えていて、聴牌になりつつ振り込みを避ける麻雀ができていた。
特に安い手でさっさと和了って潤平の大きな手を阻止するなど、非常に堅実にできていたのだ。
しかしドラを集めるのに焦って失敗してからは、一気に調子を落として微妙なマイナスに終わる。
ほかのみんなも極めて低調で、2半荘やって満貫が1回出ただけ。ノーテンもやけに多かった。

 
L: 大晦日の恒例行事、マツシマ家麻雀大会。ちなみに金を賭けたことは一度たりともない。健康麻雀である。
R: 途中でワケがわかんなくなった母が父に助けを求める。ウチの母親は20年以上こればっか。

でも最終的に勝ったのは母親なんだよなー! 納得いかねー!

特に見たいテレビ番組もなかったので、なんとなくNHKの紅白を流しながらのながら麻雀だったのだが、
それにしても紅白のなりふりかまわねえっぷりには呆れ果てた。次から次へとゲスト攻勢、そればっかり。
(大漁旗を持って踊るさかなクンを見て、そこまでやるかと驚愕。しかもさかなクンにフォローなしだし。)
もうどこまで加藤清史郎頼りなんだよ、と私は言いたい。人を出すだけで、内容的には何もしてないだろNHK。

とはいえウチの家族はそれなりにNHKの戦略にハマっていたのもまた事実なのである。
AKB48が出れば潤平が篠田麻里子に反応し、僕は「あんなのダチョウのキャバ嬢じゃん」と文句を言う。
(僕はいちおうAKB48のメンバーを覚えられるだけ覚えようとしてはみたのだが、
 やたらとセンターになる前田敦子と髪の短い篠田麻里子以外、いまだに結局区別がつかないままでいる。)
flumpoolが出たら「うえええ気持ち悪い!!」と全員で罵声を浴びせ、森光子のコメントにハラハラする。
まあ、なんだかんだで出てくる歌手にはちゃんと反応しているわけで、それなりに見ていたってことだ。
(中島美嘉が出たとき僕の要望でチャンネルが代えられたが、その後ちゃんとNHKに戻したし。)
そんなこんなで実にテキトーだった今年も終わるのであった。来年もきっとテキトーだろう。


2009.12.30 (Wed.)

名残惜しい気分になりつつも、朝の6時半には宿を出る。地下鉄に乗って名古屋駅へ。
もうちょっと名古屋という街をのんびりじっくり歩いてみたい気持ちはあるが、今日は今日で行きたいところがいっぱい。
まずは昨日すっ飛ばした豊橋まで戻る。そして飯田線に乗り、豊川に寄り道をしてから飯田まで帰るのである。
名古屋駅のホームで立ち食いきしめんをすすって動けるだけのエネルギーを確保すると、列車に乗り込む。
1時間弱で豊橋に着くと、いつものとおりコインロッカーに荷物を預けて歩きだす。

さて豊橋は飯田線の終点(長野県視点)だが、僕にとってはかなり「近くて遠い街」である。
今までに豊橋駅の改札を抜けたことは、なんと1回だけしかないのだ。忘れもしない1997年の夏、
HQSの同期でルーキー合宿というものを僕の地元の飯田でやったのだが、そのときの1回だけなのだ。
しかもそれは、ムーンライトながらで豊橋駅まで行ったため、まだまったく夜が明ける気配もない中で、
コンビニで買ったメシを食いつつ豊橋駅前で必死で時間をつぶして飯田線の始発を待つという、
なかなか壮絶な記憶がコンニチワしてしまうような体験だったのである。
(このプランを練ったのはオレじゃなくてスススだからな! 念のため書いておくけど。)

12年ぶりに豊橋駅の改札を抜けたときから、うっすらと残っていた記憶がはっきりと呼び起こされていた。
ああそうだった、コンコースはなだらかな傾斜になっていて、やたらめったら階段が多かったわ、と思いだす。
12年前と同じように北口のペデストリアンデッキに出る。どこで夜明けを待ったかはもう忘れてしまったが、
あのときの雰囲気が自分の中に蘇ってくるのをはっきりと感じる。今日はその感覚を更新するために来た。

まだ開きかけの観光案内所から持ってきた豊橋市内の観光地図を広げつつ路面電車に乗り込む。
なぜか日本語の地図がなく(切らしてしまったようだ)、しょうがないので英語の地図をもらってきた。
とりあえずそれを熟読して、行きたい場所の位置関係を頭の中に叩き込んでおく。

豊橋公園前で降りると、まずは吉田城址を目指すことにする。もともと豊橋は「吉田」という名前だったのだ。
明治になって、ほかにも吉田という地名があってややこしいということで、豊橋に変わったそうだ。
公園内に入ると、西の方へと歩いていく。行く先に巨大な建物が見える。見るからに庁舎建築で、
ご丁寧にてっぺんには豊橋市章が貼りついている。豊橋市役所だ。でも公園から直接入ることはできない。
そのうち、豊橋市美術博物館の敷地に入る。茶色のタイル張りで非常にシックである。

  
L: 豊橋駅北口。大規模なペデストリアンデッキになっており、その下はバスターミナル・路面電車の軌道となっている。
C: 豊橋市美術博物館。  R: 美術博物館の辺りから眺める豊橋市役所の側面。実に巨大である。

豊橋公園の西端に着くと、いったん外に出る。少し東に戻ったところに教会があるので眺めてみる。
豊橋ハリストス正教会(建物は正確には聖使徒福音記者マトフェイ聖堂という)である。
1915年築とのことだが、ものすごくきれい。近くからジロジロ見ても、まったく古さを感じさせない。
設計したのは河村伊蔵で、この人は函館ハリストス正教会(→2008.9.15)も手がけたそうだ。
(ちなみに内井昭蔵が彼の孫になるとのこと。三代続けてオーソドクス信者で建築家ってのもすごい。)
木造のあたたかさと過剰な装飾のない気品の高さがマッチしているところに保存状態の良さが重なり、
近くで眺めていてなんだか非常に落ち着く建物である。しばらくぼーっと眺めて過ごしたのであった。
(翌日、僕が実家で画像整理をしていたら、ウチのオヤジがこの建物の写真を見て、
 「いいねえ」と盛んに言っていた。僕も「いいでしょ」と盛んに返すのであった。)

  
L: 豊橋ハリストス正教会・聖使徒福音記者マトフェイ聖堂。本当にきれいな建物なんですよ、これ。
C: 側面。上品ですなあ。右側にある看板のデザインがこれまたオシャレなんだ!
R: 裏手の駐車場側から眺めたところ。しばらく周囲をウロウロしつつ眺めて過ごしたよ。

なかなか見飽きることのない教会だったのだが、ここで時間をムダにつぶすわけにはいかない。
早足で豊橋公園内に戻り、吉田城の本丸跡に行ってみることにする。が、そのときに気がついた。
入口の左手に妙なオブジェが立っているのである。なんじゃこりゃ?と首をひねるが、答えは出てこない。
それでとりあえず写真だけ撮って先へ進んでいく。そして金柑丸跡へと寄り道したところで納得がいった。
そこには、この吉田城址がかつて陸軍の歩兵第18連隊が置かれていた場所だったことを示す碑があった。
さっきのオブジェは、駐屯地の入口で兵士(歩哨)が警備していた場所(警衛所というらしい)の名残だったのだ。
たったひとつの何気ない物的証拠にすぎないが、それが残されていることで歴史が生々しく目の前に現れる。
同じ場所に幾重にも積み重ねられたものの断層がはっきりと垣間見えて、思わず息を呑んだ。

 
L: 豊橋公園西端、吉田城址入口。石の門柱が今も残っており、わずかに緊張感を漂わせている。
R: 具体名はわからないが、入口で兵士が警備していた場所(警衛所)であったことを示す証拠。生々しい。

奥へ進んで橋を渡って本丸跡に入ると、石垣が今も見事に周囲を取り囲んでいる光景に出くわす。
いちばん奥には1954年に再建された隅櫓(鉄櫓)がある。年末年始の休みで中には入れなかったが、
そのすぐ脇から弧を描いて流れる豊川(とよがわ)を眺めることはできた。実に穏やかな風景で、
かつての城、そして駐屯地としての賑やかさがもはや遠いものであることを告げているかのようだ。

  
L: 吉田城本丸跡。ぐるっと周囲を石垣が囲む。それぞれの櫓跡に上ることも可能。
C: 再建された鉄櫓。  R: 鉄櫓の脇からは豊川の流れを望むことができる。平和な景色だ。

公園から外に出ると、そのまま豊橋市公会堂の正面へとまわり込む。
1931年に市制施行25周年ということで建てられたが、戦争でゴタゴタしていた時期には市役所としても使われた。
その後は公民館になったり市民窓口センターになったりしたが、現在は当初と同じ用途の公会堂に戻っている。
シンボルとは言わないまでも、豊橋の街における最も誇らしい建物として扱われているようである。

 
L: 豊橋市公会堂。費用がかかるということで、建てる際には議会でもめたようだ。建てておいてよかったね。
R: 昭和期の建築らしく、裏手は正面に比べると雑な印象……。まあこういうのは「現実的」と表現できなくもないかな。

この豊橋市公会堂のすぐ近く、奥まった位置にそびえているのが豊橋市役所である。
8階建ての西館と13階建ての東館からなる。建物の手前は「市民広場」となっているのだが、
駐車場としてのスペースも一部兼ねているため、非常に殺風景な仕上がりとなっている。
オープンスペースをつくりたい気持ちと駐車場が足りない焦りとが合わさってしまった結果、
どっちつかずのダメダメな空間ができあがってしまったものと思われる。悲しい事例である。
なお、豊橋市役所は吉田城の三の丸跡に立地しているとのこと。

  
L: 豊橋市役所。右側の高いのが東館(1993年竣工)で、左側の低いのが西館(1979年竣工)。
C: 西館と手前の「市民広場」。コーンで区切って車が入れないようにしているが、なんだか間抜けである。
R: 東館のファサードは西館を意識しているように感じられる。増築庁舎にしては違和感が少ない。

市役所の撮影を終えたので、あとは気ままに歩きながら豊橋駅まで戻ることにする。
路面電車の走る駅前大通は非常に道幅が広いが、その一本北にある広小路は適度な間隔を保っている。
一時期に比べると勢いは弱まっているのだろうが、広い道に区切られたことでかえって境界が明確になり、
決まった範囲の中で賑わいを確保しているような印象を受ける。また、夜になると飲み屋の元気がよさそうだ。
市街地はちょくちょく再開発が行われているようで、ところどころに公園や公共施設が点在している。
そういうのに肯定的ってのは城下町のわりには珍しいよなあと思いながら歩く。豊橋の気質、なのだろうか。

  
L: 駅前大通。道じたいは政令指定都市並みの迫力があるが、賑わいは今ひとつ。建物の老朽化を感じる。
C: 広小路。駅前大通に区切られたことで、商店街としての求心力が高まった印象を受ける。
R: こども未来館。繁華街の匂いを残す住宅街にいきなり現れる施設。土を盛って敷地に高低差をつけている。

そろそろ時間がなくなってきた。最後に豊橋の地図を見ていちばん気になった場所を訪れてみることにする。
それは豊橋駅から南東にあるエリアで、ビルが曲線の点線を描くようにして並んでいるのである。
広い道路の中央分離帯が公園になっている例は大都市を中心によく見かけるが、豊橋のこのエリアは、
それよりもはるかにスケールが小さい。しかも中央分離帯じゃなくて、ビルなのである。さっそく現地に行ってみる。

  
L: ビル群の最も豊橋駅に近い部分。大きく貼りだされた写真には「豊橋ビル商業組合」の文字が。
C: 同じビルの反対側。横切る道路が大きく真ん中で盛り上がっており、ビルの脇に橋の欄干があるのが見える。
R: 「萱町(かやまち)橋」とある(「橋」が異体字)。左側にはいかにもフタしてます、と言わんばかりの鉄板がある。

結論から言ってしまうと、これらのビルは地元で「水上ビル」と呼ばれていることからわかるように、
川(牟呂用水)の真上につくられたビルなのである。川の蛇行そのままに、カーヴを描いて並んでいる。
豊橋ビル商店街、大豊商店街、大手ビル商店街という3つの商店街が成立しており、上は集合住宅のようだ。
1964年から68年にかけて、実に800mにわたって建てられているのである。こんなの、初めて見た。
当時の思想はよくわからないけど、たぶん駅に近い一等地ということでニュータウン感覚でつくったのだろう。
アーティストと組んで商店街の活性化をがんばっているようで、ビルの側面に貼られた写真がよく目立つ。
個人的にはこんな事例じたいが珍しくってたまらないわけで、もっと行政サイドでアピールすりゃいいのにと思う。
やはりこれも、豊橋の都市再開発気質を示す証拠と言えるかもしれない。いやはや、実に面白い。

  
L: 水上ビルとその北側の道路。  C: その南側の道路。こうして見ると、確かにもともと川だったのがわかる。
R: アーケードに掛かっている案内板。商店街は弱まりつつもしっかり営業中。非常に珍しい事例だ。

最後に豊橋駅前の再開発地帯をぷらりと歩いて駅まで戻る。ペデストリアンデッキで周囲を大胆につないでおり、
2階フロアを中心にあちこちに店がある。中には東急ハンズのアウトレットストアもあって驚いた。
この豊橋という街のまちづくりは、どうも日本でもトップクラスの積極性というか大胆さというか、
とにかくとんでもない思い切りのよさに支えられているようだ。これは研究の余地がたっぷりとありそうだ。

東海道線に乗っていると気がつかないが、豊橋駅のホームは非常にややこしい。
名鉄のホームがJRのホームに紛れ込んでいて、東海道線と飯田線に挟み込まれた形になっている。
やがて豊川止まりの表示を用意して、飯田線の列車がホームに入ってくる。
乗客は意外と多い。まあ豊橋-豊川間はメジャーなんだろな、と思いつつ入れ替わりで乗り込む。
この線路は飯田までつながっているのだ。でもそんなことが想像できないほど、飯田と豊橋は遠い。
列車が長野県に向けて走っていることがまったく実感できないままで、僕は豊川駅に降り立った。

 豊川駅。コインロッカーはすぐ隣の名鉄の駅にしかねえんでやんの。

天竜峡まで行く列車の本数が少ないこともあり、わりと長い時間(2時間半ほど)豊川に滞在できる。
とはいえ豊川市役所はそれなりに遠い場所にあるので、余裕たっぷりというわけではない。
さっそく早歩きで市役所を目指して歩く。豊川稲荷への参拝は戻ってきたときにするつもりだ。

あらかじめ頭の中にインプットしておいた地図のとおりに歩いているつもりなのだが、なかなかその気配がない。
歩いても歩いても郊外型の大雑把な道路が続くだけなのだ。しかも困ったことに、コンビニがまったくない。
地方にはたまにこういう「コンビニのない郊外ロードサイド通り」というのがあり、これがいちばん困るパターンだ。
コンビニがないと地図で現在地を確認することができない。道を間違えていることに気づかないとなると、悲劇である。
ヤバいなあ、参ったなあ、と思いながらも歩く。それらしい匂いを嗅ぎ取りながら歩くことしかできないのである。
そうこうしているうちに川に出た(佐奈川)。僕のヘボ記憶では市役所までに川を渡るなんて情報はなかったので焦る。
川の周囲は公園になっていたので、ヒントになる案内板は出ていないかと必死で探してまわったら、
運のいいことにちょっとした地図を発見。佐奈川を渡ってそのまま直進でOKということが確認できて一安心する。
しばらく先に進んだらあっさりと「豊川市役所」という文字とともに矢印の描かれた看板が見えてきた。
車社会は歩行者に冷たい。もっとこまめに市役所の案内を出してくれよと思う。
まあ、市役所に用のある観光客なんてオレぐらいしかいないんだろうけど。

  
L: 豊川市役所。高さはないが、意外と幅のある建物だった。駐車場は決して狭くないが、どこから撮っても収まらない。
C: 裏手はこんな感じになっている。正面とけっこう差がある。  R: 奥にある北庁舎。

 本庁舎と北庁舎の間には中庭があるのだった。

市役所に来るまでも延々と歩いたが、帰りも延々と歩く。市役所の北側には自衛隊の駐屯地があり、
その敷地がずーっと続いている。途中のゲートでは自衛官が警備に立っていて、吉田城址の入口を思い出す。
自衛隊の敷地が切れるのは、さっきの佐奈川のところ。渡るとまた延々と歩いていくのであった。
途中でガードレールか何かをまたごうとしたのだが、疲れていたのか足が十分に上がらず膝を思い切りぶつけた。
足首は痛えわ膝は痛えわで散々な状態である。でもガマンして歩くことしかできない。

どうにか豊川稲荷に着いたのでさっそく境内の中に入る。明日は大晦日ということで出店が一斉に準備中。
しっちゃかめっちゃかな中を掻き分けるようにして進んでいくのであった。観光するには厳しい日だったか。

  
L: 豊川稲荷の総門。  C: 中は準備中の出店でいっぱい。山門を落ち着いて撮れる場所なんてなかったよ。
R: 正面から撮影できなかったので法堂(はっとう)を側面から撮影。それにしても、さっきのは「山門」だし、これはどう見ても寺。

さて皆さん、僕は予備知識ゼロで訪れたので、調べてみて非常に驚いたのだが、豊川稲荷って寺だったんですよ。
(正式名を「円福山 豊川閣 妙厳(みょうごん)寺」という曹洞宗の寺。祀っている荼枳尼天が稲荷神と同一視される。)
知ってたという賢い人もしくは常識人は呆れてもらって結構なんですが、僕は境内の中でずっと首をひねってました。
門をくぐってまっすぐ行くとまた門があって(山門)、その先がお堂(法堂)。「稲荷」のはずなのに、どうみても寺院建築。
そして豊川稲荷の本体である本殿はそこから左手奥と、はずれた位置にあるのだ。
その本殿の脇に奥の院へと通じる道がある。「奥の院」ってのは、やっぱり寺の構成要素だよな、と。
オレは本殿に来るまでに鳥居をくぐったはずだよな、と振り返ると確かに石造りの鳥居がある。
神仏混淆は珍しいことではないにしても、これはちょっと寺としての要素が強すぎるんじゃないの?と思うのであった。
それでどうやって参拝すればいいのかわからず、しょうがないから音がしないように小さく2拍手してみたり。
まあとにかく非常に混乱した状態でウロウロ歩きまわって過ごした。まさか稲荷のクセして寺だったとはなあ。
稲荷だけに、まさに狐につままれたような気分だったよ!(今、うまいこと言うたよ!)

僕はこっち方面に詳しくないので、調べてみて自分なりに納得できたことを覚え書き程度に書いておくと、
もともと稲荷ってのは農業関係の担当で、そのほかにも産業全般を担当したのであちこちに広がる要素があったのだ。
神仏混淆の影響もあり、広がっていく中でとりわけさまざまな対象と合わせて祀られていくようになりやすかったわけだ。
(そのためか、ただの稲荷神社ではなく「○○稲荷」と固有名詞が冠せられるようになった事例が非常に多い。
 また、寺も神社も関係なく、境内の隅っこに小さな稲荷神社がつくられている例は山ほどある。)
稲荷を身近に信仰するのはふつうの庶民が多く、そんな庶民が厳密な宗教的概念なんて理解しているわけがない。
明治に入って神仏の分離が行われたが、最後までそれがやりとおせなかったのがたぶん稲荷で、
稲荷ってのはどちらかに分けるのが無意味なほどにごちゃまぜの形でできあがってしまったのではないかと思う。
だから全国の稲荷の親玉的存在のひとつである豊川稲荷が寺なのも、「稲荷ならでは」ってことだと納得している。

  
L: 豊川稲荷の本殿。明治から大正をまたいで昭和5年まで、20年以上かけてつくったとのこと。
C: 本殿にさらに近づいて撮影。迫力あるなあ。  R: 奥の院。周囲にはさまざまなお堂が並んでいる。

奥の院に行く途中にはやはり寺らしくさまざまなお堂があり、また一方で狐の像が両側に並ぶ鳥居と参道もあった。
本殿より奥はふつうの寺社とは異なる違和感があり、やはりほかにはない何か特別な雰囲気がした。
さっぱりした砂からベタっとした土に切り替わった瞬間、寺でも神社でもない原始的な信仰の世界に引き込まれた感じ。

 狐の像が並ぶ参道。やはり何か不思議な雰囲気が漂う。

お参りを終えると、参道の商店街をのんびり歩きながら駅まで戻る。年末の忙しい時期のわりに観光客は多く、
どの店も元気がある。残念ながら観光案内所は閉まっていたが、存分に雰囲気を味わうことができた。

 
L: 豊川稲荷の参道。土産物屋や食堂があり、なかなかの賑わい。
R: 観光案内所。街のあちこち、店の前に看板代わりの狐の張りぼてが置いてあったのが印象的。

駅に着いてコインロッカーから荷物を取り出したところで、自分の腹が減っていることに気がついた。
そしてこの先、各駅停車の飯田線に揺られる=メシを食うチャンスがない、という事実にも気がついた。
慌てて時計を見る。まだ若干の余裕はある。さっき参道の商店街で売っていたいなりずしが食いたい。
というわけで痛みきった足を省みずにダッシュ。豊川稲荷の目の前にある店まで必死で走る。
いなりずしを買おうとする客の行列はさっきもあったが、一段と長くなっているような気がする。でも食いたい。
豊川ではもともといなりずしが名物というわけではないようだが、駅に店のマップを置くなどして、
どうもいなりずしを豊川の新たなB級グルメとしてアピールしはじめているようだ。やっぱり食いたい。
ジリジリと焦る気持ちを抑えて並ぶ。こうなりゃ自分の運の強さを信じるしかない。いなり食いたい。

そして待ちに待った末、無事にいなりずしをゲット。時計を見ると電車が出るまであと5分。
ふだんの足ならどうにかなるのだろうが、今の自分の足はもうボロボロ。おまけに背中がずっしり重い。
泣きそうになりながら歯を食いしばって走って豊川駅にすべり込む。もう本当に限界。
で、結果はセーフ。飯田線の車内でしばし呆けつつ車窓の風景を眺めていたとさ。

 いただきま~す。

まあでもいなりずしは無理して買っておいて正解だった。ここから4時間空腹に耐えるなんてできなかった。
ゆっくりと味わいつついなりずしを食べたのだが、しっかりとおいしゅうございましたよ。
油揚げの甘みが疲れを癒してくれてたまりませんでしたなあ。実にいい判断だったと思う。

さて飯田線はのんきな農村風景を走っていく。「三河」のつく駅名が多く、まだ愛知なんだなあと実感。
思っていたよりも飯田線の愛知県区間は長く、山の中に入ってもしばらく愛知県が続いた。
やがて静岡県に入るが、やっぱり駅名標の下に書かれた「静岡県浜松市天竜区」の文字に戸惑う。

 水窪駅にて停車中の列車。あー飯田線だー。

空が暗くなりはじめる。列車はトンネルの中に入り、やがて「小和田」のアナウンスが車内に響く。
飯田線秘境駅シリーズの開幕である。対岸の道路を眺めつつ、列車は緑の中でスピードを落とす。
小和田駅の駅舎はいろんなメディアで取り上げられているが、実際に見ると思っていたよりも立派だ。
近くにはそれぞれ静岡県・愛知県・長野県の方角を示す案内板が立っている。
つまり小和田駅は3県にほぼまたがる位置にあるわけだ。まさに山の中。どうすることもできない。
呆れているうちに列車は発車。すぐに再びトンネルの中に入り、長野県へ突入。

長野県に入って最初の駅は、中井侍だ。何があってこんな名前なのかよくわからない。
お茶の産地らしく、ホーム下の急な斜面は茶畑で埋め尽くされている。静岡的な光景である(→2007.9.16)。
次の伊那小沢(いなこざわ)、鶯巣(うぐす)の辺りは道路があって、人のいる匂いがする。
平岡なんて都会に思えてくる。降りる人がいるんだもん。もうすっかり感覚が麻痺している。
為栗(してぐり)も対岸の道路が見えるのでそれほど寂しい気分になることはない。
温田(ぬくた)なんてもう都会である。すぐ対岸の阿南町は町ですよ、町。村じゃないんだよ。
ちなみに飯田線の車内は僕を含めて帰省する乗客でわりといっぱいだった。
昨今の不況の影響か、はてまた鉄道ブームの影響か。とにかく、平岡も温田も帰省客がいっぱい降りた。

残念なことに温田を越えた辺りからは日が落ちてかなり暗くなってしまった。
崖にくっついているだけの田本の秘境駅っぷりが、よく見えない。そのまま列車は門島、唐笠、金野と進む。
金野(きんの)は自然に還りかけていると評判なのだが、暗くなってしまってまったく確認できず。
次の千代を越えると飯田線南半分のゴールである天竜峡。妙に豪華な新しい車両に乗り換えると、すぐに出発。
こりゃいずれ日の長い時期に、日記のネタとして飯田線秘境駅ツアーでもやるかなあ、なんて思うのであった。
もし一緒に参加したいという希望者がいる場合、連絡をくれればいろいろ調整します。拠点はオレの実家かなあ。

川路(かわじ)、時又(ときまた)、駄科(だしな)、毛賀(けが)、伊那八幡(いなやわた)と、
(僕にとっては)おなじみの地名が続く。そして下山村。「下山ダッシュ」(→2008.9.9)のスタート地点だ。
下山ダッシュもやりたい人がいればコーディネートするよ。……まあ、リョーシさんぐらいしかいないだろうけど。
飯田が半分地元なえんだうさんも走りたがるかもしれない。でもえんだうさん忙しそうだしなあ。
マサルも「やりたい!」と言うかもしれないけど、たぶん今のマサルの体型だとキツい気がする。たぶん。
そんなことを考えているうちに鼎、切石ときて飯田駅に到着。久しぶりの飯田線だと非常に新鮮である。

痛んだ足で階段を上って下りて、青春18きっぷを差し出し改札を抜ける。さんざん見慣れた駅前の光景が現れた。
最近は、いやもう何年も、飯田に帰るたびに違和感を覚えて「飯田にいない自分」を自覚させられるのだが、
今回は延々と飯田線に揺られてきたせいか、それほど違和感がなかった。不思議なものだ。
遠い空間的な距離を経たことで、遠い時間的な距離をちょっと縮めることができたのか。ま、とにかく疲れた。


2009.12.29 (Tue.)

年末の帰省なのだが、ただ飯田に帰るだけでは芸がない。手には青春18きっぷが握られている。
夏にやった山形経由での帰省(→2009.8.10)ほどの大暴れは無理にしても、あちこち寄ることはできるはずだ。
まず今回は、「名古屋でFREITAGをチェックする」という目的を立てた。そのうえで、寄り道をしてみようと思う。
となると必然的に、東海道線沿線の街をブラつくということになる。今まで素通りしてきた街を、歩いてみるのだ。

いつものように午前5時前に家を出て、大岡山駅へ。目黒線で日吉まで行き、東横線に乗り換える。
横浜に着いたら青春18きっぷの出番だ。ハンコを押してもらって東海道線の車両に乗り込む。
ふだんの週末であれば座れないことはないのだが、なんせ年末。座席はすでに満杯の状態なのであった。
それでも乗客の入れ替わりがけっこう激しく、次の戸塚であっさり座ることができた。そうなるともう余裕である。
コンビニで買い込んだメシを食いつつ音楽を聴いているうちに列車は熱海へ。さらにそのまま静岡へ。

静岡に着くとちょっとした戦いがある。浜松行の列車に座ろうとする人たちが一斉に走りだすのだ。
何度かこれをやって要領をつかんでいる僕もあっさりと座る。ところでこの日は天皇杯の準決勝。
エコパスタジアムで清水×名古屋戦が行われる関係で、清水のユニを着た乗客が何人かいた。
それ以外もいかにもサッカー観戦と思われる客が非常に多かった。老若男女いるところがほほえましい。

掛川駅で降りる。今回の最初の寄り道ポイントは、掛川なのだ。1940年築という木造駅舎を出ると、
さっそく西へと歩きだす。掛川市役所は西の町はずれにあるので、しょうがないのでそこまで歩くのだ。

  
L: 掛川駅北口。新幹線停車駅では唯一の木造駅舎だとか。後述するが、南口はまったく雰囲気が異なっていてびっくり。
C: 駅前にある二宮金次郎の像。ここは二宮尊徳が提唱した報徳思想が盛んな土地だからつくられたようだ。
R: 天竜浜名湖線の掛川駅。この次が掛川市役所前駅だけど、本数が少ないから乗らないことに決めた。

郊外ロードサイド店のかわりに個人経営の商店が道の両側に点在するという、やや独特な道を行く。
あらかじめ調べて市役所まで距離があるのはわかっていたが、いざ実際に知らない道を歩くと長く感じるものだ。
起伏がないのが幸いだが、それはそれで単調である。ボケーッとしながら歩いていたら、二股に分かれる道に出た。
天竜浜名湖線の上に架かる陸橋を渡ると新しめの広い道路が伸びている。交通量はほとんどない。
左手に案内板が出ていて市役所に到着したことがわかる。指示に従い木々が生い茂る山の方へと入っていく。

 この左手、林のある方が掛川市役所入口。

まず広大な駐車場があるが、木々がところどころに植えられているので市役所の全体像が把握できない。
とにかく木がジャマでまともに全景を撮影することができないのだ。いちばん厄介なパターンである。
近づいてみるとその巨大さと大胆なガラスのファサードに驚かされる。中身はかなり派手なアトリウムだ。
ものすごく熱効率が悪そうだなあと思うが、中に入ってみての開放感はまた格別だろうなあとも思う。

  
L: 掛川市役所は木々に包まれて全景を把握しづらい。右側は山になってるし。
C: 向かって左のエントランス。  R: ガラスに囲まれたアトリウムがかなり豪快だ。

裏手にまわり込んで、今度は敷地の南側から撮影してみる。こっちは遮るものがなくて撮影しやすい。
しかしやはり幅が広くてなかなかきれいにおさまらない。町はずれ巨大庁舎の典型例だなあと思いつつ撮影した。

 
L: 南側から見た掛川市役所。敷地にはけっこうな高低差があるのだ。  R: 角度を変えてもう一丁。

というわけで市役所撮影は終了。ただ帰るのもつまらないので、国道1号の近くまで出て、
そのまま掛川城まで行ってみることにする。そんなに時間はないのだが、のんびり逆川沿いの遊歩道を歩く。
しかしながら逆川はコンクリートで囲まれたところを流れる川で、ほとんどまったく風情がないのが残念だった。
そうこうしているうちに掛川城が見えてきた。山内一豊が土佐に行くまで治めていたという城である。
1994年に再建された天守は、戦後初の木造による再建とのこと。本物志向の再建ブームのはしりというわけだ。
掛川西高の前を通り、裏手から城内に入る。するとまだ真新しさを感じさせる天守が高台の上に建っていた。

  
L: 掛川城天守。100年経てば再建天守もしっかり価値をもってくるはず。末永くがんばれ。
C: 天守の手前から眺めた掛川市街。  R: 隣には重要文化財の二の丸御殿がある。

時間がないので天守の中にも二の丸御殿の中にも入れず。市役所が遠いのが非常に恨めしい。
もうあとはできるだけ街のあちこちを歩きまわるしかないので、深呼吸して城の空気を味わうと、駅へと向かう。

掛川駅から掛川城へと至る道は、メインストリートとして落ち着いた雰囲気になっている。
この日は各学校や有志によるLEDか何かを使ったオブジェの展示がなされていた。
掛川では「スローライフ」をスローガンにしているようで、あちこちでこの言葉を見かけた。
が、具体的にどのような活動をしているのかはよくわからない。とりあえずアーケード商店街は小規模だった。

  
L: アーケードの中町商店街。あまり元気な様子はないが、それを気にせずやっていくのがスローライフ?
C: 駅から掛川城へと至る道。午前中ということを考慮してもずいぶんと穏やかである。観光客はちらほらいる。
R: 掛川駅南口。北口とは正反対で異様にカラフル。金色のデカいパブリックアートもあり、目がチカチカする。

掛川を出た列車は豊橋で止まる。が、今日はここからさらに西へ行く。豊橋には明日寄るのだ。
それで向かった街は、岡崎。これまた東海道の有名な城下町、そして徳川家康生誕の地である。
もっとも、高校~浪人時代を名古屋で過ごしていた僕にとっては、岡崎=勉強ができる、なのである。
岡崎の高校生はとにかくやたらめったら狂ったように毎日何時間も勉強をするという、
そういうイメージが多感な十代を通してすっかり刷り込まれているのだ。恐ろしい街、という先入観しかない。

さて岡崎駅は市の中心部からかなり離れたところに位置している。
とりあえず市役所と岡崎城(岡崎公園)を訪れるつもりでいるので、愛知環状鉄道に乗り換えて中岡崎まで行き、
そこからは歩いていく計画でいた。が。JRの岡崎駅着が12時45分で、愛知環状鉄道の岡崎駅発が12時46分。
……乗り換えに許される時間がたったの1分じゃ、いくらなんでもやっぱりこれは無理!
急いでエスカレーターを上って階段を下りて愛知環状線のホームに着いたのは、無情にも列車が発車した直後。
無表情に去っていく列車を茫然と見つめることしかできなかった。誰だ、こんなバカなダイヤ組んだの!
というわけで、岡崎駅でしばし途方に暮れる僕なのであった。

この日記の熱心な読者ならもうだいたいわかっていると思うが、こういうときの僕の行動パターンといえば?
……そう、「走る」。コインロッカーに荷物を詰め込むと、北に向けていざスタートなのである。
まあ岡崎の街を十分に味わういいチャンスだと気持ちを切り替えればいいのだ。やっちまったものはしょうがない。

 
L: 岡崎駅。周辺には特に名物は何もなく、なぜここに駅がつくられたのかまったくわからん。
R: 岡崎市シビックセンター。森永製菓岡崎工場の跡地だとか。図書館・ホールに国の合同庁舎がある。

体力に任せて走る、走る。途中で一度、コンビニで地図を読んで現在位置を確認したほかはノンストップ。
どこまで行っても大雑把な広い道が続く。全然進んでいる気がしないが、戸惑っているヒマはまったくないのだ。
無心で走っていると、ようやく鉄道の高架が見えてきた。頭の中の地図を再生し、名鉄の高架であることを確認。
抜けてすぐに歩道橋があり、その交差点を右折すると、それまでの郊外の風景は急に駅前のものへと変わった。
名鉄の東岡崎駅だ。当初スタート地点になる予定だった中岡崎の隣の駅であり、岡崎市役所までもうあと少し。
それにしても腹が減ってたまらない。しかし食ってるヒマなど到底ない。ガマンして乙川を渡り、国道1号に出て東へ。

あらかじめ調べて岡崎市役所は西と東の2つの庁舎があることはわかっていたのだが、いざ訪れてみると、
そのあまりの巨大さに度肝を抜かれた。建物じたいが大きいうえに、いくつも重なってまるで要塞のようだ。
おそらく耐震補強のためだったりデザインだったりでトラス構造が目立っていて、これがまた無骨なのだ。
建物の建っている面積や密度でこれだけ圧倒してくる市役所は珍しい。見事なもんだと呆れるしかない。

  
L: 岡崎市役所西庁舎。これだけでもずいぶんな要塞ぶりである。が、この向こうにさらに東庁舎があるのだ。
C: 正面より眺める西庁舎。トラス構造の耐震補強をかぶせていると思うが、実に大胆不敵なかぶせ方だ。
R: 西庁舎と東庁舎の間はこんな感じ。道路の上には西と東の連絡通路が架けられている。

  
L: 西庁舎の側面。かぶってますねえ。  C: 東庁舎。タワー型のパソコンみたい。  R: 東庁舎を正面から見る。

 
L: 東庁舎の裏側と連絡通路。  R: 西庁舎の裏側と連絡通路。トラス責めである。

西庁舎はわりと前にできたようで、東庁舎がつくられることをきっかけに大きく周囲の雰囲気が変化した感触がする。
もともとはそんなつもりはなかったのかもしれないが、おかげで市役所周辺はかなり迫力のある一帯となっている。
立体駐車場やちょっとした公園もつくられ、道路工事も行われている。後になって振り返ってみたとき、
今のこの市役所周辺はまさに歴史の変化する現場となっているかもしれないなーなんて思ってみる。

市役所を堪能すると、来た道をそのまま戻って西へと突っ切る。やがて左手に車の往来する広い道と、
いかにも再建しましたといった雰囲気を漂わせる小ぎれいな大手門が現れる。岡崎城址の岡崎公園だ。
さっそく中に入ってあちこち歩きまわってみるが、中はふつうに城址公園で、像や木々があちこちにある。
奥には徳川家康の生まれた場所である岡崎城が再建されている。堀の遺構がかなり生々しい深さを保っていた。

  
L: 岡崎公園入口。復元されてピカピカの大手門がお出迎えである。  C: 電話ボックスがお城。うーん、愛知センス。
R: 注意書きにも葵の紋がつけられている。こうされると、なんだかどうも妙な迫力を感じてしまうなあ。

 
L: 徳川家康像。これとは別に、岡崎公園内には「松平元康像」もある。地元の皆さんがいかに彼を誇っているかわかる。
R: 岡崎城は年末年始休みで中に入れず。岡崎の街を眺められず残念。隣は龍城(たつき)神社。

公園内をひととおり歩きまわると、空腹に耐えかねて売店で五平餅を買った。
使っているのが八丁味噌ということで、その濃い味をしっかりと味わったのであった。うまかった。
これで少しはエネルギーの補充ができたので、勢いよく公園の外へ飛び出す。
ちょっとだけ時間に余裕があったので、中岡崎駅からさらにその先へと足を伸ばしてみた。
愛知環状鉄道の高架を越えた西側に、八丁味噌の味噌蔵が並ぶ「八丁蔵通り」がある。
さすがに中を見学するのは無理だが、周辺をプラプラ歩いて雰囲気を味わう。

 
L: 八丁味噌の味噌蔵が並ぶ八帖町。岡崎城から8町離れていたことがその名の由来なんだと。
R: 八丁蔵通り。NHK連続テレビ小説『純情きらり』の舞台になったとかでPRしていたよ。

わりと駅に近い観光地でよかったよかったと思いつつ駅まで戻る。
中岡崎駅には岡崎の観光案内パンフレットが非常に豊富に置いてあったので、喜々としてそれらをもらう。
高架の車内から見下ろす岡崎の街並みはそれほど特徴的ではないものの、なかなかいいものだった。

岡崎駅に着くとコインロッカーから荷物を取り出し、青春18きっぷですぐまたホームへ下りる。
しばらくして東海道線の列車がやってきたので乗り込む。列車は快調に西へと進んでいく。
やがて列車は名古屋駅に到着し、大量の乗客を吐き出すが、僕はそのまま車内に残る。
本日最後の寄り道は、名古屋をオーバーして一宮市。尾張一宮・真清田(ますみだ)神社に参拝するのだ。

 高架の東海道線の下につくられた尾張一宮駅。

尾張一宮駅で降りてコインロッカーを探すが、ない。重い荷物を背負うことになり、がっくりうなだれつつ歩きだす。
駅ビルはなかなか都会で、ファストフードや飲食店が揃っている。奥にはバスターミナルもある。
しかし駅前からちょっと歩くと、そこには抜け殻になりかけたアーケードの本町商店街が現れる。
かつては真清田神社の参道として栄えたのだろう。アーケードはかなりの幅がある。でも、勢いはずいぶん弱い。
思えば僕が幼いときには、飯田から名古屋へ出るときに一宮市を抜けた記憶がある。
高速道路を降りて名古屋を目指す道は非常に広く、両脇をロードサイド店が埋め尽くしていた。
当時でさえそういう状況だったのだから、駅前中心市街地の空洞化はかなり年季が入っているのだろう。

  
L: 真清田神社の参道がそのまま広いアーケード・本町商店街になっている。が、それだけにかなりダメージを食っている。
C: なぜか本町商店街内でフィーチャーされている非常口マーク。  R: 撤退した銀行跡を利用している市役所西分庁舎。

本町商店街の中には一宮市役所の西分庁舎がある。が、どこからどう見ても地方都市の銀行の建物だ。
つまりこれは、銀行が商店街から撤退した後、その建物を市がそのまま利用しているのである。
(調べてみたら、旧名古屋銀行一宮支店だそうだ。1924年竣工で、放っておくには惜しいもんなあ。)
そんな事例はそれほどあるもんじゃない。やはりそれだけ一宮の市街地の勢いが弱まっているという証拠だろう。

本町商店街を横断して抜けたところにあるのが一宮市役所。これがなかなか面白い。
質素だが威厳のあるモダン風味の建物の裏に、10階建ての高層棟を増築しているのである。
どちらも個性があるし、それぞれの時代の市庁舎像が味わえて、僕としては非常にうれしい例だ。
古い方は1930年竣工で、愛知県内では初となる鉄筋コンクリート市庁舎建築だそうだ。
さらには日本で最初にカウンター方式を採用した市役所とのことで、建築的にも貴重な例なのだ。
ただ、市では今の建物を取り壊して現在の敷地に新庁舎を建てる計画を進めているようで、非常に残念。

  
L: 一宮市役所(旧館)。この時期の近代建築がガシガシ壊されている中、保存を希望する声も根強い。
C: 旧館の奥にある南棟。耐震性に問題があるそうだ。悪くないデザインだと思うのだが、仕方ないか。
R: 南側から眺めた南棟。周囲に背の高い建物はないので、かなり中は眺めの良さそうな感じ。

 裏手から眺める一宮市役所。この姿が見られるのもあと何年か?

市役所の撮影を終えたので、満を持して真清田神社にお参り。年末年始に向けて準備が進んでいる中での参拝だ。
市名になるくらいだから大きいだろうと想像していたのだが、神社じたいはそれほど特別に大きい印象はなかった。
堂々とした楼門を抜けると境内は広すぎず狭すぎず、まあ正直なところごくふつうの神社なのであった。
むしろ境内に入るまでがさっきのアーケード商店街を含めて広めにつくられていて、特別さを感じさせる要素である。
門前町の「門」よりも「町」の方が凄みを持っていたんだろうな、と思う(真清田神社が貧相だというわけではない)。
神社じたいの迫力に頼らずに街の魅力をつくりあげてきたという歴史を感じさせる、とも表現できるだろう。

 
L: 真清田神社の楼門。戦後のものだが威風堂々。  R: 拝殿。

日が沈む前に名古屋へと戻る。名古屋駅に着くとさっそく大須へ移動し、FREITAG探しを開始する。
大須の方の店はそこそこの量を置いており、少し栄に入った方の店はなかなかの量を置いていた。
しかしながらどちらの店も「これは買わねば!」というほど惹きつけられるものがなかったのでスルー。
まあFREITAGを扱う店が全国に広がっているのはしっかり実感できるラインナップで、個人的にはうれしい。

名古屋らしく、きしめんと味噌カツのセットを食べてから本日の宿へ。
伏見のちょっとはずれにある宿で、安さで即決したのだが、いざ行ってみるとものすごく懐かしい感覚がした。
僕にはわかる。この宿は間違いなく、かつて予備校の寮だったのを一般向けにムリヤリ改装した建物だ。
風呂とトイレが別であること、給湯室の存在、妙にアットホームな玄関、そして異様なまでに狭苦しい個室。
すべてが僕の中の懐かしいという感情をくすぐってくる。かつて浪人した街で、意外な再会をした気分になる。
何ひとつ不満はない。むしろありがたいくらいだ。僕は本当に久しぶりに、名古屋でウキウキしながら眠った。


2009.12.28 (Mon.)

本日が今年最後の出勤である。わりと余裕があったので、あらためてサッカーのルールブックを熟読。
そしたら「そんな険しい顔をして何を読んでいるんですか?」と言われた。必死になって読み込んでいたら、
どうもそれがそのまま表情に出ていたようだ。ルールブックでそんな表情になるってのは明らかにおかしい。
実はサッカーのルールを読み進めていくうちに、競技それ自体だけでなく、もうひとつのことを考えていたのだ。
それは、当たり前のことだが、スポーツのルールというものが極めて数学的にできているということである。
そのことをあれこれ考えているうちに険しい表情になっていたというわけだ。

スポーツのルールってのは、法律と一緒だ。というか、その世界での法律である。
法律が数学的に、論理的に矛盾がないようにがんばって組み立てられているのと同じように、
スポーツのルールも現実のプレーにおいて矛盾が発生しないように、実に細かく規定がなされている。
まずフィールドのサイズ。そしてラインの太さ。それでようやくボールがラインを超える/超えないの基準が決まる。
空間的な距離、道具の素材などをもとに、ゲームという世界を成り立たせるための公理が次々に固められていく。
揚げ足を取られることが決してないように、慎重に考え抜かれて規定が積み重ねられていく。
数学的論理がハプニングの確率をゼロへと近づけていく。ルールという建材が頑丈な家をつくっていくようにも見える。

面白いのは審判の果たす役割で、細かな判定は大らかな条文で審判に委ねられている。
つまりゲームを構築するのは「硬い」ルールのみではなく、「柔らかい」審判の存在でもって完結されているのである。
ゲームとは生き物であり、それを審判の判断によってコントロールすることが数学的に期待されているのだ。
この未完成なところ、つまり状況に応じた判断を巧みにルールに接続している点が、賢明さを感じさせるところだ。
だから優れた審判が裁けばゲームはどこまでも美しくなるし、逆であればどこまでも醜いゲームが生まれてしまう。

不要な矛盾は徹底的に排除しつつ、人間のその場の判断を適度に組み合わせる。
そうしてスポーツというものはドラマを生んできたわけだ。あらためて考えてみると面白いもんだなあと思う。


2009.12.27 (Sun.)

「他人の家に上がりこんでファミコンをやりてぇ~!!」

皆さんはたまにそういう気分になることはないか。僕は最近猛烈にそういう気分になる。
それで掲示板で同志を募ったら、案の定マサルが反応。場所は優しいニシマッキー邸に決まっている。
というわけで素早く話がまとまって、このクソ年末の時期にファミコン大会が開催されることになったのだ!

朝の9時に集合な!ということで、「どうせマサルは遅刻だろうな」と思いつつ支度をして家を出る。
そしたらマサルはほぼ30分遅れという状態にまで仕上げてきた。少し感心しつつ武蔵境駅にて合流。
(遅刻していることには違いないのに感心されるってのもなあ……。しかもマサルは遅刻予防で徹夜したらしい。)
駅前のコンビニでお菓子を見繕う。友達の家でファミコンといえば、ハッピーターンでコントローラーベトベトである。
そういうわけでまず最優先でハッピーターンを購入。ほかにマサルオススメのお菓子をいくつか選び、
さらに現在発売中のファイナルファンタジーのエリクサー(ポーションで懲りてないのか……? →2006.3.25)も買った。
ちなみにこのエリクサー、缶にFF13のキャラクターが大きくプリントされている。僕もマサルも名前を知らないので、
「ボブ」「ガクト」「メガネっ娘」と勝手にあだ名をつけて呼ぶのであった(でもボブは本当に「ボブ」って感じがする)。
ともあれ、これで祭りの準備は万端である。意気揚々とニシマッキー邸を目指す。

 商店街でアメリカンドックを頬張るまさるくん(32歳児)。

「にーしまーき君、あ~そ~ぼ~!」とお決まりのフレーズで挨拶して家に上がりこむ。
そしたらニシマッキーが「これをどうぞ」と用意していたハッピーターンをくれた。さすがによくわかってらっしゃる。
さっき僕らが買った分もあるので、夢のハッピーターン責めである。おいしいから素直にうれしい。

さっそく「とりあえずビール」的感覚で、とりあえず『スペランカー』を起動。
♪あんな段差でホント死ぬんか♪でおなじみの名作である。マサルはテンポよく進めていくが、
結局5分もしないうちに飽きてしまったのであった。お次は、『忍者じゃじゃ丸くん』をプレー。
これもマサルが上手いところを見せるのだが、延々と続くのはやっぱり飽きるのである。すぐに終了。

じゃあ家主のオススメでいこうということになり、『仮面ライダー倶楽部』をやってみる。
しかしまあこれも操作性は鬼だわゲーム展開は鬼だわで、見ていても非常につらいのが伝わってくる。
ニシマッキーは粘り強くチャレンジを続けたのだが、結局さして進んでいないところで諦めてしまった。
こうなるともう、クソゲーつるしあげの刑である。そういう意味で満を持して登場したのが、『暴れん坊天狗』。
ご存知のとおり天狗が正義のためにアメリカの各都市で暴れまわるシューティングなのだが、
まあ今のご時勢からすれば天狗のやっていることはそのまんまテロ。妙な先見の明を感じつつプレー。
マサルは「自分の弾と敵の弾の区別がぜんぜんつかん!」と絶叫。何年経っても実にひどいゲームだ。

ほかにもいろいろとクソゲーをやったのだが、タイトルを忘れてしまったので列挙するのはナシにする。
「ドラゴン」で始まるゲームがかなり多く、日本人はどんだけドラゴンが好きなんだ、と呆れた。
ほかに毛色の違ったところとしては、スーパーマリオのオールナイトニッポン版があったのでプレー。
細部も微妙に異なっているらしいのだが、目立つところでふつうのスーパーマリオと違うのは、
クリボーとパックンフラワーがサンプラザ中野になっているという点のみ(キノピオ役が各パーソナリティらしいが)。
あとは無敵のスターが六芒星で、ゴールの砦の旗にフジサンケイグループの目玉マークがついているくらい。
どうしてサンプラザ中野ばかりこんなにフィーチャーしているのか、3人で大いに首を傾げるのであった。

 
L: スーパーマリオブラザーズ・オールナイトニッポン版。クリボーがサンプラザ中野である。
R: パックンフラワーもサンプラザ中野。あとの敵キャラはオリジナルと一緒。中途半端!

僕のオススメということで久しぶりにやってみたのが『ボンブリス』。『テトリス』の亜流の落ち物パズルだが、
これがなかなかよく考えられて面白いのだ。テトリスとの最大の違いはラインを消すために爆弾を使うこと。
4つの爆弾が集まると巨大な1つの爆弾になり、これが強力なのだ。そしてこれが爆発するとかなり爽快。
ニシマッキーもなるほどなるほどと遊んでいたのであった。いやー懐かしい。

そして僕が持参したコナミの名作・『がんばれゴエモン2』もやってみる。
ゴエモンをニシマッキー、エビス丸を僕が担当していざスタートである。
(ちなみにエビス丸の正体が女というのは、今となっては「なかったこと」にされているらしく、実にショック。)
途中で「おやすみ」になりながらもそれなりに順調に進んでいくのであった。まあやりこんでるし。
伊賀辺りからはニシマッキーが完全に観戦モードになり、結局僕がひとりであっさりクリアさせていただきました。
ちなみにその間、マサルは徹夜の影響ですっかりおねむ。
その後はニシマッキーが初代ファミスタの西武でコンピューターに負けて雨天中止を宣言、
レールウェイズとフーズフーズの熱い試合を観戦して過ごした。しかし工藤がまだ現役ってのはすごいな。

 
L: はい、がんばれゴエモン2のエンディング。  R: でもマサルがすっかり熟睡。

マサルが起きると、本日のメインイベントである『ドラゴンスクロール』の攻略大会。
『ドラゴンスクロール』は全盛期のコナミが出したアクションRPGで、その音楽は非常に高い評価を受けている。
(僕もマサルも、そして潤平も、いつでもどこでも『ドラゴンスクロール』のBGMでハモることができるくらいなのだ。)
しかしながら残念なことに、肝心のゲーム性が少々粗っぽいのである。
「CDさえ発売されればまったく問題ないのにね」とふたりで言いつつプレーするのであった。

 うおー画面を見るだけで脳内に音楽が響くぜ!

途中で「もう文明の利器を使おうよ!」とマサルが言いだし、パソコンで攻略法を調べつつプレー。
面倒くさいレベル上げは僕が担当して、ゲームはスイスイと進んでいく。
「もうなんでも雨を降らせてユンケの実で解決するんよ!」
でも最初のボスのところで腹が減ってやる気が失せたのでパスワードとって試合終了。
こうして久しぶりのファミコン大会の幕は閉じたのであった。

晩飯はマサルの希望で国立まで行ってスタ丼を食べることにした。
駅のホームで電車を待っていたら、マサルが手を滑らせてケータイを線路に落とした。
最終的にはマジックハンドで取ってもらって無事に解決したのだが、いかにもマサルだなあと。
(まあHQSには高尾駅の線路にメガネを落としたツワモノがいるのだが……。上には上がいる。)

国立に着いたら即、スタ丼。マサルにつられてみんなでセットメニューを注文。意外と量が多かった。
もう大盛は食えねえなーなんて話しつつ店を出ると、大学通りのイルミネーションがまぶしい。

 そういえば毎年やってたなあ。

3人とも積極的に酒を飲むタチではないので、無難なミスドでダベることにする。
話題は「みんなで新作ウソ落語をつくろう」。すると早くも『目黒の秋刀魚』をもとに『国立のスタ丼』をマサルが創作。
マサルはタイトルとサゲだけ考えて勢いよく量産していくタイプで、『芝浜』の新作がどんどん出てくる。
(『横浜』は「よそう、千葉になるといけねえ」でサゲる。『MC浜』は「よそう、倦怠期になるといけねえ」。MCコミヤだ。)
対照的に僕は話の全体をガッチリとつくり込まないと気が済まないタイプである。
『48(シバ)ハマ』と題してAKB48にハマった夫の話を必死で考えるが、どうしても夫が懸命に働く理由が出ず断念。
まあそんな感じでいいかげんに飽きたので解散。次回のファミコン大会はいつになるかな!?


2009.12.26 (Sat.)

今日は自由が丘に出てウェンディーズでハンバーガーを食べつつ日記を書いているのである。
残念なことに、牛丼デフレ戦争のあおりを食って、ウェンディーズは今年限りで消えてしまう。
そんなわけで今日の日記はウェンディーズに対する思いをぶちまけることにするのである。

出版社時代には本当によく神楽坂のウェンディーズのお世話になった。
比較的安くて味も悪くなく、店も広かったので、昼のローテーションの一角として大いに利用した。
ウェンディーズといえばなんといっても「いかにも肉だぜ!」という感じ満載のビーフパティであるが、
個人的には和風ドレッシングでいただくセットのサラダも好きなのであった。
学生たちのしゃべり声に負けずに必死で文庫本を読み進めていったのは懐かしい思い出だ。
また、今でも髪の毛を切った後にそのままウェンディーズで日記を書くことがよくある。
自由が丘ではほかにのんびり座って作業できる場所がほとんどないので貴重な存在なのだ。

昼飯時になって自由が丘のウェンディーズにはかなりの行列ができてきた。
もう食えなくなるから買って帰ろうという人がいっぱいいるのだ。なくなってわかるありがたみ、である。
僕としては出版社時代を含めてかなり食っているので味のレコーディングはすっかりできているのだが、
迫力のあるビーフもさることながら、やはりその利便性がなくなってしまうのが非常に痛い。
ぜひとも景気がよくなって、一日も早く復活することを祈る。


2009.12.25 (Fri.)

終業式である。生徒たちがいなくなると、さっそく職員一同で大掃除。
ふだんはとてもじゃないけど気にかける余裕のないあちこちを徹底的にきれいにしていく。
僕は本棚の不要な冊子・書類を整理したりダンボールを片付けたりするのであった。
掃除が終わると皆さんでお弁当をいただく。高級なお弁当が出て、食いなれていないせいか、
天ぷらで胸焼けに苦しむのであった。かなりひどくて参った参った。

子どもたちがいなくなると学校ってのは実に平和なものである。夏休み以来の平穏が戻ってきた!
休めるうちにたっぷり休ませてもらうのだ!


2009.12.24 (Thu.)

世の中学生どもは「今日は寿司を食べるんだ!」とか「家族でピザを食べるの」とかほざいているわけだが、
舶来の一神教なんぞにうつつを抜かしていてはいかんのである。こちとら硬派にいくのである。
見よ! これが実録・漢のクリスマスイヴだ!

シャンパンではなく日本酒! 七面鳥ではなく焼き鳥! ケーキではなく冷奴!

それはもうおいしくいただきましたよ。特に冷奴のうめえことといったらない。ヌハハハハ!(酔っ払い)


2009.12.23 (Wed.)

『MOTHER3』をクリアしたので思ったことを書いてみる。まとまらないと思うけど。超ネタバレでいくんでよろしく。
(前にクリアした『MOTHER』のログはこちら →2007.7.17、『MOTHER2』のログはこちら →2008.11.18。)

今回は最初に父親・母親・双子の兄弟・飼い犬の名前を登録するということで、
それぞれ「せんたろ」「まいみ」「のぶゆき」「ゆきむら」「ししまる」にしてみたんですけどね、
開始2分ぐらいで「まいみ」が死にます。もう僕はゲーム中の「せんたろ」が悲しむ以上にへこみましたよ。
「ひろこ(オレの実母の名)」が死ぬ分には別にどうってことないんですけどね、これはもうホントにショックでした。

まあそんな頭の悪いこと極まりないゲームの進め方をしていったのだが、世界観の提示の仕方が丁寧で、
ストーリーが進んでいくたびに「おお、なるほど!」と感心させられた。今回も巧さが健在なのである。
お金の概念すらないタツマイリ村にしのび寄る影。ヨクバに虐待されるサルの立場に立たせるテクニック。
そして一気に3年後の変化した村の姿を出してくる。世界のあちこちを旅するのではなく、
ノーウェア島の隅々までを行き来することで、より強烈に閉じられたゲームの中の現実を意識させる仕組み。
それでいて限定された空間が実は広いことをシナリオを通して感じさせ、冒険を飽きさせない。
どせいさんの存在を告げる走るちゃぶ台、ポーキーが(そしてプレイヤーが)大切にしている思い出。
つくり手がプレイヤーと同じように、『MOTHER』シリーズのファンなのだ。だから絶妙のタイミングで演出ができる。
人間模様も複雑だ。ブタマスクにまでなってしまうイサク、ネズミに「ぼくにはやさしかった」と言われるヨクバ、
D.C.M.C.びいきのコワモテブタマスク、孤独すぎるポーキー。どのキャラクターにも感情移入できる余地がある。
また、タネヒネリ島ではキャラクターの抱えるトラウマが、突き刺さるような鋭いセリフで披露される。
特に郵便ポストの中に詰まっているイヤなものたちなんか、よく思いつくものだと呆れるほどだ。
単純明快な冒険ストーリーだった前作までとは明らかに異なる深みがエンタテインメントに加えられている。
ゲーム全編を通して、なんともいえない物悲しさがうっすらと漂っていて、それがどうしても消えないのだ。

でも、はっきり言ってあまりにも残念すぎるエンディングによって、それまでの冒険が無になったように思えた。
ドラゴンの復活によって世界は変わるのだが、その姿が提示されることはない。
仲間たちが無事だ、ということだけは盛んに伝えられる。でも、それをこの目で確かめることができない。
エンディングを迎えた瞬間から「自分」がリュカ(僕は「ゆきむら」だったが)ではなくなり、リアルの自分になる。
いきなり与えられるそこの差異が解決できなくて、ゲームからポコンと押し出されたような錯覚を受けるのだ。
『MOTHER2』ではクリアした後に世界中を歩いてまわって家まで戻った。その正反対が繰り広げられる。
あの、ゲームをやって楽しかった思い出のひとつひとつのその後を確かめる楽しみが、一切否定されたのだ。

むしろ『MOTHER3』ではゲームとリアルな生活の境界線が意識されていて、そういう考え方の結果として、
エンディングを迎えてからの扱いに反映がされているのだろう。ゲームの中はゲームの中だけで、よろしくやっていく。
(そういう意味では、『MOTHER3』の舞台に「ノーウェア島」と名づけるのは非常に挑戦的というか正直というか。)
ネットゲームで終わらない冒険を続けることができるようになった現代を問い直す、とまでは言わないが、
リアルな生活におけるゲームの位置づけを明確に問題提起する終わり方であることは間違いない。
でも僕は、『大長編ドラえもん・のび太の宇宙小戦争(リトルスターウォーズ)』ぐらいを理想の位置に置いていて、
(最後のコマ、スネ夫のセリフがすべてを代言している。「ね、ね、また、遊びにいこうよ。今度の日曜日。」)
『MOTHER3』のとっている立場はいくらなんでもちょっと淋しい。そして、『MOTHER2』の立場がいちばんしっくりくる。
(僕や潤平が『同級生2』のゲームの中で過ごした時間に感じる思いも、『MOTHER2』の旅と同じ種類のものだ。)

いっぺん、ゲーム・身体・演劇・ストーリー・リアル・キャラクター(キャラという言葉)・空間といったものを、
総合的に考えてみる必要がありそうだ。いや、それは僕がこれから一生を懸けて表現をしていくことになるのか。
とにかく、上記のキーワードを織り交ぜて一定の結論を導きたいという強い刺激を受けたことは確かだ。


2009.12.22 (Tue.)

僕が所属する学年の先生方での飲み会があった。
前にも書いたように、ほかの先生方は全員ベテランで僕だけ若手(→2009.4.28)なので、非常に緊張する。
しかも僕は酒を飲まないこともあって、酒の席では異様に気が利かないのだ。もう苦手で苦手でしょうがない。
でもまあそういうことを気にすることの一切ない方々なので、なんとか助かっているしだいである。

話題はやっぱり、学年の方向性について。ありがたいことにこの点についての意思統一はほぼとれているので、
具体的な話を中心にしてあれこれと情報交換とアイデア交換が繰り広げられるのであった。
しかしまあ、僕はもっとちゃんとしないといけないなあと毎回実感させられるのだが、その一方でまた、
大ベテランの数学の先生が連中のあまりのできないっぷりに深刻に頭を抱えている姿を目にすると、
連中の英語の成績がからっきしなのもある程度やむをえないことで、特に自信を喪失することではないのかも、
なんてふうに思えてくる。正直、このことが再確認できただけでも僕にとっては大いにプラスになった。

今の職業はやはり独特で、この業界(さらにいえばこの自治体)での「常識」がない僕は、
どうしても想像力が追いつかない場面が多々ある。経験で対応できるようなことが、なかなかできない。
これはもう感受性を鋭くしてやっていくしかないのである。下を向いているヒマがあったら、
むしろ前を向いて左右を広く見渡さないといけないのだ、と決意を新たにするのであったことよ。


2009.12.21 (Mon.)

iPodの調子が悪くて悪くて仕方がないことは以前にも書いたが(→2009.9.10)、いよいよ症状が悪化してきた。
それでついに! 新しいiPodを買う決断をしたのである。もうガマンの限界なので、しょうがないのだ。
しかしながらムカつくことに、Appleはいつまでたっても昔の白いカラーのclassicを出そうとしない。
おかげでシルバーと黒のどっちがマシか、という二者択一を迫られるのである。泣く泣く黒を選択した。
意地でもシルバーの存在は認めないぞ!という極めて消極的な理由なのだが、なんともかっこ悪い。
まあこれで、熱海ロマンの3人は全員、黒のiPodを持つことになった。だからといって別にどうということはないが。

で、届いたiPodをいろいろといじっているわけだが、細かいところがずいぶん変わっている。
まず、何もしないとアルバムアートワークがランダムで表示される点。これ自体はオシャレだとは思うのだが、
僕の場合ほとんどのMP3が自作である関係上、出てくるアートワークが℃-uteばかりで異様に恥ずかしい!
アートワークを表示しないとか、自分の入れた画像データに変えられるとかすればいいのに。トホホ。
細かいところではイコライザのかかり方もかなり違っている。前よりも全般的に強めに調整されていると思う。
おかげで持っているヘッドフォンと相性のいいものがなかなか見つからないで苦労している。
バックライトも、暗い状態だと暗すぎて見づらくて困る。僕は基本的に節電のためバックライトをつけたくないのだが、
前はまったく問題なかったのに、新しいモデルはちょっと暗い部屋だと何も読めなくなってしまう。
そしていちばん困っているのが、クイックホイールの利きが悪くなった点だ。前より確実に反応が鈍い。
それまで服の中にあるiPodを外から余裕で操作できていたのに、それがうまくできなくなってしまった。

そういうわけで、全体的に悪いところばかりが目につく状態である。
逆を言えば今までを非常に快適に使いこなしていたということだ。まあそれなりに慣れていくだろう。
ここまで列挙してきた問題点なんか、iPod classicの白が存在しないことに比べれば、
まったくもってどうでもいいことばかりなんだから……。


2009.12.20 (Sun.)

Windows Vistaというのは非常に困った存在で、XPまで問題なく使えたアプリケーションがダメ、ということが多い。
その影響を個人的に最も大きく受けているのがMIDI・DTM関係である。SC-D70のドライバは存在するのだが、
こいつを動かす肝心のCakewalk9がインストールできない。つまり、曲もつくれないし、MP3もつくれない。
もうMIDI機器を使って曲をつくる気がないとはいえ(やるなら生演奏だ)、自力でMP3がつくれないのは非常に痛い。
まあでもよく考えれば、SC-D70とCakewalk9を2009年まで当たり前のようにメインで使っていた方がおかしいのだ。
このコンビネーションがあまりに優秀だったために、僕はDTM業界の情報収集を8年ほど怠り続けてきたのである。
(そもそもDTMの意味で「MIDI」という言葉を使っていること自体が、僕の浦島太郎ぶりを証明している。
 僕がSC-55mkIIを買ったときにはDTMなんて言葉はなくって、MIDIとしか表現しようがなかったのだ。)
でもいいかげん、なんとかしなくちゃいけないなという気分になってきたので、いろいろと調べてみるのだ。

ついでなのでここで少し脱線をして、今まで僕が手を出してきたDTM機器についてちょいと書いておく。
パソコンについての思い出を書いたときにざっと書いてはいるが(→2006.7.8)、あまり深くは書いていないので。
中学時代はFM音源+SSG音源で満足していた僕も、高校に入ると色気が出てきてMIDIでのDTMにハマった。
(ふつうの高校生が「色気が出る」といったら服装やら髪型やらに行くのだが、僕はこっちなのだった……。)
所属していた物理班にはMT-32が置いてあり、先輩方はそれでサザンをコピーしていたのであった。
当時はDTMがパソコンを使う趣味の一環として認知されはじめた時期で、MT-32はその黎明期の主力だった。
MIDI対応の音源モジュール業界はヤマハとローランドがしのぎを削っていたのだが、
ヤマハの音質が気に入らなかった僕は、ローランドのGS音源のメインマシンということでSC-55mkIIを選んだ。
後で考えるとこの選択はまさに大正解だったと思う。毎日いじくりまわしてバカ歌ばかりつくっていたなあ。
まあそんなわけで、僕は今でもガッチガチのローランド党なのである。

で、大学に入るとさすがにSC-55mkIIの音や音数の少なさに飽きてきたので、SC-88Proを購入。
初めてSC-88Proの音をチェックしていったときには本当に心の底から感動したものだ。
音色の数が飛躍的に増えただけでなく、55mkIIよりもずっと音に深みがあり、なんでもできるわこれー!と思った。
逆に「ああもうこれ以上はいいわ」と考えて、それ以上音にこだわることがなくなってしまった面はある。
実際、Wikipediaを見ると、SC-88Proは「SCシリーズの決定打」という説明がついている。
いろんな楽器の音はそろっているし、キテレツな音色もきちんとカヴァーしているしで、
これ以降の機種は出てもあまり劇的に性能が変化しないだろうな、と思った。それくらい完成されていた。
僕は今までいろんな機械に触れてきたが、SC-88Proほど徹底的に遊んだ機械はない。
いくら遊んでも飽きることがない、底なしの性能と魅力を持った機械だった。

大学院入学後に熱海ロマンの活動が本格化したので、自力でCDを焼く必要が出てきた。
SC-D70はそのために買ったマシンなのである。音源面では88Proで満足していたんだけど、
DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション、もちろん当時はそんな言葉はなかったよ)をやることを考えると、
どうしてもSC-D70が必要だったのだ。もっとも、音源の性能としては88Proをそのままきれいに強化した感じであり、
DTMマシンとしてもDAWマシンとしてもSC-D70は僕の当初の想像を超える大活躍をしてくれた。
(自分で音源として曲を出力し、さらにレコーディングマシンとして入力された曲を編集できる機械なのだ!
 これ1台で本当になんでもできた。確かに本物のシンセサイザーに比べれば表現力は劣るが、実に便利な存在。)
そして熱海ロマンが解散すると(現在も解散中である)、DAW専門のマシンとして8000曲近いMP3を生産。
XPマシンである先代のVAIOが壊れるまで8年にわたって故障ひとつなくフル稼働を続けたのであった。
(Calkwalk9がVistaに対応していないせいで使えないでいるが、SC-D70自体は今もまったく問題なく動く。)

まあこんな具合にMIDI音源モジュールを使いこなしてきたわけであるが、今は何がどうなっているかサッパリである。
現在のDTM事情はどうなっているのか、また今の僕の環境でDAWをやるためにはどうすればいいのか、
リサーチするべく今日は秋葉原に行ってきたのであった(なんてクソ長い前置きなんだ!!)。

備忘録を兼ねるかたちで今日わかったことを箇条書きにしていくと、
・ローランドの「SONAR」というシーケンスソフトが今は主流らしい。
・シーケンスソフトに音色素材が含まれているので、特に外部音源モジュールはなくてもDTMができる。
・だから昔のSCシリーズような音源モジュールはあまりない(専門性の高いものは今も残っているようだ)。
・DAWの機械はそれなりに種類がある。ハードディスクにレコーディングして編集するのは一般化した。
・だから編集ソフト付きのDAWマシンがあればMP3づくりは問題なく可能。
つまりSC-D70で言えば、DTM部分はソフトに特化し、DAW部分はハードとしてしっかり存在しているわけだ。
僕はそのちょうど過渡期のところでドロップアウトした格好になっていたのだ。なるほどなるほど。
それにしても、パソコンのソフトとハードの性能が伸びたことで、「ソフトでできること」が飛躍的に広がり、
音源モジュールという存在がほぼ消えてしまったのは驚くべきことだ。冷静に振り返れば、まあ当然の流れだろうが。
僕の知っている音楽のつくり方は、もう世間からは消えてしまって久しいのだ。
音楽ってのはなんなんだろうなあ、なんてことを秋葉原の青空の下で考えてしまった。


2009.12.19 (Sat.)

ワカメが東京に遊びに来るというので、そのお相手をする。
あまり馴染みのない「東京の東側(つまり山手線の東側ってことだ)」の街を見たいということで、
今回は銀座に集合ということになった。銀座なんて僕らの世代には楽しめる要素が少ないのだが、
まあワカメの希望だしいっか、と素直に従う。早めに着いて伊東屋をブラブラしていればいいのだ。

今回、汐留を拠点にしているワカメはよくわからない迷い方をした挙句、ようやく銀座に移動。
松坂屋前でワカメ・ハセガワさんと久しぶりに顔を合わせる。気のせいか、だいぶ社会人らしい表情である。
どっかに入ろうということなので、銀座といったらここだろ!と半ば強引にライオンのビアホールへ。
(銀座ライオンはビアホールを「ビヤホール」と表記していて、さすがのこだわりを感じる。)
飲めないワカメは「昼から飲むのかよ!」と呆れていたが、僕にとって銀座といえばここなのでしょうがない。

隅っこの方でちょこちょこと料理をいただきつつダベる。もちろん僕は黒ビールを飲むのであった。
話題はいつものことで、お仲間の近況報告が中心。昔話はあんまりなかった。
しかし話していくにつれてハセガワさんが現役でダメ人間であることが露呈していく。
なんとこの後、新宿でやるbuono!のコンサートに行くとのこと。呆れるワカメ、ちょっとうらやましい僕。
こちとらまだ舞美舞美と騒ぎはするものの、梅さん卒業ですっかり関心が薄くなっているのである。
まあがんばってきてねーとテキトーに言って送り出すのであった。

 
L: ビヤホールライオン銀座七丁目店の中は1934年以来のモダンな雰囲気が漂う。僕にとって銀座といえばコレなのだ。
R: 和光。1932年竣工で、設計は渡辺仁。正直、僕には近寄りがたい雰囲気である。

ハセガワさんと入れ替わりでナカガキさんが合流するというので、しばらく銀座で時間をつぶす。
Apple storeでiPod nanoを眺めたりiPhoneを眺めたりして過ごすのであった。
で、ナカガキさんがやって来ると、そのまま一気に新橋まで移動。あれこれ迷った挙句、
寿司の食える店に入るのであった。うーん、僕らが出会った頃には考えられなかったチョイスだ。

3人でのんびりと飲み食いをしつつ話をする。やっぱり近況報告が中心である。
僕の日記をしっかり読んでいるワカメに言わせると、今年の僕の生活は客観的に見て充実しているようだ。
あとはもう本当にいいかげんに、アメトーークが面白いだの、嵐が第二のSMAPになりそうだの、
中学生男子はマイケル=ジャクソンにハマりまくってるだの、いろんな話で盛り上がったのであった。

22時くらいになって、ハセガワさんが戻ってきた。一緒にbuono!コンに行ったハシモトさんも連れてである。
そこからはもう、ハセガワさんを中心にしてダメーなトークで大爆笑。いじり甲斐があったなあ。
ハセガワさんはいかに素晴らしいコンサートであったかを力説し、みんな引きずり込むと宣言。
いかにも「充実した仕事を終えました」と言わんばかりに遠い目をしてため息をつくハセガワさんに、
一同ツッコミを入れずにはいられなかった(ワカメの容赦ないコメントも面白かった)。

さてさて、このメンツで次回会うときには何がどうなっていることやら。実に楽しみである。


2009.12.18 (Fri.)

本日は忘年会なのである。場所が恵比寿なんで自転車で移動したら皆さんからすごい体力と言われる。
僕の感覚ではそんなことはまったくないのだが、まあ物好きであることは事実なのでエヘヘと愛想笑い。

ある程度酔いも回ったところで○×クイズ大会がスタート。出題するのは僕。
クイ研出身ということで、当方すっかりイベントのクイズ担当である。まあそれはそれで面白いのでヨシなのだ。
とはいえ実際にやってみるとわかるが、○×クイズは意外とつくるのが難しい。
全員が答えを知っているようなものは出す意味がないし、完全に当てずっぽうになるものばかりでもダメ。
そこのさじ加減がなかなか厄介なのだ。いかに答える側の勘をくすぐるか、腕の見せ所である。
今回は時間がなかったので、過去問をあちこちから引っぱり出して、それを元に味つけしたものを多くした。
いろいろ試行錯誤した甲斐あって、好評のうちに終わってよかったよかった。チャンピオンもうまくバラけたし。

その後は渋谷に移動してカラオケ。やっぱり僕は自転車で移動である。
しかしながら恵比寿ガーデンプレイスは恵比寿と言うにははずれた位置にあり、脱出に手間取る。
日の出ているうちならまだなんとかなるのだが、夜になってしまうと感覚がまったくつかめない。
結局、いったん山手通り付近まで出てから坂を上って鎗ヶ崎の交差点に出るという超遠回りになってしまう。
でも電車組よりも早く会場にたどり着き、皆さんから呆れられましたとさ。


2009.12.17 (Thu.)

飯田でなじみの焼肉店・徳山(→2009.8.14)に、どうも『秘密のケンミンSHOW』のロケが入ったらしい、
という情報が父親であるcirco氏から入って「まさかぁ」と思ったのだが、今日の放送でホントに徳山が出た。
ここんとこ大繁盛だという徳山も、ついに全国区か!とびっくり。うれしいような、悲しいような。

日本全国をあちこち気ままに旅している僕も、実家の父母も、『秘密のケンミンSHOW』が大好きである。
いろんなところに隠れている意外な日常を紹介するのだが、根底には地域に対する誇りがあるのがいい。
最近はそういう地方にある個性を紹介するものが脚光を浴びてきていて、実にいい傾向である。
『秘密のケンミンSHOW』はその流れの中でも非常に優れた位置を占めている。
番組自体が良質なエンタテインメントであるだけでなく、日本全国を良質なエンタテインメントとして映している。

さて徳山が出たのは、東京一郎(あずまきょういちろう)が全国を転勤して回るミニドラマ、「辞令は突然に…」。
いつもなら各県を2週にわたって紹介する内容になっているのだが、長野県だけは3週やったのだ。
というのも長野県は南北で性質が異なるということで、3週目は南信特集だったのである。
このような配慮がなされたという点だけでも、この番組のすばらしさがわかるってもんだ。本当にエライ!
で、飯田市は「隠れた焼肉の街」として紹介され、その流れで徳山が登場したのである。
おばちゃんの必殺・焼酎ノールック表面張力(→2009.8.14)が出なかったのは残念だったが、
あらかじめ湯通ししてあるモツはちゃんと出てきて、常連客にも納得できる内容なのであった。
(とはいえ「焼肉の街」というのはよくわからない。飯田は人口に対して飲み屋が異常に多い街で、
 表通りだけでなく、路地に入ればびっしりと看板が出ているのをあちこちで見かけることができる。
 飯田は人口に対する飲み屋密度が日本一だという噂を聞いたことがあるが、本当なのだろうか。)
あと、南信では蜂の子やイナゴ、ザザムシなどの虫の佃煮を貴重なタンパク源として食べると紹介されたが、
高校時代に弁当にイナゴを持ってきていたヤツもいるくらいにまあそれは事実なのだが(脚が歯に挟まるのね)、
しかしながらさすがに虫を見て「うまそうだなー」とは思わん。そこまでではないです。

おかげでけっこうていねいに番組がつくられていることがよくわかった。
今後も日本全国あちこちの名物が紹介されていくのが実に楽しみである。


2009.12.16 (Wed.)

今さらデーモン小暮閣下の『GIRLS' ROCK』を借りてきた。
閣下の歌唱力についてはいささかの疑問も差し挟む余地がないわけで、ただ素直に堪能するだけでよろしいデキ。
80年代を中心に女性ヴォーカル曲に限定してカヴァーしたというセンスの時点で、もう勝負がついているのである。
しかしながら、やはりそこは聖飢魔IIで天下をとった閣下のアルバム。バックトラックの面白さもかなりのものだ。
80年代というのは、表面的な流行り廃りで評価がつけられてしまいそうなクセが極めて強い時代だったと思う。
(もっと端的に言ってしまえば、みんなが調子こいてて思い出すと小っ恥ずかしい時代、微妙に最近なのでよけいに。)
そこを純粋な目で再解釈したものに閣下のヴォーカルを乗っけるという作業がなされたことは、
単純に閣下の仕事だけでなく、80年代をどのように考えるかという点でもすごく意義のある作品だろう。
そんなわけで、これはやっていることすべてが非常に贅沢なアルバムだ。ステキである。


2009.12.15 (Tue.)

テレビを見ていると、世間では嵐がずいぶんと人気のようだ。
実際に中学生どもの様子を見ていると、嵐を支持する層は確かに存在しており、中身のある人気ぶりだ。
『嵐の宿題くん』も「おいおいそれをジャニーズがやるのは反則だろ」と言いたくなる面白さがあるし、
カラオケでほかの先生が歌う『Happiness』は正直なところかなりの名曲だと思うし、人気があるのも妥当だと思う。
バレーの大会でデビューしてバレーそっちのけで歌って踊って猛烈な批判を浴びたのも、もう昔の話なのだ。
やっぱり嵐は第二のSMAPとして末永く支持されていくのだろうか? まあ、のんびり気にしていくとしましょう。


2009.12.14 (Mon.)

泉麻人『東京23区物語』。買ったのはかなり前なのだが、最近読み終えたのでレビューを。

この本は単なる東京のガイドブックではない。「はじめに」で筆者である泉麻人が宣言しているように、
「『東京』という街に何らかの思い入れを持っているすべての人々に役立ち、そして、
ちょっぴりハラの立つ思いにもさせてくれる、贅沢な『東京ガイドブック』」なのである。
基本的には東京23区という狭い範囲に詰め込まれている地域差別を茶化しながら提示していくが、
絶妙に虚実がないまぜにされており、その技術には不快感をおぼえるどころかむしろ感心させられてしまう。
また一方ではそれほど知られていない東京の歴史がきちんと語られ、大いに勉強になる。
でも全体的には歴史も地域差別も東京を楽しむための一要素として見事に還元されている。
おかげで確かに、独特の存在感を放つエンタテインメントな社会学的作品ができあがっているのだ。

この本は、東京出身でないと絶対に書くことができないと思う。
地方出身者にはどうしても別のバックボーンが生まれてしまうし、玄関口となる街の影響を強く受ける。
(たとえば僕の場合は中央線の新宿の影響が非常に強い。同様に東北出身者は上野の影響を受けるだろう。)
しかしこの本はどの空間にも寄りかかることなく、東京を主観的に眺めることで成り立っている。
たぶん筆者が寄りかかっているのは1985年(発行年)という時間なのだ。それで客観的な主観ができている。
東京の中で現在進行形で得た体験をもとにしているから、はっきりとした根拠をもとに差別を遊ぶことができる。
この本では各区(さらには区内の各地域)における住民の生活スタイルについての言及が非常に多い。
そこの生活の微妙な差異に気がつくこと、それをきちんとした土地の歴史をまじえて説明すること、
そして現在進行中の生活の変化を敏感に読み取ること。筆者はそれを生まれたときからやっているのだ。
この本はそういった東京純粋培養の優れた観察眼の持ち主が1985年の時点で出したレポートなのである。
筆者が生きた時間と空間が複数の主人公の生活史として埋め込まれているから、この本は実に生々しい。

具体的にどの区がどうこうというのは、実際に本を読めば済むことなのでここでは特に書かない。
こういった作品を成立させてしまう観察眼と、ふざけ半分だから真実をえぐることのできる表現力とを、
本当にうらやましく思う。都市社会学的にも、とても強力な破壊力を持った一冊である。


2009.12.13 (Sun.)

大森に行って、青春18きっぷとムーンライトながらの指定席券を買う。滋賀攻めの準備である。
前にも書いたように、滋賀は意外と見どころが多いので、単体で訪れることにしたのだ(→2009.10.11)。
ところがボーッとしていたら生き馬の目を抜くようなムーンライトながらのチケット購入競争に負けていて、
行きの分の指定席券を買うことができなかった。しょうがないから、行きだけはバスに頼ることになる。

2005年からチョボチョボと継続してきた県庁所在地ひとり合宿だが、来年中には完了させたいと思っている。
もうこれ以上引っぱらなくてもいいだろう、いいかげん県庁所在地以外も見てみたい、というわけだ。
備忘録も兼ねて現時点での漠然とした希望を書き出しておくと、

 1月: 滋賀
 春休み: 京都・奈良
 夏休み: 北海道
 秋ごろ: 長野

ということで考えている。大方の皆さんの予想どおり、最後は長野で締めるつもりである。
夏休み中のどこか天気のいい日に東京都庁を訪れ、卒業論文で調べたことをまじえて日記に書きたい。
まあ要するに、都庁を書くということは国際フォーラムにも触れるということだ。両者について書きたい。

そういうわけでラストスパート、張り切って旅をしたい。


2009.12.12 (Sat.)

PSPの何がすばらしいって、昔のゲームがガッツリと移植されている点である。
僕がちょうど小学生~中学生~高校生の時期にゲーセンで動いていたゲームを気軽に遊べる。しかも安く。
なんてすばらしい世の中になったんだ!と感涙しながらウハウハしているわけです。

コナミからはグラディウスやらツインビーやら沙羅曼蛇やらパロディウスやら、シューティングの名作が出ている。
かつてゲーセンに行くかFCの移植版でガマンするしかなかったものが(我が家は「想像」でガマンしていた)、
PSでの移植よりもさらにはるかにいろいろ詰め込まれて、お安く遊べるのである。もう涙が出そうだ。
単純にサントラとしてもすごい。ふつうのBGMはもちろん、X68000のMIDIヴァージョンまで入っちゃってんだぜ。
全盛期のコナミのシューティングBGMがあれこれ聴きたい放題。こんな贅沢ができる時代になるとは。

でも正直、出るのが遅かったよなあ、と思う。もう5年早く出ていれば、僕ももうちょっとがっつり遊んだと思うのだ。
時代の流れというのは残酷で、価値を受け止める意欲というものも、それなりに減価償却されてしまうのだ。

さて、『沙羅曼蛇PORTABLE』には、なんと『XEXEX』が入っているのだ。うわー信じられない!
『XEXEX』といえば、サンプリングのPCMをバリバリに利かせたBGMである(→2007.2.24)。
いま聴いても、多彩なギター・ベースの音色の再現とパーカッションの組み合わせがたまらない。
そしてこのソフトにはさらに、MIDI版の『XEXEX』BGMも収録されている。至れり尽くせりである。
それで喜々として再生してみたのだが、正直、MIDIよりもPCMのオリジナルの方がデキがいいのである。
MIDIはただ「いい音」で鳴らしただけで、PCMのサンプリングした音の方が曲に合っていてしっくりくるのだ。
音色が先か、曲が先か。懐かしいPSG音源のファミコン音楽もそうだけど、あの音だから心に残る曲がある。


2009.12.11 (Fri.)

成績をつけてみて思う。
それぞれひとりひとりにいろいろと思うことがあり、大雑把にこれくらいの成績かな、と暗に考えているところがある。
しかし実際の成績の入力は細かい各項目に分かれていて、小さな評価を積み重ねていくようになっている。
そのため、あらかじめ考えていた結果と入力した実際の結果には差が出る……と思いきや、
ほぼまったく事前の想定どおりの結果に落ち着くのである。実に面白いところだ。
人間が判断を下す以上、機械を通しても結果が変わることはほとんどないのである。
ただ、正直なところ僕の成績づけは全般的に甘いので、冷徹になる部分は機械に頼る、ということはできそうだ。
締めていこう、今回はきちんと締めていこう、とは思っているのだが、その機会が何ヶ月に1回しかないと、
どうしても甘くなっちゃうのね。まーず困ったもんだ。


2009.12.10 (Thu.)

本日は歯科指導ということで、歯科衛生士の学校に通うおねーさん方が来て生徒に歯磨きを指導するとのこと。
連中が騒がないように圧力をかけてりゃいいんだな、と理解して臨んだのだが、いざ始まったら妙な方向へ。
「先生に見本を見せてもらいましょう!」とな。ぜんぜん聞いてませんよそんなこと、と言うヒマもなく座らされ、
歯に色を塗ってどれだけきちんと歯磨きをやっているかの抜き打ちチェックを受ける。
とはいえこちとら地元の加藤歯科医院でみっちり鍛えられておるわけで、プラークなんぞ残しているはずがない。
歯科衛生士のタマゴのおねーさん方たちは口々に「先生、すごぉーい!」「先生、きれーい!」と言うのであった。
昔、伊集院のラジオでやってた「社長、すごぉーい!」の過剰接待のコーナーを思い出した。なんだこのハーレム。
しかし生徒は「先生、メイドカフェでもそんなふうにデレデレしてんでしょ」と言ってくるのであった。あーそうかい。


2009.12.9 (Wed.)

三単現のsはそんなに難しいのか? doesが挟まって原形に戻る手順は確かに少し複雑ではあるけど、
ふつうの肯定文をしゃべる際にかなりの数の生徒がsの存在をコロッと忘れてしまうのだ。
まず主語を選別した時点でsをつけるかどうかの判断をするもんだと思うのだが、それができない。
で、僕に指摘されて「ああそうだった」となる。もういいかげん慣れていいはずなのだが、まだできないのだ。
しゃべっていて過去形にし忘れる、というのは僕もしょっちゅうやらかすが(日本人には多いと思う)、
さすがにsをつけ忘れるというのはない。でも中学生では、正しく書けるヤツもしゃべると間違えるのだ。

言語を話すということは、視点を変えるということだ。正確に言うと、ものの見え方を変えるということだ。
同じものを目にしたとしても、日本語と英語では見え方が違う。英語には英語の受け止め方があるのだ。
日本語には主語の影響による動詞の活用がないので、すべての人間は同じように見えている。
でも英語では、三人称単数に対して厳然たる境界線が引かれている。これが見えていないのだ。
いや、そもそもbe動詞の活用すら怪しい。日本語には存在しない境界線を見つけることができなくて、
連中は今日も狂った英語を弱々しい勘に任せて書きつけるのである。

以上のことは、僕がいくら口を酸っぱくして言っても、ストレートに理解してもらえるものではない。
他人の口から出る言葉はあくまで理論でしかなく、それを体験として身につけて定着させるには、
どうしても本人の主観的なレベルに頼らざるをえないからだ。この溝があまりにも大きくて悲しくなる。
そんなどうしょうもないディスコミュニケーションに愕然としつつ、あの手この手で説明を試みるのであった。

(ところで上記のように、僕は英語を使うということを、他者の価値観・世界観を理解する行為としている。
 そういうややマクロな視点で英語をとらえているので、現代の英語教育と反りが合わない面がある。
 でも僕としては、地理や歴史、さらには言語学や哲学方面に通じる今の態度を捨てるわけにはいかない。
 何のための勉強かということを考えると、今の英語教育はあまりにも薄っぺらく思えてならないのだ。)


2009.12.8 (Tue.)

本日は小中連携をテーマにした研究授業があった。近所の小学校にお邪魔して授業を見学する。
僕が見たのは社会科で、スーパーのチラシにある食べ物はどの国から輸入したか地図にチェックを入れてみよう、
というもの。授業を見学するとその内容に没頭してしまい、つねに生徒と同レベルでしか考えられなくなる、
つまり批判的に授業それ自体を評価するよりも生徒と一緒に考えちゃうわけで、素直に楽しかったのであった。

夜には先生方で一気に集まって反省会という名の飲み会である。
話題は自然と、今年流行しまくったインフルエンザについて、になる。
聞いているとどうやら、生徒につられて僕がかかった(→2009.10.31)という事実は、
小学校の先生方にはけっこう衝撃的に受け止められたようだ。やっぱり大人もかかるんだ、ということと、
近場で感染者が出ても平然と交流会があったよオイ、ということで。でもまあこればっかりはしょうがないじゃん。
それにしてもふだんそれほど濃密に接点のない方から意外な話が聞けるのは面白い。
あと職員対抗ソフトボールの話がちょろっと出たけど、これはぜひ実現させてほしいと思う。打ちてぇー!


2009.12.7 (Mon.)

えーとですね、実は私、PSPを買ってしまったんですよ。それで日々、何に励んでいるかといえば、サカつく。
そうなんですよ、私、サカつくの新作をやりたいがためにPSPを買ってしまったんですよ。なんかホント、すいません。

いま僕が運営しているのは、「エグザイル隠岐」というクラブである。代表者名はもちろん「後鳥羽上皇」。
(「エグザイル」は「流刑者」って意味なんだぞ! みんなちゃんと英和辞典を引いたことはあるんだろうな?)
ユニフォームは白と黒の横縞模様、まあいわゆる囚人ルックである。靴下まで白黒だ。
アウェイでは白と黒が逆になるので、やっぱり囚人ルック。クラブのエンブレムは菊の紋っぽいのにした。
なお、ウチのクラブでは入団のことを収監といい、退団のことを釈放と呼ぶ。ユースはもちろん少年院。
まあそんな懲りない面々で三冠達成とかしてます。あー楽しい。

あとほかに、「土佐清水エヌパルス」ってのも考えたんですけどね。日本一、公共交通機関で遠征しづらいクラブ。
とんでもないところでは小笠原にもクラブをつくれるし、サカつくはとても夢があっていいと思います。


2009.12.6 (Sun.)

マサルに誘われて新宿のロフトプラスワンへ。以前マサルが『へんな趣味』イベントをやった場所だ(→2009.4.19)。
本日ここで行われるイベントは、「エロメール添削」とのこと。なんでも「赤ペン先生」を名乗る人物が、
迷惑メールにあれこれツッコミを入れていくというのだ。当方、面白いことに飢えているので即座に誘いに乗ったのだ。

ちょっと遅めに現地集合したら、フロアは大勢の客で埋め尽くされていた。すごい人気だ。
いちばん奥にあるステージ脇のスペースが運良く空いていたのでふたりで陣取ってダベりつつ開演を待つ。
最近のマサルは文具ブームが来ているようで、あれこれと最新の文具を見せられる。
なんでもこないだ開催されたHQSのOB会(僕は姫路城を見に行っていて(→2009.11.21)不参加でしたスイマセン)で、
アイダさん(ジャンプ編集部)相手に盛り上がったんだそうだ。で、同じように僕にも詳しい解説つきで実演してくれる。
マサルは「僕が自信を持って紹介できるのは、みんな紙媒体向きじゃないんよね……」とこぼす。
なるほど確かに、変な趣味は本よりイベントで実際にやってもらう方がずっと伝わりやすくて一緒に楽しめるし、
文具も実際に手にしてみないとその凄さがわからない。書き味の違いは体験してみたいとわからないのだ。
マサルの場合は根底にまず自分自身の感動があり、それが熱意になって紹介してくれるので、非常に面白い。
実演販売のように「これすごいでしょう」と紹介してくる新製品に、「おおおなるほど!」と僕は素直に反応。

そうこうしているうちにイベントが始まった。僕らと同い年だという赤ペン瀧川先生なる人物が登場。
最初は発売したDVDを自分が買いに行くという映像。周囲の反応を見て、根強いファンがいるのを実感。
そしていよいよメールの文面をスクリーンに出され、赤ペン先生はビシビシツッコミを入れていく。
こりゃ添削じゃなくてツッコミじゃん、と思うのだが、構成がよく練ってあって客をまったく飽きさせない。
今回はさらにexcite翻訳を使って小室哲哉の曲のタイトルを和訳してツッコミを入れるというネタもあり、大ウケ。
イベントならではというネタでは、『官能小説用語表現辞典』に対するツッコミもかなり衝撃的だった。

感想としては、迷惑メールは際限なく生産されるものなので、うまいネタ元を見つけたものだなあ、と思った。
あとは構成力というか編集力の勝負で、ネタをただの羅列では終わらせないで物語性を持たせる工夫が必要だ。
その点、赤ペン先生は非常によくできていたと思うのである。印象的な人物やフレーズを実にうまく取り上げて、
ただのツッコミの連発に終わらせることなく、ひとつの完結されたネタの世界をつくりあげることができていた。
迷惑メールやエロ台詞の向こう側にキャラクターが見えてくる。というか、キャラクターを構築してみせる。
そうすると、観客としてはネタの流れが生きたものに感じられ、より面白さを感じることができるようになる。
大いに勉強になったのであった。いやー、見に行ってよかったよかった。

あと、ロフトプラスワンはメシがけっこううまいので好き。なんだかんだでけっこう飲み食いしてしまう。

イベント終了後は歌舞伎町のミスドに場所を移してさっきの続き、新作文具実演会である。
マサルが紹介する最新文具はどれも、日本人らしい繊細さが満載で、そういう意味で妙に感心してしまった。
そういえば山形の新庄を歩いたとき(→2009.8.11)街の文房具屋に「文具の宇宙へようこそ」というフレーズがあり、
それにかなり衝撃を受けた。という話をしたら、どうも文具マニアは文具の世界を宇宙にたとえたがるんだそうだ。
マサルが以前取材した文具マニアは、三菱とパイロットのシェア争いを『スター・ウォーズ』にたとえていたとか。
ミクロな機構に際限がなく、そして売り上げはいくらでもマクロになる。文具の宇宙は実に奥が深い。


2009.12.5 (Sat.)

午後3時前、湘南ベルマーレが水戸ホーリーホックに逆転勝利したことで、ヴァンフォーレ甲府はJ1昇格を逃した。
僕はその瞬間、ノートパソコンで日記を書いていた。ネットをつないで双方の試合の得点表示を見て作業をしていた。
甲府は2-1で勝ったが、湘南が勝利した瞬間に昇格の夢が潰えた。初めて味わう残酷な勝利である。
3位・湘南と4位・甲府の勝ち点の差は実に「1」。この数字が引く境界線の大きさを、あらためて実感する。
甲府に肩入れしていない人が客観的に見れば、「今年のJ2は最後まで熱かったなー」ということになるだろうけど、
その熱がゆっくりと退いていくまでの時間がどれだけ痛々しいか、それは“こっち側”にいないと絶対にわかるまい。

戦力外になった選手の数は例年になく多い。追い討ちをかけるように安間監督の退任が発表された。
大木武の掲げた攻撃サッカーを熟知している選手はいよいよ減り、一部のベテランぐらいしかいなくなる。
僕の魅了された甲府がどんどん過去のものへと遠ざかっていく。「1」という数字の残酷さに途方に暮れるしかない。
これからやってくる新しい甲府が実現するサッカーがどういうものになるのかはわからない。
しかし少なくとも、甲府が地方のとがったサッカークラブからふつうのサッカークラブへと変化しているのはわかる。
こういうとき、山梨県民でない僕にはバックボーンになるものがないわけで、大いに戸惑ってしまう。
甲府が来年もJ2に留まることに戸惑うのではなく、規模の成長とともにふつうのクラブになることに戸惑うのだ。
まったく、どうしたものか。

甲府の次の監督は、W杯終了後に戻ってくる大木さんまでのつなぎでお願い、とか考えちゃダメなのかねえ。


2009.12.4 (Fri.)

日本語の美しさは「もったいぶる」点にあり、英語の美しさは「削る」点にあると思う。

毎日日記を書いていると、自分の語彙の貧弱さに情けなくなることがある。
表現のヴァリエーションが少ない。そのときに感じたことを表現するとき、語彙が足りないせいで、
ついさっき書いたのとほとんど変わらないことを書いてしまう。そうやって感性の機微が伝わらなくなっていく。
たとえば色を表現する言葉が日本語には無数にあるが、それはつまり、日本語の世界には、
色と表現する言葉と同じ数だけの色が存在しているということである。
差異に気づくから言葉があり、言葉があるから差異がわかる。語彙の数は繊細さを意味する。
言葉の微妙な違い・差異のやりとりをするところに、日本語の美学があるように思うのである。
だからさまざまな語彙を知っている方が、つぶさに世界を眺めていることの証左となるのだから、その方が偉い。
いろんな語彙を使いこなして、時にはもったいぶるくらいにまどろっこしく表現すること、それをよしとするところがある。

対照的に、英語は削る言語である。日本人が英語をしゃべるときに口ごもるのは日本語を英語に訳せないからで、
つまり日本語の語彙を対応する英語の語彙に落とし込むことがうまくできなくってコミュニケーションが止まるのだ。
だから英語をしゃべる最大のコツは、欲張らずにできるだけ単純な表現へと「削っていくこと」なのである。
したがって感情は極限まで煮詰められる。 煮詰めた結果だけを提示すればいい。
名前のつけられない感情は嫌われる。相手の理解を求めるなら、類型化した結果の中に当てはめるのが合理的だ。
G.オーウェル『1984』での「新語法(newspeak)」が象徴的だ。言語学者・サイムは語彙の数を徹底的に減らしていく。
よけいな言葉はよけいな感情を生む、というわけだ。この発想は日本語の中からはなかなか出てこないだろう。
(なお、『1984』の巻末にはご丁寧に「ニュースピークの諸原理」と題された付録がついている。
 事典のような説明的な文体で、語彙の改変・破棄がもたらす変化(とその困難さ)が詳しく描かれている。)
英語の名誉のために付け加えておくと、英語には極めて端的で(数学的にムダのない感じで)絶妙な表現が多くあり、
それが状況にハマったときの美しさは日本語にはないものがある。ネイティヴの英語の使い方はいつもたいてい美しい。

無数の語彙を駆使して表現をしていこうとする日本語は、積分で曲線を求めていく姿と重なる。
対照的に、曲線の中から接線をピタリと見つけ出すように表現をまとめていく英語は微分的だと感じる。
優劣は価値観によって異なるから安易につけることはできないだろうけど、後者にばかり偏るのは非常に危険だ。

現在の学校教育において、子どもの語彙力は確実に低下している。もちろん僕らも語彙力のない子どもだったのだ。
語彙力は教養に直結する。国語教育の弱体化は、(少なくとも日本では)教養の欠如を引き起こす(→2009.8.5)。
そして安易な英語教育の推進(→2009.10.16)は、さらなる感情の鈍感さを招くことになりかねない。
上記のような言語の性質の違いを十分に理解したうえで英語をしゃべることを教えていくのなら問題ないが、
(むしろ言語の性質の違いを異文化理解の手がかりに加えることができるのだから、それは極めて有益だろう。)
言語に対して真剣に考えることなく「便利だから」という理由で英語教育を進めていくのは無謀なことでしかない。
残念ながら、今の教育制度をつくる立場からはそのような思想を感じることがまったくできない。
物事を表面的にしか考えないということは犯罪だと、あらためて思っているしだいである。


2009.12.3 (Thu.)

学研の「学習」と「科学」が休刊するというニュースが飛び込んできて、愕然とする。
僕は学研の「科学」で育ったといっても過言ではないくらいのガッチガチの愛読者だったのだ。
近所の家が捨てるつもりだったバックナンバーをもらって本棚に並べていたくらいの筋金入りである。
そのときに「学習」ももらって、登龍太の『どかんの国』(読者投稿コーナー)にバカハマりしていたっけ。
いま思えば『どかんの国』は僕の幼少期のギャグの方向性を固めていたように思う。それくらい好きだった。

最も気がかりなのは、『まんがサイエンス』(→2005.9.22)がどうなるかということだ。
非常に残念なことにもう新作の掲載はなくなっていたらしいのだが、発表の場がなくなるというのは、
これはもう致命的なことである。日本の科学少年はどこへ行けばいいのだ。

読むヤツが減ったから「学習」も「科学」も休刊するのだろうけど、なくなるというのは決定的で致命的だ。
子ども向けに知的好奇心をあれだけくすぐる雑誌がほかにあるだろうか。少なくとも、僕は思いつかない。
「学習」と「科学」(特に「科学」の方)と学研マンガで知識を貯め込んできた人間には、
このニュースにはかなりの危機感を覚える。まったく困った世の中になったものだ。


2009.12.2 (Wed.)

本日、ようやく8月の日記を書き終えた。今年の8月は特別に画像が多かったこともあり、実に大変だった。
9月と10月の分についてはすでに仕上がっているので、あとは地道に先月の分を書いていくだけである。
しかし先月もなんだかんだで画像が多いので、ここからがまた大変なのだ。休んでいた分のツケは大きい。
まあゆっくりと、でも確実に、距離を詰めていきたいところである。


2009.12.1 (Tue.)

ニシマッキーが仕事で小笠原諸島に行ったとのこと。うらやましい!
いったいどういう必要性があって小笠原なのか想像がつかないのだが、「仕事で」というのが特にうらやましい。
遊びに行くのではなく仕事なんだから、交通費も何もかも会社(都)持ち。
片道25時間の船旅も仕事の苦労として含まれているわけだ。僕はこれだけの思いをして仕事しました、と。
後ろめたい気持ちになる要素は一切なく、給与が発生する。言うことなしじゃないですか。

「じゃあお前も仕事で行けよ、小笠原」と言われると、さすがにそれはちょっと困ってしまう。
だって僕の場合には年単位になっちゃうわけですぜ。まあ、やることなくって金は貯まるらしいけどさ。
確かに怖いもの見たさというか好奇心という点からすれば、十分選択肢のうちに入るのだが。……うーん。

まあこんなこと書いといて3年後ぐらいには小笠原から日記を更新してたりしてな。キャー


diary 2009.11.

diary 2009

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