diary 2019.2.

diary 2019.3.


2019.2.28 (Thu.)

サッカー部に新入部員がやってきました……といっても2年生。1ヶ月ちょっとすれば3年生だよオイオイオイ。
経験者ではないものの、なんだかんだで2年生の方がたくましいので、入ってくれるのならもうそれだけでありがたい。
相手の前に立っていればいいという守備の大原則をしっかり徹底してくれれば、もうそれだけで即、戦力になるのだ。
あとは練習の中で味方のいいところを見て、自分の得意プレーを見つけてくれればいいのである。楽しみである。


2019.2.27 (Wed.)

保健指導により晩飯の方向性を見直すことに。毎年指導されているけど、正直効いたことがないのだが……。
とりあえずその概要を聞いて、基本的なルールを割り出してみようと考える。理想の晩飯の「構造」を知りたいのだ。
まとめると、甘い飲み物はダメ、晩に油っこいものはダメ、きちんと運動する時間をとる、以上が基本的なラインか。
うーん、まさに「言うは易く行うは難し」である。運動さえすれば何を食おうとなんとかなりそうな気もするけど。


2019.2.26 (Tue.)

たまたまFM音源やらMIDIやらによる昔の自作曲を聴いてみたのだが、なんだかんだで平板だったなあと反省。今さら。
自分がつくっているから当たり前なのかもしれないが、展開が読めるのである。クセがあるなあ、垢抜けないなあ、と。
結局これ、コードというものをきちんと知らないままで感覚的に押し通していたからじゃないかって気がする。
基礎としたジャンルが偏っている中で、自分の好みのパターンを繰り返していたわけだから、平板になるわなと思う。
まあだからといって、今やってみたとしても大して成長していない気がするのが困る。音楽的に成長した気がしない。
もっと人生経験をきちんと積んで、それを反映したような山あり谷ありな曲をつくれるようになりたいものだ。今さら。


2019.2.25 (Mon.)

Jリーグが開幕して、ニュースを見て、ああはじまったなと思う。楽しめる要素のある日常はいいものだ。
J1からJ3まであって、毎週1試合もしくは2試合あって、追いかけるのが大変だけど。それはそれで贅沢なものである。
今年はどんな試合に出会えるのだろうか。どんなニュースに驚かされるのだろうか。のんびり楽しませてもらうとしよう。


2019.2.24 (Sun.)

朝起きると、ホテルの部屋の窓から見事な朝焼けが見えた。しばらく見とれていると、やがて太陽が現れた。
流氷の様子まではよくわからないが、なんとも爽やかな朝である。食堂でコメを大量に摂取すると、支度を整える。

 
L: ホテルから眺める紋別港と朝焼け。  R: 日の出である。これは実にいい眺め。

ガリンコ号の流氷クルーズは朝イチの便が9時。それに合わせてバスターミナルから港へのシャトルバスがあるので、
発車時刻までバスターミナル周辺を気ままに見てまわる。特にオホーツク氷紋の駅は旧紋別駅の跡地ということで、
駅の記憶を伝えるものがいくつか残されていた。国鉄時代にのんびりと鉄道旅行できた人たちがうらやましい。

  
L: 再現されている紋別駅の駅名標。名寄本線は国鉄民営化の2年後、1989年に廃止となった。「本線」で唯一の廃止とのこと。
C: 脇では氷を使ったミニ迷路がつくられていた。右は滑り台で、左はお椀の風呂に浸かる目玉のおやじ。……なぜ?
R: バスターミナル。紋別市交流センターの一部となっている。かつてはここを名寄本線の線路が通っていたのだ。

今日は午前中まるまる紋別を観光する。流氷クルーズが終わったらすっきり晴れるといいなあと思いつつバスに乗り込む。
海洋交流館(ガリンコステーション)は紋別港の南端で、中心部からはけっこう遠いのだ。バスがあるのがありがたい。
バスは海洋交流館のエントランスに乗り付けるので、そのまま館内に入って手続きしようとするが、そこには行列が。
やはり流氷目的の観光客は多いなあと思いつつ並ぶ。すると本日の流氷具合を知らせる案内板があるのを発見。
「流氷がなくはない」って感じみたい。温暖化が進んでいる昨今、海を流氷が埋め尽くすのはやっぱり難しいようだ。
ゼロよりマシさ、と切り替えて外に出る。そこには真っ赤な流氷砕氷船ガリンコ号IIがいた。テンション上がるわー!

  
L: 流氷砕氷船ガリンコ号II。1997年の就航である。  C: 角度を変えて眺める。  R: 後で撮影した乗船口。

ではいざ出航である。最初はただの海だった紋別港内だが、外へと進んでいくと思ったよりも流氷が多く来ていた。
いつもがどんな感じかわからないのでなんとも言えないが、港の中でも流氷は流氷である。いちおう目的は達成された。
これまでの人生を振り返ると、水面に浮かぶ氷を見たのは諏訪湖ぐらいなものなのだ(というか乗った →2006.1.4)。
ロシアのオホーツク海から流れてきているんだから、量としては少ないものであっても、そりゃあ興奮しますよ。

  
L: いざ出航。振り返って紋別の街を眺める。  C: 港内の流氷と紋別の街。  R: 港の中もけっこう氷がある。

ガリンコ号IIは港を出て、本格的に外洋へと進んでいく(極端ですかね?)。しかし肝心の流氷がなかなか現れない。
むしろ紋別港の出口付近の方が流氷密度が高かった。ガリンコ号IIは意地で流氷を探して東奔西走するのであった。

  
L: 港から出る。  C: 序盤はせいぜいこんな感じ。  R: しかし氷のサイズ・形状もさまざまですな。

流氷どこじゃー!というガリンコ号IIの心の声が聞こえる。なるべく流氷が多い場所を探して突撃しているのがわかる。
その努力をひしひしと感じるものの、自慢のアルキメディアン・スクリューが存分に発揮されるほどの流氷はなかった。

  
L: 氷の上に何かいる!と思ったら……  C: カモメなのであった。器用に立っているなあ。  R: 陸地を振り返る。

  
L: 非常に細かな氷が鱗状に海面を覆っている。  C,R: 流氷の中を行くのも、これがいちばんフォトジェニックかなあと。

港へ戻る頃にはほとんど流氷がない状態となり、すぐ目の前を飛んでいるカモメを激写して面白がる感じに。
まあでも僕としては、流氷の中を突き進む体験ができたには違いないので、満足である。十分楽しゅうございました。

  
L: ガリンコ号IIの上はこんな感じ。  C: カモメが近い。  R: すぐ目の前を飛んでいるので激写したのであった。

  
L: 海から見る氷海展望塔オホーツクタワー。  C: 乗り場に戻ってきたぜ。  R: 海洋交流館の外観。

50分ほどで流氷クルーズは終了。海洋交流館の売店を軽く見てまわってから外に出ると、こちらにも氷像があった。
これは「もんべつ流氷まつり」に関連してつくられたもののようだ。1963年から開催されているそうだ。

  
L: 「紋別ハンパねえ!」描かれているのは、紋別市マスコットキャラクターの紋太(53歳)。
C: 陸上自衛隊第25普通科連隊による熊本城。メインの氷像は毎年こちらの連隊がつくっている模様。
R: 定番のキャラクターがいた。「ぼくドラ……イアイス好き……」とか言ってほしい。

海洋交流館の手前、紋別海洋公園ガリヤゾーンには北海道遺産に認定された初代のガリンコ号が展示されている。
もともとはアラスカ油田開発のために建造した実験船で、観光船に改造して1987年に就航。1996年まで現役だった。
最大の特徴はなんといっても4本あるアルキメディアン・スクリュー。これで氷を割って進んでいく仕組みである。
(さっき乗ったガリンコ号IIには2本ある。螺旋を回すアルキメデスポンプ(→2018.3.31)とやっていることは一緒。)
推進機能も兼ねているので氷上や雪上でも進めるそうだ。流氷がびっしりのときにはスクリューの振動が激しいんだと。

  
L: 初代のガリンコ号。世界初の流氷砕氷観光船だったが、元が実験船なので定員が少なく沖にも出られなかったそうだ。
C: アルキメディアン・スクリュー。つまりこっちが前。  R: 正面から見たところ。これは本当に独特な船だなあ。

  
L: しゃがみこんでアルキメディアン・スクリューを激写してみた。  C: 角度を変えて眺める。  R: 横から見る。

ではいよいよ紋別市の市街地を動きまわる。バスターミナルに戻ると、とにかく歩いて街の感触を確かめる。
紋別市は宗谷場所と斜里場所の間で松前藩が寄港する港町としてその歴史をスタートしており、開拓の街ではない。
そのため南北方向の道路は海岸線とほぼ平行に等高線を描く緩やかなカーヴを描いている。東西方向の道路は坂道。
だから全体的には本州の伝統的な港町の印象に近く、碁盤目の北海道らしさ(→2012.8.27)はかなり薄い印象を受ける。
とはいえ、雪が境界を曖昧にしてだいぶ中和されているが、セットバック感のある隙間もあり、独特な雰囲気が漂う。

  
L: バスターミナルから港方面へ下る。紋別の中心市街地は港とこれだけの高低差を維持して南北に延びている。
C: 市街地の南北方向。本州の商店街とさして変わらない雰囲気。  R: 商店街からバスターミナル方面を振り返る。

街をふらつきながら紋別公園方面へと坂を上っていき、紋別厳島神社に参拝する。港を見下ろす山の麓に鎮座しており、
これもまた紋別の港町としての矜持を感じさせる。創建は1876(明治9)年、村山伝兵衛による(となると7代目か?)。
村山伝兵衛は3代目が宗谷場所・斜里場所の実権を握っていたそうで、この時期には祠が建てられたのではないかと思う。
それが明治になって正式に神社となったのではないかと。時期的にも祭神的にも神仏分離が絡んでいるのではなかろうか。

  
L: 紋別厳島神社。  C: 石段を上って拝殿。  R: 角度を変えて社殿を眺める。雪の神社は撮影がつらいなあ。

 本殿をクローズアップ。ずいぶん長い。

御守を頂戴すると、東に戻って紋別市役所へ。建て替え中もあるが、これで北海道の市役所はいちおう制覇である。
広大な北海道の市役所をすべて押さえたというのは、自分にとっては快挙であるが、それと同時に淋しさもある。
これでもう、北海道内で知らない市はなくなってしまったのか、という感情。いや、市だけを制覇したにすぎないが、
それにしても心躍る謎(wonder)が確実に減ったということなのだ。まあとにかく、きれいな写真を撮らなければ。

  
L: 紋別市役所。南隣の消防本部前から見たところ。  C: 敷地はなかなかの高低差。  R: 通りを挟んで正面から見る。

紋別市役所は石本建築事務所の設計で1965年に竣工している。敷地の高低差をそのままにスロープで乗り付ける形。
塔に市章が付いているのも昭和なら、スロープの内側を駐車場としているそのいいかげんな感じもまた昭和だなあと思う。
今日は日曜日で中に入れないが、中に入ったら絶対に昭和丸出しな空間なのだろう。古き良き高度経済成長期の庁舎だ。

  
L: 北東から交差点越しに見たところ。  C: そのまま坂を上って側面を中心に眺める。  R: 北から見たところ。

表通りからはわからなかったが、裏にまわったら横向きで紋別市議会議事堂がくっついていた。
本庁舎棟が典型的な昭和40年代オフィス庁舎なのに対し、議会棟は道路に面してガラス張りの吹抜が確保されている。
これは昭和50年代になるとオフィス庁舎で当たり前のように装備されていくスタイルで、やや実験的な感触である。

  
L: 本庁舎棟に対して横向きにくっついている議会棟。ガラス張りのエントランスはホールや体育館のノウハウを感じる。
C,R: 北西側から見たところ。しかしちょっと凝った議会をわざわざ後ろの目立たない位置にもってくるのはもったいない。

  
L: 高低差そのままに、南西側から見下ろす紋別市役所。左から議会棟、本庁舎棟、消防本部となる。
C: 敷地内に入ってあらためて撮影。配置は左の写真と一緒。  R: 本庁舎棟の背面をクローズアップ。

  
L: 本庁舎棟の正面にまわり込む。うーん、シンプル。右上には北海道コンサドーレ札幌を応援する看板。北海道広いなー。
C: エントランス内部を覗き込む。いちばん目立っているのがなぜか「交通安全明るい紋別」という市長の書なのであった。
R: マットに描かれている紋太(53歳)。昨日の「紋太の湯」もそうだが、紋別市の紋太推しはかなり徹底している。

市役所より一段高い西側には紋別市民会館があるので、そちらも撮影。1972年の竣工とのこと。
隣の市役所が石本なのと、個人的に蒲郡の体育館(→2012.12.29)と似た印象を受けたのだがそれも石本なので、
紋別市民会館も石本っぽいなあと思うのだがどうだろう。調べる中でさっきのオホーツクタワーも石本と判明し、
さらに最近では広域紋別病院もやっていて、どうやら石本は紋別の建築に異様に強いようである。

  
L: 紋別市民会館。  C: 近づいてみた。  R: 北東から。支える構造体の出し方が少し蒲郡っぽいと思うのだが。

あとはバスターミナルに向かいがてら街の様子を撮影していく。午前中しっかりと時間をとったつもりだったが、
やはり雪の街を歩くのは、コースが限定されたり走れなかったりで意外と時間を消費するものだと実感した。
紋別の街中の観光要素はそれほど多くないが、オホーツクタワーとセットでもっとじっくり楽しめるとよかった。
でも交通の便を考えるとなかなか余裕がないんだよなあ。はっきり紋別だけを目的地にしないとつらいところがある。

  
L: 紋別市文化会館。1989年竣工。  C: 歴史を感じさせる紋別通運。営業しているのかどうかはわからないが。
R: せっかくのオホーツク海なので、お昼は海鮮丼をいただいたのであった。おいしゅうございましたよ。

先月の新潟、今回の北海道と、あえて雪の中での観光をやってみたのだが、動きが制限される影響が大きくて、
どうしても消化不良な感触が残ってしまう。また、雪道を歩くことは自分が思っているよりも体力を消耗するのである。
だから知らず知らず細かなことがふだんよりも億劫になっていき、その積み重ねで行動が小さくなってしまうのだ。
おかげで士別も名寄も紋別も、その街としての本質をうまくつかめた気がしない。冬ならではの魅力は味わえたけど。

 バヒさん、なんかいたよ!

興部行きのバスに乗り込み、紋別を後にする。昨日は夜だったのでオホーツク海の景色を楽しむことができなかった。
気合いを入れて外を眺めていたのだが、左手に背の低い木が生えた斜面、右手にオホーツク海の景色が延々と続き、
あまりに単調だったので結局いつしか気を失っていたのであった。途中の沙留(さるる)の集落も一瞬で過ぎたし。

 最北の国道である238号を行く。右手には延々とオホーツク海。

興部に到着。30分ほど動けるので、町役場まで往復してみる。まずはバスターミナルの道の駅おこっぺを散策する。
もともとは名寄本線興部駅で、その跡地に建てられた。「アニュウ・ジョイパーク」という別名があるようだが、
一面の雪でどの辺がジョイでパークなのかよくわからず。さらにはアニュウの意味もわからず。呆けるのみであった。

  
L: 道の駅おこっぺ。こちらはバスが停まる北側。 C: 南側。広大な雪の空間にただ茫然とするしかなかった。
R: これは昨日の夜に撮影しておいた内部の写真。奥の方に特産販売所があるが、道の駅にしては小規模かなあと思う。

興部町というと酪農が有名で、近所のスーパーでたまにヨーグルトを見かける。でもそれくらいのイメージしかない。
なんとか興部のリアリティをつかめないかと思いつつ歩くが、やはり「北海道の田舎」の印象に収斂するのであった。
やたらまっすぐな道、余裕をもって点在する店舗。今回はそこに雪がプラスされて興部の個性がぜんぜん見えない。
まあそもそもそんなものなのかもしれないけど。この寒さと雪の中、皆さんたくましく生きているなあと思う。

  
L: メインストリートの国道239号。やはり国道はしっかり除雪されている。  C: もう少し東に進んだところ。
R: こちらは町役場からの帰り、住宅地のエリア。かなり広い道だが、まあだいたいどこもこんな感じですかねえ。

興部の市街地もだいたい碁盤目になっているが、その東のはずれに町役場がある。この周辺だけ少し斜めになっており、
ちょっと特別感がある。興部町役場は1974年の竣工。3階建てなのだが、周囲が広々としていることもあってか、
かなり堂々としている印象である。酪農という産業がある程度ブランド化できている強みを反映しているのかと思う。
とはいえ北海道はどこも猛烈な過疎化と経済の縮小に悩まされている。昨日も今日も、それを痛感している旅である。

  
L: 興部町役場が見えてきた。  C: 町役場は北を向いているので逆光と戦いながらの撮影。  R: 角度を変えて眺める。

バスターミナルに戻ると、せっかくなので興部名物の飲むヨーグルトをいただく。まあ上で述べたように、
近所のスーパーでたまに売っているのだが。それでも現地で飲む方がおいしいよね、ということでありがたくいただく。

 その土地ならではの物を味わっておくことが、帰ってからの思い出につながるのだ。

昨日の逆ルートということで1時間半、バスに揺られて名寄へと戻る。貧乏性なので昨日と同じ場所に戻るのが、
なんとももったいなく思えてしまう。でもやっぱり旭川空港を基準にしないことにはどうしょうもないので、
これ以外の選択肢はないのである。名寄に着いたら15時半過ぎで、どうにもできずによろーなで日記を書いて過ごす。

 名寄駅、再び。

特急で旭川駅へ。振り返ってみるとなかなかの大冒険であった。できる限りのことはきちんとやったのではないかと思う。
流氷も見ることができたし、何より天気が味方してくれた。僕の中では「本当に街を味わうことができたのか?」なんて、
贅沢な疑問が残っているのだが、それはあまりに生意気な望みだろう。冬の北海道を存分に楽しく味わったじゃないか。

 
L: すっかり仕上がった(→2012.8.20)旭川駅。以前(→2010.8.10)と完全にスケール感が変わった。同じ場所に思えない。
R: 神社だけで旭川要素が薄いままで帰るのが癪だったので、空港にて意地で旭川ラーメンを食うのであった。

今回の旅で士別・名寄・紋別の3市役所を訪問したことで、北海道の市役所をすべて押さえた。さっきも書いたけど、
広大な北の大地をついに制覇したかと思うと、こみあげてくるものがある。でもやはり、淋しさもまた確かにある。
これでしばらく北海道を訪れることはないだろう。いつか、まだ見ぬ御守とともに、建て替えられた市役所たちを、
のんびりと周遊しながらチェックできる日が来るといいが。ま、旅の本来の醍醐味は「自由になること」にあるのだ。
あれこれ考えず飛び出すのもまた一興。いずれその自由を全力で味わうために、しばらくは北海道産の名物で我慢しよう。


2019.2.23 (Sat.)

冬の北海道旅行である! 今まで何度か北海道旅行をしているが、ほぼすべて夏なのであった(1回だけ秋)。
建物を相手にする以上、それは当たり前のことなのだ。が、今回はわざわざ冬に訪れる理由があるというわけだ。
おかげさまで北海道で残った市役所は、士別・名寄・紋別の3つ。この紋別がポイントなのである。……そう、流氷。
せっかく紋別まで行くのなら、流氷を見ようじゃないかと。オホーツク海は北半球における流氷の南限ですからな!
だから先月の新潟旅行(→2019.1.132019.1.14)は、この北海道流氷旅行のための予行演習という意味合いもあった。
地球が温暖化している昨今、できるだけ寒くなりますようにと祈りつつ一日一善に励み、いざ出発なのである。

 旭川空港に到着。

まずは旭川空港へ。紋別空港だとあまりに本数が少なくてスケジュールの制約が強すぎる、という事情もあるが、
旭川には参拝しておきたい神社もあるのだ。空港から駅へと向かうバスを途中下車して、上川神社へと向かう。

  
L: 上川神社の境内入口。ぎりぎり一本分だけ雪かきされた参道を行く。雪の神社は参拝するのが本当に大変なのだよ。
C: 手水舎に入れない。そもそも手水が凍っているんだろうけど。  R: めげずに進んでいく。社殿は進んで右折した先。

上川神社はその名のとおり、旭川を中心とする上川地方を代表する神社である。別表神社にもなっている。
1893(明治26)年の創建で、現在地の神楽岡に遷座して社殿が建てられたのが1924(大正13)年のことである。
ちなみに上川神社は、かつて上川離宮の建設が計画された場所だそうだ。これは東西南北それぞれに都をつくる計画で、
東=東京、西=京都、南=奈良に対応する「北京」として旭川が選ばれた。が、さすがに実現はしなかった。

  
L: 境内社の旭川天満宮。脇にいる撫で牛が、とてもマフラーでは済まないような事態になっているのだが。
C: さすがは旭川といった迫力の拝殿。社殿は北海道産のエゾマツを使っているとのこと。  R: 本殿。

御守を頂戴すると、旭川駅を目指して歩く。先月の新潟は雪のある箇所の方が少なかったが(→2019.1.132019.1.14)、
北海道の内陸部はさすがに容赦がない。雪かきで歩道は確保されているが、そのコースからはずれることができない。
また、慌てると滑ってしまう。そうそう、このもどかしい感じが雪国なのだ。ずいぶんと懐かしい感覚だ。

 旭川駅を目指す。雪の道は動きが制限されるのがつらい。

旭川駅に着くと、セブンイレブンの無料Wi-Fiのお世話になりつつネットストアでお買い物。厳しい戦いが想像されたが、
奇跡的に争奪戦を制して目的の折りたたみ傘を買うことができたのであった。まさか旅先で買えるとは思わなかった。
そんなこんなで静かに興奮状態に浸りつつ、宗谷本線の旅をスタートさせる。まずは永山駅で下車し、永山神社へ。
永山神社は駅の真南にあるのだが、街路が斜めなので逆S字でアプローチ。やはり雪の街並みが冒険感を加速する。

  
L: 永山神社。  C: 手水舎はやはり立ち入れないのであった。  R: 寄り道することができないままに参道を行く。

永山神社は1891(明治24)年の創建で、岡山県出身の屯田兵が建てた祠を起源とし、上川地方で最古の神社である。
後に、地名にも採られた永山武四郎を祭神に加えている。永山は北海道庁長官も歴任した陸軍の軍人であり、
上述の上川離宮建設計画を主導した人物。まあつまりは対ロシアということで北海道の開発に力を注いだわけだ。

  
L: 池は氷が張っていたが、その上に無数のカモがいた。  C: 拝殿。  R: 角度を変えて本殿ごと眺める。

とりあえずこれで旭川の主要な神社は押さえたはずである。再び宗谷本線に揺られて北上し、士別駅で下車。
北海道で「しべつ」という名前の自治体は2つある。ひとつは野付半島(行きてえ……)の付け根にある標津町。
もうひとつが上川地方の士別市。アイヌ語で「シペッ」が「大きな川」を意味するので、2つあっても無理はない。
士別市はその漢字の当て方から「サムライ士別」なんて呼び方をすることもあるようだ。それではいざ、市役所へ。

  
L: 士別駅。  C: 駅から国道40号に出る道。北海道だなあーって感じ。  R: 国道40号はしっかり除雪してある。

士別市もまた、しっかりと碁盤目の区画で構成された街(→2012.8.27)である。天塩川と剣淵川の間に市街地が広がる。
なお、1899(明治32)年に約100戸が士別に入植したが、これが屯田兵として最後の入植とのこと。最後発の街なのだ。
市役所を目指して歩いていくが、雪があるとどうしても距離感がつかみづらい。歩くコースが限定されてしまうし、
歩くという行為じたいに通常よりもエネルギーを消費することになる。素の地面の様子がわからないのもつまらない。
国道は雪が少ないが、それ以外の道は境界をはじめ、すべてが曖昧になっている。いつもとの勝手の違いに戸惑う。

  
L: 広通り。中央分離帯がちょっとした壁になっている。  C: 歩道はこんな感じである。  R: 住宅地は白一色。

時間にして20分弱、どうにか士別市役所にたどり着いた。横浜市役所(→2010.3.22)を意識している印象がする建物だ。
村野藤吾設計の横浜市役所は1959年竣工だが、こちらの士別市役所は1964年竣工。残念ながら設計者はわからないが、
なかなか端正なモダニズム庁舎だ。低層でつないだ東の建物は大ホールという名称で、さらに市民文化センターが隣接。

  
L: 士別市役所。まずは西側の敷地入口から眺める。  C: 近づいて南西から見たところ。  R: 敷地内に入る。なかなか端正。

エントランスに近づくと、そこには庁舎の建て替え工事の貼り紙がしてあった。またこれか、とションボリである。
まあ、取り壊し前にギリギリすべり込んだと思っておこう。市役所の敷地南側はフェンスでしっかりと囲まれており、
新しい庁舎はここにつくられるというわけだ。でもそのせいで動ける範囲が地味に狭まって、撮れる角度が限られている。

  
L: 本庁舎を南から見たところ。小ぎれい。  C: エントランス。よく見ると建て替え工事の貼り紙が……。
R: つなぎの低層部の前、南東から見たところ。工事のせいで撮影できる角度が地味に限定されていてつらかった。

調べてみたら、士別市役所の新庁舎整備計画が2016年に出ていた。それによると、1964年竣工なのはつなぎの低層部で、
メインの本庁舎は1965年の竣工とのこと。なんとも妙だなあと思ってさらに調べたら、意外な事実がわかった。
東隣の大ホールはもともと市民会館として建てられており、これも1964年の竣工だというのだ。1996年に増改築を行い、
現在、大ホールは市民文化センターの一部として利用されているというカラクリだった。なんともややこしい経緯だ。
つまり、市民会館と低層部を先行して建てておいて、翌年に本庁舎を西隣に完成させた、というのが実態だったのだ。
市役所と市民会館をセットで建てる例は1970年代に多いパターンだが、1960年代に順序を逆にして建てていたとは……。

  
L: つなぎの低層部と大ホール。つまりはこちらの建物がいちばん最初にできあがったわけだ。
C: 東に出て市民文化センターの側面を眺める。撮影できる角度が地味に限られております。
R: 北東側にまわり込んで市民文化センターの背面を眺める。その奥が大ホールの背面となる。

新庁舎整備計画を見るに、大ホールは1996年の増改築によって市民文化センターの一部となったことで、
今回の建て替え計画からははずれているようだ。また、整備計画には設計施工一括発注方式を採用すると示してあったが、
プロポーザルにより基本設計を久米設計札幌支社に決定し、プランが出た後で、入札による設計施工一括発注をしている。
その結果、清水・宮武・フジヤJVが受注者となっており、清水建設北海道支店が久米設計のプランに変更を加えている。
主なポイントは「陽なたの広場の配置変更」と「鉄塔の配置変更」の2点とのことだが、公開されている図面を見ると、
かなり大掛かりな変更となっており、まったく別物と言っても差し支えない。なんだかよくわからない手間をかけている。

  
L: つなぎの低層部の背面。こちらは真っ白なのね。  C: 本庁舎の背面。  R: 北西から眺める。手前は消防車の車庫。

士別市では2015年7月からかなりの頻度で『庁舎かわら版』を発行しており、また公式サイトで図面を公開していて、
新庁舎建設の経緯をある程度きちんと追えるのはすばらしい。ただ、ほかの自治体があまりやらない迷走があるわけで、
その辺の意思決定の基準が見えないのは残念だ。設計施工一括発注にこだわって、かえって妙なことになったのでは?

いずれ旭川の新庁舎とセットで士別の新庁舎も訪れて、さらに稚内の北門神社を参拝できるといいなあ、と思いつつ、
士別市役所を後にする。さらに北東へと歩いていって、目指すは士別神社。山へ向かって雄大な坂道になっており、
雪で覆われた足元に注意しながら上っていく。街を見下ろす神社はいいが、冬の北海道だと参拝の難度が跳ね上がる。

  
L: 士別神社へと向かう道。街を見下ろす丘に鎮座するのはいいが、冬場にこの勾配は怖い。
C: 鳥居。しかしこれ、車が来たら逃げ場がないのでは。  R: 坂を上りきって境内。白一色だ。

参拝を終えると御守を頂戴する。思ったのは、北海道の都市は開拓によって成立したものが多いからか、
わりとしっかり神社が機能しているということ。街を代表する神社が確実に存在していて、きちんと人がいる。
開拓にあたって精神的な拠り所となっていた歴史を今もしっかりと引き継いでいる、というわけだ。

  
L: 境内に入っても拝殿までまだ距離がある。地味につらい。  C: やっとこさ拝殿。やはり神明系のデザインである。
R: 本殿。士別神社の歴史は1899(明治32)年の屯田兵入植と同時に始まる。現在の九十九山の境内は道内2番目の広さだと。

これでとりあえず士別市のタスクはクリアとするのだ。最後に、士別市を動きまわって特に印象的だったことについて。
それは、とにかく羊が大好きということだ。特に、体が黒くて毛は白いサフォーク種のキャラクターがやたらと多い。
1匹くらい『ひつじのショーン』をパクったやつがいるんじゃないかと思って探したけど、いなかった。食用だもんな。
ちなみに日本で最も羊が多いのは北海道で、全頭数の半分以上を占める。そして最も多い品種はサフォーク種とのこと。

  
L: 街角にさりげなくサフォーク種。  C: 士別駅にて。北海道のジンギスカンを支える意欲に燃えているようだ。
R: 同じく士別駅にて。「サフォークランド」という表現まで生み出されている。でも実は十勝地方が最大の産地なのだ。

士別を後にすると、さらに北上して名寄へ。名寄でもやはり、市役所と神社をターゲットとして動く。
上述のとおり士別は2つの川に挟まれた市街地となっていたが、名寄も同じで天塩川と名寄川の間に街がある。
ただし人口は名寄の方が多く、その分だけ商店街の規模も大きい。女子短大が母体だが、市立大学まである。

  
L: 名寄駅。  C: アーケード商店街が広がる。個人商店を中心に穏やかに営業しており、なんだか懐かしい雰囲気。
R: 国道40号を行く。北海道らしいゆったりとしたスケール感だが、店舗が続く。人口3万人弱のわりにはしっかりと街だ。

名寄駅からまっすぐ北上すると名寄市役所である。1968年の竣工だが、建て替えの計画はまだ特にないようだ。
設計者はわからないが、1階にピロティをつくり、エントランスの反対側に市民も利用できる食堂を配置するなど、
こだわりを感じさせる庁舎である。北海道の市役所は1960年代のものがわりと多くて、しかもそのどれもが、
その時代なりの凝った箇所を持っている印象だ(さっきの士別もそうだし、石本建築事務所の釧路(→2012.8.17)、
岡田鴻記の富良野(→2015.11.2)など。設計者不明では岩見沢(→2018.7.22)、網走(→2012.8.19)も60年代全開)。
今後建て替えが進んでいくと、それらも画一化されて忘れ去られてしまうのだろうなあ。もったいないなあと思う。

  
L: 名寄市役所。まずは南東から。名寄の街路はきっちり東西南北に対応しているので、方角の説明が楽でいいわい。
C: 東から道路を挟んで眺める。アカシヤ通りというらしいが、ど真ん中で邪魔しているのはクロマツなのであった。
R: 北東から交差点越しに眺めたところ。逆光と戦いながらの撮影である。時刻はもうすぐ15時だが、冬の北海道は容赦ない。

  
L: 敷地内に入って撮影。  C: そのまま少し南に入ってほぼ正面から見たところ。  R: ピロティ入って左が1階エントランス。

  
L: 1階エントランス、中を覗き込む。  C: 角度を変えて2階のエントランスから覗き込んだところ。位置関係わかります?
R: ピロティに入って右、1階エントランスの反対側は食堂。「ご利用はどなたでもOK!!」の貼り紙アピールがすごかった。

  
L: 戻って北から見た側面。  C: 北西から見た側面と背面。  R: 南西から見た側面と背面。

  
L: 個人的にもっともモダンでうれしかったのが、2階エントランス上の「名寄市役所」の文字。こういうのがいいんだよ。
C: 東側(正面側)ファサード。2階エントランスはこちら。  R: ピロティの手前には温度計。−2.0℃かあ……。

雪があるので好きに動いて撮るのは難しかったが、なんとかがんばってみたつもり。なかなか魅力的な市役所だった。
無理のない範囲で凝っているのがよい。営業時間が14時までなので入れなかったが、食堂でぜひ何か食べたかったなあ。

市役所の撮影を終えると、今度は駅から見て市役所と点対称の方向へと歩いていく。陸橋で宗谷本線の東に出て、
ひたすら南下。通りの名前は「神社通」だそうで、そのものズバリでまっすぐ名寄神社へと向かう道である。

 宗谷本線の東側、神社通を行く。北海道らしいのんびりした住宅地である。

市役所から20分弱で名寄神社の入口に到着。やはり境内は少し高くなっており、雪かきでつくられた参道を慎重に進む。
すでに木々に雪はなく、まだしっかり積もっている地面とは対照的である。北海道の自然はたくましいなあと思う。

  
L: 名寄神社の入口。  C: 雪かきでつくられた参道を行く。  R: 拝殿の前に出る。ここも北海道らしい神明系デザインだ。

さて、名寄神社で最も特徴的だったのは「サンピラー御守」だ。サンピラーとはsun pillar、つまり太陽柱のこと。
日の出または日没時に、地面すれすれの太陽から垂直にまっすぐ伸びる、柱のような光が見られる現象を指す。
気温が-20℃以下というのが条件とのこと。どうやら名寄ではこのサンピラーを前面に押し出しているようで、
温泉宿泊施設の名前に採用されている。そしてさらに、2008年には北海道立サンピラーパークが全面オープンしている。
名寄神社のサンピラー御守にはどのようなご利益があるかはわからないが、地元の名物ということで迷わず頂戴する。

  
L: 本殿を撮影しようとするが、雪が深くて思うように動けないのであった。  C: とりあえず拝殿を横から眺めたところ。
R: 結局、本殿を見るのはこれが限界。なお、名寄神社の本殿は、北海道最古のコンクリート造りの本殿とのこと。

これで本日のタスクは完了。興部行きのバスが出るのは夕方なので、それまで名寄の市街地をぶらぶらと歩く。
さらに駅前交流プラザよろーなで時間調整。やがてバスが来たので乗り込むと、国道239号を東へ突き進む。

 国道239号で興部を目指す。

そうして1時間半後、興部町に到着。ここでバスを乗り換えてさらに45分、ようやく紋別に到着である。
かつては名寄本線があったので、もっとスムーズに移動ができたのだろうと思う。いやはや、疲れた。

バスターミナルの向かいが「オホーツク氷紋の駅」で、紋別駅の跡地に建てられた観光施設となっている。
まずは中のラーメン店で晩ご飯をいただく。オホーツクらしいものをということで海鮮ラーメンを注文するが、
カニのハサミがさすがに強烈。しかし寒くてたまらないところに、凝った具の塩ラーメンは大変ありがたかった。

 ぐふふ……うまい。

オホーツク氷紋の駅には温泉ではないものの入浴施設が併設されているので、迷わず突撃して大いに癒される。
これでやっと落ち着いた感じ。ホテルにチェックインすると、オホーツク海を覆う流氷を夢見て眠るのであった。


2019.2.22 (Fri.)

上からの指令で英語のスピーキングテストをやることになるのであった。英検主催のやつに乗っかる形である。
一部屋借り切って長机を並べ、椅子を並べ、パソコンを並べ、ヘッドセットを並べ、プログラムをセットアップする。
懸念材料はいろいろあるのだが、隣の人の答えが邪魔になるんじゃないか、もしくはカンニングが可能なんじゃないか、
その辺りの心配がいちばん大きい。「そんなもん機材を送ってくる側の責任でいきましょう」ということで強行突破。
テストが終わった後の回答データファイルの扱いも面倒くさいのだが、やはり送りつける側の責任ということで受け流す。

そもそもなんでこんなことをやるのかというと、都立高校の入試に将来スピーキングテストを入れようという動きがあり、
実際にやってみてデータをとろうということ。僕個人の感想で言うと、百聞は一見に如かずな問題点がだいぶ見えてきて、
その点はよかったと思う。つまり、入試でスピーキングテストは不可能である!という事実がよーくわかったってことだ。

最大の問題は、採点基準が明確になりえないということ。たとえば僕たちが日常話している日本語、採点できますか?
おそらく、「通じる/通じない」の2択でしか評価はできないだろう。しかも判定者によって基準の軸が変わってくる。
これは聞き手の努力や聡明さ(野球の守備範囲の広さに近い)によって簡単に変わる。いや、体調しだいでも変化する。
そんなものを統一された評価基準に落とし込めるはずがないのだ。ちょっと考えればわかることだと思うんだけどね。
教え手としても、これは非常に困った事態だ。採点基準がわからないものを生徒に指導できるはずがないのである。
「英語圏の話者らしい発音」と「いろんな国の人に聞こえやすい英語の発音」はまったく別だし。どっちがいいのやら。
ちょっと考えればわかることがわからないのは馬鹿である。しかし残念ながら馬鹿が自分の馬鹿さ加減を自覚せず、
権力でその馬鹿を押し通そうとするから大問題なのである。まあ今回やってみて馬鹿さ加減を自覚してくれるといいが。

思ったのは、これっていちばんかわいそうなのは、採点する人だろうってこと。みんな英語が得意なわけではないから、
英検の担当者は延々と音の入っていないデータを聴き続けると思うと……うーん、かわいそう。俺なら発狂しちゃうよ。
テストの受験者も苦行、採点者も苦行、指導者も苦行。見事なまでに三方悪し、である。馬鹿に関わると不幸になるなあ。


2019.2.21 (Thu.)

テストがだいたいできあがった。一段落ついたところでやはり、フォントの宇宙(→2018.11.20)をさまよう。

今回大いに気になったのは、「Noto」シリーズである。これはGoogleによるフォントプロジェクトで、
「no more tofu」ということで「Noto」。「tofu」とは「豆腐」、フォントが表示できないときの四角を指す。
世界中すべての言語に対応すればこの豆腐がなくなるということで、それを目指してのプロジェクトだそうだ。
日本語に関連しては、ゴシックの「Noto Sans CJK」と明朝体の「Noto Serif CJK」の2種類が存在している。
「CJK」はChinese/Japanese/Koreanってことだろう。ベースの言語でそれぞれきちんと微妙な違いがある。
現状、見てくれの美しさとコストのバランスを考えると、このフォントがいちばん理想的ではないかと思う。
個人的にはヒラギノの方が完成度が高いと感じる。印刷物で出すとなると、ちょっと読みづらさがあるのではないか。
たぶんフォントを大きくして表示すると、違和感がある。小さいサイズであればごまかせるレヴェルではあると思う。
ウェブ中心での利用に限るのであれば、無料でこのクオリティなら文句はない。正直、かなり惹かれる。

今まで書いてきた日記のフォントを変更するのは、かなりの手間を要する作業となる。実に面倒くさい。
でもNoto Sans CJKを採用すると感触が変わって、読み手に明るい印象を与えられるかもしれない。いやあ、迷うなあ。


2019.2.20 (Wed.)

道徳の授業で『ハゲワシと少女』をやる。見開きでピューリッツァー賞のあの写真がでっかく掲載されている、それだけ。
どう料理するかは参考となる指導書があるのだが、そのままやっても何も面白くないし時間的にもたないのでアレンジ。
参考にさせていただいたのは、『戦場写真家とメディア倫理の問題 : 写真「ハゲワシと少女」を手掛かりにして』。
ネットで調べていくうちに、白鴎大学論集に収録されているこちらの論文を発見したので大いに活用させていただいた。

具体的には、まずは定番の構図:「目の前の少女をまず助ける」VS「写真で世界に伝える方を優先する」を提示する。
すばらしいことに、上記の論文ではこの点で戦場カメラマンの渡部陽一・宮嶋茂樹両氏のスタンスを対比していて、
これがわかりやすい(渡部氏は明確に前者のスタンスであり、宮嶋氏はおそらく後者のスタンス、という扱い)。
渡部氏は生徒も知っているし、宮嶋氏は『不肖・宮嶋』シリーズでの活躍ぶりを紹介すれば生徒が自然と食いつく。
そのうえでどっちよ、というところからスタートする。双方の立場から生徒にコメントしてもらい、肯定的にまとめる。
余談だが、これをディベートにもっていくとか、真性の阿呆のやることだと思う。何の意味もない時間になるだろう。

次のステップは、この写真を撮ったカメラマンであるケヴィン=カーターについての紹介である。
そもそもそれをやらないで授業が成り立つのかよ、と思っているのだが。何より重要なのは、彼の最期だろう。
写真が世界に与えた衝撃、ピューリッツァー賞という評価、そして彼の最期。誰が彼を殺したのか、考えさせる。
僕が道徳で最も重要だと思っているのは「当事者意識」である。これが育たない授業なんて、ただの欺瞞でしかない。
逆を言うと、生徒の想像力を刺激して「当事者意識」を持たせられれば、どのようテーマでもぜんぶクリアできる。
先ほど「助ける派」と「伝える派」に分かれた生徒たちに、自分の意思・行動が彼にどのような影響を与えるのか、
じっくり考えさせる。写真に収められている少女の命と、その写真を撮影したカメラマンの命。平等なんだろ、と。

最後に上記論文を引用し(引用の引用になるが)、カーターの同僚が書いた撮影当時の状況を種明かししてから総括。
そのうえでもう一度、「助ける」と「伝える」それぞれの行動の意味を問い直す。どちらが正しいということではなく、
自分の選んだ考え方に対する責任と、自分と違う考え方に対する理解を問い直すわけだ。それでタイムアップ。

以上のような内容だったが、いい問題提起はできたかなと思う。生徒や他の教師からの評判は非常によかったですよ。


2019.2.19 (Tue.)

昨日の日記で書いたところの「信頼できる友人」であるワカメがやってきたのであった。
例のサイトが閉鎖されたってよ、という話をしてみんなでしんみりする。それだけの時間が経っているのだ。
しかしもはやメインの話題は、親は大変だねえ、えらいねえ、といったところ。それだけの時間が経っているのだ。
こちらとしては、真人間との交流は貴重なのである。まっとうな世界との距離感を定期的に確かめないといけない。
まあそんなこっちの事情は抜きにしても、久しぶりにじっくり話せて楽しかったなあ。またよろしくなのだ。


2019.2.18 (Mon.)

大学院時代をピークにハマりまくっていた界隈で中心的存在だったサイトの閉鎖を知る。
まあ、二次創作の小説サイトである。マサルの『月経エンタ』サイトのリンクを踏んだのが運の尽きだったなあ。
いい機会なので、その場所で得たものについては、きちんと文章として記録しておこうと思う。

まず学んだのは、人間の創作意欲の勢いの凄み。刺激され、書かされてしまう。僕は巻き込まれた感覚でいる。
盛大な祭りとしか言いようのない熱に浮かされて、ついつい自分の力を試したくなってしまったのだ。
タダで存分に面白がらせてもらったお礼に、自分でもできることはないかと思ってしまったのだ。

そうして、やっているうちにいろいろ見えてくる。特に、自分の得意なことと限界が理解できた。
ほかの人たちを見ていると、マンガやライトノベルをバックグラウンドとする層が非常に多かった。
だから僕は、「絵本」と「演劇」を他者にないストロングポイントと自覚してやっていたっけな。
テクニカルなことは、実はかなりやった。演劇を観る経験を小説を読む経験に置き換えられないか、と考えていた。
1本の電話をきっかけに前半と後半で舞台空間を入れ替えてみる。3つの空間で同じ行動を三者三様の差異をつけて描く。
また、掲示板を使う小説は入力できる容量に制限があり、文章を分けて更新するので、その単位「レス」を利用して、
1レスごとに交互に場面を移しながら同じ話題を進める(演劇で言えば、舞台の左右で別の空間を同時進行させる感じ)。
これ、実際にやるとかなり難しいのだが、私の手際がよすぎて誰もこの努力に気づかないんですよ。悔しかったなあ。
あと、1レス=1分の時間経過ということで等間隔で更新したり、制限時間をつけた話を書いたり。いろいろやった。
舞台を駅の東口と西口で1レスごとにスイッチし、さらに物語内の物語も出して3つの話を最後に収束させたやつは、
コンペで優勝したっけな。回想シーンを使ってまったく同じ1レスを自然に重複させる、なんてこともやったなあ。
やってみて意外と得意だったのは、小ネタを仕込むこと。現実のできごとやセリフを物語の中に仕込むのだが、
このパズルが面白いようにハマりまくるのである。これについては界隈でもトップクラスの能力があったと思う。
空気を読んで設定を共有するリレー小説も意外に得意だった。ワークショップで話を書いたのもいい経験だった。
まあこれらは小説というよりはドラマやアニメ制作に近い感じだったが、そっちの才能が実感できたのはうれしかった。
もうひとつ意外だったのは、エロ方面もきちんと書けたこと。ガチレズさんたちに好評だったのはよい思い出である。

反面、人を惹きつける文を書く能力については限界を感じた。言葉を操る天賦の才能というものは確かにあって、
努力ではどうにもならない領域がある。これは痛感させられた。読みやすい文、きれいな語彙の文は書くことができても、
読む人の心をコントロールしてしまう文は書けなかった。まあどちらかというと「殻を破れなかった」のかもしれないが。
僕の場合にはどうしても最後には理性での着地をしてしまうので、人を道連れにするまで狂えないし狂わせられない。
文章が書き手のものなのか読み手のものなのか境界線がブレていくような、そういう熱狂を生む力はなかったなあ。
ありがたいことに、どんなジャンルでも書ける「オールラウンダー」なんて言われたこともあったが、
究極の器用貧乏っぷりをさらけ出しただけだったと思っている。尖った文章使いには最後までなれなかった。

読み手としては純粋に、才能の種類、いろんな人々の価値観に触れることができて、それもまた楽しかった。
いや、読み物としてのレヴェルは異様に高かった。凄まじいクオリティだった。これは本当に間違いのないことで、
なんであそこまで研ぎ澄まされた才能が集まっていたのか、今でも不思議である。忘れることのできない輝きを見た。
おそらく世の中のいろんな場所で、無名の才能が発揮される瞬間があるのだろう。そこにたまたま関わってしまった。
上でも述べたように、巻き込まれてしまった。盛大な祭りとしか言いようのない熱につられ、自らも火花を散らしていた。

しかしながら何ごとにも終わりはあるもの。メンツは静かに入れ替わっていき、レヴェルは確実に落ちていった。
僕個人の感覚では、まず読み手のレヴェルが落ちていった。そして、力のある書き手もだんだんと消えていった。
衰退するとはこういうことかと、身をもって学んだと思う。供給ではなく、需要の側に衰退の原因があるものだと。
「飽き」の一言で片付けるのは簡単だが、それだけではないような気がする。僕らの年齢が上がっていったこと、
それによるモラトリアムの終焉。あるいはバーンアウト症候群となってしまったか。とにかく花火は急激に燃え尽きた。
こうして書いてみると、なんだかバンドのときと似ていると思う。爆発的な創造力を意識して持続することは難しい。

盛大な時間の無駄だった気もするし、気づきを与えられた気もするし。まあ総合的にはプラスの時間だったと思う。
自分の思わぬ才能を実感できたし、才能という曖昧なものを客観的に見つめる視点も得られたし。悪くはなかった。
何より、今でも親交のある信頼できる友人に出会えたことは大きかった。だからそれでいいんじゃないかと思う。
あとはこの経験をどのように熟成させていくか、という問題なのだ。いい意味でも悪い意味でも、燻るものが今もある。

……しかしまさか、そんなことやっていてから10年くらい経って、本物の現役メンバーに英語を教えることになるとはね!


2019.2.17 (Sun.)

意を決し、長年の懸案事項であったメガネのレンズ交換に行ってきた。コーティングがはがれまくったひどい状態で、
いいかげんなんとかしないといけなかったのだが、自分の部屋にいるときくらいしか掛けないので長く放置していたのだ。
今は亡き無印良品のメガネで、たいへん便利に使っていたのでチタン製のフレームはそのままでいきたいとは思っていた。
で、このたび面白半分にアンダーリムのメガネをネットで購入したので、そのレンズと一緒に新しいレンズに替えたのだ。
きちんとした姿に戻ったメガネを見て、ああやっぱり日常で使うものはきちんとしないといかん、と反省したのであった。
ついでに部活用のサングラスも買ったが、合理的なお値段だったので拍子抜け。もっと早く買っておくべきだった。
同じ無印で買ったアルミフレームの方も、近いうちになんとかしたいものだ。メガネも凝るとキリがないんだけどねえ。


2019.2.16 (Sat.)

マンホールを踏んだ子どもの反応を見て思いだす、幼少期の自分の「遊び」について。

われわれ(僕と潤平)がやっていたのは、測量ポイントを示す鋲とその保護・識別の輪っかを「パワーアップ」と称し、
見つけたらとにかく踏む、という行為である。調べたら「コノエネイル」「コノエダブル」という商品名であるようだ。
特に決まりがあるわけではないが、輪っかの「コノエダブル」はいちおう用途によって色分けされているみたい。
われわれとしては、それぞれの色に応じてパワーアップするわけである。何かが。そういう遊びだったのだ。

この手の遊びで最もメジャーな部類はおそらく、横断歩道で白だけ踏む行為ではないかと思うが、
同じようなハードル気分をガードレールの支柱などで味わうことができる。あるいは商店街の舗装タイルパターン。
上記の「パワーアップ」を含め、幼少期のわれわれにとって、身の周りの世界はすべて冒険の舞台であった。
いつからか世界をそのように眺めることはなくなったが、実は今でもブロックの継ぎ目や目地を避けて歩いたり、
色違いのタイルを踏まないようにしたりして、歩くリズムが乱されることはよくある。染み付いているのである。
そんなにアクションゲームに飢えていたのか、と思うが、これはゲームが存在する前の世代もやっていたのだろうか。
日本のけんけんぱに当たる「ホップスコッチ」はローマ帝国時代からやっていたらしいから、たぶんそうなのだろう。
大掛かりなごっこ遊びではなく、もうちょっと個人的なレヴェルでの冒険。軽い妄想を介したタスクの解消。
江戸時代の子どもたちは舗装される前の路地でどのような冒険をしていたのだろうか。気になるところである。

ところで日常にアクションゲームを見出すとき、われわれは『風雲!たけし城』の影響を強く受けていると思う。
間違いなく、われわれは『たけし城』がいちばん直撃した世代であった。3年間しかやっていなかったとは信じられない。
(ビートたけしのゲームデザイナーっぷりと、バブルの潤沢な資金との鮮やかな融合。そりゃ海外でもバカウケだろう。
 参加申込みの宛先が一貫して「たけちゃんと遊ぼう!係」だったことに、当時から「たけしすげえ」と思っていた。)
なんでもかんでも遊びにしてしまう子どもの貪欲な精神性と、アクションゲームの全盛期と、『たけし城』の全盛期。
そりゃあ染み付くってものである。たまにはそんな幼少期に戻って、日常の冒険を探してみようか。怪しまれない程度に。


2019.2.15 (Fri.)

本日は英語の授業は1コマだけだが、補教と道徳と修学旅行ガイダンスが1コマずつ。もちろん準備に時間が必要。
終わったら終わったで放課後に部活と、本当にフルコースな一日なのであった。いや、もう、疲れたなんてもんじゃない。
道徳は構成をきちんと考えるところまで行けなかったので爆裂気味。そうとう悔しい。
逆に、構成もクソもなかった修学旅行ガイダンスがどうにかもったり。なんとも不思議なものである。


2019.2.14 (Tue.)

インフルやら何やらに起因する人手不足により、地味に忙しい状況が当たり前となっております。
もともとがギリギリの人数で動いているので、欠員が重なると一気に致命的なピンチに陥ってしまう。
正直けっこうつらいのだが、この状況にテンパるのが癪なので、あえて飄々とした顔つきで耐えている次第。
誰が悪いというわけではないんだけど、小さいことの積み重ねで苦しくなっているので、来年度は改善してほしいなあ。


2019.2.13 (Wed.)

修学旅行のガイダンスのために今まで撮影してきた写真を整理したのだが、まあとんでもない量で。
仕事でもプライヴェイトでもようけ関西行っとるのうと呆れ、写真の取捨選択の基準をつかめずまた呆れ。
あまりにいろいろ行きすぎていて、どの程度まで押さえればいいかの感覚が明らかに麻痺しているのである。
とは言っても、本当に京都が好きな人と比べれば、こんなの全然なのだ。京都の歴史の厚みに鳥肌が立っております。


2019.2.12 (Tue.)

池江璃花子の白血病の件は、やはりショックである。とにかくきちんと回復して健康な状態になれるといいが。


2019.2.11 (Mon.)

いつからか、「時間をつぶす」という表現を意識して使わないようになった。なんと傲慢な言葉なのだ、と思う。
こちとらもう若くないのだ。時間の一分一秒がもったいない。そう自覚して生きていかないと手遅れになってしまう。
スマホをいじる時間があれば、なんでもいいから自分の頭を動かしておくべきだ。強迫観念に近いくらい意識している。
時間に対する敬意をきちんと持っておかないと、いざというときに時間に裏切られるのではないか。そう思っている。

興味深いのは、「時間」に対して「つぶす」という動詞を使うことである。ということは、時間は「かたい」のだ。
時間は流れるものなのに、かたい。この感覚は、いったいどういうことだろう。流動的であるが、剛性を持っている。
「時間をつぶす」と言うとき、われわれは無意識のうちに、時間というものの剛性の面を強調しているわけだ。
その瞬間、時間は異物として捉えられて、力を加えて変化させられるべき対象と認識される。まずは現状に対して、
「つぶす」という力学的行為に由来する比喩によって否定を行うのだ。目的が対応しない時間は、ネガティヴなのだ。
しかし時間は、「つぶして」終わり、である。つぶした後の時間を可塑的に扱うことはない。生産的にはならない。
「つぶす」という動詞の後に、何かをつくる動詞が続くことは多くない。つぶされた時間は風に吹かれて流れていく。
もし突如空いてしまった時間に対し、何か目的を持って行動することでその時間を埋めることができるのであれば、
「時間をつぶす」という表現にはならないだろう。やはりそこには時間というものをネガティヴな存在として見つめ、
無理やりに目の前から消して、それでよしとしている価値観がある。「つぶす」ことでしか解決できない「かたさ」。
「かたい」は漢字で「固い/硬い/堅い」と書き分けられるが、「難い」もそれと語源を同じくしているのである。
(ちなみに英語の「hard」の意味が「かたい」から「難しい」「厳しい」へと派生していったのも共通している。)
本来は空白であるものに対し、「かたさ」を感じて力学的処理をする。本来不要なはずのエネルギーをもって、無に帰す。
われわれが無意識に「時間をつぶす」と言うとき、そこには時間に対する否定の態度の表明がついてまわるのだ。

最初に「時間をつぶす」と言った人は、いったいどんな感覚でこの表現を使ったのだろう。
もちろん、みんなその感覚に同調したから日本語として定着しているのだ。日本人が共有する感覚であるはずだ。
時間に対する「固さ/硬さ/堅さ」あるいは「難さ」の感覚。興味深いけど、ネガティヴなのはちょっと悲しく思う。


2019.2.10 (Sun.)

ぼちぼちテストづくりを始めないといけないのである。そんなわけで、日記もそこそこに過去問とにらめっこ。
使える部分を選り分け、新たにつくり足す部分をはっきりさせなければならない。今日はその作業に集中する。


2019.2.9 (Sat.)

東京は積雪があるとの予報により、今週末に予定されていた練習試合大会がキャンセルになってしまった。
しょうがないので、年末とこないだの練習試合を撮影したビデオを見る会とする。冷静に振り返らないといかん。
で、見ながら「やっぱオレ撮影上手いな」と手前味噌なことを思うのであった。生徒たちよ、この事実に気づけ。


2019.2.8 (Fri.)

百人一首大会なのであった。強い生徒は強いんだけど、自分もそれなりに準備してガツッと戦ってみたい気もする。
おととしには教員・保護者相手に圧勝させていただきましたが(→2017.1.14)、現役生徒相手ならどれくらいやれるか。
まあ短期記憶がバカなので、札の位置がわからないという部分の差で恥ずかしい負け方をしそうな気がしてならない。
それでも中の上か上の下くらいには食い込めると思うんだよなあ。負けたときのショックは大きいんだろうなあ……。


2019.2.7 (Thu.)

メジロあらわる。

生徒の登校時間に玄関前で声かけをする当番だったのだが、玄関脇に植えてあるツバキだかサザンカだかに、
メジロが特攻(ぶっこ)んできたのである。それで春遠からじ、と思う朝なのであった。善哉善哉。


2019.2.6 (Wed.)

教育会の関係で早めに動くことができたので、その勢いでなんとか『ラブライブ!』の感想を書き終えた(→2018.12.20)。
書きたいことはぜんぶ書ききった感触もある一方、『ラブライブ!』の純粋な感想としては最後の5行だけで済むじゃん、
そう思わなくもない。まあ正直『ラブライブ!』本体より、それをめぐる生徒たちや社会の反応の方が興味深かったし。
とりあえず、ここ最近こだわっていた「アイドル的なもの」「アイドル文化」への思考は十分反映させたのでヨシとする。


2019.2.5 (Tue.)

カレカノのBlu-rayがようやく出るそうで、そりゃもう絶対に買っちゃうに決まっているんだけど、
見てしまったら見てしまったで、自分の高校の3年間に対する後悔が怒涛のごとく押し寄せてきて、
死にたい気分になってしまうのだ、ぜったい。でも見たい。でも陰鬱な気分になるのはイヤだ。でも見たい。ああー


2019.2.4 (Mon.)

スーパーボウルを見る。ニューイングランド・ペイトリオッツとロサンゼルス・ラムズの対戦。
ブレイディが勝っても何も面白くないのでラムズを応援する。ラムズはカート=ワーナー以来のスーパーですかな。
そのときはセントルイス・ラムズだったっけ。アメリカンスポーツはちょっと気を抜くとすぐ本拠地を移転するなあ。
それにしても、ラムズのヘルメットのデザインはよくできてるなーと思う。これは確かに羊だ。

ラムズのQBゴフは判断が遅いというか、むしろペッツの守備に穴がないのか。たぶん後者の要素が大きくて、
経験の浅いゴフを百戦錬磨のブレイディと対比して見てしまうので、よけいにそう感じられるのだろう。
ブレイディだって点取れてないのにね。1Q終わった時点で0-0なんてスーパー、そうとう珍しいのではないか。
前半終わっても3-0って、ちょっとすごいなと思う。でもやはり、ラムズQBの判断の悪さが際立っている感じである。
ラムズには、ロースコアで焦れたらペッツというかブレイディの思う壺、という恐ろしさがあるわけだ。
気がついたのは、反則の少なさ。なるほど、ブレイディは反則で集中力が切れたところを衝いてくる印象がある。
両軍ともクリーンかつ的確な守備で耐えており、きわめて玄人好みのゲームだ。3Q終わってもTDなしってなんなのよ。
アメフトをわかっている人ほど面白がれるゲームだと思う。特に守備の機微がわかる人にはたまんないんだろうなあ。

解説でも指摘があったとおり、ラムズ守備陣に疲れが見えるとペッツは終盤での強さを見せてビッグゲイン。
悔しいが、パスもいいけどレシーヴァーもよくって、ラムズは耐えきれなかったか。ペッツは力技でTDを決めると、
さらにFGも決めてくる。対照的にラムズは一縷の望みを賭けたFGをはずして試合終了。ペッツの試合巧者ぶりに屈した。
13-3はスーパー史上最低スコアとのこと。ルールがわかる人には終盤ものすごい緊張感を味わえるゲームだった。
総括すると、アメフトのひとつひとつのプレーの意味と価値が実感できるゲームだったのではないかと思う。


2019.2.3 (Sun.)

今日は朝・昼・夜とそれぞれ日記を書いて書いて書きまくったのであった。今までのカルマが少しは解消できたかな。
ヘロヘロになるまで日記を書く一日というのもたまにはいいものだ。本当は毎週それくらいじゃないといかんのだが……。
おかげでひどく苦労してきた『ラブライブ!』の感想に目途が立ったのはたいへんうれしい。がんばって書いてるよー。


2019.2.2 (Sat.)

本日はお呼ばれしての練習試合。ウチを含めて3つの学校をローテーションして戦っていくのであった。
おかげで初対戦の学校ともみっちり試合ができたのだが、ウチは攻撃のやり方がワンパターンだなあと実感。
守備をしっかりやるチームには手の内がバレたところで簡単に対応されてしまって、苦戦するのである。いい薬である。

すべての試合が終わってから、その守備をしっかりやるチームの先生も交えていろいろと話したのだが、
なんと昨年ウチをブロック大会で破った学校(→2017.7.8)を率いていらしたとのこと。今年度異動されたというわけだ。
なるほどそれは手強いはずだと思うと同時に、異動してすぐに同じような粘り強い守備を構築できる指導力に脱帽する。
これこそ顧問としていちばん差が出るところだよなあ、と唸ってしまった。いい薬になったのは僕も同じなのであった。


2019.2.1 (Fri.)

放課後の居残りで職場体験のお礼状とまとめ作業につきっきりで、部活にぜんぜん顔が出せなくて申し訳ない。
コーチに任せっきりにできる状況はありがたいが、かといってそれに甘えるのもまったくよろしくないわけで。
やはり取り組むべき仕事が増えた影響は大きくて、以前と比べるとひとつひとつの動きが重くなっている気がする。

そんなこんなであっという間に一年の1/12が終わってしまった。部活が18時終わりなのは今月までなので、
なんとか日記もがんばらんといかんのだが、なかなかそこまでの余力がなくなってしまっているのが正直なところ。
もっとも、日記を書くという行為じたいに前向きになれないという面もある。昨今の各種情勢はどうにもネガで、
自分の意見を書くのがとっても虚しく感じられて筆が進まないのである。世の中が悪化しているようにしか思えない。
そうしてネガな精神状態で凝り固まってしまわないように気をつけて毎日を過ごしているつもりなのだが、
「書く」という行為はどうしても自分自身や周囲の環境と真剣に向き合うことになるので、これがつらいのだ。
で、旅行に逃げようとすると旅行記がどんどん積み上がっていくという悪循環。いやはや、ニンともカンとも。

とりあえず、溜まっている日記は消化したいとは思っていますんで、軽め軽めで書けるだけ書いていきますです。


diary 2019.1.

diary 2019

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