昨日の夜、マサルから電話があって、『熱海ロマソ』が某動画サイトにアップされていた、と報告を受ける。
そのときの僕の反応は「よけいなことをしやがって」である。『熱海ロマソ』は過去のことなので、
いろいろと恥ずかしいことがいっぱい詰まっているのだ。今ならもっとうまくやれるのに、という思いがある。
とはいえ僕もマサルも(もちろん潤平も)『熱海ロマソ』には大いに誇らしい部分も多々ある。
まあ良くも悪くも「若気の至り」で、やり残したこともたっぷりある。抱えている感情はとても複雑なのだ。そういうわけで、久しぶりに『熱海ロマソ』を聴き直してみる気になった。
やっぱり『熱海ロマソ』を聴くと、体温が2℃上がる。恥ずかしさで1℃、面白さに興奮して1℃。
この日記で当時のあれこれを思い出して書いてもいいのだが、面倒くさいのでそれはやめておくことにする。
まあ半分くらいは「アチャー」なのだが、もう半分は今でも自信を持って「聴けや!」と言える曲がそろっている。
そういった曲が皆さんのiPodのラインナップに細々と残っていくんなら、まあ、うれしいもんである。しかしまあ、『熱海ロマソ』を聴いていると、過去の自分に負けていられないなあという気分になる。
マサルの書いた歌詞がまだいくつか残っているので、余裕をみて曲をつけてみようかと思った。
そしてできることならゆっくりとレコーディングを進めていって、いつか発表できるといいなあ、と。
実現したらいいなあ。この10年でどれだけ自分が変化したか、音楽で確かめてみたい気がする。
本日は代理で部活を見るのであった。といっても練習で詳しい指示など出せないので、
「お前らケガしないようにやれ」の一言でおしまい。あとは見守ったり「声出せー」と叫んだり。
生徒たちは生徒たちでいろいろ思うところがあるようで、途中で連中の話を聞いては「まあまあ」となだめる。
しかしまあ、このオレが他人の話を聞いてなだめる役にまわるとは。われながら丸くなったもんだ。
けっこう前に『のだめカンタービレ 最終楽章 前編』を見に行ったのだが、感想を書いていなかったのでここで書く。
内容としては以前正月にやっていたスペシャルドラマ(→2008.1.4)の続きで、パリでの千秋の活躍を描く。
つまり後編はそれを目にしたのだめの不調と復活が描かれるわけで、これはいいバランスだなあと思う。
さてこの前編では「千秋の活躍を描く」わけだから、当然、指揮のシーンが非常に多くなる。
落ち着いて考えれば、指揮の演技というのは音が出ない分だけ、「指揮という演奏そのもの」へと近づくのだ。
そのことに気がついて、緊張した表情を見せつつも堂々と「演奏」をする玉木宏の度胸に感心するのであった。展開はマンガをそのまま丁寧になぞりつつ、このドラマシリーズらしいツッコミ待ちの演出をいくつも仕掛けてくる。
大勢の原作ファンの納得のできる力加減を忠実に守りながら映像化をしていく。それ以上でも以下でもない。
でもそれがきれいにハマっているので文句を言うことはない。素直に楽しめる作品になっているから素直に楽しむ。
それにしてもウエンツがフランクでベッキーがターニャというズルいキャストのセンスが相変わらず健在で、
今度はバソンのポールがチャド=マレーンでやんの(でもおいしい役だなあと思うわりには出番は少なめ)。
そうかと思えばテオが付け鼻眼鏡のなだぎ武で、もはやそういう事態に違和感を覚えなくなってしまった。
いちばん最初に竹中直人がシュトレーゼマンをやった時点でもうなんでもアリだったんだなあ、としみじみ思う。総括すると、よくがんばって映像化したなあ、というところ。これは皮肉でもなんでもなく、褒め言葉だ。
だって一切、手を抜いていないのだから。 関わっている誰もが原作のファンで、原作を心の底から尊重し、
全力で新しいヴァージョンを提示してみせている。そういう心情が伝わってくるデキになっているので楽しめる。
このドラマについてあらためて考えてみたとき、僕の頭の中に浮かんでくる言葉は、「祭り」なのだ。
オリジナルと二次創作の関係については前にあれこれ小難しく書いたのだけど(→2007.11.9)、
フジテレビという超お祭り好きなテレビ局が関わったこともあり、ド派手な二次創作の祭りが成立したのだ。
この映画は収益のためというよりも、原作ファンが集まって金を集めてやれるだけやってみた、という印象がする。
『のだめ』のドラマシリーズは全体を通して、どこかそういう潔さというかチャレンジ精神というかが感じられるのだ。さて、原作は23巻まで行って中途半端な印象を残して終わってしまったわけだが(→2009.11.27)、
果たして映画の後編は、そんな読者たちのモヤモヤを吹き飛ばしてくれるのだろうか?
僕は映画館という閉じられた空間の効果も手伝って、けっこうやってくれるんじゃないかと期待している。
原作を忠実になぞってきた二次創作が、最後の最後でオリジナルの仇(という表現も妙だが)を討つ……。
(単純に考えれば、千秋とのだめ以外の仲間のウェイトを大きくすれば、ある程度やれるだろうと思う。)
原作を愛するがゆえの、原作ファンの逆襲を心待ちにしている。この前編はそういう気持ちになれる作品だった。
ノロウイルスが蔓延しつつある……。そのつらさは十分実感しているので(→2006.1.26/2006.1.28)、
感染することがないように気をつけていきたい。インフルの二の舞はなんとか避けなければ。
昼休みにウチの学年が校庭を使える日で、サッカーをやっていたので僕もスパイクを履いて中に混じる。
ご存知のとおり現状ではサッカー部員はゼロで休部中である。それでもサッカーに興味のあるやつはいるので、
そういう連中を少しでも引き込むべく切り崩し工作をしている……つもりなのである。
どれだけの効果があるのかはわからないが、そんな感じで地道にやっとります。
cargoを久しぶりに借りてきた。『Morning Star』と『MARS』の両方を一気に、である。
なぜかはわからないが、発売してずいぶん経っても『Morning Star』は一向にレンタルに出ていなかった。
が、いきなり次のアルバムである『MARS』とともに新作扱いで置いてあったので覚悟を決めて借りたのだった。
久しく情報を仕入れていなかったら、いつのまにかcargoは男2女2のユニットから男一人になっていた。
どういういきさつがあったのかは知らないが、その答えは両アルバムの差から求めればいいのだ。
そう思って家に帰るとさっそく聴き比べてみる。『Morning Star』は前作の『JEWEL』(→2008.6.29)の路線をほぼ踏襲しており、まあ安心して聴ける。
いつも髪を切っている店でかかっている、いかにもオシャレな現代風ハウスである(『JEWEL』はホントによくかかる)。
だからマンネリとは言わないまでも、こうして曲数をストックしていけば一定の支持は得られるな、
という領域に到達している雰囲気が漂っている。つまりその結果が、「美容院で流れる」という事実なのだ。
ただ前作に比べると、コツがつかめている分、全体の流れよりもサビなどの耳につく部分に力が入った感じがある。
そのためかアレンジもアルバムを通してどれも似たり寄ったりなところがある。正直、個性に欠ける。
まあそんなふうに書いてはいるが、聴きやすいし流しているとかっこいい音楽なので、僕は好きだ。しかし『MARS』は、これまでの「こうしておけば嫌われない」という領域から抜け出す意欲が感じられる。
具体的には、ピアノやギターの生っぽい音よりも明らかにシンセの音を重視する音楽性に変化した感じがする。
女性ヴォーカルはゲストを迎えて解決しているようで、この点は従来オシャレな分だけ無個性だったことが、
逆説的に証明されているようにも思える。楽曲じたいも現代ハウスをベースにしながら多様性を持たせている。
言ってみれば、『Morning Star』が美人だけど個性のない顔を想像させるのに対し(さすが美容院で流れる感じ)、
『MARS』はいろんな顔つきの美人を並べようと試みているように思えるのである。
したがって、安定を捨て、独自性を追求するという、前向きな精神が感じられるアルバムだ。
正直なところ、もうちょっと『JEWEL』→『Morning Star』路線を続けて曲数を増やしてほしかった気持ちはある。
でも、『MARS』は『Morning Star』ほどの心地よさというか安心感はないのだが(ちょっとドロくさくなったかなと思う)、
これを聴いて次が楽しみだという気持ちは強くなった。歩みをやめない姿勢は美しいと思うのである。
放課後にテニス部の面倒を見るように頼まれたので、グラウンドへ。
正直なところ、練習そっちのけで生徒とあれこれ話し込むのであった。
まあなんというか、精神面でのきちんとしたケアになったようなのでよかった。
そんなわけで今日も昨日の続きで下見してクイズづくりである。
なんだかんだで昨日のうちにかなりの量をこなすことができていたので、今日は発狂することはなかった。
地図に出ていないあまりにもマニアックすぎる場所がいくつか確認できなかったほかはクリアできた。
あとは撮影した写真をもとにしてクイズの文面を練り上げていくだけだ(といっても、それがなかなかつらい)。日ごろ旅行であちこちの寺社に行っているのだが、そのおかげである程度目が肥えてきたのか、
地味な寺社をめぐるのがなかなか退屈に思えて仕方がない。有名な寺社はやっぱり違うんだなあ、と思う。
あと、『仁 -JIN-』や『龍馬伝』などで世間では猛烈な坂本龍馬ブームが起きているのだが、
品川区では特に旧東海道・品川宿で龍馬関連の街おこしを積極的にやっているのである。
(土佐藩山内家の下屋敷が品川の旧東海道・品川宿近辺にあり、龍馬が若い頃にそこで仕事をしていたのだ。)
その影響で旧東海道・品川宿の街歩きをする観光客がけっこういる。うまく便乗したもんだ、と思う。
個人的には土蔵相模が、大好きな『幕末太陽傳』(→2005.10.22)の舞台と考えられるわけで、
(下敷きになっている落語『居残り佐平次』も『品川心中』も、どちらもはっきりと品川宿の遊郭が舞台だ。)
ぜひその点からもクローズアップしてほしいなあと思うのだが品川区は一切そのことにふれていない!
実に悔しい。超名作の映画なんだからもっとフィーチャーしていこうよ、と心底思っております。
土日を仕事に費やすのは僕の性格上たいへんな苦痛ではあるのだが、ほかに時間がとれないからしょうがない。
というわけで、天気はいいけどややブルーな気分で自転車をこぎだすのであった。今日は来るべき遠足に向けて、ルートの下見をするのだ。今回の遠足ではオリエンテーリング要素を混ぜ、
実際にチェックポイントに行かないと答えのわからないクイズを出すことになったのだ。
まあ当然、クイズ研究会出身ということで問題づくりの仕事がまわってきますわな。前回の下見(→2010.1.7)で行けなかった場所を訪れるのはもちろん、下見した場所も再び訪れてクイズをつくる。
デジカメ片手に文字どおり隅から隅まで見てまわって、少しでもネタになるものを探していく。
相手は品川区内の寺社という非常にマニアックな場所なので、できるクイズも極めてマニアックなものになる。
中にはいかんともしがたい場所もあり(むしろそっちがほとんど)、ウンウンうなりながら四苦八苦するのであった。
「行って確かめないと答えのわからない問題がいいんですよ」という先生の言葉を脳内でリフレインさせ、
もう本当に些細などーでもいーことを重箱の隅の隅から拾い上げて撮影していく。これは本当にキツかった。荏原神社の寒緋桜とメジロ。色の対比が見事すぎる。
それにしても、今回の遠足はどこへ行っても墓ばっかりで、かなりのストレスだよ!
移動した先で無数の墓石を眺めるという行為が延々と続くと、いくら図太い僕でもさすがに参ってしまう。
朝イチからそれを繰り返していたら、午後3時くらいになってガマンの限界が来た。
キエー!と叫んで大森へと逃げ出し、ベーグルをモフモフ食べて日記書いておうちに帰ったとさ。
寝坊しかけた。起きたら出勤してなくちゃいけないリミットの20分前。通勤に15分かかるから、支度は5分だ。
(すいません、職場まで自転車で15分なんです。自宅を出てから3回曲がるだけで職場に着くんです。)
着替えて髪を整えてコンタクトを入れると出撃。何かを忘れているかもしれないが、振り返らない。振り返れない。
結局、職場に着いたのはリミット2分前。しばらく茫然として使い物にならないのであった。いやーヤバかった。で、この日の午前中は授業でいっぱい。午後になっても宿題のチェックで完全に身動きがとれなかった。
こういう忙しい日に限って連中の宿題提出状況は妙にいいのだ。普段出さないヤツがきちんと出してくる。
その後も英検の監督があって夕方まで完全に休みゼロ。本当にしっちゃかめっちゃかな一日だった。◇
さて、先日無事にFREITAGの新しいものを購入し、学校で使っております。
トートバッグタイプのものということでBOB(LEELANDじゃB4を扱うには小さい)を中心に探していたのだが、
一向に納得できるデザインのものが見つからないのと、やっぱデカすぎるのではないかということで、
ここにきてLEOにターゲットを変更。そのうえで今までに持っていない色で納得できるデザインのものにした。これです。
星が入っていて子どもっぽいといえば子どもっぽいのだが、学校で使うにはまあこれくらいでいいかと決断。
英語教師が地味なものを使っていても面白くないのだ。ほら、英語→アメリカ→ドロンパ→ローンスター。
そう考えればこれは正当化できるデザインではなかろうか。むしろ正面左上の白い部分が惜しい。
さっそく職場ではいろいろ入れて有効に活用しております。まあ、ガキどもには魅力がわからんだろうがな!
結婚が決まった先生を祝う会が開催された。職場ではここ最近ずっとそのようなめでたい話題がなかったようで、
非常に和やかなムードで会は進むのであった。いやーよかったよかった。途中で松山ケンイチの話になって、そこからデトロイト・メタル・シティの話になるんでやんの。
酒の勢いで、ケータイで僕がクラウザーさんメイクをしている写真(→2009.9.20)を公開したら、
皆さん「切り札」を手に入れたと言わんばかりの表情なのであった。うーん、これは早まったかも。
中学生どもの前にクラウザーさんが降臨する日も近いかもしれない?
本日はウチの学年で百人一首大会が開催されたのであった。
かつて自分が中学生のときには3年連続で総合優勝を独占しているのだが(→2005.2.26)、
この学校はお勉強があまり得意ではないのでそこまで熱くなることもないのであった。
でも実際にやってみるとそれなりに盛り上がり、写真撮影係の僕も見ていて楽しかった。
久しぶりに本気で百人一首をやりたくなったよ。でもジョジョ(→2008.7.20)はノーサンキュー。◇
放課後には夏にやった研究授業(→2009.7.8)のまとめ作業。
あのときにはいろんな思いでいっぱいいっぱいになっていたが、半年経ってだいぶ冷静になれてきた。
なんだかんだでそれなりに経験を積んでいるんだなあ、などと思うのであった。喉元過ぎれば何とやらである。
朝の打ち合わせで、先輩なんだけど年下の先生が結婚されるとの発表があった。
うわー職場でも尻に火がついたー!
放課後、野球部の面倒を見るように頼まれていたのでグラウンドに出ると、なぜかノックを受けることに。
それでジャージに着替えてノックを受け、ジャンピングスローなんかもしちゃったりして調子に乗っていたら、
なぜか校長がグラウンドに現れてオレと一緒にノックを受けてやんの。いやー、尊敬できますね!
校長、今年で定年なのにオレより肩がいいくらいで、実にいい球を投げるのである。
まあそんな感じで非常に愉快な日なのであった。
本日の仕事は主に受付。昇降口で作品を見に来た皆さんの応対をする。
やっていて、イベントスタッフ時代をちょこっと思い出して切なくなったよ!
いやー、鍛えられたなあ。あれは本当にいい経験だった。◇
家に帰るとUA-25EXをあれこれ操作してみる。屋外で使われることも考慮しているためか、
ボディが異様なほどに頑丈である。これだけ頑丈だとむしろ何のための機械だかわからなくなるくらいだ。
同梱されていたソフトウェア・SONAR6 LEは、これまで使ってきたCakewalk9と基本操作が変わらないようで安心。
最初のうちは細かい部分で戸惑ったが、基本が一緒なのですぐに慣れて問題なく操作できるようになった。いろいろ実験をしているうちに、UA-25EXがDVDの光学デジタル出力を受けつけないことがわかった。
ライヴDVDなどを自分でわざわざMP3化して楽しんでいる自分にはなかなかつらい事実であるが、しょうがない。
で、結局、PS2からアナログ出力したものをいったんSC-D70に通し(これでまた現役に復帰である!)、
そこからUA-25EXへ光学デジタル出力するという作戦をとることにした。われながらよく思いついたものだ。
そんなわけでウチのPS2には怪しげな機械が2個くっついているというマニアックな状況である。
SC-D70とかUA-25EXとか、素人には絶対にわからないもんなあ。ガンプラじゃないんだから。
でもそんなマニアックな機械をきちんと使いこなせてる自分がちょっと好き。
午前中は体育館の警備。朝イチでの当番だったので、もう寒くて寒くてたまらなかったのであった。
とはいえ、茶道部の顧問である先生からお茶をいただいて非常に興味深い経験もできた。
僕はお茶の席に出たことがないので茶道の礼儀というものを一切知らない。
それでイチから教えてもらいながらお茶をいただいたのであった。世の中、いろいろと奥が深いですな!◇
午後には秋葉原に移動。先日注文しておいたDWA用の機械をついに購入するのである。
UA-25EXという機械で、この世界ではバカ売れというか標準的な存在であるとのこと。
思えば物心ついたときにはMZ-2000で遊び(→2006.7.8)、以来それなりにマニアックな人生を歩んでいるが、
縁のない人にはどうにもならないこういう機械をホイホイ使っているという点については、
自分は何ひとつ変わっていないなあ、と思う。ま、とりあえずこいつも末永く使いこなしていきたい。
この土日には今まで学校で各学年がつくってきた作品を展示するということで、その準備があった。
僕のグータラ英語の授業ではそういった作品づくりは一切やっていないのだが(だって僕はそういう世代だもん)、
ほかの学年では日記や将来の夢、修学旅行の感想などを写真やイラストつきの英文でやっていて、
なるほどそういうものかと今さら思うのであった。来年やろうっと。
あとは美術や技術、家庭科、書道、さらに特別活動の作品を中心に体育館が埋まった。放課後になってじっくりと見学してまわったのだが、なかなか面白い!
センスの有無はまあ確かに絶対的なものとしてあるんだけど、意外なやつが意外な才能を見せていたり、
一瞬の冴えが作品に刻まれていてなるほどとうならされたり、見どころは多かった。
いつもお世話になっている裏方のおばちゃんのおそろしい多趣味ぶりを垣間見たのも面白かったなあ。
まあそんなわけで、素直にたっぷり堪能させてもらった。やっぱり人間、モノをつくらないとダメだな!
今日は初任者の研修。今回は研究授業の見学なのであった。授業者は本当に大変なのだが、
見学するこっちとしてはわりと楽しいので(他人の授業を見ることほど楽しいことはない)、気楽に参加。僕は英語を教えているので「まあ似たようなもんだろ」と思われたのか、国語の授業を見学するように言われる。
単元はおなじみ、ヘルマン=ヘッセの『少年の日の思い出』である。蝶をつぶす話だ(元も子もないネタバレ)。
やっぱり他人の授業は面白い。国語は国語、英語は英語で、参考にできない部分もそれなりに多いのだが、
逆に「これ強引に英語でもできねえか?」ということを考えてみたら、それはそれで非常に興味深いのであった。授業が終わると反省会である。なぜか僕が進行役になってしまったので、
例のごとくブレーンストーミングという名のテキトーな話の進め方をやっていたら、
生徒の興味の引き方などを中心して意外と熱い展開になっていくのであった。純粋に面白く勉強になった。
いやー、オレはテキトーにやっていただけなのにあんなに盛り上がるとはなー。ところで『少年の日の思い出』で、登場人物が蝶に関する思い出話を始める部分がある。
ランプに笠を乗せると部屋が暗くなって、遠くからカエルの鳴き声が聞こえてくるシーンなのだが、
国語の先生を中心に、みんなここを「話しやすい雰囲気をつくっている」などと議論をしているので驚いた。
「いや、これは単にヘルマン=ヘッセが回想シーンに飛ばしたいだけでそんなに重要な部分じゃないですよ。
暗くすることで話している人物の顔が見えなくなる、つまり歳をとった現実の顔がそこから消えるわけですよね。
遠くからカエルの声が聞こえてくるのは、距離じゃなくて時間の遠さを象徴しているんですよ、これ。
それで遠くにある不吉な記憶が呼び起こされる、そういう読者を引き込む場面転換をやっていると思いますよ。
少なくとも僕が作者だったらそういう意図でこのシーンを挟みますね」って言ったらみんな目を丸くしてた。
本日は月イチの英語科の会があって、逃げられないので参加した。
研究会と称して各学校の先生方が集まってあーだこーだと話をするのだが、
こちとら1ミリも興味がないので右から左である。終わってから残った先生方であれこれ話をしているのに巻き込まれる。
まあ、なんというか、圧倒された。英語の先生は女性の方がかなり多いのだが、
おばちゃんたちの場外での文句の嵐にペーペーのこっちは愛想笑いするしかない。しかしまあ、これは男と女の戦いであるという気もしないでもない。
男のお偉いさんに対する、おばちゃんたちの草の根の抵抗。そんな印象がした。
僕はつねづね「そんなに面倒くさいことがイヤなら、研究会ごとやめちゃえばいいのに」と思っているが、
それを口に出したら360°全方向からミサイルが飛んでくるから黙って愛想笑い。
うーん、アイアムアジャパニーズ。
滋賀旅行のデジカメデータを整理してみたのだが、すさまじい量の画像に四苦八苦じゃ。
今回は特に撮るべき建物が多かったという事情があるのだが、それにしても凄いことになっていた。
1日あたり実に400枚ぐらい撮っていたのである。さすがにこれには自分で自分に参った。
なんでもかんでもやたらめったらシャッターを切ればいいってもんじゃねえなあ、まったく。
どんな事情があったのかはわからないけど、ムーンライトながらは予定の時刻よりもけっこう遅れて東京に着いた。
本当のことを言うと、青春18きっぷがもったいないので、東京に着いたら逆方向へ旅を続けるつもりだったが、
頭の中で考えていたスケジュールから遅れちゃったし疲れているしもういいやという気分になったので、
遠出するのはやめることにした。で、ある程度東京駅の中で時間をつぶすと、秋葉原で降りる。秋葉原に降りたのには理由がある。前に日記で書いたDAW(→2009.12.20)を今のパソコンでやるべく、
専用の機械を買うことにしたのだ。パソコンにつなげる専門性の高い機械はやっぱり秋葉原で買いたい。
ただ、まだ買い物をするには非常識な時間なので、朝メシを食いつつ日記を書いて過ごす。10時になって秋葉原の街に出るが、専門店は11時開店ということでさらに街を歩いて時間をつぶす。
もはや買い物するという目的がないと秋葉原を楽しむことはできなくなっているので、なかなかつらい。
どうにか11時になって店に行ったら目的の機械は品切れでやんの。しょうがないので注文。いつもの生活スタイルだとだいたいお昼ごろに目的地に着くように家を出るので、動くのはこれから。
でも今日は午前中でやることをやり終えちゃったのでもう帰るしかない。
旅行のときの行動スタイルがいかに特殊か、身をもって実感したといったところである。
朝起きて支度をすると、宿を出る。まだ外は真っ暗だが、駅へとまっすぐ歩いていく。
本日は滋賀県内でまだ行ったことのないところをいろいろとまわってみるつもりである。
とりあえず寒いし腹が減ったので朝飯を食いたい。が、大津駅周辺にそんな店があるわけない。
しょうがないので駅の構内にあるコンビニで食料を買い込むと、東へと向かう電車に乗るのであった。
日曜日だし時間的に空いているかと思いきや、座席は満席。いったい何の用があるというのだろう?近江八幡駅に着いたときには空はすっかり明るくなっていた。いったんここで下車し、
よけいな荷物をコインロッカーの中に詰め込んでおく。そしてJRの改札に戻るのではなく、
近江鉄道の窓口へと急ぐ。そして土日祝日限定のフリーきっぷを購入して改札を抜ける。
それにしても滋賀県はサッカー人口が多い。野洲高校が「セクシーフットボール」で一躍有名になったせいか、
もともと盛んだったのか、いかにもサッカー部なジャージとバッグで電車に乗っている中高生の姿がやたらと多い。
琵琶湖の東側は日本でも屈指のサッカー王国になっている、と言わざるをえないほどの密度なのである。
が、困ったことに近江鉄道の電車内における一部のサッカー部員たちの態度は非常に悪かった。
自分たち以外の一般の乗客がいることをまったく意識していない行動が目立ち、
中にはワンマンの整理券を勝手に取って運転士に注意される中学生までいた。
親というより顧問・コーチの顔が見てみたい(2両編成で、隣の車両のサッカー部員のマナーは良かったが)。そんなこんなでのんびりとした稲作地帯を進んでいった先にあるのが八日市駅である。
平成の大合併により八日市市という自治体はなくなり、現在は東近江市というつまらない名前になっている。
ここの市役所がなかなか凝っているらしいということで、今回わざわざ訪れてみることにしたのである。
(旧建設省の「公共建築百選」に選ばれているのだが、この中にはダメな建築も含まれているのだ……。)駅から伸びる駅前グリーンロードはすっきりとした商店街になっている。南側にはアーケードの商店街もあるが、
雰囲気としてはどちらもそれほど寂れている感触がしない。小ぢんまりとうまくやっているように思える。
かなり早い時間帯に訪れたので本当のところはわからないが、少なくとも活気がなくて汚れている印象はない。
L: 八日市駅。「八日市」という特徴のある名前が表舞台から消えてしまったのは非常に残念である。
C: 駅前グリーンロード。最近になって再開発したのか、小ぎれいな店舗が並んでいる。わりと元気っぽい。
R: 南側に弧を描いて伸びる本町商店街。昔ながらの個人商店が並ぶ一方で新しい飲食店もできている。駅前グリーンロードをまっすぐ歩いていく。高校があったり郊外型の店があったりするが、
全般的に敷地に余裕のある建物が多く、とてもゆったりしている印象を受ける。
やがて右手に大きな西友が見えてくると、辺りの雰囲気は役所・官庁のお堅い並木道へと変化する。
そんな木々の奥にあるのが東近江市役所。意外と幅があり、道路を挟んで撮影しても収まりきらない。
窓の形状が旧千代田生命の目黒区役所(設計・村野藤吾)をなんとなく思い起こさせるが、
やはりそこまでの迫力はない。並木がジャマしていなければもうちょっと見栄えがいいのに、と思う。
ことあるごとに書いているが、無神経に植えられている街路樹は電線と同じように美観を損ねる(→2008.9.12)。
L: 駅前グリーンロードは市役所付近の官庁街になって雰囲気を変える。まあ、むしろこっちの方が「グリーン」なのだが。
C: 東近江市役所。1977年竣工ということだが、当時にしては高さがないものの規模が大きいように思う。
R: 角度を変えて撮影。まあ確かに、市役所というよりは市民会館的な、独特の雰囲気がある。
L: ファサードを接近して撮影。近くで見るとこのようになっているのだ。1階部分は何気にピロティ。
C: 側面を眺める。駐車場もたっぷり用意してあり、敷地面積が非常に大きいのも特徴であると思う。
R: 裏手にまわるとオープンスペースがつくられている。市役所にしてはけっこう凝っている部類に入る。まあ確かに、批判を恐れて無難につくるのは非常につまらないことだと思うので、こだわりがあるのは好印象。
地元でもそれなりに愛着があるようで、観光案内か何かで市役所の絵をわりときちんと描いているものがあった。
しかしまあ、個人的な感触としては、それほど騒ぐほどのものではないかな、といったところである。
むしろゆったりとした八日市の街並みそれ自体の方が僕にはひどく印象的だった。
八日市は百畳分ほどの大きさの大凧で有名な街らしいが(駅舎のアトリウムに凧が展示されていた)、
街の雰囲気もそれと似た感じ、どこか鷹揚とした感触がするのである。女の子の飛び出し坊や(飛び出しガールとでもいうのか?)もいたよ。
八日市駅に戻ると、そのままさらに近江鉄道で北へと進んでみる。次の目的地は豊郷町。
1999年、この町は一躍有名になった。それは、ウィリアム=メレル=ヴォーリズ設計の小学校をめぐる問題である。
当時の町長が、老朽化と耐震性を理由に1937年築の校舎を解体する意向を表明したのがきっかけ。
反対する住民との間でトラブルになり、連日ニュースでとりあげられる事態となった、あの小学校を訪れるのだ。豊郷駅で降りると、あらかじめ地図でチェックしておいたとおりに小学校を目指して歩く。
旧中山道に出てしばらく行くと豊郷町役場。せっかくの記念ということで撮影しておく。
穏やかな住宅の中に時折、往時をしのばせるようないかにも街道沿いの古い家が点在する道を行く。
途中にある神社の脇にはこの道が中山道であることを示す看板が出ていた。
そこからさらにちょっと進んでいくと、広い敷地の中に真っ白な四角い建物が右手に現れる。
耐震工事でリニューアルされた旧豊郷小学校である。今は校舎としての役割をすでに終えているが、
オープンスペースも含めてつくられた当時の雰囲気をしっかりと保って建っている。
L: 豊郷町役場。まあ、ふつうに役場です。 C: 旧豊郷小学校に展示されていた、かつての町役場の写真。
R: 旧中山道を行く。適度な広さでまっすぐ伸びており、歩いているとなんだか和んだ気分になる道である。現在の旧豊郷小学校は、1階は教育委員会や図書館などが入った複合施設として生まれ変わっている。
2階と3階は校舎として使用されていた教室をそのまま保存。正面向かって右の講堂もかつての姿のまま保存。
向かって左の酬徳記念館は観光案内施設となっている。中に入る前に、まずは外側のあちこちを撮影してまわる。
面白いのは噴水で、鯛(だと思う)が水を噴き出していた。どのような意味が込められているのか気になる。
L: 旧豊郷小学校を正面より撮影。リニューアル工事は昨年5月に終わったばかり。けっこう強烈なリニューアルである。
C: 角度を変えて撮影。思っていた以上に装飾がなく、驚くほどシンプルだ。 R: 水を噴き出す鯛(らしき魚)。最初に酬徳記念館の観光案内所に入ってみる。きっと豊郷町の名産品が置かれているんだろうな、と思いきや、
そこで繰り広げられていたのは想像を絶する光景なのであった。まず流れているBGMがアニメソング。
展示されているのはギターやベースなどの楽器とアニメ絵。な、な、なんだこれは! 衝撃が走る。
見てみると、そこには『けいおん!』の文字。どうやらこのアニメの舞台となっている校舎のモデルとして、
この旧豊郷小学校が使われたらしいのだ。そしてそれをネタにして町おこしを行っているようなのだ。
そういえばさっき、駐車場に相模ナンバーの車が止まって男が2人降りてきて、旧校舎の写真を撮っていた。
今どきこの校舎に注目するとはコアな建築ファンじゃのう、などとのん気に構えていたのだが、そういうことか!
いやむしろ、僕が『けいおん!』大好きなアニメファンとみなされてしまうわけで、こりゃかなわん!
(僕は『けいおん!』よりも『軽音部!』の方が好きです。……このギャグわかんなくていいです。)
L: 酬徳記念館。現在は観光案内所となっている。 C: ……が、中に入るとご覧のとおり。うーん。
R: 内装は装飾を排しつつも誇りを感じさせてすばらしい。でもBGMがアニメソングなんだよなー!2階から眺めたところ。午後には「けいおん!カフェ」として営業するらしい。
知らない間に旧豊郷小学校が大変なことになっている……。酬徳記念館を出ると、いよいよ本格的に校舎内へ。
1階はさすがにリニューアル色が強いものの、2階から上はかつて現役の学校だったことを思わせるつくり。
白い壁に浮かび上がるようにして往時のままの茶色い木材が残され、町の誇りと歴史を見せつける。
L: 有名な『兎と亀』のブロンズ像。こうして眺めると仲良く話し込んでいるようにも見える。
C: 正面から見るとこんな感じ。ここから競走が始まる。 R: ゆっくりと手すりを上っていく亀。
L: 踊り場のところで兎は居眠り。 C: 先にゴール(2階)に着いた亀。 R: 2階の廊下。学校の雰囲気が残る。2階ではかつての教室がそのまま保存されているが、1室だけ竣工当時の姿となっている。
そして真ん中のいちばん高い部分、3階は唱歌室と会議室、あとは屋上である。
僕が育った地元の小学校(→2006.8.13)の記憶も重ねながら、ゆっくりのんびり歩いていく。
が、ところどころでスリッパが滑って困った。昨日の延暦寺西塔でもツルツルに滑って苦しんだが、
旧豊郷小学校も床材とスリッパの相性があまり良くないようで、かなり滑る。訪れた際には要注意である。
L: 竣工当時の姿を残した教室。しかし逆光で中の様子はあまりよくわからず。とりあえず、机がアンバランスに新しい。
C: 唱歌室。「音楽室」でないところが独特。 R: 唱歌室より眺める現在の豊郷町立豊郷小学校の校舎。さて、唱歌室の隣は会議室ということで、中に入ってみてびっくり。『けいおん!』がまたも室内を侵食していたのだ。
どうも主人公たちの軽音部の部室という設定になっているらしく、机の上にはお茶とケーキが置いてある。
振り返れば黒板には“聖地巡礼”にやってきたファンが書いたと思われるメッセージがびっしり。
アニヲタのやりたい放題が繰り広げられ(もちろん節度は守られていたよ)、唖然とするしかなかった。
L: ファンがメッセージを書きなぐった黒板。「澪は俺の嫁」と書いてあったり、そこに「鬼」を書き加えて「鬼嫁」にしてあったり。
C: ノートも置いてあり、そちらにもいろいろ書けるようになっている。相模ナンバーの2人組も何か書いていったよ。
R: 僕はよくわからないのだが、おそらく“聖地巡礼”における最も“聖地”っぽい部分。なんだかなあ、と思いつつ1階まで降り、豊郷小学校旧校舎に関する資料の展示を見てみる。
アニメファンはこっちにはあまり寄りつかないようで、その価値観がよくわからない。
展示の内容は小学校を軸にした町の歴史だったり、建物の図面だったり模型だったり。
かなり詳しく、建築史の専門家ならウホウホ喜びそうなレベルであると思う。
L: 展示室内の様子。 C: もともと職員室で、昔の電話が残されていた。 R: 竣工当時の姿を再現した模型。最後に講堂の中に入ってみる。内部は大学の大教室のように、前に向かって下がっていくようにつくられている。
一方でまた、真ん中を通路にして左右に長椅子が並ぶ様子は教会にも似ている印象を受ける。
ためしに登壇してみるが、スケールがやはり小学校のサイズなのだ。そのことに懐かしさを覚えた。
L: 前庭を挟んで酬徳記念館と向かい合う講堂。 C: 中はこのようになっている。前へと下がっていくのが独特だ。
R: 壇上はけっこう狭い。実際に上ってみると、身体スケールがいかにも小学生向けなのである。懐かしい感覚がした。壇上から講堂全体を見渡す。
1時間ほどかけてたっぷりと旧校舎内を見てまわったので満足である。
耐震工事の結果、外観があまりにきれいになりすぎてしまったのは残念だが、中はちゃんと古い部分を残している。
個人的な感想としては、ヴォーリズはあまり装飾にこだわることのない建築家だったのかな、という印象を受けた。
この旧校舎には、過剰な装飾は一切ない。驚くほどにシンプルで、質実剛健なつくりをしているのだ。
学校によけいなものは必要ない。でも全体を眺めてみると、端正な美しさにあふれている。
住民たちが「地元の誇り」として覚悟を決めて保存した近代建築を、この目で確かめることができてよかった。旧豊郷小学校前にも飛び出し坊やはいます。
さてこの辺でいいかげん、滋賀と飛び出し坊やの関係についてきちんと書いておかねばなるまい。
豊郷駅から旧小学校までの中山道の区間だけでも少なくとも3例を確認したが、
とにかく滋賀県は全域に飛び出し坊やが異様な密度で生息しているのである。この件を最初に知ったのは確かNHK教育の番組で、みうらじゅんとT.M.Revolution(滋賀出身)が、
滋賀県にある飛び出し坊やを子どもたちと一緒にチェックしていき、最も優秀な作品を決める、
ってなことをやっていたような気がする。ネットで検索してみると「ほぼ日刊イトイ新聞」において、
やはりみうらじゅんが飛び出し坊やについて詳しい見解を述べている(⇒こちらを参照)。
みうらじゅんは「滋賀県は背後が常に琵琶湖ですから、人は、前に飛び出していくしかないのでしょう」と語っている。
ほかにも「お地蔵さんなどと同じ、道祖神の域に入ってきている」「『伝来』という事象について教えてくれている」
などのコメントを残している。実際に訪れてみると、噂以上に飛び出し坊やは多くいるように思う。
なんで滋賀だけこんなことになっているのか、さっぱりわからない。滋賀県の最大のミステリーである。寒くて腹が減ったので、やはりコーンポタージュを飲みつつ電車を待つ。
ほんのわずかだが雪が降ってきたようで、顔にちらちらと冷たいものが当たる。空の色と同様、重苦しい気分になる。
豊郷を出るとさっき降りた八日市を経由して、近江八幡まで戻る。ここでようやく近江八幡の街歩きだ。
観光案内所で地図をもらうと駅からまっすぐ北西へと伸びる大通り「ブーメラン通り」を歩いていく。
(ある程度進んでいったところで微妙に曲がる形をブーメランの形状にたとえたものと思われる。)ふつう近江八幡を観光するなら、駅前のバスターミナルからバスに乗る。しかし僕は歩く。
常識的には歩いてなんかいられないくらいの距離である。正直、自分としてもしんどい。
でも近江八幡市役所は駅から市の中心部へと向かう途中にあるのだ。それならいっそ、歩いて通そう。
官庁街中筋という中央分離帯のある道路がブーメラン通りと交差しており、市役所はこの道路に面している。
市役所の周辺には税務署・文化会館・警察署・保健所・信金などが集まっており、なるほど官庁街だ。
おかげで建物と建物の間が適度に空いて、撮影がわりとやりやすい。
L: 近江八幡駅。市街地からはかなり、いや、めちゃくちゃ離れている。
C: 近江八幡市役所。今年3月には安土町を合併して新しい近江八幡市になるそうだ。
R: 裏手から見たところ。地味と言えば地味で、まあいかにも庁舎らしさがあふれる建物である。市役所の撮影を終えるとさらに先へと進んでいく。道は典型的な郊外の広い道路、でもコンビニがないという、
なかなか厄介なパターンである(→2009.12.30)。しかし近江八幡の場合には、行けば行くほど八幡山が大きくなる。
だから確信を持って前に進んでいくことができる。やがて郊外型の道は旧街道の雰囲気を漂わせるようになり、
八幡小学校の脇を通って小幡の交差点に到着。右に曲がっていよいよ近江八幡の街並みとご対面である。まずは近江八幡市立資料館の中に入ってみる。
この資料館は、郷土資料館・歴史民俗資料館・旧西川家住宅・旧伴家住宅という4つの建物で構成されている。
元は八幡警察署だったという郷土資料館は中に入ると狭くて、かつての庁舎建築らしさを存分に感じることができる。
中の展示は、昔使われていた民俗的な生活用品が中心となっており、かなりの数の資料が並んでいる。
その奥には歴史民俗資料館があり、こちらでは近江商人の邸宅をそのままの姿で展示してある。
こちらもやたらめったら道具が置かれており、それらを見ているだけでもなかなか面白い。
L: 八幡山が近江八幡の街を見下ろしている。時間があれば八幡山にも登りたかったのだが、さすがにそれは無理。
C: 郷土資料館。中は妙に狭苦しい。 R: 奥にある歴史民俗資料館。置いてある道具の名前がいちいち書いてある。郷土資料館の道を挟んだ向かいにあるのは旧伴家住宅。この建物の使われ方の変遷が非常に面白い。
その名のとおりもともとは近江商人の住宅だったのだが、明治時代になってから八幡町に譲渡され、
小学校・役場・女学校とさまざまな使われ方をする。さらに戦後は1997年まで図書館となっていたそうだ。
改修工事がされたのか、中に入るとどの部屋も見事な和室ばかりで、学校だったのが想像できない。
大きな吹き抜けがあったり階段を上がると中2階があったりと、昔の日本人のクリエイティヴィティがかっこいい。
L: 旧伴家住宅。写真を撮っていたらここが小学校だったときに卒業したおばあちゃんが観光に来て、「懐かしい」と言っていた。
C: 大広間である。2階にこれだけの空間がとれるってのがすごい。 R: 隣の公園から見た旧伴家住宅。近江八幡の古い街並みが残っている新町通りの真ん中にあるのが、旧西川家住宅である。
やはりこちらも近江商人の住宅であり、重要文化財に指定されているとのこと。
路地を通って中庭・土蔵に面した入口へとまわり込む。扉を開けるとそこはいきなり高い天井で、とても開放感がある。
玄関から奥の新町通りへ向けてまっすぐ土間の通路ができていて、部屋はその両脇につくられている。
板戸や障子で区切られた部屋と高い天井を持つ土間の通路の、ヨコとタテの対比が非常に印象的である。
きちんと金のかかっている古い日本家屋はどれをとっても面白い。昔の人がうらやましくなる。
L: 旧西川家住宅。入口は右にある通路を進んでまわり込んだところにある。外側は何の変哲もない建物だが。
C: 中に入ると多様な空間になっている。特にヨコの各部屋とタテの土間の通路という対比が劇的である。
R: 振り返って玄関を眺める。天井が非常にかっこいい。金のかかった日本家屋は実に面白いものだ。さていよいよ、本格的に八幡伝統的建造物群保存地区を歩いてみる。通りとしては新町通り・永原町通りが中心で、
そこに日牟礼(ひむれ)八幡宮と八幡堀の周辺を加えたエリアが代表的な観光スポットとなっているわけだ。
新町通りを歩いていると、木造住宅が見事に並んでなんとも言えない不思議な気分になる。
街道沿いの宿場町とは違い、こちらは商人の家なので客を相手にすることを前提としていない空間なのである。
僕ら観光客はこれを非日常の光景として捉えているが、これは本来、ものすごく日常の光景であるはずなのだ。
そこの落差と、日常として存在しているその現実感・生活感とが、僕を揺すぶってくる。まっすぐ行くと八幡堀に出る。堀に面した土手には石畳が敷かれている。ここは日牟礼八幡宮へ向かう通りの裏手で、
川を眺めながら家々の裏を抜ける格好になるため、観光している感覚と妙な生活感とがやっぱりごっちゃになる。
しかし日牟礼八幡宮近くになると観光客の数は非常に多くなり、その賑わいの中にいるとただの観光気分に戻る。
L: 新町通り。店舗はひとつもなく、すべて昔からの住宅である。よく考えるとそういう伝統的建造物群保存地区は珍しい。
C: 八幡堀。日牟礼八幡宮より西側は石畳の小道があり、東側はこのように堀の両側を木造建築が固めている。
R: 白雲館。元は1877(明治10)年築の学校で、典型的な擬洋風建築である。現在は観光案内所になっている。というわけで日牟礼八幡宮に着いたので、きっちり参拝しておくのである。
連休の中日ということもあってか、境内は観光客でいっぱい。かなりの賑わいを見せている。
近江商人の信仰を集めたというこの日牟礼八幡宮は、当然、近江八幡市の名前の由来になっている。
「八幡」という名の街は全国各地にあるが、「近江」を冠したところに近江八幡の成功があると思う。
歴史を感じさせる旧国名と実際に残る街並みの雰囲気が合致して、多くの観光客を集めていると思うのだ。
実際に観光客が日牟礼八幡宮に押し寄せている光景を目にすると、そう考えずにはいられない。
L: 日牟礼八幡宮の楼門。足元に比べて上が大きいような感じがする。
R: 日牟礼八幡宮の本殿。写真の中ほどにそろばん的なものがある。さすが近江商人の信仰を集めた神社だ。その後は近江八幡市街の歴史的な建物を中心にまわってみることにする。
近江八幡といったらなんといってもヴォーリズである。やたらめったらヴォーリズの建築が残っているので、
それをある程度フォローしてみることにするのだ。まずは中心部からややはずれた位置にあるヴォーリズ記念館。
1931年竣工のヴォーリズの自邸だが、木造なのである。入館するには事前の予約が必要なのだが、
ゆっくりしていられない僕は当然予約をするはずがないのであった。残念な気もするが、また次回ってことで。
続いて旧八幡郵便局へ。1921年の竣工から1960年まで郵便局として使われていた建物である。
現在はNPOの事務所だかなんだかになっているようで、アトリエで子どもたちが何やら工作をしていた。
L: ヴォーリズ記念館。ヴォーリズに木造のイメージはあまりなかったので、自邸が木造だったのはやや意外。
C: 旧八幡郵便局。道幅が狭いので非常に撮影しづらかった。 R: 中はこのようになっている。カウンターが健在。旧近江八幡YMCA会館であるアンドリュース記念館にも行ってみる。
近江兄弟社はヴォーリズを含めたこの建物に出入りする人たちによって創設されたとのこと。
見たところ、かわいらしい住宅といった印象の建物である。瓦屋根なのも面白い点だ。
L: アンドリュース記念館。アンドリュースとはヴォーリズの親友で、若くして亡くなり、遺族の資金でこの建物ができたそうだ。
C: 裏側はこんな感じ。 R: 駐車場からは近江八幡の街の瓦屋根が並んでいるのが見えた。ここまで集まると見事だ。ボサッとしていると予定の電車に間に合わなくなる。近江八幡駅の尋常じゃない遠さをすでに実感しているので、
頭の中をすぐに帰りモードに切り替える。最後にヴォーリズ像を眺めておくと、中心市街地を後にする。
L: 八幡堀の少し手前にあるヴォーリズ像。女の子が近江八幡名誉市民のお祝いの花をあげるという構図になっている。
C: 中心部からやや西のはずれにある池田町洋館街。煉瓦塀の奥にヴォーリズが初期に設計した住宅が並ぶ。
R: 八幡小学校。1917(大正6)年に近江商人が資材を投じてつくった校舎である。土地の気風が感じられる。早歩きで駅まで戻る。それでも20分以上かかった。観光案内所でパンフレットやチラシをもらい、
コインロッカーから荷物を引っぱり出す。時刻はまだ13時半なのだが、冬は日が短いのでモタモタしていられない。
電車に乗ると、彦根を抜けて米原へ。そこで10分ほど停車した後、車両の数が減った電車は北へと走りだす。本日最後の目的地は、長浜である。羽柴秀吉が整備した城下町で、もともとは「今浜」という名前だったのだが、
主君・織田信長から一字をもらって長浜という名前に変えたという歴史のある街である。
長浜駅に着くと近江塩津行きの列車からはドカドカと人が降りる。僕も一緒にそのまま改札を抜けて、
コインロッカーを探す。駅裏側の西口にあったので、荷物を預けてそのまま豊(ほう)公園へ。豊公園はかつての長浜城址である。もちろんその名は豊臣秀吉にちなんだものだ。
庭園やプール、テニスコートなどがあり、面積はかなり広い。そして敷地の北端にある市立長浜城歴史博物館が、
犬山城や伏見城をモデルにして1983年に再建された模擬天守となっているのである。
とりあえず琵琶湖の波が打ち寄せる湖岸まで行ってみる。途中で猫が3匹いるのを見かけたが、
昨日のひよにゃんとは違ってこちらは野良のようで、こっちに警戒し続けて近寄ってくることはなかった。
で、湖岸に立って琵琶湖を眺める。茫洋と広がる湖面の向こうに山が連なるが、やはり冬なのでわびしい。
でも近くで遊んでいた子どもたちは、「貝がいるよ!」と無邪気にはしゃいで元気である。市立長浜城歴史博物館の中に入ってみる。高いところから琵琶湖を眺めてみようと思ったのだ。
中の展示はお決まりのパターン。地元のわりには国友関連の展示が不十分であるように感じた。
5階の展望台から、まずは駅と市街地の方を眺める。が、マンションが実にジャマ。本当にジャマ。
対照的に琵琶湖の方は当然、何も遮るものがない。しかし周囲の山は高く、ここが湖であることを強調する。
滋賀というのはどこへ行っても、水と山に絶対的に囲まれた、逃げ場のないところなんだなあと思う。
L: 長浜駅。2階に親切な観光案内所あり。 C: 再建天守の長浜城歴史博物館。
R: 長浜城歴史博物館から眺める長浜市街。2棟のマンションが常軌を逸したジャマっぷりである。
反対側の琵琶湖。やっぱり冬の琵琶湖はわびしいなあ。
さて、続いては駅の東側に出る。今日は1月10日で、まさに十日えびす。
駅前どころか街全体に、「商売繁盛で笹持って来ーい!」のフレーズが鳴り響いているのであった。
大通りをそのまままっすぐ東へと進んでいく。途中で曲がる必要がないので迷わなくていいのだが、
それにしても長浜市役所はなかなか遠い。郊外型の店舗が現れだす直前の市街地の端にあるのだ。開知学校(後述)のデザインをそのまま新築校舎に持ち込んで悲惨なことになっている長浜小学校の斜向かいに、
長浜市役所は建っている。本館は1954年竣工と、比較的早い時期の鉄筋コンクリート3階建てである。
さすがに滋賀県内では最も古い市役所となっており、新庁舎の建設をかなり具体的に検討しているようだ。
(その分散・狭隘ぶりはかなりのもので、もともと病院だった建物を市役所東別館として使っているほどだ。)
ただ、建物としては戦後わりとすぐに建てられた基礎自治体の庁舎ということで、それなりに研究価値はある。
保存は無理だとしても、何らかの形できちんと記録に残しておいてほしい事例である。
L: 長浜駅前にある秀吉公と石田三成公・出会いの像。長浜は石田三成の出身地だ。三献茶ですな。
C: 長浜市役所本館。デザイン的には戦前の庁舎建築の影響が強く残っているように思う。
R: 裏手から眺めたところ。建物の分散・狭隘というのはつまり、駐車場の分散・狭隘という問題でもある。市役所の撮影を終えると、「長浜御坊」と呼ばれる大通寺に行ってみる。
参道は1990年に大改装が行われたそうで、小ぎれいな門前町としての雰囲気を強く漂わせている。
そこを抜けると、江戸時代末期に32年かけてつくられたという山門が現れる。
彫刻を中心にさまざまな装飾が施されており、その手間のかかり具合に息を呑む。
山門をくぐってやや右手にある本堂(阿弥陀堂)は江戸初期のもので、もとは伏見城の建物だったという。
どちらも非常に重厚な印象を受ける。やっぱり最高権力者の本拠地だった城下町は違うなあ、と妙に感心。
L: 「長浜御坊」こと大通寺の山門。 C: こちらは大通寺の本堂。どちらも巨大さ・重厚さが印象に残る。
R: 長浜大手門通りのアーケードを脇から眺めた光景。アーケードの上を走る電線がなんだか線路みたいだ。長浜御坊の参道を戻ると、長浜大手門通りのアーケード商店街を歩いてみる。
これが非常に元気いっぱい。飲食店も土産物屋も活気があり、観光客が通りをしっかり埋めている。
アーケードの屋根が自然光をしっかり採り入れる構造になっていることもあり、雰囲気がすごく明るい。
途中にはフィギュアでおなじみの海洋堂のミュージアムがある。1階は土産物を広く扱う店になっており、
これまた大繁盛。そしてそのままアーケードを抜けると黒壁スクエアに出る。長浜最大の観光スポットだ。
北国街道と大手門通りという、歩行者にとっては魅力たっぷりの道が交差するこの場所は、
伝統建築をそのまま活用して現代的な用途へとリニューアルした施設が集中しており、観光客だらけ。
正直、長浜がここまですさまじい人気だとは思っていなかったので、ただただ唖然とするのみだった。
L: 長浜大手門通りのアーケード商店街。十日えびす効果を差っ引いても、ものすごい盛況ぶりである。
C: 海洋堂フィギュアミュージアム黒壁。大魔神と等身大のケンシロウがお出迎え。1階は土産物がたっぷり。
R: 黒壁スクエア側から見た大手門通りアーケードの入口。いやはや、ここまで観光客が多いとは思わなかった。ここであらためて黒壁スクエアについてまとめておこう。この北国街道と大手門通りの交差点は、
「札の辻」と呼ばれている(つまり江戸時代には高札場だった)。ここを中心に黒漆喰の和風建築が点在しており、
それらをガラス芸術の文化施設やレストラン、カフェ等に再生して、観光スポットとして売り出したというわけだ。
きっかけは「黒壁1號館」こと旧第百三十銀行(1899年竣工)。この建物が取り壊されそうになったのだが、
逆にそれを契機にガラス芸術の博物館へとリニューアルした。さらに周辺の古い建物もリニューアルすることで、
点が線へ、面へと広がっていき、今や長浜は観光都市として確固たる地位を築くに至ったというのである。
実際に観光客がワンサカ群れをなしている光景を目にすると、その賢明さには舌を巻くばかりである。
L: 黒壁1號館・黒壁ガラス館。 C: 黒壁10號館・黒壁美術館。 R: 黒壁5號館・札の辻本舗。残念なところでは、北国街道沿いに安藤家という1905(明治38)年築の商家建築があるのだが、
こちらは1998年に一般公開が終了し、今は外から眺めるだけとなってしまっている。
また、1874(明治7)年築の擬洋風建築、開知学校も黒壁スクエアの和風建築ほどのPRがなされていない。
現在どのように利用されているのかがよくわからないが、貴重な建築なんだからもっと紹介していってほしいものだ。
L: 安藤家。これがきっちり再公開されれば長浜の魅力が増すのに。 C: 北国街道沿いの伝統的光景。
R: 開知学校。1階は飲み屋だか外国の料理屋になっているのだが、ほかの用途がイマイチよくわからない。前述のとおり、長浜はもともと秀吉の街だったわけで、豊国(ほうこく)神社にお参りしなければなるまい。
駅からすぐの場所にあるのだが、行ってみるとそこは十日えびすということで大賑わいなのであった。
なぜ秀吉を祀っておいて(ほかに加藤清正や木村重成も祀られている)、えびすの神社なのか。不思議だ。
そう思って調べてみたら、興味深い歴史があった。江戸時代には幕府によって秀吉信仰が禁じられてしまい、
しょうがないので長浜の住民はえびすを祀る神社にこっそりと秀吉を祀っていたというのである。
そのため、秀吉を祀る神社なんだけどえびすの神社でもあるという現状になったのだ。なるほど、納得がいった。秀吉の神社だけど、商売繁盛で笹持って来い!なのだ。
豊国神社は参拝するにもかなりの行列ができていて、しょうがないので僕も並んで順番を待つ。
時刻はもう夕方なのだが、一向に人の波は衰えていない雰囲気である。関西圏の十日えびすの迫力は、
関東圏にはない独特のものだと思う。それを初めて体感して、大いに圧倒されるのであった。せっかく長浜まで来たので、まったく興味はなかったのだが、海洋堂フィギュアミュージアム黒壁に入ってみた。
いまだになぜ海洋堂が長浜にミュージアムを出すのか、その意図がさっぱりわからないのだが、
話というか日記のネタとしてひとつ見てやろう、と思ったわけである。入館料は800円。
ただしフィギュアのガチャガチャができるコインが1枚ついてくる。いわばフィギュア1個込みの料金というわけだ。
でも僕はフィギュアに興味がないのでコインをそのまま持ち帰ることにした。そういう選択だってアリだろう。最初は食玩がズラリと展示されたコーナーである。中国で大量生産される食玩へのこだわりに圧倒される。
塗装の工程だけでも30以上あるというのだから恐ろしい。そういう目で完成品を見ると、確かによくできて見える。
続いては生命の歴史をジオラマで再現したコーナー。バージェス頁岩から出てきたカンブリア爆発な古生物が、
実にカラフルに展示されている。化石でしか見ることのなかった異形の生物が、生々しくふるまっている。
生物はさらに進化を遂げて恐竜から哺乳類へと近づいていくのだが、これは正直、見ていて心底感心した。
たかがフィギュアも、突き詰めればそれは博物館レベルの知識へと結びついていくのである(解剖学的領域で)。
誇張抜きで、これはミニチュアの国立科学博物館と呼べるものなのだ! そう気がついて、見方が180°変わった。
ほかにもシュモクザメの群れを海底から見上げる趣向のジオラマがあったのだが、
つまり、精巧なフィギュアによる展示は、実現不可能な現実を高い精度で再現することができるということだ。
最初はナメていたフィギュアの世界だったが、実際に体験してみたら、これは予想をはるかに超える面白さだ。最後はアニメや特撮のヒーロー・ヒロインを扱ったコーナー。2次元を3次元で無理なく解決する世界である。
まあこの辺は昔(ホントに10年くらい前)片足を突っ込まなくもなかった領域なので、素直にプロの技に魅了される。
やはり立体造形は僕の最も得意とするジャンルなので、なんだかんだで血が騒ぐのである。閉館時刻の17時を少しオーバーして見学させてもらった。どうもありがとうございました。
で、アーケードに出てみたら、まだこの時間帯なのに、一部の飲食店以外はもう完全に閉まっていたのであった。
いくらなんでも店じまいみんな早すぎだろ!と思うのだが、どうにもならない。さっきまでの賑わいが嘘のようだ。
そういうわけで長浜観光をする皆さんは、17時を過ぎるとどの店も営業を終えてしまうので気をつけましょう。
しかし本当にこれは早すぎる。これだけあきらめのいい商店街は初めてだわ。それでも長浜市内で無事に晩飯をいただき、駅へと戻る。米原経由で西へと向かう電車内はやっぱり満員。
米原で降りてちょっとだけ駅前を歩きまわってみるが、予想以上に何もなくって困る。雪しかなかった。
早々に切り上げて大垣へ。大垣に着くと、駅に程近いデパートで夜食を買い込み、駅ビルのミスドに入る。
そこではカフェラテを無限におかわりしながらひたすらパソコンで日記を書くのであった。
閉店時刻まで粘りに粘って日記を書き続ける。そしてミスドを出ると、今度は駅のホームで呆けて過ごす。
あまりにヒマだったので、読み止しの文庫本を引っぱり出し、人のいない逆側のホームで読み進める。やがてムーンライトながらがやってきた。指定された座席に乗り込み、夜食をむさぼる。
さすがにムーンライトながらの座席は4列シートの深夜バスとは比べ物にならない快適さである。
ここのところすっかり深夜バスでの苦行に慣れてしまっていたので、こりゃえーわーとニヤニヤしつつ寝る。
うーん、やっぱり旅行は楽しい!
ボサッとしていてムーンライトながらの乗車券が取れなかったため(→2009.12.13)、今回も深夜バスである。
目的地は滋賀・大津。……なのだが、大津行きのバスではなく、京都行きのバスに乗り込んだ。
というのも関西方面への深夜バスは価格破壊が進行していて(→2009.11.21)、メジャーな路線が激安なのだ。
したがって、直接バスで大津に行くよりも、京都まで行って電車で大津に乗り込む方がはるかに安く済むのである。京都駅烏丸口に着いたのが午前6時40分ごろ。予定より30分以上早い到着である。
まだまだ空は薄暗く、目の前にそびえる京都タワーも妙に背景に溶け込んで見える。
そしてさすがに寒い。覚悟はしていたのだが、予想以上に寒い。いつもあったかいブルゾンでも少々キツい。
とりあえず立ち食いうどんで体の中からあたためてから大津へ移動することにする。街が目覚めるのを待つ京都タワー。今回の旅では京都の名所を一切無視。
見事に山に囲まれた山科から、トンネルで東に抜けるとすぐに大津である。大津もやはり寒い。
駅の端にある観光案内所はまだ開いていないが、通路の扉は開放されていてパンフレットが取り放題。
あれこれ見繕って確保しておく。営業時間外でも貴重な資料が入手できるこういう仕組みは非常にありがたい。空が明るくなってきたので、意を決して駅から外に出る。が、あまりの小ぢんまりとした雰囲気に驚く。
県庁所在地の玄関口であるにもかかわらず、大津駅周辺は道路がそれほど広くなく、とっても地味なのである。
駅を出て右手はビルやそれほど大きくないデパート、左手には居酒屋が何軒か。それくらいしかない。
まっすぐ道路を下って行った先には琵琶湖があるのが見える。振り返ると駅を囲むように山がある。
琵琶湖と山に挟まれた狭い土地、それが滋賀県なんだということを、最初から強烈に痛感させられた。滋賀県庁は大津駅から近いところにあるのでさっさと撮影してしまうことにする。
線路沿いにずーっと東へ行くと、滋賀県庁の新館の側面が見えてくる。まったくもってごくふつうの庁舎建築だ。
そこから北、琵琶湖の方へと坂道を下っていく。途中でコンクリートの神社建築のような施設があるのに気づいた。
滋賀県体育文化館(旧武徳殿)で、老朽化や財政事情によって昨年1月をもって閉館したとの案内が出ていた。
1937年築で、当時の世相をしっかりと感じさせてくれる建物である。面白いなあと思いつつシャッターを切る。
L: 大津駅。京都が近いから無理もないのかもしれないが、県庁所在地としての迫力にまったく欠けていて拍子抜けした。
C: 滋賀県庁別館および職員会館。何の変哲もない建物だけど、窓のデザインがすごく昭和だなあと思うわけです。
R: 滋賀県体育文化館(旧武徳殿)。公共施設がこのデザインってのが戦前らしい。貴重な例だと思うけどなあ。滋賀県庁本館の正面へとまわり込む。滋賀県庁本館は佐藤功一の設計で1939年に竣工。
(佐藤功一は群馬(→2008.8.19)、栃木(→2008.8.20)の旧庁舎も設計。宮城の旧県庁も現存しないが設計。)
日中戦争で鉄鋼を使った建築が規制される中、事前に滋賀県が鉄筋を調達して建てたというエピソードがある。
きちんと竣工した庁舎としては、戦前で最後の県庁舎となる建物なのである。
(ややこしい書き方になったのは、福島県庁(→2007.4.30)が1階だけつくって2階部分を木造にした例があるため。)
L: 滋賀県庁本館。リニューアルがけっこうキツめで、どちらかというと「新しい建物」という印象を受ける。
C: 角度を変えて撮影。 R: さらにもう一丁。狭い土地の中で精一杯の威厳を漂わせる建物である。周辺はしっかり住宅街なのだが、それでも裁判所があったり新聞社があったりして県庁所在地らしさは漂う。
でも道幅は狭く、小ぢんまりしている。とりあえず敷地を一周しながら気になったものを撮影してみることにする。
L: 滋賀県庁本館のすぐ手前にある滋賀会館。3月をもって文化施設としての用途を終了するそうだ。
C: 滋賀県庁本館と新館をつないでいる部分。両者はまっすぐではなく、少し斜めにくっついているのだ。
R: 隣の旧滋賀県警本部は取り壊し中。跡地の利用法はまだ決まっていないとか。
L: 南から滋賀県庁新館を眺めたところ。 C: こちらは新館にくっついている東館。
R: 県庁の周辺にはこのような祠が複数あり、地元の人がお参りしているのが印象的だった。県庁の駐車場では噂の「ゲジゲジナンバー」を観察。文字を簡略化したデザインの好例だと思うが、
関西圏では滋賀の地味さへのからかいも込めて、「ゲジゲジ」呼ばわりされているのだそうだ。滋賀の「滋」の字がゲジゲジということで、バカにされるとかされないとか。
滋賀県庁の撮影を終えると、琵琶湖へと出てみる。今日はとてもいい天気だ。
快晴の空を映して湖面も青く輝いている。見とれて歩いていたら地面の段差につまずいた。
琵琶湖付近は地盤沈下を起こしているのか妙な段差がやたらと多くできていて、知らずに歩いて爪先をぶつけ、
足の親指を痛めるということが何度かあった。かなわんなあと思いつつ桟橋の端っこまで行ってみる。
L: 琵琶湖ならではの光景? 外来魚回収BOXである。こんなの初めて見たのでびっくり。
C: 桟橋の端っこから眺めた琵琶湖岸の光景。雲がかかっているのが比叡山周辺。午後にはあそこに行くのだ。
R: 大津港。湖の港なのにずいぶんと立派で、琵琶湖の規模の大きさがうかがえる。琵琶湖をしばらく眺めて呆けた後は、京阪の浜大津駅へと歩いて向かう。窓口で一日乗車券を購入すると、
たった1駅だけなんだけど、素直に電車に乗って三井寺駅へ。でも駅から三井寺まではそこそこ距離があるので、
電車を降りるとひたすら歩く。ぜんぶ歩いた方が得なのか、電車に乗った方が得なのか。よくわからない。
L: 浜大津駅前のペデストリアンデッキ。駅じたいは何の変哲もない四角い建物です、念のため。
C: 三井寺駅から三井寺までは、この琵琶湖疏水(そすい)に沿って歩く。明治期の土木工事の成果である。
R: 疏水を遡って行った先はこのようになっている。やっぱりちょっと一味違いますなあ。さてそうして歩いていった先、山の麓にあるのが三井寺だ。正式な名前は「園城寺(おんじょうじ)」という。
国宝や重要文化財がゴロゴロしており、古都・大津の実力を見せつけてくれる寺である(国宝10、重文52)。
入口で500円を払って中に入る。まず最初は南の高台にある観音堂を目指す。
日陰となっている石段を上りきると観音堂の脇に出る。1689(元禄2)年に再建されたそうだが、
日の光をいっぱいに浴びて、古いわりに妙にすがすがしい。さらに奥へと進む石段があったので、
そこから観音堂の境内を撮影してみる。いくつもの建物が遊園地のように並んでいて微笑ましい。
L: 三井寺観音堂。 C: とにかく立地がいい。太陽の光をたっぷり浴びながら、真っ青な琵琶湖を見下ろす絶好の場所だ。
R: 観音堂から三井寺本体へと向かう途中にある毘沙門堂。非常に小ぶりだがとっても派手。金堂を目指して歩いていく。途中で勧学院の入口に寄る。客殿は国宝なのだが一般客は中に入れないのが悔しい。
金堂へと伸びる道は非常に広く、両側に石垣と塀がつくられており、寺の中というより外側を歩いている気になる。
一本奥にある道へと移る。この一帯は唐院で、重要文化財が並んでいる区域なのだ。
質だけでなく量でも圧倒してくるのが三井寺の恐ろしいところだ。次から次へと容赦ないペースで迫ってくる。
L: 雰囲気抜群の小路。 C: 唐院潅頂堂。 R: 三重塔。この辺は重要文化財のオンパレードで目が回る。
L: 一切経蔵。文字どおり一切経を収める建物。 R: 内部にある八角輪蔵。これは見事。かなりの迫力にフラフラになったところで金堂の裏手に出る。正面にまわり込むと、ものすごい威圧感がする。
豊臣秀吉の正室・北政所によって1599(慶長4)年に再建されたもので、桧皮葺の屋根がとても美しい。
(かつての金堂は、今の延暦寺西塔の釈迦堂である。秀吉によって強制的に移築させられたそうだ。)
こんなに凄い屋根は見たことがないなあと、しばし茫然と眺める。桧皮葺の贅沢さがよくわかる。
中に入ってひととおりお参りして外に出てきてからも、またしばし茫然と眺めるのであった。
L: 三井寺金堂。写真だとどうってことないが、実際に見るともっと大きく感じる建物。特に屋根の迫力が凄い。
C: きれいだ……。思わず見とれてしまうよ。 R: 鐘楼(三井の晩鐘)。珍しいつくりである。釈迦堂(食堂)は残念ながら工事中。大門(仁王門)から外に出ると、あらためて振り返って眺める。
この木々に囲まれた三井寺の境内には、見事な建物がやたらめったら詰まっているのである。
地味な滋賀、地味な大津だが、歴史があるということは確かな強さがあるということなんだなあ、
なんてことを考えながら三井寺をあとにするのであった。大門(仁王門)。古さがそのまま迫力になっている。
さて、三井寺の隣には円満院門跡という寺がある。せっかくなのでちょっと寄ってみることにする。
宸殿(しんでん)の脇を通って入口へ。自動ドアというのがまったく寺らしさを感じさせない。
300円払うと宸殿へ。大津絵美術館という施設が併設されていたので、まずはそちらから見学。
大津絵というのはかつて東海道の大津宿で売られていた絵のことで、かなりの人気があったようだ。
雷神や福禄寿などの縁起物を描いており、そこから御守の役割を果たすようにもなったとのこと。
もともと土産物としてさらっと描いていたものなので、軽妙なタッチが非常に印象的である。
じっくりと見ていくとこれが意外と面白かった。薄暗い庭園なんかよりもずっといい。
見学を終え鉄筋コンクリートの建物に戻ったのだが、中は完全に寺というよりも日帰り入浴施設の雰囲気だった。
L: 円満院門跡・宸殿。南にある林の影に入ってしまい、全体的になんとなく薄暗いのが非常にもったいない。
R: 県道47号沿いには大津絵の陶板が一定の間隔で並ぶ。これはネズミのくわえたヒイラギとイワシの頭に弱る鬼の図。そのまま歩いて大津市役所へ。なんでこんなところに市役所をつくるんだろうと首を傾げるが、
大津というのは山と湖に挟まれた細長い市で、非常に1次元的な性格の空間なのである。
(天竜川に沿って南北の交通しか考えることのできない伊那谷をさらに強烈にした感じ。)
だから地元の感覚とすれば、直線上の点にすぎないわけだから、さして違和感がないのかもしれない。
……なんてことを考えながらネットでいろいろ調べていたら、やっぱり皆さん立地に不満があるようで、
浜大津をはじめ、さまざまな場所が移転候補地に挙がっている模様。大津市役所は京阪の別所駅のすぐ目の前にある。ということで、踏切や電線がジャマでとても撮影しづらい。
しかも終点・坂本行きの電車が来るまでもう時間がない。必死で走りまわってシャッターを切りまくる、
なかなかハードな撮影なのであった。やっぱりイマイチ、納得のいく写真が撮れなかった。
L: 大津市役所。設計は佐藤武夫(佐藤総合計画HPを参照⇒こちら)。1967年竣工で耐震強度不足が問題化しているようだ。
C: 本館。当時にしては思いきったデザインでは。 R: こちらはすぐ隣に建っている新館。
L: 大津市役所の側面はこんな感じ。 R: 裏から眺めるとわけがわからん。踏切の警報が鳴りはじめたので慌てて別所駅へ。どうにか電車には間に合い、終点の坂本へ。
坂本は、安太(あのう)積みという石垣が残り、比叡山から下りて隠居した僧侶が住んだ里坊が点在する、
独特の雰囲気を持った街並みで知られる地域である。比叡山焼き討ち後には明智光秀が城をつくった。
というわけで、しばらく坂本周辺をブラブラと散策してみることにする。
L: 今も石垣が残る坂本の風景。写真は日吉大社への参道である。
R: 坂本を歩いていたら……出ました、滋賀名物の飛び出し坊や。なぜか滋賀にはこいつが異常に多いのだ。まず最初は滋賀院門跡。天海が建立した延暦寺の本坊である。
明治時代に火災があったため建物じたいは特別というわけではないが、庭園が小堀遠州作と伝えられる。
中には天海が着用したという鎧も展示されており、見どころはそれなりにある。
(天海=明智光秀という説があるが、旧明智領の坂本に鎧という武具が残されているという事実は、
それなりに説得力を感じさせる。実際のところは天海=明智秀満説の方が有力なようだが、はてさて……。)
L: 天海が着用したという鎧。江戸時代に入って大名と仏教の対立はなくなったはずだが、鎧は残されている……。
C: 滋賀院門跡の庭園。狭いが雰囲気は確かに悪くない。小堀遠州は近江(長浜)の出身なのだ。
R: 裏手にある慈眼堂。慈眼とは慈眼大師、つまり天海のことで、天海の廟所。ところで滋賀の人はやたらとフレンドリーというか説明好きというかで、観光施設に行くと必ず、
お金を払って入場券とパンフレットをくれる際に順路や見どころについて懇切丁寧な説明をしてくれるのである。
もうこれはどこに行っても100%そう。そして手が空いていればやたらとガイドをしようとする。
もちろん写真撮影は全面的にOKである。もうどんどん撮ってください、とお願いされるくらいの勢い。
まあこういう人懐っこさ、親切さがかつての近江商人の成功の秘訣なのかもしれない、なんて思う。
地味な滋賀県だが、そういう県民性の部分ははっきりと感じられて面白い(飛び出し坊やも含めて)。さて次はせっかくここまで来ているので、ちょっと足を伸ばして西教寺まで行ってみることにした。
坂本の中心部からははずれた位置にあるのだが、行かないのも心残りになるだろうと考えたのだ。
しかしいざ歩いてみたら、これがけっこう遠い。坂を下って上って田舎道を延々と行く。
車の往来はほとんどなく、遠足に来ているような気分になる。まあ、天気がよかったのが救いだ。ようやく到着して入口の門を抜けると、なかなかの上り坂。遠くに建物が見える。まだ歩くのだ。
坂の両側にはいくつも宿坊があり、西教寺の規模の大きさをうかがえる。勅使門にぶつかると石段を上る。
特に有名ではないようだが、宗祖大師殿の唐門がなかなか見事だった。建物本体よりいい。
そしてその奥へと進むと本堂が現れる。西側を見れば明智光秀一族の墓があった。天海……うーん。
L: 西教寺・宗祖大師殿の唐門。建物本体よりもすごい迫力なのであった。
C: 明智光秀とその一族の墓。 R: 西教寺本堂。江戸時代中期の建物とのこと。拝観料を払って本堂の中に入りお参りする。本堂の中は外から見るよりもずっと大きく感じる。
そう感じさせるところがなんとなく仏教っぽいなあ、なんて思うのであった。詳しくは知らないが。
残念なことに、本堂とともに重要文化財になっている客殿は改修工事の真っ最中。
庭園の方にまで工事の影響は出ていて、せっかく来たのにかなりがっかりである。やっぱりこの庭園も小堀遠州作なんだってさ。
西教寺まで来た道をそのまま戻るのは退屈極まりないので、一本奥にある山の中を通る道を行く。
琵琶湖の眺めが秀逸との触れ込みだったが、高さが足りず、それほどでもないという印象である。
でも途中にある八講堂千体地蔵尊はなかなかの迫力だった。夕暮れどきに訪れたら雰囲気ありそうだ。数の力を感じる光景である。
まったく舗装されていない山の道なのだが、意外と迷うことなく日吉大社・東本宮付近に出た。
日吉大社は全国各地の日吉神社・日枝神社・山王神社の親玉である。
猿を神の使いとしており、幼名が「日吉丸」で猿と呼ばれた豊臣秀吉はこの神社を手厚く保護したという。
この日吉大社も先ほどの三井寺同様、国宝や重要文化財の宝庫なのである(国宝2、重文17)。
そのため、入苑協賛料ということで中に入るのに400円を払う必要がある。まあ納得せざるをえない。
(念のため書いておくが、別に国宝だから重文だからエライと単純に考えているわけではなくて、
それぞれどの辺に国宝・重文としての価値があるのか感じられるようになったらいいなと思っているだけ。
あくまでこの日記は僕の備忘録なので、そういう世間的な価値基準を意識しておくためにいちいち書いている。)まずは東本宮から。楼門を抜けると、中に立派な建物がいくつも建っている。
ややこしいことにというか珍しいことにというか、樹下(じゅげ)神社は東本宮の敷地内にあり、
本殿と拝殿が東本宮の拝殿の手前にあるのだ。詳しく書くと、東本宮の楼門-拝殿-本殿というラインと、
樹下神社の拝殿-本殿というラインは直交しているのだ。とっても複雑なのである。
ちなみに、ここまで出てきた建物は東本宮の本殿を除いてすべて重要文化財。東本宮の本殿は国宝。
L: 樹下神社の拝殿。山王祭で使う神輿を展示している。 R: 樹下神社の本殿。妙にコンパクトである。
L: 東本宮の拝殿。さほど広くない空間に建物が密集しているのだ。それも重文クラスが。
R: こちらが東本宮の本殿。神仏混淆時代には延暦寺西塔の守護神だったとか。さすがにそれは混じりすぎに思える。東本宮から出ると今度は西本宮を目指す。日吉大社の敷地内にはあちこちに小規模な神社がある。
ある意味でこれはかなりテーマパーク的である。かつて宗教は娯楽に含まれていた、と考えると面白い。
時間がないので奥宮には行けなかったが、麓にその代わりになる祠があったのでお参りしておく。
西本宮の手前にも白山神社、宇佐神社と重文クラスのさまざまな建物が存在している。
よくまあこんなに集まったもんだと感心しながら西本宮へ。白山宮・宇佐宮が別の敷地で並んでいる関係か、
こちらの中はややすっきり。西本宮は神仏混淆時代には延暦寺東塔の守護神だったという。
♪東が西武で 西、東武~♪のようなもんかねえと、くだらないことを考えるのであった。西本宮の本殿。織田信長の焼き討ちに遭ったが平安時代の姿で再建したそうだ。
見落としたところも多いものの、最低限の参拝はしたぞ、ということで楼門を抜ける。
と、「楼門の軒下に、『マサルさん』がいらっしゃいます。」という案内板を発見。マサルがいるだとう!?
前述のように日吉大社では猿を神の使いとしていて、「神猿」と書いて「まさる」と読むようだ。
こりゃおもしれーやと思って撮影したので、画像を貼り付けておくのである。
L: 西本宮の楼門。 C: マサルの存在を知らせる案内。そういうわけで、案内に従って見上げてみる。
R: いた! これが「マサル」だ! 四者四様に異なったポーズをとっているようなので、マサルファンは要チェックだ!日吉大社の境内は自然の姿をそのまま残している部分が多く、その混沌とした印象がそのまま、
さまざまな神社が共存していることを納得させているように思う。いろんな神社があちこちにあることと、
森の中にいろんな生命が活動していることが、重なって感じられるのだ。ぜひ次回はじっくり歩きまわりたい。
L: 独特の形をしている山王鳥居。山王信仰は天台宗と結びついて全国へ広がったそうで。
R: 走井橋から眺めた大宮橋。石を木材のように組み合わせているのが面白い。日本の仏教・神道は神仏混淆を経ているので、もともとややこしい各宗教上の概念が複雑に結びつき、
よけいにややこしくなっている。全国の神社仏閣を見るようになってきて、その複雑さに驚いているしだい。
まあでもそうやって知識がついていくのはなかなか面白い。というか自分の無知ぶりが恥ずかしくてたまらん。日吉神社を出ると、そのまま旧竹林院庭園に行ってみる。竹林院はもともと里坊だが、衰退して個人所有に。
その後、庭園が改修されて今のように有料で公開されるようになったのだ。
あんまり客は来ないようで、僕が行ったら係の人が部屋の暖房を入れてくれた。
冬場はガラス越しにあったかい状態で庭を眺められるようにしているようだ。部屋は広く、居心地がいい。
外に出て庭園の中を歩きまわってみるが、なんというか、非常にオシャレなのだ。
緑の中に一点の紅を入れていて、それがとてもよくきまっている。汚れている部分もほとんどないし。
ここで和菓子でも食べながらボケーッと過ごすのは最高の贅沢だろう。いつかやってみたいなあ。旧竹林院庭園。ここは実にオシャレですよ。
あまり坂本で時間をつかってばかりもいられないのだ。坂本ケーブルに乗って、延暦寺を目指すのだ。
坂本ケーブルは30分に1本ということでなかなか時間調整がたいへんなのである。
さてケーブル坂本駅まで来たら、手前のところに猫がいて、こいつが僕のほうへと寄ってくる。
そんなわけでケーブルカーの改札が始まるまでしばらくの間、猫とじゃれあって過ごすのであった。
前に滋賀県に来たときにも猫とじゃれた記憶があるのだが(→2008.2.2)、いいかげん人類にモテたい。
とりあえず日吉大社の近くにいたので「ひよにゃん」と名づけて遊んだとさ。
L: ケーブル坂本駅。1927年の開業以来の建物ということで、なるほどモダンである。
R: 猫はなかなかきちんと写真におさまってくれない。ホントに気まぐれな動物だわ。改札を済ませるとケーブルカーに乗り込む。坂本ケーブルは全長2025mで、日本一長いケーブルカーとのこと。
思えばロープウェイはやたらめったら(というほどでもないが、まあ)乗っているが、ケーブルカーは初めてだ。
斜面をそのままグイグイ上がっていくので、車内もそれに合わせて段々になっているのだ。面白いものだ。
京阪の一日乗車券を提示したので2割引である。冬は寒いからか、使い捨てカイロのサービスもあった。
当方、そんなもんいらねーからその分だけ安くしろよという気質なのだが(往復で通常1570円もかかるのだ)、
まあ営業努力は感じるので文句は言わない。お年寄りよりも若い客が多かったのが意外で印象的だった。
やっぱジジイババアは寒いのはダメか。だからカイロを配るのか。
L: 坂本ケーブルの車両。1993年に登場したこの車両は3代目になるそうだ。
C: 車内はこんな感じで段々になっている。いやー、ケーブルカーに乗るのは初めてなんですよ。
R: ケーブル延暦寺駅。こちらも1927年の開業以来の建物でモダンである。でも色をなんとかしてくれ。山の方は案の定、雪がチラホラと残っている状態である。たまーに小さな粒がひらひらしないこともない天気だ。
駅から延暦寺の入口を目指して歩く。途中に坂本ケーブルが気を利かせて置いたらしいベンチがあるのだが、
雪で濡れているからまったく役に立っていないのであった。等高線沿いにクネクネ歩いて10分ほどで入口に到着。
ふつうに入ると550円、国宝殿(宝物館)も込みだと1000円。どうせ時間がないので安い方にする。
L: ケーブル延暦寺駅より眺める琵琶湖。平地を埋める街と緑の起伏、青い湖面が混じってなかなかの絶景である。
C: 延暦寺を目指して歩いていく。予想はしていたけど、やっぱり比叡山は寒いです。でもこれはまだ序の口なのであった……。
R: 延暦寺の入口。車もケーブルカーもない時代にここまで来るのはキツすぎる。そりゃ隔絶されて独特の空間になるわな。まず最初は東塔(とうどう)と呼ばれる区域である。延暦寺は東塔・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の3区域からなる。
中心的存在なのがこの東塔で、奥へ進んだところにあるのが西塔。もっと奥でマニアックに修行するのが横川、
といったところだろうか。今回は西塔までは行ってみるが、横川は面白そうな建築がないのでパスさせていただく。さっそく国宝にもなっている延暦寺の根本中堂に行ってみる。この建物、残念なことに撮影が固く禁じられている。
回廊がつくられて外からは中の様子がつかめない。石段の上から撮影してみても木がジャマでよく見えない。
中に入って実際に見てみての感想は、さすがに天下の延暦寺の中心となる堂宇だけありお見事、といったところ。
1642(寛永19)年築なのだが、その古びてしまった部分をまったく隠すことなく自然にさらしてなお堂々としている。
厳しい比叡山の環境に(訪れたのが冬なのでよけいそう感じる)、素のままで建っている姿は毅然としていて美しい。
真白い雪で明るい外とは対照的に建物の中はぐっと暗く、線香の匂いが俗世との隔絶を強調する。
こうして五感で空間を体験していると、冬に訪れたことが正解であるように思える。
L: 石段の上のところから延暦寺根本中堂を眺める。……が、ほとんど何も見えず。真実とは隠されるものなのか。
C: 根本中堂の入口部分から撮影。この門をくぐると根本中堂の威容に圧倒されることになる。庭のつくりがまた仏教的。
R: こちらは東塔の大講堂。1634(寛永11)年築。元は日吉東照宮の建物で、こちらに移築してきたそうだ。東塔は観光客でとにかくいっぱい。山だろうが冬だろうが関係なく賑わっているようで、どこも活気であふれている。
ところが、次は西塔だな、と案内板に従って歩いていくと、ひと気はまったくなくなってしまう。
ほとんどの客は東塔だけで満足してしまうようで、西塔へ行こうという人はぜんぜん見当たらないのだ。
なんだよせっかく延暦寺に来てんのにもったいねえなあ、と思ってさらに奥へと歩いていったら、びっくり。
道が真っ白なのである。そう、完全なる雪道なのだ。まあこりゃ確かに西塔へ行くのは物好きなのかもしれんなあ、
なんて思っていたらさっそくつるり。僕の靴底はあちこち歩きすぎてウルトラスーパー真っ平らなのである。
冗談ではなく、もはやスリッパと同レベルのグリップ力しかないわけで、これで雪道を行くのはあまりに厳しい。
しまったぁぁぁ!と後悔するが、時すでに遅し。仕方なくガニ股でえっちらおっちら西塔を目指して歩くのであった。
もう雪をかぶった石段なんて、怖くて怖くてたまらない。手すりを全力で握って、転ばないように慎重に下りていく。
L: 戒壇院。目立たない位置にあるので観光客が気づかないっぽい。1678(延宝6)年の再建というわりにはきれい。
C: 東塔から西塔へと向かう道はご覧の有様。起伏がそれなりにあるこの雪道をスリッパで歩くことをご想像ください。
R: 浄土院。最澄の廟があり、山内で最も神聖な場所とされているとのこと。現世とは思えないほど静かだった。しっかりと積もった雪道の前に真っ平らな靴底ではなすすべなく、30秒に1回は滑って体勢が崩れる有様。
さすが比叡山延暦寺、道をただ歩くだけでも修行になりますなあ!なんてヤケな気分になりつつ歩いていくと、
西塔に入って浄土院に着いた。ここは延暦寺を開いた最澄の廟がある聖域。空気が凍っているかのように静かだ。
延暦寺には12年間も山に籠もるというとんでもない修行があるのだが、ここがその現場なのである。
訪れてみたところでできることなど何もないのだが、境内を歩いて雰囲気を味わってみる。さらにその先へと進んでいく。それはそれで雪道で滑ることにも慣れてきた。
道にはそれなりに起伏があるので、なるべく安全そうなルートを即座に判断して歩く。でもやっぱり滑る。
そうこうしているうちにお堂が2つ並んでいる場所に出た。いわゆる「にない堂」である。
まったく同じ形をした常行堂(向かって左)と法華堂(向かって右)が渡り廊下でつながっているのだが、
その姿が行商人が使っていた天秤棒(担い棒、棒の前と後ろに商品をぶら下げて肩で担ぐアレ)に似ているため、
「にない堂」と呼ばれるようになったという。木々に囲まれて余裕のない場所に建っているので撮影しづらいが、
雪に包まれてひっそりと並ぶ姿はなかなか幻想的である。しばらくのんびりと眺めて過ごす。
L: 向かって左のこちらが常行堂。 C: 渡り廊下を挟んで…… R: 向かって右のこちらが法華堂。どちらも1595(文禄4)年築。にない堂の渡り廊下の下をくぐると石段があり、その奥に堂々としたお堂があるのが見えた。
西塔のメインの建物である転法輪堂(釈迦堂)だ。だいぶ前に述べたとおり、元は三井寺の金堂だった建物だ。
三井寺に対する罰として豊臣秀吉がこちらに強制移築したのだが、これをここまで持ってきたことに呆れる。
でもまあおかげで三井寺の金堂はさらに美しいものができたわけで、三井寺的には怪我の功名、かもしれない。
とはいえ寒い中、雪に耐えて静かにたたずむ転法輪堂だってなかなかのものなのだ。しっかりお参りする。西塔の中心、転法輪堂。歩いて奥まで来ると、パッと開ける感じ。
行きはよいよい帰りは面倒くさい。泣きそうな気分になりつつも、えっちらおっちらと雪道をガニ股で歩いて帰る。
まあでも、よくわからない状態で進む往路よりも事情のわかっている復路の方が楽ちんなのは当たり前のことで、
慣れてしまえばこっちのもの。それほど苦労することなく東塔まで戻ることができた。やっぱり滑りまくったけど。東塔を軽くもう一周してからケーブル延暦寺駅まで戻る。ケーブルカーの発車時刻まで少し余裕があったので、
駅舎の2階から琵琶湖を眺めるなどして時間をつぶす。そして定刻になって比叡山をあとにした。下界に戻ってくると、坂本でまだ訪れていない重要文化財を見に行く。日吉東照宮である。
日吉東照宮は「関西の日光」と呼ばれ、極彩色で固められている点が日光東照宮(→2008.12.14)によく似ている。
むしろこちらの方が日光東照宮の原型になったとのことで、つまりプロトタイプ東照宮と言える存在なのだ。
しかし規模が大きくなく位置も少し奥まっているためか、観光客の姿は僕以外にはなかったのであった。
(ケーブル坂本駅の近くに「ここまで来たら行ってみよう! 日吉東照宮」という看板が出ていた……・。)
土曜日はサービスデーということで、拝殿の中に入ることができる。中もやっぱり東照宮らしさ満載で、
戦国時代末期の豪華絢爛さが最後の最後に残した(と僕は考えている)価値観を味わって過ごした。
L: 日吉東照宮・拝殿。もともとは天海が創建した寺だったそうだ。 R: 拝殿の側面と奥にある本殿。大津市の名所をあちこち見てまわったのだが、最後にもう1箇所、大事な場所が残っている。
それは石山寺である。当初の予定ではこの日のうちにどうにかそこまで回りきるつもりだったのだが、
京阪の坂本駅に戻ってきた時点で15時半を過ぎてしまっており、非常に微妙なところとなってしまった。
石山寺の最終入場時刻は16時半で、駅から歩くことを考えるとギリギリの線なのである。
急いで中に入ったとしても、満足に境内を歩きまわることはできなさそうだ。断腸の思いであきらめる。
京都駅で立ち食いうどんを食べて以来何も口にしていないので、缶のコーンポタージュで空腹をごまかす。
前にもへこんだ気分でコーンポタージュを飲んだことを思い出す(→2009.1.8)。1年経っても成長していない。
やがて電車がホームにやってきたので、未練を胸の内に抱えつつ乗り込んだ。浜大津駅で降りると大津駅までの道を歩いてみる。気分を切り換えて街歩きに徹するのだ。
が、これがまたかなりの寂れ具合で、歩いていて悲しさが加速されるのであった。
アーケードの商店街があったので様子を探ってみたのだが、中心市街地という印象がほとんどしないのだ。
本当に、ほかにもっと賑わっている商店街があるんじゃないかと思ってしまうほど貧弱なのである。
L: まるっきり元気のないアーケード商店街。 R: 大津駅付近もこの程度……。しょうがないので荷物をコインロッカーから出して宿にチェックインしようとしたのだが、
大津駅北口から南口に出るのがなかなか不便。大津駅の南側には大きい道路が走っているが、
歩行者は迂回するしかないようで何をどうすればいいのかよくわからないまま宿の方角へ歩いた。
駅の南側にはまったくコンビニがなく、夜食の確保に困るなあ、と思っているうちにどうにか宿に到着。
地図で見ると大したことがなさそうだったが、歩いてみるとそれなりに距離があった。さすがに疲れていたのでじっくり休み、気が滅入りそうになりながらも晩飯のために大津駅前まで戻る。
ところが辺りにあるのは居酒屋ばかり。これといった晩飯の食える店がなく、愕然とするのであった。
困った県庁所在地はほかにもあったが、正直、大津がいちばんひどいかも。京都の影響が大きいということか。
(湯田温泉があるので山口(→2008.4.24)の方が多少マシ。佐賀(→2008.4.26)は駅じたいが元気なのでマシ。
津(→2007.2.10)だってそれなりに都会だったし。徳島(→2007.10.9)も駅前に大きいビルがあるからなあ……。)
結局、駅の中でどうにかなったのでよかったのだが(コンビニの夜食も)、大津のダメっぷりには戦慄を覚えた。
思えば、朝に歩いた琵琶湖に面したエリアには大きな施設がいくつかあったので、
大津市内の都会というのはそっちの方になるのかもしれない。いやはや、参った参った。
本日より新学期がスタート。まだ初日なので授業などはないが、始まったぞう!という感じは満載である。
この学期で自分がどこまでできるか。どこまで連中に影響を与えることができるか。がんばらねば。◇
夜になり、風呂から上がって支度を整えると新宿へ移動して深夜バスに乗り込む。
チンタラしてたら思っていたほど余裕がなく、最後は少し焦った。でも無事に出発できたのでヨシ。なんとか今年のうちに県庁所在地めぐりを完了させたいと思っている。
その最後の一年の最初の旅が始まったのだ。いわゆる「終わりの始まり」である。
そう考えると、なんだか切ない。見知らぬ土地を訪れるワクワク感よりもノスタルジー的な感情の方が強い。
(最近で一番ワクワクしたのは出雲行きのバスの中。山陰にはなじみがないので心底ワクワクした。→2009.7.17)
見知らぬ土地を訪れて、その土地の記憶を自らの中に刻み込むことは大変な快感だ。
そして、県という区切り方をした場合の僕のその喜びは、もうあと数えるほどしか味わうことができない。
そうなると次は別の区切り方が登場するのだろうけど、それでも前の条件をクリアしてしまった事実は消えない。
まあ要するに、喪失感ってやつが僕を襲うのである。手に入れることで、頭の中で想像していた世界を失う。
現実を得ることで、生きていた虚数が消える。そんなことを考えている僕を乗せて、バスは西へと走る。
来月にはウチの学年で遠足が予定されている。それで今日はそのための下見をすることになった。
といってもテーマは「品川区内めぐり」ということで、そこまで遠出をするわけではない。自転車で出発。
(なぜ場所が品川区なのかはお察しください。この件については一切ノーコメントであります。)
同じ学年担当のベテランの先生に連れられて、あちこち見てまわるのであった。品川区でそんなわざわざ訪れる価値のある観光名所なんてあるのかと問われると、「ない」と答えるしかない。
まあ、しながわ水族館あたりは人気があるんだろうけど、今回はそこへは行かないのである。
ではどういったところを訪れるのか。……それは、寺と神社である。渋い! 渋すぎるぜ!
品川区は東海道で最初の宿場・品川宿を抱えており、その辺には名所はともかく、旧跡はそれなりにある。
今回の遠足ではそういった旧跡をめぐってめぐってめぐりまくろう、というコンセプトとなったのだ。まず最初に下見したのは、鈴ヶ森刑場跡である。小塚原と並ぶ江戸の二大刑場の跡なのだ。
いきなりこの手の旧跡が来ちゃうあたりが品川クオリティなのだが、重要な史跡なのは事実である。
有名どころではなんといっても八百屋お七が火あぶりにされている。
あとは由比正雪の乱に加わった丸橋忠弥が、鈴ヶ森の極刑第一号としてその名を刻んでいる。
訪れてみると、旧東海道の入口に、いかにも第一京浜(国道15号)に土地を削られました、と言わんばかりに
わずかな緑がアスファルトに囲まれて残っている。その中には大小さまざまな慰霊碑が静かにただずんでおり、
かつての刑場らしい重苦しさをかすかに漂わせている。南池袋などは街全体が暗い雰囲気に包まれているが、
こちらは対照的に、何も考えていない第一京浜の能天気さに押されて「さみしい一角」どまりとなっている。
敷地の中には「首洗いの井戸」や火あぶりや磔刑に使われた礎石が残っており、時間が経っても生々しい。
日蓮宗独特のひげ文字が刻まれた大きな石碑の前に立ち、手を合わせる。そうせずにはいられないのであった。
L: 首洗いの井戸。 C: 右が火あぶり台で、左が磔台。実物を見るとなんともつらい気分になる。
R: 敷地内には処刑された人々のほか、さまざまな受難者を祀った慰霊碑がいくつも立っている。そのまま旧東海道を北上していく。今もかつてのスケール感をよく残していて、歩きやすい道である。
立会川に架かっているのが「涙橋」。鈴ヶ森刑場に送られる罪人を家族がここで見送ったことでその名がついた。
現在の橋は戦後に竣工したものだが、欄干の横にはきちんと案内板が立っている。
L: 『あしたのジョー』じゃない方の涙橋。 R: 旧東海道、鮫洲商店街近辺の様子。昔ながらのスケール感だ。さらに北へと進んで旧品川宿周辺の寺社をチェックしていく。この辺りには特に観光客向けの寺社はないが、
とにかくさまざまな宗派の寺が多く、それだけ土地の歴史の古さが実感できる。
時宗が複数あって、さらには黄檗宗まであったのには驚いた。
L: 幕末の土佐藩主・山内容堂の墓。高知出身らしく、とんでもなく豪快な大名だったそうな。
C: 仏の像と並んで墓に砲弾がいくつも立てられている例。いったい当時、何があったのか。
R: 海蔵寺の無縁首塚。品川宿の遊女などが祀られている。墓地の中でも特に「重い」一角である。
L: 願行寺の縛られ地蔵。われわれの身代わりとして苦難を一手に引き受けてくれているとのこと。
C: 途中で見かけた花がきれいだった。こういうときに名前がわからないのは悔しい。
R: 黄檗宗の大龍寺。黄檗宗は江戸時代に中国から来た隠元が伝えた。いまだに中国風で独特なのだ。第一京浜から西の方へと進んでいくと、日本ペイントの工場がある。
この敷地の端にはレンガ造りの建物が残っており、「日本ペイント明治記念館」として一般公開されている。
寺ばっかりの東海道品川宿周辺では貴重な近代建築である。ちょっと興奮しつつ資料を見てまわる。
L: 日本ペイントの工場入口にある銘道標。1736(享保21)年のもので、「かう志んかう中(庚申講中)」とある。
C: 日本ペイント明治記念館。今回初めて訪れた近代建築になんだかほっと一安心なのであった。
R: 中は日本ペイントの歴史がわかる展示がなされている。文明開化の心意気がわかって興味深い。ちょっと戻って清光院には譜代大名・奥平家の墓地がある。奥平信昌が武田家から徳川家に移ったことで、
長篠の合戦が勃発したという。奥平家は最終的には中津を治めた。福沢諭吉はこの奥平家の家臣だった。
墓地はさすがに立派で、巨大な五輪塔がいくつも建っている。ほかに高槻藩主・永井家の墓もある。
目黒川を渡って東海寺へ。ここは3代将軍・家光が沢庵のために建てた寺。古い建物はないものの、
今も落ち着いた雰囲気を漂わせている。やはり歴史のはっきりしている寺はそれだけで面白い。
L: 清光院の奥平家墓域。瓦積みの土塀からしてただものではない印象がプンプン匂うのである。
R: 東海寺。写真は1930年築の世尊殿。離れたところに墓地があり、沢庵や賀茂真淵が眠る。ところで、お墓の中をあちこち歩いていると、完全にRPG気分になる。
RPGで街の中をウロウロ歩くのと、墓石の間をすり抜けて歩いていくのは、なんだか似ているのだ。
歩いていった先にあるのは案内板というヒントだったり旧跡だったりして、それもまたRPGっぽい。
妙な共通点に気がついてしまった。ヒマな人はお墓に行って実感してみてほしい。最後に訪れたのは品川神社。第一京浜のすぐ脇にあるのだが、いきなり猛烈な石段である。
東海道を見下ろす崖の上に神社はある。その高さを生かしてか、富士塚がつくられている。
実際に登ってみると、京急の高架の向こうに芝浦辺りの高層ビル群が見える。
天気がいいのでなかなか気持ちがいい。なぜか高所恐怖症は出てこなかった。
L: 品川神社。石段が視界をふさぐが、チャレンジしてみるとそれほど大したものではない。
C: 富士塚。登ると富士登山と同じご利益があるとか。 R: 富士塚の頂上より眺める光景。品川神社の裏手には板垣退助の墓がある。丘の上の静かなところで、ゆったりとした時間が流れていた。
案内板によると、生前にここに墓を立てるように希望していたそうだ。
傍らにはお約束ということでか「板垣死すとも自由は死せず」と彫られた碑があった。確かに墓にしてはなかなかいい場所だ。
今回出した写真は訪れた場所のほんの一部で、実際にはもっとあちこちさまざまな寺社を訪れている。
しかしほとんどが無名の寺社で、品川区的には旧跡として扱っているけど、非常にマニアックなので割愛した。
それにしてもよくまあこんなに寺を建てたものだと心底呆れるほど、その数は多いのである。
おそらく宿場という人の集まる場所という特性によるだけでなく、江戸の南の守備網としても機能したのだろう。なお、今回日記で紹介した場所は無念の最期を遂げた方が多く眠っているので、
この場を借りて謹んでご冥福をお祈りいたします。
(……とマジメに書かずにはいられないくらいにハードな場所ばかりだったのだ。)
今日はアジアカップの最終予選でサッカー日本代表のイエメン戦があった。
今回招集されているメンバーの最大の特徴は、なんといっても若さである。
フル代表というよりもU-23代表に近いメンバーが集められたのだ。期待の若手が大集合である。
だからきちんとサッカーが好きな層にとっては見どころの多い試合となるはずなのだ。
が、中東で行われるアウェイ戦ということで、どうも放映権料を吊り上げられたようで残念なことにテレビ中継がない。
しょうがないのでテキストで更新されるサイトをチェックして応援の念を送るしかできない。観念してパソコンで作業しながら点数表示の窓を見ていたら、いきなり先制された。
しかも山田直輝が相手からのタックルで負傷退場したらしい。何がどうなっているのだ。
ジリジリしながらほかのサイトをまわっていたら、運よくネットで中継されているURLを発見。
アラビア語がうるさいわ数字以外の文字は読めないわしょっちゅう止まるわで環境としてはかなりキツいが、
最低限の動きは把握できたのでガマンして見る(でも肝心のボールの動きはぜんぜんわからない……)。
と、程なくしてイエメン選手が見事なミドルシュートを決めて2点差となる。これは相手を褒めるしかない。参った。
それでも時間が経つにつれて若手の代表は落ち着きをみせるようになり、前半終了間際にCKを得ると、
途中出場の平山がなんでこんなにフリーになれるんだと呆れるほど完璧なヘッドで合わせて1点差に詰めた。
ネットでの中継でサッカーを見るのは初めてだが、ボールの位置がよくわからなくても意外と見られるもんだった。後半に入ると右サイドに入った乾がガンガン攻め込んで日本が圧倒。
平山が相手からこぼれたボールをターンしながらシュートしてまず同点。前半の危なっかしさはどこへやら、
もうまったく負ける気がしない。平山はさらに左からのクロスにきっちり合わせて逆転。ハットトリックだ。
アラビア語の中継では平山がなぜか「エロヤマ」に聞こえる。エロヤマ、エロヤマと連呼がうるさい。
終わってみれば日本の若手はそれぞれに持ち味を発揮してしっかりと勝った。うれしい展開だった。もしこの試合がテレビ中継されていれば、どれだけ興奮させられて満足した人が多かっただろう。
それくらい、ドラマティックな試合だった。しょうがないとはいえ、中継されなかったのが非常にもったいなかった。
山田への悪質すぎるタックル、コロコロとよく転んで時間を稼ぎまくるイエメン選手、アウェイの笛。
2点差までつけられてイライラさせられる要素はいっぱいで、前半終了前にチャンネルを変えてしまったかもしれない。
でも後半の日本は有無を言わせぬ勢いで圧倒し、オーラ全開の平山がしっかりと結果を残した。
近年まれに見るほどのカタルシス満載の試合内容だったのである。もう完全にインターネットの時代なんですかねえ。
久保ミツロウ『モテキ』。実家で潤平からオススメされたので読んでみた。
えーと、どこから書いていけばいいのか……。結論から言うと、今後のオレのバイブル。主人公・藤本幸世は人生でモテることがないまま30歳になろうとしていたが、ある日突然モテ期がやってくる。
と、まあこの1行であらすじを書くことができるのだが、これがなかなか深いのだ。
ヒロインはとりあえず3名。かつて派遣先の同僚だった土井亜紀、友人のひとりだった中柴いつか、
人生で一番好きだった存在の小宮山夏樹。そしてバツイチ子持ちの元ヤン・林田尚子が相談相手となる。まず主人公にものすっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっげえ
感情移入できる。まあ多くの男性読者もそうなんだろうけど、ここまで自分が重なったキャラは正直、今までにない。
だから読んでいてビシビシと痛い部分が多い。なかなか直視して読めない。でも素直に納得がいく。
主人公はいわゆる「草食系男子」なのだが、やたらと卑屈に構えてしまう(のが自分たちにも共通していると思える)。
そういう等身大の存在が懸命になる姿がじっくり描かれるので、彼の成長というか格闘がとことんリアルに感じられる。
かつて僕は『げんしけん』を「オタクに対してマトモな社会復帰を促すマンガではない」と書いたが(→2008.1.21)、
こちらはそれを極めてポジティヴかつ優しくやっているように思う。さすが久保ミツロウ、伊集院のラジオのリスナー。
ああいう伊集院のラジオを好む「ダメさ」を、毒のない形で客観的に描写して肯定的に認めているのだ。
その立ち位置、さじ加減は絶妙である。もしかしたらそれは女性リスナーだからこそできたことなのかもしれないが。ヒロインの役割、動かし方もすごくよくできている。小宮山夏樹の存在意義は僕にはイマイチわからんのでパス。
しかし土井亜紀と中柴いつかが果たしている役割は、主人公に対してこれまた絶妙なバランスを保っているのだ。
土井亜紀に課せられた役割は、「理想」である。主人公に感情移入する読者にとっての、理想の存在。
このマンガでは主人公のモノローグのほか、土井亜紀のモノローグも非常に目立っている。
しかもその内容は、自分に対して積極的に接してこない主人公への苛立ちがほとんど。
つまり、土井亜紀は決して主人公を嫌わないありがたい存在である上に、読者に「解答」を示してくれているのだ。
草食系の男子にとっては、土井亜紀のモノローグを拾っていくだけで自信がつくようにできている。
対する中柴いつかに課せられた役割は、「現実」である。恋愛という現場に立ったときのリアルを背負っている。
友人という関係性からスタートして主人公とはゆっくりと距離を詰めていくことになるのだが、
その過程は実によくある形そのもの。ごくごくありふれた恋愛の一般論が自然に展開されていく。
「解答」がはっきり示される土井亜紀とは対照的に、手さぐりで近づいていく質感が生々しいくらいに描かれる。
ふつうなら物語になることのない当たり前(しかしこれが僕らには遠いのだ!)が、ていねいに再現される。
そして決して主人公と恋愛状態にならない絶対的な存在なのが、林田尚子。
林田尚子は乱暴ながらも的確なアドバイスを主人公に送り続ける。女性の側にいる、でも絶対的な味方。
マンガにとって読者が神様なら、印刷面の向こう側で主人公を動かす林田尚子もまた神様のようだ。
「理想」と「現実」、そして神様。主人公は全員にはっきりと肯定されながら物語を進めていく。うーんまさにモテ期。
もっとも、ここまで書いてきたことはすべて、単行本2巻時点でのこと。
今後どう動いていくのかわからないが、この作者なら鮮やかにそして賢くやりきってくれると思う。そう確信している。上記のような分析はさておき、自分の過去と比べてみて思うことは、皆さんすいませんでしたってことだ。
具体的に何がすいませんでしたかと言えばまあ差し障りもあるだろうから書かないけど、いやホントすいませんでした。
30年以上鈍感で意固地になっていた人間を、こんなふうに素直に謝らせるマンガなんですよこれ。もうバイブルですな!
じゃあお前、これからは心を入れ替えて生きていけよと言われたら、それがなかなかそうもいかない。
職場の女性は皆さん既婚者でお子さんがいらっしゃるし、そうでなければ中学生。おロープ頂戴になってしまう。
結局、いくら改心したところでむさ苦しい現状じゃあどうにもなんねえや、と落としたところでおひらき。
仕事始めだけどぜんぜん人がいねー
東京に戻ってきたけど、あちこち歩きまわるずくもなくさっさと帰宅。
実家での寝正月気分を無意識に引きずっていたのか、虚脱状態に陥ってうにゃうにゃ過ごす。
それでもライスボウルは見る。同点から社会人の鹿島がフィールドゴールで勝ってちょっとゲンナリ。早くも明日から出勤だと思うと、なかなかスカッとした気分になれない。もうちょっとダラダラしていたい。
でもこれ以上ダラダラしていると取り返しのつかないことになりそうな気がしないでもない。
で、2つの感情の板挟みになって結局何もできずにまたうにゃうにゃ。ニンともカンとも。
家族全員、車でお出かけしてみる。特に目的地が決まらないまま北に向けて出発。
さて今回車を運転するのは潤平である。仕事で運転する機会があるそうで、どれ腕を見せてやろう、ということ。
しかしながら言葉の節々に調子の良さがあるのが気に入らず、僕はイヤだイヤだとごねる。
本人は言葉では調子の良いことを言っても締めるべきところは締めるつもりでいるのだろうが、
その締める部分をはっきりと宣言してもらわんことにはこちとら100%の信用ができない性格なのである。まあ結局、母親の説得により後部座席に乗った。しかし即、車酔い発生。
潤平が車に慣れていないところに後部座席の猛烈な圧迫感が襲ってきたので「うぅぅ……」となってしまった。
しばらく行ったところで助手席に移ったところ、症状はだいぶ改善されたのであった。
さて潤平としてはできるだけ遠くに行きたい気持ちがあり、それを勘案した親の提案で諏訪方面へ。
万代書店という中古品を扱うかなり大きな店があるので、そこに行ってみようということになった。父親の道案内で現地に到着すると、駐車場にイベントスペースがつくられて人が集まっている。
お笑い芸人「我が家」の3人が営業で来るというのである。正月早々大変だなあと思いつつ店内へ。
万代書店の店の中はありとあらゆる商品がびっしりと陳列されていた。フィギュア、カード、ゲームから、
DVDにCD、マンガ、さらには古着と実にさまざまな中古の商品が並んでいて圧倒される。
というかあまりの密集ぶりに、見ていたら酔いがぶり返してきてたまらず外へ。
そしたら運よく我が家のネタが始まるところだった。クソ寒い中、3人はいつものシャツで登場。
名物のローテーション漫才をたっぷり見られて満足。まさか正月早々、ネチネチした坪倉が生で見られるとは。
それにしても坪倉はめちゃくちゃ人気あるなあ。最後はきちんと杉山の「言わせねえよ!」が炸裂したよ。谷田部が非常に寒そうだった……。お疲れ様です。
しばらく外にいたら気分がかなり良くなったので、もう一度店内を歩いてみてまわる。
とにかく置いてある品物の量がすさまじい。帰りの車内で「倉庫にレジがついている」と言ったけど、
まさにそれくらい何でもあった(ちなみに、「倉庫にレジ」の話の元祖はコンビニだ →2008.11.24)。
父親は中古のiPod shuffle旧モデル(第2世代)を1000円で買ってご満悦。
デザインとしても実用性でも現行モデルとは比較にならない完成度(というより完成形だな)を誇っており、
家に帰ったらさっそくいじるぜ!とウキウキしているのであった。よかったよかった。
しかしまあ、こういう面白い店があるってのはいいことですなあ。復路の潤平の運転は、往路とは比較にならないほど安定していて助かった。
進行方向の揺れ、いわゆるピッチングが車酔いを誘発する最大の要因であり、
具体的にそれはブレーキのていねいさ、発進する際のていねいさによるところが大きい。
潤平はそのことを会得したようで、非常に繊細なブレーキワークで停車するコツをつかんだようだ。
「自分が満足する運転じゃなくて他人を満足させる運転ができて一人前だろ?」とか、
「お前は運転しはじめて1年そこそこじゃねーか、こっちは乗っけてもらって30年以上だキャリアが違うぞ!」とか、
いろいろ言ってた僕もすっかり黙って「上手くなっとる上手くなっとる」とうなずくのみであったとさ。肉をがっつりといただいてから家に帰る。アレだ、肉を食ったら酔いが消えた。人間そんなもんか。
毎年元旦ってのはなかなか見るテレビがない。各テレビ局はしっかりと力を入れていると思うのだが、
その方向性がどうも我が家の好みとマッチしないのである。毎年元旦がいちばんつまらんと思いつつ見ている。しかしながら今年は『爆笑レッドカーペット』をやってくれたので、大いに盛り上がった。
潤平は仕事が忙しい都合上、旬のお笑い芸人をチェックすることができていないようで、
ちょうどいい機会と言わんばかりに食い入るように見ていた。それほど詳しくない僕に説明を求めてくる。
どうやらロッチとオテンキがお気に召したようです。特に小ボケ先生がツボに入った模様。
あと、みんなで見ているうちに、父親がどうも鈴木Q太郎と響の長友が好きらしいことが発覚。
以前には猫ひろし支持を公言しており、その好みの偏り方がよくわからない。
僕は僕で「皆さん面白いですなあ」と全方位外交でニコニコしていたら「丸くなったもんだ」と言われた。ところで正月の深夜番組は意外と掘り出し物が多い。一回限りということで実験的な番組がけっこうあるのだ。
予算もそれなりに用意されるためか、巧みなキャスティングが実現されていて面白いのである。
やっぱり正月は夜更かししてダラダラ過ごすのが一番だぜ!なんてことを思うのであった。
こりゃ今年もダメだ。