diary 2008.11.

diary 2008.12.


2008.11.30 (Sun.)

circo氏が法事で上京してきたので、いい機会ということでいろいろと話し合う。

夕方に新宿で集合。そのままハンズで買い物をすると、ドトールで会談開始となる。
議題は今後の生活ぶりというよりは、ユーラシア旅行計画について。
こないだ旅行代理店に行って具体的な予算の話が見えてきたのであれこれ議論。

で、結果、正式に断念することとなったのであった。非常に悔しいが、ここは男らしくあきらめる。
無理をすれば海外旅行はできないことはないのだが、その場合には規模を大幅に縮小せざるをえない。
僕としては、まとまった時間がつくれるのでこのタイミングを狙ったということが計画の根底にあるわけで、
規模を縮小するなんて半端なことをするくらいなら行かねえ方がマシだいコンチクショーなのである。
あとはやっぱり、落ち着いた状態で旅行しないとつまんない、不安を抱えていても楽しくない、という説得も効いた。
そんなわけで「気晴らしにどっか行くのはいいでしょ」「じゃあ東洋のナポリにでも行く」「おう、いいでしょ」ということで、
とりあえずは県庁所在地めぐりを片付けることを先決とするのであった。

その後は晩飯にトンカツをごちそうになった。がっついて食べたせいか、カツの衣でこすった上あごに血マメができ、
それがつぶれてアイタタタ、となる。それでもおかわりは頼むという意地の汚さ。おいしゅうございました。


2008.11.29 (Sat.)

インドのムンバイでテロが発生したが、ニュースにおける扱いがなんだか妙に小さいような気がする。
どうせパキスタンのイスラム過激派がどーのこーの、ということである程度事態の裏側が予測できるせいなのか、
事件の規模のわりにはいまひとつ大きく扱われていないように思えてならないのだ。
このテロでは不幸なことに、日本人の犠牲者が出てしまった。そのことについては繰り返される報道で十分わかったが、
その向こう側に存在するはずの200人近い犠牲者の姿も、特殊部隊が囲んでいる現場の姿も、なかなか見えてこない。
ニュースを見るたび、なんともいえない視野狭窄な感じがして、非常に気持ちが悪い。

一方、タイでは首相への反対勢力が国際空港を占拠するという前代未聞の事件が発生している。
こういう手段が成立するのかよ、と驚いたのだが、それで観光客が大迷惑を被っているわけで、事態は深刻だ。

ここにきて、経済的に一定の成長をしているアジアの国々でゴタゴタが続いている印象である。
振り返って日本はというと、雇用の問題を中心にして景気後退の閉塞感がかなり強まってきている。
そして犯罪のニュースでは、組織ではなく個人レベルでのよくわからない暴力があふれ出している。
やっぱり日本も、別の形態を示しながらも同じようにゴタゴタしているようだ。まったく困ったもんだ。


2008.11.28 (Fri.)

コンビニ仕事においてはバカ丁寧さよりも効率優先、と相方のおばちゃんから言われた。
いろいろと思うところはなくもないのだが、効率という視点で考えた場合に僕の動きに問題があったのは確かなので、
いいヒントをもらったと思って動くことにする。言葉にしないと要領がつかめない点は僕の大きな弱点だ。
もっとも、それは他人に対してヒントを与えるときには大きな武器になるのではあるが。臨機応変にいこうか。


2008.11.27 (Thu.)

ハローワークへ行って各種の手続き。次回の来所日は年末にぶつかるため、1週早くなるとのこと。
つまりはそれだけ苦しくなることもあるわけで、今後が非常に厳しいことを実感。なかなかうまくいかないものだ。
支出はつねにリアルタイムだが、収入はタイムラグがあるのが常である。これが苦しい。
喫茶店で今後のやりくりを考えてみるが、どうにもならないものはどうにもならなんのである。
とりあえずは支出を絞ろう、と決意を新たにするのであった。


2008.11.26 (Wed.)

ユーラシア旅行計画をシェイプするのだ。旅行代理店にいろいろ行って、話を聞いてみた。

まず最初に認識を改めなければならなかった点は、一般的な旅行のスタイルについてである。
僕はいつも、複数の目的地を設定して徐々に移動する旅をしているが、これは特殊なことのようなのだ。
まず目的地を設定しておいて、そこを拠点に小さく動く、というのが一般的な旅行のスタイルのようなのだ。
言われてみれば確かに、国内旅行のパンフレットはそんな内容ばかりになっている。
旅行代理店で申し込みをした沖縄旅行(→2007.7.21)もそんな具合だったっけ、と思い出す。
用意できる国際線の飛行機のチケットも往復であることが前提だそうで、ううむなるほど、とうなるしかない。

次に途中降機(ストップオーヴァー)について教えてもらう。何がなんだかワケのわからない制度と思っていたが、
要するに、航空会社の都合に合わせれば、電車でいうところの途中下車が自由にできるってことのようだ。
しかし当然ながら、降りられる都市はその航空会社が乗り入れている空港のある都市に限られることになる。
なるほどこれは大きな航空会社ほど自由が利くわけかーなんて思いつつ説明を受ける。

僕の感覚では、アジアはヨーロッパへ行く途中にあるから降りたい放題じゃん、ってなものだったのだが、
実際に話を聞いてみると、事態はまったくそんなことがないのであった。飛行機は電車やバスとは違うのだ。
むしろ頭の中には見慣れたメルカトル図法とは別の、航空路線を結んで歪んだ世界地図が浮かんできたくらい。
なんだかイマイチ納得いかないなあという思いの一方で、あれこれ航空会社とルートを考えていると、
これはこれで面白いゲームだなあ、とも思えてきた。そう、これはこれで、一種の頭脳ゲームだ。

空路は空路、陸路は陸路ということで、ユーレイルのパスについても話を聞いた。
ヨーロッパを鉄道であちこち回るというのは、かなり面白そうだ(僕自身の鉄分は少なめだけどね!)。
やっぱり旅行の計画ってのは夢が広がっていいなあ、と思いつつ帰宅。


2008.11.25 (Tue.)

書類をプリントアウトする関係でマンガ喫茶に行って、ついでに『スクールランブル』を読む。
このマンガについては以前にも書いたが(→2006.9.17)、最終巻が出ていたのでやっとこさ完結を見届けたのだ。

烏丸と天満については特に興味がないのでスルーで。ふーん、そう。といった程度には納得。
で、問題は播磨と沢近・八雲だ。ナニソレ、としかコメントしようのない中途半端さ。もうがっくりである。
播磨にとってのマンガ(つまり、播磨の「ハリマ☆ハリオ」としての面)がもう少し重要な存在であったなら、
沢近や八雲との関係ももう少し深い、ちゃんとした形で描かれたのかもしれない。
そこをきちんと掘り下げることで、ぬるま湯な結末を避けて話が全体としてまとまったのではないかと思う。
(その点、『電影少女』(→2005.8.17)と比較ができるかもしれない。こちらはちょっとドロドロしすぎているけど。)
でも播磨とマンガの関係は、結局は作者の思いつき・気まぐれレベルを超えるものではなく、
話を組み立てていく中心事項にはなりえなかった。その中途半端さがそのままこのマンガ全体を覆っている。

根本的なところでこのマンガとは相性が悪かったんだなーと思った。
これは読む側の抱える問題で、僕がこのマンガに対して非常に不向きな性格だった、ということ。
恋愛沙汰はストーリーのおまけとしてしか受け止める能力のない少年マンガ型一辺倒の僕には、
結局最後にそこを主軸にもってきて高らかに宣言をするこのマンガは、本質的に合わなかったのだ。
だから僕としては、読んでみて見事なまでに何も残らなかったなーと呆れるしかなかった。
ツンデレな沢近と健気な八雲はかわいいが、それで?(いや、ミコちんも一条かれんもいいけど……)
結論としては、ただそれだけのマンガだった。得るものなし。


2008.11.24 (Mon.)

使い捨てカメラが「レンズ付きフィルム」なら、コンビニは「レジ付き倉庫」だと思う。
それにしても、ロジスティクスの現場ってのは小さな道具ひとつとってもムダがないように完成されている。
いろいろと考えさせられるものである。


2008.11.23 (Sun.)

日曜早朝の住宅街のコンビニはヒマである。
だいたい7時半くらいから品出し陳列をしながらレジ応対をするのだが、平日はコマネズミのようにぐりぐり動きまわる。
すべての作業が終わるのが9時近くになることがふつうで、1時間半にわたって棚とレジの往復を余儀なくされる。
しかし世間が休日であると客が来るのは散発的で、レジに客が並ぶことが珍しい状態にまでになってしまう。
15分以上客が来ず、陳列作業も終わってしまって非常に手持ち無沙汰な時間が続くことだってある。かなり極端だ。
こうして平和な休日の状態に慣れてしまうとマヒしてしまい、平日の勤務に戻ったときにうろたえてしまいそうだ。
本音としては、これくらい負担の少ない状況が望ましいのだが。でも売り上げ的にはうれしくないし。ニンともカンとも。


2008.11.22 (Sat.)

ツタヤが半額ということで、ふと思い立って『古畑任三郎』のDVDを借りてみた。
すべての話を見終えるまでにはまだまだ長い時間がかかりそうだが、とりあえず1巻目を見た時点での感想を書いてみる。

田村正和の演技は歌舞伎にあるような「型」を持っていると思う。
モノマネをするときに、その「型」はかなり象徴的な形で出る。というのも、誰も「田村正和のマネ」をしないからだ。
みんなは「古畑任三郎」という「型」のマネをしている。この「型」の面白さにこのドラマが支持された原点がある。
(「古畑任三郎のマネをしないで田村正和のマネをしろ」と言われたら、もはやたぶん誰もできないのではないか。)

見ていてもあんまりそうは感じないのだが、冷静に考えると、古畑任三郎(の「型」)は非常に窮屈な動きをしている。
それは自然な人間の身体ではない。極端な話、「古畑任三郎」という独立した動物の身体、そんな印象すら受ける。
(だから逆に考えれば、日本の歌舞伎では狐の身体も人間の身体も同次元だから、容易に化けられるのかもしれない。)
古畑任三郎の身体は「不自然」であるからこそ、ふつうの人間には暴けない犯罪を暴き出す知性を手にしているのだ。
(どこか変、つまり異質な要素を持っているからこそ天才たりうる。その異質さをマネすれば、頭が良くなった気になれる。)
その超人的な活躍を視聴者に無意識に納得させている根拠・理由とは、紛れもなく、
田村正和の用意した「古畑任三郎」という「型」にほかならない。「型」で演技する俳優・田村正和だからこそ、
ふつうの人間のレベルを超えた知性を持った身体を創り出すことができた。恐ろしく的確な配役だったと言えるだろう。
(つまり、古畑任三郎は人間ではないのだ。人間より一段上の知性を持った存在。その代償に、不自然な身体を持つ。)

密室で会話劇でミステリということで、僕には本来まったく合わない類のドラマである。
それでも、なるほど確かに面白いなあと思いながら見ることができている。最大の要因は上記の「型」だと思う。
そしてもうひとつが、犯行を先に描き、それを古畑任三郎が暴くという逆転のスタイル(いわゆる倒叙)をとることによって、
犯人役で起用された俳優・女優の演技をじっくりと堪能できるということである。これがかなり大きい。
されぞれに演技力を駆使して緊張感あふれる場面をつくっている。またそこには人間ゆえの甘さ=隙もにじませている。
(その人間ゆえの甘さ=隙を、異質な天才であり「自然な人間ではない」古畑任三郎は容赦なく突いてくる。
 もし対等な人間どうしだったら、主人公の推理がつねに犯人を上回るとは限らなくなってしまうわけで、実に巧い。)
登場人物や舞台空間を絞った分だけ、犯人を描く密度は上がる。犯人が魅力的だからこそ、このドラマは面白い。

僕は基本的に三谷幸喜らしいやり口はあまり好きじゃないが(→2003.11.102005.7.172006.9.23)、
ここまで挙げてきたように、「売れる要因」「面白くする要因」が徹底的に並べられていることには素直に脱帽する。
しばらくはDVDレンタルが半額になるタイミングを見計らって、たっぷりと楽しませてもらおうと思う。


2008.11.21 (Fri.)

『GIANT KILLING』8巻が発売されたので、さっそく購入。
ガマンできずにすぐにカフェに立ち寄って読む。とにかく夢中で読み進める。
もうちょっとテンポアップしてほしいなあという気もするが、とりあえず今はこのマンガについては全肯定しておく。
現実のサッカーときちんと対応している理屈、やたらめったら上手い絵、それだけでも大満足できるのだ。
7巻から続く大阪ガンナーズ戦では、作者と達海の読者に対するもったいぶる姿勢が頂点に達している。
この点は、少しミステリのやり口にも似ている印象を受ける。トリックを仕掛けるのは作者と達海。
それがゲームでどのような結果として現れるのか。いかに読者の予想を上回って鮮やかな結果となるのか。
ミステリにありがちな作者の独りよがりな論理ではなく、きちんと現実の身体のふるまいに即した形での解決を期待したい。

それにしても、このマンガは世間でどの程度支持されているのだろうか。
こないだの姉歯祭りではえんだうさんも愛読者であることがわかったし(作者と話をしたそうで、さすがジェフサポ)、
教育実習中の飲み会ではサッカー部顧問の先生も読んでいるようだった。
スポーツ関係のテレビ番組や雑誌では「ジャイアントキリング」という表現が急激に定着してきているのも感じる。
大いにオススメしている作品が注目されるのはうれしいけど、それで思わぬ方向にイケイケドンドンになってしまうのはイヤだ。
『のだめ』の21巻が明らかに不調だっただけに、同じようになっちゃわないかとよけいな心配をするのであった。


2008.11.20 (Thu.)

毎月19日はシュークリームの日なんだそうだ(シュークリームの「しゅーく」と「19」をかけている)。
それで僕の働いているコンビニでは、19日周辺にシュークリームを大量入荷し、安く売るのである。
で、棚に大量のシュークリームを並べていたら、なんだか変な気分になってきた。
いつもは各種さまざまなスイーツが彩っているはずの棚が、シュークリーム一色に染め上げられているのだ。
そんなわけで、シュークリームが無限に増殖して棚からこぼれ出し、そのままコンビニ店内を埋め尽くし、
付近の住宅街にあふれ出て、そのまま関東平野をきつね色にしてしまう……なんて想像をしてしまったではないか。
まるで「ドラや菌」みたいだ。

しかしまあ、ドラや菌を思いつくF先生は本当にすごいと思います。


2008.11.19 (Wed.)

都庁にて6割がた合格者に対する説明会が開催されたので参加。
渡された資料を見てようやく細かいことがわかった。正直、思っていたよりも厳しい感触である。
6割がたというよりは、4割……いや3割がたと考えた方がいいかもしれない。特に高校の方は非常に厳しい。
どんな事態になっても不利になることがないように、あれこれきちんと手を打っておかないといけないだろう。

その後は大塚に移動。マサルに頼まれてこないだの血液型アンケートの集計作業をやるのだ。
作業は夜になってから始めてほしいということで、空いている時間はカフェで読書して過ごす。優雅である。

で、マサルと合流すると、会社の会議室に通してもらう。作業の前に、景気づけにしばらく雑談をした。
マサルは高校時代に日本史をやっていたが、歴史において重要な「社会の流れ」をまったく理解していないとのこと。
欄外の本当に細かいどうでもいい知識を断片的にしか覚えていないのだそうだ。
「荘園がどうしてできたとか、後の時代にどんな影響を与えたとか、僕はぜんぜんわからんのよ」
「そりゃあなんてったって、墾田永年私財法だろ」「そんなん743年ってことしか知らんわー」
あとは『ザ・ベスト』編集部時代に投稿写真のページでインチキペンネームを使っていたことなど。
「『びゅくびゅく仙太郎』とか、勝手に使ったよ!」「ひでえ!」「『ロバート山キャパ之助』ってのも使ったよ!」
「投稿写真でロバート=キャパ? なんじゃそりゃ!」「(マサル、自分の股間を指差し)ここが『ちょっとピンぼけ』」
そんな具合にふたりでしばらく爆笑するのであった。

その後はマサルの持ってきたアンケート用紙の集計作業を黙々とやる。
自分の血液型に多くチェックを入れた人、つまり「血液型占いが当たっていた」人は、それほど多くなかった。
どの血液型にも均等にチェックを入れた人(僕はコレだった)、自分の血液型だけチェックが少ない人もきちんといた。
マサルと「これはホント、人によってまちまちって感じだよねえ」と話すのであった。
むしろチェックした数じたいが異様に多い人と少ない人がおり、その差がどこから生まれるのかが気になった。

終わってみれば、アンケート全体の40%くらいを僕ひとりで一気に集計していた。非常に疲れた。
この借りは今度、おごってもらうことで返してもらうからな!と約束してマサルと別れる。
この夜から急に冷え込み、自転車での夜遅い帰り道は、非常にさみしいものなのであった。


2008.11.18 (Tue.)

『MOTHER2 ギーグの逆襲』をようやくクリアしたので、どんなんだったか書いてみる。
(ちなみに前作『MOTHER』の感想はこちら →2007.7.62007.7.17

最初に総括。衝撃を受けた! いやもう本当に、これはすごい!と思うのみ。
ゲームを始めて間もないうちは、あれこれ考えさせずに理屈抜きで「ギーグを倒せるのはお前だけ!」と刷り込み、
少年マンガらしさ全開で冒険を繰り広げさせるのだ。よけいなことには触れないで、ゲームの内容のみに集中させる。
まさに無理が通れば道理が引っ込むといった具合で、ここまで徹底していればかえってすがすがしい。
また、前作よりもセリフが圧倒的に面白くなっている(こんなすばらしいサイトが世の中にはあるのね ⇒こちら)。
プレーヤーの裏をかくセリフが満載で、あちこちへ話を聞いてまわるのがまったく苦にならない。
これは糸井重里がRPGづくりに慣れてきて、その本領を存分に発揮しているのがよくわかる部分だと思う。
フォーサイドの斜めな街並みにも度肝を抜かれたし、地底大陸での大胆な拡大・縮小も実に見事。
場面転換やお茶を飲むなどしてところどころに挟み込まれるモノローグもとっても効果的である。
トンチキさんの最期を新聞で知ったときにはがっくりきたもんだ。間接的にやられた分だけ響いてきた。
ルミネホールでメロディーを刻んだときには驚いて思わず声が出てしまった。これは本当にかっこよかった。
『MOTHER2』で特徴的なのは、敵(ラストボスのギーグ)も焦っているというところ。
こっちが必死で戦っている一方で向こうも必死でやっているというのが、うまく緊迫感を生み出している。
そしてラストボスのギーグの気持ち悪いこと気持ち悪いこと。ここまで不快な演出ができるってのは本当にすごい。

しかしなんといっても最大の衝撃は「どせいさん」、これに尽きる。
サターンバレーで最初にどせいさんに会ったとき、あのフォントを目にして「ここまでやるかぁ!?」と茫然とした。
姿かたちや文体(どせいさん語)だけなく、フォントまで独自のものを用意するとは! もうお手上げ。全面的に降参。
どせいさんの独特のリズムは、フラグを立てることを単調な作業にしないようにするうえでもきわめて重要である。
人間にとっての他者をここまで面白く、かわいく(?)、ある意味できちんとリアルに表現したゲームは初めてではないか。

RPGは独自の世界を構築してナンボで、剣と魔法のファンタジーな世界は接近戦と飛び道具のバランスがとれるため、
非常にRPGと相性がいいのはわかる(鈴木みそ『あんたっちゃぶる』にもそんなことが書いてあったっけ)。
ファンタジーでなければSF、つまり未来の世界を舞台にするのも常套手段だと思う。
しかし『MOTHER』シリーズの舞台は、アメリカの雰囲気を漂わせる現代だ。
飛び道具は少年マンガ的超能力(PSI)で対処しているが、それだけでは「独自の世界」には足りない。
(僕は『MOTHER』のとき(→2007.7.17)にも、「RPGの文法」ということでその辺の難しさをいちおう感じてはいるつもり。)
そしてここで出てくるのが、どせいさん。この強烈なキャラクターが、『MOTHER2』の世界を象徴する存在になっている。
このゲームに細かい仕掛けはいっぱいあるのだが、どせいさんは「独自の世界」の決定打になった。
とにかく、プレーすればするほど、ものすごく丁寧にこのゲームがつくられていることがわかるのである。参りました。

それでは最後に、どせいさんに敬意を表して、


2008.11.17 (Mon.)

最近は、CDを借りるときに「ラウンジ」のコーナーから何枚かテキトーに選んでくることが多い。
理由は単純に、capsuleの棚の近所にあり、なんだかオシャレな感じがしてええやん、といったところ。
もしかしたら好みのものがあるかも、と思ってのことで、特にこれといって主義主張があるわけではない。
そもそも「ラウンジ」という言葉の定義すらわかっていない状態なのである。われながらいい加減なものである。
で、ある程度借りてみての感想としては、「ラウンジ」はちょっと“ハズレ”が多いかなあ、といったところ。
僕が期待しすぎているのか、イマイチどうも、ジャケットの顔つきのわりには中身が合わない感じなのだ。

Jazztronikを借りてきた。景気のいい言葉がCDの帯には並んでいるのだが、聴いてみたらこれがホントに合わない。
クラブミュージックの素材としてジャズを利用しているだけ、という違和感が、聴いていてどうしても抜けないのだ。
また、一曲が長くてメロディに核がない。ダラダラとお店のBGMで流す分にはオシャレでいられるのかもしれないが、
じっくり聴こうとすると、個人的には冗長な印象しか残らないのである。

FreeTEMPOを借りてきた。特徴のある男性ヴォーカルと女性ヴォーカルを固定している点は面白い。
でもそこを取り除いたら、正直なところけっこう無個性。一定のレベルではあるが印象に残りづらい、というところ。
どうもオリジナリティに欠けるなあと思うわけで、それでは僕は推すことができないのである。
もうちょっとほかのジャンルを大胆に取り入れて、いま持っている枠を壊していったら化けるかも、と生意気なことを思う。

あとは「ラウンジ」とは違うんだろうけど、capsuleの近所にあった元気ロケッツも借りてきた。
全体的にリバーブが効いていて、ちょっとダブ風味。その分、どの曲もやや似た感じにまとまってしまっている。
悪くはないと思うのだが、個人的にはイマイチな感触。今後も同じような曲調をダラダラ続けていくだけ、という予感がする。
メロディを強烈に印象づける構成になっていないのももったいない。特に、曲の終わり方に問題のあるケースが多い。
でも次のアルバムでうまいこと脱皮してくれれば評価は高まりそう。とりあえず期待しておく。

まだあとほかにもいくつか借りて聴いてみたものがあるのだが、グイッと惹きつけられるような求心力は特に感じない。
基本的にクラブ志向の「ラウンジ」の音楽は、リズムを最初に決めてそこにメロディを乗せていくやり口をとるためか、
メロディ至上主義の僕にとってはあまり魅力的には聞こえないのだ。一曲が長いのも集中力を欠く要因となってしまう。
いろんなミュージシャンがジャズを使うなどの味つけをしてくるんだけど、プログラミングに頼る傾向が強いためか、
どこか違和感を覚えてしまうのだ。偉そうな表現で申し訳ないんだけど、なんかウソくさいなあ、と思ってしまうのだ。
サンプリングやプログラミングはいろいろと幅を広げてくれる技術だけど、それだけに頼るのも問題だとあらためて感じる。
まあそんなわけで、最近はホントに、音楽の趣味が広がらない状況が続いてしまっている。長い停滞である。


2008.11.16 (Sun.)

朝になってダニエルが帰宅。みやもりは『デトロイト・メタル・シティ』をむさぼり読むのであった。

昼過ぎにえんだうが大岡山に到着したので出迎えがてらメシを食う。
みやもりとえんだうと僕の3人だと、どうしても話題が日本のサッカー事情になる。
というか、今年のプロ野球がいけないのである。もう本当に、今年のプロ野球は最悪だった。
グライシンガーとラミレスを奪ったチームに、目の前で13ゲーム差をひっくり返しての優勝を決められたのである。
これは屈辱以外の何物でもない。僕は一生、2008年のシーズンのことを忘れて生きていくことにした。悪いか!

商店街で注文していたケーキを回収して家に帰る。
いよいよ今回の姉歯祭りのメイン・イベント「岩崎マサル生誕31周年記念祭(withびゅく仙6割がた祝賀会)」の開催だ。
実はケーキを注文した際、「名前はどうしますか?」「『まさるくん』でお願いします」「何歳ですか?」
「……けっこう大きい子です」というやりとりがあり、さすがの僕も「31歳です」とは言えなかった。これは本当に恥ずかしい。
そういうわけでローソクはデフォルトの5本なのである。マサルの頭ん中は5歳児ということにしておくのである。
ローソクを差してから火をつければよかったのだが、コンロで火をつけたローソクを花火感覚でほかのローソクに分けたため、
机の上は軽くSM状態になるのであった。火のついたローソクを慌ててケーキに差す光景は実にみっともない。

 まさるくん、お誕生日おめでとう!

ハッピーバースデーをきちんと歌ってケーキを切り分ける。みやもり・えんだう・僕の三等分である。
主役であるはずのマサルは今回、社員旅行でどうしても姉歯祭りに出ることができなかったのである。
つまり、マサルが来ないことをわかっているうえでマサルのお誕生会を開催したわけだ。いかにも姉歯クオリティなのだ。
今回用意したケーキは、マサルの大好きな不二家(→2007.1.14)の、アンパンマンのチョコケーキなのであった。
マサルでアンパンマンといえば「♪たーたーせーてーおあずけー ドーキーンーちゃーんー」という天才的な替え歌を思い出す。
いくつになってもあいつの発想はおかしいなあ、と思いつつケーキをおいしくいただいた。

その後はえんだうさんが用意したクイズにみやもりと挑戦。
早押し機がないので、挙手で早い方が答えるという、実に原点回帰なクイズだった。
えんだうさんのクイズは意表の突き方がものすごいことが多く、しっかりと楽しませてもらった。
で、晩飯の時間までみんなで黙々と『デトロイト・メタル・シティ』を読んで過ごす。
みやもりに「『ラブひな』とどっちが面白い?」って訊いたら、う~んとうなったままで結論が出ないんでやんの。

夜になって駅前に出て、テキトーな飲み屋を探す。が、どこも休みもしくは貸切ばかり。呪われているのかと思うほど。
それでも無事に小じゃれた焼き鳥屋に入ってダベることができた。みやもりに人生をダメ出しされた気がしたが、
酔っ払っていたのでよく覚えてませ~ん。とりあえず、えんだうさんとは好みのタイプが正反対なのは覚えている。
おー、島だろうが奥多摩だろうが、どこへだって行ってやるぜよー


2008.11.15 (Sat.)

姉歯祭り、なのであるが、例のごとく集合がダラダラなのであった。まあ、しょうがないのだが。
明日は仕事で一日ダメというニシマッキーが協議の結果、今回はパス(すまんのう)ということになる。
それでも夜になって新宿でみやもりとダニエルが無事に合流し、そのまま我が家に来て姉歯祭りスタートである。

まずはダニエルにニューヨーク土産を贈呈。半年も経って今さらかよ、と思うが、都合がつかなかったのでしょうがない。
あげたのは、国連本部で買ったシロクマのぬいぐるみである。腹に国連マーク、足にUNと空色の刺繍が施されている。
その後は酒を飲みつつ雑談タイム。そんでもって音楽の話(と書くとかっこよく聞こえるなあ)をするのであった。
あとはまあ、ダニエルのiPodをいろいろいじくって遊んだ。実にムダで心地よい時間だった。

さて寝る段になって、風邪気味のみやもりが僕のベッドを占領し、「寒いのはイヤだ」とダニエルが寝袋を占領してしまった。
しょうがないので僕はコートを着込んで、部屋の真ん中の空いているスペースに寝転がる破目になってしまった。
「家主の鑑」なんておだてられてもねえ(まあ、もちろん『ヤヌスの鏡』のパロディであるわけだが……)。


2008.11.14 (Fri.)

ちゃんとした地図帳でも買おうかなあと街に出たのだが、納得のいくものがなくってがっくり。
それで本屋をブラブラしているうちに、酷道(=酷い国道)や廃道のムックを見つけて衝動買いしてしまった。

僕は県庁所在地めぐりをやっているけど、主な交通手段は電車とバスであり、車は使わない。
そのため酷道趣味はないのだが、もし車を持っていたらハマったかもわからない。
日本にはまだまだ面白い場所がいっぱいあるんだなあ、と呆れつつ読み進めていった。
そしてこのムックでは、酷道以外にも名物国道が多数紹介されており、なかなか興味深い。
意外と行ったことのある場所が多く、なんでそのときに気づかなかったんだ、と後悔するのであった。

国道は日本全国にぜんぶで459本あるが、その中で最も大きな番号なのが国道507号。
507号単独の区間は走ったことがないものの、国道331号との重複区間は沖縄旅行の際に走っていた。
糸満市の平和祈念公園やひめゆりの塔を通る道がその該当区間である(→2007.7.24)。

フェリーなどで海を渡る海上国道も存在する。厳密にそのルートを攻略してはいないが、途中までは行っている。
高松から玉野市の宇野港への航路は国道30号であり、直島(→2007.10.5)はその途中にあるのだ。
長野県人には海に国道があるというのは想像できないが、地元民には違和感がないことなのかもしれない。

また、姉歯祭りの一環で下関旅行にも行っているが、そのときに通った関門トンネルは国道2号。
車道だけでなく、人道トンネル(→2007.11.4)の方も国道2号なのである。これは知らなかった。
海中で県境をまたぐ国道はここと東京湾アクアラインの2つがあるが、歩けるのはここだけとのこと。珍しい。

今年行ったところでは、長崎市・浜町(→2008.4.27)のアーケードが、実は国道324号だったのだ。
商店街のアーケードが国道になっている例は全国でも2つだけで、浜町にはちゃんと標識もある。
知っていれば写真に撮ったのに……と後悔したが、時すでに遅し。もったいないなあと思う。

この酷道ムックの最後には、高速道路でしか見られないあの書体「公団ゴシック」についての記事や、
ジャンクション鑑賞に関する記事なども載っている。至れり尽くせりである。
些細なことをいろいろと面白がることのできる、いい時代になったなあ。


2008.11.13 (Thu.)

昼にマサルの会社まで行き、頼まれたアンケートに答える。
なんでも人気の血液型占いの本について信憑性を検証する企画をやっており、そのデータをとりたいとのこと。
こちとら呼ばれれば自転車でどこへでも行く便利屋なので、二つ返事で馳せ参じたわけだ。

いい機会なので、血液型占いに関する僕の見解をここで述べておこう。
基本的に、僕は血液型占いというものをまったく信じていない。むしろかなりバカにしている。
血液型の因子が性格にバイアスをかけるのは誤差レベルでしかなく、現実には測定不能、という立場である。
それよりは絶対に、父親が会社員か自営業かの方が、それぞれの人の性格に大きな影響を与えているもんだと思う。

寝坊で1時間遅れのマサルと合流すると(会社で集合する約束だったのにもかかわらず遅刻しやがった!)、
さっそくアンケートを渡された。厚さ5cmはあろうかというアンケートの束を目の前にドサッと置かれる。
マサルはさらに1冊の本を僕に渡す。こないだ出たという、マサル編集のムック『男のマネー最終奥義』だ。
僕の友人の中では最も生活力のないマサルが、この手の本を編集したという事実にひどく驚いた。
しかもその内容はかなり細かい。誤植がけっこうあるそうで、その辺からマサルがいかにしんどかったかがうかがい知れる。
まあともかく、30歳になって貯金を切り崩す生活をしている誰かさんにはうってつけの本なのであった。

マサルとは嘉門達夫の『血液型別ハンバーガーショップ』の話をするなどして、ホイホイとアンケートを進めていく。
そのうちマサルは仕事に戻り、黙々とB5の紙の束と格闘する時間が続く。最初のうちは勢いよく進んでいたのだが、
半分を過ぎたところで空腹と退屈さと疲れに耐えかね、猛烈にペースが落ちる。しかし思うように動けない。
フラフラになっているとマサルが再び登場、気分転換に昼飯を食いに出ることになった。助かった。

近所のココイチで僕は大盛カレー、マサルはデザート2種類とドリンクをいただきつつ、しばし雑談。
血液型占いとは結局、性格を大まかな4種類に分けている点がポイントなんじゃないか、という意見がマサルから出る。
なるほど、その4類型に対してもっともらしく血液型の因子を当てはめただけなんだな、とふたりの間では結論が出た。
ちなみに僕はO型だが、マサルは僕のことをA型だと思っていたそうだ(なお、マサル自身はA型)。
「そういえばオレ、A型とはよく間違えられるけど、BとかABって言われたことって一度もないや」
そんなわけで、他人から何型だとよく言われるか、いわば「第二の血液型」と実際の血液型の組み合わせの方が、
性格の分析としては意味があるかもしれないな、なんて話になるのであった。
まあそうなると、両親の血液型なんかも絡んでくるのかもしれないが(ちなみにウチは父がOで母がA)。

あとはマサルの力作である『へんな趣味 オール大百科』(→2008.8.2)の続編の構想についての話を聞いた。
ネタバレになったらつまらないので詳しいことは書かないけど、いろいろとくだらないアイデアがお互いに出まくるのであった。
これはぜひとも実現させてほしい。日本全国の物好きが首を長くして続編を待っているぞ。がんばれマサル。

で、雑談を終えると会社に戻ってアンケートを再開。おかげで当初の勢いを取り戻して最後までやりきったのだが、
それでも終わったときには17時ちょい前という有様。正直、これはけっこう大変な作業だった。マサルもお疲れさんでした。


2008.11.12 (Wed.)

相変わらず、天気が悪いというだけで、まるっきりダメダメになってしまう。
コンビニ仕事が終わってもまだたっぷり午前の時間があるはずだったのに、
ろくすっぽ何もできないままで一日が終わってしまったではないか。
今月と来月は気が狂うほど本を読みたいと思っていたはずなのに。われながら困ったもんである。


2008.11.11 (Tue.)

コンビニ仕事がスタートなのである。朝5時に起きて働くというこの健康さ。
内容は接客・掃除・品出しがメインで、要領よく動けばそれでいいといった感じ。
初日ということで慣れないレジに四苦八苦しつつも、どうにか乗り切ったのであった。
それにしても何も食べないでコンビニ仕事をするのは、なかなかつらい。
客がうまそうなものばかり買っていくのに自分はひたすらおあずけ。実に切ない。


2008.11.10 (Mon.)

川崎で買い物ついでに『櫻の園 -さくらのその-』を見てきた。
かつて1990年に公開された『櫻の園』(→2003.11.62006.12.24)の続編と言える作品である。監督も同じ中原俊。
(原作にあたる吉田秋生のマンガについてはこちらを参照。→2005.3.28
ネットのレヴューでは軒並み評価が低く、どうしようか迷ったのだが、結局見に行ったのである。

ヴァイオリニストへの道を捨てて櫻華学園に編入してきた結城桃が主人公。
何かとうるさい名門女子高の空気に嫌気がさしてきたとき、生徒立入禁止の旧校舎で『櫻の園』の台本を発見する。
仲間内で盛り上がり、自分たちで演じようと稽古を始めるが、学校側は上演禁止の措置をとる。
桃たちは一度はあきらめるが、自分たちにとっての『櫻の園』の意味を問い直し、練習を再開する。そして。というあらすじ。

結論から言ってしまうと、確かに粗いが、決して見られないレベルではないと思うし、酷評することもないと思う。
桃を演じる福田沙紀は適度にかわいく適度にふてぶてしい感じがする。「ふつう」っぽくていいんじゃないか。
(桃は女子高を部外者の視線で眺める役なので、環境に巻き込まれない芯の強さ、ふてぶてしさが必要なのだ。)
『ウォーターボーイズ』(→2005.5.22)、『スウィングガールズ』(→2005.8.10)の功罪は大きいなあ、とあらためて感じる。
観客はそれらの影響を受けた視線で見てしまうため、「いかに上演までもっていくか」を焦点に受け止めてしまうのだ。
だが、つくり手はそこに重きを置かない。極端なことを言えば、上演できるかどうか、その結果なんてどうでもいいのだ。
女子高という完成された制約に対し、その制約を壊すことではなく、その制約の中で創造的な時間を生み出すこと、
そこに少女たちがエネルギーを注いでいる様子を描くことこそが、この映画の目的なのである。
そういう立場から考えてみれば、確かに短絡的だがそこまでひどくもない、という評価に落ち着く。

前作との比較で今作の難しさを考えてみよう。
前作は、演劇部が『櫻の園』を上演する当日の朝からスタートしている。そこに上演中止の危機が発生するのだ。
劇中の時間は現実の時間とほぼ並行して進む。時間も空間もコンパクトな分だけ、密度の濃いドラマとなるわけだ。
一方、今作の時間は桃の編入から『櫻の園』の上演までと、だいぶ長いスパンである。
しかも演劇部を立ち上げる場面も描くことになるため、どうしてもごくふつうの青春ストーリーになりがちである。
前作と同じことをしても面白くない。好意的に見れば、今作はそういう「ごくふつう」にあえて切り込んだ、とも考えられる。

前作のレビューにおいて、僕は杉山を演じたつみきみほを全力で褒め称えている(→2003.11.6)。
極端だがこれが真実だと思うので、正直に書いてしまおう。「つみきみほ」の不在、それがすべてである。
前作において上演中止危機の発端となり、さらには報われないヒロインにもなった杉山紀子ことつみきみほ、
それに匹敵する存在がいなかったことが、今作の「ごくふつう」化を「無事に」促進したのである。
逆に考えてみよう。もし、前作につみきみほが存在しなかったら? 果たしてそれほど魅力的な作品となっただろうか。
役と役者の間には、ちょうど服と体のような関係性がある。本来、誰がどの服を着てもいい自由があるわけだ。
しかし、この着せ替えの自由度を制限しないことには、名作や傑作は生まれないのだ。
強烈な個性やスター性が、着るべき服を決める。あるいは、着る人のために服があつらえられる。
前作では杉山という「服」につみきみほがジャストフィットしたことで、作品全体の質がさらに高められたのだ。
もし杉山を別人が演じれば、それはまったく別の作品になってしまっただろう。ほかの役はおそらく、取り替えが利くのに。
脚本や演出が高いレベルにあったところに、杉山=つみきみほという絶対的な一点が固定されたことで、
1990年の『櫻の園』はつくり手にとっても観客にとっても唯一無二の作品となったのだ。
それに対して今作は、すべての登場人物でほかの役者に取り替えが利いてしまう。また、そういう脚本である。
少々意地悪く表現すれば、突出した存在がないから、同じ事務所の女優を顔見世公演できる作品に仕上がったのだ。
「今作の『ごくふつう』化を『無事に』促進した」とは、そういうことだ。おかげで、リサイクルが可能な作品になった。
前作はつみきみほなしでは成り立たないが、今作は何年後かにまったく別の女優陣で、まったく同じことをできるだろう。
芸能事務所としては、そこそこのヒットが期待できるのであれば、今作のリサイクル利用はなかなか悪くない戦略だ。

今作ではラストに近づくにつれて(桃たちが上演を認められて以降)、前作を意識した仕掛けを一気に出してくる。
すっかり片付いた部室は前作とまったく同じものであり、そこに結婚間近で演劇部OGの姉が差し入れをする。
さらに、前作の演劇部と同じ掛け声で少女たちは運動をする。観客は女子独特の声が時間を超えて重なるのを味わう。
そして小笠原葵と赤星真由子がケータイで自分たちを撮るシーンは、18年前の倉田知世子と志水由布子の再現だ。
しかしそこに、目を伏せて時間が流れるのをじっと待つ杉山紀子はいないのだ。
かわりに彼女たちを見つめているのは、女子高という空間への違和感を隠さない唯一の人物である結城桃。
この両者の大きな差、そして桃の冷静な視線に、中原俊監督の意地を見た。
その意地が感じられたから、僕はこの作品に一定の評価を与えたのだ。


2008.11.9 (Sun.)

ユーラシア旅行構想をシェイプする。とりあえず地図帳とにらめっこして、行きたい都市をリストアップ。
次にそれらを削っていく作業をする。Wikipediaなどで情報を集め、イマイチな候補を除外していく。
最終的には20ほどの都市が残った。これもさらに削らなくてはならないが、まあとりあえず目星はついた。

ヨーロッパなど高緯度の地域への旅行は、夏場のほうがいいに決まっている。
しかしまあ、こればっかりはどうにもならない。自分には今のタイミングしかないのだから。
やる気と根性でどうにかするしかないのだ。そう心に決めて、情報収集を始める。
が、ストップオーヴァー(途中降機)の意味がわからず、さっそく悶絶。どの説明を何度読んでも理解ができない。
こういうときに自分の近所に詳しい人がいればいいのだが、そういうアテがほとんどまったくないので大いに困る。
そんなわけで気がついたら寝ていた。どうやら考えすぎて知恵熱が出たようだ。
なんともお粗末なオツムだこと!と、自分で自分に呆れるのであったことよ。


2008.11.8 (Sat.)

実の父であるcirco氏が上京してきたので、そのお相手をする。
実家サイドでは僕の最近の状態について大いに不安になっていたようなのだが、
日記を読めばわかるように、今はかなり精神的には安定しているのである。
採用試験で一定の結果が出たことと、いろんな現場でオモシロ体験をしながら収入を得たことで、
一時期に比べればかなり穏やかなのである。北東北・函館への旅行も効いたし。

で、「実は海外に行きたいんだけど」と、かねてより考えていたユーラシア旅行構想をぶちまける。
今の自分には泣きたくなるほど金がない。しかし、時間的な余裕はつくろうと思えばつくることができる。
来年度になれば何がどうなっているのかわからない状況、海外を見聞するにはタイミングは今しかないのだ。
若い頃にヨーロッパを回っており、沢木耕太郎の『深夜特急』を小学生の僕に薦めたこともあるcirco氏としては、
それは悪くないアイデアと受け止めてくれたようで、あれこれ話をするのであった。
とりあえずメールを駆使して金を集めて、詳しいことはそれからでしょ、という結論に至る。
そういうわけで、この日記の読者は覚悟をするのだ。

いつものように布団やらカーテンやらを交換し終えると出かける。
今回行ってみることにしたのは、越谷レイクタウンだ。先月オープンしたばかりの新しい商業施設である。
高層住宅も併せて建設されており、JR武蔵野線はそのために新しく駅までつくったのだ。
越谷なんて行ったことがないのだが、いい機会だしちょっくら行ってみようぜ、と電車に乗り込んだ。

京浜東北線にしばらく揺られ、南浦和で武蔵野線に乗り換える。
circo氏は「南浦和なんて生涯で二度目」だそうだ。僕としても大学3年でさいたま新都心を調査して以来だ。
越谷レイクタウン駅を降りると、そこには広大な地面が広がっていた。右手に商業施設、左手にできかけのマンション。
視界の真ん中は空き地で、その先に水面が見える。ニュータウンの雰囲気にcirco氏は興奮気味なのであった。
なんでも、これから開発が進んでいくそういう未来へのワクワクした予感がいいんだそうだ。まあわからんでもないが。

商業施設は「KAZE」と「MORI」があり、まずは「KAZE」に入る。クリスピー・クリーム・ドーナツの行列がすさまじい。
さすがに新しいだけあり、人口密度はなかなかのものだ。パンフレットを眺めつつ奥へと進んでいく。
さて、バイトをするにあたって絶対的なチノパン不足に悩む僕の意向で、ユニクロで買い物をすることにしたのだ。
ユニクロがあるのは「MORI」の一番奥ということで、とりあえず様子を探りながらグイグイ歩いていくのであった。
到着するとあれこれ選んで試着。僕はウェストに比べてヒップが大きく、太ももが異常に太いことがあらためて判明。
とにかく太ももの部分でつっかかるのである。しょうがないのでタックの入ったものを選んだのであった。
で、無事に目的のチノパンを2本購入すると、裾上げが完了するまであちこち見てまわることに。
circo氏は毎日一定の距離を歩くようにしているようで、「これだけ歩ければ十分」と満足げ。

越谷レイクタウンの個人的な印象としては、やっぱり従来の大規模商業施設と大して変わらないなあ、というところ。
ららぽーと方式というか何というか、まあとにかく、予想通りなのである。
それでもイオングループがつくったせいか、だいぶ親子連れを意識しているところが印象に残った。
子どもの乗るカートはディズニーやピカチュウなどのキャラクターもので、自動販売機もボタンの高さが子ども向け。
飲食店の数も多く、特にフードコートに出ている店の多さは越谷レイクタウンの大きな特徴であると思う。
で、circo氏とは「結局は魅力的なテナントがあるかどうかだなあ」なんて話をするのであった。
そんでもって、やはり東急ハンズの品揃えってのは一味違うよなあ、というところに落ち着いた。
それにしても越谷レイクタウンに向かってくる車の渋滞のすごいことすごいこと。
窓から見える果てしない車の列に、circo氏とふたりで「うへぇー」とうなり声をあげた。

裾上げの終わったチノパンを受け取ると越谷レイクタウンを後にする。武蔵浦和で乗り換えて埼京線の快速に乗る。
越谷は確かに遠いのだが、ウンザリするほどの距離ではなかった。新宿駅でcirco氏と別れると帰宅。ゴチ!


2008.11.7 (Fri.)

もう何年も「負債」を抱えながら日記を更新してきたわけだが、この日、ついに「負債完済宣言」を出した。
かつてはまだ書いていない分が半年分近くたまって途方に暮れたこともあったし、
もうちょっとで完済というところにきて旅行に行ったために「ふりだしにもどる」状態に陥ったこともあった。
挙げていけばキリがない(→2006.2.252006.8.202007.4.42007.8.252007.11.232008.1.22)。
そんな苦難を乗り越えての完済宣言である。実に感慨深い。

今後の日記は週に1回くらいのペースで更新していきたいと考えている。
もちろん日記じたいは毎日書くのだが、それを毎週くらいのペースで表に出すということである。
というのも、毎日更新だと「書いちゃいけないこと」や「落ち着いて見直さなくちゃいけないこと」をそのまま出してしまい、
怒られたり書き直したりという事態が起きるおそれがあるからだ。前に何度かそれで痛い目に遭っているのだ。
そんなん、お前が注意して書くクセをつけりゃいいじゃんか、と思われるかもしれない。
でもそんなに簡単に治るんなら苦労はしないのである。トラブルを避けるための工夫と思ってほしいのである。
どうにかなるかな、という目処がついたら更新ペースを上げていくつもりではいる。
それがいつになるのかは自分の力量しだいということで、ひとつ長い目で見てほしいなあと思う。

速く的確に書くのも能力である。そのことをしっかり自覚しながら書いていきますんで、今後ともよろしく。


2008.11.6 (Thu.)

R.バルト『表徴の帝国』。前橋で買って(→2008.8.19)、このたびやっと読み終えた。

『はじめての構造主義』(→2004.12.1)によれば、ロラン=バルトは記号論の草分けに位置づけられる人。
構造主義の分析手法を用いて、文学やファッション記事、さらにはエッフェル塔など、さまざまな対象に切り込んだ。
で、『表徴の帝国』が対象としているのは日本。来日した際の経験をもとに、さらりと書き下ろしたんだそうだ。
舟木一夫の写真で始まり、日本料理・パチンコ・都市構造・文楽・俳句・顔・全学連と、多彩な切り口が並ぶ。

読んでみると、とにかく表現がまわりくどくってわかりづらい。
いかにもフランス語を日本語に訳したぜ、という雰囲気がプンプン漂う、感覚的な文章なのである。
しかしあらかじめ設定したテーマについて、それほど多くない分量でそれぞれ書いているためか、
読みづらくって読みづらくって大変、ということはない。写真などの図版も豊富で、飽きないで読めるのである。
慣れるまでガマンして読み進めてみると、このまわりくどさの理由は、バルトの真摯な姿勢にあることに気づく。
バルトは西洋に属する者としての視線で、日本という対象を眺めている。そしてつねにそのことを自覚している。
このまわりくどい表現は、西洋から東洋を見るというその距離感をクソマジメに保っているがゆえのことなのだ。
それをどれほど徹底しているかというと、わたしは想像によりひとつの国をつくりだし、それを日本と勝手に名づける、
とわざわざ冒頭で宣言しているくらいなのだ。対象について、過剰なほど慎重に接していることがうかがえる。
つまり彼は、シンプルな表現で対象(日本)を描くことで生じうる誤解を徹底的に避けようとしているのだ。
西洋という完全に他者の立場であることを自覚し、そのうえでできるだけ傷をつけないで対象を拾おうとしている。
(そしてその姿勢には、構造主義の知識人としてのフェアさと同時に、物事を分析するには距離をとらざるをえず、
 批評する者は決してその対象に同化することが許されないあきらめというか悲しさというか切なさもまた感じる。)

あまりにも注意深いがゆえに表現がまわりくどくなっているのだが、さすがにその分だけ繊細な感性が発揮されている。
日本人にとっては当たり前でも他者から見れば個性的だったり奇異だったりする部分を、的確に見つけ出している。
正直、読んでいてバルトが何を言いたいのか読みとりきれない表現もそこそこあったのだが、
わかった部分と比較してみて、「まあでもたぶん当たってるんだろうなあ」なんて具合にそのまま納得できてしまうのだ。
それくらい、丁寧かつ鋭く説明が加えられているのである。気づかなかったことをあらためて指摘されて、驚かされる。
バルトはまったく自分を失うことなく、また対象への敬意を全面的に示しつつ、鮮やかに論じてみせる。
ブレない精神、確かな眼力、そして真摯な表現が組み合わさることで、この本はできあがっている。
マネをしようとしてみても、とてもマネのできない芸当に、読み終えて途方に暮れてしまった。

訳者の宗左近による解説では、バルトの姿勢、つまり構造主義による分析作業を《模型》の創造とみなしている。
上述のように、バルトは日本について、わざわざ自分が勝手に想像した国と断ったうえで書いていった。
これは日本を完結したテクストとして見て、それをバルトが『表徴の帝国』という作品において再び創造しようとした、
ということだろう。単なる日本の分析ではなく、日本をしっかり受け止めたうえで再創造した、というのは実に見事な指摘だ。
しかしまあその一方で、本文以上に説明がまわりくどくなってしまっている部分、簡潔な鋭さに欠ける部分も多く、
「ホントにわかってんのかよ」と不安に思ってしまったところも正直なくはない。

最後に、肝心の「表徴」について。「表徴」という見慣れない言葉を目にして「結局それって何なのよ」と思ってしまうが、
これは「シーニュ」に対する訳語だそうだ。シーニュ=シニフィアン(意味を乗せるもの)+シニフィエ(乗せられる意味)、
そういう構図が記号論の業界にはあるのだが、シーニュにわざわざ「記号」ではなく「表徴」という訳語を当てたのは、
そこにある表現体としての完結性を強調したかったからだろう、と僕は考える。
バルトは対象を完結したテクスト、完成されたものとしてみなし、それを自分なりに再創造することで分析する。
だから「表徴」という言葉の裏には、完結した世界をひとつひとつのシーニュが持っている姿がうっすらと見える。
バルトは直接言わないが、西洋の物の考え方には一神教の迷いのないベクトル、「意味の希求」が貫かれている。
それとまったく異なる、完結した小さな世界(=シーニュ、表徴)があふれる光景を目にして、
『表徴の帝国』というタイトルが出てきたのだろう。まったくロラン=バルトって人は、あまりにも鋭すぎる人だ。


2008.11.5 (Wed.)

午前中に神保町に行き、自転車の修理をお願いする。
あまりにも自転車に乗りすぎたためか、一部のギアが磨耗してえらいことになっていたので修理を予約していたのだ。
先月馬車馬のように働いた分がチラホラと入ってきたからようやく修理代が出せるようになった、というのが正直なところ。
ふだん生活しているときにはそういう維持費を考慮することがないので、小金が入るとその分が一気に出る感じである。
でもまあ、自転車は自分にとっては足も同然なので、ここをケチるわけにはいかないのである。

午後からは研修の続き。その前に研修担当の方が昨日オススメしていた築地の店に入って昼メシをいただく。
それは鶏肉を使った専門店で、一押しなのが親子丼。なんでも卵を2段階で加熱し、半熟具合がとてもよろしいとのこと。
しっかり働くにはしっかりメシを食べることが必要なので、少々高いが迷うことなく食べてみることにしたのである。
炭火でじっくり熱するためか、できあがるまでけっこう時間がかかる。しかし食べてみたら確かに旨い。
何も考えず、スムーズに最後まで平らげてしまった。食べだしたら手が勝手に口まで運んでいくのを繰り返した感じ。
ここの親子丼はふつうの味つけと塩味があるので、もう少し経済的に余裕ができたら塩味にチャレンジしよう、と思った。

で、研修である。今回は実際に店に出てレジやら掃除やらをやることになる。
その前に研修ルームにあるレジで操作を習う。いちおう10年前には地元のコンビニでバイトしたし、
会社に入って書店研修をやった際にレジをやったことはあるのだが(→2005.4.7)、これがまるっきりできない。
焦って手順をすっ飛ばしたりお釣りをスムーズに返せなかったりで、休み時間にみんなで自主練習までするのであった。
そのうちイヤでも慣れるとのことだが、まあ、こういう客商売の経験をいま持てることを素直に喜んでがんばるとするのだ。

そんな具合なので実際に店に出ても四苦八苦。コンビニのレジはやることがいっぱいあるうえに、
このコンビニ独自のサービスもあるのでさっそくしっちゃかめっちゃか。優しい店長に助けてもらうのであった。
どこに何があるのかを把握したうえで気を利かせて動くのはイベント運営の遊軍の仕事も一緒なので、
そのときのことをあれこれ思い出しつつ動くのであった。経験を上手くつなげないともったいないのだ。

まあそんなわけでどうにか研修は終了。振り返ってみると、総じて非常に愉快な時間だったと思う。


2008.11.4 (Tue.)

マサルにハンコを押してもらった退学届を出しに行く。
書類を提出するのはあっという間である。「お疲れ様でした」と窓口で言われ、事務室を後にする。

思えば長い2年間だった。教員免許を取ろうと決意したときにはすでに世間の入学シーズンが終わっていたため、
秋口の入学説明会に参加して説明を聞き、10月になるのを待ってようやく入学手続きをし、勉強をスタートしたのだ。
面倒くさい単位の数を計算し(→2007.1.9)、毎日朝と昼にテキストを読み、そうしてここまで来たのだ。
通信教育の建物を出たときには、さすがにちょっと感慨に浸ったのであった。
実は別の学科であと数科目の単位を取れば、中学の社会科と高校の公民の免許も出る。
だからまた近いうちにお世話になるかもしれないのだが、まあとにかく、これで自分なりの卒業となるのだ。
働きながら勉強をして結果を出したこの時間を忘れることはないだろう。貴重な時間をありがとう。

日が暮れてからは東銀座というか築地に行って、バイトの研修を受ける。
正直、最初は研修と聞いてたまげた。なんとなく塾講師時代のことを思い出す。
今度のバイトはコンビニである。働くことのできる時間の都合で選んだコンビニなのだが、
ふつうのコンビニと比べるとちょっとハイソな雰囲気を漂わせたイケメンくさい某コンビニなので、研修があるのだ。

指定された店舗で集まると、そこから近いマンションの一室へみんなで移動。ここが研修ルームとなっているのだ。
本日はその某コンビニの理念というか「こだわり」を勉強するのであった。自己紹介の後、話を聞く。
研修担当の方は僕と同年代の女性で、バイト新人の面々も20代後半が多い感触だったので和気藹々な雰囲気に。
そんでもってその中に女子高生がひとりいて、うんうんいいですなあ、と思うのであった。
で、漢字で書かれていた全員の名前を一瞬で覚えたら、みんなから感心されたというか気持ち悪がられたというか。
そういうふうに脳みそができてるんだからしょうがないじゃん、と思うのであった。


2008.11.3 (Mon.)

教員免許を無事に取得したので、通信教育の大学に退学届を出すことになった。
そんでもってこのたび新たにアルバイトを始めるにあたって書類をあれこれ書くことになった。
で、どちらも保証人のサインが必要ということで、友人を代表して最もつかまえやすいマサルに依頼することにした。

修理が終わったデジカメを回収すると、マサルの会社に行って合流。
マサルは僕の持参した退学届をいたく面白がり、記念のカラーコピーをとるのであった。
4~5年前に潤平の大学の関係で、僕が「無職証明書」なるものを書いたこと(→2004.4.24)をいまだに覚えていて、
「なんでマツシマくんはそんな面白い書類のコピーをとっとかんかったのよ! 無職の証明なんよ!?」と力説。
さすがに健康診断書のカラーコピーで入社した男は考えることが違うなーと思うのであった。

さて、その後は一緒に晩メシをいただく。マサルはオススメだがほかの社員は敬遠という、近くのスパゲティ屋に入った。
マサルは尾盛駅に置いてきた『へんな趣味 オール大百科』(→2008.8.2)がブログに取り上げられていたと喜んでいた。
そして、この本がまだ誰にも持ち帰られることなく残っていることへの感動を語るのであった。日本はすばらしい国だ、と。
「僕は『尾盛駅備品』って書いておけばよかったとすごく後悔しとったんよ! でもまだ残っとるんよ!」
対照的に僕はそんなに簡単に強奪されるとは思っていないので、へーそうかい、と生返事。

食べ終わると、マサルがこのたび購入したという自転車を見せてもらった。
専用のカバンをハンドルにセットできる点に魅力を感じて買ったはいいが、ライトが邪魔でセットできない、と悩むマサル。
ライトを下に移せばいいじゃん、とあっさり解決。それでも自転車というもの自体になれていないマサルはなんとも頼りなく、
果たして無事にこの自転車を使う習慣が身につくんだろうか、と僕はかなり不安になるのであった。
マサルはいろいろ考えるわりに、実物を手に取るなどして実際にあれこれ見比べてみることをしない。
そんでもって1つの点を気に入ると突如即決して衝動買いに近いことをすることが多いわけで、相変わらずだなあと思った。
こういうこと書くとマサルがブーブー文句を言ってきそうだ。とりあえず、悔しかったら自転車に乗ればいいじゃん。


2008.11.2 (Sun.)

久しぶりに髪の毛を切った。8月に切って以来だと思うのだが、詳しいことは思い出せないくらいに間隔が空いた。
おかげで非常にさっぱりした。まるで生まれ変わったような気分である。

昨日のナビスコカップ決勝は、大分トリニータの勝利で幕を閉じた。
Jリーグ発足後に誕生した地方クラブでは初の快挙ということで、ネットでもいろいろとニュース記事がアップされている。
それをつらつらと読みつつ、いいなあ、うらやましいなあと思うのであった。

大分は堅守を売りにしているチームだが、個人的には攻撃にこだわるチームが好きということで、
その辺、正直なところ、大分の優勝にはちょっとだけ残念な気がしないでもないのである。
しかしそれ以上に、財政の厳しい地方クラブの活躍を喜ばしく思っているのである。いちおう。
監督の力と育成の力、それがきちんと発揮されればクラブは強くなるということが証明されたのだ。
シャムスカを引っぱってきて、育成部門を充実させた、フロントの慧眼ぶりは文句のつけようがない。
今後もそういうクラブがいっぱい増えてくるといい。そうすればもっと日本のサッカーが楽しくなる。

しかしこれで心配なのは、日本代表監督への引き抜き工作である。
こないだ前橋に行った際にみやもりと次期代表監督は誰になるかという話をしたのだが、
「ペトロヴィッチ(広島)、シャムスカ(大分)、ピクシー(名古屋)の誰かを引き抜く」という結論に到達したのであった。
これが冗談に思えないから恐ろしい。Jリーグで実績を残した監督を引き抜いていったら後には何も残らない。
そりゃもちろん、Jリーグの名将が代表を強くする姿は見てみたいんだけど、やるなら誰もが納得できるようにやってほしい。


2008.11.1 (Sat.)

昨日美術館に行っていろいろと考えたことがあったので、ちょいと書いてみることにしよう。
題して「びゅく仙的美術作品鑑賞術」。なお、これから書いていくことはあくまで僕独自の価値観にもとづくものである。

美術館に来て最悪の行為とは何か。僕の価値観からすれば、3つ挙げられる。
1つめ、音声ガイドを借りること。2つめ、偉そうに解説をすること。3つめ、描かれた対象についてそのまま発言すること。
以上のことは、絶対にやってはいけない。この3つをやると確実に、作品じたいを味わうことができなくなる、と僕は考える。
なぜ音声ガイドを借りてはいけないのか。理由は簡単、作品よりも音声での解説に気をとられてしまうからである。
解説を聞いて知識をつけてどうするというのか。作品に関する知識など、家に帰ってネットで調べればよろしい。
せっかく作品と向き合っているのだから、作品と対話しなきゃもったいない。肝心なのは、作品に触れて何を感じるか、だ。
(音声ガイドについては、過去にもチラッと書いている。こちらを参照。→2005.10.16
一緒に来た相手に対して偉そうに解説をするのも最悪である。ほかの客の集中力を殺ぐことに気がつかないのか。
作品の意義だの歴史的経緯だのを喜んでしゃべるということは、他人の抱いた純粋な考えをジャマする愚行でしかない。
そしてこれは女性に多いように思うのだが、作品に描かれている対象そのものについて言うこともダメである。
たとえばネコを描いた絵画があるとしよう。これについて「かわいい」と言うのはOKである。
しかし、「ネコだね」というのはアウトになる。なぜなら、ネコがそこに描かれているのは、当たり前のことだからだ。
ネコがどのように描かれているのか、作者がどのような視線でネコを見つめた結果として作品があるのか、
そういうレベルまで踏み込まなければいけないのである。だから何も考えていない「ネコだね」発言は、許されないのだ。
それに対して「かわいい」発言は、作者の感じたネコの姿をふまえた個人の感想であるので、大いに結構となるのである。

以上のことからわかるように、僕が美術鑑賞において最も重視しているのは、作品それじたいとの対話である。
作者名だとか制作年代だとか受賞した経歴だとか、そういうものは一切抜きにして、良いと思ったか悪いと思ったか。
純粋に、作品に触れて「面白い!」と思えるかどうか、そこを大切にしなければならないと考えているわけだ。
そういう鑑賞の仕方は、非常に疲れる。つねに自分なりの論理で判断を下していくことになるからだ。
しかし慣れてくると、すぐにその場で「どうして面白いと思ったのか」と考えてその理由を探すことができるようになる。
そして、その結果として、こういう偉そうな感想を日記にもっともらしく書くことが平然とできるようになるのだ。
大切なのは、必ず何かしら感じること。そしてできればそれを自分なりの言葉で表現できるようになること、である。
それが自然とできるようになったとき、美術に関する知識、作品のバックグラウンドに関する知識が有機的につながって、
一段と深く作品を味わうことができるようになる。逆を言うと、各種の解説はそこに達するまでは無意味でしかない。
(ウチの母親はとにかく感想を持つことが大事、という考え方をしていて、それが僕の基本的な部分をつくったのは確かだ。
 小学生のときに課題の日記を書いていると、できごとに対してどう思ったのかを必ず書くようによく言われたものだ。
 この点において、ウチの母親は正しかったなあと今でも思っている。あんまり仲良くないけど。)

では具体的にどのような部分に着目して作品を味わえばいいのか、僕なりのやり方を書いてみよう。
まずは、作者の身体を感じることだ。作品の表面に残る痕跡から、道具の使われ方や指先の繊細な動きを想像する。
そうすると、「これは自分にはできん!」というところから作品の凄み、作者の凄みを感じることになる。
僕の場合、どうやればこんなふうにできるんだ?という疑問から入って作品全体を眺めることが多い。
その次の段階として、どうしてこんなこと思いつくんだ? どうしてこんなふうに物事が見えるんだ?となっていく。
そうして作品に込められているものを自分なりに解釈して、なるほど面白い!とか、つまんねーなーとか、感想が出る。
間違っても社会的背景などの知識面から入ってはいけない。その場合には、できるだけ作者の考え方をなぞるようにする。
自分の属する民族を賞賛するような作品なら、その民族になったつもりで作品を眺める。
アナーキーに世の中を批判的に眺めるような作品なら、自分もやさぐれた気分になって作品を眺める。
とにかく、作者と同じような感覚で作品、そして世界を眺めてみることだ。作者の目には世界がどのように映っていたのか、
作者がどうしてこういうものをつくってしまったのか、を素直に追いかけようとする気持ちを大切にしたいわけだ。

慣れてきたら、コンポジション、全体のバランス感覚について考えてみるとよい。
美術館に展示される作品は、(絵画でいえば)画面構成をどうするか、考えに考え抜いてつくられたものに決まっている。
どこに何が描かれ、それが作品全体にどのような緊張感を与えているか考えてみると、より凄みをはっきり味わえるだろう。
特に日本画や水墨画などでは、一見何も描かれていない空間にこそ、作品に流れる物語が詰め込まれているものだ。
色鮮やかな鳥や草木、山や川などだけでなく、そういう空(くう)の部分に響く余韻が感じられるようになるといっちょまえだ。

以上、美術館に行く習慣のない人にとっていいヒントになればと思い、偉そうにあれこれ書いてみました。
かなり極端な立場だとは思うけど、まったく参考にならないってことはないよね。


diary 2008.10.

diary 2008

index